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もり ひろ

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  1. episode1 「変なダンス」
  2. episode2 「お高いチヨコレイト」
  3. episode3 「やっぱり雨だ」

episode1 「変なダンス」

「こっちゃん、見てよ。新しいお香を買ってみたよ」
 わたしが帰宅するや否や、タマくんは無邪気な顔で嬉しそうに小箱を掲げる。彼はいつだって眠そうな猫みたいな顔をしながら、犬みたいに無邪気な声を出す。見た目と中身のギャップは、見る人によっては言葉で表現しがたい尊さがある。
「どこで買ってきたの?」
「そノランだよ」
 そノランとは、新京極四条にある多国籍雑貨店だ。ジャンベやらサンポーニャやらの外国の楽器、動物の骨や流木、貝殻などでできた装飾品、器類、各地の民族衣装と少しの食料品などが揃うお店で、タマくんは足しげく通っている。
 彼がそノランへ行った日は、顔を見ればすぐわかる。わたしが帰宅すると、「こっちゃんに見せたいものがある」という眼差しを向けられるからだ。それに、玄関にちょっと変わった匂いが漂う。
「じゃあ、ごはん食べたら、それ焚いてみようか」
「そうしよう。今日はこっちゃんの好きなやつです。気まぐれ僕のシーフードパスタ出町柳風と今日の買いたて野菜のサラダ、簡単便利インスタントコーンスープね」
「どのへんが出町柳風なの?」
「いつものスーパーではなく、出町柳の商店街で買ったから」
 彼はテキパキと夕飯の準備を進める。夕飯はいつも彼が作ってくれる。土日は彼がアルバイトに行くので、わたしが作ることが多いけど、家事全般を彼がこなしてくれているので助かっている。
 わたしとタマくんの生活リズムはほとんど合わない。月曜から金曜まで大阪の企業で受付嬢をているわたしと、週四日を河原町にある喫茶店のアルバイトで過ごす彼。勤務時間も移動時間も短くて帰宅が早い彼が夕飯担当になったのは、ごく自然な流れだったのかもしれない。北浜駅から京阪電車に乗るときに彼にメールを入れるのが、わたしたちの暗黙のルールで、そのメールを合図に彼は夕飯の準備を始める。
 友人からは、「年下の彼氏が家で待っていてくれるなんて羨ましい」なんて言われるけど、タマくんがわたしのことをどう思っているのかはよくわからない。馴れ初め、なんて言葉でわたしたちのことを聞きたがる人がいるけれど、馴れ初めらしい馴れ初めもなかったし、どちらかが想いを伝えて「お付き合いしましょう」となったわけでもなかった。それもあって、わたしは彼を「彼氏」とは言わずに「パートナー」と表現することが多い。
 一人の男としても、経済力としても、ちょっと(いや、かなり)頼りない彼がわたしとの将来をどう捉えているのかという疑問は定期的に訪れた。来年で三十路のわたしは、結婚適齢期の真っただ中で、周囲が結婚していく様子に多かれ少なかれ焦りもあった。それとなく聞いてみても、彼はのらりくらりと質問をかいくぐり、彼のペースに持ち込まれて話題は別の方向へ進んでしまう。
「タマくんの作るご飯、今日も美味しい。タマくん、わたしのお嫁さんみたいだね」
「うん、じゃあ僕はこっちゃんのお嫁さんになるよ」
「タマくん、わたしと結婚してくれるの?」
 彼と目が合う。ニコっと笑う。ほんの三歳差なのに、それ以上にあどけなく見える。ただし、この笑顔に騙されちゃあいけない。彼の笑顔は、「なんかおもろいこと言うたろう」の顔なのだ。
「僕がこっちゃんの苗字になったら、カタヤマヨシキ。逆から読んだら?」
「え、キシヨマヤタカ。逆から読んだら全然違っちゃうじゃん」
「惜しい!」
「惜しくない」
「第二問。カッコイイ国家を逆から読むと?」
「カッコイイコッカ」
「正解!」
 そのまま第五問までたっぷり回文クイズを出題されて、けむに巻かれてしまった。いつもの彼のペースに飲まれてしまい、わたしの心に浮かんできた二文字は着地点を見失ってモヤモヤと漂う。
 考えていると食事の味がしなくなる。機械的に口に運んではいるものの、美味しいと思って食べる時とは明らかにペースが違った。一口含んで飲み込むまで、無駄に咀嚼して飲み込んだ。咀嚼し過ぎていつも以上に唾液が出ているのがわかり、何となく口の中が気持ち悪くなってきたので、意識的に食べるスピードを上げた。
 タマくんは先に食べ終わり、食器を下げ始めた。のちの洗い物のことも考えて、食器を水に浸す。
「こっちゃん、はやくはやく!」
「待って、もうすぐ食べ終わるし」
