1DK

もり ひろ

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  1. episode1 「変なダンス」
  2. episode2 「お高いチヨコレイト」
  3. episode3 「やっぱり雨だ」
  4. episode4 「鎮痛剤」
  5. episode5 「お風呂 de アート」
  6. episode6「文通ラバーズ」
  7. episode7「ステイホーム」
  8. episode8「ON AIR」
  9. episode9「怖くない」
  10. episode10「たらちねの」
  11. episode11「ナイトサファリ」
  12. episode12「すきなもの」
  13. episode13「おくりもの」
  14. episode14「男と女とタマくんと」
  15. episode15「ぽろろん」
  16. episode16「むちむち」
  17. episode17「サイレントじゃナイト。ホーリーじゃナイト。」
  18. episode18「あけまして」
  19. episode19「疑惑」
  20. episode20「MI・SO・JI」
  21. episode21「鳥羽姉弟」
  22. episode22「ちょこっと照れくさい日」
  23. episode23「10年」

episode1 「変なダンス」

「こっちゃん、見てよ。新しいお香を買ってみたよ」
 わたしが帰宅するや否や、タマくんは無邪気な顔で嬉しそうに小箱を掲げる。彼はいつだって眠そうな猫みたいな顔をしながら、犬みたいに無邪気な声を出す。見た目と中身のギャップは、見る人によっては言葉で表現しがたい尊さがある。
「どこで買ってきたの?」
「そノランだよ」
 そノランとは、新京極四条にある多国籍雑貨店だ。ジャンベやらサンポーニャやらの外国の楽器、動物の骨や流木、貝殻などでできた装飾品、器類、各地の民族衣装と少しの食料品などが揃うお店で、タマくんは足しげく通っている。
 彼がそノランへ行った日は、顔を見ればすぐわかる。わたしが帰宅すると、「こっちゃんに見せたいものがある」という眼差しを向けられるからだ。それに、玄関にちょっと変わった匂いが漂う。
「じゃあ、ごはん食べたら、それ焚いてみようか」
「そうしよう。今日はこっちゃんの好きなやつです。気まぐれ僕のシーフードパスタ出町柳風と今日の買いたて野菜のサラダ、簡単便利インスタントコーンスープね」
「どのへんが出町柳風なの?」
「いつものスーパーではなく、出町柳の商店街で買ったから」
 彼はテキパキと夕飯の準備を進める。夕飯はいつも彼が作ってくれる。土日は彼がアルバイトに行くので、わたしが作ることが多いけど、家事全般を彼がこなしてくれているので助かっている。
 わたしとタマくんの生活リズムはほとんど合わない。月曜から金曜まで大阪の企業で受付嬢をているわたしと、週四日を河原町にある喫茶店のアルバイトで過ごす彼。勤務時間も移動時間も短くて帰宅が早い彼が夕飯担当になったのは、ごく自然な流れだったのかもしれない。北浜駅から京阪電車に乗るときに彼にメールを入れるのが、わたしたちの暗黙のルールで、そのメールを合図に彼は夕飯の準備を始める。
 友人からは、「年下の彼氏が家で待っていてくれるなんて羨ましい」なんて言われるけど、タマくんがわたしのことをどう思っているのかはよくわからない。馴れ初め、なんて言葉でわたしたちのことを聞きたがる人がいるけれど、馴れ初めらしい馴れ初めもなかったし、どちらかが想いを伝えて「お付き合いしましょう」となったわけでもなかった。それもあって、わたしは彼を「彼氏」とは言わずに「パートナー」と表現することが多い。
 一人の男としても、経済力としても、ちょっと(いや、かなり)頼りない彼がわたしとの将来をどう捉えているのかという疑問は定期的に訪れた。来年で三十路のわたしは、結婚適齢期の真っただ中で、周囲が結婚していく様子に多かれ少なかれ焦りもあった。それとなく聞いてみても、彼はのらりくらりと質問をかいくぐり、彼のペースに持ち込まれて話題は別の方向へ進んでしまう。
「タマくんの作るご飯、今日も美味しい。タマくん、わたしのお嫁さんみたいだね」
「うん、じゃあ僕はこっちゃんのお嫁さんになるよ」
「タマくん、わたしと結婚してくれるの?」
 彼と目が合う。ニコっと笑う。ほんの三歳差なのに、それ以上にあどけなく見える。ただし、この笑顔に騙されちゃあいけない。彼の笑顔は、「なんかおもろいこと言うたろう」の顔なのだ。
「僕がこっちゃんの苗字になったら、カタヤマヨシキ。逆から読んだら?」
「え、キシヨマヤタカ。逆から読んだら全然違っちゃうじゃん」
「惜しい!」
「惜しくない」
「第二問。カッコイイ国家を逆から読むと?」
「カッコイイコッカ」
「正解!」
 そのまま第五問までたっぷり回文クイズを出題されて、けむに巻かれてしまった。いつもの彼のペースに飲まれてしまい、わたしの心に浮かんできた二文字は着地点を見失ってモヤモヤと漂う。
 考えていると食事の味がしなくなる。機械的に口に運んではいるものの、美味しいと思って食べる時とは明らかにペースが違った。一口含んで飲み込むまで、無駄に咀嚼して飲み込んだ。咀嚼し過ぎていつも以上に唾液が出ているのがわかり、何となく口の中が気持ち悪くなってきたので、意識的に食べるスピードを上げた。
 タマくんは先に食べ終わり、食器を下げ始めた。のちの洗い物のことも考えて、食器を水に浸す。
「こっちゃん、はやくはやく!」
「待って、もうすぐ食べ終わるし」
 彼は待ちきれずにお香の封を開け始めた。外国の匂いが漂ってくる。食欲とは共存できないタイプの強い匂いだった。
 お香の匂いが混ざった味の夕飯を流し込み、一度ベランダへ出て食後のタバコに火を点けた。
 ベランダからは大きなイチョウの木が見える。いつもの景色の中にあって、気にしていなかったけど、あのイチョウの木はどこにあるのだろうか。方向的には京大の医学部のあたりかな。だとしたら、タマくんに聞いてみればわかるかもしれないけど、ちょっと聞きにくい気がする。
 タマくんは医者の家系に生まれ育って、京大の医学部に進学した。そんな彼が三回生の夏に突然、大学を辞めたことは聞いていたが、詳しい話は知らない。わたしからは聞けないし、彼から話すこともなかった。
 彼について知らないことが多すぎる。彼の気持ちに、わからないことが多すぎる。彼は考えていることが見えなさすぎる。
 最後の一口をゆっくり吐き出すと、もやもやと顔を撫でるように煙が昇り、庇に当たって広がっていった。
「タマくん、お待たせ。お香を焚いてみよう」
 彼はすでにお香を香皿に置き、マッチを準備していた。待ちきれなかったらしく、マッチをすでに片手に持ち、もう片手はマッチ箱を持っていた。
「いきます」
 しゅっとマッチを擦る音。しゅわっと小さな炎が上がる。鼻の奥をツンとしたマッチの匂いが刺激した。
 彼はテキパキとお香の先端に火を灯し、手で仰いで炎を消した。
 先端からふわっと煙が広がった。思っていたよりも煙たいので、少し距離を置く。
「なんか、モスクみたいだね、行ったことないけど」
「またタマくんはテキトーなこと言ったでしょ」
 彼はわたしの指摘を楽しそうに受ける。彼の発言の多くはツッコミ待ちで、わたしがツッコまないとあの手この手でツッコませようと画策する。わたしも無意識に受け入れているけど、時々面倒くさいこともある。疲れている時なんて、特に。
 彼は興味深そうに煙の出どころをじっと眺めている。不規則に流れる煙が彼の顔を撫でるのも気にならないらしい。煙たくないのかと聞いてみたけど、「ぜんぜん」と普通に答えた。
 ようやく煙から目を離した彼が、今度は机を叩き始めた。思ったより大きな音がする。下の階の人、ごめんなさい。
 机を叩きながら、彼は意味不明な歌を歌う。身体全体を揺らして、頭を上下して、彼なりの『儀式』が始まったらしい。
「こっちゃんもビートを刻んで」
「わたしも刻むの? きみの意味不明なリリックに合わせろって?」
 彼はリズムに乗ったまま返事をした。
 仕方なくわたしも机を叩いた。下の階の人、本当にごめんさい。
 わたしは彼の裏のリズムを刻むように机を叩いた。それだけで音に深みが出るから不思議だった。いつか見た、バリ島の儀式のようでもあった。
 熱を帯び始めた彼は立ち上がり、全身を揺らしながら床を踏み鳴らした。全身を揺らして何かを表現していた。意味不明な歌詞に合わせて、くるりと回ったり手をひらひらさせたりして、謎の踊りが始まった。
 それまでまっすぐ昇っていた煙が、ゆらゆらと揺らぎ始める。天井にたどり着くことなく、部屋中へ散っていくのが見えた。
 彼の踊りが激しさを増してきたので、わたしはリズムを速めた。彼はより一層、激しく舞い、早口の歌を呪文のように唱えた。何かを崇める儀式のようだった。
「こっちゃんも踊るんだ」
 彼に促され、わたしも立ち上がった。彼の呪文に合わせて床を踏み鳴らし、見よう見まねで両手を、全身を、頭を振った。
 お香の煙は、二人の起こす風に揉まれ、昇るそばからフッと消えていく。匂いだけを充満させて、煙は見えなくなる。
 こんなに意味不明なのに、楽しくなってきた。彼が買ってきたお香は合法なのか不安になるほど、気持ちが軽くなって、頭が痺れて、ハイになり始める。
 これでいいじゃん。
 こうやって、彼と二人で楽しく過ごせればいいじゃん。
 別に、結婚がどうとか、将来がどうとかじゃなくて、今を彼と楽しめれば良い。彼がすべてをさらけ出してくれなくたって、彼の過去にだってこだわらない。彼のことを彼氏と呼べなくたって、同僚から彼のことを聞かれてうまく答えられなくたって、気にすることない。これがわたしとタマくんのライフなのだから。
 何の変哲もない日常の中で、彼と二人だけの変なダンスを踊る。他人から見たら変なわたしたちだって、それでいいじゃん。
 お香が燃え尽きるまで踊り狂い、わたしたちは汗だくになった。部屋の中にはお香の余韻だけが残っていた。
 踊り終えると、わたしたちは恭しく香皿に一礼し、何かしらを崇め奉った。一体、何に敬意を込めていたのかは関係ない。二人でふざけ合った一連を、ただただ楽しむだけだった。

   ◇

 後日、マンションの掲示板に「騒音に関する注意喚起」という張り紙がなされたのは、きっとわたしたちが原因だと思う。

episode2 「お高いチヨコレイト」

「ごめん、仕事が長引いて遅くなっちゃった」
 わたしは帰るや否や、タマくんに謝る。先輩からお小言を頂戴して、帰りが遅くなってしまったのだ。わたしの責任じゃないことまでわたしのせいにされても言い出せず、ただ小さくなって「すみません」「申し訳ないです」と繰り返していた。こころの中では「わたしのせいじゃない」と強く主張しているのに、機嫌が悪い人の前では言い出せなかった。
「こっちゃん、今日も遅くまでお疲れ様。もうご飯食べられるからね」
 年下のパートナーが家で夕飯を作って待っていてくれるのは、やっぱりありがたいという気持ちで、こころの中で彼を崇め奉った。
「今日もこっちゃんの好きなものだよ」
「今宵の夕ご飯はなんですか、シェフ」
 彼はフライパンをゆすりながら、同時に小鍋のスープをかき回す。じうじうという心地よい音とともに、濃厚な香りが漂ってきた。
「豪産牛のハンバーグ、ふにゃふにゃオニオンソース掛けふにゃふにゃ閉じ、です」
 それから彼は「ふにゃふにゃは、これね」と指をふにゃふにゃ動かして空中に『~』を書いた。
 なるほど、このいい匂いはハンバーグか、と一人で納得する。じうじうという汁気のある音がして、堪え切れずにお腹が鳴った。身体から出る音は生理現象なのだけども、やっぱりまだちょっと恥じらいがある。咄嗟に「シェフ、そちらのスープは?」と聞いて誤魔化した。
「こちらは、ね、ええと、名前決めてなかったや」
 タマくんはぽりぽりと頭を掻く。年下男子のこういうところ、お好きな人はいますか?
 彼が皿にハンバーグや付け合わせの野菜を盛り付けている横で、わたしはスープをよそっていく。ごろごろと大ぶりなジャガイモや人参が入ったコンソメスープだ。優しい香りがして、またも胃袋が音を立てた。どうしたって鳴っちゃうんだもの、仕方ないよね。
 ふたりでいただきますを言ってから、わたしはここには書けないほどの勢いで食べた。今日の疲れが少し和らぐようで、こういう部分でも彼に支えられていると実感する。
「今日は、食後のデザートにいいものがあるんだよ」
 彼は語尾を伸ばしてそう言った。ニヤニヤとしていて、「今すぐいいものを見せたい!」という気持ちが漏れ出していた。遠足前の小学生もこうやってニヤニヤしていると思うし、実際にわたしもそうだった気がする。
「その前に、準備が必要です」
「準備?」
 彼は立ち上がり、アルバイトの時に背負って行っているリュックを漁り始めた。中身を見ずに手先だけでガサガサとリュックの中をかき回している。そんなにたくさん、何を持って行っているの?
「あった!」
 彼が取り出したのは、小さな紙袋で、『TEA HOUSE OLIVE』とスタンプが押されている。彼がアルバイトしている喫茶店の名前だ。
「紅茶?」
「そう、マスターの深井さんが少しくれたんだ。今年の新物だって」
 彼はお湯を沸かしながら、アルバイト先の話をしていた。いいお茶だから少ししか入荷しないものを、紅茶の勉強ということで分けてもらったのだそうだ。だいたい、四杯分くらいの茶葉らしい。
 ティーポットに茶葉を入れる時に少し香りを嗅がせてもらった。詳しくないからわからなかったけれど、とてもいい香りだった。
 彼はきっちりと時間を見ながら茶葉を蒸らす。真剣な顔をしていて、いつものお道化な彼とは違って見えた。恥ずかしいから来ないで欲しいと言われているけれど、こっそり店に行ってみようかな。
 丁寧にカップに注いだ。澄んだ紅茶の香りがここまで届いた。
「では」
 と恭しく告げ、再び彼はリュックを手探りで漁る。本当に、何がそんなに入っているの?
 彼の手が止まった。ニマ、と口元が緩む。目つきは少し妖しくなった。
「これです」
 彼がリュックから取り出したのは、チョコレート。誰もが知っている有名店の高級なやつだった。
 タマくんの言葉を借りれば、「甘いのに強そうな名前の、お高いチヨコレイト」だ。
「え、それどうしたの?」
「河原町で買ってきたんだよ。こっちゃん一週間お仕事頑張ったから、僕からのご褒美」
 不覚にも、うるっと。鼻の奥が、ツンと。
 タマくんにバレないように、口元に力を入れて堪えた。今日の先輩の小言が脳内に再生される。思っていた以上に、気持ちが疲れさせられていたのだとわかった。
「じゃあ、こっちゃん、開けてください」
 タマくんに促されて、包み紙を開ける。中からは缶が現れた。それも力を込めて開ける。ペコ、という音とともに中から現れたのは、九粒のチョコレートだった。
「ほんとうにいいの?」
「うん。あ、でも、こっちゃんが全部食べちゃったら僕はとても寂しいから、少しもらうね」
「そうだね、一緒におんなじもの食べて、美味しいって言おう」
 タマくんが姿勢を正したので、わたしもつられて背筋が伸びた。チョコレートを食べるだけなのに、肩が凝りそうだった。
「いただきます」
 一粒を口に入れる。硬いチョコレートを噛むと、中から柔らかいチョコレートが溢れてくる。とても濃厚な味がした。できるだけ味わうようにして飲み込み、紅茶を飲む。さっぱりとした紅茶との相性がとても良かった。
 もう一粒を口にした。少しビターなチョコレートと、濃いナッツの香りがマッチしていた。タマくんは、一粒食べるたびに「これはとてもビターなやつだ」とか「これはミルクが濃厚だね」と感想を言っていた。
 どれも紅茶によく合う。
「こっちゃん、この紅茶、チョコレートに合うね」
「そうだね、すっきりしていていいお茶だね」
 わたしたちは次々にチョコレートを頬張って、最後の一つはわたしがもらった。
 どのチョコレートも美味しかった。さすが、『甘いのに強そうな名前の、お高いチヨコレイト』だ。
 でも。
 わたしにはチョコレートの価格と味の違いの関係まではわからない。美味しいチョコレートだってことはわかるけれど、それが値段相応なのか、値段以上なのか、そうでないのか判断がつかなかった。高いチョコレートに対してそんな気持ちでいていいものか、とも思った。
 もちろん、タマくんがせっかく買ってきてくれたものなので、そんなことなんて言えるわけもない。美味しいものは美味しい、それでいい。
 紅茶も飲み終え、彼がふわあと伸びをした。ずっと背筋を伸ばして食べて、疲れたのかもしれない。
「わかんなかった~」
 わたしは思わず、えっ、と聞き返してしまった。
「タマくん、わからなかったって、どういうこと?」
「美味しかったんだけど、高いチョコレートの味とそうじゃないやつなんて、僕にはわからなかったよ」
 彼は口では残念そうに言うけれど、顔はそれほど残念そうでもなかった。
 それを聞いて、わたしも肩の力が抜けた。思わず、笑ってしまった。あんまりにもおかしくて、笑えた。言わずにいたこと、言えずにいたことをわたしも口にする。
「タマくん、ごめんね、わたしもわからなかった。とっても美味しかったけど、わからなかったよ」
「そうだよね~」
 と彼は笑った。そこには、安堵や解放感のようなものが滲み出していた。
 こうやって思ったことを素直に口にできる彼が羨ましい。わたしには無い、真逆の性格だ。今日のわたしみたいに無実のことでチクチク責められたら、彼はどうやって切り抜けるのだろうか。
 笑っていると、今日のことがとても昔のことに思えてくる。また今日もタマくんに救われてしまった。
 わたしも言いたいことをちゃんと言える人になれるだろうか。
「僕さ、食べながらずっと、わかんないなあって思っていたんだ。これは高いやつだからって思って食べていたけれど、結局最後までわからなかったよ」
 彼はケロっとした顔で言う。
 彼も彼なりに、言うべきか言わぬべきかということを考えているらしかった。
 言いたいことを素直に言うことが必ずしも良いとは限らないけれど、言いたいことを言えなかった過去に縛られる必要なんてないと思えた。わたし自身が変わるなんて、そう簡単じゃないから、せめて、言い出せなかったことでうじうじと悩むのはやめよう。自然とそういう感情が降りてきて、染み渡っていった。

