隣人 ~となりびと

秋邑 茨

   

   隣人(となりびと)



    一


「誰もいない礼拝堂というのも、いいものでしょう」
 背中から牧師の声が聞こえた。
「この余韻が、何とも言えません」
 玉田(あつし)は短く答えた。
〈教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。〉
 祈りの波の引いた礼拝堂にいると、より神と寄り添えるような気がする。
「毎日足を運んでいても、ひと味違います」
「そういうものですか」
「ええ。主のお働きを実感します」
 僕もです。そう言えたら、どんなに幸せだろう。
「下でお話しませんか。お時間があれば」
「僕は」
 この時間をそのまま持ち帰りたい。来週の、今日まで。
「牧師室ならいいでしょう」 
 浩一郎(こういちろう)は歩き出していた。
 板張りの階段を下りると、廊下の奥の集会室から、賑やかな声が聞こえてきた。ふだんであれば、聞かないようにして教会を後にするところだが、
「久し振りでしょう」
 浩一郎は言って、牧師室の引戸を開ける。
「そうそう」
 椅子に腰掛けるよう淳に促し、牧師は台所へ向かう。
 浩一郎が山形つぐみキリスト教会の牧師に赴任して、十年が経つ。この間、淳が牧師室を訪ねたのはただの一度、離婚の報告の時だけだ。なのに年月の染み入った壁板と、書籍の香りが懐かしい。
「玉田さんはブラックでしたね」
 浩一郎がガラステーブルにマグカップを置く。よく覚えているものだ、村瀬家の三人の気配りにはいつも感心させられる。
「いかがですか。美幸(みゆき)さんやお子さん方は」
 淳が唇を噛む。
 離婚さえしなければ、今日も遙奈(はるな)義明(よしあき)を連れて教会に来て、日曜学校ではしゃぐ姿を見られたかもしれない。そして三人揃って、集会室の輪の中にいたことだろう。
「元気にやっているようです」
 噓ではない。自分に言い聞かせる。
 美幸との約束で連絡は手紙だけと決められている。だが義明はひと月前から電話を寄越すようになった。約束を破って。
「ふたりとも中学生ですから、話したいこともあるでしょう。まあ、どうぞ」
 促されてコーヒーに口をつけるが、味などしない。
「差し出がましいようですが、何かと難しい年頃です。直接話す機会も必要ではないでしょうか」
 つぐみ教会は、カウンセリングを重視した教会で、浩一郎と妻愛子(あいこ)の二人で行う個別カウンセリングと、心理カウンセラーの資格をもつ愛子が中心となり、相談者同士が各々の課題を助言し合う、グループカウンセリングとがある。どちらも口コミで評判を呼び、カウンセリングを目的に教会を訪れる者も少なくない。
 だが何を語ったところで、美幸との制約と、神奈川と山形という距離が障壁となり、どうにもならない。答えない淳の表情を見、
「外は温かいようですね。春の到来といったところでしょうか」
 浩一郎は言い、窓辺に近づく。
「せっかくですから、季節の恵みを感じながらお話しませんか」 

「春の訪れには遠いようです」
 教会と隣り合う 「おやまの公園」 の四阿(さずまや)から羽黒(はぐろ)山を仰ぐ。
 前世、現世、来世を表わす、出羽三山の一つで、もっとも標高の低い現世を表すのが羽黒山。唯一入山規制のない、最も身近な存在だ。
 残雪の残る山と、抜けるような青空のコントラストは、まるで水彩画だ。
 ――私たちもいーい~?
 坂下の三角屋根の白い教会の前で、娘の由衣(ゆい)が手を振っている。集会室の輪が解け、信徒を送り終えたようだ。
 隣り合うとは言え、ベンチまではなだらかな上り坂がくねっていて、丘の頂上近くにあり、結構な距離だ。脳梗塞(こうそく)の影響で左半身に麻痺の残る愛子が、足を励ましながら前へ運ぶ。由衣は注意深く見てはいるものの、手を貸そうとはしない。
「ちょっとした丘でも、景色って、ぜんぜん違うのね」
 息を弾ませながら言う愛子は、試練を与えられたこそ得られる、恵みだと思う。 
「もう一人で上れるね」
 ベンチに座るのを手伝いながら、由衣は言った。
「いつもこうなのよ。牧師は歩け歩けってうるさいし、娘もこのとおり、それにリハビリでしょ。病気のおかげで元気になっちゃったわ」
 この明るさが信徒から慕われる理由だと淳は思う。
「実は、遙奈ちゃんから教会に電話があったの。義明くんのイジメのことや――」
 由衣が、仕方がないといった様子で話し出す。
 電話があったのは、三日前のグループカウンセリングが終わってほどない夕刻。切迫した遙奈の叫ぶような声に、懐かしむ余裕さえなかったと言う。
「東京では無視されるだけ、 『だからよかった』 何て言うのよ、信じられる? 一年も無視されるなんて耐えられるものじゃないわ。ましてや酷い嫌がらせや暴力を受けてきた神奈川での二年間は、地獄にいるようなものよ」
 二年、いや三年!? 入学からの三か月ではないのか!
 義明の泣き叫ぶ声がよみがえる。 「ぼくを山形に帰して!」 話というより訴え、父親にすがる精一杯の懇請、泣訴だったのだ。
「余程のことがなければ教会に電話なんかしないわ。受話器を握って泣いている遙奈ちゃんを思うともう、気が気じゃなくて」
 由衣が言葉を詰まらす。真新しい学生服を着、意気揚々と校舎に入る義明も、新たな夢に期待して胸ふくらます遙奈の姿も、夢想に過ぎなかった。
「子どもって、不意に思ってもみないことをしたり、思い切ったことをするものよ」
「二人を救うことを、第一に考えてほしいの」
 痛かった。父親の体を果たしていないことが。
「誰よりも考えているよ。玉田さんは」
 浩一郎の中で痛ましい経験が甦る。
 信徒の自殺――。以前在籍した教会の信徒の縊死が、浩一郎と愛子をカウンセリングへと衝き動かした。二人にとってカウンセリングは、悩みを聞いていながら救えなかった自責と、 「二度と繰り返すまい」 という決意の表れである。
「責めているわけではなくて、力になりたいのよ」
 風景に似合わない重い空気が流れる。
 子どもたちに会うには美幸の同意と同席が条件。電話に出ようともしない美幸に会うのは絶望的、
「話してきかせます。美幸に」
 他に言葉が見つからない。
「遙奈ちゃんの家の近くに、知り合いが住んでいるんです、その人だったら子どもたちも頼りにすると思うの」
 あなたには頼れない。そう思われて当然だ。
「ちょうど東京に行く用事があるから、その人を子どもたちに紹介したいんです。いいでしょ?」
「由衣も会いたがってるの。大学時代にとってもお世話になったって」
「そんなこと言ってません。真剣に話してるのに変なこと言わないで」
「どんな方ですか」
「どんな人って‥‥‥」
 戸惑う由衣に、愛子は、
「何を勘違いしてるの。どんな感じの人かって言ってるの、ねえ」
 淳に顔を向ける。
〈暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。〉
 愛子を見、思うたびに淳は、この聖句を思いだす。
「勘違いなんてしてません。そうねえ、淳さんより少し年上で、配送とかの仕事をしていて、ちょっとガサツだけど重症心身障害児の入所施設でボランティアをしいて―― 
 頼りになる人です。本人にはとても言えないと由衣は思う。
「風変わりでこの人がクリスチャン? って驚く人もいるけど、集会や奉仕活動は殆ど休まない人でした」
「話しを聞いてね、もともとボランティア精神の備わった、熱心なクリスチャンだなって感じた。そう思ない?」
 会ったことのない先生がそう思うのならそうなのかもしれない。
「どうでしょう玉田さん。信頼出来る方が近くに居るのと居ないのとでは、精神的に違います。子どもたちにとって、大きな支えになると思いますが」
 浩一郎が言う。先生の言うとおりだ。
「私、来週にでも子供たちに会ってきます。いいでしょう?」
「ありがたいです」
 美幸には頼れないし自分は何もできない。託すしかない、
「子どもたちに伝えて頂けませんか。来月必ず会いに行くと。それに、学校には行かなくていいと」
 淳は決意した。美幸に何を言われても父親としての責務を果たそうと。
「学校が問題ではないのよ。遙奈ちゃんは」
「え」
 父親失格だ。 



    二


 ゴールデンウイークが明けて二度目の有給休暇だ。街に出て、夏物のセーターを買って、話題の外国映画を観て、それからオープンカフェに入った。賑やかな駅前広場の人々を見ていれば元気になれる、そんな気がして。
「あ」
 似た顔の人間が三人いる、とはよく言ったもので、三人目を見た気がした。
 下村誠治(せいじ)。顔も名前も思いだしたくない私の外敵。離婚した前夫玉田と容姿も雰囲気もそっくりで、人を喜ばせたることも楽しませることも出来ないつまらない男。アイツさえいなければ有休を使うことも精神的に追いつめられることもないのだ。
「決まったら呼ぶわ――」
 私には家族がいる。アイツは四十七になるのに未だに独身。
 私には子どもを守る責任がある、アイツとは違う。
 私は子どもたちを育てるためにより良い環境で生きる権利がある。アイツとは違う。
 玉田を思い起こさせるアイツ、下村は玉田同様、消えて貰わなければならない。
「ホットコーヒーとオリジナルモンブランを」
 職場には下村を含めて三人男がいる。
 一人は南田。南田敏之。
「ちょっと。おしぼり無いわよ、水だけ持ってきてどうすんのよ」
 大手企業からヘッドハンティングされた南田は、地位も報酬も約束された男で、女の扱いにも慣れていた。五十五歳という年齢を隠せなのは否めないが、 「満足しない女はいない」 豪語するだけあって、手技と言葉は巧み。
 南田との関係は入社した二年前から、月二回のペースで続いている。いや、時々応接室でもするから二回どころではない。
 飽きたのだろうか。
 そんな筈ない。彼を満足させる為に彼好みの女を演じ、私以外絶対に応じない要求にも応えてきたのだ。不満などあるわけがない。
 ならどうして月に一度なんて……
 分からない。まったく見当がつかない。精神状態が不安定になったのと南田との関係が揺らぎ始めたのは無関係でないはず。
 安らいだ生活を送り、安定した生活を送るには、彼の存在は不可欠。絶対に手放すわけにはいかない。
 戸沢も手懐けておくか。
 いや。小学三、四年生で習う 『のぎへん』 さえ分からない男を相手にして何の得がある。 「子どもに訊かれたら何て答えるんだ」 冗談混じりに下村は言ったが、失望を通り越して罪という言葉しか私には浮かばなかった。
 学歴や知能レベルが大人の判断基準だとは思わないが、偏差値の高い高校や大学に進学したところで、社会に出れば学ぶ姿勢の有る無しは常に問われ、それが個々の資(たち)とされ、将来を左右する。本人は言うに及ばず周囲の人間の将来もだ。
 戸沢に育てられた子どもはどんな大人になるのか。戸沢を育てた親はどんな奴か。どうでもいい。哀れ以外に言葉が出ない。
 真面目すぎる人間もそうだが、私は、将来性のない人間は排除することに決めている。無理だ。どう考えても。
 ――お待たせしました――
 ならば下村?
 電車通勤していた頃一度だけ試みたことがある。 「独身の下村だ、放っておく筈がない」 そう確信して。
 計画通り一時間超の残業をこなすと、思惑通り下村は、私を助手席に誘った。駅まで送ると言って。
 所長と初めて関係をもった時のように、巧みな物言いと仕草で誘惑を試みた。下村は何の興味も示さない。
(同性愛者?) 
 それならそれで仕方がない。と思ったのも束の間。戸沢が、下村の好きな女優の名前を口にし、 「下村さんって下ネタ好きでさ」 なんて嬉しそうに話していたことを思いだした。
 私のプライドを傷つけ、いつも蚊帳の外で静観しているような下村。このまま赦すわけにはいかない。私には部長昇進が確実視されている南田という勁い味方がいる。
 それなら……何も、下村ごときに神経をすり減らすことなどないのだ。
 遙奈の高校進学の問題にしてもそう。学費は玉田が出す事で話はついてるし、進路は遙奈本人に任せればいいだけのこと。
 義明のいじめだってそうだ。私がくちばしを挟む理由も、悩まなければならない理由もどこにもない。責任の所在は当事者のみ。本人と対象者と学校以外に存在しない。私を巻き込んで追いつめるな。
 でも、どうしていじめられるのだろう。義明が。
 容姿態度素行。特別ヘンというわけではないし、客観的に見てもいじめの対象になるようには見えない。
 ま、何事も経験。経験しないよりした方がいいに決まってる。
 通りを行き交う人の流れが速くなった気がする。疲れたスーツ姿の中年男が目の前を駆け抜ける。
 折角の休みなのに。
「現れるんじゃないわよ」
 ケーキの真ん中にフォークを突き刺す。
「あ」
 遙奈のヤツまさか‥‥‥

 並んで歩くなよ、邪魔だろっ
 うるさいわねえ

 ふふふ。やれ、やれ、もっとやれ。死ぬまでやり合えよ。
 美幸が声に出して笑う。ケーキの残()を口元につけて。


    三


 勢いよく開く玄関扉の音。 「開け閉めは静かに。靴は揃えなさい――」 口酸っぱく言ってるのに。
 アパートの短い廊下に響く足音が騒々しい。あの人が居たら私まで叩かれるのよ。
「お姉ちゃん!」
 んもう、ノックぐらい、
「誘われたんだぼく、陸上部に。陸上部に誘われたんだよ」
 こんなに嬉しそうな義明を見るのは、山形を離れて初めて。すー、尖った口許が緩んでいく。
「良かったねえ、見ててくれてたんだ、義明のこと」
「目立ちたくなかったんだけど、手を抜くのはいやだから」
 小学校ではずっと一番。山形ではみんなのヒーロー、 「凄いでしょっ」 私の自慢だった。
「今度は長距離やるんだ」
「長距離?」
 遅れを取り戻すチャンスが多くて、短距離より、タイムを縮める楽しみがある。
 言われてみればそうかもしれない。走ること自体嫌いな私には、理解できないけど。
「それに、お父さんが話してたんだ。長距離をやろうと思ったのは、 『山形の自然を満喫しながら汗を流したいからなんだ。』 ってさ。
 その話を思いだしたら、お父さんと肩を並べて走りたくなったんだよ。山形に帰ってさ」
 汗をかきかき夏山の麓を走る、笑顔の父と義明の姿が浮かぶ。
「そう」
「辛い思い出だけを持って帰るなんて、癪だからね」
 この町には、当たり前に吹くやさしい風も、心いやす景色もない。
〈義人はいない。ひとりもいない。〉
〈善を行う人はいない。ひとりもいない。〉 
 出会った例がない。思い出にならない思いと傷しか、この町にはない。
「偉いね。義明は」
 義明の方がずっと辛い思いをしてるのに。私には何もない。
 山形東京神奈川、なぜかどこへ行っても成績はトップ。先生や一部の人に褒められたりもするけれど、特別なこととは思わない。唯一胸を張って言えるのは、 「ピアノが大好き」
 でもここでは、目立つことは許されない。だから存在する意味が分からない。生きている意味が。
「お姉ちゃん‥‥‥」
 弱い姉の姿をこれ以上見せたくない。
「電話したの教会に」
「教会に!?」
 義明が頓狂な声を上げる。
「誰が出た? 先生、愛子先生? それとも、」
「由衣お姉さんよ」
「由衣お姉ちゃんかあ。どんな話? 元気だった?」
 由衣お姉ちゃんってさ、ぼくたちのお姉さんじゃない?――日曜学校の帰途。父を困らせた義明を思いだす。
「銀嶺の山が、
 ――彫刻刀で削ったような冬の景色が、私は好きだ。
「銀嶺の山がとても綺麗だって」
「雪解けにはまだ早いもんね、それから?」
「それから」
 教会の思い出がよみがえる。

 誰よりも声の大きな村瀬先生
 誰より穏やかであたたかな愛子先生
 誰より人の心配をする由衣お姉さん

 涙が堪えられない。
「どうしたの‥‥‥」
「ううん」
 髪をひるがえして笑顔をつくる。 「それから由衣お姉さんが、来てくれるって」
「えっ! 先に言ってよ」 
 山形にいれば、この笑顔をずっと見ていられたのだ。
「いついつ? いつ来るの?」
「今度の土曜日。でもあの人にはぜったい内緒」
 義明の表情が一変する。
「どうして隠すのさ、隠すことなんか無いよっ」
 こんな顔を見せるようになったのは三年前。東京に出て来てから。
「あの人に知れたら、由衣お姉さんに迷惑が掛かるでしょ、村瀬先生や愛子先生にも」
 あの人の顔が浮かぶ。山形の奴らとは一切関わるな。山形のことは絶対口にするな。
 悪鬼が脅すような顔が。
「お母さんの言いなりになることなんかないよ!」
「お姉ちゃんもそう思う。でもまた叩かれるし、ご飯も食べられなくなるしお風呂にだって入れないんだよ、言わない方がいいに決まってる」
 会ったことが知れたら何をしでかすか分からない。山形の話題を流すニュースを見ているだけですりこ木で殴られるのだ、包丁を持ち出しても不思議はない。
「そうだね――」
 義明がうな垂れる。
「それと来月、お父さんが来るって」
「ええ!? お父さんが!?」
 義明の素直さはお父さん譲り。素直だから、いじめのターゲットにされるのだ。
「お父さんと会うなら言わなきゃね、お母さんに」
「父親に会うのに許可なんて要らないの! だってそうでしょ? お父さんに会うことが悪いこと? お母さんに会えてお父さんには会えないなんておかしいでしょ私たちの親よ。わざわざ話すことなんてない、私たちだけが我慢することなんてないの!」
 躾けとはほど遠いあの人の直接的な暴力は、女の私よりも義明に対して厳しい。だからと言って私に甘いわけではなく、寧ろ、由衣お姉さんにも話せないくらい酷いことを私はされている。あの人は親になってはいけない人間。私の話を聞けば誰だってそう思うはず。
 だから、はっきり言うつもり。 「山形に連れて帰ってください」 地面に頭をこすりつけて。お父さんが 「帰ろう」 って、言ってくれるまで。
「電話してるでしょ。お父さんに」
「知ってたの?」
 そんな怯えた顔しないで。 「話をしたいから電話を掛けるのと会いたいから会うの、同じだと思わない?」
「同じ。ふつうのことだよね」
 ごめんね。怒ったりして。 「だから堂々と会えばいいの」
「そうだね、悪いことじゃないもんね」
 ほんとうに素直ね。義明って。羨ましいわ。
「あ」 
「お母さんだ」

 ただいま――。
 あの人の声がいつもより明るい。まだ五時前。職場から直接帰宅するにしても、一時間以上早い。
 そっと部屋の戸を開け、廊下をのぞき見る。あの人は私たちに頓着することなく、リヴィングに入っていく。足取りはやや重め。気分は良さそうだ。
 ショルダーバッグと、買い物袋の倍ほどあるデパートの紙袋を持ったまま、ソフアーに体をあずける。
 はあ。疲れた――。
 気づかれないように廊下を進み、リヴィングの入口に立つ。あの人はソファーに座ったまま体を反らす。そして口を開く。
「少し疲れたけどいい骨休みになったわ。美味しいケーキも食べたし可愛いお洋服も買っちゃったし。仕事してるとね、着るものにも気を遣わなくちゃいけないのよ。まったく女って損ね」
 肩を揉みながら愚痴るが、機嫌が良いのは明らか。
「あら。二人して泣いてたの?」 すぐに目を逸らし、
「せっかく良い気分で帰ってきたのに、台無しにしないでよね」
 泣いていた理由さえ訊こうとしない。
 黙っている事も相談を持ちかけられる事もあの人は極端に嫌う。起伏の激しい性格を理解している私は、あの人との距離が広がっているのを、いや限界を感じている。
「会社、お休みだったの?」
 それでも機嫌を損なわないようにするには、話し掛けるしかない。話したくなくても。
「んん? 会社はやってるわよ。今日はユーキュー、使わなきゃ損、タダ働きと同じだからね」
「そうなの」
 反応しなければ怒鳴られ夕食も朝食も抜き。こんな家他にない。ウチだけだ。
「ねえ。奮発して、お寿司でもとろっか。たまには美味しいものも食べなきゃ」
 食べてきたって言ったじゃない。 「作ったから」
「ったく、どうしてあんたはそう気を遣えないのか――」
 お父さんだったらどんなに疲れていても話しを聞いてくれる。 「お父さんと比べてはだめ。」 自分に言い聞かせる。憎悪で満たされてしまうから。
「うなぎとレバニラ? スタミナつけさせてガンバレってか。これ以上精をつけさせて――」
 あんたの為に作ったんじゃない。
「それで高校、決めたのか」
 ふと思いついた事を口にするのは、機嫌が悪くない証拠。
「考えてるところ」
「訊かれて分からないじゃ、親として恥ずかしいんだからね。決まったら言うんだよ」
 親として? 悔しさに唇を噛みしめる。恥ずかしいのは恥ずかしい親を持った私のほう。勘違いするな。
「でもあれね、あんたは誰に似てそんなに出来る子に生まれたのかしらね。ま、県立ならどこにでも入れるんだから贅沢言わないで、」
「高校なんて行かない」
 ソファに片方の腕を載せて振り返る顔は、怒っても喜んでもいない。
「うちが貧乏だからか」
「そうじゃないけど」
 やはりたて突くことなんて出来ない。
「なら行きな。片親だから進学させなかったなんて陰で言われるのは母さんなんだからね、たまったもんじゃないよったく」
 他人の目と体面だけを気にする人なんて親じゃない。
「何をしに高校へ行くのか分からないからよっ」
 強い口調に気づかないのは、やっぱり機嫌が良いからだ。
「みんなそうだって。高校は何がしたいか捜しに行くとこ。大学は見つけたものを実現させるところ。学歴が理由で諦めなくちゃならないことって、あんたが考えているより沢山あるんだよ」
 これだから嫌になる。常識ある親のふりをして常識では考えられないことをさせる。言い返せない自分も同じくらい嫌いだ。
「働きたいの」
「バカ言ってんじゃないよ! 学歴がないだけで端から無能扱いされてね、信用されなくなるんだ。就職は不利、能力があっても転職は学歴でアウト。何をするにも誤魔化してしか生きていけなくなるんだ、しなくてもいい苦労してどうすんのさ」
 この人だって正しく生きようとしたのだ。一瞬、ほんの一瞬だけそんなあり得ない事を考えてしまった。
「親の財布の紐なんか気にしてるんじゃないだろうね。ったく子供のくせに可愛気がない子だよ」
 子供? 子供に何をさせたか分かって言ってるの、親だったら親らしく、 
「まさか商売にしようと思ってるんじゃないだろうね」
「お母さん!」
 リモコンいじりながら平然と、何てこと言うのよ!
「商売って?」
「何でもない」
「へえ。何でもない事なのかい」
 人に言えないようなことをさせておいてどうして……笑えるの。
「それよりごはんは、風呂洗ったのか?」
「ぼくやるよ」
「遙奈ちょっと」
(二人で会ったりしてないだろうね)
「‥‥‥」
(ヌケガケなんかしたら、赦さないぞ)
 こいつサタンだ。
 


    四

 
 週末は、障害のある子どもたちと過ごす。下村誠治は、そう決めている。
「せいじおじさん、今日は何して遊ぶの?」
 子どもたちは誠治がくる土曜日を、心待ちにしている。
「おじさん? おじさんなんかどこにいる」
「また言ってるう」
「四十七歳で、お兄さんはないよ」
 そうだ、そうだ――体いっぱいに気持ちを表現する、子どもらは、神からの賜物。誠治はますます、
「お兄さんって呼べなんて言っちゃいねえよ。ただおじさんはやめてくれ。気が滅入るんだ」
 ありのままでいたくなる。施設のボランティア活動――「楽しくふれあい学び合い」 は、皆が相照らす場である。
「じゃあ、せいじくん」
 手を上げて言ったのは、施設一背の高いシュウイチだ。
「? くんはねえだろ、年長者に向かってくんは」
「良いお天気だから、お散歩に行こうよ。せいじくん」
(ま、 『さん』よりいいか)
「そうだなあ‥‥‥」
「やっぱりおじさんだな、つかれるからイヤなのかい」
「ふけちゃうよ」
「よぼよぼになっちゃう」
「散歩に行きたい人は~、手を挙げろ!」
 誠治も全身を使って相手にする。
「はーいっ!」
 喋れる子どもが答えると、脳性まひ児が、首をねじって椅子をガタガタ。まわりの子は? 負けないくらいガタガタパチパチ、体ぜんぶで訴える。
「分かった、分かった、ちょっと静かにしてくれ」
 重度の肢体不自由のある子、重い知的障害の子、両者の重複した、重症心身障害のある子。みんなと関わって七年、多くのことを教わった。中でも、みんなと会わなければ知らず終いだったのが……素直さと健気さは伝播するってことだ。
「なにボーっとしてるの?」
「行かないの……」
「よっし、じゃあ森の公園に行くか。どうですか、みなさん」
 入所者の親兄弟、職員やボランティア活動に参加している若者が、子どもらにならって、まっすぐに手を挙げて応える。同じ目線でいることの大切さを知っているのだ。
「んじゃ、公園で遊んで‥‥‥その後は!」
「お弁当!」
 いっそう室内が騒がしくなった。
 お散歩行こう!
 お森の公園大好き!
 せいじくんも好きだよ!
 
 ふ。 
「いい一日だった」
 声に出すと、より実感がわく。
 車椅子利用者の視野は、障害の有無や部位、程度によって大きく異なる。だから気づくんだよな、小さな命の息吹きに――。
 流れのない小川で餌を求める野鳥。
〈尾っぽをヒョコヒョコ、上げ下げして啼いている小鳥がいるだろ。ハ・ク・セ・キ・レ・イ、って言うんだ〉
 すごいだろ。ぼくのパパ――。胸を張ってたな。シュンスケは。
 手つかずの自然あふれる公園は、絶好の学びの場だ。
〈じゃあ、灰いろの小鳥は、ハイイロセキレイ?〉 (ハイいろちゃん?〉
〈あの子はね、あっ〉
 丁度飛んできたんだ。答えるように。
〈ほら。土手の上に飛んできた子がいるだろ? あの子と同じさ〉
〈ぜんぜん違うじゃん〉
〈お顔とポンポン、黄いろよ〉
〈今は違うけどね。 『灰いろちゃん』 は大人になると、黄色くなるんだ。あの子みたいにね。要するに、灰いろちゃんは幼鳥、子供のキセキレイなんだよ〉
〈キイちゃんだね〉
〈赤ちゃんキイちゃん!〉
 興味から学ぶのがいちばんの勉強。よく分かってるな、シュンスケの父ちゃんは。
〈オタマジャクシがいるよ!〉
〈お手てが生えてる!〉 〈わあ‥‥‥〉
〈この花小っちゃくてかわいい!〉
〈薄青いろのがヤマルリソウ。ほら。木の根の近くに咲いている、濃いむらさきの。見えるかな〉
〈うん。見える見えるぅ〉 〈とってもきれい〉
〈スミレよ。端っこの薄い色のお花がタ・チ・ツ・ボ・スミレ。可愛らしいわね〉
〈同じスミレでも、いろいろあるのね〉
〈花だけじゃないぞ。ほら、木の枝に新芽が芽吹いてる〉 
 ありふれた草木や鳥の囀りに、いちいち歓声を上げる子どもたち。懸命に生きる命はどれも、彼らにとって愛の使い。

 
野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。
働きもせず、紡ぎもしません。
  
空の鳥を見なさい。
種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。
けれども、
あなたがたの天の父が、これを養ってくださるのです。

「ありがとうな。思いださてくれて」
 誠治は言うと、パソコンに向き直る。
「さ」 
 一日の活動記録を入力し、次回の段取りを考える。子どもらの笑顔を思いだせば、次々とアイデアが浮かぶ。
「来週は親御さんのための会にすっか。母の日も近いしな」
 大人を喜ばすのは簡単だ。子供の頃に引き戻して、共通の懐かしさを味わわせればいい。大人が喜べば子どもはいっそう喜ぶ。
「歌か。ちっとばかり工夫すりゃ、大人も子どもも喜ぶものになる。ってことは母ちゃんどもにサプライズ、」
 と、傍らの携帯電話が震えた。 
【由衣っぺ】
 珍しいな。
「お願いがあるの」
「いきなり何だよ、挨拶もなしかい」 電話の向こうに変わらない由衣がいた。
「力になってくれる?」
「それじゃ分かんねえよ、頭んなか整理してから掛けろ。まずは挨拶、次に近況のやり取りそれから――」
 由衣とは、彼女が東京郊外の大学に在学していた頃、ともに八王子の教会で主を讃美した仲である。卒業後山形に帰ってからは、時候の挨拶程度だが親交は保っている。
「何て言えばいいんだろ、結論から言うと、誠治さんのウチの近くに友だちになってほしい子がいるのよ。三年前までうちの教会にきてた子なんだけど」
 牧師の家庭に生まれた由衣は、保育士の仕事が落ち着いた六、七年前から、日曜学校で子どもたちを教えている。その時の教え子らしい。
「年齢性別は。結論から言われたって結論出せっかよ」
「ごめん、中三の女子と中一の男の子」
「何があった」
 実はね――
 由衣の話によれば、二人は山形つぐみ教会の教会員玉田淳の子供で、学校でのいじめだけに留まらず、引き取った母親からも虐待を受けているらしい。
「山形を離れるとき、私、遙奈ちゃんに聖句を書いて手紙を渡したのね。そのみことばを思いだして電話を掛けてきたくらいだから、教会に行くようになればきっと励みになると思うの。だから、誠治さんが行ってる教会に誘ってほしいのよ」
 近くにはいくつか教会はある。
「別に俺が行ってるとこじゃなくたっていいだろ」
「母親に止められてるのよ。教会に行くのを」
 誠治は眉間に皺を寄せる。
「山形では行ってたんだろ?」
「淳さんと三人で。母親は宗教嫌いだから」
 好きも嫌いも許すも許さないもないと思うが、
「母ちゃんが許すか? バレたらよけい嫌な思いをするだろ」
「日曜日は早くから外出するって言うから、その点は大丈夫そう」
 母親に見つからずに行くことは、そう難しいことではなさそうだ。それなら、
「由衣っぺから行くように言えば行くだろ」
 昔の呼び方で言っていた。
「言ったわよ。でも決断できないの。母親が怖くて」
「自分で足を向けることが大事なんだがな」
 突き放すつもりはないが、拘りたかった。信仰は誘う誘われるではなく、自ら扉を開けるものだ。
 それより何をしてるんだオヤジは。クリスチャンのくせに。
「誠治さんだけが頼りなの」
 学校と家、護られるべき場所で虐げられているなんて地獄だ。
「その遙奈って子は中三だろ? 俺でいいのか、父親より年上だろ」
「確か、四十三歳。年齢を気にするなんて誠治さんらしくないわ」
 年齢性別、障害に健常、区別は差別に繋がりかねない。もっとも嫌うことだが相手が在ること、そうも言っていられない。
「期待どおりにいくか分かんねえぞ」
「子どもたちはお父さんっ子だったの。すぐに仲良くなれるわよ。誠治さん、子供みたいだから」
「馬鹿にしてんのか? 俺だって十年前とは違うんだぞ」
 由衣っぺはどんな娘になったんだろう。ついそんなことを考えてしまう。     
「変わらないわよ誠治さんは。心配しなくても大丈夫。私が保証する」
「声だけで何が分かる」
「まさか禿げちゃったとか」
「かもな」 白髪が増えただけさ。 〈若い男の光栄は彼らの力。年寄りの飾りはそのしらが。〉
「それはともかく、ボランティアで同じくらいの歳の子と関わってるんだから大丈夫。自信持って」
 自信の有る無しが問題ではないし、施設とはわけが違う。オヤジは俺が思っている以上に心痛めているの違いない。
〈幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。〉
「やってみっか」
「さすがは誠治さん、じゃあ来週の土曜、子どもたちを紹介しに行くから」
「来んのかよ。土曜は無理だ、施設でボランティアがある」
「なら施設で会いまいょうよ。遙奈ちゃんにもいい刺激になるわ」
「ったく変わんねえのも善し悪しだな」
「何? どういう意味?」
 畳のうえに大の字になると、田舎の景色がぼんやりと浮かんだ。
 十字架を見上げる家族の中で、少女が一人背を向けている。
 遙奈か‥‥‥。
「本当に救わなければいけねえのは、母ちゃんだ」
 


    五


 辛いだけの一週間だった。苦しいだけで何もない一週間だった。ぼくは日本でいちばん不幸な中学生だ。きっと。
 明日には由衣お姉ちゃんと会える。来月にはお父さんとだって会える。
 その喜びを支えにぼくは耐えてきた。生き地獄を。
 
  月曜日
   体育の授業が終わると制服がなくなっていた。
 
  火曜日
 弁当箱を開けると中身が白とピンクのチョークに変わっていて、
 下駄箱から靴が消えていて上履きのまま帰った。
 
  水曜日の朝
 先生がジャージ姿で登校するぼくを校門で呼び止めた。
 理由なんて言えるわけないじゃないか。
 何でみんな笑って見てるんだよ。
 
  水曜夕方
 トイレ掃除をしていると、
 床を拭いたあとの汚れた水を頭からかけられモップで殴られた。
 線路沿いを三駅先まで走ってジャージを乾かそうとした。
 鼻を突く臭いが酷くて苦しくなって途中でやめた。
 お姉ちゃんにバレないように脱衣所に向かい、
 ジャージを着たままシャワーを浴びた。
 
  木曜日
 誘われていた陸上部の練習に参加しようとしたら、
 買ったばかりの靴が消えていた。
 今週二度目だ。家には一足しかない。棄てようとしてたのが。
 
  金曜日
 陸上部に行く約束を破ったと言われ部室の端の備品倉庫で殴られ、
 長い髪が相応しくないと怒鳴られてハサミで滅茶苦茶に切られた。
 好きで伸ばしてるわけじゃ無いのに。
   お姉ちゃんに知られたくなくていつもより遅く帰って、
   夜ご飯を食べずに布団にもぐりこんだ。
 
 もう無理。鏡に向かって無惨に切られた髪をヘアワックスで無理矢理つまみ上げそれらしくセットする。
 それから机の隅の白い陶器の貯金箱の裏ぶたをこじ開けて一枚だけ入っていた千円札をズボンのポケットに入れる。
(義明もいっしょに行こうよ。由衣お姉さんと会えるんだよ。)
 言えばよかったかな‥‥‥お願いだから行かないでよ。
「ごめんなさい。さよならお姉ちゃん」
 震える手で鍵を閉め、鉄階段を、音を立てないように降りる。
 通りに出ると、夢の中にいるような、ヘンな気分がした。
 新鮮とは思えない春風がぼくを急かす。
「わかってるよ」 

 風の助けを借りて駅に着いた。
 開店したばかりの駅ビルの文房具屋で、レポート用紙とボールペンを買った。
 握ったままのお釣りで切符を買って、改札を抜ける。
 ホームの先端のベンチが空いている。
 みんな楽しそうに笑ってる――。
 ひとりの方がぜったい楽しいのに――。
 ベンチを独り占めしてレポート用紙をめくった。
 手が震えて、紙がシワになり、上手く書けそうにない。
 からだも震えてるし。
「やめようかな。書くの、」 ××のも。
「なあんだ」
 通過電車のせいか。



    六


「今日は、初めてボランティアに来てくれた人を紹介するぞ」
 嬉しそうに誠治が言うと、
「ホント?」
「男のひと? 女のひと?」
 ――「良かったな、嬉しいな」 「どんな方かしら」
 コミュニティルームは、子どもと親たちの声でいっそう賑やかになる。
「会えばわかるさ」
「じらさないでよお」
「ヒントくらいちょーだいな」
 んん――、
(素直が一番、)
「とてもきれいで、とってもやさしい人たちだ。驚くくらいな」
「えっ、女のひと?」
「ばれちまったか」
 頭をかく誠治に、子どもらは尚も言う。
「そりゃあ、ばれるよ。きれいって言うんだもん」
「ひとりじゃないんだね?」
「何で分かった」
 この対話が誠治は好きだ。
「人たちって、言うからよ」
「俺、そんなこと言ったか?」
「言ったよ。ぼけちゃったのかい?」
「いいからショーカイしてよお」
「早く早くう」
「分かった分かった、みんな拍手で迎えるんだぞ、いいな」
「はーい!」
「んじゃ、どうぞっ!」
 前方のドアがそろっと開き、由衣が堂々と、遙奈は照れながら入ってくる。
「うわあ」
「約束しただろ」
 親に促され、呆然としていた子どもたちが拍手を送る。
「お姉ちゃん美人だね」
「おばちゃんだって、なかなかだよ」
「お姉ちゃん、いくつ?」
「おばちゃんには訊いちゃだめだぞ」
 子供らは思い思い口にする。
「よおし、自己紹介だ。遙奈ちゃんからいくか」
 二人はゆっくりと中央に歩み寄る。
「大丈夫、俺と会った時と同じ様にやればいいんだ」
 誠治がささやく。
「小渕遙奈、中学三年生です。実は、下村さんとは、今朝初めてお会いしたばかりで、」
「せいじくんがナンパしたの?」
「やめた方がいいよ」
「どうして?」
 由衣がすかさず反応する。
「だってよぼよぼだもん。せいじくん」
 遙奈のはにかんだ笑顔が輝いている。誠治と由衣は安心してうなずき合う。
「こんな可愛い子が俺なんかを相手にすると思うか?」
「思わな~い」 「するわけな~い」
「だよなあ」
「そっちのおばちゃんならするかも」
「おばちゃん!? どこにいるの? お姉さんに教えて」
 由衣は慣れたものだ。堂々としている。
「じゃあ、次はおばちゃんだ」
「セイジくんに言われる筋合いないわよっ」
 由衣は口を尖らせ、誠治が舌を出す。子供たちは遠慮なく笑う。遙奈も。連れて来てよかったと思う。
「ええ、私は村瀬由衣です。東北の山形というところで、保育士をしています。セイジくんとは、昔からの知り合いで、十年ぶりの再会です。是非みなさんとお会いしたいと思っていて、今日、ようやく夢が叶いました。とっても嬉しいです。私は遠いので、あまり来ることはできませんが、遙奈お姉さんは時々訪ねたいと言っています。どうか遙奈ちゃんのことを、よろしくお願いします。今日は楽しい時間を過ごしましょうね」
 由衣はひとりひとりに体を向けて、ゆっくりと話した。
「おばちゃん結婚してるの?」
「まだよ。お姉さんは。適齢期には早いから」
「ウソだあ、とっくに過ぎちゃったんでしょ」
 遠慮なしに言うところは保育園児とは違う。だが素直なところは同じ。変わりはない。
「失礼なこと言わないの」
 母親が(たしな)める。苦笑しながら。
「ほんと失礼しちゃうわっ」
 由衣がむくれて見せても、
「せいじくんにすれば」
 子どもらはお構いなしだ。
「わがまま言ってると、けっこんできないよ」
「んまあ。セイジくんはお姉さんより、ずっとずっとずーっと、年上よ。お父さんくらい歳が違うんだから」
「ウッソだあ」
「大して変わらないじゃん」
「ええ~っ!? ショックぅ~」
 由衣が大袈裟に泣き真似をする。ほんとうは歳の差十五歳。父親は言いすぎ。ま、嘘も方便、今は盛り上がればいい。
「残念ながら大きい方のお姉さんは、相手にしてくれないんだ」
「ふられたんだ、せいじくん」
「せいじくんだって、いいところは有るんだけどなあ」
「いいところ? どこ? 教えてくれる?」
 肘に手を当て手をアゴにつけ、首を傾げて、
「分からないの。」 そんな恰好をする。
 さすがは保育士。日曜学校の教師の経験も生きているのだろう。誠治はそんなことを思いながら、
「教えてやれ。遠慮することはないぞ」
 子どもたちを煽った。
「せいじくんはやさしい」
「声が大きい」
「おもしろ~い」
 ・・・・・・・・・
「それだけ? 他にはないのかしら」
 由衣がちらと、誠治にいたずらな視線を送る。
「いつもニコニコしてるう」
「いつもげんきー」
「あとは? もう少しあるでしょ」
 子どもたちは隣り同士顔を見合わせる。
「あとはね」
 なんだろ?
 何かあったかな。
「な~い」
「それだけ~」
「何だい、それっぽっちか。ま、そんだけ誉めてくれれば上等兵。満足しないとな」
 由衣に頷いて見せる。サンキューの思いを込めて。同年代か年(かさ)の親だけが笑っている。
「とにかくせいじくんはさ、ぼくたちを楽しませてくれる、ナイスガイだよ」

