クロノカレー
「クロノカレー」
僕はカレー専門店の店長だ。
「クロノカレー」。
その名の通り、僕の店のカレーは黒い色をしている。
墨のような、暗黒のような正真正銘の黒。
黒っぽいカレーではない。
初めて僕の店に来る客は、皿に盛られた黒い液体の表面に映る自分の顔を覗き込んで目を瞬いたりする。
あまりの黒さにスプーンですくったカレーを口に運ぶのを躊躇するものもいる。
ところでその味は、さして感動的というわけでもない。
それにも関わらず、客は途切れることなくやってくる。
おかげで僕は毎日、忙しい。
僕の店はよくメディアに取り上げられる。
料理の研究家やコメンテーターたちが出てきて、その絶望的までに黒いカレーの謎を解明しようとする。
僕は特に秘密にしているわけじゃない。
語るべきことがないのだ。
でも、これだけは断言できる。
これは至って普通のカレーだ。
作り方は至ってシンプル。
鍋に具材を入れて、水を加え、市販のカレールーを混ぜるだけ。
唯一、家庭のカレーと違う点があるとすれば、それはカレーを煮込みはじめてから17年経過しているということだ。
僕は注ぎ足し、注ぎ足し、カレーを作っている。
カレーが完成するまでに7年。
店を開店させてから10年。
計17年。
にんじん、パプリカ、ブロッコリー。僕がどんな色の食材を加えても、カレーはブラックホールのようにそれらをすべて飲み込んでしまう。
そこには黒一色しかない。
鍋の中を覗き込んでも何も見えない。
つるりと膜を張ったような表面にただ自分の顔が映るだけだ。
その日、僕は恋人のために特別なカレーを作ろうとしていた。
彼女は大学のサークルの中で光り輝くマドンナだった。
僕はそんな彼女に密かに恋い焦がれていた根の暗い学生だった。
僕の恋が叶うなんて思ってもいなかった。
むしろ僕が彼女と付き合うことになったのは、事故だと言っていい。
それはサークルの合宿の夜、飲み会の席である学生が彼女に告白をしたことから始まった。
彼女は断りの口実として、身近にいた僕を引き合いに出したのだと思う。
「ごめんなさい。私はこの人のことが好きなの」
彼女が僕を指差してそう言った途端、大勢の好奇の目が僕に集まった。
僕は彼女の行為を恨んだ。
わざわざ僕のような男を選んで、笑い者にすることはないじゃないかと。
しかし、合宿から戻っても彼女は僕の前を去らなかった。
「あの日、言ったことは本当よ」彼女は言った。
僕らは校内で有名なカップルになった。
僕らがあまりにも不釣り合いだったからだ。
大学の構内や街を彼女と歩くたびに、僕に嫉妬の目と嘲笑が向けられた。
いや、それは僕のただの気のせいなのかもしれない。
とにかく彼女と付き合うことは、僕にとってはプレッシャーでしかなかった。
もちろん、僕は彼女のことが好きだった。
でも、それは僕の空想の中で十分だったのだ。
現実の彼女は生々しく、要求が多かった。
「あなたは、いったい私の何を見ているの?もっと私の本質を見て」
彼女は言った。
彼女が僕との深い関わりを求めるほどに、僕は自分の殻に篭っていった。
僕は彼女と目を合わせることもできず、彼女の淫毛の林に迷い込み、本質を探し求めて彷徨い続けた。
僕は彼女の愛し方を完全に見失っていた。
「私の誕生日に世界でいちばんおいしいカレーを作って」
それは彼女が24歳を迎える誕生日のことだった。
驚いたことに、大学を卒業しても僕らの付き合いは続いていた。
そればかりか、彼女はまるで僕にレベルを合わせるようにつまらない会社に就職をした。
あんなに美しかったのに、彼女はもうあまり魅力的でもなくなっていた。
僕は彼女のために食材を買い込み、煮込み始めた。
僕らはそのカレーをランチとして食べようと計画していた。
けれど昼の12時を回っても、僕はそれを完成させることが出来なかった。
「世界一おいしいカレー?これが?ダメだ。もっと煮込まなくては」
僕の中の声が言った。僕は納得がいかなかったのだ。
「ごめん。もう少し待ってくれる?」僕は彼女に言った。
「もう。完璧主義なんだから。仕方ないわね」
彼女は笑って、それを許してくれた。
しかし、その声は次第に大きくなり脅迫的になった。
「こんなカレーじゃダメだ。失望される」
