ガールカウンセラー1st

不動

ガールカウンセラー1st
  1. 一 プロローグ
  2. 二 憂鬱
  3. 三 相談
  4. 四 勘違い
  5. 五 和解
  6. 六 不足
  7. 七 不調
  8. 八 警戒
  9. 九 解消
  10. 十 エピローグ

一 プロローグ

 二人の男の口論が喫茶店の店内に響き渡った。
周りの客が、その声に驚き二人の方に視線を向けた。
注目を浴びた短髪の男と長髪を後ろに束ねた男は、人目を気にする様子もなく感情をあらわにしていた。
「なんで、あいつに会いに来なかったんだ!」
「俺だって、会いたかったさ!」
「なら、なぜ来なかった!」
 そう言うと、短髪の男が胸倉を掴んだ。
「おまえに言う必要はねぇよ!」
 長髪の男は、勢いよく彼の手を振り払った。
「・・・あの~、お客様、店内での大声はおやめください」
 すると、店員が申し訳なさそうに割って入ってきた。
長髪の男は、注目されていることに気づき、テーブルにお金を置いて店を出ていった。それを短髪の男が険しい表情で見送った。
 店に残された男の名は、京橋茂。高校3年生になって1ヶ月経っていた。店を出ていった男は、前田正吾。半年前に亡くなった加納しいなの彼氏だった。
 三人は小学校まで一緒に遊んでいたが、中学生になると茂だけは他の友達と遊ぶようになった。二人とは別々の高校に入り、しいなと正吾が付き合ったというのを風の噂で知った。
 高2の7月頃にしいなが病で床に臥せった。小学校以来疎遠だったが、何度も見舞いに行った。
 しかし、正吾は二度だけしか顔を見せなかった。それに腹が立って正吾の悪口を言ったことがあったが、しいなは優しく笑って、いいのと一言だけ口にした。彼女の痩せ細った笑顔に、茂は何も言えなくなってしまった。 
 しいなは、入院してから5ヶ月後に亡くなった。正吾は、彼女の死に際にも葬儀にも一切顔を出すことはなかった。
 今日は、それを正吾に詰問するために喫茶店に呼び寄せたのだが、結局口論で終わってしまった。
 茂は歩きながら、自分の気の短さに腹が立っていた。家に帰ろうと思ったが、寄り道をしてから公園に入った。
 すぐ近くのベンチに座ると、大きな溜息が出た。今日は日曜日だったので、家族や恋人同士が多く見られた。それをしばらく空虚な目で眺めた。
 日が沈みかける頃には気持ちの整理がついたので、ベンチから立ち上がって公園を後にした。
 家に帰ると、リビングのドアが珍しく開いていて、テレビの音が玄関まで漏れていた。リビングに入る気になれず、二階にある自室に足を向けた。
「お兄ちゃん、帰ったの?」
 玄関の閉まる音が聞こえたのか、リビングから妹の真理が顔を出した。綺麗な長い黒髪でチュニックに短パンのラフな格好だった。
「ああ、ただいま」
 本当はそれを言う気はなかったが、日頃の癖で自然と口が動いていた。
「おかえり。お母さんからの伝言。お兄ちゃんの洗濯物部屋に置いたから、畳んでおいてってさ」
「わかった」
 茂はそう返事をして、二階に上がろうとした。
「お兄ちゃん、顔色悪いよ」
 公園で気持ちの整理をしたつもりだったが、表情は直っていなかったようだ。
「ほっとけって」
 妹の気遣いを突っぱねて、階段を駆け上がった。
 二階に上がり、一番手前にある自分の部屋に入った。
 入り口にある電気のスイッチを押し、回転椅子に崩れるように腰掛けた。
 ドアの横には洗濯物がまとめて置いてあったので、少し気持ちを切り替える為、洗濯物を畳むことにした。
 服を畳んでいると、下から玄関の開く音と母親の声が聞こえてきた。この部屋は、玄関の音が嫌でも聞こえてくるのが欠点だった。あとベランダが隣と繋がっていることも。
 服を畳み終わり、押入れにまとめて入れたが、気が晴れなかったので、ベッドに寝転んで天井を見つめて呆けた。
 しばらくすると、階段を上がって来る音が聞こえて、ドアがノックされた。
「お兄ちゃん。入るよ」
 そう言うと同時にノブが回ったが、鍵を掛けているので開くことはなかった。
「ちょっと!鍵閉めないでよ!」
 部屋の外から妹が文句を言ってきた。
「悪いが一人にさせてくれ」
「いいから、開けて!」
 茂の意向を無視して怒鳴ってきた。その態度に少しイラッとしたので、完全シカトに移行した。
「ほう~~。頑なに開けないんだ」
 妹の言葉が急に緩い口調になって、廊下を走る足音が聞こえた。茂は、ベランダの窓の鍵を閉め忘れていることに気づき、慌てて鍵を締めようとしたが一歩遅かった。
「ふふん。やっぱり開けてたね」
 妹が窓を開けて、小馬鹿にするような笑みを浮かべた。この部屋の隣は妹の部屋で構造上ベランダが繋がっていて、行き来が可能だった。
「構うなって言ってるだろう」
「それはできないね~。私の信条は知ってるでしょう」
「家族の悩みは、自分の悩みだったっけ?」
「そういうこと~♪」
 自分の信条を軽いノリで口にしながら、部屋に入ってきた。
「さあ、悩みを言って。そうすれば、多少は気持ちが楽になるよ」
 少し乱れた長髪を手櫛で直しながら、妹は当前のようにベッドに座った。
「同じ悩みを言っても、仕方ねぇだろう」
「まだ引きずってるの?しい姉が亡くなって、もう5ヶ月は経ってるよ」
 呆れた様子だったが、表情は少し綻んでいた。
「今日、正吾に会ってきた」
「・・・マジ?」
 これは予想外だったようで、少し顔を引き攣らせた。
「なんか言ってた?」
 妹も正吾のことは気になっているようで、真剣な表情で聞いてきた。
「・・・何も」
「そう。やっぱり何か事情あるのかな?」
「わからん」
 茂は回転椅子に座って、上半身を背もたれに沈み込ませた。
「どうせ、お兄ちゃんのことだから、怒って掴みかかったんでしょう」
 妹が見てきたかのように、茂の行動を言い当ててきた。
「よくわかったな」
「お兄ちゃんだからね~」
 さも知った風な口調だったが、実際知っているので特に反論もなかった。
「なんで理由言わねぇんだろうな」
「言えないのかもしれないね~」
 妹はそう言うと、上半身だけをベッドに沈み込ませた。
「もういいだろう。出てけよ」
 茂は呆れて、寝そべった妹にそう命令した。
「悩みは解消してないでしょう」
「解消なんて無理だろう」
「まあ、そこは本人の許容次第だから無理だね」
「そう思うなら出てけよ」
「お兄ちゃんには、家族愛がないよね~」
 妹はそう言って、上半身を起こして皮肉ってきた。
「そんな不確かなもの信じてねぇからな~」
「また、そういう屁理屈言うんだから~。女子に嫌われるよ」
「余計なお世話だ」
 話題が途切れたが、妹は出ていく気配はなく、この部屋が沈黙に包まれた。
 しばらく、その状態が続いていると、ベランダの方から物音が聞こえた。その音に茂たちは反応した。
 すると、ベランダの正面の大木から人が飛び移ってきた。ベランダに入ってきたのは、フリルのワンピースを着たツインテールの少女だった。
「お悩みを~、ずばっと解決!ずばっと解消!お悩みの際は私にお任せ!」   
 少女は立ち上がりながら、決めポーズと決め台詞を吐いて満面な笑みを浮かべた。
「・・・」
「・・・」
 場が再び沈黙に包まれた。
「し、知り合いか?」
 この理解不能な状況を知る為、なんとか平静を保って妹に尋ねた。
「残念だけど、こういう電波系の知り合いはいないね。お兄ちゃんの知り合い・・・でもなさそうだね」
 茂の反応を見て、知り合いと言う線は除外した。
「って、ことは・・・」
「不法侵入だね」
 少女は、不法侵入という言葉にビクッと全身を震わした。
「お兄ちゃん、警察に電話して」
「そうだな」
 茂は、携帯を取り出して110のボタンを押そうとした。
「ちょ、ちょ、ちょっと、ごめんなさい。今出ていくから」
 少女が大慌てで、ベランダから隣の大木に飛び移り、下に降りていった。
「なんだったんだ?」
「さあ?痛い不審者だったね」
 状況の把握が追いつかず、二人はただベランダを見つめたまま呆然としていた。
 すると、玄関のインターホンが鳴った。
 嫌な予感がして、妹に目配せしていると、下の方から母親の声と玄関が開く音がした。
「あっ!」
「うっ!」
 これに兄妹の驚きの声が重なった。
 下からさっきと同じようなテンションの甲高い声が二階まで聴こえてきた。あの決め台詞を母親に向けたかと思うと、その場にいないのに凄く居た堪れない気持ちになった。
「い、行ってあげよっか」
 妹が苦笑いしながら、ベッドから立ち上がった。
「そ、そうだな」
 妹に同調して、茂も椅子から腰を上げた。
 二人で階段を下りていくと、少女は決めポーズ、母親は扉を開けた状態で固まっていた。正直、目も当てられない状況だった。
「あっ!」
 少女は、茂たちに気づき声を出した。母親もそれにつられてこちらを振り返った。
「お、お友達かな?」
 母親は、表情を引き攣らせながら恐る恐る尋ねてきた。
「さ、さっき会ったばかりだよ」
 茂は、悩んだ末に事実だけを母親に伝えた。
「そ、そうだね。さっき会ったね」
 妹も茂に同調して頷いた。
「そ、そう」
 二人の共通した答えに、母親が苦笑いした。
「えっと・・・お母さん、ここは任せて」
 状況を変える為、妹が母親にそう言った。
「あ、う、うん」
 それに母親が心配そうな顔をしながら、リビングに戻っていった。
「まず、名前を聞かせてもらえないかな」
 妹が率先して、少女に名前を聞いた。
「は、初めまして。か、加賀未来です」
 ベランダでのハイテンションとは全く異なる口調で、礼儀正しく自己紹介してきた。
「私は、京橋真里。こっちはおにい・・・兄の茂」
 妹も同じように自己紹介して、ついでに茂も紹介した。
「どうしようか?上がってもらう?」
 玄関前で話し合うのを妹が躊躇して、不安げに茂に尋ねてきた。
「いや、怪しいし、客として家に上げるのは少し抵抗があるな」
 茂は、率直な感想を口にした。
「初対面の子供にそれは酷くない」
「そうだったな。ごめん」
 自分の失言に気づき、頭を下げて未来に謝った。
「いえ、警戒するのは当然だと思います。こちらこそ、なんかごめんなさい」
 茂の謝罪に、未来が悪びれた様子で謝ってきた。
「う~ん。じゃあ、近くの公園で話さない?」
 妹は、少し考えてからそう提案した。
「そうだな」
 それに茂も賛同して、妹と一緒に家を出た。
 三人は日が完全に落ちた公園に入って、外灯の下のベンチに座った。その場所は、茂が夕方まで座っていたベンチだった。
「で、加賀未来ちゃんだっけ?なんで不法侵入したの?」
 妹は優しい口調で、未来を下から覗き込むように核心から入った。未来の表情を見て、その対応を取ることに決めたようだ。
「な、悩んでそうでしたから」
 すると、未来からよくわからない答えが返ってきた。
「経緯を聞いてるんだよ」
 話がかみ合ってないようなので、茂が溜息混じりに補足した。
「・・・喫茶店での口喧嘩です」
 未来は、少し悩んでそう答えた。
「おまえ、あそこにいたのか」
 これには驚いて、未来に尋ねた。
「う、うん」
 未来が悪びれた様子で頷いた。
「え、もしかして、お兄ちゃん。店内でキレたの?」
「あ、ああ」
「もうハズいな~。ちゃんと場所考えてよ~」
「か、感情のコントロールは難しいんだぞ」
 自分でも引け目を感じていたので、自己防衛で言い繕った。
「お兄ちゃんが短気なだけでしょう」
「うっ!否定できん」
 妹から核心を衝かれて言葉に詰まった。
「で、未来ちゃんはどうしたの?」
 妹が話を戻して、宥めるように未来に話を振った。
「・・・あとをつけました」
 ここで未来が、自らストーカー行為を言い放ってきた。
「それで家までついてきたの?」
「いえ、途中でこのベンチに3時間近く座ってました」
「さ、3時間・・・何してたの?」
 時間の長さに呆れたのか、呆れた顔を再び向けてきた。
「特に何も」
「そうですね。ただ座っていただけでした」
「というか、なんでそこで声を掛けなかったんだよ」
「話しかけづらかった・・です」
 未来が茂の顔を窺うように、寂しそうにそう返してきた。
「・・・」
 この答えには心底呆れてしまい、開いた口が塞がらなかった。
「それで?」
 妹は、茂を無視して話を先に進めた。
「その後、家までついていきました」
「それから?」
「家に入ったのを遠くで確認して、二階の電気がついたので、そこが部屋だと思いました。それから、ベランダの真横に木があったので登りました。それが一番大変でした」
「それで・・・あの初対面での登場はなんだったの?」
 経緯を聞き終わり、妹があのスタンドプレーについて言及した。
「あれは私の登場文句です。ああすることによって、場の雰囲気を和ませられると思って・・・」
 不法侵入した上、あれをやれば明らかに不審者だった。しかも、場を和ますどころか、一気に不穏な空気になるのは目に見えていた。だが、それはさすがに子供の未来には言えなかった。
「ふぅ~ん。成り行きはわかったわ。でも、なんで兄だったの?」
「私、人の心が読めるから」
 突然、現実から空想へと転化した。
「えっ!」
「えっ!」
 二人の驚きの声が重なった。二人は唖然として、言葉が出てこなかった。
「さっきから、お兄さんが酷い言葉を乱発させてます」
 未来は、呆然としている茂をじろりと睨んできた。その視線に、茂はビクッと反応してしまった。
「ど、どうなの?」
 半信半疑といった表情で、妹が尋ねてきた。
「酷いかどうかはわかんねぇけど、子供だと思って控えている言葉はある」
「正直、私かなり傷ついています」
 未来はそう言って、シュンとして落ち込んだ。
「本当?」
 妹はそれでも信じられないようで、眉間に皺を寄せた。
「わからん。自分の考えでも読ませてみたらどうだ?」
 茂自信も未だに信じられなかったので、妹にそう促した。
「そ、そうだね」
 妹はかなり躊躇しながら、未来と向き合う覚悟を決めた。
「ねえ、私が今思っていること・・・わかるかな」
「わかりますよ」
 未来は、頷いて即答した。
「お兄ちゃんの馬鹿」
 少女の口から茂への罵倒が飛び出した。
「あ、合ってる」
「おまえ、試行で兄への悪口を思うなよ」
「ああ、ごめん。日頃思っていることだったから」
「衝撃的事実をさらっとここで発表すんな!」
 妹の軽いノリの発言に、思わず声を荒げてしまった。
「お兄ちゃんって、相変わらずからかい甲斐あるよね~」
「第三者を通してからかうなよ!」
 その煽りに感情的になって叫んだ。
「お兄ちゃん、夜の公園は声が響くから静かにしてね」
 妹の注意に辺りを見回したが、周りには誰もいなかった。悲しいことに妹に軽くあしらわれてしまった。
「ごめんなさい。なんか揉めるかたちになっちゃって」
「ああ、いいのよ。いつものことだから」
 未来の謝罪に、妹が軽い感じで流した。
「で、悩みを解消しようと思ったのはなぜ?」
「えっと・・・その・・・」
 なぜかここだけ躊躇いがちに口ごもった。
「ど、どうしたの?」
 妹は俯いた未来の顔を覗きこんで、怖がらせないよう笑顔で尋ねた。
「な、悩みを解消する代わりにお金をください」
 今度は空想から現実に舞い戻った。
「お、お金?」
 あまりに少女とは不釣合いな言葉に妹が目を丸くした。
「う、うん。私、お金が欲しいんです」
 真剣な表情で兄妹二人を見つめてきた。不純であるはずの動機なのに、茂には純粋に見えた。
「そ、そうなんだ・・・」
 考えたら読まれることを気にしてか、妹が必死で言葉を探しているようだった。
「ち、ちなみに、悩みの解決料はいくらなの?」
「つ、付け値でいいです」
 再び少女から似合わない言葉が飛び出した。
「付け値?」
 付け値の意味がわからないのか、妹は未来の言葉を復唱した。
「要は、こっちが値段を決めていいってことだ」
 茂は知っていたので、妹に説明した。
「そういうことです」
 未来のたどたどしい説明を要約すると、悩みを解消、又は解決して、金銭を支払うという心理カウンセラーの真似事をしているらしい。しかも、学生に限定することで噂を広めてもらい、依頼人を増やそうと考えているようだ。
「で、俺は聞いたことないけど、広まっているのか?」
「ぜ、全然です」
 茂の問いに、未来が一気に表情を曇らせて俯いた。
「もしかして、こういうの始めたばかりなのか?」
「1ヶ月ぐらいです。みんな馬鹿にしたり、気持ち悪いって逃げていきます」
 徐々に目に涙を溜め、小声で独白した。
「そ、そうか」
 なんとなくその光景が目に浮かび、目頭が熱くなった。
「か、可哀想」
 妹も同じ思いに駆られたのか、少し涙ぐんでいた。
「大丈夫よ。未来ちゃん、私たちがあなたのことを広めてあげるから」
 妹はそう言って、うつむいている未来の両手を力強く握って励ました。
「あ、ありがとう、お姉さん。こんなこと言われたのは初めてです」
 妹の気遣いに、未来が涙を流した。この反応を見る限り、励まされた経験がなかったのだろう。
「じゃあ、お兄ちゃん。あとよろしく」
 そう思っていると、妹が軽い感じで全てを丸投げしてきた。
「マジデスカ。イモウトヨ」
 予想はしていたが、あまりの粗雑な振りに思わず片言で聞き返した。
「だって、未来ちゃんはお兄ちゃんについてきたんだよ」
 ただでさえ狭いベンチなのに顔を近づけて詰め寄ってきた。茂は、上半身をのけぞらして顔を顰めた。
「可哀想だと思わないの?それでも人間なの?」
 怯んだ茂に対して、これ見よがしに言い包めにかかってきた。
「わ、わかったよ」
 こうなっては梃子でも動くことはないので、渋々了承した。
「良かったね。未来ちゃん」
 妹は、笑顔で未来を見つめた。
「い、いいんですか?」
「いいのよ」
 茂に聞いたはずの言葉を、なぜか妹が軽いノリで答えた。
「言っておくが、お金はそんなに払えないぞ」
 そのことだけは、最初に釘を刺しておいた。
「べ、別に構いません。ありがとうございます」
 嬉しいからなのか、未来の目には涙が浮かんでいた。
「でも、今日はもう帰った方が良くねぇ~か?」
 携帯の時計を見ると、もう既に7時を回っていた。
「そうだね。子供がこんな時間まで外出していたら、問題になるもんね」
 妹も携帯を見て、辺りを見回した。
「じゃあ、先行ってるぞ」
 茂は早口でそう言って、ベンチから立ち上がった。とにかく、ここから早く去りたかった。
「待って」
 が、妹がジーンズを摘んで引き止めてきた。
「どうやって連絡取るつもりなの?」
 このまま別れてうやむやにしようと思ったのだが、妹がそれを阻害してきた。
「ま、また会う時でいいだろう」
 茂は、目を泳がせながらそう言い繕った。
「いつ会うの?」
「そ、そのうち」
 答えていくうちに徐々に後ろめたくなっていった。
「お兄さんは、もう会ってくれないんですか?」
 未来が座ったまま、悲しそうに見上げてきた。
「お兄ちゃん!」
 これに妹が、怒って茂を睨んできた。
「わ、わかったよ。じゃあ、来週の金曜日ここで待ち合わせよう」
「何時?」
 なぜか妹の方が積極的に聞いてきた。
「学校が終わってからだから、5時ぐらいで」
 仕方なく個人的に無難な時間を選んだ。
「それでいいかな?」
 妹は、未来に優しい口調で聞いた。自分との対応の違いに、若干泣きそうになった。
「え、うん」
 それに未来が、戸惑いながら頷いた。
「じゃあ、今日は帰ろうか」
 その返事に、妹が満足してベンチから立ち上がった。
 茂は未来を送ろうかと思ったが、彼女がそれを察して丁寧に断ってきた。
 自宅はここから近いらしく、京橋家とは反対方向に歩いて帰っていった。
「これじゃあ、どっちが相談するのかわからなくなってくるな」
 茂は、少女の後ろ姿を見送りながら呟いた。
「お兄ちゃんもたまには人助けしたほうがいいよ」
 悩みを解消してもらうはずの茂が相談することで、少女を助けることは矛盾している気がした。
「帰るか」
 茂は、深い溜息をついて踵を返した。
「お兄ちゃん、約束はちゃんと守ってよね」
「心掛けるよ」
 二人は、日が落ちて誰もいなくなった公園を後にした。

二 憂鬱

 月曜日になり、いつも通り起床して、学校に登校した。
 学校に近づくにつれ、多くの生徒が見受けられた。携帯をいじってる生徒や談笑している生徒が多かった。これはいつもの登校風景だった。
 茂は、校門をくぐり校舎に入った。
「おはよう」
 すると、一人のショートヘアの女子生徒が声を掛けてきた。今日は珍しくここで待っていたようだ。
「お、おはよう」
 茂は苦笑いしながら、後ろを振り返った。
 彼女の名前は立嶋琴音。体系と容姿、文武、そのすべてにおいて平均的だったが、相手との会話が成立しないという欠点を持っていた。長所がないのに欠点だけははっきりしていた。
 立嶋は1年の頃から誰彼構わず声を掛けていたが、その全員が苦笑いして去っていった。一度だけ彼女の会話を近くで聞いたことがあり、一方的な情報と愚痴だけで話の流れというものを完全に無視した会話だった。
 茂は、できるだけ彼女と関わらないように避けていたが、2年の冬に話しかけられてしまった。ちょうどその頃、しいなの体調が悪化した時期だったので、立嶋のことを完全に失念していた。
 立嶋は茂の沈んだ表情を無視して、押し付けがましく悩みを聞いてきた。その頃の茂は、他人と話すのが煩わしく感じていて、彼女を強い口調で突っぱねた。
 しかし、その程度で立嶋が引くはずもなく、さらに追求してきた。それに腹が立ち、彼女に辛辣な言葉を言い放った。
 これにはさすがの立嶋も驚いて表情を硬直させたが、周りの生徒たちをも萎縮させてしまった。それに気づいた茂は、教室を出る羽目になってしまった。
 これで立嶋から話しかけてくることはないだろうと思ったが、その考えは甘かった。彼女は昨日のことを気に掛ける様子もなく、一方的に話しかけてきた。
 それ以来、彼女は茂に付き纏ってきた。あの時の罵倒に罪悪感を感じていた茂は、それ以上立嶋を拒絶することはできなかった。
「昨日は、変な情報があったよ」
 会って早々、立嶋の一方的な話が始まった。
「そうか」
 茂は、いつものように無表情で相槌を打った。いつもは登校途中で待っているのだが、今日はなぜか校舎内だったので、そんなに長い話はしてこなかった。
「じゃあ、またあとでね」
 立嶋は、手を振って来た道を戻っていった。彼女のクラスはさっき通り過ぎていた。
 茂は教室に入り、一番先頭の窓際の自席に座った。1年前まで友達はいたが、しいなの見舞いが続いて、精神状態が不安定になったことで友達がいなくなってしまった。精神が安定し始める頃にそのことでかなり落ち込んだが、今ではもう慣れてしまっていた。
 鞄からA4サイズの電子書籍を取り出して、タッチパネルをいじった。最近は電子書籍で読書するのが日課になっていた。ジャンルは時事ネタから小説まで多岐にわたった。
 午前の授業が始まり、全員机から電子書籍を取り出した。電子書籍で教科を選び、正面の電子パネルに見て、重要な点を電子ペンで電子書籍に書写していった。
 茂は、授業を聞きながら加賀未来のことを考えていた。心を読めることが本当なら苦痛なことこの上ないことだろう。自分に置き換えると、人間不信になることが確信できた。
 そんなことを考えていると、いつの間にか午前の授業が終わっていた。
 電子書籍を机にしまっていると、正面に人の気配がした。
「昼ごはん、買いに行こっか」
 顔を上げると、弁当箱を持った立嶋が笑顔でそう言ってきた。彼女は弁当を持参していたが、茂はいつもコンビニで昼食を買っていた。その為、彼女は茂の昼食を買いに同行していた。
「たまには先に食べててもいいぞ」
「ううん。一緒がいい」
 茂の配慮に、立嶋が笑顔でそう言い切ってきた。
 仕方なく、立嶋を引き連れてコンビニへ向かった。売店はいつも混雑しているので、学校の近くにあるコンビニで昼食を買っていた。コンビニは売店より高いので、他の学生はほとんどいなかった。
 道中、立嶋がずっとしゃべっていたが、聞き流していたのでほとんど生返事になっていた。
コンビニで昼食を買っていると、立嶋が飲み物を買っていた。
「珍しいな。今日飲み物忘れたのか?」
「違うよ。京橋がいつもコンビニに行くから、次からここで買おうかと思って」
「あ、そう」
 なぜ今日からなのかは不明だったが、特に聞くことはしなかった。
 教室に戻ると、立嶋は後ろの教員の椅子を引き寄せて、机を挟んで茂の正面に座った。
「なあ、立嶋」
 茂は、思い切って自分から話を振った。
「ん、何?」
 それに立嶋が、素っ気無く応えた。
「ずっと聞きたかったことがあるんだが・・・」
「だから、何?」
「他の人とはもう話さないのか」
 半年前までは誰彼構わず話しかけていたはずだったが、茂とつるむようになってからは、それを見かけることはなくなっていた。
「いまさらだね。答えはもう出てると思うけど?」
 立嶋はそう言って、茂をじっと見つめてきた。
「俺・・・か?」
「もちろん♪」
「なんで俺なの?」
「だって、今までの人と反応が違ったから」
「は、反応って・・・」
「怒ったでしょう」
「ああ」
「あれが新鮮だったの」
「もしかして・・・そ、それだけ?」
 あまりの単純な答えに眉を顰めた。
「私にとって重要なことなんだよ」
 これには立嶋が、少し気まずそうに視線を外した。
「それより、別の話しようよ」
 あまり深く掘り下げて欲しくないようで、いつもの情報と愚痴を率先して話し始めた。
「でね、最近の取ってる新聞のネタがしょうもなくてね、特に社説。あれどうにかなんないかな。一方的な主張の度が過ぎて、読んでてむかつくことこの上ないわ」
 そんなこと知るかとつっこみたかったが、それは敢えて押さえた。
「だから、もうここの新聞を取るのやめようと思うの」
「まあ、自分に合わなければ、やめたらいい」
「でも、四コマは面白いのよね~」
「知らねぇ~よ」
 これには耐え切れず、つっこんでしまった。
「悩みどころだよね~。ああ、あとテレビで野球やってたんだけど、各球場の大きさって、各地で違うなんて初めて知ったよ」
「あのさ、自分の知ったことの報告はいい加減やめてくれ」
 ちなみに、これはもう何度目かの指摘だった。
「え~、そしたら何も話せないよ~」
 すると、立嶋から前と同じような答えが返ってきた。
「あのな~、もうちょっと話を膨らませて話せよ。それと思いつきで関連性もない情報を組み入れてくるな。聞いてるこっちは苦痛だぞ」
「関連性はあるよ!これは私が順番に知ったことなんだから」
 これが癇に障ったのか、立嶋が興奮のあまり椅子から立ち上がった。
「そんなこと知らねぇよ。それに激情するのは図星の証だぞ」
 茂は立嶋を見上げて、冷静に切り返した。最初は激昂されて沈黙してしまったが、二度目となると冷静でいられた。
「そ、そんなことないって」
 周りから注目されてるのに気づき、恥ずかしそうに小声になった。
「まあ、すぐに直せとは言わないけど、少しは自覚してくれ」
「じゃあ、どうすればいいのよ」
 茂の指摘に、立嶋が膨れっ面で抗議してきた。
「いいか。話を膨らませるのは、互いに話をすることが大事なんだ」
「してるじゃない」
「おまえのは一方的なんだよ。俺の話を聞いたことがあるのか?」
「う~ん。あるような、ないような」
「ねぇ~よ!今まですべて流してきただろう」
 しかも、上乗せではなく、常に上書きしてきた。
「そうだったっけ?」
 これに立嶋が、呆けた表情で頭を掻いた。
「そうだったよ!」
 その態度に苛立って、思わず声を荒げてしまった。
「おまえな~。今まで声を掛けてきた人を思い出してみろよ。全員がどんな対応だった?」
「みんな笑って去っていったわ」
 茂の問いに、拳を作って力強く答えた。
「それがどういうことかわかってるのか」
「私の話についていけないのかと感じた」
 なぜか立嶋が、誇らしげに胸を張った。
「意味合い的には合ってるけど、それは残念での意味でだぞ」
「ふぅ~、京橋はわかってないね~」
 茂の解釈に、立嶋が大きく息を吐いて首を左右に振った。その仕草は完全に茂を小馬鹿にしていた。
「わかってねぇ~のは、おまえだよ」
 これには引き攣った顔で反発した。
 そんな言い合いをしていると予鈴が鳴った。
「あ、もう行かなきゃ。次は移動教室なのよね~」
 そう言うと、弁当箱を持って席を立った。
「待て、これも持っていけ」
 茂はそう言って、立嶋に空のペットボトルを差し出した。
「捨てといて」
「戻るついでに捨てていけよ」
 ゴミ箱は教室の入り口付近に設置されていて、明らかな悪ふざけだった。
「わかったわよ~」
 不満そうにペットボトルを受け取って、教室から出ていった。
「なんで渋々なんだよ」
 立嶋を見送りながら、小声で愚痴った。
 次の授業の準備をする為、茂は電子書籍を机から引っ張り出した。その時、一枚の紙が落ちたことに気づかなかった。
「なんか落ちたよ」
 斜め後ろの女子生徒が、茂に声を掛けてきた。
「え」
 突然の呼びかけに驚いて振り返った。声を掛けたのは学級委員長の三和霞で、茂とはほとんど話したことはなかった。彼女は、セミロングの黒と茶が混ざった髪にウエーブがかかっていて、とても委員長には見えない風貌だった。
「はい」
 三和が落ちた紙を拾い上げ、茂に手渡してきた。
「あ、ありがとう」
 その三和にお礼を言って、小さな紙切れを受け取った。
 紙は四つ折りにされていて、茂の物ではなかった。広げると、ミミズ文字で”寂しい”と書いてあった。その理解不能の文字に全身に寒気が走った。
「ちょっと聞いていいか」
 茂は、振り返って三和に話しかけた。
「何?」
「昼休みに誰か俺の席に近づいた人いた?」
「さあ?京橋が戻って来るまで、私もここにいなかったから知らない」
「そう・・・ありがとう」
 再びお礼を言って、正面に向き直った。
 本鈴が鳴り、担当教師が入ってきた。悩みの種が増えた状態で、授業が始まった。
 授業は滞りなく進み、あっという間に放課後になった。
「あれ?」
 教室を出ると、立嶋が廊下で待っていた。
「そっちはもうHR終わったのか?」
 茂のクラスのHRは、いつもより早い時間に終わっていたので、少し驚いてしまった。
「ううん。ちょっと長くなりそうだったから、途中で抜けてきた」
 自分の異常な行動を軽い感じで答えてきた。
「な、なんでそんなことを?」
「この前、先に帰ったでしょう」
 言われてみれば、何日か前に早くHRが終わって、清々しい気持ちで帰った覚えがあった。
「別に、毎日一緒に帰る必要ねぇだろう」
「それ本気で言ってるの?」
 茂の言葉が気に障ったらしく睨まれてしまった。
「じょ、冗談だよ」
 それに気圧されて、苦笑いして取り繕った。
「そういう冗談は好きじゃない」
 立嶋はそう言うと、拗ねたように歩き出した。茂も彼女を追うかたちで歩を進めた。
「あのあとね。少し考えたんだけど・・・」
 立嶋が前置きもなく、唐突にそう切り出してきた。
「・・・ああ、あのことか」
 少し考えた末、昼休みのことが思い当たった。
「そっ♪」
「で、結果は出たのか」
「す、少し考え方を直そうと思うよ」
 前を歩いていたので、表情は見えなかったが、その言葉には少し恥じらいが感じられた。
「それはありがたいな」
「という訳で、今から京橋の家に行ってもいい?」
「は?」
「だから、家に行ってもいい?」
「ダメ」
 これは危険だと思い、きっぱりと拒否した。
「ええ~~」
 すると、立嶋が不満そうに眉間に皺を寄せた。
「だいたい、なんで家に来るんだよ」
「う~~ん、し、親睦を深める為?」
 悩んだ挙句、そんな危険な発言をしてきた。しかも、最後に疑問符がついてきた。
「何それ、冗談?」
 さすがにこの発言には周囲の目を気にしてしまった。
「なんかおかしかった?」
 自覚はないようで、茂の表情を不思議そうに見つめてきた。
「男女でその発言は、誤解を招くからやめてくれ」
「あ、ああ~~。そういうことね。別にいいじゃない。勘違いさせとけば」
 茂の真意を察したようだが、特に気にしていないように言った。
「それにもう勘違いされてるみたいだしね」
 そして、立嶋は前を向いて独り言のように聞き捨てならないことを呟いた。
「ちょっと待て、どういうことだよ」
「あれ、知らないの?私たち付き合ってることになってるよ」
「何ぃ~~。そんな馬鹿な。どこをどう解釈したんだよ!」
 あまりに興奮しすぎて、声が大きくなってしまった。
「いや、昼休みとか登下校を一緒にしていればそうなるよ。自然じゃないかな?」
 立嶋の解釈に納得できず眉を顰めた。
「おまえは、気にならないのか」
「特には。なんなら、付き合ってみる~?」
 立嶋の告白は、明らかにからかったものだった。
「ヤダ」
 悪ふざけでも、付き合うのは嫌なので即座に断った。
「こうもあっさり断られると傷つくな~」
 フラれた立嶋は、そう言いながらも表情は笑っていた。
 その後は、一方的な立嶋のマシンガントークが続いた。やはり、習慣はすぐには治らないようだ。
 茂たちは、いつものように途中まで一緒に帰った。
「じゃあね、今度は家に招いてね」
「ああ、断るよ」
 立嶋の笑顔での要求を、茂は笑顔で拒否した。
「ケチ」
 この返しには、不満そうな顔をしてから帰っていった。

