【連載】ゴールデンエイジの物語 Book 1

万田 竜人(まんだ りゅうじん)

プロローグ

赤レンガ倉庫の1号館を横切ってピア赤レンガ桟橋に出ると海風はまだ寒かった。
昨日、誕生日を迎えた私に誕生祝と云って「横浜クルーズ」のチケットが送られて
きたのはつい先日のこと。

私の誕生日は、モーツアルトと同じ「1月27日」である。

家内に云わせると「モーツアルトは偉人」そして貴方はみるからに凡人、比較する
ことがそもそもの大間違い、と、大笑いされた。

定年(60歳)の前にも、大笑いされたことがある・・・
「定年後には、どんな夢をもっているの?」と、聞かれたので、
「映画俳優か?」 「小説家か?」 「ビジネス・コンサルタントかな?」と、答えた。

大方、笑い終えた後で、しっかりと釘を刺された。
「小説家 と コンサルタントは 夢としては良いかも知れない」、でも、その顔で、
世間に向かって 「映画俳優が夢ですなどと云わない方が無難ですよ」 と。

良く世間で云われることに・・・
「夢は口に出して公言すると実現する」 と 「そうかも知れない」 と 私も思う。

定年の1週間前に 「講師とコンサルタントを兼ねた60歳以上の人材募集」 と
いう新聞広告をたまたま見つけて応募したところ、応募者総数が約200名の中
から 2名採用 という状況の中で、3次試験の面接を経て幸運にも採用されて、
約6年間も、やり遂げた (契約期間は 当初 4年間だった)。

最終面接で、私を採用した社長(当時は専務)の言によれば・・・

「あなたが優秀だから採用した訳ではない」
「優秀な人材は他にも大学の准教授やコンサルト会社のメンバーなど多数居た
が、私と相性が良さそうなので、貴方を選びました」と。

ところで、社長が主宰する特別教室までは、交通機関を乗り継いで行くのだが、
片道約2時間を要することが分かった。そこで移動時間を有効活用するために
定年退職するときに、後輩たちが贈ってくれたパソコンで小説を書くことにした。

ここで、恐れ多くも、モーツアルトとの類似性を述べることになるが・・・

「モーツアルトは楽曲のすべてを脳内に描き、それを譜面に移すため楽曲の修正
がなく、修正だらけのベートーベンとは、対照的であった」とテレビ番組で知った。

ここでも、奇遇であるが、私が愛聴している 「モーツアルトのピアノ協奏曲 第20番
ニ短調」は、原曲はモーツアルトであるが、ベートーベンが好んで演奏した曲でもあり、
私の保有するCDについては、カデンツァ(編曲):ベートーベンと記されている。

この協奏曲は第一楽章・第二楽章・第三楽章の三部作で構成されており、私は癒し系
の第二楽章が好きだが、この第二楽章については、映画「アマデウス」のエンディング
にも使われた曲である。

モーツアルトとしては、数少ない短調の曲でもあり、ドラマチィックな魅力が、映画の
エンディングに余韻をもたらせたのかもしれない。

話は、だいぶ飛んだが(私は書き手として発想に飛癖がある)・・・

「私も文章を書くときに、文章は予め脳内で書き上げておき、後で、パソコンに吐き出す
方法をとるため、電車内で膝の上にパソコンを乗せておけば文章化は可能である」

こうして書き上げた小説だが、たまたま懸賞募集の機会に恵まれて、3次審査まで通り、
最終選考に残ったが、入選は果たせなかった。

どうやら、私の小説にはドラマ性がなく、面白さや意外性もないので、多くの読者を惹き
付ける魅力には欠けるようである(自分でもその様に思うので納得は行く)。

しかしながら、インターネット上において、手前味噌的に小説家を名乗れる環境になって
きたので、思い切って、身を任せることにしてみた。

その様な経緯で、私が再認識したことは、夢は口にすれば 「確実?」に実現するという
「都市伝説?」的な思いである。

「コンサルタントの夢は、ビジネスコンサルタントとして・実現、6年間も活躍出来た」

「小説家の夢は 『売れない作家ではなく』 『売らない作家であれば』、一生涯を大学で、
学び続けながら、一生涯学生作家としてインターネット上で、活躍の場は確保出来る」
(映画俳優の夢は、口にしないことで釘を刺されているので、実現はありえない)

しかし、小説家を続けるには、困ったことがある・・・

「私の書斎は二階にあるため、二階に、こもってパソコンに向かっていると、飼犬が寂し
がって階段の踊り場まで迎えに来る。家内も同様に一緒にくつろぎたいようである」

かつて、作家の童門冬二先生は・・・

「定年後は、御二階さんに徹して(奥様は一階での生活)」 都庁退職後は、割り切って
作家に転身された、と、大昔に講演会でお聞きしたが・・・

「私には、そこまでの決心はつかない」 困ったものである。

そして、私の、その後の経験談として・・・

「小説家にしても、コンサルタント業にしても、それを課業にしようとすると、けっこう詐欺
まがいの話が持ち込まれて、騙されることがあること、を、経験的に知った」

冬の海を眺めて、そのようなことを思い出しながら、横浜クルーズの乗船までには時間
があるので、赤レンガ倉庫内の コ洒落たレストランに、家内・共々・入店、熱いコーヒを
オーダーした。



001 背中に翼を背負った女神の存在感

ピア赤レンガ桟橋で、クルーズ船に乗り込むと目の前に階段があり乗客は1階と2階、
どちらでも選択できるように、自由席としての設えになっていた。昨日は、強風のため
全便が欠航と聞かされていたので乗船するまでは気がかりであった。

今朝は、風も比較的おだやかに感じられる。
私たちは、1階の前側に席をとり、状況に応じて、2階の甲板に移動することにした。

やがて、船が出港すると、クルーズガイドが登場して、船内アナウンスの始まりである。
船が速力をあげると、最初は横浜港の玄関口を知らせる赤灯台を左手に見てやがて
横浜ベイブリッジの下を抜けて本牧埠頭に向かう。

本牧埠頭の海側からは、ガントリーポイントを目の前で見ることが出来る。
ここで、クルーズガイドのアナウンスも名調子となり、分かりやすい解説口調となる・・・

「今、目の前で船内に自動車を盛んに積み込んでいますが、この大型船には約5千台
の車を積載します。積載効率を考えてドライバーは車同士を約10センチ間隔で並べて
行きます」。

「その卓越した運転技術に敬意を表して彼らは愛称で『ギャング』と呼ばれています」

次に案内されたのは、本牧埠頭に設置された、日本最大規模と云われている最新鋭の
メガコンテナターミナル、目の前では、コンテナがクレーン操作によって巧みに積み込ま
れている。

ここでも、クルーズガイドが登場して解説・・・

「このクレーン操作は、風が吹く中での作業となるため、極めて操作が難しく高度な熟練
が必要とされています」

「操作に当たる技能者は、地上からエレベーターでクレーン操縦席に乗り込み、風を計算
しつくした上で、コンテナを次々と積載して行きます」

「彼らにも愛称があり『ガンマン』と呼ばれています」

そして、クルーズ船は、再び横浜ベイブリッジの下を通り抜けて、ペリーポイントに向かう。
(1854年にペリー率いる黒船艦隊が錨を下ろした場所である)
クルーズ船から陸地を眺めると海から見える海岸の景色が水平に目の前に広がっている。

ペリーは、日本に向けた開国の任務が与えられる1年以上も前の1851年1月に日本遠征
の基本計画を海軍長官に提出しており、その中で、日本に対しては・・・

「日本も中国と同様に、友好関係を訴えるよりも、恐怖に訴えるほうが有効である」
「長崎の地における日本側との交渉についてはオランダなどの妨害が想定される」
など、と、明確な戦略や戦術を具申している。

そして、1853年に、ペリーが日本との交渉の場として選んだ浦賀では、実際に艦上から
数十発の空砲を発射して威嚇行為を行っている。
(勿論、この時、幕府側には事前通告をしている)

ペリー艦隊が、2度目の来日をしたときに、ようやく、幕府がペリーとの交易の交渉を受け
入れ、交渉の場を横浜に設営した。

ペリーは、本牧付近の海域(ペリーポイント)に、投錨、将官や船員など 約500名と共に
横浜村に上陸した。
(時に1854年3月のことである)。

この時、ペリーは日本側から大いなる歓待を受けており、その後の交渉が円滑に進捗した
といわれているので 「横浜港のペリーポイント」 は、日本が米国との交易に向けて重要
な進路を決める、きっかけとなった記念すべき場所であり、浦賀とは、また、違った意味で、
象徴的なポイントの一つとも云える。

その後、ペリーは、和親条約の細則を下田において、全13か条からなる下田条約として
締結、その帰路に立ち寄った琉球王国とも、通商条約を締結、帰国後は、その成果を
「日本遠征記」としてまとめあげて大役を果たしていることから横浜港のペリーポイントは
ペリーにとっても記念すべき場所であったと云える。

やがて、クルーズ船は将来的には、大型客船も停泊できるような工事を進めている湾岸
の近くを通り抜けて、みなとみらい地区の近代的なビル群に近づいて行った。

それぞれのビルについては、建設設計のコンセプトが明確に説明されて楽しかった。

その中でも、ヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテルは・・・

「海に、浮かぶヨットの白い帆を連想してデザインした」と、云う特徴的な外観からは、
オーストラリアのシドニーの海から見るオペラハウスを脳内で思い浮かべた。

そして、クルーズガイドからのアナウンス・・・

「船内1階のお客様も是非、船室から出て、肉眼でご覧になって下さい」
「これは、クルーズ船だからこそ見える景観です。インターコンチネンタルホテルの
最上部に、背中に翼を背負った女神像を、身近な感じで観ることが出来ます」

「なんという存在感だろう」

実際に、ビル最上部の内壁に翼を背負った女神像を発見して感動、凝視して拝観した。

そして、それを機会に、家内 共々、クルーズ船の2階の甲板に移動することにした。

やがて、クルーズ船は・・・

海上保安庁の船のそばを通り抜けて、ピア赤レンガ桟橋に向かった。
陽射しは暖かく感じられ、今日は「クルーズ日和であった」ことに感謝、桟橋に近づくと
広場では子供たちが楽しそうに遊んでいた。

思わず甲板から手を振ると、手をつないで海に向かって歩いていた母子が、こちらに
向かって手を振ってくれた。

桟橋に船が着いて、船から降りる時に、クルーズガイドさんに・・・

「今日は、楽しいお話をいろいろと、ありがとうございます」と云って、感謝の気持ちを
伝えた。


002 ゴールデンエイジという呼称が気に入っている

ピア赤レンガ桟橋から赤レンガ倉庫1号館前の広場に戻ると長蛇の列が出来ていた。
「これが話題の鍋料理の店に連なる行列か?」と最後尾に目をやったが果てしなく列
は続き、はるか遠方に、それを知らせる看板があるようである。

クルーズ船内においても、クルーズガイドから名調子で鍋料理の体験談が語られてい
たので、店内の様子について予備知識はある。行列の最後尾の先は、自転車タクシー
の溜まり場になっていた。

自転車タクシーは人力車のように座席には二人が並んで座れるように設計されており、
それを地に足を着けての人力ではなく、自転車の推進力によって牽引して行く仕掛けに
なっている。

昨年の秋に、新幹線に乗って東北地方の紅葉狩りに行ったときに、角館では人力車が
紅葉の景色に良く似あうなあ、と、思って眺めたことがあったが、ハイカラな・イメージの
横浜港の風景には、自転車タクシーが良く似合っていた。

「物珍しさで乗る人もけっこう多いのかもしれない」

横浜港は、昔から、外国との交易で栄えてきた場所柄だけに、赤レンガ倉庫の佇まいが
良く似合うと云う印象が、強いが、一時期は廃墟に近い状況であったことを聞くに及んで、
いつ・どこの世界においても・なにごとも・人知の思い入れの強さが文化を支え続けて行く
のだと、今の盛況ぶりをみてあらためて痛感した。

横浜港は明治の時代に生糸の貿易港としても栄えた。

私の祖父も明治の時代に群馬県前橋市萱町1丁目1番地で、生糸業を営み、工場経営と
輸出業に兼業で携わっていたので、祖父にとって、横浜港は イギリスやフランスとの商い
を進めて行く上で、唯一この上ない生糸業としての要の場所であった。

私の父親は次男であったが次期社長として祖父からも期待され、横浜港は重要な仕事場
であり、前橋と横浜港をつなぐ物流ラインは祖父と父親にとってはまさに生命線であった。

