ガールカウンセラー4th

ガールカウンセラー4th

一 プロローグ

 平日の昼下がり、京橋茂は制服姿で歩いていた。学校をズル休みして、クラスメイトの家から帰る途中だった。
「う~~ん。書店に寄りたいけど・・・」
 そう独り言を呟きながら、書店に続く道に顔を向けた。しかし、制服姿での寄り道は目立つので、私服に着替えてから行くことにした。
 まっすぐ家に帰り、玄関の鍵を開けようとしたが、鍵が掛かっていなかった。
「あれ?」
 誰かいる時は鍵は開いているが、この時間は誰もいないはずだった。
 茂は恐る恐るドアを開けて、中を覗き込んだ。
「なんで?」
 玄関には母親の靴が揃えてあった。今日は休みとは聞いていなかったので、素で驚いた。
 靴を脱いで玄関を上がり、鞄を階段の一段目に置いてからリビングへ向かった。
「ただいま~」
 茂はゆっくりとドアを開けて、リビングの中を覗いた。
「あ!茂。どこ行ってたのよ」
 母親がこちらに気づき、ソファーから立ち上がった。母親にはズル休みのことは電話で伝えていた。
「どこって、GPSで確認しなかったのか」
「したわよ、ずっと同じ所にいたけど、琴音ちゃんの家にでもいたの?」
 立嶋琴音は一度家に招いていたので、家族には周知されていた。彼女は、茂と同級生で設定上は親友ということになっていた。
「立嶋の友達の家だよ」
 茂は、言葉を選んでそう答えた。
「そうなの?琴音ちゃんは、大丈夫だったの?」
「ああ、話をしたら落ち着いたよ」
「相談に乗ってあげたんだね」
 これに母親が、嬉しそうに表情を緩めた。
「それより、仕事はどうしたんだ?今日は休みじゃなかっただろう」
「早退したに決まってるでしょう」
「へっ、理由を聞いたのに?」
「理由を聞く前に早退したのよ」
「それは早計だったな」
 どうやら、早とちりで早退してしまったようだ。
「別に、その理由でも早退してたわよ」
「なんでだよ」
「琴音ちゃんが家に来ると思って」
「先回りしておいたのか」
「でも、全然帰ってこないんだもん。的外れだったわ。GPSで確認したら、ずっとそこから動かないし。迎えに行くことも考えたけど、気が引けたし」
「それは賢明だな。この年齢になって迎えに来られたら、恥ずかしくて学校行けなくなる」
「私もそう思ったからやめた」
 母親はそう言って、不満そうに顔を逸らした。
「あと、ごめん。真理に全部しゃべっちゃった」
「なっ!」
 これには今日一番の衝撃を受けた。妹の真理は、家族の悩みに首をつっこむことを信条としていたので、この告げ口は茂にとって最悪だった。
「な、なんで?」
「いやぁ~、相談する時は真理を通して欲しいって言われてて。茂に電話する前に真理にメールを送っちゃった。そしたら、茂に電話してすぐに電話が掛かってきてね」
「だから、折り返しがなかったのか」
 あの時は強制的に電話を切っていたので、折り返されると思ったが、それが一切なかったのは不思議に思っていた。
「真理に止められてね。しばらく、泳がせろって言われたわ」
「犯罪者扱いかよ」
「まあ、前のことがあったから仕方ないんじゃない」
 去年の10月、潔白とはいえ警察に厄介になってからは、茂への信頼はなくなっていた。
「いい加減、前のことを引きずるのはやめて欲しいんだが」
「そうしたいんだけど、心配なんだもん」
「そうか。なら、仕方ないな」
 これは本人の問題なので、これ以上は言えなかった。
「茂って、モテるタイプだよね」
「なんの話だよ」
「だって、人の意見をそのまま受け入れるんだもん。まあ、少しは反論するけど、引き際がうまいのよね」
「それでモテるとは思えねぇんだが」
「一緒だよ。反論は必要だけど、しつこいと嫌われるし、反論がなかったら、相手にされないからね」
「でも、俺には友達が少ない」
 茂は、今の現状をそのまま口にした。
「しいちゃんのことがあったから、仕方ないよ」
「俺は、メンタル弱いからな」
「自覚あるんだ」
「まぁな」
 これは幼馴染の加納しいなが亡くなってから気づいたことだった。
 話も終わったので、茂はリビングから出ることにした。
「どこ行くのよ」
 それを母親が呼び止めてきた。
「書店に行こうと思って」
「やめなさい」
「なんでだよ」
 母親の制止に、茂は訝しがって聞き返した。
「休んでおいて、外を出歩かれたら困るわ。一応、早退の理由は茂のことなんだから」
 母親のせいで、出かけるという選択肢が消失してしまった。
「はぁ~、しょうがない。部屋で勉強してくるよ」
 書店に行くことは諦めて、今日の授業の範囲をやることにした。
「本当に塾とか通わなくてもいいの?」
 母親は未だにそれを気にしているようで、茂に心配そうに聞いてきた。これは前にも聞かれていたことだった。
「大丈夫だって。もう聞く相手もできたし」
 後半は、母親に聞こえないように小声で呟いた。
「それであの大学受かるの?結構高い学位でしょう」
「そうだな。まあ、今のところ五分五分だよ」
「ダメだったらどうするの?」
「それも考えてるよ」
「そうなんだ。茂は、もう大人だね」
 母親はそう言って、少し寂しそうに微笑んだ。
「しいなのことで吹っ切れたからな。もう進路は決まってるよ」
「道はかなり厳しいよ」
「知ってる」
「そう。なら、あとは頑張ってとしか言えないわね」
「それで十分だよ」
 茂は表情を緩めて、母親にそう返した。
 リビングを出て、階段に置いてあった鞄を持って二階に上がり、自室で勉強を始めた。
 勉強に集中していると、階段を上がってくる足音が聞こえてきた。
 時計を見ると、既に4時を回っていた。勉強を始めて、1時間半は経過していた。
「お兄ちゃん、いる~?」
 控えめなノックの後に、妹の真理の声が聞こえた。
「ああ」
 鍵は掛けていなかったので、返事だけを返した。
「どうだったっ!」
 何か意図があるのか、妹が勢いよくドアを開けて入ってきた。そのせいで、妹の長い黒髪が乱れてしまった。
「は、何が?」
 これには意味がわからず、妹に聞き返した。
「だから、琴音さんとうまくいったの?」
 乱れた髪を手櫛で直しながら、いつものようにベッドに座った。
「抽象的過ぎてわかんねぇ~よ」
「察しが悪いな~。恋人同士になったかを聞いてるんだよ」
「なんだ、冗談か」
 あまりの突飛した発言に、からかわれていることに気づいた。
「・・・予想通り何もないみたいだね」
 どうやら、鎌をかけていただけのようだ。
「ズル休みするなんて、今の現状でよくできたね」
「こっちとしても不本意だよ」
「そこまで琴音さんの症状が酷かったの?」
「ああ、今まで見たことなかったな」
 そうは言っても、立嶋とは半年ぐらいの付き合いだった。
「悩みはなんだったの?」
「大したことじゃねぇよ」
 面倒だったので、説明することを突っぱねた。
「言ってよ」
「もう解決してる」
「それは聞いてるよ」
「じゃあ、いいだろう」
「それでも聞きたいのよ」
「聞いてどうするんだよ」
「今後の参考にしようと思ってね」
 この件に関して、妹は引く気はないようだった。
「はぁ~、親友の接し方について悩んでたみたいだ」
 妹との不毛な応酬に時間を取られるのも嫌だったので、大まかに話すことにした。
「何それ?」
 経緯がわからない妹が、訝しげに顔を歪めた。
「知らん。俺も理解できんかった」
 茂は、正直な感想を妹に伝えた。
「ところで、お母さんから聞いたんだけど、昼までどこ行ってたの?」
「はぁ~、母さんは余計なことばかり言うな~」
「それは同感だね。で、誰の家に行ったの?」
「立嶋の友達の家だよ」
 妹にはこの名前だけは言えなかったので、立嶋を間に立てて名前は伏せた。
「そういえば、琴音さんの友達ってもう一人いたっけ?」
「ああ」
 茂を経由してのことだったが、それは絶対に言えなかった。
「お兄ちゃんの友達でもあるの?」
 ここで妹が、核心をついてきた。
「どうだろうな。微妙だな」
 動揺したら気づかれるので、しれっと返した。
「女の人?」
「ああ」
「ふ~~ん」
 その発言に、妹が不機嫌になった。
「何してたの?」
「立嶋が落ち着いて寝たから、その人に勉強を教えてもらってたんだよ」
「頭良い人なんだ」
「教え方がうまくてな」
「ふ~~ん。お兄ちゃんとも仲良いみたいだね」
「こ、これは不可抗力だな。立嶋の友達だと必然的に会話が増える」
 茂は、動揺を隠すために電子書籍に目を移した。
「ふ~ん」
 これ以上深堀されたくなかった茂は、出て行くよう言いかけると、下からインターホンが聞こえてきた。
「あ、未来ちゃんだ」
 妹が立ち上がって、そそくさと部屋から出ていった。
「はぁ~、なんとか切り抜けたな」
 もっと追求されると思ったが、思いのほかあっさり引いてくれた。
 茂が安堵していると、下から加賀未来と妹の声が聞こえてきた。
 その声が階段を上がる音と同時にどんどん近づいてきて、安堵の気持ちがどんどん薄れて、不安な気持ちが強くなった。
「お邪魔します」
 案の定、妹が未来を連れて、茂の部屋に入ってきた。彼女はツインテールで、いつものフリル付きのファッションではなく、小学校の制服姿にランドセルを背負っていた。この家では初めて見る服装だった。
「なんで連れてくるんだよ」
 茂は項垂れながら、妹に不満をぶつけた。
「あの、迷惑でしたか?」
 これに反応した未来が、悪びれたように聞いてきた。
「そうじゃねぇけど。いつもはリビングに直行だろう」
「今日は、お母さんがいるからリビングで練習できなくてね」
 未来には人の心を読める特殊能力があり、茂が推奨した読唇術を妹と練習していた。
「なら、おまえの部屋に行けばいいだろう」
 隣に妹の部屋があり、わざわざここに来る必要はなかった。
「それはそうだけど。未来ちゃんがここがいいって言うから」
「言ってないよ!」
 これに未来が、つっこむように切り返した。
「そうだっけ?」
 妹が顔を引き攣らせて、気まずそうに視線を泳がせた。見る限り嘘をついているのは妹の方だった。
「たまにはお兄ちゃんも読唇術の練習に付き合ってよ」
 ここで妹が話を逸らすように、茂に対して文句を言ってきた。確かに茂が提案したことだったが、今まで練習に付き合ったことはなかった。
「俺は、勉強で忙しいんだが」
「今日は休んだんだからいいじゃん」
「休んだことと勉強は関係ねぇよ。それに授業受けれなかったから、その授業の範囲を勉強しないといけねぇし。友達いないから教科書の重要なポイントは、自分でまとめて書き写さなきゃならねぇんだよ」
 口を挟まれたくなかったので、一気に捲くし立てた。
「なんか涙ぐましいね。特に友達がいない部分が」
 予想通り妹から同情が返ってきた。
「そうだね」
 しかし、未来からの同情は予想外だった。年下二人に同情されるのは気分が悪かったが、これで部屋から出ていってくれることを期待した。
「お兄ちゃん。ずっと一緒にいるからね」
 妹が近づいて、座ってる茂の手を両手で握り締めてきた。
「うぜぇ~よ」
 明かに揶揄されているので、苛立ちを込めて手を振り払った。
「素晴らしい兄妹愛だね」
 妹の本心を見抜けるはずの未来が、茂たちのやり取りを微笑ましく見守っていた。
「とにかく、出てけよ」
 二人が率先して部屋から出ていきそうになかったので、結局いつものように厄介払いした。
「本当に最近冷たいね」
 これに妹が、拗ねたように口を尖らせた。
「もう子供じゃねぇんだから、いい加減、兄離れしてくれ」
「そんなの中学になってからしてるわよ。最近のお兄ちゃんが心配だから、こうやって構ってあげてるんじゃない」
「それは悪かったな。でも、もう必要ねぇよ」
 半年近く前、しいなが亡くなった時にうつ病になり、妹にはかなり迷惑を掛けていた。
「所詮、私は都合のいい妹って思われてるのかな~」
「んなこと、思ったこともねぇよ」
 面倒臭い妹の態度に、自然と顔を歪めた。これは昔、妹がよく口にしていた言葉だった。
「行こっか。未来ちゃん」
 そんな茂を無視するように、妹が未来を連れて部屋から出ていった。
「ふぅ~、無駄に疲れるな~」
 ここで練習しなかったことに安堵して、勉強を再開した。
 授業の範囲を終わらせて、受験勉強を始めようとすると、電子書籍に学校から宿題メールが届いた。宿題は必ずメールで送られていて、それは欠席でも関係なかった。
「送信がおせぇ~よ」
 いつもなら帰りのHRには送られるはずだが、既に5時を回っていた。
「はぁ~、仕方ない。あとでするか」
 そろそろ未来を公園まで送る時間だったので、宿題は後回しにした。
 未来たちが来る様子がなかったので、隣の妹の部屋へ向かった。
「おい、いるか?」
 茂派、妹の部屋をノックして声を掛けた。
「あ、ちょっと待って」
 すると、部屋の中から妹の返事が返ってきた。
 しばらく待っていると、妹と未来が一緒に出てきた。
「あれ、どうしたんだ。未来?」
 制服姿だった未来が、見たことのある服に着替えていた。
「私の古着を着てもらったの♪」
 妹はそう言って、嬉しそうな笑顔を見せた。未来の服装は、上は縦ラインのTシャツに下はハーフパンツだった。
「に、似合いますか」
 未来が照れた感じで、茂の方を見つめてきた。これは活発な女子が着る服で、大人しい未来には似合っていなかった。
「これって、前までおまえの部屋着だっただろう」
 感想が言いづらかったので、妹に話を振った。
「うん。でも、着られなくなったし」
 妹が自分の胸を触って、着られなくなった理由をアピールした。
「そうか。じゃあ、そろそろ送ろうか」
 そんな妹を無視して、未来に話を切り替えた。
「兄さん。私が思考を読めること忘れてませんか」
 どうやら、服装の感想を思考で読み取ったようだ。
「わかってねぇな~。だから、感想を言わなかったんだよ」
 嘘だったが、そういうことにしておいた。
「着替えてきます」
 未来は悲しそうに項垂れて、部屋に戻っていった。
「お兄ちゃん。あとで説教ね」
 それを見た妹が睨みつけながら、部屋のドアを閉めた。
 未来が制服に着替え直して、ランドセルを背負って出てきた。
「いきましょうか」
 そして、悄然としたまま茂の横を通った。
「なんで落ち込んでるんだよ」
「お兄ちゃんのせいでしょう」
「そうなのか?」
 服の感想だけで、ここまで落ち込まれるとは思わなかった。
「はぁ~、鈍感な相手は疲れるね。早く未来ちゃんを送ってあげて」
「はいはい」
 妹の嫌味を軽く受け止めて、階段を下りていく未来を追った。
 茂が階段を下りると、彼女は既に靴を履き終わっていた。
「兄さん、この際だから言っておきますけど、建前は必要ですよ」
 突然、未来が凛とした表情で言ってきた。
「ん、なんの話だ?」
「お姉ちゃんが心配してましたよ」
「心配?」
 靴を履きながら、未来を見上げた。
「今日のズル休みのことですよ」
「ああ、あれね。でも、なんでそれで建前が必要なんだ?」
「お姉ちゃんがいろいろと勘ぐってました」
「まあ、そうだろうな」
 未来の忠告を受けながら、茂は玄関を開けて外に出た。
「表向きでも、彼女の説明は必要ですよ」
 家を出ると、未来がいつものように手を繋いでそう言ってきた。
「無茶言うなよ。あいつの名前は出せねぇんだから。一応、今は立嶋の友達ということにしてるんだが」
「それは知ってますけど、葛木さんと付き合いがある以上、それで隠し通すことは難しいと思います」
 10月のあの一件以来、妹は茂のクラスメイトである葛木菜由子を極度に嫌っていた。幸いなことに妹と葛木は、まだ顔を合わせたことがなかった。
「表向きって言っても、どうすりゃいいんだよ」
 他に思いつくことがなかったので、未来に助言を求めた。
「葛木さんの下の名前を出してみたらどうでしょう」
「そういえば、真理は苗字しか知らなかったな」
「ですから、名前を公表してはどうでしょう」
「でもな~、下の名前で言ったら、余計な詮索が入りそうなんだが」
 女友達を名前で呼ぶのは、かなり違和感があった。
「それはありそうですね。ですが、これ以上曖昧なままだと本人が動く可能性がありますよ」
「本人?」
「お姉ちゃんがですよ」
「そんなこと言ってたのか」
「言ってはいませんが、思ってはいますね」
「それは危険だな」
 今、妹が葛木と会えば暴力沙汰になる可能性が高いと思った。
「ですから、ここは名前を出して見ませんか?」
 未来は、茂の思考を読んでからそう促してきた。
「検討しておくよ」
 これはすぐには判断できないので、考慮することにした。
「それより、今日は学校にでも行ったのか?」
 制服姿の未来が気になり、何気なく聞いてみた。
「はい。1ヶ月振りに顔を出してみましたが、あまりいいものではありませんでした」
「そうなのか」
「みんなの思考がうるさくて、授業が聞き取れません」
「それは大変だな」
「読唇術を使用して、授業を聞こうと思いましたが、まだ無理でした」
「本当に大変だな」
 雑音の中、授業を受けるのは苦痛以外の何物でもないだろう。
「教師の口の動きがまた独特で、途中で断念してしまいしたよ」
 未来はそう言って、がっくりと肩を落として溜息をついた。
「それはまた災難だったな」
「それに私に対しての非難と疎ましさが多くて、とても傷つきました」
「酷く大変だったな」
 1ヶ月振りだと、そう思われるのは当然と言えば当然だった。
「というか、なんで行ったんだ?」
「いろいろあったんです」
 茂の問いに、未来が理由を抽象的に答えた。
「そっか」
 家庭の事情ならば、茂としては深入りはできなかった。
 公園に着くと、未来が手を放した。
「兄さんには、私への同情があまりないですね」
 そして、茂の正面に立って笑顔で見上げてきた。
「俺は、同情が嫌いだからな。知ったような心情なんて的外れもいいところだ」
「捻じ曲がった持論ですね」
「未来は、同情されたいのか?」
「今まではそう思っていましたが、兄さんに会ってそれは変わりました」
「そうなのか。俺の持論は相手に対しては無関心にしか見えないみたいだが」
 といっても、こうなったのはここ最近になってからだ。不思議なことにうつ病が治ってからは、他人に対して感情的になれなくなっていた。
「ふふふふっ、私にはそれが新鮮でした」
 未来は微笑んで、恥ずかしそうにうなじを掻いた。その笑顔は、亡くなったしいなを思い出させた。
「でも、それは時折優しさにもなるんですよ」
「まあ、誰しも触れられたくないことも、察して欲しくない時もあるからな」
「そこまで気を使ってる人は、兄さんが初めてです」
「別に、気遣ってるつもりはねぇよ。ただ自分に置き換えた時に、嫌だと感じただけだ」
「じゃあ、私もその部類ってことですかね」
「さあな。同情されることに飽きたんじゃねぇのか?」
「・・・そうかもしれませんね」
 茂の暴論に、未来がおかしそうに納得した。
「じゃあ、また明日ですね」
「明日も行くのか?」
「はい。学校にはしばらく行こうと思ってます」
「無理すんなよ」
 茂は、未来に気遣って頭に手を置いた。
「えへへへっ、ありがとうございます」
 それに未来が、満面の笑みでお礼を言った。
「じゃあな」
「はい」
 二人で別れの挨拶をして、お互いの帰路に就いた。
 家に戻ると、母親が玄関で待っていた。
「茂。母さんが言ったこと忘れたの?」
「あ、忘れてた」
 家を出ないよう言われていたことを、今になって思い出した。
「全く、しょうがないわね。夕飯できてるから食べましょう」
 母親が表情を緩めて、リビングに歩いていった。茂も靴を脱いで、母親の後を追った。

