アクアリウムの悪魔
初めてのデートは、水族館に連れて行くと言われた。
街中から車で二時間、人家のない林道を彼の運転で行く。一面の霧が日光を遮り、視界はひたすら真っ白だった。妖艶なほどに色白な彼の肌が、霧の白に紛れ込んでしまいそうだと思った。
普段は夜しか会えない彼と、初めて昼間に会う。すれ違う車も追い越す車もなく、それでも彼は微笑んで「ちゃんと道はわかっているから」と言った。私は彼を信じた。心の機微までしっかり捉えてくれそうな彼の目が、甘い声で決して偽りのない言葉を発する口が、哀しみに歪むところを見たくはない。
やがて彼が全てを知ったように看板のない細道へとハンドルを切ると、間もなく林は途切れ、霧の中から城のような臙脂のレンガ造りの建物が現れた。
「着いたよ」と彼に言われ、私は車を降りた。陸上のフィールドほどの広さの駐車場には信じがたいほどの車が停まっており、ほとんど満車だった。それらの車は新しいものから古いものまで様々だったけれど、静かすぎる霧の中で一様に空になって並んでいるのを見ると、なんだか不気味な感じがした。それでも、あの建物は彼の言う通り水族館なのだと確信できた。
入口のゲートは無人だった。カードリーダーが備え付けられていて、チケットを読み取らせる方式のようだ。彼は一枚のカードを取出し、機械に読み取らせてゲートを開く。彼はそれが、フリーパスなのだと言った。そのまま私も一緒にゲートを通ることができて驚く。初めてのデートに水族館を選んだのは、彼が本当に水族館が好きだからなのだろう。
中は照明も少なく薄暗かった。冷房が効いているのか、薄手の長袖を着ていると少し肌寒い気がする。なんだか、さっきまでの霧の中にまだいるかのように、じめじめしている気もする。
クマノミやルリスズメダイなど、色とりどりの熱帯魚。砂からゆらゆらと顔を出すチンアナゴ。直立して泳ぐタチウオ。いくつもの小さな水槽の中に、それぞれ別な魚が暮らしているのを見た。彼はその一つ一つの名前を淡々と私に言い聞かせるように教えてくれた。
「でも、こんな魚たちは小さすぎて味気がない」
しかし彼は退屈そうだった。小さい魚は好きではないようだ。かわいいのに。彼が好きなのは、マグロやカツオなど、大型の回遊魚なのだと言う。次に大水槽のエリアに入ると一転、彼は食らいつくように水槽に貼りついた。
「ああ……はあ……」
途端に息を荒くして、相当な興奮具合だと思った。ちょっと気持ち悪く思ってしまったけれど、普段おとなしく物事への感情や関心の薄い彼にしては珍しく何かに熱中する姿で、私は安心もしたのだった。
ここまで来て、なぜ今まで気付かなかったのか、私はおかしなところを発見した。外にはあれだけ車があったのに、建物の中には誰も他人の姿がないのだ。それは客だけでなく、飼育員や職員も見つからない。
それでもフリーパスを使うくらいの彼だから、館内の道順は完璧に把握しているらしかった。私にとっては彼が今、唯一絶対に頼れる存在だった。
「次はこっちだよ」
ぼんやりと光るクラゲの水槽を見終えて、階段を下りていく途中。彼が踊り場のドアを開けて、私を中へ誘った。
「でも、順路はこっちじゃないの」
「いいんだよ、ついておいで。実はね、僕はこの水族館の持ち主なんだ。だから、どこだって見せてあげられるよ」
一瞬、彼を疑う気持ちはあった。しかしにっこりと笑った彼の表情には、あっという間に疑いの霧を晴らす熱のようなものを感じる。そのときは完全に、彼のルールで動いていた。
渡り廊下には、相変わらず霧が立ち込めている。隣の建物に渡ると、彼はそこが展示しない魚を飼育している場所だと紹介した。さらに階段を降りると、地面に埋められた巨大な水槽が現れる、そこには落ちたら食べられてしまいそうなほど大きな魚たちが悠々と泳いでいた。カツオ、マグロ、サメのような魚もいるらしい。彼が好きだと言った回遊魚だ。
「ここは僕の秘密の場所なんだ」
鉄骨の床を不規則に鳴らしながら、彼はご機嫌そうに歩いていく。人のすれ違う幅もない橋を渡って、水槽の中心に浮かぶ円形の足場まで来た。
「お腹が空いたね。ランチにしよう」
彼は足場の中央に据えられた機械に、あのフリーパスをかざす。間もなく轟々と水の動く音がして、足場も震えるほどの衝撃が辺りに響き渡った。
そのとき。足場の近くで、一尾のカツオが大きく跳ねた。
