虹蛇とニーバーの祈り

本多 ミル

  1. 人物紹介
  2. ニーバーの祈りとは……?
  3. はじまり―シュガーウォーターのラッキー
  4. タウンハウスの隣人
  5. ケランダ鉄道
  6. 電線の大蝙蝠
  7. 蝙蝠男
  8. 親愛なるこの町の皆様へ
  9. 第一のとき
  10. ジョージ・ワイルダー
  11. ケランダ観光列車
  12. 最後の宝物
  13. 第ニのとき
  14. 空の夢
  15. 315
  16. 第三のとき
  17. 刑事の推理
  18. レインボーランド
  19. 三十五年前―――シャルル・ミラー
  20. レイネ・モーレン
  21. 夜明けの牧場
  22. 赤牛のベル
  23. ブダ・ジの怒りと悲しみ
  24. 大空に虹
  25. ピーター・マクベス
  26. 忘れられていたラッキー・ベンジャミン・ミカエル
  27. ワイルダー氏のその後
  28. 結び

この物語は、四年ほど前に書き終えていたものです。今年に本にする予定でしたが、断念しました。その内容は、読んでくださればご理解いただけると思います。なぜに、こう書いたのか自分でも信じられません。前作の「ワナリーの仲間達」で地球の外側でバリケードを作ると! 頑張っている大天使のラッキーと同じ鳥のターキーが、今回では堕天使の偽者として登場します。このお話しを書くときには、今の戦々恐々とした社会情勢など、想像だにしませんでした。

人物紹介

遠野宮空
  相棒のパールというシーズー犬と共に、シュガーウォーターに   
  住んでいる。この土地が好きで、図書館に勤めている。数年前
  までは、ダニエルと同じ都会の大学に行っていて、母親と暮ら 
  していた。

 遠野宮未来
  空の母親。自然と動物達と意思疎通ができると、勝手に自分で 
  信じている。日本から空のところに時々来る。

 ダニエル・スミス
  空の幼馴染で大親友。今は都会に住んでいて、医学部を卒業し
  て、マーラー博士の下で研究者として免疫学を学んでいる。

 ラッキー・ベンジャミン・ミカエル
  未来が大天使だと信じている鳥のターキー。偽者は、アゼル。

 シャルル・ミラー
  空の家の隣人で、カバイロ共和国の軍K18組織のスパイ。

 レイネ・モーレン
  シャルルの妻。実は、極秘でシャルルの国の隣国のスパイ。

 ジョージ・ワイルダー
  レイネのいとこ。ここではバイオロジーの教師。実は、裏社会  
  に雇われた研究者で、色々な国を渡り歩く黒幕で幹部。   

 ピーター・マクベス
  シュガーウォーター駅近くでカフェ「バジル」をやっている正 
  義感あふれる元刑事。

 ルイーズ・マクベス
  ピータ―の娘で、空とダニエルの同級生。

 ウイリアム・マクベス
  ルイーズの弟。バジルでバリスタ―として手伝っている。

 カルロス・オルコット
  第一のときで殺されたイギリス人の旅人。亡きひいひいじいさ
  んマイケルは、観光列車ケランダ鉄道建設に貢献した発破技師。 

 ブライアン・キート
  第二のときで殺されたケランダのウングルというお土産屋のオ
  ―ナー。ひいひいじいさんキングスレ―は、昔のゴールドラッ
  シュ時代に、マイケルと仕事をしていた。

ニーバーの祈りとは……?

神よ、天にまします父よ。
わたくしたちに変えられないものを受け入れる心の平穏を与えて下さい。変えることのできるものを変える勇気を与えて下さい。
そして、変えることのできるものとできないものを見分ける賢さを与えて下さい。
われらの主、イエス・キリスト。
アーメン。
 
ラインホルド・ニーバー (千八百九十二年―千九百七十一年)
神学者の伝えた言葉。

はじまり―シュガーウォーターのラッキー

遠野宮空がこの町に引っ越してきたのは、また新しい年が始まり、間もなくの頃だ。ここは、南半球にある悠久の大地の国、その中でも北の地域で亜熱帯雨林のど田舎である。
 実は、空は五年前にもここに住んでいた。田舎にはない大学に行くために千七百キロ離れている都会、ブリスベンのワナリーに行っていて、今年に入り懐かしいこの場所へまた帰ってきたのだ。
 そのずっと昔は、朝に夕にと波の音を心地よく感じるトリニティービーチという海辺に住んでいた。トリニティーとは、宗教的には三位一体という意味を持つらしい。諸説はあるが、一般的に、父なる神、子なる父、そして聖霊という。
 空の母親である遠野宮未来が、動物と意思疎通ができるという研ぎ澄まされた能力を持つようになったのは、トリニティービーチを毎日のように、散歩していたからかもしれない。未来の自分勝手でいい加減な解釈では、トリニティーは、大宇宙の大神さま、そして、取締役でラッキーの上司の神さま、部下で大天使のターキー……ラッキー・ベンジャミン・ミカエルで三位一体となる。未来は、そのひときわ大きいターキーであるラッキーという天使と友達なのだ。未来の妄想の世界である。
 このビーチは、その先端に行けば行くほど、どこまでも澄み切ったコバルトブルーで、心が洗われるようなとても美しいビーチだ。
しかし、今度空は、内陸の大きなさとうきび畑が続く田舎町に住むことになった。空は、近くに海がないことを少し残念に思ったが、やっと掴んだここでの仕事の通勤のためには、この町はロケーション的に適していて、環境もいい場所だった。
 空はここで育ったので、この町での図書館勤務の仕事は、のんびりで単調な中にもなにより安心感があって、彼の性分に合っていた。
 シュガーウォーターという駅が、すぐ近くにある。ここは、今はケランダ鉄道という観光列車しか走っていない。朝と夕方に二回ずつレトロな列車が通っているだけだ。通勤のための交通手段は、バスか車しかないような人口の少ない町だ。しかし、世界遺産にもなっている最古の森林と、ケランダという神秘的な山は有名で、観光客は多く訪れる。
 その駅は昔から名前だけは知っていたが、ここが、こんなにノスタルジアで、歴史を秘めた不思議な場所に通じているとは、空はまだ思いもしなかった。まして、そんな町に、まもなくおぞましい事件が起きるとは想像だにしなかった。
 空の家族は、日本にいる。ついこの間まで一緒に生活していた母親も、現在はここにいないことが多く、空のひとり暮らしは順調に始まっていた。
 いや、ひとりではなく同居している愛犬のシーズー、パールと仲良くやっている。白と黒の毛並みはいつも変わらずにふさふさで、九歳になったパールは、以前より昼寝も多くなりだしたが、相変わらずマイペースでのんびりと過ごしていた。空の言うことを、全部分かっているのかどうかだが、耳をピクピクとさせてよく聞いてくれる良き相棒なのだ。
 空の母親は少し変わっていて、動物の声がなにを伝えているのか聞こえてしまうことがあるという特殊な能力を持っていた。空には、特別にその能力の遺伝はない。だから、犬のパールがなにを望んでいるのか時折分からなくて、ずっこけることもある。
 そんな昨夜もそうだった。
「おい、どうしておまえは、家の中でしないんだよ。おしっこシートも敷いてるし、テラスにも出してやるのに!」
(すみません。わたしゃ、外の芝生が好きなんですよ。テラスは固くてどうも……。きれい好きでしてね)と、パールがそう言うかどうかは別として、空には聞こえないので、真夜中でも玄関のドアに走って行かれると、空もパールとタウンハウスの入り口辺りまで一緒に走らなければならない。
 ここは、タウンハウスという二階建ての小さな家が十軒連なる集合住宅なのだ。一階のフロアは、キッチンとリビングに、外に小さな庭のようなテラスしかない。家の中は、絨毯敷きでパールでも上れる階段があり、二階には2つのベッドルームがあった。トイレが上と下に二つあるのはいいが、空にはそうじが面倒くさい。
「おふくろがこんなしつけをつけちゃった。困ったものだ」
 そして、パールのトイレのため、夜でも外に出ることがあるのだ。
「ガッ、グアッ、グアーォ!」
「あれ、このターキー、前にも見たことがあるぞ!」
 そんなある日のこと、タウンハウスの前の道路を、大きさだけはともすると孔雀のような風貌のターキーが、羽を広げて歩いていた。空が叫ぶのもそのはずである。このとても大きなターキー(ここでは、皆がそう呼んでいる)は、空が昨年まで住んでいたワナリーという町によく出没していたのだ。そこでは、ラッキー・ベンジャミン・ミカエルという名前だった。
「よく似ているよ。おまえは瞬間移動してきたアイツだろ。頭のおかしいおふくろと話していて手なずいていたあの鳥だ」
 そのターキーは、体は黒くて、顔は赤く、羽毛のない顔の口の下、首に鮮やかな黄色の大きな肉垂が垂れている。和名は「ヤブツカツクリ」と言うが、こんなに大きなものは、そうどこにもいない。
 その大きさといい、のしのしと勇敢に歩く姿は、まるで別世界からやってきた異邦人、いや異界の鳥のようだ。未来が天使と言うのもうなずける。その広げた黒い羽は、光の当たり具合によってはほかの鮮やかな色があるようにも見える。構造色のようなマーべラスな魅力がある。
 事実、これからまた、この神秘的だが人間的な匂いのする雰囲気のおかしな天使……大きなターキーと会って、摩訶不思議な怖い事件に巻き込まれていくことになるとは、このときにはまだ、空もパールも気づいてはいなかったのだ。

タウンハウスの隣人

こうして、週に何回かパールに起こされ、空は夜中にタウンハウスの入り口まで出ることがあった。仕事で疲れてしまって、早く寝てしまったときにかぎってパールに起こされる。
「そういうもんだ。仕方がないなー」と、パジャマ姿の空は、ぼやきながらパールと外に出た。
 タウンハウスは公共の中庭があり、その入り口の総合玄関は、門は開け放してあるが小型車がぎりぎりに二台通れるくらいの狭さだ。
 パールは玄関を出て、すぐわきの芝生で片足を上げた。マナー的には、おしっこの匂いがつかないだろうかと気にもするが、そこは、この熱帯雨林の町……雨の日が多く、雨季にはスコールも激しくふるので、皆気にもしない。しかしながら、最近の異常気象で、ここのところ雨がふらない。
「あれ、こんな夜中にうろうろとなにやってんだろう?」
 さっさと用を済ませたパールが、帰ろうとリードを後ろに引っ張るのを手繰り寄せて、空は犬を抱きかかえた。なんだか、不吉な感じがしたのだ。向かいの歩道に、歩いている背中を丸めた黒い人影があった。
 その人は、空の家の横のプールを挟んで、隣に住む住人だ。夫婦で住んでいるらしいが、非常に目立たないように心がけているのか、普段から影が薄い。なにをしている人なのか分からない。
 奥さんの方は、どうやら病院の清掃員の仕事をしているらしいが、旦那の方は家で毎日ぶらぶらとしているようだ。引きこもりのように見えているが、空はどこかの国のスパイではないかと疑っていた。移民の国だから、色々な人が住んでいてもおかしくはない。しかし、ふたりともちょっと肌の色が浅黒くて、どこの国のスパイだろうかと疑心暗鬼してしまう。それは、失礼な空の勝手な偏見と妄想だ。
 しかし、とにかく変わった住人だった。空の二階の窓からは、下にプールのスペースがあるために、この隣の側面がよく見える。その窓とカーテンが開くことはなく、ドアもいつも閉まっている。物音はなにも聞こえず、ほとんどだれも訪ねてくることはない。いるのかいないのかを忘れてしまうくらいだ。
 集合住宅なので、時折公共場所の修繕や規則についての会合があるが、ほとんどが欠席。どうしても参加しなければならないときは、奥さんが来るが、後ろの方で帽子を目深に被り、サングラスをかけて立っていた。
 ここで一番の有力者であるタウンハウス一号室のラリーからの話では、中庭や玄関周りにせっかく植えたアマリリスやストレリチアの花が咲くと、この旦那がそれをむしりとってしまうのだそうだ。今度は、ブーゲンビリアの鉢を買ってきたのだが、自分の家の前に置くのだと憤慨していた。頭がおかしい変人だと言っている。
 空は、大学時代を過ごした以前のワナリーという町で、母親の未来が犬との散歩道で遭遇するいい話の中で――花言葉に関わる花達と同じ名前を聞いて、ラリーの話が気に掛かっていた。
(よし、おれがいっちょここで声を掛けてみるか!)
「こんばんは。遅いですねー、どちらかおでかけですか?」 
 隣の旦那は、後ろからふいに声を掛けられたので、一瞬驚き、その肩がびくっとしたようだ。そして、落ち着き払った様子でゆっくり振り向いた。
「毎日、暑いですね。夜風は気持ちいいものですよ。もう少ししますと、病院の仕事から妻が帰ってくるので気分転換に散歩をしてるんです」
(なにが、気分転換なものか。花をむしったり嫌がらせをして、そりゃストレス発散じゃないか!)
 パールがなにかを悟ったのか、かなり低い声で「ウーーッ!」と、短く唸った。パールは、通常は無駄吠えもしないおとなしい性格の犬だ。特殊な能力を持つ空の母親とは、お互いになにを感じているのかという意思疎通ができる。その感性が研磨されているので、ときには空の感じることや思うことも分かってしまう。
 小型犬にしては八キロもあって、少々メタボぎみなのだが、いざ危険を察知すると素早く行動にでる。力の限りに吠える。空を守るSPのような存在の番犬だ。
 そこを、反対側からあの例のターキーが横切って来たので、空は少し驚いた。
「あれは、ターキーだよ」と、空はうまくごまかした。
 この犬がなにを言いたいのか空には具体的には分からなくても、長年一緒にいるので、しまった! おれが旦那に悪意を持っているとこいつ、感づいてる、というくらいは分かるつもりだ。
 この悪党の匂いがする敏感な男に、パールが嫌いな人であるという印象を与えてしまうと、こっちも隣人なだけに困ると空は思った。
 隣の旦那は、それには目もくれずにきびすを返して、自分の家の方向に行ってしまった。
「なんだ。案外思ったよりそんなにナーバスなこと……じゃなさそうだ」
 空はほっとため息をついた。
 お門違いに出てきたいつものターキーは、「ガッ、グアッ、グア
ーォ! ガッ、グアッ、グアーォ!」となにかを訴えるように鳴く。空とパールの前を、羽を広げながら走って行った。
 このターキーは、余程のことが無い限り飛ばない。いや、飛べないので飛んでもせいぜい数メートル上の大木の枝や、家の屋根に上るくらいしかできない。
 ターキーの走って行った場所は、タウンハウスの左斜め前、教会のような建物裏の児童公園だった。パールが追いかけてしまったので、空も懐中電灯を片手に道路を渡った。空とパールは、その先の児童公園の中を覗いた。
「なにもないじゃないか? パールなにか感じるのか?」
 パールは、街灯に照らされ透けるように見える隙間だらけの木塀の間を、頭を下げて低い位置からじっと覗いている。空は、懐中電灯を照らした。
 児童公園の中央で、遊具になっている大きなトレーラートラックのタイヤがある。それは、縦の状態で半分近くが地面に埋めてあって幼児がくぐったり、上ったりできる。タイヤ再利用の遊具は三つあった。
 そのすぐ横には、小さなブランコが二つ並んでいた。タイヤの生地を利用している。その左側のブランコがだれもいないのに、静かに揺れていた。まるで、透明人間がこいでいるかのように……。
 空は一瞬、背筋がぞっとしたが思い直した。
「ほら、ターキーが走って行ったからだよ。風で揺れたんだ、パール」と、言いながら気持ちを落ち着かせた。
 ここは、廃墟となってしまった古い教会をリメイクして、地域の人達のイベントや、憩いの場所として使用できるようになっている。その歴史は古く、建て直されたのがおよそ、七十七年前の第二次世界大戦勃発前であったという教会だ。
 教会は遠くイギリスからの伝統を重んじる由緒ある紋章を持っていて、その建物の正面玄関の上にはそれが重々しく彫られていた。玄関はどっしりとしたオークの木製で、観音開きだ。
 紋章は、近くで見ると、丸い地球のような球体に、もうひとつ中にも球体があり、大きな三角でかわいらしい目が二つある。遠くからだとスマイルマークに見えるので、空には少し滑稽な印象を与えおもしろく感じた。またそれは、なにかを思い出させた。
 玄関脇には、お寺にあるような木製看板が立ててある。そこには、建て替え前からの教会の牧師をはじめ、オーソリティーな歴代メンバーが写真と名前と共に記されていた。 
 その写真は白黒で、何度か修復はされてきたのだろうが、劣化して少し黄色く変色している。空は、今までそれをきちんと見たことがなかった。懐中電灯をかざして夜に見れば、それはかなり不気味な印象だ。その写真の右下に消えかかっている文字がある。「ファンシー教会?」と、空はそれを見たときに驚き、声を上げてしまった。
 ファンシー教会の本部は、ブリスベンにある。それは、昨年まで空と母親が住んでいたワナリーという場所で、フェアリーフィールドという駅からダドリーストリートという坂道を上る途中に、小さくひっそりとあった。
 かわいらしい小さな教会よりも、隣接している廃墟のビルの方が大きい。そこは、貸しビルとして看板が出されている。だれも借り手がいなくて、夜な夜な夜行性の動物達が出入りする三階建ての不思議な感じがする建物だ。おかしな未来に言わせると、そこは、傷ついた動物達の魂を救うという、猫達が看護師で働いているファンシーな病院だったのだ。
 その地域担当で、死んでしまった動物の魂を救うために日夜努力しているターキーがいた。ターキーの姿を借りた大天使で、病院長でもあり、名前をラッキーと言う。とは、この話は全部が、空のおふくろさんが特別なインスピレーションを受けて、違う世界が見えてしまったというお話しなのだ。事実、この年は、この地域で川が氾濫して大洪水という大災害があり、未来は心を痛めていた。未来達の家の裏の雑木林に現れる威厳のある大天使のターキーと、未来は心が通じるようになっていったのだ。
 この人、未来というが、その名前のように、未来の第三の知覚が働いてしまうことがあるらしい。直感で、動物と話すことができる。どこまでが事実で、どこまでが想像なのか空も分からない。ワナリーでの数々の奇想天外な不思議体験は、空も空の友達も巻き込まれた。しかし、彼らはこれらのおかしな体験で、コスモスという言葉で宇宙との一体化を感じることに、楽しみと快感を感じていた。
「忘れていたよ。この感覚……。なんだろうねぇ、パール。またなにかが起こるような気がする。でも、楽しいことじゃない。なんだか胸騒ぎかな?」
(だいじょうぶですよ。わたしがついてますから)と、言うようにパールが空を見上げた。
 暗闇のとばりの中、どこに潜んでいるのか分からないが、獣の声のようにも聞こえるたくさんの鳥達の叫び声を、静けさの中に空は確かに聞いた。
 翌朝は土曜日なので、寝坊をして空はゆっくりと起きることができた。パールと少し遅い散歩に出かけた途中のことだ。少し変わった光景に出くわした。
 ここは、コア・キラーストリートと言う。日本語直訳すると、非常に怖い意味になる。「筋金入りの殺し屋」だ。しかしこちらでは、コアは鉱山を意味する。つまり、その昔、ゴールドラッシュ時代に、金鉱山を採掘するすごい奴という意味で「鉱山キラー」と言うらしい。

ケランダ鉄道

近くのシュガーウォーター駅から、ケランダの山に向かい鉄道が走っているわけは、この金の採掘場があったことに由来する。その歴史は古い。
 およそ四億年前にさかのぼる。この国がまだゴンドワナ大陸の一部だった頃、この地域の地層は海底で作られていった。古代の川が堆積物を運び、こうした地形ができた。
 そのときの海底火山の爆発により、押し上げられたマグマと共に、金鉱脈ができて今のケランダという金鉱山ができたのだ。もちろん、掘りつくした金は、もうここには出ないだろう。
 今から百三十五年前、この元原住民の土地だったケランダに金を発見した移民の白人達が、ふもとのシュガーウォーターに住みついた。シュガーウォーターという名前は、このあたり一面のさとうきび畑からつけたものだ。
 実は、これよりもうひとつ手前の駅がある。田舎町の中心のセントラル駅だ。
 その昔、町から標高およそ七百メートルのケランダの頂上まで、それを鉄道で結ぶ必要があった。ケランダ山は低いが、その太古の森林は野性味にあふれ、なかなか厳しい山なのだ。
 鉱山に向かう鉱夫達は、雨季の頃の長雨や自然災害によって命を落とすものも多かった。長い日にちを閉じ込められれば、物資が来ずに餓死寸前にまで追い込められたという。それでも、人間の金に対するロマンや、一攫千金の夢は途切れない。そこには、たくさんの人の執念や野望が渦巻いていた。
 そして、人々の思いは、さとうきび畑から山峡ルートを通しての鉄道建設へとつながった。しかし、その発展に喜ぶものと反して、さとうきび畑の住人や原住民の反対も少なからず強くあった。
 紆余曲折したあげく、ようやく着工したのが随分と後だった。それは、当時の技術ではかなりの難工事だったのだ。いくつものトンネルに、百ある曲折部、数々の峡谷や滝に橋、それを近代的な設備もなく鉄道労働者は、素手でジャングルと戦いながら、ツルハシやシャベル、ダイナマイトを使い伐採し進んでいった。
 完全にできるまでに、実に十年以上もの歳月がかかってしまい、全部が完成したときには、ゴールドラッシュの時代がほぼ終わっていた。
しかしながら、幸いなことに市民の話し合いによって、当時の面影を残す観光列車として鉄道がここに生き残ることになった。
 この観光列車の通る道々には、金のために命を落とした人や、鉄道建設のために従事した今は亡き労働者の不屈な精神や魂が、今も宿っている。
 スピリチュアルな犬であるパールには、この地域の空気そのものに、なにかを感じているのかもしれなかった。空には、残念ながらその全部を察することができない。ただ、なにかが起きるかもしれないという予感だけは、このときに空の胸にもあった。

電線の大蝙蝠

散歩の途中に、コア・キラーストリートに入りしばらく歩くと公立の小学校がある。小学校は今日は休みなので、いつもは賑やかな校庭も静かだ。
 校門の前の道路を渡ろうと、道路の左右を確認して、ふと上を見上げた。
「わーっ! 気持ち悪ーい。ぶら下がってるじゃないか」
 パールも驚いて、空と同じく上を見上げて首を傾げた。大蝙蝠が、二本の電線に感電して羽を広げたままの状態でぶら下がっていたのだ。串刺しならぬ、両羽に杭を打たれた干物ように見える。
「ジーザス! 残酷に見えるよ。パール避けて行こう」
 空は、パールとそこから離れて数メートル先を渡った。
 ところが、その次の朝も、日曜日なのでゆっくりと散歩に出て、小学校の校門に差し掛かると、今度はそれにもう一匹が同じように、昨日の蝙蝠の隣で吊る下がって死んでいた。やはり、両方の羽が二本の電線に張りつけられているように見える。
「蝙蝠達は、エコロケーションという超音波を使ってるんだろう? これじゃ、なんの意味もないじゃないか。蝙蝠の落ちこぼれが引っ
かかっちゃうのかな。アホな奴だ」
 大蝙蝠達は、電気ショックで一瞬だったのか、その目がかっと見開いたままのように見えた。小さな鳥達が引っかからないのは、一本の電線に止まるからだ。二本の電線にその両羽が同時に当たるとショック死してしまうのだ。
蝙蝠のことについては、空の親友であるダニエル・スミスが詳しい。この町で一番の優等生で、今はブリスベンにある有名国立大学の博士課程で学んでいる。医学部から、その将来は免疫学の研究者になりたいと思っている。大学で、ダニエルが尊敬しているマーラー教授に支持していた。
 ワナリーに未来と空が住んでいたとき、ダニエルは、毎週末に空の家に訪れて夕食を共にしていた。
 未来がターキーのラッキーに頼まれたという話で、大学の近くの川で大量発生した蝙蝠を避難させるのに、ダニエルの知恵を借りたことがある。未来の不思議な能力に興味を持っている。
 その大蝙蝠ぶら下がり事件は、週末には必ずと言っていいほど続いた。空は、しばらくは散歩ルートを変えることにした。
 小学校の反対側の裏門の前には、やはり歴史を感じさせる古い家がある。以前住んでいたワナリーという町にもこういう家が多かったが、ここでも、クイーンズランダーの独特の造りが活かされている。高床式を思い出させる木造二階建てのしぶい趣のある家だ。
 その家の前にも、教会にあるような木製立て看板があった。歴史的建造物であるため、国が保護しているのだ。百年前からあるらしい。
 その元々の家主が地元で有力者だったとすると、その昔のゴールドラッシュ時代に、なにに関与したかは分からないが、その後も発展したこの地域でなにかを営んでいたのだろう。なぜならば金が出なくなった頃からは、観光業で栄えていったからだ。日帰りや一泊旅行を楽しむ旅行者が増えていったらしい。お店もたくさんあったはずだ。
 訪れるカップルも多く、シュガーという甘い! と言う意味も相まってこのシュガーウォーター駅は、スイートハネムーンステーションという異名もついていた。
「こっちの散歩道は蝙蝠がいなくていいけどさ。おまえには、やっかいだなぁ」
 パールは空の足元で、リードが絡まるのもかまわずにくるくると回っていた。道にシュガーアントではなく、グリーンアントが大量発生しているのだ。これは、刺されると人でもすごく痛い。
 パールは刺され慣れているので免疫はあるが、それでも苦手だ。人でも好きな奴はいないが、おしりの部分を食べる人がいる。さとうきび畑の近くの樹木にいるから、とびきり甘いと期待したいが、実際はすっぱいらしい。その昔、鉄道労働者には、貴重なビタミンだった。
 その日も、その家の前で、樹木から落ちてしまったグリーンアントの緑のラグビーボールのようになった巣を、空は気をつけながら眺めていた。グリーンアントが、足を登ってくるかもしれないからだ。パールは見つけると、飛び跳ねて退いている。
 それは、大きな葉っぱを紡いだような個性的な造形物だと空も感心する。グリーンアントの幼虫が、自分で出したシルク糸を使って紡ぐと言う。
 空がなにげなく地面から顔を上げて、その家に目をやったときに、玄関から出てくる人が見えた。
「あっ! 隣の旦那じゃないか? パールよ、どうしてここから出てきたのかな」
 そうは呟いてみても、パールは口が利けないから、しきりに首を傾げるしかない。
 隣の旦那は、さすがにこちらに気づいた様子で軽く会釈をして、反対方向に歩いて急いで帰ってしまった。
 その日はそれだけだったが、あのご近所付き合いの悪い旦那が、ここにいたことが空は気になった。パールも痛い思いがインプットされているグリーンアントの大きな巣が気になるのか、いつもそこの家の前で立ち止まる。ゆっくり注意して歩く。
 それを見てしまったのは、それから一週間後のことだ。高床式の歴史的建造物であるその家の階下、つまり表玄関の階下の風通しがよすぎる物置だ。その少し透けている板の戸びらが開いていた。
 奥にひものロープがあり、吊るされていたのがあの大蝙蝠一匹である。気色が悪い。かなりドライになっているようだが、ダイナミ
ックに羽が開いたままだ。まるで、天日干しの蝙蝠のひらきのようだ。
「あれ、汚いよね。ばい菌やウイルス、病気とかだいじょうぶなのかな?」
 やはり、パールに言ったところで、なにも答えは返ってこないのだが……。最近、ひとり言が多くなったと空は思った。それでも、パールは分かっているのか、理解しようとして、「クウーン」と一声鳴いた。
(でも、あの電線の大蝙蝠は、この連日の猛暑だった太陽光の熱で何時間もさらされているし、ストームでは雨で洗われている。これからは雨季だ。雨と、そしてまた焼かれてと繰り返されてるから、案外それが消毒になっている可能性はあるかな? それをどうしてここに持ってきたのかな? そんなことってありえないか! 今晩、電話をしてみよう)と、空の頭にダニエルが浮かんだ。
 その晩、空はダニエルにスカイプで連絡を取った。
「それでさ、こういうわけなんだけど、ダニエルはこれをどう考えるかな? 悪い病気なんか、ほら……エボラとか怖いじゃん。だいじょうぶと思う?」
「そっちは大昔の熱帯雨林から生息している蝙蝠で、他から離れている大陸的にもその歴史的にも、エボラなどが発生するとは考えにくい。なぜなら、今のところはだが、エボラウイルスが入ってきていないからだ。今のところはだけどね。原住民は、その昔は食していたくらいだ。でもね、油断大敵ではある。こいつらは、狂犬病にはじまるたくさんのウイルスを持っている。なにか、そんなことに関する実験? それともぼくらのように研究ではなくても、調べることにでも使っているんじゃないの? だって、その家の人って高校のバイオロジーの先生なんでしょ?」
 空は、そこの家の住人を調べていた。前の小学校の先生に、さりげなく訊いたのだ。
「それでもさ、そっちの大学のマーラー教授なら信用するけど、どうもねぇ、なんだか大変なことにならなければいいけどって心配しちゃうよ」
「一応、バイオロジーの先生でしょ? まったくの素人ってわけじゃないし、なにがしかの理由があるんじゃないの? だって、他の蝙蝠が、他の地域の電線にだって毎日のように、天然にぶら下がっておだぶつしちゃってるんでしょ。それだって、本当はきれいに片すのが道理だけど、なんともないうちに落ちて消えてるんだからさ。それでも、病気も蔓延していないわけだし」
「そうなんだけどね、とにかく家の隣の旦那が変わり者で、そこの家から出てきたことがまた、考えさせられちゃうわけ。なにしろ、ちょっとこの国の人でなさそうだし、移民と言っても、片す! なんて関東弁が使えるハーフのダニエルや日本人のおれらとは違う……なんだか、スパイのような別世界の人間という怪しげな雰囲気があるんだ。つまり、悪人の匂いを感じちゃうわけ」
「考えすぎだよ。世の中色んな人がいるからね。昔から空はちょっと神経質なところがあるから。とにかく、蝙蝠も千差万別、同じ大蝙蝠でもコロニーや社会性、食性も様々だから防疫システムも多種多様。巨大コロニーでの病原体の再生産率は比例して大きくなる。生命体がこの地球に出現したときから、感染症はあったのだから、六千五百万年前、いやもっと前に枝分かれしてから棲んでいる彼らは筋金入りの人間の先輩だ。大蝙蝠のかじったマンゴーなどを食べて、人にも感染していくのは一つの例で、共存もいいけど、厄介なことに、近縁の家畜にも感染してアウトブレイクを起こす。その形態が分からなければ、これからも増えるであろうおかしなウイルスとは戦えないんだ。って、話はさておき、その変人の旦那が蝙蝠とどう関係してるかは、空の話からは想像もできないよね。スパイなら、最近は問題になり過ぎてるテロ! って話? 蝙蝠から爆弾は作れないけど、生物兵器を作るということかい? それも考えすぎだろ。一部の巷では、エボラもマーズも、意図的だったんじゃないかってそんなうわさが確かにあったけどね」
「この世で一番怖ろしいのは、やっぱり人間だろう? 正義のために、ダニエル、人も動物も平和で暮らせるように、悪いウイルスや菌をやっつける薬や方法を研究してくれよな。神経質なおれから、頼むよー」
「ワハハハー。空が病気になったら一番に行くよ。任しとけ」
「それ、いの一番のモルモットにってことかい? 冗談でしょ。でも、おれは神経質だからね。それなのに動物好きときてる。なにかの感染症があったら頼むよ! 心強いぜ」
「ドッコイだ。万が一のときは検体のサインもお願いだ」
「ほらほら、そういうことを言うでしょ。ドキッとするから困るよ。ドッコイ! そのセリフは、おれ以外にもどこかでなんか聞いた気がする」
「空のおふくろさん―――未来が話していたというターキーが生まれ変わってきた次のヤシオウムも! 天使のラッキーの口ぐせ……だっただろう? 少しそれ、気に入ってんだ」
「ダニエルは、いつものダニエルの口ぐせ、だいじょうぶ! の方が似合ってるよ。それ聞くとなーんか安心できそうだ」
「あっ、そう。サンキュー。ところで、次のイースターホリデーには、そっちに帰ることに決めた。今決めた。それで、その大蝙蝠の吊るしてある家と、コア・キラーストリートと変人の旦那、それから興味をそそられる話を全部聞くよ。なんか帰りたくなったし」
「えっ、そ、そう。だったら、家にも泊まらない?」
「オッケー。だいじょーぶ」
 空は、昼間の胸騒ぎが少し安心に変わり、なんとなくほっとした。それでも、イースターホリデーまでにはひと月以上もあるのが心配だった。
 未来に言わせると、ダニエルも選ばれし特別地球大使であり、大天使のラッキーが信頼していたと言う。
「おふくろのへんてこりんな力……スピリチュアルだとかのお世話が必要にならなければいいけどね。おれは断然に、科学のダニエルの方を信じるさ。ねぇ、パール」
(いやいや、世の中は科学だけでは分からないことが多くあるんですよ)、パールは右と左にしきりに首を傾げていた。
 空は本当は予期していたのかもしれない。そのうちに、未来が来なければならなくなるということを……。

蝙蝠男

空の嫌な予感は的中してしまった。ここに越してきて、あの大天使のラッキーと同じようなターキーに出会ってからが、またおかしな物語の始まりだったのだろう。
「えらいことになったもんだ。まだ、ダニエルが帰ってくるまでに一週間はあるというのに。連絡しなくちゃ!」
 パールもしきりにあくびをしている。気持ちが落ち着かないのだ。タウンハウスの自分の家で、空はキッチンでうろうろとしていた。かなり動揺している。食べたくもないが、朝食になにを食べればいいのか定まらない。腹は空いている。
 プールを隔てた隣の家はすべてのカーテンが閉められ、いつにも増して静かだ。まだ、その遺体は病院から帰ってきてはいないはずだ。
 早朝に、黒いワンピースを着た老婦人がひとりでやってきたのを空は見かけた。あの人は、ここに親戚でもいたのだろうか?
 昨夜、シュガーウォーター駅のすぐ手前の線路上で、隣の旦那は死んでいた。黒いシャツに黒いジーンズに黒いスニーカー! まるで、コア・キラーストリートの電線の大蝙蝠の死骸のようだ。
 両腕を広げて黒シャツの前ボタンがはずれていたので、黒シャツが両横に広がっていた。胸がはだけている。線路の両サイドに両手があるので、横たわってはいるが杭を打たれて線路に串刺しのようにも見えた。立てたら、十字架に掛けられた黒ずくめのイエスキリストのようでもある。
 実際は、杭など打たれてはいない。無残にも、そこを列車が通過した……ではなく、列車は通常の電車などよりずっと遅く走るので、ぎりぎりにそこでブレーキを掛けて止まることができた。まして、駅が近いので時速は二十キロを切っていたはずだ。夜の臨時貨物列車が通り、発見したのだ。
 遺体の近くには、本人の指紋がついた銃が捨ててあった。グロックの二十二口径だが、それは、頭蓋骨を右側こめかみからみごとに貫通していた。弾は、9ミリパラベラム弾で、失敗したときのためなのか、残り一発が残されていた。これはイーグル社のものだ。この銃は、護身用としても密輸でも一般に手に入りやすい。私服のときの警察官も、ここではこれを持っている人が結構いるくらいだ。
 自分で撃って、右手が偶然にも衝撃で開いたから、その姿になったのだろうか。それとも他者による犯行なのかはまだ分からない。
 平凡で穏やかなこの田舎の観光地では、到底考えられない衝撃事件であるため、大変な騒ぎとなった。ニュースに取り上げられて、たくさんのマスコミが来るに違いないと空は思った。空は、夜まで待ちきれずに、ダニエルが部屋に戻る頃の夕方にスカイプをクリックした。
「まったく、イースター前にこれ、本当に不気味じゃない? だからさ、絶対にあの歴史の家が怪しいんだって! 変なおやじのジョ
ージ・ワイルダーだよ。あのバイオロジーの先生が事件に関係してるのには間違いがないでしょ!」
「とにかく、空、冷静になれって。それをおまえが警察に言ったってどうにもならないよ。犯人と決めつけられないし、空がなんでその家をこそこそと見て、探りを入れていたのかって逆に怪しまれる。変死だから司法解剖だろう? 警察だって事件なのか、どうなのかをちゃんと調べるよ」
「でも、あの家にあった蝙蝠だけど、なんのためだか、考えれば考えるほど不気味に思えてくるんだ。普通じゃないだろう? あいつ、バイオロジーなんだし……」
「バイオロジー、バイオロジーって、ばい菌みたいに言うな。どんな菌やウイルスがあるのか? その周辺の住民、子供達がだいじょうぶなのかどうかを、自主的に調べていたのかもしれないし、どこからか依頼されていたのかもしれない。そんなこともぼくらはたまにはあるよ。民間から調べてほしいってマーラー教授だって言われることがある」
「マーラー教授ならあるだろうけど……なんか腑に落ちないんだよなぁ」
「あともう少しでそっちに行くから。空の不安と疑問をなんとかするよ。だいじょーぶ、ドッコイだ」
 スカイプを終えたあとも、空はまだ気持ちが整理できずにいた。
「パールさ、この蝙蝠男、本当に自殺したんだろうか? なんの理由があったのかって、またすごく気になっちゃうよね」
 電線にぶら下がっていた大蝙蝠と同じような姿だったので、シャルル・ミラーという人物を蝙蝠男と呼ぶようにになってしまった。
 それから数日後には、警察はこの事件を自殺であったと断定した。
(そうさ、警察は厄介なものは、皆これで片付けるんだ)
 空は、パールといつもの散歩の朝に、また目の前に現れたラッキーのようなターキーの声を聞いた……ような気がした。ターキーは空の目を、一瞬だがじっと見たようだ。すぐに、きびすを返したようにファンシー教会の裏に走って行ってしまった。
 空は、パールと追いかけてみたがその姿はもうなく、また、あのタイヤ遊具の近くで、だれも乗っていないブランコが静かに揺れていた。
 蝙蝠男は、検死が終わってもタウンハウスには帰ってこなかった。奥さんもいないのか、隣の家は空っぽのようだ。毎日がとても静かだった。
 その後、隣の家は、いつのまにかいそいそと引越しをしてしまったらしい。空は、相変わらずの散歩途中で、怪しい家だと思うバイオロジーの先生のワイルダー氏を探ってはいるが、なにも変化はない。あれから大蝙蝠などが、その家に吊るされているということも見かけない。
 警察が自殺と処理したわけは、蝙蝠男の側にあった銃の指紋が彼のものだったということの他に、決定的だったのは遺書が見つかったのだ。自筆ではなく、ワープロで作成されていた。それは、蝙蝠男の奥さんが家にあったものを見つけて警察に届けた。これは、偽造ではないかと空は疑っている。
「なんだか気味が悪いなぁ。揺れてるブランコ。パールさ」
 ところが、空の言う事にはいつものように耳を傾げずに、パールが突然に走り出した。空は、しっかりリードを離さないが引っ張られた。
「なに急に走るんだよ。これ!」と、無理やりリードを引き、パールを抱き止めた。
「なんだ、こりゃ!」
 公園で静かに揺れているブランコの座席に、真新しくてその白さが眩しい封筒がある。両面テープで貼り付けられているのか、それはブランコと一緒に揺れていた。
 空は神経質だが、好奇心はとても強い。まして、これは空に読んでくれと言わんばかりのような気がした。気味悪い感じはするが、ブランコが風で揺れているのには何度も見ているからもう慣れた。あのターキーが、いつも側を走っていくからだ。だからアイツが、この手紙を知らせているような気がした。
 空は、急いで小走りに、その封筒を家に持って帰ってすぐに開けた。そして、その手紙には、これから起こる怖ろしい事件の予告が隠されていたのだ。封筒の裏には、ラッキー・ベンジャミン・ミカエルと名前があった。おふくろの友達、あの大天使のターキーのラ
ッキ―の名前だ。

親愛なるこの町の皆様へ

これから起こるであろう正義の裁きを――人間の無意味な欲望、傲慢で身勝手な奴ら……その『エゴイズムに死を!』イースターの日に、戒めのために――。暗黒の世界から星星達は現在の地球人に怒り、裁きのサタンがおりようとしている。彼の使命を中断することはできない。
 地球の各地にも、裁きのサタンが来ている。注意してほしい。今後この歴史ある地の舞台でも、欲深い人間がまだ、バベルの塔もどきを造ることを諦めないというのならその人間は、闇に葬られることとなるだろう。
 選ばれし人、「特別地球大使」。自然の流れのチャクラ……耳を澄ませ、清く目を開けて、呼び覚ませ。

