矜羯羅がる
一曲目 Loving is easy レックスオレンジカントリー
高校二年の冬、水谷悠李が部活動をやめることにこれといった辛苦の気持ちはなかった。中学からやり続けていたハンドボール部をやめた悠李は只々、誰もいない外廊下でから揚げ弁当をぱくついていた。夏の引退試合を控えていたハンドボール部は県内でも有数の強豪校で、高校から支援金を大量にもらっている。
そんな希望の星であったハンドボール部をやめた。まだら模様に広がる雲の流れを追っかけながら、ひたすらから揚げ弁当を頬張る。
今頃やつらは夏の引退試合に向けて神経をすり減らしていることだろう。そう思うと部活動から解放された自由にちょっとした優越感を感じる。
「お前ほんとに辞めてよかったのか」
そう口ごもって呟いた男は橋本拓弥である。
「当たり前だろ。今更後悔したところでどうしようもないしさ。それにお前も人のこと言えないだろ。」
「それはそうだな」
拓弥は今にも食べようとしていたから揚げを下すと、にかッと笑った。
中山拓弥はこの春に悠李と部活動から脱退したやつである。クラスで一緒になったことは一度きりしかないが、クラスが変わった後も、昼休みの時間は決まって悠李と一緒にから揚げ弁当を食べている。ぼさっとしたくせ毛に常に眠たそうな二重で、迷彩模様に色落ちした革ジャンを気に入っている彼は、容姿から高校生というよりは炊き出しに来ている乞食に近い。
「まあ俺は成績が良いから多分大丈夫だよ。こう見えて天才だしな」
そう放つと止めていた手をまた動かし始めた。
そうである。認めたくないが、いかにもあほっぽい拓弥が、毎週張り出される野田の古典テストの結果で毎回一位を取っていたことを悠李は知っている。一位奪還を悔しがる連中や知人の名前を探す生徒の中で「天の上に人を作るもんなんだな」とさりげなく囁くのが快感だったらしい。頭のキれるヤツであったから、タバコをPC室で吸っていたことも視聴覚室のカギを毎週金曜日に盗んでいたこともばれずに進級している。
口では言ったものの、悠李の脳内にはやはり多少の後悔がうろつき回っていた。拓弥みたいに頭がいいわけではないし、ハンドボールでしか高校で活躍していなかった自分がこの高校に居場所があるのかと考えると思わず背中がぞっとする。
「やっぱりやりすぎたかな。退部なんてさ。職員室に報告しに行った時だって顧問に冷徹な視線向けられたよ。もうここにお前の居場所はない、って言ってるみたいにさ。」
悠李はちらっと拓弥を見ながら、米を貪り食う。
「まだましさ。俺なんてダンス部の退部届出すとき目の前でびりびりに破かれたよ。そんで『了解しました』って一言言って終わり。俺マジで死ぬかと思ったよ。」
ひどい仕打ちを食らったとは裏腹に、拓弥の顔はけらっと笑っている。
「うちの高校は文武両道が基本方針だからな。俺たちみたいな退部したやつらはきっと端の端に寄せられちまうよ。」
「一緒にな」
晴れた屋上に二人の笑い声が響く。きっと拓弥は俺を励ましてくれたんだろう。そのさりげない優しさに悠李はいつも救われているがいる気がしていた。
悠李達の高校は都心部から離れた町の端にある。人気のない町だからこそ確保できたその巨大な校舎は田舎町に聳え立つ要塞そのもので、まるでどこかの悪党が建てた城のようだ。
文武両道、粉骨砕身をモットーにしているこの高校はその忠実心から地域に溶け込んだ高校として評価が高い。そんな堅苦しいレッテルを張らされている自分に、悠李は制約のような呪縛を感じていた。
「だってロニーがサッカー部やめたんだもんな」
「んな。やめるしかないよな。ちょっと時期が遅かったかもしれないけど悠李も俺もやめて正解だったよ。」
ことの発端はサッカー部に所属している橋本ロニーの突然の退部であった。
高校一年からレギュラー入りだったロニーはどこを歩いても有名人であった。彼のハーフさながらフレンドリーな会話と堀の深い目元に、屈託のないすらっとしたスタイルの良さ、おまけにサッカー部のエースという看板を背負っていることから一役を買っている。そんな彼の唐突な退部である。退部はサッカー部からしても、ましてやサッカー部に期待を膨らませていた高校自体からも惜しいことであったはずだ。それは悠李達にも前代未聞の出来事であった。
予想していた自分の高校生活を根っからひっくり返す瞬間。
俺サッカー部やめたぜ
高二の冬だ。あの時の恥ずかしさとちょっとした緊張を今でも覚えている。HRが終わった直後に前扉からずかずかとやってきたロニーは、最も教卓に近い席に座っていた悠李に投げつけた言葉である。教卓に佇む担任、支度の終わっていない生徒らの中で彼は異質な存在のほかならなかった。ためらいもなく放ったその言葉で完全に注目の的となったロニーの目にはなぜか、恥ずかしさや圧迫感というよりは、弾き交う火花のような猛烈な光が映っていた。緊張が走る昼下がりに突如として現れた迫力に圧倒され、前かがみに顔を覗くことしかできなかったが、その意味合いに悠李はなんとなくわかっていた。
その言葉に対する返答は、ロニーが高校の青春ともいえる部活動を人生の思い出から捨て、所属しないことに心配を表するものではなく、ましてや嘲るものでもない。
ともに辞める、が正解であったのだ。
それでいいんだな、と言った。見せ場である体育祭の部活対抗リレーも、もしかしたら窓際からちやほやされる優越感も、もしかしたら一緒に写真を撮ってください、と言われる文化祭も、なにもかもすべて______________。
その週に部活動をやめた生徒はロニー含め三人いた。「昼下がりから揚げ弁当班」である。悠李は所属していたハンド部をやめ、拓弥がダンス部を抜けた。文武両道を学校方針としている母校では、教師や生徒の視線が辛酸なものだが、辞めるほど、罵声を浴びられるほど、すき好んだものがたまたま部活動以上にあっただけである。
部活動もクラスも好きなタイプの女子も違う僕らが共通していたのはからあげ弁当を大いに好んだほかにもう一つある。
音楽が大好きであったことだ。
各々が楽器を習っていたから、という理由もあった。二時限目のチャイムが鳴ると同時に席を外した僕らは二階の購買で同流すると、から揚げ弁当を持って四階の外に出る。晴れた日に解放されている西館と東館を架ける外廊下は、ひと通りも少なく、貸し切りのようなものであった。使っていたのはほとんどが悠李達あったから、家から持ち出した携帯用スピーカーで音楽を流しながら、から揚げを頬張る。たった三十分ほどの昼休みは屋上に開放されただだっ広いライブハウスの完成だ。
「またいい感じのインディーズ見つけたんだ。拓弥、スピーカで流していいか」
「最近のか?」
「まあ聞けよ。絶対にはまるからさ」
曲を一刻も早く流したい拓弥は左右に肩を揺らしながら心をはずませている。スピーカーを渡されると、携帯の接続端子につなげた。
単調なドラムと緩やかなピアノのタッチが小さなスピーカーから流れる。
「Love is easy ~ you had me fucked up ~ it used to be so hard to see ~」
「あ、これ」
拓弥はその入りだしにピンとくる
「どうした?」
「これ、レックスオレンジカントリーだろ。ペニーシングスとコラボした曲だよな。」
「なんだ知ってるのか。せっかくいい曲見つけたから驚かしたかったのになー。腑に落ちねえ。」
知っていることに悠李は落ち込んで肩をガクッと下す。
「あちゃー悪かったな知ってて。この曲めっちゃ好きだよ。この穏やかな感じさ、古めかしくも懐かしい甘酸っぱい恋を連想させる感じ。」
「ペニーシングスの大人っぽい声がまたいい味だしてるよな。ってお前そんな懐かしい恋をするほど彼女いねーだろ。」
淡々とした青空に悠李達の笑い声がすうっと伸びていく。退部したことへの後悔はもうこの二人の間から消滅していた。
その時、東館の扉が大きく音を立てて開いた。一瞬びくっとした悠李はその音の方向にさっと振り返る。
「なんだいい曲が流れてると思えばこれLove is easyじゃんか」
鼠色のカーディガンを羽織った大男がスカッと笑っている。ロニーだ。
「なんだお前か。いつも俺たちより早く来るロニーが遅いから今日来ないって思ったよ。」
無駄に緊張したことに悠李はやり切れない思いになる。持っていたから揚げ弁当を持ち直すと、ロニーは続けて口を開いた。
「いやさ、実はもう一人退部したやつがでたらしいって噂、さっき六組で聞いてきたんだ。」