「うあああぁぁっ!」
私が怯んで一歩退く間に、彼が突然奇声を発しながら、肉食獣のようにカツオに飛びかかる。そのまま彼が着水する頃には、すっかり波も衝撃も止んでいた。
心配して駆け寄ると、彼の飛び込んだ辺りから、じわじわと赤黒い血が漂ってくる。その中心に、私は目を凝らして彼の姿を見つけることができた。
血を、吸っている。
彼がカツオを湾曲した異形の爪で抑えつけ、喉笛に噛みついている。彼が何をしているのか、私は認めたくないと思いながらも、一瞬で理解することができてしまった。それはまさに、魚の血を吸う吸血鬼の姿だった。
食事を終えて水から上がってきた彼は、すっかりもとの人間の見た目をしていた。
「あ、あなたは……」
恐怖に震える喉から、私は声を引き絞る。震えるのは喉だけではない。手が、足が、視界までもが震えているような気がした。
「僕はね、ただの吸血鬼じゃないんだ。あいつらは流水が大の苦手だからね。僕は狩りの場を水中へ移した、唯一の吸血鬼……」
前後不覚に陥るほどの恐慌のうちに、私はただ、不気味に笑う彼の姿だけを見ていた。傲慢で……しかし、どこか虚しさを感じさせるような含み笑い。逃げ出したい。それでも、この人……人ならざるものから、目を離すことができないのはなぜ?
「怯えることはないよ。僕は人間を襲わない。襲えないんだ」
「でも、そんな」
彼と愛し合っていた自分が、今もそうである自分が何者であるのか、わからなくなる。ともすれば、彼のほうが正しい存在なのではないか、と。彼は魚を食べるし、人間を襲わない。私もそうだ。食事のとき、少しくらい行儀の悪いこともあるだろう。私は何を恐れている?
そのとき、身体の震えとは全く異質の振動と轟音が一帯を襲った。外で爆発があったらしい。状況を呑み込む間もなく、爆発は二度、三度と続いた。足元のプールにも横穴が空く。
「来たな、ちくしょうめ」
彼は憎しみに顔を歪めながら、私の手を取った。
「ここは危険だ。逃げよう」
「でも、待って」
私はまだ、足が動かない。このまま爆発が続けば、この建物が崩れる可能性は高い。ここは危険だ。しかし、彼について行くこともまた、私の本能が危険であると告げている。今、この空間で頼れるものは彼の他にないのに! どうしてここまで、私は疑り深いのだろう!
「時間がない。ごめんよ」
彼が無理に私の手を引っ張ろうとしたそのとき。
「駄目じゃないか。レディは優しくエスコートして差し上げなければ」
また、別の男の声。私たちが歩いてきた橋の向こうに、長身の男が立っている。仰々しい漆黒のマントを拡げる姿は、明らかに私を誘っているようだった。
「あなたは……」
見知らぬ、しかし何より待ち望んだ人。私の恐怖はたちまち解け去り、足はほとんどひとりでに、橋を渡ろうと動き出す。
「行ってはいけない、僕の話を聞いてくれ」
「無駄だ。下等な貴様のマインドコントロールなど、塗り替えてやった」
マインドコントロール。私はこの吸血鬼に、騙されていたということ?
「僕の目を見て! あいつも吸血鬼だ……本来のね。僕はあいつらの一族に生まれた忌み子だった。人間の血は、僕にとって毒になる。だけど、僕は純粋に、君を愛していた。信じてほしい。あいつは君を襲うつもりだ。これまで、僕の愛した人は皆、あいつらに奪われてきた。あいつらの手から逃れようと、僕はこの隠れ家を造り、ようやく君を今日、招待できたというのに!」
あの男も吸血鬼? 何が本当で、何が嘘なのかわからない。でも、私の体はもう、彼を拒んでいる。あの男に引き寄せられるように、足が動いてしまう。
「行ってはいけない!」
背中から、彼に抱き寄せられる。私の足はようやく止まった。もう、そこに自分の意思はない。しかし、そのまま彼に抱かれているうち、だんだんとまた、彼の正しさがわかってきたような気がした。彼は唯一、私の愛するべき人……。
「無駄だと言っただろう」
そのとき、足元の水面が大きく揺れ、飛沫とともに銀色の生物が頭上を飛び越えた。イルカだ。向こうの吸血鬼が、マントで身を守りながら、身振りで指示を出している。
「こいつ……っ!」
彼は歯を食いしばる。私は直感した。彼にとって、イルカは天敵なのだと。
「さあ、マイ・レディ。水族館といえば、イルカのショーだと思わないかね。こちらへ来て、共に見物しようではないか。特別プログラムに、出来損ないの滅ぶさまをご覧に入れよう」