 第一のとき 動く個室 ふたつの列車 土
 第ニのとき 流れる水 315 開発会社  
 第三のとき ブダ・ジ  炎の森

 幸運を祈っている。どうか、これから起きることの意味を――愚かな者に知らしめてほしい。

「驚いちゃうよね! まるで、コナンだな。これは、なんの暗号だろうか? パールさ、ラッキー・ベンジャミン・ミカエルって、おふくろが言っていた大天使のことだろう? ターキーからヤシオウムになったり、何度でも生まれ変り、どんな魂でも救いたい、命も大切にする天使なんだから、こんなことを言うわけがないよ。あのターキーじゃないさ」
「ワン!」
 パールは首も傾げずに、迷わずすぐに鳴いた。
「おふくろ、変わっている未来が言うには、ラッキーが特別な仕事があって、宇宙に帰っていったのは事実らしいけれど、これはアイツではなくて、だれか悪い奴が、ラッキーが便りをよこした様に細工したんじゃないのかなぁ。それが、裁きのサタンなのか? いったいなんのために……だ」
「ワン! ワン!」
「おまえも口が利けたなら、かなり心強い相談相手なんだけどね。とにかく、ダニエルに連絡だな」
 その日もすぐにスカイプで、ダニエルの顔を見ることができて、空は少しほっとした。
「これは、明らかにこの町の人間だけに宛てている。愚かな者、つまり、この間の蝙蝠男のおっさんは、きっと殺されたんだよ。そして今後、この暗号のような怪文書で、また怖い事件が起きるような気がするんだ。なんとかしてくれよー。おれらは、こんなこと言われちゃって、なにをしろと言うんだよ。警察にこれ、見せた方がいいと思う?」
「いや、それは持っていったところで、怪文書で片付けられ、いたずらだと言われる。不可解で、我々に問題があるとかって、かえってこっちが調べられる。もちろん、未来さんが空……君じゃないよ、つまり天空からなにかを察したとか、動物達の声が聞こえるなどと言ったところで、彼らが信じるわけはないし変人扱いだろう。これもふざけていると思われるだけだ」
「そうだね。警察とはそういうところかも……」
「蝙蝠男、シャルルの事件は自殺で終わったようだしね。とにかく、まだその後の事件は起きていないわけだし、来週にはそっちに行くから心配するな。だいじょーぶ! その暗号のような箇条書きだけど、ちょっとメールしてくれる? だれがそんなことをするのか、考えてみるよ。その手紙は、証拠で大事だからちゃんと保管しとけよ。だいじょーぶ。じゃあな」
 ダニエルは、「だいじょーぶ」の口ぐせを、ニ連発してスカイプを切った。彼は、いつになく気持ちが少し動揺していたのだろうと空は思った。

第一のとき

嫌なことや予感というものは、なにか起こらないようにと思えば思うほど、磁石のように引き寄せられ起こってしまう。
 空は、ダニエルが来るのを待っていた。今回ほど、こっちへ戻って来るのを心待ちにしたことはない。それほど、不安だったし、隣人の蝙蝠男のおっさんの事件が釈然としないのだ。
 しかし、ダニエルが来る二日前のイースターホリデー直前に、今度は殺人事件が起こってしまった。シュガーウォーター駅に停車した観光列車の中で、遺体が発見された。
 列車進行方向から十四両目、最後の車両のトイレの中で、コルク帽子を被った観光客であろう恰幅のいい中年紳士が、狭いトイレの床に倒れていた。背中を横の壁につけて、くの字に曲がり座っているようにも見えた。すっぽりと狭い空間に押しこまれた感じだ。
 死因は、睡眠薬投与の末、絞殺された窒息死らしい。顔は腫れて、溢血点があちこち見られた。直接の凶器は、まだ発見されていない。これだけの大柄の男をやるのは、相当の力の持ち主でなければならない。華奢な男や女性とは考えられなかった。
 最初の発見者は、車掌だった。列車は、八時三十分にセントラル駅を出てから約三十分後、次の駅のシュガーウォーター駅に九時に着く。十五分ほどの停車をする。まれに、ここから乗車する個人の観光客もいるが、大概はこの駅の利用者は、団体の観光バスから大勢で乗る。ここで、犯人が乗りおりするとは考えにくかった。目立つのである。
 たまにここで時間が遅れることもあるが、なにしろ、一時間後のもう一本と午前中に二本しかない列車だから、細かいことには気にしない。その間に、車掌が車内をきちんと点検する。時間は気にしないが、そういうところは、気遣う。守る。国が違うと価値観も違うのだ。
 警察は、ケランダ鉄道観光列車に予約した観光会社と、観光客を全部あらった。犯人は、被害者となんらかのつながりがある人物なのだろうと、見当をつけて捜査を始めた。
 被害者はイギリス人で、町のセントラル駅で個人でチケットを購入していた。ツアー客でないようで、まだ詳しい身元が分かっていない。どうやらひとり旅のようだ。
 名前だけはチケット購入時のときに分かっていたので、この町のホテルの宿泊者名簿はすべて調べ上げた。しかし、名前が出てこない。
 残されていたリュックサックなどから、財布とパスポートが盗まれていた。これは、盗難を装ったというよりも、恐らく身元がすぐに分かるのを遅らせるためだったのだろうと推測される。ものを盗るだけならこんな手の込んだ殺し方をしなくてもいいはずだ。 
 そして、なぜか母国のデパート会員証を、財布に入れずに上着の内ポケットに入れていたため、これで人物照会することができた。
 それにしても、ハエを追い払うために、コルクをふち周りにつけたオールドフアッション帽子を被っているというのも、なにか不自然だった。今時、こんなものは、観光おみやげ品でしかない。それを、いったいどこで買ったのか? それとも貰ったのか? 不可解だった。
 これくらいの情報は、空の耳にも入ってきた。シュガーウォーター駅の横には、小さい建物だが、資料館と開拓時代の博物館があるのだが、空はそこで、スタッフの人などに聞いていたのだ。
 それを聞いた翌日には、空が待っていたダニエルがこの町に帰省した。ここに実家があるダニエルだが、荷物を置いて軽いリュックだけで、早速空の家にやってきた。
「おおーっ! ダニエルスミス。待ってたぜ。ドッコイ!」
 空は、ノックされた玄関ドアを開けるのも勢いづいた。
「おい、危ないじゃないか! 空、気をつけろよ」
 パールも、尻尾を右に思いっきり振っている。下あごの歯も半分見せて、笑って見せている。最高に嬉しいのだ。
「久し振りだね。パール、パールの顔を見ると癒されるよ」
 ダニエルは、パールを抱きながらリビングに入り、リュックを下ろしてダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。
(頼みまっせ! ご主人様は神経質なもんで……)とパールが言うのを、ここに未来がいたら聞いていたことだろう。
「今日はさ、ダニエルが救世主のように見えるよ」
「なに、言ってんだよ」
「ここ数日間は、なんだか眠れなかったくらいだ。色々と考えちゃってさ」
「今日からしばらくここに泊まるから、安心しろ。それでさ、前回の事件は自殺と片付けられているから、終わったものを蒸し返すのは今は難しい。空、それを混同しないで、今回のこの怪文書と、列車の殺人事件にまず集中して考えよう」
「このへんてこな怪文書は、やはり予告なんだろうか? この意味はなにか考えついた? 物理も得意分野なんだろう?」
「まだ分からん。第一のときが始まりなら、動く個室が列車内とも取れる。がー、またまた、なんでそうきちゃうわけ? 世の中をすべて物理で、真理で片せると思うことは傲慢だと、おれは思うわけ。難しいよね。突き詰められないけれど、この世界では解明されないことは多くて宇宙は混沌としている。医学も、助けられるものがだめだったり、もう無理だと宣告されていても、奇跡的に蘇る命、細胞がある。まだ、色々なことがなぞばかりだ。医者は、天命で決められているかもしれないその命の、病気のその過程をお助けするということしかできないと思う。時として救えない……そう思う自分も、勉強不足で小さく思えてたまに嫌になる。それで免疫学の方向へと、傾いていったのかもしれないけど……なんだかこれからの将来はさ、次々と出てくるだろうたくさんの悪党、つまり病原体との戦争のような気がするよ。あっ、また、話が長くなっちゃうだろ。ほれ、これからどこかへ行くんじゃないの?」
 あぁ、始まっちゃった……研究者というのはだいたいが理屈好きと、ワナリーにいた頃には空も閉口したものだが、最近のダニエルは自分のことをちゃんと理解しているようだ。だいいち、天才ではないし頭脳明晰とは言えない空に語ったところで、ただ感心されるだけだから。
「ドッコイさ、そうだったんだけど、フゥー……」と空は、ため息をついた。
「そう、ダニエルも知ってる高校の同級生だったルイーズの親父さんさ、ここの元警察官で、トップの方だったでしょ。ピーター・マクベス」
「そうだ、以前は刑事だったな」
「でも、今はね、辞めてバジルというカフェをシュガーウォーター駅から近い小さいショッピングセンターでやってるんだ。親父さんは、現役の頃も有能な刑事だったから、今も毎日のように、警察官達が私服のときにやって来る。親父さんの意見を聞いたりしているようなんだ。大きな事件だから、きっと情報が来てる。そこからなんとか教えてもらえないだろうかと、おれが日参してお願いしてた。もちろん、これはただの事件や事故ではないかもしれないと、あの封筒、怪文書も見せたよ。でも、今日はもう店を閉めてるんだ。明日の朝でも行こう」
「そうそう、その怪文書だけどね。一とかニ、三とふってあるところを見れば、それは順番ということになる。今回の殺人が、動く個室とは列車内のトイレの中と取れるよね。でも、ふたつの列車の意味は、以前の事件の自殺だった蝙蝠男のこととで、ふたつの列車に関係していると引っ掛けているのかどうか……だけど。だが、ここは結ぶつけたくないなぁ。さらに、土とはそこの地面に、凶器とかなにかが隠されているという意味だろうか?」
「それって、縄とか?」
「そして、これが序曲だとするならば、正義の裁きのサタンが『エゴイズムに死を!』と書いてあるのだから、新たな殺人を犯す可能性があるということだ」
「それが本当になるとしたら、すごく怖ろしいことじゃないか?」
「ただの偶然で、ただの脅しと思いたいところなんだが、この事件は警察関係の方と接触しておいた方がいい。でも、組織的となると面倒だ。事件には、直接関係のないおれらの方が、どうして首を突っ込み興味を持つのかと逆に、そう、こっちが追求されかねない。それで、確かにルイーズのお父さんならだいじょうぶだ。おれらのことも分かってくれるさ」
「そうだね。高校時代は、ダニエルもルイーズといい感じで、付き合ってたでしょ? 卒業のフォーマルパーティーでも、カップルだっだじゃないか!」
「おい、それは関係ない」
 優等生にありがちな少し不器用で、気がつくのに遅いダニエルは、首を振ってから空の目を見た。
「いや、少しあるか……。今は勉強に忙しくて、ずっと連絡をしていなかった。彼女も、卒業までは大変な論文の量を抱えてたみたいだ。確か、彼女も半年遅れで、今度の六月には卒業できるんじゃないかな」
 ダニエルは、医学部を出ているが正式な医師になるにはまだ数年ある。今は、まだまだマーラー教授の下で、博士課程で研究していたいと思っている。
 ルイーズは、地元に近い大学で薬剤師としての勉強をしているので、卒業したらインターンとしてどこかに勤めるのだろう。
 まもなく社会に出て働き始めるルイーズに連絡しないのは、ダニエルが彼女に対して少し気後れしているのかもしれない。(そんなこと、ダニエルにはないか? それは、このおれじゃないか。働いていくのに自信がない……飛躍できないもんなぁ)と、空は思う。
 しかし、人生はそもそもがファンタジーに満ちているんだと、そうラッキーが伝えていると、未来が言っていた。それぞれが来る道で、一生懸命に生きればいいんだとそう教えてくれたんだった。
 これ以上の事件が起こったならば、もう未来を呼ぶしかないのかな? と空は考えていた。
(本当は、スピリチュアルだの、おかしな頭のおふくろのパワーを借りたくはないんだけどね)と、それはダニエルの前では言葉にしなかった。パールが、(久し振りに、お母さんに会いたいです)と未来にテレパシーを、送ったかもしれない。

 翌朝は、空も図書館勤めが休みだった。そして、明日からはイースターホリデーに入るので、空も有給休暇と合わせて二週間は休日だ。ダニエルもそれに合わせて、空のところと実家とを行き来しながらここに泊まるらしい。
 もう四月だというのに、まだ暑くて残暑が厳しい。季節は、この国では冬に向かっている。元々が亜熱帯地域であるが、このところ空が毎年感じるのは、ここも異常気象であるという現実だ。
 人口が増え続けた結果、今後は生物が摂取しなければならないエネルギーがどんどんと増え、この星は今に自爆してしまうだろう。食料、そして大切なのは、水! だ。もしかしたら、環境が破壊されても蝙蝠の方が生き残るかもしれない。ただ、漠然とだが空はそう思う。奴らは進化が上手だ。人間も変わらなければならない。
 そんなことをまた、ダニエルと話しながら、(おれってなんてインテリ!)などと自分本位な自己満足をする。それより、今朝の朝食はどうすんだ……と未来に言われそうだ。
 早く起きてしまったので、空とダニエルはパールの散歩を兼ねて、カフェバジルに行くことにした。
「腹が減ったが、カフェは今日は少し遅く開くんだろう? 仕事休みが多いから、スペシャルモーニングはなくて、九時からだって? 観光客は途中のシュガーウォーター駅で下車してまで、カフェには寄らないからかな。でも早く行こうぜ」
「ほい、ドッコイだ。ダニエルは、いつでも食べられるんだなぁ。だから、手っ取り早くのコーンフレークなんかになるんだろ? 自分は朝はトースト、またはクロワッサンにフルーツ、断然ラテ! と決めてる」
「コーヒーと言えば、ここじゃカプチーノだろ?」
「おれは、カフェラテだね」
「おまえはパリに旅に行ってから、なんかかぶれちゃったんじゃないか? 未来もカフェオレ派だったよね。こっちではカフェラテと言うでしょ。これはイタリアンだよ」
「そうだっけ?」
「カフェオレは、ミルクが多い。コーヒー牛乳みたいなもんだ。ラテはエスプレッソだから濃いんだよ。。空、バリスタ本当に持ってんの?」
「忘れちゃってたかも。大学時代に、講習会だけで取ったからね。この国に合わしているやり方だし。ダニエルはなんでもよく知っているよね。暗記力もすごいなぁ」
 未来は、ラッキー・ベンジャミン・ミカエルに出会ってからその名前が気になって仕方がなかったので、大天使ミカエルに会いにパリまで行ったのだ。
 ちょうど、空が大学を卒業したあとだったので、一緒に旅行ができた。そのときにダニエルは行けなくて、その一年後に父親の母国から欧州を単独で一周している。イタリアにはもっとも多く滞在した。
 そんなふたりが頭に浮かぶのは、偉大な三大天使のひとり、ミカエルだ。
 一月のシーズンオフで、観光客も少なく、寒い冬のパリの片田舎……。未来は、だれもいない由緒ある古い教会に君臨しているミカエルと、一時間以上も向き合っていた。空は呆れてホテルで待っていたのだ。
 ダニエルも自分の名前と関係がまったくないとは思えず、イタリアにある数々のミカエル像を見てきた。
 最後の審判では死者の魂を天秤にかけて、ミカエルはその魂を上に上げる。堕天使と戦い、サタンを地獄に落とす。もっとも神に近いところにいて、よろいで身を包み、剣とそして天秤を持っていた。未来は天秤座だっ! そんな思い出話をしながら、パールの散歩をするべく、歩いて少し大きな公園へ出かけた。
「でもさ、ラッキー・ベンジャミンのベンジャミンは、フランクリンとすれば、アメリカ人でかなり現実主義者で百ドル紙幣にもなってる倹約家でしょ。それなら、ターキーの彼は、ハーフってことになるね。実におもしろい。そんな名前をおふくろはなんで知ったのかな?」
「空、その実におもしろいは、おれのセリフでしょ!」
「ちょっと言ってみたかっただけ。まぁまぁ……」
(未来や空も人間としてちょっとキャラが変わってると思うけど、ダニエルも相当おもしろい人ですね……)パールが犬でなければそういう言葉で言うだろう。空とダニエルの顔を代わる代わる見上げて、大きなため息をもらした。
「しかしね、現実的で十三徳なんか作るような反面、彼は物理学者、発明家でもあったんだ。政治家としては苦労したみたいだけど。おれの家と同じイギリスからの移民、イギリス人で、その植民地はアメリカだけどそこでずっと育ったんだ」
「そうか、イギリス人なんだ。ラッキーは、天使で、どっちの国だろうがどうでもいいんだから、深い意味はないんじゃない?」
 パールは、よく知っている公園なので、空のリードを引っ張りながら先へと歩いた。
 公園道は広場側の国道から、遥か向こう側の道まで行くのに、さとうきび畑とさとうきび畑を結んで走る鉄道の線路に平行している。途中には、小さな踏切があるところもあるが、なくてそのまま通過する線路もある。空は、それを渡ることもあるが、危ないので大抵は国道から向こうの道へと、鉄道を右側に見ながら歩く。今日もそうだった。
 パールが足取り軽く踏んでいく足元には、青い空のような色のツユクサが逞しく咲いている。また、季節はずれのキンモクセイが、ちらほらと花を咲かせていた。
 近くを同じような色の黄色の蝶達が、乱舞していた。そしてそこを、おりてきたマグパイ(カササギフエガラス)が、口を少し開けてスキップしていった。日が昇ってくると電線の上は暑いのだろう。
「こいつ、ターキーのラッキーの子分じゃん。未来に言わせるとね。まったく、季節はどうなってるのかな? 日本ほど、ちゃんと四季がないとはいえ、このところは、まったくどこもおかしな自然現象だよね」
「その危機感は、おふくろが一番言っていたことだ。このままでは、地球は死んでしまうと感じていたみたいだよ。今に恐ろしい事態になると! それで……」
 そこで、空の声が聞こえなくなった。向こう側の道路方向から、いつもならさとうきびを運ぶおもちゃみたいなディーゼル機関車が走ってきたのだ。狭い線路を走る音は、雑にガタガタと音がする。
 運転士だけが乗っており、先頭車は華奢なフェイスのくせに、後ろには長い貨車が続いている。今日は貨車の中は、いくつかは枯れ草や木々を載せていたが、他は空っぽだった。時折警笛を鳴らすが、それは甲高くて耳障りだ。
「うるさいなー。この朝の時間に」
「そうか、この時間か! そうだ……」
「なにか運んでるんだろうけど、ちょっと早くない?」
「空、シュガーウォーター駅に着いてすぐ、観光列車はチケットをチェックに車掌が来るんだよね。あの事件はそこで発見されるわけだけど、その前に犯人はいなかったとされ、見つからないと言ってただろう? 事件が発見されて、駅で列車は止められて警察が来るまで皆足止めされた。警察は犯人の逃走経路がつかめてないんだったよね。座席は全指定だし、満席でもなかったあの日の乗客は全部調べた。シュガーウォーター駅でおりた人を皆、見ていない。セントラルからシュガーウォーター駅の間で、犯人はどこで乗り、どこで消えたのかが分からない」
「シュガーウオーター駅で不審人物がいなかったってこと?」
「それだけどね、今、少し分かったような気がする。子供の頃から見てるから気がつかなかった。この先にさ、シュガーウォーターまで行かないずっと手前に、この貨物列車と、ケランダ鉄道が交差するところがあるじゃないか! いつもぶつからないように、うるさく警笛を鳴らしている。あのポイントで、もしかしたら、観光列車から貨物車のカゴの中に飛び移ったかで、さとうきびの中に隠れて何食わぬ顔でここら辺りでおりたのかもしれない。時速はニ、三十キロで、ブレーキを掛けるところではもっと遅くなる」
「ただ、今は収穫の時期でもないでしょ。それにさとうきびじゃ、その中に埋もれるのは匂いとかで、きつくない?」
「この貨車はいつも走ってるだろう? これは、さとうきびだけじゃなくて、雑草とか枯れ草、畑の土や不要なゴミなんかも運ぶわけなんだろうね。シーズンでなくても活躍してた」
「そうだね。おれら子供の頃から、いつもこのかわいいトロッコで走っているのを身近に見てきた。ちょい昔まで、蒸気機関車だった気がする」
「枯れ草や干草なら、全然だいじょーぶじゃないか。虫とか蛇にやられたら馬鹿みたいだけど」
「それなら、そういうここの事情もよく知ってる奴か? 虫除けなんかのハーブオイルでも塗ってりゃだいじょーぶ!」
「それ、だいじょーぶはおれのセリフ……だ。クロスカントリーで、おれらも危ないところを走り抜けるときに、学校で塗ったじゃん」
「途中で、減速したところで飛び移り、おりて逃げたとしたら、場所が少し分かってくるかな?」
「そう、あらかじめ用意しておいて隠しておいた自転車にでも乗れば、簡単に逃げられるよ。セントラルから乗車したばかりの乗客は皆、デコされてる車内や移る景色に気を取られ、車内を動いたりして写真やビデオを撮ったり、窓から景色を見たりとまだ席に落ち着いていない。犯人はまぎれていたんだろうね。最後部の車両の指定席には、次の駅まで、最初は客がいない。そこへ移動してふたりだけだった可能性が高い」
「逃げてバス停に行っても、なかなかバスは来ないしね。それはすごくいい推理かも! それなら、離れているその場所での不審な自転車など、目撃情報を調べたらいいかもね。もちろん、車内目撃も重要だけど」
「そうだ。たぶん、スピードを落とす場所というのは二箇所。この公園の近くと、セントラルを出てまもなくのところだ。というと、列車が出てすぐに犯行に及んだとも考えにくいし、やはり、怪しいのは交差するここだ! 自転車でもバイクでも隠せる場所はたくさんにある。いや、もちろん自転車だな。バイクでは盗まれる可能性や、目立つということがあるだろう」
「ダニエル、それで、動く個室が列車内最後部のトイレ、ふたつの列車の意味が少し解けたとしても、土の中はなんだ?」
「まっ、そのうち分かるさ、だいじょーぶ。とにかく、ピーター・マクベス氏、彼の店カフェバジルに行こう!」
「パール、朝のうちだから、テラス席で付き合えよ。暑いのは苦手だけどまだだいじょうぶだから」
 パールは、首を両方に傾げて、「ワン!」と鳴いた。パールは、カフェのお付き合いが嬉しそうだ。この犬は、道を歩く人間の観察、動く景色を眺めるのが好きなのだ。未来がパールと散歩するときは、途中で公園やビーチ沿いのベンチに座ったりして景色を眺めるのが日課だった。

 良質なコーヒー、アラビカ種のフレンチローストが、カフェバジルの店内に香る。エスプレッソマシンの前では、バリスタの資格を最近取ったルイーズの弟が大忙しだ。
「やぁ! ウィリアム。元気か?」
 ダニエルは、ウィリアムとパチンと音をさせて右手を合わせ、短く挨拶した。
「ウィリー、忙しそうだね。もしかして、ルイーズも帰っているんじゃないか?」
「おいおい、余計なことを言うな。とにかく、ピーターに情報を訊こう」
 ダニエルの顔が少し恥ずかし気に紅潮したように、空は感じた。
 ウィリーが奥のキッチンに呼んだので、ピーターはすぐに外のテラス席に来てくれた。
 空とダニエルは一通りの自分達の推理と、持ってきた封筒を見せて、重要と思える怪文書についての見解を話した。
「うーん。ううーん。それも十分に考えられる」
 ピーターも、元警察官だったので守秘義務を守らねばという思いがあるから、言葉を随分と選んでいる。
「ダニエル、空。君達だから言うんだよ。この怪文書のこともあるし……。ここで聞くことは、絶対他には漏らさないことを約束してほしい」
 ピーターは、ダニエルと空の目を交互にじっと見据えた。
「分かりました。約束します」と、空がすかさず言った。ダニエルも黙って頷いた。
「よし、じゃあ少し話そう。まず、物的証拠だが、指紋は残されていないが、足跡はあった。それは職人の履くようなタイプの型だったから、犯人はかなりがっしりとした男と考えられる。それから実は、そこの公園のふたの無い排水溝から、凶器と思えるチェーンが発見された。犯人が排水講なら、水が流れてその指紋や血液などが分からなくなると考えたのだろうかね。捨てられていた。それは、ジーンズにつけるウォレットチェーンと呼ばれるものらしいんだが。それと同じものを、被害者が身につけていたので、発見の手掛かりとなった。偶然同じものというのもおかしい。それから、パスポートや財布などの所持品は見つかっていない。捨てたのが公園のゴミ箱なら、すでに回収されて処分されてしまったのかもしれないが……一緒にチェーンが捨てられていなかったのは、分別のゴミ箱で一緒に捨てたらばれるかもしれないととっさに思ったのだろう。財布などは、自分の家に持ち帰り燃したとか流したということも考えられる」
「どうして、犯人は、自分の持っていたウォレットチェーンを使ったんだろう? そこにもあったのに……被害者の腰に」
「空君、なにしろ、事件でも事故でも、意外に些細なところから解決に向かうヒントが浮かぶものだよ。犯人は焦ったんだろうな。外せなくて自分のをとっさに使ったとかね」
「なにしろ時間がない。だめなら、駅に着く寸前に犯行を諦めなければならないということでしょうか?」
「なんとしても殺る……と、思ったんだろうねぇ。同じウォレットチェーンを、刑事が線路にたどってちょうどこの辺りの公園を探っていて、偶然に見つけた。この刑事は頭の中に、ウォレットチェーンと、被害者が被っていたコルク帽が気になっていたからね。だが、まだ睡眠薬を飲ませたであろうコップのようなものも見つかっていない」
 ダニエルは気持ちを落ち着かせるために、カフェラテを一口飲んだ。
「あの、その被害者の身元は割れているんですよね」
 空は、気持ちが焦る。その足元でパールは伏せていた。時々あくびをしている。カーミングシグナルで、(落ち着こうよ!)と、空に教えているようだ。
「まぁ……しかし、まだ完全に確定ではないから。もう一度言うがこのことは絶対に今、口外しないでくれよ。いずれ分かることだが、被害者は、名前がカルロス・オルコットで、イギリス人だ。四十五歳で独身。離婚暦がある。持っていた会員証から分かったことはだな、どうやらイギリスに住んでいて、ここになんらかの理由で旅行に来ていたらしい。ただ、その理由に当てはまると、わたしは思っているのだが、彼のひいひいじいさんはその昔に、ここシュガーウォーターに住んでいたようだ。それは、ここのケランダ鉄道工事にあたって、千八百八十七年に土木工学者と共に、ダイナマイトの危険物取り扱い技術者として来ていたというのが、パソコンで分かったんだ。名前は、マイケルと言う。もちろん、マイケルは仕事を終えるとイギリスへ帰国している。百年以上も前の話なんだがね。それから、警察がカルロスの自宅へ連絡を取ってみると、彼の母親が出て、カルロスの父親が最近病死していることが分かった。ここからはわたしの憶測なんだが、彼はこの父親から、亡くなる前に、マイケルから伝わる大切ななにかを聞いたのではないか? それを確かめるためにここへやって来たのではないかと思う」
「すごい――そんな昔! 歴史的に秘められた伝説のような話ですね。きっと」
 空は、興味津々と、しかし神妙に聞いている。
「それは想像するように、確かに歴史の秘密ななにか……だろうね。亡くなった労働者やマイケルの友人への慰問かもしれないし、なにか他の理由かもしれない。あっ、余談だが、マイケルは、ここに出稼ぎに来た北米で働いていた鉱夫達から聞いて、ジーンズを作ったりしてたらしい。ここの工場で作っている今のものとは大分違い、素材は悪かったらしいが、インディゴブルーという染料は、蛇や虫よけにもなったらしいね。とにかく、その時代はゴールドラッシュで湧いたからね。出稼ぎは多かったから、ジーンズも重宝された。売れただろう」
「空、被害者のひいひいじいさんは、ここでは少し有名な人だったんじゃないか? それと、その犯人とはここでのなんらかのつながりがあるんだろうね。すごい歴史だなぁー。でも、観光列車の朝の八時半出発がうまい具合に、途中でさとうきび畑の貨車と重なる時間が分かっているとか、列車は全指定だから、セントラル駅では隠れていてざわついている列車にうまく無賃乗車して、チケットを調べられるシュガーウォーター駅に着く前に、おりるのが都合のいいことを知っているとなると、地元の人間だろうね。その日に列車がそう遅れないか、途中で貨物列車がほぼ時間通りに来るかを分かっていたんだろう。おそらく、なんらかの形で知り合いとかに尋ねておいたのだろうね」
「ダニエル君、すばらしい推理だ」
 空はちょっと考えていた。
「そうだろうね。ここは、時間がルーズなところもあるから、だれかに聞いていた。それから、通常はこの列車のトイレは全部が使えないことになっている。途中の駅で停車したときに、そこで用を足す。なにがしかの緊急のために後ろだけのトイレの鍵が開いていることを知っていての犯行ならば、わざわざここに遺体を置いて、なんの意味があるのかな?」
「空、それは、見せしめなんだろうな。なんとなく感じるんだけど、ケランダ鉄道を意識しての犯行だよね。怪文書の予告が、なんだか気になり出したな。凶器も被害者のジーンズの腰についていたチエーンでなくて、わざわざ自分のを使ってるのも変だね。それは意図的に持っていたのだが……使っちゃったのは、手っ取り早く行うのに、カルロスのチェーンが取りにくかったからということなのかなぁ? 公園で捨てたんだし、自分のが凶器になった。それに、財布は盗られていたのだから、ウォレットチェーンにはつけてなかった。もしかしたら、この犯人がカルロスを呼んだのではないかな? チェーンとコルク帽は、おみやげで渡していたか、その前に買わせていた! お揃いだ! 犯人は、遥か昔の歴史を……マイケルの話を知っているここの人間だ! と思えませんか?」
「ドッコイ! さすが、ダニエルだね。そう考えるのが自然かもしれない」
 空が感心するように頷いた。
「なるほど、そうだな。それとね、マイケルが昔ここで住んでいた住居は、歴史的建造物で保護されている建物だ。ほら、あの小学校の前の……」
「あっ、ピーターさん、それはバイオロジーの先生でワイルダー氏が、今住んでいるんですよ。そうだ、この話も聞いてもらってもいいですか? ダニエル、いいか? 話すよ」
「空君も、ダニエル君も、刑事にしたいくらいだよ」
 そして、空は隣人だった蝙蝠男のことも、それが自殺というのが腑に落ちないことも、ピーターに話した。ダニエルは始終黙っていたが。
「あまり、深入りはするな。しかし、君達が持ってきてくれたこの怪文書は、わたしが考えてみよう。信憑性に欠けるから今は伏せておくが、警察にはうまく促せるように……それを活かせるようになんとか解明し、信用できる奴に相談をしてみよう。ダニエル君もなにかを発見したら、分かったらすぐにわたしに知らせてくれよ。決して自分達だけでは動かないように忠告しておく、くれぐれも気をつけろよ」
 ピーターが心配するのも無理は無い。空もダニエルも皆、ウィリアムとルイーズの大切な友達だから。ここの仲間達だからだ。
 空とダニエルが帰ろうとしたとき、そのルイーズが、奥のキッチンから顔を出して手を振った。ピーターが外のテラス席に座っているあいだは、ルイーズがキッチンにいたのだ。
 ルイーズは肩までの金髪を幼かった頃と同じに、懐かしいみつあみにしていた。
「おい、よかったじゃないか?」
 空がダニエルに、ウインクした。
「やれやれだな。って、だいじょーぶ!」
 なんで、やれやれ……なのかだが、ダニエルはなんだか嬉しそうに空には見えた。

ジョージ・ワイルダー

それからその日の午後に、歴史的建造物に住んでいるジョージ・ワイルダーのところへ、空とダニエルは意を決っして向かった。 
 ピーターにはちょっと内緒だ。余計なことはするなと忠告を受けたばかりだ。それでも、空が気になってたまらないので、ダニエルも付き合うことにしたのだ。
 グリーンアントの好むガムツリーという木を見ながら、この歴史を記した木製立て看板より中へ向かうのは初めてだ。パールは噛まれると痛い大きな蟻を覚えているので、それ以上は進まない。空がパールを抱っこした。
 典型的なクイーンズランダーの造りで、十四、五段ほどの階段が、二階でど真ん中の玄関に続いている。
 玄関の周りは、屋根があるバルコニーが回廊状に囲っている。少々すすけてはいるが、白いペンキで統一され塗られていた。その昔から、幾度となく補修され、塗り替えられてきたのだろう。白いペンキのでこぼこが目立ち、そんな歴史の重みを感じさせるようだ。事実、階段を上るのに、古びた木の板が、まるでラップ音のようにピシッ! と音をたてた。
 空とパールが先頭で、そう大きくもないが、木製で白い色の玄関に立った。
 ダニエルは、階下の物置の隙間を覗いていた。黒い蝙蝠が吊る下がっていないか、なにかの実験道具はないかを見ているのだ。
 空が玄関のドアを叩いた。イースターホリデーに入っているので、ワイルダー氏は学校勤めも休みでいたようだ。ほとんど白髪の頭がぼさぼさで、無精ひげも生えていた。その上半身が裸だったからなのか、慌てて羽織ってきたくすんだ白の古いしわくちゃ白衣が、なにかを物語っているように空は思った。
「突然に訪問してすみません。あのぼくは、この近くのグランデタウンハウスに住んでいる者で、空と言います。はじめまして……」
「挨拶はいい。簡潔に用件だけを言ってもらえないかな? わたしは忙しいのでね」
「あっ、すみません。実は、ぼくの家の隣に住んでいらしたシャルルさんのことでちょっとお訊きしたくて。シャルルさんが亡くなって驚きました。なんせ、隣だから気になります。ぼく、この犬と毎日散歩をするので、ここからシャルルさんが出てきて挨拶を交わしたことが何回かあって、なにか用事があったのだろうかと思っていました。と、言うのはタウンハウスでもだれとも付き合わず、人嫌いのような感じの方だったから……」
 ワイルダー氏は、明らかに迷惑という表情が顔に現れていた。
「それが、君になんの関係があるの? 自殺したのは気の毒で残念に思うが、わたしのところへ来ていたこととはなんの関係もない」
「そうではなくて、本当はぼくが気になったのは、あの……この下に吊るしてあった大蝙蝠のことです。それと、あのシャルルさんがどういうつながりなのかを知りたかっただけで……」
(こうなりゃ、こっちもずうずうしくいってやれ! なんだか悪人の匂いがするぞ)と、空が思ったところで、ダニエルが背後に来ていた。
「あの、階下に注射器と試験管のようなものがありますね。それから、モルモットが小屋の中にたくさんいるのが見えました。なにか、実験のようなことをしていたのではありませんか?」
「君もなんだね! いきなり」
 ワイルダー氏は、ダニエルに向かって不快をあらわにした。
「はい。ぼくは、ドットン国立大学の医学部で、現在は博士課程にいます。免疫学にも興味があって勉強しています。それで、ちょっと思いました。これはなにかを調べていますよね」
「むむむー。君達は、わたしがバイオロジーの教師だと知っているのか?」
「こんな歴史的建造物に住んでいたら、ぼくらも注目しますから職業も分かりますよ。でも、こいつみたいに、たまたま隣人が変人だからって、あっ、すみません。少々変わっている方だったと聞いていたので……。その人が偶然にここから出て来たのが気に掛かり、家の中を覗いてしまうというのは空以外他にはないと思いますよ。他の人は知らないでしょう。だいじょうぶです。空がぼくに訊いてきたのです。大蝙蝠は、最近のウイルスに関して、アフリカでも甚大な被害の原因ではないかと言われているので気になります。だから、先生もきっと、皆さんのためを思って防衛とか、そういう意味でなにがしかの研究をされているのかと考えました」
 ダニエルにそう言われて、ワイルダー氏は顔つきが変わった。まるで、ターキーが驚いたときのように、目がちょっと大きく見開いた。態度が少し変わった。
「むむーっ。まっ、まーそういうことでもある。この辺りに異常に増えだしたフルーツバット、つまり大蝙蝠がどういう危ないウイルスや細菌を持っているかを調べている。そこから、血清を作れるようならいいが……とあの男も望んでいた」
「シャルルさんですね」
 空はダニエルに任せて、ここは少し黙っていることにした。
「シャルルさんは、なんで、血清を作りたがっていたのですか?」
「それはだな。彼の母国であるカバイロ共和国で、フィロウイルスの特殊株による感染症が数年前に流行したのだ。幸い、似ているエボラのようでも、そう悪性ではなかった。彼は、将来的に、昨年に他国で爆発的な感染になってしまったエボラ出血熱のようにならないためにも、なんとかワクチンや免疫血清などができないものかと思案していた。それができたなら、彼は国で、ある意味では英雄であり、金持ちにもなるだろう」
「それなのに、どうして自殺なんかするんです?」
 ワイルダー氏は、しばらく黙っていた。
「ぼくは、ワイルダーさんと同じ研究者として、彼が死ななければならない理由を、真摯に受け止めたいだけなんです」
 ダニエルの目を、ワイルダー氏はじっと見つめた。しばらくの沈黙の後、下を向いて低い声で語りだした。
「いや、彼はそれより、共和国の軍のトップのシークレットサービスに属していたのでそれは意識していなかったかもしれん。お金ではない。彼は、うーん、定かではないが、今はつまりスパイのポジションなのだろう。K18という組織だ。まるでゴールドだろう? 彼はその組織で耐えられなくなったのだ。ずっと背負っていかなければならない運命に疲れてしまっていた。有終の美を飾る最後の仕事をして、辞めたいと本人が言っていた。辞められないという苦しさからの自殺は、彼が本部ともめて、それがきっかけになったに過ぎない。ずっとそこから逃げたいと思っていたのだろう。この国に埋もれたいというようなことを言ったことがある」
「それが、自殺の原因ですね。それにしても、大蝙蝠が感電死していた姿と同じような形で死ぬなんて出来過ぎな感じですね。彼の強いメッセージが隠されているような気がします。もうご存じだと思いますが……それと、今回のシュガーウォーター駅での列車殺人事件は関係がないとしても、その亡くなった方の先祖が、昔に住んでいた家がここだそうです。偶然ですね。それで、最近ですが、だれかがここの家に訪ねて来ることがありませんでしたか?」
「いや、最近はないね。だれも来ない。君達だけだ。さぁ、もういいだろう! これくらいにしてくれ。この話は口外するな」
 ワイルダー氏がドアを閉めながら、その左手でもう行け! というジェスチャーをした。
 そこで、とりあえずお礼を述べて、空とダニエルは退散した。
 近くのスーパーで買い物をして、空の家に戻ったときは、もう夕方だった。今日も暑かったから、ダニエルはシャワーを浴びている。空は、早速夕食の準備に取り掛かろうとしていたときだった。
 タウンハウスの一階のリビング、外のテラスに夕暮れが迫っている。その夕暮れの光の中に、蝙蝠男が立っている! と見えて、空の背筋がぞっとした。
「うわわぁ!」
 パールが空の叫び声に反応して、寝ていたクッションから飛び上がった。
 しかし、そこにいたのは、あのラッキー・ベンジャミン・ミカエルに似ているというターキーだった。テラスの木塀を飛び越えて中に入ってきた。そいつは、テラスの真ん中でガラス越しにこちらを見ていた。ただじっと見ていた。
 黒い大きな羽を広げた体、赤い血液を思い出させるような赤肌の顔に、黄色の肉垂が揺れてちょっとグロテスクに見えてしまった。その瞳孔が丸く大きくなり、光のビームを感じたからだ。なにかを間接的に、空に伝えようとしているようだった。このとき、蝙蝠男は無念の表情を浮かべていたと、空は感じていたのだった。
「なんだよー。大きな声上げて」
 ダニエルがバスタオルで髪を拭きながら階下へおりてきた。
「蝙蝠男が、マントのように黒シャツを広げて外に立っていた――幻が見えた」
「なんだ、ターキーじゃないか。こいつだっけ……空が言っていたラッキーに似ているとかいうヤブツカツクリ」
 ターキーは、一メートル半はある木塀の上に飛び移り、重い体をふらふらとさせたあと、向こう側の雑木林に消えていった。
「おもしろい奴に、またおめにかかったな。ワナリーで空のおふくろさんが親友になっていたターキーと似ているね。こっちを覗いていたじゃないか? 一瞬だが、只者じゃない雰囲気を感じた。だいじょーぶだよ。あれ、ラッキーって呼ぼうぜ」
「だからさ、あいつは、おれが何度か会ってるんだって! ファンシー教会のブランコが揺れていたって言ったじゃない」
「ふーん、そうだったっけ。このところの事件で、そのファンシー教会のことを忘れてたよ。メシのあとにさ、ちょっと行ってみようか? 近くでしょ」
 ダニエルはなにかを考え、理解するために、なにかを掴みはじめているのかもしれないと空は思った。
 夕食の親子丼を早く済ませて、パールの今日最後の散歩がてらに、ファンシー教会の方に向かった。ドッグフードではなく、チキンをたらふく食べたパールは、超ご機嫌だった。ターキーに会っても、追いかけないだろうと空は安心していた。
 夕暮れに、白い幽霊のような雰囲気を漂わせているはまゆうの花が、空の肌に心地よい風と一緒に揺れている。このアンバランス感はなんだろう? 先ほどとは打って変わり、空とパールは身震いした。右に左に首を傾げるパールには、空の不安定な気持ちが伝わっているのだ。
「シャワーを浴びていて考えていたんだけど、あんな設備じゃ、当然抗血清など作れるはずがないよ。おれを、へっぽこ医学生とでも思ってるのかい、まったく。でも、なにかを調べているのは分かるよ。それがだな、モルモットを使ってなにをしているのかってことだけど、一番簡単に思うことは、兵器、バイオテロ……だ!」
「テロ! だって。生物兵器か?」
「冗談だよって言いたいけど、いや、どうかなー。あの人、おれがちょっと下手に出て持ち上げたら、プライドでちゃって、血清だのワクチンだのって、さもさもの理由を、ぐたぐたとしゃべっちゃった。蝙蝠男が、カバイロ共和国の軍のスパイだとまでばらした。アホだな。今や、ネットでも駆使すれば、膨大なデータやヒントも手に入る。それを作る方が抗体なんかを作るより余程簡単だ」
「それじゃあ、蝙蝠男と、あの家に吊る下げられていた蝙蝠の関係が見えてきたかもしれないってこと?」
「大蝙蝠が電線に引っかかり感電死して何日か経過していけばなんらかの黴菌は増える。それに遺伝子操作すればよい。あっ、もちろん自然界でもこれは意外によく起こるが、それを利用できる。地球上にまだ存在しない病原体だってあるし、ぶら下がっているうちに、どこか空から、つまり宇宙からなにがしかの菌やウイルスが、隕石から落ちてきたということだって完全否定はできない。分子レベルで解明、おれらでも、望みのウイルスくらいは作れるが、それはもちろん、薬の開発などに役立てるためだ。だが、その技術的には、生物兵器を作ることだってできる。過去の戦争では、実際に炭疽菌などは利用された。もちろん、その反対のプロテクションも当然ながら、やられた場合も考えて作るよ。だから、免疫学は別な面でも重要で、必要なんだよ。あらゆることを想定して、病原体と戦うために様々な抗原抗体を探っておかなければならない。相手が見えないということは、とても怖ろしいことだ」
「いやだねー。神経質なおれとパールには、とてつもない恐怖に聞こえるよ」
(空、あなたと一緒にしないでくださいよ)と、パールがその場をくるりと回って、空を見上げた。
「だがね、ここがおれのいつも思うことだ。科学ではどうにもならないことだってあるんじゃないかって。病原体とは、いたちごっこの終わりのない戦いだが、ほら、未来の言っていた地球も生き物で偉大な母だって。そう考えるとね、どんな生物でも自己免疫があるならば、自らが戦い排除するべく頑張って、そこで自然淘汰されるようになる。それは、我々の身体の中でも起きていて、人から人へと伝染していく間に、耐性を作るようになる。だいじょーぶ! ワハハハー」
「なに、冗談言ってるんだよ。でもさ、未来が言ったように、人間があまりにもやり過ぎて、限界を超えてしまいなにもないカオスに地球がまた戻ってしまうというのは分からなくもない。火星へ移住するなんて計画だって遠い将来じゃないらしいし」
「みんな、馬鹿だよな。あちこちで争ったり、殺し合ったり、いがみ合ったりなどしている場合じゃないのに……」と、ダニエルは彼らしくなく、憤っているようだった。足元の小石を蹴った。
 小石が飛んだ先で、あのターキーが夕闇の中から小走りに駆けていった。
「ほら、あいつら、自然の動物達が愚かな人間どもを冷静に見ている。全然動じる心がない」
「ダニエル、ワイルダー氏とシャルルはどうして知り合ったのだろう?」
「うん、それなんだけど、ちょっとワイルダーという名前が気になり調べてほしいと、大学の友達に頼んでいたので、さっきメールが来てた」
「さすがだね」
「今から十五年前になるけど、この国でねずみによる被害が農家を中心に多く発生したんだ。そのときに、ある都市で、国に選ばれた研究者やスタッフで、これを失くすために、免疫学的避妊法と呼ばれる実験を繰り返し、ねずみや齧歯類のコントロールに使うというウイルスを作った。実はこのチームの中に、ジョージ・ワイルダーという名前があったらしい。彼は、このときの経験が役に立っているんじゃないかと思う。この技術をだれかが盗み悪用されれば、ウイルス生物兵器という危惧もある。それと話しが飛ぶが、科学者達は、千九百七十五年に国際的な生物兵器禁止条約を定めて、生物、毒素兵器を作ることを禁止した。それ以前は特別な規制がなかったんだ。そのことを、おそらく蝙蝠男は調べて知っていたんだろう。あるいは、組織からの入れ知恵だったかもしれない。その後の経験のあるワイルダー氏に接近した。と、なると、空が心配していることは、ないとは言えない。蝙蝠男は、なにかの理由で、消された」
「嫌な予感だったからねぇ。自殺とは思えないんだ。なにかの機会にさりげなくピーターに話しておくよ。その疑う生物兵器の話」
 ダニエルも空も歩きながら早口で話したので、息が切れた。ファンシー教会の前まで来ていたので、ダニエルの目に正面玄関の紋章が目に入った。近くの街灯がそれを照らしていた。
「これか! なるほど、いかしてるね。球体の中にスマイルマークのようなどこか滑稽な紋章だね。それで、この看板にある写真が昔のここの有力者達なんだろう? ここに、列車で殺されたカルロスのひいひいじいさんも写っているのかな? 空の言う通り、シャルルとカルロスの事件はつながっているというのは、もしかすると、あながち間違いではないのかもしれないな」
「いや、ドッコイ! それはおれの勘だけどね。それに、ここの教会はこの写真の人物らが死後、もう少しあとに建てられた。でも、その推理、まだ十分とは言えないけど、ピーターに言ってみる?」
「空、そうだね。しかし、もうカルロスを殺した犯人を突き止めるのは時間の問題だと思う。そいつは隠したつもりでも、巧妙な小細工がかえって仇になった。特徴的な帽子にしてもウォレットチェーンも、巷にたくさんあるような物でもここでその男が二つずつ買ったとしたら、わりと印象に残るよ。それに逃走に使った自転車の目撃でもあれば、こんな田舎町で、地元の人間だとしたら面が割れるだろう。カルロスの写真を見せて、一緒にいた男を捜せばいい」
「ふーむ。なるほどね」
 家に戻ろうとするダニエルの後ろを、空はパールのマーキングに振り回されながらついて行く。
 ふと、空がファンシー教会の紋章を見上げた。その中のスマイルマークがウインクしたような気がして、空は目を瞬かせた。
  