二 動揺

 翌朝、快晴で雲一つない空の下、茂はいつもの登校路を歩いていた。
「おはよう」
 すると、ショートカットで平均顔の立嶋琴音が挨拶してきた。ここ最近ではコンビニで待っていることが多かったのだが、今日は二つ目の角を曲がったところで待っていた。
「おはよう」
 茂は、軽くそう返して先を歩いた。
「今日は体調良さそうだな」
 昨日はかなり憔悴した様子だったが、今日はいつもの顔に戻っていた。
「うん。昨日はありがとう」
「それは葛木に言えよ」
「京橋も付き合ってくれたんだから、お礼は言うよ」
「そうか。なら、気持ちだけ受け取っておこう」
 家から学校までの中間地点のコンビニの前まで来たが、葛木は待っていなかった。
「葛木さん、いないね」
「そうだな。このままいなくてもいいのにな」
「京橋。友達にそれはないよ」
「そうだったな」
 本音では立嶋と葛木は嫌いだったが、二人の希望により友達という設定にしていた。
「お、おはよう」
 突然、横の路地から葛木の声が聞こえた。
 茂たちは驚いて、路地に顔を向けた。
「え、葛木さん?」
 立嶋が驚いたまま、本人かどうかを確認した。茂は唖然として、言葉が出なかった。
「う、うん」
 葛木は、恥ずかしそうに路地から出てきた。
「き、綺麗」
 そんな葛木を見て、立嶋から賛辞の言葉が漏れた。いつもは化粧なんてしない葛木が今日は薄化粧していた。髪形はいつも通りポニーテールだったが、黒のゴムバンドではなく、シュシュで結わっていた。
「ど、どうしたんだ?」
 その異様な姿に、茂はようやく言葉を出した。
「うん。京橋の為に化粧してみた」
 葛木は、気恥ずかしそうに視線を逸らした。
「そ、そうか」
 この発言がいまいち理解できず、そう返すことしかできなかった。
「とりあえず、歩こうか」
 周りの視線も気になり、三人は歩き始めた。
「葛木さん。今日は一段と綺麗だね」
 立嶋が葛木の隣で、まじまじと観察してそう言った。
「ちょ、ちょっと、恥ずかしいからやめてよ」
 そう思うなら化粧なんてやめればいいのにと、茂は強く思った。
「ところで、なんで離れてるの?」
 葛木が立ち止って、後ろを歩いている茂の方を向いた。
「おまえと歩くと目立つから、近づきたくねぇ~」
 実際、周囲から葛木は本当に目立っていた。
「そ、そんな」
 茂の本音に、葛木が悲しそうな顔をした。
「京橋!」
 すると、立嶋が怒りをあらわにして近づいてきた。
「な、なんだよ」
「設定を忘れないで」
「いや、これは緊急避難だ」
 立嶋の非難に、茂は咄嗟にそう言い繕った。
「ふぅ~、大人しい性格に変えようと思ったけど、無理そうだね」
 葛木はそう言って、溜息交じりに近寄ってきた。
「京橋。離れたら腕組んで登校することになるよ」
 そして、目を細めて威圧してきた。
「それは避けたいが、まずその化粧を落としてくれねぇか」
「なんでよ」
「目立つのは嫌だ」
「化粧は嫌いなの?」
「いや、そうじゃねぇけど、おまえの場合、美人が引き立つから一緒に歩くのは気が引ける」
「び、美人」
 茂の言葉に、葛木が顔を赤く染めた。
「か、可愛い」
 それを見た立嶋が、見蕩れるようにそんな言葉を口にした。
「だから、化粧落としてくれねぇか」
「この場では無理だよ~」
 葛木が嬉しそうな顔で、茂の横についた。
「ちけぇ~よ」
 肩が触れるぐらい接近してきたので、自然と立嶋の方に寄った。
「ちょ、ちょっと、京橋。ち、近いよ」
 これに立嶋が、恥ずかしそうに一歩横にずれた。
「そうそう、京橋のお弁当作ってきたから、あとで受け取ってね」
「は!なんで?」
 前に一度作ってきたが、周囲の目に耐えられず、お互いの合意でやめたはずだった。
「な、なんでって、それは・・・う~ん。そうしたかったから・・かな」
「い、嫌がらせのつもりか」
「違うよ」
 茂の発言に不満があるのか、葛木が口を尖らせて否定してきた。
「もう付き合っちゃえば」
 隣の立嶋が、突如そんなことを口にした。これは茂も大いに賛同できることだった。
「確かに、葛木は誰かと付き合った方がいいかもな。俺以外と」
 立嶋の言葉では、自分のことにもなりかねないので、最後に自分は除外させた。
「・・・」
「・・・」
 すると、二人が茂を睨んで黙り込んだ。
「な、なんだよ」
 その圧力に、茂は怯んでしまった。
「私は、京橋以外と付き合う気はないわ」
 葛木はそう言いながら、照れたように視線を逸らした。
「なんかの嫌がらせかよ」
 その告白は、茂にとっては皮肉以外の何物でもなかった。
「く、この天邪鬼」
「京橋は、皮肉屋だね」
 葛木に同調するように、立嶋も非難してきた。
「別に、そんなことはねぇよ。あと、弁当は受け取らん」
 面倒になりそうだったので、さっさと話を切り替えることにした。
「な、なんでよ!」
 これに葛木が、過剰ともいえる反応をした。
「教室で受け取るなんて恥ずかしすぎる」
「それは同感だね」
 前回のことを思い出したようで、葛木が照れた表情で納得した。
「じゃあ、ちょっとこっち来て」
 葛木が茂の腕を掴んで、路地裏に入った。
「な、何すんだよ」
「教室じゃあ恥ずかしいから、ここで渡しとくよ」
 そう言うと、葛木が鞄から弁当箱を取り出した。
「いや、いらねぇよ」
 一度断っているので、受け取りを拒否した。
「もう作っちゃったから、受け取ってよ」
「嫌だ!」
 ここで折れると、後々面倒なので強く突っぱねた。
「そもそも、なんで作ってきたんだよ」
「京橋のせい」
 茂の質問に対して、その一言を強く誇張した。
「どういう意味だよ」
「そのまんまの意味よ」
「その意味わかんねぇって言ってんだろう」
「察しなさいよ」
「できねぇから聞いてんだよ」
 茂たちは、狭い路地で睨み合った。
「二人とも早くしないと遅刻するよ」
 それに見兼ねたのか、立嶋が呆れた顔で間に入ってきた。
「さあ、受け取って」
「ちっ、わかったよ」
 このままでは遅刻してしまうので、渋々折れることにした。
 茂は、受け取った弁当箱を手早く鞄に仕舞った。
「琴音の分もあるよ」
 葛木はそう言って、もう一つの弁当箱を取り出した。
「え!」
「今日、半ドンでしょう。琴音の家で食べようと思って作ってきた」
 それだったら立嶋の家で渡せばいいだろうと、茂は強く思った。
「く、葛木さん」
 これに感動したようで、立嶋が涙目になった。
「あ、ありがとう」
 そして、頭を下げてお礼を言った。
「別に、そこまで畏まらなくてもいいよ。琴音の分はついでだったし」
 その対応に、葛木が少し困ったようにそう言い訳をした。
 路地裏から出て、三人で並んで歩いたが、自然と葛木から一歩離れる形を取っていた。
「もしかして、これからずっと弁当作ってくるのか」
「うん。だから、これからはコンビニは行かなくていいよ」
「やめてくんねぇ~かな」
「無理かな」
「どうしてもか」
「うん。無理」
 葛木は、満面の笑みでそう断言した。
「おまえ。やっぱり、化粧落とせ」
 薄化粧の葛木の笑顔には、茂には反論しづらかった。けして美人だからではない・・と心で言い訳しておこう。
「だから、この場では無理だって」
「今から学校のトイレにでも行って落としてくれ」
「そ、そこまで嫌がらなくても」
「おまえと一緒に教室に入りたくねぇんだよ」
 このまま教室に一緒に入ると、確実に注目されるし、勘ぐられるのは目に見えていた。
「確かに、今の葛木さんだと注目の的になっちゃうねー」
 立嶋もそれには納得して、葛木の顔を横から覗き込んだ。
「ん~~」
 葛木も注目されることは嫌っていて、茂たちの指摘に表情が険しくなった。
「しょうがないな~。ちょっと先行くね」
 葛木は軽く断りを入れて、駆け足で走っていった。
「ふぅ~、いつもより疲れた」
「そうだね。周りの視線がひしひし伝わってきたね」
 葛木を見送りながら、立嶋が苦笑いした。
「なんで今日に限って、化粧なんてしたんだろうな」
 思い当たることがなかったので、立嶋に投げかけた。
「昨日、京橋が抱きしめたせいだよ」
 すると、立嶋がしれっとそんなことを言い出した。
「それはねぇだろう」
 あれはその場凌ぎの抱擁だったので、その可能性は低いと思った。
「なんでそう思うの?」
 これに立嶋が、不思議そうに聞いてきた。
「俺が嫌いということを知ってるから」
「でも、葛木さんは京橋を嫌ってないよ」
「んなこと、知ってるよ」
「あ、それは知ってるんだ」
 さすがにあそこまでアピールされたら、嫌でもわかることだった。
「じゃあ、好きな人に抱きしめられたら、どう思う?」
「う~~ん。気持ちが高揚するかもしれんな」
「それが葛木さんの今日の行動に繋がってるんだよ」
「気持ちの高揚なんて、一時的なもんだろう」
「ふぅ~、京橋。ハグは好きな相手にしかしちゃダメだよ」
「だから、葛木の思いを利用してハグで丸め込んだんだよ」
「・・・もしかして、そのために抱きしめたの?」
 これに立嶋が目を細めて、訝しげな顔をした。
「他にそれをする理由がねぇだろう」
「京橋って、馬鹿だねー」
「なんでだよ!」
 なぜここで小馬鹿にされるのか理解できず、声を荒げてしまった。
「昨日、女性誌を見てたんだけど、ハグは相手の恋心を助長させる行為って書いてあったよ。まあ、相手が好きな場合だけど」
「何っ!そうなのか!」
「うん。あと一押しするにはハグが一番とか書いてあった」
「マジで!」
「良かったね。これで葛木さんと付き合えるよ」
 立嶋は、ここぞとばかりの皮肉たっぷりな笑顔を向けてきた。一歩間違えば犯罪行為だったが、まさかそれが裏目に出るとは思っていなかった。
「・・・ん?でも、立嶋って女性誌なんて読んでたっけ?」
 立嶋は専門誌は読むが、女性誌の情報なんて初めてだった。
「友達つくるのに、必要な情報だと思ってね~」
 立嶋の友達は、今のところ茂と葛木しかいなかった。前までは政治経済の話題ばかりを一方的に話していたので、茂が話題性を若者向けにするように助言していた。
「そうか。まあ、頑張ってみろ」
 一応、親友という設定だったので、立嶋に声援を送っておいた。
 校門をくぐり校舎に入ったが、葛木とは出会わずに教室に着いた。
「じゃあ、昼休みに」
 立嶋はそう言って、自分の教室に戻っていった。立嶋の教室はここに来る前に通り過ぎていたが、いつも茂の教室まで来てから戻るのが習慣になっていた。
 席に着いて電子書籍を弄っていると、葛木が入ってきた。化粧は落としていたが、髪を結んでいるシュシュはそのままだった。
「間に合ったよ~」
 葛木は自分の席には向かわず、わざわざ茂に報告してきた。
「そっちがいいよ」
 もう化粧はやめて欲しいという意味も込めて、茂は表情を緩めた。
「えへへへっ、ありがとう」
 それに葛木が、嬉しそうにはにかんだ。
「もう戻った方がいいぞ」
「そうだね」
 葛木は、時計を見てから自席に歩いていった。
 朝のHRが鳴り、担任が入ってきて、淡々と連絡事項をした。
「あと、昨日欠席した人は授業が終わり次第、職員室まで来てください」
 最後に担任がそう言って、教室から出ていった。
「マジかよ」
 これは面倒臭いことになると思い、自然と溜息が漏れた。
 一時限目まで5分あるので、授業の準備をする為、電子書籍を取り出した。
「京橋~、どうしよう」
 すると、葛木が困った顔で茂の席まで来た。
「何がだよ」
「これって、もしかしなくてもばれてるってことだよね」
「そうだろうな。校門前で帰ってるし」
 昨日のズル休みは、校門前まで来てから帰ったので、他の生徒に告げ口されても不思議はなかった。
「なんか面倒なことになりそうだね~」
「まあ、十中八九そうなる可能性が高いな」
「ちぇ、これは何か考えとかないと、まずいかな」
「その場で考ればいいだろう」
「京橋は、短絡的だね。もうちょっと危機感を持った方がいいよ」
 葛木はそう言って、自分の席に戻っていった。
「なあ、昨日なんかあったのか?」
 すると、隣の横峰が茂に話しかけてきた。
「まあな」
「それにしても、あのシュシュ。かなり似合ってるな」
 横峰が葛木の後姿を見ながら、そんな感想を漏らした。
「そうだな」
 知らねぇよと言いたかったが、それを言うのも面倒だったので、適当に相槌を打っておいた。
 授業が始まり、教師が入ってきた。
 今日の一時限目は数学だった。昨日、葛木から教えてもらった範囲まで終わっていなくて、復習みたいになってしまった。
「やっぱり違うな~」
 その授業を聞きながら、葛木の教えの上手さを再確認した。
 半ドンの授業が終わり、茂と葛木は職員室の担任の机の前で立っていた。
「はぁ~、面倒臭ぁ~」
 未だに職員室に顔を出さない担任に、葛木が苛立ちをあらわにしながら溜息をついた。
「ばれるのは予想できただろう」
「まあ、そうだね~」
 葛木は、昨日のことを思い出すように視線を上に向けた。
「あ、あれ?京橋?」
 名前を呼ばれて振り向くと、立嶋が職員室に入ってきた。
「もしかして、琴音も呼ばれたの?」
「う、うん」
 立嶋は葛木に返事をして、こちらに歩いてきた。
「やっぱり、昨日のことかな」
「おそらくな」
 茂は、何気に掛け時計を見た。
「呼んだ担任はどこ行ってんだよ」
「さあね」
 葛木がそう答えると、職員室に担任が入ってきた。
「で、何の用ですか~」
 担任が茂たちの前に立つと同時に、葛木がだらけた口調で聞いた。これは茂が直すよう指摘する前の口調だった。
「昨日の欠席についてだ」
 担任が椅子に座って、こちらを見上げた。
「理由は、電話で伝えたはずですけど~」
「それは聞いているんだが。君たち三人を校門で見たという生徒がいてね」
「あ~、校門まで行きましたけど~、体調が悪くて帰りました~」
 こうまでスラスラと嘘がつく葛木を見て、虚言癖でもあるのかと疑ってしまった。それは立嶋も同じようで、ポカンとした顔で葛木を見ていた。
「二人もそうなのか」
 葛木の理由に納得したのか、今度は茂たちに聞いてきた。
「あ、はい」
 立嶋は、少し困惑しながらも肯定した。
「自分は、電話で伝えた通りですよ」
 三人とも同じ理由だと怪しまれるので、別の理由にしておいた。
「そう・・だったな」
 担任が少し間を取ってから納得した。
「もう帰っていいですか?」
 これ以上は不毛だと思えたので、話を切り上げることにした。
「まあ、いいだろう。だが、休む時はできるだけ生徒に見られないようにしてくれ。でないと、こっちが対応しないといけなくなる」
 担任は、嫌味たっぷりに本音を吐露してきた。相変わらず、嫌な担任だった。
「気をつけますよ~」
 これに葛木が、不愉快そうに返した。
 職員室を出ると、葛木が舌打ちした。
「何よ、あれ。むかつく」
「まあ、呼び出されただけで良かったな」
「京橋って、怒りの沸点が低くなってない?」
 葛木はそう言いながら、残念そうな顔をした。
「諦めてるからな」
 前件があるので、担任の所業はどうでも良くなっていた。
「というか、立嶋も一緒だったけど、俺たちの担任に呼ばれていたのか」
「うん。だって、あの人って教育指導の担当でしょう」
「ああ、そういえばそうだったな」
 あまりにどうでもいいことなので、今まで完全に忘れていた。
「それより欠席の理由って、京橋は違ったんだね」
 さっきのことが気になったのか、葛木が茂を横目で見た。
「同じ理由じゃあ、不審に思われるからな」
「理由は何にしたの?」
「ん?ああ、大した理由じゃねぇよ。前から予約していた精神病院に行くから、欠席するって言っただけだ」
「せ、精神病院?」
「ああ、最近まで通っててな。担任もそれを知ってるから、それを理由に使っただけだ」
 しいなの病状が悪化したことによりうつ病を発症してしまい、母親が見兼ねて精神病院に入院を薦めたが、茂の説得で通院だけでなんとか収めていた。
「良く頭が回るわね」
 これに葛木が、複雑な表情で感心した。
「おまえほどじゃねぇよ」
「そうかな?私の場合、熟考タイプだからその臨機応変さは羨ましいよ」
「まあ、ないものねだりだな」
「そうだね~」
 お互いにそんなことを言いながら謙遜した。
「二人とも凄いな~」
 すると、立嶋がそれを羨望の眼差しでこちらを見ていた。茂からしたら、立嶋の記憶能力のほうが凄まじく思えた。
「じゃあ、琴音の家行こうか」
「そうだな」
 これは一昨日からの約束だったので、反対することなくそう言った。
「本当に来るんだ」
 これに立嶋が、複雑そうな顔で呟いた。立嶋家への来訪は、葛木の強引さに二人が折れた結果だった。
 立嶋と教室が違うので、一旦別れて葛木と一緒に教室へ向かった。
「なんか、ごめん」
 すると、唐突に葛木が謝ってきた。
「何がだよ」
「いろいろ迷惑掛けちゃったから」
「そう思うなら、ほっといて欲しいな」
 謝っている事柄はわからなかったが、ここぞとばかりに責めてみた。
「半年ぐらいほっといたでしょう」
「いや、もう二度と関わらなくていいぞ」
「・・・」
 茂の強い拒絶に、葛木が泣きそうな顔をした。
「な、泣くなよ。俺が悪役に映るだろう」
 今までなかった反応に、茂は戸惑いながら口を窄めた。
「京橋は、ずっと悪役だね」
 突然の非難に振り返ると、立嶋が鞄を持って立っていた。
「早いな」
「帰り支度は済ませていたからね。鞄取るだけだった」
「そうか」
「葛木さん。大丈夫?」
 立嶋が間に入って、心配そうに葛木の背中に手を置いた。
「うん。心を抉られただけだよ」
「それって重症だよ」
 葛木の傷心した顔に、立嶋が表情を引き攣らせた。
「救急車でも呼んでやろうか。いい精神科を紹介するぞ」
 ここは気を紛らすために、軽い冗談を言ってみた。
「・・・」
「・・・」
 それに二人が、顔を歪めて睨みつけてきた。
「友達同士の冗談だよ。本気にするな」
「日頃の暴言のせいで本音にしか聞こえない」
 茂の言葉に、立嶋が語彙を強めて責めてきた。
「一つ聞きたいんだが、なんで俺に固執するんだよ」
 これは反論すると劣勢になるので、話のすり替えを試みた。
「そんなの好きだからに決まってんじゃん」
 すると、葛木が堂々とそう言い切ってきた。その告白は、やけっぱちにも見えた。
「凄い。心抉られた後なのに告白した」
 それに立嶋が、驚きながら感心していた。
「そうか。できるだけ、嫌われるようにしてきたんだがな」
 好きなことは知っていたので、ここは軽く流して話を進めた。
「す、凄い告白に全く動じてない」
 立嶋が今度は茂の態度に驚いた。
「う~、心が全く動いてない」
 茂の素っ気なさに、葛木ががっくりと項垂れた。
「が、頑張って、葛木さん」
 立嶋はそれを見て、葛木に励ましの声を送った。
 教室に入り、葛木は自分の席に鞄を取りにいった。
「なんであんなに拒絶するの?」
 悄然とした葛木の後姿を横目に、立嶋が聞いてきた。
「いまさらだな」
「もう許してもいいんじゃない」
「許す?なんの話だ」
 茂は、発言の意味がわからず聞き返した。
「ん?あの一件のことだよ」
「あの一件?」
「ほら、警察沙汰になったって、前言ってたじゃん」
「ああ、言ったな」
 立嶋には詳細は言ってないが、葛木が警察に告げ口したことは言っていた。
「あれは別に気にしてねぇよ」
「へっ、気にしてない?」
 これには立嶋がキョトンとして、声が少し高音になった。
「でも、前は絶対に許さないって言ってなかったっけ?」
「そうだな。ああいえば、近寄ってこないと思ったんだが、結果は無駄に終わったな」
「へ、へぇ~」
 それを聞いて、立嶋が口元を引き攣らせた。
「前にも言ったが、俺はあいつの性格が嫌いなだけだ」
 1年の時、執拗にいじられ続けていたせいで、もう葛木が好きになれなかった。
「そ、そうなんだ」
 立嶋は、心ここにあらずといったかたちでそう言葉を返してきた。
「帰ろうか」
 すると、葛木が茂の席まで来て、弱々しい声でそう言った。
「そうだな」
 こっちも帰り支度が終わったので、鞄を持って立ち上がった。
「葛木。もう落ち込むなよ」
 なんか煩わしかったので、溜息をついて元気づけた。
「傷付けた本人がそれを言う?」
 茂の励ましに、立嶋が呆れた様子で苦笑いした。
「おまえは、笑っている方が似合ってるぞ」
 面倒臭かったが、そのまま一緒に歩くのは居た堪れないので、葛木を褒めてみた。
「そ、そうかな」
 すると、曇っていた表情が徐々に戻ってきた。
「勿論だ」
 教室に誰もいないことを確認して、葛木の頭に手を乗せた。
「あ」
 それに葛木が驚いて声を漏らした。
「だから、元気出せ」
 茂は、表情を緩めて頭を撫でた。
「う、うん」
 この行為に、葛木が嬉しそうに頬を染めた。
「飴と鞭だね」
 それを見ていた立嶋が、呆れ顔でそう呟いた。
「じゃあ、帰ろうか」
 立嶋をスルーして、葛木の頭から手を離した。
「そ、そうだね」
 葛木が照れながら、茂の後からついてきた。
「感情が真逆なカップルだなー」
 立嶋がそんな感想を言いながら、葛木の後ろからついてきた。