一回、二回と、イルカは徐々に近くでジャンプをする。背中の吸血鬼の手が離れると、私はまた、橋を渡り始めた。後ろにもう、未練はない。
「……僕は、もう終わりかもしれない」
そのはずが、彼の弱気な声を聴いたとき、ほんの一瞬だけ、私自身の意思と呼べるものが主導権を取った気がした。今日ここへ来るまでは、私は確かに彼を愛していたのだ。そのことを思い出した。たとえ彼が異形の吸血鬼であっても。初めてのデートは、楽しく美しい水族館で過ごすはずだったのに。
涙がこぼれた。
「君に、この秘密のパスカードを託すよ。あいつを滅ぼすための、僕の最終兵器だ。信じてる」
彼に、そのカードを握らされた次の瞬間。私の背中をイルカのひれがかすめた。バランスを崩しながら、辛くも振り返ると、もう彼はいない。イルカに噛みつかれ、そのまま水槽の中。水がどす黒く染まる。
「さあ、フィナーレだ。出来損ないは滅びた。今、お迎えに参ろう」
「来ないで! あなたも吸血鬼なんでしょう。私の気持ちを、好き勝手に弄んで!」
私はためらいを振り払って、水槽へ飛び込んだ。あいつも吸血鬼ならば、これで追ってくることはできない。しかし、その水は得体の知れない粘性を持って私の手足に絡みついた。着衣で水に絡めとられ、危険を悟った私はすぐさま足場に手を掛ける。幸いにもあの吸血鬼の細工で、もうこの水槽に魚はいないらしい。
「ええい、すぐに水を抜くから、大人しく待っているんだよ!」
紳士的に振る舞っていた吸血鬼も、本性を現してきたか。その隙に私は足場へ上がり、水銀のように重く纏わりつく衣服を纏い、彼に託されたカードを機械にかざす。
それは、装置から白銀の十字架を取り出すためのカードだった。これを備え付けることは、彼にとっても容易ではなかっただろう。だから「最終兵器」なのだ。
そのとき、激しい音を立てて、水槽の水が抜け始めた。深さ五メートルはあろうかという水槽が、瞬く間に虚無の空間へと変貌する。さっきのどす黒い油状のものが、壁面を覆っているらしい。
足音が近づいてくる。彼はまだ、近くにいるような気がした。
「おやおや。麗しいお洋服を、こんなに穢れさせてしまって。こんなところ、早く抜け出そうではないか。新しいお洋服を、好きなだけ選ばせて差し上げよう」
「私はもう、どんな吸血鬼だってたくさんよ!」
私は力の限り叫んで駆け出した。その吸血鬼の胸元に、白銀の十字架を思い切り突き立てた。
吸血鬼はたちまち灰となり、あっけなく崩れ去った。同時に私も力を失い、その場に膝をつく。どうやら、命は助かったらしい。しかし、涙があふれ出た。なんと惨めなこと! 私はこの半日にして、愛する人を喪ったばかりか、この廃墟で灰と油にまみれる憂き目を見ることになった。
このような姿で帰ることの恥辱を考えれば、ここでいっそ、彼の遺した十字架とともに心中することになっても……私は足場を這って、その深淵を覗き込んだ。
それでもやはり、怖いのだ。どうせ死を選ぶのだったら、彼の手に掛かるのが一番良かった。私はここまででもう、十分に生きることを選んでしまったのだ。
時間を掛けて廃墟を出た。霧はまだ晴れないが、日の暮れたことを感じ取る。駐車場の車はことごとく、見掛け倒しの作り物だった。私は少ない記憶を頼りに乗ってきた車を探し当てる。ロックはされていなかった。キーも挿したまま。
彼は今日こうなることを、予期していたのかもしれない。そんな予感を確信に変えたのは、トランクにしまわれていたおろしたての衣服だった。サイズはちょうど、私のもの。そのおかげで、私はひとまず、デートを完遂した体で帰ることができたのだった。
その水族館はその後、幻のように消えてしまったらしい。以来、私は吸血鬼に出会っていない。彼の十字架をお守りに持っているからか、呪いのような症状に苛まれたこともない。
吸血鬼が人間を襲うのは、同族を殖やすためだと聞いた。彼はどうだったのだろう? 襲わずにいられるのなら、純粋に愛することもできたのか。ただ私がそれを、受け入れなかっただけなのか?
曲がりなりにも吸血鬼であった彼の十字架などというものを、私は頼りにしている。そんなところにも既に何かの呪縛が作用しているのかもしれないとは、努めて考えないようにしていた。
アクアリウムの悪魔