ガールカウンセラー3rd

ガールカウンセラー3rd

一 プロローグ

 朝日に照らされ始めた部屋で、京橋茂はゆっくりとベッドから起き上がった。
 目を擦りながら窓の外を見ると、雲一つない快晴だった。が、茂の気持ちは晴れやかではなかった。
「あ~~、面倒臭ぇ~」
 気持ちを言葉にすると、溜息が漏れた。
 茂は、時計を見てから部屋を出た。
「あ!」
「わっ!」
 出会い頭に、妹の真理と出くわした。パジャマ姿で背中まである長髪が寝癖でぼさぼさだった。
「あれ?寝坊か?」
「そうだよ!やばいよ!」
 いつもの余裕はどこにもなく、かなりあたふたしていた。
「走れば間に合うだろう」
「それが嫌だから焦ってるんじゃないっ!」
「寝癖は直していけよ」
 何気なく妹の頭に手を置いて、寝癖を押さえた。
「わ、わかってるよ!」
 妹が顔を赤らめて、茂の手を振り払った。
「も~、このやり取りで2分ロスだよ!」
 そう怒鳴りながら、階段を駆け下りていった。それを微笑ましく見送ってから、茂も階段を下りた。
 玄関を通り、リビングに入ると、エプロン姿の母親が朝食を用意していた。
「あれ、真理は?」
 リビングにいると思った妹がいなかったので、母親に尋ねた。
「洗面所。せっかく起こしたのに二度寝したみたいだね~」
 母親はそう言って、可笑しそうに笑った。
「なんで笑ってんの?」
「ああいう焦ってる真理って新鮮だから、可愛らしくて」
 そう言うと、頬に手を当てて表情を緩めた。
「あ、そう」
 妹が聞いたら、確実に怒る言動だった。
「ああ~、寝癖が直んないよ~」
 妹が髪を押さえて、リビングに入ってきた。
「もう後ろで結わったら?」
「やだよ。ダサいじゃん」
「そうかな。可愛いと思うけどね~」
「もう時代が違うのよ。今じゃあ、後ろで髪を束ねるなんて、おしゃれに気を使わない人か、それが可愛いなんて勘違いしてる人ぐらいだよ」
 茂は朝食を食べながら、クラスメイトのヘアスタイルがそうだったことを思い出した。
「でも、男はその髪型が好きみたいな話はよく聞くけど」
「ああ、揺れる物に自然と目がいくとかだったっけ?」
「そうそう。つい目で追っちゃうんだって」
「それって、もう条件反射だよね」
「狩猟本能なんじゃないの?」
 慌てていたはずの妹が、悠長に母親とおしゃべりを始めた。
「学校休むのか?」
 茂は、時計を指差して妹に聞いた。
「あ!やばっ!」
 妹はそう叫ぶと、用意された朝食を流動食の様に口に流し込んだ。
「早っ!」
 あまりの早業に、思わずつっこみを入れてしまった。
「せっかく作った食事を数秒で流し込まれるのは、ちょっと寂しいわね」
「ごめん。今日だけ大目に見て」
 妹が母親に両手を合わせて謝り、食器をキッチンに持っていった。
「次からちゃんと噛んで食べてね」
「うん。じゃあ、行ってきます」
 キッチンから戻ってきた妹は、髪を押さえたままリビングから出ていった。
「慌ただしいな~」
 茂はそれを見送って、食事を再開した。
「茂。頼みがあるんだけど」
 突然、母親が真顔で話を振ってきた。
「何?」
「お父さんと会ってくれない?」
「は?なんで?」
 予想外の頼みに顔を上げた。
「お父さんが話したいってさ」
「ふ~ん。いつ会えばいい?」
「今度の日曜日かな」
「日曜日・・ね。わかった」
 その日は強制的に予定を組まされていたが、ちょうどよく断る材料を得た。
「ここに来るのか?」
「ううん。真理が怖いから来たくないって」
「やっぱりか」
 現在、別居中の父親は恐怖から妹を極力避けていた。予想はしてたが、実際にそれを聞くと複雑な気分だった。
「もしかして、俺があっちの家に行くのか」
 二夫二妻の結婚制度の為、父親は現在もう一人の妻の家に住んでいた。
「まさか。それはないわ。時間と場所は土曜日までにはメールで送るってさ」
「あ、そう。わかった」
 茂はそう答えて、食べ終わった食器をキッチンへ持っていった。
「母さんも一緒に行くのか」
 キッチンから戻って、母親に聞いた。
「ううん。茂と話したいんだってさ」
「ふ~~ん」
 なんの話をするのか気になったが、会えばわかることなので、母親に聞くのはやめた。
「じゃあ、行ってくるよ」
「うん。いってらっしゃい」
 後ろから母親の言葉を聞きながら、リビングを出た。
 制服に着替えてから家を出て、いつもの通学路を歩き出した。
「やっ」
 二つ目の角を曲がると、一人の女子生徒が元気よく声を掛けてきた。クラスメイトの葛木菜由子だった。綺麗な顔立ちと肩まである髪を後ろで束ねた彼女は、モデルのように様に見えた。
「ああ、おはよう」
 茂は、嫌々返事をした。
「元気ないね~」
「そうだな」
 朝から嫌いな相手に会うと、テンションが上がらないのは必然だった。
「おまえは、今日も元気だな~」
「そうね。今日は特に絶好調よ」
「それは羨ましい限りだ」
 茂たちは、並んで歩き出した。
「そういえば、昨日あの後どうなったの?」
「何が?」
「ほら、琴音の家に遊びに行く話よ」
「ああ、あれか。やっぱり行かないことにした」
「え、どういう経緯で?」
「日曜日に予定が入ったから無理だ」
「予定って何よ」
「今、別居中の父親が会いたいって言ってきてな」
「え?あ、そ、そうなんだ。それは・・大変ね」
 突然の告白に、葛木がしどろもどろになった。二夫二妻制度が取り入れるようになってからは、家族構成の説明は場の雰囲気を悪くするものになっていた。
「えっと、う~~ん」
 断る理由に何も言えず、唸ったまま悩んでいた。
 コンビニの横を通過すると、コンビニからショートヘアの女子生徒が出てきた。
「おはよう」
 立嶋琴音は、上機嫌な笑顔で挨拶してきた。
「ああ、おはよう」
「うん。おはよう」
 あまりの元気の良さに少し引き気味で挨拶を返した。隣の葛木は、うわの空で挨拶を返していた。
「どうしたの?二人とも」
 変な空気を察した立嶋が、訝しそうに聞いてきた。
「日曜日のことでちょっとね~」
 これに葛木が、落ち込んだ様子で応えた。
「え?な、何か言ったの?」
 立嶋が茂に届くような小声で聞いてきた。
「ん?ああ、家庭の事情で断っただけだよ」
「何それ?」
 茂の抽象的な答えに、不思議そうに首を傾げた。
 面倒だったが、さっきの話を立嶋にも伝えた。
「ああ~、それは何も言えなくなるね~」
 立嶋が納得して、葛木と同じ表情をした。
「まあ、そういう訳だから、立嶋の家には行けなくなった」
 これで半ば強引に取り付けられた約束を断ることができた。
「何時?」
「は?」
 葛木の主語のない振りに、茂は返答ができなかった。
「だから、父親とは何時に会うのよ」
「ああ、それはまだ決まってねぇよ」
「いつ決まるの?」
「土曜日だ」
「ちっ、なんで前日に決めるのよ」
 葛木が苛立った表情で、ぼそっと愚痴った。
「まあ、それなら仕方ないね~」
 立嶋が嬉しそうな声で、諦めの言葉を口にした。立嶋も茂が家に来ることを渋っていたので、これにはホッとしたようだ。
 茂たちは、そのまま黙って歩いた。
「琴音。今日はなんか話さないの?」
 しばらく歩くと、葛木が不思議そうに立嶋を見た。いつもなら立嶋が一方的に話してくるのだが、今日はそれがなかった。
「昨日、ネット新聞もテレビも見てないから、特に情報はないの」
 昨日、茂の家に上り込んでいたせいか、それらを見ている時間はなかったようだ。
「へぇ~、それは珍しいわね。何かしてたの?」
「え!えっと・・・」
 これはさすがに言えないと悟ったようで、茂をチラ見して言い淀んだ。
「ちょ、ちょっと忙しくてね」
 そして、視線を泳がせてそう言い繕った。
「ふ~~ん」
 その反応に、葛木が少し訝しげな顔をした。
「昨日の情報はないけど、何か話そうか?」
「その必要はねぇ~ぞ」
 設定上、親友である立嶋を茂が制した。
「え、なんで?」
「もう親友だろう。一方的な話はやめようぜ」
「ああ、そういえば、そうだね。もう親友だもんね」
 立嶋が嬉しそうに笑ったが、少し顔が赤いように感じた。
「ちょっと、どういうことよ」
 これに葛木が眉間に皺を寄せて、茂を睨んできた。
「何が?」
「琴音といつから親友になったのよ」
「昨日の帰宅した時にだよ。まあ、設定だけどな」
「どういうこと!」
 葛木の視線が、瞬時に隣の立嶋に移った。
「え、えっと、ほら、葛木さんとも友達になったから、それより前から友達の京橋は、親友にランクアップしたんだよ」
「友達をランク付けしたってこと?」
「う、うん」
「はぁ~、馬鹿ね~」
 親友になった経緯に、葛木は心底呆れたような表情をした。
「なんで京橋は承諾したのよ」
「何度も設定を無視したから、罰を言い渡されたんだよ」
「それで承諾したの?」
「だって、しつこかったし」
「はぁ~。相変わらず、そこは変わらないのね」
 茂の押しの弱さに、葛木が大きな溜息をついた。
「うるせぇ~よ。言っとくが、そのおかげでおまえとこうして一緒に登下校してるのを忘れんなよ」
「そ、それもそうだね」
 自分に立場を思い出したようで、気まずそうに視線を泳がせた。
「でも、親友っていっても設定上でしょ」
「当たり前だ。だけど、設定上では葛木よりは親しいことになるがな」
「いいな~」
 葛木はそう言いながら、立嶋を羨ましそうに見つめた。
「ははっ」
 それに立嶋が、苦笑いして頬を掻いた。
「立嶋のクラスって、今日の時間割はどうなってるんだ?」
 一応親友という設定だったので、他愛もない話題を振ってみた。
「え、そ、そうだね。今日の最後の授業は体育だよ」
 時間割を聞いたのに、最後の授業だけしか答えなかった。
「他は?」
「他?」
「他の授業だよ」
「知らない」
「は?なんで知らねぇんだよ」
「だって、授業聞いてないもん」
「は?・・・時間割を知らない?」
「うん、移動教室と体育ぐらいしか知らない」
「おまえ、何しに学校来てんだよ」
「大丈夫、授業中はちゃんと勉強してるから」
「教師は、何か言わないのか」
「うん。最初に言い包めた」
「どうやって?」
「担当教師の説明不足と教科書の不備を指摘した」
「でも、おまえってテストは平均点だっただろう」
「ああ、それはテスト問題に文句言ったら、教師が苦い顔してそれ以降は何も言われなくなったね」
 立嶋がその光景を思い出すように視線を上に向けた。
「・・・・」
「・・・・」
 茂と葛木は、唖然として言葉が出なかった。
「ど、どうかした?」
 茂たちの反応に、立嶋が不安そうな顔をした。
「ああ、いや、ちょっと驚いてな」
 思い返してみれば、昼休みの前の授業で、時間通りに終わらせなかった担当教師に対して、立嶋が強く非難したことがあった。
「琴音って、思いのほか厚顔だね~」
「こう・・がん?」
 聞きなれない言葉だったのか、立嶋が復唱した。
「厚かましいって意味よ」
「へぇ~、あ、厚顔無恥の厚顔か」
 四文字熟語を思い出し、納得したように頷いた。
「え、私って厚顔なの?」
「え、そこ驚くところ?」
 立嶋の反応に、葛木が眉を顰めた。
「いや~、そんな指摘されたことなかったから」
「というか、おまえの他にそんなこと言った生徒っていたのか?」
 茂は、呆れながら指摘した。
「そういえば、いないね」
「なら、そういうことだよ」
「こうやって話していると、いろいろな発見があるね」
 立嶋にとっては、嬉しいことのようで表情を綻ばせた。
「今まで気づかなかったのが不思議なぐらいだ」
「普通、周りを見ればわかるよね」
 茂たちは呆れながら、互いの意見を口にした。
 学校に着いて、クラスが違う立嶋と別れてから葛木と教室に入った。
 朝のHRまで少し時間があるので、電子書籍で小説を読むことにした。
「おはよう」
 電子書籍に目を落していると、急に声を掛けられた。顔を上げて見ると、隣の席の横峰だった。彼は葛木に好意を寄せていたが、一昨日フラれていた。
「あ、おはよう」
 挨拶されるとは思わなかったので、戸惑いながら返事をした。
「最近、試合が近いから練習がきつくなってきたよ」
 突如、横峰が部活の話をし始めた。
「そりゃあ、大変だな」
「顧問も実績が欲しいからって、練習メニュー増やしすぎだっての」
「部の顧問は評価制度だから、教師も必死なんだろう」
 部の顧問は成果が出なければ、顧問を交代することになっていた。そのせいで、ほとんどの部活が弱小だった。
「こっちはいい迷惑だよ」
 毎回顧問を変えていたら、強くならないのは必然だった。それを学校は意図してやっているようにも思えた。
「もう固定したらいいと思うんだけどな」
「そうなんだよ。いい加減この制度やめてくんねぇかな~」
「それは同感だな~」
 そんな話をしていると、本鈴が鳴った。
 茂は読書を諦めて、電子書籍を机に仕舞った。

二 意識

 昼休みになり、葛木が嬉しそうに茂に近寄ってきた。それを見た横峰が無言で席を立って、教室から出ていった。
「横峰っていい奴だな~」
 それを見て、思わず感心の言葉が口に出た。
「なにやら、嫌な人の名前を出してるね・・・」
 茂の言葉に、葛木は嬉しそうな表情から不愉快な顔になった。
「いや、あいつはいい奴だぞ。たぶん」
 あまり話したこともないので、これは憶測でしかなかった。
「そんな話はいいよ。早くコンビニ行こうよ」
 葛木が話を打ち切り、腕を掴んで急かしてきた。
「なんかあったの?」
 教室に入ってきた立嶋が、不思議そうに聞いてきた。
「横峰がいい奴って話したら、葛木が嫌がってな~」
 立嶋にそう言いながら、三人で教室から出た。
「なんでいい人って話になったの?」
「ん?いやな、葛木が来たら無言で教室から出ていったんだよ。あれは葛木に対して、横峰なりの気遣いだと思ってな」
「それはいい人だね」
「もうやめてってば」
 この話に耐えられないのか、葛木が嫌な顔をして口を窄めた。
「それより、日曜日の話なんだけど」
 朝に終わった話を、葛木が蒸し返してきた。
「おまえ、しつけぇ~よ」
「いや、日曜日がダメなら、土曜日にしないかな」
「は?」
 葛木の唐突の提案に、茂は唖然とした。
「だから、琴音の家に行くの土曜日にしない?」
「・・・」
「・・・」
 茂と立嶋は、言葉が出ずにお互い顔を見合わせた。
「無理だな」
 茂は、きっぱりと断言した。
「そうだね~。無理かも」
 立嶋も茂に便乗するかたちで首を横に振った。
「え、何?その反応」
 二人の息の合った拒絶に、葛木が動揺を見せた。
「なんでいちいち俺に合わせるんだよ」
「だって、一緒がいいじゃん」
「何が?」
「遊ぶ時に除け者にされるのって、なんか傷つかない?」
 葛木は、何かを思い出したように寂しそうな顔をした。
「あ、それわかる」
 これに立嶋が、食い気味に同調した。
「おまえって、予想外に友達思いなんだな」
「え、そうかな。普通だと思うけど」
 茂の言葉に、葛木が恥ずかしそうに照れた。この仕草には不覚にも見蕩れてしまった。
「じゃあ、土曜日でいいか」
 もう断るのも面倒だったので、それを受け入れることにした。
「え、拒否しないの?」
 これに葛木が、肩透かしを食らったように聞いてきた。
「当たり前だろう。俺だって場の空気は読むよ」
 一応、設定を守ることにしていたので、友達ならではの返しをした。
「なんか京橋が京橋じゃないみたい」
「なんなら、設定をやめてもいいぞ」
 なんか馬鹿にされているような気がして、個人的に腹が立った。
「ううん。こっちにして。本音は傷つくから」
「わかった」
 この正直な発言に、茂は設定を続けることにした。
 コンビニに入り、いつものように弁当コーナーに向かった。
「もしかして、今日もあれをするのか」
「勿論♪」
 茂の嫌な表情を意にも介さず、葛木がノリノリで言い放った。昨日から葛木の弁当と、コンビニ弁当のおかずを半分だけ取り替えていた。
「もうやめねぇか?」
「なんで?」
「あれ、結構恥ずかしい」
「そうかな。友達だったら普通でしょう」
「いや、あれは異常だ」
「前みたいにお弁当作ってくるよりはマシでしょう」
「そ、それはそうだが、恥ずかしいことに変わりはねぇよ」
「それはそうかもしれないけど、コンビニ弁当じゃあ、栄養のバランスが悪いよ」
「気を使ってくれるのはありがたいが、マジでやめようぜ」
「う~~ん。無理」
 葛木は悩んだ振りをして、笑顔で拒否してきた。
「・・・チッ」
 友達の設定にすると、自然に1年前の二人の立ち位置に戻ってしまった。
「じゃあ、今日はこれにしよっか」
 茂が選ぶはずの弁当を、葛木が勝手に選んだ。
「これは嫌だ!」
 茂は、これを強い口調で拒んだ。理由は、嫌いな食べ物が入っているからだ。
「え、なんでよ?」
「わかってる癖に聞くなよ!」
 これには苛立ちを隠せず、睨みつけながら怒鳴ってしまった。
「くくくっ、いい表情だね~」
 茂の怒りに、葛木が満面の笑みを浮かべた。
「ああ~、抱きしめたい!」
 感情のこもった低い声で、身を震わせながら恍惚の表情を浮かべた。茂は1年前のことを思い出し、恐怖で身震いした。
「葛木さん。なんか怖い」
 突然、茂の後ろから立嶋の怯えた声が聞こえた。
「はっ!トリップしてた」
 立嶋の発言に、葛木が我に返った。
「言っとくが、俺の嫌がることしたら、今後はないぞ」
 前の関係に戻るつもりは毛頭なかったので、低音な口調と睨みで釘を刺した。
「わ、わかったわよ」
 これには口を尖らせて、茂がいつも選ぶ弁当と交換した。
 茂はそれを持って、会計を済ませてからコンビニを出た。
「葛木さん。さっきなんであんな表情してたの?」
 コンビニを出た所で、立嶋が茂に耳打ちしてきた。
「最初に言っただろう。あいつは、サディストなんだ」
「ああ、そういえばそうだったね」
「あいつは、人の動揺や怒りの感情を見るのが好きなんだ」
 嬉しそうについてくる葛木をチラ見して、立嶋にそう説明した。
「それを前は受け入れていたの?」
「受け入れてねぇよ」
 前のことを思い出すと、自然と不快感が込み上げてきた。
「なるほど、その反応を葛木さんは楽しんでたんだね」
「ああ」
「それは災難だね~」
 立嶋は、他人事のようにそう口にした。
「なんの話?」
 後ろにいた葛木が、茂の隣に来て口を挟んできた。
「おまえの性格の話をしてたんだよ」
「何それ。それより、土曜日どうすんの?」
 葛木は、自分のことより明後日の予定を気にしていた。
「やっぱり京橋も来るの?」
 これに立嶋が、躊躇いがちに聞いてきた。
「親友なんだから当たり前だ」
 茂は嫌がらせの如く、立嶋を見つめてから迷いなく言い切った。設定は崩さないと決めていたので、ここは貫くことにした。
「うっ!」
 すると、立嶋が昨日のように顔を赤くして怯んだ。
「そ、それならしょうがないね」
 そして、赤らめた顔を逸らしてから上擦った声で答えた。
「何、その反応?」
 この変化に、葛木が眉を顰めた。
「さあ、俺にもよくわからん」
 これには茂も首を傾げることしかできなかった。
「これは由々しき事態だね」
 すると、なぜか葛木が大げさに口調を強めてそう言った。
「何がだよ」
「京橋。ちょっと先歩いてて」
 茂の質問を無視して、手で追っ払う仕草で促した。
「わかったよ」
 あまり深入りしたくなかったので、先を歩くことにした。
 ※ ※ ※
 菜由子は京橋との距離を確認して、琴音に目を移した。琴音の表情は戻っていたが、視線は京橋の後姿を見つめたままだった。
「さて、琴音。どういうことが説明してくれないかな」
「ふぇ、何が?」
「だから、あの反応はどういうことかって聞いてるのよ」
「う~~ん。正直、自分でもわかんない」
「わかんないって、自分のことでしょう」
「たぶんだけど、私って親友に憧れてたから、京橋の対応が嬉しかったかもしれないね」
「それはないね。憧れじゃあ、あんな反応にはならないわ」
「え、そうなの?」
「あの反応はね。異性に対しての恋よ」
「え!こ・・い?」
 今一つ呑み込めないのか、前を歩いている京橋をじっと見つめた。
「確認するけど、京橋に見つめられて、ドキドキしなかった?」
「した・・かも。でも、勘違いかもしれないし」
「恋なんて、たいていは勘違いよ」
 菜由子は呆れながら、立嶋を見つめた。
「もしかして、恋ってしたことないの?」
 琴音のあやふやな発言に、菜由子は少し違和感を覚えた。
「うん。ないよ」
 これに琴音が、恥じらうことなく言い切った。
「なるほど。だから、今の気持ちに確信が持てないのね」
「気持ちの高揚と胸の動悸は恋なの?」
「完全に恋だね」
「私、京橋に恋してるんだ」
 琴音は、言葉を噛み締めるように呟いた。
「でも、それは困るね。せっかく親友になったのに・・・」
「もう行こうか?」
「う、うん」
 話も終わったので、早足で京橋の後を追った。
 ※ ※ ※
 校門を通り、校舎内に入ると、立嶋と葛木が追いついてきた。
「京橋。大変なことが判明したよ」
 隣に来た立嶋が、興奮気味に話を切り出してきた。
「なんだ?」
「私、京橋に・・・」
「馬鹿!」
 立嶋が何か言う前に、葛木が慌てた様子で彼女の口を塞いだ。
 そして、数歩だけ距離を取った。
「どうかしたか?」
「な、なんでもないわ」
 茂の言葉に、葛木が顔を引き攣らせながら取り繕った。
「何するのよ~」
「琴音。これは言ったらダメなのよ」
「へ、なんで?」
「ちょっと耳貸して」
 茂を気にしてか、葛木が立嶋に耳打ちした。
「あぁ~、それは困るね~」
 立嶋が何かに納得して、苦い顔で悩んだ。
「さっさとしてくんねぇかな」
 行きかう生徒の視線が気になり、二人を急き立てた。
「あ、ごめん、ごめん」
 葛木がそれに気づき、軽い感じで詫びてきた。
 それからは黙ったまま、三人で教室に入った。
「ところで、さっき何言おうとしたんだ」
 茂は席に座って、何気なく切り出した。
「あれは、もういいや」
「なんだそりゃ~」
「まあ、いいじゃん」
 立嶋は、弁当を広げながら軽く流した。
「京橋。それ貸して」
 すると、葛木が茂の許可も待たずに弁当を掻っ攫い、自分の弁当のおかずを手早く交換した。
「はい、どうぞ」
 それが終わると、笑顔で弁当を返してきた。。
「あ、ありがとう」
 設定上、文句は言えなかったのでお礼を言った。
「えへへへ~、いえいえ、どういたしまして」
 茂の謝意に、葛木は頬を掻いてはにかんだ。
「いいな~」
 それを見た立嶋が、羨ましそうに茂の弁当を見つめていた。
「何か食べたいのか?」
「うん。そのアスパラのベーコン巻が食べてみたい」
 これは葛木と交換したおかずだった。
「ほらよ」
 茂は躊躇うことなく、立嶋の弁当に入れた。
「いいの?」
 この行動に、立嶋が葛木を気にしながら聞いてきた。
「ああ、俺がもらった時点で、決定権は俺にあるからな」
「そうね。あげたものだし、捨てる以外なら文句はないわ」
 これには特に文句もないようで、葛木は興味なさそうに箸を進めた。
「ありがとう。じゃあ、これあげる」
 葛木の許可に安心した立嶋が、自分の弁当の肉巻ポテトを渡してきた。
「別にいいのに」
「ダメ。おかずの交換は必須だよ」
 茂の気遣いに、立嶋がしれっとそう言い返してきた。
「あ、これおいしい」
 立嶋が交換した物を食べて、感想を漏らした。
「前も思ったけど、琴音は京橋と味覚が似てるのね」
「え、ああ。味を濃いめにしてるって言ってたね~」
 立嶋は、前に葛木が言っていたことを思い出してそう言った。
「別に、俺に合わせなくてもいいのに」
 そこまでしてくれるのは正直気が引けたので、茂はボソッとそう言った。
「・・・」
 葛木は、何も言わずにじっと茂を見つめてきた。
「な、なんだよ」
「京橋。そこは気にしなくていいよ。私が好きでしてることなんだから」
「そ、そうか」
 葛木の真剣な表情に、少し顔が引き攣ってしまった。
 昼食を食べながら、土曜日の予定を葛木が一方的に決めた。
「という訳でいいよね」
 昼食を食べ終わって、葛木が弁当箱を片づけた。
「ああ、いいんじゃね~」
「うん。それでいいよ」
 茂と立嶋は、それに合意した。立嶋家訪問は、午前の授業終わりに直行ということで話がついた。
「じゃあ、俺は小説を読みたいから、あとは二人で談笑でもしておいてくれ」
 茂は電子書籍を取り出して、小説のアプリケーションを起動した。
「また、このパターン?」
 葛木が眉間に皺を寄せて、不快感をあらわにした。
「あのな~、図書館からこの小説を何回ダウンロードしてると思ってるんだ」
 データ転送した書籍は、最長でも1週間しか読むことができなかった。おかげで、三回も同じ小説をダウンロードしていた。
「ああ、そういえば、10分の休憩の時に図書館行ってたわね。同じの落としてたの?」
「そうだよ。おまえらのせいで、この小説の結末に全然辿り着けねぇよ!」
 ここは半ギレ気味で二人を責めた。
「じゃあ、結末だけ読めば?」
 これに葛木が、身も蓋もないことをしれっと言い出した。
「なんで半分まで読んで、結末を読むんだよ。それじゃあ、俺が馬鹿みたいだろう」
「確かに。小説をそんな読み方する人は、さすがにいないよね」
 その状況を思い浮かべたのか、立嶋がおかしそうに笑った。
「京橋が馬鹿なのは、私たちのせいじゃないでしょう」
 葛木がにやつきながら、話をすり替えてきた。
「自分が馬鹿だなんて言ってねぇよ。お前の提案を実行したら、俺がそう見えるって話だ!」
「実行したら、私が笑ってあげるよ」
「余計なお世話だ!」
 これには怒りに任せたつっこみを入れた。
「ああ~。いいな~。京橋のその反応」
 葛木はそう言って、さっきのコンビニの時の顔になった。
「おまえ、性格を変えるんじゃなかったのかよ」
 葛木は、自ら封印したはずの性格が前面に押し出されていた。
「あ、うん。ごめん」
 自分の言動に気づいたのか、素直にとは言えなかったが謝ってきた。
「面白いやり取りだね」
 ここで立嶋が、楽しそうに話に入ってきた。
「こっちはストレス溜まるけどな!」
 第三者の感想が癇に障って、無意識に語彙を強めた。
「とにかく、俺はこの小説の続きが気になるんだよ」
「どういう話なの?」
 内容が気になったのか、葛木が興味深そうに聞いてきた。
「異世界の推理小説だよ」
「何それ、ネタ?」
「小説なんだからネタだろう」
「異世界の時点でなんでもありじゃん」
「そうだな。今読んでるところは、空間転移を10ページにわたって解説してあって、この転送装置がどこからどこまでいけるかを、なぜか遺族が検証しているんだよ」
「何それ?意味がわかんない」
「そうだよな~。なんで遺族が検証するんだよってつっこみてぇよな」
「そこもだけど、空間転移の設定自体無理があるよ。しかも、10ページって、説明下手すぎ」
「だよな~。この空間転移の設定が酷いんだぜ。システムで制御されてるはずの装置なのに、誰を転送したのか、どこに転送したのかは記憶されないんだってさ。空間転移なんて高位のシステムなのに、なんでここは手抜きなんだよって話だよ」
 自分で説明していて、おかしくなって笑えてきた。
「いや、もう説明の意味がわかんない」
 葛木は、話についていけず顔をしかめた。
「意味わからないけど、結末は気になるね」
 立嶋も少し興味を持ったようで、電子書籍を見つめた。
「だろ。この設定でいったいどう収めるか気になるんだよ」
「まあ、それはあるかもね」
 葛木は、茂の言い分に納得した。
「という訳で、俺は小説を読むから」
 二人の理解も得られたところで、電子書籍に目を落した。
「琴音。今から図書館行くわよ」
 すると、葛木が立ち上がって、立嶋にそんなことを言い出した。
「へっ、なんで?」
「京橋が読んでる小説を落としてくるわ」
 葛木の発言に、立嶋が理解できず首を傾げていた。
「京橋。その小説のタイトルは何?」
「『空前絶後のリベンジ』」
「よくそんなタイトルで読もうと思ったわね」
「よくわからねぇから、気になってダウンロードしたんだが」
「要するに、その小説を非難したいのね」
「ちげぇ~よ。非難じゃなくて批判だ。悪い方に取るんじゃねぇ~」
「じゃあ、ここまで読んだ感想は?」
「そうだな。設定に無理があって、登場人物の行動が理解できねぇ~」
「非難じゃん」
「そう言われると、返す言葉もねぇな」
 葛木の指摘に何も言えなくなった。
「じゃあ、図書館行くわよ」
「だから、なんで?」
 未だに理解できない立嶋は、不思議そうに同じ質問をした。
「理由は、道中説明するわ」
 葛木はそう言って、茂を横目に立嶋を急かした。
「はぁ~、ようやく静かになった」
 葛木たちが教室を出ていくのを見て、自然と溜息が漏れた。
「も~、そのままで行かないでよね」
 突然、後ろからそんな声が聞こえた。
 驚いて後ろを向くと、そこには委員長の三和霞が立っていた。
「葛木さんは、どこ行ったの?」
「え、ああ、図書館に行ったよ」
 そこまで話したこともなかったので、少し動揺しながら答えた。
「移動した席は直していくように言っておいて」
 三和はそう言って、茂の隣にくっつけている自分の机と椅子を元の位置に戻した。
「伝えておくよ」
 本人もいないので、仕方なくそう返事をしておいた。
「ずいぶんと葛木さんと仲良くなったみたいね」
 三和が席に座って、ウェーブのかかったセミロングの髪を耳に掛けながら話しかけてきた。髪の色は黒と茶が混ざっていて、他の生徒より目立っていた。
「そうだな。自分としては不本意だけど」
「せっかくの友達は大事にするべきよ」
「友達・・か」
 今の状況に、その言葉は滑稽に思えてきた。
「私、何か変なこと言った?」
 茂の反応に、三和が不思議そうな顔をした。
「いや、まともなことだけど。個人的に違和感を覚えてな」
「違和感?」
「俺は、あの二人が嫌いだ。だから、友達っていうのがどうもしっくりこなくてな」
「そうなの?あの二人は楽しそうだけど」
「そうだな。あの二人は、俺のことが嫌いじゃないんだろう」
「でも、あなたは嫌い」
「そういうこと」
「ふ~~ん。でも、一緒にいるんだ」
「しつこくてな。俺が妥協したかたちだ」
「なら、それはもう友達じゃない」
「そう・・なのか?」
「友達といってもいろんなかたちがあるからね。毎日一緒にいるのは、もう友達と同じよ」
「そう言われると、そうかもしれないな」
 少し本意ではないが、三和の言い分にも一理あった。
「それにあまり強い拒絶は控えた方がいいわよ。身を滅ぼすことになるから」
 三和がそんなことを言って、机の中をあさり始めた。
「どういう意味だ?」
 それが気になって、三和に聞き返した。
「言葉通りよ」
 これには澄ました顔で返してきた。それ以上、聞く雰囲気ではなかったので追求は諦めた。
「ふぅ~、間に合った」
 葛木が深く息を吐いて、教室に戻ってきた。予鈴まで3分を切っていた。
「あれ?立嶋は?」
 電子書籍から顔を上げて、葛木を見上げた。急いで戻ってきたようで、前髪が少し乱れていた。
「もう時間なかったから、自分の教室に戻ったわ」
「そうか。おまえに伝言だ」
「ん、何?」
「机は直していけってさ」
 親指を後ろに指して、三和の伝言を伝えた。葛木がそれにつられるかたちで、三和に視線を向けた。
「って、本人がいる前で伝えないでよ!」
 茂の発言に、三和が立ち上がって叫んだ。
「へっ?だって、伝えるよう言ったの三和じゃん」
「そうだけど。伝言を頼んだ本人がいる前で言ったら、伝言の意味がないでしょう」
「ああ、それもそうだな。じゃあ、三和が直接言ってくれ」
「うっ!」
 これに三和が、言葉を詰まらせてたじろいた。
「そういえば、席を戻すのを忘れてたわね。ごめん。謝るわ」
 葛木は、持っていた電子書籍を茂の机に置いて三和に近づいた。
「い、いえ、そ、その・・・」
 葛木の謝罪に、三和が困惑して目を泳がせていた。
「なんか怯えてるな~」
 葛木が近づくと、三和の顔が引き攣り体を小刻みに震わせた。
「そうね。謝罪している同級生に失礼な態度ね」
 葛木はそう言って、座っている三和の肩に手を置いた。
「ひっ!」
 その行為に、三和の表情が一気に強張った。
「今回は普通に謝罪してるんだから、素直に受け取りなさい」
 今度は三和に顔を近づけて、葛木が耳元で何かを囁いた。
「わ、わかってます。だ、大丈夫ですから」
 三和は、震えた声で何度も頷いた。
「そう、それは良かった。ごめんね。気を回してもらって」
「いえ、こっちこそ、ご、ごめんなさい」
 葛木より三和の方が、謝罪に誠意がこもっていた。
「何言ったんだ?」
 このやり取りが気になり、葛木に素で聞いた。
「言えない♪」
 葛木が振り返って、笑顔で即答した。
「あ、嫌な奴が来たから戻るね」
 そう言われて葛木の視線を追うと、横峰が教室に入ってきたところだった。
 葛木は電子書籍を持って、自分の席に戻っていった。
「何言われたんだ?」
 葛木の言い方が気になり、今度は三和に聞いてみた。
「葛木さんが言えないって言ったのに、しゃべれる訳ないじゃん」
「それもそうだな」
 その時ちょうど予鈴がなったので、次の授業の準備を始めた。