三 相談

「ただいま~」
 茂は靴を脱いで、鞄を階段の一段目に置いた。玄関には見慣れない小さな靴が揃えてあった。
 不思議に思いながら、リビングのドアを開けると、加賀未来が遠慮がちにソファーに座っていた。この光景に、茂はドアノブに手を置いたまま硬直してしまった。
「ああ、おかえり~♪」
 すると、未来の正面に座っていた妹が軽い口調で手を振った。
「お、お邪魔してます」
 未来が茂に会釈し、悪びれた様子で挨拶してきた。
「なぜいるんだ」
 予想外の来客に思わずそう口走ってしまった。
「つれてきちゃった」
 これに妹が、笑顔でわざとらしく頭を掻いた。その悪びれた演技には、少し苛立ちを覚えた。
「ちょっと来い!」
 茂は、手招きで妹を呼び寄せた。
「何?」
 妹と一緒にリビングを出て、後ろ手にドアを閉めた。
「どういうことか、経緯を説明しろ」
「帰りに公園寄ったら、一人で寂しそうにベンチに座ってたから、ほっとけなくてつれてきた」
 妹が説明口調で、誘拐犯みたいなことを言い出した。
「同情でつれてきたのか」
「まあ、そうなるかな」
「はぁ~、世話焼きは相変わらずだな。いい加減直せよ」
「性分だからね~。こればっかりは直せないよ」
 妹は、昔から捨て猫や犬を拾ってくることが多かった。後先を考えずにつれてくるので、困るのはいつも家族だった。
「まあ、今回は子供だから自分で対処しろよ」
「そうだね。困ったら、また頼るよ」
「その時は母さんにでも頼れ」
 面倒事はごめんだったので、母親に転嫁することにした。
 リビングに戻ると、未来が不安そうな目で茂を見つめてきた。
「ゆっくりしていくといい」
 茂は微笑して、少女の不安を和らげようと試みた。
「気持ち悪い」
 それを横にいた妹が、余計な一言で台無しにした。
「おまえな~。空気読めよ」
「ごめん。普段見たことない表情だったから、思わず本音が出た」
「そこは堪えろよ」
「仕方ないでしょう。人間には限界があるんだから」
「えらく低い限界だな」
「私の感情の限界は、かなり高いと自負してるわ」
「今のやり取りで限界が見えてるのに、良く高いと自負できるな」
「敢えてお兄ちゃんには、低く設定してるのよ」
「設定って言うなよ。カスタマイズできる妹って結構引くぞ」
「別に、お兄ちゃん好みにカスタマイズしていいよ」
 妹が嫌らしい笑みを浮かべて、茂を挑発してきた。
「なら、もう少し慎みを持って欲しいな」
 自己主張の強い妹に対して、本気でそう思っていた。
「はぁ~、お兄ちゃんは古臭い思想を持ってるね~」
「おまえの発言の節々には罵詈雑言が見受けられるからな」
「私は、上辺で人と接することは控えてるんだよ」
「ふん。だから、彼氏ができないんだよ」
 そう言った瞬間、ローキックが茂の太ももに直撃した。
「ぐっ」
 その鈍痛に顔を歪めて、妹から距離を取ってから太ももを擦った。
「何すんだよ!」
「お兄ちゃん。家族でも禁句という言葉があるんだよ」
 妹は、怒った表情で睨みつけてきた。
「その禁句をいつも俺に向けてるおまえに言われたくねぇ~よ」
 少し怯みながらも果敢に口答えした。
「ふ、二人とも落ち着いてください」
 見兼ねた未来が、兄妹喧嘩を止めに入った。
「あ、そういえば、来客中だったな」
「そ、そうだったね」
 未来の仲裁に、茂たちは苦笑いを浮かべた。
「悪い。醜態を晒したな」
 茂は体裁を保つように、表情を緩めて謝った。
「私からもごめんなさい」
 これには妹も同調して謝った。
「ふふふっ、いえ、兄妹喧嘩なんて初めて見ました」
 すると、未来が楽しそうに微笑んでそう言った。
「か、可愛い」
 その無垢な笑顔に、妹が声を漏らした。
「まあ、ゆっくりしていってくれ」
 茂はそう言って、キッチンに入って麦茶を飲んだ。
「お兄ちゃん。ついでに私たちにも麦茶入れて」
 リビングにいる妹から軽い感じでお願いされた。
「人使い荒いな~」
 そう愚痴りながらも、二つのコップに氷と麦茶を入れて、妹たちの居るリビングに戻った。
「ほらよ」
「あ、氷も入れてくれたんだ。気が利くね」
 コップを手に取り、妹が偉そうな態度でそう言った。
「あ、ありがとうございます」
 妹とは違い、未来は律儀に会釈してお礼を言った。
 それから、二人は笑顔で話し出した。茂は部屋に戻って、宿題をすることにした。
 しばらく、宿題に没頭していると、階段を上ってくる音が聞こえてきて、ドアがノックされた。
「どうぞ~~」
 部屋の鍵は掛けていなかったので、宿題の手を止めずに返事だけした。
 ドアが開くと、妹と挙動不審な未来が入ってきた。
「何か用か?」
 手を止めて、回転椅子を動かし二人と向かい合った。
「お兄ちゃん、未来ちゃんと友達になってあげて」
「・・・」
 妹の唐突な頼みに座ったまま硬直した。
「な、何を言ってるんだ?」
 未来もいるので、平静を保って切り返した。
「未来ちゃんに友達がいないから友達になってあげて!」
「あ、あああの、そ、それは頼むものじゃないと思いますけど・・・」
 恥ずかしさに堪えられなくなったのか、未来が顔を真っ赤にしながら妹を制した。
「甘い、甘いわ。こういうのは周りを固めれば、自然と友達が集まってくるのよ」
 すると、妹が感情的に訳のわからないことを主張してきた。
「あのな~、周りを固めても無理なものは無理だぞ」
「ど、どういう意味よ」
「いいか。友達ができないのは、ほとんどは本人に問題あるか、悪い噂が立った場合だ。前者は、人との接し方を改善すればいいが、後者は本人の努力だけではダメだ。あれはいじめと同じ原理だ」
 茂は、世間の厳しさを妹に突きつけた。しいなの見舞いが続いて、精神が不安定の時、茂に対して同学年の間でかなり悪質な噂が流れたらしい。だが、茂には内容までは知らなかったし、知りたくもなかった。
「悪い噂・・か」
 妹が苦虫を噛み殺したような顔で、ぼそっと呟いた。
「ちなみに、お兄ちゃん。まだ、友達いないの?」
「ああ。いない」
 一応、立嶋と一緒にいるが友達とは思っていなかったのでいないで通した。
「そ、そう」
 この事実に、妹が哀れんだ眼差しを向けてきた。
「やめろ。そんな目で見るな。居た堪れなくなるだろう」
「か、可哀想」
 未来も同じ境遇に同情したのか、目に涙を溜めていた。どうやら、感傷的な性格のようだ。
「ま、まあ、そういう訳で周りを固めても友達はできない」
 この空気が煩わしく思い、結論だけを言った。
「あ、あの、私と友達になってもいいですよ」
 未来も妹と同じような顔で、茂に気を回してきた。
「だから、やめろ!そんなかたちで友達をつくりたくない!」
 二人からの同情が煩わしくて、語彙を強めてしまった。
「お兄ちゃん。ここは素直に受け入れたらいいんだよ」
「残念だが、素直に断ってるんだよ」
「無理しなくていいのに」
 茂の断言に、妹が本当に悲しそうな顔をした。こうなると本当にうざいだけだった。流れとはいえ、この話をしたことを物凄く後悔した。
「もうこの話は、終わりにしよう」
 妹の説得は諦めて、話題を強制的に切ることにした。
「と、友達になってくれないんですか?」
「こういうかたちでは嫌だな」
 断るのに少し躊躇いはあったが、どうせ心を読まれるので、主張を通すことにした。
「いいか。哀れんで友達になっても、それは一方的な慰めでしかない。それは真の友達とは言えねぇ~」
 未来を言い包めるために大げさな感じで”真”をつけた。
「し、真の・・友達。なんか良い言葉ですね」
 未来はその言葉を噛み締めるように、溜めながら復唱した。どうやら、この言葉が気に入ったようだ。
「そういう訳で、まずは親交を深める為、お互いを少しずつ知っていけばいい」
 それはもう友達という気もしたが、言葉を駆使してこの場の収拾を試みた。
「確かに、それが自然ですね」
 未来の言い包めに成功したようで、真面目な顔で納得してくれた。
「お兄ちゃんにしては、珍しく説得力あるね」
 さっきまでの感情的とは打って変わって、妹が真顔で感心していた。
「宿題終らせたいから、もう出ていってくれねぇ~か」
 茂は机に向き直って、宿題に集中することにした。
「じゃあ、ここで談笑しとくね」
 すると、茂の言葉を無視するように妹がベッドに腰掛けた。
「出てけよ!」
 その身勝手な行動に、思わず声を荒げた。
「横で会話されたら、気が散って集中できねぇだろう」
「それはお兄ちゃんの集中力がないだけでしょう」
「そう思うなら、出てけよ」
 妹にしては、珍しく話の持って行き方が雑だった。
「お兄ちゃんがいないと、なんか調子出ないんだよね~」
 妹が視線を外に向けながら、突然そんなことを言い出した。
「何の話だよ」
 さっきから妹の言動がおかしかった。
「あ、あの・・・」
 ここで未来が、何か言いたそうに話に入ってきた。
「まあ、率直に言うと話が続かない。心を読まれるって、コミュニケーション自体が難しくなるんだね~」
 これに妹が観念したように、心中を隠すことなく吐露した。 
「ご、ごめんなさい。凄く嬉しかったから」
 未来は、表情を曇らせて頭を下げた。
「ああ、別に責めてるわけじゃないから。言いたいことを先回りされて、会話を進められる経験なかったから、ただ困惑しただけ」
 これに妹が気を使って、軽い調子で本音を口にした。
「でも、昨日はかなり自然に話してなかったっけ?」
 昨日の公園ではスムーズに話していたことを考えると、それには引っかかりを覚えた。
「お兄ちゃんの考えがわかりやすくて、あんなにスムーズに会話ができたのは初めてなんだってさ」
 それについては未来から聞いたようで、妹が疑問に答えた。
「なるほど。まあ、そこはゆっくり慣れていくしかないな」
 会話にならない経験は今の茂には、さほど問題とは思えなかったので、軽い感じでそう助言した。
「未来もあまり先走った答えは、控えるよう妹で特訓しておけ」
「わ、わかりました」
 気休めではあるが、とりあえず二人に助言しておいた。
「なんか、お兄ちゃんって、たまに頼もしいこと言うね」
 妹が茂を見て、嬉しそうに微笑んだ。
「もういいだろう。出ていってくれ」
 早く宿題を終わらせたかったので、手を振って退出を促した。
「お兄ちゃんは、冷たいね~」
 妹がそう皮肉りながら、ベッドから立ち上がった。
「行こっか。未来ちゃん」
「え、う、うん」
 未来は、妹に手を引かれるかたちで部屋を出ていった。
 宿題が終わり、一息ついて時計を見ると、もう6時になっていた。さすがに未来も帰っているだろうと思い、一階に下りた。
 リビングに入ると、日も落ち始めて部屋全体が薄暗かった。
 茂は、首を傾げながら電気を点けた。
 誰もいないと思っていたリビングに、妹と未来が項垂れながらソファーに座っていた。
「おわっ!」
 これに驚いて、自然と声が出てしまった。
「ど、どうしたんだよ」
「お兄ちゃん。コミュニケーションって本当に難しいね」
 妹は顔を上げずに、こもった声で呟いた。
「やっぱり、すぐにはうまくいきませんでした」
 未来は曇った表情で、独り言のように呟いた。
「何があったんだよ?」
 この場の雰囲気で状況は予想できたが、本人たちの口から聞いてみることにした。
 妹の説明によると、所々で会話が噛み合わず破綻してしまったそうだ。しかも、それが連続で続いたらしい。
「ご、ごめんなさい」
 これに未来が、申し訳なさそうに謝罪した。彼女なりに努力したようだが、会話経験の少ない未来にとってはそれが難しかったようだ。
「なんか未来ちゃんと話していると、全部見抜かれてる感じがして、何話していいかわからなくちゃうよ」
 妹はそう言いながら、泣きそうになっていた。
「だろうな」
 この状況は対処できないので、キッチンで麦茶を飲むことにした。
「ただいま~」
 すると、玄関の開く音と共に母親の声が聞こえてきた。
「ど、どうしたの?真里」
 リビングに入ってきた母親が、落ち込んでいる真理を見て心配そうに声を掛けた。
「あれ?この子って、き、昨日の、え、えっと、知り合いの子だっけ?」
 本人の前で変な子とは言えず、言葉を選んだようだが、未来にとってそれは何の意味もなさなかった。
「お、お邪魔してます」
 未来は、苦笑いしながら母親に挨拶した。
「母さん。友人同士の楽しいひと時を邪魔するのは野暮だぞ」
 あまり関与して欲しくないので、母親にそう忠告した。
「た、楽しい・・って」
 二人の悄然とした表情を見て、かなり訝しげな顔をした。
「まあ、ここはいいから、夕食の用意をしてくれ」
 母親の背中を押して、キッチンに強制的に向かわせた。
「未来、時間も時間だし今日は帰れ」
「あ、は、はい。お、お邪魔しました」
 未来は戸惑った顔をしながら、ゆっくり立ち上がった。その間、視線はずっと妹に向けられていた。
「真理のことは気にするな。明日になれば元に戻ってるから」
 茂はそう言いながら、未来を玄関まで引っ張っていった。
「公園まで送ろうか?」
 立ち直る気配のない未来に、茂は親切心でそう言った。
「だ、大丈夫です」
 なんとか取り繕おうとしたみたいだが、表情は完全に失敗していた。
「送ろう」
 それを見て、未来を公園まで送ることを決めた。
「優しいですね」
 茂の真意を察して、表情を少し和らげた。
「甘いのかもな」
 茂は、靴を履いて玄関を出た。未来もそれに続いた。
「やっぱり、人の心が読めるのは不憫だな」
「ふふ、直接言うんですね」
 あまりの直球な発言だったようで、表情を緩めて微笑んだ。
「思ってることだから、隠しても無駄だろう」
「そうですね。私もその方が話しやすいかもしれません」
 このやり取りで、少し気持ちを持ち直してくれたようだ。
「真理は、少し先を考えて話しているのか?」
「結果を先に思考して話すタイプですねえ。話す時にどっちを口に出しているのか、ちょっとわからなくなってしまいまして」
 未来は、負い目を感じてか苦笑いをした。彼女には、口頭と思考が同じように聞こえるようだ。これには心底不憫だと思った。
「それで会話が続かなかったのか」
「は、はい」
「まあ、話し方にはいろいろあるからな~」
「そ、そうですね。でも、お兄さんとは少し話しやすいです」
「思っていることを直接言ってるからな」
 ここでは茂の短気が非常に役に立っているようだ。気が短いからこそ先を考えず、思ったことをすぐに口に出していた。たいていの人間はそうだと思っていたが、妹は違ったようだ。
「まあ、難しいとは思うけど、発言と思考を区別することから始めた方が良さそうだな」
「そ、それは、確かにそうですけど。かなり難しいです。今は、口が動いているのを見てからしか返事をしていません」
「口を見て・・か」
 茂は、状況を改善させるために少し考え込んだ。
「どく・・しん・・じゅつ?」
 未来が茂の思考を読み取って、間を空けながら口にした。
「まあ、今思いつくのはそれぐらいかな」
 言う手間も省けたので、そのまま話を続けた。
「それってなんですか?」
「あれ、知らないのか?」
「は、はい」
「読唇術は文字通り・・・と言っても、漢字を知らないか」
「はい」
「唇の動きで、言ってることを読み取る技術だ」
「そ、そんなことができるんですか!」
 衝撃的な技術だったようで、未来が目を丸くして食いついてきた。
「いや、俺にはできん。ただ、そういう方法があるってことだ」
「どうやるんですか!教えてください!」
 よほど知りたいのか、未来が茂にしがみついて懇願してきた。これには少し引いてしまったが、彼女の必死の表情を見ると、引いたことに罪悪感を感じた。
 茂は歩きながら、未来に母音の口の動きを教えた。
「これが一番の基本だな。まずはこれから覚えろ」
「わ、わかりました」
 未来は感心しながら、何度も自分の口の動きを確かめた。
「これはテレビを見ながらでもできるから」
「そ、そうですね。ありがとうございます、お兄さん」
 自分の為にここまで考慮してくれたことが嬉しかったのか、茂の手を取ってお礼を言った。
「おまえも大変だな」
 その行動と満面な笑みに、未来の今までの悲痛さが伝わってきた気がした。
 気づくと、昨日と同じ公園のベンチに着いていた。
「じゃあ、ここまでだな」
 茂はそう言って、その場で立ち止まった。
「あの、お姉ちゃんのことなんですけど、気に病まないで欲しいって伝えてくれませんか」
「ああ、わかった」
 未来の申し訳なさそうな表情を見て、軽い感じでそう答えた。
「では、さようならですね」
 未来は笑顔を見せて、名残惜しそうに小さく手を振った。その表情には哀愁が漂っていた。
「ああ、じゃあな」
 茂がそう返すと、未来は背を向けて帰っていった。
 しばらく見送っていると、彼女が何度か振り返って手を振るので、見えなくなるまで帰れなかった。
 家に帰ると、玄関にはいつものように電気がついておらず、リビングの明かりが漏れていただけで薄暗かった。
 その玄関の真ん中に人が立っていた。
「のわっ!」
 これには驚きのあまり、玄関の外に出てしまった。
「お兄ちゃん」
 薄暗い玄関から、か細い声が聞こえてきた。よく見ると、悲壮感を漂わせた妹が、項垂れたまま直立していた。
「ど、どうした?」
「私って・・無力だね」
「だから、どうしたんだよ」
「未来ちゃんを傷つけちゃった。救えると思って、つれてきたのに。ただ傷つけただけだった!」
 妹の悲痛な叫びが玄関に響いた。暗がりで見えにくかったが、妹が顔を歪めて泣いていた。
「おまえ、未来を救おうとか思ってたのかよ」
 妹の大胆な発言に、茂は呆れ返ってしまった。
「過信してた。友達になれば、それで解決できると思ってた」
 妹は泣きながら、何度も鼻をすすった。
「馬鹿だな~」
 茂はそう言いながら、玄関のドアを閉めて靴を脱いだ。
「本当に・・私って・・・馬鹿だ!」
 唇を強く噛み締め、拳を震わすぐらい強く握って叫んだ。その叫びは、心の底から自分を責め立てていた。
「あとで、俺の部屋に来い。悩みはそこで解決しよう」
 妹の頭に手を置いて表情を緩めた。
「あ、あとで・・って?」
「話は、飯食った後にってことだよ」
 精神が不安定な今では話を聞くしかできないので、少し時間を置いてからの方が冷静に話せると思った。
「ど、どうしたの?」
 すると、母親が心配そうにリビングから顔を覗かせた。妹の叫び声が、リビングまで届いたようだ。
「なんでもねぇよ。真理がヒステリーになってるだけだ」
「そ、それって、大丈夫なの?」
 茂の発言は心配をただ煽っただけのようで、母親の眉間に皺が寄った。
「なんでもないよ」
 妹はそう言って、袖で目頭を強く擦って涙を拭った。
「そ、そうなの?」
 しかし、母親は心配そうな顔で妹を見ていた。
「母さん。ご飯できたの?」
 仕方なく、茂が話を切り替えることにした。
「え?あ、もうちょっと掛かるわ」
「じゃあ、手伝うよ」
 茂は、急かすかたちで母親を強引にリビングに戻した。
「おまえは、顔洗って来い」
 茂はリビングに入る前に、妹にそう言っておいた。
「う、うん」
 これに妹は素直に従った。
 茂がキッチンに入ると、母親が手際よく料理していた。
「ねえ、真里は本当に大丈夫なの?」
「ああ、大丈夫だよ。あとで俺が悩みを聞くから」
「そうなの?なんなら、母さんが相談に乗ろうか?」
 この家庭は、母親と妹が率先して悩み相談に乗っていた。
「この悩みは、俺が適任なんだ」
 できるだけ未来のことは母親には言いたくなかったので、適当に言い繕うことにした。
「そう?なら、お願いね」
「ああ」
 茂はそう返事をして、夕食の準備を手伝った。
 リビングに戻ると、妹がテレビを見ていた。
「少しは落ち着いたか」
「う、うん。ありがとう」
 夕飯を三人で食べ始めたが、いつもより空気が重かった。母親が心配そうに隣の妹をチラチラと見ていたが、何も聞くことはなかった。
「先に部屋に行ってるぞ」
 妹にそう言って、リビングから出た。
「あ、待って、私も行く」
 すると、妹が慌てた様子で椅子から立ち上がった。
「真里」
 それを母親が、心配そうに妹を呼び止めた。
 茂は、先に自室で待つことにした。
 ※ ※ ※
「な、何かな」
 真理は、少し嫌な予感をして母親の方を振り返った。
「茂と一線越えたらダメだからね」
「はぁ?何の話?」
「だ、だから、いくら茂が好きでも結婚できな・・・」
 母親は、これ以上しゃべれなかった。
「お母さん。別に、私はお兄ちゃんに恋愛感情なんて持ったことないんだけど」
 暗くこもった声で母親に強く反論した。
「そ、そうなの?」
 口を押さえられたままの母親だったが、なんとか言葉を発した。
「てっきり茂と話したいから、あれを信条にしたのかと・・・」
 再び母親の言葉が遮られた。今度は、真里が顎を掴むかたちで口を塞いだ。
「あれは、元々の私の信条だよ。それを勝手にこじつけないで欲しいな」
 真理は掴む力を強めて、母親を睨みつけた。
「い、いたぁいぃよ~」
 真里の手首を両手で掴んで、放すよう訴えてきた。
「はぁ~、お母さん。あまり誤解の招くようなこと言わないでよね」
「誤解だったら、そんなに怒ることないでしょ~」
 母親が頬を擦りながら、子供のように口を尖らせた。
「なんか言った!」
「な、なんでもないです」
 真理の威嚇に、母親が萎縮した。
「こんな妄言、お兄ちゃんに言ったら本気に怒るからね」
 真理は、母親に口止めしてからリビングを出た。
 ※ ※ ※
 茂は明日の予習をしながら妹を待っていたが、なかなか妹が来なかった。
 しばらくして、扉のノックとともに妹が入ってきた。
「なんだ?遅かったな」
 妹の方を向くと、なぜか不機嫌そうな顔をしていた。
「あれ?なんかおまえ機嫌悪くねぇ~か?」
「ちょっと、むかつくことがあって」
「はぁ~、また母さんと揉めたのか」
「なんで、お母さんって余計なことばっかり言うのかな」
「年だからじゃねえ~?」
 なんか面倒になりそうだったので、思ったことをただ口に出した。
「そうなのよ!」
 火に油を注いでしまった。
 その後、しばらく母親への文句が続いた。これにはいつも黙って聞くことしかなかった。
「ところでさ、何言われたんだ?」
 ずっと昔のことを愚痴っているだけで、今回の怒りの原因が一向に見えてこなかった。
「えっ!」
 すると、妹が冷水を掛けられたように一気に怒りが鎮まった。
「そ、それは・・・」
 後が続かず、顔を赤くしてただ口をもごもごと動かすだけだった。
「それは?」
「う~~~~っ」
 催促したが、さらに顔を真っ赤にして唸っているだけだった。
「なんか言えよ」
「言えるか~!」
 妹が溜めこんだ感情を放出するように大声で怒鳴ってきた。
「はぁ~、はぁ~」
 急に大声を出しすぎたのか、息が乱れていた。
「お、落ち着けよ」
 さっきとは打って変わって、かなり激情的になった妹に少し恐怖を覚えた。
「落ち着けないよ」
 肩で息をしながら、今度は涙目になっていった。
「え、そこ泣くとこか!」
 あまりの喜怒哀楽の激しさに動揺してしまった。
「泣いてないよ」
 妹はそう言って、ベッドに勢いよくダイブした。
「お、おい」
 せっかく整えていたシーツがくしゃくしゃになってしまった。
 そんな茂の思いをよそに、妹が枕に顔を埋めた。
「何してんだよ、おまえ」
 妹の行動原理が理解できず、首を捻ることしかできなかった。
「ふう、落ち着いた」
 1分後、妹がさっぱりとした表情で枕から顔を上げた。
「というか、それなら一回自分の部屋で落ち着いてから来いよ」
 ベッドに飛び込むなら、自分の部屋の方が落ち着くだろうと、茂は強く思った。
「お兄ちゃんは鈍感で助かるけど、あまり鈍感すぎてむかつく時があるね」
 妹がこの状況とは無関係とも思える発言をした。
「まあ、落ち着いたなら、そろそろ未来のことを話そうか」
「そ、そうだね」
 未来の名前を出すと、さっきまでの元気が急速に消え失せていった。
「送ったとき、未来といろいろ話したんだが」
「誹謗してた?」
 妹が枕を抱いたまま、不安そうに見つめてきた。
「言ってねぇよ。未来は、そういうのに慣れてるみたいな感じだったな」
「な、慣れてるんだ」
 これには悲しそうに視線を下に向けた。
「人の心を読むって、そういう経験が多いだろうからな。まあ、今度会うときは余計な気遣いはしないことだ」
「え?」
「あいつもそれを望んでいるから」
「わ、わかった」
 茂の忠告に、妹は素直に頷いた。
「もう知ってると思うけど、未来は相手の思考と口頭が同じように聞こるらしい。だから、そこは考慮した方がいいぞ」
「え!そうなの!」
「あれ?知らなかったのか」
「うん。そこまで深い話はしてない」
「あと、未来には読唇術をするように伝えたから」
「え、何それ?」
 聞きなれない言葉だったのか、妹が不思議そうに首を捻った。
「ほら、口の動きを読み取るやつだよ」
「ああ。でも、あれって難しいんじゃないの?」
「友達をつくりたいなら、あいつにも努力してもらわないとな」
「そ、そうだね。このままじゃあ、ずっと変わらないもんね」
 珍しく妹が同調してきた。それは良いのだが、なぜか枕をぎゅっと抱きしめて涙ぐんでいた。
「言っとくが、俺はただ提案しているだけでおまえは未来の友達なんだから、読唇術の練習に協力してやれよ」
「う、うん・・・あ、ありがとう」
「じゃあ、俺は風呂に入ってくる」
 話も終わったので、着替えを持って部屋を出た。
 風呂に浸かりながら、いろいろ考えていると少しのぼせてしまった。
 自室に戻って、ベッドには目もくれず、机に向かって予習を始めた。
 ある程度区切りがついたので、受験勉強をしようかと考えたが、11時を回っていたので寝ることにした。
 何気なくベッドに目をやると、妹が枕を抱きながら気持ちよさそうに寝息を立てていた。
「おい、起きろ」
 これには呆れながら、妹の体を揺すった。
「う、う・・ん」
 すると、妹が寝ぼけ眼でゆっくり起き上がった。
「おまえ、人のベッドで寝るなよ」
「あれ、私寝てた?」
 妹はそう言いながら、眠そうに目を擦った。
「ああ、熟睡してたよ」
「さっさと風呂に入ってこい」
「うん」
 まだ覚醒していないのか、目が虚ろだった。
 妹は、目を閉じて再び仰向けに倒れた。
「寝んなよ!」
「もうこのまま寝る~」
「やめろ。俺の寝床がなくなるだろう」
 茂は、さっきより力を込めて揺すった。
「もう、うるさいな~。一緒に寝ればいいでしょう」
 煩わしそうに声を荒げて、寝返りを打った。
「この年で妹と添い寝なんかできるか!」
「大丈夫、誰にも言わないから~」
「そういう問題じゃねぇよ!」
 苛立って声を荒げたが、妹から返答がなかった。完全に寝入ったようで、こうなっては起きることはなかった。
「はぁ~、面倒だが強制送還させてもらうか」
 仕方なく、妹を運び出すことにした。枕を取ろうとしたが、がっちりと固定されていて取れなかった。
 枕は諦めて、妹を隣の部屋に移動することにした。
 横寝している妹を両手で担いだが、それでも起きる気配はなかった。
 隣の部屋のベッドに妹をゆっくり降ろして、掛け布団を掛けてから部屋を出た。それをしている自分が凄くアホらしく思えたが、自分の安眠の為には仕方なかった。
「はあ~、今日は一段と疲れた」
 一人でぼやきながら、電気を消してベッドに入った。枕がないので、タオルケットを畳んで枕替わりにすることにした。
「ん?」
 ベッドには、妹の臭いが染み付いていることに気づき、溜息をついてから舌打ちした。消臭スプレーをしようと思ったが、その消臭に使われる芳香の臭いが好きではなかったので、諦めてそのまま寝ることにした。
 しかし、やはり臭いが気になって、なかなか寝付けなかった。
「あの馬鹿妹。人の安眠を邪魔しやがって」
 妹への文句を口にしていると、次第に目が重くなり、いつの間にか眠ってしまっていた。

