kinosaki

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 城崎温泉へは京都から特急列車できた。片道五千円ほどかかるとは知らずに、「そうだ城崎温泉へ行こう」と思い立ったのは昨夜のこと。珍しく早起きをして、京都駅から特急に乗った。窓口で乗車券を購入する際に「そんなにかかるんですか?」と大声を出してしまったものだから、「鈍行にしますかっ」と係員も同じく大声で返してきた。鈍行で行けば半額程度まで抑えられるが、恐ろしく時間がかかると聞き、結局特急を利用した。
 城崎温泉駅に降り立つ。有名な温泉街というイメージがあったが、人の姿はまばらだった。観光案内所で聞いたところによると、今は「時期じゃない」らしい。梅雨時に温泉に入ってはいけないのかと聞き返したところ、カニが旬を迎える冬に最も賑わうのだとか。なるほど、六月にカニは獲れない。温泉は年中通して好きな時に入っても良いとのことだった。
 案内所で宿の手配をした。どこの宿もがら空きで、しかも破格だった。しばらくしたら送迎車が迎えに来るというので、暇ができた。
 駅前には足湯があった。誰もいない足湯で一人、スニーカーを脱いで足を浸ける。こんなじめじめとして蒸し暑くても、温泉は心地よいものだ。
 そういえば、ハンカチやタオルを持っていないことに気づいた。宿に泊まれば部屋にあるだろうと高をくくっていた。まさかこんなところに罠があるとは。
 じっとりと背中を汗で濡らしていると、私の名前を呼ぶ声がする。宿の送迎車が到着したらしい。私は濡れた足をそのままスニーカーに突っ込み、声の元へ駆け寄った。
 宿泊地は送迎車両など不必要なほど近かった。玄関も通りに面していて、迷うはずもない。
 部屋に荷物を置き、座椅子にどかりと座り込んだ。慣れない早起きで、昼前だというのに重い睡魔に襲われた。じんわりと頭から痺れていき、音が遠くなっていく。ずるずると座椅子を滑ったところで慌てて目を覚ます。
 いけない、いけない。
 ここへ来た目的を忘れてはならない。
 かつて、多くの文豪がここ城崎温泉を訪れたという。かの志賀直哉氏も城崎をこよなく愛し、城崎にまつわる作品も遺した。
 温泉地と小説家はとても合う。何日も温泉地に滞在し、心と身体を清め、執筆に集中する。そうしているうちに担当編集者が訪ねて来て「先生、原稿を……」なんて言われる。
 私もそのクチで城崎を訪れた。滾々と湧き出る温泉にあやかり、枯渇した小説のネタを潤そうという魂胆だ。しかし、何日、温泉地に籠ろうと私を訪ねてくる編集者はいない。来るのはしつこい電話だけだ。
 噂をしていると、卓の上で携帯電話の画面が光った。担当者からの電話だ。その画面をじっと見つめる。息を潜め、身動きを止める。三十秒ほど経ち、画面には着信のお知らせが表示された。
 カバンからノートパソコンを取り出す。メールボックスに受信マークが灯っているが、触らないようにする。あくまで、メールに気づかなかった体を装う。
 今日が締め切りの原稿は、想定の半分も書き終えていなかった。書き終えた半分を読み返すと尻がむずむずしてきて、今すぐにでも書き直したくなるが、書き直せば完成がいつになるかわかったもんじゃない。
 一仕事をしようと思い座椅子に座りなおした途端にやる気のピークを迎え、そこからへなへなと集中が散り散りになった。
 温泉街に来たのに、まだひとっ風呂も浴びていない。重い腰が急に軽くなり、宿に用意された「外湯巡りセット」を手にする。
 ここ城崎温泉では、七つある外湯を余すことなく巡ることが作法とされている。宿泊者には外湯巡り用のフリーパスと、浴衣、タオルセットが用意されている。今日は火曜日なので二つは定休日らしく、残りの五つを巡れば「城崎を満喫した」と胸を張って良いのだそうだ。
 風呂道具を手に、そそくさと外へ出る。梅雨空はさらに低くなり、ほのかに雨の匂いがしていた。
 温泉街の中心を貫くように河川が流れている。大谿川という難しい字を書く。おおたにがわと読む。
 川沿いには柳が植わっており、温泉街風情を醸し出していた。
 ほんの十メートルほどの川幅を、何本もの石橋が渡っていた。石橋にはベンチが置かれており、大谿川を見通すことができる。旅の情報誌の写真でよく使われるアングルなのだと、観光案内所で教えてもらった。
 せっかく来たのだし、城崎らしい写真を撮ろうとベンチへ向かっていたら、駆けてきた女子大生くらいの女の子たちに先を越されてしまった。和気あいあい、きゃぴきゃぴとベンチに並んで腰かけ、携帯電話を使って「自撮り」を試みる。
 遅れて一人の女の子が駆け寄り、三人の後ろに立って両手を広げて見せた。彼女は短い黒髪を風にそよがせ、はにかむような笑顔でレンズを見つめる。右目の下の泣きホクロが印象的で、はにかんだ口元にわずかに見える矯正器具に自然と目が留まった。
――いくよ、はい、チーズ。
――あたし、ちょっと切れちゃってる。もう一回。
――待って、誰かに頼んで撮ってもらおうよ。
 ここで一人と目が合った。やり取りも聞こえていたし、早く私も撮影したいと思ったので、あえて自分から声をかけてみる。
「良かったら、撮りましょうか」
 お願いします、と若い声が揃って返って来る。
「いきます、はい、チーズ」
 ありがとうございます、と明るい声が響き、彼女たちは去って行く。
 矯正器具の彼女は少し遅れて私に会釈し、慌てて駆けて行った。

