わん!ダフルブラザー
わん!ダフルブラザー
僕には1つ年下の弟がいます。歳が近いこともあり、彼は僕をお兄ちゃんとは呼びません。彼は僕をケンと呼びますし、僕も彼をタイチと呼びます。
僕の古い記憶を辿ると、一番最初の記憶にはすでにタイチの姿がありました。物心がついた頃、というやつです。
当時のタイチはまだ産まれてほやほやしており、しわしわでした。正直、可愛いとは思えませんでした。いつも白いタオルのようなものに巻かれて、あうあう言ったり鳴き声を出すだけの彼を遠くから眺めていたのが、僕の最初の記憶です。
その頃のタイチは柵の中にいて、僕は簡単には近付けませんでした。時々、ママがタイチを抱き抱えながら柵の中から連れ出していても、僕はなかなか近付けませんでした。
自分と違う見た目の彼が、ちょっと怖かったのです。手足はまだしわしわで、目もあんまり開いていませんでした。
「ケンおいで、タイチだよ」
ママが僕を誘ってくれるので、恐る恐る近付いたのを覚えています。
タイチはうっすら目を開き、僕を見ています。ママが言うには、まだほんの近くのものしか見えていなかったそうです。
僕は鼻先をぐっと寄せて、タイチからよく見えるようにしました。タイチの目がくっと開いて僕の目に合いました。
突然、タイチが勢いよく動きました。小さな口を大きく開いて、ふがふが鼻が詰まったような音を出しながら、僕に迫ってきます。
なんと、タイチは僕の鼻にかぶりついたのです。
これにはママも驚いて、慌てて僕らを離しました。
これが初めてタイチに触れた瞬間です。
◇
タイチがうにうにと自分の力で動くようになった頃には、ひどく暑い日が続きました。何もしなくても喉が渇いたので、パパやママにせがんで飲み物をたくさんもらって渇きを潤していたと思います。床に寝転がると背中やお腹がひんやりして気持ちがよかったので、家じゅうのあちこちで寝転がっていました。
タイチは柵の中で、仰向けになりながら、手足と首の力で狭い範囲を移動します。時々、柵に頭がぶつかっても、器用に方向転換をして反対の柵に向けて行進を続けます。
そしてお腹が空くと大声で泣いて、ママを呼んでいました。
タイチが夜中に目を覚ますことも多く、そのたびに僕も起きてしまいました。パパやママがせっせとタイチにミルクをやり、寝れるまで一緒にいます。
僕も二人の手伝いをしようと思い、泣いているタイチの柵の中に侵入したことがあります。
僕は手伝いをしたかっただけなのに、ママに怒られました。
タイチはぐんぐん大きくなっていきました。暑い日が減って来たころには仰向けからうつ伏せになれるようになり、ごろごろと回っていました。庭に落ち葉が積もり始めてから四つ足で移動し、僕の顔を見ると猛スピードで駆け寄って来るのです。雪が降りしきる寒い日に、ついにタイチは歩けるようになりました。
そのくらいになると、タイチはママ、パパ、ケンと言えるようになっていきました。
それなのに、僕はママともパパともタイチとも言えませんでした。言いたいことは頭の中に浮かんでいるのに、うまく言葉が話せなかったのです。それがもどかしくて、苦しい気持ちになることもたくさんありました。
ありがたいことに、僕がうまくお喋りができなくても、家族はみんな一緒にいてくれます。ママにご飯ありがとうって言えなくても、パパにお仕事がんばってって言えなくても、タイチにお誕生日おめでとうって言えなくても、僕を家族の一員として認めてくれています。
僕はここの家族で良かったと心から感じました。
◇
タイチが幼稚園に入りました。タイチは幼稚園で教わったカエルの歌を歌ってくれます。僕も一生懸命、一緒に歌います。上手に歌えないけど、タイチと一緒に歌うだけで楽しくなります。
それから、タイチとヒーローごっこをします。タイチはいつもヒーロー役で、僕はお兄ちゃんなのでワルモノやカイジュウの役をやります。タイチは僕を本当に叩いたり、おもちゃの剣で切りつけたりします。そのたびにママは酷く怒りました。
僕のお誕生日に、タイチがプレゼントをくれました。タイチがクレヨンで書いた僕の似顔絵です。大きな文字で、「けんおたんじょうびおめでとう」って書いてありました。
タイチはもう、ひらがなも書けるようになっていたのです。これには、僕はとても驚きました。僕もひらがなをなんとなく読むことができるけど、書くことができません。「あ」と「お」と「め」がうまく区別ができないこともあります。タイチは僕の弟なのに、もうたくさんの文字が書けるようでした。
