マイ スウィート ヌガー ( 9 / 12 )
1年くらいかけて初めて書いた小説です。全部で12まであります。
8.
うらぐちさんに話そう。走りながらそう思った。
自分でもよくわからないけど、あんなことしたのも、あんなこと言ったのも、全部自分の体から自然に出てきた。止められなかった。いや、止めたくなんかなかった。
走りながら踏みつける道路の感触がいつもより硬くて、足が痛かった。足もとを見ると上靴のままだった。ランドセルも手提げも全て図書室に置いてきた。だから体は軽かった。だからもっとスピードを出して走った。とにかく、早くうらぐちさんに話したい。とにかく。
走って、走って、やっと着いた。小道からうらぐちさんの家の庭に入った。そして、玄関のチャイムを押した。
「おばさん、おばさん!」
待ちきれず、チャイムを何度も押した。中から音がして、玄関が開いた。うらぐちさんが出てきた。汗だくのわたしを見て、うらぐちさんは、まあ、どうしたの?と驚いていた。
「あのね、おばさん、私、瑠奈ちゃんのこと嫌いだった!」
走ってきて大きく呼吸していたままで声を出して言ったので、大声になっていた。
「えっ?嫌いだった?」
うらぐちさんは驚いていた。
「そう!だって、ずるいし、嘘つくし、いつも出来ないのにやるって言って、頑張らないから出来ないし。それに、いつも人にやってもらって、とにかく、ずるいの!」
早口で話し続けるので、うらぐちさんは何も言えずに口を開けていた。
「胸がむかむかするって言ったでしょ、この前。瑠奈ちゃんを見ると変な気持ちになるって。それがこれだった。嫌いだったの!」
そこまで言って、ちょっと息をついたときに、うらぐちさんは、
「そうだったのかい。嫌いだったんだ。」
と、何度か頷いて、
「そうか、そうか、嫌いな子もいるよ。合わない子もねぇ。」
と言って、少しほほ笑んだ。やった。やっぱり、この気持ちは正しいのだ。その顔を見て、自信が湧いてきた。
「そう。だから、今日は、瑠奈ちゃんが出来なかった委員長の仕事を私がやったの。そしたら、とてもうまくいって、私は気持ちがよかった。」
自分が前に出て話し合いを進めて意見がまとまっていく光景を思い出し、気持ちが高ぶる。
「委員長の仕事?」
「うん。委員会の話し合いでね、瑠奈ちゃん、司会やったけど、全然できなくて、私が代わりにやった。そしたら、意見もいっぱいでたし、全部解決した。」
「で、瑠奈ちゃんは?」
「瑠奈ちゃん?瑠奈ちゃんは、えっと。」
高ぶった気持ちを急に押さえつけられたように感じてちょっと不機嫌になった。どう言おうか少し迷ったけれど、
「瑠奈ちゃんは、出て行った。」
と言った。すると、急にうらぐちさんの表情が変わった。
「出て行ったって?どうして?」
「えっと、恥ずかしかったんじゃないかな。私が話している間、ずっと下向いて立ったままだったって。」
うらぐちさんは、明らかに困ったような顔をしていた。それを見て、急に落ち着かなくなった。
「だって、しょうがないよ。瑠奈ちゃん、出来ないんだもん。」
「しょうがないって・・・。」
「そうだよ!ずるいんだもん!」
うらぐちさんは黙っていた。別にそんなことしちゃ駄目だとか言ったわけじゃない。うらぐちさんは何も言ってない。でも、そう絶対思っているに違いないと思った。
何か、言って。いつものように、そうだよ、いいねって、笑ってほっぺたが盛り上がって、目が一本の線になった顔で、笑ってよ。どうして、黙って困った顔してるの?