  遙奈って子にも協力して貰うか。
大丈夫かしら。とても人見知りだし、
それに家のごたごたで、すっかり自信を失くしてるの。
  心配すんな。俺が保証するよ。


「遙奈姉ちゃんだって負けないくらい楽しませてくれるぞ。なっ」
「そうよお。遙奈お姉さんはね、ピアノがとっても上手なんだから」


大丈夫よ。日曜学校だと思ってやればいい。
  でも三年も弾いてませんし突然言われても‥‥‥。
自分が楽しもうとすれば、相手も楽しもうとする、
思いっ切り、楽しめばいいのさ。

「聴きたいなあ、はるなお姉ちゃんのピアノのえんそう」
 遙奈の顔がほころんでいる。誠治の言ったとおりだ。
「おばちゃんはひかないの?」
「お姉さんは遙奈お姉さんほど上手に弾けないの。お歌だったら自信があるんだけど」
 歌うのかよ。目を丸くする誠治が、
「じゃあ歌の会にすっか」
 子どもらに訊く。
「さんせーっ!」
「お歌、うたおー」
「みんなで遙奈のピアノに合わせておばちゃんにお歌を教えて貰おう。どうだ由衣っぺ」
「ぺだって」
「あいにくおばちゃんはいないし、 『ぺ』 なんてつく人知りませんけど」
 二人が来ただけで明らかに空気が変わった。子どもたちだけでなく、保護者も職員もだ。
「じゃ、大きいほうのお姉さんは歌を教えてやってくれ。皆さん、どうでしょう」
 窓ぎわに並ぶ保護者に尋ねる。
「朝の発声は健康にいいのよ」
 真面目な顔で、 「へえ。そうなんだあ。」 そんな顔を向けるのは、来年退所予定のシマダマサノブ。
 何気ない会話が一生心に残ることがある。誠治はその思いを胸に子どもらと向き合っている。
 しっかり心に刻むんだ、マサノブ。二度と来ない今日を。思い出にしろよ。
「じゃ今日は歌の会だ。いいな遙奈」
 遙奈がこくりと頷くのを見て、職員は歌集を取りに部屋を出て行った。
 遙奈は声をひそめて誠治に話しかける。 「大丈夫でしょうか]
「歌えるのか、ってことか」
 上目づかいで遙奈が頷く。
 言葉がうまく発せられない構音障害の子もいれば、理解のできない失語症の子もいる。意思の疎通が取れない子も。心もとなくなるのは当然かもしれない。だが、
「子どもたちの歌を聞けば分かるさ」
 要らぬ心配だ。
「どうしたの? 不安な顔して」
 子どもらを相手にしていた由衣も心配になる。
「楽しみましょ」
 歌集を配るのを手伝いながら、誠治が声を掛ける。 「歌集の中から、みんなで歌えそうな歌を選びましょうか」
 親たちは歌集を見ながらひそひそと話し始める。頬が緩み、懐かしさを味わっているのが分かる。
「長く生きてこられた皆さんが頼りなんですからね。相応しい歌を選んでくださいよ」
「下村さんの方がずっと年上でしょ。失礼しちゃうわ」
「そうだ。せいじくんの方が年よりだあ」
 ひとりひとりを飽きさせないことがボランティアの務め。誠治はそう思っている。その気配りが、子どもらだけでなく、親や職員との信頼関係を築く素地になると。
「峠の我が家など、どうでしょう」
 口を開いたのは、重度の知的障害と肢体不自由の重複障害がある、ショウゴの父親だ。同世代ということもあり、誠治とは何かと馬が合う。人との交流を大切にしたいと、構内の医療型入所施設から通っている。
「確かアメリカ民謡でしたね。何か思い入れでも?」
 忘れ難い思い出があるのだろう。皆に聞かせたかった。
「わたしは幼少期を、東京の郊外で過ごしたのですが、学校まで歩いて五分とかからない、団地に住んでいたのです。
 友だちのなかには一時間かけて、歩いてくる子もいましてね。遠くから通う苦労など考えもせずに、
『今ごろ茜色に染まった空の下、芋掘りをした山辺りを、歩いているのかな。』
『今ごろやさしい小川の流れる土手沿いを、みんなでこの歌を歌っているのかな。』
 などと、勝手なことを想像して、揃って登下校するみんなを羨ましく思っていたのです。家のベランダで。夕陽を眺めながら。
 もう四十年も前の思い出ですが、言ってみれば憧れなんです。この歌は。そしてあの風景は心の支え。宝かもしれないな」
 父親は付け加えた。 「出過ぎたまねをして面目もない」
 そんなことはない。
 子どもらは真剣な表情で耳を傾け、大人たちは思い出を重ね合わせて聞いていた。出過ぎでも何でもない。
「いいかみんな。子どもの頃の思い出ってのは、なかなか忘れないもんなんだぞ。みんなも、何十年経っても、ここでの事は忘れないだろう。今この時のことも忘れないかもしれないんだ、すっげえよなあ」
「そっかあ、そういうものなんだ」
「ああ。ショウゴの親父さんの言うとおり、思い出は宝なんだ」
 壁に並ぶ保護者が頷いている。
「わすれないようにさ、お歌おぼえようよ」
 由衣の瞳に涙が走る。今この瞬間を忘れないように――生きる。そんなこと、考えたことあった? 時間の尊さに気づかされた思いだ。
「はるなお姉ちゃん、がんばって」
 車椅子をたたく子も、足をふみ鳴らす子も。 「あーあー」 「わー、やあー」、 訴える子も。皆思いは同じだ。
 山形の風景や、やさしい人々を思い浮かべていた遙奈の頬を涙がつたう。
 私はこの時を迎えるために、生きて来たのかもしれない。そう思えたことが嬉しくて‥‥‥。
 遙奈は目を瞬かせると、懐かしい風景を歌詞に重ねて譜面を追う。
 心に焼きつけようともう一度繰り返す。
 この歌には、故郷を大切に思う気持ちが満ち溢れてる。それぞれの郷里への思いが。帰りたいね。義明。私たちの家に――。
 目をつぶって息を吐き、白い指を鍵盤に置く。
 6/8拍子のイントロは、ふる里にそよぐやさしい風。
 自然と指が動き出す。
 ゆったりした遙奈のピアノに合わせ父親が四小節を独唱し、
 頭に戻って、みなで繰り返す。


  あの山をいつか越えて  
  帰ろうよ我が家へ


 五小節目からは同じメロディ。
 由衣が加わり、二人で八小節までを歌い、始めに戻る。


  この胸に今日も浮かぶ  
  ふるさとの家路よ   


 もう曲の雰囲気をつかんでる。
「聞けば分かるさ」
 わかったわ。
 心で歌ってる。ぜんぶで感じてるわ。


  ああ、我が家よ
  日の光かがやく

  草の道歌いながら 
  ふるさとへ帰ろう 


「由衣っぺ。携帯鳴ってるぞ」
 震えては止まるのを繰り返すのが気になり、誠治が声を掛ける。由衣は歌いながら、
 誰かしら。土曜日の朝に電話なんて……。
 机に置いたポーチから携帯を取り出し、フリップを開ける。目立たないように。
【山形つぐみキリスト教会】
 羅列する着信履歴の文字の合間に、滅多に電話を寄越さない父浩一郎の名前があるのが気になる。 「まさかお母さんに何か――」
 脳梗塞で倒れた母愛子の姿がよみがえる。
 教会から電話があったことを誠治に告げ、遙奈に目配せして部屋を出た由衣は、人影のない非常用階段の出口でリダイアルボタンを、
「大変なの! 義明くんが、今朝義明くんが!」
 押すよりはやく悲鳴が飛び込んだ。言葉が継げない愛子の混乱ぶりが凶事を物語る。
「落ち着いて。義明くんがどうかしたの?」
「電車に、電車に撥ねられたって!」
「何ですって!」
 快晴の空が一瞬で暗雲に覆われた。
「牧師は淳さんと病院に向かってる、だから――」
 警察からの電話で事故を知った淳は教会へ一報を入れ、浩一郎と共に神奈川の病院へ向かったと言う。
「だから由衣も、」
「すぐ行く」
 容体は? 無事なの? 怖くて訊けない。
「淳さんが遙奈ちゃんと連絡が取れないって、」
「一緒、一緒にいる、それで義明くんは――」
 病院の名前を聞きながら由衣はコミュニティルームへ走る。 「遙奈ちゃん!」
 激した由衣の声に動きが止まる。
「どうした」
「ごめんなさい、遙奈ちゃんと私は帰らなければなりません、遙奈ちゃん早く!」
 遙奈は呆然として動けない。
「誠治さんもお願い! 遙奈ちゃん急いで!」
 誠治が傍らの荷物をつかむ。
「遙奈!」
「遙奈ちゃんっ!」
 由衣が駆け寄る。 
「さあ」
 峠の我が家の思い出を語った父親が遙奈を急かし、三人は出口に向かう。
「みんなすまん!」
 振り返って誠治が言う。
 子どもらが怯えていた。



    七 


 病院に到着した誠治と遙奈と由衣の三人は、状況を把握できぬままでいた。
 処置中です、状況については後ほど――。
 どれほど経っただろう。待つことがこれほど苦しいと感じたのは初めてかもしれない。
「義明くんは生きようとしてるの。あなたがしっかりしないでどうするの」
 由衣は車の中で繰り返した言葉を、ここでも繰り返した。
「死のうとしたのよ。生きていたくないから、」
「そうだとしても今は生きようとしてるのっ」
 そうだろうか。 「放っておいて。」 「何もしないでいい。」 そう思っているに決まってる。死のうとしたのだから。
「由衣っぺの言うとおりだ。生きるために義明はここにきたんだ」
 生きるため。そう、生きるために人は生まれてきたはず。なのにどうして死に追いやるようなことをするの?
 義明は無駄な一生だと思ったはず。 「どうして生まれてきたの?」 何度も何度も疑問を投げかけてきたはず。誰にとなく。
 だから生きるのよ。理由も分からないうちに死んじゃダメ。
 生きよう義明。お姉ちゃんと一緒にやり直そう。お姉ちゃんだって死にたいくらい辛いけど生きてるの。お姉ちゃんが守るから、支えるから。
〈主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。〉
 胸の前で固く手を握って祈る。
  神さま。どうか義明を生かしてください。あなたの必要のために――。
 看護師が慌ただしく、前を通っては引き返す。明るすぎる光が反射する薄いベージュの廊下しか、遙奈には目に入らない。
 三人の到着を待ち構えていた、長身の警察官が忙しなく言っていた。義明は最寄り駅の下りホームから、東京行きの電車に飛び込んだらしい。
 各駅停車で減速していた上に身を投じるタイミングが遅かったことで、車両に巻き込まれずに済んだらしい。警官が帰ると、
「迷ったんだな」
 誠治がつぶやいた。
 そうかもしれない。でも、ぎりぎりまで苦しんだとも言える。
 遙奈は生きていてほしいと願う反面、義明にとって本当に良かったのか、考えずにはいられない。生かそうとすることが。
 見放されたと思ったから死のうとした。見捨てられたから死ぬしかなかった。希望を失ったから終わらせようとした。私には分かる。何度も何度も何度も、死のうとしたから。 「何もしないで。」 私なら絶対にそう思っているだろう。
「あと三、四十分くらいで来られるそうよ」
 席を外していた由衣が戻ってきた。
「連絡取れたの? 誰? 愛子先生? 村瀬先生? お父さん? 誰? 愛子先生? 村瀬先生? お父、」
「牧師よっ」
 放心した目を床に向ける遙奈は、まるで抜け殻だ。
「どうなるんだろうな、どうなっちゃうのかな、ふふふ」
「医者が必死に救おうとしてるんだ、お前は祈り続けるほかねえだろうが」
 強い口調で誠治が咎める。
「そうよ一緒に祈りましょ。日曜学校の時みたいに」
 由衣が手を握る。と、
「死なせてやって、もう苦しめないで。思うように、思うようにさせてやってよ!」
 覚醒した遙奈の声が廊下を駆ける。時間の経過が、ふたたび遙奈を混乱させた。
「遙奈っ!」
「そんなこと言ったらダメ」
「無理にでも連れ出せばこんな事には‥‥‥」
 固く結んだ唇が震えている。
「違うぞ遙奈、悪いのはこんな世の中にしちまった俺たち大人だ。お前のせいなんかじゃねえ。義明やお前は必要とされてるんだ、だから自分を傷つけることなんかねえ、」
 ふ。
 遙奈が笑う。大人びた目が別人だ。
「そうよ。必要とされているのよ、私は」
 女としてね。 「ウフフフ」
 なら義明は‥‥‥
「義明は誰にどう必要とされてるっていうのよ」
「遙奈ちゃん!」
 抱きしめる由衣を遙奈が突き放す。
「触るんじゃねえよ!」

 ストレッチャーが次々と患者を搬送していく。
 命を救おうとする者と、生と死の狭間で生きようとする者が行き交う。
 こんなにも懸命に祈ったことなどなかった。
 こんなにも神さまにすがったことなどなかった。
 こんなにも神さまを求めたことなどない。
 どうしてこんなに辛い試練を与えるのですか。
 不義な私を試みるために、義明を選んだのですか。
 聞こえるのは自分の声だけ。
 神さまは答えてくれない。


 淳と浩一郎が到着してすぐ、医師が現われた。
「ご親族の方ですね」
 中年の医師が乱れた髪を搔き上げて言うと、若い医師はすぐ先の部屋のドアを開け入るように促す。
 朱い西日が眩しい。
「おかけください」
 若い方がカーテンをひく。五人はパイプ椅子に座った。
「危険は脱しました。その点についてはご安心なさってください」
 待ち兼ねたように医師は言い、執刀医であることを告げるのと同時に、レントゲン画像をシャウカステンにセットし、
「出血や損傷の所見は……」
 数枚の画像を丹念に見て言った。
「頭部は問題ありません」
 若い医師は手早く画像をく外し、新たにセットする。
「こちらは脊髄の画像です。脊髄の一部、腰椎に損傷が見られます。ここです」 損傷部を差し示してがら、ひとりひとりを見る。
 淳は画像を覗き込みながら訊く。 「損傷とはどのような」 
 医師は画像の一点を指し示し、
「ここに骨折が診られます」
 左大腿骨は俗に言うヒビ。左上腕骨は単純骨折で特段問題はない。
「問題はここ、腰椎の骨折です」
 ようやく落ち着いた医師の声音が、オクターブ低い。
「脊椎はダメージを負うと厄介なのです」
「厄介?」
「脊椎は中枢神経系のひとつで、頸椎や胸椎など脳に近いほど、重い障害が出現する傾向にあります。義明君の場合、脳から比較的遠い腰椎になるので、頸椎や胸椎ほど重度の障害は残らないでしょう」
「障害が残るのか」
 誠治が言う。義明が負った事実を認めようと。
「現時点でどのような障害が残るかは、はっきり申し上げられません。しかし、さきほどお話ししたとおり、頸椎ほど重いレベルの障害を負うことはないと言えるでしょう。例えば、」
「軽けりゃ安心重けりゃ気の毒、レベル云々の問題じゃねえだろ」 
 講義のような言い方が癪に障る。
「言葉の理解や表現、意思の疎通に不自由を来す障害は残らない、と思っていいしょう。最も危惧されるのは運動神経系の障害、対麻痺。俗に言うところの下半身不随です」
「義明が障害者に‥‥‥」 
 ひとり言のように遙奈が言う。
「障害者といって特別視される方もいますが、障害は少なからず、誰もが抱えているものです。障害は個性です」
 ようやく医師が人間に見えた。
「センセイの言うとおりだ遙奈、施設のみんなと会ってどうだった。変だったか? そんなことはない。寧ろ俺は、素直で正直な彼らが羨ましいし、尊敬してるよ」
 ・・・・・・・・・
「いちばん憐れむべき人間ってのは、障害がある人間でも病気の人間でもねえ。偏った見方をして人を審く奴だ」
 遙奈は小さく、だが、しっかりと頷く。
「神さまがお前の祈りを受け容れて最善を尽くした。分かるな」
「はい‥‥‥」
 崩れる遙奈のからだを由衣が抱き止める。今度は拒まない。
 医師が遙奈に顔を近づける。 「今日は念のために、集中治療室で様子を診るから。念のためだからね」
 遙奈は顔を上げずに頷く。
「ヘンな言い方して悪かったな」
 医師に向かって誠治は言った。
「義明のこと、頼むぞ」


「喫茶店で休もうや。おごっからよ」
 誠治が言うと、
「誠治さんがご馳走してくれるなんて最初で最後よ」
 由衣が明るく応じる。
「学生時代におごってやったのは誰だ。忘れたか」
「小っちゃい男。そういうこと言うからモテないのよ」
「んだと!?」 
「まあまあ、とにかく行きましょうか。目を醒ますまで時間が掛かるようですし。看護師にはわたしが伝えます」
 浩一郎がナースステーションに向かうと、由衣と淳は、遙奈の肩を支えて立ち上がった。
「遠慮なくご馳走になりましょ。ね」
「ああ。遠慮しないでいいぞ遙奈。由衣っぺ、お前は飲みもんだけだ」
「だからそういうこと言わないの」
「健康を心配して言ってやってんだろうが。腰回り見て見ろ。たるんたるん、」
「何チャックしてんのよ。キュッとしてるじゃ――」
 地階にある喫茶店は、三角形の吹き抜けの一辺にあって、病院であることを忘れさせる瀟洒なつくりだ。坪庭の築山が神奈川の象徴のひとつ、大山(おおやま)に似せて築庭(ちくてい)されているのが分かる。昼夜問わずに映える色を選んだのか、斜面に咲く桃色と紫のツツジが可憐だ。
「連絡はつきませんか。美幸さんに」
 浩一郎が誰にとなく言う。
「帰ってきません」 たぶん。
 帰れないかもしれないから適当に食べて早く寝なさいよ。あんたのせいだからね――。私が誘いに乗っていたら今日のうちには帰れた。でも何が、 「あんたのせい」 だ。嬉しいくせに。
「連絡入ってねえのか。母ちゃんから」
 誠治に促されて遙奈が携帯を見る。
 母、母、母母母――、
「!?」
 南、
 “明日は必ず来い ” 
「入ってませんっ」
 慌ててフリップを閉じるのを見て、誠治が言う。
「しばらく、入院だな」 何かあったのか――。訊ける空気ではない。
「これからが大変ね。付添いとかいろいろ」
「私が看ます」
 遙奈が宣言するような言い方をする。 「弟は自分が守る。」 とも、 「母親になど頼らない。」とも聞こえる、強い意志が伝わる。
 それだけではない。 「地獄から逃れられる――」 という思いが遙奈の中で渦巻いていた。
「学校があるでしょ」
「父さんが看るから学校に行きなさい」
 学校どころじゃねえだろ、誠治は言葉を飲み込み、
「母ちゃんが看るしかねえだろ」
 抑揚を込めずに言った。
「僕が看ます。退院するまで」
「そうはいかねえって」
 離婚したとは言え家族。淳には頭が下がる。問題は遙奈だ。こんな時だからこそ、 “敵 ”を愛する勇気を持ってほしかった。
「母ちゃんに任せろ」
「暴力で服従させるような人に任せられません」
 山形に居た頃の遙奈は、人を非難するような子ではなかった。美幸に任せたのが、親権を譲ったのが間違い。そう思わせない為に何をするかだ。 「父さんがしっかり言って利かせる。だから遙奈は、」
「言って利く人なら義明は死のうとしなかった、どうして分からないの!?」
 遙奈は言い、テーブルの上に封筒を置く。細く小さく書かれた 「遺書」 という字に四人は目を見張った。
「義明‥‥‥」
 恐る恐る淳は遺書に目を走らせ、
「先生」
 浩一郎に渡す。
「俺たちも読んでいいか」


  遙奈お姉ちゃんへ

  もう無理。疲れた。
  お姉ちゃんを一人にしてごめんね。
  ぼくを、山形に連れて帰ってください。 


 余りに短かい思いの詰まった遺書だ。
「母ちゃんのことが書いてないな」
「限界だったの。いじめと、あの人に」
 義明が死のうとしなくてもいずれ私が死のうとしただろう。確実な方法で。すべてを吐露して。
「僕のせいです。僕がしっかりと向き合っていれば、」
「分かったようなこと言わないで! ぜんぶあの人のせいよ!」
 誰にも言えないようなことを、私はされてるの! 
「気持ちは分かるがね、」
「分かってない! 義明が電車に撥ねられたと聞いた時お父さんは、どんな事をしてでも助けたい、助かってほしいと思ったでしょ。私は義明が助かっても助からなかったとしても、出来ることを全部してやりたいの! だから義明は私が」
 遙奈の泣訴はつづく。
「お願いだから連れて帰って。あの人にもこの町にも限界なの! 死んで訴えようとした義明の気持ちを、お願いだから考えてあげてよ!」
 由衣は頭を振る。
 弟を思う気持ちは分かる。だがすべての基は、 「神が喜ばれるか」 にある。遙奈なら分かっているはず。自分を神の敵としていることを。
「お母さんも弱い人間なんだ。お母さんの気持ちも考えてあげてくれないか」
 何言ってるの!? 遙奈が目を剥く。
 弱い人間が下劣極まりないことを我が子に、
「冗談じゃないっ!」 
 嵐。
 坪庭にライトが灯っている。築山の山襞に落ちた葉が、身をくねらせては裏返る。風が強くなっていた。
「食っとけ。義明を看るんだろ」
 誠治がサンドウィッチを押しすすめる。 
「いりません」
「お前がいらなくても体は欲しがってる。いいから食え」
 体――裸を晒している気になる、
「いらないって言ってるでしょ!」
「無理にすすめないで」
 遙奈の横顔が蒼い。
「おい」
 遙奈が駆け出した。 
   
「聖書は、読んでいますか」
 由衣に伴われて戻ってきた遙奈に浩一郎は声を掛けた。カウンセリングの時と同じだと由衣は思う。
「いいえ」
 肩を落とす浩一郎に気づいて、
「捨てられてしまって」
 遙奈は言い継ぐ。
「お辛いでしょう。聖書のない生活は」
 浩一郎にとって死を所望する信徒を育て、救えなかった過去は、牧師を辞す
ることさえ考えた最大の後悔である。
「はい。とても」 
 期待していた返事に浩一郎は、ビジネスバッグのファスナーを開け、
〈私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者です。〉
 祈りを捧げて、
「使い古しですが、差し上げましょう」
 聖書を差し出す。
「困ります。先生の聖書を頂くなんて」
 唐突な出来事に遙奈は慌てた。
「教会に戻れば何冊もあります。次回伺うときには、新しい聖書をプレゼントしましょう。お二人に」
「よかったわね、遙奈ちゃん」
 聖書を手にして気づいた。物心ついた頃には、当然のように、傍らに聖書があった。読みたいと思った時になかったことが、自分を更に苦しめていたのかもしれない。
 窓辺に向かい空を仰ぎ見る。
〈主は直ぐな人たちのために、光をやみの中に輝かす。〉
 そう、神は人の光。やみの中に輝く光は、私たちを見放さず、私たちを捨てない。
 そのことに気づいて振り返る。
「先生」
 みんなのあたたかな笑みがある。
「どうもありが、」
 あ、
「遙奈ちゃんっ」
 ふたたび吐き気が襲った。



     八

  
 村瀬先生は、礼拝と講演の予定があって、山形に帰って行った。明日は日曜。多忙のなか駆けつけて下さったことが嬉しくて、私は泣いた。後部座席で。誠治さんに気づかれないように。アパートに着くまで。 
 入院生活に必要なものを手早く用意し、無駄を承知でメモを残して、病院に引き返す。
 どうして母親が来ない――。みんな思っているのに口にしない。私がふつうでいられなくなることが分かっているから。
 義明の意識が回復したことを告げられ、看護師に伴われて、集中治療室に入ったのは深夜。
 顔を歪めて朦朧とする義明の手をつつむと、父はベッドに突っ伏して声を上げて泣いた。
 しかめた顔の義明の口が、微かに開いた。
 聞き取ることが出来なくて、遙奈は顔を近づける。
「なあに?」
 眩しそうに目を開けて義明は言う。 「いま何時?」
 同じ部屋で過ごした頃と同じ返事だ。
「夜中よ。もう少し寝てなさい」
 返事のかわりか、意外にも力強く手を握り返し、義明は目を閉じた。
 集中治療室を出た私たちは――遙奈と淳、由衣と誠治――ソファが並べられた仮眠フロアに通された。たぶん一、二時間もすれば夜も明けるはず。みんな目をつぶってはいたけど、眠っていないのは分かった。
 慌ただしい足音で、朝を迎えたことに気づいた。
 看護師が朝食を摂るように勧めてくれたけど、神経の高揚だけでない不調で、食欲などない。三人も同じように断わった。私とは違う理由で。
 トイレに行くと言って席を外した誠治さんが、
「取りあえず、何か腹に入れておかねえとな」
 四人分のトマトジュースを手に戻ってきた。この心づかいが、施設の子どもや親たちから慕われる理由なのだ。きっと。
 ジュースを胃に注ぎ込んでいると、けたたましいハイヒールの音が安らいだ気持ちを邪魔する。神経が鈍っていた私たちは、音のする方向に重たい頭を無理矢理向けた。

「義明! 義明はどこなのっ!」
 美幸の視線が、遙奈と由衣以外の二人、誠治と淳を捉えた。
「何であんたたちがいるのよ」
 何かを口にしかけた淳より早く、
「静かにしなよ、事務員」
 ゆっくりと誠治が立ち上がる。三人は唖然として二人を見た。
「淳さんは仲間、由衣っぺとは昔からの知り合い。遙奈ちゃんとは友だち。友だちの弟だ、心配にもなるだろ」
「だったら何よ。あなたがくる所じゃないの、関係ない人は帰って」
「美幸っ」
「気安く呼ばないで。あんたも帰るのよ。ほら」
 淳に向かってハンドバックを振りやり、美幸は嫌悪感をあらわにする。
「みんな義明を心配して昨日からここにいるのよ!」
 義明に死を決意させたのはこの女。遙奈の怒りが沸点に向かう。
「それはご苦労様。 『唯一』 の親の私が来たんだからもう大丈夫、どうぞお帰りください」
「何が親よ! あんたのせいでみんなが苦しんでるのが分からないの!」
「親に向かって何てことを」
「親なんて思ってない!」
 美幸は奥歯を噛みしめたかと思うと、遙奈の頬をしたたか打った。
「何すんだ事務員」
 誠治が美幸に詰め寄り、睨み返す遙奈の肩を由衣が抱く。
「冷静に話しができないのか。君は」
「今さら父親づらする気? 旦那づらか。我が家とあんたとは何の関係もないの。帰って。消えて」
「お前えこそ帰れ!」
「遙奈ちゃん!」
 掴みかからんとする遙奈を、由衣が全身で止める。
「義明が生きるか死ぬかっていうときに」 アイツと。
「あら。もしかして妬いてるの?」
「バカなことを」 
 表情だけで何を考えているのか分かったことが悔しくてたまらない。顔を歪める遙奈の耳元で美幸が囁く。
(よかったわよ。うふふふ)
「笑いごとじゃねえだろ」
 たまらずに誠治が言う。
「だって、ねえ遙奈さん」 
 二人にしか通じない会話だ。
「消えろ! 死んじまえ!」
「よさないか遙奈、お母さんにはお母さんの事情がある。どうしてそう考えられないんだ」
「どうして庇うのよ!」 
 庇うくらいなら離婚することなんてないじゃない。遙奈は背を向け、由衣の肩に額を押しつける。悪者にされた気になる。
「君は母親であり大人なんだ。子どもを教え導く責任を、怠ってはいけない」
「責任? そんなこと考えてる大人がどこにいんのよ。バカバカしい」
「居てもいなくても、子供たちの身に置き換えて、真剣に考えてほしいんだ。今のままでいい筈がないよ」
 父親の冷静な言い方がもどかしい。
「悪魔に何を言っててもムダよ!」
「んまあ。何て酷いことを言うんでしょう、この子は」
 美幸が猫撫で声で言う。
(あなたに私を責められます? いっしょに楽しんだじゃない)
「やめてえっ!」
 遙奈が耳を塞ぐ。ここまで堕落した人間だとは‥‥‥
「みんな取るものも取り敢えず駆けつけてくれたんだ。君にだって分からないわけはないだろ」
「あら、おかしくない? 私にも事情があるってたった今言ったばかりじゃない。私にだって事情があるの」
「本当にそう思ってるなら読んで!」
 美幸の胸に封筒を押しつける。
「遺書?」
 美幸が首を傾げる。言葉の意味さえ分からない、そんな様子だ。
「メモには危篤だとしか」
「死のうとしたの。電車に飛び込んだの!」
「えっ!?」
「命は取り留めた。眠ってるよ」
 淳に支えられてようやく立っている美幸に、遙奈は言う。 
「私だって何度死のうと思ったか分からない。楽になれるなら死ぬことなんか何でもない、怖くないの。
 義明もそう思ったから自殺しようとしたのよ。親ならそんな子どもの気持ちに気づくでしょ。義明がいじめを打ち明けたとき言ったよね、 『義明にも原因があるんじゃないか。』 って。
 そのひと言がどれだけ義明を追い込んだか、そんなことも分からないの? あんたがね、義明に死を決断させたのよ」
 この人とは終わり。その思いが遙奈を冷静にさせた。
 美幸の指が遺書に触れる。
「メモ書きでも折文でもねえ。息子の最期の意思だ」
 誠治の言葉に反応したのか美幸は遺書をしまった。
「そろそろ義明が目を覚ます頃だ。俺が言うのも何だが、息子を安心させてやるのが母親の務めだと思うがな」
 音もたてずに、美幸はナースステーションに向かう。
「なあ、事務員」
 美幸が立ち止まる。
「山形に帰してやれよ。思い通りにさせてやるんだ」
「関係ない人は黙ってて。責任持って育てますから」
 振り返らずに答える。
「責任持って仕事しようとしない人間に何の責任が負える」
 誠治の哀れむ目が赤かった。
 


    九


 燦々と降り注ぐ日の光りが懐かしい。
 洗濯を済ませたらすぐに戻るつもりだった。だけど、口をきこうとしない、二人に会うのは気が重い。百八十度変わった生活にも疲れた。
 明日義明は一般病棟に移る。やる事は大して変わらない。日中付き添う遙奈の代わり。私にできるのはナースコールを押すことくらい。夜勤の看護師は、仕事の邪魔、居ない方がいいと思ってる。分かってる。私だってそう思う。
 こんな生活がつづいたら私だって死にたくなるかも。
 携帯を開く。
【伊達景子(けいこ)
 どうしよう。尻尾を振る犬じゃあるまいし。下女じゃないんだから‥‥‥景子の旦那は玉田の高校時代からの親友。尚更気が進まない。
「ウチのこと、聞いてる?」
 でも他にいないのだから仕方ない。話す相手が。
「少しだけ。大変だったわね」
 少しだけしか聞かないで、どうして分かる。
「それより久し振りね、何年、」
「それよりって何っ」
 景子は昔からこう。人のことは後回し。電話なんてするんじゃなかった。
「それでどうなの? 義明くん」
 ふう。 「お粥だけど、食事も摂れるようになって、安定してる。手を借りれば車椅子にも乗れる。だけど‥‥‥」
 ふつう訊くでしょ。 「だけど何?」 とか。だから景子とは友達になれなかったのだ。
「だけど口きいてくれないの」
 ? 子供みたいなこと言わないで。言葉を飲み込む。 「そうなの」
「南田も、最近冷たいし」
 彼も私もお互い独身。隠すことではない。
「部長になったっていう彼ね。美幸が、」
 冷たいから冷たいじゃない? 言い掛けて取り繕う。 「美幸からアタックしてみれば」
「アタック!?」
「結婚よ」
 たまには景子も良いことを言う。アリかも。南田だってもう五十五歳、将来と老後のことを考えていないわけではない。
 景気の回復が見えてきたら、商売を始めるつもりだ。室外機の台座の販売価格ばたったの三桁、加えて半一生モノだ。しかもコンクリートのリサイクルは、原発の次に立ち遅れていると言っていいくらいだ、ソコに目をつけてね――。
「でも結婚しないといけないって時代じゃないし」 
「本気じゃなかったの?」
 まただ。アタックとか本気だとか、いつまで女の子みたいなこと言ってんのよ。
「もちろん本気。ただ結婚はこりごり。彼もたぶん望んでないわ」
「恋人じゃなかったの?」
「恋人!?」
 美幸がけたたましく笑う。
「だって一緒に泊まったりしてるって言うから」
 美幸は昔からはこう。肝心なことは話そうとしない。と言うより、自分が考えてることは相手も考えていて当然と思っているのだ。
「彼も私を恋人だなんて思ってないわ。有益なパートナーね。メンタルヘルスにもいいし」
「そんなあ」
 子供がいるのに、どうしてそんなことが言えるの?
「男と女ってそんなものでしょ。お互いにメリットがあるから付き合うんじゃない。損だと分かっていて付き合う? 結婚する? しないわよ」
「ちょっと待って。なら、そんな気持ちで淳さんと」
「答えてない。健吾さんに将来性を感じたから結婚したんでしょ、要するにメリットを感じたから」
 納得するまで容赦はしない。いつからこんな人になったのだろう。
「損得で淳さんと結婚したのっ」
 私だって昔とは違う。変わったの。答えなさいよ。
「そうねえ。周りの娘が次々と結婚してくし、年齢的にいいかなって思ったから。ま、結局は将来性に賭けてみようと思った、そんなとこかな。失敗だったけど」
 結婚は愛し合ってするもの。ずっと一緒にいたいからするもの。だから誓えるのよ、永遠の愛を。
「将来性とか損得とかじゃなくて一緒に居たいから結婚するんでしょ。だから幸せなのよ。何よ」
「そんなの居るわけないじゃない、笑わせないでよ。幸せな夫婦なんて見たことある? ないでしょ」 ばーか。
 そんなことない。幸せだもん、私。
「もしもし?」
「子どもたちが可哀相」
「何? 電波悪いみたい」
「子どもたちが可哀そうよ!」
 どうしたのかしら景子。何かヘン。
「結局は運なのよね。子供は親を選べないとか言うけど、親だって子供を選べないんだから。運よ。結局」
 誰の口が言ってるの?
 昔の美幸は、人を不快にさせるようなことは言わなかった。そんなこと一度もなかった。大学時代の美幸を知る人は皆、良い印象しかないはず。
 テニスと勉強を両立させ、みんなの尊敬を集める憧れの美幸はどこに行っちゃったの? どうしてそんなに変われるの?それとも‥‥‥前からそんなふうに考える人だった。
 違う。違うよね、ぜったいに違う。
「人生って、良い事と悪い事がバランスよく巡ってくるのかも。これからが大変なのよ」
「そうね。辛いわね、義明くん」
「私も辛いのっ」
 辛いのは私、酷い目に遭ったのは私の方。そんなふうに聞こえてしまう。
「脊髄の損傷って、話せなくなったり、首から下が動かなくなるって聞くけど義明くんは、」
「腰から下が動かないだけよ」
 不幸中の幸いみたいに言わないで。実の子どもよ。
「山形に戻りたいって。玉田と暮らしたいんだって」
「子どもたちにとって故郷だもの。懐かしんでるだけよ」
「私には嫌な思い出しかない」
「美幸にとってはそうかもしれないけど」
「うんざりなのよ。何で山口出身だからってよそ者扱いすんのよ。土地柄? 訳わかんない」
 きっと私にもうんざりなのだ。話してさえいれば美幸は満足。聞き役に徹するしかない。
「仕事の方は大丈夫? 長引くんでしょ?」
「問題ないわ、彼がいるから。落ち着くまでしっかり看てやりなさいって、言ってくれてる」
「ゆっくり看てあげるといいわ。落ち着くまで」
「落ち着いたら返すの」
「……え」
「玉田に子どもたちを返すの」
 初めから淳さんの元にいれば。とても言えない。
「決めたの?」
「三年も経つのにお父さんお父さん、山形山形ってしつこいの。いっそのこと好きにさせようと思って」
「後悔、しない?」
「分かんない。返してもいないのに」
 後悔なんてするわけないじゃない――。杞憂だったようだ。
「そうよね。分からないよね」
「‥‥‥」
「大丈夫?」
「疲れた」
「子どもたちと一緒に居たいんでしょ? だから東京に出て、子どもたちのために頑張ろうと思ったんでしょ。よく考えた方がいいわ」
「頑張ったわよ。頑張ったって玉田と暮らしたいって書き残して死のうとしたのよ。仕方ないじゃない」
 だとしてもこんな形で別れたら一生後悔する。美幸が変われば子供たちも変わる。一緒にいたいって言うに決まってる。
「義明くんの思いを大切にしてしっかり向き合うの。ちゃんと話し合わないと後悔、」
「無理。障害者となんて暮らせない」
 えっ!?
「本気で言ってるの? 健常者も障害者もないわよ、同じよ」
「ぜんぜん違う。お風呂に入れてオムツ替えて、何をするにもどこに行くにも一生一緒。三年間ひとりで頑張ってきた苦労が水の泡、全部パー。何もこれからっていう時に自殺なんかしなくても――」
 美幸だって他の親と同じように授かった命、生まれてくる命を、生まれてくれた命を、大切に育もうとしてきたはず。なのにどうして……。
「それによ。いくら国語が苦手でも母親の名前くらい書くでしょ、ふつう。遺書なんだから」
 憧れていた美幸はもういない。
 でも、やり直すことは出来る。美幸にその気さえあれば。
「お願いだから、これ以上人を傷つけるようなことはしないで」
 景子は、 「命を傷つけるようなことはしないで」。 思いを言い換えて言った。子供がいないからこそ、 “命” そのものの等しさ、重さが分かる。胸を張って言いたかった。
「‥‥‥」
「美幸?」
「分かったような口利いてんじゃねえよ! 産んだことも孕んだこともねえくせによ!」
 もしもし?



