満月の夜に希望は遊ぶ

久しぶりに【芸能人M君シリーズ】書きました。
ちょっと長いので休み休み、お暇でしたらよければどうぞ。
後味はたぶんよくはない。

想像で書いてるので、許せる人向け。
2020年1月4日現在、2まで公開中。

1月5日、一気に載せました。
よければぜひに。

1

悴む指先でファスナーを引き、目幅いっぱいまで押し開けた。冷たい合皮の質感にきゅっとお腹に力を入れながら、ざっと視線を走らせる。百円玉が3枚、十円玉が4枚、一円玉が6枚。高望みしなければ、おにぎり2個とあったかいお茶の1本は買える。コートの襟を立てて、駆け足気味に近くのコンビニを目指した。自動ドアをくぐるや否や、むわっとした温い空気が顔を包んだ。がちがちに固まっていた身体がようやくほぐれ、無意識に浅く息を吐いていた。
 見込み通りにおにぎり2個とあったかいお茶を買い、再びベンチに舞い戻った。お昼どきだけど、さすがにこの季節に屋外でご飯を食べたいという人はいないらしい。意味もなく優越感に浸りながら、もちろん実際にはどちらかというと劣等なのはわかっているけど、僕はとても気分がよかった。前は、ちょっとツナ多めだった。今日はどうだろう。わくわくしながら包装を取っていき、ほとんど剥き出しというところで、唐突にベンチが揺れた。大きく横に揺れた。同時に僕の左側から衝撃がぶつかり、傍に置いていたコンビニ袋が地面に落ち、左手の中の包装のかけらが風にさらわれ、右手に持っていたおにぎりが宙を舞った。宙を舞ったおにぎりは、一瞬の滑空を経て、アスファルトの上に墜落した。


荷物を置いていたスペースのおかげで、唐突に隣に座ってきた奴と密着しないで済んでいた。不自然な空白を挟んで、そいつはこの時季にそぐわないお洒落帽子のつばを引き、ぐっと顎を引いていた。背格好や肌の雰囲気からすると、高校生くらいの男の子か――僕と同じ童顔か。でもこの顔、ちょっと見たことあるような。
「ごめんなさい」
 風の中に消え入りそうな微かな声も、聞いたことがあるような。アスファルトに転がったツナマヨおにぎりのための苛立ちを、知ってる気がするような気がする、という微妙な感覚が、一時勝った。もっと聴いたらわかる気がする。意識を大きく耳に傾ける。
 彼が膝の上で両手を丸くしているうちに、遠くからまとまった声が聞こえた。こっちに来たのに、でもいない、やっぱりあっちだったのかも。男女混ざっているというより、少年少女入り混じりと言ったほうが正しい。そんな声たちの塊は、やがて遠のいていった。
 だんまりだった彼が、やっと声を漏らした。はあああ、というやっと落ち着いたような、気が抜けたような胸を撫で下ろす溜息だった。その声でぴんときた。名前がぱっと頭に浮かぶと、心臓が波打った。
「おにぎり、ごめんねー。これ全部弁償するよー。……あ、俺のお気に入りのお茶。お兄さんとは気が合うかも」
 僕が喋るよりも先に、彼が立ち上がった。地面に散らばったものを丁寧に集めている様を見て、コンビニ袋と一緒に自分のバッグも落ちていたことにやっと気づいた。慌てて僕も膝をつき、まずバッグに手を伸ばした。
「あれ、ねえ、それって」
 半分頭を出していたそれをバッグに押し込んだ。よりによって、ぱっと見て台本とわかる部分が飛び出ていた。僕は答えず、スマホと財布とタオルを拾った。
「それ、もしかして台本じゃない? 今ものすごく流行ってるアニメの、声優さんの台本! お兄さん声優さんなの!? すごい! これ出てる人?」
 台本とわかるどころか、タイトルまで見えていたらしい。一般的な感覚なら、まず本物かどうかを疑いそうなものだけど。例えば台本を模したノートとかファイルとか。なにせ今すごく人気だから、コラボやイベントグッズがとても多い。
 現役高校生にして人気者のM君だから、業界に馴染みがあるから疑わないのか。そういえば、M君は結構アニメや漫画が好きで、ハマったキャラクターのグッズを買い漁ったりするとかしないとか。今の自宅はまさにそのトレンドアニメの、どハマりキャラのグッズで溢れているとかいないとか。色で言うと黄色い部屋だそうだ。
「ねえねえ、誰役なの? メインキャラではないよね。敵の誰か?」
「もらっただけだよ」
 嘘ではなかった。もうこの話は続けたくないことを察して欲しくての強めな口調に、M君は動じなかった。というか、僕が予想していなかった返しをしてきたので、僕のほうが面食らった。
「でも、お兄さんも声優さんなんだよね」
 風に巻かれ、指先はすっかり冷えていた。半ば痛いとすら感じるその指で、台本を引っ張り上げた。少しだけ頭を出したそれは、辛うじてタイトルを隠したままでいる。勝手に手が台本を離れ、マフラー越しの喉に触れた。胸の奥のまだ奥のずっと先に追いやっていた感情の切れ端が、ぴくりと動いたのを感じた。
「声優さんだから、声優さんのお友達に台本もらえたりするんじゃないの? あ、でも、友達にもらうとかあんまりないかな。憧れの人と共演して、サインおねだりしたら台本くれたとか」
 揺らいでいた感情の端が、ぴたりと静まった。表面が細かく粒立って、もう少しで大波がきてサーフィンにはもってこいだと思ったのに、波も風も収まりしんと落ち着いた海面の如く肩透かし。
 ――その声、聞いたことあるよ。
 その一声を期待していた、そう、期待という感情を自覚しつつ、今まさしく直面している裏腹の現実がやってくることを予測していた僕は、やり場なく身体の力を抜いた。知らず身を固くしてしまっていた。
 この数分で、ベンチはもう冷えていた。勢い任せに腰掛け直すと、その動作がM君の目には不機嫌に映ったらしい。我に返ったようにはっとすると、コンビニ袋を乱雑に自分のバッグに突っ込んだ。
「すぐ買ってくるから待ってて。あ、よかったらこれ飲んで。まだあったかいから」
 代わりに取り出したそれを、M君は僕に差し出した。差し出されるままに、つい受け取った。ブラックの缶コーヒーだった。
 高校生なのにこんなの飲むんだ。ブラックコーヒーは、恥ずかしながら、一度も飲んだことがない。どうしようかと眺めているうちに、M君の走り去る音がした。
 せっかくなのでタブを引き、一口飲んでみた。とても苦かった。

