鳥人

鳥人

ある朝、目が覚めると私の背中に翼が生えていた。
仕事なし、貯金なし、彼女なしの私の鳥生活が幕を開ける。

第一章『鳥になりてぇ』

第一章『鳥になりてぇ』

 今思い返せば、あの一言が全ての引き金だったのかもしれない。
 仕事無し、彼女無し、貯金無し。住むところはかろうじてあるものの、部屋には洗面台しかないボロアパートだ。扉を開けて屋外の廊下を突き当りまで進むと、共用のシャワールームと汚いトイレ、台所がある。部屋にあるものと言えば、薄ぺらい寝具一式とささやかな衣類、丸めたティッシュが溢れたごみ箱と、シケモクが積みあがった灰皿。
 室内にいると陰鬱な気分になるものだから、私は散歩を日課として、極力室内に居ないよう努めている。
 昨日も日課の散歩の中で、河原を散策した。私が住む街の中心部を流れる河川に沿って上流を目指し、二つの河川が合流する地点へ至った。平日だというのに、観光客や近隣大学の学生がわらわらと往来している。私はそれぞれの河川に挟まれた三角地帯に腰を下ろし、空を仰いだ。
 一羽のトンビがひらり、ひらりと舞い、時折何か目掛けて急降下している。地面すれすれで何かを掴み、力強く急上昇したのち、再び優雅に旋回を開始した。
 それをぼんやり眺めていると、自然と口が動いた。
「鳥になりてぇ」

   ◇

 昨日見たトンビを思い返しながら、首をひねり身体をひねり、背中を眺める。
 不自然に盛り上がった肩甲骨には、人間の素肌としては不自然な風体をしている。昨日まで人間らしく毛の薄い背中がそこにあったはずだが、今私の目に映るのは、背中を埋め尽くす羽毛だった。手を回して触れてみると、なるほど、腰のあたりは普通の素肌だった。
 これまで意識して使ったことのない背筋に力を入れてみると、細かな羽毛を巻き散らかして頼りのない翼が広がった。
 ペンギンの雛のようにもこもこととして、昨日見たトンビのような優雅さはない。言ってしまえば、ぬいぐるみのような作り物っぽさもある。
 これまでの四半世紀の人生の中で一度たりとも羽ばたいた経験などないが、イメージと意識だけで背中に力を入れる。鳥の翼は人間でいうところの手にあたるはずなので、背中に力を入れるというのは妙な話だが、私の翼が背中から生えてしまっているのだから仕方がない。
 ウインクの練習をする時のように、手のひらで豚の蹄の真似をする時のように、意識をそこ一点に注ぐ。何とか翼を動かすことができるが、羽ばたくというよりも、機械仕掛けのおもちゃのようなぎこちなさが拭えない。翼の付け根からは動くものの、そこから翼の先までにあるいくつもの関節はピンと伸びたままで、大きなうちわと変わりない。
 伸びきった翼を大きく広げてみると、およそ三メートルはありそうだ。背中と関節一つで繋がるこれほどまでの長さのものを広げたものだから、背中がツンと張るような感覚があった。筋肉痛になるのは間違いないだろう。
 立ち上がってみて背中の力を抜いてみてもだらりと垂れ下がるだけだ。翼端は床に擂ってしまう。鳥のようにたたんでみようと力を入れても、無意味に羽ばたくだけだった。
 まずは翼を畳む練習から始めるべきだろうが、どこに力を入れるのかなんて見当がつかない。肩甲骨やその周りの背筋は前からあったが、翼の筋肉は「はじめまして」なのである。
 改めて考える。そもそも、鳥の翼は人間でいう手なのだ。翼の付け根は人間でいう肩で、ここは動かせることが分かった。その先の関節は、人間の肘や手首、指の関節に相当する。つまり、純粋に自らの腕を動かすつもりでコントロールすれば翼を畳むことができるに違いない。
 両目を閉じ、自らを俯瞰する。私の姿を想像する。肩甲骨から先は、自身の腕だ。肘を曲げれば翼が畳まれる。背中に畳まれた翼が納まる。上腕と前腕の内側がかすかに触れ合う。こうだ。
 わかる。感じる。感じるぞ。翼ではなく、腕をただただ曲げているだけで効果が得られていないことを感じる。脇をしめて前方にだらりと手の甲を垂れ下げた自分の姿が、目を開けずとも見える。まるで幽霊の物真似をしているかのような、極めて不格好な己の姿がわかる。
 目を開く。視線を下げる。やはりそこには、垂れ下がる手の甲が見える。背中の翼はピンと伸びたまま垂れ下がる。なんてこった。
 私は体をぐっとひねり、片翼を掴んで曲げてみた。ちょうど真ん中のあたりから二つに折れ曲がった。無理な姿勢で寝たあとの関節のようなギシギシとした痛みが伴ったが、曲げ伸ばしをしているうちに和らいだ。
 そうしてようやく、翼の感覚を感じ取ることができた。曲げ伸ばしをしながら、感覚に従って力を入れてみると、なるほど不器用ながら片翼が畳めるようになった。利き手と反対の手で文字を書くような違和感があるが、すぐに慣れると思う。
 今度はもう片方の翼も同じように曲げ伸ばしをしてみた。こちらも同じような痛みがあったが、先ほどよりスムーズに曲げ伸ばしができる。二度目となれば勝手知ったるつもりで、ややせっかちに感覚に従って力を入れてみるが、思うように畳めなかった。このたった一瞬で、最初の片翼が「利き翼」になってしまったというのだろうか。
 無理に動かそうとすると、不自然に体が傾いたり、ねじれたりする。片翼が勝手に動くこともある。逆向きでバッティングスイングした時も、こんなふうに逆の足が勝手に動いたり、不自然な姿勢になったりしたことがあった。
 躍起になっているうちに、翼で灰皿を吹き飛ばしてしまった。吸い殻と灰が飛び散り、細かな粒子が靄のように舞い上がった。
 あっと思った時には灰皿に翼が触れていたのだが、驚いたことに、その拍子に両翼がピタッと折りたたまれた。
 恐る恐る翼を広げてみて、再び畳んでみる。なるほど、今の一瞬でなんとなく感覚が掴めた。ぎこちないながら、翼を開閉できる。ようやく、それらしい感じになってきた。飛べるか否かは別として、翼を使いこなせるようになるまで、さほど長くはないかもしれない。
 酷く疲れた気分になり、私は布団に横たわり、泥のような眠りについた。

   ◇

 昨日見たものが夢であれと思いながら目を覚ました。夢であるわけもなく、私の背中には不格好な翼が生えている。相変わらず、ぬいぐるみのような綿毛が覆いつくしており、私が知っているどの鳥類の翼とも異なっていた。
 昨日習得したことを再確認する。ばさばさと翼を開く。ばさばさと翼を畳む。もう一度ばさばさと翼を開いて、まじまじと翼を眺める。辺りには細かな綿毛が飛び散っている。鳥の巣の様相を醸し始めた。
 床に散らばった綿毛を、翼を使ってかき集める。かき集めたところで、すぐに舞う。諦めた。
 昨日は風呂に入っていないことに思い至った。
 普段は、よっぽど汗をかいたり汚れたりしない限り、おおよそ二、三日ごとに近隣の銭湯へ通っていた。下宿の共用シャワールームは管理がなされておらず、酷く汚いので使用していない。
 近隣の銭湯は、国立大学のすぐそばにある。学生の憩いの場であり、たまり場でもある。それを古くからの常連が蹴散らすように我が物顔で利用する。両脇のシャワーは常連の席という暗黙の了解がある。湯船内に少しでもタオルが触れると怒鳴る常連がいる。ロッカーのカギを身に着ける位置で、何かのサインがある。一つ間違うと、知らない人がこちらの身体を素手で洗ってくれる。口うるさい常連が帰る深夜には学生連中が風呂桶と椅子を使って人間カーリングをする。脱衣場を覗きに来る老婆がいる。
 そこへ鳥の翼を生やした男が現れたらどうだ。常連に怒鳴られるかもしれない。貧乏学生の晩餐になるかもしれない。翼を素手で洗われるくらいなら、どうってことない。老婆はいよいよボケたと思うだろうか。
 下宿のシャワールームでは翼を広げて身体を洗うことはできないと思われた。
 ならば、今日も風呂はやめておこうか。
 しかし、涼しい気候に甘んじて、かれこれ四日も風呂に入っていない。髪の毛はべたつき、頭はかゆい。首を掻けば垢が出る。股もかゆい。足は臭い。
 要するに、そろそろ風呂に入りたい。
 ざぶんと頭から湯をかぶり、背中のこれも一緒に洗い流せないだろうか。泡立てた手拭いでごしごしと拭えないだろうか。
 少し自由に翼を動かせるようになったことでこの状況を受け入れ始めていたが、これは受け入れるべき状況ではないのだ。文明人として、受け入れてはならない、断じて。
 決意と同時に、一つの好奇心も生まれてきた。この状況は、はたして他人からはどのように見えているのだろうか。差別的な目を向けられる、ふざけていると思われる、はたまた他人からは見えないなどというご都合主義もあるか。
 むくむくと膨れた好奇心に突き動かされ、私は入浴の準備を始めた。翼を畳んで衣服を着るのは、少々コツが要る。翼の関節をぐいと寄せ、裾をくぐらす。不用意に力を入れると、衣服を引きちぎりかねない。
 自らの背中を見ることはできないが、不自然に出っ張っていることだろう。間違っても、二人羽織りではないことを断言しておきたい。
 薄い玄関から外へ出ると、冷たい風が吹き込んでいた。下宿全体が小刻みに震えている。帰宅したら倒壊して跡形もなく吹き飛んでいるのではないかと思ったことが幾度もあった。
 紅葉シーズンで観光バスが往来する通りを進み、銭湯へたどり着いた。道中、不自然に膨れた背中への視線を感じることはなかった。背中はぬくぬくと温かく、本物のダウンジャケットをまとっていると言えよう。うらやましかろう。
 四三〇円を支払い、脱衣場へ踏み入れる。常連が常置している風呂セットが見当たらないので、入浴中であることが伺える。扇風機に当たる学生、コイン式ドライヤーを使う中年男性、牛乳や缶ビールを飲む親子、人、ネズミ、コオロギ、有象無象が脱衣場に溢れていた。
 わざと目立つ位置のロッカーを使用する。やや大げさな音を立てて扉を開く。ベンチに荷物を広げる。誰もこちらを注視しない。
 勢いよく衣服を脱ぐ。翼がひっかかって、やや痛い。綿毛が飛び散る。誰の意にも介さず。
 翼を開き、背中を掻く。風でタオルが飛ぶ。老爺の髪がなびく。形勢に変化なし。
 ロッカーのカギは左肩に付ける。一番端のシャワーを使う。素手で身体を洗われたし、常連に怒鳴られて移動した。
 翼を念入りに洗う。綿毛が大量に流れ、排水溝が詰まる。
 タオルを湯船に漬ける。怒鳴られる。
 誰も翼に触れてはこないが、至って通常通りの銭湯だった。
 気味が悪いので、番頭の老婆に「私の背中におかしなものはついていないか」と尋ねたが、鼻で笑われただけだった。
 釈然としない気持ちを抱えたまま、巣へと帰った。

   ◇

 翼を授かってから三日目の朝を迎えた。
 今日は嫌に外が騒がしい。目の前の通りを往来する車両の音が轟く。窓のすぐ外からは雀の群れがちゅんちゅんで、通りの電線に留まる鳩のくるっくーが立体感を持って迫る。さらには河川敷で群を成すカラスがあーあーで、それに気圧されるトンビがぴひょろろろなのだ。
 忙しない鳥業界の喧騒は途絶えることなく、やれ冬支度だ、やれ巣の材料だ、やれ交尾だと聞こえてくる。かと思えば、餌付けされたアオサギへの妬み、巣箱を得たメジロへの嫉みを口にする。狸に喰われたツグミへの追悼もあれば、猫の玩具となったセキレイへの悪態もある。鳥業界とは話題に尽きないのだ。
 そうやって遠巻きに連中の会話を聞いていると、耳障りな会話も紛れてきた。どうやら、声の主はこの下宿内にいるらしい。屋根裏から汚い声が聞こえてくる。なんでも、共用の台所に誰かが忘れていった煮物が美味かったというのだ。
 この汚い下宿にも煮物なんて手の込んだ料理をする人間がいることに、たいそう驚いた。いつ訪れても使用感の感じられない台所だったからだ。もちろん、清掃も行き届いてはおらず、三角コーナーや排水溝には化石が出土していた。冷蔵庫だけは、常にアルコールで満たされており、使用感が満ちていた。
 それにしても、連中にはやや腹が立つ。人様の煮物を勝手に食べるなんて、害獣風情が無礼だと、当事者に代わって心の中で憤る。食って、ヤって、寝て、増えて。我々とはけた違いのスピードで世代を紡ぐ連中の気楽な生涯に自分が置かれている状況を重ねる。職場から逃げ出してかれこれ一か月経ち、金も社会的地位も、交友関係も失った自分。それでも残り半世紀はあろう人生。自分が連中のようにあっという間に生涯を終えていく生き物だったら、これほど悩むことはなかった。どんな状況でも長い人生が待っている、生きていかねばならない、だから悩むのだ。
 自由を求めて飛び出したつもりが、自らの首を絞めている。
 そうして再び「鳥になりてぇ」と呟いたが、背中に触れて、そっと前言を撤回した。