     十


「敏之さん」
 寝息をたてる南田の背中が若い。職場では呼べない言い方も、ここでなら憚らずに言える。口にするたびに美幸は、幸せを感じる。
「敏之さん」
 南田は半身を向け、美幸の髪に手を置く。
「何とかならない? 下村のこと」
 美幸は誠治を退社させるよう、再三懇願している。
「どうにかして」
「そうは言うがね」
 ふたたび背を向ける南田に美幸は、
「あら。いつから味方になったの」
 拗ねた言い方をする。
「客ウケはいいし、勤務態度に問題はない。上の連中は本社に異動させようとしているほどだ。無理な相談だな」
「そこをあなたの力で」
 美幸は言い、南田の胸に唇をあてる。
「下村をクビにして戸沢を残せと言うのか。そんなこと出来る筈がないことくらい、君にも分かるだろう」
 所帯持ちの戸沢には気の毒だが、確かにそうだ。どちらを解雇するか選べと言われれば、十人中十人が、迎合してしか生きられない戸沢を選ぶのは確実。 「でも私にとっては、」
「はっきり言うが、わたしは組織人として下村を評価している。君は戸沢と同等の評価だ」
「ちょっと」
 美幸が体を起こす。
「子どものことで迷惑掛けたから? それにしても同じなんて失礼よ」
 南田は乳房を仰ぎ見、手を伸ばすと、
「子供の事は関係ない」
 指先で乳首を転がす。 (大きくなった。二年前より)
「私のどこに問題があるの?」
「問題ない」
 乳首を口に含む南田を正面に向かせ、美幸は食い下がる。
「はぐらかさないで」
 戸沢と同じ? 納得できない。
「自分に問題がない、そう思っていることが問題なんだ。どうして気づかない」
 男を熱り立たせて言われても、何の説得力もないわ、
「誰にだって欠点の一つや二つあるわよ、何が問題なのよ」
「言わなければ分からない。戸沢と同じだな」
「訊かないと分からないことだって有るじゃない」
 南田は溜息を吐くと、
「自分を省みず、物事を、自分を基準にしてしか考えられない。いや考えない」
 仰臥になって、つづける。
「言わずもがな、君らに問題を感じているのは、わたしと上の連中だけではない。分かるね。客が問題視するからわたしたちに苦情がくる。それをぎりぎりのところで処理し、顧客と君たちを会社に繋ぎとめているのが下村。勘違いにもほどがある」
 ・・・・・・・・・
「一緒に見てたの、戸沢と」
「瓜二つだよ」
 南田は言って体を起こす。
「もう会わない」
「何言ってるの、散々利用しておいて」
 無理やり男根をつかむ。
「利用? 人聞きの悪いことを言うんじゃない。わたしは期待、」
 口に含み動かす。硬直した蛇が浮かぶのはいつものこと。コッチなら遙奈になんか負けない。
「わたしは、期待していた、だから君の我がままにも、付き――、付き合っ」
 仰向けにして、
(ここでしょ)
 反り返った男根の、南田が悦ぶスポット一点を攻める。
「我がままにも、つき合っ、てきた。だが君は期待を裏、裏切りつづけ」
「この子は素直なのにねえ」
 言って巧みに舌を使う。口をつぐんだ南田はされるがままだ。潤う美幸の泉が溢れ出す。
「満足させてるでしょ。い・つ・も」 
 南田に跨り男を導く。 「ぜったいに離さない」
 と、
「もう終わりだ」
 メガネを外した南田の目が細いことに、美幸は初めて気づいた。
「何を言ってるの」
 続けようとする美幸を寝かし、
「もう会わない」
 南田は言うが、付き合ってあげたのはこっち。言ったらもう終わりだ。
「みんなあなたの為を思ってやって来たことよ。下村が獲ってきた新規さんに根回して、強引にあなたの業績にしたのは誰? 出張費や宿泊費の上乗せに応じたのは? あなたが望む時に会って尽くしてきたし娘まで、」
「すべて自分の為にやってきたことだ。君自身がいちばん分かってているじゃないか」
「一からやり直そうと思ってるの、だから、」
「面接の時にも言った。 『子ども二人を養っていくためにイチから頑張る。人生をやり直したい』 と。
 君の頑張りとは、家族を出汁にして、自分が得をしようとすることだった。何をするにも見返りを求めているとしか思えない」
「それなら、そう言ってくれれば」
「家族を盾に生き易いように生きる者は、信用を失う。私利私欲を常とする者は、どれだけ富を得、豊かになっても決して満たされない。周りの人間の為に生きようとすることだ。得をしたいのならね」
「独身のあなたに何が分かるの」
 ふ。
 南田は鼻先で笑い、
「それが家族を出汁にするという事なんだがな」
 自分で靴下を履く南田が小さく見える。
「邪魔になったんだ、遙奈とつづけるのに」
 ――いい娘を産んだな。男を悦ばせる為に生まれてきたような娘だ。遙奈は。
「ばかばかしい」
「捕まるわよ。そのうち」
「呆れてものも言えない」 
「誤魔化すつもり?」
 火を点けたばかりのタバコを灰皿に押しつけ、南田が腰を浮かせる。
「ほんとうに終わりなの?」
「男と女の関係は絶たせてもらう」
「そんな」
 半身を起こす美幸を見ずに南田が言う。
「職場に残りたいのであれば本気になりなさい。姿勢次第では、評価を改めないでもないから」
 初めてかもしれない。上司らしい言葉を聞くのは。
 裸の身体を隠すように夜景に目をやる。背比べする、高層マンションしか見えない。
 みんな自分のために生きてるじゃない――カーテンの向こうで演じられる、団欒がいとわしい。
 ロックの解除音がし、
「もう誰も裏切ってはいけないよ」
 南田は言った。
 ドアの閉まる音が 「絶対に」、 と聞こえた。  
「初めてね。優しい言葉を掛けてくれるなんて」
 マンションが倒れるように美幸は横になる。
 耳元へつたう涙が、
「あなたの舌みたい」



    十一


 雨粒を弾く紫陽花の葉の向こうを、真新しい学生服を着た中学生が、数人単位で下校する。
 逃げるように帰っていたのか、義明。お前は――。
「下村、さん」
 助手席側から覗き込むように美幸が声を掛ける。
「今日も行くの」
「ああ。行かねえのか」
 誠治は目を合わさずに言う。
「行けないの」
「昨日も行かなかったろ」
 責めるつもりはないのは分かる。でも、
「私には私の事情があるのっ」
 とやかく言われる筋合いはない。
「お疲れ」 誠治がエンジンをかける。
 お前の話など興味ない? いつもこう。これで客から信頼されるのだから不思議だ。
「迷惑なんだけど」
 なか高の美幸の鼻が膨らむ。
「来てほしくないの。義明のところに」
 ため息が出るのを堪えて誠治は言う。
「義明が言うなら行かねえよ。遙奈もな」
「私が迷惑なの」
「だから来ないのか」
 答えられないことを訊くな。

 窓から吹き込む風が髪にまとわりついて重い。国道に出ようとする慢性渋滞はいい骨休めだ。
「よし」
 信号で完全に停車すると、誠治は助手席の携帯に手を伸ばす。
 メールの受信履歴が四件。電話はない。数珠つなぎの車列の先を見、動かないのを認め素早く受信トレイを開く。
 村瀬由衣。昼休みに打ったのだろう。三件は小渕遙奈、長文に違いない。俺たちがいるんだ、忘れるなよ遙奈。
 ラジオのスイッチを入れ、FMの音楽に聞き耳を立てる。懐かしさを感じたのは束の間。エンディングだ。
 誠治は肩をすくめタバコに火を着ける。と、魂を呼び起こすイントロに体が揺れた。
 イーグルス。
 亡くなったメンバーの追悼番組だろう。歌に合わせて声を張る。
 限界に挑んでみるのも悪くないぞ義明、
「終わりなんてないんだ」
 車は流れ、高架下まで一気に進む。大型トラックが後輪を軸にきれいに左折し、茜雲に向かって吸い込まれるのがサイドミラーに映る。
 信号が変わる。
 丘陵地帯にに向かって、誠治はアクセルを踏みこんだ。


 外来受付のカウンターは暗く、売店は半分シャッター降ろし帰り支度をしていた。入院病棟に向かう廊下は、深夜より暗い。エレベータホールがアリゾナの瀟洒なモーテルを想起させ、
「エレベータは、冬の始発電車ってとこか」
 四階で降り、来院者ファイルに身元を記入し回れ右。
 南通路の中央には配膳車が置かれ、職員が忙しく病室を行き来している。
 ちと遅かったか。
「よっ」
 開け放たれたドアから顔だけを覗かせる。
「誠治くんお帰り!」
 遙奈から聞いたのだろう。施設の子どもらと同じ呼び方で迎える義明は、日を追うごとに笑顔が戻ってきた。
「買ってきたぞ」
 誠治はスナック菓子をかざす。配達の途中に駄菓子屋で買ったものだ。
「やったあ!」
 目の前の食事を押しのけ、義明は体いっぱいに喜びを表す。
 母親と同じリアクション。ただし小淵美幸の場合、苦渋の末に退社を決めた涙目の社員の前で。
「明太スナックだ!」
「コイツは触感が違うんだ。食い終わってからな」
 誠治が菓子を引っこめる。
「ええ~頂戴よお」
「だめだ」
「ごはんもちゃんと食べるからさあ」
「メシ残したら看護師が心配するし入院が長引く。後でだ」
 甘えた声を出す義明は、自殺を図ったことも、生死を彷徨ったことも無かったかのようだ。障害を負っている自覚さえあるように見えないほど明るい。問題は、
「長引いた方がいいの」
 遙奈だ。
「いいのってな」
「ここのごはん、味はしないしお粥なんだもん。食べた気しないんだよなあ」
 遙奈のことが気になりながらもつい、愚痴る義明に気がいってしまう。
「旅館じゃねえだから仕方ねえだろ。そうそう、明日来るって言ってたぞ。母ちゃん」
「最近来ないからちょっとだけ気に、」
「あんな人来なくていい」
「遙奈」
 施設にきた時には想像できない攻撃的暴言、 「お前こそ帰れ」 「悪魔に何を言ってもムダ」、 あれは何だったんだ。
 母親に対する積年の恨み。それだけで説明がつくか? 
 つかない。あの修羅場のような景での小淵美幸の耳打ちと微笑……、どうなってんだ、お前ら親子は。
「弟を思うのは結構だが、家と病院の往復だけで楽しいかよ」
 姉弟の絆は、遙奈が穏やかであってこそだ。
「学校には行きません。家で閉じこもっているよりいいでしょ」
「何も学校に行けなんて言っちゃいねえよ、行かなくたっていいさ。だがな、今のままじゃ何も始まんねえし何も解決しねえだろ」
 子どもに言うことではない。分かってる。だが母親を救えるのはお前たちだけで、母親が救われなければ、お前らも救われない。そんな気がしてならない。
「分かってます。でも‥‥‥」
「でも何だ」
「いいです」
「話になんねえか」
(もう少しで解決の糸口が見い出されるかもしれないの) だから、
「もう少し時間をください。義明の傍に居てやりたいの」
 もう少しだけ姉らしく。中学生らしい、私でいさせて。
「そうしたいならすればいいさ」
 室内には、スプーンが食器に当たる音と、義明の咀嚼(そしゃく)する音が聞こえるだけだ。
「満更でもなさそうじゃねえか」
「食べ終わらなきゃ、食べられないからだよ」
 一生懸命。健気。そんな言葉が浮かぶ。今のままでいろよ義明。 
「とにかくよ。口くらい聞いてやれや。無理して話すこともねえが、意地を張って喋らないのはよくねえ。いじめをするヤツらと同じような真似はするな。逃げるんじゃねえ」
 遙奈はハッとする。いじめをする人と同じ? 頭を打たれたよう。
「土曜の夕方にまたくる」
 誠治は言って立ち上がる。
「もう帰っちゃうの?」
 しょぼくれた顔ができるようになれば安心だ。
「部屋の掃除に風呂掃除、洗濯もんが溜まってんだ」
「行くんですか。 “ふれあい学び合い”」
 引き留めるように遙奈は訊いた。
「ボランティア活動だよ」
「もちろんだ。仕事より遥かに大事だからな。何だ」
「いいですか。私も」
奇警な言動まで母親似。だが、誰かの事を思う遙奈と、自分の事を思ってする小淵とでは性質は反対の極。
「もちろん大歓迎さ。義明もたまには一人がいいだろ」  
「ぼくも行くよ」
「義明は無理よ」
「無理じゃないよ」
 義明は食い下がる。
「外出許可が出たら行ってもいいでしょ」
 (すが)るような目つきがいじらしい。もう死ぬことなど考えもしないだろう。遙奈、お前のおかげだ。
「許可が出ればな。そん時は三人揃って行くか」
「やったあ! ぼくお姉ちゃんのピアノ聴きたい」
 義明も同じだ。小淵美幸と。
「俺も楽しみだ」
「この間は途中で抜けちゃったから、もっとがんばる」
 堂々と言えるようになった遙奈が、ひと回り成長して見えた。
「お姉ちゃんのピアノってね、ほんとうに凄いんだよ」
「惚れ惚れするほどな」
 自分の足で歩もうとする姉弟。
 姉弟にしか感じ合えない絆を見た気がした。



    十二


 土曜日の外来診療は想像以上に混んでいて、うるさくてじれったくて、叫び出したくなるほどイライラする。
 幼稚園に通う年頃の子供が床に座ってぐずり、雑誌を開く親は知らんぷり。大人たちは神妙に目を閉じるか、楽しそうにお喋り。窮屈な椅子のせいもあってか息が詰まる。
 業を煮やした美幸は受付に向かう。
「いつまで待たせるのよ、いい加減にして」
 受付の順番待ちが躍起に輪をかける。
「お名前を頂戴できますか」
 冷静な言い方にも。
 ことさら低い声で名前を告げると、事務員は忙しく指を動かし、パソコン画面から目を離す。 「五人目にお呼びします」
「わざわざ電話まで寄越して時間指定したのはそっちよ。約束も守れないの!?」
 起因は約束を破った病院。私は間違ってない。だから周囲の目なんか気にしない。
「患者様の症状や検査の進め方よって順番が変わってしまうことも、」
「早くしろって言ってるんじゃないの。約束どおりに来たのに一時間以上も待たせて、 『おかしくないか』 訊いてるの」
「確認してまいります」
「答えなさいよ」
 若い事務員は逃げるように奥へ消えた。
 程なくして事務員と現れたのは、大柄体形の看護師。ナースキャップの三本線が威厳を表すかのよう。妙に目立つ。
「お呼びだてしておきながら、申し訳もございません。ドクターはいま、急を要する患者さまの診察を、」
「普通そういうこと考慮しない? するでしょ。有り得ることなんだから」
「おっしゃる通りです。今後十分――」
 鷹揚な口調と声音に、怒りが引いていく。母親ほど違う年齢のせいかもしれない。
「少し、お顔の色が良ろしくないようですね」
 看護師はカウンターを出て、
「念のため、処置室で看しょう。さ、こちらへ」
 美幸を誘う。
「大丈夫、結果を聞きに来ただけだから」
「放っておけないわ」
 看護師は美幸の肩に手を置き、さり気なく誘導する。
 断わる気が失せていた。嬉しくて。

 院内薬局を横切った十字路の先。通された処置室は、まるで会社の更衣室だ。
 皺ひとつないシーツの敷かれた半畳ベッドに事務机、他には手動式の血圧計があるくらいで、涼やかささえ覚える。患者を落ち着かせるためだろうか。
 小椋(おぐら)と名乗った 「三本線」 は、胸のバッジに書かれた 「看護部長」 の役職を鼻に掛ける様子もなく、
「特別に混み合っているようで、ほんとうにごめんなさい」
 砕けた言い方をする。
「病院の都合に合わせるなんておかしくない? 呼び出しておいて一時間以上も待たせるなんてあり得ないでしょ」
 下出に出たら負け。下に見られたら終わりだ。美幸はことさら驕慢に出た。
「もうお呼びできると思いますがここで少し、」
「横になるほどじゃないわ」
 ベッドに寝かせれば黙るだろう。分かり易いやり方ね。
「でも疲れがとれないの。ずっと。どうしてかしら」
 つい口が滑った。
「横になって。血圧だけでも計りましょう」
 されるがままベッドに寝せられ、ふくらはぎにマンシェットを巻いてた。
(断わりもなしに何よ) 文句を言う気も失せるほど、聴診器をつけた横顔が真剣だ。
「足で測るなんて初めて」
 返事を期待せずに言った。
「後腓骨動脈という血管で計りますね」
 落ち着かないとちゃんと測れないし顔を見たくないから足。好きにしてよ。
 奥まった窓際の通路では、看護師が忙しく行き来している。医療用具の触れ合う音が、怠っていた食器洗いを思いださせた。
「え!?」
 看護師がゴム球を握る手を止め、
「何よ」 
 美幸を凝視する。
「あなた、美幸ちゃんじゃない?」
 確かさっき、 「小倉」 って‥‥‥
 名札に目をやる。
 小椋千春(ちはる)
「美幸ちゃんでしょ? 宮城の大学でテニスをしてた」
「知ってるの」
「やっぱり。わたし景子の母です。小椋景子の」
「え?」
 景子のお母さんが、
「どうして私を」
「テニス部の寮で一度お会いしただけだから、無理もないわね。でもわたしはハッキリ覚えてる。変わらないわねえ」
 訪ねてきた記憶はある。でも顔までは覚えていない。
「どうしてここで」
「転勤。一言で言ったら」
 ひと言ですまかったのは、偶然が嬉しかったのだろう。
 山形の病院で働いていた景子のお母さんは、付属病院のここで看護部長をやるよう誘われたのだと言う。 「いい歳だけど、もう一度挑戦してみたくなったの」 
 急きこむような言い方に本心が伝わる。ポジティブな性格は景子とは真逆。嫌いじゃない。でも悪い思い出しかない山形の話は、聞きたくなかった。わざわざ宮城の大学に進学したことが、そもそもの間違いだったように思えてくる。
「まさか神奈川で美幸ちゃんに会えるなんて思わなかった。いつこっちに?」
「三年前に東京に出てきて、神奈川は二年になります」
 答えていた。過去はディレイト、消却したいのに。
「わたしも三年前から。ご家族は?」
「娘と息子、三人で」
 プライベートを明かすのは大嫌い。でもなぜか引き込まれてしまう。
「一人で見てきたのね。偉いわ。大学を卒業してからは山形? そう言えば健吾さんと淳さんは確か、」
 ――部長。順番です。
「今行きます。少し血圧が高いけど‥‥‥」
 千春は言いながら測定器を片づける。過去を蒸し返されずに済み、美幸は救われた思いだ。
「わたしもいい? 同席して」
「お願いします」
 どうして? 素直に口にしてしまうの。


「部長もご一緒ですか」
 X線画像を見ていた医師が驚く。景子のお母さんは相当の地位にあるようだ。
「ええ。娘の親友なの」
「ご家族は? ご連絡した筈ですが」
 ドアに目をやる医師の姿が演技に見える。
「いません。何でも話してください」
 医師は答えずに椅子を勧め、
「本来であれば、ご家族にお話した上で、あなたにお伝えするべきなのですが」
 目を逸らさずに言った。
 聞こえなかった? 何でも話してって言ったわよね。そんな事を考える余裕は数秒で消えた。
 時間指定の呼び出しに加え、家族の同行がないことへの不満。ある程度の覚悟はしてきたつもり。だけどやっぱり‥‥‥やっぱり怖い。
「大丈夫?」
 目の前にお母さんの笑顔。
「はい」
 結果次第。
「ではお話しします。病名は乳がん。右乳房に癌細胞が認められ、レベルはステージⅡa。つまり、しこりの大きさは二センチを超えているが転移は認められない、といったレベルで十分に全治は望める状態です」
 ・・・・・・・・・
「よろしいですか?」
 何でも話してくれと言ったのはあなたですよ? それにしても配慮に欠けすぎ。あっさりし過ぎよ。
「ええ」
 それが仕事なんでしょ。乳がんなんて今どき珍しくも何ともない。大丈夫。
「治療方法としては、手術で右乳房全体の1/3と腋窩リンパ節を切除し」
 !
「全部取っちゃうってこと!? そのまま残す方法だって、」
「あります。しかし小渕さんの場合、この様に腋の下に二箇所、それに鎖骨下と、リンパ行性転移を起こしやすい三か所に腫瘤が点在しているだけでなく、乳頭部付近への浸潤、」
 医師は言いさしシャウカステンをずらす。春陽の眩しさにではない、 「その目でしっかり見ろ!」 だ。
 がんと共に生きればいい。それだけの事。豊かとはいえないけど、おっぱいを失えば完全に彼との関係は断たれ、他の男も見向きもしない。喜びも味わえない。武器を失ったらもう‥‥‥人生終わりだ。
「美幸ちゃん」
 医師が二人を交互に見、口を開く。
「乳頭部を残し部分的に切除しただけでは、すべてのガン細胞を取り除けない。残ったガン細胞は、血液やリンパ管を介し肺や肝臓などの臓器へ転移し異常増殖……浸潤と破壊によって臓器は機能不全に‥‥‥骨や脳へ遠隔転移すれば神経細胞が犯され、堪え難い苦痛と認知症様症状を発現‥‥‥いずれ医療用モルヒネつまり麻薬を用いて‥‥‥
 がんの恐ろしさを知れ! 
 或いは 「オレの言うことを聞くしか選択肢はないんだ!」
 か‥‥‥。
「大胸筋と小胸筋を温存することで、乳房の変形と上肢の運動障害を抑えられます。手術と同時に乳房の一次再建、術後時期を見て二次再建を行うことでダメージを最小限に、」
「ダメージって精神的なショックのこと? それなら心配いらない、それより抗がん剤とか放射線だって、治療する意味はあるんでしょ。無意味ではないんでしょ? だったら」
「がん患者の中には、手術が出来ないで苦しんでいる人たちが大勢います。あなたは手術で十分全治が望める状態なのです。ですから――」
 飴と鞭? 諭すような言い方が腹立たしい。
「美幸ちゃん」
 千春の目顔が、 「他に方法はないのよ。」 と言っている。

 乳房切除
化学療法
抗がん剤
内分泌療法
ホルモン剤
  放射線療法

 遠くで聞こえる医師の声。
「そもそも、妊娠初期の薬物治療や放射線治療は、胎児に与える影響が大きく出来ないのです」
「‥‥‥妊娠って」
「お気づきでなかった」
「遅れてるか、終わったのかと」
 ひとり言のように言い、美幸は腹部に目を落す。
 今さら子供なんて‥‥‥どうしよう。
「十六週以降に手術を行えば、全治は十分に望めます。胎児への影響もありません、よろしいですね」
 よろしいわけない。忌むべき乳がんと喜ぶべき妊娠。対極する事実を同時に告げられて平静でいられるわけがない。誰だって混乱するに決まってる。
「仮に人工中絶されるのであれば、手術と同時に放射線療法を行うことで、胸壁やリンパ節への転移を防ぐ早期治療が可能に――」
 堕胎(だたい)すればいい。その方が得。
 得得得得、
「冗談じゃねえよ!」

「子供を殺せってのか? 命を救うのがお前ら医者の仕事だ、中絶なんて簡単に口にすんじゃねえ!」
「美幸ちゃんっ」
「お前みてえな奴をな、人でなしって言うんだよ、命を何だと思ってる」
「話しを聞きましょ、ねっ」  
「四十二歳という年齢はご承知のとおり高齢出産に入ります。小渕さんの場合血圧が少々高く、それだけでも出産には様々なリスクが伴う――」
「そんなに殺してえのかよ」 
 診察室が静寂に包まれる。不規則に波打つ心音と、隣室の濁声が届くだけで、香りさえしない。
「先生がいちばん良い方法を考えてくださるから、生まれてくる子供のことだけを考えればいいの。ね」
「ガンなんかどうでもいいんだよ」
「出産を希望するのであれば、尚のこと先ほど申し上げたとおり、」
「あなたが生きなければその子は死ぬの!」
 千春の目がお腹を見ている。
 手術を拒否するれば私は殺人者。私が生きなければこの子は……
「手術、受けるよ」
 この子は死なせない。この子にだけは嫌われたくない。
「手術します、だからこの子を守って」
「美幸ちゃん」
 医師が一瞬、目を瞬かせて言う。
「腕の見せどころです」
 千春の胸に抱かれてた。
「早くにご両親を亡くされて、一人でがんばって来たんだもんね。これからはわたしがお母さん。美幸ちゃんはわたしの娘よ。いい? 分かった?」
 医師がハンカチを差し出す。
「はい」
 千春さんが、お母さんが涙を拭ってくれた。
 私のお母さんが。



    十三


 山おろしの冷気がありがたった。
 帰宅した愛子の視線は、まっさきに壁時計にいく。
 十二時五十三分! まだ一時時前、目標クリア!
 脳梗塞で倒れたのが四年前。一人でリハビリに行き始めた二年前は、帰り着くまでに五十分。それが今では三十分、を過ぎたり切ったり。
 週三日、順路を変えてのリハビリが楽しくてしようがない。夏は少し、苦手だけれど。
 板張りの廊下に差し込む陽がやさしい。賑やかなのもいいけど、静閑な教会も、新鮮でいいものね。
「浩ちゃん」
 牧師室のドアを開ける。
 そうか。
 市内の教会間で行われる、講壇交換の打ち合わせに出掛けたのだ。
 ついでだから――ふだんであれば、キッチンと集会室のどちらからでも取り易い、子機を使うのだけれど――留守番電話のメッセージボタンに手を伸ばす。
 と、賛美歌の呼出音が鳴った。
「山形つぐみキリスト教会でございます」
「‥‥‥」
 カウンセリングの電話。しかも初めての相談。
 勇気を振り絞ってダイアルしてはみたものの、何からどう話してよいのか分からない、総じて深刻な問題に打ちひしがれている場合が多い。
「こんにちは。つぐみ教会の村瀬です」
 誰とも分からない相手に、やさしく話かける。
「ご相談の電話ですね」
 ・・・・・・・・・
「何でもお話しなさって。このままでいますから」
 あとは話し出すのを待つだけ。相手の気持ちが落ち着くまで。あるいは、切られてしまうまで辛抱強く。
「あのう」
 消え入るような声。反応が有ると無いとでは、こちらの気持ちも違う。 「はい」
「愛子、先生ですね」
 知っている方? 
「ええ。愛子ですよ」 「が」と 「よ」。 たった一文字の違いが、取り返しのつかない結果を招くことがある。
 訊きたいことより先ずは聴くこと。
 話し出すのを信じて待つ。祈って待つ。浩一郎と申し合わせたとおりに。
「お話しがしたくて。愛子先生と‥‥‥」
 聞き覚えのある声にハッとする。
「もしかして、美幸さん? 美幸さんね」
 推し量ってはいけないよ――。ごめんね、浩ちゃん。定石を破って喜んだりして。喜べないような事を話したくて電話してきたのに。きっと。
「美幸さんね」
 美幸とはクリスマス礼拝で二度、挨拶程度の会話をしただけ。でも間違いない、玉田、小淵美幸だ。
「どうして」
「とても優しくてきれいなお声だから。忘れないわ」
「愛子先生」
 美幸の声が詰まる。
「大丈夫よ」
 どなたかに留守番を頼もうか――。出がけに言った牧師の言葉を思い返す。浩一郎は待っていたのかもしれない。この日が訪れるのを。ずっと。
「どんな事でもお話しなさって。何も心配しないで」
「はい」
 素直な返事は迷いを絶ち切る、決意の合図。
 愛子は待つ。
「乳がんなんです、私」
 えっ!? 声を上げるのは喜びを共感するときだけ。ぐっと堪える。
「それだけではなくて‥‥‥」
 ガンだけでない!?
「他にも何か、お悩みを?」
「おなかに赤ちゃんがいて」
「まあ!」
 定法が吹き飛ぶ。
 禍福、明暗、吉凶。二十四時間絶え間なく起きる出来事のすべてが、主のみこころによる祝福と試練。だとしても、どうしてこのような事を‥‥‥。
「愛子先生‥‥‥」
 落ち着くのよ。言い聞かせてみても冷静になれない。慰めれば良いのか喜んで良いのか、分からない。
〈慈愛〉 牧師がよく使う言葉が浮かぶ。 「――神さまは、命と慈愛をわたくしたちに託し、わたくしたちを誕生させたのです」
 そう、私たちには慈しむ心が宿っているのよね。ただ心を開いて、
〈どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのときに示されるからです。〉
 向き合えばいい。浩ちゃん、ありがとう。
「お話して大丈夫? 寝ていなくていいの?」
「はい。少し疲れは感じますけど。大丈夫です」
 思い切って話したことで語気が明るくなった。話す相手がいなかったのだろう。
「そう。苦しいわね」
「はい」
 声が震える。当然だ。ガンと妊娠だけではないのだから――。
 義明の自殺未遂に端を発した子どもたちとの亀裂が、美幸を追い詰め、更に子どもたちに跳ね返って悪循環を生んでいる。そう由衣は言っていた。
 ことに遙奈に至っては美幸を、悪魔と罵り、激しく責め立てたと言う。美幸の変化と心の安定なしに、家族関係の修復はあり得ない。
「これから行こうかしら」
 カウンセリングの第一歩は受容。相談者が欲すのは変化。意識の如何に関わらず。
「え!?」
「もうすぐ娘が帰ってくるの。だから、行っちゃおうかしら。由衣と二人で」
〈だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。〉
 放ってはおけない。
「でも」
「会いたいのよお。電話なんかより会ってお話した方がいいじゃない? でしょ」
 本心だった。相対して話すのが会話。体温を感じながら話したい。ほんとうの信頼を築くために。
「美幸さんのご都合が悪いなら仕方ないけど」
「悪くありません。でも、遠いですし、今からでは遅くなってしまいます。それに‥‥‥」
「昔からね、冒険が好きだったの。夜更かし。いいなあ」
「あまり知られたくないんです」
「ああ由衣のこと? あの子がいないと遠出できないし、あの子なら心配ないわ。約束はちゃんと守る子だから。それと牧師には話すわね。黙って出掛けたら、焼きもやくから。うふふふ」
 ふふ。小さく短い笑い声。
 彼女も明るかった……。
 カウンセリングの翌日に命を絶った、女学生の顔が浮かぶ。彼女を救えなかった自分を責めない日はない。絶対にあの悲劇は繰り返さない。
「いいでしょ?」
「はい」
「じゃ行っちゃお。ああ、楽しみ。やだ、悩みがあって電話してきたっていうのに。ごめんなさい」
「いいです、私も、嬉しいです」
「嬉しいときは喜びましょ。神さまは、 『いつも喜んでいないさい』 っておっしゃるけど、そんなことが出来る人なんていないんだから。ね」
「そうですね。辛いことがあると、そっちにばかりに気持ちがいってしまって、嬉しいことさえ忘れてしまいます。嬉しいときくらい、喜んでいたいです、素直に」
 わたしは守る。小渕美幸を。命を賭して。心と精神を尽くして。


 愛子と由衣は、降車客の波が引くのを待って、改札口へ向かった。待ち人の多さに戸惑いながら、二人は美幸を探す。
「萌黄色のショートコートよ」
「コーヒーショップの前だったわね」
 コンコースの先に書店、旅行会社、店舗が並んでいる。
 愛子先生――。
 手を振りながら駆けてくる細身の女性は、
「美幸さんよ」
 二人は手を振り返して、美幸の元へいそいだ。
「覚えていてくれたのね、ありがとう」
 どこに悩みを抱えているのか。どうして子どもたちを虐げるのか。明るい表情の美幸は、悩みがあるように見えない。
「遠くからわざわざ、お疲れになったでしょう?」
「全然平気。景色を見て、ワイワイやってたらあっという間」
「先日はごめんなさい」
 美幸が由衣に向かって頭を下げる。義明が緊急搬送された時の非礼のことだ。
「混乱していましたから。お互いさまです」
「それよりお腹すいちゃった、どこかでお夕食にしましょ。ね」
 美幸が時折り利用するホテルに向かった。

「活気のある町ね。でもどこか懐かしさも感じるし、暮らしやすそう」
「出張のビジネスマンが多いんだって。駅から離れれば案外のどか。山形と変わりないわ」
 誠治の話の受け売りと、ひと月前に訪れたときの由衣の印象だ。
「この辺りは特別みたいです。同じ市内でも、都会寄りの町はまったく別世界だって聞きます」
 引っ越して二年が経つとは言え、美幸は市内のことにまるで疎い。
「こんなに立派なところ? 大丈夫かしら」
 ビジネスホテルなら予約なしでも平気よ。そう話していた二人は心配になる。誰もが耳にしたことのあるであろう、著名なホテルだ。
「駅のそばで助かるけど」
 僅か五分足らずの距離だでさえ愛子は、人の多さと歩き方と、障害物だらけの歩道に恐怖を覚えた。衷心から感謝したいが、
「わたしたちには敷居が高すぎ」
「以前泊まった (ビジネス) ホテルにいったん荷物を置いて、それからどこかで、」
「心配しないでください。会社の契約ホテルですから」
 会員カードを見せて美幸は支払いを請け負う。
「それは駄目。これから大変なんだから」
「嬉しいんです。ほんとうに気にしないでください」
 山形という言葉を使っても嫌な顔ひとつしないのだ、ほんとうに嬉しいのだ。
「じゃ、お夕食だけご馳走になるわ」
「お母さんっ。そんなこと言っちゃだめでしょ」
「いけなかったかしら」
「当たり前よ」
「いいえ、我がままだと思って私に任せて」
 美幸は笑顔を絶やさない。この人が子どもたちに‥‥‥同じことを繰り返し思ってしまう。ほんとうに信じられないのだ。
「からだの方は? 大丈夫?」
「ええ……」
 美幸は顔を曇らせながらも、訥々と話し出す。
 乳がんの治療のこと。
 十二週目に入った胎児のこと。
 そして、今後のことを。
「つまり安定期に入ってから胸の手術をして、出産してから本格的な治療をする。ということか」
 由衣は話を整理し自分で納得する。
「医師からは堕胎の話もされました。でも断りました」
 母親として生き抜く決断をした。そんな強い意志が伝わる。
「辛いのは、オッパイをあげられないこと」
 乳首をふくむ我が子と過ごす時間は、母子が愛を与え合う貴重な時間だ。ガン治療中の授乳は禁忌とは言え、自分のことのように愛子は切ない。
「問題は生活のことですね。治療中と出産前後の」
 由衣が話を切り替える。もっとも間近にある重要な課題だ。治療費や生活資金はもちろん、遙奈と義明の今後を見据えた生活を考えてやらねばならない。
「父親になる方はどう考えておられるの?」
「話して、いません」
「話してないって父親ですよ。美幸さんもだけど、生まれてくる子と遙奈ちゃんたちのことをちゃんと話さないと、」
「迷惑かけたくないんです」
「迷惑って、責任よ」
「由衣」
 熱くなる由衣を諫め、愛子は言う。
「自分だけであれこれ考えも仕方ないわ。不安もあるだろうけど、話さなければ、相手の方は分からないまま。喜んでくれるかもしれないじゃない?」
 希望的観測だ。理解を示すような男であれば真っ先に話し、共に喜びを分かち合っている。教会に電話することもなかったであろう。
「何度も考えました。でも、言わない方がいいんです」
 子を宿すまでの関係だ、他人の忠告など蛇足なのかもしれない。
「遙奈ちゃんと義明くんにはお話して?」
「知られたくありません。絶対に」
「ちょっと」
 由衣が口を挟む。言わずにはいられない。
「そうはいかないわ。ちゃんと話さないとダメよ。子どもたちに協力して貰わないとこれからが大変、」
「玉田に返します。玉田といた方がいいの。引き取るべきではなかったんです」
「そんなあ」
 頭をかかえた由衣が言い継ぐ。
「その気持ちがあれば、やり直せるじゃない……」
 言うのは簡単だ。だが美幸の負った試練は余りに重い。
「ひとりで病気と闘って、子どもを産んで育てるって言うの? 無理よ」
「冷静に話せないなら黙ってなさい」
 愛子は静かに咎める。
「助けてくれる人がいます。一人だけ」
(別の男か。) 
 由衣はいっそう憮然とする。
「どんな方?」
 カウンセリングであればこんな訊き方はしない。
「聞かせてくださる?」
 愛子は直感した。話したいから言い出したのだ。
「大学時代の友人のお母さまで、病院で看護部長をされている方で、
『お母さんと思ってくれていい』 『いっしょに暮らしましょう』 『どうせ単身赴任で一人だから』
 って何度も言ってくださる、ほんとうのお母さんみたいな人です」
「まあ」
〈神は喜んで与える人を愛してくださいます。〉
 見返りを求めないほんとうの愛だ。
「ぜんぶ話しました。包み隠さずぜんぶ。それなのに私みたいな悪魔のような女を娘だなんて……」
 試みごと全てを受け入れる。そんな方がいるなんて。信じららない。
「でも」
「でも? なあに」
「ご迷惑、掛けたくないから」
「また?」
 由衣が呆れる。
「迷惑だなんて思う人がそんな話します? 絶対にしません」
「ほんとうに娘だと思ってるのよ。甘えちゃいなさい、甘えるのも勇気よ」
 二人の目がやさしい。
「難しく考えなくていいと思うな。身近な人に頼るのは当たり前、遠慮されたら余所々々しくて身近に感じなくなっちゃう」
 早くに親を失くした美幸にはぼんやりとしか分からない。
「この子なんていまだに甘えっぱなし」
「お母さんだってお父さんに甘えてばっかりじゃない」
 こんなふうに言い合えるのが親子なら、
「甘えます。私。勇気を出して」
「そうそうみんな甘えたいし甘えられたいの、遠慮することないわ」
 二人とも嬉しそうだ。
「甘えを重ねるようですけど、遙奈と義明には……」
「今回は会いません」
「来るときに話したんです、遠慮しましょうって」
 共に山形へ帰ると言い出し、叶わないと分かれば、矛先が美幸に向きかねない。これでいいのだ。

 食事をすませた三人は、ふたたび小椋千春を含めて会うことを約束し、レストランを後にした。
「ホテルに泊まるなんて何年振りかしら」
「ゆっくりさせて頂くわ」
 駅までの道が近く感じる。
「お大事になさってくださいね」
 由衣はお腹を見て言う。
「この膨らみは脂肪、あんまり見ないで」
 美幸の笑顔が輝いている。
「牧師から言われたの。遙奈ちゃんと義明くんにって」
 愛子が浩一郎に託された聖書を手渡す。
〈自らすべき事と、神さまに委ねる事があるのです。〉
 信じればいいのね。主のお働きを。
「これは私から」
 出掛けに用意した聖書を、由衣が差し出す。
「私にも!?」
「美幸さんへのエール」
「ありがとう由衣さん、愛子先生。大切に読みます」
 何よりの言葉が返ってくる。
「幸せね。そんな方が傍にいるなんて」
「はい」
 小椋千春の慈愛が美幸を支えている。愛子はその事を知れて来てよかったと思う。心から。浩一郎への何よりのみやげだ。 
 牧師に礼を言うように言って、美幸はホームに向かった。
「大丈夫ね。美幸さん」
 美幸の後ろ姿を見ながら愛子は頷く。
「みんながついてますからねえっ!」
 由衣が叫ぶ。
「ありがとう、美幸ちゃーん!」
 負けないくらいの声で愛子も。
 泣き笑いの顔がこっちに向いた。聖書を高く掲げて。



