足りなかった一文字
短編五枚程。お題は「李」。公募に出せなかったので、ここに供養のため出しました。
富美子は、すももをごろごろとテーブルに転がして眺めた。
「おばあちゃん、何してるの?」
小学校から帰宅した孫が、テーブルの上に並ぶすももと睨めっこをしている富美子に尋ねた。富美子は「おかえり」と言って微笑んだ。
「お隣さんからたくさんもらったのよ。すごいでしょう」
「あんまり嬉しくなさそうね」
と孫に言われ、富美子は内心どきりとした。幼い孫に見破られるほど自分の顔に顕著に出ていたのかと、ふと苦笑いがこぼれる。すももには、どうしても忘れられない思い出があるのだ。この果物を見るとつい思い出してしまう。
それは富美子が今よりずっと若かった頃の思い出だ。女学生だった自分は、ある一人の男子学生に恋をしていた。初恋だった。
彼がいつも通う道を、自分もわざと通っていた。内心どきどきしながら何気ないふりをして、道で彼とすれ違う。ただそれだけのことに浮き足だって胸が騒いだ。初めはそれだけで満たされていたが、そのうちに声をかけてみようかと思うようになった。
何か話しかける機会はないかと探したが、これといって何も起こらない。お芝居の台本のように上手いこと劇的展開がくるわけもなく、ただただすれ違うだけの日々。若い娘の恋心は起こりもしない彼との出会いの妄想を膨らませるばかりだ。
もはや思い切って告白することにした。生まれて初めて恋文を書いた。何度も書き直し、書き損じた紙のくずが畳に転がった。あんなに一生懸命に書いたことはないというくらい熱を入れた、一世一代の傑作だ。と、当時の自分は浮かれていたものだ。
いざ手渡そうと、その日は早くから彼を待ちぶせていた。通りの向こうから彼が来る。近づいてくる。自分はいつものように歩いていかなかった。彼が来るのを待っていた。体に力が入りすぎて、手に握った恋文がふやけてしまいそうだ。表情もかちこちに固かったかもしれない。
彼がもう目の前に来ている。自分は声をかけようと口を開ける。彼へと一歩近づいた。
「あ」
彼が自分を見た。「あ、」と言ったきり、富美子はそれ以上何も言えなくなった。あ、あ、と声を出そうとするが言葉にならない。どう話しかけていいのか、頭の中は真っ白になった。
彼は一瞬立ち止まり、富美子をいぶかしげに見た。そして彼は顔をそむけ、何事もなかったように通り過ぎていった。
しばらく富美子は呆然と突っ立っていた。彼の後ろ姿が見えなくなると、ふいに我に返った。急激に恥ずかしさが襲ってきた。彼の怪しむような顔を思い出すと、自分の失態を思い知らされる。「あ」しか言わない変な女だと思われたに違いない。
居たたまれなくなり、走って逃げ帰った。手の中の手紙はぐしゃぐしゃに握りつぶされていた。顔から火が出るくらい恥ずかしい。自分は何をやっているのだと責めて悔やんだ。なぜ「あ」しか言えなかったのか。間抜けもいいところだ。
家に帰ると布団をかぶって、声を出さずに泣いた。
翌日から熱が出て、富美子は数日寝こんだ。家族は急な不調を心配したが、まさか失恋の痛手が原因とは思うまい。季節外れの風邪にでもかかったのでしょう、と言った。
しばらく床に伏している富美子に、すももが出された。元気づけようと母が用意してくれたのだ。一口かじり、その酸っぱさに思わず呻いた。まだ熟しきっていない果実は舌に苦い味を残した。
ぽろぽろと涙がこぼれた。あの時彼に「あの」と声をかければ良かったのにと、悔しさとともに思い返された。「あ」に続く言葉の「の」がどうして出てこなかったのか。すももを口にして泣く富美子を見て、そんなに酸っぱいかと母は笑った。だが富美子は何を言う気力もなかった。
すももを見ると、あの時を思い出す。
富美子は孫に指摘されたことに、とぼけた調子で「そんなふうに見えたかね?」と答えた。孫はすぐに「ねえ、おばあちゃん、聞いてよ」と話題を変えたので、それ以上触れられなくて内心ほっとした。
「漢字テストでこれだけ間違えただけで、百点取れなかったんだよ!」
孫が見せてくれた答案用紙には、季節の『季』の字が『李』と書かれていた。
「ノ、よ。たった一文字。ノ、が足りなかったの!」
孫は、さも悔しそうに地団駄を踏む。昨日あんなに勉強したのにと嘆いている。『ノ』が足りなかった『李』の字を見つめて、富美子はそうだねと相づちを打つ。
「そりゃあ悔しかったねえ」
答案用紙にはくしゃくしゃにされた跡がついている。紙のしわを指でさすりながら、自分のあの恋文はどうしたのだったか、富美子は思い出せなかった。
「よしよし。ばあちゃんが美味しいジャムを作ってあげるから、元気出して!」
目の前にあるたくさんのすもも。形を残さないほど、ぐしゃぐしゃに潰して煮てジャムにしよう。甘く甘く煮詰めよう。
よし、と気合いを入れて富美子はすももを手に取った。
足りなかった一文字