囚われの月、漂う海月

  1. 囚われの月、漂う海月
  2. 【序章】
  3. 満月のむこう
  4. カノンの夏
  5. 雪みち――1
  6. 雪みち――2
  7. 雪みち――3
  8. 【第一章】
  9. 鳥の巣
  10. 大雪警報
  11. 担当者
  12. 自己破産
  13. 【第二章】
  14. 美鳥27歳――1
  15. 美鳥27歳――2
  16. 美鳥27歳――3
  17. 美鳥27歳――4
  18. 【第三章】
  19. 定休日
  20. 黒歴史
  21. 笑顔の裏
  22. 噂話
  23. 【第四章】
  24. 美鳥27歳――5
  25. 美鳥27歳――6
  26. 美鳥27歳――7
  27. 【第五章】
  28. 男性NO
  29. 距離
  30. 【第六章】
  31. 美鳥28歳――1
  32. 美鳥28歳――2
  33. 美鳥28歳――3
  34. 美鳥28歳――4
  35. 【第七章】
  36. 法人化
  37. 葉室ちゃん――1
  38. 葉室ちゃん――2
  39. 岸本
  40. 【第八章】
  41. 美鳥28歳――5
  42. 美鳥28歳――6
  43. 美鳥28歳――7
  44. 美鳥28歳――8
  45. 【第九章】
  46. 父の記憶
  47. 月あかり
  48. 訪問者
  49. 潮風
  50. 緑のトンネル
  51. 祖母の家――1
  52. 祖母の家――2
  53. ごめんね
  54. 【第十章】
  55. すっぱい苺
  56. 触れたい
  57. 空へ
  58. タイムスリップ
  59. からっぽ
  60. 揺れる雑草
  61. 涙の場所
  62. チョコレートの匂い

※誤字脱字、ルビ等の表記ミス等確認中です。

囚われの月、漂う海月

 暗い、昏い、儚い――。くらい。
 いつの頃からか、くらい場所を求めるようになった。じっと身じろぎもせず、膝を抱えて空を見上げる。まっくらな穴のなか、出口だけがまあるく切り取られキラキラと輝いていた。夜空にぽかりと浮かぶそれは満月。穴から出ると光に包まれた世界、けれどそれは未知の世界。
 暗がりのなかで(うずくま)り、幾つもの星が頭上を巡っていたけれど、私はそれに手を伸ばす気はなかった。光のさす場所に行ってはいけない。誰にも見つからない場所で息を潜め、ただ待っている。光がこの身を照らすのを。

 ***

 陽射しに手をかざし空を見上げると、漂うのは雲ではなく白い半月だった。
 頼りなく、けれど風にさらわれることなく、留まっているようで、少しずつ定まった軌道をたどってゆく。青空に浮かぶその姿は自由に見えて、本当はちっとも自由ではなかった。闇に埋もれれば冴えわたり光り輝くというのに、その才を隠すように切れ切れな雲にまぎれ、ただ頭上を通り過ぎてゆく。
 私は知っている。美しい夜の姿も、控えめな昼の姿も、それがひとつのものだということを。

【序章】

 

満月のむこう

 縁側に姉と二人で腰をかけ、夜空をながめながら足をぶらぶらと揺らしていた。
 座敷にはススキに野菜、お団子が折りたたみ式の安っぽいテーブルに置かれていて、だから中秋の名月の夜の記憶だろう。それはほかの雑多な思い出とおなじく曖昧で、けれど時おりふと思考の表層に現れては郷愁のような温かさと切なさを呼びおこす、一番古いカナの記憶。
 近所に住んでいた四つ年下の(かなで)を、私たちは「カナ」と呼んでいた。
「ぴーたん、おちゅきしゃまー」
 背後から軽い足音が近づき、隣に座る姉が振り返る。つられて後ろを向こうとしたとき背中にトスンと衝撃があった。ぎゅっと私の腕をつかむカナの手はもみじのように小さくて、ぷっくりとしたほっぺにくりくりした目。そんな愛らしい姿で、彼はちょこちょこと私たち姉妹の後ろをついて回った。まわりの大人たちは笑顔でそれを見守り、だからカナとの思い出はだいたい幸せな記憶。
 私はカナを膝の上にのせ、けれど意外にその体は大きく、ずるりとお尻をうしろに滑らせて広げた股のあいだに座らせた。それが気に食わなかったのか、カナは立ち上がって私の首に抱きつき、その勢いにひっくり返りそうになる。腕を突っ張って必死で耐え、そんな私の奮闘ぶりを姉はニヤニヤと笑っていた。年上のくせに責任や良識を気に留めることのない奔放な性格はどうやら小さなころから変わりはしないのだと、ふとこの時の光景を思い返すことがある。
「カナ、ぴーちゃんじゃなくて、美空(みく)ねえちゃんとこおいで」
 カナの柔らかな髪がふわりと私の頬をなで、無垢な眼差しは姉が広げた両手に注がれていた。嫉妬なんていう言葉も知らない幼い私が「だめ」と口にするまえに、カナの笑顔がすぐ目の前にあった。
「ぴーたんとこー」
 カナはお気に入りの私の癖っ毛をつかもうと勢いよく抱きつき、結局そのまま二人で縁側に引っくり返ってしまった。まわりからはたくさんの笑い声が聞こえ、私の胸のうえで手をついて起き上がろうとするカナの顔、あどけなく口を半開きにして、ぱちりと見開いた瞳は笑う大人たちを不思議そうに見つめたあと、理由などわからないままそこには屈託のない笑みが広がった。
「カナ、ぴーちゃんが穴の向こうに連れ去られないようにギューって押さえててね」
 姉は私の上にのっかるカナの頭をなでてそんな風に言った。
「そうか、今日は穴の夜だもんなあ」
 のんびりした声は父のものだ。穴ってなあに、と問う誰かの声に母が笑いを堪えながら答えている。
 まん丸い満月は穴っぽこ。その向こうから落っこちてきた人たちが、この世界に住んでいる。毎日毎日少しずつ穴がふさがって、けれど閉じた穴はまた少しずつ大きくなってすっぽりと開いてしまう。だから満月の夜には向こうっ側の人が迎えに来るのだ。私はまん丸いお月さまを見ると向こうっ側に連れ去られてしまうんじゃないかと心配だった。あの明るい穴の向こうには太陽があって、私たちは大きな大きな壺の底から壺の入り口を見上げている。その入り口がお月さま。
 それはまったく母の作り話で、何度もバカにされながらも、満月の夜になると必ず姉の布団に潜り込んでいた。嘘だよと言われても、幼い私にはあの丸い光が穴に見えて仕方なかった。出口なのか入り口なのか、どちらにしろここにある温かな場所から引き離されることには変わりなかった。
 カナは私たちの話にふいと首をかしげたけれど、「ギュー」の意味だけは分かったようで、寝っ転がったままの私に体ぜんぶを預けてきた。頭の上からまた笑い声がおこり、やっぱり私は向こうっ側には行きたくなくて、()()にしがみつくようにカナの背に両手を回した。
「よいしょっ」と声がし、すぐ脇に腰をおろした父は、姉と並んで空を見上げた。ひょいとカナを持ち上げて自分の脚のうえにのせると、「食うか?」といつものやつを私に差し出してくる。無造作にひとつかみ持ってきたそれは、父の手のひらの上で小さな山になっていた。私はそれをひとつ摘み、隣に座って父に体をあずけた。それが合図のように頭の上に大きな手のひらが載せられ、優しく私の髪をなでる。
「お父さん。私にもチロルちょうだい」
 父をはさんで反対隣に座る欲張りな姉はチロルチョコレートを三つも取り、父の手のひらは空っぽになった。姉が悪戯らしい笑みを浮かべてカナを見ると、甘い匂いを嗅ぎつけたのか、カナは姉に向かって両手を伸ばした。
「かなもー」
 それは父の大好きなコーヒーヌガーのチロルチョコレートだった。少し苦くて、特別なオトナの味。
「カナ、チョコレート好き?」
「うん」とうなずいたカナに、姉はとても重大な事実を告げる魔女のように、意地悪く片方の口の端をあげた。
「これは大人が食べるチョコレートなの。カナみたいな子どもには苦ぁい苦ぁいお薬だけど、これが食べられるようになったらカナも大人だよ」
 姉はそう言ったあと包みをひとつ開けて一口かじり、剥き出しになったコーヒーヌガーをカナの口元に持っていった。「おいおい」と父が止めるのと、カナがためらいもなくそれを口に入れるのはほぼ同時で、楽しげに笑う姉が腹立たしかった。
 べえっとチョコレートを吐き出したカナの手はベトベトで、父は慌ててその手をつかみ「ティッシュ」と座敷を振り返る。カナはしかめっ面で舌を出し、私は濡れタオルとともに差し出されたリンゴジュースのストローをカナの口に持っていった。
「おねえちゃん、ひどい」    
 私が抗議しても、カナが唇をとがらせても、姉はおいしそうにチロルチョコレートを頬張るだけで、カナの吐き出したチロルはティッシュに丸められ、畳の上にころがっていた。
「カナ、これでカナもおとなだよー」
 暢気な口調で姉がカナに笑顔を向けると、その眉は一瞬訝しげに寄せられたものの、次の瞬間にはパッと明るい笑みを私に見せた。
「かな、おとなー」
 カナは問いかけるように私を見、「大人だねー」と合わせると父の脚から降りて私の体も乗り越え、座敷にいる母親のところへとおぼつかない足取りで駆けていく。
「とななのー」
 ついさっきまで不貞腐れていたというのに、世の中の嫌なことも汚いものも、そんなものはひとつも知らない純粋な笑顔だった。私の記憶のなかのカナはそんな天使のような顔。そして、それとは別にもうひとつ思い出す彼の笑顔がある。
 ――またね、美鳥(みどり)
 大人ぶった口調でそう言ったのは、まだ中学にあがる前の、声変わりすらしていなかったカナだ。感情がどこかに抜け落ちてしまったような張りついた笑顔を最後に、カナは私の前からいなくなってしまった。

カノンの夏

 その夏、カノンちゃんが死んだ。カナは小学六年生。私は高校一年の夏休みで、その夏を境に時間の流れがずれてしまった。
 夏期講習の帰りに自転車でカナの家の前を通ると、玄関の引き戸に白い紙が貼られていた。「忌中」と中央に書かれているのが辛うじて見え、それに続く文字は門の手前からだとはっきりとは見えず、けれど葬儀の日程や場所の案内が書いてあるようだった。ガレージには見たことのない軽自動車が一台停まっていて、その陰からはピンク色の三輪車だろうか、小さなタイヤとハンドル、ピンクの車体が少しだけのぞいていた。
 蝉の声と、どこかから子どもたちの甲高い笑い声が聞こえ、カナの家のまわりだけが違う世界に迷い込んでしまったように、まるで人の気配が感じられなかった。

 三歳になったばかりのカナの妹は「カノン」という名前だった。私はその顔をはっきりと思い浮かべられない。彼女がハイハイどころか寝返りもうてないころ、母と姉と三人でカナの家に遊びに行ったことがある。遊びにというよりも、カノンちゃんを見に。まじまじと彼女の顔を眺めたのはその時くらいだ。
 その日、小学三年生だったカナは友達の家に遊びに行っているらしく留守だった。カナの母親とうちの母はいつも通り世間話なのか愚痴なのか分からない大人の話をしていて、私と姉は隣の部屋に寝かされた小さな赤ん坊に夢中になっていた。
「カノン」はどんな字を書くのだっただろう。今となっては思い出せず、ひどい話だけれど、私は大人になってカナに再会してからもしばらくカノンちゃんの存在を忘れていた。
 彼女がこの世に生を受けてから三年。たしかに私とおなじ世界に住んでいて、カナと同じ家で同じ時間を過ごしていた。そのあいだ私はカナとの関わりすらほとんどなく、カノンちゃんの姿を目にしたのは片手で数えられるほどだ。
 中学になって私は自転車通学になり、カノンちゃんを抱っこした妙子(たえこ)さん――カナのお母さんの姿を近所で見かけると「こんにちは」と手を振って通り過ぎた。妙子さんはカノンちゃんの小さな手を持って「ばいばーい」と笑顔を返してくるものの、立ち止まって話をすることはなく、ただお互いにその存在を確認するだけだった。
 私と妙子さんの関係は「近所のおばさん」と「近所の中学生」、それ以上にはならなかった。意図的に距離をおいたわけではなく、大人の人と気安く話せるほど私は社交的でもなかった。かといって引っ込み思案でもなく、その関係は一般的なものだったはずだ。だから、カナの家の座布団の上ですやすやと眠るその子の顔が、唯一わたしの記憶のなかのカノンちゃんだった。
 穏やかな寝息をたてる赤ん坊の耳元で、姉と交互に「カノンちゃん」と音にならないくらいの声で囁いた。そして、小さな手やカナ似のプクッとした柔らかそうなホッペをちょんちょんとつつく。カノンちゃんはむずむずと鼻のあたりを動かして、それがまた可愛らしく、姉と二人でじいっとその様子に見入っていた。
 カナ似といっても、それはカナが小さかった頃と比べてのことだ。私は中学になって部活と塾とで忙しくなり、カナとも近所で会えば言葉を交わしたけれど、お互いの家を行き来することはほとんどなくなっていた。会うたびに彼の面差しから子どもっぽさが抜け、言葉遣いが徐々に男の子らしく生意気になり、いつの間にか私のことを「美鳥さん」と呼ぶようになっていた。それでも人懐っこいリス顔だけは変わらなかった。
「カノンちゃん三歳になったんだ。今度チロルチョコ食べさせてみよう。コーヒーのやつ」
 いたずらっぽく笑いながらカナがそう言ったのは、カノンちゃんが亡くなるほんの二週間ほど前のことだ。
 夏休み直前のある朝、私は通学路を一人歩いていたカナを見つけ、いつも通り自転車を止めて声をかけた。カナに会うのは大抵マルヤスーパーの前あたりで、その少し先の広場に地区の小学生が集まって学校へ向かうことになっていた。カナは高学年になって責任感が芽生えたのか、以前より早く家を出ているようだった。そして、それは私の登校時間と重なる。カナも時間に余裕があるし、私も少しくらい時間をロスしても立ち漕ぎで帳尻を合わせられるから、彼の姿を見かけた時は集合場所まで並んで歩いた。
 中学の時も自転車通学だったけれど小学校とは方向が逆で、高校に入って初めて通学路でカナを見つけた時つい嬉しくなって彼を呼び止め自転車を降りた。まだ高校生活に慣れる前で、自覚してはいなかったけれど緊張や不安が募っていたのかもしれない。カナの姿に懐かしさのような安心感を覚えた記憶がある。
 歩いて二三分の距離のあいだに話すことといえば、そのほとんどがカノンちゃんのことだった。カノンちゃんが生まれた当初、うちの母は「美鳥が生まれたときは、美空が嫉妬して大変だったのよ」と懐かしそうに話し、「それに比べてカナ君はお兄ちゃんね」と話をまとめるのがパターンになっていた。その言葉通りカナはカノンちゃんが可愛くて仕方ないようで、Eテレを一緒に観たとか、疲れたカノンちゃんをおぶってあげたとか、おむつが取れそうとか、私はカナの話でカノンちゃんの成長ぶりを知っていた。けれどその顔を思い浮かべようとすると小さな頃のカナになってしまう。
「カノンちゃんって、カナに似てるよね」
 どんな会話だったのか、何かの拍子に私がそう口にすると、カナは「そう? あまり似てないって言われるのに」と口元に照れ笑いを浮かべた。今さら「あまり顔を覚えてない」とも言えず、「似てると思うよ」と座布団の上ですやすやと寝ていたカノンちゃんの顔を思い浮かべた。あの時のカノンちゃんはカナみたいだったし、だからすべてが嘘というわけではない。そう自分に言い訳して、カナの笑顔を壊さないようにした。
 私がカノンちゃんの存在を忘れてしまったのも、そういうことなのかもしれない。カナの笑顔を壊さないように、その心の傷を刺激しないようにそっと記憶に蓋をして、何事もなかったように振る舞うカナに合わせていた。

 市内の斎場で営まれたカノンちゃんの葬儀には、母だけが出席することになっていた。父は仕事の都合で行くことができず、けれど昨夜の通夜には母と二人で列席した。帰宅した両親は帰ってくるなりソファーに並んで沈み込み、同じように深い溜息をついた。
「妙子さん、大丈夫かなぁ」
 母はずいぶん心配そうな口ぶりで、妙子さんも三歳になったばかりの子どもを亡くしたのだから相当ショックを受けたのだろうと想像はつくけれど、それでも母の心配ぶりは尋常ではなかった。
「りっちゃん、妙子さんと話したの?」
 チロルチョコレートの入った小ぶりの菓子器を差し出しながら、やはり心配げな顔で姉が母に尋ねた。りっちゃん、とは母のことだ。いつの頃からか、私が高校に入ったときには母は「りっちゃん」、父は「よしりん」になっていて、それは多分姉が言いはじめたのだと思う。友達感覚で接してくるうちの両親にはその呼び方が妙にしっくりと馴染み、いつの間にやら家族のなかで定着していた。
「妙子さん、とても話ができる状態じゃなかった。ちらっとしか姿を見せなかったし、ほとんど奥で休んでたの。立ってるのも辛かったみたい」
 眉をひそめる母の隣で、父がもう一度長い溜息をついた。
「家をリフォームするって言ってたけど、カノンちゃんがいなんじゃ寂しいだろうな。子ども部屋をどうするとか、色々考えてたみたいだし」
 その話はカナから聞いたことがあった。「僕の部屋もできるんだ。建て替えるあいだはホテルに泊まるんだって」と自慢げな顔をしていて、冗談で「うちに来れば」と言うと、「やだよ」とぶっきらぼうな声が返ってきた。その言い方がカナの思春期を目の当たりにしたようで、なんだかむず痒く、それに寂しさが混じったような不思議な気分になった。
 母の話だと妙子さんは葬儀にも姿をあらわさなかったらしい。なにかの用事でカナの家のあたりを通るときは気にかけてその姿を探してみたりもしたけれど、パッタリと見かけなくなってしまった。葬儀でのカナのことを、母は「お兄ちゃんだったわよ」と感心していたけれど、その姿を想像すると胸が締めつけられ、じっと涙を堪えるカナが頭に浮かんで泣けてきた。私がカノンちゃんの死に際して感じた悲しみは残されたカナや妙子さんに向けたもので、カノンちゃんがいなくなったことに傷ついたかといえばそうではなかった。
 通学路で必ず目にするマルヤスーパー。妙子さんのパート先であるそこの駐車場でカノンちゃんは事故にあった。詳細は知らない。けれど、車を運転していた人の不注意だったと聞いた。自分の職場で、休みの日に買い物に連れて行った我が子が車に轢かれて死んでしまったのだ。
「自分を責めてるのよ。妙子さんは悪くないのに」
 母は葬儀からしばらくのあいだ、思い出したようにそう口にした。何度か家に電話をかけてみたようだったけれど、その電話に妙子さんが出ることはなかった。私はまだ社会の厳しさも知らない高校生だったし、物心ついてから身近に人の死を経験したことがなかった。妙子さんはカノンちゃんが死んで苦しんでいる、それがどれほどの苦しみなのか分かるはずもない。
 大人になったからといって他人の苦しみが本当に理解できるわけではない。「ご愁傷さまです」と決まり文句を口にすることはできても、言葉にすればするほど中身が薄まっていくような無力感は拭えない。「死とはそういうものだ」と自分を納得させるのがせいぜいだ。
 高校のころの私はただ無力な自分が恥ずかしく、そのことに罪悪感を覚えた。マルヤスーパーの前でカナの姿を見かけると、声をかけるまえに一呼吸おいて気持ちを整える。「おはよう」と言う私の声に振り返るカナは笑顔で、以前とどこか変わってしまったその笑顔に私はそれ以上立ち入ることができず、ただ彼に合わせて笑っていた。

雪みち――1

 起きぬけに感じたのは昨日までとは違うキンと冷たい空気で、カーテンを開けると道向かいの屋根にはこんもりと雪が積もっていた。
 白というのは純粋だろうか、無垢だろうか。すべてを覆い尽くしてしまう一面の雪は、私にはなんだか仮面のように思えた。
「今日は歩きかなぁ」
 雪道をひとり歩くカナの後ろ姿が頭に浮かんだ。彼がランドセルを背負うのもあと二ヶ月ほど。卒業してしまえば中学と高校は反対方向で、そのことが少し気がかりだった。会おうと思えばいつでも会える距離に住んでいても、カナの家に行くことはもうずっとなくなっていた。
「妙子さん、耳が聴こえづらくなってるんですって。後ろから話しかけても聞こえないみたいで、精神的なものでそういう症状が出たりするのね」
 秋が深まってもまったく姿を見せない、電話にも出ない妙子さんに母はしびれを切らし、ある日ご主人の帰りを待ち伏せた。「鬱とははっきり言わなかったけど、病院には行ってるみたい」と肩をおとした母は、「心配」と消え入るような声でつぶやき、話し相手を失った寂しさともどかしさを包み隠さず私と姉にこぼした。
「りっちゃんの気持ちも分かるけど、時間が必要なこともあるって。あまり周りが言い過ぎるのも良くないよ、きっと」
 姉の言葉に母は「そうよね」と言いながらも、納得しきれないようにまた一つ溜息をつく。
 何もできないし、何かしたらしたで余計に悪い方向へと物事が転がってしまうかもしれない。けれど待つしかできないというのは自分の存在を否定されたようにも感じられ、それにもまして時間が経ったからといってすべてがいい方向に行くとも思えなかった。私は母の心中を思って胸が痛み、姉の突き放した言い方に密かに反発をおぼえていた。
 父はあまりこの話題に入ってこようとしなかった。たまに母が話をふっても「そうは言っても何をしてあげられるわけでもないしなあ」と吐息とともに苦笑を浮かべ、菓子器のチロルチョコレートに手を伸ばすのだった。

「行ってきます」とテレビのついた居間をのぞきこむと、父が菓子器のチロルをひとつかみ掴んでコートのポケットに入れるところだった。
「見つかった」
 そう言いながら父は腕をこちらに伸ばし、差し出した私の手のひらにそのチョコレートを二つ、ぽとぽとと落とした。
「カナ君もこの雪だと早く出てるかもしれないな」
「こんなに早くないよ、きっと」
「あの子ももうすぐ中学生か、早いな」
「まだランドセル背負ってるのに」
 父が「元気か」と直接的にカナのことを聞くことはなかった。けれどこうして時おりカナの話をぽろりと口にする。
 カナの背負ったランドセルは、どんどん重くなっていくように私には思えていた。それと比例するようにカナの笑顔は遠ざかっていく。無邪気さが辛うじてひと欠片残っているという程度で、その笑みは胸の内を覆い隠すようにぶ厚い仮面に変わっていた。
 以前のような甘えた笑顔が見たい。時が経つほどにそれは切迫した衝動として私のなかで膨らみ続け、ともすれば強引にカナの仮面を引き剥がしてしまいそうだった。けれどその衝動を現実のものとするために何をどうしていいか分からない。それが分かったとして、それはそれでカナの内にある未だ成熟しない柔らかな部分を壊してしまいそうで、無力感と、それを隠して何事もないように振る舞うことへの罪悪感を感じながら、ただ通学のあいだのわずかな時間にカナの隣で笑っていた。「ぴーちゃん」と私を呼んで人懐こく抱きついてきた小さなカナ、そのぷくりとした頬を頭の中で思い描き、まだ無垢といって差しつかえなかったかつての自分を思い出し、ただ笑顔をつくっていた。
 普段より四十分ほど早く家を出ると、まだ雪の掻いてない歩道には数人分の足跡があった。除雪車が通ったあとにできた薄汚れた雪の塀ぎりぎりのところを、ザクザクと凍りかけた雪面を踏みしめて歩く。こんな日にも自転車で通勤している人はいて、すれ違うたび雪に足を突っ込んでそれをやり過ごす。そのまま歩道についた足跡の上をぴったりとたどるように歩き、正面から誰か歩いて来れば新しい場所に自分の足跡をつける。そして、ようやくバス停に並ぶ人の群れが見えたとき、忘れ物をしたことに気がついた。
 バスは予定時刻より遅れているらしく、体を縮こまらせ、足踏みをして体を揺らす人たちは、しきりにバスが来る方向に目を向けていた。そのなかで私と同じ高校の制服を着た一組の男女が親密に身を寄せ合っていて、私は彼らとはまったく面識もないけれど、その恋人然とした姿がユウジ先輩との約束を思い出させた。――借りてたCD、今日返してって言われたんだ。
 人生で初めてできた恋人は一つ年上の先輩で、秋の文化祭で同じ設営委員だった彼の名は岸本(きしもと)有志(ゆうじ)といった。まわりからお調子者と言われながらも下級生からはその親しみやすさが人気で、どちらかといえば同性から慕われ、高校一年の男子に混じって馬鹿をやっているような人だった。そんなユウジ先輩の姿は彼と同学年の女子にもウケは良かったけれど、そこに恋愛感情が入り込むことはないようだった。
「ユウジが彼氏? 絶対ない。あえて例えるなら動物園のふれあい体験コーナー」
 ケラケラとからかうように笑っていたのは二年生の設営委員の女子で、「ねえ」と同意を求められて私は曖昧に微笑んで返した。
「俺だって年下の女子のほうがいい」
 隣にいたユウジ先輩の声で逃れるようにそちらに顔を向け、次の瞬間「ね」と私を見据えた彼の眼差しは、恋に落ちた瞬間の記憶としてずっと脳裏に刻まれることになる。彼との交際がはじまったのはそのすぐあとで、先輩と付き合っているというのはなんとなく鼻が高く、けれど実際に付き合ってみると彼の調子の良さに辟易しないこともなかった。
「この前貸したCD、さっちょん(・・・・・)が借りたいって言ってるから明日持ってきて」
 さっちょんとはユウジ先輩のことを「ふれあい体験」とバッサリ切り捨てたあの人で、彼女に限らず、先輩の話には色んな名前が登場した。男女の比率は半々。男子はほとんどが下級生で、けれど女子に関しては学年を問わなかった。
 先輩が気安く女子と話していると当たり前だが嫉妬する。さりげなく「誰?」と問いかけても「たんなる友達」と平然と答えられれば「仕方ないか」と納得するしかなかった。
「ユウジ先輩はないわ」
 友人である珠美(たまみ)、通称タマの歯に衣着せぬ物言いを、年上の彼氏がいる私への僻みだと最初は思っていた。
「美鳥は甘えてほしいタイプよね。精神年齢はどうみてもあっちの方が下。美鳥ももっとワガママ言ったらいいのに」
 彼女が私に向けたのは呆れ顔ではなく、「お母さん」と呼びたくなるような心配げな眼差しだった。私に言わせれば彼女の方がよっぽど世話焼きで、母性本能をくすぐるタイプのユウジ先輩に、タマも先輩を好きになりはしないかと密かに気を揉んでいた。けれど、それはまったくの杞憂だった。
「どっちかといえば、ユウジ先輩苦手なんだよね」
 タマがその言葉に込めていたもの、その当時は分からなかったけれど「あの先輩はやめたら」という意味だったのかと、ずいぶん先になってから思い返した。
 私はそのタマの忠告を汲み取れず、先輩が「受験に集中したいから」と別れを切り出すまで一年と少しのあいだ付き合い続けた。あれを付き合っていたというのか、二人きりのデートはほとんどなく、いつもまわりには人がいて、恋人らしいことといえば手をつないで数回キスをしたくらいだ。ただ、大勢のなかでふざけ合っていた彼が当たり前のような顔で私の隣に戻ってくる、その瞬間が好きだった。
 ユウジとの思い出がここで終わっていれば、それなりに青春の恋として懐かしむべきアルバムの一頁になっていたはずだ。忘れ物を取りに帰る雪道でカナと三人顔を合わせた記憶も、そのアルバムのなかに埋没していた。

雪みち――2

「カナ!」
 先に見つけたのは私で、それはやはりマルヤスーパーの前だった。歩道には踏み固められた雪で細い道ができていて、カナは転ばないようにじっと下を向いて歩いていた。
「美鳥さん、どうしてそっちから歩いてくるの?」
 弾かれたように顔を上げたカナは目を丸くしていた。寒さで紅く火照った頬と、不意をつかれた素の表情に、私はごく自然に昔とおなじ笑みを浮かべていた、と思う。カナの心に分厚いベールが掛からないうちに何か言葉を、そんな焦りが芽生えたけれど、腕時計が指し示す時刻はあまりにも無情だった。
「遅刻ギリギリだよ、カナ。忘れ物しちゃった」
 カナはまだ誰も足跡をつけていない新雪の上に一歩、二歩足を踏み入れ、「どうぞ」というように道をあける。カナの口元も目元も緩んでいた。この笑顔は明日も続くだろうか。
 立ち止まろうかと迷いながら、結局カナの前を通り過ぎた。
「カナも気をつけてね」
 私のなかにはずっと不安がこびりついていて、ギュッと掴んでここ(・・)に繋ぎとめておかないと、カナは私をおいてどこかに行ってしまいそうだった。
「美鳥さんも、寒いから風邪ひかないでね」
 通り過ぎざまかけられた声に振り向くと、この一瞬で何があったわけでもないのに、カナはいつもの仮面をかぶっていた。仮面を被りきれないまま、カナは一生懸命「大人」を演じていたのだ。
 ――かな、おとなー。
「大人だね」なんて笑っていられたのはカナが小さな子どもだったから。「オトナ」の意味も分からず、私を頼って甘えてくれることに疑いもなかった。目の前のカナは、私が手を差し出しても素直にその手を握り返さない。自然に足が止まったのはそんな不安が頭を過ぎったからで、今を逃してしまったらずっと後悔し続けるという予感があった。
 私よりまだ十センチ以上背の低いカナ。目線を合わせて身をかがめ、怪訝に首をかしげるその頬をぎゅっと指でつまんだ。手袋のせいでカナの温もりも私のぬくもりも伝わらなかった。
「痛いよ、美鳥さん」
 口ではそう言いながら、カナは私の手から逃れようとせず困ったように薄い笑いを浮かべている。
 私の中に、確かに手を伸ばすことを躊躇する気持ちがあった。カナが手を握り返してきたとして、それを受け止められる自信がなかった。カナの悲しみも苦しみも、ほんの1%も理解できていないのかもしれない。迂闊な言葉で、行動で、カナに余計な傷を負わせたくなかった。
「美鳥さん、早くしないと遅刻しちゃうよ」
 夏休みが終わってからカナが口にするのは学校のことばかりで、それすらもはぐらかして「美鳥さんは?」と私に話題を向け、気遣いを口にすることのほうが多かった。その度にチクリと胸が痛み、小さな罪悪感がお腹のなかに降り積もっていく。
 カナの心に踏み込んで行く勇気もなく、積り積もった負の感情は、未熟な高校生の私が抱え込むには大きくなり過ぎていた。この手でカナの仮面を剥がせたらいいのに。そのもどかしさが衝動となって、そして言葉になった。
「カナ、無理に大人になろうとしないで。まだ子どもなんだから」
 カナの顔から笑みが消え、一瞬だけ口がへの字に曲がる。それは張り付いたような笑顔よりもよっぽど彼らしい表情だった。カナは「しまった」というように慌てて顔を作り直し、私は彼が再び仮面をかぶってしまわないように頬に当てていた両手をぐりぐりと動かした。
「やめてよ」
 逃れようとするカナの名を呼んだ。
(かなで)
 彼の動きがぴたりと止まる。そんな風に呼んだのは初めてで、咄嗟に口から出たものだった。ゆっくりと瞬きをしたその目が、躊躇いがちに視線を合わせてくる。
「奏。思ったことは顔に出していいから、溜め込まないでよ」
 カナの瞳がゆらゆらと揺れて、何か言いたげに唇が動いたけれど、言葉が出てくることなく唇はぎゅっと閉じられた。それは涙を堪えているようにも見えた。私は片っぽの手袋を外してコートのポケットに突っ込み、指先に当たる小さな塊を取り出した。その手をカナの前で広げてみせると、途端、引き結ばれていたカナの口がふっと白い息を吐く。
「いつもの?」
 小生意気な言い方にムキになったのは、私もまだ子どもだったからだ。もう片方の手袋も外し、私は手のなかにあったチロルチョコレートの包み紙を開ける。表面には飛行機をかたどった凹凸があり、私はいつもの癖でその絵柄を確認し、それから「あーん」とカナの口に持っていった。カナも抵抗することなく呆れ顔で口を開けた。
「どう、おいしいでしょ?」
「どうして美鳥さんが得意気な顔してるの」
 カナはもう昔のように自分から私に抱きついてきたりしない。小学校六年生ともなれば母親に抱きしめられることもないだろうし、妙子さんが一体どんな風にカナに接しているのか、スキンシップなんて今のカナからは想像できなかった。私との会話でそうするように自分の存在を押し込めて、「お母さんは?」と気遣いの言葉を向けるカナの姿が頭に浮かぶ。
「昔は食べられなかったくせに」
「子ども扱いしないでよ。コーヒーヌガーも食べれるし、もうすぐ中学生だ」
 思春期の少年の頬が私の指から離れていく。それは拒絶ではなく、照れたように伏せた目は小さく瞬きし、私の顔をちらりと窺った。そのとき私とカナの間にあったのは、きっとあの中秋の名月の夜と同じくらいの(ちか)しさ。あのときと違うのは――、その違いをぼんやりと認識しながらも、私がそこに目を向けることはなかった。
 プッと軽いクラクションの音がし、振り返るより早く「美鳥」という聞き慣れた声がした。
「さみーな。美鳥、一緒に乗ってけよ」
 助手席の窓を半分ほど開けて、ユウジ先輩が小さく手招きしていた。私が答えに迷ったのは、車を運転している、父親と思しき男性にどんな顔でどんな挨拶をすればいいのか分からなかったからだ。それにカナを置いて行けなかった。カナの目の前で、馴れ合いのこもった口ぶりで話しかけてくるユウジ先輩がどうしようもなく不快だった。なにも先輩がおかしなことをしているわけではなく、「ユウジ先輩よりカナとの方が親しいのに」そんなことを思った私の方がおかしかったのだ。  

雪みち――3

「忘れ物、取りに帰らなきゃいけないから」
 ユウジ先輩の申し出を断った私の隣で、カナがぺこりと頭を下げた。ランドセルから教科書のぶつかる鈍い音と、箸箱を鳴らすような軽い音が聞こえてきた。
 ユウジ先輩は下級生とじゃれあう時とおなじアニキぶった表情でカナと視線を合わせ、私はまたそれに少し苛ついた。カナのことを何も分かっていないくせに、そんなことを考えながら運転席の男性に笑顔で会釈をする。横目でちらりとのぞき見たカナの笑顔から、すっかり「カナ」が消えていた。
「ありがとうございました」と私は深く頭を下げて会話を打ち切り、先輩は「また学校で」と言って窓を閉めた。車はウィンカーを出して流れに乗り、助手席の恋人は手を振っている。運転席の男性がからかうような表情で何か口にしたのが見えた。先輩は不貞腐れたように顔をそらし、もう後ろ頭しか見えない。
「いまの、カレシ?」
 不意を突かれ、ドクンと心臓が跳ねた。カナの唇には笑みが浮かび、けれど私には彼が何を考えているのか読み取ることができなかった。このとき私が必死に考えていたのは、カナを嫌な気持ちにさせないためにはどんな言葉をかけたらいいのかということだ。
「いちおう彼氏だけど、友達と変わらないよ」
 カナは「ふうん」と表情も変えないまま曖昧な相槌をうって、先輩の後ろ姿を追うように道路の先に視線を向けたけれど、車はすっかり見えなくなっていた。私も何となくつられるようにカナと同じ方向に目をやりながら、視界の端でカナの様子をうかがっていた。
「ねえ、美鳥さんと僕って友達なのかな」
 カナはやはり笑っていた。ずいぶん雑な張りぼての笑顔で、私はそれに不安と悲しみと、私だけがカナの仮面を剥がせるのではないかという、どこかおかしな優越感を感じていた。そんな自分を浅はかで傲慢だと恥じたのは、それが叶わないと知ってからのことだ。
「カナはどう思ってるの? 私、カナの友達?」
「……友達とは、ちょっと違うよ」
 そうね、と返すとカナは「でしょ」と笑い、それが昔の「カナ」らしい笑顔で、私はなんとなく安心してしまった。大きな幸せは日常とのギャップでその先に不安を抱くけれど、小さな幸せを発見すると、思いのほか楽観的な未来を思い描いてしまう。春が来て、カナが中学に入学して、この通学路で会うことがなくなってしまっても大丈夫、そんな根拠もない確信がこのとき私の胸にあった。何が「大丈夫」なのかすらよく分からないまま、私はここしばらく胸に燻りつづけていた罪悪感から逃れようとしたのだ。
 この日のあとも雪はしばらく降り続き、平年であれば積もっては解けの繰り返しなのに、この年だけは三月に入っても根雪が解けずに残っていた。私は早めに家を出てバスで通学する日々を送り、歩道の雪に足跡をつけながらしばらく後に同じ場所を通るカナのことを考えていた。そのうち、春になってカナが自転車通学になれば同じ方向に向かうことはなくても朝すれ違うのではないかと気づき、ひとり勝手に安心してしまった。何もできない自分への免罪符を、強引にこじつけて作り出そうとしていた。
 小学校の卒業式が終わった翌日、カナは両親と一緒にうちにあいさつに来た。夕飯どきで、父はまだ帰っていないと告げると、カナの父親は「そうですか」と残念そうに一瞬だけ黙りこくった。気を取り直すように顔を上げたその人の口からは「引っ越すことになりまして」という、思ってもみなかった言葉が飛び出し、そのときようやく母が受け取った菓子箱の意味を理解した。小学校を卒業して菓子折りであいさつするのか、そんな馬鹿なことを考えていた私は頭が真っ白になり、母も姉も驚きを隠せないようだった。
 久しぶりに会った妙子さんはカナの後ろにじっと佇み、その気配は消えてしまいそうなほど薄く霞んでいた。なんと声をかけていいのか心配と戸惑いが私のなかにあって、そのとき確かに妙子さんの表情をうかがったはずだった。けれど私の記憶に残っているのはカナの張りついた笑顔ばかりで、おじさんの顔も、妙子さんの表情も、「引っ越し」の言葉を聞いたあとからひどく曖昧なものになっていた。あの場には私とカナしかいなかったのだと勘違いするくらい、その顔だけが鮮明に脳裏に焼きついている。
「どこかでまた会うかもしれないから、またね、美鳥」
 すっかり見慣れたはずのカナの大人の仮面に、私はなぜか見とれてしまった。感情を押し殺すようにニコリと口角をあげ、あどけない顎のラインが儚いものに見えた。「大人の仮面」の中にほんの少し本物の大人が混じっていたのかもしれない。私はなにか言葉を返したような気もするけれど、カナがそうであるように、安易にその胸に抱きつくことができないのは私も同じだった。そうしたいという衝動が芽生えた記憶はある。そうしなかったという記憶もちゃんとあった。それは時おりふわりと意識の波間に浮かんできて、小さな後悔の念をもたらし、それとともに罪の意識を再確認しつづけることで私はカナの姿を心に留めていた。それは同時に無邪気な「カナ」の笑顔をつれてきて、カナの記憶は常に点ではなくある期間の線だった。大人になりたくて、なれなかった幼い日々。死に触れると、人は大人に近づくのだろうか。
 美鳥(みどり)
 そう呼び捨てにされたのに気づいたのは彼らが立ち去ったあとで、あれはカナの精一杯の「大人」だったように思う。声変わりすらしていない彼の声が私にもたらしたのは、やはり以前と同じ破壊衝動だった。カナの仮面を引き剥がしたい。けれど剥がれかけていたはずの仮面はいつのまにかぴっしりと彼の心を覆い隠し、そして私の手の届かないところへ行ってしまった。
 実際のところカナが引っ越したのは同じ市内で、車でも二十分あれば行ける場所だった。大人になってしまえば何てことないその距離は、高校生の私にとっては遠いとも近いともいえなかったけれど、行こうと思えば行ける場所であることに違いはなかった。それでも私がカナの新しい家を訪ねることはなかった。母は何度か電話をしていたけれど、妙子さんが電話口に出ることはなかった。どんな顔で何を話しに行けばいいのか、母もやはり躊躇していた。
「今は待とう」
 父の言葉にわずかな反発を覚えながら、それは私たちに普通の日々に戻ることを許してくれた。カナの家を気にかけながら、母の気持ちが妙子さんに引きづられるように(ふさ)いでしまうことを父は心配していたのかもしれない。
 以来カナの家族とはまったく顔をあわせないまま私は県外の大学に進学し、そのまま向こうで就職した。四年前、父の死をきっかけに地元に帰ってきた頃には、消し去ってしまいたいいくつかの記憶とともに、カナのことはすっかり頭の奥に追いやっていた。

【第一章】

 

鳥の巣

「いらっしゃいませ」
 作業の手を止めることなく条件反射で口をついて出てくるその言葉、と同時に自然と浮かぶ笑みに本心が同化するまでにはワンテンポのずれがある。いくら待っても本心と笑顔が乖離したままでいることも珍しくはない。
「こんにちは。いつものブレンドで」
 私は小じんまりとしたオープンキッチンのなかで洗い物の手をとめた。「はい」と答えると、そのお客さんは「よろしく」と笑みを浮かべ店の奥へと歩いて行く。目の前を通り過ぎるその姿にふと肩の力が抜けた。笑顔と本心が違和感なく一致する、彼はそんな数少ないお客さんのひとりだった。
 開店から閉店までひとりで営業していると、意識はしなくとも常にいくらかの緊張を抱えている。彼のような人は束の間のオアシス。彼は彼で伝えることは伝えたというように、寛いだ様子で今日の居場所を吟味していた。
 親しみやすい物腰と馴れ合いのない距離感、私と彼のあいだには店主と客という線引きがあり、お互いその一歩手前で存在をみとめながら、干渉することはない。たいていの客はその線から過剰に距離をとるか、ずけずけと乗り越えようとするか、そのどちらかだった。中には店員との親しさを特別な勲章のように思っている人がいて、そういった人には笑顔を向けつつ素っ気ない態度をとることもある。ほとんどの場合、その拒絶は伝わりはしないのだけれど。
 いま私に背を向けて店の奥に目をやっている彼にはそういった偏りがなかった。「距離」という概念が存在しないように知らぬ間に近くにいて、気付かぬうちに遠くにいた。それは私がいつもそうあってほしいと思う距離で、彼とのやりとりに摩擦や軋轢、不足や遠慮のようなものを覚えたことはなかった。それは今の私にとって奇跡とも言える。
 冷蔵庫の扉にぶら下げたタオルで手を拭いていると、彼は後ろで束ねた一房の髪を揺らしながらふらふらと奥の席へと歩いて行った。その毛先は茶色くパサついている。年は四十半ばほどに見えるけれど確かめたことはない。目尻と口元に刻まれたわずかな皺が、彼の浅く日焼けした精悍な顔つきをいくらか優しく和らげていた。
 首を動かさなくても店内すべてが見渡せる小さな喫茶店で、奥にはいくつかのテーブル席と壁際に文庫本ばかりを並べた本棚がある。先客がいるのを確認した彼はわずかに首をかしげ、思い直したようにカウンターへと戻ってきた。
 カウンターといってもキッチンと対面にあるのではなく、入り口のすぐ脇の、窓に向かって三つ並んだ申し訳程度のカウンター席だ。奥行きがなく少々手狭で、食事をするお客さんは必然的に奥のテーブル席へと座り、カウンターに知り合い以外の人が座ることは滅多にない。オープンキッチンの中からはそこに座ったお客さんの背中が真正面に見える。その距離感が好きだった。
 そのときカウンターには誰もおらず、前の路地を通りかかる人の姿と、ゆっくりと徐行で行き過ぎる白い軽ワゴン車が三本のコニファーの合間から見えた。カウンターチェアに腰をおろせば通りからの視線は気にならないくらいの高さに剪定してあるけれど、入口側の席の前だけはぽかりと視界がひらけ、そのあたりの花壇にはいくつか鉢植えを置いていた。開店当初に植えたコニファーは根付く前に一本だけ茶色く枯れて、クリスマスツリーとしてリボンで飾り付けたのは最初の年だけ。空いてしまったそのスペースに、近所にあるガーデニングショップ『樹と葉と花と(キトハトハナト)』とのつきあいがてら鉢植えを購入した。そのほとんどが料理にも使えるハーブ類で、日々成長しつづける植物は日々の癒やしになっている。
「たまにはカウンターに座ろうかな」
 混み合っているわけでもなく、テーブル席は半分も埋まっていないかった。ランチが終わり、お茶にはまだ早いという中途半端な時間帯で、店内には気怠さをともなった穏やかな空気が流れている。いつのなら彼は空いたテーブルに腰を落ち着け、コーヒー片手に持参した雑誌だったり仕事の資料らしきものに目を通したりするのだけれど、ふと見ると彼が手に持っているのはスマートフォンと財布だけだった。
 彼は仕事なのかプライベートなのかしばらくスマホを操作していたけれど、「お待たせしました」とコーヒーカップを置くと、解放されたように脱力して画面を伏せた。
「そろそろ老眼鏡がいりますね」
 それはありがとうの代わりのような言葉だった。
 不思議な人。彼に対して抱いているのは恋愛感情とはまったく違い、私は彼に近づきたいとは思っていなかったし、だからいつも通り「ごゆっくり」とだけ口にして席を離れた。
「あ、あとで連れがひとり来るから」
 スイングドアを押してキッチンに入ろうとしたとき、思い出したように声をかけられた。彼はその「連れ」が来るか窺うように窓の外に視線を向けていたけれど、どうやらその姿はまだ見えないようだった。
「うちの店も開店から三ヶ月経つし、スタッフもようやく慣れてきたんだけどサービスの方が弱いから。別の店舗にいるやつを一人こっちに回してくることにしたんです。『鳥の巣(トリノス)』さんより少し年下かな」
 鳥の巣さんとは私のことだ。三年前に開業した『喫茶鳥の巣』、その小さな喫茶店を私は一人で切り盛りしている。名前の由来は単純で、本名が本巣(もとす)美鳥(みどり)であり、なによりくるくると縮れた癖っ毛がまさに鳥の巣。営業中は後ろでひっつめてお団子にし、もじゃもじゃの鳥の巣アタマは誰に見せることもない。私のことを店の名前で呼ぶこの男性も飲食店の経営者だった。
 初めて彼が来店したのは昨年末のことだ。近くにレストランをオープンするからと、近所というほど近いわけでもないのにわざわざ挨拶に訪れ、渡された名刺には「居酒屋 志の無(しのぶ) 槙村(まきむら)(しのぶ)」とあった。夏まえに再び渡された名刺には「Cafe Restaurant(カフェレストラン) Origin(オリジン)」という文字が加わっていた。
 志の無はここから車で二十分ほどの場所にあり、比較的にぎわいのある大学通りに面した店で、外観は黒を基調とした古色仕上げ和風建築。車で前を通り過ぎるたび気になっていたけれど、まだ訪れたことはない。「店に置いてくれる?」と渡されたチラシのメニューや内装写真を見る限り、背伸びすれば学生でも入れなくはないけれど、どちらかといえば大人向けの、落ち着いた雰囲気ただよう和風居酒屋だった。
 一方、Origin(オリジン)の方は小洒落た内装で、杉の古材を利用したという床はレトロな雰囲気を醸し出していた。軽やかな創作フレンチは私世代の女子会にぴったりで、実際に一度そこで女子会を開いたこともある。
 槇村さんはそこのオーナー兼料理長だった。もともとフレンチレストランで働いていたらしいけれど、独立して最初にはじめたのはなぜか志の無(しのぶ)で、そちらには最初から料理長を雇い、自らは経営に徹していたという話だ。Origin(オリジン)は満を持して彼の技術を披露する場となるのかと思いきや、槇村さんの野望はそこでとどまらないらしく、「街を元気にしたいよね」というのが彼の口癖だった。どちらかといえば口数は少ない方だけれど、時折さらりとそんな言葉を口にをする。
「新しく来るそのスタッフ、志の無では古株なんです。休憩中にはよく出歩いてるから、ここにもちょくちょく顔出すようになるかもしれない。そしたら、まあ、よろしくおねがいします」
 槇村さんは再びスマートフォンに視線を戻し、太い指で何かを打ち込みコーヒーカップに口をつけた。私はひと息つこうとマグカップを棚から取り出し、ドリップポットを火にかける。ペーパーフィルターの端を折り曲げているとき「あ」という声が聞こえて顔をあげた。腰を浮かせた槙村さんが窓の外に笑顔を向け、片手を上げている。
 前触れなく来るお客さんよりも、来ると分かっている時の方が緊張するのはなぜだろう。口のなかに「いらっしゃいませ」という言葉を準備して、けれどそれが声となって出ることはなかった。
「あっ、美鳥さん?」
 ドアを開けて入ってきたその人は驚きのあとすぐさま破顔したけれど、私はこの時ずいぶん間抜けな顔をしていたはずだ。
 カナ。見た瞬間分かったことに私自身驚いていた。

大雪警報

 カウンターチェアに斜に腰をかけ、頬杖をついてこちらを見返すその人は、「ねえ」と気安い声をかけてくる。シルエットは大人の男性で、けれど向けられた笑みは気取りのない年下らしいものだ。
 あの日再会して以来、カウンターの右端はカナの指定席になっている。
 季節は移り、晩秋から冬を経て暦のうえでは春を迎えていた。けれど店先のコニファーはすっぽりと雪をかぶり、結露で一面曇った窓ガラスに、カナが拭ったところだけがくっきりと外の様子を透かせている。雪の白さを背景に、やはり白い雪片が方向を失い乱れ飛んでいた。
 二月も終わりに近づき、来週には卒業式を迎える高校もあるらしい。この冬最後のあがきとばかりに昼まえから降りはじめた雪は、くるぶしが埋まるくらいに積もっていた。今朝確認した大雪注意報は開店前に警報に変わり、上下左右に乱れ打ちつける風雪はガタガタとドアを揺さぶっている。開けたドアは風の力で強引に閉じられ、メニューボードも風で飛ばされないよう店の中にしまい、「OPEN」の札すら掛けられなかった。
 営業中であることを知らせるのはドアの脇にあるランプだけで、窓からそのぼんやりとしたオレンジ色の明かりを確認し、停電しないことを祈っていた。停電ともなれば営業を続けるのは難しく、電気がつかないうえにエアコンも切れてしまう。一番心配なのは食材だった。この寒さであれば冷蔵品は保つかもしれないけれど、冷凍ものは確実に廃棄処分になる。仕込んでいたガトーショコラやチーズケーキ、クッキー生地などもすべておじゃんになるわけで、それを考えると外気よりもひやりとした感覚が背を走る。
 ランチの客は早々に店を後にし、いま店内にいるのはカナと私だけだった。
「ねえ、美鳥さん。『Cafeソラへ』って知ってるよね」
 右手のドリップポットから注がれるはずのお湯が、ノズルから出る寸前にぴたりと止まった。コーヒーの粉はまだ乾いている。ドクンという音が聞こえるくらいに心臓がその言葉に反応し、硬直した体とともに思考が止まった。
『Cafeソラへ』
 その名にどう反応していいのか分からず、オウム返しに口にしようかとドリッパーから視線をあげたとき、不意に店のドアが開いた。そしてバタンと勢いよく閉まる。吹き込む雪とともに店に入ってきたのは槇村さんで、彼は雪まみれのジャケットを手ではたきながら「どうも」とはにかんだ笑顔を浮かべた。
「槇村さん」
 カナの声で振り返った槇村さんは「あ、(かなで)」とバツが悪そうに苦笑する。私はカナとの会話が途切れたことに胸を撫で下ろした。
「こんな大雪の日に来る物好きが俺以外にもいた」
 私の思っていたことをカナがそのまま言葉にし、彼は椅子から立ち上がって槇村さんをドアのすぐ脇まで追いやっていく。
「何だよ、奏」
「槇村さん、雪は店内に持ち込まないで下さい。せめてマットの上で落としてよ。ねえ、美鳥さん」
 カナは同意を求めるように私を見ると、槇村さんの脱いだジャケットを手に一瞬だけドアを開けてバサリと雪をふるい落とした。ドアを閉めるときに音がしなかったのは、カナが風に負けないように力を込めていたからだ。カナの気遣いは、彼自身がホールチーフという立場にいるからなのか、それとも彼が大人になったからか。
 ふと、昔通学路で目にしたカナの笑顔を思い出した。「美鳥さんは?」と自分のことを押し込めて私への気遣いを口にしていたカナは、大人になってその笑顔が仮面なのかどうかすら分からないほどの自然な振るまいを身につけている。カナの本心が見えずそれに不安を覚えるのはたぶんカナのせいではなく、その気遣いも笑顔も、もしかしたらすべて本物なのかもしれない。勝手に笑顔の裏を想像してそれに不安を覚えてしまうという思考の癖のようなものは、被害妄想だと分かっていてもなかなか逃れられるものではなかった。
 槇村さんにしても、何度も顔を合わせ、交わした言葉が積み重なっても、その表情には裏があるかもしれない。彼の仕草に表情に警戒を解き、つい近づきそうになる距離を私は無意識に後ずさりする。槇村さんはそうした私に気づいているのか、それとも私と同じように距離を置きたがっているのか、不必要に踏み込んでくることはない。このとき私が口にしたのも「すごい雪ですね」という当たり障りのない言葉だった。
「ええ。もうすぐ三月なのに真冬に戻ったみたいだ」
 槇村さんはいつものように控えめな笑顔を私に向け、それから窓の外に目をやった。カナは「ブレンドですか?」と私の代わりに聞き、キッチンを出てすぐのところに置かれた籠からおしぼりを取り出して槇村さんに手渡す。それを苦笑とともに受け取り、槇村さんは「ブレンドください」とカナと並んでカウンターに腰を下ろした。
「奏。今日の予約全部キャンセルになった。営業はいつも通りだけど、様子を見て早めに閉めよう。たぶん誰も来ないだろうから」
「やっぱりキャンセルになりますよね。この雪だもん」
「そうだな。JRも運転再開の目処は立ってないみたいだし。浜雪だから志の無の方が積もってるって。こっちの店はアーケードがあるからいいけど、志の無は雪かき大変だって、葉室(はむろ)がさっき電話で愚痴ってた」
 カナの古巣である志の無、大学通りにあるその店は海岸沿いの国道からほど近い場所にあった。日本海に面したこの地域では海側に積雪が多いときには「浜雪」もしくは「海雪」、山沿いに多く積もったときは「山雪」と呼ぶ。
 槇村さんとカナの会話に時々登場する「葉室」という名が、少し気になっていた。カナよりひとつ年下だという葉室さんは、カナのいなくなった志の無でホールチーフを引き継いだらしい。「葉室にはかなわん」が槇村さんの口癖で、彼が褒め言葉のようにその台詞を口にすると、カナは決まって「まあ、葉室ちゃんだから」と楽しそうに小さく鼻で笑った。
 槇村さんの言葉に「雪かきかぁ」とカナは心配げな声をもらし、ふとカナがどんな顔をしているのか気になりチラと視線をあげた。二人はずっと窓のむこうの真っ白な景色に釘付けになっていて、その表情はうかがうことができない。私は再びドリッパーに視線をおとし、萎みかけたコーヒー粉の上にそっとお湯をのせた。「あ、そうだ」というカナの声を、私はたんなる会話の続きとして聞き流していた。
「『Cafeソラへ』の人って自己破産したんですよね」
 えっ、という躊躇いがちな槇村さんの声が耳に入ったとき私は無意識に顔を上げ、カナに顔を向けた槇村さんと一瞬視線が交錯した、ように感じた。私の思い違いかもしれないその彼の反応が、様々な憶測を私のなかに呼び起こす。思考はぐるぐるとした渦となり、出口を見失った私は何もなかったように顔をそむけた。
 ポットのお湯を再びドリッパーに注ごうとしたけれど、コーヒーはすっかり膨らみをなくして三角錐のへこみを作っている。慌てて淹れなおそうと伸ばした手が脇にあったドリップポットを倒し、それはステンレスの作業台にお湯をまき散らしながら転がって床に落ちた。「熱っ」という私の小さな悲鳴は甲高い金属音にかき消され、ポットはコンクリートの床のうえでガラガラと不快な音を立てている。
「すいません」
 しゃがみこんだ私の耳に、椅子を引く音がふたつ重なって聞こえた。二人の足音が古びた木の床をぎしぎしと軋ませ、「大丈夫ですか」という声が頭の上から降ってくる。根拠のない恐怖心が一瞬で手足の先まで広がった。
 身を乗り出すようにキッチンをのぞき込む、その影が視界をわずかに暗くした。影の主は槇村さんだと分かっているのに、顔を上げることができない。「大丈夫です」と俯いたまま口にし、握りしめた手のなかで爪を立て、まやかしの恐怖を現実の痛みでやり過ごした。
「あーぁ、ぴーちゃんはこれだから」
 呆れたような、冗談まじりの声はカナ。背後でキィと音がして、彼がキッチンのなかに入ってくる気配を感じながら、私は振り返ることができないでいる。

