心傷風景①

心傷風景①

久々に書いた作品です。多くの人の読んでいただけたら幸いです。

「なぁ、あいつの通夜行くだろ? 中川絵里の。 なぁ、通夜って制服で良いのか?」
 村上のやつがまるで遠足へでも行くかのようにはしゃぎながら訊いてきた。クラス中の話題は絵里のことで持ちきりだ。まだ誰一人として絵里の死を実感してない。どこかみんな浮き足立っていた。中学生にとって人の死は非日常以外のなにものでもないらしい。体育祭や文化祭、修学旅行とかと同じようなものだった。
 絵里の死の意味を理解しているのは僕だけだった。
「・・・・・・なんでフルネーム?」
「だってそりゃ・・・・・・」
 村上は考えてみたものの、自分でもわからないみたいだった。
「馬鹿だな。自分で言っててわかんないのかよ。なんでだか教えてやろっか?」
 村上をちょっとからかってみたくなった。
「別にいいよ」
 村上は乗ってこなかった。
 僕はずっと絵里を近くに感じていた。だからフルネームだと違和感があった。クラスの男子のほとんどが陰で絵里をフルネームで呼んでいた。それが彼らなりの敬意の表し方だった。村上も他の男子もそれを自覚してなかった。
 絵里はクラスの中でちょっとした人気者だった。男女問わず、大抵のやつは絵里が好きだった。
 もちろん僕も絵里のことが好きだったけど・・・・・・僕の『好き』はやつらの『好き』と同じ意味じゃない。
 僕にはやつらの言う『中川絵里』とやらは全く知らない響きに思えた。慣れない『中川絵里』という響きのせいで本当の絵里が遠ざかっていくような気がした。彼女との記憶が果てしなく続く暗い空に溶けて消えてしまいそうで、胸の内は不安でいっぱいになった。
「なぁ、そんなのどうでもいいから。 なぁなぁ、制服で良いのかよ?」
「あぁ、良いんじゃないか。でも僕は行かないよ」
 面倒だから適当にあしらって終わらせるつもりだった。
 教室の中はクラスメートが発する不快な雑音で溢れていた。学校に静かな場所なんてほとんどない。唯一僕が知ってるのは一ヶ所だけ。
「はぁ? なぁ、なんでだ? クラスの奴が死んだんだぞ? なぁ、お前って結構冷たいやつなんだな」
 村上は馬鹿正直そうな顔に一点の懐疑を浮かべながら非難した。
「そうだよ。冷たいぐらいが良いんだ」
 冷たいという言葉が僕の腕を優しく撫でた。僕の腕の傷に触れる絵里のひんやりとした手の感触が鮮明に蘇ってきた。
「はぁ、何? 今なんて言った?」
 村上の耳に僕の囁きは届いていなかったようだ。つい口を割って出た本音を聞かれなくて良かった。
 それにしてもこいつは『なぁ』とか『はぁ』とか言わないと話せないのだろうか。徐々に苛立ちが高まっていった。
「なんでもない」
 僕は急いで立ち上がって扉のほうへ向かった。騒然とした教室に僕はもう耐えられなかった。
「おい、なんであいつ怒ってんだよ」
「村上がはしゃいでるからだろ」
「そうそう、村上はいつも何も考えてない」
「人が死んだんだ、もうちょっとマジになれよ」
「なんだよ、俺だって真面目に――」
 僕の背後でクラスの奴らの声が遠のいていった。
 廊下をしばらく進み、気が付くと僕は階段を駆け上がっていた。屋上に絵里がまだいるんじゃないかという錯覚が僕の足を急かしていった。