   ◇

「僕はやっぱり普通の板チョコが好きだなあ」
「そうだね、わたしもそっちの方が食べやすいかも」
「そう思ってさ」
 彼はニンマリと笑いながら、リュックの中を漁る。今度も手探りで見つけた何かを、わたしの前に差し出した。
「普通の板チョコも買ってあるよ」

episode3 「やっぱり雨だ」

「やっぱり雨だ」
「そうだね、せっかく二人のお休みが合ったのに、雨だね」
 わたしとタマくんは、窓におでこを引っ付けて外を眺めた。二人の二の腕どうしが触れて、じっとりと汗をかく。通勤電車で隣の人と触れるのは気持ちが悪いけど、タマくんだったら特に気にならない。
 久しぶりの雨だった。
 それまで、日差しが強すぎて外出が億劫だったのに、雨が降っても外出が億劫だ。曇りは曇りで、なんとなく気持ちがどんよりして、やっぱり外出は億劫になる。
 じっとりとした雨で外出が億劫になるのは、単に雨で気持ちまで下降するからではないのです!
 髪の毛は無秩序に広がって、変にパサつくし、化粧乗りは悪くなるし、濡れたら風邪ひくし、服は汚れるし、べたつくし、洗濯物は生乾きだし、靴の消臭剤をしなきゃだし、給料は上がらないし、先輩の小言と惚気話を聞くのも疲れたし。
 そんなこんなで(雨とは関係ないこともあるけれど)、わたしはどうも雨の日は引きこもりがちだ。普段はタマくんとお休みが合うことも少なく、お休みの日は家で読書をしながら一人で過ごすことが多い。
「ねえタマくん、せっかくのお休みだけど、おうちでゆっくりしない?」
 彼は「う~ん」と考えていた。僕は出かけたい、というのが見え見え。
 ぴったりと窓におでこをくっつけたまま、右を左をぐるぐるきょろきょろと見回した。そうして、「あ」と小さく呟く。
「こっちゃん、今すぐ出かけよう」
「今すぐ? ちょっと待って、軽くだけでもメイクさせて」
「そんなのあとあと、さあ、行くよ」
 彼はそそくさと玄関でサンダルを履き始めた。わたしもサンダルを履いて、一度脱いだ。この夏に買ったばかりのサンダルが汚れるのはちょっと嫌なので、古い方のサンダルにして彼の後を追った。
 マンションの階段にも雨が吹き込んでいる。傘を差すには狭いので、手で押さえながら半開きにして階段を下った。それでも、エントランスを出る頃にはだいぶ濡れてしまった。
 エントランスを出るや、「失礼するね」とタマくんが傘に入ってきた。彼はわたしから傘を奪い取ったくせに、肩から背中までしっかり濡れている。わたしは濡れていない。
「ねえ、タマくん、どこへ向かうの?」
「ええとね、鴨川デルタ」
「こんな雨の中、デルタに行くの?」
「そうだよ」
 まあ、徒歩で五分もかからないし、なんて思いながら彼の横を歩く。
 タマくんは本当にアクティブだ。ただし、それは自分の好きな物や面白いものがあるときだけ。朝が弱くてなかなか起きられないし、夜が弱くて夜更かしできないし、昼が弱くて昼寝をよくする。それが好きな物や興味の対象があるだけで早起きできるし、夜更けまで起きているし、昼間もちゃんと起きている。逆に、嫌いなもの(例えば、歯医者とか)に対しては、五歳児のような拒絶を見せる。
 鴨川沿いを歩く。河川敷の芝生が濡れていて、足が濡れる。小さな草のカスのようなものが足の指やくるぶしにまとわりつく。
 高野川と賀茂川の合流点にたどり着いた。ここで二つの川が合わさって、鴨川としてこの街を貫いていく。
 合流地点の内側にある三角地帯は「鴨川デルタ」と呼ばれていて、この街の一つの憩いの場となっていた。春には大学生が新歓コンパをし、夏には線香花火をするカップルが並び、秋冬の寒い日にも人の姿があった。
 両岸から鴨川デルタへ渡るには、高野川、賀茂川の両河川にかけられた橋を渡るか、もしくは、川の中にある「飛び石」を渡っていく。
「飛び石、少し水没してるね」
 タマくんは、水没なんてなんとも無さそうに言う。そうよ、水没しているから、橋を渡ってデルタへ行こうね。
 そう言おうとしたけれど、間に合わなかった。彼はわたしに傘を持たせて、一人で水没した飛び石に、えい、と飛び乗った。飛び石に乗っていればくるぶし程度の水嵩だけど、それなりに強い流れが彼の足に当たって、大きくうねりながら飛び散っている。足を滑らせて飛び石から落ちれば、流されてしまうかもしれない。
「タマくん、危ないよ」
「大丈夫、とっても冷たくて気持ちが良いよ」
「全然大丈夫じゃなさそうだよ」
「足を滑らせないように、慎重に来れば大丈夫だよ」
 彼はおいでおいでと手招きをしてくる。仕方ないと、わたしも飛び石に飛び乗った。できるだけ、石の真ん中を目掛けて跳ぶ。着地すると、確かな川の流れを感じた。跳ね上がった飛沫は、膝のあたりまで飛んできて、ビシビシと骨を通じた音がする。
 さらにもう一つの飛び石を目掛けて跳ぶ。傘が邪魔だった。
「こっちゃん、傘さしていると危ないよ」
「きみがわたしに持たせたんでしょ。雨けっこう降ってるし」
「雨に当たるのも気持ちが良いよ」
 彼はすでにびしょびしょになっている。昔飼っていた猫に似ていたからタマくん。だけど今は、捨てられた仔猫みたいだった。
 彼はふざけて、両手を広げて空を仰いだ。「恵の雨!」と叫んでいる。
「濡れたら風邪ひいちゃうよ」
「帰ったらすぐにお風呂を沸かせばいいさ」
「服も汚れちゃう」
「お風呂に入っている間に、洗濯機を回そう」
 むう。どうしても彼には勝てそうもなかった。傘を差したまま渡って川に落ちてしまっては、どうしようもない。わたしは意を決して、傘を閉じる。
「こっちゃん、パス、パス」
「パスって?」
「傘持ったままじゃ渡りにくいだろうから、僕が持って行くよ。こっちに投げて」
「いいの? 本当に投げるよ?」
 彼は、こい、と両手を構えた。
「はい!」
 わたしはできるだけ傘が回転しなように意識して投げた。それが逆に、いけなかったのかもしれない。
 傘は不規則に回転して放物線を描き、それを迎えたタマくんの両手をすり抜けて、彼のおでこに当たった。
 タマくんは「うげ」という声を残し、ふらふらと飛び石から転げ、川へ転落してしまった。
「タマくん!」
 わたしは無我夢中で飛び石を渡って、彼のところへ駆け寄った。彼が流されて死んじゃったらどうしよう。もっとちゃんと言えばよかった。危ないから絶対に橋にしようって、言うべきだった。
「タマくん!」
 いきなり、飛び石の下流二メートルくらいのところで、スクっと彼が立ち上がってきた。それはそれで驚いて、わたしは悲鳴をあげてしまった。
「見て見て、ここ、めっちゃ浅い」
 彼は冷たい冷たいと大声で笑った。濡れた両手を振り回して水しぶきをこちらへ飛ばしてくる。わたしも雨に打たれてびしょびしょだった。今さら、どれだけ濡れようが関係ない。
 すでに濡れてしまっているタマくんに水を掛ける。彼もわたしに水を掛ける。彼が躓いて転げる。腰までどっぷり川に浸かる。それを見て、わたしが笑う。わたしが笑うと、彼も笑う。
「笑ったな! 仕返し」
「きゃ、ちょっと、タマくん」
 わたしも川へ引きずり込まれた。タマくんみたいに腰までどっぷり浸かった。服の隙間から冷たい水が流れ込んで来る。ひんやりとして心地が良い。降りしきる雨も、次から次へとわたしの肌を舐めて流れていく。それも、今まで感じたことのない心地よさだった。
 わたしたちは、誰もいない雨の鴨川デルタを遊びつくした。下着が透けていても、彼が鼻水を垂らしても関係なく。
「こっちゃん、そろそろだよ」
 突然、慌てたタマくんがデルタに上がった。こっちこっち、と呼ばれるままに彼の隣に並ぶ。
 川下を向いて二人で空を眺めた。右には賀茂川、左には高野川。二つの川が目の前で鴨川となる。全然違う場所を流れた二つが一つになっていた。
「何があるの?」
「見てて」
 濡れすぎてわからなかったけれど雨は弱まっていて、すっかり空も明るくなってきていた。もうじき、雨が止みそうだ。
「ほら!」
 彼が左の空を指さし、声をあげた。
 彼の示す先には、大きな濃い虹がかかっていた。右から左まで、しっかりアーチの全景が見えている。よく見ると、内側にもう少し小さくて薄い虹が出ている。こっちも、ちゃんと端から端までが見えていた。
「すごい! とっても綺麗だね。タマくん、これを見せるために連れて来てくれたの?」
「うん。僕ね、虹が好きなんだ」
「それは知らなかったよ」
「昔さ、雨の日が嫌いだったんだ。でもね、僕のねえちゃんが虹を見せてくれたんだ。こうやって雨も気にしないで走り回って、それから雨の日が好きになったんだよ」
 今のわたしみたい。彼もこうやって雨に濡れながら、誰かに雨の日の魅力を教えてもらっていた。彼のお姉さんも、誰かに教えてもらっていたのかもしれない。そのバトンは、こうやってわたしに受け継がれた。このバトンを、わたしは誰に手渡そう。雨の日はこんなに楽しいんだよって、上手に伝えられるかわからないけれど、タマくんのお姉さんから渡ったバトンを次に繋げていこう。

   ◇

 翌朝。
――すみません、受付のカタヤマです。ちょっと風邪をひいてしまって、今日はお休みします。
――もしもし、深井さんですか。アルバイトのヨシキですけど、風邪ひいてしまって、あ、はい、すみませんが、お願いします。
 お互いに職場への電話連絡を入れた。
「結局、二人して風邪ひいちゃったね」
「うん、それでも、わたしは雨の日が好きになったよ」

episode4 「鎮痛剤」

「タマくん、本当にお願いしてもいいの?」
 彼はあんまりたくましくない力こぶを作って見せる。色白な肌に、青紫の血管が透けて見えているけれど、たくましくないから血管が浮いてくることはない。見た目に頼りなさのある、わたしのパートナー。
「任せてよ、こっちゃん。百万遍のドラッグストアなんて、行って帰って十分もかからないし」
 彼はもう一度、ふんっと力を入れて見せた。ぴく、と筋肉が動いた。気がする。
「これと同じやつ。夜用のやつね」
「長いやつね、わかったよ」
 今日は、ちょっと重い日だ。腰の方までずっしりとした鈍痛と、全身に気怠さがある。お腹の中は気持ち悪いし、吐き気もあるし、頭も奥の方から痛んでいた。もともと、わたしは重い方だけれど、ここ数か月の中では特にきつい。そんな時に、大事なもののストックを切らしてしまっていた。痛み止めを飲んで買いに行こうと思ったけれど、見かねたタマくんがおつかいを買って出てくれたのだ。
「本当にお願いしてもいいのね?」
「女性用品コーナーは緊張するけれど、大丈夫」
 はじめてのおつかいに行く子供のように、わくわくした表情をみせるけれど、そんなわくわくした買い物じゃないのよ。
 本当に大丈夫なのだろうか。
 タマくんは「大丈夫」という言葉をよく口にする。大概が勝算のない、根拠のない『大丈夫』だ。(少なくとも、わたしにはそう見える)
 今回のおつかいだって、「大丈夫」と言いながらもパッケージもろくに見ないで行ってしまった。
 彼の「大丈夫」を鵜呑みにしてはいけない。大丈夫と言って川に転落三回、飲食店で現金が足りずに銀行へ走ったのが三回、足りない調味料を別の調味料で補っての失敗は数え切れない。
 もちろん、彼の「大丈夫」の全てがよくないことの前触れというわけではない。
 むしろその逆。何度、彼の「大丈夫」という言葉に救われてきたのだろう。
 わたしが職場でのことや人間関係などに悩んでいると、彼は必ず「こっちゃんなら大丈夫だよ」と声をかけてくれる。彼の中に根拠なんてなかったのかもしれないけれど、彼が「大丈夫」といえば、本当に大丈夫な気がするのだ。
 気休めかもしれないけれど、彼からそう言われれば不安は少し減って、状況を打開しようと自分で行動することができる。
 彼の「大丈夫」は魔法の言葉。
「ただいま。コレ、お土産だよ~」
 彼の手には、ニワトリのイラストが描かれたカップに入った唐揚げがあった。もう片手も見てみる。ちゃんと、ドラッグストアの黒くて透けないビニル袋が握られていた。彼が、「大丈夫」と言って買うべきものを忘れてお土産だけ買って来てしまった回数、これも数えきれない。
「これ、どうしたの?」
「百万遍のコンビニの店長がくれたんだよ」
 そうだ、あそこのコンビニの店長はタマくんと親しい。結婚式にお呼ばれするくらいの仲だったことを思い出した。
「お腹、痛い?」
「うん、今日は何もできないかも」
「いいんだよ。こっちゃんの身体も毎月頑張っている証拠だからね」
 彼は、こういうことをさらりと言う。女性の身体について、理解がない人や偏見を持つ人もいるけれど、彼はそういう人ではない。このしんどさや面倒くささは、男の彼にはわからないだろうけれど、わからないなりに気を配ってくれる。
「そうだ、こっちゃんに良いものがあるよ」
 そういって、彼は薬箱を引っ張り出してきた。
 薬箱を開けた瞬間から、ラッパのマークが鼻に刺激的。
 彼が薬箱から取り出したのは、見慣れない黒いビン。ラベルも何もついていない。こんなもの、あったかしら。
「タマくん、これは?」
「これは、僕の母さんが先日送ってくれた薬だよ。ほら、梅干しとかミカンとか届いた時の」
「あの美味しい梅干しの時のやつか。薬のビンには気付かなかったよ」
「割れちゃうと困るから、すぐに薬箱に移しておいたんだ」
 彼は蓋を開けて、中身を確認する。ビンを覗き込みながら、小難しい顔をしてビンを揺する。ころころと乾いた音がした。
「これはね、うちの母さんもねえちゃんも飲んでる痛み止めだよ。僕も昔、使ったことがある」
 彼は一つぶを手のひらに出して、わたしに見せる。白くて小さな錠剤だった。
「女性の特有の痛みにも効くし、頭痛にも効くんだよ。あとはね、こころの痛みにも」
 にわかには信じられなかった。彼の家庭のことはほとんど知らない。これが何かの法律に触れている、なんてことないよね。
「これは、大丈夫なものなの?」
「大丈夫。飲んだら少し楽になると思うよ」
 そう言って、彼は手のひらの一つぶをわたしの手のひらに移した。
 それから、コップに入れたお水を持ってくる。なんでも、お茶と一緒に飲むのは、あまり良くないらしい。
「何回か噛んでから、お水と一緒に飲み込んで」
「わかった」
 口に入れてみる。強烈なラッパのマークのにおいの中に、かすかに柑橘の香りがある。ぽりぽりぽり。噛むと、ささやかな甘みがあって、口の中でゆっくりと溶けた。これは、漢方薬か何かなのだろうか。
 彼が「はい、お水」と渡してくれたので、錠剤を流し込んだ。口の中には、ラッパのマークのにおいがかすかに残った。
 お世辞にも美味しいとは言えないけれど、確かに『効く』気がする。良薬は口になんとかって言うし。強烈なあのラッパのマークだって、よく効くもの。
 しばらくしてからも、痛いには痛い。けれど、いつもと同程度には落ち着いてきた。ダルさだって、鈍痛だって、下着の中の不快感だってあるのに、「大丈夫」な気がしてくる。
「タマくん、なんか少し痛みが軽くなった気がするよ」
「それは良かったよ! でも、今日はゆっくり過ごそう。痛いときには、無理に動いちゃあいけないよ」
 タマくんはたぶん魔法使いだ。彼が大丈夫って言えば大丈夫になる。年下で子供っぽいところがあるのに、わたしにとっては何よりも頼りになる存在。
 彼は「今日の夕飯も僕に任せて」と細い腕に力こぶを作った。

   ◇

 さて、タマくんファミリーに変な疑いがかからないように、わたしから錠剤についてお話を。
 あれは、ごく普通のラムネでした。ただのお菓子。「それっぽい黒いビン」に入れて、ラッパのマークと一緒に保管して彼が作ったものです。
 わたしがその話を彼から聞かされたのは、もう何年も後のことでした。

episode5 「お風呂 de アート」

「こっちゃん、見て見て」
 呼ばれて振り返ると、タマくんが浴槽に仰向けで浮かんでいた。真顔で天井を仰いでいるので、「何してるの」と聞いた。
「オフィーリア」
「ああ、ミレーのやつね」
 ミレーによって描かれた「オフィーリア」の絵画を真似をしてみせた。あんまり縁起の良い真似事ではないけれど、ちょっと面白い。
「こっちゃん全然見てくれないから、ずっとこうして浮いていたんだよ」
 彼曰く、わたしが脇やすねのお手入れをしている間もずっとそうしていたらしい。全然気がつかなかった。
 それなら、わたしはコレだ、とわたしも思いついた絵画を身体で表現する。
 頭からボディタオルを垂らして、洗面器のお湯を流していった。
「牛乳を注ぐ女」
「フェルメールだ」
 彼は嬉しそうな声を出した。興奮した彼のオフィーリアは一度水中に沈み、鼻から水を噴きながら見事に生還した。
 彼の思い付きにわたしが乗ると彼は嬉々として、オトコノコという感じになる。
 タマくんには次のネタが出来上がっていた。いくよ、いくよと言って、ボディタオルの両端をそれぞれ両手で持った。
「一瞬しかないから、よく見ててね」
 彼は縄跳びの後ろ跳びをするように、両端を掴んだボディタオルを勢いよく頭の上から背中に回した。ボディタオルが綺麗な弧を描いて頭の上を通過する瞬間、歯茎を見せながら目を開いて「風神」と言う。
「一瞬すぎて顔に気を取られちゃった。タマくん、もう一回」
「本当に一瞬だからね、よく見るんだよ」
 そうして、彼は今度は二の腕に掛けたボディタオルを勢いよく振り上げて、さっきと同じ顔をしながら「雷神」と言う。
「さっきと違うじゃん」
「風神と雷神はいつもセットだから」
 彼には勝てないなあと思いつつも、わたしはボディタオルを首から垂らして、片端を握りながら胸や大事なところを隠す。このボディタオルは長髪をイメージしている。
「タマくん、見て。ビーナスの誕生」
「すごい、こっちゃん、そっくりだよ」
 それは、どういう部分について言っているのかしら?
 タマくんはちょっと前屈み気味に両手を広げて「太陽の塔」ってやるけれど、それはお風呂じゃなくてもできるやつです。
 今度はわたしの番だと思ったけれど、タマくんの様子がおかしい。顔が真っ赤になって、ちょっとふらふらしている。
「こっちゃん、楽しいけれど、僕はのぼせてきちゃったよ」
「そうだね、お風呂は暑いから続きは明日。けっこう遅い時間だし、お風呂上がりのルーティンが終わったらすぐに寝なきゃね」
「お風呂後のルーティン、お風呂ではフルーティン」
「くだらないこと言わないの」
 実は、もうわたしの中にとっておきのネタができていたけれど、これはまた明日お披露目しよう。
 お風呂は毎日入るものだけれど、時々めんどうに感じることがある。脇やすねのお手入れだけではない。クレンジングだって、そう。お風呂あがりに行っているボディクリームとか、ヘアオイルとかは手間だし、ドライヤーだって汗が出て嫌になるときがある。そういう女性ならではのルーティンを疎ましく思っていても、やらないわけにはいかない。
 これら全てをひっくるめて、お風呂が面倒だと思うのだ。
 それでも、こうやって遊び心があるだけで楽しくなる。他人から見たらくだらないことでも、わたしたちにとっての幸せはこういうところにある。彼と暮らすことで、日常には面白いものがそこらじゅうに転がっていることを知れた。
 明日は何の芸術品を真似しようかなと思うだけで、明日のお風呂が楽しみ。

   ◇

「こっちゃん、最後に一つだけ見て」
 彼はボディタオルをくるくると丸めて、左肩に添える。右手はだらんと垂らして、片足に体重を預けながら、わたしの方を見た。
「ダビデ像」
 それは。
 わたしが明日やろうと思っていたのに!

episode6「文通ラバーズ」

「タマくん、ただいま」
 わたしは音を立てないように玄関扉を閉めた。深夜ってほど深夜ではないけれど、寝ている人もいる時間。玄関の開閉音はマンション内でけっこう響くので、扉が閉じきるまでドアノブを握りながら、ゆっくりと閉じた。
 室内の明かりはほとんど消えていて、キッチンの明かりだけが灯っている。ダイニングテーブルに薄く明かりがさしていた。ダイニングテーブルの卓上にはラップをされた皿が並んでいた。
 小さな声で「タマくんありがとう」と暗い寝室へ手を合わせながら、静かに席についた。
 ちょうどわたしがいつも座っている席に、一通の封筒が置いてあった。
「あれ、今日は封筒だ」
 帰りが遅くなってどちらかが先に寝てしまっている時は、小さなメモ書きに「先に寝ているね」とか「冷蔵庫のご飯食べてね」というやり取りがある。こんなにしっかりした封筒で手紙を受け取るのは、いつぶりかなと記憶を辿った。
 最後にこういう形で手紙をもらったのは、彼と一緒に暮らすちょっと前くらいだったと思う。
 こうして二人で生活する前は、頻繁に文通のやり取りをしていたなあと懐かしくなる。思い出すと、胸の中が温かくなる。当時のわたしたちのやりとりは、文通が全てだった。
 まだわたしが大阪勤めになる前。まだ彼が大学生だったころ。
 四百キロメートル離れた空の下で、わたしたちは文字と写真だけのやりとりをしていた。数日に一度だけのお互いの言葉を待って、待ちわびて、出勤と帰宅の時に郵便受けを覗いて一喜一憂して、届いたらすぐに返事を書いて、書いている途中で恥ずかしくなって、消して、すぐに書き直し始めて。
 あの頃、タマくんが毎回送ってくれる写真を見ながら、タマくんが住んでいるところについて思いを馳せていた。本能寺の「能」だけを撮った写真、大文字の火床から街を一望したもの、喫茶店の肉厚なタマゴサンドウィッチ、夜空で妖しく浮かび上がる真っ白なモクレン。タマくんからの言葉だけでなく、彼からの写真も楽しみだった。彼の撮った写真を見るだけで、まるでわたしも同じものを見て同じ時間を過ごしているような幸せな気持ちになれたのだ。
 そんな彼に刺激を受けて、わたしもお給料を少し貯めてカメラを買った。それからは、わたしが撮った写真を手紙に添えて送っていた。
 だんだんと文字は減って、その代わりに写真のやりとりは増えた。言葉がなくても、彼がどんな人なのかわかるような気がして、嬉しかった。彼の人柄というか、キャラクターが見えるようだった。
 わたしは、おやつに食べたラムネの包み紙とか、タバコの煙とか、毎朝ベランダにやってきてフンをしていくハトの写真なんかを送っていた覚えがある。

