石ころと明星

平井みね

石ころと明星

 勇者が現れ、王都にある聖剣を引き抜いた。その報せが、北の果てに住むエッダの元にもたらされたのは、約一月(ひとつき)前、夏の初めの頃だった。
 加えて、勇者を中心とした魔王討伐隊が結成されることも知った。なんでも、国中の戦士や魔法使いの中から精鋭を選りすぐる、とのことだ。
 狭い部屋の片隅に置いてある古ぼけた机。その上には書きかけの手紙が置きっぱなしになっていた。書きかけと言っても、宛名しか書いてない。
 エッダはペンの先をインクに浸した。けれど、そうしただけですぐにペンを置いた。
 便箋に唯一書いてある文字を、エッダは指先でそっとなぞる。
 美しく咲いたイヌバラのこと、屋敷に営巣したツバメの雛が無事に巣立ったこと、綺麗な虹を見たこと。
 それから、魔王討伐について。どうか無事に帰ってくるよう、伝えなければ。
 手紙に書きたい事柄はたくさんある。次から次へと浮かんでくる。それなのに、エッダは書けないでいた。書こうとしても、結局書かない。手紙は、一月(ひとつき)近くほとんど白紙のままだ。
 エッダは机の引き出しを開けた。中にはたくさんの手紙が入っている。そのうちの一通をエッダは手に取り、封筒から中身を取り出した。広げた手紙の最後、そこに書かれている差出人の名前をじっと見つめる。
 もう彼に手紙を出すのはやめた方がいいのだろう、とエッダは思った。
 彼とは、この手紙の送り主、はとこのイグナーツのことだ。便箋に書いてある宛名も、同じく、このはとこの名である。
 人伝に聞いた勇者の名前は、イグナーツではなかった。イグナーツが勇者でないとしても、彼は魔王討伐隊の一員となり、魔王退治の旅に出る。
 討伐隊に誰が選ばれたのか、未だ情報は届かない。しかし、イグナーツは必ず選ばれる。エッダは確信していた。これは別に特別な予感でもなんでもなく、誰もが思うことだ。
 イグナーツが選ばれないわけがないのだ。王国最強の魔法騎士となったはとこの名声は、エッダの暮らすこの北の辺境の地にもとどろいているのだから。最早、王国最強の「明星の騎士」の名を知らない者など、この国にはいない。
 恐らく彼はこの魔王討伐において、さらに名声を高めることになるだろう。勇者と共に――なんなら勇者以上に――活躍した騎士として。
 そう考えると、エッダは誇らしい気持ち以上に寂しさを感じた。どんどんと遠い場所に行ってしまう、幼馴染のはとこ。
 やはり、もう関わるべきではない。手紙のやり取りはもちろん、会うことも。
 ここ一年の間、イグナーツはよくエッダの元を訪ねてくるが、もしも今度訪ねてきたら、追い返さなければ。今度こそ、本気で。
 エッダは机の隣に置いてある姿身へ視線を向けた。
 鏡には暗い栗色の髪にあばた面の女が立っていた。農婦のような格好をしている醜いこの女は、「フォルツ家の石ころ」と呼ばれている。
 石ころとはよく言ったものだ。あばただらけのごつごつした肌はそれこそ石のようだし、なんの役にも立たない無価値な存在であるところも、石ころと同じだ。家族に疎まれ北辺に放り捨てられた、惨めな石ころである。
 エッダは自嘲の笑いをこぼした。
 輝かしい道を歩むイグナーツとは大違いだ。
 こんな薄汚い石ころ女が、彼とかかわり合うなんておこがましい。生きる世界が違う。前々から分かっていたことだ。いい加減、袂を分かつべきなのだ。
 エッダは持っていた手紙を、たたもうとした。その時、ちらりと手紙の文面が目に入る。書き出しの部分だ。そこには「俺の女神へ」とあった。
 一瞬、どきりとする。エッダは手早く便箋を封筒に入れると、引出しにしまった。
 外から、コマドリの愛らしい鳴き声が聞こえくる。庭のニワトコの実でもついばみに来たのだろう。
 エッダは机から視線を逸らして窓の外を見た。こんもりと茂る低木の合間をオリーブ色の小鳥が飛び交っている。
 なんだか物さびしい気分になってしまったが、庭の手入れでもしていれば、こんな湿っぽい気持ちは吹き飛ぶはずだ。薬草たちの世話をして、餌台に少し木の実と果物を入れて、やって来る鳥たちを眺める。この屋敷にやって来てからというもの、植物や鳥たちとのふれあいは、何よりもエッダの心を慰めてくれた。
 エッダは気を取り直して立ち上がった。その時、部屋の扉を誰かが叩いた。
「エッダ様。お客様です」
 扉越しに、しわがれた声が聞こえた。使用人の声である。
 今日は来客があるとは聞いていない。
 まさか、とエッダは思う。
 このように突然この屋敷を訪ねてくる人物に、エッダは心当たりがあった。
 しかし、今その人物は忙しくしているはずだ。こんなところに来る暇などないだろう。
 彼が訪ねてきてくれた、と一瞬でも思ってしまった自分が馬鹿馬鹿しくて、エッダは再度乾いた笑いを漏らす。それから、ゆるゆると首を横に振った。
「どちら様?」
 吐息混じりの声でエッダは問いかける。どうしてか、上手く声が出なかった。
「イグナーツ様です」
 老いた声の答えに、エッダは固まった。

 エッダが玄関まで急いでみると、そこには亜麻色の髪の青年が立っていた。特段背が高いわけではないが、凛とした雰囲気をまとう美丈夫である。まちがいない。イグナーツである。
 エッダは何度も瞬きをした。
「ああエッダ! こんにちは! 手紙の返事がなかなか来ないから心配してたけど、調子はどう?」
 エッダに気が付いたイグナーツは、ぱっと破顔する。さっきまでの冴えた雰囲気が嘘のような無邪気な笑顔である。
 彼はいつもこうだった。この屋敷に来ると、いつもこの調子で、よく笑う。
 エッダはまじまじとイグナーツを見つめながら、ぼんやりと言う。
「調子は変わりないけれど……」
「それなら良かった」
 イグナーツが笑みを深める。
 しかし、何が良いのかエッダはよく分からない。彼の言葉をすんなりと飲み込めない。
 何故、イグナーツが目の前にいるのか理解ができないのだ。
 エッダは魔王討伐隊が王都を出発した知らせを聞いていない。しかし、王都の情報がこの北の地に届くまでは時間がかかる。エッダが勇者の報を耳にしてから約一月(ひとつき)。なんでも出発が遅れているという話を聞いたが、それだって十日前。すでに討伐隊が王都を出立していてもおかしくはない。仮にまだ旅立っていないとしても、準備で忙しいだろうに。こんな辺鄙なところに来る暇など、ないはずだ。
 イグナーツは討伐隊に選ばれなかったのだろうか。いや、それはあり得ない。
 それならば、偽物なのだろうか。魔法で幻影でも見せられているのか、誰かがイグナーツに化けているのか。
 エッダは呆然としたまま、問いかけた。
「どうして、こんなところにいるの?」
「どうしてって、エッダに会いたくなったから」
 笑みを絶やさずに、イグナーツは即答する。
 言われてエッダは我に返った。幻かはさておき、誰かが変身している線はない。この言動、間違いなくイグナーツである。
 エッダは盛大に眉をひそめた。
「何を言っているの。貴方、魔王討伐隊に選ばれたんじゃないの?」
「うん? 選ばれたよ」
 きょとんとした表情でイグナーツは答える。
 まるで自覚のない返答に、エッダは呆れてしまう。こちらが何を言いたいか分からないことないだろうに、わざとなのだろうか。
 エッダの口調が厳しくなる。
「それじゃあ、こんな所に来ている場合じゃないでしょう。もう、王都を出発したんじゃないの?」
「まだ出発してないよ。旅立つのは明後日」
「なら、最後の準備で忙しいでしょうに。こんな所で油を売っている暇なんてないでしょう」
 眉をぴくつかせながらも、エッダは諭すように言葉を連ねる。すると、イグナーツは眉根を寄せた。
「確かにエッダの言う通りだ。だけど嫌になったんだよ」
「何が?」
 エッダが問うと、イグナーツはむすっとしたままそっぽを向いた。その表情、その態度、まるで子供だ。
 王国最強の魔法騎士と名高いイグナーツだが、エッダの前では昔と同じ、子供のままだ。正直、魔法騎士として華々しい活躍をしている彼の姿を想像できない。
 そんな最強の魔法騎士は、そっぽを向いたまま黙って立ちつくしている。動く気配も言葉を発する様子もない。今ここで、エッダの質問に答える気はないらしい。
 エッダは腕を組んでイグナーツを見据えた。イグナーツがちらりとエッダを見やる。しかし、視線を送っただけでやはり何も言わない。
 無言が続くことしばし。イグナーツは相変わらずだんまりを貫いている。
 ここでただ立ちつくしていても、埒があかない。そう思ったエッダは、仕方なく言った。
「……しょうがないわね。上がりなさい」
 ため息混じりの言葉だというのに、イグナーツは不機嫌な顔から一転、さも嬉しそうににっこり笑う。
「ありがとう、エッダ。お邪魔します」
 朗らかな声音のイグナーツ。
 やはり追い返すべきだったかと後悔するエッダだったが、今さら遅い。イグナーツはうきうきとした足取りでエッダの隣に並ぶ。そうして近くから見つめられると、後悔すらしぼんでしまう。
 先程、「追い返すべきだ」と強く思ったはずなのに。それよりも前から、もうあまり会うべきではないと思っていたのに。
 結局、できないのだ。
 エッダはいつも、訪ねてきたイグナーツを拒めないのだった。

