七面鳥の夜に
クリスマスに七面鳥をかかえて家路を急ぐサラリ-マンは、アスファルトにわだちを作るグズグズの雪に足を取られてひっくり返った。よれたステンカラ-のコ-トには大きな染みが出来て、マフラ-の両端が泥を含んで重かった。七面鳥は、逃げていったが、ホ-ムレスが暖を取るダンボ-ルハウスへと迷い込み、おとなしくなった。ホ-ムレスは勤続25年の会社をリストラされ、その事を責めようとしない妻に申し訳なく、家から500円分離れた駅の繁華街の裏路地にダンボ-ルの家をこしらえたのだった。退職金は出なかった。びた一文。それでも妻は、「第二の人生を二人で歩いていきましょうよ。」と明るく笑ったのだ。男は、いつか飲み込んだ鉛の玉が胃のあたりに重くつかえているような気がした。所詮、出来すぎた女房だったのだとの思いは、結婚して20余年、一時たりとも忘れた試しはなかった。実際、よく気がつき、夫を立てる申し分の無い妻だったのだが、男にとって、よく出来た人と一緒にいるというそのこと自体が、大きな痛苦以外の何者でもなかったのだ。迷い込んできた七面鳥は、まばゆいまでのイルミネ-ションの世界から、蝋燭一本ない檻の中へ一足飛びで旅をして、めんくらったまま、首をぶるぶると震わせている。奇蹟的に一命をとりとめたのだ、とは思っていない。自分は、自分の仲間達が世界で、特にアメリカ合衆国やら大英帝国やらで、大量にほふられるのだ、などという認識は持ちえない。ただ、「いやに暗いところだ。」と感じていた。
転んだサラリ-マンは、逃げた七面鳥を思い切れない。かといって、もう一羽新たな鳥を求められるほどのゆとりは無い。北風が、コ-トの染みめがけて吹きつけている。男はため息をつきながら、しかし心なしか浮かれている群衆と同じ速度で、まばゆい装飾の町から押し出されていこうとしている。
「こんなじゃなかった・・・」
サラリ-マンは、やるせない気分で思いだす。今の妻との出会い、二人で過ごした始めてのクリスマスの事。後悔はしていない。彼女は十分にかわいらしく、全てを捨ててでもサラリ-マンは彼女と結婚をしたいと思っていたのだから。しかし、それが、この町中の過剰なまでの飾り付けと、気分、というやつに誘導されていたのだとしたら。今宵の主役に、我々は確か、据えられていたはずではなかったか。それがいつから、わき役に回らされるようになったのだろう・・・。子供の顔が思い浮かぶ。小学校2年生の長男と、今年年長になる長女の笑顔。二人の喜ぶ顔がみたかった。しかし、今年は三人の「チッ、つかえねぇな、お前。」という冷酷な視線を甘んじてうけなければならなくなるのは必死だった。せめて、妻が豪勢なデコレ-ションケ-キを用意しておいてくれさえすれば、まだ何とか取り繕えるのではないだろうか、子供たちのご機嫌はケ-キで取っておいて、本当のプレゼントは明日の夜に届くんだとかなんとか言いくるめれば一日猶予が出来るから、それから落とした七面鳥の言い訳をして、プレゼント代はどっかのキャッシングで借りれば、なに、妻だって「余分なお金は一銭も無い」とかいったって、団地に暮らしているんだから、ヘソクリくらい出来るだろう。昼間に豪華なランチでも食べていないのならばだが、それはそれで、こちらの立つ瀬もあるというものだ・・・ サラリ-マンは半ば自動的に進められた一連の思考の道行きに、自身の存在意義とか、価値とか、誇りとかいったものが微塵も含まれていないことに気づき、愕然とした。「本当に、こんなじゃなかったのに・・・」サラリ-マンは確かに、群衆に紛れていた。しかし、もっとも惨めな構成要素の一人であった。
