心傷風景②

 心傷風景①の続きです。できれば①を読んでから読んでいただきたいです。①を読んでなくても読めるとは思いますが、一応は時系列に従って読んだほうがわかりやすいかと思います。

 休み時間の教室は静まり返っていた。そこに落ち着きはない。ここは思春期で心が不安定なあたしたち中学生を閉じ込めるための檻、もともと落ち着きなんてあるわけない。
 それにしても今のこの落ち着きのなさは尋常じゃない。すぐ先に受験が迫ってるんだ。
 あたしたち中学生はさらなる『快適な檻』を求めて必死に勉強するってわけね。やだやだ、馬鹿げてる。
 生きる意味を忘れないで。あたしたちは良い檻を求めてるんじゃない、この檻を開けるための鍵を見つけるために生きてるんだから!
「なぁ真中、お前、高校どこ行くんだよ?」
 ぼぉっと考えに耽っているところに村上が話しかけてきた。うっとうしいけど、悪くはない。ここんところ、この男のうっとうしさにも慣れてきた。
「多分・・・ミナミ高。まぁニシでもいいけど」
 あたしの気だるさは村上まで届いたためしがない。人の言葉以外の機微を一切読み取れない男なんだ。言葉だってちゃんとした意味で届いているか心配だ。
「はぁ、お前ならチュウオウだって行けるじゃねぇか。なぁ、なんでミナミなんかに行くんだよ」
 まったく空気が読めない村上は平然とこんなことを言う。『ミナミなんか』という言葉に敏感な生徒がビクッと反応した。学力を考えれば村上なんかに『ミナミなんか』と言われて良い気がするわけない。
「あんたさ、もっと小さい声で話してよ。あたしまで勘違いされるから」
「はぁ、なぁ、何の話だ?」
「あーもう、いいから黙れって!」
 余りにうるさいから強く言うと、村上はデカイ図体してるくせしてシュンと小さくなった。
 ちょっと可哀想な気がした。
「いーい? もうすぐ受験でしょ? だからみんな殺気立ってるの。あんたは受験なんか関係ないかもしれないけどみんな互いに気を使ってんの。あんたにはそれがわかんないわけ?」
「あぁ、そうか。ごめん・・・・・・なさい」
 村上には受験の心配なんてない。ずっと前からサッカー推薦で引く手数多、むしろ何処の学校に行くかゆっくり選べる立場にあった。
 そういう意味ではあたしも村上と大して変わらない。ただ違うのは、あたしの場合、勉強が出来るから選べるんだ。もちろんあたしもみんなみたいに必死に勉強するふりはしている。じゃなきゃ、この小さな檻の中で猛獣に囲まれて無事に生活するのは難しい。
「わかればいい」
 空気の読めない村上にあたしはどこか同情した。村上が空気を読むしか出来ないような他のやつと違うのはわかっていた。あたしは自分でどっちにいるべきなのかよくわからない。もしかしたら、自分も空気なんてちっとも読みたくないのかもしれない。
 同情だけではなく、ただ村上のそういうところが羨ましくも思えた。
「はい」
 村上は案外素直だった。人を不快にしていることがわかった時、やった本人はそれなりに傷つくらしい。今まであたしはこいつのそんなところに気づかなかった。なんせ村上と話すようになったのは最近のことだ。
「で、あたしに何の用だったの?」
「いや、だからさ、なぁ、なんでミナミなんだよ」
 今度こそ村上は気をつけながら小さい声で言った。
 きっと誰かにあたしのことを聞いたんだろう。成績の良いやつは進学校へ行く、それがスポーツの世界で生きてきた村上にとっては当たり前の論理だった。だからあたしがミナミに行くことに納得がいかないんだ。
 だとしたってあたしが何処に行こうと村上には関係ない。
「だって、一番近いし。その次にニシが近い。ただそれだけ」
「もったいないよ。もっと良いとこ行けるじゃねえか」
「別に良いじゃん。村上は? 何処行くの?」
 あたしは何も聞かないのは失礼な気がした。『空気』を読んだんだ。あたしにとっては村上なんてまったく興味のない男だ。そもそも、あたしが今までに興味を持った男子はたった一人だけ。それも村上とは随分と懸け離れた人だった。
「・・・・・・ミナミ」
「は?」
「だってお前ミナミ行くんだろ。じゃあおれも」
「いや、なんで?」
「なんとなく」
 全く意味がわからん! 村上は何を考えているんだろう。ミナミなんて行ったらあっという間にサッカーが下手になる。サッカー以外にこれといってとりえはない男なのに。
「あっそ。いいんじゃない。まぁあんたの成績じゃ難しいと思うけど」
 たっぷり嫌味を込めて言ってやった。このまま放っておくのが一番だ。
 村上の馬鹿っぷりは止まりそうになかった。
「わかってる、そうなんだ。なぁ、だから今日から勉強教えてくれよ。ミナミ行くために」
「はぁ? なんで?」
「なんでって、だからミナミに行くためだって」
「だから、なんであたしが?」
「だって――」
 馬鹿だ馬鹿だとは思ってたけど、村上がここまでだとは知らなかった・・・・・・。