――月が綺麗ですね。
 その一文と一緒に届いた月の写真に、どれほどドキドキしたものか。これはあれか、かの文豪のあれか、なんて思いながら、相手が見えないのにもじもじとしたほど。あの手紙の真意はまだ聞いていない。
 今でも彼からの手紙は全て、大切にしまってある。実は、タマくんがいない時にこっそり見返しもする。

 甘酸っぱい思い出を振り返りながら、今、新しい手紙を手に、ちょっとドキドキしている。二人で暮らすようになって久しいけれど、こうやって手紙をもらうのはやっぱり嬉しいわけで。
 なんだか、あの頃のわたしが憑りついてしまったみたいだ。
 猫のシールをはがして、封筒を開ける。中からは、伸びやかな三毛猫が描かれた便箋が出てきた。

――こっちゃんへ。今日もお仕事お疲れ様。今日の夕飯は、こっちゃんの好きな、タケノコと手羽元&卵の『親子と他人煮』です。チンして食べてね。卵はチンする時に爆発するから、気を付けて。あ、うちの電子レンジは『チン』じゃなくて、『ぴろりろりろりん』だった。言い直すね。夕飯をぴろりろりろりんして食べてね。タケノコはすくすく伸びる驚きの生命力があるから、たくさん食べてタケノコパワーをチャージすること。あ、でも、タケノコみたいにあんまり大きくなっちゃあダメだよ、見上げるのは首が疲れちゃうから。

 手紙でもタマくん節がさく裂していて、この手紙も、手紙を書いてくれたタマくんも愛おしい。彼の小さくて線の細い文字も、書き間違えてぐしゃぐしゃって書きつぶしているところも、全部。

 彼からの追伸が目に入った。下の方に、ちょこんと「写真も見てね」と書いてあった。
 同封されていた一枚の写真を取り出す。見てびっくり。
「わたしの寝顔じゃん」
 いつの間に撮ったのかわからない、わたしの寝顔写真が入っていた。薄手のパジャマだし、薄いタオルケットだし、これはかなり最近の写真だ。
 まだまだ時効じゃないよ、タマくん。然るべき制裁を加えます。

 わたしは暗くなっている寝室へ忍び足で入って、静かにベッドの脇に立った。
 彼は、タオルケットを抱きしめて、丸まって寝ている。陽だまりで昼寝する猫のような健やかな寝顔だけど、こうやってタオルケットや毛布を全部持っていくし、丸まるときにわたしをベッドから押しのける。寒さや、ベッドのヘリで危険を察知して起きるわたしの身にもなってよね、と頬を突いてみた。
 よく寝ている。ちょっと突いた程度じゃあ、絶対に起きない。熟睡。
 ふふふ。
 わたしは自然と漏れる笑いを押し殺して、シャッターを切った。彼の柔らかな寝顔を、何枚も写真に収めていく。
 すぐに便箋を取り出してきて、返事を書く。

   ◇

 翌朝。
 今日もタマくんが寝ている時間にわたしは出勤する。彼はアルバイトが休みのはずだから、起きるのはお昼前くらい。
 彼の寝顔を確認して、手紙と写真を入れた封筒をダイニングテーブルに置いて家を出た。
 わたしが帰った時の、彼の第一声が楽しみだな。今日は早く帰りたい理由がいつもより一個多い。
 それだけで、今日という日が特別な日になった。

episode7「ステイホーム」

「緊急事態宣言、出ちゃったね」
 わたしとタマくんは、テレビ画面を見ながらため息をついた。数か月前から海外で猛威を振るっていた新型ウイルスによる感染症が、日本でも爆発的に広がっていた。
 わたしの会社も自宅勤務が始まったし、タマくんがアルバイトする喫茶店も休業になった。
 こうして自宅で過ごすことを、「ステイホーム」と呼ぶらしい。
 平日は大阪の企業で受付嬢をするわたしと、土日を含む週四日を河原町通り沿いの喫茶店でアルバイトをする、三つ年下のタマくん。
 いつもなら滅多に合わないお休みが、これからしばらく続くことになる。
 普段から休日はステイホームがちなわたしにはあまり変化がないのだけれど、わたしのパートナーのタマくんには大打撃を与えた。
 彼は京都市内洛中洛外にあらゆる謎の人脈を持ち、それらを渡り歩くように休日を満喫しているらしい。
 百万遍にあるコンビニの店長夫妻、新京極にある多国籍雑貨「そノラン」のスタッフの森くん、駆け出しお笑い芸人の下村くん、出町柳のスリランカ料理屋、比叡山の麓に店を構えるカフェのマスター、五条の銭湯の若大将。例を挙げれば切りがない。
 そんな人々もみな、多かれ少なかれ新型ウイルスによる感染症の打撃を受けているそうだ。コンビニだって飛沫防止シートの設置をしてお客様とのやりとりが困難なうえ、マスクの入荷がないことでクレームを入れる人がいると聞く。新京極通りの店舗は一斉に休業に入ったらしいし、駆け出しのお笑い芸人には仕事がないらしい。他の皆さんも、同じように休業や感染防止対応などに追われているそうだ。
 そういった方々のところへ繰り出すこともできず、彼は心底退屈そうだった。
 日頃、積極的に外出しているわけではないわたしも、出るなと言われると外出がしたくなる。それが人間の性なのだ。
「タマくん、今日はなにしようか」
「そうだなあ、本当は一乗寺の『半分社書店』で買いたい本があったのだけど」
「それは不要不急だね。おうちでの過ごし方を考えよう」
「気持ち的には不要ではなくて必要なのだけれど、急ぎではないから我慢するよ」
 それからわたしたちは黙ってしまった。
 いつもなら、二人の予定に合わせて休みを調整する。それがこうして急に休みが一致して、出かける先がないとなると何をしたら良いのか悩んでしまう。
 二人でなにか面白いことを発見する時、それは偶然の産物であることが多い。
 ならば、こうして「なにをしようか」と面白いことを探してしまってはナンセンスなんじゃあないかしら。
「ねえ、タマくん、果報を寝て待とう」
「そうだね、いつまで続くかわからないし、腰を据えて気長にいこう」
 そうして、わたしたちは一度抜け出したダブルベッドに戻った。
 が、すぐに抜け出した。
「せっかくだから、これまでにないくらい堕落してみてはどうかな」というタマくんの提案によるものだ。
 わたしはサイドボードにジュースとコップを用意した。ファンシーな雑貨屋で彼が買ってきた星形のストローも、今日は使う。
 タマくんは冷蔵庫の中からカップのあんみつを引っ張りだし、はちみつパンを開封し、彼の実家から頂いた蜜柑をサイドボードに並べた。
「パジャマパーティの始まりです」
 彼は片手を挙げて宣誓した。
 わたしたちは禁断の、ベッドの上でのパーティを始めた。
「僕の母さんが見たら、きっと怒る」
「うん、うちも一緒だと思う」
「この、やっちゃいけないことをやっている感じ、なんか楽しいね」
 彼はへらへらと笑っている。
 いつものわたしなら、絶対にやらない。自分の中にある「やってはいけないこと」の壁を乗り越えることができない。乗り越えたとしても、むずむずと落ち着かない気持ちになるのだ。
 それが、今日はなんだか違う。
 状況を楽しむ気持ちの余裕がある。タマくんがベッドの上で飲食しようものなら、引きずり降ろしているはずなのに、今日はわたしもすんなり受け入れていた。
 これは、わたしがいかにタマくんの影響を受けてきたのか、ということを表していると思う。他人に迷惑をかけない範囲なら良い、という感覚になってきている。
 わたしがはちみつパンをちぎって食べていると、彼は蜜柑をむき始めた。白いすじを残らず綺麗に取り払い、つやっとした蜜柑を量産し始めた。
「それ、あんみつに乗せたら美味しそうだね」
「そのつもりで剥いているんだよ」
「蜜柑、いただき」
「あ、こっちゃん、それはまだ食べちゃダメだよ」
「聞こえません、聞こえません。美味しい蜜柑の薄皮が弾けて、果汁が口の中に飛び出す音しか聞こえません」
 彼は、剥いた蜜柑の半分を自分の方に寄せて、食べても良い分はわたしの方に差し出した。境界線には蜜柑の皮をちぎって、線を引く。
「こっちは食べちゃダメだよ。こっからこっちには入っちゃダメ。ソーシャルディスタンスだよ」
「覚えたての言葉を使いたいだけでしょ」
 彼はむむっという顔をした。わたしは容赦なくボーダーラインを超えた。
「ダメだってば」
 彼がすねた様子で次の蜜柑の皮を剥いていた。
 年下の男の子をすねさせたくなるのは、きっと女性の皆さんなら経験がおありでしょう?
 さらにわたしは、二房の蜜柑を摘まみ取り、それらを重ねて口に咥えてみた。咥えた口を、つんと突き出してタマくんを見る。
「うわあ、こっちゃん、タラコ唇みたいになっているじゃないか」
 わたしはもごもごと唇を動かして「あたし綺麗?」と言ってみたけれど、唸っているだけになってしまった。
 このタラコ唇が彼のスイッチを押したらしい。
 わたしと同じように二房の蜜柑を咥えて、口を突き出す。
「ふふふん」
「ふふん」
 わたしたちは、怪しげな笑いを含んだまま顔を接近させて、タラコ唇どうしを触れさせようとした。
「ふん、ふん」
 でも、面白スイッチを押されてしまったタマくんの鼻息が気になって笑ってしまう。彼が「笑っちゃダメだよ」とジェスチャーをするので、もう一度顔を寄せ合ってみるけれど、やっぱり彼の鼻息が気になる。
 わたしは咥えた蜜柑をそのまま食べた。
「ダメ、きみの鼻息が面白すぎる」
「ふふふふん、ふんふん、ふん」
 鼻息と唸り声で彼は不服を申し立てた。
 彼が人差し指で「もう一回」とするので、再びわたしは二房の蜜柑を咥えた。
 じわりじわりと二人のタラコ唇を寄せていく。今度は笑わずにいけそうだなと思い、もう少しで触れ合う瞬間――
「ふんがっ」
 彼は咥えていた蜜柑を勢いよく吸い込み、その口でわたしのタラコ唇を食い取ってしまった。
「ちょっと、タマくん、それは、ずっちーよ」
「ずっちくないよ、僕が剥いた蜜柑をどんどん食べちゃうからだよ」
「もう一回」
「そしたら、こっちゃんも蜜柑を剥くのだよ」
 彼から差し出された蜜柑を、わたしは大人しく剥いた。彼も新しい蜜柑の皮を剥き始める。
 彼ほどではないけれど、白いすじを綺麗にこそいでいく。それでも、細いやつはうまくはがれなかった。
「こっちゃんの唇、血管が浮きだっているみたいだね」
「強そうでしょ?」
 彼のタラコ唇は、今回もつやつやしていた。
 二人でタラコ唇をセットした。
 両者、負けられないという面持ちで向かい合う。これはカップルのじゃれ合いなんかじゃあない。(蜜柑を)食うか食われるかの戦い。
 じわじわと距離を詰めていく。あまり早すぎても相手のタラコ唇に喰いつけなくて逃してしまう。遅ければこちらが食べられてしまう。そのタイミングの絶妙な駆け引きがある。
 今かな、いや、まだかな。そんなことを思いながらいよいよタラコ唇が接触する瞬間。
 わたしは勢いよく蜜柑を吸い込み、そのまま彼の唇に食いつこうとした。
 けれども、彼も全く同じタイミングで自らの蜜柑を吸い込み、わたしたちの本当の唇と唇どうしが触れ合った。お互いに食いつこうとしていたので、前歯どうしもカツンと、脳に響くぶつかり方をした。
 両者、衝撃に悶える。引き分け。
 わたしたちはどちらともなく、次のタラコ唇を作って向かい合った。同じように距離を縮めていく。
 さっきより少し早めに仕掛けようとしたところで、彼の両手がわたしを掴んだ。彼は姑息な手段でわたし(の蜜柑)を食べようとする。ずっちーぜ、タマくん。
 わたしも彼には負けじと抵抗したけれど、そのまま布団の上に押し倒されてしまった。
 あっけなくわたしの蜜柑は食べられた。
 それから、二人して笑った。

 こんなくだらないことなのに、わたしたちは全力で戦った。こんなふうに毎日を過ごしていられれば、自粛の解除まで退屈せずに暮らせそうな気がする。彼と一緒にいれば、毎日が楽しい。それを、毎日実感させてくれる彼の存在があって良かった。こんな大変な時期を、彼と二人で過ごせる。それはとても貴重なこと。
 明日は何しようか、なんて考えなくてもきっと自然とまた面白いことが生まれてくるはず。
 果報は二人で待て。そういうことなのです。

   ◇

「こっちゃん、これってサンミツじゃない?」
「窓は開いているから、ニミツくらいかな」
 彼はわたしにのしかかったままサイドボードを指さす。
「あんみつ、はちみつ、蜜柑。ほら、サンミツ」
 それを言うつもりできみがおやつを選んだことくらい、わたしにはお見通しです。

episode8「ON AIR」

 これは、わたしたちがまだ別々の生活をしていた頃の話。
 当時、わたしは東京から大阪へ異動して、タマくんは京都で暮らしていた。大阪と京都。こんなに近くても、生活リズムの合わないわたしたちは、なかなか一緒に過ごす機会がなかった。
 わたしたちは頻繁に連絡を取るようなことはなかったけれど、わたしがどうしても眠れない時は彼と電話をして、彼の声を聞いて眠りに就いていた。
 あの時、彼がやってくれていたのは、架空のラジオ番組「ミッドナイトリミテッドDX」というもので、架空のお便りを紹介したり、パソコンで音楽を流したりしていた。
 ふと、あの頃を思い出したので、ある日の彼の番組をちょっとだけ紹介させてください。

   ◇

 ハローハロー、僕の番組「タマちゃんのミッドナイトリミテッドDX」へようこそ。僕はDJタマです。この番組は、これからお休みするキミのための、唯一のレディオショーだ。お疲れさんも、夜更かしさんも、まずはこの曲を聞いて、深呼吸。
 スピッツで、「8843」

 (誰よりも早く駆け抜け……)

 スピッツの「8843」はどうだったかな?
 今も変わらない名曲だよね。この曲をリクエストしてくれたのは、大阪府のコトさん。コトさんお便りありがとう。ええと。

――DJタマ、こんばんは。いつも楽しく聴いています。最近、コンタクトレンズデビューをしたと聞きました。でも、DJタマは朝がとても苦手って言ってましたよね。忙しい朝にコンタクトレンズを入れている時間があるんですか?

 うーん、厳しい質問だね。僕は、いつもギリギリモーニングを過ごしているんだよ。でもね、コトさん。実は、コンタクトを素早く入れる方法があるんだ。もしコトさんがコンタクトを入れるのに時間がかかっているなら、ぜひメモを取ってみてね。

 まず、両手を良く洗って、コンタクトのケースを開けて、準備する。ここまでは普通と一緒だ。ここからが大事。とってもスピード感やコツが必要だから、よく聞いていてね。
 いくよ。

 目ぇをカパぁ開いて、両手の人差し指でそれぞれコンタクトをシュパぁ摘まんで、両目に同時にぶわぁ入れんねん。

 ……。

 どうかな? メモは取れたかい? もう一回教えてあげたいところだけれど、次のコーナーの時間なんだ、許してね。

 さて、次のコーナーは、これ。

(瞳を閉じて 君を描くよ)

 「京都市の中心からちょっと外れたところで、ちくしょうと叫ぶ!」

 このコーナーでは、皆さんからいただいた「ちくしょう!」と叫びたくなるようなエピソードを読み、僕が代わりに「ちくしょう!」と叫ぶコーナーです。あれ、なんかカンペが出てる。僕が「ちくしょう!」と思ったこと?

 そうだな、日めくりカレンダーを二か月もめくり忘れていたんだ。それを、一気にめくってやろうと思ってさ、次から次へとめくってちぎっていったんだよ。今日の昼間のことなんだけれど、一枚一枚を摘まんで、勢いよく破いていくのが楽しくなっちゃって、気づいた時には、来月の『今日』になっていた。

 ちくしょう!

(ちくしょう……ちくしょう……ちくしょう……)

 さて、じゃあ、お便りを読んでいきましょか。まずは、大阪府の「コトまっくす」さん。ちくしょうと叫びたいこと。

――昨日、冷蔵庫の裏に転がって行ってしまった醤油のペットボトルの蓋を取ろうと裏を覗いたら、いつのものかわからないジャガイモを発見。たくさんの芽が伸びて、怪物みたいでした。DJタマ、わたしの叫びをお願いします。

 ちくしょう!

(ちくしょう……ちくしょう……ちくしょう……)

 そんな「コトまっくす」さんにはこの曲。アジアンカンフージェネレーションで「ソラニン」

(きっと悪い種が芽を出して……)

 さて、「コトまっくす」さんは「ちくしょうな感情」とさよならできたかな?
 どんどん行くよ。次は大阪府の「大きなことり」さん。

――DJタマ、こんばんは。明日から月曜日です。月曜日に仕事に行くと、先輩の惚気話を聞かされてうんざり。日曜日のデートがどうだったとか、そんなの聞きたくない! ちくしょうって言いたいけれど、そんなこと自分に許せやしないの。DJタマ、お願い!

 ちくしょう!