行く手にバスタ-ミナルが見えてきていた。16番線は長い行列が出来ている。自分と同じステンカラ-のコ-トの列だ。手に手に七面鳥を抱えた、そう、転ばなかった自分そのものの男達の行列だ。サラリ-マンは、背後に何か生暖かいものを感じ、振り返ろうとした。だが、濡れたマフラ-がきつく締まっていて、首を捩じる事が出来なかった。いや、首そのものが、冷たい風になぶられて、凍りついてしまったかのようだった。目の前には、いつも以上に暗いバスタ-ミナルが待っている。電車ならば、乗り込んでくる人々の服装、持ち物、話し声などが、否応なく町の雰囲気を延長させてくるのに、バスというやつは、町の中を走っているにも関わらず、何故こうも町から途絶させられてしまうのだろう。バスはいつだって、護送車だ。そして運転手もまた、一人の囚人なのではなかろうか。サラリ-マンは、一人だけ手ぶらで、しかもそこいら中が湿っているという気まずさを、サラリ-マンに全乗客と全七面鳥に冷笑されている気がして、つい運転手に視線の逃げ場を求めたのだった。しかし、そこにいたのも、一介のサラリ-マンにすぎなかった。
「好き好んで、この日、この時間の運行を担当しているのだ。」
と、運転手はひび割れ始めた帽子の鍔汚れが目立つ白い手袋の指先が、ひっかかってほつれてくるのも構わずに、時折、撫でる癖を止められなかった。つるりと撫でる絶妙な弧の感覚が、運転手は好きだった。かつては、同じ会社のバスとすれ違うたびに、つるり、つるりと鍔に指先を滑らせたものだったが、今ではその習慣も「危険」と評され廃止になった。それでも運転手はこの挨拶を止めることは出来なかった。そう、これは「挨拶」なのだ。「やあ。ごきげんよう。安全運転で。」すれ違うバスの二人は、一瞬でそれだけの気持ちを交換していたのである。今では、会釈することすら禁じられ、ひたすら前方を見て運転するようにと指示を受けている。「俺たちだって人間ですよ。」そう言った同僚は今車両整備でこきつかわれているし、「運転しているのは俺たちなんだから、みんなでまとまれば会社だって分かってくれるさ。」と言った男は、プリペイドカ-ドのル-ト配達でハンドルを握っている。つまり、俺たちには自由は無いのだ。運転手はそう思い、そんな当たり前の事をさも大事であるかのように受け入れる自分の度量の大きさ、哀れさ、じみたものを感じてしまったことを恥じた。決められたル-トを決められた時間通りに運行させる。何事も起こさないことだけを求められ、何かが起こった時には解雇と賠償がのしかかる。そこにどんな楽しみがあったろう。せめて、観光バスに配属されていれば、ガイドとの楽しい語らいがあったかもしれず、浮かれた旅行客との秘密なども持てたかもしれない。だが、自分は、駅タ-ミナルと郊外の団地とをピストン運行するいわば、日常に埋もれた存在だ。世間がいかに浮かれようとも、派手な宣伝を身にまとって誘おうとも、ハンドルを握る運転手には彼岸の出来事でしかなかった。しかし、運転手はことさら、今日この時間の運転を、いわば率先して担当していたのである。
点呼、整備点検、指さし確認、運行記録、お茶、煙草、そして点呼。その繰り返しの中で、視線の方向まで厳しく規制される現実の中で、ただ一か所だけ、運転手が心待ちにしている情景があったのだ。今夜、この時間帯、小高い丘の上にあるつづら折れの、団地にむかう六番目のカ-ブで、運転手はこの一年を、これまでの7年を、そして、生まれてからの35年を、許されるのである。
この時間にこのバスに乗り込むサラリ-マン達はみな、恐妻家で子供のご機嫌取りに専念しなければ居場所が無くなる間借り人達である。平日ならば、もっと遅い時間、酒とラ-メンの匂いのふんぷんたるろくでなしの集まりであったとしても、今夜はみな、家族との語らいを心待ちにしている。そこでの父としての権威、せめて存在の誇示、友好な関係の存続、そんなものを思い描いていて笑顔を隠すのに必死なのだ。濡れたコ-トのサラリ-マンは、ぎっしり詰め込まれたマイホ-ムパパの毒気に酔いながら、運賃箱にもたれかかってじっと運転手の横顔を見つめていた。その帽子がなんだか七面鳥に見えてくるのである。それが滑稽なのである。乗客の数に一匹足りない七面鳥はみなまだ生きているのに、セカンドバックのようにおとなしかった。運命。唐突にサラリ-マンはそう思った。その刹那、運転手の目が何かを求めて路面を離れた。