四 勘違い

「お兄ちゃん。起きて!」
 急に耳元で叫ばれて、驚いて飛び起きた。
 周りを見回すと、妹が仁王立ちでこちらを見下ろしていた。
「なんだよ?」
 目を擦りながら、妹を見上げた。
「なんで私の部屋にお兄ちゃんの枕があんの?」
 妹はそう言って、枕を突き出してきた。どうやら、昨日のことは覚えていないようだ。
「逆に聞くけど、昨日自分の部屋で寝た記憶はあるか?」
 茂は欠伸をしてから、手櫛で髪をとかしながら聞いた。
「え・・・えっと、そういえば、お兄ちゃんの部屋から出た記憶がないね」
「そういうことだ」
 時計を見ると、まだ5時半で二度寝には微妙な時間だった。
「じゃあ、なんで、自分の部屋で寝てたの?」
「俺が運んだから」
 状況が把握できずにいる妹に、隠すことなく事実を伝えた。
「へ?」
 その言葉に、妹の顔が青白くなった。
 茂は、固まった妹から枕を取り上げてベッドに置いた。
「運んだってどうやって!」
 なぜか動揺した妹が、大声で顔を近づけてきた。
「両手で」
 茂は両手を上げて、運んだときの状態を伝えた。
「だ、抱っこ?」
 言いたくなかったから身振りで伝えたのに、妹がそれを口に出した。
「な、なんで起こしてくれなかったのよ!」
「俺が起こさなかったとでも思うのか」
 これにはちょっと腹が立ったので、嫌味を含めて問いを返した。
「うっ!」
 茂の詰りに、妹が怯んで一歩引いた。
「お礼を言われるならまだしも、責められる言われはねぇ~ぞ」
「ううう~~~」
 これには妹が言葉を詰まらせた。
「あと、寝ぼけても一緒に寝るとか言うのはやめて欲しいもんだな」
 ちょっと調子に乗って、妹の寝ぼけ発言を暴露してしまった。
「へっ!」
 その事実に、妹の顔が見る見る真っ赤になっていった。
「私・・そんなこと言ったの?」
「あ、え、うん」
 妹が俯いて全身震わしていた。それが失言だと気づいたときにはもう遅かった。
「他に・・何か言ってた・・かな?」
 途切れ途切れの言葉が恐怖を助長させていった。
「いや、これだけだったよ」
「そう・・・なら、記憶消さなきゃね」
 拳をぷるぷる震わせながら、その拳を掲げた。
「お、落ち着け。誰にも言わないから」
 恐怖と焦りから、昨日の妹の寝言を無意識に引用してしまった。
「でも、未来ちゃんにばれるかもしれないから」
 ここで未来の名前を出してくるのは予想外だった。
「あれは、寝ぼけていただけでおまえの意思じゃねぇんだから、別いいだろう」
「駄目。私の精神が耐えられない」
「そもそも俺の記憶を消しても、おまえが覚えているから意味ねぇぞ」
「うるさ~~~い!」
 その怒声と同時に、体重を乗せた重い右の拳が振り下ろされた。
「いって~」
 あまりの痛さに頬を押さえた。
「記憶なくなった?」
「その程度の打撃で記憶がなくなるか!」
「はぁ~~、あと何発入れれば記憶が飛ぶんだろう」
 妹は溜息をつきながら、殴った拳を痛そうに左右に振った。
「記憶が飛ぶ前に意識が飛ぶだろっ!」
「死んだら、記憶もなくなるね」
 妹が茂を見つめて、薄ら笑いを浮かべた。
「おまえは、そこまで俺を殺したいのか!」
「人聞き悪いな~。ただ記憶を消すための処置じゃない」
「人の記憶がそう易々と消せるわけねぇだろう」
「そんなこと言ったら、殺すしかなくなるじゃない」
「おまえにとっては、そこまで消したい記憶なのか?」
「うん」
 茂の言葉に、妹がにべもなく真顔で頷いた。
 もう殴られるのは御免だったので、妹の両手首を掴まえて、体を捻り妹をベッドに押し倒した。
「ちょ、ちょっと、放してよ」
 妹が煩わしそうに両手を振りほどこうとした。
「茂。誰と話してるの?」
 母親が心配そうに部屋に入ってきた。
「あ・・れ?二人とも・・何してるの?」
 手を握り合ってベッドに折り重なっている兄妹を見た母親が、かなりの動揺を見せた。
「ま、まさか一線越えちゃった?」
 その言葉に、妹が瞬時に反応した。
 茂の両手を強引に払いのけて、母親の口を片手で塞いで部屋から出ていった。助かったと思ったが、えらく疎外感を味わった。
 ※ ※ ※
 真理は、母親を自分の部屋に連れていき、ドアを閉めた。
「お母さん。その妄言は言わないって、約束したよね」
 未だに母親の口を押さえたまま、昨日の約束を持ち出した。
「ごめん。あまりにも衝撃的な場面だったから、思わず口に出ちゃった」
「言っとくけど、あれはいきなり押し倒されただけだから」
「何してたの?」
「い、言えない」
 さすがに兄を殴って、記憶を消そうなんて幼稚な行動は口にできなかった。
「い、言えないことしてたの?」
 母親が真理を見て、何かを想像した。
「お母さん、あんまり卑猥のことを考えると殴るよ」
「か、考えるだけで、殴られるの?」
「お母さんって、考えてることが顔に出るんだもん」
 実際、母親は頬を染めて恥ずかしそうに俯いていた。
「卑猥なことじゃなくて、幼稚なことだから言わないだけだよ」
「余計気になるんだけど」
「とにかく、そういうわけだから、早く朝食作って」
 こうなっては切りが無いので、強引に話を打ち切った。母親は、何か言いたそうにしていたが、結局何も言わず部屋から出ていった。
 部屋で一人になると、自然と大きな溜息が漏れた。昨夜の自分の浅はかな行動に腹が立っていた。寝ぼけていたとはいえ、あんな発言を兄に向けたことは顔から火が出るほど恥ずかしかった。当分は、兄と話せなくなったことに切ない気分でベッドに倒れ込んだ。
 ※ ※ ※
 二度寝を諦めた茂が電子書籍でニュースを読んでいると、下から母親の呼ぶ声が聞こえた。
 それに返事をして、電子書籍を鞄に戻してからリビングへ向かった。
 リビングに入ると、妹が視線を向けずに黙々と朝食を食べていた。
「まだ怒ってんのか?」
 妹が放つ怒気に、茂は自然と溜息が漏れた。
「話しかけないで。また、さっきの続きをしたいの?」
「それは嫌だな。黙って朝食を取ることにしよう」
 朝からあの埒の明かないやり取りする気は全くなかったので、妹の言葉を受け入れた。
 先に朝食を食べ終わった妹は、さっさと食器を片付けて、リビングから出ていった。
「母さん、さっき何言われたんだ?」
 妹の言葉の意味がわからなかったので、朝食を食べている母親に聞いてみた。
「へっ!」
 すると、母親が驚愕して固まった。
「なんだ言えないのか」
 この反応を見ると、さすがに追求はできそうになかった。
「ごめん。言えない」
「別に、謝らなくていいよ」
 無理して聞くことは、きっと自分にとって不利益だろうと考えて引き下がった。
 朝食を食べ終わる頃には、いつもの登校時間になっていたので、着替えてすぐに学校へ向かった。
「おはよう」
 その途中、後ろから声を掛けられた。
 振り向くと、立嶋が笑顔で立っていた。彼女は、いつも神出鬼没で今日はコンビニの前で待っていた。
「おはよう」
 立嶋に対して、少し不快な思いで挨拶を返した。最近、彼女の待ち伏せが茂の家にどんどん近づいてきていた。
「どうかした?」
 茂の不安そうな顔を見て、立嶋が不思議そうに首を傾げた。
「あのさ、もしかして俺の家、知ってるのか?」
 ここは思い切って、立嶋に聞いてみることにした。
「知ってるけど。それがどうかしたの?」
 立嶋は、隠すこともなくしれっと答えた。
「やっぱりか。いつ知ったんだ?」
「最初に怒られた時にあとをつけた」
 立嶋は、悪びれる様子もなく堂々とそう言い放ってきた。知らず知らずの内に、ストーカー行為が行われたようだ。
「ねえ~。今の会話ってどうかな」
 すると、なぜか立嶋が嬉しそうに尋ねてきた。
「そうだな。日常的な会話ではあるな」
「こういうのを増やしていけば、友達ができるかな~」
「なんだ、友達が欲しかったのか」
 意外な発言に思わず、立嶋を横目で見た。
「あ!べ、別に、友達が欲しい訳じゃないから!」
 立嶋は、慌てて両手を左右に振って否定してきた。
「そこまで否定したら、逆に怪しいけど。まあ、友達が欲しいならそういう対話は必須だぞ」
「だ、だから違うって!」
 立嶋は、顔を赤らめて強く否定してきた。否定すればするほど微笑ましくなった。
「あ、私の嫌いな顔してる!」
 茂の表情を見て、今度は苛立ったように声を荒げた。
「そういえば、昨日は何か目新しいことはなかったか?」
 面倒だったので、話題を変えることにした。
「えっ、まあ、あるにはあるけど・・・」
 立嶋は、釈然としない様子で何か言いたそうだった。
「話を戻した方がいいか?」
「えっと、戻さなくていいや」
「だろうな」
 結局、立嶋はいつものように教室に着くまで楽しそうにしゃべり続けた。
 教室に入り、席に座って机に手を入れると、何か手に紙の感触があった。それを取り出すと、四つ折にされた紙が出てきた。
「またかよ」
 茂はうんざりして、その四つ折の紙を開いた。
 紙にはミミズ文字で”寂しい”と書いてあった。最初は気持ち悪かったが、こういう悪戯をする人間は一人しかいないことに気づき、今は呆れるだけだった。
 茂は後ろを振り返って、対角線の廊下側の最後尾を見た。
 すると、その視線に気づいた女子生徒が嬉しそうに小さく手を振った。
「いまさら、なんの真似だよ」
 これにはかなり不快に思い一人愚痴った。元々、関わりたくない人物なので無視することにした。
 昼休みになると同時に、立嶋が入ってきた。
 まだ授業が終っていなかったが、教師は溜息をついて強制的に授業を打ち切った。
 一度、立嶋が入ってきた時、教師が怒鳴るかたちで注意したが、彼女は時間通りに終わらせないあなたが悪いと、一言で一蹴したのだった。それ以来、移動教室以外の四時限目の授業は、時間通りに終わるようになっていた。
「コンビニ行こうか」
「ああ、そうだな」
 立嶋と一緒に教室から出ていく途中、チラッと廊下側の最後尾の席に目をやった。その席の女子生徒は、不満そうな表情で茂を見ていた。
「どうかした?」
 茂の目線が気になったのか、立嶋がその視線の先を追った。
「なんでもねぇよ」
 茂はそう言って、先に教室を出た。
「やっぱり、京橋もああいう綺麗な女子が好きなの?」
 並んで廊下を歩いていると、立嶋が興味深そうに尋ねてきた。
「いや、あいつはかなり嫌いだ。できれば、関わりたくない」
 茂は隠すことなく、嫌いという言葉を強めて言った。
「今の言い方からすると、前は仲良かったの?」
「いや、昔からからかわれてた。あいつはかなり質が悪い」
「サディストってこと?」
「そうだな。もうこの話はやめよう」
 あの過去は思い出したくなので、この話を打ち切ることにした。
「え~~、せっかく話が膨らんできたのに」
「話題を変えればいいだろう」
「何を話題にすればいいのか、全然わかんないよ」
「前途多難だな。そこは情報を話題に変えろよ」
「う~~ん。難しいこと言うね」
 茂の注文に唸りながら、眉間に皺を寄せた。あれだけの情報を持ち合わせているのに、その話題を膨らませることができないことは致命的だった。
 立嶋は何度か会話を膨らませようと試みたが、全然会話が続かなかった。
 結局、いつものように情報と愚痴だけになってしまっていた。
「会話って難しいね」
 コンビニで買い物を終えて戻る途中、立嶋が悲しそうに本音を漏らした。
「おまえには、疑問を投げかけるという発想はねぇのか」
「疑問?」
「相手の意見を聞くことだよ」
「えっ、なんで相手の意見聞くの?」
 この瞬間、会話が膨らまない理由がここでようやく発覚した。これは大問題だった。
「おまえ・・マジか」
「な、何よ~」
 茂の憐れむような表情に、立嶋は口を窄めた。
「おまえには、もう会話は無理かも」
「な、なんでよ!」
「相手への配慮が欠落してるから」
 狼狽している立嶋に、茂は欠点を突きつけた。
「配慮?会話に配慮が必要なの?」
「あ~~、それは人によるかも」
 配慮と言ってもいろいろあることに気づき、曖昧な言葉で濁した。
「意味がわからないよ」
「説明しにくい」
「何それ」
 茂の渋りに、立嶋が苛立った様子で眉を顰めた。
「要するに人に気遣えってことだよ」
 面倒だったが、重要な部分だけを伝えた。
「どう気遣うのよ」
「それは、追々やっていこう。まずは、電子書籍で気遣いと検索してくれ」
「なんか馬鹿にしてない?」
「気のせいだ」
 茂は、立嶋に気遣ってそう言い繕った。
 教室に入って、席に座ろうとすると、立嶋の弁当箱がなくなっていた。
「あ、あれ?」
 これには立嶋が首を捻って、現状を把握するため動きを止めた。今までこういうことはなかったが、なんとなく心当たりはあった。
 茂は、恐る恐る廊下側の最後尾の席を見た。その先には、立嶋の弁当箱を持った女子生徒が澄ました顔で座っていた。
「犯人は、あいつだ」
 一応犯人はわかったので、立嶋に対角線上の机を指差した。
「え、なんで?」
 これに立嶋が困惑して、言葉が裏返った。
「まあ、なんとか取り返してくれ」
 茂は席に座って、買ってきた弁当をレジ袋から取り出した。
「え、私一人で!初対面なんだけど・・・」
 1年半近く、見境なく話しかけてた立嶋が彼女と初対面と言うのは少し意外だった。
「そうなのか。大変だな」
 絶対関わらないと決めていた茂には、他人事のように突っぱねた。
「そんな薄情な!」
「これを機に、友達になってみたらどうだ」
 面倒臭いので、投げやりにそう助言しておいた。
「そ、そんな!」
「そもそも、前は誰彼構わず、話しかけてただろう」
「そ、それはそうだけど・・・」
 後半からもごもごとして、全く聞き取れなかった。
「まあ、助言すると、あいつの性格はサディストだから、したてにでれば返してくれる・・と思うぞ」
 あまり自信がなかったので、最後の語尾で曖昧にしておいた。
「私、マゾじゃないけど」
「まあ、頑張れ」
 不安そうな顔をしていたので、ここは力強い演技で立嶋を励ましながら、弁当を食べ始めた。
「冷たすぎる」
「早くしないと、昼休み終わるぞ~」
 これ以上の会話は不毛なので、脱力した声で立嶋を急かした。
「う~、わ、わかってるよ~」
 茂が仲介してくれないと悟ったようで、渋々彼女の元へ向かった。
 茂はそれを見送りながら、何気なく机の中に手を入れると、折り畳まれた紙が入っていた。
 開くと、見出しに”脅迫状”と書いてあり、弁当箱の返却について書かれていた。
「ふぅ~」
 茂は、それを見なかったことにして机に仕舞った。
 ※ ※ ※
 立嶋琴音は、弁当を盗った女子の名前を知らなかった。
 2年前、友達が欲しくていろんな人に話しかけていたが、彼女は一般生徒とは明らかに雰囲気が違い、近寄りがたいというより近づきたくない感じだった。
 不安一杯のまま、遂に彼女の前まで来た。
「あ、あの・・・」
 琴音は、恐る恐る声を掛けた。
「ちぇ~、そこまで私を避けんのか~」
 綺麗な顔からは想像できないほどのだらけた口調と、品のない言葉が彼女の口から飛び出した。
「お、お弁当を返してくれませんか」
 初対面と戸惑いから、自然と敬語になってしまった。
「あんたさ~、京橋と付き合ってんの?」
 後ろで束ねた髪を片手で整えながら、かなりだらけた口調で尋ねてきた。
「い、いえ」
 なぜか彼女の前では萎縮して、声が小さくなってしまった。
「ふ~ん。まあ、今回は返すよ~」
 だらけた口調でそう言うと、弁当箱を返してくれた。
「京橋に伝えて欲しい~んだけど~、今度はあんたが取りに来いって言っといて~」
 彼女は頬杖を突いて、苛立った表情でそう言った。
 その恫喝のような言伝てを受諾して、急いで京橋の席に戻った。
 ※ ※ ※
「どうだった?」
 茂は、戻ってきた立嶋を見上げて尋ねた。
「あの人と友達は無理」
 恐怖で顔を引き擦らせて、片手を素早く左右に振って力強く拒否した。
「だろうな。性格合わないだろう」
「あれって性格の問題かな?」
「じゃあ、性癖の問題かもな~」
「私にはその性癖はないわ」
 よほど切迫していたのか、下ネタに平然と答えてきた。
「それより、早く食べないと昼休み終わるぞ」
「あ、そうだった」
 立嶋は、慌てて弁当を食べ始めた。
「そういえば、あの人から伝言。今度は京橋が来いってさ」
 立嶋が行儀悪く咀嚼しながら、彼女からの伝言を伝えてきた。
「やっぱり言われたか。実は、机にこんなものがあった」
 茂は、さっきの四つ折りの紙を立嶋に見せた。
「・・・最低だね」
 内容を読み終えると、軽蔑の眼差しで非難してきた。
「おまえが行った後に気づいたんだよ」
「なんで引き止めなかったのよ!」
「読み終わった時には、もうあいつの前にいたから無理だった」
 茂は、この場を穏便に済ませる為に嘘をついた。
「そ、それなら、仕方・・ないか」
 不満そうだったが、渋々納得してくれた。
「そういえば、名前を聞いてなかったわ」
「え、俺の?」
「違うわよ!なんでいまさら京橋の名前を聞くのよ。話しの流れで読み取ってよ」
 それをおまえが言うのかとつっこみたかったが、他に言いたいことがあったのでやめた。
「あいつの名前知りたいのか、正気か?」
 彼女と接して力強く無理だと言ったのに、名前を聞くのは矛盾している気がした。
「そ、そこまで危険な人物なの?」
 茂の態度に、立嶋の表情が引き攣った。
「ああ、ドン引きするぐらい」
「なら、警戒の意味も込めて、名前を覚えておいたほうがいいと思うけど」
「それもそうだな」
 その言い分には納得できるものがあった。
「名前は、葛木菜由子」
 茂は、彼女の名前を久しぶりに口にした。
「葛木さんは、友達いないの?」
 立嶋はそう言って、横目でチラッと葛木の方を見た。
「あの見た目とは裏腹だからな。最初は取り巻きがいたんだが、嫌がって全員追っ払っていたな」
「よく知ってるね」
「1年の時は、一緒のクラスだったからな。隣で騒がれたら、嫌でも耳に入ってくる」
「さ、騒いだの?」
「あの見た目で品のない叫びは、とても見るに耐えなかった」
「そ、それは、確かに見たくないね」
 正直な話、葛木は立嶋が思っている以上の酷い言葉を言い放っていた。その時、茂はその場に留まれなくて、トイレに逃げ込んだ程だった。
「今度から、弁当はコンビニから戻る時に持ってきた方がいいぞ」
「そうだね」
 この忠告に、立嶋は素直に頷いた。
 予鈴が鳴り、立嶋は教室から出ていった。
 滞りなく午後の授業が終わり、茂は帰り支度をした。午後から葛木を警戒していたが、何もしてこなかった。
 廊下に出ると、立嶋が鞄を抱えながら待っていた。
「今日は、なんか疲れたな」
 葛木を警戒していたせいで、茂の精神は摩耗してしまった。
「そうみたいだね。顔が悪いよ」
「顔が悪いとか言うな。顔色と悪い言え」
 二人は、いつものように下校しようとしたが、突然後ろから手首を掴まれた。
 これには驚いて、後ろを振り返った。
「ちょっと話があるから付き合ってよ~」
 そこに葛木菜由子がいた。
「残念だが、俺にはない」
 警戒を解いたところを狙われてしまった。まさか、立嶋がいる状態で話しかけてくるとは思わなかった。
「何よ~。まだ根に持ってんのかよ~」
「当たり前だ、あのことは一生根に持つつもりだ」
「そこは広量に許せよ~」
 葛木は、たまに男口調になるのも特徴だった。
「無理だな」
「だったら、話し合うべきだと思うぞ~」
 生徒たちが行きかう廊下での立ち話はかなり目立っていた。
「いや、帰る」
 周囲の目よりも感情が先に出てしまった。
「あの~、私は関係ないと思うんですけど・・・」
 葛木は、なぜか立嶋の手首も掴まれていた。
「京橋と関係してるじゃん」
「そ、それはそうですけど」
 葛木の睨みに、立嶋が委縮して小声で答えた。
「じゃあ、俺は帰るから」
「本人が真っ先に帰えんなよ~」
「手ぇ放せよ」
「帰るからダメ」
「なら、放さないと金輪際接点をもたないぞ」
「わ、わかったわよ~」
 茂の脅しに、葛木が渋々手を放した。
 茂は、すぐさま立嶋に逃走のアイコンタクトを送った。
「??」
 しかし、立嶋は首を傾げるだけで通じなかった。
「逃んのは駄目だぞ」
 なぜか葛木には通じたらしく、茂の手ではなく、立嶋の手を再び掴んだ。
「もし逃げたら~、こいつが酷い目に合うよ~」
 立嶋を横目に、今度は茂に脅しをかけてきた。彼女の睨みはかなり威圧感があるのだが、口調がそれを台無しにしていた。
「それは構わないが」
 特に友達とも思っていなかったので、茂には脅しにならなかった。
「と、友達を見捨てないでよ!」
 立嶋は友達だと思っていたらしく、悲痛な叫びを上げた。
「友達になれるチャンスじゃん」
 ここぞとばかりに昼休みでの案を持ち出してみた。
「いや・・・あの・・・」
 本人を目の前にして、友達になりたくないとは言えず、茂と葛木を交互に見て困った顔をした。
「なんだ、友達になって欲しいのか?」
「ああ、なってやってくれ」
 立嶋の代わりに茂が答えた。
「え!ちょ、ちょっと」
 茂の勝手な発言に、立嶋はもう動揺しっぱなしだった。
「じゃあ~、今日から友達な。名前なんて言うんだ?」
「た、立嶋・・琴音です」
 立嶋は、渋々自己紹介した。
「ふうん。じゃあ、琴音でいいか」
「は、はい」
「私は、葛木菜由子だ。よろしく」
 葛木は、男らしく握手を求めてきた。立嶋がおずおずと手を出して握手をした。
 こうして、廊下の中央で帰宅する生徒たちの視線を浴びながら、二人は友達になったのだった。
 その間に、茂は帰ることにした。
「ちょっと待ってよ~!」
 が、葛木が早足で茂を追い抜いて、前に立ち塞がってきた。
「帰んなよ~」
「友達同士話しとけよ」
「京橋も友達だろ~」
「はあ~、冗談言うな」
「な、なんだよ~」
 茂の睨みに、葛木は怯んで一歩後退した。
「もし友達だったら、とっくに絶交してる」
「そ、そこまで嫌わなくても・・・」
「おまえは、俺に対してそれだけのことをしたと認識するべきだ」
 今度は睨みつけて、強い口調で言い放った。
「一体何があったの?」
 茂の後ろから立嶋が、不思議そうに尋ねてきた。
「こいつのせいで警察沙汰になった」
 茂は、立嶋に事実だけを伝えた。
「は?」
 これには理解できないようで、目を見開いてポカンとした。
「そ、それはもういいじゃん」
 葛木が苦笑いして、この場を収めようとしてきた。
「俺は、絶対に許さん!」
 それが癪に障り、怒声で彼女を突っぱねた。
「・・・ぅ」
 その言葉に、葛木が悲しそうな表情で項垂れた。
 廊下でこれ以上注目されたくなかったので、その場から急いで離れることにした。
「ま、待ってよ」
 すると、後ろから立嶋が慌てた様子で追いかけてきた。
「い、いいの?」
 立嶋が心配そうに葛木の方を振り返りながら、茂に尋ねてきた。
「ああでもしないと、ずっと付き纏われるからな」
「か、可哀想だと思うんだけど」
「俺があいつのせいでどんな目に合ったと思ってるんだ・・・と言っても知らねぇ~か」
「わ、わかんない」
「まあ、友達になったんだから、その内にあいつから話すよ」
「え!あれって、本当に友達になってるの?」
「ああ、あいつはそういうの堅気みたいに貫くから。良かったな、友達ができて」
「な、なんか余計なお世話とも言いづらい」
「まあ、あいつは一癖も二癖もあるから、退屈はしねぇよ。ただ悪乗りには注意した方がいい」
「私、あの人と付き合える気がしないんだけど・・・」
「なんで?」
「葛木さんって・・超怖い」
 立嶋は、体を震わして本気で怖がっていた。
「個人的な感想では、性格がおぞましいな」
 茂にとっては、見た目や口調よりも性格が大嫌いだった。
「駄目じゃん」
「大丈夫だ。これはあくまで個人的な見解だから」
「それが一番不安を煽ってるよ!」
「なかなか、いいつっこみするな~」
 少し応対が面倒になったので、立嶋のつっこみを褒めてみた。
「え・・・つ、つっこみ・・・」
 その言葉を深く噛み締めているのか、立嶋が間を取りながら復唱した。
「これがつっこみ!」
 衝撃的なことだったのか、今度は大声で叫んだ。それに周りの生徒が驚いてこちらを向いた。
 その後、嬉しそうな表情で独り言で何度もつっこみという言葉を連呼していた。傍から見ると、危ない奴だった。
「なんかもうスムーズな会話ができそうな気がしてきた」
 一回のつっこみだけで、会話に自信が持てたようだ。
「そうか。なら、もう葛木とも会話できるな」
「えっ・・・そ、それはまだできないかも」
 葛木の名前を聞いて、一気に自身を喪失してしまった。
「ま、まずは、京橋との会話で身に付けていくよ」
「はあ、そうか」
 内心で他の奴としゃべろよとつっこみを入れたかったが、無駄だと思い口にするのはやめておいた。
「今日こそは、京橋の家に寄っていいかな?」
 昨日断られたにもかかわらず、立嶋が同じことを言い出してきた。
「おまえ、なんでそんなに俺ん家に拘るんだよ」
「京橋の家族と話してみたい」
「駄目だ!」
 これには強い口調で即断した。妹のことを考えると、それだけは絶対に避けるべきだと本能が告げていた。
「なんでよ」
「家族が受け入れてくれそうにないから」
「そ、それって、初対面で嫌われてるって聞こえるんだけど」
「え、まあ好かれるなら、とっくに友達に囲まれてるだろう」
 別の視点を取り入れて、立嶋を皮肉った。
「うっ!それを言われると、返す言葉もない」
「だから、無理だ」
 図星を突いたので、これで引いてくれるだろうと思った。
「しょうがない、友達をつくってからにするよ」
 が、思いのほか諦めてくれなかった。