(ちくしょう……ちくしょう……ちくしょう……)

 そんな「大きなことり」さんには、ザ・ハイロウズで「日曜日よりの使者」

(君こそは日曜日よりの使者……)

 さて、今夜最後は、恒例のこのコーナーだよ。「水に流したいこと!」

(じゃじゃ~と水が流れる音)

 早速、お便り。大阪府の「100%コットン」さん。お便りありがとう。

――DJタマ、聞いてください。先日、仕事のお昼休みに入ったカフェで店員さんを呼ぼうとしたら、間違えて「お母さん」って呼んじゃったの。恥ずかしい。後輩もいたし、店員さんもそれで気付いて来てくれちゃったし。

 それは恥ずかしいね。追伸が書いてあるんだけれど、普段はお母さんのことを「ママ」と呼んでいるんだってさ。じゃ、流すよ。

(じゃじゃ~と水が流れる音)

 さて、健やかな寝息が聞こえてきたところで、そろそろお時間です。お疲れさんも、明日から頑張ってね。お相手はDJタマでした。それじゃあ、グッド・ナイト。

 プツン。

   ◇

 そうやって、わたしは彼の声を聞きながら眠りについていた。彼はわたしにとっての鎮痛剤であり、精神安定剤であり、睡眠導入剤。
 今ではいつも同じ布団で寝ているので、真夜中に電話で話すことはない。彼のラジオも、もうずっと聞いていない。
 それが、時々、寂しくもある。

 二人で暮らし始める前に彼が住んでいた部屋のトイレの扉には、上の方に横長の小さなガラス窓がついていた。
 その窓には、「ON AIR」と書かれた赤いステッカーが貼ってあった。そのステッカーはわたしがこっそり剥がして、大切に保管している。時々そのステッカーを眺めると、なかなか会えなかった頃の寂しさを思い出して、今の幸せを噛みしめることができるのです。

episode9「怖くない」

「夏らしい夜だね」
 わたしとタマくんはベッドに寝ころび、エアコンの吐き出す冷気を直に浴びながら夏本番の訪れを感じていた。昼間の暑さもさることながら、夜になっても下がらない気温と湿度が不快指数を引き上げる。ギリギリまでエアコンを使わないつもりでいたけれど、ここ数日の寝苦しさに耐えかねてついにエアコンのリモコンに手が伸びてしまったのだ。
 エアコンのカラッと涼しい空気で快適な空間の窓の向こうは、盆地特有の嫌な空気が漂う。これが京都の夏なのだ。引っ越してきた年は夏の暑さと冬の寒さに驚いたけれど、今ではもう慣れた。
「京都らしい夏だね」
 タマくんはベッドからカーテンに手を伸ばす。室外機の風で、家庭菜園の野菜たちの葉が揺れていた。
「京都の夏って、なんかねちっこい感じするよね」
 彼は、カーテンをパタパタさせながら言う。
 確かに、こんな夜遅くまでじめじめと不快な暑さでわたしたちを苦しめているなんて、「ねちっこい」という言葉が合う。
 わたしの職場の先輩に、「ねちっこい」人がいる。わたしたち女性社員にはくどくどと嫌味を垂れ、過去の過ちをねちねちと何度も話題にする。
 わたしは、こころの中では「そんな嫌味ったらしく言わなくてもいいじゃない」と憤慨しているけれど、そんなことは口にはできない。最近では、「なぜ、そんな嫌な言い方しかできないのか」という疑問や怒りよりも、「この人は、そういう言い方しかできない人」という諦めが勝っている。
 それでも、今日の昼間みたいに「怒り」が込み上げてきた時は、こころの中で呪いの呪文を唱えて自己解決する。もちろん、こころの中では少年と手を取り、不思議な力で青く輝く石を握って。
「夏といえば、こっちゃんは京都の怖い話って知ってる?」
「わたしはタマくんほど長く京都に住んでいるわけじゃないから全然知らないし、知りたくもないよ」
 それならば、と彼は妖しい顔をする。サイドボードに置いた照明を、顔の下に引き寄せる。気味の悪い影が彼の顔に現れた。
「やめて、わたし、本当に怖い話がダメなの。ノーセンキューなの」
「それなら、こういうのはどうかな?」
 彼は目を大きく開いて、口角をくいっと上げる。彼が思う、怖い顔をした。
「京都の、怖くない話」
「なにそれ、京都の観光案内?」
「ううん、怖くない話だよ」
 彼は、不気味な顔のまま語り始めた。

   ◇

 僕がバイト先のマスターから聞いた話。そうそう、マスターの深井さんね。
 深井さんがまだ今のお店を開いたばかりの頃だったらしいんだけれど。当時はアルバイトを雇っていなくて、深井さんが一人でお店を切り盛りしていたんだって。
 ある寒い日の夜。深井さんが店を閉めて、帰り支度をしていると、店内で何かが動いたように見えたらしい。視界のすみの方だったから、ちゃんとはわからなかったらしいんだけれど。
 それでね、深井さんは店内をぐると見てみたらしいんだけれど、何もいなくて。人が隠れられるような場所もないから、不審者の類じゃないことはわかったんだって。
 何かが動いたところをじっと見ていたら、今度は厨房の方で物が落ちる音がしたらしい。
 でも、厨房を見ても、人の姿なんてなかった。
 今度は、深井さんのすぐそばで音がした。
 レジカウンターに乗っけてあったショップカードがパラパラと落ちていって、深井さんがレジカウンターを見ると、

   ◇

「仔猫がレジカウンターの上に乗っかっていたんだって」
「怖くないし、それは聞いたことがあるよ」
「あれ、そうだっけ」
「うん、前にタマくんが教えてくれた話だよ。看板猫のセナちゃんの話」
 彼は「そうだっけなあ」と右上の方を見た。それから、彼の黒が左に移動したところで、「閃いた」という顔をした。
「これならどうかな」
 彼は「閃いた」の顔をすぐに妖しい顔に戻して、語り始めた。

   ◇

 これはね、僕がまだ大学の一回生だった頃の話。大学からの帰り道でのことなんだけどね。サークルで帰りが遅くなっちゃって。もう時計は零時を超えていた。そうだなあ、今くらいの時間だよ。
 そんな遅くに、だよ。よせばいいのにさ、僕はね、寄り道をして帰ったんだ。鴨川の土手に降りてね、ぷらぷらと夜風に当たりながら歩いた。あの時の風は随分と湿っていたよ。ちょうど、今日の外みたいだね。顔とか腕とか、むき出しの肌にまとわりつく感じがしたよ。
 その嫌な風がさ、土手の木々を揺らすんだ。
 ざわざわ。ざわざわ。ざわざわ。
 嫌だなあ、嫌だなあ、気持ち悪いなあって思っていたら、後ろから足音がするんだね。土手の砂を踏みしめて歩いて近寄ってくるから、僕は後ろを振り返らずに急ぎ足になったんだけれど、その足音も同じようにスピードをあげてついてくる。
 ざっ、ざっ、ざっ。ざっ、ざっ、ざっ。
 僕はもう、怖くて、ほとんど駆け足になったさ。もちろん、向こうも駆け足になって、次第に僕との距離が詰まっていくのがわかった。
 五メートル。三メートル。一メートル。

   ◇

「がし! って肩を掴まれて」
 こわいじゃん! めっちゃこわいじゃん! めっちゃめっちゃこわいじゃん!
 突然大きくなった彼の声に驚いて、わたしは少しばかり身体が浮いた。あんまり驚いたから、着地したかどうかはわからない。うん、ちゃんと着地している。
「恐る恐る振り返ったら」
 彼は笑いをこらえて必死で「怖い顔」を保っている。わたしの反応が良かったから、彼は喜んでいるのだ。
「深夜のジョギングをしていたランナーさんが、僕の『でっかくなる耳』を拾ってくれていたんだ」
 彼は手品の種明かしをするように、誇らしげな顔をする。
 わたしは、まんまと彼にやられたのだ。話そのものには、お化けの類なんて出てこない。話そのものは、ごく普通のオチがある話だ。(オチとしては、かなり弱いけれど)
 どんな話も、伝え方でずいぶんと変わる。伝え方しだいで、それが面白い話にもできるし、怖い話にもできる。相手を不快にすることだって、元気にすることだってできる。
 他人の言い方で不快にされることはあるけれど、少なくともわたしは、相手を不快にしない伝え方を心がけよう。
「こっちゃん、どう、怖かったでしょ」
「別に。お化けとかじゃないから怖くないよ」
「じゃあ、今度は本当に怖い話をしようか」
 彼は妖しい影を作りながら、声のトーンを落とした。ニヤニヤとしていて、本当に、もう。
 憎たらしい!

   ◇

「タマくん、起きて。ついてきて」
「なあに、こっちゃん。こんな時間に」
 彼は両目をこすりながらふらふらとついて来る。
「ここで待ってて」
 わたしを怖がらせたペナルティ。怖い話を忘れるまでは、夜のお手洗いに付き合ってもらうからね。
 しばらくは、許さない。

episode10「たらちねの」

「こっちゃんよ、僕のプリンは、どこですか。食べたのならば、言ってください」
 突然のかしこまったような、そうでないようなタマくんの尋問。語尾は敬語なのに、「こっちゃんよ」と呼びかけられている。あんまりかしこまっていない。
「タマくん、急に何?」
 彼は、「ん」と唸って、両目で右上を見る。指を折って、何かを数える。よし、と言うと両目が戻ってきた。
「短歌だよ。五と七と五と七・七で、思いのたけを、歌にするのさ」
 彼は、返事をする前に短歌になるように考えていたらしい。
 これはちょっと面白いかも。
「食べました。昨日の晩の風呂上り。大変美味しう、ございましたよ」
 再び、彼の両目が右上を見て、指折り数える。小難しい顔して歌を考えているらしいけれど、そんなたいそうな名歌を生み出しているわけではないんだよ。
「なんだって、僕の楽しみ、食べたのか。プリンよプリン、こんなトコロに」
 彼はわたしのお腹をさすさすとさすり回した。そこにプリンの命がまだ残っているのを確認するように、慈しみに満ちた目をしていた。
 でもね。きみのプリンは、もうもっと下の方だと思うよ。
「大丈夫。埋め合わせならしてあげる。新しいプリン、買ってあげるよ」
「ありがとう。小さいビンの、美味しいの。それじゃあないと僕は許さぬ」
 高いやつを要求してきた。わたしが食べちゃったプリンはどこにでも売っている安いものだったのに。わたしたち二人の中で、瓶入りの美味しいやつといえば、一つしかない。
「祇園まで、買いに行くのは遠いなあ。ここはどうだい、デパ地下のやつ」
 彼は首を振る。
 デパ地下のプリンなら、仕事帰りに大阪で買ってこれるのに。
 わたしは立て続けに詠んでみた。
「あるぱかのプリンじゃないとダメかしら? もっと美味しいやつがあるかも」
 あるぱか、とは祇園にある喫茶店の名前だ。歴史ある花街にある素敵な喫茶店で、一時期は二人で足しげく通っていた。
 そこのプリンが美味しい。持ち帰りもできるから、外出のついでに買って帰ることもあった。
 高級品とそうじゃないものの違いはわからないわたしたちだけれど、美味しいものかどうかはわかる。あるぱかのプリンは、間違いなく美味しい。
 プリンの空き瓶を使って、幾度となく再現を試みてきた。そのたびに、そこそこ美味しいプリンができた。しかし、そのどれもが、あるぱかのプリンには到底及ばない。わたしたちは、手作りの「これはこれで美味しいプリン」を「こういう食べ物」と呼んで食べてきた。
 あるぱかのプリンは、兎にも角にも口当たりの滑らかさがある。クリームのように柔らかいのに、口の中で簡単に溶けてなくなってしまうことはない。しっかりと口の中をプリンで満たしてくれるのだ。きめの細かいプリンの証だとタマくんは言っていた。
「あるぱかのプリンしか僕、許さない。食の恨みを根に持つタイプ」
 彼は断固として譲らない所存とのことです。
 ここは、食べてしまった分の罪滅ぼしに、あるぱかへ行ってこよう。明日は休みだし、忘れないうちに。
「わかったよ。あるぱかのプリン、買ってくる。だから今日は、機嫌直して?」
 ようやく彼はご機嫌が直った顔をした。彼は全部顔に出るからわかりやすいはずなのに、一番大事な部分がいつも見えない気がする。
「疲れたよ、ちょっと僕は休ませて」
 彼から始まった短歌のぶつけ合いは、彼から一方的に終了を宣言された。フローリングにベタっと寝転がって、大きなあくびをした。
 あれ?
 今のタマくんの言葉って。
「今寝ちゃったら、夜寝れないよ?」
 試しに、返してみた。
「平気だよ、目覚ましするし、少しだし」
「どうせ夜まで、起きないくせに」
 タマくんは気付いているのだろうか。きみが自然に五・七・五の上の句を生み出すそばで、わたしが七・七の下の句を返しているのを。
「こっちゃんも、一緒に昼寝しないかい?」
「わたしはしない、寝れなくなるし」
 彼は、そうかあ、とあくびをしながら、とろん、と目を閉じた。彼の身体から力が抜けていくのがわかる。
「タマくん、これ楽しい!」
 わたしは、タマくんの脇腹を掴んで彼を激しく揺さぶった。彼が考えた上の句にわたしが下の句をつける行為が、わたしにとっては面白かった。わたしは、もっとこの遊びがしたくなったのだ。
「どうしたの、こっちゃん、なにさ、どうしたの」
 彼はまどろみの中で突然起こされて、目を真ん丸に開いた。驚きと疑問に満ちた顔。芸能人がドッキリのネタばらしをされた時と同じ顔だと思った。
「きみが上の句、わたしが下を!」
 彼は状況が掴めてないらしい。
「タマくんが作った上の句のあとを、わたしが作って歌を詠もうよ」
 彼の目の色が変わったのがわかった。この目は「それは面白いことを考えたね、こっちゃん」の目なのだ。彼もこの遊びに興味を持ったらしい。
 彼は正座をして小さく「いくよ」と言う。
「たらちねの母のお乳がまた垂れる」
 なんじゃあそりゃ。
 彼の顔を見ると、わたしの下の句を楽しみそうに待っていた。全国の歌人の皆さん、なんかごめんなさい。
 どこかへ向けて謝ってみたけれど、家で二人で言い合っている分には、まあ、いいか。
「また垂れるからナイトブラする」
 タマくんはげらげらと笑った。普段はあんまりしない、ちょっと下品な笑い方をする。彼の笑いのツボは難しい。
「茜さす昼寝が一番心地良い」
「夜寝れないから、寝すぎちゃダメよ?」
 うしし、と彼は笑う。わたしも面白くなって、笑う。
 なんだか、「はじめての共同作業」みたいで楽しいのだ。
 二人で生活していれば、無数の「共同作業」を繰り返してきたけれど、今日の「共同作業」は新鮮で楽しい。この新鮮な心地が「はじめての共同作業」としてくれているのだ。「黒髪の乱る前髪、目にかかる」
「そろそろ切りに行かなきゃかしら」
 彼はうんうん、と腕を組んで満足そうにしていた。本当に、そろそろ髪を切りに行かないとね。
「次はわたしからね」
「よし、こっちゃん、来るんだ」
 ええと、と考える。わたしから、と言ったのに、まだ何も思いついていない。
 部屋の中を見回して、ヒントになりそうな「言葉」を探す。「こころ」「檸檬」「伊豆の踊子」。どれもピンと来ない。「パクチーチップス」「デビルソース」「プレシャスなビャクダンの香り」「五年でマスター簡単ウクレレブック」「京都市家庭ごみ収集用指定袋」。どれもインスピレーションが生まれてこなかった。
「思いつかない」
「なんでもいいんだよ」
 その「なんでも」が思いつかないのだ。
「やっぱり、タマくんが詠んで」
 おっけー、と彼は親指と人差し指で輪っかを作る。
「千早振る、僕は神です、こんにちは」
「わたしは神の、もっと上なの」
 わたしたち二人は、こうでいい。
 彼は行動力があって、積極的で、何かを思いつくのが上手で。わたしには、それは無くて。行動する前にいちいち考えて、消極的で。彼みたいに、ひらめきだって降りてこなくて。
 ただ、物事を彼だけで突っ走らせると、ハラハラすることがある。そんな時、わたしが彼のちょっと後ろを走れれば、彼の手を握ることができる。彼の走るスピードを整えて、安全に、一緒に走っていくことができる。彼がアクセルとハンドルで、わたしはブレーキとシフトレバー。
 わたしたちは人間だ。タマくんにだって得意、不得意があるし、それはもちろん、わたしにだってある。
 二人で暮らす中で、お互いが得意な部分でお互いを補い合っていけばいい。それこそが支え合うということ。
 ちなみに、複数の人物によって詠まれた歌を「連歌」というらしい。二人の人物が上の句と下の句に分かれて詠んだ歌は「短連歌」と呼ばれるらしく、昔の人々の嗜みだったそうだ。一首詠む中にも、人と人との相性が見え隠れしていたに違いない。タマくんとわたしのように、補い合って支え合える相手を見つけるのも大変だっただろうな。

   ◇

 たっぷり短歌で遊んで、そろそろわたしがプリンのことを忘れた頃。
「もしかして、プリンのことを、忘れてる?」
「忘れてました、明日買います」
 どちらかが忘れても、どちらかが覚えている。これも立派な共同作業。

episode11「ナイトサファリ」

「タマくん、本当にこっちであってるよね?」
「大丈夫、ここは来たことがあるよ」
 「わ」ナンバーのハイビームを頼りに、わたしたちは峠道を進んだ。前にも後ろにも、車はいない。見えるのは、闇と、次から次へと現れるカーブの連続。
 ドライバーは、タマくん。三つ年下のわたしのパートナー。ちなみに、わたしは免許を持っていない。
 こう見えても、わたしたちは今、京都市内にいる。
 京都市、と聞いてどのようなイメージをお持ちでしょうか?
 京都タワー、神社仏閣、河原町界隈の雑踏、溢れる観光客。皆さんが持つ京都市のイメージからかけ離れた場所、京都市北部の山奥。
 わたしたちは、元々は天狗伝説で有名な鞍馬を目指してナイトドライブをしていた。タマくんが行きたいと言ったから。
 このレンタカーは、本当は明日使うはずだった。二人のお休みが合ったので、遠出して温泉でも入ろうと言っていたのだ。
 それでも、ドライブが楽しみでうずうずと落ち着きがなかったタマくんと、楽しみ過ぎて逆に落ち着いていたわたしは、夕飯後にナイトドライブに出た。
 彼が「鞍馬に行きたい」と言えば、「こんな夜中に鞍馬は怖いんじゃないか」という気持ちと「彼が言うなら、きっと面白いことがあるはずだ」という二つの気持ちが湧いて出る。以前なら、前者が圧勝だったけれど、最近では後者の勝率が上昇してきていた。
 そんなこんなで、わたしたちは鴨川から賀茂川を遡上するように鞍馬を目指していたはずだったのだけれど、いつになっても鞍馬は現れないし、ライトに照らされた木の影が人に見えるし、運転するタマくんに時々見惚れちゃうし、飛び出してきたタヌキを轢きそうになってABSが作動するし、本格的に人気がない山道が続くし。
 深い山に入ってから、タマくんは口をツンととがらせて、じっと闇のカーブを凝視しながら運転している。運転に集中している証。
 彼は物事に集中すると、唇を突き出してしまう癖がある。なんだか、小さい子供みたいに見える。本人は気が付いていないみたいだけれど、教えると直してしまいそうなので、言わない。わたしだけのお楽しみ。
 わたしたちが出町柳を出発してから、どれくらいの時間が経ったのかわからない。十五分くらいにも感じるし、一時間も二時間も経ったようにも思える。
 長いワインディングロードを抜け、少し開けた場所に出た。駐車場のようなものもあるし、バス停もある。
「ありゃ、道、間違えていたよ」
「タマくんは、ここがどこだかわかるの?」
「ここは雲ケ畑だねえ」
 京都市北区雲ケ畑(くもがはた、と読みます)。
 タマくんが言うには、この先にある志明院というお寺が素敵なのだそうだ。ほぼほぼ北区の最奥地で、レンタカーで進むならここが限界とのことだった。
 タマくんが突然、車を降りた。扉が開いた瞬間、夜虫たちの鳴き声と川のせせらぎだけだ聞こえた。
 車に残っても、外に出ても怖い。タマくんのバカ、と思いながらわたしも車を降りた。
 真っ先に目に飛び込んだのは「熊出没注意」の看板だった。
「タマくん、熊出るって書いてあるから、もうやめようよ」
「そうだね、ぼくが生まれて初めて野生の熊を見たのはこの先だったよ」
 ねえ、タマくん、きみはなんともなさそうに言うけれど、それってとても怖いことなんじゃないかな?
 そんな風に言ってやりたいけれど、闇と野生動物への恐怖で無言になって、彼の後ろから離れられずにいた。
「こっちゃん、あれ見て」
 彼が闇の中を指さす。目を凝らしても、何も見えない。何が見えるのか聞こうと思ったところで、何かがうなじをかすめた。
「ひゃっ」
 わたしが悲鳴を上げると、彼はおかしそうにケタケタと笑う。
 あんまりに悔しくて、腹立たしいので、彼のふざけた表情筋を両手で摘まんで、ぐりぐりした。それでも彼のふざけた笑いは止まらなかった。
 わたし、本当に怖いんだから。
「もう帰ろう」
 そう言って彼の服の裾を掴んだところで、彼が再び何かを指さした。
「その手にはもうかかりません。帰ろうってば」
「こっちゃん、ほら、あれ。こっち見てる」
 突然、彼が真剣な声になった。
「本当に怖いからやめて」
「本当に、こっち見てるって」
 あんまりに彼が押し殺した声で主張するので、指さす先を見てみた。
 ほんの数十メートル先にある茂みの中。
 二つの光る点。
 あれって……。
「急に動いたら、向こうも驚いて襲ってくるかもしれない」
 タマくんは二つの点から目を逸らさずにそう言った。
「ねえ、あれ、こっち見てるよ」
 姿や形はわからないけれど、光る二つの点は、じっとこちらの様子を伺っているように見えた。
「けっこう大きいかもしれない」
「こっちに向かって来てないかしら」
「来てるね」
「けっこう大きくない?」
「熊かもしれない」
「熊? タマくん、早く逃げようよ」
 わたしは一層強く、彼のシャツの裾を引っ張った。
 熊に襲われる、ということがどんなことなのかはよくわからない。頭からガリガリと食べられるとか、鋭い爪でザクザクに八つ裂きにされるとか、巨体でガツンと突進されるとか、痛そうなイメージが脳内を埋め尽くした。
 ただ怖くて、この場から去りたい。
「急に動いたりなんかしたら、驚かせて襲われるかもしれない」
「じゃあどうしたらいいの」
「沈着冷静に。万が一の時は、ぼくがこっちゃんを守るから」
 心臓が高鳴った。気がした。
 これが吊り橋効果というやつですな、などと考える余裕が生まれてくる。彼の言葉には魔法の力。
「わたしを守ってきみが死んじゃっても、わたし免許持ってないから帰れないよ」
「帰る前に警察とか消防とか呼んで欲しいな、ぼくは」
 先方の二つの光る点がまた少し近づいて来たところで、わたしたち二人は異変に気付いた。思っていたより細いし、耳はピンとしているし、角のようなものも見える。
「タマくん、あれは本当に熊かな」
「いや、やつはきっと熊だ」
「でも、ほら、角生えてるし、顔がなんかシュッとしているよ」
 今一度、目を凝らしたタマくん。険しかった目に、笑いが戻ってきた。
「あっ、シカだ!」
「やっぱり、シカだったんだね」
「シカでした」
 よく見ると、周囲にも無数のシカの目が光っていた。
 それはそれで怖くて、わたしたちはそそくさと車に戻った。