三 来訪

 午後の授業が終わり、帰りのHRになった。
 担任が入ってきて、いつものように連絡事項をした。
 HRが終わり、担任が茂の方を睨んでから教室を出ていった。これは1ヶ月に二、三回あることだった。
「何、あいつ」
 葛木が担任の後姿を見ながら、茂に近づいてきた。
「気にするな。もう慣れたし」
 茂は、帰り支度を整えて席を立った。
「前みたいに無視とかよりはずっとマシだ」
 一度、担任主導のクラスでの無視を経験した茂にとっては、今の睨みは些細なことだった。
「よく耐えられるね。私だったら、徹底的に嫌がらせするわ」
 葛木はそう言って、帰り支度している三和の方を横目で見た。それに気づいた三和が少し体を震わして、そそくさと教室から出ていった。
「まあ、あの時は俺も精神的に不安定だったから、無視されたのは逆に助かったけど」
 無視が始まったのはちょうど幼馴染が亡くなった頃で、他人からの干渉は個人的にもして欲しくなった時期だった。
「そう・・なんだ」
 茂の言葉に、葛木が悲しそうな顔を向けてきた。
「同情とかはやめてくれ」
「ご、ごめん」
 茂の言葉に、葛木が申し訳なさそうに謝った。
 葛木と一緒に教室を出ると、立嶋が待っていた。
「なんかあったの?」
 廊下から茂たちを見ていたようで、何気なく聞いてきた。
「なんでもねぇよ」
 あまり深入りして欲しくなかったので、足早に歩き出した。その後ろから二人もついてきた。
「そういえば、琴音。あれ読んだ?」
 すると、葛木が立嶋に話を切り出した。
「ああ、うん。読んだけど」
「なんの話だ?」
 茂は気になって、二人に尋ねた。
「ほら、昼休みに読んでた小説。琴音に読んでもらったの。本当は私も読む予定だったけどね」
 これに葛木が、淡々と茂に説明した。
「私、速読得意だから、1時間で読めたよ」
「ちょっと待て、なんのためにそんなことしたんだ」
「だって、結果が知りたいんでしょう。今から琴音がそれを教えてくれるから、もう京橋が昼休みにその小説を読む必要はないわ」
 自分の案に自負があるのか、得意げに胸を張った。
「おまえ達に今の状況に適した言葉を贈ろう・・・大きなお世話だ!」
「なんでよ!」
 反発されるとは思わなかったのか、葛木が驚いたように叫んだ。
「あのな~、自分が読んでる小説を他人からネタバレされるのはかなり不愉快な行為だぞ」
「だって、結果知りたそうだったし」
「それは俺が読むことで解決するんだよ。他人からのネタバレはいらん」
「え、そうなの?じゃあ・・・これは徒労に終わったね、琴音」
 この事実に、葛木が悪びれたかたちで苦笑いした。
「え、しゃべっちゃダメなの?」
「ダメだ」
「せっかく読んだのに・・・」
 これには本当に残念そうにがっくりと項垂れた。
「はぁ~、そんな顔するなよ」
 設定とはいえ親友にそんな顔されると、罪悪感が湧いてきた。
「しょうがねぇな~、感想だけ聞こうか」
「言って・・いいの?」
「ああ、感想だけだぞ」
「わかった。一言でいうと、面白くなかった。最初の設定に無理があった」
「やっぱりか」
「これ以上はネタバレだからやめとくね」
「おう。それ以上言ったら怒る」
 校門を出て角を曲がると、隣の高校の制服を着た男子生徒が壁面にもたれ掛っていた。
「あ」
 茂は驚いて、その場で立ち止った。幼馴染の前田正吾だった。
「よう」
 正吾がこちらに気づき、長髪を風になびかせながら近づいてきた。今日は髪を後ろで束ねていなかった。
「・・・」
 正吾は、両隣の立嶋と葛木に目を移した。
「相変わらず、モテるな。おまえは」
 会って早々失礼なことを言い出した。
「誰か待ってるのか?」
 自分に会いに来たとは思えなかったので、周りを見てそう聞いた。
「ふん。おまえを待ってたに決まってんだろう」
「なんか用か」
「ちょっと、顔貸せ」
 二人に配慮してか、茂一人を指名した。
「わかった」
 茂は、一呼吸おいて頷いた。
「という訳で、おまえら帰れ」
 そして、呆然としている二人にそう促した。
「ええ~~」
 これに葛木が、不満をあらわにした。
「あのな~。この状況を察しろよ」
「察しろって・・・だいたい、こいつ誰よ」
 葛木はそう言って、正吾を指差して睨みつけた。
「幼馴染だよ」
「腐れ縁だ」
 茂の発言を正吾が上書きしてきた。
「ふ~~ん。その他校の幼馴染がいまさら何の用よ」
 葛木は、正吾を訝しそうに見た。その視線は正吾を責めているようにも見えた。
「こっちも好きで会いに来たわけじゃねぇよ」
「なら、来ないでよ」
 正吾の言葉にさらに気を悪くした葛木が、強い口調で突っぱねた。
「葛木。もう帰れ」
 これには見兼ねて、葛木を追い払うように手を振った。
「・・・わかったわよ」
 茂の催促に、不満一杯の顔で従った。
「さて、どこで話そうか」
 二人を見送ってから、正吾に尋ねた。
「そうだな。前の喫茶店は行けないから公園にしようか」
 正吾は、少し考えてからそう提案した。喫茶店は前に二人で口論した場所だったので、真っ先に除外したようだ。
「だったら、俺の家で待っとけよ」
 公園は茂の家からの方が近かったので、わざわざこの学校に来る必要性はなかった。
「学校が早く終わったから、一度おまえの家に寄ろうと思ったんだが、おまえの妹と鉢合わせになる可能性があったんだよ。だから、おまえの下校経路を歩いてたら、ここに着いちまっただけだ」
 正吾は、茂を見ずに長々と説明した。
 二人は公園に向かう為、葛木たちの後に続くかたちで歩き出した。
「まだ妹のこと苦手なのか?」
 正吾が妹を避けいていたのはわかっていたが、それは小6の頃の話だった。
「ああ、あいつに弱みを握られて以来、頭が上がらん」
「そうだったのか」
 妹に弱みを握られていたなんて知らなかった。
「今じゃあ、それは無効になったんだけどな。それでも、会うとどうも委縮しちまう。もう一種のトラウマだな」
「そうか」
 妹は、正吾に深い傷を残していたようだ。
「それより、あの二人のうちどっちが恋人なんだ?」
 葛木たちの後姿を見ながら、ありえないことを言い出した。
「冗談言うな。恋人なんていねぇよ」
「じゃあ、友達か」
「う~~ん。個人的には微妙だな」
「はぁ~、なんだそりゃ~」
 茂の曖昧な説明に、正吾が首を傾げた。
「あの二人は、俺を友達だと思っているようだが、俺は二人とも嫌ってるからな~」
「ああ、一方通行ってやつか」
「まあ、そんな感じだ」
 正吾とは久しぶりの会話だったが、昔とあまり変わらなかった。
「それより、用件だったら今言えば?」
 歩きながらの無駄話よりも、その方が合理的だと感じた。
「いや、話だけじゃねぇから、歩きながらはやめとく」
「もしかして、しいなのことか?」
 茂は、去年亡くなった幼馴染の加納しいなの名前を出した。
「まあ、それもあるな。一応、礼を言っておくよ」
「しいなの両親には会ったのか?」
「ああ」
「そうか」
 それ以上、二人に言葉は必要なかった。
 正吾は、しいなが床に臥せってから亡くなるまで、顔を出せないでいた。その為、罪悪感からしいなの両親にも会えずにいたようだが、茂がその両親から会いたいという伝言を伝えたことで、ようやく会うことができたようだ。
「しかし、おまえから礼を言われるのは、むず痒いな」
 しんみりとした雰囲気に耐えられず、正吾を揶揄した。
「それは奇遇だな。俺もだよ」
 正吾も同じ心境だったようで、不快そうに腕を掻いて同調してきた。
 そんな会話していると、葛木が急に後ろを振り返った。
「あ、ばれた」
 できればこのまま気づかれたくなかったが、葛木の気まぐれで見つかってしまった。
「なんで後ろ歩いてるのよ?」
 葛木が不満顔で、こっちに歩いてきた。
「行き先が同じなんだよ」
「だったら、一緒に帰ればいいじゃん」
「久しぶりに会う幼馴染なんだから、気を使えよ」
「知らないわよ。小学以来の幼馴染なんて」
 葛木が正吾を横目に、そんなことを口にした。
「なんで知ってるんだ?」
 正吾の話は、葛木には一切したことがなかったので、それを知ってることに驚いた。
「え、あ、いや、その・・・」
 これに葛木が、一気に挙動不審になった。
「・・・な、なんとく、そう思っただけ」
 葛木は目を泳がせて、視線を下に向けた。
「なんだ、当てずっぽうかよ」
「紹介してくれないか」
 正吾が葛木を見て、茂にそう言ってきた。
「まあ、いいけど。こいつが葛木菜由子で、後ろにいるのが、立嶋琴音だ」
 茂は、簡易的に二人を紹介した。
「・・・ふん」
「どうも」
 葛木は不愉快そうな顔で、立嶋は軽く会釈をしてから正吾を見た。
「俺は、前田正吾。茂とは小学生まで友人だった」
 そんな二人を見て、正吾が気さくに自己紹介をした。相変わらず、社交的な性格は変わっていないようだ。
 それ以降、誰もしゃべることなく帰り道を只々歩いた。
「おまえら、いつもこんな沈黙の中で下校してんのか」
 あまりの長い沈黙に、正吾が居心地が悪そうに口を開いた。
「いや、いつもは立嶋がしゃべってる」
 誰も答えないので、茂が後ろの立嶋を指差した。さすがに四人が並んで歩くには邪魔になるので、立嶋が後ろを歩いていた。
「あんたがいるからでしょう」
 隣の葛木が、ぼそっと毒づいた。
「ああ、なるほど」
 正吾が少し歩行を緩めて、立嶋に並んだ。
「茂の隣の方がいいか?」
「え、あ、いえ、別にいいです」
 正吾の気遣いに、立嶋が敬語で断った。
「え、いいのか?」
「は、はい」
 立嶋は、なぜか落ち込んだ感じで頷いた。
「そ、そうか」
 初対面の相手に強く言えない正吾は、再び茂の隣に来た。
「あいつ、本当におしゃべりなのか?」
「ああ、いつもは一方的にしゃべるよ」
「とてもそうは見えないが」
「そういえば、葛木の時もあんな感じだったな」
 茂は不思議に思いながら、葛木に話を振った。
「そうだったね」
 これに葛木が、顔をこちらに向けないまま素っ気なく答えた。
「おまえら、本当に友達か」
 葛木と立嶋の対応を見て、正吾が呆れ返っていた。
「さっきも言っただろう。微妙だって」
「ああ、そうだったな」
 茂の言葉に、正吾が納得していた。
「沈黙が嫌なら、おまえが話せよ」
 茂もこの空気に耐えられず、正吾にそう促した。
「あまり気乗りしないが、黙って歩くよりはいいか」
 正吾は、自分に言い聞かせるように呟いた。
「最近どうよ」
 そして、気さくに話を振ってきた。
「そうだな。嫌なことばかりだよ」
「それは最悪だな。俺のところは馬鹿が多くてな。こっちも馬鹿にならんと話ができん」
「そりゃあ、苦労するな」
 正吾の学校は、偏差値がさほど良くなく素行の悪い学生が多かった。
「近いから選んだのは、失策だったな」
「あれ?おまえって、しいなについていっただけだろう」
「うっ、それは言わないでくれ」
 幼馴染の中では、しいなが一番成績が悪く、正吾が一番成績が良かった。
「でも、話せるだけマシだろう。俺なんかクラスで浮いてるからな」
「そうなのか?」
 正吾が葛木と後ろの立嶋を見て、意外そうな顔をした。
「ああ、この二人は俺に唯一話しかけてくる稀な人種だ」
「人種って・・酷い言いようだな」
 正吾が二人に配慮してか、若干責めてきた。隣の葛木を横目で見ると、不愉快そうに睨んできた。
「そうだな。これは言いすぎたな。俺と唯一話してくれる二人だよ」
 葛木の威嚇に負けて、即座に言い直した。
「類が友を呼んだわけか」
「そうなるな。この二人も俺と同じで浮いてるからな~」
「そうか」
 正吾は、何か言いたそうに葛木を見た。
「じゃあ、また明日ね」
 葛木との分岐に差し掛かると、彼女が片手を軽く振って別れの挨拶をした。
「ああ」
「また明日」
 茂と立嶋も挨拶を返して、先を歩いた。
 ※ ※ ※
「わりぃ~な」
 正吾は茂の後姿を見ながら、葛木にそう投げかけた。
「何がよ」
 葛木が足を止めて、不愉快そうな顔で返してきた。
「茂のこと、支えてくれたんだろう」
「残念だけど、支えたのは私じゃないわ」
「そうなのか?」
「ええ、ずっと傍にいたのは、私じゃなくて琴音よ」
 葛木が羨ましそうな顔で、立嶋の方を見つめた。
「あっちの方だったか」
 正吾もつられて立嶋の方を見た。自分がついてこないことに気づいた二人が、その場で立ち止まり、正吾を待ってくれた。
「俺のこと、しいなから聞いたのか」
「察しが良いわね。さすが恋人の正ちゃんね」
「呼び名まで知ってるのかよ」
「よくしゃべったからね~」
「あいつは、おしゃべりだからな」
 正吾は、昔を思い出して微笑んだ。
「それにしても、聞いてた印象と外見が違ってたから、かなり驚いたわ」
「はは、よく言われるよ」
 これには照れて頭を掻いた。
「じゃあね。できれば、あなたとは会いたくないわ」
 葛木はそう言って、正吾に背を向けた。
「初対面なのにえらく嫌われてるな」
「私は、冷静沈着な人が嫌いなの」
「なんでだよ」
「だって、からかい甲斐がないじゃない」
 葛木は、そんな捨て台詞を吐いて帰っていった。
 ※ ※ ※
「何、話してたんだ?」
 茂は、歩いてきた正吾に尋ねた。
「ちょっとな」
 そう言いながら、正吾は立ち止ることなく先を歩いた。
「言えないことなのか」
「言えないというより、言いにくいかな。まあ、そこは葛木から聞いてくれ」
「そうか。わかった」
「引くときは、相変わらず潔いな~・・・しいなのこと以外は」
 正吾が金曜日のことを思い出して、最後に一文を継ぎ足した。
「自分がされて嫌なことは相手にしないことにしてんだよ」
「そういえば、昔からそれを信条にしてたな」
 昔を思い出したのか、懐かしむようにせせら笑った。
「今もそれは変わらん。おまえも同じじゃねぇのか?」
「まあな。だけど、約束は守るのは信条というより、良識の範囲だと最近では思い始めてるよ」
「まあ、決めたのは小学生の頃だからな。今思うと、幼稚すぎたな」
「そうだな。あの頃は信条って言葉が格好良く見えたもんだ」
 二人は、昔を思い出して笑い合った。
 立嶋との分かれ道も迫ってきたので、何気に立嶋を見た。彼女は、今まで見たこともない悲壮な顔をして項垂れていた。
「ど、どうした?」
 これにはさすがに心配になって声を掛けた。
「ん?な、何が?」
 茂の言葉に、立嶋が悄然とした表情のまま顔を上げた。声は酷く弱々しかった。
「おまえ、凄い顔だぞ」
「そ、そうかな」
 自分の顔を擦りながら、表情を確かめた。
「も、もう帰るね」
 立嶋は理由を言わずに、そそくさと帰っていた。
「大丈夫なのか?」
 立嶋の後姿を見ながら、正吾が心配そうに茂を見た。
「どうだろうな」
「一応、明日にでも気遣ってやれ」
「そうだな」
 立嶋のあんな表情は本当に似合わなかったので、そうすることにした。
「さて、公園に行くか」
 茂は、気持ちを切り替えて歩き出した。
「なあ~、なんで中学から俺たちを避けたんだ?」
 突然、正吾が昔のことを持ち出してきた。
「別に、大した理由はねぇよ」
「それを聞いてるんだよ」
「ふぅ~、友達が変わっただけだ」
 これは嘘だった。本当は正吾のしいなへの気持ちがわかって、身を引いただけだった。
「嘘つく必要ねぇよ」
 すると、正吾が見透かしたようにそう言ってきた。
「もういいじゃん」
「昔のことだから、話してくれると思ったんだがな」
「話しただろう」
「そういうのを聞きたかったわけじゃねぇんだよ」
「その言い方だと、知ってるみたいに聞こえるな」
「だから、聞いてるんだがな」
「おまえは、相変わらずしつこいな~」
「おまえは、相変わらず偏屈だな~」
 茂たちは、昔のように言い合いになった。
 公園に着き、前に正吾から強制的に話を引き出したベンチに座った。
「で、なんの話だ?」
 茂は、顔だけを正吾に向けて尋ねた。
「そうだな。とりあえず、しいなのことは感謝するよ」
「二度も礼を言う必要はねぇよ」
「まあ、これはついでだ。本題はここからだ」
「だろうな」
「話は、加賀未来についてだ」
 正吾が一呼吸おいて、トーンを落として切り出した。加賀未来は、妹の友達で今では毎日のように京橋家に訪問していた。
「未来がどうかしたのか?」
 正吾からその名前が出るとは思いもしなかったので、少し動揺してしまった。
「俺に弟がいることは知ってるよな」
「ああ、確か6才年下だっけ?」
 茂が小学生の時、何度か一緒に遊んだ記憶があった。
「ああ、今は小学6年生だ」
「その弟が未来と関係してるのか」
「まあな。なんとなしに聞いてみたんだが、同じクラスだってよ」
「そうなのか」
 その事実にはかなり驚いたが、敢えて素っ気なく答えた。
「でだ。その弟の話だと、一度だけしか学校に来てないそうだ」
「ふ~~ん。一度でも行ったのか、すげぇな」
 人の心を読むという不憫な特殊能力を持っている未来が、集団の中に入っていった勇気には本当に感心した。
「そうだな。心が読める人間に集団の中はさぞ苦痛だろう」
「あいつにとっては、騒音の中に飛び込むのと変わらんからな」
「で、問題はここからなんだが・・・」
 正吾がさらに声を落して、茂を見つめた。
「あ、そうそう、ちなみに学校を休んでる理由が病気だそうだ」
 正吾は、思い出したようにそう補足した。
「病気?」
「ああ」
「でも、それは自然じゃないか?」
 長期間の休学での理由としては、常套手段とも言えた。
「まぁ、あの子のことをさほど知らなければ、それで通るんだが・・・」
 正吾が言葉を切って、視線を空に向けた。
「なんかあるのか?」
「大ありだ」
 正吾はそう言うと、鞄から電子書籍を引っ張り出した。
 そして、それを指で操作してから茂に渡してきた。
「なんだこれ?」
 茂は、渡された電子書籍に目を落して首を傾げた。そこにはどこかの教室の静止画が表示されていた。
「動画だ。再生してみろ」
 そう言われて、その静止画を指で押した。
 動画は、小学校の制服を着た未来が教壇に腕を組んで立っている所から始まっていた。
 ツインテールの未来は、自分の特殊能力を生徒の前で大々的に公言していた。問題なのは、人を押さえつけようとする高圧的な態度だった。
 そして、半信半疑な生徒の思考を次々と言い当てていった。それに怯えた数人の生徒が教室を出ていった。彼女はそれには気を払わず、残っている生徒に恫喝まがいの要求する姿が映し出されていた。
「なっ!」
 あまりの衝撃的な動画に、茂は思わず立ち上がった。
「この動画は、その一度だけ学校に来た時、あの子が取った行動だそうだ」
 正吾は、真剣な顔で茂を見上げた。
「とてもじゃないが、前に会った時のあの子とは到底思えない行動だろう」
「信じらんねぇ~」
「俺も目を疑ったよ」
 とても未来の言動とは思えなかったが、最初の出会い方を考えるとそうでもないかもと思い直した。
「この動画、どうしたんだ?」
「ネットでアップされたものだ」
「ちっ、誰だよ。こんなもの撮ったやつは」
 これには不愉快になり舌打ちした。
「さあな、そこまでは知らねぇ~。とにかく、小学生の間では知れ渡ってるらしい」
「そういえば未来と初めて会った時、自分の名前を広めようとしてたな」
「なんの為に?」
「う~~ん。金儲け?」
「動機が不純だな」
「目的がなんなのかによるな~」
「なら、この動画もその一環だったかもしれんな」
「でも、これじゃあ悪評になるだろう」
「そうだな。実際そうなってるし」
「まあ、本人に聞けばわかることか」
 個人的に気が引けたが、どうせ思考を読まれるので、隠すことはできそうになかった。
「でも、おまえ。これを伝えに来たのか?」
「まあな」
「意外だな。一度しか会ってねぇのに」
「いや、一度じゃねぇよ。あれから学校に謝りにきた」
「はっ?未来がか?」
「ああ。無理やり聞き出して、ごめんなさいって」
「あいつらしいな」
「でも、この動画はあの子らしくないよな」
「だな」
 茂は電子書籍に目を落して、正吾に同意した。
「まあ、これだけ言いたかっただけだ」
 正吾はそう言って、茂が持っている電子書籍を取り上げて鞄に仕舞った。
「あ、もう一つ聞くの忘れてた」
 帰ろうとした正吾が、何かを思い出したように座り直した。
「俺のメアド、なんで知ってるんだ?」
「今頃かよ!」
 本当にいまさらだったので、思わずつっこみを入れた。ちなみに、正吾には二度ほどメールをしていた。
「あの時は怒りが先行して、そこまで思考が回らなかったんだよ。で、誰に聞いたんだ?」
「しいなだよ。断ったんだが、強制的に登録させられた」
「あいつらしいな」
「だな」
 正吾の言葉に、茂もつられて頷いた。
「でも、嫌だったらあとでも消せるだろう」
「おまえが見舞いに来ないことに腹が立ってな。詰ろうと思って消さなかったんだよ」
「なるほどね」
 茂の言葉に納得して、ゆっくりと立ち上がった。
「じゃあな」
「ああ」
 正吾はそれだけ言って、茂を見ずに帰っていった。
「相も変わらず、お節介なやつだ」
 正吾を見送りながら、自然と笑みがこぼれた。二度だけしか会っていない未来のことで、わざわざ茂に伝えにくるところは昔から変わってなかった。

