宣告
この生き方に迷いはなかった、だがそれは悲劇を招いた。
もっといい生き方は有ったのか?
カフカの「判決」を参照にした作品
宣告
《カフカ「判決」》
作・三雲倫之助
一
セロテープで貼り付けられた戸口の紙にはこう記されていた。
「死ぬんですか」
差出人不明である、意味不明でもある、推測不能、きっと奇人変人暇人の類いだろうとそのまま捨て置いた。だが晩になって、張り紙を取り、テーブルの上で見返した。椅子に坐って考えた、なぜ健康で仕事も順調な私が死ぬんだ。こいつバカじゃないのか、そもそも他人に開口一番死ぬんですか、どう考えたってこいつが変だろう、変に決まっている。バカな奴は暇になるとバカな真似をする、こういう奴は時間を有効に使うことを知らないから、国や地方自治体が無理にでも何でもいいからどんどん仕事を与えるべきだ。そうすればきっと世の中の犯罪件数も格段と減るだろう、それを知らないんだな、世間は、平等、平等と上辺だけで叫んでは始末に負えぬ。私は自殺などしない、幸せで自殺するか、そうなら一人も生きてないはずだ、全員死ぬはずだ、不幸な奴が世を儚んでそもそも死ぬんだ。それに幸せな奴を足したら百パーセントじゃないか、世の中も変わった。何もすることがないから、「死ぬんですか」と他人に尋ねるんだ、バカたれが、私が死ぬのか、君が死ぬのか分からない、主語を入れてない。君の場合なら、面倒くさいから人に尋ねる前にさっさと死ね、私は死なない、死ぬ理由が見つからない。もしかしたら人は死ぬんですかの意味、勿論命あるものは全て死ぬ、皆死ぬ、だから思い切って今死ぬ、どうせ死ぬのならいつ死んでも同じでしょう、そんなことはないずっと後の方がいい、そんなに今が楽しいですか、何が楽しいのですか、僅かばかりの給料で生活し、たまに居酒屋へ行き贅沢をし、それを生きている間せっせと繰り返す、よき国民、不平不満を言わず、現状を維持して幸せを感じる、それがあなたの思い描いた人生ですか、そして老いぼれて死ぬ、長寿大国日本、あなたはそれを支える一人です、死ぬ、考えたことがない、そっときて、そっと連れて行かれる、思い悩んだでもどうしようもない、今死んだら、何かいいことでもあるのか、ないだろう、生きていれば、宝籤一等当たって遊んで暮らす、夢が見られる、死んだら、全てがおじゃん、バカにするなよ、メモ一枚で右往左往する私じゃないんだ、そんな人でも何かの切っ掛けでするっと死ぬものなんです、魔が差すって言うでしょう、それです、あなたは魔を説明できますか、原因不明の自死ですよ、原因不明、あなたのようにいつもニコニコしていた者が或る日突然自死する、それを防ぐ手立てがあなたにありますか、いつもへらへら笑っている奴が何かの拍子で自死、死ぬより怖い、死ぬより怖い自死、変な表現だが、そんな感じの、あなたはいつ死ぬか分からない、いくらあなたが死なない死なないと叫んでも、ふと死にたくなるような瞬間が流れていて、たまたまそれに出くわすと死ぬんですよ、あなたでも、今笑っているあなたでもね、明日、あなたは死んでいて、この世にいない、それもあり得る、それは生きていれば何でもあり得る、生きていればです、ですが、それはごくたまにしか起こらない、普段は大体が昨日と同じ日々が過ぎ去る、仕事して、飯食って寝て、酒飲んで、テレビ見て眠り、ご出勤、そんなものでしょう、魔が差すことが日常茶飯事になったら、世の中が滅茶苦茶になり、大騒乱になる、でも今までそのようなことはなかったでしょう、あるとすれば、歴史で習った戦争ぐらいでしょう、戦争と同じ数の人が魔が差して死にましたか、死んでないでしょう、針小棒大は止しましょうよ、語っている自分が恥ずかしくないですか、あなたは、どんなに立派に、どんなに楽しく生きようと、死んで焼かれるんです、灰となるんです、何も残らないのです、なのに浮かれて生きている、おかしいとは思いませんか、おかしいと言えば、メモがおかしい、私を死に追い込みたいのか、なぜ、私は一般市民だぞ、テロリストと勘違いしたのか、否、それなら逮捕するか、狙撃して殺せば済むことだ、一殺多生の弾丸とか言ってな、これは飛躍のしすぎだ、アメリカのCIAのスパイ者で殺しのライセンズを持っていると言われる、もし彼らが実行したなら海に浮かんでいて事故死となっているだろう、CIAのスパイ物よりサイコパスの連続殺人の刑事物が好みだ、人を殺すことに快楽を覚え、罪の意識が全くない、自分は死なないのに、意味もなく人が殺されるのはお気に入りとはどういう了見なのか、他人が殺される分、死ぬ分は構わない、我が身となると嫌だ、それは現実の世界ではなく、フィクション、仮想の世界だ、これはあくまで物語として見ている、現実になれば恐れ戦き、有ってはならないことだと思う、心はどうでもいい、現実に移すかどうかが一般人と犯罪者の分水嶺だ、そう言いたいんですね、昔は死刑は公開で見世物としての刺激があった、今は禁止にされたので、映画やテレビでスナックを食べながら楽しんでいる、殺されるショックが好みですか、それとも殺すバイオレンスが好みですか、加害者でもなく被害者でもない、ただの野次馬、傍観者、人生の傍観者です、ただ流されるままに生き続ける、世の中に追随し媚びへつらう人生の召使い、あなたは奴隷です、いつも世間が言うがままでご主人様は世間、寄れば大樹の影、世間の影、奴隷でも夜はぐっすり眠れる、それに奴隷と言われても一向に疲れない、県庁でそこそこ出世する、上、上と必死に目指して、悪戦苦闘、それが人生だと勘違いしている、苦しければ満足、筋力トレーニングじゃないんですよ、負荷を掛ければいいというもんじゃない、根性は今や死語ですよ、もう遮断する、「死ねばいいのに」と悪態を吐いた、藪から棒に、自暴自棄になって言う言葉が「死ねばいいのに」、そう言われて死ぬバカはいない、君が死ねばいい、清清する、他人にいちゃもん付けて、救い主か、教祖か、人を追い込んで突き落とし奈落を見せて悲鳴を上げさせ、結局は叩けよ、さらば開かれん、来たれ贖いの御子の元へか、全部仕組まれている、お見通しだよ、在り来たりだが信者獲得の王道だ、落ち込んでいるところに偶然を装い、鉢合わせになり、親身に話を聞き、支部へ連れて行き、大人数で説得する、信じる者は救われる、鰯の頭も信心から、世の中が死ぬほど辛いなら、こんなにうじゃうじゃ人間は地上にいません、皆楽しんでいる、それを横から、生き甲斐、人生の目的、生きる意味、存在理由など、たまたま君は躓いたから、そんなものに取り憑かれ、それを世間に広めようと汗だくだく、それが生き甲斐、なんでもいいんですけど、一人の胸の奥に宝物のように仕舞って、自分だけで感傷、鑑賞して下さい、率直に言いますと、大変迷惑なんです、時間の無駄でもあり、話題が詰まらない、重いんですよ、蝶のように軽やかな話題をこちらは聞きたいんです、あなたのプロパガンダなんか糞食らえです、何の権利があって私の幸せを不幸だと思わせるように必死になるんですか、人の不幸は蜜の味で一度口にしたら病み付き、中毒症状、他人の不幸依存症で全部ぶち壊しにかかるんですか、いいですか、楽しいこと、嬉しかったことを思い出して下さい、なぜ生きるのかとか、それは考えているだけで行動してないでしょう、他人云々する前に自分の人生を歩んで下さいよ、ミッション、使命、あなたの宗教でしょう、ご自分で頑張って下さいよ、布教が人生ですか、それなら聖職者になって、教会だけで活動して下さい、神の家ですか、そこだけで仲間内でお幸せになって下さい、一人加入させたら、何ポイントで、競争ですか、迷惑ですね、あなたが一所懸命になればなるほど迷惑を被る者が増える、一方が幸福であればいいんですか、宗教側が幸福であれば、無宗教の人は不幸にしていいんですか、宗教だけが他人に迷惑を掛けても許されるんですか、人類救済、大袈裟な、あなた一人の救済だけで十分すぎるほどです、それで宗教も少しはいいかも思うかもしれませんよ、きっと入信はしないと思いますけど、世俗での失う物が余りに大きい、欲望、楽しみですよ、あなたは煩悩は捨てさり、真理の道を歩むべきです、その欲望に焼き滅ぼされますよ、何を言うのですか、煩悩こそが人生を面白くするものだ、真理、そんなものあれば見せて欲しいものだ、未だ嘗て誰一人見た者はいない、絵に描いた餅、机上の空論の成れの果て、それとも教祖様が言ったことは全て真理とでも言うのか、この世の中にどのくらいの宗教がある、もし教祖様が言うのが真理なら、宗教は一つになっていて、信者獲得競争などなかっただろうに、君のノルマは何人だ、いいように使われて痩せこけてありもしない真理に縋って生き抜いて、転倒した喜びに満ちて死ぬだろう、それは自己満足だろう、私の日々の喜び、自己満足とどう違うんだ、君の自己満足が神々しいというのはふざけているとしか言えないし、茶番だ、無論、君の仲間は素晴らしいと褒め称えるだろうが、世間の人はなんと哀れで痛ましい人だと思うだろう、君でなくてよかったと思うだろう、笑って死んでいく君を見て、宗教に憎しみさえ覚えるだろう、哀れな君の一生を思い巡らしてな、君は私を哀れだと思い、私は君を哀れだと思っている、共倒れ、勝ち負けなし、相互承認、共存共栄、ギブアンドテイク、清(せい)濁(だく)併(あわ)せ呑む、魚心有れば水心、どっちもどっち、思想の性格の不一致、協議離婚、妥協案なし、歩み寄りなし、硬直状態、あなたは最も大切な真理を求めてない、目的地を持たず、ゴールもなく歩き続ける、あなたは人生を歩んでいない、さ迷っている、そうとも知らず、充足感を感じている反逆者です、アナキスト、破壊者です、君、それを言うなら逆でしょう、私は今の世の中に満足している、飢えていますか、いいえ、戦乱ですか。いいえ、貧窮していますか、いいえ、それを君たちは貪欲だとか、惑わされているとか、否定的なことばかり言う、現実は私のような人々で回っているのです、君のような道徳、宗教などで経済は、お金は動かない、好き勝手にやっているのは清貧を隠れ蓑にして、世間にほざいている連中でしょう、厚顔無恥の政治家、宗教家、偽善者、私は一般市民です、それのあら探しだけして、改革、改革とバカの一つ覚えで騒ぎ立てる、平穏な世の中をかき乱さないで下さい、何が天国ですか、めでたしめでたしのお伽噺でしょう、あなたは塵溜めに住んで、そこで見る物すべてが塵だと言うことを知らないで、真理だと思い込んでいるに過ぎない、君、それくらいにしよう、お気に入りのバラエティー番組が始まるから、まあ、後日と言うことで。
二
一々紙に書き、張るのが面倒になったのか、戸口にクロのマーカーで書いてあった。
「お元気ですか」
変な悪戯か、お元気ですか、直接会えばいい、それか、こっそり見たらいい、それなら一目瞭然だ、もう死んでますか、と言いたいのか、まだ死んでないのかとの嫌がらせか、暇な奴だ、私は四十五歳で、県庁職員、健康で死ぬにはまだ早い、それとも別れた妻・尚子と中学二年生の娘・美佳の嫌がらせ、そんなことはないだろう、離婚する時家屋敷を呉れたのだから、今は老後の金を蓄えながらの慎ましい、それなりの生活をしている、残す財産などない、今、死んだら預金ゼロに近い、それで死んでますかと言うほど、元妻と娘は酷い人間ではない、それなら一体誰が、私は恨まれるほどの上昇志向の人間ではない、無理をせず生きて行けるだけの金があればいい、金持ちなど無理してまでなろうとは思わない、自分に見合った金額というのは知っている、今はまず負債を作らずコツコツ預金すること、それが私のポリシーである、誰にも迷惑を掛けなければ、それだけ自由に生きられる、誰に気兼ねすることもない、それが健やかな人生だ、波瀾万丈なんて言う下らないロマンなど要らない、それほど苦労が好きなのか、マラソンの後の水がおいしい、それだけのことで四十一キロも走る、それこそ快楽主義だ、一瞬の快楽にとてつもない時間と労力を掛ける、バカげている、達成感、自己実現、そんなものは自己欺瞞に過ぎない、日々生きていく暮らしにこそ全ての価値があるのだ、それが人生だ、苦労して苦労して今の幸せを掴んだ、メルヘンだ、それのどこがいいのだ、中流の下でも無事息災、それでいいではないか、あなたは世の中に流されて、少しも疑問を感じない、いわゆる道徳的無痛症です、あなたは何も感じてないようですが、実際は世の中にぶつかり傷口からばい菌が入り腐っているのに、無痛だから放ったらかし、今では腐臭ぷんぷんで体全体まで腐りながらそれに気付かず幸せだ幸せだと思い込んでいる、世界で最も不幸な人です、あなたに不幸と言うことが見えていますか、誰かが死んで悲しいとは思わず、世の中の常、憂鬱で自殺した者達には、死ぬほど儚むほどの世の中かと薄ら笑いを浮かべ、病気で死ねばこれが天寿だったのだと一本の線香をあげて、けろりと忘れる、世の中はバラ色、転倒してしまった感受性、腐臭を撒き散らして我が世の春を謳歌している傍迷惑な人間、それでも自分は真っ当な人間だと思い込んでいる、こうなったら死があなたをこの世から連れ去るまでこのままで、真実の欠片さえ知らずに笑って死んでいく、恐ろしいことです、業火に身を焼かれながらも涼しいと消えてゆく、あなたのようなものこそがこの世界の根底を腐らし、瓦解させるのです、ほんとに恐ろしいことです、身の毛が弥立(よだ)ちます、あなたには自分がない、大多数の人と群れて動いているだけでそこにはきっと大多数の動向しか感じない、群衆の一