マイ スウィート ヌガー ( 11 / 12 )
1年くらいかけて初めて書いた小説です。全部で12まであります。
11.
結局、学校を二日休んだ。その間、台所に下りてご飯を食べたり、テレビを見たり、いつもと同じように過ごした。この二日間の間で、お母さんは一度、瑠奈ちゃんとのことを聞いてきた。
そのとき、お父さんはもう仕事に行った後で、お母さんは朝食の準備をしていた。フライパンに油を入れて温める間に冷蔵庫から卵を取り出しながら、
「瑠奈ちゃんと何かあったの?」
と言った。
「ちょっとね。」
「仲良しなんでしょ。大丈夫なの?」
カツンと音がして、卵をボールに入れて箸でかき混ぜている。
「大丈夫。」
わたしはそう答えて、リモコンを取ってテレビをつけた。女のアナウンサーが傘をさして外からその日の天気予報を中継しているところだった。傘は鮮やかな青い色で、雨で暗くなっている空の色とちぐはくな感じがした。
「もう、平気。」
わたしは言った。お母さんがフライパンに卵を流しいれると、ジャーっという音がした。お母さんは、そう、と言ってそれを箸でゆっくりかき混ぜたり裏返したりした。卵の焼ける甘い匂いがした。うらぐちさんのことは特に何も聞かれなかった。
わたしがうらぐちさんの家に行っていたこと、甘いお菓子を食べながらお喋りしていたこと、捨て猫に餌をやっていたのはうらぐちさんだったこと、そして、どうして瑠奈ちゃんが嫌いだったかっていうこと。
何も、お母さんは聞かない。何もなかったかのように、冷蔵庫から卵を取り出して、それをボールに入れてかき混ぜる。焦げ付かないようにフライパンを熱してから、卵を流し入れれば、いつものようにジャーっと音がする。かき混ぜる時は、卵がふわっとするようにゆっくりと混ぜる。
全てがいつものとおりだ。上靴のまま走って足が痛くなったのも、わたしの目が涙で前が見えなくなったのも、喉の奥から固まりのようなものが出て来て叫んだことも、全部、全部がまるでなかったことのように、いつものような時間が流れていく。お母さんが作ったスクランブルエッグは美味しかった。いつも美味しいのだ。
わたしは、そんな時間に自分を馴染ませた。馴染ませたというより、自然に馴染んでいった。それもいつものことだ。
二日目の午後に、じゃあおやつ作っていくから食べて、と言って、お母さんは仕事に出かけて行った。わたしは、お母さんが玄関を出ていく音を聞いてから、台所に下りた。テーブルの上にはラップがかかった皿が置いてあって、レーズンの入った蒸しパンが載っていた。まだ温かいからラップが湯気で曇っている。
テーブルの前に立ったまま、蒸しパンを見つめていて、ふと時計を見上げた。午後三時半だった。もう一度蒸しパンを見た後、そのまま台所を出て洗面所に向かった。顔を洗って、髪を濡らしてブラシでさっとといて、Tシャツとジーンズに着替えてから外へ出た。ほんの二日ぶりなのに、外の空気に久しぶりに触れたように感じた。そして、光がまぶし過ぎて困った。商店街まで出てから、持ってきた自分の財布を見ると、中には1580円入っていた。
「シャープペン買おうかな。」
商店街の真ん中あたりに、本屋があって、その中に文房具売り場がある。車でちょっと行けば大型ショッピングセンターもあるのだけど、この文具売り場が好き。全ての種類が少しずつ置いてあるのが、大切に選ばれて売り場に置かれているように感じがする。水色のシャープペンを選んでつかんだとき、
「学校さぼって買い物してら。」
と、後ろから声をかけられた。ふりむくと、富山くんが立っていた。
「富山くん、どうしたの?」
「どうしたのって、本買いに来たんだよ。」
「ああ、そうよね。」
「もう大丈夫なのかよ。」
「うん。もう明日は行く。」
「瑠奈もずっと休んでるぞ。」
図書室から走って飛び出す瑠奈ちゃんの姿を思い出し、胸がきゅんとした。富山くんは、手に漫画を持っていた。
「やっぱり漫画か。」
「悪いかよ。やっと新刊でたんだ。楽しみにしてた。」
にかっと笑って、手に持っていた漫画を顔の横で振った。表紙に描いてある男の主人公の顔と、富山君の顔がちょうど同じくらいの大きさで真横に並んで揺れた。
「なあ、お前ら、もう仲直りしたわけ?」
「別に喧嘩はしてないけど。」
「でも、お前、この前色々言ってたじゃん。瑠奈のこと。」
「あ、うん。」
「でもさ、お前、見ててわかってたよ。俺は。」
「え、何を?」
「お前、我慢してたんだろ?」
「うーん。」
「我慢し過ぎると大爆発するってテレビで言ってた。我慢はダメよ。我慢は便秘になるんだぜ。」
