ピラミッド
妻は不機嫌な顔で、バスの外を通り過ぎる荒涼とした景色を窓から眺めていた。
時折、サボテンが姿を現した。
西部劇に出てくるような、人型のような大きなサボテンだ。
その度に僕は身を乗り出して、窓の外を指差した。
「ほら。見てごらんよ、でかいサボテンだ。こんな景色は日本じゃ見られないよね」
妻は僕の手を払いのけて、冷ややかな目で僕を一瞥する。
そして再び、頬杖をついて窓の外に目を向けるのだ。
新婚旅行にして、この状況は最悪だった。
日本を発ってすでに1週間が経過していたが、日程はまだたっぷりと残っているのだ。
僕らは張り切って3週間のハネムーンを計画していた。
もちろん、まだ関係が良好だったときの話にすぎない。
そもそも関係が崩れかけたとき、彼女が身を引くべきだったのだ。
いや、僕が折れるべきだったのだろうか?
いや、他のことならともかく、これは人権にかかわる問題だ。
しかし、結果として今の状況があるのだとすれば、僕にも何がしかの反省するべき点はあるのかもしれない。
でも、しかし、、、。
妻はむっつりとした顔で窓の外を見ている。
話は新婚旅行の前に遡る。
きっかけは間違いなく僕が作ったのに違いない。
僕は新婚旅行のための3週間を確保するために仕事を詰めていたし、留守中の仕事の引き継ぎもしなければならなかったし、披露宴の準備は後から後からこぼれが作業が発生して、毎日業者から電話がかかってくるし、二次会の会場も確保しなければならならず、とにかく多忙を極めていた。
それに、結婚という大きな決断に多少のプレッシャーもあった。
「どうやら痔になったらしい」
僕は間もなく妻になる彼女に打ち明けた。
「なに、それ?」彼女はピンとこない顔で僕を見た。
「だから、痔になったかもしれないんだ。お尻の病気の」
僕は声のトーンを落として小さな声で言った。
そのとき僕らは割と雰囲気のいいレストランで食事をしていたのだ。
「どうして、そう思ったの?」彼女は言った。
「どうしてって?」
「だからそう思う理由よ。痛いとか、かゆいとか、グジュグジュしてるとか、あるでしょ?」
「痛くはない」僕は言った。
「かゆみは?」
「あまりない」
「腫れているのね?」
「、、少し」
僕は様子を思い出しながら、彼女の質問に答えていった。
「グジュグジュは?」
グジュグジュは、、、、、。
結局、食事の間中、彼女の質問は続き、痔の話に終始した。
さて、結婚式も無事に終わり、いよいよ明日から新婚旅行という晩、
「ところで、例の痔のことなんだけど」
と、彼女は再びその話しを持ち出した。
「その後、どうなのかしら?」
「まあ、大したことはないと思うよ」僕は適当に答えた。
ここ連日、そんなことに構っていられないくらい忙しかったし、他人から改めて痔の様子を聞かれるのも変な気分だ。
「病院には行ったの?」
「行ってない。そんなヒマはなかったんだ」
「歯医者にはマウスピースを作りに行ったのに?」
「だけどそれは、歯ぎしりやいびきで君に迷惑をかけたくなかったからで、、」
でも、もしかすると僕は、噂に聞く診察の時のあの屈辱的なポーズを取るのが嫌で、自分の痔を認めることから逃げていたのかもしれない。
「これ買っておいたから」
そう言って、妻がテーブルの上に置いたのは痔の市販薬だった。
「ありがとう」
僕は素直にお礼を言って、そのままスーツケースの中に放り込んだ。
「塗らないの?」
「え?」
「今、塗ればいいのに。挿入すれば内側から効くらしいわよ」
彼女はじっと僕を見た。
「まあ、何というかこれから寝るだけだし、今日はやめておくよ。旅行の時に使わせてもらう」
僕はそう言い繕って、ベッドに入った。
「ねえ、薬は塗ってきたの?」
飛行機の中で再び彼女は僕に聞いてきた。
間もなく離陸するというタイミングだった。
「塗ってない」
「どうして?」
「だって、出かける前はバタバタしていただろ。大丈夫だから。自分のタイミングで塗るから」