 あたしが村上と喋るようになったのは一つのことがきっかけで、それもつい最近のことだ。
 村上とは一年の時から同じクラスだった。その時のクラスに中川絵里って女子と並木優って男子がいた。二人はあたしにとって特別な二人だった。その二人がとつぜん死んじゃった。理由は未だにわからない。ちょっとぐらいは世間を騒がす大きなニュースになったけど結局は誰も二人が死んだ理由を見つけることはなかった。そしてあっという間に二人は世間からも学校のみんなからも忘れ去られた。
 それから二年経った今年の秋、あたしは金木犀の香りに誘われて屋上へ向かった。二学期に入ってからの教室の雰囲気は耐え難かった。普段あたしは屋上に行くことなんてない。でもその時だけは二人の死と、屋上と、オレンジ色の小さな花が放つ甘い香りとが、あたしを屋上へと誘い込んだんだと思う。
 校舎の中までいっぱいに香る金木犀があたしを狂わせた。もしかしたら二人にまた会えるかもしれない、あり得ないとわかりながらも奇妙な期待で胸がいっぱいだった。死んだ人にもう一度会えるなんてあまりに馬鹿げてる。馬鹿げてるとわかっていても抑えきれない期待はそんな秋のせいだ、二人がいなくなったのも秋だった。
 扉を開けて屋上へ出ると、秋の清々しい空に金木犀の甘い香りが充満している・・・・・・はずだった。
 すぐにわかった、誰かがタバコを吸ってる。一瞬にしてあたしの胸の内に溢れてた期待は不快感へと変わってしまった。
 どうしてあたしの狂気を邪魔するの? 青空にモクモクと浮かび上がる白い煙があたしを容易く現実へと返してしまった。二人には会えなかった。
「誰だ?」
 低く太い声がした。男だ。どこかのクラスの不良だろう、関わると面倒だ、そう思ってすぐに引き返そうとした。
「真中。なぁ、真中だろ?」
 校舎に入る扉を閉めかけた瞬間、そんな声が聞こえた。振り向くと秋の空を背景にし、村上がタバコ片手に立ち尽くしていた。
「村上じゃん。あんた何やってんの?」
 村上にタバコ? こんなミスマッチはなかなかない。豚に真珠、猫に小判、村上にタバコ。あたしはタバコにどれほどの価値があるのか知らない。きっと村上だって知らないだろう。
「タバコなんて吸っていいわけ? やばいんじゃないの?」
 あたしにとってはちょっとした驚きだった。サッカーしか頭にない男だと思っていた。だから粋がってタバコを吸う村上の姿は意外だった。
「あぁ、沢山は吸わないよ。走れなくなるからな。サッカー、好きだし」
「じゃあ止めときなよ」
 村上はどこか普段の様子とは違った。あたしみたいに金木犀の香りにちょっと頭がおかしくなったのだろうか?
「なぁ、真中、おれがタバコ吸ってたらおかしいか?」
 村上は持っていたタバコを捨て、上履きで火を消した。
「なぁ、おかしいか?」
「・・・・・・わかんない」
「そうか。よかった」
 安堵を浮かべながらも少し不満そうな顔であたしの眼を見ていた。期待していた答えとは違ったけど、恐れてた答えとも違ったみたいだった。安堵と不満はそこにあった。
「何がよかったの?」
「おかしいって言われないで」
 これが村上の恐れてた答え。あたしは村上をからかいたくなった。
「じゃあおかしい」
 村上は一瞬ギョッとして、そのあと笑いながら言った。
「はぁ、なんだそれ、お前こそ、いきなり『じゃあ』とか言って変えるのはおかしいぞ」
「うん」
 あたしも村上と一緒に笑った。乾燥した秋の空に笑い声が響いた。でも、あたしも村上も、本当は何も可笑しくなんかなかった。
 村上はずっとサッカーばかりで、てっきり足で物事を考えるのだと思ってた。ちゃんとした脳味噌もどこかにあって、何かに悩んだりすることもあるんだ。
 そんなの当たり前なのかもしれない。あたしだって今でも並木君のことばっかり考えては悩んでる。馬鹿みたい。だって死んじゃったんだよ。死んじゃった人をいくら想ってもしかたないってわかってるのに、それでも考えちゃう。どうして並木君は死んじゃったんだろ? これって、あたしだけの疑問じゃないはず。村上だって、クラスの他のみんなだってきっといっぱい考えて、悩んだんだ。
 変なの、自分が苦しいときって自分だけが苦しいと思い込んじゃう。みんなそれぞれ悲しみや苦しみを抱えて生きてるんだね。村上が悩んでるぐらいだし・・・・・・と、これは失礼か。
「なぁ、お前、なんで屋上なんかに来たんだ?」
「なんとなく」
 本当のことは言えない。でも、『なんとなく』というのも嘘ではない気がする。
「そうか。なんとなく、か。おれは――」
 聞いてもいないのに話し出そうとする村上をおいてあたしは校舎へ戻ろうとした。普段見れない村上を見るのは楽しかったしもっと話していたかった。だけどあまり長く一緒にいると厄介なこともあるのを知ってた。こいつは本当に馬鹿だけど、とにかくよくもてる。以前、村上とすごく仲の良い女子がいた。その子はもう学校に来ていない。周りに潰されちゃったってわけ。
「じゃあね」
「待てよ!」
 立ち去ろうとするあたしの腕を、急に村上が強く掴んで屋上へ引き戻した。男の人の力がこんなに強いことを知らなかった。握られたところも、引っ張られた腕も痛かった。
「痛い! 何なの?」
 あたしが少し大きな声を出すと村上は泣きそうな顔でこっちを見ていた。
「ごめん」
 あたしの腕を放して言った。こんな風に蚊の鳴くような声で男に謝られたことなんてなかった。男ってのは案外弱いものなんだ、力だけはこんなに強いのに、不思議な感じ。村上がもてる理由もわからなくはない気がした。
「で、なに?」
 さっき言いかけたこと、それが最初から言いたかったんだろうってのはわかってた。あたしはそれを聞くのがどこか怖い気がしていた。だから村上を独り屋上に置いて立ち去ろうとしたんだ。村上はあたしを逃がしてはくれなかった。
「ねぇ、なに? なにか言いたかったんでしょ?」
「いや、うん。おれ、タバコ吸ってて思い出したんだ。なぁ、なんとなくだけどさ。あいつらのこと」
「・・・・・・あいつらって誰のこと?」
 あいつらってのが誰なのかあたしにはすぐにわかった。だってあたしも二人の影を追いかけて屋上に行ったんだから。わかっていながらも、誰のことか聞かないと不自然だから聞いただけ。村上にとっても並木君は友達の一人だった。いや、村上と友達じゃない男子なんていないんだけどね。
「はぁ、あいつらってのはさぁ、だから、あいつらだよ、優と中川絵里」
「あぁ、あの二人ね」
 やっぱり。並木君と中川さん以外に考えられないよね。あたしじゃなかったらそんな風には思わないかもしれないけど。
「あぁ、じゃねえよ! もう真中にとってはあいつらは『あぁ』の一言で済むような存在になっちまったのか? 死んだからってそんな簡単に忘れていいのかよ?」
 村上は悲しみと怒りがないまぜの状態で叫んだ。
「・・・・・・忘れてないよ、あたしは。あたしだけはずっと忘れてない!」
 忘れていいのか、という村上の言葉に腹が立った。あたしは一度だってあの二人のことは忘れたことなんてない。村上よりもずっと強く二人のことを思ってた。
「じゃあ何か言ってくれよ!」
「何を?」
「えっ?」
「何を言えっていうのよ? 二人とも、いいやつだった、とでも言ったらいいわけ? そんなのあの二人にとっちゃ何の意味もないでしょ? もう二人とも死んじゃったんだから!」
「そうだよ。だけどさ――」
「だけど何?」
「だけどさ、何か違うだろ」
「違うのはあんただよ。タバコ吸って二人を思い出したからってどうしてあたしまで巻き込もうとするの?」
「ごめん」
 村上は少し間を置いて言った。何か秘密を打ち明けるかのような様子だった。
「でも、真中、お前は頭良いだろ。二人はどうして死んだんだ? おれにはちっともわかんないんだ」
「あんたは本当の馬鹿?」
「馬鹿だよ。だから教えてくれよ」
「そういうんじゃない。勉強ができるできないとかじゃなくってさ。そんなんで頭の良し悪しなんてきまんないでしょ?」
「そうかもしんないけど」
「で、あんたは本物の馬鹿? それともただ勉強ができないだけ?」
「勉強ができないだけ・・・・・・だといいけど」
「あたしはね、勉強ができるだけ。別に自分が特別に人の心を理解する力を持ってるなんて思ってない。これでわかる?」
「それで? どうして二人は死んだんだよ?」
「あぁもう面倒。あんたってやっぱり本物の馬鹿だ」
「馬鹿でいい、教えてくれよ」
「だから、勉強で教えてもらえるような理由だったら警察だの教師だの二人の親だのがわかるでしょ。そんな人たちでもわからなかったことがどうしてあたしにわかるって言うの?」
「そっか、お前もわかんないんだな」
「当たり前じゃない」
「でも、なんとなく、なんとなくだよ。お前ならわかるかもって思った」
「そう。でもやっぱりあたしにもわかんないよ」
「誰ならわかるんだろう」
「そんなの・・・・・・あの二人だけでしょ」
 秋の晴れた空を眺めながら二人を思い出そうとしたのに、どうしてもそこには何も現れなかった。風が金木犀の香りを中庭から運んできた。あたしは消えてしまったいろんな記憶をもう一度、その甘い香りと一緒に吸えるんじゃないかと思って、目一杯おおきく息を吸い込んだ。強烈な甘さが頭いっぱいに広がって、少しくらくらした。
「中川が好きだった。本当に好きだったんだ。まぁ、おれに限った話じゃないけどな」
 あたしは並木君が好きだった。いや、今でも好きなんだ。村上は一生かかってもそのことに気がつかないんだろう。

