ごま油
ごま油の容器が空っぽになって、油独特のテカリと手触りと共に彼の手に納まっている。彼は乾いた眼で手の中のそれを見た。
なんたって既に、熱く熱せられたフライパンの上では卵と絡められた白米がジュウジュウと弾ける音を上げていた。
その匂いは細かい粒子となってキッチン中に飛散し、彼の表面にもいくつかそれは付着した。
彼は一刻も早く菜箸を持ち、そのフライパンの中身をかき混ぜなければならなかった。早くしないと焦げついてしまう。
それでも、彼はフライパンの中身をただ眺める他なかった。
ごま油。
カンカンに熱せられたフライパンの中でジュウジュウと弾けているその上にツーッと細い線を描きながら二周しなければならない。もちろん、菜箸でかき混ぜる前にだ。その工程を飛ばすなんてことは彼には絶対に出来ない。
けれども、ごま油が見つからない。予備がどこにも無いのだ。
彼は使い切られたごま油の瓶を床の上に転がした。
常温で放置された桃缶詰のシロップ、みたいに重ったるい頭を引っ提げながらも、彼はなんとかして炒飯を作り上げようとしていた。
キッチンのシンクには洗い物であるところの皿が大量に折り重なっている。ただ、致命的な量ではない。シンクの底が見えない程度。彼の母親は何らかの理由で、数日前からそれを溜め込み続けていた。
そこにシンクに面した窓からの光が被さる。正午前の明るくて、真っ直ぐで、目の奥を刺して痛めつけるような光。それが皿に張られた水の中の沈殿を鮮明にさせた。
彼はそんなキッチンを片付けたり事前に材料を揃えたりもせずに唐突に卵を割り、それを昨日の残り物であるところの白米とボールの中で和えてしまった。そしてその勢いで予熱していたフライパンにそれらをドンと落とし込んだのだ。
しゃがみ込み、戸棚の中からごま油の予備を探す彼の頭上で、フライパンの中のそれらはジュウジュウと音を上げ続けていた。
冷蔵庫を開けようが戸棚の下段を開けようが、どこにもあの、ツルツルとしたフィルムに包まれた新品のごま油は存在しなかった。
また床下収納も同様だった。
重い戸を開けて覗き込むと床下収納にはもう何年も入れ替わっていないらしい、そういう匂いをもった一塊の空気と共に得体の知れないガラクタ類が押し込まれていた。
彼は立ち上がり、母親に対してごま油の所在を訊こうと、声を張り上げようとした。が、直前でそれは無意味なことだと気付いた。
彼女は朝のうちに、彼がまだソファーで横になっているうちに、またどこか遠くへと出掛けていってしまった。
彼の喉から声になり損ねた空気だけが引き攣った音を立て出ていった。
家には今日、彼以外だれひとりいない。
フライパンの中の弾ける音は心なしか小さくなっていた。彼はキッチン中をもれなく探し尽くしていた。それでもごま油は見つからない。
彼はおかしいなと思った。彼の母親はあらゆる物の予備をキッチンに準備していた。
いつ何が亡くなってもいいように、と彼女はそんな口調で言った。
事実、彼がごま油を探していると、戸棚からは調味料やらなんやらの予備が大量に現れた。塩や醤油に始まりオリーブオイルはもちろん、ナツメグやらバルサミコ酢やら八角についても瓶に詰められた予備が母親によって準備されていた。コーヒー豆についても銘柄ごとにそれぞれ瓶詰めされていた。
ただ唯一、ごま油だけがなかった。
彼はもう一度、キッチンを探し始めた。今度は探し漏れがないように、戸棚に仕舞い込まれた調味料を全て、床に並べていった。
あの音楽を流しながら、灯油販売車が家の前をゆっくりと通り過ぎていく。
あの曲……なんだっけな?
彼は並べ続ける。
正午。
太陽が街の真上に移動したせいか、雲に隠されたせいか、もう光はどこからも差し込まなくなっていた。薄暗く陰ったシンクの底で、水を張った食器皿は時々垂れてくる蛇口からの水滴を受け止め続けていた。
こうして、キッチンの床に大量の調味料の瓶が並んだ。
これが戸棚にある調味料の全てだった。戸棚は空にはなったが、その奥はまだ暗いままだった。
彼は床にびっしりと並んだ調味料の瓶の間に隙間を見つけ、そこに腰を下ろした。
こうして瓶に囲まれていると、彼にはここが急に静かになったように感じられた。
まるでよく晴れた街の真ん中みたいに、空が底抜けに青く、建っているガラス張りの建物もみんな乾いてピカピカ立派に見える、そんな気がした。ガスが燃焼する穏やかな音だけがずっと頭上から聞こえる。
空っぽになったごま油の瓶が彼のすぐ傍の床の上に転がされている。彼は何となくそれに目を付け、手に取った。ごま油の瓶はとても軽かった。
その存在そのものを否定するくらいに軽かった。こうも重さが無いので、彼の意識はその表面が持つ油独特の手触りにどんどん吸い寄せられていった。彼の手の中でごま油の瓶が執拗に回される。彼は指先のささくれを惰性で剥がすみたいにそのフィルムを剥がし、ゴミ箱に押し込んだ。
包装が消えると、ごま油の瓶は単なる黄色いキャップのついたペットボトルになった。油独特の手触りはもうどこにも無い。
部屋は薄暗く、生真面目に並んだ調味料たちは一様に薄い影を作った。彼は元ごま油の瓶に対する興味を急激に失い、それを乱雑に床に投げ捨てた。黄色いキャップをした瓶は頓珍漢な音を立て、しばらく床の上をころころと落ち着きなく転がりまわっていた。
彼の手は何かの焦燥のようにしつこくベタついていた。彼は手を二、三回、その動きを確かめるみたいに開閉した。自分の手が熱を放っているのが分かる。身体がさらにけだるくなっていくのを感じた。
彼がボンヤリと、キッチンの床一面に並んだ調味料の瓶を眺めていたその時、
口はこんな文章を呟いていた。
“このごま油は暗所にて、ごま油ではなくなります“
言って、そのしばらく後で、これはなんだろう?と彼は思った。
どこからきた文章だ?