   ◇

 全ての外湯を巡り終え、宿で夕飯を済ませたところで私はパソコンに向かい合った。
 思っていたほど捗らなかった。腹が膨れて眠い、アルコールも入って酔っている、締め切りを迎えてほとんど諦めている、などなど捗らない理由はいくらでもあった。
 その中でも極めて大きな理由が、昼間出会った彼女の存在だった。
 口元に見えた歯の矯正器具、右目の下の泣きホクロ、短く切り揃えて艶めく黒髪、やや低めの身長、憂いと照れを含んだ表情、愛嬌のある動作。彼女に会ったあの数分間が何度も繰り返し脳内再生される。
 彼女を想うと、手元が止まって執筆は大難航した。どこに泊まっているのだろうかと、エリアマップを眺めた。食後の入浴をしているかもしれない、と湯上り姿に想いを馳せた。そうやって彼女のことを考えると、執筆に追われる焦燥感は薄れていく。彼女にもう一度会いたいと思う。もしかしたら、明日には帰ってしまうかもしれない。そうなれば、もう会えない。ならば、早急に何かしらの行動を起こさねばという、新たな焦燥感が生まれる。
 いけない、いけない。執筆に集中しに来ているのだ。
 私は冷静になろうと部屋の窓を開けた。湿り気がある冷たい空気が頬を撫でる。酔いと熱がさめていくのを感じる。
 眼下には大谿川が静かに流れ、風情のある明かりを照り返していた。柳の木は、水面にくっきり映っている。いかにも、旅の情報誌で取り上げられそうな景色だった。
 少し落ち着いたので執筆を再開しようと思ったところで、窓外から楽し気な声が聞こえてきた。複数人の若い女の子がはしゃいでおり、下駄を鳴らして歩いていた。間違いなく彼女らだろうと思った私は、確認もせずに入湯セットを持って部屋を飛び出した。
 彼女らを追って、急ぎ足で川沿いを進んだ。やがて道は川沿いを逸れ、その辺りから徐々に建物が減ってきた。夜虫の鳴き声が徐々に激しさを増す。確実に闇が増えていく。昼間見たお土産屋はシャッターを閉ざし、射的屋の明かりだけが煌々と輝いている。
 射的屋にも彼女らの姿が見えないことを確認すると、さらに先を目指した。いよいよ街灯もなくなったかというところで、新たな明かりが現れた。なんてことない、昼間に訪れた外湯の一つに辿り着いたのだ。
 城崎温泉街では最奥にある湯なので、ここに彼女らがいなければ途中の他の湯にすでに入ってしまっていたことになろう。
 幸い、湯の外まで彼女らの声が聞こえていた。ここで間違いはないだろうと思い、私も中へ立ち入った。
 昼間とは全く印象が異なり、露天風呂が嫌に暗かった。私の他に入浴客はおらず、女湯側の声だけが聞こえていた。日が暮れてから気温が下がり、昼間よりも湯気も濃くなっていた。日本庭園を模した露天風呂は、その茂る梢さえも姿をくらましている。女湯と男湯を隔てる木壁は湯気に隠れて見えない。
 私は、彼女らの声に誘われるように、湯気の中へ入っていった。視界の悪さゆえ、昼間よりもずいぶん広く感じた。歩いても歩いても、木壁までたどり着けず、湯気に巻かれて脱衣場の明かりも届かなくなった。
 声に向かって進んでいたはずが、いつの間にか彼女らの声が遠くなり、そして聞こえなくなった。夜虫の声もない。そこでようやく木壁に当たった。
 彼女らがもう出てしまったのかもしれない。入ったばかりだが、風呂を出て彼女らを追いかけようと思った。
 ところが、先ほどまで闇で唯一の明かりだった脱衣場の照明は見当たらず、私の周り全てが柔らかく光る湯気に覆われていた。ほんの数メートル程度だと思っていた露天風呂が無限に広く感じられ、戻る道もわからず、いよいよ怖くなった。彼女らの声はなく、私が動く水音だけが湯気に響いた。