2

M君は、僕が買っていたものと同じおにぎりとお茶、加えて余分にもう一本別のお茶を買って渡してくれた。せっかく買ってきてくれたので受け取りはしたものの、とても微妙な気分だった。なんか年下に気を遣わせてしまったぞ。でもお腹は減ってるし、でも余分なお金は持ってないし、このお茶だけでも返しておこうか。変な空気を漂わせながら無言を保つ僕を知ってか知らずか、M君は、僕の隣でにこにこしていた。
「声優さんとお喋り、ずっとしてみたかったんだよねー。よかったらお兄さんの名前教えてよ。俺は」
「M君」
「あ、知ってた? 嬉しい」
 本当に嬉しそうに、M君は僕を見ていた。こう向き合ってみると、同じ男ながら、さすがに愛嬌があって可愛らしい顔をしているなと思う。事情は知らないけど彼は養護施設の育ちだというので、少なくともご両親は、顔は美男美女だったに違いない。その八重歯は母親譲りだろうか。
「知らない人、あんまりいないと思うけど」
「そんなことないよ。今はテレビより自由度高い動画サイトの時代なんだもん。俺もゲーム実況とかしてみたいなーって思うし、声優さんのネットラジオなんかも公式であったりして」
 そこまで言って、M君は思い出したとばかりに目を大きく開いた。飲みかけていたお茶を急いで飲み下し、やたら興奮した様子で、最早顔がぶつからんばかりのど接近。残念ながら女の子とそれっぽい雰囲気になったことのない僕は、ツナ量普通のおにぎりをまたしても手から滑らせそうになった。
「名前、よくないの」
「知らないと思うよ」
「いいよ。ググるからさ」
 ググればさすがに出てくるか、と思ったけど、やっぱり躊躇った。わざわざネットで検索して、それでも出てくるのは、聞き慣れないタイトルのエキストラ同然のちょい役か、よくて二、三度二言三言喋る脇役程度。それにもし、もしだけど、知られていないとは思うけど、誰にも知られたくないそれが堂々と書かれていたりしたら。アニメ好きのM君なら、目を輝かせて僕にそれを言うと思う。そのときの自分の気持ちを想像するだけで、胃が絞られるみたいだった。
「……月宮遊希(つきみやゆうき)
 それでも、スマホを片手に待ち侘びる純粋な瞳に負けた。オフな日曜日というレアな一日をファンに追いかけ回され、挙句に僕の昼ご飯を弁償する破目になり、しかも多めにお茶を買わせてしまったという僕自身にはあまり非のない負い目から、名前を明かす選択をしてしまった。
 ネット上で秘密が暴露されていないか、自分では調べる勇気がなかった。こっちからばれなくても、あっちからばれる可能性は十二分にあるのだ。スマホ画面に指を滑らせるM君を、僕は興味のないふりをして見守っていた。――のだが。
「やめた。目の前にリアル声優さんがいるってだけですごいし」
 拍子抜けだった。唖然とする僕を他所に、M君はスマホをバッグにしまい、手元のペットボトルをいじった。お気に入りと言っていただけに、僕が貰ったものと同じ銘柄だった。
「いいなー、声優さんかー。俺もなりたい」
「君ならすぐにできるんじゃないの」
「できはするよ。おかげさまで」
 言葉尻の微妙なニュアンスに、特になにを感じたふうでもなくそう返された。声優の端くれの端くれでしかない僕が、唯一混ぜ込ませられる本職のプライドだったのに。さっさと看破されたことへの失望と、雲泥の知名度差とは言え高校生の彼に妙な棘を持った矮小な自分への絶望で、僕はとてもやるせない気持ちだった。その彼に買わせたおにぎりとお茶でお腹を満たしていることも、とても悲しく思えてきた。
 勝手に打ちのめされている僕のことなど、M君が知る由もない。M君はお茶を一口飲むと、エビマヨおにぎりの包装を裂き始めた。
「最近さあ、アニメ映画とかなんか多いでしょ。俺に話がよくあるわけ。何回断っても、何回でも来るの。やっと諦めたかと思ったら、次の映画の話でまた来るわけよ」
 低い口調で、さも不機嫌そうな感じだった。まるで飲み屋のおやじに愚痴る若人である。
「声優に頼まないのがこだわりっていう監督もいるみたいだけど、俺としてはなしだよねー。声作りすぎて嘘くさいとか。職人が作ったお豆腐と素人が趣味で作ったお豆腐、同じ値段ならどっち買う?」
 黙ってお茶を飲んでいると、急に腕を掴まれた。勢いと驚きでお茶が口から飛び出るところだった。
「ねえ、どっち買う?」
「職人のほう」
 どっち買う? の後は、職人のほうだよね。とか続くと思っていた。どう聞いても語りの延長で出てきた疑問符だったのに。
 なんかテレビで見るより変な子かも、と思いつつ、僕は少し意外だった。感じ方はそれぞれだけど、少なくともM君は、ナレーションやラジオMCで『声だけのお仕事』に慣れているはずである。そのへんのタレントやアイドルよりは各段に上手くやるだろうに、何度となく舞い降りるチャンスを敢えて蹴っているのだ。
 声優業に憧れを抱いているからこそ、安易なチャレンジを快く思わないのか。僕にはそれが少し意外で、少し嬉しかった。生活のためにバイト三昧でいる僕を、それでもきちんと養成所に行って一応声優となっている僕を、世間様が初めて認めてくれたような心地だった。
 M君はひとりで話を続けていた。エビマヨのおにぎりを食べ終え、今度は焼鮭のおにぎりを開けるところだった。