    十四


「お前のおかげで早く終わりそうだ」
 手摺の取付けも和室を洋間にする内装工事も、健吾のおかげで計画通りに終わる目途がついた。リフォーム工事会社の営業所長も現場の下積みがあってこそ。さすがだ。
「俺じゃなくて美幸ちゃんだろ。礼を言うのは」
 バリアフリー住宅にすると言った美幸に助けられたのは事実。だが、その美幸が帰ってこないのだ。礼も何もない。
「義明も喜ぶ」
「いちばん嬉しいのはお前だ。顔に書いてある」
 一つの喜びに感謝することだ。村瀬先生の助言どおり。――すべてを同時に解決しようとせずに。
「あとは介護ベッドの搬入か」
「その前にリフト車がくる」
「そりゃいい。バカにならなかったろ」
 健吾が胸の前で指を、 “O ”の字にして上に向ける。
「中古の軽バンさ、それほどでもない」
「四人だったら3ナンバーのワゴン車を買っていたよ。」 「四人になったら買い替えるつもりだ。」 気安く言えたら、どんなに楽だろう。
「どうした。浮かない顔して。虚しい一人暮らしも終わるんだ、嬉しそうな顔くらいしたらどうだ」
「嬉しいさ。決まってるだろ」
「一緒に帰って来てほしかったか。美幸ちゃんも」
 健吾が壁を叩きながら笑う。土台となる横木に取り付けなければ、手摺の意味をなさない。口は動かしても手は止めないのが健吾だ。淳は答えずに、
「何か聞いていないか。景子さんから」
 別の事を口にする。訊こうと思っていたことを。
「随分前だが、まいってるとか、疲れてるみたいだとか、確かそんなことを言ってたような‥‥‥よし締めるぞ」
 ネジを渡すと、健吾はふたたび “壁 ” に向かう。
「支えてくれ」
「あれほど親権にこだわっていたのに急に、『早く引き取ってほしい』 『思うようにさせてやりたくなった』。 おかしいんだ、どう考えても」
「息子が死のうとしたんだ、おかしくはないだろう」
 ――もう無理。疲れた。山形に連れて帰ってください――
 遺書のことを話した時も似たようなもので、 「無理にでも引き取らなかったせいだ」
 健吾は僕と美幸を責めた。 
 取り付けた手摺に力を加え、強度を確かめる。
「よし、OK」
 言うのと同時に、
「ごめんくださーい、居るんでしょ」
 階下で声がした。
「景子だ。上がって来いよー」
 嬉しそうに健吾が答える。
「弁当を頼んだ」
 僕は見せたことがあっただろうか‥‥‥美幸は見たことがないのだ、嬉しそうに笑う僕を。ただの一度も。
「まあ! 上手に取り付けられたわねえ。褒めてあげる」
「まだまだにぶっちゃいないよ。トイレをやったら今日はお終い」
 女房の前では自慢したくなるものか。淳はそんなことを思いながら二人を見る。
「でも義明くんがいないのに大丈夫? 体に合うかしら」
「抜かりないって」
 健吾はインパクトドライバーのレバーを二度押し、
「な」  
 口角を上げ淳に向き直る。
「ああ」 
 身長、体重、座高、腕の長さに手の大きさ、リハビリの進行具合に至るまで、詳細は遙奈から聞いている。問題ない。
「中学一年じゃまだまだ成長するからな。合わなくなったら、また考えればいいさ」
「階段は上がれるの? 義明くん」
 健吾が淳を見る。
「今は無理だけど、本人の希望なんだ」
「義明ならきっとできるさ」
 障害が無くなることはないだろうが、
「帰ったら車椅子スポーツをやるって張り切っていてね」
 棒読み口調になったが、何かに打ち込もうとする義明の熱意は家族の希望、光だ。
「目標に向かってがんばる。若さね」
 若さが希望を欲した。そうかもしれない。 死を選んだ者が見つけた目標は、意味が違う。そんな気がする。
「お前の子だな」
 高校時代、駅伝の県代表だった淳は仲間はむろん、町のヒーローだった。目標に向って努力を惜しまぬ淳の姿勢を義明が受け継いだ。胸の裡で健吾はそう確信している。
「目標や夢があるって羨ましい」
「何だ、景子には無いのか」
「んん、無いわ。寂しいけど。これから見つける」
 目標を見出した義明は、もう心配していない。気になるのは‥‥‥「消えろ! 死んじまえ!」
 母親を悪魔呼ばわりした遙奈だ。
 学校に行かないのはいい。美幸と口をきこうとしないのも、残念だが、混乱している今は仕方がない。ボランティア活動にやり甲斐を見い出したと言う由衣の話は、喜ぶべきだし嬉しい。だが母親の話に触れると、
「母のことは祈ってます。さっさと燃えるゲヘナへ投げ入れてくださいって」 そう笑って言ったという。
 母親への反抗や恨みと言うには度が過ぎる。父親なのに僕には、遙奈が悪魔に見えてしまう。
「その後美幸とは」
「事故のあと話したきり。何も」
 美幸から電話があったのは、景子自身から聞いていた。 だが、 「近況報告よ」 詳しく語ろうとしない。遙奈の変容の原因はなんだ。

  子どもたちに何をした、遙奈に何があった。
さあ。何があったんでしょ。
君が気づかないわけ無いだろ! 
  あんたも同じだね。世の男どもと。

 電話する気にはなれない。美幸への怒りでも失望でもない、美幸が傷ついていることに気づいたから。
「でも母が、病院で会ったって言うの」
「何い!? お義母さんが美幸ちゃんと?」
 先に声を上げたのは健吾だ。
「そりゃまた、奇跡的偶然だな」
「ほんとにビックリ。まさかあの二人が」
「だだ広い大学病院じゃ、夫婦だって気づかないだろ。よく分かったな」
「恋人なら気づくかもしれないけどね」
「景子なら三キロ先にいても分かる」
「よく言うわよ」
 友人の母親など近所で幼い頃から世話になっていないかぎり、名前も顔も忘れているだろう。
「おばさんと美幸は」
「テニス部の寮で一度会ってるかも。母って一度会話した人は、絶対に忘れないの。ちょっとした立ち話でも」
「だから気づいた? まるで聖徳太子だ」
 千春の特殊とも言える記憶力に、健吾は感嘆する。
「美幸と病院。そっちが気になる」
 淳は思案顔で言った。
「お前まだ 『ホの字』 だからな」
「今どき言わないわよ。ねえ」
 淳は応えない。
「病気ってわけじゃないんだろ? 美幸ちゃん」
 健吾が訊く。淳に代わって。
「いくら娘でも話せないって。守秘義務があるから」
「そりゃそうかもしれんが」
「悪い所がなければ無いって言うさ」
 あ。
 義明の自殺未遂も遙奈との不和も関係ない、美幸の身に何かが起きたのだ。
 だから急にあり得もしないことを言い出した。 「子どもは返します。もう赤の他人です――」
「会ってくる」
 本人に確かめるしかない。
「止めておけ」
「どうして」
「突然お前が現れたらどうなる。混乱するだけだ」
「おばさんにだ」
「待つことが解決に繋がることだってあるんだ」
 牧師と同じ事を口にするが健吾の声は厳しい。
「それにだ。お義母さんがお前に何を話せる。娘にさえ話さないことを」
「私が行く。美幸にも会いたいけど、母に聞いたなんて言ったら、お母さんの立場が無いでしょ。直接会って話せば何か分かるかもしれないし」
 自分の思いを代わって話しているように、淳には聞えた。
「いい骨休みになるしな」
「自分のこと言ってるんでしょ」
「俺は困るし、寂しいよ」
「さあどうだか。さ、食べましょ。冷めちゃうから」
 健吾は先に立って洗面台へ向かった。
 景子の弁当は最高だぞー
 ちゃんと石鹸つけて洗うのよ、うがいもよー
 恥ずかしいから人前で言うなよー
 明るい声が飛び交う。
「淳さんも。お腹空いたでしょ」
 健吾のような男と結婚していれば美幸の人生は明るかった。誰も傷つかずにすんだのだ。



    十五


 ふだんより早く施設に着いた。二十分くらいだろうか。
 二週間我慢すれば山形に帰れる。またお父さんと暮らせる。その気持ちを胸に、自立訓練をがんばっている義明は、週末の 「楽しくふれあい学び合い」 を心待ちにしている。私だって楽しみ。だけど、 「お母さん痩せたよね。頬がこけたように見えない?」 会うたびにあの人のことを言われると、 「ダイエットでしょ」 無意識に投げやりな返事をしてしまう。だから今日は、
「私の料理が口に合わないだけよ」
 結局悪口になる。あの人を思うだけで。
「そんなことないよ。お姉ちゃんのごはんは美味しいし、残したことなんて無かったじゃないか」
「そりゃ心配だな」
 乳がんと妊娠のことは、美幸は二人に話していない。むろん誠治の知るところではない。
「心配ありません。具合が悪かったら言う人ですから」
 顔を見ないようにしてるし、話さないようにしてるから分からない。どうだっていい。アイツのことなんて。
「でもやっぱりヘンだよ。あれだけぼくたちを返さないって言ってたのに、急に山形に帰りなさいなんてさ」
 確かにおかしい。だけどどうせ、
「面倒になったのよ。邪魔になったのかも。あの人の事なんか考えなくていいの」
「なあ遙奈」
 誠治の目が悲しそうだ。義明も。
「そんな顔で子供たちと会うつもりか」
「‥‥‥」
 俯く遙奈を見て、
「誠治くんとも、もう少しでお別れだね」
 義明は話を変えた。
「まだ二週間もあるのに、夜も眠れねえってか」
 誠治も拘ってはいない。 
「寝れないってことはないけど、せっかく会えたのに、三か月でお別れなんて、やっぱり寂しいよ」
「そう難しく考えるな。今生の別れってわけじゃねえんだから。な」
 遙奈がしっかりと肯く。
「ねえ。どうして山形に帰すなんて言ったんだろう」
 義明が話を戻す。納得できないのだ。
「さあな。母ちゃんに訊けよ」
「おかしいよ」
「父ちゃんと暮らしたかったんだろ? 願いが叶ったんだ、いいじゃないか」
「そうかもしれないけど‥‥‥会社で何かあったの?」
 ――ぼくを山形に連れて帰ってください。
 死んでまで帰りたいと言わせたのは、母親への失望。なのにどうしてそこまで考えられる。誠治は敬愛の目で義明を見た。
「ねえ誠治くん、何かあったの」
「仕事熱心になったな」
「それだけ?」
 熱心じゃなかったのか。そんな事を言い出すと思ったが違った。
「週に何度も休むこともなくなったし、口数が減った気がする。暗いってわけじゃねえぞ。そうそう、この間は茶を入れてくれたぞ」
「そう。やっぱり気になるよ」
 義明が繰り返す。
「あの人が決めた事なんだから気にしなくていいじゃない」
 義明が自殺を図ってから起きた、美幸の受難吉事を遙奈は知らない。南田と別れたことも。美幸への憎しみは増すばかりだ。
「でも気になっちゃうんだよ」
「だから考えなければ、」
「なあ」
 悲しそうに誠治が呼び掛ける。
「母ちゃんのことで頭がいっぱいなのは分からないでもねえ。だがな、今すべき事を考えられる奴と、すべき事もしねえで運命をやり過ごしちまう奴とで、そいつの人生も周りの人間の人生も変わっちまうんだ。くだらねえ話で時間を無駄にするな」
 義明はキョトンとする。
「分かんねえか」
「何となくしか。ごめんね」
 誠治の熱弁が驚きで話が入らない。
「今、お前らがやることはなんだ。ここでうだうだ話してることか? 話したいなら話してろ。俺はみんなの所に行く」
 誠治は言って居室を出てた。
 ふれあい学び合いは楽しみだ。でも、いつもそうしていた姉弟二人の時間と会話が、希薄となったいま、この空気も味わっていたいのだ。
「もう少しなんだよね。ここに居るのも。この町で暮らすのもさ」
「せめて施設での思い出だけは、大切に山形に持って帰り、」
 うっ、うう、
「!? どうしたの‥‥‥」
「あ、ああっ」
 背を丸めて跪く、遙奈のからだが横に倒れる。
「お姉ちゃんっ!」
 よ、よしあ、
「だ、誰か、誰かあ!」
 車椅子は目の前。下半身の動かない義明は一人で乗り移れない。
「くっそお!」
 腕だけを頼りに、落ちるようにベッドから降り、
「せ、誠治くん!」
 廊下に向かって這う。
「誠治くーん!」
 誰もいない。
「誰かーっ!」
 お姉ちゃんが大変なんだ、誰か、
「誰か来てっ、来てったらあ!」
 


    十六


 胸が無くなることより、おっぱいをあげられないことが辛い。
 赤ちゃんのため。この子を守るためよ。
 いくら言い聞かせても後悔は消えない。
 妊娠さえしなければ手術も治療もせずに、死を待ち望めたのに。
 聖書を読んでも変わらなかった。
 変えようとしても変われなかった。
 耐えられないほどの試練を与えない?
 いま泣く者がどうして幸いよ。
 慰めにもならない聖書。 
 そんな言葉でどうして慰められる。 
 試練に耐える者がどうして幸いだ。 
 いつも喜んでいなさい……
 出産してガンが治って、健やかにこの子が育ったとしても私は喜べない。
 知らないのだから。喜びが何かを。
 ならどうして産むのよ。 
 殺せないから。いくら私でも。
「美幸ちゃん」
 枕の濡れたところを隠して向き直る。 「はい」
「いいお天気よ。少し出ない?」
 こんな時にかぎっていつもお母さんがいる。
「中庭のお花がとってもきれいなの。ほら」
 涙に気づいた時のお母さんは、ことさらあたたかい。
 私には見えません。  

「二週間ね。緊張するでしょう」
「三度目なのに、いちばん緊張します」
 遙奈のときは初産の嬉しさが。義明のときは男の子を産む喜びが、緊張を上まわっていた。
  どうなさいますか。
 (また同じこと言って、)
  産みます。
お決めになったのね。
 (何度も訊かないで、)
  初めから決めていました。 
 あ、
「うふふふ。手術のことですか」
「安心した。肝が据わってるのね」
 そうじゃないけど、
「来てよかったです、落ち着きます」
「命のいぶきが感じられるから。ここは」
 お母さんが言い添える。
「症状の軽い方は、降りて来たがらないの。師長に言ってるんだけど」
 確かに病衣姿は少ない。車椅子を押して貰っている患者と杖を使う患者が、ちらほらいるだけだ。早すぎも遅すぎもしない時の流れ――贅沢を占有した気になる。
「生きようとする、力を感じます」
 新緑や蝉の声、中空を飛ぶ虫や鳥たちから。
 踏まれる草花や、そこここにいる目に見えない命からは、
「命の大切さも」
「素晴らしさもね」
 そう。命の素晴らしさ。貴さを感じるのだ。
 花冠に目をやると。色んな姿形の蝶が蜂が、赤ちゃんみたいに蜜を吸い、葉脈にそって歩く虫が居、小鳥がしきりに土壌をつつく (ケンカしちゃだめよ) みんな一生懸命。
「どうしますか。お母さんだったら」
 
 美幸ちゃん‥‥‥。
 初めてね。美幸ちゃんの方から訊ねるなんて。
「そうねえ」
 もちろん胎児のこと。軽々に言えない。
「やっぱり堕ろしますよね。ふつう」
 ふつうでも一般的でもないが、奇形と知った時点で、堕胎を選択する夫婦、妊婦は多い。
 合指(ごうし)症――。手指の奇形で、先天性心疾患などと同じ大奇形に分けられる。だが悲観することはない。癒着した指を分離して指間を形成し、不足する皮膚の植皮術を行えば、変形をや欠損部を目立たなくし不自由を抑制することは可能だ。もちろん簡単な手術ではないが。
「ごめんなさい。答えにくいことを訊いて」
「謝らないで」
 答えに窮するのは、看護師という立場で考えるから。
 高齢出産は、確かに、母体の危険や流産死産のリスクは高まる。でもわたしなら、例え短命と告げられてもガン患者でも、生きる希望がある限り、
「美幸ちゃんと同じ。産むわ」
「そう言うと思ってました」
 慰めでないことが伝わって嬉しい。
「明日ね。景子が来るっていうの」
 喜ぶと思ったけど、 「どうして来るんですかっ」 そんな顔。
「私のことは」
「会ったこと以外話さないわ。でも景子はね、美幸ちゃんのことをずっと気にかけていて、親友だと思ってるわ。わたしが知る限り、あなた以上の友だちはいないはず。だから、会ってやってくれない?」

 ベンチの周囲を行き来するスズメやシジュウカラが愛らしい。野原を駆けまわる子どものよう。
「でも、心配かけたくないんです」
 景子は心配するから。私と違って。必要以上に。
「友だちって心配したり、させたりするものでしょ? 美幸ちゃんだって何でも話してほしいでしょう?」
 景子が友だちと思ってるなら。でも、
「きっと怒ってると思うんです。電話で悪いことを言っちゃったから」
「産んだことも孕んだこともねえくせに――」 ごめんね、混乱してたの。今さら言い訳にもならない。
「景子って、ああ見えてさっぱりしてるの。怒ってたら会いたいなんて言わないわ。入院生活のサプリメントだと思って。ねっ」
 景子とは、義明の出産祝いのときに会って以来、だから十二年会ってない。玉田とは会っているはずだけど。
「久しぶりって、声を掛けるだけでいいから」
「お母さんもいっしょなら」
「良かったあ」
 頓着しないところは親子。話を聞いてくれるところも。
 でも話したところでお母さんを煩わせるだけ。
 ――頼られたいと思っているものよ。私もそう。甘えちゃいなさい。
 愛子先生、 
「不安なんです、私」
「不安何て感じることないわ」
「そうではなくて」
 確か聖書に、
〈求めなさい。そうすれば与えられます……たたきなさい。そうすれば開かれます。〉
 そんなことが書いてあった。叩かなければ扉は開かず、壁のままだ。
「入院が長引くと働けません、会社にいられるなくなります、いつまでとも分からない治療を続けながら働ける会社なんてどこにもありません。だから――」
「将来のことね」
 選ばなければ幾らでも仕事はある。よく耳にする言葉が、選べない状況に在る者の勇みを砕き、足枷となり、深みに押し留める。
「だから子どもを養う自信が・‥‥」
 手術は初めの一歩でしかなく、再発防止や予防、転移巣の発育を抑える治療が必要で重要になる。そのうえ難題が山積の、子供の合指症の手術がある。しかも幼児期中に出来るだけ早く。物心つく前、一歳前後に。
「乳がんは高額医療費の控除が受けられるし、出産についても育児休業制度を利用すれば、不当な扱いを受けることなく職場復帰できる。それに、片親への医療費の助成や他にもいろいろな制度が、」
「子育てしながら働くには保育園に入園させて、今より高条件の仕事に就かなければふつうの生活を送るなんてとても無理なんです。自分が悪いのだから仕方がないのかもしれないけど」
「そんなふうに考えないで」
「自業自得。分かってます。だけど、子供だけには普通の生活を送らせてやりたいんです。それが叶わないのなら養子に出して、」
「ダメ!」
「私に育てられるより幸せならその方が」
「絶対に駄目。産んでも育ててもいないのに、どうしてもどうしようもないわけでもないのに、そんなこと言ってはだめ」
 ムクドリの群れが一斉に飛び立つ。高い枝木からこちらを窺っていたのかもしれない。
「ごめんなさい。台無しですね。せっかくの時間が。私っていつもこう」
「そのことなんだけど」
 病院には似合わないバッグを肩に掛けた女性が、頭を下げて通り過ぎる。
「ここで働いてみない? 仕事ができる体になったら」
 正面にまわってお母さんは、
「事務員の経験が生かせると思うの。どうかしら」
 目を輝かせる。
「でも、医療事務なんて分からないし年齢的にも……」
「大学病院って、職員がたくさんいるでしょ。診療科目やベッド数が多いだけではなくて、研究や講義や学生のことに設備のこと、把握しきれないほど仕事や目的があるから。事務と言ってもね、医療事務以外にもたくさん仕事があるの。わたしと同年代の職員が活躍しているくらいだから、美幸ちゃんなら大活躍間違いなし。もちろんゆっくり考えて、その気になったらでいいから。ね」
「はい……」
 職員が頭をさげては通り過ぎる。同じことが、幾度も繰り返される。
「すごいんですね。お母さんって」
 お母さんは看護師の中のトップ。病院で一、二を争う有名人かもしれない。また一人頭を下げ、木立の下の駐車場に向かう。
「田舎のね。小さな診療所みたいな、あたたかな病院にするのが理想なの。病気や患者を診るのではなくて、人を診る病院にするのが」
 お先に失礼します――。
「お疲れさま」
 またひとり。
「土壌がいいから咲くのね」
 薄青色の花の下。黒土に手をあて、お母さんは言った。
「良い根が張らなければ、人の心を癒す花は咲かない。病院もそう。ずっと誘おうと思っていたの。美幸ちゃんを」
 だから、命のいぶき溢れる中庭に誘った。
 嬉しい。涙が出るほど。でもそれまでが、働けるようになるまでが問題なのだ。
「退院後のことなんだけど」
「こぢんまりしたアパートを借りて出直します。この子と」
 妊娠二十二週に入り、お腹は一層大きく膨らみ、確かな胎動に意思を感じる。前に進むしかないのだ。この子といっしょに。過去は忘れて。
「しつこいようだけど、一緒に暮らさない? 療養にも通院にも不自由しないし、将来的には、院内保育に預けて仕事もできるわ。何よりわたしが助かるのよ」
 一緒に暮らせば、病院所有の世帯用のマンションで暮らせるようになり、ユニットバスから解放されて足を伸ばして入浴ができる。
「この歳で窮屈なワンルームで一人暮らし。想像してみて。
 暗い部屋に帰って電気も点けずにハァー、膝から崩れ落ちることしばしば。体が資本だから無理してでも食べなきゃ、つい作り過ぎておかげさま、このとおり。山形から持ってきたお洋服はコート以外どれもパツパツ――」
 本気だったんだ。お母さん。
「それに単身寮も世帯用も、ほとんど家賃が変わらないの。だから」
 愛子先生の言葉を思い返す。
 甘えるのも勇気。
「夜泣きでご迷惑を掛けたり」
「景子のときは全然気にならなった」
 相手への信頼がなければ甘えられない。私はお母さんを心から信頼してる。
「ほんとうに、いいんですか。甘えて」
 待っていたのかもしれない。私が甘えるのを。
「娘が母親に甘えるのは、当たり前のことよ」
 私は遙奈と義明を甘やかさずに、甘えを赦さずに育てた。突き離せば甘えられる筈もない。今更ながらに気づく。
「お母さんと、暮らしたいです」
「泣き虫ね。美幸ちゃんって」
 お母さんが体を引き寄せる。こうしてやれば良かったのに私は……。
 差し出されたハンカチが優しく香る。泣くのって心から笑うのと、同じくらい幸せなのかもしれない。私は根こそぎ奪ってきたのだ。遙奈と義明の幸せを。
「そろそろ戻りましょ。手術前に風邪でも引かせたら、看護師失格なんて言われちゃうから」
「はい」
 小鳥のカップルが枝の根元で身を寄せ合ってる。
 風が出てきた。



    十七


 泣き叫ぶ声が聞こえたんだ。

 階段を駆け上がった。
 義明が廊下を這っていた。
「どうした」
「遙奈お姉ちゃんが、大変なんだよ!」
 居室に駆け込んだ。
 身を捩る青い顔の遙奈はもう、
 声すら上げられないのが分かった。
「看護師を呼べ!」 

 無駄だと分かった俺はナースコールを掴んで叫んだんだ。
 義明みてえに。
 何度も何度も。
 

 
    十八


「ずっとおかしかったんだ、ヘンだと思ってたんだよ。ぼくが悪いんだチクショーッ!」
 感覚のない腿を叩いては言う義明に、
「お前が悪いんじゃねえ」
 誠治は言う。 
「誰も悪くないんだ」
 誰かのせいにして悪者を作り出すような、人を貶めるような大人にならないでくれ頼む。
「遙奈お姉ちゃんに何かあったらぼくは、ぼくは生きてなんかいられないよ!」
「義明!」
「チキショーッ!」
「大丈夫だ、大丈夫だから落ち着け」
「なんでわかるんだよ、大丈夫だったら救急車なんか呼ばないだろっ」 
 混乱して当然だ。何もできない悔しさも分かる。
 だがな義明。頼むから障害者になった自分を責めないでくれ!
 
「お姉ちゃん、お姉ちゃんは!」
「処置しているところよ」
 遙奈に付き添って救急車に乗った、施設看護師が答えた。
「大丈夫なの、大丈夫だよね」
「大丈夫よ。心配ないわ」
 心配ない。その言葉を聞きたかったのか。
「義明!」
 廊下に声が走る。妊婦特有の容姿は、
「遙奈は、遙奈は大丈夫なの!」
 小淵美幸だ。誠治が看護師に話すように促す。
「母ちゃんだ」
 美幸に囁く看護師の口から、出血という言葉が聞こえた。
「え」
 美幸が膝から崩れた。胎児を守るようにして。



    十九


 景子と会うのは十二年振り。驚くほど変わらない景子は、会うなり涙した。
 まさか、 「病気のことを知ってる?」 「お母さんから聞いた?」
 一瞬疑ってしまった。お母さんが話したのかと。どうして泣くのか見当がつかなくて。
「どうして言ってくれなかったの。もうあの時は、良くなかったんでしょ」
 良くなかった? 知ってるの、病気と妊娠、それに胎児奇形のこと。
「疲れてるだけかと思って」
 私自身知っていたら、話さずにはいられなかったはず。
「それでどうなの。どこが悪いの?」
 やっぱりお母さんは口外していない。約束どおり。話した方がいいのだろうか。
「大したことないわ」
 話したところで何が変わるわけではない。
「うそ。嘘つく時の美幸って目がぴこぴこするから分かるもん」
 真剣に話す景子から顔を背けて思わず、
「何笑ってるのよ。人が真剣に心配してるって言うのに」
「だって思いだしちゃったんだもん。私が嘘つく時は、目がぴこぴこ。景子の場合、鼻がぴくぴく」
 大学時代の発見。
 顔を見合わせて、
「ぷっ」
 場所も弁えず大笑い。
「すみません」 
 同室の三人に詫びて、
「何の話しだっけ」
 あんなに怖い顔をしてたのに。性格はあの頃のまま。変わらない。
「この間は、ごめん」
 義明が自殺を図った後の、電話の非礼を詫びた。景子は 「何のこと?」 首を傾けるだけ。
「聞いてない? お母さんから」
「そうそうその話。何を聞いても話してくれないの。所帯用のマンションで一緒に住むとしか」
「そう」
 お母さんを疑ってしまった自分が嫌になる。
「どうなの、ちゃんと話して。親友なんだから」
 何も隠さずに言い合えるのが親友。だとすれば、話さなければ裏切ることになる。親友を。
「乳がんで、五日後に摘出手術を受けるの」
 右の乳房を見る景子の目に涙があふれ、口許がひくひくしてる。
「そんな顔しないで。私ね、赤ちゃんができたの。もう二十三週目」
 泣きたいような笑いたいような景子の顔が、
「喜んで。親友なんだから」 
 くしゃくしゃになる。私は泣けるだろうか。景子の身に同じことが起きたら。
「辛いのにごめんね。答えにくいことを訊いたりして」
「そんなことない。希望ばっかりで、何とも思わない」
「少しは何とか思いなさいよ」
 初めから心を許していれば、無二の親友でいられたのに。今頃になって、自分の愚かさに気づく。でも遙奈のことは言えない。恥は晒せない。
「しばらく居ていい?」
「え?」
「手術が終わって落ち着くまで。ここに居ていい?」
(景子が居たところで何がどうなるものでもないじゃない)
「ご主人が可哀相よ」
 思っていないことを口にする。言葉が見つからなくて。
「旦那のことはいいの。最近感謝が足りないから、私がいないとどれだけ困るか味わわせてやるんだ。躾のうち。迷惑?」
 男の人みたいな物言いをする景子の気持ちは固まっているよう。だけど、
「転移はないみたいだし、お母さんがいるから。大丈夫よ」
「お母さん?」
 首をかしげたのはほんの一瞬。ああ、
「じゃあ美幸は妹だ」
「これからはお姉ちゃんって呼ばなきゃ。景子お姉ちゃん」
「私は美幸のままかあ。ちょっとつまんないけど、そのぶん姉らしく、ビシビシいくわよ」
 景子の付き添いは決まったようなものだ。
「景子が楽しんでくれるなら、私は大歓迎」
「もちろん。思いっ切り楽しんじゃう」
「実はね」
 景子の眉間に皺がより、思わず目を逸らす。ぴこぴこしているのかもしれない。私の目。
「実は遙奈が、流産したの」
「ええ!」
 私のせいなの。



    二十


 記憶のの終わりは悪夢の始まりだった。
 四つの顔の一つが言った。
「遙奈と二人きりにさせて」
 やめて!
 麻酔のせいか、声の出ない私にあの人は言った。
「アイツの子だね」
「二人で会ったらダメだって言ったろ」
「なんで避妊具を使わなかった」
「十四歳で流産だなんて。ったく」
 掛け布団の向こうの鬼の声。
 悔しかった。言われ放しだったことが。

  六時に南口のロータリーだよ。遅れたら赦さないからね。
南田とあの人と私。
三人でのディナーは、
生地獄の始まりだった。
  テレビでしか見たことのないシェフが焼くステーキを食べ、
  ホテルの豪華なエレベーターにのった。
モデルルームみたな部屋。広すぎるベッド。南田が言った。
 「見てるだけでいい」
 「絶対に目を逸らすんじゃないよ。生活が懸かってるんだから」 
あの人は南田の服を脱がし始めた。首筋や胸にキスしながら。
 「目を逸らすな、見てろって言っただろ」
あの人は声音を戻して言った。
 「あなたの言うとおり。スゴイわ」
 「違うだろ。見られていると」
野生動物の交尾にしか見えなかった。
南田が言った。体を前後に動かしながら。
 「君も来なさい」
 「絶対ダメ!」
かばってくれたのは二回目まで。
 「死んでもいいと思うくらい気持ちよくなるから」
 「今に自分から欲しくなる。お母さんみたいにね」
 「さっさと脱ぎなよ」
鬼の眼をして笑ったあの人の顔は、一生忘れないだろう。
三度目のディナーのあとに私は買われた。あの人があの日だったから。
 「ほんとうに初めてだったんだな」
南田は言ってあの人に三十万円を渡した。
二度目からは三万円。三人でなら二人で八万。
牙のような八重歯を覗かせながら喜び興奮する母親。
顔が見れなくなった。
南田は下校途中の私を待つようになった。
 「従わなければお母さんはクビだ。家族全員、路頭に迷うことになるぞ」
脅されて仕方なかった。
二人だけの時の南田は違った。
私の全身を丹念に洗い、 
子供っぽく乳首をふくみ、
男の悦び方を指南し、
恋人気分を味わうような優しいことばと舌づかいと手技で、
何度も私を‥‥‥

 堕ろすにもお金がない。頼る人はいない。
 ビタミンAの過剰摂取が効果がある――
 サプリメントを買い、効果を狙った食事を作りつづけた。
 迷信かもしれない。疑念を振り払って。
 その日がきた。
 お腹が目立たないうちに。願いが叶った。
 苦しみながら歓喜した。
 堕胎には親の許可が必要、だけど救急搬送されれば別。
 許可が無くても何とかなる、お金が無くても取り敢えず。
 物々しい雰囲気の中で、 「眠くなりますからね」
 そんな声が聞こえた。
 やった! 計画どおりだ!
 安心したら、時間が止まっていた。


 「まさか親子で妊娠だなんてね」
  どうして笑えるのよ。
  違う。泣いているのだ。
 「私は産むよ」
  何を言っているのか分からない。
 「出来たからには産む。奇形児だって産むんだ」

 〈ビタミンAの適度な摂取は流産の予防に有効、〉
 〈ただし過剰摂取した場合、死産や流産だけにとどまらず、〉 
!? 確か、
 〈胎児奇形の危険性が高まるため――〉 
  何ていうことを、私は……
 「お前が泣くことないだろ」
  そんなこと言われても私のせいで…… 
 「がんになんか負けないんだ」
  ガン!? お母さんがガン!? ガンなのに出産する!?
 「だからお前も負けるんじゃないよ。忘れてやり直すんだ、いいね――」
 
 忘れられるわけないじゃない。
 ベッドから降りてカーテンを開けた。
 冷たい夜に星が瞬いている。あの子の瞳だ。
 私が星にしたの。ごめんね、ごめんなさい。
 あ。
 星が、流れた。
 行かないで。



    二十一

 
 千春さんと暮らし始めて一週間が経った。マンションの住み心地は想像以上で、女性専用という事もあって、安らいだ気持ちでいられる。
 八畳の和洋それぞれの部屋が二間と、同じくらいの間取りのリヴィングキッチン。それにひと回り広いリヴィング。広いバルコニーも嬉しい。
 踏み台を使いたいくらい背の高い本棚は、 〈わたしの宝物よ〉 医学書がずらり。小さな本屋さんみたい。 〈読んでみて。意外に面白いわよ〉 そう言われても。 〈そういう時はこれ〉 看護師国家試験対策の参考書。 〈医学全般のことがサラッと分かるの。興味がある分野が見つかったらこっち〉 専門書。 〈分からないことは医学事典を見るの〉
 ――神看護学――
 精神の構造・機能、精神疾患。思考障害、人格・行動障害、感情・不安障害。どれも私に当てはまらない。正常である筈ないのに。
 導き出した結論は 「悪魔の病原」。 お母さんは、私の発病を止める天使の良薬。優しく生きることの大切さを教えてくれる。
 それにしても、どうして奇形の子を身籠ったのだろう。
 ――子どもの疾病――
 ただいま――。
 あ。お母さんの声を聞くと笑顔になる。同居し始めて気づいた。ふいに襲う悲しみや痛みが和らいでいく。
 原因なんていいわ。産むって決めたんだから。
「どう? 痛みはない?」
 快活であたたかなお母さんは、癒しの泉。
「多少。でも大分楽になりました」
「赤ちゃんはどう? 元気かなあ?」
 屈んでおなかに耳を当てるお母さん。その姿が淳と重なる。なぜかいつも。
「よく蹴るんです、この子」
「将来はサッカー選手ね」
 こんな会話が出来るようになったのは、重荷をひとつ、降ろせたからかもしれない。
 摘出手術は三時間で終わった。
 景子と二人で話していると、期せずして村瀬先生ご一家が駆けつけてくれた。先生のお祈りのおかげで恐怖心が消え、愛子先生の慰めで乳房を失う悲しみは薄らぎ、由衣さんの笑顔が希望を与えた。
 敢えて傷に触れない景子は、 「その子には遙奈の子の血が流れてるのよ。」 同じ思いだったみたいだ。
「出産まで二か月ね。赤ちゃんの名前は? 決めた?」
「付けてください」
「わたしが? 名づけ親に?」
「お願いしようと思っていたんです」
 お母さんは目を円くして、
「無理無理無理、わたしが付けてどうするのよ。村瀬先生か、愛子先生にお願いしなさい」
 心底困った顔をする。
 お二人が帰ったあとお母さんは、 「神様に遣わされた方みたい」 「キリスト様のご家族ね」 尊敬の言葉を繰り返した。
「私をいちばん知ってる、お母さんに付けてほしいんです」
 景子のような子に育ってほしくて。でも生まれるまでは教えてくれるな。余りに身勝手。だけど絶対、お母さんに付けてほしい。
「孫なんですよ、お母さんの」
「孫っ!? お婆さんにしないで」
 景子は子供ができなかったからお母さんに孫はない。そう……孫だったのだ。遙奈が産むはずだった子供は。
「でも、そこまで言うなら」
 真剣な顔は、白衣姿で病院を歩くときといっしょ。
「どっちとも取れる名前にしよっか」
「その手がありました」
 やっぱり知らないのかな。男の子か女の子か。お母さんも。
「う~ん、昔と違って難しいわね。 『子』 か 『美』 か 『夫』 を付ければいいっていう時代じゃないし、いじめの対象にもなり得るっていうし」
 看護師の習性だろう。目の前の課題は片づけなければ気が済まない、そんな感じで考える。
「今でなくていいです。生まれてからでも」 
「男の子だったら、新芽の芽に知るで、メッシなんてどう? 世界一のサッカー選手になるように」
「それは」
「女の子ならね、時の子を書いてジーコ。サッカーの神様よ」
 よっぽど困った顔をしていたのだろう。
「んもう、冗談よ。実はね、思い浮かんだ名前があるの。美幸ちゃんが聖書を読んでいるのを見て」
 そんなふうに見ていたなんて意外だ。
 全摘手術が終わって、病室に戻ったとき。テーブルのうえにある聖書を見た由衣さんは、「熱心に読んでいますね」 にっこり笑って言ってくれた。
 理解できない言葉ばかりだけど、ハッとさせられる言葉に出会うと、このままではいけないという気持ちになる。そして、遙奈と義明も聖書を読んでいると思うと幸せで満たされる。
「どんな名前ですか」
「ハ・ル・キ」
「はるきですか」
「ハルは遙奈ちゃんと同じ遙か。キは祈り。それで遙祈」
 なぜか山形の景色が浮かぶ。菰を被った雪囲いを外した木々の肌をなぜ、遙奈と義明が燥いでいる。
〈祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。〉
 でも手術当日。遙奈と義明を連れて来て欲しいという願いは叶えられなかった。
〈願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。〉
 神さまは、利得、欲望、欲得。欲を含んだ祈りなど聞き入れない。当然なのだ。でもいつか――お母さんのことを赦してね。これからは精いっぱい生きるから。約束するから。
「遙かな祈り。とてもきれいで純粋、遙祈にします」
 遙奈も遙祈も喜ぶに違いない。義明も。
「ちょっと待って、字画も調べてないのよ、それに女の子かもしれないし。もっと考えてから、」
「男の子です。もう隠さなくていいです」
「隠してなんか、いないわよ。口堅いんだから」
「分かります。お母さんの鼻、ピクピクしてるもの」
「鼻がピクピク?」
 目を寄せて鼻先を見るお母さん。可愛らしい!
「景子と同じなの。ウソをつく時や困った時にピクピク」
 笑い方もそっくり。
「とにかくこれ以上の名前はありません。遙祈が生まれるまで、ううん、生まれてからも、ずっと祈りますね」
「気に入ってくれたら嬉しいわ」
 私も嬉しい。それはさておいて、お祈りって、どうすればいいのだろう。神さまに感謝したり、お願いしたり、反省したりするのだろうか。
 教えてもらわないと。愛子先生に。



    二十二


 ――旭川から初霜の便りが届きました。ひと月もすれば冬虫が飛び、初雪が見られる、
「はあー」
 ラジオを切った千春は、一日の疲れを取る様に大きく伸びをする。百日紅は裸んぼ。最上川には白鳥が訪れる季節‥‥‥もう十月だもんなあ。
 車のエンジンを切り車外に出、すぐ横の階段を左足から上がって、エントランスの重いドアを左手で押す。
 ホールに人気はない。エレベーターに乗るのは‥‥‥左足。 “4 ” の数字を押すのは、あら。やっぱり左手。しかもわざわざからだをひねって。初めて気づいた。
 午後九時。腕時計も利き目も左。いつもと違うのは、いつもより三十分遅いことだけ。明日はちゃんと八時に上がって、ぜんぶ右からにしてみようっと。
 仄暗い廊下を右に曲がれば、三部屋先に明かりが見えて、チャイムを押せば、 「お帰りなさい、お疲れさまでした」 明るい笑顔で美幸ちゃんが迎えて……
 ??
 灯されているはずの部屋が真っ暗。何? 「廊下は走らないっ」、 病院じゃないしそんなことを言ってる場合じゃない。 
 インターホンを押す右手が震え、鍵がうまく入らない。もうっ、
「美幸ちゃんっ」
 返事がない、靴を脱ぐのがもどかしい。寝てるのかも。
 玄関を上がってすぐのドア。
 いない。奥の洋間。
 手探りで壁のスイッチを捜す。シーリングライトが眩しい。
 どうしたの、
「美幸ちゃん!」
 どこに行ったの。
 ふぁふぅ――何かを揺らす風の音。
「お母ぁ、」
 声。テーブルの向こう。
 ソファに半身をあずける影。
「美幸ちゃん!」 
 身体全体で酸素を欲する姿、ただ事ではない。
「落ち着いて」
 あなたもよ! 自分にも言い聞かせ、 「どうしたの? どこか苦しい?」
「お腹の、下の方が‥‥‥」
「痛むのね」
 どうして連絡しないの! 
 隣室の毛布を抱え、廊下の子機を手に駆け寄る。
「すぐに救急車が来るから、大丈夫よ」 11、9――
「速くっ」 
 脈をとり、上半身から下半身へ状態を、
「!」
 破水してる。腹部にあてがう手に手を重ね、 「大丈夫よ」 声を掛けつつさり気なく下腹部に顔を寄せる。
 異臭はない。感染症はなさそうだ。 「赤ちゃんは大丈夫、しっかりね」
「は、い」
 ぜったいに二人を助ける。
「いつから痛むの」
「ごめんな、さい」
 何を訊いても同じ事しか返すまい、
「人を呼ぶからちょっとだけ我慢して、少しだけ」
 玄関を出、明かりの灯った部屋のドアを叩く、 
「急患よ! 手を貸してお願いっ!」
 靴音と喚聲とドアを叩く喧音が廊下に走る。 「四〇一に来て! 速くお願いっ!」
 思いだして! 
 わたしたちは職場を離れても看護師よ!
「みんな来てくれるから大丈夫、大丈夫だからね」
「部長」
 普段着姿の看護師が三人。
「早産よ、救急隊の受け入れ準備、あなたは隊員の誘導、固定式のストレッチャーは使えない旨救命士に伝える。あなたは応援を呼んできて――」
「ご、ごめんなさい」
「看護師の責務です」
 一人が言う。
「モラルよ。あなたは赤ちゃんを励ますっ」 役割があるから不安が紛れる。
「部長」
 師長の姿に安堵の息を吐く――柴崎さん。手には医療器具の入った救急バッグが。
「産科が長かったわね、(破水してる。不安を与えないように)」
 目で応じた柴崎が観察に入る。
「(妊娠高血圧が疑われます、搬送後すぐに分娩できるよう手配を――)」
 千春はしっかりうなずき廊下に出る。思案顔で見守る看護師の家族が壁際に並んでいる。
 聞こえてくるはずのサイレンを気にしながら、病院へ連絡を取る。妊婦死亡率が高く胎盤剥離(はくり)や胎児死亡の原因となり得る、 「妊娠高血圧症、師長がいま応急処置を、状態は――、」
「そう、ゆっくり深く、息を吸ってえ」
 美幸を落ち着かせようと柴崎は懸命だ。 「はあい、止めてえ」
 親にすがる子どもの目で従う美幸。 
(吐きまーす)
「落ち着いてきたようだけど、とにかく受け入れの、」
「部長!」 「意識が」
 朦朧とする美幸。
 傍らに辷りこむ。 「美幸ちゃん!」
 美幸の目が微かに開いた。
「うるせえ!」
 

「元気な男の子よ」
「生まれたの!? 良かったあ」 
 経験したことのない感動が、景子の中に湧き上がる。宝ものを抱く美幸が見えるようだ。
「大変だったけど、みんな涙を流して喜んでね――」
 一度母に訊いたことがある。父が存命だった頃に。
 
  私の出産の時はどうだった? やっぱり泣いた? 
  泣かないわよ。
  二度とこんな痛い思いはしたくないってな、お母さん怒ってな。
  ええ~ショックう。だから一人っ子なの?
 