太平洋戦争に突入すると、父親は軍需産業に召集されたため、私が後継として生糸業に
携わることはなかったが、祖父がフランスへ出掛けた際のお土産の双眼鏡が父親を経て
私に譲られたので、温もり感は伝わってきている。

そのような歴史的な背景もあって、私自身も、横浜港への思い入れは強い。

私たちは、とりあえず自転車タクシーの利用はやめて、みなとみらい線の馬車道の
駅に戻り電車で中華街まで出て、春節の雰囲気を味わってから、みなとみらい駅に
戻り、予約されている中華料理店に向かうことにした。

目的地であるロイヤルパークホテルの中華料理店は、みなとみらい駅からは徒歩で
約3分程度と聞いているので、みなとみらい線をフル活用することになる。

横浜のロイヤルパークホテルの中華料理店は、私たち夫婦が共に1月生まれで・・・

「家内は古希の70歳となり、先日は、熱海のホテル後楽園に招待されて歓待を受け
たときに、私は飼犬のペットホテル嫌いを考えて留守番をしたため、気をつかってくれ
たようである」

鎌倉ファミリーは、なにかにつけて、私たち夫婦に気をつかってくれるのでいつも感謝
している。

今回の「感動の横浜クルーズ」も鎌倉ファミリーからのプレゼントである。

「私は後期高齢期に入った75歳の誕生日で、いつも飼犬との留守番役では気の毒と
云う思いも働いて、横浜なら、二人で・一緒に来ることが出来る」と云う判断から、今回
のプランが浮上して、お招きいただいたと聞いている。

中華料理店で受け付けを済ませると、担当スタッフから・・・

「ご予約の五名様から、お二人様に変更になったこと、伺っております」
「お孫さんが、今朝になって・急に熱を出されたとのこと、ご心配ですね」
と、68階の窓側の席に案内された。

窓際には、ブラインド越しに、太陽が燦々と照らしていた。
そして、ブラインドの下の日陰越しには、遠くに海面が輝いて観えた。

数年前にも、同じような出来事があったので、私たち夫婦にとっては、急な発熱にも
多少の免疫性は出来ている。
(しかしながら出掛けの直前に、孫の急な発熱を知らせる電話があり支度は済んで
いたものの、急遽、中止と決めたが、娘からの強い勧めで横浜まで出掛けてきた)

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「あの時は、夏休みに我が家に一泊してから、池袋駅で日光行きのスペーシアに乗車
して、那須に避暑に行こうと計画していて、前夜、急に孫が発熱して翌朝の状態を観て
決めよう、と、いうことになり、その晩は、保留にしていたが、翌朝はケロッとして元気に
なり、当初の予定通り出掛けた」
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やがて、いかにも・美味しそうな生ビールと中華料理が運ばれてくる・・・

「古希の誕生日おめでとう。つい先日・還暦のお祝いをして、もう古希とは・驚きだね」
「あなたも・75歳の誕生日おめでとう」という、お祝いの言葉が返って来る。

「美味しいね」と云いながら、家内に、取り分けてもらった中華料理を頬張りながら・・・
私の所信表明の演説を始めることにする。

「私としては、75歳からを 後期高齢者と云う堅い漢字の呼び方は好まないので還暦
を過ぎて、65歳からをシルバー世代と呼び、乗り物にはシルバーシートが用意される
現状を踏まえて、75歳からを意識的に ゴールデンエイジ と呼ぶことにしたい」

「そして、ゴールデンエイジの物語として、私小説的な味付けでファンタジー小説を書く
ことにする。合わせて、還暦を過ぎてから書いた小説は、シルバーエイジの物語として
再編集、インターネット上での公開を計画して行くこととする」



003 背中に翼を背負った女神が語る真実

夕餉の「お疲れさまの乾杯」のビールの後で、小樽産のロゼを試飲してみる。
最近は、白ワインと赤ワインの中間的な存在として、ロゼが二人のお気に入りである。

「横浜ロイヤルパークホテルの中華料理は、中皿で三種類づつの中華料理が食べやすく
運ばれてくるので、どうしても食べ過ぎちゃうね」

「あれでも、シニアコースにして、食べ過ぎにならない様に、中皿にしているとは云っては
いたけれど、次々と、オーダーに誘われて、つい食べ過ぎちゃうわね」

「夕餉はお茶漬けを組み込んでダイエットコースにしたほうが良いわね」という共感に到り
ロゼとは相性の良さそうな金目鯛の煮魚に箸を進めながら、横浜での楽しかった出来事
などを二人で振り返ってみる・・・

「鎌倉ファミリーは、夕食は、済んだかしら?」
と、云う家内からの気付きもあり、鎌倉の自宅電話に通話を入れると、
「今、食事が終わったところよ」と云うので、

「どう航ちゃんの熱は下がった?」と、家内がたずねると電話のオープン・スピーカーから、
元気な声で 「もう熱は下がって夕食前にピアノの練習をしていたわよ」という返事があり
ひとまず安心である。

孫の航ちゃんのピアノ好きは本物で、その後、私立中学の学園祭におけるクラス対抗の
コーラス大会のビデオを観せてもらったところ級友と二人でピアノ演奏を担当していた。

ビデオ鑑賞で驚いたことは1年生のクラスがA組からH組まで8組あるのだが、それぞれ
のクラスからピアノ奏者が二名選ばれて、それぞれクラスごとに、2曲のコーラスを披露、
曲ごとに指揮者とピアノ奏者を入れ替えて皆で歌声を披露していた。

それだけピアノを演奏できる生徒が豊富に存在すると云うことになる。優勝したのはH組
であったが、指揮者も優秀な印象で、コーラスの歌声なども耳障りが良く、他のクラスより
も熱心に練習してきたことが聴き手にも伝わってきた。

男子校ではあるが、湘南の少年たちにとって、ピアノ演奏は当たり前のことなのかと受け
止めたが、今の子供たちは、ほとんどが、ピアノ演奏に憧れて練習を始めるものの途中
でピアノが埃を被ることも多いケースの中、今や、やり遂げる少年が多いと云うことか?

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いつも通り、午後11時には就寝、私も家内も飼い犬も、寝つきは早いほうである。
(どういう訳か? 寝つきの時に、飼い犬ももは、私と家内の間で川の字をつくって寝る)

寝返りをうって、眠りに入る姿勢をとったときのことである。
目の前で、星がキラキラと輝いている。

「なんだろう」と思って、目を凝らすと・・・

背中に翼を背負った女神が、そこに立っており、こちらに向かって微笑んでいる。
「本日は、横浜港に、ようこそ、ゴールデンエイジ入り、おめでとうございます」

背中に翼を背負った女神は、なにもかも、お見通しのようである。

「貴方のお気持ちに緩みが生じているようですので、今日は、たいせつなメッセージを
持参して、お伺いしました」

「貴方が、かつて、退職した人間の生命の与奪を、退職した後まで追いかける権利が、
たとえ大昔に、役員の職にあったとは云え、T氏に、そこまでの権限はあるのか?」
と憤っていましたね。

「そして、そのT氏が、昨年、逝去されて、貴方は、気持ちが緩んでいませんか?」
「彼らは私的な組織活動とは云え、チームとして解散したと云う話は聞いておりません。
貴方の気持ちが、緩んだ、今そこが彼らの狙い目です」

「M乳業ですと云って、若い男性が試飲ものを持ってきたことはありませんか?」

確かに、最近まで細心の注意を払ってきた。私の被害妄想と思われても困るので周囲
には、けっして話さずに私に何かあったときの用意として考えられる範囲での因果関係
や関係する人物名を明確に書き出して、信頼できる弁護士さんに預けてある。
(これは非常事態発生時には捜査の助けになると考えている)。

その事実をここで振り返れば・・・
(私としては、信じたくない出来事だが)

「20××年に、昔の職場のOB会が紆余曲折を経て実現、喜んで出席するも、その後、
激しい胃痛に見舞われて、急遽、かかりつけの内科医に駆け込むことになった」

「顔馴染みの先生に診てもらって、念のため血液検査を受けたところ、体内から微量
の水銀が検出され血液検査の結果からは大量のお酒を飲んだ時の異常反応も検出
されて、体内で異常なことが起きている可能性があると云われて胃カメラによる精密
検査を勧められた」

「その前段では、顎に赤い湿疹が出て、皮膚科で診てもらったところ花粉症の可能性
が有ると云うことで、治療のための注射もしていただいた」
(アレルギー体質の可能性についても血液検査をしたが異常は検出されていない)

「そして今度は心臓に異常を感じて、かかりつけの内科医に再び診て頂き、その断定
までには到らなかったものの外部からの異常な行為に遭遇しなかったかと問われた」

私も、それなりに、当時のことを振り返ってみると・・・

「昔の職場のOB会の宴も終わりかけたときに、盃に一杯だけの日本酒を勧められて、
それも恩人O氏からなので断りきれず、口に運んだ」

「しかし、上唇に、お酒が触れた瞬間、これを勧められるまま呑んだら、昔のように盃を
重ねることになり、二日酔いでたいへんな思いをしたことが記憶として蘇り、上唇が少し
お酒に触れた瞬間にやめた」のであった。
(私は日本酒にすこぶる弱く、今でも、悪酔いした経験が頭から離れないでいる)。

お酒の盃を、私に、手渡してきた恩人O氏は、私の目の前の席ではなく横列に一人置く
位置関係で手を伸ばしてきたので、私が、上唇に付けただけで盃を下に置いたことを、
恩人のO氏は知らない。

恩人のO氏は、元役員T氏の愛弟子にあたる。

かつて元役員のT氏は、私に対して・・・

「俺の眼が黒いうちは、絶対に、あいつは・管理職には任用しない」と、云い切ったと、
漏れ伝え聞いている。昔、同じ社内とは云え「関ヶ原の合戦」のような構図があって、
こちらは小兵、あちらは総大将、あちらが負けて、後の人事で相当に悔しがったとは
聞いている。

小兵と云えども、こちらには 「科学的な戦術」 があり負ける要因はなかった。

そのような事情もあって、私の管理職任用は、およそ10年遅れた・・・

「あのまま、盃を呑み干していたらどうなっていたのだろうか?」 真相は闇の中だ。
(しかし、確たる手がかりはなく、恩人の「O氏を疑うには」心に抵抗感がある)



004 人生航路の大ぐくりな層別

昔から「人生・山あり・谷あり」と云われているが、私は、定年(60歳)直前の波乱万丈
のまるで飛行状態におけるエアポケットのような状況に到るまでの経過と、 その前後
の年齢層に応じた年代別の層別してみた。

そして、その経過を、背中に翼を背負った女神に紹介してみた。

私の人生航路を大ぐくりに層別すれば・・・

【概ね、順風満帆な人生航路の船出から始まる】

◇20代から30代の前半は、武蔵野の大地を自由闊達に駆け回った印象から、
            この時代を「グリーンエイジ」と命名出来る

◇30代半ばから40代前半は、人生に静かな情熱を注げた印象から、
       この時代を「ブルー&レッドエイジ」と命名出来る

◇40代後半から50代前半は、紅茶の味がわかるようになったことから、
          この時代を「オレンジエイジ」と命名出来る

【突然、乱気流に巻き込まれて、航路を取り戻すまでの層別を踏まえて】

◇50代後半は、職場で針のむしろに座らされていたような暗黒の印象から、
             この時代を「ブラックエイジ」と命名する

◇60代前半は、初期化を図り少年時代に戻って限りなく透明に近い印象から、
           この時代を「ホワイトエイジ」と命名出来る


【イタリアの旅で、中世のルネッサンスに触発されてからの層別として】

◇60代後半から70代前半を ・・・ 「シルバーエイジ」と命名出来る
◇そして75歳からを自信を持って  ・・・ 「ゴールデンエイジ」と命名出来る

そのような層別に対して、背中に翼を背負った女神は、微笑みながらも、今、問題
にする必要のある必須の課題は・・・

◇ブラックエイジの暗黒の陰を断ち切り、ゴールデンエイジでは、好循環の環境を
整えること。それを考えると、今や、「暗黒の時代の人間関係を躊躇なく断ち切る」
ことが最重要である、と、そこに躊躇する必要はなく、話し合う余地もない。

◇そのためには 「ブラックエイジの時代のコミュニケーションを断ち切る」 ことが
重要課題です。したがってOB会などへの出席は論外です。

「確かに、貴方が、脳内で イメージしているように、ブラックエイジの暗黒の時代にも、
一筋の光明として、希望の光をかざしてくれた多くの恩人が居り、その方々への恩義
を忘れてはならないことも確かであり、たいせつなことです」