五 和解

「ただいま~」
 茂は玄関を開けて、家に入った。
 リビングに入ると、妹と未来が読唇術の練習をしているようで、テーブルに読唇術の本が広げてあった。
「おかえりなさい」
 未来が微笑んで迎えてくれたが、妹の方は未だに機嫌が直ってないようで、完全に無視された。
「ああ、ゆっくりしていってくれ」
 茂は、いつものようにキッチンで麦茶を飲んでから、二階の自室で宿題を始めた。
 高校入学当初、葛木菜由子は茂の隣の席だった。最初のHRで一人ずつ自己紹介していき、葛木の番になると、男子生徒がいち早く彼女に注目した。だらけきった口調にクラスの全員が驚いて、彼女を奇異な目で見た。それでも、一部の男子は葛木に言い寄った。この時、世の中には変な人もいるもんだなと、隣の席で痛感していた。
 そういう状態が2ヶ月続くと、数人が葛木の取り巻きになっていた。
 しかし、彼女はそれが耐えられなかったようで、汚い言葉を乱発して、強制的に解散させたのだった。
 それ以降、葛木に誰も近づくことはなかった。この時、茂もできるだけ早く席替えをして、彼女から離れたいと願っていた。が、席替えされる前に話しかけられてしまった。理由は、葛木が電子書籍を忘れたからだ。
 それをきっかけに、毎日のように話しかけられた。
 しばらくは会話に応じていたが、時間が経過していくうちに、だんだん彼女の悪癖が目に付くようになった。
 葛木は悪戯が大好きで、人が嫌がることを平気でしてきた。短気な茂はその度に怒ったが、その反応が面白いようで一人で大笑いしていた。
 それは席替えをしても変わらず続いた。一時期、男子の友達もできたが、葛木の睨みに負け、茂から離れていった。
 2年に上がると、葛木とはクラスが別になった。さすがの葛木もたまにしか来なくなった。そのおかげで友達も出来始め、理想的な学校生活を送れた。茂にとって、この時期が一番楽しかった。
 だが、7月になり、しいなが入院してから夏休み中は友達と遊ぶこともせずに、ずっとしいなの見舞いに行っていた。そのせいで精神が不安定になってしまった。
 その状態のまま夏休みが明けてしまい、茂の変わり様に友達が心配して、声を掛けてくれたが、情緒不安定の茂にはその気遣いが煩わしく、気づくと怒鳴っていた。それ以来、友達は茂を避けるようになった。
 しかし、葛木は逆だった。全く気遣うこともなく頻繁に接してきた。人の感情の起伏を大いに楽しむ彼女には恰好の娯楽だったようだ。それが茂の感情をさらに不安定にさせていった。 
 茂は、学校を何度か休むようになった。それが事態をさらに悪化させた。
 10月になり、朝のHRで担任に呼ばれ、校長室につれてこられた。校長と教頭が睨みつけるかたちで茂を迎えた。その対面には、スーツを着た二人の男性が座っていた。
 二人の男は警察手帳を出して、茂に対して身元を明かした。この状況に、茂は首を傾げることしかできなかった。
 警察官の話では、茂が麻薬をやっていると通報を受けたと言われた。それを聞いた茂は身に覚えがないと、声を荒げて何度も主張した。しかし、その言動がさらに疑いを強めるものとなってしまった。
 結局、尿検査をする為にパトカーに乗せられて、警察署に連行されてしまった。授業中ということもあり、生徒から注目されることはなかった。そこだけは警察も配慮してくれたらしい。
 昔と違い学校と警察は、連携をとるようになっていた。
 それはいじめ問題で隠蔽体質の教育委員会に国民が強く反発したからだった。その為、今では学校に警察が調査に来るのは常態化していた。
 警察署で尿を検査されている間に学校が親に電話したらしく、母親が大慌てで警察署に入ってきて、泣きながら茂に説明を求めてきた。
 尿の検査の結果を聞くと、麻薬は検出されなかったと悪びれることのない説明口調で告げられた。この対応に母親が激しく抗議したが、場慣れしている警察は冷静に宥めてきた。それでも母親の怒りは収まりそうになかったので、茂が宥めて警察署を後にした。
 帰宅後、さらに面倒事が起こった。
 自宅に帰ると、四人の捜査員が待っていた。そして、捜索令状を突きつけられ、家宅捜索されたのだった。当然ながら麻薬は出てこなかった。この強引なやり方に母親が捜査員に苦情を言ったが、法律を振りかざされて、結局何も言えなくなっていた。
 この騒動は表面化しなかったものの、噂だけは流れていて、クラスで茂の居場所はないのと同じだった。
 その後、なぜか葛木も教室に顔を出すことはなくなった。あとで知ったことだが、警察と教師に告げ口したのが葛木という噂が流れてきた。
 あれ以来、家族も一変した。妹は何かにつけて茂の部屋に訪れるようになり、母親は少しのことで敏感に反応するようになった。
 3年になると進路相談で大学進学を希望したが、担任は苦い顔でもう一度考え直すように薦めてきた。どうやら、あの一件が茂の内申にもかなり影響しているらしく、その大学は難しいと言われた。それでも、茂は諦めるつもりはなかった。
 宿題が思いのほか早く終わると、小さなノックの音が聞こえた。
「お、お兄ちゃん」
 妹だった。声はかなり控えめで、妹らしくなかった。
「どうした?」
「今日のこと謝ろうと思って」
 これには少し驚いてしまった。たいていの喧嘩は、茂のせいにして謝らせることが多かったからだ。
「別に謝る必要ねぇ~よ」
「入っていいかな」
 妹は、しおらしい声でドア越しから聞いてきた。
「ああ」
 茂が許可すると、ゆっくりとドアが開いて、その隙間から妹が顔を覗かせた。 
「さっさと入って来い」
 あまりにもまどろっこしいので、妹を急き立てた。
「怒ってない?」
「なんで怒るんだよ」
「だって、殴っちゃったし」
「いいよ。別に気にしてない」
「本当にごめんなさい」
 妹が深々と頭を下げた。
「ど、どうした・・・」
 その異様な行動に、茂の顔が引き攣った。
「未来ちゃんに心読まれちゃって・・謝って来いって言われた」
「はぁ~、子供に説得されるなよ~」
「だって、心読まれるんだもん。言い返せないよ」
 確かに心を読まれたら、どんな言葉も意味を成さなかった。
「で、謝りにきたのか」
「じゃないと、絶交って言われちゃった」
「ここまでくると脅迫だな」
「そうだね。でも、あこまで必死に説得されたら、悪い気はしないね」
 妹が頬を掻きながら、嬉しそうに笑った。
「そうか」
 茂は、その笑顔に少しホッとした。
「良かったな」
 そう言うと、自然と頬が緩んだ。
「な、何がおかしいのよ」
「うまくいって良かったな」
 面倒だったが、とりあえず言葉を繰り返した。
「な、何よそれ」
 茂の悟った表情に、妹が嫌な顔をした。
「用が済んだら戻れ」
 取り繕うのも面倒なので、追っ払うことにした。
「え?」
「友人を一人にするな」
「あ、そうだった」
 妹が思い出したように、急いで部屋を出ようとした。
 しかし、何かを思い立ったのか、ドアノブに手を掛けたまま、足を止めて振り返った。
「お兄ちゃんって、いいね」
 そんな捨て台詞を吐いて、素早くドアを閉めた。茂は、意味がわからずポカンとしてしまった。
 夕食時になって、母親に呼ばれた。
 茂は、受験勉強を中断して部屋を出た。
 リビングに入ると、三人が食卓を囲んでいた。
「今日は、来客がいるな」
 最近では、空席になっている椅子に未来が座っていた。
「食事を勧められまして」
 未来は、居心地が悪そうに肩をすくめた。
「悩みを解決してくれたから、そのお礼よ」
 それに妹が、茂に対して説明してきた。
「そうか。それは良かったな」
「うん」
 未来に言ったのだが、妹が笑顔で返してきた。
「わ、私は、と、友達として当然なことをしただけですけど・・・」
 未来は、謙遜していたが表情は綻んでいた。
 夕食は、家族と未来で食卓を囲んだ。未来は、一品食べる度に料理を賞賛していた。母親はそれがまんざらでもないようで、嬉しそうに謙遜していた。
 茂は、それを脇目にテレビを見ながら食事をした。テレビでは、上手な会話の進め方という胡散臭い番組をやっていた。
 食事が終わり、茂たちはリビングでくつろいだ。
「そろそろ、帰るか?」
 茂は、時計を見て未来に尋ねた。
「そうですね」
「じゃあ、送ろう」
 茂もソファーから腰を上げた。時間も遅いので送ることにした。
 家から出ると、少し肌寒く感じた。茂は、未来に歩行を合わせるかたちで並んで歩いた。
「家族にはちゃんと連絡したのか」
「一応、しました」
「大丈夫なのか?」
「まあ・・・」
「ふ~ん。そうか」
 いろいろ事情があると思い、それ以上は聞かなかった。
「はい。いろいろあるんです」
 未来が正面を向いてままで、茂の思いに返事をした。彼女には、心を読んでいるつもりはないようだ。
「まあ、深読みはしないよ」
 茂がそう返すと、未来がじっと見つめてきた。
「どうかしたか?」
「お兄ちゃんって、呼んでいいですか」
「駄目」
「なんでですか!」
 茂の即答に、未来から力強い眼差しと口調で叫ばれた。
「ちゃん付けは嫌だ」
「でも、お姉ちゃんはお兄ちゃんって呼んでますけど」
「昔から真理には名前で呼べって言ってるんだが、全然呼んでくれねぇんだよな~」
「ああ、それは別の事情があるんですよ」
「なんだそれ?」
「これは知る必要はないです」
 未来は、茂の疑問を強制的に打ち切ってきた。
「とにかく、ちゃん付けはやめてくれ」
「そうですか。じゃあ、兄さんでいいですか?」
「まあ、それくらいならいいよ」
 未来の残念そうな顔を見て、この呼び方で妥協することにした。
「じゃあ、兄さん。お願いがあります」
「なんだ?」
「手を繋いでもいいですか」
「嫌だ」
「どうしてですか!」
 再度の即答に、未来が大声に叫んだ。
「恥ずかしい」
 隠しても伝わるので、思ったことをそのまま口にした。
「恥ずかしがり屋なんですね」
「男は、たいていそうだよ」
「なら、強制的にします」
 未来はそう言うと、強引に茂の手を取った。
「積極的だな」
 振りほどくのも可哀想だったので、抵抗はしなかった。
「えへへへ~。これはお姉ちゃんから学びました」
「そうか」
 茂たちは、黙って公園まで歩いた。
 公園に着くと、未来が手を放して、茂の正面に立った。
「ありがとうございました」
 未来は、律儀に頭を下げてお礼を言った。
「送っただけで、そこまでするなよ」
「いえ、兄さんにはいろいろとお世話になりましたから、改めてお礼を言いたくて」
「気にするな」
 堅苦しいのが嫌いだったので、未来にやんわりと言った。
「兄さんは、優しいですね」
 これに対して、未来が満面な笑顔で茂を見つめた。
「恥ずかしいから、そういうのはやめてくれ」
「そうでしたね」
 茂の謙遜に、未来は笑顔のまま言葉を控えた。
「じゃあな」
「はい、さようなら」
 未来は、律儀にお辞儀をして帰っていった。
「何も考えないって、結構難しいな」
 茂は、誰もいない公園で一人呟いた。未来と一緒に歩いた時、思考停止を試みたのだが、これが至難の業だった。それを察してくれた未来は、公園に着くまで黙っていてくれた。
「・・・帰るか」
 一人でこの場に留まると、不審者に見られるので、さっさと帰ることにした。
 公園から出ると、正面から犬を散歩している人がこちらに近づいてきた。その人が街灯の下を通り、顔が灯りで照らされた。
「あ!」
 葛木だった。思わず声を出したが、あっちは気づいた様子はなかった。葛木は、ジーンズにTシャツとラフな恰好だった。
 ここは距離を取って、顔を逸らして通り過ぎようとした。
「あ、あれ、京橋?」
 距離は取っても、歩道は狭くすぐにばれてしまった。
 茂は、脇目も振らず駆け出した。が、放課後と同じように手首を掴まれてしまった。
「ま、待ってよ」
 掴まれた手を振りほどこうとしたが、態勢が悪く振りほどけなかった。
「なんで、引き止めるんだよ!」
 学校であれだけ拒絶されたのに、この対応は理解できなかった。
「そりゃあ、止めるよ」
「だから、なんでだよ!」
「だって、クラスメイトで友達だし」
 葛木は、未だに茂を友達と呼んだ。
「おまえ、本当に馬鹿か」
 これには神経を疑った。
「そうかもね~」
 茂の罵倒に、葛木が笑顔で肯定してきた。
「俺、帰る途中だから放してくんねぇ~か」
「そうなんだ~。私は、犬の散歩中~」
 葛木はそう言うと、柴犬のリードを持ち上げた。
「見ればわかるよ。なんでこんな時間なんだ?」
「散歩はいつもこの時間だよ~」
「あんまり、こんな時間に散歩とは感心しないな」
「なんで~?」
「犯罪に巻き込まれるかもしれねぇだろう」
「心配性だね~。ここは日本だろ~」
「犯罪率が低いだけで、起こらない訳じゃねぇよ」
「ま~、そうだけど~」
 茂の正論に嫌な顔をした。
「まあいいや。じゃあ、気をつけて帰れよ」
 別れの言葉を口にしたが、葛木は手を放してくれなかった。
「ちょっと話したいんだけど~」
「話すことはない!」
「強情だな~。少しは寛容になれよ~」
「無理だな。俺は、同じことを二度も言う気はねぇー!」
 そう叫んで、乱暴に手を振りほどいた。
「じゃあ~、どうしたら許してくれんの~」
「しつこいな~。諦めろよ!」
「や、やだよ~」
 茂の睨みに、葛木が目に涙を溜めて愚図った。彼女のこんな姿は今まで見たことがなかった。
「おい、こんな所で泣くなよ」
 茂は、慌てて周囲を見渡した。運よく通行人は一人もいなかった。
「お願い、見捨てないで~」
 涙目の状態で、その台詞は人聞きの悪いことこの上なかった。こんな住宅街で泣かれるのは、避けたかったので仕方なく説得を試みることにした。
「わかった。明日までに考えておくから」
「ほ、本当!」
 悲しそうな顔から一転して、嬉しそうな顔をした。
「あ、ああ」
 あまりの表情の一変に、茂は騙されたと感じた。
「だから、もう帰っていいか?」
「そうだね。私も帰らなきゃ」
「じゃあな」
「うん。また明日だね~」
 この挨拶で、ようやくいつもの仏頂面の葛木に戻ってくれた。
「さっき言ったことは、あくまで考慮するだけで、許すとは限らねぇからな」
 茂はそう捨て台詞を残して、全速力で走った。
 しばらく走りながら何度か後ろを振り返って、葛木が追ってこないことを確認してから走るのをやめた。息を整えながら歩いていると、前から妹が駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん」
「どうかしたか?」
 茂は後ろを気にしながら、わざわざ迎えに来た妹に尋ねた。
「遅いから何かあったのかと思って」
「ああ、悪い。ちょっと話し込んでただけだ」
「未来ちゃんと?」
「ん?いや、クラスメイト」
 ここで嘘を言うのは気が引けたので、事実を言った。
「そうなの?」
「ああ、散歩中だったみたいでな」
「ふ~ん。それって女の人?」
「ん?ああ。そうだけど」
 質問に答えると、なぜか妹が睨んできた。
「お兄ちゃんって、もしかしてモテるの?」
「はぁ?なんだ唐突に」
「答えて」
「クラスでは浮いてるよ」
「それは最近までの話でしょう」
「今もそれは変わってねぇよ」
「じゃあ、なんで声を掛けられたのよ」
「あいつも俺と同じように浮いてるから、親近感でも沸いたんだろう」
 面倒なことになりそうだったので、その場凌ぎのでまかせを言った。
「そうなんだ。それは可哀想だね」
 茂のクラスメイトに勝手に同情していたが、個人的には可愛そうとはこれっぽっちも思えなかった。
 家に帰って、リビングに入ると、母親が駆け寄ってきた。
「だ、大丈夫だった?」
「クラスメイトと話してたんだって」
「なんだ。良かった」
 その答えに、心底安堵したようで深く嘆息した。あの事件以来、母親の茂に対しての信用はほとんどなかった。
「それより、お母さん。まだしてないよね」
「う、うん。まだしてない」
 今度は妹が、安堵の溜息をついた。
「何の話だ?」
 このやり取りが気になり、二人を交互に見ながら尋ねた。
「ああ、なんでもないの」
「うん。なんでもない」
 二人は、同じような台詞でそう言い繕った。
「まあ、いいか」
 言いたくなさそうだったので、聞くのは諦めて自室に戻ることにした。
 ※ ※ ※
 兄の追求を恐れていたが、あっさり引いてくれたことに真理はホッとしていた。
「お母さん。安直な行動は控えてよね」
 真理は、兄が部屋に入ったことを確認して、小声で母親を詰った。
「だ、だって・・・」
 何か言いたそうだったが、言葉は続かなかった。
「いい加減、お兄ちゃんを信用してよ」
 リビングに戻って、母親に対して強い口調で責めた。
「し、してるわよ」
「だったら、警察なんか呼ぼうとしないで」
 兄の帰りが遅いことに母親が不安になり、警察に電話しようかと聞いてきたので、真理が強く母親を諌めて、兄を迎えに行ったのだった。
「嫌いなのに、こんな時だけ警察を頼りにしないで!」
 母親の短絡的な言動に、真理は苛立って声を荒げた。あの件以来、真理と母親はアンチになるほど警察が嫌いになっていた。
「そ、それはそうだけど・・・」
 真理の言葉に、母親は反論できず萎縮した。
「お母さん。これからば、お兄ちゃんのことは私に任せて」
 母親に勝手な行動をされると、事態が悪化しそうだったので、ここは自分を経由させることにした。
「えっと、それはどういう意味?」
「何か心配事があれば、私を通してって意味だよ」
「・・・わ、わかった」
 これに母親は、渋々ながら承知してくれた。