「おいおいまじか。立て続けに辞めるなんてもはや事件のにおいがするぞ」
拓弥は口をぽかんと開けて動揺している。悠李は退部したのが俺たち三人だけだというちょっとした切迫感が一人増えたことによって和らいだのを実感する。この高校では人が退部するだけで噂になるほど大ごとになってしまうことに悠李は改めて気づかされた。
「で、その退部したやつって誰なんだ。」
「それがさ」
ロニーの大きな口がゆっくりと開く。悠李は食べ終わったから揚げ弁当を手早く片付けるとその噂に全身で乗り出した。拓弥も食べ途中の昼食を一旦休めて耳を傾ける。
曲がサビに差し掛かる。大きく開けた口から何か強烈な一言が放たれるような瞬間――――――――
「さっぱりわからん!」
拓弥と悠李は持っていた弁当が落ちかけるほど前につまずいた。ロニーの声が曲をかき消しながら外廊下に反射する。
「んだよ、まったく。」
「あーびびった。びっくりさせんなよ。」
拓弥と悠李はため息と同時に抑えていた声を発した。悠李はさっきから起こるやり切れない思いがずっと残っていてなんだか居心地が悪い。
「でも俺絶対あいつだと思う。」
そう言うとロニーは顎を手でさすりながら不思議そうな面付きをした。
「誰さ」
「司だ」
ロニーは何の迷いもなく即答する。驚きを隠せない拓弥は迫った。
「それはないって。だって前にあいつ部長任せられたって言ってたぞ。」
矢野司は三年になって部長を任せられたロニー並に部内での責任が重い男である。筋肉質でがっちりした体形に太い眉間、鋭い目付きとおまけに短髪で一見、野球部のような容姿だが、彼の忠孝仁義な姿勢が顧問や周りの先輩たちに買われたのだという。司自身、任せられた責務には全うするような人柄であるから、自覚して部長の任務をこなすだろうと思っていた。
司の報告を聞いたのは悠李が外廊下でロニーとから揚げ弁当を食べている一週間前の今日だった。拓弥はその時退部届を出していたので場にいなかったが、後々その話を知らされた彼には新鮮味が残っており、一層その話にのっかかる。
「なんでさ。あいつ以外にもやめるかもしれないようなやつの噂は出回ってるぞ。吹奏楽部の柳下とかまあ、あとはダンス部の蒲田も。」
「そうだよ。ダンス部の蒲田なんてみんなからやめろって言われてんだぞ。」
高校二年の夏、同級生である柳下は三年の最後のコンクールに向けての選抜に選ばれず、その場で担当のトランペットを投げている。努力家でレギュラー入りであることが周知されているがその根暗な性格が爆発したらしい。金管楽器を投げるとなると、さすがに部に顔を見せるのも気まずいだろうし、誰もがその事件から柳下が強制的に辞めさせられてもおかしくはないと思っていた。一方拓弥と同じダンス部の蒲田は、さぼりがちで大会が近いのにも関わらず、割り当てられた振り付けをまったく覚えず、ダンス部全体でやめるようアンケートを取らせたのだという。蒲田は柳下とは違い傲慢なくせして怠惰なやつであるから彼の本意で辞退するかわからないが、どちらにせよ退部する可能性はこの二人だと校内では囁かれている。
「いいや。違わない。司だ。よくよく考えてみろ。退部した俺たちに共通点あるだろ。」
「なんだから揚げ弁当が大好きなことか」
「そうだ。」
「意味わかんねえよ」
それでも突き通すロニーに二人はもっぱら呆然する。こんな奴の話に耳を傾けるだけ無駄だ。呆れてものも言えない。
曲が終盤に差し掛かり徐々にフェイドアウトしていくと盛り上がった気持ちもうっすらと消えていった。
「まあロニー座れよ。立ってたら弁当冷めちまうぞ。」
「そうだな」
悠李は休めていた手を再び動かしてから揚げ弁当を食べ始めながら言った。拓弥はポケットから煙草とマッチを取り出す。人気のいない外廊下にマッチの擦れるシュッという音が響く。
「拓弥ばれんなよ。」
「大丈夫だよ。ここに来るの俺たちしかいないんだからさ。」
その時、座ろうとしたロニーの背後でドアをノックする音が聞こえた。
「やばい。だから言ったろ!早く消せ!」
焦燥した悠李が落ち着かない表情で忠告する。その忠告に肝が冷えた三人は振り向かずにすぐさま空の弁当箱をしまった。
しまった。タバコがばれたらかなりまずいことになる。それもよりによって退部して間もない時期に。
動揺を隠せない拓弥は下をうつむいて、必死に言い訳を考えている。するとロニーが落ち着いた声で放った。
「いや。あれ司だ。」
ふたりが上を向くと、ロニーの振り向いた先にから揚げ弁当を二個も抱えている司がずしんと立っている。
「え?あ、お前から揚げ弁当二個も食うのか?」
動揺を隠せない悠李が細々しく尋ねた。
「おう。そうだ。」
「よ、よく食うな。なんかあったのか」
「はあーっ。さっきから脅かせんなって。」
「はあ。俺もう座っていいか。疲れた疲れた」
三人そろって大きなため息を吐く。緊張で全身から変な汗が出ているのを感じる。
「はやく来いよ。飯食おうぜ。」
ロニーは笑って司がこっちに来るまで座るのを待っている。
しかし、そこに立ち尽くしている司が一向にこっちに来ない。
「どうしたよ。はやく食おうぜ」
「その話俺だよ。」
「え?」
「だからやめたって話、俺だよ。」
その言葉を聞いた途端、拓弥と悠李は言葉を失った。すると司のさっきまでの真剣だった目元が緩むのが分かった。
「ロニーがやめんならしょうがないさ。」
司の低い声があっけらかんとした空に行き渡る。ただ立ち尽くすロニー、硬直して箸が止まった悠李。火をつけたマッチを落とす拓弥。
只々、ぽかんと口を開けることしかできなかった。
彼らの高校三年生はまだ始まったばかりである。
二曲目 聖者たち ピープルインザボックス
高校二年の冬、中山拓弥がダンス部をやめることにこれといった辛苦の気持ちはなかった。
只、ちょっとした忌々しさだけが胸の奥底にがっちりとしがみついて離れないことにいら立ちを感じる。
あんな部活辞めて正解さ。もともとやる気なんて根っからなかったし_____
この大空のもっと遠くの地平線に雨雲の群れが見える。まるでこれから押し寄せる脅威のようにこちらをじっと見つめいてる気がして思わず逃げてしまいそうになる。
拓弥はその居心地の悪い蟠りを開き直った気持ちとから揚げ弁当で一緒に呑み込もうとする。
「もう来てたのな」
東扉がガラッと開いた。から揚げ弁当を持った水谷悠李がどこかしら不安そうな顔で拓弥の隣に座る。
「おう。俺の授業早く終わったからさ」
「なんだそっか。」
拓弥は隣に座った悠李に目もくれず、ひたすら白米を口にかきこむ。口に含んだから揚げがうまく呑み込めず一層いら立ちが募ってこっちはそれどころじゃない。
悠李はどこかの草食動物に似たような顔をやつれさせてちらちらとこっちを見ている。
こういう、「感情が顔にでる男」と一緒にいると、相手の意図を探る必要がないから別に不快じゃない。ただ、時折見せるこういった不安そうな感情は見てられないからすぐにでも新しい顔に切り替わってほしいというところはある。
水谷悠李は高校一年の頃、クラスが一緒だったやつだ。ハンドボール部で思いっきりの外部活であるのにも関わらず、日焼けは全くしない真っ白な肌で、女の子みたいに端正な顔立ちをしている。その分感情が表に出やすく、きめの細かい顔をくしゃくしゃにして笑ったりする。今は顔の全部の肌が重力に負けているから残念な知らせを持っている、といったところだろう。
そもそもそんなに不安なら別に辞める必要なんてなかったんじゃないのか。よりによって心配性の悠李が思い切って退部するなんてらしくないと言えばらしくないのだ。
きっと、後悔しているんだろう。
まるで取り返しのつかないことをしてしまったという具合に。
本当に自分がやめて正解だったのか。部活動しか取り柄のない自分が辞めた先に見える景色が想像できるのか。まあそんなもん俺が知ったこっちゃないが。
「やっぱりやりすぎたかな。退部なんてさ。職員室に報告しに行った時だって顧問に冷徹な視線向けられたよ。もうここにお前の居場所はない、って言ってるみたいにさ。」
悠李は箸で白米を荒く掴みながら嘆いた。
「まだましさ。俺なんてダンス部の退部届出すとき目の前でびりびりに破かれたよ。そんで『了解しました』って一言言って終わり。俺マジで死ぬかと思ったよ。」
拓弥は半分面倒、半分励ましの気持ちで共感を試みた。するとさっきまで垂れ下がっていた悠李の顔が一気に引き締まってにこっと笑った。
効率がいいのか、感受性に富んでいるのか。まあどっちにせよ自分のついた嘘にここまで開き直れるなら単純な性格であることに間違いはない。悠李の笑顔を見てとりあえず内心はほっとした。