 翌日は、空もダニエルもたっぷりと朝寝坊してしまった。昨夜は、昔懐かしいプレステのゲームなどをしながら事件のことを考え、話したりしていたのだ。
 朝食を作るのが面倒だったので、空とダニエルはブランチをすることにしてカフェバジルに行った。
「今日は、ウィリーがいないんだ。ピーター、キッチンとコーヒーだいじょうぶ?」
「空、手伝ってこいよ! おまえ、バリスタあるじゃん」
「はいよ。資格より、おいしいコーヒー淹れるのは経験とコツだからね。やらないとね。あと、気持ち……ってか。そっち、パール見ててくれよ。話も頼むよ」
 パールはダニエルにも慣れているので、テラスの椅子の下で寝そべってリラックスしている。空はキッチンに向かった。キッチンでつまみ食いをするつもりらしい。
 ダニエルは、自分達が考えている事件の推理をピーターに説明した。ピーターは、それを黙ってちゃんと聞いてくれた。
「その通りだよ。たぶんね。二十四時間調べ続けている警察もそんなにふぬけ者じゃないぞ。犯人の目処がたってきているらしい」
「よかったです。それは進展ですね」
「昔、マイケルが取り入れたと言うジーンズに似合うような、実用的でありファッションでもあるコルク帽と、ウォレットチェーンを自慢して売っているというおみやげ屋が、ケランダ鉄道の終着駅ですぐ近くのケランダマーケット内にあった。そこには、鉄道の歴史として、マイケルも一緒に、大勢が写っている写真などが飾ってあった。それは小さな店だが、オーナーはマーケットの中では古株らしい。だが、彼は人付き合いはよくなかったようだ。客や他店のスタッフなどと、小競り合いから喧嘩になったことも、一度だけではないと言う。最近は、目立たないように大人しくしていて、店の方もぱっとしないらしい。店は、ウングルという名だ。オーナーの名前は、ブライアン・キートでカルロスと同年齢だ。そいつは、昔からずっとここ地元で暮らしているから、被害者のひいひいじいさんであるマイケル・オルコット家との接点がなかったかを今、調べている。そして、あの公園の場所で二箇所ある自転車置き場のひとつに、一晩停めてあった目立つものがあった。毎日朝晩公園を散歩をしている人が、見ていたんだ。放置する自転車は、大体がぼろぼろだったりするのだが、それは、そうじゃなかった。銀色の平凡なクロスバイクで平ハンドルだが、きれいで新しく見えた。それがね、あの事件の日の朝になかったのを、目撃者はあれっ! と思ったそうだ。近くに出勤するなら、どうして前日に、取りに来ないのだろうか? またサイクリング後、散歩中忘れたかなにかの理由で面倒で置いていったのなら、こんな朝の時間に仕事前わざわざと、取りに来るのだろうかと少し気になったそうだ。場所が場所だからね」
「そこから、出勤に自転車はあまり使わないかもですね。町に出るにも遠すぎるし、車出勤だし、またバス停もそこから離れている。取りに来るのも、タクシーかだれかに落としてもらわないと……。ウングルって、原住民の言葉で伝説の虹蛇じゃないですか? それでは犯人が逮捕されるのも時間の問題ですね。被疑者は、どこに住んでいるか分かりますか?」
 ピーターは、話しすぎたかもしれないというように両手をおでこに当てたが、すぐ下ろして両腕を組んだ。
「確かに、時間の問題で検挙できると思うが、決定的な証拠に結びつくものがなく、もう少し彼を泳がしておくようだ。だが、警察はぬけてはいないぞ。山のふもとにあるそいつの家の庭に、アポロ社の銀色の平ハンドルの自転車があった。ブライアン・キートの家だ。ちょっと特徴的な塗りが車体にあったので、それを目撃者が覚えているかどうかだが、写真を撮り聞き込みに入っている。だが、似ているその自転車が公園にあったということに過ぎない。また、そこで見つかったウォレットチェーンからは指紋が検出されていない。もちろん、被害者にも周辺にも残されていないのだ」
「それでは、疑わしくても、任意同行も拒否されれば無理ですよね。難しいですね」
「そうなんだ。ダニエル君、でもね、経験のある警察官、我々には刑事の勘というものがあるんだな。たぶん、絞ってきているから、犯人は必ずやボロを出す。追い詰めるんだよ。良心の呵責に耐えられなくなるまで……。正義って奴は必ず勝つ。蝙蝠男だっけ……シャルルも自殺という断定を覆すのは今は難しいが、真実はいつか分かるさ」
 ダニエルは、遠くを見つめてなにかを考えているようだった。
「おーい、今さ、ルイーズとも話してたんだけど、明日は、セントラル駅からケランダへ観光列車に皆で乗ってみようって! 店休みだし」
 キッチンに入り手伝っていた空が出てきて、ダニエルに大きな声で言った。ケランダ観光列車は、事件の起こった車両だけを除いて運転を再開していた。列車は二本ある。
「ドッコイ! 懐かしいだろうー。昔、遠足で乗ったじゃないか。みんなで乗ろうよ」
 空の声に反応して、パールが起き上がった。その背後から、ルイ
ーズがエッグべネディクトの皿と、アイスコーヒーを持って立っていた。

ケランダ観光列車

翌朝は、空とダニエル、ルイーズと弟のウィリアムの四人が、町のセントラル駅に集合していた。といっても、ピーターが近くにいる空とダニエルをピックして、車で全員を送ってくれたのだ。
 帰りも、ケランダの山まで迎えに来てくれるという。パールは、残念ながら列車に乗れないので、ピーターの家の隣、ルイーズ達のお婆さんのところでお留守番だ。友達のチワワがいる。
 観光列車は料金が高いので、往復は乗らない。皆、まだ稼ぎの無い身だから、そういうところは節約する。しかし、今日はおいしいランチでもしなさいとお小遣いもくれ、ピーターが全部お金を出してくれた。この四人が……、なにかを嗅ぎつけてくるのだろうとピーターが期待してしまうのは少し拭えない。
 これは絶対に危ないと思われることには、首を突っ込まない。そして、余計なことはしない。ブライアンの店に入っても、ただ中を見るだけにすること。なにか気づいたことがあれば、メモを取るか、直ちにピーターにメールをすることなど、しつこく念を押された。
 千八百八十六年には、このセントラル駅はまだ木造であったが建てられていた。その一年後に、カルロスのひいひいじいさんはここに来たことになる。発破技師(ダイナマイト技師)として。
 ディーゼル機関車には、二台とも派手なペイントでイラストが描かれている。ケランダ山奥深くに住む原住民の伝統画がモチーフだ。もちろん、彼らは太古の昔よりここに自然と共に暮らしてきた。彼らは、シャーローン族という。
 機関車いっぱいに描かれている絵は、蛇やとかげがモチーフで、それに自然の樹木や美しいワイルドフラワー、水を重んじる部族なので澄んだ川や滝も描かれている。
 今日は、十四両ある車両の半分以下の乗車率で、観光客も多くはない。客のほとんどが、この列車の混雑する前で写真を撮っていた。おかげで、五分ほどの遅れで出発する。八時三十五分の発車だ。
 四人が座席で向かい合わせになり、一番後ろの十四両目の真ん中に指定席を取って、進行方向に窓際にルイーズと隣がウィリアム、その前にダニエルと空で座った。六人席だから、それを占領して、かなりゆとりがあって快適だ。しかも、車内は空いている。十四車両目は、貸切状態だった。
「なっつかしいよねー。昔は、わいわいとはしゃいで乗ったものだけど、何回乗ってもなんかわくわくして楽しかった。探検に行くみたいでさ」
 空は、久し振りに乗るこの列車が、思い出いっぱいの若い学生時代にタイムスリップする感じがして嬉しかったのだ。
「空、それより、ほら出発するよ。これを事件のシミュレーションで考えてみよう」
 ダニエルが言い終わらないうちに、エレクトリックディーゼルのエンジンがかかり、先頭の煙突のようなところから、おもちゃの機関車のようなもうしわけ程度の白い煙を少しだけ上にはいて、列車は静かに発車していた。
「あのホームの端からよじ登って、分からないように潜めば、列車のチケットを買わなくても乗ろうと思えばできるよね。けっこう、そういうところはアバウトだな。無銭乗車がないのは、もっともしばらくすれば、中で車掌が調べにくるからだいじょうぶということか……これ、ほぼ観光列車なんだから、途中下車はないしね」
「ほんとうだ。どこからでもホームに上がれるじゃん」と、ウィリアムは窓から顔を出して、きょろきょろと見ている。
 実は、その昔の歴史から、この列車は国営でありローカル路線でもあるのだが、セントラル駅からケランダに向かうこのレトロな列車は観光として成り立っているのだ。たまに、夜など貨物列車としても走ることがある。
 そして、そんなことを思い出しながらも難しい顔をしているダニエルは、事件のことしか考えていないらしい。
 昔に作られた木造客車をリニューアルしてあり、深いワイン色のレザーシートと、壁のこげ茶色がマッチして、その時代の風情を感じさせる。そして、車内には、開拓時代のセピア色と化した写真がいくつか飾ってあり、放送ではその歴史と景色の説明が、古いバックミュージックと共に語られている。列車はガタガタと揺れてうるさいので、ここでなにか事件が起こったとしても、その車両に来なければわからないだろうと、ダニエルは思った。
 ビクトリア女王がイギリスを統治していた時代。昔は、世界に誇る工業力と、労働者もたたえられ、鉱山発掘に携わる技術者や、こういう鉄道工事などの開発事業でここに来る開拓者も多かったのだろう。その中のひとりがカルロスのひいひいじいさんだ。
「いいか、ここからノンストップでシュガーウォーター駅に着くまでは、約三十分だ。その間に犯行が行われたとすると……」
「ダニエル、この列車、次の時間のはグリーン車があって飲食できるけど、これは禁止でしょ。どうやって睡眠薬だかなにかを飲ませたのかな」
 ペットボトルの水を一口飲んで、いつもは無口なウィリアムが珍しく口をきいた。
「もちろん、それさ! ほら、ドリンク持ち込みでアイスティーくらいなら許されるし、ペットボトルでなくても、なにかテイクアウト用の紙コップでも持ってきてた。案外、アイスティーに少しくらいならと、リキュールとかブランディーでも入っていたかもしれない。それを、カルロスに勧めたんだ」
「ダニエル、それってどれくらいの時間で効いてくるものなの?」
「一般的に、ハルシオンとかマイスリーでも時間が掛かる。クロロホルムでも暴れられたら、短い時間ではちょっと難しい。警察の調べによると、それって病院から処方されたものらしい……ということは、犯人自身が不眠症の病気があり、常習しているとだんだんと効果が薄れてくるので、相当強いものを持っていたはずだ。それなら、普段眠り薬を使用したことがない人には非常によく効く。一発でふらふらとしてしまうか、十分、十五分ほどで効き、寝てしまうだろう」
「すると、残り十分ほどの間に、ふらふらの彼を後部のトイレまで引きずって行き、ウォレットチェーンで首を絞めて、シュガーウォ
ーター駅近くになって、交差するさとうきび畑の貨車に飛び移るというのは可能かな?」
 空は、かなり時間的に厳しいのではないかと思った。
「ほら、こうしてこの列車はよく遅れて出発するだろう! 早く列車に乗っていれば停車している間にドリンクを勧めたのだろう……おそらくだ」
「なるほどね。そりゃそうだ。ぴったりと出発時刻を守る方がありえないもんなー。写真を撮る人達が多ければ、それだけまた遅くなる。その日は、前の方の車両に修学旅行生の団体がいたんだっけ、それを知っていたかもしれないね」
「次の列車には、飲食できるグリーン車が一車両あるけれど、それには、修学旅行生は乗らないし、かえって足がつきやすい。きっと時間も遅くなるってこと? だからこれにした」
 ウィリアムが横から口をはさむ。
「それも、おそらくだ。だが、犯人は、用意周到のようで、少しだけぬけていた。ウォレットチェーンなどそんなに重要視しなかったのかということだけど、カルロスのを使わず、いや、取り外す時間がなくて、自分が持っていた同じものを使ってしまった。それは、他に同じものを持っている人もいるからと思っているかもしれないが、いいか、ここだよ! それはカルロスのとお揃いのものだということだ。これは、イギリスから来たカルロスにとってみれば、ここで買ったか貰ったもの。つまり、カルロスと犯人は事前に親しくしていた……接触していたということになる。まして、鼻がきく刑事によって、公園で凶器と見られるこのウォレットチェーンが見つかってしまっている。この両方の製造番号とか、なにがしかのタグを調べれば、どこからの仕入れとか、扱っている店とかが分かるだろう。あとは、それらが決定的証拠にプラスされるか? ってことだが、ここが警察でないとどう推理するのか分からん。凶器が立証されても、そいつ……被疑者がみすみす認めるとは思えない。コルク帽も同じ店にあるだろう? と言ってみたところで、そんなのは偶然だと言うだけだ」
 空とダニエルがそんなことばかり話しているので、ルイーズが、「ほら、わたし達の高校の近くよ。クロスカントリーでここを走ったから懐かしいわよね。窓からの風も気持ちがいい」と言って、皆の気分を和らげた。
 空は、折角のふたりの再会でまた付き合うチャンスも作る……と向かい合わせの席にしているのにと内心思った。しかし、出発からのこの三十分間は重大で譲れない。空もダニエルも、「乗りかかった船」には今更止められない。ふたりともなんだか生真面目過ぎる。
 ルイーズとウィリアムを座席に残して、ふたりは最後部のトイレに行ってみた。同じタイプの列車かもと思うと、空はなんだか底気味悪かった。
 それから、さとうきび畑が見えてきた。今日の貨車は、タイミングがずれたようで、交差地点の遥か後ろを走ってきた。
「そうさね。別に飛び移らなくても、ここでちょっと待ってれば、あっちに飛び乗ることはできるけど」
「そして、シュガーウォーター駅の手前の公園でおりて、凶器を捨てて自転車で逃げた。でも、ダニエル、ウォレットチェーンのこと以外にも指紋とか、座席近くとトイレドアとかに残されてなかったのかな?」
「うーん。これも憶測でしかないけど、ひとりで乗車していたカルロスは、ケランダ山頂か途中で犯人と会うという約束でもしていた。が、事情が変わったと言って、セントラル駅で先に乗っていたカルロスのすぐあとに、チケットも買っていないのにずうずうしくも改札を通らずうまく乗ってきた犯人に、すぐにドリンクを勧められたのだろう。息を切らして乗ってきて、これは今持ってきたとかなんとかうまいこと言って、二つのコップだったならば、薬の入っていない自分の方を飲んでみせた。ほら、コーヒーチェーン店とかにあるクールな感じのふたつきの紙コップがあるじゃん。列車が発車して、カルロスの意識がもうろうとしてきてから、手袋でもつけて、辺りの指紋を拭き取った」
「なんだかこんな面倒なことをして、どんなメッセージがあるんだろう。不可解だね」
 空は、この平和な町に起こった今までの事件が、全部なにか大きなことに関係しているような気がしてならなかった。それは、あの特別なオーラを放つターキー、ラッキーをまた見かけるようになったからかもしれない。
 そして、歴史を感じさせるレトロな列車は、空達が見慣れているシュガーウォーター駅に着いた。開拓時代にタイムスリップするようだ。
 地元の人は皆が知っている駅だが、こうして始発から来てみると、駅の反対側の馬の牧場もすごく新鮮な景色に映ると、空は眺めた。  
 駅の裏にあるのどかな馬の牧場が、開け放された窓からよく見える。馬達の背中が日に当たり、黒くて光って見える。馬は気持ちよさそうに、その尻尾を左右に揺らしながら、緑の牧草をもくもくと食べていた。ゆっくりとした時間と、まったりと空気が流れていく感覚がする。
 それと対比して、真っ赤なブーゲンビリアがエネルギッシュで、空の脳裏に、昨年まで住んでいたワナリーの街並みが浮かんだ。
 ブーゲンビリアは命を感じさせる花だ。ワナリーに住みついていたあのラッキーが大切にしていた花。すべての命は、決して軽んじてはならないと、自然と調和して生きる大切さをラッキーが教えてくれると、奇妙な感覚世界に入ることができる未来が言っていた。 
 ブーゲンビリアは、「魂の情熱」とも言われる花。そこに、虹がかかると、ケランダ奥地に住むシャーローン族は、「虹は天地に住む、水をもたらす神が創った蛇」だと昔から言う。
 観光列車の先頭車は、大蛇であるニシキヘビの絵が鮮やかにある。シャーローン族の言葉で、「ブダ・ジ」――だ。忘れていたが、このとき、ダニエルも空も暗黙のうちに、怖ろしい怪文書の第三のときのブダ・ジ、そして炎の森という言葉を思い出していたのだ。
 客車の体は、ニシキヘビのようなツートンカラー……光沢のある暗褐色とクリーム色だ。
 ここで、十五分の休憩がある。小さな博物館や、レストランなどがある駅の中を急いで見物する人もいる。しかし、汽笛がなったら急いで戻らないといけない。この駅を出てすぐに、座席チケットの点検がある。
 セントラル駅からここまでは、大きく移動して席を立つ人もトイレに行く人もまだいない。この駅から乗車する団体客を点検して、ガイドさんが飛び乗った。
「さぁ、ここからは勾配に変わり、景色もいいぜ! 事件は忘れて楽しんでいこうよ」と、年下のウィリアムが言った。ウィリアムは、今日はちょっとうきうきとしている。
 確かに、車窓からの眺めは最高によくなる。バルーン国立公園のジャングルに入って行く。熱帯雨林の大自然の中を列車はゆっくりと駆け上って行った。
 勾配の強いところでカーブを曲がり、長い列車の一番後ろの車両からカラフルな絵の描かれている先頭車両を眺めると、自然の景色の中に自分達も溶け込んで、壮大で神秘的な感じすらする。
 いくつものトンネルをくぐり、抜けると遠くに海岸線が見えるところまで列車は登った。百年以上前に、近代的設備などはなく、これらの難工事を、労働者達が手作業のダイナマイトや、バケツにスコップ、ツルハシ片手に素手で遂行したと思うと、彼らの不撓不屈の精神力が、ひしひしとトンネル内などから伝わってくるようだ。
 総勢千五百人以上が携わったという鉄道工事だ。空には、その頃のゴースト達の喧騒が、暗いトンネルに入るたびに聞こえてくるようだった。とても深い意味の苦難の歴史を感じさせる。
 バルーン国立公園の渓谷に入り、バルーンフォールという大きな滝が見えてきた。ここは、太古の昔は、海底だったのだ。その岩肌を滑り落ちるダイナミックな滝。いくつか枝分かれしているが、その真ん中の一本が大きな道のように見える巨大な滝である。
 窓から壮観な渓谷の景色を眺めていると、しばらくして列車は、バルーンフォールズ駅に到着した。ここで、また十五分の停車がある。絶景ポイントのアナウンスと共に、観光客が皆、列車から展望台へと出たりしている。
「おりて見てみようよ」と、ウィリアムが言って、ルイーズも弟に従った。空もダニエルも話しながら歩いていく。展望台は、駅から少し下に鉄骨造りでできている。宙に浮いているので少しスリリングだ。
「天気もいいから、眺めがきれいね。ただ、雨不足なのかしら? 滝の迫力が少し欠けるかなー」
「ルイーズ、実はね、滝の水量はコントロールする秘密があるんだ。もちろん、雨がふればほっときゃいいんだけど。乾季のときは、バルーン川の渓谷水力発電所の上にあるダムから水を回す。それは、下方にあるさとうきびや他の畑に利用されることになるが、その前にバルーンフォールの大きな滝にダイナミックに流れていく。雨不足なのでここのところは、午後、三時から四時の間に水量が増えるはずだ。一時間ほどだが、帰りの遅い方の列車にケランダから乗れば、このポイントで水量の多いグッドな滝が見れるはずだ」
「へーっ! そんなことも知ってるの? なんでも博識だね」
「おいおい、知ったかぶりじゃないぞ。ルイーズ、君はいつもおれに向かっては言葉にトゲがあるんじゃない?」
 ルイーズが口を尖らせて、へそを曲げた。先に歩く。
「そんなことないよ。姉き……ルイーズはそういう言い方はだれにもだって! 自分にはもっとだよ」
「ウィリー、ちょっとふたりにしてやろうよ。久し振りだしさ」と、空は口をはさむウィリアムの肩を叩いて先に列車に戻った。
 ふたりは言いたいことが言い合えて、喧嘩するほど本当は仲がいいと空は思う。
「この滝は、流れが急になると、逆さに上っているように見えるらしいよ」
「空も、よく知ってるんじゃん?」
「おれもダニエルも、知り合いから聞いたりしてここのところは調べていたんだよ。性懲りもないでしょ。なにかしら、事件の手掛かりにならないかなと思って」
 しばらくして、ダニエルとルイーズが、汽笛の合図につられて車内に戻ってきた。ふたりきりにしたのは正解で、またすっかり仲がよくなっているようだ。まもなく、静かに列車は発車して、次のケランダ山頂駅へと着いたのだった。
 ケランダの駅近くにあるマーケットは、そこそこ賑わっていた。その中のブースではなく、端の角のショップが、被疑者で疑われているブライアン・キートの店だった。玄関前に、虹色の七色で描かれたウングルという看板があった。創世神話の虹蛇の名前である。 
 ウングルは、海を撹拌し、立てたその泡で巨大な大地を作り、そこに無数の卵を産み生命を作ったとされる神である。海をかき混ぜるときに使ったとされるブーメランは、原住民のアーチスト達によって独特な虹や、蛇などの絵が描かれており、おみやげとしてたくさん売られている。
 なるほど、古株らしく、店は古びて見えても、木造のちゃんとした造りで改造され、表にはシャッターもあるようだ。ガラス戸の玄関は開けられていて、コモドドラゴンの置物がまるで生きているそれ――のように看板の下、足元に置かれている。
「なんだこいつ、本物だと思ったよ。こんなのそう珍しくもないもんね」と、ウィリアムが思わずそれを蹴っ飛ばしそうになった。
 四人は、並んでその店に入る。
「やっぱり、ほらあったよー」と、空が言うのを、「しー!」と静かにして、と言う人差し指のジェスチャーでダニエルに遮られた。
 あの凶器に使われたと同じであろうウォレットチェーンは、ワニ革の財布の横に置いてあった。メタルとシルバー製、ドクロが双頭でついているものなどもある。しかし大半が、平凡なデザインの重厚なチェーンタイプであった。中にはヴィンテージものもあるようだ。
 残念ながら、手掛かりとなるここのオリジナルという特徴は見つからないが、犯行現場にあったものと、公園で発見されたものは、あるブランドのものだと分かった。あの凶器と同じと思われるデザインがあったのだ。
 事件のものを直接に見たわけではないので、ピーターの見せてくれた写真と同じものであるかどうかを、ダニエルはスマホに保存されていた写真でチェックしていた。七十センチはある長めのサイズだ。
 空は、店の奥のブッシュコートの隣の棚に重ねてあったコルク帽を見ていた。帽子をひとつ手に取り、壁にある鏡の前で被ってみる。 そこで、隣の店主と話していた大柄でがっしりとした体格の男が、開いている入り口から、「客だ! じゃあな」という太い声と共に入ってきた。ブライアン・キートだと空は察した。
「ハロー、どうそれ! 農作業中とかにさ、ハエが顔にくるのがう
っとうしいから生まれた帽子だよ。おもしろいだろ」
 この男――ブライアンは、空をどうやら観光客と思ったようだ。まったく日本人の顔である空が、こっちの国で育っていて、言葉もこの国の方が得意とは到底思わないらしい。 
 空は、ちょっとその観光客のふりをしようと考えた。ダニエルは日本語も話せる。目くばせした。
「なにか分かる?」
「ウォレットチェーンは、信憑性がある。オリジナルではないが、この長いサイズはメーカーでも限られる。空、その帽子は、さりげなくタグを見ておけ。製造元とか、気になることはあとでメモしとけ」
「了解でーす」
 ふたりはひそひそと、日本語で話した。
「それ、買うの?」
 そこで、ルイーズがそう声をかけた。空は、少し大きなその声に、拍子抜けしてずっこけた。四人で店内のあちこちと物色していたので、なんとなく引っ込みがつかなくなり、空は観光客のふりをしてそれを買うことにした。痛い出費だが、後に、ピーターが出してくれるという気がした。
 その後は、ランチにしようということになり、しばらく歩いたところで、ここでは有名なドイツソーセージのホットドッグを食べにいくことにした。金欠状態の貧乏学生や、ワーホリに代表される若者旅行者には、このボリュームでこのおいしさは昔から嬉しい限りなのだ。
「おおーっ! これも懐かしいや。昔はここに来ればこれをよく食べた」
 ダニエルが、表通りで鉄板で焼いている試食用のソーセージをつまんでいる。
「まっ、とにかく食べましょうよ。パパのおごりだし、ビールも飲めるわよ」
「そうだね。事件のことばかり考えてんじゃさ、つまらない」
 空は、ルイーズが随分と大人になった気がして、自分が幼く感じた。
 ルイーズは、学生時代を、親元から離れて学生寮からシェアハウスへと移りながら生活した。この国では、親は、子供が高校を卒業すれば外へ出すのが常識のようだ。それが、動物社会で、『獅子が子を千尋の谷に落とす』的な、親が、あるときから子供の面倒を見なくなるというルールを感じなくもない。
 空は幸か不幸か、スピリチュアルな人で、変わっているが楽しい母親の未来と、卒業後もしばらく一緒に過ごした。未来のせいで、写真に写るオーブや不思議現象は、ワナリーの町でしばしば体験したものだ。それは、他では味わえないだろう貴重な経験だった。 
「ドイツってきたら、やっぱりピルスナーだろ。うん、一本でいいよ。チーズとオニオン、オーソドックスな奴! マスタードにバーベキューソースと半分トマト、キャベツはいらないよ」
 ダニエルは、開け放している店の中ほどの席にもう座っている。
「はいよ! ドッコイだ」
 空は、ブリスベンにいた頃と、また子供の頃からもダニエルは変わっていない……同じだとちょっとにやりとして、嬉しくなった。
「ダニエルのわがままを聞くことないわよ。自分でオーダーしろって!」と、言いながらも、ルイーズも空と一緒にカウンターに向かった。なんだかんだと言っても、このカップルは仲がいいと空は感じる。
「あれ、ウィリーは?」
「今までいたよね。外のソーセージ一緒につまんでたよね。どこに行っちゃったんだろう」
 空とルイーズが注文を終えて、まだウィリアムのオーダーを聞いていなかったので、店内を目で捜したが見当たらなかった。
「空、お願い。わたし、弟を捜してくるわ」
 ルイーズは、外のショッピングモールへウィリアムを捜しに行った。
「ほら、全部持てなかったから、トレイを借りてきた。ダニエルが席を取っておいてくれたから、よかったよ。それにしてもウィリー、腹も減ってるだろうにどこへ行っちゃたのかな? なんか一言でも言っていけよ……だよね」
 トレイからビールとグラスをそれぞれ取って、空が言った。袋に包まれた三つのホットドッグは、トレイに置いたままだ。ダニエルは、早くもビールをグラスについで飲んだ。
「くーっ! うまいね。最高だね」
「おれは、この地方のビールの方がうまいと思う。って、安いからかな。最初は、ビールなんてただ苦かった。おれまだ、あんまり酒の味が分からないのかもな」
 自分は、もう大人の仲間入りなのだと、空はビールで実感する。こんなことで実感なんて小さい気がして、自分は大器晩成型なのだとこれからの将来を思う。心配する。いつだって、考えてもしょうがないことを、空は心配してしまうのだ。心配性がひどくならないのは、変わっている母親の未来と親友のダニエルのおかげだと思う。
 ダニエルはその進路が決まっているというのが、空には少し羨ましくも思える。しかし、ダニエルだって、ルイーズと付き合い、その将来を考える余裕がない。まだまだ、勉強や研究もしなくてはならないのだ。博士研究員、つまりポスドクなどでは安定しない。そういう路線になってしまうか、外へ飛び出すか……悩むところだ。
 一回りして、ルイーズが戻ってきた。
「おかしいわね。どこにもいないのよ。だれか、友達にでも会ったのかしら?」
「だいじょうぶだ。そんなところだろうよ。知らない町でもないし、若い奴は、連絡もそうはしないじゃない。あいつ、忘れっぽいからな……スマホ! 持ってきてたかな?」
 ダニエルは、ビールを片手にホットドッグにかぶりついた。
「おれ、電話掛けてみるよ」
 空が、何度か試したが応答がない。
「ちょっと心配になってきた」
「ルイーズ、あんなでかい奴、かわいくもないからだれにも誘拐されないよ」
 ウィリアムは、背が百八十センチ以上あり、肩幅も広くどっしりとしている。ダンベルを持って、毎日筋トレに励んでいるのだ。でも、内気だから、その大きな体を目立たなくするように、少し猫背で歩く。
「友達にでも会っちゃって、急な用事でもできたんだろう」
「ダニエルが言った線が濃いんじゃない。だいじょうぶだと思うよ。まず、食べちゃおうよ」
 ダニエルのだいじょーぶ! というのよりも、空のそれは心細く聞こえてしまう。神経質な空は、ホットドッグをこぼさない様に、トレイの上で食べた。
 ルイーズは、嫌な予感がして、弟がなんだかトラブルに巻き込まれたのではないかと心配していた。普通は女性の方が、心配性なものだ。こういう場合、男はノー天気だ。とくにダニエルは、事の成り行きを楽観視して、くよくよとしない。試練は乗り越えるためにあるのだと思っている。そんなダニエルに、空は精神的に救われることがある。
 とにかく食べ終えた三人は、そんなに広くもないこの観光の部落を、ウィリアムを捜して歩いたが見つからなかった。
「パパが迎えに来てるはずの駐車場に少し早く行かない? 約束の時間より早く来て待ってるからって言ってたし……そして捜す」
「ドッコイ……了解でーす。ウィリーのドッグをテイクアウトしておくよ」
 空も、その方がいいと思って一段と声が大きくなった。そして、もう一度ドイツソーセージ店に戻り、ホットドッグを買いに行った。
 ケランダの山の観光地は、ダニエルもルイーズも空も、おおよそ熟知している。それでも、何回来ても神秘的なエネルギーを感じる。そのつど違うスポットがある。
 おみやげ屋が多く、特産品の蜂蜜や、ワニの加工品に、ここに昔から住む原住民や、ヒッピーがオリジナルで作る置物や身につけるアクセサリーや小物、絵画に楽器などが売られている専門店もある。
 それらは個性的で、まるでジャングルの中から聞こえてきそうな単調で不思議なリズム、また生命の鼓動のような音楽が感じられる。独特な太鼓や、昔から先住民族が使ってきたイダキという木管楽器は、森の中の精霊と交信するために用いられた。
 店の中から流れてくる自然の波長の単調な曲のリズムを聞いていると、うす暗くて深く、それでいて怖いというより森羅万象の静けさの中に永遠にさらわれてしまいそうな、なんとも言えない奇妙な錯覚を起こしそうだと空は思った。
 ウィリアムが見つからないので、取りあえずピーターが来てくれるというケランダ駅近くの駐車場に三人は向かった。
 駐車場の中ほどに、見慣れたピーターのシルバーのトヨタランドクルーザーが止まっていた。
 ルイーズが小走りに急いで行き、「あのウィリアムが行方不明に……」と、言いかけたところで「よっ!」と、ウィリアムが車の助手席から顔を出した。その膝上にパールが座っていた。
(空は、だいじょうぶでしたかね!)と、犬のパールが心配したかどうかだが……。パールは、「ワン!」と鳴いて飛びおりそうなのを、ウィリアムが両手で押さえている。
「驚くじゃない! どうして途中でいなくなったのよ。事件のことで、なにかに巻き込まれたと思ったでしょ!」
「へーっ、ルイーズも弟のことは心配するんだ。普通の姉さんのやさしさがあるってわけだ」
「馬鹿なこと言ってるんじゃないわよ。そういうときは、こっちにテキストでもいいから、メッセージをよこすのよ。そんなこと、当たり前でしょ」
「断っておくけど、おれはちょっと重要な聞き込みを、ひとりでしてたんだぜ」
「そう、わたしがもしできたらでいいがと、あの男にさりげなく訊いてほしいことを頼んでいた。でも、そこまで深くやれとは言わなかったんだが……」
 そう父親の言う通り、ウィリアムはさすが元刑事の息子だ。犯人かもしれないブライアンに接触して、なにかの手ごたえを持ってきたらしい。
「こんなことだと思ってたさ。パールも一緒か……」と言うダニエルの後ろから、「とにかく、無事でよかったよー」と、空がすっかり冷めてしまったホットドッグを、ウィリアムに手渡した。
「サンキュー。このぼくがさ、空腹をこらえて訊いてきたんだからすごいっしょ」
「でも、だめだよ。だれかには言っておかなくちゃ!」
 空は、しかめっ面をした。
(だからね、空にはそっと言っておかないとね)と、尻尾を振ったパールが空に抱かれて、その顔を舐めた。
「ぼくはさ、年齢的に安く使える学生バイトじゃない? あの店に週末のバイト募集がでていたから、ひとりで戻って訊いてみたんだ。みんなが一緒じゃ、偵察みたいでバレそうだし、おかしいでしょ? ひとりで行って、気になったから訊きに来たと言ってみた。残念ながら、たくさんの応募が来てたようだから、採用されそうにならなくてよかったけどね。履歴書なんかも書くの嫌だし。だけど、話の中でさ、おもしろいことが聞けてよかったよ。ぼくだけだったから、少しも疑わなかったんだろうと思う」
 ウィリアムは、なんだか得意そうな顔をしている。青二才のくせに生意気だ。
「それでも、姉のわたしくらいには、伝えておいたっていいじゃないのよ。心配して損したわ」
「ルイーズ、わたしが伝えておかなかったのが悪かった。隠してやりなさいとも言わなかったのだが、どうやらウィリアムは、熱心になりすぎたようだ」
「パパ、あのさ、これ以上事件が起こってほしくないでしょ! あの予告文というか怪文書だっけ……は、まだはっきりとしてない。それから全部を解明してないわけだし、このままだとまだなにかが起こると思うんだ。その鍵は、この店にあるんじゃない?」
「うん。そうだね。もちろん警察もブライアンが犯人だろうと目星をつけて調べているが、なかなか決定的な証拠がない。困っているんだ」
「それで、あのウォレットチェーンの製造場所は分かったの?」
 ウィリアムとルイーズに言われて、ピーターは首を右に左にと、ストレッチをした。年を取ると、カーブの多い山のドライブは少しきつく感じる。まして、このところは事件のことで、警察の古参から相談もされるし、若い刑事からはアドバイスや意見を求められる。過去の経歴でかなり有能であったピーターは、その裏――でまだ警察の仕事をしているようだ。
 ピーターは、肩の凝りをほぐすように両手を組んで軽く深呼吸をして上へあげながら言った。どう言おうか少し考えていたようだ。
「さっき、連絡があった。それはメルボルンのベントレーという場所にあるクラウンという工場で製造したものだ」
「ベントレー? そこ、チャイナタウンの近くじゃない」
 ルイーズは、大学時代に、ホリデーのときにはよく友達と旅行をした。メルボルンには友達の家があるので何度か訪ねている。
「メルボルンのチャイナタウン? そこは、この国の中でもメインストリートは長くて大きくない?」
 そう言う空も、その昔に未来と一度行ったことがあるのだ。
「そうね。けっこう……ね。マフィアもいて、裏通りは物騒な場所もあるわよ。普通に歩いている分には問題はないけど、こんな平和な田舎町から比べたら安全は雲泥の差かもしれない」
「だけど、昨年からここにも、中国マーケットはどんどん参入してきたよね」
 ウィリアムが口をはさんだ。
「空、ここにも中国資本が、カジノと大型レジャー施設を作り、観光市場を拡大するという計画があったけど、どうなったのかな? 暗礁に乗り上げているよね」
「その場所の住民の大反対にあって、さとうきび畑を含む土地の買収がスムーズに行かず中断してるんだよ。新聞に載っていた。その計画書だと、カジノの建物は、上空から見ると蝙蝠が羽を広げているように見える。その名前がまだ借りだが、『ルーセット』と言うんだ。これ、ルーセットって、大蝙蝠のことさ。フルーツバットとも言い、かわいい顔をしている。カンガルーやコアラじゃ、カジノの雰囲気にならないけど、大蝙蝠とはね……カジノのイメージに似合っているかな」
「空、そうね。夜行性、夜に活動的になるという感じでは合ってるんじゃない? 中国の方達には、カジノは観光地にはあってほしいもので、旅行先に必ずあるというのが、重要なポイントなのよね。メルボルンにもあるけど、いつも混雑していてオリエンタルの人達で賑わってるわよ。わたしは、カジノにフリードリンクがあるから、たまに行ってたけどね」
 そこで、ダニエルが唐突に指を鳴らした。
「空、ルイーズ、これは、ただの事件、事故じゃないかもしれない。だいじょうぶじゃないね。おい、ウィリー、なにを、ブライアンから聞けたのか教えてくれないか?」
「うん。分かった」
 ウィリアムは、助手席からおりて皆の前に立った。とぼけた表情で、たまにぼそっと冗談を言って、友達を笑わせている少し内気ないつもの彼ではなかった。真顔だ。
「ぼく、ユーモアをかませて相手に油断をさせて話を聞きだしたんだ。本当の話かどうかは分からないけどね。でも、本当ならすごいことだ」
 ウィリアムの話は、ブライアンからの話だけではなく、ここの土地にずっと古くから住んでいるシャーローン族の間でも内密に語り継がれてきたものだった。この場所には、すごい宝物がある。それをずっと、土地の「ブダ・ジ」山の神の大蛇が守っていると――そういう話だ。ウングルではない。違う蛇だ。

