捨て猫、アン。

捨て猫、アン。

捨て猫、アン。

 さて、これはどういうことでしょうかと外を見る。わたしはこれまで生きてきた中で、こんな景色は初めて見た。寝起きのノビも忘れて、窓に狭い額を押し付けた。
 ダディが通勤に使っている黒の軽自動車も、あのいつもは無機質なアスファルトも、向かいのおうちの花壇も、何もかもが朝日をいっぱいに浴びて白く輝いていた。うっすらと靄がかかり景色は複雑な光を発していて、いつか見た万華鏡みたい。わたしが躍るように窓際を行ったり来たりするだけで、輝きは幾多にも姿を変え、わたしは万華鏡の世界に心を弾ませた。
 これ、わたし知っているかも。あれだよね、雪。小さなキラキラが空から降ってきて、街がお化粧をする。街は少し背伸びして、ちょっと恥ずかしそうにわたしたちに微笑んでくれる。男の人と女の人は愛を確認し合って、家族は絆を深め合う。犬は喜んで庭駆けまわって、猫はどうするんだっけ。
 そういえば昨日の夜はものすごく寒かったし、なんだか鼻の奥がむずむずしていてなかなか眠れなかった。ダディのわきに潜り込んで丸まっているうちにやっと眠れたのだけど、あれはもしかしたら雪が降る前触れだったのかしら。野生の勘みたいなものが、まだわたしにも残っている証拠なのかも。
 こうして外を眺めていると、背中のあたりを冷たい空気が撫でて、ぶるっと身震いをした。家の中を見回すと向こうの窓が少し開いていたので、そこから顔を出してみる。冷たく澄んだ空気が勢いよく肺に流れ込んで、身体の中が少し綺麗になった気がした。鼻の奥が少しツンとして、さらにその奥からじんわりと冷えてくる。その感覚が心地よくて、わたしは何度も深呼吸をした。
 そのまま外を見ると、ダディが大きなスコップを持って玄関先からこちらに微笑んでいる。
「雪、初めてだろ。冷たいぞ」
 優しく微笑んだダディは、持っていたスコップを雪面に突き刺して、雪を掻き始める。
「もう少し、したら、玄関も、通れる、ように、なるからな」
 ダディは腰を屈めて、雪の塊をすくい上げては後ろに飛ばしていた。こんなに寒いのに広いオデコにはうっすら汗も見える。
 後ろに飛ばされていく雪の塊は、スコップの上で滑りながら大きなヒビが入り、パックリと割れていく。勢いのままさらに小さく姿を変えるそれらは、降ってきた時もそうだったみたいに細やかに煌めいている。その一瞬の輝きを見せつけて、そよぐ風と一緒になって消えていった。
 飛ばされて舞い散る雪は、ずっと見ていても飽きない。ダディがスコップを雪に突き刺すたびに、また次のキラキラが見れると思って身を乗り出した。
 一生懸命に雪かきをしているダディの後ろから誰かが近付いて来るのが見えた。
「鳥羽さん、おはようございます。積もるのなんて、何年ぶりですかね」
 その声はわたしの心をぎゅっとさせた。もっと見たいけど、咄嗟に隠れてしまった。
「やあ、ノリくん。おはよう。雪かきの手伝い?」
「オヤジと腕相撲して負けたので、僕が雪かき当番になりました」
 ノリくん。隣に住んでいる、少し背が高くて、いつもボサボサの頭で、がたがたキィキィ鳴る自転車で毎日高校に通っていて、花粉症と猫アレルギーがひどい人。
 わたしの一番昔の記憶には、すでにノリくんがいた。お姫様抱っこされながらうたた寝をして、自転車に乗せてもらって一緒に公園に行き、ときどき一緒にお風呂に入った。
 そのたびにノリくんは目を真っ赤にして鼻をすすっていた。ずっと昔から一緒にいた人だから、初めて会った日のことは覚えていない。
 そんなノリくんも、春にはいなくなってしまう。東京の大学に通うため、一人暮らしを始めるらしい。東京に行くには新幹線で何回か乗り換えをするか、飛行機でしか行けないとダディが言っていた。次にノリくんに会えるのは、いつになるのかな。
 そんなことを思いながら、こっそりと窓の外を伺った。
「ほら、もうすぐ、玄関、通れる、ぞっ、と」
 玄関前はすっかり地面が見えていて、ダディはこれで終わりと言わんばかりに最後の雪を後ろに掻き飛ばした。ノリくんは抜けなくなったスコップを強引に引き抜いてしりもちをついている。そんな姿がたまらなく愛おしかった。わたしは、ノリくんが好きだ。
 眠そうにパンをくわえて「おはよう」って言うノリくん。
 部活でくたくたになりながら「ただいま」って撫でてくれるノリくん。
 みんなに内緒でこっそりおやつをくれるノリくん。
 赤くなってしまった目をこすりながら鼻声で名前を呼んでくれるノリくん。
 いつまでもそうやって変わらない毎日が続いて、ずっと一緒にいるものだと思っていた。
 ノリくんがいなくなるまでに、ちゃんと好きって言いたい。愛していますって伝えたい。一人暮らし頑張ってねって、たまには帰って来てねって。
