赤い花
赤い花、それは僕のくちびる。
鏡に映った僕の赤いくちびる。
鏡の向こうの僕は女の姿をしている。
「きれいだよ」僕は言ってみる。
彼女は微笑する。
彼女のよろこびが僕に伝わってくる。
「あなたは私」彼女は言う。
僕らはこれからパーティに出かけるのだ。
僕はフォーマルなスーツに身を包む。
彼女は黒いベルベットのドレス。
赤いくちびるがよく引き立つように。
僕が腕を差し出すと、彼女はそこに華奢な手を絡める。
僕らは微笑み合って夜の街に出る。
パーティの会場でも僕らは祝福される。
「お似合いのカップルですね」
「美男美女で羨ましい」
「当たり前さ」
「当たり前ね」
僕らは心の中で囁き合って微笑む。
トイレに向かう時だけ、僕らは別々。
でも、鏡の前に立てば、彼女には僕が。僕には顔女が。
口紅でくちびるをなぞる感触が僕をうずうずさせる。
幸せで満たされた夜。
朝になれば僕らには現実が待っている。
つまらない日常。
僕はフォーマルではないつまらないスーツを着て会社に向かう。
雨が降っている。
透明のビニール傘に雨粒が伝う。
僕はとても切ない気持ちになる。
早く彼女に会いたいと思う。
私はカツラを外す。
それは私が女を終えたサイン。
私は短髪で厚化粧のまま煙草に火を点ける。
思い切り煙を吐き出すと、ようやく落ち着いた気分になる。
「まったく」
私は台詞のように鏡に言い捨ててみせる。
私はコップに注いだウィスキーをストレートで飲み干すと、化粧を落として明日のために眠る。
すべてを忘れ去りたい気分だ。
平日の夜はつまらない。
サラリーは知れている。
そういった理由で僕は平日の夜をアルバイトに当てている。
彼女に美しい服やアクセサリーをプレゼントするために。
僕は腕のむだ毛を専用のワックスできれいに処理する。
毛深い女は興ざめだ。
僕は自分のすべすべとした肌にうっとりとする。
私は彼がやってくるのを待っている。
薄暗い鏡の奥で。
私はあの男が嫌い。
私に恥ずかしい思いをさせて。
けれど、どうしようもなく愛しているのだ。
私は知っている。
社会の中で彼はどうしようもなくちっぽけで、クズのような人間だということを。
彼は私の前では気前よく強い男を振る舞うけれど。
私は騙されたふりをしてあげる。
そして心の中で思い切りあざけ笑ってやるのだ。
彼はまわいいまぬけ。
私は彼のために髭を剃る。
彼のために分厚い化粧をほどこす。
まるでデコレーションケーキのように。
待ちに待った週末がやってくる。
遅い朝に目を覚まして、僕はベッドの中でまずオナニーをする。
温かいふとんの中で。
とても平和な気分だ。
そうして僕は精液を出ししぼって、性欲を削ぎ落とし、彼女のためにジェントルマンになる。
バスルームに向かい、体を隅々まできれいにする。
素晴らしい!
鏡に映った僕の恋人。
赤いくちびるが僕に微笑みかける。
僕らは連れ立って夜の街に出る。
僕らは声を立てて笑い合う。
僕らがいかに自由で幸せなのか、周りの連中に知らしめたいのだ。
浴びるように酒を飲み、僕らは絡み合う。
スポットライトが僕らに降り注ぐ。
あの野郎が私を裏切った。
私を娼婦扱いするなんて。
私に金を差し出すなんて。
私は髪を搔きむしる。
私の顔は涙でぐちょぐちょ。
マスカラが流れまるで溶けた蝋人形。
でも、もうこんな生活とはおさらばね。
さよなら愛おしい人。
あんたにとって、私がどんなに大切な存在だったか思い知るがいいわ。
扉がバタンと閉まり、コツコツとヒールの音が遠のいていく。
僕は罪悪感と喪失感に襲われる。
顔を洗って鏡に映った顔は、ただの僕の顔。
彼女はもうそこにはいない。
僕はネクタイを締め、会社に向かう。
「やあ」
交差点で信号待ちをしている僕に、同僚が話しかけてくる。
「おはよう」
振り返って僕は挨拶を返す。
「昨日はすごかったな。まいったね」
同僚が気まずそうに笑う。
「ああ。まあ、そんな気分だったんだ」
「声をかけてまずかったかな」
「いいさ。僕だって困っていたところさ」
「まあね。さすがにあれは化け物だ」
「化け物か、、」
僕は愕然と言葉を繰り返す。
「やっぱり、僕は見ぬふりをして通り過ぎるべきだったね」
同僚は気づかうように僕に言う。
「本当に気にすることはないんだ。ただの行きずりの娼婦だったんだ。僕は少し飲み過ぎていたんだ」
「そうか」
僕らは横に並んで会社に向かう。
僕は同僚の手を握りたい衝動にかられる。
馬鹿な、と僕は思う。
しかし、その衝動は膨らむばかりだ。
彼が僕のことを拒否すれば、僕は会社にいられなくなるだろう。
それは、ただの失恋では済まないのだ。
僕は慎重に彼の手に向かって自分の手を伸ばす。
僕の手は緊張に汗ばんでいる。
手を握った瞬間、同僚が立ち止まって僕を振り向く。
僕をまじまじと見る。
彼の瞳の中に彼女が見える。
「やっぱり、君のことが好きなんだ」
思わず、言葉が口をつく。
「ざまあないわ」
彼女が同僚の瞳の中で高笑いをして去っていく。
残ったのは、青ざめた顔で立ち尽くす同僚の姿だ。
僕は頭を抱え、その場を立ち去る。
すべては僕が悪いのだ。
僕は裸になり、鏡の前に立つ。
けれど、彼女はもういないのだ。
赤い花は散った。
赤い花