   ◇

 来た道を引き返して、市原から貴船を抜け、ようやく叡山電車の鞍馬駅に到着した。
 車から降りると、涼やかな風鈴の音が無数に聞こえた。鞍馬駅構内にたくさん吊るされた風鈴だ。
 この音だけで、夏の暑さはどこへ遠のいていく。軽やかな音色を聞きながら、目をつむる。大きく息を吸い込むと、夏の湿った生ぬるい空気と、秋の近づきを告げる軽い空気がまじりあって、肺が満たされていく。
 再び目を開くと、鞍馬駅の照明が眩しい。
「これのために連れてきてくれたの?」
 彼は少し誇らしげに頷く。
 風になびく風鈴の音に混じって、重たげな轟音が響いた。叡山電車の終電が出発したのだ。
 風鈴に見送られて闇に消える叡山電車は、まるで別の世界へ旅立ったようにも見えた。
「次は電車で来てみようよ」
「そうね、そうすれば道も間違えない」

episode12「すきなもの」

「もう、あと一年はあの人混みを見たくないなあ」
 玄関で靴擦れをさすりながら言ったわたしの言葉に、タマくんは無言で頷いた。彼はわたしより三つ年下のパートナー。
 わたしたちは、人がごった返している四条烏丸交差点から這い出すように逃げ帰ってきた。「こんなに人を詰め込んで大丈夫なのかな」と不安になっている毎朝の通勤電車なんて、比にならない。祇園祭の催事の一つ、宵山の人出は十万人とも二十万人ともいわれている。
 普段、ちょっとした人混みでも手を繋ぎたがるタマくんが、今日はあの混雑の中で手を繋ごうとしなかった。それでも二人そろって帰って来れた。あとをついて歩くわたしのたゆまぬ努力を、きみは気付いていますか?
 帰宅すると、彼は大切そうに抱えたビニール巾着の置き場所に困って辺りを見回した。ここで良いかと頷いて、冷蔵庫のマグネットフックに巾着を吊るす。
 蛍光灯の明かりがビニールの表面で反射して、中の水が煌めく。少しでも見る角度を変えると、水が反射して鏡のようだ。巾着のしわが鏡を歪ませて、歪みを赤いひらひらが通り過ぎた。SFで描かれる時空の切れ目は、きっとこんな風に見えている。
「タマくんが昔使っていた水槽なら、洗面台の下にしまってあるよ」
 彼は返事もせずにバタバタと洗面所へ。
 すぐに嬉しそうな顔をして戻って来る。水槽を大きくなった我が子のように抱きかかえている。
「こっちゃん、靴棚の上のものをどかして」
 わたしは彼に言われるまま、靴棚に乗せていた鍵、シャチハタ、折り畳み傘をどかした。この撤去されたものたちは、どこに置こうかという考えは、彼にはたぶんない。
 整地された靴棚の上に、彼は水槽を乗せる。プラスチック製の軽いものなのに、随分と重たそうに持っていた。
「ここを金魚たちの部屋にします」
 彼は片手を挙げて高らかに宣言した。わたしも片手を挙げて「おー」と返してみるけれど、宵山で人酔いして休みたい気持ちもあった。
 彼はたびたび、わたしを置いてきぼりにされる。彼のスイッチが入ると、彼は突き進んでいく。一緒に楽しんでいるのか、彼がひとりで楽しんでいるのかわからなくなる。
「まずは、水槽を洗います」
 宣言して、水槽を再び洗面所へ持って行く。シャーっと水音がする。けっこうな勢いだから、まわりに飛び散っていそうだなと思っていたところで、タマくんの声が響いた。
「こっちゃん、ポンプの電源が届くか見てみて」
 ポンプ、ポンプ、ポンポンポンプと繰り返しながら、電源ケーブルを伸ばす。微妙に届かない。強引に差し込んでみたら、靴棚から本体が落ちてきた。危うくキャッチで、セーフ。
「ダメ、届かないよ」
「なんだって!」
 彼は駆け出しの舞台俳優のように大げさな声をあげて、様子を見に来た。ああ、手から水を滴らせて床が濡れているじゃない。
「あと十センチくらい」
「延長コードしかないね」
「長いやつしかないよ?」
 うーん、と考え込む。若い顔を無理に歪ませて、真剣に悩んでいるように見えるけど、たぶんそんなに考えていないと思う。大人の真似をする子供のようだった。彼は時々、二十六歳の成人男性「タマくん」から五歳の少年「タマくん」になる。
「長いやつ、へびのとぐろみたいに巻いて使おうか」
「それなら、わたしこっちやっとくね」
 わたしが二メートルの延長コードをモールで綺麗に束ねたところで、タマくんが水槽を抱えて戻ってきた。砂利が敷かれて、水も入っている。彼が一歩進むごとに水が大きく揺れ、ふちでしぶきを上げる。
 もしこぼれたら、その時は、下の階の人ごめんなさい。
「こっちゃん、どいてどいて」
 慌てて一歩下がる。でん、と靴棚の上に水槽が置かれた。
「もう金魚入れるの?」
「まだだよ、水道水は魚には毒だからね、塩素を抜いたりポンプで循環させたりしないと」
 このあたりのことは、わたしにはわからない。彼に任せて、わたしは金魚たちを眺めた。
「きみたち、良かったね。タマくんはちゃんとした部屋を作ってくれているよ」
 ぶいん、という音が響き始めた。循環ポンプの電源を入れたのだ。狭い室内にはずいぶんと大きい音に感じられた。
 カルキ抜き液、バクテリア、といった液体をちょろちょろと入れる。
 水槽をせっせと準備していく彼の横顔は、真剣そうなのにちょっと口元が緩んでいる。こういうのが好きなんだとすぐにわかる。わたしはその表情が好きだってこと、きみは気付いているのかな。
 多国籍雑貨店に置かれている不思議な雑貨、顔のように見えるものばかりの写真集なんかを見ながら「面白いね」って笑う彼。京都市役所のそばにあるベーカリーの前やコインランドリー、二条のスパイスカレー店の前などを通るときの「いい匂い」って目をつぶる彼。空から突然舞い降りたトンビに驚く彼、わたしにちょっといじわるした時のいたずらっぽい笑顔。
 そして、生き物を慈しむ彼の優しい眼差し。

 わたしからタマくんへ「好き」と伝えたことはなかった。わたしたちの関係の始まり方も「好きです、付き合ってください」「はい、よろしくお願いします」じゃなかったこともあって、言っていいものかどうかもわからなかった。もちろん、タマくんがわたしのことをどう思っているのかわからない。好きって言われることもない。
 手を繋いだり、口づけをしたり、身体を重ねることはあっても、その言葉だけはなかった。
 たまには自分から言ってみようかな。

 タマくんは一通りの準備を終え、ビニール巾着ごと金魚たちを水槽に入れた。
「金魚くんたち、もう少し待っててね。じわじわと快適な温度になるはずだから」
 彼は靴棚にもたれながら金魚たちに話しかけている。
 その目には、小さき命に対する優しさが満ちていた。父親が我が子に向ける目は、きっとああに違いない。その柔らかな目元を、いつまでも見ていられると思った。好きな物へ突き進む時とは少し違っているけど、どちらもわたしには甲乙つけがたい。
 彼が好きな物へ突き進んでいる時は、わたしはちょっと(いや、かなり)振り回されている感じがある。振り回されたあとに、あんなに嬉しそうにしていたら、まあいいかなってなってしまう。今のところそれでいいと思ってもいる。
 今日も楽しそうな顔も嬉しそうな顔も見れた。優しい眼差しで金魚を慈しむ姿も見ている。今日はもう一つ、わたしが好きな彼の表情を見てみようかな。
「タマくん?」
 彼はたいそう幸せそうな顔でこちらを向いた。
 わたしは後ろに手を組んで、少しかしこまった。自然と上目遣いになっちゃうし、足元がもじもじしてしまう。
「わたしはタマくんの、そういうとこ好きだよ」
 彼は一瞬、驚いたあと、もじもじと照れくさそうな顔をした。
 
 この顔が可愛くて好き。

episode13「おくりもの」

「ねえタマくん、もう寝ちゃいそうな顔だけれど、いいの?」
 タマくんは座椅子に深くもたれ、やや滑り落ち気味になっている。普段は奥二重の両目が、眠さではっきりとした二重になっている姿がたまらない。三つ年下の、わたしのパートナー。
 冷たいカフェオレを飲みながら彼のトロンとした顔を見ていると、こちらまで落ち着いた気持ちになって、眠気が伝播してきそう。
「うーん、なんだい、こっちゃん。僕は起きているよ、起きているんだよ~」
「もうふにゃふにゃな喋り方をしているよ。いいのかな、今日はきみの好きなコメディドラマがやる日でしょ?」
 彼は両手でぐりぐりと目をこする。押し上げられた眼鏡は、彼のぐりぐりに合わせて上下していた。
 こうなったら彼はそのまま眠りに墜ちていく一方なのだけれど、まだ寝かせてしまうわけにはいかない。
 あのまま寝たら眼鏡のフレームは歪んじゃいそうだし、座椅子で寝たら身体が痛くなっちゃうだろうし、虫歯になって「歯医者に行きたくない」と子供みたいなことを言うのは目に見えているし、他にも寝かせてはいけない理由がある。
「ほら、タマくん。あと五分で始まるってコマーシャルしているし、起きていようよ」
 こうしていると、彼の母親になってしまったように見えるのではないかと思うことがある。彼を甘やかしているのは間違いないのだけれど、それ以上にわたしが彼に頼って、甘やかされている。だからこそ、わたしたち二人の関係性の均衡が保たれているのかもしれない。
 いつもだったら、座椅子で寝てしまったタマくんにブランケットをかけてあげている。夜な夜な起きた彼が、うにうにとベッドに潜り込んでくる時はちょっと可愛く見える。
 けれど、今は絶対に寝かしてはならないのです。
 わたしにだって、彼を起こすための作戦ならいくつかある。こうして二人で生活していれば、自然と得られるもの。
「起きないと、カフェオレで冷たくなったわたしの手でびっくりさせちゃうよ」
 と言うそばから、わたしはキンキンに冷えた両手で彼の両頬を挟んだ。
「うわあ」
 彼の驚いた顔は、わたしの好みの一つ。人気アニメ映画に登場する猫型のバスのように目を開くけれど、再びまどろみに墜ちていった。
 あと三分。
 あと三分すれば、日付が変わって、彼の好きなコメディドラマが始まる。その前になんとしても彼を起こさないと。
 おててキンキン作戦で敗戦を喫したわたしは、次の作戦に移った。次は、タマくん上陸作戦と名付けることにします。
「でーん!」
 わたしは彼の膝の上にまたがった。ここから、本丸へ一気に攻め込む。
 すかさず両手を彼の脇腹に潜り込ませる。あとはとっても簡単。小さい子どもでもできる、優しさのある攻撃。
「こちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょ」
「やめて、やめて、こちょこちょはナシ、ずっちーです」
 彼はもたれた座椅子から起き上がって、わたしとの攻防を開始した。これは効果がバツグンだ。
 あっという間にわたしの両手は、彼に取り押さえられてしまった。思っている以上に力が強くて、そういう所はやっぱり大人の男性だということを実感させられる。
「ずっちくないよ、きみが起きないのがいけない」
「こっちゃんも一緒に寝たらいいんだよ~」
 彼はそのままわたしを引き寄せて、座椅子に持たれた。わたしも彼の胸元にそのまま引きずりこまれてしまった。
 いつも嗅いでいる彼の匂いに包まれる。おんなじ洗剤になってから久しいのに、自分とは全然違う香りがしている。いつも嗅いでいたって、脈が速くなる。
 それなのに、安心もして、眠気に誘われる。
 まったく真逆のことが、わたしの中でいっぺんに起こっていて、なんか、もう、大渋滞。
 だけれど、それに負けちゃあいけない。
「タマくん、だめ。ちゃんと起きて。眼鏡曲がっちゃうし、風邪ひいちゃうし、身体バキバキのメキメキになるし、虫歯になっちゃうし、起きる理由はたくさんあるよ」
 わたしは、意を決して彼の身体を揺さぶった。首から上がカクン、カクン、と揺れに委ねるように振れる。
「わかったよ、起きるよ、起きる。テレビの画面が見えないから、ちょっとどいてくれないかい」
 彼が上半身を起こしたところで、コメディドラマのオープニングが流れ始めた。
 日付が変わったことを知らせる音楽。
「ねえタマくん」
「なんだい、こっちゃん、見えないよ」
 わたしは忍ばせておいた小包を彼に差し出す。
 彼は二重になったまま、その目を大きく見開いた。
「お誕生日おめでとう。二十七歳。またひとつ歳を重ねたね」
「ありがとう、ありがとうこっちゃん、ありがとう」
 彼は手のひらに収まる小さな小包を両手で大事そうに持って、いろんな角度からそれを眺めた。時々、口元や目元が緩む。軽く振ってみて「なんだろう?」という顔をしてから、満面の笑みでわたしを見た。
「あけていい? ねえ、あけていい?」
「開けていいよ、きみに贈ったものだから」
 彼は包みの裏から丁寧にシールをはがして、包装紙の折り目を一つずつ順を追って開いていく。一つの折り目を開くごとに、中からパッケージが見え始めて、見える量と比例するように彼の笑顔も増していった。
「なんだ、このかっちょいいやつは!」
 少年レベルの語彙力になってしまったタマくんは、パッケージを開封し、それを親指と人差し指と中指で握った。
「きみ、すぐに文房具を失くすから。きみ好みのペンなら、大切にしてくれるかなって思って」
 わたしが言い終わる前に、彼はインクカートリッジをセットして、何か書けるものを探し始めた。わたしが膝にまたがったままなので、彼の手の届く範囲では紙の類が見つからない。
 わたしが彼の膝の上から戦略撤退をすると、電光石火のごとく部屋中を探し回って、見つけてきた便箋に試し書きを始めた。
「書き心地は、どうかな。なんて書いているの?」
「書き心地も、持った時の質感も、見た目のカッチョ良さも、僕好みのど真ん中だよ」
 そういう彼の手元の便箋を覗き込むと、「こっちゃん、ありがとう」と書かれていた。

 贈り物に喜ぶ彼の姿はわたし好みのど真ん中で、毎年の夏にそれが見られるわたしは幸せ者なのかもしれない。

   ◇

「ねえ、こっちゃん。替えインクって、どれを買ったらいいかわかる?」
「え、もうインク使い切ったの? まだ一週間も経っていないよ?」
 ささやかないたずらが見つかってしまった少年のような顔も、わたしの好みのど真ん中です。

episode14「男と女とタマくんと」

「タマくん、なんかちょっと丸くなってきたよね」
 タマくんは、ちょっと恥ずかしそうに顎や頬を手で隠した。食べても太れないタイプの彼が、確実にふっくらとしてきた。
「やだ、太っちゃったわ、幸せ太りかしら」
「その声は気持ち悪いからやめて」
 気持ち悪い、と言いながらも、彼が女の子の真似をするのはいつ見ても笑ってしまう。時々、本物の女の子以上に女の子な時もある。そんな時、悔さもあるのになぜか笑えてしまうのは、わたしが女の子ぽくないということかしら。
 彼は自分の身体をぐるぐると見まわして、ふにふに、とお腹や背中を摘まんだ。ふにふに、とわたしも摘まませてもらう。今までそこになかったものが、確かにあった。
「これは、皮下脂肪だよ、こっちゃん」
「知ってるよ、だいぶついたね」
 わたしは、彼の皮下脂肪をつまんだままプルプル震わせてみるけれど、そこまでではなかった。ただただ皮が引っ張られて、痛いのだそうだ。
「僕、こんな身体、恥ずかしいわ。お嫁にいけない」
「大丈夫だよ、きみはわたしが嫁にもらうから」
「いやよ、僕はこっちゃんのお嫁さんになる前に、ちゃんと痩せたいの」
 すると、すぐに彼は服を脱ぎ、肌着とボクサーパンツ姿になった。
 まさか、今からダイエット始めるつもりなんじゃないよね、タマくん。
「このお肉たちを、バキバキなマッソウにする。こっちゃん、僕の足抑えて」
 やっぱり。
 彼はフローリングの上で仰向けになり、腹筋運動を始めた。ツウィストも入れて、バディのサイドにあるマッソゥもパンプアップしてバキバキバッキンガムだって言っている。
「タマくん、学生時代って、なんかやってたんだっけ」
 と聞いたところで、「しまったなあ」と思った。彼は学生時代のことをあんまり話したがらないし、それがわかっているから、わたしだって触れないようにしてきた。それをごく自然な流れで聞いてしまった。答えてくれるだろうか。
「運動部、いっち、じゃない、にい、けれど、さん、トレーニングは、よん、してたよ、ご」
 これはいつもの、詳しいところまで教えてくれないやつだなあと思った。無理に聞くのはやっぱりやめよう。
「そうなんだ、ちゃんと鍛えていたんだね」
「そう、なな、パイロット、はち、だった、きゅう、からね、じゅう、ふう、終わり」
「え、パイロットって何、どういうこと、医学部でしょ」
 またやってしまった。彼は医学部を三回生で中退してしまった理由なども語らないし、そこに何かしらの負い目とか暗い過去があるはずなのに。
「言ってなかったっけ、琵琶湖で人力飛行機飛ばす大会あるでしょ、あれに出てたんだよ」
 また一つ、彼についての初耳。
「それって、『鳥人類チャンピオンシップ』のことだよね」
「そうそう、アレだよ」
 それならわたしも知っている。
 鳥人類チャンピオンシップは、大学生が足漕ぎの人力飛行機を製作して、その飛距離を競う大会だ。毎年、夏にテレビ放送がされていて、なんとなく見ていた。
 わたしの母校だって出場していたし、それなりに上位に入賞したことだってあるらしい。キャンパス内で人力飛行機の製作やテストをしている姿は、青春そのものだった。
「知ってる、わたしの大学も出てたもん」
「そうそう、こっちゃんのところの『Team Tori-human Trial 』は二人乗りの珍しい飛行機だったよね」
 わたしより詳しい。自分の大学の人力飛行機チームがどんな飛行機で、どんなサークル名なのかなんて、気にしたことがなかった。でも、なんとなく『TTT』みたいな呼び名だった覚えがある。
「タマくんが、飛んだの?」
「そうだよ」
 ということは……。

   ◇

――ただ今のプラットホーム上は――

 ぽち。

 ……。

 ぽち。

――京都大学『ライティングスターズ』です――

 ぽち。

 ……。

 ぽち。

――「E、R、A、プロペラ、レフト、ライト、無線、GPS、良し。オールグリーン……いくぞ!」

 ぽち。

「ねえ、タマくん、わたしが再生ボタン押すそばから停止ボタン押すのやめて」
「だって、見られたくないんだもん」
 変なタイミングで動画を止めたから、画面の中のタマくんは絶叫の迫力ある顔になってしまった。
 画面の中の彼が着るピタッとしたサイクルウェアからは筋肉の起伏が浮かんで見える。胸板も厚いし、太ももだってパンパン。こんがり焼けて、カレーパンみたいな色をしている。ヘルメットの中の髪はゴールデンレトリーバーのようだ。何より、今以上にあどけなさがあった。
 動画投稿サイトにアップされた当時の若々しい姿を見られて恥ずかしかった彼は、パソコンの停止ボタンに指をかけて無言の抵抗をする。わたしが再生するや、すぐに停止ボタンを押す。
「タマくん、それは無駄な抵抗なの。大人しく座っていて」
「いやだ」
「でも、この状態で動画が止まっているのは、恥ずかしいんじゃないかな」
 彼はまじまじと画面を見た。大絶叫の彼と、ふっくら丸みを帯びた彼が向かい合わせになる。鏡の向こうにパラレルワールドがあれば、きっとこんな感じ。
 そうして彼は、大人しく指をどけた。
「こっちゃんの好きにしたらいいさ」
「素直なことはいいことだよ。さ、見ようよ」
 僕はみないよ、と彼はそっぽを向いた。ふてくされている子供みたい。頬をつんつんして、ぺちぺちして、放っておくことにした。