待っていた。うらぐちさんが何か言うのを。でも、うらぐちさんは、困った顔で黙っているだけだった。
目の前にいるうらぐちさんが全く違う人に見えた。それまでの、よく笑って、何でも聞いてくれる、甘くて美味しいお菓子をくれる、それを一緒に食べてくれる、優しい人ではなくなった。
ああ、また同じだった。この人も駄目だった。この人もわたしの味方じゃなかった。守ってくれない。この人も。
視界が白く曇っていく。そして、次第に白色からグレーになり、縦に黒い線が上から下りてくる。ランダムにダン、ダンと音を立てて。黒い線はあっという間に増えて、視界を埋め尽くす。
もう、前が見えない。目の前に立っているはずのうらぐちさんの姿が見えないと思ったとき、
「私、帰るっ。」
うらぐちさんの返事を待たずに、すばやく振り返った。
早く家に帰って部屋に入りたい。部屋に入ってベッドへ上がり、布団を頭からかぶりたい。小さい時からずっと使ってきたレモン柄のカバーの布団をすっぽりかぶって、ぎゅっと閉じこもって小さく小さく丸まりたい。部屋の電気も外の空気も全く入らないようにしっかり閉じて丸まりたい。早く、早く。
玄関の前に誰か立っていた。お母さんだった。
お母さんは、わたしとうらぐちさんが話すのをずっと見ていたようだった。そういう顔をしていた。
一瞬立ち止まったけれど、しばらくしてゆっくりそのままお母さんのところに向かった。歩くスピードを上げながら、涙が溢れてきた。涙は目の横へ流れていく。喉が詰まったように苦しくなる。お母さんは、いつもの仕事用のパンツスーツを着て、右手に大きめの茶色い鞄と、左手に買い物袋を下げたまま、こっちを見て立っていた。
お母さんの前まで来て止まると、涙は横に流れずに、目の上で水たまりのように溜まって厚みをましていく。だんだん前がぼやけて見えなくなる。
「捺、どうして裏のお家になんか・・・。」
と、お母さんが言ったとき、
「お母さん!」
大きく瞬きをした。溜まっていた涙が大きなかたまりのままポロッと落ちて、一気に視界がはっきりして、お母さんの顔がはっきり見えた。
眉をしかめて困っている顔。大丈夫じゃない顔。ちっとも大丈夫じゃない顔。見慣れた顔だった。お母さん、困ってるでしょ、ちっとも大丈夫じゃないでしょ。わたしは、その顔にずっと縛りつけてられてきたんだ!
「そうだよ!よく遊びに行ってたよ。お母さんには内緒にしてた!」
「どうして・・・。」
「おしゃべりしてたよ。そして、お菓子食べた。甘いお菓子。甘くてすごく美味しかった。」
「え?」
「お母さんが前に言ってた野良猫にずっと餌やってたんだって。とっても可愛いいんだって!」
「・・・。」
「私、365メートル泳いだ。足がプールの底に着いてたのがわからなかったくらい、夢中で泳いだ!」
「捺。」
「そしてね、お母さん!」
大きく息を吸った。肩を上下に動かして、何度も大きく息を吸って、空気をたくさん体に入れた。
「そしてね!犬が飼い主に心配かけないのって偉いってお母さん言ったでしょ。瑠奈ちゃんね、それ偉くないって言った。心配したいって。おかしいよね?瑠奈ちゃん変でしょ。だから、わたし、瑠奈ちゃん嫌いなの!」
詰まる喉から絞り出すように叫んだ。涙が次から次に溢れてきた。
「嫌い!大嫌いなんだよ!」
「捺!」
腕をつかもうとしたお母さんの手を払いのけて、玄関に走って入った。階段をかけ上って自分の部屋へ向かう。
お母さんは、振り払われた手を中途半端に上げたまましばらくじっとしていた。うらぐちさんは、スリッパと靴を片方ずつ履いて庭の真ん中で立ち尽くしていた。
その後、二人がどうしたのかは知らない。だって、そのときはもうベッドに飛び込んでいたから。飛び込んで、レモン柄の布団を被って小さく丸まって、止まらない涙をただ流し続けた。布団で包み込まれた空間は、生暖かくて懐かしい感じがした。またここに戻ってきたとホッとした。だけど、ここに戻ってくるしかないのだろうかとも思った。反対の気持ちが押し寄せてきて、よくわからなくなった。
でも、そこから出ることは出来なくて、この懐かしくて寂しい空間に自分の体を馴染ませた。体を丸めて、固く小さくなって目を閉じた。
目を閉じると、自然と心の中で、繰り返していた。すー、はー、あー、あー。吸って、三倍の長さで吐く。あの火傷をしたときから、眠れないときはいつもやっていた。いつも。すー、はー、あー、あー。
いつの間にか眠っていた。夕方に目が覚めると、ちょうど、わたしが図書室に忘れたランドセルと手提げ、下駄箱に入ったままだった靴を持って、担任の先生が家に来ていたところだった。玄関で先生とお母さん話すのを二階の自分の部屋から聞いていた。
急に飛び出したから図書委員会の先生二人は驚いて追いかけたけれど、追いつかなかった、荷物が置いたままだったのでお届けにきました、仲良しの蓑田さんも荷物置いて飛び出したみたいなので、二人の間で何かあったのかもしれない、先生は、心配そうにそう言っていた。お母さんは、今眠っているようなので、起きたら話を聞いてみます、明日は学校へ行けると思います、と答えていた。
それを聞きながら、目を閉じると、いつの間にかまた眠っていた。
マイ スウィート ヌガー ( 9 / 12 )