展望台
すぐそばには川が流れていた。
ケンはその流れの音に耳を澄ませた。
早く行かないとおいしい魚を取り逃がしてしまう、と彼は思っていた。
けれど、思うように踏ん切りをつけることができないのだ。
彼は人生の選択を迫られていた。
と言っても、命に関わる深刻なものではない。
ある女の子から受けた愛の告白を受けるべきか否か悩んでいるのだった。
ケンには他に好きな娘がいた。
その娘に自分の気持ちはまだ告げていない。
ケンが密かに想いを寄せているリサは、ケンに告白をしたスミの友だちだった。
彼は、スミの告白を断ることでリサとの距離も離れてしまうのではないかと恐れを抱いていた。
しかしスミと付き合うことになれば、リサと付き合う希望は断たなくてはならない。
かと言ってリサに告白する勇気もなく、ケンは悩んでいるのだった。
スミもなかなか魅力的な女性だった。
逃してしまうにはおしい魚なのだ。
昼にはキャンパス内にあるカフェでスミと会うことになっている。
それでケンは一人で静かな小川に出て、考えを巡らせていたのだ。
でもそれも、間もなく時間切れとなる。
待ち合わせの時間からすでに五分が過ぎているのだ。
彼女を待たせるにしてもせいぜい十五分が限界だろうと、彼は考えていた。
小川の流れの中にコインが落ちていた。
ケンはそれを拾い上げ、回転をつけて放り投げると、空中でキャッチした。
表が出たら付き合う。
裏が出たら断る。
そう心に決めて、彼は手のひらを開いた。
待ち合わせ場所のカフェに行くと、意外な展開が待っていた。
いや、こんなことはよくある話なのかもしれない。
スミの隣にはリサが座っていた。
彼はまず遅れたことを紳士的に謝った。
それから走って乱れた髪を指先で整えた。
リサがいたことで動揺をしていたが、それは表に出さないように努めた。
ケンは飲み物を注文すると、上着のポケットの中でコインを転がした。
ついさっきこのコインによって出した答えはキャンセルとなり、彼は再び振り出しに戻った。
やはりリサは美しい、ケンは思った。
リサは彼にとって理想の女性だ。
スミはリサの隣で恥ずかしそうに俯いていた。
ケンは密かにリサとスミを見比べた。
「リサ」彼は心の中で囁いた。
スミは、ケンがリサに気があることを知っていた。
そんなことは始終ケンの行動を観察しているスミなら当然だった。
それでも彼女は一縷の望みに賭けていた。
そのためにリサを同席させたのだ。
スミの考えでは、目の前にリサがいれば、ケンは自分の申し入れを無下に断ったりはしないだろうという読みだった。
ケンは人からどう思われるかの体裁をいちばんに気にする男なのだ。
リサはケンのことを何とも思っていなかったが、どちらと言えばスミがフラれることを願っていた。
何ということはない。
リサはただスミを上手に慰めて、いい友だちを演じてみたいだけなのだ。
一見、とても静かな時間が流れた。
それぞれが相手の出方をヘビのようにじっと伺っていた。
頭上では小鳥たちがかわいらしい声でさえずっていた。
キャンパスはまるで森の中にあるように、豊かな自然に囲まれていた。
うさぎやリスたちもよく姿を見せた。
ケンはカフェオレの入ったカップを唇に押し付けた。
自分が話を切り出すべきことは彼にもわかっていた。
しかし、その口に出すべき言葉が決まっていないのだ。
頭上では小鳥たちが流暢に愛の言葉を語り、歌っていた。
鳥にとって、それは主にオスの役割だった。
オスはメスを気持ちよくうっとりとさせることが、神から与えられた仕事なのだ。
それにはまず舞台づくりが欠かせなかった。
その小鳥のオスはクロといった。
彼は、自分を最も美しく見せるシチュエーションを探して飛び回っていた。
それにはいくつかの条件を満たすことが必須だった。
まずは踊りやすい平らなスペースが十分にあること。
背景は自分の羽根に美しさが引き立つように、シンプルかつ対比色であること。
そして観客席となる止まり木は、舞台を見渡せるように遠過ぎず近過ぎず、絶妙な位置で、絶妙なカーブを描いて配置されていなければならない。
さらにはメスの繊細な足にフィットするように、絶妙の太さ、絶妙なクッションが効いていなければならない。
