死生観。

ゆおん 作

自死は常に私の中にある思想。
それをとってしまったら
私という人間が崩壊するアイデンティティ。

具体的な自殺方法を書いたのは
音読カードの裏。
つまり小学生の頃だ。
ませた頭ででも精一杯考えた。
トイレにあるホースを使って首吊りをしようと考えていた。

遠い遠い昔の話。

世界の誰もを信じられなかった時は
自分の死後の世界を見たいと思っていた。
誰が泣いてくれるのだろうか、と。

これもまた幼すぎる昔の話。

今は。

随分と我儘なことを思っている。

私が死んでも悲しまないで。と。
誰のせいでもないのだと声を大にして言いたい。
だって本当にそうなんだもの。

でも同時にそれは私の身勝手な思いだと
わかるまで歳を重ねた。
悲しみのない 死 なんてないのだと。

私が死んでも世界は続く。
私が関わった人々の日常も続く。
居たはずの私が居なくなった世界に
置いていかれる人に

悲しまないで なんて言っちゃいけない。

思うことは自由。
ただ言ってはいけない言葉もある。

まぁ、言っちゃうのが私なんですけれど。


死に近付いたのは17歳。
摂食障害で体重は40キロを切った。
それでも海で泳ぎたいと両親にせがみ
泳がせてもらった。
泳いだんだからせめて何か食べてくれ と
連れて行ってもらった食事処では
ザル蕎麦を3分の1しか食べられなかった。

後から聞いた話だが
父は、これが最後の夏になるかもしれない
と思っていたそうだ。
その年私は閉鎖病棟に入院した。
治療はまったく私を変えることはなく、
ただ体重だけ増やされて退院しただけ。


それからまた数年後。

今度は当時住んでいた部屋から飛び降りた。
雨の降る12月だった。4階の窓から。
落ちどころが良く死には至らなかった。
かなりの重症は当然負ったのだけれど。
救急搬送され翌日に手術。

これも後から聞いた話だが
あと数センチ上が折れていたら
下半身麻痺になっていたそうだ。
手術が終わるまではその可能性も否定できないと。

同居人と両親が泣いていた。
私は目が覚めて足が動くようになるまで
そのことは知らなかった。

誤解のある言い方になるかも知れないが
人間意外と死なない
私はそう思っている。

飛び降りた後遺症は残っていて
体の傷も消えないし忘れることはない。
ただ、後悔はしていない。

あの時の私は
ああするしかなかった。


人間意外と死なないなんて言っているが
私が大好きだった祖母は
2度目の癌でこの世を旅立った。
祖母は広島出身で被爆当時17歳だった。
祖母は父も母も原爆症で亡くしていた。
それでも懸命にたくましく生きた人。
私が大好きでたまらなかった人。

どうして、祖母が。と思った。
何故2度も?と。

最期を迎えるまでホスピスで過ごした祖母。
一生懸命だった。
最期まで気丈なひとだった。
そして看護師さんスタッフさんからも愛されていた。

人はあっけなく死ぬ。

これもまた同じように思うこと。

わりと幸せに暮らしている今だって
祖母の死を看取ったって

自死は常に私の中にある。

もうどうしようもないね。

死生観。

死生観。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-03-25

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