 彼は待ちきれずにお香の封を開け始めた。外国の匂いが漂ってくる。食欲とは共存できないタイプの強い匂いだった。
 お香の匂いが混ざった味の夕飯を流し込み、一度ベランダへ出て食後のタバコに火を点けた。
 ベランダからは大きなイチョウの木が見える。いつもの景色の中にあって、気にしていなかったけど、あのイチョウの木はどこにあるのだろうか。方向的には京大の医学部のあたりかな。だとしたら、タマくんに聞いてみればわかるかもしれないけど、ちょっと聞きにくい気がする。
 タマくんは医者の家系に生まれ育って、京大の医学部に進学した。そんな彼が三回生の夏に突然、大学を辞めたことは聞いていたが、詳しい話は知らない。わたしからは聞けないし、彼から話すこともなかった。
 彼について知らないことが多すぎる。彼の気持ちに、わからないことが多すぎる。彼は考えていることが見えなさすぎる。
 最後の一口をゆっくり吐き出すと、もやもやと顔を撫でるように煙が昇り、庇に当たって広がっていった。
「タマくん、お待たせ。お香を焚いてみよう」
 彼はすでにお香を香皿に置き、マッチを準備していた。待ちきれなかったらしく、マッチをすでに片手に持ち、もう片手はマッチ箱を持っていた。
「いきます」
 しゅっとマッチを擦る音。しゅわっと小さな炎が上がる。鼻の奥をツンとしたマッチの匂いが刺激した。
 彼はテキパキとお香の先端に火を灯し、手で仰いで炎を消した。
 先端からふわっと煙が広がった。思っていたよりも煙たいので、少し距離を置く。
「なんか、モスクみたいだね、行ったことないけど」
「またタマくんはテキトーなこと言ったでしょ」
 彼はわたしの指摘を楽しそうに受ける。彼の発言の多くはツッコミ待ちで、わたしがツッコまないとあの手この手でツッコませようと画策する。わたしも無意識に受け入れているけど、時々面倒くさいこともある。疲れている時なんて、特に。
 彼は興味深そうに煙の出どころをじっと眺めている。不規則に流れる煙が彼の顔を撫でるのも気にならないらしい。煙たくないのかと聞いてみたけど、「ぜんぜん」と普通に答えた。
 ようやく煙から目を離した彼が、今度は机を叩き始めた。思ったより大きな音がする。下の階の人、ごめんなさい。
 机を叩きながら、彼は意味不明な歌を歌う。身体全体を揺らして、頭を上下して、彼なりの『儀式』が始まったらしい。
「こっちゃんもビートを刻んで」
「わたしも刻むの? きみの意味不明なリリックに合わせろって?」
 彼はリズムに乗ったまま返事をした。
 仕方なくわたしも机を叩いた。下の階の人、本当にごめんさい。
 わたしは彼の裏のリズムを刻むように机を叩いた。それだけで音に深みが出るから不思議だった。いつか見た、バリ島の儀式のようでもあった。
 熱を帯び始めた彼は立ち上がり、全身を揺らしながら床を踏み鳴らした。全身を揺らして何かを表現していた。意味不明な歌詞に合わせて、くるりと回ったり手をひらひらさせたりして、謎の踊りが始まった。
 それまでまっすぐ昇っていた煙が、ゆらゆらと揺らぎ始める。天井にたどり着くことなく、部屋中へ散っていくのが見えた。
 彼の踊りが激しさを増してきたので、わたしはリズムを速めた。彼はより一層、激しく舞い、早口の歌を呪文のように唱えた。何かを崇める儀式のようだった。
「こっちゃんも踊るんだ」
 彼に促され、わたしも立ち上がった。彼の呪文に合わせて床を踏み鳴らし、見よう見まねで両手を、全身を、頭を振った。
 お香の煙は、二人の起こす風に揉まれ、昇るそばからフッと消えていく。匂いだけを充満させて、煙は見えなくなる。
 こんなに意味不明なのに、楽しくなってきた。彼が買ってきたお香は合法なのか不安になるほど、気持ちが軽くなって、頭が痺れて、ハイになり始める。
 これでいいじゃん。
 こうやって、彼と二人で楽しく過ごせればいいじゃん。
 別に、結婚がどうとか、将来がどうとかじゃなくて、今を彼と楽しめれば良い。彼がすべてをさらけ出してくれなくたって、彼の過去にだってこだわらない。彼のことを彼氏と呼べなくたって、同僚から彼のことを聞かれてうまく答えられなくたって、気にすることない。これがわたしとタマくんのライフなのだから。
 何の変哲もない日常の中で、彼と二人だけの変なダンスを踊る。他人から見たら変なわたしたちだって、それでいいじゃん。
 お香が燃え尽きるまで踊り狂い、わたしたちは汗だくになった。部屋の中にはお香の余韻だけが残っていた。
 踊り終えると、わたしたちは恭しく香皿に一礼し、何かしらを崇め奉った。一体、何に敬意を込めていたのかは関係ない。二人でふざけ合った一連を、ただただ楽しむだけだった。

