おおいぬの鼻Arranged
『おおいぬの鼻』
ごらん
あのおおいぬの鼻を
風が音だけ迷子になって
スペアミントの味になる日は
浮き出る夜のじゅず玉模様
眠らずにいる困ったちゃんが
はりきり伸ばすしろい手のひら
松はいっぱいの贈り物をかかえる
枕も靴下もいらないんだ
みんな夢中で探しているよ
ひみつのあめ玉があの中に
ひとつ隠れているのだから
ごらん
あのおおいぬの鼻を
空を照らすいちばんの光を
朝が取り上げてしまう前に
I
頭の中で、これから歌う旋律を追う。羽毛が触れるように優しく、最初の呼びかけをするのがソプラノだ。その後も主旋律で他のパートをリードして、ときには一歩下がって男声を際立たせる。そんな責任重大のパートを、わたしは歌うことになっている。
プレーヤーの音楽が止まった後も、耳に残った響きを頼りに歌う自分をイメージしていた。新しい歌の練習を始めるときにはいつも緊張する。初対面の人と仲良くなれるかどうかを考える気持ちに似ている。
「ごらん、あのおおいぬの鼻を……」
冬の夜、一面の雪の中で、何かを心待ちに手を伸ばす子供たち。クリスマスの合唱会で歌うことになっているからそう思うのかもしれないけれど、この歌は小さい頃サンタさんが来るのを楽しみに過ごしたのを思い出して懐かしくなる。歌うことに緊張はあったけれど、歌の世界に入っていくのは楽しみでもあった。
そんな心の余裕を持てるのは、一緒に練習をする先輩のお陰だと思う。
「じゃあ汐音ちゃん、とりあえずAパート歌ってみようか?」
二年生の浜本梨子先輩。ぱっつん髪が目印の、この部でも飛びぬけて歌の上手な先輩だ。
「はい」
ぶれが少なくよく響く声はソプラノにぴったりで、一人でも全体のムードを作ってくれる。中学時代は吹奏楽部で譜読みにも慣れていて、音感も正確なので新しい歌を歌いこなすのも誰より早い。わたしは元からソプラノで、人数の都合もあってすぐにこのパートに決まったけれど、アルトが選べるような状況だったとしてもやっぱり先輩の歌に惹かれてソプラノを選んだと思う。それだけわたしは、良い刺激を受けていると感じている。
ところが梨子先輩にも、心配なところがないわけではなかった。
「……あの、その右手は何ですか?」
わたしの前で右手を構えて、梨子先輩はわたしの顔を見つめてくる。
「指揮者だよ。梨子のこと、指揮者だと思って歌ってみて。さん、はい!」
そう答えるなり、梨子先輩は真剣な顔つきで、本当に指揮を執り始めた。この歌は振り始めて二拍で入らなければならない。わたしはとっさのことに焦って、歌いだしが遅れてしまった。それでも先輩が指揮を止めるまで、なんとか歌い続ける。
この小さな練習室は防音がしっかりしていて、外からの音はほとんど聞こえない。わたしだけがその空間で、いっぱいに細い声を張り上げていた。
「やめ。歌いだしは、これから練習していこうね。あとは、ちょっとリズムが保ててなかったかな。ここはピアノって書いてあるけど、声は遠慮なく出していいと思うよ!」
言われていたAパートの結びのところで指揮が止まる。梨子先輩は表情を変えずに、わたしの問題点を次々と挙げていった。
「はい……頑張ります」
さすがにどれもこれも的確で、受け入れるしかなかった。すると、最初の緊張が少しずつ膨らんでいく。ソプラノパートはわたしと梨子先輩の二人きり。わたしが足を引っ張るわけにはいかない。
「汐音ちゃん、リラックス!」
そう思って姿勢を正そうとしたら、不意に梨子先輩がわたしを正面から抱きしめてきた。先輩の顔がぐっと近づいて、思わず首を反らせる。
「わっ、何ですか」
「カチカチじゃん、それじゃいい声は出せないよ、ほら背筋も肩も、力抜いて!」
先輩はその手でわたしの背中をぐいぐいと揉み始める。
「ひゃっ、せん、ぱい、くすぐったいです……やめてください!」
先輩の腕が徐々に上がってきて脇に入りそうだったので、わたしはいよいよ体をねじって抜け出した。梨子先輩は悪戯っぽく笑っている。
「だって、汐音ちゃん緊張しすぎなんだもん。いつもみたいにさ、楽しく歌おうよ」
確かに先輩の言うことは正しいと思うし、それだけの信念を持って取り組んでいるのもわかる。だけど心配なのは、先輩が基本的に無鉄砲で、しかも遊びたがりだということだ。この間までは三年生の先輩がいて、上手に歯止めをかけてくれていた。
「それなら、一緒に歌ってください」
「汐音ちゃんの歌、もっと聞きたかったんだけどな」
「先輩は自分で歌ってても、わたしの歌ちゃんと聞いてるじゃないですか」
「へへ、ばれてたか」
今のところ、わたしはそういう役になれそうな気はしない。梨子先輩との練習は、前よりも余計に疲れてしまうように感じる。ただ、楽しさは確かに感じていた。わたしは歌も先輩のことも好きで、こうして歌に関わる縁を深く楽しみたいという気持ちははっきりしていた。
「じゃあ、今度は二人で合わせてみよう」
「はい」
二人で合わせてみると、梨子先輩の歌は大きな壁のようにわたしの前に現れる。声量も響きも圧倒的で、わたしはその後ろに隠れようと思えばできてしまうかもしれない。でも、たとえ全体で合わせても、わたしの歌は聞いている人にしっかり届くのだ。せめて、合唱会でも恥ずかしくないくらいには上手くなりたい。
その日は土曜日で、練習は午前いっぱいで終わった。わたしは梨子先輩に誘われて、学校の近くにあるファストフードに来た。アルトの先輩二人も一緒だ。
「ねえ梨子、あれ聞いてみた? 昨日教えたやつ」
「聞いた聞いた。くらみーああいうの好きだよね、初めて聞く人だったけど」
奥の席に入ったわたしの向かいで、梨子先輩が倉野未海先輩と話している。二人は一年の頃から同じクラスらしく、かなり仲が良さそうだ。
「知らなかったの? 意外。そのボーカルやってる人、結構イケてるよ」
「ビジュアル系?」
「いや、若いんだけど、ちょっと渋めの格好してるの」
未海先輩がスマホを操作して、画面を梨子先輩に見せた。何やらロックバンドの話をしているようだけれど、わたしには聞いていてもそれ以上のことがわからない。
「へえ、確かに曲もこんなイメージだね。音とかメロディの構成は単純で大人びた感じだけど、歌い方はポップで力強いっていうか」
「わかる。この人たち、他の曲も雰囲気近いものが多いんだけど、この曲はまたちょっと違って……」
「お待たせ。何の話してるの?」
そこへ、注文のために立っていた柳内千沙先輩が戻ってきた。千沙先輩は四人分のハンバーガーやポテトや飲み物が乗ったトレイをテーブルの真ん中に置いて、話していた二人に顔を向ける。最近かけ始めた眼鏡を気にしながら。
「さっちはこのバンド知ってる?」
「名前だけは」
梨子先輩は未海先輩のスマホを借りて、画面を千沙先輩に見せた。ついでか、「汐音ちゃんも」とわたしのほうにも画面を向けてくれた。
「流行りのバンドなんですか?」
「だんだん人気が上がってきてて、テレビにも出だしてるよ」
とっさに浮かんだ質問をしてみると、未海先輩が長い前髪を掻き分けながら、なぜか得意げに答えた。わたしはテレビに出るような歌手でも知らないことが多いので、こんな質問をしてもやっぱり、話が続かない。
「あっ、ハンバーガー来てるじゃん、みんな食べよう。梨子のドリンクってこれ?」
「それあたしのカルピスだよ。梨子の白ぶどう、こっちでしょ」
わたしが次の言葉を探すうちに、梨子先輩はすっと話を切り替えてトレイへ手を伸ばした。続いて未海先輩が、少し遅れて千沙先輩が食べる準備を始める。
「汐音の、これで合ってるよね?」
わたしは動くより先に千沙先輩が取ってくれて、おとなしく座っているだけだった。
「はい、ありがとうございます」
いよいよハンバーガーを食べようというところで気付いたのは、梨子先輩がちゃんと手を合わせて「いただきます」と挨拶をしていることだ。これで結構律儀なところもある梨子先輩だけれど、わたしはなんだか恥ずかしくも悔しくもなって、改めて人知れず机の下で手を合わせるのだった。
三年生の先輩が引退して日は浅いけれど、二年生の三人は前からずっとこんな感じだ。そしてやっぱり、わたしもそんなに変わっていない。だいたい自分から話を切り出すことはなくて、ずっと横で聞いているだけ。それでも一緒に笑ったり、時には秘密を共有したりもする。
「なんか、星見たいなあ」
こんなふうに梨子先輩が唐突につぶやくのも慣れっこだ。あんまり急なので、誰もすぐには言葉を返せない。
「何の歌詞だっけ、それ」
でも、大抵は未海先輩が梨子先輩の意図を汲んでくれるのだ。
「違うよくらみー、『おおいぬの鼻』だよ」
「ん? あの歌がどうかしたの。別に星と関係ないんじゃない?」
話に加われそうだと思って考えてみると、わたしも実はそこまで歌詞の意味を捉えてはいないことに気付いた。てっきりクリスマスの歌だから、本来トナカイが出てくるところを大きな犬が出てくる世界のファンタジーを歌っているものだと思っていた。
隣で千沙先輩が、少し前のめりになった。
「『浮き出る夜のじゅず玉模様』って、きっと星空のことだよね」
なるほど、とわたしが感心するのと同時に、梨子先輩は腕を組んで偉そうに頷いた。
「さすがはさっち、大正解だよ。でね、ここからだよ。『おおいぬの鼻』っていうのは、夜空の星でいちばん明るい……お尻!」
「ぶふっ、あはは、何それ!」
自信満々で放たれた突拍子もない言葉に、未海先輩は破裂したように笑いだした。わたしもその「いちばん明るいお尻」なるものを想像してしまって、飲もうと思っていたお茶に手がつけられなくなってしまった。千沙先輩も呆れた顔をしているけれど、口元では笑いを堪えている。
「梨子、それを言うならシリウスでしょ」
「へへ、そうだった」
笑いの波が過ぎて千沙先輩の訂正も入ると、さっきまで威張っていた梨子先輩は縮こまって、照れ笑いを浮かべた。未海先輩がそんな梨子先輩の二の腕をつつきながら、意地悪っぽい声で追及する。
「ぼろが出たね、誰の入れ知恵だったのさ?」
「柊二くんだよ」
「やっぱり。梨子がそんなの気付くわけないと思ったんだ」
「そういうわけじゃないよ!」
山岡柊二部長は、バスの二年生だ。部長と指揮者の兼任で、梨子先輩が頼りにならないような場面では、だいたい頼りになる。
とはいえ、部活ではとても練習に熱心な未海先輩も、アルトのリーダーも部の会計もしている千沙先輩も含めて、頼りにならない先輩なんていないのだけれど。もう一人も、まあ。
「最後のポテト、誰か食べる?」
「私はいいかな」
「あっ、汐音ちゃんにあげるよ」
梨子先輩が差し出してくれた一本のポテトを食べると、嬉しくなると同時にまた次の部活が楽しみになるのだった。
合唱部は月、木、土曜の週三回で、そのうちの木曜日は顧問の梅川先生に聞いてもらう全体練習の日だ。一回練習をまたいで、その日がやってきた。梅川先生は灰色髪で背の低い柔和なおじいさんに見えるけれど、先生なりに妥協できない部分を持って、わたしたちを厳しく指導してくれている。
先生を前にしては少しでも後ろ向きな気持ちがあるとすぐにその声を聞きつけられてしまうわけで、やっぱり頑張るしかない。そこでわたしは、放課後になると自分で先生に鍵をもらって、いち早く音楽室に入った。
「笹原は熱心だな。今日は期待しているぞ」
「はい……頑張ります」
職員室で、そんなやり取りをしたのを思い返しながら。わたしは思い切って黒板の前に立ち、綺麗に並んだ机を眺めてみた。