   ◇

 四日目を迎えたところで、背中には変化はない。相変わらず埃のような綿毛に覆われた翼が、形だけは立派に生えている。だいぶ細かな動きを習得したが、それと同時に至る所が筋肉痛に襲われている。少しでも和らげようと、翼を引っ張たり伸ばしたり。しっくりは来なかった。
 現状を打開すべく、自分なりにどのような手段で収入を得るか考えてみた。正社員などと贅沢は言わない。非正規雇用でも、日雇いでも構わない。百円でも得ないと食事にありつけない。状況は逼迫している。
 近所のコンビニでアルバイトを募集していたな、月に十万程度は稼げるかな。住み込みの仕事なら家賃もかからないな。まかないが出る飲食業も魅力的だ。履歴書が必要になるな、買う金はないから無料の求人誌の付録を使おうかな。
 ならば、近隣のコンビニへ出向いて無料求人誌を何部か頂戴して来ようと思い至ったところで、急に壁の汚れが気になった。それまで気にしていなかった、気づいてさえなかった壁の汚れ。それと部屋の角の埃。窓枠にたまった有象無象。
 これは身に覚えがある。
 テストの前夜だ。
 必死にテスト勉強していると、どうしてだか掃除をしたくなる。あれだ。
 一つの汚れが気になると、次々と気になる点が出てくる。窓の隅にこびりついたハエの死骸、玄関の隅に転がる害虫の糞、電球表面の埃。これまで見えていなかったものが目に入る。
 いよいよ我慢ができなくなり、着古した肌着を濡らし、かたく絞って掃除を始めてしまった。
 結局、求人誌も履歴書も手にすることなく一日を終えた。

   ◇

 昨日は結局、室内を隅から隅まで拭き上げ、珍しく布団を干し、溜まった洗濯物を消化した。食事を忘れて作業に勤しみ、夜半に疲れて寝てしまった。
 起きてみれば、背中から落ちた綿毛がそこかしこに散り、掃除の無意味さを痛感した。ところで、私はどれだけの寝相をしているのか、はなはだ疑問である。一晩でこれほど体毛を撒き散らかすことなど、常人にできるものなのか。
 丸一日、何も食べていないものだから、酷く腹が減った。ひとまず、外へ出て食料を調達せねば。
 いつも通り、河川敷を歩く。今日も鳥業界は騒がしい。ムクドリが集団営巣している団地では高周波の音波を発する機械を導入したとか、オシドリの夫妻の離婚調停が泥沼化しているとか、大学寮で飼育されている雄のインドクジャクは実は雌にペイントしたものだとか、がーがーで、ぴーぴーで、ちゅんちゅんで、ひゅーひゅーなのだ。
 正直やかましい。空腹がさらに感情の起伏を励起する。要するに、腹が減ってイライラするのだ。
 河川敷に設置されたごみ箱をカラスがあさる。耳障りで目障りな光景の中で見つけたものがあった。
 ごみ箱のすぐそばの斜面をミミズが這っていた。カラスたちは人間の食べ残しに夢中になり、ミミズに気づく様子はない。
 私はずんずん近寄り、カラスたちを蹴散らす。口々に文句を言いながら四散する。別にごみをあさりたいわけなじゃないのだと弁明する。ならば何用かと問われ、私はミミズを摘まみ上げて見せた。
 一羽一羽の顔を眺め、私はそれをすすった。口いっぱいにミミズ特有のクセが広がり、それを土の香りが追う。噛めば歯ごたえがあり、噛むほどに粘りが出る。肉感のある喉越しがたまらない。
 そばにある石をひっくり返す。二匹のミミズを逃げる前に素早く摘まむ。贅沢に二匹を丸呑みにした。芋虫もいたので、箸休めにつまむ。こちらは、濃厚なミルクのような味わいが奥深い。
 カラス連中に見せびらかすように食して見せたが、やつらにとっては、人間の食べ残しこそがご馳走であり、自然食の時代は終わったとのことだった。都会っ子にこの味はわからないらしい。
 私は手あたりしだいに食べ物を口にした。ミミズだけでなく、芋虫、蛾、トカゲ、ザリガニなどなど。どれも独特の風味があった。蛾は粉が口の中や喉にこびりつき、芋虫のような濃厚な味わいがあった。トカゲは鱗が気になったが、淡泊で食べやすい。ザリガニの殻は丁寧にはがした。口直しに木の実を食べた。酷く渋い味がした。
 腹が膨れて満足したところで帰路に就く。
 こうして五日目も終えた。

   ◇

 六日目の朝。ついに私の背中に変化が訪れた。
 それまで翼の表面をびっしり覆っていた綿毛がぼろぼろと抜け落ち、下から艶のある灰色の風切り羽が現れた。ところどころ、丘で放牧された羊のようにまばらな綿毛が残るものの、ようやく鳥らしくなってきた。
 羽ばたくたびに、綿毛は抜け落ち、玉となって床を転げた。
 そろそろ練習しなくてはと思い至り、いつものように河川敷へ足を運ぶ。
 ちょうど、鴨の家族が飛ぶ練習をしていた。母親がバタバタと羽ばたきながら、川面を滑走していく。水面を蹴り、母親の重い身体がテイクオフした。それを追うように四羽の子鴨が滑走を始める。まだあどけなさの残る翼で懸命に羽ばたき、色つやの良い水掻きで川面を蹴っても、誰一羽として浮かび上がることはできなかった。見かねた父親がそれを追い抜くように滑走をして、手本を見せる。
 私も河川敷で同じように走ってみる。背中の翼を大きく広げると、風の抵抗が両翼にのしかかる。八の字を描くように羽ばたいてみた。空気が後ろにかき出され、身体を押す。足がもつれそうになる。翼に揚力が感じられる。もう一度、空気をかいてみる。今度は確実に身体が浮き上がった。
 足が着地してもスピードに追い付けず、足がもつれる。転びそうになりながら羽ばたくと、加速をしながら身体が浮き上がる。それを繰り返しながら、浮いたり降りたりを繰り返し、一キロほども駆け抜けた。
 息があがり、全身に心地よい疲労感があった。かつての青春時代に白球を追いかけたあの日々のような爽やかな気持ちに浸りながら、ベンチに腰を掛ける。翼の綿毛は完全に抜け落ち、薄い灰色の翼になった。
 ところで、私は何という鳥なのだろう。
 先ほどの鴨のようにバタバタと羽ばたくような鳥や雀のように羽ばたき続ける鳥は忙しなくて嫌だ。ペンギンだとしたら陸上生活には適していない。ダチョウなのだとしたら、こんなに立派な翼は不要だ。できれば、トンビのような優雅な鳥でありたい。
 先ほどの鴨ファミリーが視界を横切る。結局、一羽も飛ぶことができずに今日の特訓は終わったらしい。頑張ったご褒美に美味しい食パンが食べたいという甘えた声が聞こえる。
 私も、今日のところはここで引き揚げた。帰りしなに腹ごしらえをし、銭湯で汗を流して一日を終えた。

   ◇

 七日目にして知恵を思いついた。なんでも、アホウドリは崖の上から飛び降りるように離陸するらしい。私も試してみようと思い、近所にある小さな山を登った。この山の中腹には、盆に行う送り火で用いる火床があり、斜面が大きく開けている。パラグライダーの滑走路のように眼下に街が広がる斜面を駆け下りて、勢いで離陸しようという魂胆である。
 背中に生やした翼のせいで、身体が重い。一歩、また一歩と山道を進むたび、息があがる。昨日の全力疾走の筋肉痛で太ももが痺れている。膝に力は入らない。
 ようやく茂った木々が開け、広大な斜面が現れた。
 眼下に見える街を見ても、自分が住んでいる街とは違う世界のように見える。ところどころ、木々が生い茂っている場所は、寺社仏閣だろう。街の真ん中を突っ切る河川は、いつもの河川だ。視線を遠くへ移すと、同じく盆の送り火で用いる火床がいくつか見えた。
 大通りを目で辿って自分の住まいを見つけたが、そこに住んでいる実感はなかった。
 大きく息を吸い込むと、下界とは異なるにおいの空気が体内を満たす。ほんの二百メートル程度の標高ながら、立派な山岳の空気があった。
 呼吸が整ったところで、目の前の空をにらむ。もう一度息を吸い込み、私は駆け出した。斜面を強く蹴り、翼で空を掻く。背中がぐっと押され、足の回転が追い付かないほどに加速する。大きく身体が浮き上がるが、体勢を整えることができない。
 強くにらんだ空は視界の上へ上へと流れた。代わって、視界の下から下界が流れ込んできて、それも上へと流れた。次に現れたのは、今いる山肌だった。
 手をバタつかせながら前のめりに転げ、顎をしたたかに打ち付けても、なおも転がる己を停めることはできなかった。激しく転げ、上が下になり、下は右になって、右は左になった。
 ようやく停まった頃には、火床の一番下まで転げており、割れた顎から血が滴った。痛みを覚えた手首はみるみる腫れていき、口の中で鉄の味が広がった。全身の力は抜け、すぐには立ち上がることができない。
 翼をまじまじと眺める。ところどころに土や草が付着し、路肩に打ち捨てられた鳥の死骸のようだった。
 上空から声がしたので見上げると、騒ぎを見に来たカラスが群れを成していた。
「鳥になりてぇ」

   ◇

 割れた顎の治療に行く金もなく、ティッシュだけで処置をしているうちに、あっという間に一週間が経った。
 何もせず寝て起きてを繰り返すうちに、昼夜が逆転してしまった。ぐだぐだと昼前まで寝ていたのが次の日には昼頃の起床に代わり、その翌日には昼を過ぎ、翌日はおやつごろに目を覚ますようになった。
 その間、屍のようにじっと過ごし、いよいよ空腹が限界に達した。
 顎や手首の痛みがなんとなく和らいできたので、食料調達に出る。
 河川敷に出ると、辺りはすでに夕焼けに染まり始めていた。
 今日も鳥界は騒がしい。ハヤブサが市バスと衝突したとか、観光地になっている商店街でスズメの丸焼きが売られているとか、カモの親子が外国人観光客連中に追い回されたとか。
 川面には水鳥たちが渡ってきていた。キンクロハジロとマガモ、バンといった水鳥が井戸端ではなく川端で会議をしている。空がだいぶ混んでいて、まだ到着していない水鳥集団があるそうだ。ヒヨドリとムクドリが備えて大集団をなし、糞を巻き散らす。人々の悲鳴が聞こえる。そういえば、最近はツバメを見かけない。
 ヌートリアファミリーが規則正しく整列して川を渡っていく。ヌートリアとは戦時中に日本へ持ち込まれた大型のネズミの仲間で、駆除の対象となる外来生物である。愛嬌のある外見ゆえに餌付けをされ、この河川でも爆発的に増殖した。その後、市の涙ぐましい駆除活動の末、ヌートリアたちはその数を大幅に減少させた。長い巣穴を掘り繁殖することが知られているが、その巣穴では人類に対するレジスタンス活動を模索しているとの噂だった。
 母トリアの後ろを、長兄トリア、次兄トリア、弟トリア、妹トリアが続く。母トリアが何度も振り返り、子トリアの安全を確認する。
 母トリアが全員の安全を確認した刹那、空から勢いよく舞い降りた影、浮き上がる弟トリア、悲鳴をあげる妹トリア、舞い散る羽。
 トンビが弟トリアを(わし)掴みならぬ(とんび)掴みをし、高々と羽ばたいていく。
 トンビが足を滑らし、弟トリアが落下し始めた。
 私は強く地面を蹴り、羽ばたいた。衣服は破れた。一直線に、弟トリアの元へ飛び寄った。
 手を伸ばしたが、甲斐なく弟トリアは河川敷に叩きつけられた。一瞬、全身を震わせたかと思うと、一切の動きがなくなった。
 トンビは私の姿を見て、遠く飛び立った。一連を遠巻きに眺めるカラスの視線を感じる。
 そばには小さなげっ歯類の亡骸が転がる。母親は鋭い声をあげているが、私に近付こうとはしない。
 私はその小さな肉塊を手に取った。

   ◇

 昨日は、トンビから横取りをした形ではあったが久しぶりに肉にありつくことができた。あの後、河川敷に暮らすヌートリアやネズミを上空から探し、片っ端から捕らえていった。明け方には腹も膨れ、久しぶりに心地の良い眠りについた。
 夕方、のろのろと寝床を抜け出し、河川敷を上空からパトロールする。ネズミを捕らえる。飛び疲れたら、地上でミミズを探す。虫も食べる。
 羽休めに御苑のクスノキで休憩をしていると、声をかけられた。
 長い長い前置き、脱線、喜怒哀楽を身振り手振りで大げさに語るが、要するに「そろそろ越冬のためにベトナムへ渡るから一緒にどうか」というお誘いだった。
 明日にはここを出るらしい。
 南方の方が食べ物が豊富という点、非常に温暖で過ごしやすいという点において、たいへん魅力的な誘いである。間違っても、彼女が自分の好みだったとか、そういうことではない。断じて。
 心が大きく傾いたが、明日までに下宿を引き払うことが困難である旨を伝えた。そして何より、私は語学力に乏しい。現地の言語が何語なのかさえ知らない。試しにいくつかの単語を発してもらったが、何一つとして意味を理解できるものがなかった。
 私に教養がないことがわかると、彼女は私をやや冷ややかな目で見るようになった。私は居ても立ってもいられなくなり、白み始めた夜空を音もなく羽ばたきながら下宿へ逃げ帰った。