人でしかない、あなたはいない、団体行動が全て、右向け右、左向け左、命令しているのは、先導しているのは誰ですか、分からない、社会に流される漂流者です、君の言うことは十把一絡げでいい加減だな、いいかね、私は地域の一員として地域のルールに従い、職員として県庁のルールに従い、社会に対しては社会のルールに従う、当然でしょう、君は地域や社会から何の恩恵も受けてないのとでも思っているのか、それは世の中が円滑に機能するための条件だよ、それが嫌なら、紛争地域にでも行って、活動すればいい、そうすればこの国の素晴らしさが分かる、これからビデオのレンタルショップに行くから、もう帰ってくれ。
三
居酒屋を出たら中学校のバスケット部の後輩、山城正彦に出くわし、相談に乗ってくれませんかと言うので、再び入店することになり、個室に入った。
「まずは乾杯、飲んで、飲んで、ここは私が持つから」と久しぶりに会った後輩に見栄を張った。
「会社を辞めようと思うんです、出世は見込めないし、営業成績も今一だし」
「就職先は見つかったの」
「いえ」
「それじゃあ、駄目だ、見つけてから辞めるものだ、誰が家族を喰わせるんだ、共稼ぎでも、奥さんはパートでしょう、奥さんも頑張っているのに、お前が見込みがないから辞めるでは、奥さんが可哀相だろう、普通なら専業主婦でもいいんだぞ、それをパートで働いている、感謝すべきだね、そこを汲んでやらんでどうするんだ。
それとも何かやりたいことでもあるのか」
「プログラマーの専門学校に行こうと思っています」
「それを学ぶのに二年、アプリを作って、バカ売れで大金持ち、それはどう考えても夢の見過ぎだろう、よくて、ネット会社のセキュリティ開発に潜れたら御の字だ、それほど給料もよくないぞ、誰も彼もITに飛びついて、飽和状態で職はないぞ、それよりPCの取り付けや修理がいいんじゃないか、その方が働き口はあるぞ」
「アプリを作りたいんですよ、何か創造的なことをしたいんです」
「それなら同人誌に入って俳句でも詠んでみたら、趣味でやればいいだろう、創造的なものは」
「俳句とアプリ制作は違いすぎますよ」
「まあ、そう言うな、両方とも創造的だろう」
「字を読むのは駄目です、私は数学科専攻ですよ」
「数字でも、文字でもそんなに違わんだろう、両方ともプログラミング言語、文学言語も同じ言語だろう、ローマ字か仮名の違いだろう、どちらも書いていくんだから」
「分からない人にそう思われるかもしれませんが、どうしてもアプリ開発をしたいんです、声認識や、音声変換で遊べるアプリ、ポケモンGOの与那町限定版みたいなの、画像の変装アプリなど」
「君は甘い、戦争をする時には最悪のシナリオを想定し、撤退のシミュレーションをするそうだ、君のは全部成功しそうじゃないか、たとえ開発したとしても、売れなければ、骨折り損のくたびれもうけだ、悪いことは言わない、一年待って見ろ、気が変わっているかもしれん、家族が路頭に迷うことになるぞ、目も当てられない、一家離散、惨憺たるものだ、創作など、趣味の範囲でいいじゃないか、学費はどうする」
「その日のために少しずつ蓄えた金があります、それでどうにかなります」
「それはまさかの時に取っておく、君の学費にするより、子供のための学費にしたらどうだ、それとか車を買い換えるとか、君は自分のためにと言うよりも、家族のためにという年齢になっているのだよ、そこを考慮しないと、いつまでも学生気分だと、足下をすくわれるよ、悪いことは言わん、考え直せ、プログラミングは独学で土日にやればいい、日曜大工みたいにな」
「やっぱり、夢は夢で終わるのでしょうか」
「そうでもない、家族を犠牲にしてでもなりたい思うなら、そうすればいい、但し、世間はそんな君に辛く当たるぞ、覚悟するんだな」
「そう言うものですかね、人生が、なんか切なくなりませんか」
「何が切ないんだ、そんな気持ちに一度もなったことがない。
安全運転は事故を起こさないために、やるんだ、それで自分も他人も守っているんだ、窮屈でもそうしないと惨事が起こる、人生も同じさ、割り切ればいいんだ、いつまでも若くはないんだ」
「揺らぎますね、ほんとに揺らぎます」
四
マーカーで走り書きされていた。。
「誰かいますか」