 エッダが人里少ない北辺で暮らし始めたのは、今から七年前、二十歳の時だ。
 エッダの生家、フォルツ家は大昔から続く名家だ。王家とも血のつながりがある、由緒正しき貴族である。
 そんな貴族の女性が、辺鄙な場所で生活しているのには、当然理由があった。
 あばたである。
 すべては、エッダの顔に広がるあばたが原因だった。
 九才の誕生日を迎えて間もなく、エッダは疱瘡(ほうそう)にかかった。高熱に加えて、顔や体のいたるところに膿んだ発疹ができ、それは苦しく辛い病気だった。
 幸い、命は助かった。
 しかし、この病気は置き土産を残していった。それがあばたである。エッダの顔一面には、でこぼことした発疹の後が残ってしまったのだ。
 それからというもの、エッダの日々は薄暗いものになった。
 両親が冷たくなったうえ、外出することも禁じられた。
 幼い頃は訳がわからずただ悲しいだけだったが、大きくなるにつれてエッダはそれらの理由を自然と理解した。
 ――自身が醜いから。そして、もう使いものにならないから。
 フォルツの家に、醜いあばた面の娘などあってはならない。
 加えて、こんなにも醜くなってしまっては、結婚もできない。
 貴族の結婚はほとんどが政略結婚だ。貴族の結婚おいて最も重要なのは気持ちではなく、どれだけ家に利益をもたらすことができるか、という点である。貴族の子供は、自家に有益な結婚をすることで、親や一族に貢献するのだ。それは、最早使命と言っても過言ではない。
 あばただらけのエッダは、その使命を果たせない。エッダは何も価値のない、ただ汚いだけの娘に成り下がってしまったのだ。
 しかし、ただ悲しんでいただけではない。
 大事なのは見た目ではない。そう信じて、エッダは外見以外の部分を磨こうとやっきになった。
 裁縫や刺繍などの針仕事に努め、たくさん本を読んだ。特に本は、様々な分野の物に片っ端から手を出した。算術、語学、天文学、古典文学に植物学など、家にある蔵書をひたすら読み漁った。
 誰も教えてくれなかったが、エッダは一人地道に努力を重ね、教養を身につけていった。
 残念ながら魔法や武術の素質はからっきしだったため――加えて、貴族の子女が独学で学ぶには無理があったため、早々にあきらめてしまったが。
 様々な分野に挑戦し、己の向き不向きを見極めて、ひたすら努力したエッダだったが、結局はすべて徒労に終わった。
 いくら教養を身に付けても、両親は冷たいままであるし、相変わらず外にでることも叶わなかった。
 それどころか、一族の間では「石ころ」と明確に蔑まれるようになった。
 何をやっても無駄だと悟ったのは、エッダが十八の頃。そう悟ってしまった時、エッダはひどく疲れた気持ちになった。
 その頃には、「フォルツの石ころ」という蔑称がすっかり貴族の間に広まっており、そのこともエッダの疲労感を助長させた。
「石ころの話になって、恥ずかしい思いをした」と、サロン帰りの妹弟たちに怒りをぶつけられることも多々あった。そのたびにエッダは心底うんざりしたものだ。
 やがて、噂には尾びれ背びれがつき、「うまずめ」とまで噂されるようになった。結婚したことなど一度もないのに。もう、こんなの笑い話でしかない。
 とは言え、結婚の話がまったくなかったわけではない。
 フォルツの名のおかげか、二度ほど縁談が持ち上がったが、結局破談になった。二度とも、顔合わせの後に相手方から断られた。それほど、フォルツ家の名が霞むほど、エッダの相貌が嫌だったのだろう。
 そうして年齢的にもすっかり婚期を逃し、エッダが二十になった時。両親から「修道院に行くか、もしくは北の果ての屋敷で暮らすか、どちらかを選べ」と迫られたのだ。
 事実上の勘当だった。
 エッダが見ず知らずの辺境の地で暮らすことを選んだのは、あまり人と関わりたくなかったからである。そして、エッダは北の地へやって来た。
 以来、エッダは両親がつてを頼ってを譲り受けたという古びた屋敷に、老いた使用人と暮らしている。
 家を追い出されたエッダは、もう貴族ではない。貴族とは言えない。単なる路傍の石ころだ。
 ――誰にも知られず、ひっそりと死んでゆくのだろう。石ころを気にかける者など、何処にもいない。
 北辺の土を初めて踏んだ時、エッダはそんな風に思った。
 ようやっと侮蔑や悪意から解放されたはずなのに、どうしてか物悲しかった。
 ところがである。エッダの予想は裏切られた。
 誰も彼もエッダを突き放したと思っていたのに。自ら手放したと思っていたのに。
 唯一イグナーツだけは、エッダとのつながりを求め続けたのだ。

 イグナーツは四つ年下のエッダのはとこだ。
 親同士の中が良かったため、お互いの屋敷を行き来することも多く、幼い頃エッダはイグナーツと共に過ごすことが多かった。
 まるで姉弟のように親しかったが、交流はエッダの病気を境に途絶えた。
 途絶えた原因はやはりあばたであろうと、エッダは思う。
 フォルツ家と縁あるイグナーツの家も、歴史ある名家である。そんな名門貴族の嫡男であるイグナーツに、あばただらけで嫌われ者のエッダはふさわしくないと思われたに違いない。
 仲が良かっただけに、「万が一にも結婚でもされたらたまったものではない」とイグナーツの両親は考えたのだろう。
 病気の後一度だけ、エッダはイグナーツと会ったことがある。病気が治ってしばらくした後、十歳の時だ。
 おそらくこれは「エッダのあばた面を目の当たりにすれば、イグナーツはエッダのことが嫌いになるに違いない」という、そんな算段があったのだろう。ひねくれた考えだが、面会時変によそよそしかった両親の様子を鑑みると、あり得る話だとエッダは思っている。
 それはともかく、エッダはイグナーツと会ったのだが、その際イグナーツは何一つ変わりなかった。
 いや、変わりはあった。病気になる前よりもエッダにべったりだったのだ。やたらとエッダのそばにいたがり、別れ際には「エッダと一緒じゃなきゃ嫌だ」と駄々をこねた。
 イグナーツがそんな調子だったものだから、彼の両親はエッダと会わせないようにしたのだろう。
 だが、そんな大人たちの思惑とは裏腹に、エッダとイグナーツの関係は途絶えなかった。
 イグナーツがエッダに手紙を送って来たのだ。エッダもその手紙に返信し、二人の文通は始まった。
 初めは、一枚の便箋にたどたどしい文字が並んでいたイグナーツの手紙。それは年を経るごとに、何枚にも渡って流麗な文字が書かれるようになった。そして、彼の手紙には必ず、「エッダに会いたい」と書いてあった。
 それに対して、エッダも丁寧に返信をした。書きたいことは、いつもたくさんあった。「会いたい」とは、書けなかったけれど。
 そして、文通を始めて十年が経った頃、エッダは家を追い出された。事実上の勘当、エッダはフォルツの名を失い一族から追放された。血縁のイグナーツとの関わりも失って当然だと考えた。
 加えて、丁度その頃イグナーツは王国の騎士団に入団した。剣術と魔法の才に長けている彼は、十六才という若さで騎士になった。エッダに手紙を書く暇などなくなるはずだ。
 むしろ、ここまで続いたのが奇跡だったのだ。そんな思いを噛み締めながら、エッダは北へと旅立った。フォルツの屋敷を発つ直前、ちょうどイグナーツからの手紙が届いたところだったが、エッダは返事を書かなかった。
 しかし、文通は終わらなかった。エッダのもとに、改めてイグナーツから手紙が送られてきたのだ。エッダはそれにも返事を書かなかったが、するとまたイグナーツから手紙がやって来た。結局、エッダは無視できず、再びイグナーツに手紙を送るようになった。
 イグナーツはエッダへ手紙を送り続けた。魔物討伐で輝かしい手柄を立てても、古代に滅びたと言われる空間や時間を操る魔法を会得しても、いつしか明星の騎士と呼ばれるようになっても、止めなかった。
 それどころか、約一年ほど前から、頻繁にエッダの屋敷を訪ねるてくるようになったのである。
 突然訪ねてきた凛々しい青年が誰か、エッダは一瞬分らなかった。けれど、青年が「エッダ、久しぶり」と笑った瞬間、イグナーツだとはっきり分かった。その無邪気な笑顔は、幼い頃の面影を色濃く残していた。
 思いもよらないイグナーツの来訪に、エッダは困惑した。それと同時に、どうしてか泣きそうになったことも、はっきりと覚えている。