 あの日僕は独り教室にいた。放課後の教室は普段の雑然とした感じとは程遠く、居心地が良かった。
 別に変なことをする為に残っていたわけじゃない。変なことってのは・・・・・・まぁ変なことだ。そんなことは勝手に想像すればいい。いくらでも考えられる。どうだっていいことだ。
 いや、僕がやろうとしていたことはやっぱり変なことには違いない。ただ変は変でもいやらしい意味合いは無いって言いたかったんだ。と、僕は僕自身に釈明する。事実なのだから釈明も何も無いだろうけど。
 いつものように僕は自分の机に座り、深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。ワイシャツの袖を捲くり、筆箱の中からカッターを取り出した。教室の薄明かりの中で銀色のカッターが冷たく輝く。僕はカッターの刃をおもむろに出し、じっと自分の腕の傷跡とカッターの刃を眺める。これは決められた儀式みたいなものだ。
 こうやって自分の傷を見つめると、傷を持っていることに僕はまた傷つき、さらなる悲しみの快楽へと導かれる。そして自分で自分の傷を撫でる。時にはかさぶただったりケロイドみたいになってたりと状態は様々だった。どんな状態にせよ僕の傷はさらなる悲しみを呼ぶ。内部で悲しみが最高潮に達したとき、その証拠として僕は腕に新たな傷を刻みつける。
 自傷なんてただの自慰行為だって言われるかも知れない。その通りだ。でも僕は心の痛みを自らの腕に刻みつけないとどうやっても耐えられそうにないんだ。
 孤独から逃れるために自らを慰め続けなきゃ生きられないんだ。
 それなら家で一人でやればいい、これまたその通りだ。でも僕はきっと誰かにこの傷を知って欲しいんだ。僕が苦しんでいることを、悲しんでいることを誰かに知らせたいんだ。
 できればこっそりと、僕の知らないところで誰かが気づいてくれれば一番だと思ってそんなくだらないことをやっていた。
 儀式の最中、突然教室の扉が開いた。
『やばいっ!』と、心の中でかなり焦った。入ってきたのが教師にしろ生徒にしろ、僕はこのことをどう説明したらいいだろうか? 誰かに知って欲しいと願いながらもいざ知られそうになると急に怖くなった。
 だけど入ってきたのは絵里だった。秋の風が教室から廊下へ吹きぬけ、扉の側で佇む絵里の黒い髪と短いスカートを靡かせた。
 絵里は今の季節が似合う。絵里はどの季節にも合う顔を持っている。春のような華やかさも夏のような溌剌とした活気も冬の透明感も。でも、僕が一番好きなのは今の季節の絵里だ。秋も立ってきた。絵里の時々見せる表情と秋の色が溶け合って輪郭を失っていく。絵里を見れば秋を感じられるし、秋を感じればそこに絵里を見ることが出来る。だから僕は秋と彼女が好きだった。
「やっぱりここにいた。並木君、みっけ」
 絵里はそう言った。僕が教室にいるのを知っていたかのような口調だった。
「いた? いたって何? みっけって?」
 眼の前に絵里がいるのは無条件に嬉しかったけど、僕はまだ何が起こっているのかよくわからなかった。そのせいか僕の声は静かな教室に甲高く響いた。
「うん。いた、だよ。私、知ってるよ。並木君がたまに放課後教室にいるってこと」
「えっ、あぁ、そう」
 ドキッとした。見られていたんだ、と思った。
「それにね、あなたが何をしてたかも」
『あぁ、やっぱり』
 言われる前に僕はもう言い訳を考え始めていた。
「だからね、行こ、屋上に」
「えっ?」
「だってここじゃあ誰か来るかもしれないじゃん」
 僕に言い訳する隙なんか与えてくれなかった。
 絵里は僕の腕をつかんで屋上へ続く階段をぐんぐん上っていった。扉を開けると日の暮れかけた世界。僕の眼にはっきりと焼きついている、そこに広がるのは悲しい赤の世界だった。

 ひとり屋上へ行くとそこは雨で水浸しだった。
 うっとうしいクラスの奴らから逃れて絵里のもとへ行きたかった。死にたいって意味じゃない。あの時見た赤い空を僕はもう一度見たかった。もちろんそんなのが見れないのはわかりきっていた。まだ日が暮れるには早い。それに、暮れたとしてもどうせ今日のこの雨じゃあ見れそうに無い。
 濡れ鼠になることなんて構わず僕は雨の屋上へ出た。
 絵里と見た赤の世界はどこかへ消えてしまった。僕は絵里の痕跡を探した。どこかにあの時の赤は残っていないかと屋上の隅々まで探した。でも広がるのは灰色の雲を映す水溜りばかりで、無情な雨は容赦なく僕の心を冷たくしていった。
 ここで僕は本当に絵里の傷を見たのだろうか? そもそも絵里は本当にいたのだろうか? 僕は? 絵里なしでは僕の存在すら疑わしいじゃないか。僕が今、確かにここにいるって誰が言えるんだろうか? 言えるとしたらきっと僕自身だけだろう。でも、僕は絵里なしで自分に確証なんて持てない。
 眼の前に広がる現実で僕の存在すら危うくなっていった。なんとかそれを掴み取ろうと、僕は冷たい雨を降らすこの暗い空に向かって必死に手を伸ばした。