 休み時間は終わろうとしていた。それでも村上はしつこくあたしに勉強を教えろと迫ってくる。あたしは授業が早く始まることを願った。
 あたしが唯一苦だった数学、並木君は得意だった。憧れはそんな下らないことから始まる。最初並木君を見た時なんとも思わなかったのに。たまたま席が隣になって、ちょっとだけ数学の問題を教えてもらったことがあるだけなのに。そんなことで人を好きになるなんて、なんだかおかしい。二年のうちに、あたしはすっかり数学が得意になっちゃった。
 きっとみんなそんなものなのかもしれない。足が速いとか、優しいとか、勉強ができるとか。大人みたいに収入とか安定とか家庭的とか料理がうまいとか、そういうことでしか人を好きになれない人間にはなりたくない。ただ下らない事で、ただ人を好きになりたい。自由に人を好きになりたい。檻に閉じこもるのは嫌だ。でも、もう並木君はどこにもいない。
 授業開始のチャイムが教室に響いた。先生が来る様子は一向にない。
「おれもミナミに行くって」
 さっきから同じ言葉を続ける村上を、あたしはもはや相手にしなかった。それでも懲りずに村上は絶えず同じ言葉を繰り返している。
「なぁ、おれもミナミに行くって。だから勉強――」
「村上君と真中さん、ちょっと静かにしてくれない?」
 クラスメイトの女子がものすごい形相であたしを睨みつけてきた。それも一人や二人じゃない。村上がうるさいことは許せても、あたしに対して話しかけているのが許せないんだ。
 嫉妬・・・・・・あたしにはその気持ちがわからなくもない。あたしも中川さんにすごく嫉妬してた。中川さんが綺麗だったからじゃない、人気者だったからじゃない。ただ並木君が中川さんのこと好きだって事、それだけが羨ましかった。
 彼女たちの村上に対する『好き』とあたしの並木君に対する『好き』は同じものじゃない。そう思いたかった。あたしの気持ちだけは特別? そんなわけないよね。きっと彼女たちだって同じように苦しいんだ。ただ、あたしの場合と違うのは、その対象がちゃんと生きてるってこと。
「ごめんなさい」
 あたしはすぐに謝った。村上のほうはその女子の言葉を無視していた。
「おれ、もうサッカー続ける気ないから。だから勉強教えてくれよ!」
 一瞬、教室に沈黙が走った。プロのユースチームからもオファーが来るような村上が高校でサッカーをやらない、これは誰にとっても驚きだった。
「おい! どういうことだよ!」
 今度はクラスの男子、特にサッカー部の奴らが反応した。数人が立ち上がって村上のところに迫ってきた。
「馬鹿かよ村上、お前は絶対に才能あるじゃねえかよ。県選抜にまでなった奴がどうして止めるんだよ!」
「そうだよ、高校で選手権に出たいって言ってたじゃん。そしたらお前ならプロになったっておかしくないんだぞ」
「馬鹿なことは言うなよ村上。自分の言ってることわかってんのかよ。お前にはサッカーしかないじゃねえかよ」
「何のためにクラブの誘いを全部断ったんだよ? 高校でサッカーやるためだって言ってただろ!?」
 村上は黙ってうつむいていた。周囲の声が自分に届かないように殻に閉じこもろうとしてた。
 そっか、村上は自由になりたかったんだ。あたしは初めて村上の気持ちがわかった気がする。誰かからこうやって『自分』を決め付けられるのが嫌でいやで堪らないんだ。檻の中から出てくるいくつもの手が、村上を縛り付けてる。その手から逃れようと必死でもがいてる。
 サッカーしかないという檻に誰もが村上を閉じ込めようとする。きっと今まではそれで良かった。でも今は何かが違うんだ。こいつはそこから出るための鍵を探してる。それが『勉強教えてくれよ』ってことだったんだ。どいつもこいつも、『才能ある村上』が羨ましいばっかりに、その才能の中に村上を閉じ込めることばかり考えてる。
 村上が可哀想に思えてきた。勉強に縛られた人間たちから逃れるために選んだ手段が勉強だってのは、ちょっとした村上なりの皮肉だろうか。だとしたら、こいつも結構馬鹿じゃないのかもしれない。
「村上、行こ」
 あたしは村上の手を引いて教室を出た。あたしたちが授業をサボるのは決まりきっていた。先生はまだ教室にいなかったけど、授業時間は始まっていた。そんなことは少しも気にかけず、とにかく歩みを進める、もちろん屋上へと向かって。

