静かな犬
「静かな犬」
その犬は鳴かなかった。
まるで銅像のようにとても静かな佇まいだった。
犬の最期は悲しいものだった。
自分をかわいがってくれた飼い主の老人は死に、彼の子供たちは残された犬を殺してしまおうと相談した。
犬もまた、飼い主と同様に老いぼれだった。
首の皮は長く垂れ下がり、口元からはだらしなく涎が流れていた。
若い頃は黒毛の美しい犬だった。
でも、それは昔の話なのだ。
犬は飼い主の子供たちに、棒切れで撲殺されて死んだ。
そして、老人の眠る暮石の下に放り込まれた。
死ぬ瞬間ですら、犬は声を上げなかった。
次に生まれ変わったとき、犬はやはり静かな犬だった。
番犬にならない鳴かない犬は、生まれて間もなく箱に詰められて、教会の門の前に捨てられた。
犬は神父の忠実な相棒として、その生涯を閉じた。
何度生まれ変わっても、犬は鳴き声ひとつ上げなかった。
犬は声を持たないわけではなかった。
犬は鳴く機会を待ち続けていた。
けれど、それにふさわしいきっかけが訪れなかっただけのことだ。
あるとき犬は、ここは声を上げるべきではないか、という場面に出くわした。
けれど結局、犬は吠えなかった。
助けを呼ぶよりも、自分で動いた方が早いと判断したからだった。
犬は急流の中に飛び込んでいった。
赤ん坊は危険を知らせる警報のように、大きな鳴き声を上げていた。
犬は赤ん坊を包んだ衣類をくわえ、赤ん坊を岸に引きずりあげた。
間一髪のところだった。
一息ついたとき、若い夫婦が上流の方から駆け下りてきた。
彼らは赤ん坊が無事だったことを知ると涙し、よろこんだ。
衣の中で手足を動かしている赤ん坊を抱きしめ、頬ずりをした。
犬は彼らの家で飼われることになった。
妻は、犬が家に来ることを内心快く思っていなかった。
彼女の夫が、家に犬を連れて帰ろうと言ったので従ったまでのことだ。
赤ん坊を川に流したのは、彼女だった。
夫が目を離している隙にこっそりと川に捨てたのだ。
彼女は赤ん坊を殺したいのではなかった。
ただ、疎ましいのだ。
その証拠に、彼女は赤ん坊が死ななかったことにほっとしていた。
再びその温かいかたまりを胸に抱いた時、愛おしさがこみ上げてきた。
しかし、時間が経って落ち着いてみると、彼女はやはり憂鬱になった。
犬は用心深く、彼女を監視していた。
彼女がたびたび赤ん坊を捨てに出かけるからだ。
そのたびに犬は赤ん坊を探しあて、何事もなかったかのように家に連れ帰った。
時には足や腹に傷を負うこともあった。
赤ん坊は度重なる恐怖のために、声を失ってしまった。
赤ん坊と犬はいつもぴったりと寄り添うように眠った。
赤ん坊は少し大きくなると、かわいい両足を犬のお腹の上にのせて眠った。
少年になると、犬を背中から抱え込むように。
そしてさらに成長すると、犬は彼の脇の下にすっぽりと収まった。
赤ん坊は立派な青年になった。
彼の直線的でシャープな体躯に、犬の美しい流線を描くフォルムがぴったりと沿っていた。
大人になった今でも、彼らは一緒にいた。
彼の母親はずいぶん年をとって、彼を捨てにいくことはもうなかったが、彼は未だに声を失ったままだった。
耳は正常に機能していた。
ただ、言葉が口から出ないだけなのだ。
すでに彼らには声を口に出したいという欲求は無いようだった。
それは、十分過ぎるくらいの会話を互いに交わしているからだった。
犬には青年の考えていることがわかった。
青年もまた犬の気持ちを理解した。
彼らは完全なる信頼の元に関係が成り立っていた。
これ以上、何が必要だろうか?
彼らは休日を居間のソファの上で静かに過ごしていた。
窓からは暮れゆく夕日が差し込んでいた。
彼は立ち上がると、窓辺に立った。
犬はその後に続いた。
間もなく窓のフレームに、一台の赤い車が滑り込んできた。
埃だらけの古い車だ。
車から降りてきたのは、彼の母親だった。
彼女はトランクから、大量に買い込んだ食料が入ったスーパーの袋を取り出すと、重そうに両手に下げた。
彼と犬は顔を見合わせた。
それから庭に出ると母親に駆け寄って、彼女の手に持ったスーパーの袋を引き受けた。
静かな犬