名前のない歴史

 人の世むなしく応仁の乱。以降、室町幕府は衰退の一途。戦国時代へ突入する。そして、天下統一に向けて尾張から勢力を拡大したのは……。
 私はノートの文字を指でたどりながら、そこで次の言葉を探した。ちゃぶ台の向かいで、宏子が私の説明を待っている。宏子と、ちょっと目が合う。
「その人は一時代を築くけれど、家臣に裏切られて自害に追い込まれるんでしょ」
「そうだよ、うん」
 私知ってる、それは当たり前だ、と言うような調子で、宏子はさらっと言った。だけど、それではいけない。私は今日の目的を思い出した。
「じゃあ、その人の名前は?」
「……その人の別な家臣が、裏切り者を倒して天下を統一した。でも、海外進出に失敗して、そのうち亡くなってしまう。その後また別の家の人と大合戦になって、負けてしまった」
 宏子の言うことは、確かにその通りだ。でも、その裏には無視された私の問いかけがある。仕方のない事情もある。でも、やっぱりダメだ。
「ねえ、答えてくれないと、今日ここで勉強してる意味がないよ……」
 そもそもは今日、宏子から誘ってきたことなのに。
 宏子には、私たちとは少し違う、ある特徴があった。それは人の名前を憶えるのが、とても苦手だということだ。ちゃんと憶えているのは、家族の名前と、それから私の名前くらい。
「……ごめん、真友。名前って、どうしても出てこないの。この人は……織田、信長?」
「そうだよ。裏切った人は、明智光秀。次に出てくるのが、豊臣」
「待って、待って。そんなに一度に言わないで」
「ああ、ごめんね」
 宏子がこうなってしまった理由についてはいろいろ言われているけれど、本人の話では、人の名前は具体的なイメージのない、もやもやとした感じで、だから頭に残らないのだそうだ。そんな宏子にとって、たくさんの名前を憶えなければいけない歴史の授業は、大きな壁だった。
「信長は、力があったのもそうだけど、お寺を焼き討ちしたり、容赦のないイメージが強くて、漫画とかゲームでは、魔王のようなキャラクターになっていることもあるんだって」
「魔王。その魔王が、織田……」
「信長、ね」
 例えばこんなふうにニックネームと結びつければ、少しは憶えやすくなるらしい。でも、これまでいろいろやってきても、確かな方法が見つかっているわけではない。名前だけが、すっぽりと抜け落ちてしまう。一週間後に同じ話をしたら、宏子はきっと、織田信長を「魔王」とだけ呼ぶのだ。実際、クラスメートもそんな感じだ。
 今日の宏子は、憶えようとする名前を繰り返し唱えて、刻み込むように何度もノートに書いていた。普段よりはかなり必死な様子だ。わざわざ自分から私に頼んで勉強しようとするくらいには本気らしい。今まで歴史はほとんど諦めていたのに。
「よし。織田信長ね。次は?」
「じゃあ先に、豊臣秀吉を憶えようか。天下を統一した人ね。この人は晩年、太閤様と呼ばれていたんだって。だからこの人が行った田畑の測量を、太閤検地っていうんだね」
「太閤様。それが、豊臣秀吉……」
 私たちが出会ったのは、小学校の三年生のときだ。クラス替えがあったばかりで、最初の席が近くだった。前のクラスでは「名前を憶えてくれない子」として遠ざけられていたみたいだけれど、私はそこまで気にしなかった。何より宏子は、「友」が入っている私の名前を、頑張ってすぐに憶えてくれたのだ。
「最後に出てくるのが、徳川家康。元から力を持っていたんだけど、秀吉が亡くなった後、一気に将軍の地位まで上ったんだね。この人は、江戸幕府の初代将軍」
「江戸幕府の、初代将軍。徳川家康」
 地名はというと、人の名前よりは憶えられるようだ。都道府県は全部わかるし、私たちの町の名前や、学校の名前も言える。
「じゃあ、今日はその三人を頑張って憶えよう。それだけで、結構違うはずだよ」
「うん。なんとか」
 それにしても、宏子が自分から、苦手な名前を憶えようとしている姿を見るのは嬉しい。出会った頃は、名前を名前と認識するのも大変そうだったのだ。それは私と一緒に、いろんな本を読んでかなり克服できた。けれども私は、それ以上はもう、仕方がないと諦めていた。本人もあまり深刻に思っていないようだったし、大丈夫だと思っていた。
 多分、受験のために必要になったのだ。まだ半年はあるけれど、私は宏子がどこの高校に行きたいのか、まだはっきりと聞いていない。私はこの近くの公立で、一番のところと決めている。一緒にはなれないかもしれないけれど、今の宏子なら、それはきっと大丈夫だ。
「おやつ用意するから、ちょっと休憩しよう」
「ありがとう、真友」
 私の名前だって憶えられたのだから、きっと。

