マイ スウィート ヌガー ( 7 / 12 )

1年くらいかけて初めて書いた小説です。全部で12まであります。

7.
 
 炊飯ジャーには、ご飯が炊きあがるまであと十五分、と表示されていた。お風呂は洗ってお湯も溜めていた。ご飯が炊きあがるまでテレビでも見ようかとチャンネルを手に取ったところで、ふと思いついて、チャンネルをテーブルの上に戻し、台所の裏勝手口の方へ向かった。そして、勝手口を開けると、そこからうらぐちさんの家が見えた。うらぐちさんの家はまだカーテンが開いたままで、テラスの窓ガラスから部屋の光がついているのが見えた。
「うらぐちさん、いるんだ。」
そのまま勝手口に置いてあるスリッパを履いて外へ出た。外は薄暗くなっていて、空気がひんやりしていた。
手入れされていない小道を歩くと、履いていたスリッパの間から雑草の先が入って足にささってチクチクしたけれど、そのままテラスのほうへ向かった。
 窓から中を覗きながら、窓ガラスをコンコンと叩いた。明かりはついているけれど、中にはうらぐちさんの姿は見えなった。何度かコンコンと叩き続けた後、テラスを下りてうらぐちさんの玄関に行き、インターホンを押した。
すると、しばらくして中からガタガタっと音がして、誰かが玄関まで来ている気配がしたけれど、ドアは開かない。おかしいなあと思って、ちょっと後ろに下がって離れたところからドア全体を見つめた。

すると、ドアにある覗き穴から誰かが覗いていて、黒い目がぎょろっと動いた。
「わ!」
声を上げたと同時に、
「何だー、じょうちゃんだったの!」
という大きな声が中から聞こえてきて、ばんっとドアが開いた。
玄関に登場したうらぐちさんは、いつもと様子が違っていた。いつもの部屋着のようなさらっとしたワンピースではなく、少し厚めの生地でつるつるして光沢のあるえんじ色のワンピースに、それより少しだけ濃いえんじ色のジャケットを上から着ていた。足もとを見ると、ワンピースの丈はいつもより短く、膝が覗いていて、ストッキングを履いているのがわかった。ストッキングはお母さんが履いているのを見たことがある。ストッキングを履くと、足がすべすべになって足の肌の色が白くなる。うらぐちさんの足もすべすべになっていたけど、色はうらぐちさんの顔の色と比べてどちらかというと、すこし濃い茶色に見えた。

「おばさん、出かけるの?」
「ああ、もうすぐね。今、準備しているところだったんだ。この時間に来るのは初めてだね。上がる?」
「あ、いいですか?」
「いいよー。ほら、上がんなさい。」
うらぐちさんは、横を向いて玄関ドア片側に自分の体を寄せて、わたしが通れるようにスペースを空けた。うらぐちさんの横を通って中にはいり、スリッパを脱いで家に上がった。

 玄関を上がると細い廊下があり、その左側には洗面台を挟んでドアが二つあった。たぶんお風呂とトイレだろう。反対の右側にはガラスの引き戸の部屋が一つあった。引き戸が開いていたので見ると、まるで引っ越ししてきてすぐみたいに、段ボールがいくつか置いてあって、中には物がまだ入ったままになっていた。すぐ横には、透明の引き出しボックスが斜めを向いて置いてある。出窓の下には布団が畳んで積んであった。反対側には、むき出しのポールハンガーがあり、そこにかけてある服は、その日にうらぐちさんが着ているような、ちょっと光沢のあるワンピースやスカート、ブラウスなどが割とたくさんかかっていた。
 そのまま廊下を進んでいくと、何度か入ったことのある台所につながっていた。台所の横に仕切り無しで畳の部屋があって、そこにテーブルとテレビがある。その部屋の南側の大きな窓からテラスに出入りできるようになっていた。

テーブルの上に、丸い鏡と四角い箱が置いてあった。その箱は深みのあるピンクの布で覆われていて蓋には取手がついていた。蓋は開いていて、中には化粧品が入っていた。
「今から化けようと思ってたとこなんだよ。」
後ろから付いてきていたうらぐちさんがそう言って、その箱の前に座った。
「え?」
「化粧、化粧。」
「ああ。」
うらぐちさんは夜に仕事に出ている、とお母さんが言っていたな。
「今からお仕事、ですか?」
「うん。そう。仕事。」
「お酒飲んだりするところですか?あの、男の人とかと。」
「お酒?私はお酒飲めないの!でも、まわりの人は飲んでるよ。男の人もいるし。」
「自分はお酒飲まないで、男の人には飲ませる?」
「まあ、そんな感じかなあ。私はお酒飲まなくても楽しくなっちゃうからね。」
「お酒飲むと楽しくなるんですか?」
「そりゃ、楽しいさ。じょうちゃん、あ、捺ちゃんだったね。捺ちゃんのお父さんとお母さんも飲むでしょ?」
「お父さんはビール飲みます。お母さんは飲むところあんまり見たことないかも。」