三 歴史

「ねぇ~、琴音の家って一戸建て?」
 校門を出た所で、葛木が立嶋にそう聞いた。
「ううん。集合住宅だよ」
「へぇ~、そうなんだ」
「ちょっと狭いよ」
「別に、気にしないわ」
「あ、それとお菓子とかはないよ」
「ああ、それはいいよ。持ってきたから」
「持ってきたって、何を?」
「ほら、昨日京橋に大量のお菓子買ってもらったでしょう」
 昨日、葛木の家に行く前に茂のお金で大量の菓子を買ったが、一つも食べることはなかった。
「あ、こっちだから」
 立嶋の先導で、いつも曲がらない角を曲がった。
「え、でも、こっちって京橋の家から遠回りになるでしょう」
 葛木はそう言って、いつも下校している道を目で追いながら歩を進めた。
「うん。そうだよ」
「・・・琴音って、無意識的に京橋が気に入ってたんだね」
「え、何が?」
 葛木の発言に、立嶋が首を傾げた。
「なんでもないわ。無意識じゃ仕方ないか」
 葛木は一人そう納得して、茂の方を見た。
「京橋ってさ。彼女いたことあるの?」
 何を思ったか、葛木が突然そんなことを聞いてきた。
「なんだよ。唐突に」
「なんとなく、気になったから」
「前も言っただろう」
「あ、そうだったね」
 その答えに、葛木が嬉しそうに微笑んだ。
「この際だからさ。私たちと付き合ってみない?」
 葛木が茂を見ずに、軽い感じでそう言ってきた。
「はぁ?なんの冗談だよ」
 あそこまで拒絶したにも関わらず、その発言をすることが理解できなかった。
「冗談でそんなこと言わないわよ」
 茂の返しに、葛木がそっぽを向いて口を尖らせた。
「あ、あの、葛木さん。たちって何?」
 隣の立嶋が戸惑いながら、恐る恐る聞いた。
「ん?琴音も付き合うのよ」
「え、私も!」
「琴音って、恋人いたことある?」
「な、ないけど」
「この年齢でそれは遅れてると思うんだよね~」
 葛木は、得意げに持論を展開した。
「まあ、それはそうかもな」
 二夫二妻になってからは、恋人が複数になることが多くなっていた。周りにもそういう恋愛は男女同じように見られた。
「だけど、別にいいじゃん。モテるやつと付き合っとけよ。きっと優しくしてくれるぞ」
「同じことを二度言うつもりはないんだけど」
「あっそ。じゃあ、断言しておこう。俺は、誰とも付き合う気はねぇよ」
 もう面倒なので、ここではっきりさせておくことにした。
「なんでよ」
「受験勉強で忙しいからだ」
「邪魔しないから付き合ってよ」
「無理だ」
 二人とも嫌いなので、迷うことなく断言した。
「はぁ~、ここまで攻めてもダメか」
 断固として心変わりしない茂に、葛木が大きな溜息をついた。
「大丈夫?葛木さん」
 それを見た立嶋が、再び葛木を気遣った。
「琴音。どうしたらいいかな」
 俯いていた顔を立嶋に向けて、助言を求めた。
「え、えっと、わかんないかな」
 葛木の急な振りに、立嶋が答えに窮して苦笑いで返した。
「だから、諦めて誰かと付き合えばいいだろう。まだ卒業まで時間あるし。彼氏をつくることに費やしてみたらいい」
 悩んでいるようので、茂が助言してあげた。
「そうだね。まだ時間もあるし。京橋にアタックしてみるよ」
 葛木は、全然諦める様子がなかった。
「頼むから引いてくれ」
「絶対いや!」
 茂の頼みを、葛木が断固として拒否してきた。
「立嶋。どうしたらいいかな」
 もうどうしていいかわからなくなり、茂は立嶋に助言を求めた。
「え、それも私!」
 茂の振りに、立嶋が再び困惑した顔をした。
「あ、諦めて付き合ってみたらいいと思うよ」
「なんで葛木の味方するんだよ」
「え、いや、そんなつもりはないんだけど」
 立嶋は、気まずそうに視線を逸らした。
「そ、それより、もう着いたよ」
 気づくと、集合住宅が四棟立ち並んでいた。今では、集合住宅のほとんどがマンションタイプだった。
 その一棟に入り、階段を上がった。
「何階なの?」
「四階だよ」
 四階まで上がると、部屋が六室に分かれていた。立嶋がその一番手前のドアの前に立った。
「えっと、少し散らかってるけど、あんまり気にしないでね」
「別に気にしないよ」
 立嶋の言葉に、葛木が軽くそう答えた。
 玄関に入ると、廊下の奥にドアがあり、廊下の途中には三つのドアがあった。
 茂たちは家に上がって、先頭の立嶋の後をついていった。
「こっちだよ」
 立嶋が廊下の途中にあるドアを開けて、二人に入るよう促してきた。しかし、中は薄暗くて、部屋に日がほとんど入ってなかった。
「ここって、琴音の部屋?」
 葛木がそう言いながら、薄暗い部屋を見回した。
「うん」
 立嶋もそれに続き、横のスイッチを押して照明を点けた。部屋は六畳一間ぐらいあったが、物で溢れていて、三人では狭く感じた。
「昼でも照明つけるんだ」
 部屋の窓は左側の天窓だけで、明かりがうっすらとしか入ってこなかった。
「もともとここ物置だから」
「他に部屋はなかったの?」
「あるけど、ここにしてもらったの。紫外線は物を劣化させるからね」
「なるほどね」
 葛木が感心して、再び周りを見回していた。
 右側にベッドがあり、その両脇には引出棚と本棚があった。ドアの正面には学習机と椅子、その机の本棚には大量のバインダーノートが並べてあった。
「す、凄いね」
 物の多さに、葛木が圧倒されていた。
「整理したけど、物が多くてあんまり変わらなかった」
「テレビはないんだね」
 そう言われて見ると、テレビもプロジェクターもなかった。
「部屋にはないよ。テレビはリビングだね」
「そうなんだ」
 立嶋がドアを閉めて、三つの座布団を取って学習机の後ろの床に置いた。明らかにこの日のために用意した物だった。
「椅子が足りないから、ここに座って」
「おまえ、この狭い空間に三人で座るのか?」
「う~~ん。でもこの部屋じゃあ、座る位置が離れすぎちゃうし」
 確かに椅子とベッドは微妙に離れていて、他に座る場所はなかった。
「いや、それよりさ~。まず、昼食にしようよ」
 葛木はそう言って、鞄から弁当箱を取り出した。
「あ、そうだね。じゃあ、リビング行こっか」
 三人は弁当を持って、リビングに入った。
 リビングの左側は仕切りのないダイニングで、反対側にはドアがあった。正面に横長の白のソファーとテーブル、その奥に薄型テレビがあった。
 立嶋がソファーの真ん中に座ったので、その両端に二人が座った。
「なんか葛木の弁当を立嶋の家で食べるって、変な感じだな」
 茂としてはソファーでの食事は抵抗があったが、この場は我慢することにした。
「私も変な感じだよ」
 立嶋もそれに同調しながら、テレビを点けた。
「琴音。飲み物とかないかな」
 すると、葛木がダイニングの冷蔵庫に目をやった。
「ああ、そうだったね。何がいい?」
「何があるの?」
「お茶とコーヒー、あとは果汁ジュースぐらいかな」
 立嶋が思い出しながら、順に飲み物を挙げていった。
「じゃあ、お茶で」
「俺も」
 茂もその一択しかなかったので、葛木と同じ物を頼んだ。
「わかった」
 立嶋が二人の注文を聞いて、ソファーから立ち上がった。
「ねぇ~、気づいた?」
 葛木は立嶋を見送ってから、茂の方に近づいてきた。それと同時に立嶋の弁当箱と入れ替えた。
「なんだよ」
「この家に、父親の存在が感じられないわ」
「いねぇからな」
「えっ!やっぱりいないの?」
「ああ」
「き、聞かなくて良かった」
「ちなみに、一人っ子だ」
「ああ、そうみたいだね」
 それは知っていたようで、あっさりとしていた。
「あれ?移動してる」
 戻ってきた立嶋が、ソファーの前で立ち止まってそう言った。
「琴音は、こっちね」
「あ、うん」
 立嶋は少し戸惑った様子で、回り込んで葛木の隣に座った。
 三人は、テレビを見ながら食事をした。テレビでは国会中継が流れていた。
「土曜日の昼に国会を流すとか信じれねぇ~な」
「専門チャンネルだからね~」
「やっぱりか」
 国営や民放でも昼に国会中継なんて、録画であっても放送することはなかった。
「昨日の国会討論だね」
 立嶋はそう言いながら、卵焼きを口に運んだ。
「葛木さんって、本当に料理上手だよね」
 二度目の国会討論には興味がないようで、葛木の作った料理を絶賛した。
「そうかな。自分ではそう思ったことないわ」
「いい奥さんになるよ」
「そ、そうかな」
 さっきまで淡泊な返しだったのに、急に嬉しそうにはにかみながら茂を見た。
「確かに、相手の味覚に合わせるなんてかなり高度な技術だと思うぞ」
 コメントを求めているようなので、思ったことを口にした。
「まあ、だからと言って、これから弁当を作ってきて欲しくはねぇけど」
「残念だけど、それは無理だよ」
「そうか。それは残念だな」
 お互い同じやり取りを二度もするつもりはなかったので、二人の口調は淡泊だった。
 食事を終え、茂はまったりと国会討論を見ていた。その横で、二人は料理の話をしていた。
「へぇ~。今度、教えて欲しいな」
 立嶋が感心して、葛木に教えを乞うていた。
「う~~ん。じゃあ、今度一緒に作ってみようか?」
「え、いいの?」
「あんまり参考にならないと思うけど」
「ありがとう」
 葛木の答えに、立嶋が嬉しそうにお礼を言った。
 その間、テレビでは党首討論が始まった。この党首はあまり見たくなかったので、テレビを電源を消した。
「え、どうしたの?」
 茂の行動に、立嶋が不思議そうに尋ねてきた。
「あの野党の党首が嫌いなんだよ」
「ああ、私も嫌い。あの人何かにつけて、人の命を盾に話を進めてくるもんね~。一人一人の命を平等に捉えるなら、国の境界なんて無意味に等しいのに」
「そうだな。議論を感情論にすり替えるなんて、討論に値しねぇよ」
「それは同感。討論はあくまで可能性を示唆することで、一人の人生を討論する場じゃないよね」
「全くだ」
 お互いに嫌いな議員だった為、愚痴が次々とこぼれた。
「京橋って、国会に興味でもあるの?」
 それを黙って見ていた葛木が、ここで口を挟んできた。
「いや、半年近く立嶋の話を聞いてたら、自然とあの議員が嫌いになっただけだ」
 話だけは聞いていたが、実際その議員の討論を見ると、聞いていた通りの偏った意見ばかりだった。
「な、なるほど」
 立嶋に感化されていることに、葛木が口元を引き攣らせた。
 立嶋が三人の食べ終わった弁当箱を洗うと言って、キッチンに入っていった。
「琴音って律儀だね」
「は?何が?」
「ん、だって、普通弁当箱洗わないでしょう」
「そうか。俺だったら洗うけどな~」
「そうなの?」
「ああ、もらったのにお礼をしないのは気が引けるぞ」
「京橋からはお礼言われてないんだけど」
「俺は、いらねぇって言っただろう。それでお礼は矛盾してるぞ」
「はぁ~、まあ、そう言うと思ったわ」
 その答えは予想していたようで、大きく溜息をついた。
「でも、まあ、コンビニ弁当よりは断然うまかったよ」
「・・・本当に天邪鬼なんだから」
 これに葛木が、表情を緩めて微笑んだ。
「じゃあ、部屋に戻ろうか」
 弁当箱を洗い終わった立嶋が布巾で手を拭きながら、ダイニングから出てきた。
 部屋に戻ると、立嶋がいろんな種類の文房具を紹介してきた。
「へぇー、変わってるね」
 それに葛木が、興味深そうに食いついていた。
 茂はあまり興味がなかったので、机に並んであるバインダーノートを取ってから椅子に座った。
「なー、これ見ていいか?」
 勝手に見るのも悪いと思ったので、本人の許可を求めた。
「え?いいけど。それ、高校に入ってからのものだよ」
「まあ、復習も兼ねてな」
「うん。使っていいよ」
 本人の許可も得たので、茂はノートを捲った。手に取ったのは、歴史のノートだった。
 最初のページに重要な出来事が年表順に並んでいた。よく見ると、近年のことだった。
 X040年、世界で人口爆発。人口、二百億人を超す。水と食糧不足が深刻になり、各地で領土紛争が勃発。
 X050年、人口が二百十億人になり、世界人口の20%が飢餓で死亡。食糧不足の為、各国が貿易規制。日本は農作物を輸入に頼っていたので、食糧不足が深刻化。政府は対策として、農業に莫大な税金を投入。安定供給させる為、地下での農業を主流化させる。
 X080年、移民侵略変事が勃発。移民を大量に受け入れた先進国が隣国に取り込まれる。これをきっかけに各国が移民が大幅に規制される。
 X100年、各国がほとんど鎖国状態になり、日本でもさらなる食糧難になる。医療制度が進んでいた為、高齢化社会になり少子化になる。
 X102年、輸入が大幅に規制された為、各国が経済発展を断念。しかし、食糧不足が食い止められず、国が人口を調整しようと安楽死制度を導入するが、若者が殺到した為、1年もしないうちに廃止となる。
 X105年、食糧難と高齢化が解消されず、国が内科と外科の医療を規制する。これに国民は暴動を起こすが、国防軍と機動隊の連携により鎮圧される。数千人の負傷者を出すが、奇跡的に死者なし。
 X108年、少子化を止める為、同性婚を二夫二妻に変更。
 読み終わったが、いろいろと抜けている部分が多かった。
「なあ、なんでこんなにアバウトにしかまとめてないんだ?」
 茂は気になり、立嶋に聞いてみた。
「ん、どれのこと?」
 立嶋が近寄ってきて、ノートを覗き込んできた。
「ああ、これね。これは私が最重要と思って、まとめただけだよ。抜けてる部分は別にまとめてる」
「そうか」
 ページを捲っていくと、歴史の詳細が書かれていた。
「結構、綺麗にまとめてるな」
 蛍光ペンの色合いは気になったが、まとめ方はかなりうまかった。
「まあ、自分の見やすいようにまとめてるからね~」
「ちょっと見せて」
 茂たちの会話が気になったのか、葛木がノートを茂から奪った。
「へ~、凄いね~」
 ページを捲りながら、茂と同じように感心した。
「そうかな。私には電子書籍に書いて覚えている人の方が凄いと思うよ」
「琴音は、電子ペンが嫌いなの?」
「うん。あまり好きじゃない。どうも書いてる気がしないから」
「まあ、そこは人によるかもね~」
 葛木がそう言いながら、茂にノートを返した。
「あ、そうそう。ペンと言えば結構面白いのがあるよ~」
 立嶋が何かを思い出したように、葛木をベットの脇の本棚につれていった。
 その後、茂はバインダーノートを順番よく見ていった。その横で、二人は楽しそうに話していた。
 葛木の持ってきた菓子を食べながら、しばらくノートに集中していると、玄関が開く音が聞こえた。
「あ、帰ってきた」
 立嶋がそれに気づき、玄関の方を見てそう言った。どうやら、母親が帰ってきたようだ。机にある置時計を見ると、4時を回っていた。
「母親?」
 葛木がドアの方を見て、立嶋に聞いた。
「うん」
「こんな時間に帰ってくるの?」
「そうだね。土日はいつもこの時間だよ」
「そうなんだ」
 立嶋に配慮してか、職業は聞かなかった。
 部屋の外から廊下を歩く音と、リビングのドアが開く音がした。
「私たちが来ることは言ってあるの?」
「うん。一応ね」
「挨拶した方がいいかな」
「う~~ん。やめておいたほうがいいかも。お母さんって、人見知りだから」
「そうなんだ。じゃあ、やめとこうか」
 立嶋にそう言われて、葛木は挨拶を遠慮した。
 その20分後、ドアがノックされた。
「え!」
 ノックされたことに、立嶋が驚きの声を上げた。
「ちょ、ちょっと待ってて」
 立嶋が慌ててドアを開けると、立嶋の母親が立っていた。長髪の前髪を左に分けていて、顔は立嶋とよく似ていた。着ている服は、ブラウン色のゆったりとしたWフロントワンピースだった。
「ど、どうしたの!」
 そんな母親に、立嶋が驚愕の声を上げた。
「どうしたって、友達が来てるんでしょう。挨拶しておこうと思って」
 立嶋の母親は、滑らかな口調で当然のように返した。その声はよく通る声音で、かなりの美声だった。
「え、いや、なんで小声じゃないの?」
「だって、普段だと聞き取れないじゃない」
「そ、それは・・そうだけど」
 母親のせいなのかは知らないが、さっきから立嶋の心が乱れていた。
「どうかしたの?」
 それを不思議に思ったのか、葛木が親子の会話に割って入った。
「え、いや、その・・・」
 葛木の言葉に、立嶋がしどろもどろになった。
「ほら、友達も困惑してるじゃない」
 そうは言ったが、一番困惑しているのは立嶋だった。
「初めまして、琴音の母の朱音です」
 立嶋の母親は、葛木と見合って自己紹介した。
「あ、どうも。葛木菜由子です」
「美人さんね」
「そうですか?朱音さんは、綺麗な声ですね」
「ありがとう」
 二人は、お手本になるような社交辞令を交わした。
「じゃあ、今度は京橋君ね」
「って、知ってるんですか?」
 自己紹介の前に苗字を言われてしまい、少し戸惑ってしまった。
「ええ、娘からよく聞いてるわ」
 朱音はそう言うと、立嶋を見て少し表情を緩めた。その滑らかな美声には、思わず聞き惚れてしまった。
「そうですか。では、改めて京橋茂です。琴音とは・・・まぁ、友達です」
 設定上親友としていたが、さすがに男女での親友は信憑性に欠ける気がしたので友達にしておいた。
「なんか話に聞いてたのと、少し違う感じね」
 茂をじっと見つめて、朱音が不思議そうな顔をした。
「どういうイメージでしたか」
「自分から話は振ってこないって聞いてたから、寡黙な人なんだと思ったわ」
「お母さん。本人にそれを言わないでよ」
 それに立嶋が、恥ずかしそうに止めに入ってきた。
「あ、ごめん。あまり人と話したことなかったから、つい口に出ちゃったわ」
 自分の失言に、子供のような言い訳をした。
「こんなに綺麗な声なのに、人と話さないんですか。もったいないですね」
 茂は、社交辞令で相手を褒めた。母親の躾のせいで、年上の人を無意識に持ち上げるのが癖になってしまっていた。
「・・・京橋君は、離婚した女性をどう思う?」
 何を思ったか、突然そんなことを聞いてきた。
「え、ま、まあ、魅力的だと思いますよ」
 突飛な振りに動揺しながら、なんとか建前で答えた。
「どうしてそう思うの?」
 その場凌ぎで言ったが、食い下がられてしまった。
「一度、結婚したということは朱音さんに魅力を感じたからですし、それに朱音さんの美声は魅力的だと思います」
 茂は必死で理由をあげつらって、愛想笑いをした。
「そう。それは参考になるわね」
 朱音は、特に表情は変えずに淡泊にそう返してきた。
「琴音。聞いた話と全然違うんだけど」
「私も驚いてる」
 朱音の振り、立嶋が引き攣った表情で苦笑いした。
「なるほど。その反応からして、建前ってことね」
 本人を目の前にして、本音を隠すことなくそう断言した。
「京橋は、初対面の人には優しいですよ。本音はほとんど言いません」
 ここで葛木が、笑顔で補足してきた。
「え、でも、私の場合、怒られたけど」
 これには立嶋が茂をチラッと見て反論した。
「話しかけたタイミングが最悪の時期だったからじゃない?」
「あ、なるほどね」
 葛木の指摘に、立嶋が納得して頷いた。
「京橋君。お世辞はありがたいけど、勘違いさせる発言は控えた方がいいわよ」
「僕は、初対面でのお世辞は言いません。本当に美声だと思っていますよ」
 茂は再び愛想笑いをして、声を絶賛した。
「そう。あ、ありがとう」
 朱音が頬を染めて、おどおどした口調でお礼を言った。
「お母さん。もしかして、照れてる?」
 隣の立嶋が不思議そうに、母親の顔を覗き込んだ。
「べ、別に、そんなことないわ。ま、まあ、ゆ、ゆっくりしていって」
 突然小声でそう言い残して、部屋から出ていった。
「なんって言ったの?」
 葛木には聞き取れなかったようで、立嶋に聞いていた。
「ゆっくりしていってだってさ」
「まあ、そろそろ帰るけどな」
 茂は、時計を見てそう言った。
「そうだね。私も帰らなきゃあ」
 葛木も用があるようで、茂に便乗してきた。
「そっか」
 それを聞いた立嶋が、物凄く寂しそうな顔で俯いた。
「そんな顔しないでよ。また来るから」
 その表情に、葛木が元気づけるように声を掛けた。
「う、うん。そうだね」
 葛木の気遣いに、立嶋が無理やり笑顔をつくったが完全に失敗していた。
「そんな顔しないでよ」
「だな」
 さすがにそんな顔で、見送られたくなかった。
「琴音。友達が帰ると、こういう寂しい気持ちになるのはみんな一緒よ」
「え、あ、そ、そうだよね」
 立嶋の思いを察して、葛木が人の心理を律儀に説明した。
「あと、朱音さんに言っておいて」
「え、何を?」
 急に母親の名前を出されて、立嶋がかなり動揺した。
「京橋に手を出したら絶対ダメ。もう京橋は予約でいっぱいだから、入る余地がないって」
「なんの予約だよ」
 自分の名前が出たので、とりあえず口を出しておいた。
「京橋にはわからなくていいわよ。というか、わざわざ伝わらないように言ったんだから、気づく必要はないわ」
「要するに馬鹿にしてるってことか」
「まぁ~ね~」
 葛木は嫌がらせの如く、軽いノリで返してきた。
「じゃ、伝えておいてね」
「う、うん」
 立嶋には伝わったようで、苦笑いして受諾した。
「じゃあ、帰ろうか」
「そうだな。じゃあ、また来週だな」
 立嶋に別れの挨拶をして、床に置いた鞄を取った。
「うん、またね」
 それにつられるように、立嶋も表情を和らげて手を振った。
 ※ ※ ※
 京橋と葛木を見送って、琴音は部屋に戻った。部屋にはいつもの静けさがあり、少し虚無感を感じた。
「これが寂しさか」
 久しぶりに味わったので、思わず感傷に浸った。
 気持ちを落ち着かせる為、リビングへ向かった。
「もう帰ったの?」
 ソファーに座っていた母親が、こっちを振り返ってそう言った。声はいつもの小声に戻っていて聞き取りにくかった。
「うん。葛木さんから伝言あるよ」
 琴音は、母親に寄り添うかたちで隣に座った。
「何?」
「京橋に惚れたらダメだって」
「・・・惚れてないわ。あんな真摯に褒められたから、ただ照れ臭かっただけよ」
「お母さんって、人とあまり話さないからね~」
 なんとなくそうじゃないかと思っていたが、思っていた通りだった。
「京橋君だったら、結婚してもいいよ」
 突然、母親が京橋との結婚を許可してきた。
「うん。そうなったらそうするけど、今の段階だとそれはないかな」
「どうして?」
「私、京橋に嫌われてるから」
「え!嫌われてるのに友達なの?」
「うん。京橋って押しに弱いから、友達でいてくれるんだ」
「そう。優しい人なんだね」
「うん。私もそこに惚れてるよ」
「はっきり言うのね」
 これに母親が、微笑ましそうに笑った。
「押し続けたら、付き合ってくれるんじゃない?」
「そうかもしれないね。葛木さんは、積極的にアタックしてるよ」
「そうなの?あんな美人に攻められるなんて、よっぽど魅力的な人なのね」
「確かに、何か惹かれるものがあるのかも」
 そう言われると、いろいろ思いつくことは多かった。
「でも、葛木さんみたいに積極的にはなれないし」
「できないなら、私がアプローチしてあげるわよ」
「それはやめて」
「冗談よ」
「その冗談は笑えないよ」
「ごめんなさい」
 琴音の不満に、母親が笑顔で謝ってきた。
「それより、なんで普通だったの?」
「だって、琴音が初めてこの家に呼ぶ友達だし。それに京橋君も来るから、ちゃんとしようと思っただけよ」
「・・・お母さん。ありがとう」
 母親の配慮に、歓喜のあまり抱きついた。
「うん」
 それに母親が、少し照れて頬を染めた。
「そろそろ買い物行こうか」
 母親が掛け時計を見て、琴音にそう言ってきた。
「あ、そうだね」
 買い物には、母親の代弁も兼ねていつも付き添っていた。
 二人は、着替えてからいつものように家を出た。

四 父親

 立嶋の家を出た茂と葛木は、歩道を並んで歩いていた。
「最後は京橋の家だけだね」
 何を思ったか、葛木が唐突にそんなことを言い出した。
「何がだよ」
「私の家と琴音の家に行ったんだから、最後は京橋の家だけじゃん」
「残念だが、無理だな。特におまえは」
「なんでよ!」
 これには声を荒げて抗議してきた。
「おまえが蒔いた種のせいだ」
「あ、もしかして家族にも波及しちゃった?」
 茂の遠回しの表現を察してくれたようで、申し訳なさそうな顔をした。
「ああ、一番の被害者は妹だ」
 これは最近知ったことだった。
「妹さんって、いくつ?」
「中2だ」
「それは悪いことしたわね」
「そうだな。だから、家に来るのはやめてくれ」
 葛木の罪悪感を利用して、訪問を拒否した。
「近いうち謝りに行くよ」
「なんでだよ!」
 葛木の後先を考えていない行動に、思わず声を荒げた。
「お詫びも兼ねてかな」
「おいおい、やめてくれ」
 これは本当に勘弁して欲しかった。
「最悪、殴られるぞ」
「構わないわ。その覚悟はあるから」
 さっきまでの軽い調子から、一気に重苦しい声になった。
「俺は、おまえが殴られるのを見る覚悟はねぇよ。だから、来るな」
「・・・ふふふっ、優しいね」
 茂の言葉に、真剣な顔を破顔させて微笑んだ。
「殺伐とした空気にしたくねぇだけだ」
「そうだね。でも、避けられないし」
「はぁ~?会わなければ、避けれるだろう」
「結婚する時、家族への挨拶は必要事項だよ」
「・・・」
 この返答は全く想定していなかったので、言葉が出なかった。
「だから、その前には会っておかなきゃ」
 葛木は、決意を表明するように真剣な顔でそう言った。こうなっては何を言っても無駄な気がした。
 そして、葛木との別れ道に差し掛かった。
「じゃあね」
「ああ、来週だな」
 葛木と別れて、気が重いまま帰宅した。
「ただいま~」
 玄関に入ると、自然とその言葉が口に出た。未来の靴と普段見ない靴が揃えてあった。
「やっと、帰ってきた」
 すると、妹がリビングから顔を出して出迎えた。
「どうかしたか?」
 いつもと違う妹の様子に首を傾げた。
「なんで携帯の電源入れてないのよ」
「はぁ~、切ってねぇよ」
 茂はそう言って、鞄から携帯を取り出した。
「ああ、わりぃ~、バッテリー切れだ」
 携帯を開くと、画面が真っ暗だった。
「役立たず!」
「うるせぇ~よ」
 妹の非難を軽く流しながら、携帯を仕舞ってから靴を脱いだ。
「で、なんの用だよ」
「あの人が、来てる」
「は?」
「早くこっち来て」
 説明が面倒のようで、リビングのドアを開けて、茂を中に迎え入れた。
「んだよ」
 妹の横を通ってリビングに入ると、未来と父親がソファーに向かい合って座っていた。
「あれ、なんで父さんがいるんだ?」
「あ、おかえりなさい」
 未来はそう言って、気まずそうに茂を見上げた。
「おかえり」
 疲れたような顔の父親が、未来につられるようなかたちで迎えた。ワイシャツにくたびれたネクタイでいつもの冴えない表情だった。
「明日会う予定だったはずだけど・・・なんでいるんだ?」
 父親を見ながら、後ろの妹に投げかけた。
「なんかね~、お母さんが今日にしてもらったみたい」
「ちっ、自分の不在時に丸投げしたか」
「そしたら、お兄ちゃん帰ってこないし、仕方ないから未来ちゃんにいてもらったんだよ」
「それは悪いことしたな、未来」
 ここは感謝を込めて、制服姿の未来の頭に手を置いた。
「そうですね。でも、頼られるのは悪くありません」
 未来は笑って、嬉しそうに見上げてきた。
「で、父さん。話し合いにしてもなんで家なんだ?」
 茂は、父親にここに来た経緯を聞いた。
「いや、公園にしたんだが、おまえがいないから、ここまで来たんだ」
 父親が乱れた髪を掻きながら、弱々しい口調で説明してきた。携帯のバッテリー切れだったので、メールが送られたのも知らなかった。
「いつ来たんだ?」
「ん、1時半だよ」
 茂の質問に、父親ではなく妹が答えた。
「3時間も一緒にいたのか。奇跡だな」
「その子のおかげだ」
 父親は視線を下に向けたまま、未来を指差した。
「なるほど。えっと、言ったのか?」
 未来の特殊能力を知っているかわからなかったので、妹に聞いてみた。
「要領を得なかったから、途中から未来ちゃんに代弁してもらったよ」
 これはいつも通りだった。父親は妹への恐怖心から、妹との会話を極力避けていた。その為、別居した時は妹だけには理由を告げずに出ていき、かなりの反感を買っていた。
「じゃあ、もう理由は聞いたのか」
「大方ね。理由には納得したけど、ハブられてたことには腹が立ってる」
「言っても、全く聞く耳持たなかっただろう」
 実際、母親が何度も理由を言おうとしたが、言う前に強い口調で突っぱねられていた。その頃は、茂も精神が不安定で伝えることができなかった。
「ふん」
 妹は、拗ねたようにそっぽを向いた。
「で、俺に何か言いたいことあったんじゃなかったっけ?」
 なかなか会話に入ってこない父親に、茂から話を振った。
「ああ、あの大学のことなんだが・・・一応、大学資料をもらってきた」
 父親はそう言って、鞄から電子ペーパーを取り出した。
「おお、ありがとう」
 父親が出ていく前に頼んでいたことだったので、言われるまですっかり忘れていた。
「本当にあそこを受けるのか?」
 父親が電子ペーパーを手渡しながら、真剣な顔で聞いてきた。
「勿論。父さんもそこの卒業生だろ」
「ああ、そうだが、あそこは落伍者も多いぞ」
「厳しいからこそ行くんだよ」
「そうか。まあ、頑張れ」
「大学に受かったら、いろいろと頼み事が増えると思うけど、協力してくれると助かるよ」
「ああ、そこは全力でサポートするよ」
 茂の頼みに、父親が表情を緩めて承諾した。
「ありがとう」
「じゃあ、もう帰るよ」
 父親はそう言って、鞄を持って立ち上がった。
「いつ戻ってくるんだ?」
 帰る前に、父親にそれだけは聞いておきたかった。
「真理次第かな。あっちでの用件も終わったし」
 父親は茂の傍に来て、妹に聞き取れないような小声で答えた。
「そっか」
 それを聞いて、黙ったままの妹に顔を向けた。
「話してみてどうだった?」
「もうちょっと、時間が掛かるね。未来ちゃんがいなかったら、間違いなくブチギレしてたし」
 妹は、躊躇なく父親の前でそう言い放った。
「おまえは、配慮という言葉を知っておけ」
「知ってるよ。あと、漢字もね」
 皮肉に対して、覆い被せるような皮肉で切り返してきた。(この高等技術にお兄ちゃんもビックリ)
「それをできるだけ、父さんに実行しろ」
「無理!」
 父親を前に、妹は力強く断言した。
「もう帰るよ」
 これに父親が気まずそうに、リビングから出ようとした。
「どうせなら夕飯までいたら?」
 茂は母親のことを思い、自然なかたちで引き止めてみた。
「いや、今日は帰るよ」
 しかし、父親は妹の表情を盗み見て遠慮した。
「そりゃ残念」
 強引に引き止めるのも、気が引けたので、父親を玄関まで見送ることにした。
「母さんによろしくな」
 父親が靴を履いてから、茂に頼んできた。
「わかった」
 その答えに満足した顔をして、玄関を後ろ手に明けた。
「わっ!」
 すると、玄関の外から驚きの声が聞こえた。
「由里子」
「良樹さん」
 二人は見合って、お互いに名前を呼んだ。
 そして、母親が父親に抱きついた。そのせいで両手に持っているレジ袋に地面に落ちた。
「久しぶりだな」
 父親はそう言って、母親の頭を優しく撫でた。
「タイミング悪いね」
 いつの間にか、後ろに妹が突っ立っていた。その後ろから未来も出てきていた。
「そうだな」
 母親は父親に未だにべた惚れで、父親が家にいる時はいつもベタベタしていた。
「これもあるから帰ってきて欲しくないんだよね~」
 妹は、茂に届くような小声でそう呟いた。
「いいだろう。好きなんだから」
 妹の言い分が幼稚すぎて、マジで呆れてしまった。
「そうですよ」
 すると、隣の未来が茂に賛同した。未来を見ると、なぜか表情はかなり綻んでいた。
「二人ともいい加減、玄関で抱き合うのはやめてくんない?」
 一向に離れない二人に、妹が強い口調で二人を諫めた。
「あ、ごめん」
 母親が我に返って、父親から離れた。
「そういえば、なんでまだいるの?」
「茂が帰ってこなかったから待ってたんだ」
 父親が茂の方を向いて、母親にそう説明した。
「どこか行ってたの?」
「ああ、まあ」
 あまり詮索されたくなかったので、そこは曖昧に答えた。
「そうだ。どこ行ってたのよ?」
 なのに、妹が思い出したように追求してきた。
「図書館だよ。受験勉強で調べたいこともあったからな」
 本当のことを言うと面倒になるので、嘘をつくことにした。一応、未来に心を読まれることも想定して、未来に対しては黙っておいてくれと伝心した。
「それより、もう帰らなくていいのか?」
 茂は、ボロが出る前に話を切り替えた。
「あ、そうだった」
 黙って見ていた父親が、気づいたように声を上げた。
「え、もう帰るの?」
「ああ、もう用件は済んだし」
「そう・・・」
 これに母親が、凄く残念そうに俯いた。
「また、近いうちに」
 父親がそう言って、母親の頭を撫でた。
「うん」
 その行為に、母親が頬を染めて照れていた。息子としては、あまり見たくない光景だったことは心に留めておいた。妹の方は完全に顔に出ていたが、それは見なかったことにした。
「微笑ましいですね~。というか、羨ましいです」
 未来の方は、羨望の眼差しで両親を見つめていた。
「親がイチャつくのは見てられないよ」
 我慢できなくなったのか、妹はそう言ってリビングに戻っていった。
「じゃあ、また」
「うん」
 父親の言葉に、母親が笑顔で手を振って見送った。
「今日は、外食しようか」
 玄関が閉まると、母親が満面な笑顔で振り返った。
「未来ちゃんもどう?」
「え、いえ。今日は帰ります」
「そう。それは残念ね」
 母親がレジ袋を抱えて、上機嫌でリビングに入っていった。
「物凄い浮かれますね」
「会うのも久しぶりだからな」
「あんなに両親が仲良いのはとても羨ましいです」
「そうか?良すぎると気まずい時も出てくるぞ。何事もほどほどがいいと思う」
 両親の熱愛シーンを数多く目撃している身としては、少しは控えて欲しいものがあった。
「そ、そこまではさすがに引きますね」
 茂の思考を読んだようで、未来が苦笑いを浮かべた。
「あれで一度、真理が激怒したことがあったな」
「そうですか。なんかどっちの意見もわかる気がしますね」
「だろ。だから、俺は何も言わずリビングを出ていった」
「私も居た堪れなくてそうしますね」
「そろそろ帰るか?」
 夕日も沈みかけていたので、未来にそう聞いた。
「そうですね。私も用事がありますし」
 未来はそう言って、リビングにランドセルを取りに行った。その間に、茂も私服に着替えに二階へ上がった。
 着替えが終わり、一階に下りようとすると、未来が靴を履いて待っていた。
「あ、良かった」
「どうかしたか?」
 未来の安堵した顔に、茂は首を傾げた。
「突然いなくなったから、送ってくれないと思いましたよ~」
「ああ、それは悪かったな」
 未来がリビングに入ってから思いついたので、見捨てられたと感じたようだ。
「行こうか」
「はい」
 茂がそう促すと、嬉しそうに玄関を開けた。
 二人で並んで歩くと、未来から手を繋いできた。
「今日は悪かったな」
「何がですか」
「父親のことだよ」
「ああ、そのことですか。別に、兄さんが悪いわけじゃないんですし。私としてもなかなか勉強になりましたよ」
「そうなのか」
「はい。お姉ちゃんを抑え込むのは大変でしたけど・・・」
 未来はそう言って、茂を見て空笑いした。
「それはご苦労さん」
 妹を宥めたことに、労いの言葉を送った。
「でも、よく能力のことを話したな」
「ああ、あれはお姉ちゃんが我慢できなかったようで。さすがにあんなかたちで暴露されるとは思ってもみませんでしたよ」
「反応はどうだった?」
「最初は驚いていましたが、途中からは完全に私を頼ってきましたね」
「そ、そうか。父さんらしいな」
 妹に対して引け目を感じている父親は、話す時はいつも誰かを介していた。それは今でも変わっていないようだ。
「兄さんは、おじさんと似てますね」
「そうなのか?」
「はい。寡黙でしたが、心はとても優しい人でした」
「優しいなんて抽象的過ぎだろう」
「そうですね。具体的に言うと気遣いをする人でした」
「ああ、それはなんとなくわかる」
「兄さんもそれは同じですよ」
「まあ、そうかもな」
 それは事実なので、特に否定はしなかった。
「でも、二人の配偶者の父親は大変ですね」
「だな。しかも父さんの場合は、寡黙だから振り回されてばかりだ」
 その大半は金銭問題だった。
「なんかそれ聞くと、夫が不憫ですね」
「いや~、不憫どころじゃねぇよ。ありゃ~、ただの搾取だ」
 夫の給料は、配偶者が二人いる場合のみ適応される制度があった。それは家庭分配制度で、同居している家庭には五割で別居では三割で配分され、手元に残るのはわずか二割しか残らないという最悪な制度だった。
「酷い言い草ですね」
「単なる事実だ」
「兄さんは、結婚への疑念が強いですね」
「むしろ、この制度のせいで二妻を断念した男性は多いよ」
「兄さんもそうなんですか」
「ああ、俺は絶対結婚はしねぇ~」
 これは父親の不憫さを見て、心に誓ったことだった。
「でも、それだと独身税が発生しますよ」
「よく知ってるな」
「一度、意味がわからなかったので調べたことがありました」
 独身税は、昔の財政危機の時に導入されていて、今では給料の三割は差し引かれていた。
「重荷を一生引きずるよりはマシだ」
「女性が重荷ですか」
「親から学んだことだ」
「もったいないですね」
「何がだよ」
「兄さんは、良い父親になるのに」
 未来は、満面の笑顔で茂を見上げてきた。
「うっ」
 その笑顔は亡くなった幼馴染のしいなに酷く似ていて、思わず怯んでしまった。
「ふふふっ。兄さん、凄く照れてます」
 茂の表情と思考を読んだ未来が、おかしそうに笑った。
「そういえば、今日も学校に行ったのか」
 少し恥ずかしかったので、話を切り替えることにした。
「はい。一応、午前中だけでしたので」
「そうか。偉いな」
「子ども扱いは好きじゃないですが、不登校の理由を知ってる兄さんに褒められるのは嬉しいです」
 未来はそう言って、屈託のない笑顔を茂に向けた。
「でも、長期的に通うのは難しいですね」
 他人の思考が飛び交っている中での授業は、教師の声が聞き取りにくいだろうと勝手に想像した。
「まあ、無理すんなよ」
「はい」
 茂の気遣いに、未来が元気よく返事をした。
「ところで、兄さん。立嶋さんのお家に行ったんですか?」
「ああ、まあな」
「兄さんは、特定の人に極端に好かれますね~」
「そうだな~。なんとかならんかな~」
「なんとかしたいんですか?」
「できれば、俺から離れて欲しいな」
「美人の二人を突っぱねますか」
「結婚しねぇから、あの二人はいらねぇ~」
 美人の部分はスルーして、ここは本音を口にした。
「じゃあ、ここまでですね」
 未来の家の近くの公園に着くと、未来が繋いでいた手を放した。
「ああ、またな」
「兄さんは、あの二人を受け入れることをお薦めしますよ」
「嫌な助言だな」
「あの二人は、兄さんに仕えると思いますし」
「使える?」
「ああ、意味が違います。兄さんに献身的に尽くす意味です」
 勘違いしたことに気づいた未来が、首を振って訂正してきた。
「尽くされても困るものがあるな」
「兄さんって、将来は何になるか決まってるんでしょう」
「ああ、まあ。というか、なんか知ってる風だな」
「すみません。おじさんの思考から漏れてきました」
「そういうことか」
「だから、この際二人に手伝ってもらうという手もありますよ」
 未来は得意げにそう言って、最後に含みのある笑みを浮かべた。
「・・・どういうことだ?」
 少し考えたが、言いたいことがわからなかった。
「はぁ~、察しが悪いですね。じゃあ、ヒントをあげます。あの職業は人望が必須ですよ。あの二人は絶対使えると思います」
 未来は大人びた感じで、茂にそう諭してきた。
「・・・ふむ、なるほど。そう言われると、確かに使えるかも」
 考えてみれば、二人は人材としてはかなり有望株だった。
「おお、凄いな。これは思いつかなかった」
「ふふん。そうでしょう」
 茂の賞賛に、未来が満足げに胸を張った。
「それを考えると、未来も欲しいな」
「安心してください。兄さんが希望するなら、私はいつでも手を貸します」
「今まで、受験で頭がいっぱいだったが、そう考えると真理も使えるな」
「え、そうなんですか?」
 妹の方は全く頭に浮かんでなかったようで、不思議そうな顔をされた。
「あいつは直観力に優れてるんだよ」
 兄である自分が言うのもなんだが、妹の直観は当たる確率が滅茶苦茶高かった。(特に悪い方にだが)
「それが役に立つんですか」
「ああ、かなり役立つ。それに真理は人の嘘とかには敏感なんだ」
 妹は、人の表情や仕草から何かを察する能力にも長けていた。おかげで、妹には隠し事がことごとくばれてしまい、結局吐露する羽目になってしまうことが多かった。
「じゃあ、そろそろ帰りますね」
「ああ、そうだな。ありがとう。これは本当に感謝するよ」
「いえいえ、兄さんにはいつもお世話になってますから、気にしなくていいですよ」
 未来はそう言って、上機嫌に帰っていった。
「これは新発見だな」
 茂は、未来を見送りながら呟いた。
 ずっとあの二人をどう引き離すかを考えていたが、未来の助言により考え方が変わってしまった。個人的には不本意だが、将来を考えるとプラスになることは確実だった。
「仕方ない。あの二人を取り込むか」
 苦渋の決断だったが、感情よりも利益を取ることにした。