最後の宝物

それは、千八百九十年に鉄道工事が終盤に差し掛かった頃のことだ。それは、もはや観光列車目的と、交通手段としての鉄道にと変わっていた。ところが、もう掘りつくしたと考えられていた金、つまりゴールドが、あるトンネルを開けたときに大量に発見された。これは、もう最後の金塊だった。マイケルは、その場所に使わない列車の一車両を置いて一緒に埋め、目印とした。車両は、百年以上のときを経て今もなおそこに埋もれているはずである。金脈と見られるその河口も封鎖して、路線図は変更された。そしてその辺りを、マイケルは埋めてしまった。
「これは、すごいぞ!」と、そのトンネルに挑んでいたマイケルはこれを隠匿した。
 その場に居合わせて分かってしまった労働者数人を、うまく説き伏せ、その事実を隠ぺいする。それは、元々がシャーローン族の宝物であり、これは国と彼らとが話し合ってどうするかを決めるものだと、マイケルはそのように取り扱うと皆を説得した。
 宝物は……その人間に価値があるから宝物だ。出稼ぎだが、里に帰ればそこそこ生活に困窮していない数人の鉄道工事労働者にとって、大それた宝物をどう取り扱っていいかを知らなければ、争ってまで奪う意味はない。
 しかし、マイケルはその裏ではそれを着服することを目論んでいた。取りあえずは、噂が広がらないうちに隠さなければならない。彼はそこにいた連中に、固く口止めをした。鉄道の線路は、予定の通過箇所より大幅にずらして作り直された。
 マイケルは得意の仕事で、そのトンネルと、向こう側の河口近くの古い橋も全部、ダイナマイトなどで爆破してしまった。そこは、だれも通ることができない場所になってしまったのだ。
 とにかくこのケランダ鉄道を開通させることが先決だったので、その後にほとぼりが冷めたら、この金を大金に変えるべく方法をと、マイケルは考え続けていた。
 ケランダ鉄道ができ上がり、マイケルはひとまずイギリスに帰らなければならない。そして彼は、その事実を知っている唯一の信用できる友人で、鉄道工事に関わった労働者のキングスレーと相談をした。
 自分達でこっそりと全部を持ってくるということは、難しいだろう。ほんの一握りならともかく、これを大々的に掘り起こすことは、世間に隠してはできない。実は、マイケルは岩を削って少しの金を、サンプルとしてイギリスに隠し持ち帰っていた。
 マイケルは、それを国を渡って搾取することを思いついて、キングスレ―にその計画を話した。当然、キングスレ―にリベートはある。
 その計画とは、当時はイギリスの植民地だった共和国のカバイロ国に、独立後には、イギリスがなんらかの代償を与えると約束していたものにこれを使うというものだ。イギリスは国の財政状況に頭を痛めていたので、マイケルがこれをけしかけた。イギリスは、カバイロ国を統治していた時代に、その一部の軍上層部がひどいことをしたのだ。その事実は、表向きは覆い隠されている。
 その時代はヨーロッパにおける社会情勢は難しく、小さな争いからいつ大きな戦争に発展するか分からないという状況にあった。また、発破技師のマイケルは、陸軍の幹部とも親しかった。戦争になればお金が要る。カバイロ国にも支払う必要性がある。金、つまりゴールドで裏金を作ることは、一石二鳥だった。
 ケランダ鉄道は、第一次世界大戦より二十年以上も前に完成していたが、その長い間に話がスムーズに行かなかったのは、イギリスの不況時代が長く続いていたためと、ヨーロッパの周辺諸国の不安定な関係などの様々な事情による。いくらお金が必要でも、もうたくさんの労働者達を他国に派遣している場合でもなかった。
 もしこの話が、ここで知れていたとしてもこの国の政府は、ここのゴールドラッシュはとっくの昔に終わったという歴史をくつがえしたくはないという思いだったろう。調査では、もうその一角にしか金は取れないと分かっているのだ。それなのに取り残されている金塊をめぐって、人々の間での醜い争いは、今更避けたかった。
 もちろん、自分の国のものだから、自然の中に貯金として置いておく。それができるくらいに、この国は生活するにはそこそこ豊かだ。贅沢はきりがない。シャーローン族は、それをよく知っている。
「生き物の魂、心を『ミクロコスモス』と呼び、これが交流して成り立っているという思想があった――そんな昔は、今はもうない」資源も生き物だ。
 しかしながら、先進国から来たものにすれば、物欲、金銭欲は果てしないのだ。それは、心の豊かさになるのだろうか? 未来に言わすと、また天使だというターキーのラッキーに言わせれば、万物にその欲望はなんの意味も持たないということだが。
 マイケルは、その後の戦争などの動乱続きで、この話が進まないのに地団太を踏んだりもしていたが、失敗は許されないのでとにかく時を待った。その間も、生きていくのには精一杯の時代があったから、忘れてはいなくてもどうにもならなかったのだろう。
 この事を知っている政府の要人達も徐々にいなくなる。だいいち、その後の第二次世界大戦前には、キングスレーは死んでしまったのだから、マイケルは待ち過ぎた。
 その後、マイケルも不慮の交通事故で、寝たきりになってしまい亡くなった。後に代々その話を聞いて引き継いだのが、カルロスの父だった。その執念は消えていなかったのだ。
 マイケルが場所などは隠していた。時が経ち、唯一それを知っていた祖父が年老いてからちゃんと聞いた話だけに、カルロスも半信半疑ではあったようだ。それでも、少し調べていくうちに、マイケルの宝物について祖父、そして父の言っていたことは本当だと信じるようになった。だが、祖父も父も死んだ。少しの月日が経ち、ブライアン・キートが、どこで調べてきたのかカルロスの家に連絡をしてきた。そして、カルロス・オルコットはここに来ることになったのだ。

「そりゃあ、カルロスのことなんか一言も言わないけど、自分の先祖が宝物を発見したんだから、あるとしたらブライアン・キート家のものだと言ってた。嘘ばっかりだけどね。シャーローン族に譲ってやって、自然の宝物をブダ・ジが守っているという伝説にしてやっているのは、とてもプラウド(自慢)だと、得意げに語っていたよ」
「ウィリー、どうやってその伝説の話に持っていったのよ……。宝物の場所は分からないんでしょ。まっ、それはいいとして、ウォレットチェーンのことも聞いたの?」
 ルイーズは弟が、その体型と共に性格も変わってきて、度胸だけは据わっているのが少し頼もしくも感じる。ボーイフレンドのダニエルも、うちの男連中……と同じ、なにごとにも動じないのがちよっと嬉しく思う。
 空も彼らといると、気弱な自分が彼らの強気な姿勢と強い運命に取り込まれていく気がして、ハッピーになる。ダニエルは、空の慎重な態度や判断が、行き過ぎた時の自分にブレーキをかけてくれると思っている。皆、この町で気のいい仲間だ。
「うん。それはメルボルンのベントレーから仕入れたものだって。これ、今度日本から来る友達のバースデーにプレゼントしたいって言ったのさ。そしてね、おみやげ製品は、中国製が多いけれど、本国よりもこの国で製造されているメイド・イン・チャイナも数少なくはないらしい。だからここで作っていて、物もいいよーって言ってた。それから、伝説の話はなんか聞いたことがあるんだけど、興味があるんだって言った。冒険小説が好きだって……」
「そうだな。それで、はっきりとはメイド・イン・チャイナと表示をしていなくて、VICと略して、ビクトリアと書いてある。材料などは中国から輸入されていても、製造過程の半分はこっちで作っているそういう製品は多いな。まあ良くやったウイリ―」
 ピーターが、そう言いながら皆に車に乗るように手招きで促した。
 空は、すっかり忘れていたおみやげのビニール袋に入っているコルク帽を、袋から取り出した。そっとタグを見てみる。VICだった。パールがしきりに袋の匂いを嗅いでいた。
「あの怪文書の第一のとき……は、動く個室=列車のトイレ、ふたつの列車=観光列車とさとうきび畑の貨車、土の中が、古い列車の一部の客車とともにある……もしかして、この埋もれている宝物のこととしたら? 次の第二のときはなんだ? 流れる水? いずれにしても、まだなにか事件が起こるかもしれない。パズルを考えよう。嫌な事件にならないうちに……」
 ダニエルの言葉に、皆が頷いた。しかし、いくら考えても次に起こるかもしれない事件のなにがしかの鍵が、だれの推理にもうまく浮かんでこない。このときは、その後すぐに、まさかの次の殺人事件が起こるとは、だれもが思わなかった。
「それじゃあ、第三のときのブダ・ジで、炎の森ってさ、大蛇が炎のように怒り狂うってわけ? そりゃ自然の宝物を盗むんだから怒るよね。ところでぼく、まだ腹減ってる。親父、今晩はステーキだぜ。バーベキューでもいいよ。上質の牛肉が食いたいなー」
 ウィリアムは、まだ純粋な子供だと空は思った。

第ニのとき

警察は、徐々にブライアンを追い詰めていたはずだ。ピーターは、証拠不十分であっても、ブライアンが犯人であるという確信を抱いていた。後日だが、セントラル駅の柱には彼の指紋も残されていたのだ。
 そのブライアンに、五年前の傷害罪と現在の詐欺の疑いなどの前科があったので、裁判所から別件で逮捕状が出ることになった。
 しかし、その日の午前中に、令状を持った警察官がブライアンの家に行ったときに彼は留守だった。
 その日、午後三時三十分、ケランダ鉄道のバルーンフォールズ駅から見える美しい滝の中腹に、死んで吊る下げられていたブライアンが発見された。その時刻の帰りのケランダ鉄道がバルーンフォールズ駅に近づくときに、観光客達が車窓から発見したのだ。
 それは、上流の大きな崖に飛び出ている尖った岩にロープが巻きつけられて、数メートル下のなだらかな中腹に横たわるようにぶら下がっていた。
 三時から川の流れが変わる。バルーン川の渓谷水力発電所上のダムから下流に向けて水を回し、増水して水量が変わった時刻だ。
 バルーンフォールの一番大きな滝の道、中央に死体は鎮座していた。いつになく激しい流れの滝に、その顔は分からない。流れがさらに急になって、ブライアンの死体は、トリックアートのように滝を昇天していくように見えた。
 雨季の季節なのに、ここのところは雨量が少なくて、ずっとバルーンフォールの水量はコントロールされていた。それなのに、この時刻になって突然ふり始めた雨音が、滝の音と対比して物悲しい。山の向こう側から、まるで山が怒ったように、向こうに見える上空が唸り一瞬光った。悲鳴のような音を立てる稲妻だ。
「人生は、電光朝露のごとし」とは、仏教の教えの言葉だ。四十六億年生きている母なる地球から見たら、人の生き死には一瞬の閃光のようなもの……朝露のようにはかない。
 ケランダ鉄道はそのまま駅に停められ、車内から多数の目撃、発見者がいたために、長い時間の聞き込みが行われた。
 その後、事情徴収を終えた観光客達は、バスでふもとのシューガーウォーター駅へ移動して、さらに送迎のバスによりそれぞれが宿泊施設などに帰っていった。その中に、中国からと台湾からの大勢の観光客がいた。個人の旅行ではなく、全員がツアーに参加した旅行者だった。犯人として疑われる事は少ない。
 警察の鑑識と現場検証は日が暮れるまで行われていた。遺体は、司法解剖のために、ここで唯一の市民病院に運ばれた。
 その夕方の時間に、ピーターの店のカフェバジルに空もダニエルも来ていた。
「もう少しで確保できたのに、ブライアンが殺されたのは非常に残念だった。これで、カルロスをどうしてやったのかが、彼が自白できないので分からない。その理由が明らかにされない。カルロスを利用して、宝物の場所が分からなければ仕方がないのにだ。また、その第三者がいるのだというのが危険きわまりない」
「そうよね、違う犯人がいるかもと思えば、怖くてこの辺りをひとりで歩きたくないわ」
「ルイーズ、これは通り魔じゃない。これには、犯罪を犯す動機として、とてつもない大きな背景が隠されている。そう考えるのが自然だ。カルロスの場合もブライアンも、こんな手の込んだやり方で、まるでなにかのメッセージを残すような感じじゃないか?」
「だとすると、あの怪文書にも意味がある。と言うと、改めて思うんだけど、いったい、だれがあの怪文書を書いたのだろうか?」
「ちょっと、待っててくれ。あれは、ごく親しい刑事には話していたんだが、まだ警察に届けていない。この裏の事務用の机の、鍵が掛かる引き出しにしまってある」
 ピーターが退座したので、ルイーズがキッチンに行って空達のために、ウィリアムにスペシャルブレンドのカプチーノをオーダーしてくれた。しばらくして、コーヒーの芳しい香りが店に漂ってきた。
ピーターが、キッチンよりさらに奥の事務所にしている小部屋から小走りに戻ってきた。普段、冷静沈着な人が珍しいことだ。慌てている。
「ない! 消えてるんだよ……預かっていた怪文書が!」
「えっ、パパ、最近ボケてるから、それ、出しておいた場所でも忘れてるんじゃないの?」と、ルイーズに言われたので、ピーターは思い出した。
「ああっー、そうか。そう言えばこの間、刑事が来たときに見せたよな。もう一度、探してくる」と、また探しにいった。
「ウィリー、これブレンド最高! 本当にうまいなー」と、空が笑顔を見せた。
 それで、険しい表情になっていたダニエルも、ルイーズが運んできたそのカプチーノを一口飲んで、にんまりとした。
 イギリス人はアフタヌーンティーを大事にする習慣がある。お茶はね、人の心を癒す上で、おもてなし……でも大事な習慣だ……。往年の大女優、マレーネ・ディートリッヒの言葉だ。
 マレーネ・ディートリッヒは、「リリー・マルレーン」の歌でも知られるように、ナチス政権に抵抗したドイツ出身の人だ。
 日本だって、茶道というすばらしい文化がある。お茶は、戦国時代の武将にも重要であったに違いない。また精神修行として、どれだけ心の支えになったことだろう。
 空が、少しの間の回想にふけっていたら、椅子の上のタオルの上で寝そべっていた猫みたいなパールが、「ワン」と一声鳴いた。 
 ピーターが、またこちらに急いでやってきた。
「やっぱりない! あとでしまおうと思ってたような気がする。引き出しに鍵をつけたままだったから、刑事が帰った後に、うっかりとして、しまい忘れたのかもしれない。すまない。これじゃ、現役だったら失格だなぁ」
「そんなわけの分からない手紙なんか、バイトが捨てちゃったかもしれないわよ」
 バジルには、ウィリアムと年齢が近い高校生バイトもふたりほどいる。
「ドッコイ! あとで、訊いてみるよ」と、ウィリアムがキッチンから顔を出して言った。
 空の口ぐせを真似している。
「仕方ないよ。それにさ、その手紙って、サインもなくて、どうせ皆ワープロで書いてある印刷だから、証拠品としても信憑性にかけるよねぇ。おれ、スマホに写して保管してあるから分かるよ。だいじょーぶ」
 ダニエルが、以前に空が送ってきたものをスマホに保管していたのだ。
「また、おさらいすると、こじつけかもしれないけれど、こうだ。
第一のとき、動く個室=列車のトイレ。ふたつの列車=ケランダ観光列車とさとうきびの貨車。もしくは、蝙蝠男とカルロスの死んだ現場? 土の中=宝物が埋まっている。第ニのとき、流れる水=バルーンフォール=一番大きな滝。ここまではよしとして、次の315ってなんだ? 開発会社? 第三のときのブダ・ジと炎の森は、山の守り神の大蛇が火を噴くように怒るということなのか? 実際は、山火事は乾季には多いことだし、これは意味が少し理解できるけど……。いずれにしても、また怖いことが起こる前に、真相を解き明かせるスピリチュアルおばさんに来てもらうのもいいことかもしれない……って必要かもーだ」
 パールがまた、「ワンワン! ワォーン」と、未来が来ることを期待するように鳴いた。

 翌日、ピーターは、ダニエルのスマホに保管されていた怪文書をパソコンでプリントアウトして、それを持ち警察に向かった。その日は、彼は夕方までカフェバジルに帰ってこなかった。
 空は、朝からパソコンで、LCCの航空チケットを予約するのに手間取っていた。これは、内緒でピーターがお金を出してくれることになっている。
 未来は、人に恩を着せるようなことは嫌いな性格だし、貸し借りを作るのも好まないのだ。今回も、身の回りに事件が起きて、空が泣きついたことにする。ダニエルもパールも未来に会いたいのだと、そういうことにした。もちろん、新しいターキーが出没することも含めて……。空が航空チケットを買うのだ……ということにした。
「あなたがチケットを用意したのなら、仕方ないわね。そのかわいいターキーも会ってみたいし、行くわよ。今のところ、こっちはお婆さんもだいじょうぶだからね。パールも年取っちゃったし、しばらくそっちにいてあげようかしら」
 未来は、本当はこちらの生活が好きなのだ。それは、たぶん、そこでは人の五感以上の特別な感覚を感じる能力がでるから。そして、シャーローン族が持っているものと同じ。それが、第六感のように潜在意識にある研ぎ澄まされた感覚……だとすると、文明の発達している場所ほど薄れていってしまう。疲れてしまうのだ。大自然からの力である。第六感の半分くらいまでは、無理なく意識が集中できると思っている未来だ。未来の勝手な思い込みだ。昔の人間ならきっと誰もが持っていただろうの感覚だ。残念ながら、それは天の使いであるラッキーの第八感には到底届かない。
 わたし達の母であるこの地球が、文明の発達し過ぎたストレスで押し潰されそうになっている。と、天使のラッキーは人間に教えている。
 しかしながら、ここ数年来、世界各地の異常気象、大災害、人々の争いや疫病などが起こり続けるのには、もちろん恐怖を抱きながらも、人は皆辟易しているのではないだろうか? 度が過ぎてうんざりで、ちっとやそっとの天変地異や事件も慣れっこになってしまっている。  
 テレビのニュースを見ながら、またか……と顔を曇らせながらも、その感情と裏腹に違う行動をしている。自然からは離れていく。外で、わざわざ並んでまでして買ってきたおいしいケーキをほおばる。パソコン、スマホなどでゲームに夢中になる。また酒やタバコ……日常を身近な快楽に逃避することで忘れる。気にかけないようにしている。
 地球の姿であるガイアの悲鳴――これはとどまることを知らない。いや、未来はそれどころではなく、近い将来にもっと大きな恐れと心配を持っていると言う。
「この世界がおかしくなってきていると思いませんか?」
 そう動物達が、また自然が訴えてきていると……伝えていると……。
 解決するその鍵は、生きているものの一人ひとりの心の中――にある。

 夕方遅くなって、ピーターが警察から戻ってきたが、カフェバジルは閉める時間だった。そのため、空とダニエルは、ラッキーなことにピーターの家の晩御飯に呼ばれていた。
 ピーターの家は、さとうきび畑と反対の少し小高い丘にある。お隣がウィリアムとルイーズの祖母の家で、こちらも歴史的建造物としての木製立て看板が庭にあった。
 その背後には、大きな回廊を持つ学校のような建物があるのだが、ここは、公民館だったのを、戦争中に野戦病院として使ったのだ。当時、激戦地ではなかったが、近くの島などからイギリス兵などが送られてきた。
 庭の真ん中に、大きなビーチトリィー(ぶなの木)が威風堂々とそびえ立っている。樹齢は何年になるのだろうか? ケランダ鉄道建設の始まりだった百三十五年前よりもずっとずっと……大昔から存在している。この木は、どうしても切れないので、この位置になにも作れないのだそうだ。
 この土地で無念にも逝ってしまった魂が訴える……戦争という外敵にやられて、悲しさや悔しさの凄まじい感情、愛するものへの思慕の念。それから、ゴールドラッシュ時代、金に翻弄され、目先の利益ばかりを追う愚かでエゴイズムな人間達のおぞましい欲望の亡者。鉄道建設のため、そこで命を落としてしまった労働者達の悔恨の念。
 それらがここに在るべきもの、つまり「プレゼンス(存在感=霊気」として、轟々という猛火のように渦巻いている。牽制し合っている。
 そんな愚かな者達を、人生はうたかたの夢だと、ビーチトリィーが静かに見つめている。
 空が直感で感じることを、パールは肌で感じているのかもしれない。しきりに匂いを嗅いだと思うと、ビーチトリィーの周りをくるくると回りだした。まるで、なにかを探し当てるように……。
「やぁ、よく来たね。今日は、少し疲れてしまってね。シャワーも浴びてしまったところだ。入りたまえ」
 ピーター・マクベスの家の玄関は、セキュリティードアというスクリーンになっているアルミの格子ドアと、デッドロックという鍵をつけドアも二重になっている。裏庭には、セキュリティーカメラもある。田舎であっても、注意するところは注意する。今までも、なにも問題があったことはないが、自分達の身は自分達で守るという文化がある。気をつける習慣は、警察で長年働いてきたということも十分影響している。
 空の住んでいるタウンハウスという集合住宅でも、セキュリティーカメラはある。フェイクもいくつか付けられていた。
 いつから、人は人を信じられなくなったのだろう? 人を簡単に裏切るようになったのだろう? 争いは後を絶たず、戦争を繰り返す。そして、今は世の中の秩序も、昔の道理も失われつつある。なんて愚か者ばかりなのだろう。仁義は愛だとだれかが言う。
「空、後ろを見てみろよ。ほら、久し振りのラッキーだぜ!」
 空が家の中に入ろうとしたときに、背後からダニエルが声をかけた。そこには、赤い顔でまん丸目の横目で、こちらをうかがいながら道を横切るターキーがいたのだった。
「今日はね、ママの機嫌がよくて、得意料理のターキーハムのキャセロールとパスタを作ってくれた。わたしが夕食の用意をしなくてすんだよ」と、ピーターが小声で言った。
 ダニエルを先に手で押して、(おい、ターキーだって!)と、慌ててドアを閉めようとした空が、外の道を見たときには、もうラッキーは姿を消していた。
「あいつ、またなにか言いたそうだったな。そしておれ、いつも見張られているような気がするんだけど、気のせいかな?」 
「気にすれば気になるものさ。ラッキーはここの主だから、自分の縄張りをうろうろとしているだけだろう。妙な存在感がある奴だから、もうじき未来がやってくれば、あいつがなにを伝えたいのかが分かるんじゃない? なーんてさ、科学者の端くれとしてはなにを言っていると思われるかもしれない。が、論理では片付けられないことはあると思う。もしかしたら、あいつは全部を知っていて、感覚でなにかの危機感を訴えているのかもしれないよ」
 リビングには、もうルイーズもウィリアムも座っていて空とダニエルを待っていた。
 レンガと木造の古い造りの家なのだが、家の中は母親の趣味なのか、イタリア製の家具などでインテリアに凝っている。
 ダイニングテーブルの上には、おいしそうなキャセロールの匂いと、サラダやブルスケッタにチョコレートケーキまであってちょっとしたパーティーのようだ。
「たまにはね……いいでしょう。皆が来るときは、いつも庭でバーべキューでしょ。こういうのも家庭的でいいわよね」
「はい。最高ですよ」
 ピーターの奥さんのご機嫌がずっと続きますようにと、空は願った。
 なんとも自然な形で、ダニエルの向かい合わせにルイーズが座ったので、空は、彼らの将来がいい感じになることも願わずにいられない。
 カルロスもブライアンも、自分の家族というのを持たなかったのはどうしてなのだろう。そういう定めというものがあったのかもしれないが、自分のためだけに使う巨額の宝物が、報酬が欲しかったのだろうか? 違う理由も存在していたのかどうかだが、死んでしまってはもう彼らの口からは聞けない。
「まっ、先に食べてくれ。今日警察で聞いたことで話したいこともあるが、メシがまずくなるといけない」と、ピーターが赤ワインのコルクの蓋を開けた。
 空がブライアンの店で買った、と言ってもピーターが後にお金を出してくれたのだが、あのコルク帽子は、空の部屋のイーゼルに掛けられオブジェとなって置いてある。こんな帽子を生み出した大昔は、ずるがしくもなく純粋な気持ちの労働者もいたんだろうなーと思ってしまう空だった。
 食事が終わり、エスプレッソマシーンで入れるコーヒーの芳醇なアロマの香りに包まれて、チョコレートケーキを食べているときに、ようやくピーターが話し始めた。
「カルロス殺しの被疑者、ブライアンは、検死の結果、その日の午前中十時から十二時の間に他所で殺され、おそらく午後二時半過ぎにはバルーンフォールの中央の滝に吊るされた。これは、胃の内容物などから推定時間を計ったものだ。死因は、銃殺だった。薬莢や弾丸は見つかっていない。ということは、どこで殺されたのかがまだ分かっていない。心臓を貫通していた。が、水に一時間は浸かっていたとはいえ、その銃創痕のきれいに強く貫通している特徴から、軍用拳銃が疑われる。カルロスは、ブライアンがやったと大方見られているが、決定的な証拠がない。公園で見つかった凶器のウォレツトチェーンは、ブライアンの店にあったものと同じベントレーのクラウン社のものだった。コルク帽も同じだ。銀色の自転車の車体の特徴的な黒い鳥のような塗りは、写真を見せたところ、目撃者が覚えていたので、ブライアンの家の庭にあったものと同じと断定はできていた。また、セントラル駅の手すりや柱に、ブライアンの指紋が検出されていた」
「あの、前に発見されていたブライアンの靴跡は?」
「あーぁ、空君、それがだな。その靴がブライアンの家に無かったのだ。捨ててしまったのだろう。故意か、偶然に古いから捨てたのかは分からん。だが、どうやら彼のサイズは、それと同じらしい」
「とにかく、彼は列車内では、指紋を残さずに慎重になっていたのに、乗るまでは気にしていなかったか、忘れたのかだが、駅に三箇所発見されていた。でも、事件の日かどうかはわからん。特定できない。事件当日、その時間のアリバイはないが、その日は、いつも通りの十時にはケランダでブライアンは店を開けている。犯行後、公園から自転車で家に帰り、車に乗り換えて店に行くには、十分な時間だ。そして、その動機についての話だ。まず、カルロスがブライアンのところに泊まっていたらしいのだが、殺される数日前に、町のモーテルに出ているんだな。偽名を使っていた。なんらかのトラブルか、ちょっと自分と合わないという理由でもあったか、いたくないから出たんだろうと思われる。そのモーテルのバーで、たまたま一緒に飲んだ旅行中である日本人の学生が、カルロスから、例のシャーローン族の宝物の伝説について話を聞いている。その日本人学生の証言だ。それはいい話だと思ったと言う。そこに眠る宝物をシャーローン族が、山の神と共に守っている。それなのに、何年も経って、ケランダの山の奥深く、そこのウランが東日本大震災による原発事故になった原子力発電所に行っていたのだということを、ずっと悔やみ、嘆き悲しんでいるのがシャーローン族の長老である。いくら政府の命令であったとはいえ、自分達を責め続けているのだそうだ。という話をしたと言う」
「何者ですか? そんなことを知っている日本人学生」
 ダニエルは訝しげな顔をした。
「まぁ、ダニエル君、そういう自然回帰を願って勉強している学生もいるんだ。空君、二千十一年、確かあのときは、君もボランテイアに行ったんじゃないか?」
「えぇ、でも、保護された動物達の施設にですから。それに長く滞在することはできませんでした」
「空君より二歳下の男子学生は、一年間を休学して東北各地、とくに原発被害にあった避難区域にボランテイアで携わっていたそうだ。大学では地球科学科で学んでいたんだが、天文ではなく、環境や自然災害が専門らしい。その学生は、以前にもここに留学経験があった。シャーローン族とのつながりがあり、勉強もしていた。彼は、ここの警察関係者に父親の知り合いがいたんだ。もっとも日本に運んだウランのことは堂々と公にはできんがな。皆が知っていることだよ。そんなふたりの会話から想像するに、カルロスは宝物を取りに来たのではなく、遠い昔のひいひいじいさんのしたことへの弔いの気持ちと付随して、マイケルの残したものを見にきたのではないだろうか。そして、それはジーンズ工場や、ウォレットチェーンなどもそうだろう。ところが、ブライアンは、きっとマイケルが残しているかもしれないなにがしかの……例えば、土の中に埋まっているだろう宝物のありかの目印になる、列車車両の位置の地図などが記したものなど、それらを要求していたんじゃないのかな。メモでも日記でも、分かるものをなんでも持って来いということだったのだろう。カルロスはそれは、当然ここの国と原住民のためのものだと思っていたし、そう聞かされていたのかもしれないな。そんな手がかりがあったのか、またそれを、手に入れたかどうかは分からないが、正当なことを言うカルロスに生きていてもらっては困る理由があり、ブライアンは犯行に及んだ。宝物をどうしても必要とする理由に、なにか重要な意味があるのかもしれない。その秘密をカルロスに言ってしまった。そのブライアンが殺される理由が他にあるとしたら、陰に黒幕がいるということだろうか? 今のところはこういう読みだ」
「それにしたって、世間に見せしめのような殺人の仕方は、なんだかどうにも理解ができませんね。それで、怪文書の315って数字は、警察のだれかが考えてくれて、どうにか推理しましたか?」
「マイケルの誕生日が、三月十五日だが、これはただの偶然かもしれん。それから、滝の水量が変わる時間が通常は三時なのだが、この日は十五分ほど遅れたらしい。といっても、上流のダムから放流するのは、操作室で係員が三人ほどで行っている。安全確認をした上でゲートを開け、吐水路を通って川から滝へと、時間が毎日同じにできるとは限らないらしい。因みに、たくさんのモニターからは犯人らしき者や、手がかりがなにも映っていない。川にも要所要所に、カメラが設置されているがそれらにもなにも無し! 皆目検討がつかない」
 ダニエルは、少し目を閉じて考えていた。
「第ニのとき……流れる水、315の次は開発会社か? ここに、最近開発会社が入ってきていますか?」
「さぁ、まっ、目立つのは、中国資本かな。中国の観光開発ってことなのだろうか? 警察も調べ始めてるとは思うが」
「ピーター。それ、もう少し念入りに調べてもらえますか? それと、こんな真昼間の時間に、滝の中央に吊るすなんて、だれも目撃者はいないんですか?」
「そうだよね、大胆すぎる。いくら他でやってからブライアンを運んできたとしても、相当土地勘がなければ、獣道でも、毒蛇や毒蜘蛛やもちろん道だって危ないし、森を知ってなければ無理だよね」
 空は神経質だから、そういうところに着目する。
「もちろん、目撃者は捜しているだろう。あの危険な滝の中腹の岩に、引っかかるようにロープで縛るのは二人以上でなければ無理な話だ。銃の撃ち方にしても、これは素人ではない。兵士か元警察官、またはプロの殺し屋だ。捜すのは難しいねぇ」
 ルイーズとウィリアムは、もうこんな話は飽き飽きだと、ソファに移ってテレビのスイッチを入れた。
「そうだ! 未来は来てくれるのかな」
「はい。ピーター、クレイジーな母が来るのは、来週の水曜日になります。来週いっぱいは、自分も仕事は休みだし、ダニエルも帰るのを少し延ばすこともできそうです。そうだよね。まだ航空チケットを帰りは取ってないし」
「おいおい、勝手に決めるなよ。そりゃ、このままじゃ帰りたくないけど……」
 空は、リビングの外れの木目のチェアーに敷いたバスタオルの上で寝ていたパールと目を合わせて、肩をすくめた。
(分かりますよ。空には、ダニエルが今まだいてくれることは、安心なんだってこと!)と、パールは悟っているようだ。
 少し年を取ってきたパールは、人間で言えば、還暦で、昼寝も多くなってきた。
「とにかく、明日また警察に行ってみるよ。君達も、なんともこの事件に巻き込まれてしまったようだな。しかしながら、これが解決できるとしたら、未来と空、ダニエルのおかげかもしれないと思うよ。感謝している」
「ダニエル、今晩はオールナイトだよ。映画が安い日だ。見たいのがあるんだ。みんなで行こうよ」
 ウィリアムがそう言ったので、ダニエルとルイーズと三人で町のショッピングセンターの映画館に行くことになった。空は、パールの世話もあるので行かない。お隣のお婆さんのところのチワワとは仲がいいが、空は、パールに夜のお留守番はさせたくなかった。そして、ひとりでこの事件を考えてみたかったのだ。
「遅くなるようだったら、ここに泊まっていきなさい。ダニエル」
 そういうピーターの言うことを聞いて、ダニエルは、今晩は家に帰ってこないだろうと空は思った。
 ピーターに車で送ってもらい、空とパールはタウンハウス前でおりた。そのまま、ダニエルとルイーズとウィリアムは映画に出かけていった。
 タウンハウスの入り口で、それを見送った空は満天の星空を見上げた。今夜は、よく晴れている。
「人の心は、こんなにも澄み切ってはいない。この大空から見たら、人なんて……なんてちっぽけな存在なんだろう。なぁ、パール」
(わたしの一生は、空よりずっと短いんですよ。ちっぽけなんてものじゃありません)なんて、パールが言ったかどうかだが、空の隣で、やはり星を見ているように上を向いてお座りをしていた。
(あの大空の向こうで、ラッキーが地球の命、魂を救うための超、超、超、巨大な風船球、バリケードを作成しているのだろうか……)と、未来の言葉を思い出したが、すぐにそれは現実ではないと空想の世界だと思い直して、視線を落とした。
 その視線の先には、この土地の主のターキーが、おしりを振り振り走って行った。ときどき、こうして目の前に現れるのは、なにかを伝えようとしているのだろうか? 空には、そう感じられてならない。
 少々白内障が始まっていて目が弱くなってきているパールだが、ターキーに触発されてリードを引っ張り走り出した。
「おいおい、今日はもう遅いよ。散歩じゃない、帰るよ」
 空が制止したが、パールはぐんぐんと引っ張った。行き着く先は、そう! あのファンシー教会だ。
 児童公園のタイヤのブランコは、今宵は揺れていない。ファンシー教会建物の横には、三階建ての屋上と地下に向かう非常階段がある。その地下に向かう非常階段でここのラッキーという名前をつけたターキーは消えてしまった。と、空にはそう見えた。
 ここに住むターキーのラッキーは、風船球で夜空に向かうことはしないのか? まるで、地面に吸いこまれていくように消えた。地の果てに消えていくような奇妙な感覚が、空を包んだ。
 パールは、地面より下の非常階段の地下の扉に向かっていつまでも吠えていた。
 その夜に、空は今まで見たこともない夢を見た。そして、うなされていた。楽しげな夢をいつも見て、おもしろいうわごとを発するパールも驚いて、飛び起きたくらいだ。

空の夢

 この夢はたぶん、その昔に、空のお祖父さんから聞いていた戦争体験のことが、空の記憶に残っていたからだろう。
漠然とだが、遠いところに空の分身がいて、客観的にそれを見ている。幽体離脱のようだ。
舞台は、第二次世界大戦の終盤に向かうころの、ピーターの家の裏にある歴史的建造物の公民館だ。このとき、公民館は野戦病院として急遽改造され、使用されていた。
 激戦となっていた近くの南方諸島や、ニューギニア戦線などから海を渡りこの病院に運ばれてくる兵士達。それは、大きな広間には、もうベッドも置けないくらいの混雑ぶりで、患者達は、外の回廊の床にも寝かされていた。
「痛いです。助けてください」
「苦しい! 家に帰りたい」
 そんな声をあちらこちらと聞きながら、この時代にいないはずの臨時の医者としてダニエルが、駆けずり回っている。片手のない者、足を切断された者、頭部や背中を負傷している者や、高熱を出し意識が薄れていく患者達。辺りは阿鼻叫喚な地獄だ。
「だれか手の空いてる者はいないか?」
「こっちにも、ドクター早くしてください。処置しないと間に合いません」
「臨終です。処置、ケアを早く願います」
 皆がパニック状態で、あの温厚でのんびり、マイペースのダニエルの顔つきもいつもと違っている。目の下にクマができて、顔は土気色になっている。何日も寝ていないのだろう。
「だいじょうぶか? ダニエル」
「それは、おれのセリフだろ! まだこう言えるからだいじょーぶなんだろ」
「空、事務職のおまえにやらせて悪いが、こんな無茶苦茶な状況下なんでまだ助けてくれよな」
「分かっているよ。ひとりでも多く助けなくちゃ! 魂の風船球がいくらあっても、これじゃ足りないもんな」
「魂だって救えないよ。心もズタズタに傷ついているんだから、こんな狂ってしまった世界情勢に、正常でいられるはずの人間……いや生物だっていないさ」
 ダニエルは、また次の隣の患者の包帯を巻き直している。
「きゃーっ!」
 その隣で、ある看護婦が叫んだ。その顔がルイーズだ!
 右腕の傷口がむき出しになっていて、その盛り上がった患部をたくさんのうじが食べていた。ガサガサという音が聞こえる。その包帯にハエが卵を産んだのだろう。
「取り除き、消毒しておけ! 一匹や二匹は取れなくてもだいじょうぶだ。そいつはね、傷口を治す。死滅した組織、つまり腐った肉を食うんだよ。バイオロジーをやってる君がそんなことで驚くな」
「わたしは、薬剤師だったのよー。なんで看護してるのかしら」
「とにかく、今は目の前のことをやるんだ。マゴットセラピーぐらい、医療に携わる君なら覚えておけ!」
「ドクターダニエルスミス! なによ、わたしにそんな口のきき方をするなんて。もう知らない」と、そのルイーズは、泣きべそをかいた。
(これ、現実と反対だ。ルイーズの方が、ダニエルに強いんじゃなかったっけ?)
 現実は、こんな光景はまったく有りえるはずがない。日本軍は敵国だったはずだから、空もダニエルもここにいるのがおかしい。
 空には、七十年以上前の戦争の歴史など知るよしもなく、興味もない。
 ただ、今の社会でも考えることはある。貧しい心の国家権力者が欲しいものは、資源……それは、その昔に愚かにも日本だって戦争に突入していった原因ともなっている。資源というそれは、原油だったりこの時代なら石炭、金などの鉱物だったりとそれくらいは空にも分かる。そして、付随する植民地争いとそこに潜むゲリラ達。
 現代社会だって、宝物をめぐり見えない戦争は続き、現実にはテロが勃発している。そんなもの……だれのものでもなく、権力者の欲望でしかない。唯一絶対の支配などない。すべてはこの母なる地球のものだ。
 野戦病院には、次から次へと休む間もなく患者が運び込まれてくる。
「ダニエル、もう無理だよ。これ以上はどうにもならない! おれらがみんな、倒れてしまうよ」
 突然に、外で、大昔からこの大陸に住みついているクカバラという大きなワライカワセミが、「クアッカカカカカカカー」と、大きな声で笑ったように鳴いた。
 それが合図のように、庭の真ん中のビーチトリィーがのそのそと動いて、こちらを襲ってきた。とてつもなく大きな怪物だ。
 そのビーチトリィーが、みごとに生い茂った枝と葉を揺らしながら、どんどんとこちらに倒れこむように向かってくる。大木に、寄生して絡みついた草木が、まるで人の血管のように見える。動脈が、静脈が波打ち、ドクドクという不快な音を立てる。
「おまえら、人間どもは間違った方向にいっている!」と、空には地面から響いてくるような怖い声が聞こえる。
 幹には苔が生えているようで、その太い中央部分の黒っぽい胴体には、とても怖い鬼のような顔があってその目は冷たく、しかし煮えたぎるような怒りを感じ、空は背筋がぞっとした。
「危ないよー。 おい、ダニエル! あいつが襲ってくる。どうしよう!」
「もう、だめだー!」
 自分の叫んだ声で、驚いて空は目が覚めた。パールがベッドの上でお座りして、空を見つめてきょとんとしていた。(だいじょーぶですか? 世話がやけますね)と、思ったかどうかだが、空の手をパールはなめていた。
 クカバラは、シャローン族にとっては、神聖な鳥として崇められている。伝説としても有名だ。
 この世のはじめは暗黒であったが、神がこの世界に光をもたらすために焚き火をした。それに偉大なる精霊が火をともしたので、太陽が創造され世界に光が現れた。神が毎日定期的に太陽を昇らせるために、忠実なしもべをと抜擢したのがクカバラで、その声で、朝を知らせて太陽を起こす重要で神聖な役割を担ったのである。という伝説だ。
 また、クカバラはもうひとつの呼び名がある。ゴールドラッシュ時代に、この大陸にやってきた鉱山労働者達は、その滑稽な鳴き方から、「チャカ・チャカ」と呼んでいた。それを、もじってここではジャックと言う。
 古今東西、この大きな声で「クアッカカカカカカカー」と、ともすると人を小馬鹿にしたような笑い声は、人の心を和ませもする。しかし、空にはその笑い声が、哀愁を帯びて、少し悲しく聞こえてしまう。
 なんとも、人間はエゴイズムな……傲慢不遜な生き物だとそう言われて、笑われているようだ。人間は、もう大自然の動物達から尊敬はされなくなった。
 空は、その伝説の本をこの間読んだばかりだったから、こんな夢を見たのかもしれない。