私以外はいませんけど、独身ですけど、アパートとは別の場所に別れた妻と娘が二人いますけど、一人です、衣食住に困っても寂しいとも思っていませんけど、仕事に出れば同僚達がいますけど、昼食にいけば、更に多くの県庁職員がいますけど、それが何か、私に友人がいるかと言うことか、いますよ、でも頼りにはしていません、困った時に助ける人ですか、深刻になれば、自分で対処します、それが礼儀でしょう、私不治の病ですけど、どうしましょう、どうもできないでしょう、相談される方は返事に窮して困るし、尋ねるのは不躾です、真に困る前に対処します、小さい炎の時に消し、火事にはしない、消防車でしか鎮火できないのに、友人に一緒に消してくれはお門違いでしょう、真の、ほんとの友人なんていませんよ、そいつが勝手に持っているだけで、高望みしたように行動してくれないと失望して、真の、ほんとの友人がいないなどと自分勝手に喚くのです、喜びを二倍にし、悲しみを半分にする友、そんなのは高校生の夢見る青春ドラマの妄想だ、それぞれが笑いそれぞれが怒りそれぞれが悲しむ中で話しをする、それでいい、友と呼ばなくていい、私は彼が死ぬほど痛い目に遭っても私は痛くはない、彼が死ぬほど悲しんでも私は悲しくはない、彼が癌になったから私も癌になるわけでもなく、その痛みもない、彼がたとえ死んでも、私は死なない、代わりに死ぬことはできない、それぞれが生きてればそれでいい、それを愛情、友情、同情、そんな甘ったるいものは欲しない、独立独歩、我が道を行く、それでいい、そこに余計な飾りは要らない、最低限の道徳さえあればいい、人に迷惑を掛けない、大震災があれば義援金を出す、人が倒れていたら声を掛ける、助ける、救急車を呼ぶ、そのようなことで、私は満足だ、無論、法律は犯さない、世の中を上手に回すことに通ずるからだ、誰もいない、でも私が道で倒れていたら、誰かが助けてくれる、無論、赤の他人だ、私がもし極貧になり、盲腸の手術費が払えないなら、国が救済してくれる、だから私は税金を誤魔化すことはけしてしない、国の力となり、国民に回るからだ、それぐらいは十分に信じられる国である、私も気に入っている、一般人が、普通の人がたくさんいればいい、死にそうなの奴を見て、素通りはしない、一人で夜中にぽっくり逝くのは仕方がないことだ、一人暮らしなら、それぐらいは覚悟している、だからと言って、他人と住む気はない、誰かいますか、誰もいないことを確かめて、空き巣に入るつもりか、それはないな、誰もいませんけど、何も不自由はしていませんし、快適にエンジョイしています、一人暮らしは気ままでい、誰に気兼ねしなくてもいい、ああだこうだと文句を言う奴もいない、週末は自分の思い通りに過ごせる、その二日が何物にも代え難い、全てから自由になる、深い意味を問うべきではない、死からも自由かと考える奴は病んでいるのだから、軽やかに生きる、軽く軽く生きてゆく、悩める大家などというドストエフスキーの小説が大嫌い、いちいち考えすぎるのだ、常に重くて深刻な会話、それだけの人間しか出て来ない、もっと軽い話しはないのか、一冊読めば二冊目は絶対に読まない、刑事物で殺人事件、キャロル・オコーネルのマロリーシリーズが最高だ、無論アマゾンで中古本しか買わない、無駄遣いはしない、お金は大切だ、いつ来るか分からない急性の病気、事故の時に病院の支払いに必要になる、一人だと、痒い背中にムヒが塗れない、仕事の帰り、部屋を見て明かりが点いてないと寂しいとか、タレントの常套句、私はなんとも感じない、人恋しくなる、そんなのは演歌の世界だ、職場で十分に人は接している、食傷気味だ、それに外に出ればたくさん人がいる、私は引き籠もりではない、オタクでもない、ごく普通の勤め人で、その他大勢の一人として町にいる、けして孤独で寂しい人間ではない、むしろ生活を存分に楽しみ素晴らしい日々を送っている、幸せな人間の部類に入る、誰かは要りません。
五
県庁の食堂で昼食を取っていると、相席いいですかと、百瀬薫が坐った、前の部署で一緒だった、三十過ぎで独身のはずだ、まさか不倫の話しではないだろうな、面倒になる、嫌だな婚期を逃した女性は、それ以外に女性のする話と言えば思い付かない、それに彼女は年下なのに、プライベートではため口である、なぜだか知らないが気付いたらそれを認める事になっていた。