本番はどのくらいの人が来るかわからないけれど、この席が埋まるくらいには来るだろうし、来てほしい。
そこでわたしは大きく息を吸って、『おおいぬの鼻』の最後の音を出してみた。だんだんとフェードアウトして、最後の音が、指揮者の手に握られるまで。もう一曲も歌ったことにして、拍手の中で一礼する。良い合唱ができたなら、きっとわたしは喜びが表情にあふれ出てしまうと思う。でも、退場するまでは気を抜いてはいけない。
横を向いて、壇から降りていく。七月の定期演奏会はこんな感じだった。あのときは三年生もいて、本当に添え物程度にしかならなかった……と、ちょっぴり悔しかったことを思い出したところで、音楽室の扉が開かれた。
「お疲れ様。早いね」
「お疲れ様です」
大きなリュックを背負ってきたのは山岡部長だ。部長だからというのもあるかもしれないけれど、大抵かなり早くからいるイメージがある。そして、ピアノを弾いていることが多い。
「今日は全体練習だから、早く来て一人で練習をしていた……というところかな」
「はい、その通りです……」
部長はピアノの前に座ったところで、わたしの思考をぴたりと言い当てた。他に考えようもないほど単純な思考だけれど、やっぱり恥ずかしくなる。
「どれ、そこに立って。発声練習からしてみようか」
「あっ、はい。お願いします」
それでも部長は、断るのが申し訳なく思えるほど当たり前のように、優しく声を掛けてくれた。
「メニューはいつもの。始めよう。マーリーアー。表情を意識して」
「マーリーアー」
いつもの発声練習は四フレーズ。先生がいない日には、毎回部長がピアノを弾いてくれている。しかし今日は、隣に誰もいない完全なソロ。ピアノの音には、自分の声しか乗せられるものがない。その特別な感覚に、本来なら緊張してしまうところだけれど、先輩がとてもリラックスしてピアノを弾くのを見ていると、幾分気が楽になった。
「よし。前より声を出すことに抵抗がなくなってきたね。声量はまだ出せるだろうけど、音程は安定している。浜本さんの指導がいいんだな」
「はい。ありがとうございました」
「おい山岡、お前何してんだ!」
わたしが頭を下げたのと同時に、後ろから誰かが怒声を上げて近づいてきた。振り向くと、テノールの加藤忠之先輩だとわかった。ひとつ安心すると同時に、ちょっと呆れた気分になる。後から、梨子先輩と未海先輩も来ていた。
「笹原さんが早く来ていたから、一緒に練習をしていたんだ」
「抜け駆けだぞ、そういうのは俺に声を掛けろ」
「来るのが遅いんだよ。もう一回やる時間はないぞ」
「むう……」
部長はため息をつきながら、熱くなっている加藤先輩を冷静にあしらった。ところが加藤先輩は引き下がったと思わせて、わたしに近寄ってきた。
「悩んでいることがあったらいつでも、俺に、言ってくれよな。そこの堅物とかそっちのサルよりよっぽどいいぜ、笹原さん」
「あの、間に合ってるので……」
入部してから、何度誘われたことか。加藤先輩は妙に自信家で、確かにわたしよりは実力もあるけれど、敵わない部長や梨子先輩にいつも対抗心を燃やしているのだ。
「忠之くん! 梨子はサルじゃないぞ!」
「キーキー声出すことばっかりでよ、頭がパーなの知ってるんだぞ」
「うるさいうるさい!」
わたしはやんわりと距離を置いているけれど、梨子先輩はすぐに突っかかっていくのでけんかになる。
「そのくらいにしておけ。また顧問に絞られるぞ」
「くっ、しょうがないな」
「もう、忠之くん嫌いっ」
そこで二人を宥めることができるのは部長だけだ。未海先輩は梨子先輩の味方に付いて加勢することも多いし、千沙先輩はわたしと同じように、ただ見ているだけだ。
梨子先輩はその後、未海先輩にしがみついて文句を言いながら、慰められていた。こんな力関係もあって、実際バラバラに見える二年生だけれど、合唱となるとひとつになってしまうのだから不思議だ。
そのうち千沙先輩や一年生の男子たちも来て、時間になった。顧問が来たのでパートごとに整列したけれど、隣の梨子先輩はまだ少し不機嫌そうだった。
歌い始めれば、声はひとつの歌にまとまる。その日はもう一曲の話もされたけれど、わたしは『おおいぬの鼻』を間違えずに歌うことで精いっぱいだった。そのお陰か、やっぱり梨子先輩の力かもしれないけれど、ソプラノパートは意外に褒められた。その分アルトの二人が「互いの声が聞けていない」とか「音程が引っ張られている」と言われているのを、わたしは他人事と思えずに心の中で震えながら聞いていた。
しかしそのとき、わたしは本来なら合唱のことで震えている場合ではなかった。前の週にあった数学の単元テストで赤点を取ってしまって、次の日に追試を控えていたのだ。
両親にもそのことはひどく叱られていて、その日もわたしは「部活で遅くなる」とは間違っても言えなかった。ただ、部活が終わったらすぐに帰って、徹夜で教科書と向き合っていた。
そうして迎えた当日だ。詰め込んだ内容は、朝からあくびをするたびに零れていったような気がする。解答欄はほとんど埋められたけれど、結果は天に任せようと思う。最悪の場合は部活停止だから、不安で帰り道にも前を向いて歩けなかった。
「あれ、汐音じゃない? 汐音」
すると校舎を出たところで、不意に落ち着いたアルトの声に呼び止められた。わたしは驚きに足を止めて振り返る。千沙先輩だ。竹ぼうきを持っている。
「千沙先輩、お疲れ様です。それ、どうしたんですか?」
「私、ボランティア部と兼部してるの。学校の周りを掃除してて、今終わったところ」
「あっ、そうだったんですね」
合唱部にいるときと同じ制服姿だけれど、夕影の下で竹ぼうきを持っている千沙先輩は普段と全く違う見え方をした。その新しい印象の中で、不安が少し紛れる。
「今帰るところ? 良かったら一緒に帰ろう」
「はい、いいですよ」
「ちょっと待ってて、片づけてくるから」
校舎の裏へ走っていく先輩を見ながら、わたしは心の中でお礼を言った。千沙先輩とわたしは同じ駅を使っていて、これまでにも何度か一緒に帰ったことがある。
その場で千沙先輩を待つ。校門の外を、ユニフォーム姿の一団が駆け抜けていった。後を追うように風が吹く。すっかり肌寒くなった。足元をからからと落ち葉が転がっていく。そういえば、今朝は雪虫を見かけた。
ふと、わたしが先輩方と一緒にいられる時間も、あまり長くはないのだと思った。先輩との関係では後輩のままだけれど、部の中ではわたしも先輩になって、女声パートを一人で……。
「お待たせ。行こう」
「はい」
千沙先輩が戻って来たので、今はそれ以上考えないことにした。二人で並んで歩き出す。背も歩幅も小さいわたしに合わせて、先輩はいつもゆっくり歩いてくれる。
「汐音は、こんな時間まで何してたの?」
「数学の追試があったんです……」
歩きはじめの話題がそれだったので、ちょっと出鼻を挫かれた気分になった。
「あらら。災難だったね」
「今度もダメだったらわたし、部活にも出られなくなります……」
再び不安に沈んでいくわたしを見て、千沙先輩は申し訳なさそうに笑っている。
「そういうところまで梨子に似なくていいのに……」
「好きで赤点取ってるんじゃありません」
わたしは元から数学が苦手で、別に梨子先輩の影響を受けたわけではないのに。そんな主張をしても意味はないけれど。
「ごめんごめん、でも通ってるといいね」
「今はそれを願うばかりです」
そこで一瞬、千沙先輩が空を見上げた。ほんのりと金色を帯びた雲が行く。先輩の様子は何かを言おうとして、少しためらっているように見えた。
「汐音が来られなくなったら、梨子も悲しむよ」
やがて千沙先輩が言ったのは、梨子先輩のことだった。
「辞めさせられるわけではないですし……でも、わかります」
梨子先輩なら、わたしが補習になっても構わずに部活へ引っ張っていくかもしれない。本当にそうなったらと思うと、ますます赤点など取れなくなる。
「他の皆さんにも、心配をかけてしまうので」
「そうだね。やっぱり、汐音がいてこそのソプラノだと思うから」
千沙先輩は前のほうを向きながら、ちょっと恥ずかしそうに言った。何気にわたしもそんなことを言われたのは初めてで、全身が急に熱くなった。
「わたしなんてまだまだ、梨子先輩の添え物くらいにしかなりません」
恥ずかしさのあまりへりくだったことを言ったわたしを、今度の千沙先輩は隠さずに笑った。
「はは、そんなことないよ。私も……少し、羨ましいんだ。梨子も汐音も毎回楽しそうでさ。互いにいい影響を与え合ってるというか、見てるとそんな感じがして」
なんだか、寂しげだった。
「そうですか?」
「うん」
他のどのパートにも一年生がいる中で、アルトは先輩方の二人きり。仲良く見える二人だけれど、物足りなくなってしまうこともあるのだろうか。
そこでわたしは、昨日の全体練習を思い出した。
「未海先輩との練習、もしかして、上手くいってないんですか。違ったらすみません」
そう考えてしまうと心配になって、わたしは声に出してしまった。千沙先輩は明らかに一瞬、言葉を詰まらせたように見えた。
「まあ……いつものこと、かな。未海もあれで真剣なのはわかってるし、わたしがリーダーなのに、良い流れを作れないのも悪いし。大丈夫だよ、心配してくれてありがとう」
その言葉も、嘘ではないのだろう。そもそもわたしには、心配する以上のことはできない。
いつの間にか、駅に着いてしまった。わたしは電車で、千沙先輩はバスを使っている。
「じゃあね。また明日の部活で」
「はい。あの、お疲れさまでした」
バスターミナルのところで、千沙先輩は時計を見ると、わたしに手を振りながら走り出した。なんだか後味が悪い。自分のことで精いっぱいなわたしが出しゃばっても意味がないと思ったけれど、帰りの電車の中で、わたしは梨子先輩にメールをした。
『千沙先輩が、練習のことを気にしているみたいで心配です……』
『そうなの? 確かにくらみーもさっちも、なんだか息が合ってない気がする……よし、ここは梨子に任せて!』
梨子先輩からの返信を見て、何かが違うかもしれないと思った。でも、合唱のことなら梨子先輩はいちばん頼りになる。どう転ぶのか、事態を動かしてしまったわたしは、却って心配が増えることになった。
その土曜日の部活でも、わたしは早くから音楽室に入って練習をしていようと思った。それで職員室に鍵を取りに行ったけれど、既に鍵は持ち出されていた。先生は大抵休みなので、引き出しの中から鍵を借りていいことになっているのだ。
真っ先に部長の顔が思い浮かんだ。とりあえず階段を上って、音楽室の頑丈な扉を開ける。しかし、予想していたピアノの音は聞こえてこなかった。その代わり、ちょっと角のあるアルトの歌声が聞こえる。暖房が入っていないのか、中に入ってもやや寒い。
「未海先輩。おはようございます」
先輩は一人で黒板の前に立って、発声練習をしていた。わたしの姿を見て、隠すように右手で口を押さえる。まるで、見られたのがわたしで良かった、と言いたげな顔をして。
「汐音か。おはよう」
「練習、してたんですか」
「まあね」
わたしはバッグを置いて先輩の前に立った。
「汐音も偉いなあ、いつも早くから来て練習してるんでしょ。感心感心」
すると先輩はそう言って、わたしの頭を撫でまわす。「いつも」というほどには来てないけれど、今は指摘しなかった。