 イグナーツはいつも突然やって来る。時には事前に連絡をくれることもあったが、大概、散歩のついでに、といった雰囲気の気軽さで唐突に現れる。
 騎士の中でも高位の、国王直属の騎士である彼は、普段は王都にいるはずだ。王都からエッダの屋敷までは相当距離がある。だが、長々と旅をして来た様子はなく、イグナーツは常に身軽な格好だった。
 突然の訪問にはすでに慣れたエッダだったが、しかし今回に関してはとんでもない時期に来てくれた、とつくづく思う。
 明後日、魔王討伐隊の一員として王都を出立するイグナーツ。そんな重大な任務の直前にやって来るなんて、一体なんのつもりだろうか。
「エッダの淹れるお茶はやっぱり美味しいなぁ」
 そう言ってイグナーツはティーカップに口をつけ、幸せそうに目を細める。応接間のソファーに腰掛けて、すっかりくつろいだ様子の彼に緊張感はまるでない。
 こんな風にお茶を味わっている場合ではなかろうに、と思いつつも、エッダはティーポットへと手を伸ばす。
 イグナーツはなかなかティーカップを離さず、お茶を飲み続けている。そろそろ、空になる頃だろう。
 イグナーツがテーブルにカップを置いた。案の定、中は空っぽだった。
 エッダがカップにお茶を注ぐと、イグナーツは「ありがとう」と笑みを深める。そして、またティーカップを傾けた。
 さすがというべきか、所作は美しい。素朴な陶器のカップが高級品に見えてくる。だが、表情はらしくない。その笑顔、まったくしまりがない。
 エッダはつい、イグナーツを凝視してしまう。いくら目をこらしても、やはりそこに明星の騎士の影はなかった。明星とは上手く言ったものだと思うが。
「なあに、エッダ。そんなに見つめて」
 イグナーツが見つめ返してくる。エッダは慌てて目をそらした。
「やっぱり、貴方が明星の騎士と呼ばれているだなんて、嘘みたいだから」
 最早これはエッダの決まり文句である。イグナーツが来るたびに、言っている気がする。
「別に俺自身で言い出した訳じゃあないからね。本当に勝手な人間ばっかりだよ」
 イグナーツが言う。彼の答えもお約束だった。
 この台詞を言う時、イグナーツにはわずかばかり嫌悪がにじむ。口調が少し鋭いのだ。
 エッダはちらりとイグナーツを見た。表情からは、不快感は読み取れない。けれど、どこかとげとげしい。エッダまで、少し緊張してしまう。
 イグナーツが一口お茶を飲む。すると、鋭さが一瞬で和らいだ。エッダの緊張も解ける。
 しかし、安堵したのも束の間、イグナーツはカップをテーブルに置くと、がばりと身を乗り出してきた。思わず、エッダは身構えた。
「ねぇねぇ、ツバメのヒナはちゃんと巣立った?」
 不意を突く笑顔と質問に、エッダは面食らった。
「ねぇ、どうだったの? 今年は四羽ヒナが産まれたんでしょう?」
 再度イグナーツが聞いてくる。エッダはぎこちなく頷いた。
「え、ええ。みんな無事に巣立ったわ……」
「そっか、良かった」
 呟きながら、イグナーツは体を引いた。と思いきや、「あ」と声を上げて再び前のめりに聞いてくる。
「カイツブリのヒナは? 今年は手紙に書いてなかったけれど、いた?」
 
 エッダは、先日屋敷から少し離れた湖まで散歩に行った時のことを思い返した。
 湖には数羽のカイツブリの姿があった。カイツブリの繁殖期は春から夏にかけて。ツバメとほぼ同じだ。ヒナや幼鳥がいるのではないかとしばらく観察していたら、エッダは見つけた。親子のカイツブリを。水上をすいすい進む親鳥の背中から覗く、ヒナたちの頭。なんとも、愛らしい光景だった。
「湖で見たわ。親子で泳いでいるのもいたわね。今年の子も可愛かったわよ」
 言いながら、エッダは頬が緩むのを感じた。
 イグナーツも柔らかく微笑む。
 
「来年は、エッダと一緒に見たいな。ツバメとカイツブリ」
「そんな……」
 答えかけてエッダははたと口をつぐんだ。
 そうだった、こんな暢気に話をしている場合ではなかった。
 エッダは姿勢を正すと、イグナーツに尋ねた。
「それはそれとして、どうして魔王討伐に行きたくないのかしら」
 イグナーツの顔から笑顔が消えた。加えて、エッダから視線を逸らし、口を引き結んだ。玄関で尋ねたときと同じく、答えたくないようだ。
 エッダは質問を重ねた。
「……私に関わることなのね?」
 やはりイグナーツは何も言わない。だが、一瞬顔をしかめたのをエッダは見逃さなかった。エッダは確信した。
「別に今更傷付かないわ。何があったの?」
 エッダは穏やかな口調で問いかける。しかし、イグナーツの口は重いままだ。
 エッダはひとつため息を吐くと、表情を引き締めた。
「私は魔王討伐が嫌になった理由を聞くために、家に上げたのだけれど」
 半分嘘の言葉だったが、エッダは語気を強めて言い切った。すると、イグナーツは眉尻を下げ、困ったような表情を浮かべた。
 エッダはじっとイグナーツを見つめながら、答えを待つ。
 やがて、イグナーツはおもむろに口を開いた。
「魔王討伐のための物品なんだけど、薬草や薬が少し足りないんだ。魔物の数が増えているせいで、使えない交易路なんかもあってさ……」
 やっと語り始めたイグナーツだが、どうにも歯切れが悪い。
 「それで?」とエッダが先を促すと、イグナーツは観念したかのようにため息を吐いた。
「それで、エッダのところまで薬や薬草をもらいに行こうと思ったんだよ。そのことをさ、馬鹿正直に仲間に提案したのがそもそも間違いだったんだけど。提案した仲間から話を聞いたのか、勇者の耳にも入っちゃったんだ。エッダの薬の話が。そしたらさその……」
 イグナーツはそこで言いよどんだ。
 しかし、話は十分だった。そこまで聞けば、エッダには概ね話の先が読めた。言葉に詰まったままのイグナーツに代わって、エッダは自ら言った。
「その勇者や仲間に、私の薬はいらないと言われたのかしら? 薬じゃなくて毒かもしれないから、とかいう理由付で」
「……だいたい当たり」
 イグナーツはそっぽを向いた。眉を潜めたその横顔には不満が浮き出ている。
 エッダは小さく息を吐いた。自ら言った言葉だが、我ながら酷い言われようだと思ってしまう。
 社交界からはすっかり姿を消したフォルツの石ころだが、その語りぐさはしっかり根付いたままなのだ。訳のわからない枝葉がたっぷり茂ってしまっているのも相変わらず。それは誇張というよりも妄想であり、皆好き勝手にエッダを語る。いい加減止めてほしいが、願ったところでどうにもならない。
 殊に、あの(・・)勇者のような立場の人間であれば、なかなか止めてはくれないのだろう。
 エッダはうつむいた。
「勇者様にまで知られているだなんて、私も随分有名なのね」
「勇者って言っても貴族だから。……ヴィルター家の次男だよ」
 イグナーツの声が険しくなる。
 ヴィルター家の長男、つまり勇者の兄はその昔エッダに結婚を申し込んで来た男だった。そして、破談にした男だ。エッダの外見を厭って。
 その弟である勇者と、エッダは直接の面識はない。しかし、兄からエッダについて何かと話を聞かされたのだろう。相当ろくでもない話を。
 エッダは窓の外に視線をやった。コマドリの姿はなく、ただ鬱蒼と木々の葉が重なっているのが見える。
「ええ、知ってるわ」
 言いながら、エッダの口からは笑いが漏れる。
「私のことなんて嫌いだろうに、まだ覚えてくれてるのね。光栄なことだわ」
「エッダ」
 柔らかい声でイグナーツが呼ぶ。濁りのない呼び掛けだった。
 エッダは一度目を閉じて心を落ち着かせると、静かに問いかけた。
「私の薬を否定されて、どうしたの?」
 ちらとイグナーツを見れば、彼は渋い表情を浮かべて、また顔を背けてしまった。
 
「イグナーツ」
 たしなめるようにきっぱりとした口調で、エッダが名前を呼ぶと、イグナーツはのろのろと口を開いた。
「……こいつらと一緒に戦うのは絶対に無理って思った」
「嫌になって、それでここに逃げ込んで来たって訳?」
 厳しい口調のまま、エッダは尋ねた。すると、イグナーツはエッダの方に向き直る。
「エッダに会いたくてたまらなくなったのは本当。……それと、薬をもらいに来た。いらない、と言われたけど、薬が足りないのは確かだし、エッダの薬は良く効くから」
「そういうことなら、さっさと言いなさい」
 エッダはすっと立ち上がると、居間を出て地下の貯蔵室に向かった。

 イグナーツは、エッダのことになると感情が不安定になる節があった。
 まだ、エッダがフォルツ家の屋敷で暮らしていた頃の話だ。
 社交の場でエッダの噂話――当然、それは良い話ではない、を語る貴族にイグナーツが怒り、食って掛かったいう話をエッダは何度か耳にした。そのたびにエッダは父親に呼び出され、「イグナーツに何を吹き込んだ」と詰問された。
 エッダが北辺へ行くことが決まった時は、何処でその話を知ったのか、イグナーツはいち早くエッダに手紙を寄こし、「そんな不当な扱いをされるのはおかしい」と力説した。
 北に来た直後に届いた手紙には「ずっと遠くに行ってしまって寂しい」だとか「エッダが貧しい生活にならないか心配」だとか、イグナーツはそんなことばかり綴っており、その文面から落ち込んでいる様子が窺えた。
 そうやってイグナーツの感情が乱れるたびに、エッダは「自分は大丈夫だから、そんなに煩う必要はない」と、粛々と諭すような言葉を手紙に書いた。
 すると、イグナーツは返事で謝罪をしてきた。ただ、謝りつつもそのすぐ後には「エッダが侮辱されるのは許せない」と続けるのだが。
 そんな彼だったが、ここ数年は落ち着いていた。
 イグナーツに関する話は明星の騎士としての良い話しか聞かなかったし、手紙も穏やかな筆致だった。日々の暮らしや騎士団での出来事、遠征先の珍しい動植物やそこで食べたおいしかった食べ物など、書き連ねてあるのはそのようなことばかり。
 屋敷にやって来るようになってからも、そうだ。彼はエッダの元にやって来ては幸せそうにお茶を飲み、エッダの暮らしぶりをにこにこと笑いながら聞く。イグナーツと過ごすひと時は、とても長閑(のどか)だった。
 しかし、落ち着いたとエッダが勝手に感じていただけで、実際はそうでもなかったらしい。
 貯蔵室で薬を選びながら、エッダは先ほどのイグナーツの様子を思い返す。
 不満そうな顔で黙りこくるイグナーツ。「魔王討伐が嫌になった」とはっきり言った割には口が重かったのは、エッダに気を使ったからだろうか。だとしたら、初めからごまかせばよいのに。
 「エッダが侮辱されるのは許せない」と手紙に書くイグナーツに対して、エッダはどんな風に侮辱するのか具体的に教えてくれと返信したことがあった。けれど、イグナーツははっきりと教えてくれなかった。
 そんな所も、昔のままだった。
 昔から、ずっとイグナーツはエッダのことを気にかけてくれる。エッダのことで、怒ったり悲しがったりしてくれる。
 エッダは薬棚に伸ばしかけた手を止めた。薬ではなく頬に触れる。あばたを確かめるように、指を滑らせた。
 もうこれ以上、イグナーツを縛り付けてはいけない。イグナーツはもうすぐ二十三才になる。いつ結婚してもおかしくない。
 かたや石ころ、かたや明星。貴族という立場は同じでも、エッダとイグナーツは生きる世界が違う。
 手紙のやり取りを止めるのはもちろん、直接はっきりと言うべきだ。もう、関係を断つべきだと。強い言葉で、それこそ縁を切るくらいの気持ちで。
 エッダは顔から手を離し、改めて薬瓶を掴んだ。
 ――この薬を最後にしよう。
 そんなことを考えた途端、エッダの胸が詰まった。思わず、薬瓶を握りしめる。
 貯蔵室はいつも薄暗く冷たい。だが、どういう訳か今日は一層暗くて寒い。冷え冷えとした暗がりに一人取り残されされたようで、エッダは急に心細くなった。
 とっさにエッダは首を横に振る。そうして気を取り直すと、手にした薬をかごに入れた。
 貯蔵室には、薬や乾燥させた薬草が置いてあった。
 薬や薬草の知識は、どうにか己の価値を高めようとやっきになっていた時に身につけた。
 この北の屋敷に来てからは、庭で実際に薬草を育てるようになり、その延長で薬も作っている。薬草や薬は近くの村に住む人達に売ったり、今回のようにイグナーツに渡したりしていた。
 エッダにとっては趣味のようなものだった。だが、人里ではよく売れたし、イグナーツの評判も上々だった。
 エッダは薬と薬草をいくつかかごに入れると、急いで応接室に戻った。
 応接室では、イグナーツが難しい顔でじっとテーブルを見つめていた。かたわらのティーカップは空になっている。
 エッダはイグナーツの対面に座ると、テーブルの上に薬の入ったかごを置いた。
「これが外傷に効く塗り薬。こちらはお腹が悪くなった時の薬。それから、これは強壮剤。一時的に魔力を高める作用もあるわ」
 エッダはかごの中身を指し示しながら、一つ一つ説明を始めた。
 ところが、イグナーツはまるでこちらを見ていない。テーブルを凝視したまま石のように固まっている。
「イグナーツ?」
 エッダが名前を呼ぶと、イグナーツは突然「あーっ!」と声を上げながら頭を抱えた。