うらぐちさんは箱の中からボトルを取り出し、掌にパシャと落として両手で広げて自分の頬に擦り付けて何度かぱんぱんと叩いた。それから、白いチューブを取り出し、また掌に中身を押し出した。白いクリーム状のものがにゅっとでてきて、それも両手を何度かすり合わせて伸ばして、今度はゆっくり顔に撫でつけていった。唇の端から目じりに向かってゆっくり何度もなでつけていた。まるで目を閉じてお願い事をしているように見えた。クリームが塗られると、うらぐちさんの顔はぴかぴかになっていった。
「さあ、ここからが大事。」
と言って、黒いコンパクトを取り出し、丸いスポンジを使って、鼻、頬、顎、額とスポンジを滑らせると、ピンク色が肌の上に載った。それをスポンジで撫でながら伸ばしていく。ピンク色はだんだん見えなくなって、同時にうらぐちさんの肌は前よりも白くて明るい色になった。
「きれい。」
思わす言うと、
「そうでしょ。」
と、にたっとした。それから、細い筆を使って黒く眉毛をなぞり、黄緑と茶色を瞼のうえにつけると、笑うと一本の線になるうらぐちさんの目がくっきり大きく見えた。最後に、真っ赤な細長いステックをきゅっとひねると、容器の色よりももっと鮮やかな赤色の口紅が現れた。うらぐちさんは、鏡を左手に持って、顔を近づけた。口を開いて、端のほうからゆっくり指と顔を同時に動かしながら唇の形に沿って、でも、唇の輪郭より少しだけ外側にずらして塗っていった。本物の口よりもほんの少しだけ大きくなりながら、真っ赤な唇が出来ていき、反対側の唇の端まで塗ると、唇をつぼめてこすり合わせた。それから、ゆっくり口を開くと、ンパッという音がした。うらぐちさんの顔は違う人みたいになった。
「すごい。」
思わず言うと、うらぐちさんは、はははと笑った。笑い声はいつもと同じだった。

「化粧って楽しそう。きれいになって、それでお酒飲んで、楽しそう。」
「それはねえ、仕事だから、楽しかったり、楽しくなかったりかな。」
「そうなの?嫌なこともあるんですか?」
「そりゃ、あるよ。」
「そうですよね。」
「捺ちゃんもたまにはあるだろ。学校で。」
「あ、はい。」
今日委員会であったこと、それで自分が変な気持ちになったことを思いだした。でも、それ何が嫌だったのか、わからない。
「瑠奈ちゃんって、友達がいるんです。」
「ああ、あの可愛いって言ってた子だね。」
「そう。可愛いんだけど、今日はその子の顔見てたら可愛く思えなかった、というか、何だか変な気持ちになって。最近、何度かあったけど、今日は特にそう思って、もう、早く学校から帰りたくなって、走って帰っちゃった。」
「何かされたの?意地悪なこと言われたとか?」
「いや、別に何もされてないんだけど・・・。」
「うんうん。」
「だけど、瑠奈ちゃん見てたら、こう、この辺がむかむかしてきて。」
胸のあたりをさすって、
「それから、喉が詰まった感じになって。」
と首を押さえると、そのときと同じような喉に何かが詰まって喉が膨らんで声が出しにくいような感触になった。
「嫌いなの?その瑠奈ちゃんのこと。」
「そんなことないんだけど。」
やっぱりわからない。そして、
「気のせいかな。」
と言うと、うらぐちさんは、体を大きく反らして、腕を振った。
「気のせいなもんかい!」
「え?」
「何にもなかったら、胸がむかむかしたりしないだろ。」
「そ、そうかな。」
「そうさ。私なんか、嫌な客がいたら、ああ、例えば、すぐ肩とか足とか触ってくるやつがいるんだよ、あと、飲めないっていうのにお酒を無理矢理飲ませようとするやつとか、そんなやつがいたら、ほんとむかむかするんだ。」
「そんな人いるんだ。」
「そうさ。それで、むかむかするから、そいつにうるさい、やめろって言うだろ。そしたら、お前は客にそんな態度取っていいのか、って言うんだよ。だから、頭にきて帰れって言ってやったら、もっと怒り出して、店長が出てきてその客にぺこぺこ頭下げて、私に裏にさがれって。そして、裏で私は店長にひどく怒られて。さらにむかついたら、本当に吐いちゃった。ベェーって。」
「えー!」
「吐いたら、ぐったり疲れちゃって、裏のソファで寝てたら、その客が帰るから、見送りに行って謝ってこいって店長が呼びに来て。」
「で、謝りに行ったんですか?」
「いや。行くには行ったけど。」
「え?」
「謝ると見せかけて、そこにあったビールを顔にぶっかけてやった。」
「えー!」
「ははは。」
「すごい。」
「まあ、その店はくびになっちゃったけどね。」
「え、そうなんですか。じゃあ、もう怒ったりしない?」
「そんなわけないよ。怒るときは怒るしかないだろ。でも、もうビールかけるのは我慢するよ、くびになっちゃったら困るからねぇ。今は、裏に下がって、クッションをばんばん殴ったりしてる。」
こうやって、とうらぐちさんは、腕でクッションを抱える恰好をして拳をにぎってなんどかパンチする真似をした。
「それでも、クッションが痛むからやめろって、今の店の店長、ぐちぐち言うんだよ。クッションくらいいいだろって、ねえ。」
うらぐちさんは、テーブルの上に頬杖して口を尖らせた。その姿が、自分よりうんと年上なのに可愛いなと思って、思わずプッと吹いてしまった。
「可笑しい?」
今度はさっと真顔になって聞いてきたので、
「はい。」
と、返事した。
「でもさ、むかむかするもんはむかむかするんだ。気のせいってことはないのは確かだよ、じょうちゃん。」
「捺です。」
「あ、そうそう、捺ちゃん。」
「はい。」
むかむかしていたんだとわかったら、不思議とむかむかしていた胸がすっとした。すっとしたらお腹がすいてきた。
「おばさん、夜ご飯食べましたか?」
「食べてないよ。今から店で食べるからいいの。捺ちゃんは?」
「シチューがあります。帰ってから食べます。」
今日は嫌な客来ないといいなぁ、とうらぐちさんが言って、来たらクッション殴ればいいですね、とわたしが言った。うらぐちさんの家を出て、庭を歩いた。シチューはおかわりして二杯食べようと思いながら、裏口から台所に入った。