「未海先輩も……いつも、頑張ってると思いますよ」
代わりになんとなく言ったことだけれど、嬉しかったのか、先輩の手はより念入りにわたしを撫でる。ただ、先輩自身はひどく手持無沙汰な顔をしていた。
「あの……先輩?」
「ああ、ごめんね」
わたしが声を掛けると、未海先輩は我に返ったように手を止める。
「一緒に、練習しませんか」
「そうだね、うん」
何かを悩んで、練習に集中できていない様子だ。やっぱり、アルトパートのことか。
「発声練習からしますか?」
「そうだ、汐音。ちょっとあたしの歌ってるの、聞いててよ」
とりあえず練習を始めようとしたところで、先輩のほうから頼まれた。
「いいですよ。指揮とかは、できないですけど」
それ以前に、わたしはアルトの正確な音程も把握していない。何か役に立ちたいと思っただけの見切り発車だった。
「じゃあ、出だしだけ振ってくれる?」
「はい」
頭の中で部長の指揮とテンポを再現しながら、わたしは右手を構えた。なんだか、梨子先輩との練習も思い出される。自分がこっちの立場になったと思うと笑いそうになるけれど、今は真剣だ。
練習開始までは二十分以上あった。未海先輩の歌を聴きながら、もし互いにここで会わなかったら、どうやってこの時間を過ごしただろうと想像する。わたしも未海先輩ももっと手さぐりに、闇雲に声を出すだけになった可能性が高い。
未海先輩の歌は声量こそあるけれど、どこか乱暴さを感じた。熱心に歌おうとするあまり、体に力が入りすぎているようにも見える。
「どうだった? 遠慮なく言っていいよ」
「えっと……声量はいいと思うんですけど、もう少し力を抜いて、声の響きを大切にしたほうがいいかもしれません」
慎重に言葉を選んだけれど、言いたかったことは言えたと思う。とはいえこれは、わたしも練習で梨子先輩に言われることなのだけれど。
「汐音もそう思うか……その声の響きってさ、千沙にも言われたんだけど、どうやったらいいんだっけ?」
「腹式呼吸だと思います。喉で無理に声を出そうとするのでなくて、お腹の全体を使って歌う感じ、です」
「そっか。腹式呼吸、気が付くとやってないんだよね……パート練の前とか腹筋するじゃん、大事なのはわかってるんだけど」
すると未海先輩は、もう一度歌う姿勢になって、そこから両手でお腹を押さえた。
「ちょっと聞いてて」
チューニングをするように、ある音を何度か声に出す。その声の響きは、さっきの歌よりも柔らかく聞こえた。
「どう?」
「さっきより良いと思います」
「なるほど。でも多分、歌ってるときまではできてないんだよね」
「慣れたらできるようになりますよ」
そこで未海先輩は、大きく両手を上げて伸びをする。いつの間にか音楽室は暖かくなっていた。
「あとは、千沙と合わせられるか……」
そんなつぶやきを聞いたけれど、わたしは昨日ほどは心配しなかった。
「先輩方なら、大丈夫です」
「ふふ、そうもいかないんだな。頑張るけどね」
素直に応援してみたけれど、未海先輩は自信なさげに笑った。
「梨子くらい上手くなれたら、苦労しないんだけどなあ……ねえ、一回二人で、『おおいぬの鼻』合わせてみよう」
「はい、いいですよ」
わたしも悪いけれど、いざ二人で合わせてみると、まるで噛み合わない思いをした。途中で部長が来たので聞いてもらったけれど、部長は言葉を濁して「あと一か月ある、頑張ろう」と苦笑いした。
「汐音ちゃんは、くらみーとさっちのこと、どう思う?」
パート練習に入った矢先、梨子先輩に聞かれた。
「二人とも、本気で練習に取り組んで、上手くなろうとしてると思います。でも、実際にはなかなかできない……わたしもなんですけど」
「だよね。汐音ちゃんは梨子が教えるから大丈夫だけど、あの二人までは梨子も大変だから……」
「そういう問題、なんですか?」
「今のは冗談だよ。じゃあちょっと一回、二曲とも通してみようか」
「は、はい」
昨晩「任せて」と言っていた梨子先輩だけど、どこまでが本気なのかは全然わからない。
二曲目は『White Christmas』だった。この曲もアカペラで、短いけれど英語の歌詞で歌うことになっている。まだ完全には覚えきれていなくて、自信を持って歌うことができなかった。梨子先輩は当たり前のように、のびのびと歌いこなせている。
「いいよ。じゃあ、今日は汐音ちゃん、『White Christmas』をちゃんと聴いて覚えよう。アルト見てきていい?」
「えっ、ああ……はい。やっておきます」
歌い終わるなり、梨子先輩は明らかに雑な指示を出して、練習室のドアノブに手を掛けた。目的もわかっていたので、わたしには止められない。そもそもわたしが返事をする前に、梨子先輩は出て行ってしまったのだ。
この部屋は防音構造になっているけれど、ドアに近づけば、ひとつ外の部屋で練習をしているアルトの声が聞こえる。それは逆もしかり。気になるけれどさぼっていたらわかるので、わたしはプレーヤーの電源を入れた。
とりあえず一度ずつ、音声に合わせて歌ってみた。心を落ち着かせるため、なるべく歌の世界に入り込もうと意識する。やっぱり、クリスマスは楽しく暖かな気持ちで迎えたい。
雪の中で、何かを心待ちにして星空を見上げる。ベルの音を聞きながら、クリスマスカードも描いた。そして清らかな白い夜に、輝きが降りてくる……二曲合わせて、そんな情景を思い浮かべた。
音声が止まると、ほんの少し、道に迷ったような気持ちになる。今は梨子先輩に言われた通り、しっかりと曲を覚えるべきだ。それははっきりしているのに、なんだか不安がある。
わたしは練習室のドアに耳を近づけた。
「くらみー、今度全体で合わせるときにさ、わざと口パクか、歌わないで参加してみたら?」
「……なるほど」
いきなりとんでもない話が聞こえてしまったので、わたしは感情に任せてドアを開けた。
「梨子先輩、そんなのってあんまりです!」
ところが先輩方は、揃ってきょとんとしてわたしを見るだけだった。わたしが想像してしまったような、険悪なムードというわけではない。
「汐音ちゃん、聞いてたな!」
ちょっと怒った様子の梨子先輩。言われた通りに練習をしていなかったのだから無理もない。
「だ、だって、未海先輩に歌わせないなんて……」
「意地悪で言ったんじゃないよ。くらみーはね、他の人の声を聞く感覚を覚えたほうがいいって思ったの。だから一回だけ」
「あたしも上手くなろうと思ってすることだから。汐音は普段通り歌いなよ」
本人にもそう言われて、わたしはどこか割り切れない思いをかかえながらも、引き下がるしかなかった。その間、千沙先輩は重い表情でわたしたちのやり取りを見ているだけだった。
練習が終わると、早々に梨子先輩と未海先輩はカラオケで特訓すると言って帰って行った。わたしは家でお昼を食べる予定だったので、千沙先輩と一緒に帰ろうとしたけれど、加藤先輩に呼び止められた。
「笹原さん。またあの浜猿が、何かやらかしたんじゃないのかい? こっちの練習場所まで鳴き声が丸聞こえだったぜ」
「ああ……」
テノールの練習場所は、ソプラノの練習室の隣で、やっぱりドア一枚でアルトの練習場所と隔てられている。
「加藤くん。梨子は私たちのために教えてくれてたの。そういう言い方はないんじゃない」
すると、見ていた千沙先輩が助けを出してくれた。しかし加藤先輩は首を傾げるだけで、たいして取り合っていないようだ。
「アルトはどうでもいいんだよ、柳内が本当はリーダーなんだからさ。浜本がそっちに構ってた間、笹原さんはどうなった?」
そこまで聞いて、加藤先輩の言いたいことがなんとなく理解できた。あのとき一人になったわたしのことを、心配してくれたのだろう。あまりに一方的なので、困ってしまうけれど。
「それは……」
千沙先輩は黙ってしまった。わたしのせいだ、という思いが飛び出す。
「わたしが、梨子先輩に頼んだんです」
「笹原さんが? またどうして」
予想外だったようで、加藤先輩は急に語気を弱めた。千沙先輩も引きつっていた表情を少し緩めて、わたしのほうを見た。
「あの、千沙先輩も未海先輩も、練習のことで悩んでたみたいで……わたしは何もできないので、梨子先輩に相談したんです」
「そうだったんだ……」
二人とも意外そうにしていたけれど、どちらかと言えば千沙先輩のほうが驚いたようだった。そして千沙先輩の表情には、申し訳なさそうな感じが浮かんできている。
「汐音、ごめんね。加藤くんも。やっぱり私が悪いんだ、あとは、アルトの中でなんとかする」
やがて、千沙先輩は頭を下げて謝った。そのままバッグを持って、音楽室を出て行ってしまう。
「千沙先輩、そんな……」
「おい、俺は別に、そこまで……」
加藤先輩もさすがにまずいと思ったようで、閉じられた音楽室の扉を見つめてしゅんとしていた。
「どうしたんだ? 加藤、また笹原さんに絡んでるのか」
そこに、練習室のほうから山岡部長が入ってきた。本来なら反発するような疑いを掛けられた加藤先輩だけれど、何も言い返そうとしない。私はすぐに説明した。
「違うんです。部長、実はアルトのことで……」
「ああ……様子はなんとなく知っているよ。で、加藤が余計なことを言ったんじゃないのか?」
睨みはしないけれど、加藤先輩を一瞥。今の状況だけを見ても、部長にはこのくらいお見通しなのだろう。
「だってよ、浜本が、笹原さんを放ってアルトを教えてたって……笹原さんが、アルトを心配して頼んだらしいんだけど」
「そうなんです」
さすがに懲りたのか、加藤先輩は一部始終を素直に話した。私もそれを保証するように頷く。部長はちょっと顔をしかめた。
「それで、練習中浜本さんの声が聞こえてたんだな。確かにそれはあまり良くないが……アルトの現状を鑑みるに、浜本さんに頼りたくなるのもわかる。彼女は、どのパートでも教えられるだろうから」
バスの練習場所は、音楽室のこちら側だ。他のパートとは離れているけれど、場所を隔てる壁やドアはない。
「でも、梨子先輩に頼ったのはわたしなんです。そのせいで、千沙先輩の立場を奪ってしまったみたいで……悪いことをしました」
「そうかもしれないな。柳内さんが実際にどう思ったかはわからない。ただ、パートの中で問題を解決できなかったのは、リーダーとして悔しいことだろうと想像はつく」
仲の良い先輩方だから解決できるだろうと、わたしは楽観的に考えていた。仲が良いことと、合唱が上手くいくことは別だということにも、なんとなく気付いていたのに。
「わたしには、できることはあるでしょうか」
「今は心配をするより、普段通りに練習に取り組むのがいちばんだろうね」
責任を感じて尋ねたけれど、部長はそれだけしか言わなかった。わたしに気を遣ったのか、とても優しい調子で。
「はい……」
「もちろん加藤も、余計な口出しをしないように」
「わ、わかってるよ」
だいたい、何をしようとしてもわたしには根本的な解決などできそうもない。それなら余計なことをしないのがいちばんなのもわかる。だけどわたしは、なんとか先輩方の助けになりたいと思った。いつまでも任せきりの後輩ではいられない、そんな自覚が生まれた。
初雪が降って、わたしは親にダウンのコートを着せられるようになった。帽子に手袋にマフラーもして、毎日フル装備だ。歌の中ではロマンチックなのに、現実の冬は無骨で不便で、わたしはあまり好きではない。油断するとすぐに喉が痛くなってしまうので、マスクも手放せなくなる。
