【連載】生涯青春ラケットとジェットの物語 Ⅰ

万田 竜人(まんだ りゅうじん)

生涯青春ラケットとジェットの物語 Book Ⅰ

【プロローグ】

武蔵野の大地を溢れんばかりの陽光が照らして、いっせいに薔薇の花を咲かせ始めた
頃に、私は、地元のテニス同好会の発足会に招かれて参加させていただいた。

あの頃は、東京都東大和市から狭山湖を越えて、埼玉県入間市に引っ越してきたばか
りで、大好きなテニスの練習場も見つからず、引っ越したばかりのマンションの公園
に出掛けて、会社から帰宅後のテニスの素振り練習を日課にしていた。

あの日も、公園におけるラケットの素振り練習の帰り路に声をかけられた・・・

「テニスをされる方ですか?」
「はい、まだテニスの練習場がみつからないので、こうしてラケットをぶら下げては
ここの公園に来て素振り練習をしています」
「よろしかったら、私たちのテニス同好会に、参加していただけないかしら?」

(後に、この女性とはテニス同好会で練習を重ねて、入間市のミックスダブルス戦に
出場して決勝戦まで進出「準優勝」を果たすことになる)

彼女からの説明によれば、その年に、入間市主催のテニス教室が開催されて修了生を
主体にした「テニス同好会」結成の話がもちあがってきたものの、皆、初心者ゆえに
進め方などが分かっていないので「テニス焼け?」して、テニスラケットを手にした
私なら少しは当てになるかな? と、思って声をかけてみたのだと云う。

当時、私は、満年齢で32歳、今年、入間が丘の地元で数え年の喜寿(77歳)とな
り敬老会に招かれて、お祝いをしていただいたので、44年前のこととなる。

そして、今年の夏、入間市の運動公園のテニスコートで、酷暑を迎えて、気温40度
の中で首筋などを小さな氷片で冷やしながらテニスを続けていて考えた・・・

「これからは屋外のテニスは週1回に限定して、他に週1回の室内ゲームを探そう」

そんな矢先、入間市の市報に「バドミントン初心者教室」の募集記事が載っていた。

早速、電話をして申し込みをした。定員は30名で申し込みが多ければ抽選になると
いう説明があり、後日、テニスコートの窓口における利用手続きのついでに申し込み
状況を確認したところ既に35名の申し込みがあったという。

「だいたいにおいて、こういうケースでは、マーフィーの法則によれば、抽選外れの
5名に該当することが多いんだよな」と思いながら抽選結果を待っていたら・・・

「申し込んだ35名全員を受け入れます」と、コーチサイドから朗報が届いたと云う
ことで入間市役所の運動公園事務所から電話連絡が入り、とりあえずバドミントン用
のラケットとシャトル(ガチョウの羽根製)・室内運動靴を用意した。

実際にバドミントン教室が始まると、以前、入間市久保稲荷四丁目に住んでいたころ
に近郊の公民館において、卓球の同好会でお世話になった先輩が、バドミントン教室
に生徒として参加されていた。

卓球の練習は入間が丘に引っ越して来る前のことなので、もう十年以上、前のことに
なるがテニスと並行させて五年間くらい練習会に参加させていただいたことがある。

私は、テニスを中心に、ラケット競技が大好きで、テニス・卓球・バドミントン及び
練習機会は少なかったが、スカッシュ・ミニテニス・パンポンなどラケットを使った
競技が大好きで、どれも比較的スムーズに取り組むことが出来た。

そこで、数え歳で喜寿を迎えた、今、白寿まで生かされて健康長寿に恵まれることが
出来るならば、九十五歳くらいまでは「テニスプレーヤー」として、現役を迎えたい
ものだと考えている。

私の理想としては、白寿まで現役で働きたいと考えており「現役のビジネスマン」と
して百歳で働いていらっしゃる方の新聞記事を宝物として保存しているが、働き口の
相手があってのことなので、「いつでも現役復帰出来ます」と云うアッピールのため
に「ラケットを握り続けています」と云うのが私の言い分でもある。

したがって、安倍総理の期待に沿って老年でも「働く意欲」は十分にあるので・・・

◇テニスの基礎練習も兼ねて、二階への階段を駆け上っての「洗濯物を干す」小仕事
などは手数料なしでも買って出てやっている。この肩よりも上に手を挙げての作業は
テニスのサービス練習を支える基礎練習につながると考えている。

◇脚立に登っての植木職人の真似事や、二階のバルコニーにての蒲団干し及び日々の
蒲団の上げ下ろしなどは、これもテニスの基礎体力向上につながると考えている。

◇年末の換気扇掃除などのやや高所作業も、冬場の基礎トレーニングとしてラケット
競技に取り組む者には最適の鍛錬につながるとも考えている。

したがって時間をかけてジムに通わなくても、ラケット競技者にとっての基礎練習の
場は身近に豊富にあるので、要は「寝たきり老人」になって周りの人たちのご足労を
わずらわせない様に、ラケット競技に願いをこめて「傍を楽にする」ことで・・・

これをもって「はたらく(働く)」ことにしたいと考えている。

その際に、酷暑を考えると屋外のテニス練習のみでは、身体が酷暑に対応しきれない
可能性を今夏に感じ取ったので、屋内におけるバドミントン練習を並行させこれから
もラケット競技によって生かされることで継続的に努力して行こうと考えている。

そんなことを考え身体が動く限りラケット競技を続けて「生涯青春ラケット物語」等
を書き綴って行ければ・・・

それが、私にとっての「徒然草」につながって行くのではないかと考え生涯青春日記
のようなつもりで「ラケット物語」として書き綴って行くことにする。

これはプロローグとしての「後日談」になるが本稿を書き綴っているうちに、私自身、
新入社員として企業に仲間入りして以来、定年に到るまでジェットエンジンに携わり
航空マンとして生涯の大半を過ごしてきたことから、話がラケット競技からジェット
エンジンに、飛ぶケースが多く「生涯青春ラケットとジェットの物語」にあらためて
執筆を続けることにした。


第一章

001 テニスとバドミントンの素振りがつなぐ縁

バドミントンの素振りを兼ねて、家の南側の庭先でシャトルを思い切り遠くに飛ばす。
シャトルには、飛翔体のコルクにガチョウの羽根を取り付けたものと、トレーニング
専用として先端のコルクにビニールの羽根を取り付けたものがある。
(その他に、レジャー用としてプラスティック製の羽根もある)。

このガチョウの羽根製のシャトルが、東側のフェンス沿いに12月初めに咲き出した
薔薇の棘に引っかかった。ここから30センチメートル先に飛ぶと、隣家の庭に飛び
込むことになるので、打点の足元を2メートルほど西側に移動させた。

この時期の薔薇は、楓などの紅葉を過ぎて、銀杏などの黄葉の時期に咲くので、彩り
的には貴重な存在感を示す。我が家の庭先の薔薇は、東側フェンス沿いには濃い色系
のピンク、西側の薔薇のアーチには珍しいアンチークな黄色の彩りと淡いピンク系の
薔薇が咲いて、満天星の燃えるような紅葉と共に初冬の彩りを競う。

先日は、運動公園における月曜日の定例のテニス練習が、コートの抽選取りの関係で
早朝きり取れず「それも良し」として、当日、都合の付くメンバーだけで入間市街に
新規開店したトンカツ屋「和幸」で早目の昼食忘年会をすることになった。

和幸の店内は明るく広々としており、かつ落ち着いた雰囲気でもあり、皆さんお気に
入りの分類に入ったようなので案内役を買って出た私としては一安心した。私が良い
なと思っているのは、揚げたてのトンカツの美味さは当たり前としても、炊き立ての
釜焚きのご飯の旨さがお代わり自由な千切りのキャベツとも相性が良い点にある。

皆、食事しながら気分も良いので、とうぜん広範囲に話題が及び、話も弾む・・・
(私宛に、皆さんから振り込まれた、ラケット競技に関する話題だけを抜粋)

Yさん「佐久間さんは、春先までは、川越の『リトルプリンス・テニス・クラブ』に
週一で、通っていたのに何故やめちゃったの?」

わたし「右膝の裏側の腱を痛めてしまって、少し、テニスの練習量を減らして治療に
専念したほうが良いとドクターに云われたこともあって、テニスの練習は、運動公園
における月曜日の練習だけに絞り込みました」

Aさん「右膝の腱を痛めたのは、テニスの練習中ですか?」

わたし「いや、練習中というよりも、あの日、テニス・スクールのコートに向かう時
に大雨が降ってきて、しかもスクールの練習時間の組み合わせも悪く通常の出入り口
とは反対側の出入り口からの入場となり、雨の中をかなり大回りして悪路の中を移動、
テニスコートに着くまでに靴も靴下も、びしょ濡れになってしまいました」

Kさん「それは、たいへんでしたね」

わたし「替えの靴下でも用意しておけば良かったのですが、テニス・レッスン開始の
時刻も迫っていましたので、そのままレッスンに入ってしまいました」

Aさん「そのような足元でレッスンを続けて違和感はありませんでしたか?」

わたし「足元が少し滑るなという印象はありましたが、そのまま90分間のレッスン
を修了して帰途に着きました」

Kさん「膝裏の腱の痛みは、その後のことですか?」

わたし「レッスン日から二日後のことです。かかりつけの接骨院に行ってドクターの
診断を受けて、右膝の裏側の腱の炎症との診断を受けて治療を開始しました」

Yさん「それで、リトル・プリンス・テニスクラブをやめることになったと?」

わたし「テニス・スクールを止める考えはありませんでした。かつて狭山のブレント
ウッド・テニスクラブでお世話になったコーチがブレントウッド閉鎖後に、当クラブ
のコーチに着任されたことを知って入会しましたので継続の考えが強かったです」

Yさん「それでも、やめることになった?」

わたし「いずれにしても、ドクターからは、右膝の裏側の腱の治療に専念して下さい
とは云われていましたので治療を続けるかたわら、私なりに研究してみました」

Kさん「相変わらず、研究熱心ですね」

わたし「スクール該当日のテニスコートへの出入り口を分析してみたのですが該当日
に限って云えば正規の出入り口からの入退場者は少人数に限られており、他は大多数
が、反対側の出入り口まで大回りして悪路を行き来している」

Yさん「テニスコートの経営者は、そのことに気付いているのかしら?」

わたし「そう思って経営者に改善の申し入れをしました。結果的にマネージャに対応
していただき、私なりに、OR(オペレーションズ・リサーチ)の考え方を活用して、
大多数のスクール生が正規の出入り口から出入り出来る案を提示しました」

Kさん「その案は採用されたのですか?」

わたし「一部のスクールを30分間シフトするだけで、その案は実現できるのですが
マネージャとしては、乗り気ではありませんでした」

Yさん「そこで諦めた?」

わたし「膝裏の腱の治療をしながら一か月くらい考えましたが、近い将来的にも雨天
に悪路を歩くことに変わりはないようですので、膝裏の腱の治療に専念することにし
て、リトル・プリンス・テニスクラブは辞めることにしました」

Yさん「テニスクラブの帰りにはサイボクの温泉に寄れるとか云って、あれほど楽し
みにして、お気に入りのテニスクラブだったのに、退会手続きのときに、何か云われ
ませんでしたか?」

わたし「退会手続きのときには所定の書面があって、はじから該当の項目にチェック
マークを入れて行くのですが、最後に、その他の項目があってテニスの時間割のこと
を書いたら『やっぱり、そうでしたか』と云われました」

Yさん「テニスクラブ側も辞める理由が分かっていたということね?」

わたし「フロントの方がとても親切で理解力もあり、お互いに、残念な気持ちは通じ
合っていたのだと思います」

Yさん「それで、今、テニスの練習は月曜日だけ?」

わたし「皆さんと一緒に運動公園で練習している月曜日のみです」

Yさん「それじゃ、テニスが、だんだん下手になって行くんじゃない!」

私なんか・・・

◇月曜日は、運動公園でみんなと一緒に基礎練習して、

◇水曜日は、新所沢のテニススクールで中上級クラスの練習を重ね、

◇金曜日は、これも地元でダブルスの実戦練習をやっているわよ!

わたし「よく疲れないですね。私はそれでも最近は今夏の酷暑に懲りたこともあって、
月曜日は屋外でテニス練習をして、金曜日は体育館で室内のバドミントンに取り組み
テニス練習の穴埋めをしています」

Yさん「テニスとバドミントンじゃ違い過ぎて、それぞれが週一っていうリズムじゃ
ないないかしら。Kさんは月曜日と金曜日の週2テニスだったわよね」

Kさん「私は、かつて佐久間さんと同じ金曜日にリトル・プリンス・テニスクラブの
同じクラスでスクールを受けて、テニス練習、現在もそのまま継続させていますから、
皆さんとの月曜日の運動公園でのテニス練習と合わせて週2練習です」

Aさん「私は、月曜日か火曜日かのどちらかと、木曜日の狭山でのテニス練習と合わ
せれば、週2のテニス練習と云うことになるわね」

Yさん「やはり、テニス練習において、テニス技術を維持あるいは限りなく少しでも
上達しようと思ったら、週2以上の練習は必要よね!」

と、Yさんからの「週2以上:宣言」が出たところで昼食忘年会はお開きとなった。
(なお、昼食忘年会における話題は、テニス論に限らず百花繚乱の賑わいで、内容は
省略するが、昼食会が始まったのは11時半でお開きは午後2時前であった)

帰宅後に、私は三日前の地元バドミントン同好会の昼食忘年会のことを思い出した。

昼食会は11時半に始まり、昼食が終わるといっせいに解散となり、お酒好きな会員
のみが残っての二次会となったが、私は、お酒は呑めないので退散することにした。

帰宅してから、ゆっくりしていたが、食事処で皆さんと一緒に食した日替わり定食の
フライの油に当たったのか、嘔吐に襲われて夕食は摂らなかった。
(こんなことは初めての体験であった)

やはり、テニス仲間は四十年を越えるお付き合いであり、バドミントン仲間は三か月
弱のお付き合いで気心がしれていないために、昼食会での話題も、お互いの氏素性を
知る所からの付き合いであるためか、こんなことがあった・・・

私が参加した入間市のバドミントン初心者スクールには、今回、入会させていただい
たバドミントン同好会の方々も7名が参加されていた。

バドミントン同好会の方々との出会いは、バドミントン初心者スクールが始まるにあ
たり、実際の練習場を見せていただこと考えて、練習場を覗いたところ、実際に練習
が行なわれていて「見学ですか?」と声をかけていただいたのが始まりであった。

私が「今度、バドミントンの初心者教室を受講するので、会場の見学に来ました」と
話したところ・・・

「私たち同好会からも多数参加します。よかったら練習風景でも見て行って下さい」
というご案内があり、見学の過程で、バドミントン初心者教室が始まる前にお試しで
練習に参加させていただけることになった。

バドミントンの初心者教室が始まるとレッスンが進む過程で三つの動きを感じ取った。

◇私が体育館の練習場見学でお試し練習に参加させていただいたバドミントン同好会
の方々は、昨年も初心者教室を受けており、その受講者仲間が主体になって同好会を
結成したものであり、今回の主宰者側にも二年目受講の熱心さは伝わっている。

◇その同好会の昨年までの会長が、今回の初心者教室の受講者に声をかけて、新しい
同好会を結成しようとしている動きがある。
(私も、最初に声をかけていただき、スクールの過程で、その輪郭が浮かんできた)

◇私が、お試し練習に参加させていただいたバドミントン同好会の幹事さんが奥さん
のために、月2練習会の同好会を結成しようとする動きがある。

私は、バドミントン初心者教室の開始と共に、お試し練習会に参加させていただいた
同好会の仲間と行動を共にしていたので、自然な成り行きとして同好会の仲間として
迎えていただいていたので、前会長からのお誘いには乗らなかった。

どうやら、昨年、発足した「バドミントン同好会」は、一年を待たずに、前会長から
の一方的な「解散宣言」で消滅と聞いており、後に、残された会員たちが集って今年
の八月に、同好会の名前も変えて、新たに再出発したというのが実情のようである。

したがって、私に入会の余地が与えられたのも、そのような経緯から、若干の人数枠
の余裕が出来て、入会の機会に恵まれたと云うのが、実情のようである。

そのような好機に恵まれたこともあって、私のラケット競技への思いは通じ、月曜日
は屋外でのテニス練習、金曜日は酷暑への備えとして体育館におけるバドミントンの
練習場所が確保され室内でのラケット競技が実現した。

しかし、バドミントンの先達からは・・・

「体育館は、冷房設備は稼働させていないので、酷暑の時期は蒸し風呂の状態であり、
屋外と同様に、暑くて、休み・休み・練習していますよ」とのアドバイスがあった。

それに対して、私からは・・・

「屋外におけるテニスの場合は、酷暑のそれも今夏のような気温40度に達する場合
には、後頭部の日射に危機感をいだきながら練習していますので、室内はそれがない
だけに救いがあると思います」と答えた。

そして、ここで忘年昼食会の時のYさんの言葉を思い出して「欲」を出した・・・

「バドミントン初心者教室の時に同好会の仲間と意気投合して、その過程で幹事役の
ご夫婦とも練習試合でダブルスを組んだりして、親しみのもてる時間を過ごしたこと
もあって、月2回の水曜日の練習会にも参加させていただこうかな?」と考えた。

これによって、Yさんの「週3テニス」には及ばないものの「週3弱」でラケットを
振り回す機会には恵まれると・・・

そこで、同好会の幹事さん宛てに「水曜日の月2の練習会には参加可能ですか?」と
気軽な気持ちで電子メールを送信した。
(この気軽さが大間違いであった!)

すぐに返事がなかったので「ダメなんだろうな?」と思っていたら「ガ~~~ン」と
一発の衝撃的なメールが返ってきた・・・

「申し訳ありません。水曜日の練習会は、一定期間以上交際させて頂いている方のみ
お誘いしております。ビジターも受け入れていませんのでご了承ください」

たしかに、私は、水曜日の練習会の「案内パンフレット」をいただいていない。

・・・・・・・・・・・・・・

そこで「発想の転換」をすることにした・・・「独り練習」倶楽部を創設しよう。
練習場所として「最初は、彩の森入間公園などは、どうか?」と考えた。

彩の森入間公園ではバドミントン用具の貸し出しなども行っているくらいなので
園内でバドミントンの練習をすることには「問題ない」ようだ。

しかし思いのほか風が強いこともあり家族団らんなら良いかもしれないが・・・

「本格的なラケット競技向けの練習には不向きでは?」と考えた。

そこで、思い付いたのが、我が家の南側の庭先での練習であった・・・

初冬のこの時期には、ポカポカと陽が当たり、風も吹いてこない、駐車場の車を移動
させれば「ちょうどバドミントンのコートサイズ」これは良い考えかもしれない?

早速、寸法を測ってみたら、ちょうど良いサイズであった・・・

◇ここで、前述したような、バドミントン・ラケットを使っての試打をしてみた。
結果「格好の練習場になる」ことが確認出来た。

◇次いで、テニスラケットを使って、素振りをしてみた。バドミントン選手が筋肉を
鍛えるために、スカッシュのラケットで素振りをしている話をインターネットからの
記事で知ったので、使い慣れたテニスラケットなら、なおさら良いと云える。

◇その次には、木刀の素振りをした。これはテニスにおける身体の軸をぶれさせない
ための訓練になるので好都合であると考えた。

かくして・・・「独り練習」倶楽部が出来上がり、水曜日の定期練習に組み込んだ。
このことから、月曜日のテニス練習と金曜日のバドミントン練習の中腹に、水曜日の
独り練習倶楽部を立ち上げることで「素振りがつなぐ縁」が誕生することになった。

そして、これは憶測だが、同好会の幹事さんからの「お断りメール」は、丁度、同じ
時期に入会して間もない私から「三つの提案」をしていたこともあり・・・
(辞書には、憶測とは、いい加減な推測をすることとある)

「面倒なメンバーを、水曜日のプライベート倶楽部には入れたくない」という考えも
働いたと思われるので、やがて三つの提案が「自分たちにも役立つ」ことが浸透して
行けば「一定期間以上の交際」を経て、気持ちも通じて行くものと考えている。
(私からの「三つの提案」については、次回以降に、紹介することにする)


002 鳥たちが騒いでいる

バルコニーに洗濯物を干していると、鳥たちが、まるでお互いの連絡を取り合うよう
に盛んに騒いでいるので、西の空をみると重厚な雲が満遍なく横たわっている。

「取り敢えず洗濯物は外に干すことにして、飼い犬『もも』の朝の散歩が終わったら
早目に室内に取り込むことにしよう」と考えて、先ずは洗濯ものを干す朝の小仕事に
きりをつけることにした。

今朝の段取りとしては、午前十時過ぎに家内をスポーツジム付近まで送り、帰り道に
飼い犬を彩の森入間公園まで連れて行って、森の一番奥まで背負って行きお気に入り
の「散歩コース」を歩かせることにしよう。

家内が一緒の時の飼い犬の森の散歩は、躊躇なく、彩の森入間公園の外周を一周する。
これは、彼女(もも)にしてみれば、決まったポイント(いつの間にか定点となった)
で好物のジャーキーを口に出来るので、顔の表情が変わるほどに喜びの散歩となる。

私と一緒の時はどうか?

「彩の森入間公園に着いて、車から降ろして散歩グッズを身に付けると理由は分から
ないが、駐車場巡りを始める」
(いろいろなワンちゃんが残していった臭いが嗅げるからだろうか?)

「これだと、小生は、まるで車上荒らしのような行動になるので、許容出来ない!」

「家内の真似をして、好物のジャーキーで牽引しようと試みるも、私が相手だと留ま
って食したまま、お代わりを要求して動かない」

その他、いろいろと手立てを変えて試みたが、落ち着いたのが今の方法で・・・

「先ずは、背負いの専用バッグに入れて、彼女(もも)を森の奧まで連れて行く」
(行き交う人は微笑んで「可愛いわね」ご病気ですかと聞いてくる)

「そして、いつも決まった東屋で、散歩グッズを装着する」
(夏季は早朝で時間が決まっているためか? 顔馴染みの方が待っていて下さる)

「歩き出すと、目標の駐車場に向かって、颯爽と快足便で駆け出して行く」
(時には「お嬢様:可愛い」なんて声をかけられるが、ワンと一喝して撃退する)

「ゴールは、車の後部座席のカゴの中で、ご褒美のジャーキーに齧りつく」
(これが私との散歩の時のお決まりコース)

「最近は、オプションとして、散歩の駆け出し時点で、糞をしてご褒美にありつく」
(オシッコは、お嬢様としての自覚があるのか、外では絶対に放尿しない。これも困
ったもので、家に帰ってから自宅内の決まった場所で用を済ます)

先代のシェルティー犬は散歩上手で、難しい散歩のルーティンもなく屋外でも・屋内
の決まった場所でも糞尿は規則正しくといった感じで済ませていたので、ドライブや
旅行にも安心して連れて行けたが、彼女(もも)とのドライブや旅行は難しい。

彼女を一度、軽井沢に車で連れて行ったが、車中は我慢・ドライブインでも我慢なの
で、家族とのドライブや旅行は、安易には計画出来ないというのが現状である。

かくて、本日も、ルーティン通りの散歩をして帰宅する。
(彼女としては、今日も大満足!)