これはきっと、ごま油のフィルムにびっしりと書かれていた注意書きの中の一文だ。俺はそれを無意識のうちに憶えていたんだ。と彼は推測した。
でもさ、
そんな事ってあるんだろうか?
もしこの注意書きが正しいとしたら、
戸棚に仕舞われてた使いかけのごま油もその予備も、みんな戸棚のその暗さのせいでゆっくりと変質していって、とうとうごま油ではなくなってしまった。そういう事なのだろうか?
暗所に仕舞われてたそのせいでダメになってしまったのだろうか?
そんなことがあってたまるか。
キッチンの隅に置かれたスチール製の背の高いゴミ箱が有能そうに鈍く光った。彼は、なにかを志す猿のような、それをじっと睨むような顔つきをしていた。
再び、灯油販売車が音楽を流しながら通り過ぎていった。彼らはどのくらいの灯油を売ってきたのだろうか?
彼は自分が使う当てもない灯油をポリタンク一杯に買うことについて考えた。
もし、自分が窓から顔を出し声でも出せば、彼らは今からでも止まってくれるのだろうか?そしてポリタンク一杯の灯油を僕に売ってくれるのだろうか?けれどもこの家には灯油を使うあてもない。それに彼らはもう行ってしまった。
彼は這い、ゴミ箱に近づいた。彼の膝と腕とが調味料の列に無頓着にぶつかり、いくつかの瓶が倒された。その瓶が倒れて床に衝突する鈍い音と、瓶同士が接触する透き通った音とが混ざり合って響いた。
彼がゴミ箱の蓋にすがりつくようにして触れると、その表面はとても冷たいように感じられた。また、彼の手が持っている行き場のない熱を吸い取ってくれるようにも。
彼はゴミ箱の蓋を取り去った。
ゴミ箱の中には紙屑やらチラシやらが一杯に入っていた。ほとんど完全に近いほどの無臭だった。中身だけではどこに設置されていたかが分からない程に、このゴミ箱はキッチンのゴミ箱的特徴を欠いていた。
それで彼は、その清潔そうななりのゴミ箱に手を突っ込んで、かき回し、ごま油の瓶に引っ付いていた包装を探した。彼は食べ物を必死になって漁る野良犬か何かに見えた。懸命になって顔を突っ込んでいる。なんだか空気を求めるみたいに。
けれども、いつまで経っても彼がそのゴミ箱からごま油の包装フィルムを見出すことはなかった。
彼は本当に必死なようだった。
それでも彼自身では、なぜこれだけあの言葉の出自が気になるのか、という事について考えもしない、あるいは、既にゴミ箱を漁って自分が何を探しているのかさえ忘れてしまっているようにも見えた。
頭上から「ピー、ピー」という電子音と「カッチ」というスイッチ音が聞こえた。
けれども彼は一切、顔を上げる素振りさえも見せなかった。彼によってゴミ箱の中身がさらにかき回され、カサカサという紙の音だけが虚ろにキッチンに響いた。
彼は物事に対する最後の抵抗として、ゴミ箱を逆さにし、中身の全てを床にぶちまけた。これで少しは探しやすくなる、と彼は思ったようだった。
彼は床に這いながら包装紙やチラシをかき分け続ける。ゴミ箱の中身は床に並んだ瓶にさえ、思慮もなく降り注いだ。彼が腕や膝を動かすたびに、やはり瓶の列は倒れ、乱れ、そのたびに音が。
しばらくして彼は気づき、おもむろに手を止めた。
見回すと、彼はゴミにまみれながらひとりだった。この中から一切れの包装フィルムが見つかる余地なんてものは、もうどこにもなかった。彼が手を止めると音は止んだ。
だってもう、灯油販売車だって通りはしない。
焦げ臭さが鼻を衝き、蛇口から水滴が一滴だけ垂れる。
シンクの底で水を張った皿はその水滴を受け止め、波紋をつくった。
それでも決して音は立てない。
彼は口をつかって、なにかを言葉にしようとした。
家にはもう誰もいないが、なんでもいいから何か言おうとした。
灯油を買い、炒飯を正しく作ることについて考えた。あるいはごま油についても。
けれども結局、彼は言葉を飲み込み、ただ壁を見た。
Fin.
ごま油