担当者

 左手の親指の付け根がじんじんと疼き、早く冷やさないと水ぶくれになりそうだった。心臓はいつもの倍の速さで拍を刻んでいる。
 無機質な床と、ダウンライトの明かりを反射するドリップポット、槇村さんの影、そして自分の影におおわれた両手。視界の狭まった私の世界に入り込んできたのは、カナの節ばった右手だった。中指の爪の脇と、人差し指の第一関節と第二関節のあいだにパクリと割れたあかぎれがあり、全体的にかさついている。
「美鳥さん、手見せて」
 その声は思いのほか真剣で、有無を言わせない響きがあった。隣にしゃがみこんだカナの靴がコンクリートの床に擦れ、ジャリと音がする。こんな雪の日にハイカットのスニーカー。店か車にでも長靴を置いているのだろうか。ほどけそうになった靴紐が目に入り、私の体から潮が引くようにすうっと緊張が消えていった。
「カナ、靴紐ほどけてる」
 視線をあげると予想通り心配げな眼差しがそこにあった。同じ高さの目線で、カナは「そんなのいいから」とむくれたように言う。
「手」
 その一文字だけを強い語気で口にして、カナは両手を差し出してきた。
「平気」
 私はドリップポットを掴んで立ち上がる。しゃがみ込んだまま不満げな顔で見上げるその大人なのか子どもなのか分からない態度に、私の心臓は少しずつ平静を取り戻していった。
「ああ、赤くなってますね。早く冷やしたほうがいいですよ。時間はあるし、コーヒーは急ぎませんから」
 その声に振り返ると、槇村さんは赤みを増しつつある私の指の付け根に目を向けていた。「すいません」と笑みを作り、私は目が合わないうちに顔をそらした。
 水道の蛇口をひねり流水に左手をさらすと、冬の冷たい水道水は痛みを違和感へと変え、指先はすぐにかじかんでくる。オープンキッチンの中に私とカナ、外には槇村さん。仕切られてはいても彼の気配はすぐそこにある。水音と、店内に流れるのはかすかなジャズピアノの音色。ドン、と外から響く重鈍い音は、屋根に積もった雪が地面に落ちたようだ。
「大丈夫ですから、座って待ってて下さい。カナも、もういいよ」
 ふと見ると、カナは淹れかけになっていたコーヒーをカップに注ぐところだった。少量のお湯しか透過していないその黒い液体を、匂いを嗅いでクイっと一気に飲み干し、「苦い」と眉をしかめる。こちらに顔を向けたカナは、ふっと頬を緩め肩をすくめた。その仕草にどこか懐かしさを覚える。
「そんなの飲んでもおいしくないでしょ」
 だね、とカップとサーバーとを手にカナは私の隣に立ち、シンクに置いたままにしていたドリップポットも一緒に洗って水切りカゴに伏せた。あかぎれはどうやら両手にあるようだった。
 彼は当たり前のようにサーバーを布巾で拭き、ドリップポットに水を汲んでコンロにかける。槇村さんはいつの間にかカウンター席に戻っていて、スマートフォンの上で指を滑らせていた。槇村さんとの距離がいつも通りに戻ったことで肩の力が抜け、私はまだ緊張が尾を引いていたことに気がついた。
 シュンシュンとお湯の沸く音がしはじめ、カナはその火を弱めて私に場所を譲った。コーヒーを淹れるのに必要なものはすべて目の前に並んでいる。
 居抜きで借りたこの物件は前の借り主の仕様をほとんどそのままにしており、対面カウンターもあるけれど、今は食材や備品置き場として使っていた。ガラスブロックを仕切り代わりに横一列に並べ、キッチン側にはペーパーフィルターなどの備品類、ブロックを挟んだ向こうには缶詰や瓶などの在庫をディスプレイも兼ねて置いている。端にはレジスターがあり、その脇には市内の飲食店やら美容院のショップカードが数種類、一段低い丸テーブルでクッキーを販売していた。店に入って真正面に見える場所は、精算ついでに買ってもらいやすい。
 ドリッパーにフィルターをセットし、出しっぱなしにしていたキャニスターを開けた。すでに挽かれて粉になったコーヒーをメジャーですくっていると、まだキッチンの中にいたカナが「ねえ」と声をかけてきた。彼は私の顔を見ながら、折りたたまれていた簡易椅子を出して座る。槇村さんとカナ以外にお客さんはおらず、これから来るとも思えなかった。それを分かっているからこそ彼はこんな寛いだ態度でいる。
「何?」
 二人分の粉を入れ、ポットからそっとお湯を注ぎ入れる。砂時計をひっくり返してカナに顔を向けた。彼はドリッパーをじっと見つめている。
「美鳥さん、自分のところで豆挽いたりしないの? 焙煎しろとまでは言わないけど」
 砂時計のくびれを最後の砂が通過し、蒸らしの終わったコーヒーの上にふたたびお湯をのせていく。ゆっくりと円を描くように注ぎながら、私はカナに気付かれないくらいの小さな溜息をついた。
「毎日これくらい暇だったら豆挽けるんだけど。ひとりでランチしながら豆挽いてコーヒー淹れてたらお客さんの休憩時間終わっちゃうよ。うちは軽食喫茶で私がやってきたのは料理だけだし、コーヒーで勝負する気はないの」
 言い訳だった。鳥の巣と同じような規模でコーヒーにこだわっている店はあるし、結局のところ私自身がコーヒーよりも料理本を見ている方が楽しいからそうしているだけのこと。
 すべてまんべんなく突き詰めていくというのは難しく、原価やら単価やらを考えると料理すらも妥協の積み重ねで中途半端と言われれば否定することはできない。メニューをサンドイッチに絞り込んだのも、ひとりで接客から調理までをこなし、かつ、飽きのこないものを考えた結果だった。これ以上はどうしようもないと自分に言い聞かせながら、その殻を突き破ることができないことにコンプレックスを感じ、日々の仕事に忙殺され現状に甘んじている。
「アルバイト雇ったりしないの?」
 カナは至極当たり前のような口ぶりで、私はこれまで同業者のみならずお客さんからも問われてきたその質問に、「無理」と変わらず答えた。まだ雫を落としているドリッパーを外し、温めていたカップに淹れたばかりのコーヒーを注ぐ。
「カナ、おかわりいる?」
「いる。ありがとう、美鳥さん」
「半分だけね。私も飲みたいから」
 カップを載せたトレーを片手にキッチンから出ようとすると、先に出ていたカナがカップを手に取り槇村さんの前に置いた。自分の空になったカップを手に戻ってくるカナの後ろで、槇村さんが「いただきます」とカップに口をつける。何が違うのかよく分からないまま、槇村さんが私の知っている槇村さんとは変わってしまったように思えた。それまでどんな距離感でいたのか、近づいたのか、遠のいたのか、私のせいか、彼に何かあるのか。彼は未知の人だと実感した。
 槇村さんだけでなく、男性だけでなく、みんな未知の部分を持っている。未知は希望。そして未知は恐怖であり、不安。そこに近づくことに二の足を踏むのは大人になったから、臆病になったから。
 カナにも未知の部分はある。私が知っているのは昔のカナで、幼いカナですら本心を隠していた。本人にそういう自覚があったのかは分からないけれど、仮面にしか見えなかったカナの笑顔はやはりそういうことなのだ。それでも、行動や表情が予測できるくらいにはカナのことを知っているし、見た目はずいぶん大人になってしまったけれど、カナの本質が昔と変わったようには思えなかった。その認識が覆らないことを願っている。
 カナはキッチンに入ってくることなく仕切り越しに手を伸ばし、カップだけをひょいと私の前に差し出した。私はコーヒーをそこに注ぎ入れ、自分のために半分残し、お気に入りの飴色のマグカップに入れる。
 その場に立ったまま肺を満たすように湯気を吸い込んだカナは、ほうっと気の抜けた息を吐く。そして、一口飲んで「おいしいねえ」としみじみ言った。
「自分のところで豆挽けって言ったくせに。Origin(オリジン)さんはコーヒーどうしてるの?」
「うち? うちは指一本ピッと押したら出てくるやつ。コーヒー豆は鳥の巣さんで使ってるのよりも深めのロースト。仕入れてるのってあそこでしょ?」
 カナはうちも取引している某メーカーの名前を言い「さすが大手メーカーさんの技術はすごいよね」と得意気に片方の口の端をあげた。
 挽かれて粉になったコーヒー豆をおいしく飲めるというのは、メーカーの包装技術や品質管理があってこその恩恵だ。だからこそ素人でも容易くカフェを開けるし、それはコーヒーだけでなく食材についても同じだった。その店がどの業者と取引をしているのか、店先に停まった配送トラックを見ればすぐに分かる。提供された料理のどれが自家製でどれがメーカー品なのかも見れば大体分かってしまう。けれど、カナが彼自身の味覚をたよりに豆の種類を当てられるとは思えなかった。人の良い垂れ目に丸顔の担当者を頭に想い浮かべながら、心のなかで相変わらずだなあと呆れつつ小さく溜息をついた。
「もしかして担当者うちと同じ? 岡井(おかい)さんってたまに信用ならないからなあ。情報漏洩」
 気安い会話の流れにふと口をついて出た言葉だったけれど、私はその自分の言葉にハッとして口を噤んだ。会話の行き先が望まぬ方向にすすんでしまいそうで、誤魔化すようにコーヒーカップに口をつける。なかの液体はゆらゆらと光を反射し、ぬるくなったコーヒーは最初よりも苦味を感じた。
「情報漏洩って、どんな機密なの」
 息の漏れるようなくつくつというカナの笑い声を耳に入れながら、上目遣いでちらりとその表情をうかがう。カナは視線が絡むと思いのほか優しい笑みを浮かべ、そして「あ」と表情が切り替わった。
「そういえば岡井さんから聞いたんだ。美鳥さん『Cafeソラヘ』で働いてたことがあるんでしょ?」
 ギッと音がした。カナの体で隠されたその顔は見えないけれど、槇村さんがこちらに体を向けた気配があった。二人がどこまで知っているのか、岡井さんは二人に何をどこまで話したのか、自ら発した言葉が自分自身に跳ね返ってこないように、私は慎重に言葉を探した。そして『Cafeソラヘ』の雇い主の顔を思い出す。
「昔ちょっとね」
 そう口にして私がカナに向けた笑顔は、あまりにも本心と乖離していた。

自己破産

「岸本さん、自己破産したらしいですよ」
 それはカナのものではなく、槇村さんの低くそして普段よりもずっと穏やかな声だった。彼の言葉に滲む気遣いは、『Cafeソラへ』のオーナーであった岸本(きしもと)有志(ゆうじ)に向けられたものなのか、それともユウジと関わりのあった私に向けられたものなのか。
 内心動揺しつつ、それはユウジの自己破産を知ったからというよりも、彼と『Cafeソラへ』で過ごした日々を思い出したからだった。意思とは関係なく蘇る映像を無理やり頭の端に追いやり、それでも当時の感情だけは抗いがたく脳を侵蝕していく。
「……そうなんですか」
 私の声も口の動きもロボットのようにぎくしゃくとし、けれど元雇用主の行く末を案じた元従業員の顔としては違和感ないものだったはずだ。実際にはユウジの今の状況に対して驚きなど何もなく、どちらかといえば、よくあれから三年ももったものだと感心してしまった。
「ソラへのオーナー、岸本さんっていうんだ。美鳥さん、今も連絡とってるの?」
 カナの表情に浮かぶ憂いは何に向けられたものなのか。「岸本」という名すら今知ったばかりのようだけれど、と考え、ふとユウジとカナがずいぶん昔に顔を合わせていたことを思い出した。
 朝の雪道のランドセル姿。私がユウジを「先輩」と呼んでいた頃の、カナに向けた表情への小さな苛立ち。懐かしいと言えなくもないその光景を、あえてカナに話す気にはならなかった。
「店辞めてからは全然会ってないし、連絡もとってない。私も自分の店のことばっかりで、すっかり遠のいちゃった。自己破産って聞いてもピンとこないよ」
 ふうんと鼻を鳴らして残りのコーヒーを飲み干したカナは、納得していないような顔で「ごちそうさま」とカップを差し出した。
 私は他の人たちのように上手く仮面がかぶれない。表面と乖離した気持ちは目尻や口元をぎこちなく硬直させ、カナの視線は目ざとくそこに注がれているようだった。
 美鳥は嘘つかないほうがいいよ、バレるから。何度タマに言われたか分からない。県外に出て一度途切れたタマとの交友は『鳥の巣』をはじめる頃から復活していた。今も変わらず、彼女は冗談混じりにその台詞を口にする。
 カナは私が出した右の手のひらに空のカップを置きながら、
「連絡つかないんだって」
と困ったように眉尻を下げた。困るというよりは呆れているのかもしれない。
 カップの取っ手に指をかけたままのカナと、カナがその指を離すのを待つ私の手がコーヒーカップ越しにつながり、一瞬だけ視線が絡む。言葉の続きを問うように私が首をかしげると、カナの表情がふっと緩み、くるりと後ろを振り返った。彼の指は離れていた。
「ねえ、槇村さん。岡井さんが電話してもそのひと出ないんでしょ」
 話を振られた槇村さんはわずかに首を上下させ、困惑気味に眉を寄せる。口元には曖昧な笑みが浮かんでいた。「出ないみたいだね」という彼の言葉がなぜか責任逃れのように聞こえ、槇村さんはそれ以上何も言わず、話を切り上げるように「ごちそうさま」と立ち上がった。カナは彼の隣へ行き、窓に顔を寄せて外の様子をうかがう。入れ替わるように、槇村さんがレジの前に立った。
「あいつのも一緒に払います」
 ラッキー、とカナは調子良く言い「ごちになります」と頭を下げた。その笑顔の向こうには相変わらず真っ白な窓ガラスがあり、風がひゅうっと唸ってBGMのピアノの音色を覆い隠し、カナはまた窓の外に目を向ける。
「美鳥さん、何時まで開けるの?」
 おつりを受け取った槇村さんが、カナの心配げな声につられて後ろを振り返り窓の外をうかがった。二人はこのあと店を出て、私はひとり来ることのないお客さんを待ち、窓の外が暗く夜の色に染まるのをながめるのだ。ぽつんと雪原に残されたような不安が胸のうちに芽生えた。
 一人でいることには慣れている。寂しさも不安も常に傍にあり、放っておけば消えてしまうくらいの小さな不安に振り回されることはない。
「いつも通り、七時半オーダーストップ、八時閉店」
「本気?」
 カナの口元は不機嫌に歪んでいた。私はそれを見てドングリを口いっぱいに頬張ったシマリスを思い浮かべる。胸にあった不安の塊がじわりと溶け出し、なぜか涙がにじみそうになった。
「早めに閉めたほうがいいですよ」
 間近で聞こえたその声にハッとし、目の前の槇村さんとまっすぐに目が合った。彼の目がわずかに見開かれ、私もきっと同じような顔をしているのだろう。けれど、その驚きの理由が彼と私とで同じなのかは分からない。
 彼は穏やかな笑みを浮かべる。私は以前たしかに経験した、ある恐怖を思い出す。距離が揺らぎ、かすかな目眩をおぼえた。
「……そうですね」
 呼吸が浅くなるのを意識して長く息を吐き、うつむいた目線の先にはレジのドロワーが開けっ放しになっていた。開店前に補充した釣り銭が、ほぼ変わらぬままそこにある。
 ガチャンと音をさせてレジを閉め、その音を合図に私は笑顔をその人に向けた。
「様子をみて早めに閉めることにします」
 ほっと安堵した様子で肩の力を抜いたその人は、きっと本心から私を心配してくれている。そう信じるだけの根拠はなく、信じようとすればするほど、私のなかには疑念が膨らんでいく。笑顔ほど信用のならないものはない、そう思ってしまう自分を持て余すのはいつものことだ。
「美鳥さん、帰れなくなっちゃうから本当に早く閉めたほうがいいよ」
 カナは私の言葉を疑っているのか、まだ不機嫌な顔を崩さずにいた。実際、私は予定通り八時まで営業するつもりでいたし、それについて二人にこれ以上心配をかけるつもりも迷惑をかけるつもりもなかった。
 天候に左右されてあっさり営業時間を変更できるくらいの自由さが自分にあれば、この店はもっと違うものになっていたのかもしれない。姉の美空(みく)なら「じゃあ閉めちゃおっかな」と歌うように言って、そのままの勢いで看板をクローズにしてしまうだろう。閉店時刻まで営業しても来る客はせいぜい一人か二人。誰も来ない可能性のほうが高かった。それでも「早めに閉める」という簡単な決断を躊躇ってしまうのは、少しでも売上がほしいからだ。
 ふとユウジのことが頭を過る。自己破産。
「お客さん来るかもしれないし。もう少し様子見てから決める」
 カナが呆れ顔で「はぁ」とわざとらしく息をつき、槇村さんはまた眉のあいだに皺を寄せた。大丈夫ですよと言うと、カナがすぐさま「大丈夫じゃないでしょ」と私の声を遮った。
「美鳥さん今日歩きでしょ? りっちゃん、迎えに来てくれないの?」
 カナの言う「りっちゃん」とは、もちろん私の母親のことだ。何気なしに私が会話のなかで「りっちゃん」と口にしたのをきっかけに、カナは冗談ぽくその呼び名を使い、いつの間にかそれが当たり前になっていた。槇村さんが私とカナを交互に見る。会話から距離をおくべきかどうか迷っているようだった。
「りっちゃんって、私の母のことです」
 彼は納得したように「ああ」とうなずいていたけれど、私は言わなければよかったと後悔した。彼が、普段より一歩近くに寄っている気がする。
「送って行ってあげられたらいいんですけど……」
 日付をまたいで仕事をしている槇村さんが私を送っていけるはずもなく、けれど、彼はそれを言うために店を訪れたのでは、という直感のようなものがあった。その考えが頭に浮かんだ瞬間、彼に向けてわずかなりとも開いていた心の扉が、何枚か一気に閉じた。一枚ずつ確実に、バリケードをつくっていった。
「ありがとうございます。でも、今日は車なので大丈夫です」
 槇村さんに向けた言葉に「そうなの?」とカナが反応し、ようやく安心したように彼の表情から不機嫌な緊張が消えた。
「車どこに停めたの? 美鳥さん駐車場借りてないでしょ」
 ふだんは家から自転車で十分もかからない。仕入れだけ午前中に車ですませて家に帰り、そのあと自転車か徒歩で店に出る。歩いても二十分少々の距離だから、わざわざ店の近くに駐車場を借りようという気にならなかった。路地を入った目立ちにくい場所とはいえ、鳥の巣から駅まで五分もかからず、近くの月極駐車場は市内でも高値の立地だ。
「駅南パーキングの立駐。あそこなら雪積もっても平気だし、二十四時間以内なら最大千円だから」
「なら大丈夫だね。もしかしたら俺らの方が大変かも。雪で車出せなくなったりして」
 ねえ、とカナは槇村さんに同意を求め、積もった雪を確認するように窓越しに地面をのぞき込んだ。槇村さんは空を見ている。スイングドアを押してキッチンから出た私は、カナの右隣に並んで外の様子をぐるりとながめたけれど、曇ったガラスにぼんやりとコニファーの緑が映っているだけで、世界はほぼ真っ白だった。
「積もってそう?」
 問いかけると、カナは「そうでもないかも」と窓の曇りを大きく拭って、ガラスに額をつけるようにキョロキョロと視線をめぐらせている。そのあと「ほら」と場所を空け、彼がいなくなると同時に一台の青い車が目の前を通り過ぎていった。カナの無造作な手の動きをかたどったクリアな視界には、水滴が点線をつくっている。テールランプが灯り、赤い光が小さな水滴に映り込んだ。路地を抜けたその車は大通りを右へと曲がって姿を消し、道に残された轍はせいぜい十センチほどで、カナの言うとおり積雪は思ったほど多くはないようだった。とはいえ、店を開けたときにはまだアスファルトが見えていたのだから、このペースで朝まで降り続くと明日にはかなりの雪が積もることになる。早朝の雪かきを考えて今から憂鬱になった。
「さっきスマホで確認したら、夜の九時頃には雪がやむらしいですよ。警報も解除されたみたいです」
「本当ですか?!」
 ええ本当です、と答えた槇村さんの口元が笑いを堪えるようにキュッと引き結ばれた。それくらい私の声は弾んでいて、その自分の声に驚いた。警報解除というその言葉で一気に広がった安堵が、逆にそれまでいかに不安を感じていたのかを認識させる。コタツにもぐり込んだ母の姿が頭に浮かび、ほっと肩の力が抜けた。
 年末に腰を痛めた母は冬の寒さが堪えるらしく、季節問わず用事がなくても用事を作り出して忙しなく動き回っている人が、ずっとコルセットをつけっぱなしでコタツに居すわっている。そんな母に雪かきができるはずもなく、結果それは私の仕事になっていた。姉はずいぶん前に結婚して家を出ているし、父はすでに他界して、今は私と母の二人暮らしだった。家族四人でちょうどの広さの一軒家は、二人で住むにはずいぶん広い。私はほとんど家にいることがなく、一人さみしく夕飯をとる母の姿を想像すると、どこか申し訳ない気持ちになる。たまには早く帰ろうか。ふとそんな気持ちが芽生えた。
 槇村さんがドアを開けると、冷気とともに雪が舞った。体を押し戻すほどの風はすっかりおさまり、店内をふわふわと漂った雪は床に落ちてじわりと溶けた。
 後についてドアに手をかけたカナが、ふと思い出したように「あ、そうだ」と立ち止まる。閉じられたドアの向こうに槇村さんの姿は消え、ごそごそとコートのポケットを探っていたカナは、「あった」と悪戯でも企むような笑みを浮かべた。きゅっと両端の上がった唇が、
「おひとつどうぞ」
と聞き覚えのある言葉を発する。私の目の前で広げられたカナの手のひらには、チロルチョコレートがひとつのっていた。もちろん定番のコーヒーヌガーで、カナは店に来るたびにこうしてそのチロルチョコレートを置いていく。
「バカのひとつ覚えじゃないんだから、たまには違うの持って来たら?」
 私はカナの手からそれをつまみ、包み紙を開けて口に放り込んだ。凹凸で描かれていたのはロケットで、この雪じゃあ月まで行けない、なんて脈絡のないことが頭に浮かんだ。
「考えとく」
 カナはそう言ったけれど、きっとまた同じものを持ってくるのだろう。再び開けたドアの先には足跡が路地へとつづき、カナはその大きな足跡をたどるようにスニーカーで雪の上を駆けていった。ちょうど大通りと交わるあたりに槇村さんの背中があり、そこまでの中間地点あたりでカナが振り返る。
「美鳥さん、気をつけて帰ってね」
 手を振るカナに、「そっちもね」と手を振り返した。私たちの声に気づいた槇村さんはその場でカナを待ち、二人の姿は通りを右に曲がって見えなくなった。曲がる直前、カナはまた手を振り、槇村さんはぺこりと頭を下げた。雪はチラチラと舞いおちる程度で、心なしか空に広がる雲は明るさをまとったように見えたけれど、東の空は曇天とは違う夜の暗さを帯びはじめていた。
 私はロッカーからウィンドブレーカーを取り出してエプロンの上に着込み、長靴に履きかえ、手袋をしてスコップを手に外に出た。

【第二章】

 

美鳥27歳――1

 駅のコンビニで耳にしたメロディーが、実家へと向かう特急列車のあいだずっと頭のなかを流れていた。通勤時間帯を過ぎたその列車の座席は半分ほどしか埋まっておらず、窓際でぼんやりと景色をながめる私の隣には誰も座ることがなかった。
 深夜に仕事を終えてから一睡もしていない。思考は何も形を結ばず、私はただすべてから逃避するように、THE TIMERSの『デイ・ドリーム・ビリーバー~DAY DREAM BELIEVER~』(1989 東芝EMI)を小さく口ずさんでいた。カーブに差しかかった瞬間、キラリと窓枠に陽光が反射する。夜はすっかり明けていた。

 今朝はやく仕事帰りに見上げた空は、薄っすらと白んではいたものの幾つかの星が瞬いていた。午前四時前。初夏とはいえ、夜明けにはまだ少し早かった。空を仰いだのはほんの一瞬で、自分の頭の重さに耐えかね、私は項垂れるようにしてマンションの階段を上がる。鍵を取り出すことすら億劫だった。靴を脱ぎ散らかしたまま、帰りに寄ったコンビニのレジ袋は冷蔵庫に突っ込み、鞄を放り投げて着替えもせずベッドに倒れ込んだ。
 ただ、ひたすらに疲れていた。
 なぜこんなことをしているんだろう、どうしてこんな会社で働いているんだろう。毎日のようにその疑問が頭の中を駆け巡り、息苦しさと、逃げ場が奪われていく恐怖に、体も心も限界が近づいていた。辞めてしまえばいい。その考えに現実感が伴わない。
 地元を出て県外の大学に進み、そこにあったのは地元と変わらない田舎の景色だった。大学生活自体はそれなりに楽しんだ記憶がある。どこで間違ったのか。その答えの行きつく先はいつも同じだ。
本巣(もとす)さん、このままウチの会社に就職しない?」
 スポーツマン張りの爽やかな笑顔を私に向けたのは、大学四年の秋にアルバイトをしていた先の居酒屋の店長だった。まだ三十路になったばかりというその店長は、「若い感性大事にしてるから、やりがいあるよ」と、ぎゅっと拳を握りしめ、それは演技過剰にも思えたけれど、年の近い人たちが主軸として働いているその会社が、その当時の私にはとても魅力的に感じられたのだった。
『まいどカンパニー』という名のその会社は業態の違う飲食店を地域に展開しており、居酒屋が五軒、ラーメン屋が二軒、惣菜屋が三軒、それとは別にカラオケボックスを四店舗経営していた。社長も幹部も三十代半ばから四十代後半と若く、従業員は二十代がほとんどだった。
 大学四年の秋という微妙な時期のこと。一度辞めていたその居酒屋のアルバイトを再開したのは、一向に成果の出ない就職活動で地に堕ちた自尊心を多少なりとも回復できる手立てはないかと、私なりにあがいた結果だった。
 店長からの誘いを年の近い女子社員に相談すると、「これからも一緒に働けるね」と歓迎してくれ、私は「前祝いに」という彼女の誘いを受けて飲み屋でごちそうになった。ここなら認めてもらえるかもしれない。そんなことをはっきりと思ったわけではないけれど、前向きな気持ちになった私はその会社に就職を決め、入社した一ヶ月後にその女子社員はあっさりと転職していった。若い社員が多い、すなわち離職率が高い、そんなことを私は今さらのように実感したのだった。
 本当は分かっていたし、彼女が辞めたときも「しょうがない」という程度で、私自身就職を決めたときにはずっとこの会社で働こうとは思っていなかった。それがいつのまにか『店長』という肩書の印字された名刺を持ち歩くようになり、就職して五年目には入社当時の顔ぶれは一掃され、幹部予備軍という立場になっていた。
 それなりの給料はもらっていたけれど、勤務時間は日に十二時間を優に超える。「休み」と出勤表に書き込みながらも、店に顔を出さないわけにはいかなかった。
 重力になんとか逆らい、むくりとベッドのうえに起き上がった。のろのろと汗臭い服を脱ぎ捨て、体を引きずるようにして脱衣所にたどり着き、手にした服を洗濯機に放り込んだ。
 立っているのがやっと、少しでも気を抜くと頭上からのしかかる圧力に潰されてしまう。ゆっくり、動きを止めないように、浴室のドアを開けてシャワーに手をかけた。体を洗う、そのひとつひとつの動作に深い溜息がもれ、体の中にある重りは変わらずじっと居すわっている。何をどうしようと無駄な抵抗に思えた。
 両手を壁につき、ノズルから勢いよく降り注ぐシャワーを頭で受け、頬に張りついた髪が束となり、その先から床へとお湯が流れ落ちていく。一度動きを止めてしまうとすべてが面倒になり、気力は尽きて、ただお湯に打たれた。
 ふいに涙が溢れ、それはすぐさまシャワーと一体となって足元に降り注いだ。
「……ふっ、うっ……」
 嗚咽がもれ、浴室のなかに無様な自分の声が反響した。しゃがみこんで膝をつき、そのまま力なくへたり込んで、何に構うこともなくひたすら声をあげて泣きつづけた。
 限界だ。
 しゃくりあげながら空気を肺いっぱいに吸い込み、それから限界まで吐き出した。吐く息が震え、その度に絞り出すように涙がこぼれた。
『あの車、ぶつかってきてくれたら良かったのに』
 帰り道、背後からブゥンと改造マフラー特有のエンジンの音をさせた車が通り過ぎたとき、そんな言葉が頭をかすめた。死にたいとは思わない。誰か楽に殺してくれたらいいのに、そう思っただけだ。
 バスタオルを肩に引っかけたまま素っ裸で冷蔵庫を開け、コンビニのレジ袋を取り出してテレビを点けると、爽やかな笑顔の女性キャスターが「今日も暑くなりそうですね」と天気予報士に話題を振っていた。彼女の笑顔の下にもなにがしか辛いことがあるのだと、そのハリボテの笑顔に同情し、そんなことで自分を慰めている。
 力なくソファにもたれかかり、プリンとマンゴームース、それに黒蜜のかかった葛切りを黙々と口に運んだ。味など分からないまま甘さだけを欲し、喉を通り過ぎていくそれらは空腹を満たすことはない。いくら口に入れても、胃袋のなかに流し込んでも心は(かつ)えたままで、鳩尾(みぞおち)のあたりにはたしかに固形物の入った感触があるけれど、胸にはスカスカとした空洞があるばかり。立ち上がって空になったプラスチック容器を流しに投げると、吐き気をもよおしトイレでうずくまった。
 消化されないままトイレに流れていく残骸を見つめながら、また涙があふれた。情けなくて、情けなくて、すべてが嫌になった。
 水切りカゴに伏せられたグラスを手をかけると、無造作に置かれた皿の隙間にちらりとペティナイフがのぞいた。鈍く、胸が疼く。ギュッと目を瞑り、グラスに水を注いで一気にあおった。すると、いきなり背後から着信音が鳴り響いた。
 過労で麻痺したはずの第六感が、それでも電話をとることを躊躇させる。それなのに、私は吸い込まれるようにしてスマートフォンに手を伸ばしていた。そこには『実家・本巣家』と表示があり、予感が現実味を帯びた不安へと変わった。
「……もしもし」
『もしもし、美鳥? 美空(みく)だけど』
「お姉ちゃん? どうしたの、こんな朝早くに。なんで本巣の家にいるの?」
 立て続けの私の質問に、姉は「えっと……」と言い淀んだ。そのあと、ふうっと諦めのような、覚悟のような吐息が耳に届いた。
『美鳥。……あのね、お父さんが』
 姉は自分を落ち着けるようにふたたび言葉を切った。深い呼吸音が聞こえる。私の第六感は当たってしまうのかもしれない。ふと目を留めたテレビ画面で、女性キャスターはまだ笑っていた。

美鳥27歳――2

 電話を切ったあとクローゼットからボストンバッグを引っ張りだし、思いつく限りのものを詰め込んで、眠ることなく自宅マンションを出た。高校生が自転車を立ちこぎし、スカートの裾をひるがえしてすぐ脇を追い抜いていく。その先には足早に駅へと向かう人々の姿があった。
 普段は朝のワイドショーをつけっぱなしにして微睡むこの時間帯、世の中はこんなふうに時を刻んでいるのかとぼんやり考えながら、通い慣れた職場への道を、人の流れから外れて繁華街に向かう路地へと入った。
 朝の日差しは夏らしく、暴力的に意識を覚醒させようとする。ビルのあいまを抜けて低い位置から顔を照らす陽光に手をかざし、指の隙間からは苛立った鳴き声をたてる数羽のカラスが見える。スナック看板の下で、コツコツと間抜けな音をさせて古びたポリバケツをつついている。仕事終わりらしい茶髪の若者は、安っぽい光沢のジレの下からだらしなく皺くちゃのシャツを垂らし、赤らんだ顔のままゴミバケツを蹴りつけた。飛び立ったカラスも、甲高い笑い声も、どちらも耳障りだった。
 ふたたび餌を求めて舞い戻ってきたカラスにちらりと目をやり、スナックの隣の、シャッターのぴしりと閉じた建物の前で足を止めた。ここを出たのはほんの数時間前で、警備の解除をしながら、建物のなかに入ることへの嫌悪感がこれまでになく膨らんでいく。
 やるべきこと、果たすべき責任、それらは雪崩のように絶え間なく私をのみ込み、浮かんだ疑問は濁流のなかに消える。そして目の前に突きつけられた現実――父の死により、私はその濁流から頭を突き出して、自分が翻弄されてきた理不尽な世界を、現実感のないままどこか冷めた眼差しで見つめていた。
 誰もいない店内で数日分の予約と発注を確認し、翌々日に予定している雑誌取材とあわせていくつかのメモ書きを残した。私がいなければ、などということはない。いなければいないなりに店は回っていく。これまで何人もの人間が辞め、しわ寄せは確実に残された人間に来たけれど、いつしか慣れがそれを忘れさせた。回らなければ潰れてしまえばいい、そんな気持ちもあった。
 思いつく限りのことをやり終え、本部の人間が出勤する八時半になるのをじりじりしながら待った。時間の流れはひどく緩慢で、事務室にある掛け時計の針が八時をまわったとき、いても立ってもいられなくなり店を出て駅に向かった。
 駅舎の正面にある時計塔は八時二十分を指している。駅に向かう人よりも駅から流れ出してくる人が多く、みな目的地を目指してまっすぐに歩いていた。
 時計塔の影で足を止め、ふと見上げると薄っすらと白い半月が浮かんでいた。世界に取り残され、向かう先を見失ったように雲のない空にポツンとあるその姿は、海を漂う海月のようだった。ふっと息を吹きかければ消えてしまいそうなくらい儚い。
 誰か出勤しているだろうかと本部に電話をかけた。コール音が鳴りつづけ、顎をぐいと上げて真上の時計を確認するけれどまだ八時二十一分で、ため息をつき、一旦切ろうとスマートフォンを耳から離したその瞬間、聞き慣れた声で無意識に姿勢を正した。
『はい、まいどカンパニーです』
 私の胸に一瞬で広がったのは安堵ではなくギュッと締めつけるような恐怖、暑さで汗の滲む背が緊張でこわばった。喉の奥に言葉が詰まり、私は縋るように空を仰ぐ。漂う海月は孤独で、けれど自由だった。
「……あの、一ノ瀬さん。おはようございます。本巣です」
 本巣さん? と電話の向こうから素っ頓狂な声がした。まだ穏やかで、聞きようによっては爽やかでもあるその声がこのあと豹変することは、疑いようのない事実だった。
『本巣さんどうしたの。こんな早くに。何かあった?』
「えっと、……あの、今朝父が亡くなりまして、実家に戻らなければならないので、しばらくお休みさせていただきたいんですけど……」
 相手の反応を待つわずかなあいだに口元はひきつり、堪えるようにぐっと下唇を噛みしめた。
 ほんの二週間ほどまえに祖母の三回忌だからと休みを申請した社員は、問答無用で却下された挙句にネチネチと文句を言われ続けている。実の父親の葬儀に出るなとは言わないだろうけれど、彼の口から労いの言葉が出てくるとはまったく思えなかった。その予想は(たが)うことなくスマートフォンの小さなスピーカーから流れ出してくる。
『えええ……、お父さん。亡くなられたの。それじゃあ、仕方ないなあ』
 一ノ瀬さんの声は明らかに不機嫌だった。私に否があるわけではないのに、条件反射で何通りもの謝罪の言葉が頭を過る。いつもと違うのは、強制的に湧き上がってくる罪悪感を他人事のように感じたことだ。
「すいません」
 できる限りの低姿勢で、申し訳なさを消え入るような声に込め、必要以上に相手を刺激しないよう私はその一言で口を噤んだ。
『まあ、分かったけど。日程は? えーっと、明日は……、友引かあ。通夜どうせ明日だろう? 今日は仕事出られないの?』
 私の口からこぼれたのは「え?」という無意識の声だった。だから、と一ノ瀬さんは煩わしそうに語気を強める。
『たしか地元にお姉さんいたよね? 通夜が明日だったら、本巣さんが今日仕事してもなんとかなるんじゃないの?』
 ブラック企業だというのは身に染みてわかっている。理不尽な叱責もずっと我慢してきたし、そこにはまったく関係のない両親への侮辱的な発言も含まれていたけれど、それは言ってみれば言葉だけのことで、耐えようと思えばなんとか耐えてこられた。
 父の顔が頭に浮かんだ。
 ――よしりん。私ちゃんとがんばるから。おばあちゃんの料理みたいに誰かを幸せにできるような、そんな仕事するから。
 まだ希望という言葉を信じていられたあの頃、就職が決まったばかりの私の宣言に、父はビールでほんのり赤く染まった頬を緩ませ、満足げに「そうか」とうなずいていた。
 私のなかで何かがプツリと決壊した。アドレナリンなのか何なのか、ぱんぱんに膨らんだ水風船が弾けるように感情が一気に昂ぶり、現状に対する認識がぐるりとひっくり返る。そしてすべてが馬鹿馬鹿しくなった。
 発車ベルと、くぐもったアナウンスの声が微かに耳に届いた。この街でのしがらみは放り出して帰っておいで、そう言われているように思えたのは、もう限界を越えていたからだろう。本当はずっとキッカケを探していたのだ。逃げ出すキッカケを。
 ごめんね、と心のなかで父に謝った。それでもまだ父がこの世にいないとは思えなかった。それくらい父との距離が開いていた。盆も正月もまともに帰省することなく、最後に顔をあわせたのはいつだったのか、すぐには思い出せない。
「どうなの?」
 不機嫌さを隠すことのない一ノ瀬さんの声。反射的に緊張が走るけれど、アドレナリンはまだ分泌されつづけていた。
「すいません。母がショックで倒れたらしくて、姉も妊娠中で出産間近なんです。看病も必要ですし、一週間か十日くらいは戻れないと思います。ご迷惑おかけしますけれど、よろしくお願いします」
 口からはつらつらと嘘八百が飛び出していた。どんな理由があったら辞められるか、先の見えない泥沼から抜け出せるか、鬱屈した日々を送りながら頭の片隅ではずっとそんなことを考え続け、それがようやく出番を迎え、滞りなく役目を果たしたというような、そんな言葉だった。
 最後に「本当に申し訳ありませんでした(・・・)」と言い切って、そのまま一ノ瀬さんの返事も待たず電話を切り、すぐに『本部』から着信があったけれど無視し、スマートフォンの電源を切った。 
 
 トンネルを抜けると車窓を流れるのは青々とした杉林と、山の麓に沿う一本道があり、間近にあったその道は次第に離れ、線路と道のあいだには、進行方向に向かって田圃がその面積を広げていた。その風景は祖母の住む簑沢(みのさわ)に似ていた。
 頭のなかには『デイ・ドリーム・ビリーバー』が流れている。祖母の家に向かうその道すがら、あの時も、ラジオからは同じメロディーが流れていた。父も、母も、姉も、そして私もサビの部分だけ大きな声ではっきりと歌って、他の部分はふんふんと鼻唄で合唱していた。
「クイーンかぁ」
 父は歌詞のなかにあるその言葉を口にして、ハンドルを握ったまま後部座席に目を向けた。私は母の座る助手席のすぐ後ろで、曲にあわせて揺れる母の頭にあわせ、同じように体を揺らしていた。
 助手席から後ろに身を乗り出すようにして、母が「クイーン」と悪戯っぽい笑みで自分を指差し、父の左手がハンドルから離れ「危ないから」とその服を引っ張り、私はこの時ふと「ふたりは昔、恋人同士だったんだ」と、そんなことを考えた。
 大学の卒業式が終わったばかりの、就職前の春だった。姉は短大を卒業した後すぐに結婚し、家を出て夫婦でマンションを借りて暮らしていた。四人で暮らしたあの家で、もう四年近く父と母はふたりきりで過ごしていたことになる。昔から「母」という雰囲気のない人ではあったけれど、母は一層「りっちゃん」らしくなっていた。その奔放さは姉に受け継がれているけれど、姉にはどこか現実主義なところがあった。
 父は前を向いたまま「りっちゃんはクイーンって言うよりなあ」と口にしたけれど、結局そのあとの言葉は思いつかなかったのか曖昧に笑ってごまかし、その横顔をゆらゆらと斑の影がなぞった。道の両側から張り出した木々のトンネルをくぐり、木漏れ日がつくる柔らかな光があたりに降り注ぎ、そして流れていく。
 車内では「クイーン」に関するの薀蓄を姉が得意気に披露している。じゃあ私はクイーンじゃなくてプリンセスにするわ、という母の言葉に笑い声が弾け、木陰を抜けて陽光に晒された視界は真っ白に霞んだ。
 薄っすらと瞼を開け、ぼんやりと眺めた窓の外には懐かしく平坦な街並みが広がっている。車内アナウンスが次の到着駅を告げ、帰ってきたのだという実感がじわりと体を満たし、ふと引き攣れた目尻に、微睡んだまま泣いていたのだと気づいた。一筋流れた涙の跡をそっとなぞり、けれどそれ以上涙が出てくる気配はなかった。

美鳥27歳――3

 初七日が終わって姉はマンションに帰ることになった。私はまだ、実家に居座っていた。
 ジーワジーワと夏らしい蝉の声が絶え間なく聞こえてくるのは、玄関の引き戸が開け放たれているからだ。そこと座敷を仕切るガラス戸も閉め切ることなく、エアコンと扇風機で心地よく冷えた座敷に、三十センチほどの隙間からぬるい空気が入り込んでくる。
 玄関脇の階段を軋ませ、義兄が首にかけたタオルで汗を拭きつつ二階から降りて来た。框に腰をおろしてサンダルに足を突っ込み、ちらりと座敷をのぞき込んだ彼は、私と目が合うとにこりと笑う。そして座敷から漏れ出す冷たい風に目を細めた。足元のそのサンダルは父が使っていたものだ。
「アキちゃん、もう終わりそう?」
 座敷でファッション誌を広げて寛いでいた姉は、顔をあげて義兄に問いかけた。名は彰紀(あきのり)といい、姉にならって私も母も「アキちゃん」と呼んでいる。
「あと、ひと箱持って上がったら終わりだよ」
 アキちゃんは「よしっ」と気合いとともに立ち上がり、門の前に停めた車へと歩いていく。私は姉とふたりで卓袱台のまえにだらしなく座り込んで、その義兄の奮闘ぶりを尻目に、規則的に肌をなでる扇風機の風に何をするともなく過ごしていた。
 奥に細長い玄関にはまだ父の靴が並んでいる。段ボール箱を抱えたアキちゃんはそれを器用に避け、またギシギシと音をさせながら二階へと上がっていった。その背に「部屋においてある袋、持って降りて」と姉が声をかけた。
 二階には姉の部屋がそのまま残っている。義兄は妻を迎えに来たついでにダンボール箱を三つ持ってきて、その中にはぎっしりと漫画本が詰まっていた。姉はこうして買い込んだ漫画の倉庫として実家を使っている。
「お姉ちゃん、手伝わなくていいの?」
「なにを?」
 姉は不思議そうに目をぱちくりとさせ、夫が手土産に持ってきた水ようかんを口に入れた。扇風機の風が「昔ながらの水羊羹」と書かれた容器の紙蓋を吹きとばす。
「あ、アリさん来ちゃうから、美鳥、それ拾っといて」
 姉は空になった容器を卓袱台に置いてごろんと畳に横になった。座布団をふたつ折りにし、その上で頬杖をつくようにして再び雑誌をめくりはじめる。私は仕方なく姉の出したゴミをつまみ、空の容器の中に突っ込んだ。
 ガラス戸の向こうを義兄が立ち止まることなく通りすぎ、その両手にはアパレルショップの袋があった。この一週間で姉が買い込んだ夏のセール品がギュウギュウに詰め込まれている。何着か「キツイから、美鳥にあげる」と投げてよこしたけれど、どれも私には大きかった。
 トド、とまではいかないけれど、畳の上に寝転がる姉の姿はずいぶん丸みをおびている。電話でやりとりしてはいたけれど、私が家を出てからほとんど顔を合わせることがなかった。
「お姉ちゃん、今さらだけど……」
「なに?」
「太ったよね」
 独身時代ほっそりとしていた彼女の体は、結婚してから年輪のように一回りずつ大きくなり、年月を経た成果が目の前に横たわっている。
「ホントにね。これだけ大きいんだから産まれてきてもいいはずなんだけど」
 姉はそう言って、脂肪と内臓しか詰まっていない自分のお腹をポンと叩いた。結婚当初こそ「なかなか子どもができない」と悩んでいたものの、二十代前半という遊びたい盛りだったせいか「こればかりは授かりものだから」と、恋人気分で夫とふたりきりの結婚生活を楽しんでいるうち、彼女は今年三十の大台にのる。夜中にひとりトイレで倒れた父は、一度も「じいじ」と呼ばれることなく逝ってしまった。もちろん、このあと私たち姉妹に子どもができるかどうかは分からない。
 お餅のような姉のおなかを揉みながら、チラリと彼女の顔をうかがった。
「お姉ちゃん。ちゃんと子どもができるようなことしてる? それともレス?」
「なに言ってるの。私とアキちゃんがレスに見える?」
 姉はクイと顎で玄関を指し、わずかな隙間から覗き見ると、そこには顔からダラダラと汗を流してTシャツをべっとりと濡らした義兄の姿があった。ようやく荷物を積み終わったのか「ふう」と肩の力を抜き、すっかり汗の染み込んだタオルで顔をこする。私たちの視線を感じたのかくるりとこちらを振り返り、横着者の姉妹ふたりに眼鏡の奥のつぶらな目を細めてにっこりと笑いかけた。肉づきの良いまん丸の体は昔と変わらず、生え際は以前より少し後退している。
「見えるよ。レスに」
 私がぼそりと口にすると、姉はフンと鼻で笑う。
「わからない? この肌ツヤ」
 姉は自分の頬を人さし指で押してみせ、それは確かに触りたくなるほどもっちりした肌をしていた。私のカサカサの肌とは大違いだ。
「太ってるからでしょ」
 姉の隣に寝転がって天井を見上げると、懐かしい板目が目に入った。節がムンクの『叫び』に見える。ふいに視界がぐらりと歪み、目を閉じた。まだ本調子ではない。
「私のことより、アンタでしょ、美鳥」
 心配げな声に薄く目をあけると、姉は真上から私を見下ろし、先ほどまでと違いその眉はぎゅっと寄せられている。
「美鳥、体は大丈夫なの? こんなに痩せて、無理しすぎなんじゃない」
「大丈夫。まだ標準体重の範囲内だから」
「最低ラインぎりぎりでしょ?」
「お姉ちゃんは最高ラインぎりぎりだよね。それともオーバーしてる?」
 意地悪く笑ってみたけど、姉は乗ってこなかった。
「美鳥さあ、こっち帰ってきたら? りっちゃんも心配してるし。よしりんがいなくなって寝込みたいのはりっちゃんなのに、あんたが熱出してどうすんのよ」
 呆れたように言い、姉は私の額に手をあてる。
「もう熱ないから、平気」
 姉の手を払いのけ、腹筋するようにして上体を起こした。もう、と姉は鼻から息を吐き、叱るように私を睨む。それも一瞬で、ふっと脱力して「店長が聞いてあきれるわ」と漏らした。私はその言葉にまた目眩を覚えたけれど、背を優しくなでられて呼吸がわずかに楽になる。
 葬儀が終わった翌日、私は三十八度の熱を出した。夜には三十七度台に下がったけれど、目眩がひどく三日間布団のなかでゴロゴロし、何を考えるのも面倒で、スマートフォンも放置したまま、ぼんやりと目を閉じたり開けたりしていた。
 父の死を知るまえには止めどなく流れていた涙が、実家に戻ってから枯渇したように一滴も出てこない。頭のなかに白い霧がかかったようで、ふわふわとしていて、すべてが自分と違う場所で起きているようだった。
「好きでやってる仕事なんだろうけど、体壊しちゃったら何にもならないんだからね」
 姉は私に聞かせるように大きなため息を吐く。そのあと三人分の麦茶を持ってきた義兄と一緒に、姉は水羊羹をもう一つ平らげた。「宇治抹茶の水ようかん」と書かれていたそれを私は一口だけもらい、ベタついた甘さだけが舌に残った。滑らかなはずの水羊羹はなかなか喉を落ちていかず、それを麦茶で流しこむ。
 丸い背を寄せ合って扇風機の前で「あぁぁ」と子どものように声を出す似たもの夫婦の姿に、私は取り残されたような気分になった。
 同じ環境で育ったはずなのに、私と姉とは根本的な性質が違っている。姉のようにもっと割り切って生きていけたら、もっと素直に人を信じられたら、プレッシャーも期待も無視して好き勝手にやっていられたら。
 くるりと振り返った姉が、「夕飯はおばあちゃんのそうめんにしようか」と、私の反応を窺うように小首をかしげた。夏バテ予防だからと、簑沢に行くとよく祖母が作ってくれたそうめんは、オクラと納豆、とろろに、刻んだ青ジソとミョウガをのせて、麺つゆをかけて食べる。
「お姉ちゃん納豆食べられるようになったの?」
「まっさかぁ。私は納豆抜きにするからいいの」
 小さいころ平気で納豆を食べる私に、姉は「ありえない」「くさい」「きもちわるい」と、そんな言葉を投げつけ、椅子をガタガタと音をさせて遠ざけていた。祖母の夏バテ予防そうめんも納豆抜きで、そして高校にあがるくらいまでは私も姉もミョウガ抜きだった。
 私がまだ高校在学中で、姉がアキちゃんとつき合いはじめたころ、「彼氏、納豆好きなんだ」と私の食べる納豆かけご飯を恐る恐る口に入れた姉は、吐き出すことはなかったけれど、そのあとお茶をガブ飲みしていた。
 十年近く納豆好きの夫と一緒に暮らしているのだから、もしかして食べられるようになったのだろうかと思ったけれど、そういうわけにはいかないようだ。祖母のそうめんが好きなのは姉ではなく私だった。
「美空ちゃんの作るあのそうめん、おいしいよねえ」
 義兄は「わぁぁい」と扇風機に向かって喜びの声をあげ、幸せそうに頬をゆるめた。僕が買い出しして来ようかと姉に問いかける彼は、その体型と、のんびりした口調からは想像がつかないけれど相当な気遣いの人だ。その気遣いを気遣いとして感じさせないおおらかさがあって、そんな人だから私も母も気安く甘えることができる。見た目はイマイチだけれど、姉は「うちのはいい旦那よ」とサラリと口にし、そんな姉を羨ましく思いつつ、では義兄のような人を自分が選ぶかといえば、それはまったく想像がつかなかった。
 就職してからというものプライベートを楽しむことができたのはほんの数ヶ月で、休みがあればひたすら疲労した体を抱えて家で過ごし、恋人を作ることすらその休息時間を削るだけのようで、男性と恋愛感情をもって接することがまったくなかった。
 姉のことは好きだ。けれど、選んだ道にまったく後悔を口にしない姉の姿を見ていると、彼女とまったく違う人生を選び、彼氏もおらず、仕事にも挫折して逃げ帰ってきた自分が、しかも自ら逃げ出すことすらできず父の死をきっかけにぐずぐずと時を過ごしている自分が酷く無価値な人間に思えてくる。
「ちょっとマルヤスーパー行ってくるね」
 なかよく立ち上がったふたりに「いってらっしゃい」と手を振り、私はまたゴロンと畳に寝転んでムンクの叫びをながめた。叫んでいるのは誰だろう。
 目を閉じるとジーワジーワと蝉の声が聞こえてきた。今までも聞こえていたはずなのに、たった今鳴き始めたように、それは私の世界を満たした。

美鳥27歳――4

 実家に帰って十日が経ったころ、『まいどカンパニー』から電話があった。簑沢(みのさわ)の祖母の家を訪れた帰りで、私は母の運転する車の助手席に座っていた。後ろの席のダンボール箱には大きく育ちすぎた胡瓜と、不揃いなオクラ、今年初めて作ったという黄色いズッキーニが山盛りに入っていた。スマートフォンを耳にあて、それを持つ左手からはオクラを茎から切り落とした時についた汁が、まだ独特の匂いを放っている。
 他のに栄養がいかなくなるから、脇の葉っぱも一緒に切り落としてねぇ。
 祖母に言われたとおりに、空に向かって突き立つオクラとあわせてそのすぐ脇に伸びる葉っぱをつかみ、薄刃包丁でまとめて切り落とした。オクラは籠に入れ、いらない葉っぱは畑の端に放り、それはじきに枯れて土に還る。
 スマートフォンを右手に持ちかえ、ジーンズの太腿あたりに左手をごしりと擦りつけた。
 父の葬儀を終えて熱で寝込んでいたころは、とりとめのない思考のあいまに「いつ会社から電話が来るだろう」とぼんやり考え、そのたびに不快感が押し寄せて思考を手放し、逃避するように目を閉じて微睡んだ。そのうち熱も下がって普通に過ごせるようになり、会社のことは気になりつつも、こちらから連絡する気にもなれず放ったらかしにしていた。
 一週間を過ぎても連絡はなく、一ノ瀬さんには「十日ほど休む」と言ってはいたけれど、このまま連絡がなければ二週間を目処に連絡しようと、憂鬱な気持ちとともに心に決めていた。だから、着信画面に「一ノ瀬」の文字を見たとき早々に観念して電話をとることができた。
 母はハンドルから左手を離してラジオのボリュームを下げ、「誰から?」と、特に勘ぐる風でもなく訊いてきた。
「会社」
 ふぅんと素っ気ない相槌だけをうち、母はそのまま口をつぐむ。半分ほど開けた窓からはゴウゴウとうねった風が吹き込み、額にかかる前髪が方向を失って乱れ、絡んだ。窓を数センチほど残して閉め、眼下を行き過ぎる家並みに目を向ける。国道から一段低い場所にはひしめくように古びた民家が立ち並び、その屋根の連なりの向こうに紺碧の海があった。
 入り組んだ地形がつづくこのあたりは、視界から唐突に海が消えて鬱蒼とした緑が間近にあらわれ、その直後に海、その繰り返しだ。風の音がふっと静かになり、ゴーっという車の走行音に耳が覆われる。窓の外には二メートルほどのコンクリートの壁があり、継ぎ目からは雑草がたくましく緑の葉を揺らしていた。急カーブを曲がりきったところで視界がひらけ、真っ青な水平線が目に飛び込んだ。
「もしもし、本巣です。長いあいだ連絡もせず申し訳ありませんでした」
 何か言われる前に謝るのが最善の策。すでに会社を辞めるつもりでいたけれど、このあと電話の向こうから返ってくる言葉を想像すると、幾度となく味わったあの恐怖が腹のなかで膨らみはじめる。胃が重くなった。
 窓際に体を寄せ、私は隠れるように母に背を向けた。母は私が会社で何をしているのか、どんな立場にいるのか、この電話の相手からどんな風に扱われているのか知らない。もちろん一ノ瀬さんが母のことを嘲笑うように口にしたことなど知る由もない。
 現実の母をほんのひとかけらも知らない一ノ瀬さんは、「本巣(もとす)の母親」というだけで悪く言える人間だった。周囲を罵ることで優位を保とうとする姿は、自分に火の粉が降りかからないうちは「イタい人」で済んでいた。それがいざこの身に矛先が向けられると、そこから逃げ出せずにいる自分がイタい人に思えてくる。「情けない奴」と傍から馬鹿にされているのではないか、そんなマイナス思考に陥り、加えて一ノ瀬さんの口から出る「無能」「無価値」の言葉がそれに拍車をかけた。
『ああ、本巣さん。一ノ瀬だけど』
 横柄なその声を聞くだけで口から内臓がせり上がり、呼吸が浅く乱れる。あの爽やかな笑顔で私を泥沼に突き落とした人。その支配下にある私はひたすら沼で溺れていた。泥を被ったまま顔を出せば、これでもかと容赦なく沈められる。
 物理的な距離がいま私を支え、よろよろと頼りない決意ではあるけれど、私は沼を抜け出すつもりでいた。そして、電話の向こうから聞こえた声に拍子抜けしてしまった。そこには批判の色も嫌味の欠片もなく、さらに思いもかけない言葉が耳に届いた。
『本巣さん、なんだか大変そうだし、まだご家族の看病が必要ならこのまま辞めてもらってもかまわないけど』
「え……」
 渡りに船とはいえ、あまりに予想外のことに言葉に詰まった。
『あくまで本巣さんの自己都合で退社っていうことにはなるけど、お父さんが亡くなられたばかりだし、家族のことも心配だろう?』
 家族を気遣うような言葉を口にする一ノ瀬さんの声に、不信感が広がった。その意味するところが「辞めろ」だということは分かる。けれど、最低限の人数でやりくりし、極限まで働かされていた現状を考えると、この変わり身を警戒しないわけにはいかなかった。それでも、私はこのとき考えを巡らせることをやめた。何よりこれ以上会社に居続けることのほうが苦痛で、気づけば本能のままに「では、そうさせていただきます」と口にしていた。
『じゃあ手続き進めておくから今月中に一度会社に来て』
 一ノ瀬さんの声はどこか安堵したようで、そして少し心の軽くなった私の耳には、その声に疲労が滲んでいるように思えた。だからといって彼に同情することはない。疑問と不信とは腹の底に渦巻き、まだ手放しで喜べる状態ではなかったけれど、通話を終了した途端に溜め込んでいたものが一気に体から排出され、長く深いため息が漏れた。
 放心したままぼんやりとフロントガラスの向こうをながめる。ふいにラジオから笑い声が弾け、母が音量をあげたのだと気づいた。
「……なんか、会社辞めることになった」
  母はちらりと目を合わせ、「そう」と安心したように息を吐いた。
「おつかれさま」
 ずいぶん長いあいだカラカラだった涙腺が不意に緩み、海の碧と空の青がぐにゃりと歪んで混じりあった。潮の、匂いがした。
「ねえ、りっちゃん。私こっち帰って来ていいかな」
「いつでもどうぞ」
 歌うように口にした母は、「うん」と伸びをするように背をそらし、窓を全開にして海風を招き入れた。
 道の先には見慣れた景色が広がり、子どものころ毎年のように海水浴に訪れた猫浜(ねこはま)への案内看板が目に入った。帰ってきたんだ、そう心に浮かんだとき「おかえり」という声が耳に届いた。

