マイ スウィート ヌガー ( 10 / 12 )

1年くらいかけて初めて書いた小説です。全部で12まであります。

10.

 その日の夜、夢を見た。

 わたしは森の中にいた。そこは、たくさんの木に覆われていて、薄暗くてとても静かだった。まわりを見渡すと、十メートル以上の背の高くて太い木で囲まれている。それらの葉は重々しく茂っていて、森の上空の光はほとんど入ってこない。
 よく見ると、全ての木が高いわけではない。まだ若い木は、幹も細くて、表面は色も深みがない。でも、十分な水分に溢れていて、つやがある。それでも、細い枝から生えている新しい葉は黄緑色で、薄く透き通っていて、葉脈が浮き出てはっきり見える。
 その若い葉を一枚枝からそっと抜き取った。ぱちと音がして、枝と葉をつないでいた部分から白い液が少し湧き出た。指でそれをすくってみると、その液は、透き通った葉とは対照的に濃い白色で、ねばねばしている。その液を自分の手の甲にのせ、白い色が肌に馴染むまで何度か指でゆっくり擦った。
 液が見えなくなっていくのを見ながら、その液が手の甲の皮膚から体内に入り、自分の細胞の中へ入っていくのを想像したら、体がゆったりとして安心した。それはまるで、自分がこの森の一部になっていくような気分だった。

 この森はひとつの生き物のようだった。森全体を覆っている大きな木、それらに守られるように育っていく若い木。それらの根は、黒くずっしりとした土の中に複雑に広がって、土の中の栄養を必要なだけ自分たちの中へ吸い上げている。木は吸い上げた栄養で幹を太く成長させて、葉を茂らせる。濃く茂った葉は、さらにこの森を覆って、外からの光や空気が入る隙間を埋め尽くしている。
そして、埋め尽くされて深まる暗さこそが、この森のエネルギーになっているように感じた。全てが、この森の中だけで完結していた。永遠にこのサイクルが同じ調子で続いていくような平坦で穏やかな感じ。
 でも、一方で、この森は、どこか脆い感じもした。それはまるで、薄いガラスみたいに、小さな衝撃で粉々に砕けて、あっという間に全てが消え去ってしまうような。
そう思いながら、自分がこの森の中にいることが体に馴染んでいくのを感じた。土の上に横たわると、体の下になっている部分から湿った土の感触が体全体に広がってきてひんやりした。少し寒気がしたので小さく身を丸めると落ち着いた。そのまま目を閉じると、いつの間にか眠っていた。

 ふと、何かの気配を感じて、目が覚めた。
 犬がいた。大人の男と犬が一緒に森の中にいた。男と犬はその森の中に合っていないというか、異質な感じがした。わたしは起き上がって、その異質な侵入者たちを見つめた。
 男は、とても速足だった。どこへ行くのだろう。何か獲物でも追っているのかな?それとも、急いで家に帰っているの?
犬はつながれていない。男は犬のことなど気に留めていないかのようだった。まるで、自分の動きに犬は当然ついてくると確信しているかのように自信たっぷりに見えた。
 葉の多い樹木を見つけてその後ろに身を隠しながら、男と犬の後を追った。犬はまだ、子犬だった。犬は、ある時は転がっている木の実を前足で転がしたり、匂いを嗅いで鼻先でつついた。そして、草の脇から飛び出した虫を追いかけて駆け出し、盛り上がった木の太い根に足を取られてひっくり返った。またある時は、生い茂る先の尖った雑草が耳の後ろに当たると、さっと振り返り、それに飛び掛かったり、仰向けに寝そべって足をばたつかせて蹴ったりしていた。
何をするにしても、その動きは初めてのものに驚きながら好奇心でいっぱいだった。ぎこちなく一生懸命なのが全身にあらわれていた。
 犬は起き上がった後、キョロキョロして男を探した。男は、歩き続けていた。犬は男が離れていっているのを見ると、走り出した。不安定な程大きく足を広げて蹴りだし、男のほうへ向かって走っていく。やっとで男に追いつき、足元から男を見上げて尻尾を大きく振っている。冒険から帰ってきた自分を褒めてほしいとでも言っているように、まっすぐに男を見つめている。しかし、男は、ちらっと見ただけで、特に表情も変えずに歩いて行った。
 
 しばらく見ていると、男と犬は同じ場所を大きく円を描くように何度も歩いていることに気付いた。でも、道に迷っているのでは無さそうだった。ただ、同じように男は足早に歩き続け、犬はその後ろを付いて行っていた。
ふと、犬が大きくなっていることに気付いた。丸みのあった体も筋肉質になり、足が長くなっていて、歩く歩幅も広くなっていた。
しかし、毛にはつやがなくなっているように見えた。子犬のときは、細く柔らかそうな毛が子犬の小さな体から隙間なく生えていたように感じていたけれど、今は、毛が束になり、湿り気を帯びて固まっているように見える。そして、歩幅は広くなり歩くのは速いけれど、足の動きはゆっくりだった。いや、ゆっくりというより、やっと動かしているようで、生き生きした感じがない。また、目に輝きは無くて、うつむいて背中も少し丸まっている。
 そんなに時間が経ったのかなと少し不安になって、周りを見渡したけど、森の中の様子は特に変わっていなかった。自分の体を触ってみた。指先から手の甲、そのまま腕を上の方にさする。肩、胸、お腹。特に変化はなくて、ホッとした。
でも、それならどうしてあの犬は?と思って、もう一度犬の方を見た、その時、急にごぉっと音がした。