「湯気がすごいですねぇ」
 試しに叫んでみたが、誰からも返事をもらえなかった。
 仕方なく、木壁沿いに歩いてみることにした。木壁に手をついて伝って歩いていくと、湯気の中から次々に植樹が現れ、顔を掠めた。うっすらと見えている木壁の続きを見失わないように進む。振り返ると、それまで木々や壁があったことが信じられないくらいに何も見えなかった。そこにあるのは、暖色に色づいた湯気だけである。
 どれだけ進んだかわからない。一歩、一歩と進んでいるうちに、脛を強打した。ようやく、露天風呂地獄の縁に到着したらしく、湯気の向こうにうっすら脱衣場の扉が見えた。
 予定に反して長居をしてしまったため、彼女らに出遅れてしまった。雑に身体を拭き、外へ出る。髪を乾かさなかったので、夜風が頭皮に凍みる。
 どれだけ耳を澄ませても彼女らの声はしなかった。私は闇夜に下駄音を響かせ、せっせせっせと歩いた。
 慌てていたこと、そして何よりも暗かったこともあり、私は道を誤った。
 一寸先に広がる闇の中を、一寸、また一寸と進んだ。
 次第に、せせらぎが聞こえ始めた。いつの間にか、小川沿いを歩いていたらしい。
 一体、どれほどの川幅があるのかは暗くて見えないが、さらさらとしたせせらぎは、清流を髣髴とさせた。せめて少しでも川の様相を確認しようと闇に眼を凝らした。
「また会いましたね」
 突然、左側の闇の中から声をかけられた。
 悲鳴も上げられず、ひたすら闇に眼を凝らした。厚ぼったい梅雨雲が突然晴れて、月明かりが差した。そこには、昼間出会った矯正器具の彼女の顔が、ぬぅっと浮かび上がっていた。
 ほかの三人の姿も声もない。
「嗚呼、あなたでしたか」
「驚かせてしまい、申し訳ありません」
 彼女は月明かりで顔に濃い影を作りながら微笑んだ。肌は透明なほど白く、月明かりで青くも見えた。青白い肌に、泣きホクロは浮き上がる。短い黒髪はそこに闇を湛えている。薄い唇からは見えた矯正器具は、わずかに輝いていた。
「お一人で城崎へ?」
「ええ……」
 何をどこまで話せばよいのか、うまく考えられなかった。昼間、私が抱いた彼女への感情が、彼女を目の前にして溢れ出していた。きっと私よりずいぶん年下に違いない。恥じらいもある。
 言い淀んでいると、彼女の方が会話を導いてくれた。
「お仕事のお休みでしょうか。普段はどのようなお仕事をなさっているんですか?」
「実は、私、小説家です。最近、少し執筆に行き詰っていて、こうして温泉へ参りました」
 一度話始めたら、すらすらと言葉が出た。担当編集者がとても厳しいこと、有名作家に憧れて執筆したらたまたま賞が取れたこと、そして作家生命は虫の息だということ。
 私が話をしている間、彼女は柔らかな表情で静かに聞いた。時折、優しく頷いたり、相槌を打って、最後まで聞き続けた。
 話は次第に泣き言や弱音に変わった。
 二本目が出版されたところで仕事を辞めて作家一本に絞った後悔を吐き、次の締め切りが今日にも関わらず執筆が捗らない苦悩を語った。近頃は発行部数が伸びず、知名度も全くないことを告げた。私の作品名を挙げて、知っているかどうか問うてみた。酷く気を使わせてしまったことを感じ取った。
 負の感情を彼女へ吐露しながら、心のどこかで「彼女へ伝えたいのはこんなことではない」と思っていた。「彼女に対する想いを伝えろ」と自分を叱咤した。
 ふと、彼女と目が合い、彼女は優しく微笑んだ。
「つまり、あなたを小説にさせて欲しい」
 私は、震える声でそう告げた。