 痛みと一人っ子は関係ないみたいだけど、感動しない母を冷たいと思ったのは確か。なのにこの喜びよう。ちょっと嫉妬する。
「ちょっと残念、って言うか申し訳ない気持ち」
「申し訳ない? どうして」
「手を握って励ましたかったから」
「出産の時もくるから――」
 乳がんの手術の後の約束。美幸も忘れていないはず。
「予定日より早かったんだもの。仕方ないわよ」
「それで赤ちゃんは? どう?」
 合指症のことが気になるけど、言い出せない。
「二千二百グラムで、定義上は未熟児に入るけど、三十五週の出産を考えれば、」     
「印象は? どんな感じの子?」
 明らかに母は気持ちが高ぶってる。
「ああ。目元と鼻筋が美幸ちゃんそっくり。遙祈ちゃんったらね、ピンク色のお口をパクパクさせて一生懸命手足を動かすの。お母さんがお母さんになりたいくらい。愛らしくておっぱいあげたくなった」
 目が胸に行く。私はおっぱいをあげる事はないだろう。少し悲しいけど、跳び上がりたいほど嬉しい。お母さんと同じくらい。
「ハルキちゃんにしたのね」 

 生まれるまでは秘密。
 んもう、教えてよ――。

 不安だったのだ、美幸は。無事に出産できるか。
「遙かに、祈りで遙祈。お母さんが名づけ親なの」
「ええ~!?」
 それすら聞かされてない。
「勧めたんでしょう、この名前にしたら? なんて」
「そこまで図々しくないわよ。美幸ちゃんに頼まれたの」
「うそ」
「何よ。選りによってみたいな言い方して」
 私の名前を付けたのもお母さん。
 大好きな出羽三山――羽黒山、湯殿(ゆどの)山、月山(がっさん)、それぞれの山から見た風景に、素直に感動する子になってほしい。そう願って。
「驚いただけよ。名づけ親に指名されるなんて、すごいね」
 合指症のことはいい。今は素直に新たな命の誕生を喜ぼう。
「すごくはないけど、 『孫なんですから』 何て言われたら引き受けるしかないじゃない」
 実の娘の事を諦めてる分、嬉しかったのだろう。それにしても二人の絆の強さには感嘆する。母の生来の、いや天賦の老婆心が、美幸の心を開いたのだ。
「早く会いたいな、妹と義理の弟に」
「妹?」
「だってお母さんが美幸のお母さんなら、私は美幸のお姉さんで、美幸は妹でしょ」
「何だか意地張ってるみたい」
「なんで意地を張らなきゃいけないのよ」
 お母さんは私だけのお母さん、そんな気持ちが無いわけではない。でも今は違います。素直に嬉しいだけよ。
「それで美幸の方は。どう?」
「元気よ。安心して眠ってる。でも大変だったの。応急処置と連携がなかったら危なかったかもしれない」
 破水した上、妊娠高血圧で意識を失くした末の出産。母と寮で暮らしていたから美幸と赤ちゃん、遙祈の命は救われた。看護師たちの看護魂が救ったのだ。

  看護師の仕事って大変よね。辛いことばかりで。
どんな仕事も大変よ。支え合って乗り越えるもの。
看護師同士支え合う、そういうのいいなあ。
ちょっと違う。
患者さんが支えてくださるから、支えて差し上げられる、
結果支え合うことになる。
そういうものなの……。

 弱さを補い合う仕事なのかもしれない――。母はそうも話していたけど、患者からの暴力や入院患者の自殺などで、心を病む看護師が後を絶たない事実が在るという。
 それでも看、護ろうとするのが看護師。母の看護魂の基はそこにあるのだ。
「傍にいたかったな、及ばずながらも」
 今なら築けそうだから。大学時代に築けなかった絆を。 
「これからがほんとうの試練の始まりよ。いくらでも機会があるわ」
 ガンと戦っていく不安。副作用と闘いながらの育児。仕事をしながらの子育て。我が子の将来、生活設計、諸々の負担……
「これから行く」
 美幸の傍にいたい。妹の傍に。
「しばらく入院することになるから、慌てなくて大丈夫よ。健吾さんのこともあるでしょ」
「これからが辛い時でしょ、出来る限りのことをしたいの。健吾だって駄目とは言わない」
 千春の目が潤む。
「分かった。思いどおりにしたらいい」
「淳さんには? 連絡した? 子供たちにもいい機会だと思うけど」
「落ち着いてからにした方がいいわ。産後に限ったことではないけど、マタニティブルーズと言って、――産褥期(産後母体が妊娠以前の状態に回復するまでの期間)にみられる一過性の抑うつ状態――急激な変化って、思いのほか負担になるから」
 美幸に精神的な弱さがあるのは、昔から分かってる。
「そうね。とにかく行くわ。しばらく居候してもいいでしょ」
「家事を手伝ってくれるなら。その代り宿泊費は無料」
「まかせて。とにかく夕方には病院に着けるように出るから、美幸に言っておいて」



    二十三


 子供たちが山形に戻ってきて、四ヶ月が経とうとしている。
 遙奈は、小学校の同級生が進学した中学校へ転校したことで、余裕ができたのか、余暇のピアノボランティアにやりがいを感じているようで、養護学校への転入を拒み、遙奈と同じ学校に入った義明は、同級生に見守られながら車椅子で通学し、町の体育館で行われる障害者バスケットボールに熱を入れ始めた。二人とも、もう心配ないだろう。
 気懸りは美幸だ。
 携帯にはいつも出ずメッセージを残しても折り返さない。訪ねるにも義明がいる。入浴など遙奈では出来ないことが多く、家を空けるわけにはいかない。
「景子さん、いるか」
「んん?」
 肩を落とす自分が嫌になる。健吾か。
「おう淳か」
「変わってくれないか」
「いきなり何だい。挨拶もなしか」
「いないのか」 
 友情が生まれたと喜んだほどだ、彼女なら知っているに違いない。美幸の身に何が起きたか。
「お義母さんのところに行ったよ。しばらく泊まってくるそうだ。男のところかもしれんけどな」
「冗談に付き合ってる場合じゃないんだ」
「景子に何の用だ。相手はお前じゃねえだろうな」
「馬鹿も休み休み言え。美幸と連絡が取れなくて困ってる。景子さんなら何か知ってるんじゃないかと思って、お前何か聞いてないか」
「淳ぃ」
 落ち着けよ?
 分かってる。
「元旦那の分際で、今さら心配してどうする」
「義明にあんなことが有った上に子どもを手放して一人きりだ、心配して何が悪い」
 落ち着いてなどいられない。分からないか。
「気になるか」
「気にするのが当たり前だ」
 ふう。ため息のあと健吾は、
「お義母さんと暮らしているらしい。だから安心しろ」
 落ち着けと言っているような言い方をする。看護部長をしているほどの人。だから気にするな。関わるなと言うのか。 
「どうして二人が一緒にいるんだ、面識があるなんて聞いたことないぞ」
「いいだろ。元気にやってるんだから」
「何か隠してるだろ。喋り方を聞けば分かる」
 お前らしくない。
 分かってるさ。
「俺も同じことを景子に訊いた。俺は景子が答えたことをお前に話した。それだけだ」
「僕が訊いても同じってことか」
「そういうこと」
 どうする。何かが起きたことは間違いない。
「明日、いや明後日にでも訪ねてみる。神奈川にある付属病院だったな」
「仕事はどうする。随分休暇使ったろ、義明の時に」
 つまらないことを訊くな、
「僕がいなくても会社は潰れない」
「そうかもしれんが、義明を置いてけぼりにしてまで行くことはない」
「僕がいない生活も味わった方がいいんだ」
 義明を出しにした都合のいい言い訳。情けない。
「遙奈は。大丈夫なのかよ」
「遙奈がどうした」
「ん? いや、別に」
 健吾の困惑が伝わる。
「遙奈がどうした」
 答えろよ。
「ほら、受験生だろ。気になるじゃないか」
 どういう事だ。



    二十四


 全力で走ったのはいつ以来だろう。淳は夜の明けぬうちに山形を発ち神奈川に向かった。
 遙奈と義明には、かつて二人が暮らした町の名と、一日二日、留守にする旨を書き残してきた。美幸に会いに行ったことは、容易に理解するだろう。
 上越新幹線の中でも、神奈川に向かう私鉄電車の中でも、景色を見るでもなく考えた――なぜ美幸が景子の母親と暮らし、なぜ急に親権を渡すと言い出したか。
 美幸の身の上に何かが起きたとしか思えれない。どうしても。それにだ、
「遙奈は大丈夫なのか――」 健吾も詳しく聞いていないようだが、
「お義母さんのところに行ったよ。しばらく泊まって――」
 景子さんは知っている筈だ。美幸も。
「直接訊いたりするなよ。絶対にだ」
 当たり前だ。ようやく笑うようになった遙奈にどうして訊ける。

 病院はラッシュアワーと見紛う混み具合で、山形の系列病院の比ではなかった。総合案内の順番待ちは一向に進まない。来院者と職員の会話が届くところまでの五分が三十分に感じる。
 あと五人。診察で訊けばいい事を話し、案内板を見れば分かる事を世間話を交えて訊き訴える。
(人生相談なら他でやってくれ)
 ようやく順番が回ってきた。
「看護部長に面談を」
 慌てて言い添える。 「小椋千春さんに。玉田と言えば分かる」
 受付女性は短く応じ、カウンター下の受話器を上げた。
 十一、十二、十三、十五秒。遅い。
「本日はお休みを頂いておりますが、係りの者が院内で見かけたと申しておりました」
「いるのですね」
「お知り合いのお見舞いではないかと」
 美幸だ。
「病室は」
 無表情な目がかげる。個人情報は漏洩できない、焦り過ぎたか。
 二十分もすれば昼。食事に向かうか、済ませた頃か。
 最後に千春に会ったのは確か、七、八年前。健吾夫婦の引っ越しを手伝った一度きり。二十歳で景子を生んだという記憶が確かなら、千春は六十二、三歳。あれから四十年。雰囲気までは変わっていないだろう。白衣姿でないのが幸いかもしれない。いや景子がいるじゃないか。景子を探すんだ。冷静になれ。食堂の出入り口で待っていれば、
「わっ!」
 !
「お母さんっ」
「ビックリした?」
「景子さん! おばさん、ですか」
「んもう失礼でしょ、ごめんなさいね」
 突然後ろから肩を叩かれ、
「声を上げるところでした」
 言いながらも顔がほころぶ。
「美幸がお世話になっているようで」
 クスッ。
 言ってから気づいた。別れた夫が言うことではない。
「お世話になってるのはわたしの方。美幸ちゃんが居てくれて、とっても助かってるの。すっかり甘えさせて貰ってるわ」
「それは、何より」 クスクス。
 可笑しいだろうか。
「お昼まだでしょ? 食堂に行かない?」
「ペコペコなんですぅ」
「捨てたものじゃないのよ、ここの食堂。こうるさい看護師のクレームのおかげで味は三つ星」
 
 食券機はメニューが豊富で、台数が多い。白衣姿でなければ、病院であることを忘れるほどの賑わいだ。
「黒豚定食? すごいボリュームよ。女の子向けじゃないわ」
「大丈夫。この間ステーキ食べたもん。お母さんは?」
「今日は焼魚定食。ハタハタだから」
 ハタハタと言えば秋田。山形に住む淳と景子にしてみれば、東北地方以外で食べるものではない。大きさも脂乗りも、美味さが違う。大袈裟に言えばマグロとカツオほどの違い。だからこそ単身神奈川で暮らす、千春の気持ちが理解できる。
「頂きましょ。憎まれ役に徹したわたしの結晶よ」
「やっぱりお母さんがクレーマーだったか」
 病院の料理としては期待以上。ハタハタも秋田辺りのものと、そう変わらない印象だ。
「美幸のことなんですが」
「食べ終わってからにしましょ。食事中は臓器との会話を楽しまないと」
「臓器と」
「そんな難しいこと考えながら食べたって美味しくないわよ。ねえ」
 ナイフとフォークを動かす手を止めて景子が言う。見方を付けたといった言い方だ。
「食材とお話しながら咀嚼して、飲み込んだら臓器との会話を楽しむの。 『おいしい? よく味わうのよ』 って」 
「もういい。ごめんなさいね」
「いや楽しいですよ」
 紙芝居を見ているかのように引き込まれてしまう。同居を決めた美幸の気持ちが分かる気がした。
「消化にも脳の働きにもよくて、満腹感が得られるの。淳さんもよかったら、」
「喋ってるじゃないの」
 美幸は和むのだろう。景子といると。友情で結ばれるはずだ。

「ずいぶん早かったんでしょ?」
「聞いていましたか」
「健吾ってああ見えてうるさいの。毎日電話しろって」
 捜していたのではないにせよ、来ることを知らなければ気づかないし、驚かすこともできない。
「逆なのよ。声が聞きたくて仕方ないの」
「お母さんったらもう」
「元気にしていますか。美幸は」
「美幸ちゃん? 元気よ」
「教えてくれませんか、知っていることを」
 同居に至った経緯。親権を譲ると言い出した理由。そして、遙奈が心配されなければならない理由を。すべては関係しあっている。そんな気がしてならない。
 千春は淳から目を離さないまま、
「それは無理よぉ」
 笑って言う。
「女ってデリケートなのよ、自分のことには。おいそれペラペラ、喋れるわけないじゃない」
「美幸に口止めされている?」
「そんな子じゃないわ」
 改めて言われるとそうだ。ならば、
「本人に聞きます。美幸はどこに」
「淳さんが来ることは話しました。会わないそうです。美幸もだけど淳さんも勝手です。勝手にあっちとそっちであれこれ考えていて分かり合えます? 無理よ、会う意味ありません」
「景子」
「僕は」
「分かり合おうとしました? してないと思う」
 しなかった。出来なかった。だから離婚するしかなった。
「自分を曝け出ないで相手の何が分かりますか。分からないから美幸は苦しんだの。淳さんも苦しいでしょ? 同じです」
 でも僕は自由にさせた。好きなようにさせた。美幸を思って生きた。
「冷めちゃうわよ」
 黙っていた千春が声を掛ける。コーヒーを頼んだことさえ思いだせない。
「どうして美幸と」
 暮らしているのか。暮らし始めたのか。理解した千春は、
「説得してみて。美幸ちゃんのこと」
 思ってもみないことを口にする。
「私が?」
「姉のつとめよ」
「母親の役目じゃない」
 母親?
「あなたの方が、ずっと長く付き合っていくのよ」
 何を話しているのか見当がつかない。
「もしかして、ここに?」
 入院しているのか。美幸は。
「こそこそ口の端に掛けるような事をしても、誤解を生むだけでしょ」
「分かった。やってみる」
 景子が席を立った。



    二十五

 
 良い眺めでしょう。お気に入りの場所なの。
「懐かしかったのだろう。おばさんも」
 一人カンファレンスルームに残った淳は、寒々とした窓辺に歩み寄る。田んぼと畑と、広さの違いはあるにせよ、山形に似ている景色。
 この景色に、思いを馳せる美幸を、説得を拒み取り乱す美幸が覆い隠す。
 いくら親友と母と慕う千春の説得でも‥‥‥来ないだろう。やはり千春と景子を口説き落とすしかないのか。
 コン、コン――、
「お待たせ」
 声に振り向く。
「久しぶりね」
 千春の肩を借りる美幸は、笑みを浮かべている。が、僕の後ろを見るような目に力は無く、どこかぼんやりだ。
「あまり長く話せないわよ。そうねえ、十分。十五分以内」
 美幸が座るのを助けながら千春は言った。後ろにいる、思案顔の景子が気になる。
「病気、なのか」
 美幸は表情を変えない。
「検査か」
 小さく首をふる。
「わたしたちがいると話しにくい?」
 拘泥せずに千春は訊いた。
「居てください、居てくれた方がいいです」
 焦燥露わに美幸が請う。生気を感じられたのが嬉しい。
「淳さんは?」
「居てください」
 はっきり答える。美幸が望むのなら。
「元気ですか? 二人は」
 よそよそしい言い方が懐かしい。若い頃、遙奈が生まれる前は二人してこうだった。
「ああ。落ち着いてるよ。遙奈は音楽セラピーのボランティア活動でピアノを演奏していて、義明はバスケットボール」
 淳は言い止み、
「聞いてるよね」
 景子を見て言う。親友が話さないわけがない。
「先月から教会にも行ってるんだ」
 聞いている筈だが、反応がない。
「元気に頑張ってるって。良かったわね」
 千春に笑顔を向けられても同じだ。
「どうして入院しているんだい?」
「美幸?」
 
 どうしちゃったの。学生時代の美幸に、会えたと思ったのに。
 清くて潔い、憧れていた美幸に――。

  何だかへんよ。目がぴこぴこしてる。
  やましい事があるか嘘をついたか、どっちかね。
 「淳さんが来てるの。会いたいって」
  ・・・・・・・・・
 「どうする? 断わっていいのよ」
  会うわ。
  みんなに迷惑を掛けることになるし、もやもやが残るだけだから。
  それに決めたの、
遙祈に隠し事はしない、逃げないって。
でも病気のことは話さないで。
 「かえって励みにすると思う。淳さんなら」
言わないで、
弱い人だから。

「千春さんと同居しているのは、入院と無関係ではないんだろ?」
「お話してあげたら?」
 千春が言っても同じ。首を振るだけだ。
「子どもたちも心配してるんだ」
「嘘言うなよ!」
 景子が目を剥く。淳もだ。
「恨んでるかせいせいしてるかに決まってんだろ、これっぽっちも親だなんて思ってねえんだからよ!」 
 見開かれた目。振り乱した髪、
「美幸!」
 どうしたというんだ。
「赤ちゃんを生んだの、それで入院してるの。美幸ちゃん」
「赤ちゃんって」 相手は‥‥‥
 美幸は独身。恋をしようと結婚を考えようと自由。頭では分かってる。祝福すべきだ。でもできない。できるわけがない。
「よく笑う、とっても可愛い男の子。ね、美幸ちゃん。可愛いのよね」
「来ないでよお、どうして来るのよ」
「二人にさせて」
 千春は守るように美幸を抱きしめる。
「もう遅いのよお、今さら来られてもどうにもならないのよお」
 美幸……。
 遙奈は大丈夫かと訊かれた。知ってることがあったら教えてほしい。とても訊けない。
「行きましょう、淳さん」


「遙奈の時は」
「え」
「天使みたいだって、ほんとうに喜んでね」
 談笑の輪をつくる家族が居、何かに耐える顔があり、ラックには幼児向けの本が並び、その上には動物とアニメキャラクターと食べ物のぬいぐるみ。産科らしいラウンジ。
「式は挙げたのかな」
 浮かんだことをそのまま口にする自分に、淳は気づかない。
「遙祈ちゃんと二人で暮らすって言ってるわ」
「二人でって」
 床に向けた顔が正面の壁を見、景子のほうに向く。  
「一人で育てる。二人で生きていく。同じ失敗は繰り返さない。ってそれはもう、口ぐせみたいに言うの。遙奈ちゃんに言われたらしいの、 『子どもを教育するのが親の役目。飼育とは違う。』 って。それがショックだったみたいで、一人で立派に育てようと必死で、他のことは考えられなくてあんな風に‥‥‥」
「僕が混乱させたわけだ。でも一人で育てるなんて」
「無理よ。あんな」 病気を抱えた体で。 
 終わりまで聞き取れなかった。
「美幸を救えるのは、淳さんだけだと思う」


「遙奈ちゃんの遙かを貰って、祈りを書いて、遙祈ちゃん」
「千春さんにつけて頂いたの。お母さんに」
 千春の言うとおり落ち着いて見える。自分の言葉で語ったことが、何より嬉しい。
「聖書を読む美幸ちゃんを見て浮かんだのよ」
「え?」
「聞いていませんでした? 美幸が聖書を読んでいる姿を見てお母さんが名前を――」
 教会へ足を運ぼうとする朝、 「所詮人恋しいだけでしょ。宗教とか何とか言って――」 気鬱にする君を僕は憎んだ。確かに人を慕って教会に行く者もいれば、人との不和を理由に信仰を棄てる者もいる。
 美幸は宗教そのものにでなく、みな同じ方向を向いて神を仰ぐことを嫌悪していたのかもしらない。詰まるところ僕が無教会主義であれば、美幸はキリストを問題視することなく信仰の門を通っていた。僕は美幸の信仰の種を、育てようとしなかった。
「遙祈。いい名前でしょ、美幸もお気に入りなの」
「心に留まった、」
「授乳の時間よ」
 これ以上訊いてくれるな、か。
 心に留まったみことばは? 好きな聖句は? 確かに尚早かもしれない。
「私が行く。滅多に会えないんだから話した方がいい」
 言って景子が立ち上がる。
「お母さんが居ないとだめ。あなたがするにしても」
「聞いていませんか。遙奈から」
 美幸を救えるのは淳さんだけだと思う――本心だったことに喜んだのも束の間、鬼気迫る目。この眼がいつも僕の口を塞いだ。
「何をだい?」
「聞いてないならいいです」
 やはり美幸は知っている。遙奈の身の上に起きた何かを。だから二人は苦しんでいる。
「もう行かないと」
 腰を浮かせると、病衣の胸倉が僅かにはだけた。母乳にこだわり、吸引の痛みに堪えた若かりし日を思い起こす。小さな胸とその感触も。
「もう少しだけ」
 もう逃げ出したりしない。だから目を背けずに僕を見てくれ。
「からだを休めることが仕事なの。分かってあげて」
 来た時と同じように、千春が肩を支える。
「子どもたちを連れて来るよ」
「二人とも来ません。だから何も言わないでください」
「君が何と言おうと子供たちにとって遙祈は、」
「やめてっ」
「遙祈は弟だ。君が決められることではない」
「淳さん」
「美幸を苦しめないで」
「遙奈も苦しんでる。分かってるだろ」
 初めて僕の目を見た。 
「もう会いません」
 美幸は言った。
 僕ら三人にだと思う。
 


    二十六


 ――美幸さんの様子、見てきてくれない?
 由衣に頼まれて二週間。施設と所属教会、両方のクリスマス会の準備をようやく終えた誠治は、産科病棟に美幸を訪ねた。
「なあ。いちいち電話なんか掛けねえだろ、他の面会者はよ」
 どこへやら連絡を取った受付事務員は、折り返しの電話を待つよう言ったきりで、妊婦ばかりの行き交う産科は、どうにも落ち着かない。
「ご本人の希望ですし、ここにはおられないので」
「どこに居るか教えればいいだけだろうが」
 事務員は取り合わずパソコンに視線を戻す。
 十分近く待つとようやく電話が鳴った。
「西棟五階のエレベーターホールで看護師が案内します」
「VIP扱いだな」
 言われるままに廊下を進みエレベーターで五階に上がる。つもりだったが思い直して階段を使う。
 思った通り。わざわざ待っている筈がない。
 受付で更に五分。
「今どき役所でもこんなに待たせないぞ」
「そんな事ありません。私の旦那なんてちょっとした納税の問い合わせだけなのにあっちこっちたらい回しにさせられて、一時間半ですよ。それに比べたらココの方がずっと、あっ来ました」
 年嵩の女性看護師は体格も手伝い、堂々としている。
「小渕美幸に面会だ」
 苛立ちを抑えずに誠治は言った。
「失礼ですが、どのようなご関係でしょう」
「会社の同僚で大切な友だちの母親で仲間の前妻。何でそんなことを訊く」
「美幸ちゃんから頼まれているので」
「美幸ちゃん? ああ、あんたか。一緒に住んでる看護師ってのは」
 上から下に。誠治は品定めをするように千春を見た。
「ええ。わたしが傍に居れば落ち着くと思って。愛子先生なら尚よかったのでしょうけど。それはともかく、」
「知ってるのか。愛子ちゃんを」 
「もちろん。一度お見えになりましたし、愛子先生の話が出ない日はないくらいですもの」
 由衣っぺが言ってたっけ――美幸さん、母を頼って電話をしてくるの。言われてみれば知っていて不思議はない。
「関係者の方に間違いないようですね。わたしは小椋、」
「千春ちゃんだろ。バッヂ見りゃ分かるよ」
 ぷ。受付係が笑う。看護部長に向かって 「ちゃん?」 そんな顔で。誠治は気にも留めずに、
「じゃ、行くか」
 廊下に向かって踵を返す。
「美幸ちゃんに訊いて来ますからもう少しだけ、」
「いい加減にしてくれ」
 更に五分ほど待たされ現れた美幸は、
「久しぶりだな。いい女になったじゃないか」
 まるで飢餓で衰弱した子供だ。
「ご無沙汰してます。仕事では、迷惑をお掛けしてしまって」
 声にハリも抑揚もない。
「気にすんな。どうしようもない事は誰にでもある。個人的見解だけどな」
 千春に促され、三人はラウンジに移動する。誠治はテーブルにはつかず、自販機に向かい、
「なに飲む?」
 背中を向けたまま訊く。 「しょっちゅう来るわけじゃねえんだ、遠慮しなくていいぞ」
「わたしコーヒー牛乳」
「おい。あんた仕事中だろ」
「看護師は同じ目線で向き合うことが大切なのよ」
「だてに長く生きちゃいねえな。あんたみたいな女は嫌いじゃねえ」
 周囲の患者と見舞客が、微笑ましい目を三人に向けている。
「さっそく本題だ、いつまで入院してる。言っておくが、責めるつもりは毛頭ない。訊いてるだけだ」
「退院許可が出るまでよ」
 困惑顔の美幸に変わって、千春が答えた。
「いつ許可が下りる」
 結果だけ分かればいい。誠治らしいと美幸は思う。 
「お分かりですか。入院の理由」
 美幸が顔を上げて言う。どうにか聞き取れる声で。
「ああ。由衣っぺが口を割った、出産したそうじゃないか。おめでとう」
 乳がんのことは聞いてない? 美幸は訝りながらも、
「ありがとう、ございます」
 精いっぱいの声を張る。
「お産にしては掛かり過ぎだろ。みんな心配してる、由衣っぺも淳さんも教会の先生も。俺が代表して聞きにきた」
 分かり易い誠治らしい嘘。 “みんな” のうち村瀬先生と愛子先生と由衣さん、それにお母さんと景子は知っている。私の試みを。
 でも不器用に心配する気持ちが嬉しくて、
「早産で、未熟児で――」
 答えるが先がつづかない。
「難産だったの。赤ちゃんは医学的な経過観察が必要で、美幸ちゃんは、母体回復の為の療養中。難産に至った原因療法を兼ねてだから時間が掛かるの」
 言い継ぐ千春を見て美幸は、 「あの日」 を想起する。
 その日のうちに山形から駆けつけた、愛子と由衣は、
〈与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。〉
 ただ与えるために会いにきた。二人を、そして千春を動かしたのは愛。欲も濁りもない愛だ。
「俺の記憶力が確かなら、俺は 『素直になった方がいい』 と言ったはずだ。原因療養だか何だか知らねえが難産でどうして乳腺外科にいる」
「それは」
 千春と美幸は二の句が継げない。
「あんたは、自分が思ってるほど嫌な人間じゃねえぞ。素直になればいい女だ。余計なこと考えっから、周りのモンが余計な心配するんだ」
 今までなら反発しか感じない言葉も、今は素直に聞ける。心に愛が棲み始めたから。でも、余計な心配を掛けたくないから考えるのだ。
「由衣さんから他には」
 鎌を掛けるようなことはしたくない。でも知られたくない。子どもたちには絶対に。ガンのことは。
「他にってなんだ」
 約束は守られている。
「いいえ何でも……」
「ねえ美幸ちゃん。もうやめましょ、一人で頑張るの」
 お母さんに(なら)おうと思った聖句が、私を迷わせる。
〈つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。〉
「でも」
 できない。話せるはずない。山形から駆けつけた由衣にですら躊躇したのだ、遙奈と義明に知られたら――。遙奈を壊すわけにはいかないの!
「また “でも” かい」
「そんなふうに言わないで。一生懸命自分と闘っているんだから」
 千春の言葉がラウンジに響く。
 そんなものではない。遙奈の口から、 「自業自得だ、いい気味だ、ざまあ見ろ!」 そんな言葉を聞くのが怖いから。
「ま、そうだな」
 誠治は尊敬の目で千春を見た。
「もう少し時間をください。必ず話しますから」
「そう伝えていいんだな。先生や由衣っぺや淳さんに」
「はい」
「よし分かった。とにかく大事にしてくれ。赤ん坊によろしく、んじゃ」
「ちょっと」
 千春は美幸に待っているよう促し、誠治を廊下に連れ出す。
「なんだ」
「美幸ちゃんのこと、支えてあげてね」
「そのつもりだ」
 美幸の心が見えれば、命だって懸けるさ。
 病棟を出た誠治は携帯を開く。 【由衣っぺ】
 ――珍しいじゃない、電話なんて。それで今日は吹雪いてるのか。
「頼みがある」
 ――珍しづくしね。何でしょう。



    二十七

 
 日を浴びた水墨画のような銀嶺が神々しい。玉田姓に戻った遙奈と義明は、福祉センターに向かう車中にいた。浮かぬ顔の義明に遙奈と淳は、
「今年最後ね」
「次は年明け十三日、三週間後だな」
 明るく声を掛けるが、バスケットのできない気鬱さが胸を占める義明は、むすっとした顔を窓外に向けたまま答えない。
「三か月でレギュラーだもんね。これからっていう時に水を差された感じ?」
「お正月なんか無くっていいんだよ、どうせすぐに元の生活に戻るんだから」
 耳元で遙奈に言われ、義明は仕方なしに答えた。
「気持ちは分からんでもないが、割り切ったらどうだ。もっと上手になるにはどうすればいいか、どんなところに欠点があって伸びしろが有るか、考える時間だって」
「そうよ。不動のレギュラーになるステップアップだと思えばいい」
「要するにぶんせきでしょ。そういうの苦手なんだ」
「今日は今日、明日のことは煩わない」
 親子三人での暮らしも違和感がなくなり、生き甲斐を見つけた二人に笑顔は戻った。だが美幸を忘れたように振舞う二人を見ると物哀れになる。
 除雪のあとの(うずたか)い雪壁の先、福祉センターの入口で遙奈を降ろす。
「終わったら行くから。頑張って」
 助手席の義明に言って遙奈が駆けて行く。成長途上の後ろ姿がみるみる離れ、雪蔭に消えた。
「期待に応えないとな」
 道を挟んだ町立体育館の駐車場は、大方除雪されていて閑散としている。 日当たりのよい場所を選んで車を停め、淳がバックドアから車椅子を降ろすと、
「少ないね」
 義明はぼんやりと言った。車椅子から見ると余計に寂しく見えるのだろう。いつもなら聞こえてくる体育館から漏れる快活な声も、耳を澄ませてようやく聞き取れる程度だ。
「師走極月(ごくげつ)と言ってね。一年のきわめ、見とどける月だからみんな忙しいんだ」
「暇つぶしならやらなくていいよ」 
 横顔が美幸にそっくりだった。 
   
 屋根付きのスロープを通って裏口にまわる。人で賑わう昇降口も人影はまばらで、幅の狭い廊下が病院の地下を感じさせる。
「行ってくるよ」
 競技用の車椅子に乗り換えた義明はもう、選手の眼をしている。
「思い切り汗を流してこい」
 ロッカールームへ向かう義明を見送った淳は、いつものように正面玄関にまわる。エレベーターを使えば直接観客席に入れる造りとは言え、助けが必要な見物者は少なくない。
「エースの登場ですな」
 後ろから声を掛けてきたのは、生まれつき両下肢のないナンバー3、アラキタクオの父親だ。短期間で頭角を現した義明は、期待の星に違いないが、 「すべてに期待するのが愛ですよ」、 教会員にならそう口にしていたかもしれない。
「いやあ」
 メンバーの家族と挨拶を交わすのも楽しみのひとつ。とくにエースの座を義明に奪われたことなど頓着しないアラキとは距離を感じずに話せる。
「来年は請けようと思いましてね」
「コーチを?」
 アラキは社会人リーグで活躍した元バスケットボール選手。だが再三のコーチの誘いにも、 「車椅子は素人」 と固辞してきた筈だが、
「サポートくらいできると思いまして」
 遠慮深いところが好感が持てる理由のひとつだ。
「玉田さんもどうです、ご一緒に」
 それなら僕にもできそうだ――そんな事を考えていると、胸でケイタイが震えた。
「失礼」
 体をひねってフリップを開く。
【村瀬由衣】
 

「話しておいた方がいいと思って」
 ほんとうに言ったんですね。
 ――もう少し時間をください。必ず話しますから。 
「ええ」
 それで美幸の様子は、
「落ち着いているみたいです。誠治さんがもう大丈夫だろうって」
 これから向かいます。



     二十八


 美幸に会うのは一か月振りだ。産科から乳腺外科に変わったことは由衣から聞き及んでいて、さして気にも留めていなかったが、 
「やあ」
 うまく笑えたか分からない。産後の輝くような美幸とは別人だ。
「また来たの? 大丈夫って、言ったのに」
 確かに落ち着いたように見える。だが、皺の目立つ目尻に細すぎる腕、首元から鎖骨の素肌はまるで老いた男だ。
「大丈夫なのは分かってるよ。何となくね」
「嘘ばっかり。心配で心配で、居ても立っても、居られなかったって、顔に書いてある。可愛いでしょ。ほら」
 首を左右にひねって、ケアキャップを見せつける。何て答えればいい。
 良く似合ってるよ? どうしたんだい? 自分で編んだの? 
 抜け落ちたのだ、自慢の黒髪が。
 千春と暮らすようになったうえ、いまだ景子は山形に戻らない。
 疑いようもない。病気だ。しかも深刻な。
「言ったとおりでしょ。やっぱり来なかった、じゃない」
 