――「いくぞ、さん、に、いち、テイクオフ!」

 彼が漕ぐ飛行機が飛び立つ。真っ逆さまに水面へ落ちるかと思ったら、ぐい、と一気に浮上した。
 思わず、おお、と声が出てしまう。今までは、何となく見流していたけれど、よく見ると面白い。あのカラフルな発射台(あとからタマくんに、プラットホームという名前だと教えてもらいました)がこんなに高いなんて気づいていなかったし、離陸シーンを見てこんなにハラハラしたことはなかった。

――ライティングスターズ、綺麗な離陸ですね――

 飛行機の後姿を見送る。どんどん小さくなる。ふんわり飛んでいたイメージだけど、けっこう速そうだ。
 おそろいのシャツに身を包んだ仲間たちの声援が飛ぶ。すでに泣いてしまっている子もいる。これだけの想いを背負って、タマくんは飛んでいたのだ

――「よっちゃん、頑張れ、一キロ超えたよ」

 追従するエンジンボートから女子部員が無線で連絡する。部長だと紹介された。彼女も冷静に通信しているように見えて、きっとフライトの喜びとか、記録への期待、それとトラブルへの恐れ、そんなものを背負ってギリギリのところで保っているに違いない。
 琵琶湖の航空写真が映し出される。タマくんの飛行機は、大きく蛇行していた。
「タマくん、大変だよ、すっごい曲がってきてる」
「そうだよ、覚えているよ」
 タマくんはちらちらと画面を見始めた。小さな声で「部長、若いなあ」と呟いている。
――「はあ、はあ、高度が上がらねえ。くっそ、僕たちライティングスターズだろ、みんなで作ったケストレル号だろ」

 彼はかすれた声を綴りながら、苦しみに悶える顔をする。こんな状況でも一人称が「僕」で可愛いな、と思ったのはタマくんには内緒にしておこう。
 蛇行しながらもなんとか竹生島方面へ進み、すでに十五キロ、時間にして一時間が経過していた。苦しみながらも漕ぎ続けていた彼に異常が出始めたのは、その頃だった。

――「足がつった」
――「よっちゃん、また高度が下がっています。ピッチ乱れています」
――「足が、動かねえ、痛い、痛い。部長、聞こえるか、足がつった」
――「よっちゃん、聞こえてる? ピッチ、上げて」
――「部長の声が聞こえねえ。部長、俺の声が聞こえるか」
――「あれ、よっちゃんの声が聞こえない。よっちゃん、聞こえますか」

 彼は足がつってしまったうえ、無線機のトラブルで部長の声が届かなくなってしまった。孤独の戦いを強いられることになるのだろう。わたしには知る由のない、孤独の戦い。あの狭い空間の中で。
 タマくんの表情も、言葉使いも、纏っているオーラも、全てが今と違っていた。今の中性的な面影なんて一切なく、男らしさ、というものがあった。どっちのタマくんも、甲乙つけがたいって思うのは、わたしだけでしょうか。
 トラブルがあると、会場は盛り上がる。当の本人たちにはたまったもんじゃないだろうけれど、感動やドラマを生むのは、トラブルなのだ。カメラが応援席や発射台のチームメイトたちを映し出す。皆、トラブルと聞いて、ボロボロと涙を流していた。

 大丈夫、タマくんはまだ墜ちちゃいないよ。

――「痛い、痛い、うお、こんなのに負けるか、負けてたまるか、俺たちは、ライティングスターズなんだよ、プラホに還るんだよ、俺たちのケストレル号をプラホに還すんだよ!」

「タマくん、頑張れ、頑張れ」
 わたしは声を出して応援していた。感極まって、涙も出ていた。当時のタマくんに届くわけないのに、わたしは彼を応援せずにいられなかった。手にも肩にも力が入って、汗をかくほど熱中していた。

――「俺は、コクピットは、一人だけど、一人じゃねえんだ、みんながプラホで待ってんだ!」

 タマくんが自らを鼓舞する。その言葉の一つ一つが、再びわたしの涙を誘う。わたしが経験したことがない景色がある。

――「部長! 竹生島だ! 風はどっちだ! 教えてくれ!」

 タマくんが叫ぶ。無線が使えない今、叫ぶしかなかった。

――「よっちゃん! 旋回開始! 西風!」

 部長の女の子も無線を使わずに叫ぶ。透明フィルム製の窓越しに、彼のサムズアップが見えた。

――ライティングスターズ、旋回ポイントに到着しました――

――「俺のフライトは、まだ折り返しなんだ、みんなのところにこいつを、ケストレル号を還してやるんだ」

 彼が手元の小さなレバーを操作して、飛行機を旋回させる。大きく傾いて、翼がしなる。彼の乗った飛行機は、小さな円弧を描いて、ぐいぐいと曲がっていく。
 機首が完全に回り切る瞬間。
 鈍い音がした。今までに聞いたことがない、わたしが知らない不気味な音。
 その音と同時に、左の翼が根元からへし折れた。まるで、スティック状のお菓子のようにあっけなく折れて、黒い骨組みが無残にむき出しになった。
 彼の乗った飛行機は、一気に水面に墜ちた。操縦席内の映像も、勢いのある水に満たされる。

――あーっと、ライティングスターズ、主翼が折れました――

 会場から悲鳴が上がる。チームメイトは悲鳴も出ないほど、モニターを凝視していた。うずくまって画面を見れない子もいた。
 上空からの映像では、無残な姿となってしまった『飛行機だったもの』がポツンと映し出されていた。
「タマくん、上がってきて」
「大丈夫だよ、ライフジャケットあるし、ダイバーのボートがずっと並走しているから」
 タマくんは、こっちを見ずに言う。そんなに恥ずかしいものなのかな。わたしにはとても輝いていて、羨ましくも見えているのに。

 次に移された映像は、タマくんがボートに引き摺りあげられて、部長と抱き合っているシーンだった。二人は泣いて、泣いて、小さく震えて、また泣いた。

――「部長、ごめんよ、ごめん、ケストレル号をみんなのところに還してあげられなかった。ごめん」
――「よっちゃんのせいじゃないよ、機体が壊れてごめんね、もっとよっちゃんを飛ばしてあげたかったのに」
――「違うんだ、僕、旋回で焦って、強引に舵を切ったんだ。だから、折れた。本当にごめん、僕の操縦のせいだ」
――「自分を責めるのはやめて、よっちゃんは頑張ったんだよ。みんなの期待を全部背負って、ここまで飛ばしてくれて、ありがとう。よっちゃんがパイロットで良かったよ」

 二人はもう一度、強く抱き合った。男女という組み合わせなのに、嫉妬心なんてない。性別を超えた、友情や団結があった。眩しかった。
 わたしは、何個目かわからないティッシュの団子をごみ箱に放る。拭っても拭っても涙は止まらないし、かんでもかんでも鼻水は治まらない。
「タマくん、頑張ったんだね」
「うん……こっちゃんに、僕と部長がこうしているの見られたくなかった」

 なんだ、そっちか!

「こんなに綺麗な青春見せつけられて、わたしが嫉妬すると思ったのね。違うんだよ、下心で抱き合っていたら嫌だけど、男女を越えたチームメイトの絆に感動しているんだよ」
 きみは偉いよ、と。機体の破損をチームメイトのせいにしない。ちゃんと責任を果たしたってことだよ。
 男だから、女だから、異性だから。そういうことじゃない。同じ目標のために切磋琢磨する仲間の性別なんて、関係ない。性別を超えた友情とか、チームメイトの絆は、わたしはあると思っている。
 彼は、ふうっと息をはいて、「それなら良かった」と伸びをする。
「ずっとね、こっちゃんが僕ら二人の映像を見たらどう思うか心配していたんだよ」

 かわいいやつめ。

   ◇

「そういえば、タマくん、途中から『俺』って言ってなかった?」
「言ってないよ」
「俺って言うタマくんも良いと思うよ。俺って、言ってみて」
「いやだよ」
 タマくんの『俺』を、いつか生で聞きたいっていう新たな楽しみも生まれた、深夜一時の1DK。

episode15「ぽろろん」

「おかえりなさ~い」
 タマくんは、わたしの「ただいま」に対して、やわらかなメロディで答えた。彼の手に握られたウクレレが優しい音色を奏でる。
 彼はわたしより三つ年下のパートナー。わたしの方が誕生日が遅いので、今は二つ年下の、ちょっと頼りないのに、頼れる存在。
「それ、久しぶりに出してきたの?」
「そうだよ~」
 彼は再び、ぽろろんと伸びやかな音を出す。職場での荒波に揉まれて殺伐とした気持ちになっていたわたしのこころに心地よい。
 彼はたびたび、新京極にある行きつけの多国籍雑貨店「そノラン」にて風変わりなものを買ってくる。プレシャスなビャクダンの香りがするお香、大手輸入食品店でも見たことないような外国のレトルト食品、何かしらの動物の骨で作った置物など。この部屋のあちこちで、わたしが長年愛用しているインテリアとアンマッチな世界観を醸す。
 以前、二人でその店を訪れた際に彼はマンドリンを欲しがっていた。だけど、マンドリンは結構な値が張る。彼のアルバイト代では少し厳しい。生活費の大部分を、大阪の企業で受付嬢として勤めるわたしが賄っていることもあり、彼はそれを気にして買わずにいた。
 その次の日には彼はウクレレを買い、併せて「五年でマスター簡単ウクレレブック」という書籍も手に入れていた。
「こっちゃんは、お疲れだね~」
 彼はぽろろんと鳴らし、わたしに「お疲れさま~」と労わる言葉をくれた。
 わたしはソファに、どさっと沈み、嬉しそうにウクレレを鳴らす彼を見る。
 音痴な彼の音痴なメロディが愛おしい。歌がうまいことを鼻にかける男性なんかより、彼みたいな愛くるしさがある男の子のほうがいい、絶対に。
「なんだか、南国みたいだね」
「ようこそ~、ごゆっくりどうぞ~。夕飯はぼくが作るね~」
 穏やかな空気感がわたしを癒していく。本物の南国リゾートもいいけれど、こうして彼が作り出す落ち着いた時間が、わたしにとって一番の癒しなのだ。
 職場でのことがじんわりと解けていく。
 わたしとタマくんの関係については、同僚たちはみんな知っている。「年下の彼氏が夕飯を作って待っていてくれるなんて、羨ましい」と言われていた時期もあったけれど、最近は少し違う。「お付き合いしましょう」「よろしくお願いします」という始まり方ではなかったわたしたちは、「彼氏彼女」という関係よりも「パートナー」という言葉がしっくりくる。それを同僚に伝えて以来「今のままの関係性でいいの?」と聞かれる機会が増えてきた。当事者であるわたしたちが良ければそれで良いと言いつつも、他人の言葉で気持ちが揺らぎそうになることもある。
 今日だって。
 あーあ、ぐらぐらだなあ、最近。
 他人の言葉に揺らぎやすいわたしは、他人からの目を気にする。自分の行動や言動が他人からどう見られているのかが気になって、思うようにできない。他人と食事をとることも苦手、食べ方が変じゃないか気になるから。他人との買い物もできない、自分のファッションセンスが信じられないから。
 それに、カラオケだって得意じゃない、音痴だと思われたり、マイナーな曲で場が白けるのが怖いから。
 そういうことを一切気にしないで素のままでいられる相手だったから、わたしはタマくんと暮らすようになった。
 今のわたしは、彼とわたしの二人で築き上げた小さな世界にいる。一番の安全地帯。
 彼はぽろろんぽろろんと弦をはじいて、有名ロックバンドの楽曲を歌い始めた。彼がいつも、皿洗いの時にお尻をふりふりしながら歌っている曲。その姿を見るたびに、頭の先から足の裏までキスの雨を降らせたくなることだってある。
 彼の歌声は、音程という概念を一切感じさせない。音痴のわたしを遥かに凌駕した音痴なのだ。
 それなのに、気持ち良さそうに歌う姿は可愛くて、彼の歌声を聞きながら過ごす日常が至福になっている。
 気が付けば、わたしも彼に合わせて歌っていた。
 次に彼が弾き始めたのも、彼が好きなロックバンドの楽曲だった。こうやって彼と過ごせる日々が続くのなら、わたしは神様へ賄賂を贈ったっていい。
 次から次へと歌っているうちに、ご近所のことが気になった。以前、マンションの掲示板に騒音に関する注意喚起が張り出されていた。あれは間違いなくわたしたちに向けたものだ。
「ねえタマくん。ご近所さんに怒られちゃうから、デルタへ行こう?」
 ぽろろ~ん。
「いーよー」
 そうして、わたしたちは夜の鴨川デルタの先端を陣取った。右から流れる賀茂川と左から流れる高野川が目の前で混ざり合って、鴨川として流れゆく。
「何を歌おうか?」
 そう聞こうとするよりも先に彼がウクレレを鳴らした。印象的なイントロ。すぐに分かった。これは、わたしが好きなロックバンドのメジャーデビュー曲。
 彼らの出身地である枚方に、わけもなく訪れたことだってあった。それくらい好きなロックバンドのデビュー曲が、わからないわけがない。
 人の目を気にせず、二人で歌う。ほかにもデルタには人の姿があるのに、それが気にならない。彼が隣にいることでできる、見えないバリア。誰にも触れない二人だけの世界。
 二人で歌詞を紡ぐ。音痴だっていい。わたしたちが楽しければ、それでいい。
 わたしたちの関係がどう見られていたって、二人の世界にいれば怖くない。
 でもそれでいいのかしら。
 こんなに小さくて狭い世界に閉じこもっていていいのだろうか。
 タマくんは洛中で顔が利く。五条の銭湯の若大将も、百万遍のコンビニのオーナー夫妻も、出町柳の南インド料理店のマスターも、あらゆる人脈のネットワークの中に彼は生きる。わたしよりも圧倒的に広い世界。
 彼と関われる人々にジェラシーを感じることだってある。その人たちよりも長く多く濃い時間を過ごしているはずなのに。
 タマくんがふわふわと、猫があっちこっちの水を飲むように歩いていってしまうような不安に飲まれることがある。
 こうして隣に彼がいることが夢だったらどうしよう。
 夢じゃないと感じたくて、自分の頬をつねってみた。師走の空気で冷え切った頬には、あまりにも痛すぎた。自分でやったことなのに、小さく悲鳴。
「おや、こっちゃん」
 彼はウクレレを弾いて温まった指をわたしの頬に這わせた。
 温かい。
 彼の、温度を感じながら生きていければ、それでいいのかもしれない。
 どれだけ彼が広い世界に生きようとも、帰る先がわたしなら、それでいい。誰も触れない、二人だけの世界に。
「こっちゃんもウクレレ、やってごらん。とても心地が良いよ」
 彼がわたしの膝にウクレレを乗せる。弦の押さえ方を教えてくれる。和音にして音を出す。コード、というらしい。
 三つのコードを教えてもらい、一番好きな曲を口ずさむ。音痴なわたしの声は広い空に吸い込まれ、川のせせらぎにかき消され、そして消えていく。
 いま、わたしの声は、わたし自身とタマくんにしか聞こえていない。
 もっと、もっとと声を出した。
 タマくんも身体のあちこちで音を鳴らして、ドラムのようなリズムを刻む。二人だけの小さなロックバンド。
 これでいい。
 わたしたち二人はこれでいい。
 たぶん、それは言い聞かせているだけ。
 だけれど、今出せる答えはそれしかない。
 今の狭い世界と視野の中で、わたしができることは、それでいいと自分に言い聞かせることだけ。
 それからわたしは、コードを無視してがむしゃらにウクレレをかき鳴らし、彼と二人だけの野外ロックフェスを駆け抜けた。

   ◇

 翌朝。例のごとくマンションの掲示板には「ギターの演奏禁止」の張り紙がなされていた。
「タマくん、ギターはダメだって」
「大丈夫、ウクレレだから」
 それは、たぶん、大丈夫じゃない。

episode16「むちむち」

「もう年末だね~」
 タマくんは日めくりカレンダーを一枚ずつ指で数えていた。わたしの方言とは違うイントネーションで一から数え始めて、十五で止まった。腕を組んで「今年はあと十五日しかないねえ」と、うんうんと頷きながら呟く彼はわたしより三つ年下のパートナー。わたしの方が誕生日が遅いので、あと一か月くらいは二つ年下のパートナー。
「あれ、こっちゃん、来年はナニドシだっけ?」
「今年は、亥年だったから、来年は子年かな」
「そうだった。今年はチョトツモンシンって感じの一年だったね」
 タマくんの言う四字熟語が、少し引っ掛かった。あれ、合っている? 間違っている? わたしは語彙力が豊かな人間ではない。だけれど、間違いなく、彼の四字熟語は間違っている。ややこしい言い方だけれど、間違いなく、間違っているはずなのだ。
「ねえタマくん、チョトツモンシンって、何?」
 わたしの指摘に、彼は自身の言い間違いに気づいたようだ。普段はまどろむ猫のような目を、見開いて「あっ」という顔をしたあとに、取り繕うように平然とした表情になった。
「そう、猪突問診。ある日、急にインターホンが鳴るんだ。こんにちは、問診に来ました、って。それで問診をしてもらうと、身体に異常が見つかる。ありとあらゆるサプリメントを買わされたり、健康セミナーの申し込みをさせられたり……。っていう新手の詐欺が猪突問診」
「大真面目に話していたけれど、『問診に来ました』の辺りで声が笑い始めていたよ」
 タマくんの作り話だってことは、「あっ」という顔をした時に気付いていた。彼の「おもろいこと思いついた」の顔、それと、それを隠そうとする平然とした表情。それが、タマくんという男の子なのだ。
「そういうこっちゃんだって、言い間違いするじゃないか」
「何かあったかしら?」
 本音を言うと、思い当たる節はたくさんある。昨日のアレとか、一昨日のソレとか、今朝のコレもそうだけれど、年長者としての沽券にかかわるので触れたくはない。
「ほら、『じっちゃんになりかけて』って言ってたやつ」
 とても、とっても恥ずかしい。有名な少年探偵マンガの名ゼリフをずっと『じっちゃんになりかけて』だと思っていた。二人での戯れの中で『じっちゃんになりかけて』と言ってしまったのだ。その時に初めて「じっちゃんの名にかけて」だと知った。ひどくからかわれた。
「それは、その、そういうマンガがあるの!」
「ふうん、どんなマンガ?」
 普段は数パーセント程度しか動いていない頭をフル回転させた。彼みたいなホラ話を生み出さないと。
「そう、主人公は有名な探偵の孫で、高校生探偵やってるの。それでね、彼が事件を解決する時、彼のおじいちゃんが憑依して事件を解決する。その時の決めセリフが『じっちゃんになりかけて』なんだよ?」
 なんとか笑わずに言い切れた。と思う。話しているそばから恥ずかしくなったし、おかしくなったし。
 これを聞いたタマくんは、満足そうに笑う。彼の思い付きにわたしが乗ると、いつもこういう顔をしている。これが見たくて、わたしも彼の戯れに付き合っているのかもしれない。
「僕らが知らないだけで、そういうマンガが本当にあるかもしれないね」
 そうか、あるかもしれないのか。わたしたちが知らないだけで、どこかにあるかもしれない。それなら、誰かの言い間違いは、言い間違いではないのかもしれない。自分が無知なだけかもしれない。知らない言葉を耳にした時、自分の中の常識を押し付けるのではなく、まずは自分の無知を疑ってみよう。
 それに、彼みたいに言葉の意味やストーリーを考案できるのなら、新しい言葉の提唱者にだってなれる。「猪突問診」という新手の詐欺の名づけ親。それならわたしは、憑依した祖父と一緒に事件を解決する探偵マンガの原案者。
 言い間違いは、言い間違いじゃあなくなる。勘違いだって、勘違いじゃあなくなる。嘘だって、嘘じゃあなくなるかもしれない。
 それも、彼の魔法の一つ。
 また一つ、彼の魔法を知りました。

