一万袋
「一万袋」
目の前には遠浅で静かなビーチが広がっていた。
彼と彼女は長い休みをとってバカンスを楽しんでいた。
「絵のように美しい景色ね」彼女は言った。
「本当に」彼氏は深く同意した。
「でも、実際のところ、ちょっと退屈でしょ?」
「そう?」
「そう思わない?」
「僕はぜんぜん。何しろ美しいビーチと君がいるからね」
「でも、やっぱり、街の観光も入れるべきだったのよ」
「誰もいないビーチで豊かな自然と時間を満喫したい、って言ったのは誰だったっけ?」
「意地悪を言わないで」
彼女は遠い目をして海の向こうを見つめた。
彼女が黙り込むと静かな波の音が聞こえてきた。
喧騒の中では気づかない素晴らしい音だ。
背後では微かではあるが、砂の上を移動するヤシガニの足音が聞こえる。
彼は昨夜、夕食に食べたヤシガニのココナツミルク煮の味を思い出す。
そして、今夜は何を食べようか思いを馳せる。
何しろ美しい海には食べきれないほどのたくさんの魚たちが泳いでいるのだ。
「ねえ」
そこに彼女の声が割り込んでくる。
「何だい?」彼は親切に応じる。
「連絡を取ることはできないのかしら?」
「どこに?」
「ツアー会社とか観光協会とか、どっかその辺よ」
彼女は彼の察しが悪くて、少しじりじりしている。
「取れないよ」彼はあっさりと言う。「このツアーの最大の売りなんだ。自然の中で本当の休息を満喫してもらうために、外部との通信をすべてシャットアウト」
「まさか!」彼女は小さな悲鳴をあげる。「もしもよ、私が急病で倒れたりしたらそうするの?」
「ただし」彼は言う。
「ただし?」彼女は彼の言葉の続きを待った。
「ただし、緊急時に限っては使っていい連絡方法がある」
「どんな方法?」
「のろしを上げるんだ」
「まさか」
「本当だよ。僕は万が一のためにツアー会社から発煙筒を預かっている」
彼は冗談のつもりだったが、彼女はその話を信じた。
彼らのいるホテルはもちろん、電話くらい通じる。
「その発煙筒を焚きましょう」
「どうして?」
「緊急時だからよ」
「まさか」今度は彼が驚く番だった。
「ねえ、お願い。私が間違えていたわ。私は自分のことを間違えて理解していたの。もう、限界なの。街の中に繰り出して、体に悪いものを食べたり、夜更かししたりしましょう」
「体に悪いことをやりまくろうぜ」彼は両手の親指を立ててみせた。
「イエイ」彼女もそれに応えた。
「嫌だよ」彼は言った。
「どうして」
「だって、ここはいいところだよ」
「恋人のピンチなのよ。私もう、暇すぎて頭がおかしくなりそう」
彼女は小さなビキニをつけた胸元をかきむしった。
「まあ、落ち着きなって」
「いいから発煙筒を燃やして」
「だめさ。いいかい?発煙筒は1本しかないんだ。こんな真っ昼間に発煙を上げて誰も気づいてくれなかったらどうする?」
「じゃあ、どうするのよ」
「夜を待つんだ」彼は囁いた。
「もう!」
彼女は諦めたようにどすんと砂の上にあぐらをかいた。
「そして、夜になったらまたあれを食べよう」
「あれって?」
「ヤシガニだよ」
口に出しただけでも彼の口内にはよだれが溢れてきた。
「そんなもの、もう見たくもないわ」彼女は涙ぐんでいた。迷子になったのだ。「そんなことより、夜まで何をしてろっていうの?」
「泳いだり」
「あなた、泳げないじゃない」
「昼寝をしたり、話をしたり」彼は波のように静かに言った。
「どんな話?」
「そうだなあ」
こうして彼の話は始まった。
「海でおしっこをすると気持ちいいだろ?でも、僕にはもう一つ野望があるんだ」
「何よ」
「射精をするんだ」
浅瀬のビーチに彼は腰まで水に浸かり、肢体を伸ばして座っていた。
彼は一糸まとわぬ裸で、その体の中を快感が満たしていた。
神の芸術のような美しいブルーの海が目の前に広がっている。
境目なく頭上には同じくブルーの空。白い雲も浮かんでいる。
彼は宙に浮かんでいるような気分だった。
時折、生暖かい潮騒が彼を愛撫した。
もう少しこのままでいたい。
いや、この先に踏み入りたい。
しばらくの行きつ戻りつを楽しんだ後、彼は体を小刻みに震わせ絶頂に至った。
精子が海に放出される。
彼は惚けた顔で、波打つ快楽を味わっている。