それでもわたしは、冬ならではの思い付きをした。喉にいいというショウガを入れたハニードリンクを作ったのだ。これで少しでも、練習を頑張る先輩方への励ましになればと思った。
数学の補習はなんとか回避できたので、木曜日の練習に魔法瓶にいっぱいのドリンクを持ち込んだ。音楽室にいちばん乗りしてストーブの前で体を温めながら待っていると、最初にいつも通り、部長が入ってきた。
「笹原さんか。今日も早いね、お疲れ様」
「お疲れ様です。部長、ハニードリンク飲みませんか」
「ハニードリンクか。笹原さんの手作り?」
「はい。この時期、皆さん喉を傷めるといけないと思って」
「じゃあ、頂こうかな」
部長が背中のリュックを下ろす間に、わたしは紙コップにドリンクを注いだ。ぬるくなってしまっていたけれど、安心する香りが広がる。
「どうぞ」
「ありがとう」
紙コップを渡すと、部長は最初ゆっくり味わうように、途中からは一気に喉を潤すようにドリンクを飲み干した。その表情は温かく、しっかりと効果が出たとわかった。
「美味しいね。良かったよ」
「ありがとうございます。これから寒くなるので、また作ってきますね」
「楽しみだな」
そのうち、男声の人たちが揃って同時に入ってきた。練習開始の十分前を回って、わたしはドリンクを振る舞いながらも、違和感を覚える。未海先輩や梨子先輩が遅い。千沙先輩はいつも最後のほうだけれど、二人はもう来ていておかしくない時間だ。
加藤先輩におかわりを出しながら待っていると、梨子先輩がようやく、飛び込むように入ってきた。ところが、後から来たのは千沙先輩一人だけ。
「柊二くん、今日、くらみーお休みなんだよ! どうしよう?」
「倉野さんが? そうか……」
梨子先輩はいきなり部長の前に駆け寄って言った。これには部長もわたしも驚いたけれど、さすがに部長はすぐ冷静になった。どうしてそんなに落ち着いていられるのか、わたしのほうが心配でわけがわからなくなってしまった。
「未海先輩、月曜は元気そうだったのに。大丈夫なんですか?」
「それがねえ……ちょっと無理してたのかも。昨日から結構咳してたの、今日も朝から熱っぽかったのに、部活も出ようとしてて……でも、昼休みに保健室に行って、結局早退することになったんだ」
そのとき何よりわたしを不安にしたのは、梨子先輩の重たい表情だった。いつか未海先輩が夏風邪で部活を休んだときには、もっと茶化すようなことも言っていたのに。
「なるほど。倉野さんには、ゆっくり休んでもらいたいけど……気持ちを察するに、とてももどかしいだろうな。今日はとりあえず、アルトは一人でやろう。柳内さんは、それで大丈夫かな」
「うん。私は大丈夫だから、普段通り練習しよう」
千沙先輩は言葉の通り、あくまで普段通りに見えた。そうだ。今日はまだ練習なのだ。未海先輩のことは心配だけれど、それで自分のことが疎かになったらもっとダメになる。
「あの、梨子先輩、千沙先輩。ハニードリンク作ってきたんですけど、飲みませんか」
「おっ、美味しそう! 飲ませて!」
「私にもくれる?」
ハニードリンクを持ってきて本当に良かった。先輩方の分を注いでから、わたしも残りを注いで一気に飲んだ。
その日の練習は、未海先輩がいない分、アルトがとても物足りなかった。ユニゾンになると、もう梨子先輩の声しか聞こえないような気もする。それでも千沙先輩だけのアルトは、物足りないことを除けば無難に歌えていたようで、先生もあまり厳しくは言わなかった。
「笹原、五段目の歌詞を間違えたな。確認しておけ」
「はい、すみません!」
結局、心の乱れを先生に聞かれていたのはわたしだけだったと思う。
練習が終わった後、千沙先輩と二人で梨子先輩からのアドバイスを聞いていたら、その流れで、千沙先輩が言いだした。
「あのさ。私、未海のお見舞いに行こうと思うんだけど……」
「梨子も行きたい! くらみーの家知らないでしょ?」
「いやいや、知ってるよ。遊びに行ったことあるし」
千沙先輩からその提案が出たことで、わたしは少し前向きになれた。
「あの、わたしも行っていいですか?」
「いいんじゃないかな、くらみーも嫌がりはしないと思うよ」
二人が行くならわたしの出番はほとんどないと思ったけれど、未海先輩にこそハニードリンクを飲んでもらいたくなって、わたしも一緒に行くことに決めた。
未海先輩は、高校の近くで一人暮らしをしている。次の日の放課後、わたしは二人についてそのマンションまで行った。約束も千沙先輩が取り付けてくれたらしい。
「未海、来たよ」
「くらみー、元気か!」
「お邪魔します……」
入口でインターホンを鳴らしたので、部屋の鍵は開いていた。先輩方に続いてわたしも入っていく。一応、全員分の靴を揃えなおした。
「いらっしゃい。ごめんね、心配かけて」
未海先輩は暖かそうな丹前を着て、居間で紅茶を飲んでいた。その声は確かにかすれていて、まだ熱のありそうな赤い顔をしていたけれど、そこまで体調が悪いわけでもないようだ。
「くらみーがいないとアルトは合唱にならないじゃん、しっかりしてよ」
「うん……早ければ明日から、また出られるかな。薬も飲んでるし」
しばらく、未海先輩の淹れた紅茶を飲んでいた。その間話していたのは梨子先輩ばかりで、わたしと千沙先輩はたまに口を挟むだけだった。主に、話しすぎの梨子先輩に歯止めをかけるために。
「ん、ちょっとお手洗い借りるね」
「はいはい」
やがて梨子先輩が席を立つと、話は途切れてしまった。気まずい空気。未海先輩は気に留めない様子で紅茶を飲んでいたけれど、千沙先輩は何かを言いだそうとしていた。
「あの、わたしハニードリンクを作ってきたんですけど、未海先輩、飲みませんか」
とりあえず沈黙に耐えられなかったので、わたしはバッグから水筒を取り出して、未海先輩にドリンクを勧めた。
「ほんと? ありがとう、じゃあ一杯もらおうかな」
「じゃあ、どうぞ」
未海先輩がいいと言ったので、わたしは空いたカップにドリンクを注いだ。きりっとした紅茶の香りに、ハチミツの甘い香りが加わる。
「これ、ショウガも入ってるね。喉にいいの、作ってくれたんでしょ? 甘すぎなくて美味しいよ」
「ありがとうございます」
一口飲んで、未海先輩はうっとりと目を細めた。部活のときはここまで詳しく感想を言われなかったので、ちょっと嬉しくなる。
「あのさ、未海……」
「おっ、いい匂い。汐音ちゃんのあれ、メイプル系のやつ?」
未海先輩が再びカップに口をつけたところで、千沙先輩が何かを言いかけた。そこに、梨子先輩が戻ってくる。
「普通のハチミツです」
「普通って言っても、いろいろあるでしょ。レンゲなのかアカシアなのか、他のなのかとか」
「そこまでは、わからないですけど……」
「あんまり汐音いじめないの」
意地悪に食い下がってきた梨子先輩を止めたのは、未海先輩だ。この二人の間は、やっぱりいつも通りの雰囲気を感じて少し安心した。
でも、千沙先輩と未海先輩はさっきからほとんど話していない。ただ同じテーブルを囲んでいるだけの、もどかしい雰囲気を感じる。
何とかしたい。後輩として、できることを必死に探す。
「さて、じゃあ梨子はそろそろ帰ろうかな。まあくらみー、ゆっくり休みなよ」
ところがそこで、梨子先輩が帰り支度を始めてしまった。千沙先輩は何かを諦めたように表情を緩める。わたしは……。
「あっ、あの。梨子先輩、ちょっといいですか?」
とっさに席を立って、梨子先輩に声を掛けた。
「おっ、こんなところで告白か」
「違うんですけど、あの……とりあえず、来てください」
ダイニングキッチンだと丸見えなので、二人で洗面所に入る。その間際に、千沙先輩の困惑する顔が見えた。
「で、どうしたの?」
二人きりになると、梨子先輩は何かを察したのか、途端に真剣な顔になった。
「あの、千沙先輩が、未海先輩に何かを話したそうな感じがしてて。わたしたちがいたら、話しにくいと思ったので」
「なんだ、てっきり裏取引でも持ちかけられるんじゃないかと思ったよ」
「違いますって」
無理やりだけれど、これで向こうも二人きりになった。わたしは息をひそめて、居間の様子を窺う。
「汐音。どうせ聞いてるんでしょ。出てきてもいいよ」
すると、千沙先輩から意外な言葉を掛けられた。わたしの浅い考えが見透かされたようで、出ていくのはとても恥ずかしかった。
「千沙先輩、ごめんなさい」
「まあ、元はと言えば私が、汐音に心配かけるようなことしたから」
居間に戻ると、千沙先輩は静かに頷きながら言った。
「ねえ、未海。これからの練習なんだけどさ」
「うん」
「雪が積もったら、私もボランティアのほう落ち着くし、部活のない日でも練習しよう」
未海先輩は頬杖をついて聞いていた。その表情には少し疲れの色が見えていたけれど、千沙先輩の誘いを受けて、ちょっと明るさが表れる。
「いいよ」
「私は、リーダーとしては未熟かもしれないけど、最後には未海と二人で、アルトを歌い切りたいと思ってる。だから、気になることがあったら遠慮なく言って。これからは、梨子に頼らなくてもいいように頑張るから」
今、二人の間にあったわだかまりが、春の雪のように解けてきている。わたしは二人の表情を見て、なんとなくそう思った。
「さっち、梨子にはもっと頼ってくれてもいいんだよ?」
「梨子先輩、それならわたしに頼らせてください。ソプラノには、梨子先輩しかいないんですから」
梨子先輩が不満そうだったので、私は先輩の袖をつかんで言った。
「汐音ちゃん、言うようになったね。でも汐音ちゃんは甘えてちゃダメだよ。もっと上手くなろう」
「わたしも頑張りますので、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします」
大体のことは、良い方向へ向かっているように感じた。本番までは残り一か月。部屋に残ったハニードリンクの香りを、わたしは深く吸い込んだ。
II
未海先輩が復帰した後の練習で、初めに部長がこんな話をした。
「当たり前だけれど、合唱は声の演奏だ。人の声に代わりはない。オーケストラなら、演奏中に例えば、ヴァイオリンの弦が切れたとして……うん。浜本さんは、知っているね?」
たまに部長はこうして、合唱の心構えの話をしてくれる。先生のように上から教えるような感じではなく、あくまで対等な目線から。
「何かのビデオで見たことあるよ。弦の切れた楽器を端の人まで回して、舞台裏で交換してくるんだよね」
「そうだ。僕からすれば、こうしたバックアップの整っている環境は素晴らしいと思うし、羨ましくもある。しかし、合唱では結局のところ、自分の声だけが頼りだ」
隣で未海先輩が小さく唸ったのが聞こえた。確かに今は未海先輩も復帰したばかりで、この話はタイミングが悪かったかもしれない、と思った。
「だから、これから本番までの一か月は、特に気をつけて過ごそう。誰一人欠けても、この合唱部の合唱にならないんだ。その大切な声を、守り抜いてほしい。では、練習を始めよう」
最後まで聞くと一転、身の引き締まるような思いがする。話の終わり際にちらりと未海先輩の顔を見たら、やっぱり悔しそうにはしていたけれど、もう二度と休んだりしないという強い気持ちを感じた。他のみんなも、全体として意気が上がっている気がする。