・・・・・・・・・

☆☆☆突然ですが貴ノ岩関のPTSD(心的外傷後ストレス障害)からの救済策☆☆

彩の森公園における、飼い犬との散歩を終わり、帰宅して間もなくのことであった。
「背中に翼を背負った女神とアトキンス博士が来訪された」

女神「今朝、鳥たちが騒いでいたでしょう」

博士「ボクも、鳥たちの騒ぎ方が異常なので、何か異変が起きているのかなと考えて
朝から気にはしていました」

小生「こちらでも、鳥たちが騒いでお互いの確認やら意思疎通を図っている印象でし
たので、間もなく雨が降って来るのかな? と思っていました」

女神「実は、たいへんなことが起きていたのね!」

女神「まったく想像すらしなかったことに、あの暴力被害を受けた貴ノ岩が付き人に
暴力をふるうと云う事件が起きていたのね!」

博士「貴ノ岩関が横綱日馬富士から暴力を受けて傷害を負ったときに、貴乃花親方は
PTSD(心理外傷後ストレス障害)への懸念も含めて、ケアしてましたが、今回の
貴ノ岩による暴力事件も、貴ノ岩自身のPTSDによる影響も無視出来ませんね」

小生「PTSDによる被害者化の過程として、第3次被害化の過程では精神的変調に
より易怒性をきたして攻撃的となり、些細なことで身近に暴力を振るったりする傾向
に陥る場合もあり、貴ノ岩の場合もPTSDによる悪影響は否定出来ない!」

女神「私が強調したいのも、そこなのよ!」

女神「貴乃花部屋において、貴乃花親方のPTSDへの深い理解も含めて、硬軟両面
から、ケアが行なわれ、土俵上でも、それなりの成果を収めていた」

博士「そのような矢先に貴乃花部屋が閉鎖となった。一方でPTSDによるストレス
障害から徐々に立ち直る兆しを見せていた貴ノ岩。しかし、心的外傷ゆえにその回復
は一進一退であり、願わくば、後、一年間は猶予期間が欲しかった」

小生「しかも、貴乃花親方からの硬軟両面からのケアに加えて、景子女将からの笑顔
での応援は、PTSDを癒すには万能薬的な効能があった」

女神「それを考えると貴乃花親方を引退にまで追い込んだ、あのタイミングにおける
一門統合の方針は性急であり、第三者委員会からの報告書の内容を、事前に察知して、
貴乃花親方を一挙に追い詰めたと考えるのが妥当かもしれないわね?」

博士「結果、貴ノ岩は、PTSDへのケアを気遣っていた貴乃花親方から引き離され、
PTSDゆえの自分自身の易怒性にも、自覚がないままに、付き人に暴力をふるって
しまった」

小生「いかなる理由にせよ暴力行為は許せないが、そのようなバウンダリー(住環境)
を間接的に作り込んだ日本相撲協会に責任はないのだろうか?」

博士「後世の心理学者が『平成の角界残酷史』として、次のような分析をする可能性
は否定できないでしょうね!」

・・・・・・・・・・・

【日本相撲協会の暴挙(暴力)によって角界を去ることになった貴ノ岩関の軌跡】

◇公益財団法人である日本相撲協会は、2007年に起きた新弟子の暴力行為による
死亡事件に際して、暴力再発防止委員会から出されていた意見書にある・・・

「外国人力士に多いとされる暴力事件への特別対策」について特段の手立てを講じて
来なかった。

◇結果、外国人力士の中でも、多数を占めるモンゴル勢に同郷の力士同士、お互いに
助け合う結束が生まれ「インフォーマルな組織」として、その存在感を継続的に持ち
続けるようになっていった。

◇そのような勢いの中で、モンゴル勢に対して一定の距離を置く立場にあった貴乃花
部屋の貴ノ岩が、昨年の正月場所において横綱白鵬に勝ち「金星」を挙げた。

◇そして、その年の十月下旬に、モンゴル勢との接触を避けて来た貴ノ岩がモンゴル
勢の花形である横綱三人衆の白鵬・日馬富士・鶴竜と遭遇することになった。
(場所は鳥取県で貴ノ岩にとっては恩師への挨拶を欠かせない場所での遭遇)

◇酒処における流れの中で、モンゴルの横綱三人と貴ノ岩が同席する場が設定されて、
横綱白鵬から貴ノ岩への生活指導的な説教が行なわれ、その過程で、貴ノ岩の説教を
聞く態度が悪いと云って、貴ノ岩に、横綱日馬富士から暴力が振るわれた。

◇貴ノ岩は、横綱日馬富士からの暴力行為の過程においては誰も日馬富士の暴力行為
を止める気配はなく、暴力が続く中で、恐怖心にこころが震えたという。

◇その後の経緯は、貴乃花親方によって経緯が明らかにされており、衆目の知るとこ
ろが多いので記述を省略するが、ここで特筆しておきたいことは、貴ノ岩へのケアに
当たって貴乃花親方が留意したことは・・・・

「貴ノ岩は、横綱日馬富士の暴力によって受けた外傷よりも、PTSD(心的外傷後
ストレス障害)によるダメージの影響が極めて大きく硬軟両面から貴乃花親方による
ケアやサポートを必要としている」

◇結果、土俵に戻った貴ノ岩は、順調な回復を見せることになったが回復の過程では、
景子女将の笑顔と優しさは、貴ノ岩にとって不可欠な存在であった。

◇しかし、日本相撲協会からのガバナンスの重要性を前面に出した一門統合の対策案
によって貴乃花親方は貴乃花部屋の維持が難しくなり、弟子たちを小集団のまとまり
として守るため、自身は引退を決意して、かつての先輩に弟子たちを託した。

◇事態が大きく動いたために、貴ノ岩のPTSD(心的外傷後ストレス障害)の影響
は霧散してしまい、貴ノ岩本人でさえも、そのことの意識から遠ざかっていたという
のが実情であると推測する。

◇しかしながら、九州場所における貴景勝の優勝などを機会に、同じ部屋の先輩力士
としてマスコミなどの取材場面で、一緒にフラッシュなどを浴びる場面も増えてきて、

「あの時、日馬富士から暴力を受けることなく、幕下に陥落するような事態も起きて
いなければ、自分も三役に・・・という思いは、当然、脳裏を走ることになる」

◇PTSDによる「第3次被害者化」の怖いところは、このように被害者が一見では
落ち着いた生活を送っているようにみえる中においても、精神状態は容易に完治する
ものではなく、貴ノ岩が九州場所で貴乃花親方の硬軟両面からのケアを失い負け越し
たことなども内面の葛藤として・・・

「貴ノ岩の心の中にPTSDによる易怒性が引き起こされて、怒りやすくなり、常備
している薬が途切れると云う不安感も助長されて付け人への暴力と云う行為に到って
しまい、後の後悔先にたたずという事態に到ってしまった」

・・・・・・・・・・・

☆☆☆この場面で背中に翼を背負った女神が相撲の神様からの伝言を持って登場☆☆

女神「これは、相撲の神様が、近未来の臨床心理士の見解を先取り的に入手したもの
で、日本相撲協会には、八角理事長を筆頭に目を通して欲しいそうよ!」

小生「貴ノ岩のPTSD(心的外傷後ストレス障害)からの回復プログラムですか」

女神「八角理事長が聞く耳を持つか? 持たないか? は、本人にお任せのようよ」

小生「ということは、そこには八角理事長が、大岡奉行に匹敵する名将になるヒント
としての名裁きへの示唆が込められているので、必ずや、聞く耳を持ってくれる自信
があるということですか?」

女神「先ず、日本相撲協会は、貴ノ岩のPTSDによる症状について臨床心理士など
専門機関の見解を聴き取る必要がある」

小生「確かに、貴ノ岩にPTSDの症状がみられる場合は、日本相撲協会側としても
完全治癒までケアをする必要があると?」

女神「そして、治癒の状況をウォッチするための良策としては、日本相撲協会の観察
下に置いて状況を見極めて行く。その際の現場復帰は、先日までの相撲部屋とするこ
とで、部屋の親方にも日常の観察をお願いする」

小生「貴ノ岩のPTSDについて、硬軟両面からケアしていたのは元貴乃花親方でし
たよね!」

女神「そこで、これは八角理事長による超法規的な措置として、元貴乃花親方を特別
トレーナーとして、相撲部屋に配置する」

小生「その場合に、現在、元貴乃花部屋に残されている土俵を貴ノ岩のPTSD治療
のために併用しても良いと云うことにつながるのですか?」

女神「それについては、日本相撲協会のご高配によるということでしょうね」

女神「いずれにしても、日本相撲協会としても、次世代の横綱や大関を筆頭格にこれ
からの三役を育てている時期でもあり、貴ノ岩をここまで育てて来た日本相撲協会と
しても、これによって貴ノ岩という人財を生かせるとなれば名案でしょうね?」

小生「当然、貴ノ岩が土俵上での活躍の機会を与えられてPTSD治療に向けて復帰
出来るとなれば、元景子女将もケアの一環として駆けつけてくれるでしょうね」

女神「そのような過程で、特別トレーナーとしての元貴乃花親方と、元景子女将との
復縁などに兆しが出て来れば、めでたし目出度しといえますね」

小生「貴ノ岩の断髪式が、来年の二月などと云われていますが『ちょっと待った』と
云う声が相撲ファンの間でも高まって行くといいですね!」

・・・・・・・・・・・・・・・

南側の庭先で素振りを開始

背中に翼を背負った女神とアトキンス博士が横浜港にお帰りになった後で、少し休憩
時間を挟んで、私は「テニス・ラケット」と「バドミントン・ラケット」「バド用の
シャトル」及び「木刀」を持参して、それぞれを素振りできる南側の庭先に出た。

◇先ずは、バドミントン用のシャトル三種類を打ち比べてみた。

ここで三種類のシャトルとは「ガチョウの羽根を使ったもの」と「ビニール製のもの」
および「プラスティック製のもの」である。

「いずれも、同じ打ち方で打てば、どうやら三種類共に飛距離は同じで、同じ地点に
落ちるように設計されているようだ」、これならば、実践のゲームの組立てにおいて
テニスよりも、正確に・そして・容易に・素振りの効果が反映出来そうだ!




003 ラケット競技にも段取りと片付けは基本

入間市運動公園の体育館内は、午前九時十分前には、まだ、LED電灯は燈されてい
ない。私は、バドミントンにしてもテニスにしても、定刻の十分前には到着して準備
を開始、定刻には練習開始することを旨としている。

体育館内で自分の荷物を壁際に並べ、十二月ともなると気温が低いので手袋をはめて
いると後方から「おはようございます」と云う聞き慣れない声が聞こえた。振り返る
とバドミントン教室で、ご一緒に練習したことのあるお顔であった。

「今度、入会させていただきました〇〇です」と云うご挨拶があり・・・

「私も、まだ入会して三か月半の新人です。九時前には世話人の方が来ると思います」
というと、数秒後には、世話人のS氏が体育館の入り口の戸口から姿を見せた。

とりあえず世話人との入会の挨拶は後回しにして、新人も一緒に、バドミントンの支柱
やネット類など器具一式を倉庫内に取りに行きコート二つ分をすぐに練習出来るように
準備する。今回、加入した彼女が16番目のメンバーとなり、これにて満席と相成る。

同好会の約束ごととして満席を16名としたのは、1コートをダブルスで練習すると
四名、コート二つ分で定員八名、皆さんお楽しみの後半の実戦練習を「一回待ち」が
限度とすると、二倍して、16名で満席という勘定になる。

実際には、膝が痛い・背骨が痛いなどで、練習を休むメンバーも出て来るが、基本的
な計画については「全員が絶好調」で計画されている。

本日は15名が参加されて練習に入る前に、新人が紹介された。私もこれで三か月半
の先輩となった。三か月半の先輩は、現在「三つの提案」を行い、同好会全員で取り
組んでいただいている(自分でも、ちょっと生意気な新人かなという自覚はある)。


【私からの三つの提案】

(1) 実戦ゲームの予備練習には「2分以上」が必要と訴えた。

現在は、攻めの陣形を旨とした縦並び(トップ&バック)と、守りの陣形を旨とした
横並び(サイド・バイ・サイド)の攻守を変えながら、30秒で、交替練習をしてい
るが時間不足で頭と身体がついて行けないのでギブアップ宣言をさせていただいた。

(2) スマッシュの練習用にプラスティック製シャトルの活用を提案した。

毎回のように、幹事役と世話人が、基礎練習で、シャトルのガチョウの羽根が折れる
といって大騒ぎしているので、シャトルの羽根を叩き折るケースは、スマッシュ練習
の時が多く、スマッシュ練習時のみプラスティック製の活用を勧めた。

(3) 基礎練習にハイクリアーの練習を加えるように求めた。

ハイクリアーを力強く打つことでシャトルのガットの弛みを確認でき、ベースライン
における落下地点を測ることも容易になるので、ご高配をお願いさせていただいた。


本日の基礎練習においてはシャトルの試打を行い、今後、使用して行くシャトル選択
の参考として・・・

世話人から「ガチョウの羽根を使ったシャトル」と「樹脂系のシャトル」の性能比較
などが紹介されて、皆で、実際に使ってみて比較することになった。

練習を始める前に、ある会員から・・・

「前の会長だったら、提案なんて、とんでもない話だったよね!」
「こうして、皆で相談しながら決めて行くのは、ホント、良いことだね!」
などと云う声が耳に入ってきた。


004 味わい深い人物

地元のバドミントン同好会の昨年までの会長には「人間学」を探求する者にとっては
おおいに興味を魅かれるところがある存在と云える。他にも、ラケット競技の会長と
いう意味では、次の二人の人物についても人間学的にその「行く末」に興味がある。

先ず「一人目の人物」について語ることにしよう・・・

◇1969年(昭和44年)といえば、アポロ計画で人類が月面着陸を果たした年で
あるが、この年に、我々はジェットエンジンを設計・製造する会社の管理工学を担当
するエンジニアとして引っ越しプロジェクトを担当することになり、横田基地に隣接
する瑞穂事業所に「工場丸ごと移転」の第一陣の引っ越しを先行させた。

それまで、瑞穂地域はジェットエンジンの試運転を専門的に行う研究施設的な事業所
であったが、航空機用ジェットエンジンの実用化に伴いエンジンの組立てから試運転
まで一貫して行える事業所に、大変身することになったのである。

その後、瑞穂事業所への第二陣・第三陣の引っ越しは、1970年(昭和45年)に
行なわれ、その年、瑞穂事業所はフル操業に入った。

瑞穂事業所は立地条件的に、横田基地に隣接することから、風通しが良くテニス競技
という面では、硬式のテニスボールは風に吹き飛ばされることはないが、軟式テニス
には難があり軟式用のテニスボールは風に飛ばされるという事態が予見された。

したがって、引っ越し前の住宅地域に囲まれていた田無事業所では硬式・軟式テニス
同好会共にテニスコートを並べて、棲み分けしていたものの、瑞穂事業所においては
硬式テニスに一本化する必要があった。

しかも、引っ越してから間もない時期にあっては、テニスコートなど無い状態なので、
「それまでは昼休みになるとテニスに興じていたもの」のゼロベースでテニスコート
造りから始める必要があった。

その様な状況のなかで、最初に、テニスコート造りを始めたのが、私と職場の上司で
あるO氏であった。

幸いにも、上司は瑞穂事業所の建設から操業開始までの総括責任者であり、私も管理
工学のエンジニアとして、事業所敷地内およびジェットエンジン工場のレイアウト等
を計画する立場にあったので・・・

「どこに、仮のテニスコートを設ければ、事業所の操業の邪魔にならないか総合的に
判断出来る立場にあったので『案』作りは早かった。事業所内の了解は上司から審議
に図っていただき、速やかに了解を得た。しかし、予算はいっさい付いていない」

そこで、先ずは、テニスコートの予定地の草取りを私と上司の二人で昼休みになると
該当地に出向いて、根深い草を根元から抜いていった。引っ越し前には運転試験場を
取り囲む敷地は空き地になっていて、蝮などの生息も確認され、危険地帯であったが
整地に伴って蝮などは駆除されていたが、草の根深さは半端ではなかった。

そして、テニスコートを平にならすためのローラーやテニスコートの器具など一式は
引っ越し前の田無事業所で古くなって使っていないものを譲り受けて活用した。

ようやく、テニスコートもどきのものが形になってきた頃には、この噂を聞きつけた
テニス愛好家たちが応援に駆け付けてくれて、テニスコートとして、なんとか使える
ようになった頃には「テニス同好会」が結成されて、打ったボールが、イレギュラー
ばかりするコートであったが、とりあえずのテニス練習が開始された。

そして、その年の会社の夏休みに、テニス同好会の有志の声として・・・

「まともなテニスコートで、テニスボールを打ち合いたいものだ」ということになり
軽井沢でのテニス合宿が決まった。

テニス合宿の宿泊先は、軽井沢で牧場経営をしているオーナーが、テニス好きで自分
の趣味のためにテニスコートを造り、ついでに、テニスコートを多目に造成ナイター
設備まで設けて、宿泊客には搾りたての牛乳まで提供しているので評判が良かった。

問題は、ナイター練習時は、もちろんのこと「虫が多く飛んで来る」のには閉口した。
この飛んで来る虫の問題はテニス合宿の宿泊先ばかりではなく、合宿所には会社終業
時にテニス仲間が集合して、最寄り駅の八高線「箱根ヶ崎駅」からの乗車と云うこと
高崎に向かう車中は夜間でもあり電車が駅で止まる度に社内に虫が飛び込んできた。

しかし、テニス練習におけるナイターは楽しかった。昼間のテニス練習の汗を風呂で
洗い流して、夕食での軽い一杯のビール、その後のほろ酔い状態でのナイターは当時
のナイター照明の設備の限界もあって、空中に浮いたテニスボールが点々と連続写真
風に飛んで来て・幻想的、虫も一緒に舞って来るので、まともな練習にはほど遠い。

ナイター練習に飽きれば、芝生で搾りたての牛乳をいただきながらオセロゲームなど
に興じて一休み、最近になって、この時に私と上司がオセロに興じている写真が出て
きた、驚いたことに、私の後ろ側に「美女」が写っている。

私の彼女ではない、テニス同好会の仲間が連れて来た友人だろうか?
ハンサムな上司に興味をいだいた女性だろうか?

今となっては分からない「軽井沢の夜のファンタジー」だ!



005 何から・何を・物語るか

軽井沢におけるファンタジーなテニス合宿の写真は、私の書斎の書棚の最下段に置か
れた「なんでも袋」に入っていたものである。現役の頃には、いずれ時間が出来たら
整理しようと考えて、なんでも袋を用意したのだが、今や、まんぱんで二袋が置かれ
たままになっているという現況にある。

形にならないものは、脳内の「あいまい袋」に納めてあるが、これは、常に意識化に
あるので、日常の隙間の時間で整理出来るためにあまり溜まっていない。溜まり易い
のは、日常の意識から外れやすい「なんでも袋」のような存在である。

ゴールデンエイジの環境に置かれて、いつでも・いくらでも・整理が出来そうなもの
だが、最近は、ラケット競技に夢中で現役並みに忙しいというのは言い訳で、物臭な
性格がそうさせているのだと思う。

なんでも袋に入っていたA4版の封書からは、たくさんの写真が出てきた。
大判の写真だけでも、二三、列挙してみると・・・

◇一つ目は、イギリスのロンドンから・ダービーに向かう急行列車の中で撮った上司
の写真である。ダービーでは、ロールスロイス社の航空機用ジェットエンジン部門を
訪問する日程が組まれており、ダービー中心部のクラシカルなホテルに泊まった翌朝
は、ロールスロイス社から大型のロールスロイス車で迎えに来て、ジェットエンジン
の事業所に向かった。

◇二つ目は、アメリカのワシントンのホテルで上司のところに集合した同僚との集合
写真である(写真の端にはホテルの金髪のフロント譲も写っている)。この時には私
がホテルのフロントで換金した時に、フロント譲から「あなたはパイロットか?」と
フロント譲から聞かれて、その会話のやりとりを聞いていた同僚も話に加わり大賑わ
いとなって、結末は全員がフロントの前で写真に納まった。

この時に、写真に納まった四名の内、三名が瑞穂事業所のテニス同好会の仲間であり
上司が当時のテニス同好会の会長、もう一人の先輩が後にテニス会長を引き継いだ。

◇三つ目は、入間市の地元のテニス同好会の優勝と三位入賞の記念の集合写真である。
当時、地元のテニス同好会の幹事役として任を引き受けた、私は、やがて一橋大学で
現役のテニス選手として活躍した仲間と共にコーチ役を頼まれ、具体的な目標として
「女子チームの地域での優勝」を目指すことにした。

結果、女子チームは入間市の団体戦で優勝を果たし、私も地元の同好会の仲間と男子
ダブルス戦に挑み三位に入賞した。

その時の表彰式の後で、撮ったのが、これらの写真である。

この写真撮影に到るまでに「何があったのか? この先・どんなことがあったのか?」
何から・何を・物語るか・はたまた・語るに値するか?・・・

前述した文章では、

地元のバドミントン同好会の昨年までの会長には「人間学」を探求する者にとっては
おおいに興味を魅かれるところがある存在と云える。他にも、ラケット競技の会長と
いう意味では、次の二人の人物についても人間学的にその「行く末」に興味がある。

と記したが、

その「一人目」の人物こそが、一つ目の写真と二つ目の写真に写っている上司であり
瑞穂事業所のテニス同好会の会長である(後に、会社の重役にまで登りつめた人物)。

そして、私が、執筆した「ゴールデンエイジの物語」にも頁をさいて紹介したことで
はあるが、定年後の「ある出来事」に連なってその「行く末」に大いなる興味を持つ
に到ったという次第である。

三つ目の地元のテニス同好会の写真には写っていないが、このテニス同好会の会長の
行く末にこそ人間学的に興味があるが、これについては後に語ることにしよう。

いずれにしても、大判の三枚の写真を観ていて感じたことは・・・

私の人生において、現役時代の主軸を成していた企業における日常業務と、地域にお
けるテニス活動・そして・全国区での俳句の交流は、三本が合わさって「より糸」の
ような構造を成し、心身ともに、そこから、活動エネルギーや知的活力源を得ていた
のかもしれない。

そして「より糸」的な構造体は、強靭である必要があり柔軟性も併せ持つ必要がある
のかもしれない。ゴールデン・エイジに到った、今は、主軸には日常生活が据えられ、
そこにラケット競技や小説を書くことなどが加わり、より糸には、フレキシビリティ
さも求められて来る。

この「より糸」的な構造を未来に向かって伸展させて行ったときに、私が吊り橋理論
として標榜している小宇宙をも発展させて行くことが出来るのかもしれない。

視点を再度、大判の写真に、戻してみることにしよう・・・

これらの写真の背後に浮かび上がってくる人物像がある。
「ニューヨーク生まれ・ニューヨーク育ちの『今井兼一郎』氏、その人である」
私の人生は、ドクター今井によって、順風満帆な航海に旅立てたのかもしれないのだ。



006 容赦なき腰折れの事態

私が新入社員として配属になった部門の設計部長で大恩人の今井兼一郎氏との出会い
から書き出そうとしていた矢先、大晦日の紅白歌合戦を観ながら年越し蕎麦をいただ
いているあたりから、腰のあたりに異変を感じて、まさに腰折れのような状況となり、
まともに立って歩けなくなった。

家内が指摘するように・・・

「一階の和室で座椅子に座りこんで、飼い犬『もも』が側に寄りそう形で小説を読み
ふけっていて、それも、かつて、接骨院のドクターから問題のある座り方として注意
を受けたことのある『海老座り』を続けていて、腰に負担がかからない訳がない」

「しかも、小説を読むと云うよりも読み返していた『1Q84』村上春樹著の三巻目
(Book3)のラストシーンに向けて緊迫の続く場面、もう何度も読み返している
ので、既に、自分なりに脳内において映像は出来上がっている」

私に、読み返し癖がある書物は、他に「徒然草」兼好著と「枕草子」清少納言著だが、

◇徒然草が読み返しの旅に誘ってくれる趣向は、それぞれの章段毎に「思考の窓」が
用意されていて、読み返す度に窓からの風景が変わる楽しみがある。これは、同じ窓
からの眺めであっても、こちらが人生の旅路を重ねることで風景が変わってくること
によるものと考えている。

◇枕草子の読み返しの圧巻は、千年前の出来事が、現代における有様と・・・

「変わらないな~」と云う印象が伝わって来るからであり、それに比べると、百年前
の出来事など、昨日のことのように思えるからだと感じている。

◇ところで「1Q84」を何度も読み返すのは、ストーリーの進展と共に、読み手に
解釈が任されてくる部分が多く読み返す度にこちらの解釈が深まって行く点にある。

最近のテレビ・ドラマ「モンテ・クリスト伯」の復讐劇でもラスト・シーンの解釈が
視聴者に任されていて「復讐を果たして自らを危機に追い込む」主人公の下に向けて
救出のために疾走するライダーの真剣な眼差しが、時々、目に浮かんでくる。

村上春樹著「1Q84」の場合はラスト・シーンと云うよりもストーリーの途中でも、
それぞれの登場人物について、その後の生き方に、読み手が、思いを馳せさせる必要
を感じて「未完成交響曲」のような印象に包まれる。

唯一、主人公の三人だけは「異次元の世界に向かって」急ピッチで収束して行くので、
三巻目(Book3)は、私の「腰痛の恐れなど論外」で仰け反って読込んでしまう
のだと客観的に推測している。

かくて、海老状態に固まってしまった私は大晦日の夜には蒲団の中で丸まって睡眠を
とることになり、元旦の朝は椅子に海老のように座って、お屠蘇とお雑煮をいただき、
お節を突っつきながら、家内からは・・・

「百歳越えの老人のようね」と云われながら年賀状を拝見することになった・・・

私は、昨年「これにてラスト年賀状です」と云う旨の挨拶をさせていただいたのだが、
それでも年賀状は届いているので、それはそれで「ありがたいこと」と考えている。

恩人からの年賀状には・・・

「貴方から、昨年、年賀状辞退のお知らせをいただいておりましたが書き終えてから
気付きました。来年は出しません」とあり、

私からは・・・

「大恩人への感謝の気持ちは永遠のものと考えております」と年賀状を書き1通のみ
元日に年賀状を投函した。

「他の方への年賀状はエンドレス状態に陥る恐れがあるので書かなかったが今までは
年賀状は当たり前のことであったので、その判断にはなかなか難しいものがある」

その様な時に、インターネットの俳句投稿交流においてお世話になっている句友から
ご紹介いただいた「老いの独りごと憲章」を思い出した・・・


       【老いの独りごと憲章】

        老いて良いことは

   天気が良ければ、気ままに、庭や畑で過ごし
  海や山や公園やお寺などにも自由に出かけられる
   多少の義理の程度の会などは断ってしまえる 
   断る口実としても老人という言い訳は万能
    病気をプラスすればさらに万能となる
      今日は体調が悪いのでというと
       だいたいは理解してくれる

        若い時みたいに

    風邪で高熱のため動けないなどと
       嘘を言わなくてもよい

       なにか失敗しても

     歳のせいですねなどというと
         多くの場合
       みんなが納得してくれる
    この言い訳は自分に対しても使える
       やりたくない仕事があると
      無理すると免疫力が下がるからと
       自分を甘やかすこともできる

    若い時よりも人との交流も持ちやすい

       年齢が同じくらいだと
        すぐに打ち解けて
       同窓生の気分になれる
    恥ずかしさとか気どりがなくなるから
     自分の気持ちを素直に伝えられる

      女子行員や男子店員などにも
    髪型がとてもよく似合っているなどと
         普通に云える
    本当にそう思っていれば云えるものだ

       差し障りのあるような
      政治的な意見も普通に云える
     昔は主婦や学生だけが縛りがなく
   政治的に自由だといわれたことがあるが
         老人も自由だ