「ドラマにも出てみないかって言われるんだよね。だからなんで俺なの? 役者さんとか、そういうのも視野に入れてる事務所の人を使えばいいじゃん。演技にはちょっと自信あるけど、でもそれは日常生活の中で、ちょっと嘘が必要なときとかのための演技であって、台本読むのためのスキルじゃないというか。つか、そんなにいろいろ手を出すつもりもないし」
 結構愚痴っぽいぞ、この子。聞いていることをアピールしながら、僕も次のおにぎりを開けた。またツナマヨ。触った感じ、ツナ量少なめ。はずれか。
「その点、遊希君は偉いよね! 最初から声優一本で生きてくつもりだったんでしょ? 俺はそういうのがないままで業界入っちゃったからさ」
 おにぎりを持った右手を持ち上げたところで、自然と止まった。M君はまだなにか話していたけれど、頭に入らなかった。
 ポケットからスマホを取り出した。暗転した画面は、黙って僕の童顔の端を映し出していた。
 年齢通りに見られたことなんてないし、自分でも御年24歳には見えないと思う。格好次第では高校生にだって化けられそうだ。年下の子にうっかりタメ口を利かれることなんてしょっしゅうなので、7、8歳下のM君に友達感覚で話をされてもなにも感じなかった。
 それだけに、ときどき、冷たい現実を意識するようになった。表面上はそう見えないし、世間的には若すぎるほどに若い。けれど、その業界の中心を目指すとしたら、もう見限ってもおかしくない。小学生のときから養成所に通って、卒業後は専門学校に入学して、その過程を始める最初から、成功するのは一握りではなく一つまみの人間だとは知っていた。その一つまみの枠に、僕は入れなかった。入れない未来は、僕ではない誰かの未来だと思っていた。
「食べないの?」
 その一言は耳に入った。首を振り、おにぎりを齧った。ツナ量、やっぱり少なめだった。
「もう諦めようかと思うんだよね」
「なにを?」
「声優」
「え、なんで? せっかくなれたのに」
「続きがないから」
「見限るの早いよ! そんなちょっと売れてないくらいで、だってまだ」
「24だよ」
 M君の言葉を区切り、ぶっちゃけ明かした。M君はしばらく静止し、僕のほうにつんのめり気味だった身体をようやく正面に戻した。明らかに僕のことを学生だと勘違いしていた反応だった。
「売れなくて仕事がないから、バイトで食い繋いでるんだ。今だって余分なお金持ってないから、年下の子に買わせちゃってるし」
「それは俺がぶつかっておじゃんにしたから当然だけど……遊希君、そんなに年上だったの? せいぜい2つくらいだと思った」
「よく言われるよ。でも声優は顔じゃないから」
 少なくとも男はね、と言いかけたのを飲み込んだ。あまりにも卑屈になりすぎだ。自分が上手くいかないことを周囲のせいにし始めたら、人としてもう終わりだ。
「なんで成功しないのか、いろいろと考えてみたりはするんだけど」
「別に理由なんかないんじゃない?」
 今度は僕の言葉を食うように、M君はあっけらかんと言い放った。またお茶を一口飲んで、一緒に買ってきたらしいチョコ菓子の赤い大袋を開け、「食べる?」と僕にひとつ差し出してきた。包装には「ミルク多め」と書かれていた。
 理由なんかない。僕が悩み抜き考え抜きオーディションを受けては落ち続け、寝る間を惜しんで勉強し直しそれでもダメで、諦められずに応募用紙をしゃむに手に取って来た毎日を、たった一言で否定されたような気がした。さっきは認めてくれたと感じただけに、反動が大きかった。チョコ菓子が砕けるほど握り締め、僕は押し黙った。キレたって仕方ない。
 要するに運がないのだ。僕の場合、尚更それが顕著なだけで。顕著に自分に圧し掛かってくるというだけの話で。理由がないなんて言えば身も蓋もないけど、M君の言うことは間違っていなかった。
「でも、俺、遊希君いい声だなって思うよ」
 知らず俯いていた視線が、ばっと持ち上がった。M君は呑気にチョコ菓子を頬張りながら、寒い寒いと言わんばかりにマフラーに口元を埋めていた。
「なんか中性的で、男にも聞こえるし女にも聞こえるしって感じ。女の人は少年役も少女役もできるけど、男の人は少女役はできないでしょ? 遊希君ならできそう。それこそ今はネットの時代なんだから、なにかやってみるのは」
 なにも言わない僕を見て、M君は口を噤んだ。僕は黙って正面を見据えていた。真冬の昼下がりの微かな気温の上昇で、息は白くならなかった。
「ま、俺が口出しすることじゃなかったよね。でも、いい声だなって思うのは本当だから」
 食べ終わったおにぎりのごみと飲み残したお茶をしまいながら、M君はそんなことを言った。ほとんど呟くような言い方だったのは、僕の反応を見ていたからなのかもしれない。これは話の持っていきようによっては、M君を通して僕にも運が回ってくるのではというせこい考えが僕の頭を埋め尽くした。が、そんなものは振り落とした。年下の男の子に名声をなんて、さすがにそこまで落ちぶれちゃいない。
「寒いから気をつけてね。話せてよかった」
 M君は立ち上がり、僕に向かってちょこんと頭を下げた。つられて僕も頭を下げた。帽子を深く被り直し、にっこり笑って踵を返し、遠ざかっていく背中を僕は見つめていた。
 暫く経って、横に置き晒したままのブラックの缶コーヒーを掴んだ。すっかり冷えていた。上を向き、マフラーを下げて一気に喉に流し込んだ。とてつもなく苦かった。思わず目を瞑り、後味だけが口の中に残る頃、薄く目を開けた。さっきよりも視界が大きくすっきりして、頭が冴えているような気がした。