「あんたのこと、ちょっとわかった気がする」
 屋上は寒かった。もう冬だ。
「あぁ、うん。そぉ」
 村上は放心状態だった。心を外に投げ出さないと自分を保てなかったんだと思う。堅牢な壁を周囲に巡らせないと不安と期待で押し潰されそうになる。一番大事なものだけは守らないといけない。『自分』が何なのかわからないときは特にそうだ。小さな小さな『自分』を周囲の悪意(あるいは善意?)から守らなきゃいけないんだ。
「自分で自分を作りたかったんでしょ? 自分で自分を見つけたかったんでしょ? 周りのやつらなんかに決められるのは嫌だったんでしょ?」
 村上は今を必死で生きようとしている。どうしてだろう? あたしはあの二人が死んじゃってから全てが信じられない。どれもこれも嘘みたいなんだ。誰もが口にする夢とか、希望とか、愛とか、そういうものが世界を綺麗に彩るための単なる虚飾に過ぎないんじゃないかって思えた。
 村上は正面からそれを信じて生きようとしてるんじゃない? 自分自身の一番大切なものを、人から押し付けられたものじゃなくって、自分で見つけたもの、作り出したもの、磨きだしたもの、そういうものを信じたいんじゃない? それでもって、自分のこれからの人生を作っていこうとしてるんじゃないの?
 じゃああたしは? あたしだって信じたいよ。信じたくって信じたくってどうしようもない。だけど二人は死んじゃったんだ、確かに二人は好きあっていたのに。愛が二人にとって希望となることはなかったってことでしょ。あたしの並木君への愛情なんて、そんな二人の想いみたいに素敵なものじゃない。死んだ人への愛なんて単なる自己満足だよ。あたしはずっとそこに縛られて、苦しみにただ独りで浸ってるだけ。あぁもう嫌んなる。
「あんた、結構いい。魅力的だよ」
 村上はずるい。どうしてここまで真っ直ぐなんだろう。ずるすぎるよ。
「・・・・・・あぁ? どういう意味?」
 村上は今にも泣きそうだった。あたしだって泣きたいのに。村上はあんまり真っ直ぐすぎてすぐ壁にぶつかって、今にも挫折しそうなんだ。挫折して、そんでサッカーに戻るのが村上にとっては一番いいのかもしれない。あるいは壁をぐるり回って同じ道に戻るってのもいいかもしれない。どんな道にせよ村上はやっぱり突き進むんだ。
「生き方が魅力的だって言ってんの。あんた、それほど馬鹿じゃなかったんだ。馬鹿なのはあたしかも」
「あぁ? おれは馬鹿だよ。勉強できない。ボールを蹴ること以外にできることなんてない。サッカーだけだ。だから全部が嫌になるんだ」
「そう。そっか、やっぱ馬鹿かも」
「はぁ?」
「あんた、サッカーがあるってのはわかってるんでしょ? 考えてみなよ、他の皆はあんたみたいにサッカーすら無い」
 そう。皆は何も持ってない。村上は確かに才能を持ってる。それがこいつのこれからの人生にどんな影響をもたらすのかは知らない。だけど、確かなモノを持ってるんだ。それでも真っ直ぐ生きたいなら、その才能で生きるのが一番だ。
「そうか・・・・・・おれは贅沢なのか? 贅沢なんだな?」
「そうだよ。でも、あんたみたいに皆は真っ直ぐにぶつからない。怪我するのが怖いから。痛いのがいやだから。傷つきたくなんてないから。あんたはその分、馬鹿だけどぶつかって怪我して傷ついて生きてる。ずっと――」
 檻の中で満足して自慰行為に耽っていない。皆が怖くて信じられないものを裏切られることを恐れずに、いや恐れながらも、傷つきながらも生きている。
 村上の心は漸く戻ってきた。もう泣きそうとは言えない。何故ならすでに泣いていたからだ。顔を涙でぬらして、悲しみや苦しみを隠そうともせずに泣いていた。
「男が泣くな」
 あたしがそう言うと、村上は声をあげて泣き出した。ひどくなるばかりだ。本当に泣きたいのはあたしなのに。どうして村上はそういう『空気』を読めないのだろう。気を利かして女の子に泣かせてくれてもよさそうじゃないか。
「・・・・・・お前は、お前はおれの気持ちがわかるのか? わかってくれるのか? 苦しいのがお前に届くのか? なぁ、そうなのか?」
「さぁ?」
 わかるかどうかなんて、わかんない。わかった気はするけど。そんなの重要じゃない。ただあたしは村上をわかりたい。
「さぁってなんだよ。お前は頭いいんだろ?」
「またか。頭いい頭いいって・・・・・・。あんたは自分がサッカーだけって言われて嫌な思いしたんじゃないの? それでどうしてそんなことが言えるわけ?」
「どういう意味だよ、なぁ?」
「あぁーもう、やっぱ馬鹿。あたしだって良い気持ちはしないかもしれないでしょ、頭がいいって言われて。そこまで考えてから言いなさい」
「あぁ、そうか。そうだな、ごめん」
「まぁいいんだけどね。頭いいって言われても、あたしは悪い気しないし」
「はぁ、なんだよそれ」
 村上は涙で濡れた顔を上げ、冬空みたいな清々しい透明な笑顔で答えた。
 沈黙が訪れた。ひんやりとした空気が身体の芯まで沁みていく。それはどこか沈黙に似ていた。