       多分なのだが忘れるから
      本やドラマも何度も楽しめる
       欲しいものがなくなり
        小欲になるから
       大方は満足できる

      欲しいものがあっても
     どっちみち死ぬのだと思うと
        諦めやすくなる
   
       自然や体験なども
      深く味わうことができる
      これで見納めだと思うと
      なんでも意味深くなる
   
       そして回想を
    楽しむことができるようになる

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私の年賀状は、今まで「現役時代に、ほんとうにお世話になった」恩人に向けて出し
ていたものであるが宛先には年長の方が多く、必ず「こちらにも年賀状が届く」ので
ラスト年賀状にすることも、恩人への配慮かと考えて踏み切ったものである。

かつて、私のテニスの仲間が年賀状を終わりにしたのは「年賀状は紙製品であり森林
の樹木を伐採することには、これ以上、賛成出来ない」として活動の輪を広げたもの
であり、教職員の間で、この考え方が広く普及したと聞いている。

したがって、私の場合は、それほど明確なポリシーに沿ったものではないので、家内
と共通の親戚や知人に宛てての年賀状は、私よりも五歳も若い家内からの仲間に向け
た発信として、以降は、任せることにした。

そして、正月2日は、近郊のサイボクの温泉場が開場となったので腰痛の治療のため
早速、車で乗り着けて「炭酸泉」に時間をかけて浸かり、腰から背筋にかけての海老
状態から、直立の類人猿の姿に戻ることが出来た。

ようやく、新年の開院で接骨院のドクターに診ていただいたのが、正月4日で・・・

「急性の腰痛と診断され、海老状態で読書しても一週間程度なら問題ありませんが、
三週間ともなると、それは腰痛にもなるでしょう」と云うことであった。

「背中から、腰の部分にかけて、硬直した症状が、ドクターによって確認され温熱
および低周波による治療が行われて、シップを貼布していただき引き続き来院する
ことになった」

かくて、年末から年始にかけては海老状態となり、急遽「ピットイン」することに
なったが、これは、小説の執筆に当たっても、パソコンの前では姿勢を正すことの
必要性を学ぶ良き機会になったと云える。




007 ラケット競技の初打ち

私の背中から腰にかけての全体的な硬直した張りもなくなり、類人猿の直立姿勢から
現代の人間らしい背筋の伸びた体勢に戻って来たので、初春のラケット競技の初打ち
を視野に入れて「リハビリ計画」を具現化することを考えた。

ラケット競技の初打ちは、バドミントンが先行する形となり、1月11日(金曜日)
に運動公園の体育館にてエンジン始動、テニスは1月21日(月曜日)がエンジン
全開の段取りとなっており、その間に18日(金曜日)バドミントン練習を挟むの
で腰への負担を考えるとスムーズなリハビリ計画が組めそうである。

ここで、リハビリを兼ねた初打ちの見通しもついたところで、腰痛への対策も松の内
には目途をつけておきたいと考えて、1月7日(月曜日)は、再度、サイボクの温泉
に出掛けて炭酸泉に時間をかけて浸かろうと考え望み通り20分間浸かり間をおいて
10分間浸かってきた。

結果、翌朝には腰の両脇に軽い痛みが残ったものの、急性の腰痛発症時になんとなく
想定した患部の特定できた思いがした。要は痛みは腰の両脇のちょうつがい的な位置
であり、機械なら油をさしていっちょうあがりと云うとことだが、機械ではないので、
出来るだけ軽く動かすようにして血液の循環を良くすることが肝心と考えた。

さてバドミントンの初打ちに向けて昨年の「三つの課題」は解決していると云える。

◇実戦ゲームの前の予備練習において「攻守の交替時間」の30秒では短すぎるので、
二分間必要と提案したが、最近は、出席率が高く選手交替までの待ち時間を考慮して
一分間の練習時間を確保することにより練習がスムーズに行われるようになった。

◇基礎練習に、ハイクリアーの練習を取り入れて高く遠くまでシャトルを飛ばすこと
については、基礎練習の最終段階に取り入れることで納得の行く練習が実現した。

結果、ラケット購入から三か月間を経過したガットに弛みを感じ取りスポーツ・デポ
に出掛けてガットを22ポンドにて張り替え依頼をした。スポーツ・デポではUさん
にテニスガットの張り替えも指名で行ってもらっているので、バドミントンのガット
張り替えも安心して任せた。

ガットを張り替えたバドミントンラケットを受け取る日に、Uさんは不在であったが、
当日は、バドミントン専用のシューズを購入する予定であったので三種類を選択して
フィット感を試したが、実際に歩いてみて気に入ったシューズがなく対応してくれた
アドバイザー・スタッフの方に・・・

「今、テニスシューズでフィット感の良いものをもっているのですが、ダッシュ性が
優れているものの・右の太ももを痛める・と云う欠陥があって履いていないのですが
シューズの選択は難しいですね」と、独り言に近い感想を漏らしたところ、

「そのシューズをお店に持って来ることはできますか?」

「私が、今、使っている『インソール(靴底)』がとても具合が良いのでお客様にも
お勧めしているのですが理学博士が開発したもので、使ってみることをお勧めします」

「試用期間も60日間あり、フィットしなければ、返品も可能ですので安心かと?」

ひょっとして、この話は「天使のサイクル」的なもので善循環に乗れるかもしれない
と考えて自宅に戻り下駄箱に大事にしまっておいたシューズを持参、スタッフの方に
該当のインソールをカッティングしていただいた。

早速、次のバドミントン練習日に着用してみたところ、もともとフィット感に優れた
シューズであったこともあり、今や、お気に入りのシューズになっている。

まさに「ハイ・クリアー」で問題解決という結果であった。

◇三つ目に残った課題としての「シャトルの選択」については「独り練習」倶楽部の
我が庭先の練習道場においては、ガチョウの羽根製でも・ビニールやプラスティック
の樹脂製の羽根でも、打つ時の感触には「いずれも違和感はなく」羽根類の傷み具合
にも差異は見当たらないので「三種類を並行して」使い続けることにしたが・・・

バドミントン同好会における「お試し練習」の結論は、幹事役の64歳の意見として
「生い先(老い先)短い人生において、出来ることなら、ガチョウの羽根でバド練習
を続けたい」と云う感想が説得力を帯びて「シャトルはガチョウ製」に決まった。

かくして、私からの三つの提案は「なんでも皆で相談して決めて行く」という副産物
を得て、実質「前会長」の独断専行モデルから完全脱却したと云える。

そして、私は1月のバドミントンの初打ちから、かつて10年間「五次元テニス」と
して研究を重ねて来た経験を基にして「五次元バドミントン」のメソッド(理論)を
構築して行こうと考えている。

この五次元バドミントンでは、原則として一発で射止めるスマッシュは打たないので
シャトルのガチョウの羽根を痛めるという心配もなくなる。

・・・・・・・・・・・・・・・・

七草粥の夜、そろそろ・眠りに入ろうとしている午後11時の瞬間に合わせるように、
背中に翼を背負った女神がアトキンス博士と連れ立って正月のご挨拶にみえた。

女神「大晦日の晩に、急性腰痛だったとか、たいへんでしたね」

博士「やはり、テニスなどで汗を流している方が、似合っていますね」

小生「今年の師走は、テニスもバドミントンも早目にコート納めをして、家の大掃除
でも手伝おうなどと殊勝なことを考えて、時間を作ったのですが鎌倉の孫は中学受験
の追い込み、名古屋の孫たちは夏休みに鹿児島に行き気を良くして、正月も嫁の帰省
に連れだって鹿児島行きとなり、家内も気合抜けして手伝いの出番が激減しました」

女神「それは・それは、奥様も気落ちしてしまいますね」

小生「私も家内と一緒に息子が結婚したいというので鹿児島まで結納の儀に出掛けて
嫁さんを迎えたのですが、結局のところは、嫁の実家の方が引っ張りが強いですね。
これも時代の趨勢でしょうか?」

女神「実家の引っ張りが強ければ、お孫さんも、お嫁さんのご両親になつくわね」

博士「これからも好々爺と好々婆に徹するか? かつての都知事の青島流の意地悪爺
さんとひねくれ婆さんに変身して行くか? いずれ選択が必要になってきますね」

女神「いじわるといえば、一昨年から昨年末まで、暴力を振るわれた貴ノ岩が角界の
話題の中心に居ましたがあまりにも、突然、自らの付き人への暴力行為で自ら引退を
決意、相撲の神様の応援もあって、引き続き土俵上で活躍できるお膳立てなどもしま
したが、貴ノ岩本人が燃え尽き症候群の状態で周りからは救いようがなかったわね」

博士「こうなったら奇策かもしれませんが、暴力を振るった日馬富士が、貴ノ岩とは
一度は友好の握手をしたという経緯もあるので、日馬富士がモンゴルに設立したとい
う学校関係で働かせてもらうというのも有りかもしれませんね?」

小生「ところで正月から始まった大河ドラマを観ていて感じたことの一つに元貴乃花
親方の未来が見えた気がしました!」

◇一つ目には、学校に土俵を作りたいという思いが強いようなので、思いを夢で終わ
らせないためには、小学校から中学・高校そして大学まで一貫させて相撲文化を系統
的に体系化して行く構想があっても良いのでは?

私が、子供の頃は、座敷での父子相撲は日常的なものでした。柔道や剣道に比べても
格別な道具も必要なく相撲は力士だけのものではなかった記憶があります。夏目漱石
の時代にも父子相撲の描写はあり、相撲は日本的な風景としてどこにでもあった。

それを考えると日本の学校教育の体育教科に柔道と剣道の選択肢はあっても、相撲と
いう選択肢がないのは不思議な気がして、この辺りにも、元貴乃花親方の出番があり
そうです。

◇二つ目としては、それを具現化するために、今年の参議院選には出馬して、そのた
めの地歩を固めて行く必要があるのではないか? 

文科省の立場から、学校教育の場に相撲を取りいれて行く工夫や努力は価値あるもの
と考えます。

◇三つ目は、世界相撲協会や世界相撲学会を創設して、世界規模での活動を仕掛けて
行く、そのためには、東大や早稲田などのスポーツ科学系の大学院の協力を得ること
により「2020年の東京オリンピック・パラリンピック」で世界に向けて相撲文化
を発進して行く。

願わくば、五輪種目の一つに、相撲を加えて行く!

要は、日本相撲協会の枠から飛び出して、世界に羽ばたくことも必要では?

女神「いいわね、精一杯、応援して行きたいわね!」

博士「そうなると、相撲を科学する眼も、重要になってきますね!」

小生「それから、昨年は、小池都知事にとっても・力仕事だった・豊洲市場も幸先の
良いスタートをすることが出来ましたね」

女神「豊洲市場の初マグロを題材にした『3億3千万円の豪華モデル』は、豊洲市場
から築地に向けて流通経路をつなげ、さらに、日本全国に流通経路を広げて世界中に
情報発信した救世主は、やはり、あの福々しい御仁でしたね」

博士「豊洲市場の賑わい演出のためにその宣伝費を惜しげもなく払ってくれた・・・
すしざんまいの代表には、都庁からも『賑わい大賞』の感謝状をお贈りするなど価値
ある気前の良さに感謝・多謝するためのプレゼンは必要でしょうね!」

かくて、背中に翼を背負った女神とアトキンス博士との新春談話は尽きることなく夜
がふけるまで続きました。


008 武蔵野の大地が青春の広場

バドミントンの初打ちが予定通り、1月11日(金曜日)に行われて、昨年から会長
に就任したO氏からは・・・

「昨年は、お互いに和気あいあいと良き雰囲気で、バドミントンの練習を進めること
が出来ました。本年も相変わりませず、和気あいあいのチームワークで楽しく練習を
続けて行きたいと思いますので、よろしく、お願いします」ということで、ほぼ全員
が参加した練習コートで拍手が湧いた。

その落ち着いた雰囲気の中には、安堵感のようなものも感じられ、まだ一昨年の会長
の独断専行の影が尾を引いている印象も感じられた。

バドミントン同好会の名前は「ブルースカイ」晴れ渡った空を連想させるネーミング
であり、バドミントンのシャトルが空に高く飛ぶ姿がイメージされ善き名前である。

私は、このブルースカイという響きから、一生涯学生作家として、常に新たなことを
学び続けて、その時々の思いを書き綴って行こうと考えている学び舎である放送大学
のエンブレムのデザインを思い出した。

放送大学における学びにおいては「心理学」を専攻して卒業、その後は「人間学」に
専攻をあらためて、再入学、現在、徒然草や枕草子をはじめとして、多くの文学作品
に親しむ機会を得て、自らも「一生涯学生作家」としての道を歩んでいる。

企業人としての現役時代は、工学系からの学びが主体であったことと、管理工学に携
わるエンジニアとしての天職に目覚めるまでは、航空機用のジェットエンジンを設計
したり造ったりというハードウェアとの付き合いが主体であったが、工場運営などに
関与するようになってからは、管理工学のエンジニアとして、こころの働きなどにも
理解を深める必要が感じられてきて放送大学に入学、この大学における多面的な学び
は企業活動の中でも大いに役立ち、現役時代から退職後のゴールデンエイジに繋がる
過程においても、スムーズな移行を助けて人生設計を豊かなものにしてくれた。

放送大学のエンブレムのデザインは、遥かな大空に向かって飛翔する仲間が、遥かな
永遠の一点にベクトルを収斂させて行くという印象があり、私にとってそのデザイン
はお気に入りの一つである。

そしてブルースカイという言葉から来るイマジネーションは、私の人生そのものでも
ある。前述の記事と重なることになるが、私が入社して配属になった部門は航空機用
ジェットエンジンの設計部門であり、設計部門には五名の仲間が配属となった。

そして、当時の設計部長が、今井兼一郎氏であった。五名のそれぞれの配属について
は、私は、純国産ジェットエンジンの設計部門である設計一課に配属、設計二課には
三名が配属となり、設計三課には一名が配属となった。

部門内での新人紹介の際に、五名が設計部長のディスクの前に集合、設計部長からの
第一声については、今でも記憶に鮮明に残っている・・・

「君たち五名の学業成績を拝見したが、全員が優秀な成績を残していることになって
いる。今の学校は企業に提出する成績表に下駄をはかせるのかね?」
と真顔で尋ねてきた。

私だけではなく五名全員が、学校から「どのような成績表」が届いているのかは把握
していないので、恐らくは全員が唖然とした顔をしていたのだと思う。

瞬間、設計部長からは、満面の笑顔が浮かび・・・

「それでは、設計部員全員に皆さんを紹介しましょう」ということで、大部屋に大版
の設計図を描くための設計図板が配置された、広すぎるほどの部屋から大勢の部員が
設計部長の前に集められて、新人五名が紹介された。

そして、これは、後になって気付いたことであるが、この時の設計部長の笑顔の奥に
あった思いは・・・

「新入社員の皆さんの実力や適正は、この私が時間をかけて見極めて行きますよ!」
という意味の笑顔であったのだと、今になって、伝わって来るものがある。

当時、全社的には、総勢600名の新人が入社した。そして全員が総合体育館に集合、
企業としての再創業という勢いの中にあって、土光社長からの冒頭挨拶の後に全員が
一人・ひとり・土光社長とのアイコンタクトをもった。

私は、自分の名前が呼ばれたときに「ハイ」と返事をして土光社長とアイコンタクト
したときに、土光社長の眼光から飛んできたレーザー光のような衝撃波を眼で受取り
脳内に刻み込んだ思いがした。

この衝撃波の一瞬の意味を後日になって推測した・・・

「それは、父親が名付けた、私の名前である『佐久間 勉』の『さくまつとむ』の音
の響きにあったのだと!」

広辞苑で「佐久間 勉」を引くと・・・

【佐久間 勉】
さくまつとむ:海軍大尉。福井県生れ。潜水艇長として山口県新港(岩国港)沖にお
いて潜航訓練中、水没事故により殉職する。廷内では死ぬまで部下を指揮して報告書
を書き続けた。

・・・・・・・

(更に、インターネット上で、情報を検索すると)

後に、沈没した潜水艇が引き上げられて、佐久間艇長が、死ぬまで書き続けたという
報告書が発見されて、国内外で大きな反響を呼ぶことになった。

第六潜水艇は訓練中に事故が発生、その時の乗組員は14名、ほぼ全員が自身の持ち
場を離れずに殉職、全員が潜水艇の修繕に向けて最後まで全力を尽くしていた・・・

佐久間艇長自身は、艇内にガスが充満して死期が迫る中、明治天皇に向けて潜水艇を
失うことと、部下の死について謝罪、この事故が潜水艇発展の妨げにならないことを
願って「事故原因の分析」を記して残すと云う、誰にでも出来ることではない遺書を
書き残して、乗組員の遺族にも気遣いをしたためている。

この遺書は、39頁にも及ぶ膨大なものであり、最後には、上級幹部や知人の名前を
記して気遣いを見せ、12時30分に自身の状態を記し、今「12時40分ナリ」と
記して絶命した。

当時は欧州などの国外でも同様の潜水艦事故が発生しており脱出しようとした乗組員
が出入口に殺到して、乗組員同士で、お互いに殺し合うと云う悲惨な事態なども発生
しており、騒然としていた時期でもあっただけに・・・

佐久間艇長が率いる潜水艇は、乗組員たちが最後まで自分たちの持ち場を守り、なん
とかして修繕しようと努力した姿が、各国の関係者に多くの感銘を与えて、各国から
多数の弔電が届いた(私も、この話は子供ながらに、父親から何度となく聞いた)。

この出来事は、国内では長らく修身の教科書に「沈勇」と題して掲載され、夏目漱石
は事故の同年に発表した「文芸とヒロイック」において、次のように言及している。
(一部を抜粋)

「昨日は佐久間艇長の遺書を評して名文と云った・・・(略)・・呼吸が苦しくなる。
(艇内の)部屋が暗くなる。鼓膜が破れそうになる。一行を書くすら容易ではない。
あれ丈の文章を連ねるのは超凡の努力を要する訳である。

従って書かなくては済まない、遺さなくては悪いと思う事以外には一画と雖も漫に手
を動かす余地がない。平安な時あらゆる人に絶えず附け纏はる自己広告の衒気は殆ど
意識に上る権威を失ってゐる。

従って艇長の声は尤も苦しき声である。又尤も拙な声である。いくら苦しくても拙で
も云わねば済まぬ声だから、尤も娑婆気を離れた邪気のない事である。殆んど自然と
一致した私の少ない声である。

そこに吾人は艇長の動機に、人間としての極度の誠実心を吹き込んで、其一言一句を
真の影の如く読みながら、今の世にわが欺かれざるを有難く思ふのである。さうして
其文の拙なれば拙なる丈真の反射として意を安んずるのである。

其上、艇長の書いた事には嘘を吐く必要のない事実が多い。艇が何度の角度で沈んだ、
ガソリンが室内に充ちた、チェインが切れた、電燈が消えた。此等の現象に自己広告
は平時と雖も無益である。

従って彼は艇長としての報告を作らんがために、凡ての苦悶を忍んだので、他によく
思われるがため、徒らな言句を連ねたのではないと云う結論に帰着する。又其報告が
実際当局者の参考になった効果から見ても、彼は自分のために書き残したのではなく
て他の為に苦痛に堪えたと云う証拠さえ立つ」

・・・・・・・・・・・・

今日でも、佐久間艇長の命日には・・・

出身地の福井県で、遺徳顕彰祭が行われおり海上自衛隊音楽隊による演奏やイギリス
大使館付武官によるスピーチなどが行われている。

・・・・・・・・・・・・

我が家の親父が、私の誕生に際して・・・

「何故、福井県出身の佐久間艇長を気にかけて、名前をいただいたのか?」

それは、我が家のご先祖様が、福井県の松平家の家臣であったことによるものと母親
から聞いたことがある。廃藩置県と云う日本中の大改革の変動期にあって、佐久間家
の一群は、福井県から群馬県前橋市に移住、前橋市で祖父は製糸業に着目して私財を
投資し、やがて、製糸業と生糸の輸出商を兼業させて行くことになる。

今は前橋市の地図にはないが、当時、前橋市萱町一丁目一番地に製糸業の工場と居を
構え、近隣のお稲荷さんの境内には「佐久間忠介」の名前が、寄進の記録として石に
刻まれている。

親父は次男であったが後継者として育てられた。したがって工場経営についての知識
や経験は極めて実践的であり、後に、私の現役時代には「すぐに役立つ知識」として
伝授されたことがある。

身近な話として、面白かったのは、工場の弁当食において食べ終わった時に、三番目
の人がキチンと揃えておくと、最後までキチンと弁当箱が積み上げられると云う話題
から始まり、歴史的にも「三代目が重要」なのだという・・・

◇徳川幕府も、三代目の家光がシッカリしていたので、徳川家は栄えたのだと、

◇曹洞宗(我が家の宗派)においても、道元禅師は、別格的に優れた人物であったが
曹洞宗が永続的に栄えたのは、三代目が盤石の礎を築いたのだと、

我が家の場合は、祖父が経営していた製糸業と生糸の輸出商の兼業経営は太平洋戦争
の戦禍により、親父にその経営が引き継がれることはなかったが、順当なら三代目に
当たる私にはどのような役回りが来ても、最後まで任務を全うしてもらいたいという
思いが強かったのだと思う。

そういう強い思いを辿ったときに、ご先祖様のルーツでもあり、責任感抜群で、最後
まで任務を全うした偉人である佐久間艇長に思いを重ねたのかもしれない。

親父としては、そのような思いの中で、佐久間艇長の名前をいただくのは、名前負け
するかな? という懸念も頭をよぎって「進(すすむ)」という名前についても母親
に相談していたのだと云う(親の思いというのは、ありがたいことである)。

・・・・・・・・・・・

結果、新入社員の入社式が行われた総合体育館において「さくま・つとむ」の名前が
呼ばれて、これは推測の域を出ないが「一瞬」といえども海の神様の響きが土光社長
の耳に届き、鋭い眼光から「土光ビーム」を眼で受け取り、脳内に刻むことが出来た
ことを考えれば「これだけでも、親父の思いが幸運を呼び込んだ」と云える。

後は、いかに天職を見出して、ゴールまで責任をもって任務を全うするか、それこそ
が名前負けすることなく、海の神様への感謝を身をもって呈することに繋がる。

土光社長は、その後、企業体としての「再創業」と云う大事業を自らの牽引力により、
造船業としての偉業である企業体としての「造船世界一」を歴史に刻んでいる。

土光社長の当時の経営指針の一つには「適材適所」という命題があり、社員の人間力
としての実力を見極め、適材に配置して、最大限の能力を発揮させる手腕には経営者
として天才的なヒラメキも感じられた。

したがって、当時、新入社員の配属先には「学歴不問・適材適所」のメッセージが各
部門に通達され、当然、今井兼一郎氏の耳にも届いていたのだと考えられる。

事実、私が配属になった設計一課で設計図を描いている時にも、課長が出張で不在時
の際など、必ずといって良いほどに、笑顔で側に来て、いろいろな話をしていただい
た記憶がある(今でも印象的なことを後述する)。

当時、私たちが新入社員として配属になる直前に今井兼一郎氏は部長に着任したとも
お聞きしており設計部長は「ニューヨーク生まれで・ニューヨーク育ちらしいよ」と
いうお話も、かつて、耳にした記憶がある?

当時、土光社長は、将来展望として「航空宇宙分野」を有力成長部門として位置付け
しており、適材適所の考えで、今井兼一郎氏を航空宇宙の中枢である設計部門に将来
を背負う人物として配置されたのかもしれない。

私が、今井兼一郎氏に「経営者としての斬新さ」を、最初に感じ取ったのは・・・

「これからは、設計部門の女性社員に、お茶を入れさせる行為は廃止して下さい」
「女性社員も、重要な設計要員であり、重要な戦力です」
「お茶を飲みたい人は、全員、自分でお茶を入れて下さい」

と、お話しをされて、ご自身も・ご自分でお茶汲みをされていた。

今になって「分かる」というケースは、多くの場合に経験を積み重ねることで気付く
ことであるが、その後、1990年代に全社的な企業革新の旗振りをしているときに
アメリカのGE社において、ジャック・ウェルチ会長が企業革新を進めた時の考え方
に共通するものがあり、それを1960年代に実践していたと云う面において・・・

今井兼一郎氏は、既に、経営者としての先進性を実践していたと云える。

そのことに関連して、私が思い出したことは・・・

東京都内における全社的な新入社員教育も、終盤に差し掛かった頃に、人事部長から、

「これから皆さんは、職場に配属となりますが、職場には〇〇長ということで、肩書
に『長』が付く人が必ず居ます。この人たちをけっして偉い人と思わないで下さい」

「この長と付く人は該当の部署をまとめて行く役割を持った人ですのでなんでも遠慮
なく相談していって下さい」

このメッセージも、今になって考えれば、土光イズムの一環として全社的に意思疎通
されていたものであり、1990年代のアメリカにおけるウェルチ会長の考え方は、
土光社長によって、日本では1960年代に実践されていたと云えるのではないか?