 

3

 ラーメン屋【転転】はS駅西口から歩いて5分の大通り沿いにある。チェーン店ではなく個人営業のお店なので、駐車場はないし店内もそう広くはない。厨房に面したカウンター席に5人分の椅子に、4人掛けのテーブルを2卓、2人掛けのテーブルを3卓間取りぎりぎりに配置した、水曜定休の都会によくある構造の小さな飲食店だった。
 はっきり言って客足は少なかった。テーブルが埋まりきったことなんてなかったし、バイトは僕の他に学生の男の子が2人いるだけだし、僕と揃って3人になったことなんてなかった。だから店長から僕に連絡があったときは、シフトに入っていたどちらかが体調不良かなにかで急に出勤不可能になって、さすがに人手不足なので救助要請されたものと思っていた。
 その推理が的はずれであることは、【転転】が見え始めてからわかった。スマホを取り出し、時間を確認した。お昼2時を過ぎているというのに、お店入口の引き戸からはスーツ姿の男性からお洒落に着飾った若い女性連れまで、時折規則性を乱しながら長い行列ができていた。
「どうしたんですか?」
「どうしたんですかじゃねーよ!」
 うっかり挨拶するより早く訊ねてしまった。台にどんぶりを並べ、忙しくてぼをふるっている店長は、強い口調ながらも頬がとても紅潮していた。これは店長がものすごく嬉しいときに出る癖である。最初はこの語調とただ怒っているだけのような外面に難儀したし、あとから入ってきたバイト君たちも、僕の助言がなければ辞めていただろう。
「ユウキ知らねえのか? 口コミだよ」
「口コミ?」
「おっと、あっちのテーブルが空きそうだ。お勘定頼まあ」
 ざっと見渡すと、残りのバイト2名はそれぞれ食器の下げとメニューのセットをトレイに載せているところだった。引き戸の外には、今か今かと入店を待つ人影がいくつも見える。割増手当をつけてでも全バイトを招集するわけだと思った。
「有名俳優がよ、来てたらしいんだわ」
 3時半を過ぎて落ち着いてきた頃、店長に休憩を誘われた。連休のところを呼び出したことを申し訳なく思っているという意思を汲み取ったので、差し出された缶のココアを僕は素直に受け取った。店長はスキンヘッドの厳つい見た目に反して甘党なので、ブラックコーヒーなどという代物が出てくることはないので助かる。
 勝手口の外で、凍てつく空気の中、ふたりで甘いココアを飲んだ。忙しく働いた――と言っても僕は1時間と少ししか駆け回っていないけど、今日はこのまま夜までいることになった。昼を過ぎてあれなら、夜はもっと多くのお客さんが来るだろう。それを見越して、もしよかったらと話を振られたので、当然頷いた。オーディション前日、つまり休日前に早上がりさせてもらったり、逆にオーディションがない時期は多めにシフトを入れてもらったりして、店長にはかなり融通を利かせてもらっている。そういう都合が通りそうな場所を最初から選んでいたとは言え、現状に置かれてみれば本当にありがたかった。
 今日は曇りだからか、昼下がりでも気温はそう上がっていない。吐く息が白くはならなくとも、缶を包む手の甲はもう冷え切っていた。
「全然知らなかったんだけどな。なんかSNN?」
「SNS」
「SNSで、俳優のナントカがこの店に通ってるのバレたらしい」
「拡散されたんですね」
「かくさん? まあ、なんかそんな感じよ。知らんけど」
 俳優のナントカの件は簡単に想像できた。影響力のある芸能人が勝手にお店を宣伝するとは考えにくいので、この店の暖簾をくぐっているところを暇な誰かに盗撮されて、それがSNSで広まったのだろう。悲しいかな、都会で著名人の盗撮は珍しくない話である。
「いつも通り、10時に開けようとしておったまげた。こりゃなんの間違いだと思ったね。一番先頭に並んでお嬢さんが、ナントカが来るお店でしょ? って聞いてきてな」
 【ナントカ】の部分は頑なに思い出さないつもりらしい。スマホで検索すればすぐにわかるけど、別に誰でもいいので僕もそのままにしておくことにした。
「でも、ユウキ若えのにな。SNS? ってやつ? やってねえのか」
「やってなくはないですけど、そんなの見てる暇があったら勉強したいので」
「おお、そうか。最近どうよ」
 店長は低い口調で、また頬を紅潮させた。店長は僕の話を聞くのが好きなのか、よくそんなふうに水を向けてくる。真っ赤な他人でバイト風情でしかない僕の成功を、一緒に夢見てくれている。相当のお人好しな性格を、この見た目のせいでだいぶ勘違いされてきただろうなと僕は過去にも何度も考えた。
「M君って知ってます? 店長がときどき聞いてるラジオでも、ときどき喋ってる」
「いや、知らんな。別に選んで聞いてるわけでもないし。そのMって奴がどうしたんだ」
「偶然会ったんです。知らなかったけど、あの子、声優業に興味あるみたいで」
 M君に出会った経緯を、店長は豪快に笑いながら聞いてくれた。普段はしかめっ面なのに、こういうときには大声で笑う。
「いい声だなんて言われたの、いつぶりかなって。正直、もう諦めて就活しようかと思ってたけど、あと少し頑張ってみようかと思って」
 ずっと前に買い揃えていた専門書を読み直し、学生時代に使っていた教科書を読み直し、音楽スタジオを借りていろんな技術を実践して、なけなしの貯金をはたいてもう一度養成所に通うことにした。さすがに毎日のコースは無理だったけど、それでも週に2回はプロの人に見てもらえる。実家にいた頃からあまりお小遣いを使わず、上京してからも贅沢をせず、節約した生活をしてきてよかったと心底思った。
 自分の武器をより強靭にするために、SNS監視なんてしている時間はなかった。時代に沿ってネットラジオでもしてみればいいとM君は言っていたけど、僕はやっぱり声優になりたかった。動画サイトから派生した声優というのもいることにはいるけれど、彼らだって結局は技術と運の両方を持ち得ているからこそだ。それなら動画で数打ち法より、刃を研ぎつつ、適度に外にも出つつ運が来るのを待ったほうがいい。少なくとも僕はそのタイプだった。
 【転転】の客足は、順調に増加していた。お店の維持と売り上げで半々くらいだったものが、右肩上がりで目に見えてお金が舞い込んでいる。春が近づき、やがて過ぎて夏になり、世間がボーナスがあるのないのと盛り上がっていた頃、【転転】にも異変が起きた。店長から、僕たち3名のバイトにも臨時ボーナスが配られたのだ。機械にめっぽう弱い(というか学ぼうとしないし導入しない)店長は、未だに茶封筒に入れて現金支給という旧式の形を取っているため、封筒の厚みで中身がどれだけなのか想像がついてしまう。紙数枚分のその重みが、僕の手の中でとてつもない存在感を放っていた。
「面白い声だな」
 休憩中、なにげない会話をしている最中、店長はそう言った。脈絡もへったくれもなかった。けど、「面白い」というのが僕の中性的と言われる声を揶揄するものではなく、持って生まれたものを褒めてくれていることは明らかだった。
 自分の技量を高め続けていくのはもちろんのことだけど、やはり先人の舞台から学ぶことも大切である。次の休日希望を出す前に、近々公演の役者の読み聞かせなり朗読劇なりがないかとスマホで検索していたところだった。
「上手くいきそうか?」
 ノーだった。先日届いたオーディションの結果も不合格だった。会場の椅子に座ったとき、周りには、おそらく年下であろう若者が緊張の面持ちを揃えていた。最近誕生日を迎えたことも相俟って、漠然とした重たい気持ちに包まれたことを思い出した。
「ユウキお前、もしその気があるんなら、だけどよ」
「はい」
 なにか言いにくいことを言う空気だった。夏の日差しに剥き出しの肘下が焼かれる音が聞こえそうだった。
「責任持って、俺がちゃんと面倒見てやるからよ。こっちの修行してみるってのはどうだ?」
 一瞬、時間が止まった。自分がなにを言われているのかわからなかったし、店長がなにを言っているのかもわからなかった。僕はただ茫然と、小さな画面に愛想なく並ぶ小さな文字たちを眺めていた。
 店長の目に、僕はどういうふうに映っているのだろう。
「お前よ、最近、自棄になってるんじゃねえかと思ってな。大きなお世話だと思うだろうが、年食うと、なかなか若い士が気になっちまって」
 店長の目に、僕はそういうふうに映っているのか。sfari画面を引っ込めて、スマホをポケットにしまった。画面で光っていた小ぶりの文字が店長に見えていたのかはわからなかった。
 自棄になっているつもりなんてなかった。事実、若いうちにしか声優になれないというわけでもなかった。いくらか年を重ねた後でもチャンスはある。遅咲きの歌手とか漫画家とか、探せばいくらだって出てくる。その人たちは、デビューの時点で25どころか30や35を超していたりする。
 知らず身体が震えそうになるのを、拳を握って耐えた。店長は僕を思って提案してくれているのだ。そう言い聞かせ、また両手を強く握り締めた。
 店長の言葉は少なかった。他のバイトの2人が、来月一杯で就活準備のために辞めること。暫く僕と2人になるけど、今のところは金銭的に余裕があるので、その分営業時間を短縮すること。もし気があるなら、空いた時間に具材の仕込みや麺の茹で方を教えること。急な話なので、もちろん答えは急がない。
「姪がよ、新しい働き口探してんだと。学生でもねえし、夢があるわけでもねえし、なかなかどうしようもない娘なんだがな。秋からこっちに来るそうだから、こいつを入れることになってんだ。どうせツラが変わるなら、俺の勝手な理想だが、お前を店長候補にしてもいいかとも思ったんだよ」
「店長候補?」
「勘違いすんなよ、引退する気はねえぞ。俺も次のことくらい考えるってだけの話だ」
 一息挟み、店長は鼻を掻いた。ごつくて爪が平べったい、厳つい顔に似合う厳つい指だった。
「お前が拒否したから俺の夢が叶わないとか、そんなのじゃ絶対にないからな。俺だってまだまだやれるんだ。俺が俺に見切りをつけるまでにどうにかすりゃいいことだ。ただ」
 その後に続く言葉は、なんとなく予想できた。店長が僕を思ってくれるからこそ出てくる言葉だということも予想できた。予想できたけど。
「お前が数年先に夢を諦めたとしても、俺にはなにもしてやれなくなってるかもしれねえからよ」
 話を聞いている間ずっと、お腹に黒いものが溜まっていくみたいだった。憂鬱で重たい不快な黒いものが、蒸し暑い気温に溶けて、鼻から口から毛穴から僕の中に浸透して、そのまま重力を以って沈殿していくような。
 ――僕は声優として生きていきますから。
 きつく結んだ手が緩んだ。その一言が言えない自分に、僕はようやく気が付いた。情けない僕自身に、僕より早く店長が気付いていたことが、なのに店長に苛立ってしまったことが、虚しくて申し訳なくて仕方なかった。
 姉の番号から電話があったのは、その夜のことだった。