「やっぱ無理! 嫌だ! エッダを侮辱した奴と一緒に戦うとか絶対無理! 行きたくない!」
 イグナーツはぐしゃぐしゃと頭をかきむしる。整っていた美しい亜麻色の髪が台無しだ。
 エッダはとっさに腰を浮かして、イグナーツに手を伸ばした。
「ちょっと、落ち着きなさい」
「落ち着けないよ。思い返す度に腹立たしくて堪らない」
 唸るようにイグナーツが言う。
 もしかしたら、エッダが想定した以上にひどい言われようだったのかもしれない。「薬ではなく毒ではないか」と疑われたこと以外にも、何かあったのだろうか。
 そうだとしても、イグナーツには関係ない。そうあらねばならない。
 エッダは、浮かせた腰を元に戻すと、努めて冷静に言った。
「私のことで貴方が心を乱す必要なんてないのよ。もう気にしないで……」
 エッダが言い終わらないうちにイグナーツががばりと顔を上げる。眉を吊り上げたその表情は明らかに怒りのそれだ。強い光をたたえた瞳がエッダを射る。
 エッダは息を呑んだ。
「何言ってるんだよ。乱すに決まってるだろ。エッダは俺の女神だ」
「……もう、その呼び方止めてちょうだい」
 エッダはイグナーツから目を逸らすと、ぽつりとつぶやいた。
「病気のこともこの顔のことも、貴方が責任を感じることじゃないのよ……」
 エッダの顔に広がるあばた。これは、元をたどればイグナーツがきっかけだった。疱瘡(ほうそう)にかかったのはイグナーツの方が先だったのだ。
 エッダが九歳、イグナーツが五歳の時だ。
 イグナーツが疱瘡を患った時、エッダは母親と彼の屋敷を訪ねた。イグナーツのお見舞いに行くという母に無理を言って、付いていったのだ。
 エッダはイグナーツのことが心配だった。どんな調子か気になったし、一目でいいから彼に会いたいと思った。しかし、イグナーツの屋敷に到着するなり、自身の母親やイグナーツの母親、さらには屋敷の使用人たちからも、「イグナーツには会わせられない」と強く言われてしまったのだ。
 イグナーツに会うこと叶わず、その日エッダは屋敷の使用人たちとお茶を飲んだりボードゲームをしたりして過ごした。その際、使用人たちにイグナーツの病状を尋ねたが、皆言葉を濁してはっきりと答えてくれなかった。
 母親たちは別室に行ってしまい、何処にいるか分からない。
 屋敷の雰囲気もどんよりとして暗い。ひどく不安になるひと時だった。
 エッダは居ても立ってもいられなくなった。もしかしたら、イグナーツは大変なことになっているのではないか。死んでしまうのではないか。何もわからない故か、そんな嫌な考えが湧き出てきて怖くてたまらなくなってしまったのだ。
 エッダは使用人たちの目を盗み、イグナーツの部屋に向かった。正確には、彼がどこにいるのか分からず屋敷中を探し回った結果、イグナーツの寝ている部屋を見つけた、というのが正しいが。イグナーツは母屋ではなく、離れにある一室にいた。
 その離れの部屋には一見人影がなく、誰もいないようだった。ただ「苦しい苦しい」という呻き声がベッドの方から聞こえくる。エッダはその声がすぐにイグナーツの声だと分かった。エッダは急いでベッドに駆け寄った。
 ベッドを覗くと、イグナーツがぐったりと横たわっていた。顔には濁った色の大きな発疹がたくさんできており、口元からこぼれる苦しそうな声は止みそうもない。
 まるで泣いているかのようなう呻き声を上げる年下のはとこ。大好きな幼馴染。
 エッダはイグナーツの手を握りしめた。高熱のせいかまるで力がなく、加えてとても熱かったことを、エッダは今でもよく覚えている。
 エッダは手を握ると、必死になって声を掛けた。
「絶対に良くなるから大丈夫。私がそばにいる。だから死なないで」
 そう、何度も何度も。
 呼びかけを繰り返していると、イグナーツははっきりとエッダの手を握り返してきた。
 そうしてイグナーツのそばにいることしばらく。様子を見に来た使用人が悲鳴を上げるまで、エッダはイグナーツを励まし続けた。
 その結果、エッダは疱瘡にかかった。どう考えてもイグナーツから移ったものだ。そして、顔にあばたが残った。
 対するイグナーツであるが、彼はエッダが部屋に忍び込んだ日を境に快方に向かった。高熱がなかなか引かず、両親を始め屋敷中の人間は皆イグナーツの命を心配していたが、最早杞憂と言ってよいほどあっさりと熱が引き、発疹の跡もほとんど残らなかった。
 イグナーツ曰く。自身の疱瘡が治ったのは、エッダが励ましてくれたから。そして病気をもらってくれたから、とのことだ。
 そんなことではなくイグナーツの生命力が病に打ち勝ったからだ、とエッダは思うのだが、そう言ってもイグナーツは全く聞かず、彼はエッダのことを「女神」と呼ぶようになったのだった。