突如とびこんできた七面鳥は、ダンボ-ルの中をゆっくりと見渡した。首がたぷたぷと揺れている。と、正面に二つの赤く光ものを見た。七面鳥はその赤い物を凝視したが、全体を見渡すには暗すぎた。それはこの家の主たるリストラ男であった。男は自分の部屋に闖入してきたものが、七面鳥だということに匂いで気づいた。そして、何の冗談だろうかといぶかしんだ。
仕事に捨てられ、家族を捨て、ケ-キすらないこのバラックに、なぜだか七面鳥が舞い降りた。ダンボ-ル越しの雑踏が、今日が何月何日なのかを忘れることを許さず、男はともすれば思い出へと滑り込んでいきそうになる自分の観念を制するのに必死だった。あまりにも、惨めではないか。思い出はタブ-だ。だが、耐えがたい七面鳥の獣臭さは、甘美な食卓の情景を思い起こさずにはいられなかった。
よろしい。今日はそういう日だったのだ。思えば何百という七面鳥を、自分は食してきた。だが、今日はその罪滅ぼしをしよう。男は拾い集めた蝋燭を袋から取り出し、雑誌やボロ切れに挟んで立てた。
運転手の目に、期待した少女の姿は映らなかった。昨年までは、このカ-ブにゴザをしいて、じっとうずくまり、時折とおる車の排気ガスで暖を取りながらマッチを売っていたあの少女の姿は。いつもの時間ならば、このバスはガラガラで、運転手は少女のために運行表を捏造してでもバスを止め、いつまででもこのバスの暖房で温めてあげたいと思うのだったが、少女がすがたを見せるのは、いつだってこの夜で、バスは止めることは到底無理で、だがだからこそ、運転手は少女を哀れみ、愛することが出来たのである。そして、そんな境遇から一刻もはやく逃れられるようにと祈りながらも、心のどこかで、今年もあたあの、貧しくも美しい瞳の少女に出会えるだろうか、とそればかりを念じていた自分のあさましさをわらいつつ、その刹那には確かに、心が通い合うのを感じて満足することができたというのに。バスは、一度、少女がゴザを敷いているコ-ナ-のすぐ手前で崖に向かって身を乗り出す。そして、大きなカ-ブを曲がるため、目一杯ハンドルを切るのである。運転席のすぐ真下に、少女はいた。そう、彼女は今年も同じようにそこに座っていたのであった。だが、その隣に、彼女と同じ身なりの少年が、彼女と肩をよりそわせて座っていた。それはあの、健気で無垢な少女ではなかった。運転手を襲った感情の渦は、嫉妬だ。だが、なぜそれを嫉妬と認めることが出来ただろう。あまりにも巨大な嫉妬は、傍らの少年に対する激しい憎悪から始まった。そして、熟練した運転手のフットブレ-キは、一瞬遅れた。
少年は、身寄りがなく、様々な町で靴磨きや金物拾いなどでその日食べていく分を稼いでいた。そして、同じような境遇にいる少女に思いを寄せたのである。といって、自分が食べていくのがやっとの生活をする者同士が、二人でよりあつまったところで、収入が増えるわけもなく、二人はそれぞれの食い扶持を分け合って共にひもじい生活を送っていたのである。それでも、少年は幸せであった。そこには少年が忘れかけていた「家族」の残滓があり、残り物で空腹を満たす事に、少年は慣れていたのだから。
「今日みたいな日は、繁華街へ行った方が、実入りがいいのに、どうしてこんなところに座っているんだい?」
少年は、少女に幾度も尋ねた。少年の経験からいっても、今日のようは日は酔っぱらいもシラフの者も、たいてい気前良く、優しい気分になっている。さらに、貴重品の忘れもの、落とし物が増えるし、混雑の中、多少のおこぼれを頂戴しても気づかれる心配が普段よりも少ない好日なのである。
「ねえ、どうしてこんな寂しい寒いところに座っているの?」
少年は、空のポケットに手をつっこんで、幾度もそう尋ねた。だが少女はうつむいて微笑むだけだ。