練習も全体で合わせる機会が増えて、だんだんと仕上げの時期に入ってきている。わたしは上手になった自信があるわけではないけれど、明らかに合唱は完成に近づいていた。それを聞いて、部長の言った「この合唱部の合唱」を実感する時間が何よりの励みになった。
そこで調子に乗ってしまうのがわたしの悪いところで、一週間経った頃のパート練習で、梨子先輩にこんな質問をした。
「梨子先輩、わたし、合唱上手くなりましたか?」
こういう話のときこそ梨子先輩は冗談めかしてくれないもので、一分くらい考え込んだ後の答えがこれだ。
「二曲とも曲を覚えて、表現を考えながら歌う余裕が出てきたよね。でも、それは上手くなったわけじゃないと思うんだ。前に歌った曲でも、汐音ちゃんはこのくらい歌えてた」
調子に乗るなと言わんばかりの、冷静な言葉。私には反論の余地がなかった。
「そうですね、すみません」
「でも、汐音ちゃんの良くなったところはたくさんあるよ。例えば、前よりも自分から合唱に混ざって、楽しんで歌うようになったところ。上手くなることより、それは大事じゃないかな」
それでも梨子先輩は、次には温かい言葉を掛けてくれる。ここまでわたしのことを気にしてくれていたことにも嬉しくなった。
「梨子先輩……ありがとうございます」
「だって、クリスマス会だよ。コンクールだったら、上手に歌おうって気持ちにもなるけど、それだけじゃないでしょ?」
「先輩の言う通りです」
アルトもあれからは、順調に二人の息が合ってきているのがわかる。不安だったことはなくなって、このまま楽しくクリスマス会を迎えられるという期待が胸を満たしてきた。
不安だったことの中には、中間考査もあった。この間取ってしまった数学の赤点もあって、わたしにとっては失敗の許されない戦いだった。それでもわたしは調子が良くて、結果はほとんどの科目で平均を超えた。久しぶりに堂々と親にも見せられる点数だったことも嬉しかったけれど、わたしにとってはこのまま部活を続けていけることのほうが大切だった。
ところが、神様はそんな幸福のために、代わりのものをわたしから取っていってしまったらしい。
「二年三組の浜本梨子さん。至急職員室まで来てください」
ある昼休み、聞き慣れない先生の声で、梨子先輩が呼び出された。先輩が呼び出されること自体はこれまで何度もあったけれど、その先生の厳格な声の調子には、わたしも嫌な予感をせずにいられなかった。
梨子先輩に何かあったら、わたしは一人になってしまう。
心の底まで凍りついてしまうような、恐ろしい想像だった。幸いにもその日は月曜日で部活があったので、わたしは放課後になるとできるだけ早くに音楽室へ駆け込んだ。
まだ暖まりきらない音楽室には、早すぎたのか、部長のピアノの音もなかった。それでも鍵が開いていたのは、未海先輩がいたからだった。
「お疲れ様です。未海先輩……」
様子が、違っていた。普段なら、早く来たら発声練習をしているはずの未海先輩が、椅子に座って机に伏せている。わたしが近寄ってもう一度声を掛けると、ようやく顔を上げてくれた。
「未海先輩、何かあったんですか」
「……汐音、ごめん」
未海先輩は、梨子先輩と同じクラス。わたしが想像したそのままのことを、未海先輩はためらいながら、本当に小さな声で言った。
「梨子は、クリスマス会に出られない」
「そんな、だって、えっ……クリスマス会、あと二週間ですよね。そんな先のこと」
そんなはずはない。だけど、未海先輩は嘘を言っているようには見えなかった。
「さっき、梨子がうちの学年の主任に呼ばれてさ。一か月、部活停止になったって」
「梨子先輩がいったい、何をしたんですか」
「……この間の考査で補習になって、木曜日だったんだけど、家の用事があるって嘘ついて部活に参加したのが知れちゃったみたい」
「そんな……」
それ以上、わたしは言葉が出なかった。脚に力が入らなくなる。肩が震えてきた。不安とか、怖さとか、悲しさとか、色々な感情が押し寄せてきて、やり場のない苛立ちが湧いてきて、わけがわからなかった。
「笹原さん、大丈夫か」
「……少しの間、そっとしておいてあげて。汐音、そっち行こうか」
部長の声がして、わたしは部員が集まってきているのがわかった。でも、その中に梨子先輩はいない。未海先輩に、優しく手を引かれる。わたしたちは、そのままみんなの目につかない、練習室の隅っこに入った。
涙が出てくる。
「木曜日、梨子を止められなかったあたしも悪いんだ。汐音を一人にできない、バレなければ平気だって言われて。そんなこと、先生にはお見通しだった。本当にごめん」
未海先輩は、わたしの肩を撫でながらそう言った。でも、それってなんだか違う。
「未海先輩は悪くないです。それって、梨子先輩が全部……」
補習から逃げ出してまで部活に出たかったのも、それがわたしのためだったのも、それだけ梨子先輩に強い思いがあるのも、こんなことになってしまったら意味がない。間違いだ。梨子先輩は、何もわかっていない。
「……練習、始まっちゃったか」
未海先輩の一言で気付いた。ピアノと歌声。聞こえるのは男声ばかりで、ひどく歪んだ合唱だ。これが土曜日まで、わたしが楽しみに聞いて、頑張って加わろうと思っていた合唱だとは、とても思えない。
誰一人欠けても、この合唱部の合唱にならないんだ。
その通りだ。だから、この合唱部の合唱は、もう戻らない。少なくとも、そのクリスマス会の日までには。
結局、わたしは歌えなかった。一人でソプラノを歌うことが、こんなにも心細いことだとは思っていなかった。そのうち一人になる可能性があったとしても、今は心の準備なんてできているはずがない。
そしてやっぱり、梨子先輩もわたしの力を、そのくらいにしか思っていなかったのだと思った。わたしには、一人でソプラノを歌えるだけの力はない。
部活が終わると、まず部長が遠慮がちに声を掛けてきた。
「笹原さん。気の毒だけど、浜本さんが来月まで参加できないというのは、本当だった。僕も部長として、管理が足りなかったと反省している。今日は、ゆっくり休んだほうがいい。ソプラノをどうするかは、顧問や、二年生の間で話しておく。今からパートを変えるのは、現実的ではないけれど……笹原さん。苦しいことがあったら、遠慮なく誰かに相談して。僕らはこれ以上、この部の合唱を失いたくはない」
「はい。ありがとう、ございます」
頭を下げて、帰ろうと振り返ると、加藤先輩も表情を暗くしてわたしを見ていた。何かを言おうとして、何も言い出せないような感じ。わたしには、付き合っている余裕はなかった。
「汐音。駅まで、一緒に帰ろう」
音楽室を出ようとしたわたしに、千沙先輩がついてきた。先輩方の中では、まだいつも通りの振る舞いに見える。わたしはそこで頷いたきり、何も話さずに靴を履き替え、校舎を出た。
沈黙の中でも、千沙先輩はいつもの眼差しで歩いていた。重くなったわたしの歩調に合わせながら。そんな無言の優しさに、わたしの口が自然に開いた。
「……わたしは、これからどうすればいいんですか」
言えなかった、誰に言えばいいかもわからなかった弱音。
「やっぱり、一人で歌うのは怖い?」
千沙先輩は、それをしっかり受け止めてくれたような気がした。
「怖いです。これまで、わたしの隣にはずっと梨子先輩がいて、合唱のときはずっと梨子先輩の声を聞いていました。急に一人でなんて、無理です」
「だよね」
その何気ない一言にも、大丈夫だ、という温かさを感じる。顔を上げると、千沙先輩は微笑んだ。
「私もそうだったよ」
「えっ」
意外だったけれど、思い返せば千沙先輩も、一人でアルトを歌う場面があった。それこそ、この間未海先輩が休んだときも。あのときは普通に歌っているように見えたのに、千沙先輩はそんな気持ちでいたのか。
「未海先輩が、休んだときですか」
「うん。周りのみんなが、自分と全く違うパートを歌っている。そんな中で自分は、ちゃんと自分のパートを歌わなきゃいけない。心細いよね」
「はい」
「でも、違うパートを歌っていたって、みんなでひとつの曲を完成させようとしているのは同じだよね。部長も言ってたけど、それが私たちの合唱だから、一人でも怖気づいてる場合じゃないって思ったの」
「そう、ですよね……」
確かにそうだ。わたしは一人じゃない。周りのみんなが、頼れないわけじゃない。でも。
「あとは、梨子に直接ぶつけてみたら?」
千沙先輩が、少し冗談めかして言う。梨子先輩のことが頭に浮かんだ。今頃、どんな顔をしているのか。わたしのことを、何だと思っているのか。次々と考えるうちに、すぐにでも会って話したくなってきた。
「はい。なんだか、そうしないと治まらない、気分なんです」
「別に、梨子も部員に会うのは禁止されてないだろうし、却って喜ぶんじゃないかな」
「……ちゃんと、反省してもらうんです」
明日にでも会いに行こうと思った。
ところがその夜、梨子先輩から電話が掛かってきた。わたしは心の準備をしてからケータイを取る。
「あっ、汐音ちゃん。今大丈夫?」
電話だからかもしれないけれど、普段より声のトーンが低い。いつもの調子でなくて、良かったのか、悪かったのか。
「はい。大丈夫です」
わたしも話したいことがあった、とは言わないでおく。
「えっと……今日は、行けなくてごめんね。それで、もうひとつ、謝らなきゃいけないことがあって」
それで一度は梨子先輩の言い分も聞いてみようと思ったけれど、たどたどしく謝ろうとするので、わたしはなんだかじれったくなってきた。
「……未海先輩から、聞いてますよ。クリスマス会に出られなくなったこと」
「そっか。本当にごめん。これからの練習にも、参加できなくなっちゃったから……何か困ったら、いつでも言ってね」
確かにこうして謝ってくれることが、わたしの期待した反応だったのかもしれない。でも、実際に梨子先輩が謝るのを聞いて、わたしの中では違和感が膨らむばかりだった。
聞いていると、梨子先輩は口癖のように、ごめん、本当にごめんと繰り返す。そのときの気持ちは、未海先輩にこの話を聞いたときと同じように強く押し寄せた。
「もう、謝らないでください」
「汐音ちゃん……」
梨子先輩の前では泣きたくなかったけれど、涙声になっている。それでもわたしは続けた。
「だって、先輩は謝ってどうにかなると、本当に思ってるんですか。もう取り返しがつかないんです。どれだけわたしのことを考えてくれても、遅いじゃないですか。せっかく、先輩や他のパートのみんなと、わたしたちだけの合唱をすることが、どれだけ楽しいかわかってきたのに……先輩がいなくなったら、全部台無しじゃないですか!」
だんだん、感情的になってしまって。梨子先輩を、今ほど頼りなく感じたことはなかった。本当はきっと、普段通りの梨子先輩を――無鉄砲で、遊びたがりだけど、合唱に熱心で、誰よりも明るくて、わたしのことをいちばん近くで見てくれている先輩を――その声だけでも感じたかったのに。
「……そうだよね。うん。今日はもう切るよ」
そのあまりに、わたし自身が先輩を打ちのめしてしまったことに、今更気付く。
「あっ、梨子先輩、ごめ……」
通話は、わたしの言葉を待たずに切られてしまった。わたしも、取り返しのつかないことをしてしまった。
そんな最悪の夜が明けて、もう一日経って、土曜日になった。梨子先輩とは連絡を取っていない。部活に行くのは、正直に言って怖かった。でも、部長が言ったように、これ以上合唱を壊すわけにはいかない。今、わたしの心がどれだけ壊れていたって、わたしにはソプラノとして合唱に参加する責任がある。