かくて、我々・新入社員は、今井兼一郎氏の下で、思い切り気持ち良く、大版の設計
図板を前にして、設計図を描き始めることになるのである。

昼休みになれば、武蔵野の大地の陽射しを浴び、武蔵野の空気を思い切り吸い込んで、
まだ・まだ・全社における売り上げ高は5%にも満たない事業本部であったが、将来
に向けた夢は、やがて、全社を牽引して行く屋台骨になって行くことであった。



009 火だまりの仕掛け

当時の新入社員の立場で、設計部長の今井兼一郎氏に「将来に向けての心境」などを
インタビューすることなど叶わないが、後に、社内で発刊された「航空宇宙の30年
の歩み」を手にしたときに、その願いが叶った思いがした。

「航空宇宙の30年の歩み」には、巻頭部分で歴代の本部長の所感や思いなどが述べ
られて、三代目の事業本部長 今井兼一郎氏からは「航空宇宙本部30年に際して」
として次のような文面が掲載された。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昭和37年、田無工場の新総合事務所の開所式の当日、わが国の航空工業会をリード
した企業の社長を勤め、生え抜きの航空マンである方が「われわれも何度かジェット
エンジンを手がけることを考えたが」どうしても充分なことができなかった。

土光社長に「よくここまでおやりになった、と伝えてほしい」と心からの言葉を残し
て去っていかれた。

昭和30年ころ、現在の豊洲の技術研究所があるところに、新エンジン工場の配置図
が完成し、発足を待つばかりのとき、当時、私は田無工場の片隅、富士重工業の朽ち
た倉庫の二階にあった日本ジェットエンジン会社に出向して、J3の前身のエンジン
の開発に取り組んでいた。亡くなった同僚の荒木四朗さんに「新プロジェクトのため
に、この工場を買ったらどうだろう」と電話をした。

即座に上層部から反応が返ってきて、その後は、関係者の努力で今日の骨格が組みあ
がり、多くの先輩の献身的な使命感によって、今日の航空宇宙本部は育まれてきたの
である。

昭和57年にXF3エンジンが防衛庁の開発プログラムの採用に内定したとき、この
プロジェクトを担当して、46年に志なかばにして急死した故関根正信君の御母堂を
お訪ねした。正信君は死の直前に「エンジンの成功は目途がついた」と喜んでいたと
いう。「あれから、10年たちました。エンジンの開発はたいへんな仕事なのですね」
と、御母堂に、そう言われ、私は改めて正信君の生前の努力に深謝した。

旧約聖書に「where there is no vision ,the people perish.」・・・ビジョンがなければ
その民は滅ぶという私の好きな言葉がある。云い得て厳である。と思っている。

Visionは幻ではなく、見える人には見えているのであろう。それが世の流れとともに
相(すがた)を現して歴史となり、それぞれの人のVisionによって歴史を観ているの
であろう。30年は長くも短くもあり、自分の姿が見えにくい年ごろに、さしかかる
時期でもあろう。

ある調査によれば、日本企業の平均寿命は三十余年であるという。

創業にかかわった人は老い、恵まれた環境に育った若者は、世の移りに気づきにくく
なっているのかも知れない。

いまでは、想像もできない幾多の幸運に恵まれて、今日の航空宇宙事業本部は存在し
ている。旧約聖書の訓(おしえ)の厳しさにたち返って、心を謙虚に進まれることを
願っている。

この30年史が未来のためのものであるならば。
「意志のあるところに、道あり」という言葉をつけ加えさせていただきたい。

・・・・・・・・

我々・新人・五名が、いかに恵まれた設計環境において迎えられ、活躍の場を与えら
れたか、そこには土光社長と今井兼一郎氏の意思疎通のなかで、実力の見極めが適格
に行われ、適材適所に向けた配慮がなされたことについて疑う余地はないと云える。

そして、今井兼一郎氏は、新人の配属先で、ある時には・・・

新人が、設計図を広げた大版の設計図板の下に落ちていた「クリップを拾い上げて」

アメリカの大手企業においては、この一個のクリップを大切にしようと云う考え方が
やがて、大きな企業革新運動に発展していって大躍進した「サクセス・ストーリー」
などをわかりやすい語り口で紹介された。

そして、これは担当課長が出張されているときに、巡回訪問して下さって・・・

ジェットエンジンの燃焼器の図面を描いている時に、該当部分は高熱に晒される機器
であるため、私が諸外国の研究レポートなどを先輩との小グループ編成で輪講という
形の研究会を持ち、切り欠き部の応力が集中しやすい箇所の形状などを工夫している
ときに、設計部長の今井兼一郎氏が設計図板の脇に見えて、燃焼器の吹き消え防止の
ための仕掛けに、アイデアを結集させた経過などを説明して下さった。

ジェットエンジンの燃焼器には、前方の翼列を高速回転させた圧縮機から圧縮空気が
送り込まれ、そこに燃料を送り込んで混合させ、高温・高圧の燃焼ガスを高速で排出
することにより、ジェット流として推進力を発生させるのであるが、時に、気象条件
の急激な変化に遭遇したときなど、燃焼ガスが吹き消える可能性は否定できない。

その時に備えて、燃焼器の空気流入部に、圧縮空気の流入を抑制する仕掛けを設けて
おくのである。しかも仕掛けは耐久性や耐熱性を考えるとシンプルな構造であること
が求められ、そこには、天才的なヒラメキが凝縮されているのである。

その仕掛けの効果として、遥か上空で、急激な気象変動に遭遇しても「火だまり」を
温存できるので、主流を成している火炎が吹き消えても、すぐに「再着火」が可能で
あるという仕掛けである。

私にとって、この考え方は、後に、ジェットエンジン設計の上手さとしての秘訣だけ
でなく、その後の企業内活動や人生設計を考えて行く上でも、貴重な示唆となった。

一例を挙げれば・・・

◇後年、私は企業内活動として「生産性向上運動」の旗振り役を担うことになるので
あるがこの種の運動や活動には波があり、隆盛期の後の盛り上がりに欠けた時に失速
の危機が襲って来る、この時「火だまり」となって耐えられる力が、やがて「継続は
力なり」となって、再び隆盛期を迎えるということを何度も経験した。

◇テニス競技についても、同じような経験をしたことがある。地元のテニス同好会が
薔薇の花が咲き出す気持ちの良い五月頃に、順調なスタートを果たして、夏を迎えた
頃であった、皆の出足が止まって、コートには二人のみという時期を迎えた頃があり、
ここで休会にしたら流れ解散かな? という感覚が働いて、二人で「火だまり」役を
買って出て、水道の水を頭からかぶりながら継続させたことがある。

◇私が、定年後に引き受けた、ある地域全域の幹部役員教育についても、ジンクスで
あるかの如く、何度も1年間の壁を超えられずに頓挫を繰り返していた企業があった
が、発想を変えて、地域全域の従業員500名を巻き込んで、販売・サービス会社と
してビジネス・コンサルティングとしてのアクションを加えて要所要所に、火だまり
役を設けることで契約期間の4年に加えて、この運動をさらに、継続的なものにして
行くために、トータルで6年間のコンサル活動を実施、その後は自力での活動を継続
させている。

新入社員の時の今井兼一郎氏からの学びが定年後も役立っていることについては感謝
を越えた次元の思いがある。

そして、今でも・耳に残り・脳内に響き続けている言葉は・・・

「なにごとも、設計に始まり、設計に終わる」ことを、頭にも・胸にも・腹にも刻ん
でおくようにという教えを、常々、云われ続けてきたが、

要は・・・

「言い訳をしなければならないような設計は、はじめから、しなさんなよ!」

もし、予想できなかった問題がおきても、

「言い訳の前に、事実は事実として受け止めて、原因を探し出し、究明出来た原因に
向けて手を打ちなさいよ」

「そこに、言い訳を考えている時間はないよ」と。

・・・・・・・・・・・・・・

この言葉の背景には・・・

当時、私たちに与えられた「設計任務」の意味付けとして、

◇ジェットエンジンの設計における天才たちの集まりが、飛行試験を成功させた試作
エンジンをベースに置いて・・・

「量産設計に向けて、いかに製造しやすいエンジンに、再設計して行くか」

「継続的・実用的な飛行運用を支えて行くために、いかに性能的にも構造的にも安定
したエンジンに、再設計して行くか」

「量産設計によって製造された部品は、エンジンとして組み上げられて150時間の
耐久運転試験が課せられているので、その成果は、科学的・実証的に証明される」

◇そして「なにごとも、設計に始まり、設計に終わる」の意味するところは、実際に
エンジンの製造が始まってから、そして150時間の耐久運転試験が開始されてから
益々、その言葉の重みを増すことになる。

即ち・・・

「図面に基づいて、実際に部品を製作していて、量産のために、より良い製作方法に
気付いて、図面の変更が必要になった時に、俊敏に図面改定をする。これも、設計に
始まり、設計に終わることの意味合いにつながる」

「図面に基づいて、実際にエンジンの組み立てをしていて、構成部品の結合部をより
簡便に、より確実に行なえる設計に気付いた時に、構成部品の図面改定を迅速に行う
ことは設計に始まり、設計に終わることの好事例と云える」

「そして、150時間の耐久試験を無事に乗り切ってエンジンを分解した時に、ここ
の接合部を変えたら、より耐久性が増すことに気付いた時に、設計変更を重ねて行く
ことは、設計に始まり、設計に終わることを実証している」

ただし、製造に携わる技能者には、従前からの「一品工事」と云って、一度製作した
物は余程のことがないかぎり、そのまま現場で若干の手直しをして使用したり、図面
は目安であって、現地や現場で造り込むと云う育ち方をしてきた仲間もいる。

そのような技能者にとっては、例えば「建屋とエンジンをそれぞれ違う部署や業者間
で別々に設計して」いて、ある時「エンジンが収まる建屋の横幅をギリギリまで狭め
た構造に変更」、これを「エンジン設計部門に連絡することが漏れた」場合・・・

「一方で、エンジン設計部門では、エンジン外周部に、計画外の排気ダクトを従前の
建屋図面のギリギリまで張り出して設計」した場合・・・

結果「エンジン納入時に、エンジンが建屋に納まらない」という事態が発生すること
になる。

一品工事であれば、これを現地での手直しで収めてしまうのだが、事態が事態だけに
現地では収まらずに、エンジン設計を変更して、例えば「排気ダクトをエンジン上方
の位置に設計変更させて」取り敢えず工事を完結させる。

これこそが、一品工事の技能者が体験して来た設計変更であり「設計変更は設計者に
とっては不名誉なものであり、ネガティブなものであった」と云える。

これに対して、航空エンジンの場合は、空中で飛行する物体であり、人命の生き死に
を背負っている製品なので、設計内容に危機的な状況がある時には勿論、飛行状態が
より良い状況になるなら、俊敏に設計変更を適用して行く。

この重要な「パラダイム・シフト」を腹に落として、全員の「意識改革」をして行く
には、相当の時間がかかる。しかし、幸いにも転機が訪れることになる。

純国産ジェットエンジンと並行して量産体制を構築することになったライセンス生産
において、意識改革せざるを得ない事態に、企業体としても経営者としても技術者と
しても技能者としても、緊急事態に遭遇したのである。

具体的な話をすれば、日本政府とアメリカの企業で契約を結び、我が社でライセンス
生産をすることになっていたエンジンについて、当初、受領していた図面と、実際に
ライセンス生産を始める直前に受領した図面とに大幅な相違があり、それは設計変更
によるものであることが判明した。

この背景には、当初「日本政府としては、既に、開発も済み、航空エンジンとしては
完成度も高く技術的な変更はないもの」と考えていたのであるが・・・

「これは、日本的な考え方であった」。

実際的には・・・

「航空エンジンの場合は、常に、技術的な改善を図って、その性能や機能を向上させ
て行くものであるというところの欧米を主体とした世界の常識」が、航空業界におい
ては、常識(当たり前の考え方)であることが伝わっていなかった。

日本政府においても、このパラダイム・シフトを経ることで、日本国内の航空業界に
おいて「設計から製造につながる設計変更の考え方」は激変して行った。

ここにこそ・・・

今井兼一郎氏の云うところの「なにごとも、設計に始まり、設計に終わる」の考え方
に帰結するのであるが、当時の新人の私には設計図を描くのが精いっぱいでそこまで
の思いは到らず、そのことに、気付くまでには、製造現場での技能者との幾多のやり
取りを経てから頭で理解し、心で受け止め、腹に落ちたのであった。



010 百寿テニスと百寿バドミントン

新年のテニスの初打ちは、バドミントンの二回の練習を経てから行ったためか?
寒さの中で「身体も良く動き」「頭も良く働いた」。

そして、テニスの練習をしながら「徒然草の第九十二段」の記述を思い出した。

【徒然草 第九十二段】 島内裕子教授の訳から抜粋

 訳 ある人が、弓を射ることを習う時に、二本の矢を手に持って、的に向かった。
すると師匠が言うには、「初心者は、二本の矢を持ってはならない、後の矢をあて
にして、最初の矢を射る時に、いい加減な気持ちが出てしまうからである。

毎回、絶対に失敗のないよう最初の矢で必ず的を射なければならないと思いなさい」
と言った。師匠の前で、たった二本の矢のうちの一本を、おろそかにしようと思う
人はいないだろう。

けれども、弛む心を本人は気づかずとも、師匠は気付いているのである。

この教えは、すべてに通じると言ってよい。

道を修行しようとする人は、夕方には翌朝があることを思い、翌朝になると、今度は
夕方があることを思って、後でよく修行して身に付ければよいと、ついつい先延ばし
にしがちである。

ましてや、一瞬の間にも弛み怠る心が、自分にあるということが、わかろうか。

本当に、「ただ今の一念」、つまり、この一瞬のうちに、しなければならないことを、
すぐさま実行することが、何と困難なことであろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私は世間一般に云われている「後期高齢期」という堅い言葉に違和感を感じて自分流
にゴールデンエイジという表現を発想して「ゴールデンエイジの物語」という小説を
ファンタジー作品として書き綴って来た。

また、この記述の中でも前述の徒然草の第九十二段をテニスにおいてサーブを打つ時
の基本姿勢として「精神論における取り組み方」として考えてきた。

しかし、最近になってバドミントン練習に本格的に取り組むようになってきて・・・

「バドミントンでは、サービスを打つ時に、手に持ったシャトルを打つことが出来る
のは、一回のみであって、セカンドサービスは存在しない」

そこで考えてみた・・・

「我々、テニス同好会の仲間もテニス技術と云う面で観たときに中上級のレベルから
上級のレベルに入って来たのではないか?」

そうであれば・・・

「今までは、練習ボールを原則『二球』手にしていたが、これからは『一球』のみで
良いのではないか?」

「サーブの場合も、唯一ファーストサービスのみとして、セカンドサービスは廃止と
しても良いのではないか?」と考えた。

たしかに・・・

「仮に、バドミントンの場合においてセカンドサービスがある安心感からファースト
サービスを思い切り相手コートに叩き込んだ場合に、相手との距離が近いので、試合
はサービスのみで決まってしまうことになる」

「テニスの場合については、レシーバーとしての受け手までに距離があるので強烈な
サーブであっても、受け手によっては、リターンエースとして打ち返す醍醐味は残さ
れてはいるが、我々のローカルテニスにおいては、ほとんどの場合ダブルスゲームが
主体であり、サービスエースによって勝負が決することは少ない」と云える。

それらを総合的に判断して・・・

「今年は、新年の初打ちから、サーブは『ファーストサービス』のみとしてセカンド
サービスを廃止して、テニスゲームを行ってみた」

結果、喜寿(七十七歳)にして、新たな発見の喜びがあった・・・

「テニスのゲーム展開が、およそ30%も、スピードアップした」

冬季練習の場合に、このゲーム時間の短縮はありがたい。我々のテニス練習は屋外で
行なっており、プレー中の仲間は熱くなって戦っているが、ゲーム終了を待つことに
なる仲間は寒い。したがって、交替時間が早まれば「全員がハッピー」である。

実際に、トライしてみて分かったことは・・・

「テニスにおいては、ゲーム中にファーストサービスで冒険をして強打、この場合に
失敗するケースが多く、セカンドサービスで慎重に決めて行くことになる」。

「したがって、この場合に、ファーストサービスで打ち損じたボールを誰かが拾いに
行くと云うことにより、ムダな時間が発生することになり当然のこととして、ゲーム
時間は長引くことになる」

そこで、今回の試打による「結論」としては・・・

「他所のテニス同好会における練習では、従来通り、ファーストもセカンドサービス
も打っていただくとして、我々のテニス練習会においては、当面、サーブは一球のみ
として継続してみる」ことで暫定的に決めてみた。

帰宅後は、テニス同好会としての「会計報告」を電子メールで送信した。

◇平成30年末も、発足以来、年会費三千円にて、六年間「黒字」を続けている。
そして、31年末も試算の結果「黒字」になる見通しを発信した。

実際、テニススクールに通うとなると、月額にて約一万円は必要となるので・・・

我々の同好会の会費を月額換算すれば「300円以下」であり、互いにボランテア
コーチと云う認識さえ持つことが出来れば継続は当然と云う結論になるのである。

我々のテニス同好会は、略称「L&L」で入間市運動公園の窓口には登録してある。

フルネームは「Low stress & Long life Tennis club」であり、そのこころは・・・

◇ゆっくりと打ち合い、お互いにストレスをかけない打ち方で、相手の打ちやすい処
にボールを送って、テニスをこころから楽しみ、生かされて「長寿的」にテニス人生
を楽しんで行こうというモットーに沿って、毎週「月曜日」に練習を繰り返している
テニス同好会である。

◇この同好会を最初に発足させた狙いは、毎週「木曜日」に狭山のブレント・ウッド
テニスクラブのテニススクールで定期的に、当時、海老名コーチから独特のゆっくり
と打ち合う方式のテニスを教えていただいて、せっかく習ったことを忘れないように
という主旨で、月曜日に、受講生の有志が集まり「おさらい練習」として、繰り返し
練習的にトレーニングを行っていたものである。

◇しかしながら、3年前に、ブレント・ウッドの経営者が老齢化のためテニスクラブ
を廃業することになって、海老名コーチの考え方と意思を汲んだ「L&L」の同好会
だけが残ることになったのである。

海老名コーチの独特の理論は、テニスにしても・野球にしても、球技のスポーツでは
「ゆっくりとボールを見極めて・ゆっくりと打って行く・練習法が上達につながる」
と云う理論(メソッド)であり我々も実践を通じて共鳴したと云う経緯がある。

海老名コーチとは、かつて、次のような会話を交わしたことがある・・・

コーチ「テニスの大会などにおいても、ゆっくりとしたペースで戦い抜いて行くこと
で、決勝まで体力を温存したまま、勝ち上がって行くことが出来、怪我も少ない」と
云えます。

わたし「たしかに航空機の世界においてもファイター(戦闘機)はジェットエンジン
を500時間くらいでオーバーホールすることになりますが、旅客機の場合は百%の
パワーで飛行することはなく、定格の70%~80%くらいの出力で飛行しますから
オーバホールまでに、目安として5000時間くらいは飛行可能です」

コーチ「われわれテニスプレーヤーも、プロ選手は別格として、都市レベルの大会で
あれば百%の全力を出し切って戦うことは少なく、たまに、全力を出し切って戦う人
も居るにはいますが、だいたい、途中の三回戦あたりで脱落しています」

わたし「願わくば、自分が持っている力の75%くらいの出力で、決勝まで進める力
を日頃から蓄える練習が必要ということですね」

コーチ「全力でボールをぶつけてくるテニスプレーヤーへの対処法は簡単です。これ
も、今度、練習メニューに組み込んでおくことにしましょう。私は、ゆっくりと打ち
合うテニスで百歳までテニスを続けて行く考えです」

そのような経験を経ているので、我々は、ブレント・ウッド・テニス・クラブが閉店
となった、今でも、毎週「月曜日」になると、海老名コーチを見習って「百寿テニス」
を目指して、練習を続けているという次第である。

私は、この頃、時々「百寿テニス」をイメージしてみるのであるが、百歳まで生きる
ことが許されるなら・・・

◇生かされて「百歳の誕生日」に入間市運動公園のテニスコートをインターネットで
お借りして、テニスシューズを履き、テニスラケットとテニスボールを手にして自分
でボール出しをして家族に囲まれ写真に納まることは出来そうな気もしている。

◇当面、日々、俳句を趣味とする京都在住のハンドルネーム「シェフさん」が96歳
になられて、現在でも犬の散歩を日々欠かさず励行されており、百歳になられた時に
体力などの状況を教えていただいて判断の目安にさせていただこうと考えている。

そして、なによりも、私が入社した時の大恩人「今井兼一郎氏」の最近の略歴を拝見
させていただいて「百寿テニス」にますますの期待感を抱くに到っている。

【今井兼一郎氏の略歴】

(技術開発と品質工学の変遷と題したロングインタビュー記事から抜粋)

1917年生まれ、1941年東京大学工学部機械工学科卒業後、中島飛行機に入社。
同年9月から、1943年9月まで、海軍造兵中尉として横須賀海軍砲術学校を経て、
長崎県大村の第21海軍技術航空廠に所属。終戦間際には日本初のジェットエンジン
「ネー20」の試作にも関わる。戦後は、石川島重工業(現在のIHI)に入社して、
ガスタービンや各種発動機関係の開発を手掛ける。

退職後は、日本大学教授、日本機械学会会長、品質管理学会会長、日本学術会議会員
などの要職を努め、2016年4月で99歳を迎える。本会名誉会員。

略歴の中に、ガスタービンとあるのは、もちろん私が新入社員の時にご指導いただい
た航空機用ジェットエンジンのことであり、略歴からも明らかなように、技術開発と
品質工学にあっては、神様のような存在感の方と、若年において貴重なお話しをお聞
き出来る機会が持てたと云うことは、今、考えても望外のことであったと云える。

そのような存在感抜群の今井兼一郎氏が2018年4月の時点で101歳の百寿越え
を達成されているということは、人生の可能性として、航空用ジェットエンジンから
人間としての生き様にヒントを得た私としては「百寿テニス」の可能性として・・・

その素晴らしい生き方のご縁にあやかりたいものであると考えている昨今である。

・・・・・・・・・・・・・

テニスの初打ちの後の週末のバドミントン練習会において私は「百寿バドミントン」
の可能性を秘めた人々の存在に気付くことになる。

バドミントン練習の間の休憩時間になって、話題が「スキー」の技術論に及んだ。

私と同年代の「喜寿」世代の会話である・・・

彼ら・彼女らは、現役のスキーヤーである。したがって、彼ら彼女らの話題は現在の
スキーヤーとしての活躍話、こちらで合わせて行く話は20歳代でジェットエンジン
の図面を描いていた頃のクラシカルなスキーの話題が精一杯ということになる。

◇私たちのスキーは、その長さは、手を上まで伸ばし切ったところに先端があった。

◇現在のスキーは、はるかに短く、方向転換も容易だと云う。

私と、同年齢の女性は、今でも、ジュニアを7、8名引き連れてスキー場にでかけて
行って、スキーを教えているのだと云う。しかも、今のスキーは方向転換が容易なの
でジュニアと向き合うようにして、逆ボーゲンの形で対面しながら、誘導するのだと
いうから驚嘆に値する。

私と、同年代の男性も、家族と連れ立ってスキーに出掛け、同様に、若者と遜色なく
スキーを楽しんでいると云うのだから、これも、また凄いことである。

このことから、彼ら・彼女たちは「百寿バドミントン」も、可能だと推測する。

私のスキーに関する話題は、青春の思い出を手繰るよりないが、百寿バドミントンに
ついては、彼ら・彼女たちと共にチャレンジしてみたいものだと最近になって新たな
目標に加えている。

私も、彼ら・彼女たちと「蔵王や志賀高原で滑ったことのあるスキーの思い出」など
を話しながら、当時の青春の思い出に記憶を走らせて話を合わせながら、当時の設計
の職場での先輩達のことを思い出していた。

当時の設計の職場には、かつて、大回転の選手であった女性などを中心に、プロ並み
のスキーヤーが勢揃いしていて冬季のシーズンになると観光バスを借り切って出掛け
ていたが、我々新人には、遥かに遠いお山の上の話題であった。

我々の新入社員の時代は、労働運動が盛んで、労使関係も緊迫していた時期でもあり
ベースアップのためのストライキ(業務放棄)なども頻繁に行われていて、職場には
まだ組合員でない新入社員と管理職だけが出勤、そのような背景もあって管理職から
の的確にして直接的な業務指導などにも、恵まれたのかもしれない。

そのような社会情勢の中で、新入社員が、左翼系の労働運動に引き込まれないように
という配慮から、社内にはリクリエーションを健全な方向に導いて行くために、レク
リーダーなどのメンバーも選出され、業務外の面でも的確なガイダンスがあった。

その後、週休二日制が導入された時には、この時の経験が役立って・・・

気の合う仲間が集まって、週休二日を「半分は勉強・半分はレジャー」を目安にして
時間配分することで、遊びの計画なども決まりやすかった。

しかしながら、設計部門に配属されたばかりの新入社員にとっては、目の前の期限の
迫った設計図を描くことで頭の中は満杯でありジェットエンジンは航空機に搭載して
飛行することで完成形となることから、機体などに関する技術的な知識や知見なども
修得しておく必要があり、週休二日制といえども丸っきり遊んでばかりもいられない
ので「半分は勉強・半分はレジャー」という配分は、今になって考えても的確な判断
であったと考える。

設計に配属された・新人・5名の内の2名は東京都内からの自宅通勤であったが、他
の3名は、会社の寮からの通勤であった。

航空宇宙分野における新人は、全体的には50名が配属となり、杉並区の永福町の寮
には関東地域から東北・北海道の出身者が入寮、阿佐ヶ谷の寮には九州地区から西日
本にかけての新人が入寮した。

私は、群馬県の出身なの永福町の寮に入り、新入社員として、入社したばかりの時期
には永福町から豊洲地区まで都内の満員バスに押し込まれて通った。バス内の混みよ
うは凄まじく、バスを降りた時にネクタイピンが無かったこともあった。

航空宇宙分野に配属になってからは、永福町から井の頭線に乗って吉祥寺駅まで行き
吉祥寺駅から事業所までは専用バスで通った。専用バスは朝の一本のみなので朝寝坊
は出来ない。

いつだったか? 