四 若気の至り

 家に帰り、玄関を開けると、未来の靴が揃えてあった。
 あれを知った後で、すぐに会うことは避けたかったので、リビングには寄らず、二階の自室へ向かった。
 部屋に入り、鞄から電子書籍を取り出して、宿題をすることにした。
 しばらくすると、階段を上がってくる音がして、ドアがノックされた。
「お兄ちゃん、帰ってるの?」
 ドアの向こう側から妹の声が聞こえた。
「ああ」
「なんで部屋に直行してるのよ」
 妹がドアを少し開けて、顔を覗かせた。なぜか不機嫌そうな顔をしていた。
「俺の勝手だろう。っていうか、なんで機嫌悪いんだよ」
「う~ん。ちょっと学校で嫌なことがあってね」
「珍しいな。そんなこと愚痴るなんて」
「いや~、久しぶりに頭にきてね~」
「ほぅ~、何があったんだよ」
「お兄ちゃんには言えない」
「だったら、俺の前で不機嫌そうにするなよ」
「内容は言えないけど、知って欲しくってさ~」
「俺がもやもやするからやめてくれ」
「私的には、それが狙いなんだけどね~」
 茂の渋い顔に、妹が満足そうな顔をした。
「おまえは正吾と違って、嫌な奴だな~」
「なんでそこで正兄が出てくんのよ」
「わかりやすい比較対象だよ」
 さっき正吾と会っていたので、思わず彼の名前が出てしまった。
「そういえば、未来は?」
「テレビを見ながら、読唇術の練習してるよ」
「放っておいてるのかよ」
「いや~、私の思考が邪魔みたいでね。お兄ちゃんと話して、発散して来てって言われた」
「どんだけ苛立ってるんだよ」
「だって、むかつくんだもん」
「それでも、俺には言わねぇのかよ」
「言わないんじゃなくて言えないね。そこは間違えないでね」
 そこだけ妹から訂正を求められた。
「で、少しは発散できたのか」
 もう内容を聞くのは諦めて、今の状態を聞いた。
「まあ、少しはね」
「じゃあ、とっとと戻れ」
「お兄ちゃんもリビングに来てよ」
「なんでだよ?」
「たまにはお兄ちゃんも読唇術に付き合ってよ」
「断る。受験勉強でそんな暇はない」
「そう言ってるわりには、未来ちゃんを送ってあげるんだね」
「あれは最低限の気遣いだ」
「相変わらず、そういうところは優しいね~」
「それが優しさに繋がるとは思えねぇんだが」
「繋がらないと思う方が異常だと思うんだけど・・・」
 妹はそう言いながら、呆れ顔を茂に向けてきた。
「いいから、さっさと行けよ。未来が可哀想だろう」
「狡いな~。人を追い出すのに友達使うなんて」
 そんな文句を言いながら、妹は部屋から出ていった。
「確かに狡いかもな」
 妹が閉めた所で、茂は一人そう呟いた。
 日が沈み始めた頃、再び階段を上ってくる音が聞こえてきた。茂は、電子ペンを置いて宿題を中断した。
「お兄ちゃ~ん。未来ちゃん、送ってあげて」
 妹は、ノックもせずドアを開けた。
「ああ、今行く」
 最近では、未来を公園まで送るのが日課になっていた。
 妹の後に続いて階段を下りると、未来が靴を履いて待っていた。フリルのワンピースで全身を包んでいて、左右で結んでいる髪を気にして触っていた。
「じゃあ、あとよろしくね~」
 妹はそう言って、笑顔で手を振って見送った。さっきまでの不機嫌さがなくなっていることが不思議に思ったが、いつものことなのでスルーすることにした。
「はいはい」
 茂は軽く返して、未来と一緒に玄関を出た。
 二人で並んで歩くと、いつものように未来が手を繋いできた。
「今日は、未来に聞きたいことがあるんだが」
 思考で読まれるよりマシだと思い、正吾から聞いた話を切り出すことにした。
「なんですか」
 未来が茂を見上げながら、笑顔で返事をした。
「え~っと、説明が面倒だから思考で伝えるよ」
「なんですか、それ。私の特殊能力を便利ツールみたいに使わないで欲しいですね。これでも引け目を感じてるんですから」
 未来は、笑顔から一転不満そうな顔で茂を見た。
「う~~ん。でも、同じように聞こえるんだろう」
「まあ、そうですけど・・・」
「まあ、どっちでも伝わるからいいじゃん」
「はぁ~、もうどっちでもいいです」
 茂の強引さに、未来は投げやりに答えた。
 茂は、正吾とのやり取りを思い返した。
 すると、未来の表情がみるみる青ざめて挙動不審になった。
「あ、ああ、あれ・・・み、みみ見たんですか?」
 思考が正確に伝わってようで、言葉から動揺が伝わってきた。
「ああ」
 未来の不安を煽らないようになるべく淡泊に答えた。
「け、消したはずなんですが」
「あれって、おまえが投稿したのか?」
 それが茂には一番気になっていることだった。
「は、はい」
「普通に見れたぞ」
「そ、そうなんですか」
 未来は、がっくりと肩を落として項垂れた。ネットに一度アップすると、投稿者が消してもコピーが出回ることを子供の未来は知らなかったようだ。
「意図はなんだったんだ?」
「あ、あまり聞いて欲しくないですね」
「なんで?」
「わ、若気の至りですから」
 1ヶ月前のことを、さも一昔前のことのように置き換えていた。
「まあ、聞かれたくないなら聞かねぇけど」
「できれば、そうしてください」
「わかった」
 本気で嫌がっているようなので、この話は打ち切った。
「読唇術は、どこまで覚えた?」
「半分も覚えてません」
「耳で聞き取ることに慣れてしまってるからな」
「そうなんですよね~」
「まあ、こればかりはどうにもなんねぇ~な」
「それに人によっては、口の動かし方も異なりますから、判別しづらいんですよ」
「確かに、そうかもな~」
 人によって口角の動きが違う為、それはどうしても避けて通れなかった。
「読唇術って、親しくなった人じゃないと使えませんね」
「まあ、最初はそんなもんだ。慣れてくればニュアンスでわかるよ」
「ニュアンスでわかったら、読唇術の意味がないじゃないですか」
「馬鹿だな~。ニュアンスでわかるように読唇術を覚えるんだよ」
「なんか目的があやふやになってますね」
「目的なんてそんなもんだよ」
「そうなんですかね」
 これには未来が、少し複雑そうな顔をした。
「兄さんは、時折雑な発言が目立ちますね」
「そういう時は、相手を気遣ってるんだよ」
「あ、それは、すみません」
 自分への気遣いを察せなかったことに、申し訳なさそうに謝ってきた。
「気にするな」
「うふふ、兄さんは相変わらず、優しいですね」
 茂の言葉に、未来が嬉しそうに笑った。その笑顔は少しだけしいなに似ている気がした。
「そういえば今日のお姉ちゃん、凄く機嫌が悪かったですね」
「そうだな。学校で何かあったらしいな」
「あれ?聞いてないんですか?」
「俺には言えないってさ」
「ああ、そういうことですか」
「なんか聞いたのか?」
「いえ、聞いたというより読んだ、が正しいですね」
「ああ、なるほど。で、内容はなんだったんだ」
「兄さん。流れで答えるほど、私は単純じゃありませんよ」
 未来は呆れながら、流れをシャットアウトした。
「ちっ!ばれたか」
 茂は、わざと舌打ちして顔を歪めた。
「お姉ちゃんの言えないことを私が口外なんてできません」
「律儀な奴だな」
「私は、友達の秘密を暴露絶対にしませんよ」
「ふ~~ん。そうか」
 というか、今までいたのだろうかと疑問が浮かんだ。
「あ、今、失礼なこと考えましたね」
「あ、わりぃ~」
 これには軽い感じで謝った。
「でも、図星だから強く当たれないのは歯痒いですね」
「これからつくれば問題ない」
「軽く言いますね~」
「重く言っても、変わるわけじゃねぇ~からな」
「兄さんは、友達の重要性が低いみたいですね」
「なりたくもない奴と友達になればわかるよ」
 茂はそう言いながら、自然と立嶋と葛木の顔が頭に浮かべた。
「確かに、それもそうですね」
 あの二人と会っている未来は、茂の考えに力強く同意した。
「私も言い寄られるのは、好きではありません」
「おまえの場合は、違う意味でだろう」
「まあ、だいたいは建前で近寄ってきますから」
「おまえも大変だな~」
「全くです」
 公園まで着くと、未来が手を離して茂の正面に立った。
「送ってくれて、ありがとうございます」
 そして、いつものようにお礼を言った。
「ああ、じゃあな」
「はい」
 未来は小さく手を振って、上機嫌で帰っていった。
 茂は、それを見送ってから公園を出た。
「ただいま~」
 家の玄関を開けて家に入ると、自然とその言葉が口に出た。
 玄関の正面にあるリビングのドアを開けると、妹がテレビを見ていた。
「あ、おかえり~」
「ああ、母さんはまだなのか」
「うん。まだ帰ってないよ」
「今日は店屋物かな」
 少し遅くなると、だいたいは店屋物か出前だった。
「まあ、どっちでもいいんじゃない」
 妹は、テレビから視線を外さず答えた。
「それもそうだな。夕食になったら呼んでくれ」
「あ、ちょっと待って」
 リビングを出ようとした茂に、妹が何かを思い出したように呼び止めた。
「ん、なんだ?」
「えっと・・・未来ちゃんから何か聞いた?」
 妹は、少し躊躇いがちに聞いてきた。
「何かって?なんだよ」
「わ、私のこととか」
「特に何も」
「そ、そう・・・」
 これに妹が、複雑そうな顔で脱力した。
「そこまで聞かれたくないことなのか」
「う~~ん。微妙かな。ちょっと恥ずかしいぐらい」
「それなら、おまえから言えばいいだろう」
「私の口から言うのは、凄く恥ずかしい」
 妹は顔を赤らめて、顔を下に向けた。
「胸部でも大きくなったか」
 茂は、当てずっぽうで言ってみた。
「え!やっぱり聞いたの!」
「いや、憶測でものを言ってみた。他人から言われるのが少し恥ずかしくて、自分で言うのはかなり恥ずかしいのは、だいたいは身体の問題だと思っただけだ」
「す、凄いね。憶測でそこまで考えれるなんて」
 茂の推測に、妹が驚いたように目を丸くしていた。
「その反応だと当たってるみたいだな」
「う、うん」
 妹はモジモジしながら、恥ずかしそうに頷いた。
「・・・そうか」
 この事実に、どう返していいかわからず苦い顔をした。
「な、なんか言ってよ」
 微妙な空気に、妹が発言を求めてきた。
「いや、妹の成長に兄の俺がコメントするのはおかしいと思うんだが」
「そ、それもそうだね」
 これには妹がトーンを落として大きく息を吐いた。
 再び場の空気が悪くなり、変な間ができた。リビングには、テレビの音だけが鮮明に聞こえていた。
「あ、あと、おまえの不機嫌な原因も話さなかったぞ」
 気まずさのあまり、話を切り替えることにした。
「え、あ、ああ、あれは確かに言って欲しくないね」
 妹もそれを察して話に乗ってきた。
「流れで聞こうとしたが、友達の秘密は暴露したくないんだとよ」
「それは嬉しい言葉だね。でも、なんでその流れになったのかは気になるところだけど」
「それは・・・未来がおまえのことを気遣ってるんだよ」
 少し強引な気がしたが、この場はそれで切り抜けることにした。
「う~ん。そう言われると、追求はできないね。でも、なんで胸のことは言わなかったんだろう?」
「その言い方だと、言って欲しかったみたいに聞こえるんだが・・・」
「あ、いや、そういうことじゃないんだけど・・・」
 妹は、複雑そうな顔で視線を泳がせた。未来にとっては、妹の胸の成長すら秘密の度合いが一緒のようだ。
「ただいま~」
 すると、玄関の開く音がして、リビングまで声が届いてきた。
 茂はリビングのドアを開けて、母親を迎え入れた。
「あれ?珍しく茂がいる」
 両手にレジ袋を持った母親が、リビングに入ってきた。
「今日は遅いけど、何かあった?」
「うん、ちょっと同僚と話し込んじゃって」
 母親は、レジ袋を床に置いてからそう答えた。
「だから、今日は店屋物にしたわ」
「何にしたの?」
 これには妹が先に反応した。
「いつもの~」
「また~。たまには違うのにしてよ~」
「たまになんだからいいでしょう」
「お兄ちゃんみたいなこと言うね」
 母親の言葉に、妹が呆れた表情をした。
「じゃあ、すぐできるな」
 茂は自室に戻るのをやめて、妹の隣に座った。
「お兄ちゃんがここに座るのって、久しぶりだね」
 なぜか妹が、少し嬉しそうに笑った。
「そういえばそうだな」
 テレビを見なくなった茂は、ほとんどソファーに座ることはなくなっていた。
「おまえは、よくテレビ見るな~。もう専門チャンネルにでも加入すれば?」
 これはいつも妹に言ってることだった。
「別に、お金払ってまで見たいとは思ってないよ。所詮、娯楽の一つだし」
「相変わらず、淡泊な答えだな。おまえの年代だとファッションチャンネルとか、芸能チャンネルとかが主流だろう」
「そんなのお兄ちゃんは、興味ないでしょう」
「え?まあ、俺は興味ねぇな」
 突然の振りに、茂は戸惑ってしまった。
「だったら、私も興味ないよ」
「その接続詞はおかしくないか?」
 これでは茂の趣味に、妹が合わせているようにしか聞こえなかった。
「お兄ちゃん、最近何か興味を持ったことはないの?」
「ん~~、特にねぇ~な。受験勉強で忙しいし」
「はぁ~、じゃあ、好きな人とかできた?」
 妹が項垂れて大きな溜息をつきながら、別の質問をしてきた。
「いや、受験勉強で忙しい」
「お兄ちゃんは、陰気臭い青春を送ってるね~」
「嫌な言い方すんなよ。せめて、未来に向けた青春と言え」
「勉学だけ励んでも、友達はできないよ~」
「もう高校でつくるのは諦めてるよ」
 二人ほど付き纏われているが、ここは敢えてスルーした。
「あ、そう。痛々しい青春だね~」
 妹から哀れみの眼差しを向けられてしまった。
「だから、その目はやめろって」
 人差し指で妹のこめかみを押して、強制的にテレビの方に顔を向けさせた。
「できたよ~」
 キッチンから母親が呼んだので。ソファーから食卓の椅子に移動した。
「真理、最近の学校はどんな感じなの?」
 母親は、妹の学校生活を聞いた。
「うん?特に変わらないよ」
「まだ無視されてるの?」
 これは前に妹が告白したことだった。
「もうそれは一部だけだよ。今では噂も薄れてるし」
「そ、そう。それは良かった」
 これには母親が安堵したように脱力した。
「お兄ちゃんの方はどうなの?」
 ここで妹が、流れで茂に向けてきた。
「同じ感じだな。噂が薄れたせいか、担任が言いふらさなくなったのかは知らねぇけど、クラスメイトも普通に話しかけてくるし」
 これは横峰や三和のことだった。前までは話しかけてすらこなかった。
「やっぱり引っ越そうか?」
 すると、母親が茂たちの現状を心配してそう言ってきた。これは半年前から何度か提案していた。
「いまさらだな」
「私は、お兄ちゃんの意見を尊重するよ」
 妹は、茂に同意するかたちで言った。妹の主張は、半年前からずっと変わらなかった。
「二人は、強いね」
 これに母親が、感心して微笑んだ。
 夕食が終わり、妹と母親はいつも通りリビングでテレビを見始めた。
 茂はリビングを出て、自室で宿題を再開した。
 数十分後には宿題を終え、受験勉強を始めた。よくわからない問題が出たので、これは葛木に聞くことにした。
11時を回る頃、ある程度目処がついたので、今日は寝ることにした。