   ◇

こうして私の、鳥生が幕を開けた。

第二章『人になりてぇ』

第二章『人になりてぇ』

 一人の男性がいる。
 凹凸が少なく細長い胴体。ひょろひょろと頼りない四肢。自信とやる気が消え失せた顔。そしてなぜだか上半身は裸で、もやしのような肌色をしている。丈に合わせて買ったズボンはウェストがだぶだぶで、不格好なほどにベルトで締め上げている。
 その背中には端から端まで三メートルはあろう翼が生えている。体は人間、背中には鳥の翼。得体の知れない奇妙な男。
 それが、今の私である。
 今、私は心から思う。
「人になりてぇ」

   ◇

 夕方、川沿いにある寝床から河川敷に降りる。そのまま歩いて、二つの川が合流する三角地帯へ足を運ぶのが私の日課だ。冬至を迎えて日が短くなり、辺りはすでに暗くなっていた。
 この時期は食料となる虫や爬虫類、ネズミなどの小型哺乳類の姿は見られない。腹を膨らますのは困難だった。
 ひと月前、冬を越すために南方への移住を提案してくれた彼女の誘いに従うべきだったという後悔の念が強い。あちらでは年中が夏のようで、食う物には困らないのだという。私に語学の教養があればと自責の念に駆られたところで、今ではどうしようもない。航路もわからないし、何千キロにも及ぶ長旅を絶えぬく自信もない。
 やむなく、こうして夜ごとに食料を求めて徘徊しているのだ。鵜の目鷹の目となって獲物を探した。この時期の食料調達には、少しの手間とコツが要る。
 まず、河川敷に設置されているベンチを動かす。ベンチの足の下からは小さな虫や稀にミミズが現れる。これを素早く捕らえる。しかし、どれも数センチ程度なので腹は膨れない。
 次に、枯れ葉が溜まっている場所を探し、そこを掘る。ここには芋虫やミミズ、小型のゴキブリなどが生息しており、掘り起こされると一斉に逃げ惑う。それらを片っ端から摘まみ喰い、再び掘る。これで気がまぎれる程度には腹が満たされる。ところが、二〇代半ばの男の食欲を満足させるには到底足りない。
 そこで考案したのが、人間の生活圏での狩りだ。
 繁華街を歩いているときに、排水溝から排水溝へ、自販機の下から自販機の下へ、そして暗がりから暗がりへ駆け巡るネズミを目にしたことはありませんか?
 あれを見てぎょっとする方が多いことだろう。以前の私だってそうだった。「都会はばっちい所だ」などと思っていた。今となって考えてみれば、都会はバイキングのようなものではなかろうか。
 夜が更け、日付をまたいだ頃になってから繁華街へ飛んだ。東西に細かく区画分けされた街の上空を飛び、賑やかな明かりを放つ繁華街を目指した。どこへ降りようか検討していると、ちょうど飲食店が入った雑居ビルの裏に空き地が見えた。その空き地目掛けて降下する。
 裏手から雑居ビルの壁沿いを歩き、飲食店の換気扇のダクトを探した。建物の間から差してくる街明かりが強くて目が疲れる。できるだけ目を細めて周囲を見渡すと、壁から飛び出した四角い排気ダクトが見つかった。排気ダクトは壁に伝って天に向かって伸びており、上空で脂っこい湯気を吐き出していた。ダクトと壁の間には五センチほどの隙間ができている。ダクトの表面には上の排気口から伝って垂れてきたと思われる油がこびりついていた。
 そばに立つと、ほんのりと温かい。このまま抱きしめて暖を取りたい衝動に駆られるが、表面のべたつきが気になるので断念した。それよりも、空腹を満たす必要がある。
 私はダクトの裏を覗き込んだ。何かがカサカサを密集しており、小刻みに動き回る。細い触角が無数に揺れている。波打つように何かが動き、私の気配に気づいて少し慌ただしくなり始めた。これだけでバイキング形式の食べ放題のような光景だが、私の本命はこれではない。
 カサカサと動き回る食材の群れの中に、四つの小さな光を見つけた。
 私は、その四つの光のうち手前の二つに狙いを定めて手を突っ込んだ。反対側から無数のゴキブリが津波のように溢れ出していき、それに混じって二匹のドブネズミが飛び出した。
 地面を無数のゴキブリが烏合の衆となって散らばる。そこをドブネズミが突っ切った。
 二匹は揃って雑居ビルの壁伝いに逃げる。私は中腰になってそれらを追い立てて手を伸ばすが、簡単に躱されてしまった。奴らはそのまま逃げ続け、ついにはビル裏の暗がりから、きらめく通りへ駆けていった。ちょうどその場に居合わせた通行人が驚いて声を上げた。
 遅れて、私も表へ飛び出す。通行人がさらに大きな悲鳴を上げた。勢いよく地面を蹴って翼を広げる。後方へ向けて強く羽ばたくと、押し出されるように身体が急加速する。その勢いを利用して、通りを横切るネズミの一匹を鷲掴みにした。通行人の悲鳴はついには枯れて腰を抜かし、タクシーは急ハンドルを切った。
 私は大きく羽ばたき、騒ぎから逃げるように飛び立った。急いで飛ぼうと力んだ際に強く握ってしまったネズミは、小さな声をあげて動かなくなった。
 そばの雑居ビルの屋上に降りて、ネズミを咀嚼する。食いちぎって内臓を吸い出す。爪や骨は食べにくいのでペッと吐き出すと、空調の室外機の風に舞って下界へ落ちていった。ひげも体毛も美味くはないが、避けて食べるのは難しかった。
 下界では大声で叫ぶ声が響き、サイレンが近づいてきた。かわいそうなことに、急ハンドルを切ったタクシーは道路沿いの水路に突っ込んで落ちてしまったらしい。ここからは、前のめりになって水路に顔を浸けたタクシーのお尻だけが見えている。
 口の周りについた血や毛を腕で拭い、のどにまとわりつく毛を吐き出す。何度も喉から唾液を吐き出しても、喉のイガイガ感は消えなかった。
 地面には黒い染みができ、早くも乾き始めている。ビルの白い屋上に、そこだけ闇へ通ずる穴が開いたようだった。
 しばらくの間、下界の騒ぎを高見から見物していた。二人の警官が駆けて来て、遅れてパトカーが到着した。皆、何かを口にしては、指で地面から空へ弧を描いた。私が飛び立った様子を興奮気味に話していたのだ。誰かが空へ弧を描きながら見上げるたびに、私はそっと身を隠した。
 クレーン車両が到着し、タクシーを引き上げた。片側のライトが割れ、ささやかにボンネットが潰れていた。それ以外は、案外、大丈夫そうだった。その頃になると、野次馬も減っていた。警官が忙しなく歩き回り、地面に印を書いたり写真を撮ったりしている。
 そろそろ騒ぎも落ち着いてきたので新たな獲物を探そうかと思い、次の目的地を定めようと周囲を見渡すと、向かいの雑居ビルの屋上で同じように下界の騒ぎを眺める人の姿があった。
 大げさな程に着ぶくれしたベージュのダッフルコートをまとい、マフラーをぐるぐる巻きにして顔の半分が埋もれてしまっている。手にもボリュームのある手袋をつけているが、下半身は短いズボンとタイツといういで立ちだった。髪の毛は黒のショートカットで、夜明かりでつやつやと照らされている。色白な肌の透明感は、夜明かりではミステリアスに映った。
 私はぼうっと彼女を眺め続けた。心を外側から握られているような、チクチクと刺されているような、懐かしい感情が芽生えた。ヤワなハートが痺れた。
 そして、何のきっかけもなく彼女はこちらを見た。
 突然目が合い、私の胸はぎゅっと締め付けられた。ヤワなハートは鷲掴みにされた。彼女の眼は黒目が大きくて、まるで猫のようだった。二重と右目の下のホクロも見逃さなかった。
 ドギマギして思わず目をそらしてしまい、再び視線を戻すとそこに彼女の姿はなかった。
 彼女にこちらの姿を見られた。さすがに人間の視力では、この暗さなら私の背中の翼を認識したり、顔を覚えられるほどはっきり見えたりはしないだろう。しかし、下で起きている騒ぎとの関連を疑われ、通報をされるようなことがあっては困る。今にもここへ警察が来るかもしれない。
 自分の中で警鐘がなった。今すぐここを発てと、心の中の自分が叫ぶ。それでも、彼女の痕跡を感じたくて、向かいのビルへ飛んだ。彼女が身を潜めてこちらの動きを伺っているのではと警戒したが、彼女の姿はどこにもなかった。扉も鍵が締まっており、人の気配は感じられない。あるのはただ、大きなドブネズミの死骸だけだった。
 なお、私が彼女に惚れてしまったことは、私が生きてきた中で一番の不覚であり、できることなら口外しないで頂きたい。

   ◇

 年が明け、冷え込みが一層厳しくなった。
 風の噂で聞いた限りでは、人間界では謎の巨大飛翔生物が話題になっているらしい。人間の姿をして闇夜を飛び回っている姿を見たという証言が絶えないそうな。たった一度、人間界に騒ぎを起こしてしまっただけでこんなに大事になるとは思っていなかった。
 立つ鳥が跡を濁してしまった悪い例であり、あれ以来私は繁華街での狩りを控えている。
 河川敷での食事も限界を迎えていた。何も口にできない日も少なくはない。
 今夜は人目を忍んで近隣の大学寮に忍び込んでみた。戦前からあるという古い寮舎を取り囲むように、高さ二メートルほどの立て看板が立ち並ぶ。演劇サークル、軽音サークル、ジャズ研究会、映画同好会、天山窯、アニメ研究会、マンガ研究会、特撮愛好会、クジャク料理普及会、ステキブンゲイ、吉田山に生えるキノコを食べる会、コーヒー愛好会、坂口安吾を愛する会などなど、活動内容が一目でわかる団体から、活動内容が不明瞭な集まりまで様々だった。
 寮舎はところどころに明かりが灯っている。麻雀牌を混ぜる音、音の不安定なギターサウンドと裏返った歌声、いかがわしい映像作品から流れる男性の言葉、お経、クジャクの鳴き声、走れメロスの音読、ポップコーンが弾ける音が入り混じっていて、混沌としていた。
 寮生のような顔をして、正面の玄関を開く。脱ぎっぱなしの靴が雑然と並ぶ。左右が揃っていないものもある。こんなに寒いのに、サンダルもあった。ここにある靴は、圧倒的に男物が多い。というか男物しかないように見える。一つだけ、女性もののハイヒールがあるが、異様に大きい。私の足よりも大きい。
 そんな玄関に、大型水槽が鎮座している。幅が二メートルほどはあり、アロワナくらいなら飼育できそうだった。周りには黒い布が巻かれていた。視聴覚室にあったような厚手のもので、遮光性が高そうだった。
 遮光布をそっと捲ると、水槽の中は土で満たされていた。水槽のガラス面には、土の中のラグビーボールほどの空間がいくつか見える。空間と空間は細い空間で結ばれており、一匹の生き物が行き来していた。
 ピンクの素肌に伸びた前歯。鋭い爪。細長い胴体と短い四肢。
 ハダカデバネズミである。
 私は水槽の上蓋を音を立てないように開き、そっと足元に置いた。こつん、と音がしたが、どこかの部屋から溢れ出る讃美歌にかき消される。
 蓋が開くと、エサの時間と勘違いしたハダカデバネズミが巣穴から這い出て来た。鼻先をスンスン鳴らしながら、水槽内の地面をぐるぐると回る。時折、こちらじっと見つめてくるが、この動物は目がほとんど見えていないと聞いたことがある。いつもと違う臭いに反応しているだけだろう。
 私が手を差し伸べると、彼は近寄って来る。指先の臭いを一通り嗅ぎ、手のひらに前足をかけた。
 その瞬間を逃さず、手のひらを一気に閉じた。親指と中指をハダカデバネズミの首に回し、手首を返すように首の骨を折った。
 刹那、断末魔の叫びが漏れたが、讃美歌のおかげで誰にも気づかれなかった。生肉を片手に携え、片手で上蓋を閉める。
 どこかの部屋から陽気な声で「ちょっとトイレ行ってくるわ」と聞こえたので、速やかに学生寮を後にした。
 寝床に戻り、肉を味わった。相当に甘やかされて育ったハダカデバネズミは、皮下脂肪をタプタプに蓄えていた。ハダカ“デブ”ネズミだ。ずいぶんと食べ応えがある。肝も脂で膨れており、生のフォアグラはきっとこんな味だろうと思われた。骨までしゃぶり切って、心地よい満腹感で眠りに落ちた。