電車が遅れてバスの発車までに時間ギリギリとなって「遅れてなるものか」と吉祥寺
駅の階段の最上段から、約20メートルはあると思われる階段を手摺を唯一の頼りに
して、一気に、飛び降りたことがある。

バスの発車には間に合ったが、通勤靴の踵が外れ落ちてしまって一足ダメにした。

今になって考えてみても「よく怪我をしなかったものだ」と思い出すことがある。

会社からの帰途は、路線バスを利用できるので、吉祥寺駅だけでなく武蔵境駅に出る
こともでき交通に不便は感じなかった。通勤の沿線沿いとして吉祥寺駅周辺は魅力的
な街であった。

休日などは、永福町から吉祥寺駅まで出れば、井の頭公園で散策なども出来、園内で
友人とバドミントンなどに興じることも出来た。

しかし、まだテニス競技への萌芽はなく、硬式テニスに到るまでには、スケート競技
からスキー競技への興味を経て、スキー競技に向けて足腰を鍛えるための基礎競技と
しての軟式テニス、さらには瑞穂事業所の滑走路脇の強風ゆえの硬式テニスへの転換
までには幾多の期間を経てからの到達となるのである。

そして、純国産ジェットエンジンの量産設計の全出図が完了するまでは、脳内に常に
図面情報が溢れていて、レジャーなどに気持ちをもってゆく余裕は全くなかった。


011 コミュニケーションの問題は多種多様

地元のバドミントン同好会も、活況を呈してきて、定員の16名満杯となった。

直近の入会者は、昨年の同好会の解散騒ぎに嫌気がさして辞めた女性で同好会の順調
な回復を見届けての再入会だと云う。

同好会は出席率も高く、バドミントンコートにはメンバーが溢れるようになってきた。
ダブルス戦における基礎練習となると、コートが二面あっても八名きり入れないので、
七・八名はコートの外で待機することになる。

私も練習に参加していて感じたことは・・・

控えの練習メンバーがコートに入る時のローテーションが円滑ではなく、進行役から
の指示待ちの様な状態となり、皆さん「なんだか訳が分からない」状況で、コートに
入ったり、または、コートから出たりしている。

私自身は、テニス・スクールに十年近く通い、自分でも地元のテニス同好会の進行役
を担当しているので、このようなケースではコートの二面を四分割して参加メンバー
も四分割、それぞれのコート内で、2~4回のメンバー交替を行い練習をパッケージ
化して完結させ「満足感を得た」上で、その後に、全体的なローテーションをすれば
上手く行くのだが、現地で、そのことを云い出したら混乱すると考えた。

そこで帰宅してから、簡単な解説文を書いて進行役に提案する形でメールを送信した
ところ、昨年のバドミントン同好会の解散劇は、前会長からの一通のメールの発信が
原因で混乱が生じ、以来、メールでの情報交換には恐怖感がある旨の回答が届いた。

そのような事情を知らなかった、私は、即、お詫びのメールを送信して問題が拡散する
ことを防いだが・・・

◇我々のテニス同好会の場合は、ほとんどのことは、メールの交換による相談で物事を
決めてきており、顔を合わせての相談事は、年間を通しても数件もない。

◇家内が参加しているフラダンスのチームの場合などは、スマートフォンのLINEを
グループ登録して、メンバー間でいっせいに連絡し合ってチーム運営している。

一方で、練習をする現地で相談して決めて行くと云う考え方もあるが練習方法をはじめ
としてローテーションの方法論は無数にあり、世話人や進行役が中心になって決定する
という方法をとらないと議論百出で練習時間を減らすだけのことになる恐れもある。

要は、現代は、通信事情もコミュニケーションの方法も多種多様であり・・・

◇その集団の置かれている状況が「多数派的にはどのような通信事情にあるのか?」

◇しかも、それは「どのような通信機器をそれぞれに所有しているのか?」ではなく
て、それぞれが「どの程度、操作に習熟しているか?」ということになってくる。

◇そして「多くを占める存在感はどこにあるのか?」「ガラ携?」「スマホ?」それ
とも「パソコン?」「自宅電話?」「ファクシミリ?」その見極めは難しい。

◇そして、その場合に、少数派をどのように救って行くのか?

◇これは年代層で決まるものでもなく、本人を取り囲む家族構成に、どれかに詳しい
存在があれば、その影響も大きいと云える。

地元のバドミントン同好会が、たった一通のメールの発信に起因して解散劇に発展し
たという話を聞くに及んで、ただただ驚くばかりである。

真相として、根底で「心が通っていなかった」のだろうか?

・・・・・・・・・・・・・・・

たしかに五十年間を越える社会人としての生活を振り返って考えてみた時に・・・

今や大昔の言葉となった感のある「以心伝心」などは、まだ生きた言葉だろうか?

【以心伝心】 国語辞典から抜粋

言葉によらずに、互いの心から心に伝えること。言葉では説明できない深遠・微妙な
事柄を相手の心に伝えてわからせること。

【以心伝心】 広辞苑から抜粋

①禅家で、言語では表されない真理を師から弟子の心に伝えること。
②思うことが言葉によらず、互いの心から心に伝わること。

ここで「以心伝心」について、私が生涯学習を通じて、いまだに人生における生き様
としてたいせつにしている出来事を紹介することにする。

私が、管理工学のエンジニアとして、社外の方々と技術交流をしていた頃の話である。
(今から四十一年前のことになる)

当時「第12回IE海外研究視察団」が編成されて海外出張、日本インダストリアル・
エンジニアリング協会主催で、1977年1月に報告会が開催された。

その時に、TA(Transactional Analysis):交流分析と題した報告がなされた。

内容は、日本人(広くは禅を軸とした東洋人)の心の中にある「以心伝心」という心
の働きを、欧米の学者が「ハート研究」として分析、精神療法や企業活動に応用する
ことを考えたもので、当時、画期的な研究として伝えられた。

私にとっては、以来、今日に到っても生涯学習的に役立っている。

それでは、TA(交流分析)について体系的に説明することにしよう。

【まえがき】

企業などにおいて業績の向上を図って行くためには、企業や集団内の人材のベクトル
言い換えれば方向性を如何に合わせて行くか、そして、それぞれの能力を如何に効果
的に引き出して行くか、その鍵を握っているのは管理者でありマネジャである。

そのための手法(技法)の一つとして、近年、TA(交流分析)が注目され、管理面
や販売面、接客面において、精神療法的な面からの効用も注目され、その効果の大き
さからも組織的に採用する企業が広がってきている。

【企業が組織的にTA(交流分析)を採用する背景】

◇ハート教育の重視

欧米における企業内教育は、従来、技能や知識を中心として行い、ハート問題は個人
または家庭内の問題として片付けていた。

しかし、人間のミスの要因も、統計的な一例として・・・
 
 〇技量不足によるもの   4件
 〇知識不足によるもの   6件
 〇心に起因するもの   12件

・・・などの報告もあり「心に起因するもの」が、圧倒的に多いという事例も示され
ている。

このことからの反省として、技術偏重の教育が見直されて・・・

企業としてのハート教育の重要性が大いに認識されることとなり「TA(交流分析)」
が一つの手法(技法)として注目されることに到った。

◇自主的に仕事が出来る人間性の必要性

近代的な産業では、機械化や自動化の進展に伴い、ルール通り・機械的に仕事を
こなす人間よりも広範囲な業務や多様な変化にも上手く対応して、手際よく処理
出来たり、上手く仕事をこなして行ける人間が求められるようになってきた。

このような状況の中では、自分がもっている知識と力量で自主的に仕事が出来る
ばかりでなく・・・

 〇物事に対して自分の意識を積極的にぶつけて行ける。
 〇素直に・自発的に仕事に向かって行ける。
 〇相手方と応接するときに、親しみをもって、誠心誠意の対応が出来る。

などが求められるようになり、このような人間育成法として「TA(交流分析)」
が注目されることになった。

【TA(交流分析)における人間性に着目】

この手法(技法)では、自分のもっている人間性を、次の三つに分類することにより
「自分の姿を丸裸」にする。

◇P : Parent (両親的な要素)
 自分が幼児期に、両親を通じて得ることの出来た社会的な体験であり、時に批判的
 であったり、偏見的であったり、保護的であったりするもの。

◇A : Adult  (成人的な要素)
 現実のデータを直視して、データを収集、現実的な眼で分析して意思決定して行く
 理性的な態度。

◇C : Children (子供的な要素)
 子供の頃の名残で、当時の体験が瞬間的によみがえり、感情を支配する素直と云え
 ば「素直」「無邪気」「我がままな」態度。

【実際の交流分析における自分発見】

自分の人間性を発見するには、あるがままの姿で「人間 対 人間」の関係を持って
日常的な実際場面において、実際の会話を交わして、二人の関係を類型化して、自分
の会話を三つの要素である「P・A・C」に分析してみる。

これは、お互いの関係の「良し・悪し」を分析するというよりも、自分発見の糸口を
探すキッカケにする方が、自分自身には役立つと考える。

当時のガイダンスでは、お互いに「A(成人的) 対 A(成人的)」な会話となる
ような訓練を勧めているが、現時点で考えてみるに、必ずしも「A 対 A」の関係
が理想的とも断言できないので、自分の会話をA(成人的)なものにしたら、相手先
が、どのような変化を兆すかを考えてみたほうが有効的かもしれない。

【人生の脚本分析(Script Analysis)】

後年、私にとって、最も役立っているのは、この「人生の脚本分析」であり・・・

「自分の人生の・主人公は・自分である」と云う確固たる信念が自分の人生を楽しく
してくれるという考え方は「大いに自分を後押ししてくれる」と考える。

交流分析では、主人公である自分と相手先には、次のような「四通りの関係」があり
それを決めるのは、自分からの働きかけに、ポイントがあるとしている。

◇I am OK , You are OK.

◇I am OK , You are Not OK.

◇I am Not OK , You are OK.

◇I am Not OK , You are Not OK.

この関係性において、最も望ましいのは「I am OK , You are OK.」の間柄であり、
この状態は、お互いに「信頼関係」が成り立っていると云える。

最も、最悪な関係性は「I am Not OK , You are Not OK.」の間柄であり、この状態
に陥ると、もはや、お互いの信頼関係の修復や回復は困難と考えられている。

しかし、この最悪な状態には、一気に突き進む訳ではなく・・・

◇初めの兆しとして、何らかの事情で、相手先が自分に対して不信感を抱いた時に
「I am OK , You are Not OK.」の状態に到り、こちらが、その状況に気付くことに
よって打開策を講じていれば、状況が深刻な事態に陥る前に手が打てる。

◇そして、両者の間の交流を会話などに代表される「ストローク」という言葉で表現を
すれば、相手先が「You are Not OK.」の場合に「ノー・ストローク」の状態が続くと、
最も危機的な状況に陥って行くと云われている。即ち、この状態のまま放置した時には
やがて時間を経て最悪の「I am Not OK , You are Not OK.」の状況に進みかねない。

◇救いようがあるのは「I am OK , You are Not OK.」の状態において、相手先が反抗的
な態度や反発を示してきた時に、自分に「寛容のキャパシティー」があれば、この状態
を「I am OK , You are OK.」に戻すことは可能であると云われている。

◇したがって、相手先が反抗的な態度や反発を示しているときは、まだ「黄色の信号」
であり救いようがあると云える。

◇相手先が、自分の殻に閉じこもってしまう性格のときには、日頃から相手先の性格
を見抜いて次のような徹底した「I am OK , You are OK.」の関係を継続させる工夫が
必要であり、この方法はあらゆる場面で共有が可能な方法でもある。


【 I am OK , You are OK. の関係を持続させるマネジメント】

人間と人間の交流や人間とペット(犬や猫)の交流には三種類のストローク(Stroke)
がある(ここで筆者の経験からペットを取り挙げたのには重要な意味がある)。

◇Positive Stroke・・・・・・・ほめる
◇Negative Stroke・・・・・・・しかる
◇No Stroke・・・・・・・何もしない

人間は、他人から(例えば上司から)言葉や身体的な動作を伴った態度などによって
「自分や自分の行為」が認められたと感じたときに、それを「Positive Stroke」と
して受け止める。

これは、後日談であるが、ペット(犬や猫)の場合も同様に「Positive Stroke」に
ついては、同様の受け止め方をする。

一方で、人間の場合に、上司などから「何もかまってもらえない」No Strokeな状況
に置かれたときに、たとえ、叱られるであろうリスクを冒してでも、そのほうがまだ
ましとして、問題行動を起こして Negative Stroke 起こすことがある。

そして、これを放っておけば、やがて、最悪の「I am Not OK , You are Not OK.」に
進行して行く可能性を帯びて来ることになる。

私が、管理工学のエンジニアとして、異業種による実践交流会に参加させていただい
ているときに、次のような「好事例」をお聞きしたことがある・・・

「その方は、ガラス機器のメーカーの部長さんで、約50名の構成メンバーに向けて
職種を問わず、『必ず・一日に・一回は会話を交わすこと』を目標にして月間計画を
建てているのだ」と云う。

実際には、出張などで、この願いが叶わないこともあるとは思うが・・・

「I am OK , You are OK.」の状態が継続しやすい状況にあることは確かである。

私が、新入社員として、設計職場に配属になった時も・・・

直属の上司が出張などで不在の時に、必ず新人の設計机の脇に訪れた設計部長の姿勢
も日頃は直接的な接触がなくても「I am OK , You are OK.」の状態が保たれる要因に
なったことには疑いの余地はない。

しかし、ガラス機器のメーカーの部長さんのように、余程の覚悟がなければ、日々に
必ず一回の会話を持つことは難しい。しからば、どうするか?

それは「Negative Stroke」にこそ、精魂を込めて取り組む必要があると云える。

かつて、経団連会長として日本再生のために、あらゆる階層に向けて「叱った」こと
のある土光敏夫氏は「叱る(しかる)」ことと「怒る(おこる)」ことは、根本的に
異なることであるとして明言された。

◇「叱る(しかる)」と云う行為には、相手先が行動や行為などを正すためのヒント
や示唆が込められた言葉などが添えられており、相手先への冷静な観察や判断力など
に基づいており、時には、相手先が呑み込める大きさに噛み砕かれている。

◇「怒る(おこる)」と云う行為は、自分の抑えきれない感情などを噛み砕くことも
なくぶつけて行くので、相手先は、怒りの丸ごとを呑み込むことも出来ず、ただただ
怯えるのみで、身を処する術を考え付くことも出来ない場合が多い。

そして、これには、後日談も加わることになるが・・・

◇ペット(犬や猫)を叱るときには「現行犯逮捕的」に、その場で叱らないと効果は
薄く、後で叱っても「なんで叱られているのか?」真意は伝わりにくい。これについ
ては「ほめる」時も同様で、その時に「ほめる」と良い躾につながる。

◇これに対して、人間の場合には、現地では「事実の共有」のみに留めておき、後日
「叱る(しかる)」という段取りの取り方が有効策のようである。

これは、余談にもなるが・・・

ある奥さんが、酔っぱらって帰宅した旦那さんに「どうも、いつもとは様子が違う」
と感じたものの「お帰りなさい」と気持ちよく迎えて風呂場に送り込み翌日になって
くつろいでいる時間帯に「昨夜はどうしたの。同僚の方からも電話があったわよ」と
切り出して、すべてを白日の下に晒し「大反省」の旨を告白させる。

この場合は、奥さんのほうが二枚も三枚も上手な事情もあるが、下手な言い訳を準備
して帰宅した旦那と不毛の会話を重ねるよりも、翌日のほうが冷静な会話も可能とな
り、その後のハンディー付きの「I am OK , You are OK.」の関係につながる。

ここで、本論に戻れば・・・

問題が起こった現場よりも、後日、お互いが冷静な状態において「Negative Stroke」
としての「叱る(しかる)」行為を持ったほうが、「I am OK , You are OK.」の状態に
戻しやすいと考える。

そして、これは、前述のような・・・

上司などから「何もかまってもらえない」No Strokeな状況に置かれたときに、たとえ、
叱られるであろうリスクを冒してでも、そのほうがまだましとして問題行動を起こして
結果「Negative Stroke」となる場合についても時間を置いた対応は有効と考える。

俳聖「小林一茶」の俳句に、次のような作句があることが「禅の人間学」松原泰道著に
紹介されていた。

「叱らるる人うらやましとしの暮れ」 一茶

一茶は三十九歳で父親と死別しているが、一茶の父は、臨終の病床で「ナシが食べたい」
と言った。この時、一茶は約30キロを梨を求めて走ったものの、四月末のことゆえに、
今とは違って時季外れの梨を入手することは出来なかった。

一茶が、父の最期の望みを叶えてやれなかったことを「どんなにか、悔いていたかが」
この俳句からも、うかがい知ることが出来ると云える。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

しかしながら「この東洋の心を汲んだ」TA(Transactional Analysis):交流分析も、
人間同士のお互いの「ありのままの姿」を尊重した導入時は、心に沁み込んでくる様
な手応えが手伝って好評であったが、

やがて、TA(Transactional Analysis):交流分析の多角的な導入によって・・・

「人間のもって生まれた尊厳ともいえる人格を変えることが出来るのではないか?」
という考え方をもったコンサルタント集団が出現するにあたって、企業内に混乱を
生じさせた企業が出て来るにあたって、その風当たりが本来のTA(交流分析)の
もてる魅力を吹き消してしまった。

しかし、私は、今でも「TA(Transactional Analysis):交流分析」のもつ本来的な
魅力を「火だまり」として保持しており、時々、取り出しては活用している。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一方で仏教の世界において「四苦八苦」という言葉がある。辞書を引くと難しい漢字
が並んでいて、理解が難しいが、この言葉を人間世界におけるコミュニケーションに
当て嵌めて、ある高名な禅師がわかりやすい言葉で解説されたことがある・・・

「人間世界においては小さな集団に参加させていただいて活動することがあります」。

「この時に『四苦八苦』と云う言葉を当て嵌めて、コミュニケーションの問題を考え
ると、気持ちが軽くなることがありります」

「すなわち小さな集団に人間が四人集まれば、一人くらいは気の合わない仲間が居る
ものです。これが八人ともなれば、二人くらいは、この人たち『嫌いだな~』と思う
メンバーが居るものです」

「だからといって、他のグループや集団に移っても、そこにも一人や二人は気の合わ
ない仲間は居るものです」

仏教の世界には「諦観」といって、「あきらめてながめること」を勧める教えがあり
禅僧などにとっては、それが「さとりの境地」に到達する場合も、あるようですが、

我々の境地においても案外「あきらめて、やり過ごすこと」も、グループ内にあって、
ギリギリ「I am OK , You are OK.」の多数派を維持して行くための「生活の知恵」に
つながる可能性には期待がもてるのかも? しれませんね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

また、直近の話題を併記すれば・・・

放送大学の授業において「コミュニケーション論序説」大橋理恵・根橋玲子著を端緒
に数回にわたって授業を受けて国際的なレベルにおける「コミュニケーション論」を
学ぶ機会を得た。

この内容は、いずれ機会をみて紹介するが、面白かったのは、この授業の最終場面に
おいて「自分自身のコミュニケーションにおける:自己診断」が行なわれた。

結果、私の場合は・・・

「伝えたいことや言いたいことがある時にはハッキリとした言葉で伝える必要がある。
あなたには、その努力が不足している傾向がみられる」と出た。

定年を機に「論点」を絞り込んで意見を交わすような機会もなくなり、特に際立った
主張を述べる必要もなくなると、余程のことがない限り、しゃしゃり出てもの申す事
もない日常生活を繰り返していると、前述のような自己診断結果が出るのかも知れな
いと考えて、以降は、少しは「考えていることを言葉にして伝える」努力を始めては
いる。

そこで、前述のようなメールの発信に到った・・・

バドミントン練習において、帰宅してから「気付いたこと」を、簡単な解説文を書いて、
進行役に提案する形でメールを送信したところ、昨年のバドミントン同好会の解散劇は
前会長からの一通のメールの発信が原因で論争が勃発、以来、メールでの情報交換には
恐怖感がある旨の回答が届いた。

そのような事情を知らなかった、私は、即、お詫びのメールを送信して問題が拡散する
ことを防いだのだが・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今年になって「四回目のバドミントン練習会」は、このような経過のあった直後のこと
であったので、若干、気にはかけながら顔を出すと・・・

「佐久間さん、あのメールで提案されていた『ローテーション』の方法を後でダブルス
練習するときに、みんなに紹介して下さい」ということになり、基礎練習の後で、その
機会が訪れて詳しく説明した。

みなさんからの反応は・・・

「先ずは、提案のあったチーム編成をして、実際に練習を行い、その過程で提案された
ローテーションにも取り組んでみましょう」と云うことになって・・・

◇結果は「楽しかったわ!」という声も聞かれ、
◇話のオチは「善い人に入会していただいたわ!」と、出来過ぎのハッピーエンドまで
行き着いた(目出度し・めでたし)。

どうやら・・・

「伝えたいことや言いたいことがある時にはハッキリとした言葉で伝える必要がある。
あなたには、その努力が不足している傾向がみられる」

この自己診断を参考にした行動には、さっそく効能が発揮されたようである。

そして、思い出した・・・

定年で退職する前の約三年間は、設計・技術部門と製造部門を繋ぐデータセンターの
任務に就き、三つの事業所を兼務する勤務形態となり「データーセンターの近代化」
と日々業務を並走させる形で定年の日まで休暇も取らずに駆け回っていたが・・・

あの時も、各事業所の主任やメンバーに、電子メールなどを活用して「提案内容」を
事前に案内しておき、お互いの顔を見て言葉だけでなくボディーランゲージにも気を
配って、現地で「即断即決!」していたことを。

あの時の経験は、定年後の地域活動においても生かせるものだと思わず「独り頷いた」
次第である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

新入社員として純国産ジェットエンジンの量産用の図面を描いている時にも・・・

チームで活動していたが、最後の図面が出図された時には、全員が立ち上がって拍手
をしたが、あの場面でも以降は、設計部門と製造部門および生産技術部門の間で量産
体制に向けた本格的な「コミュニケーション」の幕が開くのであった。

それは、大形の製図版に向かって、ひたすら図面を描いている様相とは大違いの仕事
が待ち受けているのであった。

まさに、それは「全ては・設計に始まり・設計に終わる(帰結する)」と云われた
設計部長の今井兼一郎氏の言葉通りの臨戦体制のスタートであった。


012 設計図面は生き物・そして・オータムショック

純国産ジェットエンジンの設計図が出揃うと、エンジン完成に向けて全部品が生き物
のように動き出す。

そもそも、ジェットエンジンは、構造的にエンジンそのものが生き物のような存在で
あり、実際に試運転などが始まると、生き物のように唸り声をあげて、エンジン後部
からは火炎を噴出、その威圧的な存在感を示すことになる。

後は、エンジンを機体に装着すれば、大きな飛鳥のように、大空に向かって飛びたつ。

我が国初の「純国産ジェットエンジン」は、構造が極めてシンプルであり、かつ頑丈
に出来ており、顧客サイドにおける整備や維持・管理の優秀性もあって・・・

「退役まで総生産台数247基において事故を起こしていない」

構造的には、空気を吸い込んで圧縮する「圧縮機」の部分は、軸流式のストレートな
構造で、流入した圧縮空気に燃料を噴射させて燃焼ガスを噴出させる「燃焼器」につ
いても直流構造、この噴出エネルギを回転力に変えて、前方の圧縮機に回転力を与え
る「高熱タービン」も直列の配列であり、燃焼ガスの排出も後方にストレートに排出
する構造になっている。

純国産ジェットエンジンをまとめあげた天才的な技術集団は、極めて明快にエンジン
の構造をシンプル化させたと云える。

したがって、ジェットエンジンの理論書に述べられているように、一度、エンジンが
始動すれば燃料を供給する限り機体は飛び続けることが出来る。ここでの課題は高温
に晒されることになる燃焼器や高熱タービンが、長時間にわたって、どれだけ・高熱
高圧に耐えられるか? ・・・

「そこが運用開始後の永久的な課題になってくる」

さて、前述で純国産ジェットエンジンが設計段階から製造段階に移行した話をしたが
ジェットエンジン部品を実際に製造する段階では、製造工程における「公差」という
問題が避けては通れない重要な課題になってくる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【公差】 辞書から抜粋

工業製品などにおいて、標準の重さ・大きさなどから、この程度は、はずれていても
仕方がないとして、公式に許容されている限界。

【公差】 広辞苑から一部を抜粋

機械加工で、工作物の許しうる最大寸法と最小寸法の差。許し代(しろ)。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここで、天才技術者たちがまとめあげた純国産ジェットエンジンは極限までバランス
が図られた傑作エンジンといっていいだろう。

このバランスを崩さないためには、量産段階においても、製作時のバラつきを小さく
抑えて行く必要がある。

従って、設計者にとっては、ジェットエンジンの個々の構成部品の作りやすい形状の
在り方と、並んで、許容出来るギリギリの公差を決めることが重要になってくる。

一方で、製作者にとっては、加工技術を担う技能者として、厳しい公差内に部品形状
を納めて行く必要がある。この時のジェットエンジンにおける製作上の公差は・・・

ミクロン単位である。1ミクロンは1000分の1ミリであるから、その精度は精密
さを極めている。ジェットエンジンの組立工場の入り口には水が張られておりここで
靴を洗ってから入場するのも、製品がミクロン単位で仕上げられていることによる。
(ジェットエンジンの部品は埃を嫌うのである)