 台所からお菓子と麦茶を持って戻ると、宏子は引き続き、さっきの三人の名前を刷り込むように唱えていた。ちょっとでも離れると、すぐに忘れてしまうのだろうか。
「麦茶、飲んでいいよ」
「ありがとう……うん。じゃあ、休憩」
 ふうっと息をついて麦茶を口にする宏子を見て、私も自分のを飲んだ。さっきまで必死だった宏子も周りの空気が、いくらか和らいだように感じる。
 私はちゃぶ台の上の教科書を取って、次は誰の名前を憶えてもらうのか、どんなふうに教えればいいのかを考えることにした。宏子の希望とはいえ、この時代から始めるのはなかなか大変なことだと思う。日本地図に散らばったたくさんの名前を改めて見ると、私まで嫌になってしまいそうだ。全部を憶える必要はないので本当に良かった。
「ねえ、真友」
「なに?」
 名前を呼ばれたて振り向くと、宏子は、少し疲れた顔をしていた。それもそうだ。今日は、よく頑張っているから。
「人の名前って、どうして憶えなきゃいけないのかな」
 宏子の口からは、あんまり聞かない質問だった。私もそうだけれど、仕方ないと割り切っていたら、こういう疑問にはなかなか行きつかない。だから少し、不意を突かれたと思った。
「どうして? 必要だから……じゃないかな」
「それは、試験の問題になるから?」
「それも、そうだけど……」
 だいたい、私もそこまで深く考えて勉強しているわけではなかった。歴史もそうだけれど、国語で出てくる作品を書いた人の名前とか、数学や理科の定理や法則を見つけた人の名前とか、なんとなく先生が大事だと言うから、逆に憶えていなくて得をするものでもないから、憶えているだけの話だった。
「だって、歴史はあくまで、出来事の流れ。人間たちが、良いことも悪いことも考えて、やってきて、そして今がある。その教訓を学ぶのが歴史を学ぶ意味だと言うなら、人の名前って、そこまで大事には思えないの」
 宏子の静かな、それでいて強く、切実な思いを感じる。確かに、そう考えることも間違いではないと思う。名前を抜きにすれば、宏子はかなりの部分を理解しているのだ。それなのに、試験では名前を憶えていないためだけに、かなりの点数を落としてしまう。こうして考えると、不平等にすら思う。でも。
「でも、名前って、それだけで、一人の人を表せるよね。本当は、それだけ大事なものなんだよ。名前を憶えることってきっと、その人への尊敬とか、ほかの誰でもない、その人なんだっていう思いがあるんじゃないかな。歴史上の人じゃなくても、みんな」
「みんな……じゃあ、真友も自分の名前を憶えてもらうことが、大切だと思う?」
 それは多分、ほかの人とは知らないうちに同じことを考えているから、敢えて気に留めなかったこと。私と宏子とは違う。名前を憶えることは、決して当たり前ではなかった。いつしか当たり前だと思っていたけれど、私の名前さえ、宏子が忘れてしまったら、憶えてくれなかったら、どうなっていたのか?
「……思う。やっぱり、名前を憶えてもらえないのはちょっと寂しい。それに私も、いつか有名になってみんなに名前を憶えてもらったり、私が死んだ後も、こういうことをした人なんだって憶えてもらえるような仕事がしたいと思う」
「そう、やっぱり」
 宏子には、少しかわいそうな答えだと思った。名前のない世界。名前のない歴史。想像してみるけれど、それは怖くなるくらい空っぽで、なんだか現実という感じがしない。宏子は名前がなくても人を認識できるけれど、やっぱり、私はそれでは困る。そもそも私だって、宏子の名前を使っているし、大切に思っている。名前を忘れてしまったら、その人を忘れたのと変わらないと思う。
 そうして私は、いつしか自分が宏子を特別扱いしていたことに、痛いほど気づかされるのだった。そう気づいたのは、宏子でも、このままではいけないと思ったから。
「もちろん私は、宏子のことは本当に大切に思ってる。だって、私は名前を憶えてもらう前から、宏子とは友達だったから。でも、きっとそうは思わない人もいる。だから私は、宏子にも、名前が大切なものじゃないとは、思ってほしくないよ。それは、名前を憶えられないこととは、違う問題だよ」
「……うん。わかった。ありがとう」