   ◇

 節分を目前に控え、寒さは厳しさを増した。今宵は河川敷を飛び回り、手あたり次第の木々に降り立つ。
 河川敷沿いには片側二車線の通りがある。深夜ともなれば車はほとんど通らないし、人の往来もほとんどない。それでも稀に人の往来があるため、極力目立たないように飛び交った。
 河川敷沿いには染井吉野が並び、つぼみをギュッと閉じて春を待っているようだった。その枝の付け根あたりに小さな突起がある。枝が折れてささくれたトゲのような突起に、干からびたバッタが刺さっていた。
 これは“早贄”と呼ばれているもので、モズが冬に備えて餌を貯蔵しているものである。食料の種類は多岐に渡り、蛾、おけら、コオロギといった昆虫類から、カナヘビやヤモリの爬虫類、カエルやイモリの両生類まで様々だった。
 モズは昼行性なので、鉢合わせることはない。私は、彼らが汗水流して蓄えた早贄を手あたりしだいに口に入れていった。これが野生であり、自然である。これも弱肉強食の一角なのである。鷹は飢えても穂を摘まないらしいが、私は飢えたら何でも摘むのだ。
 そうしておよそ一週間かけて河川敷沿いの目につく早贄を食べつくし、さらに三角地帯に佇む神社を覆い囲む森の中の早贄を摘まんでいると、けたたましい声が響いた。キィ、キィと甲高い声が木々にこだまし、それに応えるように甲高い声が返って来た。
 何事かと突っ立っていると、正面から一羽のモズが勢いよく突っ込んできた。こちらが両翼を広げると、急旋回してそばの梢に降り立った。また一羽、さらにまた一羽、それぞれ微妙な距離を取りながら、私を取り囲んだ。
 私が彼らの早贄を食べていたことがバレてしまったのだ。曰く、食べた分の賠償と慰謝料として追加の食料を要求するということだった。
 私は平謝りして、例の学生寮へ忍び込んだ。夜間だというのに、彼らは少し後ろをついて飛んできた。
 先日食べてしまったハダカデバネズミに変わって、新たなハダカデバネズミが飼われていた。水槽のそばの壁には「ハダカデバネズミがいなくなりました。情報求ム!」という張り紙がなされている程度で、大した騒ぎにはなっていなさそうだった。
 まだ飼い始めて日が浅いせいで、同じ手口は通用しなかった。上蓋を開けた途端、警戒して巣穴の最奥に潜ってしまった。私は巣穴に手を突っ込んで、入り組んだ巣穴を崩落させながら彼の首元を掴んだ。抵抗して指先に噛みついたところで一気に引きずり出して息の根を絶った。
 逃げるように学生寮を去り、ハダカデバネズミの肉をバッタほどのサイズに切り分けてモズ達に配った。
 こうして節分の夜は明けていった。

  ◇

 モズの早贄があてにできなくなり、この冬一番の寒波が街を闊歩する二月半ばの夜、私は植物園へ侵入した。
 人気のない植物園を歩く。園内の木々に目を向けると、枝の付け根にちょこんと小さな巣箱が鎮座していた。どれも生活感が出ており、巣箱の下にはどんぐりの殻が落ちている。
 巣箱は靴箱ほどの大きさをしており、正面に直径五センチほどの穴が開いている。天井部分は手入れや掃除のため、開閉できる造りをしていた。
 私はその一つを覗き込んだ。静かな寝息を立てるリスの夫妻がいた。茶色い身体、長いしっぽ、丸い耳の彼らを起こさないように、蓋を開けた。
 蝶番がキキと小さな音を立て、巣箱がわずかに振動した。ニホンリス夫妻が揃って目を開け、ピッと立ち上がった。私は正面の丸穴を片手でふさぎ、もう片手を巣箱に突っ込んだ。飛び回って逃げるリス夫妻の一匹を鷲掴みにした。すかさずそれを口に咥え、首元をかみ切って息の根を絶つ。その間に残ったもう一匹が巣箱から飛び出して木から飛び降りた。
 私は幹を蹴って飛び、落ち葉に覆われた地面を逃げるリスへ急降下した。躊躇いなく片手で鷲掴みにし、息を絶った。
 二つの肉塊を、予め用意していた袋へ入れる。
 次の巣箱を目指して、夜の植物園を徘徊した。監視カメラのリスクがあるので建物やフェンスには極力近づかないよう注意しながら、全部で三つの巣箱を襲撃した。
 合わせて五匹の獲物を携え、寝床へ帰った。
 その五匹もたった二日で完食してしまい、再び夜の植物園に訪れた。
 そうして一週間かけて全ての巣箱を空にしてしまった。ちなみに、巣箱には住まず木のうろや建物の隙間に住むリスもいるので、植物園のリスを絶滅に追い込んだわけではないことを断言しておく。
 植物園の獲物を狩りつくしてしまい、狩場の“ネタ”が尽きたため、私は昼間も眠い目をこすりながら食料を探した。夜行性の私には睡眠時間云々よりも、昼間の強い日差しが目に刺さるようでしんどかった。
 昼間の狩りは、おもに市営動物園である。ちびっ子が溢れるふれあいコーナーにそれとなく踏み入って、モルモットと触れ合う。そしてこっそりとそいつを懐に忍び込ませ、何食わぬ顔で出て行く。できるだけ大きくて、大人しい個体を選ぶ。速やかに動物園を後にして寝床で食し、ようやく眠りに就く。
 それも長くは続けられず、いよいよ本格的な食糧難を迎えた。二月の末、ぼちぼち梅が開花し始めてメジロやヒヨドリが歓喜に小躍りする頃、今年最後のダメ押しとばかりに街に雪が降った。
 あと十日、いや一週間もすれば気温がぐんと上がり、食料になる生き物が這い出してくるだろう。ここが最後の我慢どころだ。ここを耐え凌げば、また食に困らず暮らしていけるはず。
 夕方より降り始めた雪は、夜更けにかけて勢いを増した。道も木々も河川敷も屋根も、目につくところ全てが白かった。あまりの寒さに動くことができず、寝床でじっと朝を待った。
 外を歩く人の姿は皆無だった。ところどころ、民家の明かりが漏れているだけだった。漏れ出した白や橙の明かりに、人の影が躍る。カーテンの向こうを想像する。
 食べ物に困ることなくほかほかの食卓を家族で囲み、風呂でぬくぬくして温かい布団で眠るのだろう。
 心の底から思う。人間っていいな。
 そして口から出たのは、
「人になりてぇ」

   ◇

 先日降り積もった雪は、しばらく残った。日中少し溶けては夜間に凍った雪がカチカチになって道の端に押しやられていた。それでも歩道は毎晩のように凍結し、至る所で転倒している人の姿を見た。私も何度か転倒しかけたが、野鳥的身体能力を発揮して怪我は免れた。
 日中は春の気配が満ちるが、夜間はまだまだ冷え込む。メジロやウグイス、ヒヨドリといった花の蜜を吸っている連中の冬は終わった。小さな昆虫もちらほら姿を現し始めたが、まだまだ私の空腹を満たせるほどではなかった。何より盆地特有の昼夜の寒暖差に身体がやられ、狩りに出る気力がなかった。
 それだけではない。例の「巨大飛翔生物」の噂も私のハンティング欲を減退させた。噂は尾びれ、背びれ、胸びれエラ浮袋がついて独り歩きしていた。
 噂はこうだ。
 体長三メートルほどの巨大生物が、大きな翼で闇夜を飛び抜ける。時折、繁華街に降りて来ては道行く人を驚かせているそうだ。時には人を襲うこともあり、行方不明者が出ているらしい。肉食で獰猛な性格をしており、鋭い両手には血が滴っている。
 一つ一つを訂正してみよう。まず、私の身長は百七十八センチ程度だ。翼はおよそ三メートルほどあるので、体長と両翼長がごっちゃになって伝わったのだろう。次に、繁華街に出たのはあの一度きりだ。確かに人を驚かせてしまったが、人を襲ったわけではない。行方不明者がいるとしたら、ドブネズミだろう。両手はまだまだ貧弱。今は冷水で手を洗うのがしんどい季節だ。手はできるだけ汚さないようにしている。
 またある噂では、明け方、カラスに混じってごみを漁っているらしい。
 一度だけ、魔が差したことがある。ごみを漁ったのだ。ところが、その日はビン、缶、プラスチックごみの日で、食べ物は得られなかった。もちろん、カラス達はいなかった。民家のそばのごみ捨て場でごみ袋を開け、中から出てきたプラスチックごみを見て、急に気持ちが覚めていくのを感じた。それ以来、一度もごみを漁っていないし、あの時は誰にも見られていなかったはずだ。
 こんな一人歩きした噂のため、私は思うように出歩けなくなっていた。寒さと噂に抑圧されて身動きが取れなかったが、とうとう空腹の頂点に達した。何をせずともムシャクシャし、食欲と破壊衝動に駆られ、寝床から勢いよく飛び立った。
 上空から街を見下ろす。縦横に規則正しく通りが張り巡らされている。まるで、碁盤を上から見ているように、無数の四角が並ぶ。その至る所に黒く塗りつぶしたような闇がある。神社や仏閣だ。私は闇ではなく、まばゆい明かりを放つ繁華街を目指した。着陸ポイントとして、できるだけ人気のないところを探した。河原に面した細い通りに薄暗い公園が見えたので、そこへ向けて降下する。
 久しぶりに深夜の繁華街へ降り立ち、飲食店が入った雑居ビルの裏手へ回る。
 先日と同様、飲食店の排気ダクトを探した。ほのかに熱を持った排気ダクトを発見した。裏を覗くが、生き物の気配はなかった。
 すぐに別の排気ダクト裏を覗いたが、そこにも生物の気配はなく、仕方なく別の建物を目指した。
 それから三軒、四軒と探し回ったが、どこにも獲物の姿はなかった。食物のエナジーを得られることなく、ただただ身体が冷えていった。
 食料を探すことにも疲れて、雑居ビルの屋上で休憩をした。ここなら下からは見えないので、騒ぎにもなりにくい。遮るものがないので、冷たい風を身体でもろに受ける。腰を下ろすと、尻から頭の先までが冷たさで痺れた。ぶるぶるとサブイボが這いあがって来るのを感じた。
 翼で身体を包み込み、少しでも風を避けた。膝を両手で抱え込んだ三角座りを、両翼ですっぽり覆った。翼の内側はほんのり温かい。じんわり身体全体が温まってきて、徐々に鳥肌が収まっていく。上空には雲一つなく、繁華街の明かりに負けじと星々が無数に広がっていた。
 アルファベットのWの形をしたカシオペア座を見つけ、柄杓の形の北斗七星およびおおぐま座を見つけ、その中間に位置する北極星を見つける。ベテルギウス、プロキオン、シリウスを見つけて三角形を引く。こんなに明るい場所でも、これくらいなら見つけられることを初めて知った。
 さらなる星座を探し出そうと目を凝らしていると、黒い大きな影が横切った。間違いなく、翼が生えている。おおよそ、二メートルから三メートル、私と同じかやや小さい。視界の右上から左下まで一気に突っ切り、私のそばに降り立った。
 私は身の危険を感じて立ち上がった。いつでも飛び立てるように身構えた。寒気と殺気で全身の毛穴が起った。
 そうして私は“彼女”と目が合った。
 私は、口元と両手を血に染めて音もなく翼を畳んだ彼女と対峙した。彼女は口から血を含んだ何かをペッと吐き出し、手の甲で口元を拭う。血痕が頬まで伸び、猟奇的だった。
 短く切り揃えた黒髪は風になびき、ベージュのダッフルコートの背面から畳んだ翼の翼端がわずかに見えている。ショートパンツにタイツのいで立ち。艶めく黒髪とは対照的な青白い素肌を血に染めていた。
 以前に雑居ビルの屋上で見かけた、黒髪の彼女だった。