したがって、製造部門には当時の土光社長の「適材適所」の意を汲んでタービン部門
の優秀な機械加工の技能者が航空宇宙部門に送り込まれて製造部門の中軸を成した。

一方で、我々設計チームの三人が担当した燃焼器およびタービン部分は、高温・高圧
に晒されることから、特殊鋼としてのステンレス材が使われ、ほとんどが溶接構造で
あったため、常に、溶接による歪の問題がついて回り、この面では優秀な溶接分野に
おける専門技術者と腕の立つ溶接技能者が配属された。

これらの優秀な生産技術者と技能者の存在がなければ、天才技術者たちが設計したと
ころの極限までバランスの取れたジェットエンジンに対して誤差の少ない、言い換え
れば公差基準の厳しい製作は実現出来なかったが、幸いにも土光社長が手塩にかけて
育てて来たタービン部門には、そのような人材が顔を揃えていた。

何故、純国産ジェットエンジンが、これほどまでにバランスの取れたエンジンとして
熟成したのか、その秘密は、二十年超先の異次元体験を経て知ることになる。

私の執筆する物語の多くに、この異次元体験の経緯が登場するが、ここでも読み手に
とって「一読にお付き合いいただけるのか?」「否か?」・・・

私自身には確証がもてないことである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


【クライストチャーチでの体験】

あの日に成田空港に集まったツアー客の仲間は多彩であった。

新婚組の若手が二組と、六十歳代後半の夫婦が三組・そして・親子連れの混成が二組、
七十歳代の友人ペアのお二人、シングルで参加されたお二人・そして・年齢的に見比
べると、丁度、アベレージ(平均)に位置するところの私と家内であった。

まだ初対面なので気心も分からず、ツアーの女性コンダクターが掲げる旗に連なって、
ぞろぞろと出国ゲートに向かって歩いた。全員の出国手続きが済むと出発時刻までは、
それぞれ自由時間である。

成田の出発ゲートで手荷物だけを持って、私と家内は、一緒にベンチに腰をかける。

「この待機の時間は、なんとも、夢があっていいわね」と家内が云う。

「すぐにも海外に向けて飛び立つ時間が、刻一刻と近づいてくる感覚が好きなのかな」
と思う。それとも、あの松尾芭蕉翁の『奥の細道』の序章にある風情・・・

「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり・・・」という心境なのかと、
家内の発した言葉から、次々と、勝手に連想する。

やがてNZ090便に乗り込む。

機内に乗り込むとJL090便と共同運航便になっている。機内で通路を挟んで隣り
合せたツアー仲間のご夫婦と挨拶を交わす。ご主人が名刺を差し出して挨拶される。

私もつられて財布のポケットに名刺が入れてあったことを思い出し、少し遅れて名刺
を差し出す。

いただいた名刺から新橋で弁護士事務所を開設されていることが分かる。
他のツアー客にも機内を歩き回って盛んに名刺を配っている。

「ご自分の仕事に、常に全力投球して、他の人に役だとうとする商売熱心な方」
なのかなと想像する。
  
私も家内を挟んだ隣席の親子連れの母親と思われる六十歳代後半の女性に名刺を渡す。
こういう場面での名刺交換の経験はあまりない。

しかし、それも自然な成り行きであった。弁護士さんの気さくな態度に、学んだのと、
同時に、新幹線における五分間の理論を思い出していた。

「新幹線に乗ったときに東京駅などで隣席の方がシートに座ったときに、目安として、
五分間以内に、なんでもいいから一言でも声をかけておくと、後の時間を気持ち良く
過ごせる」という経験則で・・・

「この五分間に沈黙を保てば、以降は、沈黙を保てるというもの」である。

そんなことを思い出していると、家内を挟んで名刺を渡した女性が唐突なことを云い
出すことに・・・

「佐久間さんは、出世をあきらめての海外旅行ですか?」

「なんという展開!」と思うが、しばし沈黙を守ることにした。これには、さすがの
私も面食らった。

「会社の永年勤続の表彰旅行です」と、間をおいて答えると、間をおかずに・・・

「おみかけするところ、まだ働き盛りのご様子で、こんな時期に海外旅行とは出世を
あきらめた方かと」なんともハッキリとした、ものいいに恐れ入った。

「そうでしたか。永年勤続のご旅行でしたか。銀行関係では勤続十五年くらいで海外
旅行させるようですよ。そして、本人が旅行中に身辺調査をして不正が起こっていな
いかを審査するそうですよ」と女性が続ける。

そして、その後、ツアーに単身参加の銀行員が勤続十五年で参加していることを知り
この女性の話題には真実味が帯びてくることになる。

新々人類を思わせる情報通のその女性には、旅の途中で、何度か貴重なアドバイスを
いただき、お世話になることになる。このやり取りを聞いていたか、どうかは定かで
はないが、前列の娘さんが席を立ちあがって振り向き・・・

「お母さん、チョコレート食べる」といって、すらっとした手を差し出す。
「長女です」と紹介され、聞けば、システム・エンジニアであるという。

私たちも・・・

「よろしくお願いします」と挨拶する。

彼女も・・・

「こちらこそ、よろしくお願いします」といって、前の席に座り直した。

・・・・・・・・・・・・・・・

ぼんやりとした感覚のなかで、なにか光のようなものを感じる。だんだん、その光の
ようなものが閃光となって目に強く感じられ、低い音響に目が覚める。飛行機の前方
から、その光りが届いてきている。とっさに南極からの「冬の雷」を想像する。

これは、幸先の良い幸福を運ぶ天使からのメッセージと感謝しながら、身体を起こす。
私が起き上がると待っていたかのように、家内が笑顔で手を差し伸べてくる。

昨夜は、機内で希望者には、キャビンアテンダントからブランケットが配られ、周り
の灯りが暗くなったがすぐには眠れなくて手元の照明灯を付けて雑誌を読んでいた。

エアラインの刊行物と思われるが「ボーダレス」という文字が目に付いた。

境目をなくすという言葉だが、このニュージーランド行きの航空便についてもJAL
便とニュージーランド航空便とで成田からの搭乗口は別々になっていたが、内部では
合流して同じ飛行機に乗り合わせたことを思い出していた。

「これも、ひとつのボーダレスか?」と家内と話していると、キャビンアテンダント
が小声でハッキリとしたものいいの女性に向けて・・・

「後部座席に、ゆとりがございますので、ご希望どおり、奥様とお嬢様のお二人で、
隣り合ったお座席を、ご利用できますが、いかがなさいますか」と云って迎えに来て
下さり母娘で移動していった。

私と家内は、三人がけのシートに奥様と三人で座っていたのでいくぶん窮屈だったが、
シートには二人だけで座ることになったので、お互いの足を投げ出して対面した。

足を伸ばしきることはムリであったが、お互いの自由さが増したので身体を折り曲げ
るようにして横になり、床に落ちない様にお互いの手を握り合っていたが、いつの間
にか、寝入ってしまったようである。

「今、どの辺を飛んでいるのだろうか?」日本から南下する飛行コースの下には想像
するところ、小笠原諸島にはじまって、マリアナ諸島、トラック諸島、ソロモン諸島、
フィジーなど南国の楽園が点在するが詳しい飛行コースまでは知らない。

それに飛行機の窓の外は暗くて、よく見えないので、その手がかりはまったくつかめ
なかった。

やがてかいがいしくキャビンアテンダントたちが機内を廻って、朝食の準備を始める。
まだ夕食をすませたばかりなのに、もう朝が来てしまったという印象は、時差による
感覚の違和感から来ているものだが、それでも日本とニュージーランドとの間におい
て時差の影響は小さい。

日本での日常生活においても、平日と休日とでは、三時間程度の生活の時差は、日常
茶飯事である。

「あまり食欲がわいてこない」ので、やわらかそうなものから口にする。家内も同じ
ように軽いものから手に取っている。なんの気なしに顔を見合わせて笑う。

この感覚的な幸福感・・・

「朝起きて、好きな人が側にいる」この些細ではあるが・・・

「実は、一番幸せなこと」

このなんでもない瞬間をアメリカの雑誌などでは「女性特有のもの」として紹介して
いるが、私には共感出来るものがある。

昔の話になるが、お互いの共通の友人同士の紹介で二人が出会った時の第一印象は、

「彼女の素直で清楚な感じ」に私は魅かれ、彼女は・・・

「私の男性的で快活な印象」に好感を持ったのだと云う?

お互いに好ましい印象をもった二人は武蔵野国分寺にある日本庭園で初デートをした。

「お腹が空いたね」という私の発言で、二人は、中華料理店に入った。
「私、家に電話を入れてくるわ」といって父親に連絡を取る姿を見て、この時に・・・

「家族を大切にしている人なのだ」という印象をもった。

この中華料理店での支払いの時に、店の方から・・・

「これは記念品です」と云われて、小箱を渡された。
「何が、入っているのですか」とおたずねすると、
「鳩の置物です」ということで、二人は、それぞれに、
「記念品として鳩の置物」をいただいた。

やがて、この鳩の置物が一緒にサイドボードに飾られるまでに一年間の歳月を要した
が交際が進むに連れて、お互いに、第一印象とは違った面で魅かれていった。

私からの見方では・・・

「彼女の態度から伝わって来る凛とした決断力」からは、どちらかというと男性的な、
さっぱりとした面に魅力を感じたのである。一方、彼女からの見方では・・・

「私の優しさと慈しみ。また、意外にも併せ持っている『めめしさ』と云う一面」に
対して安堵感を覚えたのだという。

私は、ある時に「めめしい」という表現に疑問を感じて、広辞苑を引き、その意味を
再確認してみたことがある。漢字では「女々しい」と書き、その説明書きには・・・

「女々しいとは、ふるまいが女のようである」
「柔弱である。いくじがない。未練がましい」
と書かれていた。

 しかし、今や・・・

「聡明な女性の活躍が職場では目立ち女性が業務をリードする場面も増えてきている」
「物事をてきぱきと処理する女性の姿を目の当たりにしていると、女性に対して女々
しいという表現は当たらない」と考える。

 最近は、市役所などに行くと・・・

「頭に婦人と付く看板は消えて、女性という表現に変わってきている」

これは、女性だけが箒を持つ訳ではないという理由からの変更だとと聞いている。
病院では「看護婦さんから看護師さんに変わった」。

同様のことは、アメリカでも・・・

「ファイアーマンから、ファイアーファイターに変わった」

 最近の英和辞書には・・・

「気を付けて、知っておく必要のある、性に関わる差別用語の注釈が載っている」。
これらのことから「女々しさ」というよりも、「未練がましさなど」といった方が、
適切な表現かもしれない。

しかし、彼女が云うには・・・

「めめしい」という言葉が、全体を、云い尽くしているのだという。

私は、そんなことを思い出しているうちに、今度は深層心理学に出てくるところの
「心の中の異性の存在としてのアニムとアニムスのこと」を思い出していた。

☆アニムは、男性の心の中に、存在する異性のイメージとしての存在である。
☆アニムスは、女性の心の中に、イメージとして存在する異性の存在である。

私は自分の気持ちをそこまで厳密に、分析した訳ではないのでその論理とは、ズレ
があることを承知した上で誤解を恐れずに、繰り返し考えたことを整理してみた。

私が彼女に対して結婚の意志を固めたのは、最初の段階では彼女の清楚な女性的な面
に魅かれたが交際を重ねるにつれて、より魅かれたのは内面の男性的な凛とした姿勢
や決断力の素晴らしさではなかったかと考えている。

彼女も、また、最初は私の男性的な快活さに好感をもってくれたが交際の過程で内面
にある女性的な優しさや慈しみに対して、安堵感を覚えたのではないか。

「このことは私と彼女の心の内面にある、反転した立場の私の心の中のイメージとし
ての異性と、彼女の心の中のイメージとしての異性が、お互いに恋したことが結婚と
いう一大決心をした」ということではないか。

このことは、表面上の「性的な関係」よりも、より深い結びつきをもつのではないか
と確信に近い思いを抱くに到った。

・・・・・・・・・・・・・・・

やがて入国手続きの書類が女性コンダクターから手渡されて、それぞれに記入を終わ
り身の回りの整理や整頓が始まる。クライストチャーチにおける入国手続きは意外と
あっさりとしていた。

昔の古ぼけた旅行ガイドブックの記述には・・・

「頭から薬剤をふりかけられて農産物に害が及ばないようにする」などと書かれてい
たが、だいぶ観光化が進み手続きが簡略化されたようである。

空港には見るからに頑丈そうなベンツ製のバスが待機していて、私たちは、そのまま
市内観光に向う。

バスのシートは広くて大型バスを借り切っているため・・・

「快適な観光ツアーの始まり」という印象を受けた。やがてバスは花壇がよく整備さ
れた建物の前に到着する。花壇を抜けて行くとエイボン川のほとりに出た。

「あら鴨がゆうゆうと泳いでいるわ」という声をきっかけにツアー仲間がいっせいに、
鴨を背景にして、お互いの連れや家族にカメラを向けて写真を撮り始める。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これは、後日談となるが・・・

私は、喜寿(七十七歳)を越えた、今、彩の森入間公園を家内と共に飼い犬を連れて
散策をするが、この公園の上池にも下池にも鴨が悠々と遊泳していたり池の畔でくつ
ろいでいたりして、日常的に、鴨を眼にしているが、当時は、鴨との遭遇など珍しい
出来事だったのだと思い返すと、そのことに不思議な思いがする。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

鴨が泳いでいるエイボン川のほとりで、一時、みんなでゆっくりとして、奥に行くと、
なんとグランド一面がバラ園になっている。ほとんど、同時に、全員が歓声をあげる。
ほど良く手入れされたガーデニングの眺めを楽しんでバスに乗り込むとさすがに全員
が声を揃えるようにして、いっせいに「疲れた・疲れた」と口に出しはじめた。

思えば、成田の出発ゲートを抜けて飛行機に搭乗。出発予定の十七時二十五分よりも、
三十分間遅れて飛び立ち、それ以来の安堵感であった。

クライストチャーチには、現地時間で、朝の七時三十五分の空港着であった。

日本とニュージーランドでは、時差が、三時間あるので、日本での現地時間に換算を
すれば、明け方の四時半に叩き起こされた上での入国手続きということになる。

まだ、気持ちの上では、半分、寝っている状態の、いわば寝ぼけまなこのままの観光
であった。バスの中では「あのハッキリとしたものいいの女性」が、飛行機の出発が、
遅れた事情をみんなに聞かせている。

「あの日は外資系のファッション・メーカーのセールス・レディ五百名がね大挙して、
チャーター便に、乗り込んだのよ。それでもって、機内食の積載に手間取ってしまい、
他の便にも影響が出たのよ」という、もっともらしい解説であった。

それにしても、さすがに情報の入手が早い。こういう人と一緒の旅だと思うとある面、
安心である。私は家内との間では、この女性に敬意を称して・・・

「ミセスCIA」と呼ぶことにした。

やがてバスは市内の大聖堂に到着する。英国ゴシック様式の大建築物は尖塔が空より
も少し濃い青色で、大窓のエンジ色とのコンビネーションが、とてもお洒落な印象で
見栄えが良い。

建物の縁取りは白色で統一されており、英国を訪れたことのある私は、英国の影響を
感じ取った。私と家内は、ツアー仲間にお願いをしてツーショットの写真を自分たち
のカメラに納めることにした。

「尖塔まで写真に納まりますかね?」と、ツアー仲間が、心配するほどの高さである。
広場では、芸人たちのパフォーマンスが繰り広げられていて行き交う観光客を飽きさ
せない。聖堂の中に入っていくと・・・

「これは素晴らしいステンドグラス」と、私は、思わず声を出してしまった。

最近は、日本からの結婚式の申し込みが多くなってきて結婚式の申し込みを制限して
いるのだという。

次いで、カンタベリー博物館を訪問する。ここで、ニュージーランドの歴史を学ぶ。
ニュージーランドは地形的に日本列島から北海道を取り外した大きさであり、北島
と南島からなる。クライストチャーチは南極寄りの南島の東岸に位置している。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【オータムショック】

クライストチャーチの丘陵地帯からの眺めは素晴らしく市内を一望できる。

旅程における天候が快晴ということも手伝って、旅先での秋を大いに満喫できる幸運
に恵まれた。丘陵からの視界には背の高い建造物はなく秋が一面に横たわっていた。

私は、この旅行の出発前に、東京に暮らしていて、これが、はじめてともいえるほど
見事な桜を会社の桜祭りで満喫した。そして、地元の稲荷山公園で家内と一緒に桜を
楽しみ、成田を旅立った。

「海を越え、一瞬にして、秋の眺望に変わるなんて、なんとも不思議な体験だね」と
家内に呼びかけると・・・

「素晴らしいわ。これが、ほんとうのオータム・ショックね」と家内も目を丸くして
喜んでいる。

私も、思わず、この感動を俳句にして・・・

「桜愛で一路海越えニュージーの秋」と詠んだのである。

この俳句には、春と秋が、十七文字のなかに同居しており、芭蕉翁も絶句するであろ
う珍句である。

「ニュージーランドでは眺めの良い丘陵地帯に家を建てることが、ひとつのあこがれ
になっています」とツアーの女性コンダクターから説明があり丘陵から広がった視界
の良さを見て「なるほどね」と、私と家内と一緒に納得する。

「そういえば高級住宅が丘陵地帯に密集しているわね!」という家内の感想に続ける
ようにして、ミセスCIAから・・・

「この丘陵地帯には、自然保護運動を展開した、政治家ハリーエルが建てた英国風の
建築物があるのよ」ということで、みんなで見に行くことにする。

その建築物は、さすがにどっしりとした風格であった。現在はレストランに改造され
ていて一般に公開されている。ロビーに設えたテーブルに座ると、なんとなく気持ち
が落ち着くから不思議である。外の景色も居ながらにして手に取るように見える。

市内観光も終わって、今晩の宿泊ホテルに着くと、それぞれに、部屋の鍵が渡されて
ディナーでの再会が女性コンダクターからアナウンスされる。部屋に入り旅行カバン
を片付けてから二人でロビーに行くとツアー仲間の若いカップルから声がかかる。

「ちょっと、すいません、教えて下さい」と云われて、私が「なんでしょうか?」と
答えると、若い女性から・・・

「先程、ディナーの案内がありましたが、どんな服装で出ればいいのでしょうか?」
と、ここは、家内の出番である。

「くつろげる感じの気軽な服装で大丈夫じゃないかしら」

やがて暖炉の火が、チロチロと燃えているレストランに、ツアー客が集まって来る。
席は自由のようである。先ほどの若いカップルが会釈をして近づいてくる。

その後から、すっかり有名人になってしまった、ミセスCIA親娘と六十才代後半の
ご夫婦が談笑しながら歩いてくる。

私と家内も、レストランの係りの女性に案内されて席に着く。
私と家内の前には若い新婚夫婦。隣の席には、ミセスCIAチームの四人が席に着く。

大きな八人掛けのテーブルがたちまちいっぱいになる。隣のテーブルには弁護士さん
たちが友人と一緒に案内されて席に着く。

こちらのテーブルでは、最近、出かけた旅行の思い出から話しが始まっている。
ミセスCIAとは、親友と思われる女性がスイス旅行の話しをご主人と掛け合いよろ
しく、とても楽しく紹介して下さる。

「スイス旅行では、登山電車での山登りが一番楽しかったわ」という。
「あっそうそう。ビデオが撮ってあるから、今度、家に遊びにいらっしゃい」という
話しに発展する。

ご自宅には海外旅行のビデオをたくさん保存しているという。ミセスCIAの友人が、
「どちらに、お住まいですか」と聞くので・・・

「埼玉県入間市です」と答える。
「私たちは、新所沢ですよ!」という驚きの返事が返って来る。
ニュージーランドからの距離感ではほとんどピンポイント的に同じ地域といって良い。
世間は狭いものである。新婚夫婦の新居は相模原だという。

「今度、この旅行から帰ったら我が家に遊びにいらっしゃい」と両家で誘って下さる。
「ありがとうございます」といいながら、ご近所のしかも隣組という親近感が湧いて
くる。やがてディナーが運ばれて来る。

「どちらかというと薄味だね」とお互いの感想を述べあって運ばれてきた料理を口に
運ぶ。新婚夫婦は「海外旅行は初めて」だといって、とても楽しそうに、皆さん方の
話しを聞いていた。

すると今度はミセスCIAが、唐突に新婚夫婦に向って・・・

「あなたたち、新婚組だけのツアーでなくて、良かったわよ」と話を切り出す。
なんでも、最近、新婚さんだけのツアーで地中海に出かけた。

ツアーは、十二日間の豪華旅行。添乗員さんが途中で異変に気付いた・・・

旅先でもあり、必死の思いで、その場をとりなして全員一緒に帰国したものの、
そのなかの三組が、帰国後に別れることになったのだという。
しかも、その赤い糸の混線模様の中からなんと一年後に、違った組み合わせで、
二組のペアが再生したという。

なんとも、ビックリするニュースの紹介であった。そこに居合わせた、一同は、
ただ唖然として聞くばかりで、お互いに顔を見合わせた。

食事の途中、女性コンダクターから、今回の旅程の概略が、あらためて紹介された。
「昨日は、機内泊のため、みなさん、そろそろ、眠くなってきたと思いますので」
という心遣いで要点だけが説明される。

明日は、マウントクックから、クイーンズタウンには、バスで行って、四日目には
オプションで「ミルフォードサウンドの観光」が、計画されているという。そして、
後半には、北島のオークランド泊が、旅程の仕上りとして用意されている。

今回の旅程には、随所で、自由時間が工夫されており、その時の過ごし方について、
大いに話が盛りあがる。旅慣れたミセスCIAチームや、お友達のご夫婦からの旅に
関する情報提供は、私や家内にとって大いに参考になるトピックス続出で、同席した
新婚組も目を丸くしたり目を細めたりだった。

話題満載のディナーは、あっという間に時間が過ぎた。的確な会話は食事の調味料と
いうが、今回について云えば、話題そのものが「メインディッシュ」という盛りあが
りようであった。それに、皆さんパワーに満ち溢れていてパワーを分けていただいた
気がする。

「ご一緒しているだけで、自然に気持ちが明るくなってくるね」と、その日のことを
振り返りながら、その晩は早目にベッドに入ることにした。充分に睡眠をとったこと
もあり、翌朝は、早起きして外に出るとテカポ湖の水面が目に入ってきた。

「あら、もう霜がおりているわよ」と家内が枯れた芝生の上を先に歩いて行く。
「記念写真を撮っておこうよ」と家内に振り返ってもらってスナップ写真を撮った。

やがて、朝食が済むと・・・

「希望される方には、今から、バスの出発前に、テカポ湖周辺のご案内を致します」
という案内があって、ガイドさんに付いて行くことにする。

「ここは、善き羊飼いの教会です」と説明があり、内部に入って行くと外からの見た
目には小さな教会だが、内部からの景色は大きく広がっており厳粛な空気が伝わって
くる。

「きれいにしてるわね!」と家内が感動の声をあげる。たしかに、内部の掃除が良く
行き届いている。近くには、犬の銅像が建っていた。ニュージーランドの犬たちは、
羊たちの面倒を良くみる。

犬たちの活躍が羊毛産業を支えているといってもよいだろう。その中にあって銅像に
なっている忠犬は、ある時、牧場主の危機を救ったのだという。詳しいことは分から
なかったが銅像になるくらいなので・・・

そのご主人たちの思いは、さしずめ、ニュージーランド版の忠犬ハチ公といったとこ
ろなのであろうと推測した。


013 マウントクックの眺望と睡魔

雪をかぶったマウントクックの姿は美しくずっと観ていても飽きが来ない。

ミセスCIA親娘はバスの前列に陣取り、娘さんが盛んにビデオで前方の風景を撮影
している。南島の屋根ともいわれているあのサザンアルプスの最高峰マウントクック
は、探検家キャプテン・クックの名前を記念して命名されたものである。

しかしながらニュージーランドを三回も訪れながら英国の探検家キャプテン・クック
は、この秀麗な山を一度も見ていないのだという。

ベンツ製の頑丈なバスは全員にシートベルトを着用させて制限速度なしの高速運行で、
突っ走って行く。バスの進行方向の左手には、秋の野原が一面に広がっている。

「春には、この野原一帯が花でいっぱいになります」というガイドさんの説明がある。
この野原で採れる蜂の巣は、そのままスライスされて天然産の蜂蜜として、お土産屋
さんで売られている。

右手には湖面が続いている。空が写っているような青さが印象的である。このバスに
地元の案内役として同乗した日本人ガイドさんは、ニュージーランドが気に入って、
そのまま住みついてしまったというだけあって土地の事情に詳しい。

「皆さまの右手に見えております湖には、2メートル級のうなぎが棲んでおります」
「ときには水を飲みにくる子羊を呑みこんでしまう」と聞いておりますという説明
に、私は内心「本当かいな」と思いながら、情景を想像しているうちに背筋が寒く
なってきた。

湖面に沿った道路脇の風景が、突然、牧草地帯に変わる。

羊の群れが牧草をもくもくと食べている。バスを止めて一緒に写真を撮ろうとすると、
羊たちがいっせいに逃げ出す。羊たちは全てが雌であるという。雄は、子羊の段階で
食肉になる。