「本当に大丈夫かしら?」
「何で?」
「気圧の関係で腫れているところが破裂したりしないかと思って」
「怖いこと言うなよ」
「だって、薬を塗ってくれないんだもの」
それから妻は徐々に異常性をあらわにしていった。
要するに彼女は、僕の痔の状態を見たくてたまらないのだ。
そのために彼女は僕に毎日、質問と説得を試みた。
「ねえ、もしも、よかったら薬を私に塗らせてくれないかしら?」
旅行先に着いて一夜目、妻は僕にそう言ってきた。
「嫌だよ。自分で塗るからいい」
もちろん僕は断った。
「どうして?」
「そんな恥ずかしいところ、人に見せられないよ」
「私たち、夫婦なのよ?」
「夫婦だって、見られたくないところぐらいある」
「絶対に見ないって約束するわ」
「ダメだ」
「じゃあ、状況だけでも私に聞かせて」
「状況?」
「血は出てるの?膨らんでるの?グジュグジュは?」
「グジュグジュしていると思う」
「思う?なぜ、そう思ったの?」
「膿みたいなものが下着に付いていたから、、、」
彼女はしばし口をつぐみ、僕の言った言葉を味わっているようだった。
そして次の晩、彼女は僕がシャワーを浴びようとしているところへ、音も立てずバスルームに忍び込んできた。
僕は驚いて裸のまま飛び上がった。
妻はかまわず服を脱ぎはじめた。
「ねえ、グジュグジュのところを少し触らせてくれないかしら?」
ブラジャーを外すと、彼女は言った。
「絶対に嫌だ」
僕は悲鳴に近い声をあげた。
「だったら、下着を洗濯させて?」
「自分で洗うからいい」
僕は彼女に軽い恐怖を感じていた。
「どうして?私はあなたの妻なのよ?」
「そうは言うけど、今の君は危険すぎる」
「お願い。何でもいいから、少しでいいのよ」
妻はいじらしい顔で僕に懇願した。
「悪いけど、放っておいてくれないか」
「放っておくなんて。私たち、夫婦なのよ?」
「頼むから、出て行ってくれ」
「わかったわ。じゃあ最後に、せめて下着の匂いだけ嗅がせて。目をつぶっているから」
妻は目をつぶって、手を後ろ手に組んでみせた。
僕はそのまま半裸の妻をバスルームから押し出した。
名誉のために言っておくが、妻はのめり込みやすい質であるにせよ、普段は極めて常識的な人間なのだ。
彼女はいい大学も出ているし、仕事もできる。
これはある偶発的な要因から引き起こされた事故に過ぎないのだ。
おそらく、今まで挫折を味わったこともないのだだろう。
それゆえ、僕に拒絶されたことがよほどの屈辱だったに違いない。
翌朝から彼女は、痔の話しを一切しない代わりに、僕とは口をきかなくなった。
そして、今に至る。
そういうわけで、新婚旅行に不可欠な夜の営みは、まだ成立していなかった。
いや、旅行先に到着して最初の晩、その行為はなかったわけではなかった。
しかし、中断されたのだ。
彼女の手がどうしたって、僕の肛門めがけて移動してくるのだ。
最初のうち、それは僕の気のせいだと思っていた。
しかし、いくら僕が彼女の手の位置を正しても、的確に僕の一点を突いてくるのだ。
そのうち僕のペニスは萎えてしまった。
僕はパンツを履き、尻を彼女がいる側と逆の方に向けて眠った。
僕はこの旅行中にハネムーンベイビーを仕込むことを目指していた。
僕は彼女より7歳も年上で、子供を作るなら早い方がいいと思っていたし、また日常に戻れば忙しさの中でゆっくり子作りをする間もなくなると思ったからだ。
そのために僕はテストステロンのサプリメントを海外から取り寄せた。
僕はまだ薬に頼らなくてはいけないほど機能しないわけではなかったが、何事も万全を期しておきたかったのだ。
おかげで僕の報われないペニスは、昼でも夜でもいつも半立ち状態を保っていた。
そのことを妻に知られなくなくて、僕はサポート力の強いスポーツ用の下着でペニスを押さえつけていた。
きつめのパンツは尻に食い込み、痔を刺激した。
はっきり言って、痔の具合はよくなかった。