「知ってるからね」
 屋上で二人っきりになると絵里はまたそう言った。
 普段教室でみんなに見せる顔とは違った。僕の一番好きな顔だ。時々誰にも見られないようにしながらも、どうにも我慢できなくてこぼれてしまう表情。あれは・・・・・・悲しみの顔。
「知ってるって・・・・・・何を?」
 動揺を隠しきれず僕は口ごもってしまった。
「並木君が私のこと知ってるってことを知ってる」
「ん?」
 絵里の複雑な表情と言葉は僕を困惑させた。
 どうして絵里はこれほどまでに僕を困惑させるのだろう? 知ってるってのは何のことだ? 僕が好きだってことに気づいてるってこと? 絵里のことが好きなのは僕だけじゃない。むしろそれを公言してるやつだっている。なのに何で僕なんだ?
「えっ? だからさ、並木君は私の力に気づいてるんでしょ? 知ってるはずだよ、私がどんな超能力を持ってるかってこと」
 僕の困惑はいつのまにか絵里にまで広がっていた。絵里の言葉にはある種の懇願めいた響きを含んでいた。そんな絵里の声に僕が抗うことなどできるわけ無かった。
「あ、あぁ、うん。どうだろ。そうかもしれない」
「やっぱり」
「う、うん」
 無論、僕は超能力なんて知らない。僕が知っているのは人気者の絵里が時々悲しい顔をするってことだけだ。そしてこれは推測に過ぎないけど、絵里はその悲しみを誰かに知って欲しいと願っていた。つまり絵里が僕と似た存在なんじゃないかっていう風に思ってたんだ。
 僕は他の人のように明るく優しい絵里が好きなんじゃなかった。絵里の本当に綺麗なところを知ってるのは僕だけだと思っていた。だから絵里が好きだった。
 それにしても・・・・・・超能力っていったい何? これが僕の本音だった。
「良かった。そうだと思った。だって並木君が放課後教室でやってることって・・・・・・私の超能力と同じだもんね」
「放課後の教室? えっ?」
 すっかり忘れていた。絵里の話で自分が見られていたということがどこかに消え去っていた。
「並木君、気づいてなかったの? 私が見てるの知っててやってるって思ってた。ごめんね、勝手に見ちゃった」
 彼女は胸を軽く手で押さえた。僕は恥ずかしさと腹立たしさで頭がごちゃごちゃだった。
「・・・・・・別にいいよ。あぁ、もう、いいや。頭おかしいって思っただろ?」
「そんなことないよ! だって――」
「誰かに話したかったら話せば? それとも恐喝でもする気? 僕からゆすれる物なんて何もないよ。だから好きにすればいい。誰にだって好きな人に話せば――」
「ちょっと待ってよ。並木君、勘違いしてるよ。私はそんなことするために来たんじゃない。もう、どうしようもないほど悲しくて悲しくてわけわからなくなりそうだから私はあなたに話そうって決めたの。ね、わかる? わかるでしょ?」
「わかんないよ! いったい何? 僕をからかってそんなに楽しい? 誰かどっかでビデオでも撮ってるんじゃないの? 悪戯ってのはやる相手をきちんと考えてからするもんだ。僕なんてからかっても面白くないっつうの」
 絵里がそんなことする人じゃないってのはわかってた。みんなが知る絵里も、僕だけが知る絵里も、どちらもそんなことはしない。僕はもう何が何だかわからなくなっていた。
「さっき並木君、私の超能力に気づいてるって言ったじゃない? あれは嘘?」
 嘘だよ。だって君が僕に願ったから僕は嘘をついたんだ。でも・・・・・・。
「超能力って何? そんなの知らないよ。僕はただ絵里のこと――」
 そこまで言って僕は停止した。何を言おうとしたのか? 決まってる、いきなり告白しようとしたんだ。
「私のこと何?」
「・・・・・・何でもない。僕はただ君が時々悲しそうな顔をするのを知ってるだけ」
 結局ほとんど告白のようなことを言ってしまった。絵里の表情はそれを聞いても変わらなかった。
「そう・・・・・・。まぁいいや。いいよ、それで十分だよ。ほとんど私の超能力を知ってるようなものじゃない」
「そうなの? 待って。僕は全くよくない」
「もういいの。大体は私の思ったとおりだから。超能力なんてどっちでもいい。それは大した問題じゃないから」
「いや、なんでよ。僕は何もわからないよ。何なの、その超能力って?」
 僕は絵里の世界に惹きこまれていった。もう抜け出せそうになかった。
「だからさ、それは――」