「こんなに時間をかけたのにこの程度なの?」
僕は焦った。恐怖が僕の心に広がっていった。
彼女はカレーが出来上がるのを辛抱強く待っていた。
夕飯の時間になった時、彼女が口を開いた。
「ねえ、あなたが私のために作ってくれたカレーだもの。それがどんな味だって、私にとっては世界一のカレーに決まってるのよ」
しかし、僕はその言葉に答えることができなかった。
僕は黙ったまま鍋を見つめていた。
もはや彼女は関係なく、僕の問題だった。
彼女は泣き出した。
「たかだかカレーのことで」僕は彼女に冷たい目を向けた。
「買い物に行ってくる」
そう彼女に声をかけた時、彼女の誕生日はもう過去の日付に変わっていた。
彼女は何も言わず、人形のように暗い部屋の片隅にもたれかかっていた。
そして、部屋に戻ってみると、彼女は姿を消していた。
僕はスーパーの袋から買ってきた玉ねぎを取り出し、刻んで、鍋の中ににばら撒いた。
僕は煮えたぎったスープを見つめながら、取り返しのつかないことをしてしまったことに呆然としていた。
しかし、どうすればいいのか僕にはわからなかった。
具材の入ったスープを煮込みながら、僕はただ彼女の帰りを待った。
そして、気づいた時には7年の月日が経過していた。
もちろん、7年の間、鍋の前だけに張り付いていたというわけではない。
会社にも務めたし、休みの日には映画にも行ったし、恋愛だってした。
でも、基本的には僕は鍋の前にいた。例えいなかったとしても僕の頭は完成しなかったカレーのことで埋め尽くされていた。
7年というもの、僕は取り憑かれたかのように、食材を刻んでは鍋の中に放り込み、煮込む作業を繰り返していた。
火を止めることが怖かったのだ。
具材のスープを煮込みはじめてから1年ほどが経った頃、彼女は突然姿を現した。
玄関の少し開いた扉の隙間にいつの間にか彼女は立っていた。
僕は心臓が止まるほど驚いた。
「あいかわらず、怖がりなのね」と彼女は笑った。「ところで、もうカレーはできたのかしら?」
「まだだ」
僕は凍りついた目で彼女を凝視したまま、やっとのこと声を縛り出した。
「ふうん。やっぱりね」
彼女は嫌味に唇を曲げて笑うと去っていった。
扉の間から花柄のワンピースの裾がするりと夜の闇の中に引き込まれていった。
彼女が帰った後で鍋の蓋を開けてみると、スープは闇夜のように真っ黒になっていた。
僕は恐怖のあまりその場にうずくまって、ガタガタと震えた。
僕はその呪われたスープを捨ててしまうべきだった。
でも、恐ろしい想像が頭を取り巻き、怖くてそれもできなかった。
結果、僕は前にも増して、自分で煮込んだスープに支配されることになる。
僕はまるで悪魔の逆鱗に触れないよう、貢物をするように鍋に食材を運び続けた。
鍋のサイズが小さくなると、僕はより大きな鍋を求め街に出た。
仕事に出ている間も火を絶やさないように、大金をはたいてアパートにIHのシステムも導入した。
次に彼女が現れたのは、それから3ヶ月ほどしてからだった。
彼女は鍋の縁に腰をかけて、こちらを伺っていた。
僕と目が合うと彼女はにっこりと微笑んで、鍋の縁を平均台のようにしてこちらに向かって歩いてきた。
「ねえ、覚えている?冬の朝の散歩。すごく寒い日の」
もちろん、覚えていた。
それは彼女との思い出の中でもっとも美しい思い出だった。
ある冬の朝、僕らは近所の大きな公園へ散歩に出かけた。
早い時間で僕ら以外に誰もいなかった。
ボートが浮かぶ池の表面には靄がかかっていた。
僕らは池の周りを手を繋いで歩いた。
空気は切れるように冷たく、恐ろしいほど静かで、鼻先を赤くした彼女の横顔はとても美しかった。
その時間があまりに幸せすぎて、このまま二人で凍え死ねたらいいのにと僕は思った。
「あの時、一緒に死んじゃえばよかったわね」
彼女が僕の心を見透かしたように言った。「少し、歩きましょう。あの時のように」
彼女が僕に向かって手を伸ばすと、次の瞬間には僕は鍋の縁に立っていた。
辺りが冬の公園の景色に変わった。
彼女が無邪気に僕に腕を絡めてきた。あの時のように。
僕らは枯葉を踏み鳴らし、池の周りを歩いた。
「ねえ、あの時はどうして手を繋いでくれたの?」
「二人きりだったから」
あの時の気持ちが蘇るようだった。