妻は知ってか知らずか、辛い料理ばかりを注文した。
彼女は思い通りにならなかった人間に対して、そういう無慈悲なところがあるのだ。
新婚旅行も後半に差し掛かったところで、事態が好転しそうなできごとが起こった。
妻が腹を下したのだ。
「ねえ、あなた。トイレを探してきてくれないかしら?」
弱々しく僕の腕にすがりついてきた妻に、僕は思わず彼女の顔を二度見してしまった。
あれほど僕を冷たくあしらっておきながら、彼女は僕に助けを求めていた。
「僕らが予約したホテルはもう少しだよ」
僕は意地悪することなく、彼女にそう教えてあげた。
「あと少しって?どのくらいなの?」
「そうだな。歩いて5分というところかな」
「そんなんじゃ間に合わないのよ!」
彼女は金切り声を上げると同時に、腹を押さえてしゃがみこんだ。
「大丈夫?」
僕は額に脂汗を浮かべた妻に声をかけた。
「いいから、あそこのホテルにトイレを借りてきて!」
彼女が指差した先にはモーテルのような古びた安宿があった。
「しかし、僕らはもうホテルを予約してあるんだし、ホテルまではもう目と鼻の先なんだから」
彼女は僕の話を無視して、猛然と安宿に飛び込んでいった。
遅れて安宿の入り口をくぐると、フロントにいたアロハシャツを着た男が、客室のドアに目をやって肩をすくめてみせた。
僕がその部屋のドアノブに手をかけると、「入ってこないで!来たら殺すから!」と、妻の声が飛んできた。
僕はフロントの男を振り返って肩をすくめた。
妻は部屋に篭もったきり、出てこなかった。
結局、事態は何も変わらなかったのだ。
僕はフロントの男に宿代を支払ってから、食事を摂るために一人で街に出た。
ついでに予約していたホテルに立ち寄り、キャンセルを申し出た。
自分だけこちらのホテルに泊まることも考えたが、これ以上妻との関係をこじらせるわけにはいかなかった。
僕は食事を済ませると、早々に安宿に戻った。
客室のドアをノックしたが、返事は返ってこなかった。
僕はストアで買ってきたチョコレートを食べながら、妻が扉を開けてくれるのを待った。
キャンディ型をしたチョコレートを食べるたびに、僕はその包み紙を細長く折りたたみ、ドアの隙間に挟んだ。
妻が扉を開いたときに、紙吹雪のように飛び散る仕掛けだ。
袋の中のチョコレートをすべて食べてしまうと、僕はフロントに向かい、アロハシャツのフロントの男に部屋をもう1つ用意してくれるように頼んだ。
男の腕にはいつの間にか、目の周りを黒く縁取った化粧の濃い女の子が収まっていた。
男は僕に同情的な目を向け、女の子はニヤニヤと面白そうに僕を眺めていた。
彼女はカールした長い髪を揺らして、挑発するかのような胸元の開いた服で、胸の谷間を揺らした。
当然、僕の半立ちのペニスは反応したが、きつすぎるサポートパンツの壁に押し戻されているとは気付くまい。
僕は買ってきた腹の薬瓶を、手榴弾のように彼女の部屋に投げ込むと一人のベッドに潜り込んで眠った。
結局、仕掛けたいたずらに引っかかったのは僕自身だったのだ。
扉を開くと同時に僕の頭にチョコレートの包み紙が降り注いだ。
その晩、僕は夢を見た。
僕は戦闘機を操縦している。
ところがいくら操縦桿(かん)を操作しても一向に高度が上がらないのだ。
僕はゴーグル内側から目を凝らして、霧の中を懸命に進もうとしている。
あちこちの装置をいじくりまわしても、高度は上がらない。
上空を見上げると、雲の切れ目から敵の戦闘機が何機も見える。
僕は焦って、気力で何とか飛行機を上へ向かせようとする。
でも飛行機は言うことを聞かない。
僕は操縦桿を握りしめ、顔を真っ赤にしていきんでいる。
「だから痔になったりするんだ」と、頭の中をよぎる。
でも、そんなことを言っている場合ではないのだ。
努力も虚しく飛行機は、高度を落としていき、やがて接地する。
機体の腹を地面に擦り付けバウンドしたかと思うと、飛行機は再び低空飛行に入る。
バウンドする。
