ホルスタイン
「ホルスタイン」
子供の頃、同じクラスに六本指の男の子がいて、私はその子のことがとても羨ましかった。
それは親指の根元に張り付いた、とてもとても小さな指で、ぴくりとも動かなかった。
「でも、ちゃんと爪は伸びるんだ。毎週、他の指と一緒に切ってあげるんだ」
その男の子は愛おしそうに言った。
高校生のときにまたその男の子と同じクラスになって、その子と寝たけれど、六本目の指は私に生えてこなかった。
もしも私に六本の指があったら、私はもっと強くなれたに違いない。
私は私を裏切らない、私だけの味方をいつも探していた。
「肝臓のホクロみたいなものだって言っていたわ」
「それが見つかったの?」
「そう。肝のう胞っていうんですって」
私はみぞおち辺りに触れてみた。赤ちゃんがいるみたいな愛おしい気持ちだった。
私は何度か赤ちゃんができたことがあるけれど、堕ろしてしまった。
産むのが怖くてたまらなかったから。
「それって手術とかしなくていいの?」隣の彼が言う。
「うん。良性のものなんですって。小さいし、ほくろやシミのようなものだから気にしなくていいですよって」
「じゃあ、良かったじゃない」
私はバーで飲んでいる。まだ知り合って間もない、よく知らない彼と。
「でね、私はそのホクロが見てみたいの」私は話を続ける。
「肝臓の?」
「そう。肝臓の」私は微笑む。
彼は私の話をよく聞いてくれて、悪い子じゃないみたいだ。
「どうして?何でもないならいいじゃない」男の子は言う。
「でも、考えてみて。私の内臓にホクロがあるの。そのホクロは体の持ち主にも知られることなく、ひっそりとそこにいたのよ。健気だと思わない?」
「まあね。そんなふうに考えたことないな」
「じゃあ、こんな想像はどう?」私は目を閉じて景色を思い浮かべる。
「私の内側には青空が広がっていて、その下にはなだらかな牧草地が広がっているの。やわらかい黄緑色の草が生えていて、牛たちはゆっくりとそれを食んでる。大きな木の下で子牛が昼寝をしているの。鼻先がピンク色のかわいいホルスタインの赤ちゃん。長い尻尾をパタパタさせて、寝息のたびにやわらかいお腹が上下している。そのかわいいお腹にある小さな地図みたいな形の黒いブチが私の肝臓のホクロなの。どう?愛おしいでしょう?」
「何の話だったっけ?」彼はとぼける。
「子牛はかわいいって話よ」私は微笑む。
でも、私はこの話がすっかり気に入ってしまった。
私たちはホテルに行く。そして絡み合う。
「君のおっぱいはホルスタインと呼ぶには可愛すぎる」
「ひどい」私たちはくすくす笑う。
私はよく知らない男の子におっぱいを吸われる。
私は青空の下で子牛と遊んでいるところを思い浮かべる。
私は健康診断でホクロを見つけてくれた病院の先生にも、お礼を言いにいった。
「ねえ、先生。この間みたいに私のホクロをエコーで見て」私はおねだりをする。
先生は私を診察台に乗せて、冷たいゼリーを塗って、エコーを当てる。
「先生、私の心音は一つだけですか?」
「もしかして君は妊娠しているの?まいったな。そういうのはちゃんと産婦人科に行かないと」
「違うの。先生、あのね」
私は子牛の話をしてあげる。
先生はベッドの中で私の体の隅々まで看てくださった。
「先生、もしも私の体を手術することになったら、私の肝臓のホクロを写真に撮って写メで送ってね」
「いいよ」
「やっぱり、お医者様って素敵」
「でも、内臓なんて、君が想像するみたいにそんなに美しいものじゃないよ。もっとリアルなんだ。だから、君のそのかわいらしい物語は、物語のままにとどめておくといいよ」先生は言う。