五 招かれざる客

 家に帰ると、玄関で母親と妹が待っていた。
「おかえり~」
「おかえり」
 母親は上機嫌だったが、妹の方はそこはかとなく不機嫌だった。
「じゃあ、行きましょうか」
 母親はそう言って、元気良く外に出た。
「ふぅ~。上機嫌なのはいいけど、理由が不快だね」
 そんな母親を見て、妹がぼそっと毒づいた。どうやら、外食の理由が妹には気に入らなかったようだ。
「ところで、外食はまたいつもの所?」
「うん。まあ、そうなるね~」
 これに母親が歩きながら答えた。外食はたまにしか行かないので、いつも近所にある小さな食堂だった。豊富なメニューで、どれも美味しいので誰も文句は言わなかった。
「あそこって、去年の夏休み以来行ってなかったよな」
「そうだね」
「受け入れてくれるのか?」
 近所に京橋家の噂が流れてから、今まで行くことは控えていたので茂的には不安だった。
「客商売だから、大丈夫じゃないの?」
 しかし、妹の方は全くと言っていいほど気にしていなかった。
「それを言われると、行きづらいわね」
 母親はそのことを失念していたようで、今になって心配そうにそう言った。
「私は、別の意味で行きづらい」
「それって、幼馴染の家だから?」
 妹の言葉に、母親が敏感に反応した。
「今はクラスメイトだよ。しゃべんないけど」
「別に、店には出てこねぇだろう」
「まあ、そうだけど・・・」
 茂の指摘に、妹が言い淀んでそっぽを向いた。
 食堂に近づくと、なぜか二人が歩調を落して先頭を茂に譲った。
 食堂の入り口前で一度立ち止まり、二人の顔を確認した。
「入ってよ」
 すると、母親が顎で入るよう促した。
「はぁ~」
 ここで譲り合うのは不毛だと感じて、息を整えてから食堂の引きドアを引いた。
「いらっしゃいませ」
 中に入ると、顔馴染みのおばさんが対応してきた。
「あ、し、茂君?」
「久しぶりです」
 おばさんが動揺したようなので、ここは場を重くしないように軽い感じで挨拶しておいた。
「こんばんは」
 すると、母親が挨拶しながら、茂の後ろから顔を覗かせた。
「どうぞ。いつも空いてるから好きな場所に座って」
 いろいろ察してくれたようで、おばさんが笑顔をつくって三人を迎え入れてくれた。
 茂たちは、言葉に甘えるようにいつもの席に座った。
「久しぶりだね~」
 おばさんが冷水を持ってきて、母親に気さくに声を掛けた。
「すみません。いろいろ立て込んでて」
「そうみたいね」
「もう大丈夫ですから」
 母親はそう言って、おばさんに愛想笑いで取り繕った。
「そうなの?息子は、真理ちゃんと話せてないみたいだけど」
 おばさんは妹の方に視線を向けて、困ったような仕草をした。
「彼とは友達でもないですから」
 これに妹が、心のない返しをした。
「相変わらず、きつい言葉だね。真理ちゃんは」
「事実ですから」
 妹は、澄ました顔でそう言い切った。これはいつもの二人のやり取りだったので、茂と母親はスルーした。
「注文はどうしましょうか」
 おばさんが気を取り直して、客商売に切り替えた。
 茂たちは、メニューを見ずに各々注文していった。
「じゃあ、ちょっと待っててね」
 おばさんはそう言って、笑顔で厨房に入っていった。
「真理。少しはおばさんへの態度を改めたら?」
 それを見送った母親が、困ったように妹に注意した。
「だって、あいつの話するんだもん」
「幼馴染でしょう」
「不本意なだけだよ。なんであいつが幼馴染なんだろう」
 妹にとっては本当に嫌なようで、舌打ちして毒づいた。
「昔はよく遊んでたのに」
「やめて!思い出したくない」
 茂の言葉に、頭を抱えて記憶を抹消しようとしていた。
「おまえ・・・」
 あまりの嫌がり方に呆れてしまったが、茂も人のことは言えなかったので言葉が続かなかった。
「もうこの話はやめて」
「はいはい」
 妹の沸点を知ってる母親は、ここであっさりと引いた。
「と、ところで、お父さんとは和解したの?」
 話が区切れたところで、母親が恐る恐る切り出した。
「まあ、理由は納得したけど、帰ってきて欲しくないね。お母さんには悪いとは思うけど」
「き、きっぱり言うのね」
「ごめん。器が小さくて」
 母親の気落ちを見て、妹が自虐して謝った。
「謝るんなら、我慢という言葉を知っておけ」
「それができれば、家庭は円満だね」
 茂の嫌みに、妹が自分のことを笑顔で返してきた。
 そんな会話をしてると、三人の料理が一緒に運ばれてきた。
「ごゆっくり」
 おばさんは笑顔でそう言って、厨房に戻っていった。
「お兄ちゃん」
 食事を始めると、すぐ妹が話しかけてきた。
「・・・なんだよ」
 食べている途中だったので、飲み込んでから返事をした。
「その、未来ちゃん、何か言ってなかった?」
「何かってなんだよ」
 たどたどしい妹の聞き方が気になったが、考えても仕方ないので率直にそう聞いた。
「未来ちゃんの家のこととか」
「いや、それは聞いてないな」
「そっか」
「なんかあったのか?」
「ちょっと未来ちゃんの家庭が気になってね」
「聞いたのか?」
「何度か聞いてるけど、いつも言葉を濁されちゃってね。お兄ちゃんには話してると思ったんだけど」
「そこまで心を開いてないみたいだな」
 言われてみれば、未来からそんな話は聞いたことがなかった。
「まあ、各家庭には事情があるから、言えないこともあるんでしょう」
 母親が食事を一時中断して、口を挟んできた。
「そうだな。あまり詮索しても藪蛇だと思うぞ」
「そうかもしれないけどさ~。聞く度に悲しそうな顔するんだよね~」
「それはますます聞きにくいな」
「だよね~」
 妹はそう言って、食事を始めた。
 三人が料理を食べ終わり、会計をしてから食堂を出た。
「久しぶりだと、本当においしく感じるね」
 すると、母親が満足そうにお腹を擦ってそう言った。
「そうだね。あいつの家じゃなかったら週一で通うね」
 妹も同意しながら、幼馴染に悪態をつきつつ、食堂の味を絶賛した。
「おまえは、口達者だな」
 茂は、その器用な発言を鼻で笑うように茶化した。
「なんか馬鹿にしてない?」
「気のせいだよ」
 茂ははぐらかすように、妹の先を歩いた。
 家に帰り、すぐさま自室で受験勉強を開始した
 勉強は順調に進み、気づくと11時になっていた。茂は休憩も兼ねて、シャワーを浴びることにした。
 15分後、シャワーを浴び終えて、リビングの前を通るとドアが開いた。
「ちょっといい?」
 すると、母親が開いたドアから手招きした。
「なんだよ」
「いいから」
 茂は不満な顔で、リビングに入った。そこには珍しく妹の姿がなかった。
「で、何?」
 茂はそう言って、母親と向かい合うかたちでソファーに座った。
「真理がね。茂についていきたいとか言ってるんだけど」
「は?意味がわからん」
 突然の話の切り出しに、茂は首を傾げた。
「大学受かったら、一人暮らしするんでしょう」
「ああ、そうだな」
「お父さんが帰ってくるなら、茂についていくって言ったのよ」
「あいつ、マジで言ったのか」
 冗談で口にしていたが、まさか母親に言うとは思わなかった。
「その反応だと、茂には言ってるみたいね」
「安心していい。ちゃんと拒むから」
 せっかくの一人暮らしを、妹に邪魔されたくはなかった。
「そぉ~?だったら、いいんだけど」
「一つ聞きたいけど、もし真理が俺についてきたらどうする?」
「引っ越す」
 茂の質問に、母親は即答で返した。
「父さんは、どうするんだよ?」
「お父さんも一緒によ」
「やっぱり・・か」
 予想していたことだが、実際即答されると複雑な心境だった。
「話がこれだけなら、もう戻るよ」
 話は終わったようなので、ソファーから立ち上がった。母親は何も言わず、動く気配もなかった。
「母さんは、少し子離れした方がいいと思うぞ」
 リビングを出る前に、母親にそう忠告しておいた。
 翌朝、茂は背伸びして、ベッドから起き上がった。休日ということもあり、目覚ましはかけていなかった。
 時計を見ると、9時を回っていた。休みの日は快眠したかったので、二人には起こさないように頼んでいた。
 顔を洗うために階段を下りながら、手櫛で寝癖を整えた。
 洗面所で顔を洗い、リビングに入った。
「あ、ようやく起きた」
 リビングでは妹がテレビを見ていて、母親はコーヒーを飲みながら、電子書籍で何かを読んでいた。
「おはよう」
 茂は、第一声で朝の挨拶をした。
「うん。おはよう。今、朝食用意するね~」
「ありがとう」
 母親にお礼を言って、妹の正面に座ろうとした。
「お兄ちゃん、こっちに座って」
 しかし、妹が自分の隣に来るよう指図してきた。
「なんでだよ」
「いいから」
 少し苛立ちが見えたので、素直に従うことにした。
「なんかあるのか?」
「特にないよ」
 妹はそう言うと、背中を向けてこっちにもたれ掛ってきた。
「なんだよ!気持ちわりぃ~な」
「気持ち悪いって何よ!」
 茂の放言に、妹が語気を荒げた。
「俺らって、日頃こんなことしねぇだろう」
「まあ、そうだね~」
 妹は、背中を向けたまま淡泊に答えた。
「だから、密着するのはやめてくれ」
「兄妹なんだから、気にしないでいいよ」
「俺が気にするんだよ」
 妹の頭を掴んで、引き離しに掛かった。妹の髪はサラサラで手触りがとても良かった。
「お兄ちゃん。もしかして、照れてる?」
「嫌がってんだよ!」
 妹の冷やかしに、茂は思わず声を荒げた。
「ふん。この程度の接触で取り乱すなんて、まだまだだね~」
 すると、妹が馬鹿にするように鼻で笑ってきた。
「取り乱す?馬鹿言うな。妹如きにそれはねぇよ」
 久しぶりに頭に来たので、妹の挑発に乗った。
「できたよ~」
 が、タイミング悪く母親が朝食を持ってきた。
「ちっ、運が良かったな」
 茂は捨て台詞を吐いて、ソファーから立ち上がった。
「負け犬の遠吠えだね」
「あとで証明してやろう」
 妹にそう宣言して、食卓に置かれた朝食を食べ始めた。
「なんの話?」
 母親は、茂たちの小競り合いに口を挟んできた。
「密着されただけで動揺したとか言ったから、食い終わったら証明してやるって話だ」
「しょうもなっ!」
 あまりのどうでも良さに、母親が驚きの声を上げた。まあ、しょうもないことは茂もわかっていたが、妹に小馬鹿にされたのは許せそうになかった。
 20分で食事を終えて、妹の座っているソファーに近づいた。
「覚悟はいいか?」
 茂はそう言って、妹に脅しをかけた。
「何するのよ?」
「こうするだけだ」
 茂は、妹と昔のようにじゃれ合った。
「降参!降参だよ」
 5分もしないうちに、妹がギブアップした。
「ふん。思い知ったか」
「はぁー、はぁー、まさか、昔のようにするなんて思わなかったよ」
 妹が顔を真っ赤にして、息切れしていた。
「懐かしいね~。昔はよくそれで競ってたね~」
 このやり取りを母親が、懐かしむように眺めていた。
「受験勉強でもするか」
 日曜日とはいえ、あまり無駄に時間を消費する気はなかった。
「たまにはゲームでもしようよ」
 すると、妹が珍しくせがんできた。
「無理だ」
 が、それを即答で一蹴した。
 茂がリビングに出ようとすると、インターホンが鳴った。
「ん?誰か約束した?」
 妹は茂と母親を見て、不思議そうに首を傾げた。時計を見ると、9時40分だった。
「宅配便かな」
 母親がそう言って、玄関に出迎えにいった。
「なんか嫌な予感がするな~」
 妹はそう言いながら、テレビから茂の方に視線を移した。
「そんなこと言うなよ。おまえの悪い予感は当たるんだから」
「私だって、好きで当ててるわけじゃないよ~」
 これに妹が、口を尖らせて反論してきた。
 妹の言葉が不安を煽り、リビングからこっそり覗いてみることにした。
「えっと、あれ?」
 母親が玄関を開けて、相手と対面したところだった。
「げっ!」
 その相手を見た茂は、驚きのあまり声を上げた。
「どうかした?」
 その声に、妹が敏感に反応した。
「な、なんでもねぇ~。おまえはテレビを見ておけ」
「何よそれ」
「いいから、ここから出るな」
 妹にそう強要して、茂はリビングを出た。
「え、葛木?」
 玄関まで行くと、母親がその名前を口にした。
「母さん。ちょっと引っ込んでてくれ」
 茂は、来客と母親を離すように割って入った。
「なんの用だよ」
 そして、その来客を睨みつけるように迎えた。来客は葛木一家だった。
「私服の京橋って久しぶりに見た」
 葛木が物珍しそうに、茂を観察してきた。葛木は、ふくらはぎまでのジーンズに白のブラウスというラフな格好だった。
「ひっさし振り~♪茂君」
 葛木の母親である美奈が、片手を上げて挨拶してきた。
「そうですね。相変わらず、元気そうですね」
「茂君も元気そうで良かったよ~」
 美奈は。気さくな笑顔でそう返してきた。顔は葛木似の美人で、セミロングの茶髪だった。手にはセカンドバックを持っていて、ロングのレギンスにシャツの上からチェックのブラウスを羽織っていた。
「いつも娘がお世話になってるね」
 ここで葛木の父親が、礼儀正しく挨拶してきた。きりっとした顔に短髪に、全身スーツを着ていた。身長は茂の10cmは高かった。
「和人さん。あなたまで来ましたか」
「すまない。この二人ではどうも不安でね」
 和人が不安そうに、前の二人を見下ろした。
「そう思うんでしたら、来て欲しくなかったですね」
「それに一家総出で謝りたくてね」
「もう終わったことです」
「それだけでは、こちらの気が済まないのだよ」
「こっちは穏便にいきたいんですよ。あなた達がここに来ることで、暴力事件が発生する可能性があります」
「安心していい。その覚悟できている。暴力を振るわれても、甘んじて受ける覚悟だ。それぐらいのことをした自負もある」
「やめてください。僕は、家族の暴挙なんて見たくないんですよ」
「君には、本当に迷惑を掛けるね」
 和人が茂に向かって、優しく微笑んだ。
「今ならまだ間に合います」
 リビングの方を見て、和人に忠告した。
「残念だが、もう引き返せないんだよ」
「どうしてですか?」
「美奈と君の母親が会ってしまってるからね」
 そう言うと、母親と美奈を交互に見た。
「美奈っちの苗字って、葛木だったっけ?」
 ここで母親が、不思議そうにそんなことを口にした。
「久しぶりね。由里っち。結婚して苗字を変えたのよ」
 二人があだ名で呼び合ったことに、茂はかなり驚いた。
「・・・し、知り合いなのか」
「う、うん。美奈っちとは高校からの同級生で、今は教育委員会の役員だよ」
「え!そうなの?」
 和人の職業は知っていたが、美奈の職業は知らなかった。
「校長と担任が結託したことを知ったのも、美奈っちからの密告だよ。でも、苗字が変わったなんて知らなかった」
 母親は驚いた顔で、美奈の方を見つめた。
「ちょっと、言えなくてね~。ごめん」
 それに美奈が、軽い感じで謝った。
「ねぇ~、上がっていい?」
「ダメです。帰ってください」
 美奈の頼みを、茂が一言で一蹴した。
「つれないこと言わないでよ~」
「友達感覚で言わないでください。こっちとしては、あなた達に配慮しての言動ですよ」
「茂君は、本当に真面目だね~。そういうところ本当に好感持てるわ」
「全くだね」
 葛木の両親が微笑みながら、茂を賛辞した。
「由里っちは、良い息子をもったわね~」
「え、うん。家では敬語も建前も言ってくれないけど」
 これは母親の教育の賜物だが、この場は謙遜することにしたようだ。
「家で敬語っておかしいだろう」
 ここは茂も母親に乗ることにした。
「それより、母さんも帰ってもらうよう説得してくれ。真理が出てきたら、アウトだぞ」
「ああ、それはそうだね。悪いけど、惨事になるから家には上げられないわ」
「それは覚悟の上よ」
 今度は美奈が胸を張って、きっぱりと言い放った。
「私たちは、それほどのことをしてきたわ。あなた達にだけは謝罪したい」
「・・・わかった。上がって、美奈っち」
 母親が観念したように、説得を早々に諦めた。
「ちょ、母さん」
「昔からの付き合いでね。こうなったら、美奈っちは梃子でも動かないわ」
「さすが由里っちだね。私のことよくわかってる♪」
 美奈はそう言って、嬉しそうに玄関に入ってきた。
「そうか。じゃあ、俺は席を外しておくよ。修羅場になることを知って、赴くのも馬鹿らしい」
 正直、妹を鎮める方法を思いつかなかった。
「ちょ、ちょっと、真理は茂にしか止められないって」
 母親が慌てて、呼び止めてきた。
「無理だ。残念だけど、真理の怒りはそれほどだよ。あれは怨念に近い」
「そ、そこまでなの?」
 茂の言葉に、美奈が不安そうに眉を顰めた。
「ええ、まあ。直に会ってみればわかりますよ」
 茂はそう答えて、二階に避難することにした。
「ダメだよ。私だけじゃあ、真理を止められないわ」
 母親が茂の腕を掴んで、必死で引き止めてきた。
「知ってるよ。だからこそ俺は二階に逃げるんだよ」
 茂は母親の手を振りほどいて、リビングの方に顔を向けた。
「あ」
 すると、そこに妹が仁王立ちで立っていた。
「なんで私を止めるのよ?」
「なぜ・・出てきた」
 あまりの予想外な展開に、茂はトーンを落として妹を睨みつけた。
「二人とも全然戻ってこないんだもん。気になるじゃん」
 妹はそう言いながら、視線を来客の方に向けた。
「誰?・・・というか、見たことある人もいるね」
 葛木の方を見た妹が、不思議そうに呟いた。葛木とは、一度すれ違っていたが覚えいるようだ。
 美奈が一家の代表して、一歩前に出た。
「どうも、初めまして・・・」
「ちょ、ちょっと、本気で言うんですか?」
 美奈の言葉を遮るように、茂は慌てて言葉を遮った。
「そのために来たのよ」
「なんの話?」
 除け者状態の妹が、不愉快そうに眉を顰めた。
「初めまして、葛木美奈です。こっちが娘の菜由子で、夫の和人です」
 美奈は、一気に家族を紹介した。その瞬間、妹が目を見開いたまま表情がこわばった。
「葛・・木?」
 そして、名前を噛み締めるように間を置いて、苗字を口にした。
「今日は、あの件について謝りに来ました」
 美奈はそう言って、申し訳なさそうに頭を下げた。
「あの件って何よ」
 妹は、怒気をあらわにして歯軋りした。声のトーンもかなり低くなっていた。
「茂君の家宅捜索の件です」
「・・・あれはあなた達が仕向けたの?」
 妹は顔を下に向けて、拳を強く握った。明らかに切れる寸前だった。
「ごめんなさい」
 妹の感情を察した美奈は、丁寧に頭を下げて謝った。それに続いて、葛木と和人も同じ行動をとった。
「ごめんって、そんなので済まされるわけないでしょう!」
 これだけでは気が済まないようで、体を震わせて声を荒げた。
「勿論。そんなことは思っていません。償いをさせて貰えませんか」
「いまさら・・・私たちがどんな思いでこの半年間過ごしたと思ってるんですか!」
 あの時のことを思い出したのか、妹が目に涙を溜めて声を震わせた。その表情に、葛木たちが気まずそうに目を逸らした。
「ご、ごめんなさい」
 二度目の美奈の謝罪に、妹が再び歯軋りした。
「ふざけないで!」
 妹の怒りが頂点に達したようで、葛木一家に迫ってきた。
「落ち着け」
 このままでは大惨事になりかねないので、勇気を振り絞って妹の前に立ち塞がった。
「なんでお兄ちゃんが庇うのよ」
「おまえが警察に連行されないためにだよ」
 かなり怖かったが、平静な顔で対応した。
「そんなことしないわよ」
 すると、妹から予想外の言葉が飛び出した。
「あれ?かなり冷静だな」
「お兄ちゃん。私は、暴言は誰にでも吐くけど、暴力はお兄ちゃんにしか振るわないよ」
 なんか差別待遇を感じたが、ここは流すことした。
「お兄ちゃんと話すと、怒りにくいから、ちょっとどいてくれない?」
「それは好都合だな。怒りはここで鎮めてくれ」
「そんなことできないよ。お兄ちゃんだって被害者じゃん」
「一番の被害者はおまえだけどな」
 茂の発言に、妹が不愉快そうに顔を歪めた。
「・・・お兄ちゃん。それ本気で言ってるの?」
「ああ、勿論だ」
「お兄ちゃんって、最近寛容になったね。というか、優しくなったのかな」
 茂の言動が功を奏したようで、妹の表情が少し和らいだ。
「仲良いのね」
「羨ましい」
 そのやり取りを見ていた美奈と葛木が、お互いの感想を漏らした。
「上がって。お茶出すから」
 この状況に母親は安心したようで、葛木一家を中に招いた。
「そうだね。じゃあ、お邪魔します」
 美奈は靴を脱いで、妹に会釈してからリビングに歩いていった。二人も美奈と同じ行動をして、その後に続いた。
 その結果、玄関には茂と妹が残された。
「って、私の怒りがうやむやにされてる!」
 怒るタイミングを完全に消された妹の叫びが玄関に木霊した。