義明行くぞ。
お姉ちゃんが行くって言ったらいくよ。
遙奈。
無表情のまま。ピアノから離れようとしなかった。  

「遙奈はボランティアが忙しくて、義明は今年最後のバスケの練習が抜けられなくて」
「そういう事にしておくわ」
 千春と景子は、ようやく立てるようになった赤ん坊を見る目で、美幸を見ている。黄ばんだ焦点のずれた目を見ていられなくて視線をずらすと、
「ああ」
 枕灯台に聖書があった。
 気づいた美幸は枝のような腕を伸ばして――、
「ほんとに読んでるの? そんな顔ね。由衣さんから、頂いたの。六月だったかな、愛子先生と一緒に、来てくれた時に。せっかく頂いた聖書なのに、全然、理解できない。こんな難しい本を、読んでいたのね。関心、しちゃう」
 息苦しそうに言った。
「子どもたちが聞いたらきっと喜ぶよ。それより、」
「無理して喋らないでいいのよ」
 掛けようとした言葉を、千春が口にする。
「はい。それより、何?」
「それより、 (そう、) 熱心に理解しようとする事も大事だけど、神さまを感じることがいちばん大事だと思うよ」
「そうかも、しれないわね。でも、私には無理みたい」
 千春が口をはさむ。
「十分感じてるじゃない。 『遙祈』 って名づけたのは、聖書を読む美幸ちゃんが神さまとお話しているように見えたから、言ったでしょ」
「でも、神さまを感じながら、読んでいたわけでは、ありません」
 擦り切れ頁が物語っている。精霊が、
「神さまが、君を感じて働いてくださったんだ。半年でこれだけ読み込む人はそうはいないよ」
 美幸は首を傾げ、
「やることが、無いから。自由に動けたら、見向きもしなかったと思う。今までが、そうだった、でしょ」
「眩しいでしょ」
 景子は言って、顔が陰るところまでカーテンを引く。
「どうしてるかなあ、村瀬先生と、愛子先生」
「会いたいかい?」
「はい」
 美幸は天性、キリスト者としての弁えが備えられていたのかもしれない。道すがら考えていたことをふたたび思う。
 家を所有することに反対したときの美幸は、 「どうしてクリスチャンが土地建物を買うのよ。天も地も神様のものなんでしょ? おかしいじゃない」   
 攻撃などではなく、素朴な疑問だったのだ。
 子供たちの将来を理由にどうにか説得したとき美幸は、 「それならバリアフリーにして。誰が来ても迎えられるように」
 言いなりになるのが嫌だったのではなく美幸の親身。先生が傍にいれば本来進むべき道を歩める。そんな気がしてならない。
「礼拝で会ったら言っておくよ。君が会いたがってるって」
「でも、すごい行動力だから、 『これから行く』 なんて、言い兼ねないから」
 義明が緊急搬送された時もそうだし、聖書を頂いた時がそうだったらしい。美幸は笑みを浮かべ、嬉しそうに聖書を見つめる。美しい。
「淳さん。遙祈ちゃんに会っていったら?」
 景子が促す。
「んもう、そんな顔、しないで。遙祈も喜ぶわ」
 やつれていても笑顔は昔と変わらない。
「とってもイケメンなの。今まで見た赤ちゃんの中でナンバーワンかも。他のお母さんには言えないけど」
「我が子の前でそれはないでしょ。とにかく天使みたいで、何て言うんだろ、仄かに輝いてるの。見れば分かるわ」
「行きましょ」
 上着をはおる美幸を二人が手伝う。
「どうかした?」
「いや」
 少し怖かった。

「手前から二つ目の、ほら、イヤイヤした、あの子」
 美幸が保育器を指さす。癒着しているという右手はこちらからは見えない。  
「心臓疾患や股関節脱臼は診られませんし、中指と小指を手術で分離します。傷が残らないように」
 千春が真剣に話す。心の傷を言っているのだ。
「だから、いつまでも、こうしていられないの。この子が元気に、走り回れるようになるまでに、頑張って、働かなきゃ」
 胸につかえる言い方だ。
「焦らなくていい。君たちのことは僕が、」
「ガンなのよ」
 思わず目を見開いた千春が、なぜか安堵した顔をする。
「君がガン、なのか!?」
「乳がん。こっちの胸、無いの」
「どうしてそんな大事なことを」
「美幸ちゃんはね」
 何かを口にしかける美幸を制して、千春が話し出す。
  妊娠と乳がんの同時診断、
右胸の全摘出術、
妊娠中期からの抗がん剤治療、
  妊娠高血圧症による母子ともに危険な状態での出産、
「それに五年間、再発を防ぐ治療がつづきます」
「ふつう、産まないわよね。ガンなのに」
 試練と祝福、いや、祝福さえ試練に変わり兼ねない状況に立たされながらも、終わりの見えない葛藤と承知のうえで美幸は、出産を決意した。そして打ちひしがれそうな不安のなか、寄り添おうとしたのが千春さんだった。
「だから子どもたちを返して千春さんと一緒に暮らし始めたのか。それならそれで」
「たった今お話したばかりじゃありませんか。ご自分の身に置き換えてよく考えてください」
「殺したくなかったの」
 厳しい口調とは裏腹に遙祈を見る目が優しい。遙奈の時と同じ目だ。
「義明が、教えてくれたのかもしれない。命の、大切さを」
 自分の置き換えて――。
〈主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。〉
 やめよう。
「もう戦うのはやめよう」
「そのつもりよ」
 帰ってこないか。
 言えなかった。遙奈が帰ってこないのに。
 


     二十九

 
「つぐみ教会か」
 棟木(むなぎ)の上にそびえ立つ十字架が、大地と人々を護っているように見えた。
 午前十一時。未明にアパートを出た誠治は、山形自動車道に入るのを待たずに由衣と連絡を取った。 「大したタマだ、由衣っぺってやつは」
 夜明け前、と言うより未明の只中にも関わらず、由衣は普段と変わらなかった。 「――前もって電話しなさいよ!」
 着いたぞ由衣っぺ。
 タイヤ音を聞きつけ、姿を現わしたのは、牧師村瀬浩一郎。義明の自殺騒ぎのときに会っている。後からくる、何かを抱えるように腕を曲げているのが母ちゃん。脳梗塞の影響が残るという愛子か。由衣がぴたりと寄り添っている。
「急に悪いな」
「遠いところを大変でした」
 牧師になる人だけあって違う。由衣に言ったつもりなのだが。
「いやいや」
 頭を掻くしかない。
「大変だったのはこっち。四時前に電話するなんて信じらんない」
「お前なあ、こっちは十一時から夜通しぶっ通しで寝ずに走ってきたんだ、優しい言葉のひとつも、」
「大変でしたねえ。お疲れになったでしょ、ゆっくりもしていられないのでしょうけど、ごゆっくりなさって」
 ? さすがは由衣っぺの母ちゃんだけある。天然ぶりは由衣の比ではないかもしれない。
「チェーンを着けずにすんだ分ゆっくりさせて貰いますよ。ゆっくりと言えばずいぶんゆっくりだな、まだ寝てんのか主役は」
 肝心の遙奈と義明の姿が見えない。
「緊張して眠れなかったのよ」
 由衣が庇う。
「寝ようとすっから緊張するんだ。俺なんか丸一日寝てねえってのに、ったく」
「うふふ」
 誠治を見て愛子が笑う。
「なんだ」
「だって。ねえ」
 二人は誰に対しても態度を変えない。
「子供みたいなこと言うからよ」
 由衣が割りこむ。 「ボクちゃん、丸一日寝てないんでちゅう」
「馬鹿にすんな。ったく人の恩も忘れやがって」
 二人を見ていると微笑ましくて楽しい。愛子も話の輪に加わりたくなる。
「恩って何かしら」
「大学時代のこと。会うたびに言うの、 『卒業できたのはオレが面倒見てやったおかげだ。お前は一生オレに感謝する立場なんだぞ』。 何かにつけて。何かが腐ったみたいに」
「お前え」
「あなたの感謝が足りないからじゃない?」
 愛子が嬉しそうだ。
「あら。誠治さんの肩を持つ気?」
「さすがは母ちゃん。よく分かってるな」
「お礼が先だよ。愛子」
 浩一郎は病院で会った時と同じ。冷静で温かい。
「今さらいいじゃない。でも、その節は娘がお世話になりました。これからもよろしくね」
「ああよろしく。それにしても遅えな。由衣っぺ、こそぐり起こして来い」
「何よ偉そうに」
「由衣っぺって呼んでいるの?」
「人が嫌がるのを喜ぶタイプ。相手にしなくていい」
 愛子はいっそう嬉しそうに、
「なんかいい感じじゃない?」
 二人を窺う。
「コレと? 冗談でもそういうことは、」
 お。
 遙奈と義明だ。淳が留守をする時は教会と隣接する牧師館で、村瀬家で過ごす。
「いつまで寝てんだ。俺なんかな」
「また言ってる」
 フフフ。
「ほれ、さっさと乗れ」
「もう行っちゃうの? 来たばかりなのにとんぼ返りじゃない」
 愛子が口を尖らせる。
「おかげでゆっくりできましたよ」
「都内は混むから行きましょ。面会時間に間に合わないわ」
「お前も行く気かよ」
「私がいれば少しは休めるでしょ」
 由衣は運転席にまわった。
「永遠に眠らせないでくれよな」
「お望みなら」
「俺はごめんだ、由衣っぺと心中なんて」
 浩一郎と愛子が声を合わせて笑う。
「行きたくありません」
「遙奈ちゃん」
「嫌でも行くんだ。言いたいことがあるなら会ってはっきり言え」
 足を引き引き、遙奈に近づく愛子も、
「その方がいいわ」
 思いは同じだ。頷く浩一郎も。由衣も。
「ただし冷静に。ぜんぶ吐き出すの」
 母子の関係がこれ以上冷え込めば溝が深まるどころか、関係が絶たれ兼ねない。皆理解している。
「そうそう、観念して乗れほら」
 昨夜の由衣からのメールでは、淳は今日も美幸を見舞うという話だ。遙祈が生まれ美幸との関係が改善しつつある、この機を逃す手はない。
「お姉ちゃん」
 義明に促され、遙奈は下を向いて後部座席に向かう。
「とにかく焦らずに気をつけて。祈っていますから」
 浩一郎が穏やかに言う。
「どうせこの車じゃスピードも出ませんから。のんびり行きますよ」
「久し振りじゃない? デートなんて」
 愛子がはしゃぐ。
「お母さんっ」
「さ、乗った乗った」
 聞こえない振りをして、誠治は助手席に乗り込む。
「由衣のことも、強引に誘ってやってくださいね」
「大っ嫌い。お母さんなんて」
「誠治さん、またお会いしましょうね」
「愛子ちゃんとなら喜んでデートするよ」
 浩一郎は笑っていた。

「この辺りじゃ、裏道使ったって変わんねえだろ」
 由衣の運転する車が雪道を滑走する。
「これくらいの雪道ならへっちゃらよ」
「やっぱり、行きたくありません」
「遙奈!」
 誠治が叫ぶ。
「ひぃっ」
「ちょっとお。大きな声出さないでよ、急ブレーキ踏むとこだったじゃない」
 抗議する由衣に構わず誠治は、
「母ちゃんも父ちゃんも変わったんだ。うだうだ言ってねえで自分を変える勇気を持て。甘えるのもいい加減にしろ!」
 二人を一喝する。
 車内を重い空気がつつむ。叱責する誠治を見るのは初めてだった。由衣でさえも。
「ねえ。あなたたちのお母さんは美幸さん一人なのよ。分かるわね」
 広域農道を左折し国道に入る。片側二車線の幹線道路は思いのほか混んでいて流れが悪い。
「うん……」
 義明だけが答えた。
「あなたたちが東京で辛い思いをした事は、お母さんがいちばんよく分かって、」
「分かってない!」
「黙って聞きなさい!」
 ルームミラーに映る由衣の顔が険しく、悲しそうだ。
「話を聞くんだ。耳じゃねえ、ここだ。心でだ」
 誠治は言って胸を叩く。
「お母さんを赦せない気持ち、分からないではない。それでも赦すの。大人になればなるほど、変だな、おかしいなって思う事がたくさんある。そんな時に問われるのが赦す心。赦すって何? 心を開くことよ。心を開くにはどうすればいい?」
 由衣が高速道路の発券機から通行券をもぎ取る。吹き込む冷気が鋭く頬を刺した。
「主日礼拝で牧師が言ってたでしょ。
〈生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。〉 って。
 赤ちゃんは戦いもしなければ逃げもしない。いつも心を開きっぱなしで受け容れることしか出来ない。だから成長できるの。いつまでも目を背けては駄目。自分が生き易いように生きていては駄目なの」
「ハンドル切り過ぎだ」
 由衣の頬が濡れている。 
「このスピードなら5ミリ動かしゃ、十分車線変更できる」
 ハンカチを差し出して、誠治はつづける。
「読んだこともねえ聖書開いて必死にやり直そうとしてるんだ。素直に生きようと母ちゃんは、聞いてんのか遙奈!」
 ドアに体を凭せたままの遙奈は見るでもなく窓外に顔を向け、無関心を装う。 (聖書なんて似合わない。読んで欲しくない。読んだってあの人は絶対に変わらない)
「お父さん泣いていらしたわ。ひた向きなお母さんを見て、嬉しいって」
 由衣が言葉を詰まらす。電話の向こうで噎ぶ淳は別人だった。
「悔い改めようとする人間を責めてもな、永遠に何一つ満足なんかできやしねえんだ」
 ・・・・・・・・・
「お前らも嫌でも大人と呼ばれる日がくる、親と呼ばれるように、」
「いやっ!」
 頭を抱え遙奈が耳を塞ぐ。
「お姉ちゃん!」
「止めろ!」
「無茶言わないでっ」
 遙奈のからだが小刻みに震えている。由衣は左車線に入り速度を落とした。
「どうしても会いたくないなら無理にとは言わない。でもね、」
「余計なこと言うな」
「誠治さんこそ黙ってて」
 由衣は淳が聞いたという言葉が気になってならない。

  遙奈は大丈夫なのかと親友に訊かれて――

 思いだしたくないほど美幸さんを憎む理由が分からない。でも、
「遙祈ちゃんには会いなさい」
 遙奈の心を開けられるのは遙祈しかいない。
「それが嫌なの!」
 遙奈が叫ぶ。
 ・・・・・・・・・
「そんなこと言っちゃダメ。弟よ、みんな天使みたいって、」
「ぜったいイヤッ!」
 手で顔を覆う。異常なほどの拒絶の意思だ。
「お前らの知ってる母ちゃんは死んだんだ」
 誠治が後部座席に体をひねる。
「お前らはよ。お前らが勝手に思い込んでる、大人になる資格のない母ちゃんより、遥かに生ま狡い大人になろうとしてるんだぞ」
 二人は黙ったままだ。
「とにかく病院には向かう。どうするかは自分で決めろ。お前らが大好きな父ちゃんは不平不満も言わずに母ちゃんの傍に居る。父ちゃんの子供なら父ちゃんにならって、」
「もういい黙ってて。着くまで考えなさい」
 風と競うトラックが追い越しざまに長閑な風景を遮る。路面を蹴るタイヤ音だけの世界も、悪くないな。


「起きて」
 息を吐いて由衣は言った。
「着きましたけど」 
 ん?
「病院だよ」
 義明が肩をたたく。
「んもう、起きてっ!」
「んあ」
 月明かりのような外灯が駐車場の凍てついた車を照らしている。カーラジオのデジタル表示は、
〈19:00〉
「おう、早かったな」
「早かったじゃないわよ、首都高なんか大渋滞で全然動かないし割りこむ車は多いし大変だったのっ。何が途中で交代してやるよ、始めっからずっと寝てるつもりで、ああヤダヤダ」
「何言ってんだ、お前の言うこと聞いて黙ってただけだろうが」
「だからって眠ってどうすんのよ。二人ともよく聞きなさい、こういう口先だけではぐらかす大人になっちゃ駄目よ。いい、分かった?」
「誠治くん、寝てなかったから……」
 義明が誠治をかばう。
「んまあ、味方するの?」
「味方とかじゃないけど」
「義明は大人だ.赦すことを知ってる。それに比べて由衣っぺは」
「うるさい。もういいっ」
「晩飯おごるから機嫌直せ。なっ」
 車体に病院名の書かれたバスがエンジンをかけると、コートの襟を立てた男がバスに向かって走り出す。建物に跳ね返る不規則な靴音が、深夜と錯覚させた。
「晩飯は面会が終わってからだ。我慢できるな」
「ぼくは平気」
「いいな」
 相変わらず遙奈は口をきかない。
「寒いね」
「山形よりマシだろ」
 遙奈に言ったのだが、
「それはそうだけど、暖ったかくはないよ」
 明るい声で、義明が答えた。
「そんなもんか遙奈」
「‥‥‥」
「山形に住めば分かるわ、行くわよ」
 由衣がエンジンを切った。
 
「十分眠った人はいいわね。体力が余ってて。ねえ」
 由衣が声を掛けても遙奈は黙ったままだ。取りなすように由衣は、
「ゆっくり歩いてくれるう、義明くん寒くて可哀相よ」
 前を歩く誠治に向って声を張る。
「ひとりで大丈夫だよ、こんな坂くらい」
「腕でも吊ったらどうする、あっという間に真っ逆さま、下手したら命取りだぞ」
 遙奈、義明!
「お父さんだ」
 仄暗い夜間専用口の方向から、淳が駆けてくる。
「愛子先生から電話を頂いてそろそろ着く頃かと。ほんとうにご迷惑をお掛けしまして」
 落ち着きなく淳は言い、車椅子の後ろにまわると、
「よくきたな」
 義明の肩に手を置き、遙奈を見て二人をねぎらう。
「子どもたちが来ることを美幸さんは」
 淳と会話していることが由衣は不思議だった。
 義明の自殺未遂がなければ、今までどおり挨拶を交わすだけで、電話のやり取りさえなかっただろう。
「話しました。喜んでいます」
 淳は言って小声で言い継ぐ。 (会う資格は無い、と言っていましたが)
「ふたりとも聞いた? やり直そうとしてるのが分かったでしょ」
 遙奈は、外灯が作る自分の影を見るかのようにうな垂れ、義明は、 「今更遅いよ。」 とでも言いたげに口を尖らす。
「ひと言でもいいから声を掛けてやりなさい。いいね」
 いいね――遙奈には、 「お願いだから。」 と聞こえた。

 黙ったままエレベーターに乗った五人は、五階で降りた。
 外界とは対照的に、病棟は眩しいほど明るく暖かい。それでも病室から漏れる声は周囲への気遣いを感じさせる。
「一時間ある。話はできるな」
 誰へとなく誠治は言った。面会時間は八時までと決められている。
「緊張してんのか」
「ううん。新しい学校にきた時みたいな気持ち」
 俯いていた義明が答える。
「それを緊張って言うんだ。それはとにかく、会えば何かが動く。何かが動けば何かが変わる。機会は十分に生かせ」
 誠治はは目だけを遙奈に向けた。
 エペソ人への手紙五章十六節 〈機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。〉
 気づいたかは分からない。
「ラウンジで待ってるね。何も気にしないで行ってらっしゃい」
 誠治と由衣は三人を見送った。

 病室三部屋分ほどのラウンジは大方電灯が消されている。
 誠治は、
「八時過ぎたぞ」
 向かいに座る由衣に声を掛けた。
「あら、眠っちゃったみたい」
「お前いびきデカいな」
「嘘でしょ?」
「それによだれ」
 由衣が慌てて口に手をもっていく。
「嘘ばっかり。よだれなんて出てないじゃない」
「いびきは本当だ。結婚するまでは彼氏の前じゃ寝ないことだな。それにスカートもやめた方がいい」
 由衣は下を見、慌てて足を閉じる。
「いやらしい。気づいてたら言ってよ」 ズボンにして良かったと思う。
「そんなだらしねえ格好見てイヤらしい気になんか、」
「来たみたい」
 淳の低い声が聞こえ、三人が姿を現わす。ハンカチを握りしめる遙奈が、誠治には大人に見えた。
「折角ですから、顔を出してやってください」
 淳の目が赤かい。
「いや。明日にしますよ」
 誠治が言い、掛ける言葉の見つからぬ由衣は、遙奈に歩み寄りその肩を抱いた。
 遙奈が胸に顔を押しつけ、声を殺して泣き出す。 「明日は遙祈ちゃんに会えるのよ。楽しみね」
 頷いたみたいだ。



    三十
 

 電話の音で目を覚ました。お父さんの 「礼拝に行ってから病院に行こう」 という言葉で日曜日だったことを思いだし、ふんわりした掛布団に違和感を感じて、家でも牧師館でもないことに気づいた。
 住宅街にひっそりと佇むひかり聖書教会は、二階に上がる階段が急で、つぐみ教会より古めかしい礼拝堂は人が多く、温かだった。
 主日礼拝のテーマは、ヤコブの手紙一章二十二節 【みことばを実行する人になりなさい】
〈みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。〉
 そこまでは覚えてる。
 熱心な先生のお話も、親し気に声を掛ける信徒の顔も、思いだせない。ずっと母のことを考えていて。

 昨夜。
 私は父の背中に隠れて病室に入った。義明は一本調子で、
「痩せたね」
 と母に向かって言い、
「痩せたのはガンだから。こっちのおっぱい、取っちゃったの」
 母は明るく答えて私を見、
「劣勢みたい」
 笑って言った。
 言葉の意味はすぐに理解できた。再発だ。
 泣き出した義明に向かって母は、 「泣かないのっ」
 がんばって大声を出した。母の頑張りが、私のサタンに焚きつけた。
 母は相愛でないにせよ、望まなかったことにせよ、セックスを楽しんだ末の妊娠、そして出産。玩ばれて妊娠させられた私が、出産など考えられるわけがない。私の心をサタンの棲み家にしたのはこの女だ! でも――
 昨日の母は、 「さっさと脱ぎなよ」 鬼の眼の女でも、身の丈半分にもならない幼い義明に、 「言うこときけよ! ウスノロ!」 座布団を振り上げる鬼女でもなかった。
〈真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。〉
〈悪者にはその生き方への報いをその頭上に返し‥‥‥〉
 母は聖句を口にし、
「罰があたったと思った」
 と言い涙した。ガンが母の悪魔を殺した――。私は本気で思った。
 父は、
「バチじゃない、 〈幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならない。〉 試練なんだ」
 泣きながら言った。
 試練。だとしても、こんなに苦しめなくたっていいじゃない。母を思いやる心の隅で、母と私似の女が言った。
(苦しめているのはお前だろ。忘れたのか)
 あ! 
 知らず識らず――意図しなかったこと。言い訳にもならない。母と子、二人の運命を変えたのは私だ! 
「最後まで聞いて。罰をね、この上ない喜びと思うようにしたらね、そうしたらほんとうに喜べるようになったの‥‥‥不思議ね」
 母の言葉は、ヤコブの手紙に出てくる、
〈さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。〉
 試練を罰という言葉に置き換えた、愛子先生がよく口にする聖句。母はつづけた。
「でもだめね。死んだ後のことを、遙祈のことを考えると、どうしても落ち込んじゃって……」
 死んだ後――。
 母はハルキの未来を思い、私は母と、ハルキの行く末と、殺めた胎児が歩むはずだった未来を思い、涙した。
〈あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているのでしょう。〉
 人の心を癒す聖句も私にとっては、主に見捨てられた証しの聖句。悪魔に振るう主の剣。母は悔い改めて、主に立ち返って赦された。それなら私も、
(お母さん赦して)
(お母さんを赦して)
 言わなければ私は主の敵のまま。死んだままだ。聖書教会の牧師先生のことばが甦る。

 「みことばを実行する人になりなさい」 と神さまは言われます。
ですが、人は完全ではありません。
だから祈るのです。
心と精神を尽くして。
もう一度言います。
祈るのです。

(神さまお願いです、愛をください)
「お姉ちゃん、そろそろだよ」
 病院が見えてきた。


 ナースステーションに着いた時には、お昼を回っていて、
「すぐに戻るって」 
 義明の言葉どおり、母はすぐに戻って来た。
 車椅子を押しているのは、学生時代の親友伊達景子さん。母の腕のなかには、赤ちゃんがおさまっている。
「遙奈」
 母は私に、 『可愛いわよ』 と言いたげな顔を向け、景子さんは 『お楽しみに』 と言った様子で、私の横に車椅子を止める。
「弟よ、遙祈よ」
 笑いながら母が泣いてる。私も同じ顔をしてると思う。
 どんな字を書くの? 言えない自分が嫌になる。
「あなたと同じ遙かという字に祈り。景子のお母さまがつけてくださったのよ」
 心を見透かされたようでますます何を喋ればいいのか分からなくなる。それにしても、選りによって同じ字を使わなくても……。
「いい名前でしょ。母にしては」
 ずいぶん前から知り合いみたいな言い方をする景子さんが、
「どうしても遙奈ちゃんの名前を入れるんだって」
 嬉しそうに言う。もう堪えられない。
「遙祈しかないと思って」
 私を見ていた母が父を見、二人は笑顔になる。
「抱いてやって」 
 泣きながら首を振り手で顔を覆う。謝絶の意思だ。
「大丈夫だよ。お母さんと同じようにすればいいんだから」
 父の言葉にも、精いっぱいのイヤイヤ。だって、
「抱く資格なんてないもの」
「そんな事ない」
 優しく言う景子さんが、 「お姉さんが護ってあげないでどうするの」 背中を押す。
 私がお姉さん。
 違う。私は人殺し。私はその子をこんな手にした悪魔。育ってはいけないガンだ。
「そうよ遙奈ちゃん」
 肩に置かれた手を辿ると、
「あなたが護るの」
 厳しい顔の由衣さんがいた。責めているわけではないのは分かる。 
 でも無理。ぜったいに無理。
〈私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。〉  
 無防備なもっとも弱い命を奪う悪魔は関わってはいけないの。
「遙奈ちゃん」
 由衣さんが泣いてる。父も義明も景子さんも。誠治さんまで、
「遙奈に抱く資格がないなら、誰に資格がある」
 誠治さんの赤い目が、 「勇気を出せ。」 「素直になるんだ。」 と訴えてる。
 母の腕の波に揺れる遙祈が、私を見てる。
 からだを折って顔を寄せる。思いのほか小さい。
 遙祈が白い腕を伸ばすと、母が遙祈をかざした。天に向ってそうするように。
 手がからだに触れる。
「やわらかい」 そして匂やか。やさしく香る。
「あなたたちも、同じだったのよ」
 テレビで見た、幼いイエスの画が浮かぶ。
「重たい」 
 きっと、
「神さまの愛が満たされているから」
 母が同じ思いを口にする。
 神さまの愛の結晶、神さまの宝が、私の腕のなかに……。
〈愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。〉
「だから、大切にしないといけないのね」 それなのに私は‥‥‥
「そう。愛は重いから」
 清流のように澄んだ涙が母の頬を伝う。
 ごめんね、ごめんなさい! 心の中で叫ぶ。母に。遙祈に。天に向けて。
「遙奈」
 ・・・・・・・・・
「大丈夫よ」
 いちばん言ってほしい言葉が、傷を塞いだ。

 ソファに座る私たちを等分に見て、千春さんは淡々と話した。
 乳がん。右乳房全摘手術。そして、恐れていた再発の事実を。
「問題はこれからってことか」
 誠治さんが口火を切る。
「ガン細胞を死滅させて転移巣の発育を抑えるには、放射線と化学療法、幾つかの薬剤を使う、多剤併用療法が必要になります」
 千春さんは睥睨するように私たちを見、 
「戦いに必要なのは、何より免疫力。その基となるのが前向きな充実した生活、それに皆さんの援護射撃です」
 厳しい顔で言った。
「生存率や余命の話はしないように頼まれていますので、本人も知りません」
 知りたいですか。父と私に問う目が鋭い。
「美幸がそう望んでいるなら、僕らも聞きません」
 私は恐々と、義明はハッキリと頷いた。
「憶測も都市伝説も拠りどころにすんじゃねえぞ」
「誠治さんの言うとおりです。わざわざ惑わされることはありません」
 聞き慣れている筈の山形ことばが、なぜか懐かしい。看護部長室にいる千春さんは別の人だ。
「いっそのこと山形に連れて帰ったらどうだ」
「簡単に言わないで」
「援護射撃なら山形がベストだろ。お前だってそう思ってんだろ? 違うか」
 そうかもしれない。遠く離れた山形に居る私たちが出来ることは限られる。
「違わないけど、美幸さんにとってベストとは限らないわ」
 由衣さんは言った。
 カルテ上でしか知らない美幸さんを同じように看るのは無理――千春さんと離れ離れになる精神的なストレスは計り知れない。
 良い思い出のない山形で子育てと治療をしながら平穏に過ごせるか――不安に圧し潰されることも十分に考えられる。
「僕が看ます。将来を見据えればここに居るよりいい」
「将来を思えばこそ、慎重に考えたほうがいいと思うの。千春さんが傍にいたから病気と戦ってこられたのよ。遙祈ちゃんもそう。千春さんがいるから、自信をもって子育てできるんだと思う」
 自分のことのように心配する気持ちが嬉しい。みんな間違っていない。
「キーマンは千春ちゃんってわけだ」
「キーウーマンだよ、誠治くん」
 燦々と降りそそぐ日差しのせいで背中が暑い。そんな私たちに気づいたのか、話題にされて恥ずかしいのか、千春さんは黙ったまま窓辺に向かうと、
「帰りたくなっちゃった」
 意外なことを口にした。
 でも、ノスタルジックな感じではなく、遙祈を見る母と同じ、 「私が守る。」 そんな固い意思のこもった優しい声音。
〈わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。〉
 千春さんの心には神さまが棲んでいる。だから母は心を許し、同居して、聖書を開いた。千春さんがいっしょなら話は違う。
「帰ってきて」
 景子さんが言った。
 私は心のなかで。
(帰ってきて。お母さん)



    三十一


 二月も下旬ともなると、暖かい日と真冬に戻ったような日を繰り返す。病室の外、白梅の木々が風に耐えている姿が強いから、
「歩きたいなあ。遙祈といっしょに」
 ぼんやりと、だが美幸は強くそう願っているのを千春は分かっている。
「風邪でも引かせたら、看護師失格の汚名を着せられちゃうわ。折を見てね」
 いつもは 「感染症にでも」 と言うところを風邪に置き換え、千春は明るく応える。
「弱って、いくんですね」
 脱毛に皮膚症状、吐瀉に加え、点滴で栄養を補うようになれば、不安になるのも無理もない。治療の副作用だから――。同じことを言ったところで納得しないし慰めにもならない。 「気の持ちよう。」 「気持ち次第で云々。」 そんな言葉で逃げるようでは、それこそ看護師失格だ。
「マラソンで言ったら三十五キロ地点。ここで踏ん張れる選手がゴールテープを切れるの。踏ん張るためには何が必要?」
「気持ち、ですか」
「そう。笑顔でゴールテープを切ることだけを考えればいいの。遙祈ちゃんが伴走してるんだから」
 結局のところ、真心で向き合うしかないのだ。
「遙祈が伴走……」
「そうよ。 『お母さん、あと七キロだよ。がんばって』 って」
「計算まで、するんですか。42、195引く35キロは、って」
「そうよお。大切な役割だもの」 
 弱々しいけど嬉しそう。遙祈は間違いなく美幸ちゃんの伴走者。
「千春さんってときどき、マラソンに例えますけど、看護マニュアルに書いて、あるんですか」
 美幸の真剣な問いかけに、ひとしきり笑って、
「まさか。思ったことを話してるだけよ。思いつきで言ってるわけじゃないけど」
 千春は答える。
「じゃあ、今度からは、違う励まし方にして、ください」
「どうして?」
「三十五キロなんて、想像、できませんし、苦手、だったんです。走るの」
「分かった、考えておく」
「大丈夫? そんな約束して」
 編み物をする手を休めて景子が言う。遙祈が被る卵色の正ちゃん帽も、今日明日中には仕上がりそうだ。てっぺんのポンポンが歩くたびに揺れるつくりで愛らしい。
「ちょっと自信ない。そう、誠治さんに相談してみようかしら。あの方なら上手な文句を考えてくれそう」
「ダメダメ。セクハラ発言ばかり言う人なんて当てにするだけ無駄」
「そうは見えないけど」
「喜ばせようと、してるのよ、みんなを」
 景子は目を剥き、美幸に向かって抗議する。
「自分で喜んでるだけよ。いやらしい話をすれば女は恥じらって喜ぶ、なんて勘違いしてさ。ほんとにイヤ」
「いいじゃない、女だって似たようなものなんだから。ただ男の人の前では慎ましやかな弱い女を装って」
「お母さんの時代はそうだったかもしれないけど今の女は――」
「美幸ちゃん?」
「……」
「美幸っ!」
 異変を察した千春が美幸の頸部に手を当て脈をとる。
「お母さん、意識が」
「美幸ちゃんっ」
 呼び掛けも揺さぶっても開眼しない。頬を顔に近づける、呼吸はある。眉下を指で刺激、
「美幸ちゃんっ!」
 辛うじて開眼。
「景子、ナースコール!」
 マイクに向って叫ぶ、
「五〇二号小渕さんが急変! 意識レベルⅡ‐30、ドクターに連絡、ストレッチャーと生体モニターの用意、急いでっ」
 ベッドを倒し、
「手を貸して」
 頭部を高く安楽な姿勢を取る。
「ストレッチャーがくるのね」
「そう」
 景子が椅子を折り、千春はベッドのサイドレールを外す。と、
「美幸」
 淳だ。
「美幸に何がっ」
「外に出て!」
「先生がきたわよ! がんばって!」
 廊下の継ぎ目を越える慌ただしい車輪の音に遅れ、バタつく足音が迫る。
「何があっ!」
「どけ!」
 医師が淳の肩を突く。
「美幸に何があったんだ!」
 目の前でドアが閉まった。


「どうなんですか、美幸は」
 処置室のドアが開く同時に淳は訊いた。
「副作用による肝機能障害です。じきに目を覚まします」
「家族への連絡は」
「命に関わる病変ではありません」
 医師は一礼して立ち去った。
「入っても……」
「ええ。そばに居てあげてください」
 医師につづいて出てくる看護師が答える。
「大丈夫よ」
 ベッド廻りを整え終えた千春は場所を譲る。
「美幸」
「眠っていますから」
 淳は美幸の左手をつつみ、
「よく頑張った」
 頬に手を当て、目を覚ますのを待った。

「ご主人がお見えですよ」
 病棟では淳のことを 「ご主人」 と呼んでいる。淳を話題にするときの千春の呼び方で、本人はそう呼ばれることを拒まず美幸も否定しない。
「美幸」
 夢の中にいるのか、現実か分からない。
「……はい」
「分かるかい」
「ああ」
 霞む視界の中に、ぼんやりとした淳の顔が見える。 
「おばあさんみたいな手、でしょ」
 美幸は柔弱な笑みを浮かべ布団の中に手を引く。悲しみと喜びの入りまじった淳が頼もしく見えた。
「ずいぶん長く眠っていたね」
 美幸を観ていた看護師は、いつでも呼ぶよう言い残して病室を出て行った。
「何時?」
「九時になる」
「そんなに遅くまでずっと」
「話があって。待っていたんだ」
 起き上がろうとする美幸を制しベッドの背を斜めにする淳に、
「あの話ね、 (山形に連れて帰ればいいって、誠治さんが言ってたわ。) お母さんから聞いたわ」
 下村誠治の判断は的確で、的を外さない。美幸の気持ちは傾きつつある。 「でもまだ」
「ゆっくり考えればいいさ」
 何より話したい筈なのに、どうしたんだろう。いつもと違う。
「今日は他の用事できたんだ」 
「他の?」
 淳は床に置いたバッグに手を伸ばす。 「実はね」
 ファスナーを開け小さな箱を手に取ると、
「これを受け取ってほしくて」
 美幸の手にのせる。
「私に? 開けていい?」
「ああ」
 ラッピングを解く手が震えるのは病身のせい。
「手伝おうか」
「大丈夫」
 広げた包装紙を折り畳んで小箱の蓋を開ける。と、
「え」
 星みたいな、銀いろに瞬く指輪。
「初めて会った時から僕の気持ちは変わらない、変えられないんだ。僕と、結婚してくれないか」
 美幸の見開かれた目から涙が溢れ耳元につたう。
「そんなこと言わないでよ」
 懇願するように言葉を絞り出す美幸に、
「君がいないとどうしようもないことに気づいた。もう一度始めから始めよう。五人で」
「死ぬのよ、私は」
 骨の浮いた黄色い手を見るたびごとに、死を近くに感じるのかもしれない。
「僕が死なせない。いや、主が必ず君を生かす」
「私は生きる価値がないの。だから死ぬの。だから……」 もう来ないで。
 背ける横顔。震える口許。涙。すべてが愛おしい。
「君が悪いんじゃない。君の痛みを理解しようとしなかった僕が悪いんだ。考えてもみてごらん、君を慕う人がどれだけいるかを」
「私を慕う? 憐れんでいるだけよ」
「それは違う。聖書に書いてある。
〈この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。〉
 神が君を選んだように、君が大切だからみんな傍に居るんだ。傍に居たいんだ。
〈あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。〉
 君が大切なものを与えてくれる、光だからだ」
「そんな……」
「今度こそ命をかけて君を守る。絶対に悲しませない。一緒に愛の道を歩こう」
「愛の道……」
「そう。主の道を。光らしく堂々と」
「淳さん」
「愛してる。受け取ってくれるね。
 細い手をとりリングをとおす。
〈ふたりはひとりよりまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるから――〉
 結婚しよう」
 泣き声が廊下に届いた。
 千春は病室を離れた。



    三十二


「お久し振りぃ、起きていますかあ」
 聞き覚えのある明るい声にからだをひねった。
「愛子先生、 由衣さん!」
「うふふふ」
 半身を起こそうと、美幸は掛け布団をはぐ。
「無理したらだめよ。逃げて帰ったりしないから。来たばかりなのに」
 自分で言って笑う愛子先生。充実した生活を送っているのが分かる由衣さんの笑顔。変わってないなあ。
「お変わりありませんか?」
 由衣が訊く。勤務先の保育園の卒園や、新年度へ向けての準備で多忙を極め、美幸を見舞う機会を失していた。
「季節の変わり目で、ぼーっする日もあるけど、このとおり。元気よ。先生は?」
「牧師?」
 由衣に座るのを助けられながら愛子は答える。 「あの人はいつも元気いっぱい。忙しくしていないと安らげない人なの」
 ニットキャップから覗く産毛が回復と成長を感じさせる。肌艶も聞いていたほど悪くない。愛子はほっと胸を撫で下ろす。
「あらこれ」
 枕頭台の淡黄色の小さなキャップを見て、
「お揃いなんですね、可愛い!」
 由衣が声を上げた。折り返しの青のイニシャルを見ると、竹編み棒を動かす景子の姿が浮かんで、
「景子が編んでくれたの」
 美幸は自慢したくなる。
「ありがたいわね。親友って」
 二人が落ち着くのを待って美幸は言う。
「忙しいのにごめんなさい。無理を言って。それと恥ずかしい手紙を書いてしまって」
 美幸は愛子宛に短い手紙を書いた。

みなさん、お元気でしょうか。
遙祈は元気です。親ばかですが天使のように思います。
実は、お会いしてお話できればと思い、ペンを取った次第です。
遙祈を見にくるついでと言っては厚かましいですが、
一度お越し頂けないでしょうか。
  機会が訪れることを祈りつつ。