315

「おれらは、平和な時代に生まれてきて本当によかったなぁ」
 朝に目覚めた空の第一声が、こうだったので、パールはあくびをしながら(やれやれ、寝不足ですか?)と、空の顔を見た。パールは、ダニエルが早く帰ってくるのを期待している。今晩も夢を見られて、起こされてはたまらないからだ。
 そのダニエルから、「バジルに来ないか? これからブランチにしようぜ」と、スマホにメッセージが入ったので、空はパールを連れて、散歩がてらにカフェに向かった。
 タウンハウスを出て裏の通りから行くと、遠回りだが車の往来のある道路を避けて行ける。久し振りに通るコア・キラーストリートだ。
 ここのところは、どこにも感電死してぶら下がっている大蝙蝠は見かけない。微妙に移り変わっていく時節を察して、山に近い方とか……蝙蝠は、場所を移動していくのだろうか?  
 この国に季節というはっきりした区切りはないような気がするが、冬に向かっているなら今は、実りの秋である。
 小学校のグラウンドのはずれで、たくさんのキバタンが樹木から落とした実を、器用に足を使って食べている。大蝙蝠達は、どこへ行ったのだろうか?
 空は、蝙蝠男のことを思い出して、あの歴史的建造物のワイルダーの家の前を通ることにした。蝙蝠男ことシャルルは自殺で片付けられたが、その後、タウンハウスに住んでいた奥さんは、いつのまにか引っ越してしまった。今は、空き家になっている。
 ワイルダーのクイーンズランダー方式の古い家は、外から伺うと、人の気配がないように感じられた。引っ越したというには、物置の隙間から見える道具類などはそのままのようなので、どこか旅行にでも行っているのだろうか? 本当に生物兵器などを作ろうとしていたのだろうか……。モルモットは、今はどこでだれが面倒を見ているのかが、動物好きの空には気に掛かった。
 この古い家の前にも、この家よりも長く生きている太い幹の木がある。パールが噛まれるグリーンアントのいるガムツリーではない。
 ワトルの種類であろうこの木は、なにも言わず、ずっとここで、ここの長い歴史を見てきたに違いない。空は、しみじみとその木を下から見上げた。(最近は、こんな風になにか感慨に浸ることが多いなぁ)と、苦笑した。
 群れをなしたキバタンが、ギャーギャーと泣き喚きながら朝の空を飛んでいく。たらふく食べて満足したのだろう。一匹だけ、まだ食べている奴が取り残された。そいつは、待ってくれと言わんばかりに、ギャーギャーと騒ぎながら遅れて追いかけて行った。
 動物は、「足るを知る」が自然である。必要なだけ、生きるためにあればいい。人間の世界で、餓鬼は始末が悪い。もっと欲しいと、まだ望む。その欲望が自らの欲の奴隷になってしまうのだ。
 キバタンが通り過ぎた大空を見上げれば、青い空に流れる雲が眩しい。流れる白い雲の間を、あの昔のラッキーが上空に昇っていったというオブラートに包まれたような球体が漂っているような気がした。空は、新鮮な気持ちがして、大空に向かって思いっきり深呼吸をした。
 バジルは、そのドアを開ければいつも通りの芳しいコーヒーの香りが漂い、気持ちが豊かになるようだ。空は、昨夜の夢から開放されて、やっとほっとした。それは、ダニエルやピーターの顔を見たからかもしれない。
「よっ、待ってたよ。パールも一緒。テラス行こうぜ」
 ダニエルは、店の中に数人の客がいたので、そう空に促した。
 カフェラテと、遅いモーニングのクロワッサンセットをオーダーして、空はパールに水を取りにキッチンに行って戻ってきたら、ピーターが来て腰掛けていた。
「それでだ。怪文書の315のことについて、有力な指摘があったよ。今朝、担当の刑事が来た。この数字は様々な説が考えられるのだが、これが一番当てはまるのではないかというのが、315番地ということらしいんだな。この怪文書にストリート名がないのが気にはなるんだが。実はね……」
 そこで、ウィリアムが空のモーニングセットを持ってきた。
「ルイーズは、今朝寝坊だよ。来るまでさ、あとで空が手伝ってくれるとありがたいんだけど!」
「おい、それはこのわたしが決めることだよ。空君、悪いね。わたしも店を出たり入ったりするので、申し訳ない。時々手伝わせてしまって……」
「ドッコイ! です。ピーターには、母の航空チケット代も出してもらっているし、バイト代はいいですよ」
 空は、コーヒーを淹れることができるのがすごく嬉しかった。今の自分には、気分転換が必要だ。
「315番地なんて、たくさんありますよね。それは、ここでは特別ですか?」
「そう、ダニエル。その特別な意味は、最近大きくなった開発会社のある場所が、315のハンズストリートだ。あのブライアンが殺されたときに、ケランダ鉄道に乗っていた二十人ほどのある団体観光客が、この開発会社の家族招待ツアーだったのだ。315はそれで分かった。この会社は、あのルーセットというカジノを造ることが大きな仕事なのだが、今はそれに伴い、付近の道路整備や、観光施設のリニューアルや土地の買収などに力を入れている。昨年、ここに元からあった不動産会社Kが、中国の開発会社と組んで共同経営となっている。通称、仲間内で、315と呼ばれているので、怪文書でもそれが有力だろうと思われる。ここで、この315、そして次の開発会社が言葉で繋がるんだがな……、なにを伝えようとしているのかが、分からないのだ」
「その中国の開発会社ですが、どこから来たのか分かっているんですか?」
 ダニエルがテーブルの上のアイスコーヒーを飲みながら、空にやっぱりという目配せをした。
「元は北京の方かららしいが、投資家は、香港系からもいるらしい。イギリスからの移民であるボスがいる、ここの不動産会社と組んだようだ。もっともこの不動産会社はくせもので、本業のはずの不動産取引はあまりぱっとしていない。それに、北京からの開発会社を最初に立ち上げたのがメルボルンだったが、こっちの違う不動産会社と組んだことにより、メルボルンから独立した形でここに新開発会社がもうひとつできた。メルボルンの方は、中国との輸出入の貿易会社を兼ねていたが、少々厄介なことになり貿易は止め、会社も縮小したらしい」
「それは、よくあるパターンで、持ってきてはいけないものを輸入、輸出をしようとしたということですね」
「そうだね。ダニエル、それは想像できるように、密輸だな」
「なんだろう? 毛皮や禁止されている自然のもの……まさかの脱法ハーブ系とか?」
「空、最近ではそれは法の網をかいくぐっている。ぎりぎり合法とかにして、わけの分からないハーブやお茶をビタミン剤などに混ぜたり、粉にしてぶっかけたりとしているんだ。それで、持ち込んでくる。もっとも、薬だってすべてが安全なものとは言い切れないが、漢方薬の中国何千年の歴史が、悲しいよね。現代じゃ、アヘン戦争の再来かもしれないなんて言われてる。口にするもので信用ができないなんて、国も廃れたものだよ」
「違うんだ。それがだね。少し前にSARSというのが中国で流行しただろう。そのときの教訓で、新型のコロナなどの他ウイルスのワクチンの開発に、メルボルンの製薬会社と協力してこの会社が、母国からこれらに使うハーブなども手に入れていたんだ」
「それ、脱法ハーブどころか、めっちゃいい方の開発じゃないですか!」
 単純な空がすかさずこう言った。ピーターが、頭を振って続ける。
「しかしだ! ダニエル君もよく知っての通り、新薬やワクチンの開発には莫大なお金が掛かる。その資金集めのために、他に違法な貿易で、危ない一線を越えていたかどうかは分からない。しかしだね、それは、手っ取り早く大金を作れるかもしれない。だから、このケランダに眠る宝物の伝説にも、着目したのも侮れない。それに、ここにルーセットカジノを始め、中国の観光客増加を見越した開発資金も必要だ。一時は、地元の反対やら問題もあって中断していたからね。ここで、渋った投資家への信頼回復のためにも計画は進めなければならない。だが、ここに、邪な考えが働くからこんな事件が起きる。人を助けるためだけが目的のワクチンなら、お金もまっとうに正当な道で作らなければならない。そこに観光開発だの、お金儲けばかりが真っ先に来るからおかしくなる。ワクチンにしても、開発のお金をどうして政府が十分に出さないんだろうね。限られた資金では限界がある。いよいよの大問題にならなきゃ国のお偉いさんはお金を出してくれないからね」
「そのメルボルンの開発会社はまだ健在なんですか?」
「今、調べているがね。クラウンとキングという名前があることはある。ここでの通称315の同系列会社名は、『ジャック』という。会社のロゴは、クカバラだ」
「ええーっ! ドッコイ! それ、ジャックだって」
「どうしたんだよ。随分驚いているじゃないか?」
「いや、ダニエル。昨夜におれが見た夢の中に、クカバラが出てきたんだよね。昔は鉱山労働者が、クカバラのことをジャック! と呼んでいたんだ。それを知ってつけたのかなと思ったからさ。それと、気になったんだけど、あの怪文書の文章で、バベルの塔もどき
ってさ、カジノとかの観光施設を造るっていう意味かな?」
「どうだろうねぇ。塔ならば、ケランダの山とも受け取れる。バベルの塔はね、空想世界で、イメージするのは聖書の中でも難しいと思う。神が偽りで実は悪魔、逆に聖書のその悪魔は蛇で、人間に知恵を授けたから真の神という逆説的な考え方がある」
 空は、ため息をつきちょっと考え込んでしまった。それを遮るように、ダニエルは続けた。
「空さ、ワクチンではないが、あのシャルル……蝙蝠男の関わったと疑われる生物兵器だけど、なんとなくどこかで繋がるような気がする。少し見えてきた気がする」
「へーっ、頭脳明晰なダニエルがなにかを物理だした?」
「なんだその言い方は! だから、空、なんでもかんでも物理にするな」
「おーい! 店が立て込んじゃったよ。空、ヘルプミー」と、テラスの戸を開けてウィリアムが声を掛けたので、空は店の中のキッチンに向かっていった。
「ダニエル君、カルロスを殺したのは、ブライアンというのはほぼ間違いない。だが、ブライアンをやったのは、プロだ。FMJ弾、特徴のある弾薬、頭が見つかったんだ。硝煙反応はわからない。その銃を使った場所が正確に特定できないが、ブライアンが吊るされていたバルーンフオールから数キロも離れていないだろう。と言うのは、他に見つかった弾丸はひとつだが、それは軟鉄製のジャケットに特別なマークがあり、中国の軍需工場で作られている。磁石で吸いつくので、森の中で捜しやすかったんだろうね。したがって、その銃は特徴のある弾から、トカレフが疑われている。凶器はまだ見つかっていない。これは、プロの組織だとするなら、直ちに逮捕もできないな。これ以上は警察に任せた方がよさそうだ。しかし、腑に落ちないことだらけだから、未来が来て怪文書の意味などを解明できたらそれでよしとしないとね。それと、今後の事件が起きないように考えなければならんかなぁ」
「そうですね。ピーター、分かりました。最後の第三のときの意味を知っておきたいですよね。事件のことは、警察にお任せします。ぼくらは、この文章を、解読できたらそれでいいですよね」
「おーい、ダニエル、カプチーノ! サービスでおかわりだよー」
 キッチンから、外のテラスに聞こえるほど元気な空の声が響いた。

第三のとき

ブダ・ジの伝説――諸説

 少し前の映画で、「虹蛇と眠る女」というのがある。ニコール・キッドマンが主演で、その迫真の演技がすばらしいと言われている。
 この映画は、砂漠地帯の町に越してきた家族の物語だ。原住民等に語られる様々な伝説で蛇にまつわるものでは、「虹蛇」が一般的であろう。
 映画は「眠る怨念を起こしてはならない。虹蛇が眠る神聖な大地を犯してはならない」と、伝えている。
 ある伝説では、この世の始めに蛇の神さまは、たったひとりで無限の砂漠に横たわっていたと始まる。蛇の神さまは寂しくて、それに飽き飽きして、この世に存在するべく全ての生き物を生み出す。湖の近くにいるカエルやトカゲ、ワニなどはもっとも近い家来だ。そして、それらを良しとして嬉しくなった。
 全ての生き物のへその緒を、蛇の神さまが持っている。天地自然の法則、掟に背くと、その種族は永遠に死に絶えるのだ。それなのに人間は、自然に逆らうように文明の発達をし続ける。現代社会は、蛇の神さま達のお情けでまだなんとか滅びずにいる。
 この世でもっとも偉大な生命をつかさどる精霊が、虹の蛇なのだ。大昔からこの世界のすべてを知っている。すべての知識の精霊として、シャーローン族にとっては祖先とも同じで、崇められている。
 また、こんな伝説もある。
 宇宙の中で、月の精霊と虹蛇は仲がいい。明るい空、明るい月の夜に、ムーン氏が湖のスネーク女史を訪問するとき、スネーク女史はおもてなしをして、ふたりきりで世界の秘密について話し合う。ムーン氏は、天空から見える全てのことを、スネーク女史は、地球の大地で起こったことを話し、これからの将来を話し合う。
 天と地のこの重大なミーティングは、世界の根幹に関わるものだ。だれも聞くことは許されない。聞いてしまったら、虹蛇の呪いで石にされてしまうのだ。
 何万年も前から存在する熱帯雨林の国立公園、そのケランダの山の奥深くにシャーローン族は二万年以上も住んできた。乾季には、天から下りてきて恵みの雨をふらしてくださる虹蛇、ブダ・ジと共に……。雨が止むと虹が出るのは、虹色蛇の魂なのだ。
 また、こんな言い伝えもある。
 世界創造におけるブダ・ジがある日、巨大化して村人達を襲う。とは、未来が言ったことだが。
 実際の伝説は、バルーン川と、そこに流れ込む海岸線から高原に渡る小川の創造主とされているニシキヘビの話だ。ブダ・ジは、オウムガイの貝殻を持ち、川辺で暮らす村人の持つものと交換しにバルーン渓谷を何度も行き来していた。ある日のことだ。この美しいオウムガイを横取りしようとして、三人の鳥人がブダ・ジの後ろをつけていた。
「その宝物のオウムガイを、わたし達に渡しておくれ」
「オウムガイは、川辺の人達に渡すためのものだ」
 三人の中には、こう言う者もいたかもしれない。
「決して悪いようにはしない。世の中のために使うのだ」
 しかしながら、ブダ・ジは疑って渡さなかったので、怒った鳥人達はブダ・ジを襲うことにした。三人の鳥人とは? マイケル、ブライアン、そしてカルロスだろうか? と未来なら考えるだろう。
 バルーン川の上で待ち伏せして、ブダ・ジが下りる前に、バルーンフォールで襲い掛かり、殺して石の斧で細かく切り刻んでしまった。
 ブダ・ジのかけらはその土地や海岸沿い、高原にばらまかれた。ブダ・ジの魂は、今もそこに眠っていると言われている。
 その後、未来が見た夢では、現れたのは巨大化したブダ・ジだった。それは、人間のやり過ぎた文明の発達に対しての警告だ。
 放射能を浴びてゴジラは巨大化した。このケランダ奥地に眠るトリウムから、変化したウランを浴びて、巨大化するブダ・ジも有り得る。ダニエルに言わすと、高気圧、高酸素濃度を保ち続けると生物が巨大化できるという。モルモットなどでは、実験済みらしい。
 虹という字には、虫偏がある。これが虫偏なのは、中国の伝説からによる。水の神なのは同じなのだが、中国では龍なのだ。
 巨大化したブダ・ジと、空に住む水龍との戦いだと……でも、お互いが争い合えばそれは、そのもっと上の神さまにより全てが、滅ぼされてしまうだろう。
 オウムガイも水も、自然の資源は、すべて地球の財産だから!
 虹蛇の造った川は曲がりくねっている。湖が丸いのはとぐろを巻いているから。虹蛇のおかげで雨がふり、さとうきび畑が潤う。干ばつが続き雨がふらなければ、農耕に影響し人は困る。
 眠ったままの虹蛇を無理に起こそうとして、気に障ることをすれば、虹蛇は激怒して大きな身体を空や大地に叩きつけ、大災害を起こす。雷という怖ろしい蛇の声を轟かす。とは、シャーローン族の言い伝えだ。
 どんな干ばつになっても、虹の神さまとブダ・ジがいる限り、熱帯雨林は枯れない。そこには、神聖な空気が流れている。
 むやみやたらに、神聖なる山を、海を、川や湖を……自然の全てを犯してはならない。

 飛行機の中で、遠野宮未来は「ブダ・ジ伝説」を読んでいた。頭の中で色々と妄想する。もうすぐ三十分もすると、目的地に向かい飛行機は降下していく。
「いつもながらに、真っ暗! 大体着くのが早すぎるのよねぇ」と、ひとり言を言いながら、キャビンアテンダントにモーニングコーヒ
ーを頼むわがままを言った。今回は、贅沢なことにビジネスクラスなのだ。LCCだから、ビジネスのスペシャルプライスが出たと空が奮発したらしい。息子の成長に、未来は少しほっとしている。
「コーヒーは、いまいちだけど、まっ、いいか……取りあえずは目が覚めた」
 薄暗くまだ群青色の空が、少しだけ白み始めてきたようだ。ジーンズのインディゴブルーの藍色が、着古していく度に微妙に変わっていくようなそんな色を想像する。青だけの微妙なバリエーションで、その景色を水彩画にでも描きたくなるような感覚が未来を襲う。未来は物語も書くが、水彩も描く。しばらくすると、飛行機が着陸態勢に入った。
 キャビンアテンダントが、コーヒーの入ったカップを「お客様、おさげしてよろしいでしょうか」と、訊いて持って行ったのを見て、(エコノミーとは待遇が違う……やっぱり)と、未来はほくそ笑んだ。
 なんと飛行機の窓の外には、丸い虹のようなブロッケン現象が、ケランダ山だと思われる山頂の朝靄の中に見えた。未来には、バル
ーン川の上流に来る前の、まだ休んでいるとぐろを巻いたブダ・ジに見える。
「ほほー! ハロー! ブダ・ジ……いい夜明けだね。幸先がいいスタートだわ」
 未来はたくさんの食物類を持ってきたため、税関の荷物チェックでかなりの時間を要した。空港を出るころには、群青色の空は、もうすでに茜色に染まってきていた。
「あら、お疲れさんね。早朝早く起きて、随分と待たせたわりには、空の顔色はいいじゃない?」
 空の顔に、朝焼けが反射しているようで明るく見えた。サンバードをはじめ小鳥達が、うるさいくらいにさえずり始めている。
「朝だから、車も少ないしなんとか運転してきた。パールはダニエルとまだ寝てるよ」
 空は、車の免許証は持っているが、神経質だからあまり神経を使う運転はしたくない。日本では絶対に運転をしたくないのだ。鳥が一匹、前方に落ちてきただけで緊張してしまう。
「だいじょーぶだ! 鳥は飛ぶ」と、助手席にダニエルがいたら、そう言うだろう。
「あのね。明日は車を使うからね。今、決めた。ブダ・ジ! に会いに行く」
「ええーっ! 大蛇に!」(また始まったよ……おふくろの奇行)
「それ、本当に言ってるの? あのさ、明日はピーターのカフェバジルに一緒に行こうと思ってたし、ダニエルも、おふくろの手料理を楽しみにしてたのに」
「だって、その怪文書の解明が先決なんでしょう? 第三のときはまだ始まっていないわけだし、なにかの事件が起こるならその前に阻止しなくちゃね。それなら、会うしかないじゃない」
「まったく、おふくろの言ってることが分かんねーなぁー」
「分かんなくていいの。とにかくケランダの森の奥に行ってくる。もちろん、獣道の奥深くは無理だから、車で入れるところまでだけど、ブダ・ジを呼び出してみるわね」
「おれらも同行するってわけ? 今は事件後だし、危なくない?」
「事件後だから、かえって安全なの。今は警察が毎日のように見張っているしね。でも、だからブダ・ジは悲しんでいると思うのよ。泊まりで行くかしらね。キャンプ場はこの年じゃ……ちょっときついかなー。あたしもパールも年だしね」
「パール、連れて行くの?」
「当たり前じゃない。テレパシー必要だし、パールは特別な犬だから、ブダ・ジも襲わないわよ。ダニエルと空と未来は、特別地球大使なんだから、だいじょうぶ!」
「やれやれ始まった……またか。付き合いきれないね」
「なに言ってるのよ。なんとかすっきりと解決できるようにするわよ。それに自然の中に入れば入るほど、ぞぞっとする直感が働くんだから……、不思議なピアスもちゃんとしてきたしね」
「ミステリアスな事件が、おふくろが関わるとファンタジーになっちゃうのか……ダニエルも呆れちゃうと思うよ」
 不思議なピアスとは、昨年まで空と未来が住んでいたワナリーの町で、天の使いであるターキーの初代ラッキーから変身したヤシオウムから未来が頂いたものだ。グレーとホワイトの丸いパールが二つついているピアスだ。アクセサリーとしてもお洒落だ。
 ここの国では、海にある島々も有名で、国産の名品である真珠がある。それからできている。ブラックパールにホワイトパールとは、シーズー犬のパールの色合いと同じだ。不思議な縁で、未来に貰われてきたパールもこの国育ちの国産だが……。
 未来がこれをつけると、ラッキーはもちろん、動物達の声が聞こえてしまい、交流ができるというらしい。それをまたつけている。日本では役に立たないものだったから、タンスにしまっていた。日本では騒音が多くて、頭痛と邪悪を感じ、都会ではほとんどその機能が働かないのだ。
 空も神経質な体質だから繊細な感覚もあって、日本の繁華街などでたくさんの電磁波を感じると気分が悪くなるという。人が密集しているところでは、多くの電子機器が使用されているのだから、目に見えない電磁波が交差しているのは無理も無い。電磁波の過敏症である。
 考えてみれば、それは人体の影響において怖いことで、自分の身体は自分で守っていくしかないのだ。と言っても、携帯電話もパソコンも、どんどんと身近に便利となって、空だって手放すことはできない。しかし、人が少ないところで、自分だけがそういうものを使いたいとは虫のいい話だ。

 翌朝は、快晴だった。
「まったくだぜ。おふくろが来ると、ファンタジー、幻想の世界に引き込まれちゃうから困るよね。ダニエルみたいな科学者がいてくれなきゃ、おれも頭がおかしくなるよ」
「いや、おれはむしろ頭が正常になるような気がする」
「ダニエル、おまえまでそんなー。だいじょうぶかい?」
「おれは抽象的な概念で、心で見て感じるというおふくろさんの方が興味あるなー。心を自由にする。すると、普通では見られないものが見える。科学でもこの世に絶対などというものはないんだよ。生き物の魂、心を『ミクロコスモス』と呼んで、これが交流して成り立っているという古代昔の考え方を、今もなお大切にしている原住民には、恐れ多くも踏み込んでいくことはできないが、おふくろさんの交信術で、動物達から聞けるならすごい興味があるし、事件の真相も、裏側も見えるんじゃないかなぁ」
「ふーん。そうかなー?」
「正確にと、頭で考えても見えてこない。刑事もなにも考えずに、まず現場から! 感じること。勘と足を使って調べろって言われてるじゃない……ピーターに」
「難しいことは、おれには分かんないや。けど、あの人、ワナリーに住んでいたときも、今回みたいに怖い事件ではなかったけど、的を射ていて解決したんだよね」
「そう! 終わりよければすべてよし……霧が晴れればもっとよし。おっはよー。すっかり寝られて気分も爽快だよ。車を借りるよ。空、あたしが運転する」
 早々に支度をしてきた未来が、パールを抱いてタウンハウスの二階から下りてきた。
 元々車は、未来が乗っていたフォードの紺色のワゴン車を空が引き継いだものだが、未来はもう自分の物とは思っていない。そういうところは、この母親は寛容で、けじめをつける。いや、単に細かいことは気にせずに、単純であげた物などは片っ端から忘れてしまうのだ。気前がいい人だ。
 北へ向かうハイウェィを横道に入り、ケランダの山に向かう国立公園を左右に見ながらの道は、かなりのヘアピンカーブを繰り返して上っていく。
「おふくろ、久し振りのハードな道だけど、だいじょうぶ?」
「だいじょーぶ! 何年運転してると思ってんのよ。あなた達よりは、ずっと安全運転だわ。無事故無違反の優良ドライバーなんだから」
「日本じゃ、運転しないから、ペーパードライバーと思われてるんじゃない?」
「空、あんたのおかげで都会の大学まで、片道千七百キロを、何回往復したと思っているのよ!」
 しかしながら、この長旅を自由気ままにしてきたので、たくさんの奇想天外なでき事に遭遇することができた。大自然の中で、未来の動物達の声が聞こえるという能力が研ぎ澄まされたのだ。
 空が大学に入学したときには、彼はまだ運転免許を持っていなかった。それでも未来は、少々年を取ってきたパールのことも考えて、飛行機で行くよりも車で行くほうを選んで、ゆっくりと旅をしながら行き来したものだ。
 しかし、この国の広さは半端ではない。日が昇り、起きて車のハンドルを握り、ただひたすら真っ直ぐなハイウェィを走る。そう高くない緑の山と、赤茶けた土と、牧場の牛や馬、羊などを見ながら田舎道を何時間も駆け抜け進んで行く。何日も同じ景色で、時速はおよそ百キロをキープする。とにかく眠くならないように、自分との戦いの耐久レースだ。
 日が暮れれば犬OKのモーテルに泊まる。毎日が単調で、自然の中をただ運転し、食べ、休み、寝て、思考がフリーズしそうな感覚がするときもある。車の振動と連鎖して、無になるような境地。下界のすべてのことがどうでもよくなる。無事に生きていればいい……そういう無常や無我を感じる刹那が生じる。
 未来は、長距離を運転中に、あちらの世界に持っていかれるような感覚を覚えることがあったが、危ないことは一度もなかった。まだ、自分がもっとこの世に生かされよという意味があると、未来は思っている。
 そんなことを懐かしく思い出しながら、未来はアクセルとブレーキを交互に踏み続けた。
「大分、道が険しくなってきたな。ほら、ケランダ鉄道が走るのが見えるし、下りのロープーウェイも頭上を動いているよ」
 ダニエルは、助手席の窓からよく観察をしている。事件の手掛かりを捜しているのだ。
「少しは歩いてみなければ、だめなんじゃない?」
 空が後部座席から、カーブの度に伏せのポーズをとりながら、上手にバランスをとっているパールを抑えながら言った。
「あのね。あたしが来たら不合理なことはしないでしょ。もうすでに、マグパイとカラス戦隊達に、ブダ・ジに会わしてほしいって伝えてあるの。だから、もうそのテレパシーが伝わっていると思う」
「ほらほら、来ちゃったよ。もう、すでに未来、この人の世界に入り込んじゃった」
「そう言えば、まだここでのターキーの親分に会ってないよね?」
「あぁー。ラッキー三代目か!」
「昨晩、夢でも未来のところに現れなかったでしょ?」
「あれはね、まだ会う必要がない。本物じゃないからね」
「ワン!」
「そうね、パールも見抜いていたはずよ。ワナリーにいたラッキーと違う仲間」
「そうか……パール。そう言えばおまえ、あいつを見つけると追いかけてたよな」
(うさんくさいんですよ)と言わんばかりに、パールは低く唸った。
「ワハハハー。実におもしろいなー。空、おふくろさんがきっとまた、なにかを感じたんじゃないか?」
 周囲の景色は、もうすっかりと熱帯雨林の森だ。緑の森の匂いを、空は窓を開けていっぱいに吸った。パールも鼻をくんくんとさせていた。ケランダの村に入ればちょっとした観光地だが、今日はそれを過ぎてもう少し山奥に入る。
 さらに、二時間は走っただろうか……。道路は舗装されていたり、そうでない泥道もあったりで、次の村に入る。そこは、さとうきびより、マンゴーやアボガドなどの果樹園や畑が多く、草原になる。
「うまそうな匂いがするじゃないか?」
 ダニエルの一声で、ここでひとつしかないという小さなホテルでランチをすることにした。いつものように、パールも連れて外のテラス席に座った。
「このステーキは最高だ! まいうー」
「ダニエルは、なんでもおいしそうに食べるよなー。おれは、ここのコーヒー農園の方が気になるからあとで行こうよ」
「ちょっとちょっと、観光できたわけじゃないんだからね」
「あれ、おふくろ、観光兼ねてじゃないの? だってケランダ過ぎちゃったし……」
「実はね、これはあたしの読みなんだけど、第一のとき、動く個室でカルロスが死んだ。そして、第二のときで、流れる水でブライアンが死んだ―――とするとね、第三のときは、ブダ・ジと名前が出てしまっているのが気になったの。これは、ブダ・ジが自殺するんじゃないかしら? と思って炎の森と化す前に早く会わなくてはと思った。この町も危ないからね」
「おふくろ、なにまたおかしなこと言ってるんだよ。ブダ・ジなんて、伝説上の大蛇に会うったって、ニシキヘビなんてそんじょそこらにいっぱいいるし、どこにいるかなんて分からないじゃないか」
「いや、空、なにか森の中にヒントが隠されているのかもしれないよ」
「おい、科学に携わるダニエルまでなに言ってるんだよー」
「ちょっと、おふくろさんを信じて付き合ってみようよ。まっ! とにかくせっかくだから、そのおいしいコーヒーというのを飲んでから行こうじゃないか」
「ワン、ワン! ワン!」と、(もうがまんが限界です)と、肉の匂いにパールが催促した。パールに甘い未来がいるので(だいじょーぶ!)、貰えると分かっているのだ。
 凡人であるなんのコネクションもない空達が、むやみやたらに神聖な森の奥深くに入り、シャーローン族と会うことは恐れ多くも難しい。
 頼りになるのは、未来がつけているピアスにそのセンスの効果があり動物の声が聞こえるという能力と、我らが自称特別地球大使であるという肩書きの力しかない。もし、火災が起きて、世界遺産にもなっている熱帯雨林にまで燃えて広がったら、この町は大変なことになる。

刑事の推理

未来と空とダニエルが、ブダ・ジを捜すのが目的なのだが、まるで観光のように楽しんで――ケランダより奥にあるレインボーランドという自然保護区に行っている間、地元の若手の三人の刑事達が、ピーターの店、カフェバジルに来ていた。客がいない時間だったので、ピーターは表の鍵を閉めて、早々にクローズの看板にした。
 ウィリアムは、このイースターホリデーの間に、たくさんのコーヒーを淹れたので随分と腕を上げたようだ。今日のエスプレッソの香りはすばらしく、刑事のひとりが、一口飲んでは頷いている。この一杯に、刑事達のこのところの過酷な仕事のストレスが、自然と癒されていく。
「この事件の本体は、もう国際警察に委ねないと難しいので、我々は、ここでの事件解決と地域住民の安全確保とパトロールに全力を尽くすことになりました」
 ピーターが現役刑事だったころの部下だったひとりの刑事が、そう言った。
「それで、捜査のなにがしかの進展はあったのかね」
「はい、マクベスさん。カルロスの死因の凶器、ウォレットチェーンは、ブライアンの店にあるものと同じ、メルボルンのベントレーにあるクラウン社のものです。これで、カルロスの腰につけていたものと、公園にあったもの、店にあったもの三つが同じメーカーのものと分かりました。それに、公園の目撃者が写真を見て、自転車は目撃したものとブライアンの庭にあったものが同じということも分かりました。それから大きな進展は、カルロスの被っていたコルク帽です。これもブライアンの店に売っているものと同じですが、ウォレットチェーンもコルク帽も、もっとも他のおみやげ屋にもいくつかあります。が、このコルク帽から微かにですが、なにかの染みが見つかったのです」
「それは、よく気づいた。その染みは重要な意味を持っていたのだね?」
「はい。鑑識からの報告で、これは、いくつかが混合されている睡眠薬が、たぶん紅茶であろう茶葉と共にその成分として検出された飲み物の染みでした。それが特殊であったため、調べた結果、ブライアンの家の寝室引き出しにあった睡眠薬と同じであると発見されました。その睡眠薬に、さらになにがしかのハーブが加えられていたようです。ペニーロイヤルミントだろうかと言われていますが、それがどんな睡眠薬と化合するとその毒性のd―プルゴンと作用するのかは今のところ、まだ分かっていません。それから、漢方薬も混ざっていたようです。かなり、専門的な知識がなければできないと思います。事件後の当初は、胃の内容物からは、わずかな食べ物と医者が処方したであろう睡眠薬と、紅茶としか出ていませんでした。ペニーロイヤルミントは毒性があると言われていますが、ミントの香りでハーブとしても一般に、少量がブレンド紅茶などに使用されています。ただ、他のハーブと混ざるとそのミントの香りも薄れてしまうようで、またどう混ざると危険なのかも分かりにくいものです。複雑に色々なハーブや睡眠薬の混ざっているアイスティー
を、カルロスは、それを口にして胃の中に流す前に、コルク帽をテーブルに置いておいたかどうかで、少しこぼしてしまったのでしょう。睡眠薬の成分は、寝室の引き出しにあったものとほぼ一致しています。飲ませたであろう使用したコップは、公園かどこかのゴミ箱に捨てたものと思われますが、見つかりませんでした」
 若い刑事は、なにか言い忘れてはいないかと確認するように、ここで中断してゆっくりと、冷めかけているコーヒーの香りを確かめながらカプチーノを一口飲んだ。ピーターは、腕組をして目を閉じ考えている。
「また、ウォレットチェーンだけでは、組織の中で殺ったのがブライアンだと誇示するのにインパクトが足りないと思って、自分の店のコルク帽もさりげなく用いたようです。だれかが、自分に危害を与えるかもしれないと不安もあり、自分は315に忠実であり侮るな……というデモンストレーションかもしれません」
「そういう危険な世界は、入ってしまったら抜けられないのになぁ。そして、ブライアンの直接の犯行動機は、特定できるのか?」
「もう、たぶんご推察のとおりです。言いにくいことなんですが、単純にカルロスとブライアンとの諍いというわけではないのです。それは、あの見せて頂いた怪文書を意識することとなりますが、ブライアンの殺しについて、これは検視官からも遺体状況からしてプロであろうと言われています。そこで、推測できることなのですが、ブライアンは、カルロスをなんらかの口封じのためにも、殺さなければいけなかったということです」
「つまり、殺らなければ、自分が殺られるという危惧があった。もしくは、脅されていたかだな」
「そう、プロの組織にです。大昔のカルロスのひいひいじいさんの時代にもそうだったように……マイケルが軍の大きな力を利用して宝物を巨万の富にしようと考えたのと同じにしようと、ブライアンは思った。その一部は自分のものとし、ピンハネしようとしたというのと、同じなのではないかということです。ブライアンが危ない組織にその情報を売ったということが考えられます。埋まってしまっている金、つまりゴールドを、掘り起こしてお金にするにはひとりではできません。それは、ブライアンの方からけしかけたのか、それとも開発会社が嗅ぎつけたのかははっきりとしませんが、ここの通称315の中に、メルボルンから独立したジャックという中国の観光開発会社ができたことは、隠された宝物を掘り起こすことに有益、彼にとってチャンスだったのでしょう。もっとも、どこかの計算の上でのことかもしれません。どちらにしても、彼らの目的は、宝物が多額のお金に変わることですからそれについて、カルロスが余計なことを、他に話したりされては困るわけです。仲間に忠実になれず、政府関係とか警察に、眠ってしまっている宝物を掘り起こそうとしているなどと密告されたくはない。あちこちと観光開発している今の時期に、カルロスの家に、代々残されていたであろうメモや地図など手ごたえのある情報を少しでも手に入れ、場所を特定しうまく掘り起こして、315からメルボルンへ、その先は本国かどこかへ運び、滞っているカジノなどの観光開発資金に、またワクチンの開発資金にもつぎ込みたかったんじゃないでしょうか」
「メルボルンの会社が貿易と薬やワクチンの関係があったとすれば、複雑な薬やハーブをジャックが手に入れて、カルロスに飲ますその知識をブライアンに伝えるのは容易なことだな」
「金になる悪事には、手を貸す……協力するものもいるでしょうし。しかし、そもそもカルロスは頂ける報酬と口止め料には興味を示さなかった。金塊発見は、もっとも百年前ですから、その話も絶対真実なのか、マイケルから伝わった自分の持っているもので場所も分かるのかが、彼自身も少し疑問だった。来て確かめたくもあった。まぁ、なにがしかのマイケルからの情報は残っていたのでしょう。彼はそれもさることながら、先祖が歴史を残したこの土地に来てみたかった。この伝説のような話が本当ならば、弔いをしたかったという思いの方が強かった。それを許さない組織が、カルロスの場合はブライアンに、他への見せしめも含めて、彼らの恐ろしさをこの事実を知っている人間、つまりは仲間内などに脅すためにケランダ列車内で殺させた。また、ブライアンも然り……この宝物の話が仲間内や、国の黒幕の悪い奴らに知られ過ぎたので見せしめでした。ブライアンを殺した相手は特定はできませんが、被疑者として、浮かびあがっている者はいます。あの日の列車に乗っていた、315ジャック家族招待ツアーの中にも仲間がいたようです。もうすでに帰国しています。有力な犯人は国外であるため、難しい状況です。警察は、インターポールの協力を仰ぐこともするつもりです」
「いずれにしても、我々には手に負えない大きな組織的なものが絡んでいるということだな。そして、もちろんその宝物は然るべき場所に確かにあるということか」と、ピーターは言って、なにかに急に気づいたように目を開いた。
「第一から第三のときという怪文書にとらわれ過ぎていたが、あのシャルルがやはり、ケランダ鉄道の線路上で死んでいたというのもなにがしかの関係があるのだろうね。その昔に、マイケルがイギリスに帰って軍の上層部と組んで宝物をお金に換える理由のひとつに、カバイロ共和国に支払うべき代償があったのだよな。それをシャルルがカバイロ共和国の軍のスパイだったとしたら、長い間隠されていた伝説のような宝物の話の真相を知っていたというのが自然じゃないか?」
 もちろん、空達は、シャルルがカバイロ共和国のスパイであったというワイルダーから聞いた事実を、ピーターにちゃんと伝えていた。
「それなら、シャルルもその組織によって、他にこの宝物を知られないためにも、消されたということでしょうか? 水面下で、それも見せしめのような殺し方で……」
 この若い刑事は、公園でウォレットチェーンを発見した。いつもなかなか勘が鋭い。
「シャルルが、カバイロ共和国からどんな指令を受けてきたのか? なにの目的のためにここへ潜伏していたのか? それが分からないと本当のところが見えてこない」
「ピーターさん、確か、その遠野宮空という同じタウンハウスに住んでいた若者が色々と見たという、シャルルが時折訪ねていたと思われるバイオロジーの教師がなにか事件の鍵を握っていないでしょうかね?」
「あぁー。ジョージ・ワイルダー氏か! 空達が、その後に行ってみたがいなかったらしい。今から、君達でちょっと訪ねてみるか? 君のすばらしい洞察力に期待するよ」
「ぼくらが、必死に真相を暴こうとすればするほど、トップ連中が阻止するんですよね。このシャルルの事件は、自殺としてもう終わ
ったことになっています。ぼくらだって、不可解な点が多く、気になっていたんですよ。だいいちに、このシャルルと一緒にいた妻らしき夫人は、この後すぐに消えています。どうやら母国に帰ったようなのです。これは、あまりにも早すぎませんか?」
「あんた達も国家の警察という組織の一員なのだから、致し方ないこともあろう。ただ、真実は自分自身の心の眼で知っておかなければならない。世間や法が裁けなかったとしても、真実に背くことは必ずや神の裁きを受ける。犯罪を犯して逃げても、その後の生活に安息などはずっとなく、最後まで重荷を背負い、あの世に逝っても魂はずっと苦しむことになるんだよ」
「そうですね。正義は貫くものです。報われなくても、我々は裏で真実を追究して知っておきますよ」
「あまり、大きく遣りすぎるなよ! わたしみたいに早く辞職することになるよ……ワハハー。ほら、コーヒーが冷めてしまった。ウ
ィリー、カプチーノを三杯、おいしく淹れて持ってきてくれ!」
 それから、この若手の三人の刑事達は、カフェバジルから歩いて近くのジョージ・ワイルダーの家、高床式の歴史的建造物を訪ねたが、やはりだれも出てこなかった。引越しをしたという感じはないように見えたが、駐車場に車がなかった。
 その後の調べでは、この家が家具付きで、地元の不動産屋から再び賃貸しに出ていることが分かった。元々、ワイルダーも借りていたわけだから、引き払ってどこへ移って行ったのかは不明だった。
 また、高校の教師の仕事は、長期休暇を取っていた教師の臨時の代用教員であったらしい。ワイルダーはすでに辞めていた。
 保証人となっていた人物は、彼と同じ大学出身の名の知れた研究者で、現在国の科学省の分野で働いていた。当然、厄介なことには関わりたくはないので、警察関係者である彼らに対し、その後の彼の行方など知らないと突っぱねた。本当に分からないのかもしれない。そして、日本ほど、こういう場合の保証人という重責はない。家などは、簡単に借りることができる。ワイルダー氏は、この後の行方が分からなくなったのだ。
 そして、通称315から、ジャックという観光開発会社が消えていた。ここでの大手不動産会社が介入して、買収したことになっていて315の不動産開発会社は大きくなったが、中国資本としては、表向きは手を引いたことになっていた。
 メルボルンの親会社はまだ存在しているが、ジャックについては解散したと関係を否定している。トカゲの尻尾切りだ。
 刑事達は、カルロスを殺したのはブライアンだとは断定できた。しかし、最初のシャルル事件の発端についても、ブライアンを殺した犯人を追求するのも、ここで諦めるより仕方がなかった。警察の上層部からのここまでだという指示だったからだ。今の先端技術を持ってしたなら、金塊のある場所は、大体分からないということはない。そう思うが、上は、ここで打ち切れということらしい。