六 背景

 葛木一家はソファーに並んで座り、その向かいに京橋一家が座った。
「これが事の顛末です」
 美奈は、あの一件をすべて話した。葛木は何も言わず、ずっと黙って俯いていた。
 そして、美奈がバッグから厚みのある封筒を取り出した。中身はおそらく札束のようだ。
「これは慰謝料よ」
 それを母親の方に差し出してきた。
「いらないよ」
 母親は、拗ねたように受け取りを拒否した。
「言うと思った。じゃあ、真理ちゃんに受け取ってもらいましょう」
 美奈はそう言って、一番怒りを買っている妹に差し出してきた。
「いりません。母が断ったものを私が受け取れません。というか、馬鹿にしてます?」
 これには苛立ちをあらわにして、美奈を睨みつけた。
「美奈っち。理由も納得できたし、謝ったんだからもういいよ」
 母親は、あの件を寛容に許した。
「お母さん。それは甘すぎだよ。たとえお兄ちゃんの転校を阻止したとしても許すのは無理だね。それ以上の被害を被ってるんだから」
「主におまえの学校と近所付き合いだけどな」
「お兄ちゃんは、少し黙っててくれないかな」
 茂の横やりに、妹が嫌な顔で制してきた。
「なんでだよ?」
「お兄ちゃんが話すと、私たちの苦労が軽く見られちゃうから」
「軽くって、そんなの相手の捉え方次第だろう」
「はぁ~、わかってないね。お兄ちゃんの言葉には感情がこもってないんだよ」
「んなことねぇだろう。確かに、感情はあまり入れないようにしてるけど、ちゃんと相手に伝わるように言葉を選んでるつもりだ」
「それがダメなんだよ。恨み辛みは感情を込めないと、相手には伝わらないよ。そういう経験もしてこなかったの?」
「残念だが、周りにおまえみたいな感情的なやつしかいなかったから、相手を宥める経験しかできなかったな」
「嫌な切り返ししないでよ」
 妹は、本当に嫌そうな顔で口を尖らせた。
「ふふふっ、本当に仲が良いんだね」
 この兄妹のやり取りに、美奈が微笑ましい表情をした。
「たまにうるさいと感じるけどね」
 母親が苦笑いして、美奈の方を見た。
「あと、腕掴まないでよ!」
 そんな二人を余所に、妹が掴まれた手を振りほどこうとした。
「ダメだ。これはおまえの動きを封じるためのものだ。いわばリードだな」
「私は、猛犬か何かかっ!」
 茂の比喩に、妹が声を荒げてつっこんだ。
「とにかく恥ずかしいよ」
「それは奇遇だな。俺もかなり恥ずかしい」
「だったら、放してよ」
「俺は同じことを言うつもりはねぇ~」
「なんでここは頑固なのよ」
「おまえの為だ」
 茂は妹を直視して、真顔で言い切った。
「うっ、ず、狡い」
 これに妹が、頬を染めて視線を逸らした。
「なんか私たちが、空気になってるんだけど」
 美奈が堪らず、声を漏らした。責められる覚悟で来たはずなのに、なぜか京橋兄妹の仲の良さを見せつけられるという珍事に見舞われていた。
「ふぅ~。とにかく、私は許す気はないから」
 妹はそう言うと、ソファーから立ち上がった。
「どうした?」
 茂は、不安に駆られて妹を見上げた。
「部屋に戻る。お兄ちゃんがいるから、なんか怒りにくいし、正直居づらい」
「日頃、感情的にしゃべってるせいだろう」
 妹には、怒れない状態での会話は苦痛のようだ。
「ふん。理性的なしゃべりなんてつまんないよ」
「馬鹿だな~。理性的な話し合いこそ、相手の底が見れるというものだろう」
「馬鹿はお兄ちゃんだよ。そうやって相手を観察してたら、友達なんてできないよ」
「大丈夫だ。人はちゃんと選んでる」
「お兄ちゃん。それはただの性悪だよ」
「大きなお世話だ」
 妹の冷静な対応に、茂は安心して手を放した。
「命拾いしましたね。もし、お兄ちゃんがいなかったら、言葉で殺してました」
 怒りを発散できなかった歯痒さからか、殺意を込めて発言した。
「脅すんじゃねぇよ」
「ふん」
 茂の言葉を鼻であしらって、リビングから出ていった。
「危機は去ったな」
 妹が出ていったことに、茂は心底安堵した。
「いいな~。あんな妹欲しいな~」
 すると、葛木が本当に羨ましい表情で、真理の去った後のリビングのドアを見つめていた。
「そうだね~。さぞ楽しい家庭になりそうだね~」
 美奈もそれに同意して、何度か頷いた。
「話はもう終わりましたし、帰ってくれませんか」
「相変わらず、つれないね~」
 茂の言葉に、美奈が拗ねたように口を尖らせた。
「まだ謝罪しただけで、お詫びはしてないよ」
「被害はそちらにも被ってますし、必要ありませんよ」
「それだと、私たちの気が済まないわ」
 ここは断固として譲る気配がないようだった。
「でも、お金はいらないからね~」
 母親は、それだけは拒否した。
「さすがに、二度も押し付けることはしないわよ。でも、償いはさせて貰えないかな。私たちは、その点で意見が一致してるから」
 関わらないで欲しいと強く思ったが、さすがにこの雰囲気では言えなかった。
「残念だけど、して欲しいことがないのよね~」
 母親はそう言って、困ったように頬を掻いた。
「別に、いいんじゃないかな。美奈っちとは友達だし、責任とか感じる必要はないわ」
「嬉しいこと言ってくれるね」
 本当に嬉しかったようで、美奈は表情を綻ばせた。
「一つ、提案なんだけど・・・」
「ん、何?」
「お金がダメなら、菜由をあげるわ」
「はぁ、どういう意味?」
「そのままの意味よ。この家に菜由を嫁がせるの」
「いりません」
 困惑している母親より先に、茂がきっぱりと拒絶した。
「断るのはやっ!」
 これに葛木が、即座に反応した。
「ええ~~、そんなこと言わず、もらってよ~。菜由もその気あるみたいだし」
「そうですか。しかし、こちらにはその意志は微塵たりともありません」
「やっぱり、本当に嫌ってるんだ・・・」
 茂の本音に、美奈が片手で頭を押さえて溜息をついた。
「茂君。娘のことが嫌いかね」
 それに和人が、不満そうな顔で話に入ってきた。
「そうですね。親の前であまりはっきりとは言いにくんですが、好感は持ってませんね」
「ちょっ、茂!両親の前でそれは失礼極まりないでしょう」
 これにはさすがの母親も怒ってきた。
「いや、ここではっきりさせとかないと、本当に結婚させられそうだから」
 押しに弱い茂には、我の強いこの家族はかなり危険だった。
「やはり、あの件のせいかね」
 和人は葛木をチラ見しながら、少し躊躇いがちに聞いてきた。
「あの件って、さっき話したことですか」
「ああ」
「あれは気にしてません」
 勘違いは良くないので、そこははっきりさせた。
「え、そうなの!」
「ち、違うんだっ!」
 すると、この事実に美奈と葛木が驚いた。
「でも、私を突っぱねた要因って、あの件じゃなかったっけ?」
 前に言ったことを真に受けているようで、葛木が訝しげな顔で聞いてきた。
「ああすれば、近寄ってこないと思ってな」
「こ、口実だったんだ」
「そうだな。なのにおまえしつこいから」
「そう・・・」
 葛木は顔を下に向けて、ゆっくりと立ち上がった。そして、ソファーに座ってる茂の正面に立った。正直、この行動には恐怖を感じた。
「じゃあ、警察の一件は、あの時から気にしてなかったの」
「あの時と言うよりは、転校が白紙になった時からだよ。なんとなく、気づいてたからな。誰だったかは知らなかったけど」
 風の噂でしかなかったので、美奈からの話は驚きの連続だった。
「だから・・その・・ありがとう」
 茂は頬を掻いて、とりあえずお礼を言っておいた。頼んではいないが、動いてくれたことには感謝していた。
「京・・橋、ちょっと、立って」
 葛木は体を震わせながら、掠れ声で言葉を絞り出した。
「なんでだよ」
 その要求の意味がわからなかったので、茂は恐る恐る聞き返した。
「いいから、お願い」
 茂の疑問を打ち消すように、感情を溜め込んだ声で再度そう言ってきた。
「な、なんだよ」
 茂は戸惑いながら、言われた通り立ち上がった。テーブルとソファーの間の狭いスペースだったので、葛木との距離はかなり近かった。
「良かった」
 そう言うと同時に、葛木が抱きついてきた。
「おまえ、何してんだよ」
 葛木の行動に、茂はかなり動揺してしまった。それを見た三人が、お~と歓喜の声を上げた。
「本当に・・良かった」
 葛木は涙声で、茂の胸に顔を埋めた。
「はぁ~」
 よほど思い悩んでいた様子だったので、仕方なく頭を撫でた。
「凄くお似合いだね」
 それを見ていた美奈が、茂たちを微笑ましく見つめた。
「本当だね~。昔を思い出すわ~」
 母親も動揺するように、うっとりとした表情で見上げていた。
「おい、もう離れろ」
 母親たちからの生暖かい目に耐えられず、一気に羞恥心が湧き上がってきた。
「やだ、離れたくない」
 引き離そうとしたが、葛木がグッと力を込めてきた。
「茂君。娘をもらってやってくれないか」
「和人さん、僕の意見も聞いてくれませんか」
 この頼みは絶対に受け入れたくなかったので、やんわりと断った。
「ここまで娘に好かれて何もしないのは、甲斐性がないと思うが」
「そうですね。でも、今の僕の立場だと内申が下がりますよ。これはお互いの為にもなると思いますが」
 これは立嶋にも一度だけ遠回しに忠告したが、離れてはくれなかった。
「優しいのだな」
「これは優しさではありませんよ。ただの利害の一致です」
「まあ、そういうことにしておこう」
 どうやら、茂の訂正を建前として受け止めるようだ。
「というか、いい加減離れてくれ」
 一向に離れそうにない葛木の肩を掴んで、再度引き離しにかかった。
「もうちょっとだけ。こうしていたいの」
「俺の意思もたまには尊重してくれ、マジで」
 力で引き剥がそうとしたが、態勢が悪く引き剥がせなかった。
 すると、リビングのドアが開いた。
「もういい加減、帰ってくれませんか?」
 そして、妹がそう言いながらリビングに入ってきた。
「え!」
 しかし、茂と葛木を抱き合ってる状態を見てフリーズした。
「ちょ、ちょっと何してんのよ!」
 妹が我に返って、葛木と引き剥がしてくれた。
「あぅ」
 葛木が凄く残念そうな顔で、抱きしめていた腕を下した。
「助かったよ」
 これには妹に感謝したが、今度は妹に掴み掛られた。
「どういうことよ!」
「おまえ、なんで俺に対してだけ当たりが強いんだよ」
「お兄ちゃんがセクハラしてるからでしょう」
 妹には、茂が抱きしめてるように見えたようだ。
「逆だぞ。セクハラしてたのはあっちだ」
 これには少し苛立って、葛木を指差した。
「え!そうなの?」
 その事実に、妹が驚いて後ろを振り返った。
「どういうことですか!」
 妹が悪意たっぷりの目で葛木を睨んだが、ちゃんと敬語だった。
「だって、大好きだから」
 葛木は妹から視線を逸らしながら、頬を染めて言い放った。
「なっ!」
 葛木からの予想外の告白に、妹がたじろいだ。
「さっきね~。結婚してくれって言われちゃったのよ」
 ここで母親がニヤニヤして、余計な発言を口にした。
「はぁ!」
 それに妹が、声を張り上げた。
「ちょっ!お兄ちゃん。どういうことよ!」
「なんで俺なんだよ」
「混乱してんのよ!」
 本当に混乱しているようで、声がいつもより甲高かった。
「あっちが言ってるだけで、俺は受け入れてねぇよ」
「私は、別にもらってもいいと思うけどね~」
 こっちは妹の怒りを鎮めようとしているのに、火に油を注ぐような横やりが入った。
「母さん。さっきから余計な口出しすんなよ」
 茂は、母親を横目に口止めした。
「あ、ごめん」
 妹の激昂した顔に気づき、母親はすぐさま謝った。どうやら、ノリで波風を立ててしまったようだ。
「わかったわ。要するにこの家族がただ言い寄ってるだけってことね」
「まあ、そういうことだ」
 なんとか事情を呑み込んでくれたようで、茂の襟から手を放してくれた。
「どういうつもりですか」
 そして、今度は葛木一家に敬語で問い質した。
「私たちは、茂君と菜由が結婚して欲しいと思ってるわ」
 美奈が家族を代表して、堂々と宣言した。
「おこがましいにもほどがありますね。あれだけ迷惑を掛けて、よくそんな提案できますね。とても正気とは思えません」
「わかってないね~、真理ちゃんは。迷惑掛けたからそのお詫びも兼ねて、茂君に身も心も捧げるのよ」
 美奈は、得意げに腕を組んで力説した。
「なら、ここは結婚ではなくて、奉仕者ではないんですか」
「ほうししゃ?」
 言葉が理解できなかったのか、美奈が首を傾げた。
「だって、迷惑を掛けたのはお兄ちゃんだけではありませんから。この家族全員への奉仕が妥当だと思います」
「真理ちゃんが言いたいのは、菜由に使用人とかメイドみたいなことで償えってことね」
「まあ、そうですね」
 美奈のその解釈に、妹が当てつけの如く軽く頷いた。
「でも、それだと近所に変な目で見られない?」
「いまさらですね。もう奇異な目で見られてますよ」
「本当に申し訳ない」
 妹の提案を諦めさせるために言葉を駆使したようだが、藪蛇になってしまっていた。
「別に、それでもいいよ」
 しかし、葛木は恥じらいながらもそれを受け入れた。
「えっ!」
「京橋の隣にいられるなら、それでもいい」
 その発言に、妹が振り返って茂を睨みつけてきた。
「今のは例え話です。本気にしないでください」
「そうなの?」
 妹の訂正に、葛木が残念そうな顔をした。
「とにかく、帰ってください。できれば、二度とここに来ないでください。でないと、あなた達に危害を加えるかもしれません」
 妹が一気に捲し立てて、葛木一家を睨みつけた。
「おい、脅すなって言ってるだろう。和人さんは、警察官だぞ」
「知ってるわよ。だから、手出してないじゃない」
 妹なりにそこは配慮しているようだったが、脅しも立派な犯罪だった。
「真理ちゃんに完全に嫌われちゃったね~」
 美奈は、残念そうに言ったが表情は笑顔だった。
「可愛い」
 葛木が言葉を漏らして、恍惚の表情で体を震わせていた。
「あ、やば」
 すっかり忘れていたが、葛木は人の感情の起伏を見るのが大好きだった。
「え、何が?」
 茂の発言に、妹が反応を示した。
「真理」
 葛木が妹を呼んで、優しく抱きしめた。
「へ?」
 突然のことに、妹が目を丸くした。
「わぁ~、凄い髪サラサラだ~」
 妹の髪を擦りながら、嬉しそうに感想を漏らした。
「・・・ちょっと、何するんですか!」
 混乱していた妹が我に返り、葛木の腕の中で暴れ出した。
「可愛い」
 その妹を愛くるしそうに、葛木が強く抱きしめた。
「わぁ~~、私、そっちのけはないですよ!」
 あまりのことに声を震わせながら、妹がさらに暴れまくった。
「はぁ~~、いいよう~」
 今度は葛木がトリップ状態で頬ずりした。
「うわ~っ!気持ち悪い!気持ち悪い!」
 もう本気で嫌がっていた。
「もうやめてやれ」
 さすがに妹が哀れになり、引き離すことにした。
「あぅっ」
 葛木の肩を掴んで、強引に引き剥がした。
「はぁ~、はぁ~、何よ。この人」
 妹が体を震わせながら、茂の後ろに隠れた。こんなに怯える妹は久しぶりだった。
「もう帰ってくれませんか」
 茂は、再度出ていくよう促した。
「もう用件も伝えたし、今回は帰ろう」
 ここでようやく、和人が茂の意思を汲んでくれた。
「和人さん。また来る気ですか」
 が、今回はの部分が気になってしまった。
「勿論だ。菜由との結婚もあるからね」
「それは諦めてくれませんか」
「それは菜由に言ってくれ」
 和人はそう言って、葛木を指差した。
「良いな~」
 つられて見ると、とても嬉しそうな顔で茂と妹を見つめていた。その眼は恍惚に満ちていた。
「できれば、二人から諦めるように言ってくれませんか」
 何度も拒絶しても結果に全く結びついていないので、葛木の両親に頼んでみた。
「無理だよ~。私たちは、茂君が好きだから、その頼みは受け付けてません!」
 美奈は理由を告げて、後半は力強く断言した。
「それは残念ですね」
 これには項垂れて溜息をついた。
「じゃあ、帰ろうか」
 美奈が立ち上がると、和人も頷いて立ち上がった。
「ごめんね、由里っち。迷惑掛けて」
「いいよ、気にしないで。わざわざ来てもらって、嬉しかったわ」
「また、お茶でもしてしようね」
「そうだね」
「その時は結婚について語ろう」
「それは楽しそうだね~」
 お互いの片親が、笑顔で不穏な話をしているのは不愉快極まりなかった。
「また来るね~」
 葛木が正気に戻り、満面の笑顔で茂と妹に手を振った。
「もう来るな」
「そうだ!そうだ!」
 茂の後ろに隠れた妹が顔だけ出して、ブーイングした。
「そんなこと言わないでよ」
 これに葛木が、物凄い寂しそうな顔をした。
「ご、ごめんなさい」
 その表情に、妹がすぐさま謝った。あんな頑固な妹が、謝るなんて信じられないことだ。
「う、うん。こっちもごめんね」
 葛木が妹に向けて、申し訳なさそうに謝罪した。
「帰るよ。菜由」
 美奈がリビングのドアを開けて、葛木を呼んだ。
「うん。今行く」
 葛木が母親にお辞儀して、美奈の後を追った。
「茂。玄関まで見送ってきて」
「はいはい」
 茂が玄関まで行くと、靴を履き終わった三人がこちらを振り返った。
「じゃあね。京橋」
 葛木はそう言って、笑顔で手を振った。
「ああ、また明日な」
 一応、礼儀として手を振り返した。
「茂君。菜由のことよろしく頼むよ」
「まあ、こっちもお世話になりましたし、付き合いはしますけど、恋人とか結婚は勘弁してください」
 一応、それだけは和人に釘を刺しておいた。
「菜由!既成事実でもいいから結婚に持ち込みなさい」
「勿論だよ」
 和人の後ろで、二人が決意表明していた。
「あの後ろの二人にもちゃんと伝えといてください」
「あれは茂君への当てつけだよ」
「そうですか」
 それは知っていたが、言葉にされると気が滅入りそうだった。
「今度、自宅に来てくれ。君とゆっくり話したい」
「はぁ~、まあ、検討しておきます」
 さすがに本音は言いづらかったので、言葉を濁しておいた。
「じゃあ」
 和人がそう言うと、後ろの二人も別れの挨拶をして、玄関から出ていった。
「はぁ~~、疲れた」
 ようやく帰ってくれたことに、安堵の溜息が漏れた。
「お兄ちゃん」
 突然、後ろから妹の低い声が聞こえてきた。
「なんだよ」
 後ろを向くのは怖かったが、平静を保って振り返った。
「えらく面倒な人に気に入られてるんだけど、どういうことかな~」
「俺も不本意だよ」
「あの人かなりの美人さんだね~。抱擁はさぞかし嬉しかったでしょう」
 妹がさっきのことを引っ張り出して詰ってきた。
「おまえもそれは同じだろう」
「私は、レズじゃないよ。不快感しかなかったね」
「まあ、俺もそんな感じだ」
「え、なんでよ」
「だって、あいつのこと大っ嫌いだから」
 本人は帰ってるので、設定を守る必要がなかった。
「き、嫌い?あんなに擁護したのに?」
「あの件とは別の話だ。俺は、あいつの性格が嫌いなだけだから」
「性格?ああ、あの気味の悪い行動のこと?」
 さっきの抱擁を思い出したようで、身震いしながらそう言った。
「あいつは、人の感情の起伏を楽しみとするサディストだからな~」
「何言ってるの?」
 これに妹が、訝しげに見上げてきた。
「あの人は、完全なマゾだよ」
「はあ、何言ってるんだよ。あいつは、典型的なサディストだぞ」
 茂は、妹の真逆の意見で言い返した。
「根拠は?」
「1年の頃からずっとおちょくられていた」
「お兄ちゃん。そんな前から知り合いだったんだ」
「クラスメイトだったからな」
「ふ~~ん。その時から嫌いだったの?」
「しつこくてな~。何度も怒鳴ったことがある。それなのに嬉しそうな顔するんだよ、あいつ」
 思い出すだけで、自然と苦い顔になった。
「なるほどね。でも、それ勘違いだよ」
「勘違い?」
「あの人、ただ怒られるのが好きなんだよ」
「う~~ん。そう言われてみれば、怒られてるのにずっとトリップしてたな~」
「それよ。菜由子さんは、怒られることを望んでいる」
 妹は、許してないはずの葛木を下の名で呼んだ。
「私には、太刀打ちできないタイプだよ。もう関わりたくない」
「俺もそれを望んでいろいろ手を打ったが、結果は今に至るよ」
「そ、それは大変だね」
 茂の溜息に、妹は同情したようで苦笑いした。
「あ、もしかして、前に話していたクラスメイトって・・・」
 未来を送っていた時に、何度か葛木と話して遅くなったことがあったのを今思い出したようだ。
「ああ、葛木だよ」
「そっか。いつから菜由子さんと話してたの?」
「ここ最近だよ」
「よく受け入れたね」
 妹が項垂れて、声のトーンを落とした。
「手を尽くしたんだがな」
「マゾの彼女には通じなかった?お兄ちゃんって、押しに弱いからね」
「そうだな」
 これは自分でも自覚していることだった。
「凄いね」
 突然、妹がなんの脈絡もなく褒めてきた。
「はぁ、どうした?」
「私には真似できないな~って思ってね」
「おまえは、俺より頑固だからな」
「だから、凄いと思ったの」
 妹はそう言って、リビングに戻っていった。
「珍しいこともあるもんだな」
 茂は小声で呟いて、二階の自室に足を向けた。