決めていた通り、シチューを二杯食べた。二杯目はご飯にかけて混ぜて食べた。ドリアみたいになって美味しかった。
それからお風呂に入った。湯船に浸かりながら、洗面器を逆さにしてお湯の表面に置いた。それから、ギューッと力をいれて真下に洗面器を沈めていくと、中に閉じ込められた空気が外に出ようと押し返してくる。空気がもれないように、洗面器が揺れるのを抑えるために力を込めた。洗面器が小さくゆらゆら揺れるのを感じながら、そのままお風呂の底までおろしていき、底に着いたときにさっと力を抜いた。すると、洗面器がさっと傾き、大きな空気の塊が上がってきてボコっと大きな音を立てて出てきて、水しぶきになって顔を濡らした。
 もう一度、洗面器を沈める。今度は、底に着いた後、ほんの少しだけ傾ける。すると、小さな空気の泡が少しずつ出て来る。ぽこ、ぽこ。ぽこぽこ。ぽこ。小さな空気の泡は力加減によって、大きさが変わったり、一つだけ出たり、連続で出たりした。少しずつ、少しずつ空気の泡を出していくと、最後は洗面器の中の空気は全て無くなり、手を放しても洗面器は浮いてこない。沈んだままゆっくりお湯の中で揺れている。
洗面器の周りの音のない世界を想像しながら、しばらく眺める。

 すると、玄関が開く音がして、ただいまー、とお母さんの声が小さく聞こえた。おかえりーと叫ぼうとしたときに、また玄関が開く音がした。お父さんだった。
一緒に帰ってきたのかなと思いながらしばらく黙っていると、リビングで二人が話している声が聞こえた。何を話しているのかは聞き取れなかったけど、楽しい話ではなさそうだ。一方が話して、それにもう一方が返すまでのタイミングや、声の高さ、言葉の短さ、お父さんとお母さんの間で時々ある感じ。
 沈んでいた洗面器を両手で上に引き上げた。そして、またゆっくり沈めていき、そっと傾けながら少しずつ空気の泡を出した。ぽこ、ぽこぽこ。ぽこ。
空気が全てなくなると、沈む洗面器を引き上げ、また沈める。何度か繰り返しながら、二人の声が聞こえなくなるのを待った。

マイ スウィート ヌガー ( 7 / 12 )

マイ スウィート ヌガー ( 7 / 12 )

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-12-12

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