「わかったわ。そうかもしれない。でも、もしも私のお腹を開くことがあったら、きっと約束よ」
私はお腹に手を当ててみる。
ホクロが順調に大きくなっているのが私にはわかる。
子牛はすくすくと育っている。
私はお母さんの夢をたまに見る。
お母さんに追いかけられる夢。
お母さんは包丁を持っている。
私は子供で、泣きながらお母さんから逃げている。
お母さんは私を殺そうとしているんじゃない。
子供の私は自分に言い聞かせる。
ただ、お母さんは、私のことがわからないだけなんだ。
きっとお母さんは、私を恐ろしい怪物と間違えている。
私はいつも汗びっしょりで目が覚める。
私は本当に包丁を持ったお母さんに追いかけられたことがある。
だから、女の人は苦手。
でも、昨日の夢は少し違っていた。
子牛が私を助けてくれた。
子牛はお母さんに包丁でこてんぱんに刻まれてしまったけれど、子牛は私を助けてくれた。
「それでね。お母さんと焼肉をして食べちゃったの」
「ひどい奴だな」
「でも、すごくおいしかった」
「君を助けてくれた子牛がね」
「そう。結局、私もお母さんと似ているっていう話」
私はにこにこしながら夢の話をする。
ベッドの中で男の人は私の話を何でも聞いてくれる。
私は男の人が好き。
私に価値を与えてくれるから。
私は銀行にお勤めしている。
窓口ではなく、総合職だ。
固い仕事は私に向いている。
固い仕事は女の子たちのおしゃべりを嫌っている。
だから私を守っている。
「こう見えても結構、お偉いさんなんだから」
私は笑いながら若い男の子に言ってみる。
「稼いでるんだ」
「そうなの」
「どのくらい?」
「君にお小遣いをあげられるぐらい」
お金があれば男の子も買える。
私はお金が好き。
お金があれば一人で生きていけるから。
でも、お母さんは私のお金を拒んだ。
お母さんの手が私に触れた。
子供の頃あんなに強くぶたれたのに、病院で会った彼女の手はまるでカナリアの足のように細くて軽かった。
やっと私の指にとまってくれたのに、カナリアはあっけなく死んでしまった。
お母さんは私に看病もお金も使わせることもさせてくれなかった。
私はお酒を飲まない。
お母さんがお酒で人生をダメにしたから。
でも、私は男の人に出会えるバーが好き。
「そのカクテル、君に似合ってるね」誰かが私に話しかけてくる。
「今日の私の服の色に合っているでしょう?」私は微笑んでみせる。
私には相棒がいる。
バーテンダーのジュン君だ。
彼は私が魅力的に見えるように、いつもぴったりのノンアルコールのカクテルを作ってくれる。
男の人の腕に手を絡めてバーを出るとき、私は振り返ってジュン君にウィンクをする。
私は彼とまだ寝ていない。
ジュン君は男の子にしか興味ないから。
でも、いつかジュン君とお昼寝をして、子牛の話をしてあげたいと思っている。
私は子牛に会いに行く。
なだらかな丘陵を駆け下りて、私は昼寝をしている子牛に会いに行く。
私は子牛を抱きしめる。
草の匂いとミルクの匂いがする。
私は短い毛並みを手の平で撫でる。
子牛は尻尾をパタパタさせる。
子牛は静かに目を閉じる。
かわいいお腹が穏やかに上下する。
私は地図の形をしたブチを指先でなぞる。
私はとっても幸せな気分になる。
私は子牛の隣で眠る。
私はベッドで男の人の隣で眠る。
でも、私は夜中にこっそり起きてベッドの中を抜け出す。
私は物音を立てないように静かに歩くのが得意。
そっと部屋を出る。
私たちはまた他人に戻る。
私は誰にも捕まらない。
子供の頃から逃げるのが得意なのだ。
子牛は無防備ですぐに私に捕まってしまう。