七 再会

 真理がリビングに戻ると、母親が空になったコップを片づけていた。
「あれ、茂は?」
「ん?部屋に戻ったみたい」
 後ろからついてこなかったので、憶測で答えた。
「そう」
 それだけ言うと、キッチンにコップを持っていった。
「お母さん」
 真理はソファーに座って、母親を呼んだ。
「な~~に」
 すると、キッチンから声だけ聞こえてきた。
「最近、お兄ちゃんの性格変わったね」
「そうだね~、前よりは穏和になったかも」
「なんか大人って感じ」
「真理には、置いていかれた感じかな?」
「うん。まあ、そんな感じ」
 自分としては、兄の急速な成長にかなり困惑していた。いきなり家族が赤の他人になったような錯覚を覚えるくらいの変化だった。
「葛木さんを許したことが意外だった?」
 コップを洗い終わった母親が、手を拭きながらキッチンから出てきた。
「うん。あんなに苦しんだのに、全く気にした様子がなかった」
「まあ、一番の原因はしいちゃんだけどね~」
 そう言いながら、真理の隣に座った。母親は加納しいなのことをしいちゃんと呼び、真理はしい姉と呼んでいた。
「でも、回復して良かったよ」
「そうだね」
 しいなが亡くなってからの兄は、精神病を発症した。前からその兆候はあったが、しいなを看取るまで精神病院に行くことを強く拒んでいた。
「それより、真理の方はどうなの?」
「何が?」
「葛木さん達よ」
「許せない」
「でも、そのおかげで茂が転校せずに済んだんだよ」
「そうだね。でも、正直に言うと転校して欲しかった」
 あの時のことを思うと、今でもそう思っていた。
「・・・真理」
 真理の沈んだ顔を見て、母親もそれにつられた。
「しい姉には悪いけど、あんなに痛々しいお兄ちゃんは見たくなかった」
 これは本心だったが、転校が白紙になった時点でそれは覚悟していた。
「そうね。私も見てられなかったわ」
 母親もそれを思い出すように苦い顔をした。
「それより、真理。学校はどうなってる?」
 すると、母親が急に話題を変えてきた。
「いつも通りだよ」
 前に担任から無視されてると伝えたら、過剰反応されたので、あまり学校の近況報告はしたくなかった。
「そのいつも通りの様子を聞いてるんだけど」
 答えが不満だったようで、眉を顰めて再度聞いてきた。
「だから、11月から変わってないって」
 学校生活は、一番悪い時期と変わってなかった。というか、変えていなかった。
「そ、それって・・・」
 現状が変わってないことに、母親が心配そうな顔をした。
「あ、そうだ。ちょっとやることあったんだった」
 明らかに面倒な方向に向かうので、この場から逃げることにした。
「あ、ちょっと」
「お母さん。私は、大丈夫だから」
 母親を安心させる為、それだけ伝えてリビングを出た。
 二階に上がり、兄の部屋の前を通って、その隣の自分の部屋に入った。兄の部屋に寄ろうかと思ったが、あまり受験勉強の邪魔はできないので遠慮した。
 部屋の左端にある学習机の椅子に座り、電子書籍をネットに繋げた。学校の噂サイトを開くと、誹謗中傷な噂が数多く並んでいた。
 真理は、検索ワードで自分の苗字を入れて検索ボタンをクリックした。
「さすがにもうないか」
 一時期、兄の噂が大半を占めたことがあったが、さすがに時間が経つごとに消えていった。
 あの時はできるだけ、噂が広まらないように擁護する書き込みしていた。擁護する度、身内キタ~とか書かれたが、放置はできず書き込み続けていた。
「もう必要ないかな」
 画面を一通り眺めてから、このサイトを閉じた。
 兄が小6の頃、兄の幼馴染である加納しいなと大喧嘩した。それがきっかけかは知らないが、兄が中学に上がると、しいなと距離を置くようになり、自宅で会うことはなくなった。
 兄が高2の夏、しいなが倒れたと兄から聞いた。
 最初は軽度の病気だと思っていたが、夏休み中ずっと見舞いに行ってた兄が夏休みの後半に、落ち込んだ表情で帰ってきた。
 夕食中、それが気になって聞いてみると、しいなの余命が今年いっぱいということだった。
 これには驚いて、次の日に見舞いに行こうとしたが、喧嘩別れしていたので、母親と一緒に行くことにした。
 夏休みの平日だったが、病院には人が多かった。
「ちょっと待ってて」
 母親が病室を聞く為、受付に聞きにいった。
「二階に上がったすぐの病室だって」
「うん」
 未だ気持ちの整理ができず、力なく答えた。
「大丈夫?」
「微妙かな」
 真理はそう言いながら、しいなの病室へ向かった。
「ふぅ~」
 病室の前に深呼吸して、気持ちを整えた。
「じゃあ、行くよ」
 母親がそれを見て、病室に入った。母親に続き病室に入ると、そこには既に兄の姿があった。
「あ、来たのか」
 兄がこちらに気づき、椅子から立ち上がった。
「え、由里さん?」
 しいなは、驚いたように母親を見上げた。そして、後ろにいた真理にも気づいた。
「もしかして、真理モン?」
 6年も経って、そのあだ名で呼ばれるとは思わなかった。
「しい姉、そのあだ名はやめて」
「来て・・くれたんだ」
 真理の言葉が耳に入ってないのか、しいなが一気に涙目になった。表情を見る限り、嬉し泣きのようだ。
「ちょっと、俺は席を外すよ」
 兄はそう言って、病室から出ていった。
「久しぶりね」
 母親がしいなの横に立って、気遣うように表情を緩めた。
「はい。お久しぶりです」
 しいなが涙を拭って、笑顔を返した。それは6年前と同じような純粋な笑顔だった。
「来てくれて、嬉しいです」
「そうね。今まで会わなかったことを後悔してるわ」
「それは私もですよ」
 母親の言葉に、しいなも同意した。
「もう長くないの?」
 母親は、聞きにくいことを簡単に口にした。
「はい、今年いっぱいだそうです」
「そう・・・」
 その答えには堪えたようで、母親が暗い顔をした。
「そんな顔しないでください」
「あ、ごめんね」
「あ、いえ、謝られるのもちょっと困ります。普通でいいですよ」
 しいなは、場を和ますように笑顔をつくった。
「真理モンも久しぶりだね。元気してた?」
「そのあだ名はやめて」
「ええ~~、可愛いのに~」
 相変わらず、そのセンスのないあだ名が気に入っているようだ。
「それにしても、まだその髪型なんだ」
「これは当てつけだよ」
 昔はセミロングだったが、しいなに対抗して長髪にしていた。おかげで毎日の手入れが面倒だった。
「ふふふっ、そうなんだ。私的にはセミロングが可愛いと思うんだけど」
「それはしい姉の好みでしょ。お兄ちゃんは、こっちが好みだよ」
「まだ、しげちゃんが好きなんだ」
「ち、違うよ。ただ、引くに引けなくなっただけだよ」
 本質をついてきたので、さっきの言葉を訂正するように言い繕った。
「それより、よく私と話せるね」
 大喧嘩したのは過去の話だが、真理には気まずさが抜けなかった。
「昔の話だよ。もう気にしてない」
「えらく緩いのね。私はまだ根に持ってる」
「真理モンは、執念深いね。もう6年も経ってるのに」
「心が狭くて、ごめん」
 しいなの嫌味のない言葉に、拗ねたように口を尖らせた。
「確かに、粘着質よね~」
 そのやり取りを見ていた母親が、口を挟んできた。
「二人で責めないでよ」
 明らかに劣勢な立場になり、ふて腐れた顔で返した。
「別に、責めてないけど」
 しいなが苦笑いして、勘違いを正そうとした。
「それより、もう仲直りしようか」
「いまさらだね」
「だって、喧嘩別れは嫌だし」
 しいなはそう言うと、仲直りの握手を求めてきた。その言葉には死別という意味が垣間見えた。
「わかった」
 真理はそれを察して、しいなの手を握った。さすがに、ここで断ることはできなかった。
「良かった。これで一つ悩みが消えたよ」
 しいなの笑顔は、相変わらず純粋で輝いていた。正直、真理はその笑顔が嫌いだった。
「そう」
 真理からすれば、亡くなる間際での仲直りはかなり気が滅入った。
「えっと、その・・しい姉は、正兄と付き合ってるって本当なの?」
 これは兄から聞いていたことだったが、正直信じられなかった。
「うん。本当だよ」
「どういうつもりよ」
 これには怒りが込み上げて声に力が入った。
「好きって言われたから、嬉しくて」
 それにしいなが、恥ずかしそうに頬を掻いた。
「はぁ~、なんで相思相愛の二人が付き合わないんだろう」
「本当よね。不思議でいっぱいだね」
 真理の言葉に、母親も同調して呆れていた。
「だって、しげちゃんと私、恋愛には奥手だし」
 真理たちの言いたいことが伝わってたようで、しいなが愚痴っぽく言い訳した。
「だったら、自分から言えばいいじゃん」
「そんなことできれば、今まで疎遠になってないよ」
「どっちも押しに弱いくせに、どっちも積極性がないって、致命的だよね」
「もう責めないでよ~」
 しいなは、子供のように口を尖らせた。
「そうだね。お見舞いに来て、その本人を詰るなんて本末転倒だし」
 これ以上、詰るのはさすがに気が引けた。
「じゃあ、もう帰るね」
 もう話すこともないので、帰ることにした。
「え、まだ来たばっかりじゃん」
「しい姉は、相変わらず鈍感だね~」
「あ、馬鹿にした」
「お兄ちゃんが席を外したのは、私たちが短時間で帰ると思ったからでしょう」
「あ、そういえば、そうだったね」
 しいなは、兄のことを完全に忘れていたようだ。
「じゃ、そういうことで」
 母親の袖を引っ張って、帰るように促した。
「わかったわ。という訳で、またね」
「え、は、はい」
 しいなが何か言いたそうにこちらを見たが、言葉は出てこなかった。
「あれ?お兄ちゃん、いないね」
 病室を出たが、兄の姿はなかった。
「待合室かもね」
 母親がそう言いながら、階段を下りた。
 受付まで戻ると、隣の待合室に兄が暇そうに座っていた。
「戻っていいよ」
 真理は、兄に近づき声を掛けた。
「もういいのか?」
「うん。私たちより、お兄ちゃんの方がしい姉は嬉しいと思うよ」
 兄にそれだけ言って、この場を離れた。
「いいの?」
「何が?」
 母親の質問の意味がわからず聞き返した。
「もっと言いたいことあったんじゃないかな~って思って」
 すると、母親が意味ありげにそんなことを口にした。
「もしかして、あれのこと?」
「うん。真っ先に言うと思ってた」
「あれは言う必要はないよ。言っても困るだけだし」
 実際、6年前のことなんて言っても仕方なかった。
「大事な物だったんでしょう」
「昔はね~。今は違うけど」
「そう。なら、いいか」
 母親は、真理の言い分に嬉しそうに納得した。
 それ以降、しいなの見舞いには行かなかった。行っても、余命短い彼女に掛ける言葉がなかったからだ。
 9月の実力試験が近くなっているにも関わらず、兄はしいなの見舞いに行き続けた。
 案の定、兄は学位偏差値を下回った。
「どうするのよ」
 母親が返された答案データを見て、兄に問い詰めた。
「どうするも何も転校するしかねぇ~な」
 兄は落ち込んだ様子で、事実だけを口にした。
「はぁ~、真理もいるし、一人暮らしでもする?」
「そうなるかもな~」
「それとも、恵実さん所に厄介になる?」
 恵実は父親のもう一人の配偶者で、二つ隣の都市に住んでいた。
「それは嫌だ」
 それだけは頭にないようで、即答で突っぱねた。
「だよね。なんでこの時期にそうなるのよ~」
 母親は、再びテスト結果に目を落して溜息をついた。
「わりぃ~」
 それに兄が、少しやつれた顔で謝った。
「進学に大きく響くよ」
「そうだな」
 兄はそう言って、複雑な表情で背もたれに体重を乗せた。
「まあ、進学は諦めるよ」
「就職か~。高卒じゃあ、限定されるね」
「確かに」
 教育制度が大きく変わり、今では大学進学か就職の二つの選択肢しかなかった。
「私も転校しようか?」
 こんな形で兄と離れるのは嫌だったので、真理から申し出てみた。この時期に申請すれば、学位偏差値が下の学校への転校は簡単にできた。
「いや、それはやめてくれ」
 気を使われたと思ったのか、即答で拒絶してきた。
「一応、隣の都市に申請はしておくよ」
 兄はそれだけ言って、リビングから出ていった。
「参ったわね。お父さんに頼んでみようかな~」
「ふん。あんな人どうでもいいよ」
 真理は、父親のことは微塵も頼りにしてなかった。
「いつになったら、お父さんって呼んでくれるの?」
「さぁ~ね。実の親でもないし。おじさんって呼ぼうか?」
「それはやめて欲しいな~」
「なら、今まで通りだよ」
 あまり父親の話はしたくなかったので、リビングから出た。
 二階に上がって、兄の部屋の前を通ると、少しだけ声が聞こえた。壁が薄いので、音が漏れるのがこの家の欠点だった。
 真理は、ドア越しに聞き耳を立てた。中からは、すすり泣きと独り言が聞こえてきた。
「お兄ちゃんの馬鹿」
 その独り言の内容を聞き取り、ぼそっと呟いてから自分の部屋に戻った。
 その2週間後、あの事件が起こった。
「酷い有様ね」
 学校から帰宅後、警察に荒らされた部屋を見て顔を歪めた。
「本当に悪かった」
 すると、兄が深々と謝罪してきた。
「お兄ちゃんが何かしたの?」
「容疑がかかってな。まあ、潔白だったが」
「そう。なら、お兄ちゃんが謝る必要はないよ」
 兄の謝罪を制して、再び部屋の現状を見つめた。服や小物が散乱していて、元に戻すのにはかなり時間が掛かりそうだった。
「実際に部屋を荒らされるのは、気分が悪いね」
 警察とはいえ、他人に部屋をかき乱されるのは汚された気分だった。
「真理。おまえ、泣いてるのか」
「え?」
 兄の指摘に、自分が泣いていることに気づいた。平静を保とうとしたが、気持ちとは裏腹に涙が溢れてきた。
「お兄ちゃん。少し胸借りていいかな」
 涙が止まりそうになかったので、兄にそう頼んだ。
「ああ」
 真理の心境を察してくれたようで、受け入れてくれた。
「ありがとう」
 一言お礼を口にして、兄の胸に飛び込んだ。兄はそれを優しく抱きとめてくれた。
 その抱擁にたがが外れて、声を出して大泣きした。自分がどれだけ感情を押さえていたのかをこの時初めて気づいた。
 しばらくして、母親も二階に上がってきた。
「大丈夫?」
 母親は、心配そうに真理を気遣った。
「うん。大丈夫」
 兄から離れて、真理は鼻をすすった。
「さっさと片付けよっか」
 気持ちを入れ替えて、部屋の片づけを開始した。
 2時間掛けて、それが終わり、夕食は出前を取った。
「で、なんで、警察が来たの?」
 状況がわからず、夕食を食べながら兄に聞いた。
「知らん」
 兄からはその一言だけ返ってきた。経緯を聞くと、明らかに情報操作がされているような感じだった。
 夕食を手早く済ませて、すぐさま自室へ向かった。
「まさかだよね」
 嫌な予感が外れていることを祈りながら、電子書籍を起動してネットに繋いだ。学校の噂サイトを開くと、トップページに兄に関するページがいくつかあった。そのページを見ると、覚せい剤やドラッグのことばかりが書き込まれていた。
「嘘・・・」
 それを見た瞬間、全身の血の気が引いた。そのデマは信じられないほど拡散していて、これを鎮めるのは不可能だと悟るぐらい各サイトに飛び火していた。
「誰よ、こんなことしたの」
 これには怒りが込み上げてきて、堪らず言葉を発していた。
 犯人を捜す為、1週間掛けて手を尽くしたが、匿名性が高い掲示板の上に海外のサーバーを使われては手も足も出なかった。
「ちっ!これって完全に仕組まれてるじゃん」
 ここまで用意周到だと、明らかな工作だった。
 その週の日曜日、一通のメールが届いた。それを見ると、しいなからの呼び出しだった。
「え、なんで?」
 メールアドレスを教えたこともない相手からのメールにかなり困惑してしまった。

八 助力

 真理は不思議に思いながら、病院へ向かった。しいなから呼び出される理由を考えたが、全く見当がつかなかった。
 しいなの病室の前で立ち止り、気持ちを整えるために深呼吸した。
 そして、ドアを開けて病室に入った。
「こんにちは」
 しいなが真理に気づき、表情を緩めて挨拶してきた。前より痩せていて、頬が痩けていた。
「どうも」
 少し痛々しく思ったが、しいなは同情を極端に嫌うので平坦に挨拶した。
「で、用件は何?」
 ここは前置きはせず、率直を聞くことにした。
「ふふふっ、相変わらずせっかちだね」
 これにしいなが、可笑しそうに微笑んだ。
「そうだね。でも、最初に聞きたいのは、私のメアドを誰に聞いたかだけど」
「それは簡単だと思うけど?」
 真理の質問に、しいなが意外そうな顔をした。
「お兄ちゃんかな」
「正解」
「で、用件は?」
 一番の疑問は解消したので、そのまま本題に入った。
「しげちゃんからいろいろ聞いててね」
「転校のこと?」
「うん。まあ、それもあるね~」
 しいなは、意味ありげな発言をした。
「えっと・・・真理モンは、誰よりも察しが良いから、何か気づいていると思ってね」
「ネットでお兄ちゃんについてのデマが流れてる。明らかに工作されてた。誰がやったかを調べたけど、発信元は特定できなかったわ」
「そんなことしてたんだ」
 真理の行動に、しいなが呆れ返っていた。
「その直観力は本当に凄いね・・・」
 後半にぼそっと何かを呟いたが、真理には聞き取れなかった。
「わざわざ褒めるために呼んだの?」
「違うけど、それ絡みでお願いがあるの」
「頼み?私に?」
 これは本当に意外だった。今までの頼み事は兄を通していて、直接の頼まれたのはこれが初めてだった。
「うん。今回の件からは手を引いて欲しいの」
「どういう意味かな、それ」
 しいなの言葉に猜疑心が芽生えた。
「真理モンは、察しが良すぎるからね~。あまりこの件には関わって欲しくないの」
「まさかとは思うけど、仕組んだのってしい姉なの?」
「私、パソコンなんて使えないよ」
「別に、端末はパソコンだけじゃないでしょう」
 書き込みは電子書籍からでも十分できることだった。
「たん・・まつ?」
 しいなは、単語の意味がわからないようで首を傾げた。
「しい姉、電子書籍も使えないの?」
「うん。全然ダメ」
 小学生の頃から機械音痴だったが、6年経った今でも克服できていないようだ。
「じゃあ、誰かに頼んだ?」
「ううん。頼んでないよ」
「じゃあ、なんでそんなこと言うの?」
「しげちゃんが転校して欲しくないからかな」
「それって、どういう意味?」
「そのままの意味だよ~」
 真理の質問に、しいなが軽々しく言った。
「真理モンは、しげちゃんのこととなると、見境なく首突っ込むから親友の行為を無駄にさせたくないの」
「・・・つまり、今流れてる悪評はお兄ちゃんの転校を阻止する狙いって訳?で、それを工作してるのが、しい姉の親友ってことかな」
「さすが真理モンね。察しが良すぎて助かるわ」
「それだけのワード言われたら、誰でも気づくよ」
「そお?私は、無理だけどね」
「そんな自信満々に自虐しないでよ」
「だって、本当だし」
 しいなの性格は純粋で、真理とは対照的だった。その為、二人で会話をすると常に真理が悪人に見えてしまっていた。
「でも、転校の阻止なんてそんなことできるの?」
「私も半信半疑だけど、信じてみたい」
 しいなはそう言って、落ち込んだように暗い顔になった。
「そう。でも、私は反対だね」
「ど、どうして?」
「その状態で学校に残ったら、どうなるかは想像できるでしょう」
 当然の如く教師から疎まれて、学校自体も行きにくくなることは容易に予想できた。
「そ、それは・・・そう、だね」
 しいなも真理の考えを悟ったようで、悄然として項垂れた。
「でも、転校しても同じだけどね」
 これに少し負い目を感じて、補足しておいた。
「しい姉。転校させたくない理由って」
 あまりそういうことは考えたくなかったが、とにかく聞いてみたくなった。
「あはははっ~、やっぱり真理モンは察しが良いね」
 真理の勘ぐりに、しいなは場を和ますように空笑いした。
「私、今年いっぱいだから、できればしげちゃんに看取って欲しくて」
「勝手だね」
「そうだね。でも、最期だから」
 そう言うと、しいなが暗い表情で深刻さを出した。
「狡いな~。そういうところ」
 しいなの我侭は、今に始まったことではなく、いつも周りの誰かが叶えてくれた。それだけ彼女は、魅力的な人だった。
「しい姉の言い分はわかったけど、一つだけ忠告しておく」
 理由に納得はできなかったが、これだけは言っておきたかった。
「しげちゃんのメンタルの弱さかな?」
 真理が言う前に、しいなが先にそれを口にした。
「お兄ちゃんは、誰よりも精神面が弱いから、しい姉を看取ったら精神病に掛かる可能性が高いよ」
「だから、それも踏まえてお願いしようと思って」
 しいなは、純粋な眼差しで真理を見つめてきた。その目に、は信頼と期待が込められていた。
「う~~~~、狡すぎるよ、それ」
 これには恨めしそうに、しいなを見返した。
「え、何が?」
 真理の言いたいことが伝わっていないようで、素で聞き返された。
「わかったよ」
 兄の思いを知っている真理には、そう答えることしかできなかった。
「え、いいの?」
 簡単に答えを出したことに、しいなが驚いた顔をした。
「いいよ、別に。もうあそこまでデマが流れてたら、私には鎮静化は無理だしね」
「あ、ありがとう」
 しいなは、安堵したように肩の力を抜いた。
「でも、転校が白紙になる可能性の方が低いよ」
「そうだね」
 工作者がどういうかたちで学校を脅すかは、あのデマを見れば想像できたが、最後の詰めだけは想像できなかった。
「用件はそれだけみたいね」
 話が終わったみたいなので、帰ることにした。
「もうせっかちさんだな~」
 しいなが不満そうに、真理を引き止めた。
「まだ何かあるの?」
「うん。ちょっと待って」
 しいなは、ベッドの横の棚に置いてある鞄を引き寄せて、中から何かを取り出した。
「え、そ、それって」
「うん。これ、返しておこうと思ってね」
 そう言うと、手に持った物を手渡してきた。
 それは大喧嘩になった原因の電子書籍の保護ケースだった。保護ケースには可愛らしいデコレーションが施されていて、昔はかなり人気の商品だった。これは真理が兄から誕生日に貰った物だった。
「いまさらだね~」
 しかし、それは6年も前の話で、今では過去の流行り物だった。
「あの時、強引にもらっちゃったから」
「そうだね。あれは酷かったね」
 思い出すだけで、憎しみが湧き上がってきた。兄から貰ってすぐに自分の電子書籍につけたが、それを見ていたしいなが強烈にねだった。しかも、そのねだりを真理ではなく、兄に向けたのだった。
 そこからはもう醜い言い争いだった。
「あの時は、本当にごめん」
「私も思い出したくないから、この話はやめない?」
「そ、そうだね。私自身あれは人生最大の汚点だよ」
 本当に恥ずかしいらしく、顔を赤らめて俯いた。
「自分の取った行動でしょう」
「ごめんなさい」
「はぁ~~、もういいよ」
 真理は、大きく溜息をついてそれを許した。いまさら、そのことを責める気はなかった。
「受け取ってもらえないかな」
 しいなは、手に持った保護ケースを再び差し出してきた。
「もう私には必要ないから」
 それを口にされたら、もう断る選択肢はなかった。
「ありがとう」
 真理が保護ケースを受け取ると、嬉しそうに笑った。
「もう帰るね」
 これ以上、話すこともないようなので帰ることにした。
「待って、もう少しここにいて」
 しかし、しいなが手を掴んで引き止めてきた。
「もう用は済んだでしょう」
「うん。そうだけど」
「じゃあ、もう帰る」
「ダメだって」
「なんでよ」
 しいなのしつこさに、真理は少し苛立ってしまった。
「もう会えなくなるから」
「え」
「もう来ないでしょう」
 それは図星だった。正直、これ以上しいなの衰弱していくのは見ていられなかった。
「そうだね。もう来ないね」
「真理モンぐらいなんだよね~。余命が短いって知って、普通の接してくれるのは」
「なら、言わなければいいよ」
「うん。そうなんだけどね~。ほら、もう痩せこけちゃったしね」
 そう言うと、腕まくりして腕を突き出してきた。前来た時より、手が細くなっていた。
「これ見ると、しげちゃんも痛々しい目で見るんだよ」
「でしょうね」
「ふふふっ、やっぱり真理モンは凄いね」
 真理の変化のない態度に、しいなが笑顔で賛辞してきた。
「何がよ」
「だって、これ見ても全然表情が変わんないから」
「同情が欲しいの?」
 小馬鹿にされた気がしたので、昔のように皮肉で答えた。
「私がそれを嫌ってるのわかってるよね」
「やっぱり、まだ嫌ってるんだ」
「真理モンとは、いつも喧嘩ばっかりだったね」
 突然、しいなが昔話をしてきた。確かに、しいなとは会う度に何かと口論していた。
「帰るよ」
 しいなとの思い出話は喧嘩ばかりだったので、その話はしたくなかった。
「やっぱりダメか」
 しいなは、諦めるように溜息をついて呟いた。
「わかった。じゃあ、これでお別れだね」
 引き止めは諦めたようで、握手を求めてきた。
「そうだね」
 一応、最期の握手と挨拶ぐらいはしておくことにした。
「私ね、しい姉のこと・・・その、嫌いじゃなかったよ」
 少し悩んだが、好きと言うのは恥ずかしすぎて言えなかった。
「・・・真理モン」
 だが、そのあだ名で呼ぶしいなは嫌いだった。
「私は、ずっと好きだったよ」
 しいなはそう言うと、涙目で笑顔をつくった。その純粋な目は、間違った解釈してしまいそうな雰囲気をつくっていた。
 突然、しいなが握手した手を両手で引いてきた。
「わっ」
 急なことにバランスを崩して、しいなの上に倒れてしまった。
「な、何すんのよ!」
 あまりのことに驚いて、声を荒げてしまった。
 すると、真理の背中に腕を回して抱きしめてきた。しいなの臭いは昔と変わっていなかった。
「嬉しかったから」
「だからって、抱きしめないでよ」
 病人だった為、激しく抵抗するのは気が引けた。
「本当はね。最初にお見舞いに来た時に抱きしめたかったんだよ」
「なんでよ」
「まだ、しい姉って呼んでくれたから」
 しいなはそう言うと、抱きしめる力を少し強めてきた。
「あんな喧嘩して、6年も疎遠だったのに、それでもそう呼んでくれた。それが本当に嬉しい」
「しい姉が私のあだ名を呼んだから、それにつられただけだよ」
 本音を言うのは、恥ずかしかったので虚勢を張った。
「それでも、嬉しいよ」
 しいなが目を閉じて、静かに涙を流した。
「・・・しい姉」
 それを見て、必死で堪えていた感情が湧き上がりそうになった。
「ご、ごめんね。泣くつもりはなかったんだけど」
 自分でも感情が抑えられなかったようで、必死で涙を拭った。
「しい姉は、泣いてもいいと思う」
 真理はそう言って、しいなの背中に両手を回した。しいなにはその資格が十分にあると思った。
「ありがとう」
 すると、しいなが再び抱きしめた腕に力を込めてきた。
 しばらく、しいなのすすり泣きを聞きながら抱き合った。真理は、必死で泣かないように涙を堪えていた。
「しい姉。もしお兄ちゃんが転校したら、私が看取ってあげるから」
 このままでは大泣きしそうだったので、気を紛らわせるために仮定の話を持ち出した。
「うん」
 それにしいなが泣きながら頷いた。
「転校がなくなったら、お兄ちゃんに看取らすよ」
「うん」
「お兄ちゃんのフォローは私がしてあげる。後先は考えないで、お兄ちゃんにいっぱい甘えて」
「ありがとう」
「いいよ。これが私にできる精一杯だから」
「・・・真理モン」
 真理の言葉に、しいなが泣きながら力を込めた。
 2分後、ゆっくりとしいなから離れた。
「じゃあ、もう行くね」
「うん。ありがとう」
 しいなは、泣きながらお礼を言った。
 それを見ると、耐えられそうになかったので、緊急避難で背を向けた。
「さようなら。しい姉」
 最期に別れの言葉を告げて、振り返らずに歩き出した。
「バイバイ、真理モン」
 病室を出る前に、背中からしいなの明るい声が聞こえてきた。
 病院を出て、早足で家へ向かった。なんとかしいなの前では泣かなかったが、気を緩めると泣いてしまいそうだった。
 ようやく家に着いて、勢いよく玄関を開けた。
「わっ!」
 すると、玄関にいた兄が驚きの声を上げた。どうやら、二階に向かう途中だったようだ。
「急に開けんなよ。ビックリするだろう」
 兄が真理に向かって、文句を言ってきた。
「・・・」
 今は感傷的になっていたので、何も返せなかった。
「なんか言えよ」
 真理が黙っていることに、兄が眉を顰めて訝しがった。
「あれ?そのケースって」
 兄は、真理の左手に持っている物に気づいて首を傾げた。
「しい姉から返された」
 説明が必要だと感じたので、なんとか掠れ声で答えることができた。
「見舞いに行ったのか?」
 兄への返事はできず、真理はただ頷いた。
「ど、どうしたんだ?」
 いつもと違う真理の反応に、少し戸惑いの顔をした。
「なんでもない」
 これ以上話すと泣いてしまうので、靴を脱いで二階に上がろうとした。
「って、本当にどうしたんだよ」
 しかし、兄が空気を読まずに引き止めてきた。
「ちょっと、ほっといてくれないかな」
 言葉は出したが、涙声になってしまった。
「ふぅ~、強がんなよ」
 兄は呆れながら、真理の腕を引いて力強く抱きしめてきた。
「な、何すんのよ!」
 突然のことに、真理は大いに慌てた。
「しいなの所に行ったんだろう」
「う、うん」
「その保護ケースもしいなからだろ」
「うん」
「あいつ泣いただろう」
「うん」
「おまえは、泣かなかったのか?」
「うん」
「すげぇ~な」
「泣くのは同情と同じだから」
「しいなに気を使ったのか」
「うん、必死で耐えた」
 今も耐えようとしていたが、ずっと涙声になっていた。
「なら、もう泣いていいぞ」
 兄はそう言うと、真理の頭を優しく撫でてくれた。その行為に抑えていた感情が一気に湧き上がり、大粒の涙が頬を伝った。
 しばらく、兄の胸で大泣きした。
「もう戻るよ」
 ひとしきり泣いて、すっきりしたので兄から離れた。
「もう大丈夫か?」
「うん」
 真理は目を擦って、微笑の表情をつくった。
「そっか」
 兄も安心したようで、頬を緩めた。
 二階の部屋に入り、電子書籍を起動させて、ネットの学校の噂サイト状況を確認した。朝より確実に悪い方に向かっていたが、もうどうしようもなかった。
 兄の噂が広まって、3週間が経った。
「まさか、異例の追試なんてね~」
 夕食後、母親がテーブルに肘を置いて、真理の方に話を振ってきた。兄は、勉強するために部屋にこもっていた。
「そうだね」
 まさか本当にできるとは思っていなかったが、母親には淡泊に答えた。
「あれ、あんまり驚いてないね」
 これに母親が、首を傾げて訝しがった。
「驚いてるよ」
 国の制度を覆すなんて、普通のことじゃなかった。
「でも、知ってたみたいな反応なんだけど」
「そうかな」
 事実を言うのが面倒だったので、白々しく答えておいた。
「まあ、気にしないでよ」
「なんか疎外感を感じるわね」
 真理の態度に、母親が寂しそうな顔をした。
「お母さんは、知る必要はないよ。知ってももう手遅れだし、それに何もできないよ」
 実際、自分も何もできなかった。仕組んだ相手を突き止めることも、噂を止めることも。
「それより、お母さん。もし、お兄ちゃんの転校が白紙になったら、覚悟しておいてね」
「ん、何を?」
「お兄ちゃんがしい姉を看取ることになるから、確実に精神的に追い詰められるよ」
「あ~~、それはそうだね~。今も結構不安定だもんね~」
 しいなの見舞いが続くにつれ、兄の当たりの強さも酷くなっていた。
「だから、できるだけ気遣わないとうつ病になるかもね~」
「普通なら笑って済ますんだけど、茂の場合は現実味が増すね」
 母親も兄の精神の脆さは知っているので、深刻な顔でそう言った。
「私、やることあるから部屋に行くね」
 母親に一声かけて、二階の自室へ向かった。
 追試が決まった時点で、デマを鎮静化しなければならなかった。あまりに広がり過ぎて、地道に消していくしか方法がなかった。
 1週間後、兄は追試に合格して転校が白紙になった。真理は複雑な思いで、兄を労った。
 それからしいなが亡くなるまで、予想通り兄はどんどん衰弱していった。食事は少量しか食べず、毎日睡眠不足で目に隈ができていた。
 その状態の兄に、真理は優しく接した。いつもは食べ残しを怒る母親も気を使って、食事を残しても何も言わなかった。
 あまりの衰弱ぶりに、ベランダから兄の部屋を覗きみたことがあった。
 嘆き、悲痛、自責、転嫁、そのありとあらゆる負の感情の叫びだった。その姿は、見るに堪えれず何度も顔を逸らしてしまった。
 それ以降、覗くことができず、ベランダのガラス戸を少しだけ開けて、深夜まで盗み聞きした。それを聞くことで、兄の心境の変化を察知して、接し方を変えていった。真理もそれに感化されたが、兄ほど深刻にはならなかった。
 しいなが亡くなった後、兄の状態は深刻さを増していった。何度か精神病院に行ってもらい、母親と一緒にフォローし続けた。
 それからは、兄の容態も少しずつ治っていった。それに真理も母親も肩の荷が下りた気分になった。
 しかし、しいなが亡くなってから1ヶ月後、追い打ちをかけるように別の問題が発生した。そのせいで、兄の病気は5月まで続いてしまった。
 最近では兄の精神も安定していて、ようやく真理の役目も終えていた。