 数日後に最後の試練と思いつつ会社の本部に顔を出し、差し出された書類の何箇所かに名前を書いて、いくつか判を押した。一ノ瀬さんは来客中らしく会議室にこもったままで、顔をあわせず済むことに私は胸をなで下ろした。
 本部の人たちは何が変わったということはないのだけれど、緊張感とともにどこかそぞろな空気が漂っていて、「お疲れ様でした」という、日常と変わらぬぞんざいな声で送り出された。それに物足りなさを感じることもなく、すべてが他人事で、自分がこの場にいることに現実感がない。
 事務所を出てエレベーターに乗ろうとしたとき、カラオケ店の店長をしている同い年の男性が、物陰から私に手招きをした。廊下に積み上げられたダンボールの陰で、人目を避けるように身を縮めている。
「本巣さん、もしかして辞めさせられたの?」
「えっと、そういう訳じゃ……」
 ストレートな聞き方に戸惑いどう答えるべきか考えていると、彼は私の返答など求めていないのか一人で話しはじめた。
「聞いた? うちの会社、銀行管理になるとか、社員減らすって噂になってるんだ。実際、ここ数年の数字ヤバかっただろう。去年出したアノ店がダメ押しだったんだよ。社長の趣味で結構金かけてたくせに、採算合わないと現場せいだ。本巣さんが休んですぐのころにアノ店の店長が辞めて、いま一ノ瀬さんが店長ってことになってる。本巣さんのあとも、一ノ瀬さんが兼任で店長になるみたい。たぶんアイツ辞めさせられたんだよ。このまま残ってシワ寄せ食らうのも嫌だし、俺もさっさと辞めようかな」
 一ノ瀬さんの変わり身がすとんと腑に落ちた。こんな会社、さっさと潰れてしまえばいい。目の前で悩ましげに眉をひそめる彼が滑稽で、そんな風に感じる自分が彼より一歩先にいるように思えた。
「辞めたら? この解放感、味わったほうがいいよ」
 半ば本気で、私はその「元」同僚に笑いかけた。
「うわ。まじで辞めたくなってきた」
 彼はなんとも言えない微妙な笑顔を作ると、ため息とともにストンと肩を落とす。なんとなく、彼は辞めることなくこの会社に居続けるような気がした。
 本部は『まいどカンパニー』が経営するカラオケ店と同じ建物のなかにあり、そこの店長である彼とともにエレベーターに乗り込んで、一階フロアで「じゃあね」と手を振って別れた。のぼり旗やメニューボードといった雑多な店舗用品が壁際を埋め尽くした薄暗い廊下を進み、ガラス戸を押しあけて外に出る。見上げると真っ青な空があり、そのまま吸い込まれてしまいそうだった。重力が半分になったように体が軽かった。
 ひたすらそこにある理不尽を無視しつづけ溜め込んできた荷物は、思いのほかあっさりと肩から下ろすことができた。どうして今までそうできなかったのか不思議でしょうがなかった。

【第三章】

 

定休日

 天気予報が伝えていたのは雪崩注意報で、降り積もった雪は春を思わせる温かい日差しを滑らかに反射していた。大通りはすっかり除雪され、歩道との境目には薄汚れた雪の塀が築かれている。
 いつもどおり車で家を出てベーカリーで注文していたパンを受けとり、朝採れ野菜を販売しているハッピーファームに寄って店に向かった。
『鳥の巣』の前の路地は雪かきがされておらず、車の通ったあとだけが圧雪となり、歩く人たちはその細い轍を滑らないよう俯きがちに歩いていた。車が通るたび足をとめて脇によけ、そんな姿に申し訳なさを感じつつ、それでも無理やりに店のまえに車を停めて急いで荷物をおろし、さっさと車を発進させた。
 大通り脇の歩道から路地へと入ってくる除雪機があった。操作しているのはどうやら商店会の会長らしく、向こうもこちらに気づいて軽く頭を上下させる。会釈を返してその傍を通り抜け、昨日とおなじように駅南の立体駐車場に車を停めた。
 駅の構内は通勤時間帯を過ぎているせいか人の姿はまばらだった。無意識に目が行くのは去年の春に開店した大手コーヒーチェーン店。ガラス張りの店内はほぼ満席で、注文カウンターに何人か並んでいるのが見えた。
 胸がズンと重くなり、足早に前を通り過ぎる。コーヒーの香りとともにパンの焼ける香ばしい匂いがふわりと鼻先をぬけ、うっかり視線を向けた先に、数カ月前まで『鳥の巣』の常連だった一人の女性の姿があった。
 ――鳥の巣さん、もう少し早く開けてくれたらうれしいんだけど。そう言っていた彼女は、どうやらこちらに居場所を移したようだ。気づかれないうちにと、さらに足を速めてその場を後にした。
 駅を出てすぐのところには地下道へと続く階段があり、そこを抜けてすぐ目の前にアーケード商店街の看板がかかっている。年季の入ったその看板をくぐっても、賑わうどころか人の姿はまばらだった。半分以上はシャッターが下り、そのいくつかにはテナント募集の張り紙がされている。駅に近いこのあたりは地価が高く、高校時代に行きつけにしていた雑貨店も、美容院や服屋もすでになくなっていた。ぽつりぽつりと店は閉まっていき、そして新しい借り手がつくことはなかなかない。鳥の巣を開業したころよりも商店街の店舗数は確実に減っていて、そしてこの寂れつつあるアーケードのなかに『Cafe Restaurant(カフェレストラン) Origin(オリジン)』はある。
 シャッターのないその店の窓にはロールスクリーンが下ろされている。隙間からのぞく店内は薄暗く、人の気配はなかった。小さなステンドグラスのはめ込まれた木製のドアに「CLOSE」と掛かっているのが目に入り、ようやく定休日なのだと気がついた。
 誰も来ないと思うと好奇心がむくむくと湧きあがり、立ち止まってロールスクリーンの隙間から店内をのぞき込んだ。
「おはようございます」
 突然声をかけられ慌てて振り返ると、目の前には両手に買い物袋を持った槇村さんが立っていた。
「……あ、おはようございます」
 バツが悪く、次の言葉が出てこなかった。彼はガサリと音をさせて袋をすべて左手に持ちかえ、定休日なんですけどね、と言い訳のように口にした。
「仕事、ですか?」
「ちょっと試作したいものがあって。美鳥さんは今からですよね。昨日の帰り道、大丈夫でしたか?」
 ふと引っかかりを覚えたのは、名前で呼ばれたからだった。「鳥の巣さん」そう呼ばれなかったのはここが店の外だからだろうか。
「四駆なので普通に運転して帰れました」
 そうですか、と笑みを浮かべた槇村さんの顔にはどこか迷いがあるようで、彼は再び反対の手に買い物袋を持ちかえると、ドアに背を向けて私をまっすぐに見た。ふと警戒ランプが頭に灯る。
「昨日、早めに閉めたんですか?」
 槇村さんは、ずいぶん真剣な顔をしていた。
「いえ。大丈夫そうだったから、結局いつも通りに」
「そうなんですか。なにかできることがあったら言って下さい。一人で店をするのって大変でしょう?」
 ありがとうございますと返したけれど、彼がどうして急にそんなことを言ってくるのか理解できず、理解しないと他人を頼ることができない自分の不器用さに自己嫌悪を感じる。彼に頼るつもりはないし、彼だけでなく、誰かに頼るまえに大概のことは自分で何とかできた。できるようにやってきた。会話を切り上げるタイミングかと思ったけれど、彼はまだ会話を続けるようだった。
「この仕事好きじゃないと、朝から晩まで一人で店をするって、できませんよね」
「そうですね。色々しんどくても好きだから我慢できてるんだと思います」
 会話の意図が分からないまま、私は何度か交わしたお客さんとのやりとりをなぞるように言葉を返した。正直なところ、この仕事が好きなのかどうなのか分からない。けれど、仕事と寝るだけの繰り返しの日々を違う職業でやれと言われたら、それは無理だ。だから「好き」なのだと、そう自分に言い聞かせている。
 定休日に店に出てくる槇村さんこそ、この仕事好きなんでしょう?
 心のなかで問いかけたけれど、それは口にするまでもないことのように思えた。
 じゃあ、と会釈して背を向けた彼は、その広い肩に希望と自負を背負っているように見える。それに嫉妬をおぼえつつ、無意識に背筋を伸ばしていた。私の背には抱えきれない重りが乗っている。他人の前向きな姿を目にして発奮するのではなく劣等感ばかりを感じ、心が軽くなることはない。鈍い重みをみぞおちに感じた。アーケードを抜けてふと見えた空に、その重りの正体に思い当たった。
 浮かんでいるのは白い月ではなく雲、そして『まいどカンパニー』のことを思い出した。あの頃と似た圧迫感を、今ふたたび抱えている。

黒歴史

 店に着いてひと通りの仕込みを終える頃には、店内はちょうどよく暖まっていた。カウンター席の向こうにはコニファーの緑が見え、ドサドサと雪の落ちる音が聞こえてくる。窓から差し込む光に、小さな鳥の影がよぎった。 
 スコップを手に外に出ると路地の雪はあいかわらずで、商店会長が除雪してくれてはいないかと期待したけれど、どうやら再び歩道の雪かきに向かったようだった。路地はこのまま溶けるのを待つしかなさそうだ。
 路地をすすむと少し先に小さな親水広場がある。そのまわりを囲むように背の低い二階建ての建物が並んでいて、アジアン雑貨店に美容院、男性向けアパレルショップや小料理屋があり、その合間にはいくつか民家が建っていた。道端と広場のあたりで何人か雪かきをする姿が見える。
 鳥の巣の左隣は民家だった。右は去年の暮れにエステサロンが移転してから空き店舗となっている。積雪があったときにはエステサロンのスタッフと一緒に雪だるまを作ったりもしたのだけれど、ひとりではそんな気にもならず、私はただひたすら邪魔にならない場所を探して雪を積み上げていった。溶けはじめた雪はずっしりと重く、店の前の雪かきが一段落したころには体はほかほかと温もり、首元にうっすらと汗をかいていた。時計をみると開店時刻までもう十分ほどになっていた。
 店内の電気をつけ、ドアにかかった「CLOSE」の札をひっくり返そうと表に出ると、大通りの方から見知ったジャンパーの男性が荷物を抱えて歩いて来るのが見えた。向こうも気づいたらしく、威勢の良い声が路地に響く。
「お疲れさまでーす」
「おつかれさまです、岡井(おかい)さん。車、入れませんでした?」
 彼を待ち、大通りに停められている配送トラックを指さした。建物の影からトラックのお尻の部分がわずかにのぞいている。私の視線につられて岡井さんも大通りを振り返り、その黒いジャンパーの背には売り出し中の缶コーヒーのロゴが描かれていた。
「路地に乗り入れると、あとが大変だから。ただでさえ今日の配送遅れてるのに。遅くなっちゃってすいません」
 岡井さんは申し訳なさそうに眉をハの字に垂らす。私はドアのプレートをくるりと返して「OPEN」にし、ダンボール箱で両手のふさがった岡井さんのためにドアを開けた。彼は入り口のマットで軽く足踏みをし、長靴の底についた雪を落として店内に入る。そう教えられているのか、彼の性格なのか、口の軽さを除けば彼はよい仕事相手だった。
 オープンキッチンのなかで検品の終わった食材を片付けながら、レジの前で手のひらサイズの機械を操作している岡井さんをちらりと盗み見た。
「岡井さん、Origin(オリジン)の人に何か話しませんでした?」
Origin(オリジン)で?」
 その返事はおざなりだった。処理中の作業で、私の質問は頭の端に追いやられたようだ。
 冷蔵庫を閉めてレジ越しに岡井さんの前に立つと、その手元からはジジという小さな機械音とともに印字された紙が排出され、彼はなにか思い当たったようにようやく「ああ」と顔をあげた。手元をチラとも見ず、紙をピリリと切り取っていつも通り会計用のコイントレイに置く。
(かなで)君に、ここの店はどの豆使ってるのって聞かれたから教えちゃったよ」
 彼のフランクな言葉遣いは『Cafeソラへ』に出入りしていた頃から変わらない。けれど「奏君」というその呼び方は業者と店のスタッフにしてはいくぶん親しすぎるように感じられた。
「奏君って、呼んでるんですか? 下の名前で呼ぶの珍しいですね」
「あそこのスタッフの人たち、みんな彼のことを名前で呼んでるんだ。むしろ奏君の苗字を知らない。Origin(オリジン)はスタッフの雰囲気がすごく良くて、行くとほっとするんだよね。ピリピリした店だと気を遣うから」
 みんな仲良し、雰囲気のいい職場なんて想像がつかなかった。私の運が悪いのか、Origin(オリジン)が特別なのか、ふと自分の性格が周囲にマイナスの感情を引き起こしているのではないかと考えることがある。
 自分の性格のどの部分が色濃くあらわれるかは相手によって変わるし、それは単に「相性」なのかもしれない。ときに自分の醜い部分だけが引きずり出され、苦痛とともにそれを目の当たりにするならいっそ一人で仕事をすればいい、そう思って始めたのがこの店だ。
 岡井さんの言う「雰囲気良い」があまり当てにならないということを、私は身をもって知っている。『Cafeソラへ』についても彼は似たようなことを口にしていたことがある。あの件が起こるまでは。
「岡井さん。……自己破産って、本当ですか」
 ユウジの名を口にしなくても意図は伝わったようだった。渋い顔で溜息をつき、考え込むように腕を組んだ岡井さんは、どうやらこの会話に本腰を入れるつもりらしい。配送が遅れていると言っていたのが気になった。
「ホント、弱っちゃうよね。本巣さんはユウジさんと連絡取ってない……よね」
 顔色を伺うような上目遣いで私を見る。こうして岡井さんのところと取引できているのは、ユウジの店で働いていたおかげだ。あの頃ユウジと岡井さんはプライベートでも付き合いがあり、そしてあのときも二人は一緒にいた。岡井さん曰くそれは偶然居合わせただけで、たしかに二人は別の顔ぶれと飲んでいたし、ユウジは女と待ち合わせて出かけたのだから、実際そうだったのだろう。
 あの件以降も岡井さんはそれまで通りに接してくれていたけれど、私は人との距離のとりかたが分からなくなった。向けられる笑顔はその裏にあるもの――黒く凶暴なものを想像させ、疑心暗鬼と分かっていてもマイナスへと陥る思考を止めることができない。
「あそこ辞めてから一回も連絡してません。するわけないじゃないですか」
 つっけんどんな私の物言いに、「そうだよね」と、岡井さんは申し訳なさそうに苦笑した。岡井さんに対して他の人より気兼ねなく話ができるのは、気を許しているというよりも、すでに知られたくない場面を見られているという諦めがあるからだ。
「岡井さんはあの人と話したんですか。破産したあと」と問うと、彼は頭をボリボリと掻いた。
「連絡つかないんだ。ユウジさん、あの店の二階に住んでたでしょ。当然そこにはいないし、実家に帰ってるわけでもない。電話もつながらなくて、噂では女のところに転がり込んでるって聞いたんだけど」
「女って、……あの人ですか?」
 険のある言い方になった。岡井さんは首をかしげ、あの人ってどの人だっけ、と困ったように薄笑いを浮かべている。
「あの、ケーキ屋で働いてた……」
 私がユウジの店を辞めた当時の、彼の恋人の名前を口にすると、岡井さんは「いたね、そんな人」と頷いたのか誤魔化そうとしたのか頭をゆらゆらと上下させ、また申し訳なさそうに頭を掻く。
「あの人とはずいぶん前に終わってるよ。そのあと何人かいて、今一緒にいる人がいつからの付き合いなのかはよく分からない。俺も前ほどユウジさんと出かけたりしてないし、……というより、プライベートでは全然疎遠になっちゃって」
 岡井さんが悪いわけではないのに、彼は罪を告白するような口ぶりだった。私はというと、ユウジに対する嫌悪とともにわずかな好奇心が芽生えていた。私があの店を去ったあと、ボロボロになってすべてに失敗したという彼の話を聞きたい、そんな卑しい気持ちがぽろりと口からこぼれる。
「……岡井さんって、ユウジのオンナ全部知ってるんですか?」
 岡井さんの片方の眉がクッと上がり、「気になるの?」と興味深そうに私を見た。口にしてしまった言葉はなかったことにはならない。それが女に関する質問だったことが妙に恥ずかしくてならなかった。
「俺は例のあの店からは足が遠のいちゃったんだけど、他にも何件か共通の知り合いがやってる店があって。ユウジさんと偶然顔合わせることもあったし、そこに女の人がいることもあった。あの界隈では噂には事欠かなかったけど、ユウジさんの女を全部知ってるかと言われると、もしかしたらもっといるのかもしれないし、……何とも」
 岡井さんは苦いものでも噛み潰したように鼻に皺をよせ、それに反して口調は軽くおどける風だった。そのアンバランスさは私が強いているものだ。ある程度の共感を見せ、深刻になりすぎないようにし、自分の言葉が私を傷つけはしないかとうかがっている。そろそろこの話題は終わりにしたほうが良さそうだった。
「岡井さん。私とユウジのこと、他のところで言わないでくださいね」
「言わないよ、そんなの」
 彼は心外とばかりに大げさに肩をすくめる。「豆の話はするのに?」と言うと、緊張を緩めてハハッと笑った。
「話す内容と相手はちゃんと考えてますので、取引先の不利益になるようなことはしませんよ」
Origin(オリジン)の奏君にもしてないですよね。私があそこで働いてたって知ってたみたいだから」
「あ、そっか。本巣さん、奏君と古いつきあいなんだってね。『Cafeソラへ』のことは……、ちらっと話したことがあるかもしれない。別に変なことは言ってないよ」
 変なこと、という言い回しをバツが悪く感じているのか、岡井さんは取り繕うように手元の機械を片付けはじめた。実際に急いでいただけなのかもしれない。
「それならいいですけど、何か聞かれても適当に流して下さいね。奏君は幼馴染みたいなもので、あの生意気な子にこれ以上バカにされたくないから、なるべくなら黒歴史は封印しておきたいんです」
「バカに? 本巣さん、別にバカにされるようなことしてないでしょ。むしろすごいと思うよ」
 岡井さんは目を丸くして私を見返し、その言葉はどうやら本心であるらしかった。その予想外の言葉をどう受け止めていいか分からず言葉に詰まり、岡井さんは私が口を噤んだことで会話が終了したと判断したのか、チラと腕時計を確認すると、床に置いていた空のダンボールを手にとった。
「本巣さん、勢いでユウジさんのところ辞めたとはいえ、こうやって自分のやりたいようにお店をしてるんだから、やっぱりすごいと思うよ。好きなことを仕事にするのって憧れるけど、なかなか難しいから」
 岡井さんは自分の言いいことだけ言って、言葉の終わりにはドアに手をかけていた。私の返事も待たず「じゃあ」と背を向けて出ていく彼の脇からヒヤリとした風が吹き込んで、と同時に女性の話し声がし、岡井さんはドアを開け放したままその声の主である女性ふたりに「いらっしゃいませ」と頭を下げた。今日一組目のお客さんを招き入れたあと、彼はひらりと片手を振ってドアの向こうに消えた。
「好きなこと、か」
 注文を受けたサンドイッチの具材をパンに並べながら、ぽつりと声がもれた。岡井さんのその言葉がずしりと心にのしかかっていた。

笑顔の裏

 春らしい日差しのせいか、その日のランチタイムはひと通り満席になった。けれどそのあとが続かず、午後一時前にはほとんどのお客さんが席を立ち、一時半には誰もいなくなってしまった。
 一段落したところで外の様子をうかがうと、路地の積雪はずいぶん溶けだしていた。轍にはシャーベット状の雪が溜まり、行き過ぎる車はそこに嵌まるたび大きく車体を揺らす。歩く人はずぶずぶと足を沈めながら、車の跳ね上げる雪を避けて道の端に身を寄せた。時間帯のせいもあり、目に入る人の姿はいつもより少ない。
 靴と一緒に店内に持ち込まれた雪が溶け、入口近くの床は水を吸って濃い茶色になっていた。ところどころに小さな水溜りができ、モップで床を拭いていると、コンコンと小さくノックの音がする。お客さんだろうかとドアに目を向けると、ガラスをはめ込んだ小さな窓から、様子を窺うように二つの瞳がのぞき込んでいた。くりくりとした目元にたくましい眉。その正体が誰なのかは考えるまでもなかった。小柄な彼女はドアの向こうで懸命につま先立ちをし、普通に入ってくればいいものを、こんな些細な行動が彼女らしいといえば彼女らしい。
 小窓の向こうの瞳がフッと消え、短く切りそろえた前髪のラインがあらわれた。そして、キィと躊躇いがちにドアが開く。
「やっほー、美鳥。今忙しい?」
「おつかれ、タマ。今日は仕事? それともお客さん?」
 タマはエントランスマットで入念に雪を払い、きょろきょろと店内を見回してから壁際にある予備の椅子に大きなショルダーバッグを置いた。その様子に「やっぱり仕事だよね」と言うと、彼女は拝むように両手を合わせて小さく舌を出す。
「ごめんね、また食べに来るから。基本はお弁当なの。どうせ旦那の分つくらなきゃいけないし」
「いいよ。言ってみただけ。で、今日は?」
 ちょっと待って、とタマはA4サイズの紙を一枚取りだし「はい、これ」と差し出した。そして鞄を膝に抱えて椅子に腰かける。
 プリントには『小規模店舗向けセミナーと勉強会のお知らせ』とあった。商工会議所の中心市街地活性化協議会で働いているタマが店に顔を出すのは、たいてい仕事絡みだ。
 高校を卒業したあとほとんどの同級生とは疎遠になり、それでも大学の頃はタマと何度か連絡をとりあい、互いの進学先を訪れて観光したりすることもあった。けれど、私が『まいどカンパニー』に就職して昼夜逆転の生活を送るようになり、「会いたいね」というタマからのメールに「休みがとれない」と返信することが続いて、気がつけば年始のあけおめメールだけになっていた。
 タマが地元で就職しているのを知っていながら、『まいどカンパニー』を辞めて家に戻って来たときも今さらといった気持ちが電話をするのを躊躇わせ、それはタマに対してだけではなく、あの頃は何をする気もおきず、半ば引きこもるように日々を過ごしていた。
 タマに再会したのは『鳥の巣』がきっかけだった。『Cafeソラヘ』を辞め、その勢いのまま開業準備を進めていたとき、駅周辺の指定エリアで開業すれば二年間の家賃補助が受けられると知って商工会議所に出向いた。その説明をしてくれたのがタマだ。初めて訪れた商工会議所ビルの広々とした四階フロアに「うそ、美鳥?」というタマの声が響き渡り、慌てて口元を抑えた彼女と、その言葉を向けられた私は周囲の視線を集め、衝立で仕切られた小さなブースに入ったあと二人で声を抑えてクスクスと笑った。
 タマは結婚してすでに一児の母となっていた。鼻にかかった声でおっとりとした喋り方をするのは高校の頃と同じで、彼女のまとう雰囲気も、その口から出る言葉の辛辣さも変わらなかった。言葉に滲む厳しさは母性のようなものだ。
 タマは何箇所かテナント物件の内覧にも付きあってくれて、タマが見つけてきたこの場所で無事に助成金を受けるための審査も通った。私が書いた収支計画書を見ながら「本当に一人でするの?」と心配顔で問いかけてくる彼女に、「利益がでるようになったら誰か雇うよ」と返したけれど、タマの顔は納得していなかった。「それなら仕方ないか」と彼女が渋々ながら肯いたのは、彼女と数年ぶりにプライベートで食事に出かけ、ユウジとのあの件(・・・)を打ち明けたときだった。
「美鳥は今は恋人とかいないの?」
 そう言ったタマは単なる興味本位という顔をしていた。ごまかしても良かったのかもしれない。タマと再会してからやりとりするなかで、私がふと思い出したのは「ユウジ先輩はないわ」という、高校の時のタマの言葉だった。
「ユウジ先輩がね……」そう私が切り出した途端にタマの眉間に皺が寄り、私はつい吹き出してしまった。自分の馬鹿さ加減が今さらながらに身に染みて、ついでに「恋は盲目」という言葉も同時に頭に浮かんだ。距離のある人たちのほうが、よっぽど彼のことを冷静に見ている。私がユウジと恋愛関係になることに難色を示していたのはタマだけではなかった。
「その人はやめときなよ」
 ユウジの店で働きはじめる前、しかめっ面を私に向けたのは姉の美空(みく)だった。私はその言葉を聞き流し、恋愛関係とも呼べない中途半端な立場でユウジとほぼ毎日顔を合わせることになった。
 ユウジとの間にあったことを、その当時姉にこぼしていれば何か変わったのかもしれない。あの頃の私がユウジに対して感じていたのは、恋とか愛とかいうよりも、むしろ執着だったのだろう。それが彼への執着なのか、自分の理想への執着なのか、どちらにしろ私は冷静な判断力をなくしていて、「だからやめとけって言ったのに」と呆れ顔で言う姉の姿が容易に想像され、鬱々としながらも相談する気になれなかった。こういった姉への対抗心のようなものは、ふと思い返すとずっと昔からあったように思う。
「ちょっと人間不信っぽい。だから一人のほうが楽なんだ」
 タマにユウジの店で働いていたことと、そこを辞めた経緯を話し、私は締めくくりにそうこぼした。そっか、とつぶやいたタマは「そんなやつの店なんて潰れちゃえばいいのに」と鼻息を荒くし、それでまた私は笑ってしまった。
 人間不信という言葉を、このときの私はそれほど深く考えて口にしたわけではなかった。どちらかといえば冗談半分の軽いノリの言葉だった。けれど、実際に鳥の巣を開業して商店会の人たちと顔を合わせるようになり、タマの誘ってくれるセミナーで私と同じような個人経営者と知り合い、新しい出会いが続くなかでふと気づいてしまった。
 笑顔を信用できない。
 とりわけ恋愛関係への発展を意識してしまうような、年の近い男性の笑顔がまったく信じられなくなっていた。その笑顔の裏にある刃がこちらに向けられることを怖れ、それは考えすぎだと辛うじて理性で恐怖を押さえ込む。けれど自覚してしまった恐怖はじわりじわりと心の内に広がり、その笑顔が偽物だとしても自分が傷つかないでいられる、いわば「顔見知り」の距離をとるようになっていた。
 それで問題なかった。タマの笑顔にも、もしかしたら裏があるのかもしれない。それに怖れを感じないのは、彼女が私を傷つけないと知っているからだ。傷つけられることがあったとしても、それは母性からの叱責だと思えるからだ。彼女の存在に救われているのはたしかだけれど、タマと自分を比べるたび、どこか卑屈になってしまう自分がいる。

噂話

「美鳥、このセミナー出席する?」
 プリントを手にその文字に目を走らせる私の視界に、タマのくりっとした瞳が入り込む。それはどこか諦め顔だった。
「時間が、ちょっと厳しいかな」
「だよねえ。始まるのが六時だと、早めに店閉めないといけないもんね。まあ、今回はネット販売の話がメインになるから、鳥の巣にはあまり関係ないかなって思ってたんだ」
 私はちらりとテイクアウト用の焼き菓子に目を向けた。直径十センチほどの大判クッキーはハーフ&ハーフで二種類の生地をつかっている。ザクザクとした素朴な食感がコーヒーのおともに人気で、プレゼントにと箱詰めの注文を受けることもあった。
 カフェ専門誌を読んでいると焼き菓子のネット販売が特集で組まれることもあり、興味はないこともないのだけれど、設備を考えるとなかなか踏み出せない。レジ脇の籠に並んだクッキーを、タマがひょいとつまみ上げた。抹茶のグリーンとココア生地の組み合わせが渋い色合いの一枚だ。
「クッキーをネットで販売するにしても、ここの設備じゃ追いつかないよね。そのオーブン家庭用でしょ。いっそ別のとこ借りて工場でもつくる?」
 首を伸ばしてキッチンをのぞき込んだタマの視線の先に、二台のオーブンが並んでいる。以前はバーだったというこの店のキッチンは、お世辞にも広いとは言えず、スペースをなんとかやりくりして機材をおさめていた。数歩ですべてのものに手が届くのは便利だけれど、この狭さに押し込まれているような気にもなる。
 タマの言葉を、私は上手く受け流すことができなかった。セミナーや勉強会で知り合った人たちはみな精力的に活動し、新しいことへ意気揚々と向かっていく。そうでない人、つまり私のように自分のできる範囲に引き込もる人もいるのだろうけれど、何かにつけて目につくのは自己アピールが上手く、使命感をもって仕事を楽しんでいる人たちだった。彼らは繋がることを怖れない。
 セミナーで槇村さんと顔を合わせたことはなかったけれど、それはOrigin(オリジン)が開店して以降、私がタマの誘いに一度も応じていないからだ。タマから槇村さんの話を聞くこともあったし、「今度のセミナーは行くんですか」と槇村さんに問われたこともあった。
 少しずつ少しずつ私は色んなものと距離をおいて、向けられる笑顔の裏を探り、離れれば離れるほど得体の知れない恐怖が膨らんでゆく。繋がること、関わることに臆病になり、「若い商店主」という括りに自分も当てはまるのだろうけれど、その言葉に込められた期待はプレッシャーとなり、徐々にコンプレックスとなった。
「ネット販売するなら、ここは閉めないとね」
 廃業について考えはじめたのは、そう最近のことではない。ネット販売などしなくても閉めることになるかもしれない。
 冗談めかした私の言葉は、タマにはお見通しだった。
「美鳥、実際のところどうなの? うちへの報告義務はもうないけど、駅の中にJBコーヒーができてからお客さん減ったりしてない?」
 タマの心配顔が目の前にある。
 朝、駅の構内で目にした光景が頭に浮かぶ。すでに駅利用者の生活の一部になっている『JBコーヒー』は海外発のコーヒーチェーンで、日本でもかなりの数の店舗を展開し、そのJBコーヒーが県内初出店を果たしたということでオープン当初はずらりと長い行列ができていた。ローカルニュースや地元局の情報バラエティー番組で取り上げられ、けれどその頃はまだ鳥の巣に影響はなかった。
 変化があらわれはじめたのは長蛇の列が解消され、その店が地元の人々の話題にのぼらなくなった頃だ。ほぼ毎日鳥の巣に来店していたOLさんが、週の半分しか来なくなった。列車の待ち時間に利用してくれていた高齢の男性も顔を出すことが減り、変わらず来てくれる人もいたけれど、ほとんどの客の来店頻度が減っていた。
 JBコーヒーに客が流れているのは明らかで、立地にしろ単価にしろ真っ向勝負を挑んだところで勝ち目はなく、鳥の巣への家賃補助期間は満了していて、そのタイミングでのJBコーヒーの進出は正直辛いどころの話ではなかった。タマのいる中心市街地活性化協議会、通称「中活」への営業報告義務も今はなく、タマが知っているのはオープンから徐々に売り上げを伸ばし、その後安定した状態で営業していた、JBコーヒー出店前の鳥の巣だ。
「JBコーヒーは順調みたいね。さすがに厳しいわ」
 本音は軽い口調でしか言葉にできない。タマが小さく息を吐いた。
「美鳥、変なプライドは持たないほうがいいからね」
 こんな小さな店すら維持できない、そんな自分が恥ずかしく、意識して平静を保たないと頬が紅潮してしまいそうだった。他人を頼ることもできず、誰かに相談を持ちかけて前向きな提案をされたとしても実行に移すだけの気力がない。マイナス思考は様々な憶測や妄想を加速させ、それらを引き連れて内へ内へと引きこもろうとする。
 新規客よりリピーターを、奇抜さよりも寛ぎのある空間を、外に向けてそうアピールする言葉は、現状維持を正当化したいだけだ。
「美鳥の場合は借金があるわけじゃないからそんなに心配してないけど、大丈夫? 無理してない?」
「無理してるようにみえる?」
「見えるよ。最近つきあい悪いじゃない。こういうセミナーにしても、以前は店閉めて参加してたし、それに女子会もあまり顔出さなくなった」
 心配そうに首をかしげるタマに、ふと姉の姿が重なった。まいどカンパニーを辞める直前、姉が私に向けたのと同じ表情がそこにある。
『好きでやってる仕事なんだろうけど、体壊しちゃったら何にもならないんだからね』
 誰にも迷惑かけない、そう思いながらやってきたのに、私はいつまでも心配ばかりかけている。姉に、タマに、りっちゃん、カナ。槇村さんもきっと私の頼りない店主ぶりを放っておけないのだろう。
 まいどカンパニーの頃のように、理不尽に罵倒されているわけではない。肉体的にも精神的にも限界を越えて洗脳状態で働かされたあの時と、今いる『鳥の巣』という自分の城とは雲泥の差。まいどカンパニーでは雑務に追われ、人手の足りない場所を埋めるばかりで一体自分が何をしているのかさえ分からなくなっていた。鳥の巣は自分の好きなように方針を決めて一人で営業してきたけれど、いつのまにか日々に追われ、客足が減って追われる仕事すらなくなり、精神的に追い詰められ、それでも料理をしている時間だけは「この仕事が好きだ」と思える。その実感は営業状態が悪くなればなるほど、縋るように強く意識されるようになっていた。
 この店を始めた当初はユウジや一ノ瀬さんを見返してやりたいという異様なエネルギーが体の中に渦巻いていた。セミナーや商店会の集まりにもできるだけ顔を出し、売上の好調なときは休むのも惜しんでメニューを考え、他店から持ちかけられてコラボ企画をしたこともあった。けれど経営悪化とともに薄っぺらな自信はパラパラと剥がれ、すべてのタイミングが絡み合うように気持ちは内側へ向かいはじめた。
 家に入れている生活費はほんのわずかだったけれど、父が遺したのは死亡保険金も含めてそれなりの額で、我が家の生活がとくに困っているというわけではない。母はパートで働いているけれど「ボケ防止なの」と気楽なものだった。
 開業の話をしたとき母はこの古びた建物をまえに「お金出してあげるから、きれいに直したら?」と不満げな顔をしたけれど、それを断り貯金額で可能な限りの修繕をしてオープンにこぎつけた。通帳の残高はまだ困らない程度には残っている。けれど、先がまったく見えない。
 タマに素直に相談できないのは、彼女に対してコンプレックスを感じているせいだ。正規雇用ではなく契約更新を繰り返し、給料もそれほどではないと愚痴をもらすこともあるけれど、タマはそれでも仕事にやりがいを感じている。そして、彼女には夫と子どもがあった。彼女の生活ぶりは、私が社会に出るまえに思い描いていた「未来のあるべき姿」で、そして今の私からはほど遠いものだ。
「今度の飲み会は参加するから、うちの定休日にしてよ」
「美鳥のとこの定休日って水曜だよね。まあ、週末でも途中から顔出せそうなら出してよ。でも、ホントに無理しちゃだめだよ。なにかできることがあったら言ってね」
 ユウジ先輩のハナシ知ってるよね、と店内には私たち二人しかいないのに、タマはあたりを憚るように声を潜めた。あの人の自己破産を知って以来、私は「彼よりマシ」と自分を慰め、そのたびに自己嫌悪に陥るということを繰り返している。
「自己破産の件なら、噂が流れてきた」
「私、先輩の店には一回も行かなかった。場所分かりにくいし、美鳥の話を聞いてから絶対行くもんかって思ってたしね。高校の頃から調子のいい人だとは思ってたけど、調子に乗った挙句が自己破産じゃあ目も当てられないわ」
「今も女のところに転がり込んでるらしいって」
 マジで? とタマは汚いものでも見るように顔をしかめ、首をふるふると左右に振った。
「美鳥、よくそんなのと付きあってたね」
「高校のときはそんなじゃなかったよ」
 思いもかけず庇うような言葉が口をついて出た。ユウジのためというよりは、彼を選んだ過去の自分を正当化したかったのかもしれない。タマはそんな私を呆れ顔で見ていた。
「ユウジ先輩の店で働いてたときは? 美鳥が吹っ切れてるならいいけど、許したわけじゃないでしょ」
 店内に誰もいないのをいいことに、タマはずいぶんと強い口調だった。私の気持ちを代弁するように怒りをあらわにするタマが、彼女の意図しないところで私を救ってくれている。
「ソラへのときは働いてただけで付きあってたわけじゃないし、それに……だから辞めたんだし」
 私の声はタマの勢いに気圧され語尾は曖昧になって消えた。タマが「辞めて正解だわ」と吐き捨てるように言ったとき、ガチャリとドアの開く音がした。話に夢中で反応が遅れ、あわてて姿勢を正しながら、来客を迎える言葉は条件反射で口にしていた。
「いらっしゃいまー……、なんだカナか」
「なんだはないでしょ、美鳥さん」
 ブーツにデニム、そのうえには暖かそうなスキーウェアを着て、寒さに頬を紅くしたカナは、「あ、タマちゃんだ」と人懐こい笑顔を浮かべた。

【第四章】

 

美鳥27歳――5

 まいどカンパニーを辞めて地元に戻って来てから、しばらくは何をする気力も湧かず、外出といえば母の車を借りてショッピングモールへ行き、いくつかの店をぶらぶらと歩くくらいだった。姉の漫画も読み飽きて、木枯らしが吹きはじめる頃にようやく「仕事でも探そうか」とネットでハローワークの求人を検索した。
 時が経つにつれ他人と関わることが億劫になっていく一方で、動かなければという焦燥も心のうちにあった。このまま社会と隔絶した生活を送っていくわけにはいかない、そう分かっていても実際に求人情報を目にして「働く」ということが現実味を帯びてくると、以前のことが思い出され、胃のあたりがキリキリと痛んだ。次の会社は失敗したくない、そう思えば思うほど体が重くなる。
 気晴らしのつもりでパソコンをつついていると、あるSNSのブックマークを見つけた。学生のころに登録したもので、仕事が忙しくなってからはすっかり放置し、スマートフォンアプリからのぞくことはあったけれど、機種変更したあとはそのアプリもインストールせず、ときおり思い出しては「退会しようか」と考える程度だった。
『友達申請がありました。知り合いですか?』
 久しぶりにログインしたSNSには四桁を超える通知があり、八件の「友達申請」があった。そこに表示された名前と写真のうち実際に関わりがあったのはたったの二人で、そのうちの一人は『まいどカンパニー』にいたカラオケ店の店長、もう一人は高校時代の元カレだった。
 カラオケ店の店長は悪い人ではないけれど、今さらSNSでやりとりして自分の動向を『まいどカンパニー』の人間に晒すこともしたくなかった。会社を辞めたあと彼からは何度かメールが届き、不採算だった惣菜屋とカラオケ店が閉店するという話と、「辞めたい」という愚痴がそこには綴られていた。その意思はまだ会社には伝えられていないらしい。伝える日が来るのかも私には分からない。
 もう一人の友達申請者である元カレのプロフィール写真は、高校の頃よりも垢抜けた印象だった。昔が地味だったかといえばそんなことはなく、以前にもまして「チャラくなった」ともいえる。写真の彼はカメラから視線を外し、誰といるのか、フレームの外に向かって満面の笑みを浮かべていた。背景は海で、もしかしたら彼の視線に先には誰もいないのかもしれない。作り物かもしれないその笑顔に、ほんの数秒ではあるけれど目が釘付けになった。
 嫌いになって別れたわけではない。何年か振りにブックマークからログインし、そこに元カレからの友達申請があったからといって運命などと思ったりはしない。けれど、このときの私は「岸本有志」という文字の並びに懐かしさを覚え、ぽつりと言葉がもれていた。
「ユウジ先輩、元気なんだ……」
 指が勝手に動き「承認する」をクリックしていた。冷静に思い返すと、このときユウジに対して抱いた感情というのは、「未知」の職場への不安を「既知」の人間で埋めようとする、ある種の本能のようなものだった。本能に従って、私はユウジに逃げたのだ。
『岸本有志さんと友達になりました。メッセージを送りましょう』
 機械的に表示されたその言葉を無視し、ブラウザを閉じてパソコンの電源を切った。動かしたのは指だけなのに、一ヶ月寝込んでいた人間が久しぶりに起き出したというくらいの疲労を感じる。人と関わるための筋力が衰えていた。
 心臓の拍は心なしか普段より速まり、そわそわとどこか落ち着かない気分のままベッドに寝転がった。高校の頃と部屋の造りが変わっているわけでもなく、いつ買ったのかも覚えていない木製の掛け時計も、窓際に天井からぶら下げた虹色のサンキャッチャーも当時のままだ。ごろりと横を向くと本棚に押し込まれた高校の教科書が目に入った。行き場のないまま捨てることもせず、それは景色の一部となって普段は意識にのぼることがない。
「さっちょん」
 頭を掠めたその名前を口にすると、過去の記憶がふわりと蘇ってきた。ユウジ先輩のことを「動物園のふれあい体験コーナー」と評していたあの先輩は、もしかして彼のことが好きだったのだろうかと、不意にそんな考えが頭のなかに浮かんだ。さっちょん先輩の声だけは耳に残っていて、けれど顔も髪型すらもおぼろげで、それとは対象的にユウジ先輩の顔は今見たばかりのようにはっきりと思い出せる。たぶんSNSで見た画像が過去の記憶を呼び起こしているのだ。
 俺だって年下の女子の方がいい。「ね」と、彼は年上のくせに少し甘えるような上目遣いで、彼の声と、季節の移り変わりに訪れるひやりとした風と、そしてキュッと心臓の締めつけられるような感覚を思い出した。
 寝そべったままベッドに投げ置いていたスマートフォンを手探りでつかみ、SNSのアプリをインストールする。IDとパスワードを入力してログインすると、さっそくユウジ先輩からメッセージが届いていた。画面に触れる指が、かすかに震えた。
『久しぶり。仕事がんばってる? こっち帰ってくることがあったら連絡下さい。一年前にカフェ始めたから食べに来て』
 その短い文章の末尾にはかわいらしい絵文字がくっついていた。高校のころメールのやりとりを面倒臭がっていた彼が、こうしてSNSをやっていることに驚きを感じつつ、やはり無精なのか、トップにある彼の記事は数ヶ月前のものだった。それ以前には店の料理やスタッフの写真があって、それを見ると彼が私の知らない人のように思え、安易に友達申請を承認してしまったことを後悔した。
 リンクが貼られていた『Cafeソラへ』という彼の店のページは、彼ではなく店のスタッフが更新しているようだった。「我らのボスです」という言葉の添えられた写真には、ユウジ先輩が真剣な眼差しでフライパンを振る姿が映っていた。
 彼がどんなキッカケでSNSのなかに埋もれた私を見つけたのか、その経緯は分からない。私のプロフィールは入社当時のもので、投稿した記事も入社直後の飲み会の写真と「これから社会人としてがんばります」という一文が最後だった。SNSで交流していた大学の友人とはすでに疎遠になっている。フォローしている『まいどカンパニー』のページも、会社絡みで繋がった人のタイムラインも、覗いてみようという気にならなかった。私の投稿した写真のなかには一ノ瀬さんの姿もあり、彼と同じように酒気で顔を赤くして笑う過去の自分が愚かしく見え、衝動のままその記事を削除した。
『お久しぶりです。じつは地元に帰って来ていて、現在求職中です。今度お店に伺います』
 先輩からのメッセージに返信すると、五分とおかず通知音が鳴った。
『帰ってきてるんだ! じゃあ今度会おう。来週の月曜の夜とか無理? うちの店の定休日月曜なんだ』
 月曜日なら大丈夫ですとあっさり返したのは、勢いだろうが何だろうが、今このタイミングで動かないとまた部屋にひとりで引きこもってしまいそうな気がしたからだ。それは傷つくことのない穏やかな日々ではあるけれど、将来への不安は確実に膨らんでいく。その不安に押しつぶされ、身動きがとれなくなってしまったらもう手遅れのような気がした。ユウジ先輩からの誘いは就職活動とは違って責任も何も伴わないけれど、外へ向けて動き出したという自信にはつながる。それくらいに私は社会とかけ離れた暮らしをしていた。
 数回のメッセージのやりとりを経て月曜日の夜にユウジ先輩と飲みに行くことになったけれど、直接会うのは十年振りで、仕事に追われて置き去りにしてきた「女」の自分を取り戻すために私は美容院に行き、そのあとショッピングモールで紺色のニットワンピースを買った。夏に「痩せすぎ」と姉に言われた体は、数カ月ののんびりした生活のお陰で多少は女らしいラインを取り戻している。
 約束までほんの数日だというのにそれをずいぶん長く感じ、けれど月曜になってみるとあっという間で、久しぶりに感じるこのこそばゆい緊張感に私は舞い上がっていた。
 待ち合わせ場所に向かいながら、枯れ葉を巻き上げる風に冬の匂いがした。それは何ともいえない寂しさを呼びおこし、ぬくもりに触れたいと願うのを風のせいにして彼を待った。

美鳥27歳――6

 ユウジ先輩と待ち合わせたのは、繁華街近くにある公園の入り口だった。
 日はとっくに暮れて、外灯と、道をはさんで向かいにあるコンビニの明かりで行き交う人の顔を確認する。そのほとんどが仕事帰りで、まっすぐ駅へ向かうかコンビニへ入るか、目的地が彼らにははっきりとあり、月曜の夜に飲みにくり出そうというという人は少ないようだった。
 ひとり門柱にもたれかかってスマートフォンを確認すると、待ち合わせの時刻をすでに十分過ぎていた。遅れないようにと十分早くに着いた私は、トータルで二十分この場所に立ち尽くしていることになる。連絡してみようかとメール画面をひらき、その前に最後の確認と顔をあげたときだった。
「久しぶり、美鳥。あんまり変わってないね」
 小走りに近づいてきたユウジ先輩は二三歩離れた場所で立ち止まり、私の頭のてっぺんから足の先までに素早く視線を走らせた。
 変わらないのは髪型のせいだろうかと、昔も今もあいかわらず後ろにひっつめたお団子髪に手をやった。髪を染め、癖毛がきれいに見えるようにと美容院でお願いし、ちゃんと注文通りの仕上がりだったにも関わらず髪をおろしてくることができなかった。張り切ってお洒落をしたと思われるのが恥ずかしかったからだ。
 化粧はちゃんとして来たはずなのにと小さな不満が芽生えたとき、「なんてね」と彼はおどけるように笑い、私の隣に並んでトンと軽く肘で小突いた。ツイードの中折れ帽をかぶり、鼻の下と顎のあたりに髭を生やして、その姿はSNSの写真とは違いどこか夜の匂いがした。それはセクシーという言葉に変換され得るのかもしれない。自分がずいぶん地味で田舎臭く思え、やはり髪を下ろしてくれば良かったと後悔した。
「お互い年とったな」
 ユウジ先輩は「行こう」と私の背に腕をまわし、密着したその体からはふわりとエキゾチックな香りが漂ってくる。自分の匂いが気になって肩を縮めた。最後に香水を買ったのは大学の頃で、『まいどカンパニー』に入ってからは仕事柄休日くらいしかつけることがなかった。その休日もまともにとれなくなり、埃をかぶった香水の瓶を捨てたのはもう何年も前の話だ。身だしなみとしての香りを失念するくらいに、私は「女」を忘れていた。ただの仕事をするだけのロボット。お客様に不快感を与えない格好さえしておけば、プライベートで何を着ようが、素っ裸でいようが問題なかった。なんとかとれた休日にはひたすら家でゴロゴロし、香水とともに遠ざかっていたのが他人とのスキンシップだ。大学三年のときに半年付き合った恋人と別れて以来、私は恋愛からほど遠い生活を送ってきた。
 仕事だけしていた魔の数年間を抜け出し、そのあとには半分引きこもり生活。この頃の私は他人と話すことすらほとんどなく、突然に距離ゼロまで近づいたユウジ先輩は、私にとっては刺激が大きすぎた。彼はときおり私に顔を向け、のぞき込むように「ね」と笑い、私はその口元にちらりと視線を向けるのが精一杯で、心臓は壊れそうなくらいに早鐘を打っている。ほとんど彼ひとりで喋りつづけ、「あ、こっち」と唐突に道を曲がり、その度に彼の腕に力がこめられた。何度かそれが繰り返されるうちに私の心臓は図々しくその状況に慣れはじめ、「ここだよ」と彼が顎で建物の二階をクイと指したときには、もう着いてしまったのかと、彼のぬくもりが離れてしまうことを惜しく思っていた。
 そんな自分を現金だと思いながらも、怖れず外に出てみれば案外すんなりと順応していけるのではないかと、少し前向きな気分にもなる。この距離から聞こえる彼の声、それはかつて体験したもので、懐かしさとともに感じた安心感は彼との過去があったからだ。
 建物の一階にはお好み焼き屋の看板があった。店の明かりはまったく点いていないにもかかわらず、ドアには「絶賛仕込み中」という冗談のようなプレートが掛かっている。その脇に二階への階段があり、道路の端に置かれた『bar (バー)lalala(ラララ)』という小さな看板には白い明かりが灯っていた。
 すれ違うのがやっとの細い階段を、先輩は先に立って上がっていった。彼の手が私の手を引き、階段を上がりきると同時に、また彼のぬくもりを背で受けとめる。
 地元とはいえ繁華街に来たのはほんの数回で、どこをどう歩いて来たのか皆目見当がつかない。すべてが日常からかけ離れていて、私はふわふわと過去と幻想のなかを漂っていた。後々考えると、よくそんな無防備に彼との距離を縮めたものだと我ながら呆れ果てる。道すがら、もしくは行った先で知り合いに出くわしても不思議ではなく、例えばこのときタマと偶然会っていたとしたら。彼女が「ユウジ先輩はないわ」と眉をひそめたなら、私は一体どうしていただろう。そんなたらればに意味はないけれど、実際にそんなことがあったとしても私のこのあとの行動は変わらなかったのではないかと思う。
 主に一ノ瀬さんの言動によって、私の心には「自分なんて」という卑屈な根性が染みついていた。否定の言葉をぶつけられ、それが繰り返されたからといって耐性がつくことはない。そんな私がこのときユウジと一緒にいて感じたのは、「私でも(・・)いいんだ」という肯定感だった。それは「私でも」という後ろ向きな側面はあったけれど、一歩踏み出すには十分な後押しになった。
 ギィ、とドアが古びた音をたてた。
 ユウジ先輩が手をかけたドアは上半分が模様入りの摺りガラスで、店内の様子がぼんやりと透けて見える。赤青黄三色の丸い明かりが見え、そのうち黄色が一度消え、また点いた。ドアは引き開けられ、右手奥のカウンターの端には信号機を模したランプが置かれている。その脇に立つ女性が振りかえったとき、また黄のランプが点滅した。
 煙草の匂い。ボブ・マーリーの曲が流れ、ヴィンテージなのか、ヴィンテージ風なのか、古びた雑貨でごちゃごちゃと飾られた店内は強いて言うなら無国籍、第一印象をそのまま言葉にするならば無節操で、それでもなんとなく統一感があるのは店主のセンスの良さだろう。
 カウンターに椅子はなく、女性がひとりもたれかかっているだけだった。店内には不揃いのソファが不規則に置かれ、いくつか小さなテーブルがある。左手奥のサッシの窓からは、向かいの建物の明かりが見えた。入口のドアと窓の雰囲気から推察するに、元は事務所として利用されていた場所なのかもしれない。窓際には二人掛けのソファが向かい合わせに置かれ、そこでは三人の男性が談笑していた。そのうちの一人がこちらに気づいて頭を下げ、先輩はそれに片手をあげて応じる。
「知り合いいるかなって思ったけど、やっぱりいた」
 ユウジ先輩はその相手のテーブルに行くことはなく、視線のやりとりは「おつかれさまです」「お互いさま」とでも言っているようだった。
 カウンターのすぐ近くのソファに腰を下ろした先輩に誘われるまま、私はその隣に身を埋める。彼がカウンターに向かって「コロナふたつ」と言い、中にいた男性が「了解」と冷蔵庫を開けた。
「他のが良かった?」
 私が首を振ってそれに答えると、「そう」と嬉しそうに口元を緩める。そして、座り心地を直すように私と体を密着させた。ぎゅっと寄せられた腕と、触れあった太腿、彼の視線がふと私の顔にとまり「あ、そういえばこんなところにホクロあった」と耳たぶを触る。耳が心臓になったようにドクドクと鼓動が体内に響き、彼の吐息が首すじにかかった。
「美鳥、耳赤いよ」
 恥ずかしさをごまかし「そう?」と指先で耳に触れる。「おまたせ」と笑顔でビールを持ってきてくれた男性は、近くで見るとずいぶん年上に見えた。五十代後半くらいだろうか。さっぱりとした短髪は明るく染められ、雑多な店内で彼の服だけが異様なほどに清潔感を放っている。白シャツは肘まで袖がまくられ、襟元のボタンはひとつ外されていた。
 渡されたコロナビールの瓶にはライムがさしてあり、私が当たり前のようにそのライムを中に押し込むと、「いつも飲んでるの?」と先輩は自分の持った瓶をカチンと私の瓶に打ち合わせた。
「たまに。居酒屋で働いてたせいかな、無意識に手が動いてた」
「美鳥、居酒屋で働いてたんだ。接客? それとも料理の方?」
「両方。いちおう調理師免許も持ってる」
 店長をしていた、とは言えなかった。口にして返ってくる言葉は「すごいね」以外に聞いたことがなく、満足にその役目も果たせず放り出すように逃げ帰ってきたのだから、胸を張るどころか穴を掘ってその過去を埋めてしまいたいくらいだ。
 話題を変えようと、私は「ステキな店だね」と店内を見渡した。「だろ」という得意げな彼の声にほっと胸をなで下ろす。
 窓際の三人組とカウンターの女性、それ以外にもちらほらと客がいて、その誰もがお洒落っぽい服を身につけ、そしてどこか夜の匂いがした。BGMの音量は大きめで、うるさくはないけれど、他の客の会話はまったくと言っていいほど耳に入ってこない。
「ユウジ、新しい彼女でも連れてきたの?」
 不意に聞こえたクリアな声に驚いて振り返った。先ほどまでカウンターにいた女性が、先輩の向こうでソファの肘掛けに腰を預けている。ぷるんとした唇で、手にはコロナビールがあった。
「残念、ハズレ。彼女じゃなくて元カノ」
「なんで元カノ連れてきてんのよ」
 その女性はキャハハと甲高い声で笑い、ユウジ先輩とくだけた様子で話しはじめた。たまにどちらかが「ねえ、キューさん」とカウンターの向こうの男性に話を向け、会話に私が加わることはほとんどなく、ずっと触れあったままの体と、あるタイミングで握られた右手のぬくもりを感じながら、たまに「だよね」とか「じゃない」と同意を求めるように私を振り返るユウジ先輩に「うんそうだね」と頷いていた。
 しばらして窓際の客が立ち上がり、ユウジ先輩と目線でやりとりしていたあの相手が「お先です」と声をかけてきて、その際ちらりと目が合って互いに会釈を交わした。私はなんとなく同じ業界、つまり飲食関係の人だろうかと考えていた。その彼は私に再会したときすぐに分かったらしいけれど、このときの相手が岡井さんだったことに私が気づいたのは、『Cafeソラへ』で働きはじめて数回顔を合わせたあとだった。
 きっとこの夜の私は先輩を見ていることに精一杯で、それ以外のものはほとんど目に入っていなかった。どうでもよかったのだ。日付が変わった頃に店を出て、「寒いね」と彼は私の肩を引き寄せた。
「美鳥、仕事してないなら今日うちに泊まってっても平気だよね」
 このまま帰るのを寂しく感じてはいたけれど、勢いで「もちろん」と抱きつけるほどには酔っ払っていなかった。