   ◇

 後日、マンションの掲示板に「騒音に関する注意喚起」という張り紙がなされたのは、きっとわたしたちが原因だと思う。

episode2 「お高いチヨコレイト」

「ごめん、仕事が長引いて遅くなっちゃった」
 わたしは帰るや否や、タマくんに謝る。先輩からお小言を頂戴して、帰りが遅くなってしまったのだ。わたしの責任じゃないことまでわたしのせいにされても言い出せず、ただ小さくなって「すみません」「申し訳ないです」と繰り返していた。こころの中では「わたしのせいじゃない」と強く主張しているのに、機嫌が悪い人の前では言い出せなかった。
「こっちゃん、今日も遅くまでお疲れ様。もうご飯食べられるからね」
 年下のパートナーが家で夕飯を作って待っていてくれるのは、やっぱりありがたいという気持ちで、こころの中で彼を崇め奉った。
「今日もこっちゃんの好きなものだよ」
「今宵の夕ご飯はなんですか、シェフ」
 彼はフライパンをゆすりながら、同時に小鍋のスープをかき回す。じうじうという心地よい音とともに、濃厚な香りが漂ってきた。
「豪産牛のハンバーグ、ふにゃふにゃオニオンソース掛けふにゃふにゃ閉じ、です」
 それから彼は「ふにゃふにゃは、これね」と指をふにゃふにゃ動かして空中に『~』を書いた。
 なるほど、このいい匂いはハンバーグか、と一人で納得する。じうじうという汁気のある音がして、堪え切れずにお腹が鳴った。身体から出る音は生理現象なのだけども、やっぱりまだちょっと恥じらいがある。咄嗟に「シェフ、そちらのスープは?」と聞いて誤魔化した。
「こちらは、ね、ええと、名前決めてなかったや」
 タマくんはぽりぽりと頭を掻く。年下男子のこういうところ、お好きな人はいますか?
 彼が皿にハンバーグや付け合わせの野菜を盛り付けている横で、わたしはスープをよそっていく。ごろごろと大ぶりなジャガイモや人参が入ったコンソメスープだ。優しい香りがして、またも胃袋が音を立てた。どうしたって鳴っちゃうんだもの、仕方ないよね。
 ふたりでいただきますを言ってから、わたしはここには書けないほどの勢いで食べた。今日の疲れが少し和らぐようで、こういう部分でも彼に支えられていると実感する。
「今日は、食後のデザートにいいものがあるんだよ」
 彼は語尾を伸ばしてそう言った。ニヤニヤとしていて、「今すぐいいものを見せたい!」という気持ちが漏れ出していた。遠足前の小学生もこうやってニヤニヤしていると思うし、実際にわたしもそうだった気がする。
「その前に、準備が必要です」
「準備?」
 彼は立ち上がり、アルバイトの時に背負って行っているリュックを漁り始めた。中身を見ずに手先だけでガサガサとリュックの中をかき回している。そんなにたくさん、何を持って行っているの?
「あった!」
 彼が取り出したのは、小さな紙袋で、『TEA HOUSE OLIVE』とスタンプが押されている。彼がアルバイトしている喫茶店の名前だ。
「紅茶?」
「そう、マスターの深井さんが少しくれたんだ。今年の新物だって」
 彼はお湯を沸かしながら、アルバイト先の話をしていた。いいお茶だから少ししか入荷しないものを、紅茶の勉強ということで分けてもらったのだそうだ。だいたい、四杯分くらいの茶葉らしい。
 ティーポットに茶葉を入れる時に少し香りを嗅がせてもらった。詳しくないからわからなかったけれど、とてもいい香りだった。
 彼はきっちりと時間を見ながら茶葉を蒸らす。真剣な顔をしていて、いつものお道化な彼とは違って見えた。恥ずかしいから来ないで欲しいと言われているけれど、こっそり店に行ってみようかな。
 丁寧にカップに注いだ。澄んだ紅茶の香りがここまで届いた。
「では」
 と恭しく告げ、再び彼はリュックを手探りで漁る。本当に、何がそんなに入っているの?
 彼の手が止まった。ニマ、と口元が緩む。目つきは少し妖しくなった。
「これです」
 彼がリュックから取り出したのは、チョコレート。誰もが知っている有名店の高級なやつだった。
 タマくんの言葉を借りれば、「甘いのに強そうな名前の、お高いチヨコレイト」だ。