それから、高音の歌声が反響するスタジオのような環境。
それから、彼女たちのオヤツになる木の実もなくてはいけない。
理想を上げたらきりがない。
クロはそういった条件に叶う場所を時間をかけて吟味した。
ケンはポケットの中でまだコインを弄んでいた。
彼はまだ何も言葉を発していない。
そのことにしびれを切らして、結局口を開いたのはリサだった。
「ねえ、何か言って」
「そうだなあ」
彼はのんびりとした口調で言った。
スミは泣きそうな気持ちで次の言葉を待った。
「なあ、これから三人でドライブに行かないか。車があるんだ」
そう言うとケンは、コインが入っている同じポケットから車のキーを取り出し、テーブルの上に置いた。
スミとリサは顔を見合わせた。
「いいわねえ」と言ったのはリサだった。
スミはリサの腕にすがりついて、それを止めさせようとしたが、リサはそれを肘で押し返した。
こうして三人はドライブに行くことになった。
リサはスミを助手席に座らせようとしたが、スミは必死で首を振り抵抗した。
スミにしてみれば、こんな状況でケンと何を話したらいいのか見当もつかなかったのだ。
「あなたは運転手。私たちはお客様」
リサがそう言って、二人は後部席に収まった。
ケンの車は今どきの大学生が乗っているような軽薄な車ではなかった。
もっと上質で重厚なセダンだった。
それはまったく彼の好みではなかったが、父親から黙って拝借してきたのだから文句は言えない。
彼自身はあまり上質とは言えなかったが、家は金持ちだった。
自分用の車も買い与えられていたが、たまたま運悪く修理に出していたのだ。
でも、それが功を奏したようだ。
彼女たちはまるで特等席に案内されたように、ぴんと革の張った上等なシートにふわりと身を沈めた。
「ステージはこれで完璧だ」
舞台となる地面から最後の枯葉を弾き飛ばすと、クロはそう思った。
観客席の止まり木をヘビの皮で磨き、赤い花とベリーで飾り付けをして、身繕いをすっかり整えてしばらくすると、そこへ珍客がやってきた。
見たことのないかわいい小鳥だった。
彼女たちは止まり木にとまるのではなく、ちょこりと腰をかけると足をブラブラとさせてみせた。
「求愛のダンスの場に二羽でやってくるとは珍しいな」クロは思った。
しかし、メスをよろこばせるのはオスの定めだ。
彼は迷うことなく、ダンスを開始した。
まずは歓迎の意を表して、それぞれの小鳥たちへ順に翼を差し伸べた。
それから宝石のように輝く熱い視線。
一羽の女子にはサファイアのようなブルーの瞳で。
もう片方の女子にはエメラルドのようなグリーンの瞳を。
クロは分け隔てすることなく、完璧なダンスを二羽に向かって披露した。
彼女たちはたまに顔を見合わせてクスクスと笑った。
その様子をケンはバックミラー越しに覗いた。
二人は顔を寄せてささやき声でたのしそうに話をしている。
その声はさざ波のようにケンの耳元をくすぐって心地よくはあるのだけれど、何を話しているのか聞き取れない。
彼女たちの会話に加わろうにも、振り返って大きな声で話しかけると、途端に二人は口をつぐんでしまう。
仕方なくあきらめて前に向き直ると、彼女たちはクスリと笑いまたおしゃべりを再開するのだ。
こうして彼は完全な運転手に成り下がってしまった。
「まったく、女ってやつは」とケンは思う。
まあ、いいさ。
さっきのカフェでの緊迫した空気よりはずっといい。
それよりこの後のことを考えよう。
一旦は先延ばしにすることに成功したが、どのみち彼は何かしらの答えを彼女たちに伝えなくてはならないのだ。
ケンはまたポケットの中でコインを回転させた。
その頃、クロは一心不乱に踊り続けていた。
飛び散る汗が、彼の黒い羽をさらに美しく艶やかに輝かせていた。
彼は胸にある螺鈿細工のような模様に光を反射させ、彼女たちの目を引き寄せた。
それはネオンサインのように蛍光色に光り、尚且つパネルをめくるようにピンクやグリーンやイエローに色を変えるのだ。
漆黒のボディの中に浮かび上がるそれは、すっかり彼女たちを魅了した。
さらにクロは自由自在に体の形を変え、彼女たちが目を離す隙を与えなかった。
ある時は水中を泳ぐタコのように。
ある時は暗闇に現れる未確認飛行物体のように。