五 サボり

 金曜日の朝、茂は重い目をゆっくりと開けた。薄暗い中、ベッドの横に置いてある時計を見ると、午前の5時だった。
 それを確認して、二度寝するために寝返りを打つと。その方向に人影が見えた。
「おわっ!」
 驚きのあまり完全に目が覚めた。 
 起き上がって確認すると、薄暗い部屋に妹がこちらを見つめていた。
「あ、起きた」
 茂の驚きを余所に、妹は特に悪びれることもなくしれっとした態度でそう言った。
「何してんだよ!」
 眠気が吹っ飛ぶ状況に、怒鳴りながら迫った。
「寝顔を見てただけ」
「はぁ~?なんだそりゃ~」
 妹の発言に、茂は理解できず眉を顰めた。
「おまえのせいで目が覚めただろう」
 上半身を起こして、妹に文句を言った。
「それはごめん。起きると思わなかったから」
「はぁ~、もう二度寝は無理だな」
 茂は二度寝を諦めて、ベッドから立ち上がった。
「ゲームでもしようか」
「やめとく」
 一週間前にもゲームをしたが、負けず嫌いな妹が何度も再戦してくるので、早朝からのゲームは控えることにしていた。
「ニュース速報でも見るか」
「え~~。つまんないよ。それだったら、私と話そうよ」
 茂がタブレットを起動すると、妹が後ろから不満を言ってきた。
「あ、そういえば、小説まだ読んでいなかったな」
 妹の言葉を無視して、タブレットの図書館のアイコンを起動させた。
「って、私は無視か!」
 これに妹が、大声でつっこみを入れた。
「うるせぇな~。なんか話したいことでもあるのかよ」
「それは今から決めればいいじゃん」
「なんだ、それ」
 この言い分には呆れるしかなかった。
「そうだな。じゃあ、父さんの話でもしようか」
「なんで早朝から嫌な人の話をしなきゃならないのよ」
「俺にとっては、おまえとその話をしたいんだが」
「私は、嫌だ」
「もう許してもいいんじゃねぇか」
「無理」
「じゃあ、どうしたら許すんだよ」
「う~~ん。難しいこと言うね~。というか、なんでお兄ちゃんがそこまで言うのよ」
 茂のしつこい説得に、妹が訝しそうに見つめてきた。
「父さんの性格上、無理だからだ」
「あの人、全然しゃべらないもんね」
 父親は、妹の前では一切口を開くことはなかった。
「おまえは、父さんに対して九割がた難詰だからな」
「あの人がしゃべらないから、そういう風に見えるだけだよ~」
 これには妹が、苦い顔で弁明した。
「まあ、そういうことにしておこう」
「何?そのしたり顔。むかつく」
 茂の表情が気に障ったようで、目を細めて威圧してきた。
「で、父さんを許すにはどうすればいい?」
「う~~ん、難しいね。出ていくにしても、一言ぐらい欲しかったね~」
「それはおまえの日頃の態度のせいだろ」
「そうやって、お兄ちゃんはいつも私が悪いみたいに言うもんね」
「いや、父さんも悪いんだが、年齢のせいで改善の余地がなくてな。ここはおまえの柔軟性に賭けるしかねぇんだよ」
「それで私を説得しようってこと?」
「そうだ」
「う~~ん。わかった」
 少し悩んだ仕草の後に、軽い感じで頷いた。
「いいのか?」
 あまりの気軽い答えに、思わず聞き返してしまった。
「お兄ちゃんの頼みだしね~。許すのは難しいけど、許容はしてあげる」
「じゃあ、帰ってきていいのか」
「それは無理」
「なんでだよ!」
「お兄ちゃんはわかってないね~」
 茂の呆れ顔に、妹がしたり顔で溜息をついた。
「物事には順序があるんだよ。まずは対話からだね」
「慣れることから・・か?」
「そういうこと~♪」
 妹は、嬉しそうに人差し指を回転させた。
「わかったよ」
 その配慮は、父親の帰還に少しだけ光明が見えた気がした。
「じゃあ、さっそく日曜日にでも会ってみようか」
「は?」
 この突飛な発言に、妹が唖然とした。
「急に会うの?」
「は?二日後だろう」
「そういうことじゃないわよ。あの人が日曜日に会えるかの話よ」
「安心しろ。父さんと日曜日に会う約束してるから」
「え!そうなの」
 その事実に予想以上に驚いた。
「お母さんは、知ってるの?」
「母さんからそう言われた」
「・・・私にだけ言ってないんだ」
 疎外感からか、不機嫌そうな顔で呟いた。
「そういう訳だから、日曜日は開けとけよ」
「別に、いつも開いてるよ」
「お互い惨めな休日だな~」
 自分の身の上のことでもあり、虚しげな表情をした。
「そんな言い方はやめてよね!」
 これが癪に障ったようで、高い声で怒鳴ってきた。
「うるせぇな~。耳元で叫ぶなよ」
 椅子に座っている茂の横に、妹の顔があった為に耳鳴りがした。
「ところで、何時に会うのよ」
「それはまだ知らん。明日に連絡があるから、そのとき伝えるよ」
「あっそ」
 お互い暇だった為、時間帯には拘っていなかった。
「だけど、問題は父さんなんだよな~」
 正直、これが一番深刻な問題だった。
「ま、そこは私の関与するところじゃないから」
「ちょっとは考慮してくれ」
「あれでもしてる方だよ」
「そ、そうか」
 妹なりにそこは自重してるようだったが、傍から見てると強く口撃しているようにしか見えなかった。
「もう部屋に戻っていいぞ」
 話すこともなくなったので、手を振って追っ払った。
「酷っ!。もうちょっと気遣った言い方してよね」
 茂の雑な対応に、妹が不快感をあわらにした。
「家族なんだから、自由に発言させてくれ」
「お兄ちゃんの場合、かなりの頻度で深く抉ってくるんだよね」
「それはおまえにも言えることだぞ」
 妹の一方的な言い分に、嫌味も込めて切り返した。
「・・・」
 その返しに、妹が沈黙した。
「なんか言えよ」
「今のは、無しにしよっか」
 自分の発言に思い当たる節が多くあったようで、苦い顔で前言を撤回してきた。
「ご都合主義な奴だな」
「ちょっと用を思い出したから、部屋に戻るね」
 決まりが悪いと感じたようで、そそくさと部屋から出ていった。
「本当に身勝手な奴だな~」
 妹を見送ってから、独り言で呟いた。
 電子書籍でニュースを見るのはやめて、小説の続きを読むことにした。
 小説を読み終わる頃に、母親の呼ぶ声が聞こえた。時計を見ると、いつもの朝食の時間になっていた。
「やっぱり、設定に無理があったな」
 小説の評価はその一言に尽きるものだった。
 リビングに入ると、妹が朝食を取っていた。
「あ、お兄ちゃん。さっきの話なんだけど、もう一つ条件出していい?」
 妹が箸を置いて、食事を中断した。
「条件?」
「最初からあの人と二人きりで話すのは無理な気がするから、お兄ちゃんも立ち会ってよ」
「安心しろ。おまえと父さんを二人きりにする気はねぇよ」
「なら、会ってもいいよ」
 これに少し安心したようで、食事を再開した。
 妹が食事を終えて、先に学校に登校していった。
「さっきお父さんの話してなかった?」
 妹を見送った母親が、食い気味に尋ねてきた。
「うん?ああ、父さんに会ってくれることになった」
「え、本当!」
 これには母親が、嬉しそうに喜んだ。
「それはいいんだが、問題は父さんの方なんだよな~。素直に会ってくれるかどうかだな。母さんから説得して欲しいんだけど」
 父親の説得は、茂より母親の方が適任だと思った。
「わかった。やってみるわ」
 世話好きの母親は、快く引き受けてくれた。
 食事が終わり、身支度をしてから家を出た。
 空は晴れていたが、積乱雲が太陽を遮っていた。
 いつもの登校路を歩きながら、あの二人がどこで待っているかを考えていた。
「やっ!」
 大通りに出ると、葛木が元気よく挨拶してきた。今日は珍しく茂の家から離れているところで待っていた。
「ああ。おはよう」
「あれ、琴音は?」
「知らん」
 最近ではコンビニで待っている立嶋だったが、今日はそこにはいなかった。
「珍しいね」
 葛木はそう言いながら、不思議そうに大通りの先を見た。その視線の先に、学校が遠目で見えた。
「この先にいるのかな~」
「さあな」
 学校まで歩いたが、立嶋はどこにもいなかった。
「今日は休みかな」
「そうかもな~」
 昨日は体調が悪そうだったので、おそらく休むのだろう思って校門をくぐった。
「おはよう」
 すると、後ろから沈んだ声が聞こえてきた。
 この声に驚いて振り向くと、そこには悄然とした顔の立嶋がいた。
「ど、どうしたの!」
 これに葛木が、驚いた様子で立嶋に駆け寄った。
「な、何が?」
「酷い顔よ」
「そ、そうかな。昨日、あまり眠れなかったからかも」
 よく見ると、目の下にはうっすらと隈ができていた。
「いや、そういう問題じゃないわよ、これは」
 葛木は、深刻な顔でそう告げた。
「京橋!なんかした!」
 そして、なぜか茂を睨んで責め立ててきた。彼女の怒声のせいで、登校中の生徒から注目された。
「はぁ?なんもしてねぇよ。っていうか、なんで俺なんだよ」
「この状態は肉体的ではなく、精神的なものよ」
「なんでそう言い切れるんだよ」
「そんなの見ればわかるわよ」
 自信があるのか、当たり前のように言い切ってきた。
「というか、早く教室行かねぇと遅刻になるんだが・・・」
 この流れは良くないので、話を逸らすように二人を急かした。
「・・・京橋、今日は欠席しようか」
 葛木が少し考えて、とんでもない提案をしてきた。
「は?何言ってんだよ」
「ここまで傷心した琴音をほっとけないわ」
 葛木から耳を疑いたくなるような発言が飛び出した。
「おまえ、俺の時とえらく態度が違うな」
 これには理不尽さを覚えて、葛木を睨みつけた。
「か、改心したのよ」
 茂の言葉に、バツが悪そうにはぐらかしてきた。
「ふぅ~、立嶋。悩みをこの場で言え」
 ここで授業をサボることは避けたかった茂は、ぶっきらぼうに問い質した。
「べ、別に悩んでないよ」
 そうは言ったが、表情は沈んだままだった。
「京橋!聞くのには順序があるよ」
 これに葛木が、苛立った様子で睨んできた。
「いや、これは一番最初に聞くことだろう」
 葛木が庇うなんて意外だったが、順序的には間違っていると思わなかった。
「べ、別にいいよ。早く教室に行こう」
 すると、立嶋が茂たちに遠慮して歩き出した。
「ダメよ!琴音、今の自分の顔を鏡で見た方がいいわ」
 葛木はそう言って、立嶋の肩を掴んで引き止めた。
 そんなやり取りをしていると、予鈴が校門まで鳴り響いた。
「このままだと遅刻になるんだが・・・」
 このまま一人で校舎に入ることを考えたが、設定上それはできなかった。
「そうだね。制服でうろつくのは目立つし、私の家で話そうか」
 葛木が茂の言葉を逆に解釈して、独断で欠席することを決めた。
「そうか。じゃあ、俺は教室に行くから」
 この判断に、茂は素早く設定を破棄することにした。
「なんでよ!」
 すると、葛木が過度な反応を示した。
「おまえの家には行きたくねぇ」
「安心してよ。両親はいないから」
 1年の時に葛木の家に嫌々行った茂は、葛木の両親にかなり気に入られてしまっていた。
「そういう問題じゃねぇよ」
「じゃあ、何が問題なのよ?」
「おまえの家に行くという事実が嫌だ」
「そこまで言うことないでしょう!」
 これには葛木が怒り気味に口調を強めた。 
「それに今から行っても、完全に遅刻よ」
 葛木はそう言って、携帯の画面を茂に見せた。
「・・・ちっ、これで内申に傷がついたな」
 確かに今から教室に向かっても、完全に遅刻だった。
「ご、ごめんなさい」
 これに立嶋が、申し訳なさそうに謝罪してきた。
「悪いと思うなら、悩みを白状しろ。親友なんだから」
 とりあえず、設定を守って気遣うことにした。
「し、親・・友・・・」
 その言葉を聞いた立嶋が、一瞬で涙目になった。
「な、なんで!」
 この反応に、葛木が驚いた。
「とにかく、ここを離れよう」
 周りを見ると、既に校門には誰もおらず本鈴が鳴り響いた。
 校門を出て、茂たちは来た道を戻った。
「ああ、そうだ。仮病の電話をいれとかねぇとな~」
 無断欠席すると警察が動くので、これは避けて通れなかった。
「それもそうだね。ほら、琴音から電話して」
「う、うん」
 立嶋は、申し訳なさそうに頷いた。
「ご・・・」
「謝るのはやめてよね。私たちは自分の意志でそうしただけだから」
 立嶋の言葉を察したようで、葛木がそれを遮った。
「俺は、意志というより設定だがな」
 そこは勘違いして欲しくなかったので、念の為に訂正しておいた。
「京橋、余計な発言は控えて」
 すると、葛木がこっちを睨んで威圧してきた。
「うっ、わりぃ~」
 これは茂に非があるので、素直に謝っておいた。
「じゃあ、私の家に行こうか」
「不本意だが、しゃあねぇ~な~」
 立嶋を放って帰る訳にもいかず、ここは折れることにした。
「そういえば、携帯の番号聞くの忘れてたね」
 葛木が立嶋を気遣いながら、携帯を取り出してそう言った。携帯は学校からの支給品で、折り畳み式の旧型だった。
「琴音、番号交換しようか」
「え、あ、うん」
 立嶋は、葛木に言われるがまま赤外線で番号を交換した。
「さて、問題は京橋なんだけど・・・」
 葛木が少し間をおいて、茂の方を見た。
 1年の時に葛木から何度も番号を聞かれていたが、茂は頑なに教えなかった。理由は単純に嫌いだったからだ。
「う~~ん。困ったな」
 しかし、今は設定上友達ということになっているので、立場的に教えるのが当然だった。
「困るな!」
 これには葛木からつっこみが返ってきた。
「よし、親友の立嶋にだけ教えることにしよう」
 悄然とした立嶋を気遣って、そこは妥協することにした。
「私だけ除け者にしないでよ!」
 これに葛木が、不満一杯の顔で抗議してきた。
「ええ~~、でもな~。割に合わね~」
 本気で嫌だったので、本気で渋った。
「なんでここだけは本音で言うのよ」
「マジで嫌だから」
 葛木に対して、茂は真顔で答えた。
「くっ、じゃ、じゃあ、み、見返りをここで求めるわ」
「は?なんの話だ?」
「前に、私に貸しをつくったでしょう」
 どうやら、前に出した交換条件のことを言っているようだ。あの時は、緊急事態を避ける為、仕方なく貸しにしていた。
「ちっ!わかったよ。その携帯、ちょっと貸せ」
 茂は舌打ちして、葛木の携帯を奪い取った。ここで拒めば再び公園で待ち伏せされる恐れがあったので、それだけは避ける必要があった。
「なんか、釈然としないな~」
 茂の対応に、葛木が不満そうに携帯を手渡してきた。
「えへへ~。京橋の番号、やっともらえたよ~」
 さっきまでの不満な顔をしていた葛木が、一転して嬉しそうに携帯の画面を見つめていた。
 番号の交換が終わり、5分おきに学校に仮病の電話をかけた。
 しばらく黙って歩いていたが、立嶋の表情はずっと曇ったままだった。
「本当にどうしたんだろう」
 葛木が茂越しに、立嶋を心配そうに見つめた。
「まあ、それを聞くためにおまえの家に行くんだろう」
「それはそうだけど・・・」
 何か言いたそうにしていたが、言葉が続くことはなかった。
「そういえば、昨日の別れ際も同じ様な感じだったな」
「やっぱり、京橋が何かしたんじゃないの?」
 すると、葛木が茂を詰るように睨んできた。
「いや、あの時は立嶋は一言もしゃべらなかったぞ」
「ねぇ~、琴音。そろそろ理由を聞きたいんだけど」
 一向に会話に入ってこない立嶋に、葛木が堪らず声を掛けた。
「う、うん」
 立嶋はそう返事をしたが、その後の言葉が出てこなかった。
「これは重症だね」
 葛木は、追求することを諦めて溜息をついた。
「ちょっと、コンビニ寄ろうか」
「なんで?」
 葛木の発案に、茂は思わず聞き返した。
「だって、家にお菓子の類がないのよ」
「買い置きしてるんじゃないのか?」
 葛木の家に招待された時は、大量のお菓子を出された記憶があった。
「京橋が来た時は、前もって両親に言ってたから大量に買ってきただけだよ。まさか、あそこまで大量に買い込むなんて思わなかったけど・・・」
 あれは葛木にも予想外だったようで、恥ずかしそうに茂から視線を逸らした。
 コンビニに入り、菓子コーナーで葛木がどれにしようか悩んた。
「これにしようか」
 そして、嬉しそうにスナック菓子を手に取った。
「自分の好きなの選んでどうするんだよ」
「え?あ、そっか」
 茂の指摘に、葛木がハッとした顔をした。
「琴音。どれでも好きなの一つ選んで」
 葛木は商品を置いて、立嶋に選択権を与えた。
「なんで一つなんだよ」
 葛木の気前の悪さに、思わず呆れてしまった。
「お金がないからよ!」
「おまえの家って、小遣い制じゃねぇ~のか」
「違うわよ。親は必要な時しかお金くれないよ」
「そりゃあ、難儀な話だな」
 これには少しだけ同情してしまった。
「仕方ない。俺が出そう」
「え!いいの?」
「ああ。好きなのを選べ」
「よかったね。琴音」
 葛木はそう言いながら、率先して商品に目をやった。
 茂はしばらく黙っていたが、徐々に苦い顔になった。
「お、おまえら、少しは遠慮しろよ」
 茂は、かごに入った山積みの商品に呆れてしまった しかも、ほとんど葛木が選んでいた。
「いや~、好きなの多くて」
「なら、選別しろ」
「だって、ほとんど食べたことない新商品なのよ。選別なんて無理だよ」
「コンビニ商法にはまるんじゃねぇよ」
「だとしたら、コンビニのせいね」
 葛木は悪びれることなく、凛とした態度で言い放った。
「責任を転嫁すんなよ」
 この言い訳に拳で頭を小突いた。
「たまにはいいかなって思って」
 茂の責めに屈することなく、葛木が照れてはにかんだ。
「俺の金だろう」
「京橋、大好き」
「誤魔化すな!」
 葛木のぶりっ子に、思わず怒鳴ってしまった。
「これ、お願いしま~す」
 その茂を無視して、かごをレジに置いた。
「図々しい奴だな」
 茂は文句を言いながら、会計を済ませた。
「えへへ~、今日はいい日だね」
 コンビニを出ると、葛木が笑顔で茂の持っているレジ袋を見つめた。
「はぁ~、現金な奴だな」
 茂は溜息ついて、葛木を蔑視の眼差しで見た。
「ありがとう」
 しかし、その視線を笑顔で受け流してお礼を言った。
 この後、葛木の家に着くまで、立嶋は一言もしゃべらなかった。

六 訪問

 葛木の家は一軒家の平屋建てで、家族構成は一夫一妻の一人っ子だった。
「さあ、入って」
 葛木が玄関の鍵を開けて、茂たちを迎え入れた。玄関の左横の庭に犬小屋があり、柴犬が繋がれていた。
「お、お邪魔します」
 立嶋は会釈して、柴犬を横目に中に入った。
「う、うん」
 元気のない節度なお辞儀に、葛木が少し戸惑っていた。
「もう来ることもないと思っていたのにな~」
 茂は、溜息交じりにぼそりと呟いた。
 玄関を上がると、L字になっている廊下を歩いた。その廊下の途中の左側がダイニングで右側がリビングだった。葛木の部屋は、L字の廊下を左に曲がった奥にあった。
「京橋、琴音を私の部屋に案内して」
 葛木はそう言って、ダイニングの奥のトイレに入っていった。
「普通、俺に頼むか?」
 廊下に来客を残していったことに、思わず愚痴が出た。隣の立嶋は、ずっと悄然とした表情だった。
「おまえいつまでそんな顔してんだよ」
 これにはうんざりして、立嶋の頭を掴んだ。
「あう」
 突然のことに、立嶋が声を漏らした。
「こっちだ」
 立嶋の頭を掴んだまま、葛木の部屋へ向かった。
 立嶋はわずかに抵抗しただけで、茂の手を振りほどくことはなかった。
 葛木の部屋のドアを開けて中に入ってから、立嶋の頭から手を放した。ついでに大量の菓子が入ったレジ袋をその場に置いた。
「さて、どこに座ればいいんだ?」
 葛木の部屋は四畳間で、正面に学習机と椅子、その隣にベッドがあり、茂の横にはテレビを移すプロジェクターと、向かい側に一人用の座椅子があった。
「っていうか、二人いるのになんで部屋なんだよ。リビングに招けよ」
「さっきから愚痴が多いね」
 ここで立嶋が、ようやく自ら口を開いた。落ち込んでいても葛木の部屋を興味があるようで、しきりに部屋を見回していた。
「それぐらい嫌な場所なんだよ」
「そうなんだ。葛木さんの部屋って、かなり整理されてるね」
 茂の愚痴を軽く流して、部屋の感想を口にした。
 葛木の部屋は物があまりなく、ベッドも机もテレビも一般的なものばかりだった。むしろ、女性らしい物がほとんどなかった。
「あいつは、少しだけ神経質だからな。乱雑してるのが、嫌いなんだとよ」
「へぇ~、凄いね。私の部屋は物で溢れて、置き場がない状態だよ」
「そうか。明日だけは整頓しとけよ」
「う、うん」
 少しずつではあるが、立嶋の調子が戻ってきた。
「おまたせ~」
 葛木がドアを開けて、元気よく入ってきた。
「なぁ~、リビングに移動しねぇか」
「え、なんで?」
「ここに三人は多いだろう」
 ベッドと学習机で半分占領されている部屋に、三人は空間的に狭かった。
「確かにそうだね。でも、その案は却下します」
「なんでだよ」
「狭い方が密着できるから」
 葛木が恥ずかしそうに体をくねらせて、茂の方をチラチラと見た。
「立嶋。ここは本音を言ってもいいのか?」
 思わず暴言を吐きそうになったが、立嶋に声を掛けることで思いを紛らわせた。
「絶対ダメ」
 これには立嶋が迷いなく首を振って即答した。
「琴音は、椅子に座っていいから。私と京橋はベッドでいいよね」
 葛木は、率先して座る場所を指定してきた。
「なんでだよ。普通は立嶋と葛木がベッドだろう」
 さすがにこれには即座に反論した。
「ダメよ」
「いや、悩んでるのは立嶋なんだから、距離があると口が重くなるだろう。これは会話術の鉄則だって、テレビで言っていた気がするぞ」
 話の流れで、先週見たテレビ番組を引き合いにして言ってみた。
「ああ。そういえば、そんなこと言ってたね~」
 葛木もそれを見ていたので、思い出したように同調した。
「しょうがない、琴音。私の隣に座りなさい」
「俺は、座椅子にでも座るよ」
 茂は、葛木の了承を待たず座椅子に座った。
「ちぇ、わかったわよ」
 葛木は、不満そうな顔で口を尖らせた。
「で、琴音。もう話してもいいでしょう」
 葛木が立嶋の肩を掴んで、ベッドに強引に座らせた。
「だな」
 茂は座椅子をベッドの方に向けて、立嶋を見上げた。
「言いたくないとかは無しよ」
 せっかく欠席したのに、何も聞けないのは茂にとっても勘弁して欲しかった。
「う、うん」
 葛木の言葉に、立嶋が再び申し訳なさそうに頷いた。
「えっと、昨日のことで、ちょっと」
 立嶋が俯きながら、茂をチラッと見た。
「俺が原因か?」
「うん。まあ、一応、そうかも」
 立嶋が煮え切らない感じで、再度茂の顔を盗み見た。
「イライラするわね。はっきりしないさいよ」
 短気な茂よりも、葛木が先にキレそうな感じだった。
「そ、そうだね」
 立嶋は、気持ちを整えるように深呼吸した。
 そして、茂たちに悩みを打ち明けた。
「馬鹿じゃねぇ~」
「馬鹿だね~」
 それが聞き終わった二人の感想だった。
 立嶋の悩みは、茂と正吾との気兼ねない会話だった。傍から見て、親友であるはずの自分より楽しそうな会話だったらしい。それに劣等感を募らせたようだ。
「琴音。それ完全に嫉妬だよ」
「だな」
 茂は、葛木の解釈に同意した。
「嫉妬?」
 立嶋が不思議そうに、その言葉を復唱した。
「そっ、人間関係において、よくあることよ。京橋が他の人と親しく話すことが琴音には許せなかったのね」
「ち、違うよ!私は、ああいう会話がしたいと思っただけだよ」
 葛木の言い分が納得できないのか、立嶋がよくわからない弁解をしてきた。
「だから、それが嫉妬なのよ」
「へっ、そうなの?」
 長く人付き合いしたことがないのか、立嶋には嫉妬の意味がよくわかっていないようだった。
「そうだよ。だって、自分がそういうやり取りをしたいのに、それを他人にやられたのが、ショックだったんでしょう」
「う、うん」
 葛木の説明に、立嶋が子供のように身を縮めて恐縮した。
「琴音は、可愛いわね」
 そんな戸惑っている立嶋を見て、葛木が微笑んだ。
「さて、悩みも解決したし、これからどうする。ゲームでもする?」
「えっ!解決したの?」
 これに立嶋が驚いて、茂たちを交互に見た。
「したじゃん。よくある嫉妬よ。気にすることないわ」
「そ、それって、解決って言うかな?」
 葛木のしれっとした返しに、立嶋が訝しい表情になった。
「まあ、普通は言わねぇ~な」
「だよね!」
 茂の言葉に、立嶋が強く反応した。
「だが、解決方法もねぇ~な」
「え、そうなの?」
「だって、これはおまえ一人の問題だろう」
「まあ、そうだけど」
「だったら、おまえが寛容になればいい」
「そ、それはそうかもしれないけど」
 立嶋は、複雑そうな顔で視線を泳がせた。
「というか、おまえは俺と正吾の会話を羨ましいと思って見てたのか?」
 茂にとって、これが一番の疑問点だった。葛木との時は、立嶋にはそんな感情は見受けられなかったのに、なぜ正吾にはそう思ったのか不思議だった。
「う、うん」
 これに立嶋が、恥ずかしそうに頷いた。
「なら、これからそうなればいい」
 正直、これしか嫉妬を解決する方法がなかった。
「そのためには、今までの一方的な話し方を見直す必要があるんだが・・・」
「うっ!」
 この事実に、立嶋が気まずそうに顔を伏せた。
「が、頑張ってみるよ」
「じゃあ、この悩みは解決だな」
 これは本人の問題なので、これ以上のことはできなかった。
「じゃあ、俺は帰るよ」
「え、なんでよ!」
 茂がそう言って立ち上がると、葛木がすぐに反応した。
「なんでって、もう解決したし。それに親にも連絡いくから帰っておくよ」
 仮病とはいえ、本人が休むことを電話で伝えると、学校側から親に連絡がいくようになっていた。これは不登校を無くすための措置でもあった。
「ああ、それは忘れてたね。ってことは・・・」
 そう言った瞬間、携帯電話の着信音が鳴った。
 茂たち三人は、自分の携帯を取り出した。鳴っていたのは、茂の携帯だった。
「やっぱりな」
 これは予想通りだった。あの件以来、母親は茂に対して過度な心配性になっていた。
「はい」
 二人が見ている前で、茂は電話に出た。
『ど、どうしたの!』
 第一声から母親の動揺がピークだった。
「ああ、安心していい。仮病だから」
『へっ!け、仮病?』
 さっきまでの焦りの声が一転して、気の抜けた声になった。
「ああ、ちょっと立嶋が傷心していたから、仕方なく休んだ」
 立嶋の名前を持ち出して、その本人をチラ見した。
『琴音ちゃん、何かあったの?』
「もう解決した」
『そ、そう』
 あまりの短時間の解決に戸惑った声になった。
「じゃあ、そういうことでもう切るから」
 ちゃんと理由を説明したので、これ以上は無駄だと感じた。
『え、ちょ、ちょっと!』
 何か言いたそうだったが、無視して電話を切った。
「じゃあ、帰る」
「え、今の会話で仮病って伝えたんでしょう」
 ドアのハンドルに手を掛けたところで、葛木が早口で聞いてきた。
「ああ、そうだが」
「なら、もう帰る必要なくなったんじゃないの?」
「何言ってんだ?もうここにいる必要がねぇから帰るだけだ」
 葛木の的外れの発言に、茂は少し呆れてしまった。
「って、素で帰るだけなんだ」
「当たり前だ」
 茂にとっては、この場に留まることは非常に危険だった。葛木の両親が帰宅する前には、確実に帰っておきたかった。
「でも残念。もう帰れないから」
 すると、葛木が意味ありげにそう言って、不敵な笑みを浮かべた。
「何言ってるんだよ」
 意味がわからず、ドアのハンドルを下げた。
「あれ?」
 しかし、ハンドルが下がらなかった。
「鍵掛けてるから、開かないわよ」
 葛木は、得意げにそう言った。
「あれ?解除ボタンがねぇ~ぞ」
 前回来た時は、一般的なレバーハンドルのボタン式の室内錠だったが、その開錠ボタンが見当たらなかった。
「ああ、それはオートロック式に取り替えたから、このスマートキーでしか、この扉は開かないわ」
 葛木はそう言うと、指でつまんだスマートキーを茂にチラつかせた。
「オートロック?でも、さっき俺がここに入った時、普通に入れたぞ?」
「ああ、それは私が廊下で開錠しといただけよ」
「なんでオートロックにしたんだよ。これじゃあ、両親も入れねぇだろう」
「高校卒業したら、一人暮らししたいって言ったら、ドアノブだけを取り替えて、これで我慢してくれって言われた」
「・・・よくわからん両親だな」
 両親にとって、葛木が出ていくことが耐えられないようだ。
「それより、ここを開けてくれないか」
 このままでは帰れないので、仕方なく葛木に頼んだ。
「だから、帰ったらダメだって」
 茂の頼みを、葛木は軽い口調で一蹴してきた。
「あ、トイレに行きたいから、開けてくれ」
 茂は、咄嗟に閃いたことをそのまま口にした。
「京橋、いくらなんでもその流れで開けないわよ」
「ちっ!」
 さすがにこれには乗って来なかった。
「これって、監禁って言わねぇか」
 よく考えれば、正真正銘の犯罪行為だった。
「うん。監禁だね」
 これに立嶋が、葛木を横目に同意した。
「少しは遊ぼうよ。時間もたっぷりあるんだし」
「それは無理だな。帰って今日の授業範囲の自習しねぇ~と」
「勤勉すぎだよ、京橋」
「それぐらい切羽詰ってるんだよ」
「じゃあ、ここでしようか。私が教鞭振るってあげるから」
「できるのかよ」
「やるだけやってみるわ」
 葛木はそう言って、鞄から電子書籍を取り出した。
「そこまで一緒にいたいんだ」
 隣の立嶋が、呆れ顔でぼそっと呟いた。
「琴音。不用意な発言はやめようね」
「ごめんなさい」
 葛木の威圧に、立嶋が委縮して謝った。
「という訳で、電子書籍を立ち上げて、椅子に座って」
 葛木が教師のように立ち振る舞って、学習机の椅子に座るよう促した。
「わかったよ」
 ここで葛木と言い合いするのも時間の無駄だと思い、素直に従うことにした。
「時間割では公民からだっけ?」
「そうだな。だいたい十二ページは進めるな」
「あの担当教師、無駄話をちょくちょく入れてくるから、全然進まないのよね~」
「確かにな」
「では、授業を始めます」
 何を思ったか、葛木が担当教師の真似をした。ちなみに、口調だけで声は全然似てなかった。
「あの、私も参加したいんだけど」
 すると、立嶋がおずおずと挙手をした。
「琴音に教える自信はありません!」
 それに対して、葛木が担当教師の口調を似せて力強く拒絶した。
「そ、そんな~」
 これに立嶋が、悲しそうな顔を葛木に向けた。
「琴音は、ゲームでもしておいて」
 葛木は、プロジェクターの脇に置いてあったコードレスのコントローラーを立嶋に差し出した。
「ゲームってしたことないから、わかんないよ」
「え!」
 この事実に、葛木が驚愕した。
「立嶋は、珍種だな~」
 立嶋がゲームをしないことは知っていたが、したことがないとは思わなかった。
「じゃ、じゃあさ、ネットで情報収集でもしておいて」
 葛木が表情を引き攣らせながら、無難な案を提示した。
「せっかく友達といるのに、それは嫌だよ~」
「ああ~~、う~ん。わかったわよ。じゃあ、琴音が教師役をやってみてよ」
 泣きそうな友達を前にしては、さすがの葛木も除け者にすることができないようだ。
「わ、私が教師?」
「だって、琴音に教える自信ないし、京橋も無理でしょう」
「ああ、無理だな」
「という訳で、琴音が教える側になるしかないのよね」
 葛木は、消去法でそう結論づけた。
「わ、わかった。やってみる」
 立嶋が意気込んで、表情を引き締めた。
 こうして立嶋の授業が始まった。