雪は本格的に積もって、気温もマイナスになることが増えた。それでもコートのおかげで長く歩いていると暑い。ただ、その日は体の芯がずっと冷え切っているような気がした。
時間ギリギリで着いたので、音楽室には他のパートの全員が揃っていた。梨子先輩は、やっぱりいない。
「汐音、おはよう」
バッグを置いたところで、未海先輩が声を掛けてきた。わたしが梨子先輩に言ったことが伝わっているのではないかと想像して、無意識に身構える。
「おはようございます」
「あのさ、今日から、もうクリスマス会の二曲については全体で合わせるだけなんだよね。パート錬は送別会とか、春の新歓の曲に入って行くんだけど、汐音がいいなら、梨子がいない間パート練習も女声合同にしようって話してたの。大丈夫?」
「わたしは、いいですけど……」
普通に練習の話だった。それでその日はわたしがアルトパートにお邪魔して、三人で練習をした。その間未海先輩や千沙先輩は、一言も梨子先輩の話をしなかった。練習中にするような話ではないから、当たり前だけど。
結局、練習が終わった後、わたしは罪悪感に苛まれて、未海先輩に梨子先輩のことを尋ねた。
「あの、梨子先輩はあれから、大丈夫ですか」
「そうだね……大丈夫、ではないかも。課題とか補習とか厳しくされてて、疲れてるみたいだった」
「わたしのことは、何か話してましたか」
「まあ、汐音には謝っておくように言われたきりかな。もし良かったら、梨子に汐音が心配してたって伝えてあげるよ」
なんだか少し、軽い話の流れになった。未海先輩は本当に何も知らないようだ。それなら逆に、わたしから未海先輩を巻き込むわけにはいかない。
「あっ、そこまでは大丈夫です。あの、ソプラノ、ちょっと弱くて戸惑うかもしれないですけど、クリスマス会、一緒に頑張りましょう」
「そうだね。気が付いたら、本番ももうすぐか……」
そのままわたしは、話をうやむやにしてしまった。梨子先輩とも何のやり取りもなく、一日、一日と時間が過ぎた。そしてついに、二十四日。
川下高校合唱部さん、ありがとうございました。
終わった。だいたい、ソプラノが一人欠けていることなんて聞いている人は気付くはずもなく、その場では確かに、わたしたちの合唱は完成した。だけどわたしは、歌っている気がしなかった。ただ、決められた通りに声を出して。終わった後に、先輩方と「お疲れ様」の声を掛けあっても、達成感は心を半分も満たさなかった。
こんなままで、わたしは終わりたくない。
家に帰ってから、強くそう思うようになった。世間的には、冬休みが始まっていた。
クリスマス会から二日が過ぎて、未海先輩からメールが届いた。「明日打ち上げをやるから来てね」という内容だった。場所は未海先輩の家。梨子先輩も来ると書いてある。わたしはすぐに参加を決めた。そのときの気持ちには、いくらかの期待もあったに違いない。
当日、わたしは未海先輩の家まで行けるかどうか不安だったので、千沙先輩と一緒に行くことにしていた。
「汐音は、梨子に会うの久しぶりじゃない?」
「そうですね、結局梨子先輩が来られなくなってから、一回も会ってないんです」
「あれ、そうだったんだ」
薄暗い街路を、足元の氷に注意しながら二人で歩く。空は晴れて、その分肌に感じる寒さは強烈だった。
「一回、電話はしたんですけど、そのときにわたし、ちょっと言いすぎてしまって。梨子先輩にまだ、謝れてないんです」
千沙先輩が相手だとなんとなく話しやすくて、わたしはずっとかかえていたことを割にあっけなく話してしまった。
「汐音が?」
千沙先輩は、さも意外なことが起こったかのように笑う。面白がっているのか。
「笑わないでください。真剣なんです」
「ごめんごめん。そっか、ぶつけすぎちゃったか」
「そうやって言ったの、千沙先輩じゃないですか」
「でもね、汐音もそのくらい、言えるようになったんだなって……梨子なら大丈夫だと思うよ。今日は早くから行って、未海の手伝いをしてるみたい。実は元気有り余ってるくらいだったりして」
空の境目の辺りを見上げて、しみじみと言う千沙先輩。やっぱりどこか保護者目線というか、生暖かく見守られているような雰囲気を感じる。
「そうだったら、いいんですけど」
「梨子が羨ましいよ、うん」
それは、何かを誤魔化すためだったのか。千沙先輩が見上げた空には、ちらちらと星の光が見えた。あの日歌った『おおいぬの鼻』は、いちばん明るい星の歌。その名前は……。
「千沙先輩。あの星の中に、あると思いますか? その……『おおいぬの鼻』が」
「シリウスのこと? どうなんだろうね。明るい星は、他にもあるから」
「そう、シリウス。……ふふ」
その名前を聞いて、わたしはふと、思い出し笑いをした。
「何か、おかしかった?」
「いいえ。梨子先輩のことを、思い出してしまって。シリウスのこと、『いちばん明るいお尻』って……」
「あったね、そんなこと」
それを思い出すと同時に、もうひとつ思い出したことがある。
「それから……あの、千沙先輩。わたし、梨子先輩のことを思い出したら、なんだか星を見に行きたくなりました」
「そんなことも言ってたっけ。冬休みなら、行けるんじゃない?」
「せっかくだから、四人で行きませんか」
「いいかも。梨子と未海にも話してみよう」
だけど、わたしはそれよりも前に、することがある。梨子先輩とちゃんと話して、謝らなければならない。
やがて、わたしたちは未海先輩の家に着いた。千沙先輩がドアを開けると、部屋の中からケチャップのような匂いがする。
「お邪魔します」
「おっ、さっちも来たな。汐音ちゃんもいるね?」
キッチンから出てきたのは梨子先輩だった。すっかり普段と変わらない様子。
「梨子先輩……その、久しぶりです」
わたしはそこで謝るのを少しためらって、当たり障りなく挨拶をして部屋に上がった。
「未海、何か手伝うことある?」
「わたしも、手伝います」
キッチンにいた未海先輩に、二人で声を掛ける。未海先輩は鍋を火にかけながら、料理の本を見ていた。
「ああ、二人ともいらっしゃい。出来上がったら、そっちに運ぶの手伝ってもらおうかな。それまでは暇だから、適当に過ごしてて」
「汐音ちゃん。これ、何作ってると思う? さっちも考えていいよ」
本当に、今は仕事がないらしい。梨子先輩も暇をしていたのか、わたしに問題を出してきた。
「トマトの匂いがしますよね。でも、パスタやピザではなさそうなので……スープかもしれないです」
キッチンを見回しながら考えて、わたしはそんな答えを出した。梨子先輩の後ろで未海先輩が頷く。
「トマトのスープか。ミネストローネとかじゃない?」
「おおっ、二人ともやるねえ。今日はミネストローネだって!」
「へえ。未海は料理上手だから、楽しみだね」
千沙先輩が正解にたどりついたところで、未海先輩は嬉しそうに笑みを浮かべた。もうすぐ楽しい打ち上げが始まる。いや、とっくに始まっているのかもしれない。わたしは梨子先輩と話をするタイミングを探していたけれど、もうしばらくは見つからなさそうだ。
五分くらいのうちにミネストローネは出来上がって、レンジで温めたフランスパンと一緒に小さなちゃぶ台いっぱいに並んだ。それを四人で囲んで、梨子先輩が持ってきたシャンメリーのグラスを持つ。
「それでは、くらみーお願いします!」
「あたしか!」
乾杯の音頭は梨子先輩、と思ったら、そのバトンはあっさりと未海先輩へ渡った。
「はい。じゃあ、クリスマス合唱会、梨子は来られなかったけど、無事に終わりました。今年もみんな、お世話になりました。ありがとう! 乾杯!」
「乾杯!」
合唱とはまた違う声のハーモニーと同時に、四つのグラスがそれぞれに合わさって、心地よい音を響かせた。
「どれどれ、くらみーの作ったミネストローネの味はどんなかな?」
「美味しくないわけないよ、あたしが作ったんだから」
「あっ、美味しいねこれ。パンにも合うし」
「本当だ、美味しい! くらみー、これおかわりある?」
「早いよ、まだ全然食べてないじゃん!」
ああ、この感じだ。
その満ち足りた感覚を、わたしはもう、忘れかけていた。やっぱりわたしたちは四人揃ったときが、間違いなくいちばんの幸せだ。
「汐音、どうした?」
感傷的になるあまり手の止まっていたわたしに、向かいの未海先輩が気付いた。わたしは慌ててパンを手に取る。
「わ、わたしは、大丈夫です。ただ、その……久しぶりに梨子先輩もいて、四人で集まって、嬉しいんです」
それでも、本心は隠さずに言った。
「そっか。なんだか、そうやって言われると、あたしらも嬉しいかもね」
「くらみー照れてる?」
「なによう。いいじゃん、別に」
そんな幸せな空気の中で食べるミネストローネは、本当に格別の味がした。クリスマス会のときに空いてしまった心の隙間が、どんどん満たされていく。
これ以上は贅沢かもしれない。でも、やっぱりクリスマス会のことには、ひとつだけ悔いが残っていた。
「あの、梨子先輩、皆さん、聞いてください」
みんながほとんど食べ終わった辺りで、わたしはその話を持ち出した。
「なになに、汐音ちゃん、サプライズ?」
「いえ、そういうのでは、ないんですけど……」
梨子先輩が期待の目を向けてくる。確かに、タイミングは完全にサプライズのそれだった。わたしはめげずに続ける。
「いろいろ考えたんですけど、梨子先輩との思い出を、ひとつ足りないままにはしておけなくて。『おおいぬの鼻』は星の歌なんだって、前に教えてくれましたよね。そんな星を、みんなで見に行きたいんです。できるなら、ちゃんとした空の見える場所で」
「星見に行く? 梨子はいいよ!」
「何も計画とか立ててなくて、申し訳ないんですけど……」
言い終えてから先輩方の顔を見回した。みんな、温かく微笑んでいる。
「天体観測キャンプみたいな感じかな。せっかく冬休みだし、私はOKだよ」
「キャンプか。楽しそうだね。あたしも参加したい」
「じゃあ決定だ! もう日程決めちゃおうよ、いつがいい?」
心がひとつになった先輩方の動きは速い。次々と組み上がっていく計画を聞きながら、わたしはそこで見る星空を想像した。きっとその明るい星は、わたしたちを照らして強く輝いているはずだ。
年越しをして、あれこれ準備をして、その日はあっという間にやってきた。行先は、梨子先輩が見つけてきた自然村というキャンプ場だ。そこは冬でも暖かいコテージに泊まることができて、キャンプに必要な道具はレンタルのものがあって、さらに退屈しないような体験イベントも用意されているらしい。
そこまでは、市街からバスで一時間くらいだった。車内で梨子先輩と一緒にうとうとしてしまったわたしは、バスを降りて途端に目の覚める思いをする。
「本当に、山の中なんですね!」
辺りには積もった雪の山。見上げれば、白樺も雪をまとっている。そして、粉雪。綺麗な白ばかりだった。千沙先輩も感嘆の声を上げた。
「そうだね。汐音、寒くない?」
「大丈夫ですけど、ちょっと、顔が冷たいです」
わたしはいつものフル装備。天気はひどくないけれど、太陽は雲に隠れてしまっていた。
「今夜、大丈夫でしょうか」
「明日は晴れ予報だし、今夜も可能性あるんじゃない? キャンプ場まで行ったら、詳しい予報とかもわかるかも」
「そうですね。行きましょうか」
バス停からキャンプ場までは少し歩く。それでも道はしっかりと除雪されていて、何よりその道のりも、夢のような世界の入口に思えて楽しい。