レインボーランド

 さて、話はさかのぼり、未来と空とダニエルは、その後コーヒー農園で、ウィリアムが淹れるコーヒーよりも少し濃いが、深く味わいのあるおいしいコーヒーを堪能した。そして、レインボーランド内にあるコテージ形式の小さなホテルに宿泊することにした。
 コテージは平屋でリビングを中心に小さなキッチンがあり、スリーベッドルームだが、空の住んでいるタウンハウスとあまり変わりがないような間取りだった。
「おふくろ、おいしいものを食べて、景色もすばらしいしなんともいい一日だったけど、今日はこれで収穫なし? 明日一日で、あのブダ・ジに会って話ができるのか?」
「クククー。空もなんだかんだ言ってるけど、未来さんのことを信じているんだな。その世界はやっぱりあるんだよ。これはすごい! 実にファンタジーだよな」
 ダニエルは、空の家のリビングにあるのと同じ色の茶のソファーにゆったりと腰掛けた。
「おい、それって、ひどくない? ダニエルはときどき無意識におれを傷つけるよな。本当は、そんなことは物理的にありえないってちゃんと分かってるくせに……」
「いや、失礼。そうでなくて、おれは、目に見えるものだけが本当に正しいとは思ってないんだ。だから、現実よりもファンタジーの世界に惹かれるんだよ」
「なに、ごちゃごちゃと言ってるのよ。その話だったら、さっき、裏の湖のウォータードラゴンに伝えたわよ。明日までには、きっと会えると思うわ」
「なんだか、分からないけど、とにかく明日はまたなにかが分かるんだろうな。まったくドッコイ! やれやれだ」
「久し振りに聞いたよ。ドッコイ! ここにおれらが来た意味を、おれなりにちょっと分かりかけている。明日も楽しみだよ」
「えーっ! それ今、教えてくれてもいいのに……。もしかしてダニエルはきっと……なにか知っている?」
 空は、ダニエルがなにかを見つけたといぶかしげに彼の顔を見上げた。
「でも……いつもだけど、もう少し確証がないと言わないよね」
「そう、今は言わないよ。いい加減じゃ言いたくないからね」
 未来が、そこで落ち着いた様子で、空とダニエルに声を掛けた。
「夕食前に、シャワーを浴びてちょうだいね。あたしは、パールとその辺りを散歩してくるわね」
 パールは、車でドライブするのも好きだが、知らない土地で散歩や、カフェで座って辺りを観察するのが大好きだ。彼は彼なりに、ちゃんとその繊細な潜在意識で物事を判断している。第六感は未来より鋭い。
「この敷地内から出ない方がいいですよ。やはり、蛇や毒蛙、毒蜘蛛などはかなり危険ですから」
「ダニエル、あたしのことだよ……それは動物達が教えてくれるからだいじょーぶなのよね」
 パールが「ワン!」と、小さく鳴いた。
「おふくろさんとパールに、一本やられました。ワハハー」
「ふたりとも、付き合いきれないや」と空は言いつつ、バスタオルはどこだろうかとコテージのバスルームに捜しに行った。ちょっとでも汚れが気になれば、取り替えてもらうのはいつものことだ。
 しばらくして、冷たいバスルームのタイルの床に、お腹をつけて寝ようとしていたパールがむくっと起き上がって伸びをした。そして、大きくあくびをした。パールは旅は好きだが、この頃はいささか年を取ったようだ。その勘はいいが、気まぐれだ。
「おーい、おふくろ。パール行きたくないみたいだよ」
 それでもパールは未来のお供はするらしく、気を取り直し再び起きて、健気にも玄関に向かって行った。
 その日の夕食は、ホテル内の施設で用意してくれたバーベキューで済ませ、やる事もなく、パソコンも持ってきていないので早めに就寝することにした。というのも、早朝の日の出を見ようと、ダニエルが提案したからだ。

三十五年前―――シャルル・ミラー

 シャルルが生まれた村は、カバイロ国の内陸奥深く、砂漠地帯の小さな村だった。黄土の大陸では、乾燥地帯が多く雨がふらなければ生活に支障がでる。
 山に森に樹木が生い茂り、四季があり、水は山の頂から流れて、土は腐葉土や岩盤に粘土層などとミルフィーユのような地層でろ過される……きれいな地下水やダムがある豊かな国である日本とは雲泥の差だ。
 シャルルが小さかった頃の記憶に、村で流行った伝染病がある。暑い日々が続き、雨も長らくふらない時期だった。それは、その時子供だったシャルルにはうろ覚えのことだが、今の細菌性赤痢だったかと思われる。 
 シャルルは、目の前で、高熱に犯されて痛さのあまり腹を抱えて苦しんで死んでいく村人を何人も見た。医者などは、遠くの町に行かなければかかれないし、裕福な者でなければ治療も受けられない。家族は為すすべもなく、ただ祈るしかなかった。
 シャルルの家でも、高齢だった祖母と、まだ小さかった妹が伝染病で死んだ。
「大きくなったら、ぼくは医者になりたい。病気を治す薬を研究するんだ」
 シャルルは、そのときにそう強く思ったものだ。
 シャルルの祖父は、村の村長だったが、その昔、第二次世界大戦前後の時代は、カバイロ国の政府筋で重要な仕事をしていた。
 時代は、新植民地時代に入っていたが、戦争中からイギリスの強い介入があり、実質的には完全支配された植民地として援助されていた。
 小さな国で、権力者が欲しがる原油などの豊富な資源があるわけでもないのに、カバイロ国に巨額のお金が使われたわけは、この国の田舎に、放射能実験や、化学、細菌兵器の実験施設が作られたからだ。カバイロ国は、これでなんとか経済が成り立っていた。これらは、ずっと残して維持するという政府の方針と支配国との協議の結果だった。それは、もちろん裏で行われた。
 しかし、隣国にある大国も、周辺の国も、それぞれの軍はこの事実を、暗黙の了解のように知っていたのだ。当時は、大国の対立のはざまで、太平洋の島々でも核実験などが合法のように行われていた。
 島のように離れていない大陸のど真ん中でその施設が残されていたわけは、大国に対する威嚇もあっただろうし、周辺国と植民地支配国との癒着もあった。
 島ではないので、危険な放射能に関わる実験など行われたのは、地下核実験という小さな規模であったが、放射能が漏れるという点では絶対安全などということはありえない。化学や細菌兵器の実験にしても、自分の国でやりたくないものを、弱い国に従わせ、強い大国がうまく利用しているに過ぎなかった。
 戦時下では、防疫と水はなによりも重要であった。植民地のこの国に実験施設を作るについては、きれいな水を運ぶ給水設備が必要で、作られた。その後も次々とダム建設など行われたのは、カバイロ国にとっても有益であったろう。
 シャルルの祖父は、そういう面で、一歩間違えば危ないことになってしまうその裏をかいて、国が豊かになるという工作に一役買ったのだ。色々な建設事業にあたっては、たくさんの労働者が必要で経済的には潤う。
 投資のお金がたくさん運用されて、ブラックマネーが動く。だが、潤うのはごく一部の人間だけだ。それは一過性のもので、自然も人の心もより汚染されていくかもしれないのに……。そんな策略は、マネーの植民地化でしかないのだろう。
 そもそも豊かではないこの国で、シャルルも幼い頃に父母と村で暮らしていたときには貧乏な生活だった。当時家は電気も水道も十分にはない粗末なほったて小屋で、自分の部屋などなかった。しかしながら、それはスラムではなかった。心も腐ってはいなかった。牛や羊や鶏がいて、いつでも卵は食べられたし、芋や野菜などの畑もあって、村の皆が自給自足で、そこそこ満たされた暮らしはできていたのだ。
 インフラに欠けている生活であっても、日常は満ち足りていた。伝染病などのアクシデントなどがなければ、平穏な村であったのだ。
 その村の伝染病が、自然と起きたものなのか、謀られたものなのかは分からない。その後は、水道設備が整った。祖父は、その少し前に町で亡くなっていた。
「ぼくは、じいちゃんのように偉くならなくていい。素朴なこの村でずっと暮らしたい。ここの学校で一番になり、都会へ出て医者になる勉強をして、またこの村に戻ってくる」と、シャルルは弟にも言っていた。
 その生活の歯車が狂ったのは、国の独立運動が高まり、ゲリラなどによるクーデターや、内戦など政情が不安定になってきたからだ。争いはまた、新たな争いを生み、人の世の醜い社会を作る。権力を争うもののもっとも犠牲になるのは、いつも素朴でまじめに村で暮らしている人々だ。
 シャルルの村にも、ゲリラはやってきた。暴力で、村人からお金や食料、家畜などを奪い取り、銃を乱射したりした。対立する軍の役人も、横暴な態度で村を占拠した。
「村を守る? いや、村はめちゃくちゃだ。どうしてこうなってしまったのだろう?」
 心が安らぐ生活とは、日が昇り、その日一日を揺るがされることなく平和に終えて、日が沈み心地よい疲労感で休むこと――そうシャルルは漠然と思ってきた。そう信じていたのに……。
 祖父の昔のつながりで、政府軍がシャルルの家に入ってきた。シャルルの家は、農家ではなく軍の中継所になってしまった。
 ある日のこと、ここで反政府軍とのゲリラ戦になった。それは、完全独立国を訴えるゲリラで、かなりの人数で攻めてきた。そして、平和な村は、無残にも焼け野原となってしまったのである。
 シャルルの家は集中攻撃されて、母親も弟も親戚も皆殺しにされた。シャルルは、奇跡的にも政府軍の車に乗って隠れていたため助かった。また、父親も無事だった。
 こういう世の中になると、疑心暗鬼が膨らみ、陰謀説も出てくる。こうなってしまったのは、シャルルの父が情報を流したのではないかと疑いをかけられた。確かに、常々父親は、独立を願っていた節がある。それは、カバイロ国の政府もそう望んでいたはずなのに……。
 父は、政府に捕らわれた。そして、二度と村に帰ってくることはなかった。遠い町の政府の独房に入っていたその十年間の間に、シャルルは一度だけ面会に行ったことがある。
 祖父が、その昔に国に貢献していた功績もあって、シャルルの父はひどい扱いを受けてはいなかったようだ。シャルルが会ったときに、そうやつれた様子は感じられなかったが、その目は覇気がなく死んでいた。
「どんなに迫害が起ころうとしても、その未来は希望を持って美しくやってくる。シャルル、君には未来があるのだよ」
 力なく語る父の言葉を、シャルルはその後ずっと忘れなかった。 
 政府は、このときからシャルルを育てる――つまり国のためのスパイにするという企みがあったのだろう。
 組織に育てられたシャルルは、軍の幹部から授かったリボルバーの拳銃などで射撃訓練を続けた。スナイパーライフルの練習も積んだ。
 いつしかシャルルは、この社会は、権力とお金と強い者だけが勝つのだと思うようになる。
「おれは強くなる……そうだ、おまえは強くなるのだ。この国のために……」
 そうマインドコントロールされた。そして、孤独で忠実な、軍直属の優れたスパイとなったのだ。
 廃れてしまった故郷のことは、いつしか忘れかけていた。獄中での父の病死の陰で――。それは、死んだあとも長い間、事実をシャルルに伝えられなかった。
 カバイロ国は、しばらく内戦を繰り返したが、その後の時代の流れと共に、カバイロ共和国として独立を果たした。
 一方、相変わらずのイギリスからの介入は続いていたが、その支援は悪いものではなかった。ただし、それは、カバイロ共和国の隣国の大国と、また、別の国との問題や摩擦も、新たに生じることになった。シャルルの祖父の残した功績であるあの実験施設のためである。
 シャルルは、大きな国が、いざというときは小さな国を見捨てるだろうと分かっていた。自分も組織の中でそのような存在なのだろう……と考えることもあった。
 上からの指令で、シドニーに渡りジョージ・ワイルダーに接近する。ウイルス生物兵器に関する研究の情報を盗みだす事と、彼に群がる他国のスパイのような連中の周辺調査、それから、ワイルダーが北の果ての田舎町に移動した後、その土地に伝説として残っている宝物――金塊の真実と場所を調べることが彼の主な任務であった。その金塊のいくらかは、実験施設をカバイロ国に作ったことに対する代償であるはずだ。
 シドニーに滞在していたときに、シャルルはこの国の女性と同居することになる。その女性は、レイネという名前で離婚歴があったが、この国の永住ビザを保持していたので、シャルルにとっては好都合だった。
 レイネは、カバイロ共和国の近くの小さな国の出身で、気立てのいい女だった。シャルルは親近感を抱いた。自分の家族や自分自身さえも失くして、毎日を刹那の中で暮らしていたシャルルにとって、レイネの存在は、彼の心の深部のなにかを呼び覚ましてくれるような感情を起こさせた。
 彼の生まれ育った故郷である懐かしい村、その外れにあった小さな教会は名前も忘れてしまっていたが、教会の屋根にあった大きな紋章が印象的だった。丸い地球のような球体の中にスマイルマークのように見える顔があって、子供心に温かいものを感じていたのを、思い出していた。
 日曜の集会に、まだ生きていた頃の祖母や母とそっと通ったことがある。祖父が聖書を読むことを嫌ったので、隠れて行った。
 シャルル達は、敬虔なクリスチャンではなかったが、祖母は教会に子供達を連れてきたのは道徳やしつけの教えのため、それから娯楽のない村での楽しみのためだった。まだ幼い妹は、マシュマロのようにかわいかった。
「お兄ちゃん、こんなお菓子は食べたことがないね。おいしい」
 それは、他地域から来た教会の婦人会の人が作ったケーキだった。洒落たお菓子の作り方を教えてくれたり、大合唱となる賛美歌やピアノに始まる音楽会など、宗教はよく分からなかったが、シャルルと子供達にとってこの別世界は、神への祈りと共に、厳粛な気持ちを抱かせたし、なにより楽しかった。
 日常の生活、当たり前の生活をするためには、都会と違ってこんな何もない村では家事をさぼっているわけにはいかない。子育ても有り、忙しない毎日を送る母にとってもここは、密かな社交場で憩いの場だったのだ。
 不思議な教会で、村にはちゃんとした神父はおらず、月に二回は遠くの町からイギリス人の宣教師がやってきた。どういう素性の方で、どこから派遣されているのかも、シャルルは聞かされていなか
った。洗礼や勧誘に対しての強要もない。窮屈な決められたことはとくになかった。シャルル達にとって、神のご加護とともに、ここは自由で楽しい遊び場でもあったのだ。
 成長したシャルルは、この教会の集まりが、国の将来のため、なにかに仕組まれているという疑いを感じるようになる。組織に入ったシャルルは、随分と世の中を信じられない猜疑心の強い奴になってしまったと我ながら思った。
 きれいな瞳を持つレイネは、シャルルに、今は亡き祖母を母を、そして妹をその青い瞳に思い出させた。また、祖母達と一緒に行った村の教会を映し出した。心の闇の中に現れたレイネという一筋の光は、シャルルには希望となった。
 シャルルがエージェントの監視の仕事のため、シドニーからメルボルンへ列車で行かなければならない仕事を依頼されたときがある。レイネが同行した。その方が怪しまれない。夜走る列車の窓から見る南十字星は、一際光り輝くダイヤモンドのように見えた。
 夜の闇、シャルルの涙……が光る。ひとつの流れ星が静かに落ちてきて、消えた。そしてシャルルは今、最後は自分も、永遠の流れ星になって消えてしまった。
 シャルルは最後まで、レイネまでもがまさか組織の差し金とは疑いたくはなかったし、初めからそう思いもしていなかったんだと、自分を信じようとした。
 レイネも仲間のスパイ……なのか。毎夜のように襲ってくるこの邪推深い想像は、シャルルをずっと苦しめていた。
「おれは……自分はこの一生をコントロールされている身だ。そういう定めだ。普通の幸福など望んではいけない」
 しかし、シャルルの奥深く眠っていた本音は、こう望んでいた。
「もう、おれは辞めたいんだ。この世界から足を洗いたい。レイネ、君とどこか遠くへ行って、ただ静かに、平和と共に最後まで暮らしていきたい」
 レイネもその気持ちに答えようとしていたと思う。
「分かったわ。あなたがそう望むならそうしたらいい。あなたが特殊な組織にいることは、あなたが話したから分かっていた。辛いことも感じてたわ。どんな任務を受けていたかはこのわたしにも知らされていないことだったし、どう力になったらいいのかも……なにもできない。わたしにできることは、ただ生活を支えることでした。働くことは嫌いではないし、リタイアには少し早すぎるけれど、家にいてもいいのよ。でも、家事をしてよね」
 そうレイネは言って、いつものように幸せに満ちた笑顔を浮かべた。この笑顔に、ずっと励まされ助けられてきたシャルル――。疑いたくなどない。そんなはずはない。
「でもね、あなたの最後の仕事はしないとならないでしょ。『立つ鳥跡を濁さず』と言うじゃない。そうしたら、ちゃんと話をつければいい。逃げなくても自由になれるでしょう? きっとだいじょうぶ!」
 それからのシャルルは、これからの人生を平凡に幸せに暮らすためだと努力した。最後の仕事は忠実に、本国に報告した。(自分は、スパイになるために射撃の訓練もしたが、まだ人を殺したことがないのだ。それはやはり救いだ)と、シャルルは心から思った。
 すべてはこれからのために――自分に残された半分の人生は、幸福にまっとうに生きるのだ。
 毎晩深夜に、病院の掃除の仕事から帰ってくるレイネを、タウンハウスの前の道路に出て散歩をしながら、シャルルは待っていた。
 熱帯特有の花をむしりとるのは、ウイルス生物兵器などの研究を密かに続けているジョージ・ワイルダーのところに持っていくためだった。蝙蝠やモルモットだけではなく、野生の鳥やねずみも実験に使っていた。ワイルダーは、あらゆる実験を行い……色鮮やかなワイルドフラワーなどの植物から、自己防衛の毒を取り出すということも試みていた。
 ワイルダーが、ある程度の研究成果を終えて国外逃亡に行くまでと……シャルルはそこまでで、国の組織から抜けるつもりでいた。
「辞めます。この平和な国で、連れ合いと密やかに暮らしたい」という意思表示を、シャルルは上司に伝えていた。辞職願は届けられたはずだ。
 シャルルは、だれに殺されたのか? 彼は愚直に生きてきただけだ。
 シャルルを葬ったのは、K18というカバイロ共和国のスパイ組織ではない。それは、その昔から背後に潜んでいた大国だ。植民地支配国のイギリスでもない。民主化運動を遂げて、最近急激に発展してきた大国、カバイロ共和国を脅かす隣国のスパイだった。シャルルは、シークレットサービスから諜報機関へと仕事が変わって、あまりにも色々な情報を知りすぎていた。
 カバイロ共和国と隣国であるその周辺の小さな国出身のレイネが、どちらの密偵であったのかは分からない。周辺国か――それとも大国なのか?。地下組織というのは、そもそも存在が分かるようでは成り立たない。警察が躍起になったところで、真実に迫ったとしても分かってくるほど慎重になり、両国の政府要人は、世間からすべてを覆い隠す。シュガーウォーターで起こった殺人事件など、国と国の機密を暴露するくらいならば、真相は闇に葬った方がいい。
 いずれにせよ、レイネはシャルルの死後、すみやかにその土地から消えた。

レイネ・モーレン

 レイネの生まれた国は、カバイロ共和国の南側に位置している。地球儀にも載っていない小さな国だ。ヨーロッパのふたつの国に、植民地として次々と支配されてきた。第二次世界大戦のときには、大国の軍政下にもなった。
 政情は複雑でカバイロ共和国と同じような境遇の国であったが、ひとつだけ違う点があった。この国は、砂漠と草原の中に大きな湖があって、水に恵まれた美しい平原の国なのだ。
 レイネは、その湖に面したこぢんまりとした小さな村で育った。農家で自給自足の家なのは、シャルルの故郷と同じであったが、湖で獲れる小魚などを、祖母が畑で採れる野菜と一緒に露天商で売っていた。
「わたしは、将来はいいところにお嫁さんに行くのよ。勉強もして、女性としても磨くけど、町の学校に行ってそこそこの人と結婚する。農家じゃなくて、町に住めるお役人さんがいいかなぁ」
 少し生意気な少女だったけれど、ごく普通の夢、ごく普通の家庭を願った平凡な子供だった。
 レイネの両親は、国境の向こう側の大国からの移民だった。大国で大革命が起きて、そのときに両親と祖母は逃げてきた。レイネはこの国で生まれたが、モーレン家は帰化していないので、レイネはどちらの国からも国民として認めてもらえていない。法律的に難しいのだ。母は子供の将来を案じた。レイネにはきょうだいがいなかった。
 それでも、不自由することなく落ち着いて生活していたモーレンの家が危険にさらされることになったのは、やはり共和国として独立を目指す政府軍と、それを阻止する側の軍と他国からの介入だった。小さな戦争はやがて大きくなり、レイネは両親を失った。父は、国民ではないのに軍の兵隊に送られ、母は食料を調達に出かけたときに流れ弾に当たって死亡した。
 レイネは祖母に育てられたが、やがて年老いた祖母も湖のほとりで亡くなった。レイネは十六歳になっていたが、政府軍に捕らわれた。その後、国は共和国となって独立を達成させた。レイネは、ある高官の家で教育され、その後、スパイとして特別諜報機関に配属されたのだ。
 レイネの故郷の湖のほとりに、石造りの建物で小さな教会があった。まだ平和だった頃にそこへ祖母と行くのが、レイネは楽しみだった。
 婦人達の茶話会というのがあって、バザーにはかわいい手作りのぬいぐるみや、手芸作品が並んだ。レイネも祖母に習って、フォークアートで作った額縁や小箱を出したものだ。後々に、カフェやどこかの場所で、おいしいクッキーとお茶をすると、いつも小さな教会の建物と祖母、母のことが思い出されて悲しくなった。
 その教会は、ファンシー教会という名前だった。入口の紋章に、丸い球体の中のもうひとつの球体が薄くなっていたが、微かにスマイルマークのように見える三角の目がある。レイネは、この変わったかわいいマークのような紋章が好きだった。
 国内の任務が続いたのに、レイネが二十代半ばになったとき、南半球の広大な大陸の国に行け――という指令が出た。
 しばらくして、任務であったそこでの結婚は偽造であったが、レイネにとって、この年老いた元軍人の夫は怖い人ではなかった。やさしく包容力があり、レイネに色々なことを教えてくれた。しかし、これは任務であったから、永住権取得後は別れなければならなかった。もっとも、夫の方もリタイア後、老人ホームに入るという年齢になっていた。
 その後。組織から、シドニーでシャルルに接近することは、すでに教えられていた。実際そのシャルルに会ってみて、レイネは驚いた。なんだか自分と同じような目をしているように感じたからだ。
「わたしも目力が強いとか言われるけど、この人の目は、わたしと同じ……いいえ、もっと深くてずっと暗いダークブルー、なんて寂しいの……」
 彼の周りには、満目荒涼たる景色しか見えなかった。
 レイネは、少しずつだがシャルルの生い立ちを聞いて、カバイロ共和国の荒れ果てた砂漠地帯を思い浮かべた。彼の目の中の砂漠地帯……自分の生きてきた境遇を重ね合わせて、理解できた。いつしか、レイネはシャルルを愛するようになっていたのだ。
 このふたりに、キューピットである愛の神が矢を放つとは、組織にとっては誤算だった。そういうこともあるかもしれないが、それでもスパイは冷酷非道に教育されてきたはずだ。真実の恋愛感情などあろうはずがない。任務に無益なものは切り捨てて、割り切れるはずだ。組織の上部は、ふたりの処分を考えなければならなかった。
 しかしながら、そのシャルルが組織から出たい、つまり辞めると言ってきた。それをカバイロ共和国のK18が快く許すわけもない。シャルルはあまりにも危ない軍の機密を知ってしまった。レイネは、カバイロと癒着している母国と内通している組織の人間に、指令を受けていた。シャルル・ミラーを監視すること――だ。
「もし、仮にだ……もしもだが、自分が追われたり、万が一殺されたりしたときは、君は逃げろ! いいか、とにかく逃げるんだ。どこへ行こうがなにをしようが許す。とにかく逃げてほしい」
「分かったわ。言う通りにする。でも、あなたが怖い組織の一員だとしても、そんなことはしないわよ。だいじょうぶ、わたしが一緒にあなたと逃げるわ」
 シャルルの真剣な目を見つめて、レイネはそう言った。彼女は、自分の素性は隠していた。レイネ自身の組織の秘密は言えない。
 シャルルが殺されたわけはなんだろう?
 辞めたいと、本当の自由になりたいと言ったから?
 ジョージ・ワイルダーの開発しているウイルス生物兵器などに因る国家機密を知り過ぎたからか?
 だれかの裏切りか、陰謀か?
 それとも、レイネのせい? レイネは、ふたつの国の間でシャルルを見張らなければならない……。シャルルと共に辞めるには、重要なポジションにいた。辞めさせてはくれない。レイネには、十六のときから仕込んできた国の教育費が掛かっている。
 シャルルをだれが殺したのか? ブライアンを使って見せしめのためにそうしたのか?
 カバイロ共和国の組織なのか? 
 レイネの方の特別諜報機関なのか?
 レイネの国と複雑に内通している他国の組織なのか? 大国のスパイか?
 いずれにしても、シャルルは死んでしまった。自殺という形にされて、無念にも闇に葬られた。
 レイネは、真実が分からなかった。自分を責めたが、あることに気づかせてくれたこの世にたったひとりの愛する人の思いを、非常に重く受け止めていた。
「わたしは、逃げる! シャルルの魂と一緒に、自由になる。祖母と楽しく描いていたあのフォークアート、編みぐるみやお菓子作りをする生活にもう一度戻りたい。普通に働いて、普通に暮らして、なにものにも束縛されない生活。それだけでいいの」
 なにかにコントロールされている人生、実験に使われると定められた生物、この世の運命は、生まれたときから決められているのだろうか? それを定命と言うには、あまりにも不条理だ。 
 人は、それを自分で変えることは必ずできるはず……だとは、神に対して不遜な驕りなのだろうか? レイネは、裁きがあったとしてもそれでもいいと思った。自分の定めを恨むことはあっても、それで生活に困ることなく過ごしてきた。
 それは自分の強い意志ではなかったのだから、未練はない。もし、この世から消されることが運命ならば、それもまた然り……だ。
 レイネは、いつの日か自分が殺されるとしても、それでもいいと思った。それなら、愛した人の魂と一緒に永遠の自由になるのだ。

夜明けの牧場

 未来と空とダニエルは、その朝、しらじらと夜が明ける頃、レインボーランドの中にある牧場にいた。
 牧場にはまだ牛が放牧されていない。だだっ広い草原の柵の向こう側、ケランダの山頂を含む、深緑の山々の景色が蒼くて神々しい。その山の間から、太陽が昇り始めた。
 まず、草原の地平線の上にオレンジ色の太い線を描き、扇型に放射し、弾けるように太陽がきらきらと煌きながら上がっていく――ゆっくりと、どっしりと、地球が目覚めて生きている。
「これは、久し振りの感動ものだな。昔は、海の地平線をよく見たけど、山の景色も最高だ!」
「そうよ、この星が目覚めて躍動する朝。すべての生命を感じることができる……」
「それで、大蛇の方はどうなったの?」
「それは、昨日の夕方、あなた達がシャワーを浴びたりしている間にあの先の湖の辺まで行って話しだけしてきた。直接は会えなかったけど、声は聞けたのよね」
「また、幻聴でも聞こえたの?」
「失礼ね。あのね、ウォータードラゴンに呼んでもらったのよ。そしたら、湖の底から声がしてね、まずは、今、ここの牧場に起こっている事情について訊いてほしいって言ってた。それからでないと言いたくないって」
 未来に抱かれていたパールが、短く刈られた芝生の上におりたがった。パールがその地面の匂いをしきりに嗅いでいる。
「うん。それはね。おれも気になっていたんだ。この牧場ね、昨日車で通りかかった道の看板で、売却の看板が出ていたんだ」
「空、おれもそれがなんとなく目に入ったんだよ。それとおれの予測が当たらなければいいんだが……」
 空の感受性が豊かで、注意深いところと、ダニエルの聡明で科学的な判断ができるところがうまくかみ合っていると、感性の鋭い未来は思った。
「そうね。もう少ししたら、この少し殺風景な草原にも、人と牛が来るでしょうから尋ねて見ましょう」
 しばらくして、早朝の搾乳を終えた牛達が、広い草原に現れた。その数は、この柵の中でならそう多くはない。むしろ少ないだろう。十分過ぎる土地は百ヘクタールほどだと、そう看板に記してあった。
 牛達は、広すぎる草原で、ストレスがなく悠々自適に歩き回りながら、青草を食べている。
「牛は、草を食べて生きるものよ。見てごらんなさい! この牛達の天真爛漫さ……。性格も大らかで、パールなんか、犬を気にもしてないよ。もっともパールと牛は、もう話してるけどね」
(それでも、未来はちゃんとパールを胸に抱っこしているくせに……)と、空は思った。 
 空の神経質というか、きめ細かい配慮をするところなどは、いざというときにちゃんと注意する母親譲りなのかもしれない。
「最近は、生産性を上げるために、とんでもない餌を与えたり、放牧しても化学肥料を土地に散布したり、人の手が行き届かず食べてはいけない草を食べたりと、牛も自然に反する問題点があるよね」
 空は、地面の草の間のしろつめくさを見ていた。 
「空は、牛乳で合わないものは下痢するって言ってなかった?」
「うん、でも乳糖不耐性だからというだけでもないみたい。時々だいじょうぶなこともあるし、乳製品の加工でだめなこともある。アレルギーみたいだ」
「腸は第二の脳って言うだろう。空の場合は、気持ちが随分左右するんだな、きっと。精神の安定剤、セロトニンはほとんど腸でできるから、あまり色々なことに心配しないことだよ。バナナ食べりゃいいってもんじゃない。それに加工品で悪い添加物を食べたんじゃないかと思うから、また腹が下るんだよ。おれなんて、気にしないから、何を食べてもだいじょーぶだけど」
「ダニエル、あたしも感じるんだけど、最近はスーバーで買う食品は全然信用できないものが多いわね。加工品だけじゃなくて、卵やそう、肉や魚もだけど、そして野菜もなんだか疑いたくなる。自然な本当の栄養価なんてないんじゃない? うちの戦前を知ってるおばあちゃんも、田舎で食べたトマトやキュウリの味と今のじゃ、とても味が違うと言ってるし、鮮度とかと違う次元で違う気がするの。土や海が悪くて、毒を食べてるんじゃないかと感じることがある」
「そう言ってしまうと、食べるものが無くなってしまいますよ。土壌が信用できず、いい作物が作れない。魚がヘルシーだってこっちの人が言っていますが、釣りでシドニー湾から獲ったアジから、放射性セシウムが検出されてましたからね」
「これからの世の中はどうなっちゃうんだろう? 考えると嫌になる」
「空、だいじょーぶだ。そんなに地球は柔じゃないと思うよ。おれはなんでも食べる」
 たくさんの牛の間から、ひょっこりと、少々メタボ気味の小柄な男が現れた。金髪なのだが、こちらの人のわりには背が低い。初老に見受けられたが、肩を落とし疲れているように見えたので、未来は、実際はもう少し若いかもしれないと思った。
「よかったわね。こちらから訪ねずにすんだ。オーナーかしら?」
 未来は、臆することなくダニエルに言った。
「ダニエル、この牧場が売りにでているのかって訊いてみてよ」
 ダニエルが、そのオーナーに流暢な英語で話しかけた。
「オーナーさんですか? どうも、初めまして。ぼくらは昨日からここに宿泊しています。ぼくは、ブリスベンの大学で博士課程で勉強中ですが、今、実家のあるここに帰省中です。ぼくはダニエルで、こちらは、空、図書館に勤めています。そして空のお母さんで、未来です。すみませんが、ちょっとお聞きしたいことがあります。ここは、いつから売却に出ているのですか?」
 その男は、疲れているような顔を上げて、ダニエルと空、未来の顔と順に眺めた。
「ああ、そうだが。ご興味があったのかね。この牧場に……」
 そう言ってから、「ふぅー!」と、ため息をついた。
「売れたばかりで、まだ看板が出たままだった。悪いね。残念だが、もう売れてしまった。来月には、この牛達を移動させなくてはならない。知り合いに分散して牛達を譲るんだ。今はこんな流行らないやり方で手間もかかって、おいしいミルクなんて作るところはないよ。ブランドったって、流行らなければブランドじゃない。自己満足でやってたってしょうがないからね」
「どちらに売却されたんですか?」
「それは町の不動産屋だが……。なんでもこの辺り一帯を買いたいようで、この向こうの湖の方まで、まぁーいい値で買い占めていった」
「それは、315と呼ばれている開発会社ではありませんか?」
 間髪を入れずに、ダニエルが訊いた。
「ふむ……。そう言えば住所の番号が315だったな。でもジャックという会社だったんだが、最近名前が変わり、コルソンリアルエステートというらしい」
「やっぱりか!」
「ダニエル、やっぱりって……なにか分かってたの?」
「空、後で話すよ。それにしてもコルソンって、合金か? そういう意味だぜ。偶然でもおもろいね。ジャックはもう無くしてしまって中国の開発は中断したことになっている。次々と会社が変わり、こうして隠してしまうのはよくある手だ」
 日本語で急いで話したダニエルは、後ろに控えて黙っている未来と目を合わせて頷いた。
「売られてしまって残念でした。色々教えてもらってありがとうございます。ここのミルクは昨日飲みました。ミルクコーヒーにしてもらったものも、濃厚でおいしいと思いました。量産できないものだけに、ここのブランドが無くなるのは寂しいですね。仕方がありませんが……」
 未来も、パールを抱いたままお辞儀をした。牛達は、なおも草を食べながら移動している。ほとんどがさらに遠くへと向かって歩いていた。のびのびと育った牛から搾乳したミルクは嘘のないおいしさだ。
 そちらの方へと歩いていく初老に見受けられたオーナーは、その後姿が悲哀に満ちていた。元気な牛達と対照的だ。牛達は大切にされてきたに違いない。
(無農薬、自然に近い育て方と生き方――これって牛だけじゃないよ。人間も本当は、そうじゃないか? その方がいいだろう!)空だって、そう思った。
「なんだか、逞しい牛だね。売られちゃうのはもったいない」
「そうだね。空、あのオーナーも不本意だろうね。事情があるんだろう。経営状態がよくなくて、もしも自分も健康状態がよくなかったらやる気は失う。応援してあげる人がいたらこういう風にはならないんだろうけど……。高齢者で継ぎ手がいないとか、そういう困った状況のところにつけこんで、奴らは、売りませんか? とやるんだよね。悪徳不動産と開発会社が手を組んでさ」
「ダニエル、やはり315だったわね!」
 未来は、憤りを感じていた。
「そうですね。この下の方にいけばケランダの周りは世界遺産にもなっている森です。それは無理だから、その上の土地であるここの自然保護区にある土地の所有者から買おうとしていたんですね。できるだけ広大な土地をです」
「眠っている金塊が、この下の土地だからか? どうやってここから掘るのさ?」
「いや、空。それはだな。彼らの本当に欲しいものは、実は水、つまり水源だ。その次に資源とあとは、あったら儲けものの金の宝物。自然を保護されているここは、自然の宝物の宝庫なんだ。これからは、世界的規模で、きれいな水はなくなるんだ。食料もどんどんと不足していく。自然観光開発という名目の裏で、将来の安心保険のために、土地をどんどん買い占める」
「だって、いくら人間が増えるったって、日本より大きな大国で、将来的にそんなに問題あり過ぎ?」
「国が考えるなら、移民で移住をこちらに増やせばいいかもしれない。侵略だな。でも、ここに、資本主義は儲かるということが前提だからね。ワクチンだろうが、生物兵器でも、資源獲得でも、そうまず根本の自然さえもね……これから生存競争厳しい人類が生きていく上で必要なことを、お金で駆け引きするからこうなる。中国とか他の国とかのレベルではなく、世界中で、どの国であっても、金、や権力の亡者が全部だめなんだろうな」
「人は、どうしてお金に惑わされるんだろう。そりゃ、なければ困るけど。生活ができればそれでいいよ。おれは、大きな家とか住みたくないし、余計な心配はしたくない」
「余計な心配はいらないわよ。もめる遺産はないし、きょうだいもいない」
「なんだよー。違う心配がでてきた」
「それなら、早くパートナーを見つけてダブルインカムしたらいいでしょうが!」
「おふくろさんと空は、お金がそこそこ……で、いや大金持ちではないから、仲がいいでしょ……って失礼! おれんちもきょうだいが四人もいるから、両親は働いていて生活は大変だけど、平和ですよ。喧嘩はしてきたけど仲はいい」
「お金持ちが、よくないみたいじゃないか……。持たないもののひがみ根性じゃない?」
「サミュエル・スマイルズという人は、諸悪の根源は金、つまりマネーでも、そのものではなく金に対する愛であるとかって言ってるわよ。異常な執着で、お金、それが全てという生き方は地獄へ落ちるのよ」
「えっ、ドッコイって。びっくりだけど、それスマイルズって……ワナリーでは、天使のターキーのラッキーが面倒をみていた赤ちゃんターキーの名前が、スマイルだったよね」
「そうよ、あたしがつけたの。お金なんて、動物達にはなんの意味もないものよね。そんなものよりむしろ、地球に、この星から永遠に出て行け! と言われるようなことをしたら、その種族はもう滅びるわけだし、子孫も残せないのにお金だけがあっても意味ないでしょ」
「それって、このおれにも残さないってことか?」
「そもそも、我が家にはないからだいじょーぶよ」
「あーあ! もっとも期待はしていないが、将来しっかり稼がないとだなぁ」
 空は、がっくりと肩を落とすジェスチャーをした。
「ダニエル、それで話しは元へ……で、ここの水源は分かる気がするけれど、資源って、あの原発のウランかい?」
「このもっと奥に入ればシャーローン族の聖地がある。そこには、ウランやトリウム、ラジウムなどの鉱床がある。それは権力者にと
っては宝物のなにものでもない。しかし、福島の原発事故に関してもここでのウランが使われていたとするなら、それはとんでもないことで、純粋な人達にとっては、先住民もそして他地域の人も、とても悲しいことに違いない。胸が締め付けられる思いだろう。おれ達もね。これは人間が掘り起こしてはいけないものなんだよ」
「そうよ、その通り。人間にはどうにも使えないもの、使用してはいけないものだと、ラッキーも言ってた。そのときに、シャローン族の村を通っている川を少し汚染したのよね。下の方のダムも、降雨量が多いいときには心配されてた。自然の危険なものを利用したら、自分で自分の首を絞める。みんな、全滅よね。それもあるけど、シャーローン族が猛反対をして座り込みや集会を開いて、その後に発掘されないように妨害して止めさせた。それはもともと地球のもので、断りも無く権力が入りかっぱらうことは、神に対する冒涜だとそう言って……」
 未来の足元に下ろされたパールが、「クウーン」と一声鳴いたので、「湖を見に行く前に、お茶にしましょうか?」と、未来が言った。
 朝の天気はどこへやら――高原の天気は変わりやすく、今の季節は不安定だ。辺りに湿めった空気が漂い始めて、嫌な感じの黒い雲が出てきていた。

