嘘つき
住所不定の作家、戸五指久義は、昨年度、品川のPホテルに住んでいた。
缶詰にされていたわけではない。毎年、確定申告と、税務上の処理が終わった時点で確定した所持金で一年間の連泊が可能な宿泊場所を選び、四月からの一年分の宿泊費(一日二食付)を前払いしているのである。簡単にいえば、本が売れれば豪華なホテルに一年、売れなければ、簡易旅館などに一年となる。
彼の全所持品は、ノートパソコン一台と、スエットの上下。下着三枚とサンダルだけだ。一年に一度の外出の際には、ホテルの売店の紙袋へ入れて持ち歩く。年に一度の外出とは、宿泊施設の移動だ。
連泊中の施設にバーがあれば、所持金で可能なだけの回数券を作ってもらって利用する。一階にコンビニがあれば必要な額をプリペイドカードに入金する。付帯していれば、大浴場もペイチャンネルも利用するし、例えば、宿泊しているホテルで結婚式などがあって、「著名人」として招かれれば、貸衣装代の負担とご祝儀の免除を条件に、来賓挨拶などもやぶさかではない。
基本的には、部屋で猛烈な勢いでノートパソコンのキーを叩いている。書いた文書はクラウドに保存している。調べ物などはインターネットで全て足りるが、もともと彼の書くものに、さほど厳密な考証が必要な内容は含まれていないのである。
彼に住所がなくなったのは、生活保護に関する思い違いのせいだ。彼には生活実務上の能力が決定的に欠けていた。
二十代半ばに両親が亡くなると、無職だった彼はたちまち金に困った。持ち家があると生活保護を受けられないといわれたので家を売り、所持金があっては生活保護は受けられないというので、ホテル住まいで放蕩三昧。最後に、住所不定では生保護は受けられないといわれた。
アパート代など残していなかった彼は、必然的にホームレス生活を始めた。鉄屑やアルミ缶を集めて換金し、拾ったノートと筆記具に、夢うつつな日記を書き連ねるようになった。
そして、「たまたま」その日記が「ある編集者」の目に留まった。「ホームレス作家が描く、都市の心象風景」との宣伝文が誌面に踊り、連載が始まると、一部の読者に熱狂的に受け入れられた。その収入で、彼は簡易宿に連泊し、ノートパソコンを手に入れて、半ホームレス半作家生活を始めたのだった。
とはいえ、彼は自分の生活が激変したとは感じていなかった、という。
自分はずっと、何かを集めて、それを換金して生活してきた。それが、鉄屑やアルミ缶から、「文」に変わっただけだった。
出版社は屑屋となにも変わらないと思った。そして、屑屋が鉄くずを誰に転売するのかに、彼が関心を持たなかったように、彼の「文」を、出版社がどういう相手に転売しているのかということにも、彼はまるで関心がなかった。というより、彼の文に金を出す「読者」がいるなどということが、信じられないのであった。
「売文屋」なる商売が成立するという事実に、彼は馴染めなかった。鉄屑やアルミ缶を集めることには手ごたえがあり、その手ごたえは重量として明確に示されていた。出版社が買い上げているものは、彼の「嘘」に他ならなかった。彼は、「嘘」の単価が鉄屑やアルミ缶の単価よりも高いという市場に「嘘」を嗅ぎ取っていた。そのような「嘘」の対価は、やはり「嘘」であるに違いないと思った。
しかし、もともと、「金銭」そのものが「嘘」だったとすればどうだろうか?
と、彼は考えてみた。そして、金で買えるもの全てが「嘘」である、という考えに帰結した。
彼が書いている「嘘」は、一部の好事家にのみ通用するローカルな貨幣であり、「貨幣」とはグローバルに通用する「嘘」であると思った。それならば、「金銭」という「嘘」以上の「嘘」は無いのだと思った。
戸五指久義には、自分の書く「嘘」が、ひどくちっぽけなものに思われた。そして、そんなちんけなものに支えられる自分という生命のちっぽけなことを感じ、こんなにちっぽけなものであるからこそ、どのような「嘘」も許されるのだと思った。
四月。
品川のPホテルを出て、高田馬場のSというビジネスホテルに移った。川崎にも候補はあったが、彼はなんとなく山手線に乗りたかった。環状線というものが、最近の彼の気分に、ぴったりしていたからだ。
「―その渦には中心は無かった。渦に巻き込まれたものは、ただ放射状に弾き飛ばされた。そして自分が弾き飛ばされた先で、その渦の中心にある、苛烈であり、静かでもある意志の在ることを感じていた。たとえ、そこにはぽっかりと凪いだ空洞があるだけだったとしても、その周辺に様々の運命を強いるだけの力のあることは、間違いの無いことに思われた。そうして、その何もないところにある意志が、人民の命運をめちゃくちゃにかき混ぜているのだと思われた。
押し合い、へし合い、ぶつかり合う人々の痛みを、人々は「宿命」と呼んでいるのだろう。
辰雄は、なるべく遠くまで、なるべくキリキリ舞いさせてくれと、その空虚な中心に祈った。そこに届くものは、ただ、祈りだけしかないのだと、辰雄は感じていた―」
嘘つき