「しかしながら、恩人であるO氏のように、貴方に希望の光を与え続けながらも元役員
T氏からの圧力と私的な組織力の働きかけによって貴方に盃を差し出すことになった
人も居ることは、確かな事実であり、真向いの席から盃を勧めなかったのは、貴方に
差し出した盃を呑み干して欲しくなかったのかもしれません」

「一方で周囲を説得して、貴方を遅ればせながら管理職への任用を推挙したのも恩人
の O氏であることを考え合わせると、恩人のO氏も 辛い立場に置かれていたのかも
しれません。しかし、貴方にとって 油断は禁物です。これからも、恩人とは云えO氏に
隙を見せてはいけません」

そのことを伝えたくて、貴方の処を訪れたというのが 「私からの真実の告知」 です。

「人間が生きて行くために、裏切らざるを得ない事例は、いくらでもあります。だからと
いって、貴方が命を懸けてまで、T氏の私怨に付き合う必要はないと云うことです」

「カオス(混沌とした状況)の世界では、いつでも私怨の類の愚かな事実を隠して複雑
な様相に仕立て上げて巧妙に仕掛けて来るものです。貴方自身が時間をかけて考え
抜いても、貴方を取り囲む現世において、貴方自身、なかなか、その真実に行き付け
なかったことでしょう」

「しかし、私たちは明確に真実を見通せます。私たちからの真実を真摯に受け止めて
いただければ、私が貴方の処を訪問したことも報われます」

「実は、私たちも貴方の横浜港への訪問を随分長い間、待っておりました」

「これは、ゴールデンエイジ入りしたからこその運命の出会いかもしれませんね」
と微笑むと、キラキラと輝く星を引き連れて女神は去って行った。

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確かに、ブラックエイジの陰影は、後遺症的な作用として、無意識の中でなんらかの
影響を及ぼしているかもしれない。

そして、過去に、目に見える形での影響としては・・・

「昔なら、管理職定年に当たる55歳の時に、我々の事業本部は全本部的業務革新
成果もあって業績も活況を呈していたのだが、全社的な業績悪化の影響を受けて、
『管理職としての役職は維持したまま』 年々、10%づつの減俸が3年間続いた。

定年まで5年あったので、定年時は給与が半減するのかと、年度初めは戦々恐々の
辞令待ちが続いた。

しかし、定年の2年前から新制度の賃金制度に移行した。
さすがに、優秀な人材の散逸が始まって、制度の抜本的な見直しとなったようである。

この間、給与の減額を示した辞令を、家内に渡す度に・・・

「なんとかするわよ」と、いう家内からの励ましの言葉に救われながら3年間を耐えた。
新制度の賃金体系になってからは若干の昇給もあり家内にも安堵の様子が見られた。



005 職場で針のむしろに座らされていた時代

プリンス&プリンセス(P&P)テニスクラブの入り口は、メルヘンチックな雰囲気で、
玄関口の両脇には鉢に植えられた花々が飾られていた。

玄関ドアは、アンチークなデザインになっており、テニス仲間が入って行く時には
思わず笑みが浮かぶ設えになっていた。

クラブハウスの室内はウェスタン調で、オレンジが美味しかったカルフォルニアの
レストランを連想させる。4月からのテニススクール入会予約は、電話で済ませて
あるので、今日は、銀行の振り込み手続きなどを済ませれば、P&Pテニスクラブ
への仲間入りとなる。

私はゴールデンエイジ入りの記念に 「老齢を超越する磁場」 を探していた。

たまたま現役時代にお世話になった狭山ブレントテニスクラブのHテニスコーチが、
こちらのテニスクラブに着任されたことを知り、早速、現地を訪れたのであった。

幸いにも、ご本人に、コート前室でお会いして挨拶させていただいた。長年、お世話
になった狭山のテニスクラブは、一昨年、オーナーの老齢化に伴い紆余曲折を経て、
多くのクラブファンの期待を裏切る形で、一昨年末に閉鎖となり、それまでは恵まれ
きっていた全天候型の室内テニスコートを失うことになった。

それまでの間は、木曜日に狭山のテニススクールで「ゆっくりと打ち合う並行陣」と
いう独特のテニス・スタイルに学び、月曜日には、入間市の市営のテニスクラブで、
その週に習ったテニスレッスンのおさらいをするという生活スタイルを貫いていた。

このテニス仲間と共に作り上げていた生活リズムは、あっけなく崩れ去った。

その後は近郊の室内テニスを行脚したが、お気に入りのテニス環境には廻り会え
なかった。P&Pテニスクラブもプラン上にはあったのだが、距離的には遠いと云う
印象が強かった。

しかし狭山ブレントテニスクラブで、お世話になった名コーチH氏が就任したと云う
ことで見学に行ったのであった。

実際に現地に着いて、自宅からは、自動車で約30分間と思ったよりも近く帰路には、
お馴染みのサイボクハムが運営する源泉かけ流しの温泉にも立ち寄りが可能なこと
に気付き入会に向けて気持ちは一気に傾いた。

決まれば早い、幸い4月から入会枠が1名分空いていた。

入会キャンペーンで、プリンスのテニスシューズをいただいた。最近、購入したお気に
入りのテニスラケットもプリンス、入会したテニスクラブがプリンス&プリンセス・・・

なにやら、プリプリ化してきた。帰りがけにプリンスの風貌を感じさせるHコーチに挨拶
をして帰路についた。時に、3月3日の金曜日、お雛祭りの日である。この後には啓蟄
と云う地中に冬眠していた虫も暖かくなって、穴を這い出る時期となる。
(今年は3月5日が啓蟄である)。

自宅に帰ると、1通の封書が届いていた。昔の職場のOB会へのお誘いであった。

元部長が 「まだ足腰がしっかりしているうちに皆に会いたい」と手紙の案内人の女史
に声をかけたのだと云う。私も、元部長には、管理工学の分野でお世話になったので
会いたいと思う。

ただし、今回のOB会の対象職場は、約7年間で、3人の部長交替があり今回の案内
は初代に相当するT部長が統率したメンバーであり、和気あいあいとしていてチーム
ワークに優れた職場であった。

その後は、私たちが主体になって、業務革新の旗振りをした斬新的な職場であった。
最終段階の3年間は、新しい部長の着任と同時に職場の空気は一変した。

私が 「ブラックエイジ」 と云う表現で前述した暗黒の時代入りである。
時に、私は、管理職定年にあたる55歳、職位と責任は維持されたまま、毎年10%の
減俸に突入した年である。

これだけであれば 「武士は食わねど鷹楊枝」 で耐え忍ぶことも出来たが事態は甘く
はなかった。突然の嵐のように、毎朝、出社するや、部長に呼びつけられ・・・

「徹底的な人格否定」 ともとれる罵倒が開始されたのであった。

おおよその訳も・理由も・経緯も・分からない状況で、これが、約3年間も巧妙な手口で
続けられた。
(当時、地獄で針のむしろに座らされるとは、このようなことかと思った)。

何故、三年間も 「この仕打ちに耐えられたのか?」については、後述することにする。

しかし、真相は、意外なところから伝えられた。原動機の事故調査にあたった技術職
の先輩から 「おまえ、今、たいへんらしいな」と、云う一言で話は始まった。

新任のM部長の異動は、この原動機の事故調査とも、密接な関連が想定されており、

「彼が原動機の軽量化と称して、鋼材から、軽量・強化プラスチックへの材質変更を
図り、その回転体が作動中にバックリング(座屈)現象を起こして、軸受部の損傷を
引き起こした」

「その原型の設計は、かつて、私が描いた図面であり、もちろん強度試験や耐久試験
も済ませて万事抜かりなく、材質も鋼材を使用しているので、今までに問題が発生した
ことはなかった」

「ところが、M部長は、初期の図面を描いた私に責任があるとして論調を押し通したが、
事故調査委員会ではM部長の安易な軽量・強化プラスチックへの材質変更が主原因
であると特定した」

「事実、この構造部は、ジェットエンジンの推力を大幅に向上させる際に、エンジン推力
を最前部で支える部分であり、軸受部も、シングルからダブル構造に設計変更しており
該当部のディスク材を鋼材から軽量・強化プラスチックに変更するなどと云う発想をもつ
ことは、常識的にはあり得ないことである」

今回の部長の人事異動が、そのことに関連が有るとは断定出来ないが、たまたま私が、
M部長の異動先に在籍していたため・・・

「格好の攻撃目標になった可能性は否定できない」と云うことのようである。

「お前さんも良く3年間も耐えたものだよ」と同情を越えた温情のようなものを感じ取った。
その後、私は以降の顛末は知らされていないのだが、役員に就任していた恩師O氏の計ら
いもあり他部門に異動することになった。

さて、今回、ご案内いただいたOB会に出席するか否か・・・

祖父から譲り受けた双眼鏡を手にして、背負に翼を背負った女神の居る横浜港の方角を
覗いてみると、女神が、こちらに向かって微笑みながら何か話しかけている。

口元を真似て辿ってみると・・・

「横浜港に来て、ペリーポイント辺りを眺めてみなさい」と、云っているように見てとれた。
最近は、入間市からも横浜の中華街行きの直通電車が走るようになり、海のなかった
埼玉県も 「海が近くなったような気がしているので、早速、行ってみるか!」



006 老齢を超越する磁場

横浜港の翼を背負った女神のお膝元に、もう一つの「老齢を超越する磁場」を設けて、
海を眺めながら思索に耽るのも良いかもしれないと考えてインターネットの路線案内
を調べてみた。

自宅を9時半過ぎに出れば、直通電車で11時過ぎには横浜港に着くことが出来る。
横浜港の近郊で昼食を摂り、午後3時頃には直通の帰りの電車もあるのでお手軽な
散策コースである。家内と共々出掛けて、たまには、鎌倉ファミリーと中華料理を楽し
むのも良い考えかもしれない。

今日は、タイミング良く放送大学から授業のテキスト「日本文学の名作を読む」も届い
ており4月から始まる授業の予習として直通電車の車内で読みふければ、自宅から
横浜港までの移動空間をも含めて老齢を超越するロケーションとして動く書斎の如く
に活用出来る。

既に、P&Pテニスクラブとサイボクハムのかけ流しの温泉と入間市のテニスコートを
つなぐ広域地帯に老齢を超越するロケーションを設けたので、さらに、これに加えて、
サイバースペースにおける「趣味の俳句」と吊り橋理論に沿った「星空文庫の小説家」
としての活躍の舞台を整えれば、老齢を超越する ゴールデンエイジとしての活躍の
舞台は、ほぼ用意出来たことになる。

今回、横浜港までの電車の中で読もうとしているテキスト「日本文学の名作を読む」は、
島内裕子教授が新境地で解析された「枕草子」における新発見も収録されているよう
なので、読む前からワクワク感が先行している。

この著者の島内裕子教授の授業は何度か受けているが、テキストの文面は分かりや
すく、講義の際のお話しも楽しく、思わず引き込まれる魅力がある。

今までの受講内容と経緯を追ってみると・・・

◇ 「日本文学概論」   島内裕子 放送大学教授 著
◇ 「日本文学の読み方」       島内裕子 放送大学教授 著
◇ 「徒然草をどう読むか」      放送大学 叢書 島内裕子 著

などがあり、他にも「徒然草」島内裕子校訂・訳については、授業で徒然草の原文に
沿って、みんなで声を出して読み合わせるなどの画期的な授業も体験した。

また、訳文は、島内裕子教授によって深層心理にも触れた斬新な解釈も加えられて
おり文面を紐解いて行くと独自の現代版徒然草ワールドに誘ってくれる。

島内教授は、徒然草のリズム感は、モーツアルトの楽曲にも共通するところがある
という独自の解説も加えられている。

私は、この徒然草の島内教授による訳文は何度となく読み返して楽しんでいるので、
これも、入間市から横浜港までの直通電車内で読み返すのには最適かも知れない
と考えた。

今までにも徒然草の島内教授の訳文を読み返すことにより、次のようなテニスへの
ヒントを得た具体例があるので、あらためて・通読することでさらなる新たなヒントが
得られるかも知れない。

【テニスにおけるヒント】 (二つの具体例)

◯ 一つ目は、徒然草 「第百十段」 からのヒント
             (先ずは、島内裕子教授の訳文から抜粋)