 「女神」と慕ってくれるのも、やたらとエッダのことを気に掛けてくれるのも、イグナーツは自分が病気を移してしまったからだ、と責任を感じているためだろう。罪滅ぼし、と言うには大げさだが、そのような気持ちがどこかにあるに違いない。イグナーツの優しさに、いつまでも甘えていてはいけない。
 エッダは意を決してイグナーツを見た。
「本当に、もう私のことは気にかけなくていいのよ。そもそも、病気のことなんてもうだいぶ昔のことじゃない」
 はっきりとした口調でエッダは言った。しかし、イグナーツが納得する様子はまるでない。彼は眉を上げたまま、エッダを見据える。
「責任を感じてるとか、そういうのじゃない。そうじゃないから、こんなにはも腹立たしいんだ」
 どきりとエッダの胸が跳ねた。とっさに「それじゃあ、なんなのか」と言葉が出かかったが、すんでのところで止めた。
 エッダは一度深呼吸をした。これでは話が逸れてしまう。今優先させるべきなのは、魔王討伐である。
「……腹立たしくても、今すぐ王都に戻りなさい。もう用事は済んだでしょう」
 エッダは薬の入ったかごをイグナーツに向けて押す。けれど、イグナーツは触れようとしない。それどころか、そっぽを向いてしまう。
「嫌だ、行きたくない。あいつら嫌いだもん」
 イグナーツが口を尖らせる。
 感情表現が豊かなのは間違いなく彼の魅力だが、この表情と口ぶりは幼すぎやしないか。こんな時にこんな顔をするのは少しずるい、とエッダは思う。
 気が抜けそうになったエッダだったが、一つせき払いをしてどうにか気持ちを保つと、表情を引き締めた。
「嫌いだもんって、子供じゃないんだから。貴方、もう二十三でしょう」
「まだ二十二だよ」
「もうすぐ二十三になるんだから、同じようなものでしょう」
 声を厳しくしてエッダが言うと、イグナーツはすねた表情をひっこめて、黒目がちの瞳を何度も瞬かせた。
「え? あれ? そっか。俺、来月誕生日だ」
 イグナーツはぼんやりとつぶやくと、突然エッダの方に振り返った。
「自分でも忘れてたけど、エッダは覚えててくれたんだ!」
 そう声を弾ませるイグナーツの顔に、満面の笑みが咲く。本当に花が――例えば白いダリアが――開いたかのような、佳麗で無垢な笑顔。
 エッダは素早く顔を背けた。どうしてか、ほんのりと頬が熱い気がする。頬杖をつくように、エッダは片手で顔を隠した。
 何か言い返さねば。そう思うエッダだったが、どうしてか上手く言葉が出て来ない。鼓動の音が、やけに大きく聞こえる。
 エッダが言葉に詰まっていると、「待って!」とイグナーツが大声を上げる。
 エッダがそろそろと視線をやると、イグナーツは目を見開いて身を乗り出していた。
「それじゃあ、今旅だったらエッダに誕生日祝ってもらえないじゃん! そんなの絶対嫌だ!」
 叫ぶイグナーツ。その声には悲痛の色が漂っていた。
 やはり子供じみているイグナーツの弁に、エッダはふいに落ち着きを取り戻した。
 彼のわがままに付き合ってはならない。このかごの薬が、最後なのだから。
 エッダは顔から手を離すと、きっとイグナーツを睨み付けた。
「誕生日くらい、我慢なさい」
「嫌だよ! またエッダのベリーパイが食べたい。去年食べたやつ、すごくおいしかったから」
「イグナーツ! いい加減になさい!」
 エッダはぴしゃりと言い据えた。イグナーツははっとした様子で開きかけた口を閉ざす。
 これ以上イグナーツの言葉を聞いていたら、またおかしな気持ちになりそうだった。それに、話がどんどんずれてゆく。大事なのは魔王討伐の話だ。どうして魔王がベリーパイになるのだ。
 エッダはイグナーツから視線をそらさずに、強気に見つめ続ける。すると、イグナーツは前かがみの体をひっこめて、力なくうなだれた
「……ごめんなさい」
 イグナーツがぽつりと言った。
 エッダは小さく息を吐くと、姿勢を正した。背筋を伸ばして膝の上に手を重ねる。
「嫌な気持ちはよく分かったわ。けれど、皆貴方の力を必要としているのよ」
 エッダは語り出した。おもむろに。諭すように。
「魔王討伐は難しいことでしょう。けれど、貴方がいればきっと成し遂げられると、皆信じている。だって、貴方は明星の騎士。輝く希望なのよ。大勢の人の思いを背負うことは大変だと思うけれど、それでも私はその気持ちに応えてほしい。貴方の持つその力は確かなものなのだから」
 エッダは知っている。今や国一番の騎士となったイグナーツだが、そうなるに至るまで彼が懸命に努力してきたことを。
 イグナーツの手紙には、時に剣術や魔法の修練に対する悩みが綴られていた。「思うように魔法が使えない」「剣術の模擬試合で勝てない」「師範に怒られた」など。イグナーツの師範はかなり厳しい人だったらしく、修練はそれこそ血の滲むようなものだったようだ。
 それでも、イグナーツは修行をやりきり、師に認められた。彼は悩んだり弱気になったりしながらも、諦めずに努力を重ねたのだ。そうして積み重ねて身に付けた力や知識は、間違いなく本物だとエッダは信じている。イグナーツにはもともと剣や魔法の才能があったのだろうが、それだけではない。だからこそ、明星の騎士と呼ばれるまでになったのだ。
「私だって、貴方の力を信じているわ」
 エッダがそう言うと、イグナーツの肩がぴくりと動いた。だが、イグナーツは黙ったままだ。顔を上げようともしない。
 エッダはそっと拳を握ると、さらに言葉を連ねた。
「……王都に、仲間の元に戻りなさい。貴方の居場所はここではないでしょう。こんなところではないの。私のことで腹が立つなら、私のことは忘れなさい」
 そう告げたとたん、エッダは心が急に冷たくなったように感じた。同時に、イグナーツが遠くにいるように思えた。しかし、手は伸ばさない。エッダは静かにイグナーツを見つめた。
「……それは、違うよ。間違ってる」
 うつむいたままイグナーツがぽつりとこぼす。
「何が違うの?」
 エッダは問いかけたが、イグナーツは答えなかった。
 しん、と静まり返る応接間。鳥の声も風の音も聞こえない。エッダはイグナーツを待った。
 やがて、イグナーツが大きく息を吐いた。
「……分ってる。エッダの言う通りだって。皆俺の力を必要としてることは、分ってる。逃げるつもりはない」
 イグナーツはそう言うと、顔を上げた。先程までの子供のような無邪気な表情とはほど遠い、凛とした青年の顔つきで、彼は真っ直ぐエッダを見つめている。
 エッダの鼓動が早くなる。
「だから、エッダ。俺に力を貸して」
「……その薬とはまた別のことかしら?」
 ちらとエッダは薬に視線を投げる。
 イグナーツは頷いた。
「うん。薬とはまた別。約束してほしいことがあるんだ」
「約束?」
 エッダがそう言葉を繰り返すと、イグナーツはすかさず言った。
「魔王を倒したら、俺と結婚して」
 イグナーツに対する決意も、心の冷たさも何もかもがふっ飛ぶ。
 エッダは絶句して固まった。

「エッダが結婚してくれるって約束してくれたら、いつもより何倍も力が出せる。魔王討伐なんかすぐに終わらせて、戻って来るよ」
 改めてイグナーツが言ったところで、エッダは我に返った。呆れた気持ちを引き締めて、表情を作り直す。眉をひそめて、イグナーツを見る。とくとくと、脈が速いのは無視をした。
「何、馬鹿なことを言っているの。冗談はよしなさい」
「冗談じゃないよ。俺エッダのこと好きだもの」
 間髪入れずにイグナーツが返してくる。その声はあまりにも真っすぐだ。
 エッダの鼓動がさらに速くなる。最早暴れまわるかのような勢いである。脈打つ音も大きく感じる。だんだん素知らぬふりができなくなってきて、エッダは内心焦り始めた。頭の中で言葉が浮かんでは消えてゆく。冗談はやめてほしいのに、エッダの口からは何一つ言葉が出ない。どうしてなのだろうか。ただただ焦りが募る。
 エッダが何も言えないでいると、イグナーツが少しばかり声を潜めて聞いて来る。
「エッダは、俺のことが嫌い?」
 そんな質問をしてくるなんてイグナーツはやはりずるい。エッダはそう思った。
 相変わらずエッダの思考は空回るばかりで、上手い答えを見つけられない。けれど、イグナーツは黙っている。エッダの答えを待っている。
 しばらくの間の後、エッダはどうにか声を絞り出す。
「……私は貴方にふさわしくないわ。王都には貴方に合うご令嬢がいるでしょうに」
 イグナーツは肩をすくめた。
「身分や血筋という面ではね。でも、俺はそういうの求めていないから」
「わがままね」
「わがままだよ」
 イグナーツがほんのりと笑う。知っているでしょう、と言わんばかりに見つめてくる。
 その甘い表情を直視できず、エッダはうつむいた。拳をさらに強く握りしめる。エッダは声を張った。
「本当にこの顔に関しては、貴方が責任を感じることじゃないのよ」
「そんなんじゃないって言っただろ」
 イグナーツの声に不満の色がにじむ。顔は見えないが、きっと怒ったような顔をしているに違いない。
 再びやって来た沈黙は重かった。コマドリの鳴き声も聞こえない。
 エッダは己の膝の辺りを睨み付けていた。身に付けている茶色のチュニックはだいぶ色が抜けている。その上に置いた自身の手には、うっすらとあばたが見える。顔が一番ひどいが、病気の跡はエッダの手足にも残っている。
「こんな私のどこが良いのよ……」
 エッダはぽつりと呟いた。すると、すぐさま対面から柔らかい声が飛んでくる。
「良いところ、たくさんあるよ。例えば、優しいところ。俺が病気を移したのに、エッダは俺のことを一度も責めなかった」
「なんで貴方を責めるのよ。私が移されに行ったようなものなのに。自業自得じゃない」
「ほら、責めない」
 エッダは唇を噛んだ。
 イグナーツは「それに」と続ける。
「自業自得ってエッダは言うけれど、それって俺のことを心配してくれたんでしょう? あの時のこと、意外と覚えてるんだよね。エッダが来てくれて、ずっと俺の手を握ってくれていたこと。必死に声をかけてくれたこと。あの時、エッダが来てくれなきゃ、俺は絶対死んでた。寂しくて苦しくてたまらなかったから」
 イグナーツが小さく息を吐く。笑いをもらしたかのような息遣いだった。
 エッダはぶっきらぼうに尋ねた。
「何がおかしいのよ」
「ううん。そうじゃなくて、懐かしいなって思って」
 イグナーツはまた笑うかのように息を吐く。それから、さらに話をつづけた。
「昔のことは置いといて、エッダのことだけど。エッダは、俺の手紙に丁寧に返事をしてくれるよね。鳥や植物のこととか、楽しい話題をたくさん書いてくれる。エッダが紹介してくれる本も、全部面白いし。それに、俺の身を案じてくれる。……俺、エッダから手紙、いつも楽しみにしてるよ」
「……返事、返さなかったことだってあるわ」
「それは、騎士になった俺のことを気にして返さなかったんだろ」
「そんなこと、ないわ」
 エッダはぎこちない声で言った。そう言うのが精いっぱいだった。
 エッダの心はざわめく一方だ。もうイグナーツとは話をしたくなかった。これ以上聞いたら、決意が鈍る。変な気持ちになってしまう。このままではいけない。いけないのだ。
「突然会いに来ても、いつも美味しいお茶でもてなしてくれる。お茶がなくなれば、すぐにカップに注いでくれる。俺の誕生日を覚えててくれて、おいしいパイを焼いてくれる。いつも俺の話を聞いてくれる。今日だって、こうして」
「止めて……」
 エッダは掠れた声で言った。しかし、イグナーツは止めなかった。
「エッダ」
 あの濁りない綺麗な音で名前を呼ばれる。
「俺はエッダのことが好きなんだ」
 もう一度イグナーツが言う。心地よい響きの声が、エッダの耳をくすぐる。
 たまらず、エッダは叫んだ。
「お願いだから止めてちょうだい! 私みたいな醜い石ころ女は貴方のそばにいてはいけないのよ!」
 声を荒らげたとたん、エッダははっとする。「そうじゃない」と心が強烈に訴えかけてきたのだ。
 エッダは彼との関係を断つと決めた。それをついに告げたのに、そうではない。本当はそうではないのだ。イグナーツともう話したくないだなんて、大嘘だ。
 エッダは狼狽えた。
 ひどいことを言ってしまった。イグナーツのことを拒んでしまった。それは彼のことを思えば正しい。正しいかもしれないが、それは違うのだ。
 まるで、心が弾けたようだった。胸の奥に閉じ込めていた想いが、溢れてくる。
 エッダの胸に熱いものが込み上げてきた。自然と口から言葉がこぼれる。
「違うの……」
 イグナーツは何も言わなかった。彼がどんな顔をしているのか、怖くてたまらない。エッダはぎゅっと目をつぶった。
「ごめんなさい。ごめんなさい。イグナーツ。違うの。そうじゃなくて、私は……」
 エッダは人の気配を感じて口をつぐんだ。顔を上げれば、すぐ近くにイグナーツがいた。彼はひざまづき、エッダを見つめていた。その顔に浮かぶ微笑みは、優しい。
 イグナーツが手を伸ばし、エッダの頬に触れる。とても、温かい手だった。
「エッダは美しいよ。誰よりも」
 イグナーツの言葉は、まっすぐエッダの心に入り込んだ。エッダの胸がさらに熱を帯び、涙があふれる。
 エッダの瞳から零れる滴を、イグナーツが指先でそっとぬぐう。その手つきはたおやかで、頬を包む手と同じく温かい。
 エッダはイグナーツのぬくもりを感じながら、しばらく泣き続けた。