美鳥27歳――7

「一緒に帰ろ」 
 路地に並ぶ店は、そのほとんどが暗く沈黙していた。ユウジ先輩の声は酔っているのか少し鼻がつまったようなこもった響きで、そこには無邪気な幼さとエロスが同居し、母性本能からくる庇護欲と、体の奥深くにある剥き出しの本能が刺激される。
 月曜の終わり、火曜のはじまり。
 私が返事もできずにいると、とりあえず大通りまで出ようかと彼は来たときと同じように私の背に腕を回して歩きはじめた。少しずつ彼の手に力がこもり、密着した体はこれ以上くっつかないくらいに締めつけられる。
 動物園のふれあい体験コーナー。そんな言葉を思い出していた。ユウジ先輩は無邪気さをそのままに、あの頃にはなかった「オス」の匂いをまとっている。ふれあい体験の小さな動物が目の前で交尾行動をはじめたような、そんな戸惑いが私のなかにあった。
 夜に会う約束をして、この展開をまったく予想していなかったかといえば嘘になる。かといって数年振りに再会してその夜に、というのは私にとっては漫画のような展開で、リアリティーのない妄想に「私ってバカ」と心で笑っていた。それなのに、妄想が現実となって目の前に迫ってくる。
「あ、ちょうどいい」
 彼が足を止め、ぼんやりしていた私は歩を進めようとしてたたらを踏み、よろけた体は正面から抱きとめられた。
「美鳥、もしかして酔っぱらい?」
 彼は左手を上にあげ、背後から車の音が近づいて止まった。タクシーの後部座席のドアが開き、先輩は先に乗り込んで、私はまだ踏ん切りがつかないまま外で立ち尽くしている。
「ほら、早く」
 運転手の視線を感じ、ようやく私は彼の隣におさまった。
 行き先を告げて車が動き出す。彼の口にした町の名前は、夜中であれば十分ほどでたどり着ける距離だった。カウントダウンをするように車窓を流れる外灯の数を無言でかぞえ、ユウジ先輩の手はそれを遮って、強引に私を自分のほうに向かせた。
 気がついたときには彼の存在を唇で感じていた。誰の視線を気にするでもなく、彼の舌は私の上下の唇の隙間に潜り込み、私はただされるがままに口を半開きにしてそれを受け止めていた。陶酔することもできず、開いたままの目と、ルームミラー越しにこちらの様子を伺う運転手の目が合った。運転手は慌てて顔をそらし、取り繕うように小さく咳払いをする。ユウジ先輩はまったく気にする様子もなく、私は恥ずかしさから逃れるように目を閉じて、口の中は最後に先輩が飲んだウィスキーの味がしていた。
 困惑と不安と、その合間を縫うように彼を求める気持ちが膨らんで、今さら「やっぱり帰ります」などと口にして彼を白けさせ、今夜のすべてをなかったことしてしまうことはできなかった。せっかく踏み出したはずの一歩。甘えるような声で私の名前を囁く彼に、置いてきぼりになりそうな気持ちをなんとか引きずって、動揺を押し隠していた。
 しばらくして彼の体が離れ、そのタイミングを逃さず「家に連絡しなきゃ」とスマートフォンを取り出した。「あまり遅くならないようにね」と送り出してくれた母は、私が会っているのが元カレだとは知らない。誰と会っているのか、男か女かも濁して私は家を出ていた。
「友達の家に泊まるね」と送信したメールには、タクシーが彼の家に着くまえに「ラジャ。迷惑かけないようにね。おやすみ」と返信があった。
 高校のときは家族にユウジ先輩を紹介したこともなく、その後は一人暮らしで、自分の異性関係を母に伝えたことはなかった。今夜も深く詮索されることはなく、だからといって相手が男である可能性を考えていないはずはない。
 姉は恋愛に関して開けっぴろげで、義兄をはじめて家に連れてきたのもつき合いはじめてすぐの頃だった。姉と恋愛話をすることはあったけれど、私は家のなかに恋愛を持ち込むことが無性に恥ずかしく、たぶんこれから恋人ができることがあったとしても家に招待することはないだろう。あるとすれば、それは「結婚」という言葉が出たあとだ。
「家、平気? もう着いちゃうけど、今さら帰らないよね」
 母性本能をくすぐりながらも彼は終始マイペースで、私を知らない世界へと誘っていく。
 そのうちタクシーは住宅街のなかへと入り、彼は次を右、その先の信号を左と運転手に指示を出し、「あの角の左に駐車場があるから、そこで」と言った場所でタクシーは停まった。外灯がぽつぽつとあるばかりの寝静まった住宅地のどまんなか。そこで私たちはタクシーを降りた。
「ここ、俺の店。『Cafeソラへ』へようこそ」
 闇に浮かぶその建物は、小学校の頃に家族で泊まった山のなかのコテージに似ていた。見上げた屋根のラインは中央だけ飛び出すように三角で、月の姿は見えないけれど、その光が空と建物の境目をくっきりと浮かび上がらせている。一階の左手には小さなウッドデッキがあり、数段のステップの脇には車いす用のスロープがつけられていた。階段をあがったところにドア、そのガラス部分が背後を通り過ぎた車のライトを反射した。
 ユウジ先輩が「こっち」と私の手を引き、建物づたいに裏にまわるとカーポートには滑らかな曲線を描く黒い車体のSUVが停まっている。その脇を抜け、車の奥に玄関があった。
「とりあえず入って」
 普通の家と違うのは、玄関を入るとすぐ右手にドアがあることだ。上がり框に腰をおろしてブーツを脱ぎ揃えながらそのドアに目を向けると、ユウジ先輩が「そっちが店」と言ってそのドアを開けて見せた。数十センチの隙間から見えた店内は真っ暗で、懐かしい厨房の匂いがした。グッと胸が締め付けられ、『まいどカンパニー』の記憶が強引に思考の表層に浮かび上がろうとしたとき、バタンとドアが閉じられる。ほっと息を吐くと手を差し出され、グイと引かれて立ち上がった。
 一階にあるのはどうやら玄関だけのようで、すぐ目の前にまっすぐ階段が伸びている。彼のあとをついて二階へと上がりながら、一段ずつ足をかけるごとに緊張が喉元にせりあがってきた。これからするその行為を、自分が上手くできるのか分からない。それくらいに久しぶりのことだった。漫画的妄想に自嘲しながらもそれなりに体の手入れを施していたことに胸をなで下ろし、こんなことならもう一杯くらい飲んで理性を麻痺させておけば良かったと思う。
 通された部屋は階段をあがってすぐ右手、彼がドアを開けた瞬間エキゾチックな香りが漂ってきた。彼の匂いを濃厚にしたような、そんな香りだった。部屋の奥にはダブルサイズのベッドがあり、布団は起き出したばかりのように乱れている。
 私をソファに座らせ、彼は照明をおとしてキャンドルをつけると、DVDのラックから一枚抜き出してセットした。
「俺シャワー浴びてくるからこれ観てて」
 彼の態度はまるで私がこれまで何度も部屋を訪れていたかのように自然で、彼のいなくなった部屋で再生されたのは『バグダッド・カフェ』だった。以前観たことのあるその映画をぼんやりとながめながら、なんとなく心もとなくなりソファの端に投げ置かれたクッションを抱きしめた。彼のものとは違う、甘い花のような匂いがした。
 シャワーを浴び、貸してあげると渡された男物の長袖Tシャツを身につけ、けれどその服は部屋に戻って数分後にベッド脇に丸まって落ちた。まだ「バグダッド・カフェ」は再生され続けていて、口移しで飲まされたウィスキーで私の思考と痛みは麻痺し、入れ替わるように体の深い部分に快感が広がった。断片的に覚えているのは映し出された青い空と、『コーリング・ユー』のあの澄んだ歌声、それとユウジ先輩が誰か違う女の名前を呼んだことくらいだ。それに傷つくこともなかった。先輩の名前を間違えて呼んでしまうほど近しい名前が自分の中にないことに、わずかに虚しさを覚えただけだ。
 目が覚めると、緩んだ寝起きの顔が目の前にあった。不意に幸福感を感じ、「ユウジ先輩」とつぶやいて彼の胸に顔をうずめた。
「もう高校生じゃないんだし、先輩はなくてもいいんじゃない」
 彼の言葉のままに「ユウジ」と口にすると、彼はいつのまに持ってきていたのかサイドテーブルに置かれた紙パックのオレンジジュースを口に含み、それを口移しで私に飲ませた。
 カーテンの隙間から漏れてくる陽の光がゆらゆらと幻想的で、軽い二日酔いを感じながら、私は彼を受け入れた。乱れた互いの息遣いが落ち着いてきたころ。
「やべっ、そろそろ彼女来る時間だ」
 その意味を理解した瞬間、体を満たしていた微睡みと幸福感が吹き飛んだ。
「悪い、美鳥。とりあえず服着てくれる? この家しょっちゅう色んなやつ来てるから、別に顔合わせても全然大丈夫だから」
 追い立てられるようにして下着をつけ、ワンピースを頭からかぶった。深く考える余裕もなく、洗面所で目にした自分の顔がいつもよりも潤っていて、それが妙に情けなく思えた。
 階段を降りようとしたところで階下にある店舗へのドアが開き、今季の人気ドラマのヒロインに似た、都会的な美女がそこから顔をのぞかせる。その美女は私の後ろに立つユウジに明らかな疑いの眼差しを向け、その視線がそろりと私に移動して躊躇いがちにその唇が開いた。
「……どなた、ですか?」
 元カノと正直に口にする訳にもいかず、振り返ってユウジ先輩を見た。
「高校の後輩。昨日たまたま飲み屋で会っちゃって。他のやつも来てたんだけど、先に帰ったんだ」
 悪びれることなく、彼は笑顔で嘘をついた。昔から話を面白くするために誇張する癖があったけれど、それとは違う種類の嘘だった。彼女は「ふうん」と納得していないような膨れっ面でドアを閉める。チラリとユウジの顔を伺うと、しょうがないねというように肩をすくめた。
「彼女、一緒に働いてるんだ。でも、最近束縛きつくてしんどい」
 ユウジは私の隣に並ぶと、体を引き寄せて強引にキスをした。あのドアが開き彼女が顔を出しはしないかと気が気でなく、罰ゲームのようなザラついた感触が胸に広がった。
 それから数日は体の奥に異物感が残っていて、思い出すたび切ないような呆れるような複雑な気持ちになったけれど、一週間もすると「人生のちょっとした過ち」と割り切ったような心持ちにもなり、過去のものとして頭の片隅に追いやることができた。それで終わればよかった。
『ちょっと相談あるんだけど、会えない?』
 そんなメールが届いたのは、あの夜から二週間も経たないころだ。
「どう思う、このメール。元カレなんだけど」
 遊びに来ていた姉にスマートフォンの画面をみせると、彼女は眉を寄せて「ふん」と鼻で笑った。
「絵文字使ってる男は好きじゃない」
「お姉ちゃんの好みじゃなくて。彼女いるんだよね、この人。どういう神経で連絡してくるんだろ」
「遊ばれてんじゃないの? 別れてから出直して来いって言ってやりな」
 なるほどと納得し、文言を丁寧に改めてユウジにメールをすると、すぐに返信があった。その素早いレスポンスに、彼はやはり高校の頃とは違うのだと感じる。
『別れたんだ。彼女店辞めたから、美鳥がうちで働いてくれたらいいなって相談しようと思ってた』
 別れたのかと、あの整った顔立ちの彼女を思い出した。年齢はたぶん私より下で、そして比べるまでもなくあの子の方がモテるはずだ。そう思った瞬間、わずかに気持ちが浮き立った。ユウジが求めているのはあの子ではなく私、そんな優越感だった。
「彼女と別れたんだって。それに仕事の誘いだよ。職探ししてたし、ちょうどいいかも」
「その男は信用できない。仕事するんなら、ちゃんとハローワーク行って登録してきなさい」
 姉は渋い顔をしていた。姉の言うことももっともで、私自身平気で嘘をついたユウジの笑顔が頭にこびりついて、昔のように安易に彼を信用できなくなっている。それでも仕事の誘いに乗ろうかという気になっていたのは、まったく新しい職場で新しい人と信頼関係を築くよりも、彼をふたたび信用することの方が簡単に思えたからだ。
「ハローワーク通しちゃうと簡単に辞められないし、正直まだ怖いんだ。また変な会社にあたったらどうしようって。この人のところならダメだったら辞めればいい。知ってる人ってだけで心強いし」
 ひねり出した理由は、口にしてみれば全部本音だった。まったく知らないところに飛び込む勇気を、完全にどこかに置きざりにしていた。姉は納得していないようだったけれど、少しは理解を示してくれたようだった。
「話ぐらい聞いてきてもいいけど、本当に働くならちゃんと考えなさいよ。もし美鳥がこの人好きだっていうんなら、悪いことは言わないからやめときな」
 姉のこの言葉に、私は無意識に反発を覚えたのだと思う。このあと私がユウジとの関わりで抱いた感情は、言葉にするには複雑だ。恋愛感情だったのかもしれないし、そうでなかったかもしれない。ただ、その源にはどこかねじ曲がったプライドがあった。

【第五章】

 

男性NO

 寒風とともに店に入ってきたカナはニット帽を脱ぎ、潰れた髪の毛をクシャクシャとほぐした。タマが「いらっしゃい」と小さく手を振り、それに「いらっしゃいました」と笑顔で答える。手袋を外してスポーツブランドのロゴが入ったスキーウェアのポケットに突っ込むと、カナは「あっ」とつぶやいてチロルチョコレートを二つ取り出した。
「四次元ポケットねえ」
 差し出されたチョコレートを受けとり、タマが感心したように呟く。包み紙を開けて口に放り込む女二人を見比べながら、カナはカウンターの指定席に脱いだスキーウエアを掛けた。
「カナ君、会うの久しぶりね」
 タマは椅子から立ち上がり「よいしょ」と鞄を肩にかける。
「タマちゃん、もう帰っちゃうんですか? せっかく会えたのに、寂しいなあ」
「なに言ってんの。カナ君は美鳥がいたらいいんでしょ」
「そんなことないですよ。美鳥さんは美鳥さん、タマちゃんはタマちゃんですから」
 調子いいこと言って、とタマはころころと笑った。同じ「調子いい」でも、タマにとってユウジの「調子いい」と、カナの「調子いい」はずいぶん違うようだった。ほんの数回顔を合わせただけなのに、タマとカナはこんな風にくだけた様子で会話をする。深い話をするわけでもなく、表面的な言葉のやりとりにも関わらず、二人からそれぞれ話を聞く限り互いの印象は悪くないようだった。
「じゃあ、そろそろ仕事に戻るね。カナ君ごゆっくり」
「あれ、タマちゃん。ここにいるのは仕事じゃなかったんですか?」
「ああ、そういえばそうだった」
 額をペチリと叩いて舌を出す、その昭和的というか親父臭い仕草もタマの愛嬌のひとつだ。カナは入り口に立ち、タマを見送るようドアを支えて待っている。「ありがとう」と外に出そうとした右足を、タマはすんでのところでピタリと止めて、そのまま後ろ歩きで二歩下がった。タマに合わせてカナはドアを閉める。
「どうしたの、タマ」
「ううん。美鳥じゃなくて」
 タマがすぐ隣のカナを見あげる。身長差は三十センチ近くあり、「何?」と首をかしげたカナは猫背になっていた。
「カナ君。参考までに聞かせてほしいんだけど、カナ君のところの店はJBコーヒーの影響ある? それと、年明けからランチメニュー新しくしたみたいだけど、そのあと客足変わったりした?」
 仕事の話をしているタマの顔には、いつも好奇の色が宿る。と同時に、憂いと使命感をにじませるように、たくましい眉がわずかに寄せられる。
 地元が(さび)れていくのは悲しいじゃない。タマはことあるごとにそう口にし、「何かいいアイデアないかなあ」と誰彼かまわず問いかける。少子高齢社会の最先端をいっているようなこの地域で、上手くいかないことも多々あるようだったけれど、「失敗じゃないのよ、改善点が見つかっただけ」と前向きな言葉で愚痴をこぼす彼女を尊敬しつつ、私のなかには決して言葉にすることのない小さな反発心があった。
 失敗したら鳥の巣は終わり。改善して継続するだけの余力はない。それは資金的な意味もあるけれど、根本にあるのが自分の弱さだというのは疑いもなく、タマの言葉はちくりちくりと私の触れてほしくない脆い部分を刺激する。
 タマはショルダーバッグを下ろし、コリをほぐすように肩を揉んだ。カナは記憶をたどるように「あれ?」と頭を掻いている。
「タマちゃん、槇村さんに会ってないですか? 入れ違いになったのかな。先月分の報告、バタバタしてて遅くなったけど今日持っていくって。昼過ぎくらいに会議所に向かったから、今戻ったらいるかもしれない」
「そうなの? メールで送ってくれたらよかったのに」
「ついでに相談したいことがあったみたいです。商店街とは別件でイベント考えてるから、そういうの助成金って出ないかなって」
「一本電話くれたら待ってたんだけどなぁ。急いで戻ってみるね。ありがとう、カナ君。美鳥もまた連絡する」
 あわてた様子で店をあとにしたタマを、外に出てカナと二人で見送った。その後ろ姿が視線の先でツルリと滑り、タマは溶けかけの雪の上に尻もちをついたけれど、それも構っていられないというようにさっさと立ち上がり、歩きづらい雪をざくざくと踏みしだいて進んでいく。
「タマちゃんってかわいいね。小さいし、パワフルだし、それに」
 お母さんなんだよねえ、とカナは感慨深げに息を吐いた。その細めた目はタマの姿を追っていて、私がカナの顔からタマへと視線を戻すと、彼女の姿はもう見えなくなっていた。
「カナはタマみたいなのがタイプ? 年下の方が合いそうな気がするけど」
 私はキッチンに戻り、カナはレジの前で焼き菓子をながめて「これちょうだい」と一枚クッキーをとると、タマがさっきまで使っていた予備の椅子に腰をおろした。そして、よく言われるんだよね、とこぼす。
「よく言われるって?」
「年下が合ってそうって。全然ピンと来ないんだけど」
「へえ。カナは熟女好きなんだ」
 それは内緒、と冗談に乗ったカナに、私は内心ほっとした。ついタマとの気安いやりとりの延長で恋愛話を向けてしまったけれど、自分のことを聞かれはしないかとヒヤヒヤした。
 それに、カナの恋愛話を聞いてしまい、男性として意識してしまえばこれまでと同じ距離で話をすることができなくなりそうで、できればそういった話には深入りしたくなかった。目の前にいるのはたしかに一人の成人男性で、恋人はいないようだけれど、言葉の端々から過去にそういった相手がいたことは推察できる。私はそれを単なる情報として余計な想像を膨らませることなく頭の隅に追いやり、記憶の底から幼いカナを引っ張り出し、オスもメスもない無垢な姿に目を向ける。そうすることで変わらぬ関係を保とうとしている。
「美鳥さんは年上、年下、どっちがいいの?」
 たとえばカナが私に好意を向けたら――その先を考えそうになり、強引に思考を打ち切った。
「私はいいの。彼氏なんかいても自分の時間なくなるだけ」
 その言葉は嘘ではなかった。朝から晩まで店にはりついたまま、休みの日も仕入れ、仕込み、それに事務作業。この狭い店内のどこにもパソコンを置くスペースを確保できず、整理した伝票を自宅で会計ソフトに打ち込むのは週に一度、定休日の仕事のひとつだった。今年は確定申告も三度目でようやく慣れてきたけれど、所得税の申告額はゼロ円で、嬉しいのか悲しいのか、ただ落ち込むばかりだ。そんなことを考えて無意識にため息がもれていた。
「美鳥さん、疲れてる?」
 顔をあげるとカナが心配そうにこちらを見ていた。カナの頬はまだ赤く、その顔に懐かしさを覚える。ランドセル姿で私を見上げていたのは小学六年生のカナで、雪の通学路で彼の頬をぎゅっとつねった私は、もうどこかへ消えてしまった。
 不意に触れたいという衝動が芽生えたけれど、手を伸ばした先にあるのは自分の求めているものではない。
「なんでもない、平気。自分がどんどん男になっていく気がして、ちょっとヘコんだ」
 取り繕った言葉にカナは「今さら」と笑った。予想外の返しが気に障り、わずかに憤りを感じたけれど、そんなふうに言われても仕方ないようにも思えた。同世代の男性を避けるようになってから、意図的に女性らしさを出さないようにしている。もともと中性的な服装が好きだったけれど、ワードローブから完全にスカートが消えたのは鳥の巣を始めてからだ。人前に出るときの髪型はいつも同じひっつめ髪で、メイクも最小限。仕事柄ネイルを施すこともない。
 ずいぶん昔のまだ学生だった頃、心理テストで「男性脳タイプ」と判定されたことがあった。そのことをふと思い出し、男性脳というよりは『男性NO』だと心のなかで笑った。
「どれだけ男っぽくなっても美鳥さんは美鳥さんだよ。そんなことでヘコまなくていいんじゃない?」    
 カナは優しい。生意気な言葉を口にすることはあるけれど、それはノリで言っているだけで、彼の言葉が否定的な響きを帯びることはなかった。それは柔らかく心を通過し、彼の言葉に優しさを感じるたび、私の胸には別の感情が呼び起こされる。
 カナの笑顔の仮面を引き剥がしたい。
 高校生のころの私はそれがたしかに「仮面」だと分かった。――いや、分かったような気になっていた。今の私にできるのは目の前の笑顔が「仮面」でないことを願うことくらいだ。
 カナは手に持っていたクッキーの袋を開け、パキリと割って口に入れた。注文すら聞いていないことに気づき、口を開きかけたその前にカナが会話の続きのようなことを話しはじめる。
「ため息をつくときは、長く息を吐いたらいいんだって。息と一緒に嫌なことが全部出ていくから。まあ、ため息ついてる人を見るのはあまり気分のいいものじゃないけどね」
「一人のときならため息ついていいんだ。やっぱり彼氏いないほうが楽じゃない」
「美鳥さんのため息くらい気にならないよ」
 支離滅裂なカナに私が「はぁあああ」と大袈裟なため息をつくと、ケラケラと楽しそうな笑い声が二人きりの店内に響いた。カナはこんな風にOrigin(オリジン)でも笑っているのだろう。岡井さんの言った「雰囲気いい店」という評価は、Origin(オリジン)については信用していいのかもしれない。

距離

「カナ、コーヒーでいいの?」
「なんか作って。お昼軽めだったからお腹すいた」
 カナはクッキーの最後のひとかけらを口に放り込み、ひょいとカウンターの内側をのぞきこむと、レジスターの下に置いたゴミ箱にその袋を捨てた。
「カナ、今日定休日だよね。槇村さんと一緒に居たの?」
 冷蔵庫の扉を開けながら、今朝Origin(オリジン)の前で出会った槇村さんのことを思い出した。試作をすると言っていたから、あのあとカナも店に出たのかもしれない。食材の入ったタッパーを手に振り返ると、カナは立ち上がってレジ越しに手元をのぞき込んでくる。蓋を開けてみせると、中身を確認しようとさらの上半身を乗り出した。
「それ、何?」
「焼豚。それにトマトとパプリカでいかがですか。お客様」
「タマゴも入れていただけると嬉しいです」
 カナはわざとらしく営業用スマイルを浮かべると、ふと目に留まった様子でガーデニングショップ『樹と葉と花と』のショップカードを手に取った。ペラペラと裏表をめくり、元あった場所に戻す。その姿を目の端でとらえながら私は食パンにマーガリンを塗り、その上に食材を並べていった。
「今朝、Origin(オリジン)の前で槇村さんに会ったよ。試作するって言ってたけど、カナも出勤したの?」
 ガタリと音がして顔をあげると、カナは窓際の指定席をこちらに向けて座っていた。窓ガラスの奥でコニファーは冴えた緑をしている。雪に反射した陽光がその合間をぬって店内に差し込み、逆光になったカナの顔はその表情が読みづらい。
「槇村さん、そんなに早くから店にいたんだ。俺は店に顔出しただけで仕事はしてないよ。午前中スノボ行ってたんだ、志の無のメンバーと。槇村さん自分から行こうって言い出したくせにドタキャン。あの人思いついちゃうとすぐ行動する人だから、試作したくてうずうずしてたんだろうね」
 天気もバッチリだし昨日降ったばかりだからコンディションも良かったのにと、その声は白銀のゲレンデを十分満喫した様子だった。
「槇村さんって元気よね。尊敬する」
 私はスノボから槇村さんへと話題を変えた。活動的にプライベートを楽しむカナが羨ましく、素直にその話を聞く気になれなかった。槇村さんにしても、Origin(オリジン)と志の無の二店舗を経営しながら、これまでにもスタッフを引き連れて遊びに出かけたという話をカナから何度か聞いている。槇村さんは「プライベート」ではなくスタッフへの福利厚生のつもりかもしれないけれど、そういった時間と体力、気力を持てることを尊敬し、比べれば比べるほど自分の余裕のなさに落ち込んでしまう。
「俺も褒めてよ。実は去年の冬スノボのインストラクターの資格とれたんだ」
「へえ、すごいじゃない」
「でしょ。去年はまだ志の無にいたから、昼間は比較的自由だったんだ」
 ふうんと返事をし、具材をはさんだサンドイッチをオーブントースターに入れた。もしかしたら私はエネルギータンクが人よりも小さいのかもしれない。趣味と呼べるようなものはなく、休日もいくつかのお気に入りの店に行くくらいで行動範囲は狭い。母とのんびりお茶をするだけで充実した休みだったと思えるし、それくらいのエネルギーしか備蓄できていない。
「カナはインストラクターになるわけじゃないんでしょ?」
「どこまでできるかトライしてみたかったんだ」
 これまでに数回、カナと槇村さんが二人で鳥の巣に訪れたことがあった。槇村さんはカナの飲み込みの速さや器用さに感心している様子で、一方カナ自身はそんな風に褒められることを居心地悪く感じているのか「器用貧乏」と冗談めかして話題を変えるのが常だった。スノーボードも資格をとってしまうくらいだから相当山に通ったのだろうけれど、やはり彼本来の資質もあるのだろう。
 楽しそうに雪山の話をするカナに嫉妬する。好きでも、楽しくても、才能がなければ苦痛になり、嫌になる。周囲と比べなければ下手でも何でも好きでいられるのかもしれない。ナンバーワンよりオンリーワン。自分は自分なのだと言い聞かせても、無意識に人と比較してしまう。姉だったり、タマだったり、槇村さんやカナ。肩に背負った重荷に急き立てられるようにして職場へと足を向ける私は、仕事も遊びも満足にできないただの無能、そう言われているようで、遊ぶことから目をそらし仕事をした気になっている。
 視野が狭まっていると自覚はできても、差し出された救助のロープを掴むことができず、私は沼のなかでもがくばかりだ。そのロープの先がきらびやかすぎて、薄汚れた自分が引き上げられるに値するとは思えない。こんな風に自分の心理状況を一歩引いて眺められるのは『まいどカンパニー』と『Cafeソラへ』でのことがあったからだ。それなのに、私はまた理想と現実の狭間で生ぬるい沼にはまり込んでいる。
「カナの職場楽しそうね」
 うんそうだね、と返ってきたカナの声はあまり楽しそうではなかった。
 チンとトースターが鳴り、香ばしく焼きあがったサンドイッチを取りだす。「いい匂い」というカナの声は上機嫌だった。
 笑顔を信用しきれなくなった私は、以前よりも相手の声色に敏感になっている。演技で繕ったとしても、喉の奥から漏れ出てくる感情は少なからず声の響きに影響している。カナの声は男性にしては高いほうで、良く通るその声は、草笛のようにわずかな振動をともなって耳に届く。
 サンドイッチを半分に切って紙で一切れずつくるりと巻き、ペーパーナプキンを敷いた籠に入れた。カナは当たり前のように目の前に立っていて、「いただきます」と手を出してその籠を受け取り席に戻っていく。
「コーヒー淹れるから、ちょっと待ってね」
「マグカップでちょうだい」
 窓の外をながめながら、カナは大きな口を開けてサンドイッチにかぶりついた。一見しただけでは分からないけれど、彼は自称筋肉マンだ。食欲旺盛で、二人前くらいペロリとたいらげてしまう。それでも一向に太らないのだから、服の下にはちゃんと筋肉がついているのだろう。想像しそうになって、慌ててそれを打ち消した。
 コーヒーを淹れてカウンターに持っていったときには、カナの手のなかのサンドイッチはほとんど残っていなかった。その早さに呆れつつ忙しなく動く彼の頬をながめていると、あっという間に最後の一切れも胃袋におさまってしまう。
「ごちそうさま」
 こんな風に相手の顔を見て、相手と話して、その人に合ったものを作れたらいい。笑顔で店を後にするお客さんがいる限りやめたくない。そう思うけれど、現実はそんなに甘くはない。
「カナ、早食いは体に良くないよ」
「仕方ないじゃない。おいしいんだから」
「また、調子のいいこと言って。早食いのインストラクターにはならなくていいのよ。カナがなんでもできるって言っても、それは必要ないから」
 つい口をついて出た言葉だった。言ったあと自分のなかにあった嫉妬を認識し、カナが聞き流してくれればいいと願いながら目を逸した。
「なんでもできるなんて、美鳥さん思ってないよね」
 草笛で唇を切ったような、そんな痛みが胸のなかにあった。カナが私の口にしたその台詞を聞き流すほど鈍感ではないことは知っている。それくらい鈍ければ、あの頃の彼はもっと子どもらしい顔をして、大人を気遣ったりせず、自らの内にある悲しみをもっとさらけ出していたはずだ。
「たしかに私はカナにそんなイメージないけど、槇村さんにはいつも器用だって褒められてるじゃない。うらやましい」
「別に、昔と変わらないよ。それに『なんでもできる』なんて長所でも何でもない。ひとつのことに打ち込んでる人の方が、俺はうらやましいけどね」
 めずらしく頑なな言い方で、カナはその表情の強張りをごまかすようにマグカップを口に運んだ。そうしていつものように立ち昇る湯気を吸い込み、ほうっと表情を緩める。
「槇村さんや、美鳥さんのほうがうらやましい。俺は」
 ぽつりとつぶやいたあと、カナはちらりと私の顔を盗み見て、またコーヒーを口に含んだ。自分と槇村さんとが同列に並べられたことが、どうしても受け入れられなかった。私と彼はまったく違う。私はひとつのことに打ち込んでいるわけではなく、そこから逃れることができず八方塞がりで悶々としているだけだ。
「私と槇村さんとは違うよ、……全然」
 自分の声の硬さにハッとして顔を向けると、カナは訝しげな目でこちらを見ていた。
「ごめん。なんか気に障った?」
「……そんなことないけど、何ていうか、私も槇村さんがうらやましい」
 私の言葉にカナは何か思案するように束の間黙り込み、そのまま窓の外に目をやってコーヒーを啜りはじめる。中途半端な会話に引っかかりを覚えつつ、その場を離れようと彼に背を向けたところでグイと手首を掴まれた。私は突然のことに振り返ったままじっとカナの顔を見つめ、彼は躊躇うように口を開きかけて閉じた。
「カナ、どうしたの?」
 掴まれた手首にカナの熱が伝わり、そのゴツゴツした大きな手は記憶のなかの「カナ」とはまったく別もので、心の奥底からせり上がってきそうな「あの感情」を理性で押し込め、平気なふりをして口角をあげる。口の端がぎこちなく震えた。
「美鳥さんは、槇村さんと……」
 そのあとに続く言葉はなく、けれど何かしら男女の関わりに絡んだ問いかけをしようとした気配があった。言葉を飲み込む代わりのようにカナの手に力が入る。それを振り払いたいわけではないけれど、早く離してくれることを願った。正面にあるカナの顔が、どんどん私の知っているカナではなくなっていきそうで、耐えきれず顔をそらした。
 男の人だ。
 頭のなかでそれが言葉になった瞬間、カナの手がパッと離れた。私の手は力なくだらりとぶら下がり、指先の震えに気づいて背に隠した。
「……槇村さんと、何?」
「……槇村さんと」
 カナの言葉にまた少し間が空いたのは、きっと違う質問を探している。今の、この数分間のやりとりをなかったことにする、そんな軽い言葉が返ってくるはずだ。
「ここで知り合う前に、槇村さんと会ったことある?」
「え……?」
 予想外の質問に私は間抜け面になっていたのか、カナの口元がゆるみ、「ふっ」と息の漏れるような笑い方をした。
「美鳥さんって、ほんと分かりやすいよね。聞かなくても答え分かっちゃった」
「なによ、それ」
「いいよ。会ってないんでしょ」と、カナはいつも通りの寛いだ表情に戻っていた。彼がどうしてそんな質問をしてきたのか気になったけれど、これ以上この会話を続けることができなかった。
 怖かった。心の奥からむくりと顔を出したあの感情――恐怖はカナのせいではないし、槇村さんのせいでもない。知ることで余計に彼らを意識して、近づくことで恐怖が呼び起こされるのなら、当たり障りのない距離で変わらず関わり続けていたかった。近づくのは怖くても、離れるのは寂しい。
 カナが、少しだけ遠くなった。

【第六章】

 

美鳥28歳――1

 定休日の前の日だった。『Cafeソラへ』で働きはじめて一年と数ヶ月、スタッフの井戸田君は着替えを終えると「おつかれさまです」と裏口から出ていった。ガチャンと自転車のロックを外す音がし、ジャリジャリとタイヤが地面を踏み出す音、しばらくしてその気配はなくなった。
 更衣室代わりの倉庫へと向かおうとすると、「ビール飲んでく?」と、発注をメモした紙を手にユウジが声をかけてきた。それは「泊まってけよ」という合図。彼のその言葉があるのかないのか、定休日の前の夜はいつも落ち着かない気分だった。
 この誘いがなければユウジとプライベートな時間を共有することはない。ごくまれに仕事終わりにラーメン屋や飲み屋に行くことはあったけれど、その時は井戸田君も一緒だった。
 ユウジは私の雇用主であり友人、それ以上ではない。ときおり彼の部屋に泊まって体を重ねながら、私たちが再び恋人関係になることはなかった。彼にまったくその気がないと分かったのは、ここで働きはじめて一ヶ月ほど経ったころだ。「疲れただろ。ビールでも飲もう」と誘われ部屋にあがることを数回繰り返し、ベッドのなかで楽しげに今後の事業拡大を語る彼に、少しずつ情が移っていった。信頼していたかといえば疑問が残る。けれど、「美鳥が来てくれて本当に助かった」と体を引き寄せられ愛撫されれば、彼のために何かしてあげたいという気になった。一度情が移ってしまうと、多少悪いところが目についても仕方ないと許してしまう。
 その夜も一杯飲もうと二階に誘われ、使い慣れた浴室でシャワーを浴び、借りたTシャツはすぐに脱がされた。すべてがいつも通りだった。
「美鳥。実は、気になる子できた」
 私もユウジも布切れひとつ身につけぬまま一つのベッドにおさまり、彼は悪びれることなく汗ばんだ腕で私の躰に絡みついていた。その眼差しはどこか得意げで、意図的なのか無自覚なのか、彼のこのデリカシーのない言葉で自分がセフレだという確信を得ることになった。
 それまで薄々感じながら、自ら「セフレなの?」とも「彼女なの?」とも確認できず、どっちつかずでいたかったのは私自身だ。「セフレ」と認めるのは情けなく、「彼女」という響きに「やめときな」という姉の言葉が頭を掠める。
 もともと本気ではなかった。仕事では必要としてくれている。私は「うまくいくといいね」と彼に笑顔を向け、これは恋ではないと割りきったつもりだった。恋愛感情を心の奥から引っ張り出してきても職場に居づらくなるだけで、多少寂しくはあったけれどそれを隠して平然としているのが最善のように思えた。
 そのうち、暗黙の了解として立入禁止になった住居から女の声が聞こえるようになり、ドアの前を通れば自然と耳をそばだててしまう。階段を上がり下りする微かな音にさえ妄想を掻き立てられ、「ちょっと事務作業」と店から姿を消すユウジに苛立ちをおぼえるようになっていった。平静を装っているつもりだったけれど、顔に出ていたのだろう。ユウジは私を避けるように「事務作業」の頻度を増やし、私の苛立ちは積もり、それが悪循環へと陥る寸前、状況は唐突に回復した。
「美鳥は割り切ってるからいいよね」
 それはつまり彼女と別れたということだった。「上でビール飲む?」と誘われたのは二ヶ月ぶりで、溜め込んだ苛立ちを発散できないまま返事をためらい、「帰る?」と問われて「じゃあビールもらおうかな」と返したのは、やはり情としか言いようがない。
 結局はセフレのまま体を重ね、私のなかの不信感もそのたびに重なり、けれどそのすべてを「情」とういう曖昧な言葉で覆い隠して現状を変えることを避けていた。
 ユウジは男女関係にはルーズだけれど、無邪気なだけで悪気があるわけではない。そんな支離滅裂な解釈をして、私はユウジの傍に居続けることを選んだ。
「美鳥、実は気になる子ができた」
 彼のこの台詞を耳にするのは三度目だった。
「ふうん。どんな人?」
「高校のときの同級(タメ)だから美鳥も知ってるかもしれない。ケーキ屋で働いて甘い匂いさせてるくせに、酒の飲み方がエグいんだ」
 私が笑うとユウジも同じように笑い、「たぶんその子、ちょくちょくここ使うようになるから」と布団に潜り込み、彼は私の脚を広げた。
 聞きたいこともあったけれど、私の口から漏れるのはあられもない声ばかりで、では服を着て正座で膝を付き合わせれば問うことができたのかというと、やはり平気なふりをして「今度は長続きするといいね」と返していたはずだ。
 身を捩らせながら、ユウジとこうして交わることはしばらくないのだと思うと心に隙間ができた。彼と過ごした時が長くなるほどにその隙間は大きくなり、いくら体を絡めてもその隙間は埋まりはしなかった。
 勝手がいつもと違うと気づいたのはそのすぐ後だ。ある平日の、ランチが終わってディナーがはじまるまでの数時間、店裏の駐車場の前には引越し業者のトラックが停まっていた。野次馬よろしくのぞき込むのも憚られ、けれど聞こえてきたその声に気づいてしまった。
 さっちょん(・・・・・)
 ユウジのことを動物園のふれあい体験コーナーと称した彼女は、どうやら今は「サチ」と呼ばれ、聞こえてくるユウジとの会話は長く時をともにした恋人同士のように気安かった。
 私は彼女のことを覚えている。けれど、向こうもそうだという確証はなく、ユウジは私とサチが設営委員で顔を合わせていたことなど覚えていないようだった。私はそのまま知らないふりをすることにした。
 ユウジと一緒に二階で暮らしはじめた「サチ」は、店に顔を出すことはなく、生活時間帯がずれているのか、意図的にずらしているのか、バッタリ出くわしたりすることはなかった。
 一度、裏から出ていくサチの姿を遠目に見た。その後ろ姿は、あの『bar lalala』のお洒落な人たちと同類に思えた。

美鳥28歳――2

 ケーキ屋に勤めるサチは、『Cafeソラヘ』が開店準備をしている途中に出掛けていく。厨房にある裏口の磨りガラスに人影が映るのは、出入りの業者かサチだった。裏の駐車場から民家を二軒はさんで月極駐車場がある。そこに置かれた一台の軽自動車がサチのものだと気づいてから、私は店回りの掃き掃除をするついでにその存在を確認するようになった。
 パールピンクの彼女の車が停まっている日、それはつまり彼女の休日。車を見つけるたびに苛立ちを覚え、もう確認するのはよそうと思うけれど、首をひょいと伸ばせば簡単に見えてしまうものだから何度目かの決意を反故にしたのち不可抗力だと諦めた。
 苛立つのはきっとサチのせいではない。ユウジへの不信感は、男女関係だけでなく仕事でも日々感じるようになっていた。サチが休みの日、ユウジは準備も仕込みもスタッフに任せきりで、開店時刻ギリギリに店に顔を出すようになった。彼が口にする「俺がいなくてもそれぞれが成長してもらわないと」という言葉を、私は素直に受け止めることができない。
 その日、サチは休みだった。
 午後一時過ぎ。オーダー用のボードに貼り付けられた伝票は残り一枚で、私はその伝票を指にはさみ、デザートとコーヒーをトレーにのせて窓際のテーブルに向かった。厨房の奥ではユウジがごそごそと冷蔵庫をあさっている。
 店内は暖房が効いていて、向かい合って座る男女ふたりの頬は赤く火照っていた。女性がデザートのアイスクリームを目にして小さく歓喜の声をあげ、「ごゆっくり」と笑顔を向けて去り際にふと窓の外に目やると、黒々とした陰気な曇り空の下、枯れ落ちず枝にしがみつく数枚の葉が耐えるように北風にあおられていた。大陸からの寒気が南下し、昨日あたりから急に冷え込みが厳しくなっている。季節は本格的な冬へと移り、膝が痛いとこぼしながらも毎週通ってくれていた近所のおばあさんは、今週まだ顔を見せていない。寒さのせいだけはないのだろうが、席は半分も埋まっていなかった。
 「店長」という立場を経験していなかったなら、もっと楽観的でいられたのかもしれない。客が少なければのんびりできてラッキー、そう割りきれたらどれほど楽か。ユウジが冗談のように口にする「今月もなんとか支払いできた」という言葉はきっと事実だった。「良かったっすねー」と無邪気に返す井戸田君が内心危機感を抱えているのか、それとも割り切っているのかは分からない。
 厨房へと戻ると、入れ違うようにユウジは「家」のドアへと向かった。
「お客さん来たら電話して」
 目も合わせず、彼は二人分の昼食を手に「家」へと姿を消した。
 この時間の営業なら調理補助の私とホールのアルバイトで事足りる。まいどカンパニーの最初の二年は厨房で働いていたし、調理師免許も取得し、ユウジがいない状況にも少しずつ慣らされてきた。納得いかないのはユウジの態度に危機感がないことだ。身を削って会社にこき使われていた過去の自分のあり方が正しいとは思わないけれど、ユウジからは店に対する情熱が感じられない。働きはじめた頃は「二号店を出したい」という彼の夢に共感を覚えていたのだが、あの頃彼に感じた情熱が幻だったのか、それともあの頃にはあった彼のやる気が何かしらの理由で削がれてしまったのか、たまにユウジが「二号店」やら「規模拡大」という言葉を口にしても、それはすべて口先だけの妄想に思えた。
 男女二人分の笑い声がドアの向こうから聞こえる。つい、ため息が漏れた。
「ユウジさん、上がっちゃいましたね」
 井戸田君は苦笑を浮かべ、その表情に彼も何かしら心のうちに抱えているのだと察する。だね、と軽く返し厨房の奥に向かうと、背後から「美鳥さん」と呼び止められた。
「美鳥さん、大丈夫ですか?」
「なにが?」
 私に向けられた瞳には不安の色が滲んでいる。
「美鳥さん、辞めないでくださいね。本当に困るから」
 井戸田君はそう言い残してホールに戻っていった。七歳も年下のアルバイトに心配されることが情けなく、「家」のドアに向かってフライパンを投げつけたい衝動に駆られる。もちろんそんなことはしないのだけど。
 カランとドアベルの音がし、「いらっしゃいませ」と井戸田君の声が聞こえた。それを追うように私も接客用の声をあげる。電話などしなくても二階へ聞こえるよう、私はいつも「家」のドアへと声を向けた。けれど、ユウジが様子を見に降りて来ることはなかった。そうして、私は彼のダメさ加減を確認している。
 仕込んであったサーモンフライを油に滑り込ませると、ジュワジュワと鈍い音がした。ソースを温めリーフサラダを皿に盛り、ラタトゥイユの小鉢を置く。飲食店は仕込みが八割。慣れた作業、変わらない段取り。淡々と仕事をこなす私の頭の中は、いつもユウジのことでいっぱいだ。文句と愚痴がぐるぐると脳内を駆け巡っている。一連の作業のあいだに考えていることを文字に書き起こしてユウジに送りつけてやろうかと考え、そんな想像で気を紛らわせている。
 油のはねる音が高くなり、フライはきつね色に揚がっていた。
 オーブンからバゲットを取り出して皿にのせると、井戸田君がタイミングよく料理を取りに来た。
「五番テーブル、デザート追加です。お願いしてもいいですか」
「了解」
 井戸田君は「ありがとうございます」と言いながら、伝票を確認して料理を運んでいく。マロンアイスを器に盛りチラリとホールを伺うと、井戸田君はアフターコーヒーの準備をしていた。私はアイスクリームをトレーにのせてホールに出る。
 ユウジがいなくても何の問題もなかった。もちろん店の営業だけが仕事ではなく、事務関係はユウジがしている。今も伝票整理をしていたと言われれば「お疲れ様です」と頭を下げるしかない。それでも無性に腹が立つ。
 その一方で、この状態を引き起こしたのは自分かもしれないと考えることもあった。店長だったことをぽろりと彼にこぼしたのは、やはりベッドの中だ。「経営者って大変」とため息混じりにこぼすユウジに、少しでも共感をしめしたかった。雇われ店長と経営者ではずいぶん背負うものは違うけれど、あの苦痛でしかなかった『まいどカンパニー』での経験が、何かしら『Cafeソラヘ』の役に立てるのならばと、季節メニューや店内レイアウト、広告やアルバイトの育成など記憶をたどり、それは酷く不快感をともなうものではあったけれど、だからこそ無駄にしたくはなかった。
 最初のころは「さすが店長経験者」とユウジは笑顔で話を聞き、いくつか改善らしいことをしたけれど、それはきっと付き合い程度のことで、じきに私の言葉を「ふうん」と聞き流すようになった。まだサチが現れる前の話だ。
「本当に効果があるっていうなら、企画書きっちり上げてこいよ」
 ユウジがキレ気味にそう言ったのは、店内の電気を消してキャンドルを灯す「キャンドルナイト」を定期的に開催してはどうかと、そんな提案をしたときだった。私がこのときムキになって企画書を書いたのは、毎日顔を突き合わせて、何度も体を重ねて、彼とのあいだにそれなりの相互理解があると信じたかったからだ。実際はたんなる馴れ合いでしかなかった。
「お前何様のつもり? ここ俺の店なんだけど」
 怒鳴られたわけではない。手渡した企画書は読まれることなく棚の上に放られ、暴力的な視線と、口調は明らかに私を傷つけようとしていて、頭の中が真っ白になり、めまいを覚えた。
 おまえなんのやくにたってるわけ。こっちはじぜんじぎょうじゃねえんだよ。いままでどうやっていきてきたの。いわれたとおりやってればいいんだよ。さるがよけいなくちだししてんじゃねえ。さっさとうせろ――
 押し込めていたはずの記憶はあっという間に全身を支配し、吐き気で涙が滲み、ぐっと歯を食いしばって堪えた。倒れないよう身を強張らせ、掃除を終えたばかりの濡れたコンクリートの床を見据える。
 まいどカンパニーのとき、一ノ瀬さんは言葉が尽きるまで唾を飛ばし、最後には必ず椅子を蹴飛ばした。ガンッという音のあとに倒れた椅子はガシャンと派手な音をたてる。
 俯いたままでいると、ふたたびユウジの溜息が聞こえた。椅子を蹴飛ばしはしなかったけれど、「おつかれ」という投げやりな声とともに苛立たしげにエプロンを外した。住居への扉をバンッと勢いよく閉め、足音は普段より大きく響いてきた。
 破壊的な音で緊張はピークに達する。けれど、それは解放される瞬間でもある。突っ立ったまま、しばらく自分の震える指先を見つめていた。
 思えば、この頃から『Cafeソラへ』の営業状態はかなり悪くなっていたのだろう。余裕のなさからくる苛立ちの捌け口を、彼は私に向けた。無意識に。仕事終わりに一人で飲みに行くユウジの姿を見送ることが、このあと少しずつ増えていった。
 ユウジの発言に揚げ足取りや皮肉が混じるようになり、ときおり鬼の首をとったかのように私を叱責した。ひたすら黙してその場をやりすごせば平素と同じ態度で気安く冗談を言ってくる彼に、そのうち私は同情を感じるようになった。恐怖心を抱えながら、仕事に追われていた過去の自分と重ね合わせ、彼の苛立ちも、酒に逃げたくなる気持ちも分かろうとした。そうすることで、何か、自分のなかの壊れそうなものを必死で守ろうとしていたように思う。
 ユウジが激昂する姿に、井戸田君は厨房とホールの境目で固まっていた。私以外のスタッフの前ではユウジは物分りのいい兄貴分で、彼はその時もいつもと変わらぬ笑顔を井戸田君に向けた。
「驚かせてわりぃな。仕事は仕事だから、厳しく言っとかないといけないこともあるんだよ。お前らは大丈夫だから、気にすんな」
 井戸田君の肩を叩いて、その後ろにいた他のスタッフには何か軽い冗談のような言葉をかけ、ユウジは扉の向こうに消えた。井戸田君は動揺と哀れみのこもった眼差しを私に向け、そのあとユウジの消えた扉にちらりと目をやった。
「美鳥さんは悪くないと思いますよ」
 そっと耳打ちされ、張り詰めた気持ちが緩んで涙が出そうになった。
「分かってるよ。私、悪くないもん」
 笑ってみせたけれど、それでも井戸田君は心配そうな顔をしていた。そのあと再び厨房に顔を出したユウジは、何もなかったかのように深夜ドラマの話をはじめ、その日の終りには「ビール飲んでく?」と私を二階に誘ったのだった。
 すべてが惰性で、そしてすべてが綱渡りで、私は縋るようにユウジの誘いに身を任せていた。そうしてサチが現れ、自分の内側をぐるぐると渦巻く感情が「嫉妬」以外のなにものでもないと自覚した。
 井戸田君も他のスタッフも私とユウジの中途半端な関係に気づいていたけれど、彼らから見れば私は遊ばれている状態で、同情の目を向けられているのは肌で感じた。
 私は間違っているだろうか。その疑問は常に自分のなかにあった。ユウジから投げつけられる暴力的な言葉で自身の存在価値が揺らぎ、何度も落ち込み、井戸田君や他のスタッフからかけられる気遣いの言葉でなんとか正常な思考を保っていた。じっとユウジに頭を垂れながら、彼の口調が汚く激しくなるほどに恐怖心は膨らみ、その一方で彼の言葉が負け犬の遠吠えにしか聞こえなくなっていく。まいどカンパニーでの苦痛に比べればユウジの虚勢なんて、そう考えることでなんとか持ち堪えていた。
「辞めないでください」
「辞めたほうがいいですよ」
 スタッフからのその二つの真逆の言葉を、私はいつも「気を使わせてごめんね」とやり過ごしていた。辞めるべきだと考えながら、ユウジを、傾きかけたこの店を見捨てることに罪悪感をおぼえ、結局は惰性で居座ることしかできなかった。

美鳥28歳――3

 ドア越しに聞こえるユウジの足音は、トントンと軽快に階段を上って行ったようだった。その音に耳を澄ませて溜息をつくと、見計らったように裏口が開いて取引業者の岡井さんが顔を出した。
「まいどでーす。なに溜息なんかついてるんですか、本巣さん。幸せ逃げていっちゃいますよ」
「平気。もともと手元に幸せがないから」
 何言ってんの、と岡井さんは笑いながら、片手で抱えた段ボールから次々に食材を出し、それが終わるとキョロキョロと厨房を見回した。
「ユウジさんは?」
「手が空いたから、上で事務作業してるみたいです」
 特に疑う様子もなく、岡井さんは納品伝票を広げた。彼女と一緒に二階で食事中ですとは言えなかった。
「本巣さん入ってからユウジさん楽できていいよね。余裕ができたら二店舗目を出したいって話してましたよ、この前」
「また一緒に飲みに行ってたんですか?」
「うん、先週末にね。あのヒト元気だよね。深夜まで飲んでるのに次の日ちゃんと仕事してるんだから」
 二日酔いの日もユウジはのんびりと出勤する。悪びれる風もなく「飲み過ぎで頭痛い」と私にこぼし、他のスタッフにはカラ元気を見せる。彼の本性を暴露したい衝動に駆られるけれど、実際に口にすることはなかった。
「二店舗目なんて夢物語ですよ。このご時世どこも厳しいでしょう?」
 当たり障りのない言葉を返したつもりが、なぜか岡井さんは驚いていた。
「そんなことないでしょ。銀行とも話してるようなこと言ってたよ。本巣さんがいるから、こっちは任せて新しい店でまた違ったことがしたいって」
 寝耳に水だった。経営難の挙句におかしくなって妄言を吐いたかと思ったくらいだ。現状の売上で今の給料をもらうのも心苦しいくらいで、それはひとえにユウジの見栄っ張りな性格のおかげだった。ユウジは見栄の上に見栄を重ね、都合の悪い現実から目をそらしている。彼への不信感が少しずつ積み重なっていく一方で、情は変わらず私のなかにあった。哀れみもある。恋愛感情と呼べそうなものも、きっとそこにはあった。けれど、彼を擁護しようとするすべての感情を押しのけて、不信感に呑まれてしまいそうだった。そうなれば、きっともうここにはいられない。
 へらりと笑って岡井さんの腕を叩いた。
「いつも怒られてばかりいるのに、私にこの店を任せてくれるはずないじゃないですか。私には荷が重いです」
「そんなことないでしょ。本巣さんなら大丈夫だよ。料理もできるし、居酒屋で店長してたって」
「してたけど、挫折して辞めたんです。ブラックだったからあの会社」
 岡井さんは「そうなんだ」と眉尻を下げ、そこには憐れみが滲んでいた。
「じゃあ、良かったじゃない。ここの店アットホームな感じするし」
 ニッコリ笑うその顔に『Cafeソラヘ』の実情を暴露してしまいたいけれど、岡井さんの舌は滑らかに動きつづけている。
「本巣さんが入る前はスタッフが頻繁に入れ替わってバタバタしてたんだよね。本巣さんは、何が違うのかなあ?」
 岡井さんは不思議そうに首をひねり、「根性じゃないですか?」と私が言うと「かもね」と笑った。
「正直に言うと、本巣さんが入ったときも『また女の人か』って思ったんだ。ユウジさんが手を出して、別れて、スタッフいなくなるってパターン何度かあったから。ユウジさんも懲りたのかもしれないし、本巣さん信頼されてるんじゃないかな」
 言葉にするならば「信頼」というよりも「甘え」だろう。何を言ってもこいつは店を辞めない、そう思っているのかもしれない。何度も体を重ねてきたけれど、ユウジにとって私は『女』ではなく、きっとただの穴だった。性の捌け口、苛立ちの捌け口。彼にとって私はなんなのかと考えるたび徐々に思考はネガティブになり、すべてが虚しくなってくる。都合のいい女、セフレ、従業員、元カノ、……サンドバッグ。自分の体の中に無機質な砂粒が詰まっているような気分だ。そろそろ表面に亀裂が入り、中身は地ベタにぶちまけられるのかもしれない。
「信頼なんてされてません。私の意見なんて全然とりあってくれないし、ちょっと虚しくなる」
 普段はこぼさない愚痴が口をついて出たのは、「二店舗目」の衝撃が思いのほか堪えていたからだ。私にここを任せるというより、彼がここから逃げたいのだろう。破れたサンドバッグに利用価値はなく、ゴミと化した私から目をそらし、ユウジは夢を見つづける。
「ユウジさんと本巣さん、いいコンビだと思ってたんだけど。一緒に働いてれば、やっぱり色々あるんだね」
「そうですよ。私だって突然辞めるかもしれませんよ」
 本音を冗談に乗せて言ってみると少しだけ胸がスッとした。岡井さんは返答に困った様子で「ええ?」と頭をかきながらも、本気にはしていないようだった。けれどふと思いついたようにジャケットの内ポケットを探り、名刺入れとボールペンを取り出す。
「これ、渡しとこうかな」
 名刺の裏に携帯電話の番号をサラサラと書き加え、岡井さんは「はい」と私に差し出した。両手でそれを受け取り、彼の意図を考えながらしげしげと裏表をながめる。
「今さら名刺ですか?」
「本巣さん、この仕事好きそうだし。もしこの店辞めるようなことになって、自分で店しようって思ったら、ぜひ連絡して下さい」
 岡井さんは完璧な営業スマイルで、本気で口にしたわけではなく、ちょっとした思いつき程度だったのではないかと思う。後々その番号にかけることになるとは考えていなかったし、名刺を差し出した岡井さんにとっても、受け取った私にしても、社交辞令のようなやりとりだった。
「自分でなんて、それこそ夢物語ですよ」
「でも可能性はゼロじゃないから。俺は、こうやって種蒔いとくのも仕事なの」
 岡井さんは名刺入れをポケットにしまって荷物を片づけはじめ、ふと、考え込むようにその手を止めて私の顔を見た。
「本音で言えば、本巣さんがここに居てくれたほうが俺も安心なんだけどね。……でも、ユウジさんだけは、やめたほうがいいよ」
 意味ありげなその言葉にドキリとした。
「やめたほうがいいって、何を?」
 動揺を悟られないように視線を外し、手元の布巾を手にとった。無意味にまな板を拭いてみるけれど、気が紛れることはない。
「恋人とか、……結婚とか? 俺がこんなこと言ったって、ユウジさんには絶対内緒ですよ。でもあのヒト、男の俺から見てもちょっと節操がなさすぎだし、呑み屋でも色々揉めてたりしたから。本巣さんは、もっといい人探して、ね」
 結婚。二人で店を切り盛り、そんな幻想が頭を掠めたことは何度かあったけれど、岡井さんに言われなくても、姉に釘を刺されなくても、その想像に現実感はない。
 裏口のドアを開け、ユウジの車が停まったままのカーポートに出た。建物とのわずかな隙間から見えた空は曇天で、冷たい風に肩を縮めながら岡井さんのためにドアを押さえていると、鼻の頭にぽたりと雨粒があたる。
「降ってきたみたいですよ」
「天気予報は雨だったからね。雪にはなりそうにないけど、天気崩れそうだなあ」
 駆け出そうとした岡井さんは、足を踏み出す前にくるりと振り返った。
「本巣さん、あの話も一応聞かなかったことにしといてくれる? 次の店出すって話。何か考えがあって本巣さんには黙ってるのかもしれないし」
 岡井さんの前で余計なことは話さないほうがいい、そう心に刻んだのはこの時だ。
「分かりました。そのかわり何か新しい情報が入ったら教えてください」
 岡井さんは弱り顔で「できる限り」と答え、先ほどより強くなった雨に、ダンボール箱を傘代わりに運転席に飛び込んだ。すぐに発進するでもなく、書類に何か書いている。私は裏口の脇に生えた雑草を抜き、植込みの奥に投げた。ユウジが植えたのか、それとも前の借り主が植えたのか、駐車場脇の植込みにはアイビーの蔓がびっしりと這っている。
 水道で手を洗って裏口のドアを開けたときエンジン音がして振り返った。窓ガラス越しに岡井さんと目が合い、彼はペコリと頭を下げ、私は手をひらひらと振って彼を見送った。