 でもそれは、できないこと。
 とても寂しくて苦しくて、目の奥がツンとした。ぼんやりとした輝きがわたしを包み込む。上も下も右も左も手前も奥もわからない世界。その中で何かをはっきり見ようと目をこらすのに、さらにぼやけてしまう。
 わたしはしゃがみこんで、壁に身体を委ねた。わたしが泣いて、行かないで欲しいってお願いしたら、ノリくんは心配すると思う。心配して、東京に行かないって言ってくれればいいとも思う。
 そしたらノリくんはどんな顔をするだろう。困った顔。それとも怒るかな。もしかしたら、ただ呆れるだけかも。
 それもちょっと見てみたい。
 でも、それはノリくんに迷惑をかけてしまうし、そんな簡単なことじゃないこともわかっている。
 ごしごしと涙を拭って、二人の会話に耳を澄ませた。
「そういえば最後に雪が積もったのは、アンがうちに来た夜だったな」
 自分の名前にハッとする。そしてダディの言葉に、なんだか嫌な雰囲気を感じた。
「そうでしたね。驚いたなあ。アンは半分雪に埋もれていて、しかも怪我をしていて」
「驚いたのはこっちだよ。夜中に誰かがドアを何べんも叩くから何かと思ったら、ノリくんがアンを抱きかかえて立っているんだもの」
「あの日は、お袋もオヤジもいませんでしたからね」
 どういうことだろう。わたしをここに連れてきたのは、ノリくんだったということ? わたしはここじゃない所から、ここへ連れて来られたっていうの?
「もしノリくんが発見していなければ、あいつは雪の中で冷たくなっていたかもしれない」
「あの時、僕が雪で滑って転んでいなければアンと出会うこともなかったでしょうし、アンの命もなかったかもしれませんね」
 ノリくんが鼻水をすする音が聞こえる。
「一緒にいると、そんなことをよく考えてしまって、胸が苦しくなるんです」
 わたしは息を飲んだ。わたしの命。ノリくんとの出会い。ダディやマミィとの出会い。全てが思いがけない言葉ばかりで、信じられなかった。
「一緒に暮らしたいって言い張っていたね、きみは」
「そんなこともありましたね」
 鼻声になりながら笑ってみせるノリくんのいつもの声。ノリくんがわたしと一緒に住みたいって言ってくれた。わたしはいつもそう思っているし、これからもそれは変わらない。ノリくんは今でもそう思ってくれているといいな。
 確かめたい。ノリくんがわたしのことを、どう思っているのか。
 わたしは駆け出して玄関に向かう。廊下をバタバタと走るものだから、マミィの叱る声が家の中に響いた。
 足音を聞いて何事かと思ったダディが扉を開けて待っていた。
「アン、どうしたんだい、そんなに慌てて」
 わたしは、素っ頓狂な声を出すダディを素通りした。本当はダディやマミィにも聞きたいことが山ほどある。二人とわたしとの関係。わたしのこれまでのこと、これからのこと。でも今はそんなことどうでもよくて、大好きなノリくんに聞いてもらいたい言葉がある。伝えたい想いがある。
 わたしは裸足で雪を踏みしめた。足の裏から伝わった冷たさが頭のてっぺんまで駆け抜け、全身の毛が逆立った。
 わたしはノリくんの正面に立って向き合った。
「ノリくん、わたしね、ノリくんが好きなの」
 ノリくんは少し驚いた顔をしたあと、すぐに柔らかく微笑んだ。
「ありがとう。僕もアンのことが好きだよ」
「わたし、ノリくんのお嫁さんになる」
 ノリくんは少し意地悪そうな顔をしてしゃがみ、わたしの頭を撫でる。
「アンがおっきくなったらね」
「わたし、猫だけどいいの?」
「うん、おっきくなっても猫みたいなアンのままでいるんだよ?」
 そう言ってノリくんはわたしを抱っこしてくれた。
 これからわたしがダディやマミィから聞かされる話には、きっと聞きたくないようなことも、受け入れられないこともあるかもしれない。でも、その全てがノリくんとの出会いへと繋がっている。
 ノリくんもダディもマミィも、みんなわたしのことを受け入れてくれたからこそ、今の生活がある。今、こうして幸せに過ごすことができている。たとえ時間がかかっても、少しずつでも、わたしは、わたしとわたしのこれまでを受け入れていきたい。
 抱きかかえたわたしを高く持ち上げながら、ノリくんは照れ臭そうに笑った。
「アンが大人になる頃には、僕はおじさんになっちゃうけど許してね」

捨て猫、アン。

捨て猫、アン。

「これ、わたし知っているかも。あれだよね、雪。」 「わたし、猫だけどいいの?」 仔猫の可愛い恋のお話。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-03-12

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