【訳】 双六の名人と言われた人に、その必勝法を尋ねてみましたところ・・・
「勝とうとして、打ってはいけない」
「負けまいとして、打つべきである」
「どういう手を打つと、すぐに負けてしまうのだろうかと熟慮し、その手を使わずに、
たとえ一目なりとも、遅く負ける手を選んで打つべきである」 と 言うのだ。

これは、双六の道の奥義に達したうえでの教えである。
自分の生き方をきちんとし、国家を正しく保ってゆく道においても、また同じことが
言えるのだ。

☆これはまさにテニスの試合などにも共通する話であり、テニスの試合においても
最初から「勝ちに行く試合」には、気持ち先行のゲーム展開の傾向が強くそこには
戦術に欠ける面がある。

負けないテニスと云うのは、練習試合で負けたりした場合に・・・

「何故、負けたかを徹底的に考え、細部まで分析した上で、負けない戦術を練る」
その上で、戦うので、テニスを科学するプロセスが加わる。

したがって、本番の試合が始まってからでも・・・

「この負けないテニスが目指すところの科学する眼が試合中に作動すれば、以降
のゲームにおいて、軌道修正が可能であり」 結果 負けないのである。

【さらなる、テニスにおけるヒントの具体例】

◯ 二つ目は、徒然草 「第九十二段」 からのヒント
               (先ずは、島内裕子教授の訳から抜粋)

【訳】 ある人が、弓を射ることを習う時に、二本の矢を手に持って、的に向かった。
すると師匠が言うには 「初心者は、二本の矢を持ってはならない」 と、

後の矢をあてにして最初の矢を射る時にいい加減な気持ちが出てしまうからである。
「毎回、絶対に失敗のないよう、最初の矢で必ず的を射なければならない」 と、思い
なさいと言った。

師匠の前で、たった二本の矢のうちの一本を、おろそかにしようと思う人はいないだ
ろう。けれども、弛む心を本人は気づかずとも、師匠は気付いているのである。

「この教えは、すべてに通じると言ってよい」

道を修行しようとする人は、夕方には、翌朝があることを思い、翌朝になると今度は
夕方があることを思って、後でよく修行して身に付ければよいと、ついつい先延ばし
にしがちである。

ましてや、一瞬の間にも弛み怠る心が 「自分にあると」 いうことが、わかろうか。
本当に 「ただ今の一念」 つまり、この一瞬のうちに、しなければならないことを、
すぐさま実行することが、何と、困難なことであろうか。

これは、まさにテニスでサーブを打つ時の基本姿勢として指針そのものである。




007 本社勤務の時代に新しい息吹を吹き込んでいただいた恩人の存在感

西武池袋線の電車内において、入間市から・元町・中華街(横浜)までの直通電車内
での過ぎし方を想像しているうちに・・・

脳内において、今回の「昔の職場のOB会」へのお誘いについて結論が出てしまった。
答えは「不参加」である。

たしかに、オレンジ・エイジの時代の懐かしいお付き合いであり、古き・善き時代の思い
出も手伝って参加したい気持ちは強いが、案内状を封書で、ご送付いただいた女史は、
同じ部門において「ブラック・エイジ」の時代にも、席を並べていた仲間である。

OB会の準備を進める過程で、OB会のメンバーの対象も範囲が広がる可能性もある。
会場に着いてから、ブラック・エイジの時代の三代目の M部長が居ることに気付いて、
急遽 「帰る」 と云うのも大人げないことになる。

ここは翼を背負った女神からの貴重な警告も考慮して、あの時代の黒い影を再び踏む
ようなことはしないほうが、賢明のようである。

私の企業人としての人生を大きな瓶の中における航海として例えるなら管理職定年と
しての55歳からの約3年間は、M部長によって瓶にコルクによる蓋をされて窒息寸前
まで行きついて、帰宅してから思い切り息を吸い込むような日常の繰り返しであった。

やがて、恩人のO氏によってコルクの栓が抜かれて息継ぎが出来るようになって定年
の60歳までを、まさに、休暇を取る暇もなく、一生懸命に駆け抜けた感が強い。

それだけに、定年の日を迎えた、その翌日の朝の感動は、今でも忘れない。あの朝は
飼い犬との散歩に出掛けて、林の中の新緑に眼が癒されて心の中で思わず「セーフ」
と叫んだことを今でも覚えている(この場合のセーフは・まさに・生還を意味する)。

それだけ、暗黒の約3年間の陰影が、色濃く・心を支配していたということである。
(しかも、この時の後遺症は、約10年の月日を越えても心にわだかまりとして淀んだ)

そして、私の定年(60歳)を迎えるまでの約2年間の一生懸命さは、 定年後の講師を
兼ねたビジネス・コンサルタントの業務にもそのままの勢いでつながって行きオーナー
の期待に大いに応えることが出来た。

私の吊り橋理論の 「吊り橋」は、見方を変えれば現役時代のオレンジエイジと定年後
のシルバー・エイジをつなぐ、私にとっての 「心の架け橋」 であったのかも知れない。

そして、眼下には、底知れない 暗黒の谷のような ブラック・エイジ が観て取れる。

私が、定年の日の翌朝に、あれほどの安堵の気持ちになれたのも、定年の日の晴れ
舞台があったからこそと思っている。
(しかし、この時点でも、心に残された傷が癒された訳ではなかった)

私が、定年前の約2年間に任された任務は、設計部門と生産部門をつなぐ技術情報の
データセンターの近代化であり、これも因縁的なめぐり合わせであるが、該当の部署は、
かつて M部長が統括していた部署で、データセンターの機能は、三事業所にそれぞれ
独立する機能として配置されていた。

当時、現地に着任して分かったことは、M事業所では・・・

「M部長による業務改革を歌い文句にして約5名の減員が行なわれ」 まだ業務改革の
効果が確認されていない段階で、人員削減を図ってしまったために、職場は 大混乱の
状態に陥っていた。

また、T事業所では、改革システムが円滑に機能していないために、機能麻痺の状態に
陥っていた。

そして、K事業所も、T事業所と同じような状況に陥っていた。

そして、あらためて分かったことは 「人減らし」 を先行させることで M部長は、自らの
昇進を実現させてきたと云うことになる。

このことを振り返って考えてみれば 「全社的な業務革新」を成功させた我々の部署に
M部長が着任した時に、次のステップに昇進するには、新たな 「人員削減の標的」を
定める必要があり、眼前の私が問答無用で選ばれた可能性は否定できない。

さて、話を 「データーセンター」 救済の現実の世界に戻そう・・・

私としては、三つの事業所を1週間のスケジュールを割り振ることで巡回して、移動中
は情報機器を活用、現地の状況を逐一把握しながら・・・

「新しい情報管理システムの構築」と
「人員の適正な補充」に注力、

外部のシステム・エンジニアの助けも借りて、約1年半で軌道に乗せることが出来た。
この過程では、コンピューターの2000年問題にも遭遇、正月返上でシステムを守り
抜いた。

また 「人員の適正な補充」については、私の専門分野である管理工学の見地から、
私の担当部署となったデータセンター内で、動作分析を行い、業務構成を組み立て
標準的な業務時間を割り出して人員構成を算出、管理部門の了承を得て補充した。

このような経過で、新機能を装備したデータセンターは高く評価されて全社的な表彰
を受けた。

私の定年の日には、これらのシステム構築に関わった他部門のメンバーも定年の日
の宴席に加わってくれて 「至福の喜びの会」 となり、当日は、自宅までハイヤーで
送っていただいたのであるが、帰路には、あちこちで桜が満開、そのような喜びの日
の翌日の朝であっただけに、林の中の新緑がいっそう目に映ったのかもしれない。

しかし、ゴールデン・エイジに突入した、今、五十歳過ぎの 波乱万丈 のステージを
なんとか乗り切ることが出来たのは、本社で、出会った恩人(当時の上司)あっての
ことではなかったか、と、今でも、その思いを強くしている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

当時、私が、本社に出向いた時期は、われわれの事業本部にとっても、大転換期に
置かれていた、と、云える。

◯ 従来は、国内需要への対応が主力であったが、われわれの事業本部が全社的
にも屋台骨となって、全社を支えて行く事業構造に転換して行くためには、海外需要
への対応が急務となって来ている。

◯ 海外需要への期待の芽として、民間航空輸送機用のジェットエンジンの開発に、
目途はついてきたが、海外への輸出となると、当時「円高への対応」が必須の課題
であり、トータルコスト的には 「コスト半減」 の抜本策が必須であった。

◯ このことは、製造コストの半減だけでなく、オフイスにおける管理や間接コストの
削減も必須であり、まさに、全本部的に総力を挙げたコスト半減が必要であった。

・・・・・・・・・・・・・・

そして、これらの具現化のために、本部長によって 「業務革新プロジェクト」が本社
に創設されて、私もメンバーに選ばれ、大手町に通うことになった。

その時に出会った上司が、やがて 生涯の恩師となる K部長 であった。

K部長からは、懇親会の場で、片道2時間近くもかかる通勤の友として・・・
「月は東に(蕪村の夢・漱石の幻)」森本哲郎著が贈呈された。

著書の帯には・・・
「著者が敬愛してやまぬ 江戸の文人と明治の文豪が希求した 『世界』 を訪ね 
日本文化の精神を活写する」と、記されていた。

通勤の往復には、読書には充分すぎるほどの時間があるので、何度も読み返した。
読書百遍とは云うが、蕪村と漱石の間を通じて、推理小説のような構成で描かれた
作品を通じて、私は、松尾芭蕉の崇高な作品の 心の働き に興味を抱いた。

そして、芭蕉のこころの働きに興味を持った・私は、本社の経営企画室の K部長の
心の働き方にも、深い興味が湧き、その不思議な存在感に圧倒された。

「どんな人と接しても、同じ目線で、横に・相並んで、目標や課題や問題を見据える」
という一貫した姿勢は新鮮であった。

従来、私たちが、生産事業部門で、目標や課題・問題を目前にしたときに、お互いの
論点を絞り込んで、論戦を交わすと云うことが多かったが、K部長の場合は横に相並
んで、同じ目標や課題・問題に向かって方法論を見据えて行く。

そこに、争点はあっても、お互いの方法論を見据えて、共通の第三案を見出して行く。
要するに、お互いの 「心の行方」 をおもんばかって解を求めて行く。

私としては、この 「心の働きをおもんばかる姿勢」に、新鮮な・驚きを持つに到った。




008 権限委譲という禅問答のような難題

東京大手町の本社に召集された私は、経営企画室のK部長の下において、業務革新
プロジェクトの事務局(兼)コーディネータという役割を任されて、全社的(全本部的)な
運動の準備に取り掛かった。

今回、私が、抜擢されたのは、かつて 30歳代の頃の「生産性向上運動」の旗振り役
として活躍した経験を買われてのことであるという。

本部長と私の関係性で云うと、本部長の O氏は、かつて管理工学の欧米における
実情調査の際に同行させていただいた上司であり、その後の「生産性向上運動」を
介して、お互いに遠慮なく論点を交わすことにおいて、阿吽の呼吸は心得ていた。

事業本部の事業構造として、国内需要における 航空機用のジェットエンジン分野に
おいては、ナンバーワンのシェアーを占めており、そこに、関係する部署のプライドと
ポテンシャルは高く、今更、業務革新の必要性を説くことは容易なことではない。

しかし、海外における民間航空機用のジェットエンジン分野に進出して、事業構造上
の新たな稼ぎ手に加えて行くためには、トータルコストの半減と云う難題が待ち構え
ているばかりでなく、その前段として業務スピードを格段に向上させる必要がある。

当時(1990年代)は、世界的な傾向として需要が縮小均衡する傾向を見せ始めて
来ており、ナンバーワンのスピード感覚をもった企業体のみが受注に成功する経営
環境が出来上がりつつあった。

かつて、日本の政界でも 「ナンバーツーでは駄目なんですか?」というフレーズが
飛び交ったことがあったが、当時の産業界では、ナンバーツーやナンバースリーに
は、仕事が廻って来ないという状況が出始まっていた。

したがって、自分たちに仕事が廻って来ない、ナンバーツー企業は生き残るための
秘策として受注合戦に敗れた、その日の内に・あるいは翌朝には、ナンバーワンと
して受注に成功した企業を訪問して、自分たちの得意分野を売り込んでいた。
(まさに、背に腹は換えられないという現実が、身近にも押し迫っていた)

しかし、ここまでの事情は、なかなか世間一般には流布してこないため、多くの企業
には切迫感として伝わって来なかった。

私は、たまたま管理工学という専門分野において、異業種の実践交流会に継続的
に参加していたため、身近な実践交流会の仲間から、彼らの身内の他部署におけ
る切羽詰まった状況が漏れ伝わってくる立場にあった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