美鳥28歳――4

 厨房に戻ると腕まくりをした井戸田君が食器洗浄機の脇に立っていて、ドアの閉まる音でこちらを振り返った。
「さっきノーゲスになりました」
「お客さん、ゼロか。了解」
 蛇口をひねってシンクに水を張り、レタスをドボンと中に入れた。時計はまだ一時半にもなっておらず、ランチのラストオーダーまではまだ時間があるけれど、これ以上の来客は期待できそうになかった。激しさを増す雨音は、井戸田君が食洗機の扉を閉めると同時に水流音と機械音にかき消される。
「井戸田君、洗い物終わってからリーフサラダ仕込んでもらっていい?」
「分かりました」
 シンクをチラリとのぞきこんだ井戸田君は冷蔵庫へと向かい、あとは任せておけば材料を自分で出して作業を終えてくれる。ホールスタッフとして採用されていた彼は、ユウジが厨房にいる時間が減るにしたがって仕事範囲が広がっていた。鼻歌を歌いながらレタスをちぎる井戸田君の姿に、ふとユウジへの不満が和らぐ。料理に関心があるらしい彼の様子は救いだった。
「井戸田君は辞めようって思ったことない?」
 以前そう聞いたことがある。彼はずいぶん複雑な顔をし、そのあと苦笑を浮かべた。
「オープンの時からいるんで愛着があるんです。この店」
それに、と続きを口にするまえに一旦言葉を切って私の顔をうかがい「すいません」と頭を下げる。
「俺、ユウジさんのことそんなに嫌いじゃないんです。以前のユウジさんはもっと前向きで、ついて行きたくなるような人で、カッコいいなって思ってました。今ちょっと上手くいかないからイライラしてるだけだと思うんです」
 いつも私のことをフォローしてくれるのに最終的にはユウジを選ぶのだと、このときは少なからずショックを受けた。上手くいっている時に他人にいい顔をするのは簡単で、そうじゃないときに人間性が出る。そう言いたかったけれどムキになって言い返すのも恥ずかしく、口にしたところで、それでもユウジを選ぶと言われるのが怖い。「そうだね」と何とか笑顔を繕うことしかできなかった。
 ランチの残りでまかないを済ませると、井戸田君は「じゃあ今日はこれで」と帰っていった。井戸田君はアルバイトをもう一つかけ持ちしている。基本はランチもディナーも働くことになっているのだけれど、週に何回かお昼で帰る日があった。そんな日は夜の営業が憂鬱でしかたない。
 このあと二時間ほどの休憩をはさんで仕込みをし、それから夜の営業が始まる。休憩中は店内でくつろぐのも外にでるのも自由だった。けれどシンと静まった店内で頭上から物音が聞こえれば二階で二人が何をしているのか考えないわけにもいかず、一人スマートフォンをつつく自分が惨めになるだけだ。気晴らしに本屋にでも行こうと鞄を手にとり、コートをはおって裏口のノブに手をかけたところで、店のほうからガラス戸を叩く音がした。
 コンコンコン、と軽いノックの音。様子をうかがいに出ると、扉の向こうにはスーツ姿の男性が傘をさしたまま立っていた。「準備中」の札はかかっているし、店内の電気も切ってある。客でないことは確かだった。
 男性は私の姿をみとめると愛想よく笑ってペコリと頭を下げ、私は訝りながらも笑顔を作って鍵を開けた。傘を閉じて入ってきたその男性は、スーツの襟に見たことのあるバッジを付けていた。
「こんにちは。うみねこ銀行の田宮と申しますが、オーナー様はいらっしゃいますでしょうか? 三時にこちらでと、ご連絡いただいたのですが」
 その銀行員は童顔なのか本当に年若いのか、見た目は明らかに私よりも年下だった。コートを手にかけ、肩のあたりは雨で湿っている。
「あの、すぐ呼んできます。中でお待ち下さい」
 いつも来客時に使う奥のテーブルに案内し、スマートフォンでユウジに電話をかけた。「何?」と無愛想な声が聞こえる。
「うみねこ銀行の田宮さんて方が来られてますけど」
 仕事に徹するようトーンを抑えた。そうしなければ口汚い罵りばかりが飛び出してしまいそうで、電話の向こうから「え?」と、明らかにアポイントメントを忘れていたという声がして苛立ちが加速した。
『わるい。ちょっと仕事が押してるから十分ほど遅れるって謝っといてくれる?』
 ユウジの言葉の奥に、どこいくの、という女の声が聞こえた。私は「分かった」と電話を切り、そのスマホを壁に投げつけたくなる衝動を必死でこらえてユウジの台詞をそのまま田宮さんに伝えた。コーヒーを出したところで「家」のドアが開き、顔を出したユウジは黒のスラックスに白のコックコートで、その当たり前の姿にすら腹立たしさを覚える。二階ではその糊のきいたコックコートは脱ぎ、Tシャツ姿でサチと寛いでいたはずだ。
「すいません、お待たせして。ちょっと立て込んでて」
 ユウジの嘘など気にとめるでもなく、田宮さんはガタリと椅子から立ちあがってお辞儀をした。
「こちらこそお忙しいところを申し訳ありません」
 沈黙した店内には忙しさの欠片もなく、目の前の光景は茶番にしか見えなかった。私は田宮さんに会釈し、ユウジにはすれ違いざまに「ちょっと出てきます」と目を合わさないまま、その場をあとにした。
 雨は本降りになっていて、傘をさして近くの本屋に向かった。サチの車はワックスをかけたばかりなのか、弾かれた雨滴はするするとフロントガラスを滑っていく。それは涙のように見えたけれど、私は泣きたいわけではなかった。
 ユウジは今でも相当の借金が残っているはずだった。追加融資で二店舗目。まいどカンパニーのことが頭を過る。辞めようかとボヤいていたカラオケ店の店長は、半年ほど前「俺も辞めた」と律儀に電話をしてきた。単に愚痴を聞いてほしかっただけなのかもしれない。そのときには半数以上の不採算店舗をたたんで、従業員の数もずいぶん削減したようだった。
「俺さあ、ずっと不思議だったんだよね。現場にいるとさ、一ノ瀬さん達のやり方じゃあ絶対に良くならないし利益も上がらないってひしひしと感じるんだけど、その人たちの提出した事業計画書で銀行は金出しちゃうんだよね」
 紙切れだけの計画なんて当てにならないのに、と溜まった鬱憤を晴らすような熱弁が、彼とのやりとりの最後だった。
 本屋につく頃には少し雨足が弱まっていた。まっすぐ「経営」のコーナーへ行き、背表紙をながめて目についた『小さなカフェをはじめる本』という可愛いらしいデザインの開業読本を手に、私はレジへと向かった。

【第七章】

 

法人化

「美鳥、聞いた? カナ君とこ法人化するんだって」
 タマはサンドイッチを手に持ったまま、口のなかのものを飲み込んでから思い出したように言った。その向かいに座るのは小学三年になる彼女の息子で、彼は手元のゲーム機からちらりと顔をあげ、母親の顔を見るなり「きゃはは」と屈託ない笑い声をあげる。
「ママ、口にマヨネーズついてる」
「えー? どこどこ? とれた?」
 タマは指で口元を拭いながら少年に向かって顔を突き出し、少年は「とれてなーい」と楽しげだ。ゲーム画面と母親とに視線を往復させながら、途端に「あぁ」と嘆いて肩を落とした。どうやら敵にやられてしまったらしい。
(あゆむ)、そろそろゲーム終了にしなさい。こんなとこまで来てゲームばっかり」
 母親モードのタマは、そう言いながらも無理やり止めさせることもなく、まだ半分ほど残っているサンドイッチにかぶりつく。よくあるやりとりなのか歩君はまたゲームをはじめ、その気もないのに「はぁい」とおざなりな返事をした。
「歩、ママの言ったこと聞こえた?」
「まだいいじゃん。ママが食べ終わるの待ってあげてるんだから」
 少年の前にはすでに食べつくされたサンドイッチの紙屑と、その横には空になったガトーショコラの皿がある。まだまだ幼い顔立ちで、椅子に座って足をブラブラさせる姿からは想像ができないほど彼の食欲は旺盛だった。残っているのはオレンジジュースだけだ。
 四月の終わり、ゴールデンウィークの初日にあたるこの日、駅前のアーケードでは市の主催する「花と樹のふれあいまつり」が行われていた。何カ所かの会場でイベントが開催され、商店街の店々も何かしらの特典を用意し、いくつか飲食店の屋台も出ているようだった。客は少し離れた場所にある鳥の巣まで流れて来て、絶え間なく来客はあるものの誰もみな満腹の様子で、注文が入るのは飲み物ばかり。それはそれで利益率も高く、ありがたいことだとのんびりグラスを洗っていると、タマが少年とともに顔を出した。仕事と遊びを兼ねてアーケードをぐるりとまわってきたらしい。
「あっちで食べてもよかったんだけど、たまには美鳥のとこでお客さんしようかなって」
 にこやかに言ったタマの後ろで、少年は少し不満げだった。子どもの目には魅力的な屋台ばかりが並んでいたのだろう。香ばしい匂いを振りまく屋台の前を、タマはどうやって息子を丸め込んでここまで連れてきたのか、そんなことを考えると、やはり母親というものを尊敬せずにはいられない。サンドイッチを食べ終わったころ聞こえてきた「おいしかったぁ」という歩君の声で、私はほっと胸をなでおろした。そして彼はもう食べ物のことなど忘れてゲームに夢中だ。
 普段は一人で来店するお客さんがほとんどで、店内に話し声があることは少ないのだけれど、この日はまったく様子が違っていた。あちこちから笑い声があがり、どこか浮かれた空気が漂っていて、だから私もためらうことなく足を止め、母子の会話が終わったのを見計らってタマに言葉を返した。
「ホージンカって? 会社にするってこと?」
 トレーを小脇に抱えたまま首をかしげると、タマはコーヒーカップに口をつけながら、うんうんと肯いた。
「なんだって。まあそうだよね。Origin(オリジン)さんの売上、メニュー変えてからも順調に伸びてるし、JBコーヒーの影響も全然ないみたいだしね。逆にJBのほうが落ちてるかもしれないよ。Origin(オリジン)さんが、ランチから夜まで通しで店開けるようになったから」
 タマが口にした最後の情報は初耳だった。「へえ」という相槌がどこか溜息のような響きを帯び、私はごまかすように言葉をつづけた。
「最近カナが顔出さないから忙しいんだろうなって思ってたんだけど、そういうことなんだ」
「うちに上がってくる報告はOrigin(オリジン)さんの分だけなんだけど、もう一軒の居酒屋の方も評判いいしね。売上的にもそういうの考えてもいいタイミングなのかもしれないね」
「消費税とかの関係?」
「うん。それに、何するにしても信用がちがうし、槇村さんは事業をもっと拡大したいらしいから。会社にするかしないかじゃなくて、いつするかを考えてたんじゃないかな。社会保険はどうしてたんだろ。雇われる方にしても社保ついてたほうが安心よね」
 だよね、と笑顔で返しつつ、心の奥から卑屈な感情が湧き出してくるのを感じていた。比べてもどうしようもない事だとは分かっていても、他人の成功話、しかも身近な人のこととなれば余計に自分の無力さを痛感させられる。
 春になって多少客足は伸びたものの、このままずるずると同じことをしていても根本的な解決にはなりそうになかった。安さをウリにして価格競争で大手と張り合えるはずもなく、無理して倒れてしまえばそれで終わり。前か後ろか、斜めだろうがどこだろうがここから動き出さなければならないという危機感は日々積み重なっていくけれど、一歩踏み出す勇気はなかなか持てない。そんなときふと思い返すのは『Cafeソラヘ』を辞めたときのことだ。あのときは限界まで我慢し、ぺちゃんこになってようやく開き直ることができた。全部放りだしてしまえたのは、私がただの従業員だったからだ。
 カナが羨ましかった。雇われてるだけならいつでも逃げ出せる。調子のいいときはそれに乗っかり、危なくなったら放り出せばいい。タマにもちゃんと稼ぎのある旦那がいて、辞めたくなったらいつでも仕事なんて辞めてしまえる。働かなくてもいい身分で自分のやりたい仕事をしているタマが、生き生きと仕事の話をするのを妬ましく感じることもあった。
 比べれば比べるほど、自分の汚い部分を見つめることになる。そうして苦しくなると、ユウジもあのときこんな気持ちでいたのだろうかと共感と哀れみを覚える。だからといって彼のすべてを許せるはずもなく、許してしまったら楽なのかもしれないけれど、そうしてしまえば辛うじて保っているこの仕事へのモチベーションも、途端に立ち消えてしまいそうだった。
「私は国保、国民年金だよ」
 タマはサンドイッチの最後の一切れを飲み込むと「あ、そうか」と私を見た。
「結婚しても美鳥は国保のままになるんだ。この店つづけるんだったらそうだよね」
「結婚願望ないし、店もいつまで続けるか分かんないよ」
 冗談めかして廃業を口にすることが増えた。そのたびにタマはちょっと困ったように眉間にシワをよせ、口には笑みを浮かべたまま小さく鼻から息を吐く。がんばって続けろと言われるわけでもなく、経営状態を根掘り葉掘り聞いてくることもない。私の方から相談をもちかけるのを、タマはじっと待ってくれているのかもしれない。そんなこと考えつつ「なんてね」と笑うと、タマがぽつりとこぼした。
「美鳥みたいにやりたいことやってるのって、うらやましいんだよ」
 タマは寂しそうな顔をして、私は少しの苛立ちと、それなりに大きな罪悪感をおぼえた。喫茶鳥の巣は私ひとりの力でやってこられたわけではない。そこにはもちろんタマの手助けがあり、家賃補助もあった。それらを棒に振って廃業の決断をするのは躊躇われ、けれど実際に自分のなかにあったのはそういうものへの恩というよりは、羞恥心だった。援助を受けながら店を維持することができなかった自分が恥ずかしく、プライドがその決断を遅らせていた。

葉室ちゃん――1

 ギィとドアの軋む音がし、ふわりと心地よい風が吹き込んできた。私はタマ母子の座るテーブルの脇に立ったままそちらに顔を向ける。
 栗色のベリーショートが目をひいた。短く柔らかそうな髪を指ですきながら、一人の女性がきょろきょろと店内を見回している。メタルフレームの眼鏡が知的な印象で、黒パンツに白シャツ、それに深緑のロングカーディガンという姿は、仕事の合間をぬって抜け出してきたという雰囲気だ。
「いらっしゃいませ」
「……あの、待ち合わせなんですけど」
 彼女は首をのばして奥の座席を確認し、まだ来てないみたいです、とはにかんだ笑顔を浮かべた。女性というよりは少年のような中性的な顔立ちで、あまり化粧もしていないのか、鼻の脇に点々とあるそばかすに親しみをおぼえた。アクセサリーも身につけておらず、チラと確認した爪先に人工的な色はない。同業者だろうかと頭をかすめた。
「おふたりさまですか?」
「ええ、じきに来ると思うんですけど。そこのカウンターいいですか?」
 どうぞと言うと、彼女はカナの指定席である右端の椅子に腰をおろし、身をのり出して窓の外に目をやった。まだ待ち人の姿は見えないらしい。私がお水をおいてその場を離れようとすると、「あ」とつぶやいてほんの数秒だけ思案し、メニューをながめて海老とアボカドのサンドイッチ、それにアイスコーヒーを注文した。キッチンで作業をしながらふと視線を向けると、彼女は頬杖をついたまま手元のスマートフォンに何かを打ちこんでいる。待ち人に『先に食べてる』とでも送っているのだろうか。
 ガタガタと奥で椅子を引く音がし、レジにやってきたのはタマと歩君だった。
「美鳥、そろそろ帰るね。ゆるキャラのステージがあるらしいから、歩と観てくる。ごちそうさま」
 タマは食べ終わったトレーを両手に持っていて、私はサンドイッチを作る手を止め、慌ててそれを受け取った。
「テーブルに置いといてくれたら片付けるのに」
「忙しそうだし。これくらいさせて」
 お釣りを渡すとタマは「またね」と私に背を向けた。
「ごちそうさまでした。またね、みどりさん」
 歩君はペコッと勢いよく頭を下げ、私が「ありがとうございました」と手を振るとバイバイと手を振り返す。タマは自分の息子が口にした「みどりさん」に苦笑しながら、「行くよ」とその手を引いた。二人並んだ後ろ姿を見送りながら、私はカナのことを思い出していた。
 カナが小学校三年生の頃はほとんど顔を合わせることがなかった。私の通う中学はカナの小学校とは方角が真逆で、通学中にその姿を見かけるようになったのは私が高校に入ってからのことだ。ランドセルを背負ったカナ。私の記憶にあるのは彼が小学六年生のときの姿で、それがふと脳裏に浮かび、何かの回線が繋がるようにある事実を思い出した。
 カナには、年の離れた妹がいた。
 カノンちゃん。その名前がどんな漢字を書くのかさえ思い出せない。そして、今の今までその存在を忘れていたことに衝撃を受けた。カナの笑顔が張りぼてになった、その最大の原因であるカノンちゃんの死を、私はいつから意識の奥に押し込めていたのだろう。
 勢いよくドアの開く音でハッとなり顔をあげた。逆光でその顔は陰っていたけれど、シルエットで誰なのかはすぐに分かった。カナは、私ではなく指定席の彼女に顔を向けていた。
「奏さーん。遅いですよ」
「ゴメン。来る途中で知り合いに会って、ちょっと話してた」
 チンと音がし、我に返った瞬間パンの焼ける香ばしい匂いに気がついた。いらっしゃいませも言わずボンヤリしていた私に、カナはようやく視線を寄越す。
「美鳥さん、久しぶり」
「あ、うん。いらっしゃい」
 目があった瞬間、先ほどまで思い出していた小さなカナと、前回会ったとき突きつけられた男のカナとが心のなかでぐるぐると混じりあい、蘇りそうになる恐怖心から逃れるように視線をそらした。目をトースターへと移し、焼き上がったばかりのサンドイッチを取り出して包丁を入れる。動悸が速くなっていた。
「それおいしそう。海老とアボカド? 俺もそれにしよう」
 耳に届くその声は以前と変わりなかった。カナが身を乗り出してこちらをのぞきこんでいる気配があったけれど、私は顔もあげられないまま「了解」と返事をしてグラスにアイスコーヒーを注いだ。
「あ、それはたぶん私が注文したやつです。奏さん違うのにして下さい。半分ずつにしましょう」
「オッケー。じゃあ中身は美鳥さんにおまかせしようかな」
「奏さん。私、パストラミビーフとカマンベールチーズのがいいです」
 じゃあそれで、とカナは肩をすくめた。彼の顔を直視できない私の視線は、その肩越しに窓際に座る彼女と重なる。おねがいします、とその人はまたぎこちない笑みを浮かべた。同業者だろうという私の推測は当たっていたようだけれど、それにしては営業用スマイルにはほど遠い表情で、たったそれだけのことで私は彼女に好感を抱いた。
 彼女の注文したサンドイッチとコーヒーを手にキッチンを出ると、目の前に立ちふさがったカナが強引にそれを受け取ってカウンターへと運んでいった。「俺はコーヒーマグカップで」と顔だけ振り返り、指定席の隣、カウンターの真ん中の椅子に腰を下ろす。サンドイッチを食べながら二人は何か話していたけれど、普段にはない店内の喧騒にその声は埋もれ、切れ切れの言葉が耳に入ってはくるものの、何を話しているのかは分からなかった。「ハムロちゃん」というカナの声で、目の前のボーイッシュな女性が、槇村さんの経営する居酒屋志の無(しのぶ)のホールチーフ「葉室さん」なのだと知った。
 カナよりもひとつ年下と聞いていたけれど、二十歳と言われてもおかしくないくらいに若く見える。友達のような気安い表情で話をするカナは、槇村さんといるときと違い、年上相手に見え隠れする甘えのようなものはそこになかった。二人が並んで座る距離は恋人のそれより幾分広く、見ようによっては兄妹のように見えなくもない。カナがどんな気持ちで葉室さんに接しているのかは分からないけれど、思い出したばかりのカノンちゃんのことが頭を過り、心が締めつけられた。
 一度「男」として認識してしまったカナに、私は「お兄ちゃん」のイメージを貼り付けることで小さなカナをひっぱり戻そうとしているのかもしれない。カナが店に来なかったこの二ヶ月のあいだに、カナへの恐怖――というよりも恐怖を抱いてしまうのではないかという不安――が徐々に大きくなっていた。
 カナが酔っ払って電話をしてきたことがある。その深夜のコールがあったとき、私はベッドのなかで料理本を開いたまま、ぼんやりとOrigin(オリジン)のことを考えていた。その日は夕方に槇村さんが一人で来店し、特に何か言葉を交わしたわけではなかったけれど、心が波立ったのは事実だった。
『美鳥さんのサンドイッチが食べたーい。禁断症状になる』
 私が電話を受けるなりカナは何の前触れもなくそう言って、楽しそうにケラケラと笑った。その奥で何人かの笑い声が重なり、はっきりとは聞こえなかったけれど、カナの近くに槇村さんもいるようだった。カナは私との会話と電話の向こうの人たちとの会話をごちゃまぜにして、ずいぶん酔っているのか脈絡のない言葉ばかりで、私の相槌すら聞こえているのかよく分からなかった。
『夜中にすいません。奏、ちょっと酔い過ぎたみたいで。ちゃんと連れて帰りますから』
 突然槇村さんの声がして、私が「あ、はい」と間抜けな返事をすると、「おやすみなさい」と彼は言い、条件反射で「おやすみなさい」と返した。電話はすぐに切れてしまった。
 槇村さんと同じ距離までカナを遠ざけたら、きっと私とカナの距離はそこで留まることなく、さらに広がっていく。カナのことを考えて心のなかに芽生える不安や緊張、それについて深く考えようとすると恐怖ばかりが体を支配し、私はいつも強引に考えるのをやめた。
 会ってみたら平気かもしれない。そんな楽観的な考えもわずかながらあったけれど、確かめてみるのも怖く、そんなジレンマに陥った私は、深夜の電話があった数日後タマに相談することにした。
「男が全員美鳥を傷つけるわけじゃないんだから、十把ひとからげに男はどうこうって考えちゃだめだよ。カナ君はカナ君。今まで美鳥が見てきたカナ君も、ちゃんと男の人だったんだから、本質は何も変わってないよ」
 うまく言葉にできないままそれでもおずおずと悩みを口にすると、タマは数学の証明でもするようにハッキリと言い切った。
「カナ君は人たらしだから、美鳥が悩んでるうちに簡単に彼女できちゃうよ」
 その言葉はタマの勘違いから出たものというわけではなさそうだった。胸にズキリと刺さったのは、きっと寂しいからだ。
 カナなら、もう少し近づいても平気かもしれない。少しずつ少しずつ距離を縮めれば、いつかその距離にも慣れて、カナではなくとも誰か男の人が隣にいる日が来るのかもしれない。男の人と距離をおいて平穏を保ちながらも、心のどこかにそんな気持ちがあった。その気持ちを無理やり頭の外に追いやりつづけていたのは、希望を持っても傷つくだけだと知っているから。
「カナに彼女ができたら、その方が普通でいられるかもしれない」
 本音だった。カナが結婚でもしてしまえば、私はカナとのあいだに男女を意識しないでいられる。既婚者だったり、恋人のいる男性とのほうが気安く話せるというのは、なんとなく感じていたことだった。タマの、小さな吐息が聞こえた。
「美鳥、目を反らしたままだとずっと怖いままだよ。カナ君とそんなの嫌でしょ」
 タマの顔はやはりお母さんという雰囲気があった。たしなめられることにわずかな反発を感じてしまうのもいつものことで、タマの言葉が図星だからだと自覚している。それでも私は自分からカナに連絡することもできず、カナが顔を出さないのをいいことに全てを棚上げにしてきた。そのうち上手く棚のうえに置いておくこともできなくなり、店の行き帰りにOrigin(オリジン)の前を自転車で通ってみたりもしたけれど、結局今日まで会えずにいた。

葉室ちゃん――2

 冷蔵庫からタッパーを取り出し、蓋を開けた瞬間に自分が集中できていないことに気がついた。視界に入れないようにしていても意識はカナと葉室さんのほうに向かい、気もそぞろな状態で私が取り出したのは注文を受けたパストラミビーフではなく、カナの好きな焼豚だった。
 気を取り直してパチンとタッパーを閉じると「美鳥さん」とすぐ間近で聞こえ、思わずビクリと肩をすくめた。
「美鳥さん。まだコーヒー淹れてなかったら、アイスコーヒーに変えてもいい?」
 カナは白シャツの袖をまくりながらレジの脇に置かれたクッキーを物色している。そのシャツはOrigin(オリジン)の制服で、どうやら葉室さんが着ているのも同じもののようだった。「分かった」と答えたその直後に、店の奥から「すいません」と声がし、作りかけのサンドイッチをそのままに席へと向かう。追加注文を受けて戻ると、カナがキッチンの端でグラスに水を注いでいた。
「あ、ごめん。お水出してなかったね」
 別にいいよと言いながら、カナは壁際に体を寄せて私が通れるスペースをつくる。その脇を通り抜けるだけのことに緊張をおぼえた。
 キィと背後でスイングドアの軋む音がしてカナがキッチンから出ていく気配があった。ほっと力が抜け、気の緩みのせいなのか出しっぱなしにしていた折りたたみ椅子につまずき、あっと思った時には椅子の倒れる音が店内に響いた。「失礼しました」という言葉は意識するまえに口から出ている。
「あいかわらずだね。美鳥さん」
 私の口からは「あはは」と渇いた笑いがこぼれた。椅子を起こしながら、作業の優先順位を頭のなかで整理しようとするけれど思考は空回りし、作りかけのサンドイッチが目に入る。
「待たせててごめんね。すぐ作るから」
 私の言葉を受け流し、「アイスコーヒー勝手に入れるよ」とカナはふたたびキッチンに入って冷蔵庫を開けた。迷いもせずジャグを取りだし、グラスに氷を入れてアイスコーヒーを注ぐその動きには迷いがない。カナは冷蔵庫の前に立ったまま「あ」と何かいいことを思いついたという様子でアイスコーヒーを三分の一ほど飲み、もう一度冷蔵庫をあけると牛乳を取りだしてグラスに注ぎ足した。他のお客さんからは死角になっているけれど、その様子は葉室さんには丸見えで、カナは彼女と目があうと悪戯らしい笑みを浮かべ、そして葉室さんは呆れ顔で肩をすくめる。私のなかでは色んな感情がぐるぐると渦巻いて、カナが私に向けた笑顔になぜか傷ついていた。
「カナ、急いで作るから、席で待っててよ」
「分かった」とカナがキッチンを出ようとしたとき、入り口のドアが開いて賑やかな声が飛び込んできた。こんなところにお店があったんだぁ、と感嘆の声をあげるのは大学生くらいの若い女性ふたり。好奇心そのままに、彼女らは店内をきょろきょろと見回している。
「いらっしゃいませ」
 その私の声には、カナの声が重なっていた。驚く私を尻目に、カナは「どうぞ」とお客さんを迎え入れる。ちらりと視界に入った葉室さんは、苦笑しつつカナの様子を見つめていた。カナは当たり前のようにグラスに水を注ぎ、「美鳥さんはサンドイッチつくってていいよ」とお客さんの後を追う。その後ろ姿を目で追いかけ葉室さんと視線が絡み、彼女は「すいません」とでも言うように小さく頭を下げた。それが少し胸に引っかかった。
 私はカナに言われた通りサンドイッチを作り、キッチンに戻ったカナは胸ポケットからボールペンを取り出して会計票にオーダーを記入する。「アイスコーヒーとジンジャーエールだって」と言いながら、躊躇うことなく戸棚を開けてグラスを取りだした。
「いいよ、カナ。もうカナのサンドイッチもできるから」
「じゃあ、それができるまで。牛乳の分だけタダ働きさせて」
 カナは冗談ぽく笑っていたけれど、私のなかにはそれまでにあった緊張や恐怖と入れ替わるように卑屈な苛立ちが生まれていた。邪気のないカナの行動に、「一人じゃなにもできない」と言われているように感じてしまう。
 視野が広く周りをよく見ていて、そして、必要なときに手を貸してくれるカナ。私の手助けなど必要ないし、再会してからは私のほうがカナに助けられてばかりだ。感謝の気持ちがないわけではないけれど、自分の価値がどんどん失われていくように思え、そんな風に感じる自分が嫌いだった。槇村さんの言葉の端々に感じられるカナへの信頼と評価に、私は嫉妬していた。
 誰を見ても誰と比べても、自分には価値がないように思える。自ら前に踏み出すことのできない私は、お客さんが訪れて来てくれるのを待っている。「美鳥さんはこの仕事向いてるよ」と言われて馬鹿みたいにそれを信じ、好きなことを仕事にしてて羨ましい、そう言われることに違和感をおぼえながらも少しだけ優越感を感じていた。けれど、この場所から逃げ出したい、そんな思いが日に日に大きくなっていく。そんな葛藤に埋もれながら私が必死で築いてきたものを、カナはきっと簡単にやってのける。
「カナ、それ私の仕事だから……」
 私の声は怒っていただろうか、悲しんでいただろうか。カナの顔は寂しげだった。「ごめんね、でしゃばりすぎた」と、氷だけ入ったグラスを置いてカナはキッチンを出ていった。私とのやりとりなんて何もなかったように、いつも通りの笑顔で葉室さんの隣に腰をおろす。出来上がったサンドイッチをカウンターに持っていくと、ふたりは同時に手を伸ばした。
「海老とアボカド大好きなんです。ごちそうさまでした。おいしかったです」
 葉室さんはまっすぐに私の顔を見つめ、私はなぜかその瞳に吸い込まれそうな感覚に陥った。それを振り払うように「ありがとうございます」と返すと、彼女はにっこりと屈託ない笑みを浮かべる。彼女が女だからなのか、それとも彼女の纏う雰囲気がそんな気にさせるのか、その笑顔には裏がないように思えた。
 カナはサンドイッチにかぶりつき、先ほどの気まずさを取り繕うように「こっちもウマいよ」と笑ったけれど、私のなかの鬱々とした気持ちは変わらずそこにあった。押し込めた苛立ちのなかにカナを傷つけたのではないかという不安が混じり、それは徐々に膨らんでいく。
 自信を失くせば失くすほど、人の好意を素直に受け取ることができなくなる。意固地になって差し伸べられた手を突っぱね、嫌われたのではないかとあとになって後悔する。そのパターンを繰り返していると知りながら、いざそういう場面に出くわすと、なけなしのプライドがここぞとばかりに顔を出し、そのパターンから抜け出すことを妨害する。
「美鳥さんって呼んでもいいですか? Origin(オリジン)に行くとみんながそうやって呼んでるから、今さら他の呼び方にするのも変な感じで」
 葉室さんはそう言ってアイスコーヒーのストローをすすり、その左手にはまだ口をつけていないサンドイッチがあった。カナはもう半分くらい食べ終わり、かぶりつこうと開けた口をとめて「あ、そうか」と不意にこちらに顔を向けた。
「美鳥さん、葉室ちゃんに会うの初めてなんだっけ」
「そうですよ」と葉室さんのほうが先に口を開いた。
「奏さん、全然紹介してくれる気配がないから、今から自己紹介しようと思ってたんです。志の無(しのぶ)でバイトさせてもらってる葉室(ゆみ)です。今日は定休日なんですけどOrigin(オリジン)でこき使われてます」
 こき使ってないでしょと笑うカナに葉室さんも笑い返し、そのまま他愛ない会話に発展しそうな雰囲気だった。けれど、私の口からは「え」と声がもれ、ふたりの視線がこちらに向く。つい「ごめんなさい」と謝っていた。
「葉室さんって正社員だと思ってたから」
「バイトです。いちおう本業は別にあって」
 葉室さんは「あったかな」とつぶやきながら手帳型のスマホケースを探り、一枚の名刺をとりだした。それを両手で私に差し出す。和紙のような柔らかな風合いのその紙には、彼女の名前のうえに『オーラリーディング』と、肩書なのかもよく分からない言葉が印字されていた。占い師みたいなものです、と彼女が補足する。ブログや雑誌の占いもしているらしいけれど、対面でのセッションが基本らしく、全然有名じゃないんですけど、という謙遜のような言葉に、「そんなことないよ」とカナが横から口をはさんだ。
「葉室ちゃん、見える人なんだって」
「見えるって、霊とか?」
「いえ。オーラというか、その人の色ですね。ごくたまに映像が見えることもあります。たぶん、少し先の未来が」
 へえ、と思わず絶句した私に、「クチコミでけっこう遠くからも来るんだって。美鳥さんもみてもらったら?」とカナはあまり真剣に勧める風でもなく軽く言った。高いけど、とオマケのように言い足し、手の中のサンドイッチを口に放り込む。名刺を裏返すと『対面セッション50分/10000円』とあった。
「カナはみてもらった?」
 首を横に振り、口のなかのものを飲み込んでから、カナは「まさか」と肩をすくめた。
「槇村さんはみてもらったらしいよ。Origin(オリジン)出店するまえに、一緒にあの場所見に来たんでしょ、葉室ちゃん」
「見に来ましたけど、槇村さんはもう『やる』って決めてたと思います。あのとき見えたのはお客さんで賑わってる店内だったんですけど、未来のヴィジョンじゃなくて、槇村さんの頭の中って気がしたんですよね」
 初耳だったのか、カナは「へえ」と興味深そうに身を乗り出した。
 ガタガタと音がし、振り返ると二組の客が席を立つところだった。レジで会計をしながら、来たときよりもわずかにその距離を縮めて、カナと葉室さんが話し込んでいるのが目に入る。二人の表情は気安く寛いでいて、それはどこか違う世界の光景のように遠かった。
 カナは帰りぎわ「来る途中にタマちゃんに会ったよ」と思い出したように言い、葉室さんとふたり並んで店を出ていった。槇村さんがふらっと顔を出したのは、イベントから流れてきたお客さんもほとんどいなくなった、閉店間際のことだ。

岸本

 店の入り口に立った槇村さんは、「こんにちは」と控えめに言って店の奥をうかがった。四月も終わり間近でずいぶん日も長くなってきたけれど、外はすっかり真っ暗で、路地を行く車のライトが彼の背後を通り過ぎた。
「まだ大丈夫ですか?」
 後ろ手にドアを閉めた彼は、カウンターではなくレジをはさんで私の対面に立ち、「もちろん」と私が答えると安心したように柔らかな笑みを浮かべた。
「じゃあブレンドで。クッキーも一枚もらいます」
 彼はプレーン生地とココア生地のツートーンの一枚を顔の脇に掲げ、「どうぞ」と私が答える前に目が合い、先に口を開いたのは向こうだった。
「朝から晩まで一人きりで店をするのって大変じゃないですか?」
「そうですね、トイレに行くタイミングに悩みます」
 彼はその場に立ったまま、私がコーヒーポットを火にかけ、ペーパーフィルターを折ってもまだ立ち去る気配はなかった。キッチンのなかに目をやったり、並べてあるショップカードをながめてみたりしながら当たり障りのない言葉をぽつぽつと寄越し、私が「そうですね」とか「まあ」と曖昧な返事でやりすごしていると、ふと会話の途切れる瞬間があった。その空白に気まずさを感じ、槇村さんとの距離が変化していることを実感する。
「槇村さん、お店のほうは大丈夫なんですか?」
「すぐ戻らないといけないんですけどね、ちょっと抜けてきました。イベントのせいか食事する客も少なくて」
 彼はちらりと奥をうかがった。その視線がこちらに戻る前にポットを手に取り、ドリッパーにそっとお湯を注いでいく。いつもと変わらぬコーヒーの香りにほっと緊張が和らぎ、ふつふつと泡立ち膨らむコーヒーの表面をじっと見つめ、またそっとお湯を回し入れた。槇村さんの気配は変わらずそこにあり、私はドリップに集中しているふりをして会話を途切れさせた。
「コーヒーの香りは落ちつきますね」
「ええ、ほんとに」
 沈黙に緊張しているのは私だけなのかもしれない。ラヴァース・コンチェルトがスピーカーから流れ出し、奥のテーブルからは「そろそろ帰る?」とヒソヒソと話す声が聞こえてきた。
 淹れたばかりのコーヒーをカップに注ぐと、槇村さんは「もらいます」とカナがするようにレジ越しに手を伸ばし、その気安げな雰囲気にほんの一瞬ためらったけれど、奥で席を立つ音がして素直にカップを手渡した。彼はカナの指定席ではなく左の端に座り、窓の外に目をむける。店先のライトがコニファーを照らし、その形を闇にぼんやりと浮かびあがらせていた。
 レジを済ませてテーブルを片付けると、店内には私と槇村さんだけになった。洗い物をのせたトレーを手にキッチンへと戻る私に、彼はそれまでとは違ったトーンで誰に憚ることなく声をかけてきた。
「美鳥さん。ちょっとだけ話してもいいですか?」
 チラと掛け時計を確認し、私は少し待ってくださいと断って表の札を準備中にして店先のライトを消した。カウンターの真ん中の椅子を挟んで私がカナの指定席に背を預けるように立つと、槇村さんは座面の上でお尻を滑らせ、背もたれを肘置き代わりに私と真正面に向き合った。その眼差しから逃れるように窓の外に目をやるけれど、彼の声がそれを引き戻す。
「美鳥さん、一人で平気ですか?」
 彼が何を意図して言っているのか、「平気ですよ」と笑うと、槇村さんは「先に会計しておいてください」と財布を取り出し千円札を差し出してきた。指先で緩く二つに折り曲げられたその紙幣を受けとる。彼は空いたその手でコーヒーカップを取り、口をつけた。クッキーはカウンターの上におかれたままだった。
 BGMが沈黙を埋めて、それでもレジスターを操作する音が異様に大きく店内に響いた。槇村さんは頬杖をついて真っ暗な窓の外に目を向けている。床の軋しむ音で振り返った彼に、「四百円のお返しです」と小銭を差し出すと、彼は手のひらを私の前で広げた。けれど、私がそこにお釣りを置こうとすると拒絶するようにその手を閉じる。不審に思い、問いかけの視線を彼に向けた。その瞬間、百円玉を四枚握ったままの私の手は大きな男性の手に包まれた。体は硬直し、まっすぐな視線から逃れることができない。
「あの、……手」
 心臓はこれ以上ないくらいに早鐘をうち、手を引っ込めようとすると彼はさらに力を込めて私の手を握りしめる。
「美鳥さん」
 名を呼ばれて私はうつむき、彼は立ち上がり、そして一歩私に近づいた。脱力しそうになる足、震える唇、手のなかの硬貨はじっとりと汗で濡れている。体の中心に力を入れ、呑まれそうになる緊張から懸命に気持ちをそらし、すべてを遮断して床に視線を落とした。
 カナのことを思い出していた。私の手首をつかみ彼が口にした言葉。
「美鳥さんは、槇村さんと……」
 あのあと、カナは何と続けようとしたのだろう。カナはすぐに手を離したけれど、槇村さんの手が緩む気配はなかった。視線の先で、彼の靴が近づいた。気持ちは後ずさっているのに、体は思い通りに動いてはくれない。
「岸本君。カフェソラへの岸本有志君、新しい店をするらしいです。倉見市らしいので、ずいぶん離れてますけど」
 堪えきれずしゃがみ込み、片手だけが槇村さんと繋がったまま、彼は支えるようにその手に力をいれる。私が座り込んでしまうと、それに合わせるように膝を折った。
「美鳥さん」
 その声は壁を隔てた向こうから聴こえてくるようだった。床に手をつき息を整えようとするけれど、うまく吸えず、吐く息は震える。脳裏に蘇るユウジの、あの夜(・・・)私を見下ろした彼の顔を、必死で頭の外に追いやろうとした。
 すいません。すいません。すいません。
 何に謝っているのか分からないまま頭のなかで繰り返す。断片的な記憶はぐちゃぐちゃに混ざり合い、一ノ瀬さんの声が聞こえて胃がせり上がりそうになった。
「美鳥さん」
 ちがうひとの声。頬に何かが触れ、すいませんと無意識に口にしていた。視界がふいに真っ暗になり、抱きしめられ、押し付けられた槇村さんの服からは、厨房独特の油っぽい匂いがした。喚起される記憶はあの居酒屋のもので、抵抗もできず、それとは逆に間近に感じる人の温もりで心は緩もうとする。緩むほどにそれが裏返ることへの恐怖が膨張し、ぐっ身を引いて逃れようとすると、ふいに優しく頭をなでられた。それはどこか懐かしい感覚だった。
「ごめんなさい。美鳥さんがこんなにショックを受けると思ってなくて。不用意でした」
 頭を振ると、彼は腕の力を緩め体を離した。
「……大丈夫です」
「大丈夫じゃないでしょう?」
 うつむいたままの私の視界に槇村さんの顔が入り込み、近づいてきた大きな手に身をすくめた。その手はわずかに躊躇したあと、彼の人差し指がそっと私の唇をなぞり、私は顎を引いて逃れた。
「ごめんなさい」とつぶやいたのは私だった。
「……謝らないでください」
「違うんです」
 ごめんなさい、と私はそのあと二回繰り返し、槇村さんは小さく息を吐いて「立てますか」と私の肩を支えるようにして立たせた。槇村さんは真ん中の椅子を引いて座り、私は向かい合うようにしてカナの指定席に腰をおろし、カウンターに寄りかかった。じっと自分の爪の先を、飾りっ気のない乾燥してささくれた指先を見つめていると、視界の端の、窓の外を自転車なのか小さな灯りが通り過ぎていった。
「怖いんです。槇村さんだけじゃなくて、男の人に近づくのが。……槇村さんのせいじゃないんです」
 しばし沈黙があったあと「岸本君のせいですか?」と彼は言った。顔をあげると哀れみのこもった瞳がこちらに向けられていて、目が合うと彼は悲しげに口の端を歪めた。
「『bar lalala』で見たんです。岸本君と、美鳥さんが揉めてるところ。岡井と一緒にいて、岸本君のことは顔見知り程度には知っていて。……岡井がずいぶん心配してたんですよ」
「岡井さんはほんと……」
 お喋りなんだからと言おうとして言葉ではなく涙がこぼれ、顔を背け手のひらで涙を拭った。
「もう、大丈夫なので店に戻って下さい。すいません」
 彼はスマホを確認し、小さくため息をついた。本当に平気ですかと問い、私がうなずくと自分を納得させるようにもう一度息を吐いた。
「また来ます」
 お待ちしてますとは云えず、私は小さく肯いただけだった。彼は黙ったままで、立ち上がる気配もなく、私も口をつぐんだままでいた。しばらくした後「あの」と躊躇いがちな声が聞こえてそっと顔を向けると、槇村さんは申し訳なさそうに口を開いた。
「美鳥さんは、奏のことも怖いですか?」
「……分かりません」
 彼の手が近づいて、私がまた身を縮めると、その手は探るように少しずつ近づいてそっと私の頬に触れた。
「美鳥さん、おつきあいされてる方って、いますか?」
 その質問の意図に心臓がぎゅっと縮まる。首を振るべきなのか、そうしてしまえば隙を見せてしまうようで、私はカクカクとした動きで首を左から右へ向けた。そうですか、という彼の小さなつぶやきが耳に届いた。その声はたんなる確認のようにも、安堵したようにも聞こえ、目の前の彼に対して拒絶の意思を示すべきなのだろうかと、そんな迷いが膨れ上がっていく。
 好意を持って近づいてくる人を拒み続けていては何も変われないとは分かっていても、期待に応えられないことは心苦しく、そしてそれ以上に傷つくことが怖い。あいまいなまま「良き同業者」として今までと同じ距離でいてくれるのが一番良いけれど、槇村さんが私との関係を変えようとしているのは明らかだった。
「美鳥さん。深夜に奏が電話をしたことがあったでしょう? あの日、同じことを奏に聞いたんです。美鳥さんに恋人はいるのかって。いないみたいですよって、あいつは笑ってたけど、俺の質問の意図はあいつにも伝わったんでしょうね」
 束の間沈黙が落ち、息を吸い込む音がした。彼の手は私の頬にふれたままで、そして彼との距離が縮まる気配があった。ガタと椅子が鈍い音をたてる。
「美鳥さんには伝わりましたか?」
 答えないまま身じろぎもせず唇を引き結んでいた。あの夜、バカみたいに酔っ払って電話をかけてきたカナは、一体どんな気持ちで槇村さんの言葉を聞いていたのだろう。槇村さんよりカナとの方が親しいのに――昔も似たようなことを考えたことがあったはずだ。
「この手も、嫌ですか?」
 私の頬に触れていた槇村さんの手が自信なさげにそっと離れた。
「美鳥さんがんばってるから、何とかしてあげたいって思ったんです。全部ひとりで背負い込んでるでしょう? 俺でよかったら甘えて下さい」
 平気ですと答えたとき、そのなかに反発心がこもっていた。槇村さんにそれが伝わったのかは分からないけれど、彼にとって私が庇護すべき対象であるということが彼の言葉に滲んでいて、それはすなわち私を一人の経営者としては認めていないように思えた。
「返事は急がないので」
 彼の気遣いが重なれば重なるほど、自分の心が閉じていく。急がないと言いながら、頬を離れた彼の手は慰めるように私の頭を撫でる。包まれる感覚に懐かしさと安心感が芽生え、そのことがなぜか悔しく、情けなかった。脳裏に浮かんだのは父の顔だ。
 私が拒絶もせずその手に撫でられるままにしているのを彼はどう思ったのか、のぞきこむように私と視線を合わせ、確実にある目的をもってその顔が近づけられた。耳元を滑り下りた彼の手は私の顔をわずかに上向け、吐息がかかり、私はぎゅっと顎を引く。目を閉じ、体がこわばる。唇に触れるか触れないかの感覚は強烈な刺激をもって脳に伝わり、そのときバタンと大きな音がして槇村さんの気配が離れた。外に車の停まった気配があった。間をおかずもう一度バタンと聞こえ、それはどうやら車のドアのようだった。ほっと力が抜けると同時に、顎に添えられていた彼の手も離れた。
 槇村さんは窓の外をのぞき込み、そのあと「お客さんじゃなさそうですけど」と立ち上がってドアをあける。
「アキちゃん、これ持って来てー」
 ドアの隙間から飛び込んできたのは、聞き慣れた姉の声だった。

【第八章】

 

美鳥28歳――5

「先に行っとけって何よ。お兄さん来てるんだったら紹介してくれてもいいじゃない」
 ドアの向こうから微かに聞こえてきたサチの声で、私のストレスはピークに達した。ガチャリと住居用の玄関が閉まる音がし、洗い物の手を止めて振り返る。井戸田君はデシャップ台の向こう側の通路に立っていて、そこは「家」へのドアのすぐ前だ。私と同じように、井戸田君も裏口のドアを見つめていた。擦りガラス越しに、バタバタと人影が通り過ぎて行くのが見える。
 足音が聞こえなくなってから井戸田君と顔を見合わせ、互いに眉をひそめた。彼は苦笑を浮かべていたけれど、私の口角は上がるどころか歪むばかりだ。
「ユウジさんのお兄さん、なんか『お固い職業』って感じでしたね。眼鏡とか、スーツとか」
 ユウジの兄と名乗る人物が店用の正面玄関に現れたのは、ほんの十分ほど前のことだ。愛想笑いをするでもなく、強張った顔つきで余計な社交辞令も一切口にせず、「ユウジの兄ですが弟はいますか」と傘立ての脇に直立していた。ユウジに取り次ぐあいだも無表情で店内に視線を巡らせ、家の方に通せというユウジの指示通りに私は店内を素通りして彼を住居用の扉に案内し、その数分後にあの甘ったるい声が聞こえてきたというわけだ。
 ユウジとは大違いねと皮肉を口にしようとしたとき、井戸田君は野生動物のようにピクリと何かに反応し、そのすぐあと入り口のドアが開く音が聞こえてきた。
「いらっしゃいませ」
 穏やかな接客用の笑みを浮かべ、彼は新しいお客様を迎えに行く。
 午後七時半。テーブルは半数ほどしか埋まっていないけれど、火曜にしてはそれなりにお客さんが来ているほうだ。ユウジは夕方の仕込みと開店直後の数組の来客を捌いたあと、やることがあると言って二階にあがっていった。
 サチが上で暮らすようになって、すでに三ヶ月近くが過ぎようとしていた。これまで何度かニアミスがあったけれど正面から鉢合わせることもなく、お互い歩み寄って挨拶を交わすなんていうこともなかった。私は常に聞き耳を立て、彼女の気配を察知すればそれを避け、向こうは向こうで自身の存在を知らしめるようにワントーン高い声でユウジと日常会話を繰り広げる。ドアの向こうから「ティッシュも買ってきたほうがいいよね」なんていう家庭じみた台詞が聞こえてきたが、それは妙に白々しく私の耳に届いた。私がユウジの元カノだということはどうやら気づいているらしい。
「オーダーお願いします。パスタセットとオムライス単品です」
「はあい」
 伝票にオーダーを記入する井戸田君の手元をのぞき込み、「ユウジ呼ばなくてもいいね」とさり気なく口にすると、「そうですね」と彼も特に感情のない声で返してきた。
 井戸田君は手を洗って厨房に入り、冷蔵庫からリーフサラダを取り出す。ボウルの中でドレッシングと和えて所定の皿に盛り付けると、それを自らトレーにのせてホールへと運んでいった。
 彼はもう一つのアルバイト先であるカフェバーでも調理を担当するようになったらしく、手際よくホールの仕事を済ませては何かと厨房に入ってくる。そして今もまた空になったトレーを置いて、フライパンを火にかけたばかりの私の隣に立ち、その瞳に好奇心を滲ませている。
「パスタソース、作る?」
「はいっ」
 オリーブオイルに唐辛子とニンニク。その香ばしい匂いが厨房内に広がり、少しかがむようにして火力を調節する井戸田君の姿はずいぶん頼もしい。
 レシピを教えるようになったのは一ヶ月ほど前のことだ。ユウジがいなくても営業できるようにしておかなければという危機感があり、けれど直接ユウジに交渉しても「誰の店だと思ってんだ」と言われるのが関の山。私はユウジの目を盗んで勝手にレシピを教えるという選択をした。
 ある時、思いもよらないタイミングでユウジが厨房に顔を出したことがあった。ちょうど井戸田君がフライパンをあおってパスタをソースに絡めているところで、ガチャリとドアの開く音に私と井戸田君は硬直したのだけれど、
「ああ、余裕があったら井戸田に教えてくれたらいいから」
と、ユウジはたいして興味もなさそうな様子で、冷蔵庫からチーズを取りだしてさっさと二階に戻っていった。それ以来、井戸田君は以前にもまして厨房に出入りするようになり、場合によっては井戸田君が作っている途中に私がホールに出るようなこともあった。
 シンクに汚れたフライパンを置くと、井戸田君は自分の盛り付けたパスタと私の作ったオムライスを手に厨房を出ていった。
 フライパンを洗おうとスポンジを手にしたとき、住居のドアが控えめな音で開いた。ユウジのお兄さんだった。何か言いたそうな、けれど遠慮しているような困惑顔で、私は訝りながらも「何か?」と営業用の顔で彼に近づいた。スイングドアを押し開けてドアの前で向かい合うと、彼は両手をぴしりと体側に合わせて頭を下げた。
「弟がお世話になってます。今後もご迷惑をおかけすることがあるかもしれませんが、弟のことは放ってもらっていいですから。ご自身のことを優先して下さい」
 呆気にとられたまま返事もできずにいると、彼は何かを振り切るように頭をあげ、悲痛な表情で私を見た。
「では失礼します」
 私が何か言う隙も与えず、彼はさっさと店を出ていってしまった。その背に感じたのは、期限が刻々と迫っているという危機感だ。
『Cafeソラヘ』がいつまでもつのか。その時が来れば解放されるという希望と、一方で変わることへの怖れがあった。それだけでなく、エゴや嫉妬や、もっとドロドロした汚い感情が心の中でひしめき合い、そのすべてを洗い流したい一心で、私は洗浄機に皿を並べてスイッチを入れた。
 うみねこ銀行の田宮さんはあれから何度か店に顔を見せていたけれど、ユウジが二店舗目の話を私にしてくることはなかった。一ヶ月ほど前、厨房の裏口脇にしゃがみこんだユウジはグラスに半分ほど注いだビールをあおりながら、
「何か売上が上がりそうな、いい感じの設備投資ってない?」
とゴミ捨てに向かう私を見上げた。
「急に言われても……」
 じりじりとユウジから距離をとると、彼は「役に立たねーやつ」と言い捨てて二階へ上がっていった。新規出店の融資は下りなかったのだろう。けれど、つい先日も田宮さんとユウジはテーブルを挟んで話し込んでいた。二人が何を話しているのか想像してみたけれど、それはすべて絵空事のような気がした。

美鳥28歳――6

「ありがとうございました」
 若いカップルの会計を済ませ、背を向けた彼らに頭を下げた。井戸田君が入り口のドアを開け、店先でお辞儀をする。私の視界からは消えてしまったその客に、井戸田君はもう一度軽く会釈をしてひらひらと片手を振り、客の姿が見えなくなった頃合いで外看板の電気を切って店内に戻ってきた。
 私はレジスターのキーを精算に合わせてボタンを押す。ガチャリとドロアーが開いて、カタカタと印字されたロールペーパーが排出され、精算を終えて現金を入れた袋を閉めたところでユウジが顔を出した。
「レジ締め終わった?」
「うん」
 現金袋を持ち上げて見せると、「じゃあ、貰う」と彼が近づいた瞬間、香水の匂いがした。細身のシャツのボタンは二つ目まで外され、明らかに今から出かけるといった様子だった。袋から一万円札を数枚抜いた彼は、ドアを開けて家の玄関に袋を放り投げる。ゴトリ、と硬貨の重い音がした。ユウジはそのまま私にも井戸田君にも声をかけることなく裏口へと歩いていく。
「お兄さん、……大丈夫だったの?」
 ユウジはこちらを振り返ると小さくチッと舌打ちをし、途端に恐怖と後悔が私の全身を駆け巡った。
「大丈夫って何が? お前に関係ないだろ」
 すでに、言葉を発する気力を失っていた。
「だいたい、兄貴も稼いでるくせにケチなんだよ」
 裏口のドアをガンと蹴り、ユウジは独り言をブツブツと呟いている。
「まあいいわ」
 それは名前を呼ぶ代わりの言葉だ。ユウジから「美鳥」と呼ばれたのはいつが最後なのか、「お前」「おい」「なあ」「ちょっと」――名前なんてなくてもいくらでも会話はできる。恐る恐る彼の顔を伺うと、ユウジは業務連絡のような口調で言った。
「俺、明日何時に出れるか分からないから、ランチ頼む」
 見たことのあるお洒落な帽子をかぶって、ユウジは裏口から出ていった。体の芯は緊張で強張りながら、けれどそれ以上に呆気にとられ、状況を把握しようとカレンダーに目を向けたところで口を半開きにした井戸田君と目が合った。
「明日のランチ、二組予約入ってますけど。ちょっと、無理じゃ……」
 その瞬間何が起こったのか、私のなかで唐突に怒りが弾け、気づいたときには裏口を開けてユウジの後を追っていた。車は駐車場に停められたままで、その脇をすり抜けて道路に出たところで周囲を見回す。目の前を通り過ぎた一台のタクシーが正面の駐車場へ曲がった。
 ぐるりと建物を回り込み、タクシーの後部座席のドアが閉まる前に叫んだ。
「ユウジ! 待ってよ」
 降りてくる気配はなかったけれど、後ろのドアは閉められることなく、車の中を覗き込んだ私にユウジはあからさまに不機嫌な顔を向けた。タクシーの運転手が「どうするの?」というように視線をユウジにやる。
「五分だけ待ってて」
 ユウジは運転手にそう言うと、投げやりなため息とともに車から降りた。私に目をくれることもなく、駐車場の端の、タクシーから死角になる場所へと歩いて行く。建物とフェンスの間で壁にもたれかかり、ポケットから煙草を取りだして火をつけた。苛ついた様子で足をトントンと鳴らし、煙を空へと勢いよく吐き出す。
「で? なに」
 全身を駆け巡った怒りは、いとも簡単に押しつぶされそうになった。自分を奮い立たせ、こぶしを握りしめる。
「……明日、井戸田君と私だけじゃ、どうにもできない」
「別に、予約までには戻れるかもしれねーし」
「かもしれないじゃ、ダメじゃん。それでまともなサービスできなかったらお客さん減っちゃう」
 ユウジは「はっ」と馬鹿にするように鼻で嗤った。
「ほんとムカつくわ。お前の給料、誰が出してると思ってるわけ? 好きなようにやらせてやってるけど、店のためとか、俺のためとか勘違いしてない?」
 思考がピタリと止まった。まさに、私は「店のため」「ユウジのため」そのためにいろいろ考えてきた。抜け駆けのようにこの店を去ることに罪悪感を感じ、ユウジの行く先が心配だった。
「カン、……違い?」
「勘違いだろ。俺のやりたかったのはこんなんじゃねえんだよ。お前、俺がサチ連れ込んでるのに嫉妬して、俺を店から弾き出すようなことしてんだろ。もう勘弁してくんない?」
 ユウジは吐き捨てるように言うと、呆然と立ち尽くす私の横をすり抜けてタクシーへ走っていった。遠ざかるテールランプを見つめながら、それでも理解が追いつかず、とぼとぼと裏口にまわって厨房のドアを開けると、井戸田君の顔がそこにあった。
「どうでした?」
 その眼差しに自分の無力さを思い知らされる。
「ごめん、……予約までには戻るかもって」
 井戸田君が一層不安げに眉をひそめてランチの予約表に目をやり、「大丈夫かなあ」と小さく呟いた。誰かもう一人アルバイトを頼んでおきたいけれど、勝手にそんなことをしようものなら後で何を言われるか分からない。弾き出そうとしてるんだろ、というユウジの台詞が蘇る。
「とりあえず、今日のうちにやれる限りの仕込みやって帰るから、井戸田君はそっちが片付いたら終わっていいよ」
 私が気の抜けた笑顔を向けると、井戸田くんは諦めたように肩をストンと落とした。
「付き合いますよ。俺も安心して寝たいから」
 深夜の厨房で作業をしながら井戸田君の優しさが身に沁みて、一度は小さく萎縮していた怒りが再びむくむくと膨らみはじめた。
 ユウジの店だからと割り切って、さっさと放り出してしまえば良かったのかもしれない。そうできない自分を我ながら面倒だと思うけれど、一緒に試行錯誤して店を良くしていきたいという、青臭い願いはずっと私の心のなかにあった。
 どこかで間違えたのか、もともとユウジとは合わなかったのか。
「美鳥さん、明日がんばりましょうね」
 いつもより一時間以上帰りは遅くなり、裏口を出たところで井戸田君は疲労を隠すようにそう言って笑った。私はその言葉を勇気に変えて、帰り道、繁華街へとハンドルを切った。