「あなたって、恥ずかしがり屋さんなのね」彼女は微笑んだ。
僕は頷いた。
「ウソよ!あなたは恥ずかしがり屋なんかじゃない!」
突然、彼女が手を振りほどき、僕を突き飛ばした。
「あなたは自分が傷つくのが嫌なだけでしょう?私と手を繋いで、人から何か思われるのを恐れていただけよ。だから私が手を繋いでも、繋いでも、振りほどいてしまうのよ。そんなことをされた私の気持ちを考えたことはある?あなたっていつも自分のことばっかり。臆病?いいえ、違うわ。傲慢なのよ」
さっきまでの優しい笑顔は消え、彼女は僕をすごい目で睨みつけていた。
いつの間にか、公園の景色も消えていた。
僕は不安定な鍋の縁に立っていた。下を見ると、真っ黒いスープが煮えたぎっていた。
「ねえ、面白い遊びをしましょうか?」彼女がくすりと笑った。
「何?」
「おしくらまんじゅう。違うか(笑)。生き残りゲーム」
そう言うと彼女は、僕めがけて勢いよく突進してきた。
僕は思わず身を翻し、彼女をよけた。
彼女は煮えたぎるスープの中に落ちていった。
「ほらね、あなたってそういう人」
彼女は笑いながら黒い液体に飲まれて溶けていった。
黒い液体がぷくりと泡くを立てた。
それからたびたび彼女は僕の前に現れた。
そして、僕の前で死んでいくのだ。
「見て、懐かしい人たちでしょう?」
見るとサークルのメンバーたちが、鍋の縁を埋め尽くして立っていた。
「凄い人数でしょう?こんな大勢の人たちを犠牲に、あなたは私を勝ち取ったのに。私は幸せだったのかしら?」
サークルの男連中たちは闘志を燃やしたぎらぎらとした目で僕を睨んでいた。
「せめてあなたは幸せなフリをするべきだったのよ。それなのに、あなたって自分を守ることばっかり。呆れちゃう」
連中がラグビーのタックルのように団体で僕に押し寄せてきた。
しかし、僕が先頭の男の肩に手を触れると、男たちはまるでドミノ倒しのように次々に鍋の中に落ちていった。
ある時は会社の同僚だった。
またある時は、小学校の同級生だった。
他にも、街で偶然すれちがった目つきの悪い若者だったり、スーパーのレジ係だったり、僕が電車で席を譲った老婆と、僕に関わったありとあらゆる人たちが僕にゲームを挑み、そして煮えたぎる黒い液体の中に落ちていった。
そして、黒いスープの中に消えていった。
もはや僕は煮えたぎるスープと彼女との奴隷だった。
恐怖に侵された僕にはすでに自分の意思など存在しなかった。
ある時、彼女は僕にこんな提案をした。
「ねえ、そろそろ新しい恋人を作るべきなんじゃないかしら?」
「そうかな」
「そうよ」
僕はネットで新しい恋人を見つけた。
それなのに、ある日会社から帰ったら、新しい恋人は仰向けになって鍋に浮かんでいた。
面白そうに彼女が鍋の中を見下ろしていた。
「君が殺したのか?」
「まさか。あなたが殺したのよ」
「僕は殺してなんていない!」
「女の子はね、愛されないと死んでしまうのよ」
「愛したさ。君が愛せと言ったから、一生懸命愛したさ!」
「じゃあ、この子の顔を覚えてる?」
僕はハッとしてスープに浮かんだ恋人の顔を見た。
大きな瞳から黒い涙が溢れて目玉を押し出した。頬の肉が剥がれ、唇から
黒い液体を吐き出して彼女の顔は溶けていった。
「ほらね。またやっちゃった」彼女は笑った。
「もう。わかったよ。僕が死ねばいいんだ。僕が死ねば大勢の人たちを殺さないで済むんだ」
「何それ?反省?」
「いや。もう。疲れたんだ。だから死ぬよ」
僕は鍋の縁から飛び降りようとした。
でも、僕の体は氷のように固まって、鍋の縁から動くことができなかった。
「ここはあなたが死ぬ場所じゃないわ」彼女が氷のような冷たい声で言った。
「それに、あなたのせいで死んでいったこの人たちをどうするつもり?」
つるりとした黒いスープの表面に無数の顔が浮かんだ。
「僕はこんなに人を殺したの?」
「そうよ。あなたの無関心、無神経さがみんなを殺すのよ。あなたって善人ぶって、本当に傲慢」
「違う。僕はただ臆病なだけなんだ」
「臆病ってそんなにえらいの?こんなに人を殺していいの?」
「ごめん。だからお詫びに僕は死ぬんだ」
僕は土下座したままの格好で鍋の中に転げ落ちようとした。
でも、やっぱり体は動かなかった。