六 不足

 翌朝、茂は寝ぼけ眼でゆっくり起き上がった。昨日、遅くまで受験勉強したせいで寝不足だった。
 階段を下りると、玄関に妹が座っていた。
「あれ、もう登校するのか?」
「うん。今日は日直だからね~」
 妹が靴を履き、鞄を持ってこっちを振り返った。
「眠そうだね」
「ああ、実際かなり眠い」
「遅くまで何してたの?」
「勉学だ」
「ふ~ん。まだ大学諦めてないんだ」
「いつ諦めたと言ったんだ?」
「そういえば言ってないね」
「さっさと行け」
 寝不足もあり、少し苛立ちながら追っ払うように手を振った。
「はいはい。じゃあ、いってきます」
 妹はそれを軽く流しながら、玄関を開けて出ていった。
 朝食を済ませ、家から出たが、眠気は一向におさまらなかった。立嶋が一昨日みたいに校舎で待っていることを祈りながら歩き出した。
「おはよう」
 が、願いは叶わなかった。家から出て、二つ目の曲がり角で立嶋が待っていた。
「・・・」
 願いが一瞬で崩れ去ったショックで、返事ができなかった。
「ど、どうしたの?」
 いつもと違う反応に、立嶋が不安そうに見つめてきた。
「悪いな。今日は物凄く眠いんだ。だから、黙っててくれ」
「えええ~~。今日はいろんな面白い情報が入ったのに~」
「知らん。とにかく眠い」
 目を擦りながら、立嶋を避けて歩き出した。
「そ、そんな~」
 立嶋が不満そうな顔をして、茂の後をついてきた。
 登校中、立嶋は茂の言葉に従ってくれた。どうやら、気遣いの意味を理解したようだ。
「誰かと一緒にいるのに、黙っているなんて苦痛だね」
 校舎に入ると、立嶋が不満を口にしてきた。
「そう思うなら、これからは一人で登校することを勧めるよ」
 ただの思いつきだったが、お互いにとってこの上なく好条件だと思った。
「それは却下」
 しかし、即答で断られた。
「なんでだよ」
 この答えには心底がっかりして、立嶋の方を見た。
「う~~ん。わかんない」
 少し考えたようだが、自分でも結論は出せないようだった。
 不満そうな立嶋と別れて、自席につくなり机に突っ伏した。
 HRまで寝ようした矢先、誰かに体を揺すられた。
「なあ~、起きろよ~」
「ああ!」
 茂は、低い声で威嚇しながら顔を上げた。そこには葛木が立っていた。
「ちょ、なんで怒ってんだよ」
「寝不足だ、起こすな!」 
 低い怒声で威圧して、再び突っ伏した。
「ええ~~。そ、そんな~~」
 一方的な拒絶にしなだれた声が聞こえたが、無視して寝入った。
 HRまで寝ることはできたが、眠気が引く気配はなかった。仕方なく、三時限目の授業に就寝することにした。
 一時限目が始まり、思いのほか眠気が強く、結局うたた寝した為、授業がほとんど頭に入らなかった。
 二時限目は、そうならないように必死で眠気を耐えた。
 なんとか授業は乗り切ったが、授業の内容は覚えていなかった。
 二時限目が終わると同時に、茂は即座に机に突っ伏して、ようやく寝ることができた。
 四時限目には頭がすっきりして、授業に集中できた。
 昼休みになると、茂の机の前に立嶋と葛木が立っていた。その光景は周囲から見れば、さぞかし異様に見えたことだろう。
「あ、あの・・・」
 立嶋が何度か葛木をチラ見して、茂を見下ろすかたちで説明を求めてきた。
「葛木。話は放課後にしよう」
「ええ~~~。なんでだよ~」
 再び肩透かしを食らった葛木が、不満そうな顔をした。
「昼飯が優先だ」
「私は、こっちが優先なんだけど~」
「残念だが、俺の意見を優先させてもらう。理由はわかるな」
 ここは敢えて睨みを利かせて、強気で押し通すことにした。
「うっ!う・・ん」
 葛木は、怯んで力なく頷いた。
「という訳で、コンビニに行ってくる」
 茂が席を立って葛木の横を通ると、心配そうに見守っていた立嶋が後からついてきた。それだけならいいのだが、なぜか葛木もついてきた。
「って、なんでおまえも来るんだよ」
 茂は振り返って、立嶋越しに葛木に指摘した。
「私も行くよ~」
「な、なんでだよ」
 葛木の返事に、茂は嫌な顔で聞き返した。
「ああ、勘違いしないで。私は、友達の琴音についていくだけだから~」
 葛木が巧みに、立嶋を引き合いに出してきた。
「え!わ、私」
 急に自分の名前を出されたことに、立嶋が驚いて自分を指差した。
「もう友達だろ~。私たち」
 葛木が立嶋を見つめて、肩に手を置いて微笑んだ。
「え、あ、うん」
 違うとも言えないようで、不承ながら頷いた。
「そうか。なら、いいぞ」
 この申し出は、素直に嬉しくて同行を許可した。朝の登校中に立嶋がずっとしゃべりたそうにしていたので、葛木に相手をしてもらうことにした。
「え、そ、そんな」
 その返事が予想外だったのか、立嶋がかなり動揺していた。
「なんでしどろもどろなんだ~?」
「え、あ、いや・・・」
 立嶋は、困惑した様子で言葉に窮した。
 結局、コンビニに着くまで、立嶋は黙ったままだった。
「琴音って、あんなに無口だったっけ?」
 コンビニに入って、立嶋が飲み物を買っていると、葛木が話しかけてきた。
「いや、滅茶苦茶おしゃべりだ。常に一方的にしゃべってる」
「そ~。でも、私に対して何も話さないんだけど~」
「心開いてねぇんだろう」
「・・・」
 これには葛木が神妙な顔で沈黙してしまった。
「人見知りってこと?」
「あれ?あいつのこと知らねぇのか」
「有名なの~?」
「知らねぇなら、おまえの中では有名じゃねぇ~な」
「なんだ?その言い回し。馬鹿みたいだぞ~」
「馬鹿は、そんな言い回しできねぇ~」
 葛木の嘲笑に、茂は冷静に切り返した。
「ふふ、久しぶりだな~。こういうやり取り。ああ、凄くいいよ~」
 葛木が気持ち悪い台詞を呟きながら、にやついた笑顔でトリップしていた。傍から見たら、変態だった。
「やっぱり。京橋とのやり取りは好きだな~」
「俺は、そんなに好きじゃない」
「相変わらず、心が狭いな~」
「おまえを許容できる器の人を捜せばいいだろう」
「だから、それが京橋じゃないか~」
「俺は、おまえを許容してねぇぞ」
「その割には、昔は私とノリノリで話してなかったっけ~?」
「本当にそうだったか?よく思い出してみろ」
 思い返してみても嫌がらせばかりで、まともに話したことはなかった。
「ノリノリだった~」
「嘘つくな!」
 葛木のあまりの清々しい断言に、思わず大声で反論した。
「きょ、京橋、まだお弁当買ってないの?」
 買い物を終えた立嶋が、葛木の反対側から茂に小声で呼び掛けてきた。
「あ!そうだった」
 葛木のせいで、そのことをすっかり忘れていた。
 コンビニに設置してある時計を見ると、いつもの時間より少し過ぎていた。
 茂は慌てて弁当を取って、会計を済ませた。
「も~、京橋遅いよ~」
 コンビニから出ると、葛木が嫌らしい笑みで茂を詰ってきた。
「おまえのせいだろ!」
「私との会話がノリノリだったからって、人のせいにしないでよね~」
「解釈がおかしいぞ!」
「いいな~。いいコンビだな~。私たち~」
 葛木は、本当に嬉しそうな笑顔で茂を見つめてきた。
「勝手に相方すんなよ」
 茂は嫌悪感を覚えて、葛木から視線を外して拒絶の意思を示した。
「んん~~。いいつっこみだな~。抱きしめていい?」
 久しぶりの会話のせいなのか、満面の笑みを浮かべた。
「公衆の面前でそんな醜態を晒すなよ」
 これは揶揄していると判断して、素早くそう切り返した。
「もう我慢の限界!」
 茂の発言が引き金となったのか、葛木が思いっきり抱きついてきた。
「なっ!」
「えっ!」
 これに茂と立嶋が驚愕の声を上げた。
「・・・なっ、何してんだ。おまえ!」
 茂は慌てて、葛木を強制的に引き剥がした。予想外の事態に、対応が少し遅れてしまった。
「あ~、ごめん。あまりの嬉しさに我を失ってた」
 葛木が悪びれることなく、頭を掻きながら釈明してきた。
「もう一回、抱きしめていいかな~?」
 未だに気持ちを抑えられないのか、抱擁をせがんできた。
「断固拒否する!」
 茂は、校門前で大声で拒絶した。
「というか、今度やったら、交渉すらしないぞ」
「うっ、わ、わかったよ~」
 これに葛木が、不満一杯の顔でそっぽを向いた。
 教室に入ると、葛木は自分の席に戻っていった。
 そして、弁当箱を持って茂の席に来た。
「私は、どこに座ればいいの~?」
 いつもは一つの机に椅子が二つだったが、さすがに三人の弁当を置くスペースはなかった。
「いや、おまえは自分の席に戻れよ」
「除け者は、絶対にやだ~」
 葛木は、子供みたいに駄々をこねだした。
「じゃあ、どうするんだよ」
 その言動に呆れながら、葛木に聞き返した。
 すると、葛木が隣の席に視線を向けたが、それを敢えてスルーして、その後ろの三和の席に目をやった。
「三和」
 葛木は、一人でパンを食べている三和に声を掛けた。彼女もクラスでは、若干浮いている一人だった。
「へっ、は、はい」
 突然のことに驚いたようで、三和の声が裏返った。
「ちょっと、席替わってくんない?」
「え!わ、私?今、昼食を取ってますけど・・・」
「私の席、使っていいから~」
 だらけた口調だったが、目は真剣だった。
「え・・・は、はい」
 三和は、葛木の脅しに抵抗することなく簡単に屈した。
「おまえ、最低だな」
 とぼとぼとパンと飲み物を持って歩く三和の後姿を見ながら、葛木を責めた。
「ちゃんと、交渉したでしょ~」
 茂の詰りに、葛木が反論してきた。
「脅しにしか見えなかった」
「まあ、いいじゃん」
 葛木はそれをスルーして、茂の隣の席を前にずらして、三和の席をくっつけてきた。
「隣の席は昼休みいないんだから、隣の席を借りればいいだろう」
「嫌だよ~。あいつ、私のこと卑猥の目で見るんだもん。正直、気持ち悪くて座れない」
「酷い言い様だな~」
「見られるだけで悪寒がするし~」
 葛木は、不快感をあらわにして弁当箱を広げた。
「悪寒・・って。きついな」
「京橋だって、そういう嫌いな人ぐらいいるでしょ~」
「ああ、おまえら二人だな」
 今後のことも考えて、自分の気持ちを二人に伝えることにした。
「えっ!」
「へっ!」
 茂の本音に、二人が驚いたような声をだした。
「えっと・・・私、そこまで嫌われてるの?」
 葛木は、茂を横目に悲しそうな顔で聞いてきた。
「当たり前だろう。それとも、好かれてるとでも思っていたのか?」
「いや、そこまではっきり言われるとは思ってなかったから」
「ここではっきりさせとこうと思ってな」
 茂は、二人に視線を合わせず白米を頬張った。
「あ、あの・・私も?」
 黙っていた立嶋が、葛木と同じで悲しそうな顔で見つめてきた。
「ん?ああ、そうだな」
 口に白米が入っていたので、口を少し開けてから軽い感じ答えた。
「そ、そんな・・・」
 すると、立嶋が徐々に目に涙を溜めて鼻をすすった。
「あ、泣かせた」
 それを見た葛木が、冷徹な眼差しを向けて非難した。
「え・・っと・・ちょ、ちょっと、トイレ行ってくる」
 この予想外のことに混乱して、足早にこの場を抜け出した。
 トイレで少し時間を潰す為、個室に入った。初対面での拒絶の時は泣くことはなかったはずの立嶋が、あの程度の拒絶で泣いたのは意外だった。
 5分ぐらいして、個室から出て教室に戻った。
「逃げんなよ~」
 戻ってきた茂に対して、葛木が糾弾してきた。
 立嶋は涙ぐんではいたが、もう泣いてはいなかった。どうやら、葛木が宥めてくれたようだ。
「泣いてる女子を放って置くなんて最低だぞ~」
「悪い。あまりのことに動揺してしまった」
 茂は、葛木の非難を敢えて甘受した。その正面で、立嶋が悲しそうな顔で茂を見つめていた。
「悪かったな。まさか真に受けるとは思わなかった。許してくれ」
 その視線に耐えられず、立嶋を宥めることにした。本音ではあったが、この場ではそう言い繕うしかなかった。
「冗談・・なんだ」
 茂の建前に、立嶋の表情が少しだけ緩んだ。
 その後、三人は黙って食事をした。
 昼休みの予鈴が鳴り、立嶋が教室から出ていった。それと入れ違いに茂の隣の席の横峰が入ってきた。
「げっ!」
 葛木が奇声を上げて、慌てて三和の席だけ戻して、そそくさと自分の席に戻っていった。
「今、葛木さんいなかった?」
 横峰が、茂に初めて声を掛けてきた。
「いたな」
 茂は、素っ気無くそう答えた。
「なんで、席が動いてるんだ?」
「葛木がどけたから」
「え、葛木さんが!」
 横峰が驚いて声を張った。
「どこ触ってたんだ?」
「椅子と机」
 箇所は覚えてなかったので、物の名称を伝えた。
「マジで!」
 この反応には、さすがの茂もドン引きした。
 本鈴が鳴り、横峰は机を直して椅子に座った。なぜか座りながらソワソワしていたが、ここは気にしないでおくことにした。
 授業中、茂は何度か眠ってしまった。やはり1時間だけでは睡眠は足りなかったようだ。
 HRが終わり、葛木が茂の席に歩いてきた。その葛木を横峰が目で追っていた。
「で、どうする~?」
 葛木は横峰の視線を完全無視して、茂に交渉を求めてきた。
「そうだな」
 茂は、帰り支度を済ませて立ち上がった。隣の横峰が気になって、この場では話せそうになかった。
「どこで話すの?」
「帰りながらでいいだろう」
 葛木とは途中まで同じ帰り道だった。
「じゃ~、一緒に帰ろうか」
 葛木はそう言いながら、嬉しそうに微笑んだ。隣の横峰が葛木の表情を見て、にやついていたのは見なかったことにした。
 教室を出ると、立嶋が待っていて、葛木を見て驚いた顔をした。
「葛木さんも一緒に帰るの?」
「ああ、今後のことについて」
「今後?」
「知り合いか、無視するかを決めるんだよ」
 茂は、二人に挟まれたかたちで廊下を歩いた。
「ちょっと待てよ~。その二つしかないの~?」
「当たり前だ。他に何があるんだ?」
「友達とか親友とか恋人とかあるじゃん」
 最後はかなりおかしかったが、敢えてスルーした。
「はぁ~~。おまえ、自分の立場を考えろよ」
「た、立場って何よ~」
「なら、確認しよう。おまえは、俺に何をした?」
 自分の立場を把握させる為、葛木に質問した。
「えっと、け、警察沙汰にした」
 罪悪感はまだあるようで、視線を逸らしたまま答えた。
「その影響が凄まじくて、俺の大学進学がかなり厳しいんだ」
「え!そうなの?」
 これは初耳だったらしく、目を見開いて驚いていた。
「さて、自分の立場がわかった上で知り合い以上の何があるんだ?」
「と、友達」
 今度は遠慮がちに選択肢を一つにした。
「これを聞いて、それを言えるなんて凄いな」
 ここまで友達に執着していることに呆れてしまったが、引かないのは素直に凄いと思った。
「あのさ~、知り合いってどの程度で接するの~?」
 葛木は、いつもとは違い消極的な小声で聞いてきた。
「挨拶だけ」
「それは絶対嫌だ~。友達以上にして~」
「おまえ、自己主張ばっかりだな」
「だって~、それじゃ~、話し合う意味がないでしょ~」
「挨拶できるだけでもいいじゃん」
「嫌だ!」
 葛木は声を荒げて、きっぱりと拒否してきた。
「我侭言うなよ」
「これだけは絶対譲れない!」
 これでは誰が交渉の主体になっているかわからなかった。
「ふぅ~、仕方ない。この話はなかったことにしよう」
「え~、なんで~!」
「だって、おまえの譲歩が見られないから、許すことができん」
「じゃ~、友達になってくれるなら、いくらでも条件呑むよ~」
 今度は妥協で、茂にすがってきた。
「おまえ、交渉の内容が変わってるぞ」
「えっ、そうだっけ~?」
 茂の指摘に、葛木が演技でとぼけてきた。
「俺がおまえを許すかどうかで、友達になる話は一切してないぞ」
「そ、そんなこと言わないでよ~。許すってことは、前の状態に戻るってことだから、必然的に友達になるでしょ~」
「残念ながら、それは無理だな」
「そ、そんな~」
 衝撃的だったのか、絶望的な顔をした。
「なんか楽しんでるね~」
 このやり取りを横で見ていた立嶋が、羨ましそうな顔で口を挟んできた。
「そうか?」
「うん。もう友達みたい」
 立嶋の言葉に、茂は自然と嫌な顔になった。
「もうこの話は終わりにしよう」
 話しているうち、なし崩しで許容してしまいそうなので、話を打ち切ることにした。
「お願いだから、待ってよ」
 葛木は、必死になって茂の手を掴んで引き止めてきた。ちょうど葛木との帰り道の分岐地点だった。
「なんだよ。もう話すことはねぇぞ」
「そ、そんなこと言わずに」
「無理だ」
「じゃあ、どうすれば許してくれるの?その為だったら、なんだってするから~」
「なら、なんでさっきから自分の主張ばっかりなんだよ」
「あ、あわよくばと思って~」
「それで話をすり替えようとしたのか」
「ご、ごめんなさい」
 これには素直に頭を下げた。
「じゃあな」
 いつまでも立ち話をしたくなかったので、帰ることにした。
「ちょ、待っ」
 しかし、葛木が慌てて追いかけてきた。
「なんだよ。もう話し合いは終わりだと言ってるだろう」
「そんなの承知してないよ~」
「おまえの承諾は関係ねぇだろ!」
 茂は、歩きながら怒鳴った。
「ねえ~、ここまで謝ってるんだし、許してあげたら?」
 茂たちのやり取りに、立嶋が割って入ってきた。
「それができねぇから、交渉しようとしてるんだろ」
 立嶋の言葉に、少し苛立ちを覚えながら葛木を睨みつけた。
「というか、ついてくんなよ。おまえの家反対だろう」
「い、嫌だ!」
 ここで葛木が、苦い顔をして首を横に振って強い拒絶を向けてきた。
「帰る気・・ないのか」
 茂は、眉を引き攣らせながら聞いた。
「うん!」
「はぁ~~~」
 葛木のぶれそうにない答えに、茂は大きく溜息をついて立ち止まった。
 いろいろと考えたが、家までついてこられるのは絶対に避けたかった。
「わかった。この先の公園で話しようか」
「えっ!いいの~?」
 茂の妥協に、葛木が表情を綻ばせて聞き返してきた。
「不本意だが、仕方ない。立嶋は、もう帰っていいぞ」
 部外者の立嶋には、先に帰ってもらうことにした。
「えっと、ついていったらダメかな」
 遠慮がちではあったが、立嶋がそう申し出てきた。
「帰れ」
 ついてくるのは無意味だと思い、帰宅を促すと立嶋が不満そうな顔をした。
「な、なんだよ」
 その表情に、茂は少しだけ怯んでしまった。
「ついていく」
 何を思ったのか、立嶋が今度はきっぱりと言い切ってきた。
「な、なんで?」
「今後の為」
「は?」
 訳がわからず、口を開けて唖然とした。
「いいから、行こう」
 そんな茂を無視して、公園に向かって歩き出した。
「お、おい」
 立嶋の積極的な態度に戸惑いながら、茂は後を追った。その後ろから葛木も続いた。
 公園に着いて、ベンチに座ろうとすると、葛木がすかさず遮った。
「京橋は、真ん中に座ってよ~」
「どこでもいいだろう」
「ダメ!」
 あまりの露骨な拒否に眉を顰めた。
「おまえ。もしかして、会話術を使おうとしてねぇか」
 これに葛木が、ビクッと身震いした。
「図星かい」
「も、もしかして、昨日の番組見てた~?」
 葛木が恐る恐る聞いてきた。昨日、夕飯を食べている時にテレビで流れていたものだった。
「ああ、流し見だったけどな」
「あ、それ、私も見た」
 これには立嶋が嬉しそうに手を上げた。
「ま、まあ、そんなこといいじゃん」
 葛木はそう言い繕って、ベンチの端に座った。あの会話術を信じるわけじゃないが、それで説得されてしまうのが嫌だったので、隣に座るのをやめた。
「仕方ない、立ったまま話すか」
「ちょっと、そこに立たないでよ~」
 ベンチの端に立つと、葛木が文句を言ってきた。
「どっちも頑固だな~」
 互いに譲らない茂たちを見て、立嶋が呆れた口調で茂の手を掴んだ。
「もう切りがないから、とっとと座ってよ」
 そして、強引に座らせられた。早く帰りたいのもあったので、仕方なく話を進めることにした。
「条件は、どうする~?」
 すると、葛木がだるそうに聞いてきた。
「そうだな。俺の利益になる条件が良い」
「そこは明確にするんだね~」
「当たり前だ。そうじゃねぇ~と、今後話すことはできそうにねぇからな」
「わかったわよ~」
 茂の要望に、葛木が渋々承諾した。
「で、どうすればいいの~」
「さあ。それは考えてねぇ~」
「何それ~」
 茂の無策な発言に、呆れ顔で返された。
「俺にとっての利益は、おまえと話さないことだからな。話す時点で不利益なんだよ」
「存在否定までしなくてもいいでしょ~」
 毒舌だったはずだが、葛木は特に傷ついた様子はなかった。
「う~~ん。何かあるか?」
 特に考えつくことがないので、立嶋に話を振ってみた。
「わ、私に聞かれても」
 突然のことに驚いて、答えに詰まった。
「そもそも、利益って何よ~?」
「俺が嬉しいことだよ」
「紛らわしいな~。最初からそう言ってよ~」
「同じ意味だろ」
「捉え方が変わるよ~」
「利益だと、どう思うんだ?」
「金!」
 葛木が指で輪を作って、その単語を強調した。
「じゃあ、それでいいぞ」
 茂は、この流れに乗ってみた。
「お、お金はないよ~」
「だろうな」
 予想通りの答えだったので、ここは軽く流しておいた。
「う~~ん。京橋って、彼女とか欲しくない?」
「いらん」
「即答だな~」
「そもそも欲しいって言ったら、どうなるんだよ」
「私が彼女になるぞ~」
 葛木がなんの恥じらいもなく、品のない口調で告白してきた。
「断って良かったよ」
 茂は、心の底から安堵した。嫌いな相手と恋人になるのは、苦痛以外の何物でもなかった。
「もうこれ以外は思いつかないな~」
 葛木は、空を見上げてギブアップした。
「ねぇ~、京橋のことなんだから、京橋が決めてよ~」
「う~~ん。そう言われてもな~。おまえにやってもらいたいことがない。というか、基本一緒に居たくない」
「そこまで嫌うか!」
「ああ、ごめん。つい本音が」
「泣くぞ。本当に泣くぞ!」
 言葉を強めて、必死で涙を出そうとしたようだが涙は出てこなかった。
「凄く嫌ってるね」
 それを見ていた立嶋が、葛木を哀れんだ目で見ていた。
「あのさ、大学に進学できたら、許せると思うからそれまで待ってくれねぇかな」
「って、卒業したら、会えなくなるかもしれないじゃん!」
「同じ大学なら、会えるだろう」
「どこ受けんのよ~」
 それを聞かれた茂は、大学の名前を告げた。
「え!あそこって、結構難易度高いでしょ~」
「そうなんだよ。だから、余計担任が渋ってな」
「っていうか、京橋って成績良かったっけ?」
「いや、良くて中の上だ」
「それは厳しいね~」
「だから、進級してから受験勉強してるよ」
「ふ~~ん。ね~、それじゃ~、私が教えてあげよ~か」
 葛木は名案とばかりに、偉そうな態度で言い放ってきた。
「え?おまえって、成績良かったっけ?」
「まぁ~。京橋よりは上みたいだな~」
「そ、そうなのか!」
 これには素で驚いてしまった。
「どうかな~」
「確かに、教えて欲しいところはあるんだが・・・」
「な、何か問題あるの?」
「おまえに教えを請うことが不本意」
「あんまり嫌うと、マジで付き纏うわよ~」
「おまえ、人の嫌がることを平然と言うなよ」
 茂の本音を嫌がらせという行為で潰しに掛かってきた。
「女子から付き纏われるのが、嫌がらせってなんか変な感じだね」
 これに立嶋が、控えめな感じでそんなことを口にした。
「俺が嫌いなんだから、嫌がらせの何ものでもねぇだろう」
「ホントに付き纏うぞ!」
 茂の容赦のない発言に、葛木が怒鳴って威嚇してきた。
「はぁ~、わかったよ。もう嫌いって言わないようにするよ」
 これ以上言うと、本当に付き纏われそうなので、ここは言い繕っておいた。
「できれば~、好きって言って欲しい~な~」
「俺は、嘘が嫌いなんだ」
 葛木の要求に、茂は嫌な顔をして突っぱねた。
「少しは気遣えよ~」
「おまえを気遣うと、付け上がるからしたくない」
「最初の頃は、従順で可愛かったのにな~」
 あの時は、葛木の暴走を見た後に話しかけられていたので、恐怖から媚びへつらうかたちで機嫌を取っていた。しかし、その行為は嫌がらせを助長させるだけだと気づいて、すぐさまやめた。
「で、どうすんの~?受験勉強を手伝う代わりに、よりを戻してくれる?」
「そうだな。不本意だが背に腹はかえられねぇ~しな。あと、よりを戻すは語弊があるから使うな」
「そんな細かいことは気にしないでよ~」
 葛木は面倒臭そうに、茂から視線を逸らした。正直、一人での受験勉強は限界を感じていた。最近になって塾に行こうか真剣に悩んでいたが、教えてもらえるなら、今の茂にとっては助かることは間違いなかった。
「場所は、図書館でいいか」
 念の為、教室よりは目立たない場所を選択した。
「そうだね~、それでいいよ~」
「教えるのは土曜日だけでいいから」
「え、週一だけ?」
 これには驚いた様子で、顔だけを茂の方に向けた。
「今のところそれで十分だ」
「そ~?ま~、いいか~」
 さっきは驚いていたが、週一の予定には特に異論はないようだった。
「俺は、もう帰るよ」
 話が終わったので、ベンチから立ち上がった。
「あ~、そ~だ。明日から一緒に登校しよ~よ」
「それは勘弁してくれ」
「なんでよ~」
「本当にやめてくれ」
 本気で嫌だったので、深々と頭を下げて断った。
「そ、そこまで嫌なんだ・・可哀そう」
 これに立嶋が、葛木に同情の声を上げた。
 その後、葛木が何度か食い下がってきたので、二人を置いてその場を脱兎のごとく逃げ帰った。
 ※ ※ ※
「あ~あ~、逃げられちゃった」
 葛木が大きく溜息をついて、逃げ帰った京橋を寂しそうに見送っていた。
「じゃ、じゃあ、わ、私も帰りますね」
 まさか京橋に置いて行かれると思っていなかった琴音は、この状況に戸惑いながらベンチから立ち上がろうとした。
「待って」
 が、葛木が琴音の肩を掴んで引き止めてきた。
「な、なんですか?」
 これには嫌な予感がして、自然と顔が引き攣った。
「さっきからなんで敬語なんだよ~」
「え、えっと~、な、なんでだろう」
 その理由が言えなかったので、惚けることにした。
「友達なんだから~、もっと砕けていいぞ~」
「そ、そう?ど、努力してみるよ」
 葛木に対して反論する気はないので、素直に聞き入れることにした。
「あと、京橋のこと好きなの~?」
「ふぇ?なんで?」
 突飛な質問に、思わず呆けてしまった。
「その反応は、そう思ってないってことか~。ま~、それはいいことだね~」
 葛木は、一人で頷きながら納得していた。
「もう帰るか~」
 そして、だるそうに立ち上がった。
「そ、そうだね」
 琴音も葛木に同調するかたちで、ベンチから立ち上がった。
 二人は、黙ったまま公園を後にした。