美鳥28歳――7

 ふらふらと狭い路地を我が物顔で歩く酔っ払いたちを避けながら、見覚えのある細い階段のすぐ脇に車を横付けにした。一階のお好み焼き屋は以前来たときと同じく「絶賛仕込み中」という札がかかり、店内にはわずかに明かりが残っている。店主らしき男性がカウンターのなかで片付けをする姿が見えた。こんな時間に働いている人がいる、それを目にするだけでも辛いのは自分だけではないと思える。
 緊張よりも、恐怖よりも、怒りが私の足を動かしていた。階段を一番上まであがり、ドアの前に立つ。隙間から漏れ聞こえてくるのはレゲエの名曲だ。
 もしユウジがここにいなかったら――そう願う気持ちがないわけではなかった。変わることへの怖れはどんな時でも、たとえ胸に希望を抱いているときでさえずっと心の内にある。
 ノブを握りしめ、ドアを開けた。
 バク、と大きく心臓が鳴り、勢い良く拍を刻みはじめる。こちらに背を向けてカウンターに肘をつくユウジの姿、その隣でグラスを傾ける一人の女性。彼女は背をカウンターにあずけ、顔をこちらに向けていた。高校の頃とはずいぶん雰囲気が変わっているけれど、それはたしかにサチだった。「動物園のふれあいコーナー」ユウジのことをそう言った「さっちょん」。
 女と視線が重なる。
「ねえ、あの子」
 サチがユウジの肩を揺らすあいだに、私はその背後に歩み寄り腕を掴んだ。振り返ったユウジは驚きで目を見開く。
「なん……」
 何か喋りかけたけれど、私はそれを自分の声で遮った。
「もう限界だから! ユウジは店のことなんてどうでもいいんでしょ。どうせ明日も昼まで寝てるんだよね。店のことほったらかして飲み歩いてばかりで。やる気ないならさっさと廃業すればい……」
 ――瞬間、真っ暗になった。
 お尻にヒヤリとした床の感触、もたれ掛かっているのはいつかユウジと並んで座ったあの二人掛けのソファで、木製の肘置きに肩をぶつけたらしく鈍い痛みがあった。ソファに座っていた客が立ち上がる。けれど、見上げた先にあったのはユウジの顔だった。
 呆然と見開かれた目に強張った口元。視線が絡むと彼はハッと我に返り、周りの反応を気にしてかバツが悪そうに口の端をあげた。どうやら、私は彼に突き飛ばされたらしい。
「大丈夫? 本巣さん」
 聞き慣れた声がし、ふと見ると私服の岡井さんが隣にしゃがみこんでいた。連れなのか、男性がもう一人彼の後ろに立っている。
「わるい、美鳥。突き飛ばすつもりなんてなかったんだ」
 ユウジは私の目の前でヘラヘラと笑い、拝むように両手をすり合わせた。
 吐き気がした。涙が滲み、後ずさろうとしても背にはソファーがある。床にへたり込んだままのお尻にはじわじわと痛みが広がっていた。
「平気」
 うつむき、消え入りそうな声で呟いた私の言葉が彼に届いたのかは分からない。震える膝を手で抑え、ソファーの背もたれに手をかけて立ちあがると、「大丈夫?」と女性の手が目の前に差し出された。その手はサチのもので、私はそれを無視して床を睨みつけた。
「……ごめん。今月いっぱいで、辞めさせてください」
 声が掠れた。視線が定まらないままフラフラと歩き出した私の後ろを、「ちょっと」と慌てた様子で岡井さんがついて来る。
「下まで送って来ます」
 誰に向けた言葉なのか、私はそれに反応する気力もなく、体重を預けるようにしてドアを押し開けた。
「タクシー? 車?」
 どうやら岡井さんの連れのようだった。階段を下りていると、私の足音のあとに二人分の足音がついてくる。めまいがし、足を踏み外しそうになって手摺を掴んだ。
「支えてあげるから、ゆっくり降りよう」
 どれだけ覚束ない足取りだったのか、岡井さんはしびれを切らしたように私の腕に手を伸ばし、その好意を私は咄嗟に払い除けていた。
「あ……、ごめんなさ……」
 自分の行動に驚き、地べたに座り込んだ。情けなさと申し訳なさで顔をあげることができなかった。
「ごめんなさい。……平気だから、店に戻って下さい」
「こんなところに女性一人でほっとけないでしょ。車、下に停めてるの? 代行呼ぼうか」
 岡井さんはいつも通りの軽い口調で、それに救われ、懸命に普段通りの自分を演じた。それは彼らから見れば痛々しい姿なのだろうけれど、他にどうすればいいのか分からなかった。
「飲んでないのに代行なんて、もったいないですよ」
「だよね。とりあえず立てる?」
 彼に促されて立ち上がると、少し視野がしっかりしたように思えた。岡井さんが私に触れてくることはなく、三段ほど先をゆっくりと降りていく。私が階段を踏み外したら受け止めるつもりなのかもしれない。
「平気ですか」
 背後から声をかけられ、私はさっき見たばかりのその男性の顔を思い出そうとしたけれどまったく出てこなかった。「はい」とうなずき、階段を一段下りる。彼の足音が一拍遅れて聞こえた。階段の一番下までたどりつくと、彼は「気をつけて帰って下さいね」と私の背中に声をかけ、岡井さんには「先に戻ってる」と言って階段を駆け上がっていった。見上げると、彼の一つに束ねられた髪がゆらゆらと揺れていた。
 真夜中の繁華街。路地を行き交う人はみんな上機嫌で幸せそうだ。
「ユウジさんも、昔はもっと楽しそうに仕事してたんだけどね」
 岡井さんの言葉はユウジを擁護するものなのか、批判するものなのかよく分からなかった。私に向けられたのはきっと同情。建物の二階を見上げる彼の表情には諦めのようなものが滲んでいた。
『以前のユウジさんはもっと前向きで、ついて行きたくなるような人で』
 井戸田君の言葉を思い出した。同じようなことを岡井さんも言う。私がユウジのやる気を削いでしまったのだろうか。言葉で傷つけられ、挙句に突き飛ばされ、それなのに罪の意識が芽生える。
 すいませんすいませんすいません。誰に向けてか分からないまま頭のなかで唱えた。
「すいません、岡井さん。ご迷惑おかけしちゃって。もう大丈夫そうだから帰ります」 
 運転席に乗り込み、エンジンをかけて車を発進させた。岡井さんが暗がりのなかで手を振り、それに手を振り返したけれど、うまく笑うことはできなかった。
 路地を抜けて大通りに出ると、真正面に月があった。くっきりと円を描くその月は穴のようで、今なら向こうっ側に行ってもいいと思えた。真っ暗なこの世界で、自分が一体何に未練を抱いているのか分からなかった。

美鳥28歳――8

「りっちゃん、ごめん。これ残していい?」
 ほとんど手付かずの皿を手に立ちあがると、母は心配そうに私を見上げた。口にしたのはロールパンひとつとミニトマト。目玉焼きとレタスにラップをかけながら、私はため息を堪えてゆっくり口から息を吐いた。
「美鳥。どっちみち辞めるのに、そんなに無理することないじゃない」
「でも、あと一週間で終わりだから」
 あの『bar lalala』での出来事から十日以上が経っていた。あの夜、家に帰るとすでに母は眠っていて、私はベッドに潜り込んでも興奮がおさまらず明け方までうつらうつらと眠ったり起きたりを繰り返し、それでも「辞める」と口にしたことでどこか肩が軽くなったようにも感じていた。夜が明けて母と朝食を摂っているときに「今月で辞めることにした」と伝え、母は驚いた様子で理由を聞いてきたけれど、私は「三十になる前に自分で店がしたくなったの」と準備していた答えを口にした。本当は弱音を口にしたかった。けれど、母の口から姉にそれが伝わるのが嫌で、円満に辞めた風を装いたかった。あのときは自分がそうできると思っていた。
 あの件以来、ユウジから何かひどい言葉をかけられたということはない。同じ時間に家を出て、私が店に着くとユウジはすでに厨房に立っている。休憩時間以外彼はほぼ厨房にいて、そして井戸田君を自分の傍らにおいてひとつひとつレシピを教えていく。私が井戸田君に伝えたことを上書きするように。
 厨房に居場所をなくした私はホールと洗い場を行き来していた。いなくなる人間なのだからと自分に言い聞かせ、ただ時間が過ぎるのを待った。何も知らない業者の人たちがユウジとの会話に私を巻き込み、そのとき向けられる彼の笑顔に心臓が凍えそうになる。岡井さんはユウジと調子よく会話し、帰り際にはいつも気遣うような笑みを向けてきた。
 日ごとに体が重くなり、出勤しようとしても心がついてこない。どうせ辞めるのだから。その言葉を呪文のように唱えつづけ、毎日自分に鞭を打って働きに出たけれど、一見平穏にも見える重苦しい空気がじわじわと私の心を蝕んでいた。
 母に体調を気遣われ、そのたびに「平気」と返した。根掘り葉掘り事情を聞かれることもなく、諦めたのか呆れたのか、このとき母は深い溜息をついてカタリと席を立った。
「美鳥、ちょっとこっちに来て」
 手を引かれ、母に連れて行かれたのは父の遺影の前だった。奥の間の仏壇で、父は変わらず笑っている。
「よしりん、ちょっと貰うね」
 ロウソク立ての脇に置かれた手のひらサイズの木皿には、父の好きだったコーヒーヌガーのチロルチョコレートが小さなピラミッドを作っていた。母はそれをふたつ取り、一つを「はい」と私に差し出してくる。
「まあ、ちょっと甘いもんでも食べて」
 父の声が頭のなかに蘇った。そんな風に言って、父はポケットから出したチョコレートを家族に限らず色んな人に手渡していた。父がいなくなってからも仏壇の前にはチロルチョコレートが置かれ、「甘いのもらうね」とつまみ食いして、減った分だけ戸棚から補充するという習慣がいつのまにかできていた。
 手のひらのチョコレートをじっと見つめた。母は包み紙を開けて口に放り込み、「おいしい」と口元をほころばせる。私は、そのチョコレートすら食べたいと思えなかった。
「ごめん、よしりん」
 ポツリと呟いたら、うつむいた私の目からは涙がこぼれ落ちた。チロルチョコレートがのったままの手を母はギュッと包み込むように握り、私を抱きしめた。
「なんで、よしりんに謝ってるの? 美鳥はがんばってるよ」
 喋ろうとしても言葉にならず、そんな私の背を母は急かすことなくポンポンと規則的なリズムで叩く。
 まいどカンパニーで働きだしてから帰省してもとんぼ返りで、父親とまともに話したのは就職する前、家族で簑沢の祖母の家に出かけたのが最後だった。そのときの記憶が、壊れそうになる私をいつも繋ぎとめる。もっと話しておけばよかった、一緒にいればよかったと後悔をしても、空白のまま過ぎ去った時間は戻ってこない。
 私は手の中のチョコレートをポケットに入れ、いつも通り仕事に向かった。車を駐車場に停め、重たい足を引きずって裏口の前までたどり着き、大きく息を吸ってそのドアを開ける。目に飛び込んできたその光景に立ちすくんだ。足を踏み入れることもできないまま片手でドアを支えていると、厨房の奥で楽しげに話していたユウジが冷めた目をこちらに向ける。その隣に、制服を着たサチが立っていた。
「おはようございまーす」
 そう言ったのは私でも目の前の二人でもなく、声の主は親しみを込めた笑顔で私の背中をポンと叩く。
「美鳥さん、入らないんですか」
 井戸田君が不思議そうに私の顔を見ていた。何と答えていいのか、井戸田君はこの状況を事前に知っていたのか、思考はフル回転したけれど私がその疑問を口にすることはなく、脇に避けて彼を中に通した。厨房に一歩足を踏み入れた井戸田君の横顔が引きつる。
「お……は、よう、ございます」
 井戸田君は何とかそう口にすると、重い鉛でもつけたようにもう一方の足を厨房の中に引き入れた。
「オス、井戸田。ちょっといいか」
 ユウジの声が聞こえる。井戸田君はチラリと私に目配せしたあとおずおずと歩を進め、意を決して私も厨房に入ろうとすると瞬時に止められた。
「本巣さんは外で待ってて。あとで話があるから」
 ユウジの口調は淡々としていて、すぐに視線をそらすと私を無視して三人で話しはじめた。
 ドアを閉めても意識は三人に向かい、けれど彼らの声は何を言っているのかハッキリとは聞こえず、それがマイナスの妄想を掻き立てていく。疎外感と恐怖と、出どころ不明の嫉妬。このあと何を言われるのかと考えると不安と緊張で口の中は渇き、内臓が出てきそうだった。それを紛らわすために裏口の脇にしゃがみこんで雑草をむしっている。
「本巣さん。何やってんの、そんなところで」
 八百屋のおじさんはダンボールを抱えたまま、ユウジの車の向こうで訝しげな視線を私に向けた。
「あ、おはようございます」
 おはよう、とおじさんは皺くちゃの笑顔を浮かべる。私は慌てて手についた土を払い、裏口のドアを開けた。
「まいどー」
 愛想よく声をかけて厨房に入るその背中の陰で、チラリと厨房をのぞき込んだ。するとユウジは私に以前のような笑顔を向け、「検品しといて」と優しい口調で言う。怒鳴られるよりも、罵られるよりも、笑顔が一番怖かった。
 裏口を入ってすぐのところで検品を済ませ、「お疲れ様です」と八百屋さんを見送ったころ。
「じゃあ、ちょっと外出てもらっていい」
と、元の不機嫌な顔に戻ったユウジの後ろをついて裏に出た。ドアを閉める前に振り返ると井戸田君が不安げな顔がそこにあり、私は何の表情も作れないままドアを閉める。私がむしった雑草は、気づかれることもなくユウジの靴に踏みつけにされた。
 ポケットから取りだした煙草に火を点け、彼は煙たそうに眉を寄せる。私は身を縮めたまま、じっとユウジの言葉を待っていた。
「お前のそのオドオドした態度って苛々するんだよね」と彼は吐き捨てるように言った。
「わざとらしいんだよ。俺、そんなに酷いことしてるか?」 
 私は何も口にすることができず、気持ちが潰れてしまわないようにぐっと歯を食いしばった。
「まあ、今さらだけど」
 そうつぶやいた彼は私の返事など待つ気もないようで、足元の雑草を道路に向かって無造作に蹴りつけた。しおれた草は車道まで届かず、ユウジの車の脇から歩道の端あたりに散らばった。
「見て分かったと思うけど、今日から新しい従業員入ったから。あいつ、ケーキ屋で働いてたからデザートも任せられるし。井戸田には厨房に入ってもらって、合間みてホールの指導させるから」
 つい先ほど見た井戸田君の表情が頭に蘇った。あの顔は不安などではなく、きっと私に向けられた憐憫の情だ。
「お前、辞めたいならもう出なくていいぞ。陰気な顔して接客されても迷惑だし。どうせ皿洗うくらいしかすることないから。まあ、最後までいるっていうんなら、ちゃんと給料は払うけど」
 私の気持ちなど踏みにじるためにあると思っているのかもしれない。「もう出なくていい」という彼の言葉に解放感を覚え、と同時にふつふつと怒りが湧き上がり全身に広がっていった。そのエネルギーを目の前のこの人にぶつけても自分が傷つくだけ。
「……じゃあ、このまま帰ります。お世話になりました」
「はい、おつかれさま」
 ユウジは短くなった煙草を投げ捨てて足でもみ消すと、私に笑顔を向けた。それは一瞬で真顔に戻り、「じゃあな」と振り返ることなく厨房へと消える。閉められたドアの向こうからは笑い声が聞こえ、その声が遠ざかるのを待ってそっとドアを開けた。
 厨房に入り、彼らの視線を避けるように自分の荷物をまとめ、困惑の表情を浮かべる井戸田君にすれ違いざま「今まで、ありがとう」と小声で言って、それが『Cafaソラヘ』の仕事で交わした最後の言葉となった。
 裏口から外に出て深呼吸をする。ユウジの煙草の匂いがし、歩道の端に落ちた雑草を車の下に蹴り戻した。エンジンの音が近づいて、振り返ると岡井さんがトラックの運転席から手を振っているのが見えた。
「本巣さん、おはよう。のんびりしてていいの? まだ私服のままじゃない」
 からかうように軽口を叩く岡井さんに、
「もう来なくていいって。晴れて、無職」
 ピースサインを出した私とは対照的に、岡井さんは「ええ?」と目を丸くしていた。
「マジで? 新しいスタッフ入ったの?」
「ユウジの彼女。ケーキ作れるみたいです」
 私の言葉に岡井さんは深いため息をつき、そのあとどこか諦めたような、ほっとしたような目で私を見た。
「本巣さん、これからどうするの? 引き止めるつもりはないんだけど、なんていうか、人間不信ぽくなってない?」
 冷水を浴びせられた気分だった。それでも、腹の奥底からふつふつと湧き上がる怒りが消える気配はない。
「人間不信かもしれないです。ブラック企業で仕事やめて、そのあとは雇い主に突き飛ばされて。もう自分でやるしかないのかも」
 胸の前で小さくガッツポーズを作ると、岡井さんは「そっか」と曖昧な笑顔のまま二三度首を上下に振った。
「しばらくのんびりしたらいいよ。エネルギー蓄えて、そのあと本当に自分で店する気になったら連絡して。名刺、前に渡したよね?」
「はい。いただきました」
 改めて「お世話になりました」とお互いに頭を下げ、岡井さんは急いだ様子で厨房に入っていった。
「お疲れ様ですー」といつもの声が聞こえる。あの裏口から入ることはもうないのだと思うと、ここしばらくの険悪な記憶ではなく、ユウジと再会した頃のことが不意に脳裏に蘇った。ちゃんとお互いの目を見て笑いあっていたあの頃のユウジの笑顔、それはすべて作り物の仮面に上書きされ、ふと彼の隣で目覚めた朝の感情が舞い戻り胸を刺した。

 まっすぐ家に帰る気にもなれず、私はチロルチョコレートを握りしめて父のお墓参りに向かった。山の麓にある墓地は車だと家から五分ほどの場所で、市内中心部に向かう県道から少し入ったところにあった。
 県道からでも山裾に並ぶ墓石がいくつか見えるけれど、いざその場所に行くと車の喧騒や街の雑音から隔離されているようにしんと静まっていて、澄んだ空気があたりを包んでいる。もちろん物理的には色々な音が耳に入ってくるけれど、それがまったく意識にのぼらなかった。
 ポケットに入れていたチロルチョコレートの包み紙を開いて墓前に供え、しゃがみこんで両手を合わせた。
「次こそは、ちゃんと仕事を好きだって言えるようにがんばるから」
 父に誓って空を見上げると、ポツポツと落ちてきた雨粒が瞼を濡らした。西の空には雲がかかっていたけれど、私の見上げた空はくすんだ水色で、サラサラと降り注ぎはじめた天気雨は父からの励ましのように思える。
 肌を湿らせた気まぐれな雨はすぐにやみ、空の色は青みを増したようだった。 

【第九章】

 

 二本のコニファーの向こうに、チカチカと点滅する光が見えた。窓の外をのぞき込むと、路地にはハザードランプをつけた義兄のワンボックスカーが停まっている。バックドアを開けた義兄はダンボール箱を抱え、姉は傍らでその中をのぞきこんでいた。
 夫を放って先に店へと足を向けた姉の姿が、点滅する明かりでコマ送りに近づいてくる。姉がぺこりと会釈したのは槇村さんに向けたものだ。槇村さんはドアを半開きにして外の様子をうかがっている。カウンターにいる私からはその後ろ姿しか見えない。
 窓辺に私を見つけた姉が、満面の笑みで手を振った。私はそれに手を振り返しながら、ほっと胸をなでおろした。
 つい先刻、カウンターであったこと。私の心臓はまだ落ち着きを取り戻すことなく、間近にあった槇村さんの匂いも、その息遣いも生々しく残っていた。コニファーがなければ私と彼のキスシーンは筒抜けに姉夫婦に見られていたかもしれない。実際には唇同士が掠ったというくらいのことでも、他人から見ればそれはキスシーンだったはずだ。
「私の姉と、その旦那さんです」
 槇村さんの背に声をかけると、彼は私と姉の顔を見比べるようにきょろきょろと首を左右に動かし、そしてドアを全開にした。私は人ひとり分の距離をおいて彼の後ろに立った。
 こんばんは、と槇村さんはいつもの穏やかな笑顔で姉に頭を下げ、軽快な足取りで近づいてきた姉は「早く」と夫に向かって手招きしている。
「すいません。この子の身内なんで気にしないでください」
 我が道を行くといった様子で店に入ってきた姉と、それに付き従う義兄。その手に抱えられていたダンボール箱を、彼は「よいしょ」とキッチンのスイングドアの前に置いた。
「簑沢に行ってきたの。おばあちゃんが美鳥にって。家の分は別にもらってるから店で使って」
 ダンボールには肌の白い新ジャガと柔らかそうな春キャベツ、それにスナップエンドウにアスパラガスが入っていた。茎の太いアスパラガスは新聞に包まれて穂先だけが顔をのぞかせている。
「立派なアスパラですね」
 槇村さんはダンボール箱の脇にしゃがみこみ、ついさっきまで二人きりでいたときとはまったく違う料理人の顔をしていた。新聞の包みはふたつあり、「あれ」と何か気づいた様子で彼はもうひとつの包みに手を伸ばし、クレソンまであるんだ、と口元を綻ばせる。
「アスパラとクレソンはもらいものなんです。おばあちゃんちの隣の家から。簑沢のあたりは物々交換で経済が成り立ってるから」
 冗談半分の姉の言葉に、「いいですね」と返した槇村さんの顔は興味津々といった様子だった。彼がいったいどんな環境で育ったのかは知らないけれど、少なくとも田舎生まれではないようだった。
「あ、そうだ美鳥。カナの働いてる店のチラシって置いてる?」 
 姉はレジ脇に並んだショップカードをながめている。私は槇村さんと顔を見合わせた。
「りっちゃんからこの近くの店でカナが働いてるって聞いたんだ。店の名前ってなんだっけ? 今から行くつもりなんだけど、もうお腹ペコペコ」
 駐車場ないんですけど、と口にしたのは槇村さんだった。振り向いた姉はきょとんとしていて、私が「カナの店のオーナーさん」と言うと目を輝かせた。
「店の名前はカフェレストランオリジンです。どうぞご贔屓に」
 槇村さんは手を伸ばして自分の店のチラシを取り、姉に手渡した。そこにある料理の写真を姉夫婦はよだれでも垂らさんばかりにながめていたけれど、ふと姉が顔をあげた。
「オーナーさん、サボりですか?」
 槇村さんは苦笑している。
「イベントの影響で食事されるお客様が少なくて。サボりがてらコーヒーを飲みに」
「席あいてるか心配だったけど、それなら座れそうですね。良かった。あ、そうそうカナは今日いるかな?」
 姉は私に顔を向けたけれど、槇村さんが先にいますよと答え、「田村(たむら)(かなで)ですよね」と確認するようにフルネームを口にした。私はそう言えばそんな名字だったと、もうなくなってしまったカナの昔の家の表札を思い出した。あの場所には新しい家が建ち、私はそこにどんな人が住んでいるのか知らない。
「奏は今も勤務中ですよ」
「ちゃんと働いてるんですね。カナの顔なんてもう忘れちゃったけど、会うの楽しみだなぁ」
 遠い昔を思い出すように、姉は天井を仰いだ。
「一緒に遊んだりしたのは本当に小さい頃だったから、幼稚園か保育園くらいでカナの記憶は止まってるんだよね。今はどう? カナ、イケメンになってる?」
 どうだろ、と苦笑する私に何か企むとき特有の片方だけ上がる口の端を見せたあと、姉は槇村さんに顔を向けた。義兄はいつも通りニコニコと私たちの様子をながめている。
「カナは美鳥の後ろばっかりついて歩いてたんですよ。この子、小さい頃みんなから『ぴーちゃん』って呼ばれてて、カナはうまく言えなくて『ぴーたん』って。ホント、カナはぴーちゃん大好きだったよね」
 槇村さんは姉にあわせて笑っていたけれど、私は居心地の悪さを感じていた。
 私に恋人がいるのか。槇村さんはカナにそう尋ね、その意図をカナが察したのではないかと言う。ぴーちゃんを大好きだったカナは記憶のなかのカナで、私はそのカナを無理矢理引っ張り出して変わらない関係でいようとしている。
 あの頃の「大好き」と大人になってからの「好き」は違う。「好き」には煩わしいものや汚らしいもの、欲や損得勘定に気遣いや嫉妬やプライドなんかが絡みつき、真ん中にある「好き」なんて見つけられなくなる。
『ねえ、美鳥さんと僕って友達なのかな?』
 カナの声が蘇った。まだ声変わりする前の、ランドセルを背負って雪道に佇むカナの紅い頬、そして、引きずられるようにその時の出来事が脳内で再生される。
『美鳥』
 父親の運転する車の助手席から私の名を呼ぶユウジ。
『カレシ?』
 問いかけるカナ。私はなんと答えたのだったか。友達みたいなものだと、そんな風に濁した気がする。今のカナと私との関係は「友達」なのだろうか。なら槇村さんとの関係は?
 槇村さんは「席リザーブしておきます」と姉に言い、スマートフォンで時刻を確認すると「じゃあ、あとで」と片手をあげて路地を駆けて行った。
「もしかして彼氏?」
 ニヤつく姉に「まさか」と間髪入れず答えると、途端に彼女はつまらなそうな顔をする。
「見た感じ年離れてるしね。ひとまわりくらい上?」
「たぶん四十半ばくらい。でも年は関係ないよ」
 槇村さんと出会ってからここ最近まで――つまり彼との距離感が揺らぐまで、もしかしたら年の差が私の警戒心を解いていたのかもしれない。
「年の差関係ないなら、いいんじゃない? 良さそうな人だし。あ、もしかして結婚してる?」
「ううん、独身みたいだけど……」
 言い寄られたとも、ましてキスされそうになったとも言えなかった。私が打ち明けたら、姉はなんとなく安堵の表情を浮かべる気がした。好奇の眼差しではなく穏やかな目で、からかうこともなく、「そっかあ」と両方の口の端をあげて、義兄と一緒にニコニコと微笑みあうように思えた。
「オーナーさん、ちょっとだけよしりんに似てるよね。よしりんはあんなにチャラくなかったけど、ちょっと垂れ目なとことか、笑い皺とか」
 チャラいというのは浅黒く焼けた肌と、後ろで束ねたパサついた髪のことだろう。
「似てないよ、全然」 
 私が否定すると、姉は夫に同意を求め、けれど彼から返ってきたのは「どうだろうねえ」というのんびりした返事だった。
 似ているのかもしれない。見た目がどうこうということではなく、彼の大きな手が私の頭におかれたとき、あの手は父に似ていた。
 隣に添ってくれる大きな体に躊躇いなくもたれかかることができるのは子どものときだけ、血の繋がった父だからこそ。甘えてくれたらいいと言ってくれる槇村さんは、私にとっては父に近い存在なのかもしれない。私の大好きだった父は「男」も「女」も関係なく「父」という存在で、槇村さんは私にとって「父」ではなく「男」であろうとしている。彼にとって私は経営者として同列に並ぶ存在ではなく 、「守ってあげなければ」という危なっかしい女なのだ。
 姉と義兄はクッキーを物色し、私がそれを包んでいるあいだブラブラと店内を歩いて回った。カウンターチェアの背もたれに手をかけ、二人並んで外を眺める後ろ姿はまさにオシドリ夫婦。私の隣にもいつか、とは思えない。胸のあたりに広がる虚しさで二人に嫉妬していることを自覚しながら、きっと姉たちも子連れの夫婦を見かけたら同じような嫉妬にかられるのだろうと想像する。結局ないものねだりなのだ。
「美鳥、おばあちゃんが近いうちに顔出しなって。ジャガ芋掘り起こしとくからって」
「ジャガ芋今日もらったのに?」
 ダンボール箱をのぞきこむ。二キロほどの芋がごろごろと入っているけれど、これくらいはすぐなくなってしまう。
「美鳥に会いたいだけでしょ。たまには顔出してあげな。私も連休前半はのんびりしようかってアキちゃんと言ってたんだけど、天気いいし、久しぶりにおばあちゃんとりっちゃんの顔見に来ようかなって。美鳥もりっちゃんと暮らしてるって言ったって、ほとんど家にいないでしょ。寂しいかなぁなんて思ってね」
「りっちゃん今日は友達と出かけてるよ」
「だってね。だからこっちはこっちでカナのところに行くの。夜は泊まるから。もうお布団も敷いてきちゃった」
 世間一般の休日などまったく関係のなく働いている私と違い、姉と義兄は存分にゴールデンウィークを満喫している。義兄はどうか分からないけれど、姉は「遊ぶために働いてるの」と、就職直後から口にしつつ勤続十年になる。
「美鳥もあんまり働いてばっかりいないで、ちゃんと休みなよ」
 休めたらね、と返したけれど姉の顔は見られなかった。そこに心配そうな眼差しがあったら、私はきっと惨めになる。
 働くことに何かしらのやりがいを、お金以外のものを見出したい、そう考えるのは甘いのかもしれない。好きなことを仕事にしてて羨ましい、そう言う人はたくさんいるけれど、彼らが会社に文句を言いながらも辞めずに働いているのはちゃんと現実を生きているからだ。夢に縋り付くように儲かりもしない店を続けている私に「うらやましい」と声をかける人たちは、本当は呆れているのではないかと、そんなことを考えてしまう。
 包んだクッキーを渡すと、姉は「美鳥はよしりん似かもね」と笑った。
「よしりんも仕事好きな人だったけど、ちゃんと家族との時間も作ってたよ。自分ひとりの時間も、夫婦水入らずの時間もね。たまには切り替えないと、美鳥は前の会社のときみたいに一人で抱え込んじゃいそうで、姉は心配なの」
 姉は私が『Cafeソラへ』を辞めたいきさつを知らないままだ。心配するから言わないでと母に口止めしていたし、あの店を辞めるやいなや自分の店をすると宣言した私が、『まいどカンパニー』のときと同じような鬱屈を抱えてあの店を辞めざるを得なくなったとは考えもしなかっただろう。
「じゃあ、また家で」
 姉はお腹すいたぁと言いながら店を出ていった。義兄は横目で妻の様子をうかがい、私にそっと近づいた。
「がんばってね。でもほどほどにね。美空ちゃんほんとに心配してるから」
 早口に囁やき、彼は手を振って姉を追いかけた。姉がそれだけ心配しているということは、母はそれ以上に心配しているのだろう。
 父が生きていたらと考えることがある。生きていたら私はあのブラック企業から逃れるタイミングを失い、今頃なにをしていたのか分からない。『まいどカンパニー』から逃げ出して、ユウジからも逃げ、そうして今度は何から逃げようとしているのか。
『辞めるつもりで働いたらダメだよ』
 まだ就職前の私に、諭すように言ったのは父だった。

父の記憶

 家族四人で一台の車に乗り込み、『デイ・ドリーム・ビリーバー』を歌いながら簑沢の祖母の家の向かったあの日の記憶、それはとてもあたたかく、そしていつも私の胸を締め付ける。私は大学生でも社会人でもなく、けれど就職自体がそれまでのアルバイトの延長の感覚で、なんとなく社会に一歩足を踏み入れているような、そんな気持ちでいた。
 いかにも日本家屋といった造りの祖母の家は、一人で住むにはずいぶん広い。普段はどうか知らないけれど、少なくとも私が訪れるときは綺麗に片付けられ、そこには生活の気配と祖父の名残があった。
 祖父の下駄は玄関の一番奥に置かれていた。居間のテーブルの上には誰も使うことのないままガラスの灰皿がある。奥の座敷には祖父母の古びた写真が鴨居に掛けられ、幼い頃の母と伯母も映っていた。私たちが訪れたときはいつも座敷で座卓を囲み、あの夜もやはりそうだった。
 日が沈むにしたがって少しずつ肌寒さが身に沁み、夕飯のときには障子も襖も閉め切って、電気ストーブに火を入れた。
「よしりん、この寒いのにビールなの?」
 姉と私の手には祖母の作った梅酒のお湯割りがあり、母は父の晩酌につきあって小さなグラスを持っていた。祖母は温かい番茶を湯呑みに注いだ。
「乾杯と言えば、ビールだろう」
 父はそう言ってグラスを掲げる。
「美鳥の就職と、これからの人生に、乾杯」
「かんぱーい」
 グラスや湯呑みにそれぞれが口をつけ、目の前に並んだ料理に手を伸ばす。好物のフキノトウの天ぷらを箸で摘んだ姉は、それをぱくりと口に入れると意地悪な顔で私をのぞき込んだ。彼女の口の端は片方だけあがり、それを見た私は警戒する。
「美鳥は何とか就職できたって感じね」
 からかっているだけなのだろうけれど、図星を指されてカチンときた。
「いいでしょ。飲食の仕事嫌いじゃないし、それにあの会社にずっといるわけじゃないよ」
 父が「そうなのか」と割って入り、その声には落胆の色が滲んでいた。
「……そうなのかって?」
「美鳥はずっとその会社で頑張るわけじゃないのか」
「まあ」と曖昧にうなずくと、父は「そうかあ」と深く息を吐いた。
「美鳥。どんな会社かはよく知らないけど、辞めるつもりで働くのは良くない。最初はうまくいかなくても、できるようになったら楽しくなってくる、やりがいも見つかる。美鳥はその仕事が好きなんだろう? なら辞めるつもりで働いたらダメだよ。手を抜くことを覚えるのは先でいい。最初はがむしゃらにぶつからないと」
 父は真面目な顔で、珍しく説教臭いその口調に私は少し鼻白みながら、「分かってるけど」と消え入るような声でつぶやいた。私と入れ替わりに口を開いた姉は、自分のあり方に微塵の迷いもない、いつもの姉だった。
「私は割り切って働いてるよ。別に仕事は好きじゃないし、でも嫌いでもないかな。給料は悪くないし、ちゃんと働けばちゃんと休みも取れて、それと引き換えにアキちゃんと遊びに行ける。仕事が好きな人なんて世の中の半分もいないんじゃない? みんな休みのために働いてるのよ。あと生きてくためにね」
 父は苦笑し、姉は言いたいことを言ってしまうとフキノトウをもう一つ口に放り込んだ。
「りっちゃんは? パートの仕事楽しい?」
 姉の問いかけに母を見ると、なぜかそこには目尻をぬぐう母の姿があった。
「どうしたの、りっちゃん」
 ずずっと鼻をすすり、母は情けない声を出した。
「……これ、辛子効きすぎ」
 菜の花の辛子和えを指さす母に、それまでの話はそっちのけで大笑いした。母だけがふくれっ面でビールを手酌で注ぎ、その様子がまたおかしく、笑い続けて涙がでた。
「それ、りっちゃんが作ったやつじゃん」
 辛子和えを箸でつまんで味見をする。ツーンと辛味が鼻に抜け、慌ててご飯をかきこむと、また座敷に笑い声が響いた。笑いがおさまった頃、祖母が「そうねえ」とひとり言をつぶやきながら台所に行き、お豆腐と麺つゆを手に戻ってきた。
「お豆腐にそれのっけて、ちょっと麺つゆ垂らして一緒に食べたらおいしそうね」
 祖母の言う通りにしてみると、辛さがちょうど良く和らげられ、あっという間に辛子和えも豆腐もなくなってしまった。祖母は嬉しそうに空のお皿を見つめ、ばあちゃんはね、と話しはじめる。
「ばあちゃんの仕事はお金が稼げるわけじゃないけど、こうやって野菜作って、近所の人たちとあげたり貰ったりして。手伝ったり、助けてもらったり。それでこうやってみんなの笑顔が見られるのは、贅沢よね」
「それは、お母さんのご飯がおいしいからよ。お母さんの作る料理は世界一だから」
 母はそう言ってご飯をほおばる。
「りっちゃんは、食卓に出す前にちゃんと味見をすること」
「ふだん作ってるものはちゃんと食べられるでしょ。人には向き不向きがあるの。お母さんも、よしりんも、お願いしたらおいしいもの作ってくれるんだもん」
 開き直ってそう言い切る母に、祖母は幼い子どもでも見るような優しい眼差しを向けていた。「味見はちゃんとしなさいね」と言いながらも、すでに諦めているようでもあり、目元に柔らかな皺を浮かべて番茶をすする。そのやりとりに、私はなぜか許された気分になっていた。
「よしりん。私、ちゃんとがんばってみる。おばあちゃんみたいに誰かを幸せにできる料理、作れるようになりたい」
 父は「そうか」とビールで赤くなった頬を緩ませ、勢いに任せてなのかその場にすっくと立ち上がった。
「もう一回乾杯するぞ」
 みんなが父に合わせ、祖母もよいしょと立ち上がって湯呑みを掲げ、「かんぱーい」と声を揃えた。父とまともに話したのはこの夜が最後だ。
 満足に休みもとれず帰省してもとんぼ返り、泊まっても布団のなかでゴロゴロしているだけで、それでも『まいどカンパニー』で働いているあいだ私を支えてくれていたのはこの簑沢での記憶だった。まいどカンパニーの時だけではなく、ユウジのところにいた頃も、そして今も。
 けれど分からなくなってしまった。好きって、なんだろう。
 この仕事を続ければ続けるほど、自分の気持ちが、求めるものが見えなくなってしまう。

月あかり

 姉夫婦がOrigin(オリジン)を訪れて本巣の家に泊まったその夜、母はお酒を飲んで来たらしく赤い顔をしていた。義兄も「ワインを少しだけ」と言っていたけれど顔は真っ赤で、意外なことに姉はノンアルコールで我慢したらしく、運転手だからと聞こえよがしにぼやいていた。
「カナにねえ、何ヵ月目って聞かれた」
 姉は自分のお腹をさすり、「生まれるの?」と私が冗談で返すと母と義兄はクスクスと笑う。
「明日の朝には生まれるわよ。トイレですっきり快腸」
 ポンポンと自分のお腹を叩き、姉は「ねえ」と夫の顔を見た。
「ゴールデンウィーク明けたらダイエットしようかな。アキちゃんも一緒に」
 食べるのが大好きな夫婦が一体何の気の迷いなのか、義兄も「いいよ」と普段通りの穏やかな笑顔で答える。
「その代わり、ゴールデンウィークはおいしいものいっぱい食べようね」
 口調からは気合いも何も感じられないけれど、義兄は「痩せたら新しい服買わなきゃねえ」などと口にしていたから、本気でダイエットするつもりなのかもしれない。    
 義兄がお風呂に入っているあいだに、姉は祖母お手製の梅酒を台所から持ってきた。瓶の蓋をあけてレードルで琥珀色の液体をすくい、ロックアイスの上に注ぐ。氷の表面はするりと透明度を増した。
「美鳥、ロックでいい?」
「うん」
「りっちゃんは?」
「水割りでちょっとだけ」
 冷蔵庫から天然水のペットボトルを出して居間に戻ってみると、そこに二人の姿はなく、障子を開けて縁側で座布団に腰を下ろして外を眺めていた。カーテンは中途半端に引き開けられ、窓ガラスは部屋の明かりを反射して二人の顔を映している。
「あ、美鳥こっち」
 手招きされ、ペットボトルを母に渡して姉の隣に腰を下ろした。
「障子閉めたほうがいいよね」
 後ろを振り返り座敷との境に障子を引くと、そこは夜に満たされる。姉を真ん中にして三人並んで空を見上げた。庭木は月あかりに照らされ、その姿を闇に浮かべている。
「美鳥、向こうっ側に連れ去られちゃうよ」
 笑いながら姉はグラスに口をつける。空にはまん丸の月があった。
「満月かな?」
「どうだろ」
「満月は明日だって。天体マニアの友達が言ってた」
「今日夜ご飯一緒に食べに行った人?」
「うん。高校の同級生」
 ふうんと相槌を打ち、母の高校時代を想像してみたけれど、それは私がまだ小さい頃の、皺の今より少なかった母がセーラー服を着ている姿だった。
 三年ものの梅酒は口当たりが柔らかく、ふわりと広がる芳醇な香りに頬がゆるんだ。喉を落ちたその液体は疲れた体にじわりと熱をもたらし、同時に眠気を連れてくる。
「高校のつきあいが今も続いてるって、いいね」
 頭の中がぼんやりとしはじめ、思ったことがするっと口から溢れた。「ううん」と母からは否定なのか肯定なのか曖昧な声が返ってくる。
「会うようになったのはよしりんが死んじゃってから。年賀状だけはなんとなくやりとりしてたんだけど、向こうは熟年離婚で子どもは独立してて、私も独り身みたいなものでしょ。何て言うかタイミング」
「よしりんが生きてたらって、考えちゃうよね」
 私がぽつりと口にすると、考えても仕方ないよ、と姉は姉らしいことを言った。
「よしりんはねえ、ちゃんと私の中にいるの。りっちゃんの中にも。美鳥だってそうでしょ? 生きてたらなんて考えちゃうくらいに、美鳥のなかにはよしりんがいるの。それでいいじゃない」
 ね、と姉は母のほうに顔を向ける。何を思ったのか、
「よしりーん、元気ー?」
と母は無邪気な声で月に向かって手を振った。
「向こうっ側の世界に、よしりんがいるかもしれない」
 母の手にしたグラスはほとんど空になっていて、こんなに酔った母を見るのは初めてだった。楽しげに笑いながら頭を姉の肩にあずけ、また「よしりーん」と月に手をかざす。私もなんだか笑いが込み上げてきて、同じように姉の肩に頭をのせ、丸く光る穴に向かって「かんぱーい」とグラスを掲げた。
「よしりーん、出来の悪い娘でごめんねー」
 手を伸ばしたらあの光の向こうに行けるだろうか。そこには暖かい日差しがあるだろうか。包み込み、頭をなで、もたれかかっていいよと言ってくれる誰かがいるだろうか。
 私の髪をなでたのは、肉付きのよい柔らかな手のひらだった。
「美鳥はがんばってるよー、よしりん」
 姉の言葉で涙が出そうになった。
美空(みく)もがんばってるよー、よーしりーん」
 母の明るい声で涙は引っ込み、代わりに笑い声が漏れた。
「りっちゃんはー、飲み歩いてるよー」
 庭木の陰から現れた飛行機のランプが、ゆっくりと夜空をすすんで行った。姉の体温なのか、お酒のせいなのか、体はほかほかと暖かく、常に心のなかにあった空洞はもう消えてなくなったように思えた。けれど、それは一時の幻だ。酔いが覚めれば空洞はまたそこに風を通す。
「あの飛行機に乗って月の向こうに行けないかな」
「美鳥はどこに行きたいの? よしりんとこ?」
「……行ったことのない、明るいところ」
「そんなの飛行機に乗らなくても行けるでしょ。美鳥は行きたいところに行ってるし、やりたいことやってる。十分じゃない」
「行きたいところなんて行けないよ、全然」
「そう? 私から見ると美鳥は思う存分旅してるように見えるよ。毎日家と店の往復なのかもしれないけど、他の人が経験できないこと、いっぱいしてるでしょ? 我が妹ながらすごいなって思うよ。私は絶対むり」
 姉はそう言ってグラスを傾け、カラと氷が澄んだ音をたてた。母は寝てしまったのか、口を開くのが面倒なのか、ずっと黙ったまま会話に入ってくることはなかった。
「お姉ちゃんみたいに普通に就職して、ちゃんとお給料もらう方がいいんだよね、きっと。お店してると、好きなことを仕事にして羨ましい、すごいって言われるんだけど、たぶん本音では誰もそんな風に思ってない。呆れられてるんだ」
 ふん、と姉は鼻で笑った。
「あんたはやりたいようにやればいいの。他の人がどう思ってるかなんて考えても仕方ないんだから。呆れてる人もいるかもしれないけど、そんなの一部。羨ましいっていう人も一部。他人の価値観に振り回されるより、自分がどうしたいか考えるほうがよっぽど有意義よ。他人の幸せと美鳥の幸せは別物だし、私の幸せと美鳥の幸せも違う。違う生き方をしてる人が幸せそうにしてると不安になっちゃったりするけど、他人からお墨付きをもらわないといけない幸せなんて薄っぺらくてすぐ壊れちゃうわ」
 姉は私に向けて話しているようでありながら、どこか自分自身に言い聞かせているようにも思えた。私がユウジのことを姉に内緒にしているのと同じように、姉も私にすべてを打ち明けているわけではないのだ。脳天気に夫と二人暮らしを満喫していると思っていた姉。『美空もがんばってるよー』と父に報告していた母は、姉の何かしらの苦悩を共有しているのかもしれない。
 障子の向こうから「あれえ」とのんびりした声が聞こえ、間をおいてテレビの音がしはじめた。姉が障子を三センチほど開けてのぞきこみ、「あ」と口にして一気に障子を引き開ける。
「アキちゃん、まだ飲むつもりなの?」
 あれえ、と義兄は間の抜けた顔でこちらを見て、梅酒の注がれたグラスを手に「ちょっとだけ」と頭をかいた。
 部屋の明かりが縁側に差し込み、窓ガラスは日常を映し出す。闇は霞み、まだ夜は寒いねと母が目を擦りながらカーテンを閉めると、そこにあるのはあたたかい光だけになった。義兄の前にはチロルチョコがのった木皿があり、私たちはそれを囲むようにして義兄のまわりに腰をおろし、テレビはゴールデンウィークの混雑ぶりを伝えていた。

「美空たち、今年は妊活がんばるんだって」
 母が何でもないことのようにさらりとそう口にしたのは、翌朝に姉夫婦の乗るワンボックスカーを見送ったすぐあとのことだ。
「ダイエットもその一環。美鳥にはサプライズ報告したいから黙っててって言われちゃった」
 うふふ、と笑い、母は「赤ちゃんできるように二人で祈っとこうね」と茶目っ気たっぷりの眼差しを私に向ける。
「あ、違った。三人で祈ろう」
 父の遺影に向かって手を合わせる母の隣で、私も同じように目を閉じ手を合わせた。「生まれるの?」なんて無神経な言葉を口にしたことを、心のなかで謝っておいた。

訪問者

 ゴールデンウィークが明けて久しぶりの休日。先週の水曜も臨時で店を開けていたから、二週間ぶりの休みだった。
 連休最終日あたりからぐずついていた天気はようやく回復し、山の緑は雨に洗われて瑞々しく日差しに映えている。二週間分の疲労を抱えて昨夜は倒れこむようにベッドに横になったものの、いつもよりも長い睡眠と、窓から吹き込む五月の爽やかな風にすこしだけ気分が軽くなった。
 朝食をすませてから身支度を整え、階段を下りると居間から話し声が聞こえた。テレビの音声ではないようだった。
 春の日差しで草花がニョキニョキと伸び始めたころ、冬の間ずっとコタツに引きこもっていた母は、土から這い出る虫のようにもぞもぞと動きはじめた。痛めていた腰の調子も悪くないようで、午前中は庭いじりをしたり買い物にでかけたりと、この時間に母が居間で寛ぐことなど滅多にない。来客だろうかと、下ろした髪を手櫛で整え声をかけた。
「りっちゃん? いるの」
 中途半端に開いていた障子を引くと、母ともう一人、五十代くらいの女性がちゃぶ台に向かいあって座っていた。
「あら、美鳥ちゃん? おじゃましてます」
 後ろで上品にまとめた黒髪には、幾本か白い筋が入っている。その顔に見覚えはあったけれど、はっきりと思い出せないまま「こんにちは」と頭を下げた。
「やだ、美鳥。知らない人みたいに。よしりんのお葬式のときにも会ってるのよ」
 母は口に手を当てて笑い、その女性も気分を害した様子はなく穏やかに微笑んでいた。目尻の皺が深くなり、表情をいっそう優しく見せる。
「奏にね、美鳥ちゃんに会ったって聞いてたのよ。息子がいつもお世話になってるみたいで」
 どうして今まで思い出せなかったのか不思議だった。
 妙子(たえこ)さん。カナの家族がまだ近所に住んでいたころ、たまにこうしてうちに遊びに来ていた。母と二人でちゃぶ台に頬杖をつき、お菓子をつまみながら笑い声をあげてヒソヒソと内緒話をしているのを、姉と二人でこっそり盗み聞きした。
「お久しぶりです、妙子さん。奏君に聞いて来てくださったんですか? よかったね、りっちゃん。話し相手ができて」
「夜までしゃべっててもいい?」と母は嬉しげに言い、けれどその笑みはすぐに引っ込められた。
「妙子さん、お墓参りの帰りなんだって。カノンちゃんの月命日で、奏君と一緒に。よしりんのお墓にもお参りしてくれたのよね」
 母は鴨居にかけられている父の写真を見上げた。そこに映る両親の姿はずいぶん若く今の私と同じくらいで、肩の露出した花柄のワンピースを身に着けた母と、アロハシャツの父が体を寄せあって微笑んでいる。ふたりの後ろに広がる青い海も、すっかり黄みを帯びて過去の色になっていた。
 カノンちゃん。どんな漢字を書くのだったか、花音、香音、奏音――「音」という字が入っていたことだけは思い出すことができた。
 目の前で微笑む妙子さんは記憶のなかにある昔の妙子さんと何ら変わっておらず、都合よく幸せな記憶だけを強引につなぎ合わせたようで、自分がひどく薄情な人間に思える。カノンちゃんがいなくなって憔悴していた妙子さん。その姿を見たのは引っ越しの挨拶に来たあの時だけで、記憶を手繰っても大人びたカナの笑顔ばかりが蘇り、妙子さんの姿は霞がかかったように朧気だ。
「妙子さん、元気にされてたんですか?」
「元気よ、ほら」
 妙子さんは腕を曲げて力こぶを作るような仕草をしたけれど、その腕に大層な筋肉はついていない。きっと私は無意識に心配そうな顔をしていたのだろう。妙子さんは困ったように小首をかしげ、チラと私を見たあと母に視線を移した。
「こっちにいた頃はね、ちょっと耳が聞こえにくくなったりして、外に出るのも億劫で。突然顔も見せなくなったから心配かけちゃったわよね。急に引っ越したし」
「そうよ。本当に心配したんだから」
 母の顔は怒っているわけではなく、「ごめんね」と笑い返す妙子さんは、「美鳥さんは平気?」と私に問いかけるカナにそっくりだった。きゅっと胸が締め付けられる。なぜか槇村さんとのことが頭を過り、後ろめたいような居心地の悪さをおぼえた。
「カノンが生まれて、家も古くなってきてたし、手狭だから建て替えようって話してたの。もちろんこっちにね。カノンが大きくなったらここをカノンの部屋にしようとか、小さいうちは奏と同じ部屋にしようとか色々考えてたから、その設計のまま建て替えた家に暮らすのも辛くて。マルヤスーパーにも行けなくなっちゃったし、あの子と歩いた道も、あの子と遊んだ公園も」
 妙子さんの視線はちゃぶ台の上に留まったまま、私と母はその視線の先に何かを探すように同じ場所を見つめた。妙子さんが泣いてしまうのではないかと思ったけれど、声は揺れることも震えることもなく、私は自分の目尻に涙が溜まるのを感じながら鼻をすするのを我慢した。
「それで、今住んでる緑台に引っ越そうかって、うちの人が言ってくれたの。奏には可哀想なことしたって思ってるんだけどね。小学校の友達とは離れちゃったから」
 妙子さんは顔をあげ、私を見てにこりと笑う。
「美鳥ちゃん、お母さんのこと『りっちゃん』って呼ぶのね」
「お父さんは、『よしりん』なのよ」
 母がそう言うと、妙子さんはうらやましいなあと溜息まじりに呟いた。
「緑台に引っ越したときね、それまで無意識に奏のこと『お兄ちゃん』って呼んでたのに気づいたの。近所の人に、兄弟がいるんですかって聞かれて。それで、ずいぶん久しぶりに『奏』って呼んだら……」
 妙子さんは、そこで少し言葉を詰まらせた。カノンちゃんが生きていたころ、カナは確かに「お兄ちゃん」の顔をしていた。妙子さんは鞄からガーゼのハンカチを取り出し、顔にあてて鼻をすすった。
「奏ね、ちょっと嬉しそうな顔したのよね。それで、ずっと無理させてたんだなあって。カノンが生きてた頃も、いなくなってからも、全然わがまま言わなくて。いつもニコニコしながら『お兄ちゃん』してた。私が奏を通してカノンを見てるのに気づいてたんだろうな。それなのに平気なふりして、『お母さん、大丈夫?』って聞いてくるの」
 カナがその仮面の下に隠してしまった沢山の感情は、一体どこへ行ってしまったのだろう。すべてを抱えたまま外に出すことなく、どこにあるのかさえ見失ったまま、それはまだカナの中にあるのかもしれない。
「奏君は、楽しそうですよ。今」
 口をついて出たその言葉は私の願いだった。妙子さんは小さくうなづき「そうね」と笑った。
「あの子、私を喜ばせたかったんだと思うの。成績もよかったし、学級委員や生徒会長なんかもして、保護者面談では褒められてばかりだったのよ。こんな話、親馬鹿よね」
「そんなことないです。カナは今でも羨ましいくらい何でもできるから……」
 言葉の途中でカナの寂しげな顔を思い出した。
『なんでもできる、なんて長所でも何でもない』
 器用になんでもやってのけるカナ。消えようもない悲しみがその体の中に詰まっているのかもしれない。でもね、と私の心を読みとったように妙子さんが口を開いた。
「一度だけ奏が怒ったことがあったの。高校の頃だったかな」
 ユラユラと揺れる電気の紐を見つめ、妙子さんは小さく息を吐く。
「奏があんまり人に褒められるようなことばかりして、自分から何かしたいなんて言ったことなかったから。私が『無理にやりたくないことしなくていいから、やりたいことやっていい』って言ったの。そうしたら『やりたいことなんてない、お母さんに笑っててほしいだけだ』って」 
 結局そのあとも奏は変わらなかったなあ、と妙子さんは遠い目をし、過去から現在までの時をなぞるように、視線をちゃぶ台の上にゆっくりと戻した。
「変わったのは今のところで働くようになってから。最初は県外の会社に就職してて、研修を受けたあとこっちの支社に入れるように希望を出してたの。けど、研修受けてる途中に支社の閉鎖が決まっちゃって。そっちに残るか辞めるかって話になったら、あっさりこっちに帰ってきちゃた」
 私のせいかもね、とポツリと妙子さんはつぶやく。
「それでね、本格的に仕事を探しはじめる前に出会っちゃったみたいなのよ。オーナーの槇村さん。私は会ったことはないんだけど、奏がよくその人の話をするの。彼のおかげなのかしらね。なんだか取り戻すみたいに子どもっぽい表情をするようになって」
 槇村さんといるときのカナは、確かに子どもっぽく見えることがある。槇村さんの信頼を得ているカナ、そして「槇村さんがうらやましい」とこぼしたカナ、槇村さんの私への気持ちを知っているカナ。色んなカナがぐるぐると頭のなかを駆け巡るけれど、実際のところカナが何を考えているのかは笑顔で煙に巻かれて見えてこない。もしかしたらカナ自身もそれを探しているのかもしれない。
「それにね」
 気持ちがふっと現実に引き戻された。妙子さんは今にもこぼれ出しそうな笑いを抑え、私を見た。
「美鳥ちゃんに会ってからかしら、なんだか楽しそうなのよ」
 思いがけない言葉だった。母がこちらをニヤニヤしながら見ているのが視界の端に入りこむ。
「私……、ですか」
「去年の秋くらいかしら。たぶん美鳥ちゃんに再会した日。帰ってくるなり『ぴーちゃんに会った』って」
 クスクスと途切れない笑いを小さなため息で止めた妙子さんは、ほっと肩の力を抜いた。
「『ぴーちゃん』って美鳥ちゃんにくっついてた頃、いっつもこんな顔してたなあって思ったのよね」
 ありがとね、と妙子さんは私に言う。何もしていない。ただ再会した、それだけだ。たぶん、私はカナのこと傷つけている。
 無性にカナの顔が見たくなった。
「カナは、一人で帰っちゃったんですか?」
 そう聞いた私に、妙子さんではなく母が答えた。
「サーフィンなんだって。猫浜の海岸の方らしいわよ。美鳥、これからおばあちゃんのところに行くんでしょ? 通り道だし寄ってみたら?」
「サーフィン? カナ、サーフィンするんですか?」
「槇村さんに教えてもらったんですって」
 その名前に少しパサついた髪と、焼けた肌が思い浮かぶ。また胸のなかにじわりと罪悪感が芽生えた。誰に対する、何に対する罪なのか、なぜだか分からないけれど、その答えをカナに問いかけたいと思った。
「猫浜の駐車場があるでしょう? その脇の道を入って少し先に行ったところらしいから。駐車場からもそんなに遠くないみたいよ。ちょっと場所が違うだけで全然波が違うんですって。仕事もあるはずだから何時まで海にいるのか分からないけど、美鳥ちゃん、気が向いたら寄ってみて。たぶん喜ぶから」
 二人を残して出かけるまえ、妙子さんは「美鳥ちゃんも今度うちに遊びに来てね」と私の手を握った。カナの家までは車で二十分ほど。中学の頃の私にはずいぶん遠い場所に思えたけれど、距離なんて本当はあってないようなもので、離れるのも近づくのもきっと自分の気持ち次第なのだ。
「行ってきます」
 運転席に乗り込んでエンジンをかけた。マルヤスーパーの前を通り、国道を海に向かって走る。猫浜に近づくにつれてカナの顔が見たいという気持ちは徐々に萎み、頭のなかのカナは小学生から大人の男性に変わっていった。それでも自分の気持ちを懸命に繋ぎ止めて猫浜に向かったのは、姉への対抗心だったのかもしれない。
 子どもは諦めたのだと思っていた姉が実際どんな想いで結婚生活を送っていたのか。もしかしたらつい最近「子どもが欲しい」と、そんな気になったのかもしれないし、ずっと悩んでいたのかもしれない。どちらにしろ彼女は自分の求めるものに手を伸ばそうとしている。カナに会って何が変わるわけでもないけれど、いつもなら「やっぱりやめよう」と簡単に引っ込めてしまう手を、どこかに向かって伸ばしたかったのだ。