七 (仮)授業

 立嶋は、プロジェクターに端末を挿して、壁に電子書籍の画面を映し出した。茂の家では超薄型テレビを使用しているが、葛木の家は壁をスクリーンにしたテレビだった。プロジェクターには、ゲームやディスクプレイヤーが内蔵されてる一体型だった。
 葛木が座椅子に座り、茂は学習机の椅子で琴音の授業を受けた。
 約20分、延々と続く立嶋の説明に、二人は睡魔と闘っていた。
「もう・・・限・・界」
 葛木が眠気に耐えられず、横のベッドに頭を預けた。
「ど、どうしたの?」
 突然のことに、立嶋が心配そうに葛木に近寄った。
「おまえの授業、かなり眠くなる」
 茂は、眠気に耐えながら目を擦った。
 立嶋の授業は、電子書籍の教科書で抜けている情報を自分の知識で補っていた。そのせいで、20分で二ページしか進んでいなかった。
「そ、そうかな」
「重要な語句かもしれないけど、それに対しての説明が長すぎるんだよ。これじゃあ、授業が遅延しちまう。ちゃんと時間配分も考えてくれ」
「そんなこと急に言われても無理だよ~」
「それもそうだな、俺たちは教育に対しては素人だもんな~」
 そのことを考えて授業を進行していると思うと、少しだけ教師に対して労いの気持ちが芽生えた。
「それより葛木を起こせ」
 完全に寝入る前に、立嶋にそう促した。
「そ、そうだね。葛木さん、起きて」
 立嶋はそう言って、葛木の肩を揺すった。
「う・・ん。もう眠い」
 しかし、葛木は起きる様子はなかった。
「よし、立嶋。今の内に葛木からスマートキーを取ってくれ」
 これはチャンスだと思い、立嶋に頼んでみた。
「え、帰るの?」
「当たり前だ」
 立嶋の戸惑いに、茂は堂々と言い切った。
「葛木さん。起きないと京橋が帰っちゃうよ」
「それは異常事態だね」
 立嶋の言葉に、葛木が素早く体を起こした。
「余計なことすんなよ」
「だって、このまま帰すと、私が葛木さんに責められそうなんだもん」
 これに立嶋が、口を尖らせて反論してきた。茂の詰りより、葛木の非難の方が怖いようだ。
「琴音。あなたは教育者失格よ」
 葛木はそう言って、教師役を一方的に剥奪した。
「う、うん。そうみたいだね」
 立嶋は、それに反論せずに頷いた。
「仕方ないので、私が教師をします」
 葛木が立ち上がって、体を伸ばしてからそう言った。
「さて、公民の授業が終わるまで、20分か。残り十ページはあるね~」
「まとめることができるのか?」
「まあ、重要な部分だけ抜き出して、まとめてみるわ」
 こうして、葛木の授業が始まった。
 結果的に、20分でよくまとめられたわかりやすい授業だった。
「なかなかうまいな。教師に向いてるんじゃねぇ~か」
 これには感心して、葛木を褒めた。
「そ、そうかな」
「う~~ん。私的には、重要な語句はもう少し深く掘り下げた方がいいと思うな~」
 これに反するように、立嶋が自分の意見を言った。
「そんなことしたら、時間が足りないでしょう。時間の配分も考えるなら、その掘り下げは取り入れない方が無難よ」
「そ、それはそうだけど」
 葛木の言い分に、立嶋は反論できないようで口を窄めた。
「じゃあ、10分休憩だね」
 葛木は、時計を見てそう言った。
「じゃあ、トイレ行っていいか」
 これはチャンスだと思い、ドアの鍵を開けてもらおうと試みた。
「いいけど、帰ったら罰を与えるよ」
「なんでだよ」
 この身勝手な主張には、すかさず反発した。
「二時限目は数学です。欠席は認めません」
 今度は数学の担当教師の真似してきたが、公民の教師よりは似ている気がした。
「あはは~、結構似てるね」
 葛木の雑な物真似に、立嶋が大笑いした。
「わかったから、開けてくれ」
 ここで交渉するのは得策ではないと感じたので、素直にトイレに行くことにした。
「逃げちゃダメだよ」
 葛木が念を押して、スマートキーのボタンを押した。
 ダイニングの奥にあるトイレで用を足して、葛木の部屋へ戻ろうとすると、葛木が部屋から出てきた。
「どうした?」
「ちょっと親から電話があってね」
 葛木はそう言って、持っていた携帯を耳に当てて会話を始めた。
 茂は、葛木に気遣って先に部屋へ戻った。
 部屋では、立嶋が電子書籍に目を落していた。
「おまえは、親から電話はねぇのか」
 少し気になったので、立嶋に軽く聞いてみた。
「ん?そうだね。たぶん、忙しいんだよ」
 立嶋は、興味なさそうに答えた。
「それにしても、おまえって立ち直り早いな」
 さっきまでの落ち込んだ表情は、もう欠片も見受けられなかった。
「話したら、なんか気が楽になっちゃった」
「そうか。それは良かったな」
「うん。ありがとう」
 これに立嶋が、笑顔でお礼を言った。
「でも、悩みを解決したら一つ問題が出てきたんだよね~」
 珍しく立嶋が、うまく話を振ってきた。
「なんだよ」
「とっても眠い」
 立嶋は少し苦笑いして、眠そうにまぶたを下げた。
「確かに、目に少し隈ができてるな。少し寝た方がいいんじゃねぇか」
 茂は、ベッドに座ってる立嶋に近づいて顔を覗き込んだ。
「きょ、京橋。顔近いよ」
 すると、立嶋が顔を後ろに逸らして赤面した。
「ちょっと、二人とも何してるの?」
 後ろのドアが閉まる音がして、葛木の声が聞こえた。なぜか怒ってるような口調だった。
「もう電話はいいのか?」
「そんなことより何してたの」
 茂の質問を無視して、再び問い質してきた。
「何が?」
 質問の意味がわからず、茂は首を傾げた。
「だから、二人で顔を近づけて何してたのよ」
「立嶋の目の隈を見てただけだ」
「あんなに近づいて?」
「そうだが、何か問題でもあるのか」
 葛木の執拗な詮索は、茂には理解できなかった。
「それより、立嶋が眠いんだとよ。ここで寝かせてやってくんねぇ~か」
 これ以上は面倒だったので、話を切り替えた。
「そうなの?」
「うん」
「いいよ」
 葛木は、軽い感じで了承した。茂には他人にベッドを使われるのは嫌いだが、葛木は気にしないようだ。
「いや、いいよ」
 これに立嶋が、首を振って断った。
「遠慮しなくていいわよ」
「でも、悪いよ~」
 それから約3分間、永遠続くのではないかと思うほど、お互いの掛け合いが続いた。
「いいから寝ろっ!」
 先に痺れを切らせたのは葛木だった。
 葛木は怒鳴って、立嶋を強引にベッドに押さえつけた。
「わぷっ!」
 立嶋は押し倒されて、顔を枕に埋められた。
「強引過ぎるだろ」
 あまりの乱暴な行為に、茂は呆れて気味につっこんだ。
「だって、切りがないんだもん」
 葛木は、苛立ちながら反論してきた。
「立嶋。ここはおまえが折れろ」
 茂はそう言って、うつ伏せに倒れた立嶋に掛布団を掛けた。
「わ、わかった。言葉に甘える」
 立嶋は、諦めたようにうつ伏せのまま応えた。
 数分後、立嶋の寝息を確認してから立ち上がった。
「俺は帰るよ」
「え、帰るの?」
「だって、立嶋がここで寝たから授業はできねぇだろう」
「・・・もしかして、これが狙いだったの?」
「いや、立嶋が眠いって言わなかったら考えつかなかった」
「ちっ!琴音の馬鹿」
 葛木は、気持ち良さそうに寝ている立嶋を睨んで舌打ちした。
「ドアを開けてくれねぇか」
 鍵が開いていることを祈って、ドアのハンドルを下げたが、鍵が掛かっていて下がらなかった。
「しょうがない、リビングで授業しようか」
「たまにはおまえが折れてくれねぇ~か?」
「無理ね」
「あ、そう」
 この堂々とした発言には、本当に溜息しか出なかった。
「俺は、いつ帰れるんだ」
「なんなら、泊まっていってもいいよ~」
「その冗談は笑えんぞ」
 この申し出は、最上級の嫌がらせに近かった。
「・・・」
 茂の表情を見て、葛木が項垂れてぼそっと呟いた。
「なんか言ったか?」
「なんでもない」
 葛木は少し寂しそうな顔をして、スマートキーで開錠した。部屋には立嶋が寝ているので、ドアを開けっ放しにしておいた。
「なあ、聞きたいことがあるんだが」
 部屋を出て、葛木に話を切り出した。
「ん、何?」
「おまえの両親は、いつ帰ってくるんだ?」
「う~~ん。日によって違うけど、今日はお母さんが3時ぐらいで、お父さんは6時ぐらいになるって言ってた」
「結構早いな」
 茂たちはリビングに入って、L型ソファーに座った。
 茂の座った正面には、テレビ用のプロジェクターがテーブルの端に設置されていた。
「さっき電話で京橋が来てるって言ったらそうなった」
「おまえ、俺がいること言ったのか」
 余計な告げ口に、茂は自然と顔が引き攣った。
「うん。流れで言っちゃった」
「最初に言っとくが、その前に帰るからな」
「じゃあ、それまで居てよ」
「わかったよ。ただし、授業を続けるのが条件だ」
 ここにいるのは不本意だったが、葛木の授業は効率的で魅力的だった。
「うん、わかったよ。っていうか、もう授業始まってるね」
「数学も脇道に逸れることが、多少のズレは大丈夫だろう」
「まあ、そうだね~」
 葛木はそう言って、リビングのプロジェクターに端末を挿して、スクリーンに教科書の内容を映し出した。
 葛木の教え方の上手さに再度感心しながら、数学の授業を受けた。
「という訳で、この定義は物理でも応用されから、覚えておくのに越したことないわ」
「なるほど。っていうか、これって物理だよな」
「そうね。物理以外で使うことないんじゃないかな。まあ、ベクトルが数学か物理かなんて、ここで議論しても仕方ないでしょう」
「そうだな」
 葛木の言い分ももっともだったので、これ以上はやめておいた。
 時間になり、二時限目が終了した。
 気づくと、いつもの倍近く進めてしまっていた。
「ちょっと進めすぎたかな」
 葛木はそう言って、教科書を戻しながら見直していた。
「予習にもなったし、助かったよ」
「そう?それは良かったわ」
 茂の感謝に、葛木が嬉しそうに笑った。
「でも、習ってもねぇのによく俺に教えられるな」
「そんなの教科書見れば、誰でもできるよ。そういう風に作られてるんだから」
 さも当然のように言い放ったが、教えるにはそれなりの知識と説明力が必要なはずで、それをそつなくこなす葛木はただの凄い奴だった。
「おまえは、頭がよく回る奴だな」
「何それ、馬鹿にしてるの?」
 茂なりに褒めたつもりだったが、葛木には伝わらなかった。
「してねぇ~よ。それより、休憩にしよう」
 自分から褒めてるとは言いたくなかったので、話を変えることにした。
「そうだね。なんか飲む?」
「水道水とコーヒー以外なら、なんでもいいぞ」
「コーヒー、ダメなの?」
「ああ、あの苦味は耐えられん」
「私もブラックコーヒーは苦手だね~」
「あ、そう」
 あまりのどうでもいい話に、自然と生返事になってしまった。
「って、少しは私に関心持ってよ」
「持ってる持ってる」
 面倒臭いので、軽い感じで何度も相槌を打った。
「ここまで思いのこもってない言葉を聞くのも久しぶりだよ」
 これは1年前に葛木に対して、仕返しのためによく使う手だった。
「それより、飲み物をお願いしたいんだが」
「わかってるわよ」
 茂の催促に、葛木が不満そうに飲み物を取りに行った。
 その間にタブレットでいろいろ調べ物をしていると、葛木が花柄の可愛らしいコップにお茶を入れて持ってきた。
「あれ、このコップ?」
「え、な、何?」
 茂の言葉に、葛木が顔を引き攣らせて動揺した。
「俺の記憶だと、これっておまえ専用のコップじゃなかったっけ?」
 1年前、ここに来た時に葛木が使っていたコップだったことを思い出した。
「い、いや、新しく買ったから、それは来客用にしただけだよ」
 そう言い訳していたが、最初の声が上擦っていた。
「まあ、いいか」
 気にしても仕方ないので、お茶を口に含んだ。それを葛木が笑顔で見ていた。
「次は芸術だね~」
 葛木が電子書籍の時間割を見て、画面を切り替えた。
「どうしよっか」
「そうだな。芸術はやめて、現文しよ~か」
 芸術は選択制で音楽、美術、工芸に分かれていて、二人は工芸を選択していた。
「そうだね。工芸は口頭だけじゃあ、教えることはできないからね」
「そもそも家で工芸なんてしねぇ~しな」
「そうだね~。私も趣味じゃないわ」
 茂たちは、間を取るようにお茶を飲んだ。
「京橋。一つ聞きたいんだけどさ~」
 葛木が一息ついて、茂を見つめてきた。三時限目までは15分の休憩時間で、まだ5分近く時間があった。
「なんだよ」
「もしかして、私のしたこと気づいてる?」
 いきなり抽象的な質問をしてきた。
「主体が見えねぇんだが。ちゃんと主語を入れてくれ」
「わざとなんだから、空気読んでよ~」
「なら、知らん」
 主語がないのに、気づけるわけがなかった。
「そう。ならいいや」
 これに葛木が、安心したように話を切った。茂にとっては嫌な引き方だったが、敢えて聞くことはしなかった。
「俺からも聞いていいか」
 この流れを利用して、ずっと疑問だったことを聞いてみることにした。
「え、な、何?」
 すると、葛木が少し動揺した感じで返事をした。
「おまえ、なんで俺を避けたんだ?」
 あの一件以降、葛木が茂を避けていたことがずっと不思議だった。最初は、告げ口した罪悪感から避けてると思っていたが、人の嫌がることを平気でしてくる葛木が、その程度で罪悪感を感じるとは到底思えなかった。むしろ、笑顔で自分が告げ口したことを茂に報告して、その反応を見て愉しむことが彼女らしい行動だと思った。
「狡いな~。やっぱり知ってたんだ」
 茂の疑問に、葛木が沈んだ顔でトーンを落とした。
「なんの話だよ?」
 さっきから葛木の言動がおかしかった。
「もう~、京橋は皮肉の天才だね」
 そう言いながら、葛木は空笑いした。
「頼むから俺と会話してくれ」
「もう授業始めようか」
 茂の言葉を無視するように、葛木は端末をいじってプロジェクターに現文の教科書を映し出した。
「おい、無視すんなよ」
「もう知ってるんでしょう」
「いや、知らねぇから聞いてんだろう」
「冗談ばっかり」
 葛木は悟った表情で、茂から目を逸らした。
「もういいじゃん。この話は終わり。授業しよ~」
 食い下がったが、強制的に話を打ち切られた。
「あ~~、でも、よく考えると現文ってする必要ある?」
 現文を開いた葛木が、困った顔で茂を見た。現文はたいてい有名な小説の抜き出しばかりで、教える側としては難しいようだ。
「自分で提案したけど、確かにする必要はねぇかもな」
「・・・論文でも書いてみる?」
 葛木は、少し悩んでからそう提案してきた。
「あ、それいいな。授業で論文なんて滅多にしねぇし」
「じゃあ、テーマ決めようか」
「そうだな」
「私についてとかどうかな?」
 何を思ったか、葛木が嬉しそうに自分を指差した。
「えっと・・どういう意味だ?」
「だから、私について京橋が論文書くのよ」
「人についての論文なんて聞いたことねぇよ。むしろ、センター試験にも出ねぇ問題だぞ」
「でも、これができたら、どんなテーマでも書けるようになるわよ」
「どういう理屈で言ってんだよ」
 人についての論文なんて、精神科を目指していない人には難問中の難問だった。
「おまえの嫌いな理由を論文にして欲しいのか?」
「それは・・して欲しくない」
 テーマを伝えた途端、嫌な顔をして拒んた。
「じゃあ、別のにするか」
「そうだね」
 自分への非難は嫌なようで、茂の発案に素っ気なく乗ってきた。
「思いつきで、口にするんじゃねよ」
「じゃあ、テーマは何にする?」
 茂の愚痴をスルーして、葛木が話を進めてきた。
「そうだな~、社会情勢とかが無難かもな~」
「定番すぎて面白くないね」
「論文に面白さを求めるなよ」
「いいじゃない、こういう特別な日ぐらい」
「言い分はわからんでもないが、俺の今の現状ではそんな悠長な時間はねぇんだよ」
「生真面目だね~。じゃあ、再生可能エネルギーの論文でいいんじゃない」
「それはほとんど出尽くした論文だろう」
「定番だから、出尽くしなのは当たり前じゃない。要は、京橋がそのテーマで何を問題に挙げるかよ」
「まあ、そうだな」
「なんで不満そうなのよ」
 茂の表情を見て、葛木が呆れた顔をした。
「個人的に好きじゃないテーマだからな~」
「それは同感ね」
 この国の再生可能エネルギーは地熱、太陽光、風力、水力、波力で電力全体を賄っていた。大規模な消費電力は食糧の製造に回っていて、その余ったわずかの電力を各家庭に回すかたちになっていた。
 生活では何の不自由もないが、問題が一つあった。それは人口の制限で、再生エネルギーで賄える分の人口調整だった。
「人口の調整か」
「これが一番の課題だからね~。人口を増やすには、蓄電池の容量と自然エネルギーの変換率の大幅な改良が必要になるからね~」
「食糧不足とエネルギー不足の解消を前提としてるからな。それ以上の人口増加は国としても避けたかったんだろう」
「あの変事のせいで、ほとんどの国が鎖国状態だもんね~。輸入を大規模に再開すれば確実に難民まで輸入する危険も出てくるし」
「そうだな。だが、人口を調整するからって、医療を衰退させたのは致命的だと思うぞ」
「それは私も同感だね。国は人の長寿より、国の安定を望んだ結果だね」
「エネルギー循環させる為に人も循環させる。理論的には適ってるが、人道的には最悪の選択だったな」
「衰退させるにしても、感染症での人口減少ぐらいは想定して欲しいものね」
 5年前、感染症のウイルスが都市に蔓延した。今の医学では治せない病気に、政府はその都市を隔離することしかできず、そのせいで都市の三割の人口が感染症で亡くなってしまった。
「医療の退歩の原因は、人口の調節のためじゃないかって噂。あれ、本当だと思うか?」
「さぁ~ね。でも、安定を優先させたんだから本当かもね~」
 昔は皆保険で医療の負担軽減をしていたが、それが廃止になり、今では医療費は国民全負担だった。医療費は、その都市ごとに年に一度集計して、税金として徴収していた。外科と内科は多額の医療費が掛かる為、衰退させたという憶測もネットで広まっていた。
「その結果、治る病気が再び不治の病とされたんだから、最悪と言っても過言じゃねぇよな」
「そうだね~。その意図的な医療の衰退で多くの都市でデモが頻繁に起こっちゃったもんね~」
「あの事変で、今でも拘束されてる人もいるしな」
「報道では抗日だっけ?」
「ああ、都合のいい報道だったな」
「そういえば、マスコミの煽りも昔ほど過激じゃなくなったね~」
「報道規制が厳しくなったからな。それ以来、つまんねぇ~番組ばかりになって、民放が二つまで減少したな」
「規制された番組じゃあ、どこもスポンサーにつくわけないもんね~」
「おかげで、チャンネル数が少なくなって、今までなかった国営放送が一つできたんだよな~」
「その国営放送は、愛国心を煽るばかりでつまんないもんね~」
 マスコミの報道は規制したが、ネットだけは規制しなかった。その為、ネットでの専門チャンネルや、SNSが爆発的に増え、それが今では人気を博していた。
 気づくと、論文を書くはずがディスカッションになっていた。
「なんか私の寝てる間に面白そうな話してる~」
 寝起きの立嶋が目を擦りながら、ふらふらとリビングに入ってきた。
「あれ、もう起きたんだ?」
「うん。気づいたら、誰もいないんだもん」
「まだ寝てていいよ」
「ううん、いい。もう目が冴えちゃったし」
 そうは言ったが、傍から見たらまだ眠そうに見えた。
「それより、さっき何話してたの~。私も混ぜてよ~」
 立嶋が拗ねたように勢いよく茂の隣に座ったが、勢いがつきすぎて茂に寄り掛かってきた。
「お、おい、重いぞ」
 これには堪らず、立嶋の肩を掴んで引き離した。
「ああ、ごめん」
 立嶋が謝りながら、姿勢を正して茂の隣に座り直した。
「・・・」
 茂は、今の状況に沈黙してしまった。理由は、立嶋が寄り添うぐらい距離が近かったからだった。
「ちょっと、琴音!京橋に近すぎるよ!」
 これに葛木が、立ち上がって怒鳴った。
「え、そうかな?」
 それに対して、立嶋がぽかんと葛木を見上げた。
「ちけぇ~よ」
 茂は煩わしい顔で、立嶋から間を取った。
「それより、さっきの話の続きしてよ」
「いや、その話はおまえが来た時点で終わった」
「え~!そんな~」
 立嶋は顔を歪めて、茂に寄り掛かってきた。
「ちょっと、琴音。さっきから密着しすぎよ!」
 葛木が激怒して、立嶋を茂から引き離した。
「なんで怒ってんの~」
 葛木の強行に、立嶋が首を傾げていた。
「京橋にくっつくからだよ!」
「ああ、やきもちですね~」
 未だに眠そうな立嶋が、気だるい感じでそんなことを言った。
「琴音!ちょっと来なさい」
 葛木が立嶋の手首を掴んで、リビングから連れ出していった。
「なんなんだ。あれ」
 茂は、立嶋の異様な態度に少し困惑し呟いた。
 ※ ※ ※
「ちょっと、どういうつもりよ!」
 菜由子は、琴音を部屋まで連れてきて問い質した。
「ほえ、何が?」
 未だに寝ぼけているようで、琴音が半目で答えた。
「って、もしかして、寝ぼけてる?」
「そんなことないよ~」
 琴音は、だらけた口調で返してきた。これは明らかに半覚醒状態だった。
「もう面倒臭いな~」
 ムキになっていたことが馬鹿らしく思えてきて、琴音をベッドに強引に寝かせた。
「もうちょっと寝てなさい」
 これに琴音が、抵抗もなくゆっくりと目を閉じた。
 そして、すぐに寝息が聞こえてきた。それを見て、琴音に掛布団を掛けてからドアを開けたまま部屋を出た。
 ※ ※ ※
「あれ、立嶋は?」
 葛木がリビングに戻ってきたが、立嶋の姿はなかった。
「二度寝したわよ」
「そうか。やっぱり寝ぼけてたのか」
「うん。そうみたい」
 葛木はそう言って、ソファーに腰掛けた。
「で、あと30分だけど、論文書くの?」
「論文はやめよう。そもそも書いても読むの二人しかいねぇし」
「そうだね。それ読んでも私の視点での評価なんて意味ないしね~」
「だな。じゃあ、この時間は過去問でもやろうか」
 もう時間も中途半端だったので、無難にそんな提案をした。
「結局、勉強なんだ」
 これに葛木が、大きく嘆息して項垂れた。
「なんだ?不満だったら帰るぞ」
「あ、ううん。全然不満じゃないよ」
 気遣って言ったつもりだったが、葛木は慌てた様子で言い繕った。
「そうか。じゃあ、俺の電子書籍に入ってる過去問だから俺の隣に来い」
 ソファーの端に移動して、その隣に座るよう葛木に促した。
「え、いいの?」
 すると、葛木が嬉しそうな顔で聞いてきた。
「はぁ~?見ないと教えられねぇだろう」
「そ、それもそうだね」
 葛木は照れながら、茂の隣に座った。葛木のたまに見せる恥じらいは、いつもと違って少し気味が悪かった。
 その後は、過去問を二人で話し合いながら解いていった。
「やっぱりお前の教え方うまいな~」
 三時限目が終わる頃には、教えてもらうために用意していた過去問をほとんど解いてしまった。
「そうかな」
「いや~、おかげで助かったよ」
 これは心からのお礼だった。葛木のおかげで、塾に通うかどうかの悩みがなくなっていた。
「うん。どういたしまして」
 それに葛木が、嬉しそうにはにかんだ。
「あ、そうだ。もう休憩時間だし、お茶入れてくるね」
 葛木が空になった二つのコップを持って、リビングから出ていった。
 それを見送って、何気にプロジェクターが目に入った。電子書籍の画面を二人で見るより、それを使う方が効率的ということに今になって思い至った。