「高崎部長の天下り先が決まった、部長まで行くと定年後でも甘いお菓子が貰える、県庁での給料も高いのだから、いいえ、結構ですと辞退はしないのかしら、そしたら公務員としての鏡だと思うんだけどな、天下りが終えたら乗せられて県知事に出馬しないでしょうね、あいつならやる、金に目がないからな、でも貯めた金を使おうと思った時には年寄りで楽しめない、財産を子供に残す、それも孫の代までは使い尽くすでしょう、金は使わないと駄目よ、楽しむべきよ、まあ、いつまでも働きたいという人の気が知れないわ、仕事中に逝くのが本望です、勤労オタクのご託宣、それが素晴らしいと思われてはもっての外だ、後進に道を譲るという気がなくて、それではいつまでたっても人材は育ちませんよ、高崎部長野心家だけど、創業タイプではない、自分の金で会社を作ろうとはせず、雇われ社長のタイプだ、潰さずそこそこの利益の経営方針、大きな夢を見ず、コツコツと、転ばないタイプなんだよな、石橋を叩いて、人が通った後から渡る、私の後に道はできないタイプだ、誰かが通った道を通るタイプだ、破天荒、裸一貫、もっとも嫌いな言葉だろうね、天下りせずに、地域に貢献する道もあったはずなのに、仕事、或いは銭、両方、欲張りだよね、儲ける奴がどんどん設ける仕組みだ、欲深い、強欲、地獄に落ちるね、しかし、地獄はあるかないか確かめられないから、儲けた奴が勝ち、それで豪遊せずに貯蓄する奴の意地汚さには敬服するわ」
よく喋る、年を追うごとに酷くなっている、何の用事があるんだ、それとも世間話をしに来たのか。
「これで前菜は終わり、頼みたいことがあるんだけど、この土曜の一時にクラウンホテルのラウンジに私と一緒に行ってくれない、彼氏と別れるから、今付き合っている人として、紹介するから、ただそばに坐っているだけでいいの、この彼氏には四度ど突かれた、パンチを跡が見えない腹に入れるのよ、少しは太(ふと)腿(もも)に蹴りも、そして必死に後悔する、それ吊られて三度は我慢して許したけど、四度目は許せない、でしょう、それ以上我慢する奴はバカなのよ、絶対、私は悪くない」
一回殴られれば、普通の女ならとっくに別れている、旦那じゃない、ボーイフレンドだ、相手を選べよ、最初は無職のユーチューバー、ただバカなことをして動画を配信しているだけ、そいつも振ったわけではなく、若い女の子の方に逃げられ、二度目の奴はドラゴンボールオタクで、マンガのセリフを一冊まるごと覚えていた、それでときめき、フィギュアを買い与え、セーラームーンのコスプレを見て、さすがにげんなりして、彼女から別れた、今度のが最悪、DV男、男運が悪いというか、ゲテモノ好きというか、理解できない。
「体格は、マッチョか」
「ジャニーズ系だもの、弱いわよ、喧嘩したら、野原さんが勝つ、野原さん、体育系じゃないのに、無駄に体格いいもの、一メートル八十ぐらいで九十キロぐらい、顔も髭が濃くて強そうだもの、空手をやってました、やってませんね、拳に瘤ができてないから、やっていればよったのに、格闘技のジムにでも通ったら、とにかく頼みますよ、すぐに終わるといいけど」
「修羅場になりそうだな」
敢えて言うことがないので、常套句を言ってみた、どうも私は体格で選ばれたらしい、百瀬はどういう訳か厄介ごとは私に回す、お人好しのバカだと思っているに違いない。
「ならない、ならない、あいつは蛇に睨まれた蛙になるよ」
私がジタバタし、揉め事の当の本人は能天気にも気楽な感じである、少しは厄介なことを頼んでいるという心苦しさを済まなさを見せたらどうだ、誠意を少しは見せろ、それがものを頼む時のマナーだろうが、いつから百瀬はこんな感じで私と接するようになったのだろうか、思い出せない、気付いたらこんな感じだった、これって百瀬は私に相性がよくて、私は百瀬に相性が悪い、何のかんのと言っても、百瀬は憎めない、兎にも角にも明るい、それだけが取り柄だ、そうでもないか、きっと頭もいいだろう、上智大学の仏文科卒業だ、そのような形跡は微塵もない、最も似合わないフランスを選んだのだ、きっとその時は何かに憑かれていたのだろう、それとも学生時代に躓いたか、それで性格が一変した、彼女の場合、何かを、自分を突き破ってしまった、その結果が今の百瀬だ、それで東京から沖縄へ移住して、県庁に就職した、よく映画である、失恋が引き金か、それにしては人を好きになるのが軽い気がする、用心しない、無防備だ、だから碌でもない男と付き合う羽目になるのだ、しかし、尻軽という意味ではない。
「ほんとに大丈夫だろうな」
「心配性ね」
「面倒なのは嫌だ」
「誰だって、嫌よ、だからこうして、野原さんに頼んでいるじゃないですか」
「そう言われても」
「私は本土の人間で、沖縄には親戚はいないし、知り合いもいないんです、そしたら、野原さんしかいないんですよ」