ダンス部を退部したというのは嘘である。
正確には、退部させられたのだ。
それは金曜日の四時限目は視聴覚室ががら空きだったことに始まる。美術の時間であった拓弥はこっそり抜け出すと職員室からカギを持ち出し、誰もいないその空間で軽音部の置いていったベースにひたすら指をかける。視聴覚室は音が授業の邪魔にならないよう端に設計されているから、見つかる心配もないし、窓からタバコを吸ってもそれが校庭や校門から見つかる心配もない。むしろ学校の最上階に設置されたこの部屋に要がある方がおかしい話であった。だから拓弥にとって視聴覚室は金曜四時限目だけ利用できる基地だった。
そしてそれが自分の唯一、「快感」であることに気付いた頃には、部活に顔を出さなくなっていた。
拓也にはその金曜、四時限目という制約に満足できなかった。
軽音部が活動しない三日間は、ダンス部の有無に問わず一刻も早く教室を出る。階段を下りて部活動に足を運ぶ生徒がいる中、階段を登って視聴覚室に拓弥は向かう。そしてベースの弦を弾く。雑音ばかりの教室から抜け出して弾くギターの音は単調なくせしてなおかつ深い。まるで深海の底に一人だけで潜っているような、探求心と好奇心が入り混じった快感だった。
その視聴覚室が使えなくなったのは小さな紙切れを両手に持ったダンス部の蒲田がこの部屋にやってきたときである。
唐突に来る二つの悪い報せ。
扉の前に鋭い目つきで睨んでくる蒲田。何も発さずに下唇を噛みしめ、その紙切れの数々をピアノ台の上に置くと蒲田はそのまま帰っていった。
拓弥は表情から察するにきっと自分に悪い知らせだろうとは思っていたが、その内容を見た瞬間、思わず笑ってしまったのを覚えている。
「中山拓弥の退部について賛成か反対か」
手書きで書かれた汚い文字を組み合わせて「中山拓弥」という字が何十枚も書かれている紙切れに、後から冷たい手で頬を触れられてるような感覚がこみあげてくる。それは視聴覚室という「自分だけの世界」が、紙切れに触れた途端、「自分しかいない世界」に変わった瞬間だった。文字の羅列が浮き出て、まるで自分を囲った生徒が冷徹な目で見ているようだった。
拓弥は恐怖心と圧迫感からその日をもって退部した。
だから正確には辞めたのではなく、辞めさせられたのだ。
こんな惨めな終わり方で退部した俺がかっとなって蒲田が退部させられそうになっている、なんて言い訳をしたのも、正直もっと自分が惨めになるだけだとわかってはいた。要は負け犬の遠吠えってやつだ。権力を持たない自分が、権力者に対して奮った仕返しだ。
蒲田のあの目。
檻から脱走した動物を抹殺するような鋭い殺気。
本当は怖かったんだろ。自分の口から言うのができなかったんだろ。ビビッて自分の意見も言えずに帰るしかできないしょうもないやつなんだよお前は。
拓弥は何度もため息をついてほぐそうとするが、べっとり胸の奥に張り付いた嫌なものがちっとも抜ける気がしない。
おかげで視聴覚室のカギも没収されたし、俺の居場所なんてもうねえな。
「うちの高校は文武両道が基本方針だからな。俺たちみたいな退部したやつらはきっと端の端に寄せられちまうよ。」
横を見ると悠李が機嫌よさそうに笑っている。
「一緒にな」
回想した出来事にため息を交えて返答した。
「だってロニーがサッカー部やめたんだもんな」
「んな。やめるしかないよな。ちょっと時期が遅かったかもしれないけど悠李も俺もやめて正解だったよ。」
そうだロニーがやめたんだった。あいつなんで退部したんだ。俺と同じでもしかして人のせいにしているだけで本当は自分が強制退部させられたとか。例えばサッカー部内で誰かと喧嘩沙汰になって意地でも辞めさせられたとか。納得のいかないコーチを思いっきり殴ったとか。
んなわけ、ねえよな。
落ち着かない心のよりどころを探して拓弥は必死に言い訳を考える。只、ロニーがそんな奴じゃないと思うと不安がぶり返してきそうで怖いのだ。
サッカー部のエースだし、天然っぽいが実際友達想いのやつがそんなことするはずがない。俺みたいなクズとはもっぱら住む世界が違うのだ。
俺サッカー部辞めたぜ。
俺と同じクラスである橋本ロニーがその言葉を伝えたのは二週間前ほどだ。部活をやめたって言ったのにまるで宝石でも埋め込まれているかのように鮮烈に光っていたあの目。退部したことが尚更よかったかのように笑っていたな。あの時、ロニーからバチバチと帯電した躍動感を全身で感じたのは確かだった。でもそれが一体どういうことなのかはわからない。
拓弥はロニーのことを頭の中で知らず知らずに浮かべていた。
ロニーの頭の中だけはさっぱりわからない。そんな勇気あふれる行動をなんでパパっとやっちまうんだよ。
「ロニーか。」
ぼうっとしていた拓弥はいきなりその名前を悠李の口から出たのでぎょっとした。
「なんだいい曲流れてると思えばこれLoving is easy じゃんか。」
東館の扉から顔を覗かせたロニーが意気揚々としている。
「なんだお前か。いつも俺たちより早く来るロニーが遅いから今日来ないって思ったよ。」
ロニーは両手でから揚げ弁当を持ちながら申し訳なさそうに腰を低くして向かってくる。
拓弥は悠李の言っていることにちょっとした違和感を感じた。確かにそうだ。いつもロニーは早く来る。
記憶の中でのロニーを思い起こす。
東館の扉を開けるとその大きな背中を向けて座っているロニー。
よう、遅かったな。と振り向き挨拶をしているロニー。
そうだ。あいつはいつも早い。俺がたとえ授業が早く終わったとしても外廊下で見るロニーはすでに座ってから揚げ弁当を食べている。今ままで東館の扉を開けてのこのこやってくるロニーなんて見たことがない。
いや待てよ。
一度だけあるな。
拓弥はロニーの遅刻を変に取っ掛かった。
シャツをびしょびしょにして遅れてきたロニーを一度だけ見たことがある。
でもロニー曰く池で転んだとかなんだとか______
さっきからしがみついている靄が一層霧がかるような感じがしてならない。
ロニーが遅刻するのは、何か用事があったから。
櫃休みの前に池前で遊んでいたから遅れた。
じゃあ何か今日も理由があるのではないか。
「いやさ、実はもう一人退部したやつがでたらしいって噂、さっき六組で聞いてきたんだ。」
拓弥はその言葉を聞いた時、ロニーの不気味さを異変として受け入れた。
「おいおいまじか。立て続けに辞めるなんてもはや事件のにおいがするぞ」
面白いネタに飛んだヤジのように悠李は聞き耳を立てている。
やっぱり変だ。何かおかしい。もう一人の退部の噂なんてまったく聞いていない。
拓弥はいつも通りに会話をするロニー達との間に冷えた空気感を感じた。
可能性があるとするなら吹奏楽部の柳田だ。柳田はコンクール選抜に落ちてその悔しさからトランペットを思いっきり投げている。おまけに周りから咎められて深く反省させられてるって話だ。
しかしこれは退部までするほどの話じゃない。こういった系列の話は大概、数か月かの部活動停止処分を食らう程度に収まる。それに柳田は今回たまたまレギュラー落ちしているだけであって今までずっとレギュラーメンバーにいた存在だ。そんな奴がササッと退部届を出すとは思え難い。
誰だ。退部したやつは。この高校で退部するやつなんて俺みたいなひねくれ者か、友情ごっこに憧れたバカみたいな悠李ぐらいしかいないぞ。
「で、その退部したやつって誰なんだ。」
拓弥が思ったことを悠李が代弁した。興味津々に悠李は全身で跳ねている。
「それがさ」
ロニーの大きな口がゆっくりと開く。
聞ける。このロニーの口から退部したってやつの噂が。
拓弥はその口の中に吸い込まれるかのように目を凝らした。
悠李の流している曲がサビに差し掛かる。大きく開けた口から何か強烈な一言が放たれるような瞬間――――――――
「さっぱりわからん!」
拓弥と悠李は持っていた弁当が落ちかけるほど前につまずいた。ロニーの声が曲をかき消しながら外廊下に反射する。
「んだよ、まったく。」
「期待させんなよ。」
ロニーはかまをかけたことに満足そうにいたずらな笑みを浮かべている。余計に期待してしまった分、変に体力を使ってしまい拓弥はちょっといら立つ。
「でも、俺あいつなのかなって思う。」
するとロニーは大きく開けた口を閉じて今度は不思議そうな表情を浮かべた。
相変わらずわかんないやつ。外人って表情豊かだから、気持ちってのは面に出やすいんじゃないのか?