第三章『飯がくいてぇ』

第三章『飯がくいてぇ』

 街には春が訪れた。桜の木の下で男女が睦言をかわす。鳥業界も恋のシーズンで、つがいの鳥たちが河川敷に等間隔に並ぶ。人目は忍んでも鳥目は忍ばず、情事に至る。私の寝床のすぐ下でもスズメが巣作りをしていた。昼間から情事に至り、小さな喘ぎ声が聞こえていた。幾日かすればころころとした卵を産むことだろう。
 そんな鳥界の春を尻目に、私は未だ独身であった。
 眉目秀麗なカワセミもいるし、容姿端麗なキセキレイもいる。スタイリッシュなアオサギもいるれば、豊満なボディのウソもいる。鳥界には美女が溢れている。
 しかし、勘違いしないで頂きたいことがある。我々、鳥は、相手が鳥なら誰でも良いわけではない。皆さんだって、相手が霊長類なら誰でも良いわけではないでしょう。いくら容姿が整っていたって、オランウータンやチンパンジーと結ばれたいという方はごく少数なのではありませんか。
 鳥も同じことで、基本的には同じ種類の鳥と結ばれることになる。
 厄介なことといえば、私が半分が鳥で半分が人である点だ。鳥的なハートで言えばもうじきベトナムから還ってくる彼女だし、人的マインドで言えば有名女優の名が挙がる。鳥人的フィーリングなら、夜の繁華街で出会った彼女なのだ。今すぐ一人を選ぶことはできない。もっとも、相手が私を選ぶ保証はどこにもない。
 春の河川敷。トンビたちは花見客の持ち寄った食べ物を掻っ攫い、スズメは花見客に媚を売って食料を恵んでもらう。カラスは花見客が捨てたごみをあさり、ハトはそれとなく花見客の食べ物に手を伸ばす。いや、伸ばすのは首か。
 この時期は花見客の持ち込んだ食べ物でフィーバーする。みんながお零れを狙って、危険を顧みずに人間に近づく。春の陽気のようにほんわかとして、警戒心が薄れる時期だ。
 この時期には、事故も多い。人の社会に近づき過ぎて車に轢かれてしまう者、食べ物と一緒にプラスチック片を飲み込んで窒息する者、人間のおふざけに巻き込まれて捕らえられてしまう者などなど、命を落とす鳥が後を絶たない。
 鳥インフルエンザや食料難の冬が終わり、春になると異なった危険がある。その時期ごとに危険は常に付きまとうのだ。
 私はここぞとばかりに寝て喰う生活を満喫した。春はどこにも食べ物があって、バイキング形式の食べ放題、時間無制限だ。
 今夜も満腹を求めて河川敷へ繰り出す。夜桜見物で賑わう河川敷で、私は人として歩く。
 さて、今日の私は上半身にも服をまとっている。
 服をまとっていては、翼を広げられないではないかとお思いの方もいることだろう。私もそう思っていた。そう思って、ひと冬を上裸で乗り越えてしまった。
 今はフードパーカーを羽織っている。パーカーの背中にはU字型の切れ込みを入れてある。これにより、翼を畳んでいるときはパーカー内に収納できるという仕組みだ。主に夜間しか行動しない私なら、そう簡単に鳥人であることがバレたりはしない。
 ちなみに、これは例の鳥人の彼女の真似をした。
 夜間に狩りをしていると、しばしば彼女を見かけることがある。こちらから話しかけたりはしない。彼女はどうも、とっつきにくいオーラを発していて、やすやすと声をかけられないでいる。
 本心を言えば、彼女と仲良くなりたいような心情もあるが、これはご内密にお願いします。
 繁華街で鉢合わせした夜は、年末に起こした騒動を思い出していた。私がタクシーを水路に沈めてしまったあの『事故』である。私は彼女に現場を目撃されていたため、酷く警戒していた。彼女が敵視すべき存在なのか、それとも半鳥半人の仲間となり得るか。
 向こうの出方を伺いながら、いつでも戦えるよう身構えていると、彼女はひと際大きな骨を吐き出し、たった一言だけ発した。
「下手くそね」
 そして、彼女は口元に血を滴らせたまま闇夜に消えていった。
 その後、顔を合わせても向こうは意にも介さなかった。私は一応、会釈だけはしていた。
 春の夜の河川敷では、学生が新入生歓迎コンパを行っている。そこかしこで盛大な花火を打ち上げては、河川敷の夜間パトロールに注意をされている。花火がさく裂するたびに、辺りが照らされ、音に少しびっくりする。本当に、少しだけ。
 今宵も風に乗って彼女の匂いが漂ってきた。桜と菜の花と火薬の香りの中に、爽やかな人工的な香りが混じる。たぶん、マシェリ。
 風上を凝視すると、風上から彼女の影が見え始めた。乱痴気騒ぎの学生軍団には見向きもせず、じっとこちらを見ながら近づいてくる。彼女の周りだけ、空気の質が異なっていた。
 私はやや緊張しつつ、会釈をした。
 彼女は菜の花のような柔らかな色合いのカーディガンを羽織って、やや肌寒そうに両腕を抱いていた。
 私は、できるだけ興味なさそうに、目を合わせ過ぎないようにしながら、彼女が通り過ぎるのを待った。
 ところが、今宵はあろうことか彼女の方から話しかけてきた。
「ちょっと、いい?」
 ぎょっとして身体をこわばらせると、彼女は私の腕を引いて歩き始めた。女性らしい細い指だが、強さを感じた。
「どうされました?」
「ちょっと見てもらいたいものがあって、あなたのこと探していたの」
 私に見せたいものとは何だろうかと考える。例えば、夜桜の綺麗なスポット。学生や他の見物客のいない穴場的な場所を知っていて、二人で夜桜見物をしようとか。例えば、街の夜景を夜空から眺めようとか。例えば、余計な明かりが一切ない場所で、春の星空を見上げてみようとか。
 どれもロマンチックなデートのような妄想に紐づけされる。妄想はさらに先へ加速していき、あわよくば繁殖しようとも思った。ところで、我々のような鳥人の子供は、卵か胎児かどちらだろう。
 私の妄想の全てが全くの検討はずれだったことは、歩き始めてほんの五分で証明されてしまった。
「これ、あなたはどう思う?」
 毛におおわれた黒い塊。何かの、生き物。小型犬よりやや大きめ。これは、狸だ。
「これは、いったい」
「狸が食べられているの。見てわかるでしょう?」
 よく見ると、黒い部分は闇に沈んだ血液だった。見るも無残に、可食部は根こそぎ食べられ、骨や毛皮だけが残されている。
「さすがにこれほどのサイズの獲物は、僕には狩れない」
「それはわかっているわ。誰の仕業だと思うか聞いているんじゃない」
 なんとなくムッとしたが、態度には出せなかった。
「これほどの大型の獲物だとしたら、オウギワシみたいな大型の猛禽類とかオオカミみたいな肉食の哺乳類か……」
「それ、日本にいるの?」
 私の現実味を帯びない検討に、彼女は呆れて眉間を抑えた。顔つきはあどけないのに、言動や仕草は大人びている。
「この辺りで一番大きい生き物は何?」
 呆れ声のまま、彼女は私に問うた。この辺りの大きな生き物。たびたび里山からはイノシシやシカが河川敷に降りてくる。山間部へ足を運べば、ツキノワグマの爪痕が目に入る。そういえば、グレートピレニーズを飼育している家が近所にあった。それらの生き物が狸を骨の髄まで食べつくすものだろうか。
 そうでなければ。
「僕らだ」
 彼女は、ようやくわかったのねと小さく呟いた。
 私も彼女も、身長だけ見れば、日本人らしい背丈だ。しかし、翼を広げれば二メートル半を超える。この辺りに住む生き物で最も大型の生き物といえよう。しかも、肉食で、私は小型の哺乳類から爬虫類、昆虫などを口にする。
「そちらさんは、狸も狩れるんです?」
「そちらさんはやめて、名前くらいあるし」
「お名前を伺っても?」
「摩耶山の摩耶。あとは好きに呼んで」
 摩耶山、と聞いてすぐにはわからなかった。六甲山のあたりにある山だと知ったのは、ずっと後のことだった。
「これだけ大きな獲物を狩る生き物なんて」
「わたしたち鳥人以外にあり得ないわ」
 なるほど、お仲間がいるのか。人見知りなので仲良くすることはできずとも、鳥人として生きる者が他にいるのは心強い。
「鳥人の仲間がいるのは心強いなぁなんて思ってない?」
 図星をさされて、何も言い返せなかった。
「これを見て、本当に何も思わなかったの? これだけ大型の獲物を捕らえて、こんなに食べ尽くしているのよ。安全な存在かどうかだって、まだわからない」
 そこまで言われて、ようやく事の重大さに気が付いた。謎の鳥人が獲物を食べ尽くしてしまい、我々の狩りに支障を来す可能性がある。そいつが我々を食べることだってあるかもしれない。その時に私は戦ったり逃げ切ったり、大切なものを守ったりできるだろうか。もしそいつが人目について、鳥人の存在が広く人間界に流布されることも考えられる。そうなれば、私の平穏な生活にピリオドが打たれる日が来るだろう。
「摩耶はこれについて、どう思っているんだ」
「そうね、危険な状況だってことくらい。あなたのことだって、安全な存在かどうか怪しんでいるけどね。あなたに会うまで自分以外に鳥人がいるとは思っていなかったし、自分がどうして鳥人になったのかさえも分からないもの」
 その割に、猛禽類らしい猟奇的なハンティングをしているじゃないか、という言葉を喉元でぐっとこらえた。自分もそれなりに残酷な狩りをしているので、猛禽類の野生的本能なのだと納得した。
「情報をいち早く集めるべきなのは確か。身の安全のためにも、単独行動は避けた方が良さそうね」
「単独行動を避ける。了解」
「しばらくは一緒に行動してもらうわ」

   ◇

 摩耶は私の寝床のすぐ近所に寝床を構えた。昼間は寝て過ごし、日没ごろから連れ立って狩りに出る。河川敷でカエルを摘まんで、街灯に集まった昆虫を腹に流し込み、雑居ビルの裏のネズミで腹を膨らませた。
 狩り以外での彼女の行動はわからないが、詮索するつもりもない。適度な距離感こそが、円満の秘訣なのだと信じている。おおよそ私と同じように寝て過ごしているだろうという見解だ。同じ夜行性の猛禽類なのだから。
 夜間の狩りにおいて彼女は驚異的な狩猟能力を発揮し、速やかに腹を満たしていった。地上においても空中においても、素早さと器用さが際立っていた。音もなく狙った獲物を捕らえる姿は、まさしく夜行性猛禽類の鏡だった。私は持ち前のどんくささを遺憾なく発揮し、彼女のお情けで食料を恵んでもらうこともあった。
 こうして二人でささやかな『付き合いたて感』を味わっていた。日没後にどちらともなく寝床へ迎えに行き、河原に降りる。なんとなく、お散歩デートのようだが、食事風景は肉食生物のそのものだった。おしゃれなカフェなんかは無縁。
 基本的には毎晩、二人で狩りに出ていた。しかし、週に一度ほど、摩耶が狩りに行かないという日がある。曰く「わたしにだって、そういう日もある」と。女子とはたまに複雑なのです。
 そんな日は私も狩りには出ず、寝床でひたすら寝て過ごす。空腹を誤魔化すには、寝てしまうのが一番なのだ。
 このまま穏やかに二人の時間が続き、済し崩し的に交際が始まったりはしないだろうか。今の不穏な状況が吊り橋効果的に良い方向へ転がって、そのまま親密な関係にこぎ着けたい。
 私としてはありがたい生活が一週間続き、半月続き、一か月が過ぎてゴールデンウィークを迎えた。
 五月病が緩やかに私をむしばみ始めた頃、二人での狩りの際に事件は起きた。
 私の左頬に鋭い痛みが走った。鈍い音が遅れて耳に入り、平衡感が消えた。目を開いた時には私は顔や手のひらに砂利を食い込ませ、アスファルトに横たわっていた。頬の痛みはじんと響いて奥へ奥へと進み、鼓膜の痛みと合流して顎の関節に行き着いた。
 私は、私を張り倒した人物を追い、よろよろと起き上がった。
 身体じゅうに食い込んだ砂利を払うことなく、駆けだす。
「待ってくれ」
 私が声を張っても相手は振り向くこともせずに羽ばたき、闇夜に舞い上がる。私も慌てて翼を広げた。
「わざとじゃないんだ」
 私は弁明した。
 摩耶は私を侮蔑した目で、文字通り私を見下す。
「ほんと、男ってサイテー」
「違うんだ」
 私はいよいよ涙目になりながら、うろたえた。
 事件はほんの数分前に遡る。
 今宵も私は摩耶と二人で狩りに勤しんでいた。いつもの河川敷ではなく、琵琶湖から流れ来るという水路沿いを歩いた。この辺りはカエルが多く、虫も豊富なのだ。各々が、何となく互いを確認できる範囲で腹を満たしていた。ここまではいつも通りである。
 水路沿いにはいくつかのベンチがある。水路沿いを歩く人の姿はないが、ベンチにはアベックの姿があり、それぞれが二人だけの濃密な世界に入り浸っていた。互いの毛穴が数えられるほどにまで接近し、何か言葉を交わしあうアベック。膝枕をするアベック。犯罪の匂いがする年齢差のアベック。
 その中の一組のアベックが気になった。下心なしで見れば素通りしてしまうが、よく見れば、あれは、つまり、人間の繁殖活動だった。ベンチに座る男性にまたがる女性が小刻みに上下する。
 私は、それに見入ってしまった。先方からは気付かれないが、夜行性の猛禽類的視力ならしっかりとそれが確認できる距離で、それをじっくりと見てしまった。
 見てしまったこと自体には、深い意味はない。それを見て、自身の欲を満たそうとか、そういう魂胆は無く、テレビの自然番組で流れているような野生動物の繁殖風景を見ている時に近い感覚だった。信じてください。
 そろそろ食事に戻ろうかというところで、水路の対岸から私を睨む二つの目と合った。夜行性の生物の目は闇夜で良く光る。レーザービームのような二つの光線に、私はたじろいだ。
 それからのことは、走馬灯のようだ。彼女が私を破廉恥だとか変態だとか犯罪者予備軍だと罵倒する声と、頬の痛みだけははっきりと記憶に刻み込まれた。そうして今に至る。
 三行半を突き付けて家を出る女房のような彼女に追いすがろうと私が飛び立ったところで、前を行く彼女の後ろ姿が大きく揺さぶられた。直後には勢いのまま水面に叩きつけられ、大きな水音に周囲のアベックが身構える。
 あまりにも突然のことで、足も翼もすくんでしまった。水面に浮かぶ彼女の背中が水路を流れていく。彼女を救わねばと思っても、手も足も翼も出なかった。
 彼女が橋の下へ消えていくと、次は私の番だった。
 視界の端が急に陰ったと思った時には地面へ押し倒され、首元に鈍い痛みが広がっていた。肘肩にも胸にも生ぬるい温もりが伝う。
 目だけ向けると、何者かが私の首に噛みついていた。
 私を押さえつけて離さない手。視界を覆う大きな翼。かすかに見える頭頂部。
 間違いなく、鳥人だった。
 逃げないと。
 直観的に死を悟り、本能的な恐怖が沸き上がる。得体の知れない恐怖は増幅され、叫びに変わる。無意味な雄たけびが断末魔の叫びとなる。相手の頭髪を掴み、力任せに引き剥がす。 両手で相手の頭髪を四方八方へ引っ張る。わずかな可動域で相手を思いの限りで蹴る。使えるだけの筋肉に力を込めてあがく。
 私を取り押さえる腕に噛みつく。頭突きだってする。身体を左右に揺さぶる。
 どれだけ私があがいても魔の手から逃れられない。やつは私に馬乗りになりながら、私の急所を狙って、一撃一撃を繰り出してくる。相当な手練れであることがひしひしと伝わってくる。
 先ほど口にした食材が吐き戻る。咽る。吐いたものが喉に閊える。涙が出る。鼻血が出た。体中が痛む。口の中も切れて、吐しゃ物の酸味と鉄の味がする。
 悶絶。
 再びやつが喉元に食らいついた。
 悲鳴も出なかった。
 死を覚悟した。
 摩耶の顔が脳裏に過る。摩耶を助けないとと思っても、全身が震え、目の焦点が合わない。ぼやけた視界が赤く染まる。いよいよかと思い、ふと全身の力が抜けた。
 誰かの怒声が聞こえた。
 同じタイミングで相手の力も緩み、私は解放された。誰かが私から奴を引き剥がしたらしく、ぼやける視界にもう一人の姿が見える。奴はその人を張り倒し、そのまま飛び去った。
「大丈夫ですか!」
 涙を拭って見る。制服姿の警官が私を抱え上げる。その手の力強さが、やつの腕を髣髴とさせた。私にトラウマを植え付けるには、充分すぎるほどの恐怖だったことを実感する。
 汗や血で全身がぐっしょりと濡れていた。喉元と翼が痛かった。折れたかな、とも思った。
 はっと我に返る。
「友人が誰かに追われています、動物園の方へ走っていきました、すぐに行ってください!」
「なんだって! すぐに応援が駆け付けるので、ここにいてください!」
 走り去る警官の背中を見送り、すぐさま駆け出す。
 水路沿いを走る。水面に目を凝らす。どれだけ探しても彼女の姿はない。
 うつ伏せで流れてゆく彼女の姿を思い出す。水死体のそれだった。
「摩耶!」
 名を叫ぶ。ツツジの枝が刺さっても、脛にベンチの角が当たっても、かまわず走った。首から血が滴るのも、身体が痛むのも忘れて、摩耶の名を呼んだ。
 突然、木の陰から何者かに腕を掴まれた。そのまま強引に引き込まれる。反射的に身を翻したが、敵う相手ではなかった。相手は大きく羽ばたき、私の身体は闇夜へ吸い込まれる。私を掴むその手に、私は覚えがあった。
「摩耶、無事だったのか」
「当たり前じゃないの。そう簡単にやられてたまるもんですか」
 彼女は闇夜に向けてまっすぐ上昇していく。痛みで思うように羽ばたけない私を連れて、これだけ飛べるなんて、彼女はやはりただ者じゃない。
 私の腕を引く彼女の袖口に血がついていた。
「摩耶、怪我しているじゃないか」
「これくらいあなたと比べたら大した怪我じゃない」
「もしかして、僕が襲われているところも見ていたの?」
「いいやられっぷりだったじゃん。お陰でちょっとわかったことがあった」
 彼女は、私が食い殺されようとしているのをどう思ったのだろうか。弱肉強食には抗わない、ということなのか。
「いや、助けようとは思ったわよ、本当に。あんたが嘔吐していたから、ちょっとためらったの、ばっちいし」
 嘔吐だけでなく、本当は少し失禁している。本当に、少しだけだし、下は失禁しかしていない。本当に。
「で、僕がやられている間に何かわかったことは?」
「確実に息の根を止めて、食べるつもり。大きさはあなたより少し小さいか同じくらいだけど、あなたの力じゃ勝てないと思う」
 奴の力の強さは信じられなかった。まるで大男にのしかかられているように身動きができず、危うく食い殺されるところだった。今でも出血は止まっていないが、出血量は落ち着いてきている。人間の歯では、致命傷を与えるほどに首を噛みちぎるのはそう簡単ではない。私も哺乳類を食す時はかみ殺すのではなく、もう少し手っ取り早い方法をとっている。
 私の力では勝ち目がないことは確かだった。
「それよりも」
 彼女が言葉を言いよどむ。
「それよりも?」
「鳥人の存在が、人間たちに知られてしまったみたい」
 それは、私どもが日頃最も恐れていたことだ。
 危険生物または危険人物として捕らえられるのではないかとか、新種として研究対象にされて生物実験されるのではないかとか、野生生物を捕まえて食していたことが何かしらの法に触れたらどうしようとか、この街の制空権を侵害した罪に問われることはないか、などなど、根拠はないが何かしらの理由をつけて捕らえられてしまうことに怯えていた。
「とにかく、今夜の狩りはやめにしてあなたの手当てしましょう」