「君はそんなに友達が少ないのか」
「そうですよ、私見た目と違って、人見知りなんです」
よくもすらすらと嘘が吐ける、社交的なのは知っている、飲み会にもよく顔を出していた、でもなぜ私が選ばれるんだ、迷惑だ、百瀬に借りはない、基本的に私は他人に借りを作らない、揉め事に巻き込まれるのが嫌だからだ、それに私はメンタルでもフィジカルでも喧嘩を今までしたことがない、犬種で言えば盲導犬に向く大人しい性質のラブラドール・レトリバーで、好戦的な闘犬に向くピット・ブルではない。
「それにしても嫌だな、何かしら不吉な予感がする、ビリビリ感じるんだよ、総務の金城さんはどうだ」
「法螺吹きの口先人間ですよ、それにあの人は下心が見え見えなんですよ、デートに誘って酔わせて持ち帰り、同僚であろうが、水商売の女であろうが見境ないんですよ、揉め事に遠縁のチンピラを同席させて片を付けたそうですよ、人間性の問題ですよ、あの人は揉め事の解決能力はありますが、その後に大いに難あり、肉食系なんです、どんどん喰ってどんどん肉欲が肥大していくんです、限界がない、強欲、貪欲、むしゃむしゃ喰い尽くすんです」
「女子の間ではそんなに評判悪いのか」
「セクハラエロ親父です、野原さん、いいですよね、承諾して下さいよ、お願い、これだけ頼んでも駄目」百瀬は拝む仕草をした。
人の良さで頼まれても困るので、後腐れのないようにウインウインで行くことにする、それでいい、人に頼めば利害が生じる、これを埋めるには万能薬の金に換えることである、それならなめられずに済む。
「それなら五千円相当の食事を奢ること、面倒なら、ギフト券でもいい、礼儀としてはちょっとだけ考えるが、現金で払ってもよい」
「ラッキー、五千円今払うから、それなら逃げられないでしょう」
私は笑顔の百瀬から金を受け取り、席を立つ彼女の後ろ姿を珍しい者を見る目で追った、DV男と付き合っていて、なぜあいつは明るい、DVってヘビーそのものではないのか、好きになった奴に殴られる、最悪だろうが、あいつ殴られて燃えるタイプか、いや、変な詮索は止そう、あいつを見る目が違って、深みに入っては大変だ、ここは神聖なる犯すべからずの職場だ、職場でのゴタゴタは非常に厄介だ。
六
PCのスカイプに元妻の映像が現れて、話しかけてきた、私から彼女に接続することはない、化粧をしていた、女性はいつまで見てくれを気にするのだろうかと呆れ果て、それも別れた夫に対してだ。
「あなた百瀬さんとデイトしたんだって」
「どうして知っているんだ」
「知らないのはあなただけよ、私は離婚してからずっと百瀬さんと連絡を取り合っている、百瀬さんのことはあなたよりずっとよく知っているわ」
「娘の事でも連絡しないのに、百瀬の事でスカイプか、珍しい」
「娘、私と一緒だから百パーセント大丈夫、あなたに心配して貰う事なんか全くないわ」
「それじゃあ、何の話しだ」
「百瀬さんの話」
「彼女の何の話しだよ」
「あなたは彼女をどう思っているの」
「同僚だよ、焼き餅焼いているのか、離婚しているんだぞ」
「あなた、バカなの、そんな事は絶対に無いわ、私から言い出した離婚よ、後悔などするものですか、そんなことは死後もありません」
「言いがかりか」
「あなたは周りの人の事を何も知らない、あなたの常識で付き合う、いや受け答えをするだけ、それも殆ど常識的ではずれがないようなチョイス、羽目を外す事のない日常、平穏無事、当たり障りのない毎日、転ばないように転ばないように歩く、走ったりはしない、あなたが言う事は九九.九パーセント言い当てられる、だからなるべく私は話ししたくないの、何度も同じ事を聞くようなものよ、でもね、そんなあなたを好きになる、物好きがいるのよ、世の中は広い」
「皮肉はいい、本題に入れ、離婚したんだ、くだくだ愚痴を言うな」
「百瀬さんはあなたが好きなの」
「寝耳に水で驚いたが、何かあるごとに私の所へ相談に来る、それが私への好意の表現か、非常に微妙な、デリケートな問題で分かるわけがないだろう」