九 嘘

 数か月前のことを思い出していると、真理の部屋がノックされた。
「ちょっといいか?」
 ドア越しから、兄の声が聞こえてきた。これはかなり珍しいことだった。
「な~~に?」
 ベッドでごろごろしてただけだったので、自然とだらけた口調になった。
「おまえな~。だらけすぎだろう」
 部屋に入ってきた兄が、真理の姿を見て呆れ返った。
「で、なんか用?」
「昼食だよ」
 時計を見ると、もう午後の1時になっていた。
「ねぇ~、お兄ちゃんはさ、転校せずに済んだことどう思ってる?」
 寝転がったまま、首だけを兄の方に向けた。
「そうだな~、微妙だな。転校しなかったことで、副作用も出ちまってるしな」
「なるほど、転校が白紙になったことは良かったってことか」
「そうだな。しいなを看取れたしな」
「そっ」
 真理は、勢いよくベッドから上半身を起こした。
「お兄ちゃんって、緩いよね~」
「なんだ、それ?」
「べっつに~」
 ベッドから立ち上がって、兄の横を素通りして部屋を出た。
 昼食を済ませ、兄の後についていくかたちで兄の部屋に入った。
「なんで俺の部屋に来るんだよ!」
 これに兄が、いつものように苛立った様子で睨んできた。
「ちょっと、聞きたいことがあってね」
 兄の言葉をスルーして、いつものようにベッドに腰掛けた。
「なんだよ」
「あの人のことなんだけど・・・」
「父さんがどうかしたか?」
「出ていった理由はわかったけど、帰ってくる理由がわかんなくてね~」
「ああ、そういえばそうだな~」
「あっちでの用件が終わったのかな~」
「そう言ってたし、そうかもな~」
 兄は、あまり興味なさそうに机に向かった。
「お兄ちゃんから聞いてみてよ」
「俺より母さんに頼めよ」
「だって、お母さんだと過敏に反応するんだもん」
「頼むだけだったら、大丈夫だよ」
「お兄ちゃんって、最近私に対して無関心すぎない?」
「そろそろお互い離れる頃だろう」
「まあ、べったりも気持ち悪いか」
 兄の言い分に納得したが、内心は複雑な心境だった。
「納得したら、出てけよ」
「もう一つ聞きたいことがある」
「まだあるのかよ」
「しい姉と6年も疎遠だったのに、しい姉が倒れたこと誰に聞いたの?」
 正直、真理にはそのことがずっと疑問だった。
「しいなの両親だよ」
「え、そうなの!」
 これには本当に驚いた。本人からならまだしも、まさかのしいなの両親だとは考えていなかった。
「どうやって、連絡が来たの?携帯もメールも6年前に変えたはずでしょう」
 兄は、中学に上がる時に携帯番号とメールアドレスを変えていたはずだった。
「あ~~、そういえば、なんでだろうな~」
 これには兄も不思議そうに首を傾げた。
「どうやって連絡が来たの?」
「昼休みに携帯に着信があった」
「どうやって知ったんだろう」
「さあ~な」
 兄は興味なさそうに答えたが、真理には疑問で頭がいっぱいになった。
「そっか」
 これ以上邪魔はできないので、ベッドから立ち上がった。
「じゃあ、頑張ってね」
「ああ」
 兄の返事を聞いて、真理は部屋を出た。
 自室に戻って、しいなの両親がどうやって兄の連絡先を知ったのかを考えた。しかし、全然見当がつかなくて頭がもやもやした。こうなっては、居ても立っても居られなかった。
 しいなの両親に会う為、部屋着から私服に着替えて家を出た。告別式にも行っていたので、しいなの家はわかっていた。と言っても、6年前と場所は変わっていなかった。
 公園を抜けて、少し直進した所にしいなの家はあった。
 門扉の横にあるインターホンを押そうとしたが、その直前で指が止まった。ここに来るまではただ問い質そうとしていたが、家の前まで来るとどう言おうか悩んでしまった。しかも、告別式以来一度もしいなの両親には会っていないので、その気まずさが強くあった。
 1分ほど硬直したが、インターホンは押せずに来た道を戻ってしまった。
 公園のベンチに座り、溜息をついた。公園では時折、親子が遊んでる様子が見て取れた。
「どうしようかな~」
 ここまで来たのはいいが、しいなの家に来訪するのは躊躇われた。
「あ!」
 どうしようか悩んでいると、横から声が聞こえた。
 その声の方に顔を上げると、そこにはさっき訪問してきた葛木菜由子がいた。服装は来た時と同じだったが、髪の結びを少し変わっていた。その横には柴犬がいて、散歩の途中のようだった。
「ちっ!」
 会いたくない相手を見て、思わず顔を歪めて舌打ちした。
「って、会ってそうそう舌打ち!」
 これに菜由子が、勢いよくつっこんできた。
「声を掛けないでもらえませんか」
「掛けてないよ。ただ真理がいるなと思っただけだよ」
 言われてみれば声を上げただけで、声を掛けたわけではなかった。
「何か悩んでるの?」
 菜由子はそう言いながら、心配そうに真理の隣に座った。
「私の言ったこと聞いてました?」
「うん、無視して欲しいんでしょう」
「なら、なんで素通りしてくれないんですか」
「知ってる人だし。悩んでそうだし。あと、もっと親密になりたいから」
 あんなに嫌いと言ったのに、こんなに図々しく話しかけてくる人はしいな以来だった。これは兄が、断念する理由も頷けた。
「その私服、似合ってるね」
 菜由子は真理の全身を観察して、そんな感想を口にした。
「褒めても何も出ませんよ」
 褒められるのは悪くない気分だったが、褒めてくれた相手が悪かった。
「真理は、私のどういうところが嫌いなの?」
「直球で聞くんですね」
「だって、正面から嫌いって言うんだもん」
 菜由子はそう言って、拗ねたように口を尖らせた。
「初対面で嫌いって言われると、かなり傷つくんだよね~」
「私は、あなたの性格とか容姿とかは別に好きでも嫌いでもないんですよ」
 ここは敢えて無関心という言葉を回りくどく言ってみた。
「そうなの?」
 が、あまり伝わっていないようで普通に返してきた。
「じゃあ、なんで嫌いなの?」
「あまり話したくないんですけどね~」
「私は、話して欲しいな~」
 このしつこさと食いつき方は、酷くしいなに似ていた。(良い意味ではない)
「お兄ちゃんがあなたを嫌う理由がわかった気がします」
「え、そうなの?」
 真理の言葉に、菜由子が驚いたように答えた。しいなの食いつきは愛くるしさがあるが、菜由子の場合だと美人で大人っぽいので、小馬鹿にされた気分だった。
「菜由子さんは・・・」
「え、今、なんって言ったの?」
 真理が話を進めようとしたが、菜由子が自分の呼び方にすぐさま反応した。
「え?菜由子さんですけど」
「嫌いなのにさん付けしてくれるの?」
「私の感情と年上への礼儀は別だと思いますが」
「あ、そこはちゃんと分けてくれるんだ」
「当然です。兄もそうしてるはずですが」
 初対面の年上には、敬語で話すよう母親に躾けられていた。しかし、それはあくまで初対面だけであって、その後はその人に合わす口調を変えていた。
「ああ、そうだったね」
 菜由子が何かを思い出すように、視線を上に向けた。
「で、菜由子さんは、加納しいなを知ってますよね」
 真理は、気を取り直して話の進めた。
「えっ!えっと・・・」
 これに菜由子が、困った顔で視線を泳がせた。
「なんで言葉を濁すんですか?親友でしょう」
 あの件を知ったら、しいなと関係しているぐらいはすぐにわかることだった。
「そ、そこまで知ってるんだ」
「何もしないよう釘を刺されましたから」
「もしかして、しいながしゃべっちゃった?」
 この事実に、菜由子が苦笑いして頬を掻いた。
「いろいろと拡散させましたね」
「ネットのことも知ってるんだ」
 主体を省いたが、真理の雰囲気で察したようだ。
「海外のサーバー経由しましたね」
「う、うん」
「よくもまあ、あそこまで複数の誹謗中傷のデマを思いつきますね」
「そ、そこまで調べたの?」
「まあ、そうですね。おかげでお兄ちゃんのフォローが大変でした」
 そして、最後は嫌らしく皮肉っておいた。
「ご、ごめんなさい」
 この問い詰めに、奈由子は委縮して頭を下げて謝った。
「でも、私はそれが許せないわけじゃないんですよ。むしろ、お礼を言ってもいいと思っています」
「えっ!ど、どういうこと?」
 真理の手のひら返しの発言に、菜由子が戸惑い表情をした。
「私が許せないのは、転校が白紙になった後です」
「あ、あと?」
 これは理解できないようで、驚きの顔のまま聞き返してきた。
「近所に広めたでしょう。噂を」
「え、あ、う、うん」
「あれは必要なかったです」
 そう。あの後の噂は本当に余計だった。あれのせいで、家族全体に被害が広がり、近所では白い目で見られるようになってしまっていた。
「あなたは、罪悪感から自分がやったと伝えたかったようですけど、それは私たちを最悪の事態に貶めたかたちになってます」
「あ、うっ・・・」
 自分のしたことの重大さに気づいたのか、青ざめた顔をして言葉が返ってこなかった。
「あれは本当に余計でしたね~」
「ご、ごめんなさい」
 菜由子が素早く立ち上がって、深々と頭を下げた。
「許しません!」
 ここで謝られても、別の意味で許せそうになかった。
「だから、もうこの話はやめましょう」
「え?」
「どんな謝罪でも、どんな賠償でも許すことはできません。だから、この話はこれで終わりです」
 正直蒸し返されるだけで罵詈雑言が出てくるので、強制的に打ち切ることにした。
「よって、普通に話しませんか?」
 このしつこい性格ではいつまでも謝罪してきそうだったので、こちらから妥協案を出してみた。この譲歩は、兄の為でもあった。
 しばらく応答がない菜由子を見上げてみると、嬉しそうな顔で目に涙を溜めていた。その歓喜に満ちた目が、あの事態を彷彿とさせていた。
「・・・真理~♪」
 予想通り、菜由子が歓喜余って抱きついてきた。
 それをすかさず立ち上がって避けると、菜由子がベンチに両手をついて、打ち身を回避した。それを見る限り、運動神経はかなりいいようだ。
「私は、そっちのけはないと言ったはずですが」
「はぁ~」
 菜由子は立ち上がって、大きく息を吐いた。真理は警戒しながら、彼女と対峙した。
「抱きつくぐらいいいじゃん」
「ダメです。ここは公共の場ですよ」
「京橋と同じこと言うんだね」
 菜由子は、聞き捨てならないことを口にした。
「それは、どういう・・・」
 そのことを問い質そうとしたが、菜由子の後ろに懐かしい人を視認した。
「ん?」
 真理の視線に、菜由子はつられて振り返った。
 歩いてきたのは前田正吾だった。ストレートデニムに五分袖のカットソーで、長髪を後ろで縛っていた。
「ちっ!」
 それを見た菜由子が、さっきの真理と同じように舌打ちした。
「あ、真理モン」
 正吾もこちらに気づき、第一声に真理の嫌いなあだ名で呼んだ。
「そのあだ名、やめてくれないかな」
 菜由子の前ということもあり、低い声で威圧した。
「ああ、悪い。つい癖でな」
 正吾は、悪びれた表情で頭を掻いて謝った。なぜか少し動揺しているようにも見えた。
「それと葛木か」
 そして、隣にいた菜由子に視線を移した。
「話しかけないでくんない」
 菜由子が正吾から視線を外して、真理と似たような態度を取った。さっき自分がされて傷ついた行為を、いとも簡単に再現したことに呆れを通り越して感心してしまった。
「おまえ、嫌いだからって、極端に避けんなよ」
「そうですよ。私だって、嫌々話してあげてるんですから」
 ここは正吾に便乗するかたちで、菜由子を詰った。
「うっ、わ、わかったわよ」
 真理の拒絶は嫌なようで、菜由子が渋々承知した。
「まあ、いいや。茂は家にいるのか」
 正吾が話を切り替えて、真理の方を見た。ずっと疎遠だったのに、今頃になって家に来ることを不思議に思った。
「え、うん、いるけど。受験勉強してるよ。お兄ちゃんになんか用?」
「ああ、まあな。電話でも良かったけど、番号知らんから直接言おうと思ってな」
「大事なことなの?」
「ん?どうだろうな。大事かどうかは茂が決めることだし、俺にとっては重要だとは思ってる」
「もしかして、しい姉のこと?」
 抽象的に言われたので、的を絞って聞いてみた。
「まだその呼び名で呼んでくれるのか」
 これに正吾が、嬉しそうに表情を緩めた。
「それは正兄もでしょう」
「それもそうだな」
「で、どうなの?」
 話が切れそうな雰囲気になったので、話を戻した。
「違う。しいなじゃなくて加賀未来のことだ」
 予期せぬ言葉が正吾の口から飛び出した。
「ちょっと、どういうこと?」
 その名前に、真理は思わず食って掛かった。
「あれ?知り合いなのか?」
「友達」
 その問いに対して、事実だけを単語にした。
「・・・そうか。これも運命かもな」
 正吾は少し間を置いて、意味深なことを口にして微笑んだ。
「じゃあな」
 それだけ言うと、正吾がこの場を立ち去ろうとした。
「ちょっと待って」
 真理は、正吾の前に立ち塞がった。
「どうかしたか?」
「私にも教えて」
「茂に言うから、あとで聞いてくれ」
「今聞かせて」
 じれったいのは嫌いなので、この場で聞きたかった。
「はぁ~、わかったよ」
 真理の性格を知っている正吾は、観念してベンチに座った。なぜか菜由子は立ち去ることはせず、真理の横に立った。
「俺の弟のことは知ってるよな」
「えっと、あまり覚えてないけど」
「まあ、真理モンは一度ぐらいしか会ってねぇからな」
「だから、そのあだ名はやめってって」
 二度目のあだ名に、真理は不快感をあらわにした。その隣で、菜由子が笑いを堪えていた。
「すまん。呼び慣れ過ぎてて、なかなか抜けん」
「呼び慣れって、6年も前の話でしょう」
「まあ、そうだな。でも、いまさら名前で呼ぶのも気恥ずかしい」
「私は、そのあだ名で呼ばれる方が恥ずかしいよ!」
 正吾の勝手な言い分に、真理は語彙を強めてつっこんだ。その横では菜由子が顔を逸らして、必死で笑いを堪えていた。
「話が進まんから、そこは許容してくれねぇか」
「そうだね。できるだけ、私のあだ名は呼ばないでね」
 未だに笑っている菜由子を横目に釘を刺した。
「わかったよ」
 正吾も菜由子を見てから承諾した。
「本題に入るぞ。俺の弟が未来とクラスメイトなんだよ」
「へぇ~、そうなんだ」
「でな~、加賀未来って、偽名みたいでな~」
「は、ぎ、偽名?」
「本名は、加納未来だそうだ」
「か、加納?」
「ああ、俺の弟が言ってたから間違いねぇよ」
「でも、なんで偽名なんか?」
「俺も最初はそう思ったんだけど、よくよく考えると似てないか?」
「似てるって誰に?」
「しいなにだよ。特に笑ったところとか」
「た、確かに」
 未来と話していてそう思ったことは何度もあったが、指摘されると似てる部分は多い気がした。
「でも、しいなに妹なんて聞いたことねぇしな~」
「それはそうだね~」
 6年前だったが、加納家に行った時には妹なんて見たこともなかった。
「じゃあ、確認でもしたら?」
 ずっと黙って聞いていた菜由子が、ここで口を挟んできた。
「本人になんて聞けませんよ」
「でも、これ知ったらもう隠せねぇだろう」
 真理の言葉に、正吾が諦観した表情で断言した。
「あ、そっか。読まれちゃうもんね」
 未来には心が読めるので、隠し事ができなかった。
「読まれる?何が?」
 一人だけ置いてきぼりをくらっている菜由子が、不思議そうに聞いてきた。
「・・・」
「・・・」
「って、なんで黙るのよ!」
 二人の沈黙に、菜由子が抗議してきた。
「いや、俺から話していいかわかんねぇ~」
「そうですね。私からも言えませんね」
 さすがに本人の許可なく、菜由子に言うのは憚られた。
「ふぅ~ん。その未来って人は、しいなの家にいるかもしれないの?」
「多分な。だが、確証はない」
「なら、今から確認しに行きましょう」
 そう言うと、菜由子がしいなの家の方を向いた。それに二人は、驚いて何も言えなかった。
「行かないの?」
 歩き出した菜由子が後ろを振り返って、唖然としている真理たちに聞いてきた。
「菜由子さんって、凄い行動力ですね」
「気になったら、調べるのは当然でしょう」
「でも、犬も連れて行くんですか?」
 さっきから菜由子の隣いる柴犬が気になって仕方なかった。
「だって、一度帰ったら二人ともいなくなるじゃん」
「え、それは重要ですか?」
「一人よりは三人の方が心強いでしょう」
 ここで菜由子が、よくわからない主張をした。
「は?俺も行くのか」
「あなたが持ってきた情報なんだから、一緒に来なさい」
「あ、ああ」
 あまりの能動的な発言に、正吾も頷くことしかできないようだ。
「ちょっと待ってください」
 スムーズ過ぎる話の流れに、真理が待ったをかけた。
「どうかした?」
「しい姉の両親とは知り合いなんですか?」
「ん?二回しか会ったことないよ。しかも、挨拶程度」
「それで、家に行くんですか?」
「だから、二人についてきてもらうんじゃない」
「私は、最近しい姉の両親には会っていませんから行きづらいんですが」
 実際、さっきもしいなの家を目の前にして引き返してきたばかりだった。
「俺もだ」
 これに正吾も同調した。
「だったら、ますます複数人で行った方が気も楽でしょう」
「まあ、そうですけど・・・」
 確かに、菜由子の言葉には一理あった。
「じゃあ、行きましょうか」
 真理たちからの意見がないことを確認した菜由子は、犬を引き連れて歩き出した。
「凄い行動力だね」
「ああ、驚嘆に値するな」
 菜由子の後姿を見て、二人は互いの感想を言った。正直、正吾とは6年振りの会話だったので、気まずくなると思っていたが、思いのほか普通に話せたことは驚きだった。これは菜由子がいたおかげかもしれないと思った。(かなり不本意)
「菜由子さん。用件を聞かれたらどうするんですか?」
 正直な話、理由もなく訪ねることに不安があった。
「そんなの、お線香をあげに来ましたって言えばいいじゃない」
 それに菜由子が、さらっと返してきた。
「というか、幼馴染とその妹が来ることを嫌がる両親なんていないわよ」
 菜由子はそう言って、少し呆れたように真理の方に振り返った。当たり前のことのはずなのに、言われてみると目から鱗だった。自分の都合ばかり考えていたことが恥ずかしく思えてきた。
「弁の立つやつだな」
 正吾は感心したように言ったが、何か思うところもあるようで少し皮肉もこもっていた。
 加納家に着いて、インターホンの前にして三人が並んだ。
「じゃあ、前田君。インターホン押して」
「は、俺が?」
「当たり前でしょう。この中だと一番来訪してもおかしくないのはあなたよ」
「わかった」
 言葉では菜由子に勝てないと悟ったようで、正吾は素直に従った。
 インターホンを押して、しばらくするとインターホンから声がした。
「はい。どちら様ですか?」
 出たのはしいなの母親だった。カメラは内蔵されていないようで、丁寧な聞き方だった。
「正吾です」
「え、正吾君!」
 正吾とわかると、インターホンから驚いた様子の声を聞こえてきた。
 そして、ドアが勢いよく開いて、おばさんが出てきた。セミロングのミルキーボブで、ネイビーのブラウスに白のクロップドパンツを履いていた。あまり部屋着とは思えない服装だった。
「すみません。唐突に」
 正吾が頭を下げて、控えめに謝った。
「あ、え、真理ちゃん?っと、えっと、葛木さん?」
 意外なメンバーに、おばさんが混乱していた。
「あ、私のこと覚えてましたか」
「え、ええ」
 未だに頭の整理がつかないのか、返事が生返事だった。
「お久しぶりです。告別式以来、顔を出さずにすみません」
 真理は、自責の念から第一声で謝っておいた。
「い、いいのよ。来づらいのもわかるから。それに茂君は毎週来てるし」
「え、毎週来てるんですか?」
 これに菜由子が、驚いたように聞いた。
「ええ、毎週日曜日にお線香あげに。今日も多分来るんじゃないかしら」
「そうですか」
「とにかく、中に上がって」
 複雑そうな菜由子を余所に、おばさんが門扉を開けて招いてくれた。
「すみませんが、私のペットを家の外に繋いでおいていいですか」
 菜由子が柴犬を繋いでるリードをあげて、おばさんに頼み込んだ。
「え、ええ、いいですよ」
 少し戸惑ったようだが、微笑しながら承諾した。
「どこか行ってたんですか?」
 真理は、おばさんの服装が気になって尋ねてみた。
「え、ええ。まあ」
 答えにくいのか、気まずそうに視線を泳がせた。
 三人はおばさんに招かれて、リビングのソファーに並んで座った。
「今日は、お線香をあげにきたの?」
 おばさんはそう言いながら、三人の前に紅茶の入ったティーカップを置いてくれた。
「そうですね。ですが、聞きたいこともあります」
 菜由子は隠すこともなく、目的を伝えた。
「聞きたいこと・・ですか?」
「ええ。ですが、その前にお線香をあげてもいいでしょうか」
「あ、はい。仏壇は隣の部屋に」
 おばさんは、あまり面識もない菜由子に圧倒されていた。
 隣の部屋に行き、三人は仏壇に手を合わせた。遺影のしいなは、自然な笑顔だった。それを見るだけで、しいなの思い出が甦ってきた。
 それが終わり、三人はリビングに戻った。
「で、聞きたいことってなんですか」
 おばさんは、不安そうに菜由子に敬語で切り出した。
「私が言った方がいい?」
 ここまで仕切ってきた菜由子が、隣の真理たちに気を回してきた。
「私から言いますよ」
 ここは未来と友人である自分が聞くべきだと思った。
「おばさん。加納未来って御存じですか」
 別にやましいことでもなかったので、直球で聞くことにした。
「へっ!」
 すると、おばさんがビクッと体を震わせて驚いた。
「なんで、その名前を?」
 そして、怯えた様子で小声で言った。
「知ってるみたいですね~」
 その反応に、菜由子が確信の言葉を口にした。
「えっと、未来を知ってるの?」
 真理たちの表情を伺いながら、おばさんがたどたどしく聞いてきた。
「私の友達です」
 真理は、堂々とそう言い切った。
「と、友・・達?」
 これには驚いたように、言葉を震わした。
「あ、ありえないわよ。そんなこと・・・」
 そして、青ざめたように項垂れて小声で呟いた。
「ありえないとはどういう意味ですか」
 その発言に、真理は不愉快になった。
「だ、だって・・・」
 おばさんは、何か言いにくそうに言葉を詰まらせた。
「訳ありですか」
 その表情から状況を察した菜由子が、真面目な顔でおばさんを見つめた。
「さっきから煮え切らないので聞きますが、加納未来はあなたの子供ですか?」
 そして、凛とした口調で本質を尋ねた。真理もそのことが一番聞きたかった。
「え、は、はい」
 おばさんは、少し躊躇いながらも肯定した。
「やっぱりそうなんだ」
「知らんかったな」
 真理と正吾は、ここで未来とは一度も会ったことがなかった。
「あの子、病気で他人とは話せないから」
「病気?」
「人と、ね。会話ができないの」
「は?」
 おばさんの言葉に、真理は口を開けて唖然とした。
「一つ聞いてもいいですか」
 ここで正吾が、訝しげな顔で口を挟んだ。
「しいなと幼馴染だったし、何度もこの家に来てましたけど、一度も未来は見たことなかったですけど」
「2ヶ月前までずっと入院してたから」
「入院ですか。もしかして、精神病院にですか」
「ええ。あの子、不安障害と感覚性失語症なの」
「失語症?」
 不安障害はなんとなくわかったが、感覚性失語症は聞いたことがなく、どういう症状なのかもわからなかった。
「・・・感覚性失語症」
 隣の菜由子が、その病名だけをぼそっと呟いた。
「だから、あの子に友達なんて信じられなくて」
 おばさんは、悲痛な顔でそう訴えた。
「なるほどね。あの能力なら不安障害や失語症も頷けるな」
 失語症の症状がわかっているのか、正吾が何度も頷きながら納得していた。
「おばさん。未来ちゃんを呼んできてもらっていいですか」
 この会話に不快感を覚えて、おばさんにそう頼んだ。
「でも、あの子。人が多いとすぐに頭が痛いって、部屋に戻るわよ」
「でも、最近は学校行ってますよね」
「そうなのよ!」
 真理の言葉に、急におばさんのテンションが上がった。
「一昨日ぐらいから行ってるのよ!」
「なら、大丈夫でしょう」
「そ、そうね。わかったわ。ちょっと待っててね」
 おばさんはそう言って、リビングから出ていった。
「ねぇ~、どういうこと~?」
 納得してない菜由子が、真理たちに聞いてきた。
「会えばわかりますよ。本人から聞いてください」
「冷たいな~」
 これに菜由子が、拗ねたように眉間に皺を寄せた。
 その後は、未来が来るまで三人は黙っていた。