 どれくらい時間が経っただろう。授業が始まってから出てきた。まだ授業は終わってない。四十五分は過ぎてないことだけは確かだった。
 冷たい冬の風があたしたち二人に向かって吹き付けてきた。
「おい、寒くないか?」
「寒い」
 村上は着ていた学ランをあたしの肩からかけてくれた。村上だって寒いはずなのに。
 きっと寒さなんかよりも悲しみや苦しみのほうがずっと辛いんだ。村上の苦しみや悲しみがあたしにまで伝わってくるような気がする。届いてくれればいいな。みんな届くって、伝わるってあたしは信じたい。信じること以外にあたしにできることなんてない。
「あたし、今、ほんのちょっとだけわかったかも。なんで二人が死んだのか」
「えっ?」
 そうだ。きっとそうだ。
「苦しかったんだよ、二人とも」
「どういう意味?」
「人を好きになるってさ、すんごく幸せだけどね、すんごく悲しくて苦しいの」
「なんで好きになると悲しくて苦しいんだ? それに、それと二人がどういう――」
「二人は愛し合ってたの」
「はぁ? そうなのか?」
「そう。それは確かだよ。並木君が死んじゃう前、あたしは彼と話したから」
「何を?」
「何って・・・・・・何をだろ? あたしは並木君に聞きたかったの。どうして中川さんは死んじゃったのって」
「それで、優はなんて言ってたんだよ?」
「あたしね、並木君に言ったの。並木君が中川さんのこと好きだってのも、中川さんが並木君のこと好きだったってのも知ってるんだって。そしたらね、並木君はこう言った。お前なんかに何がわかるんだって。僕と絵里の何がわかるんだって。あたしは、あたしはただ、並木君が好きだっただけなのに」
「・・・・・・そうか」
「並木君も中川さんもね、時々おんなじ顔をしてた。二人ともシンクロしたみたいに悲しい表情で遠くを眺めてた。二人は愛の悲しみを知ったんだよ。幸せだったんだ。だから死んじゃったんだよ。決して越えられない壁に気がついちゃったってわけ」
「越えられない壁って何?」
「あんたにはずっとわからないと思うし、わからなくていいと思う。あたしだって、ちょっとしかわかんないもん」
「どうして? おれだってわかりたいよ!」
「いいの。そう思えればそれで十分なの。あんたは信じてるでしょ、世界に溢れるキラキラしたものを。みんな理解しあって、わかりあって、手を繋げるんだって信じてるでしょ?」
「何が言いたいんだよ?」
「だからね、それで良いんだってこと。それが一番大事だってこと。信じるしかないの。信じたいと願うしかないの。そういうものがあって下さいって祈るしかないの」
「どうしてそれが二人の死と関係あるんだよ!」
「二人は二人の間にだけある綺麗なもの、キラキラしたもののために死んじゃったんだと思う。世界にはないもの、二人しかもってなかったもの、時間なんかに縛られないもの。二人が死んじゃったのはすっごく悲しいよ。でもね、二人は決して不幸だから死んだんじゃない。それだけは村上も知ってたほうがいい。幸せで幸せで、どうしようもなく幸せでね、幸せに押し潰されちゃったんだよ」
「おれにはわかんねぇよ。なんだよその綺麗なもんって。幸せならもっとずっと長く生きたいって思うんじゃないのか? そういうもんじゃないのか?」
「そうね。あたしもそう思う。だけど二人は違かった。ただそれだけ」
「わかんねぇ」
「うん」
 二人を思うと苦しくなった。胸に鋭い痛みが突き刺さるような感覚だ。あたしが並木君を想えば想うほどその痛みは鋭く胸の奥の方をえぐる。それでも信じなきゃ、信じなきゃいけないんだ。あたしたちが生きるには苦しみを乗り越えて信じるしかないんだ。
 吹き付ける風は何度も何度も重なり合って丹念に冬を形作っていく。あたしは乾いた冷たい空気に身震いした。秋ももう終わってしまったんだ。今あたしたちに吹き付ける風は並木君や中川さんのところまで届くのかな。届いてくれればいいのに。じゃないと・・・・・・あたしは信じられなくなりそうだよ。