七 不調

 茂は息を切らせながら、家の玄関を開けた。若干汗を掻いたので、シャワーを浴びることにした。
「お兄ちゃん。帰ったの?」
 すると、リビングから妹が顔を出した。
「ああ。ただいま」
 茂は、息を整えながら返事をした。
「運動なんて珍しいね。もしかして、ダイエット?」
「まあ、そんなところだ」
 事情は説明したくなかったので、それで押し通すことにした。
「そういえば、今日は未来はいねぇのか」
 玄関に未来の靴がなかったので、妹に聞いてみた。
「うん。なんか今日、用があるんだって」
 妹はそう言うと、残念そうに顔を伏せた。
「それより、お母さんから電話あったよ。残業で遅くなるから、出前取れってさ」
「そうか。じゃあ、俺はいつものでいいや」
「また~?たまには別の物にしたら~」
「出前自体たまになんだから、別にいいだろう」
 夕食での出前は、月三回の割合だった。
「そうだけど~」
 これに妹が、不満そうな顔をした。
「ふぅ~。なら、おまえが決めていいぞ」
 特にそれが食べたいという訳ではなかったので、注文は妹に委ねることにした。
「そう?じゃあ、私と同じのでいいよね」
「ああ、好きにしろ」
 茂はそれだけ言って、二階に上がった。
 自室で着替えを持って、階段を下りて風呂場へ向かった。
 十数分後、風呂から上がって、リビングに入ると妹が駆け寄ってきた。
「ちょうど出前が来たから、熱いうちに食べようよ」
「ああ、早かったな」
「ピザだったからね~」
「ピザ頼んだのか?」
 ピザ屋は、この家のすぐ近くにあり、出前ではそこが一番早かった。
「うん。奮発してMサイズ二枚にしたから」
「ちょ、ちょっと待て、そんなに食えるのか?」
「大丈夫だよ」
 茂の不安をよそに、妹が自信満々に頷いた。
 二人でテレビを見ながらピザを食べていると、四切れ目で妹の食べる速度が遅くなってきた。
「ど、どうした?」
「ごめん。無理かも」
 妹は口を押さえて、満腹のアピールをした。
「お、おまえ、マジか!まだ半分も残ってるんだぞ」
「お兄ちゃん。なんとかならない?」
「はっ?何が?」
「全部食べれる?」
「無理だろ!」
 五切れ目を食べていたが、さすがに残りとなると食べれる自身はなかった。
「とにかく、食べられるところまで食べろ」
「そ、そうだね。残したら、お母さんが怒るもんね」
 出前を妹に委ねたことを心の底から後悔しながら、六切れ目を手に取った。
 その後、二人は頑張ってピザを黙々と食べた。
「も、もう・・・無理」 
 妹は、気分悪そうに何度も首を振って項垂れた。
「おまえ、まだ六切れしか食ってねぇだろう」
「そ、そんなこと言っても、もうこれ以上食べると吐きそう」
胃液が逆流したのか、気持ち悪そうに口に手を当てた。
「あと、二切れだから頑張って」
 そう言い残すと、ゆっくりとソファーに移動してテレビに目を向けた。
「お、俺も無理だぞ」
 さすがにMサイズ1枚で、茂も満腹だった。
「お兄ちゃん、ここはもう覚悟して、お母さんに怒られよう」
 妹は自分の限界を超えると、すぐに開き直る癖があった。そのせいでいつも茂がとばっちりを受けるのだった。
「それは嫌だな。これ隠せねぇかな?」
 母親は、食べ残しには厳格だった。これは子供の頃からだったので、食べ残しに対しては反抗心はなかった。
「ピザって匂いがきついから、隠しても無理じゃないかな」
 すると、妹から冷静な分析が返ってきた。
「・・・しょうがない、これは夜食にするということにしよう」
 このままではとばっちりを受けるので、この状況を正当化しようと考えた。
 すると、玄関から母親の声が聞こえた。その声に二人は、ビクッと身震いした。
「はぁ~、疲れた。ごめんね~、夕食作れなくて」
 母親がリビングに入ってきて、茂たちに謝ってきた。
「あれ?ピザ食べたの?」
 母親が匂いに気づき、残っているピザを覗き見た。
「う、うん」
 それに妹が、苦しそうに返事をした。
「あれ?まだ残ってるけど・・・」
 残っているピザを見た母親が、不思議そうに首を傾げた。
 茂は、さっき考えた言い訳を口にしようとしたが、妹が先に言葉を発した。
「えっと、食べ切れなくて・・・」
 妹は視線を逸らしながら、正直に答えた。この発言に母親の視線が鋭くなった。
「二人とも、食べ切れないのに注文したの?」
 そして、据わった目でピザを見ながら、茂たちに問い質してきた。
「あの、これ夜食にしようかと思って、残してるんだ」
 妹の発言のせいで信憑性が低くなってしまったが、苦し紛れにそう言い訳しておいた。
「夜食~?」
 これに母親が、訝しげな表情をした。
「夜更かしでもするの?」
「ああ、最近受験勉強してるから」
 内心は動揺していたが、必死で平静を保って答えた。
「あの大学受けるつもりなの?」
「ああ、諦めるつもりはねぇよ」
「そう・・なら、そのピザは残していいわ」
 母親が少し考慮して、食べ残しを認めてくれた。
「ありがとう」
 なんとか説教は回避したが、深夜まで起きることになってしまった。
 母親がお風呂に入ると言って、リビングから出ていった。
「ありがとう。お兄ちゃん」
 妹は、茂の方を振り向いてお礼を言った。
「今度から奮発とかやめろよな」
「気をつける」
 それを軽く受け止めながら、再びテレビの方に視線を戻した。
 葛木のせいで宿題をする時間がなかったので、今から宿題をすることにした。
 宿題と予習が終わり、今度は受験勉強を始めようとしたが、既に10時を回っていたので、少し休憩することにした。
 一階に下りると、風呂上りの妹と出くわした。
「あれ?お兄ちゃん。宿題終わったの?」
「ああ、一息つこうと思ってな」
「そうなんだ。夜食は冷蔵庫に入ってるから、あとで絶対食べてね」
「ああ、わかってるよ」
 妹の催促に不機嫌な顔で返した。
「じゃあ、おやすみ」
しかし、茂の表情を意にも介さず二階に上がっていった。
妹を見送ってからリビングに入ると、母親が一人でテレビを見ていた。それを素通りして、奥のキッチンへ向かった。
「真理は、もうお風呂上がったの?」
 すると、リビングから母親の声が聞こえた。
「ああ、もう寝るって言ってたよ」
「へえ~。今日は寝るの早いんだね~」
「そうみたいだな」
 茂は麦茶を飲んで、リビングに戻った。
「学校は、どうなの?」
 母親はそう言いながら、心配そうに茂を見つめてきた。あの一件以来、月一で学校生活を聞かれるようになっていた。
「いつも通りだよ。と言いたいが、少し変わったことがあったな」
「ど、どういうこと?」
 これに母親が真剣な表情になり、身を乗り出してきた。
「大した変化じゃないから、気にしなくていい」
 諸悪の根源が言い寄ってきたことは結構な変化だったが、この過剰反応を見ると言いづらかった。
「言いなさいよ」
「嫌だ」
 母親のこの食いつき方に、話すことはやめにした。
「な、なんでよ」
「冷静に聞いてくれそうにねぇから」
「そ、そこまでの話なの?」
「まあ、母さんには刺激が強いかもな」
 今の状態で話したら、長くなりそうだった。
「いずれ話すよ」
 茂はそれだけ言って、足早にリビングから出た。リビングから母親の呼び止める声が聞こえたが、そのままに二階に上がった。
 部屋に入り、椅子に座ると自然と溜息が漏れた。最近、家でも教室でも一人で落ち着ける時間が少なくなっていた。皮肉なことに勉強だけが唯一ひとりになれる時間だった。
 5分だけ休んでから、机に向かった。昨日はわからなかった問題に悪戦苦闘したことで寝不足になったので、次からはそれをまとめて葛木に聞くことにした。
 時計が真上を指したので、夜食を取ることにした。一階に下りると、辺りはもう真っ暗だった。母親は、もう就寝したようだ。
 リビングの電気を点けて、ピザをレンジで温めてから食べた。二度目ということもあり、おいしいとは全く感じなかった。
 なんとか食べ終わって、麦茶で口の中の油を洗い流した。
 歯を磨いてからベッドに横になったが、胃の中に物が入ってる状態ではなかなか寝つけなかった。
 翌朝の目覚めは最悪とはいえないが、かなり悪かった。胃がいつもの調子ではなく食欲もなかった。
「う~~、気持ち悪い」
 茂は、胃の辺り押さえて顔を歪めた。
 気分が悪いままリビングに入ると、妹が朝食を食べていた。
「おはよう。お兄ちゃん」
 入ってきた茂に顔を上げて、挨拶してきた。
「ああ、おはよう」
 寝起きと気分の悪さに、テンションが下がった挨拶になった。
「ど、どうしたの?」
「夜食だ」
 妹の疑問にその一言を返した。
「ごめんなさい」
 それを察して、即座に謝ってきた。
 朝食は、いつものように和食だった。今の状態ではとても食べれる気がしないので、朝食を脇目にキッチンへ向かった。
「母さん。フレークなかった?」
 前に個人的に買って、キッチンの戸棚に置いていたはずだが見当たらなかった。
「そんなのないわよ」
 それに母親が、嫌な顔をして答えた。母親は、シリアルのような簡易的な食べ物を極端に嫌っていた。
「ごめん、お兄ちゃん。それ、私が全部食べた」
「えっ!」
「おやつ感覚で食べちゃった♪」
 妹は悪びれることなく、茶目っ気で舌を出した。
「お、おまえは俺に対して、悪意を持って嫌がらせしてるのかっ!」
「お、お兄ちゃん、落ち着いて」
 茂の怒声に驚いて、怯んで体を後ろに反らした。
「罰として、自腹で買ってこい」
 いつもなら、ここで30分は責め立てるのだが、時間もないのでそれで許すことにした。
「わ、わかったよ」
 これに妹が、素直に承知した。どうやら、自分に非があると感じているようだ。
「茂、朝食はもう作ってあるんだから、食べなさい」
 突然、後ろから母親のうつろな声が聞こえた。この声は、静かな怒りをあらわにしていた。
「わ、わかったよ」
 こうなると母親に抵抗できないので、渋々朝食を食べることにした。
「じゃあ、私先に行くね」
 朝食を食べ終わった妹が、いつものように登校していった。
 朝食をゆっくり食べると、残してしまいそうだったので勢いよく食べた。
「ごちそうさま」
「食べるの早っ!」
 あまりの早さに、母親が驚きの声を上げた。
 空になった食器をさっさとキッチンに持っていって、食器をシンクに置くと、食べた物が逆流してきた。
「茂、吐かないでよ」
 リビングに戻ってきた茂を見て、母親が注意してきた。
「ど、努力する」
 しゃべるだけで本当に吐きそうだったので、口を片手で押さえて必死で堪えた。
「あ、も、もう行かないと」
 なんとか吐き気を堪えて、登校することにした。
「はいはい、いってらっしゃい」
 母親は、ゆっくりとコーヒーを飲みながら手を振った。
 昨日に続き、今日も体調が悪かった。今日こそは、立嶋が校門辺りで待っていることを祈った。
 昨日と同じ曲がり角まで差し掛かり、恐る恐るその角を曲がった。
 しかし、立嶋はそこにはいなかった。
「良かった」
 これにはホッとして、溜息が漏れた。茂は、少し晴れやかな気持ちで歩みを進めた。
「おはよう」
「おはよう~」
 三つ目の角から二人の重なった声が聞こえた。
 この二つの声に恐る恐る顔を向けると、そこには立嶋だけではなく、葛木も待っていた。これにはさすがにブチギレそうになった。
「な、なんでいんの?」
 しかし、怒鳴ると吐きそうだったので、低い声で二人を睨みつけた。
「睨むなよ~。怖いだろ~」
「こ、怖いよ」
 葛木は茂の睨みを軽く受け流したが、立嶋は本気で怖がっていた。
「おまえらのそういう強引なところがマジで嫌い」
「嫌いって、言わない約束だろ~」
「約束してねぇよ。言わないようにすると言っただけだ。言って欲しくないなら、俺の嫌がることすんなよ」
 茂は、声のトーンを落として威嚇した。
「女子が二人も待ってるなんて嬉しいことだろ~」
「好きな人なら嬉しいかもしれんが、俺はおまえ達に好意も好感も持ってねぇ~」
 あまりの怒りで、二人を罵倒してしまった。
「手厳しいね~」
 葛木の言葉を無視して早足で歩いたが、吐き気がぶり返して歩みが遅くなった。
「ま、待てよ~」
 葛木がそう言いながら、後ろからついてきた。立嶋も悲しそうな顔で茂の後ろについた。
「そこまで怒んなよ~」
 茂の後ろから葛木の不満げな声が聞こえてきた。
「気分が悪いからあまりしゃべらすな」
 吐き気を抑えながら、二人に脅すかたちで命令した。
「今日も眠いの?」
 立嶋が心配そうに、茂の顔を覗きこんできた。
「いや、吐きそうなんだ」
 茂はそう言って、青ざめて口を押さえて立ち止まった。胃の中の物が逆流して、本当に吐きそうだった。
「ちょ、ちょっと、だ、大丈・・夫じゃないみたいね」
 立嶋は、慌てて周りを見渡した。その反対の方から葛木が茂の顔を覗き込んできた。
「コンビニのトイレで吐いたら?」
 ちょうど近くにコンビニがあり、立嶋がそこを指差した。
「いや、吐きたくない」
 胃液臭が嫌だったので、必死で我慢した。
「でも、このままだと道路で吐くことになるぞ~」
 葛木も呆れながら、最悪の見通しを口にした。
「不安を煽るなよ」
 少し吐き気が治まったので、歩行を再開した。
「そのまま行くの?」
 立嶋がコンビニを横目に、不安そうについてきた。
「ああ」
 茂は、口を押さえたまま答えた。
「これで吐いたら、あだ名つけてやろうか~」
 ここで葛木が、楽しそうに笑ってそう言ってきた。本当に嫌な奴だ。
 いつもより歩くペースが遅かったが、二人は黙ってついてきた。
「ねえ~。なんかしゃべってよ~」
 葛木が痺れを切らせて、茂に話しかけてきた。
「最初にも言ったが、しゃべらすな」
「もう吐けばいいのに」
「というか、二人で仲良くしゃべればいいだろう」
 茂は静かな立嶋を見て、葛木にそういった。
「それもそうだね~。琴音、なんか話して~」
 ここで葛木が、ぶっきらぼうに話を振った。
「えっ!えっと・・・じゃ、じゃあ、遠慮なく」
 少し恐縮していたが、話していく内にいつもの調子に戻り、情報と愚痴を楽しそうに一気にしゃべった。
「ふ~~ん。それって半分くらい知ってることだね~。それにしても、琴音の話って面白くないな~」
「えっ!」
 葛木のあまりに軽い感じの本音に、立嶋がショックを受けて声が裏返った。
「まあ、そうだろうな」
 それは前から思っていたことだったので、落ち込んでいる立嶋を無視して何度か頷いた。
「う、ううう~~」
 このやり取りに、立嶋の目から涙が溢れてきた。
「あ、泣かせた」
 茂はそれを見て、葛木に責任を被ってもらった。
「うっ!」
 立嶋の涙に、葛木が表情を引き攣らせた。困り顔や悔し顔は好きなようだが、泣き顔はダメなようだ。今度から自分も泣こう。
「ご、ごめん。言いすぎた。謝るから泣かないで」
 そう謝罪して、慰めるかたちで立嶋の肩に手を置いた。普段はだらけた口調だが、この謝罪は凛とした口調だった。
「あ、似合ってる」
 泣いていたはずの立嶋が、葛木の声に反応した。
「へっ!」
 突然の立嶋の言葉に、葛木が肩透かしを食らった。
「もしかして、普段はその口調なの?」
「え、うん、そうだけど」
 立嶋の言葉に、葛木が戸惑いながらも頷いた。
「なんで口調変えてるの?」
 関心事がそこに移ったようで、立嶋は完全に泣き止んでいた。他のことに関心を持つと、自分の感情を忘れてしまうようだ。
「だって、男が寄ってくるし、女は妬むからね~」
 それは茂にも初耳だった。
「もしかして、性格もそれで変えてるのか?」
 茂は、話の流れでそのことも聞いてみた。
「それって、どういう意味かな~」
 葛木が目を吊り上げて、茂を睨んだ。どうやら、性格はわざと変えているわけではないようだ。
「わ、わりぃ~。失言だったな」
 ここは敢えて謝っておいた。
「でも、もったいないよ。せっかく綺麗なのに」
 何を思ったか、立嶋が葛木の容姿を褒めた。
「別に、そんなこと気にしないでいいよ~」
 葛木はそう言いながら、すぐにだらけた口調に戻した。
「無視されるのは気にしないけど、興味をもたれるのは嫌なのよね~」
「なら、なぜ俺の無視は気にしたんだ」
 葛木の理不尽な云い分に、茂は思わず口を挟んだ。
「そんなの私から言わせないでよ~」
 これに少し照れながら、茂から視線を外した。
「昔は、結構モテてたの?」
 立嶋が話を戻して、積極的に聞いた。
「ま~ね。あの時ほどうざいと思ったことはなかったわ~」
 葛木はそう言って、過去を思い出すように視線を上に向けた。
「じゃあ、嫌われる為にわざわざそんな口調に?」
「いろいろ試した結果~、これが一番残念がられるのよね~」
 確かにその口調は残念だとは感じるが、一番残念なのは葛木の性格だろうと、茂は強く思った。
「ま~、結果は見ての通りだよ~」
「確かに友達いねぇし、俺と一緒で浮いてるよな~」
 3年に進級してから、葛木が誰かと話しているのを見たことがなかった。
「そ~だね。目論見通りってところかな~」
「そうなんだ。大変なんだね」
 葛木は得意げな笑みを浮かべていたが、立嶋からは同情の眼差しを向けられていた。
「ところで~、琴音って京橋以外に友達いんの~」
 今度は葛木が、立嶋のことに話を移した。なぜか茂が友達ということになっていたが、これは聞かなかったことにした。
「いないかな。クラスでは浮いてる感じだよ。たまにしか話しかけてこないし」
「ふ~~ん。ちょっと意外~」
「え?なんで」
「見た感じ話しやすそうだし、モテるんじゃない~?」
「そ、そんなことないよ~」
 立嶋が照れながら謙遜した。傍から見ていて、二人の褒め合いは見るに耐えなかった。茂からすれば、二人に友達がいないのは当然だと思っていた。
「あ~、でも、さっきの会話だったら、友達はできそうにないかも~」
 葛木には、オブラードに包むという相手への気遣いを知らないようだ。
「うっ、ぐっ!」
 これに立嶋がショックで立ち止まり、再び泣きそうになった。今まで知らなかったが、かなり傷つきやすいタイプのようだ。
「あ~、ごめん。泣かないで~」
 葛木が立ち止まって、慌てた様子で慰めた。茂は関わり合いたくなかったので、歩みを止めることなく先を歩いた。
「って、ちょっと待ってよ~」
 葛木がそれに気づき、茂を呼びながら駆け寄ってきた。
「もう二人で登校しろよ。俺は、気分が悪いから一人で登校させてくれ」
 吐き気はさっきより治まったが、しゃべると悪化しそうだった。
「別に無理して、しゃべらなくてもいいから一緒に登校しよ~」
「そうだよ。一人より三人での登校の方がいいに決まってるよ」
 二人の発言に何かの意図を感じたが、気にしても仕方ないのでスルーすることにした。
「はぁ~、勘弁してくれ」
 茂は、溜息をついて項垂れた。
 ようやく学校に着いて、立嶋と別れてから葛木と一緒に教室に入った。
 すると、教室が少しざわついた気がしたが、気にしても仕方がないのでそのまま席に向かった。
 茂は席について、電子書籍で小説を読み始めた。吐き気はかなり治まりつつあったが、気は抜けない感じではあった。
「ね~、少し聞きたいことがあるんだけど~」
 気づくと、葛木が机の正面に腕を組んで立っていた。
「あまり話しかけるなよ。目立つだろう」
「そんなに突っぱねないでよ~」
「手短にしろよ」
 茂は電子書籍から目を移して、葛木を見上げた。
「何読んでの~」
「自分の席に戻れ」
 どうでもいい質問に苛立って、電子書籍に視線を戻した。
「つ、冷たい」
 葛木は、苦い顔をして呟いた。
 すると、ちょうど良いタイミングで予鈴が鳴った。
「ほら、予鈴が鳴ったぞ。さっさと席に戻れ」
 茂は手を振って、葛木を追っ払った。
 午前の授業は滞りはなかったが、移動教室の時には葛木が同行したせいで、クラスメイトの視線が痛かった。
 昼休みになり、立嶋が教室に入ってきた。
「俺、昼食いらねぇから、行くなら二人で行ってくれ」
 今日は胃が不調だったので、昼食は諦めた。
「え?」
 これには立嶋が驚いて、弁当箱を持ったまま固まった。
「私は、別に行かなくていいや~」
 葛木はそう言いながら、席を外している三和の席を勝手に動かして、茂の机とくっつけてきた。
「わ、私、飲み物買ってくる」
 立嶋が悄然として、一人でとぼとぼと教室を出ていった。
「なんか、落ち込んでないか~」
 立嶋の後姿を見送って、横目で茂を責めた。
「そうだな~」
それを無視して、電子書籍で小説の続きを読み始めた。
「興味がないみたいね~」
「まあ、そうだな」
 茂は、心無い返事を返しておいた。
「というか~、さっきから何読んでんの~?」
「小説だ」
「え、小説?勉強してんじゃないの~?」
「いや、受験勉強は家でしてるよ。学校の休憩中ぐらいは、息抜きで読んでるんだよ」
「そ~なんだ。ま~、息抜きは必要だもんね~」
 葛木は、立嶋を待つ素振りもなく弁当を食べ始めた。
 すると、教室の出入り口から声がした。
 見ると、三和が教室の出入り口で固まっていた。既に自分の席に座っている葛木を見て、少し黙考してから葛木の席へ向かった。
「三和は、空気が読めるから助かるね~。さすが委員長~」
 葛木がその行動を見て、三和を賛辞した。
「おまえ、あとで謝っとけよ」
「は~、なんでよ~?」
「今日は許可取ってねぇだろう」
「それもそうだね~。でも、謝罪よりお礼の方が良くないかな~」
「確かに、そっちの方がいいかもな」
 この言い分はもっともだったので、淡泊に相槌を打っておいた。
「ま~、あとで言っとくよ」
 葛木はそう言って、三和を見てから食事を再開した。
 しばらくして、立嶋がげんなりとした表情で戻ってきた。
「もう売店には行かない」
 その発言に驚いて、電子書籍から顔を上げた。
「自販機で買わなかったのか」
 この校内にはいくつか自販機が設置されていて、わざわざ離れた売店まで行く必要はなかった。
「だって、自販機って定価販売だから、安い方がいいと思って」
「馬鹿だね~。昼休みにあんな混沌に入っていくなんて~」
 これに葛木が、呆れながらそう言った。
「まさか飲み物まで奪い合ってるなんて思わなかった」
「それは大変だったな~」
 茂は立嶋を労いながら、視線を電子書籍に戻した。
「何読んでの?」
 すると、立嶋が不思議そうに尋ねてきた。
「小説」
 二度目だったこともあり、単語のみで答えた。
「新聞じゃないんだ」
「ああ、最近の新聞って、宣伝と広告が多すぎて読む気にならん」
「あ、それ、わかる」
 これに立嶋が、嬉しそうに共感した。
「あれって、たまに一ページ丸々広告とか本当にやめて欲しいよね~。あれが原因で取るのやめたところもあるよ」
 立嶋は政治経済や情勢、文化などの色々な分野の新聞を取っていた。
「あ~~、その話やめてもらっていいか」
 こうなると饒舌になって、昼休みが終わるまでずっとしゃべり続けるので、そうなる前に止めておいた。
「え!なんでよ。これからじゃない」
「さっさっと、弁当でも食っとけ」
 立嶋に視線を向けることなく、小説を読み進めた。
「う~~。最近、京橋が冷たい」
 立嶋が項垂れて、茂を非難してきた。
「悪いけど、これからは二人で話してくれ。俺は、昼休み小説読むから」
 一人ならいざ知らず、嫌いな相手を二人同時は精神的に耐えられそうになかった。
「え~~!」
「え~~!」
 これに二人揃ってはもってきた。
「もう二人は友達になったんだから、俺は用済みだろう」
 茂は、これを機に二人から離れることを考えていた。
「・・・」
「・・・」
 二人は黙って、茂を睨みつけてきた。
 茂は電子書籍に目を落して、それをシカトした。
「どうする~?」
 すると、葛木が立嶋にそう投げかけた。
「これは由々しき事態だね」
 立嶋も真剣な顔で、事態を重く受け止めたふうな発言をした。
「そうだな~。なんか方法ない~?」
 葛木もそれにつられて、真剣な顔になった。
 二人は、本人を前でどう説得するかを議論し始めた。
「おまえら、本人を前にディスカッションするなよ。かなり不快だぞ」
 さすがにそれには耐え切れず、二人を注意した。
「原因をつくったのは、京橋でしょ~」
「だからって、俺の目の前で言い合いするなよ。俺が居た堪れねぇだろう」
「だったら、話に加わればいいでしょ~」
「ちっ!仕方ない、席を移動するか」
 茂は舌打ちして、席を立とうとしたが、それを二人に止められた。
「二人にしないで」
「二人にしないで~」
 ここで二人の意見が一致した。
「なんでそこだけ一致するんだよ」
 これには呆れながら嘆息した。
「お願いだから、ここにいて」
 立嶋が掴んだ腕に力を込めて、必死に引き止めてきた。
「じゃあ、話しかけんなよ。あと、俺についての討論もやめろ」
 茂は、座り直してからそう忠告した。
「ぜ、善処します」
 これに立嶋が渋々頷いた。
 結局、昼休み中誰もしゃべることはなかった。
 予鈴が鳴り、立嶋が寂しそうに肩を落として、自分の教室に帰っていった。
「なんで私たちを突っぱねるのよ」
 三和の机を元に戻しながら、葛木が不機嫌な顔で聞いてきた。
「三人いるなら、一人は話す必要はねぇだろう。だから、俺が黙ってただけだ」
「この場合って~、どう考えても話の中心は京橋だろ~」
「俺は読書してるんだから、友達のおまえが話を振るべきだろう」
「だって~、琴音の話って、つまんないんだも~ん」
「おまえ、友達に対して酷いこと言うなよ」
「そうなんだけどね~。なんとかなんないかな~、あれ」
「おまえがなんとかしろよ」
「難題だな~」
「そこは頑張れよ。友達なんだから」
 すると、教室に横峰が入ってきた。
「そろそろ戻るね~。嫌い人が戻ってきたから~」
 そう言うと、自分の席に戻っていった。気づくと、三和も席に戻ってきていた。
 本鈴が鳴り、授業が始まった。もうこの時間になると、完全に吐き気はなくなっていたが、食欲はなかった。
 帰りのHRが終わり、帰り支度をしていると、正面から声を掛けられた。
「帰ろうか~」
 いつの間にか机の前に、葛木が立っていた。
「早いな」
「HR前に帰り支度は済ましてるからね~」
 支度を終え、葛木と一緒に教室を出ると、立嶋が少し汗をかいて息を切らせていた。立嶋のクラスは、この日の最後の授業は体育だった。
「今日はなんだったんだ?」
「バスケット。長時間の運動は嫌い」
 ハンドタオルで汗を拭いながら愚痴った。
 帰宅時、茂はできるだけしゃべらないように心掛けたが、二人はずっと茂に話しかけてきた。仕方なく、得意の生返事でその場を切り抜けた。
 そうして、二人と別れて家路に就いた。