潮風

 運転席側の窓を少しだけ開けた。右手にときおり海が見え隠れし、波の音と潮の香りが吹き込んでくる。車のなかは陽光で暖かく、風はどこか初夏の香りがした。ゴールデンウィークの暑さがまだ尾を引いている。
 カーブを曲がると視界がひらけ、水平線が遥か遠くまで見渡せた。ガードレールの向こうは砂浜で、風で飛ばされた砂はアスファルトの色を埃っぽくくすませている。海に浮かぶいくつかの黒点はどうやら人のようだった。ゆらゆらと波に揺られるばかりで、時おり寄せる波も十分な高さはないらしく、黒点は黒点のまま、私の視界にあるあいだに彼らが波に乗ることはなかった。
 平日の真っ昼間、こうやって海に浮かんで過ごしている人がいるということに意識を向けたのはこれが初めてかもしれない。地元に帰って来てからこの道は何度も行き来している。そのたびに窓を開けて波の音を聴き、海をながめたつもりでいたけれど、そこにある人影は目に映っていなかった。
 短いトンネルを抜けて交差点を曲がり、国道を下りた。古い民宿が連なる海沿いの道をすすみ、建物が途切れてしばらく行ったところに駐車場がある。ぐるりと竹の柵が張り巡らされ、トイレと簡易シャワーの設置された小さな建物の脇から砂浜へと下りられるようになっていた。その入口のすぐ近くにカナの白いワンボックスカーが停まっている。
 駐車場を見渡すと、キャリアにサーフボードを積んだ車や、開けっ放しのバックドアに無造作に引っ掛けられたウェットスーツが目に入る。けれど人の姿はなかった。
 この猫浜は地元民の海水浴場だ。小さい頃は毎年家族で訪れ、高校時代はユウジと何人かの友人と一緒に遊びに来たこともある。いつも駐車場はいっぱいで、海の家があり、シャワーとトイレが増設され、駅からは臨時のシャトルバスも出ていたはずだ。今はほんの数台車が停まっているばかりだった。
 スニーカーを脱ぎ、靴下も脱いで、車に積みっぱなしにしていたサンダルに履き替えた。水洗い場の脇を抜けて砂浜に足を踏み入れ、波打ち際まで歩いて行く。左右を見渡すけれど、やはり波らしい波はない。二、三人が穏やかな海の上で揺られていた。
 駐車場に戻り、妙子さんに聞いた脇道へ向かった。生い茂る雑草の合間に、一本だけ切り開かれた獣道のような上り坂があり、わずかな不安に駆られながらその道を進んだ。
 しばらく行くと左右の草は次第に低くまばらになり、ごろごろと大きな石が転がっていて、坂を登りきるとその向こうに海が見えた。
 聞こえていた海鳴りが一段と大きくなり、下ろした髪は風で容赦なく巻き上げられる。すり鉢の縁に立っているようで、足元から広がる斜面は下に行くにしたがって岩から小石、そして砂へと変わっていた。
 海原を滑るように一定の間隔をおいて沖から近づいてくる青いライン、それは徐々に立ち上がり、浜にたどり着くよりもずいぶん手前で耐えきれず白波となって砕け散る。十人はいるだろうか。そこにある黒い影は、浮かんでいるのではなく確かな意思を持って動いていた。
 斜面を半分ほど下り、わずかに生えた雑草の上に腰を下ろした。どれがカナなのか、本当にあの人影のなかにカナがいるのか。どの人が上手で、どの人が下手なのかすら分からなかった。
 吹き上げる海風は耳元でゴウゴウと激しく鳴り続けている。風の音と波の音。寄る辺なく晒された体から強引に何かが抜き取られていくような、言いようもない解放感がそこにあった。浄化――そんな言葉が頭に浮かんだ。
 一人のサーファーが波に追われ、ボードの上で必死に腕を動かし海面を掻いているのが目に入った。体を引き起こしボードに立ち上がると、端から砕けていく波の先をスルスルと左へと進み、それがどれくらいの距離なのかは分からないけれど、きっとこの人は上手なのだと素人ながらに思った。波に乗り上げ、くるりと反対を向いたかと思うと、すぐさま元通りに左へと進む。サーフボードに描かれた蛍光ピンクのラインが波間に見え、最後はあきらめたように海の中に姿を消した。
 十分ほども座っていただろうか。そろそろ帰ろうかと腰を上げたとき、蛍光ピンクのサーフボードが海から上がってくるのが見えた。歩き方がなんとなくカナに似ている。みんな同じようなウェットスーツ姿で、そこにいる誰もがカナに似ているようにも思えた。その人は犬のように頭をブンと振り、空いたほうの手で髪をかき上げる。
 カナだ。芽生えた確信がドクリと心臓を打った。
 その場に膝を抱えて座り込み、じっとその姿を見つめた。気づくのか、気づかないのか、気づいて声をかけるのか、かけないのか。蹲ったまま、結局私は自ら手を伸ばすことができないでいる。気づいてほしい気持ちを押し込めて、気づいてくれなくても平気だと自分に言い聞かせて、一人でいるのは自分で選んだことだと嘯きながら。
 カナのあとにもう一人、海からあがる男性サーファーの姿が見えた。カナは立ち止まり、彼と同じくらいの背格好のその人と話しはじめる。カナは私には気づかない。気づかなくても平気、私は簑沢に行くだけなのだからと腰を浮かせたとき、不意にカナがこちらに視線を向けた。私は気づかないふりをして背を向けようとしたけれど、彼はその場で手をあげてジャンプする。屈んで足元に手をやったあと、サーフボードも話相手も置きざりにして、満面の笑みで駆け寄って来た。残された男性はサーフボードの脇に腰をおろし、こちらを振り返るでもなく、両手を後ろについて海をながめている。
「美鳥さん、なんでここにいるの?」
 息を切らし、もし犬だったなら飛びついてきそうなくらい、カナはハイテンションだった。ちぎれんばかりに振られる尻尾が見えるようだ。「喜ぶから」という妙子さんの言葉を思い出しながら、私はたじろいでいた。
「妙子さんが教えてくれたの。簑沢のおばあちゃんちに行くから、ちょっと寄り道しただけ」
「ねえ、俺がやってるとこ、見た?」
 不意に、自分が汚れた人間のように思えた。きっと私はカナに嫉妬している。器用に波を乗りこなしてしまうカナ、プライベートな時間を満喫しているカナ。
「見たよ。気持ちよさそうだなって、思ってた」
「美鳥さん、いつ来たの? もう少しいる?」
「ごめんね。おばあちゃん待ってるから、そろそろ行かないと」
「そっか」とカナはあからさまに肩を落とした。そして、ふと気づいたように視線が動き、彼の手が私の髪に触れる。心臓が早鐘を打ちはじめ、その手から逃れるように顔をそむけると、カナは「ごめん」とすぐに手を引っ込めた。
 気まずい沈黙が落ちる間際、「美鳥さん」とカナが私の名を口にした。その声は柔らかい。
「美鳥さんのその髪、ぴーちゃんって感じがする。昔は髪おろしてたよね」
 パーマをかけたようにクルクルと巻いた癖毛が、海風に煽られふわりと顔にかかる。ボサボサに乱れているのではないかと両手でその髪を抑えると、カナがぽつりと呟いた。
「ねえ、髪さわっていい?」
「……え?」
 思いがけない言葉に心の準備ができず、ただじっとカナの顔を見つめ返した。照れているのか困惑しているのか、カナの口元には曖昧な笑みがある。
「……美鳥さんが嫌がることはしないから」
 カナは知っているのかもしれない。それは直感だった。
 何を知っているのか、どこまで知っているのか。私が触れられることを嫌がるかもしれないと考える程度には、何らかの事実をどこかで聞いたのだ。私は両手でカナの左右の手をつかみ、自分の髪にもっていった。意地になっていたのかもしれない。カナは驚いたように目を見開き、私がその手を離すとそっと髪をなでた。心臓はまだ落ち着きそうにない。
 変わりたかった。いつまでもうじうじと狭い場所に閉じこもっていないで、恐怖の先へ足を踏み出したかった。背を押してくれたのはきっと潮の匂いと、広がる空、そして海。眼の前にいるのは男の人だ。鼓動を速めているのが不安なのか恐怖なのか、緊張なのか、それらは全部似通っていて、心はどこかでそれを求めている。カナに触れたいと思った。
 カナの手が、私の頬に触れる。
「美鳥さん、泣いてるの?」
 流れた涙の筋が、風を受けてすうっと冷やされた。
「……カナ、何か聞いた?」
 困惑気味に眉を寄せ、カナは私の頬から手を離した。

緑のトンネル

「カナ。髪の毛パサパサにならない?」
 助手席のシートに沈み込み、風になびくカナの髪を見ながら私はぼんやりと車窓をながめていた。海はもう見えない。
 川沿いを走る一車線の道路を上流へと向かっている。カナの運転する白いワンボックスカーの中は、彼が飲んだ缶コーヒーの匂いと、ココナッツの香りで満たされていた。
 泣いたあとの軽い頭痛を感じて目を閉じる。風に揺れる髪が頬をなで、心地良さと不思議な悲しみで頭の中がまっ白になった。
 つい一時間ほどまえのことが、遠い昔のように朧に瞼の裏に蘇る。
 ――足元には小石と砂と、草がところどころに生え、私はそこに立ち尽くしたまま自分の意思で涙を止めることもできず、じっとカナの足の指を見つめていた。骨ばった足の甲には血管が浮き上がり、指先に砂がまみれていた。私の涙は音もなくポタポタと草のうえに落ち、いくつかは砂に茶色の染みをつくった。
 カナは手の届く距離にいて、しばらく何も言わずただ傍に佇んでいたけれど、海風で冷えたのか小さくクシャミをし、私はそれを機にようやく手のひらで頬を拭った。
「美鳥さん、簑沢まで送っていこうか?」
 顔を上げるとカナはまっすぐに目を合わせ、「送る」と私には何も言わせないまま背を向けて駆け出した。
「すぐだから、待ってて」
 私は返事もせず立ち尽くしたまま、遠ざかる後ろ姿を見ていた。カナは浜辺に座る男性と何か言葉を交わし、サーフボードを抱えて戻ってくる。体のラインをなぞるカナのウエットスーツ姿。私は現実を目の前に突きつけられたような気分になった。
 いくら思い込もうとしても、目の前にいるのは昔の、幼いだけのカナではない。壊れ物のように扱っていた幼いカナの幻影は、宝物ではなく(しこり)だったのかもしれない。縋るものではなく懐かしむだけのもの。いつか手放さなければならないものだったのだ。
「お待たせ」と向けられた笑みで、私の胸にはあたたかな風が吹き抜けた。喪失と充足を同時に感じながら、自分の感情について行くことができず涙がカナの姿をゆがめる。こんな風に何でもないことで心が揺れるのは、自分が乾いているからだ。寂しさを押し込めた心はカラカラに乾き、そんな時ほど他人の優しさに脆くなる。
 涙目を誤魔化し、先に立って駐車場へと向かった。ぽつぽつと交わす言葉は当たり障りのないことばかりで、カナが身支度を整えるあいだ、私は猫浜の入り口の、足洗い場の縁に腰を下ろして海をながめた。
 カナの車の助手席に座ったのは初めてだった。

 風の音に海鳴りが混じっている気がする。カナの声が、草笛のようなわずかな振動で鼓膜を震わせる。木々のざわめきに、その声が溶けていく。
「カナ。髪の毛パサパサにならない?」
「あとで日帰り温泉に寄るから平気」
 シャワーをざっと浴びただけのカナは、パーカーにワークパンツというラフな格好で、濡れた髪はごしごしと拭い、そのタオルを首に引っ掛けていた。窓から入り込む風はぬるく草の香りを纏い、それは車内を満たすココナッツの匂いと混じりあう。私とカナのあいだには青と水色のストライプの、柔らかそうな布のケースに包まれたサーフボードが顔をのぞかせていた。
「カナ、今日仕事なんでしょ。時間、平気なの?」
「平気」
 チラリと横目でうかがうと、カナは真っ直ぐに前を向いたまま笑っていた。私はまた瞼を閉じる。
「さっきから平気ばっかり。カナの嘘つき」
「嘘じゃないよ。ゴールデンウィーク明けて落ち着いたから、交代で休みとってる」
「でも仕事なんでしょ?」
「ちょっとね、志の無に顔出しするだけ。新しい学生アルバイトが入ったばかりだから」
 その返事を無視し、私は「ウソつき」ともう一度つぶやいた。
「ねえ、カナ。岡井さんに聞いたの?」
 束の間の沈黙があった。私は車の揺れに身を任せながら、このまま微睡んでしまいそうだった。
 簑沢へと続く県道は海岸沿いの国道と違ってよく揺れる。ピーヨロロと(トビ)の鳴き声が聞こえた。どこか現実から遊離した世界へ、たとえば「穴っぽこ」の向こうっ側へ向かっているようだった。
「……タマちゃんが心配してたよ。花と樹のイベントのとき、美鳥さんの店に行く途中でたまたま会ったんだ。ちょっとだけ聞いた、カフェソラへのこと」
 葉室さんと並んで座るカナの姿を思い出した。いつもと変わらないような顔をして、あのときカナは何を考えていたのだろう。私の店のお客さんに「いらっしゃいませ」と笑みを向け、スタッフのように注文をとってきたカナ。意地をはって「私の仕事だから」と口をついて出た私の言葉に、彼はきっと傷ついていた。でも、あれは私の本音。
「みんな嘘つき。カナも、……ユウジも、一ノ瀬さんも」
「一ノ瀬さんって、前働いてた会社の人?」
 それもタマに聞いた? と問うと、カナは申し訳なさそうな顔でうんと頷いた。タマはいつでもお節介やきで心配性だ。
「なんか情けないよね。隠せてると思ってて、本当は全部筒抜け。槇村さんも……」
 槇村さんの感触が唇によみがえり、口を噤んだ。いつだったかカナが問おうとした「美鳥さんは、槇村さんと……」という質問の先を、カナが今後問いかけてくることがあるだろうか。
 中途な会話をそのままにして、窓の外に顔を向けた。新緑の匂いが鼻先を抜ける。
「槇村さんも、……の続きは聞かない方がいい?」
「別にたいしたことじゃない。ちょっと見られたくないとこ見られちゃってたみたい。鳥の巣で知り合う前のハナシ」
「見られたくないとこって?」
「言わない。きっと、カナは私のこと嫌いになっちゃうよ」
 女とバーにいるところに乗り込んで、満足に怒りをぶつけることもできないまま地べたに尻餅をつき、私は逃げ帰った。サチへの嫉妬を仕事の名を借りて口にしてしまった自分が惨めで情けなくて、恥ずかしくてならない。
「槇村さんは、美鳥さんのこと嫌いになってないよ」
 俺も、とカナはそのあとに何か続けようとしたけれど、それは言葉にならないまま飲み込んでしまったようだった。
 右にゆるく湾曲して上流へと続く川の流れを無視するように、一本道はまっすぐに伸びている。しばらく進むと木々が生い茂る緑のトンネルに入った。フロントガラス越しに空をのぞき込むと、若葉の緑が日差しに透け、柔らかな光が葉の上で踊っていた。カナは運転席側の窓を全開にし、気持ち良さそうに顔いっぱいで風を受けている。
「緑の匂いがする。気持ちいいね」
 その言葉の響きにふっと息がもれた。
「カナ、わざとじゃないよね」
 カナはきょとんとした顔で、目線を前に戻してから「ああ」と、ようやく思い至ったのか息の漏れるような笑い声をたてた。パーカーのポケットに左手をつっこみ、私のまえに握りこぶしをもってくる。手を差し出すとチロルチョコレートがぽとりと落ちてきた。
「美鳥さんの匂いはチョコレートの匂い」
 黙ってそれを口に入れると、「緑のトンネルだね」と彼は木々に目を向けた。
「みどり、みどり、ぜーんぶ、みどり」
 カナの声に風の音と鳥のさえずりが混じり、私は苦笑しながら彼と同じように陽を透かす緑の葉をながめた。
「みどり、かぁ」
 声のトーンを落とし、カナが口にしたのはその色なのか私の名前なのか。干からびた心に柔らかな水が染み渡る。じわじわと涙が滲む。弱い自分なんか見せたくもないのに。気持ちを切り替えるように背を反らして「うーん」と伸びをした。
「カナ、小学生のくせに私のこと呼び捨てにしたよね」
「覚えてたんだ」
「覚えてるよ」
「小学校は卒業してた。あのときは一生美鳥さんに会えないと思ってたから、それくらい許してよ」
 カナは「ね、美鳥」と続け、ふふっと笑った。けれどそのすぐあとに「ねえ」とどこか強張った声が聞こえてきた。隣を見ると、カナは躊躇うように口を開こうとして閉じ、私の顔をちらりと見た。
「……美鳥さんは、槇村さんのことどう思ってるの?」
 ふと聞き慣れたイントロがカーラジオから流れてきた。
「別に、なにも」
 カナは「そっか」とつぶやき、少しだけラジオのボリュームをあげた。流れてくるのはモンキーズの『デイドリーム』だ。

祖母の家――1

「この歌詞、カノンちゃんを思い出すんだ」
 小さな声で日本語の歌詞を口ずさんでいたカナは、間奏の合間にそう言った。この道を家族四人でドライブして歌った『デイ・ドリーム・ビリーバー』。私は頭のなかでその歌詞を反芻する。いなくなった人との、真昼の夢。
「ねえ、カノンちゃんってどんな字を書くんだっけ」
「歌う音で、歌音(かのん)
 カナはずっと向こうに見える山並に目を向けたまま、ラジオにあわせてまた鼻歌をうたった。
 曲が終わり、その頃には緑のトンネルはずいぶん後ろに過ぎ去っていた。ふたたび川に寄り添うように、対向車の来る気配もない道をのんびりと走りつづける。左右の山々は徐々に間近に迫り、進むにつれて水の張られた田圃がちらほらと目につくようになった。道は右へ左へと蛇行し、何度目かのカーブを曲がったところで視線の先に集落が見えた。
 県道からは一本の脇道がその集落へと伸びて、今走るこの道はさらに山の奥へと続いている。一台の軽トラックが道を山伝いに下りて来て、脇道に入るのが見えた。
「カナ。いま軽トラが入ったところで曲がって」
 了解、とカナはハンドルを左へ切る。対向車が来てもすれ違えないような細い道はわずかな傾斜で上り坂になっていて、数匹の野良猫が民家の庭先や、水路を塞ぐ鉄板の上でのんびりと昼寝をしていた。
「あの南天の木のところを左」
 私の指示通りにカナが祖母の家の庭に車を乗り入れると、つい先ほど見かけた軽トラックが玄関先に停まっていた。カナはその隣に自分のワンボックスカーを横付けにし、軽トラックの荷台の脇でこちらに訝しげな視線を向けている二人に運転席からペコリと頭を下げる。祖母と、隣の家に住んでいる黒田の小父さんだった。
「ああ、美鳥ちゃんかあ。久しぶり」
 助手席から降りて「こんにちは」と挨拶すると、小父さんは顔を皺くちゃにして笑った。祖母は目を丸くして「あらまあ」と口を半開きにする。頭に被っていた手ぬぐいをとると短く切りそろえられた白髪が陽の光を反射し、中途半端に黒髪が残っていたときよりも心なしか若く見えた。
「誰の車かと思ったら、美鳥ちゃん」
 運転席から出てきたカナに視線が集まり、人懐こい笑顔を向けた彼に、祖母はまた「あらまあ」と目を丸くした。小父さんは「美鳥ちゃんの彼氏かい?」と濃く太い眉の片方だけを器用にあげ、カナはそれを笑って誤魔化している。背の高さが三十センチほども違うカナを見上げたまま、祖母はじっと彼の顔に見入っていた。
「名前はなんだったかしら。小さい頃会ったことがあるわよねえ、美鳥ちゃん」
「おばあちゃんカナのこと分かるの? 近所に住んでた奏君」
 カナは驚いた様子で祖母と私の顔を見比べ、申し訳なさそうにしながらわずかに頭を下げた。
「僕はちょっと思い出せないです。すいません」
「いいのいいの。うれしいわ。こんなところまで来てくれて」
 祖母は相好を崩し、柔らかな眼差しをカナに向けた。そうして、その存在を確認するようにカナの腕をぽんぽんと優しく叩く。
「懐かしい。立派な男の子になって。小さいときは元気にあちこち走り回って、その後ろを美鳥ちゃんが追いかけて」
 祖母の言葉にふと引っかかりを感じ、カナに目をやると彼も私と同じように首をかしげていた。
 記憶をたどった。キュッキュッと鳴るカナの靴、お姉ちゃんの声は少し離れたところから聞こえ、幼い私は「カナー」と声を張り上げてきょろきょろとあたりを見回していた。靴音が近づいて、きゃあっと楽しげな声とともにカナの柔らかな体が抱きついてくる。私が「もう」とその手を掴もうとすると、カナは笑い声をあげながらキュッキュッと音をさせて覚束ない足どりで逃げていく。
「おばあちゃん、カナが私を追いかけてたんじゃないの?」
 後ろから抱きついてくるカナ、私を見上げるくりっとしたまん丸の目。祖母の言葉でその前後の記憶が次第に呼び起こされ、カナを捕まえようと伸ばした自分の両手が映像として頭のなかに浮かんできた。それは本当の記憶なのか、それとも今作り上げたものなのか。
 祖母の返事に迷いはなかった。
「私が見てたときは美鳥ちゃんが後ろをついてまわって。ほら、美空ちゃんが抱っこしたら、『だめ』って必死で、ねえ」
 だめ。そう口にしたのはあの中秋の名月の夜。けれど祖母が言っているのはその時のことではなさそうだった。私は何度カナに向かって手を伸ばしたのだろう。抱きついてきたカナを自分の手元につなぎ止め、姉に嫉妬して。「カナはぴーちゃん大好きだったよね」という姉の言葉を私は疑いもしなかったけれど、それも姉の勘違いだったのかもしれない。
 複雑な気持ちで苦笑する私を、祖母は照れていると思ったようだった。カナは笑いを堪えるように肩を揺らし、黒田の小父さんは「仲の良いことだわ」と、きっと幼い頃の私たちではなく、今並んで立っている大人の私とカナに向けて言った。恋人ではないとわざわざ否定するのも大人げないように思え、私は黙ったままでいた。
「僕が美鳥さんの後ろを追っかけてたような気がしたんだけど、記憶違いだったのかな」
 カナの記憶のなかの私はどんな姿で、どんな表情でいるのだろう。現実の私はどんな風にカナの目に映っているのか。
 思い出っていうのはそんなものよ、と祖母はカナに言い聞かせるように小さくうなずいた。
「昔の記憶っていうのは自分の頭のなかで好きなように変えられるの。それが自分にとっての本当のこと。だから、あんまり悪いことは考えないようにね。それが幸せのコツ」
 小父さんは「なるほどなあ」と感心したように唸った。
「うちのカミさんも昔は美人でなあ、思い出んなかのあいつは年々美人になってく気がするわ」
 ガハハと大口で笑い、「美人のカミさんがうるさいから」と小父さんは軽トラックに乗り込み、すぐ隣の、黒田家の小屋へと車を入れた。バタンとドアを閉じる音のあとに、奥さんの名を呼ぶ声が聞こえてくる。
「小父さん、なんでうちに車停めてたの?」
 私が聞くと、祖母は「ああ、これこれ」と玄関の前に置かれた背負い籠のほうに歩いて行く。ずいぶん大きなその籠には、小ぶりの新ジャガが籠いっぱい入っていた。
「美鳥ちゃんが来るって、りっちゃんが電話してきてね。たくさん掘ったのはいいけど重くて。たまたまシーちゃんが通りかかって乗せてもらったの。助かったわ」
 シーちゃんとは黒田の小父さんのことだ。祖母は玄関前の石段に、よいしょと腰をおろした。
「畑に置いて帰ったら、あとで取りに行ってあげたのに」
「いいの、いいの」
 祖母は手をぷらぷらと振る。
「こうやって年寄りが一人で暮らしてると、なんやかんや皆が世話をやいてくれるの。十年前は『年寄り扱いして』って腹を立てたりしたけど、年々体も動かなくなってくるし、にこにこ笑って『ありがとう』って甘えるほうが、お互い気持ちいいものよ」
 祖母の後ろにまわってひょいと背負い籠を持ち上げたカナは、「ねえ」と祖母の顔をのぞき込んだ。
「おばあちゃん。これはどこに持っていったらいい?」
 日はずいぶん高くのぼり、祖母はカナを見上げて眩しそうに目を細めた。
「ありがとう。じゃあ、玄関のなかに入れてくれる?」
 よいしょと立ち上がり、ガラガラと玄関の引き戸を開けて敷居をまたぐ祖母の後ろをカナがついて入り、一番最後に入った私が戸を閉めようと振り返ると、小さな影が視界を過って車の下に潜り込んだ。きっと野良猫だろう。

祖母の家――2

 くん、と鼻をならして家の匂いを嗅ぐと、いつもと同じ匂いがした。祖母が作る味噌の匂い。玄関の上り框の脇に置かれた(たらい)の中には、キャベツが三つと、ビニール袋に入れられたスナップエンドウがある。カナは盥の横に籠を置くと、開け放たれたままの木戸の奥、畳が敷かれただけの何もない座敷をのぞきこんだ。
「広いお屋敷だねえ」   
 感心したような、その「お屋敷」という言葉がおかしかった。座敷の奥にもうひとつ和室があり、さらに奥の障子も開け放たれて、縁側の向こうの窓からは一段下に建つ隣家の屋根が見えている。一階にあるのは和室が四部屋と台所とお風呂にトイレ。二階も同じように和室が四つと、あとは物置があった。一階の庭に面してぐるりと縁側、そして家の裏には小さな畑にいくつかの野菜と花が育っている。
 一人暮らしには広すぎて住みにくいでしょ。父も母も何度かそんな風に言って祖母に同居を勧めていた。母と伯母は嫁いで家を出てしまい、祖父が死んだあと祖母はこの広い家に一人きりだ。伯母も一緒に暮らさないかと話をもちかけたらしいけれど、祖母はどちらも断って、住み慣れたこの場所で日々野菜を作って暮らしている。
「こっち上がって。お昼食べていくでしょう?」
 私たちの返事も待たず、祖母は掘ってきたばかり新ジャガを両手でごそっとすくい、玉暖簾をくぐって台所に姿を消した。数珠つなぎになった木の玉はカラカラと軽い音を鳴らし、誘うようにゆらゆらと揺れている。
「カナ、時間平気?」  
「うん。特に何時でないといけないこともないから、志の無には五時以降に行けばいいんだ」
「じゃあ、適当に寛いで待ってて」
 座敷を抜けて居間のテレビをつけ、そこにカナを残して私は台所に向かった。
「おばあちゃん、手伝う」
「あらそう? ありがとう」
 流しの前に立つ祖母はチラとだけこちらを振り返り、また手元に視線を戻す。ごろごろと鈍い音がするのは、どうやらジャガイモを洗っているようだった。
「美鳥ちゃん、洗濯機の上のところに新しい布巾が畳んであるから、何枚か取ってきてくれる?」
「はあい」
 祖母の後ろを通り抜け、脱衣所へと続くドアを開けた。洗濯機の上に据え付けられた棚には籠が二つ並んで置かれ、その中から手ぬぐいを二枚持って祖母の元へ戻る。ウウゥーンという正午を知らせるサイレンが聞こえてきた。
「布巾、これでいい?」
「じゃあ、これ拭いてくれる? 拭けたらこっちに入れて」
 祖母は(ざる)にあげた新ジャガと、使い古して取っ手のとれた雪平鍋をテーブルに置いた。祖父と祖母、そして母と伯母がかつてこのテーブルを囲んで食事をしていたのだ。背もたれのついた椅子が四つと、今祖母が使っている、座面が回転するタイプのどっしりとした椅子がひとつ。どの椅子もきれいに拭き上げられていた。
「おばあちゃん、できたよ」
「ありがとう。じゃあ、揚げていきましょうか」
 祖母は私から受け取ったジャガイモを天ぷら鍋の中にゴロゴロと移し、その上からサラダ油を注いでカチリとコンロの火を点けた。
「そうそう。そこの土間に葉玉ねぎがあるから一つとってくれる?」
 台所から裏口へと続く土間に、青々とした葱の葉が見えた。サンダルを履いて土間に下り、土がついたままの葉玉ねぎの中から一番玉の大きいものを選んだ。固くなりかかった一番外の皮を剥ぐと、真っ白で小ぶりな玉ねぎがあらわれる。裏口の脇にあるシンクで泥を洗い流した。
 目の前の小窓はレトロな花柄の擦りガラス。シンクの下には砥石が置かれている。
 小学生のころ姉とふたりでここに立って、寒さに震えながら柚子の実を洗った記憶がある。祖母は柚子ジャムを作り、甘酸っぱい柑橘の香りが台所を満たしていた。
「おばあちゃん、これ切るの?」
 まな板を出し、私は祖母の返事を待たず葉の部分を切り落とした。
「ジャガ芋と一緒に煮るから、適当に切ってくれる?」
 祖母は菜箸でコロコロと天ぷら鍋をかき回し、油に沈んだ新ジャガは何かの玉子のように見えた。そこからプクプクと泡が立ち上っている。
 包丁の刃はよく研がれていた。抵抗なく切られていく青いネギ、それは煩わしい思考から解放される瞬間だった。まな板の上の野菜、そのひとつひとつの状態をみてほんのわずかに厚みを変える。切り方を変える。やっていることはいつもと変わりない。
「美鳥ちゃん。りっちゃんに頼まれてたお米、蔵の前に()いてあるから車に積んでおいたら? ジャガ芋は、そこの袋に好きなだけ持って帰って」
 祖母は壁際のフックに引っかけたレジ袋を菜箸で指した。
「もう手伝うことない?」
「もういいわ。冷蔵庫に蕗の炊いたんと鰯の煮付けがあるし、それにお味噌汁でいいでしょ。いるなら葉玉ねぎも持って帰ってね」
 私は勧められるがままに葉玉ねぎとジャガ芋を袋に入れ、それを玄関に置いて座敷をのぞいた。居間との境の障子は中途半端に開いたままで、けれどカナの姿は見えない。ふと視線をうつすと、開け放たれた縁側に胡座をかいて座るカナの後ろ姿が目に入った。私に気づいているのかいないのか、じっと外を見つめたままでいる。
「カナ、なに見てるの?」
 カナは「しっ」と人差し指を口元にあて、目線で庭を指した。ぷっくりと太った一匹の野良猫がカナの車の下からひょこりと顔を出し、気持ちよさそうに伸びをする。のそりと動き出しチラとこちらを見ると、興味もなさそうにヒョコヒョコと片方の足を引きずりながら歩いて行く。尻尾は何かに噛みちぎられたのかウサギのように短く、別の生き物のようにぴょこぴょこと左右に動いていた。そして思い立ったように縁の下に入ってしまう。
「いいもん食ってそうだよね、今の猫」
「どこかの家が餌あげてるのかもね」
 それから少しのあいだその猫が入っていったあたりを見つめていたけれど、出てくる気配はなかった。
「なんか、いい匂いしてきた」
「もうすぐできるよ。その前にカナ、ちょっとお願いしてもいい?」
 お米運んでと言うと、カナは「もちろん」と立ち上がり、二人で外に出て、黒田の家の手前で裏庭へと続く短い坂を下りた。右手には小さな味噌蔵、左手が母屋の裏口になっていて、その先には小ぢんまりとした畑がある。    
 畑の奥には鬱蒼とした木々が生い茂り、秋から冬にかけて柿や栗、枇杷、それに柚子が実をつける。ついこのあいだ母が「裏の桃の花がきれいよ」と言っていたけれど、すでに散ってしまったようだ。畑はまだ閑散としていて、玉ねぎの葉だけが元気よく地面に突き立っている。手前の畝には植え付けたばかりの苗が頼りなげに顔を出し、裏口の軒下にも植え付けを待つ苗のポットがいくつか置かれていた。
「あ、さっきの猫」
 カナは母屋を囲う犬走に沿って忍び足で近づく。縁の下からのんびりと顔を出したその猫は、何の拍子にかピクリと止まって耳を立て、さっと身を隠してしまった。
「行っちゃった」
 名残惜しそうな声で振り返ったカナが、何かに気づいたように背伸びをし、私の背後に向かってペコリとお辞儀をした。
「美鳥ちゃん」
 その声は「美人のカミさん」だった。小母さんは小ぶりの片手鍋と小さなレジ袋を持ち、サンダルにエプロン姿。茶色く焼けた肌と深い皺はいかにも田舎のおばさんといった様子だったけれど、屈託ないその笑顔は今でも十分「美人のカミさん」だ。
「これ昨日の残りだけど、若い男の子が来てるって聞いたから、良かったら食べて。大したものじゃないけど。こっちは苺。形は悪いけど今朝摘んだばっかりなの。りっちゃんにお土産ね」
 小母さんはその袋を私に持たせ、いつのまにか隣に来ていたカナに「はい」と手鍋を差し出した。カナはさっそく蓋を開けている。
「豚の角煮だ。煮玉子もあるよ。ありがとうございます。やったね、美鳥さん。おいしそう」
 カナ君は人たらしだから、というタマの言葉を思い出した。カナは営業用とは違う無邪気な笑顔で、小母さんは「たいしたものじゃないのよ」と嬉しげにカナの腕を叩く。「あら」と手を止め、カナの二の腕あたりを遠慮なくガシガシと触りはじめた。
「お兄さん、意外にがっしりしてるのねえ」
 小母さんは感心したようにカナを頭のてっぺんから足の先まで観察するように見ていたけれど、ふと気づいたように私に目を向けた。
「やだ、美鳥ちゃん。そんな顔しないで。ごめんごめん、もう触らないから」
 今度は私の腕を掴んでぐらぐらと揺さぶり、私は自分がどんな顔をしていたのか分からないけれど、カナは緩く歪んだ口元をしていた。
「ありがとう、小母さん。りっちゃんも喜ぶと思う」
 取り繕った言葉を口にして、ちょうど家のなかから「美鳥ちゃーん」と聞こえたのをいいことに、私は「じゃあ」と裏口に向かった。小母さんも「またね」と手を振り、家へと戻っていった。
 裏口から入って鍋を台所に置き、味噌蔵の前に置かれていた一斗缶を持って正面玄関に戻った。醤油の甘辛く香ばしい匂いが漂ってきて、物音を聞きつけたのか、祖母が顔も見せないまま声をかけてきた。
「美鳥ちゃん、お天気いいから座敷でご飯食べようか。運んでくれる?」
 三人で料理を運び、冷たい麦茶をグラスに注いだ。角煮と蕗、鰯の煮付け、漬物が二皿に、キャベツと新玉ねぎのお味噌汁。揚げた新ジャガはそのままで塩を振ったものと、残り半分は玉ねぎの葉と一緒に醤油で甘辛く煮付けてある。カナのお茶碗にはご飯が大盛りで、座布団の上で胡座をかいた彼は、待ちきれない様子で祖母が腰を下ろすのを待っていた。
「いただきます」
 祖母はのんびりと箸を口に運び、カナはいつも通り勢い良く食べはじめた。私は父とこの家に来た、あの夜のことを思い出していた。
『よしりん。私、ちゃんとがんばってみるね。おばあちゃんみたいに誰かを幸せにできる料理、作れるようになりたい』
 目の前に並ぶ数々の料理。私は壁に掛けられた家族写真に目をやった。家の前で、まだ幼い私と姉、両親と祖母が映っている。
 出来の悪い娘でごめんね。そう心のなかで呟いた。

ごめんね

 お腹も満たされ縁側でのんびりと麦茶を飲んでいると、黒田の小父さんが軽トラックで路地を通り過ぎていった。にやっと口の端をあげて、こちらに向けてあげた手はグローブのように大きい。開けた窓から「また来てよ」と野太い声を張り上げ、私はそれに手を振り返し、カナは自分の車の傍らでペコリと頭を下げた。軽トラックは南天の木の陰に姿を消す。くるりとこちらを振り返ったカナが、「ねえ」と首をかしげた。
「美鳥さん、玄関にあるやつも持って帰るんだよね」
 グラスから口を離し、私は「うん」とうなずいた。
「了解」
 カナは軽快な足取りで玄関へと向かい、ガサガサとナイロン袋の擦れる音が聞こえてくる。ジャガ芋と葉玉ねぎの入った袋を車に積み込み、玄関脇の水場で手を洗うと、カナは玄関ではなく縁側から母屋にあがった。祖母の脇を通り、座敷に座り込むと、飲みかけの麦茶に手を伸ばす。ずいぶん喉が乾いていたのか、カナはあっという間にグラスを空にした。
「ありがとう、カナ」
「男の子だからね」と冗談めかしたカナに、ふといつかの姉夫婦のやりとりを思い出した。自分は居間で寛ぎながら、荷物運びはすべて義兄に任せきりだった姉。姉にとっての義兄と、私にとってのカナは何が同じで何が違うのか。たぶん、違うのは関係性ではなく私と姉の性格だ。
 私の隣にいた祖母が、「おつかれさま」とカナに声をかけた。手元の菓子器から落雁をひとつ口に入れ、残りをカナの方に差し出す。
「いただきます」
 笹を模した落雁を口に放り込んだカナに、祖母は満足げに目を細めた。そのあとコリをほぐすように左右に頭を傾げると、空を仰いで目を閉じる。いつもなら昼寝をする時間なのかもしれない。ぼんやりとした顔つきで、祖母は気持ちよさそうに陽射しを浴びている。そろそろ帰ろうかと口にしようとしたとき、カナが「おばあちゃん」と畳に手をついて腰を浮かせた。
「お昼ごはんのお礼に肩もみさせてよ」
「あら、ありがとう」
 腕まくりをしたカナは、ぐっと親指に力を入れるようにして祖母の肩を揉みはじめた。私はその隣で膝を抱えて座り、祖母の顔を見つめていた。
「おばあちゃん、一人で寂しくない?」
 ぼろりと、口から溢れた。カナが、私の顔を見たようだった。祖母は微睡むように目を閉じたまま「そうねえ」と言い、束の間沈黙がおちる。
「寂しくないっていったら嘘になるけど、私は、こうやってお天道さんの下で土いじりしていたいの。それで、たまにこうやって身近な人の笑った顔が見られたら、それでいい。ほんとに、贅沢」
 祖母の顔は穏やかだった。少しも寂しさなど感じさせず、一人でしゃんと生きているように見える。
「俺も同じ。身近な人の笑顔でがんばろうって思える。それでいい」
「そう」
 祖母の口元には笑みが浮かんでいた。肩にのったカナの逞しい手を、幼子の手にするようにポンポンと優しく叩く。
「もういいわ、気持ちよかった。ありがとう」
 祖母の肩を離れたカナの手は、行き先を探すように二三回空を揉んだ。チラリとうかがうように私に目を向ける。
「美鳥さんの肩も揉んであげようか。おばあちゃんのお墨付き」
「じゃあ、お願い」
 面食らったようにカナの手はまた宙を揉み、ぱっと開いた。「いいの?」と問いかけるような眼差しがそこにあり、私はそれに申し訳なさとともに母性本能にも似た温かなものを覚える。うつむいて、手で髪を片側に寄せた。露わになったうなじは気づかないうちに汗をかいていたのか、吹き抜けた風が心地よく熱を奪っていく。
 カナの手が肌に触れた。それはほんの一部で、直に触れないようにカナの手は布越しに私の肩をほぐしていく。目を閉じ、余計なことを考えないようじっと周りの音に耳を済ませていると、風や葉擦れの音に混じってカナの息遣いが聞こえてきた。それは私の呼吸音と重なり、ゆったりと瞼の裏の世界に溶け込んでいく。
 カナはどんな顔をして、どんな気持ちで私に触れているのか、その指は壊れ物を触るように優しく、そしてゆっくりと指に力が込められる。それはやはり男の人の手だった。あたたかなその手は、心のわだかまりをほろほろと崩していく。ふっと肩の力が抜けた。
「こってるね」
 カナはそれだけ言って、黙ったまま私の肩を揉みつづけた。カナの手に身を任せ、薄く目を閉じたままゆらゆらと揺られた。
「おばあちゃん」
「なあに?」
 のんびりした声が返ってくる。
「私、よしりんとの約束守れなかった。仕事辞めないでがんばるって言ったのに、二回も途中で辞めちゃった。今もね、一生懸命やってるのに辛いんだ。出来の悪い孫でごめんね」
 カナの指から力が抜け、肩をなでた。抱きしめてほしい。そう思ったのは父にだったのか、カナにだったのか。
 祖母の乾いた手が私の手の甲をさすった。
「美鳥ちゃんは、よしりんの言葉に囚われ過ぎよ。よしりんは美鳥ちゃんに笑ってて欲しいだけ。あまり考えすぎないで。りっちゃんみたいに、のほほんとやってたらいいの」
 カナは何も言わなかった。伏せた瞼の内側に涙が溜まり、ぎゅっと目を瞑る。しばらくして「もういいかなあ」とカナがギブアップの声をあげ、私はようやく顔をあげた。
 カナの車に乗りこんでシートベルトを締める。祖母は名残惜しそう助手席の窓を見上げていた。
「もう少ししたら梅が採れるから、時間があったらまた来てね。一緒に梅酒作ろう」
 やはり、一人は寂しいのだ。手を振る祖母に、カナは「また来ます」と言ってエンジンをかけた。何度か切り返して路地に出ると、もう一度祖母にふたりで手を振ってその家をあとにした。
 白いワンボックスカーは道端の猫を見つけるたびにスピードを緩めながら、細い路地をゆっくりと進んでいった。

【第十章】

 

すっぱい苺

 海が、見えた。
 通り過ぎる家々が不規則に視界を遮って、古い映画のように目に映る海がコマ送りで姿を変えていく。それがプツリと途切れ、真っ暗な中ゴーッとくぐもった走行音が耳を包んだ。トンネルを抜ければ猫浜はもうすぐそこだ。
 運転席と、助手席。カナと私のあいだには人ひとり分の距離があり、簑沢での出来事はどこか現実離れして感じられた。すべてが夢のように不確かで、潮風に吹かれて心の(しこり)は浄化され、祖母のぬくもりで赦されたように感じていたけれど、実際のところ私の何が変わったわけでもない。
 かすかに葱の青臭い匂いがする。カナのワンボックスカーに積まれた葉玉ねぎと新ジャガは、このあと私の車に積みかえて店へと持って行く予定だった。明日から、いや、このあとカナと別々の車に乗り込んだら、私はまた一人で蹲り、惰性に任せてこれまでと同じ日々を繰り返すのかもしれない。
 変わりたい、でも変わりたくない。
「カナ、これから日帰り温泉行くの?」
「野菜もらったし、一旦家に帰ることにする」
「そっか」とつぶやいた私に、カナは「一緒に来る?」と言った。本気とは思えない軽い口調で、けれどそれは本心を隠すための演技にも思える。行こうかな、そう答えたらカナはどうするのだろう。
 カナと近づくことに躊躇う、それは男性に対する恐怖だと思っていた。けれど、原因はそれだけではなさそうだった。カナのことを考えると、頭の片隅に槇村さんの顔が現れる。それは彼が私にキスをしようとしたあの夜からで、どちらかのことが頭を過るともう一人が連鎖的に思考に紛れ込み、そこにはいつも罪悪感があった。
「でも美鳥さん、このあとお店に行くんだよね」
 言葉をはさむ隙を与えず、カナは私が行かない理由を口にした。
 チャンスを逃したのか、ピンチを回避したのか。「行く」と言う勇気も、「行かない」と言う決断力も私にはない。こうやって姉弟のように接することはできても、無理に近づこうとして突然カナの手をはねのけたりしないか心配だった。嫌われたくない、傷つけたくない。私がはっきりと自覚できるのはそれだけだ。
 猫浜の駐車場で荷物を積み替えているとき、カナに着信があった。彼がお米の入った一斗缶を後部座席の足元に置いている間に、その呼び出し音は切れた。その発信元を確認し、「槇村さんだ」と呟いて、カナは私の顔を見た。
「かけ直してみる」
 スマートフォンを耳に当ててふらりと遠ざかっていく。
 残りの荷物を積み終えて手持ち無沙汰になった私は、小母さんにもらった苺を三粒取り出し、水場で洗って一粒口に入れた。チラチラと私の様子をうかがっていたカナは、通話しながらこちらに近づいて来て、ちょうだいと言うように手を出した。私が残りの二粒をそこに置くと「ちょっと待ってください」と通話口から顔を離す。苺を一粒口に放り込んだ。
「あのさ」
 少々酸っぱく感じられたその苺をカナは真顔で食べていて、おいしいのかおいしくないのかも伝わってこなかった。彼の、喉仏が動く。
「美鳥さん、カフェソラヘのあった場所、一緒に見に行く? テナント物件で何があるわけでもないけど」
 カナの口にした言葉の意味が咄嗟に理解できず首をかしげた。それ以上の説明を加えることなく、カナは悩ましげに唸ったあと、スマートフォンをふたたび耳に当てて視線をそらす。
 端末の向こう側にいるのは槇村さん。彼と、テナントを募集しているらしい『Cafeソラヘ』のあった場所、そしてカナ。その物件を見に行くのが仕事だというのは見当がつくけれど、どうしてそこに私が関わるのか、そこで思考は行き詰まった。
「槇村さん。俺も行くんで時間が決まったら教えてください。現地集合で」
 カナは何度か相槌をうったあとその電話を切った。複雑な顔つきで手に残っていた苺をほおばり、「すっぱ」と眉を寄せる。
「カナ。ソラヘに行くの?」
「うん。借りないかって話が来てるんだ」
 私はうまく次の言葉が見つけられず、へえ、と間の抜けた声を出した。
「美鳥さん、一緒に見に行く?」
 ようやくこちらに視線を向けたカナは、自分で誘っておきながら断ってほしそうだった。
 今さら空っぽになった『Cafeソラヘ』を見たところで何も変わりはしない。それでも、あっさりと誘いを断ることができなかった。そこに何かしら変わるきっかけがあるような気がしたのは、興味と同時に拒絶を感じたからだ。あの場所への拒絶。正面から向き合うことで、私を縛ってきた過去の記憶から解放されるのではないかと、そんな考えが頭を過った。
「部外者の私が行っても意味ないし、邪魔になるだけだよ」
 その言葉は言い訳ではなく、自分に言い聞かせるためのものだった。はっきりと説明できない曖昧な理由で図々しく押しかけて、槇村さんやカナに迷惑をかけるわけにはいかない。実際にその場所を訪れて、以前槇村さんの前で見せたような、あんな情けない姿を再び晒すことにならないとも限らない。
 少し心を突かれるだけで、カナの前でも簡単に涙を流してしまう。立ち向かう勇気がほしいのに、立ち向かうことから逃げる理由を探し、思考は行ったり来たりを繰り返すばかりだ。
 潮の匂いがした。背後から吹き抜けた風で髪が頬をなで、アスファルトの上を砂が音もなく流れていった。伏した視線の先で砂の行方を追い、カナのスニーカーに目がとまった。
「槇村さんの知り合いに、そのテナントに興味持ってる人がいるんだって。その人も来るらしいんだ。槇村さんは立地がイマイチだからってあまり借りる気はないみたいだし、だから俺も部外者みたいなもんだよ」
「カナは、どうしてソラヘに行きたいの?」
「なんとなく。美鳥さんが働いてた場所だし、営業してたときに入ったことはあるんだけど、厨房までは見てないから興味があって。二、三日前に槇村さんから話を聞いたとき、見に行くなら俺も行きたいって、冗談半分で言ったんだ」
 私とユウジの間であったことを、タマはどんな風にカナに伝えたのだろう。もしカナがそれを知らなければ、カナはCafeソラヘに行きたい思っただろうか。
 私も行こうかな。喉元まで出かかっていたけれど、それが言葉になることはなかった。「美鳥さんも行く?」ではなく、「行こう」と強引に手を引かれるのを待っている。私が行きたいって言ったんじゃない、無理やり連れて来られただけ、そんな理由が欲しくて私は自分から言い出せないでいる。黙り込んだ私に、カナが期待した言葉を口にすることはなかった。
「やっぱり、行きたくないよね。俺も行くのやめることにする」
 今の会話も槇村さんからの電話も、何もなかったように「帰ろう」とカナは笑った。開けっ放しにしていたバックドアを、気持ちの区切りをつけるようにバタンと勢いよく閉める。カナが飲み込んだ感情はなんだろう。
「行く」
 自分の声だった。
 その言葉が引き金となり、脳裏に蘇ったあの場所での出来事と、あのときの感覚に全身が過去に埋もれた。溺れてしまいそうだ。
 カナの口元に笑みはない。そして、真顔で一歩私に近づいた。
 ――怒られる。
 グラリと視界が歪み、目の前のカナが誰か知らない人のように思えた。
 どうして緊張しているのか、何が怖いのか分からないまま、不安だけが急速に膨れ上がり上手く息が吸えず、自分の呼吸音で頭がいっぱいになり、視界が端から暗く閉じてゆく。
 すいません。
 すいません。
 ごめんなさい。
 ガンッという音は一ノ瀬さんが椅子を蹴り飛ばした音、掠めたのは槇村さんの唇、ユウジ、ユウジ先輩は「ね」って笑ってお調子者で、サチの手をわたしは無視して、突き飛ばすつもりなんて、つもりなんてなかった。よしりんごめんなさい。オマエナニサマノツモリ?
 笑顔、笑顔、笑顔えがおえがお――。
「美鳥さん、大丈夫?」
 ふわりと耳が包まれた。
 頬にかかるのはカナのお気に入りの癖っ毛。もみじのような小さな手でギュッと掴み、
「美鳥さん、平気?」
 ぴーたん、と舌足らずな声で私を呼んだカナ。美鳥と口にしたのは声変わりする前のカナ。
「うん、平気。ごめんね」
 ジャリと、砂の音がした。
 自分の呼吸の合間に波の音が聞こえ、握りしめていた両手の力を緩めた。縋りつくように掴んでいたのがカナのパーカーだと気づき、うつむいた視線の先にカナのスニーカーがあった。
「よかった」
 耳元で聞こえたカナの声、その吐息で髪が揺れた。私が体をあずけているのはカナの胸だ。汗とココナッツと潮の匂いが混じり、不意に足の力が抜けてペタリと地面にお尻をついた。慌ててカナが掴んだ私の手、その指先は震えていたかもしれない。カナは自分の支えが必要ないと知ると、そっと手を離した。
 カナの大きなスニーカーの、片方の蝶々結びが緩んでいた。無意識に手を伸ばし、震える指でその紐を結んだ。カナはその場にしゃがみ込み、「ありがと」と蝶々結びの羽を引っ張ってギュッと固く縛る。私の隣に腰をおろし、ぎこちない沈黙を埋めるように咳払いをした。
「……俺のこと、怖い?」
 返事をすることができず、スニーカーの紐を意味なく弄るカナの指先を見つめていた。小さなため息が聞こえる。カナはずっと私を見ているようだった。
「小さい頃に戻れたらいいのに。ね、ぴーちゃん」
 寂しげな声に、私は無意識に顔をあげた。そこにあるのは海辺で見せた無邪気な笑顔ではなく、普段のカナの笑顔とも違い、私が思い出したのは「またね、美鳥」そう言った、小学六年生のカナだった。
『ずうっと無理させてたんだなぁって』そう言った妙子さんの顔が頭を掠めた。
「かなで」
 カナの返事はなかった。もう一度「奏」と口にしてその目を見つめた。怖いわけではなく、悲しいわけでもないのに、涙が出そうになった。
「美鳥さんは、俺にどうしてほしいの?」
 拗ねて甘える小さなカナ、そんな口調で、けれど私を気遣うようにひそめた眉は大人のカナ。ずっと押し込めてきたカナの色んな顔がぐちゃぐちゃに混ざり合い、きっとそれは全部本当のカナだった。
「平気なフリ、しないで」
「それは、美鳥さんでしょ?」
 カナは笑おうとしたけれど笑顔にならず、自分の膝と膝のあいだに頭をうずめた。
「平気じゃない。平気じゃないよ、全然」
 絞り出すように言って、躊躇いがちに顔をあげる。靴紐を握りしめていた彼の手が不意に持ち上がり、私は無意識に体を引いていた。
「ほら、ね」
 カナは私に触れようとしていたその手を引っ込め、ギュッとこぶしを握り締めた。
「美鳥さんに触りたい。抱きしめたい。でもできない」
 感情のこもらない棒読みで、カナはそのまま一人で立ち上がろうとしたけれど、私がその腕を掴んだ。掴んだというよりも触ったというくらいのわずかな力で、カナは「立てる?」と笑みとも言えない笑みを浮かべ、手をぐいと引いて私の体を起こした。地面がふわふわと頼りなく、潮風の匂いでほんの少しだけ気持ちがシャンとする。カナは私の手を握ったままでいた。
「槇村さんは、美鳥さんに何か言った?」
「ユウジが――、岸本さんが新しい店をするって」
「それだけ?」
 私は口ごもり、カナは手を離そうとしたのか力が一瞬緩んだけれど、思い直したように強く私の手を握りしめた。
「ソラヘに誘ったのは、俺のほうが美鳥さんの近くにいるんだって、槇村さんに見せつけたかったのかもしれない。美鳥さんも連れて行っていいですかって、そうやって言いたかっただけなんだ、たぶん」
 カナはじっと自分の足元を見つめていた。