子牛のそんなところも私は大好き。
でも、私はとうとう捕まってしまった。
「信じてたのに、とか言わないの?」
「そうね、言ってもいいわ」私は微笑む。
「そういう言い方がムカつくんだよ」
ジュン君は私のお腹を蹴った。
私は慌てて、両手をあててお腹をかばった。守るものがあるって素敵。
「人の前でお金の話をするからこういう目に合うんだ」
「お金?ジュン君はお金に困ってるの?だったら、私が貸してあげる」
「借りるんじゃなくて、奪うんだ」ジュン君は言った。
私はバーの床に転がっていた。
「ジュン君、今日のカクテルはたくさんお酒を入れたのね」
「そうだよ。今日は台風で他に客がいなかったからね。店も早めに閉めたんだよ」
「でも私、お酒が飲めないっていうわけじゃないの。本当はすごく強いのよ。きっと」
「カクテルに入れたのは酒だけじゃないよ」
「なるほど。それで何も覚えていないのね」
私は火照った頬を冷たい床に押し付けた。
「あんたを見てると何だかムカつくんだ」
「わかるわ。女の人はみんなそう言うもの」
「僕は男だ」
「でも、男の子しか愛せない」
「うるさい」
ジュン君はまた私を蹴った。私は身をかがめて痛みに耐えた。
「私はね、ずっと誰かに騙されたいと思っていたの。でも、人を信じることができなかったから、騙されることもできなかった。だからジュン君が騙してくれて私、うれしいの」
ジュン君は怒りを抑えられない様子で、私を蹴り続ける。
「それ以上、何か言ったら殺すからな」
「ジュン君、ありがとう」
ジュン君はサッカーボールみたいに私の頭を蹴った。
口の中で血の味がした。
ジュン君は泣きべそをかいたみたいな顔をしている。
彼はまだ若くてかわいいのだ。
「勘弁してくれよ。本当に死にたいのか」
「そうかもしれない。ジュン君に殺されるなら本望だわ。私、ジュン君のことが大好きだもの」
私は微笑んでみたけど、ちゃんと笑顔になっているか心配だった。
「僕は刑務所で一生を送るなんてまっぴらだ。僕は金を手に入れて自由に生きるんだ」
「ジュン君ってかわいい。お金で何でも買えると思ってるのね」
「黙れ。金に頼って生きてるのはお前だろ」
ジュン君は疲れ切ったみたいな動作で私を踏み潰した。
それから私の小さなバッグを拾い上げた。
「ジュン君ってツイてるわ。私は全財産を肌身離さず持ち歩く主義なの。だから、キャッシュカードもクレジットカードも全部そのバッグに入っているのよ」
咳をすると血痰が口からあふれ出した。私は唇を手の甲で拭う。
「僕は救急車を呼ぶべきなのかな」ジュン君が不安そうに言った。
彼はやっぱりいい子なのだ。
「大丈夫よ。行きなさい」私は言った。
ジュン君は私に背中を向けた。
「待って」
私はジュン君を引き止める。
「何?」
「あわてん坊さん。キャッシュカードの暗証番号を聞き出さないと」私は微笑む。
「あっ」ジュン君は顔を赤らめた。
「やっぱりジュン君ってかわいい。暗証番号はね、全部同じにしてあるの。あわてん坊の泥棒さんのために。5943。イツクシミって覚えてね」
ジュン君は怒ったようにドアを叩きつけると、店から出ていった。
一人になると、私は急いで子牛に会いにいった。
空は血が混ざったような赤い夕焼けだった。
早く、早く。急いで、急いで。
私は丘陵を駆け下りた。
思った通り、子牛は怯えて震えていた。
私は子牛を抱きしめて、黒いブチの短い毛並みを撫でてやった。
それから小さくなって、子牛の口に飛び込んだ。
子牛がひとり寂しく死んでいかないように、私は子牛の臓器の上で体を丸めると、小さなかわいいホクロになった。
ホルスタイン