「くらみー、後で雪合戦しようぜ!」
「やるか。じゃあ着いてからね」
梨子先輩や未海先輩は、大きなリュックを背負いながらもどんどん先へ進んでいく。天気は不安でも、楽しみはたくさんあるのだ。
深緑の松葉の上にも、いっぱいの雪が積もっている。これは空からの「贈り物」なのかもしれないと思った。センターハウスで受け取った荷物を載せてそりを引っ張っていく梨子先輩は、さながらトナカイのように見える。それとも、雪に喜んで駆け回る犬? でも、梨子先輩の鼻が赤かったり光ったりしたら、やっぱりかわいそうだ。
コテージへ向かう途中に、小高い雪山の傍を通った。子供が何人か、チューブ滑りで遊んでいる。わたしは千沙先輩と、もし天体観測をするならこの山の上にしようと話した。
わたしと千沙先輩は、その辺りから梨子先輩に追いつくのを諦めて、辺りをゆっくり見ながら歩いていった。
「綺麗なキャンプ場ですね。歌の風景が、そのまま目の前にあるような感じがします」
「うん。梨子はいいところ見つけてきたよ」
でも、梨子先輩は自分でこのキャンプ場を探し当てたわけではなくて、他の高校の友達から教えてもらったらしい。それが山岡部長でなかったことにわたしは驚いたけれど、よく考えれば、他の高校に友達がいるくらいは普通のことだった。
実のところ、部長や男声のみんなを誘わなかったことに、わたしは少しだけ後ろめたさがある。いたほうが気を遣うので、これで良かったとは思うけれど。
「汐音、あれだよ。カシオペヤだって」
「あっ、あそこですね」
そのうち、わたしたちもコテージの近くまで来た。ここのコテージには、それぞれ星座や星の名前がついているらしい。周りにはオリオンや、アンドロメダの棟も見える。
カシオペヤのコテージの前には、空になったそりが置いてあった。改めて見ると、わたしでも体を丸めれば収まりそうな大きさだ。風よけのカーテンを開けてコテージの中を覗くと、まず大きなピクニックテーブルが目に入った。荷物のほとんどは、その上に置いてある。
「千沙先輩、これ……」
「あの二人、荷物下ろしただけで遊びに行ったな。だいたい梨子なんだろうけど」
「雪合戦するとか言ってましたね」
「はしゃいじゃって、元気だもんなあ。私、これ中に入れるから、汐音はそのそり返してきてくれる?」
「はい、いいですよ」
やれやれと言いながら、千沙先輩は部屋の扉を開けて、荷物を運び始めた。わたしは空のそりを引いて元の道をたどる。途中でわたしは、二人の姿を見かけた。
「ほらほらくらみー、当ててみな!」
「ちょっと待ちなよ梨子、あんまり遠くに逃げないって決めたじゃんか!」
二人ともコートに雪の跡をつけて、とても楽しそうだ。わたしは一瞬声を掛けようと思ったけれど、今の二人を連れ戻せる気はしなかったので、そのままこっそりとそりを返してコテージに戻った。
荷物を部屋に入れ終えると、ついに千沙先輩が動いた。
「よし、困ったちゃんを止めに行くか」
「梨子先輩と未海先輩なら、あのチューブ滑りの山を過ぎた辺りで見ましたよ」
「それって、この辺り?」
千沙先輩の手には、このキャンプ場のガイドマップ。指で示されたのは、「ふれあい館」の前の広場だった。マップは夏のものなのでわかりにくいけれど、建物の位置関係でわかった。
「そうだと思います」
「じゃあせっかくだし、工作体験でもしようか。梨子とかはこういうのも好きだし、汐音も、寒い外にいるよりは屋内で遊んだほうがいいでしょ?」
「工作ですか……はい、やりましょう」
それはせっかくの提案なので、断ってしまうのもつまらない。しかしわたしは、運動もだけれど、美術や工作もあまり得意ではなかった。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だって。なんか、木の枝とか端材とか、実とかを使った工作らしいよ」
「あっ、そういうのはなんだか、楽しそうですね」
すると千沙先輩が、優しくフォローしてくれる。わたしはとりあえず挑戦してみようと思い立って、身につけていた防寒具をいくつか外してから、千沙先輩と一緒にコテージを出た。
そろそろ薄暗くなる頃。空は一面に灰色の雲が掛かって、その向こうが見える気配はない。梨子先輩と未海先輩は、ちょうど雪合戦が一段落して、頭の雪を払いながら戻ってくるところだった。
「二人して、随分遊んでたね」
「楽しかったよ! さっちもやりたかった?」
特に梨子先輩はコートを脱いでも平気なくらい、熱くなっていたらしい。それでもまだ体力は有り余っているようだ。
「あのさ、向こうのふれあい館で、工作体験ができるんだけど」
「いいねえ。おいくら?」
「一人、三百円だったかな。後で返してくれればいいよ」
「了解。じゃあ行こうか!」
その後未海先輩も行くと言ってくれたけれど、梨子先輩よりは乗り気でないようだった。疲れているのか、それとも……。
「未海先輩、もしかして、工作ちょっと苦手ですか」
わたしは仲間を見つけたような気がして尋ねてみた。
「そういう汐音だって、美術とか微妙でしょ」
ところが未海先輩は不満げな顔をして、逆にわたしのことを言ってきた。
「わたしは……そうですけど」
「年賀状のイラストも、あれ自分で描いたよね?」
「あっ、そうです」
持ち出されたのは、今年の年賀状の話だ。みんながメールで送り合うようになってきたけれど、わたしはやっぱり、一枚ずつ葉書を書くのが楽しみだった。今年は少し頑張って、先輩方に送る分には干支の午の絵も描いてみた。
「なに、模様のないキリン?」
「馬です! かわいいポニーなんです!」
でも、やっぱり出来は微妙だった。他の二人にも聞いたら、千沙先輩は疑問符をつけながらも馬と言ってくれたけれど、梨子先輩はメスのシカではないかと言った。わたしの画力というのは、そんなものだ。
ふれあい館の工房は、木材と糊の匂いが混ざった、どこか懐かしい匂いがした。何人かの子供が作業台に向かって、お父さんやお母さんに手伝ってもらいながら、真剣に作業をしている。そんな姿を見て、わたしはなんとか上手に作ろうとしていた緊張が、解けていくのを感じた。
「四人分、お願いします」
「はい、ありがとうございます。こちらの箱の中の材料は、ご自由にお使いください」
千沙先輩が受付をしてくれて、いよいよ作業開始。わたしはもう、作るものを決めていた。箱の中には使えそうな材料がいっぱいだ。様々な色や太さの木の枝に、個性豊かなどんぐりに、土台になりそうな輪切りの木材。完成したものを想像しながら、材料を選んでいく。梨子先輩も作品のイメージができたようで、ひょいひょいと必要なものを取り上げていた。
「汐音ちゃん、何作るの?」
「……お楽しみです」
その答えは、本当の楽しみのためでもあったけれど、実は自信のなさの表れでもあった。完成したものが、それに見えなかったら……。でも、わたしはたとえ変なものができてしまっても、思い出として残ることには変わりないと思うことにした。
小指くらいの太さの枝に、丸々としたどんぐりと、土台の輪切り。それからわたしは、ナナカマドの赤い実を持ち出した。
そのうち千沙先輩も材料を揃えて、長らく葉っぱの箱を見つめて悩んでいた未海先輩も組み立ての作業に入った。そうなるとわたしたちは時間を忘れて、たまにお互いの進捗を確認しながら、黙々と自分の作品に力を注いでいた。
わたしが作ったのは、歌に出てくる「おおいぬ」をイメージした置物だった。体に使った枝が曲がっていて、ちょっと変な姿勢になってしまったけれど、どんぐりの頭と、ナナカマドの鼻は自分でもよくできていると思う。
「よし、完成です」
「おお、汐音ちゃんは……わかった、鼻をハチに刺されたツキノワグマだ!」
「そんな捻ったものじゃないですよ……」
言われてみると、やや小柄で、手足が短くて、ずんぐりむっくりとした熊のように見えてしまう。それでも、これは犬だ。
「汐音、何作ったの?」
未海先輩と千沙先輩も、手を止めてわたしの作品を見る。二人とも、やっぱりすぐには何かわからなかったようで、色々な角度から見ながら首を傾げる。
「これ……おおいぬ、なんです」
「ああ、だから鼻が赤いのか」
「光ってるんだね」
恥ずかしくなってきたので答えを言ったら、三人とも納得してくれたので安心する。少なくとも、熊のままで終わらなくて良かった。
「そっか、汐音ちゃんのは犬だったか。梨子も犬作ったよ」
「被っちゃいましたか?」
そう言う梨子先輩が作っていたのは、何やら塔のように見える置物だ。よく見ると、組体操のように四つの体が塔になっているのだとわかった。
「これは何でしょう? ヒントは犬だね。それから馬」
「犬と、馬……」
抽象的な形をしていた塔が、だんだんと具体的なイメージを帯びてくる。下から二つが、きっと馬と犬。一番上は葉っぱでふわふわもこもことしていて、鳥のようだ。その間は、犬と似たような動物。
「あれですよね、ブレーメンの音楽隊じゃないですか?」
「正解! さすがは汐音ちゃん」
「わかって見ると、よくできてますね。すごいです」
「そうでしょ。梨子は工作も得意なのだ」
得意げになる梨子先輩をちょっと悔しそうに見ていた未海先輩は、試行錯誤の末、小鳥たちの集いを木の実で表現していた。マイペースに作業をしていた千沙先輩は、壁から掛けられるウサギの顔のプレートを作っていた。
終わって外に出ると、辺りはすっかり藍色に沈んでいた。
「もうすぐ五時じゃん、焼肉の準備しないと」
「そうだった! 急げくらみー!」
腕時計を見て、二人が作品をかかえながら走り出す。わたしも遅れてはいけないと思って走った。外の空気は冷たかったけれど風は弱くて、走ると爽やかな感じがした。
気持ちが良くて、走りながら空を見る。まだ、晴れ間は見えない。これは今夜の天体観測は難しいか……と思って視線を落とそうとした瞬間、視界がぐるりとひっくり返った。
「汐音!」
聞こえていた足音が、千沙先輩の声と同時に止まる。わたしは足元の氷に気付かず、滑って転んでしまったのだ。
「大丈夫?」
真っ先に駆け寄ってきた千沙先輩に手を借りて立ち上がる。梨子先輩と未海先輩も戻ってきた。
「汐音ちゃん、足元は注意しておかないと」
「すみません……わたしは大丈夫なんですけど、作品が……」
とっさに庇うことができて、なんとか作品は形をとどめているようだった。しかし確認してみると、明らかに足りないものがある。夜空を照らすはずだった、あの「鼻」がない。
「あちゃ……鼻、取れちゃったんだね」
「それは大変、この辺に落ちてるんじゃない?」
梨子先輩は、すぐに足元の雪を掻き分け、それを探そうとしてくれる。でも、足元は特に暗くて、今は見つけられるはずもない。
「梨子先輩、いいですよ。わたしは大丈夫なので、戻りましょう」
「そっか。じゃあ、気をつけて行こう」
また転ぶといけないので、ゆっくりと歩いて戻る。わたしたちが歩き出しても、梨子先輩は少しの間足元を探っていた。
「本当に、大丈夫です。梨子先輩、行きますよ」
「うん……すぐ行く」
こういうところが、梨子先輩は憎めない。ある意味わたしよりも、梨子先輩のほうが残念に思っているような気がして、わたしの残念な気持ちは確かに和らいだ。
夜はレンタルの七輪を囲んで、焼肉を食べた。梨子先輩は本当に楽しみだったようで、自分でわざわざ追加の牛肉を持ってくるほどだった。たまにカーテンの隙間から風が吹き込んできて足元は寒かったけれど、炭火と炊き立てのご飯が体を温めてくれた。