   ◇

 沈黙が訪れた。
 懸命に話していた時には忘れていたせせらぎが聞こえてきた。
 彼女と合わせた目は、反らせなかった。
 先に目を反らせたのは、彼女の方だった。
「見てください、ホタル!」
 彼女に促されてせせらぎの方へ目をやると、一筋の光線が走って、ふわと消えた。また少し離れたところでふわと光線が現れ、また消えていく。しだいに光線は数を増し、音だけだった川面に光線が反射するのが見えた。無数のホタルが身を焦がしていた。
「ホタルはもうそろそろ終わりだろうって、旅館の方が仰っていました」
 そういうと、彼女はホタルに憐れむような視線を向け、手を伸ばした。すぐに一匹のホタルがやってきて彼女の指の周りを徘徊した。
「なんか素敵。私は、有名作家から小説にしたいって言われた女になれるんですね」
 そうして彼女はホタルを指に留まらせて、優しく言葉を紡いだ。彼女の顔に新たな色が灯る。
「滞在中に書いた作品を、毎晩ここで見せてくれませんか。わたし、まだここにいる予定なので」
「毎晩なんて、大変じゃないですか。お友達との時間もおありでしょうし」
 彼女はこちらを一瞥した。その目には柔らかさや優しさは消え、悲しみと憂いに染まっていた。
 一旦晴れた夜空は再び暗転した。梅雨の空は変わりやすい。
「小説、楽しみにしてますね」
 彼女は会釈をして、闇に向かって歩き始めた。
 慌てて追いかけようと思ったが身体に力が入らず、情けない声だけが闇夜に吸い込まれた。
 空気が再び湿り気を帯び始め、ホタルたちがみるみる減っていった。いよいよ雨っぽい臭いが鼻孔を満たし始めたので、彼女が歩んだ方向へ進んだ。
 突然、周囲が明るくなり、見覚えのある通りに出た。今来た道を振り返ってみてもそこには闇があるばかりで、どのようにして戻ってこれたのかは判然としなかった。
 昼間通った覚えのある道を進み、宿へ戻ったところで黙々とパソコンに向かった。タバコを吸うことも忘れてキーボードを叩いた。今朝に京都を出発してから今に至るまでをストーリーにして書き上げた。今日の分の執筆に満足いったのは日が昇ってからだった。