   ◇

 鳥界にも人間界にも、またたく間に件の噂が広まった。内容は年始に鳥界をざわつかせた例の噂そのものだった。人間の姿をして闇夜を飛び回る、あの巨大生物の噂は私のことなどではなかった。間違いなく、奴のことだ。
 私も彼女も、夜間の狩りを大きく縮小した。人として夜道を徘徊しながら、小さな昆虫を腹の足しにして過ごした。常に警戒を怠らず、お互いに手の届く範囲から離れないよう努めた。
 小さな虫ばかりでは腹が満たされず、丸々一晩をかけての食事になった。夜間の食事に時間と労力をかけ、昼間は泥のように眠る生活が続いた。明け方に寝床に滑り込み、再び目を覚ます頃には日没を過ぎていた。
 疲労がたまるようになり、摩耶も寝て過ごすことが多くなった。
 何日かに一度は、寝床を訪ねても返事がないほどに寝ているらしい。私も無理に起こしたりはせず、自分の寝床に戻って飢えに耐えた。
 鳥界は自粛ムードが流れ、不用意な外出はしないという風潮が広がった。人間界にも自粛ムードが漂っているらしく、深夜ともなれば人の往来は無くなった。
 影響は鳥と人間だけでとどまらなかった。ネズミもヌートリアも狸も野良猫も、めっきり姿を見なくなった。
 それでも何日かおきに被害者情報が耳に入る。飼い犬、酔っ払い大学生、動物園、外国人観光客、次から次へと謎の飛行生物に襲われた。幸い、人間界に死者は出ていない。
 被害が拡大し、ついに府警が大規模な対策を講じた。
 昼夜を問わず、多くのパトカーが巡回する。周辺の監視カメラを徹底して解析し、容疑者割り出しに奔走しているらしい。見つけたら速やかに避難し、府警に連絡を入れるよう記載されたチラシが各世帯に配布され、戸締りの徹底や夜歩き自粛を呼びかけた。
 我々も出歩くことができなくなり、空腹との闘いを余儀なくされた。騒ぎの終焉は見えて来ず、いたずらに時間だけを消費していく。
「なあ、摩耶。僕たち、もう何日食べていない?」
「余計なことを考えてはダメ」
「でも、でも」
「ああ、もううるさい。あんたのせいでお腹すいた」
「僕はお腹空いて死にそうだ。何か食べに行こう」
「あんた死にたいの?」
「食わずに死ぬなら、腹いっぱいになってから食われて死にたい」
 それ以降、彼女は何も言わなくなった。彼女はじっと動かず、うずくまって飢えに耐えている。ゆっくり呼吸をして、冬眠しているようだった。
 私もできるだけ消耗しないように、今夜も寝て過ごすことに決めた。
 そこに一羽の鳥が飛び込んできた。
「おや、ベトナムから戻られたのですか」
 アオバズクは息を切らして私に事情を説明する。向こうで知り合ったパートナーとともに御所のクスノキに居を構え産卵したところ、例の鳥人に襲撃された。パートナーは必死に卵をかばい、そして奴の餌食になった。
 鳥界では噂が入り乱れ、私にも疑いの目がかかっていた。野鳥たちは皆、私たちを遠巻きにして関わらないようにしているのを感じていた。
 そんな中で、アオバズクの彼女だけは私を信じて、頼ってくれているのだ。
「なあ、摩耶」
「わたしは嫌」
 彼女は動きもせずに返事だけ寄こした。
「行くなら一人で行って」
「でも」
「でもばっか。でもじゃないの」
 私はアオバズクの彼女を見た。摩耶の強い言葉に諦めが滲んだ顔をする。瞬きをする。目は潤んでいる。ような気がする。もう帰ると言わんばかりに、こちらに背を向けてしまった。
「待って、僕も行きます。一人では巣まで帰る間に襲われるかもしれない。御所までなら、大した距離じゃないし」
「勝手にして」
 彼女は結局、一瞥もくれなかった。私はアオバズクと連れ立って、寝床を後にした。
 川向こうの御所まで、巡回中のパトカーの目につかないように高度を上げて飛んだ。ほんの五分ほどのフライトだが、事の異常さをありありと感じられた。
 等間隔に並んでいたカップルは皆無。人も鳥も動物も息を潜めていた。虫の声と川のせせらぎだけが夜空に吸い込まれていく。
 上空から街を見下ろす。縦横に規則正しく張り巡らされた路地をパトカーの赤色灯が移動していく。一台。もう一台。さらに一台。縦に横に、無数の監視の目が行き届いていた。
 御所の暗がりに向けて降下を開始する。翼を小さくすぼめて、一気に降りた。アオバズクも私を追って、急降下する。巣を目の前に安堵の声が漏れた。
 直後、私のすぐ背後で悲鳴が上がった。
 アオバズクが羽を巻き散らして吹き飛ばされていく。翼はあらぬ方向へ曲がり、羽ばたくこともできずに落ちていった。
 私は素早くターンして、彼女を追った。ぐるぐると揉まれながら墜落していく彼女は目を硬く瞑る。表情には、死への覚悟が見えた。
 私のすぐ後ろを、何者かが追ってくる気配を感じた。私が切った風を、さらに何者かが切る音が不気味に接近してくる。
 もっと速く。彼女が地面に叩きつけられる前に、やつに追い付かれる前に。
 もっと。
 もっと。
 私は叫び、手を伸ばした。目を見開いた彼女が翼を伸ばす。あと少し。あと少しで彼女に手が届く。もっと速く。もっと手を伸ばさなくては。
 眼下には地面が迫る。コマ送りのようにじわじわと。それでいて、恐ろしい早さで。
 指先が翼に届いた。人差し指と中指で摘まみ上げ、抱きかかえながら、私は地面に叩きつけられた。
 とどめを刺すように、何者かが私に覆いかぶさって首に手をかける。くっと爪が喉に食い込む。私はこの手を知っている。
 私はアオバズクを茂みに向けて投げた。よろめきながら彼女は立ち上がり、こちらを見る。
「行け、逃げるんだ!」
 彼女は飛べなくなった翼を広げて、奴に威嚇する。足も怪我をしたらしく、まっすぐ立つこともできていない。
「何やってんだ、逃げろ」
 片手が首に食い込む。もう片手で後頭部を鷲掴みにされているらしい。喉が潰れて、声がかすれる。
「はやく」
 奴の手が私の首をひねらんとする。食いしばってもじりじりとねじられていく。
 そこでようやく、奴の顔が見えた。
「ようやく面が割れたな」