 もう絵里はいない。痕跡すら見つけられない。
 屋上で雨に濡れながらただぼんやりと歩き続けていた。歩くのを止めた瞬間に絵里との過去がすべてこの雨に流されてしまう気がした。再び孤独へと押し戻されてしまうのではないかという恐怖から、僕はひたすらに歩き続けた。
 もしかしてあの時の赤い涙の痕跡は絵里が存在した意味と一緒に消えてしまったのかもしれない。
 存在した意味? 絵里が存在した痕跡すら見つけられないのに意味なんてみつかるわけない。きっと僕が僕の意味を見つけない限り永遠に絵里の痕跡も存在した意味も見つけることはできないんだ。
 もうだめだ。ようやく僕は歩くのを止めた。雨の中、僕は重たい鈍色の空をぼぉっと眺め立ち尽くした。分厚い雲の向こうに絵里と僕との記憶があることを願いながら。

 説明はこうだった。
 絵里は超能力者で、それは念力とか人の心が読めるとかそう便利な類ではなく、何の役にも立たない自己完結的なものだそうだ。(僕は自己完結的だとは思わなかった。)スプーンも曲げられなければ透視だってできやしない、サイコメトリーやらテレパシーなんてのとも違う。強いて言うならば『心を読ませる能力』と言った所かもしれない。サトラレって奴の一種だ。
 絵里はこう言った。
「きっとあなただけは理解してくれる、だからあなたに話そうって思ったの」
 僕はきっと理解できたんだと思う。絵里は僕と同じことをただ超能力を使ってやっていただけだ。違うのは、僕は自分で意識的にやっていた、絵里は無意識的に超能力によってやられていた。絵里の言ったとおりだ。僕らは同じことをしていた。
 大きな枠で考えればどちらも自然の力によって支配されていたに過ぎない。
 僕と絵里はきっとずっと同じ世界に住んでいた。僕はもう孤独を感じる必要なんてないのかもしれない。その瞬間、僕は絵里に救われたんだと思った。本当は互いに知ることができない深いところを、僕たちだけは知ることができたんだ。でも本当に僕は絵里のことを理解していたのだろうか? そして絵里も僕を理解したのか・・・・・・。答えはまだ出そうにない。

「並木君、ここで何してんの?」
 突然僕の記憶に誰かが土足で踏み込んできた。同じクラスの女子だ・・・・・・同じクラスの・・・・・・名前は真中理子、だったかな。この女はクラスで唯一絵里のことを嫌っていた。周囲の人間はただの妬みだろうと相手にしていなかった。むしろ真中のほうが嫌われていたぐらいだ。
「何でもいいだろ」
 せっかく面倒な教室から抜け出して屋上に来たのにここでも面倒なことが続きそうだった。
「びしょびしょじゃない。さっさと教室戻ったら。風邪ひくよ」
「別にいいだろ。授業はさぼるよ。どうせ数学だろ。僕は数学が得意なんだ。授業なんて必要ない」 
 真中は黙って僕の傍に来た。雨はさっきよりも激しくなっていた。真中もすぐびしょ濡れになった。
「あの娘のこと思い出してたんでしょ? あの娘で倒れたんだもん。事故みたいなもんだって先生は言ってたけど、違う。あたし知ってるんだから」
「・・・・・・」
 答えは沈黙で十分だと思った。真中になんか話す必要ない。
 それにしても真中はこの雨の中何をやっているのだろう。おかしいやつが自分以外に何人もいたらそれこそ何がおかしいのかわからなくなる。
 僕は絵里以外に僕を理解なんてして欲しくない。僕と絵里の関係に誰も足を踏み入れて欲しくない。だからこの沈黙は答えになるんだと思った。
「なんで黙ってんの? あたし、ちょっとぐらいはわかるよ。並木君のことも中川さんのことも」
「何の話だよ」
 フルネームの次は『中川さん』か。僕の記憶の絵里がどんどん壊されていくようで嫌だった。
「だからね、あんたたちのことがわかるって言ってるの」
「僕は僕たちの何がわかるんだって聞いてるんだよ」
「そんなの・・・・・・並木君が中川さんのこと好きだったってこと、中川さんが並木君のこと好きだったってこと。そういうことよ」
「馬鹿か。そんなわけ――」
「そんなわけなくない。だって二人とも同じ顔をしてたもん。悲しそうな顔。あたしだけがそれを知ってたんだよ」
 この言葉を聞いた瞬間僕の胸に鋭い痛みが走った。水平に深い傷が刻まれ、ワイシャツの内では血が流れていた。ワイシャツにも僅かに赤が滲んでいた。
「見つけた。彼女の痕跡」
「えっ、何?」
 真中の言葉は僕と絵里の世界にナイフを入れた。胸の真新しい傷の中で僕は再び絵里に出会った。