バスの乗客達、人間とその人間よりの一羽足りない七面鳥は、マイホ-ムの夢を見ることもなく、だまってバスに揺られている。団地の住人達は知っていた。この曲がりくねった峠道を越えれば、安らぎの場だったはずの、わが家に到着するということを。誰もがそれを望み、それでいて誰もがそれを望まない。帰宅という毎日の行事は、確かに彼らにとっては第二の辛抱の始まりを意味していたのだから。異変に気づいたのは、あのサラリ-マンだ。運転席のすぐ脇にもたれ掛かり、じっと運転手を凝視していたあの、湿った尻のサラリ-マンだ。七面鳥を無くした言い訳を積み重ねるたびに、忘れかけていたプライドがへしゃげていったあのサラリ-マンだ。バスは、ガ-ドレ-ルの隙間に鼻先を突き出した。目の前の木々の間から、自分たちが誇りをもって戦う戦場がきらめいている。普段よりもほんの零コンマ何秒か、遠心力がかかるのが遅かった。乗客の全員が、経験上その遅れを感じ、その意味を知る前から歯を食いしばっていた。乗降口から、呆然とバスを見上げる少年の奥歯の虫歯と、その横で微笑んでいる少女の汚れた髪の束が、サラリ-マンにははっきりと見えた。何の物音もしなかった。何事もなかったかのように、バスは停車していた。だが、次の瞬間には、車内はけたたましい怒号に包まれた。人間の声ではない。七面鳥達だった。七面鳥達は、割れた窓や、開けっ放しになった乗降口から我先にバスを飛び出し、暗い山へと転げ落ちていった。それからサラリ-マン達の罵声と、七面鳥の跡を追ってガケを転がり落ちる者などが続出した。一人、あのサラリ-マンだけは、へしゃげた運賃箱の隙間から覗いているお札を見て見ぬふりをしていた。そして、運転手は、自分の起こした事故に苛立つかのように席を立ち、サラリ-マンを押し退けて、外へ出た。
「お前では駄目だ。お前は彼女を幸せにすることはできない。絶対にお前では駄目だ。彼女の幸せを考えてやれ。貴様に何が出来る。その日暮らしが精一杯のガキに、女を守る甲斐性があるはずがない。どけ。消えろ。彼女の前から消えろ。」
少年は、七面鳥とサラリ-マンを吹き出すバスを目の前にして、口をパクパクさせていた。普段ならば、負けん気だけは強い少年だった。だが今は、理不尽な事実を理不尽だと認識することすら出来なかった。運転手は帽子を投げつけ、少年にくみついた。二人は、そのまま崖下へ転がっていった。
蝋燭を立ておわった男は、七面鳥にむかってそっと手招きをした。そして、そんな動作の意味なぞ共有できるはずのない相手だということに気づいて笑った。
「最後のマッチだ。なに明日はまた明日のマッチが手に入るさ。蝋燭があり、マッチがあり七面鳥がある。ケ-キを欲しがる歳でもなし、今年はこれで十分というものだ。」
男はマッチを擦った。室内がオレンジ色と黒のまだらに浮かび上がった。突如として明かりを浴びた七面鳥が、狂ったように羽ばたき、ダンボ-ルの中を駆けずり回った。男は七面鳥の爪や嘴で引っ掛かれ、羽で叩かれ、舞い散る羽毛にむせ、マッチを落とした。再び闇と静寂が訪れた。
「優しい気分になったってのに、もうそんな資格もないってことかね。」
男は寂しげにそう呟いた。
サラリ-マンは、このままバスに乗っていても家には戻れないなと思った。そして、運賃箱と運転手の黒鞄から、いくらか抜き取ると、緊急用のハンマ-を取り出し、運賃箱の横腹に打ち下ろした。ジャラジャラという音がして、小銭が乗降口から流れ落ちた。足をとられないようにバスを下りたサラリ-マンの目の前では、少女がせっせと小銭を拾っていた。サラリ-マンはそのまま少女の脇を通り抜け、誰かが崖を登ってくる音に背中を押されるように道路を歩いた。途中に羽を傷めた七面鳥が、所作なさげにうずくまっていて、その七面鳥をついでのように抱えると、サラリ-マンは家路を急いだ。
その夜、駅前の繁華街でボヤがあり、焼け出された男が、入院先で妻と再会したという事件を、翌日のワイドショウが取り上げていた。ホ-ムサ-ビスを無事にこなしたサラリ-マンは、その夜、いきつけの居酒屋のテレビでそれを知った。
「あそこで燃えた七面鳥、俺のだったんだぜ。」
無論、そんな冗談で笑いがおこるほど、彼らの世界はすさんでいた。
運転手は会社を首になり、少女は姿を消した。そして、転落した少年は少女の姿を求めて、繁華街で靴を磨いている。
おわり
七面鳥の夜に