最終章 『鳥人』

最終章 『鳥人』

「ようやく面が割れたな」
 私の首をへし折らんとする摩耶に向けて、かすれた声で告げた。
 首を圧迫する手にさらに力がこもる。指が食い込み、喉が潰れそうだ。呼吸さえも思うようにできず、意識が薄れていきそうになるのを気力だけで持ちこたえた。
「摩耶、なぜ僕を襲うのだ」
 私は摩耶に問いかける。彼女の目は理性を持った人間ではなく、獲物を捕らえようとするハンターそのものだった。彼女の猛禽類的本能が私を獲物として認識していることは確かだった。
 どれだけ身体をひねろうと彼女の強靭な肉体はビクともせず、私の自由は完全に封じられている。喉を鷲掴みにする彼女の手を引き剥がそうと力を込めれば、さらに上をゆく力で応じられてしまった。そのたびにじわりと彼女の爪が皮膚に食い込むのを感じた。
 首の関節がきしんで音を立て、体内で不気味に響いた。少しでも力を緩めれば、簡単に殺されてしまいそうだった。それほどに彼女からは殺気が満ち溢れていた。
 しかし、その強引さはいつもの彼女の狩りの姿とは一致しない。彼女の容姿をまとっただけの別人のようだった。あの、音もなく目にも留まらぬ速さで華麗に狩りをする彼女はどこへ行ってしまったというのだ。
 彼女は私の首元に喰いつこうと、口を開いた。吐息はなんとなく生臭くて、口元には血痕が見えた。私が寝床を出てここへ来るまでのほんの数分間で、彼女はすでに何かを喰らったらしい。
 開いた口には並んだ歯が白く艶めく。お世辞にも歯並びが良いとは言えず、ややずれて生えた犬歯が肉食生物らしさを放っていた。
 彼女の白い歯に、赤い光が反射した。
 巡回中のパトカーだった。
 急ブレーキでパトカーが停まり、降りて来た警官が彼女へ飛び掛かる。彼らは私から彼女を引き剥がそうとするが、彼女も相当な力で応戦した。彼女が引き剥がされまいとこわばるたびに、私の喉に突き立てられた爪が食い込んだ。口の中は鉄の味で満ちていた。
 彼女は両手で私を捕らえたまま、両の翼で警官たちを薙ぎ払った。屈強な警官たちはいとも簡単に吹き飛んだ。
 けたたましいサイレンの音とともに、応援のパトカーが到着した。辺りを無数の赤い光が行き交う。
 再び複数の警官が彼女を取り押さえにかかるが、彼女の強靭な翼に一蹴されてしまう。
 警官たちは警戒して、彼女から距離を取った。
 その直後、破裂音が耳を裂いた。
 警官の一人が威嚇射撃をしたのだ。
 音と同時に彼女の身体がこわばるのを感じた。彼女は顔を上げて辺りを見回す。すっと彼女の力が抜けた。首にかけられた手から私は逃れ、馬乗りになった彼女を振り落とした。
 地面に転げた彼女が驚いた目でこちらを見る。その目は、いつもの黒目が多くてくりくりした彼女の目だった。
 警官が再び威嚇射撃をし、じりじりと距離を詰めてくる。
 彼女は私に切なげな目を向け、大きく翼を広げた。わあっと声が上がり、一人の警官が突進した。
 間一髪で彼女はそれをかわし、そのまま夜空へ羽ばたいた。バサバサと大きな音を立て、ぐんぐん上昇していく。
 警官たちはなすすべなく、見上げるだけだった。
 一人の警官がこちらへ駆け寄る。
「きみ、大丈夫か」
 喉がやられてしまったらしい。私はそれに答えることができなかった。
 代わりに私も翼を広げる。駆け寄ってきた警官が後ずさった。
 再び彼らに緊張が走るのを感じた。
 私は彼らには目もくれず、地面を蹴って飛びあがった。墜落した際に、左の翼を損傷したらしい。羽ばたくたびに激痛が走る。痛みで声が漏れそうになる。痛みにこらえようと食いしばれば、今度は喉の痛みが増幅する。
 彼女の姿がみるみる小さくなっていく。
「摩耶」
 出ない声を振り絞る。もちろん彼女には届かない。
 米粒になった彼女の姿、いつになく大きい羽音、女性らしいやわらかな甘い匂い、五感全てを使って彼女を見失わないよう努めた。
 それでも彼女の姿はいよいよ見えなくなり、匂いや音も途絶えてしまった。
 眼下には夏の送り火に用いる大文字の火床かぽっかりと開けている。かつて私が顎に大きな怪我を負った山塊は、鬱蒼とした闇を湛えている。
 この山を越えて行けば、琵琶湖のほとりの街にでる。果たして、彼女はそこへ行くだろうか。彼女が人目につく可能性がある場所へ行くとは思えなかった。
 ならば、彼女の行先として今考えられるのは眼下に広がる山塊だった。昼間はハイカーで賑わうこともあるが、夜間ともなれば人の気配はない。シカやイノシシが溢れる自然の楽園となり、身を隠すにはうってつけだった。
 私は火床に目掛けて降下する。大の字のちょうど真ん中目掛けて降りた。闇夜にシカの目が光り、私と目が合うと散っていった。
 周囲を見回した。眼下には街の夜景が煌めく。この距離でもパトカーの赤色灯の光が見える。私や摩耶を探して、縦横に行き来しているのだろう。
 遠くてシカがこちらを覗っている。私が一歩彼らに近づくと、彼らも一歩距離を置く。彼らなりの警戒心なので仕方がないが、周囲をびっしりとシカの目に囲まれると落ち着かない。
 彼らを気にしている場合ではないと思い、私は大の字の上へ向けて駆けのぼった。シカたちは甲高い鳴き声とともに移動を開始する。キーン、キーンと鼓膜に響く中に、一匹だけ、違う声が聞こえた。
 私が目指していた方向から聞こえたそれは、間違いなく断末魔の叫びで、にわかにシカたちにも緊張が走るのがわかった。彼らはもう私のことなど見ていなくて、悲鳴が聞こえた方向に顔を向け、耳をピンと立てていた。
 シカの悲鳴が聞こえなくなった。開けた火床からは外れた森の中へ、私は足を踏み入れる。途端に月明かりも街の明かりも届かなくなり、目鼻先まで濃い闇が迫った。
 私は息を殺し、気配を消してじわじわと進んだ。聞こえるのは風が木々を揺らす音と、何かを咀嚼する音だけだった。一歩、また一歩と進むたびに、咀嚼音は大きくなった。時折、何かを噛み砕く音や啜る音が聞こえる。私は姿勢を低くし、木々に隠れながら様子を伺った。
 暗闇の中で小鹿を喰らう奴は、間違いなく摩耶だった。私が不用意に近づいたところで、勝ち目がないのはわかっている。せめて、いつもの摩耶に戻ってくれればと思い、じっと相手の様子を伺った。
 彼女は小鹿の骨までしゃぶり、毛皮と骨以外を綺麗に食べ尽くしていた。いつか見た狸の亡骸を思い出させた。そういえば、いつも綺麗に食べる彼女を見て、「食べ方が綺麗な女性は魅力的だなあ」と思ったこともあった。
 小鹿が無残な姿になった。腹が膨れた彼女が、ふらふらとし始めた。目は虚ろで、時折手でこすっている。幼い子供のように眠そうな顔をした。
 そして、そのまま転げるように眠りに落ちた。
 私は彼女に駆け寄った。寝ている彼女のそばによると、健やかな寝息が聞こえており、あまりにも無防備だった。
 起こすべきか悩む。彼女を起こして私に襲い掛かってくる可能性だってあるが、このままここで寝ていては、誰かに見つかってしまいかねない。
 私は意を決して、彼女を抱え上げた。
 いつか私が襲われた時、彼女は大男のように重く感じた。それが今はどうだろう。見た目通りの小柄な女性らしい重さで、私でも抱え上げることができた。
 どこへ連れて行くこともできず、ひとまずハイキングコースから外れた茂みの奥へ奥へと進んだ。これだけ森の奥へ入ってしまえばハイキングコースからは見えないだろうし、しばらく身を隠すこともできよう。
 そこで再び彼女を地面に寝かせる。まだ起きる気配がない。
 彼女の寝顔を見下ろす私の後ろに、何者かの気配を感じた。
 緊張が走る。近づいている気配も感じられなかった。それでも確かに、木々のざわめきに混じって相手の呼吸が聞こえるのだ。
「お得意さん、安心なさい」
 ふいに声を掛けられ、思わず振り返った。
 小柄なその人は私を見上げ、後ろ手を組みながら立っていた。
「番頭のばばあ」
 彼女は不敵な笑みを浮かべ、こちらを見ている。
 慌てて摩耶を隠そうとしたが、すでに手遅れだった。
 番頭のばばあは摩耶の姿を全身をくまなく見始めた。
「いや、彼女は違うんです」
「なに、心配要らない。私もかつてはあんたらと同じだったからね」
「同じ?」
「なんだい、何も知らずにうちの銭湯に来ていたのか」
 ばばあは彼女の脈や呼吸を確認している。
「私もね、昔はあんたらと同じように背中に翼が生えていたんだ。今は生えていないけど、怠るとまた生えてくるかもしれない」
「生えてくる?」
「うちの銭湯に毎日入っていれば、人間らしさを取り戻すことができる。怠ればどんどん鳥になっていってしまうよ」
 ということは、どういうことなのか。
「つまり、あの銭湯のお客さんは皆、僕と同じってことですか?」
 ばばあはゆっくりと頷いた。私が翼を生やしたままあの銭湯に入っても誰も何も言わなかったのは、皆同じだったかた、ということなのだ。毎日、同じ人が銭湯に入っているのは、入らないとこうなってしまうから、ということなのだろう。
「おばさん、摩耶はどうなるんです」
 私はばばあに激しく問うた。彼女が助かる手段を知るのは、もはやこの人しかいないと思われた。
「まあまあ落ち着きなさい」
「この状況で落ち着いていられるわけがあるか」
 私の声が一段と激しさを増した時、摩耶がビクンと動いた。
「摩耶」
 私は彼女に寄り、彼女の意識を確認した。
 彼女はうっすらと目を開けた。少しずつ焦点が整って、私の目と合った。
「ごめんなさい、わたし」
「摩耶、きみが無事で良かった。無理に喋らなくていい。きみが無事であれば、それでいい」
「そんな訳にはいかないの。わたしには、あなたに話さなきゃならないことがある」
 そういって彼女は状態を起こして、座りなおした。酷く疲れた顔と口元の血痕が相まって、ホラー映画に出てくる怪物のようだった。
「とにかく、これを見て」
 彼女はブラウスのボタンをはずしていく。上から順に、ぽつ、ぽつ、ぽつとブラウスが開かれていく。下着が見え、彼女の素肌が見えてくる。
 正確には彼女の素肌は見えなかった。
 彼女の素肌はびっしりと羽毛に覆われていた。白と黒のまだらになって、その姿はまるで、
「シマフクロウ」
 私の言葉に、彼女は頷いた。
 彼女はブラウスを広げて、その胸部や腹部をあらわにした。
「わたしに翼が生えたのは、もう一年以上も前。最初は翼の使い方もよくわからなかくて、リハビリしているみたいに使い方を覚えていったの。自由に飛べるようになってからは、楽しくて楽しくて、毎晩のように飛び回ったわ」
 彼女は自分の翼を労わるように撫でた。今まで深く気にしていなかったが、私の翼とは色が違っているのは、そもそも種類が違ったからなのだ。男か女か、個性か、程度にしか思っていなかったが、彼女はシマフクロウで私はアオバズク、異なっていて当然だった。
「五感がどんどん鳥になっていくのも楽しんでいたわ。虫だって、トカゲだって、ネズミだって、美味しくなっていったの。そんな風に鳥生活を満喫しているうちに、だんだん人間の部分が薄れていって」
 そこで彼女は言葉を詰まらせた。嗚咽が漏れ、鼻をすする音もする。
「時々、人間の理性を失って、野生の狩猟本能に支配された。ただただ食べて生き残ることだけ、それだけが私を動かしていった。小さな哺乳類じゃ満足いかなくなって、大型の動物を襲うようになった。それでも私を満たせなかった。シカやイノシシ、そして人間も襲うようになった。それに、突然だれかに見られたりすると本能的な恐怖に襲われて、闘わなきゃ殺されるんじゃないかって怖くなった」
 私が襲われた時、彼女は確実に私を獲物として認識していたし、私に応戦されてことでさらに彼女は闘わざるを得なくなってしまったということだ。警察の到着が少しでも遅れたり、私が押し負けたりしていれば、確実に私は彼女の餌食になっていただろう。
「わたしが人間を失うのは、最初は月に一度くらいだった。それが次第に増えて来て、半月に一回になって、週に一回になって、今じゃ二、三日に一回の頻度でこれがくるようになって」
 彼女は涙ながらに告げた。
「ごめんなさい。わたしがあなたを襲ったの」
 私は彼女の肩を抱き寄せた。
「摩耶。僕はずっと前から気付いていたんだ。僕を襲ったあの手は、間違いなくきみのその手だった」
 彼女は私の胸元に顔をうずめて、子供のように声をあげて泣いた。
「わたしは、生きてちゃいけないんだ。みんなに迷惑をかけちゃう。きみにも、危ない目にあわせちゃう」
 私は何も言わずに、彼女の頭と、白く美しい翼を撫でた。
「摩耶、きみがそうなってしまったということは、僕もいつか人間を失ってしまう可能性がある。それを何とかできるのは、たぶんこの人しかいない」
 私は番頭のばばあを摩耶に紹介した。さっきからここにいたのに、彼女は気付かなかったらしい。それほどにばばあからは気配が感じられず、相当な手練れであることが伺えた。
「心配は要らない。うちの風呂に幾日か浸かれば、人間らしさを取り戻せるさ」
「おばさん、今から彼女を麓まで連れて行く。たぶん山の中にいる間は人に見られることはないと思うけど、下に降りたら」
 そこまで言いかけたところで、再び緊張が走る。
 何者かがこちらへ近づいて来る。人間。しかも複数人。きっと私がこの方角へ飛び去るのを、警察が見ていたのかもしれない。
 私たちは音を立てず、より森の奥へと歩みを進めた。
 足元には木々の根が飛び出している。気を付けないとつまづきそうになる。音を立てずにそれらをかわし、できる限りの速さで奥へと進んだ。
 私を追ってきた一団がハイキングコースを外れてこちらに向かってくる。風に漂うこの臭いは、
「警察犬がいる」
 逃げるには、もう飛ぶしかないと思われた。しかし、私は翼に怪我を負っている。ばばあももう人間のなので飛ぶことはできない。せめて、摩耶だけでも逃がすことができないだろうか。
「摩耶、聞いてくれ。僕はもう飛ぶことはできない。おばさんだって今は人間だ。きみだけでも飛んで逃げてくれ。やつらは僕が食い止める。もうすぐ夜が明ける。暗いうちに銭湯まで飛ぶんだ。おばさんの銭湯に入って、人間を取り戻すんだ」
「食い止めるって、あなたどうするつもりなの」
「わからない。とにかくきみが銭湯に到着できるまでの時間を稼ぐだけさ。おばさん、摩耶をお願いします」
「バカ言わないで。あなた一人で何ができるっていうの」
「言い争っている時間はない、早く行くんだ。もう犬がそこまで迫ってきている」
 着実に犬の匂いが濃くなっていった。犬の呼吸音までがすぐ近くに感じられ、少し距離を置いたところで犬の鳴き声が響いた。
「摩耶、飛べ」
 私は摩耶を押し、犬へ向けて飛び掛かった。犬は躊躇いもなく私の右腕に噛みついて来た。叩こうと振り回そうと離さず、歯が腕に食い込んでいく。向こうでは警官たちの怒声が響く。
「いたぞ」
 私は犬に噛まれたまま、警官に向けて突進した。腕も翼も足も、六肢全てで警察たちをなぎ倒した。警棒で殴られようと、もう一匹の犬に噛まれようと私は止まらなかった。彼女が無事に人間に戻れるなら、私の命がどうなろうとかまわなかった。
 惚れた私が馬鹿だった。あんなに美しい女性を救って死ねるなら本望だった。ついに彼女に想いを伝えられなかったことだけが後悔として残った。死んだら彼女への未練で化けて出てやろうと思った。
 あとから応援でやってきた警官が威嚇発砲をした。野鳥的本能で身がこわばる。恐怖が心を支配する。それでも、私は、摩耶を救わなくてはならない。
 もがいてもがいて、再び火床へ辿り着いた。開けた斜面には猟友会が銃を構えてこちらを伺っていた。もはや、私は人間として扱われず、里山に降りて来てしまった野生動物と同じ扱いを受けようとしているのだ。あの銃に込められたものが、私を一時的に眠らせるものなのか、永遠に眠らせるものなのかは私にはわからない。
 犬や警官にもみくちゃにされ、私の衣類は八つ裂きになっていた。ちらりと見える素肌に、これまでには無かった羽毛が見えた。
 しだいに意識がぼんやりとしてくる。ダメだとわかっているけど、身体から沸き上がるものを抑えることはできなかった。
 私は、彼女のように人間を失い始めていた。猛禽類としての、野生の生き物としての恐怖から人間たちに歯向かうことしかできなかった。人間を失わずに保とうと努めるたびに、反発するように野生が込み上げてくる。目の前の犬や人間だけでなく、己ともせめぎ合いの争いを強いられていた。
 噛まれ叩かれするたびに、怒りや恐怖がぼわっと燃え上がる。暴れて、皆を殺し尽くさねばならない衝動に駆られる。
 下界にはうっすらと日が差し始める。視界が眩しくて、目を細めた。
 私にまとわりついていた警官や警察犬が私から距離を取った。
 今だと思い、翼の痛みをこらえて空へ舞い上がる。もうどこが痛いのかわからなくなっていた。
 夜を背に、朝日に向かって羽ばたいたが、ひと際大きな破裂音が響くと同時に、右翼に新たな激痛が走った。体勢を維持できず、そのまま大きく傾いてしまう。続けてもう一発、再び私の右翼を鉛玉が貫いた。赤黒い血が滴る。声にならない激痛が襲う。
 一度上がった高度は、みるみる下がっていく。広大な雑木林が眼下に迫り始めていた。
 摩耶は無事に逃げ切っただろうか。ばばあと一緒に下界へ降り、人間を取り戻せただろうか。
 私は落ちてゆく中で、下界を眺めた。銭湯の煙突はよく目立つ。うっすらだが、煙突から煙が昇っていた。ばばあがボイラーを動かしている証拠だ。摩耶は無事に、銭湯まで逃げ切れたらしい。
 視界が霞んだ。頭から血の気が引いていくような感覚。背筋には悪寒が走る。両手、両足、両翼から力は抜けた。
 もう終わるんだとわかった。自分が生まれてからのことが脳裏を過る。郷里の家族や親せきの顔が順に現れては消えた。学生時代の友人、勤めていた職場の面々。
 ああそうだ、私は仕事から逃げ出して、籠城していたのだ。仕事なし、彼女なし、貯金なしでどうすることもできずに、河川敷でいたずらに時間を浪費していた日々。あの日、本気で「鳥になりてぇ」と願った。優雅に大空を舞い、人間の苦悩とか責任とか義務から逃れたかった。
 人間社会から逃れてみたらどうだ。新たな苦悩とか危機があったじゃないか。食べること、生きること、そんな最低限のことで苦労があったじゃないか。人間でも鳥でもどっちつかずで、繁華街で起こした騒ぎのせいで思うように狩りができなくなったじゃないか。みるみる鳥になっていってしまい、自己をコントロールできなくなる同胞の姿を目の当たりにしたじゃないか。
 人間を捨てて鳥になることは、結局何の解決でもなかった。元の問題をなかったことにできる代わりに、同じだけの新たな問題に置き換えるだけのことだった。
 改めて、思う。人になりてぇ、もどりてぇ。
 鳥になりてぇと呟いてからのほんの数か月。初めて翼が生えた日。奇妙だと思いながらも、どこか楽しかった。初めて虫を食べた日。食べるために稼ぐ必要がないと思うと心が晴れやかになった。火床で顎を割った日。病院に行けないことがどれほどしんどいか思い知らされた。初めて飛んだ日。飛んだことよりもヌートリアの味のインパクトが強かったが、あれから自由に飛べるようになった。
 そして、初めて摩耶と出会った日。
 敵か味方かわからない。向こうの雑居ビルから騒動を眺めている彼女の纏う空気、容姿、全てが私の好みだった。あの頃にはすでに、自制が効かなくなり始めていたのだろう。騒ぎを自分が起こしたものなのか否かを、不安に駆られながら伺っていたのかもしれない。
 次に彼女に会った時。あれは驚いた。突然、視界の隅から恐ろしい速度で降下してきたものだから、悲鳴を挙げかけた。思い返せば、彼女は私を襲おうとしていたのかもしれない。にもかかわらず、冷静に「下手くそね」と言った辺りは、彼女を称えたい。
 それから幾度も会釈を無視されて、ようやく彼女から話しかけられた夜に見た無残な狸の姿。彼女は何を思って私にあれを見せたのか。私もいつかは自制ができなくなるという警告か、はたまた彼女なりのSOSだったのか。
 あれから二人で過ごした日々。二人で行動することで彼女自身を監視する意味があったのだと、ようやくわかった。彼女はそういうつもりでも、私は彼女に惚れていたものだから、毎日心が弾んでいた。
 自分が彼女へ想いを告げるところを想像する。柄にもなさ過ぎて、うまく想像はできなかった。ただ、私の妄想の中で、彼女は美しく、華麗に獲物を捕らえていった。
 もう一発、雷鳴が轟いた。今度は確かな衝撃があった。私の胸元が温かい。身体は大きく揺れた。
 私の胸元にしがみつく摩耶の姿があった。
 彼女は私を抱きかかえて羽ばたいていた。彼女が居なければ、私は地面に叩きつけられていたに違いない。
 しかし。
「摩耶、お前、背中から血が出ているじゃないか」
「大丈夫よ、これくらい」
 彼女は先ほどの銃撃を背中でまともに受けたらしい。私の翼とは比べ物にならない量の血液を垂らし、彼女が羽ばたくたびに溢れるように出てきた。
 私は彼女の傷口に手を当て、止血を試みた。指の隙間からみるみる血液が溢れてくるので、力を込めて彼女を抱き寄せたが、その肩越しにこちらへ向けられた銃口が目に入った。
「やめろ、撃つなっ!」
 私の声は届かず、何度目かの鋭い銃声が響いた。
 摩耶が小さな呻きを挙げ、目が見開かれる。吐血。
 私と摩耶はもつれるようにして、火床から外れた雑木林に墜落した。私は彼女をかばうように抱き寄せ、地面に叩きつけられた。
 一瞬、衝撃で意識が遠のくような感覚があった。気力で呼び寄せた意識で目を開くと、私の隣で横たわる摩耶の姿があった。
 彼女の背中からはおびただしい量の血が流れだす。
 呼吸が荒くなる。息を吸うたびに嫌な音を立てながら、彼女はこちらを見ていた。
「摩耶、なんで。なんでなんだ」
 私の問いに、もはや彼女は答えられる状況ではなかった。彼女は笑いながら、私の翼を撫でた。
 私が初めて見た彼女の笑顔だった。
 私の翼を撫でた手から力が抜けた。
 彼女は笑ったままだった。