 もう教室では数学の授業が始まっているはずだ。いくら先生が遅れていたからとしてもまだ来ていないなんてことはないだろう。苦手だったはずの数学は、並木君が死んじゃってからいつのまにか得意になってた。
 苦しくて悲しくてどうしようもない時、いつも勉強に逃げてたから。並木君とのほんのわずかな思い出、数学を教えてもらったっていう思い出に逃げ込んでたから。並木君のせいであたしは数学が得意になっちゃったんだよ。
「赤い」
「えっ?」
 あたしはすぐそばにいる村上の存在を忘れていた。あたしの中にいるのは並木君だけだった。それが村上の声に邪魔されて見えなくなった。並木君はどこに消えてしまったのだろう。
「赤いのが見える。お前の胸のあたり」
 あたしの胸に赤いのが・・・・・・? そっか。
「なに胸見てんのよ」
「あっごめん。なんとなく、別にさ、嫌らしい気持ちじゃなくって」
 そうだったんだ。大事なことを忘れていた。
「思い出した。並木君が死んじゃう前に話した時ね、並木君の胸、赤くなってた。ワイシャツの下から血が滲んでるみたいだった。すっごく薄っすらだったから気のせいかなって思ったけど・・・・・・」
「お前の胸も血が滲んだみたいになってるぞ」
「あれ? うそ、どうして?」
 胸から血が滴り、ブラウスが赤に染まっていた。
 血がどくどく流れていく。脈にあわせて血が噴き出す。これは並木君が流した血と一緒だ。並木君が流してたのは血だけじゃなかったんだね、苦しくて、悲しくて、たくさん涙を流してたんだね。わかってるつもりでいたけど、あたしはちっともわかってなかった。やっぱり、人が人の苦しみや悲しみを全部理解するなんて無理なのかな?
「痛い、痛いよ」
 血は次々に溢れてくる。村上は言った、血が滲んだみたいになってるって。でも違う、溢れ出してもう血だらけなのに村上には見えてないんだ。村上にはあたしの苦しみや悲しみが届いていないの? どうして? こんなに近くにいても届かないの? あたしが並木君の気持ちを受け取れなかったから? だからあたしの悲しみも村上には届かないの? どうして? 痛いよ。傷が痛い。見て欲しいのに、気づいて欲しいのに、村上には届かないの?
「おい、大丈夫か、どうしたんだ?」
 胸から流れる血と同じように、あたしの眼からは止め処なく涙が溢れてきた。堰を切ったような涙は気持ちとは関係なしに、あたしの顔中を濡らしていく。
「ぅあっくぅああああう」
 あぁもう変な声が出ちゃった。苦しいよ。悲しいよ。ずっとずっと、こうやって泣きたかったんだ。中川さんが死んじゃって、並木君が死んじゃって、あたしはそれからずっとこうやって泣きたかったんだ。誰かに苦しみを届けたかった。でも、あたしがこんなに流してる涙も血も、目の前にいる村上にすら届かないの? どうして?
 その瞬間なにか温かいものに包まれた。あたしは眼をつむった。
 小さい頃に戻ったみたい。テレビを見てたらリビングで寝ちゃって、よくお父さんに寝室まで運んでもらったっけ。そんな時のぼんやりと宙を漂うようなあの温かな感覚に似ている。お父さんの温かい腕の中で夢と現の狭間を彷徨いながら浮かんでるみたいで気持ちよかったなぁ。あぁあったかい。お風呂にも似てるかもしれない。身体がぽかぽかして軽くなる感じ。
 泣いて、泣いて泣いて泣き続けて、このまま泣き尽くして、でもって胸の傷から血を流しきって、もう死んじゃってもいいや。なんだか幸せ。あったかいものに包まれてこのまま死んじゃうのが世界で一番幸福なことかもしれない。あぁ、もう幸せ、死にたいよぉ。胸の内がキラキラしたものでいっぱいになってる気がする。幸せだよ。もう死んじゃってもいいんだ。温かいものと自分との境界が溶けて少しずつ一つになってく。血があらゆる隙間を生めて、涙がそれを温めて、全部が一つになる、あたしは世界と一つになっていく。これは単なる錯覚なのかな。どうしよう、あたし死んじゃう。このまま死んじゃうんだ。血も涙もからして、疲れ果てて、燃え尽きて、もう死んじゃうんだ、それで、最後に残るのは、あたしの胸の内で綺麗に光ってるキラキラだ。でも・・・・・・それっていったい何? 知ってる、それは形の無い物でしょ、眼には見えないものでしょ。そういうことは知ってるよ。だけどさ、それっていったい何なの? 並木君、教えて、ねぇ、あたしが死ぬ前にそれが何なのか教えて? 並木君もそのキラキラを守るために死んじゃったんでしょ、中川さんも同じでしょ? 並木君、中川さん、教えてよ、あたしだけ一人ぼっちにしないでよ!
「おいっ! 真中! 大丈夫かよ! おい、真中!」
 遠くから声が聞こえてくる。もう眠りたいのに。温かいものに満たされてるのに。誰かがあたしの眠りを邪魔しようとしている。こんなに幸せなのに。ねぇ、並木君、中川さん、そっちに行っても良いんだよね? 悲しみと苦しみが生んでくれたこの温かいものの中で眠っても良いんだよね? そしたらみんなみんな一つになれるんだよね?
「馬鹿! おい、お前まで死んじまうのかよ! 馬鹿! おれだけ一人残してどっか行っちまうなんてやめてくれよ!」
 誰の声だろう? あたしの胸の奥の、ずっとずっと奥の深いところから聞こえてくる。誰の声? ねぇ、あなたは誰? 並木君じゃないよね、中川さんじゃないよね、あなたは誰? あたしの苦しみはあなたに届くの? あたしの悲しみがあなたには聞こえるの? ねぇ、答えてよ。