 明星の騎士の異名のごとく、エッダにとってイグナーツはまさしく星であった。闇の中で煌々と燃える星。エッダの日常を照らす、唯一の光。
 おそらく、イグナーツがいなければ、彼がエッダとの関係を持ち続けてくれなければ、エッダは潰れていたに違いない。
 家族や他の貴族から「石ころ」と蔑まれ、好奇や嫌悪と言った感情に晒され続ける日々は辛かった。しかしそれでも、向けられる暗い感情に飲み込まれずに、自らの価値を高めようとエッダが努力できたのは、イグナーツの手紙があったからだ。彼の言葉が、彼とのつながりがどれほど励みになったことか。
 結局努力は報われずエッダは追放された。だが、その時も自棄(やけ)にならなかったのは、イグナーツが変わらず手紙を送り続けてくれたからだ。
 エッダは嬉しかった。イグナーツと手紙のやり取りができることが。「女神」という書き出しも、大げさだと感じつつも決して嫌ではなかった。気恥ずかしいが、少し誇らしかった。
 イグナーツが自分のことで怒ったり悲しんだりしてくれるのだってそうだ。気を使わなくてよいという気持ちも確かにある。己の悪評が、彼に飛び火してしまうのではと心配にもなる。だが、一方で心強くも感じた。イグナーツが味方でいてくれることは、エッダにとって大きな支えだ。
 顔のあばたも。
 イグナーツの疱瘡(ほうそう)が治ったのは、彼の生命力が病気に打ち克ったからだ。けれども、もしもイグナーツが言うようにエッダがそばにいたことに意味があったなら。エッダの励ましがイグナーツの力になったと言うなら。この病気の跡はイグナーツの命を救った証だ。そう思えば、あばただって誇りに思えた。
 だから本当は、イグナーツとの別れをエッダは恐れていた。彼との関係を断たなければと思いながらも、そのことについて考えると心苦しかった。
 それどころか、それ以上を望むようになってしまった。
 イグナーツとのつながりを失いたくない。
 叶うならば、もっと近くにいたい。彼のそばで彼と共にありたい。
 エッダはイグナーツが好きだ。それこそ、幼い頃一緒に遊んでいた時から。
 それは子供の頃の一過性の感情ではなかった。むしろ、年を経るごとに色濃くなっていった。エッダはイグナーツに惹かれる心を止められなかった。愚かだと知りながらも。
 そう、愚かなのだ。いくら想いを募らせても、報われないのだから。
 イグナーツとエッダとでは生きる世界が違いすぎる。輝かしい彼の未来を思えば、そこにエッダはいてはいけない。家を追い出された醜い石ころ女は、彼の名誉や品位に傷をつけるだけだ。
 共にあることをエッダが望んでも、イグナーツが望んでくれても。
 そうだとしても、イグナーツの家族はもちろんエッダの家族が許さない。それだけでなく他の貴族たちだって認めないだろう。誰も彼もがイグナーツにエッダはふさわしくない、と言うに違いない。
 そのため、エッダはずっと本当の気持ちに蓋をして、見て見ぬふりをしてきたのだった。

 エッダの涙がようやっと収まってきた。しかし、涙の跡が残っているのか、イグナーツが親指でエッダの頬をなぞる。その指先の感触は柔らかく、心地よい。このままいつまでも感じていたいと思ってしまう。
 だが、エッダはイグナーツの手首を掴むと、そっと押し返した。

「ありがとう、イグナーツ。もう大丈夫よ」
「……エッダ」
 エッダの名を呼ぶイグナーツの声には、どこか切ない響きがあった。エッダの胸が締めつけられる。けれど、エッダは首を横に振った。
「……結婚は無理よ。私の家も貴方の家も、その他の貴族も。誰も許しやしないわ」
 エッダの言葉はイグナーツを拒むものではない。事実なのだ。悲しいほどにどうしようもない事実。イグナーツだって分っているはずだ。
 また泣きそうになってしまう。エッダは強引に微笑んで涙をごまかした。
 想いが溢れた今、胸は未だに熱を帯びたままだ。だが、また蓋をしなければ。もう、この想いを上手くしまうことはできない気がするが、それでもやらなければ。
 イグナーツを拒むことは、エッダにはできない。やりたくない。しかし、彼と共にありたいという願いはどうしたって叶わない。
 広がった熱が鈍くうずく。やるせなくてたまらない。エッダはチュニックを握りしめた。
 その硬い拳が、ふいに温もりに包まれる。エッダが見やれば、握りしめた手にイグナーツの手が重ねられていた。
「周りが認めてくれないことは、なんとかする。……なんとかできる絶好の機会なんだ」
 エッダはぱちぱちと瞬きを繰り返した。イグナーツの言うことに、今一つ理解が及ばない。
「どういう、こと?」
 ぎこちなくエッダが尋ねると、イグナーツは表情を少し和らげた。まるで、エッダを安心させるかのように。
「国王陛下が『魔王討伐が上手くいった暁にはそれぞれが望むものを授けよう』って討伐隊の面々に宣言されたんだ。だから、そこで俺はエッダとの結婚を望む。それから上手く話を運んで俺たちの結婚を王命にしてしまえば、きっと誰も逆らえない。納得はしなくてもね」
 エッダはきょとんとしてしまう。イグナーツを見つめながら、彼の言葉を心の中で反芻する。
 確かに、王命にはそう簡単に逆らえない。しかし、やり方としては強引なうえ、王命にしてしまうだなんて大げさだ。それに望みの物を授けるにしても、限度というものがあるだろう。果たして、イグナーツがエッダとの結婚を望んだところで、国王陛下に受け入れられるのか。確か、陛下のもとには年頃の王女が一人いたはずだ。
 エッダは口早に言った。
「ちょ、ちょっと待って、イグナーツ。望みの物を授けてもらえるからって、そんなの無茶よ。強引すぎるわ。そもそも、陛下に結婚を認めていただけるか分からないじゃない」
「陛下は有言実行する方だし、豪気だから。それに、俺、陛下からの信頼は厚いと思うから、可能性は十分あるよ」
「だからって、魔王討伐の報奨でそんなお願いをするなんて、その……もったいないわ」
「もったいなくなんてないよ。俺にとっては今すぐにでも叶えたい宿願なんだから」
 そう言うと、イグナーツはエッダの両の拳をすくい上げ、握り直した。エッダの拳が自然とほどけ、そこにイグナーツの指が絡まる。
 エッダはどきりとした。返す言葉を失くしてしまう。
「……エッダ。俺との結婚、約束してくれる?」
 イグナーツが改めて言う。彼は目を逸らさない。表情は柔らかいがその瞳に宿る光は強く、真っすぐエッダを見つめてくる。