   ◇

 あの夜、私は何者かに突然、抱え上げられて下山した。彼女の亡骸を置いていくことに反対をしたが、抱えられたまま何もできず、従うしかなかった。
 何者かは私を担いだまま、縦横無尽に住宅街を駆け、そのまま銭湯へと到着した。何者かは、いつも我が物顔で銭湯を利用する常連客だった。脱衣場へ担ぎ込まれると、いつもは人間カーリングをしている学生たちが白衣に身を包み、薬品の臭いをぷんぷんさせていた。ベンチに横たえられた私は、彼らの手によって速やかに局部麻酔をかけられた。彼らは慣れた手際で私の翼に残った弾丸を摘まみだし、縫合してくれた。普段は医学部の学生として勉学に励んでいるらしい。
 その後、翼に医療用の防水シートを張られた私は浴室内の椅子に座らされた。ロッカーのキーを左肩に付けた例の人に、されるがままに身を洗われた。もちろん、素手で。
 いつも怒声を挙げている常連客がいつもと変わらぬ怒声で指揮をとり、私の治療は完了した。男湯を覗きに来る老婆は、今日も覗きに来ただけだった。
 数日間、銭湯にかくまってもらううちに、身体の腹や胸の羽毛はぽろぽろと抜け落ちていった。翼が生えていること以外は、だいぶ人間らしさを取り戻した。完全に人間に戻るには、もう少し長期間かけて湯に浸からなければならないという。
 なぜここの銭湯に浸かると人間を取り戻すことができるのか。それは番頭のばばあだけが知っていることらしいが、まだ誰にも言うつもりはないらしい。自分が死ぬときになったら教えてくれるというので、長生きしてくれと告げた。
 代わりに、人間を失う瞬間のことだけは教えてくれた。空腹や恐怖といった野生的な生命危機に瀕すると自我を忘れ、本能のままに生きようとしてしまうらしい。
 身体の羽毛が抜け去っただけでなく、食べ物も人間らしくなった。最近じゃ銭湯の隣のオムライス屋に入り浸っている。虫を見ると気持ちが悪いと思うし、ドブネズミを見かければばっちぃと思うほどには人間らしくなった。
 彼女の亡骸がどうなったのか、誰も知るものはいなかった。噂では極秘の研究機関へ送られたとか、突然消失したとか、猟友会が食べたとか、どれも根拠はなかった。
 私は、彼女の遺品整理とばかりに彼女のねぐらへと足を運んだ。
 いつ訪れても殺風景な彼女の寝床へ着く。衣類は数着ずつしかないし、女子っぽいコスメとかもない。置物なんて置かない。それでも彼女の匂いで満たされていた。五感が人間に戻っても、彼女の匂いだけはよくわかる。
 彼女のことは、結局何もしらなかった。どうして鳥人になってしまったのか。私のように何かから逃げたくて鳥になりたいと願ったのだろうか。それから彼女がこれまでどんな人生を送ってきたのか。彼女の出身も家族のことも聞いたことがない。シマフクロウってくらいだし、北海道の生まれだろうか。私が知っているのは、彼女のツンとした表情や言動と、短くて艶々した黒髪と、闇夜に映える白い肌、そして音もなく華麗に獲物を捕らえる美しさだけだった。
 私は彼女の遺品を市の指定ごみ袋へ詰めていく。個人的には、ここにあるものを持ち帰りたい気もするが、それは気が引けた。そんなところを摩耶に見られたら、罵詈雑言だろう。
 彼女が冬場に使っていたベージュのコートも袋に詰めた。
 部屋にあるものを全てまとめると、寝床には一枚の羽根だけが残った。私はそれを摘まみ上げる。
 白くて美しい、シマフクロウの羽根だった。
 これくらいなら持って帰っても、摩耶も許してくれよう。
 私は彼女の生きた証を、そっと懐に仕舞った。
 彼女の寝床からは河川敷がよく見える。
 河川敷の木々には青々とした葉が茂り、夜風にざわざわと音を立てる。カエルや夜虫が汚い声で鳴いている。もうすぐ梅雨がやってこようとしていて、それが明ければ盆地特有の蒸し暑い夏だ。
 一連の騒動が落ち着き、夜の河原を徘徊する人の姿も回復していた。そんな中に一人、不自然な動きをする女性が見える。暗くてはっきりしないが、一人の鳥人が黒い艶やかな髪を振り乱して、一生懸命に飛ぶ練習をしていた。

鳥人

鳥人

ある朝、目が覚めると私の背中に翼が生えていた。 仕事なし、貯金なし、彼女なしの私の鳥生活が幕を開ける。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-02-08

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Copyrighted
  1. 第一章『鳥になりてぇ』
  2. 第二章『人になりてぇ』
  3. 第三章『飯がくいてぇ』
  4. 最終章 『鳥人』