「なぁ、おれを一人にしないでくれよ。なぁ、起きてくれよ!」
 あぁそっか、村上の声だ。近くに村上がいるんだ。どうしよう。戻ろっかな。あいつと一緒だと楽しいし。なんだか気持ちいいし。どうしよっかな。
「勉強教えてくれるって約束したじゃんか! 起きてくれよ!」
「・・・・・・してない」
「真中! 良かった。良かった」
 眼を開けると、すぐ前に泣き崩れてぐしゃぐしゃになった村上の顔があった。やっぱりこいつはどこまでも真っ直ぐだ。
 あたしはちょっとがっかりした。温かくて気持ちいいこいつの腕の中で眠るのも悪くなかったのに。
「してないよ。約束」
「いいよ、してなくて。生きててくれればいい。おれを一人にしないでくれ」
 もしかしたら、こいつは二人が死んでからずっとあたしと一緒にいてくれたのかもしれない。きっと苦しいのはこいつも一緒だったんだ。同じ苦しみや悲しみの中を生きてきたんだ。
「死なない。あたしは二人みたいに死なないよ」
 村上はあたしをじっと見つめている。まだ村上の温もりがあたしに伝わってくる。
 村上の眼の中にはあたしの姿がぼんやり映し出されていた。あたしはその眼から溢れる涙の滴に吸い込まれ、村上の頬を流れ落ち、弾けて消えた。
「あたしさっき、死んでもいいやって思った。けど、違った。あたしも信じたいもん。胸の内のキラキラしたものは死ななくたって守れるんだって。死によって時間から解き放たれて永遠の中に輝くわけじゃないんだ。輝いてるものは、死んでも生きてもずっと輝いてるんだよ。涙も血も全部涸らして作ったキラキラはきっと遥かにあたしたちのそれより綺麗だと思う。並木君のも、中川さんのも、あんまりそれが綺麗だったからどうしても守りたくなっちゃったんだよ。でもね、あたしは生きるよ。信じて生きるの怖いけど、それでも生きる。生きてたって守れるんだって信じなきゃ生きられないでしょ? あたしの身体が言うの、『生きたいよ、生きたいよ』って。あたしの心がいくら涙を流したって、やっぱりあたしは生きなきゃ。あたし、とにかく生きたいの、ずっとずっと信じて生きたいの。並木君も中川さんも幸せだったと思うよ。死んじゃっても幸せだったはず。いや、こう言ったほうがいいかな、二人は幸せだったから死んじゃったの。だけどさ、幸せでも不幸でもやっぱり身体は『生きたいよ』って言うんだよ。それをあんたが教えてくれた気がする。あんたの温もりがあたしに教えてくれたの」
「おれが?」
 意識は完全に戻ってたにもかかわらず、村上は決してあたしを離そうとしなかった。きっと離してしまった途端にあたしが消えてしまうとでも思ってるんだ。
「そうだよ。今あんたが教えてくれた。こうやって抱きしめてくれるとね、あんたの声が自分の胸の奥から聞こえてくるの。あたしとあんたを隔てる冷たい壁をね、あんたの熱が溶かしてくれるの。こうやってくっついてると、一つになったみたいでしょ? だからね、永遠なん――」
 言い終わらないうちに、あたしの口は村上の唇で閉ざされた。ちゃっかりキスなんてしやがって。
 もっともっと二人の境界が溶けては消えていった。
「ぷはぁ」
「ぷはぁじゃねえよ、ちゃっかりキスなんてしやがって!」
「あぁ、ごめん。なんか、おれ、お前のことが好きだ」
「はぁ? 順序が逆だよ。普通は好きだって言ってからキスするもんだ。まったく、これだから村上は――」
 また閉ざされた。二度目だ。まぁ、悪くはない。
 きっと、キスしても、裸で抱き合っても、なんやかやして繋がっても、二人の間を隔てるこの冷たい壁が完全に溶け去ることなんてない。人と人とを隔てるものがすべて溶け去るなんてことはありえないんだと思う。だからあの二人はそんな世界の中で生きられなかった。あたしの胸の傷、彼らの胸の傷、それでも伝わらないものがあるってのを知ってしまったからこそそれ以上は生きられなかった。でも、信じてみようじゃないか。あたしだってあの二人みたいに知ってしまった。それでも信じてみる。
「ぷはぁ」
「また・・・・・・。その、ぷはぁってなんなの?」
「だって、ドキドキして、うまく呼吸ができないから」
「はぁ」
「あ、赤くない」
 胸から流れ出た血はいつのまにか消えていた。
「ホントだ。もう痛くない」
 何はともあれ、あたしも村上もとんでもないほど能天気なんだ。能天気じゃないといけない。繊細な愛は死を招くんだって、あの二人が教えてくれた。あたしたちは能天気に生きなきゃ。ただ楽しいことを楽しんで、嬉しいときは笑って、悲しいときは泣いて、そうやって二人で生きていく。もしかしたら村上とそのうち離れ離れになることもある。その時はそのときだ。そんくらい能天気になればいい。根底では一番綺麗なキラキラしたものを信じながらも。
「なんだったんだ。さっきシャツに滲んでた赤いのは」
「血だよ。心の傷から流れる涙なの。きっとこれ、もともと中川さんの胸にあった傷だよ。それがね、並木君に伝わって、今になって二年越しであたしのところまで来たんだと思う。って、これは村上にはわかんないよね」
「はぁ、なんでだよ、おれにだって――」
 今度はあたしから村上の口を塞いだ。愛とか、真実とか、夢とか、希望とか、二人の間でキラキラ光るものが外に零れることがないように、あたしは丁寧に唇を合わせた。