「それは違う、あなたにも見えているけど、見ようとしない、それはあなたの大事な座右の銘『事なかれ主義』のためにそうとは見えず、全て背景にしてしまう、あなたは冷めてもいず熱くもない、常温だけを認めるような性癖、悪癖がこびり付いていて、喜怒哀楽がない、有ったとしても最小限度のエコロジカル、何が楽しくて生きているのか分からなくなる、こうして死ぬのかと思うと私には耐えられなかった、だから離婚した、それに幼い美佳が女医さんになりたいと言ったら、それより看護婦さんがいいよと本気で諭すあなたに辟易したのよ、開いた口が塞がらなかった、その時、あなたとの離婚を決意した。将来を考えると、どこまでも平坦な舗装道路が続く、風景も同じ町並み、気候までも毎日が晴れ、死ぬまでこんななの思ったら、身の毛が弥立った、何でもかんでも、世の中の全てが普通、常識的、何が楽しくてこの人と結婚したのだろうかと思うと何一つの楽しい事、悲しい事も浮かばなかった、これが人生か、寒気がした、これでは死んでも死にきれない、それから私は初めて人を怖いと思った、それがあなたよ、それも結婚までしてしまい、子供までいた、どんな家庭を思い描いていたのだろうかと死ぬほど後悔した、今でもなぜあなたと結婚したかと後悔する夢に魘される」
「待て、待て、離婚で済んだ話しはするな、いくら他人の意見に惑わされない私でもぼろくそに言われると気が滅入る、ほんとにお前の言う通りかなと疑う自分が怖い、口調も強い、ソフトに話せ、夫婦喧嘩とは違うんだぞ」
「百瀬さんの気持ちを分かって上げて、いつまでも待ち続けるわよ、一途なのよ、何であなたが好きなのか全く理解に困るけど、あなたに夢中なのよ」
「何が夢中だよ、三人の彼氏を知っているが、二人はオタクで、先日のが暴力男だ、如(い)何(か)物(もの)食いだよ、私はごく普通の一般人だ、彼らほどインパクトはない」
「何を向きになってるの、百瀬さんはあなたが好きだと言ってるの、それを否定するのはおかしいでしょう、本人がそう告白したんだから、何でもあなたの思った通りだと思っているんですか、神様でもないのに、傲慢、傲慢よ、どこからその自信は生まれてくるの、あなたは百瀬さんの事をどう思っているの」
「男女の仲で考えた事がない」
「そうよね、いつまでもお友達、そうでもないか、断るのも世間体が悪いかなと思って引き受けたんでしょう、目立たず、目立たず、穏便に、いつも逃げ腰なのよ、それでいて自信満々なの、どうしてもおかしいでしょうこれは、私は今でも不思議で、腑に落ちない、世界の不思議だ」
「今更別れた元旦那に文句を言っても無駄だろう」
「あなたは私や百瀬さんをどれだけ傷つけたか気付かないでしょう、あなたは私も百瀬さんを全く見てない、見てるの波風を立てぬ常識だけ、可も無く不可もなく、あなたは擬態する」
「そう思うならその時、言えばいい、ずっと経ってからでは、そうですか、ぐらいしか言えない」
「そうよね、でも別れる時はもう顔を見ずに済むから、言う必要もないかと私が折れた、でも二年三年と行くが経つにつれて、あなたへの怒りが込み上げてきて、マグマのように煮え滾って言わずにおれないのよ、よくもその時に言えと言えるわね、うんざりするほどの常識の御託ならべて、悦に入り、それを芥子粒ほどにも疑問を持たない、癌よ、最近は医学が進歩して治る確率も増えたらしいから、癌ではなく、それより恐ろしい不治の病よ、蛙の面に小便でしょう、焼け石に水、火に油を注ぐようなものでしょう、あなたは反省する事あるの、自分を見直す事はあるの、自分が悪いと思う事はないの」
「気は晴れたか」
「何を言ってるの、頭にくる、上から目線で、気の抜けた声で、いつもそう、どこから来るのかその自信、肖(あやか)りたいわ、あなたは自分を知らない、知ろうともしない、そんなことは何の得にもならない、思考の無駄遣いとしか思わない、無論、相手の事も、誰の事も知らない、答えは決まっている、最も無難な答え、相談、無難な返事、右と左の中間点、イエスもノーもない、ほどほどな所で締め括り、誰にも文句を言われない、安全地帯に身を潜めている、卑怯者だ、恥知らずだ、薄情者だ、お前は何ものでもない、私はお前に『轢死』を言い渡す」
尚子は鬼の形相ではっきりと告げた、私が轢死、車に轢かれて死ねというのか、そこまで憎まれないように、そこまで好かれないように生きてきた結果がこれか、憎しみだけの言葉か、私は脳のずっと奥に吸い込まれるようなふらりとした状態になり、百瀬の事を考えていた、なぜ好きになる、私はそうなるような態度を取ったか、勘違いするような言葉をかけたか、だが現実は私が全く思わなかった方向へ確実に動いていっている、歯車が逆に回り出した。
「私の何もかもが間違っていた」
一切が雪崩れ落ち、私は裸足のままで道路へと走り、ヘッドライトを点けた行き交う車を見ていた、そして跳び込んだ。
宣告
これぞ我が道だった、そんなことはあり得ない・