その間にも放出された精子は波間を漂い、沖へと運ばれていく。
その数、およそ1万個。
それらが海水を媒介して細胞分裂を始める。
「ちょっと、待って。受精もしてないのに細胞分裂なんてするわけないじゃない」
「海は有機物が豊富だからね。ミネラルもたっぷり」
「海に浮遊するどこか知らない生物と受精するっていうの?絶対にありえないわ」
彼女は本気になって怒っている。真面目なのだ。
「認めない?」
「絶対に認めない」
「じゃあ、こうしよう。僕の精子は一個、一個、袋に入っていて卵子と同胞されている。それらが栄養たっぷりの海水によって、命を目覚めさせる」
「植物の種みたいに?」
「まあ、そういうことにしておこう。物語だからね」
彼女は渋々、納得する。
そうして細胞分裂を繰り返し、魚、トカゲ、鳥の形を経て、1万人の「彼」が生まれる。
そこまで話してきりがいいので、彼はクーラーボックスからよく冷えた白ワインを取り出し、グラスに注ぐ。
ギンガムチェックのクロスを砂の上に敷いて、ホテルで作ってもらったランチのサンドウィッチとチーズを並べる。
それから彼女の頭にありえないほどツバの大きな麦わらをのせた。
彼女は白ワインを口に運びながら、話の続きを促す。
1万人の彼らは海から上がって、島に上陸する。
「あなた、1万人も自分を集めて何をするつもり?」
「別に。何もしないさ。平和に暮らすんだ」
「こんな小さな島に1万人もいたら、食べ物なんてすぐに底を尽きちゃうんだから」
「大丈夫さ。食べる分しかとらない。争わない。平和主義だからね。それにここは常夏で、植物は伸び放題だし。海には一生かけても食べきれないほどの魚が泳いでいる」
「あなた、泳げないじゃない」
「泳げるさ。物語の中の僕はね。何しろ、海で育ったんだからね」
「物語だからって、好き放題ね」
彼女は不満げにサンドウィッチを頬張る。
「ところで、そのサンドウィッチ、おいしいだろ?」
彼に言われて、彼女はサンドウィッチの切れ端を眺める。
「ボイルしたヤシガニを入れてもらったんだ、バターソースとね」
彼はウィンクをしてみせる。
「あなたって、飽きるっていうことを知らないの?」彼女は呆れたように言う。
「飽きないっていうのは、平和に生きるための才能だよ」彼は微笑む。
もちろん、物語の彼たちも飽きない男たちだった。
彼らは来る日も来る日も果物と木の実と芋と魚を食べ続けた。
調味料は塩とわずかな香辛料だけ。
不満がないから工夫もしない。畑も作らない。
彼らはそこそこ幸せに平和に暮らしていた。
「まったく、面白くないわ。物語として最低だわ。何の変化もないじゃない」
彼女はいつの間にか酔っ払っている。
頬も肩も膝小僧も真っ赤かだ。
頭にきて、2本目のワインは自分で開けた。
「まあ、そう怒るなって。これから面白くなるんだから」彼が彼女をなだめる。
「どうやって?どんなふうに?」彼女は彼に食ってかかる。
彼は目を上に上げて少し考えてみる。
「そういえば、別にないなあ」彼は笑う。
「いい加減にして。もう!私が登場するわ。物語にはヒロインが必要でしょう?」
「ヒロインねぇ。こんな可愛い子が現れちゃ、争いがおきちゃうな」
「争い?いいじゃない。それこそ醍醐味よ。さあ、誰が私を勝ち取るの?」
彼女は腰に手を当てて、小さなビキニを付けた胸を張ってみせる。
「争わない」彼はきっぱりと言う。
「だったら、どうするって言うの?私と子供を作りたいでしょ?」
そこまで言って彼女ははっとあることに気づく。
「まさか、また、あの手を使うつもり?」
「あの手って?」
「一万袋よ」
「まさか。考えてもごらんよ。1万人の僕がそれぞれに一万袋を放出するんだぜ。何万人の僕ができると思う?」
「気持ち悪い。ゴキブリみたい」
「だろ?だからあの手はなしで」
「OK。だったら、私の相手はどうやって決めるの?」
「君ならどうする?」
「わからないわ。争いがダメとなると、あとは話し合いしかないんじゃないかしら?」
「君は僕と同じ職場にいたことがあるからわかると思うけど、僕の進行する会議をどう思った?」
「だらだらと果てしなく続く割に馬の糞ほどの役にも立たないただ退屈で無意味な呪文」彼女はきっぱり言った。