「え、それどうしたの?」
「河原町で買ってきたんだよ。こっちゃん一週間お仕事頑張ったから、僕からのご褒美」
 不覚にも、うるっと。鼻の奥が、ツンと。
 タマくんにバレないように、口元に力を入れて堪えた。今日の先輩の小言が脳内に再生される。思っていた以上に、気持ちが疲れさせられていたのだとわかった。
「じゃあ、こっちゃん、開けてください」
 タマくんに促されて、包み紙を開ける。中からは缶が現れた。それも力を込めて開ける。ペコ、という音とともに中から現れたのは、九粒のチョコレートだった。
「ほんとうにいいの?」
「うん。あ、でも、こっちゃんが全部食べちゃったら僕はとても寂しいから、少しもらうね」
「そうだね、一緒におんなじもの食べて、美味しいって言おう」
 タマくんが姿勢を正したので、わたしもつられて背筋が伸びた。チョコレートを食べるだけなのに、肩が凝りそうだった。
「いただきます」
 一粒を口に入れる。硬いチョコレートを噛むと、中から柔らかいチョコレートが溢れてくる。とても濃厚な味がした。できるだけ味わうようにして飲み込み、紅茶を飲む。さっぱりとした紅茶との相性がとても良かった。
 もう一粒を口にした。少しビターなチョコレートと、濃いナッツの香りがマッチしていた。タマくんは、一粒食べるたびに「これはとてもビターなやつだ」とか「これはミルクが濃厚だね」と感想を言っていた。
 どれも紅茶によく合う。
「こっちゃん、この紅茶、チョコレートに合うね」
「そうだね、すっきりしていていいお茶だね」
 わたしたちは次々にチョコレートを頬張って、最後の一つはわたしがもらった。
 どのチョコレートも美味しかった。さすが、『甘いのに強そうな名前の、お高いチヨコレイト』だ。
 でも。
 わたしにはチョコレートの価格と味の違いの関係まではわからない。美味しいチョコレートだってことはわかるけれど、それが値段相応なのか、値段以上なのか、そうでないのか判断がつかなかった。高いチョコレートに対してそんな気持ちでいていいものか、とも思った。
 もちろん、タマくんがせっかく買ってきてくれたものなので、そんなことなんて言えるわけもない。美味しいものは美味しい、それでいい。
 紅茶も飲み終え、彼がふわあと伸びをした。ずっと背筋を伸ばして食べて、疲れたのかもしれない。
「わかんなかった~」
 わたしは思わず、えっ、と聞き返してしまった。
「タマくん、わからなかったって、どういうこと?」
「美味しかったんだけど、高いチョコレートの味とそうじゃないやつなんて、僕にはわからなかったよ」
 彼は口では残念そうに言うけれど、顔はそれほど残念そうでもなかった。
 それを聞いて、わたしも肩の力が抜けた。思わず、笑ってしまった。あんまりにもおかしくて、笑えた。言わずにいたこと、言えずにいたことをわたしも口にする。
「タマくん、ごめんね、わたしもわからなかった。とっても美味しかったけど、わからなかったよ」
「そうだよね~」
 と彼は笑った。そこには、安堵や解放感のようなものが滲み出していた。
 こうやって思ったことを素直に口にできる彼が羨ましい。わたしには無い、真逆の性格だ。今日のわたしみたいに無実のことでチクチク責められたら、彼はどうやって切り抜けるのだろうか。
 笑っていると、今日のことがとても昔のことに思えてくる。また今日もタマくんに救われてしまった。
 わたしも言いたいことをちゃんと言える人になれるだろうか。
「僕さ、食べながらずっと、わかんないなあって思っていたんだ。これは高いやつだからって思って食べていたけれど、結局最後までわからなかったよ」
 彼はケロっとした顔で言う。
 彼も彼なりに、言うべきか言わぬべきかということを考えているらしかった。
 言いたいことを素直に言うことが必ずしも良いとは限らないけれど、言いたいことを言えなかった過去に縛られる必要なんてないと思えた。わたし自身が変わるなんて、そう簡単じゃないから、せめて、言い出せなかったことでうじうじと悩むのはやめよう。自然とそういう感情が降りてきて、染み渡っていった。