   ◇

 夕方までたっぷり寝て過ごしてしまい、目を覚ました頃には温泉街が赤く染まっていた。昨夜の重い雲はどこへやら、広く済んだ空が目に入った。
 開けっ放しにした窓からは、少し賑やかな声が聞こえていた。外国人観光客が団体で来ていたらしく、聞き覚えのない言語が飛び交っていた。
 その声に混じって、若い日本人女性の声が聞こえたので、窓の外を見る。
 彼女らは大きなイルカのぬいぐるみを抱えて歩いていた。城崎マリンワールドという水族館が近隣にある。そこで購入したものだろうことは、容易に想像できた。
 そして、宿の死角に消えていった。
 携帯電話には、担当編集者からの着信が溢れていた。見なかったことにする。
 広間へ夕食を食べに行ったついでに、ホテルスタッフにプリンターを借りれないかと頼んでみる。二つ返事で承諾を得た。
 食後、ロビーにあるプリンターを拝借して、今朝までの成果を印刷した。それを風呂セットと一緒に持ち、外へ出た。
 昨日と同じように大谿川を上流へと向かう。最奥部の湯についた。私と入れ違いに、外国人観光客の団体が出てきた。下足箱に入った履物がごっそりなくなる。
 女性ものの下駄だけが残された。
 露天風呂へ出ると、今夜も彼女らの声が響いていた。少しはしゃいでいるのか、水音が聞こえる。
 今日も濃い濃い湯気で、対岸は見えなかった。
 昨日の反省を踏まえて、一番手前に身体を沈めた。振り返り、そこに脱衣場の扉が見えていることを視認した。足元に排水口の蓋を感じ取り、自分の位置を確認した。ようやく安心して、湯に身を委ねた。
 顎まで湯につかり、ぼんやりしていると、あっという間に濃い湯気に覆われた。ぼんやり起きていたつもりが、いつの間にか寝ていたのかもしれない。あれほどはしゃいでいた彼女らの声が一切聞こえなくなっていた。
 今宵も出遅れたと慌てて上がろうと思ったが、どうも脱衣場の扉が見当たらない。できるだけ手前に浸かっていたはずが、風呂のど真ん中にポツンと立っていた。ひとまず、自分なりに扉に向かって歩いてみるが、どこまでも濃い湯気と温かい湯があるだけだった。
 がむしゃらに歩いてはダメだと思い、意識的にまっすぐ歩いた。歩いても歩いても、風呂から上がることはできなかった。このまま温泉卵か茹蛸になり、明日のホテルの夕食にされてしまうのかもしれないと、あり得もしない妄想がぷつぷつと湧いてくる。そんなわけあるか、と独り言を吐いたところで、足の裏に感触があった。
 排水口の蓋だった。
 歩いているうちに湯面に下がっていた視線をあげると、脱衣場の扉が見えた。
 やや逆上(のぼ)せ気味の頭で外に出ると、すでに彼女らの姿も下駄もなかった。昨日の道順をたどり、小川沿いに出た。月明かりのおかげでまっすぐたどり着くことができた。今宵は天気が良く、月が明るい。月に負けじと光るホタルが無数に舞っていた。
 ほどなくして、飛び交うホタルを眺める彼女の姿が見えた。
「こんばんは」
「こんばんは、今夜もお願いします」
 私は恐る恐る原稿を取り出した。彼女はゆったりとした手つきでそれを受け取った。うっすらと満足そうな顔を浮かべて表紙を眺めていると、原稿に一匹のホタルが止まった。
「昨夜と比べると、随分と数が減ったことにお気づきでしょうか。今年はもう終わりみたいです」
 明滅を繰り返しながら紙面を歩くホタルを、彼女は子供のように眺めながら言う。言われてみれば、確かに昨夜と比べると、圧倒的にホタルが少なかった。十日ほど前に一斉に飛び始めたホタルたちは、今年の命を間もなく終えるらしい。
 ホタルが紙面から飛び立つと彼女は原稿をパラパラと捲り、月明かりを上手に使ってじっくり読んだ。原稿用紙換算で十枚程のストーリーを、たっぷりと時間をかけて読んだ。彼女が紙を捲る音と川音だけの世界が続いた。
 文量に対して長すぎるほどの沈黙があった。その間、私は彼女の顔を見続けていたが、月明かりの陰になって、その表情までを見ることは叶わなかった。きっと口は結ばれている。彼女のあの矯正器具が月明かりに照らされることもない。私は、少しでも彼女の表情を盗もうと見つめていたが、原稿に目を落とした彼女の影は濃かった。
 ふいに彼女が顔をあげた。
 目が合う。思わずそらしてしまう。あれほど見ようと凝視していたのに、いざ目が合うとそらしてしまった。ただ、一瞬だけ見た彼女の表情は、どこか寂しそうだった。
「ありがとうございました。また明日もお待ちしていますね」
 そういうと、彼女はおもむろにライターを取り出し、原稿に火を点けた。燃えた紙は切れ切れになり、小さな火の粉となって空へ上がっていった。彼女の顔が炎で赤く染まる。ささやかに彼女の表情が動き、矯正器具がわずかに見えた。
「ホタルは大人になると、食事ができなくなります。口にするのはわずかな水だけ」
 炎が手元まで迫ると、彼女は原稿を空へ放った。細々とした火の粉の赤を避けるように、黄緑の光がふわふわと飛び交う。
「彼らは体内に残ったエネルギーを燃やして光ります。身を焦がして、恋をして、そして燃え尽きていきます」
 彼女はくるりと身体を翻し、闇へ向かって歩き始めた。
「あなたの原稿も燃やしました」