それで結構満足してしまって、ストーブのある室内もかなり快適で、食後に温かいココアを飲んでいるとそれなりに外に出るのが億劫になった。実際、シリウスが見やすい時間はもっと遅く、早くとも十時過ぎのようだ。
まったりとした時間。広いロフトにマットを敷いて寝袋を広げると、梨子先輩は中に入って芋虫のように這い回り始めた。まだこんなに元気なのかと思って見ているとそのうち動きがおとなしくなって、気が付いたら寝てしまっている。
「梨子先輩、もう寝ちゃうんですか?」
「わっ! ああ、まだ寝ないよ、うん」
「とりあえず、寝袋から出ましょう」
それはやっぱり、ずっとはしゃいでいたのだから、梨子先輩といえども疲れてしまうのは当たり前だ。
「千沙先輩、今何時ですか?」
下で休んでいる千沙先輩も眠たそうにしていた。
「もうすぐ八時だね。シリウス自体は、ちょっと低いけどそろそろ見られるんじゃないかな。外の様子見てくるよ」
「すみません、お願いします」
「あたしも行く。外の空気吸いたい」
一緒にいた未海先輩も、外に出て行く。わたしは寝袋から出た梨子先輩と一緒に、ロフトを降りて待っていることにした。しかし、戻ってきた二人の表情は浮かなかった。
「天気、悪かったんですか?」
「まだ結構、雲が多いね。一応、星は見えなくもないけど」
あまり星が見えないと、目当ての星を探すのも難しくなる。千沙先輩の話では、シリウスを見つけられるかどうかは五分五分というところだった。
「さっち、道具いろいろ持ってきてたよね。それ使えば探せるんじゃない?」
それで半分諦めかけたわたしは、梨子先輩の言葉に少しだけ希望を見た。
「一回、外に出てみましょう」
絶対に見えるというほどの確信はなかったけれど、とにかく探してみようと思った。わたしの提案に、先輩方は頷いてくれる。
「じゃあ、道具の準備するから、ちょっと待って」
懐中電灯、星座早見に、方位磁石、双眼鏡とスタンド。全部、千沙先輩が家から持ってきてくれたものだ。
「シリウス、見られるといいね」
それを見ながら、わたしたちはその思いをひとつにした。
すっかり夜になり、チューブ滑りの山もふれあい館にも人気はない。雪の中の静寂はいっそう澄んで、風の音も聞こえないほどだった。そして、空は晴れてきている。まだ半分くらいは雲だったけれど、その合間には左側の欠けた月を見ることができた。街の中で見るよりも、くっきりと明るく見えるような気がする。
「えっと……シリウスのあるおおいぬ座は、これから真南に上ってくるはずなんだよね。南は今、ちょうど月の見えてる方角だよ」
千沙先輩がコンパスと星座早見を見比べて、方角を教えてくれた。
「さっち先生! あれってオリオン座ですか?」
その南の空を指して、梨子先輩が質問する。見上げると、確かにオリオン座らしい、右上がりの三つ星が見えた。
「そうだね。おおいぬ座は、そこからもうちょっと左下のほうに見えるはずなんだけど……どう?」
「その辺、ちょうど雲掛かってない?」
「ああ……」
双眼鏡でその辺りを見ていた未海先輩が、レンズを目から離す。確かにそこには、暗い雲があった。まるでおおいぬ座の姿を、すっぽりと隠してしまうように。
「惜しいなあ、あの雲がなくなれば、見えるかもしれないけど」
しかしその空、方角にすると南東の空には、どんどん雲が流れていく。たまに雲が切れて星が見えるけれど、それがシリウスなのかどうか、確証が持てなかった。
「こうなったら、歌うしかない!」
やがて梨子先輩が、そんなことを言い出した。
「アニメか」
「女声だけじゃ、ちゃんとしたハーモニーにならないよ」
アルトの二人からはすぐにツッコミが入る。わたしはちょっとロマンがあっていいと思ったけれど、混声四部の合唱曲をわたしたちだけで歌うのは難しそうだ。
「じゃあ、どうする?」
実際、わたしたちにはもう、できることはなかった。高い位置にあるオリオンの三つ星は、皮肉なほどによく見えている。あとはおまけで、北極星を探してみるくらいだ。
「……ちょっと、冷えてきちゃいました」
さっきから、少し動いた月を見ながら。あまり動かずに立っているばかりだと、フル装備でもさすがに冷える。気温が下がってきているのが肌でわかった。まるであの薄黄色の光で、地球が冷やされているかのように感じる。
「残念だけど、片づけて戻ろうか」
「そうだね」
誰からともなく、コテージに戻る準備を始める。意外と諦めはついていた。それどころか、このキャンプ全体のことを考えると、十分に満足だった。それは先輩方も感じていたことだと思う。
本当の「おおいぬの鼻」を見るという最初の目的は達成できなくても、わたしはこうして先輩方との思い出を作ることができた。梨子先輩もめいっぱい楽しんでいたし、わたしが望んでいたものは、ほとんど手に入っている。
でも、コテージに戻る途中、梨子先輩が一言も喋らないで、しきりに南の空を気にしていたのを、わたしは見逃さなかった。
だからわたしも、やっぱり悔しい。
結局、すっかり体も冷えてしまって、ストーブの近くから離れられずにいるうちに、自然と寝る準備も進んでいった。九時半を回る頃には、四人で寝袋に入っていた。電気も消して、千沙先輩の懐中電灯ひとつだ。
「懐中電灯は、私の枕元に置いとくから」
「朝ごはん、あたしが作るけど、みんな八時くらいには起きてね。大丈夫だと思うけど」
「汐音ちゃん、寝坊しちゃダメだよ?」
「八時なら大丈夫です」
部屋も寝袋も心地よい温度になって、一気に眠気が増してきた。
「じゃあ消すよ。みんなおやすみ」
「おやすみ」
それから眠りに落ちるまで、一分も掛からなかったと思う。
おやすみなさい。
こんなとき、わたしの見る夢は……怖かった。
どこかの舞台の上。わたしたちは、何かの合唱曲を歌っている。途中までは男声も含めて、みんなの声が聞こえているはずだった。でも、あるときわたしの声が、急に出なくなってしまう。わたしは慌てて、それでも普段通りに歌おうとして、周りの声を聞く。そうしたら、何よりも近くから聞こえているはずのソプラノが、梨子先輩のソプラノがなかった。
(そんな……梨子先輩!)
何か頭に響くような音を感じて目が覚めた。一瞬、まだ夢が続いているように感じて錯乱する。さらにわたしはこんなときに、隣で寝ているはずの梨子先輩がいなくなっているのを見つけてしまった。
とにかく上体を起こして、辺りを見回す。未海先輩と千沙先輩はそれでも寝ていた。今は何時かもわからない。でも、千沙先輩の枕元にあるはずの懐中電灯も見えなかった。
下にいるのかとも思ったけれど、ロフトの下を覗いても人の気配がしないし、どこの電気も点いていない。
だけど、そのうちわたしは、なんとなく心配とは違う、不思議な予感をしていた。梨子先輩のコートがないのは、それで予想がついた。
わたしもこっそり抜け出して、自分のコートを羽織って外に出る。ほら、梨子先輩の靴もない。本当に困ったちゃんだ。これでわたしも同罪だけど。
一直線に走って、わたしは予想通りのその場所にいた梨子先輩に、思い切り飛びついた。
「梨子先輩!」
「おおっ、汐音ちゃん、よくここがわかったね。というか起こしちゃった?」
「なんだか、そんな気がしただけです」
梨子先輩はただスマホを持って、そこで写真を撮ろうとしていたらしい。
「ほら、汐音ちゃんも見に来たんでしょ? ごらん、あのおおいぬの鼻を!」
それが意味することを、わたしはすぐに理解した。空だ。さっきまでの雲はほとんどなくなって、星空が本当の姿を現している!
梨子先輩が指していたのは、南からちょっと右のほうへ向いたところだった。見えた。周りの星よりも明らかに目立つ輝きの、その星がわたしにも見えた。
「すごい……あれ、シリウスですよね。間違ってないですか」
「わからないけど、南にあって、いちばん明るいんでしょ? あれで決まりだよ!」
わたしたちは二人で手を取り合って喜んだ。ひとしきり喜んだ後で、改めて片手を繋いだまま空を見る。梨子先輩の手は、底冷えの中でも温かかった。
「……やっぱりわたし、梨子先輩のこと、本当に頼りにしてます。梨子先輩がいなくて、ずっと寂しかったです」
そんな気持ちが、自然と言葉になる。
「うん。忠之くんからも、あれからずっと言われてたんだ。汐音ちゃんが一人ですごく心細い思いをしてるから、どうにかしてやれって。でも、部活で会えなくなったら、できることって、途端に思いつかなくなっちゃって」
加藤先輩も、裏でそんなに大きなお世話をしていたのか。でも、そのときわたしは、梨子先輩のことを初めて健気だと思った。
「梨子先輩が、どれだけわたしのことを大切に思っているのか、どんなふうにわたしのことを思っているのか、ずっとわからなかったんですけど、今は、わかるような気がしてます」
「梨子のこと、嫌いになってない?」
音楽に関しては天才だから、勝手にわたしは、梨子先輩が何でも楽ばかりしていると思い込んでいたのだ。でも今は等身大のいじらしい目をして、わたしを見つめている。
「一瞬、なりかけたかも」
「やっぱり……」
「冗談です」
「ああっ! もう、びっくりさせないでよ」
これほど近くに梨子先輩を感じたことも、初めてかもしれない。部活の先輩と後輩の関係から、ひとつくらいの壁を越えたような気がする。
「……だから、早く戻ってきてください」
「そうだね」
「そうしたら、もう引退するまで、休むのなんて許しません」
「うん。約束する」
わたしはなんだか、いくらでも梨子先輩にわがままを言いたくなっていた。それでも梨子先輩は、どこまでも付き合ってくれると思えたから。
「……汐音ちゃん、鼻水出てるよ?」
「今は、いいじゃないですか。ちょっと冷えただけです」
せっかく気分が良かったのに、水を差してくるのもそれはそれで、悪くない。とりあえず、ポケットティッシュで鼻をかむ。
「ねえ、汐音ちゃん。これは、梨子の友達から聞いた話なんだけど……」
すると梨子先輩も、何かを思い出したようにポケットを探り始めた。そうしてポケットから出てきた右手は、見覚えのある赤い木の実をつまんでいる。梨子先輩は、それを月明かりにかざした。
「それ、見つけてくれたんですか」
「うん。あのね、シリウスって、本当は二つの星なんだって。片方は明るいけれど、もう片方はすごく暗くて、ちゃんとした望遠鏡じゃないと見ることができないんだ」
赤い実を見つめながら、わたしは梨子先輩の話を頭の中で映像にする。明るい「おおいぬの鼻」のすぐ傍に隠れたひとつの星。
「でも、そういう星でも興味を持って、見つける人がいるんだね。どれだけ隠れていても、目立たなくても」
「それって……」
梨子先輩が、その実をわたしの手に落とした。
「梨子はね、汐音ちゃんのこと、そんな星のひとつだと思ってるよ。もうちょっと自信を持って目立ってもいいと思うけど。ただ、梨子は汐音ちゃんの声を聞きながら歌うのがいちばん好き」
「……先輩ってば」
とても優しい気持ちで満たされて、体が温かくなる。梨子先輩はまた、じっとシリウスを見つめていた。わたしは、深く息を吸う。
ごらん。あのおおいぬの鼻を。
小さく、それでもしっかり届くように、最初の一節を歌った。梨子先輩と目を合わせる。今度は二人で。その合図は、わたしたちにはいらなかった。
ごらん。あのおおいぬの鼻を。
おおいぬの鼻Arranged