 もしかしたら、嫌に思われるかもしれなかった。それでも宏子が頷いてくれたので、私はちょっと安心する。ところが宏子の表情は、だんだんと暗く、泣きそうなほど悲しげになってきた。
「宏子、どうしたの?」
「大丈夫、ただ、真友がはっきりそう言ってくれて、嬉しかったの」
「そっか。私も、宏子がわかってくれて、嬉しいよ」
「真友……」
 嬉しい。嬉しいのは間違いない。それは宏子も同じだ。だけど、やっぱり宏子は、悲しい顔をしている。それはなぜだろう。見ているうちに私まで、嬉しさと悲しさがごちゃごちゃに混ざって、わけがわからなくなってくる。
「宏子は、どうして、そんなに悲しい顔するの?」
「……悲しい、けど、もっと悲しくならないように、頑張ろうとするから」
「悲しいの?」
 すると、宏子は両手でノートを持って、顔を隠してしまった。また、あの三人の名前を唱えている。悲しい思いをしているのに、そうまでして、宏子は名前を憶えようとしている。こんなに必死になる理由を、私はようやく直感した。気づいてしまえば、それ以外にない理由だった。
「もしかしてだけど、宏子は私と同じ高校に行きたいから、頑張ろうと思ったの?」
 名前を憶えられなくても、宏子はそれ以外のことは理解できるから、成績もそこまで低くはないはずだった。でも、私が目指すようなところに行くには不十分だ。内申点になるこれまでの成績はともかく、これから巻き返さなければいけない。そして幸いにも、宏子はまだ、それができるところにいるらしい。たとえ、どれほどギリギリの崖っぷちでも。
「そう、だよ。まだ、もう少し、真友と一緒にいたいから。だから、頑張るの」
 同時に、もう一つはっきりしたことがあった。私もまた、宏子にとって特別だったのだ。そもそも今だって、宏子には私ほど親しい友達はいない。宏子が私の名前だけを憶えているのが、何よりの証拠。私は、「真友」だから。
 隠さずに言うなら、私はその瞬間また、宏子はこのままではいけないと思った。ほとんど私だけとしか付き合わないで六年。宏子の世界は、名前がないだけではなくて、あまりにも狭くなってしまっている。だから、私もだんだん、悲しみが強くなってきた。
「宏子、そんなふうに思ってたんだ」
「高校って、そんなふうに選ぶものじゃないのはわかってる。だから、ずっと真友にも言えなかったの。でも、違う高校に行って、会えなくなったらきっと、私は真友の名前だって、長く憶えていられる自信がないから……」
「だから、そんな……」
 それは、言葉にこそしないけれど、私もさっき自分で考えたことだ。宏子が私の名前を忘れたら、やっぱり、友達ではなくなってしまうのか? 普通ならそうだし、逆に私が宏子の名前を忘れたら、もう友達だと思うこともないと思う。でも、彼女の場合は? いや、「彼女の場合」なんて、本当にあるのか? 私は強い不安に襲われた。
 彼女との関係は、薄く透き通ったガラス細工のように、デリケートで貴重なものだったのだ。今まで私は、それの壊れたり、手放したりするときを思わなくてもいいくらい、知らないうちに大切にしていたのだ。
「私は、真友の名前を忘れてしまっても、真友のことは忘れずに、友達だと思い続けられる。でも、それだけじゃいけないから。私もずっと、真友の名前を、忘れずにいたいから」
 確かに、名前すらいらないような友達がいれば、彼女にとって一番幸せなことなのだろう。そして、彼女が私とならそうなれると思っていたとしたら、私も進んで、そうなりたいとも思う。だけど彼女は、それだけではない関係を、自分で目指そうとしている。
「……ありがとう。それなら、これからもっと、二人で頑張ろう。私も、あなたの気持ちに、もっと寄り添えるようになりたい。だから」
 大変なことだとはわかっていたけれど、頑張ろうと思った。これ以上の悲しみを、増やさないように。少し動いたノートの陰に見えた彼女の表情は、涙に濡れた笑顔だった。

名前のない歴史

名前のない歴史

彼女は人の名前を憶えることが苦手だった。それは歴史上の人物も例外ではない。 受験の近づく秋の日、二人だけの勉強会。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-04-16

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