 エッダは固唾を飲んだ。落ち着いていたはずの鼓動が、徐々に速くなってくるのを感じる。
 イグナーツと結婚するとなれば、相応の覚悟が必要だ。
 イグナーツと結婚したら、エッダは王都で暮らすことになる。そうなれば、自分に関する嫌な噂や悪口が、今よりもずっと多く耳に入って来るだろう。もしかしたら、フォルツの家を追い出される前よりも、ひどい言葉を言われるかもしれない。はたから見れば、皆が憧れる明星の騎士の奪ったようなものだ。それに、エッダだけではなくイグナーツも悪く言われる可能性が高い。
 けれど、それはイグナーツだって分っているはずだ。その上で彼は覚悟してくれた。
 再び、辛い思いをすることになるだろう。すでに、エッダはその苦渋をさんざんなめた。
 けれど、そばにイグナーツがいるならば。
 どんな苦しみも乗り越えられる、とは簡単には言えない。しかし、彼と共に乗りこえたい、とエッダは思う。自身の苦しみもイグナーツの悲しみも、二人で分かち合い、共に人生を歩んでゆきたい。
 それに、きっと幸せだってたくさんあるはずだ。
 なぜなら、イグナーツがそばにいるのだから。
 また、エッダの胸が大きく脈打つ。
 もう蓋などできない、とエッダは確信した。それに、どれだけ時間が経ってもイグナーツに対する想いは変わらない、と。
 エッダはおもむろに口を開いた。
「ええ……分かったわ。貴方との結婚、約束するわ」
 エッダが言うと、イグナーツはふっと小さく息を吐いた。それから彼は、握りしめたエッダの手をそっと自身の額につけて、ささやいた。
「ありがとう、エッダ」
 まるで、祈りをささげるかのような切実な声だった。
 お礼を言いたいのは、エッダの方だ。しかし、想いが溢れすぎてしまったのか、上手く言葉にならない。
 やがて、イグナーツが手を離す。ぬくもりが遠退く。名残惜しいけれど、エッダは手を伸ばさない。きっと次があると、信じることにしたから。
「さて、それじゃあ張り切って行ってきますか」
 イグナーツはすっくと立ち上がると、テーブルに置いてある薬の入ったかごを取った。ところが言葉とは裏腹に、彼はそれ以上その場から動こうとはしなかった。目を伏せて、かごの取っ手をしきりに握り直している。
 薬瓶を見つめながら、イグナーツはぽつりと言った。
「本当は、結婚のことは魔王討伐から帰ってきてから話そうと思ってたんだ。……無事に魔王を倒して帰って来れるか、多少不安な所もあったから」
 その言葉を聞いて、エッダははっとした。
 彼が赴くのは魔王討伐。最強の魔法騎士であるイグナーツのことだから、きっと勝利を得て戻って来ると思っていた節があったが、そんなことはないのだ。
 魔王は人間とは比べ物にならなほど、膨大な魔力を持っているという。その魔王の魔力の影響によって魔物は凶暴化する。昨今魔物による被害は徐々に増加傾向にあった。魔王を倒すことはもちろん、そのための旅路も厳しいものになるだろう。勇者やイグナーツを含め、討伐隊の面々が選りすぐりの精鋭であっても、今回の遠征はそう簡単なものではない。
 思わずエッダは立ち上がった。
「イグナーツ」
 呼びかけると、イグナーツが振り返る。その彼の瞳を見つめながら、エッダは言った。
「どうか無事に戻ってきて」
 エッダの言葉に、イグナーツはかごをもてあそぶ手を止めて、大きく頷いた。
「うん。もう不安はないよ。だって、エッダと約束したからね。俺はちゃんと生きてここに帰って来る」
 イグナーツは朗らかに笑うと、すっと人差し指を立てた。
一月(ひとつき)でけりをつけて戻ってくるよ」
 軽やかに宣言して、イグナーツはかかとを鳴らす。すると、その足元に(あかがね)色に輝く魔法陣が広がった。きらきらと赤光の粒が舞う中で、イグナーツは飛び切りの笑みと共に「行ってきます」と言ったかと思うと、次の瞬間には姿を消していた。同時に魔法陣も跡形なく消滅していた。
 急にがらんとした応接室に、エッダは一人立ち尽くす。
 恐らく、今のは転移魔法だろう。空間を操る魔法を会得したというイグナーツであれば、転移魔法を使えたとしてもなんらおかしくない。だが、実際に魔法を使うところを初めて目の当たりにしたエッダは、ぽかんとしてしまった。
 あんなにも鮮やかに魔法を使うだなんて、明星の騎士の名は伊達ではない。やはり、魔王討伐も軽々とやってのけてしまうのではなかろうか。
「い、行ってらっしゃい……」
 遅ればせながら、エッダはぼんやりと言った。

 結果として、イグナーツは宣言通り無事に戻ってきた。正確には、宣言した日数よりも早く帰ってきた。当然、魔王を倒して、だ。
 魔王討伐の全行程は二十六日。一月かからなかった。
 事前の見立てでは、いくら順調に旅が進んだとしても一月から一月半はかかるとの予想だった。
 魔王復活にともない魔物は凶暴化しており、特に魔王の城に向かう往路に時間がかかると思われた。
 しかし、討伐隊の士気は高く、その威勢を保ったまま突き進み、予定よりもだいぶ早く目的地の魔王城に到着。
 そして、魔王城の攻略は、勇者たちの作戦がばっちりはまり、なんと一日で決着が着いてしまった。魔王との決戦は熾烈なものであったらしいが、日数だけを聞くと呆気ないという印象はぬぐえない。
 そうして疾風のごとく魔王を倒した一行は、残った魔物たちを掃討しながら来た道を引き返し、見事王都に凱旋を果たした。
 イグナーツに限って言えば、帰り際の魔物掃討に目処が着いた時点で空間転移で王都まで戻ってきているので、さらに早く二三日で旅を終えたのだった。
 ここまで早くに魔王討伐ができたのは、もちろんイグナーツの力によるところが大きい。魔物との戦闘時には常に先陣を切り、魔王と相対した時も全くひるむ様子を見せずに仲間を鼓舞したとの話だ。その奮戦ぶりに加えて、時に勇者以上に的確な判断をくだし、討伐隊を率いたとかなんとか。
 その縦横無尽の活躍に、「戦の女神の加護でもあるのではないか」と人々は噂した。しかも、当のイグナーツがその噂に対して「戦の女神ではないけれど、女神の加護は受けている」との発言をし、明星の騎士はついに神の力を会得したと騒がれることとなった。
 そして帰還から約半月が経った今、ますます輝きを増した明星の騎士はどうしているかというと。
 エッダの目の前で幸せそうにベリーパイを頬張っていた。
 エッダの屋敷の庭の片隅、ぶどう棚の下にはテーブルセットが設えられている。「今日は涼しいし天気が良いから」とエッダが庭へと誘ったら、イグナーツは二つ返事で頷いたため、本日は庭でお茶の時間と相成った。
「ああ、幸せ……」
 うっとりとそんなことをつぶやきながら、イグナーツは夢中でエッダお手製のベリーパイを食べている。ナイフとフォークを滑らかに操る様は、見惚れるほど優雅だ。けれども、やはり顔に浮かべる笑みは緊張感に欠けて、騎士らしさはまったくない。呆れてしまうエッダだが、決して嫌なわけではなかった。むしろその逆だ。こうしておいしそうに菓子を食べたりお茶を飲んだりするイグナーツを眺めていると、エッダまで嬉しくなってくる。
 日差しは強いが、風は涼しく爽やかで気持ちが良い。ほんのりと秋の気配を感じさせる空気だ。たわわに実ったぶどうも、もうすぐ食べごろを迎えるだろう。庭の木々では、コマドリたちが鳴き交わしている。今日はそこに、ヒバリの美声も混じる。もう恋の季節も終わりだろうに、しきりにさえずっていた。
 幸せな一時であった。エッダの頬も自然と緩んでしまう。
 イグナーツはパイの破片まで器用に集めて口に運ぶ。あっという間に一切れぺろりと平らげてしまった。
「ごちそうさま、エッダ。すごく美味しかった」
 そう言うと、イグナーツはお茶を飲んだ。すると彼は、これまた幸せそうな笑みを浮かべ、満足そうに深々と息を吐く。
「どういたしまして。今年も口に合ったようで良かったわ」
 そう言いながら、エッダは空になったイグナーツのカップにお茶を注いだ。
 今日はイグナーツの誕生日である。
 しかし、彼が屋敷にやって来る確証はなかった。事前に訪問の連絡も何も貰っていない。だが、もしかしたらと思ってエッダは朝からせっせと菓子作りにはげんだのだが、そうしておいた甲斐があった。
 とは言え、昼過ぎに使用人から「イグナーツ様がいらっしゃいました」と知らされた時、エッダは驚いた。旅は終わったものの、その事後処理でイグナーツは忙しいはずだし、自分の予感も半信半疑、パイを焼いている間「何をやっているんだか」と自嘲的な気持ちになる瞬間があったのだ。
 エッダが急いで玄関まで向かうと、確かにイグナーツがいた。まごう事なきイグナーツ。彼は、エッダに気が付くと変わらない無邪気な笑顔で「ただいま」と言った。その言葉を聞いた瞬間、エッダはイグナーツを抱きしめたい衝動に駆られた。すぐさま恥ずかしさがこみ上げてきて、やらなかったけれども。
 ふと、エッダはその時の気持ちを思い出す。照れくささまでも一緒に甦ってきた。
「大したものでなくて、申し訳ないけれど」
 恥ずかしさをごまかすようにエッダは口早に言った。
 するとイグナーツは首を横に振る。
「そんなことないよ。俺にとっては最高の誕生日の贈り物だよ」
「……まだあるけれど、おかわり食べる?」
「え、いいの?」
 イグナーツが目を輝かせる。しかし、彼はすぐさま「いや……」とつぶやくと目を伏せてしまった。
 その様子に、エッダは目をみはる。
 イグナーツは一口お茶を飲むと、唇をなめた。それから、エッダに視線を合わせる。その表情は凛とした青年の顔つきだった。
「ベリーパイは後にしよう。先に大事な話をしてもいいかな?」
 大事な話といえば、一つしかない。
 エッダは姿勢を正すと、静かに頷いた。