   ◇

 昨晩と同じく、いつの間にか見知った道を見つけて、無事にホテルへ戻って来れた。来た道を振り返っても、深い闇があるだけで、目を凝らしても道を見つけることはできなかった。
 露天風呂で湯気に巻かれてから、彼女と別れてから通りに戻ったあたりまでの記憶はぼんやりとしていた。夢でも見ていたかのように、現実味が感じられない。あの一連を作品に書こうとしても、思うように筆は進まない。
 さらに、彼女の言葉をどう受け取れば良いのか決めかねて、続きの執筆に酷く難航した。それでも、彼女のことは容姿や纏う空気まで表現したかった。彼女の言葉は一字一句、聞き漏らさず、書き漏らさぬよう努めた。
 それでも思い出せる彼女の姿は朧気で、はっきりしなかった。風呂場の湯気に覆われるように、その姿の輪郭がぼやけていた。彼女の言葉を書き記したところで、本当に彼女がそう言ったのかさえも確信が持てなくなっていく。次第に、彼女に会ったことさえ信じられなくなってきた。あの暗闇の中、ポツンと一人で川面を眺めていた彼女の姿は、私自身が生み出した妄想のようにも思えてくる。
 思い出そうとするたびに脳裏に過るのは燃えながら舞う原稿と、それを遠巻きに飛ぶホタルの姿だけだった。あの時、私の作品はホタルになったのだろうか。そうとなると、私の作品の命は短い。わずかな期間で次の生命をつながなければ、そこでその遺伝子は途絶えることになる。
 これは、作家という職業も同じだということを彼女は伝えたかったのだろうか。作品を出し続けなければ、私が、もりひろという作家が消えてしまうのだと。もりひろという作家の命がそこで終わるのだと、彼女はそう言いたかったのか。
 作品を書き続けなければ、他の作家に埋もれてしまう。埋もれないためには、とにかく作品を出すことに限る。常に新作を書店に並べてもらうことで、ギリギリでも作家として生き続けることができる。
 私の新作が出なければ、新作コーナーには別の誰かの作品が並ぶ。売り場をメスのホタルだとすれば、作品は生命の種で、作家はオスのホタルだ。メスに気付いてもらえるように、光り続けるのだ。それはすなわち、作品を出すことに他ならない。
 彼女はそう伝えたかったのだと勝手に合点した私は、改めて今日の分を書きしたためる。彼女の心情描写だと思って、勝手に解釈してキーボードに叩き込んだ。
 俄然、気持ちが高揚した。作家として延命するためにも書かねばならない。彼女への想いを、感情を、ここに昇華させるのだ。
 今宵見た彼女の表情は、昼間に見たものとも、昨夜のものとも異なっていた。言い表す適切な言葉が浮かんでこない。作家として致命的な語彙力、表現能力の欠如である。
 彼女の顔を覆っていた影はどうもこの世のものではないほど濃く、深かった。あのまま彼女が顔を上げなかったら、私は凝視したままあの闇に吸い込まれていただろう。そうして、こちら側へ還ることは叶わない。
 結局、今日の分を思うように書き上げる前に、座椅子に座ったまま深い眠りに沈んでいった。