八 警戒

 家に帰ると、今日は未来の靴が揃えてあった。茂は二人を気遣って、リビングには行かずにそのまま二階に上がった。
 自室に入り、鞄から電子書籍を取り出して宿題を始めた。
 しばらく集中していると、ノックの音が聞こえた。
「お兄ちゃん。帰ってるの?」
「ん?ああ」
 外を見ると、もう日没だった。
「帰ってきてるなら、一声掛けてよ」
 ドアを開けて、妹が顔を覗かせた。
「邪魔したら悪いと思ってな」
「別に、そんな気遣いいらないよ」
 妹が部屋に入ってくると、後ろから未来も入ってきた。
「お、お邪魔します」
「二人してどうかしたのか?」
「未来ちゃんが会いたいって言うから連れてきた」
「お姉ちゃん。それは言わなくていいよ~」
 これには未来が、凄く恥ずかしそうに妹を制した。
「あ、ごめん。未来ちゃんの前だと本音だけになっちゃうね」
 自分の失敗を照れ隠しでごまかした。
「で、用はないのか」
「まあ、気晴らしに来ただけ」
 妹が未来の手を引いて、ベッドに二人で座った。
「読唇術は順調か?」
「はい。お姉ちゃんのおかげで」
「そうか。それは良かったな」
 茂は、未来の純粋な笑顔につられて笑った。
「そういえば、明日だっけ?お悩み相談」
 妹は、今思い出したようにそんなことを言い出した。
「そういえば、明日でしたね。お悩み相談」
「確かに忘れてたな」
 未来も忘れていたみたいだが、茂もあの二人のせいで完璧に忘れていた。
「で、どうするの?」
「う~ん」
 妹の問いかけに、茂は何を相談するか悩んだ。
「未来って、人の心を読めるんだよな」
「はい」
「なら、あいつともう一度会うか」
 正吾との煮え切れないやり取りは、いい加減はっきりしておきたかった。
「正兄は会ってくれるの?」
 妹は、正吾のことを昔の呼び名で呼んだ。
「まあ、呼べば来るよ。あいつは律儀だからな」
 そうは言ったが、素直に来るとは思っていなかった。
「確かに、お兄ちゃんよりは律儀な人だよね~」
「ほっとけ」
 妹の皮肉に口を尖らせた。
「正兄って、誰ですか?」
 未来は、正吾の名前に首を傾げていた。
「喫茶店で口論した奴だ」
「ああ、あの人ですか」
 これに未来が、思い出したように納得した。
「明日、どこで落ち合うか決めてるの?」
「そうだな~。喫茶店は、前に迷惑掛けたから行けねぇし、公園になるかもな~」
「まあ、怒鳴り合いになる可能性を考えると、そこが一番妥当かもね」
 妹もそれには同意したので、場所は公園にすることにした。
「私は、どうすればいいんですか?」
 横から未来が口を挟んできた。
「一旦、帰宅してから行くから、家で落ち合うか」
「わかりました」
「じゃあ、そろそろ帰るか?」
 外を見ると、もう日が沈んでいた。
「そうですね。もう帰らなきゃ」
 未来はそう言って、ゆっくりとベッドから立ち上がった。
「じゃあ、送っていこう」
 茂も回転椅子から腰を上げた。
「じゃあ、たまには私もついていこうかな」
 妹が突如そんなことを言い出した。
「え、なんでまた?」
「何よ。なんか問題でもあるの?」
「あ~~、まあ、やめたほうがいいな」
 前回、葛木と会ってしまったことを考えると、ここは緩めに拒んでおいた。
「なんでよ?」
「お姉ちゃん。私、兄さんに送ってもらうから」
 茂の思いを察してくれたのか、未来が援護してくれた。
「え、なんで?私も行くよ」
 しかし、この程度で引く気はないようで、妹が勢いよく立ち上がった。
「お姉ちゃん。ここは兄さんの意志を汲んでもらえないかな」
 ここでなぜか未来が、積極的に妹を説得し始めた。
「だから、どういう意味よ」
「私もよくわからないけど、兄さんは誰かと鉢合わせになることを恐れてるんだよ」
「誰かって誰よ?」
 この余計な一言に、妹がさらに怪訝そうに眉間に皺を寄せた。
「未来。これ以上は言うな」
「あ、ごめんなさい」
 茂の制止に、未来は悪びれながら謝った。
「真理。頼むからこれ以上の追及はやめてくれ」
 茂は、真剣な顔で妹に詰め寄った。
「な、何よ~。そ、そんな顔しないでよ~」
 これには妹が、渋った表情で一歩下がった。
「真理」
 茂は真顔で見つめたまま、さらに一歩踏み出した。
「わ、わかったよ」
 ここでようやく妹が折れてくれた。
「ありがとう。じゃあ、行ってくるよ」
「はいはい、いってらっしゃい」
 妹は不満感を隠さず、脱力した手を振った。
 未来と一緒に部屋を出ようとして、今朝のことを思い出した。
「そういえば、フレーク買ってきたか?」
「あ、忘れた」
「やっぱりか」
 あまり当てにしていなかったが、忘れていることは残念だった。
「明日、買ってくるよ」
「いや、もう買わなくていい。さっき引き下がってくれた礼だ」
「へえ~、珍しいこと言うね」
「たまには律儀なことをしてみただけだ」
「そう。でも、買ってくるよ。私も食べたいから」
「そうか。なら、頼む」
 茂はそう言って、未来と一緒に部屋を出た。
「やっぱり兄妹っていいですね」
 階段を下りながら、未来が羨ましそうに振り返った。
「そうか?居たら居たで、煩わしい時もあるぞ」
「そういうのもいいと思います」
「そうか」
 未来の憧れをこれ以上、否定する気はなかった。
 玄関を出ると、未来が強引に手を繋いできた。
「またか」
「はい、またです」
 未来はそう言うと、嬉しそうに手に力を込めた。
「ところで、葛木って人は誰ですか?」
 さっき茂の思考に出てきた人物が気になったようで、無垢な顔で聞いてきた。
「それは聞いて欲しくねぇな」
「そうですか。なら、聞きません」
 茂が拒否すると、未来が簡単に引き下がってくれた。
「兄さん。明日は付き添うだけでいいんですか?」
「ああ、時折話を振るから、その時は相手の考えてることを俺に伝えてくれ」
「それだと、喧嘩になりませんか?」
「可能性は高いけど、それも踏まえておいてくれ」
「あまり気乗りしないですね~」
「そうだな。でも、そうでもしないと引き出せそうにねぇからな~」
「そうなんですか。難儀ですね~」
 未来が諦観して、子供には似つかわしくない言葉を口にした。
「本音を引き出すのは難しいからな~」
「私の場合は、嫌でも聞こえますけどね~」
 未来は、何気なしにその台詞を言い放った。これは彼女だからこその言葉だった。
「あっ!」
 突然、未来が声を上げて、後ろを振り返った。
 それにつられて振り返えると、そこには葛木がいた。前と同じように犬の散歩中のようだ。
「兄さん。もしかして、彼女が葛木さんですか?」
 未来が葛木をじっと観察して、茂に小声で尋ねてきた。
「ああ、そうだ」
 本人を前に隠す必要もなかったので、素直に答えた。
「きょ、きょきょ、京橋。おまえ、ななな、何してるんだ?」
 葛木はかなり動揺していて、なかなか言葉が出てこなかった。
「どうした?」
 何に動揺しているのかわからず、茂は首を捻った。
「この人、兄さんと私の関係を疑ってるみたいです」
 未来は、唖然としている葛木の代弁をした。
「関係?」
 茂は復唱して、自分の現状を確認した。未来と手を繋いでいるのを第三者が見れば、兄妹にしか見えないだろう。しかし、恋人と勘違いしているのなら失礼な話だ。
「兄さん、失礼ってなんですか」
 すると、未来が不機嫌そうに聞いてきた。
「勝手に心を読むなよ」
 茂は、未来に聞こえるような小声でそう切り返した。
「兄・・さん?」
 未来の呼び方に、葛木がゆっくり反応した。
「なんだ、妹だったのか~。吃驚させるなよ~」
 そう言うと、葛木がいつもの調子を戻った。
「勝手におまえが驚いただけだろう」
「いや~、誘拐してるのかと思ったよ~」
「おまえ、それは冗談でも笑えねぇぞ」
 恋人や兄妹ではなく、誘拐だと思っていたことは心外だった。
「そうだよな~。だから、しばらく笑えなかったよ~」
「おまえ、犬の散歩はこの時間じゃなかっただろう」
 今日は、一昨日よりも1時間は早い時間だったので不思議に思った。
「いや~、昨日京橋に会えると思ったけど、会えなかったから少し時間を早めてみたんだ」
 頬を掻いて少し照れを表現したみたいだが、本人からの恥じらいは一切感じられなかった。その横で柴犬がお座りをしながら、ずっと尻尾を振っていた。
「傍迷惑だからやめてくれねぇか」
「つれないな~。そんなこと言うなよ~」
「じゃあ、もう行くから」
 一刻も早くこの場を去りたかったので、葛木に別れを告げて、公園に向かおうとした。
「ちょっと待てよ~」
 しかし、葛木が茂の肩を掴んで引き止めてきた。
「まだなんか用か?」
 茂は、煩わしそうに振り向いた。
「この子、妹でしょ~。紹介してよ」
 葛木が未来の方を見て、そう催促してきた。
「妹は、ここにはいないぞ」
「えっ!じゃあ、この女の子は誰なの?」
「妹の友達。今、公園まで送っている途中だ」
「えっ!そ、そうなの?」
 この事実に、葛木が怪訝そうに茂を見つめた。
「京橋は、妹の友達と手を繋いで家まで送るの?」
「手を繋いでいるのは、こっちとしても不本意だよ」
 その繋いだ手を持ち上げて、ぶらぶらと動かして振りほどこうとしたが、未来が手を離してくれなかった。
「ふ~~ん」
 そんな茂を見ながら、信じようかどうか悩んでいた。
「じゃあ、そういうことで」
 茂は葛木に背を向けて、再び歩き出したが、また肩を掴まれた。
「いい加減にしろって」
 さすがに苛立って、葛木を睨んだ。
「お、怒んないでよ~」
「あのな~、この子を早く送りたいから、もう引き止めるんじゃねぇ~よ」
 未来を口実にして、葛木を諌めた。
「そ、それはそうだね~。なら、私も一緒に行くよ~」
 ここまで拒絶されてのこの発言には耳を疑った。
「それは、やめてください」
 すると、未来が強い拒絶を示した。
「えっ!」
 予想外の拒絶に、葛木が驚いて横の未来を流し見た。
「な、なんでよ~」
「兄さんとの時間を邪魔しないでください」
 葛木はその言葉に驚いて、茂と未来を交互に見た。
「ど、どういう関係なの?」
 葛木が凛とした口調で、茂に詰め寄ってきた。
「妹の友達だ」
 未来が不満そうな顔をしたが、自分の主張を通すことにした。
「ん?んんん~~」
 葛木が何かに気づいて、訝しげに未来に顔を近づけて声を唸らせた。
「あ、そっか~」
 そして、何かを悟ったように未来から視線を外した。
「わかった。今日は帰るよ」
 誰に配慮したのかはわからないが、思いのほか簡単に引き下がってくれた。葛木を見送りながら、心の底から妹を連れてこなくて良かったと思った。
 茂たちは、手を繋いだまま公園に向かった。
「そろそろ手を放してくんねぇ~か」
「絶対に嫌です」
 しかし、未来は不機嫌そうに手を強く握り返してきた。
「それにしても、葛木さんの思考って感情の起伏が激しいですね」
「ん?まあ、そうだろうな」
 さっきのやり取りだけでも、それは明白だった。
「あ、いえ、そういう意味ではなくて、あの人は感情の起伏が少し異様だったんです」
 茂の考えを読んで、即座に訂正してきた。
「それは、おまえにしかわからない領域だな」
「確かにそうですね。説明しづらいです」
「無理にする必要はねぇよ」
「そ、そうですか。それは残念です」
 知って欲しかったようだが、茂はあまり葛木に深入りはしたくなかったので素直に拒否した。
「兄さんって、葛木さんが大嫌いなんですね」
 心を読んだようで、未来がそう断定してきた。
「まぁ~な」
 これには隠すことなく即答で返した。
「私は、苦手なタイプですね。口より心の声が多くて会話が難しいです」
「それは大変だな」
 未来がほとんど口を挟まなかったのは、それが原因だったようだ。
 公園に着いて、ようやく未来が手を放してくれた。
「送ってくれて、ありがとうございました」
 未来は、礼儀正しく深々とお辞儀した。
「いいよ。じゃあな」
 茂は、表情を緩めて軽く手を上げた。
「はい、またですね」
 これに嬉しそうに笑って、茂を見つめてきた。
 そして、笑顔のまま手を振って帰っていった。
 帰り道、葛木を警戒していたが、それは杞憂だった。茂は、安堵の溜息をついて帰路に就いた。
 家に帰って、いつものように宿題と受験勉強をして、いつもより早めの時間に眠った。
 そのおかげか、朝はとても快調な目覚めだった。
「あれ?今日は早いね」
 リビングに入ると、テレビを見ていた妹がこちらに気づいて顔を向けた。
「おまえも早いな」
 いつものこととはいえ、時間はまだ5時だった。
「ちょっと、目が冴えてね。二度寝できなかったのよ」
「ふ~ん」
 茂はそう答えて、キッチンで麦茶を飲んで喉を潤した。
「お兄ちゃん。せっかく早く起きたんだから、たまにはゲームしようよ」
 妹がゲームを立ち上げて、もう一つのコントローラを差し出してきた。
「う~~ん。まあ、たまにはいいか」
 考えてみると、妹とゲームするのは1年振りだった。
「あれ?見たことねぇな、これ」
「半年前の新作だよ」
「それって、もう旧作じゃないか」
 茂はコントロールを受け取って、久しぶりに妹とゲームをした。
 しばらくやっていなかったので、二人はゲームに白熱した。
 気づくと、時間がかなり過ぎていた。
「もう、お兄ちゃんの馬鹿。いつもより遅くなっちゃったじゃない」
「おまえが負けず嫌いなせいだろう」
 後半になって、負けが続いた妹は母親の忠告を無視して、何度も再戦をせがんだのだった。
「とにかく、さっさと食べなさい」
 母親は茂たちに睨みを利かせて、食べ終わるまで登校を阻止していた。
「わ、わかってるよ」
 妹は少し怯えながら、朝食を早食いしていた。その横で茂はゆっくりと朝食を取った。
 妹が朝食を食べ終わって、急いでリビングから出ていった。
「朝からゲームなんて珍しいわね」
 妹を見送りながら、母親が茂にそう言った。
「久しぶりに早起きしたから、付き合っただけだ」
「そう。もしかして早寝したの?」
「まあな。早めに区切りがついたから」
「あんまり無理しないでよね」
 母親は優しい口調で、茂の体を気遣ってくれた。
「わかってるよ」
「塾とか行かなくていいの?」
「必要なら言うよ。今は、まだ大丈夫」
 できるだけ家計に負担を掛けたくなかったので、やんわりと断った。
「じゃあ、もう行くよ」
 時間になったので、支度する為にリビングから出ようとした。
「なんか、ごめんね。気を使わせて」
 母親がしんみりと謝ってきた。
「母さん。そういうのはやめてくれ」
 茂はそう言い残して、足早でリビングを出た。
 外に出ると、雲ひとつない快晴で、気分が絶好調だった。こんな日にあの二人に会うと気疲れするので、少し遠回りの別ルートから登校することにした。
 家の敷地から出て、一つ目の角を曲がらずにそのまま直進した。
「どこ行くのよ~」
 突然、背後から声を掛けられた。
 振り向くと、葛木が腕を組んだまま壁にもたれ掛かっていた。
「なんでいんの?」
 茂は、不満そうに低い声で聞いた。
「待ってたに決まってるでしょ~」
「今日は、一人で登校させてくれ」
 茂は、真剣な顔で懇願した。立場的に茂の方が上な気がしたが、ここは敢えてしたてに出て頼んでみた。
「ダメ!」
 が、一言で一蹴された。
「なんでだよ?」
 これに嫌な顔で聞き返した。
「琴音を置き去りにするつもり~」
「時間になっても来ねぇなら、勝手に学校行くだろう」
「はぁ~、そういうことじゃないよ~。あの子、また泣くわよ~」
 そう言われると、確かにその可能性はあった。
「なら、おまえが一緒に登校すればいいだろう」
「あの子は、あんたに嫌われることを一番恐れてるのよ~」
「えっと・・・それは冗談で言ってるのか?」
「そんな冗談言う馬鹿いるか」
 葛木は、凛とした口調で茂を馬鹿にしてきた。
「というか~、前に泣かれた時に気づけよ~」
 再びだらけた口調に戻り、呆れた様子で顔を逸らした。
「ここで嫌われるのもいいかもな」
「あんた、本気で言ってるの~?」
 その発言に、葛木が不快感を示した。
「本気だよ。でも、目の前で泣かれると確かに困るな。しかも、自覚なしの涙は、こっちの印象も悪くなるからな~」
「口が悪いな~。本人の前で、それは言わない方がいいよ~」
「そうか。なら、今のは言わないでおこう」
 茂は、道を引き返していつもの道に戻った。
「一緒に登校してくれるの~?」
「泣かれるのは気分悪いから、仕方なくな」
「そうだね~。それは仕方ないね~」
 それに葛木が頬を緩めて、嬉しそうに茶化してきた。
 葛木は歩きながら、教師への不満を連発させた。昨日のことを聞かれると思っていたが、それは聞いてこなかった。
 コンビニの横を通ると、立嶋が雑誌を読んでいて、こちらに気づき駆け足でコンビニから出てきた。
「おはよう」
 そして、笑顔で挨拶してきた。
「ああ、おはよう」
 茂は、とりあえず挨拶を返した
「おはよ~」
 葛木も挨拶を返したが、少しぎこちなかった。
 今日の立嶋は絶好調らしく、2日分の情報と愚痴を乱発させた。その勢いに、葛木がドン引きしていた。
 立嶋と別れて、教室に入る頃には快調だったはずの茂は不調になっていた。
「凄いな~、あれは~。まさにマシンガントークだよ~」
 茂の机の前に立って、葛木がさっきのことを思い出しながら話しかけてきた。
「それにしても、京橋もよくあれに相槌打てるよな~」
「半年以上、付き合えば嫌でもできるよ」
 茂は、ぐったりして机に突っ伏した。
「京橋も大変だな~」
 葛木が同情して、茂の頭を撫でてきた。
「やめろ!それだと俺が可哀想みたいだろう」
 茂は顔を上げて、頭に置かれた手を振り払った。
「何よ~。労ってあげただけでしょ~」
 これに葛木が、不満そうに口を尖らせた。
 チャイムが鳴り、葛木は席に戻っていった。
「なあ、おまえなんであんなに葛木と仲いいんだ?」
 隣で茂たちのやり取りを見ていた横峰が、嫉妬心を前面に出してきた。
「似たもの同士だからな。お互いクラスで浮いてるし」
 話しかけられたことは嬉しかったが、理由が葛木のことだったので素っ気なく答えた。
「なんだそれ?」
 茂の言い分に、横峰が怪訝そうな顔をした。
 そのあとすぐに担任が入ってきたので、話は強制的に打ち切られた。
 授業中、茂は前田正吾をどうやって呼び出すかを考えていた。普通に呼び出せばすぐに来てくれるが、今回は事情が事情なので、断る可能性が極めて高かった。それを踏まえた上で、脅すか説得するかの二択しか思い浮かばなかった。
 昼休みになり、三人でコンビニへ向かった。
「なあ、二人に聞きたいんだが」
 茂の投げかけに、二人が同時にこちらに顔を向けた。
「友達を呼び出すときって・・・」
 さっき授業中に考えていたことを聞けば、別の発想が出てくると思ったが、二人には友人がいないことに気づき、この後の言葉が続かなかった。
「続きは?」
 立嶋が不思議そうな顔をして、言葉を催促した。
「あ~、やっぱりいいや」
 考えた末、二人に聞くことを断念した。
「何よ、それ~。最後まで言いなさいよ~」
 さすがにこれには葛木が食い下がってきた。
「ごめん。友達のいないおまえたちに聞くべきじゃなかったよ」
 茂は、本音とともに謝罪した。
「それって馬鹿にしてる?」
 これに立嶋が、低い声で静かに怒った。
「してるね~」
 葛木もそれを確信して、立嶋に便乗した。
 茂は責められることを恐れて、早足でコンビニへ向かった。
「ちょ、ちょっと待ってよ~」
 後ろから立嶋の声が聞こえたが、無視して歩みを進めた。
「速いって」
 後ろから立嶋が駆け足で追ってきて、茂の手を掴んで引き止めた。
「じゃあ、私はこっちを」
 それに乗じて、葛木が反対の手を握ってきた。
「うぜ~!」
 これには本当に鬱陶しくて、二人の手を強引に振りほどいた。
「責められたくないからって、怒鳴ってうやむやにしようとしないでよ~」
「謝るからこの話はなかったことにしてくれ」
 葛木の発言は的確で、観念して謝ることにした。
「じゃあ、コンビニでデザートおごって~」
 が、謝罪だけでは引き下がらず、狡猾にも食べ物を要求してきた。
「ちっ!わかったよ。ただし、高いのはやめてくれ。金はそんなに持ってねぇ~から」
 追及を振り払う為、渋々要求を呑んだ。
「やった~」
 これに葛木が、嬉しそうに喜んだ。
「じゃあ、私は飲み物」
 立嶋も便乗して、自分が買うはずだった飲み物をせがんできた。
「ああ、わかったよ」
 自分の失言を後悔しながら、二人の要求を泣く泣く承諾した。
 コンビニで弁当と二人が選んできた品物を買って、教室に戻ってきた。
 三和は既に葛木の席で昼食を取っているのを見て、三和の席をくっつけてきた。
「で、明日どうしようか~」
 昼食を食べ始めて、しばらくしてから葛木がそう切り出してきた。
「ああ、受験勉強のことか。そうだな、学校が終わってからでいいんじゃねぇ~?」
 土曜日は半ドンなので、それが無難だと思った。
「昼食は、どうすんだ~?」
「コンビニでパンでも買っとけばいいだろう」
 図書館で長時間勉強するわけでもなかったので、軽食で十分だと感じた。
「参考書は、図書館のデータを使うの?」
「いや、俺がわからない問題を聞くだけだから、それは使わねぇ~よ」
「過去問とかしてんの~?」
「主にそうだな」
 参考書は高くて、茂には手が出なかったので、主にネットから過去問をひっぱり出していた。
「あ、あの・・・」
 黙って弁当を食べていた立嶋が、躊躇いがちに話に入ってきた。
「わ、私も参加していいかな」
 茂は驚いて、立嶋を見た。
「立嶋も受験するのか?」
「え、うん。一応・・でも、受かる見込みはないけど・・ね」
 立嶋は、自信なさそうに苦笑いした。
「そうか。大変だな、おまえも」
 同じ境遇の立嶋に、茂は心底同情した。
「まあ、俺は教える余裕はねぇから、葛木にでも頼めよ」
「ええ~~。私~」
 茂の横流しに、葛木が嫌そうに眉を顰めた。
「友達だろう。そんな顔すんなよ」
「う~~ん。でも、見返りがないもんね~」
 葛木の拒否に、立嶋は何も言わず項垂れた。
「友達から見返り求めんなよ」
 これには居た堪れなくなり、思わずつっこんだ。
「普通求めるって」
 しかし、葛木が当たり前のように返してきた。
「な、なら、見返りは何がいいの?」
「塾とかいけばいいでしょ~。私なんかより、教えるのうまいと思うけど~」
「それがそうでもないんだよね~。通ってる塾って個人指導なんだけど、全然言ってることわかんないし」
 立嶋は、諦観した様子で窓の外を見た。
「それって教え方が悪いってこと~?」
「さあ~?あの人にしか教えてもらってないからわかんない」
 葛木の疑問に、今度は呆けた顔で首を捻った。
「一つ聞きたいんだが、授業は理解できるのか」
 茂は少し気になって、基本的なことを聞いてみた。
「それは問題ないよ」
 これには立嶋も反発して睨んできた。
「それは悪かったな。もしかして、感覚性失語症だと思ってな」
 日頃の一方的な話を聞いていると、そう感じることが多かった。
「な、何、それ?」
 言葉の意味がわからないようで、立嶋が聞き返してきた。少し体を震わせた気がしたが、おそらく気のせいだろう。
「なんでもねぇ~よ」
 説明するとこじれそうだったので、意味は言わないことにした。
「葛木、一度教えてやってくれねぇ~か」
 立嶋に同情して、茂から葛木に頼んでみた。
「京橋が言うなら、まあいいけど」
 葛木は、溜息をつきながらも承諾してくれた。
「ありがとう。良かったな」
 葛木に礼を言って、正面の立嶋にそれを伝えた。
「う、うん」
 茂の口添えが釈然としないのか、不満そうに頷いた。
 予鈴が鳴り、立嶋は戻っていった。
「京橋、あとで見返りを求めるからね~」
 そんな捨て台詞を吐いて、葛木も席に戻っていった。
 授業が終わり、放課後になった。
 担任が出ていったのを見て、すぐさま携帯で正吾にメールを送った。
「何してんの~?」
 気づくと、葛木が茂の席の前に立っていた。
「ちょっとな」
 深入りして欲しくないので、話を切って帰り支度をした。
「そういえば~、聞きたいことあるんだけど~」
 すると、葛木が遠慮がちに話を切り出してきた。
「なんだ?」
「昼休みに言ってた感覚失語症って調べたんだけど、琴音にそんな症状あるの?」
 どうやら、気になって電子書籍で調べたようだ。感覚性失語症は話せはするが、他人の話が理解できない症状のことだった。
「さぁな。あいつ、人の話聞かねぇから、そう思っただけだよ」
 茂は席を立って、廊下に向かって歩き出した。
「ふ~ん。ま~、明日になればわかるか」
 葛木はそう呟いて、茂の後からついてきた。廊下では、立嶋が既に鞄を抱えて待っていた。
 三人で校舎を出ると、ポケットに入っていた携帯が震えた。
 携帯を取り出して見ると、正吾からの返信メールでわかったという一文だけの返事だった。これがダメな時のことも考えていたが、無駄になってしまった。
「今日は用事ができたから、一人で帰っていいか?」
 このメールを利用して、一人で帰ろうと思い立った。
「ダメ!」
「ダメ~!」
 が、二人に拒否されてしまった。
「なら、できるだけ早く帰ろう」
 説得は無理だと感じ、即座にそう切り返した。
「いいけど~、走って帰るなんて言わないでよ~」
 葛木に先を読まれて釘を刺されてしまった。
「ちっ、読まれたか」
「冗談で言ったんだけど、危なかったな~」
 走ることは封じられたので、早足で帰ることにした。
「って、ちょっと待て!」
 すると、葛木が慌てて手を掴んできた。
「なんだよ。早く帰るぞ」
「速すぎるよ~。もっとゆっくりでいいでしょ~」
「ちっ!注文が多いぞ」
 茂は、わざとらしく舌打ちした。
「なら、歩幅を短くするからそのペースに合わせてくれ」
 嫌がらせのごとく二人を急かして、嫌われようと考えた。
「琴音!この馬鹿の手を掴んで!」
 これに苛立った葛木が、凛とした口調で立嶋に指示を出した。
「う、うん」
 立嶋がそれに素直に従って、茂の手首を掴んできた。
「やめろ、掴むな!」
 校門の前で恥を晒したくなかったので、強引に振りほどいた。
「じゃあ、普通に歩いてよ~」
「わかったよ」
 再び二人に掴まれるのが嫌だったので、葛木の言葉に渋々従った。嫌われる作戦は、羞恥心により打破されてしまった。
「もし走ったり、早足になったりしたら~、私と琴音で腕を組んで下校になるからね~。まあ、それをしたいのなら、別に止めないけど~」
 葛木が嫌らしい笑みを浮かべて、茂にそう忠告してきた。
「それは拷問だな」
 一度、警察に連行されている茂は、両腕を組まれることがトラウマになっていた。
「拷問って何よ~」
 それに葛木が、不満そうに睨んできた。
「だって、それって周りに醜態を晒すことだろう。もしそうなったら、登校拒否するぞ」
 茂は、思っていたことをしたり顔で口にした。
「これ以上言ったら~、マジで腕組むよ~」
 その顔に葛木が不快感をあらわにして、両手で腕を組もうと構えた。
「ごめんなさい」
 昔の恐怖心が蘇ってきて、即座に謝罪した。
 二人と別れて帰宅すると、結局いつもの時間になっていた。
 玄関に入ると、未来の靴が揃えてあった。
 リビングに行く前に自室に上がって、鞄を机に置いた。そして、ある物を机の引き出しから掴み取ってポケットに入れた。
 リビングに行くと、妹と未来が楽しそうに読唇術の練習をしていた。
「あ、おかえり」
「おかえりなさい」
 二人が茂に気づき、顔を上げてこちらを見た。
「行きますか?」
 未来が近寄ってきて、笑顔で尋ねてきた。
「ああ、行こうか」
「正兄は、来てくれるの?」
 ここで妹が、不安そうにそんなことを聞いてきた。
「なんとかな」
 茂たちがリビングを出ると、妹も後ろからついてきた。
「私も行ったほうがいいかな?」
「ダメだ。余計こじれる」
 妹と正吾は昔から相性が悪く、一緒に行くと逃げられる可能性があった。
「こじれるって・・・短気のお兄ちゃんに言われたくないよ」
 これに妹が、冷めた目で詰ってきた。
「意味を履き違えんなよ。今回はしいなのことだからだよ」
「うっ!それを言われたら返す言葉もないね」
「じゃあ、行ってくるよ」
 妹が躊躇したところで、さっさと公園に向かうことにした。
「何かあったんですか?」
 家を出ると、未来が不思議そうに聞いてきた。
「昔のことだよ」
 あまり思い出したくないので、早めに思考を切り替えた。
「そうですか」
 少し不満そうだったが、引き下がってくれた。
「先に言っておくけど、公園に着いたら少し隠れていてくれ」
「えっ、なんでですか?」
「いきなり未来に会ったら、すぐに帰るかもしれねぇから」
 正吾に送ったメールには二人で会おうと送った為、未来と一緒にいると帰ってしまう恐れがあった。
「そ、そうですか。わかりました」
 未来は、茂の思考も読んでから頷いた。
 公園に着くと、正吾はまだ来てなかった。
「じゃあ、私はそこの茂みにでも隠れてますね」
 未来がそう言って、ベンチの後ろの茂みに入っていった。
「ああ、悪いな」
 茂は、未来に詫びを入れてからベンチに座った。このベンチは公園の隅にあり、最も目立たなかった。内緒話するには打ってつけの場所だった。
 10分後、長髪を後ろに束ねた正吾がこちらに近づいてきた。
「なんの真似だよ。こんなメール送るなんて・・どうかしてるぞ」
 正吾はそう言いながら、自分の携帯を突きつけてきた。
「こうでもしないと来ないと思ってな」
「ちっ!昔から変わってねぇな~」
 茂の言葉に、携帯を仕舞いながら舌打ちした。
「悪いとは思っているが、事実だからな」
「・・・冗談じゃないのか」
 これに正吾が、驚いて目を見開いた。
「まぁな。でも、おまえが事情を話さないなら伝えたくねぇんだが」
 二人は、睨み合ったまま沈黙した。
「ふぅ~。事情は言いたくねぇ~」
 正吾が溜息をついて、話すことを拒否してきた。
「それだと俺も伝えたくねぇ~」
「おまえ・・・それだと日曜日と一緒の展開になるぞ」
「このままだとそうなるな。でも、さすがになんの考えもなくここに呼ばねぇよ」
「だろうな」
 正吾とは昔からの付き合いだったので、そこはわかっているようだった。
「できれば、自主的に話してくれれば俺としても助かるんだが・・・」
 茂はベンチに座ったまま、正吾を見上げた。
「何を企んでいるかは知らねぇけど、それだけは言えねぇな~」
「やっぱり、そうだよな~」
 茂はゆっくりベンチから立ち上がって、茂みの方を振り返った。
「出てきていいぞ~」
 そう言うと、茂みから未来が満面の笑みで登場した。
「お悩みをずばっと解決!ずばっと解消!お悩みの際は私に任せて!」
 そして、茂との初対面時の決め台詞と決めポーズをしてきた。これはもうドン引きものだった。隣の正吾に至っては、今にも逃げ出したいという雰囲気がひしひしと伝わってきた。周りに人がいないことが本当に幸いだった。
「それはやめろって!」
 あまりの居た堪れなさに強い口調でつっこんだ。
「えええ~~~。これ私の十八番なのに~」
 子供が十八番という言葉を知ってることに驚いてしまったが、今はそんなつっこみを入れたくなかった。
「誰だ、こいつ」
 正吾が引き攣った表情で、未来を指差した。
「秘密兵器だ」
 茂は、過大にそう名称を付けた。
「なんかそれいい響きですね」
 これには未来が、目を輝かせて喜んだ。
「帰る」
 すると、正吾がすぐさま踵を返して帰ろうとした。
「まあ、逃げんなよ」
 茂は、正吾の肩に手を置いて引き止めた。
「さて、未来。何が読めた?」
 正吾に説明する前に、彼の思考を未来に聞いた。
「肝心なところはわからなかったけど、しい・・しいなって人と約束したみたいですね」
「やっぱり・・か」
 予想はしていたので特に驚かなかったが、確信持てたのは収穫だった。
「ちょっと待て、なんだそれ?」
 当てずっぽうだとしても、あまりの的確な発言に驚いていた。
「まあ、気にするなよ。やっぱりしいなとの約束なんだな。内容を教えてくれないか」
「・・・」
 正吾は何も答えず、じっと未来を見つめていた。その視線に、未来が苦い顔をして視線を逸らした。
「って、無視するなよ」
「ああ、わりぃ~。で、なんだっけ?」
「約束の内容だよ」
「言うつもりはねぇ~」
「どうだ?」
 茂は、すぐさま未来に聞いた。
「う~~ん。私への疑惑が強すぎて読み取りにくいですね。けど、強く聞こえるのは会いたくないって言われたみたいです」
「言われた?」
「うん。しい・・なって人にですね」
「お、おい。こ、この子なんなんだよ」
 恐怖を覚えたのか、引き攣った表情で茂に詰め寄った。
「ああ、悪い。紹介するよ。でも、その前にベンチに座ってくれねぇか」
「あ~、なんでだよ?」
「いいから座れ」
 そう言って、強引に正吾を座らせると同時にポケットから手錠を取り出し、正吾の手にはめた。そして、もう片方をベンチの肘掛にはめた。
「な、何すんだ!」
 正吾は、驚いて勢いよく立ち上がろうとしたが、手錠で身動きが取れなかった。
「おもちゃでも結構頑丈だな」
 これはずっと昔に、買ってもらった玩具だった。
「何の真似だ!」
 正吾が怒鳴って睨んできたが、その視線はもう慣れているので軽く流した。
「未来を紹介すると、おまえ逃げるからな~。悪いけど、拘束させてもらうよ」
「兄さん。ちょっとやりすぎじゃないですか?いくらなんでも強引に聞き出すのは、個人的にしたくないんですが」
 これに未来が、苦い顔で渋ってきた。
「悩み相談で金取るんだから、汚いことも許容してくれ」
「ず、狡いですね。それ言われると、何も言えないじゃないですか」
 茂の発言に、子供らしく口を尖らせた。
「さて、紹介しよう。彼女は、加賀未来。特殊能力で心を読めるそうだ」
 茂自身も特殊能力という言葉には抵抗があったので、自然と小声になっていた。
「心が・・読める?し、心理学的方法とかの類か」
 幻想的には捉えられなかったようで、学術的に分析してきた。
「そんなのと一緒にしないでください」
 それに未来が、不愉快そうに顔を歪めた。
「心理学的方法は、行動や仕草から読み取ることです。私の場合は、あなたの強い思いを読み取ることができます」
 そして、声高らかにそう言い張った。
「そうか。全然わからん」
 正吾はそう言って、理解することを軽々と諦めた。
「なんにせよ。思考停止すれば、それは防げるわけだ」
 事態の把握は柔軟のようだが、対策は安直だった。
「じゃあ、質問してやろう」
 茂ができなかった思考停止を試す為、わざと偉そうに質問してみた。
「しいなに何言われたんだ?」
「・・・」
 その質問に、正吾は黙って目を閉じた。
「頼む」
 それを見て、未来に目配せした。
「わかってますよ~」
 未来は、拗ねたように正吾を見つめた。
「なんか、病室で言われたみたいですね」
「くっ!」
「えっと、綺麗なままで・・・」
「やめろ!」
 正吾の思考を言おうとした瞬間、正吾がそれを大声で阻止した。未来が驚いて言葉に詰まった。
「汚ねぇな~。そうまでして死者を冒涜するのか」
「おまえが素直にしゃべれば冒涜にならなかったのにな。俺としても不本意だよ」
「ちっ!相変わらずの詭弁だな」
 茂を見上げて、舌打ちして皮肉った。
「おまえが言うな。死者の冒涜なんて酷い言い回しだぞ。さすがの俺だって傷つく」
 これは昔からのやり取りだった。こんな時は、いつもしいなが仲裁に入るかたちになっていた。が、もう彼女はこの世にはいなかった。
「わかった。しゃべるよ。こんなかたちじゃあ癪だが、その子に読み取られての伝達じゃあ、しいなにもわりぃ~しな」
 正吾は観念して、ついに口を割った。
「いいのか?」
 あそこまで断固として口をつぐんでいたのに、軽い感じで打ち明けることに違和感を覚えた。
「なんか第三者が入ってきたら、気が抜けた。言い訳するなら、おまえにじゃなく、その子に話すことにするよ」
「そうか。なら、俺はその横で立ち聞きするだけだ」
 正吾は、茂に対してはいつものように拒絶してきた。それを茂は懐かしむように軽く流して、話を立ち聞きすることにした。
 正吾が少し間を置いて、しいなとの約束した経緯を話し始めた。