そして、種羊の雄だけが残されるのだという。この種羊も、時折、生殖能力の検査が
行われて、役にたたなければ食肉になるというから厳しい。

「どのようにして検査をするのですか?」と、ガイドさんに質問をぶつけると・・・

「簡単な方法ですよ。種羊の股間にチョークを塗り込んでおいて、そのチョークの粉
が雌の羊たちに付着していなければ、即、役立たずと判断されるのです」という説明
に思わず厳しいなと驚く。

牧場で飼育されているのは、羊だけではなく、鹿も放し飼いにされている。
「鹿用のフェンスは高くしてあるので鹿を飼っている牧場は、すぐに分かりますよ」
とガイドさんから説明が加えられる。

やがて、トンネルに入る手前で、休憩となる。

道路脇には小川が流れている。その水の清らかさに誘われて思わず手で水をすくう。
「心が、洗われるような、清清しさね」と、家内が目を細めて喜びを表現する。

目の前にあるトンネルは、最近の雪崩のときに大雪で埋まってしまいブルドーザーで、
掘り出したのだという。ミセスCIA親娘が・・・

「あっ、虹よ」といってビデオを回している。地平線上に完全な形で跨ぐ虹を見たの
は、私も初めてのことであった。地元のガイドさんが、
「ニュージーランドでは、虹は、あちこちで、頻繁に見られますよ」と説明している。

バスから降りて手足を伸ばしたついでに辺りを散策することになり、もう一度、虹の
頂上部を見た時に、天空の光が私の目に糸のようにつながった。状況が飲み込めずに、
立ちつくしていると・・・

「さっきの滝は迫力があったわね」と家内が、ついさっき滝を上から見おろした時の
ことを思い出して話しだす。私の感覚からいっても、通常、滝は、下から見上げるが、
上から見おろす滝の迫力は凄かった。

バスの運転手さんが地元のことを知り尽くしており、ガイドさんと相談しては観光化
していない穴場に案内してくれるので、ツアー仲間は大喜びである。


やがて、それぞれに休憩を終わりバスに乗り込む。バスがトンネルに入ってから間も
なくのこと、突然、バスのライトが消えて車内が真っ暗になる。

「キャー。どうしたのかしら」と女性たちが騒ぎだす。

すぐに、ライトが点灯される。愛嬌たっぷりの運転手さんのいたずらであったという。
「このトンネルを抜けるとすぐにマウントクック村です」とガイドさんの案内がある。

話題は変るが、ニュージーランドに来てから、随所で環境保護への配慮を感じ取った。
例えば、ゴミ捨て用の袋には燃えやすく工夫された特別製のものを使っている。公衆
トイレにおいては、施設全体がステンレス製で建設されており、天井から一気に水が
流れる設計になっている。トイレ内の洗浄についても小まめに実施されている様子で、
トイレ特有の異臭感はまったくないといって良い。

ハイキングコースなども有名な景勝地を訪れる登山者は登録制になっていて、登山者
に対しては登山をする上でのエチケットが徹底されていて厳格に守られているという。

マウントクック村に着いて、最初に目から入ってきた印象は、ゴミひとつない清潔感
であった。村からの眺めはマウントクックが目前に迫ってきて圧巻であった。標高が
三七六四メートルもある最高峰は、最近の大きな雪崩で標高が変ってしまったという。

このマウントクックに、さらに、近づきたいという人のために軽飛行機で頂上付近の
氷河に着陸する航空サービスが用意されている。

「風の強いときに飛行機に乗ると機体がかなり大揺れしますよ」と、ガイドさんから
説明があったが・・・

「私たち、飛んで来るわ」と、ミセスCIA親娘と友人夫婦は、一番乗りの名乗りを
あげる。さすがに好奇心旺盛で反応も俊敏である(新婚夫婦も同行するという)。

私が家内に向かって「どうする?」と聞くと・・・

「私は、まだ子供たちを育てきっていないから、やめておくわ」という返事が返って
きた。

私は、家内と一緒に、ミセスCIA親娘と新婚夫婦の乗った軽飛行機が飛び立つのを
見送ってからレストランで昼食を取ることにした。二人でレストランに入ると店内は
大賑わいの盛況ぶりであった。

「あの人たち本当に元気ね」と、ミセスCIA親娘やお友達夫婦のパワフルさに驚き
ながらチーズ味の食事を心ゆくまで楽しんだ。

昼食を終わって隣の部屋に移ると真正面に大きなマウントクックが眺望できるように、
くつろぎの間が用意されていた。中央の大きなソファーに座ると、目の前に広がった
深い森林に吸い込まれ、そして優しく包み込まれるような感覚に陥って思わず睡魔に
襲われた。

私は自分専用のカメラを一眼レフにしてからというもの、旅に出掛けたときの写真
の編集が楽しみになったきた。マウントクックを背景にして、家内を左側の焦点に
合わせて、一枚、二枚と、少しずつアングルを変えながら撮影する。

今度は、雰囲気を変えて、私と家内とのツーショット主体にとハンディーカメラに
取り換えて、リモコンの二秒タイマーを使って撮っていると・・・

光を背中にした蝶ネクタイの紳士が、こちらに向かって真っ直ぐに歩きながら私に
会釈をして来る。

「佐久間 勉さまですか」と訪ねてくるので、
「はい、佐久間 勉です」と答えると、

「閣下が、勉さまに、是非、お会いしたいと申しまして、お迎えにあがりました」
「家内が、一緒ですが」といって振り返ると、
「お時間は取らせません」といって家内に視線を合わせた。

「バスツアーの出発時刻までには必ず間に合わせますので」となにもかも、お見通し
のようである。

「あなた、バスの出発までには、時間が十分ありますから、いってらっしゃい」
「私は、この辺りで時間を過ごして待っていますから」と家内にうながされて、
ようやく心が動いた。

蝶ネクタイの紳士に案内されて外に出ると、目の前には、黒塗りのロールスロイスが
止まっている。
「どうぞ」とドアが開かれて、ゆったりとした後部座席に案内される。

私はだいぶ昔のことであるが、当時、イギリスで航空機用のエンジンを製造していた
ロールスロイス社を訪問した際に、イギリスのダービーのホテルまで同じタイプの車
が迎えに来て上司と一緒に乗ったことがあるので室内の様子は大方分かっている。

蝶ネクタイの紳士は後部ドアを閉めると前室に乗り込んだ。そして前室で運転手さん
になにやら盛んに指示を与えている。運転席までは離れていて良くは聞き取れないが、
「時間経過の設定を百万倍速にしておくように」

「それからバスの発車に遅れないように、セフティーロック付きのタイマーをかけて
おくように」というようなことを云っているようだ。

意味が良く分からないので、そのまま聞き流すことにした。

やがて、後部座席のドアを開けて蝶ネクタイの紳士が乗り込んできた。
「佐久間さま、バスの出発までには、三時間の余裕があるとお聞きしましたが念のた
めにタイマーの磁気を手首に塗布させていただいてよろしいですか」と聞いてきた。

「ああ、このことを話していたのか」と自問して・・・

「はい、よろしくお願いします」と答える。

車内は、後部席が、そこだけでも、ちょっとした応接室のように設計されている。
後部座席の前方には、ちょっとした補助座席が後ろ向きに設けてある。その座席に
蝶ネクタイの紳士は天井を気にしながら窮屈そうに腰掛けて・・・

なにやら機器をセットしている。

「佐久間さま、恐れ入りますが、この筒の中に手首を差し入れていただけますか」
と声をかけてくる。

「はい、完了しました」というので手首を見ると、東京ディズニーランドに行った
時に、一時的に外に出て、お土産を買おうとして手首に付けてもらった蛍光マーク
のようなものが塗布されていた。

「それでは、出発させていただきます」といって、蝶ネクタイの紳士は運転席の方に
移り、車は静かに走り出した。しばらく走ると、軽量ヘリコプターが用意されていて、
蝶ネクタイの紳士は、自らパイロット席に座り、ヘリコプターの操縦桿を握った。

「佐久間さまは、ニュージーランドは、初めてでございますか」と聞いてくるので、
「はい、初めてです」と答える。
「閣下は、大聖堂で、お父上の竹次郎さまに、そっくりな勉さまをお見かけして、
ずいぶんと驚かれた」とのことでした。

警戒心の強い印象の私に対して、レストランにおいて、蝶ネクタイの紳士が説明した
話では「父親の竹次郎と知り合いの方」だというので安心して同行してきた。家内も
また父親の竹次郎の知り合いということで、安心して送り出したのであった。

「それにしても、父親のことを良く知っている閣下とは、どのような方だろうか?」
「父親とは、どのような関係の知り合いなのだろうか?」と自問を繰り返す。

やがて軽量ヘリは大きく旋回して、海面上に浮かんだ簡易エアーポートに着陸する。
そこから、また、ジェットボートに乗り込み洞窟の中をくぐり抜けて行くと・・・

そのまま大きなエレベーター内に飛び込む。そこからは猛烈なスピードで地下三十階
と標示されたフロアーまで高速移動した。

ジェットボートは、後ろ向きに外に出るとターンテーブル上で向きを変え、また一気
に突っ走る。
「いったい、ここは、どこなのだろう?」と少し不安になる。

ジェットボートから降りて、蝶ネクタイの紳士に案内され正面の部屋に入って行くと、
「ここで、時空交換をします」と云う説明があり、ここでも座り心地の良いソファー
に案内される。

ゆったりと腰掛けているとブーンと云う唸り音とともに、目の前が真っ白になった。
「これで、時間軸が、百万倍モードになりました」と云うのだが意味がまだ良く呑み
込めていない。

「これも百万倍モードで収録されていますのでご覧になっていて下さい」とカセット
が差し出される。
「これは、なんのカセットですか?」と、おたずねすると・・・

「閣下が云われますには、日本の政府機関である機械振興協会の連載記事で、著者の
藤波修氏が各種文献を基にして編集されたものを、さらにデジタル加工して百万倍速
で聞き取れるようにしたものだそうです。

日本の航空機産業の歴史が、よく整理されていて、分かりやすく解説されている」と
申しておりました。
「佐久間さまの感想も、お聞きしたいと申しておりました」といって、ヘッドホンの
ようなものを差し出す。

「ヘッド・シミュレーターを、ご用意させていただきました」

「これは、なんの機器ですか?」

「はい、佐久間さまが感じ取られたことをテキスト・データにして書き出す機器です」
「そんなことが、できるのですか?」
「はい、最近の脳科学の進歩で可能になったのだと、閣下からは聞いております」

私にとっては、半信半疑であったが、ここまでくれば、乗りかかった船ということで、
とことん信頼してゆこうと、腹を括った。

アイマスクのような装置を目に当てて、ヘッド・シミュレーターをヘルメットのよう
にして、頭からかぶると、やがて、目の前をタイトル文字が走っては消えた。
「日本の航空機産業の起源を辿る」と声を出して読んでみる。

今度は解説文がゆっくりとしたペースで目の前を流れて行く。これをテロップという
のだと過去の記憶から思い出していたが、別に読もうと努力しなくても、頭に入って
くる感覚は新鮮であった。同時に、耳からも音声が聞こえてくる。



【日本の航空産業の起源】

日本における航空機産業を論じるときに、造船産業・自動車産業とを合わせて見てい
く必要がある。軍の影響を大きく受けてきた造船業は戦前から、技術的に世界水準に
達していた。

その造船技術と設備が戦前の航空機産業の隆盛につながった。

しかし、その技術も世界を圧倒するレベルではなかった。そのために、その技術力が
かえって戦争を長引かせて、犠牲を大きくしたとも云われている。

一方で、造船業よりも遅くスタートした自動車産業は、戦前は世界の技術水準に遠く
及ばず家電製品と、同じく、粗悪品の代表といわれていた。

しかし、戦後の連合軍による航空機産業の禁止令の空白期に、多くの航空機技術者が、
自動車産業に流れて行き、その結果が現在の世界的な自動車産業の成立につながって
いった。

この造船産業・自動車産業・航空機産業という三つの産業の歴史を辿るとき、将来の
我が国の航空機産業における未来像も見えてくるかも知れない。そこには、我が国の
航空機産業の限りない発展性が見え隠れしている。
 
・・・・・・・・・・・・

気のせいか遠くのほうから足音が近づいて来る・・・

「紅茶をお持ちしました」という声が後方から聞こえる。
私は、ヘッド・シミュレーターなどの機器一式を頭と目と耳から外す。

「ロイヤルミルクティーにしてみました」
「いかがですか、テロップは、ちゃんと流れておりますか?」
「閣下は、日本政府の刊行物をデジタル処理して、正確に、音声化したといっておりま
したが」と先程の蝶ネクタイの紳士が小脇にアルバムを抱えながら話しかけてくる。

「お父上の竹次郎さまは、そのミルクティがとても、お好きだったようです」
たしかに父親は紅茶好きである。夜などは、チーズと共に紅茶を楽しんでいた。
「閣下のお話では、若いときの竹次郎さまのお写真が勉さまにそっくりであると申し
まして」と云いながらアルバムを開いて見せる。

アルバムには若いときの父親が写っている。後方には飛行機が写っている。首には絹
の光沢感の優れた白いマフラーを巻いている。私は、かつて父親の若いときの写真を
見ており、たしかに、パイロットの格好をした姿は父親に間違いない。

「お父様は、閣下の秘蔵子といわれた、優秀なテストパイロットでした。終戦までの
間に百機近くを乗りこなされたようですよ」という説明に、私は耳を疑った。

 当惑した表情の私の顔を見て・・・

「閣下は、ただいま、フューチャー・エリアで、飛行準備を進めております」
「勉さまに、是非とも、搭乗していただきたい」と云って楽しみにしております。
「それまでの間は、私に、イエスタディ・エリアをご案内するようにと申しまして」

「今、ご覧いただいておりますカセットは百万倍速ですので短時間で目を通すことが
可能です」
「ここでカセットをご覧いただきますと、後でイエスタディ・エリアにおいて実際に
搭乗体験されるときに役立つかと考えます」と云って、私が飲み干した紅茶を片付け
るようにアシスタントの女性に指示すると、そこを立ち去っていった。

私にとって、テロップは目の前をゆったりと流れており、これで百万倍速なのだろう
かと疑問に思いながらも信じてかかることにした。アシスタントの女性が自分の名前
は白木であり用事があれば、このリモコンスイッチを押すようにといって、引き揚げ
ていった。

私は、ヘッド・シミュレーターを装着して続きを見ることにした。テロップによって、
小見出しが最初に示されるので頭の中で整理がしやすい。



014 暖かさの続く小寒の中で跳ぶ

ヘッドシミュレータを頭からかぶったものの・・・

唐突に、脳内に、Fly DELTA(飛べデルタ)の看板文字が眼前に浮かんできた。

あれは、欧米に約一か月間をかけて出掛け欧米における管理工学のエンジニア
の実情調査を行っていた旅程の途中で、米国のエアラインにおいて、デルタ社が
画期的な工場運営をしていると聞き及んで、訪問した際に、屋上に大きく・・・

”Fly DELTA”と描かれた看板を観て「飛べデルタ」とは従業員向けの啓発か?
はたまた「顧客への挑戦状か?」と衝撃を受けた時の記憶である。

おそらく、父親が「中島飛行機でテストパイロットをしていた」という信じがたい話を
聞かされて、その衝撃が"Fly DELTA"(飛べデルタ)の看板の思い出に連想的
に跳んだのかも知れない?

そういえば、あまり・お酒に強くない父親のところに、正月、ワイン感覚で大吟醸を
ぶらさげて遊びに行った時に、父親の若かりし頃からの「乗物好き」に話が及んで
正月の宴が盛り上がったことを思い出して・・・

「ヘッドシミュレータ」を頭から外した。

「あれだけの動力好きなら・飛行機を前にして・飛ぶことも自然な成り行きか?」



【新春の家族】

あの年は小寒を過ぎてからもいつまでも暖かさが続いていた。その暖かな陽気は元日
から続いているもので、会社からの帰宅時など暖房の効いた電車に乗り込んでいると、
コートの下で背中に汗を感じるほどの暖かさであった。

私は久々に実家に帰って奥の部屋で着替えをしながら、ふと裏庭を見て小寒を詠んだ
俳句を思い出した。

  「小寒となりしは名のみあたたかや」   星野立子

着替えを終わってリビングに顔を出すと、大急ぎで外から帰ってきた母親が思いがけ
ないことを云いだす。

「勉が今年初夏に乗る船にカズさんの妹さんのご主人のお兄さんも一緒に乗船する
そうだよ。ほらあの三菱重工に勤めているお兄さん」

なぜ、そんなことを母親が知っているのだろうか?

「だれに聞いたの?」というと、母親は間を置かずに、

「カズさんの妹さんからの年賀状に書いてあったのさ」

「悦子さんから?」

「他に誰が居るのさ」と・・・

「悦子さんも神戸のお兄さんから、今度、船に乗って研修に出掛けるという話を聞
いてから、そういえば、佐久間さんも同じ時期に講師として『生産性の船』に乗ると
いう話を聞いて、ピンと来て、お兄さんに確認して分かったのだと」いう。

あまりの偶然に驚いて年賀状に一筆添えたのだと云う。
(その後「生産性の船」の上で、お兄さんとは、感激の初対面を果たすことになる)

私の母親も、昔から「私のこと」となると妙に勘のいいところがあった・・・

これは母子で戦友のような強烈な戦時体験を経ているためと、私は受け止めている。

「私は、一九四二年(昭和十七年)生まれのため、生まれたときには第二次世界大戦
に突入していた。終戦のときには満三歳であり終戦前には真っ暗な防空壕の中から、
B29の標識灯を見た記憶がある」

「勉は、母さんと一緒に防空壕の中でかろうじて生き残ったのさ」という話を聞いた
ことがある。

戦時中、父親は、中島飛行機に行ったままである。空襲警報が鳴ると、母親は、私を
抱えて社宅の近くの防空壕に避難していた。これは当事者の母親さえも、後になって
知らされたという話であるが・・・

「母さんと勉が隠れていた防空壕の上を三機の戦闘機が隈なく機銃掃射して行った
のだよ」というのである。

母親と私は、たまたま機銃掃射の間隙に位置していたために、母子ともに助かった
のだという。

・・・・・・・・・・・・・・・

やがて玄関口から父親の声が聞こえてくる。

「勉、帰ってきたか、和江さんも一緒か」という父親の後ろから弟の明がやってくる。
「兄さん、お帰りなさい」と上背のある明が人なつっこい顔をして頭を下げる。
「あれ、幸子さんは」という問いかけに弟が振り向いて・・・

「今、鮮魚センターで、買い込んできた魚貝類を車から降ろしているから、もうすぐ、
こっちに来るよ、美智子姉さんも一緒だよ」

すると、父親が、私と弟の明との会話が終わるのを待っていたかのように・・・

「おい勉、久しぶりに蟹のしゃぶしゃぶを用意しておいたよ」
と、いうので、私は思わず・・・

「そう思って酒はあまり呑めない親父に合わせてワイン風の大吟醸にしたよ」
と笑顔で応えた。

「いいね勉は、相変わらず気がきくね母さんはどこ?」
と奥に向かって声をかける。

母親の節子が、急ぎ足で奥から出てくる。
「お父さん、早かったわね」

「そりゃ、勉が久々に嫁さんを連れて帰って来るっていうから、買い物も大急ぎ
で済ませたよ」

すると、母親から・・・
「勉、食事の支度が出来たから、二階の皆に声をかけておくれ」

二階に行くと皆が外出着から着替えていて、すぐに、なにやら手に持ってワイワイ
ガヤガヤと一階に集まって来た。

さてさて、テーブルの上には湯気が立ち始めて、恒例の新年会の始まりである・・・

父親の竹次郎を中心に囲んで乾杯が済むと、大吟醸やらワインやらを側において
蟹のしゃぶしゃぶに箸が進む。これは、もはや・とまらない・とめられない大好物で
それぞれに箸がいそがしい。

蟹のしゃぶしゃぶに箸が続く静寂を破って、父親の竹次郎から・・・

「勉、今年の初夏に神戸の兄さん(義兄)と一緒に研修船に乗るんだってね」
と、今度、乗船することになる豪華客船の大きさの説明からはじまって、潜水艦の
技術面の難しさ、そして話はさらに飛んで父親の得意とするハーレーダビットソン
やインディアンといった大型オートバイによる山道でのレース展開に話題が移り、
皆、お腹も気持ちも一杯になって幸せな気分を味わった。

父親の竹次郎の乗り物好きは、今に始まったことではない。父親が、青年時代を
過ごした群馬県前橋市は養蚕が盛んな土地で、祖父は、生糸を製造する工場を
経営しながら、絹を外国に輸出するという製販一体の事業を経営していた。

竹次郎は次男として生まれたのだったが、長男が武術家を目指し家業に全く興味
を示さなかったために、竹次郎が青年時代から後継者として育てられた。

地域では、負けず嫌いな性格から、地元の野球チームのエースとして、期待され
祖父も、そんな性格を見込んで事業運営の初歩から熱心に仕込んだ。

そんな竹次郎が仲間と熱中したのが、ハーレーダビットソンやインディアンと云った
大型オートバイによる競い乗りであった。群馬の山奥の工事現場にダイナマイトを
運ぶプロフェッショナルなサイドカーの名手たちと群馬の山道で競争したということ
から想像して、相当に、あぶない遊び仲間だったようである。

しかし、さらに乗り物への興味を深めたのは、当時の小型自動車ベビーフォードへの
あこがれであったと云う。これが、今日にまで到る熱狂的な乗り物好きに、決定的な
影響を及ぼしたようである。

祖父の性格を熟知していた竹次郎は、群馬の田舎道で親友から車を借りて練習を
重ね、先ずは、自動車運転の免許証を取得した。

その上で、祖父に・・・

「車を買って欲しい」と陳情した。当時の感覚としてはとんでもない陳情であった。
それでも、祖父の顔を見る度に「ベビーフォードを買って下さい」と陳情を重ねた。

「車を運転するには、免許証が必要だというじゃないか?」
「免許証を取れたら考えても良い」と・・・

当時「車の運転は難しくて」免許証を手に入れるのはたいへんなこと。と、知り合い
から聞いていた祖父は、免許証を盾にして、諦めさせようとしていたという。

竹次郎は、黙って免許証を差し出した。「武士に、二言はない」が口癖だった祖父は、
こうして竹次郎に一本取られた。

父親から聞いた「ベビーフォードの失敗談」には、私も目を丸くした聞いた・・・

「愛車のベビーフォードを悪友たちと走らせ当時の鉄道の線路に嵌めてレール運転
を楽しんでいたところ、当時は、鉄道の運行数が少なくて、汽車は来ないと、決めて
かかっていたところ汽笛が聞こえた。慌てて土手の下にハンドルを切って脱出した」
というのである。

「危機は脱したものの、線路から転げ落ちた車内は上も下もない大混乱で、あの時は、
さすがに驚き、そして、まいったよ」という父親の竹次郎からの仰天話であった。

「今時、そんなことをしたら、あの世行き」というのが、私の率直な感想である。

また、ハーレーダビットソンやインディアンといった大型オートバイに跨っての競争に
おいて、工事現場に向かうプロフェッショナルとのオートバイの競り合いでは当時の
踏み切りの遮断機が、最も危険な存在で、当時は、遮断機に鉄製の鎖を使っていた
ため競争に夢中になりすぎた同僚が、無理な踏み切り横断をして、鎖が身体に巻き
つき大怪我をしたこともあったという。

「今の若い者は・どころか・昔の若い者は」といったところだが、どこからが危ないの
かを、若いときから「肌身で感じ取っていた」ために、昔の人は戦時下を生きのびて
きたのだと、私は肌感覚で感じ取っている。

戦時下では予想もしない出来事が発生する・・・

現に家内の父親は、マレーシアに陸軍士官として従軍中に、炊事当番が、突然、姿を
消したため、周辺一帯を捜索したところ、水を汲みに行った帰り道に虎に襲われたこと
が分かり、部隊が総動員で虎退治に当たったという体験談を聞いた。

戦時下における予想外の出来事に例外はなく、それは、女性たちにも襲いかかった。
父親の妹である春子は銀行員として同僚と共に満州に渡った。そして終戦を満州の
現地で迎えた。

日本に帰るためには「夫婦の形態などをとっての帰還でなければ極めて危険な状況」
にあったために、同僚の助けを得て仮の夫婦を装って、命からがらの思いで、日本に
帰りつき、春子は、その脚で、私の父親を頼りにして身を寄せてきた。

当然のことだが戦争が終わっても、そこに居合わせた人たちは引き続き戦争の余波を
受け続ける。先ず無事に帰還してもすぐには仕事がない。春子叔母さんは、私の父親
の竹次郎のところで居候となった。

私には記憶がないのだが、食事の時に・・・

「春子叔母ちゃんが、ご飯をみんな食べちゃう」といって、家族を困惑させたという
のであるが、私には、まったくといってよいほどに記憶に残っていない。

心理学教室において・・・

「幼い頃の記憶を何歳まで辿れるか?」という設問があるが、私には防空壕から外に
出て、おしっこをしようとして、空を見上げた時に「B29の標識灯を見た」という記憶は
ある。これは、三歳の時の恐怖感を伴った記憶であるが、春子叔母さんとの食事時の
問題発言の記憶は、これが、まったくないのである。

ただ、子供心にも・・・

「綺麗な女の人だなあ」という印象は、記憶に強く残っている。その後、春子叔母さんは
父親の竹次郎の知り合いの紹介で「東京の遊覧飛行機の案内嬢」として、職が決まり、
居候生活にピリオドを打った。