「そうはいかないわ。あなたはまだ生き続けるのよ。あなたのせいにして死にたがっている人たちはまだまだいるんだから」
「死にたがっている?僕のせいにして?」
「そうよ」
「どうして?」
「だって、そうした方が楽ちんなんだもの」
彼女はふんと鼻を鳴らすと、鍋の中に飛び込んだ。
そして、まるでリゾートホテルのプール浮かんでいるみたいに、気持ちよさそうに伸びをすると、黒いスープに飲まれて消えていった。
彼女と偶然、街で会ったのはそれからしばらく経ってからのことだった。
彼女は驚いたように目を見開いて、それから満面の笑顔を見せた。
でも、それが誰なのか僕にはわからなかった。
「ひどいわね。昔の恋人の顔を忘れるなんて」彼女は笑った。
僕はそれが「彼女」だということにやっと気づいて、息を飲んだ。
「なんていう顔をしているのよ。化け物にあったような顔をして」
「いや、だいぶ感じが変わったから」僕は彼女から目をそらせた。
「あなたはぜんぜん変わってないのね。ずいぶんやつれているみたいだけど」彼女は笑った。
僕らは近くのカフェに入って、向かい合った。
話はおのずと「あの日」のことになった。彼女が僕の部屋を出ていったあの日。
「実はそのカレーはまだ完成していないんだ」
僕は今も煮込み続けているカレーの話をした。
「うそでしょう?あれから何年経っていると思ってるの?」
僕は指折り数えてみた。
「7年」僕は言った。
「あなたらしい」彼女は吹き出した。
僕は何だか気が楽になった。
「あの頃の私はあなたと別れるきっかけを探していたんだと思う。もう疲れていたのよ。きっと、お互いにね」
確かに、僕らはお互いの気持ちがすれ違っているとわかっていながら意地を張っていたのかもしれない。
「結婚はしてるの?」僕は聞いた。
「してるわ。子供もいる」
「そう」
「ねえ、私幸せそうでしょう?」彼女が微笑んだ。
「そうだね」僕も微笑んだ。
「あなたには悪いけど、私の判断は間違っていなかったと思う。もしもあの時、あなたの作ったカレーを食べていたら、私はあなたとの暮らしを続けていたかもしれない。でも、私は幸せになれたかしら?」
「そうだね」
「でも、私は今、何不自由ない生活を送っているわ。綺麗な服を着て、おいしいものを食べて、好きなことをする時間もたっぷりある。ねえ、これ先月の誕生日に主人に買ってもらったの。どう?」
彼女はよく手入れされた美しい手を差し出した。
その指には高価そうなダイヤの指輪がはめられていた。
「似合うよ」僕は言った。
「そうでしょう?」彼女が微笑んだ。「こういう生活こそ、私が手に入れるべき生活だったのよ。だって、そうでしょう?私はみんなの憧れの的だったんだから」
「そうだね」僕は心から同意した。
「だから、あなたは自分を責める必要なんてないのよ。私があなたのせいにして、あなたをフッたんだから。でも、本当にあなたのことが好きだったのよ」
「ありがとう」
彼女と別れた後、僕はスーパーに行きありったけの市販のカレールーを買い込んだ。
部屋の戻ると、僕は買ってきたカレー粉をスープの中に溶かしていった。
途端にカレーのスパイシーな香りが沸き立った。
カレーに取り憑かれた僕は恐ろしい装置を作っていた。
部屋にはパイプで繋がれた数々の鍋が所狭しと立ち並んでいた。
その必死に溶接した不恰好なつなぎ目が、いかにも痛々しかった。
でも、これこそが僕の生き方そのものなのだ。
僕は僕のせいで死んでいった死者たちを弔うように1つ1つの鍋を回り、カレー粉を散らしていった。
彼女は言った。
「みんなそうよ。そんなの当たり前よ。みんな誰かのせいにして諦めたり、這い上がってみたり。きっと、そうやって世の中ってうまく回ってるのよ。でも、それが、喜びだったり、悲しみだったり、優しさだったり、って人生の味になるんじゃないかしら。
もっと傲慢に生きなさい。私みたいに」
僕の店は長い坂を登りきった住宅地の一角にある。
その坂を登って毎日、毎日、たくさんの人たちが黒いカレーを求めてやってくる。
カレーは表面がつるりとして、暗闇のように真っ黒い。
そこには複雑な味が絡み合っている。
継ぎ足し、継ぎ足し、僕はカレーを煮込み続ける。
黒いカレーを作ること。それが僕の仕事だ。
クロノカレー