その様な状況の中で、本社・会議室において、事業本部長の下に、各地域・各部門
から、30代の若手メンバーが集結した。

「業務革新プロジェクト」の発足である。

オープニング・セッションにおいては・・・

本部長から 「シンプル&スピード(S&S)」 というキャッチフレーズが紹介された。

その意味するところは・・・

「あらゆる業務を見直して内容の簡素化を図り、それによって業務展開のスピード
アップを図って行こう」 と、いう主旨である。

特に「決裁書」について、現状では多くの 「ハンコ(印)」 が押されており、それも、
回覧ボードでの合議や同意を得ているため、最終的な・決裁までの日程について
の見通しが建て難い。

本部長に就任したばかり の O本部長の眼に映る情景として・・・

実際に、本部長の処まで、決裁が上がって来る前に、機を逸しているケースも散見
され、計画を練り直す時間が、残されていないケースも散見される。
(石橋を叩いても渡らないどころか、叩き過ぎて・機会を逸しているケースもある)

原則として、決裁は 「照査」「検討」「決裁」の三つのハンコ(印)があれば十分で
あり、ハンコを押した後で、期間的に 10年先 に責任が及ぶケースもある。

その際に、合議印や同意のハンコ(印)が数多く押されていても、何か起きた時に
責任は分割出来るものではなく、最終責任は 決裁者 にある。

ところが、現状では、数多くの同意や合議のための印が押されており、しかも回覧
によって押印が成されているため、全体的に、決裁までのスピード感に欠ける。

そして、これらの実態については、経営企画室のK部長の下で私がコーディネータ
の立場から、事前に、調査した事例を表示して説明させていただいた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「業務革新プロジェクト」のオープニング・セッションにおいて説明した内容について
は、各部門長にも説明、若手のプロジェクト・メンバーに活躍の舞台を与えて、共に、
業務推進において 「シンプル&スピード(S&S)」活動 の推進をお願いした。

各部門から選抜されたメンバーはいずれも次世代の幹部候補生であり事業本部長
の狙いも、各部門内での主旨の徹底も勿論、次世代経営者の早期養成にも着眼が
置かれていた。
(事実、後に、この若手メンバーの中からは、社長を輩出している)。

一方で、特命事項として、コーディネーター役の私には・・・

◯ 全部門に シンプル&スピード(S&S) の主旨を徹底させて、実践的な活動を
展開、良き事例については、他部門にも、共有させて行く役割が課せられた。

◯ そして、あらゆる決裁書における 「ハンコ削減」 と決裁の迅速化を促進させる
ことが求められた。

◯ そして、難題と思われる特命事項として 「権限委譲」 について 実態の究明と
調査・研究を早急に進めるよう、指示が成された。




009 BCGのヴァイス・プレジデントとの出会い

大手町本社に出向いたころには、特に知り合いもなく、昼休みになると近郊を散策する
ことが多かった。時に、鴨の親子の移動風景に遭遇したり、ホンダ車が新しいコンセプト
の下に、新発売した新車の運転席に座ってみたり・・・

或る日のこと、偶然、 ボストン コンサルティング グループ (BCG) の東京オフィス
の看板を見つけた。世界中にオフイスを構えている BCG なら 「権限委譲」という様
な、私にとっての難題にも、答えを持ち合わせているかもしれないと直感した。

しかし、当時、業務革新プロジェクトには、コンサルティングを依頼する予算はない。

そこで、上司のK部長に相談して 「お話だけでも聞かせてもらい」 にBCGを訪問させ
ていただきたい旨を熱心に説明して了解をいただいた。

実際に、午後3時頃に、BCGオフイスを訪問、受付カウンターで担当の女性に唐突な
話で恐縮ですがということで、こちらの事情の正直にお伝えした。

「少しお待ちいただけますか?」 と、いうことで受付カウンターで待たせていただくと、
すぐに応接室に案内されて・・・

すぐに、担当の者がまいりますので、少々、お待ちくださいと云われて、丁寧に紅茶が
振舞われた(こちらとしては、予算がないことを、予め・お伝えしたので恐縮であった)

やがて、いかにもインテリジェントな紳士が現れて・・・

「私は、◯◯と申します」 と、云われて名刺が差し出された。
名刺には、ヴァイス・プレジデント (副社長) の肩書が記されていた。

「権限委譲という具体的な課題に直面されているとか?」

「はい、当方の本部長から、権限委譲と云う課題について、調査・検討しておくように、
特命事項として宿題をいただきまして」

「権限委譲という課題は、日本においては、もっとも・難しい課題と云えるでしょう」
「米国などでは、社内規定やビジネスルールが、こと細かく文書化されていて新しい
部署や新しい職位に就任しても、守備範囲が明確に示されています」

「日本においては、必要不可欠な社内規定は整備されていても、ビジネスルールの
レベルまで文書化されているケースは稀です」

「いわゆる阿吽の呼吸で、ビジネスを進めているケースも多く、これも・悪いことでは
ないのですが、日常で、突発的に権限委譲を行なうには難があります」

「ただし、日本においても、技術系の職種においては、品質管理規定や ビジネスを
進める上でのノウハウの伝達には、文書化が行き届いているケースが多く、それに
比べて、オフイスの事務職系にはビジネスルール制定の習慣は定着していません」

「また、日本的な言葉には 『禅譲』 なる言葉がありますが部下が優秀であるほど、
その趣旨のことを匂わせても、実際、スムーズに譲ることは少ないようです。一方で
部下が極端に劣る様なケースでは、勿論、最初から禅譲など成り立ちません」

「本日は、突然の訪問にも関わらず、わかりやすい・ご説明に、感謝申し上げます」

「権限委譲を現実のものにするためには、そのバウンダリーとして、社内規定および
ビジネスルールの整備が出発点」 と、いうことですね。

私からは重ねて丁寧なお礼を述べさせていただき、お暇の挨拶をさせていただくと、

「あなたも、たいへんな課題を背負い込みましたね」と云われて、帰りがけに一冊の
ビジネス書をいただいた。

その著書には・・・
「タイムベース競争(90年代の必勝戦略)」堀紘一(監修)と記されていた。

帰社して、すぐに K部長に報告すると、BCGの堀紘一代表取締役社長は、K部長
と同じ 東京大学法学部卒業でありハーバード大学経営学修士を修得後、アメリカ
でのコンサルティングを皮切りに、大活躍されていることをご存じであった。

私は 「タイムベース競争(90年代の必勝戦略)」堀紘一(監修)を、早速、熟読して
書籍の末尾から「意思決定におけるタイムベース競争」の記述を見付けて、決裁書
や稟議書のハンコ(印)減らしの記事を見付けた時に、事業本部長の構想の深淵の
一部を見付けた思いがした。

そして、考えた・・・

文中には、世界のトップ企業としての アメリカのGE社のジャック・ウェルチ会長
の記事なども掲載されており、世界のトップ経営者が考えていることも良く分かる
構成になっており、 BCG としては、この著書に連携させて ビデオ教材も発売
しているということなので、業務革新プロジェクトの序章として事業本部長の構想
にもつながるであろう 「キャンペーン」 を各地区で開催していったらどうか?

こうして、BCGの東京オフイスでお世話になった、ヴァイス・プレジデントへのお礼
も兼ねて、ビデオ教材を購入、各地で業務革新プロジェクトの序章としての説明会
を開催して行った。

結果、管理工学の異常種交流会などで、この種の話題を、日常的に交わしている
私たちには、感動的な教材であったが、対象をオフイス全域に、広げすぎたために
大方の印象としては、いまひとつ・反応に乏しかった。

しかし、後日、この序章での出会いがきっかけとなって最強の業務革新プロジェクト
の賛同者を得ることになる(これについては後述する)

ここで、私は、各地区の反応が乏しかったことに関連して、某テニスコーチの言葉を
想い出していた・・・
(大手町通勤になってからの通勤疲れで、テニススクール通いは、休んでいた)

「佐久間さん、テニスの場合は、テニス理論を前面に打ち出して説明しても、理解を
得られるケースは稀ですよ」

「やはり、コーチである私が、テニス理論の基本にあるものを、自分の脚の動きや、
手の動き、眼の働かせ方に置き換えて、説明しないと大切なポイントはスクール生
には伝わって行きません」

「おかげさまで、私達・コーチとしての存在感が、成り立っているのだと思います」

たしかに 「タイムベース競争(90年代の必勝戦略)」に記述されている、それぞれ
の重要項目を脳内で展開して行動を起こすには、それ相応の経験が必要である。

やはり、事業本部長が、みんなに話題として投げかけた、具体例の様に・・・

決裁書や稟議書のハンコ(印)減らしのような分かりやすい事例や行動から入る
方法が、的確な選択肢のようである。

そして、業務革新プロジェクトの序章では、決裁書や稟議書のハンコ(印)減らし
などの理解を得やすい課題から着手して行くことにした・・・

◯ 多くの決裁書や稟議書の具体的なケースでハンコ(印)を60%近く減らした。

具体的な説明をすれば、個々のハンコ(印)を、逐一検証する過程で・・・

「決裁が済んでから :後で知らせていただければ良い」というケースが散見され、
従来は事務処理に抜けが出ないための予防措置のハンコが多数を占めていた。

そして、これらのことを実証検証している過程において、決裁者が会議室に入って
いるために 「決裁待ち」で、困っている人々の存在を確認した。

たしかに会議室に入り込んで議論を交わしている人々にとっては会議室における
案件が最重要であるが、会議室の外では決裁者がディスクに戻ることを待ちわび
ている人々が多数存在する。
(その人数を比較すれば、会議室の外で待つ人数の方が、圧倒的に多い)

オフイス業務においては、業務を遂行する上で、避けては通れない選択肢の連続
が待ち構えていると云っても過言ではない。

たしかに案件によっては、どちらから、進めても良い場合もあるが、選択肢を誤って
進めたために、やり直しとなるケースもある。
(要は、上司ほど、全体像を把握できる・最新情報を掴んでいるとみてよい)

そこで、会議の在り方を、総点検することになった・・・

◯ 伝達会議の類
これは、最新情報などを全員に漏れなく伝えて、共有するための会合なので審議
などを必要としないため朝礼時などに 15分もあれば済むことであり、朝の体操
の後等に、部長席の前に集まって行えば済む。
(会議室に籠る必要はない)

◯ 調整会議の類
これも、調整の必要なメンバー同士の打ち合わせであり、誰か? 机の上が整理
されている人の処に集まって、必要な調整をすれば良い。想定外の実務担当者の
参加が必要になっても、即、参加が可能である。

◯ 重要な決定会議の類
人事関係や機密事項が含まれる会議など、正式な発表までは、途中経過も含め
て知られてはいけない会議。人事考課の会議なども含まれるが頻度の高い会議
ではないので、会議室の外で待つ人々への影響は少ない。

◯ 四半期ごとの業績検討&評価会議の類
これは、大会議室などでオープンに関係者が一堂に会して、四半期ごとの業績を
評価、年度末の目標達成に向けて、お互いのベクトルを合わせて行く会議なので、
キーマンの出席は必須である。

◯ 中長期の戦略&戦術会議
これなどは、事業所からは遠隔地で、心をまっさらにして、上下関係や横の縄張り
意識を廃して、時には、パラダイムシフトできる環境が望ましい。
(この場合は、決裁の代行者を、オフイス内で徹底しておく)

この様な体系の整備で普段「会議」と称しているものを整理、会議室に入り込んで
上司の姿が見えない状態は、半分以下にまで、減らせることが実証出来た。



010 インターネット俳句との劇的な出会い

実務的な決裁書や稟議書のハンコ(印)減らし、そしてその発展過程における会議
の在り方の抜本的な総点検など、業務革新の断行において、経営企画室のK部長
が関係者との間で取り交わしたところの・・・

「同じ方向に向かって・ベクトルを合せ・対処して行く」取り組み姿勢はどこを切り口
にしても説得力に優れた行動力であった。

多くのケースで 「第三の案」 を輩出する場面が創り出されて、関係者の納得感や
達成感は、次の段階の業務革新にも興味を向かわせた。

当時の私の心境としては、三十代に進めて来た 「生産性向上」運動の様な、まさに
生産の当事者と二人三脚のように一心同体的に突き進むやり方ではなく、共に同じ
方向に向かって業務革新を進めるにしても、最後は、運命共同体的な立ち場で背中
を押して、パートナーを業務革新の磁場に送り出す。