強い風がふいたのだった。森全体の木が大きく揺れた。木と木がぶつかるような音もした。風で揺れた木と木の間に隙間が空き、そこから明るい光が差し込んだ。
うつむいていた犬は顔を上に上げた。わたしもつられて上を見上げた。空が見えた。とても、とても眩しかった。本当に久しぶりに空を見たと思った。そして、こんなに明るかったのかと驚いた。
しばらく、わたしも犬も空を見続けた。すると、また風が吹いた。木が大きく揺れて、今度は明るい光が差し込んできて、眩しくて思わず手で顔を覆った。光は木の葉の間をすり抜けて地面にも降り注いだ。木が揺れるたびに、地面に当たる光は場所を変える。犬はその移動する光を生き物だと思って、次々に移り変わる光のさす箇所に飛び掛かる。その様子は、子犬の時に戻って、ただその光を捕まえたいという気持ちだけで動いているようだった。
森の中に入ってきた風がわたしの頬をなでる。何か懐かしい気持ちになった。羨ましい、わたしも走って行って一緒に光を追いかけたい。体の中が温かくなり、体が緩む。手を大きく伸ばして走り出す。大きく地面を蹴る。走るってこんなに全身を使うのだと思い出す。地面を蹴って動きはじめた足は付け根から持ち上がり、膝が前に突き出る。足だけじゃない。腕は肩から大きく引いて、次は前に出す。腕を交互に振るときには、腰が大きくひねられる。
 顔は走る方向を向いて、目は大きく開いて視界がはっきりしてくる。走るには空気が要る。沢山の空気を吸うために口を開く。空気がいっぱい入った肺は大きく膨んで、体中にそれを送り出す。体のあらゆる部分が走るために動き始める。

 待って、わたしもそこに行くから、と声に出そうとしたその時、目に入ってきたのは、じっと動かなくなっている犬だった。ついさっきまで一心に光を追っていた犬が、今は全く動かない。犬は男を見ていた。男の方を見て、上げかけた前脚をそのまま下すこともなく、じっと固まっていた。
男は、後ろを向いていた。男がずっと前だけを向いて歩いていたので、その顔がはっきり見えたのは初めてだった。
 男の顔。それは、辛くて、悲しくて、苦しい、その三つが全て合わさったような、そんな顔だった。そしてここから抜け出すことは出来ないとでも思っている顔。その顔は、わたしにまた何かを思い出させる。
 自分の体のあらゆる部分の動きは一瞬にして止まったように感じた。そして、目だけどうにか動かして犬のほうを見ると、犬は走り出していた。今すぐ、男のところに行かなければいけないと思っているのが体全体から溢れていた。
 「わかる、わかるよ。」と言おうとしたけど、喉がつまって言葉にならない。「早く。早く!」。
 犬が男に追いついた。男は、一瞬ほっとしたような表情になったように見えたけれど、すぐにその目は犬を鋭く突きさすような視線に変わっていた。その視線は犬を責めていた。何をしていたのだ?どうして付いてこなかった?そして、空を見たのか?と。

全身の力が抜けていく。地面に接している足から全部流れ出していく。砂で作った像が下から崩れ落ちていくみたいに。
やっぱりダメだよ。そうだった。空なんか見ちゃいけなかった。この森の中で静かに丸まっていなきゃいけなかった。そう思って犬のほうを見た。
 でも、犬は、そのまま止まらずに高くジャンプした。そして、男の顔に飛びついた。わたしは息をのんだ。犬の牙が男の頬に刺さった。大きくゆがむ男の顔。
「やめて!」と叫ぶけど声が出ない。男は体が固まってそのまま横に倒れた。犬はそれでも男の顔から離れない。噛みついたまま犬が大きく顔を振る。それに合わせて男の頬は裂けて、赤い血が流れだした。男はもう動かない。鮮やかな赤。流れる血の量が増えるにしたがってその色は変化する。濃い茶色がかった赤の血が地面に流れだして、それがそのまま帯になって地面から宙に浮きあがり、大きく太い線を描き出した。赤茶から、再び赤になり、オレンジ、黄色、ピンク。太い帯はさらに高く宙を舞って、鮮やかな色のベールの層になって森の中に広がっていく。
 
犬はどこにいるの?と探した。犬はもう男を噛むのをやめていた。口のまわりは男の顔から出た血の色に染まっていた。そのまま走り続けていた。犬が走る後ろを、鮮やかな色彩のベールは追いかけるように広がっていく。森は、赤、茶色、オレンジ、黄色、ピンクのベールで包まれた。そして、そのベールがいつの間にかその色のまま液体になり、大きな波のように押し寄せてきた。
わたしも走っていた。いつの間にか、わたしが犬になって走っていた。液体の波に飲まれないように、走り続けるしかなかった。わたしは一人だった。走り続ける先に何があるのだろう。とても孤独だった。でも、走り続けるしかなかった。

マイ スウィート ヌガー ( 10 / 12 )

マイ スウィート ヌガー ( 10 / 12 )

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-12-12

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