八 退散

 四時限目の授業は理科だった。理科は科目に分れていて物理、化学、生物、地学に分類されていた。この日は化学の授業だった。
「じゃあ、化学の授業を始めるけど、あまり気乗りしないね」
 葛木がプロジェクターに映し出されている画面を見て、呆けたようにそう言った。
「どうした?」
「う~~ん。これやめようか」
 何を思ったのか、葛木がプロジェクターに繋いだ端末を抜いて電源を切った。
「は?なんでだよ」
 茂は戸惑って、葛木を見上げた。
 すると、葛木が茂の隣にぎこちなく座った。
「さっきと同じようにしようか」
 葛木はそう言って、電子書籍を茂にも見えるようにずらしてきた。
「いや、これは効率が悪いから、プロジェクターを使った方がいいと思うんだが」
「そうかな?私はこっちがいいんだけど」
「これだと手が疲れるだろう」
 これはさっき自分で経験したことなので、葛木がそれを終わるまで持続できるとは思えなかった。
「そうだね。でも、私はこっちの方が教え甲斐あるな~」
「まあ、おまえがそう言うなら別に構わねぇ~けど」
 葛木と密着するのは不本意だったが、教えを乞う身としてはあまり強く拒絶できなかった。
「なんか今日は寛容だね」
 怒られると思ったらしく、葛木が少し訝しがっていた。
「俺は、友達には寛容なんだよ」
 本音は言いたくなかったので、設定をここで持ち出した。
「・・・」
 何か言いたそうだったが、結局何も言わず授業を始めた。
 20分後、葛木の手が下がってきた。
「替わろうか?」
 画面が見にくいので、茂は電子書籍に手を添えた。
「うん。お願い」
 手が疲れたようで、葛木は逆の手で筋肉を揉みほぐした。
「ちょっと態勢を変えようか」
「どう変えるんだよ」
「京橋が後ろから私を抱きしめるかたちがいい」
「却下」
「じゃあ、私が京橋にもたれ掛る」
「はぁ~、なんだそれ」
「こうやるの♪」
 葛木はそう言うと、全体重を茂にもたれ掛かり肩に頭を乗せてきた。
「これは二重苦だからダメだ」
 かなりイラっときたが、設定をギリギリ守った。
「じゃあ、京橋も肘掛けにもたれていいよ」
「おまえがもたれている以上、二重苦は変わらん」
「それもそうだね」
 拒否したのに、なぜか嬉しそうだった。
 結局、そのままの姿勢での授業となった。
 授業が終わり、昼休みの時間になった。
「終わった~」
 それと同時に、葛木が解放されたように喜んだ。
「しゃべり疲れたよ~」
「ありがとな」
 ここまで付き合ってくれたことには、心から感謝した。
「え?」
 葛木は、それに驚いたように茂を見つめてきた。
「お礼もいいけど、ご褒美も欲しいな」
 何を思ったのか、突然子供のような期待を込めた目でねだってきた。
「そうだな~。さっき買ったお菓子でいいか?」
 何か嫌な予感がしたので、コンビニで奢った菓子で代用することにした。
「う~~ん。それもそうだね」
 少し悩んだようだが、見返りはそれで諦めてくれた。ここまで教えてもらって少し申し訳なく思ったが、あまり譲歩すると調子に乗るので、このぐらいが良い塩梅だと思った。
「昼食はどうしよっか~」
 葛木が時計を見てから、茂に聞いてきた。茂の昼食はいつもコンビニ弁当だったので、買いに行かないとなかった。
「そうだな~。弁当でも買ってくるよ」
 そう言いながら、帰れるチャンスだと思った。
「どうせだし、今日は作ってあげるよ」
 が、葛木が余計な気を回してきた。
「ああ、いいよ。これ以上、世話になるのもわりぃ~し」
「私が好きでやるんだから、気にしなくていいよ」
 あまりの達者な返しに、物凄く断りづらくなった。
「作っている間、琴音を起こしてもらえないかな」
「わかった」
 断ることは諦め、葛木に従うことにした。
 葛木の部屋に入ってベッドに近づくと、立嶋が気持ち良さそうに寝息を立てていた。
「おい、そろそろ起きろ」
 茂は、立嶋の体を揺すって起こした。
「・・・ん、うん」
 すると、立嶋が体をゆっくり起こして、寝ぼけ眼を茂に向けた。
「ん、あれ?なんで京橋がここにいるの?」
「ここは立嶋の家じゃないからだ」
「あ、そうか。葛木さんのベッドで寝たんだっけ?」
 立嶋は周りを見渡して、今の状況を把握した。
「起きた~?」
 すると、葛木がそう言いながら部屋に入ってきた。
「もう昼食にするよ」
「え、もうそんな時間?」
 立嶋が驚いて、後ろに設置している時計を見た。
「琴音。お弁当は持ってきてるよね」
「う、うん」
「出して」
 葛木は片手を出して、渡すように要求した。
「え?いいけど」
 立嶋は言われるがままに鞄から弁当箱を取り出して、葛木に手渡した。
「何するの?」
「三人で昼食にするのよ。琴音の弁当も使わせてもらうね」
 葛木はそれだけ言って、部屋から出ていった。
「どういうこと?」
 それでもわからないようで、今度は茂に聞いてきた。
「知らん。たぶん作った料理と混ぜるんじゃねぇ~の」
「あ~、そういうことか。それは楽しみだね」
「おまえは、顔を洗って来い」
 寝起きだったこともあり、若干髪が乱れていた。
「あ~、そうだね」
 立嶋は髪を手櫛で直しながら、ベッドから立ち上がった。
「洗面所ってどこかな」
「ここを出て、ダイニングの奥だ」
「ありがとう」
 立嶋はお礼を言って、部屋から出ていった。
「はぁ~。もう帰ろうかな~」
 葛木の授業は魅力的だが、二人の存在がそれを帳消しにしていた。
 何気に葛木の部屋を見渡したが、前と大して変わっていなかった。
 机の棚の隅に置いてあるヘアバンドが目に付いて、思わず手に取ってしまった。
「これ、俺があげたやつだな」
 それは葛木の誕生日に、茂が買った星形のヘアバンドだった。
「京橋、できたよ~」
 すると、葛木が笑顔で部屋に入ってきた。
「早いな」
「うん。作ろうと思ったけど、材料が全然なかったから、残り物温めた」
 本当に残念なようで、しょんぼりとした口調で項垂れた。
「あ」
 ここで葛木が、茂の持っている物に気づいた。
「ああ、まだこれ持ってたんだな」
「触っちゃダメ」
 突然葛木が慌てて、ヘアバンドを強奪した。
「というか、これしてるの見たことねぇな。せっかくプレゼントしたんだから、一度ぐらい使ってくれよ」
「だ、ダメだよ。これは観賞用なんだから」
 葛木はなぜか恥ずかしそうに、ヘアバンドを後ろに隠した。
「はぁ~?それ、ヘアバンドだろう」
 観賞用のヘアバンドなんて聞いたこともなかった。
「い、いいの。使うかどうかは私が決めるから」
「まあ、あげたものだから好きにすればいいけど。ちょっと残念だな」
「え、何が?」
「いや、似合うと思って、選んだからな~」
 葛木の誕生日に雑貨店に連れていかれ、なんでもいいからプレゼントを選んでと言われたので、星形のヘアバンドを選んだのだった。
「そ、それは嬉しいけど、使えないよ」
「なんでだよ」
「鈍感な京橋にはわかんないわよ」
「なんだそりぁ~」
「とにかく、これは大事な物だから使わないよ」
 葛木はそう言って、ヘアバンドを元の場所に戻した。
「まあ、大事にしてくるのはありがたいか」
 プレゼントを捨てられるよりは、大事にしてもらう方が選んだ甲斐があるというものだ。
「う、うん」
 茂の言葉に、葛木が恥ずかしそうに俯いた。
 そんなやり取りをしていると、立嶋がふて腐れたように部屋に入ってきた。
「ねぇ~、私を一人にしないでくれるかな~」
「あ~、悪かったな。今行くよ」
「何話してたの~」
「大したことじゃねぇ~よ」
 立嶋には関係ないので、適当にあしらった。
「私にとっては、そうでもないけどね」
 せっかくはぐらかしたのに、葛木がわざわざ気になるような物言いをした。
「どんな話?」
「京橋のプレゼントのことでね~」
「え、何かプレゼントされたの?」
「話すと長くなるんだよね~」
 葛木はそう言って、嬉しそうに微笑んだ。その表情から話したいという雰囲気がひしひしと伝わってきた。
 ダイニングに入ると、テーブルには三人分の食事が用意されていた。
「一応、私と琴音のお弁当の中身もこの中に入ってるから」
 三人は椅子に座って、手を合わせていただきますと言った。
「でね~、京橋が選んでくれたんだよ~」
 食事中、葛木が嬉しそうにさっきのプレゼントの話をしていた。
「へぇ~、それでその髪型にしたんだ」
「うん。まぁ~ね」
 葛木は、茂をチラッと見てから頬を掻いた。
 昼食も終わり、未だに茂との思い出を語っていた。茂からしたら、あの頃の嫌な思い出が蘇ってきて聞くに堪えなかった。
「俺、もう帰っていいかな」
 あまりにも不愉快の話に耐え切れず、茂は席を立った。
「ダメだよ。午後の授業が残ってる」
「あとは、自分でやるよ」
 茂はそれだけ言って、葛木に部屋に鞄を取りに向かった。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
 後ろから葛木の呼び止める声が聞こえたが無視した。
 部屋に入り、電子書籍を鞄に入れて部屋を出た。
「帰っちゃダメ」
 玄関に向かうと、ダイニングから出てきた葛木が立ちはだかった。
「もう帰るよ」
「なんか用事でもあるの?」
「用事はないが、ここに留まると危険な気がする」
「どういう意味よ」
「そろそろ帰ってくるんだろう」
「へっ?」
 茂の発言に、葛木の身体がビクッと震えた。
「な、なんの話よ」
 平静を保とうとしていたが、声が上擦っていた。
「おまえ、自分で気づいてないかもしれねぇ~けど、さっきからずっと時計見てるぞ」
 葛木は、食事中何度も時計に目をやっていた。
「じゃあな」
 反論もなかったので、葛木の横を通った。
「ま、待ってよ。もうちょっとだけここにいてよ」
 いつもは強引に引き止める葛木が、弱々しい声で呼び止めてきた。
「無理」
 葛木の白々しい演技に、茂は即答で断った。
「ふぅ~、やっぱりしおらしく頼んでもダメか」
 葛木は、溜息をついて演技をやめた。
「残念だけど、帰ることは許さないわ」
 さっきとは打って変わって、仁王立ちで茂の前に立ち塞がった。
「やっぱりこうなるか」
 こうなっては、押しに弱い茂の方が圧倒的に不利だった。
「どうするかな~」
 これは由々しき事態で、本気でどうするか悩んだ。
「立嶋。ちょっと協力してくれねぇか」
 悩んだ末、傍観している立嶋に助けを求めた。
「う~~ん」
 これには困った顔で唸って、葛木を横目で流し見た。
「琴音」
「ごめん。無理」
 立嶋は、葛木の睨みに簡単に平伏した。
「・・・自分で切り抜けるしかないか」
 こうなると、茂には最後の手段に打って出るしかなかった。
「個人的にこれはしたくなかったんだが、もうそんなことも言ってらんねぇ~な」
 これをするのはハイリスクだったが、このまま言い合いしても葛木の思い通りに事が進むので、短時間での決着が必要だった。
「葛木」
「な、何よ」
 茂の真剣な表情に、葛木が怯んだ。
「頼むから帰してくれないか」
 この手は本当に使いたくなかったので、もう一度だけ葛木に頼んでみた。強引に出ていくことも考えたが、今日のことを思うと、さすがに罪悪感からできなかった。
「い、嫌だよ」
 最後の頼みも、葛木からは了承を得られなかった。
「なら、仕方ないな」
 茂は躊躇いなく、正面から葛木を抱きしめた。
「ふぇ」
 突然のことに、葛木が気抜けた声を上げた。
「帰っていいか」
 ここで追い打ちをかけるように、葛木の耳元で囁きながら頭に右手を乗せた。これはセクハラ以外の何物でもなかった。訴えられれば、即座にこちらの敗訴が決定するぐらいの犯罪行為だった。
「頼むよ。菜由子」
 今度は柔らかい口調で名前で呼んで、少しだけ力を込めた。ちなみに、葛木の名前を呼ぶのはこれが初めてだった。(かなりどうでもいい)
「う、うん」
 葛木は、呆けたような返事で力なく頷いた。
 茂はゆっくりと離れて、虚ろな状態の葛木を横切って玄関で靴を履いた。
「じゃあな」
 二人にそう言ったが、誰からも返事はなかった。
「ふぅ~」
 玄関を出ると、解放感が湧き上がってきた。
「あいつには感謝だな」
 帰路に就いて、空を見上げながら独り言を呟いた。これは妹の受け売りで、女性は抱きしめて耳元で囁けばたいていは茫然自失になると言っていたが、ここまでうまくいくとは思っていなかった。
「はぁ~、疲れた」
 茂はそう呟いて、青空の元を開放感を感じながら歩いた。