   ◇

 昼頃に目を覚ました私は、昨日の進捗状況を思い出し、顔も洗わずにパソコンに向かった。
 ほんの昨夜のことなのに、すでに遠い過去のように記憶が薄れてしまっていた。昨夜にも増して、彼女のことを上手く思い出せなくなった。
 ありありと思い出されるのは、私の原稿が燃え尽き、空に舞う姿だけだった。彼女の姿も言葉もうやむやになりながら、昨夜の分を書いた。その前の晩と比べると、ずいぶんと文量が減ってしまったそれを、ホテルのプリンターを借りて印刷した。
 夕飯を終え、原稿と入浴セットを持って外へ出た。最奥にある外湯へ辿り着いたが、誰の声もなく、明かりも点いていなかった。
 玄関先に休館日の札がかかっていた。
 仕方なく、風呂には入らずに彼女との待ち合わせ場所へ向かった。
 いつもの場所へ着くと、彼女の姿はなかった。きっと入浴してから来るのだと思い、待つことにした。
 ホタルを眺めようと思っていたが、ホタルの姿はなかった。そこにあるのは、深い闇とせせらぎと湿っぽいにおいだけだった。
 それから何分待てども、彼女は現れなかった。今日は友人同士で盛り上がっているのかもしれないし、最奥にある外湯が休館日だと知って他の施設に行ってから来るのかもしれない。そうなれば多少、遅くなることもあろうと納得した。
 しかし、ついには彼女は現れなかった。重く低い雲がいよいよポツポツ降らせ始めたところで諦めて、ホテルへ戻ることにした。
 帰路に就こうと歩き始めたところで、道端にかすかな光を見た。かがんでみると、それは確かにわずかな光を発している。息をするよりゆっくりとした、それでいて消えるような弱い光が点滅していた。
 ホタルだった。
 ひっくり返り、弱々しく光を燈しているが、指を触れてもそこにしがみつくことも逃げることもできないほど衰弱していた。
 優しくホタルを摘まみ上げ、手のひらに乗せる。初めて触れるホタルは、思っていたよりもずっと小さく、華奢だった。カブトムシと同じ甲虫とは思えないほど軟弱な外殻は、摘まめば潰してしまいそうだった。
 ホタルの光しか見たことのない私は手のひらを顔に寄せ、その姿を良く見ようと目を凝らした。赤と黒の身体がうっすら見える。図鑑で見るホタルそのものだった。
 私の鼻先でホタルが突然、強く発光した。これまでの力ない光り方ではなかった。夜な夜な見た飛び交うホタルの光よりも強い光だった。その光の中に、どうしてだか彼女の姿が見えた。どうしても思い出せなかった彼女の表情がありありと思い出された。彼女の言葉が次々と脳裏を駆ける。炎に照らされた彼女に見えた影、輝く矯正器具。
 記憶の中の彼女は、とても美しかった。
 そして、強い光は余韻を残しながら薄れていき、消えた。
 その一度きりでホタルは息絶えた。
 私は亡骸を手のひらに乗せたままホテルへ向けて歩き出した。

   ◇

 城崎温泉で三泊を過ごし、四日目の朝には特急に乗って京都へ帰った。着信通知を量産していた担当編集者に連絡を入れた。音信不通だったことと締め切りから遅れたことを手短に詫び、城崎で書き上げた短編をメールしたので見て欲しいと伝えた。
 奇遇なことに、帰りの特急には例の女性たちがいた。座席を回転させて向かい合わせに座り、車窓を眺めながら談笑していた。
 やっぱり、三人しかいなかった。
 彼女の姿はなかった。
 ホタルの亡骸は、壊れてしまわないよう手のひらに乗せたまま京都まで帰った。特急の車内はどうってことなかったが、京都駅から自宅のある錦林車庫までのバス移動は過酷だった。銀閣観光のためにぞろぞろと乗ってきた外国人観光客の団体にもみくちゃにされながらも、守り切った。
 手芸屋で購入した透明樹脂の中にホタルを封入した。
 今でも執筆机に乗せて、時々眺めてながら城崎で起きたことを思い出していた。
 何度思い返しても、自分が実際に体験したことであるという実感がなかった。風呂のことはもちろんのこと、彼女と出会ったことが信じられなかった。彼女がなぜ原稿を燃やしたのか、なぜ会えなくなってしまったのかの答えは聞けず仕舞いだった。そもそも、なぜ私の作品を読んでくれようと思ったのだろうか。その答えを聞きたくて、毎年、梅雨時期になると城崎へ足を運んでいる。最奥にあった露天風呂は普通の大きさだったし、ホタルを眺めた小川は割りと明るかった。もちろん、彼女には一度も会えていない。
 あれからというものの、私の作品に登場する女性は、どことなく彼女の面影があった。黒髪でショートで背が低くて右目の下にホクロがあって歯の矯正器具が艶やかで憂いを帯びた表情をする。
 彼女を「有名小説家」に書きたいと言われた女性にするため、今日も彼女を想いながら作品を書き続けています。

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私が城崎温泉へ行った時の体験をもとに書いた短編。 ホタルと露天風呂と六月の湿り気と黒髪の女性。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-02-17

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著作権法内での利用のみを許可します。

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