人の思考や話している時の感情なんて雰囲気と微妙な表情で大概わかる。悠李も司もそうだ。悠李なんて言葉を発しなくたってこれから発する言葉の意味合いはなんとなく理解できる。司もそうだ。以外と頑固そうな顔つきだが、意外と純粋な心を持っていたり、その誠実な志だってみりゃわかる。
でもロニーは違う。決して喜怒哀楽がないと言っている訳じゃない。むしろロニーは表情豊かな方だが、ただ浮かべている表情以上になにかもっと深い意味合いがある。むしろ逆だ。思っている感情を喜怒哀楽という四つのパターンでは処理しきれていないのだ。もっと奥底にちゃんとした意味合いを持っているように。俺たちみたいに集まって好きな曲の話で昼休みを潰すような目先のことじゃない、ロニーはもっと水平線の先を見つめているような深い意味合いを持っている。
ロニーの見つめる先にきっと答えがある。
その目をもっとよく見ればわかる。
ロニーの感情が読み取れないことに不甲斐なさを感じる。ここまで一緒に付き合ってきてさっぱりわからないなんてもっぱらごめんだぞロニー。
「誰さ」
拓弥はうつむいた顔を持ち上げてロニーの目を凝視する。体中の全意識を目に集中させて前のめりに覗き込む。こっちを振り向いたと同時に太陽の光は吸い込まれるようにロニーの瞳へと反射した。
青々しく煌めく光の奥にもっと大きな影がある。それはよく見ると小さな光がたくさん集まって気付かなかった暗闇だった。
それは金箔をまぶしたように散りばめられた星々が、もっと奥にある闇に引き立てられて光っているのだ。それは一見、猛烈に興奮しているように見えて、悲しさが隠されているようだった。
悲しい?なぜ?
拓弥は一層こんがらがる。
あそこまで人に囲まれているのになぜ悲しいのだ。俺たちもそうだが、お前にはサッカー部の友達だってクラスの友達だってたくさんいるじゃないか。
それでもロニーの目は拓弥の思想に背くように黒く荒んでいる。
まさに孤独のような目をしていた。暗い闇の中でポツンとロニーだけが立っているような暗い孤独。まるで本当の友達なんてだれもいないと訴えかけているようだ。
でも友達ならここにいる。どんな時でも毎日弁当を食い合ったから揚げ弁当班が。
俺と悠李と司。この三人はなんとしてもお前と一緒に仲良くやってきた仲だ。ロニーがサッカー部に入る前からずっといたんだ。
それは間違いない。だとしたらなんだ。その目に映るのは。
拓弥は吸い込まれるような闇にひたすら熟考する。
そして、その小さな小宇宙を知った時、初めて彼の気持ちに手が触れたような気がした。
もしかして司か。
ロニーの返答に先走った拓弥の声が胸の中で漏れた。
司だ。
拓弥に味わったこともない期待感が押し寄せる。
「それはないって。だって前にあいつ部長をまかせられたって言ってたぞ。あいつ以外にも辞めるかもしれないような奴の噂は出回ってるんだ。吹奏楽部の柳下とか、まあダンス部の蒲田とか。」
「そうだよ。ダンス部の蒲田なんてみんなからやめろって言われてんだぞ。」
「いいや違わないと思う。」
すでに固まりきったのかロニーはまったく変えようとしない。
拓弥は蒲田という名前にぎょっとしたが、司の退部の噂が追いかけるように後からさらにぎょっとさせた。
もしそれが本当ならこんなにも最高なことはない。人の退部を喜ぶのは失礼だが、それ以上にこのから揚げ弁当班全員が退部してやったことの達成感が大きい。
拓弥は読み取った人の意思にこんなにも肯定したのは初めてだった。瞳に映った影が、ロニーの発したその言葉が、司の退部が真実であると強く願う。そうであるならば、視聴覚室の再来だ。
「なんだから揚げ弁当が大好きなことか」
拓弥は満足そうににやける。ロニーはそうだ、と目を見開いて肯定した。
さっきまでしがみついていた呪いのようなものが取れた心地がした。
もし本当なら、これが真実なら、いつも空っぽだった明日が変わる。
でもわからない。実際に部長を任せられていることは事実だし、そんな責任ある者が退部届を出しても断られる可能性だってある。それも司ときたらザ・誠実だ。そんな奴が友達のために己を犠牲にして退部するのだろうか。人生に一度きりしかない高校生活をテニス部の部長として役割を果たすことだって間違いなく順風満帆な日常を送れるに違いない。
頭の中でランプがチカチカと点滅する。拓弥はその興奮を拭い去ろうと、思わずタバコに火を点けた。悠李が注視するがそれどころではない。
「大丈夫だよ。ここに来るの俺たちしかいないんだからさ。」
「ならいいんだけど。」
大きく吸い込んだ煙がうっすらと風に揺れて宙を舞うのが見える。その煙を追っかけるように見た水平線の空に、どんよりとした雨雲の群れはどこかに行ってしまっていた。
退部をした拓弥が残りの一年間にやりたかったことが一つあった。
みんなとセッションすることだ。
そもそもこの外廊下もみんなが次第に集まった理由はその音楽という共通性にある。
それも好きな音楽を好きな程度に同感しあうものではない。
お互いを尊重し合えるものであったからだ。
部活動が違うように俺たちはみな違う楽器をやっている。ベースが大好きな俺、ピアノが得意な悠李、ギターを愛するロニー、ドラムを情熱的に叩く司。このから揚げ弁当を食べる行為には持っていない欠点を補える安堵な包容力がいつもあった。それはダンス部のような誰しもが同じ白旗を追っかけるような一体感ではない。
だからこそ拓弥はこの場所に自分の居場所を感じていたのだった。それは過ぎていく高校生活の中で拓弥以外もうっすら気付いていた。順風満帆な高校生活を送ることが今の部活をやり続けることにあるのかどうか、から揚げ弁当を食べていくうちに拓弥たちは部活以上の価値を見出していた。
だからロニーは俺たちを誘った。けどいままで暗黙の了解のようなものをいきなり口に出すのは腑に落ちない。だから「自分がやめた」とあえて消極的に言ったのだと思う。
拓弥は吸ったタバコの煙と共に心に残った最後のわだかまりを吐ききった。
すると悠李が落ち着かない様子で急にこちらを振り向いた。
「やばい。だから言ったろ早く消せ!」
扉をノックする音が遅れて届く。しまったうっかりしていた。さすがに今の状態で見つかるのは退部に続いてかなりやばいことになる。
拓弥はまだ半分の残っているタバコを扉から見えないよう腰の後ろで擦り消した。
その瞬間、全身から一気に血が逆流するような声を聞いた。
それは心で叫んだ期待に膨らましたようなものでもなく、ロニーの誇らしげな子供っぽい声でもなかった。
「司だ。」
低く、差し迫った、唸るような声。一瞬それがロニーの口から聞こえたものだと判断できなかった。
拓弥は恐る恐る東扉の方を見た。そこにはから揚げ弁当を二個も抱えた矢野司が静かに立っていた。
「え?お前から揚げ弁当二個も食うのか?」
動揺を隠せない悠李が細々しく尋ねた。
「おう。そうだ。」
「はあーっ。さっきから脅かせんなって。」
「俺もう座っていいか。疲れた疲れた」
ロニーの顔に表情が戻る。拓弥はさっきまで強張っていたロニーの顔が弛むのを目撃した。
司は最初からそこにいたようにまるで肝が据わっている。さっきの話聞いていたのか。司が退部したかもしれないって話。本当なのか。
心臓がバクバクする。まるで自分の体に危険が走ったように緊張が収まらない。
拓弥は抑えきれない動悸を必死に落ち着かせながら質問に迫った。
「よ、よく食うな。何かあったのか。」
よく見ると穏やかなように見えてその眉間は強くしわを作っていた。