   ◇

「僕はやっぱり普通の板チョコが好きだなあ」
「そうだね、わたしもそっちの方が食べやすいかも」
「そう思ってさ」
 彼はニンマリと笑いながら、リュックの中を漁る。今度も手探りで見つけた何かを、わたしの前に差し出した。
「普通の板チョコも買ってあるよ」

episode3 「やっぱり雨だ」

「やっぱり雨だ」
「そうだね、せっかく二人のお休みが合ったのに、雨だね」
 わたしとタマくんは、窓におでこを引っ付けて外を眺めた。二人の二の腕どうしが触れて、じっとりと汗をかく。通勤電車で隣の人と触れるのは気持ちが悪いけど、タマくんだったら特に気にならない。
 久しぶりの雨だった。
 それまで、日差しが強すぎて外出が億劫だったのに、雨が降っても外出が億劫だ。曇りは曇りで、なんとなく気持ちがどんよりして、やっぱり外出は億劫になる。
 じっとりとした雨で外出が億劫になるのは、単に雨で気持ちまで下降するからではないのです!
 髪の毛は無秩序に広がって、変にパサつくし、化粧乗りは悪くなるし、濡れたら風邪ひくし、服は汚れるし、べたつくし、洗濯物は生乾きだし、靴の消臭剤をしなきゃだし、給料は上がらないし、先輩の小言と惚気話を聞くのも疲れたし。
 そんなこんなで(雨とは関係ないこともあるけれど)、わたしはどうも雨の日は引きこもりがちだ。普段はタマくんとお休みが合うことも少なく、お休みの日は家で読書をしながら一人で過ごすことが多い。
「ねえタマくん、せっかくのお休みだけど、おうちでゆっくりしない?」
 彼は「う~ん」と考えていた。僕は出かけたい、というのが見え見え。
 ぴったりと窓におでこをくっつけたまま、右を左をぐるぐるきょろきょろと見回した。そうして、「あ」と小さく呟く。
「こっちゃん、今すぐ出かけよう」
「今すぐ? ちょっと待って、軽くだけでもメイクさせて」
「そんなのあとあと、さあ、行くよ」
 彼はそそくさと玄関でサンダルを履き始めた。わたしもサンダルを履いて、一度脱いだ。この夏に買ったばかりのサンダルが汚れるのはちょっと嫌なので、古い方のサンダルにして彼の後を追った。
 マンションの階段にも雨が吹き込んでいる。傘を差すには狭いので、手で押さえながら半開きにして階段を下った。それでも、エントランスを出る頃にはだいぶ濡れてしまった。
 エントランスを出るや、「失礼するね」とタマくんが傘に入ってきた。彼はわたしから傘を奪い取ったくせに、肩から背中までしっかり濡れている。わたしは濡れていない。
「ねえ、タマくん、どこへ向かうの?」
「ええとね、鴨川デルタ」
「こんな雨の中、デルタに行くの?」
「そうだよ」
 まあ、徒歩で五分もかからないし、なんて思いながら彼の横を歩く。
 タマくんは本当にアクティブだ。ただし、それは自分の好きな物や面白いものがあるときだけ。朝が弱くてなかなか起きられないし、夜が弱くて夜更かしできないし、昼が弱くて昼寝をよくする。それが好きな物や興味の対象があるだけで早起きできるし、夜更けまで起きているし、昼間もちゃんと起きている。逆に、嫌いなもの(例えば、歯医者とか)に対しては、五歳児のような拒絶を見せる。
 鴨川沿いを歩く。河川敷の芝生が濡れていて、足が濡れる。小さな草のカスのようなものが足の指やくるぶしにまとわりつく。