僕はタイチにありがとうを伝えました。上手に言えなかったけど、パパが僕を撫でてくれました。
幼稚園がお休みの日は、タイチと一緒に公園で遊びました。滑り台を逆向きに登ったり、ブランコに無理して一緒に乗って落っこちたり、水道の蛇口で水をかけあったりしてお休みを楽しみます。泥だらけになって、そろってママに叱られました。
公園ではたびたび、タイチのお友達に会いました。そんな時はタイチと僕とお友達と一緒になって公園で遊びました。
僕はお喋りがうまくできないので幼稚園には行っていません。幼稚園でたくさんのお友達と楽しく過ごすタイチが、少しうらやましくもありました。
◇
タイチが小学生になりました。
タイチは算数が得意で、足し算も引き算もできます。学校のテストではいつも良い点を取っていました。
算数なら僕も自信があります。引き算は苦手だけど、足し算ならタイチにも負けません。ママがご褒美をくれると思ったので、足し算の特訓をしていました。「イチタスイチ」も「サンタスロク」も僕は答えを知っています。
そんな僕の自信を、タイチは簡単に飛び越えていきました。「イチタスサンタスハチ」みたいに、数字が三つも四つもある足し算ができるようになっていたのです。僕は二つの数字を足す事しかできません。しかも、その答えを上手く言うことができません。
タイチは漢字が書けるようになり、掛け算や割り算ができるようになり、トンボの種類に詳しくなって、逆上がりができるようになって、卵焼きが作れるようになりました。
タイチの周りにはいつもたくさんのお友達がいて、放課後には僕も混ぜてもらって一緒に遊びました。田んぼのあぜ道でかけっこをして、駄菓子屋さんで甘いジュースを飲んで、公園でかくれんぼもしました。
僕は皆みたいにお喋りができないけど、みんなはとても優しくしてくれました。お喋りができないからと言って仲間外れにしたり、いじわるをするようなお友達は一人もいません。
そんな素敵なお友達に囲まれるタイチが誇らしくもありました。
◇
みるみるうちにタイチは大きくなって、体重は僕より重くなりました。タイチが小学五年生になった年の春のことです。
タイチはバスケットチームに入りました。週に二回、土曜日と日曜日に市民体育館へ行って、バスケットボールの練習をします。
僕はタイチと遊ぶことも減りました。普段は学校があるし、お休みの日はバスケットボールの練習でくたくたになっています。
僕は練習から帰ってきたタイチにお疲れ様って言うのですが、タイチは疲れたといって、そのまま自分の部屋に入ってしまいます。
僕は僕で、一人、サッカーの練習をしました。僕にはお友達がいないので、一人でボールを蹴って、ボールを追いかけます。ボールに追いついたら方向転換して、今来た方向にボールを蹴って、またそれを追いかけ、追いついたらまた方向転換をして。部屋の中でやるとママに叱られるので、庭でやるようにしています。泥だらけになると叱られるので、泥がつかないようにします。
そうして僕は、少しサッカーが上手になりました。
◇
タイチが中学生になりました。放課後は毎日バスケットボールの練習をして、土曜日も日曜日もバスケットボールの練習をして、あまり家にいません。タイチはママともパパともあまり喋らなくなりました。
僕ともあまり喋ってくれないのですが、僕は一生懸命、タイチに話しかけます。あまりしつこくするとタイチの機嫌が悪くなるので、しつこくはしません。
タイチは身長が大きくなり、僕はいつもタイチを見上げています。バスケットボールが上手になって、とても大きな大会で一番になったそうです。
僕の弟のタイチは立派に育ちました。
大人になってもバスケットボールを続けて、すごい人になって欲しいと僕は願っています。
僕はもう、人間でいうと百歳くらいのおじいちゃんです。タイチがすごい人になるのを見ることはできません。タイチがバスケットボールで勝って、おめでとうって言いたくても、ワンとしか言えません。
もう僕にはあまり時間がないようです。腰があげられなくなって歩くこともできず、ごはんを食べるのも苦しくなって、起きている時間も減っています。
それでも僕は、自慢の弟がもっともっと大きくなるのを、最期まで見続けていたいと思います。お兄ちゃんらしいこと、何一つできなかったなと思っています。
僕に残されたあと少しの時間の中で、タイチのカッコいい姿を目に焼き付けていきたいと思います。
タイチ、おっきくなれよ。
わん!ダフルブラザー