九 解消

 梅雨の蒸し暑い時期、恋人の加納しいなが倒れたと聞いて、前田正吾は学校の授業をすっぽかして病院に駆け込んだ。
 病室には、既にしいなの両親と茂がいた。しいなは上半身を起こしていて、正吾に気づくと笑顔で迎えてくれた。
「授業を抜け出したらダメでしょう」
 しいなが笑顔のまま、茂と正吾に注意した。
「だ、大丈夫なのか?」
 正吾は心配しながら、しいなに歩み寄った。
「うん。平気だよ。明日には退院できるから」
「そうなのか」
 それを聞いて、安堵の溜息が漏れた。
「しげちゃんも正ちゃんも心配しすぎだよ~」
 しいなは、微笑んでそう言った。
 茂は、その呼び名に不快感を滲ませていた。小学生の頃、茂からは何度もその呼び方をやめるように指摘されていたが、しいなは変える気はないと今でも言い張っていた。
「俺、学校に戻るよ」
 茂はそう言って、丸椅子から立ち上がった。しいなの元気そうな顔を見て、安心したようだった。
「ふふふっ、ちょっと意外だったね~。まさか、しげちゃんがいち早く駆けつけるなんて」
「うるさいよ」
 茂は、しかめっ面で病室から出ていった。
「相変わらず優しいね~、しげちゃんは」
 しいながそう言いながら、おかしそうに笑った。それをしいなの両親も微笑ましく見守っていた。
 医者が病室に入ってきて、しいなの両親を連れて出ていった。
「病気なのか?」
 正吾は、茂の座っていた丸椅子に座ってから尋ねた。
「さ~、わかんない」
 しいなも知らないようで首を傾げた。
 それから、二人はしばらく雑談をした。
「じゃあ、帰るよ」
 日没が近くなったので、帰ることにした。
「うん。また明日ね」
 しいなはそう言って、笑顔で手を振った。
 数日後、しいなは退院した。
 しかし、その2週間後に再び入院することになった。
 正吾は、学校が終わってしいなの見舞いに病院へ向かった。
 病室に入ると、既に茂が見舞いに来ていた。
「じゃあ、帰るよ」
 正吾に気づいて、茂が椅子から立ち上がった。
「別に気遣うことないよ。昔みたいに三人で話そうよ」
「今さら昔には戻れねぇよ。じゃあ、明日も来るから」
 茂がしいなの誘いを断って、病室から出ていった。
「もう仲良くは無理かな~」
 茂を見送りながら、残念そうに項垂れた。
「大丈夫なのか?」
 また入院することに疑念を持ち、しいなに尋ねた。
「体調は、全然悪くないんだけどね」
「そうか」
 それを聞いて、少しだけ安心した。
「今日は学校でなんかあった?」
 しいなは、微笑んで話題を振ってきた。
 その期待に応えていろいろと話したが、いつものしいなの相槌ではなかった。
「ど、どうかしたのか?」
 その態度が気になり、しいなの顔を覗き込んだ。
「な、なんでもないよ」
 しいなの気まずそうな表情に少し違和感を感じたが、追及はできなかった。面会時間も終わりに近かったので、今日は帰ることにした。
 次の日、見舞いに行くと、しいなが深刻な表情で俯いていたが、正吾に気づいてつくり笑いをして迎えた。
 しばらく雑談をしていたが、しいなはずっと上の空だった。
「あ、あのね・・・そ、その・・・」
 急に、しいながたどたどしく話を切り出してきた。何か言いにくそうに言葉を詰まらせたが、正吾は黙って言葉を待った。
「わ、私ね・・ダメ・・みたい」
 暗い表情を頑張って直そうと笑顔をつくったが、完全に失敗していた。
「な、何がだよ」
 その表情で言いたいことは予想できたが、受け入れたくなかった。
「長くて・・半年・・だって」
 徐々に目に涙を溜めて、声も涙声に変わっていった。
「う、嘘・・・だろ」
 正吾の言葉に、しいなは首を横に振った。
「嘘・・だよな」
 再度の問いに今度は激しく首を振った。
「そ、そんな・・・」
 正吾は、衝撃的な事実にがっくりと肩を落とした。
「そ、それでね・・・お、お願いがあるんだけど」
 しいなが涙を指で拭って、正吾を見上げた。
「な、なんだ?」
 ショック状態だった為、声がこもってしまった。
「んっと・・・」
 言いづらいことなのか、なかなか言葉が出てこなかった。その間、しいなのすすり泣く声だけが病室に響いた。
「い、言えよ」
 しいなの痛々しい泣き顔に耐えられず、言葉を催促した。
「あのね・・もうお見舞いには来ないで欲しいの」
 しいなは掛け布団を強く握って、やっとの思いでそれを口にした。
「はっ?」
 正吾は、言ってる意味が理解できず動けなかった。
「これから私は、衰弱しながら死ぬんだって。だからね、衰弱していく私を見て欲しくないの」
 口を挟まれたくないようで、早口で一気に言い放った。
「じょ、冗談言うな!」
 病室だということを忘れて、怒りに任せて叫んだ。
「やっぱり怒るよね。身勝手だもんね」
 しいなはそう言って、涙目のまま俯いた。
「なんでそんなこと言うんだ。自分で何を言ってるのか、わかってるのか」
「わかってるよ!」
 正吾の言葉を遮るように、深刻な顔で悔しそうに叫んだ。
「わかってるよ」
 今度は自分に言い聞かせるように小声で復唱した。
「でも、弱っていく自分の姿を見て欲しくないの。特に正ちゃんには」
「な、何言ってるんだよ」
 しいなの発言を受け入れることができず、ただそう呟くことしかできなかった。
「お願い。私を綺麗なままで死なせて」
 しいなが涙を流して、正吾に懇願した。それにつられて、正吾も涙が溢れてきた。
「そんな言い方すんなよ!・・・それじゃあ、断れねえじゃねぇか」
 正吾は、悲痛な思いを叫ぶことしかできなかった。しいなは頑固な性格で、決心したら梃子でも動かなかった。
「ごめん。これが私の最期の我侭だから・・・」
「それは俺だけになのか」
 しいなは、その問いに首を横に振った。
「でも・・正ちゃん・・には・・衰弱していく姿・・一番・・見て欲しく・・ないの。私を・・好きでいてくれるなら、今のまま・・記憶を・・留めて・・欲しい」
 涙が止まらず、言葉が途切れ途切れになっていた。しいなは、何度も涙を手で拭っていたが、涙は止まることはなかった。
「わ、わかった」
 しいなの涙に、正吾は引き下がることしかできなかった。正吾にとっては、身を切り刻まれる思いだった。
「あ、あり・・がとう」
 しいなが涙を拭いながら、お礼を言ってきた。
「明日からもう会えないのか?」
「そう・・なるね。だから、今日はたくさん話そうね」
 涙が止まらなかったが、少し笑顔が戻った。
 そのあと、いつもより話し込んだ。正吾は時折泣きそうになったが、それを必死に堪えた。その間、しいなは笑顔でずっと泣いていた。
 面会時間が終わり、正吾は悄然としてゆっくりと立ち上がった。
「じゃあ、もう行くな」
「うん。楽しかったね」
 最後はいつもの笑顔だったが、目は真っ赤に充血していた。
「本当にこれで最後なのか?」
「うん。でも、正ちゃんが約束を破ったら、また会えるよ」
「それもいいかもな。でも、それじゃあ俺の信条に反するから、約束は守るよ」
 これは自分に課した縛りだった。
「ふふっ、正ちゃんは、相変わらず律儀だね。そういうところは本当に好きだよ」
「俺は、おまえの笑顔が大好きだ。だから、おまえの笑顔の為に約束は守るよ」
 正吾は、最後に自分の思いを彼女に伝えた。
「ありがとう・・・ごめんね」
「感謝だけでいいよ」
「うん。そうだね・・・ありがとう」
 少し涙が出ていたが、笑顔でお礼を言ってくれた。それに満足して、正吾は病院を後にした。
 しいなが亡くなるまでの5ヶ月間、正吾は何度も病院に行こうと考えたが、結局病院の前までしか行くことができなかった。
 しいなが亡くなって、通夜が行われたが、正吾は出席しなかった。それは、しいなの衰弱した顔を見てしまうからだった。そんなかたちで彼女との約束を破りたくなかった。
 数日後の告別式では、しいなの両親と顔を合わせられず、式典を前にして帰ってしまった。
 正吾は、告別式に出なかった罪悪感を感じて、毎週欠かさず夜に墓参りをした。その時には、しいなの好きな花を一輪だけ花立に挿してから手を合わせた。
 ※ ※ ※
 それが、正吾の話の顛末だった。
 正吾の話を聞くと、しいなを思い出して泣きそうになったが、それを隣の未来に遮られた。彼女は、誰よりも大泣きしていた。
「あいつの言いそうなことだな」
 茂はそう言って、正吾の手錠を外した。
「それで、おまえのあのメールはどういうことなんだよ?」
 正吾が手首を摩りながら、不機嫌そうに迫ってきた。
「俺は、あいつに拒絶されてねぇ~。しいなの見舞いはずっと行っていたよ」
「な、なんだよ。それ・・・」
 衝撃的な事実だったのか、正吾は怒った表情で呟いた。
「なんでだよ!」
 怒りが込み上げてきたのか、正吾が茂の胸倉を掴んで叫んだ。
「知らねぇよ」
 茂もそれは知らなかったので、顔を逸らすことしかできなかった。
「あいつの言い方だと、俺があいつを好きじゃなかったからじゃねぇか」
 さっきの正吾の話だと、そう解釈することしかできなかった。
「そんな訳ねぇだろう!」
 それでも納得できないのか、さらに力を強めてきた。
「なんだよ。それ以外何があるんだよ!」
「そ、それは・・・」
 茂の投げかけに、正吾も答えることはできなかった。
「じゃあ、しいなの最後の言葉は本当に聞いているのか」
 正吾には、しいなの最後の言葉を伝えたいとメールで送っていた。
「ああ、看取ったのは、俺だけだったよ」
 それを聞いた正吾は、脱力して茂から手を放した。
「なんて言ってた」
「約束守ってくれてありがとうだとよ」
 茂は、しいなの言葉をそのまま伝えた。
「そうか」
 正吾はそう言って、すぐに茂に背を向けた。
「あと、しいなの両親からも伝言だ。一度でいいから顔を見せて欲しいってさ。俺は知らなかったけど、あの口ぶりだと事情は知ってると思うぞ」
 しいなの両親からも正吾の事情を尋ねたが、答えてはくれなかった。おそらく、正吾自身から言わない限り、言うつもりはなかったのだろう。
「そ、そうか」
 正吾が小刻みに肩を震わせて、涙声で返事をした。
 茂の隣では、未来がずっと泣いていた。
「おまえ、泣きすぎだぞ」
 泣き止みそうにない未来を見て、茂は頭に手を乗せて慰めた。
「だって・・・だって・・・」
 未来はそう言いながらも、何度も涙を拭いながら鼻をすすった。
「じゃあ、伝えることは伝えたから帰るよ」
 正吾の後ろ姿を見て、今は彼を一人にすることにした。
「またな」
 そう言って、正吾に別れを告げた。
 茂は泣いている未来を引き連れて、公園を後にした。
「いい加減、泣き止めよ」
 ずっと泣いていたので、ポケットからハンカチを取り出して未来に渡した。
「は、はい」
 未来は、ハンカチを受け取って涙を拭った。家に着くまでに、なんとか泣き止んでくれた。
 玄関を入ると、妹がリビングから顔を出した。
「ど、どうだった?」
「聞けたよ」
「そ、そう」
 茂と未来の顔を見て、複雑そうな顔で俯いた。
 三人は、リビングのソファーに座った。
 茂はポケットから財布を取り出して、お札を全部取り出した。
「ほらよ。俺の全財産だ」
「え!なんですか?」
「悩みの解決料だよ。付け値でいいんだろう」
「いや、そんなに貰えません」
 未来は戸惑いながら、首と両手を左右に振った。
「俺の気持ちでもあるんだから、受け取ってくれ」
「え、じゃあ、その・・ありがとうございます」
 困惑しながらも、未来はお金を受け取ってくれた。
「こ、これ、おつりです」
 しかし、千円札だけ抜いて、残りは全部茂に突き返してきた。
「なんだ。それ」
 この行為に、茂は呆れ返ってしまった。
「私も兄さんにはお世話になったので、千円だけでいいです」
 そう言うと、未来が真っ赤な目で見つめてきた。
「わかったよ。じゃあ、これはおつりとして受け取っておこう」
 未来の意志を汲んで、お金を受け取ることにした。
「あ、私もう帰らないと」
 気づくと、もう日没だった。
「じゃあ、送ろうか」
「いえ、今日は一人で帰ります」
 未来は茂を制して、ソファーから立ち上がった。
「また、あの人に会うのは兄さんにとっても嫌でしょうから」
 どうやら、葛木のことを言っているようだ。
「それにお姉ちゃんにもさっきの話をしてあげてください」
 未来はそう言うと、妹の方を見て微笑んだ。
「え!いや、私は別に・・・」
 妹が慌てて、茂から顔を逸らした。
「かなり聞きたそうですよ」
 未来が心を読んで、妹の代弁をした。
「未来ちゃん。それは反則だよ~」
「あ、ごめん。あまりに強い思いだったから伝えちゃった」
「もう~。仕方ないな~」
 未来の軽口に、妹が笑顔で未来を許した。こんな寛容な妹を見たのは久しぶりだった。
「じゃあ、帰りますね」
 未来が笑顔で軽く挨拶して、リビングから出ていった。その後を茂もついていった。
「玄関までぐらいは送るよ」
「ふふっ。優しいですね。兄さんは」
 未来はそう言って、嬉しそうに微笑んだ。その姿は、なぜかしいなに似ている気がした。
 未来を見送ってからリビングに戻ると、ソファーに座った妹が黙ったまま茂を見つめてきた。
「聞かせてやろうか?」
 茂は、皮肉たっぷりに妹に言ってみた。
「い、いらないわよ!」
 それに妹がむすっとして、視線をテレビに移した。
「教えてやるから、俺の部屋に来い」
「い、いいってば」
「なら、悩み相談だ。正吾から聞いたことで悩んでいるから来い」
「狡いな~。私の信条をここで利用するなんて」
「強情なおまえが悪いんだろう。素直に来い」
「何よ~。強情なのはお兄ちゃんも一緒でしょう」
 そう文句を言いながら、テレビを消して茂の後をついてきた。
 部屋に入ると、妹はいつものようにベッドに座った。
「で、正兄から何を聞いたの?」
「そうだな。じゃあ、順番よく話すか」
 茂は、正吾から聞いた話と自分の話も交えて話した。
 しばらく話していると、妹は徐々に涙目になっていき、話し終わる頃には大泣きしていた。自分が泣く行為をすべて未来にもっていかれたので、妹の泣き顔を見ることで満足した。
「ううう~~~~」
 妹が泣きながら、走って部屋から出ていった。
 それを見送って、宿題を始めるため机に向かったが、しいなのことが浮かんで集中できなかった。
「あいつは、死んでも罪作りな奴だな~」
 茂は、しいなの笑顔を思い出しながら呟いた。それを思い出すと、自然と涙が溢れてきた。
 夕食時になって、リビングに入ると、目を真っ赤に充血させていた妹が食卓に座っていた。それを母親が心配そう見ていたので、茂がしいなの名前を出すと、母親はそれ以上何も言わなかった。
 夕食後、葛木に教えてもらう問題を電子書籍に書き込んで、保存しておいた。それが結構な量だった為、気づくといつもの就寝時間を少し過ぎていた。
 受験勉強は諦めて、ベッドで横になると、すぐに意識が遠のいてきた。そのおぼろげな意識の中、しいなの笑顔が浮かんだが、すぐに消えて眠りについた。

十 エピローグ

 加納しいなは正吾を見送りながら、何度も心の中で謝った。口にできなかったのは泣いていたからだった。
 死を宣告されてから、しいなはベッドで呆然していた。両親の言葉も医師の言葉も全く頭に入ってこなかった。
 しばらくすると、誰かが隣に立ったが、それすらどうでもよくて視線を向けることもなかった。
「しけた面してるな~。おまえには似合ねぇぞ」
 それが学校帰りに見舞いに来た茂の第一声だった。
「相変わらず、失礼だね~」
 しいなは、茂の発言に無意識に言い返していた。
「見舞いに来てやったんだから、少しは嬉しそうにしろよ」
 茂は、昔と変わらず接してきた。とても中学から疎遠になったとは思えないほどの気軽さだった。
「小学生の頃なら、嬉しかったけどね」
 茂を皮肉っていると、少しずつ表情が戻ってきた。
「手厳しいな~」
 茂は、顔を逸らして苦笑いした。
「こうやって話すのも久しぶりだね」
「そうだな」
 茂が笑うと、しいなも自然と笑顔になった。この時、しいなは自分が彼をまだ好きだということに気がついた。
「大丈夫なのか?」
 茂はそう言うと、心配そうに覗き込んできた。
「え、う、うん。大丈夫だよ」
 茂を見ていると、本当のことは言えなかった。
「そうか。また入院したから深刻な病気にでもなったのかと思ったよ」
「お、大げさだな~。大したことないよ」
 しいなは、引くに引けず嘘を突き通すことにした。
 数分後、正吾が見舞いに来ると、茂は帰っていった。
 結局、この日二人には病気のことを告げることができなかった。
 就寝時間になり、電気が消されると、死への不安が一気に襲ってきた。自分が死ぬという恐怖で一人すすり泣いた。
 そして、自分の最期をいろいろと考えた。家族や幼馴染に看取られるのだろうか。それとも、病室で一人で死んでいくのだろうか。そう考えると、もう生きられないことに空しさを覚えた。そんな考えを巡らせていると、いつの間にか寝てしまっていた。
 翌朝になると、泣き疲れたせいか頭はすっきりしていた。その頭で冷静に自分の最期を再考していくと、昼ごろにはそれが固まっていった。
 それを両親にではなく、先に正吾に伝えた。両親よりも幼馴染であり、恋人でもある正吾の方が伝えやすかった。
 正吾は渋々承諾してくれたが、その表情を見ると、胸が張り裂ける思いだった。
 友達も数人来てくれたが、面会は一度きりにしてもらった。正吾ほどではなかったが、寂しそうに承知してくれた。
 2ヶ月経つと、茂の見舞いは少しずつ減っていった。それは覚悟していたことなので、不安にはならなかった。
 あとは両親の説得だけだったが、どう切り出していいかわからず、伝えることができずに4ヶ月経ってしまった。
「最近、茂君だけしか来ないな」
 父が不思議そうに言い出した。
「そうですね。正吾君も全く来ませんし、どうなってるんでしょう」
 母も同じことを思ったらしく、父に同調していた。これはチャンスだと思い、しいなは二人に伝えることにした。
「あ、あの、言ってなかったことがあるんだけど・・・」
 しいなは、早口で友達や正吾のことを伝えた。
「な、なんでそんなことを」
 母がショックを受けて、手を口に当てて驚いていた。綺麗なままで死なせて欲しいことと、衰弱していく自分を見せたくないのは本音だった。大勢に哀れんだ顔をされるのは、しいなには耐えられそうになかった。
「みんな心配して、お見舞いに来てくれたのに」
「わかってる。これは私の最期の我侭だから、二人にもわかって欲しいの」
 両親には顔を向けられず、視線を落としてしゃべった。
「茂君にはそれを伝えてあるのか?」
 父は、茂だけが未だに見舞いに来ていることを不思議に思ったようだ。
「しげちゃんは、特別だから」
 そのことも二人には伝えたかった。
「あのね、お願いがあるの」
 しいなは、真剣な表情で両親を見つめた。
「最期は、しげちゃんと二人っきりにして欲しいの」
「ど、どうして!」
 しいなのお願いに、過敏に反応したのは母だった。
「理由を聞かせてもらえないか」
 それに比べて父は冷静だった。
「最期は、好きな人の顔を見て逝きたい」
 好きな人に看取られる。それこそ、しいなが熟考した末の結論だった。
「今でも・・茂君が好き・・なの?」
 母は、泣きながらも必死で言葉を紡いだ。両親は、正吾と付き合っていることは知っていた。
「うん。私も最近気づいた」
 中学以来、全く話していなかったにも関わらず、昔と変わらずに接してくれる茂を見ていると、大好きだった昔の感情が湧き上がっていた。
「さすがに、正ちゃんには言えないけどね」
「それは言わないほうがいいわ」
 母は、正吾に同情してそう言った。
「でも、家族の私たちが一緒でも」
 母は寂しそうに、妥協案を提示してきた。
「ごめん。二人っきりにさせて欲しいの」
「・・・わかった」
 ここで父が、泣きそうな顔で承諾してくれた。
「え、でも・・・」
 これには母が、渋った様子で父を見た。
「ここは受け入れよう」
「でも・・・」
 それでも納得できない母が、父に食い下がった。
「母さん。娘の最期の願いを聞いてあげよう。私もしいなの立場ならそうすると思う」
「・・・わかった」
 父に説得されるかたちで、母は悲しそうに承諾した。
「二人ともありがとう」
 しいなは、両親に心から感謝した。
 それからは両親は茂が見舞いに来る度、気を使って二人にしてくれた。
 しいなと茂は、昔のようにおしゃべりした。それが楽しく、今の現状を忘れさせてくれた。
 しかし、日に日に衰弱していくしいなと同じように、茂もそれに合わせてやつれていった。
 それでもしいなに対しては、いつも笑顔で会話してくれた。
 何度か茂の体調を気遣ったが、彼はやつれた笑顔で大丈夫の一言で返してきた。
 死を告知されて、5ヶ月近く経つと、上半身を起こすこともできなくなった。それで自分の死期が近いことを悟った。
 その日はちょうど茂が見舞いに来てくれたので、これから毎日来て欲しいと口頭でなんとか伝えた。彼は、一つ返事で快諾してくれた。
 2日後、朝起きると目が霞んでいた。目を擦ろうとするが、手は動かなかった。
 全身を確認すると、首以外は動かせなくなっていた。声を出そうと口を動かしたが、かなり小さな声しか出てこなかった。しいなは、今日で最後だと確信した。
 昼になると、激痛と吐き気が一気に押し寄せてきた。医師が処置を施したが、全く良くならなかった。
 医師はもう処置の意味がないと悟り、両親に顔を向けて首を左右に振った。両親は泣きながら、しいなのか細い手を握ってくれた。
 しいなは、茂のいない状況で死にたくなかった。必死に痛みを堪えたが、吐き気だけはダメだった。何度も吐こうとしたが、空の胃からは胃液すら出てこなかった。それを日没までなんとか耐えた。
 茂が見舞いに来るころには、痛みは少し引いていた。
「やっと・・・来た」
 激痛と吐き気に耐えていたしいなにとっては、一日以上待っていたような気分だった。両親に目配せすると、二人は頷いて出ていってくれた。
「だ、大丈夫なのか?」
 あまりにも酷い顔と掠れた声に、茂が心配そうな顔をした。
「だ、ダメ・・・かな」
 掠れた声のまま、首を振った。
「そ、そんな弱気なこと言うなよ!」
「無茶・・言わないでよ・・自分の・・体だもん・・最期・・ぐらいは・・わかるよ」
 渾身の力を振り絞って、手を上げようとしたが、手は数センチしか上がらなかった。
「手ぇ・・・握って・・欲しいな」
 しいなの頼みに、茂が慌てて痩せ細った手を握ってくれた。
「しげちゃん・・・伝言・・お願いして・・いいかな」
「な、なんだ?」
「正ちゃんに・・約束・・守って・・くれて・・ありがとう・・って伝えて」
「なんだよ、それっ!あいつは、二度しか見舞いに来なかったんだぞ」
「お願い・・しげちゃん・・伝えて」
 もう言葉も途切れ途切れで説明をすることができなかった。
「わ、わかったよ」
 渋々だったが、茂は頷いてくれた。彼の目からは大粒の涙が流れていた。
 茂の顔をずっと見ていたかったが、もう目も霞んできた。
 しいなは、これが最期の言葉になると悟った。
「しげちゃん・・・笑って・・・」
 最期は笑っていたかったので、茂にそう頼んで、自分も必死で笑顔をつくった。
「ああ・・わかった」
 泣きながらではあったが、茂は笑ってくれた。
 しいなは、最期の言葉は決めていた。それは昔からずっと言えずに心に留めていた言葉だった。
 そして、ゆっくりではあったが、思いを伝えるため口を開いた。
「しげちゃん・・・ありがとう」
 しかし、口から出たのは感謝の言葉だった。必死に言葉を繋げて思いを伝えようとしたが、それ以上口を動かせなかった。
 しいなは、諦めて最期に茂の顔を見つめた。
 茂は、涙を流しながらもずっと笑ってくれていた。言いたいことは言えなかったが、最期が大好きな茂の顔で満足だった。
 心残りは一つあったが、笑顔のままゆっくりと瞳を閉じて、長い眠りについた。

ガールカウンセラー1st

ガールカウンセラー1st

日曜日の喫茶店で、京橋茂は幼馴染である前田正吾と口論になった。原因は亡くなった幼馴染の加納しいなのことだった。 正吾は、しいなと付き合っていたにも関わらず、二度だけしか見舞いに来なかった。茂はそれが腑に落ちず、本人に詰め寄っていたのだった。 しかし、正吾は何もしゃべることなく、喧嘩別れになってしまった。 家に帰り、部屋でそのことを悩んでいると、お節介の妹の真理が強引に部屋に入って、しつこく悩みを聞いてきた。 仕方なく、正吾のことを相談したが、解決方法がないようで沈黙してしまった。 そんな沈黙の中、一人の少女が部屋のベランダから不法侵入してくることで、物語が進んでいく。

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