 僕は絵里を疑うなんてことを知らない。でも絵里は僕がまだ信じていないと思い込んでいた。
「証拠、ね、証拠見せるから」
 そう言って絵里はネクタイをゆっくりはずした。黄昏の赤と絵里の首元の白とで僕はすっかりおかしくなっていた。艶やかな首元からはずされるネクタイは何か奇妙な生き物のように見えた。
 すっかり面食らった。絵里は僕を異世界へと引きずり込んでしまった。僕もそれを望んでいたのかもしれない。
「はい、これ。持ってて」
 絵里の腕から例の生き物がぶらさがっていた。今にも動き出しそうなそれを僕が受け取ると、急に生気を失ったかのように単なるネクタイに戻っていった。彼女の超能力とやらはこんな所にまで及んでいるんだろうか。物に命を吹き込む、まるで神様みたいだ。絵里はきっと、神様よりも素敵だけど。
「ちょっと待ってね。本当なんだから」
 普段の絵里からは想像できないような不思議な声だった。みんなの知らない絵里の顔は知っていたけど、こんな声も持っていたんだ。僕はますます絵里が好きになった。
 透き通る秋の空のような声は僕を突き抜けて夕日の彼方へ消えていった。言葉の意味は僕の所に留まろうとはせずに空を走り回っていた。やがて意味は跡形も無く消えてしまった。意味が僕を嫌っているせいか、僕が意味を嫌っているせいかはわからない。全部が跡形も無く消えてしまった。僕と絵里との間では言葉はそれほど重要ではなかった。
 絵里はシャツのボタンを上から一つずつはずしていった。華奢な指先が不器用に動くたびに白い肌があらわになっていった。忍び来る夜を背景にして絵里の肌は不気味に光り、際立っていた。絵里はボタンを四つほどはずした。僕の心臓は壊れるんじゃないかと思うくらい早く脈打っていた。
「ほらね、本当でしょ」
 絵里の口からは恥ずかしさと自信とが入り混じったような絶妙な音を放たれた。
 最初から疑ってなどいない、絵里がそういうならそうなんだろうという程度にしか考えていなかったんだから。
 とにかく絵里の言ったことは本当だった。下着の間を横向きに幾筋かの赤い線が走っていた。本当に傷があった。それで証明は十分だった。別にそれを見なくたって僕にとったら絵里そのものが証拠だ、実のところ見る必要なんてなかった。
 あまりに緊張していたため僕は絵里に冷たい態度をとった。
 違う、緊張じゃない。本当は絵里の傷口が開くところを見たかったんだと思う。今となっちゃどっちかわからない。
 傷から流れる赤い涙を見てみたかった。だから絵里を傷つけたかった。
「確かに傷はあるよ。でもそれで超能力を証明したことにはならないでしょ? そもそもそんな超能力、何の役に立つの?」
 本心と正反対のことを僕は言った。とにかくその綺麗な傷から流れる血が見たかった。
「そうね。そのとおり。何の役にも立たない」
 役に立たなくは無い。僕の言葉の刃が絵里の傷を開いて、そこから赤い雫が落ちた。僕はこの眼で彼女の悲しみを見た。
 屋上には僕と絵里しかいなかった。校舎や校庭、道路、さっきまであらゆるところで雑多な音が響いていた。
 野球部やサッカー部のやつらが青春にかける声、孤独な犬の遠吠え、忙しない車、赤い空を泳ぐ飛行機、全てが僕らのいる屋上に向けて音を出しているかのようだった。でも賑やかな音たちは、絵里の流す涙に吸い込まれて鳴りを潜めてしまった。彼女の赤い涙が全ての音を悲しみで包み込んだ。
 僕は悲しみの音が沈黙だということを初めて知った。沈黙は僕らを世界に二人だけの存在にした。悲しみは僕らの世界を作るための壁だ。悲しみの赤い膜で世界を包み込んでしまえば、僕ら以外のものは存在しない。僕ら以外を必要としない。絵里もそれを知っていたに違いない。
 絵里の血が下着に沁みて少しずつ赤に染まっていった。それと一緒に僕の心も絵里の悲しみが沁みこんで赤く染まっていった。役に立たないなんてことはない。これほど大事なことってほかにはないと思う。その傷があったからこそ僕は絵里の悲しみの傍にいれたんだから。
 彼女の傷の赤は、夕日の赤よりも、ずっとずっと深く、鮮明で、美しかった。