4

 僕が病室に駆け込んだ頃、綺麗な満月の光が差し込む窓辺のベッドの上に、ぴくりともしない姉が横たわっていた。どういうわけか、僕には姉がとても穏やかな表情をしているように見えた。私が死に切るまで家族は呼ばないで欲しい、呻いている私を見せたくない、と途切れ途切れに先生に訴えていたことを後から知った。不慮の交通事故なのに、奇跡的に顔だけはかすり傷で済んでいるから、先生はそれを汲んだらしい。翌朝地方から到着した両親にそう聞いた。両親とも酷い隈だった。
 『人気声優・宮里遊月(みやさとゆづき)、還らぬ人に』。メディアごとに踊るそんな見出しは、意外にもショッキングでもなんでもなかった。姉が主役や準主役を務めたアニメのキャラクターやその名前で発表された楽曲の数々、吹替映画やナレーションのタイトルまでもがずらりと羅列されている。父も母も他の2人の姉も号泣していたけど、僕は結局、お葬式の最後の棺に花を詰める段階まで泣かなかった。そこに立った途端、姉には見えていなかった女性が、姉にしか見えなくなった。自分も人気声優になって、いつか姉弟でダブルヒーローか、主役と同等の重さを持つその宿敵を演じるのが夢だった。その夢が崩れ去る音が、嗚咽に混ざって僕の内側で響いていた。
 そんなこんなで、ひとまず一式の儀礼を終えた。両親と共に東京へ帰り飛んで、両親は姉の借りていたマンションの引き上げや諸々の片付けへ、僕は日常へと戻った。一週間ぶりに【転転】に出てみると、相変わらず混み合っていた。僕にはその忙しさがありがたかった。
 しぶとくも僕は、バイトの合間に演技の勉強を続けていた。お稽古を終えてさあ帰ろう、といったときに、先生に呼び止められ、名前の確認をされ、少しの時間の確認をされた。よくわからないままついて歩くと、応接室みたいなところに通された。座らされると先生が出て行き、やたらと恰幅のいい、だけど感じがよくて上品なおじさんと一緒に戻ってきた。先生の手には小ぶりのペットボトルのお茶が3本あった。
「お姉さんのこと、お悔み申し上げます」
 お茶が目の前に置かれ、お辞儀したところだった。おじさんが眉根に皺を寄せ、本当に心から悲しんでいるような顔で、僕を見ていた。
「本当にすごい声優さんだったね。あんなに若いのに」
「どんなご用件でしょうか」
 失礼な若造だと思われてもよかった。姉のエピソードなんてテレビでもネットでも散々書きたてられている。改めて教えてもらわなくても家族として、同じ道に身を投じた弟として、姉の功績くらいわかっているつもりだった。
 おじさんはやりきれなさそうに目を伏せた後、スーツの胸ポケットに手を入れた。名刺を差し出された。聞いたことのある会社名が刷られていた。
 僕が飛び込みたくて仕方なかった、姉がいた世界の人。この養成所の胴元とは違うけど、姉が所属していた事務所の偉い人だった。
「お姉さんの代役を探して、みんな駆け回ってるんだけどね。雰囲気の似た声の人を探して」
 江東さんと言うらしいそのおじさんは、名乗らずに話し始めてしまったことを詫びてから、訥々と語り始めた。
 姉が声を充てたアニメやゲーム等、収録が終わっているものは予定通り放送・発売されるけど、次のスケジュールが詰まっていた。開催決定しているイベントはどうなるかわからないものがいくつもあるし、夏が終わるこの時期から始まる収録で、進行が定かでないものがたくさんある。宮里遊月という存在がどれほど業界で大きかったか、今日に至って再確認せざるを得ない。適当な建前ではないことを、江東さんの真摯な喋り口から僕は嗅ぎ取った。
「勝手に調べて申し訳ない。けど、声優志望の弟さんがいるって聞いたことがあるのを思い出してね。この養成所に通ってるってわかったから」
「……」
 すぐにはなにも言えなかった。絶対言わない約束だったのに、結局漏れてるんじゃないか。人の口に戸は立たないということが、こんな展開でよくわかる。ということは、宮里遊月の弟の月宮遊希という存在は、僕が知らないだけで噂くらいにはなっていたのかもしれない。姉は名前を変えていたけど僕はそのままだったから、その気で見れば、このふたりには血縁があるかもと思われる文字列ではある。姉は本名のテイストを残したがっていた。
「どこか所属したい事務所はあるのかい」
「いいえ、特に」
 本心だった。少し前までは、具体的にここに名前を登録してもらいたいという理想があった。店長に例の提案をされた以降、自分の像を突きつけられて、よくわからなくなった。その日のうちに姉が亡くなり、ゾンビみたいに演技の世界にしがみついてはいるものの、その先までは考えられなかった。
「希望がないなら、うちに入ってみないか」
 せっかくだからとお茶の栓を開けたところだった。捻りかけたキャップに手を置いたままの僕は、我ながらアホっぽかった。
 江東さんは僕から目を逸らさなかった。
「それで、もし月宮君がいいなら、お姉さんの代役を頼みたい」
 言われていることを理解するまでに数秒かかった。ペットボトルに触れていた両手を膝の上に戻し、ずっと黙ったままの先生を見た。先生はお茶に手をつけず、真面目な顔で江東さんと僕を見比べていた。これは本気で言っている。僕と違って10代の頃から活躍してきた姉の椅子に、深夜アニメで一言二言喋っただけのお前が座れと言っている。とんでもない話だった。
「そんなの無理です。技術だって全然姉に及ばないし、姉妹ならまだしも性別が違うんだからどうしようもないでしょう」
「もちろんすべての代役なんて言う気はない。お姉さんはいろんな声を使い分けてたしね。でも、君ならカバーできる部分がとても多い。性別は違うけど、声質がよく似てるし」
 言葉を切って、江東さんは続けた。さらりと告げられた最後の一言が、ちくりと僕の胸を刺した。
「それに、君に技術がないとは思わない。機会がなかっただけだ」
 次の一言は、刺された傷口を妙な感触で包んだ。機会がなかっただけ。運がなかっただけとも言い換えられる。先生が口を出さないのも、技術がないとは思わないという江東さんの評価に異論なしと取っていいのだろうか。それならすごく嬉しいけど。
 でもこんなの、いいのだろうか。姉がいなくなったことを踏み台にして、取って代わるようなこと。
「大丈夫だよ」
 ジレンマが埋め尽くした脳に、江東さんとは違う穏やかな声が降ってきた。先生は僕を安心させるように笑ってみせた。
「今ここで決定するわけじゃないから。一度演じてみてからの話になる。そうですよね」
「ああ、そうだった。ごめんね、先走って不安にさせたね」
 江東さんは身を乗り出し、僕に手を差し出した。ちょっとたじろいでから、僕も手を出した。江東さんの手はとても肉厚だった。
 もしその気があるならと前置きして、江東さんは手帳になにか書きつけ、その部分を破り取った。渡された紙には、審査の場所と時間が記されていた。都合を訊かれたので、首を振った。近い日取りだったし、ちょうど水曜日だった。
 帰宅した後、ベッドに倒れた。シャワーを浴びるのも面倒だった。スマホを見ると、母から地元に帰る旨と、やりたいことは引け目を感じずどんどんやれという、やたらと明るい絵文字だらけのメッセージが届いていた。

5

 宮里遊月の訃報のニュースは次第に薄れていったけど、今後に決まっていた役の代わりとして僕の名前がいろんなところに載り始めると、再びその日の事故が書き起こされるようになった。街灯の明滅する夜の街の交差点で、不注意から赤信号で飛び出して、軽トラックに撥ねられた。運転手は過失致死で逮捕されたというよくある話。突飛でもないエピソードは、当初よりもあっさりと語られた。
 代役を皮切りに、姉に似せた声以外を使っての仕事も入るようになっていた。マスコットポジションのキャラクターから少年、青年はもちろんのこと、男装設定のある少女役を任されたこともあった。僕のことを知らない人の中には、漢字だけを見て女性だと思っている人も多いそうだ。
 姉の敷いたレールの上で、僕の声が活きていた。数をこなすうちに公式ネットラジオに出演することにもなったし、少しだけど雑誌にも載ったし、自分が宮里遊月の弟であることに触れられれば隠さなかった。あらぬ妄想を垂れ流す輩もたくさん出てくるようになったけど、そんなものはスルーしておけばいい。【転転】にお別れを告げて、僕は声優業に専念する道を選んだ。角張った指で店長は優しく、力強く抱きしめてくれた。店長に出会ってから、5年の月日が流れていた。
 嘘みたいな忙しさに追われて、2年半が過ぎた。姉の2回忌と秋が終わって冬になり、街は年末ムード一色だった。例の公園の自販機で熱いコーヒーを買ってベンチに座った。久しぶりにブラックが飲みたい気分だった。
 公共電波に乗る場所で、M君と再会する機会があるとは思わなかった。再会したこと自体に驚いたけど、そういう立ち位置に自分がいるということにもっと驚いた。でも、そうかと思い直した。M君がアニメ好きだから企画を組みやすかったとしても、彼と地続きの世界に僕も踏み込んだ。お呼ばれして、堂々と舞台を踏むようになった。僕をいっぱいの拍手と歓声と共に迎えてくれたあの光景は、初めて見たときは視界が潤んだ。男のくせに涙がたくさん出て、共演者のみんなやお客さんたちに、たくさん声をかけてもらった。
 夜遅くとは言え、都会の道路はさすがに騒がしい。年末で物流も大混雑なのか、大きなトラックがたくさん走っていた。歩道はまだそこそこ人が歩いているけど、M君はどっちから来るのだろうか。僕のことを覚えていたM君から、共演したときに話を持ちかけられた。久しぶりにあの公園で話がしたい、と。
 苦いコーヒーを飲みながら待っていると、眼前にお茶が現れた。いつかに僕がM君に買わせたものと同じペットボトルだった。
「あげる」
 いつの間にか後ろにいたM君は、楽しそうに回り込んで来た。僕の隣に座り、自分も同じお茶を取り出して一口飲んだ。
「待った?」
「そんなに」
「成人して時間制限取れちゃったからねー。約束するとなると、こんな時間になっちゃうの。ごめんね」
 そっか、初めて会ったときは高校生だったんだっけ。僕はしみじみと時間を感じた。
「なんの話するの?」
「別に決めてるわけじゃないけど、仕事で遊希君に会えたの嬉しかったから。この前のイベント、俺、実は行ってたんだよ。生アフレコすごかったなあ。俺も勉強してみようかな」
「なれると思うよ」
「ほんと?」
「本当」
 目を輝かせるM君は、とても微笑ましかった。仕事をしているときとはまるで印象が違う。姿を見ずに会話だけしていれば、成人している男子とは思い難いほどに無邪気だった。
「遊希君はずっと声優になりたかったんだよね」
 少年そのものの空気とは不釣合いに、M君はまたブラックのコーヒーを開けようとしていた。冷静に観察するとギャップがすごい。
「なんで?」
 この寒さでは、温かくてもすぐに冷めてしまう。冷えきる前に飲んでしまおうと、僕も自分の缶コーヒーを掴んだ。一気に飲もうとしたけど、やっぱり苦かった。
「こんな声だから、昔はよくからかわれてたんだ。名前もあんまり男っぽくないし、女みたいだって」
「えー。苗字と合わせて綺麗な名前だと思うけどなー。みんな嫉妬してただけだと思う」
 つい笑ってしまった。M君は不思議そうに僕を見た。言われてみればその通りだ。あのときは嫌だったけど、今ならそんなふうに片付けられる。
「本当に無口な子供だった。喋ると余計笑われるから。家でも外でも陰気な奴で、なにが得意ってわけでもなかったし。コンプレックスの塊で」
 でもだから、ずっと思っていた。声が一番嫌いだったから、声を使ってなにかがしたい。それができれば、背中を丸めていなくて済む。確かに女の子っぽいけど溢れているわけでもないこの名前を、堂々と掲げていられる気がする。
「その職業が声優しか思いつかなかったってだけ。まあ、漫画もアニメも好きだったから」
「ありがちだったんだね」
「そう、ありがちなんだよ。でも僕には味方がいたんだ。応援してくれる両親とかそういうのじゃなくて、一緒に夢見てくれる人が」
 ――じゃあ、私もそうしようかな。
 幼かったあの頃、3歳上の姉は呟いた。他の2人の姉は僕たちとは年が離れていたので、生活時間的に遊里(ゆうり)姉さんと一緒にいることが一番多かった。
 ――私も声優になるから、一緒にみんなを見返してやろうね。
 ありがたいことに、うちはそこまでお金に困っていなかった。当時中学生だった姉は養成所に通い始め、小学生だった僕も違う玄関から勉強していくことになった。レッスンの日を合わせて親に送り迎えしてもらうこともあったし、2人で電車に乗って駅で分かれることもあった。
 高校在学中、姉は、養成所を通してではなく個人で申し込んだアニメ映画の声優起用オーディションで、4桁のライバルを蹴散らしてトップに立った。華々しいデビューを家族は喜んだし、僕も嬉しかった。
 ひとつ、またひとつと功績を収めていく姉に、最初に焦りを覚えたのはいつだったか。既に宮里遊月と名乗るようになっていた姉に、ある日、僕はとてつもなく素っ気ない態度を取った。冷たいものを感じ取った姉は、一瞬肩を強張らせた。その頃から、自分ではできる限り姉の存在に触れないようになっていた。それだけならまだしも、姉本人にも、外では絶対に僕の話をしないで欲しいと釘を刺した。姉は悲しそうな顔をしたけど、気丈そうに了承した。自分で言いだしたくせに、作られたその平然さに罪悪感が膨れ上がった。一緒に夢を追ってくれた姉になんて表情をさせるのか、僕は自分が憎くて仕方なかったけど、そのときは意地が勝っていた。絶対に姉より売れたい、売れるはずだという高慢ちきを止められなかった。
 高慢さをどうにもできない子供でいる間に、姉がいなくなった。原理で言えば苛立ちの根源が消え去って爽快なはずなのに、僕にあるのは圧倒的な消失感と取り返しのつかない後悔だけだった。もっと仲良くしておけばよかった。同じ教科書を開いたからこそ頷き合える雑談や、有名になったからこその体験談に興味を持っておけばよかった。
 いや、興味はあった。いくつになっても仲の良い姉弟の構図に憧れていた。僕さえ踏み出せば姉はいつでも迎え入れてくれたのに、現実にすることを僕が拒んでいた。そのくせに仲の良いふりはしたくて、見限られたくなくて、演じたアニメの台本をおねだりしたりした。今にしてみれば、頭のどこかで、姉との関係を修復するためには役者としての居場所を勝ち取るしかないと思っていたのかもしれない。
 そして今、姉がいなければ拓けなかった道を、姉がいなくなったことで僕が歩んでいる。こんな虫のいい話が他にあるだろうか。散々語って最後は自嘲気味になってしまうと、我ながら苦笑ものだった。けれどM君は、ふんふんと相槌を打ちながら聞いてくれた。
「そっか。一番最初のきっかけは、お姉さんの代わりだったんだよね」
 だから変な決めつけをされて中傷される。自分も中間に属する声を持ち、姉もまた中間に属する声を持つことに目をつけた月宮遊希は、宮里遊月の座を狙っていた。暇な誰かの、ときに過激で暴力的なこの設定と、僕は今後も付き合っていくのだろう。まあ確かに、大人の姉弟の声がそっくりなんて間々ある例でもないけれど。思考を放棄した連中は、僕の地声はさすがに少しは低めだし、代役のときはわざと寄せた演技がされていたまでは考えない。
「俺は虫のいい話なんて思わないよ。だってお姉さんも、遊希君の声優としての成功を祈ってたわけでしょ」
「そうだと……いいなと思う」
 姉に働いてきた不義理を思い出して、言い切ることができなかった。言い切ることのほうが虫がいい気がした。姉に辛い思いをさせてきたのは僕なのだ。最後のほうは、顔を合わせても目は合わせなかった。内心で疎ましく思われていても仕方なかった。今更それを確認することもできないし、できたとしても勇気なんてない。
「祈ってたよ」
 それでもM君は言い切った。僕は励まされているのだと思った。
 養護施設で暮らしている間、自立した現在に至るまで、M君は親にも兄弟にも大よそ家族と呼べるすべての人に会ったことがないらしい。そんなM君だから、未経験故の想像の中の綺麗な家族像を前提にして喋っているのかもしれない。人によっては薄ら寒い妄想に思うかもしれないけど、澄み渡った無責任な断言は、足先から胸までいっぱいに燻っている僕の陰鬱な感情を少し解かしてくれた。
「そんなふうに言ってたから」

6

 もうあと少しのブラックコーヒーを飲み干そうと、缶を傾けたところだった。意図せず手が止まった。苦い香りだけが口の中で停滞し、静止した視界の奥では、一定間隔で人の声とヘッドライトの灯りがすり抜け続けていた。
「遊希君のお姉さん、いつも言ってたよ。みんな早く弟の才能に気付けばいいのにって。自分なんか比較にならない、自分なんかよりよっぽどセンスがあるし、技量もあるし、しかもものすごく努力できるすごい子なんだからって」
 なにか言わないと。そう思うのに、思うだけで脳内回路が廻らなかった。知らない国の知らない言語なのに、何故か単語の意味だけは把握できているような。不思議な感覚に身動きできなかった。
 無理矢理缶に角度をつけて、ブラックコーヒーを流し込んだ。缶の中身はまだ残っていた。苦味が不快に思えた。その不快さで、やっと脳内回路が廻り始めた。
 なにかおかしい気がする。心臓がやたら脈打ち始めた。話から察するに、M君は姉と面識があって、しかも僕という弟がいることを以前から知っていたみたいじゃないか。姉の存命中だから、僕が演技の世界の最底辺で足掻きもがいている頃から。
 姉もM君と仕事で一緒になったことがあるのかもしれない。その延長で、なにげない世間話から、うっかりぽろってしまったのかも。その過程なら誰かが漏れ聞いたネタとして噂が広まっても納得できるし、あのとき江東さんが無名の僕に辿り着いたことも不自然じゃない。だいたいよく考えてみれば、同時期に声優を目指し始めたんだから、同時期に教室にいた別の人間が僕たちのことを知っていたとしてもおかしくない。無理矢理疑問を解決させようとした思考が、けたたましく警鐘を鳴らしていた。僕はまだ、思い出していないことがある。思い出せと意識の淵を叩いている。
「遊希君、さっきから黙ってるけど」
 なんでもない口調が、わざと水を差しているように思えた。初対面で声を褒めてくれたM君。不意に初心を思い出したから、僕はまた頑張れた。
「難しいことでも考えてるの? 俺の前でいきなり黙る人、今までにも何人かいたけどさ」
 やっぱりおかしい気がする。よく思い出せ。江東さんはなんと言っていたか。みんなお姉さんの代役を探していると言っていた。似た声の人を探しているとか、確かそんな感じのことを。それで、声優志望の弟の噂を聞いて、僕のところに。
「今度の件は、そんなに考え込むことじゃないと思うけどな。だって、俺と遊希君のお姉さんは」
 江東さんは、姉に似た声の人を探していた。それから僕のところに来た。くどいほどに思い返して、やっとわかった。江東さんは姉寄りの声を探して、いろんな声を聴き漁っていた。やがて僕に辿り着き、名前には宮里遊月と通じるものがあり、それだけなら偶然とも思っただろうけど、調べていけば同じ苗字で別コースの同じ養成所を出た経歴がある。かつて通っていた養成所は、小学生以下と中学生以上で少しだけ住所がずれていた。
 順番が逆なのだ。僕のことを知っていたから会いに来たのではなく、似た声の誰かが月宮遊希で、たまたま宮里遊月の弟だったというだけ。江東さんにとって、月宮遊希は宮里遊月の弟であることは、後付けの情報に過ぎない。
 じゃあどうして、まったくの第三者であるM君が、姉から僕の込み入った話を聞いているのか。僕は姉に口止めしていた。つい喋ってしまったとしても、誠実な姉が勢いのままに暴露を続けるとは思えなかった。
 面白がるみたいに、M君は黙っていた。胃の底が波立った。指の感覚がだいぶなくなってきて、いよいよ冷え込む夜の空気がコート越しに身体を撫でる。
「なに?」
 耐え兼ねて促した。
「なんなの? M君と姉さんは」
 待ってましたとばかりに、M君は小さく笑った。
「恋人」
「は?」
 この局面で聞き間違えたのかと、自分の耳と頭を疑った。
 無邪気に肩を痙攣させていたM君が、一瞬、大きく口を開けた。 すぐに押し込めた笑い方に戻って、M君は言った。
「ごめんごめん。失礼だよね、さすがに」
「恋人? 恋人って言った?」
「おかしいもん、その反応。遊希君、もしかして女の子いたことない?」
「ちゃんと答えて。君と姉さんが恋人同士だったわけ?」
「そうだよ、そうなんだよー」
 口を押さえて、M君はまた笑っていた。そうしていないと派手に声を上げてしまうので、無理矢理留めているような動作に僕には見えた。
 考えることすらできなかった。僕を差し置いて、M君は楽しそうだった。
「彼女が彼氏にいろんなこと打ち明けるのは当然じゃん。お姉さん、いろいろ喋ってたよ。遊希君に関係すること、ほんっとにいろいろ。後悔が多かったかな」
「……後悔?」
 辛うじてそこだけ切り取った。僕に関連して、姉がなにを後悔するというのだろう。今ここで聞いておかないと、もう永遠に聞けない。それだけは嫌だった。
「後ろで応援だけしてればよかったって。偉そうにしすぎちゃった、そのせいで弟に嫌われたんだってさ」
 僕が蒔いた種の結果だ。今は過去の自分を罵倒している場合じゃない。気を張って理性を強く保って、M君の声に耳を傾けた。M君が嘘を言っているようには聞こえなかった。
「自分の声が弟と似てるから、弟が座るはずだった椅子を全部奪っちゃったんだってさ。本当に悲しんでたよ。デビューなんかしなきゃよかった、かつて自分が選ばれたあのオーディションに出なければよかった。年齢が足りずに応募できなかった弟を置いてどうして出ようと思ったのか、過去の自分が本当に憎い」
 いきなり主役の座を勝ち取った姉の表情を、今でもよく覚えている。嬉しそうにしていたと思う。
「でもね、こうも言ってたよ。それでも自分が先にこの世界に飛び込んだことで、弟に可能性を示せたと思うって。演じるのは難しいけど楽しい、辞めたくないってね。いつか弟と一緒に仕事がしたいって。けどそれはやっぱり無理だから」
 これ以上聞いたらダメだ。直感がそう警告していた。目も耳も鼻も寒さを感じる肌の感覚も正常なのに、直感だけが繰り返し棘で吐き上げてくる。聞いたらいけない。やめさせなくちゃ。でも僕はその術を持っていなかった。
「自分がいなくなればいいのにって」
 棘は萎れて沈んでいった。僕は息すらできなかった。身体に力が入らないのに、抜くこともできなかった。
「一応言っとくけど、俺じゃないからね。お姉さんは赤信号の交差点で事故に遭ったんだから。明らかに他殺ならまだしも、さすがに交通事故なんか起こせないでしょ」
 なにが面白いのだろうか。話している内容とは釣り合わず、M君は妙にテンションが高い。悠長にお茶を飲んで、空っぽになっていたコーヒーの缶を玩んでいた。
「俺はただ、人ごみにちょっとつまずいちゃっただけ」
 アラサーと呼称される世代まで生きてきて、ここまで無骨で無遠慮で理不尽な衝撃に貫かれたことはなかった。まるで理解が追いつかない。でも思考を止めるわけにはいかない。M君は今、証言した。姉が轢かれたその現場に実は居合わせていたこと。
「付き合ってるの、さすがに内緒だったからね。お姉さんのスマホに俺の登録はなかったと思うし、もちろん俺もしてなかったし、やり取りなんか残してるはずないし。病院にもお葬式にもなんにも行ってないけど」
 付き合っていた? そんな調子で? 悲しんでるふうも全然ないのに? 足先から毛虫が這い上がるような不快なM君の話を、僕はじっと聞いていた。
「ネットで調べたんだけど、お姉さん、奇跡的に顔はそこまで傷ついてなかったんだってね。どんな顔してた? もしかして笑ってたんじゃない? これで遊希君に椅子を返せるって」
「やめて」
 やっとのことでそれだけ言った。意外にもM君は「うん」と乗り出し気味だった身を戻した。バカにされていると思った。
「さっきからおかしいよ。恋人だとか」
「おかしいよね。俺、そのとき高校生だし」
「そうじゃなくて、いやまあそれもそうなんだけど、なんで急に付き合ってるのかってこと。そんなできすぎた話」
「んー、まあ、急っていうかね。俺が声優さん大好きだから、そういう趣の企画は結構前からやらせてもらってて。ありがたいことにね。遊希君とも一緒になったじゃん」
 やっぱり共演したことがあったのか。だからと言って、そこから交際に発展するとは思えない。
「あのときちょうど流行ってたでしょ? とあるアニメがさ。俺も観てたし、遊希君のお姉さんも出てたよね。それをだしにして、不自然じゃない程度に言い回ったんだ。あの声優さんに憧れてるんだ、なにかの機会で会えたりしないかなーって」
 そうすると、その声は姉にも届いた。その系統で尺を取っていたチャンネルに姉本人から申し出があり、M君にも声がかかって、契約成立した。よってここで、初めてふたりが会うことになる。