それが、お互いに、創り出した磁場であれば、常に、意思疎通は可能であり、戦略や
戦術の見直しは、リアルタイム的に可能である。

そこで、不可欠な要素になって来るものが 「こころの働き」 を共有することである。

これらの一連の経験を踏まえて・・・

私は年齢的に社内教育の対象からは遠ざかっているが自分磨きのための教育的な
投資として 「心理学」 の探求を目指す必要性を痛感した。

当時、私達の夫婦の間では、自分たちの将来の人生に向けての自己投資の重要性
について意見が一致していた。

きっかけは、私の永年勤続の表彰の際の副賞として、共に、ニュージランド(NZ)に
出掛ける機会をいただき、初めてお会いした年長の先輩ご夫婦と共通の旅の体験
をさせていただいたことであった(そしてそれぞれが異なる社会の人々であった)。

弁護士のご夫妻、銀行マン、某商社の退職者、自由業のご夫婦、まだ結婚式を挙
げたばかりの新婚旅行中の現役ご夫婦など、それぞれ自分たち夫婦への積極的
な投資が印象的であった。

NZの旅における帰路、飛行機の中でこれからは 「自分たちへの投資が必要ね」
という言葉がまだ耳に残っている休日に、家内から、これで、好きなことに打ち込ん
でみてと、百万円が家計費の中からと云われて手渡されて、正直、ビックリした。

私は、これからの情報化社会において自宅でも・企業内においてもパソコンは必須
になってくると考えて、自宅にインターネットを配備して、パソコンを購入した。

次いで現在の自分の部署(当時、TQC推進本部の事務局を担当)における各部門
への支援業務において、生産部門だけでなく、経営部門などにも支援業務が拡大
してきており、経営に関する基本知識も必須になって来ていた。

これを具現化するための手立てとして、私は、経営大学院(商品名)プレジデント社
発刊の書籍を段ボールで二箱購入して、帰社後の時間と休日を活用して、ビデオ
教材やテキスト教材をほぼ熟読した。

これにより各部門の支援において、経営の基本知識としては、凡そ「25」からなる
引き出しを準備出来た。

当時の心境としてはTQC推進運動による時代は終わったなと云う印象があった。

その様な時代感覚の中での大手町本社への召集であり、業務革新プロジェクトの
事務局(兼)コーディネータの任用は天命とも受け止めた。
(しかし、当時の事業本部長がそこまで期待しての任用であったか否かは不明?)

私にしてみれば、業務革新プロジェクトの事務局(兼)コーディネータの任を果たし
て行く上で、当初は T型の専門職を目指していた。その構成としては経営知識を
広い視野で把握、専門の深掘り分野として、従来からの管理工学の分野を加え
「T型の専門職」として、各部門を支援して行く。

しかし、経営企画室のK部長のアプローチの在り方を見る限りにおいて、更なる
深掘り分野として、心理学の分野を加えた兀型の専門職を目指して行かないと
支援先の背中を押して安心感と自信を与える境地に届かないのではないか?

その様に考えた私は、自分への投資の三つ目の選択肢として、社会人にも開放
されている放送大学に入学して 「心理と教育」 の専門コースを選択した。
(その後、心理と教育を卒業後は、生涯学習的に人間学を引き続き専攻)

その後、この 兀型の専門職 の知見は、業務革新プロジェクトのフェーズⅡに
おいて大いなる共感を得て行くことになる。

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一方で、本業とは、まったく異なった世界における伸展についても合わせて紹介
しておくことにしよう。

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先の経営企画室のK部長からいただいた 「月は東に(蕪村の夢・漱石の幻)」
森本哲郎著をいただいた、後の、外伝的な趣味の世界からの話である。

通勤の友として、贈呈いただいた 俳句の本であるが、電車内で読書百遍して
本格的に学んでみようかという気持ちに動いた。

実際に、俳句を作るにしても、通勤で、片道約2時間を要する中、頭の体操を
するのには、最適かも知れないと、本気になって考え始め・・・

早稲田大学のオープンカレッジに入学した。実際に 「日曜俳句講座」に通学
して担当教授の高橋先生(早大英文科教授)の発刊する 月別歳時記も購入
して、高橋先生が主宰する 海 と云う句会の結社にも入会を果たした。

その時の受講内容は、本「星空文庫」に掲載した俳エッセー「俳句入門講座」
に詳述している。

そして、その後、発展的な出会いとして、インターネット句会のパイオニア的
な存在とも云える 「趣味?俳句でしょ!」(藤田昌也氏主宰)」に遭遇まさに
劇的な俳句的磁場を形成して行くことになる。
(後に、私の目指す 一生涯学生作家 としての生き様につながって行く)

そしてその様な出会いの中で初めての句集「キッチンに蒸気が走る大晦日」
を発刊(星空文庫に掲載)、家族共々、大晦日を最高の気分で迎え、新年を
迎える瞬間には、家族間でハイタッチを重ねて和を深めることになる。

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そして、その後、インターネット句会 「趣味?俳句でしょ!」 への何気ない
一句の俳句投稿が、膠着状況にあった私を窮地から救い出すという・・・

ドラスティックな まるで嘘の様な 救出劇が巻き起こることになる。
(藤田昌也氏には、感謝しても・しきれない人生劇場であった)

今や、都市伝説と化した? その話は、次回、書き出すことにしよう。




011 たった一句の俳句の投稿が人生を変えた

私は、1998年以来、帰宅後に、インターネット俳句 「趣味?俳句でしょ!」
に投稿することを、日常的な趣味として、日々、継続させていた。

これは、ある日の、私からの投稿句である・・・

「はらわたのにえる思いに寒の水」  万田竜人 (私の俳号)

インターネット上の俳句仲間からは 「俳諧味のある良いお句ですね」 という
評をいただいたが、同じ企業内の仲間からは、異なった反応が生じた。

当時の企業内における状況は・・・

◯新事業本部長の下、大手町本社に発足した 業務革新プロジェクトは実行
部門における 「総論賛成・各論反対」 の真摯な声を拾い上げて、活動拠点
を武蔵野に移して、実行のための施策は、全て現地で検証することにした。

◯結果、5年間で、国内および海外事業も含めて、業績は 「V字型」 回復を
果たして、事業本部長は、副社長に昇進されて、新しい事業本部長に全ての
権限が委譲された。

◯特に、生産事業部においては、アメリカの GE社にトヨタ生産方式を導入
指導した日本のコンサルタント会社が、当社にも、当社の生産規模に合わせ
た形態での生産方式を共同開発していただき生産形態が革新された。

◯技術・開発部門においても、私が社内コンサルタントとして、近未来に通用
する技術開発・設計の在り方を目利きして、技術開発センターの最高責任者
に提案、自らの体験も経て、技術・開発部門の主要な技術者を集め、社内外
合同コンサルティングによって、合宿研修を仕掛け、導入を成功させた。

◯オフィス部門についても、これを包含する形で、ISO9001の認証取得に
成功、世界のエアラインからの整備事業受注のバウンダリーが整った。

もちろん、これらの好業績は、事業本部長の 強力なリーダーシップの下に
おいて全部門の総力が結集した結果であって、それぞれの事業分野におけ
るリーダーシップは、そのまま、新しい事業本部長の下に引き継がれた。

◯しかしながら業務革新プロジェクトだけはトップリーダーが定年退職となり、
新任の部長就任までに時間がかかった。

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そして、新任部長が就任した時には、兼務として、人材開発の任務も加わり、
関連会社に出向が決った該当者に対しての情報機器の操作に関する教育
指導も指揮権として与えられた(管理部・人事部関連からの特任事項)。

その上、新任部長は、従前の技術開発センターのデータ・センター開発関連
の任務も引き続き継続させたままの着任であった。
(余人をもって替え難いという実情であったろうか?)

ただし、この時に、私だけが分かっていなかったことがあった・・・

◯新任部長のM氏は、それまでの間 「設計部門の合理化委員会」事務局と
して辣腕をふるっていたいた将来有望な管理職であった。

◯ところが業務革新プロジェクトが前面に出て強力に進めたところの近未来
に通用する 「技術開発・設計の在り方」のノウハウ導入を機に、それまでの
設計合理化委員会の活動が、一部、退潮の兆しに到った。

いわゆる、技術・開発部門において、パラダイム・シフトが現実化した。

今でこそ、全貌が見えて来てはいるが、当時、新任部長の M氏にとって、
私の存在感は・・・

◯かつての純国産ジェットエンジンの設計において、私がエンジンの推力
増強に際して、最前列をダブルの軸受けタイプに設計変更した際の周辺
の部材を、鋼材から、強化プラスティック材にM氏自身が改悪している。
(通常の設計センスでは考えられない改悪設計と云える)

しかし、この辺の経緯も、私自身、後から先輩技術者によって知らされた。

◯その上、今度は、近未来に通用する技術開発・設計の在り方などと云う
アプローチで、設計合理化委員会の辣腕事務局という立場を脅かされた。

その様な、恨み骨髄の相手である私の存在を、新任部長のM氏だけが、
着任直前に知っていて、私は、当時、その片鱗すら知らなかった。

新任部長 M氏 にしてみれば、着任、早々・・・

「にっくき、佐久間は辞めさせて、1名削減」の手柄にしようと考えている訳
だから、オフイス内で、私が席を立とうものなら、飛びかかって来て難問を
投げかけて来る(当方は、訳も分からず、面食らうばかりである)。

このような話をしたら 「嘘だろ」と考えるのが普通だが、本当の話なのだ。
(当方にも裏事情が分かっていれば、別な対応方法もあっただろうが?)

兎に角、当時の私の心境としては、なんとかして、かつての経営企画室の
K部長から学んだように・・・

「新任のM部長とも同じ方向に向かってベクトルを合わせ」共に業務革新
の灯を燈し続けて、成長著しい部門の成果についてはベストプラクティス
として他部門でも共有出来るお膳立てをする時期と作戦を練っていた。

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かれこれするうちに、ストレスの影響と思われるが・・・

頭皮が赤くただれ湿疹を来し異常なフケが発生する事態に追い込まれた。

その時の俳句が、前述の・・・

「はらわたのにえる思いに寒の水」 (万田竜人)

であった。

このインターネット上の 「趣味?俳句でしょ!」 の掲載については、我々の
社内にもファンが居て、俳句の投句こそしないものの、日々、全国の各地域
から投稿される俳句鑑賞を楽しみにしてくれていた。

そこに、突然登場した・・・

「はらわたのにえる思いに寒の水」 (万田竜人)

が彼らの眼前に飛び込んで来た。

すぐに、社内の友人の間で話題となり、業務革新プロジェクトを進める過程に
おける盟友で、今や、生産事業部門のトップとして生産革新を継続的に進め
ている S氏にも、私の窮状が伝わることとなり、ゴルフ・コンペの催しの際に
副社長の O氏 の耳にも入り、即、実情調査が行なわれたようである。

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しかし、この間の事情は後日になって都市伝説的に風化された話として私に
は伝わってきたので、正確な経緯は、いっさい分からない。

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それまで、職場で針の筵(むしろ)に座らされたような地獄の日々から、突如、
解放されたのは・・・

俳句 「はらわたのにえる思いに寒の水」 (万田竜人)

を投稿してから半年後に、突然、新任の M部長から、同僚の課長共々二人
揃って、M部長が行きつけの武蔵境の寿司屋で夕餉のご馳走を振舞われる
という急展開な親睦の場が設けられた。

その時に、特に、説明はなく、日頃の活躍に感謝してのことであると云う。

特に、説明のあったことといえば、部長が行きつけの寿司屋でも珍しく高級魚
の「のどぐろ」が入荷したからといって、薦められるままに食して、美味であった
ことを今でも覚えている。

そして、翌週、次の様な話が伝えられた。

◯現在、M部長が兼任の形で担当して来た「データ・センター」がシステム開発
の段階において、設計部門と生産部門を繋ぐ情報システムとしての 実験段階
に入る状況となり、片手間では対応できないので、私に引き継いでほしい。

◯ついては、業務革新プロジェクトには、二人の課長がいるが、N課長につい
ては、人材開発グループで進めている転職者の情報機器操作の教育支援に
専念するようにしてほしい(この業務も M部長が兼任していた)。

◯従って、私には、業務革新プロジェクトからの各部門支援業務については、
当面、兼務で、続投してほしい。

その主旨を受けて、先方の技術管理部門に出向くと 部長からはオフイス内
に、管理職としてのディスクは用意したので、三つの事業所の各地区の主任を
指揮する形態で、管理業務を行ってもらいたいという主旨の説明があった。

この時に、私の脳内をよぎった考えは・・・

ここは、かつて、大手町本社の経営企画室で指導を仰いだ K部長のこころの
働き方に、趣をおいたアプローチが、喫緊の課題として必要ではないか?