かいた冷や汗に風が当たって緊張をより一層駆り立てる。拓弥はもう司から目を離せなくなっていた。
「その話俺だよ。」
「え?」
「だからやめたって話、俺だよ。」
その言葉を聞いた途端、拓弥と悠李は言葉を失った。すると司のさっきまでの真剣だった目元が緩むのが分かった。
「ロニーがやめんならしょうがないさ。」
司の低い声があっけらかんとした空に行き渡る。拓弥は只々、ぽかんとすることしかできなかった。
司が、やめた。あの司が。
その驚愕の事実に声も出なかった。
静まり返った外廊下に消しきれなかったタバコの匂いだけが漂っている。
ロニーが司を呼んだんだ。
その嬉しさが後から一気に押し寄せてくる。
ロニーが、司を。
司が、俺たちを、選んだんだ。
高ぶる鼓動に想いを馳せきれない拓弥はどうしたらいいかわからず、うろうろと周囲を見まわした。
すると拓弥は泳がした目の先に一滴の水滴を見る。
なんだ。雨でも降っているのか。こんな晴れた天気に?
一滴の水滴はゆっくりと地面に落ちていくとコンクリート造りの床にじわっと浸透していった。
不思議に思った拓弥は空を確かめようと上を向く。
そこには晴れた日に降る雨以上に不思議な光景があった。
ロニーが、泣いている。
三曲目 雨
矢野司はおつりを受け取ると、から揚げ弁当を二個取り出した。
とにかく腹が減っていた。この上なく腹が減っていた。
早くこの人ごみの中から抜け出したい。一刻も早く東館の階段を駆け上がり、このから揚げ弁当を食べたい。
今まで一個しか買わなかったからげ弁当が、二個になった途端、急に持ちづらさで不安定になる。司は持ち方をうまく調整しながら、二個のから揚げ弁当を持って購買を後にしようとする。
そして早く外廊下に行きたい。
昼休みの時間になり生徒たちで購買は渋滞している。外廊下で早く飯を済ませたい思惑に背くように人だかりが司の行く手の邪魔をする。
人と目が合わないようにできるだけ下を向きながら体を揺すって人混みを抜ける。今日に限って分厚いトレーナーを着て来てしまったが故に嵩張って人とぶつかってしまう。
よりによってこんな場所で立ち話なんてごめんだ。気が付いたら昼休みが終わっちまう。
購買で昼食を買う生徒たちがダンボール箱に積んである弁当箱に指をさして話している。その話に紛れて「退部」という言葉がわずかに混じっていた。
「また誰か退部したらしいよ」
「そうそう。私もその話六組で聞いた」
司はその噂話に目もくれず只々、混雑した購買の列から抜けることに没頭した。
列に並んで購買を待つ女子生徒が退部話を大げさに盛り上げている。聞き耳を立てた前後の生徒たちがその話に参戦し始めいよいよ慌ただしくなり始めた。
噂というものは怖い。ちょっとしたミステリアスさと面白さから音速の速さで広まり、数週間ですべての生徒達に伝染する。媒体は手段をいとわず多種多用で、あらゆる手口で全校舎内にはびこっていく。あいにく自分自身が六組ではないから犯人捜しには多少時間はかかる。まあそれでも早くにわかってしまいそうだが。
「あれ司君。」
購買エリアを抜けたと同時に列待ちをしている柳田が振り向いた先で自分に気付いた。
「今日私服なんだね。」
柳田は珍しげに司を上から下までじろじろ見ている。司は多少戸惑いながらもできるだけ冷静を装って返答する。
「んまあ、そうだね。」
「いつも司君、テニスウエアなのに珍しい。」
「今日歯医者に行かなきゃいけなくて」
そう言うと司は二個のからげ弁当を片手で持ち直してもう一つの手で顎をさすってみせた。
やばい。もう危うい。必死に考えたこんな言い訳が通用するのか。できるだけ普段通りの自分を演じるものの、それがむしろ逆効果となって余計に感づかれるのではないかと不安になる。
柳田の変に鋭いところには感心するが、その精鋭さはこんな場所で発揮しないでほしい。
「それにから揚げ弁当を二個も。」
柳田はさすった顎に目もくれず抱えた弁当を指さして一層畳みかける。
「やけに」
「やけに?」
「やけに今日、腹が減ったんだ」
必死に考えた言い分に口が追い付かず、つい口ごもってしまう。
すると柳田はあっけにとられたような目で司を見たが、やがて司のおかしさにくすっと笑った。
「そっか。この時期おなかすくよね。わかる。」
「ほら、季節の変わり目ってやつだよ。」
あはは、と柳田は笑った。
不可解な回答ばかりがポンポン浮かんでくる。こういうときに限って辻褄の合う言い訳ができない自分が嫌いだ。そもそも季節の節目に髪が抜けやすいだとか風をひきやすいことはあるとしても腹が減ることはあるのだろうか。
それに歯医者に行くと言っているのにこんなにも弁当を食べるのもおかしい話だ。
「三年の始まりだしね。新学期に向けて沢山食べとかないとね」
柳田はこっくり頷くと威勢ある声でそう言った。
柳田は吹奏楽部で毎年コンクール選抜にレギュラー入りしている凄腕の奏者だ。彼女は基本的に全楽器を操れるが、トランペットへの思い入れが強く、選抜では常にトランペットを志望している。しかしながら、高校二年の夏に先輩方の引退をかけたコンクール選抜に落ちてから多少のブランクが空いているのだそう。その強い意志からトランペットで選抜に挑んでいるが周囲からは打楽器や他の金管楽器なら選ばれていた、と憐れみを食らっており、所謂悲劇の博学多才と言ったところだ。トランペットは志願者が多いうえにメインを飾る晴れ舞台であるから引退する三年の優遇を含めて困難であり、柳田でも選抜に入るのは難しいとのことだった。
司は柳田が持つその強い執念に激しく同情していた。ホルンでもコルネットでもない。トランペットじゃなきゃいけないという執念。トランペットだからこそ意味がある。そしてそれを吹くのが自分ということに意味がある。それはトランペットの音や自分との相性でもなく、ましてや好意からくるものでもない。まぎれもなく想いだ。その楽器に触れて初めて自分が存在するような想い。
だからこそテニスに執着することも、部長を任せられることにも頑なな執念で請け負うことができたと司は思っている。高校の三年間をテニス部として、その集団に属する一人の矢野司という男としてすべてをささげてきたのだ。柳田がトランペットに対する想いがあるように司にもそれがテニスにある。
強い想い。
司はその言葉の意味を意識した。
俺サッカー部やめたぜ。
すると、ふとロニーが打ち明けた情景が浮かんだ。
司は思わずうつむいてしまう。
また考えてしまった。
やり切れない思いを感じる。
ロニーの深く霞んだ黒が潜むその瞳で見つめる先が、自分ではなくもっと違う何かであるような奇妙さ。ロニーがたまに見せる何かを見通したような目つきに司はつい怖くなった。
本来ならアメリカにいるはずのロニーが自分のために日本に留まってくれたのは事実である。
親の反対を押し切って日本に残ることは大変であるのに、無傷のようにけらっと能天気に笑うロニーが怖かった。きっとロニーの中では心配をかけること以上にこれからの楽しさに気付いて欲しいという想いがあったんだろう。自分はその彼の行動力に躊躇することはあったが、おかしいとは思わなかった。だからロニーへ好意を一層抱くきっかけになったし、今こうしてロニーと同じ高校で生活している。だから本来ならいつもロニーがいることを心から感謝しなければならない。
俺サッカー部、やめたぜ。
しかし、この言葉の意味を探った時、司が持てなかったその感謝にものすごい後悔を感じたのだ。