 イグナーツはおもむろに切り出した。
「俺たちの結婚だけど、無事陛下に認めていただけたよ。近く、正式に王命として発表される」
「私の家や貴方の家族は……どうなの?」
「一足早く通達済み。案の定納得はしてないみたいだけれど、伝えに行ってくださった陛下の使者の方は、『間違いなく確かにお伝えしました』とおっしゃっていたから、たぶん反対はできないんじゃないかな」
 イグナーツが柔らかく笑う。
 エッダは「そう……」と息とともにつぶやいた。安堵と嬉しさがじわじわと心に広がってゆく。エッダは微笑んだ。そのまま、はしたなく表情が緩んでしまいそうになったが、それはどうにかこらえた。
 浮かれる気持ちを取り繕うように、エッダは言った。
「よく認めてもらえたわね」
「うん。最初に伝えた時は、驚かれていたけれどね。でも、周りから口添えしてもらったおかげもあって、無事に望みは叶ったよ」
「そうだったの……。それじゃあ、その口添えしてくれた方にも感謝をしなくてはいけないわね」
 エッダが言うと、イグナーツは視線を泳がせた。
「……あー、いや、感謝はしなくていいよ」
「どうして?」
 エッダが問いかけると、イグナーツは眉間にしわを寄せた。それから一拍間を開けた後、ため息交じりに答える。
「……陛下に口添えしてくれたの、勇者なんだ」
 意外な人物の名称が飛び出してきた。エッダはまじまじとイグナーツを見つめる。彼の表情は不機嫌そうなままだった。
「……あの勇者様と今回の旅で懇意になった、というわけではなさそうだけれど?」
「うん、ぜんぜん。これっぽっちも距離は埋まらなかったよ」
 イグナーツがますます顔をしかめる。
 エッダはイグナーツの苦い表情に納得した。その勇者様の口添えとやらは、決して厚意によるものではなかったのだろう。
「貴方を思っての行いではなかったのね」
「そうだろうね」
 やはり、思った通りのようだ。おそらく勇者はイグナーツを貶める目算で、口添えしたのだ。彼のエッダに対する印象も鑑みれば、間違いなくそうだろう。
「明らかにエッダのことを悪く思ってるのが伝わってきたから腹が立ったけど、ぐっと我慢したよね。彼の狙いはどうあれ、助け船には変わりなかったし。そもそも、彼の狙いは外れてるんだから、とんだお笑いぐさじゃない」
 イグナーツは鼻で笑う。口調のとげとげしさと相まって、相当彼の怒りが深いことをエッダは察した。また、自分のことでイグナーツに嫌な思いをさせてしまったようだ。
「……ごめんなさいね」
「なんでエッダが謝るんだよ」
 イグナーツが目をむいて言う。それから、ひらひらと手を振った。
「ああもう、あいつの話はやめよう。あいつは俺たちのことを微塵も幸せにしない奴だから。もう会う機会もないだろうし、忘れよう」
 イグナーツの言うことは最もだったが、しかしエッダは彼の言葉に引っ掛かりを覚えた。「もう会う機会がない」というのは、どういうことだろう。王都で暮らしていれば、否が応でも勇者と会う羽目になりそうである。
 エッダが考え込んでいる一方で、イグナーツはお茶を一口飲んだ。すると、彼はたちまち笑顔になる。
「エッダ、それよりもこれからのことを話そう。俺、今回の旅の後始末とか引継ぎとかまだ少し仕事が残ってるんだけど、諸々落ち着いたらすぐに準備してこっちに来るね。だから、手間をかけて申し訳ないんだけど、部屋の準備とかしておいてもらえると助かるな」
 手を組んだところに顎を乗せ、にっこりと笑うイグナーツ。
 そんな彼の話に、エッダは耳を疑った。
「貴方がこの屋敷に来て、ここで暮らすの?」
「うん。そのつもりだけど」
 笑みを崩さずにイグナーツは答える。エッダはとっさに手のひらを突き出した。
「ちょ、ちょっと待ってイグナーツ。貴方、こっちに来たら騎士団はどうするのよ」
「北辺地域の監視および守護という任務を受けての異動だから、問題は何もないよ。任務の期限も無期限だし」
「はぁ?」
 思わずエッダは大声を上げてしまった。はっとして口を手でふさぐ。
 とは言え、大声だって出したくなる。イグナーツの言っていることはめちゃくちゃだ。
 エッダの暮らす北辺地域は、非常に平和だ。反王政派が潜伏しているなどの内乱の種はない。対外的にも不穏な要素はなく、現状戦争の気配もない。
 一番の心配の種だった魔物に関しても、魔王が倒された今となってはそれほど脅威ではない。魔物の被害は今後減少してゆく一方だろうし、そもそも、エッダの暮らす辺りには魔物はほとんど出現しない。
 イグナーツの地位を考えれば、北辺地域の監視および守護――しかも、期限は無期限で――という任務は、左遷という言葉では済まないほどの閑職だ。いや、誉れ高き明星の騎士がそんな任につくなどあってはならない。彼はまだ若く、これからもまだまだ活躍できる。多くの人もそれを望んでいるはずだ。
 これでは、エッダがイグナーツの未来を奪ったようなものではないか。
 この調子では、もしかしたらイグナーツは家を継ぐ気もないのかもしれない。彼には弟が二人いる。
 エッダの眉がひくつく。対するイグナーツは肩をすくめた。
「最初は辞めるって言ったんだけど、さすがにそれは無理だった」
「当たり前よ」
「どうして?」
「どうしてって……。貴方は明星の騎士じゃない」
 エッダがそう言うと、イグナーツの顔から笑みが消えた。彼のまとう空気が少し鋭くなる。
「俺は俺だよ。だから、俺の望む通りにするだけだよ」
「そう」
 エッダは小さな声で頷くと、黙り込んだ。

 胸の内に複雑な思いが渦巻く。まるで、もやが立ち込めたようだ。
 イグナーツは、自らが望んだと言う。だが、この屋敷で暮らす選択をしたのは、エッダのことを考えてという部分も大きいはずだ。
 王都では、おそらくエッダを悪く言う言葉が飛び交っている。そして、そんな場所で暮らすとなれば、直接それらの嫌な話がエッダの耳に入って来る。それは覚悟をしなければいけないと、エッダは考えていた。
 けれど、この北の果てであれば、そんな不快な思いをすることはないだろう。先程イグナーツが言った通り、勇者はもちろん彼と同種の人間と会う機会もない。
 加えて、エッダはここでの暮らしに愛着を感じていた。やって来て七年、初めは途方に暮れるばかりだった生活も、やっと安定してきた。手塩にかけて育ててきた植物たちや、毎日庭にやって来る鳥たちと別れることは、純粋に寂しく感じる。可能であれば、ここを別邸として誰かに管理をお願いしたいと考えていたところだった。
 だから、正直イグナーツの申し出はありがたくもあった。だが、彼がそこまで身を落とす必要はあるのだろうか。こんな、「石ころ」と呼ばれる女のために。たとえ、彼自身がそれを望んでいたとしても。
 彼の芽を摘んでいやしないか。芽どころではない。苦労して咲かせたであろう大輪の花を、摘み取っているのではないか。
 そこまで考えた時、エッダはふいに思った。いや、違う。そうじゃない、と。
 騎士としての花を摘んでしまったとしても、別の花を咲かせればよい。石の隙間に根を張る植物だってあるではないか。
 だからそのために、イグナーツのことを目いっぱい幸せにしてみせる。彼がこの屋敷でエッダと一緒に暮らすことを望むならば、それはエッダの使命だ。
 そんな決意が胸の内に生まれ、心のもやが一気に晴れた。エッダはきゅっと表情を引き締めて、顔を上げる。
 ところが、どうしてかイグナーツはしゅんとしてしまっていた。うつむいた顔に、影が差している。
 イグナーツが恐る恐るといった様子で、口を開く。
「……あの、ごめん、エッダ。俺、強引だよね。暮らす場所とか勝手に決めて、結婚の約束だって魔王討伐を引き合いに出してさ」
 ひとつ唾をのみ込んで、イグナーツはさらに言葉を続ける。
「結婚、約束してくれたけど、よくよく考えたらちゃんとエッダの気持ち確認してないし……。その、冷静になって嫌になったとか、気持ちが変わったとかあるなら、正直に言って……」
 イグナーツは何を言っている。エッダはすかさず遮った。
「なんでそんな話になるのよ! 私は貴方が……」
 急にエッダは頬が熱くなるのを感じた。「好き」と言おうとしたが、言葉が喉元に引っかかて出てこない。
 エッダは両手で頬を押さえると、うつむいた。胸も顔も耳も燃えそうなほど熱い。
 だが、恥ずかしくてたまらなくとも、ちゃんと言葉にしなくては。イグナーツは、何か思い違いをしている。エッダは震える唇を動かした。やはり声は出ない。
 数度ぱくぱくと口を動かした後、エッダは両手を下ろして顔を上げた。しかし、イグナーツの方は見れなかった。
 絞り出すようにエッダは言う。
「い、嫌になんかなってないわ。いいわ。こっちにいらっしゃい。……何もなくて退屈かもしれないけれど」
 小さな声でそう言うのが、やっとだった。
 なんとひねくれた言い方なのだろう。そう思えど、エッダはこれ以上何も言えそうになかった。
 「エッダ」と柔らかい澄んだ声に呼ばれる。愛しい響きに誘われて、エッダはそろそろと声のした方に振り返った。
 イグナーツがエッダの足元にひざまづいていた。魔王討伐に旅立つ前、結婚の約束をした時と同じような格好だ。
 彼は微笑みを浮かべてエッダを見つめていた。その笑みは子供らしい無邪気なものではなく、もっとずっと大人びた色気を湛えていた。
 エッダの鼓動が跳び跳ねた。
 とりあえず、イグナーツが笑っているは良かった。が、まったく落ち着かない。跳ねた鼓動はもとに戻らず、どんどん速くなる。
「イ、イグナーツ、服が汚れるから、立って……」
 すっかりうろたえながら、エッダは早口で言う。
 けれど、イグナーツはエッダの言葉は聞かずに、膝をついたまま。立ち上がる素振りは微塵もない。
「誤解してごめん」
 そう言うと、イグナーツはエッダの手を取る。
 エッダの胸がひときわ大きく脈打つ。ヒバリが高らかにさえずる。
「エッダの言葉に甘えて、こっちに来るね。退屈なんかしないよ。エッダがいるんだもの。俺の、俺だけの女神様」
 甘い声でそう言うと、イグナーツはそっとエッダの手の甲に口づけをした。


<了>

石ころと明星

石ころと明星

エッダは名門貴族の生まれである。しかし、醜い相貌ゆえに行き遅れ、辺鄙な土地に追いやられた。 辺境の地で静かに暮らすエッダ。そんな彼女にとっての心の慰めは、植物と小鳥。そして、密かに想う彼との交流。 彼とは幼馴染みのイグナーツ。輝かしい歴戦の騎士となり、エッダとはまったく異なる世界に生きる人物。 結ばれるわけがない。それどころか、交流すらもやめるべき。そう思っていたエッダだったが、なかなかイグナーツとの関係を絶てないでいる。 そんな折、イグナーツは魔王討伐隊の一員として、魔王退治に向かうことになった。 そして、この魔王討伐がエッダにとって大きな契機となる。 同じ貴族でありながら、まったく異なる世界に生きる二人が、同じ道を歩むようになるお話。 ※この作品は「エブリスタ」にも掲載しています。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-11-03

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted