謎の黒い塊が現れた

なおち

  1. 彼の名前は横村丸夫(よこむら・まるお)
  2. 看護師になった内瀬戸麻衣
  3. 3
  4. 4

仮投稿です。文章はまだ未完成です。随時過失修正します

彼の名前は横村丸夫(よこむら・まるお)

※執筆途中の小説の仮投稿です
文章は随時加筆修正します



「クソがっ」

丸夫はくしゃくしゃになった答案用紙を投げ捨てた。
一発でゴミ箱に入ればよかったのだが、
ゴミ箱のかどにあたって教室の床へと落ちた。

彼の名前は横村丸夫(よこむら・まるお)。
同級生にキラキラネームがいる世代にしては、
なんとも変わった名前である。本人は自分の名前を恥だと思っていた。

彼は地元の市立中学に通っている、ごく普通の男子中学生だ。
(↑市販のラノベや少女漫画で散々使いまわされた表現)

学年は三年である。季節は晩秋。
今まさに受験学期の佳境に入る時期なのだ。
彼と同じ学年の生徒で無為な時間を過ごす者はいないはずだった。

一部の不良、あるいはマルオのように受験への熱意がない人間を除いては。

今、教室には丸夫しかいない。
時計の針は5時半を過ぎたところ。この学校の完全下校時刻は
6時と決められているから、いつまでも教室に残っていたら
先生方に注意されることだろう。

冬の時期になると下校時刻がさらに30分早くなる。

「いっちにー」「いっちにー」「おら。一年。ちゃんと声出せ」

何気なく窓の下を覗くと、野球部の連中が長い列になって校庭を走っていた。
マルオは運動には興味がない。なにより走っているのは
下級生たちだ。三年生はとっくに部活を引退しているのである。

「だいたいこの眼鏡をもよぉ。わざわざ買う必要なかったと思うんですけど?」

彼は中学生がするにしては高価な眼鏡をしていた。
中学3年の進級祝いに彼のご両親に買ってもらったものだ。
視力が悪いわけではないのだが、両親から息子が勉強しやすいようにと、
わざわざ買ってくれると言うので断るのも悪い。

彼は自分の親のことを、お父さん、お母さんと呼ぶようにしている。
彼が小6の時、親戚同士の会合の席でこっそり聞いてしまったのだ。
実は彼の両親はすでに他界しており、たまたま子供の欲しかった
ご夫婦に引き取られた問うことに。つまり養子である。

親との間に血縁関係はない。法的に、書面上は親子となっているのである。
丸夫は知らないふりを貫き通してきたが、やがて限界が訪れる。
彼が中一の夏に両親の方から真実を明かしてきた時、不思議と
涙は流れなかった。ただ、自分の両親が旅行中に事故死するという、
マンガやラノベでありそうな話を粛々と受け入れた。
両親が死んだのは、彼に物心がつく前、4歳の時だという

「マリオ。まだ残ってたんだ」

がらっと引き戸を開けて入ってきた少女。
丸夫はマリオじゃなくてマルオだと突っ込みたくなったが、こらえた。

「マイか」
「今機嫌悪い? 入っちゃいけないタイミングだったかな」
「……お前と話したい気分じゃねえのは確かだ」
「この前のテストの答案用紙がくしゃくしゃになってるけど」
「おい、そんなもん拾う必要はないぞ」
「数学の点数、27点……」
「口に出して言うんじゃねえよ!!」

少女は内瀬戸麻衣(ウチセト・マイ)と言い、丸夫の隣のクラスの女子だった。
クラスは違うが、小学校時代からの幼馴染であり、廊下ですれ違う際など
よく挨拶をした。小学校時代は毎日一緒に登校していたが、
マルオが思春期になってから気恥ずかしくなり、マイを避けるようになった。
この年の男女が仲良くしていると学内ですぐに噂が立ってしまうからだ。

マイは人の世話をするのが好きな女の子だった。
一年の時はクラス委員、二年生との時は保健委員をやっていた。

一時期男子バスケ部のマネージャーだった頃もあったが、
イケメンの男子狙いだと同性から陰口を叩かれたのが
ショックですぐに辞めてしまった。マイは細身で長身。
肩幅ががっちりした体育会系の体をしていた。

実際に運動、特にバレーやバスケの才能はあったのだが、
どの部活にも所属せずに三年生まで過ごした。

とはいえ、何らかの部活には所属していないと
行けない決まりなので、一応手芸部に入ってはいた。
だが幽霊部員なので実質帰宅部だった。
一方の丸夫もコンピュータクラブの人間だが、
部に出るのは年に3回もあればいいほどのレベルだ。

「ねえ、マリオ」
「だから丸夫って呼べっつーの。
いつから俺は配管工のおっさんになったんだ」

「マリオの志望校ってあの学校だよね。
えーっと、名前が出てこない。度忘れしちゃった」
「…トクエイ学園のことか?」
「そうそう」
「あそこなら俺の家から電車一本で行けるし、
 お父さんが学費も出してくれるって言ってくれてる。
 お母さんも納得してくれてるみたいだから断る理由もないと思うが」

麻衣はかわいらしい唇を尖らせた。ものすごくつまらなそうな顔だ。

「なんでんなこと聞くんだよ?」
「高校に入ったらマルオと離れ離れになっちゃうじゃん?」
「そうだな。マイは看護学校に進むからな」

マイは幼いころから看護師さんに憧れていた。
看護系のコースの有る地元の女子高を第一志望にしているのだ。
自慢ではないがマイも丸夫同様に成績は良くない。

社会出てからも役に立たなそうな、くだらない勉強を
高校でも続けるよりも、社会で役に立つスキルを身に着けたいと思っていた。
中学生にしては実に合理的な発想である。
何をするにしても明確な目的を持つことは素晴らしいことである。

マルオの志望校は、名前さえ書けば受かる程度の底辺私立校である。
学費が高いのが難点だが、丸夫の両親は安定した収入があるので問題ない。
その学校で進学コースに所属していると、これまた底辺ではあるが、
高校に関連している大学に通うことができる。

もっとも、名前だけ書けば受かる程度の大学卒など、
きちんと勉強をしてきた人間と比較すれば
社会に出てからあらゆる点で明確な実力差が出ることが多い。

「私は高校に行ってもマルオと一緒に居たかったんだけどな」

マイは、三年生になってからこの手のジョークを言うようになった。
とマルオは思いたかったが、彼女の態度からして嘘ではなさそうだ。

小学一年の頃からではなく、実は幼稚園から一緒だった。
この幼馴染が嘘をついているかなんて一瞬で分かる。

困ったことにマルオも麻衣のことが好きだった。
麻衣は、特別美人というわけではない。
だが、もちろんブサイクというわけではなく、
目鼻立ちは並みか、それより少し上だった。

一部の男子からはそれなりに人気があるが、
マルオが彼氏なのが公認になってしまっているので遠慮されていた。

マイは最近、某アイドルグループの前髪を似せようと
無駄な努力を続けているが、そんな小細工をしない
自然な麻衣の方がマルオは好きだった。

互いに面と向かって告白はしたことがない。
だが、気が付けばいつも一緒にいた。
マルオは思春期特有のトゲトゲしさと人見知りを
全開にしている時期なのだ。特に異性との接触に過敏に反応した。

だが、マイと話す時だけは嫌な気持ちにならなかった。
軽いジョークや憎まれ口を叩き合うこの仲が、
いつまでも続けばいいと思っていた。

丸夫は自分では気づいていなかったが、顔立ちが
凛々しく、日に日に大人に近づいて行っている。

丸夫は今風の優男の顔であり、子供らしさが抜けてくると
その端正な顔立ちから、女子の間で噂になるほどにはなっていた。
彼は自分が美形なことなど全く自覚がなく、
むしろ自分はブサイクだと思っていたので、
鏡に映る自分の姿を見るのも嫌なくらいだった。

もちろん女子の間で流れている噂も知らない。

彼が今一番不満に思っていることはそんなことではない。

「マイ。ちゃんとお父さん達に見せるから答案を返してくれ」
「うん」

27点の中間テストの答案用紙を受け取る。
麻衣が几帳面に机の上に置き、手で押して綺麗に整えてくれたのだ。
といっても一度くしゃくしゃになった後が完全に消えるわけではないが、
こんな感じの細かい気配りをしてくれるマイのことがマルオは好きだった。

マイは、マルオが養子なことを知っている。
だからマルオの複雑な心境をいつも察してくれるのだ。

マルオは側面に花柄のついたステキ眼鏡を、丁寧に眼鏡ケースにしまう。

「テストの点数がなんだ。こんな紙切れ一枚で俺の人生は決まらねえ。
 中二の時の担任が言ってことだけど、覚えてるだろ?」

「よく言ってたねぇ。特に私たちみたいな勉強のできないグループが
 テスト返却の時にがっかりしてるのを励まそうとして」

「俺は、なんでもかんでも無意味な競争をさせようって言う、
 日本社会の在り方が気に入らねえんだ。なんで俺たち子供は
競う必要があるんだ? 俺たちはただの学生で、普通に学園生活を
送りにきただけだ。それを成績の上下で差別するようなマネしてよぉ」

麻衣もうなずきながら、時には楽しそうに笑いながら彼の愚痴を
聞いてくれた。マルオは、義理の両親の前ではこんな話し方をしなかった。
できるわけなかった。書面上は親子でも、育ててもらった恩があり、
実の親以上に遠慮があるからだ。

丸夫が独白に疲れてくると、麻衣がその間に入り込んで決まってこう言う。

「これが日本の社会なんだから、しょうがないよ」

丸夫は、何も言い返せなくなる。

ぴーんぽーん ぱーんぽーん
不思議なチャイムの後、いつものアナウンスが流れる。
『まもなく完全下校時刻の10分前になります。
残っている生徒達は速やかに下校の支度をし…』

日は暮れかかっている。
校庭や体育館では運動部が練習を終わりにしているのだろう。

マルオは、この瞬間が無性に寂しくて仕方がない。
麻衣と両思いなのは、お互いの感覚で分かっている。
だが口に出して付き合おうと言えないだけだ。恥ずかしくて。

(受験シーズンが過ぎたらすぐ卒業だ。
もう二度と麻衣と会えなくなっちゃうのか。
いや、同じ私内の高校だから、会おうとすれば会える)

だが、幼稚園の時から一緒だったのに通う学校が少し離れるだけで
赤の他人になってしまいそうなのが嫌だった。

「マイっ。俺はお前のことがずっと好きだった。
 こんなこと言っても、どうにもならないってのは分かってる。
 本当はお前とずっと一緒にいたかった。高校に進学してからもずっと」

席から立ち上がり、気が付いたら麻衣を抱きしめていた。
こんな近くで麻衣を感じたことは今までなかった。
何気なく話している相手でもやはり異性であり、
麻衣の髪からは女の子の優しい匂いがした。

「うん。私も」

麻衣はそれ以上何も言わず、マルオの背中に両手を回してくれた。
互いにそれ以上の言葉は続かなかったが、それでよかった。
マイは、寝癖でぼさぼさの丸夫の髪を優しくなでた。
幼い頃からだらしないところは全然変わってないなぁと思いながら。

いよいよ中学校最後の年になってようやく恋人になれた高揚感。
大好きな男の子に、心から言って欲しかったことをついに口にしてもらえた。
少女漫画とかで描かれる、心がふわふわする感覚をマイは体験することができた。

しかし、マイは運命が残酷なことを知っていた。
人は、所属や立場が変わればいくらでも新しい出会いがある。
まして彼らは10代の多感な年頃である。

マイはできればマルオの告白を中一の時に受けたいと思っていた。
二人は今受験シーズンなのだ。恋にうつつを抜かしていい時期ではない。
彼の彼女として過ごしたかった三年間は、まもなく終わる。

マイの予想は当たり、二人は高校進学後に疎遠になる。

さらに三年が過ぎ、社会人になった。
マイは総合病院で働く看護師になった。
マルオは四年生の大学を卒業後、上京。
とある食品メーカーの営業をこなすが、わずか10か月で退職。

営業のストレスにすっかりやられた。もともと人づきあいが苦手な彼には
とても勤まる仕事ではなかったのだ。繰り返される顧客からの無理難題と
クレームに、彼は外回り中に三度以上吐いた。
この仕事は務まらないと判断し、会社に自称だけ叩きつけて
さっさと辞めてしまった。電話で実家の両親に経緯を説明した時は、
それはもう悲しそうだった。

丸夫君が埼玉県北部の地元の田舎町に帰った時、
二人はいよいよ再開することになる。

真の物語はここから始まる。


・横村 丸夫(22歳。無職)
・内瀬戸 麻衣(22歳。看護師)

両者とも独身である。彼氏彼女はいない。

物語にさらに二人の登場人物を加える。

・山上 理沙(ヤマガミ・リサ) 21歳。
マイの後輩の看護師で、内気でおどおどしている。
150センチ程度の小柄で長い黒髪を垂らしている。
目鼻立ちのはっきりとした美人であり、生まれは鹿児島県。

・木村 一誠(キムラ・イッセイ) 25歳。
病院の患者。18の時からうつ病を患い、精神安定剤を飲み続けている。
どの仕事も長続きせず、派遣で工場などを転々としている。
げっそりとこけた頬。目元を覆う、だらしなく伸ばされた黒い髪の毛。
彼曰く、自分は見える人だそうだ。
病院の入院病棟には幽霊がうじゃうじゃいるらしい。


---マル君は念のため精神科に行ってみるといい。
もちろん何事もなければそれで心配ないから。

「心配かけちまってすまねえなぁ……。やっぱり俺はゆとりなのか」

丸夫は優しいご両親の薦めによって、病院の精神科で
診察を受けることになった。丸夫は離職後もストレスが
中々消えず、すっかり食欲を失い、もともと痩せていたのがさらに痩せてしまい、
一時期は生きる屍のようになってしまった。

働くことなんて大したことねえ、そんな考えを持っていた
大学時代の自分を笑ってやりたかった。人には合う仕事と
合わない仕事はあるのだなと実感し、次の就活では
絶対に失敗しないためにまず心構えを変えなければと思った。

まもなく年金暮らしを迎えようとしている両親を
安心させるためにも「心のケア」は一番重要なことなのである。

最近大企業でも「うつ病」が深刻な問題になっており、
うつ病専門の意思まで企業内に配置するほどになっているらしい。
丸夫のお母さんは、東京に行ってからすっかり病人のように
痩せてしまった丸夫が、うつになってるのではないかと
心配し、旦那と相談していたのだ。

すでに退職後1月は経過しているのだから平気だと
本人は言うが、心配性のオカアサンの言うことに従ってそうした。

「きょうも、うじゃうじゃいるなぁ~」

独り言。丸夫と同じ列に座った患者の言葉だ。
その患者とは、上で紹介した木村イッセイである。

一誠は、何もないはずの宙を、右へ左へと見渡し、指を差している。

明らかに挙動が不審である。しかもこの男は目に輝きがない。

(なるほど。本物のうつ病患者ってのは、あんな感じなのか)

丸夫は、受付で渡された問診票に必要事項を記入した。
それを受け付けの係に渡し、まもなくして自分の番が呼ばれた。

「横山丸夫さん。二番のお部屋にどうぞ」
「は、はい」

初めてなので緊張して声が上ずる。

「おおっ。あの若いあんちゃんにも、背中についてやがる」

背中越しに聞こえた戯言(ざれごと)など、気にならなかった。

診察の結果は、正常で問題ないとのことだった。
営業のように特殊な仕事では
ストレスによる嘔吐は誰にでもあることらしい。

むしろ我慢せずにさっさと辞めたことは賢明だと褒められた。
一番ダメなのは合わない仕事なのにいつまでも続けることらしい。

丸夫の場合は気持ちが落ち着いてからゆっくり次の仕事を探せば問題なし。
もちろん治療薬もないし、初診の割には安く片付いた。

「あぁ~。今日もだりぃなぁ。生きてるだけでだりぃぜ」

例の男、イッセイは、横長の椅子にだらしなく横になっていた。
今日は平日の日中である。確かにこの時間は混んでないが、
他の人が座るかもしれないのに、無礼な男だなと丸夫は思った。
だが、自分は今後できれば二度とこの精神科に
お世話になることもないのだからとさっさと過ぎ去った。

(この病院って……確か麻衣が勤めてるって話を…)

成人式の時にそんな噂を聞いた。
あの時は、なぜだか気まずくてマイとは会わなかったのだが、
あの会場のどこかに内瀬戸麻衣はいたはずだった。
今マルオは離職したばかりで実家暮らしの情けない身だが、
なんだか無性に昔の同級生に会いたくなった。

彼は用もないのに一階のロビー、待合室に座り、
受付の女の人たちをじろじろ見ていた。
こんなことして意味があるのか。そもそも麻衣が
どの病棟に務めているかも知らないのに。

それに仮に今日が休みの日だったら?
マルオに看護師のシフトが分かるわけもない。

(オレ、何やってんだろ。こんなことしても時間の無駄だよな。
腹が減ったからなにか、買ってから帰るか)

玄関口の隣にファミリーマートが入っているのだ。
ここは辛気臭い病院の中で一番明るい場所だった。
お昼時は外来の患者や家族などが買い物に来るので多少はにぎわう。
そこで運命の出会いがあった。

(美人のナースさんだな。年は俺と同じくらいか?)

上で紹介した人物、山上リサである。
特に何か欲しいものがあるようには見えず、店内を物色していた。
彼女には丸夫のことなど視界に入っていない。それはいいいのだが、
丸夫はその隣にかつての幼馴染がいるのを見逃さなかった。

「あの、失礼ですが、ウチセトさんですか?」
「丸夫じゃない。超久しぶりだね。何年ぶりだろ」

マイに名前を訊くまでもなく、胸元のプレートに内瀬戸と
書かれていたから確信があった。

「そっかぁ。丸夫は仕事辞めちゃったんだ」
「男なのに情けないよな。笑ってくれよ」
「やっぱ丸夫には独り暮らしは無理だったんだよw
 今でもだらしなそうだしw」
「うっせーなぁ」

すぐに話が盛り上がる二人。丸夫の容姿は中学の時から
髪型も特に変えてないので、そのまま大人になった感じだ。
マイは雰囲気がきりっとしていて、茶髪にしていることもあり
さわやかな美人に見える。女は大人になると別人のように変わるものだ。
当然だが化粧もしているので中学時代のマイとはまさに別人。

二人の話に入って行けず、小動物のようにおどおどしているリサ。
マイは自分の後輩をさりげなく丸夫に紹介するのだが、
彼の鼻の下が伸びそうになっているのにイラついた。

「マイ。シフトが休みの日があったらあとで教えてくれ。
あっ、てか彼氏いるよな? ごめんな、急にこんなこと訊いて」

「彼氏いないから安心して。わかったよ。後で連絡するから」

くったくなく笑うマイ。嘘偽りない、素顔の彼女だった。
丸夫は、彼女が良い意味で変わってないことを喜んだ。

これが二人の運命の再開だった。
ここから物語は進展していく。


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※マルオ

「お母さん。おはよう。今日も朝から晴れてるね」
「ほんと、良いお天気ね。今日はお布団を干そうかしら」

どこにでもいる、ごく普通の親だと思う。そして普通の家庭だと思う。
義理の親だが、俺はできるだけ自然なニュアンスで表現したいから
お義母さんとは表記しない。

今日は土曜なのでハローワークは休みだ。
一日中家にいてもいい。何をしても自由。

お父さんはゴルフに出かけている。
うれしいことに、両親は俺の再就職を急かすことはしないんだ。
それだけ生活が安定してるってことか。
まさに、ゆとりとは俺のことを言うのだろう。

俺はリクナビなどの転職サイトは好まない。
ほとんどの求人が都市部中心だからだ。
俺が生まれたのは埼玉県の田舎の方だ。マイとも再開できたし、
今さら都会暮らしをしようとは思わない。
地元中心の求人を…と思うと、ほとんどが
物流関係か工場などの二交代を中心とした、過酷な現場仕事ばかりだ。

政府が発表する有効求人倍率ってのは、
誰もやりたがらない土建業や介護職を中心に統計を取っている。
つまり、誰もがやりたい仕事の空きってのは、ずっと存在しない。
だって本当に良い仕事なら離職者が出ないよ。

「ちょっと出かけて来るよ」
「気を付けてね」

季節は日中に寒風が吹き荒れる二月。
今月の末に俺は誕生日を迎える。
マイは三月の生まれだ。

昼下がり。今日は風がほとんど吹いてない日なので散歩にはぴったりだ。
俺は買ったばかりのワークマンの防寒着に身を包み、
キャップを被って近所の公園へ散歩に行った。

無職になってから公園を歩くのが好きになった。
気分転換と運動不足解消にもなるし、一石二鳥だ。
歩くのはうつ病の解消法としても推奨されているらしいぞ。

今日は土曜なので親子ずれが目立つ。
平日は老人ばっかりだけどな。子供たちが遊具の回りで
元気に遊び回ってる。天気は良いけど、寒くないのかね。
芝生に小さいテントを広げている親がいる。冬でも
ピクニックみたいなことしてんのかよ。すげーな。

俺は、ひたすらに歩いた。

一周だけじゃ物足りないので二周歩いた。
この自然公園は広いので、およそ8キロ以上は歩いた計算だ。
急いでないので2時間くらいかかった。
もちろん途中でベンチで休憩をしながらな。

喉が渇いたので自販機でホットのココアを買う。
芝生が広がるゾーンは親子ずれでにぎわっている。
沼地にいくつもの橋がかけらた場所は対照的に静かだ。

俺は沼地にあるベンチに座り、小休止した。
今日も随分とだらだら歩いた。
本当ならジョギングしたほうが健康に良いのだろうが、
俺は汗だくになるのが好きじゃないんだ。もともとインドア派だからな。

家ではお母さんが作ってくれる多すぎるおかずを
残さず食べているせいか、腹が出て来たぞ。
東京から帰って来たばかりの頃は
あんなにやせていたのが嘘のようだ。

歩いてるだけじゃ痩せないのか?
スマホで筋トレの方法を調べてみよう。
…たくさん出て来た。ソ連式の……GTG? 面白そうだなこれ。

「ぼおっとしていたら、捕るぞ」

後ろから声が聞こえたので急いで振り返ったが
誰もいない。しわがれた老人の声だったが、本当に誰もいない。

ぴちゃ。

この湿った音はなんだ?
沼を見る。沼は、底なしだ。ぱっと見、池のよう見えるが違うのだ。

それは黒い塊だった。
人の頭ほどの大きさでスーッと滑るように沼の上を移動している。

困ったことに黒い塊(かたまり)は俺の方へ向かってくる。
それとの距離が縮まっていくと、
全身の血が逆流するほどの生理的な嫌悪感に襲われる。

俺はたまらず走って逃げだそうとした。
逃げるにしてもどこへ? この公園の外に決まってるだろ。
大昔にこの公園で自殺した小学生がいたって話は聞いたことがあるが、
まさかその子の霊じゃないだろうな。 

それにしてもこんな日中に現れるなんてどうかしてる。
っていうか俺の頭がおかしいだけなんじゃないのか?

しかしあの塊は……確かに…

いた……。しかもこんなにたくさん。
説明したくもないが、今度は俺の行く手をさえぎるように現れやがった。
片手の手のひらじゃ数え切れないほどだ。ざっと10はいるだろ。

俺の周りを衛星のようにぐるぐると回り続けてやがる。

「むぅー?」俺の後ろを歩いていた老夫婦のじいさんの方が、
怪訝そうな顔で俺の横を通り過ぎていく。
話しかけはしてこなかったが、冷や汗をかきながら立ち止まっている俺が
さぞおかしかったのだろう。腹でも壊したのかと思われているのかもしれない。

他の奴らも似たような反応だ。どうやらあの黒い塊は
俺以外の人間には見えないらしい。なんで俺だけなんだよ!!

「おい。何が目的で俺の前に現れた?」

俺は、なぜ自分がこんなセリフをしゃべってるのか自分でも理解できない。

「お前と会うのは、もうこりごりなんだよ!! 
これで終わりにしてやるよおおお!!」

俺は黒い塊の一つに殴りかかっていた。
自分でも馬鹿だと思う。殴ってどうなる? そもそも塊を殴れるのか?
相手は心霊現象の一種だと本能で理解しているはずなのに。

「ふっ…」息が止まる。俺の姿は「かたまり」の中に飲まれた。

俺は「その中」でとある光景を俯瞰した。

両親の葬式の場面だ。最近まで忘れていたんだが、
こうまで生々しく再生されると何と言ったらいいのかね。
焼香の時に居並ぶ親戚が列を作って順番を待つ。
俺は遺族の側だから、彼らが遺灰の前を通るのを見守る。

「マル君」幼い時の麻衣もいた。あの時の俺たちは4歳だったのか。
俺は幼稚園児だったが、本当は事実を知っていたはずだったんだ。
俺の実の両親が死んだことに。すすり泣く大人たちの声。

俺は今俺を育ててくれてるのが義理の両親だったと知っていたはずだ。
なのに意地でも認めたくなかったのだ。自分の記憶を操作したのだ。

俺は今でも認めたくないことに変わりはない。
受け入れたくない現実なんて、跳ねのけてしまえばいいんだ。
人間には便利な忘却機能がある。

俺のお父さんとお母さんが、交通事故なんかで
一瞬で死んでしまったことなんて忘れろ。前を向け。今を生きろ
だがあの遺影を見ろ。現実を否定できるわけがない。

はっきりとお父さんとお母さんが映っているのだから!!
死んだんだよ。あの二人は幼い俺を残して死んだんだ!!
死んだ人は二度と戻ってこないんだ!!

マイも、泣いていた。あいつは早熟だったから事態を正しく認識していたんだろう。

「辛いわねぇ、マル君」知らないおばさんが俺の肩を抱いてくれる。
やめろ。余計にみじめになるじゃないか。
俺は駆けだして、トイレにこもって泣いた。

泣きはらした顔で葬儀場の廊下へ戻ると、
「マル君」幼い内瀬戸麻衣が待っていて、俺の手をぎゅっと握ってくれた。
普段は低体温で冷たいこいつの手が、どこまでも暖かかった。

不思議な感覚だ。マイの体温を感じると安心する。
さっきまで大泣きしていたのが嘘みたいな気持ちになる。
せめて「ありがとう」と言いたいが、夢の中なので自由に口にできない。

夢はそこで終わりだった。

俺は目を覚ました時には、自室のベッドに横になっていた。
お母さんに訊いたら公園から帰って来るなり昼寝をしていたらしい。
帰って来た時の俺の様子は、よそよそしくて別人のようだったと。

それ、完全に別人だよ。もしかして俺の体、何者かに乗っ取られていた?
それにしても黒い塊が俺に見せた映像の意味はなんだ?

※マイ

深夜一時半。マイはナース・ステーションで先輩看護師と一緒にいた。

「先輩は幽霊の話は信じますか?」
「なによ唐突に。院内じゃ珍しい話じゃないけど。
内瀬戸は見える人なの?」
「うーん、見えるって言えるのかな? 黒い塊みたいなのが……」
「えっ?」

先輩が急に真顔になったので逆に麻衣が引いてしまった。

「あのぉ……そんなにびっくりします?」
「いつから見えるの? いえ。いつ見たの?」
「実はこの仕事始めた日からちょくちょく見ますよ。
 廊下とか、エントランスとか、いろんな場所を
ウロチョロしているじゃないですか」

先輩は深刻な顔をして黙り込むと、別の仕事を探して
ステーションを去ってしまった。当直の看護師は、特別の
用事がない限りここにいないといけない決まりなのに。

その日から先輩が麻衣を避けるようになった。
そのことが麻衣にとって恐ろしかった。
黒い塊は複数いて、どうもこの病院に住み着いているようだったが、
マイは仕事が忙しいので深く考えはしなかった

別に麻衣が黒い塊に悪さをされたわけでもないのだ。

(でも先輩のあのビビりよう……ガチってことか)

試しにスマホで似たような事例を調べてもヒットしない。
霊魂のようなものなら見つかるのだが、今回の事例とは完全に違う。

マイはオカルトが嫌いではなく、無駄に知的好奇心が強いことが災いした。
あの塊は、知りたいと思っている人のところへ近寄ってくる性質があるのだ。
そして教えてあげるのだ。その人が本当に知りたいことを。
その人が絶対に忘れてはいけないことを。

「うひゃぁ」

廊下でおばあさんが倒れ込んだ。
マイの担当している入院患者だ。
マイは急いで駈け寄り、杖と一緒に体を起こそうとする。

「ひぃぃぃ。よらんでええ。よらないでくれぇ」

なぜかこの70過ぎのおばあさんは、麻衣におびえているようだ。
マイの顔ではなく、マイの後ろにいる何かにおびえている。

この時点でもマイも気づいた。
自分の肩に、ハンドボールほどの大きさの何かが乗っている。

マイは、塊をこんなに近くで見るの初めてだった。
なにより驚いたのが、質量があることだ。
つまりマイは、ボールより少し軽い程度の重さを感じているだ。

そいつは、ぐぅぅぅぅぅぅぅ、と低い声でうねっている。
人に近い声を発することができるらしい。

マイの意識は、ブラックホールの中に飲み込まれた。

内瀬戸麻衣。3歳。
マイは、キッチンで料理をしている母に話しかけている。

「おかーさん、弟は元気なのかなぁ。弟ぉ」
「はいはい。今シチューを作っちゃうから、
あとちょっと待ってなさいね」

母のお腹は大きくなっている。すでに妊娠八か月だ。
マイは、生まれてくる子が男の子だと聞かされていたので
まだ見ぬ弟にワクワクしていたのだ。

その後、弟は無事に生まれたのだが、なぜか両親は離婚し、母は家を出て行った。
幼きマイには到底理解できなかったが、母が浮気相手との間に
作った子だと後に発覚した。マイが小学三年の時に
父にしつこく訊いて発覚したのだ。母は職場の若い男性と浮気したのだ。

父より安定した収入のある人だったらしい。

「母は許せないけど、弟に罪はないじゃない。
弟がどんな顔してるのか気になるなぁ」

父は、離婚相手と会うのを許さなかった。
父は気丈な人で、離婚後に十分な慰謝料をもらってから
酒におぼれることもなく、堅実に生き続けた。
もともと子煩悩で片親なのもあり、
マイへの愛情は人一倍強く、二人の絆は強かった。

父は自動車の板金工場で勤めていた。
マイが中学の時に職場トラブルがあったみたいで離職したが、
その後は別の自動車関連の工場に勤めている。
職場は三交代制なので、父は毎週家に帰る時間が違う。

マイは、父のために家事をすべてやった。
朝起きて、家中の掃除を済ませ、父のために朝ごはんやお弁当を作る。
学校帰りはスーパーやドラッグストアに寄る。
お財布の中身は主婦のようにポイントカードでいっぱいだった。

父が早朝勤務の時は、10分だけ一緒に朝飯を食べる時間がある。
マイが高3の春、何気なくこんなことを口にした。

「リク(弟の名前)もそろそろ中学を卒業するころかな」
父は答えず、みそ汁椀を口へ運ぶ。

「あんな女の子供でも、一応私の弟なんだしさぁ」
父は無視する。

「一回くらい会ってもいいかなって…」
「ごちそうさま」

洗い場へ重ねた食器を持って行き、さっさと出勤しようとする。
きなれた作業着に袖を通す父を見ていたら、なんだか
無性にやるせなくなって、マイは大きな声を出してしまった。


「……奴の住所など知らん。連絡先も消しちまった。
 どうやって会うつもりなんだ?」

「お母さんの電話番号はお父さんが知ってるじゃない」

父は離婚した妻の連絡先も知っているのだが、
娘には絶対に教えてくれなかった。浮気相手の男の間に
生まれた子など、彼にとっては悪魔の子に等しい。

この世から消えてしまえばいいと思っていた。
マイが弟に執着心があるのが気に入らなかった。

「全部忘れちまえばいいのさ。人間には辛いことを忘れちまう
 便利な機能がある。時が全てを解決してくれる。マイ。
おまえもいつまでも昔のことを引きずってないで前へ進め。
そうしないと日本の社会では生きていけないぞ」

寡黙な父は声こそ荒げないが、本気で怒っているようだった。
マイも被害者だが、父はもっとだ。
男出一つで自分を育ててくれた大切な肉親。
出勤前に気分を乱してしまっては申し訳ないと思い、麻衣は黙ってしまう。

(弟が生まれるの、ずっと楽しみにしてたのに…)

夢はそこで終わる。

「おほん。内瀬戸さん。あなたもいくら若いとはいえ、もう二年目なのですから」

看護主任に起こされたことで、マイは自分がナースステーションで
居眠りをしていたことに気づいた。否。そういうことにされた、
としか思えないのだ。先ほどまで見ていた映像が、体験したかの如く
鮮明に脳裏に残っているのだから。

※ここから麻衣の語り。マイは深夜の見回り(巡回)をしていた。

はぁ……体が重い。家で十分寝たつもりだけど疲れが抜けきってないんだ。
生理は先週終わったのに腰に痛みがあし、最悪。
たまには有休使って休みたいけど人手不足だから無理。

しかも私がナースステーションで居眠りとか、意味不明。
私は高倉さん(おばあさんの患者)を助けに廊下を歩いていて、
その間に黒い塊に吸い込まれたのまでは覚えているんだけど。

知らない間にナースステーションに戻ってたってこと?
私の記憶がおかしいのかな。

やっぱりこの仕事は割に合わないよ……。
子供の頃からあこがれていたナースさんって、やっぱり何か違う。
休みは全然取れない上に三交代制。
年上の先輩たちはバツイチと未婚ばっかり。全然浮いた話もない。
病院勤務を続けていたら精神を病んじゃうよ。だからあんな夢を見るんだ。

主任は嫌味ったらしい性格だら看護婦長にまで私の居眠りを
報告するんだろうし、ムカつく。
ああいう人をコケにして陰で喜んでる奴って許せないじゃない。

「うー……うぉおおおー……おぉぉっぉぉおぉぉぉぉ」

ある病室から、老婆のうめき声が聞こえる。
個室だ。入居者の名前を確認する。
最近入信してきたばかりの人で、術後のストレスから
たまに発狂するから要注意になっている人だよ。
今日の申し送り(伝言のこと)でリーダーから説明されたのは
このおばあさんのことだったのね。

おばあさんは、静かに寝ているように見えた。
目は閉じてるんだけど、ただ口を大きく開け、
虚空に向かって遠吠えを上げている。

「おぉぉおぉおおお…ほぉぉぉぉ…おおおおおおおおおぉぉぉx」

これも先輩に聞いた話なんだけど、あれは霊と交信をしているそうだよ。
あの人は不幸にも10年前に旦那さんを癌で亡くしていて、
夜寝る時に「あの世からお迎え」が来てるらしくて、
今まさにあの世とこっちの世界の間のはざまで戦っている。

私は職業柄、霊の存在を信じてる。
幽霊は見える人にしか見えないらしいけど、私は
何度も黒い塊を見ているから、残念ながら見える人…ってことになる。

マニュアルでは、発狂している患者はなだめるようにとなっている。
だって他の患者さんに迷惑じゃない。
この人の遠吠えって無駄に響くから。
多分隣の病室まで丸聞こえだと思う。

「タカナシさん。タカナシさん。大丈夫ですか?」
「んん? おや、まだ朝じゃないのかい」

布団をゆすると目を覚ますけど、また寝たと思うと遠吠え。
この繰り返しが三度続いた後、ようやく熟睡してくれた。

仕方ないってのは分かってるんだけど、ついため息が。
熟睡したいのはこっちだよ。一昨日はストレスで三時間しか寝れなかった。
もう辞めたいって何度も思った。

それなりに給料はもらってるけど、男性との出会いもないし、
夜勤明けの休日は家で寝るだけ。はっきり言って割に合わないよ。
まだ22なのにオシャレしようって気にすらならなくなってきた。
だって私の顔なんて患者と同僚にしか見せてないもの。

でも看護学校に入ったのは自分の意志だし、学費を出してくれた親にも申し訳ない。
それに今も不景気でろくな就職先がないことは良く知ってる。
今転職活動をしている丸夫からも教えてくれたよ。

アベノミクスの効果は全くの嘘っぱち。
人手不足が深刻な業種はブラックばかり。
とても普通の日本人が勤めたがらないところを中心に
「有効求人倍率」が伸びて、その統計を誇らしげに政府は発表する。

なにせ人手不足の主要業種の13種類の全てが
「建築・土木」「介護・医療」関係でしめられている。
だいたい建築ラッシュなのは、五輪特需と震災の復興が原因でしょ。

「すでにデフレは脱却した」※安倍首相2019年始の日曜討論にて
「日本は経済成長が続き、戦後二番目のいざなぎ景気を超えつつある」2018年の発表

下記、いつもの筆者の余談。
(うろ覚えだが、銀行の普通預金金利。0.06~%以下である。
 日本銀行の当座預金にマイナス金利。規制緩和継続。
 長期金利の上昇の見込み、当面の間ない。
一部のエネルギー関係を覗いて物価の下落は底知れず。
これのどこがデフレを脱却したのか!!)

(もう一つ言わせてもらいたい。外国人受け入れ拡大法案は
 野党の反対意見をせん滅して即時可決したが、
 労働市場の需給の原理によるとこうなる。10年先の経済産業を
見越して外人をたくさん雇うと、多くの労働者の賃金は上がらない)

 (人手不足⇒人材を確保するため⇒賃金の上昇、が成り立たない。
労働力の供給量が増えてしまうからである。
  こうなるとデフレは100年経っても解消しない。
  それに10%の消費増税が追い打ちをかける。購買力が高いのは若者でなく
  老人であり、安倍の妄信するキャッシュレス決済などするわけがない)

(外国人労働者とは貧しく、日本への渡航費用その他で
 100万から200万の借金をしてから入国する。さらに彼らは
 当然日本に住むわけだから、『日本の物価と給料水準』で
 生活をしないといけない。ギリギリの生活である。)

(彼らがどこからお金を借りたのかは知らないが、通常借金とは
 複利であり、雪だるま式に元金が増えていく仕組みだ。
 例えば工場の底辺労働者だとしたら、およそ200年働いても
 その借金は完済できないどころか、増えていくだけだろう)

(そもそも日本語が堪能なエリートは別として、
日本語の読解力が皆無の単純労働者たちに
借用書が読めるのか。保険制度が理解できるのか。
無駄に払うであろう厚生年金のことが理解できるのか。
これほどの悪徳商売があるだろうか。
まさに自民党の奴隷であり、やってることは
古代エジプト王国の奴隷制度から『一ミリも』進化してない)

(わが日本の経済は、とにかく外人頼りである。
 内需⇒外人観光客に依存  来なくなった時が本当の終わり
 外需⇒円安での輸出拡大。 外国の為替相場、政治経済の影響を受けやすい
 労働力⇒外人だより    彼らが日本はクソだと気づいたら終わり
 出生率⇒深刻なレベルで低下 
未婚率の上昇。いじめや虐待による子供、幼児の死亡率増加

これらを読み解くと独裁者、安倍晋三を中心とする内閣府の発表とは、

『大きな石を背負い、綱渡りをして、
冷や汗をかきながら、私は絶対に落ちません。余裕です』

と抜かしているのと同じ。まさしくピエロである。
私は繰り返し主張するが、世界史的な視点からして
日本国は衰退期に入っているのは間違いない。


※マイ

馬鹿じゃないの。医療現場は本当に地獄だよ。
私達働く人間の数が少なすぎて、入院患者の老人は増え続けるばかり。
夜間に緊急搬送される場合の対応とか考えたことあるの?

この病院もアホみたいな待遇で人を雇おうとするから離職率も高い。
特にうちの医療事務、毎月女の子が辞めてるのはどういうことなの。
向こうのお局を筆頭とした若い子へのいじめがすごいって聞いてるよ。
女ばかりの職場はどこも人間関係最悪なんだね。

内科医で過労死寸前のドクターが二人もいるとか。
月の実残業時間が100時間は余裕で超えてるそうだけど、
下手したら本当に死んじゃうよ。

看護師になった内瀬戸麻衣

日勤の仕事は苦痛。もちろん夜勤も嫌だけど日勤はもっと苦痛。
私のチームは新人いじめが常態化していて、特に顔のかわいい子は
すぐターゲットにされる。

うちの看護主任は日勤の固定シフト。
私の一歳年下のリサちゃんをターゲットにして、

細かいミスをいちいち指摘するだけじゃなく、他の人のミスまで
新人のリサちゃんのせいにするから手に負えない。

ナースステーションの真ん中で小言をいうから
患者さんに見られる。同僚、医師、コメディカルスタッフもいるのに、
わざとみんなに聞こえるように言ってるんだ。

「山上さぁん」と独特の声が聞こえると、さっそく説教が始まる。
誰だって分かり切っているようなことを、一から十まで得意げに説明して……。
リサちゃんは新人なんだから覚えるのに時間がかかるのは仕方ないと思う。

「分からないことは自分から聞いて覚えなさい」
「私の新人の頃はこのくらい出来て当然だった」
「私たちは患者さんの命に係わる仕事をしてるのよ。
あなたは警察のお世話になりたいわけじゃないわよね?」

そんな言い方しなくてもいいのに。私達は外来と違って
入院患者のケアをするのが仕事。新人は薬の投与で失敗することが多いい。
看護師なら誰でも通る道なんだけどね。

まず看護学校を出ただけだと薬の知識に乏しいからミスが起きる。
例えば糖尿病の患者さんだったら
インシュリンを投与するのに患者さん任せでいいのか、
看護師管理にしたほうが良いのか。

リサちゃんが担当したのは初老のおじいさん。
彼に投与を任せてしまったら、投与するインシュリン量も種類も
どんどん間違って注射をしてしまった。そのおじいさんは賢そうな顔をして
一見まともそうだったんだけど、実は認知症が進んでいた。


リサちゃんは小動物のように内気な性格。
口数が少なすぎる子だけど、男性からしたら守ってあげたくなるタイプだと思う。
大企業の受付嬢と違って可愛いだけじゃ看護師は務まらないのが現実。

分からないことは先輩たちにどんどん質問して覚えないと
やっていけない職場だから、もっと積極的になったほうが良いとは思うけど。
私は陰ながら彼女のことを見守ってきたつもり。

「やっぱり私は向いてないのかな…」

彼女は不平不満をめったに口にしない。
内に溜め込む性格なのか、相談事は一度もされたことがない。
それでも表情の暗さから何を思ってるのかはっきりわかってしまう。

出勤時にこの子の口からお酒の匂いがすることが増えて来た。
昨夜に飲み過ぎたんだと思う。
実家の鹿児島から埼玉まで出てきて、仕事とプライベートの両立の難しい
看護師寮での生活もストレスのようだね。

寮は家賃がすごく安いけど、周りは同僚だらけだし、
非番の日でも急な呼び出しが会ったら出ないといけない決まり。
何より彼女にとって辛いのは、職場で孤独なこと。

男性医師は主任のいじめを見て見ぬふり。そもそも他のスタッフも
自分の仕事が忙しくて他人に構ってる暇がない。理沙ちゃんは
休憩室でわざと聞こえる声で陰口を言われる時もあったみたい。

同僚のナースたちはいじめの標的にされるのが怖くて
リサちゃんを遠巻きにする。先輩たちの計らいで婦長へ悪い噂ばかり
広まってリサは無能な新人扱いになっている。

おかしな評価だと思う。新人はミスをしながら仕事を覚えるのが普通なのに。
見てるこっちが辛くなる。

「私は新卒ですから、せめて3年くらいは努めないと」

私が遠回しに転職を勧した時は、こんな反応だった。
親元を出てきたこともあり、簡単に出戻りはしたくないとのこと。
実家の両親との関係も色々あってぎくしゃくしてるらしい。
つまり家に帰りたくない事情があるのね。詳しくは聞かないけど。

石の上にも三年なんて考え方は化石だよ。
この前お母さんが買ってきたホリエモンの本に
嫌な会社はどんどん辞めたほうが良いって書いてあったよ。

このままじゃこの娘はいつかつぶれると思う。

私も主任や先輩にはいじめに近い教育を受けて来たけど、反骨精神で
何とか乗り切って今がある。正直辞めたいとは何度も思ったけどね。
私達医療現場の人間は、人の命を預かる仕事だから
確かに遊びじゃないのは事実。前向きにならないと。

いちおう、それに見合うお給料も貰っている。
今では私は細かいミスをしないようになったから
いびられることはめったにない。それでも油断はできないけどね。

その日の私は日勤で、残業もないので6時ちょうどに上がれる。

手際よくカルテをまとめる。患者の状態と仕事内容。
その他にもさっさと後片付けを済ませて、夜勤の人たちに申し送りをして終了。
夜勤に欠勤者がいなくて良かった。
更衣室で着替えていると、反対側のロッカーにリサちゃんがいた。
夜勤のシフトだから職場にいないといけないのに、なぜかこの子は私服のままだ。

「どうしたの?」
「……やっぱり今の仕事向いていないと思うんです」

なるほどね。この子なりに思い悩んだ末の結論ってことか。
どこの病院も新人いじめはあるらしいから、どちらかというと
要領の悪いリサちゃんは別の職種を探したほうが良いかもね。
まだ年齢的にもどこでも採用されると思うよ。

私はそう伝えようとしたが、リサちゃんは私じゃなく別の方向を見ていた。

「そのことじゃないんです」

はい? てかなんで私の心の声が読まれてるの?

「先輩には見せませんか?」いつもの澄んだ声。アニメのキャラみたい。

私は10秒ほど間を空けて「なにが?」と答えた。

「子供達です」
「……外来の待合室にはたくさんいるね」
「そっちじゃないですよ。ほら。たくさんいる。走り回ってる」

更衣室のいたるところを小さな子供たちが走り回っているらしい。
追いかけっこをするように無邪気だと言う。しかも、大昔の子供?
日本人じゃなくて白人の子供たちが?
私には何も見えない。子供の声も聞こえない。

「マイ先輩は見えない人なんですね」
「いや…」

自慢じゃないけど、黒い塊は見える人なんですけど!!
子供の幽霊ってのは聞いたことがないな。

「黒い塊なら私も毎日見てますよ」
「ごめん。私、今口にしてた?」
「なんとなく先輩がそんなこと考えてる気がしたんです」

ちょっとちょっと。なんでさっきから私の心の中が読まれてるの?
リサちゃんは実は超能力者? 
それとも仕事のストレスで頭が…?
いじめられっ子で気の毒な子だと思っていたけど……

「先輩も一緒に辞めましょうよ」
「はい?」
「私がこれだけ苦労して辞めるんですから、
どうせなら先輩も一緒にどうですか」

いやいやいや。なにその理屈? 日本人だから辞める時も一緒に的な?
私はこの仕事が勤まってるから、まだ辞めるつもりはないよ。
丸夫が仕事辞めてから苦労してるのも知ってる。
私の友達で早く結婚しすぎてお金で苦労してる人もいるけどね。

「いやなんですか?」

嫌に決まってるでしょ。

「私はこの仕事を止めちゃったら他に行く当てもないんですよ。
 次の仕事が見つかるまで先輩と一緒に暮らしたいなぁ」

「ごめん。私は実家暮らしなの。
それにあなただって貯金がないわけじゃないでしょ。
 自分で住む場所探したほうがいいよ」

ぬぅっと、リサの細い腕が私の首へと伸びて来た。
何をするつもりなの!? 私は反射的に彼女の手をはたいた。
命の危険を察知し、臨戦態勢を取る。

「怖いんですか? クスクス」
なんなの子の子は? 普段職場で見るのとは別人じゃない。

すると例の黒い塊が頭上に出現した。
今度のはでかい。私の体をまるまる覆ってしまうほどある。
黒い塊は風船のように宙を浮いている。
それはゆっくりと降下してきて、私の頭を飲み込んでしまった。
私の意識はそこで消えた。



※マルオ

マイが約束の時間に来ないんだ。今日はあいつが非番の日だから、
レストランで一緒に食べる予定だったんだがな。マイと付き合っていたのは
中学の時だったが、約束は守るタイプの硬い女だと思っていたけどな。
遅れるにしても連絡すらくれないとはおかしいな。

約束の時間は11:30。もう1時間も経過した。
店内が客でにぎわうのに俺だけ一人ってさみしすぎるぞ。
さすがに諦めて帰るべきか?

俺は無職だから毎日暇を持て余しているが、
マイは三交代のシフトで疲れ切ってるんだろう。
その証拠に電話にも出てくれないし、メールの返事もないときた。

とはいえ、何も注文しないで買えるのも寂しいので、
ハンバーグでも食べてから帰るか。

『飢餓地獄 レニングラード包囲900日』

俺は、そのハードカバーの本のタイトルが目に入った。
俺の隣の席に座っている、いかにも暗そうな感じの若い男が手にしていたのだ。
その男も誰かと待ち合わせをしているのか、メニューを頼まずに本を読み続けている。

俺も多少は知識があるから知っているが、レニングラードは
ソビエト連邦の第二の都市で、第二次大戦でドイツの大群に包囲されたんだ。
それにしてもレストランで読むような本じゃない。図書館か家で読めよ。

「うるせえよ」

え?

昼時のレストランの喧騒の中、男の声が妙に響いた。

今の一言は……まさか俺に言ったのか?
俺は何も口にしてない。第一、これだけざわざわしている
店内で仮に俺が小声を出したところで奴に聞こえるわけがない。

「おめえに言ったんだよ」

男は一瞬だけ俺を見て言った。

俺は背筋が凍るような思いがした。その男と目が合った瞬間、
あの総合病院の精神科の思い出がよみがえった。
ああ、どおりで見たことがあると思ったわけだ。
待合室のベンチ(長椅子)に、だらしなく寝そべっていたのはこいつだ。

「あ、あなたとは病院でお会いしましたよね?」
「おう」

男は、本から視線を放さずに言う。

「だからどうした」

いや、その言い方はなんだ。最初に話しかけて来たのはそっちだろう。

「おめーが俺の本をじろじろ見てたのが先だ」

確かにそうかもしれないが、どうでもいいだろうが。

「せ、戦争とか軍事史に興味がおありなんですね」
「まあな」
「俺も多少は知識がありましてね。
大学時代に図書館でよく本を…」
「はぁぁああ」

盛大な溜息。人が話してる最中に失礼な野郎だ。

「俺が聞きてえのはよ、そんなことじゃねえんだ」

話の流れが普通じゃない。そもそも奴は俺に聞きたいことがあったのか。
会話にならなそうだから、しばらく受け身で黙ることにしよう。

「おめえの連れはどうしたんだ」
「連れってのは」
「あの看護師の女だよ」

マイのことを言ってるのか?
なんで俺が麻衣の知り合いだと知ってるんだ。どこで知った?

男はひどい猫背だから、せっかくの長身が台無しで不格好だ。
髪も生まれてから一度も手入れしたことがなさそうなほどボサボサだ。
目つきはどろんとしていて、寝起きのようにダルそうだ。

「今日は来ねえのか?」
「……連絡しても返事がないので」

今日はって…。マイと大人になってからデートするのは今日が初めてだよ。
知ったぶりをしてんのか? 普通に考えて俺らの関係に
こいつが口出しする権利があるわけがない。だんだん腹が立ってきた。

男は頭を乱暴にかきながら言う。
カピカピで不潔な髪だ。ちゃんと洗ってるのかよ。

「そりゃよくねえな」
「なにがだ」

相手は俺より何歳か年上なんだろうが、敬語を省くことにした。

「あの姉ちゃんの家をおまえは知ってるんだよ?
 だったらすぐに行ってやりな。遅くならないうちが良い」

この胸騒ぎはなんだ? この得体の知れない男は
麻衣が何らかの事件にでも巻き込まれたことを示唆してるのか?
ばかばかしい。そんなことあるわけないと脳内で否定しても、
こいつの話を聞いてると意味もなく不安になってしまう。

俺はメニューがまだ来てないのに席を立ち、店を出ようとした。

「ああ、ちょっと待て待て。
おめえみたいな若い奴だけだと心配だ。やっぱり俺も行くからよ」

しかしこいつは、いったい何者だ?

黒いジャケット、インナーのセーターも黒。ジーンズも黒。
全身黒で統一された服で浮浪者みたいな外見だ。
顔洗ってるのか? ひげも一週間も剃ってない感じだ。
近くによると変な匂いがするから俺は距離を取った。

それでもマイのことを何か知ってそうだから、同行の許可は出した。
もちろん俺の後ろを歩くように指示したら従ってくれた。

「気にしちゃいねえよ。俺みたいな奴と並んで
歩きたいもの好きは、そういねえだろうからなぁ」

内瀬戸家はマンション住まいだ。
マンションの外観は中学の時から全然変わってない。
4階までエレベーターで進む。
途中ですれ違ったおばあさんに怪訝な目で見られたのが悲しい。
俺だってリサのことがなければこんな浮浪者といたくないよ。

401号室のインターホンを押しても返事がない。

誰もいないのか? 

今日は水曜日だから家族全員働きに出てるのかな? 
マイはお父さんと2人暮らしだったはずだ。
遠い昔に弟さんがいるって聞いたことがあるけど。

「なあ……もしかしてよぉ」

なんだよ。

「部屋を間違えてるんじゃねえのか。
ウチセトさんはの名前は202号室にもあるぞ」

俺は思わず首をかしげるが、男がエレベーターに入ってしまうので
急いで追いかける。そして件の202号室に来ると、確かに「内瀬戸」の苗字が。

つまり、たまたま同じ苗字のご家族が同じ
マンションにいたってことで納得していいんだな?
俺は馬鹿の自覚があるが、恋人のマイの部屋の番号を
間違えるほどじゃないと思いたい。

「チャイムを押せよ」
「お、おう」

チャイムじゃなくてインターホンだろうがと突っ込みたくなるが、

「どちら様ですかぁ?」

 少年の声だ。
どことなく聞いたことのあるような声だが。

「こんにちは。内瀬戸マイさんの知り合いの者なのですが……。
 こちらはマイさんの家ではありませんよね?」

「あってますよ」

あってるの?

「どうぞ、入ってください」

俺は言われるがままに入った。
そして信じられないことが起こった。俺を出迎えてくれたのは
女の子ではなく男の子だった。一見すると超絶美人なので
女と見間違えてしまうが、声のトーンで男だと分かる。

なんだこいつは……? いわゆる男の娘? もしくはニューハーフ?
全身メイド服(エプロンドレス)で黒髪のツインテールヘア。
切り揃えられた前髪の下から魅力的な長いまつ毛が覗く。
目元は明らかに美少女のそれだ。女だったら抱きしめたくなるぞ。

「君は麻衣の知り合いか」
「そういうあなたは?」

質問に質問で返すなって学校で教わらなかったのか。

「俺は麻衣の恋人、横村丸夫だ」

そいつはハッとした顔で驚いていた。
俺の頭の先からつま先までを見渡し、作り笑いを浮かべてこう言った。

「姉に恋人がいるなんて知りませんでした……。少し複雑な気分です」
「なに……?」
「僕は麻衣の弟です」

今度は俺が衝撃を受けた。記憶をたどると、麻衣の離婚相手に
引き取られたらしい弟さんのはずだ。母親が同じだから
マイと血が半分繋がっている。なんて複雑な家庭環境だ。
てゆーか、なんでマイと別の部屋で暮らしてるんだよ。

「色々あって、時期を待たないといけないんですよ」

……? 

「それより丸夫さん、いきなり話題が変わっちゃってすみませんけど、
 丸夫さんがこの部屋に入ってくるのは間違いだったと思いますよ。
 少し、時期が早すぎましたね。ちょっと後ろを振り返ってもらっていいですか?」

黒い塊が、玄関先にたくさん転がっていた。バスケットボールかよ。

「マルオさんは彼らを受け入れるか、それとも拒否しますか」

意味が分からん。そんな問答をしている間にも俺は塊に包囲され、
包み込まれるように飲み込まれてしまった。視界は反転。俺の意識が飛ぶ。

「だから俺は入りたくなかったんだよ」
「あ?」

俺はまた202号室の前にいた。
この通路は先ほどと全く変わってない。

「今見たのは夢みてえなもんだ。考えても無駄だから忘れろ。
俺がいなかったらおめえは死んでたんだぞ? 
ったく感謝しろよな。全く」

男は、倒れている俺に手を貸すと、またエレベーターに乗った。

「早くしろ」というので、訳も分からず付いて行くしかない。

また401号室の前に付いた。名前の標識は内瀬戸に相違ない。
今度は男がインターホンを押した。

「はぁい。どちら様ですか?」

このさばさばした感じは、マイの口調だ。
間違いなく俺の恋人であり幼馴染のはずなんだが、確信が持てない。

「マルオくんが、君に会いたがっている」
「丸夫が!?」

扉が勢いよく開いた。さっそく靴を脱いで中へ入る。

リビングでお茶を飲んでいる女の子がいた。
マイの職場の後輩。名前は山上理沙。
言っちゃ悪いが幸薄そうな雰囲気だ。

「あ、どうも」
「どうも…」

向こうの挨拶に俺も気ごちなく返す。き、気まずいぞ。

「マルオ、今日は家に来るなんてどうしたの?
 来るのは構わないんだけど、来るんだったら連絡くれればいいのに」

あれ……?

「俺の記憶が間違ってなければ
マイは今日俺と会う約束してたと思うんだけど。
 今日はレストランで一時間も待っていたんだぞ」

「え…」

マイは沈黙してから

「……ごめん。何も思い出せない。本当に覚えてないの」

カンで分かった。マイは本気で約束を忘れてしまってる。
いや、正確にはそもそも約束すらしてなかったんだろう。

なんだこの不愉快な感じは。
俺は夢を見続けているのか? 
刻一刻と運命がおかしな方向へと動いていくようだ。

「そちらの男性の方は…?」麻衣が遠慮がちに訊く。

男はまたフケだらけの頭をぼりぼりかき、

「俺はこいつの連れだ。邪魔したな。もう帰るからよ」
「おい、もう帰るのかよ!!」
「おめえは無事に恋人に会えた。なら俺は必要ねえだろ?」

「意味わかんねえことばっか言ってんじゃねえよ!!
 だいいち、さっきの部屋で見たあれはなんだったんだ!!
 全部説明してもらわないと困るだろうが!!」

「あー」男はまた頭をかく。頭をかくのが癖なのか?

「じゃあ単刀直入に。そっちの姉ちゃんに用があってよ」

リサを力強く指した。
リサは超然とした態度で浮浪者と視線を交わす。
すると面白いことに浮浪者は慌てはじめた。

「いや、なんでもねえ。やっぱり帰る」

何か思うことがあったのか、玄関から一目散に帰って行った。
意味不明過ぎる。新手のコントでもしに来たのか。

「あの人はいったい何しにきたの?」
「俺にもよく分からん」
「マルオの知り合い?」
「…むしろマイの方が知ってるんじゃないのか?
 病院で会ったことないのか?」

マイがいぶかむ。すると小さな高い声で、

「精神科の患者さんでしょ。私は知ってますよ」とリサが言う。

おい理沙。俺と目を合わせてくれないんだな。

「あなたは」

ん?

「なんですか?」

いや、そっちがなんですか? なんのつもりですか。
あなたはなんですかって聞かれたのは初めてだな。天然ちゃん?
それともナチュラルに喧嘩売ってるのか?

「すまん、俺も邪魔みたいだな。
今日は色々あって疲れてるから、また日を改めるよ」

「ちょ」麻衣が焦る。
「その先は行かないほうが良いですよ」

俺は何もないところで躓いてしまった。
いてぇ……床に手を突いたのだが、
打ち所が悪かったのか、左の手首に激痛が走る。

「大丈夫、まるお!?」

マイはさすが看護師らしく、すぐに応急手当てをしてくれる。
ひねった部分と、痛みが走る部分を確認して湿布を張ってくれた。

「ふっ」見下したようにリサが笑う。

「おい」俺はさすがに腹が立った。

「さすがの俺も黙ってないぞ。君、リサちゃんだったか。
 初対面なのに失礼だと思わないのか?」

「マルオさんは見える人ですよね?」

どいつもこいつも、質問に質問で返すなって小学校で教わらなかったのか?
それと話題を勝手に変えるなよ。
こいつも浮浪者男と同じで会話が通じない奴に分類しておこう。
こんなのでよく看護師の仕事をしてるもんだ。

「見えるってのは、幽霊のことを言ってるのか」
「そう」
「俺が見たことあるのは黒い塊だけだよ」
「へえ。マイ先輩と同じじゃないですか」

マイは気まずそうに顔を伏せた。
俺だけじゃない……だと?

あの塊は、こいつらの前にも表れていたのか?

「今もいますよ」

リサが宙を指す。

その次の瞬間だった。まるで自分の眼球を別の人のと
入れ替えたの如く、今まで目に見えなかったものが何でも見えるようになった。

このマンションの一室は、無数の黒い塊によって占拠されていた。
塊は、天井、床、壁、いたるところをうろついている。
俺が先ほど転んだ場所には塊がある。
俺は気が付かずにこいつを踏んでしまったのか。

しかし……こんなに数が多かったとは知らなかった。
俺が今まで見ていたのはほんの一部に過ぎなかったってことなのか。

「私はもともと」

リサが口を開いた。

「霊感が強い方だったんですけど、あの病院は山奥の神社みたいに
 すごくたくさんの霊がいて、私の力と共感しあって
 不思議な力が生まれるようになってしまった」

「あの塊の正体は、人の記憶です」

人の記憶だと?

「マルオさんは自分にとって都合の悪いことを
 何でも忘れようとするんだから悪い人。
 麻衣さんは忘れないようにと頑張ってる人。
 丸夫さんに比べたら良い人です」

説明が理解できんが、あの黒い塊に襲われると意識が飛び、
不思議な夢を見させられるのまでは分かる。

あの塊は、俺に昔の遠い記憶を呼び覚まそうとしているのか。
塊には何らかの意思が宿っているのか?

「私は病院勤めをしてから頼れる人がマイ先輩以外にいなかった。
 実家の親とは疎遠で同僚や先輩は敵だらけ。
だからね、マイ先輩だけは世界から守ってあげたいって思った。
丸夫さんは、これ以上麻衣さんに関わらないでほしいな」

「待て。そろそろ一方的にしゃべるのを止めてくれないか。
会話をしようじゃないか。まず俺が質問する。
君が言っていた特殊な能力と共感?したってのは、どういうことだ?」

「うるさい」

「あ?」

「あんたなんかに説明したくない。黙れ」

その後、30秒ほど沈黙。
黙れか……。ここまで無礼だと笑いたくなるレベルだぞ。
俺、そろそろ切れていいかな?

「ねえリサ……あなたはさっきから何を言ってるの」
「それより早くこの人に帰ってもらいましょう」

なんで俺が帰ること前提なんだよ。
こっちはマイに話したいことがあるんだよ。こいつは無視しよう。

「マイ、聞いてくれ。このマンションの202号室に
 お前の弟さんがいたんだ」

「え」

マイは、固まった。構わず続ける。

「マイは何歳か年下の弟さんがいるって言ってたよな?
 麻衣にあんまり似てなかったけど、元気そうに暮らしてたぞ。
 なぜか平日なのにマンションにいたけど…」


俺は、顔が横を向いていた。
そして気が付いた。俺はリサにビンタされたのだ。

「早く帰ってよ!!」

いてえな、このアマ!!

「さっきから俺に恨みでもあるのかよ!!
 なんで俺の顔をひっぱたいた? 
マイの弟さんの話をするとまずい理由でもあるのかよ!!」

「そうよ。あるわ」

「なに?」

「いいから帰って。全部説明する必要ないんだから、
今日はあきらめて帰って!! さあ、帰ってよ!!」

どうやらこの子はヒスってるらしいな。
オドオドした初対面の印象から豹変し、狂暴になった。
一人で犬のように騒ぎ立てるので、マイでさえ手が付けられそうにない。

俺は怒りで我を忘れ、帰ることにした。
その時になって気づいたよ。
あれだけいたはずの黒い塊が全部消えていることに。

※マルオ


あの日を境に俺から麻衣へメールを送っても無視されるようになった。
電話にも出てくれない。俺のLINEは着信拒否なってしまっているのだ。
普通の携帯の電話にも出てくれない。
お互いファイスブックやTwitterはやってないから、
もう連絡する手段としたら、家の電話にかけるか、直接会いに行くしかない。

だが俺はあのマンションに行くのが怖かった。
俺は、おそらく見てはいけないものを見てしまったんだろう。
あの弟さん、やっぱり普通じゃなかった。なんていうか、
人じゃないんだよ。雰囲気からしてたぶん幽霊なのかな。
黒い塊のことも詳しそうだった。

山上リサが俺と麻衣を合わせようとしないのは、
弟さんの事が関わっているんだろうな。
今俺の身の回りでは怪奇現象ばかりが起きている。
俺が下手に行動に出たら、本気で命さえ落としてしまいそうだ。
これじゃ転職活動どころじゃないぞ。


※マイ

まさか自分が鬱になるとは思わなかった。
もう仕事する気にもならない。有休は残っている分だけ全部使って、
病院から離れよう。

体温計で熱を測ると35.5℃。でも電話の欠勤連絡の時は微熱ってことにする。
私の頭痛持ちになってしまった。仕事のことを考えると激痛が走るの。
そのあとに猛烈な吐き気に襲われてトイレに直行。
何度このパターンを繰り返したかな。

その辺の患者さんより絶対私の方が具合悪い自信がある。
私は気が強い方だと思っていたけど、こんなにメンタルが弱かったんだ。
泣きたくなる。

「マイ先輩。気持ちは落ち着きましたか?」

私はベッドで寝ている。すぐ隣に後輩のリサがいてくれる。
全然うれしくないけどね。だってここは看護師寮の部屋なの。
もちろんリサの部屋。一人暮らしのアパートと同じスペースだから狭い狭い。

そのせいで脱走することもできない。
私の手足は、ベッドに固定具に繋がっている。
入院患者の身動きを封じる時に使うのよりずっとひどい。
ほとんど体の自由が効かないんだから。

あの日、丸夫が帰らされたあと、私はリサに脅迫された。

『ちょっとこれから行くところがあるので、私について来て下さい』

今思うと…脅迫だったのかな? あの時のあの子の目には
有無を言わさぬ迫力があって、私は握られた手をほどくことができなかった。
馬鹿みたいな話だけど、その流れでこの部屋に拉致されてしまった。

リサは、理由は分からないけど私を精神的にも物理的にも
束縛しようとする。病院には行くなという。ちなみに理沙も行かない。
だから私たちは何日もずる休みをしているの。
そんな日がもう1週間も続いている。完全に職務放棄じゃない。

入院患者さん達が山ほどいるのに、私たちの代わりに
誰が面倒見るのよ。う、だめだ……。仕事のことを考えると
また頭が割れそうに痛み出す。

丸夫と連絡したいけど、携帯は没収されてしまった。
お父さんも心配してると思うんだけど、リサは許してくれない。

「コンビニでご飯買ってきますから。大人しく待っててくださいね?」

語尾に明確な殺意のこもっていて、ゾッとする。
この子はつい最近までいじめられっ子だったはずなのに、
すっかり人が変わってしまった。

私は直感でこの子が何者かに憑依されてるんじゃないかと思った。
目つきが、違う。こんなに血走った目で私を見ることは今まで
一度も無かった。それに老婆?を思わせるようなしゃべりかたを時々する。
椅子から立ち上がったり、歩くのがダルそうだったりと、
若い娘にしてはおかしな特徴がある。

リサが出て行った。
私は、トイレとお風呂以外でベッドの上から離れることを禁止されている。
手首の周りの固定具は金属製。鎖でベッドの足につなげられていて、
ある程度は自由に動かせる。手首足首の金属の感触が冷たいから、
タオルやガーゼをしてよと頼んだら、冷たく拒否された。

色々狂ってる。私はあの子に恨みを買うようなことは一度もしてないはずなんだけど。

トントントン

玄関がノックされて血の気が引いた。
リサのはずがない。理沙はノックなんかせずに入ってくる。
自分の部屋なんだから当然だ。

じゃあ、あれは誰? 職場の上司と考えるのが妥当か。
むしろ好都合。私を助け出してくれんだったら誰でも……。

どんどんどん

いつまで叩いてるの。

「どなたですか。私は中にいますから入ってください」

私は頭痛のため弱っていて大きな声が出せない。
絞り出した程度の声量では外までは響かないのか、
外にいる人は入ってくれない。変質者じゃないんだから、
女子寮にうかつに入ってくる人はいないか。

そう思っていたら扉が開いた。

「おう、俺だ」

だ、だれ? この声は丸夫じゃないよね?

「そんなにビビんなよ。襲いに来たわけじゃねえ」

あの時、丸夫が連れて来た男の人だ。不潔な身なりでホームレスっぽい人。
私は見せびらかすように手足の枷をじゃらじゃらさせた。

「この状況を見れば分るでしょ。早く助けてください」

「あーなるほど。やっぱ、こうなっちまったか。
 さーって、どしたもんかな。俺の力じゃどうにもならねえなぁ」

男の人は頭をかいている。のんきなこと言ってないで助けなさいよ!!

「早く拘束具を外してください」

「だから、俺の力じゃどうにもならねえ。
 第一、鍵付きだろそれ」

ほんとだ……。手枷を見るとカギ穴がある。
つまりリサが外してくれない限りは…

「どこか引き出しの中とかに鍵は!?」

「ああ、時間をかけて探してえところだが、
もうすぐあの女が帰ってくる頃じゃねえのか」

ピンポーン。インターホンの音。

「中から男の人の声がしますけど、誰かいるんですか?」
 
やば……。マジで理沙が帰って来たんだ。
玄関先からすごい怒りのオーラを感じる。

「こりゃー。でらやべえでがいに!!」

男の人は前職が忍者のスタントマンだったのか、
私のベッド脇の窓から大胆にも飛び降りて行きました。
最近の浮浪者は運動神経が良いのかしら。
しかも方言丸出しだったけど、どこの地方の生まれなんだろう。

それから少しして玄関が開いたかと思うと、
謎のスプレーが噴射されて部屋中が煙に包まれてしまった。
うー、けほけほ。息ができないほど苦しい。
なぜか涙がぽろぽろ出て止まらなくなる。
鼻水も止まらないから垂れ流し。

リサはどこで買ったのかガスマスクをしている。
あの男よりリサの方が変質者っぽい。
バスルームなど部屋中をくまなく探して不審者がいないことを
確認すると、換気扇を回して煙が完全に消えるまで大人しくしていた。

「大丈夫でしたか、マイさん?」

全然大丈夫じゃないよ。予告もなしに催眠スプレーを噴射するなんて。
ニュースで暴徒鎮圧に使われてるの、食らったのは生まれて初めてだよ。
わたしの涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を拭いてくれない?

「はい。ただいま」

リサは従順に濡れたハンカチで綺麗にしてくれた。
そのあとに待っていたのは恐るべき暴力だった。

「ぐうっ」

リサは狂った目つきで私の首を思いっきり絞めてきました。
私は抵抗するすべなどないので、本気で自分が死ぬのかと思った。
驚いてはぁっと息を吐いてしまうと、もう吸うことはできない。
苦しさはすぐに過ぎ去って、私の意識が飛びそうになる。

私はギリギリのところで解放された。

リサは私に馬乗りになり、私を見下ろした。
感情のこもってない機械みたいな声で言う。

「なに勝手に人の侵入を許してるんですか。お仕置きが必要ですね」

また、リサが私の首を締めようと手を伸ばしてくるので、
私は恐怖に耐え切れず失禁してしまった。
パジャマのズボンに汚い染みができる。

「あーあー、先輩。お漏らしをしちゃったんですか。
 早く洗ってあげないといけませんねぇ」

私は手足を自由にされ、腕を引っ張られて脱衣所まで連れていかれた。
私はリサにされるがままだった。とにかく怖くて、逆らったら
またお仕置きをされるんじゃないかと思って、腰が抜けてる私を
リサはずるずると物のように引きずっていく。

「ほら。脱いで。全部脱いで。早く」

そう言われても恐怖で体が言うことを聞かない。
それにしばらく拘束された状態で過ごしたから手足が言うことを聞かない。
関節が痛い。看護師の知識があるから床ずれだけは何とか防いだけど。

「マイ!! 私の言うことが聞けないの!!
 脱げって言ったのよ!!」

怒鳴られた……。こ、怖い……でも恐怖を感じると余計に動けない。
私はまた漏らしそうになるのを必死でこらえていた。

「す、すみません。体が動かないんです」
「そう。なら私が脱がせてあげるわ」

私を人形だとでも思ってるのか、乱暴な手つきで下着まで
全て脱して生まれたままの姿にさせられた。
リサは靴下を脱ぎ、ズボンをまくって風呂場へ移動した。
私の体をバスタブの中に収めると、真冬なのに冷水シャワーを
頭から浴びせてくる。

「きゃああああああああああああああ!! 冷たい!!」
「今体を綺麗にしてあげるから、黙っていい子にしてなさい!!」

リサは鬼だ。容赦なく浴びせられる冷水で私の体温は一瞬で奪われる。
もう肌の感覚がなくなっていく。だんだんと恐怖よりも怒りの方が
強くなってきた。なんで私がここまでされなくちゃいけないの?
私が新人ナースのこの子のことをずっと気にかけて、
恨みを買うようなことをしたつもりはないのに。

「その顔は何なの!! 何か言いたいことがあるなら行ってみなさいよ!!」
「うぐ」

私の髪はセミロングだから、そこそこつかみやすいのか。
根元から抜けるんじゃないかと思うほど強い力で上へひっぱってくる。
激痛で目元に涙がいっぱい溜まる。

私の前身がびしょびしょになると、リサはようやく満足したのか
私をバスタブから引きずり出して、清潔なバスタオルで拭いてくれた。
次に何をされるか分からないので、怖くてただ震えていた。

「うん。綺麗になったじゃない」

リサは一転して優しい口調になり、裸のままの私をベッドへと運んだ。
リビングは暖房が効いているけど、冷水を浴びたばかりなので
凍えるほど寒い。

「さて」リサは私の足にだけ枷をつけた。両手はフリーだ。

「それじゃあ麻衣? 今から尋問を始めるから」
「え…」
「私の聞いたことに対して素直に答えなさい。
 もし適当なことや嘘を言おうものならお仕置きする」

なんて冷たい目つき……。
この子は人を傷つけることに全く躊躇のない子だ。
受け答えを間違ったら私は今度こそ殺される。

「さっきまでこの部屋にいた人は誰?」
「マルオと一緒にいた浮浪者みたいな男」
「何を話したの?」
「それは……」

言えるわけがない。私はここから脱出したかったのだから。
私が目を伏せただけでリサは全てを察したようで、
テレビ台の下に置いてあった裁縫道具を取り出した。

そして針で私の乳首を差すと言った。冗談じゃないのは目で分かる。

ただでやられてたまるか。私は手が自由なんだ。
リサがなぜ私の手を拘束しなかったのかは気になるけど、
反撃することにした。理沙は針を手にして私に馬乗りになって来たから、
すきを見て彼女の目を突いた。いわゆる、目つぶしというやつ。

「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああ」

かなり効いたようだ。昔お父さんが借りてきた戦争映画(日露戦争だったかな)
で観たのをまねして見たの。私も生きるために必死だったからか、
どうやらリサの目がつぶれるほどの力で着いてしまったみたい。
両眼を押せるリサの目から血が流れている。

「いたいよぉ。いたいぃいいいいいいいい!!」

やば。いくら正当防衛とはいえ、失明させてしまったかもしれない。
でも関係ないか。逃げ出すチャンスだ。リサの奴はまだ私のマウントを取ってるから、
腕で突き飛ばして床へ転がせた。この女は床をゴロゴロ転げて
目の痛みを訴え続けてる。どんだけ効いたのよ。

でもどうすればいいの。私の足には邪魔な拘束具が付いてる。
鍵のある場所はリサしか知らないんだろうし、
この状態じゃ聞いても教えてくれるわけがない。

こうなったら助けが来るのを期待するか。
ここは壁の薄い女子寮。私らがこんだけ騒いだのだから
寮の誰かがきっと異変を感じて助けに来てくれる。

「ひっひっひっ」

な、なに?

「ひっひっ、ひっ。やーれやれやれ。この子は気性が荒くて困るねぇ」

リサは、もう手で顔を追ってなかった。
右の眼球は生きているが、左の眼球がつぶれてしまっている。
そこからおかしなことが起きた。彼女の目は炎で焼けて陥没していった。
ぽっかりと目だけくりぬかれた状態。頬がこけ、口元がすぼみ、肌の老化が
急速に進んでいく。そこにいるのは、21歳の娘とは思えない化物だった。

「そこの若いお嬢さん」

お嬢さん!? 私のことだよね? 

「足枷を外す鍵ならここにある。ほら、確かに渡したよ。
あとは好きになさればいい。少なくともこの寮には
二度と足を踏み入れないことだ」

リサは声がしわがれてる。完全に老婆……
ええい。時間がもったいないから、もう考えるのを止めよう

自由になった私は一目散に駆けだした。
この病院から私のマンションは歩いて行けるほどの距離だ。
401号室にはお父さんがいてくれた。

「おうマイ。早いな。今日は非番の日だったのか」

のんきに新聞を広げながら野球中継のビデオを見てる。
我が家に特に変わったところはない。

「お父さん……ごめんね。連絡もなしに一週間も家を空けて」
「一週間もってなんのことだ」
「え? だって私…」

事情をそれとなく説明したのだが、不思議なことにお父さんと
私では生きている次元が異なっているのか、私はこの一週間
病院で勤務したことになっていた。お父さんとも家で
普通に暮らしていたとのこと。もう……何が何だか。


※木村 一誠

あぁー。だりぃ。
俺の口癖は「だりー」。だって、
こんなクソみたいな社会で生きるのはだるいだろ。
バブルが崩壊してから不景気がいつまで続くんだよ。
どこもかしこも景気の悪いニュースばかりだ。

朝起きてニュースを見るたびに気分が沈むから
代わりにテレビを消して音楽を聴くようにしてるんだ。
ピアノJAZZだぜ。どうだ。オシャレだろ?

町を歩いてる時も、買い物をしてる時も、
職場でも口にしている。歩き方もだらしなく老人のように
足を引きずるのが特徴だからか、職場の同僚からは「じじい」って呼ばれる。

「あぁー、クソ。ぼーっとしてたら打ち間違えちまった」

俺はデータ入力の短期アルバイトをしている。
前勤めていた工場は、パートのババアどもがうざかったから三ヵ月で辞めた。

今の職場は冷暖房完備の事務所だから寒さとは無縁だ。
社員の女どもは寒がりが多いから暖房の設定温度は高めだ。

「おはようございますぅ。
日本ハム、株主様専用フリーダイヤルでございますぅ」

澄んだ小鳥のような音色だ。
俺の席の後ろに座ってるのはパートさんだ。
最初この声を聴いた時は、ずいぶんかわいらしい声なんでつい
美少女を想像しちまい、振り返ったんだ。
どう見ても40代のババアじゃねえか。
まあ、そこそこ可愛げがあるから許してやるが。

「ちょっとぉ、小池さぁん。この前の顧客に確認の電話はしたの?
 転居先の住所がアプリケーションのデータに乗ってないんだけど」

「は、はい。ちょっと待ってください。確認します」
「それとさぁ。データ一覧表の印刷もまだ終わってないよね」
「はい!! すみません。今のお客様の対応が終わったらすぐやります」

これはこの職場ではおなじみの新人パートさんとお局のやり取りだ。
二人とも年は40代だが、女王様と下僕みてえな関係になっちまってる。

俺には関係ねえがな。なにせ俺は電話番が免除されている。
俺の仕事は株主の個人情報をひたすら
パソコンに打ち込むだけのクソ単純作業だ。こんなカスみたいな
仕事で金になるんだから笑いが止まらねえぜ。
鼻ほじくりながらでも出来る仕事だ。

電話対応とかクソめんどくさそうだな。
不景気だからか、顧客(株主)の大半は70過ぎの老人ときたもんだ。
あいつら株の売買をしねえで優待銘柄をずっと
保持してるバカばっかりだ。

(優待品を目当てに株を買う奴は結構いる。
 優待銘柄ってのを持ってるだけで、年に二回も
 優待品が自宅へ送られるんだよ。例えばワインとかハムとかな)

やっこさんども、すっかり衰えて認知症になりかけてるくせに、
株主なんてやってんじゃねえよ。おまけに耳も悪い。
聞き返すことが多くて電話対応の女たちが困ってるじゃねえか。

ここは株主優待品を扱っている大手の運送会社の子会社、
その子会社の、さらに子会社だ(知らんが6次受けくらいか?)

俺にとってはいい会社だ。
9時から17時までぴったり働けば家に帰れる。
残業はもちろんない。昼休みはたっぷり1時間もあるから天国だぜ。

例の……黒い塊はここにはいない。
この会社の奴らは霊の存在なんて信じちゃいねえようだ。
ま、それが普通なんだけどよ。

「あぁー、お休憩に行ってきまーす」

俺はのっそりと席を立ち、会社から歩いて
5分のとこにある山田うどんへ行った。
自慢じゃないが常連だ。なぜか昼時は麺類が食べたくなるからな。

今日は込んでやがる。スーツを着た営業マン、制服を着た運送会社の奴、
工場勤務者? あとは暇そうな老人どもだ。この店は安いから人気なのか。

いつものカウンター席(特等席)は座れなかったので、
少し離れた位置にある席に座る。こっちは隣の奴と肩がぶつかるほど
狭いから苦手だが、しょうがねえ。

俺は金もないのでさぬきうどんを注文する。さて。手持ち無沙汰になった。
周りの客は、どいつもこいつもしけた面しやがる。
(俺も人のことは言えねえか…)

なんで今どきの奴らはいつでもどこでもスマホを見てんのかね。
俺は仕事でPCを見続けてるから昼休みまで目を酷使したくねえよ。
こんなこと言ってるから俺はジジ臭いって言われるのかね。

「おい、あんた」

隣の席の野郎から声を掛けられたぞ。

「こんなところで会えるとはな。ずっと探してたんだぞ」

これが若い乙女なら良かったんだが、この前俺と
レストランで会った「あんちゃん」じゃねえか。

実は俺もこいつのことが気になってたのは内緒だ。
ところでこの若造、名前は何て言うんだ?

「あんただって若いだろうが。俺の名前は横山丸夫だ」

不覚にもお冷を拭きそうになったぜ。
マルオ? なんちゅーファニー・ネイムだ。
こんなアホみたいな名前の野郎が本当にいるとは。

「うるさい。俺の名前はどうでもいいだろ」

まあな。

「麻衣のことなんだが」

おう。死んじまったかw?

「死んでねえよ!! マイは無事に401号室に帰って来た。
 ただ、ちょっと精神を病んじまったみたいで職場復帰できなくなってる」

「死んでないだけましってやつだな。
 あの女を相手にしたら普通は死ぬんだぞ」

「あの女って、山上理沙のことか?」

「あいにく名前までは知らねえが、そいつのことだ。
 あの娘っ子は悪霊付きだったからぁ…」

「なに!?」

坊主が俺の胸ぐらをつかんで続きを急かしてくるが、
ちょうど俺のうどんが運ばれてしまった。

「今腹が減ってんだ。食い終わるまで待ってろ」

「待てないよ!! 今すぐ説明しろ!!
 さっき言った悪霊付きっての…どういうことなんだ!!」

バーロー。てめーがでけえ声出すから客の視線が
こっちに集まっちまったじゃねえか。
こーゆーの、まじうぜーんだよ。

俺はかっこむようにうどんを流し込み、光の速さで会計を済ませて
店の外に出た。坊主の奴はざる蕎麦とカツ丼のセットを
頼んだみたいだが、ほとんど食べてなかったな。もったいねえ。

店の外はすぐ国道だ。大型トラックや乗用車が
排気ガスをまき散らしながら通りすぐいて行く。
2月の寒風で身が縮こまるぜ。
なんか最近俺のアウターが匂う気がする。
やっぱ冬でも風呂は毎日入ったほうがいいのか。

「あー、話すとすっげえ長くなるんだ。
 俺は1時には会社に戻って仕事をしなきゃならねえ。
 とりあえず連絡先だけ交換して、あとで話を…」

坊主は「待てない!!」の一点張りで手に負えない。
わがままな野郎だ。そういえば内瀬戸麻衣はこいつの彼女だったか。
恋人がいると必死だなw 俺は彼女いねーから気持ちが分からねえけど。

「しょうがねー野郎だな。今回は俺が折れてやるよ」

俺はこの事務所を仕切ってる上司の女に
ペコペコ頭を下げて「急用ができて早退」することにした。

女上司は俺みたいな底辺にもクソ優しくて
みんなから慕われている。
嘘じゃなくマジで気に入ってる職場だけに本当に申し訳ない。
社員のジジイが怪訝な目で見てきやがる。
ああ、どうせサボりだよ。わりぃか。このハゲが。

俺は坊主とゆっくり話をするために俺の家に連れて行った。

「ほら、狭いところだが入れよ」
「足の踏み場がないんだが……」

まるで俺の部屋が散らかってるみたいな言い方だな?
掃除ならしたぞ。2か月前になw

「男の一人暮らしって……やっぱこんなもんなのか……」

俺は18で実家を出てからこのアパートで暮らしてる。
どこにでもありそうなレオパレスだ。家賃は安いし、
近隣住民との問題が発生した場合は、
管理会社が仲介してくれるから楽だぜ。

俺はPCデスクの前にあるゴミ袋を蹴飛ばしてスペースを作った。
燃えるゴミの日は毎週水曜と決められているが、だるいので
溜めまくってる。空の缶ビールや酎ハイが散乱してるのは気にするな。
キッチンに洗ってねえ食器がため込んであるのも気のせいってことにしろ。

「さすがに無理があるだろ。
 PCのキーボードのわきの灰皿が吸い殻であふれてる。 
 床まで真っ白じゃねえか」

最後に吸い殻を処理したのは1年前かもしれねえからな。
この程度でビビってるようじゃ風呂場は覗かねえほうが良いぜ?

「やっぱここじゃ無理だろ!! 三秒以上この空間に居たくない!!」

騒ぐなっての。他の住民に迷惑が掛かったら、訴えられるのは俺なんだぞ。

「近所の公園に行こう!!」
「外は寒いだろが」
「じゃあモール!!」
「人ごみかよ。これから内緒話をするんだがな」
「なら俺の家は……ちょっとな。両親がいるし」

いかにもホームレスを家にあげたくないって感じの言い方だ。

「図書館でいいだろうが。ここから歩いてすぐだぞ」←俺
「図書館は逆に静かすぎないか?」
「だからコソコソ話すのに向いてるんだよ。
 どうせ平日は人なんかほとんどいねえ。行くぞおら」

俺たちはぞろぞろ歩き出した。
なんで男と一緒に歩かねえといけないんだ。
この野郎が15歳くらいの美少女だったら最高なんだけどな。

「ロリコンだったのかよ、おまえ…」

おっと。口に出ちまったのか。いけねえ。
日本ではロリコンは死んだほうが良いって流れになってるからな。
男が若い女を好きになるのは生物の本能。古代から変わらねえだろうが。

俺たちは図書館の一番奥の開いている席に座った。
この図書館の読書用テーブルは快適そのものだ。

法律関係のコーナーで、離婚に関する本を
中年の女が必死に選んでるけど、見なかったことにしよう
今時離婚なんてあたまり前だからな。

ただ、大半の馬鹿な奴らは法律の知識がねえんで、
協定離婚をしてるそうだ。簡易裁判所や家裁を通して
正式な離婚手続きを結べば色々とお得なのによ。

例えば子供を引き取る奥さんの場合、別れた旦那が
洋右育を払わなくなった場合、法務省を通じて
相手側の資産の差し押さえが可能になる。

もっとも裁判をするためには弁護士への相談、依頼の費用、
成功報酬を加味して80万程度は用意しねえと話にならねえ。
すぐ離婚したがるアホは、法の知識以前に準備金すらねえんだろうがw

そのせいでバツイチ子持ちの女が養育費を払ってもらえねえで
貧困になるってお決まりのパターンが出来上がるわけだな。
そもそも若年者の結婚理由の大半がデキ婚らしいから計画性なんてわるわけがねえ。

「法律にはこんな言葉がある。我々は法治国家に生きている。
 法を知らず、また法の力を行使しない者は、
 権利の上に眠っているのに等しい」

今のは坊主のセリフだ。
その通りだww 若いのによく知ってるじゃねえかww

「これでも大学を出てるからな」

どうせ底辺なんだろうが。おめーの大学名なんて興味ねえよ。
さっそく本題に入るか。

俺は宗教コーナーから岩波文庫の「コーラン」を持ってきた。

「まさかイスラム教徒の人だったのか?」
「んなわけねーだろ。今回の件を説明するために持ってきたんだ」

少し俺の話をするか。

まず俺は埼玉の人間じゃねえ。岡山県にある古い神社の生まれだ。
親父の代までは神主だったんだが、俺は親父の後を継ぐのが嫌だったんで
神主の専門学校に進学するのを拒否して高卒になった。
親父とはずいぶん喧嘩しちまったがな。

俺が正社員として最初に勤めた工場は、困ったことに幽霊が
日中から出るんだ。最初は俺の頭がイッちまったのかと思ったが、
従業員に聞き取り調査をすると7割の奴が見えるって言ってたな。
あんなに見える奴ばかりの職場ってのも、今考えると珍しいもんだが。

あれは黒い塊だった。通路をうろうろしたり、俺の肩の上を通過したりと
やりたい放題だったが、不思議と実害はねえ。気味は悪いがな。
俺も最初は気にせず働いていたんだが、次第に幽霊が怖くなってきた。
あの黒い塊は、どう考えても異常だ。

神主の親父が言ってたことがある。
人の肉体が滅んでも魂が残り続ける。
例えば地縛霊ってのは、その土地の悪霊か守護神とて
いつまでも残り続ける。彼らは、今を生きている人に何かを主張している。

ある日、工場の生産が間に合わねえってんで、今まで日勤だけだったのを
2交代制に変えるってことになった。そんで俺は嫌になった。
あの会社は外国向けの自動車関連の部品を生産していた。
アベノミクスの効果で儲かったはずなのに人を増やさず二交代制かよ。
俺は夜中働くのは怖くて仕方なかった。

幽霊なんて適当に殴っておけばok!なんて思っていた
ガキの頃の俺、本当に若かったぜ。やっぱ怖えもんは怖えよ。

離職後、暇な時間に図書館に通って神道関連の本を読んだが、ぴんとこねえ。
そこで見聞を広めるために旧約聖書を始めとした「経典の書」に手を出した。
まさにビンゴだ。不思議なことに神道と聖書には共通点がたくさんあることに気づいた。

「基本的にコーランってのは、旧約聖書と新約聖書に書いてあることを
 保証するためのものだ。神の教えは絶対に正しいってな」

「……? イスラム教徒とキリスト教徒は別物なんだろう?」

「正確には信じてる神様は同じだ」

最初の経典⇒旧約聖書(ユダヤ) 
次の経典 ⇒新約聖書(イエス・キリスト) 
最後   ⇒クルアーン(イスラム)

三部構成になってるわけだ。
つまりどの宗教も信じてる神(創造主)は同じだ。
信者がアホばっかりだから各宗教に分かれて
世界中で殺し合いをしてるけどな。

俺は正社員を辞めてから、手っ取り早く生活費を稼ぐために
派遣で仕事を転々とした。派遣ならすぐに仕事が見つかるから楽だ。
仕事が会わなかった場合もすぐ辞められるメリットもある。

それから数年間は幽霊を見たことはなかった。
俺は営業のクズに騙されてブラック倉庫へ派遣された。
奴の口車になった自分が馬鹿だった。

夜勤固定の倉庫だったが、かなり生活費に
困ってた時期だから我慢して続けちまった。

重い物を毎日持った。夜の肉体労働があんなにこたえるとはね。
二か月もすると精神的にも肉体的にもまいっちまって、
軽いうつ病にかかっちまった。
何をするにもダルくて仕事をする気にならねえんだ。
飯すら買いに出かけるのがおっくうなんだからよ。生ける屍みたいなもんだ。

そして総合病院に行った時、久しぶりに見ちまったよ。
あの黒い塊をな。うじゃうじゃいるじゃねえか。
俺はうつだったからそれほど恐怖は感じなかった。

むしろ怪奇現象を久しぶりに見たことで気分が逆にすっきりした。

俺は黒い塊に礼を言いたかったね。
俺は生きている。生きているんだから、くよくよすることはねえ。
処方された精神安定剤に頼ることなく、うつ病は治ってしまい、
その後も派遣で仕事を続けた。

一番長く勤まったのは全自動レジスターを作ってる工場だったか。
たぶん3年はいたと思う。やがて契約満了になったのが今年の5月末か。

俺はたまたま風邪を引いちまって、内科を受診したんだ。
受付で手渡された問診票に、めんどせーと思いながら必要事項を
記入してる時だった。ぞわっと、背中が奮い立つ感覚に襲われた。
あの感覚は普通じゃなかったね。

俺は、きっと何かに呼ばれていたんだ。
その当時は確証がなかったが、今ならそんな気がする。

俺は内科の診察が終わった後、薬局で薬をもらい、
要もないのに二階へ上がった。二階は内科の入院病棟だ。
主に症状の重いジジババが入院してるところな。
ナース・ステーションにいる看護師どもは忙しいのか殺伐としてやがる。

その中に先輩看護師と思われるババア(俺の中では17歳以上の女はおばさんだ)
に小言を言われている可愛いのがいた。あの子は20歳過ぎだろうが、
俺でも十分イケるレベルで可愛いな。

「はい……はい……。分かりました。次からは気を付けます」

幸薄そうな顔だな。仕事でポカでもやらかしかのか。
若いうちは誰でも痛い目を見ながら学んでいくもんだ。
メソメソすんなよ。そう言いたいところだが、俺はその子から目を話せなかった。
いやらしい意味じゃねえぞ?

正確にはその子の後ろについている「モノ」からだ。
あれはなんだ? 人? 地縛霊? 幽霊?

「そこの方、何か御用ですか?」

看護師の人に心配されちまった、俺は何でもないと
顔の前で手を振り、急いでその場を立ち去った。

だがどうしても気になり、ステーションの近くへ戻った。
すると、ちょうど山上理沙(名前を覚えたぞ)とすれ違った。

ぞわっ、とあの感覚が背中を襲う。俺は近くで確かに見た。
あの子の背中には、人の背丈ほどもある化物が付いていた。
女とも男とも取れない、端正な顔をした人型の化物だ。
衣服は何もまとってない。筋骨たくましくアスリートのようだ。
蝋で固められたかのような黒い背中が生えているが特に目についた。

山上理沙の隣には、先輩の看護師がいた。
二人ともその気配には気づいちゃいねえ。

俺以外には見えねえのか……。
俺はアホ面をして立ち尽くしていたが、
その化物は俺と目を合わせ、口を横長に開いて何かを言った。

俺の知らない言語だ。何一つ聞き取れはしないが、
たぶん俺に警告をしたんだと思う。
この私に一切かかわるなと。
俺はちびりそうなほどビビった。

それから仕事など一切手につかなくなり、
毎日狂ったように霊について調べた。
日本の幽霊の事象だとどうにもしっくりこない。
聖書に出てくる天使や悪魔の方が、信憑性が高いと思った。
だが解せない。俺は現在信仰心などないが、代々神道の家系だ。

経典の民の教えなど信じるつもりはない。
参考程度に読みはするがな。

※ 木村一誠

俺はこの土地に原因があると思い、転居を考えた。
そんな時だった。俺は激しい頭痛に襲われ、すごい勢いで吐いた。
日中に道端を歩いているときに突然吐いたのは初めてだった。
それほどすさまじい吐き気だった。
もっとも朝飯を食べてなかったんで胃液以外のものはでなかったがね。

俺はすぐ家へ帰った。
大人しく布団で寝ていると、さらに不思議なことが起きた。
あの黒い塊が、今度は俺の布団の周りを自由に動き回ってやがる。
いつものハンドボールサイズじゃなくて特大だ。

俺は避ける間もなく飲み込まれてしまい、
そして摩訶不思議な光景を見せられた。
内瀬戸麻衣とこの坊主の生い立ちが
ビデオの映像のように頭に流れた。

「天からのお告げってのは、こういうのを言うのかね。
 俺は内瀬戸麻衣のことを詳しく知り、
 お前さんとのデートの日付まで把握していた。
 そしてお前らが無事に再会できるか立ち会うことになった。
 自分でもよく分からん。そういう運命の流れだったんだろう」

「それで……あの日レストランで俺と麻衣が待ち合わせを
 してることを事前に把握していたのかよ……。
 ストーカーじゃなかったんだ」

「はっきり言って俺は他人が死のうと何とも思わねえ性格だが、
 なぜだかお前らが不幸な目に合うのを黙って見てられねえ。
 どうやら俺にはお前らを救わなくちゃいけねえ使命があるようだ。
 はっきり言うぞ? どうやら内瀬戸さんは呪い殺される運命にあるようだ」

「なっ」

「ここからは俺の推測だが、リサに憑りついてるのは悪霊の類だろう。
 理由は分からんが、リサは同僚の麻衣さんを殺そうとしてる。
 そしてマイさんを殺そうとしたら、おめえが全力で邪魔するだろう」

「当然だ。マイを殺されてたまるかよ」

「おまえもついでに悪霊にマークされてる。つまり道連れにされる」
 
坊主は血の気が引いてしまったようだ。
 硬く握った拳が小刻みに震えているぜ。

「おまえ、自分が死ぬ覚悟はあるかい?」

「……覚悟と言われても今は何とも言えないが、 
 俺は麻衣が好きだ。この気持ちは嘘じゃない。
 麻衣が殺されるのを黙って見てられるかよ」

「そうかい。まっ、嘘じゃななさそうだな。
 それだけ麻衣さんが好きなんだろう」

俺としてもここまで事件に関わった以上、
最後まで真相を明らかにしたいと思っている。
死ぬ覚悟ができてるのは俺も同じことだ。

俺とこいつは、今後連絡を密にすることにした。
そして俺の会社が休みになる今週の土曜日に
二人で麻衣さんの家に見舞いに行くことにした。

麻衣さんの見舞いに行ったところで何が変わるわけじゃねえと思うがな。

さて。これは坊主と別れた後、病院関係者に聞いて分かったことなんだが…。

山上理沙は最初から病院に勤めてないことになっているらしい。
仕事を首になったのではなく、最初からこの世にいなかったかのような
扱いになっているそうだ。それがこの世界で「起こりうる」ことなら、認めるしかない。
俺たちは常人とは全く別の次元で生きている。深く考えたら疲れるだけだ。

リサは、すでに人ではなくなったのだろう。
悪霊に完全に体を乗っ取られたのか、今も霊魂として
その辺を浮いていて、俺たちを殺す機会をうかがっているのか。

もう一つ大切なことがある。
俺は坊主に会えて伏せていたことがある。

坊主が202号室で内瀬戸麻衣の「弟さん」に会った時の真相だ。
俺は直接部屋には入らず、玄関越しに中の様子をうかがっていた。

あの時、坊主の頭の中では「弟さん」と会話をしていたことに
なっていたそうだが、実際は「誰もいなかった」 
坊主は宙に向かって独り言を言っていた。
それから突然後ろ向きに倒れそうに
なったので俺が急いで介抱してやったのさ。

そのあと401号室で俺がリサに何もせず帰ったのは致命的だった。
あの部屋には例の悪霊がいて、
リサを守るように俺の前に立ちふさがりやがったんだ。

俺はすっかり臆病風に吹かれちまい、立ち去ったってわけだ。
本当はリサに憑りついてる霊をじっくり調べさせてもらいたかったが、
そんなことする余裕があるわけねえ。
悪霊と目が合った瞬間に心臓が握りつぶされると思った。
こんなこと、恥ずかしいから坊主には言えるわけねえだろ?



※マイ

リサに虐待されてから私の人生はすっかり狂ってしまった。
病院は10日連続で欠勤してしまったし、人に会うのが怖くて
コンビニすらひとりでは行けなくなった。

お父さんは私に対し「今は休め」と優しく言ってくれる。
本当は自分がすごく情けない。
夜寝る時、まぶたを閉じたらリサの顔を思い出してしまうの。
あの冷たい目、老婆のようにしわがれた声、二度と忘れられないと思う。

生きるために嫌なことを忘れる。それが私の最大の取り柄だったのに。
実の母が家を出て行った時もそれで乗り切ったのに。

丸夫からメールが来た。
食べものを持って遊びに来てくれるそうだけど、丁寧に断った。
丸夫には悪いけど、あいつと再会してから私の身の回りで
起きてることがおかしくなってきた。悲しいけどこれは否定できない。

誓って丸夫のことは嫌いじゃないよ。
私は丸夫と会ったら、またリサが襲ってくるんじゃないかと思って
おびえてしまうの。理沙は、理由は分からないけど私と
丸夫を会わせないようにしていた。

『お前の弟さんが…』

うろ覚えだけど、この前丸夫がそんなことを言っていた気がする。
私と同じマンションに住んでる? 私の弟の内瀬戸陸(リク)が?