高校二年の後期最後、ロニーがシャツをびしょ濡れにして外廊下に来たことがあった。
その日は快晴でからっとした空に穏やかな風が吹く昼下がり。
「調子乗って遊んでたら駐輪場の池に落ちちまった。」
ロニーはそう呟きながら手すりにシャツを干していた。
「でもほんと、こうやってバカできんのも今のうちだよな。」
白い歯を見せながらにかっとロニーは笑う。
司はシャツだけを干して、濡れている下着は脱がないロニーに多少の違和感を感じた。
さすがに寒いから脱がないのだと、勝手に納得しようとしたが、それでも目を見張るようなものがあった。
体にうっすらと何かがこべりついている。それはよく見ると所々が黒く、赤く、膨らんでより一層どす黒く浮き出ている。それを慌てて隠すロニーの表情を見たとき、思わず口を紡いでしまった。
いじめられているのだ。
悠李と拓弥はそれに気づいていなかった。下着の上から凝視しないとわからない。しかしよく見れば見るほどそのあざが全身にまだら模様になっていたのがわかった。あざは彼の白い肌に痛々しそうに腫れあがっている。その形は紛れもなく何か強い打撃を食らった跡であり、びしょ濡れのシャツは間違いなくかけられた跡であった。
今まで気づかなかった自分にひどく後悔した。こんなにも身近にいた親友が、いじめられている。
ロニーも気を使っているのかこのことを聞いたものは誰もいない。このことをはっきりと聞けなかった自分により一層後悔を感じる。
なんでちゃんと言ってくれなかったんだよ。
なんで俺たちを信用してくれないんだよ。・
俺も悠李も拓弥もお前を心から信頼している友達なんだぞ。
暗闇の中に彼がぽつんと立つ殺風景ばかりを連想する。そこでいつものようにけらっと笑っているのだ。何かを隠して平然とした様子で佇んでいる。
司は俺には何もないよって顔をするロニーに、激しい後悔を覚えたことをまるで昨日のように感じる。
サッカー部やめたぜ。
ただ、それだけを言い残して。
ロニーそれだけじゃわかんないよ。
司は腹をくくった。
ロニーが俺にしてくれたように俺がロニーにできることは、テニス部に所属する自分ができることじゃない。限られた時間の中でロニーの思い出として最高の形で残ること。それは自分も同じだ。ロニーがいなくなった後もテニス部として熱心に活動していくことが、最高の思い出になるわけがない。執着する部活動をやめてでももっとあいつらの近くにいたい。俺とロニーと拓弥と悠李で思いのままセッションなんてしてみたい。
しかしかつては部長を命じられた自分が、退部したことでこの先の未来なんてあるのか。周りからこっぴどく罵声を浴びせられるかもしれないし、ましてや友達なんて壊滅するに違いないだろう。
ほんとバカだな俺。
バカで不器用でほんと、どうしようもないやつ。
考えていくうちにみるみる自己嫌悪に走る。
でも、それでもこのロニー達との青春を過ごしたい。
それでも自分が見つけた最も大切な仲間を「高校の友人」だけの言葉で締めくくりたくない。
それでもロニーを助けたい。
「あ!ごめん待たせちゃったね」
柳田を待たせていた友達の声で司はハッとして顔を上げた。
その友達が購買所で弁当をようやく買ってきたのだ。気が付けば人だかりが少なくなってきたことに慌てて相槌をする。
「じゃあ、またな柳田」
「うん。またね」
柳田は手をひらひらさせると弁当を持って西館へ走っていった。
どうやら話しかけてきた理由に何の意味もなかったことにほっと胸をなでおろす。
「俺も行かないと」
購買を済ませ、階段を登っていく生徒に紛れて司も駆け上がった。
油断しちゃいけない。いつどの場面で退部話を持ち掛けられてもおかしくはないのだ。仮にそれがすれ違いの挨拶だったとしても今のは凍結しすぎだ。いつものように、普段通りに。
司は緊張する反面、リラックスして心を構える。
いつも利用するこの通路にここまで張り詰めた冷気を感じるのは初めてだ。道行く人々の話し声がすべて自分なのではないかという威圧に心臓が飛び出そうになる。
退部。ここでは完結にまとめられたこの言葉がとてつもない威力を発揮することに司は身をもって実感する。個人の自由であるはずの選択肢を間違えた途端、ここまで周囲を駆り立てるのだ。
本当にそれが悪いことなのか。
例えどんな理由があろうとも退部は禁じられた行為なのか。
したことの後悔に上乗せして司は理屈を考え始める。
教師といい、友達といい、退部をした途端に関係が疎遠になる。異端児を見るように凍り付いた目でぎろぎろと蔑む。
司は今ままでに退部をしていった者達を脳内に並べた。どれもこれも酷くいじられて残りの高校生活を恐慌状態で過ごしている人ばかりだ。
その生徒たちの中には退部が虐めのきっかけになり不登校で学校を退学したっていう話もある。
ロニーが頭に浮かぶ。
もしかしたら退部をした後も危ない。
退部をした理由だって人それぞれの訳があるし、退部をしたからといって虐めにはまったく繋がるはずがない。でももし、ひどい虐めを元から受けていたならその可能性は大いにありうる。
気が付くとさっきまで流れていた雑談が「誰の退部か」から「誰が部長か」に代わっていた。
前で階段を上る二人の生徒が話しながら、けだるそうに足を持ち上げている。
今度こそぎょっとする。司は階段を一点に見つめながらその話に聞き耳を立てた。
「もうこの時期部長決めで忙しいよね」
「俺んとこはもう決まったよ即決だった。」
「まじかあ。羨ましい」
一人は肩を落として嘆いた。
「まだ決まってないの?」
「うちの部活はまだだね。部長になるはずの人が急に候補から外れたんだ。」
「なんで?」
「わかんない。先輩の話、俺たちはあんま詳しく聞かされてないんだ。でも急になったんだよ。」
二人の生徒がぼそぼそと会話を続けている。
司は息が詰まりそうになる。まさか自分の後輩だったとは。
「それは気になるな。その部長になるはずだった人何があったんだろう。」
「そうなんだよ。それで俺たちもなんでかって予想してるんだ。」
「まさか退部したとか?」
司は苦笑いする。その通りだ、と心の中でつぶやいた。
「まさか。なんでさ」
「わかんねーけど」
その話に落ち度がないとわかったのか、二人は一段飛ばしで階段を駆け上がっていった。
誰が部長だったかの犯人捜し。
司は差し迫った緊張が遠のいていくと少し心がホットした。落ち着きが戻ってきたいせいか、持っていた二個の弁当を軽く感じる。
昨日、退部話を持ち出したはずなのに次の日には噂になっている。
司はその脅威の伝染力にぞっとした。
これじゃ自分だとばれてしまうのもほんと時間の問題だな。
しかし、多少の圧迫感を感じたのは確かだが、それでも退部にためらいはない。
それよりもロニーの心配が勝っていた。自分の退部に後悔するよりも当然、これまでに付き合ってきた友人の存在に気づけなかったことに後悔した方がいい。
ゆっくりと息を吸った。
しかしロニーのいじめはまったく知らなかった。
自身の噂はもう目の前まで来ているとはいえ、ロニーのいじめが出回っていないことに疑問を感じる。
悠李も拓弥も噂は一週間も経たずに広まった。だのにロニーは、退部した噂が流れたとはいえ、その理由まではわからない。
何かロニーのいじめを隠蔽している奴がいるとか。
階段を見つめながら司は考えた。
虐めている奴らがばれないようにこっそりとやっている。それか目撃した者も含めて口を紡いでいるか。少なからず、ロニーの口から証言されていないから広まらない。
どちらにせよ、クズには変わらない。そんな奴こそが存在してはならない。
