軽い犬
「軽い犬」
僕が立ち止まると、思考も立ち止まる。
僕が考えを続けるためには、歩き続けなければならない。
僕の考えはとりとめがない。
特に突きつめた考え事というわけではないのだ。
僕はある一本の線を頼りに歩みを進める。
けれど、その線は途中で途切れてしまう。
僕は立ち止まり、来た道を折り返す。
新しい線が伸びている。
僕はその線の上を進んでいく。
線は途中で途切れて、僕は折り返す。
そうしているうちに犬が僕の足もとにまとわりついてくる。
フワフワの毛をしたかわいい犬だ。
犬は踊るようにぴょんぴょん跳ねている。
僕はしゃがみ込んで犬の頭を撫でてやる。
僕は犬の前足の脇に手を差し込んで、犬を抱き上げる。
犬は空気のように驚くほど軽い。
もちろん犬は、そのことについて何も思ってなんていない。
犬はただ赤い舌を出して、ハアハア息を弾ませているだけだ。
僕は犬と一緒に歩くことにする。
この犬について歩けば、どこかに辿り着けるかもしれないと思う。
けれど犬は、僕の足にまとわりついてばかりで、ちっとも先導をしてくれない。
犬は僕にまとわりついてくる。
「かわいい犬ね」
女の子が僕に話しかけてくる。
「さわってもいいよ」
僕はその小さな女の子に言う。
女の子は犬の頭を撫でる。
「ねえ、その犬を抱っこしてごらんよ」僕は言う。
「でも、私に持ち上げられるかしら?」女の子は言う。
「大丈夫さ」僕は言う。
女の子は両手で犬を抱き上げる。
あまりの軽さに拍子抜けをして、女の子は尻もちをついてしまう。
女の子はきょとんとして、そして笑い出す。
犬はうれしそうに女の子のまわりを飛び跳ねる。
「またね!」
「また、いつか!」
僕らはあいさつをして別れる。
僕の視界はいつもはっきりしない。
雲の中を歩いているようにぼんやりとしている。
目の前に近づいてきたものだけがよく見える。
「痛い」
僕はいつも何かを踏みつけてしまう。
よく見るとそれは鉛筆だったり、ラジコンのコントローラーだったり、
送られてきた宅急便の段ボールだったり、積み上げられた本だったり、
チョコレートの包み紙だったり、色々なものだ。
僕は視界を押し開くようにして、周りを見回す。
そこには怒った人たちの顔が並んでいる。
それに散らかった部屋。
やりかけの仕事。
食べかけの料理。
しゃべりかけの電話。
すべてが中途半端で放り投げられている。
そのことについて、みんなが怒っているのだ。
僕はみんなに謝ろうとする。
けれど、言葉にしようとする先から、何をあやまればいいのか忘れてしまうのだ。
再び、霧が濃くなってくる。
みんなの顔ももう見えない。
すべてはぼんやりに包まれてしまう。
僕に見えるのは、足もとの先にほんの少し伸びた線だけだ。
僕は線の上を慎重に進んでいく。
その先に何があるのかわからない。
そして、それはたいがい途中で途切れてしまうのだ。
僕は最終的な答えを探して、うろうろ歩き回る。
「ワンワン!」と犬が鳴く。
僕は小脇に犬を抱えていたことも忘れている。
僕は犬をそっと地面に置いてやる。
犬はうれしそうにピョンピョン飛び回る。
犬を見て僕もうれしくなる。
「ねえ、聞いてるの?」
低い怖い声がして、顔を上げると、正面で恋人がふくれっ面をしている。
僕は手に、犬じゃなくてハンバーグの刺さったフォークを持っている。
僕はそのハンバーグを口の中に押し込んでみる。
ジュワッとおいしい肉汁が口の中に広がる。
僕の中に幸せが広がる。
犬がピョンピョン飛び跳ねている。
僕は夢中になって、残りのハンバーグを食べ進める。
グサリと、僕の手に何かが刺さる。
「痛い!」僕は顔を上げる。
恋人が僕の手にフォークを突き刺している。
僕は痛みをこらえて、彼女に笑顔を向ける。
「それは私が注文したハンバーグなんだから」
恋人は涙目で僕に訴えかける。
「あなたのはこっちでしょう?」
彼女は歯を食いしばって、ドンッと僕の前に皿を放り投げる。
皿にはこんがりとキツネ色に揚げられた大きなフライドチキン。
僕の瞳の中にハートが散りばめられる。
僕は一口分を切り分けて、口の中に運ぶ。
犬が踊り出す。
僕はカニのように左右にもったナイフとフォークを動かして食べ進めていく。
フライドチキンに向かって、道しるべであるあの線が伸びている。
僕の進む道に間違いはない。
「ちょっと!」
顔を上げると、カンカンに怒った彼女の顔が目の前にある。
僕は口に含んだ最後のフライドチキンのかけらを慎重にかつゆっくりと飲み下す。
それから僕は足元で跳ねている犬を抱き上げる。
「かわいいだろ?」
僕は言う。彼女は返事をしない。
「ねえ、こいつを抱っこしてごらんよ」
僕は彼女に犬を差し出してみせる。
「いやよ」
恋人は冷たくそっぽを向く。
彼女はものすごく怒っているのだ。
「ねえ、お願いだよ。ちょっとでいいからさ」
「絶対にイヤ!」
彼女の怒りはそうとうなものだ。
「ねえ」
彼女はちらりともこちらを見ない。
「ワンワン!」
僕は犬の鳴きまねをする。
彼女がわずかにこちらに目を向けたところで、すかさず僕は犬を恋人に放り投げる。
「わあ!」
彼女の腕の中に犬が飛び込んでくる。
そのあまりの軽さに拍子抜けして、彼女は思わず笑ってしまう。
「軽いだろ?」
「軽いわ」
「軽いんだ」
彼女の腕の中で犬がしっぽを振っている。
僕らはあっという間に仲直りする。
軽い犬じゃなきゃ、こうはいかない。
これでいて、僕と恋人はなかなかうまくいっているのだ。
軽い犬