嘘っぽいけど、丸夫の顔は真剣だった。
マンションの入居者名簿とか、管理人さんに頼めば見せてくれるのかな。

『202号室に…』

なぜかあいつの言葉で肝心な部分が頭に浮かんだ。

ここの二つ下の階だ。
私は人の面倒を見るのが好きだから、弟を持つの、ずっと夢だった。
一度も会ったことのない、私の大切な私の弟……。
私は好奇心に勝てなくてエレベーターに乗ってしまった。

202号室には……内瀬戸の表記がある。
うちと同じ苗字。赤の他人にしてもこんな珍しい苗字は関東ではまずない。

私は震える手でインターホンを押した。
反応はない。もう一度押してみる。やはり反応はない。

「リク……」

小声で言っただけなんだけど、この声に反応したように扉が開いた。
中に誰もいない。日中なのにカーテンは閉めっきりで暗い部屋だった。
私は蛍光灯のスイッチを押す。これで明るくなった。

そこには信じがたい光景が広がっていた。
リビングには何も物が置いてない。
テーブルもソファもテレビも。

あるのは、謎の赤い物体だった。
とぐろを巻くような形状。謎の体液。血液と思わしきもの。
それらが床の上に散らばっている。腐臭がひどくてハンカチを鼻に当てた。

これでも一応看護師だから、あれの正体が何かは
想像がついてしまう。あれは、人間の腸だ。
長さからして成人のじゃない。きっと幼児とか赤ん坊の。

びちゃびちゃ、私の口から嘔吐物が漏れてしまう。
朝食べたものが床を跳ねて私の足回りを汚した。
私はそれほどショックを受けなかった。吐くのは生理的なものだから。
リサに虐待されるのに比べたら、こんなの大したことない。

私は意外にも気丈で、吐いた後にも関わらず、さらに部屋の奥へと進んだ。
腸の周りには、ウジムシがわいている。
私は嫌悪感と恐怖心を押し殺して、その光景を観察するのに専念した。

洗面所の台に、ぬるりとした感触の何かが置かれていた。
それは、人の顔の肌を切り取ったもの。
私は勇気があるので手に取って感触を確かめた。
うん、デスマスクの形をしている。きっと赤ん坊のデスマスクだ。

私はまた堪え切れなくなって嘔吐した。
胃液ばかりのねちっこいゲロだ。洗面所なので遠慮なく吐ける。
吐きすぎるとは胃酸で溶けてしまうらしいけど、我慢できないの。

さすがに足元がふらついてきたので、玄関から出ようとした。
扉を開けると同時に、いっせいに何かが飛んできた。
バタバタバタと、黒い翼を羽ばたかせるのはカラスの集団だった。

いくつもの黒い羽根をまき散らしながら、リビングにある腸へ
向けて一直線。ハイエナのごとく、ウジムシごと腸を食らっていく。
まさに地獄絵図だった。私は自分が傷つくのが
怖くてしゃがんでやりすごした。

カラスたちは食事が終わると、今度はまた玄関から去っていった。
玄関は、ひとりでに閉まった。私は直感でこの部屋に閉じ込められたのだと思った。
そして死を覚悟した。

「ふん。結局流産か。馬鹿め。罰が当たったんだ」

心臓が飛び出そうなほどびっくりした。
リビングには父がいた。しかも若い時の父。
今の私の部屋と全く同じような家具が置かれていて、
父は新聞を読みながらテーブルに座っている。

すぐ近くにいる私には気づいてないのか、独り言を続けている。

「浮気相手との男と作った子供は流産か。ざまあなない。
 もっともマイに教えるわけにはいかないが。
 あの子には生きる希望が必要だろうからな」

私の中の全てが音を立てて崩れていくような気がした。
私は、本当は知っていたんだと思う。父に訊いたわけじゃないけど、
この父の独白をたぶん、幼稚園生の時に知っていたんだと思う。
なのに知らないふりをしていたのか。

人間の脳みそって幸せだよね。自分にとって都合の悪いことは
「なかったこと」にすることができるんだから。
私の弟は、母の胎内にいる時に名前まで決まっていたのに、
この世に生を受けることはなかったんだ。

「おまえは知っていたくせに」

父はのっそりと立ち上がり、私を振り返った。

「みとめなイカラ」「ワルいんダ」「ぞ」「まい」

父の顔は醜く変形していた。口がひんまがあり、
右の眼球は顔からはみ出している。
口は喉から生えている。女の口紅を塗ったかのように唇は赤い。

左の方は痙攣しているのか、小刻みに震えている。
足が退化し、立ってバランスを保つのが精いっぱいのようだ。
転びそうになりながらも私に一歩ずつ近づいてくる。
ものすごく遅いペースだ。

この奇形の化物が私の父のわけがない。
私は幻覚を見ているのを自覚しながらも戦慄せずにはいられない。
私の父の振りをする化物をいっそ退治してしまおうと思うが、
武器になりそうなものがない。ホラーゲームみたいに鉄パイプなんて
都合よくあるわけないか。

私は化物を全力で蹴飛ばした。
奴は転んだけど、今度は這いつくばってこっちへ近づいてきた。
足元に抜けた髪の毛が散らばっている。
毛根が腐って根元から抜け始めているようだ。

「先輩」

いきなり後ろから声を掛けられたのでビビった。
振り返ると笑顔のリサがいた。化け物よりこっちの方が怖い。
玄関の前に現れたから逃げることもできない。終わった……。

「あせらなくて大丈夫ですよ。
 私は先輩を殺すつもりはありません。
 むしろ先輩を助けに来たんです」

リサは、絶望の淵にいる私の両手を丁寧に握った。
その間も嘘くさい笑みを浮かべている。

「あの化物の言っていることは嘘です。
 今から私が本当のことを教えてあげます。
 マイ先輩の弟さんは生きていますよ」

嘘でしょ。

「嘘じゃありませんよ」

「ごめん。どうしてもあなたのことが信じられない」

「……ふふ。とにかく化物から逃げましょう?
 マイ先輩、後ろを振り返ってください。
 今にも化物が先輩の足をつかもうとしてますよ」

ひっ……。腐りかけた肉が私に触れようとしてる……。
リアルゾンビだ…。

「ささ。玄関はすぐそこです。私に着いて来て下さい」

私は考える余裕がなかったのでリサに付いて行ってしまった。

玄関の先にあるのはマンションではなかった。


そこは、見知らぬ海岸だった。

じりじりと照り付ける太陽が、私の幼い肌を焼いている。
幼い……?どうしてこんな子供っぽい水着を、と思ったら、
私は小学生に戻っていて、子供向けのダサい水着を着ていた。

「お姉ちゃん。元気ないね。食あたり?」

誰だろう。この美少年。年は小学校一年生くらいかな。
ビニールシートの上で焼きそばを食べている。
彼のすぐ近くには海の家がある。

私は何か手元にあると思ったら、かき氷を手にしている。

その次の瞬間。ぶわっと周りの雑踏が目と耳に入って来た。
ここはシーズン中の海水浴場だったのだ。
私は父に連れられて、湘南(神奈川)の海岸に言った思い出がある。
たぶんそこなんだろう。

「お姉ちゃん。さっきからぼーっとしてるよ。お姉ちゃん」

私のかき氷は、ほとんど溶けていて、シロップと氷が混ざった
ジュースと化していた。

「お姉ちゃん。無視しないで。僕とお話ししてよ」

この少年。まつ毛が長くて、りりしい目元が特徴で
うっとりしちゃうくらい可愛い。むしろ美しい。
長めの髪の毛もサラサラでハリウッド映画に出てくる子役みたい。

「リク……」「わっ……いきなりに何するの」

私は大胆にも弟のことをぎゅっと抱きしめていた。
リクは苦しそうだったけど、むしろ嬉しそうな感じだった。

私は誰に教えられたわけでもないのに。そこにいるのが幼い頃の
私の弟であることを知っていた。勝手な理由で別れた私の母が
生んだ子。浮気相手との間に産んだ子。私とは半分しか血がつながっていない。

「リク……。あなたは、リクよね?」
「そうだよ。マイお姉ちゃん」
「本当にリクよね?」
「うん」
「本当に?」
「どうして同じことを何度も聞くの?
 僕、少しだけ悲しくなっちゃうよ」

リクは本当に悲しそうな顔をしていった。

「僕がお姉ちゃんの弟なのはあたり前じゃないか。
 どうしてそんなことを今さら聞くの?」

だって、きちんと確かめたかったんだもの。
あなたのことをこの手で触れて、ぬくもりを確かめて
私の弟が生きてるんだって実感を……

私は目ざとく見つけてしまった。海の家の柱の陰に
一人の女がいたことに。その女の正体は、おそらくリサだったと思う。
クスクス笑いながら私たちの姿を眺めてから。私と目が合ったら
店の奥に引っ込んでしまった。

私とは、姿が合わない。私はたぶん12歳くらいだけど、
あっちは大人。病院で知り合った時と同じ年齢だ。

「リクはちょっとここで待ってなさい。
 お姉ちゃんは確かめたいことがあるの」

「え、お姉ちゃん。どこ行くの」

「いいから」

海の家。アルバイト募集中。お品書き。

店に変わった様子はない。不思議なのは、さっきまでにぎわっていたと
思われる店内がガラガラなことだ。店主もお客もいない。会計の係もいない。

よく見ると外はさっきまで晴れていたはずなのに曇っていた。
雨雲がこっちへ近づいてくるのが分かる。ビデオを早送りしたみたいに
巨大な雲がどんどん移動して生きて、潮風を体で感じるようになった。

このままじゃ、大嵐になる。
おうリサのことなんてどうでもいい。リクを……!!

「ちょっと」

とんとんと、後ろから肩を叩かれた。なんとリサだった。

「夢を見れて良かったですね。でも夢タイムはもう終わりですよ。
 陸君とは死んでから再開すればいいじゃないですか」

「いやあ、なにするの。離して。離してえええええ」

リサは大人だから私の腕をつかんで、ずるずると引きずっていく。
だめだ。子供の体じゃ大人には絶対に逆らえない。

「せっかく陸と再会できたのよ!! もう少し一緒にさせて!!」

「世の中そんなに甘くないんですよ」

「どうして私と弟を引き裂こうとするの!!
 あなたにそんなことする権利があるの!!」

私は自分でも信じられないくらいの力で暴れた。
さすがのリサも一瞬ひるんだ。私は近くにたまたま落ちていた、
空のビール瓶でリサのすねを思いっきり叩いた。

「いっっ……」

ビール瓶は派手に割れ。破片の一部がリサの足に刺さった。
どくどくと真っ赤な血が流れ始め、さすがのリサもすぐには
動けなくなった。これだけでも私には十分だ。

私は大切な弟のいる場所へと駆けた。このすぐ近くの砂浜だ。

リクはビニールシートの上にいたんだけど。
二度と顔を見たくなかった女も一緒にいた。
出て行ったはずの私の母だ。

「りく。まだこんなところにいるの?
 大雨が降りそうだからお客さんはみんな帰っちゃったわよ」

「僕はお姉ちゃんを待ってるんだよ。
 お姉ちゃんにここで待ってるように言われたんだ」

日傘を差した、濃い化粧と派手な茶髪が特徴の私の母。
今見るとまるで水商売の女みたいで全然品がない。
安っぽい女。だから平気で家庭を壊せるんだ。

「いいから帰るわよ。
 今日はパパが出張から帰ってくる日なんだから。
 家族みんなでお夕飯は外食する予定でしょ」

「いやだー!! 僕はお姉ちゃんを待ってるぅ!!」

「言うことを聞きなさい。リクは聞き分けのいい子だったじゃない」

「やだやだー。僕お母さんじゃなくてお姉ちゃんと一緒がいい!!」

その一言が癇に障ったのか、母は鬼の形相になってリクのほっぺたを叩いた。

「黙りなさい!! 黙りなさい子供のくせに!!
 子供は黙って親の言うことを聞いていればいいのよ!!」

「やだーやだー!! うわああああああ!! おねえちゃーん!!」

私は胸の奥が痛み、同時に母に対し殺意に近い感情が芽生えた。
すぐその場から駆けだして、母にタックルを食らわせて吹き飛ばした。

「いたた……高かったスカートが砂で汚れちゃったわ」

「リク。こっちへ来なさい。あなたはこんな女のところへ戻る必要はないのよ」
「おねえちゃーん」

リクは私の腰にしがみつき。わんわん泣いていた。
なんて可愛い顔なの。こんな時なのに胸がきゅんとしてしまう。
叩かれた彼の頬は真っ赤になっていて、暖かい涙と鼻水で
顔がぐしゃぐしゃになっていた。子供っぽくてこんなところもきゅんと来てしまう。

そこでリサが現れた。

「なるほど。こいつはもうこの世には不要ですね」

私はこの展開に付いていけなかった。

リサは。母の肩にポンと触れた。

すると母の体は全体が砂になってボロボロと溶けてしまった。
ついさっきまで母だったものは、
今は姿形もなく。足元の砂の一部へと消えてしまった。

「マイ」

なんて怖い目つき。私は、リサから目をそらすことができない。

「今から私の言うことをよく聞きなさい。これは、真実の言葉です」

私にしがみついている弟の手の感触だけが救いだった。

「あなたの弟は、いる。だけど前の世界にはもういない。
 分かるかしら。あなたは、弟と再開したいと思っている。
 だったら、今まで生きていた世界を捨てるしかない。
 もう一つの、新しい世界へと私と一緒に旅立ちましょう」

「私に死ねと、そう言っているのね?」

「死んだ、あとの世界じゃないわ。その一歩手前の世界があるのよ。
 この世でもなければ、あの世でもない。あなたの弟はとある事情で
 死んでしまったけど。まだ天国へは旅立っていない。強い未練があるの。
 それは、大好きなお姉ちゃんとの再開。もう一度会って。お姉ちゃんと
 話がしてみたい。お姉ちゃんに甘えてみたい。そんな、未練」

「仮に、その世界へ行ったとしたら。私は丸夫やお父さんとは会えない」

「会えるわけが、ないでしょ。全てを捨てなさい。それができるならね」

謎の黒い塊が現れた

謎の黒い塊が現れた

4名の社会人の若者による群像劇である。 ジャンルはミステリーでありホラーかもしれない。 新卒の社会人だったが、会社を辞めて無職になった丸夫。 幼馴染で看護してして働くマイ。 マイの後輩のリサ。 不潔で浮浪者の身なりをしたイッセイ 謎の黒い塊の正体は……? 「あの塊に吸い込まれると、忘れていたはずの思い出がよみがえる」 「忘れたことはなかったわ。ただの一度も」 意味不明だが、いったいどんな物語になるのか……!! 注目作、「謎の黒い塊が現れた」 ついに全米初公開!! 全米が泣いた!!(嘘)

  • 小説
  • 中編
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-01-16

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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