赤牛のベル

 空の運転するフォードのワゴン車に揺られながら、未来は町の近くのハロウィンビーチに住む大きな赤牛のベルのことを、思い出していた。
 結構なお年を召していて、大きな体で貫禄がある。ベルは、十五年以上は生きていると思われる。ベルじいさんはご老体だ。未来が、ハロウィンビーチにある友達の家に行くときに出会った。
 こんなところに住むこのはぐれ牛は、どうしてここに来たのかは不明らしい。
 ビーチと行っても、町に近い先端なので、近くの国際飛行場からの飛行機が絶えず離着陸のための騒音を、頭上に奏でている。そんな飛行場にも近い、海にも近い寂れた広い自然公園の中に、放し飼いでベルはいる。公園の中でもベルのいる場所は、雑なメッシュでスチール製の広いフェンスの中である。それがあちこちと壊れたところもあったりする。
 自然公園なので、散歩をする人もいる。ベルは脱走する気配も、人に危害を与える様子もない。静かにその毎日を、草を食べ反芻しながら平和に暮らしている。
 友達が言うのには、未来がワナリーからここに帰ってくる以前に、ベルが病気になったことがあるらしい。その時の話だが、ハロウィンビーチの人達のアイドルになっていたベルは、地元の人達のおかげで助かった。牛の研究をしている獣医師が、遠い他地域からやってきて、無償で色々と面倒を見てくれた。それが、テレビニュースになったくらいだ。幸運で幸せな牛である。
 今では、そこに住んでいる未来の友達始め、皆が食べ物をやったり見に行ったりとしている。他の地域からも子供達が見にきたりするらしい。
 未来が久し振りに見に行ったときも、ベルの前に、ニンジンだのキャベツだのが落ちていて、ベルはそれに見向きもしていなかった。カラスやマグパイなど鳥達がそれを突いている。ベルの前に食べ物があり過ぎる。足りているのだ。
 だいいち、そこらじゅうにある草よりも、ベルがそれらを好んで食べるのかどうかは未来には疑問だった。が、どうやら、この牛は肉食以外はなんでも食べるらしい。糞の始末や新鮮な水など、近所の人が世話をしていた。
 牧場で飼われている乳牛の糞は実は、草しか食べないから案外きれいだ。糞は、草を育てるいい肥料になるという牛と草の共存関係がある。他の動物もそれを食べるから、あまり臭くもないようだ。
 最初に出会ったときの印象が、どことなく気高い感じがして、牛の仙人のようだと未来は思った。なにごとにも動じない。ゆっくりとこちらを見る目は、なんでも知っておるというような顔をして、相手の心理を見抜く目を持っているようだ。
 真っ青な空に透きとおるような海原、そのコントラストに対抗するように、もくもくとして風と共に姿を変えていく白い雲、そして緑の草原の大地、それらの上空をまるでそれらの景色と無関係のように、耳につんざく音を立てて飛んでいくジェット機――。
「どあほうどもが、また自然に逆らっておるわい」とでも思っているような、ベルの眼差しだ。
 あるとき、未来は神経を集中させて、ベルに心でこう尋ねてみた。
「牛はミルクが出なくなったら食べられる。食べられるのに……。牛はなんのために生きているの?」
 この牛はリラックスしていて、よく横たわっている。群れもないし、いつもひとりぼっちだ。ベルは、近寄ってくるフレンドリーなハエを耳や尻尾を振りながら追い払い、どっしりと座り直してこう意識を送ってきた。
「人間に食べられるためさ。同じ牛としてわたしはなぜか違うけど……。じゃあ、人間はなんのために生きているのかい?」
「あんれまっ! この牛、あたしに訊いてきた」
「答えなきゃ、その次は言わないよ」
「そうね、なんのために生きているのかしらね? 生まれてきちゃったから、自然のことわりで生きているのよ」
 「人法地、地法天、天法道、道法自然」は、哲学者老子の教えだ。あるがまま、道のまま、運命に逆らわず、自然に則して生きること。
「ふん。今の人間はそうは思えないね」
「あなたは、食べられないじゃない。特別なそういう定めもあるじゃない」
「わたしは、人間に伝えるためにここにいる。わたしに食べ物をくれる人、気に掛けてくれる人、助けてくれる人、そうしてもらえるわたしみたいな牛がいる。ペットと同じようにかわいいと思う人もいる。皆に伝える。わたしと同じ牛達はみーんな食べられているという現実を!」
「どういうこと?」
「ひどい扱いをするな。むごい殺し方をするな。無駄にするな。愛情を持って最後まで付き合うこと……感謝して食べろ」
「ふーん。現代は、そんなことは無視して生きているわよね……人間は。一番偉いわけでもないのに、この世界でもっとも横暴でエゴイストな生き物でしょうね」
「わたしは世捨て牛だ」
「世捨て人じゃなくて、世捨て牛?」
「そうだ。できるだけ生きてこれを伝える」
 ベルはそう言って、ゆっくりゆっくりと立ち上がり、のしのしと、大きなお尻を見せて行ってしまった。
「でかい尻、ランプ肉ってか? あれ、やだ、あたしステーキ食べてるじゃん!」
 未来は牛の方が偉く思えて、少し恥ずかしくなったのを覚えている。
 ワナリーで、天の使いであるターキーのラッキーが伝えた言葉を思い出した。
「人間は複雑な思いが多すぎてわしの手に負えんのだ。人間は素直じゃない。あれやこれやと、その思いも欲張りでやっかいだ」
 人間が復讐されるのも、無理がないのかもしれない……と、未来の頭に、BSEや口蹄疫などの家畜伝染病が浮かんだ。

ブダ・ジの怒りと悲しみ

 ともかく、未来と空とダニエルは、コテージで一息入れることにした。
 気を利かせて、戻る途中、空が車を途中で止めて小さなカフェで、おいしいチーズケーキを買っておいてくれた。部屋にあるインスタントのコーヒーだが、取りあえずのティータイムにした。
「ブランチはここで作ってもらってたサンドイッチを車で食べたけど、今晩はどうするかな? 自炊する?」
「いいね。空、なんか作れよ! いつも空のおふくろさんにお世話になってるし、おれも手伝うよ」
「ステーキはもう食べたくないし、日本食にしようよ。冷凍でもいいや、バラマンディーかサーモンでも買ってきて照り焼きにする。どこで買えるか、レセプションで訊いてみるよ」
「あら、有り難いわね。それなら早めの散歩に付き合ってもらって、湖に行きましょう」
「それじゃあ、その後、すぐに買い物に行くよ」
 パールは、肉ではないと少しがっかりだが、パール用にツナの缶詰がいつも用意されている。ツナは好きなのだ。
「ここはチーズもおいしいよね。このチーズケーキも地元産のクリームチーズを使ってるでしょ。このミルクもそうでしょ。インスタントでもコーヒーがおいしいよね」
「大量生産より、手塩に掛け愛情を持って育てられた元気な牛達からのプレゼントだからおいしいのよね。肉も、こっちでは赤身が好きな人が多いでしょ。どうして、今は霜降りとかって好まれるのかしら? 考えたらメタボの牛の肉よね。そう加工する。野菜もそうだけど、本来の味や、栄養もなくなっちゃってきてるし、こうしてここに来ると改めて思い知らされる。地球の自然を無視して、すべての社会のしくみが利潤追求に走ったら、どうなってしまうのかしら?」
「地球の復讐で天変地異が起こり、破壊ですよね。このままいけば……」
「ダニエル、どきっとするから止めてくれよー。まずお茶! そして食べよう」
(空は、ゴーストよりも地震が大嫌いなのです。やれやれ)と、パールは大きくあくびをして、手足を伸ばした。チーズケーキを少しおねだりするつもりだ。
「あのさ、315にブライアンは関係していたと思う?」
「そうだろうね。新しくできたジャックという、中国関係の観光開発会社のグループに深く関わっていた、もしくは臨時社員のような形だったんじゃないかな。昔からではないだろう。ずっと、このおとぎ話のような金塊の話を信じて、なんとか現実にならないだろうかとそのチャンスを待っていた。一生困らない以上のお金への夢だ。素人のこいつには、本当の裏の組織がどんなに怖いものかは分からなかった。馬鹿なやつだ。バックにいるメルボルンの親会社も正体が不明で、いくつも名前を変えているとピーター氏が言ってたし、その裏で糸を引く危険な影の組織も、我々では、到底分からないという難しいグループらしい」
「話がでかいね。そりゃあ関わらない方がいい」
「ブライアンは、もう使う価値がない。カルロスを殺させたのはいいが、秘密を知り過ぎた。315、ジャックとなにがしかのもめ事もあったのだろうね。宝物の場所が少しでも分かれば、もう用はない。組織の他のメンバーへの戒めや脅しもあってブライアンは消された。その前のシャルルの場合は、少し違う。殺ったのは、どこのスパイなのか、それが315に出入りしていたかは分からないな。他メンバーへの見せしめのような手口のやり方は似ているが……。シャルルは、K18から見放されていたと言うのはそうかもしれない。辞めたいと言ったからね。ワイルダーがそう言っていたからね。が、K18の人間が、隣国のスパイ組織の一員、またその周辺やイギリス諸国など、どの裏の組織と内通していたのかはこれも不明だ。あるいは……シャルルを殺したのは、案外敵対している国かもしれない。見せしめだ。ワイルダーには、そこまでの複雑な情報は分からないだろう。しかし、危ないことに手を貸して、ワイルダーも生物兵器という機密に関わってしまったとしたら、命を狙われることもあるかもしれない」と、ダニエルは少し考えてから、首をふった。
「いいや、彼はまだ殺されないな。そっちの方で利用価値があるんだろうね。お金を出資して貰うところがなければ、兵器だろうがワクチンだろうが、なにもきちんと作ることはできないけれど……。しかし、ワイルダー氏はまた姿をくらましてしまった。いつかまた、見つかると思うけどね」
 未来はもうさっさとチーズケーキを食べてしまっていた。コーヒーは二杯目だ。
「さぁ、行くわよ。暗くなる前になんとか探さなくては」
「なにをだー。本当にこの人、だいじょーぶかな?」
 空はそう言いながらも、ダニエルを促して、食べ終わったケーキの皿を片付けた。
 
 未来が歩いて行こうと言うのを、空が車で行くことを断固として譲らなかったので、道を遠回りしてレインボーランドの湖に来た。 
 未来の行動に失敗はないが、こういう段取りになるのも、ちゃんと分かっているくせに、未来はその時の感覚ですぐものを言う。このままではどうせ、後から空が車を取りに行くことになるくせに……。空の方が、その先……を読んでいる。慎重である。
 牧場側からの反対になるこちらからの湖の景色は、森林に囲まれて幻想的な雰囲気だ。
 パールが車の窓から顔を出して、鼻をくんくんとさせ、あたり一面の匂いを拾うように嗅いでいる。神聖な深い森の、重厚な扉を開けるような緑の匂い……また、ひのきの香りとなにかが生臭く……混ざったような水から漂う神秘な匂い。そこから微かに生じる青臭いような獣の匂い。
 この場所からだと、少し危険と感じたのか、未来はパールは通訳だとか言っていたくせに、車からおろさなかった。そして、手足に虫除けスプレーを塗って、防虫アロマも容器ごと持った。
「空、あんたは、虫嫌いで嫌がるあんただけが蜂とか蚊に襲われるんだから、パールとここにいなさい。ダニエルとそこの湖の淵まで行ってみるわね」
 そして、ダニエルも虫除けスプレーのお世話になりつつ、未来の後ろをついて行った。
 未来は、湖に向かって意識を集中させてみると言う。この中に大蛇はいるらしい。ダニエルは少し離れてただ見守っていた。
 ふもとに向かうバルーン川のように澄んではいないこの湖だが、どんよりとエメラルド色で、色の濃い中心部は深いのであろうと思わせる。しばらくして、その中心部に、深い深い底から浮いてくるような泡がふつふつと沸き立った。しかし、それは音も立てず静かで、それ以外のアクションはなにも起こらない。
「はぁーあ」
「しっ! 静かにして」
 ダニエルはまた出そうになるため息を、思わず飲み込んだ。
 未来は立ちすくんで、湖の中心を見つめたままだ。長い時間が流れた。いや、実際は、十分も経っていない。いささか、待っているだけのダニエルには苦痛に思えてきて、できるだけ音を立てないように、辺りを散策してみる。
「おや、これはなんだろう?」
 そこで、重大なものを見つけた。ダニエルの拾ったものは、銃の薬莢だった。それは、草むらの間の土が見えている部分にいくつか落ちていたのだ。まだ新しく、あまり錆びてはいない。
「使った薬莢だ。なんで、ここに? どうして湖とかに隠さなかったのだろう?」
 ダニエルは、ここで何者かが射撃の練習か、もしくは、だれかにそれを教わっていたのではないだろうかと思った。湖にも落ちただろうが、たぶんその数多くを撃ったのだろう。それにしても、こちら側からは牧場に遠く離れているとはいえ、銃の音が聞こえやしないかと訝しくも思った。そして、その中の二つを拾って、中身がないだろうかと確かめて、ポケットにあったバンダナに慎重に包んだ。
 近くの樹木になにがしかの弾痕でもないかと、ダニエルはうろうろとその場所を探してみたが、鑑識員でもないのでよく分からない。それでも、ユーカリの木らしいものに焦げた枝葉などがあった。しかし、ユーカリはその性質上自然発火する木だから、まぎらわしくもそれらはたぶん違うかもしれないと、観察しながら見ていた。
 そんなダニエルの後ろから、未来が叫んだ。
「大変だわよー! とにかく早く知らせなくては。そして今すぐに、ピーターに電話をして」
 そこで、なんだかよく分かっていないが、尋常でない様子の未来に急かされたダニエルは、一緒に急いで車に戻った。
「とにかく、すぐに電話をして、この周辺の人達をどこかに一時避難してもらうように、なんとか手配してもらってちょうだい」
「なんだよー! それ、意味分かんない」
 空は、きつねにつままれたような顔をした。
「あの、ここになにか危険が迫っているんですか?」
「うん。ダニエル、大蛇は、湖の底から出てきてはくれなかったけれど、また伝わってきたことによるとね、もうすぐ……そう、今もう始まっているかもしれない。自然保護区のこのさらに下、奥の場所から燃えるらしい。山火事よ。それもこれから風が強くなるからここが危ないと伝えてきた。ブダ・ジは、自分で火はつけなかった。湖から出て、ここの境遇と共に死のうとしている」
 空は、どう事情を説明していいのか難しいと思ったが、とにかくピーターに連絡した。うまく言えたかどうか疑問だったが、出火の恐れがあるということは告げられた。
「ピーターは、それを理解したみたいだ。もし、外れたとしても責任を持つと言ってくれて、積乱雲が出ているし風も強くなっているので、急速な変化で大型竜巻が起こる可能性があると、それを絡めてうまく上層部に強く言ってくれたみたいだ。警察は地域の住民に、注意報と自主避難を促す連絡をするらしい。もし火が出た場合は、避難勧告を直ちに発令すると言ってるよ」
「おれは、湖の近くで薬莢を拾った。これは、きっと悪い奴らもここまで入っていたかもしれないから、もし山火事が起こるならば放火も考えられると思う。つまり、証拠隠滅ということだ。ブライアンを殺した場所も、ケランダのバルーンフォールから数キロではないかと言われているが、ここからそう遠くはないのだろう。このホリデー明けに、警察が調べるためにここに大掛かりに入り込むだろうと、奴らはその前に、証拠をなんとか消したいんだろうね」
「とにかく、あたしらも帰りましょう。コテージに戻りチェックアウトして、すぐにピーターのところに行ってどうするかを考えましょう。あたしは大蛇に逃げるのよって一生懸命に伝えたけど、大蛇は逃げないと言うことを聞かなかった。どこで起きるのかもそれは分からないようだけれど、必ずこれからすぐに山火事は起きると伝えてきたのよ。燃える! それはなかなか消し止めることはできないと……非常に危険だから気をつけなさいって」
 空は、黙っていた。車のハンドルを握る手は少し震えていた。パールはいつものように落ち着いている。
(空、これは未来のいる限り、必ず助かりますよ。だいじょうぶですよ)と、伏せをしたままの姿勢で平静でいる。
 コテージへ戻って、未来と空とダニエルは荷物を片付けて車に積んだ。
 空がホテルのレセプションでチェックアウトするときに、スタッフに訊いたところ、どうやら自主避難勧告が出ているらしい。
 天気は急激に悪くなってきている。黒い雲が立ち込め、昼間なのに暗くなってきた。まだ雨はふってはいない。風だけが強い。
 ホテルのスタッフは、ここは表の大きな道を下ればふもとへ向かうのもそう問題もないので、いざというときは、すぐに避難できるような準備はしているという。
 またビーチ方面に比べてここの宿泊客はそう多くないので、道も混まないだろうと、未来はそう願った。しかし、ケランダ方面とその西側のバルーン川を含む国立公園は世界遺産の熱帯雨林だ。山の西側はジャングルのようになっている。そちらにもしも、火が燃え広がったら大変なことになる。ふもとへ下るのはこの一本道だ。
「とにかく、ケランダの駅まででも、下って避難をしておいてくださいね。そこからなら下までは三十分も掛からないでしょ。竜巻ならこの草原よりは下の方がまだ安全です」
 未来は、言いようのない胸騒ぎを激しく感じていた。しかし、自分の予言の確信に自信を持てない。未来は、自分にある能力をまだ完全には信じきれていないのだ。
 スピリチュアルとは、なんだ? 未来はそれを口にするのもおこがましいと感じる。
 それほど、それについて勉強したこともなく、ヒーラーやら予言などとは無縁である。ただ、あるとき、あるきっかけがあり、なんだか動物の伝えることが、少し聞こえるようになってしまった。それから、不思議だなと思う体験はいくつか起こるようになった。
 それこそ、霊感があるという友人に言わせると、未来に潜在的にあった力が、年を取ってきて覚醒しただけだと言う。
 未来は、思えば確かに、今までも自分の人生の選択肢は非常に運のいいものだと……やりたいことをやってきて満足していると自負しているのだ。自分の直感で、選んできた道だ。 
 しかし、人は皆、考え方も千差万別であり、世の中に絶対などということはないのだから、未来は自分の思うことを強く訴えることができない。それがいいと思っても、人に言うことができない。でも! でもだ。ここで、確たる自分に自信を持ち言うことができたら、きっと心が救われると……そう思うのに。心――命だ。
 スピリチュアルの語源はラテン語で、『スピリタス』と言う。息、呼吸、生命というらしい。形のないふわふわとしたもの、感覚で受けるものなのだろう。きっとそれは、愛犬のパールの方が長けていると未来は思う。
 だからこそ、人間じゃない言葉を持たない動物達、植物、大きな自然にもっと耳を澄ませてよく聞こうと、それを未来は常々思っていて、他の人にも言いたいことなのだ。
 自分自身の眼、五感全部で見て、感じることができればだれでも未来と同じに、感覚でなにかを、どうすべきかを……得ることができるのだろう。太古の昔は、多くの人は皆、そうだったに違いない。
 未来は、本当はここの住人全員に、万が一のために、安全に逃げて欲しいと思っている。歯がゆくて悔しい気持ちもあったが、空に促された。
「とにかく、おれ達だけでも急ごう。なにか大変なことにならないうちに。救急体制も取らなければならないかもしれない」 
「おれ達がいても、ここではなにもできないんですよね。とにかく、ピーターが待機しているバジルへ戻れば、警察官もいるでしょうし、行きましょう」
「そうね。それしかないわね。ブダ・ジを、説得できないで残念だけど」
 未来は、まだ後ろ髪を引かれる思いだった。所詮人は、自然の思いと力には勝てない。
 大自然は拒否している。自然の中で生きているブダ・ジは、人間のすることに絶望し、打ちひしがれている。これから、燃えてしまうかもしれない自分の運命を逆らわずに受けるという。それでいいと言う。
 イースターのグッド・フライデーは、今日だ。
 聖なる金曜日―――この地で、裏にある国と国の謀略、そしてその権力者達の醜い争いと、裏切りによる殺人、ゴールドと資源に関わる金銭への欲望に、自然保護区の土地の買収、そういう人の世の罪をいつの世も、黙ってその影で犠牲になるのは物言わぬ動植物達、つまり「世の罪を取り除く神の子羊」に等しい。
 その聖なる日に、代表である大蛇が十字架に掛けられようとしているのだろうか? 悪である人の罪を全部背負って、自ら炎の中に身を投げようとしている。未来はいたたまれない気持ちになった。
 未来は、もう一度、「とにかく、ケランダ駅までは、皆さんをお連れして自主避難してくださいね」と、ホテルの人に念を押して言
った。
 空の運転で助手席にはダニエルが、後部座席には未来とパールが乗って、とにかくケランダ経由でふもとまで下ることにした。
「空、十分注意して運転してね」
「分かってるよ」
「ダニエル、よく見ていてね。前方四つの目よ」
 やはり、空の必要以上に注意するところと心配性は、母親譲りだ。未来が運転しなかったわけは、出てこない湖にいる大蛇が、それがブダ・ジかどうか曖昧なので、まだ車の窓から捜しているのだ。そして、一生懸命に伝えている。どうか、燃やさないで……燃えないで……、炎はどこから来るの? 教えてほしい。
 パールは、なにを感じ、なにを思っているのだろう? 危険や危機管理を察知する能力はある犬だ。嵐の前の静けさを感じ、静かに伏せているが、いざとなれば吠えるだろう。時折、その耳が神経質にぴくぴくと動いていた。
「パール、なにか感じたら教えて……」
 未来は祈るような気持ちだった。嘘ならいいと思う。なにごとも起きないことを祈るしかない。
 上ってくる対向車がいないので、空でも運転はスムーズにいき、一時間半ほどでようやく、ケランダの駅の屋根が見えてきた。
 そこまで、ほとんど三人の会話はなく、時折、「空、次ヘアピンカーブだぞ!」などと、ダニエルの声が聞こえるだけで、パールも寝るともなく寝ていた。寝ているふり……だ。なんとなく空達の緊張感が伝わってくるのだ。 
 ケランダ周辺の町は、お店も全部が閉じており、とても静かな様子だった。もうすでに、皆がどこかに自主避難か家に閉じこもっているのだろう。なにしろ、表向きが、竜巻注意報だからなんとも不甲斐ないと未来は思う。
「なにかを伝えたいけど、山火事! 燃えるとストレートには言えないし、信じてもらえないよね」
「おふくろの気持ちは分かるけど、おれ達だって本当のところは半信半疑だよ。竜巻の方は本当に来そうだと思うけど、自然発火にしろ放火にしろ、予告があって燃えるとは考えられないよ」
「空、見てごらんよ。おまえじゃないよ。空を! って太陽が完全に遮られ、もっと天気がおかしくなってる。風も吹いてきたし、大きな積乱雲だ。ポツポツとも来てる。放火されても……もし大雨が降ってくれれば、だいじょーぶじゃないか?」
「あれ、ヘリコプターがあっちに飛んでくよ。警察のマークだ。ピーターが言ってくれたのかな、そして動いてくれた。けど、危ないんじゃないか?」
「プロだから、だいじょうぶよ。竜巻はその条件を満たすところにしか発生しないから、ヘリは、危険を冒しても上空からなにかを、出火するならその場所を、監視しに来てくれてるんじゃない?」
 未来のどうしようもない不安な気持ちは、警察が動いてくれたので少し解消された。しかし、胸騒ぎが収まらない。
「どうするったって、とにかくおれ達は、まだここから下って、カフェバジルに行くより仕方ないだろ!」
「ダニエル、そうだよね。ここでおふくろがどうにかしようったって、できるもんなら、動物達総動員で大騒ぎするとかしない限り、なにをどうするって言うんだ? 現実にはそこまでは無理っしょ」
「あたしは、超能力者ではないからね。受身で、ただ自分のアンテナを張って、一生懸命に耳を傾けることしかできない。本当はね」
 三人を乗せたフォードは、とにかくふもとへ向かって急カーブを下って行った。
 神経質だから超慎重になってしまう空は、いざとなって腹をくくればその力を発揮する。ヘアピンカーブを、今までにないくらいのハンドルさばきでかわして行った。(雨なんか、くそ食らえだ)と言わんばかりだ。
(空は今はすごいですが、力が抜けた後が大変なんです。お疲れさんを癒すのがね……)パールが伏せたまま、片目を開けて運転席の方を見ていた。
 未来は、周囲の熱帯雨林の樹木の奥を窓から注視していた。嵐が来るという前だからなのか、鳥達の声も聞こえない。ケランダから下りる前までは、森の中から騒いでいるような獣の声を……鳥達のざわついたさえずりも少しは聞こえていた。
 森の鳥達は非常に賢い。その体で頭で、感じる力で危険を察知する。そして遠くへ避難する。シャーローン族にもそういう力があるのだろう。
 人間は、自然から受ける大切な感覚や教えを受けることを、いつから考えなくなったのだろう? まったく鈍感になった。
 文明が発達して世の中はものすごく便利になり、生活することは随分と楽になったが、生きることの一番大切な真髄を、人間はないがしろにして忘れてしまったのだろう。  
 未来はカーブに揺られながらも、その目を凝らして、周りの森林の景色にまだ集中していた。真珠のピアスをした耳を研ぎ澄ましていた。
 もう、車はふもとに近い。最後の急カーブを下り、道が平坦になって、未来が後ろの座席からケランダの小高い山の裏側面を見たとき、その上方向から微かに匂ってくる匂い……に、パールが反応した。風向きが変わったのだ。
 パールが珍しく、車の後部座席から立って、後ろに向かって吠えている。
(燃えてますよー。焦げ臭いです)パールは、ずっと鳴き続ける。
「オーマイゴッド!」
 空は車を止めて、背後を見た。
「あっ! 裏側から霧のように煙が下りて来るわ」
「なんてこったい! 本当かよー」
「この火が、燃え広がらなければいいが……。頼むよ、雨がもっとふってくれれば!」
 空もダニエルも心配した。ふたりと未来も車から出て立ちすくみ、背後のケランダの山方向を見ていた。
 すでに、霧雨のように弱い雨はふり始めていた。だが、風はますます強くなっている。火が燃え広がなければいいが……と、未来は祈った。
 ケランダの山の先は、真っ黒な雲が立ち込めている。この小雨で温度は急激に変化しているだろう。積乱雲は、山の向こう側で隠れて、ここからはもう見えない。レインボーランドの草原の上空には危ない雲はまだあるのだろうか? 住民が避難して万全を期していることを、未来達は願っている。
 すでに、落雷もあったようだ。あちら側の空が、時折光っている。竜巻は起こっていないだろうか? 未来は山頂とその先のレインボーランドは、どうなっているのだろうかと心配した。
「ダニエル、ここから匂って分かるってことは、山の中腹、レインボーランドの草原の下の地域から燃えているのかな?」
「山火事は、ふもと近くから燃えていくというのが多いんだ。火は風にもよるが、下から上へ向かうからね。でも、自然発火なのか、人為的なものなのかは分からないね。あの辺りなら、人が入り込むのも不可能ではないし、焼き畑農業や、わざと火入れをするという方法もこの国の習慣としてあるところも多いし、さとうきび畑も昔からそんな風にしてるじゃないか? それが事故で大きく広がったのかもしれない」
「でも、なんで今日? グッドフライデーで休日なのにだよ」
「そこだよね。偶然にしてはちょっとおかしいとは思うよ。そう見せかけて放火したとも考えられなくはない」
 煙の漂う中から、隠れていた炎が姿を現し、ちろちろと赤い舌を出している。予想に反して、あっという間にそれは高い火柱を作った。そこだけ、炎の竜巻を空に打ち上げ、長細くゆらゆらと揺れて、その姿は正しく大蛇―――ブダ・ジだった。
 燃え盛る大蛇は、怒り狂っていた。言いようのない叫び声をあげて、めらめらとその体を真っ赤にさせて猛り、苦しんでいた。
 それを見つめる未来には、その姿がこの世のすべての人間の罪を背負い、嘆き、その裁きを受けている受難と死を覚悟したイエス・キリストを思い出させた。聖なる――金曜日。
 大自然の贈り物を、その宝物を、もう人間の手には渡さない。もうたくさんだ。愚かな人間達!
 ずっと太古の昔には、お互いに分かり合えることもできたのに……。自然の中で暮らさなくなった人間は、皆、おかしくなってしまった。そんな人間とは、もう仲良くやっていくことはできないと悲しんでいる。泣いている。もがき、あえぎ苦しみ、その尾を、山に叩きつけて大きな音を立てている。
 大蛇は、死を恐れていない。死よりもおぞましく、醜い人の心を恐れている。邪気を憎んでいる。その身代わりになり、苦しみぬいて自滅しようとしているのだ。
 世界創造におけるブダ・ジの伝説を思い出す。
 バルーン川とレインボーランドの高原に渡る小川と湖の創造主とされるニシキヘビ――。
 その昔、ブダ・ジは、オウムガイの貝殻を持って、バルーン渓谷を行き来しながら川辺で暮らす村人のところへ行き、村人と仲良くしていたはずだ。鳥人がそれを裏切って、ブダ・ジを殺して切り刻んで、高原にばらまいた。
 未来の夢の中で、現れたのは巨大化したブダ・ジ―――。人間のやり過ぎた文明の発達に対しての警告……今、目の前にはっきりとその姿を、空に描きだした。
 ケランダの奥地にそっと眠る自然資源のトリウムを浴びて、巨大化した大蛇が暴れまくる。悪魔に染まった人の手で掘り起こした自然資源だ。
 ブダ・ジは、ニシキヘビ、そして虹蛇でもある。虹蛇はその巨体を、暗黒の空にも、燃えようとしている山の大地にも叩きつけて、のたうちまわっている。尻尾は、赤くなるほどに、強く岩に叩きつけていた。轟音のようにとどろく叫び声……雷が大きく鳴り出した。虹蛇はまるで、神の化身であるかのようだ。虹蛇は人の身代わりとなって自滅しようとしているかのように、未来には思えた。未来だけに聞こえる声、幻……なのかもしれない。
 雨が少し激しくなってきた。雷は、暗黒になった天空に矢を打ち付けるように、時折激しく稲光を走らせている。
「おふくろ! おい未来! だいじょうぶかよ?」
「えっ! なにか言ってた?」
「さっきから、ダニエルと話してるけど、全然耳に入っていないみたいだったからさ」
「ごめんなさい。とにかくどうにかしなくちゃと思って、炎の大蛇に集中してた」
「そんな場合じゃないよ。ほら、バジルに急ごう!」
「おい、空見てみなよ! あそこに空中竜巻が出来てるよ。めずらしい現象だ」
 ダニエルが、ケランダの山のさらに向こうの上空を指差した。
「本当だ。レインボーランドの方角だけど、トルネードでないなら、そう大きな被害にはならなかったよね」
「そうだね。まぁ、二つの竜巻が起こっていなければね。そう祈るよ」
「あれは、龍よ。大空の雲の中、その水中に住むと言われる水神の龍!」
「またか……。未来のファンタジーだ。なに言ってんだよ! 雨がひどくなる前に早く行こう」
「空、これできっと、あの火事も消火していくだろう」
 そのときに、空のスマホがけたたましく鳴った。空は、慌ててポケットに手を入れたので、スマホを落としそうになった。
「あっ、ピーター!」
「やっと通じたか? 無事にふもとまで着いたんだな。よかった」
「はい。今からそちらに行きます」
「大きな積乱雲が出ていたのだが、災害になるような竜巻は発生しなくてよかった。全く、近頃の天気はおかしい。しかし、これから強風と局地的な大雨が予想されるので、その地域に強風、大雨に落雷注意報が出されている」
「あの、山火事の方はどうなりましたか?」
「発火したのは人里がない場所なので、一応はヘリが飛んで、消化剤を散布すると試みたが、運よく雨脚が強まってきたので自然鎮火を待つことになった」
「分かりました。それで、人災は出てないのですね?」
「だいじょうぶだ。気をつけてこちらに帰ってきてくれ」
 背後のダニエルもパールも、ほっとした様子で、「はあっー!」と、同時にため息をついたように、空は感じた。
 ひとりだけ、ほっとしていない人物がいる。未来は、まだ真剣にケランダの上空を眺めていた。
 遥か彼方の空、時空を超えて現れた水神の龍――を、未来は見ていた。
 耳をつんざくような悲鳴をあげて、その啼き声で、雷雲や嵐を呼ぶ。冷たい風を受けて、竜巻となり、雲から天空に昇り、自由自在に飛翔する。
 大昔の大国に存在していたこの龍は、様々な環境変化や文明の人の手により、滅ぼされていったという伝説の水の神の巨大龍だ。それが空中から現れ、猪突猛進に暴れまわる。
 巨大龍は、全ての罪人の人間を食らい、川や湖に吐き出して人々の魂を循環していったと言われる。
「わたしの言うことを聞き、わたしとの約束を守り、指示を仰ぎなさい」それが、わたしの伝えることだ。
 未来は、ただ黙って、心でそれに応答していた。真摯に向き合っていた。
(分かるから、分かるけど、もう暴れないで……。分かってくれる人間に、一生懸命に伝えるから、お願い!)
「あっ! 最後の火柱、虹蛇が口から火を吹いた」
 虹蛇は、ひげと牙があった。湖の地下深くから現れた神霊のようだ。
 それは最初、巨大龍と虹蛇の対決のように、未来には感じられた。しかし、よく観察すると、対決しているようで、共に戦っているようにも見える。なにかに向かって……だ。
 虹蛇が最後の力を振り絞るように、大きな火柱を上げて叫び声と共に悶絶して、飛び散った。大雨の中、水神の竜に噛まれたのだ。巨大龍は、天空から轟いた電光石火の雷神に打たれて、これまたのた打ち回っている。「ぎゃーー」と一声上げて暗黒の雲の中、ぽっかりと開いた穴に、宇宙彼方に吸い込まれるように飲み込まれてしまった。
 虹蛇は、身が八つ裂きになりばらばらになって、飛び散った。
 次第に激しく強くなっていく雨は、まるで起こったことの後始末をするかのように、その地に、また川から海に向かって流れていく。予期せぬ天下の大掃除のようだ。
 人が生まれる前にも人の世があり、世界は回っているという世界観を持つシャーローン族の信仰するストリームはまだ生きている。
 この世は皆、人間も天空の虹だ。
「ここまで雨がすごいと、なんだか心が洗われるようだね」
「まったくだ。ただ、これじゃあ、きっと森の中に証拠があったとしても残ってないや。流されたり燃やされてしまったよな。この薬莢だけでも持ってきてよかった」
「バジルに行こう。ダニエル」
「おふくろさん! しっかりしてください。行きますよ」
「ワン!」
 ダニエルが未来に声をかけ、パールが車の窓から顔を出して大きな声で鳴いたので、未来はふと我に返った。龍と大蛇が、自らの死をもって人を救った……と感じていた。

大空に虹

 カフェバジルに三人と一匹が着いたときには、しばらく続いていた激しい雨は、少し小ぶりになってきていた。
 空はここまで運転してきた自分に自分で感心していた。
(やればできるじゃん……空、もっと自信を持った方がいいと思うよ)パールが、空の顔を舐めていた。
 バジルのドアを開けて、「おかえり!」と言うルイーズとウィリアムの声を聞いたとき、空もダニエルもほっとした気持ちになった。空は、力が抜けたと言ってもいいかもしれない。張り詰めていた糸が切れて、疲れがどっと押し寄せた。
 相変わらずの、コーヒーブレンドのやさしさが溢れる芳しい香りに、未来もやっと心配と恐れの気持ちから解放されるような気がしていた。
「早速、淹れてるからね。カプチーノでいいでしょ?」
「おぅ! ウィリー……グッドタイミング、最高だね」
 ダニエルも、声が軽くなっている。
「今日は、店を閉めていたから、パールもそちらのソファでいいよ。タオルを敷いてあるからね」
 未来はここに来るまで意気消沈していたが、やっと自分を取り戻していた。
「ありがとうございます。ピーター、このカフェがあって、空もダニエルも皆、救われているんですねぇ……いつも」
 ピーターが、皆をねぎらうようにそちらへ促し、自分も前の椅子に座った。
 しばらくして、ルイーズが温かいカプチーノを、りんごのタルトと一緒に持ってきてくれた。シナモンの香りにさらに癒されると、空は喜んだ。スイーツは空も未来も大好きだ。一緒に持ってきた小さなバスケットの中に、うさぎと玉子の形で装飾されたチョコレートがあった。
「これは、気が利くじゃん。りんごのタルトもおいしそうだし、イ―スターのチョコレートもある! ルイーズも女らしくなってきて、家の中もいい感じになりますよね」
「そうだな。ママに似てきた。やるときはやる……料理もやってもらわないとね。ダニエル、君も将来が苦労することになる」
「ええーっ! どういうことですか?」
「こっちのセリフよ」
 こういうやりとりをしながら、結構まんざらでもないふたりの様子は、空には嬉しい。なぜなら、将来このふたりが結婚して、空にとっても、信頼できてずっと付き合っていける親戚関係みたいになるような気がするからだ。皆、小さいときから近所付き合いを通して、幼馴染で一緒に育ってきた。
 ルイーズがキッチンの後片付けに行ってしまってから、ピーターが事件のことを話しだした。実は、先ほどまで若い刑事達がずっとここにいたのだ。
「とにかく、皆が無事でよかった。そして、レインボーランドもケランダ周辺地域の住民も、全員被害がなくて本当によかったよ」
「そうですね。空のおふくろさんのおかげで、第三のときの最後の文面、炎の森はどうやら避けることができました」
「あれ、そう言えばそうだね。おふくろが虹蛇と交信していてくれたから、大きな火事にならずに済んだのかな? って、そんなことあるかーい!」
 またファンタジーの世界に入っていくのかい……と、空は怪訝な顔をした。
「まっ、なきにしもあらず……。信じてよ! って言わないけれど、あたしには確かに色々と伝わってきたし、目にも見えた。なにがってね。虹蛇のブダ・ジも、水の龍も、みんな、大自然の波動が壊れていくのを嘆いて悲しんでいる姿……リアルに感じた」
「地球が……まぁ自然が怒るのも仕方がない状況になってきてるよなぁー。まったく最近は!」
 ダニエルは、そう言いながら温かいカプチーノを一口飲んで、ウィリアムともルイ―ズともなくそちらの方向に、ウインクした。少し疲れた皆の身体にも、コーヒーがしみ入るようだ。ダニエルは、少し温められたりんごのタルトを、いかにもおいしそうに一口食べた。
「そうでした。ぼくは薬莢を湖の近くで見つけたんです」
 そう言って、ポケットのバンダナに包んであった薬莢を二つ取り出した。
「ほーっ! それはお手柄だ。どれ?」 
 ピーターは、やや変形しているその薬莢を素手で触らないように気をつけながら、観察していた。
「詳しいことは、警察で調べないことには分からん。これは、鑑識に調べてもらおう。今日中に渡しておく」
「それから、ぼくが思っていた通り、レインボーランドの牧場は、売却されていたようです。もう、通称315ではない。ジャックという中国の観光開発会社は退いていて、コルソンリアルエステートという現地会社が、表向きは転売で買ったことになってます」
 ピーターは、額に右手を当てて下ろした。
「やはりね。315のジャックが手広く観光開発に力を入れていたのは皆が知っている。そして、国とこの町のお偉いさんも、何人かは買収などされていたかもしれない。眠る資源、そして水源が目的だったか……。また、上がしぶしぶ合意しなければならない理由も隠されていたかもしれない。機密とかって言う奴は、我々下々、一般市民には明かされるわけもなく知る由もない。さっきまでここにいた若い刑事連中も、ぼやいていたよ。命令で動くが、突然に今度は命令で、これ以上は探らなくていいと言われるんだからね。任務に忠実に動くことが正義なのか? それとも納得できないなら、徹底的に調べ上げることが正義なのかと思うとね」
 ピーターとダニエルが、同時にふと顔を向けた窓の景色の中に、シューガーウォーター駅の上空を虹が囲っていた。
「きれいな虹よね」
 ルイーズが、子供のようにはしゃいで両開きの窓を全開にした。弱まった湿気を帯びた風が心地よい。
「本当にね。きれいな虹だわ……」
 未来は、大蛇が、また虹蛇となって美しく蘇ったと解釈した。

ピーター・マクベス

 ピーター・マクベスも、その昔警察に入ったばかりの頃は、正義感に燃えていた血気盛んな青年だった。
 ある事件をきっかけに、彼は一生警察官であることが苦しくなってしまったのだ。最初から出世が約束されているキャリアの上司には、心を割って相談をすることなどできなかった。
 それは、ピーターが刑事の仕事に入って二年目のことだ。先輩刑事について、マフィアに関係する覚醒剤の密輸事件を追っていた。
 国際空港が拡大されて、ちょうど、日本や中国、香港、シンガポールなどの空路が増え観光客も移民も増大していた時代だった。その後は、観光バブルも落ち着いてしまった。今に至っては、中国や韓国系のインバウンドバブルは続いているが、全体にリピーターが少なくなり、日本人観光客などは、衰退してしまった。そこで、最近は中国資本が入り、カジノや他の観光施設が造られるという計画が次々と出されている。
 この土地が観光ブームの時代――。ここは空からも海からも双方の輸送経路があり、水際で薬物や覚醒剤などを確実に阻止するのは、かなり難しいものがあった。人口は、十五万にも満たないこの町だが、観光客や一時滞在者が多いので、どういうところで取引されているかを調べるには簡単ではない。
 その日は、トリニティビーチの隠れ家的なプールバーで、アイスという覚醒剤が売られるという情報を、ピーター達刑事等が掴んでいた。その朝に香港経由で着いた密売人が、麻薬探知犬で引っかかり逮捕されたのだ。密売人の自白により、その夜の売買が分かったのだ。海からも密輸されているため、そいつが今夜ではなく、数日後、コカインが別の場所で行われるというもっと大きな取引を隠すために、先にそれをしゃべってしまった。そちらに注意を引くためだ。
 この日、ピーター達でおとり捜査が行われる予定だったのに、上からなぜかドタキャンにされた。この密売人の取調べの方だけを重視して、この日はなにもしないという警察署長からの命令だと、ピーターと同僚のハリスに上司から伝えられた。
 せっかく今日は、現行犯逮捕できるというチャンスたったのにと、まだ若かった刑事達は、目先にとらわれ諦めきれなかった。
 ピーターと同僚で同期のハリスは、売買が行われるという夜八時に、トリニティビーチに向かった。上司には報告せずに、単独の行動だ。今日のプールバーで、売る奴と買う奴を逮捕できれば、拘束されている密売人との関係も、闇社会も分かりやすくなり、追い詰めることができると確信していた。しかし、実際は、数日後のコカイン取引の男と組織の方が本命であった。
 多少の謹慎や始末書は覚悟の上だ。それよりも、悪の組織は絶たなければ、青少年の犯罪だって減らすことはできない。とにかく、ピーターとハリスは正義感の塊だったのだ。
 トリニティビーチ沿いに自分の車を走らせていると、街灯もない道外れの暗闇の中、静かに「ザーザー……」という波の音を聞く。いつも聞いている音なのに、今夜はなんとも感傷的なリズムに聞こえる。と、ピーターは後に記憶している。
 窓を少し開ければ、磯の香りと共に、潮風が心地よい。
 ピーターは、子供の頃に、ここのトリニティ―ビーチの小学校に通った。夏休みの宿題は、そのテーマがただひとつ……「海」だった。目の前の美しい海、それについてどんなことでもいいから、調べて自由研究すること。ある子供は、この海にやってくる魚達について調べて絵に描いた。また、父親が持っているヨットで小旅行に行き、海の様子を絵日記にした子もいた。帆船の模型を作って浮かばせてみたり、スイミングの区域で、自分が泳げるようになるまで記録をつけたピーターの友達もいた。
「このビーチがあったから……」ピーターは、思わずそう呟いた。
  