一段飛ばしで階段を駆け上がる。
目の先に、奥まで続く渡廊下が現れた。
窓から差し込んだ光が柔らかく床に触れ、生徒たちの影がすうっと伸びている。どうやら二階の渡り廊下は相変わらず休憩場所として人気であるようだ。
二階に上がりきると司はその渡り廊下にある自販機に寄った。
渡り廊下の奥でダンス部が声を張り上げて振り付けの練習をしている。
ダンス部は昼だってのに大変だな。せっかくの三十分ももらえる休みくらい晴れた外で弁当食べたっていいのにさ。
司は何故かそのダンス部に消極的なイメージが浮かんだ。
今まで活発にやってきたのは自分であるのに、退部した途端その活発さを多忙ととらえるなんて。
疎外感を感じる。大勢が歩む大きな道の中で、自分だけが脇道を歩いているような心許ない感覚。今まで自分がその道にいたんだと思うとなんだか不思議だった。
そのダンス部の集団の中で数人の女子生徒が端でぼそぼそと話している。
また噂話か。
ジャージ服で揺れているダンス部の中に制服を着た生徒は異様な光景だった。
どこもかしこも噂話で校舎は忙しい。昼食を差し置いてまでしたい話なのかだろうか
だが実際この一か月で生徒が四人も退部したのは前代未聞だった。それも学校が力を入れている部活動からすっぽりと四人。中でも悠李と拓弥は友達が辞めたという理屈で辞めたのだ。
家庭の事情やなんらかの悪行で退部することはあってもここまで軽い退部ならもっともだ、ということもある。
急にその女子生徒と目が合った。
弁当を持って西館の階段辺りで友達と話しながら目だけを向けている。
あれ、柳田じゃないか。
よく見ると弁当の上に財布を載せて、自販機に行こうとしているようにも見える。
司は大きく手を振って合図をした。
「おーい。また会ったな」
その瞬間、背筋がぞっとした。
手を振った合図とは裏腹に柳田は後ろに下がっていく。
まるで獣でも見るように柳田が自分を警戒している。
その目つきにはついさっきまでの友達としての面影はなく、あるのは荒み切った少女の顔。
氷のような軽蔑。
司は心臓を掴まれたように硬直した。あんなにも健やかで温厚な彼女がこんな顔をするとは知らなかった。それは存在してはいけないものもでも見ているように青白いオーラが漂って見える。
もしかしてばれたのか。
その異様な雰囲気の中で恐怖が再来する。さっきまでとはまるで打って変わって。友達ではないように見る柳田の形相に緊張がぶり返す。
この短時間で?階段で何を聞いたんだ。
噂といえど、ここまで早いのはおかしい。直接柳田に話しかけたりした奴がいるんじゃないのか。
「なあ、司さんよ」
自販機の後ろから耳もとで囁く声に司ははっとした。
「元気か?」
その声に司は後ろへ振り向く。ガタイの良い男が二人とその奥にスーツを着た男が一人。
テニス部の同僚だ。急にかけられた声に認識できなかったが、遅れて理解する。後ろにいるのは先生か。
「なんだよ久しぶりに会うような言い方だな。元気だよ。」
「いや司が部活辞めちゃうからさ。この先、会う時はこういう言い方の方が親しみやすいだろ?」
同僚二人はお互いを見ながらバカにしたように笑った。司も抜けない緊張感に若干声がかすれているのがわかる。
「矢野。ちょっと来なさい。」
その奥から感情を消した先生が冷たく放った。
「なんか俺に用ですか」
「退部の話だ。」
そう言い残すと先生は同じ階の職員室へと歩いていく。同僚二人もけらけらと笑いながらついていった。
彼らは俺と同じテニス部の同級生だ。平日の日は決まって具合が悪くなっては部活をさぼるような輩で自分自身もあまり面識がなく、知り合い程度だった。
まったくこういう時に限って役立とうとするとはいい度胸だ。
確かに自分が部長候補と知っていて退部したのは、まだなっていなかったとしても自分が悪い。そこに漬け込んで奴らは揚げ足を取ろうとしているってわけだ。自分達が辞めさせないように引き留めることで腰を低くしていい生徒のふりをしているのだろう。
司は憤りを隠しながら後を追った。
「お前がやめるから心配したよ。」
「それにやめたらマジで居場所ねえぜ。」
二人は歩きながら司をおちょくった。その蔑んだ声で嘲笑している。部活に顔を出さないとは言えど、ガタイはがっちりしている。
「柳田に俺の退部話をしたな」
司は爆発しそうな怒りを抑えて小さく唸った。
すると二人はまたお互いをちらちら見つめ合う。
「聞いてきたのはあっちからだよ。」
「俺たちは司がどこにいるのか聞いただけ。」
「そうそう。そしたら何かあったのって言われてさ」
腰をかがめて申し訳なさそうに二人は言った。
「で、なんて言ったんだ」
「司が俺たちのテニス部を放棄して無理やり辞めだしたって言った。」
もう怒りは目の前にあった。今にでもこいつらをぶん殴ってやりたい。
でもここで喧嘩沙汰になってしまったらそれこそ本当に退部だけで済む話じゃなくなる。期待したその先の光景をあいつらとは一緒に見れない。
いら立ちで何も考えられず、司はひたすらそれを鎮静させようとすることしかできない。
口の中で小さく舌打ちをした。自分のした質問に返答せずそのまま無視する。
抑えろ自分。ここで爆発したらもう終わりだ。無視してできるだけ冷静さを装おう。
何か一言でもしゃべったら怒りが漏れそうだった。口の中に含んだ暴言が隙を見せた瞬間に勢いよく飛び出しそうで落ち着かない。
司は噂話がここまで憤慨させるものだと初めて実感する。俺だけじゃなくきっと拓弥も悠李も酷い目を食らっているのかもしれない。
先生達が職員前のドアで立ち止まる。すると先生がスーツの裏ポケットから小さく折りたたまれた紙を取り出した。
その紙を開くと、大きな退部届という文字と手書きで「矢野司」と書かれている。
「お前理由が書いてないぞ」
先生はその氏名欄の下を指で叩きながら言った。死んだような目で見つめるその顔はずっと無表情のままだ。
「ロニーがいじめられて退部したって本当なんですか。」
弁当箱を隅に置くと、睨みつけながら質問を質問で返した。
先生は目元を一瞬ぴくっとさせたが、ゆっくり瞬きをするとまた無表情に見つめ直す。
「なんのことかさっぱりわからない。」
司は目を見開いた。体中から何か熱いものが沸々と湧き上がってくるのを感じる。
こいつら全員グルだ。ロニーが虐められてることを隠している。寄って集って虐めといて、その生徒を目の当たりにしてこの対応か。
「なんのことかわからない?ロニーが部活の連中からいじめられてるんですよ。だからあいつ退部したんです。」
「それがお前とどう関係する。」
先生は頑なに芯を曲げず、動じない。司は一瞬後ろめたくなるがこらえてなんとか口を開ける。
「友達だから。」
「なに?」
「友達だから、って言ってんだよ。」
ダメだ声が出ない。爆発しそうな怒りと歯向かうことの恐怖で膝から崩れ落ちそうだ。
こんな状況になって悠李と拓弥の辞めた理由がもっともだ、と思い知らされる。
友達だから。それ以上でも以下でもない。大した理由でよく退部できたなって思ったこと、謝るよ。
「先生は矢野に機会を与えているんだ。昨日のことは見ていなかったことにすると。」
先生は口角を上げると死んだ目つきで微笑んだ。
司はいらない、といった後に先生を強くがん飛ばす。
「この高校は文武両道、強制ではないものの、部活動に所属することが原則として決まっている。だから規則を守れない生徒を教師達もどう思うかは矢野もわかるだろう。」
「俺たちも司以上の部長は見つからないよ。」