「今、絵里の痕跡を見つけた」
「痕跡? 何それ?」
「お前には関係ないだろ」
「・・・・・・そうね」
 真中は悲しげな顔をした。必死でそれを表情に出さないように努力する姿が、さらに悲しみを誘った。僕の胸から絶え間なく血が流れ出した。このまま流れ続けると死んでしまうかもしれない。
 僕は二人の間に流れる沈黙に耐えられなかった。沈黙は僕と絵里のものだ。真中にそれを分け与えることなどしたくない。
「何だよ! 何しに来たんだよ! お前は絵里のこと嫌ってたじゃないかよ。それなのに何なんだ! 僕のことがわかるとか、絵里のことがわかるとか、なんでそんなこと簡単に言えんだよ!」
 苦しくて苦しくて、僕はそれを真中にぶちまけた。胸には次々に傷が刻まれていく。絵里を傷つけるのも、真中を傷つけるのも、そして僕自身を傷つけるのも、本質的には何も変わらないことだった。人を傷つけると自分も痛いんだ。
「ごめん。ごめんなさい、ただあたし、並木君が好き」
「はっ?」
 もう何が何だかさっぱりわからない。僕は必死に眼の前の現実から逃げ出そうとした。

 絵里の傷からはまるで僕らの様子をうかがうように緩やかに血が流れていた。
「ごめん。本当だったんだね。それにしても変な超能力」
 僕は笑おうとした。だけど悲しみでうまく笑えなかった。声は僅かに上ずっていた。
「うん。本当に役立たず」
 そんなことない、そう言いたかった。でも喉のところに恥ずかしさが引っかかって搾り出すことが出来なかった。
「・・・・・・僕も見せるよ」
 かばんの中から模型用のカッターと赤い替え刃のケースを取り出した。模型用のカッターは普通のよりも刃の角度が鋭い。だから切れ味も普通のよりずっと良い。僕のお気に入りだった。
 模型を作るためのカッターで自分の体を傷つけるなんて何かいい。作るためのもので壊す。目的とは全く逆の使われ方をされたカッターは本来ものが持つ意味を奪われてしまって所在無さげにぼんやりと輝いていた。その悲しげなカッターの表情に僕はたまらなく愛着を感じてしまう。
 だけどこのカッターにも欠点が一つだけある。使う度に刃を折らないとすぐに切れ味が落ちてしまうんだ。
 赤い替え刃ケースの溝を使って刃を折った。パキンッ。渇いた音が沈黙の中で響いた。
 僕はおもむろに袖を捲くって腕を出した。絵里の胸と同じように幾筋かの線が刻まれていた。そしてさらにもう一筋、赤い線を引いた。肌に痛みが走り、同時に悲しみは和らいだ。きっとこれは心の傷を肉体の傷に変える代償行為なんだ。
「・・・・・・綺麗な傷」
 彼女は静寂を壊さないように丁寧に声を発した。
「君の傷のほうが綺麗だよ。僕のは外から切らないといけないからどうしても・・・・・・君の超能力は内から切れるんでしょ、きっと」
 僕も静かに言った。
「そうだと思う。だって心が苦しくて悲しいときだけ切れるんだもん」
「僕も一緒。悲しいときだけ切りたくなる」
「でもね、悲しいときに必ず切れる訳じゃないよ」
「えっ?」
 苦しみや悲しみが全て傷になる訳ではない?
 そうか、そんなの当たり前だ。僕が苦しくて悲しくて腕を切るのと、超能力によって傷が出来るのとで原因が別なはず無い。僕が切るのは・・・・・・誰かに知ってもらいたいからだ。誰かってのは誰でも良いわけじゃない。僕が大切に思う人たちだけだ。その人たちに知ってもらいたいから、僕が悲しいって知ってもらいたいから腕を切るんだ。絵里もそうなんだ。
「だからね、誰にでも見せる訳じゃないよ、この傷。ていうかね、初めて見せたの。並木君に私の傷を知ってもらいたくて」
 嬉しかった。嬉しくて仕方ないのに何故かもっと自分の傷を増やしたいと思った。
「僕もそう。傷を見せたのは初めて。絵里だから見せたんだ」
 この言葉は絵里を傷つけたようだった。彼女の胸にまた新しい傷が生まれた。なのに彼女は嬉しそうだった。

