ナツミ

霧島

 大粒の涙をこぼしても、海は許してくれると誰かが言った。そこまで泣きたい気分ではない。でも、わたしは許されたかった。
 木造の待合所は昨日の雨のせいでじめじめとして、少しカビ臭い。日差しが当たらなくてもサウナのように暑いし、ペットボトルのお茶もぐいぐいと飲みたくなる。こんな中で、一時間を待たなきゃならない。でも、そんな一時間だって、流れてほしくはなかった。
 蝉時雨。穏やかな波の音をもみ消す。目の前の細い県道には、滅多に車の通りがない。その奥はまっさらな砂浜。そして海。感じられる限りの世界には、わたし一人だけ。いっそここだけが硝子の玉に閉じ込められて、凍りついていたなら良かったのに。
 戻りたくない。離れたくない。今この場所に来て、初めてこんな気持ちになった。今まで何度もここからバスに乗って、町の外へと出て行った。高校に通って、県外の大学に進んで、合わせて四年目。今年からは夏に帰省するとちょうど誕生日で、近所の人たちにも会ってお祝いしてもらえるようになった。
 なつみちゃんももう十九歳かい、早いもんだなあ。なんて。
 ありがとう、嬉しい。そんな言葉は、本当だった?
 戻っても、夏休みは半月くらいある。だけど、いつかはそれも終わってしまう。授業やサークルがまた始まる。それだけなら良かったかもしれない。でも、それ自体も結局、いつかは終わってしまう。
 静かに汀を揺らす海。雲の動き。かもめ。一人で死んだように佇むわたしも、時間を進めてしまう。逆らえない摂理。
 昔の友達は、半分以上がどこかで働いている。セーラー服を脱いで、好きに色とりどりの髪を伸ばして。子供を産んだ人もいる。一か月、二か月の間でもぐんぐん育ってしまう赤ん坊だ。近くにいたら、自分までそんな速さで歳を取ってしまうような錯覚をするらしい。
 でも、今年も会った友達は、みんな笑っていた。懐かしいねって思い出話をするのと同じだけ、楽しいよって今やこれからの話をする。
 飛行機雲の画線。なおも蝉時雨。ふいに、揺れるポケット。
 先輩からメールが届いた。来週、ケーキバイキングに行くらしい。きっと楽しい行事になると思う。それでわたしは、あっさりと参加の希望を出した。
 どうせ、逃げられもしないんだ。自覚でもあるし、諦めでもある。やっぱり、わたしの子供っぽい甘えを許してくれる人はいない。たとえ、人でなくても。
 父はあと二年で還暦だ。いつ海に出られなくなるかもわからない。そうしたら、兄がうちの船を継ぐ。四代目になるのだそうだ。海に出れば、誰しも自力で命を守る。だから今日も、明日も海にに出ていられる。甘えがあれば、生きられない。
 空の画線は消え。入道雲。焦げるアスファルト。お茶は飲み干した。バスは、あと五分。
 このまま、座っていたくなくなって。真上の太陽に姿を見せる。バスを降りる頃には、もっと影も伸びるだろう。わたしが、そこにいるから。
 ふと、足元に目を留めた。あおむけに横たわる、一匹の蝉。こいつの時間は、もう終わってしまった? そっと手を伸ばしてみる。
 じりりっ。鳴いた。動いた。少しだけびっくり。でも、ひとつ安心。なんだか、勇気づけられたような気がする。
 世界は、動いている。全うしたい。そう思う。
 やってきたバスに乗る。遠ざかる待合所に向けて、わたしは小さく手を振った。

ナツミ

ナツミ

海沿いの細い県道のバス停で一人。次のバスまでは一時間。 彼女に訪れる、ひとときのセンチメンタル。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
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