「一番最初に会ったとき、俺が遊希君の名前をググろうとしてやめたの覚えてる? あの後、ちゃんとググらせてもらったんだ。そしたらあっさり出てきたよ。断定はされてなかったけど、おそらく姉弟だろうって。噂どまりのネット記事だけどね。そこまでわかれば言わせてみたくならない?」
「なにを」
「その秘密。実は同じ業界に弟がいるってこと」
 そのために、別段特別視しているわけでもなかった姉のファンのふりをして、近付けるように周囲を利用した。目論み通り姉を誘き寄せて、その後は、聞くに堪えないおぞましさばかりだった。不定期に会って、不定期に言えないことをした。そういう関係になるのは簡単だった。付き合うとか付き合わないとかの話をする前に、もうそうなっていた。
「別に俺もそこまでする気はなかったんだけどね。でも、話してるうちにただのブラコンじゃないことはわかった。お姉さん、相当寂しかったみたいだよ。最初から俺のこと可愛がってくれてたのも、変わっちゃった弟と重ねてたからかもね。俺としては言わせたかったこと言わせたわけだし、ときどきめんどくさかったけど、寂しいのは可哀想だから」
「どうして」
 これ以上聞いたら、どうにかなりそうだった。最悪な気分だった。早く帰ろう。帰って寝て、起きて、こんな悪夢から醒めなければ。それでも最後にひとつだけ確認したかった。
「なんでそんなの、姉に言わせようとしたの」
「別に」
 なんの含みもなくM君は言った。頃合いを見たのか、お茶をバッグに入れてコーヒー缶を持って、M君も帰る雰囲気だった。
「理由なんかないけど」
 あまりにも素っ気ない、なんの気もない言い方だった。
 血が一気に沸騰した。立ち去りかけたM君の手首を掴んだ。M君はさすがにびっくりしたようで、変な声を漏らした。空のコーヒー缶がアスファルトに落下した。乾いた音が鳴った。
「君のせいだろ。君が余計なことしなかったら、姉さんは今でも生きてたのに」
 M君は無言だった。手に力を込めて、更に僕はけしかけた。
「だいたい君と会わなかったら、僕は違う道を選んでたんだ。声優としてキャリアを積む姉を、素直に応援できるようになってた。全部元通りになるはずだったのに。なのに思いついたことほいほい言って、思いついたことほいほいやって、君が全部ダメにしたんじゃないか」
「そう。で、どうするの? 通報するの? 裁判でもする?」
「と――」
 当然だろ、と言いかけて留まった。他人事のようなM君の醒めた目に、急に背中が寒くなった。
「俺、成人したの今年だからさ。――ああ、こっちじゃなかった」
 意味深なことを呟きながら片手でスマホを取り出すと、M君はなにやら操作し始めた。これだ、と言いながら向けられた画面を見て、気付いた頃にはもうM君を放していた。今度こそ言葉が出なかった。見せられた写真には、姉の顔とM君の顔がはっきりと映っていた。どこかのホテルのような部屋で、裸で密着していた。
「さすがにこんなの出回ったら恥ずかしいけど、いざとなったら使わせてもらうつもり。このとき高校生だから、未成年者淫行ってことになるよね。出演作品は全部回収の大損害だよね。俺もノーダメージじゃいられないけど、まあ、なんとでも言えるし。演技には自信あるから」
 あとこんなのも、と言って再度スマホをいじり、画面が向けられた。古めかしいメール画面を写真に収めた不思議なそれは、それでも内容はきちんと読み取れた。名前の表記はされてないけど、おそらく姉からM君に送られたもの。いつ何時にどのホテルを取ったという、逢瀬を待つ生々しさが滲み出ている文面だった。
「これは使えるかわかんないけど、一応ね。前読んだ小説にあったんだ。メールそのものよりメール画面の写真のほうが証拠になるって。賠償請求は大半はそっちに回るだろうね。いくらだか見当つかないけど」
 沈黙を会話の終了と捉えたらしい。M君はスマホをしまうと、地べたに転がっていたコーヒー缶を拾った。
「ま、いろいろ言ったけど、遊希君がお姉さんの後釜として道を拓いたことを虫がいいなんて思ってないのは本当だよ。正直ファンだもん。アニメ一覧で声優のところ見て、遊希君の名前があったらとりあえず観ようかなと思うし。ぶっちゃけお姉さんよりも臨場感あるよね。遊希君にはこれからも頑張って欲しいな」
 僕はまだ動けなかった。歩き始めるM君を目で追うこともすらできなかった。
「話せてよかった。よいお年を」
 視界の端に、手を振られていたのが映った。
 手もあとちょっとのコーヒーもお茶も冷え切っているとの同じように、やっと働き始めた思考も冷たく凝っていた。帰路の途中、あの子も事故に遭わないだろうか。誰かに背中を突き飛ばされて、重たいトラックに引きずられて、寒空の下に内臓を巻き散らして。運転手さんには悪いけど、それでもあの子に死んで欲しい。あの子も事故に遭えばいいのに。原型を留めないほどぐちゃぐちゃになった身体を、土足で何度も踏んでやる。
 後ろ姿を見失わないうちに立ち上がった。人を押しのけて歩道に出て、M君の背中を見据えて走った。月宮遊希だ。たくさんのアニメキャラのキーホルダーや缶バッジでバッグを飾った女の子から、そんな声が吹き抜けた。その中に自分が演じたキャラクターがいたかは識別できなかった。満月が浮かぶ方向に、人に紛れて歩く帽子を被ったM君をただ追った。
 スクランブル交差点の真ん中で、M君は急に見えなくなった。立ち止まり、辺りを見渡した。急に進行方向を変えたのか。どうして? 追われていることに気付いた? 青信号は点滅していた。つい舌打ちした。いったん引き上げないと自分が事故る。
 焦る気持ちが先立って、悠長に歩く人々の隙間を小走りで抜けた。対岸に辿り着いてから、もう一度周囲を見渡した。M君の姿はどこにもなかった。そこで僕は、突然冷静になった。自分はなにをしているんだろう。輪郭のない後悔でどうかしそうだった。
 万が一誰かにばれると面倒だから、下を向いて信号が変わるのを待った。荷物を公園のベンチに置いてきてしまった。盗られてなかったらいいけど。一頻り待って、もうそろそろ変わりどきかと顔を持ち上げた。まだ赤だった。再び俯いたその瞬間、後ろで声がした。連動して背中になにかがぶつかり、列の先頭にいた僕は前方に押し出された。誰かがお茶でもぶちまけて、被害を被ったほうが驚いてのけ反ってしまったらしい。半分振り返りながら、僕はそのいざこざよりも、注目が自分に集まっていることに気付いた。
 時間が妙にゆっくり流れる。自分でもわけがわからない、変な姿勢のまま全然動けないし、周りも全然動かない。ヘッドライトがとても眩しい。視線しか動かせない中で、ひとつだけ、僕を見ていない顔を見つけた。ちょうど僕から顔を逸らすところのような、横を向きかけたところだった。興味がないようにも見えたし、微かに笑っているように見えた。
 認識した頃、停止していた世界が動いた。誰かの悲鳴とクラクションとタイヤが道路を滑る音が耳を突き刺した。
 ――姉さん、ごめんね。
 頭にそう浮かんだ。景色が滅茶苦茶に回転していた。父さんも母さんもあとの姉さんたちもごめんね。よいお年をお迎えください。僕は来年を生きられない。

満月の夜に希望は遊ぶ

お時間割いていただきまして、ありがとうございました。

4兄弟で末っ子で長男で童顔でかわいー声な声優のおにーさんという、みんなが好きなキャラだったね!
この続きがすでに自分の頭の中にはあるけど、たぶん書かないのでネタだけ放出すると、
遊希おにいさんは奇跡の生還と復活を遂げ、声優業を続行します。
M君には、他の生き残りや不審を抱いている人たちから、そろそろ天罰あるかもしれない。

敢えて言うけど登場している「流行ってるアニメ」「キャラグッズを買い漁る」「色で言うと黄色い部屋」、
しかも主要ワードに「声優」、さりげなく地の文に「刃」とくると、もうわかりますね。
また絵や文が書ける気持ちと感性に返してくれた、例のあの子にただ感謝。

満月の夜に希望は遊ぶ

悴む指先でファスナーを引き、目幅いっぱいまで押し開けた。冷たい合皮の質感にきゅっとお腹に力を入れながら、ざっと視線を走らせる。 およそ2年ぶりに短編小説を書きました。【芸能人M君シリーズ】。 みんな名前は知ってるレベルの人気者が、実は人殺しだったりサイコだったりしたら怖い。 角度によってはミステリーだと思います。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-01-04

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