そのためには、早急に、三つの事業所の現地に出向いて、それぞれの主任と
同じ方向を向いて、ベクトルを合わせることが、先決ではないかと考えて・・・

「技術管理部のM部長に了解をいただき、早急に、行動に移していった」

かつて、記述したことがあるので、一部、重複することになるが・・・

◯瑞穂事業所においては、5名の仲間が 「泣く泣く職場を去って行く」 事態
が発生して、職場内は疲弊しきっていた。

◯田無事業所においては、新規に立ち上げた情報システムが上手く稼働せず
に困り果てていた。

◯委託業務を主体に編成していた他の田無事業所でも、同様に情報システム
が上手く稼働せず困っていた。

これらの状況は、技術管理部門のM部長に報告したが、M部長自身が、まだ
着任したばかりであり、データ・センターに関する所管は業務革新プロジェクト
に転籍したばかりのM部長の兼務扱いとなっていたため、私からの実情報告
には、ただただ・驚くばかりであった。

その様な実情を踏まえて・・・

◯私としては、三つの事業所に、それぞれ、執務するためのディスクを置き、
三現主義で、それぞれの事業所毎に「週間スケジュルを分割」 循環方式で、
現地において・現地・現物の状況を踏まえて、即断・即決で決めて行く。

それぞれの主任とは、同じ方向に向かって、ベクトルを合わせ、現地の全員と
こころを一つにして、業務革新を進めることで、部長にも課員にも、了解をいた
だいた。

インフォーマルな世界では、各地区の夏祭りの催しなどに、部長が、積極的に
顔を出して下さり、一体感は一挙に形成されていった。

◯一方で、技術管理部のM部長としては、本部オフイス内に、私のディスクは
そのまま用意しておくので 「週1回の定期的な管理職ミーティング」において、
必要があれば、即、本部オフイスからご支援いただくことが約束された。

◯また、私の業務革新プロジェクトの兼務についても、週1回の管理職定例会
に出席して、順次、業務を引き継いで行くことで了解をいただいた。

かくして、私のこころの中に、大きな傷跡は残されたままであったが・・・

関連部門からの期待感が大きい 「データ・センター・システム構築」 に専念
出来るバウンダリーは整備されていった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いまだに、あの一句は、私の「魂」が詠んだ俳句であって、私自身のこころが
詠んだ句ではないと思うことがあるが・・・

そこまで掘り下げると、心理学を学び、やがて 「心の科学」 に学びを発展
させたときに出会った 「デカルトの心身二元論」の概念(コンセプト)を想起
させるが、次回は、このことにも関連させて考察を進めることにしよう。




012 デカルトの心身二元論を想起

私が 「デカルトの心身二元論」 を目にしたのは、放送大学で受講したところの
テキスト「心の科学」西川泰夫・波多野誼余夫による共著からの学びよる。

デカルト(1596-1650)は、フランス人であり、近代科学の開祖、哲学者でもあり、
同時に、物理学者・数学者でもある、と、いう多彩な科学者であった。

「心とは何か」 と いう永遠の課題について、現代でも、最も影響力を持つ・・・

「心身二元論」の主張は、彼の科学者としての総力を結集した思索による産物で
あり、その影響力は、いまだに衰えをみせていない。

心身二元論について、誤解を恐れずに、最もシンプルな表現をすれば・・・

デカルトからの一つの回答は・・・私と云う存在において・・・
「私は、相互に独立した 『心』 と 『身体』 から成り立つ存在である」
(心身二元論の論拠)

「そして 『心』 は、思惟するもの」 であるとしている。

このこと明示する言葉として・・・

「私は考える、それゆえに、私は存在する」
(I think, there I am)

という表現は、良く知られている。

ここで 「思惟」 とは何か・・・

「思惟とは、我々が、意識しつつ、我々のうちに生じる一切のもので、その意識が
我々のうちにあるかぎりのものを意味する」

「したがって 『知り』 『意志し』 『表象する』 ことのみならず、感覚することもここ
では、思惟することと同じことである」

さらに、デカルトの思索を加えると・・・

彼は、心身二元論をもとに 「心」 と 「身体」 を、まったく・相互に独立な存在と
して区分したが、この点に、捕捉を加えると、次の様な論点が浮かんで来る。

「これは、単に、各々を 『非物質』 と 『物質』 に分けただけではない」

この両者を区分する上で、二つの指標を、挙げている。

◯それが 「言葉」 と 「自由意志(自覚的であること)」 である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この時期に、並行して学んだことは 「ホッブスの心身一元論」であった。

ホッブスは、イギリスの哲学者で、デカルトよりも早く生れ、デカルトより
も長生きした。ホッブスはフランスに亡命した期間があり、その11年間
の間に、共通の友人を得て、デカルトと知り合うことになった。

しかし、その後、デカルトからホッブスの著作に対する攻撃がはじまり、
絶交するに到ったと云われている。

ホッブスの基本的な主張は・・・

「心も、身体と同様に、物質的な実体であり、機械であると主張した」
この意味合いから 「心身一元論者」 であるとされた。

これを言い換えると 「物質還元論者」「機械論者」「唯物論者」など
と表現される。

そして、その主張が、現在の「AI(artifical inteligence)」
の研究につながって行ったとされている。

・・・・・・・・・・・・・・・・

当時 「デカルトの心身二元論」 と 「ホッブスの心身一元論」 を
学習教材で、目にした時・耳にした時に、私には、いずれが正しい
のか判断することは出来なかった。
(現時点でも、その答えは得ていない)

・・・・・・・・・・・・・・・

しかし、実際的に、前述のような俳句・・・

「はらわたのにえる思いに寒の水」 のような、表現方法によって、
個体の窮状が可視化された時に、世の中の仕組みが、その窮状
に対して、救出に向かわせる時に、

「デカルトの心身二元論」は説得力をもつことになるかもしれない。

同時に、この様なケースにおいては、そこに宗教論が加味された
ときに 「心身三元論」 のような論法が、萌芽する可能性は否定
の出来ない 「思惟」 になって行くと思われる。

すなわち・・・

「はらわたのにえる思いに寒の水」 を 詠んだのは、

「魂(たましい)」 の 存在が、成した術では、なかったか?

すなわちストレスで頭皮が赤くなって湿疹まで起こしている身体を
救わないことには、魂(たましい)の居場所がなくなる恐れがある。

それに対して、心(こころ)はと云えば、なんとか折り合いを付けて
新任部長と同じ方向に向かって、ベクトルを合わせられないか?
と針の筵(むしろ)の上で、延々と、施策を練っている。

魂(たましい)にしてみれば・・・

最早、心(こころ)に対して、ストレスによる身体の窮状を訴えている
状況を鑑みるに、心の選択肢に、すべてを託してはおけない。

そして、最近「無心」になって考えることは、生涯を完結するまでに、
「魂(たましい)」を可能な限り昇華させて天界にお返しして行こうと
一生涯学生作家として、日々、研鑽を続けて行こうと考えている。

最近、日々の楽しみとして、昼ドラで 「やすらぎの刻・道」の鑑賞を
楽しんでいるが、シニア世代の登場人物が、老いの迷いで色恋の
世界に惑わされて失態、その後始末を孫に償わせているが・・・

あれでは 「魂(たましい)」は、浄化も、昇華も果たせない。

そんなこんなの脱線記事も含めて・・・

「はらわたのにえる思いに寒の水」 (万田竜人)

が大いなる人生のターニングポイントになったことは間違いない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私自身、現役で、55歳の時に、職場で針の筵(むしろ)に・座らされた地獄体験
において、心に刺さったままの棘は、20年超の歳月を経ても大きな傷跡のまま
今日まで引きずってきたが、この棘が抜けたのは他愛もない家内との会話での
気付きであった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

その家内との、他愛もない世間話を、ここに再掲することにしよう。
(ゴールデンエイジの物語 book 2 のプロローグより)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

家内から預かった「南イタリアとシチリア島の旅の栞」の最終日の頁を確認すると・・・

「成田空港第2ターミナル到着 10:10」 と記されていたので、飼い犬ももとの散歩は
空港への到着の連絡を受けてから出掛けるかと決めて連絡を待っていると 9:58に
成田に着きましたとの LINE が着信した。

まだ、飛行機が滑走路に着陸したばかりの安堵感の中での LINE 発信と思われる。

帰宅便は、荷物の取り置きが楽な高速リムジンの利用を考えている口ぶりだったので、
インターネットで時刻表を辿ると、午前11時 成田発 ・ 所沢 午後2時着の便が確認
出来たので、早速、飼い犬ももと一緒に彩の森入間公園に出掛けることにした。

テニスと一緒で、実際に飛んで来た目の前のボールを打ち返すよりも・・・

こちらからのテニスボールが、実際に届いた先の相手の動作から、全てを予測して行動
を起こす方が生産性が高いので、今回の場合も家内からの連絡を待つことなく午後2時
までは、飼い犬ももと共にフリータイムと決めて行動を起こすことにした。

自分から進んでやりたいことやハウスキーピングの類の小仕事は大方終わらせ、昼食も
済ませて柱時計を見ると、まだ午後1時半 「ヨーロッパからの帰り便は機体も小さめ」で
ほとんど眠れてない状態での帰宅という予測もあるので・・・

それを考えると、おそらく 「成田からのリムジン内では友人共々爆睡状態」 と想定して、
午後 1:40頃に 「間もなく終点・所沢ですか?」 と LINE を入れた。

すると・すぐに 「今、所沢に着きました (13:50) 」と LINEが入った。その後、すぐに
電話が入って、最寄り駅への到着時刻が知らされ、駅まで車で出迎えに向かった。

出発の時には、近所のフラダンスの仲間と一緒に、二人を最寄り駅まで送ったので帰りも
一緒かと考えて後部の荷物室のスペースを空けておいたが、フラダンスの友人は駅前に
待機して居た市内循環バスに急ぎ足で飛び込んだ様子で、家内だけが、トランクを引いて
駐車しているこちらの車に急ぎ足で向かって来た。

今回の「南イタリアとシチリア島」のツアー客は、総勢23名、内(女性21名・男性2名)で
圧倒的に女性客が多く、添乗員もベテランの女性コンダクターで、女子サッカーチームの
様な構成であったと云う。

兎にも角にも、日本食が食べたいということで・・・

株主優待券が利用できる食品スーパーで刺身や寿司を買い込んで夕餉はお気に入りの
ビールとワインでの乾杯となった。飼い犬ももはカズさんにぴったりで傍を離れない。

家内が帰宅するや、飼い犬ももは、玄関口から全速力で部屋中を疾走して、元気な姿を
見せたことからも、余程、嬉しさをアッピールしたかったのだと推測できる。

小生 「旅先では、良く・眠れた?」と聞くと、
家内 「あまり時差ボケで苦しむことはなかったわね」と、
小生 「飛行機では、機内の座席も狭くて、眠るどころじゃなかったでしょ」と、尋ねると、

家内 「機内では、行きも・帰りも、空席があって、要領のいい人は、一人で寝そべって寝て
いたわね」と、

小生 「先日、鎌倉のお父さんから、お歳暮のやりとりで電話があったときに、私は身体が
大きいこともあり、海外に行く時には飛行機代を1・5倍払ってビジネスクラスにしてますよ、
と、云ってたけれど、ある程度の年齢を超えたら、それも・賢人の策かもしれないね」

家内 「帰りの便が特に機体が狭くてたいへんだったわ。帰りの便の時にも要領の良い人
は一人で寝そべって、さっさと寝入っていたわよ」

小生 「かつて、二人でニュージーランドに行った時には、われわれ三人掛けのところと前席
の三人掛けの処から、それぞれ一人づつ、キャビンアテンダントの方が、後方の空いた席に
移動させて、全体的に座席を占める割合が均等になるように配慮していたよね」

家内 「あれは JALならではの気の効いたサービスだったのね。今回のイベリア航空では、
そこまでの気配りはなかったわね」

小生 「そういえばだいぶ大昔の話になるけれど、当時、わたしが30代前半の頃に、欧米に
おける管理工学の実情調査に出掛けた時に、オランダからの帰国便が、航空会社のミスで
ダブルブッキングされていて、あわや・帰国便に搭乗できないという事態に陥って困り果てた
ことがあった」