「だろ?僕は取りまとめるのが苦手なんだ。みんなの意見を取り入れようとしすぎるんだな」
「だったらどうするのよ?」彼女はギリギリと歯ぎしりをする。
「決めた。去勢する」
「はあ?」彼女は耳を疑った。
「去勢するんだ。そうすれば争わなくて済む」
「それって生物として絶対に間違っているわ。あなたって、どうかしている」
「平和のためには大きな犠牲も必要なんだよ。それに、僕みたいな人間が増えたところでどうだい?何も生産性がないんだぜ?」
「もう、いいわ。黙って」
彼女はさっきまでランチが並んでいたクロスの上にごろりと横になって眠ってしまった。
こうして、彼女は物語の中に登場することになった。
けれど、1万人の彼らは去勢をしてしまったので、彼女は誰の子供も生むことはなかった。
しかし、彼女の出現によって、彼らは偉大な文明を開いた。
去勢用カミソリの発明だ。
彼らはホタテの貝殻を研ぎ上げ、精巧なカミソリを作った。
彼らはもともと器用だったし、何しろ飽きることを知らないので、どこまでも追求し続けた。
睾丸の後ろにスッスッと切れ目を入れると、2つの玉はつるりと転げ出た。
スッスッ、つるり。スッスッ、つるり。
切れ味が抜群だから、痛みもほとんどない。
それが唯一、彼らが人生で残した功績だった。
「平和の象徴!去勢用カミソリ、いいだろ?」
「バカバカしい」
彼女はクロスに包まって寝転がったまま、ずっと不機嫌なのだ。
「でも、バカバカしいとも言ってられない。何しろ、この発明が今や世界的シェアを誇る某カミソリメーカーの基礎になっているんだからね」
「嘘ばっかり」
彼女にはどんな冗談も通じない。
でも、彼は彼女をからかうのが大好きなのだ。
物語の彼女ももちろん、不機嫌だった。
彼女はまるでお姫様のように大事に扱われた。
一万人の彼らが、彼女のために陽をよける小屋を作り、果物を集め、魚を焼いた。
去勢した玉も乾燥して、彼女に献上した。
しかし、彼女はたいてい不機嫌だった。
「玉の使い方を間違えているのよ」彼女は毒づいた。
さて、玉を抜いた睾丸の皮は、海風によくなびいた。
切れ目から空気が入ると、風船のように膨らんだ。
誰が始めたか、彼らはその皮に色付けをするようになった。
植物からとった染料に1日あそこを浸けるのだ。
赤に染める者がいれば、青く染める者、緑、紫と、同じ姿をしていながら好みは様々だ。
満月の夜には1万人の彼らは彼女を囲み、幾重にも渡って円陣を組んだ。
そして、海からやってくる風を待つ。
一斉に一万袋が膨らみ、月光を受けて発光する。
「色とりどりの光の玉が幾重にも曼荼羅のように円を描いて、それは、それは神秘的で美しいんだ」
「いったい、それに何の意味があるのよ」
「一見意味がないところにアートの意味はある」彼は言う。
「ふん。そうですか」彼女はもう反論する気にすらならない。
不機嫌な人はご機嫌な人より、ほんの少しだけ寿命が短い。
そんなわけで、彼女は間も無く天寿を全うしようとしていた。
何もない一生だった。と、彼女は思った。
苦労もしない代わりに、得たものも何もなかった。
でも、もしかしたら私は幸せだったのかもしれない。
彼女の周りに集まった1万人の彼らの潤んだ瞳を見渡しながら、最後に彼女は少しだけそう思った。
こうして彼女は死んでいった。
「彼女は結局、何にもしないまま、食っちゃ寝して死んでしまったのね。私もこんな下らない話に長々と付き合って、損しちゃったわ」
「まあ、そう言うなって。いよいよクライマックスなんだから」
「どうなるの?」
「彼らも寿命を迎えるんだ。同時に生まれたからね。寿命もほぼ同時にやってくる。壮絶だろ?」
「何だかしまらない話ね」
1万人の彼らは自分の死期を感じ取っていた。
夜になると、彼らは島のあちこちからビーチに集まってきた。
そして遠浅の海を沖に向かって歩いていく。
月明かりが照らす中、彼らはバタバタと倒れて死んでいく。
一面には1万人の彼らが浮かんでいる。
「それで、どうなるの?」
「何にも。ただ、静かな海に戻るだけさ」
彼が話を終えると、白い砂を掻く静かな波の音が聞こえてきた。
ヤシガニの足音と。
一万袋