 トリニティーとは、キリスト教では、三位一体を示す。それなのになんの因果か、トリニティー実験とは、世界で始めての核実験が行われた名前だ。千九百四十五年七月十六日にアメリカで実施されている。この計画はニューメキシコ州のロスアラモス研究所で最高機密で行われた。人間が手を出してはいけない危険な宝物……トリウム、ウランなど地球の資源から作られた核兵器、その幕開けだった。自然の中や化学物質などから作る麻薬や覚せい剤……間違った薬も然りだ。これらは、人類の驕りである。
 そして、悪魔の日――、その数週間後、千九百四十五年八月六日に、日本の広島に初の原爆が落とされたのだ。

 漆黒の闇の中に、眩いばかりの満月。波打ち際から、光る波の階段がその満月に向かっているようだ。満月への階段だ。雲は静かに動き去り、星が階段を、照らし出している。真実への階段……。
 大空は混沌と無限だ。正義とは、そういう自然の中での秩序だ。法律はそのためにある。
 そう信じて疑わないピーターと同僚のハリスは、海岸沿いの風情がある庭の門を開け、古民家のような洒落た造りのプールバーへ、突入した。
「警察だ。このまま動くな! 静かにしろ」
 ちょうど、密売人らしき人物が入っていった直後のことだった。
「ちっ! ポリスだ」
 頼まれただけの売り屋だったのか、あっさりとそいつをハリスが捕まえた。なにも凶器など持ってはいなかったようだ。ハリスがその手に手錠をかけようとした瞬間に、「パーン!」と、乾いた鈍い音がした。ハリスはその場に崩れ落ちた。その左手は、頭を押さえていた。
「なにをした!」
 ピーターの視線の先には、ビリヤード台の前に、両手で銃を構えたまま震えて立っている若い青年が見えた。彼もそこに崩れ落ちるように倒れた。
 そこにいた大方の連中は、ハリスが撃たれたことと、警察だということに恐れおののき、外へと逃げて行ってしまった。その青年は、しゃがんで顔を下に突っ伏していた。どう見ても正気ではない。アイスの常習者であって、その幻覚や幻聴がまだ完全に消えてはいないようだ。おかしなことを口にしながら下にしゃがんでいる。
 ピーターは、ビリヤード台の下に落ちていた拳銃を拾い、急いでハリスに駆け寄り、彼を抱き起こした。ハリスは、薄れていく意識の中でなにかを話そうとしたが、それは無理だった。頭を撃ちぬかれた彼はそのまま目を閉じて、静かに息を引き取った。
「うそだろう? ハリス」
 パトカーが到着したとき、まだピーターはその床で、ハリスを抱いていた。片手に固く握り締めていた拳銃で、まだしゃがんだまま下を向いてぶつぶつと言っている撃った犯人を撃ち殺してやろうと、憎しみの気持ちも浮かんでいたが、必死に抑えていた。早くに別の警官が到着してよかったと、今になってはつくづく思う。彼は、一触即発の気持ちを、刑事だという理性でなんとか抑えていたのだ。
 ピーターは、一生涯忘れられない心の傷を負い、ずっと後悔の念に苛まされてきた。あのとき、勝手な行動をしたために、ハリスは死んだ。あんな事で――。
 その後、色々なことが露見する。ハリスを拳銃で撃った青年の父親が、地元の警察幹部の人間だった。手のつけられない不良息子が、家を出て仲間のところで暮らしているため、その日にプールバーに、彼が買いに現れるというたれこみがあったが、薬中毒の息子を家族が阻止することができなかったのだ。彼は禁断症状が出ていたので、なんとしても薬が欲しかったのだ。それほど、頭は完全にいかれていた。
 その不良息子の使った拳銃は、実家で父親が護身用に買ってあったものだった。それはグロック17c――よくこいつが使えたものだと、ピーターはそのときに思った。
 シャルル・ミラーが殺されたのも、グロックの拳銃だった。だから、ピーターは、この事件もいたたまれない気持ちが強くしたのだ。
 警察組織内では、この事件は問題になり、ある程度の者は知っていた。しかし、往々にして世間一般であるように、権力者によりこの警察の不始末の事件はもみ消されてしまう。不良息子は、身柄は拘束されたものの、保釈金であっさりと出され、精神病院へと入ってしまった。まだ未熟である者の可塑性だと……。父親は、なにも罰せられなかった。それどころか、マスコミにも圧力が掛かり、名前さえもニュースに出ることはなかった。
 ピーターは納得などできるはずもなく、上司に強く抗議した。よく首を切られなかったものだ。
 いつの世も、権力者には、下っ端は勝てない。いつかは絶対に正義を貫いてみせると誓いながら、職場に留まったわけは、二つある。ひとつは、防犯課の方に部署が変わったこと。そして、結婚したことだった。相手は、ハリスの妹で、今もピーターのよきパートナーとして、カフェバジルのケーキなどスイーツを作ってくれている。
 その彼女の一言が、ピーターの心を落ち着かせたのだ。
「兄はね、天国のハリスは、あなたにまだ警察にいてもらいたいと思ってるわ。ハリスの分も頑張ってほしい」
 もう一度……もう少しだけ頑張ってみようと、とうとう二十年が経ってしまった。ときは過ぎて、その事件の上司も警察幹部も次々と人が変わり、ピーターも辞めた。そして、小さなカフェをこの土地で始めた。今では、そのカフェバジルは、若手刑事達の憩いと相談の場のようになってしまった。それは、警察で語り継がれる刑事だった頃のピーターの武勇伝と、鋭い勘と洞察力、彼の人柄によるものだ。
 現在……今が、ピーターにとって一番心が平穏で幸せなときである。
 一体、ピーターが貫こうとした正義とは、なんだろう?
 ハリスは、正当なことをしただけなのに、組織の中で無念の死を遂げ、シャルルは、組織から出て自由になりたかっただけなのに、外のスパイに殺された。 
 ジョン・スチュアート・ミルの千八百五十九年の著書「自由論」は、人間は、他人に危害をおよぼさないかぎり、自分の望むいかなる行動をしようとも自由であるべきだと説いている。他の人に危害を加えないかぎり、自分の心も体も主張していい。自由は、社会に利益を与え、服従は損失だと……。
 だからと言って、人間が思うままの欲求を通そうとしたら、秩序などなくなってしまう。道徳的習慣、有力者の意見や国の法も、それに忠実に従うことを人に強制することは、ときに誤りであり、服従は人の能力を発展させる上で、最善の生き方の敵だと……。
 ピーターは、あらゆる哲学書や、道徳や正義に関する本を読んだ。
 いや、こんなことを論議する以前、文明が始まる前、人はそんなことは考えもせずに自分の意思のままに動き、残酷なまでに生物と同じに自然淘汰されながら生きてきたはずだ。
 大自然には、古い慣習も道徳やおしつけの教育もない。人も、自分の内的な良心に従い、流れの運命に逆らわず、生かされているのだと……ただ一生懸命に生きるのだとピーターは悟り、今は毎日が在ることの大切さ、存在することの意味を感じている。
 だれでも……未来に言わせれば生物さえも、愛を持って、大切なだれかを心に持ち続けている。

忘れられていたラッキー・ベンジャミン・ミカエル

 未来と空とダニエルが、その夜にグランデタウンハウスに帰った頃には、すっかり嵐は過ぎ去っていた。小雨模様も上がる気配だ。
「なんていう一日だったのかしらね。なんだかニ、三日は過ぎたような気がしちゃうわ」
 食事を作る気力もなく、ケランダ駅近くでかろうじてやっていたピザショップからテイクアウトしたビザに、あり合わせのスープを作って遅い夕食を終えたところだ。
「でも、人にもなにも被害が出なくてよかったよ」
「空、そのためにおふくろさんを呼んだんだろう?」
「まあね。この人、自分でも分かってないみたいだけど、なんとなく自然や動物なんかとコンタクトしちゃうという不思議な能力があるからね。伝説の大蛇も説得できるかもと思った。なーんてね! 変な人だよ」
「人を奇人変人にしないでよ。あたしは、そんな大それた仙人みたいじゃないわよ。みんなもっと自然体であれば、だれでも感じるものだと思うけどね」
「そうですよね。予感とか、直感はだれでもが持っていて、それに鈍感か敏感かの違いだと思う。大昔は、むしろそれが当たり前で、今日は行かない方がいいとか悪いとかって決めてたわけだし、動物はしゃべらない分、その能力はあるのが当たり前です」
「フフッ……あら、ダニエル、あたしは動物に近いかしら?」
「気の向くままというようなところはあるよねぇ。昔からすっと方向転換したりするんだけど、なんとなくうまく行くという運が強い人だなー」
(わたしも、基本的には気の向くままなんですが……)と、パールが前足で空の足を触り、トイレの催促をした。
「ちょっと遅いけど、三人だから少し散歩に行きますか」
「傘を持っていってね。そうすれば、雨だけじゃなく、これ武器にも防御にもなるから」
 空の母親も心配症だ。
 未来は、ビニール傘を持った。空も黒いコウモリ傘を手に取った。
「こっちは一本でいいよな」
「もしもの時、それが役立つのは、空だけだよ。おまえ、まだ剣道をやってるの?」
「そう言えば、長いこと道場に行ってない」
(空は、精神も強くなりたいと思ってるんですよね)と、パールが早く外に出ようとリードを引っ張りながら、空の顔を見上げていた。
「パールは、ここでは空がご主人だと認識しているみたいねぇ」
「子分だろ?」
「頼りにならない子分なんだけど、癒しの力はある。疲れて帰ってきても元気がでるよ」
(最後までお付き合いしますから、よろしく願いますよ)パールは、空の顔を見上げて、次に未来の顔を見た。
 空は、タウンハウスの前の道路を渡るときに、向こう側の歩道を夜中に歩いていた隣人だったシャルル・ミラーを思い出していた。 
 彼は、いつも夜中に帰宅する奥さんを待っていた。本当は根っからの悪党ではなかったかもしれないのに、なぜパールは吠えたのだろうかと考えていた。
「あっ、本当に久し振り! ほら、ここに住むターキー、ラッキー三代目だって!」
 あの大きなターキーが目の前のアパートの庭から走り出てきて、ファンシー教会の方向に向かっていた。また、パールが追いかけて吠えようとしたので、空がリードを引っ張った。パールは、勇み立ち前足を上げていた。
 それは、未来がここに来て初めて見るラッキー・ベンジャミン・ミカエルだった。
「あー、あれね。あのターキーは、ラッキーじゃないわ。堕天使よ。アゼルは、元は砂漠の神さまだったらしいけれど、人間を監視する役割を裏切っちゃって、人間を妻にしたものだから、穴に落とされた」
「だからか、教会の地下に向かう階段を下りて行くんだよ」
「悪さはできないけれどね。人目を避けて、一生地下の生活だわ」
「あいつに、パールは吠えていたのか!」
「一生、人目を避けて地下の生活か……。あのシャルルもその方がよかったのかな? ところで、ワイルダー氏、どこかへ逃げて消えちゃったんだよね。彼も研究者として表社会ではなく、地下で一生を暮らすのかねぇ。どうしてそういう世界に踏み込んじゃったんだろうか? 少し同情はするね」
「ダニエル、いかなる理由があれど、自分がしっかりとしてないとこういう事になる。自業自得だよ」
「空、あのブランコでしょう? 例の封筒があったの。今も揺れてるじゃない。アゼルが通ったからね」
 未来の指差す先は、お隣のファンシー教会の裏、児童公園の隙間だらけの木塀の中だった。いつの間にか、そこには街灯がもうひとつ取り付けられていた。少し明るい。
「そうだよ! 未来、あのターキーから訊いてみてよ。どうやら、バジルのスタッフがメモのゴミだと思って捨てちゃったらしいあの怪文書だけど、ここに置いてあったんだ」
 未来はしばし、その場に立ち竦んでじっとそのターキーの方向を見ていた。
 そいつは、子供の遊具である大きなタイヤの輪の中に出たり入ったり、体は隠しているが、その赤い顔を横に向けてこちらを伺っていた。
「うん。そうね……たぶん。分かった」
「なんだよー。またおふくろの、変な世界に入っちゃったー」
「なに言ってるの。今あんたが訊け! って言ったんじゃない」
「試しにだよ……。冗談だって」
「空、そう言いながらもしも! って思ってんだろ?」
「まあね。試してるかもしれないけど……」
「あのね。あの怪文書は、実はワイルダー氏が書いたのよ。彼は、シャルル・ミラーと付き合ううちに、裏社会を知ってしまったのね。シャルルが殺されたことで、彼は自分も消されるかもしれないという危惧を抱いた。315のジャックという開発会社の組織には、シャルルも仕事上で繋がりがあって、中国とのスパイとも接触があったからカルロスがいずれブライアンに始末されて、ブライアンも裏切られるだろうということは、シャルルから聞いてある程度のことは予測できたんじゃない? 315で聞いてきたその殺し方の策略を、シャルルは親しくなってしまった……ワイルダー氏に話してしまった。また、話すことを条件に、他国の機密の生物兵器についての情報を聞き出すとか……。でも、闇社会が恐ろしいのは、ここね。そのシャルルが一番先に殺されてしまった。それで、あの怪文書には、最初の第一のときに、シャルルの名前がなかったのよ」
「ブライアンとも、会ったことがあるのかもしれないね。ふたつの列車のトリックまで知るとは、ブライアンが得意気に話したかもしれない。あいつならやりそうだ。でも、ブライアンの死に方まで、バルーンフォールだって……シャルルから聞いていたとはね。言えなかったんだろうね。自分もだれかに命を狙われる恐れがあったから」
「空、あなたなら分かるでしょう? ワイルダー氏は、実は、彼こそラッキー三代目なのよ。アゼルと戦うよりも、協力してやっていかなければ、もうこの世の中はだめになる……もうぼろぼろにこの世界は病んでる」
「ダニエル、これだぜー。人間が、ターキーの化身なわけないでしょ!」
「空。彼はなにかを我々に伝えたかったのかもしれない。そのワイルダーとラッキーが同一ならね。心配したのは、万が一、聞いていたストーリーのように次々とカルロスとブライアンがこうなってしまった場合、その後のレインボーランドの売却による自然資源の略奪と悪用を、彼が科学者であるならば一番心配したことでしょう。第三のときのブダ・ジと炎の森は、あてずっぽうであったかもしれないけれど、もし、売却がうまくいかなければ、もしくは金も、資源も手に入らなければ、証拠隠滅でその辺りを燃してしまうかもしれないと、そう想像して、分かっていたんでしょうね。もしくは、燃して二束三文にして、強引にそれで手に入れる方向にする……などとあらゆる事を想定していた。裏社会に足を突っ込んでしまったワイルダーですが、やはり、彼も研究者ですからね」
「ワイルダー氏は、逃げきれるのかな?」
「空、彼はまだやらなければならないことがあると思うわ」
「そうだよね。脅されてやっていた生物兵器などではなく、それが不本意だったんなら、ウイルスや細菌の研究とワクチンや血清、その耐性についての勉強とまだまだやることがある。やりたいだろうねぇ。一度は国に選ばれたことがある研究者だからね」
 ダニエルの言うことに、空はただ頷くしかなかった。
「ワイルダー氏は、いい奴だったのか? それとも悪い奴なのか、分からなくなる」
「一歩間違えば、表と裏は紙一重よね」
「そうですね。なにが真実なのかは見えにくい社会になってきてるかもしれません。人間の動物である基本的な感覚というか、気配りなどは能力が低下するばかりですよね。そんな我々が不可思議に思える動物の感覚行動も、科学から見ると理解できます。蝙蝠のエコローケーションからヒントを得て、超音波検査のエコーや、各種探知機を作りました。爬虫類からは、赤外線のサーモグラフィーを発明しています。鋭敏な動物の感覚は、非常に優れている。それを人は自分達がすごいと勘違いして、文明が発達した今、驕り、付け上がっています……まったく愚か者です」
「そうよねぇ。この世界に生かされていることを感謝していかないと」と、未来はパールのリードを緩めてゆっくりと歩いた。
 三人と一匹は、なんとなくファンシー教会の正面玄関まで歩いていた。ターキーのアゼルは、もうその姿はない。どうやら、横の地下に向かう階段を下りていったらしい。
 パールが、それにはおかまいなしに、木製看板の下に片足を上げておしっこをした。
 ファンシー教会の正面玄関の上にある紋章が、未来の目に入った。
「ふーん。なるほど、前に住んでいたところ……ダドリーストリートの教会の紋章と同じみたいねぇ」
「急に思い出したけど、ほら、そもそもこの事件の中心の宝物、金塊、つまり隠されているゴールドはどうなっちゃったんだろう?」
「それね、だいじょーぶよ。昨夜の夢に現れた本物のラッキー・ベンジャミン・ミカエルから聞いた話だとね。地球以外のところで作られた鉱物で、非常に硬くて、温度三千度以上に耐えられるもので囲ってあるらしいから」
 すでに帰ろうと歩き出していた空が、そっとダニエルに耳打ちした。
「ここが、おふくろのちょっとアホなとこ……金は溶けても燃えないんじゃない? 無くならない」
「いいさ。未来は未来さんだから……」
 その背後から、ファンシー教会の紋章のスマイルマークが静かに、見守るようにじっと見つめているのを、パールが見逃さなかった。

ワイルダー氏のその後

 この国の研究者としてのジョージ・ワイルダーのその後を、知るものはいない。
 そもそも、彼は、そう簡単にはその正体が分かってはいけない身なのだ。ワイルダー氏の家系には、そういう血族というものが歴史とともにある。
 彼の故郷は、ヨーロッパの戦時下では、殺されたシャルルと同じように危ないとされる国々に挟まれていた帝国である。すでに彼の国は、ある独裁者のいる国に、その昔は侵略されていた。当時は、力のある国が他国を植民地支配することは、合法と見なされていたし、侵略されても従うより仕方がなかった。
 そして、代々が医者としての家に生まれたジョージは、子供の頃は、長男である自分がこの家の仕事を継ぐということになんの疑いも持たなかった。何不自由なく育った。政情は不安定であったが、この帝国は、隣国のシャルルやレイネの小さな国のように貧しくはなかったからだ。国が揺さぶられたときも、十分とは言えなくても、小さい時から生活には困らずに、ジョージは勉強に励むことができた。
 ジョージの父は、大きな町の中心で、小さな個人病院を営んでいた。表向きは、町で唯一の信頼ができる医者として、民衆の人望も厚かった。
 金髪で青い目……ジョージの父は典型的なヨーロッパ人であったが、ジョージの母は、黒い目と黒い髪で、浅黒い肌をしていた。それで、黒い髪のジョージもインド系の血が混ざっているのだろうかと疑われることもあった。
 ジョージがそもそも、こんな裏組織に入るようになったきっかけは、この父方の祖父に関係する。
 ジョージのおじいさんのマーティンも、医師であった。しかし、時代は第二次世界大戦に突入しようとしていたときであり、すでに侵略されていた国の黒幕の命令により、自分の病院を閉じてまである任務に就かなければならなかった。それは、この時代に想像できるように、医学に携わる者の恐ろしい任務であった。 
 その後の戦時下では、ホロコーストなどに代表される人を人と思わない迫害と、大量虐殺が起こるのだが、彼の国では、すでにそのようなことがこのときに、行われていたのである。
 この国は、囚人や、回復の見込みのない人間などを人体実験にして、医学の進歩に当てはめていたのだ。それに、マーティンも関わっていた。 
 非常に間違っている、意味の違う「ダーウィンの種の起源」をとらえた、強いものだけが残るという自然界の摂理があがめられた時代だ。遺伝的に優秀なものだけをこの世に残すという優生学が、医師の間で世界中に広まっていた。だからといって、人をまるで下等動物以下のように扱い、残酷なことをしていいはずなどあるわけがない。
 医学の研究者は人の生き死にに向き合っていくと麻痺していき、助けたいという気持ちの裏に、だから……そのためには、新しい薬を、新しい技術を、ワクチンを抗生剤の研究をと、その欲は拭いきれなくなる。
 医学的人体実験は、国のため、人類の未来のためだと、マーティンは上から聞かされていた。そして、給料は公務員としてかなり良かったのだ。そのうち、戦争に突入して、もっと人の命がぞんざいに扱われていく。マーティンは、それでもまだ、良心の呵責は残っていたと思う。
「戦争が終われば、これらはいいことに使われるはずだ。そのために致し方ないのだ」と、マーティンは自分に言い聞かせていた。鬼になった。
 マーティンは、サルファ剤や、抗菌剤の有効性について調べ続けていた。だれが、連鎖球菌や破傷風菌などのバクテリアを囚人に注入し、感染させたのかは、マーティンは知らなかった。しかし、これは今後増えるだろう負傷した兵士をひとりでも助けるためだと言われた。マーティンは、囚人をモルモットと同じに見るように努めて、感情を抹殺した。
 ウイルスの研究では、チフスなどのワクチンの開発に、今までにないより強い免疫力を、追及しなくてはならなかった。人為的に感染された人が、マーティンの元へ運ばれてきた。そのときに、一緒に働いていたドイツ人の医師は自殺してしまった。こんなことに携わっていては、いくら逆らえない命令とはいえ、頭の方もおかしくならない方がないだろう。だれかがやらなければならないと、マーティンは、任務には逆らえなかった。
 一方、マーティンは、実験に連れてこられた女性囚人などに、手を抜いてもらうよう……解放してもらうようにと上に陳情したり、黙って囚人のいる収容所に、パンや栄養のあるスープなどを持って行ったりした。実験後も、マーティンの薬で、早く回復ができるようにと願った。少しでも苦しみから救われるように、終末期の人間にはモルヒネを使った。
 人間は洗脳されると、こうも残酷になれるのかと、その後第二次世界大戦での残虐な数々の世界の背景に、正常ではない自分がいた。心を閉ざし、毎晩苦しみぬいていたマーティンは、すばらしい研究成果を、ペニシリン系に代表される抗菌剤や抗生物質であげた。
 戦争が終結して、表向きは平和条約が締結されて、医療実験施設は解体した。晩年に入っていたマーティンは、精神的に完全にまい
ってしまっていたのだろう。痴呆症になっていた。実験施設でばかり生活していて、家に帰ることも少なかったので、妻の顔も分からなくなっていた。そのうち完全に廃人のようになって、六十になる前に亡くなってしまった。
 ジョージは、祖父、そして父親が医者であり、自分も父親の病院を継ぐのになんの疑いも持たずに勉強してきたが、思春期に、ふとしたことから、父親に反発を持つようになる。それは、成長するにつれて、父親への欺瞞に満ちた行動が嫌でたまらなくなり、家で口も利かなくなった。
 表向きは、「良い医者だ!」と言われて、評判のいい医院であったが、父親はなんでも適当過ぎた。患者には常にやさしく接していたが、夕食時、家族の前では、「あの患者はもうだめだ。ここでは厄介だから、早く明日隣町の病院にやらないと……」とか、「この人にどれくらいの薬を出せるか? 高額なものでも大丈夫か?」などと、母に尋ねたりしていた。
「なにかがおかしい! 人を病気から救うのが医師ではないのか?
そのために、すばらしい薬品を開発する! 人としてそんな職業に就いたなら、もっと父は高尚にならなくてはならない。尊敬できない」と、ジョージは大学院に残り研究部門に入っていく。そのうち、この家を出て、姿をくらましてしまった。ジョージは、祖父と同じように、国というわけではないが、裏組織からお金を出してもらう研究者となった。二十一世紀の時代は、バイオテロなどの恐怖にさらされていく。炭疽菌よりもまだ未開発の未知の細菌やウイルスを研究し、予防できるワクチンも同時に開発することは重要である。  
 特に、動物を介して変化していくウイルスの研究に、ジョージは没頭していた。それは、知れば知るほどとても興味深く、やりがいがあった。同時に、生活には不自由することはなかった。しかし、ジョージは結婚も……家族も持つことは望まなくなっていた。
 ジョージには、祖父マーティンの血が流れていたのかもしれない。そして、もうひとつ……迫害に常に戦ってきたジプシーの血が流れていた。 
 ジョージの母方の祖母は、ロマと呼ばれるヨーロッパでも少数民族のジプシーだったのだ。ロマの最初は、西暦千年にインドから来た。その先祖は、大昔からずっと迫害を受けてきた。決まった土地を持たず、歌い踊り、それを生業として生きてきた流浪の民族。日陰で生きる相当な忍耐強さは、血筋でジョージにも受け継がれている。
 ジョージのこの母方の祖父が、実は隣国の軍に直属、内通する民間人にまぎれたスパイとして活躍していたことがある。家に帰ることは少なかったと、母からジョージは聞いていた。また、その祖母は、ロマであった自分の、人から卑しいと言われる身の上から、世間から隠れるように静かに住んでいたという。
 そして、ジョージの祖母は、ジョージの母以外に、あのレイネ・モーレンの父を密かに出産していた。健康で強い立派な男の子だった。その男の子は、その大国で、ある軍人の家で育てると、養子に取られてしまった。
 その後、男の子は立派に育ったが、育ての親に馴染めず背いて、十八の時に、その家を出てしまう。そして、レイネの母親と出会い、恋愛してモーレン家に入ってしまうのだ。 
 折しも、大国で大革命が起きていて、騒乱の中レイネの祖母は、娘夫婦を連れて隣国へ移住していった。すでに祖父はもうこの世にいなかった。
 なんとも不思議なつながりである。ジョージの祖母が産んだ男の子の相手の父親は、本当のところは分からなかった。スパイであった祖父……夫だと思うが、もしかすれば違ったかもしれない。しかしながら、男の子はジョージの祖父にも、母にもどことなく似ているような子供だったらしい。ジョージの母と、レイネの父は兄弟ということになる。したがって、ジョージとレイネはいとこ同士なのである。
 レイネとともに暮らしていたシャルルは、それをどこかで知ったかもしれない。国のシークレットサービスやスパイとして、諜報活動にも精通し、ミッションにも有能であったシャルルが、その勘の良さで気づき、調べないわけはなかっただろう。だが、やさしくて自分に愛情を注いで支えてくれるレイネが、同業とは思わなかった。いや、考えたくもなかったし、レイネはいつも家に居て、夜に病院のクリ―ナーとして稼ぎに出かける以外はどこにも行かなかった。信じていた。疑いたくはなかった。それでも、時折、言いようのない不安でおしつぶされそうになる夜もあった。夜に、どこかへ連絡をしに行っているのではないかと疑った、しかし、シャルルはレイネから、ジョージがなにがしかの裏の組織に通じていると聞いていたので、彼の方が同業ではないかと思っていた。
 光と闇――シャルルは、夜の散歩に出るとき、その暗闇の中にこそ真実が光ると、そう感じることができた。
 表の光の中で生きるもの、裏の闇の中――日陰で生きるものと、どちらも一生懸命に生きている。この世に生まれて、どこかで道が分かれていっただけだ。シャルルは、レイネと出会ったのが運命とするならば、愛……という気持ちだけは本物……いつの世も普遍的であると信じた。
 シャルルは、レイネのいとこのジョージが、自分の居たカバイロ共和国を脅かしていた帝国の出身であることも分かっていた。けれども、それよりももっと驚異の強大国も裏に控えていたから、自分が、この帝国の隠した重要人物で、医者でもあり、物理学にもたけて、移住したこの国でも研究者として代表に選ばれるだけのジョージ・ワイルダーと深く接触しても、問題になることはないと信じていた。むしろ、強大国に対抗するためにも、カバイロ共和国――母国のためになるのではないかとさえ思っていた。
 事実は違った。
 ジョージは、そもそも故郷を懐かしむ愛国心なるものなど持っていない。しかし、彼の身体には、ジプシー――ロマの血は流れている。ジョージにはその方がずっと大切である。そのことに対するプライドのようなものではなく、それは彼自身の身をも実験にする……現在、希少価値となった伝統民族のロマの血である。
 大自然の中から、その環境、動物達などから怪しい病原菌やウイルスが生まれ、伝染していき。人間にも対応できるように変化し続け、感染し、パンデミックと発展する。より自然に近い所で生活してきた原住民などは、アルコールに酔うのに早いという性質があるように、ある薬などには非常に良く効く。しかしながら、その逆もある。ワクチンや血清を体に入れても、自然に近いものであればあるほど、彼らは、よりそれらを受け入れ、もっと強いものに変化させてしまうこともあるかもしれない。または、作られたワクチンには、拒絶反応が強い――副作用があるかもしれない。
「わたしは、医学を学び、生物学も勉強し、この地球上の生物を救うために、免疫血清、ワクチンを開発する偉大な科学者なのだ」
 ジョージは、神をも恐れぬ傲慢不遜な男になっていた。スパイとして教育されてきたいとこのレイネに同情したのではない。それで、彼女を逃がしたわけではない。
 将来的に、途絶えてしまうかもしれない薄れていくロマの血を、ジョージは残したかった。組織から、レイネに手が伸びないように、シャルルにうつつを抜かし、レイネが裏切者と殺されないようにとしただけだ。
 ジョージは、メルボルンの開発会社――貿易会社のクラウンと同列キングの所属で重要な研究者であった。薬品の手配も、研究費もバックアップは完全であり、彼はただ未知のウイルスから、ワクチンや新しい血清を研究開発していればよかった。それが、ジョージの努めと夢であり、やりがいのある定めである。
 レイネの夫で、親戚のような顔で親しく接近してきたシャルルを、ジョージは裏切った。ほこ先を――組織の目をシャルルに向けるのだ。
 ところが、次にカルロスなどという男が、昔のおとぎ話を引っ提げてここにやって来たのには、ジョージも想像がつかなかった。もちろん、ブライアンは知っていた。どうせ、利用されるだけの男だと分かっていた。ジョージは、メルボルンの本部からの指令だったから、こんな男はどうでもよかったのだが、315に出入りするうちに自分の素性やキングの所属と分かるのは不愉快だった。何のために、彼を利用するのか、そしてその後、どう処分をつけるのかを、ジョージは親しい本部の黒幕に訊いていた。
 ジョージは、裏街道でも、偉大な科学者なのだ。そう自負している。自分が殺されてしまうなど、この世の損失なのだ。レイネも生きて、希少なロマの血を残さなければならない。
 しかし、そう正しいと思いこんでも、表街道で光り輝くことはない……そして、それが恐ろしいほどに孤独な人生だと、ジョージはまだちゃんと気づいてはいない。しかし、何処かへ……ジョージは逃げた。

結び

 その後の数日間は、天気も穏やかで、空とダニエルは少しゆっくりとタウンハウスで過ごした。
 そしてダニエルは、そろそろ大学に帰らなければならないので研究が気になり、実家へ勉強をしに帰って行った。
 未来は、久し振りの友人の家へ出かけたりと忙しくしていた。まだしばらくは、ここにいるらしい。空も明日、ダニエルを空港に送
ったら図書館の仕事に戻る。
 最後に残っていた調べもの、ダニエルがレインボーランドの湖付近で拾った薬莢の結果が出たと、空にピーターから連絡が入った。
 アフタヌーンティーの時間に、空が迎えにいったダニエルと、家から散歩で歩いてきた未来とパールでカフェバジルで落ち合った。学校が始まっているので、ウィリアムはまだいなかったが、ルイーズが入り口すぐのカウンターにいた。
「おっ、めずらしいじゃん。ルイーズも作るんだ」
「なによ、それ! わたしだって、コーヒーマシンぐらい使えるわよ」
「アートはハートだよ……おいしいカプチーノを頼むよ!」
 ダニエルとルイーズのやり取りは相変わらずだ。
「ハートの絵を描いて……ってか!」と、言う空に、
「ひびが入ったのにするわ……難しいのよ」とルイーズが答えた。
 未来は、パールを抱いて、ピーターの座っているテラスの方の席にすでに向かっている。「おふくろは、ラテ! だよね」と、空が後ろから声を大きくした。
「ドッコイ!」
 未来は、空が小さい頃に口ぐせだった言葉が懐かしくて、つい口から出た。すっかりといい天気になった今日この頃で、テラスには、サンタンカの花が色とりどりに咲いている。
「まぁ! きれいですね。赤にピンクに白、外には黄色の花もありました。これっていろんな色があって、上手ににきれいに咲きますよね。扱いやすいし」
「そうですねぇ。家内が鉢植えを買ってきましてね。この花の気丈な感じと、一年中明るく咲くのが好きみたいで」
「人のお庭でも、よく見かけますが、みんな同じようでもちょっと違うでしょう? ひとつひとつの小さな花がこぢんまりとしていたり、花びらが大きくて花火のようにぱーっとしていたり、色も少しずつ違いますね。色々違っていても、それぞれ太陽に向かって明るく顔を上げている感じです。人もそう生きられるといいのに……」
「まったく。どこで間違ってしまうのか、影の方向に行ってしまうと、ずっとその世界で生きていくことになりますからね」
 空とダニエルが、テラスに出るガラスのドアを開けて入ってきた。
「ピーター、鑑識から薬莢の結果が出たんですか?」
「そう、今日、刑事が来てくれて教えてくれたよ。あれはどうも、シャルルの拳銃でグロックの薬莢だったらしい。底の撃針痕からと、念のためシャルルの自殺した銃を、それと同じイーグル社の弾で試射してみて分かった。ブライアンが殺された銃と同じではない。つまり、シャルルがブライアンに拳銃の撃ち方を教えたことがあるのだろう。一ヶ月前にブライアンが、あのホテルのスタッフに目撃されている。あの場所は、山の上の草原で、積乱雲が出やすいから、雨がふっていたり、雷の発生する日などは音が目立たないだろう。牧場の向こう側は人里もない」
「なるほどね。でも、なぜブライアンは、シャルルに銃の撃ち方を教わっていたのでしょうか?」
「ダニエル、それは、きっといつかは自分も危ない目に合う可能性があるかもしれないと予感していたのかもね。ブライアンは、シャルルがK18という秘密組織とか、スパイだとかは知らなかったかもしれないけど、裏組織と関係している同じ315に出入りしているものだから、まず普通の人間ではないと思っていたでしょうからね」
 未来はパールの頭を撫でた。それは、(そうですね)と合意を求めてるとパールは理解している。
「315のジャックが、中国マフィアと通じているとかは知っていたでしょうし、護身用にブライアンは銃が欲しかったんでしょう。買おうとしていたでしょうね。まさか、315には言えないから、シャルルの方のルートで手に入れられると考えた。そのシャルルが死んだので、恐怖に陥ったのでしょう。カルロスを言われたとおりに殺さないと自分が危ないと思った」
 そこで、カプチーノが二つ、カフェ・ラテが二つ、ピータ―とダニエル、未来と空に運ばれてきた。ルイーズは、「ほら、上手に淹れたでしょう」と言って、ウインクしてすぐに引き返した。
 カプチーノは、二重のハートが描かれていた。ダニエルのは大きなハートの中に、チョコソースで文字がなにやら描かれていたが、O(オー)とV(ヴイ)の文字だけで、あとは溶けかかって読めない。
「おい、LOVEかな?」
 空が、にやっと笑った。
「空、違う。いや、OVO……!マークと、略だろ。あいつは、こんな言葉だけで、おれをまだ研究者の卵だと言うんだろうよ」
 まったく憎めないが、性懲りもないふたりだ。
(人間て、なんて面倒くさいんでしょう)パールが、未来の腕の中で、片目を閉じてあくびをした。
「未来さん、空君にダニエル君、今回はどうもありがとう。わたしも、警察の若い刑事連中も、もちろん住民にも代わってお礼を言うよ。感謝している。改めて思う。将来のため、その子供達のために、大切な明日に安全な資源を、次世代に繋げる義務が我々大人にはあるということを……。今、現状に自然にあるものを大切にする。それは、当たり前にあるのではないのだから身の回りからまず、守っていくことが大事だと思うよ」
「そうですよね。それには、人は皆、自然に対する意識改革が必要ですね」
「そう! 自然と話をする。耳を傾けることが重要なのよ」
 未来がそう言って、パールの水を取りにキッチンの方向に入っていった。
「ところでね。あの怪文書の件なんだが、どうやら、最初にここに来ていた刑事連中の中にそれを書いた奴がいたようなんだ。ここで無くなったのは、ここからまた持って出て、処分したのかもしれない。しまった! と思うことがあったんだろうね。自白して最近退職しているが……。これは警察内部にも、315に内通していた者がいたんだということだ。彼は、良心の呵責に耐えかねて密告した。これらの見せしめによる殺人計画と、予測できる犯罪を、我々に知らせるのにこういう形を取った。未来の書いた物語を知っていたから、ラッキーの名前を使った。当然、空君があのブランコで発見したら、わたしのところにやってくるというのは分かるからね。また、町の人もわたしを知っている。わざとあの怪文書にして、警察ダイレクトには避けてこっちに伝わるようにしたんだな。でも、彼は組織に深入りはしていない。詳しくは知らされていなかったようだ。そして、そうそう、あのレインボーランドの牧場周辺の土地は、自然保護区であるし、国が買い取るようにお偉いさん方が運動しているらしい。ひとまず、当分宝物に、だれも手は出せないだろう」
「それは、よかったですね。国のトップがすることを信じましょうよ」
 ダニエルは空に耳打ちした。
「こちらの方……が自然だな。おふくろさんには、怪文書のことは黙っておこう」
「あの人に言わせると、ワイルダー氏が、ターキー……なんだもんな」
「いや、もしかすると、本当にワイルダー氏が仲間の刑事と仕組んだ……のかもしれないよ……怪文書」
(終わりよければ――すべてよし!)と言うように、パールが「ワン!」と一声鳴いた。
 ジョージ・ワイルダーは、裏社会の大きな組織にいる。中でも上の方で自分の意見も言える立場にいるのだ。このストーリーは彼が描いた。それを仲間内である警察の中にいる人間に伝え、怪文書を仕掛けたわけは、マイノリティーの我ロマ民族としての血、それはいとこであるレイネも含め、それを守るため――と、一生涯をかけた生物学の細菌やウイルスの研究のためである。怪文書を出せば、組織は、そのメンツにかけても、それを必ず実行しなければならない。また、偏屈な研究者にあるように、彼は、メランコリックな自分の狂気なロマンのストーリーに酔っていた。
 最初は、カルロスとブライアンを消すことについて、それは組織内でも考えが定まらなかった。自分の案に――ワイルダー氏は、それに怪文書として火をつけただけだ。シャルルについては、始末することはその系列の組織で強制的に決定していた。 
 そして、怪文書の大きなひとつの理由は、ジョージ・ワイルダーという偉大な科学者である自分が逃げて、助かるためだ。元々が、どこにも定着しないという民族主義のセオリーがあるのだろう。彼を助ける裏社会は、彼を利用するためにいくらでもある。しかし、彼は、表の社会で立派に生きたならば、素晴らしい医学の研究者になったことだろう。次の場所で、彼がどう生きていくのかは、今はだれにもわからない。レイネも無事に生きていくのか……彼女の真実の心もわからない。
 テラスから覗けるシュガーウォーター駅に向かって、色鮮やかなブダ・ジの絵が描かれた観光列車の最終便が到着するところだ。後ろから、眩しいほどに光り輝かせる太陽の球体を連れて走ってきていた。その太陽が、空にはファンシー教会の紋章のように見えた。
 観光列車は、ケランダの山から舞いおりてきた虹蛇のような曲線をきれいに見せていた。                (了)

虹蛇とニーバーの祈り

最後の文章のメッセージとして、伝えたかったことがありました。大正時代の作家だった祖父が書いた「二百十日」という小説の中から、それを引用しました。(大きな台風の後)「夕方の太陽とともに、今日の幸福を噛みしめていた~云々」という文章から、平凡な毎日がいかに大切であるか、平穏無事であることが、どんなに幸福であるか……。生きているこの星で、素直に謙虚に質素に暮らしていくことを今一度考えたい。まず自分の身近なところから、自然や動物に問いかけ、思いやりの心を全てに持ちたいとつくづく感じる私の今! であります。

虹蛇とニーバーの祈り

「ワナリーの仲間達」の続編として、四年前に書いたミステリーファンタジーです。観光列車で起こった殺人事件は、百年前の隠された宝物、金塊をめぐる大国や植民地の国同士の陰謀が絡む人の欲望の資源争いが基である。この土地の歴史も関わる。成長した仲間達のメンバーが、ブランコで揺れていた怪文書から推理して、事件解決に故郷のカフェの仲間達、刑事と推理していく。最後は、伝説の中の原住民が崇拝している虹蛇ブダ.ジと、空の水の神、巨大龍が戦うように見えて、ファンタジーを描いてしまう未来には協力して山火事を消しているように感じる。世界は廻っているという世界観を大切にする原住民と絆があった虹蛇は、動物の代表としても友達になれない今の人間を嘆き悲しみ、罪の身代わりとなって、その生贄となり、イースターの日に炎の中に身を投げようとしている。

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