「何、それ。」
「二人、ちょうどいい感じだったじゃん、お前ら。だから、一緒にいるとこ見てると、最強だなあって思うぜー。」
「最強?最弱王に言われたー。」
「は?お前、失礼なやつ。」
二人で笑いながら商店街を歩いた。笑ったのは久しぶりだと思った。
「ねえ、その漫画、面白い?」
「めちゃくちゃ面白い。お前も読んでみる?」
「うん。今度貸して。」
富山くんがその本をめくりながらストーリーの説明を始めた。最初は聞いていたけれど、登場人物が多すぎてよくわからなくなったので、途中でもういいと笑いながら遮った。富山くんは、何だよせっかく説明してやってたのに、と不満そうにした。富山君は、不満に思っているときでも、そうは見えない。何故か、口笛かハミングでもしているような音が頭のてっぺんから出ているように見える。
「あんなこと思ってても友達なわけ?」
と聞かれて、しばらく考えて、
「そうだよ。友達だよ。」
と、答えた。
「瑠奈ちゃんの家に行こうかな。」
「え?瑠奈んち?」
「うん。ここからすぐだよね。」
瑠奈ちゃんの家は商店街の小道を入ってすぐのところにあった。
「おう。行く?」
「付いてきてよ。」
「わかった。」
一つ先の小道から横に入って、しばらく歩くと、マンションが見えた。三階に上って、302号室のインターホンを押す。はーい、という声がした。瑠奈ちゃんの声だとすぐにわかった。玄関が開いて、出てきた瑠奈ちゃんは長い髪を右側に一つに束ねて、飾りのついていない黒いゴムをはめていた
「わ。なっちゃん。どうしたの?二人で。」
「えっと、瑠奈ちゃん、クレープ食べに行かない?」
とっさに口から出た。
「こいつがおごるんだってー。」
富山君がわたしを指さして言った。
「わかった。行く。」
瑠奈ちゃんは、ちょっと待ってて、と言って部屋に戻った後、ちいさいショルダーバックを持って出てきた。
三人で並んで歩く。図書委員会になってから、三人で行動することが増えた。三人で歩くときは、一番背の高いわたしが真ん中になることが多かった。丁度、漢字の「山」の字のようになるのだ。瑠奈ちゃんと富山君が話すときは、いつも二人とも体を前に曲げて乗り出して、わたしを柱にして覗き込むように話す。
「で、どうして、二人一緒なわけ?もしかして、デート?」
「そんなわけないよ!」
「そうそう!なんでこんな怖い奴と!」
「は?」
「だって、お前、おれのこと突き飛ばしただろ!」
「あ。」
「やべえ、今日も襲われる!」
富山くんが走り出して、わたしと瑠奈ちゃんはそれを見て笑った。
クレープ屋さんに着くと、三人で見本が並べてあるショーケースを覗いた。たくさんの種類があって、どれも美味しそうだった。富山くんはすぐにイチゴクリームに決めてさっさと注文していた。どれにするか決めていると、
「なっちゃん、バナナが好きでしょ。チョコバナナがいいんじゃない?あ、抹茶バナナっていうのもある。」
「えー、抹茶バナナって珍しいね。」
「ほんと。でも美味しそう。」
「じゃあ、私はこれにする。」
「もう決めちゃった?ちょっと待って、私は何にしようかな。」
身を乗り出してショーケースを覗きながら悩んでいる瑠奈ちゃんは、わたしがバナナを好きだってことを覚えていた。
ショーケースの中に並んでいる見本を左から見ていく。瑠奈ちゃんは何が好きだったかな。いちご、バナナ、オレンジ、チョコ、マシュマロ。順番に目で追っていくけれど、どれもピンと来ない。うーん、何だったか。あっ、そうだ。
「マンゴー。瑠奈ちゃんはマンゴーが好きだったね。」
「そう!マンゴー大好き。でも、マンゴーは無さそう。」
「ほんとだ。残念。」
と言って、ふと頭をあげると、ちょうど目の高さに、紙が貼ってあるのが見えた。期間限定夏だけのマンゴークリームと書いてある。
「あ!」
「あ!」
二人は同時にその紙を指さした。それからやったね、と顔を見合わせて笑った。
富山くんは、先に注文したいちごクレープを食べながら歩きだしていて、わたしと瑠奈ちゃんは追いつくように少し速足で歩いた。クレープは甘くて、冷たくて美味しかった。
「甘くて美味しいね。」
「うん。あ、瑠奈ちゃん、ヌガーっていうお菓子知ってる?」
「ヌガー?」
「そう、外国のお菓子。柔らかくて甘くて美味しいんだよ。」
「へぇー。食べてみたい。」
「でしょ。食べたら外国の味がするよ。」
外国なんてカッコいいねと言って、二人でふふふと笑った。