   ◇

「そういえば、タマくんの今年の目標なんだけ?」
「自転車でびわ湖を一周する」
「それは?」
「来年に持ち越します」
 タマくん。来年も、よろしくね。

episode17「サイレントじゃナイト。ホーリーじゃナイト。」

「誕生日はさ、ハッピーバースデーを歌うよね」
 タマくんは、ブッシュドノエルに刺されたツリー型のろうそくと、クリスマスツリーのイルミネーションに照らされながら何やら考えていた。ホーリーな雰囲気は、彼の顔にはない。
 いくつになってもクリスマスを全力で楽しむ彼は、三つ年下のパートナー。わたしの方が誕生日が遅いので、来月までは二つ年下。年が明けたら、わたしも三十路です。
「ねえ、タマくん。それは去年も言っていなかったっけ?」
「そうだっけ。こっちゃんは記憶力があるねえ」
 そうよ。昨年も「クリスマスのケーキを食べる前には、何を歌ったらいいの?」って言っていたじゃない?
「タマくんは何を歌いたいの?」
 うーん、と彼は悩む。顔の角度が変わり、ホーリーな雰囲気がないどころか、どこかホラーな見え方になった。
 昨年は確か、ジングルベルを歌ったっけ。
「よし、こっちゃん、ジャングルジムを歌おう!」
「ジングルベルね。去年もそれだったよ?」
「今年はウクレレがある!」
 そう言って、先日引っ張り出したウクレレを抱えた。
 ぽろろん。ぽろろん。
 じんぐるべる、じんぐるべる。鈴が鳴る。鈴のリズムに光の輪が舞う。
 サンタさんって南国の人だっけ。
「ろうそく、どうしよう。だんだん、もみの木が残念な感じになっています」
 タマくんが慌てて救済措置を講じる。下にあるブッシュドノエルへの二次災害を防ぐべく、わたわたとするけれど、実際には何もしていない。
「待って、こっちゃん、せっかくだから二人でろうそく消そう」
「わかった、はい、いくよ」
 二人で向かい合わせに吹いた息は複雑に絡み合ってろうそくを消し、その香ばしい香りで前髪がなびいた。
 そうそう、去年もこうだった。クリスマスのケーキに刺されたサンタさんやトナカイ、ツリーのろうそくを二人で消した。あの時と同じ匂いがわたしのおでこを撫でて、懐かしい気持ちが溢れる。
 慌ただしく消火活動を済ませ、ケーキを頬張る。タマくんが淹れた紅茶がよく合う。
 ケーキを予約なしで買ったり、慌ててろうそくを消したり、ぜんぜんサイレントナイトじゃない。
 それでも、毎年こうやって過ごしているのに、毎年同じように幸せで満たされる。
「ねえ、こっちゃん」
 彼は一度かしこまって、それからバタバタと駆けて冷蔵庫の上に隠していたものを引きずり下ろした。わたしも同じタイミングで、ベッドの下に隠していたものを引きずり出す。
 二人で「メリークリスマス」と言って、プレゼントを交換する。
 彼から手渡された包みはスマートフォンくらいの大きさで、厚みは三センチか四センチくらい。
 じっくりと包みをはがしていく。彼は彼で、包みをはがしていく。止めているテープまでじんわりとはがしていくのが彼のやり方。テープの部分は、ぴっと切ってしまうわたしとは大違い。
 わたしの手のひらに現れたもの。それはわたしがずっと欲しかったもの。
「オイルライターだ!」
 たぶん、わたしのここ最近で一番大きい声が出た。
 わたしの歓喜に、タマくんが少し驚いた顔をしたけれど、すぐに自分の手のひらに現れた贈り物を見て、彼も歓喜の声を挙げた。
「レザーのペンケースだ!」
 彼がくれたオイルライターはつやつやに輝く金属製。これを何年も何年も使い込んで、アジが出るようにしたい。そうやって、二人で過ごした日々を刻んでいきたい。
 同じように、タマくんにもこれからの日々を刻んでいってもらいたくて、使い込むほどに馴染むレザーのアイテムを選んだのだ。
 毎年違うものを贈り合うのに、毎年同じように幸せで。
 そうやって年が暮れていって。
 この幸せが、この1DKでずっと続けばいいのに。

   ◇

 わたしがライターに火を点けるところを見たいと言うので、二人でベランダに出た。年の瀬の京都はやっぱり厳しい。皮下脂肪が気になるわたしでさえ、この寒さ。他の皆さんは大丈夫なのかしら。
 かちゃん。
 ジッ。ポっ。
 音が心地よい。
 優しいオイルの香りがタバコに混ざる。
 ふうっと吐き出す。
 寒くて身体をもぞもぞ動かすと、タマくんが身を寄せてくれる。
 昨年もこうして、二人でベランダから夜空を眺めた。飛行機の明かりを見つけて、「サンタさんも今じゃ飛行機で移動しているらしい」なんて話をした。
 ううん、そういえば、昨日も、一昨日も、その前も。ベランダで身を寄せ合って、寒いねって言いながら空を眺める日常。
 クリスマスだって、そうじゃなくたって、わたしたちには毎日が特別です。

episode18「あけまして」

「タマくん、起きて!」
 わたしは隣で丸くなって寝息を立てるタマくんを揺さぶった。あまりにも健やかな寝顔すぎて起こすのも憚られるけれど、起こさないときっとスネる。
 そんな子供っぽい一面がある彼は二七歳の立派な成人男性。今月で三十路に足を踏み入れるわたしの大切なパートナー。
 むにゃむにゃとヨダレをすする彼をさらに強く揺する。万が一、彼の首が座っていなければ、きっと大惨事になるくらい。
「タマくん、明けちゃったよ、新年だよ。一月一日の零時三分だよ」
 その言葉に、むくっと起き上がった彼は、小さな目を真ん丸に見開いた。眼鏡がない状態で、時計を探しているはずだけれど、目を細めた方が良く見えると思うよ?
「明けちゃったのか、こっちゃん、あけましておやすみなさい。今年もおやすみなさい」
 そんな意味不明な言葉を残して、再び深い初夢の中へ墜ちていった。
 せめて、ベッドで寝ないと風邪をひくよ、身体痛くなっちゃうよ、わたしの言葉は届かない。
 わたしはベッドから引きずり下ろした毛布を彼にかけ、彼の後ろに潜り込む。彼を包み込むように、彼のうなじに顔を寄せる。
 いろんなことがあった一年。このご時世では、明日の朝一の初詣は控えよう。だからここで、下鴨神社の神様にお願いします。
 今年も彼とこうして過ごせますように。平凡でも、月並みでもいいから、ささやかな幸せに包まれて過ごせますように。
 タマくん、今年もよろしくね。

   ◇

「こっちゃん、なんで起こしてくれなかったのさ!」
 ニューイヤー駅伝もゴールに差し掛かった頃に起きた彼が不満を述べる。
「あけましておはよう、タマくん」
「なんだい、その意味不明でステキな挨拶は!」
 なんだい、その愛くるしい反応は!

episode19「疑惑」

「早く帰れるよ!」
 わたしはタマくんへメッセージを打った。今日は、会社の入っているビルの点検があるため、いつもより一時間ほど早く上がれることになったのだ。みんなは知っていたらしいけれど、それをわたしが知ったのはほんのさっきのこと。あんまりに嬉しくて、会社を出る前にタマくんへメッセージを送ってしまった。普段はあまり使わない絵文字もつけた。シマウマの絵文字。特に意味はなかったけれど、それくらい嬉しかったの。
 年下のパートナーであるタマくんは、今日はアルバイトが休み。きっと夕飯を作って待ってくれているに違いない。お礼に、祇園にあるカフェ「あるぱか」でわたしたち二人のお気に入りのプリンを買って帰ろう。きっと喜ぶと思う。
 北浜からおけいはんに乗って、いつもより手前の祇園四条で下車する。そこから、裏路地を曲がったり、曲がらなかったりしながらプリンを入手した。彼が喜ぶ顔が想像できる。この笑顔見たさに、彼が好きなプリンを買いたくなる。だけど、買ってあげすぎても彼の喜びが薄くなってしまうかもしれない。時々あげるからこそ、あの表情を見せてくれるのだ。
 それにしても、タマくんから返信がない。いつもなら、音速の返信なのに、と思いながら、祇園バス停からバスに乗る。
 バスが出発した直後、バス停に駆けて来た人に見覚えがあった。きっとこのバスに乗りたかったに違いない。残念そう動きをしている。
 彼は、間違いなくタマくんだ。わたしが、彼を見間違えるはずがない。ぐるぐるのマフラーも、もふもふのニット帽も、ひつじ柄のマスクも、雲ってしまっている黒ぶちの眼鏡も、間違いなくタマくん。背丈も仕草も、彼そのもの。
 そんなことより、隣にいた女性は誰なんだろう。
 ずいぶんと親しそうに見えた。彼のズレてしまったニット帽を直してあげていたし、走って曇った眼鏡を指さして愉快そうに笑っていた。
 距離感が、とにかく近かった。
 彼は、この洛中に細かく張り巡らされた謎のコミュニティの中で暮らす。百万遍のコンビニ店長夫妻、京都出身のお笑い芸人下村くん、新京極の多国籍雑貨「そノラン」の店員の森くん、五条にある銭湯の若大将、その他、有象無象で有形無形の人脈が繋がっている。
 そのほとんどの人に、わたしは会ったことがない。彼が休みの日にどこで何をしているかは、彼が話してくれた範囲でしかしらない。
 隣にいた彼女も、その不思議な洛中ネットワークに属する方なのだろうか。
 それとも。
 不安。恐怖。心配。
 思い返してみれば、わたしとタマくんの関係の始まり方は「好きです、お付き合いしてください」「わたしも好きです、よろしくお願いいたします」という形ではなかった。学生の頃、文通から始まった彼との関係。東京と京都。およそ五百キロ離れていた。わたしが異動願いを出して、東京営業所から大阪本社へ。しばらく大阪府内に住んでいたけれど、彼の住む街に憧れて、わたしが京都へ引っ越した。その翌日には彼が転がり込んできた。手だって繋ぐ、キスもする、身体と身体で繋がる夜もある。それでも、「彼氏彼女」というより、なぜだか「パートナー」という呼び名がしっくりくる。
 わたしたちは、そういう関係ではなかったのかしら。
 わたしは彼にとって、どういう存在なのだろう。
 そして、隣にいた彼女は、彼にとってどういう存在の人なのだろう。
 あの人が彼の恋人なのだとしたら、わたしは?
 ある日、突然、彼から一方的に終わりを告げられる日が来るのかもしれない。その時、わたしは知らないふりをしたらいいのかしら。それとも、実は知っていたと言えばいいの?
 そして、わたしは彼を引き留めるべきなのかしら。それとも、浮気なんてサイテーと言って切り捨てる?
 切り捨てる強さなんてない。きっと、わたしは泣いて、泣いて、それで彼を責めて、自分を貶めて、それで彼を傷つけることを言うに違いない。
 彼から言われる前に、わたしが先手を打つ?
 今日、彼が帰ったら「今日、一緒にいた人はだぁれ?」と問い詰める?
 それもできない。本当のことを突き付けられるかもしれない。問い詰める声が震えるかもしれない。聞く前から息が上がってしまうだろう。
 彼がなかなか好きと言ってくれないことも、結婚をにおわせると話を逸らされることも、今なら納得できる。わたしは、二番目だったのだ。彼には、あの人が本命だったのだろう。
 どうせなら、もっと若い子にしてよ。わたしやタマくんと同年代くらいの人だった。ただ単純にわたしが負けたみたいで、惨めじゃない。
 活発なお姉さんが好きなのね、きみは。
 同年代くらいなのに溌溂としたお姉さん。わたしはなれない。
 元気がないねって、同僚によく言われる。元気があることが良いことのように言われるけれど、元気がない状態がスタンダードな人だっている。それくらいがちょうど良くて、落ち着く。
 彼の隣にいた人には、きっと理解できないんだろうな。
 今日、どんな顔をして彼と過ごせばいいのかわからないのに、バスがマンションの最寄バス停についた。京大正門前というアナウンス。これほどバスが便利なことを恨む日が来るなんて。

   ◇

「やっぱり、あるぱかのプリンが一番だね」
 タマくんは、いつものあの表情でプリンを堪能していた。
 結局、今夜は何も言い出すこともできず、もやもやとした気持ちのまま、彼を抱きしめて眠りに就いた。これが最後かもしれないと思うと、彼を抱きしめる力が自然と強くなってしまった。

episode20「MI・SO・JI」

「こっちゃん、何がいいかなあ」
 僕は一人で呟きました。彼女が好きそうなものが溢れている雑貨屋さんで、その情報量の多さに少しめまいがしています。
 あ、すみません。ご挨拶がまだでした。タマくんです。いつも、こっちゃんの描く「1DK」をお読みいただき、ありがとうございます。
 今日は、こっちゃんに内緒で、この二〇話を一話だけお借りしています。
 実は、こっちゃんの誕生日が迫ってきています。彼女は一月二十六日が誕生日で、三十歳になります。三十路の仲間入り。僕がこっちゃんと出会ったのはこっちゃんが二十一歳の時でした。僕はまだ十代だった頃です。
 それからいろいろあって、今のマンションで二人暮らしを始めたのが五年ほど前。僕が初めて彼女へ誕生日プレゼントを贈ってから、七回目の誕生日です。
 今回は何をプレゼントしようかなと、棚を端から端まで眺めます。こっちゃんはタバコを嗜みましす。ジッと言って、ポッと着火する素敵なオイルライターはクリスマスにプレゼントしました。そのライターとタバコを一緒に収納できて、携帯灰皿がついたタバコケースが棚に陳列されています。ちょっとかっちょいいけれど、おじさんっぽいものがあります。こっちゃんはおじさんっぽい小物を使いません。かといって、キラキラでガーリーな小物も良しとしません。ロックでかっちょいいものがあれば文句なしでコレにしたのですが……。
 こっちゃんは、全体的にふわっとしています。ふわっとしているのに、たまにロックでパンクです。口数は少なめで、感情表現が得意ではありません。それでも、ささやかに気持ちを表現してくれています。動物で言うと、猫みたいな性格です。
 見た目も、すこしふわっとしています。太っているわけではありません。足首や手首はキュっと細いですが、二の腕とか太ももとか、お腹とか、ふわふわとしています。身長は百五十三センチ。いつも平均体重を気にしています。平均体重より、やや重いことが気がかりらしいです。
 アクセサリーは、イヤリングを嗜む程度です。痛いから、という理由でピアスは開けていません。僕のピアスの穴を眺めて、「痛そうだね」と言います。もう痛くはありません。
 ならば、イヤリングをプレゼントしようと、ジュエリーショップに移動しましょう。
 ジュエリーショップに踏み入ると、店員さんたちが僕を見ます。この空間では、僕は完全に獲物です。店員さんどうしでけん制することなく、一人の店員さんが「何かお探しですか」と声をかけてきます。
 実は、僕はこれが苦手です。自分のペースで探しものをしたいのです。それに「パートナーのプレゼントを探しています」というのも、少し照れくさいのです。
 照れ臭さを押し隠して、店員さんに伝えました。「イヤリングをプレゼントしようと思って」
 すぐさま、店員さんは、いくつかのイヤリングを選び出してくれました。僕は何一つ、こっちゃんの雰囲気も予算も伝えていないのに、僕の思っていたような品々が差し出されます。さすがプロフェッショナル。
 でも、イヤリングもなんだか違う気がしています。
 これを断るのも、僕は苦手です。せっかくプロが選んでくれたものを断る。僕も接客のオシゴトをしているので、気持ちがわかります。だけれど、これじゃない、そう僕は思ったのです。
 意を決して、「他のお店も見てみます」と言って、お店を出ました。
 四条通へ出て、さて、と考えます。人の往来があるので、できるだけ邪魔にならないところで立ち止まって、頭をフル回転。
 何をプレゼントしよう。
 こっちゃんの趣味。タバコ、オカリナ、短歌、カメラ、うーん。
 彼女は、朝や食後にベランダでタバコを吸いながら外を眺めます。マンションの四階で、周囲の大きい建物は大学の校舎くらいです。とても見晴らしが良いのですが、冷たい風にさらされます。温かい部屋着、アリですね。
 オカリナは、何年も吹いていません。ウクレレを教えたことでギターにも興味を持ち始めたそうです。しかし、、彼女にはもうお目当てのギターがあります。それは、僕のお給料じゃちょっと苦しい、高価なものでした。
 それと、短歌。以前、二人ででたらめな短歌を詠んで遊んでから、毎日一首、詠んでいます。ノートに書き並べているので、いつか歌集を出させてあげたいと思っています。でも、歌集を作る、というプレゼントは、プレゼント感が薄いですね。
 カメラは、時々使っているようです。いつか、僕の寝顔をこっそり撮られていました。これは許すまじ行為です。このお返しは、必ず果たします。
 まだ、僕らが遠距離でお互いを想っていた頃。僕らのやり取りは文通でした。メールみたいに、すぐに届いて、すぐに読めるものではありません。一通一通の手紙にこころを込めていたのです。お互いが見たもの、こころを動かされたものなどを写真に収め、ささやかなお手紙に同封していました。彼女のカメラは、その時に買ったものです。
 今では、家に帰ればこっちゃんがいて、触れようと思えばいつでも触れられます。とても幸せです。それなのに、なぜか当時を懐かしく思うことがあります。
 たまに二人でカメラを持って出かけても、その場で画面を見せ合って「こんな写真が撮れたよ」と言い合う程度です。あの頃のように、写真を印刷して、たくさんの中から厳選したものを手紙で送って見せる、なんてことはしなくなりました。
 あの頃みたいに、また二人で写真を楽しみたいなあ。
 そこまで考えて、とてもいいことを思いつきました。
 僕はお目当てがあるお店へ急ぎました。
 四条通りを早歩きで突き進みます。美味しい誘惑にも負けません。キラメいているチキンスープのラーメンだって、マリアージュな組み合わせのオムライスにだって、見向きもせずにずんずんと歩きます。歩いて歩いて、ようやく一軒のお店にたどり着きました。
 そこにも無数の品物が溢れていましたが、その中から一つを選び出しました。彼女にとってもお似合いで、実用的なものです。
 こっちゃん、喜んでくれるだろうか。
 どんな顔してくれるかな。
 きっと、驚いてくれるはず。
 僕は彼女の驚いた時のあの表情が好きです。驚かされたことに対するささやかな反抗も愛くるしいです。べしべしと僕を優しく叩いて、遺憾の意を表します。口で「べし、べし」と言います。きっと恥ずかしさを隠すためです。チヂミを作るときも「べし、べし」と言って叩くので、きっと僕はチヂミだと思われています。
 本当は、帰ってすぐにでも「じゃじゃーん!」とプレゼントしてあげたい気持ちなのですが、これはバースデープレゼント。その日が来るまで我慢します。
 きっと驚いてくれるはずですから。
 