十 表面化

 日曜日の昼、加納未来は部屋でテレビを消音にして見ていた。テレビでは心が読めないので、未来には最高の娯楽だった。人の思いと意志が言葉として、直接聞けるのはとても嬉しかった。最近まではラジオやネット、テレビだけが唯一の人との交流だった。
「う~~ん。難しいな~」
 一人の時間が多いせいで、自然と独り言も多くなった。
 未来は、人の心が読めるせいで物心つく前から病院にいた。しかも、最悪なことに耳から入ってくる声と、相手の思っていることが同じように聞こえた。相手がどっちを聞いたかわからず、悩んだ挙句にたいていは失敗していた。
 一度だけ両親に打ち明けたが、二人は現実主義でその手の話は一切信じてくれなかった。しかし、唯一しいなだけは信じてくれた。
 しいなの遺言で病院から退院はできたが、家の居心地は悪いものだった。
 退院後の1週間は両親と買い物したり、遊びに行ったが、周りがうるさくて会話が続かず、選択ミスで思考の方を答えてしまい、お互いが黙るというポジションが板についてしまっていた。
「お姉ちゃん達、何してるかな~」
 未来はテレビを見ながら、友達のことを考えた。人を思うのはしいな以来で、考えるだけで頬が緩んだ。
 しばらくテレビを見ていると、ドアの前で物音がした。
「未来。昼食置いておくね」
 母が声を掛けて、その場を立ち去る足音が聞こえた。退院してから、1週間は両親と一緒に食事をしていたが、雰囲気が悪くなるので、両親と食事することは未来の方から遠慮した。
 ドアの前の昼食を部屋に入れて、一人で食事を始めた。これは入院している時には当たり前だったので、特に寂しいとは思わなかった。
 しかし、数日前の京橋家での食事は嬉しさと楽しさがあり、今では寂しいという感覚が芽生え始めていた。
「はぁ~」
 それを思うだけで、自然と溜息が漏れた。
 食事を終え、キッチンに食器を持っていった。自分が出したものは自分で洗うようにしていた。これは両親への配慮だった。
 皿洗いが終わると、病院に行く時間になっていた。
 未来は部屋で着替えて、母と一緒に病院へ向かった。その間、母は気まずそうに未来をチラチラ流し見ていた。思考はダダ漏れだったので、言いたいことは伝わっていた。いつもなら、それに答えてしまっていたが、口が動いていないので口をつぐんだ。
 病院でいつものように担当医と問答して、健常だとアピールした。担当医の思考から、これで解放されるという思いが漏れ出ていた。3年も担当していれば、その気持ちも理解できた。
「もう、だいぶ良くなったね~」
 担当医はタブレットを見てから、未来に優しくそう言った。彼女は、女性でいつもベーシックスーツに身を包んでいた。
「そうですね」
 ここはいつものように形式的に答えておいた。
「で、最近では学校に行ってるとか」
 担当医は、軽い口調で未来に確認してきた。正直どうでもいいことだが、彼女はこの病院ではお茶目な先生で通っていた。
「はい」
「もう広場恐怖症も克服したかな~」
 担当医はタブレットで医療データを見ながら、何かを書いていた。
「それはまだですね。慣れるまで時間が掛かるかもしれません」
 あまり順応しすぎると訝しがられるので、ここは取り繕っておいた。
「まあ、ここはゆっくり慣れていけばいいから」
「はい」
「コミュニケーションは、もう大丈夫みたいだね~」
「少しだけですが」
 これは茂発案の読唇術のおかげだった。
「うん、良好だね~。両親とはどうかな~」
 担当医は、タブレットに目を落しながら聞いてきた。
「それは、まあ、あまり良好ではありません」
 ここで嘘をつくのは、信用性がなくなるので事実を伝えた。
「やっぱり急には無理か~」
 これは予想していたようで、軽い口調で言った。
「じゃあ、途中経過は良好ということでいいかな~」
 担当医は、いつものような軽いノリでそう告げた。
「症状が悪化するようだったら、学校行くのは控えてね~」
「は、はい」
 少し変な思考が混じっていたので、少し戸惑ってしまった。
「ん?どうかした」
 未来の反応に、担当医が不思議そうな顔をした。
「あ、いえ、なんでもないです」
「そっ、じゃあ、また来週だね~」
 担当医はそう言って、電子書籍に素早く何かを書いた。
「ありがとうございました」
 診察室を出て、待合室の長椅子に座っている母の隣に座った。
「どうだった?」
「良好だって」
 未来は、母の口元を確認してから答えた。
「そう」
 母は、それ以上は何も言わなかった。が、頭で考えていることが伝わってきた。それは前から思っていることと変わらなくて、その思考が流れてくる度に、未来は憂鬱になった。
 受付で手続きと次の診療の日時を聞いて、未来たちは病院を出た。
 家に帰り、うがいと手洗いをしてから部屋に入った。
 テレビを見ながら、読唇術の練習を続けていると、インターホンが聞こえた。日曜日の午後にはいつも茂が来ていたが、今日は思いのほか早い時間帯だった。
「珍しいな~」
 とりあえず、テレビが消音なのを確認して、物音を立てないように注意した。
 しばらく、息をひそめてテレビを見ていると、ドアがノックされた。
「未来、居る?」
 母の声だった。その声から動揺が伝わってきた。遮蔽物があると、相手の思考は伝わってこないので、何に動揺しているのかがわからなかった。
「う、うん」
 用件がわからなかったので、未来も動揺した。
「真理ちゃんが来てるんだけど」
「えっ!」
 来たということで、未来に声を掛けることに驚いた。母には、茂や真理のことは話してなかった。というか、両親ともまともに話せないのに、友達ができたなんてとても言えなかった。
「真理ちゃんと友達なの?」
 母がドア越しから、こもった声で尋ねてきた。
「お、お母さん・・・」
「よ、良かったわね」
 それに答えようとしたが、母が言葉を被せてきた。その声は震えていて、感情を必死で抑えている様子だった。
「こ、ここに呼ぼうか」
「う、うん。お願いしていいかな」
「み、未来、あ、あの・・ね」
 母がたどたどしく言葉を紡いだ。これは何度目かのことだったので、言いたいことは未来には伝わっていた。しかし、未来にはまだその踏ん切りがついていなかった。
「お母さん。わかってるよ。迷惑は掛けないから」
「ち、ちが、あ・・やっぱりなんでもないわ」
 母の言葉がどんどん小声になっていった。ドア越しの為、思いは伝わってこなかった。
「じゃあ、ちょっと待ってて」
 母が思いつめたような声を残して、立ち去る足音が聞こえた。
「気づかれるの早かったな~」
 これは予想外だった。真理の勘の鋭さは知っていたが、ここまでとは思っていなかった。
 しばらくすると、複数の足音が聞こえてきて、ドアがゆっくりと開いた。その隙間から真理が顔を覗かせた。
「ここって、しい姉の部屋だよね」
 入ってきてそうそう、真理がそんなことを言った。
「お姉ちゃん」
「やっ、未来ちゃん。遊びに来たよ」
 未来を見た真理が、笑顔で軽く手を上げた。
「よくわかったね」
「ん?ああ、正兄に聞いてね」
 真理はそう言って、ドアを完全に開けて入ってきた。その後ろから二人の男女が入ってきた。
「あ、あれ?」
 これには驚いて唖然とした。真理以外の思考は聞こえたが、全員が意外な人たちだった。
「って、京橋と一緒にいた子供じゃん」
 葛木は、未来を見て眉を顰めた。
「しいなの部屋を使ってるんだな」
 正吾が部屋を見回して、独り言のように呟いた。
 来客は初めてだったが、真理と葛木、それに正吾の三人の組み合わせは異様だった。
「え、何、なんで?」
「前田君からあなたが偽名を使ってるって聞いてね。わざわざ確認しに来たのよ」
 戸惑っている未来に、葛木がここに来た経緯を説明したが、三人の思考が邪魔で返事ができなかった。
「あ~~、菜由子さん。少し黙っててくれませんか」
 真理が配慮して、葛木を制してくれた。
「え、なんでよ」
「いろいろ考えてるみたいですから」
「何よ、それ」
「複数人で話すのは初めてだね」
 真理が未来を気遣うように、テーブルの周りだけに敷かれている絨毯に腰を下ろした。
「まあ、このメンバーだったら動揺もするよね」
「う、うん」
 それにはなんとか返事ができた。
「二人ともここに座ってください」
 真理は、この場を仕切るように立ったままの葛木たちに指示した。二人はそれに従って、テーブルを囲むように座った。
「未来ちゃん。あのことを教えていい?」
「葛木さんにですか」
 真理の思考を読んで、話を先回りした。
「そっ」
 それに慣れている真理は、特に動揺もなく返してきた。
「う、うん。いいけど」
「ありがと。じゃあ、菜由子さんに教えます」
 真理が葛木と正面に向かい合って、背筋を伸ばした。
「う、うん」
 これに葛木が戸惑いながら、真理と同じように姿勢を正した。
「未来ちゃんは、他人の心が読めます」
 真理は、取り繕うこともなく直球で伝えた。
「・・・は、冗談?」
「本当です。なんなら試してみます?」
 真理はそう言って、未来の方に視線を向けた。
「う、うん。わかった」
 葛木は、戸惑ったまま頷いた。
「じゃあ、未来ちゃん。お願い」
「う、うん」
 未来は、葛木と向かい合って思考を読んだ。
「・・・葛木さん。あんまり難しいこと考えるのはやめてくれませんか。私、これでも小学生ですよ」
「ああ、やっぱり読めるんだ」
 未来の困った顔を見て、軽い感じで受け入れた。
「え、何考えてたんですか?」
 これには真理が気になったようで、葛木に尋ねた。
「ん?幾何学的ベクトルの定義」
「なんですか、それ?」
「高校で習う数学だよ。まあ、物理にも応用できるかな~」
「あ、そうですか」
 葛木の考えていた内容に、真理が心底呆れていた。
「う~~ん。正吾さん。ここに来た経緯はわかりましたから、何度も同じ思考をしないでもらえませんか」
 さっきから正吾が、同じ思考を未来に飛ばしてきていた。
「おお、気づいてくれたか」
 気づいてくれたことが嬉しかったのか、満足げな笑顔を浮かべた。
「読めるからって、便利ツールみたいに使わないでくださいよ」
「いいじゃねぇか。口で言うよりはるかに楽だし」
「茂兄さんと似たようなこと言いますね」
「なんだよ。茂もやったのかよ」
 先に実践されていたことに、正吾ががっかりして項垂れた。
「で、ここに来た理由は、わかってもらえたところで聞きたいんだけど、なんで偽名なんか使ったの?」
 ここで真理が、真剣な表情で未来を見つめてきた。
「どうせ、しいなのことでしょう」
 未来が答える前に、葛木が答えてくれた。
「よ、よくわかりましたね」
「偽名を使った時点でだいたいわかるでしょう。おおかた、近づいた理由を知られたくなかったんでしょう」
「あはははっ、察しが良いですね~」
 葛木の推察に、未来は空笑いして頭を掻いた。
「言えば、茂兄さんが傷つきそうでしたから」
「まあ、そうだね。あの時は正兄のせいで気が立ってたし、言いづらかったのは仕方ないね~」
 真理はそう言って、正吾を責めるような視線を送った。
「もしかして、俺と会った後だったのか」
「まぁね~」
 気まずそうな正吾に、真理が軽く詰るように微笑した。
「あ、あの葛木さん。それはわかりましたから、もう訴えなくていいですよ」
 真理の隣の葛木が、ずっと未来に同じ思いを発信し続けていた。
「ダメだからね」
「わ、わかってますよ」
 あまりのしつこさにそう返すしかできなかった。
「どうかしたの?」
「な、なんでもない」
 さすがにこれは真理には言えなかった。
「あ、あの、で、できれば、茂兄さんには内緒にしてくれないかな」
「え、なんで?」
「だって、茂兄さんはしいな姉さんに感傷的だから」
 これは茂の思考の傾向だった。
「馬鹿だね~。いずればれるんだから、早い方がいいよ」
「それは同感だね。お兄ちゃんは、そこまで弱くないし。それにしい姉の妹って知ったら、優しく抱きしめてくれるかもよ~」
 真理が葛木に同調しながら、笑顔で感情を焚き付けてきた。
「やっぱり教えなくていいや~」
 すると、葛木が手のひらを返すように意見を翻した。
「菜由子さん。お兄ちゃんが好きなのはわかりますが、嫉妬心を小学生相手に向けないでください」
「しいなの妹ってだけで、こっちはかなり不利なんだよ」
「知りませんよ、そんなこと。しい姉にトラウマでもあるんですか」
「トラウマはないけど、勝てない気はしてる」
「っていうか、菜由子さんって、しい姉に対しては弱気なんですね?」
「まあね~・・・個人的には惨敗かな」
 少し言うのを躊躇ったようだが、未来の方を見てから自白した。
「・・・葛木さん」
 葛木のしいなへの思いが伝わってきて、少し感傷的になった。
「えっと、未来。発言してないことに感傷したらダメだよ。相手が何も話せなくなるから」
 葛木が頬を掻きながら、鋭い指摘をしてきた。
「菜由子さん。それは未来ちゃんには酷ですよ」
「なんで?」
「未来ちゃんは、声と思考が同じように聞こえてますから」
「え、そうなの。それは不便な能力ね~」
 真理の補足に、葛木が同情してきた。
「今は読唇術の練習をして、声と思考を分けて聞き取れるようにしてるんです」
「今?前からじゃなくて?」
「うん。お兄ちゃんの提案で」
 葛木の疑問に、真理が得意げに答えた。
「というか、今までどうしてたのかが気になるんだけど・・・」
 葛木はそう言って、呆れ返った顔を未来に向けてきた。
「にゅ、入院してました。病院で」
 あまり言いたくなかったが、話の流れ上言わざるを得なかった。
「そういえば、そう言ってたね」
「しいな姉さん以外、信じてくれませんでした」
「ああ、なるほど。それで、不安障害と感覚性失語症の名が出たのね」
「あ、お母さんから聞きましたか」
「まあ。でも、しいなが知ってたんなら、その能力の対策は一緒になって考えなかったの?」
「え、えっと・・・しいな姉さんは、頭を使うのはあまり得意じゃないので」
「は?」
「いや、だから、その・・えっと」
 実際、しいなはいろいろ考えてくれたが、全く的外れな提案ばかりだった。相手に誠意を込めるとか、どうやったら思考を読めなくするかを真剣に考えてくれた。その結果として、遮蔽物があると、伝わってくる思考が弱まるぐらいしかわからなかった。
「ふ~~ん。なるほど。全然役に立たないものばかりだったのね」
「はい。端的に言うと」
 葛木が察してくれて、未来の代弁をしてくれた。
「まあ、しいなは基本馬鹿だからな~」
「そうだね~。年下の私にも劣るもんね~」
 正吾と真理は、引け目も感じずにしいなのことを馬鹿にした。
「私もそれを伝承しているようで、読唇術のことは知りませんでした」
 未来も同じだったので、そう自虐した。
「別に、そんなに自分を責めなくてもいいわ。気づいたんだから、それでいいじゃない」
 すると、葛木が気を回してくれて元気づけてくれた。
「そ、そうですか?」
「ただ、しいなが他人を頼らなかったのは、最悪だったと思うけどね」
「ご、ごめんなさい。それは私がかなり強く拒絶しました」
「あ、そうなの?」
「はい。複数人で話すのはパニックになるので」
「ああ、それでお兄ちゃんは、練習に付き合わなかったのね」
 真理は今気づいたようだが、茂は未来の能力を知って、できる限り三人になることを避けてくれていた。
「今はならないの?」
「もう口を見て判断していますから。前よりは平気です」
 少し嘘だったが、前よりマシなのは本当だった。
「ふ~~ん。まあ、あんまり無理しないでね」
 葛木はそう言って、おもむろに立ち上がった。思考からは気遣いが伝わってきた。
「どうしたんですか?」
 真理が葛木を見上げて、不思議そうに尋ねた。
「帰るのよ。用件も済んだし。あと、負けないから」
 葛木は未来の方を見て、敵意たっぷりに睨んできた。
 すると、下からインターホンが聞こえた。
「あ、兄さんだ」
 時計を見ると、茂の来る時間になっていた。
「え、京橋が来たの?」
 帰ろうとした葛木が足を止めて、未来の方を振り返った。
「毎週日曜日は、この時間に来てます」
「う~~~ん。このまま出ていくと、鉢合わせになるわね」
 鉢合わせは避けたいようで、葛木が真剣に悩んでいた。
「どっちみち玄関にある靴でばれますよ」
 それは真理の云う通りだと思った。
「あ、そっか」
 そのことは失念していたようで、困った顔で真理を見た。
「仕方ない、未来」
 何を思ったか、葛木が未来を呼んだ。
「なんですか?」
「京橋に会いなさい」
「え、なんでですか?」
 突然のことに頭が混乱した。
「私たちに知られた以上、いずれはばれるんだから、早い方がいいでしょう」
 そう言うと、葛木が未来の手を取った。
「あ、あの、ちょっと心の準備が」
 あまりの急な流れに戸惑って、立つことを拒んで抵抗した。
「いいのよ。そんなことしてたら、いつまで経っても前には進まないわ」
 すると、葛木が未来に向かい合って諭してきた。
「え、えっと・・・」
 この正論には何も言い返せなかったが、頑張って行動しても失敗を経験している未来には不安でしなかった。
「ここは私に委ねなさい。時には、思い悩むより行動した方が先に進めることがあるのよ」
「わ、わかりました」
 葛木の力強い言葉に感銘を受けて、彼女に委ねることにした。
 そして、未来は母に玄関まで招かれていた茂と対面するのだった。

ガールカウンセラー4th

ガールカウンセラー4th

日曜日の朝、京橋茂は招かれざる客に頭を悩ませた。その来客はクラスメイトの葛木菜由子で、なんと家族一家で来訪するという異常な行動を取ってきた。おかげで、妹の真理を鎮めることに神経を擦り減らす羽目になってしまった。 葛木一家は事の顛末と謝罪をして帰った後、その裏で動いていた真理の行動が思い出されるのだった。

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-04-22

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 一 プロローグ
  2. 二 動揺
  3. 三 歴史
  4. 四 父親
  5. 五 招かれざる客
  6. 六 背景
  7. 七 再会
  8. 八 助力
  9. 九 嘘
  10. 十 表面化