再び、低空飛行。バウンド、低空飛行、バウンド、、。
朝、目が覚めると僕はへとへとに疲れ切っていた。
僕のペニスはかろうじて半立ち状態を維持していたが、僕が下着の中を覗き込むと、力尽きたようにぱたりとその身を横たえた。
唯一、妻が口にしたのは、僕が昨晩のうちに買っておいたスポーツドリンクだけだった。
彼女は昨日から何も食べておらず、具合はあまり良くなさそうだった。
僕は中止にするべきだと言ったけれど、もちろんそれは聞き入れられなかった。
彼女は自分の意見をテコでも曲げないタイプなのだ。
ただでさえ標高の高いこの街で、わざわざピラミッドに登るなんて、よほどの物好きとしか思えない。
でも、ピラミッドには世界中から物好きが集まっていた。
ガイドから大まかな説明を聞くと、僕らはピラミッドを登り始めた。
僕は高地での酸欠のためにすでに頭痛がし始めていた。
こめかみの辺りがズキズキと痛むのだ。
それと連想して、肛門付近の毛細血管も波打った。
一段、一段、階段に足をかけるたびに、尻の間に挟まったものが擦り切れるようにこすれて痛んだ。
いや、僕は尻に何も挟んでなどいない。
ただ、ホットドックのパンの間に挟まれたソーセージのような存在を、尻の間に感じるのだ。
ピラミッドに登りながら、僕はいろいろなことに後悔をしていた。
例えば、病院に行かなかったこと。
薬を塗らなかったこと。
そもそも結婚したこと。
せめてあのとき、僕が四の五の言わずに彼女のためにトイレを借りに走ったなら、事態はもっと違っていたのではないか。
でも、それを言っても仕方ない。
僕はそうしなかったのだ。
思えば今までの人生、間違えた選択ばかりしてきたように思う。
その集大成が今、僕の尻に挟まっているのだ。
妻もまた辛そうに、日焼け帽をかぶり、首にタオルを巻いて、噛みしめるように一歩、一歩を踏み出していた。
時折、動きをぴたりと止めては、何かが通り過ぎるのをじっと忍んでいるような仕草をみせる。
それはきっと、波のように押し寄せてくる便意をこらえているのに違いないのだ。
その健気な妻の姿に、僕は愛おしさが溢れてくると同時に、彼女に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
僕さえいなければ、さすがの彼女だってここまで意地を張って、ピラミッドに登ろうとはしないかっただろう。
僕は力を奮い起こし妻に追いつくと、振り返って彼女に手を差し伸べた。
妻はその手を払いのけて、再び僕の上位に立った。
僕はその妻の尻を見上げた。
顔を上げると、大勢の人間たちが虫のように、必死に傾斜にしがみついて上を目指している。
一体、何のために?
太陽を創造した神は、一体何のために心清き勇敢な民たちにピラミッドを作らせたりしたのだろうか。
虫のように他人を蹴落として頂点に登りつめることの愚かさを知らしめるために違いない。
僕はまったく登りたくもないピラミッドに激痛に耐えながら登っている。
それがただ単に古びた巨大な階段なのだと思っていても、僕は登らないわけにはいかない。
何故なら僕は結婚をしたからだ。
僕は手をついて、這うように階段を登り、ようやくてっぺんにたどり着いた。
尻は痺れたようになっていて、すでに感覚を失っていた。
僕は、よろよろと妻の元へ向かった。
妻は腰に手を当てて、険しい目つきで僕を待っていた。
「やあ、やっと着いたよ」僕はヘラヘラと笑った。
その時、太陽の光が差し込み僕らの間を明暗真っ二つに分けた。
妻は神々しい光をまとい、そこに立っていた。
僕はその女神のような神々しさに圧倒された。
彼女が微笑みをたたえ、手を天に向かって差し伸べる。
「アディオス!共に!」
「アディオス!共に!」
僕は妻の手の平に、ぴったりと自分の手の平を合わせた。
僕らの初めての共同作業それは、「別れ」そして、「未知なる旅立ち」なのである。
アディオス・・・スペイン語で「あばよ」
ピラミッド