心傷風景②

 ①のあとがきで、この物語は死と愛のリレーだと言う風に書きました。でも結果としてそのリレーは再び本来的な生と愛のリレーに反転しました。

 やっぱり駄目だ、って思ったんです。幸福に押し潰された死だとしても、愛による死だとして、死を肯定してはいけないのではないかと思いました。

 正直言って根拠はありません。死をあまり否定的に捉えすぎると生そのものを否定的に捉えることになりかねません。だからこそ愛を生と死の両面から書きたかったのかもしれません。自分でもその辺がいまだによくわかりません。

 基本的に生きるからには愛や真実と言った綺麗ごとにも思えるような言葉を信じなければいけないものです。それなしに人は生きられません。①で二人が死んでしまったのは、大きな愛が二人の間にあって、それを世界に溢れてる嘘や偽りから守るために死を選んだんです。②での二人は世界に溢れてる愛や真実をどうしようもなく疑ってしまうけど、それでもなんとか信じたい、そういう気持ちを書いたつもりです。

 幸福の絶頂で死ぬことは悪くないというネガの部分が①で、幸福の上に更なる信頼を重ねて生きようとするべきだというポジの部分が②です。それが良い具合に対象をなして大きな愛を描けていれば、と思っています。
 私自身はどちらでも良いのだというスタンスです。生きるのも良い、死ぬのも良い。ただ、やっぱりとりあえず生きれば、というところでしょうか。

 信じることは実に難しいことです。

 この物語で村上は中川絵里と並木優の死と直面するまでは純粋無垢の存在で、何一つ疑うということを知りませんでした。無垢であったゆえに彼はその死に大きな影響を受け、自分のアイデンティティを問い直したのだと思います。

 信じると疑うは対になっています。かと言って、必ずしもどちらか一方しかできないわけではありません。
 人は時に信じ、時に疑います。そこを自らの徹底した意志によって片方に決めてしまう必要なんてないんです。優柔不断やいい加減は生きる上で非常に重要なんだと思います。

 だからこそ最後に真中は能天気が大事、と悟ります。

 能天気だけど、それでいて愛とか真実とか永遠とか、そういうものを信じる、それが生きるために必要なことだ、生きていることが私たち自身に求めることだ、という結論に至るんです。

 もしかしたら、これが私自身の結論なのかもしれません。そしてあたしは再び、この自身が出した結論を疑い始めるわけですが・・・・・・。そうして問いとその答えを出す循環は死ぬまで続くんですね。
 不毛にも思えますが、時々それに徹底的に苦しんで、悲しんで、時々それを徹底的に忘れて、能天気で生きる、そんなんでいいんではないでしょうか・・・・・・と、そして三度循環へ・・・・・・。

 最後までお読みいただきありがとうございました。

 

心傷風景②

少年少女の青春もの。死んだ二人の男女を想う元クラスメートの二人の間に生まれる新しい恋。孤独や悲哀、死を乗り越え、新たに『生』に向かう物語。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-10-27

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