 高野川と賀茂川の合流点にたどり着いた。ここで二つの川が合わさって、鴨川としてこの街を貫いていく。
 合流地点の内側にある三角地帯は「鴨川デルタ」と呼ばれていて、この街の一つの憩いの場となっていた。春には大学生が新歓コンパをし、夏には線香花火をするカップルが並び、秋冬の寒い日にも人の姿があった。
 両岸から鴨川デルタへ渡るには、高野川、賀茂川の両河川にかけられた橋を渡るか、もしくは、川の中にある「飛び石」を渡っていく。
「飛び石、少し水没してるね」
 タマくんは、水没なんてなんとも無さそうに言う。そうよ、水没しているから、橋を渡ってデルタへ行こうね。
 そう言おうとしたけれど、間に合わなかった。彼はわたしに傘を持たせて、一人で水没した飛び石に、えい、と飛び乗った。飛び石に乗っていればくるぶし程度の水嵩だけど、それなりに強い流れが彼の足に当たって、大きくうねりながら飛び散っている。足を滑らせて飛び石から落ちれば、流されてしまうかもしれない。
「タマくん、危ないよ」
「大丈夫、とっても冷たくて気持ちが良いよ」
「全然大丈夫じゃなさそうだよ」
「足を滑らせないように、慎重に来れば大丈夫だよ」
 彼はおいでおいでと手招きをしてくる。仕方ないと、わたしも飛び石に飛び乗った。できるだけ、石の真ん中を目掛けて跳ぶ。着地すると、確かな川の流れを感じた。跳ね上がった飛沫は、膝のあたりまで飛んできて、ビシビシと骨を通じた音がする。
 さらにもう一つの飛び石を目掛けて跳ぶ。傘が邪魔だった。
「こっちゃん、傘さしていると危ないよ」
「きみがわたしに持たせたんでしょ。雨けっこう降ってるし」
「雨に当たるのも気持ちが良いよ」
 彼はすでにびしょびしょになっている。昔飼っていた猫に似ていたからタマくん。だけど今は、捨てられた仔猫みたいだった。
 彼はふざけて、両手を広げて空を仰いだ。「恵の雨!」と叫んでいる。
「濡れたら風邪ひいちゃうよ」
「帰ったらすぐにお風呂を沸かせばいいさ」
「服も汚れちゃう」
「お風呂に入っている間に、洗濯機を回そう」
 むう。どうしても彼には勝てそうもなかった。傘を差したまま渡って川に落ちてしまっては、どうしようもない。わたしは意を決して、傘を閉じる。
「こっちゃん、パス、パス」
「パスって?」
「傘持ったままじゃ渡りにくいだろうから、僕が持って行くよ。こっちに投げて」
「いいの? 本当に投げるよ?」
 彼は、こい、と両手を構えた。
「はい!」
 わたしはできるだけ傘が回転しなように意識して投げた。それが逆に、いけなかったのかもしれない。
 傘は不規則に回転して放物線を描き、それを迎えたタマくんの両手をすり抜けて、彼のおでこに当たった。
 タマくんは「うげ」という声を残し、ふらふらと飛び石から転げ、川へ転落してしまった。
「タマくん!」
 わたしは無我夢中で飛び石を渡って、彼のところへ駆け寄った。彼が流されて死んじゃったらどうしよう。もっとちゃんと言えばよかった。危ないから絶対に橋にしようって、言うべきだった。
「タマくん!」
 いきなり、飛び石の下流二メートルくらいのところで、スクっと彼が立ち上がってきた。それはそれで驚いて、わたしは悲鳴をあげてしまった。
「見て見て、ここ、めっちゃ浅い」