九 裏事情

 京橋が帰っていくのを立嶋琴音は、呆然を見送っていた。その正面の葛木がへたり込んだまま、動く気配がなかった。
「葛木さん、大丈夫?」
 数分後、気持ちの整理がついた琴音は、葛木に近づいてしゃがみ込んだ。
「う、うん」
 返事は返ってきたが、心ここにあらずだった。
「わ、私も帰るね」
 このまま葛木と二人でいるのは、少し居心地が悪いので帰ることにした。京橋のあの行動に呆気に取られて、彼と一緒に帰るタイミングを完全に逃してしまった。
 琴音は、テーブルにある空の弁当箱を持って葛木の部屋へ向かった。
 葛木の部屋で、鞄から出した物を入れ直してから玄関に戻ったが、葛木は未だに放心状態だった。さすがに心配になって、再び葛木の顔を覗き込んだ。
 すると、外からドアが閉まる音と足音が聞こえてきた。
「茂君、まだいる?」
 玄関が勢いよく開いて、レディーススーツを着た女性が入ってきた。発言からして、葛木の母親のようだ。少し茶色がかった髪を肩で綺麗に整えて、前髪も横分けで固めていた。葛木の母親らしくかなりの美人だった。
「あ、あれ?」
 琴音たちの状態を見て、その場で佇んで首を傾げた。
「菜由、どうしたの?」
 彼女は、葛木のことを菜由と呼んだ。
「あ、お母さん。ごめん、帰しちゃった」
 葛木が我に返って、母親の方に顔を向けて謝った。
「そう。完全に避けられちゃってるね~。できれば、茂君には直に謝りたかったんだけど・・・やっぱり茂君の家に行こうか?」
「最終的にそうなるかもしれない」
 二人は、琴音を無視して話を進めていた。
「ところで、そちらの可愛い女の子は誰?」
 葛木の母親は、琴音を見てから葛木に聞いた。
「ああ、前に言った立嶋琴音だよ」
 葛木がゆっくりと立ち上がって、琴音を紹介した。
「私、部屋に戻るね」 
 そして、顔を赤らめたままゆっくりと歩き出した。
「え、菜由。友達来てるんだから、戻っちゃダメでしょう」
「ん、ああ、もう琴音も帰るみたいだから」
 そう淡泊に説明して、ふらふらと部屋に戻っていった。
 琴音は、葛木の母親と二人残されてしまった。
「え、えっと、私、帰りますね」
 気まずさのあまり、早急に帰ることにした。最近、友達の母親と二人にされることばかりだった。
「待ちなさい」
 しかし、葛木の母親が呼び止めてきた。
「な、なんですか?」
「菜由の様子がおかしいんだけど、何かあった?」
 どうやら、さっきの葛木の態度が気になったようだ。
「えっと、葛木さんに・・・」
「え?友達なのにさん付け?」
 説明しようとしたが、途中で遮られた。葛木の呼び名に違和感を感じたようだ。
「すみません。大人びてて、なんか呼び捨てできなくて」
 琴音は、恐縮しながらそう説明した。
「ああ、なるほど。確かにね~。私から見ても年上に見えるもん」
 琴音の言い分に、葛木の母親が笑顔で賛同してきた。
「あの、一つ聞きたいんですけど、おばさんは・・・」
「ああ、おばさんはやめて。できれば、美奈って呼んで欲しいな。それかあだ名で美奈っちでもいいよ」
 美奈には一般的な呼び名が嫌いなようで、娘と同級生の琴音にあだ名を許可した。
「じゃあ、美奈さんは、葛・・木じゃなくて、菜由子さんの母親なんですよね」
 これは苗字なので、途中で呼び方を変えた。
「そうだよ~」
「仕事はしてるんですか?」
「うん」
「じゃあ、今日は休みなんですか?」
 美奈がこの時間に自宅にいることが、琴音には不思議でしかたなかった。
「早退してきたんだよ。本当はすぐにでも帰りたかったんだけど、午前中は居てくれってうるさくてね~」
「何か用事があったんですか?」
 さっきの会話で少しだけ予想はできたが、詳細を知りたかった。
「ちょっと、茂君に謝りたくてね~。まあ、無駄に終わったけど」
「何かあったんですか?」
「まあ~ね」
「そうですか」
「ねぇ~。立ち話もなんだから、上がってってよ」
 美奈が靴を脱いで、気軽にそう促してきた。
「えっと、は、はい」
 美奈の言葉が気になって、もう少しだけここに居ることにした。
「ちょっと待っててね」
 美奈は気さくにそう言って、トイレに入っていった。
 この場に一人取り残された琴音は、葛木のことを羨ましく思った。京橋の母親は聞き上手で話しやすかったが、葛木の母親は年の差を感じさせない気軽さだった。
「隣の芝は青く見えるってやつかな」
 自分の思考が溜息とともに口に出た。
「おまたせ~」
 美奈は、本当にすっきりした顔でトイレから出てきた。よほど、我慢してたようだ。
「さてと、リビングで話そうか」
「あ、はい」
 美奈に促されるかたちで、琴音はリビングのソファーに座った。
「あ、来客に飲み物がないのは失礼だったわね~」
「あ、お構いなく」
「いいの、いいの。ちょっと待っててね~」
 美奈はそう言って、ダイニングに入っていった。
「あれ、洗い物が大量にある!」
 すると、ダイニングから美奈の叫び声が聞こえてきた。琴音の家ではこんな声を聞くことがないので、少し驚いてしまった。
「あの、それ私たちが出したものですから、私が洗いましょうか」
 琴音はダイニングに入って、悪びれた口調で申し出た。
「ああ、いいよ。その気遣いは、心の中に秘めておいて。ちょっと珍しい光景だったから思わず口に出しただけだよ~」
 美奈が軽いノリでそう言いながら、食器棚からコップを取り出した。
「何飲む?と言っても、今はコーヒーとお茶と水道水しかないんだけどね~」
 歳の差を感じさせない発言に、琴音は自然と表情が綻んた。
「じゃあ、お茶でお願いします」
「はいは~い」
 美奈はお茶を二人分入れて、リビングに琴音と一緒に戻った。
「で、何があったの?」
 お互いお茶を一口飲むと、美奈が笑顔で切り出してきた。
「そうですね。どこから話しましょうか」
「時間もあるし、学校休んだところからお願い」
「そうですね。それについては私のせいなので、最初に謝ります」
「別に、ズル休みしたことを責める気は全くないわ。むしろ、感謝してるぐらいよ。こういう経験は、今にしかできないからね~」
 責められると覚悟していたが、美奈はとても寛容に受け止めていた。
 琴音は少し気持ちが楽になり、経緯を話した。寝ていた時のことはわからなかったので、当然そこは省いた。
「なるほどね~。押した甲斐があったわね~。でも、ハグなんて茂君もやるわね」
「そうですね。私も吃驚しました」
「ところで、琴音っちは茂君のこと好きなの?」
 急に、美奈から呼ばれたこともないあだ名で呼ばれた。
「え、あ、はい。一応、初恋みたいですね」
 その呼び方に驚いて、返事が上擦ってしまった。
「へぇ~、それは遅い初恋ね~。というか、初恋を他人事みたいに言うんだね~」
「正直、初めてのことで私もあまり実感がないんです」
 特に恥ずかしいとは思わなかったので、正直に答えた。
「ああ~、それなんかわかる気がするわ~。まあ、恋なんて経験を積んだ時にしか初恋だって理解できないもんね」
「そうなんですか?」
「そういうものよ」
 美奈が何かを空想して、悟った表情で言った。
「ところで、なんで京橋に謝るんですか」
「ん?ああ、茂君には嫌な思いをさせちゃったからね~。本当は茂君の家に行くことも何度か考えたんだけど、傷口に塩を塗る行為だったから今まで控えてたのよ」
「何かあったんですか」
「あれ?菜由から聞いてない?」
「ええ、聞いてません」
「まあ、当事者が言い振らすことじゃないか」
 思うとこがあるようで、一人で納得していた。
「今の学校制度の学位偏差ってわかるよね」
「はい。各学校が標準偏差と平均を定めて、生徒にその偏差値を求める制度ですね」
「そ。その偏差値から落ちたら、どうなるかも知ってる?」
「他の都市の学校への転校ですね。これは9月の後半に行われる実力試験で決まることです」
「その実力試験での偏差値と同等の学校への転校だけどね」
 今の学校は県立も私立もなく、すべて国立で統一されていた。国は学校をランク付けしていて、学生の偏差値で学校を決めていた。すなわち、決められた偏差値の上下で転校させる制度だった。同じ都市だと知り合いも多いので、プライバシーを考慮して、別の都市への転校させることが義務づけられていた。
「いじめを警戒して、そういう配慮したつもりなんだろうけど、別の都市に転校させたって、意味ないのよね~」
「そうですね。転校イコールその二つのどちらかですから、結局はいじめの対象であることに変わりありません」
「その9月の実力試験で、茂君の偏差値がガクッと落ちちゃったわけよ」
「そうなんですか!」
 この事実は、琴音は全然知らなかった。悩んでいるのは知っていたが、試験のこととは思っていなかった。
「え、でも、京橋は転校してませんよ」
 実力試験の2ヶ月以内には転校先は決まるはずなのに、京橋は未だに学校に在籍していた。
「うん。私たちがちょっと根回ししてね」
「そういえば、京橋が警察沙汰になったって言ってましたね」
「うん。それも私たちが仕向けたの。こうでもしないと、転校が確定してたから」
「え、何したんですか!」
 もしそれが本当なら、驚きの事実だった。
「まあ、茂君が好きな琴音っちには教えてあげるね。でも、これは他言無用よ。じゃないと、茂君が転校になっちゃうばかりか、私たちまでこの都市にはいられなくなるから」
 美奈はそう言って、深刻な表情で釘を刺してきた。
「あ、はい」
「まずは私とカズの職業から教えとくね」
「あ、あのカズって誰ですか?」
 突然知らない名前が出てきて、思わず聞き返した。
「ああ、ごめん。私の夫で名前は和人」
「そうですか」
 夫をあだ名で呼んでいる夫婦なんて、珍しいを通り越して稀有な夫婦だと思った。
「で、私の職業は教育委員会だよ~」
「え、そうなんですか!」
 美奈がさらっと口にしたが、琴音にとっては衝撃的だった。
 個人的には、教育委員会にはあまり良い印象を持っていなかった。理由は、過去の失態とその隠蔽体質だった。
 一時期いじめが社会問題になり、国がいじめを公表するように学校と教育委員会に求めたが、生徒のプライバシーを尊重するの一点張りで、結局情報の開示はしないことが頻繁にあった。その為、今では国が警察を仲介させるかたちの仕組みを作り、学校側と教育委員会を牽制していた。
「あんまり良いイメージないよね。まあ、仕方ないけど」
 琴音の表情を見て、美奈が少し悲しそうに視線を落とした。
「あ、すみません」
 悟られたことに気づいて、即座に謝った。
「いいの、気にしないで。あの過失は事実だから。実際、人が一人亡くなってるのに、あんな対応されちゃ~信用しろって方がどうかと思うもんね」
 美奈の発言からして、琴音が考えていたことと同じようだ。
「管轄外とはいえ、あれは酷いと思ったわ」
 教育委員会は各都市によって別れているだけで、県や市という区分はされていなかった。
「で、カズは警察官。しかも、結構の上の役職だよ」
「そ、そうなんですか」
 今度は表情を引き締めて、相手に悟られないようにした。ちなみに、汚職が酷い警察も好きではなかった。
「さて、材料が揃ったところで話を進めようか」
 そう言うと、美奈が脱力するようにソファーに背中を沈み込ませた。
「茂君の実力試験が偏差値以下だったのは、菜由から聞いたんだけど。茂君を転校させたくないって、菜由が必死に頼んできたことが始まりなのよ」
「点数は公表されてないのに、どうやって知ったんですか?」
 京橋が葛木にそれを教えるとはとても思えなかった。
「菜由の友達からよ。一応、それは事実だったけど」
「調べたんですか?」
「本当はダメだけどね」
 プライバシー上、学校関係者以外は本人の承諾なしでは、結果は見られないことになっていた。それは教育委員会も例外ではなかった。
「一応、今の段階で実力試験の追試制度の導入を検討中でしょう」
「ああ、そういえばそうでしたね」
「それを今回だけ導入してはどうかって、申請したんだけど突っぱねられちゃってね~」
 国が未だ検討している事案を、中立である教育委員会が申請しても撥ねつけられるのは当然だと思った。
「で、仕方なくカズの権力を振るってもらったの」
「警察を動かしたんですか」
「うん」
 まだ罪悪感が残ってるようで、気まずそうに視線を宙に泳がせた。
「精神的に追いやられた茂君に、濡れ衣を被ってもらったの」
「容疑者にしたってことですか」
 この事実には、かなり驚いてしまった。強制連行は生半可なことではできないはずだが、今の学校側との連携している警察なら、それが可能になっているようだ。
「そんなことする必要があったんですか!」
 それをする意味がわからず、思わず声を荒げてしまった。
「隠蔽体質を利用したのよ」
「隠蔽・・体質?」
「そ。学校側の失態にするの。それが露見したら、学校側が困るから」
「そんなことができたんですか?」
「茂君がいることが証明になってるけど。諸刃の剣でね。カズが責任取らされて、役職が後退したんだよね~。おかげで給料がガクッと落ちたわ」
 美奈はそう言うと、がっくりと項垂れた。っていうか、そんな赤裸々な家庭の事情まで聞くとは思わなかった。
「じゃあ、菜由子さんが校長に垂れこんで、その校長が警察に通報したってことですか」
「それじゃあ、うまくいかないことを知ってたみたいでね~」
「そうなんですか?」
「うん。最初は、校長の耳に届くように根回してね。あれには感心したわ~」
「どうやったんですか」
「生徒に噂を広めてから、それを教師の耳に届くように仕向けたのよ。それが教頭に伝わって、校長まで届いたわけ」
 口では簡単に言っているが、噂を校長まで拡散させるのは至難の業だった。
「す、凄いですね」
「そうだね。私もそこまでは思いつかなかったわ」
 琴音には、葛木の行動力の方が驚きだった。友達とはいえ、同級生のためにそこまですることは異常だと感じた。
「じゃあ、校長が警察に通報したんですか?」
「ううん。学校と警察には菜由が通報したのよ。あの噂もちゃんと織り交ぜることで信憑性を持たせてね」
「それで連行されたんですか」
「連行じゃなくて、任意同行ね。連行じゃあ、強制連行になっちゃうよ」
 その間違いは流せないようで、不満そうに訂正してきた。確かに、その違いは大きいと思った。
「ごめんなさい」
「ああ、こっちもごめん。ちょっとムキになっちゃったね」
 琴音の謝罪に、美奈も謝ってきた。
「でも、任意同行だけじゃあ、隠蔽するほどの失態にはならないんじゃないですか?」
 ここが一番疑問点だった。任意同行だけでは、特に隠蔽するまでには至らないはずだ。
「そうだね。それだけじゃあ無理だね。でも、よく知ってるわね」
 美奈が感心した表情で、琴音を見つめた。
「ニュースでいつも流れてますから」
 ネットではよく見る情報で、その大半は空振りしていて書き込みの批判の的でもあった。
「ネットね。テレビじゃあ、やってないもんね」
「そういうのは規制されてますからね」
 今のテレビは規制の為、批判番組やそういった汚職の類のニュースはできなくなっていた。そういったニュースや番組は、すべてネットで流れていた。テレビが極端につまらなくなったのは、それが主な原因でもあった。
「他に何したんですか」
 早く続きを知りたかったので、積極的に話を進めた。
「・・・家宅捜索」
 少し言うのを躊躇いながら、ギリギリ聞こえるような小声で言った。
「へ?」
 予想外の発言に、琴音は言葉を失ってしまった。疑いがあるとはいえ、家宅捜索はさすがにやりすぎだった。というか、裁判所がそんな些末なことに令状を発付するとは思えなかった。
「もしかして、それを和人さんにやらせたんですか」
「うん。強制的に取らせたから、責任問題になっちゃってね。まあ、覚悟はしてたけど、実際そうなると結構苦しいわね」
 普通、そんなことしたら懲戒免職ものだ。
「でも、その成果はあったから良しとするわ」
「警察と学校側が連携して、隠蔽したんですか」
「まあ、そうなるね~」
「でも、それで転校が白紙になりますか」
 琴音の疑問に、美奈が首を振った。むしろ、この失態を隠す為、元凶はすぐさま転校させることが学校側にとっては都合がいいはずだった。
「校長をね・・菜由が脅したのよ」
「え、お、脅した?」
「うん。直接的じゃなくて、遠回しにだけど」
「また、噂ですか?」
「違うわ。ネットよ。匿名性の高い掲示板使ってね~。全く自分の娘とはいえ、よく頭の回る子だわ」
「その掲示板をどう使ったんですか」
「う~~ん。これはあまり言いたくないわ。というか、言えないが正しいかな~」
 美奈が苦い顔をして、言葉を濁した。
「もしかして、犯罪ギリギリなんですか」
「う、うん。かなりスレスレっていうか。警察官の娘がそれしちゃダメだろうってつっこみが入るぐらい」
「そ、そうですか」
 いくつかの方法が頭によぎったが、どれもスレスレではなく完全な犯罪行為だった。おそらく、琴音の思いつかない方法を取ったのだろう。
「それが原因で、茂君との接触は控えるしかなかったのよ」
「なんでですか」
「匿名性が高いと言っても、茂君の傍にいたらどうしても勘ぐられるからだってさ」
「そう言われてみれば、私も担任からネットでの誹謗中傷の話を三度ほど振られましたよ」
 あの時はなんのことかわからず、担任の言葉に首を傾げるしかできなかったが、これを聞くともう知らぬ存ぜぬは通らない気がした。
「そうなんだ。ごめんね、とばっちり受けてたんだね」
「いえ、別に気にはしてません」
 琴音は、美奈を気遣って言い繕った。
「これが事の顛末よ」
「いろいろ動いてたんですね」
「主に二人がね。私は、ほとんど何もできなかったわ」
 美奈は、ニヒルな顔で溜息をついた。自分が少しだけしか関われなかったことが残念なようだ。
「本当に茂君には悪いことしたわ」
「なんとなく、菜由子さんが京橋に嫌われてる理由がわかった気がします」
「あんなことしたんだもん。そりゃあ、嫌われるわよね」
「でも、今は少しですけど、受け入れ始めてます」
「茂君は、押しに弱いもんね」
 京橋の性格を知っているようで、美奈が含み笑いでそう言った。
「何度か会ってるんですか?」
「ううん。一回だけだよ~。是非とも菜由と結婚して欲しいわ」
「え!け、結婚ですか?」
 美奈の積極的な発言に、琴音は驚きの声を上げた。
「琴音っちも検討しておいた方がいいわよ。彼は、絶対いい夫になるわ」
「そ、そうですね」
 突然の振りに、少し困惑しながらそう言い繕った。恋をしたことのない琴音にとっては、結婚まではまだ考えが至らなかった。
「そしたら、私たち家族だね」
 それを思い描いたのか、美奈が笑顔を向けてきた。
「ああ~~、茂君が琴音っちとも結婚してくれたら、絶対いい家庭になるよね~」
 美奈はそう言って、うっとりした表情でトリップしていた。これは葛木と似たような感じに映った。
「えへへへ~、待ち遠しいな~」
 琴音を余所に、美奈は緩みきった笑顔で妄想を加速させていた。
「あ、あの。そろそろ帰りますね」
 気づくと、もう2時過ぎになっていた。欠席していることもあり、学校の下校時間になる前に帰ろう思った。
「あ、そうね。ごめんね、話し込んじゃって」
 美奈が我に返って、ソファーから立ち上がった。
「いえ、いろいろ聞けて良かったです」
 とりあえず礼儀として、美奈に会釈した。
「ふふふっ、いい子ね」
 美奈はそう言って、嬉しそうに微笑んだ。
 琴音はリビングを出て、玄関で靴を履いた。
「それじゃあ、お邪魔しました」
 そして、見送りについてきた美奈に振り返って再び会釈した。
「また来てね~」
 それに美奈が応えて、手を振って見送ってくれた。
 琴音は外に出て、何気に柴犬に目をやった。柴犬はだらけた様子で寝そべっていて、その反対側には来た時にはなかった軽自動車が止めてあった。外から聞こえたドアの閉まる音は、車のドアだったようだ。
 琴音は歩きながら、京橋のことを考えた。あの病院で見た人が亡くなって、少なくとも4ヶ月か5ヶ月は経っていることは知っていた。これは京橋が一番落ち込んでいた時期だったからだ。
 もし京橋が転校していたら、彼女の見舞いはどうなっていたのだろう。おそらく、看取ることもできなかったはずだ。実際、看取ったかどうかは知らないが。
 それを考えると、葛木の行動はなんとなく理解できるが、問題は葛木がその人と知り合いかどうかだった。
 それでも葛木の大胆な行動は、琴音には理解はできなかった。いくら京橋が好きでも、あそこまでの行動は常軌を逸していた。それなら、京橋と一緒に自分も転校した方がまだ楽だった。
「凄いけど。理解できない人だな~」
 そう呟きながら、琴音は空を見上げた。今日は雲一つない快晴だった。