   ◇

 それから、僕はその他の用事を済ませて帰路に就きました。
 こっちゃんが帰るより先に帰ってプレゼントを隠そうと思っていたのに、乗ろうと思っていたバスが目の前で行って行ってしまいました。そろそろこっちゃんの乗った電車が出町柳駅に着く頃でしょう。
 でも、こっちゃんにバレないように上手く隠すのも、面白いものです。
 今年はどこに隠そうかな。

episode21「鳥羽姉弟」

「面白かったね、お腹がねじれるよ」
 タマくんは満足そうに笑う。今日のハイライトを彼は語る。
 わたしより、三つ年下の大事なパートナー。たったの三つだけれど、そこには大きな壁がある。彼はまだ二十代。わたしはついに、三十路の仲間入りを果たしました。
 今日は、祇園にあるお笑い劇場へ来た。彼の大学時代の友人の漫才コンビ「すっきり絞ったオレンジ」の単独ライブだったのだ。漫才あり、コントあり、トークあり、最後にはじゃんけん大会でサイン入り色紙まで勝ち取り、満足の二時間だった。
 劇場が緩やかに明るくなる中、彼は今日一番笑ったギャグをやってみている。すっきり絞ったオレンジでボケを務める山本くんを「ギャグマシーン」と言いながら、再現していた。これだけ笑っている彼の未来は、世界が羨む明るいものになることだろう。
 余韻に包まれながらホールを出ようとしたところで、彼が何かに気付いた。
 視線の先には女性の後ろ姿。あの背丈、ショルダーバッグ、コートもマフラーも見覚えがある。
 なんとなく嫌な予感がして、彼の手を握った。帰ろうよ、という気持ちを込めて、強く握った。
 それでも、彼は、その彼女から目を離さない。せめて、隠してくれればいいのに。そんなにくぎ付けになっていたら、わたしだってすぐにわかる。もう、隠すつもりもないのかしら。
 すると、あちらもタマくんの視線を察知したのか、彼女が振り返った。
 目が合った。
 あの時のヒト、だった。
 きっと、「ふぅん、この子が、例の」なんて思われて、見下されているのだろう。自分は勝ったと思っているに違いない。
 わたしは、耐えかねて、彼の腕を引き寄せた。ぴったりと彼にくっついて、半身を隠すように。
 あろうことか、あちらさんは手を挙げた。明るい笑顔。そんなにあからさまに振り撒かなくてもいいのに。
「あ、ねえちゃん!」
 タマくんも嬉々とした声で反応する。そんなに嬉しそうな声を出さなくてもいいのに。
 あれ?
 お姉さん?
 急に、わたしの中に飛び込んできたワード。頭の中を駆け巡って、思考回路がショート寸前。大きな勘違いをしていたことに気付かされてしまい、恥ずかしさでオーバーヒートしそう。
 彼は、もう一度「ねえちゃん」と言う。ねえちゃん、と書いてみたけれど、「ねいちゃん」という聞こえ方をしている。
「ヨっちゃんも来てたのね」
「うん、彼らは僕の大学の同回生なんだ」
「そうか、そうよね、わたしの三つ下だもんね」
「ねえちゃんが彼らのこと知っているとは思ってなかったよ」
「山本くんが学部の後輩で知り合いなの、言ってなかったっけ。今では、毎週ライブに足を運ぶ熱狂的なファンなの」
 彼女はわたしたち二人のところへ駆け寄ってきてから、まるで実家のリビングのように話し始めた。
 それでも、わたしは半身を隠したまんまで動けずにいた。
 タマくんにお姉さんがいたことは知っていた。お姉さんも彼と同じ大学に通っていたことは知らなかった。写真さえも見たことがなかった。
 そんな彼のお姉さんが子供の頃にタマくんへ雨の日の楽しさを教えた。それはわたしへリレーされ、あの日から雨が少し好きになった。お姉さんに感謝をしていたほどで、いつかお会いしたいとも思っていた。
 だけれど、それにはこころの準備がいる。パートナーのご家族に会うのはもっと後のことだと思っていたのに、降って沸いたような出来事で挙動が不審になってしまう。
「こんにちは、こっちゃんさん、ですよね?」
 話しかけられた!
 しかも、「ちゃん」の後に「さん」まで付けられた!
 あわわわわわわわ。
 あわわわわわわわ。
「はい、ヨシキくんとは」
「こっちゃんもねえちゃんも、そんなにかしこまらなくていいんだよ。二人は同学年なはずだから」
 それを聞いたお姉さんは、「あら、そうなの。それじゃあ、こっちゃんって呼んでいい?」と親し気に聞いて来た。
「お好きなように、どうぞ」
 すっごく印象が悪いかも!
 そんなつもりはないんです、お姉さん。ただ、今はあんまりにも急なことで、うまく取り繕えていないんです。取り繕う、それも変だなあ、その、人見知りなんです。
 という気持ちをぐっと抑えて。
「なんて呼べばいいですか?」
 と聞き返した。
 声が震えていたかもしれないし、握った彼の手に汗を染み込ませているかもしれない。「自己紹介、してなかったね。鳥羽杏子です。みんなからは、アンちゃんって呼ばれているから、アンちゃんって呼んで」
 アンちゃん、アンちゃん、アンちゃん。こころの中で唱えてから、
「わかった、アンちゃんって呼ぶね」
 と語尾が消えるように答えた。
 間に立ってくれているタマくんは、なんだか感慨深い表情をした。うんうん、と頷く。「僕は二人が仲良くなれそうで、とっても嬉しいよ」
 わたしには、まだわからないけれど、仲良くできるといいな。
 お姉さん。義姉、って言うのかな。漢字にすると他人行儀に見える。同い年ってことがわかったし、大切な人の家族で、いつか家族になるかもしれない。
 仲良くしたい。
 最初は驚いた。落ち着いてきてからは、彼のご家族に会えた喜びが少しずつ湧いてきた。むしろ、「家族に紹介したい」と言われた方がもっと緊張していただろう。こういう形で、良かったのかもしれない。
 少しずつ、アンちゃんとも仲良くなりたいし、ゆくゆくは彼のご両親にもお会いしたい。そのための予行練習だと思えばいいや。
 なんとなく、お互いの話をしながらホールを出る。探り探りながら、打ち解け始めている。
 だけど、まだ打ち解けたわけじゃあない。あくまで「打ち解け始めた」段階。こんなタイミングなのに、タマくんは「お手洗いに行ってくる」と言って、わたしたちを二人きりにして行ってしまった。
 沈黙になってしまったらどうしよう。
 それも杞憂だった。すぐにアンちゃんが口を開く。
「ねえ、こっちゃん。初対面で言うことじゃないのかもしれないけれど」
 それまでの和やかな雰囲気から一転、彼女は真剣みを帯びた口調で話し始めた。
「わたしたち、本当は血が繋がっていないの。ヨッちゃんはそれを知らない」
「え、それって、どういう……」
「わたし、赤ん坊の頃に親に捨てられて、いろいろあって、今の家の養子になったの。まだ、ヨッちゃんには誰も言ってない。いつか言わなきゃいけないことはわかっているんだけれど」
 それを知った彼は、どういう反応を示すだろう。どんな気持ちになって、何て言うだろう。悲しむかな。タマくんのことだから、それでも家族は家族だって言うだろうし、言って欲しい。
「いつか、自分の口であの子には伝えたい。それまでは、黙っててほしい」
 本当に、初対面で言うべきことではないと思うけれど、それを話してくれたことが嬉しく思えた。家族の一員として認められたような気分になる。だけれど、それじゃあ、タマくんは家族じゃないみたい。彼だけ、本当のことを知らない。
 そんな気持ちを抱えたまま、彼とうまく接することができるだろうか。
 彼とご家族の事情に首を突っ込むつもりはないけれど、知ってしまった以上、知る前には戻れない。
「ごめんね、こっちゃん、急に変なこと言って。そろそろ、あの子が戻って来る頃じゃない?」
 ちょうど、彼が手をズボンで拭きながら出てきたところだった。

   ◇

「低姿勢な睡魔がやってきたよ、すいませ~ん」
 彼は、今日一番面白かったという山本くんのギャグをやっている。
 だけどね、それ。
「ヨッちゃん、それ、誰も笑ってなかったやつ」
 アンちゃんに先を越されてしまいました。

episode22「ちょこっと照れくさい日」

「日曜日で良かった」
 わたしは、製菓用のチョコレートを湯煎で溶かしながら呟いた。透明なボウルの、お湯に浸かっていない部分が湯気で白くなる。ボウルを持つ手がじんわりと温かい。
 細かく刻んだ製菓用チョコレートの表面に艶が出始め、ボウルにこびりつくように形が崩れていった。三回目の挑戦。今度こそは成功させたいなあ。
 改めて、こころの中で呟いた。今日が日曜日で良かった。タマくんがアルバイトに行く日で良かった。
 タマくんは、わたしの三つ年下のパートナー。わたしは、平日は大阪にある企業で働いている。それに対して、タマくんは土日を含む週の四日ほどを、河原町丸太町にある紅茶に特化した喫茶店でアルバイトをしている。
 二人で生活していても、休みの予定が合うことはほとんどなかった。寂しいなと思うこともあったけれど、今日ばかりは予定が合わないことに感謝したい。
 それと、珍しく初動が良かった自分を褒めてあげたい。やらなきゃ、と思っていても、なんとなく朝はだらだらして、動き始めがずるずると遅くなるわたし。今日に限っては、そうではなかった。彼がアルバイトに行ったのを見て、すぐにスーパーへ材料の買い出しに行き、帰宅後にすぐに作り始めた。
 それなのに、なぜかまだ一つも完成していない。
 皆さんがお察しの通り、わたしはタマくんへ送るバレンタインのお菓子を作っています。
 少し手の込んだチョコレートのお菓子を作ろうと思って、最初に挑戦したのがチョコクッキー。板チョコを湯煎して、バターと混ぜる。卵と砂糖を混ぜ合わせる。これらと薄力粉を混ぜ合わせて、生地にしたら、型を抜いてクッキングシートに並べる。あとは焼くだけ。予熱もしっかりした。
 焼いた。一口食べた。
 これはタマくんにはあげられない。
 あろうことか、わたし……。
 砂糖と塩を間違えるなんている初歩的な過ちを犯していました。
 彼にバレてはならないので、全て食べて処分完了。

 次に挑戦したのがチョコレートブラウニー。湯煎したチョコレートを卵や薄力粉と混ぜる時に、大雑把なわたしの性格が出てしまった。二回目ともなるといろいろと面倒になって、ふるいにもかけていない薄力粉と卵とチョコレートを一気に混ぜてしまったの。
 オーブンの予熱は、ちゃんとした。けれど、雑な混ざり方をした生地にダマができてしまい、焼きあがったチョコレートブラウニーに焼きムラができてしまった。ダマになったところは、粉っぽくて、タマくんに渡せないレベルのものだった。
 インターネットで見たレシピでは、初心者向けって書いてあったのに。なんて思うけれど、わたしが横着した作り方をしたからいけないのよね。
 彼にバレないように、こちらも全てわたしの肥やしになった。

 やはり、材料を混ぜたり、オーブンで焼いたりするものはわたしには無理なのかしら。例年通り、チョコレートを溶かして型に流して固めただけのものにしようかしら。
 だけれど、なんだかそれは、自分に負けたような気持ちになる。
 きっと、今年も彼は手の込んだチョコレート菓子(例えば、フォンダンショコラとか)をわたしに作ってくれるはず。それに対して、今年も「溶かして固めただけのチョコレート」なんて。小学生の本命チョコレートじゃないんだから。
 せめて、もう少しだけでも手の込んだものはないかしら、とインターネットで検索をしてみた。
 ちょうどいいものを見つけたけれど、材料が足りず、スーパーへ走った。わたしたちのライフを支える大型スーパーマーケットが近所にあることがこれほどまで有り難いなんて。

 そうして迎えた三回目の挑戦。
 板チョコは売り切れてしまっており、製菓用のチョコレートを買った。思っていたより安くて、材料だけは一丁前。
 それと生クリーム。
 これらを鍋で火にかけて、混ぜ合わせたら、絞り袋で丸いチョコレートのコロコロを作っていく。クッキングシートの上に絞り出したコロコロのチョコレートは、なんだか動物の排泄物みたい。だけど、何の動物だろう。シカやウサギはもっと小さかった覚えがある。
 それから、冷蔵庫に入れて冷やしていく。どれくらい待って冷やしたらいいのかは、インターネットのレシピには書いていなかった。
 コロコロを冷蔵庫に入れてから、テレビをつけてみる。旅番組の再放送。そろそろかなと冷蔵庫を開けてみる。固まっているかどうかは、見てもよくわからない。触ってもいいのかな。固まってなかったら、形が崩れちゃうかしら。
 扉を閉める。テレビのチャンネルをまわす。連ドラの再放送。途中から見てもストーリーが良くわからない。再び、冷蔵庫を覗く。手のひらを近づけてみる。よくわかない。
 再び閉じて、ベランダへ出た。
 生ぬるい春の気配を含んだ風に吹かれてタバコに火をつける。顔に触れて流れていく空気には、どこか懐かしい匂いが含まれていた。そこに、タバコの紅茶フレーバーが合わさる。これがわたしにとっての、春の香りなんだな。
 彼と過ごして、何回目かの春を迎える。子供の頃は新学期が苦手で、この時期になると憂鬱な気持ちだった。社会人になってからも、この時期は得意ではなかった。それが、彼と暮らすようになってからは、少しずつ好きになってきた。この時期だけじゃない。夏の終わりの寂しさも、梅雨のじめっとした曇天も、彼のおかげで好きになってこれた。
 そんな彼のことを思って作るチョコレートは、美味しくできたかしら。
 吸い殻を灰皿に落とし、冷蔵庫の中を確認する。
 やっぱり見た目じゃわからなかったので、手を良く洗ってから触れてみた。ちょっと固さを感じたので、次の行程に移れそう。
 湯煎したチョコレートでコロコロをコーティングして、あとは冷やすだけ。仕上げにココアパウダーをまぶして完成。
 美味しいって言ってくれるかしら。「隠し味は愛情」なんて言葉はクソ恥ずかしいけれど、隠れていないくらい愛情は込められたと思う。
 いつになく彼の帰りが待ち遠しくて、時間の経過が遅い。それからわたしは、テレビのチャンネルを何度も何度もまわしながら、夕方を過ごした。

   ◇

「こっちゃん、ただいま」
 彼が帰宅するや否や、わたしはラッピングをして冷蔵庫に冷やしておいたチョコレートを差し出す。だって、待ちきれなかったんだもん。
「タマくん、いつもありがとう」
「こっちゃん、チョコくれるの!」
 どうぞ、って言って手渡す。彼は嬉しそうに封を開け、一つを摘まんで食べた。みるみるうちに顔がほころんでいく。この姿がたまらない。
「僕も、こっちゃんにプレゼントがあります、チョコじゃないけれど」
 そう言って、彼は小さな袋をくれた。透明な包みに透けて、小さなカヌレが見える。きっと、彼の職場で厨房を借りて作ったものだろう。
 わたしもすぐに封を開けて、一口食べた。わたしからのプレゼントとは釣り合わないくらい手の込んだそれは、とても美味しかった。
「隠し味は、僕からの愛情だよ」

episode23「10年」

「今日は来てくれてありがとうございます」
 ささやかにライトアップされたタマくんたちは、頭を下げたり、片手をあげたりしながら挨拶をする。拍手と指笛が会場内に響き、彼は少し照れくさそうな顔をした。
 タマくんはわたしの三つ年下のパートナー。齢二十七の彼は、いまだに大学生と間違われるような容姿をしている。笑った顔が昔飼っていた猫に似ていたからタマくんと呼んでいるけれど、きっとそう見えるのはわたしだけ。
 今日は、彼がアルバイトをする紅茶専門の喫茶店の十周年記念イベントにお邪魔している。夕方から通常の営業を辞めて、イベント営業になっている。店内の宅にはケータリングのフードやドリンクが並べられており、飲食は自由。持ち込みも自由。出入りも自由。長年に渡り店を続けられたのはお客様のおかげというオーナーの想いから、お客さんへお返しがしたいということらしい。
 常連さんがひっきりなしに入れ替わり立ち代わり、オーナーの深井さんにお祝いの言葉を告げて、お祝いにさまざまなお土産を持ち寄る。常連さんどうしも顔見知りという感じで、なんとなく自分が浮いている気分になる。
 その十周年イベントの中で、タマくんは友人三人と組んだバンドで演奏をしていた。今は彼らのオリジナルソングをボーカルなしで、楽器だけの演奏をしながら、タマくんが喋っている。こういうの、なんていうんだっけ、インスタント……インスタントメンタル……?
「メンバー紹介、カホンの吉田カンナ」
 タマくんから紹介された吉田くんは、自分が座った箱をカポカポと叩いた。乾いた音がリズミカルに響き、心地が良い。あれなら、リズム音痴なわたしにもできるかも。
「ボーカル&アコースティックギター、森ヒデオ」
 彼のことは知っている。タマくんがとても仲良くしている人で、河原町界隈にある多国籍雑貨店の店長だ。口ひげを生やしていて、丸い眼鏡をかけている。彼が鳴らすギターは伸びやかで渋い和音を会場に響き渡らせた。いいなあ、ギター、弾いてみたいなあ。
 そして、今度は森くんがタマくんを紹介した。
「ウクレレ、鳥羽ヨシキ」
 彼はぽろんぽろろんとウクレレを鳴らしてお辞儀をし、再び口を開く。
「僕たち、アパートメントっていう今夜限りのバンドです。僕の働くお店のためにこうして力を貸してくれた友人の吉田くんと森くんに、拍手をお願いします」
 彼が促すと、再び大きな拍手と指笛。照れ臭そうにするけれど、声を発する時は実に堂々としていた。人前に出ることに慣れている彼。そういう姿に憧れる。わたしには到底できない。打ち合わせで意見を求められるだけでドギマギしちゃうもの。
「それでは、最後に、このお店『TEA HOUSE OLIVE』の名前の由来であるあのミュージシャンから、この曲です」
 三人が目くばせをして、スリー、ツー、ワン、と息を合わせた。それから、軽やかなカホンと重厚なギター、そして弾むようなウクレレのサウンドがまじりあう。
――小さい頃は、神様がいて――
 森くんの、鼻にかかったような独特の声が歌詞を紡ぐ。三人は、こころから楽しんでいるような表情をしていた。一夜限りのバンドというのがもったいないくらい、彼らには一体感がある。彼らのこころが通じ合っているのがわかる。
 こうして、タマくんが他人と過ごしているのを見るのはいつぶりだろう。彼はとても活き活きしている。わたしが知らない彼の日常が見える。素敵な仲間に囲まれているのだ。

 今日のイベント開始直後、タマくんは多くの常連さんからひっきりなしに声をかけられていた。彼はただのアルバイトスタッフではなく、オーナーと並ぶこの店のもう一つの顔になっている。彼が働いている姿を見るのは初めてだったけれど、どんな常連さんとも軽快に会話をして、表情豊かに、心地よさそうにしていた。
 わたしの知らない彼は、わたしの知らないたくさんの人に囲まれています。そんな彼とこうして過ごすことができることを、誇りにも思う。わたしのパートナーは、たくさんの人から愛されて、たくさんの素敵な仲間がいる素晴らしい人なんだって。
 そんな人から、好きと言ってもらえるわたしは、本当に幸せ者なんだって。
 だけれど、それでいいのかしら。
 わたしで、本当にいいのかな。
 幸せな想いと同じくらいの大きさで、そんな不安が押し寄せる。彼と目が合うと、彼がニコッと微笑んでくれるから、不安に押しつぶされることはないけれど。
 本当にわたしでいいのって、聞かれるの嫌だろうな。聞いたところで、「当たり前じゃないか、僕はこっちゃんがいいんだよ」って笑ってくれるかもしれない。そう言ってくれると信じているから、わたしも安心して過ごしているけれど。
 もし、彼がそう言って笑ってくれなくなったらどうしようって、いつも不安に思う。彼を信じていないわけじゃない。自分に自信がなくて、自分で本当にいいのかって思って。
 いつか、彼に「わたしのどこがいいの?」って意地悪で聞いてみたことがあった。彼は当たり前のように「全部」って言った。彼には、わたしの悪いところがちゃんと見えているのかしら。
 そうやってぐるぐるとしたネガティブな感情が頭を駆け巡り始めたら、自分の顔がずいぶんとこわばっていたことに気付いた。おめでたいイベントなのに、不景気な顔をしていては申し訳ない。
 表情を取り繕おうとしたところで、タマくんと目があった。きっと、彼はずっとわたしのことを見ていたのかもしれない。彼も少しくぐもった表情をしていたのに、目が合った瞬間にはいつもの猫みたいな笑顔になる。少し首をかしげて、小さく口を動かして、誰にも聞こえない四文字を届けてくれた。
 だからわたしも、小さく口を動かして、同じ四文字を返す。
 たったこれだけで、わたしの不安は少し軽くなる。また時間が経てば不安が戻ってくるけれど、今はこれでいいって思える。
 これだけたくさんの素敵な人に囲まれていたって、彼はわたしを見てくれている。彼の周りには、もちろん女性だっている。とびきり美人な人だって、明るく活発な人だっている。それでも、彼はわたしを見てくれていて、わたしと一緒にいてくれて、わたしは誰よりも幸せなのだ。
 そんな素敵な人に恵まれている彼に「だいすき」と言ってもらえるわたしは、わたしに自信をもって、わたしに誇りを持とう。
 そうやって、少しずつ彼と歩んでいこう。もし、彼と十年一緒にいられたら、二人で十周年記念をしたいな。

   ◇

 彼らの演奏が終わり、再三のお辞儀をして彼らはステージを降りた。代わりにオーナーの深井さんが挨拶をした。
「ヨシキと森くん、吉田くん、素敵な演奏ありがとう。特に、君らのオリジナルと言っていた、あのインスタントヌードルのやつが良かったよ」
 それに反応した会場の(わたし以外の)皆さんが反応した。
「それを言うならインストゥルメンタル!」
 わたしは、深井さんの犠牲を、無駄にはしない!

1DK

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わたしとパートナーのタマくんとの生活には、 起承転結も序破急もなければ、オチもない。 そんな、なんの変哲もない毎日こそが わたしと彼の全て。

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-04-27

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