そのとき、後ろから声が聞こえてきた。振り向くと、大勢の人が列を作って歩いてくる。何か書いてある紙や旗、プラカードを持って、皆、何か叫んでいた。
「何あれ?」
「皆、何て叫んでるの?」
列は、横に十人くらい並んで、その幅で後ろに大勢の人が並んで歩いている。みんな同じことを叫んでいた。
近くの八百屋からおばさんが出てきた。手に値札シールを貼る道具を持っていた。
「今日は人数が多いねえ。この前より増えたみたいだ。」
「あの人たち何してるんですか?」
「反対運動だよ。」
行進はこっちに向かって近づいてくる。大きくなる声。高く掲げられた文字。
「ああやって人数が増えても結局は決まっちゃうんだよねえ。」
おばさんは付けていたエプロンの腰のあたりを正しながらそう言った。そして、手に持っていたシールを貼る道具を覗き込みながら、詰まってるのかねぇ、調子悪いわ、これ、と言った。
結局決まっちゃうって、どういうこと?だったら、どうしてあんなことをやっているの?食べかけの抹茶バナナクレープは、わたしの手の中でいつの間にか下を向いていて、クリームがぽたぽた道路に垂れた。
とうとう、行進はわたし達の目の前に来た。
色んな人がいた。親と同じくらいの年齢の人や、おじいちゃんやおばあちゃん、二十歳くらいの若い人もいた。会社のスーツを着ている人、Tシャツを着ている人、赤ちゃんを抱っこしている人。皆、前だけを向いて歩いている。わたし達のことは目に入っていないようだった。
目の前を通り過ぎる人たちの、前だけを向いている顔。笑っている顔はなかった。ほとんどの人は怒っているか、無表情だった。
行進は遠くにいたときは、一つの固まりのように見えたけど、こうやって目の前を過ぎている今は、歩いている一人ひとりの存在が主張してくる。
どうして?こんなに暑い日に汗流しながら、ずっと声を出し続けながら。仕事を休んだり、静かに家で過ごしたいのに出てきたり、すやすや眠っている赤ちゃんを連れだして。どうして、こうやって、この人たちは。
政治の偉い人が許せない?自分たちの辛い体験を繰り返したくない?抱っこしている柔らかくて温かい赤ちゃんを守りたい?
おばさんは、まだシール貼りの道具をカチカチいわせている。カチカチ、カチッ。その音と、歩く人達のザザッという足音が重なる。耳の中で一緒に響く。うるさくて落ち着かなくなって、いらいらした。
はぁっとため息をついたとき、何かが足の裏から体の中に入ってきて、ささっと這い上がってきた。そして、それがあっという間に背中を通り、頭の中に侵入してきた。
「わっ。」
頭が混乱した。色んな音とぐちゃぐちゃの何かが頭の中に入ってきている。手で耳をふさいだけれど、それでも一度頭の中に入ったそれらは出ていくことはなくて、ずっと頭の中で増え続けて、駆巡った。
ザザザッ、カチッカチッ、ザザッ、ザザッ、カチカチカチッ。
どうして?なぜこの人達がやっていることが、どうしようもないの?じゃあ、どうしたらいいの?
カチン!あら、動かなくなったよ、と言って、おばさんがシールを貼る道具を持って店に戻ろうと歩き出したとき、
「ちょっと待ってよ。」
と、おばさんを呼び止めた。
わたしは言った。
「どうしてですか?」
「え?何だって?」
「どうして決まっちゃうんですか?」
「どうしてって、そんなもんじゃないの。」
「そんなのおかしいじゃないですか。」
「はぁ?そんなこと言われたって。」
おばさんは呆れた顔をしながら、後ずさりして、
「変な子ねぇ。」
と言って、店に戻ろうとした。
「ちょっと待ってってば!」
思わず手を伸ばしたら、おばさんのシールを貼る道具を持っていた手に当たって、道具が落ちた。カーンと音がして、道具は道路を滑った。
「何なんだい!この子は!」
おばさんは、道路に転がった道具を拾いに慌てて走った。
「どうしてよ!」
たまらなくなって、下を向いてしゃがみこんだ。
「なっちゃん、どうしたの?」
「おい、大丈夫かよ。」
瑠奈ちゃんと富山君が心配そうに背中を触って覗き込んできた。でも、わたしは、目を閉じて耳を塞ぎ続けた。そして、叫んだ。
どうして?!
わたしたちのことなのに!
誰が決めてるの?
自分で決められないの?!
どうして?!
行進の叫び声と足音でかき消されても、わたしには自分の声が聞こえている。自分が何て言っているのか、何て言いたいのか、はっきりわかっている。
でも、何回も何回も叫んでも、それを聞いてほしい人には聞こえていない。こんなに叫んでいるのに。声が枯れるくらいに。
マイ スウィート ヌガー ( 11 / 12 )