十 エピローグ

 葛木菜由子は、部屋で余韻に浸っていた。というか、悶えていた。
「う~~ん。嬉しいよ~~」
 枕を抱きしめて、ベッドの端を何度も往復していた。枕には琴音のにおいが鼻についたが、それを上回るほどの体験が菜由子の頭をいっぱいにしていた。
 2年の夏休み明け。菜由子は久しぶりに京橋に会えることもあり、心を弾ませて登校した。
 その昼休み、京橋の教室に行くと、彼の表情がいつもと違っていた。注視してみると、目の下には隈があった。
「どうかした~?」
 そう口にしながら、いつものように京橋の隣に勝手に座った。
「あ、何がだよ」
 第一声の京橋の言葉には棘があった。その威嚇に少しにやけてしまった。
「いつにも増して感情的だな~」
 菜由子は、未だに慣れない口調で京橋をからかった。このだらけた口調は、相手から残念がられるために、中学の頃から幾度か検証した結果だった。しかし、この口調はかなり面倒で人と話すのが億劫になるという欠点があった。その為、京橋以外の友達をつくることは諦めてしまっていた。
「もう俺に話しかけんなよ」
 会って2分も経たずに、一方的に拒絶された。
「今日は本当に苛立ってるね~。なんかあった~?」
「うるせぇ~よ」
 京橋は、鋭い目つきで睨みつけてきた。その顔に思わず笑顔になりそうだったが、雰囲気的にそんな感じではなかったので、必死で真顔を保った。
「精神が不安定だね~。ところで~、今日はコンビニには行かないの~」
「食欲がねぇ~」
 京橋はその一言だけ言って、机に突っ伏した。
「え、寝るの?」
「寝不足なんだよ」
「そういえば~、1週間後って実力試験だったよな~」
 菜由子は、京橋の寝入りを邪魔するかたちで話しかけた。
「うるさい。寝させろ!」
 京橋は顔を上げないまま、菜由子を怒鳴った。
「私一人で昼食取るのって変だろ~。話し相手になってくれよ~」
「断る。というか、自分のクラスに戻れよ」
「残念だけど~、私の席にいつも誰か座ってんのよね~。座ってる奴が誰かは知らないけど~」
「知らねぇ~よ、馬鹿」
 今日は本当に言葉がきつかったが、それが菜由子には心地よかった。
 その後、机に突っ伏してる京橋に何度も話しかけた。無視すればいいのに、彼は苛立った声で返してくれた。口は悪いが、本当に優しい人だと思った。
「おまえのせいで眠れなかった」
 京橋は観念して、机から顔を上げた。
「それは残念だったね~」
 菜由子は、皮肉たっぷりに京橋を詰った。
「ちっ、さっさと自分のクラスに戻れ」
 そう言うと、タイミングよく予鈴が鳴った。
 授業中、京橋の態度と表情が気になっていた。いろいろと考えていると、いつの間にか授業が終わっていた。
「よし、尾行するか」
 菜由子は帰り支度をしながら、独り言でそう決意した。一緒に帰るという選択肢もあったが、ちょっと恥ずかしかったのでやめた。
 京橋のクラスはまだHRをしていたので、終わるまで自分の教室で待つことにした。
 そして、京橋が下校するのを見て後を追った。
 初めての尾行にかなり緊張してしまって、歩行がぎこちなくなってしまった。傍から見たら、おかしな人に見えただろう。
 京橋は、寄り道もせずに家に入っていった。彼の自宅は、二階建ての立派な家だった。
 帰ろうかどうか考えていると、京橋が制服のまま家から出てきた。
 菜由子は、慌てて物陰に隠れた。こっちに来るかと思ったが、反対方向に歩いていった。
 それについていくと、この都市で一番大きな病院へ入っていった。これに首を傾げながら、京橋の後を追った。
 二階の病室に入るのを確認して、その部屋を覗いた。そこには知らない女子がいた。
 京橋がその子と楽しそうに話していて、菜由子とはかなり違った対応だった。それを見てると、なんか面白くなかった。
 菜由子は病院の待合室の長椅子に座って、京橋を待つことにした。念の為、目立たない窓際の方に座った。
 しばらく呆けていると、京橋が待合室を通って、病院から出ていった。外は夕日が沈みかけていて、面会時間までは少しだけ時間があった。
 菜由子は病棟の二階に上がって、京橋がいた病室になんの躊躇いもなく入った。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
 そして、初対面の相手に堂々とした態度で声を掛けた。不思議なことに、彼女を前にすると自然体になってしまい、普通の口調でしゃべっていた。正直、これには自分も驚いてしまった。
「あ、あの、誰ですか?」
 彼女は、戸惑いを隠さずに菜由子を見上げた。背中まである艶やかな髪に、童顔で幼さが滲み出ていた。お世辞抜きでかなり可愛いかった。
「ああ、私は葛木菜由子。あなたは誰?」
 自分から声を掛けて、その発言は少しおかしかったが、無理やり通すことにした。
「そ、そうですか。わ、私は、加納しいなです」
 彼女は、訝しげな表情で自己紹介してくれた。
「自己紹介が終わったところで、聞きたいことがあるんだけど」
「なんですか?」
 しいなは、落ち着きを取り戻して聞き返してきた。
「京橋とはどういう関係?」
 回りくどいのは嫌いだったので、直接聞くことにした。
「へっ、京橋って、しげちゃんのこと?」
「し、しげちゃん?」
 聞いたことない呼び名に、思わず復唱してしまった。
「あれ?違うの?」
 菜由子の表情に、しいなが不思議そうに首を傾げた。
「いや、たぶん合ってるとは思うんだけど。その呼び名がしっくりこなくて」
「そうかな。似合ってると思うけど」
 しいなはそう言って、無垢な笑顔を浮かべた。
「まあ、それはいいわ。とにかく質問に答えてくれないかな」
「えっと・・・質問はなんでしたっけ?」
 本当に忘れているようで、真顔で聞き返された。
「京橋との関係を聞いたのよ」
「ああ、そうでしたね。同級生の幼馴染です」
「へぇ~、そうなんだ」
 それを聞いて、少しだけ気持ちが和らいだ。
「あの、葛木さんはしげちゃんの恋人ですか?」
「友達っ!」
 しいなの質問に、菜由子は無意識に語彙を強めてしまった。
「そうですか」
 すると、しいなから安堵の表情が垣間見えた。
「じゃあ」
 聞くことは聞いたので、踵を返した。
「どこ行くんですか?」
 しいなは、不思議そうに呼び止めてきた。
「関係も聞けたから帰るのよ」
「え、それだけ聞きに来たんですか」
「うん」
 しいなの戸惑いに、菜由子は率直に頷いた。
「そう・・ですか」
 これにしいなが、少し残念そうな顔をした。
「何?私に聞きたいことでもあるの?」
「い、いえ。べ、別に」
 しいなはそう言って、気まずそうに視線を泳がせた。その表情は愛嬌に溢れていて、思わず親切心が込み上げてきた。
「仕方ないわね。あまり性分じゃないけど、話ぐらい聞いてあげるわよ」
 自分からここまで関わろうと思ったのは、京橋以来のことだった。
「え、えっと・・・」
 しいなは悩んだ表情で、菜由子をチラチラと観察した。
「あと同級生みたいだし、タメ口でいいわ」
「え、そうなの」
 その事実には驚いたようで、目を見開いてこちらを見た。年齢のことでその反応されるのは嫌だったが、彼女の素直な反応には微塵も不快感が湧いてこなかった。
「・・・」
 しいなは、何か言いたそうに菜由子をじっと見つめてきた。
「どうかした?」
「あだ名で呼んでいい?」
 突然、しいながそんな提案をしてきた。
「初対面で?」
「うん。その方が親しみやすいと思うし」
「ふん。好きにすればいいわ」
 純粋すぎる眼差しに耐え切れず、視線を逸らしてしまった。
「う~~ん。ちゃん付けは似合わないし、さん付けだと他人行儀だもんね~」
 自分で言い出したことに真剣に悩んでいた。
「決まらないなら、無理して呼ばなくてもいいわよ」
「ダメ。ここはかなり重要な部分だよ」
 しいなが言葉を強めて、真剣にそう言ってきた。
「変な人ね」
 そんなしいなを見て、菜由子は微笑ましく思えた。馬鹿は嫌いだったが、彼女みたいな陽気な馬鹿は好きかもしれないと、内心強く感じた。
「ゆっこはどうだろう」
「恥ずかしいからやめて」
「じゃあ、菜由っち」
「それも嫌」
「菜由子ん」
「その発音だと、呼びにくくない?」
「注文が多いね」
 菜由子の反発に、しいなが不満そうに口を尖らせた。
「菜由でいいわよ」
「ええ~~、それだと捻りがないよ~」
「あだ名に捻りは必要ないわ。重要なのは呼びやすいかどうかよ」
「ふふふっ、しげちゃんみたいなこと言うね」
 しいなはそう言って、可笑しそうに微笑んだ。
「うっ!」
 その笑みに、菜由子は自然と顔が引き攣った。滅茶苦茶可愛かった。もし、私が男だったら完全に彼女の愛嬌にやられていただろう。
「菜由ミンにしよう」
 そんな菜由子を余所に、しいなが勝手にあだ名を決めた。
「あんたって、ネーミングセンスないわね」
「菜由ミンはわかってないね。センスよりあだ名に愛着をもてるかどうかが大事なんだよ」
「そのあだ名は、私には愛着が沸きそうにないわ」
「私が愛着を持てば問題ないよ。菜由ミンは、それを定着させてくれるだけで大丈夫だから」
「もう好きに呼べばいいわ」
 何が大丈夫なのかは不明だったが、この無邪気な表情を見ると、無条件でそのあだ名を受け入れてしまった。
「私のことは、しいって呼んでね」
「嫌よ。私のあだ名を勝手に決めたんだから、今度は私が勝手に決めさせてもらうわ」
「それ、いいね♪」
 菜由子の言い分に、しいなが嬉しそうに笑った。
「しいなんにするわ」
 仕返しも込めて、わざとセンスのないあだ名にしてみた。
「悪くないね」
 しかし、しいなはそのあだ名を難なく受け入れた。やはり、彼女のセンスは間違った方向に向いていた。
「そろそろ帰るね」
 気づくと、予定より時間が経っていた。
「そ、そうだね」
 しいなも時計を見て、少し寂しそうに俯いた。
「ふぅ~、また来るわ。だから、そんな顔しないでよ。帰りづらいじゃない」
 自分らしくない台詞を吐いて、しいなを元気づけた。
「あ、ごめん。そんな顔してた?」
 菜由子の指摘に、しいなが笑顔の表情をつくった。
「じゃあね。しいなん」
 菜由子も笑顔をつくって、さっき決めたあだ名で呼んだ。
「うん。またね。菜由ミン」
 しいなはそう言って、体の前で小さく手を振った。
 病室を出て、階段を下りていると、ふと気になったことがあった。
「あの子、なんで入院してるんだろう」
 思わず声を出して、階段の踊り場からしいなの病室に目をやった。
「ま、いっか」
 いまさら気にしても仕方ないので、さっさと病院から出た。外はもう日も落ちて、街灯の明かりが周囲を灯していた。
「あ、やっば」
 菜由子は、病院に入る時に携帯を切っていたことを思い出して、電源を入れた。
 その途端に携帯が鳴った。画面を見ると、母親の文字が映し出されていた。
「もしもし」
『あ、菜由。今どこにいるのよ!』
 母親は、慌てた様子で早口でしゃべってきた。
「なんで慌ててんの?」
『だって、電話しても全然でないから、心配するじゃない』
「GPSを確認したの?」
『え、あ、忘れてた』
 動転すると機転が利かなくなるのが、母親の欠点だった。
「ごめん。ちょっと病院にいたから、電源切ってた」
『びょ、病院!怪我とかしたの!』
 病院という言葉に、母親が再び取り乱した。
「違うよ。帰ってから説明する」
 これは長電話と思い、母親の応答を待たずに通話を切った。待ち受け画面に戻ると、40件近くの着信履歴があった。菜由子はそれを見て、溜息をつきながら携帯を閉じた。
 家に帰り、両親に説明して、これからも見舞いに行くと伝えた。遅くなるのは心配だと両親から言われたが、いつものように言い包めた。
 その後、京橋の後を狙って、何度もしいなの見舞いに行った。
 しいなは、昔話を楽しそうにしゃべりまくった。大半は、小学生の時の京橋と前田正吾との三人の思い出話ばかりだった。よっぽど、その時の記憶が楽しかったようだ。それを聞いていると、京橋が好きなことも雰囲気で伝わってきた。
「ところで、しいなんはなんで入院してんの?」
 何度も聞こうと思っていたが、なかなか聞くことができなかった為、実力試験が終わった頃になってしまった。
「あ、え、えっと・・・そういえば、入院してる理由は言ってなかったね」
 この質問に、しいなが初めて狼狽した。
「言いたくなかったら、別に必要ないわ」
 その反応を見て、すぐに聞くのを止めた。
「ごめんなさい。いずれ話すから」
「謝らないで。私も無神経だったわ。ごめん。本当にごめん」
 しいなの謝罪に罪悪感を感じて、頭を下げて平謝りした。
「菜由ミンは、優しいね」
 それを見たしいなが、嬉しそうに微笑んだ。これには思わず顔を赤らめて、彼女から視線を逸らした。
「ところで、実力試験は大丈夫だったの?ほとんど毎日、ここに来てるけど」
「ああ、うん。問題ないわ」
「凄いね。あそこの学校って、結構学位高いのに」
「この都市では高い方かもね。でも、学位なんて所詮記憶能力だけの差でしかないわ。人間性までは量れない」
「他の人と言うことが違うね。でも、人って競争しないと怠けちゃうからね~」
「それはそうだね。まあ、それが勉強の面白くない理由の一つかもしれないわ」
「ふふふっ、競争がなくても勉強は面白くないよ」
「それは個人的な意見でしょう」
「うん。そうだね」
 時折、しいなの発言と表現がずれている気がした。
 その1週間後、実力試験が返された。菜由子は、難なく学位偏差値を取れていた。
 京橋はこの日もしいなの見舞いに来て、珍しく早めに帰っていった。それを確認して、しいなの病室に向かった。
「こんにちは」
 菜由子は、挨拶しながら病室に入った。いつもならしいなが嬉しそうに迎え入れてくれるのだが、今回はかなり落ち込んだ様子だった。
「ど、どうかした?」
 その表情に戸惑いながら、ベッドの横の丸椅子に座った。
「うん。はぁ~~」
 返答とともに、しいなの溜息が返ってきた。
「京橋に何か言われたの?」
「ダメだったみたい」
 しいながこちらを見て、悲しそうな顔で言った。
「何が?」
「実力試験の偏差値がダメだったんだって」
 話の流れから京橋のことのようだ。
「え、それって」
 これには菜由子も驚いて、声が上擦ってしまった。
「転校するかもしれないから、もう来られないって」
 しいなはそう言うと、絶望的な顔をした。そして、徐々に目から涙が溢れてきた。
「ちょ、ちょっと、気持ちはわかるけど泣かないでよ」
 急なことに、菜由子はその場で動揺した。
「ご、ごめんなさい」
 それに気づいたしいなが、涙を拭って謝った。
「でも、京橋が転校か~。それは残念だね」
 唯一心を許せる友達なので、京橋がいなくなるのは寂しかった。
「菜由ミン。転校っていつ頃なの?」
 しいなは真顔になって、菜由子に聞いてきた。
「確か、2ヶ月以内だと思うよ」
 転校してくる人は、だいたいその月が多かった。
「それじゃあ、無理だね」
 それを聞いて、再び落ち込んでしまった。
「あのさ、親から聞いたんだけど、転校してもせいぜい隣の都市だよ。わざわざ遠くの都市に転校させるほどの余裕は、この国にはないから」
 この転校は全額国から支給されるもので、遠くの都市に転校させられるのは本当に稀だった。
「でも、隣の都市でも遠いよね」
「そ、そうだね」
 この辺りの都市は近くても数十キロは軽く離れていて、民間の交通機関を使っても、30分近く掛かる距離だった。
「た、退院したら、会いに行けばいいじゃん」
 重い雰囲気に耐えられず、軽い口調でしいなを励ました。
「・・・だ、ダメなの」
 すると、しいなが重い口を開いた。
「な、何が?」
「私・・退院できないの」
「ど、どうして?」
 意味はわからなかったが、彼女の深刻さは察した。
「もうすぐ死んじゃうから」
「は?」
 唐突な激白に、菜由子の頭が真っ白になった。
「だ、黙ってたけど、私・・今年いっぱいしか生きられないの」
 しいなは掠れ声になりながら、涙が頬を伝った。
「う、嘘でしょ」
 しいなの表情からそれは嘘ではないことはわかったが、それでも聞き返さずにはいられなかった。
「・・・ぁ」
 しいなは、泣いていて言葉が出ずに首を横に振った。
「そう・・なんだ」
 ショックのあまり、その言葉しか出なかった。
 菜由子たちは、沈んだ表情で黙ってしまった。
「ごめんなさい」
 沈黙を破るように、しいなが涙を拭って謝ってきた。
「もう少し早く言おうと思ったんだけど、菜由ミンと話すのが楽しくて言いそびれちゃった」
「そう」
 この空元気には、表情を緩めることしかできなかった。
「もう帰る時間だよ」
 しいなが時計を見て、呆然としている菜由子に指摘した。
「そうだね。もう帰るよ」
 菜由子はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。いつもの表情に戻そうとしたが、気持ちがそれを許してくれなかった。
「ま、また来るね」
 ここまで泣くのを我慢したが、その言葉は涙声になっていた。
「うん」
 しいなは、笑顔をつくって見送ってくれた。
 病院から出ると、全力疾走で家に帰った。そうしないと、道端で泣いてしまいそうだった。
 自宅に帰り、すぐさま自室に入って、鍵を掛けてからベッドに倒れこんだ。気持ちがぶり返して、鳴き声を殺しながら大泣きした。母親が心配そうにドア越しに何度か声を掛けてきたが、返事ができる状況じゃなかった。
 結局、その日は泣き疲れて眠ってしまった。泣き疲れて眠るのは、人生で初めてのことだった。
 次の日の朝、両親にそのことを全部話した。両親は、気の毒そうな顔でその話を聞いてくれた。
 学校が終わり、京橋の後をつけながら、彼を観察した。彼の表情は、日に日に悪くなっているのが見て取れた。
 京橋が病院から出ていくのを見て、しいなの病室へ向かった。
「こんにちは」
 今日はしいなから挨拶してきた。
「うん。こんにちは」
 菜由子は、平静を保って挨拶を返した。
「京橋、なんか言ってた?」
 少し気になったので、しいなに聞いてみた。
「転校するまでは、ちゃんとお見舞いに来るって言ってくれた」
 表情は穏やかだったが、瞳の奥は寂しそうだった。
「そう」
 ここから何を話していいかわからず、会話が途切れてしまった。
「菜由ミンにはまだ話してないんだけど・・・聞いてくれる?」
 すると、しいなが躊躇いがちに話を切り出してきた。
「うん」
 菜由子は、平静を装って頷いた。
 しいなは、自分の最期を菜由子に話してくれた。
「もしかして、京橋と両親以外見舞いが来ないのって・・・」
 今まで病院で見たのは、しいなの両親と京橋だけだった。
「うん。私が頼んだの」
「恋人に看取られるのはわかるけど、なんで京橋なの?」
「正ちゃんも好きなんだけど・・・」
 しいなは、気まずそうに視線を逸らした。
「京橋の方が好きなの?」
「う、うん。正ちゃんには、本当に悪いことしたと思ってる」
「そうだね。好きな人に拒絶されるなんて、かなりの傷心ものだもんね」
「・・・返す言葉もないよ。それを言われると本当に罪悪感で一杯になるよ」
「メールでもして、お見舞いに来てもらったら?」
「いまさら、そんなことできないよ」
「そう・・だよね」
 自分で頼んでおいて、また呼び出すなんて身勝手にもほどがあった。
「・・・私の最期は叶えられないね」
 しいなはそう言って、大粒の涙を流した。
「しいなん・・・」
 その涙を見て、もらい泣きを必死で耐えた。
「私がなんとかするわ」
 菜由子はしいなに顔を近づけて、力強くそう宣言した。
「え?」
 これには驚いた顔で、菜由子を見上げてきた。
「しいなんはさ。京橋に看取って欲しいんだよね」
「う、うん」
「なら、転校を阻止するわ」
「な、何言ってるの?菜由ミン」
 菜由子の発言に、しいなが心底驚いた顔をした。
「で、できるわけないでしょう。だって、国が決めた制度だよ」
「そうだね。でも、国はその偏差値を学校に委ねてるわ。そこを突く」
 正直、これは今思いついたことだった。
「本気なの?」
「親友に嘘はつかないわ」
 しいなと会ってまだ1ヶ月も経っていなかったが、自分はもう親友だと思っていた。
「私のこと、親友だと思ってくれてたんだ」
 それが嬉しかったようで、泣いたまま表情を綻ばせた。
「ああ、これは私が勝手に思っているだけだから」
 少し押し付けがましい気がしたので、とりあえず補足しておいた。
「ふふふっ、付き合いは短いけど、私もそう思ってるよ」
 しいなは、満面の笑みを浮かべて親友だと言ってくれた。
「か、可愛い」
 あまりの可愛さに、思わず口に出てしまった。
「あ、ありがとう」
 菜由子の言葉に、しいなが照れたようにはにかんだ。菜由子も自分の発言に顔を赤らめた。
「と、とにかく、そういう訳だから、しいなんは安心して」
「ふふふっ、私にその言葉は変だよ」
 自分の置かれた状況に、安心という言葉がおかしかったようだ。
「今、そういう切り返しはなしだよ」
「そうだね。ごめんなさい」
 菜由子の指摘に、しいなが表情を緩めて謝ってきた。
「でも、無茶はしないでね」
「残念だけど、無茶しないと京橋は転校になるわ」
「そう・・だね」
「止める必要はないわ。決めたのは私だから」
 正直、ここまで誰かのために動きたいと思ったのは初めてだった。
「そうそう、これは京橋には言ったらダメだからね」
「え、なんで?」
「京橋は、この手のことは嫌うタイプでしょう」
「そうだね。不正は許せないタイプだよ」
「だから教えないでね」
「わかった」
「やること多いから、もう帰るね。当分、お見舞いには来れないかも」
 考えついたことはいくつかあったが、どれも時間と労力が掛かりそうだったので、今から動く必要があった。
「それはちょっと寂しいね」
「私もそう思うよ。でも、許容して」
「うん」
 しいなは、哀愁が漂うほどの表情をして首を垂れた。
「その顔はやめて。帰りづらいよ」
「ご、ごめんなさい」
「個人的には笑顔で見送って欲しいわ。あと、励ましてくれると尚良い」
「ふふふっ、菜由ミンは、たまに変なこと言うね~」
 菜由子の突飛な発言で、しいなに笑顔が戻った。
「そうそう。しいなんは、そっちの方が可愛いよ」
「ありがとう。菜由ミン。私のために頑張って」
「勿論だよ」
 しいなの励ましに、菜由子は笑顔で椅子から立ち上がった。
「じゃあね」
「うん」
 菜由子が片手を振ると、しいなも笑顔で返してくれた。その表情に満足して、病室を後にした。
 帰る途中に、転校阻止のプランをいろいろ考えた。
 一番先に思いついたのは教師への脅しだったが、実力テストの結果が出ている以上、それは無理だと悟った。
 二番目に考えついたのは、傷心の京橋を利用することだった。これにはかなりの労力と京橋へのダメージが強いと感じたが、今はそれを言っている時間の余裕がないと思いそれに決めた。
 京橋を転校させないために、まず両親に事情を説明した。二人はかなり渋ったが、なんとか説得することができた。
 あとは、学校側と警察への通報だった。しかし、それだけでは動いてくれないので、先に噂を広めることにした。
 これには1週間ぐらい要した。噂を広めるには、自分に好意を持っていそうな相手にした。男子だけでは広まりにくいので、この時同じクラスの三和霞にも手伝ってもらった。
 しかし、人選が悪く、三和霞にこちらの意図を全部知られてしまった。
 なんとか言い包めようとしたが、渋るばかりだったので最終的には脅すかたちで釘を刺した。今でも彼女が、あの噂の真意を言わないか冷や冷やしていた。
 根回しが整い、学校と警察に通報した。予想通り京橋は任意同行されて、父親の権限で家宅捜索もしてくれた。
 しかし、この後が一番重要だった。家宅捜索で何も出てこなくても、京橋が転校になっては元も子もなかった。
 菜由子は最後の仕上げをする前にしいなの病室を訪れた。一応、京橋が帰ったことを確認しての訪問だった。
「久しぶり」
 しいなと会うのは3週間ぶりで、前よりかなり痩せこけてしまっていた。衰弱するとは聞いていたが、実際目にすると本当に痛々しく感じた。
「あ、こんにちは」
 しいなが菜由子に気づき、驚いた顔で挨拶した。
「一通り終わったよ」
「うまくいったの?」
「いや、まだだよ。あと一つの作業で結果が出るから、その報告に来た」
「そうなんだ」
「京橋、結構追い詰めちゃったね」
「うん。でも、必要なことなんでしょう」
「こうでもしないと、転校は免れないから」
「しげちゃんに謝りたくなってくるね」
「ダメだよ。ばらしたら今までの行動が無意味になる」
「わかってるよ。でも、もどかしいね。何もできないなんて」
「そうかもね。やってる私は、うまくいくかドキドキしてるけど」
「ごめんなさい。無神経な発言だったね」
「いいよ。私が好きでやってることだから」
 菜由子は、この後のことを伝えるために真剣な顔をした。
「しいなん。私のお見舞いは今日で終わりになるわ」
「え、どうして!」
「ごめん。いろいろ考えたけど、最後の仕上げはかなり危険なの」
「そ、それは、ここに来られないほどなの?」
「うん。たぶん、京橋の周りは詮索されるわ。だから、ここに来るのは危険になる」
「な、何するの?」
「ちょっと、犯罪スレスレのことをね。これが発覚するだけで、計画は完全に失敗する」
「そ、そこまでしないと無理なの?」
「当然。これは最初から覚悟してたことだよ」
「それは・・最初に聞いておきたかったんだけど」
 これにはしいなが、不満そうに口を尖らせた。
「ごめん。これ言うと、絶対止められると思ったから」
「そうだね。犯罪スレスレなんて聞いたら止めてたよ」
 予想通り、しいなは正義感が強いようだった。
「という訳で、今日は面会時間いっぱい話そうか」
 菜由子は気を取り直して、しいなに向き直った。日曜日だったので、数時間は話せそうだった。
「うん」
 しいなも表情を緩めて、こっちを向いて頷いた。
 その後、面会時間を少し過ぎるまで話した。このひと時は菜由子にとって、絶対に忘れることのない時間になった。
「じゃあ、帰るね」
「うん」
 これが最後になると思うと、しんみりとした別れとなった。
「最後に拍手しよっか」
 菜由子は、右手を出して握手を求めた。
「短い付き合いだったけど、楽しかったね」
 しいなはそう言って、笑顔で手を握ってきた。その手は痩せていて、力を入れれば折れそうだった。
「そうだね。名残惜しいけど、これでお別れだね」
「うん」
「最期は、京橋に看取られることを祈ってるよ」
「ありがとう、菜由ミン。そうなるように頑張るよ」
 菜由子の応援に、しいなが力強い目力で見つめ返してきた。
「あ、待って」
 菜由子が手を離そうとすると、しいなが思い出したように手に力を込めて引き止めてきた。
「ん?」
「しげちゃんのこと、お願いしてもいいかな」
「お願いって?」
「私のせいでかなり憔悴すると思うから、元気づけて欲しいの」
「う~~ん。でも、ほとぼりが冷めるまで京橋に近づけないよ」
「そ、そうだったね。じゃあ、落ち着いたらでいいから、しげちゃんの傍に居てくれないかな」
「わかった。そうするよ」
「ありがとう」
 しいなは、深々と頭を下げてお礼を言った。
「じゃあね。しいなん」
「バイバイ、菜由ミン」
 握手していた手を離すと、途端に二人は泣いてしまった。
 しいなが必死に笑顔をつくったが、涙は止まることはなかった。それは菜由子も同じだった。笑顔で別れたかったが、泣き別れになってしまった。
 菜由子は、道中になんとか涙を止めて帰宅した。
 自室に入り、ノートパソコンを立ち上げて、最後の作業を始めた。
 ばれたら逮捕される可能性もあるので、ネットで匿名性の高い掲示板を使うことにした。念には念を入れて、海外のサーバーを何度も経由させて、痕跡を辿れないようにした。
 それをしてから、掲示板に書き込んだ。数十のデマの中に京橋の一件を書き込んだ。これを広めるために、学校の名前がわかるように細工しておいた。
 一通り作業を終えると、溜息が漏れた。
「あとは、成り行きに任せるしかないか」
 あまり余計な書き込みを増やすと、足が付くのでこれ以上はできなかった。
 数日後、菜由子の計画が実を結んだ。
 担任にネットのことを聞かれたが、知らない振りを突き通した。この時、担任から京橋との接触は控えるように言われた。最初からそのつもりだったので、従う振りをしておいた。
 京橋は、異例の形で追試となった。かなり傷心し切っていたが、なんとか偏差値を取ってくれて転校は免れた。
 自分の役割が終わり、あとはしいなが京橋に看取られるだけだった。
 しいなの状態は、京橋を見ていればだいたいは把握できた。京橋の顔を見るだけで、日に日に罪悪感が募っていった。
 菜由子はそれに耐え切れなくなり、母親に通報したのは自分だという噂を京橋にも伝わるよう広めてもらった。
 しいなの死は、母親から聞いた。これは母親の近所付き合いのおかげだった。
 菜由子は、京橋の目に付かないように日頃しない化粧をして、告別式に出た。それが功を奏したようで、京橋にばれずに済んだ。二度だけ会っていたしいなの両親にもばれなかった。
 進級するまでは油断ができなかったので、できるだけ京橋からは距離を置いた。その間、京橋はずっと琴音と一緒に居て、彼女はいつも嫉妬の対象だった。
 進級で京橋と同じクラスなり、精神が安定し始めた5月に菜由子はようやくよりを戻すことができた。ちなみに、三和霞と同じクラスになったことには、内心今でもハラハラしている。
「菜由、そろそろ出てきてくれない?」 
 菜由子が悦に浸っていると、ドアの向こうから母親の声が聞こえてきた。気づくと、もう既に5時を回っていた。あれから4時間近く悶えていた計算になる。
「うん」
 もう少し余韻に浸っていたかったが、日も沈み始めたので、部屋のドアを開けて顔を出した。
「少しは落ち着いた?」
「え、何が?」
「茂君にハグされたんでしょう」
 母親はそう言って、憎らしい笑みでからかってきた。
「なんで知ってるの?」
「琴音っちに聞いたから」
「こ、琴音っち?」
 母親が琴音をあだ名で呼んだことに驚いた。母親は、気に入った相手しか名前やあだ名では呼ばなかった。
「どうかした?」
「琴音と話したの?」
「うん。まあね。あの子、良い子ね」
「そ、そうだね」
 確かに悪い子ではないが、良い子と言われると苦笑いしかできなかった。
「琴音っちにも、茂君を押しといたから」
「は?」
「茂君と琴音っちが家族になるのが楽しみね~」
 そう言うと、母親が手を頬に当てうっとりとした。
 こうなるとあまり詮索したくないので、別の話を振ることにした。
「そういえば、お父さんはまだ帰ってないの?」
 できるだけ早く帰るとは言っていたが、リビングには姿が見えなかった。
「うん。8時ぐらいになるんだって」
「そうなんだ」
 やはり職業がら、抜けるのはダメだったようだ。
「それより、琴音っちにまだ話してなかったんだね」
「ん、何を?」
「茂君の一件」
「え、話したの?」
「うん。聞きたそうだったから」
「はぁ~、なんで教えたのよ~」
 菜由子は、溜息交じりに母親を責めた。正直な話、琴音にはあの件は知って欲しくはなかった。
「ダメだった?」
「だって、恥ずかしいじゃん」
「そう?私にとっては誇らしいんだけど」
「一歩間違えば、犯罪のどこが誇らしいのよ」
「そうかもしれないけど、好きな人の為に行動したんだから誇れるよ」
 菜由子の言葉に、母親が得意げにそう言い切った。両親は京橋の為だと思っているようだが、それは完全に間違っていた。
「はぁ~。あんまり他人に吹聴しないでよ」
「大丈夫よ。ちゃんと人は選んでるから」
「だと、いいけど」
 母親は意外と口が軽いので、奈由子的には心配だった。
「それより、散歩の時間だよ」
「あ、そうだった」
 時計を見ると、いつもの散歩の時間を過ぎていた。
「お母さん。帰ったら頼みたいことがあるんだけど」
「ん、何?」
「化粧のやり方とお弁当作るの手伝って」
「え、う、うん。いいけど」
 菜由子の頼みに、母親が戸惑った様子で承諾してくれた。
「じゃあ、いってきます」
 葛木はそう言って、玄関の扉を開けた。
 愛犬を散歩していると、さっきのことが頭に浮かんで自然と笑顔になっていた。
 今日は、しいなのお墓にさっきの出来事を報告しに行くことにした。最近、つらいことや嬉しいことがあると、しいなのお墓参りをするようになっていた。
 愛犬を連れたまま墓地に入り、しいなのお墓の前に立った。
「9日振りだね」
 菜由子はそう言って、お墓に手を合わせて目を閉じた。
 2秒ほどして目を開けて、今日のことを逐一報告した。それを話していると、後半にはにやけてしまった。
「前は京橋のこと人として好きだったけど、今は違ってるよ。これもしいなんの昔話の影響かもね。今じゃあ、異性として大好きだよ。京橋の為だったらなんでもしようと思うぐらい好きになっちゃった。これは、しいなんの時と同じだね・・・でも、それを考えると、私はしいなんに本気で惚れてたんだね・・・しいなんとの約束は絶対守るよ」
 しいなのことを思い出すと、自然と涙が溢れてきた。周りに誰もいないことを確認して、軽く涙を拭った。
「また来るね」
 初めて同性に恋をしたことは自分の胸に仕舞い、菜由子は薄暗い墓地を後にした。

ガールカウンセラー3rd

ガールカウンセラー3rd

京橋茂は、絶望感を滲ました立嶋琴音のせいで、学校をズル休みする羽目になってしまった。 しかも、流れで嫌いな葛木菜由子の家に行くことになった。 葛木の家で立嶋の悩み相談に乗ったが、思いのほか早く解決したので、帰ろうとしたが葛木に引き止められてしまった。仕方なく、今日の授業を教えてもらう条件で留まることにした。 そこで半年前に葛木の取った行動の全容が語られるのだった。

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-04-21

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 一 プロローグ
  2. 二 意識
  3. 三 来訪
  4. 四 若気の至り
  5. 五 サボり
  6. 六 訪問
  7. 七 (仮)授業
  8. 八 退散
  9. 九 裏事情
  10. 十 エピローグ