テニス部の二人が心配そうなふりをして便乗した。
「思ってもないくせに。」
「思ってるよ。心の底から。」
二人はからかう調子で陽気だ。
「お前らもとから部活に来ないさぼり魔だろ。こんな時に限ってのろのろとよく顔出せるよな。そんなんじゃ腰を低く先生の足にしがみついたって意味ないんじゃないのか。」
司はテニス部の二人を交互に睨みなおした。すると心配していた二人の顔つきが一変する。
「お前さ、マジで調子のんなよ。」
「司それ以上言ったらキレるよ。」
「調子に乗ってんのはお前ら二人だろうがよ。」
「もうよせお前達。どの道にせよチャンスは与えた。あとはどうするか放課後までにゆっくり考えなさい。」
先生はテニス部の二人をため息交じりに宥めようとする。
二人は今にも押し倒そうな面持ちで司を上から下までぎろぎろと見る。
「お前らやりすぎだ落ち着け。」
次の瞬間、司は何か飛んでくるものに反射的に体を逸らした。
大きな打撃音が職員室前に響く。
テニス部の一人が抑えきれない苛立ちで思いっきり椅子を蹴飛ばしたのだ。
最初何が起こったのかわからなかったが、後からその意味を司はようやく理解する。
同僚は吹っ切れたように荒く息をする。
そしてにやけながら静かに囁いた。
「お前も水かけられたいのか?なぁ司さんよ。」
司は頭の中で、糸が切れたような気がした。
あたり一面がぐあんぐあんする。もうその男をぶん殴ることしか考えられない。
お前が、やったのか。
お前が、ロニーを。
ぶっ殺す。絶対にぶっ殺してやる。
怒りが頂点に達した。体中から力という力がみなぎってくる。煮えたぎったマグマが暴発するように心の奥底から何かが噴出しそうだった。
転がった椅子を足で乱暴に蹴飛ばし返す。そして司は顔めがけて思いっきり殴りかかった。
その笑ってバカにしたような顔に狙いを定めた。
その時だった。
その殴りかかるはずの顔が目に入った途端、体全身が殴ることに拒絶反応を起こした。
職員室の向こう、もっと先の階段。
ロニーを見た。
何か不安を抱いているように俯くロニーを、司は見た。
「なんだ、かかってこいよザコ。」
同僚は唾飛ばして暴言を吐く。もう一人が慌てふためいて宥めようとする。
ロニーはこちらに気付きもせず、階段を登っていくと視界から消えた。
手が震えるのが不思議だった。ここまで本気で吹っ切ったのになぜか震える。
きっとロニーのせいだな。
ロニーがいなければ、ここで殴って煮えたぎった怒りを解消できたのだ。そしてこの高校から停学処分。周りから見放され居場所のない世界を生きる。
ついに、もう一人の同僚が止めに入った。同僚をかばうと同時に反射で押しのけられる。
司は体に任せて退いた。
思えば今ここに自分がいるのも、ロニーがアメリカに行かなかったからだ。
さっきまで考えられなかった脳がロニーによって思い起こされる。
アメリカに行くはずだったロニーが最も親しい友達のために折ってくれた。
「アメリカいいよな。俺もアメリカの高校生活ってのを体験してみたいよ。」
「やっぱりこっちとはだいぶ違うかもね。あっちだと昼飯も家で食べるのさ。」
「それは嫌だな。飯くらいは親とじゃなくて仲いいやつと一緒に食いたいな。」
「だろ。」
「うん。」
「だから辞めたんだ。」
「え?」
「アメリカに帰省するの、やめたんだ。」
司は走馬灯を見る。
けらっと笑うロニーの笑顔。
とても大事な、親友の笑顔。
怒りとも悲しみとも言えないような複雑な感情に押し迫られる。
司は俯いた。
「ほんとバカだよ、俺。」
震えた声で司は小さく呟いた。
ほんとバカだよ。友人をかばうために自分まで退部してその挙句今にでもひどい仕打ちを食らいそうになって。おまけに暴力まで奮いそうになって。何が執心だ。何がテニス部の部長だ。
何が、矢野司だ。
先生とかばう同僚が聞き取れなかったのか振り向く。
煮え切った怒りを全力全身で振り絞る。体中がとてつもなく暑く、硬く、そして勢いよく奮発した。なんでも壊せるようなばか力が脳から全身に分泌していく。
司はその怒りを思いっきり頭で、床にぶつける。
「退部させてください!お願いしますっ!」
頭骨と床がぶつかり合う鈍い音と、凄まじい怒号が職員室に響いた。
司は土下座をした。人生で初めて、土下座をした。
いきなりの土下座に驚愕する。しかし、司の目に悔し涙が浮かんでいることに気付くとハッとして誰もが目を逸らした。
悄然とした、いたたまれない空気が漂う。
昼飯を終えた男子生徒が下の階で元気に廊下を走り回っている。昼休みも終盤にかかっていた。
あと十五分くらいか。
司は抱えた二個の弁当を持ち直しながらゆっくりと階段を登る。
弁当が自分の重荷だと思ってしまってから、先ほどからずっと重く持ちづらい。
この時間じゃ弁当全部食いきれないな。拓弥辺りにでも半分やろう。
司は損した反面、少し心地がいい。
外廊下は誰も使わない自分達だけの場所だ。人はいなく、そして誰からも見つからない。はしゃいでいる生徒たちの声も登るたびに遠のいていくのが分かる。
階段の窓から青一色の空が、顔を覗かせている。静かな東館の階段に司の足音だけが響く。
「それはないって_______」
「吹奏楽部の柳下とか_______まあ、ダンス部の蒲田とか」
上で悠李と拓弥が声を荒げて話している。
また退部の話か。
どこもかしこも噂話ばかりだ。気が付かなくともすぐ側でしている。
一体何が面白いんだか。
でもなぜか緊張感も圧迫感も感じなかった。どうやらもう自分の場所からどこか遠くへ行っていしまったみたいだ。
司はため息交じりにその話に耳を傾けることにした。
「なんだから揚げ弁当が大好きなことか。」
「そうだ。」
「意味わかんねえよ。って拓弥ばれんなよ。」
「大丈夫だよここに来るの俺たちしかいないんだから。」
ロニーもいるのか。
遠のいていく生徒たちの声と近づいてくるロニー達の声。三人が子供っぽく盛り上がっているのが鮮明に聞こえてくる。
空きっぱなしの扉から春信の風が司の顔に柔らかく当たった。日陰一つない晴れた空の下で三人が音楽を流しながら、話している。
「あれ、司だ。」
「え?あ、お前から揚げ弁当二個も食うのか?」
「おう、そうだ。」
司はいつも通りの口調で相槌した。
「よ、よく食うな。なんかあったのか」
「はあーっ。さっきから脅かせんなって。」
「はあ。俺もう座っていいか。疲れた疲れた」
三人そろって大きなため息をした。
「はやく来いよ。飯食おうぜ。」
するとロニーはいつも通りにかっと笑って見せた。
もう隠さなくていいんだぜ。
俺たちお前のおかげで自分の居場所を見つけられたんだ。俺たちが思う最高の場所を見て見ぬ振りせずに済んだんだ。
「その話俺だよ。」
内心、居心地がよかった。でもそんなことをいちいち顔に出すのが少し恥ずかしい。
「え?」
「だからやめたって話、俺だよ。」
いつもの場所。
いつもの仲間。
いつもの光景。
別に何か大きく変わったわけじゃない。俺たちはこれからもいつも通りに昼飯を一緒に食べて、好きな音楽について語り合うだけかもしれない。
「ロニーがやめんならしょうがないさ。」
でも、自分の心に降っていた雨が止み、とても清々しいのだけは確かだった。
司はそこから何も言わず、にっこりと笑顔を浮かべた。
全校舎から一斉にチャイムが鳴る。
そんなことにも気づかずに彼ら四人はただただ、その場に静止しっぱなしだ。
彼ら四人の昼休みが終わりを迎える。
でも彼らの高校生活は、始まったばかりだ。
矜羯羅がる