 彼は冷たい冷たいと大声で笑った。濡れた両手を振り回して水しぶきをこちらへ飛ばしてくる。わたしも雨に打たれてびしょびしょだった。今さら、どれだけ濡れようが関係ない。
 すでに濡れてしまっているタマくんに水を掛ける。彼もわたしに水を掛ける。彼が躓いて転げる。腰までどっぷり川に浸かる。それを見て、わたしが笑う。わたしが笑うと、彼も笑う。
「笑ったな! 仕返し」
「きゃ、ちょっと、タマくん」
 わたしも川へ引きずり込まれた。タマくんみたいに腰までどっぷり浸かった。服の隙間から冷たい水が流れ込んで来る。ひんやりとして心地が良い。降りしきる雨も、次から次へとわたしの肌を舐めて流れていく。それも、今まで感じたことのない心地よさだった。
 わたしたちは、誰もいない雨の鴨川デルタを遊びつくした。下着が透けていても、彼が鼻水を垂らしても関係なく。
「こっちゃん、そろそろだよ」
 突然、慌てたタマくんがデルタに上がった。こっちこっち、と呼ばれるままに彼の隣に並ぶ。
 川下を向いて二人で空を眺めた。右には賀茂川、左には高野川。二つの川が目の前で鴨川となる。全然違う場所を流れた二つが一つになっていた。
「何があるの?」
「見てて」
 濡れすぎてわからなかったけれど雨は弱まっていて、すっかり空も明るくなってきていた。もうじき、雨が止みそうだ。
「ほら!」
 彼が左の空を指さし、声をあげた。
 彼の示す先には、大きな濃い虹がかかっていた。右から左まで、しっかりアーチの全景が見えている。よく見ると、内側にもう少し小さくて薄い虹が出ている。こっちも、ちゃんと端から端までが見えていた。
「すごい! とっても綺麗だね。タマくん、これを見せるために連れて来てくれたの?」
「うん。僕ね、虹が好きなんだ」
「それは知らなかったよ」
「昔さ、雨の日が嫌いだったんだ。でもね、僕のねえちゃんが虹を見せてくれたんだ。こうやって雨も気にしないで走り回って、それから雨の日が好きになったんだよ」
 今のわたしみたい。彼もこうやって雨に濡れながら、誰かに雨の日の魅力を教えてもらっていた。彼のお姉さんも、誰かに教えてもらっていたのかもしれない。そのバトンは、こうやってわたしに受け継がれた。このバトンを、わたしは誰に手渡そう。雨の日はこんなに楽しいんだよって、上手に伝えられるかわからないけれど、タマくんのお姉さんから渡ったバトンを次に繋げていこう。

   ◇

 翌朝。
――すみません、受付のカタヤマです。ちょっと風邪をひいてしまって、今日はお休みします。
――もしもし、深井さんですか。アルバイトのヨシキですけど、風邪ひいてしまって、あ、はい、すみませんが、お願いします。
 お互いに職場への電話連絡を入れた。
「結局、二人して風邪ひいちゃったね」
「うん、それでも、わたしは雨の日が好きになったよ」

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わたしとパートナーのタマくんとの生活には、 起承転結も序破急もなければ、オチもない。 そんな、なんの変哲もない毎日こそが わたしと彼の全て。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-04-27

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