「ううん。美幸ちゃんの体温が感じられて嬉しかった」
「それで、電話で話せないことって」
 景子と連絡を取り合うようになった由衣は、美幸が直接話したがっていることは聞いていた。だが親友の景子が訊いても詳しくは話さないと言う。
「大袈裟なことではないんです。ただ電話では恥ずかしくて……もしかして、それでわざわざ?」
「そういうわけじゃ、」
「そうよ、わざわざ来たの」
「お母さん」
「だって良いお話なんでしょ。お互いにサプライズ、楽しいじゃない」
 愛子は端から気重な話でないと決めつけていた。悩みの類であれば、自ら、会って話したい、来てほしいなどとは書かない。カウンセラーとしての経験と直感がそう確信させた。
「サプライズかどうかは分かりませんけど」
 愛子先生は人を喜ばすことが好きな人。喜ぶようなことも大好きなんだと思う。喜んでくれると思うけど。
「指輪を、頂いたんです。婚約指輪を」
「まあ」
「淳さんからね」
 驚きより喜び。嬉しいけど、
「こんな体ではとても‥‥‥」
「という事は、結婚したい気持ちはあるんですね」
 気持ちがあると言うより、その気持ちに近づきつつあると言った方がいいかもしれない。結婚はお願いされたから受けるというものではなく、求め合う者同士がちょうど真ん中で一つになって結ばれるもの。そうでなければならない気がする。だから、元気にならなければ考えられないのだ。
「病気のこともだけど、子どもたちのことも気になるのね」
 脳梗塞を患った愛子は、 〈弱い人々には弱い者になりました。〉 この聖句を実践すると誓った日のことを思う。弱い立場に立たされてると、自分の考えさえ口に出せなくなってしまうものだ。自分のことのように理解できた。 
「お話って、それだけ?」
 美幸は驚いて顔を上げた。
「分かりやすいわね、美幸ちゃんって」
 プロポーズの話は相談というより報告。会わなくても事足りる話だ。
「もしかして、もっと凄い、ビッグサプライズとか」
「プレッシャー掛けちゃだめよお」
 話したくて仕方がないといった美幸の顔を見れば、悲観する話で無いことは由衣にも分かる。
「実は私‥‥‥洗礼(せんれい)を受けたくて」
「まあ!」
「美幸さん!」
「聖書を読んでいて、このままではいけないと思うようになって、それで今までの過ちを悔い改めて、神さまが望むような、神さまに喜ばれるような生き方をしないといけないって思うようになって、それで」
 夢中で話していた。
「信じたのね。神さまの愛を」
「はい」
〈あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。〉
「こんな体になったのも、遙祈が奇形で生まれてきたのも、すべて神さまのみこころ。愛の証しだと心から信じます」
「すごいわ。美幸さん」
「お祈りしましょう。ねっ」
 愛子は目を閉じ、首を垂れて、
「恵み深き、天のお父さま………」
 神を賛美し、日ごとの恵みへの感謝を捧げ、試みにある人々の安らぎを願い、そして私の受洗の歩みのために祈ってくださった。
「洗礼を受けるにはどうすればいいのか。お話しを聞きたくて」
 天のお父さま――初めて聞く愛子先生のお祈りに、いっそう決意が高まる。
「本来なら牧師から学びを受けるの。キリスト者として歩む意思を確かめる意味で」
「病気と闘っていくためにも、早くキリスト者として歩みたいですよね」
「信者として遙祈を育てたい気持ちが強くあって。だから早ければ嬉しい。いつ居なくなるか分からないし」
「美幸さん」
「それに神さまの子として死にたいの。長く生きられなくても」
 由衣が目頭を押さえる。
〈死に至るまで忠実でありなさい。〉
「敵わないわ」
「神さまは愛ですもの」
〈神は愛なり。〉
〈愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは愛のうちを歩むことです。〉
「病床洗礼を受けたらどうかしら。お父さんに来てもらって」
「それはいいわね。浩ちゃんもきっと、」
「お母さん」
「牧師もきっと喜ぶわ」
 病床洗礼とは、病気や障害などで教会に足を運べない人が、言葉のとおり病床で受ける洗礼のことを言うらしい。
「美幸ちゃんはお話することができるから信仰告白をすることになるけど、出来そう?」
 意思を伝える事のできない人は省略されるという信仰告白。何を意味するのか分からない。
「要するに、イエスさまを信じるようになったきっかけと、
父なる神さま、精霊なる神さま、御子なる神イエスさま、
三位一体の神さまを信じること。
イエスさまがわたしたちの罪を負って十字架にかかられ、
三日目にご復活なされたこと。
 それにキリスト者として歩む覚悟を、神さまと人の前に告白すること。知って頂くことだと思ってくれればいいわ」
 きっかけと覚悟。
 原稿用紙二、三枚ではとても語り尽くせない私のきっかけ――私の罪は単行本より長くなるほどある。でも、
〈だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。〉
 自分を捨てるのだから何も怖くない。要するに神さまとの約束。永遠の結婚のようなものかもしれない。
「どう? キリスト者として歩めそう? 急ぐことはないのよ」
 愛子が慎重になるのは、
〈天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みに時がある。〉
 信仰を離れた者、信仰とは別の道を突き進む信徒を幾人も見てきたからだった。期が熟す前の受洗は時に悲しい結果を招く。焦ることも急く必要もないのだ。
「受洗します」
「大丈夫そう?」
「覚悟出来てます」
「分かった。浩ちゃんに、牧師に話して日にちが決まったら知らせるわね。近いうちに」
「顔に書いてあるわ。早く決まらないかなって」
 お二人だって書いてある。早く 「姉妹になりたい。」 と。
「早く叶えば嬉しいです。でも先生のご都合を優先させてください」
「美幸ちゃんが最優先。引っ張ってでも連れてくるから」
「そんなあ」
 村井先生が引っ張られる姿なんて想像もできない。
「お父さんって近藤勇さんそっくりなんて言われますけど、実は甘えん坊で母のお尻に敷かれてるんです。ここだけの話しですよ」
 由衣さんの明るさは愛子先生譲り。亡くなった母はどんな人だったのだろう。私に似たところなど一つもない、愛子先生みたいな人だったらいいのに。こればかりは信じるしかない。
「早ければ三月中、四月の早いうちには叶うわよ。楽しみね」
「イースターの日がいいんじゃない? 洗礼式って教会行事のある日を選ぶのが通例だし」
「イースター、ですか」
「イースターというのはね。主イエスさまのご復活を記念した、復活祭のことを言うの。今年は、今月の二十五日。キリスト者にとっていちばん尊い日」
「十字架にかかって三日目によみがえられた、という」
「凄い! 一年も経たないのによく知ってますね」
「熱心だからよ」
 二人は感心する。
 聖書をプレゼントされて九か月。熱心に読み始めたのは、胸の手術を終えてからだから半年余り。辛く苦しい日々も、神さまのみこころによると心から思える。
「イースター礼拝の当日は来られないから、その前がいいかな。三月二十四日。 どう? 信者になってイースターを迎える方がいいと思うの」
「大丈夫? 二十三日は予定があるでしょ」
「平気よ」
「私はいいですけど、お忙しいならこだわらなくていいです」
「大丈夫。つぐみ教会は熱心な方ばかりだから」
 愛子先生は勘違いして受け取ったみたいだけど、言われてみればキリスト者にとってもっとも尊い日なのだから、教会自体も忙しいのだろう。
「三月二十四日。牧師に話しておくわね」
「浩ちゃんでいいですよ。呼びやすい言い方で」
 子どもたちを産んだ時と同じ思いが、からだの深いところで湧き始めたよう。そう、新たな私が産まれようとしているのだ。
「ところで、遙祈ちゃんは?」
「景子が迎えに、」
「来たみたい」
 小さなノックがして、そろそろとドアが開く。
「まあ、遙祈ちゃん」
 愛子が立ち上がる。手を借りずに。
「可愛いわねえ。ウルウルルルル、ばあ」
「三か月です」
「そうね、大きくなってえ」
 すくすく育つ遙祈を見ると、奇形も恵みと感謝せずにはいられない。きっと愛子先生も由衣さんも、景子もそう思っているはず。
「抱いてやってください」
「そう? 由衣、落っこどしそうになったら受け止めるのよ」
「んもう、美幸さんが心配するでしょ」
 出産経験のない由衣が冗談を真に受ける。 
「愛子先生はベテランですもの、心配していません」
「由衣だけしか育ててないのよ。初心者マークのとれないおばあちゃん」
 麻痺のない右腕に納めるように、景子は遙祈をあずける。
「可愛いわねえ。嬉しいの? そう。ハンサムな男の子ねえ、よく笑ってえ」
「私にも抱かせて」
「まあだ」
 愛子は渡そうとしない。
「ねえってば」
「大丈夫?」
「こんなに小さな子は初めてだけど、保育園で抱っこしてるから」
 由衣は恐る恐る、慎重に、愛子から遙祈を受けとる。
「わあ」
「なかなか上手よ、由衣さん。ね、景子」
「とっても。お母さんの顔になってる」
「母性本能が湧くのかなあ、んもう食べちゃいたい」
「キャッ」
「イヤだって」
「違うわよ嬉しいのよ。ねえ」
 愛子母子の会話に、病室が笑いにつつまれる。
「由衣ちゃんもそろそろね」
 朗笑する景子には子どもがいない。
 
 子どもはいいの。健吾と居るだけで満足だから。
 いちばん大事なことかもしれないね。
 子どもが出来なかったから、満足なのかもしれない。
 出産したらこうはいかなかったとか。
 美幸みたいになってたかも。
 こら。言いすぎだぞ。

 屈託のない景子に合わせて、
「いい人いないの?」
 美幸が煽る。美幸がプロポーズされたことは皆知っている。次は由衣。自然とそんな空気にもなる。
「この間お見えになった誠治さん? あの方はどうかしら」
 愛子は言った。毎日顔を合わせる三十三歳の娘に、気安く触れられる話題ではない。
「冗談言わないでよ。あの人はお兄さんでもお父さんでもないただの親しいおじさん。お母さんの方がよっぽど釣り合う」
 由衣は取り合わない。
「じゃあ、景子さんは? 幾つも変わらないでしょ」
「不倫させるつもりですか。どちらにしてもパスです」
「ねえ美幸ちゃん。誠治さんって会社ではどんな感じの方?」
「人の噂話はよくないわ」
 由衣がたしなめても、
「いいじゃない、印象を訊くだけなんだから」
 愛子は気になってならない。
「そうですねえ」
 あの頃の、人を疑って掛かる私であれば、悪い面だけを虚言を盛って話し散らしていただろう。
「真面目すぎるほど真面目で、お客様や協力会社からの信頼は篤いのは確かですけど、社内ではいつもムスっとしていて、冗談ひとつ聞いたことがありません」
「ええ!? 真面目かなあ」 
 由衣が仰け反る。
「冗談も言わないなんて、ちょっとショック」
「だから逆なのよ。病院で会う下村さんの方が私はショックだった、衝撃だったもん」
「言われてみれば真面目なところはあるな。施設でボランティアしてるときの誠治さんって違うの」
「私は冗談かエッチな話をして、気楽に生きてる印象しかないわ」
 知り合ってほどない景子は俄かに信じられない。
「だから意外なの。みなさんに慕われるのが」
「でも、遙奈ちゃんや義明くんは心から信頼してるわ。淳さんと同じくらい」
 淳さん以上かもしれない。あれ? 誰よりも誠治を信頼している自分に、由衣は気づいた。
「何度もお会いしていないけど、子供のまま生きようとしているから信頼されると思うの。聞いたことなあい?
〈子どもように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉いのです。〉
 大人になることより、子供のように素直でいることが大切って分かっている方ね。よく分かるわ」
 確かに、自分を大きく見せようとすることはないし、人より目立とうともせず、得をしようとすることもなかった。彼は信仰に根ざした人。だから気になるのだ、愛子先生は。由衣さんも。
「まっすぐだから冗談ひとつ言えないのかもね、仕事では。お母さん!」
「なになにどうしたの!?」
 みないっせいに遙祈を見る。
「遙祈ちゃん眠ったあ、私の腕のなかで眠ったわ」
「それは眠るわよ。何言ってるのあなたは」
 由衣と愛子の会話がおかしくて、美幸と景子は声をあげて笑った。
 由衣が美幸を見つめ返す。
 あなたがいるから幸せなのよ。



    三十三


 ようやく目処がついた。体調不良を理由に戸沢は既に帰宅し、事務所には南田と誠治がいるだけだ。
「そろそろ終わるかね」
 新聞を繰りながら南田がつぶやく。斜向かいの戸沢のデスクには障害物がなく、新聞を広げるのに最適だ。
「書類をまとめれば」
 午後七時。三十分は掛からないだろう。
「余計な仕事をまわして悪いな」
「お互いさまでしょ」
 職場での誠治は必要以上に話さない。エアコン用室外機のコンクリート台座販売。今更ながら思う、不似合いな仕事だと。
「本社に催促したよ。営業所が機能しないからな」
 誠治は応えずに、ファイルに書類を挟む作業を続ける。
「本当に怪我なのか。小淵は」
「どうせクビなんだ、どうでもいいだろ」
「決定したわではない。何か聞いていないかね」
 用がねえなら帰れよ暇人。誠治は苛立ちを収め、
「あんたが知らないことを俺が知ってるわけないだろ」
 感情をこめずに答えた。
「近々訪ねねばならなくなった。事情を聞かなければ話が進まんからな」
 本人への通告なしにクビには出来ない。 「ごもっとも」
「君に頼もうか。波風が立たないように」
 営業で名を上げた南田らしい物言いだ。負となり得る責任は負わない。この腰抜け野郎が。
「戸沢に言えばいいだろ」
 本意ではないが。
「奴に言ったところで無駄なことくらい分かってるだろ」
「そんなに嫌か。小渕に会うのが」
 誠治は南田を射る。
「忙しい身でね。余計な時間は取れんのだ」
「新聞読んでる間に着いてるよ」
「さっきから何だ、その口の利き方は。客先でもそうか」
「外回りしてりゃ分かるだろ。俺の良い面も悪い面もよ」
 誠治はおもむろにデイパックを開けると南田に向け、
「頼むわ」
 デスクの上に封書を辷らす。水下あたりで止まったそれは、
【退社届】
「おいおい」
 筆書きにしたのは目の悪い南田にも分かるように。老婆心から。
「希望は規定通り一ヶ月後。早い方が良けりゃ明日でも構わない。そう本社に伝えてくれ」
「事務員不在のうえ君までいなくなったらどうなるかくらい、」
「就業規則に反する事をしているわけじゃない。モラルにも。労基法にもだ」
 誠治が背を向ける。
「君が辞めれば小渕のクビは決定だぞ」
 誠治が向き直る。
「ガキみてえなこと言うなよ、情けねえ」
 何れ、近い将来。こうなることは予想していた。抵抗してやらなければ美幸に申しわけが立たない。
「どれだけ迷惑を掛けたと思ってる、解雇になって当然だろ」
「新聞広げて客に顔出さねえ奴がよく言うよ。社長が見たら泣くぞ」
「期待を裏切るような人間に用はない」
「人を裏切るあんたはどうなんだ」
 首元を震わせて南田が立ち上がる。
「他の職場で期待に応えた方が本人の為だ」
「得意の二枚舌か」
「とにかくこれは預かっておく。本社はお前を買ってる。思い通りになるとは限らんぞ」
「渡してくれりゃいい」
 タイムカードを押し外界に出た誠治は、中空の様子を窺う。
「降らなかったな」
 朧夜のつくる輪が太陽のようだ。
(そっちはどうだ遙奈。山形の空は)
「娘の方がよほど――、
 ドアの向こうで何やら南田が言っている。
 星がいっぱい。数えきれないほどよ。 



    三十四 


 介添えなしに、短い歩行ができるようになったのは、洗礼式の五日前のこと。洗礼式は教会で――。祈りが通じたのか、三月二十四日、洗礼式は、ひかり聖書教会で執り行われた。
 進行役は、山形つぐみ教会の牧師村瀬浩一郎先生が務め、愛子先生と由衣さん、それに玉田淳と義明と遙奈は、山形か駆けつけてくれて、遙奈に抱かれた、遙祈の外出を許可してくださった千春さんは、白衣に上着を羽織って付き添いという形で。親友の景子は身の回りの面倒を見てくれて、同僚の下村誠治さんは誰よりも忙しく動いていた。 
 白い洗礼服に身を包んだとき、
「美幸って、もともと色白だったんだあ」
 景子のひと言で、かつての健康的な肌色とも、病身の不健康な肌とも違う、透き通った白い肌に変わっているのに気づいた。遙奈は懐かしそうに私を見上げ、淳さんはきっと――景子と同じことを思っていたのでしょう。 驚いた顔をしていたから。
〈心の一新によって自分を変えなさい。〉
「このみことばに従って生きたいと思って、受洗を決意したの。生まれ変わって、小淵美幸を葬って生きるわ……」
 彼から私の話を聞いた遙奈は、
 ――天のお父さま。
〈祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。〉
 尊いみことばをありがとうございます。どうか母を守り、その歩みを支え、試練から解き放ち、進む道を整えてください。主イエス・キリストの御名によって。
 そう祈ってくれたという。前を走る、ひかり教会の方の運転する車にいる遙奈に言う。 (ありがとう遙奈。姉妹ね。私たち)
「どうした。ボーっとして」
「感動してるのよ。ね、美幸」
 何て言えばいいのだろう。
「受洗したこともだけど、皆さんが感動してくれたことに感動してるの」
 目に見えるすべてのものに感謝したい気持ち。
 キリストともに甦った瞬間、号泣する景子の肩を借りて洗礼槽から出ると、笑顔と涙の拍手が、羽ばたく鳩のように見えた。真ん中の列のやや右寄りから聞こえる、ひと際高い泣き声が、遙奈なのか遙祈なのかと耳をそばだてていると……
〈あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。〉
〈子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。〉  
 義明をおぶって遙奈の手を引く、古めかしい映像がよみがえった。神さまがもっとも愛する私の宝に、私は何ということを‥‥‥。
「おめでとう! 美幸」
 淳さんの絶叫が、悪魔が犯す忌まわしい映像――南田との三人の情事――を遮った。
 彼は気づいたのだ。ふたたび罪に苛まれた私に。
「私は素直に従う遙奈を男に差し出し、守らなければならない義明を邪魔者にして自殺に追い込んだの」
 打ち明けなければ赦されない、悔い改めなければ生まれ変われない。必死だった。
「キリストは、僕らの罪を負って十字架にかかり、ご自身をお捨てになられた。ご自分は何一つ、罪を犯さなかったにも関わらず」
 淳さんは 「罪」 ということばをことさら強調して、
「それでも人は罪を犯す。それでも神は僕らを見捨てない。君が犯した罪も、君が罪に苛まれ苦しんでいることも、こうして罪を告白したこともすべて、神のご計画によって成されているんだ。君だって分かっているじゃないか」
 思ってもみないことを彼は言った。
「私が、分かってる? 神さまのご計画を」
「そうさ。神のみこころを思い、神の愛に報いようとすることが、
〈すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る‥‥‥〉
 ご計画に従順である証しさ。堂々と主の道を歩もうとする直ぐな君を、神さまは愛しておられる。赦されているんだよ、君は」
 彼の話を思い出すたび涙が抑えられなくなる。
 濡れネズミのまま遙奈みたいに泣き出した私に、 「すごい決意ね。すぐに乾かさないと」 拍子抜けするようなことを愛子先生は言い、景子と顔を見合わせていると、
「ドライヤーをお借りできませんか、それともう一枚バスタオルを」
 あたふたする由衣さんに、
「もしかして、頭まで潜ることなかったとか」
 景子は訊いた。
「聞いていませんでした?」
「聞いてなかったの?」
「知っててしたの」
 キリスト者になって初めてつくウソ。ぜったいに忘れないだろう。
 更衣室代わりの小部屋で、着替えまで手伝ってくれた景子が、
「お化粧は?」
 ふだんと変わらない口調で訊いた。
「いいの」
 私は動揺を隠して、無くて当然といったふうに答えた。たぶん景子は、 (生まれ変わったのだから素の自分で――) なんて思ったかもしれないけれど、ただ単に忘れただけ。入院中は使わないからウソではない。
「髪伸びてきたね」
 ドライヤーで (頑張って女らしく見えるように) セットしながら景子は言った。脱毛を自覚し始めてから鏡を見ないようにしてたから、シャンプーの時に自覚する程度。ソフトテニスをしてた中学時代の髪型だ。
「被る?」
「いい。もう暖かいから」
 今日から自然でいることにしたの。景子も分かってくれたと思う。
 私服姿で別人になった私が、お礼のあいさつをしようと講壇に歩み寄ると、 「心が洗われたよ」 下村さんがマイクを差し出して言ってくれた。照れくさいのは私も同じで、
「泣かせるようなこと言うな」
 下村さんふうに言い返したのに、
「泣く者といっしょに泣くのがキリスト者だ」
 照れくさくて俯いたと思った彼は、涙を隠して泣いていた。
 後ろから射す日差しが伸びる先に、遙奈がいた。

礼拝が終わってから村瀬先生から話があったの。
イースターの前日に洗礼を受ける方がいます、
みなさんの家族になる方がいますって。誰かなって思ったら、
お母さんの名前が呼ばれてさ、ぼくびっくりしちゃったよ。
  
 ありがとう遙奈。義明。お母さん、家族になのね……。
「どうしたのかしらねえ。お母さん。」
 遙祈のほっぺをツンツンする遙奈を見て我に返った。そう、話さないと。もうか細い声しか出ないけど……。
「教会での、ひかり聖書教会での洗礼式を叶えてくださり、心から感謝いたします。
先ほど告白したとおり、
私は乳がんという試練の先に、
祝福が待っていることを知っています。
主のみこころを思い、
主の示された道を、
主に用いられるよう、
歩んでまいります――」
 途切れ途切れの挨拶が終わると、淳さんが待っていたかのように、講壇の下に現れた。花束を掲げて。
 おめでとうの言葉は聞いた。 「忘れていないよね。」 「返事を聞かせてほしい。」 そんな言葉を待っていたのに、喋ろうとしないから、右手の指輪が見えるようにして花束を受け取った。
「忘れていません。」 「でもまだ答えが出せないの。」 そんな意味を込めて。
 それでも彼は、
〈農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。〉
「僕も農夫にならうよ。」
 あのときと同じ目を向けたままでいるから、私の方から手を差し出した。 「ありがとう淳さん。あなたを尊敬し大切に思っているのは確よ。」 思いを込めて。
 彼の手の力強さが返事だった。 〈一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。〉 「待ってるから。」
 洗礼式を終え、ひかり教会の皆さんが用意してくれた食事を囲んでいると、 「ずっとこのままでいられたらどんなに幸せだろう」 そんな途方もない事を考えつつ、 「いま天に召されても悔いはない。喜んで昇りたい」 と切望していた。遙祈がいると言うのに。
「悪いお母さん」
「何か言ったか」
「ううん。もう春なんだなあって」
「こっちはな」
 こっち? そう。北国の春はまだ遠く、寒さに耐え忍んでいる人がたくさんいる。でも愛子先生なら、 「足音を聞くのが楽しいの。」 由衣さんだったらきっと、 「雪だるまが作れなくなっちゃう。」 かな。村瀬先生は 「感謝です。」 に間違いなし。
 それにしても、ほんとうにわざわざだった……。
「ごめんね美幸ちゃん。帰らなければならないのよ」
「これからですか。準備はつぐみ教会の方がするって」
「準備は準備でも、心の準備なんです。イースターの前日は家族で、当日の朝は日曜学校でこどもたちと、礼拝はみんな揃って。そうして過ごさないと、落ち着かないんです、特別な日だから。ごめんなさい」
「私の方こそごめんなさいです」
「寂しがっちゃいやよ。キリスト者になったんだから」
 愛子先生は、体調が万全でないのに来てくださった。私のために。
「洗礼式のことを思いだしながら帰るのが楽しみです」
 村瀬先生……。
「三人のことを考えてんのか」
「そうよ」
 今までだったら否定するか、言葉を濁すだけだっただろう。
「ふつう考えるでしょ。わざわざ来てくださったんだから」
 風は春。来た道を辿って車は病院へ向かう。
 日が優しい。香るような黒土の水田が、山形のそれと重なる。
 青田に丈を伸ばし、わずかに穂を垂らす稲は、私のために祈禱する信徒の皆さん。景色の隅に咲く一本桜は、つぐみ教会の尖塔に立つ白い十字架。目に映るすべてが神さまのみめぐみ。
〈地とそれに満ちているものは、主のものだからです。〉
 ああ天のお父さま。どれだけ私は人生を、あなたの愛を無駄にしてきたのでしょう。これからは日々、いいえ一分たりともあなたの愛を無駄にせずに、
「もう少し走っか」
 感謝の祈りを捧げていたら、下村さんが笑顔を向けて言った。
「帰ってきたのも気づかないほど感動した?」
 千春さんまで。
 帰ってきた……。
 ――帰るところがあるのよ。美幸ちゃんには。
 愛子先生のことばの意味は、みんなの 「山形に帰ればいい――」 とはどこかが違う。そのことを考えていたら、
「さ、お嬢さま」
 下村さんがドアの横に立っていた。
「いつの間に車椅子係になったの」
 やっぱり下村さんはシャイ。みんなの前では。頭を掻くだけ。
「大丈夫、歩くわ」
 この足で大地を踏みしめたかった。
「ここまで元気になったんだ、無理すんな」
「今日だけは歩きたいの」
「今日も明日も同じだよ」
「そうよ、みんな心配するわ」
 ――小渕美幸さんって聞いて寂しかったよ。少しだけだけど。
 二人にとっての母親は玉田美幸。小淵姓の私ではない。
 ――苗字が変わってもお母さんは、お母さんだろ?
 ――それはそうかもしれないけど、寂しかったんだから仕方ないじゃないか。
 ――お母さんは世界中のクリスチャンの家族になるのよ。
 ――喜ぶのがお兄さんじゃないのか?
 ――ぼく、お兄さんなのかあ。お兄さんらしくしないといけないね。
 あれだけ酷いことをしてきたのにあなたたちは……
 ――二人とも成長したよ。
 ほんとうね。成長したわ。私のお姉さんとお兄、ちゃん。
 そう義明の言うとおり。歩けない義明に言われれば尚のこと素直に、
「回復するまでの試練だ、我慢しろや」
 下村さんが伝家の宝刀を抜く。
(何よ。義明の言うことを聞こうと思ったのに)
「今日だけは誠治さんの言うことを聞かないと」
 何を言っているのか分からない。首をひねると、
「由衣ちゃんから聞いたんだけど……」
 景子の話では、交渉から花台の飾り付け、洗礼槽の準備に、めくりの筆書きに至るまですべての段取りを取り仕切ったのが、下村さんなのだという。
「下村さんが奔走したから、ひかり教会で洗礼式ができたのね。ありがとう」
「別に俺のおかげってわけじゃねえよ」
「素直に言えばいいのに。由衣ちゃん言ってましたよ。 『本人は言わないだろうけど、後々ぜったい恩着せがましく言うから言っておいて』 って」
「俺がそんな女々しいことすっか」
「何でも十年以上前のことをいまだにネチネチ」
「あいつの感謝が足りねえからだ」
「そういうのを女々しいっていうのよ」
「一生感謝するわ。下村さん」
 またもじもじ。ほんとうに下村さんってシャイ。 
「美幸ちゃん、遙祈ちゃんは寝かせてあげようね」
 千春さんが横に並んで言った。
「初めての外出で疲れたから」
 遙奈の腕の中で眠る遙祈は、当分目を覚ましそうにない。でも、
「遙奈にミルクをあげさせたいんです。それにおむつ替えも」
 遙奈の心の傷を少しでも消して帰したかったし……帰りたかった。
「どうする?」
 戸惑う遙奈に、
「お姉さんなんだからやってごらんなさい」
 千春さんは言って勤務に戻り、私たちはナースステーションの角を曲がっていったん病室に行ってから、
(あ!)
 廊下鳶のように病室を窺うのは南田、南田敏之!
(隠れて!) 
 言う間もなく遙奈が駆け出す。
「授乳室で待ってる」
 景子が後を追った。



    三十五


「大勢で楽しそうじゃないか」
「あんたの顔を見るまではな」
 南田は鼻を鳴らすと、肩に掛けたビジネスバッグを床に置き、ファスナーを開けた。
「辞令だ。こっちが、」
 誠治が書類を奪い取る。
神奈川営業所事務員小渕美幸――三月二十六日付をもって解雇――
神奈川営業所営業下村誠治――四月十五日付退社――
「但し同日までの給与を基本給のみ? 退職金は無支給? 俺も馘にしろよ」
「希望日まで働けるんだ、感謝するのが礼儀だぞ下村」 
 南田は横柄に言い、車椅子に座る美幸に、
「随分掛け合ったが力及ばず、決定は覆らなかったよ」
 含みをもたせて言った。
「嘘つけ。解雇通告は一か月以上前だ。来月の二十七日まで在籍扱いにしろ」
「わたしも同じことを言った。事前通告のない解雇は労働基準法上マズいと。逆に言われたよ。使いものにならない役立たずを雇用した期間の、 『迷惑料』 を請求したいくらいだ。とね」 
 整えられたベッドに目をやる美幸に言い継ぐ。 「そこで、間を取ったというわけだ」
「噓八百ならべやがって、出るとこ出っぞ」
「もういいわ」
 美幸が制止する。
「見たか。美幸は変わった、お前らとは住む世界が違うんだ」
「随分親しいんだな。下の名前で呼ぶとは」
「阿呆かクソおやじ」
「個人的な君への投資分まで耳を揃えて返せとは言わない。素直に従うことだ」
 美幸はキッとする。金銭の要求はしていない。対価だと言って金を握らせたのは南田の方。私は南田に従ってきただけ。
「用は済んだろ、さっさと帰れ」
 唾棄する誠治にかまわずに、無関心な様子で南田は言う。
「君が生んだのか。さっきの子は」
 見られたのだ。遙祈と、遙奈を。
「サボってねえで帰って仕事しろや」
「返事がないところを見ると君の子ではない、ならばハルナ、」
「うるせえ!」
 変貌した美幸に南田が目を瞠る。束の間誠治も。
「私が産んだ私の子どもだよ。文句あんのかよ」
 南田はネクタイの結び目を直して、
「それはめでたい。出産祝いでも贈ろうか」
 狼狽を取り繕った。
「自分に贈るのかよ」
「なに?」
「出産祝いを、自分に贈るのかって訊いたんだよ」
「何をわけのわからないことを」
「わからないか。お前がオヤジだよ。パ・パ・な・ん・だ・よ、ククク――」
「そんな馬鹿なことが」
「バカなこと? ナカで出せば孕む、いい歳してそんなことも知らねえのかバーカ。ハハハ――」
 車椅子の肘あてを叩きながら、おかしそうに笑う美幸――。
 そうだったのか。
(傍に居れば落ち着くと思った――)
 千春は美幸の心的病を疑った。いや確信した。だから放ってはおけず美幸と暮らし始めた。
(愛子先生なら尚よかった――)
 相談の電話を受けた時点で愛子は、精神的に病む美幸に気づいていたのだ。

 あの人はあの人だ。お母さんと一緒にいたあの人だ。間違いない。
「どうした義明」
 落ち着きなく車椅子を動かす義明に、淳は言った。
「ううん、何でもない」
 腕を絡ませて歩く二人の姿を義明は、忘れていなかった。
 平日午後のラウンジは、女性患者ばかりで落ち着かない。そのせいかもしれないと思いながらも淳は、男を見たときの怒りと怯えが入り混じった美幸の表情と、
「なあに、野暮用ですよ――」 
 誠治の物言いが、気になってならない。
 二人に用事があるということは仕事の話だろうか。
 恐らくそうだ。上司として社員を見舞うのは当然。
 腰を折って書棚を眺める妊婦が、メルヘンの世界の人のように見える。
 上司と部下。ならば遙奈の慌てようはどう説明する。明らかに常軌を逸していたではないか。
「どうした」
 義明が180度車椅子をターンさせ、
「トイレ」
 バスケットコートに向かう速さで廊下に向かった。

「やめろ美幸!」 
 別の人となった美幸に誠治は訴える。
「先生の言葉を思いだすんだ!」
 小淵美幸さんは私たちの家族になりました。どうぞ小渕姉に祝福の拍手を……。
「悪に報いるな、サタンの手にくだってどうする!」
「この女は生まれついての悪魔だよ」
「うるせえ黙ってろ! 美幸、お前には主の血が流れてる、お前は生まれ変わったんだ」
 主の血。生まれ変わった……
〈バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。〉
 私は死んだ。神を知らない古い私は、罪とともに死んだのだ。
〈天にも地にも、わたしは満ちているではないか。〉
 ただすべてを神の御手にゆだねればいい。悪に敵対せずに。
「あなたが‥‥‥」
〈隠されているもので、知らずに済むものはありません。〉
「あなたが父親です、でもあなたの血は入っていません、だから何も心配しないでください。私だけの子どもです、だから‥‥‥」
「よく言った美幸! 聞いたか南田あ!」
「キチガイ女の言うことを誰が信用する」
「黙れ糞オヤジが!」
 恬然(てんぜん)を装う南田を誠治が一喝する。
「もう、欲望のために人を利用しないと誓ってくださいっ」
「聞いて呆れるな。欲望の為に娘を売っておいて」
「おいおい気がちがってるのはお前の方、」
「‥‥‥」
 美幸お前。
「分かっただろう。そういう人間なんだよ。この女は」
 南田に、遙奈を、差し出したっていうのか!
〈まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです――〉
 悔い改めようと必死に神にすがった美幸を責めてどうする。
「過去をほじくり返して楽しいか」
「事実を言ったまでだ」
「手前えには倫理も道徳もねえのかよ、おい」
「いつの時代の話をしてる。この国にそんなものはない、世界の常識だぞ下村」
 誠治は二の句が継げない。
「もう……人の心を傷つけないでください、弄ぶようなことはしないで!」
 南田は嗤い、こめかみを指さす。
「ココの病気か。それで入院しているのか」
「南田手前え」
「それとも、真面目な “フリ” して生きようっていうのか。よくもまあ姑息なアイデアを次々と、下村、お前も気をつけろよ。この女はな、」
「人の気持ちも分かんなくなっちまったのかおいっ、美幸の正直な気持ちをよ、素直に受け止めてやれねえのかよ」
 誠治は最後の憐憫の情を送った。つもりだった。
「やけにかばうな。お前の子どもだからか」
「もういっぺん言ってみろ」
 端から美幸の話を信用しない南田は、
「よかったか下村は」
 侮蔑を止めない。
「手前え」
「やめてえっ!」
 美幸が叫ぶのと同時に、
「やめろお!」
 勢いよくドアが開き、義明が叫んだ。
「お母さんを悪く言うな!」
「来るな義明!」
「その子もさっきの赤ん坊と同じ、父無し子か」
「何抜かしやがる!」
「君のお母さんはな」
 体を震わす義明に南田は近づき、
「仕事はできないが、子づくりの才能は凄いんだぞ」
 嘲笑う。
「貴様あ」
 誠治が掴みかかるより早く、
「謝れ!」
 義明はテーブル上の果物ナイフを掴み、
「お母さんに謝れえ!」
 揺れる刃先を南田に向け叫ぶ。
「本気じゃないだろうな坊主」
「やめろ義明!」
「やめなさいっ!」 
 義明はシュートを狙う動きで、
「ウオーッ!」  
 南田の胴体めがけて腕をいっぱいに伸ばす。
「やめてっ!」
 刃先がコートに触れる寸前、
「やめろお!」
 横槍から誠治が車椅子ごと抱き止める。と、
「南田あ!」
 奪い取ったナイフを頭上高く振り上げた。
「うわわいや~!」
 南田が奇声をあげ病室から逃亡する。
「義明!」
 誠治はより強く義明を抱きしめる。
「どうして、何であんな奴と」
 硬直した体から力が抜けていくのが分かった。
「五分後に死ぬ勇気も覚悟もねえ、弱虫ヤロウの言うことなんか気にすんじゃねえぞ、 分かるな!」
 ・・・・・・
「死にたいよ、ぼく」
 繰り返し言ったんだな。電車に飛び込む間際まで。でもよ、
「生きることを前提にしか考えられねえ、自分を捨てる覚悟もねえ、草より弱い臆病者よりお前のほうが百万倍立派で強い。だからよ‥‥‥死にたいなんてよ‥‥‥頼むから言わないでくれよ」
「ごめんなさい義明!」
 立ち上がろうとする美幸の体に力が入らない。誠治は義明の乗る車椅子を、美幸に向けた。
「お母さんが悪いの、みんなお母さんが悪かったの」
 美幸は片手で車椅子を進めながら、いっぱいに腕を伸ばす。
「そんなことないよ、絶対にないよ!」 

 おわ、うわやーっ! 
「中に入って!」
「病室から出ないでください!」
 南田がほうほうの体で廊下を駆け抜ける。
(あの男だ)

 二人の距離が詰まり、
「お母さんが悪いわけないよ」
 手が絡み一つになる。
〈もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。〉
 苦しいな美幸。でもよ……、
「何かあっ」
 泣きながら抱き合う二人と汗をぬぐう誠治。床に光る果物ナイフ。振り向く義明。
「さっきの奴が、お母さんに酷いことを言ったの、だから……」
 言葉がつづかない。堅く結んだ口がこれ以上話さないと言っている。
「もういい」
「よくありません、よく無いんです」
〈隠れているのは、必ず現れるためであり、おおい隠されているものは、明らかにされるためです。〉
〈だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。〉
 黙っていれば罪のない者が傷つく。罪のない者を裏切る。
「遙祈は誰の子か分からない、私は仕事は出来ないけど、子供を、子供を作る才能だけはあってどんな男とでも、」
「忘れろ! ヤツは人間じゃねえ、忘れるんだ!」
「忘れることなんて出来ないよ!」
「義明」
 淳は車椅子ごと引き寄せ話し始める。
「父さんも悔しい。父さんがいたら同じことをしたと思う。いや、もっと酷いことをしたかもしれない。だから‥‥‥父さんが話すべきことではないのかもしれない。だけど覚えていてほしいんだ」
 涙に気づかぬまま、淳はつづける。
「神さまは、 『自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。』 と言われた。
『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』 そうも言われた。
 悪い人にも太陽を上らせ、正しい人にも雨を降らす神さまは、嫌いな人も好きな人も同じように愛することを望まれる。でも人は正しく生きることは出来ない。それでも、そう在りなさいと神さまは言う。分かるな」
 義明は小さく、だがはっきりと頷く。
「言葉にしたくないようなことを、歯を食いしばって、お母さんは話した。なぜか分かるか」
 義明の震えが止まった。答えを待つことなく淳は話す。
「洗礼式で告白したとおり、神さまと人の前に、正直に生きようと思ったからではないか」
 うな垂れる美幸が小さく、誠治は大きくはっきりと肯く。
「辛いときは、十字架の上のイエスさまを思いなさい。どんなことでも神さまが解決し、煩いを解いてくださるから」
「母ちゃんは石を投げなかった。心が断ち切られるほど辛くても、
〈ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。〉
 みことばのとおり、神もお前も裏切らなかったんだぞ」
「誠治くん‥‥‥」
「傷つくことを恐れる大人になるんじゃねえ。堂々とやさしく在ろうとするればいい。父ちゃんと、母ちゃんにならってな」
 誠治はドアを開け、
(苦しいな美幸。でも、)
「幸せだな。美幸」
 背中越しに言い、病室を後にする。
「いたのか」
 千春だ。
「遙奈たちを呼んでくる」
「わたしも行きます」
「いや、傍にいてやってくれないか」
(欲望の為に娘を売った――)
(看護師が美幸に囁いた、 「出血」 とは――)
 もしや施設で倒れたのは‥‥‥
 いや。俺もキリスト者のはしくれだ。疑わずに信じよう。
 真っ直ぐに歩む遙奈を。美幸にならって。