触れたい

 波の音が聞こえる。昼前に来たときには十台ほど車が停まっていたけれど、今はカナのワンボックスカーと私のハイトワゴン、入り口近くに軽トラックが一台あるだけだった。
「幻滅した?」
 そう言ったカナの手は私の手から離れ、パーカーのポケットへと逃げ込んでしまう。そこからチロルチョコレートが出てくることはなかった。
「幻滅なんて、しないけど……」
 カナは私のこと好きなの? 友達じゃなくて、弟じゃなくて、恋人になりしたいの?
 その疑問を口にすることはできない。たった一言で、今の不安定なつながりは容易く切れてしまう。私とカナの関係だけでなく、槇村さんをも巻き込んで。だから何も追わないでいる。けれど、カナはきっと関係を壊してしまうつもりだった。
「美鳥さん、ソラヘに行きたいのって槇村さんも行くから?」
「え……?」
「美鳥さんは槇村さんのこと好き? 怖い?」
 好き。怖い。そのふたつの言葉が並べられたのが不思議だった。好きと怖さは同時に存在できる、そのことを私は知っている。あのころ、ユウジのことが好きだった。そして怖かった。
「ソラヘと槇村さんは関係ない。カナはそんなこと聞いてどうするの?」
「たぶん、槇村さんは美鳥さんのこと好きなんだ。はっきり聞いたわけじゃないけど、美鳥さんのことを気にかけてる。美鳥さん一人で店するの大変だろうなとか、がんばってるなとか。岡井さんに鳥の巣さんは繁盛してるのって聞いたりね」
 それに、とカナは一拍おいて、口元に笑みをつくった。それは大人ぶるための仮面の笑みだ。
「美鳥さんには恋人がいるのかって、槇村さんに聞かれたんだ」
 自分の気持ちは後ろに追いやって、カナは他人事のような口ぶりで槇村さんの話をする。
「私も、聞かれた」
 息を呑み、動揺しているのかカナの口元はピクリと震えた。引きつった笑みはまだ彼の顔に張り付いている。
「美鳥さんは、なんて答えたの?」
「なにも。カナだって私に彼氏いないの知ってるでしょ?」
 カナに腹が立った。
 槇村さんのことを考えると、否が応でも触れた唇の感触を思い出してしまう。それは罪悪感を伴った回想で、自分がそれに対して罪の意識を感じてしまうことが腹立たしくて仕方なかった。強い口調でカナに当ってしまったのは、きっと八つ当たりではなく、カナの態度のせいだ。
「カナは槇村さんのことばっかりで自分のことは言わないのね。私だって簡単に男の人を好きになれるなら、こんなに苦しくない」
「……俺も、言ったよ」
「なにを?」
「美鳥さんに触れたいって。それだけじゃ伝わらない?」
 好き。その言葉を求めているのか聞きたくないのか、自分でも分からなくなった。確かな言葉がないと、それは全て勘違いのような気がする。
 カナに触れたいと思った瞬間があった。カナに抱きしめてほしいと思った瞬間があった。でも、私はカナへの気持ちを「好き」という言葉で括ることができないでいる。
 ――美鳥ちゃんは考えすぎよ。
 祖母の言葉を思い出していた。
「触ったじゃない。おばあちゃんちで」
「うん。だから……」
 触れても大丈夫な気もしたし、また目眩を起こしそうにも思えた。祖母の家で肩に触れたカナの手。優しく温かい手。けれどそれに縋って安易に受け入れてしまうのが怖い。
 私が恐れているのはカナではなく、繋がりを自分が壊してしまうこと。弱くて情けない自分を晒して、カナや槇村さんの期待を裏切り、愛想をつかされてしまうことが怖くて仕方ないのだ。
 カナはポケットから出した手で私の腕を引き寄せ、私は引かれるままに彼に一歩近づいた。恐る恐るといった様子で背中にまわされた手は、壊れ物でも触るようにほとんど力が込められることはなかった。
 カナの息遣いが聞こえる。突き放さなかったのは壊したくなかったから、変わりたかったから、温もりを思い出したから。
 じっと身動ぎせずにいると、カナは少しずつ腕に力を込めた。鼓膜が破れてしまいそうなくらいの心臓の音、それがカナの鼓動なのか、自分の心臓なのか、時間がどれくらい経ったのかも分からなかった。時おりジャリと音を立てて、カナのスニーカーが砂を擦る。
 カナの体がわずかに離れ、耳元で「美鳥さん」と囁く声が聞こえた。見つめ返すことも、顎を引くこともせず、カナの吐息が頬にかかっても私はじっと動かずにいた。キスをしたいとか、したくないとかそういったことではなく、槇村さんが掠めたこの唇に、カナが触れなければならなかった。唇を重ねたカナはきつく私を抱きしめ、私は何かに耐えるようにギュッとカナのパーカーの裾を握りしめていた。なんて不器用なキスなんだろう、そう頭の片隅で自嘲しながら。
「落っこちないように、ぎゅってしないと」
 カナの漏れるような吐息は、笑ったのかもしれない。彼は言葉どおり腕に力を込め、私の癖っ毛に顔を埋めた。
「よくそんなの覚えてるね、カナ」
 浜の方から話し声が近づいてきて、カナは「うん」と頷いて体を離すと、何もなかったように私の隣に立ち空を仰いだ。
「美空ちゃんが話してたの覚えてる。ぴーちゃんは満月になると向こうっ側に落っこちるのが嫌で布団にもぐりこんでくるって。俺、このまえ美空ちゃんに失礼なこと言った」
 カナの言う「失礼なこと」に思い当たってつい吹き出した。「何ヶ月目?」というやつだろう。カナとのあいだの空気がわずかに緩んだ。
「お姉ちゃんは結婚して横向きに育ったから。お似合いの夫婦だったでしょ?」
「そうだね。夫婦だけど、友達っていうか、兄弟っていうか。仲良いんだろうね」
「仲良いよ。二人でダイエットするって言ってた」
 ダイエットかあ、とカナは姉夫婦の丸っこい後ろ姿でも思い出しているのか、くすくすと笑っていた。
 砂浜の方から「早くー」と甲高い子どもの声がし、軽い足音が聞こえてくる。幼稚園くらいの男の子が棒きれを片手に持って、パシンパシンと地面を叩きながら駆けて来た。カナが手を振り、その子は足を止めようとしたけれど、後ろから名前を呼ばれてUターンで戻っていく。祖父らしい白髪交じりの男性の姿が見えた。足に絡みついた男の子を「よいしょっ」と抱え上げ、会釈をして軽トラックへと歩いて行く。
 男性の首に腕をまわした男の子が、私たちを見て手を振った。カナは笑顔で手を振り返している。カナの方が先に手を振ったのかもしれないと思いながら私も同じように手を振ると、小さな手はさらに大きく左右に振られ、男性がこちらを振り返ってまた頭を下げた。
 母と同じくらいの年齢だろうか。ふと「孫の顔」という言葉が頭を過った。母がそういったことを口にすることはないけれど、姉には言ったことがあるのかもしれない。
「二人でダイエットして、妊活するんだって」
「ニンカツ?」
「お姉ちゃんと旦那さん。子作りがんばるんだって」
 ニンカツという言葉の響きに比べて、「子作り」は妙に生々しく感じられた。そっか、という小さな相槌で、カナも同じように感じているのではないかと気不味さをおぼえる。
 軽トラックが動き出し、砂埃をあげて駐車場から出ていくと、辺りはまた風音と波音に満たされた。
「槇村さんのほうがいいと思ったんだ」
 前置きのないカナの言葉には、どこか懺悔のような響きがあった。
「槇村さんが美鳥さんを好きなのかもって考えたとき、どうしたらいいか分からなくなった。俺より槇村さんのほうが美鳥さんにとってはいいんじゃないかって、そのときは考えた。美鳥さんといつもの席に座ってお喋りして、それでいいって決めたんだけど、そう決めたら美鳥さんの顔見るのが辛くなって、鳥の巣から足が遠退いた。花と樹のイベントのとき、鳥の巣に俺を呼び出したのは葉室ちゃんなんだ」
「葉室さん、何か……見えたりしたの?」
 中性的な、はにかんだ彼女の姿が蘇る。あのとき彼女は私の「色」が見えたのだろうか。どす黒い、魔女の鍋のようなドロドロした色でなければいい。カナは首を左右に振った。
「こっちが聞かない限り葉室ちゃんは何も言わない。彼女が見てるのは気配の色みたいなもの、色が見えなくても表情とか、声とか、そういうもので感じられるんじゃないかっていうのが彼女の持論なんだ。でも、葉室ちゃんに呼び出されたからには行ったほうがいいんだろうなって。行くきっかけを待ってた気もする。あのとき、独りよがりはダメですよって彼女に言われたんだ。美鳥さんの店のことに勝手に手を出したこともそうなんだけど、それだけじゃなかったんだと思う」
 着信音が鳴り、カナがポケットを探ってスマートフォンを取り出した。画面をじっと見つめ、鳴り続ける音をそのままに私に視線を向ける。
「美鳥さんの気持ちも聞いてないのに、俺よりも槇村さんのほうが合ってるなんて、俺が決めることじゃなかった。勝手に美鳥さんと距離をおいたって、美鳥さんが槇村さんを選ぶとは限らないわけだし」
 手元の画面に視線を落としたカナは、「槇村さんは俺にとって特別なんだ」と淋しげな声で言い、タイミングを図ったように着信音が途切れた。

空へ

 カナと槇村さんの時間を思った。槇村さんと出会ってからカナは変わったと話していた妙子さん、「槇村さんは特別」というカナの言葉。
 カナは小さく溜息を吐いた。
「志の無で働きはじめた頃、まわりばっか見てないでちゃんと自分と向き合えって言われたんだ。何がやりたいのか、何に興味があるのか、自分がどう感じてるのか。他人の言葉や感覚にのっかって喋るやつとは話してもつまらないって」
 言葉が胸に刺さった。何をどう感じているのか、ずっと私の頭のなかはぐちゃぐちゃだ。槇村さんがどうして私に手を差しのべてくれるのか、妥協ばかりの中途半端な喫茶店に引きこもっているだけの私は、彼にとってはつまらない人間のはずだった。
「一人で模索してる美鳥さんに、槇村さんは惹かれたんじゃないかって思うんだ」
 私の心のうちを見透かしたようにカナが言った。
「俺は槇村さんとは違うし、経営者がどんな気持ちでいるのか分からない。槇村さんも、従業員に話せないことを美鳥さんになら話せるのかもしれない。でも、何か違うって思ったんだ。その関係と、俺とは別物なんだ」
 美鳥さんは、とそこで言葉が途切れ、私が視線を向けるとカナはじっと私を見つめていた。決意のようにも、救いを求めているようにも見えるその眼差しは、私がずっと昔から知っているカナだった。
「美鳥さんは、今も一人のままがいいと思ってる? 恋人は必要ない?」
 恋人なんかいらない、恋人との時間よりも疲れた体を休める時間が欲しい、ずっとそんな風に言って男の人と距離をおく自分を正当化してきた。
「……分からない」
 手を伸ばしたかった。穴の底から輝く月に向かって、その先の新しい世界に。
「カナ……」
 口にした瞬間、着信音が鳴り響いた。ビクリと肩をすくめた私に苦笑し、カナは画面を確認する。
「槇村さんだ」
「カナ、出ていいよ」
 スマートフォンに顔を向けたまま、カナはちらりと私の表情をうかがった。
「美鳥さん、ソラヘに行く?」
「……行きたい。連れてって、カナ」
 真顔で頷いたカナは、ひとつ息を吐いてスマートフォンの上で指を滑らせた。
「もしもし、槇村さん?」
 カナは何度か相槌をうったあと、美鳥さんも連れて行っていいですかと口にした。「一緒です」と言ったのは、私と一緒にいるという意味だろう。ちらりちらりと私の顔を確認しながら「ええ」「はい」と、カナは槇村さんの話に耳を傾け、その顔は次第に曇っていった。そして、「分かりました」と私にスマートフォンを差し出した。
「代わってって」
 躊躇いながらそのスマートフォンを受けとり、もしもしと口にする。
「美鳥さん?」と穏やかな声が返ってきた。そこには意図して穏やかさを保っているような気配が感じられ、電話の相手が私を心配しているのは明らかだった。いや、もしかしたら、そこに隠されているのはもっと違う感情なのかもしれない。私とカナが一緒にいたことを彼はどう思っているのか。
「こんにちは」と答えると小さな吐息が聞こえた。安堵の溜息か、呆れているのか、緊張が正常な判断を鈍らせる。
『美鳥さん、ソラへのあった場所、本当に行きたいんですか?』
「……はい」
『大丈夫ですか? この前のことがあるから心配で。奏が安易に誘ったんじゃないかと思って。無理しないで下さい。今は誰も借りていない空っぽの場所です。移転とかを考えてるわけじゃないなら行く意味ないですよ』
「やっぱり、迷惑ですか?」
 自分の発した言葉が思いのほか強い口調だったことに驚き、槇村さんが怯んだのが分かった。
『迷惑なんてことはありません。心配なだけで。でも、行きたい理由を聞かせてもらえませんか?』
 恐怖を思い出して傷つきたがっているのか、終わったと確認したいのか。唐突にもう店には来なくていいとユウジに言われ、解放の安堵と、屈辱と、怒りがあった。鬱屈したエネルギーが背中を押し、自分で店をしようと思ったあの気持ちを再現して、知りたいのだ。
 私は――この仕事が好き?
 何のために店をしてるのか、どんな店をしたかったのか。ユウジを、一ノ瀬さんを見返してやりたいと、怒りを原動力に足を踏み出し進んできたけれど、私は何かを見失ってしまった。
 ユウジと関わらなければ自分で店をしようと思わなかったかもしれない。店をしたいと夢見がちに妄想しても、それを実行に移すだけの強い決意はできなかったかもしれない。
「確認したいことがあるんです」
『何か確認したいなら言ってくれたらいい。俺が見てきます』
「そういうことじゃないんです。自分の気持ちの問題だから」
『岸本さんに、未練……とかですか?』
「それはありません」
 きっぱりと言い切ると、そうですかと安心したような声が聞こえた。
「色々踏ん切りをつけたいんです。あの場所に行くことに意味があるのか私にも分かりません。でも今行かないと、あの場所を見ておかないと、自分がただ流されてるだけのようで」
 沈黙があり、そのあいだに私は三度息を吸って吐いた。意識してゆっくりと、まっすぐに伸びてゆく飛行機雲を目で追いながら。
『美鳥さん、もうひとつ聞いていいですか?』
「はい」
『奏がついて来なくても、美鳥さんはソラヘに行きたいですか? 例えば、俺と二人で行くとしたら』
 きゅっと心臓を掴まれたようだった。空を割いた飛行機雲はじわじわと滲んで広がっていく。カナの顔を見ることはできなかった。
「……行けないかも、しれません」
 溜息が耳に届いた。そのあと深く息を吸う音と、吐く音が聞こえてきた。
 槇村さんは、きっと私が手を伸ばせば力強く握り返してくれるのだろう。想像する彼の隣は眩しすぎて、私は立ちすくんでしまう。頑なに閉じてきた心は簡単に人を信じることを許してくれない。カナとは一緒に過ごしてきた時間が、穏やかな記憶、気遣いや後悔や、共有してきた過去があった。私がまだ人を信じていられた頃の、あたたかな気持ちをちゃんと思い出すことができた。
 カナを利用しているのかもしれない。人を好きになることを怖れて、過去の記憶に縋って、カナの好意と優しさに甘えて、私はリハビリしようとしている。カナなら許してくれる、見捨てないでいてくれる、そんな身勝手な気持ちを自覚しているから、カナへの気持ちを「好き」と括ることができないでいる。
 横目でカナの様子をうかがうと彼はそっぽを向いていて、足元の砂をジャリジャリとスニーカーで擦っていた。聞き耳を立てているのだろうけれど、あえて気にしないふりをしているようだった。私はカナに背を向け、不自然にならないようにゆっくりと歩いて距離をとる。カナはこちらを見ているかもしれない。けれど振り返ることはできない。彼に聞かれないよう小さな声で口にした。
「カナは、弟みたいなものだから」
 じわりと胸に罪悪感が広がった。のらりくらりと曖昧な言葉で結論を先送りにして、時間稼ぎばかりをしている。弟ですか、という槇村さんの言葉は問いかけではなく独り言のようだった。
 槇村さんはこれからも私に近づこうとするだろうか。奏に代わって下さいと言われてスマートフォンをカナの目の前に差し出すと、カナは不安げな顔で受け取ったあと短いやりとりをして電話を切った。その画面をしばらくじっと見つめていた。
「美鳥さん、……岸本さんの話で倒れたって、本当?」
 スマートフォンはポケットにしまったけれど、カナの視線は俯いたままだった。
「そんな大袈裟なものじゃないよ」
「行きたいって気持ちは変わらない?」
「色々見つめ直したいの。今のままじゃだめだって思うから」
 面倒な性格でごめんね、と言うとカナはそれ以上は何も聞いてはこなかった。「四時半に迎えに行くから、またあとで」と有無を言わせず自分の車の運転席に乗り込んでしまう。手を振って車を発進させたカナのワンボックスカーを追うように、駐車場を出た。
 海岸沿いの国道を走る車内には、葱の匂いに混じって少しだけ苺の香りがしていた。大学前の赤信号で止まると小さな駅舎が見える。『居酒屋志の無』はたしかこの近くだった。
 バラバラと横断歩道を渡る人波のなかに葉室さんの姿があった。私に気づくことなく横断歩道を渡りきると、歩道をタタッと小走りに駆けていく。振り返って様子を見ていると、ふと何かに気づいたように彼女がこちらに目を向けた。
 ピッ、とクラクションを鳴らされて、慌てて車を発信させる。フロントガラスにパラパラと雨粒が落ちて、サアッとあたり一面が霞んだ。鞄を頭の上に掲げて、跳ねる泥も構わずに走る人々をからかうように唐突に雨は上がり、目の前の陸橋の向こうにはぼんやりと虹が掛かっていた。ワイパーを止めたフロントガラスに、どこかからポタリと雫が落ちて筋を作る。
 虹は山に掛かるようにくっきりと半円を描いた。墓地があるあの虹のはじまりの場所から、父は今どんな風に私のことを見ているのだろう。何度も何度も同じような失敗を繰り返し、次こそはと無理やり理由を見つけて突き進んできた。ぺしゃんこになって、踏みつけにされて、ひたすらにそれを隠して。
「よしりん、私また約束やぶっちゃうけど、もう謝らないから」
 口に出して呟くと、少しだけ気持ちが軽くなった。
 

タイムスリップ

 バタンと車のドアが閉まる音がして窓の外をのぞき込んだ。門の前にはワンボックスカーが停まっていて、階下からは話し声が聞こえてくる。着いたら電話をしてくるものだとスマートフォンの傍らで待ち構えていた私は、慌てて鞄を手にとり、軽く髪を整えて部屋を出た。
 庭先で土いじりをしていた母と一緒に入ってきたのだろう。母の笑い声とカナの話し声がする。階段を降りていくと微かに線香の匂いがし、二人がどこにいるのか想像がついた。
 奥の間の襖は開け放してあり、部屋をのぞくと母とカナは仏壇の前で手を合わせていた。私の気配に気づいたカナは胸の前で合わせた手をそのままに、閉じていた瞼をあけて私に顔を向けた。
「お邪魔してます」
 その言葉の響きがこそばゆく、私は襖に手をかけたまま笑みを噛み殺した。
「すぐ出なきゃ行けないんでしょ?」
「うん。残念ながら」
 カナは時計を確認するまでもなくそう言い、隣に座る母は「ざんねーん」と肩を落とす。
「カナ君、またいつでも寄ってね。私も今度カナ君のお店に食べに行くから」
 ふと思いついたように「妙子さんと行こうかな」と母が口にすると、カナは一瞬「え」と微妙な顔つきをしたけれど、色々思うところを押し込めて「ぜひ来て下さい」と母に笑いかけた。
 カナと妙子さんと、私の母と、Origin(オリジン)の人たち。時とともに繋がりあい、絡み合い、ともすればこんがらがってしまいそうな糸は少しずつ、確実に関わる人を増やしていく。向けられる好意をプレッシャーではなく力に変えて強くなりたいと、今のカナを見てそんな風に思った。
 玄関で腰をおろしてスニーカーの紐を結び、傍らに立つカナを見上げようとしてやめた。頭では大丈夫だと分かっているのに、男性から見下ろされることに体は勝手に反応する。体内ではどんな物質が分泌されているのか、身が竦みそうになるこの感覚を呪った。カナは悪くない。そしてきっと、――わたしも悪くない。
 何かに気づいたように、カナが下駄箱の脇にしゃがみこんだ。
「この傷、俺が作った」
 カナは下駄箱の端にある引っ掻いたような傷を指し、その塗装のはげた部分を愛おしそうに指でなぞる。
「虫取り網か何かぶつけちゃって、怒られるってヒヤヒヤした記憶がある」
「怒られたの?」私が問うと、覚えてないとカナは肩をすくめた。立ち上がり玄関を出ようとすると、「待って」と母の声に呼び止められ、振り返るとそこには姉と瓜二つの企むような笑みがある。
「忘れ物。はい、どうぞ」
 目の前に差し出された母の手のひらには、左右に一つずつコーヒーヌガーのチロルチョコレートがのっていた。ちらりと横目でカナを見る。屈託ない笑顔で彼はそのチョコレートを受けとり、その場で包みを開けて口に入れた。きっと、彼のパーカーのポケットにはチロルチョコレートが入っている。そんなことを考えながら私も包みをあけ、その表面に凹凸で描かれた飛行機を確認して口に放り込んだ。
 苦ぁい、苦ぁい、オトナの味。小さいころ姉はそんな風に言っていた。
 コーヒーの香りは苦味よりも深味を感じさせ、あのころ口から吐き出してしまうほどにその香りを嫌ったカナは、私の隣でおいしそうにチョコレートを食べている。あのときと同じこの家で。下駄箱を開ければまだ父の靴は数足残されていて、母が手入れをしているのか、革靴はまだその持ち主が生きているかのように当たり前にそこにある。
「いってらっしゃい」
 助手席の窓を開け、門の前で見送る母に「行ってきます」と手を振ると、カナも同じように「行ってきます」と口にした。鳥の巣へと続くいつもの道を途中で外れ、大通りの一本手前の道を駅方面に向かって走った。途中で左折して川沿いをまっすぐに進む道は、春になると川の両脇に延々と続く桜並木がピンク色の帯を作り、花見スポットとしてローカルガイドブックにも載る。一方通行のその道は、ユウジの店への通勤路だった。新緑の桜並木は、サワサワとその葉を揺らしている。
「この道通るの、久しぶり」
 少しずつ高まる緊張をごまかすように、私はそう口にした。
「来年の春は花見に来ようよ。そういえば花火大会の隠れスポットらしいよ、ここ」
 明日の遠足の話でもするように、楽しそうにカナが喋る。何のあてもなかった未来に、小さなあかりが灯った気がした。
 信号を抜けて高架をくぐり、あの頃よく立ち寄った小さな本屋が見え、唾を飲み込もうとして緊張で口の中が渇いていることに気づいた。本屋の手前の交差点で車は止まる。信号が青に変われば、目的地はもうすぐそこだ。
「美鳥さん、平気?」
 徐々に口数の減った私に、カナは何か感じたようだった。信号が青に変わって車は交差点を中央まで進み、対向車線の流れが切れるのを待っている。いつまでも途切れない車の流れは、神様から与えられた束の間の猶予。目の前を走り抜ける車から視線をこちらに向けたカナは、「行くのやめる?」と問いかけた。
「……やめない。これ以上自分のこと嫌いになりたくない」
 信号が赤になり、右折の矢印が点る。車はゆっくりと右へ曲がって、目の前にあらわれた懐かしい路地の景色に、タイムスリップしたような不思議な感覚があった。色あせた写真のように、この目に映るのが現実だという実感がない。
「俺は、美鳥さんが笑っててくれたらそれでいい」
 過去に囚われかけた心が、カナの声で引き戻される。カナを見つめ、その肩越しに見える街並み。それは猫浜で潮風を受けたときに見たような、澱の浄化されたクリアな視界だった。
「美鳥さんは考えすぎって、おばあちゃんも言ってたじゃない。りっちゃんみたいにのほほんとしてたらいいの」
 俺が言うなって、とカナは自分でツッコミを入れて笑った。
「りっちゃんって、本人の前でもそう呼ぶつもりなの?」
 さあ? とカナはおどけてみせる。それからクイッと顎をあげて、「槇村さんたちもう来てるみたいだ」と道の先に私の視線を誘った。
 サチの使っていた契約駐車場には年季の入ったセダンが停まっていて、いつも出入りしていた裏の駐車場は(あるじ)を失いガランと口をあけていた。伸び放題だったアイビーは誰が刈ったのか跡形もなくなくなり、その植込みには玉砂利が敷き詰められている。業務用の大きなゴミ箱はすでになく、壁際には誰のものか一台のロードバイクが置かれていた。
 カナは正面の駐車場に車を乗り入れ、そこには不動産屋の軽自動車と、その向こうに赤いミニクーパーが停まっていた。
「葉室ちゃんの車で来たんだ」
 カナは独り言をつぶやき、エンジンを切って「行こう」と私を見た。正面から突っ込んで駐車したフロントガラス越しの景色、それは私の知っているあの店ではなかった。岡井さんが改装したと言っていたのを思い出した。
 最初にここを訪れたのは深夜。輝く月は建物の向こうに姿を隠し、ユウジの城はシルエットだけを浮かび上がらせていた。見上げた屋根のラインは中央が飛び出すように三角で、あのとき闇に霞んだ小窓もまだそこにある。もし夜に訪れていたのなら、私はたしかに『Cafeソラヘ』に来たのだと実感したはずだ。
 一階の左手にウッドデッキ、数段のステップの脇には車いす用のスロープ。なにもかもがそのままで、けれどあの頃住宅地のなかで妙に浮いていたナチュラルな木目は、すべて真っ白に塗装されていた。それだけで、『Cafeソラヘ』は『Cafeソラヘ』でなくなってしまった。
 助手席に座ったまま呆然と建物を見つめる私に、カナはもう一度声をかけた。
「行ける?」
 彼は車から降りていて、ドアを開けたまま心配そうに私を見つめる。カナの背後に見えるはずの看板は、のっぺりとした木の板だけが残され、文字を剥がしたような痕が過去に存在した店の名前を伝えている。その看板の残骸すら私の記憶にはないものだった。
 カナは焦れたように運転席に乗り込み、「美鳥さん」と、どこかから呼び戻すように私の名前を呼んだ。
「美鳥さん。やっぱり、やめとく?」
 さっきより強くなったカナの声に、さまよっていた私の視線はようやく彼の顔の上で焦点を結んだ。
「なんだろ、この店」
 私の声は、自分で聞いていてもずいぶん間抜けな響きだった。カナは不思議そうに首を傾げ、「どういう意味」と問いかけてきたけれど、その答えが見つかる気がしない。
「奏」
 視界の端でエントランスのドアが開いた。聞こえたのは槇村さんの声だ。彼はウッドデッキの手すりに両手をかけてこちらを見ていた。傍らには葉室さんの姿があり、その後ろには首からIDケースをぶら下げたスーツ姿の男性が立っている。

からっぽ

 運転席から慌てて降りたカナは、「行こう」と言ってバタンとドアを閉めた。窓越しに手招きし、私は観念するというよりも混乱したままカナに身を委ねるような気持ちで助手席のドアを開けた。
 トン、と地面に足をついて顔をあげる。道路の向こうにある家並みは以前と変わらず、ひと昔前のデザインを思わせる建売住宅がくたびれた雰囲気を漂わせている。ぐるっとその様子を見回して、最後に元『Cafeソラヘ』のウッドデッキで視線をとめた。こんにちはと私が会釈すると、槇村さんは「お疲れさま」と柔らかな笑みを浮かべる。葉室さんのはにかんだ笑顔は以前会ったときと同じだった。
「二人とも、もう中は見たんですか」
 カナは階段の途中で足を止め、槇村さんは「ああ」と短く返事をした。交錯する彼らの視線に一体どんな感情が込められているのか、カナが相槌ばかりうっていた猫浜での槇村さんとのやりとりを、私は根掘り葉掘り聞くこともできずそのままにしていた。不動産屋の男性はガラス越しに中の様子をうかがっている。
「井戸田さんがまだ中にいるので、奏さんと美鳥さんも一緒に見てきて下さい。それでいいですよね、槇村さん」
 葉室さんはそれ以外の選択肢があるんですか、とでも言うように槇村さんの顔を見た。二人の目があった瞬間、特に強張っていたわけでもない槇村さんの顔が、どこをどう緩めたのかも分からないけれどふっと和らいだ。諦めなのか、信頼なのか、その両方なのか。「葉室には敵わん」ということなのだろう。二人のあいだには雇用主と従業員という契約上の関係を越えて、より深いつながりがあるように思えた。胸にわずかな引っ掛かりを覚えたのは、羨ましかったのかもしれない。『まいどカンパニー』にしろ『Cafeソラヘ』にしろ、私と雇用主のあいだにあったのは信頼などではなかった。自分の過去を思い、ふと頭に浮かんだ懐かしい顔と、葉室さんの言葉が結び付く。
「あの、井戸田さんって……」
 ああ、と槇村さんが口を開いた。
「井戸田君って知り合いのカフェバーで働いてる子なんですけど、ここで長いあいだ働いてたって言ってたから、美鳥さん、やっぱり知ってる?」
 記憶をたどり井戸田君の勤めていたカフェバーの名前を口にすると、槇村さんは「そこです」とうなずき、再会シーンでも期待するように後ろを振り返った。けれど、まだ井戸田君があらわれる気配はない。驚きはあったけれど、素直に会いたいと思った。彼は本当にこの場所を借りるのだろうか。彼にとってここはどんな場所なのか。
「井戸田君ここで働いてたんですか? 美鳥さん知り合い?」
 驚きぶりでいえば、私よりカナのほうが上だった。見開いた目を私に向け、そして不意に眉をよせる。
「美鳥さん、平気?」
 何を心配しているのか分からず首をかしげると、彼はそれで安心したようだった。ようやくカナが何を心配したのか思い至り言葉に詰まる。カナをこんなにも心配性にさせているのは私だ。
「大丈夫ですよ、ね」
 沈黙が空気を止めるまえに口を開いたのは葉室さんだった。
「井戸田さんはいい人だから」
 ぼんやりと、彼女が井戸田君に感じた色が見えた気がした。それは赤青黄色というようなはっきりとした色では思い浮かばないけれど、私が知っている井戸田君のまとう雰囲気や、言葉や表情からにじみ出る優しさを、きっと葉室さんは色で感じたのだ。
「大丈夫。井戸田君がいたから……」
 気持ちがゆるみ、ここであった諸々の出来事をすべて吐露しそうになった。けれど、自分の立場に気づいて口をつぐむ。
 槇村さんも葉室さんもこのあと仕事があり、カナも私を家に送ったあと志の無に行かなければならない。借りもしないのに店内を見たいというだけの私が、これ以上彼らの足を止めるわけにはいかなかった。
「この場所はもう、空っぽですよ」
 まっすぐに私を見た葉室さんのすぐ後ろで、不動産屋の男性が怪訝な顔をしていた。今さら空っぽもないだろう、ということなのか。
 槇村さん行きましょう、と葉室さんは有無を言わせぬ口調で言い、先に立って駐車場へと階段をおりて行く。槇村さんはカナの前で足を止めた。
「葉室と一緒に周辺見て来る。戻ったら中に声かけるから……」
 言葉の途中で槇村さんはちらりと私に視線を向けた。そして「よろしく」とカナの腕を叩き、私には「無理しないで下さい」と半分困り顔で微笑んだ。彼の寛容さはどこから来るのだろう。優しさを向けられるほどに、迷惑をかけたくなくて距離をおきたくなる。嫌いではないのに離れたい、嫌われてもいいと投げやりでいられる相手の方が近くにいられるというジレンマ。
 きょろきょろと周囲を見回しながら、二人は建物沿いにゆっくりと歩いていった。
「行こうか」
 声をかけられて振り向くと、心なしかカナの顔が強ばっているように見えた。「ご案内しましょうか」と言う男性の営業スマイルをやんわりと断り、二人で店のなかに入る。狭苦しかったはずの風除室が記憶よりも広く感じられたのは、傘立てがなくなっているせいだ。そこと店内を仕切る扉は営業中はたいてい開け放していて、私はこの場所で色んな人を出迎え、そして見送った。そのほとんどはお客様だったけれど、うみねこ銀行の田宮さんや、ユウジのお兄さんともこの場所で言葉を交わした。
 扉のノブにカナが手をかけた。
「カナ、緊張してる?」
 その背に声をかけると、ちょっとね、と返ってきた。
「槇村さんによろしくって言われたから。責任重大」
 槇村さんに頼れないことをカナに頼れるのは、どこか覚悟のようなものがあるからかもしれない。カナに嫌われたくはないけれど、カナに傷つけられるのならそれはそれでいい。そんな気持ちがあった。
 ギィ、と古びた音をたてて扉が開く。カナの後ろに隠れるように、私は店内に足を踏み入れた。カナの背中からゆっくりと視線を店内へと移すと、入ってすぐ左にあったはずのカウンターとテーブル席はなくなり、そのスペース自体が四分の一ほどの広さになっている。どうやら、壁で仕切られた向こうに作業スペースがあるようだった。
「俺が前に来たときと造りは変わってないみたい」
 カナはそう言って、私が初めて見る奥の部屋へと足を向ける。
「ここらへんにショーケースがあってケーキ売ってた。あまり種類はなかったけどね。それとここに棚があって、それは焼き菓子。で、この奥でケーキ作ってたんじゃないかな」
 入り口の引き戸は開け放たれていて、カナの後をついて入ったその部屋は全くのがらんどうだった。打ちっぱなしのコンクリートに配管が剥き出しになっていて、ぼんやりと歩いていると、床から突き出たガス管につまづいた。さらに奥に物置らしい小さな部屋があったけれど、そこも同じように何も置かれていなかった。
「当たり前だけど、何もないね」
 ぐるりと壁伝いに一周し、もと来た場所へと引き返すカナの背中を追って部屋を出る。その瞬間、視界が揺れた。目眩はすぐに回復し、けれど私のわずかな変化にカナは気づいたようだった。
 あの頃と同じ景色、テーブルや椅子は存在しないけれどメニュー用の黒板だけが取り残されたように壁にかかったままで、レジのあった場所にはあの頃も使っていた台があり、その脇の通路の奥には「家」へ続くあの扉がある。
「……カナ」
 名前を呼んだのは無意識だった。自分が立っているのは過去ではなく今なのだと、そう確認したかったのかもしれない。
 カナは足を止め、私の視界を塞ぐように正面に立った。
「美鳥さん、無理しなくていいよ」
 無理なのだろうか。自問しながら握りしめた両手は緊張で汗ばんでいた。
 カナはただ私の返答を待っている。
「どっか、掴んでいい? 服とかでいいから」
 握りしめた自分のこぶしを見つめていると、うつむいた視線の先にカナの手が現れた。
「もちろん」
 お姫様の手を取るように手のひらは上に向けられ、私はそこに手を乗せるのを躊躇って袖口をつまんだ。その手をカナの大きな手が包み込む。並んで歩き出すとカナの袖口が捻れ「やっぱり変だよ」と彼は握り心地を直すように手をつないだ。ドクドクと、汗ばんだ手のひらが心臓になったようで、鼓動までもがカナに届いてしまいそうだった。
 一歩進むごとに小さな記憶が蘇ってくる。ひとつ思い出せばその次、そんなふうにして浮かび上がってくる映像に、ユウジの姿はほとんどなかった。彼と一緒に明るい店内で過ごすことがなかったから。
 窓際の席を好んで使っていた女性の二人組や、入り口から近い方がいいからと壁際の席にいつも座っていた足の悪いおばあちゃん。出窓の向こうの景色は変わらぬままで、振り返ると何もなくなった場所に傷だらけの床が見える。
 レジスターの置かれていた場所は、そこだけが日焼けせず濃い色の木目が残っていた。それを横目に短い通路を奥に進むと、左手にあるデシャップ台の奥に厨房があるはずだった。厨房と通路の境目にあるスイングドアはもう視界に入っている。私の足が鈍るのを察して、カナも歩調を緩めた。

揺れる雑草

 通路の奥、その右手に見えるあの扉を開けるつもりはなかった。「家」への扉の向こうには、ほんの少しの、ユウジとの幸せな思い出がある。それは振り返る場所ではない。振り返ってしまえば、きっとその「幸せ」が幻想だったと突きつけられる。
 ユウジのすべてを嫌いにはなりたくなかった。あんなやつ嫌いだと割り切ってしまえる方がこの社会では生きやすいのだろうけれど、たぶん私は「許せない自分」が許せないのだ。器の小ささを認めてしまうようで、格好つけたがりの自分が「好き嫌いはだめよ」と心のなかで囁いている。
 カナは扉の数歩手前で足を止め、確認するように後ろを歩く私を振り返った。
「こっち家になってるんだよね? 入る?」
 私は首を横に振り、束の間その扉を見つめていると、突然ガチャリとその扉が開いた。カナは「おっと」と私の方に体を寄せ、その開いたドアの隙間からは井戸田君が顔を出した。
「あ、奏さん。と、……美鳥さん?」
 久しぶりに見る井戸田君は前より少しふっくらとして、それは美味しいものを作ってくれそうな体つきに見えた。このまま年をとれば、食べるの大好きな洋食屋のオヤジといった雰囲気の。
 驚きで丸く見開かれた彼の目は私を捉えたあと、ふとある一点に注がれた。カナと私の手はつながったままで、反射的に私はその手を離そうしたけれど、カナが力を緩めることはなかった。井戸田君は気づかないふりをして「お久しぶりです」と私に笑いかけ、私は彼の優しさに甘えることにした。
「美鳥さんと奏さんが知り合いだったなんて、驚きです」
 ユウジさんのことはもう大丈夫なんですね――井戸田君の言葉は脳内でそんな風に変換された。どこか安堵したように見える彼の表情のせいかもしれない。
 私たちを案内するように、井戸田君はスイングドアを押し開けて厨房へと足を踏み入れた。打ちっぱなしのコンクリートのそこかしこに染みのような黒ずんだ箇所はあったけれど、そこには何の気配もなかった。私は自分を囚えていた恐怖の正体を見失い、困惑と、なぜか不安をおぼえた。
「美鳥さん、ここ。フライヤーがあって、こっちがガスレンジ。ここに美鳥さんが立って、俺がこっち。あ、フライパンはここだった」
 井戸田君は一人楽しそうにパントマイムを披露している。
 自分のなかに芽生えた不安、それは束縛から解放されたことへの、寄る辺をなくしたこの身の頼りなさだった。私を突き動かしてきた怒りのエネルギーはすっかり失われてしまい、自らの意思で足を踏み出し、手を伸ばさなければならない。誰のせいにもできない、そんな不安。それは「自由」を手にしたということなのかもしれない。
「ちょっと、見てくる」
 私はカナの手を離し、井戸田君の隣に並んだ。正面には薄汚れた壁、視線を右に動かすと窓があり、その横には裏口のドアがある。擦りガラス越しにぼんやりと緑が映っていた。
 ふと見ると、カナは「家」のドアを開けていた。ドアの隙間から首だけを突っ込んで、きょろきょろと左右をうかがうとすぐに閉めてしまう。それから厨房に入り、ぶらぶらと歩きまわって裏口の前で足を止めた。試しに、といった様子でノブをまわしたけれど開かず、「あ」と呟いてロックを外し、ふたたびノブを回す。ドアは軋んだ音を立て、カナは振り返って手招きすると、そのまま外へ出て行った。
 裏は思った以上にガランとしていた。カーポートから家の玄関のまでスッキリと片付けられ、吹き抜ける風が敷地の奥に植わった枇杷の木を揺らす。空っぽの場所で、ユウジの記憶が次々と浮かびあがって来た。
 強く思い出されるのは『Cafeソラヘ』で過ごした最後の数週間。重い体を引きずって出勤し、この裏口のドアを開けるときの圧迫感と緊張感。そしてユウジと最後に顔を合わせたあの日の、解放感と腹の底から湧き上がる怒り。次々と思い出されるとりとめもない感情は、風で洗い流され虚しさへと変わっていく。
 枇杷が、ザワザワと葉を鳴らした。その枝先には青く小ぶりの実がいくつもついていて、いつだったか五十個ほど収穫したその実をユウジがコンポートにした記憶とともに、果実を煮込むシロップの、白ワインとアニスの香りが蘇った。
 私はきっと、動き出すためのエネルギーが欲しくてここに来たのだ。あの時感じた怒りを思い出して、一歩踏み出す勇気を手に入れたかった。けれど、ここにはもうそんなものはなかった。記憶とともにあの頃の感情は思い出されるけれど、あっという間に消えてしまう。
 うろうろと歩きまわっていた井戸田君が、駐車場の隅に視線を落とした。彼の口元には笑みが浮かんでいる。足元で、膝丈ほどに茎を伸ばしたヒナゲシがゆらゆらと淡い紅色の花をふたつ揺らしていた。
「美鳥さんが辞めたあと、たまに草取りしました。全然気に留めたこともなかったんですけど、美鳥さんがいつも草取りしてたんですね」
 井戸田君はその場にしゃがみ込み、指先で弄ぶようにその花を揺らしたけれど、抜いてしまうことなくまた立ち上がった。
「他にも色々ありました。ソースポットにちゃんと補充してくれてたんだな、とか、冷蔵庫のなかも材料とりやすい場所にあったりとか」
 井戸田君の言葉が、また私を救っている。
「……たいしたことじゃないよ」
「そんなことありません。美鳥さんがいなくなってから気づいても遅いんだけど、俺も気づいたことはやろうって思いました。できてるのか分からないですけど」
 見てくれている、知ってくれている人がいるというのはそれだけで救いになる。指先で目元を拭い、カナの陰に隠れた。
「うれし泣きだよね」
 カナはそんな風に言った。毎日毎日気を張って過ごしていると、ほんの少し優しい言葉をかけられ、気遣いをしてもらうだけで簡単に涙腺は緩んでしまう。
「美鳥さんって、限界超えても我慢しちゃうタイプですよね」
 井戸田君の言葉に、堪らず涙が頬を伝った。今日はずっと泣いてばかりだ。そうして、少しずつ体が軽くなっていく。
「奏さんは、ここでの美鳥さんのこと知ってるんですか?」
 井戸田君の質問に、カナは間をおいて「少しだけ」と答えた。その「少しだけ」がどこまでなのか私にも分からない。井戸田君は「そうですか」とどこか沈痛な溜息をつき、そのあと美鳥さん、と私の名を呼んだ。
「ずっと、謝りたかったんです。美鳥さんに」
 あの頃、と井戸田君は言葉を続けようとしたけれど、カナが「待って」とそれを遮り、私はようやく顔をあげた。
「俺、席外そうか?」
 カナは私の顔をのぞきこみ、それから井戸田君に視線を向ける。彼から戻ってきた眼差しは、その答えを私に委ねているようだった。
「いてくれたらいいよ」
 井戸田君は私の言葉に小さくうなずき、おもむろに口を開いた。 
「ユウジさんのやってたことは、たぶんパワハラだったと思います」

涙の場所

 突然、時間が止まったかのようにカナと井戸田君が会話を止めた。私はふたりの視線の先を追い、駐車場と歩道の境目あたりに立つ槇村さんと目があった。その隣には葉室さんがいる。「あっ」という私の声が合図のように、二人は駐車場に足を踏み入れた。
「それで、井戸田君はその時どうしたの?」
 槇村さんの声にはわずかに批判的な響きがあった。井戸田君はその言葉を受け入れるように肩を落とし、「ごめんなさい美鳥さん」と頭を下げた。
「俺がユウジさんに間違ってるって言ってたら、美鳥さんも辛い思いしなくてすんだかもしれない。ユウジさんだって変わってくれたかもしれないのに。俺、美鳥さんって強い人なんだって、そう思い込んで甘えてた」
 尻すぼみに頼りなく掠れる井戸田君の言葉に、溜息が聞こえる。その怒りを抑えるような吐息は槇村さんのものだった。
「いくら強い人でも、尊厳を踏みにじられたら傷つくよ」
 諭すように井戸田君に言い、槇村さんは横目でちらりと私の表情をうかがう。視線が絡むと、彼は悲しげに眉を寄せた。
 もたれかかっていいよと、きっと彼は言ってくれるのだろう。可哀そうな私に、深夜のバーで女を連れた雇い主に突き飛ばされ、震える声で辞めると宣言し、そして始めた喫茶店にしがみつく痛々しい女に。
 卑屈な考えが浮かぶたび、自分に嫌気がさす。
「井戸田君が謝ることなんてない。ずっと助けてもらってた」
 葉室さんが鞄をゴソゴソとあさり、「あった」と小さく呟いたあと、私の目の前にポケットティッシュを差し出した。気づけば私の目からはまた涙が流れ、素直に受けとり目尻を拭いた。
 ショルダーバッグを肩にかけ直した葉室さんは「からっぽだったでしょう?」と私に問いかけた。
 からっぽ。確かにからっぽだった。腹のなかにじっと居座っていた痼は元からなかったように消え失せて、その場所はスカスカと物足りなく感じられる。そのことが苦しくて、また涙が出た。
「……からっぽでした」
「逃げちゃダメなんて、思わないほうがいいです。逃げるのにもエネルギーがいるし、責任とかプライドとか、その場に留まる理由はたくさん見つけられるけど、色んな人の話を聞いてると、変わるのが怖いのかもしれないって思ったりもするんです。どっちが良い悪いってことじゃなくて、逃げるにしろ留まるにしろ、自分を大切にしてほしいです」
 美鳥さんが罰を受ける必要はないんですよ、と葉室さんは言った。どうしてそんな風に彼女が言ったのか、その言葉の意味はきっと私にしか伝わらなかっただろう。私も彼女の伝えようとしたことを正確に受け止められたのかは分からない。けれど、その言葉はストンと胸に落ち、体がまた数グラム軽くなったように思えた。
 葉室さんにまっすぐ見つめられ、こくりと頷く。隣にいたカナが「ふふっ」と笑った。葉室さんはメタルフレームの眼鏡の奥から怪訝な眼差しをカナに向けた。
「奏さん。私何かおかしなこと言いました?」
「いや、なんだか葉室ちゃんのほうが年上みたいだなって」
 カナの言葉に葉室さんは少し考え、私が初めて見る、どこか悪戯っぽい笑みを槇村さんに向けた。
「私は、槇村さんが一番子どもっぽい気がします」
 槇村さんは肩をすくめ、「葉室にはかなわん」とお決まりの台詞を口にする。その様子にふと気持ちが和らぎ、私の変化を察したのか他の四人の表情も緩んだようだった。
 いつまで経っても、私は色んな人に心配ばかりかけている。いつもそのことを卑屈に思うけれど、このときは胸に温かなものを感じていた。痼のあった場所が涙で満たされ、苦しさと、ぬくもりと、透き通ったその場所に光が射した気がした。きっとそこから「向こうっ側」に行ける。
 待ちぼうけの不動産屋を先に返すと、槇村さんは「で」と井戸田君に向き直った。斜向かいの民家に軽自動車が停まり、運転席から降りた女性が両手に買い物袋を下げて玄関の鍵を開けている。まだ外は昼らしい明るさを保っているけれど、そろそろ夕飯の支度をする時間だ。母のことを、そして祖母のことを思った。台所に立つふたりの姿を、そして幸せに満ちた簑沢での夕飯の記憶を。
「で、井戸田君はここ借りるの?」
 井戸田君は店の前でかつて自分が働いていた『Cafeソラヘ』をながめた。そしてひとつため息をつく。
「借りません。俺にはちょっと広すぎます。槇村さんはどうするんですか?」
「借りないよ。ここは難しいな」
 槇村さんはぐるりとあたりの街並みを見渡し、やっぱり無理だというように首を左右に振った。
「駅からは遠いし、車で来るにしても駐車スペースがたった五台。何か際立ったものがないと厳しいだろうね。ご近所さんっていってもほとんど車だし、昼間は働きに出てるんじゃないかな」
 ウッドデッキから駐車場へ下りる短い階段の、一番下の段に腰をおろしていたカナが「テイクアウトは?」と槇村さんを見上げた。私は階段の手すりを挟んで駐車場側に立ち、ちょうど二人の真ん中で会話を聞いていた。
「ケーキ売ってたでしょ、ここ。上手くいかなかったのかな」
「やり方によっては上手くいったかもしれないけど、駅近くのケーキ屋と似たようなラインナップだったから、多分そこの従業員がこっちに来たんだろう。他と同じならアクセスがいい方に行くに決まってる」
 槇村さんは空っぽのテナント物件を見上げ、私はそれにつられて三角屋根に目を向ける。やはりここは『Cafeソラヘ』とは違うものに見えた。少なくとも私にとっては。
「美鳥さんもこの場所考えてたんですか?」
 井戸田君に問われ、「まさか」と答えた。
「岡井さんから美鳥さんが店はじめたって聞いたんですけど、何て言うか、合わせる顔がなくて行けませんでした。移転考えたりしてるわけじゃないんですね」
 井戸田君のふっくらとした頬を見つめながら、まわりの視線が自分に注がれているのを感じた。カナに槇村さん、その隣にいる葉室さん。私は今、どんな色をまとっているのだろう。
「移転はしないよ。それに、お店はやめることにする」
 えっという井戸田君の声のあと束の間の沈黙があった。
「美鳥さん、やめるの?」
 カナだった。私はそれに声を出さず頷き返す。井戸田君はどう反応していいか分からないといった困惑顔で、葉室さんはただこちらを見つめ、その口は真一文字に結ばれていたけれど、どこか微笑んでいるようにも見えた。逃げてもいいんですよ、と言うように。
 私は槇村さんの顔を見ることができないでいる。同情を向けられるのも、失望の目で見られるのも堪えられそうになかった。みんなから顔を背けるように、私はソラヘだった建物を仰ぎ見た。
「井戸田君。あの足の悪いおばあちゃん元気かな」
「……この近所に住んでるんですよね」
 元気だといいですね、と井戸田君は道を挟んで正面の家の玄関に目を向けた。そこはおばあちゃんの家ではないけれど、きっと同じような造りの家に住んでいるだろう。自転車の学生が物珍しそうにこちらを見ながら通りすぎた。犬の散歩をする白髪混じりの女性は空き店舗に次に何が入るのか興味津々といった様子で、話しかけたそうにしながらも犬に引かれるようにして建物の陰に消えた。
「葉室ちゃんは何かこの場所に感じた?」
 カナの問いかけに葉室さんは「何も」と答え、その声はすこし落胆したような響きがあった。
「空っぽです。しばらくこのままなのかもしれません」
 寂しいですね、とどこか遠い目で建物を見つめる。
 この建物は空っぽ。私のなかには何があるのだろう。空っぽなのか、重苦しくどろどろしたものを沈殿させているのか。葉室さんに視線を向けようとしたとき、その隣に立つ槇村さんと目が合った。ずっと私を見ていたのかと思うほどに、それはまっすぐな視線だった。

チョコレートの匂い

 路地を囲うように連なる屋根の隙間へと、ゆっくり太陽が落ちていく。槇村さんの顔に影をつくり、それは彼の穏やかさではなく精悍さを際立たせる。私の胸のうちには緊張と怖れがあり、今感じるそれは一ノ瀬さんやユウジに感じたものとは別のものだった。
「美鳥さん、焦って結論出すことはないですよ。いつでも相談にのりますから」
 私は「ありがとうございます」と小さくうなずいて返した。浮かべたつもりの笑みは、きっとぎこちなく強張っていたはずだ。
 不安、緊張、怖れ、期待、諦め――胸のなかに渦巻く感情は私の意思とは関係なく鼓動を速め、「やめる」という決意だけが揺れることなくじっとそこにある。
 槇村さんは私の意思を拒絶と受け止めるだろうか。彼ならきっと『喫茶鳥の巣』を立て直すことができる。けれど、いくら槇村さんが店を継続するための方策を示してくれたとしても、私の気持ちはもうとっくに切れてしまっていた。「これが私の店」と胸を張ることができない。
 一人で決めて、一人で営業して、それなのに雇われていた頃と同じ不自由さを感じている。本心と乖離した笑顔の仮面のように、私は鳥の巣の店主の仮面をかぶる。夢を叶えて好きなことを仕事にする若き女性店主。表向きばかり繕い、一ノ瀬さんやユウジを見返したいと思っても一体どうすればそれが果たされるのか明確な到達点はあるはずもなく、時間が経つほどに道を見失い、とうとう迷子になってしまった。袋小路で四方八方を塞ぐ壁はすべてまぼろしなのに、分かっていながらその場に耳を塞いでうずくまる。自由になれるはずの場所で、好きなようにできる我が城で、ありもしない枠に自分を閉じ込めたのは紛れもなく私自身だ。
 嬌声が路地に響き、振り返った槇村さんは眩しそうに目を細めた。小学生くらいの男の子が二人、追いかけっこするように歩道を駆け抜けていく。私はようやく彼の視線から逃れ、ほっと息をついた。
「美鳥さんは、なかなか頑固な人ですね」
 不意打ちのような言葉に、「え」と声が漏れた。槇村さんは先ほどまでよりも穏やかな顔つきで、それは穏やかさというよりも諦めか呆れか、そういったものかもしれない。
「負けず嫌いな人だとは思ってましたけど、思ってた以上です」
 彼の口元に柔らかな笑みが浮かび、「そういうところが好きなんですけどね」とでも続けそうな雰囲気だった。こんな小さなことで彼の話に耳を傾けてみてもいいという気になってくる。一人で決めて意固地にそれを守ろうとするのは、こんなふうに簡単に気持ちが揺らいでしまうからだ。
 かけられた言葉や好意に応えたい。けれどそれが常に正しい方向に導いてくれるわけではない。だからこそ道に迷う。迷った責任を他人に押し付けるくらいなら自分の意思で迷ったほうが諦めもつくからと、限界まで一人で突っ走り、要領よく立ち回る人たちを羨んで、そんな自分を認めたくないから平気なふりをする。どこまで行っても私の心は頑なだ。
 近いうちに店に顔出しますから。槇村さんはそう言ってスマホの時計を確認し、会話を打ち切った。鳥の巣の廃業は保留にされてしまったようで、私は頭の片隅で閉店までのスケジュールをひとつずつ思い浮かべ、その一方でスケジュールを覆す可能性はどれくらいなのか考えた。
 ちらりとカナの横顔をうかがうと、彼は私の視線に気づくことなく難しい顔つきでスニーカーの紐を弄っていた。
「そろそろ戻ろうか。店もあるし」
 槇村さんの言葉でカナは弾かれたように顔をあげる。「じゃあ、俺は美鳥さん送ったら志の無に向かいます」と、パーカーのポケットに手を突っ込み立ち上がった。ロックを解除したのか、カナの車のライトが二度光った。
「おひとつどうぞ」
 聞き覚えのある台詞とともに、カナはポケットから出した手を広げる。そこにはチロルチョコレートが五つのっていた。槇村さんや葉室さんにはおなじみの光景なのか二人とも小さく笑ってチョコレートを受けとり、井戸田君は「じゃあ」と躊躇いがちに彼らに続き、私は「はい」と渡された本日二個目のチョコレートの包みを開けた。飛行機の絵を確認し、口に放り込んで空を見上げる。
 向かいの家の上に飛行機が真っ直ぐな白線を描き、それは刻々と形を変えてぼんやりと歪んでいく。屋根にとまった二羽の小さな鳥がピチュピチュと鳴いて、霞んだ飛行機雲の遥か上へと飛んでいった。
 葉室さんはミニクーパーの運転席に乗り込み、槇村さんは「何かあったらいつでも」と私に名刺を差し出してから助手席に収まった。そこに書かれた携帯電話の番号に、私がふと思い出したのは岡井さんのことだ。冗談交じりの弱音を吐いた私に、彼は「種まきだから」と名刺を渡してくれた。優しくしてくれた人のことを思うたび、自分の下した決断がゆらゆらと頼りなく揺れる。
 窓越しに葉室さんが手を振り、車は駐車場から出ていった。井戸田君は以前乗っていたママチャリではなく、流線型のヘルメットをかぶりロードバイクに跨っている。その細いタイヤが彼の重さに耐えられるものなのか、少々心配になった。
「近いうちに店に伺いますから、その時にまた」
 本屋の方へと走り去る井戸田君を見送り、その丸っこい後ろ姿が見えなくなったあと、「帰ろうか」とカナが口にした。
「りっちゃんと夕飯でしょ?」
 そう言って運転席に回り込もうとするカナの背中に声をかけた。
「奏」
 なぜ「カナ」ではなく「奏」だったのか、自分の口から出た音に心臓がどくりと反応した。足を止めて振り返ったカナは真顔だった。
「どうかした?」
 どうかしてしまったのかもしれない。カナを捕まえておかなければいけないという強い衝動に駆られ、ぎゅっと拳を握りしめた。穴の向こうっ側に落ちないように、このあたたかい世界にいられるように、ひとりぼっちにならないように。押し寄せる不安はきっと踏み出したからだ。その一歩が前進なのか、後退なのか、上がったのか下がったのか、そんなもの分からなくても世界は変わる。
「やめるよ、私」
 うん、とカナは淋しげに目を伏せた。
「指定席に座れなくなるのは、寂しい」ぽつりと呟いただけで、私を説得しようという意思は彼にないようだった。
「呆れてもいいよ。逃げてばかりのへなちょこで、へなちょこなのに自分の考えを曲げれなくて、器も小さくて素直じゃない。みんな優しくしてくれるのに私じゃ何も応えれない。無職になるし、このあとどうするかも考えてない」
 懸命に自分のだめなところを探していた。ダメなやつだと罵ってほしかった。雇われていた頃は批判や叱責が矢のように降り注いでいたけれど、自分で店をはじめてから誰も叱ってはくれなくなった。批判され抑圧されることが体に染み付いていて、足を踏み出した場所に障害がないことに不安を覚える。不安が言葉を紡いでいく。思いつく限りのことを口にして息をつくと、カナはようやく口を開いた。
「俺は全然そんなふうに思ってないよ」
 それだけ言って、「帰ろっか」と運転席のドアを開ける。ドアを開けたままその場に立って、呆けたように立ち尽くす私を見つめた。その視線に促されて助手席に座り、カナがエンジンをかけて、フロントガラス越しに見えるウッドデッキがバック音とともに遠ざかる。この場所に来ることは、きっともうないのだろう。
 駐車場で切り返し、車が路地に乗り出すまえ、左右を確認したカナの視線がついでのように私の顔を捉えた。
「チョコの匂いがする」
 向けられた笑みは彼の本心に違いなかったけれど、どこか無邪気さの滲むその笑みが、カナのどんな感情からきたものかは分からない。ただ、自分のなかの強張りが解けるのを感じていた。  

〈了〉

囚われの月、漂う海月

囚われの月、漂う海月

「好き」大人になるに従い、雑多な感情に埋もれたその気持ちは見えなくなる。「私はこの仕事が好き?」「手を差し伸べてくれる彼らのことが好き?」◆喫茶鳥の巣を営む美鳥は、小さい頃近所に住んでいたカナと再会した。妹を亡くし笑顔の仮面をかぶるようになったのは小学校の頃のカナ。大人のカナは自然な笑みを身につけていた。過去に囚われていた美鳥の心は、カナとその雇い主である槇村と近づくことで動き始める。(作中の地名は架空のものです)

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