「だからぁ、あたしはあんたが好きなの! 意味わかる?」
 一瞬の内に現実へ引き戻された。
「はぁ」
 正直言ってさっぱりわからなかった。話したこともない真中がどうして僕のことを好きになるって言うんだろう。
「あたしも知ってたよ。並木君が放課後の教室に残ってたこと。中川さんがそれを見てたってことも」
 僕の胸の傷がズキズキした。血は止まりそうになかった。なんとも間抜けなこの状況だけが唯一の救いである気がした。もっと真面目っぽくて、綺麗で、慎みのある女子だったら、僕はもう死んでしまっただろう。
「はぁ、そうですか」
 僕は敬語しか出てこなかった。間抜けさは一層増していった。
「『はぁ』じゃないでしょ? これでわかるでしょ? あたしが中川さんを嫌っていたってのはあんたの勘違い」
 真中はすごく優しいんだ。知らなかった。僕は真中のこの風変わりな優しさに頼るしかない気がする。でないと傷がふさがることはなさそうだった。
「そっか、ごめん。ありがとう」
「ありがとうって何がありがとうなの? ホントあんたは不思議なやつ!」
「でもお前はその不思議な僕に告白したんじゃないの?」
「はぁ? 告白? そんな大げさなものじゃないわよ。ただあんたが好きって言っただけでしょ?」
 思わず笑ってしまった。それを告白と言わないで何を告白と言うのだろうか。
「もう、なんで笑ってるの? ふざけないで、あたしは真剣なんだから」
 真中も真中だけの悲しみを持っている。そして僕の悲しみを理解しようとしている。僕は絵里の気持ちがようやく少しわかった気がした。そっか、嬉しくて、幸せで堪らないんだ。そして――。

「今、私すっごく幸せ」
 彼女は悲しげに言った。
「えっ?」
「でもね、すっごく悲しいの。ねぇ、どうしよう? どうしよっか? 私の傷、触っても良いよ。触ってくれたら、すこし傷が癒えるかもしれない」
「うん」
 絵里の肌は冷たかった。秋の風に当たって冷えたのかもしれない。傷はわずかに腫れていた。女の子に触れるなんて初めてだったのに緊張はしなかった。僕が触れたのは絵里の心の傷だからだ。触れたところから鼓動を感じた。絵里は確かに生きていた。
「ねぇ、僕の傷も触って良いよ」
「わかった」
 絵里は僕の腕を優しく撫でた。やっぱりその手も冷たかった。気持ちいい冷たさだった。僕の傷はジンジンして熱くなっていたけどそれを彼女が冷やしてくれた。
 傷から手を離し、彼女はシャツのボタンを留め始めた。それに合わせて僕も捲くった袖を元に戻し、持っていたネクタイを返した。
「帰ろっか」
「うん」
 僕が先に階段を下りた。僕は振り返らなかった。絵里がまだそこに留まることはわかってた。そしてもう二度と絵里に会うことは無いのも知っていた。

「ねぇ、教室に戻ろうよ」
「あぁ。でも、もうちょっと」
 僕はせっかく絵里の痕跡を見つけたんだ。結果として絵里の超能力を受け継ぐこととなったわけだ。その喜びと悲しみの入り混じった感情を教室なんて場所に持ち込みたくはなかった。
「わかった。じゃああたしも一緒にいる」
 真中の真剣な声は僕の傷を深くえぐった。
「ありがとう」
「うん」
 沈黙だった。雨が他の雑音を消してしまった。この雨は絵里の涙かもしれない。あの時流した赤い血と同じかもしれない。絵里の痕跡をまた一つ見つけた気がした。
「ねぇ」
「何?」
 真中が沈黙を破ると胸の傷はうずいた。
「中川さんが死んじゃった理由、あんたはわかるんでしょ」
「あぁ、多分。わかる」
「どうしてなの」
「どうしてって・・・・・・いずれ真中もわかると思う。それじゃいけない?」
「いけない。どうして?」
「はぁ・・・・・・」
 僕は話したくなかった。説明したって今の真中にはわかりっこない。
「あたし、あたしなりに考えてるんだよ。ちょっとぐらいは並木君や中川さんのことわかるんだよ。それでも教えてくれないの?」
「教えてやりたいけど教えることができない。言葉で伝えられるなら伝えてるよ」
「そう・・・・・・」
 再び優しい沈黙が訪れた。雨は降り続けていた。
「赤い・・・・・・」
 僕の胸のあたりを見て真中が言った。シャツは血で真っ赤に染まっていた。
「あんたの胸んところ、ちょっと赤い気がする」
 真中に僕の血はそれほど鮮明に見えないらしい。
「気のせいだよ。さぁ、そろそろ教室へ戻ろう」
 僕たちはずぶ濡れの制服で校舎の中へと戻っていった。