ある時はふわふわと舞う蝶々のように。
愛を表現するハート型のように。
クリスマスツリーのように。
そのたびに彼女たちは目を見開き、顔を見合わせ、クスクスと笑うのだ。
「それにしても不思議な娘たちだな」クロは思う。
彼女たちはまるで人間の手のように、羽の先でベリーを持って頬張っているのだ。
今朝ケンが、断りもなく借りてでも父親の車に乗ってきた理由はこうだった。
もし自分が何かしらの答えを出したとして、スミかリサのどちらかを得られた場合、やはり車は必需品になると考えたのだ。
そう思うと、車内が広くてサスペンションの良い父親の車の方が好都合だったのかもしれない。
しかし今は、スミとリサの二人がそのシートを占領している。
まあ、いいさ。再び彼は思った。
日が暮れるまでには、まだ少し時間がある。
クロのダンスはクライマックスを迎えていた。
さあ、ここからが肝心なところだ。
手旗信号のように顔の前で両方の翼を交互にかざして踊り続けながらも、彼は羽の間から二羽の様子を伺っていた。
どちらの娘の方が脈があるのか。
それは、自分の子孫をこの世に残せるか残せないかの重要な観察だった。
「決めた!」
クロは確信を得ると、一気にフィニッシュに持ち込んだ。
クロは回転した。
高速で回転した。
コマよりも早く。
もっと、もっと早く。
前方に突き出してクロスした翼がスカートの裾のように円を描いた。
くるくるスカートが広がったり、しぼんだり。
見ている者の目が回るほどに。
そうして回転しながら、クロは目当ての女の子の方へ体を傾けていった。
ネオンサインがパチパチパチ。
くるくるくるくる。
「それっ!」
決めのポーズを取るか取らないかのうちに、クロは翼を広げ、目当ての彼女の体の上に飛び乗った。
しかし、彼女たちはあっと言う間に飛び立って逃げてしまった。
彼は回る目で彼女たちが小さくなっていく大空を見上げた。
まあ、いいさ。彼は思う。
全力は尽くしたのだ。
車はのろのろと煮え切らない様子で、いくつもの急坂をなぞり、峠に向かっていた。
後部座席の女子たちは頭を寄せて、すやすやと眠っていた。
「いい気なものさ」ケンは思った。
さんざんおしゃべりをして、疲れて眠ってしまったのだ。
ケンはバックミラーで彼女たちがすっかり寝入っていることを確認すると、静かに速度を落とし、道の脇に車を止めた。
そうして後部座席を振り返り、彼女たちのかわいい寝顔を見比べた。
「よし!決めた!」ケンはようやく決心した。
高望みをするより、ここは手堅い方を選ぶべきだ。
何しろスミは自分のことを好きだと言っているのだ。
後のことはまたそのうち考えればいい。
とにかく今は童貞を早く捨てることだ。
ケンは前に向き直ると再び車を発進させた。
一度決めてしまうと、ケンは自分はとてもいい判断をしたという気になってきた。
そして、早く自分の決心をスミに伝えてあげたくなった。
かわいいスミのために。
目的地に着いたときにはもう辺りは暗くなりかけていた。
間もなく日が落ちて、夜がやってくるのだ。
彼らは車から降りて、夕日に染まる街並みを眺めていた。
ケンは自分の思いをいつスミに伝えようか、タイミングを伺っていた。
「今だ!」
夕陽の最後のひとしずくが地平線に吸い込まれていき夜が訪れるその瞬間、ケンは慎重に、しかしさり気なく口を開いた。
「ところで、例のあのことなんだけど」
「あのことって?」
そう聞き返したのは、スミではなくリサだった。
「だから、彼女の告白の返事のことなんだけど」
ケンはバツが悪そうに言った。
「ああ、そのことね。私、もうどうでもよくなっちゃったわ」
スミはそう言うと、ワンピースのスカートを両手で払った。
「もちろん、私もよ」
リサがそう言うと、二人は顔を見合わせクスリと笑った。
それから腕を組んで、駐車場の端に駈けていった。
「わあ、きれーい」
ケンは呆然としてしばらく二人の後ろ姿を眺めていたが、やがて彼女たちを追いかけて二人の隣に立った。
チェッ。まあ、いいさ。
ケンはポケットのコインを、宝石のようにネオンがきらめく街の夜景に放り投げた。
ここはカップルたちが集う人気の展望台。
まるで鳥の視界のように、街が一望できる。
展望台