    三十六


「髪伸びたな。切ってやろうか」
「イヤ」
 もうすぐ五月。だからというわけではないけれど、ケアキャップは被らない。下村さんが子供の頃に憧れていたという、きっと千春さんの青春時代のテレビドラマ、 「俺たちの~」 シリーズに登場する若者くらいまでに伸びて、けっこう気に入っている。
「なあ。編み物ばっかしてて飽きねえのかよ」
 今度は景子に。いつもと同じパターンだ。
「誠治さんこそ飽きないの? 絵本を読むか、遙祈ちゃんの相手をしてるかブツブツ言ってるだけで」
「心配して来てやってんのに、暇人みてえに言うな。遙祈連れてこいよ、遙祈をよお」
 ベッドの足もとに置いた毛糸玉を転がす誠治に、
「ちょっとお。今は寝んねの時間、毎日来てるんだから分かるでしょ」
 景子は抗議する。
「寝てるとはかぎらねえじゃんか」
 寝返りを打っては笑い、お気に入りの縫いぐるみを見せては手を伸ばしと、活発で明朗な “個性” を見せ始めた遙祈は、特定の人物の認識もできるようで、生後五か月としての発育は早いと言われている。まだ手指を使えない月齢で目立たないせいもあるのか、 「奇形児」 とは思えない。母親目線を外しても。
「ちょっといいか」
 誠治はオーバーテーブルの聖書に手を伸ばし、
「退院したらどうするつもりだよ」
 頁を繰りながら訊いた。
「治療しながらここで働くつもり。お母、千春さんが力になるって言ってくれてるし」
 実の子を前にして 「お母さん」 とは言いにくい。名前で呼ぶように努めてはいるものの、つい口走ってしまう。
「結婚は。山形に帰らねえのか」
「そう簡単に言われても。ねえ」
 景子が助け舟を出す。
 帰る――。山形は嫁ぎ先であったというだけで、帰るという感覚は正直ない。
「再発して死んじゃったら可哀相でしょ。子どもたちが」
「そんなこと言わないで」 
 健康で死が怖かったらこんな事は言わなかっただろう。美幸も、愛子、 「永遠のいのちの話」 を聴くまでは、死は終わり。忌むべき恐怖でしかなかった。
「ええっと、
〈私と死との間には、ただ一歩の隔たりしかありません。〉 か。
 死を意識するのも大事だけど、そう難しく考えることもねえだろ」
 美幸は聖句を反芻する。 「私と死との間には――」 誠治自身の、いや、浩一郎や愛子、クリスチャンの思いを披瀝しているのが分かった。
「それとだ……」
 手荒く頁を繰り、数枚戻す。
「ああ、ここここ。
〈主の手に陥ることにしましょう。主のあわれみは深いからです。〉
 死ぬ瞬間までいつ死ぬかなんて分かりゃしねえんだ、やっちまえって気構えで、やっちまってもいいんじゃねえか」
「要するに思い切りでしょ。確かに必要なときってあるよね」
「俺の信条は思い切りよ」
「母もそうなの。気が合うのよ、誠治さんと」
 思い切りがなければ、五十四、五歳で、単身、神奈川に出て働けないだろう。下村さんにしてもそう。新規開拓に苦情処理、嫌な役どころをいつも買って出、一人だけ気張っているようで鼻についたが、思い切りがあってこそ出来ること。当然のことを普通にこなす二人は、
「確かに合ってるかも」
「あと二年もしねえで定年だろ? その後どうすんだ」
 二人に構わず誠治は言った。
「あら、もらってくれるの?」
「真面目な話してんだ。アパート借りて働きながら通院して、保育園の送り迎えに家事全般、近所づきあいもあれば、夜中に遙祈が熱を出すことだってあるだろ。追い込むつもりはねえけど、一人でやれんのかよ」
「難しく考えるなって言ったじゃない」
 言ってはみたものの、考えれば考えるほど不安は増し嵩むばかりで、一人ですべてをこなす自信などまったくない。
「でも考えないといけないのよね」
「思い詰めちゃだめよ」
「みんなが喜ぶ選択が最善の選択だからな。忘れんなよ」
 偉そうに何よ。
 でも、ありがとう。
 
 窓外の木々の葉が陽をいっぱいに浴びて輝きを放ち、野花は色とりどりの花を咲かせ始めた。生命力を漲らせる草木とは対照的に、乳がんの進行は、治療によって成長を食い止ているに過ぎない。どことなくヘン。喜べる成長と喜べない成長があるのが。
 誠治の目が聖書の一節にとまった。
 旧約聖書 イザヤ書第四十三章十八節、
〈先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。〉 
「俺も行くかな。山形」
 唐突の言葉に、二人は目を見合わせる。
「本気? 寒いわよお」
「それにこっちよりずっと不便」
「だから良いんだろうが」
 思っていたとおりの答え。
「それが下村さんの思い切り?」 
「そんな大袈裟なもんじゃねえって。つぐみ教会に行けば浩ちゃん先生の話も聞けるし、愛子ちゃんとのんびり楽しくやれそうだからよ」
 誠治の内心の大部分は――「放っておけっかよ遙奈を。美幸、お前のことも」――二人への思いで占められている。
「由衣ちゃんもいるしね」
「なに? 何で由衣っぺが出てくる。あんなじゃじゃ馬娘、舎弟としか思っちゃいねえよ」
「顔真っ赤」
「うるせえ」
 二人は嬉しそうだ。
「下村さんって分かり易い、やっぱり由衣さんだったか」
「お前えらな」
「照れなくたっていいじゃない」
「そうそう、由衣っぺちゃん。君と一緒にいたくてぼくは山形に」
「何がボクだ、大人を揶揄うんじゃねえ」 
「遙祈の方がよっぽど大人かも」
「子供で結構、毛だらけ猫灰だらけ、ケツのまわりはウン、」
 ――騒がしいわね、誰でしょっ。
 ドアの向こうの声は、
「やっぱり誠治さんね。仕事もしないで毎日毎日」
 千春だ。仕事はしていないが、就職活動はしなかったわけではない。二、三面接にも行った。その場で辞退したが。
「そんなにやることが無いならここで働く? 営繕で人が足りないの。お庭の手入れとか電球の交換とか、そのくらい出来るでしょ」
「会社ではぜ~んぶ、下村さんがやってました」
「持ってこいじゃない」
「有り難えけどよ。仕事より大事なこともあるんだ、人生ってのは」
 美幸の耳元で景子が言う。
(読書とお喋りと遙祈ちゃんと遊ぶこと)
(遊んでもらうことじゃない?)
「何笑ってんだ」
「何でもありませんわ」
「手前えらまた馬鹿に、」
「嫌ならボランティアに行ったらどう? みんな喜ぶし、あなたの為にもいいと思う」
「働かせて貰ったら?」
 考えなかったわけではない。どこで聞きつけたのか、実際に誘われた。だが、
〈自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。〉
 信仰を決定づけた聖句が歯止めをかけた。利得と無縁でなければ彼らとは関わってはいけない。一生考えても結論は同じ。変えられなかった。 
「駄目みたいですよ。山形で仕事を探すそうですから」
 微苦笑する誠治を見て、冗談でないことが分かる。
「そうなの」
「由衣ちゃんと暮らすんだって」
「景子お前え」
「あっちで身を固めるんだ。それなら仕方ないわね」
「本気にすんな。山形で仕事を探そうと思ってるのは事実だが、由衣っぺと暮らしたいなんて一言も言ってねえし思ってもねえ。お前の教育が悪いからこんなホラ吹き娘に育っちまうんだ」
 千春は取り合わずに、
「あなたも決断しないとね」
 美幸に向き直る。
「待っている人がいるのよ」
 思ってもみなかった。毎日会ってるのに。千春さんがそんなふうに考えていたなんて。しかも愛子先生と同じようなことを――帰るところがあるのよ。美幸ちゃんには。
「でも」
「いい機会だから話すね」
 歩み寄る千春に、誠治は立ち上がって椅子をすすめる。
「治癒とまでは言えないけど、入院治療は三週間でお終い。よく頑張ったわね。退院よ」
 再発の恐怖が波のように引いていく。考えれば考えるほど辛くなる、考えたくもなかった言葉が、千春さんの口から聞けるなんて‥‥‥。
「治ったんだな。美幸のガン」
 誠治が相好を崩す。
「ガン自体は消失したけど、治ったとまでは言えないの。寛解という状態。再発を防ぐための治療と、定期的な検査はつづくから」
「決まりだな」
「何が?」
「淳さんとの結婚よ」
「ああ」
 同居している時と同じ、 「お母さん」 の顔で千春が話す。
「もちろん、通院は山形の病院で構わないわ。どこで暮らすにしても、健康なとき以上に体をいたわる必要はあるから、それだけは覚えておいて」
「山形でもここでも同じってわけだ。思い切れよ美幸」
「同じじゃないわよ。この間話したじゃない」
 千春の口調が少しだけ尖った。
「病気と戦うのは何?」
「免疫力と援護射撃とか何とか」
「二つとも環境によって大きく左右されるの。とくに周囲との人間関係に」
 誠治は確信した。千春と愛子は、美幸の 「隣人」 になろうとしたのだ。
 起り得る病気や不安を乗り越える為もある。だが真の目的は、美幸の心的病の改善にあり、その答えが 「家族」 のいる山形で暮らすこと。それが最善と二人は考えたのだ。
「帰れよ美幸。千春ちゃんだってじきに帰るわけだし、淳さんや先生がいるんだ、信仰にももってこいだろ。あれこれ悩みながらこっちで暮らすよりいいに決まってるって」
 私の帰る場所は山形だけ。生まれ育った山口ではない。分かってる。でも‥‥‥ 
「書いてあるだろ。ヨブ記に」
 誠治は準備していたかのように聖書を繰り美幸に向ける。
「読んでみろ」
〈あなたはすばる座の鎖を結ぶつけることができるか。オリオン座の綱を解くことができるか。〉
 山里に灯る集落の明かりが、川のように星空にのぼり、銀河の海に流れ込む画のような夜景に、幾度慰められたことだろう。
〈あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。〉
 明けの明星が瞬くのを待ちわび、暖かそうな半月に向って手を伸べた日々。満たされぬ心を癒していたのは、主の愛。主のみめぐみだったのだ。
「思い切れよ。な」
 誠治の目が見られない。もしかしたら私を心配して山形に‥‥‥。美幸の胸の裡に次々と映像がよみがえる。

 「帰りたくなっちゃった――」
  一人見知らぬ地で頑張ってきた、千春お母さん。
 「俺も行くかな――」
  私を捨てない、下村さん。
 「行っちゃおうかしら。会いたいのよお――」
 「帰るところがあるのよ――」 
  愛の人、愛子先生。
  みんなこう思っているのかもしれない。
 「私が支えるから。」

「テニスの時みたいに積極的に前に出ないと」
 景子が背中を押す。お母さんと下村さんが答えを待ってる。
〈あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。〉
 一人では何にもできない。生きてゆけない。 
「私、帰ります」
「やったあ!」
 抱きつく景子の黒髪の白いものに目がいく。ありがとう、景子……。
「でも」
 子供みたいだと思いながら、千春は訊き返す。
「でもなあに?」
「お母さんは‥‥‥どうするの」
 ほんとうに子どもね。そんな顔で、
「わたしの代わりは幾らでもいるわ。わたしも帰って、夢を追い駆けようと思うの」
 千春が答えると、美幸の顔が涙でくしゃくしゃになる。
「夢ってなんだい」
「訪問看護。管理職より、現場で動き回っている方が合ってるのよ。わたしって」
「よかったね、美幸」
「美幸ちゃんが手伝ってくれると心強いだけど。もちろん元気になってから。少しづつ」
 お母さんのことだ、きっと、ずっと考えていたに違いない。
「町民も心強い。大したもんだ、その歳で」
「年齢なんて関係ないわよ」
「俺は賞賛してるんだ」
 千春にとって美幸は我が子。遙奈と義明のことも気に掛けてのことに違いない。二人の痛みを夢の中に取り込んでしまう千春の存在は、誠治にとっても心強く大きい。
「地域の皆さんの手助けをする。私にとっても壮大な夢です」
「実現したら体と相談しながらやっていきましょ。それと景子のところにお世話になるつもりはないから安心して」
「健吾も大歓迎なのに」
 周囲のことを第一に先々のことを丹念に考える。母らしいと景子は思う。
「ありがと。でも、時々行き来するような感じの方がいいから。ところで誠治さんは? どんな仕事に就くの?」 
 千春は話を変えた。白衣姿で話すのが気恥ずかしかった。
「さあ。何すっかな」
「どうしてもと言うときは一緒に訪問看護の――」
 誠治は千春の横をすり抜け、病室を後にする。
 窓外に咲く、春の花の名を確かめたかった。
 美幸は思った。信仰告白は、神さまと共に生きる約束。神さまは、何時如何なる時も約束を覚えていて、約束を明らかにすることを願われているのではないかと。自分自身、日々試されているのだ。
 愛子先生の信仰告白って、どんなだったのだろう。
 あ。もしかして愛子先生、つぐみ教会に揃って足を運ぶことを願って、わざわざ駆けつけて聖書を私たち三人に……。


 
    三十七


  あの山をいつか越えて  
  帰ろうよ我が家へ

  この胸に今日も浮かぶ  
  ふるさとの家路よ   
   
  ああ、我が家よ
  日の光かがやく

  草の道歌いながら 
  ふるさとへ帰ろう 

 
 聞こえますか。
 日本海からやってきた風が運ぶ、やさしいメロディが。
 この歌を歌うと、施設のことを思いだします。
 この歌を選び、思い出を話した、ショウゴくんのお父さん。
 体を傾けて、大きな口を開けて歌う、施設の子どもたち。
 目をつぶって、からだを揺らす、父兄のみなさん。
 遠い記憶を懐かしみながら声を震わす、誠治さんを。
 ベッドにからだを投げ出して、窓外の夏空を見上げます。青い海を綿帽子が漂っています。鳥も同じで、西の空からのんびりと、峠の我が家へ向います。 あ、うふふ。階下で遙祈がはしゃいでます。
 愛子先生。
 一年です。家族五人で歩み始めて。
 十月で二歳になる遙祈は、元気がすぎるほど、元気です。一人で階段を上り下りするのはまだいい方で、玄関の鍵をひねって冒険に。何てこともしばしばで、冷や冷やさせられどおしです。
 甘えん坊でよく笑い、時々火がついたように泣くそうです。さも関心がないような言い方ですが、私がいないとぐずるので、まだ見たことがないのです。今は? 泣いていません。じゃあ慣れたのね? そうかもしれません。でも 「姉離れ」 の訓練はまだまだ続きます。反抗期のただ中の大事な時期で、性格の分かれ目なので。あら。泣き始めました! 田んぼの向こうの、 「用水路まで聞こえるほどなんだから」 母の言うとおりです!
 そう、今気づきました。あら今頃? なんて言わないでください。遙祈って、義明そっくりです。それなら心配ない? ええ、何も心配していません。心配はしていないのですが、やはり手術のことが気懸りです。合指症の……。 


「家族でとことん話し合いなさい」 と愛子先生はやさしく言ってくださいましたが、いくら話し合っても 「母と私vs父と義明」 の意見の違いは平行線を辿るだけでした。 
 母は、遙祈の受けるショックや偏見、不自由を考えなるべく早い手術を望み、父と義明は、本人の知らないうちに進めることに、反対でした。
「ぼくの弟なんだから大丈夫だよ――」 障害のある義明の言葉は重く、 「手術台に上ったことも、手術の後に疼いて泣いた記憶も残らないから」 と心の傷を心配する母の言うことも、 「本人が認知することが大切だと思うよ――」 奇形や障害自体を特別視させたくない父の気持ちもそのとおりで、私はただ、 「一歳前後が通常だから」 という以外、何も言えるはずがありません。私が奇形の原因を作ったのですから。手術に賛成したのは、癒着した手を見ないですむからというだけのことでした。二歳になるまであと三か月。繰り返し手術が必要になることを考えると時間がありません。気が気でない義明は、
「誠治くんはどう思う?」
 誠治さんに相談しました。礼拝が終わった日の午後、教会周辺の雑草取りをしている時に。誠治さんは、
「朝起きて、お前の手が同じだったらどうする」
 と答えたと言います。
「ぼくが合指症になったら病院に行くよ。必要なら手術を受けるよ。治してあげようよ」 
 みんな義明に賛成しました。私は複雑な気持ちで。
 紆余曲折を経て、遙祈の合指症の手術は秋に決まりました。繰り返し手術をすることへの不安も、 「ぼくが守るよ」。 頼もしいお兄さんがいるので、父と母は安心した様子でいます。私の罪が消せることはありませんが……。
 その義明ですが、とうとう始めましたよ。車椅子マラソンを!
 あれだけ期待され頑張ってきたバスケットです、惜しむ声もありました。私には 「体育館に行くのが面倒になった」 とか、 「転んだり手を挟むと痛い」 とか、なぜか色んな言い訳をしましたが (たぶん、大人に近づいている証拠なのでしょう)、 私には分かります。ほんとうの気持ちが。
「山形の自然を満喫しながら、父といっしょに走る!」
 夢を実現するためです。義明を夢へと駆り立てたのが愛子先生なのです。愛子先生との別れの悲しみを振り払うのではなく、真実な愛子先生にならおうと、義明は思い切ったのです。私には分かります。姉ですから。
 ですから悲しまないでください。義明はいま、夢の中にいるのですから。いっしょに走ったらどう? 私は無理です。走るのはからっきしですから。母譲りで。
 山形に帰る夢と父といっしょに走る夢を叶え、もう一つの、 「一人で階段を上り下り出来るようになる」 夢を叶えれば義明の夢は達成です! 義明ならきっと叶えるでしょう。訊いてみました。次の夢はどんな夢? 何て答えたと思います?  「そのうち分かるよ」 ですって。最近誠治さんみたいなことを言うんです、義明ったら。
 母と私は? 変わりありません。そう、 「姉妹みたいね」 って言われるようになりました。
 以前の私なら、 「親と見られてないのが分からないの!? 母親失格ってバカにされてるのよ!」 と母を罵り、 「そんな親から生まれた哀れな産物」 と自分を庇護していたことでしょう。
 でも今は違います。素直に受け取れます。私たち親子の苦難や葛藤を知っている方が言うのですから。愛子先生もどうお思いでしたか? 姉妹みたいだと思いましたか? だったら嬉しいです。母を 「お姉さん」 とは思えませんけど。
 この話を誠治さんにしたら、
「人間ってのは、悪いとこばかりに目がいくもんだからな」
 と言われました。私は母の弱みや悪事を、わざわざ探していたのですね。
〈さばいてはいけません。〉
〈さばきは神のものである。〉
 身のほども弁えずに驕慢になって。
 そんな始末に負えない私とは逆に、母に寄り添う隣人に徹した景子さんは、相変わらず、母の通院や買い物の付き添い、遙祈のお洋服の仕立てなど、何かにつけて助けてくださいます。趣味が高じてと申しますが、赤ちゃん専門のお洋服屋さんを始めると張り切っていて、それが理由なのかは分かりませんが、受洗はまだ先になりそうです。
 そういうわけで、千春さん親子から仕事に誘われ、板挟みの母は、訪問看護かお洋服屋さん、どちらで働くかで迷っています。嬉しい悩みですね。
 母より半年遅く帰郷し、多忙な日々を送る千春さんのことは、愛子先生の方がよくご存知ですが‥‥‥振り返りますね。とても大事なことですから。
 千春さんは仲よしの誠治さんに、
「さんざん稼いだんだから隠居したらどうだ」
 などと酷い言い方で心配されても、
「楽しくて仕方ないのよ」
 夢を手放す気はありません。
 朝早くから夜遅くまで、時には、夜通し働く千春さんは、村のみんなの太陽です。私はときどき――

東北のある小さな村に、
千春さんという、看護師さんがいました。

 千春さんと愛子先生のことを遙祈に話します。
 絵本を読み聞かせるように。

  看護師の千春さんは、
 「ぐあいはどうですか。」
 「おねつをはかりましょうね。」
病気の人のおうちを、一けん一けんたずねてまわる、
ほうもん看護、というお仕事をしています。
 「千春さんにみてもらえばええ。」
 「千春さんをよんでけろ。」
  なかには、
 「千春さんにみとってほしいだよ。」
と言う人もいるほど、千春さんは、みんなにしたわれています。
おおぜいいる、かんじゃさんのなかに、
それはそれは心やさしい、
愛子せんせいという、天女のような人がいました。
 (愛子せんせいはね、ぼくしせんせいの、おくさまなの)
愛子せんせいは、
五年ほど前にかかった病気がげんいんで、
不じゆうなおからだでしたが‥‥‥、
こころの弱った人を助けようと、無理がかさなって、
ふたたび同じ病気になって、
たおれてしまい、
寝たきりになってしまったの。
とても悲しいことに、
とってもさびしいことに、
愛子先生はね‥‥‥、
帰らぬ人になってしまったの、死んでしまったの。
お姉ちゃんをのこして……。
でもね、
愛子先生はね、
いつもね、
いつも私たちの心のなかに――
 
 いつもこの先が喋れないの!
 私が一年遅れて高校に進んだのは、愛子先生のようなカウンセラーになりたいから。でもこんなことでは無理。すぐに逃げ出す私には無理。思いやりのない私には無理。誰とも分からない人の力になるなんて無理。でも変えられないのだから仕方ない。でも自分もコントロールできない弱虫には無理、できるわけない。でもでもでもでも、無理無理無理ばかり。挫けそうになってばかり。でも愛子先生みたいになりたい。同じ道を歩みたい。元を辿れば、母のせいです。
 母は愛子先生に、乳がんと妊娠を打ち明けてからというもの、頻繁に相談するようになったそうですね。愛子先生はことある毎に、山形に帰るように説得して、
「――小渕美幸はわたしが守ります。心を尽くし精神を尽くして、命を賭して守ります」
 と村瀬先生に言っていたそうですね。ご自分も病気だと言うのに、
〈わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。〉
 決意を確かめるようにお話しされていたそうですね。由衣さんから聞きました、愛子先生の決意と母の弱さを。
「そこまでしたのは、美幸さんが精神疾患だったことが分かっていたからなの。真の家族になろうとしたのね。母は‥‥‥」
 愛子先生と母との深い絆に、私はまったく気づきませんでした。だって母と揃ってお見舞いに行ってもそんな素振りは、おくびにも出さなかったじゃありませんか。お母さんは明るくしてたし愛子先生はもう……もう朦朧としていらしたから。
 母は涙を収めて話しました。愛子先生との絆の話を。



     三十八


 千春さんと暮らす前の、いちばん不安定な頃だった。居ても立っても居られなくて突然電話するでしょ。そんな時でも愛子先生は、親身に聞いてくださるの。どんなに夜遅くても。どんなに話が長くなっても。取り分け、 「死」 の問題が頭から離れなくて、 「神さまにまで嫌われたまま死にたくない」 なんて、言っても仕方がないようなことでも、
「神さまは愛よ。美幸さんを嫌ったりしないわ。それに、死は終わりではなくて、永い眠りにつくだけのことなの。神さまを信じる者はみな死んでも生きるの、死は人生のつづきなの。だから、怖がることはないのよ――」
 愛子先生は真剣に答えてくださったわ。
 母は何を話しているのか、分からなかったそうですね。それでも愛子先生は辛抱強く、お話しされたのですね。
「世の終わりの日に、ふたたびイエスさまが現れて、死者を――永い眠りについた人をね、朽ちない者に 『よみがえらせる』 の。イエスさまが息を引き取って、ご復活なさったように。そして、イエスさまを 『神さま』 と信じて生きている人に 『永遠のいのち』 が与えられて、よみがえった人たちと一緒に、イエスさまと過ごすことになるのよ。永遠にね。
 それが今日か明日か、永い眠りについてからなのかは誰にも分からない。神さまがお決めになることだから。だけどね、神さまのご計画でもう決まっていることなの。だから、何も心配しないでいいのよ――」
 聖書には、
〈地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。〉
 と書いてあり、
〈もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえられなかったでしょう。〉
 確信のみことばが書かれています。深く慰められたと話す母に向って私は、
「敵の手に渡した私の子はよみがえるの! 私に殺された子供は、滅ぼされてしまうの!」
 心の中で叫んでいました。母でなく、神さまに向ってだったのかもしれません。キリストが 〈最後の敵である死を滅ぼす。〉 のを知っていたからです。
 私の胸中など知る術もない、母はつづけます。愛子先生の真実を――。
「美幸さんは覚えてるかな。 
〈すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。〉
 そうよね、忘れないわね。 『考えさせられました』、 って言っていたくらいだもの。
 人は、神さまに生かされているのだから、神さまのみこころを思って生きるのが自然じゃない? わたしはそう思って生きるようにしたの。そしたらね、どんなに辛くても、 『生きることも死ぬことも益』 って信じられるようになったわ――」
 脳梗塞で不自由な体になったのは、主の愛の証し。
 痛みに悲しみをお加えになるのは、主が愛だから。
 そう言って、言葉を詰まらせたそうですね。愛子先生は……。
「神さまは意味もなく苦しめたりしないわ。豊かな恵みであわれんでくださる。だって、神さまは愛なんだもの」
 死ぬことが益だなんて、考えもしなかった……。さも幸せそうに言う母に向って叫びました。 
「子どもを殺したことも益なの! みこころだっていうのっ!」 
 母に言うことではないのに。愛子先生が悲しむことなどお構いなしに。
 黙ったまま答えられずにいる、母の異変を感じたのか、隣室で眠っていた遙祈がすごい勢いで泣き出しました。そう、このときに聞いていました。火がついたような遙祈の泣き声を。
 遙祈をあやしながら、聖書を手に戻ってきた母は、
「読んでみて」
 栞を抜いてテーブルに置きました。開かれたページの小さな “14” の数字に、赤い丸がついていました。
〈‥‥‥みな、あなたを忘れ、あなたを尋ねようともしない。わたしが、敵を打つようにあなたを打ち、ひどい懲らしめをしたからだ。あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いために。〉 
 恐怖さえ感じるエレミヤ書の一節の後、 “17” には、
〈わたしがあなたの傷を直し、あなたの打ち傷をいやす……〉
 と書かれているではありませんか。
 幼い頃から教会に通っていた私ですが、あれほど強く主のご慈愛を感じたことはありません。すべてが神さまのご計画によって為される――心から信じた瞬間です。
「主は苦渋の末に試練を与える――って、浩ちゃんが言ったの。それからなの。幸せを実感できるようになったのは。美幸さんも必ず、そう思える日がくるわ――」
 母は、 「希望の門が開いたよう」 と話していました。
 愛子先生はこうも言ったそうですね。
「――帰るところがあるのよ。美幸ちゃんには」 と。
 ことばの意味はみんなの言う、 「山形に帰ればいい――」 とはどこかが違うと、母は思ってきたそうです。そして愛子先生が亡くなられてから、
「わたしが支えになるから。」 「あなたには遙奈を支える務めがあるのよ。」 そんな思いが込められていたことに気づいたといいます。
 由衣さんが言ったとおり、愛子先生は母の、 「真の家族」 になろうとしたのですね。
 私には数えきれない後悔があります。男に弄ばれたこと。義明を支えられず自殺に走らせたこと。母を憎んだこと。奇形を負わせて遙祈を誕生させてしまったこと。胎児を、我が子を殺したこと。たくさんたくさんあります。そしてこれらの後悔を愛子先生に打ち明けなかったことが、最大の後悔です。悔やんでも悔やみきれません。
 話してほしかったですよね。どんなに辛くても。愛子先生はそういう人。思いだします、冬の寒さに戻ったあの日のことを。一年遅れで学生服をお見せしに行った時の、声の限りの、
「おめでとう」
 愛子先生の声。涙、苦し気で嬉しそうな表情。
 勇気を出して話そうと思った。でも話せなかった。話せないほど苦しかった。何もかもが。話していたらきっと、
〈悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。〉
 やさしく厳しい言葉で私を慰めたことでしょう。愛子先生がそういう人だから私は、同じ道を歩みたいのです。
 分かっています。
〈おおいかぶされているもので、現わされないものはなく、隠されているもので、知らずに済むものはありません。〉
 必ず告白します。神と人の前で。私には、
「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは神さまのものよ――愛子先生の篤い信仰がお母さんに、 『ただ神さまのみこころを思って生きたい』 と思わせてくれたの。信仰から出ていないものは、すべて罪。だから難しいけど――」
 信仰の姉、母がいますから。重い十字架を負って、母と歩んで行きます。愛子先生にならって。
 だからみんな母のせいです。
 ありがとう。お母さん。
 アーメン。

 愛子先生の葬儀は、手紙のような遺書のとおりに、執り行われました。
 六月二十二日。ひと月前のことです。



     三十九


〈愛する聖句を、聞かせてください。どんな思いを抱いているかも。お願いね――〉
 司会の方が、三月二十三日に遺書を書き改め、その三週間後に倒れた話をすると、列席者の中には、 「予感していたのかもしれない」 とか、 「用意周到、愛子先生らしいわ」 と囁く方もいましたが、私は母から、
「信徒の方が自死なさった日に、毎年書き改めるって言ってたの」 と聞いていたので、そうでないことは分かっていました。
 愛する聖句はたくさんあります。ですから、容易に思えた 「宿題」 でしたが、葬儀までの一日半、当日の朝まで頭を痛めました。
「決めた?」
 母に訊くと、
「決まってる」
 やすやすと答えます。そんなに簡単に決められるもの? 首を傾げていたら、
「お話ししてたから。愛子先生」
「ずるいんだあ」
 愛する聖句と言っても、その時々で変わるものです。ましてや、信徒の方を思って綴った、愛子先生 「最後」 の遺書です。難題です。
「ずるいかもしれないけどずるくないわよ」
 意味が分かりません。
「愛子先生の思いやりよ。たくさん悩みなさい」
 ・・・・・・・・・
 ああ。悲しみを癒すために。
  

 母が選んだのは、旧約聖書の 〈ヨブ記 十一章〉、
〈あなたの一生は真昼よりも輝き、暗くても、それは朝のようになる。〉
〈望みがあるので、あなたは安らぎ、あなたは守られて、安らかに休む。〉
 牧師館に向う母の姿と、 「あの日」 を思い起こさせる、遙祈に聞かせている聖句を。
 もうろうとする愛子先生は、母が聖書を読み始めると、目尻を下げて、幸せそうになさいました。そして――
「ありがとう。もう十分よ」
 最期のことばを口にして、旅立たれましたね。
 愛子先生の一生を表した聖句は、試みにある方はもちろん、自分への激励を込めて選んだみことば。私にはそう感じました。
 
〈主は直ぐな人たちのために、光をやみの中に輝かす。主は情け深く、あわれみ深く、正しくあられる。〉
 父は 〈詩篇〉 の一篇を。母の光、私たちに希望を与えてくださった、愛子先生への感謝を込めて。

 由衣さんは、 〈コリント人への手紙 第一〉の一節です。
〈いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。〉
 母親を亡くし、誰よりも悲しいはずの由衣さんですが、涙することも気丈に振る舞うでもなく、いつもの由衣さん。葬儀の雰囲気が和らいでいくのが分かりました。
 愛子先生のように、 「神は愛」 「いつまでものこるものは愛」、 信仰に堅く立つ由衣さんは、希望の笑顔が輝いていました。

 村瀬先生はと言うと、
〈神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。〉
〈ローマ人への手紙〉の一節を、
〈神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。〉
〈テモテ人への手紙 第一〉 を用いながら、
「村瀬愛子との別れも益なのです」
 力強く語り、私たちを慰めてくださいました。

 誠治さんは、 「俺は愛子ちゃんと同じだ」 とだけ言うと、愛子先生の希望どおり、愛子先生の愛する聖句を読み始めました。
〈喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。〉
 誠治さん。わたしの我がままを聞いてくれて、どうもありがとう。
 このみことばのとおりに歩む、あなたと出会えて、わたしはほんとうに幸せです(でした。かな?)
 明るくて真っ直ぐで、不器用に生きていて、正に喜ぶ者といっしょに喜び、泣いている方といっしょに泣くあなたが、わたしは大好きです。 (浩ちゃん。焼きもちをやかないでね)
 神さまも、そんなあなたが大好きなのよ。だからあなたは愛されるの。
 これからも、たくさんの人に寄り添って、喜び、喜ばせ、泣いてあげてください。わたしを喜ばせてくれたように。救ってくれたように。
 誠治さん。これからも、教会と浩ちゃんのことを、支えてくださいね。由衣のことも。今までどおりに。
 あなたと、会えて幸せでした。
 またいつか……
「ダメだ由衣っぺ、代わってくれ!」
「お母さんを悲しませないで! 喜ばせてあげて!」
 ……またいつか、同じように、みなさんいっしょに、明るく過ごしましょうね。
 心からの、感謝を込めて。
 主の、主の御名によって。
 アーメン
 追記!
 わたしは、ローマ人への手紙十二章、十五節を選びました。誠治さんは、どの聖句を選んだのかしら。そのことばかりを考えています。
 梅雨明けも、もうすぐ。
 甘い花の香り漂う、牧師館にて。主の御手のなかで。


 愛子先生の証しが読み上げられると、みんな泣き笑いの顔で大きな拍手を送りました。
 誠治さんだけ堂々と、
「愛子ちゃんこそ愛の子だ! ありがとう! ありがとう愛子ちゃん!」
 棺を抱いて泣きました。思い切り泣きました。誠治さんらしく。子どもみたいに。そして村瀬先生が、
〈もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる。〉
〈イザヤ書 三十章 十九節〉 を読み上げて。愛子先生の葬儀は、終わりを告げたのです。



     終章


「めそめそすんなよな。愛子ちゃんが悲しむぞ」
「何それ」
(メソメソどころかわんわん泣いてたくせに)
「私は平気よ。お母さんの娘だもん。誠治さんこそ、元気出して」 
「俺はぜんぜん平気の平左」
(はい? 世代間ギャップ。十五も違えばあって当然。気にしない気にしない)
「それにしてもいい人だったな、愛子ちゃんは。捨て身で生きてるって感じだもんな、村瀬先生にしてもよ。山形にきて本当によかったよ」
「ふうん。私は入ってないんだ」
「別にお前だけ入ってねえわけじゃねえだろ。いちいちひがむな」
「ま、いいわ。それより、働くことにしたのね。でもどうして農家さん?」
「自然薯とキャベツがありゃ生きていけるからな。それによ、畑借りられそうなんだ」
「たくさんあるもんね。遊休農地」
「ゆくゆくは障害のある子どもらといっしょに汗を流す、ようやく見つけた夢だ」
「教会の奉仕活動も、ガイドヘルパーも続けられそうね」
「ああ」
 お母さん安心してください。誠治さんは、 「どこへ行っても誠治さんは誠治さんね」 お母さんの言うとおり。誠治さんのままですから。みんな口をそろえて、 「愛子先生の明るさを補ってくれてるね」 って言うくらいですから!
「お母さん、誠治さんのことが好きだったのね」
「人間的にって意味でだろ」
「それが信じられないのよ。男性としての方がまだ驚かなかった」
「娘のくせしてよく言えるな、村瀬先生がいるってのによ。ま、由衣っぺらしいと言えば由衣っぺらしい――」
「由衣っぺって呼ぶのやめてくれるう?」
 ? 
「そんなにィヤなら初めっから言えよ」
「イヤって言うより、卒業したいの」
「なら呼ばねえけど、四十八で若僧、三十三なんかまだまだ小僧って時代だ、歳なんか気にすんな。お前らしくもねえ」
「齢なんて気にしてないわよ。歳の差なんて関係ないわ」
 ?
「やっぱ辛いよな。母ちゃんを知らないで育ったオレにも分かるよ、母ちゃんを亡くした由衣っぺの気持ち」
「呼ばないでって言ったでしょ。約束して」
「嫌じゃなきゃいいだろ」
「イヤ」
「んだよ、なら言わねえよ」
「良かったあ」
「おかしいぞさっきから。年齢がどうだら由衣っぺがどうだらよお」
「分からない?」
「分かっかよ。由衣っぺらしくも、」
「ほらまた」
「十五年も呼んできたんだ、そう簡単に切り替えられっか」
「十四年十か月よ」
「同じだろうが」
「もう呼ばないって、約束してくれたら‥‥‥」
 ・・・・・・・・・
「お前、ホントどうかしてるぞ。やっぱ愛子ちゃんのこと、」
「呼ばないって約束してくれたら……ね。結婚してあげようっかなあ、って」
「何い!?」
 ・・・・・・・・・
「やっぱり一人の方がいい?」
「良いってこともねえけど、感傷的になってんだろ。愛子ちゃんが亡くなって」
「そんなことない。お母さんの娘よ」 (だから誠治さんを好きになったのかも)
「一般的にだ、付き合いもしねえでいきなり結婚の話なんか、」
「らしくないこと言わないで。ハッキリして。思い切りが信条なんでしょっ」
「景子か。ったく余計なことぺらぺら喋りやがって」
「はっきりして。イヤなら嫌でいいから」
「嫌ってこともねえけど」 ――山形にきて自然を相手にして分かった。所詮人間は天の恵みだけでは生きてゆけない、最も弱い存在だと。だから雨水大地、動植物、人、日の光、自然に在る、すべてに感謝して生きなければならないのだと。
「農業は大変だぞ」
「平気の閉鎖よ。みんなでわいわい、汗流してがんばる」
「仕事は。保育士やめんのか」
「んん、ちょっと残念な気もするけど、保育って本来親の仕事よ。親がするのが自然なのよ。お任せするわ」
「カウンセリングは。村瀬先生一人じゃ、」
「遙奈ちゃんがいるからダイジョブ」
「古民家は寒みぃし、」
「ちょっとしつこくない? ウチに来ればいいじゃないの」
「お前、本気なのかよ」
「何度も言わせないで」
 ――〈もし自制することができなければ、結婚しなさい。〉――
「じゃあ由衣っ、俺と」
「ちょっと待って。どうしてお母さんは、 『愛子ちゃん』 で私は呼び捨てなのよ。 ちゃんと 『ちゃん』、 つけてよ」
「そりゃあ無理だ」
「言って」
「言えるわけねえだろ、絶っ対え無理だ」
「んもう、仕方ないわね。じゃあもう一度。はいどうぞ」
「はいどうぞってな」
 ・・・・・・・・・
「まだ?」
「由衣、俺と」
 ・・・・・・
「結婚しちまうか」
「ありがとっ」

 飛びつく由衣さんを、誠治さんが抱き止めます。
 何があったのかしら。景子さんが首を傾げて、二人に近づいて、
「……? ??」
 何かを訊くと、二人の周りに人の輪ができました。
 由衣さんが何やら答え、千春さんが、驚いて訊き返します。
「!? ?? !?」
 誠治さんが 「云」、
 頷くと、いっせいに歓声があがりました。
「どうしたの?」
「誠治くんとね、由衣お姉ちゃんが結婚するんだ!」
 顔を上気させて義明が答えます。
「ホント!?」
「ああ。保護責任者みてえなもんだな」
「私は子どもか」 
「やったあ!」
 中庭に拍手があふれ、肩をたたき合ったり飛び跳ねたり、もう大変です。
 村瀬先生が祈っています。愛子先生に報告しているようです。お父さんが遙祈を高い高いしてるので、私が母を抱きしめます。
「よかったね」
「うん」
「誠治さんみたい。お母さん」
「わんわん泣いて、子供みたい?」
「だから好きだったのよ、愛子先生。お母さんが」
 野の鳥が祝福の歌をうたい、尖塔の十字架が幸せの輪を見守ります。ふわふわ雲のカーテンが風に流れて、太陽が顔を出しました。愛子先生かもしれません。
「明日も晴れるかなあ」
 明日は義明の夢を叶える日。父と走る日です。
 雨降りもいいものよ。言葉を飲み込み、
「きっと晴れよ」
 言い換えます。
「ずっと晴れよ」
 ずっとずっと晴れよ。
 そうですよね! 愛子先生!


〈さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。〉
 私が選んだ聖句です。
 重い十字架を背負って生きる、覚悟のみことばです。
「幸せね。重い愛を背負えて」
愛子先生ですね、
「はい。とっても」


                                 了

隣人 ~となりびと

<参考文献・資料>
 ・新改訳聖書:改訂第3版/ 日本聖書刊行会(いのちのことば社) ・雪のアルバム/三浦綾子著(小学館文庫)

隣人 ~となりびと

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  • 長編
  • 青年向け
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