心傷風景①

 最近、人間が生きる上で本当に必要なものは何かということばかり考えています。そんなことばかり考えているせいか日常生活もままならない状況です。それでもやはり考えてしまいます。

 生きる意味を問うのは無謀なことかもしれません。V.E.フランクルは生きる意味を問うことより、生きていることそれ自体が私たちに何を要求するのか、それを考えることの方が重要だと言っています。そうかもしれません。でもそれもまた、違った形で生きる意味を問うていることには違いありません。
 死ぬことが「生きる意味」を与えてくれるなんていう論理的矛盾だって人間は容易に受け入れらるのではないかと思います。それでも人間は生きます。ほとんどの人は自殺という選択肢を持っているにも関わらず選ぶことはありません。

 何故ひとは生きるのでしょうか? 私は近頃、愛ってものがあるからかな、とか思ったり思わなかったりしたわけです・・・・・・。

 そしてこの作品で『絵里』は自らの「超能力」と「愛」とによって殺されてしまいます。それはある種の自殺なのかもしれません。『絵里』は永遠の孤独の中で生きるよりか永遠の愛の中で死ぬことを選んだわけです。
 ここで私は疑問に思うことが一つあります。人間は誰でも『絵里』のように孤独です。誰かを愛しても、誰かに愛されていても、それでも孤独は絶対的な世界の支配者です。そんな中、「愛」の悲しみによって、そして超能力によって、『絵里』は死ぬわけですが・・・・・・。果たして『絵里』は不幸だったのでしょうか? 私は彼女が最も幸福な人生を送ったものとして書いたつもりです。生の長短や死に方で人の幸不幸が決まられて堪るか!って感じです。

 愛情によって根本的な孤独は越えられません。もし『絵里』のように「悲しみや苦しみが身体の傷として現れる超能力」を持っているとしたら、人はどうするでしょうか?
 彼女のように『僕』から愛され、『僕』を愛することで死ぬとしても、それでも人は人を愛するのでしょうか?
 私は、愛によって自らの肉体を滅ぼすものと知っていても、やはり人は人を愛するものだと思います。

 この物語はおそらく続きます。
 『僕』は『絵里』から超能力を受けついだわけです。『真中』は『僕』を愛しています。『僕』がもし『真中』を愛した時には『絵里』と同じ運命をたどります。すると「超能力」は『真中』に受けつがれるわけです。そして『真中』はまた別の誰かに愛され、愛し、死んでいく。

 科学的に「愛」を説明しようとすると「生物学上、繁殖を促すもの」という程度にしか捉えられません。
 「愛」が命のバトンを繋ぐ役割を果たしているという訳です。
 でも宗教や神話が向かう「愛」は、恐らくその反対なのではないでしょうか? つまり「愛」によって生命の繁栄は終焉を迎える。そして人類は救われる。
「科学的な愛」は欲求のためにあり、「宗教的な愛」は無欲のためにある。それゆえに「科学的な愛」は繁栄へと向かい、「宗教的な愛」は絶滅へと向かうわけです。
 私の描きたかった「愛」はおそらく後者です。
 本来的には「愛」は「科学的な愛」に近いものだと思います。生産的な愛と言ってもいいかと思います。
 後者の場合は非生産的な愛です。というよりもむしろ破壊的な愛ですね。本来的・生産的な愛が命を次世代に繋いでいくのとは逆で、私の描いた愛は死のリレーですから。

 はてさて、この死のリレーは人間にとって過ちでしょうか? それとも行き着く果てでしょうか?
 私にはさっぱりわかりません。
 ですが、生きる意味や人間の幸福というものを考えた場合、こんな愛と死のリレーなんてのもあってもいいかなって、そんな気がします。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

心傷風景①

少年少女(中学生ぐらい)のどうしようもない孤独・悲哀・不安と永遠不変の愛や官能的な死への憧れを描いた作品です。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-10-05

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