家内 「その時には、どういう対応をしたの」

小生 「その時には、海外出張に同行させていただいた上司が、航空会社に、ほとんど・喧嘩
ごしの剣幕で掛け合って、旅客機の後方の乗務員席を空けさせて帰国することが出来た」
(この時の上司が、やがて生涯の恩人となる O氏であった)

家内 「よく交渉がまとまったわね」

小生 「あの時は、正直、上司のド迫力に驚いたよ。普段は、温厚で冷静沈着な上司だったの
でビックリして横から顔を覗き込んだら、半分は、演技だなと気付いたよ」

家内 「上司の方も、なかなかの役者ね」

小生 「あの時の海外出張は、これから全社を挙げた生産性向上運動において、重要な位置
付けにあった出張だったので上司に同行して欧米に出掛ける前に本部長の指示で三か月間、
吉祥寺の英会話スクールに送り込まれて、約一か月の欧米での実情調査に対応できる訓練
を受けてね、ある意味たいへんな荒修行だった」

家内 「英会話スクールの三か月間程度の訓練で上達出来るものなの?」

小生 「いや無理だったね」
    「元々、英会話は苦手だったこともあり、速成ではものになりませんでした」

家内 「それで、よく・重要な任務を果たせたわね」

小生 「実は、その辺の事情は英会話スクールの校長も、本部長の秘書から聞かされていて、
兎に角、三か月の期間中は、いろいろな欧米人と接するように、プログラムされた授業構成に
なっていて、テーブル・マナーも含めて、外国人と臆することなく・接することが出来るようにと
明確に目的を絞り込んでいた」

家内 「随分と恵まれた環境に置かれたのね」

小生 「実際に現地ではホワイトボードを使って訪問先のエアラインや整備工場およびジェット
エンジンの製造工場における管理工学の実情や実態の情報交換をしたので、会話のやりとり
で困ることは、ほとんどなかった(上司による一心同体的なサポートも心強かった)」

家内 「専門用語と数字の応酬となると、英会話が出来ても、話は通じないかもしれないわね」

小生 「そのような経過も含めて、帰国して事業所の所長に帰国の報告に行った時に、本部長
からの伝言として、これからの生産性向上運動において成果が出なかった時には、私に投資
した費用は全額返すようにときつい口調で言い渡されて、自宅の貯金通帳の残高を確認した
ことがあった、と、記憶している」

家内 「行きは・良い・よいで、随分、せっぱつまった状態に追い込まれたわね?」

小生 「それもあって、私も、火事場の馬鹿力的に必死になって、生産性向上運動の鬼と化して、
製造ラインや整備ラインの管理職を叱咤激励 『あなたは、どのような立場の役柄なのか?』 と
大いなる疑問を持たれながらも、管理技術スタッフとして、飛び回ったことを覚えているよ」

家内 「ずいぶんな憎まれ役ね」

小生 「随分と憎まれていたと思うよ」

家内 「身に覚えがある?」

小生 「当時、事業所の製造・整備ラインの1000名規模の工場には、トップの位置付けに工場長
が居て『こうじょうちょう』と呼ばれていた。それに対して私のような管理技術系のスタッフには役職
はなく、恨み骨髄の管理職たちからは 『副工場長(ふくこうばちょう)』 と揶揄されていた」

家内 「あなたも、それを、耳にしていた?」

小生 「耳にはしていたけれど、エリートでもない私に、ハイリスクではあるが思い切った投資をして、
いわば本部内からの批判まで承知で背負った本部長は、私が入社した時の設計部門の設計部長
でもあり、かつての設計部長に、批判が集まる様なことはなんとしても・避けたいと云う恩義が先行
して鬼に徹した」

家内 「当時、友達は、いなかったでしょうね?」

小生 「でも、当時、工場長が、私の本名をもじって『あくまちゃん』と呼んでくれていたので、皆さんも、
『生意気な奴だな』とは思っても、心底から恨んではいなかったと思うよ」

家内 「誰でもが、喜んで・引き受ける役ではないわね」

小生 「後輩からは、もっと要領よく生きられないんですか?」 と、云われたことはある。

家内 「性分だからしょうがないわね」

さて、話を元に戻そう・・・

小生 「英会話スクールの校長先生との昼食会で印象的だったのは、英会話の上達はさておいても
外国の地を踏んだときに 『外国人とカタコトの英語でも喧嘩が出来たら一人前』 と聞かされていた
ので上司が航空会社と英語で喧嘩して帰国用の座席を確保したときには心の中で拍手しました」

家内 「そのときに、帰国できなかったら、たいへんだったわね?」

小生 「帰国して、すぐに生産性向上運動の全社的なキックオフ行事もびっしりと組まれていたので
ほんとうに、ヒヤヒヤものだったよ」

家内 「ヨーロッパからの帰国便には、いつでも、たいへんさが付きものね」

小生 「今回の南イタリアとシチリア島の旅も、行きは成田からスペインのマドリードまで約14時間
そしてマドリードからイタリアのナポリまで約2時間半、帰りも、ナポリからマドリードまで約2時間半、
マドリードから成田まで約14時間となると私のギックリ腰ではとても無理だね」

家内 「でも、船に比べたら、飛行機は圧倒的に速いわね」

小生 「イタリア本土のナポリから、シチリア島のパレルモまでは、夕刻に、豪華フェリーに乗船して、
睡眠を取っているうちに、朝方、パレルモに上陸できるので、快適と聞いているけれど、実際に乗船
してみての感想は?」

家内 「それが、後では、笑い話に納まったけれど、乗船してしばらくは、皆でくつろいで夕食も済み、
シャワーで身ぎれいになって、ベッドに入ったもののなかなか寝付かれなくて、恐らくやっと深い眠り
に入ったところで、いきなり・同室のフラダンスの仲間に揺り起こされたのよ」

フラダンスの仲間4名は、ツアー仲間(総勢23名)と一緒に乗船して、乗船後は、それぞれ2名づつ
の単位でまとまって部屋を取り、家内は、近所にお住いのフラダンス仲間と、同室で、過ごすことに
なったのであった。

そして、突然、同室していたフラダンスの仲間に、夜中に、揺り起こされた・・・

家内 「私も無理やり起こされたものの、今までに、旅先で寝過ごしたことはなかったので、なんか
変だな? と、思いながらも、身の周りの片付けを始めた」

彼女はといえば「この時間だと化粧してる時間はないわね」と、旅行カバンを開けて荷物の整理を
始めている。

家内 「それにしても何かしらへん?」と思って時計を確認すると、針は夜中の11時を指している。

なんと・彼女は 「自分の腕時計をベッドの枕元で逆さに見て」 大慌てしたのであった。

彼女にしてみれば、船から降りる時間が 午前6時 なので化粧の時間などを考えると、遅くとも、
午前4時半には 起きなくては、と、考えていたので午前5時の目覚めと勘違いして慌てたという
状況であった。

家内 「ちゃんと時計見てよ」と、いうと、

彼女 「ゴメン・ごめん」の声が聞こえたが、その後には、すぐに・寝息が伝わってきたと云うから、
すこぶる寝つきの良い友人のようである。

この時に、私は・・・

家内からの発言で 「でも、船に比べたら、飛行機は圧倒的に速いわね」という言い回しを聴いて
いて、生産性の船を使った研修で、日本とシンガポール間を 「往路は飛行機」 「復路は船」 の
旅程を経験させていただいたことを思い出した。

そして 「ボクが僕の中でヒーローだった頃」 そんな フレーズ が脳裏をよぎった。

思えば、私が管理職定年に達した55歳の時に新任部長が着任、58歳で転籍するまでの3年間
にかけて、日々 「針の筵(むしろ)に座らされた」ような生活を強いられて、やがてこれが・・・

「単純に、新任部長によって、自己都合退職に追い込むための標的にされて、執拗な攻撃を受け
ただけの状況であった」 ことは、 後日、判明したのだが、その間に受けた精神的な苦痛からは
容易には脱出できなかったことは前述した通りである。

それが、どうだろう?・・・

今になって、家内から、夜中にベッドの枕元の時計を逆さまに見た友人が、家内を揺り起こして、
「なんかへん」 と 感じた家内が自分の時計を確認して、午後11時であることに気付き、二人
共々、寝に入った話を聞いて、話は極めてシンプルであり、かつ分かりやすいと思った。

私の55歳から58歳にかけての「地獄のような体験」も、新任部長が「1名削減」の成果を挙げた
かった。それだけの話であり、分かりやすい話である。

その間の自己否定を強要された経験などは、手の平に載せて・・・

「ふっと」吹き飛ばせば良いものだが、20年の年数を経ても脳裏から払拭できなかった、それが、
どうだ、家内から、フラダンスの仲間による時計見間違い事件を聞かされて長年の呪縛から解き
放たれるように、過去の悪辣な上司からの数々の嫌がらせの思い出が吹き飛ばされた。

そして不思議なことに欧米における管理工学の実情調査に出掛ける前に吉祥寺のフィロ英会話
スクールで、お世話になった校長のジョージさんの笑顔が脳裏に浮かんだ。

そして「生産性の船」の研修報告書を手にして「ボクが僕の中でヒーローだった頃」というタイトル
までが脳裏にイメージ出来たのである。

この辺の脳内におけるカオス(混沌)ともいえる、なんとも摩訶不思議な脳内現象によって若き日
の自分を振り返ってみたいという衝動に駆られた。

そのストーリの幕開けは「吉祥寺の英会話スクール」が舞台であり、アンコールの声がかかった
ハッピーエンドは 「生産性の船」 に続く 「洋上大学」 における講師体験であった。

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この様な、家内との世間話の過程で、あらためて気付かされたことは・・・

家内のフラダンスの友人が、夜中に、時計を逆さまにみて大慌て、家内も寝ぼけ眼で起こされた
ものの、冷静な判断で、時計を確認して、沈静化させたという部分である。

私が55歳で針の筵(むしろ)に座らされ、20年超も経過して、気付いたことは、新任部長のM氏
が見ていた時計は、過去の時計であって、我々が技術開発の技術者や幹部と観ていたのは・・・

「未来の時計」であった。

すなわち、新任部長のM氏は、技術開発の技術者たちに、過去の時計を見せて、どこにどれだけ
の設計時間を費やしたか? その生産性は高かった? と云えるのか・・・
という、過去の時計を執拗に眺め直す方法論であった。
(ボトムアップ方式)

しかし、我々が、社内外コンサルタントの連携で観て来た時計は、これからの近未来の時計を見た
時に、技術・開発部門の幹部が率先して 「完成品としてのありたい姿」を探求して、若い技術者達
に、どこに・どれだけの時間配分をするか? 近未来の時計の針を見据える方法論であった。
(トップダウン方式)

社内外合同コンサルティングを組んで、技術開発部門の働き方改革を成功させた パートナーから
コンサルティングの新著が届き、かつて、企業内で、新しい働き方改革を共に進めたきた幹部職が
その後、出向先で社長に就任、新たに、働き方改革を成功させたという一報をいただいた。

最近では、トヨタでも、この近未来に向けた技術開発部門の働き方改革は成功を納めており、先端
企業だけに、テレビニュースなどでは、地域のシティー丸ごと、近未来に照準を合わせて、社長自ら
率先垂範して実践展開されている理想像などが映し出されている。

~ 要は、大いなる過去の時計から、近未来を見据えた時計へのパラダイムシフトなのである ~

大袈裟な表現をすれば、天動説に対して地動説を唱えたケプラーを信じたために、ブルーノが
焼き殺されガリレオが宗教裁判にかけられたように、古い伝統と立場を固執する集団によって、
パラダイム・シフトを成功させた人間が迫害の対象に晒されることは歴史が示している。

しかし、幸いにも、我々の企業集団内においては・・・

「はらわたのにえる思いに寒の水」 という魂(たましい)の叫びに、耳を傾けてくれた仲間が居て
「救出劇につながるアクションが取られた」。

また、幸いにも、このような柔軟なインフォーマルな非組織的な形態があって救われたということ
も、あるいは、奇跡的な出来事であったのかもしれない。

そこに、気付かせてくれた家内との世間話も・・・

「自分たちにも、これからは投資が必要ね」という方向付けに到ったニュージランドの旅における
先輩ご夫婦との出会いに源があることには、あらためて、感謝が必要であると痛感した。


(続 く)

【連載】ゴールデンエイジの物語 Book 1

【連載】ゴールデンエイジの物語 Book 1

横浜港において、背中に翼を背負った女神と出会ったことから、心に引っかかっていた深層部分が手繰り寄せられることで物語は始まる・・・

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-12-28

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