当時、私は、まだ幼くて、父親の竹次郎がどのような経過で航空関係者と知り合いを
もつに到ったかは知らない。

何年かして、子供ながらに・・・

「これが人間の運命なのか」と思わせる出来事が起こった。

「あの春子叔母さんをお嫁さんとして迎えたい」という人物が登場したのである。

しかも、遠路はるばる茨城県から、本人が父親と一緒に親代わりの竹次郎のところに
たずねて来るという。

当日は、前日の晩から泊まり込んでいた春子叔母さんと父親の竹次郎の前にテーブル
を挟んで来客のお二人が座って話しが始まった。

プロポーズのご本人は春子叔母さんが満州から日本に帰還する時に仮の夫婦を装って、
エスコートしてくれた元同僚であった。

帰還後、日ごとに春子叔母さんへの思いを募らせていったのだという。春子叔母さんは
東京の遊覧飛行の案内嬢が脚光を浴びはじめ、エアーガールと呼ばれて憧れの職業
になりつつあり、その仕事に自分でも相性の良さを感じていたので結婚話には躊躇感
があった。

春子叔母さんにプロポーズしてくれた本人に好意は感じていたが、先方の家が茨城県
の大農家ということもあって、春子叔母さんは・・・

「大農家の嫁として、やりこなして行く自信がない」といっていた。

やがて、見るからに豪農の旦那様という風格の父親と優しそうな元同僚は・・・

「急ぎませんので好いお返事をお待ちしております」と云い残してお帰りになった。

私は、このやり取りを子供ながらに、縁側で、学校の宿題の写生を仕上げながら一部
始終聞いていた。やがて、お客さまが帰った後で・・・

「勉くんは、飛行機は好き?」と春子叔母さんから聞かれて、
「はい、大好きです」と答えると春子叔母さんは見るからに重そうなボストンバック
から一枚の写真を取り出して見せてくれた。

「わ~~~格好いい」と、思わず、私は、叫んでしまったことを、今でも覚えている。
遊覧飛行機の前で春子叔母さんがスカーフをなびかせて写っていた。そして私は
春子叔母さんから飛行機の写真を一枚いただいた。

それから、一年後に、春子叔母さんは茨城県の元同僚のところに、嫁入りをする決心
がついたことを、手紙で父親の竹次郎に知らせてきた。

嫁入り後、春子叔母さんは農家の仕事や年間行事などを覚えながら、男の子を二人
産んでりっぱに育て上げて、今は、孫たちに囲まれた生活をしている。

戦時下・そして・戦後の影響は従兄弟たちにも影を落とした。私は今でも覚えている
が前橋市から従兄弟の晃さんが父親の竹次郎のところに、ひょっこりと現れて・・・

「これから、東京に行って働くことになったので、ご挨拶に伺いました」と、云って一晩
泊まり、早朝に勤め先に向かった。

晃さんの父親は、佐久間家の長男で、武術家としては地元に弟子も多く、全国的にも
良く知られた武術家で身体の頑健さが自慢であったがフイリッピンで戦死した。

父親の竹次郎は、次男であったが、そのような事情から、家業を継ぐ修行をしていた
経過もあり、晃さんの親代わりとなって自立するまでの間は面倒をみていた。

その後、突然の知らせで・・・

「今度、予科練に入りました」と知らされ間もなく終戦を迎えた。そのような状況の中
での東京行き。そして「仕事が見つかりました」という挨拶だったので、すっかり安心
していたのだが、その後、便りも途絶えて心配になり、就職先をたずねたところ友人
であったという方から「浅草の闇に消えたまま、いまだに、なんの連絡もない」という
状況が分かり春子叔母さんも、一緒に、東京の知人の助けをかりて探してくれたが、
消息はまったくつかめなかった。

これにはさすがに冷静沈着な父親もすっかり意気消沈した様子で・・・

「兄の松太郎に申し訳ない」といって仏壇に手を合わせていた。

父親は、終戦後の勤め先でも、なにかと人に頼りにされるところがあり職場の人が時々
悩みごとの相談に見えていた。父親の竹次郎が、いつも輝いて見えたのは、自己実現
を越えて他己実現のために走り廻っていたためと気付いたのは、私が自分自身で子供
を育てる実体験を重ねてからであった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

何故「新春の家族」のことを、突然、思い出したのだろう、と、不思議な感覚に陥った
自分に驚きながら、もう一度、ヘッドシミュレータを頭から被った。


【造船業からの近代化の始まり】

日本の造船業は幕末に始まっている。動力のない木造船は太古の昔から作られていた
が動力付きの鋼鉄製の造船は幕末からであった。それまでの和船は龍骨のない、底の
平らな帆船で、外洋航海には不向きなものばかりであった。

一八五三年に、浦賀沖において、ペリー提督が率いる黒船が突如として現われ、この
蒸気船が日本の造船業を近代化に導いた。それから百五十年間たった現在においても、
なにかにつけてアメリカから変化を促されて、日本の社会構造を変えようとしている
姿は、今も昔も変わっていないところが興味深い。

幕末には、日本でも造船ラッシュを迎えることになるがコスト面などから、外国から
の輸入にかなわないことがすぐに判り、ほとんどの造船所は閉鎖されていった。

しかし、水戸藩が江戸の石川島に開設した造船所は生き残り、一八六七年に平野富二
が払い下げを受けた。これが、日本最初の民営の造船所となった。この石川島造船所
では船体の建造が盛んに行われた。

一方で、幕府の長崎造船所は、明治政府に引き継がれ、後に三菱に売却された。

その後、第一次大戦後は国産艦船だけで、艦隊を構成できるまでに建造力を向上させ
ていった。

民間需要も、第一次大戦を経てから著しく伸びて、一九一九年(大正八年)には国内
需要のほとんどをまかなえるまでに成長した。

時期を同じくして、工作機械メーカーや製鉄業も、世界的産業に発展していった。
このようにして日本の工業生産力は造船技術の総力を高めて行き、第二次世界大戦前
の一九三九年(昭和十四年)には日本の造船技術は「イギリス」「アメリカ」に続く、
世界で「第三位の造船国」になっていた。

・・・・・・・・・・・・・・・

【航空機産業の始まり】

日本において初めて空を飛ぶ快挙は松山藩の二宮忠八が、一八九一年(明治二十四年)
にゴム動力によって、鳥を真似た模型飛行機を製作。空中を三十メートル飛ばした。
その後、実用機を設計して陸軍に提案したが採用されなかった。

その後、二宮忠八は、ライト兄弟による人類初の動力による飛行を新聞で読んで知る
ところとなり、涙を流して悔しがったと云われている。

ライト兄弟は一九〇三年(明治三十六年)十二月にアメリカのノースカロライナー州
において、人類初の動力飛行に成功した。

日本における動力飛行は、一九一〇年(明治四十三年)十二月に・・・

◇フランス製のアンリ・ファルマン機によって、徳川大尉が飛行に成功した。
◇一方、ドイツ製のハンス・グラーデ機は、日野大尉によって飛行に成功した。

この二機の記念すべき初飛行は、代々木練兵場で行われた。

日本における航空機製造の取り組みは、一九〇九年(明治四十二年)の研究会の発足
からである。

◇陸軍は、一九一一年(明治四十四年)、所沢に日本初の飛行場を建設した。
◇一方で、海軍は横浜の金沢海岸に飛行艇の基地を開設して航空機製造のインフラを
整えた。

そして、海軍は、海軍士官七名をヨーロッパとアメリカに派遣して、フランスからは、
ファルマン機を二機、アメリカからカーチス機二機を持ち帰った。

その後、海軍は、ファルマン機の輸入を促進。さらに海軍は保有する船の一隻を空母
のように改装した。

一方で、陸軍は、一九一一年(明治四十四年)にフランス製ルノーのエンジンを基に
してエンジンの生産に成功している。一九一五年(大正四年)には、陸軍に航空隊が
設立され、翌年、海軍にも同様の組織が設立された。

このような状況のなかで航空機開発の必要性が盛り上がって行き、やがて航空技術者
の養成が急務となって行った。

東京大学工学部には航空研究所と航空学科が設置され、航空技術者の養成が急ぎ進め
られた。

一九一七年(大正六年)頃になってからは民間の航空機メーカーが続々と設立された。

◇中島飛行機および三菱航空機、川西航空機、川崎航空機、愛知航空機、九州航空機、
立川航空機などは、いずれも大正時代に設立された。

◇この中で、三菱航空機、川崎航空機、立川航空機は、造船業に源を発している。

◇三菱航空機の発祥は、大正九年に三菱内燃機製造が名古屋大江町に設立されたこと
に始まる。昭和三年に三菱航空機と改名され、さらに造船部門と合併して、昭和九年、
三菱重工に改められた。

◇三菱は、日本初の独自の設計による、海軍九六式艦上戦闘機の開発をはじめとして、
世界をあっと驚かせた零戦を開発。終戦直前にはロケット航空機秋水を完成させた。

◇川崎航空機は、大正八年の川崎造船飛行機科の設置が航空機メーカーとしての始ま
りである。昭和十二年に岐阜県各務原において工場を新設して独立し、川崎航空機と
した。高速戦闘機飛燕の開発が有名である。

◇立川飛行機は、最初は石川島飛行機と称して石川島造船の子会社として大正十三年、
東京月島に創設された。その後、立川に移転し、昭和十一年に立川飛行機と改名され、
川崎、中島の機体を数多く転換製作した。昭和十五年に日本紀元二六〇〇年記念行事
として、朝日新聞が、主体となって製作されたA26は、東大航研の設計チームの下、
立川飛行機で製作されことは有名である。

◇中島飛行機の成立は、海軍機関大尉であった中島知久平が、一九一七年(大正六年)
に退役後、郷里の群馬県太田市で航空機研究所を創立したのが始まりである。これは
日本において民間航空機工場の第一号といわれている。

◇中島知久平は、さらに、繊維会社を経営していたところの川西清兵衛との共同事業
として、一九一八年(大正七年)には合資会社日本飛行機製作所を設立したが翌年に、
中島式四型のエンジンに係わるトラブルが原因で川西との提携を解消した。

◇その後は社名を中島飛行機製作所に変更して数多くの名機を送り出した。陸軍機で
は、鍾馗、呑竜、疾風など、海軍機では月光、天山、銀河、富嶽などがある。

◇そして、終戦間際に、我が国初のジェット戦闘機「橘花」を誕生させた。

・・・・・・・・・・・・

私は、目が疲れたこともあり、ヘッド・シミュレーターを取り外した。日本の航空機産業
に関するテロップを垣間見ただけであったが、自分たちを取り巻く因縁の深さに驚い
たのであった。

◇私の父親の竹次郎が、生まれた年は、一九〇九年(明治四十二年)で日本において、
航空機製造の取り組みが始まった年である。今回の旅でご一緒のミセスCIAや私が
住んでいるところから近い、所沢は、まさに日本の初期における飛行現場である。

◇そして私が生まれた群馬県太田市は、飛行機の神様と云われている中島知久平氏の
郷里である。しかも終戦間際に飛行試験に成功した橘花に搭載のジェットエンジンは、
私の勤務先の武蔵野事業所に実物が展示してある。

そういえば、私が入社して、その配属先が「航空機関係」の部門と知ったときの父親
の喜びようは並大抵のものではなかったことを思いだした。

現在、私が勤務する航空エンジンの事業所は武蔵野に在る。私の航空機分野への就職
を自分のことのように喜んでくれた父親竹次郎の気持ちのなかには、航空機に関する
並々ならぬ意味深いものがあったのではないかという印象が脳裏によみがえってきた。

「しかし、父親の竹次郎が航空機の飛行試験に携わっていたことを、私には、一言も
語ったことがないのはなぜだろうか?」

ここで私は、記憶の彼方から、子供の頃に父親と一緒に飛行場で見た「あの燃やされ
ていた飛行機」のことをフラッシュバックのように思い出した。

・・・・・・・・・・・・・・・・

私は、群馬県太田市で生まれて、新入社員として上京するまでは、父母妹弟と一緒に
群馬県太田市に住んでいた。父親は、群馬県前橋市の出身であるが第二次世界大戦の
時に、中島飛行機に勤めるようになって、群馬県太田市に住むようになり、そのまま、
太田市に住み着いた。

あの第二次世界大戦が終わってからのことである、飛行場で日本の飛行機が燃やされ
る姿を見て、私は、子供ながらに背筋が寒くなったことを今でも覚えている。父親は、
そんな光景の中で燃やされてゆく飛行機を黙って見ていた。

「勉、行くか」という掛け声は、父親が休みになると決まって飛行場に行く時の合図
であった。父親は、乗物を自分で動かしたりエンジンを分解して調整したりすること
が部類に好きであった。



015 ハワイにはフルムーンの旅

私は家内と一緒にニュージーランドの旅に出かけて、現地で実際にマウントクック村
の自然環境に触れて、随所で積極的に環境保護に取り組んでいる姿を見て大いに考え
させられた。

同時に、このニュージーランドの旅があらゆる面で、私にとって、一大転機であった
ことを時間の経過とともに、本人である私をしてジワジワと感じ取ることになる。

結果的に、この旅行は神様からの「おぼしめしの旅」であった可能性もある。

今回のニュージーランドへの旅行案内は新聞広告で見付けた。私にとって家内と一緒
の海外旅行は、平成元年におけるハワイ空路のフルムーンが初めてであった。

それまでは二人しての旅は国内が主体であり、時代が平成と云う新しい局面に入って、
それでは「フルムーン」と洒落込んで、海外にでも出てみようかということになって、
豪華版のハワイ旅行を堪能した。

そのハワイ旅行がとても楽しかったことから永年勤続の表彰旅行も海外と決め込んだ。

しかし、永年勤続の表彰旅行ということになると、若干の旅行代金の上乗せは可能と
しても社内規則の様なものもあり、豪華旅行という訳にはいかないので一定の予算内
で贅沢な印象を与えないように配慮も必要である。

その点において、新聞広告のニュージーランド旅行は、妥当な旅行代金であった。

たしかに、豪華版のハワイ旅行では、カウワイ島のホテルに滞在した時などはホテル
のプライベート・ビーチには、赤々とかがり火が燈されてムード溢れるレストランで
のディナーのときに、ツアー・コンダクターの女性から・・・

「この中にフルムーンでご旅行の方は、いらっしゃいますか」と云う問いかけがあり、
「ハイ、います」と、ほぼ反射的に手を挙げた私に、超豪華賞品がホテル側から贈呈
されたりと、至れり尽くせりのもてなしで、シダの洞窟に向かう船内では歌手による
生演奏が提供されるなど、サービス満載の豪華旅行であった。

あの時にハワイの豪華旅行を選択した心境としては・・・

私が三十年代前半での欧米へのビジネス出張において、約一か月間は寝る間も惜しん
での「航空業界における管理工学の在り方についての実態調査に基づくレポート書き」
では、観光の「かの字もなかった」思い出が思わず脳裏を走った。

しからば家内と一緒の海外の旅では「観光盛りだくさんの旅にしよう」と決め込んで
ハワイ豪華旅行をセーリングポイントにしている商品を選んだ記憶がある。

その満足感ゆえに、今度も海外の旅と決めて、今回は妥当な金額のニュージーランド
旅行を選んだ。

結果・・・

適切な選択であったことは、旅路を経て・豪華さよりも・有意義性という面において
満足感を重ねて行くことになるのである。

・・・・・・・・・・・・・

話を元に戻すが・・・

「父親の竹次郎が戦時中にテストパイロットをしていた」
という衝撃的な話を聞いたことから、私は、直近の記憶として正月からの父親との
会話などを思い出しているうちに、あれだけの動力好きなら、

「やはり・・・」と、いう気持が再び脳内に蘇って来た。

そこで、気を取り直して・・・

再び、ヘッド・シミュレーターを装着して、カセットの残りの情報を一気に、脳内に
記憶した。

それは「世界大戦の始まり」「自動車産業の始まり」「戦後の航空機産業の始まり」
へと連なる内容で構成されていた。

ここでは「戦後の航空機産業の始まり」のみを抜粋する。

【戦後の航空機産業の始まり】

第二次世界大戦後は航空機関連産業の全ての活動が禁止された。

設備は没収され破壊されて、航空機メーカーは解体され、あるいは小規模の会社組織
に分割された。

一九五二年(昭和二十七年)に禁止令が解かれるまでの七年間、これらの企業はバス
の車体・スクーター・自動車部品・農機具などの民生用生産へと大きく転換させられ
ていた。

戦時中には、七十万人の雇用を有していた航空機産業は、こうして崩れていった。

この七年間の間に、技術者の転用が激しい勢いで進んでいった・・・

一九五二年(昭和二十七年)に、民間航空と航空機製造事業が再開されて、この年に
航空法と航空機製造法が制定された。通産省には、航空機課が設置され、この法律は
航空機に関する高い技術水準を維持する狙いで制定されたものである。

一九五四年(昭和二十九年)には、これを航空機製造事業法として改め、優秀な技術
と健全な経営が可能な企業だけが航空機の生産を承認されるとして規定された。

一九五四年(昭和二十九年)には防衛庁が設置され日本は冷戦の緊張が高まるなかで、
アメリカとのライセンス協定の下、防衛庁向けの軍用機生産が始められた。

最初のプロジェクトはノースアメリカン製のF86戦闘機とロッキード製のT33A
練習機のライセンス生産であった。

F86は新三菱重工(現三菱重工)、T33は川崎重工が、それぞれ担当した。

その後、ロッキード製のP2V7、ロッキード製のF104J、マクダネルダグラス
製のF4、F15が、ライセンス生産された。

これらのライセンス生産は、航空機製造における生産技術や生産管理などの技術力の
向上に大きく貢献した。

一九五五年(昭和三十年)には、防衛庁からの強い要求で国産ジェット練習機T1の
開発が決定した。戦後初の国産機の契約は富士重工が受注した。

一九五八年(昭和三十三年)には、国産ジェット練習機 T1 の一号機が納入された。
エンジンは最初は輸入エンジンを装備していたが、二年後からは国産エンジンのJ3
が搭載されて、完全な国産機となった。

J3エンジンは、石川島、富士、三菱、富士精密(後のプリンス自動車)からなると
ころの日本ジェットエンジン製作が開発、その後は、石川島に移管された。


【国産民間機の始まり】

一九五七年(昭和三十二年)に、国産のジェット練習機T1が飛行試験に成功した頃、
もう一つの国産機のプロジェクトが立ち上げられていた。輸送機設計研究協会である。
協会は、二年後には、日本航空機製造株式会社(日航製)に発展し、YS11が開発
されることになった。

この会社は航空機製造振興法の下で設立され、政府が六十パーセント出資して資本金
五億円でスタートした。

民間出資会社は三菱・川崎・富士・新明和・日飛の機体メーカー五社が中心であった。
YS11は、一九六二年(昭和三十七年)に、初飛行に成功した。

しかし操縦性能の問題で計画に遅れが生じ、一九六四年(昭和三十九年)に計画から
一年以上遅れて、運輸省航空局の型式承認を取得した。

翌年、一九六五年(昭和四〇年)には、米国FAAの型式承認も取得し輸出の準備を
整えた。しかし、この一年間の遅れの影響は大きく計画の三〇〇機を大幅に下回って、
一八二機(内輸出は八二機)の生産で打ち切られた。

結果として、多額の赤字(三六億円)を抱えて、一九七一年(昭和四六年)に生産を
終了した。日航製は一九六六年(昭和四一年)からは、防衛庁向けの戦術輸送機C1
の基本設計を開始した。

C1は、川崎重工を主契約として、機体メーカー五社のもとに生産された。

一九五〇年(昭和四五年)に初飛行に成功したC1は、全部で三〇機が生産された。
この機体は、後に、航空技術研究所の研究機 飛鳥 に改造された。

日航製は、一九八三年(昭和五八年)に最終的に清算されて三菱重工に移管された。
その後は、超音速練習機 T2 が三菱重工を主契約として開発されて、一九七一年
(昭和四六年)に初飛行した。

この超音速機は、アメリカ、ソ連、イギリス、フランスおよびスエーデンに続いて
六番目の飛行成功である。

航空機用のエンジンについては純国産のジェットエンジンJ3を石川島が量産化し、
その後も防衛庁向けエンジンのライセンス生産が石川島播磨重工を主体にして着実
に続けられた。

このライセンス先はジェネラル・エレクトリック(GE)・ロールスロイス(RR)
およびプラットアンドホイットニー(P&W)である。

国内的には、石川島播磨重工を主軸にして、川崎重工(KHI)・三菱重工(MHI)
もエンジン生産に加わった。通産省は、J3の次の国産エンジンプロジェクトを真剣
に考えていた。

一九六〇年代から純国産のFJR710エンジンの開発が始まり、その試作第一号機が、
一九七三年(昭和四八年)に完成した。

その後、数台が製作されて、一九八五年(昭和六〇年)に、C1を改造した飛鳥に搭載
され試験飛行に成功した。

この開発成功に注目したのが英国RR社であった。

彼らは新しい中型エンジンの開発パートナーとして日本を指名した。

一九七九年(昭和五四年)FJRの開発が一段落した時点で、このプロジェクトは、

「日英共同開発」に発展した。新しいエンジンはRJ500。通産省のプロジェクト
名はXJBと命名された。

その後、このエンジンは五カ国共同開発に発展。今日ではV2500エンジンとして
世界中の空を飛んでいる。このエンジンは国内では、石川島播磨重工が中心になって、
三菱重工や川崎重工との協業で、日本をはじめとして、イギリス、アメリカ、ドイツ、
イタリアの五カ国で共同生産している。

日本におけるこの運営共同体は日本航空機エンジン協会(JAEC)であり通産省が、
一九八三年(昭和五八年)に発足させたものである。

こうして通産省の真剣な取り組みは、民間航空の分野でも実現した。

石川島播磨重工は、これ以前においても、一九七〇年(昭和四五年)から、イギリス
のRR社、フランスのターボメカ社との三社による共同開発エンジンであるアドアを
成功させている。

アドアエンジンは国産超音速機T2およびその派生型のF1に搭載され活躍している。

また、石川島播磨重工が中心になって開発した国産のF3エンジンは、T4の機体に
搭載されて活躍しており、同規模の民間向け仕様であるCF34エンジンはGE社と
の共同開発で飛行試験に成功して、実用化の道を歩んでいる。

大型エンジンの開発分野においても国際的なエンジン共同開発や飛行試験に成功して
おり、機体に比べてエンジン開発のスタートは遅れたものの、現状では確実に技術力
を積み上げて、世界の市場に乗り出しているといえる。


016 父親との思い出の機体

私としては、全部の監修データを見終わっての感想として、日本政府の刊行物を基に
して監修したものだというが良くまとまっていることに驚いた。もの凄い情報量をあっと
間に脳内で整理できる。

「こんなマシンを自宅でも活用できたらいいな」というのが、私の率直な気持であった。

まるでタイミングを測ったように蝶ネクタイの神崎さんが顔を出された・・・

「お名前を確認しておいてよかった」と私は内心で思った。
神崎さんのお名前をアシスタント役の白木さんに教えていただいていたのであった。

先程、白木さんがみえたときに・・・

「失礼ですが、マウントクック村に、お迎えに来ていただいたときに、お名前をお聞
きしたのですが、漢字ではどのようにお書きするのか確認するのを忘れまして」と
いう言葉に、白木さんがとっさに反応されて、

「かんざきのことですね。神様の神に、山崎などに使う崎です」
「あの俳優の山崎努の崎ですね」
「その通りです」
「ありがとうございました」
こんなやりとりで、神崎さんのお名前を確認しておいた。

私は、早速・・・

「神崎さん、この装置は、ほんとうに良く工夫されていますね」
「短い時間で頭の整理が出来るのでたいへん便利です」
「家に持って帰りたいくらいですよ」
「勉さま、このヘッド・シミュレーターは、日本にお持ち帰りになっても残念ながら、
ご利用いただけません」と答えながら神崎さんは少し間をおいて、

「閣下から、飛行準備は順調に進んでいるとの伝言がありました」
「勉さまには、是非とも、新鋭機に搭乗していただきたい」と申しておりました。

「その前に、テロップで紹介させていただきました戦時中の飛行機をほぼ原形に近い
形で復元して、イエスタディー館内に展示してありますので、ご興味がおありでしたら、
是非、ご覧になって下さい」

「ほとんど、全機、いつでも飛行できるように整備してありますので、おっしゃって
いただければ、私から操縦案内させていただきます」
「実際に、飛行できるということですか?」
「はい、飛行できます」
「複座の飛行機であれば、私の操縦で飛行体験していただけます」

「ツディ館もございますが、改装中でして、残念ながら、ご覧いただけません」
「私が子供の頃に飛行場で父親と一緒に見た、あの燃やされていた飛行機も同じ型式
のものが置いてあるのだろうか?」という好奇心が湧いてきて思わず、
「イエスタディー館を是非とも拝見させて下さい」とお願いをすると、
「はい承知しました。それでは参りましょうか」と神崎さんに促されて後からついて行くと、
エレベーターで地下五十階に到着する。

高速エレベーターの扉が開くと、目の前には通路が広がっていて、一直線に奥まで見通
せる。通路の両脇には飛行機がびっしりと並んでいて圧巻である。

幼い頃に、父親と一緒に見たあの燃やされていた飛行機はどの機体だろうかと、興味が、
そこに集中する。機体が燃やされる瞬間に、ヒューヒューという虎落笛(もがりぶえ)のよう
な叫び声をあげていた飛行機は、どの機体なのだろうか?

イエスタディー館のフロアーは、天井が高く、真中を走る通路は、奥行きが五百メートルを
越えるという。それだけにそれぞれの機体はゆったりとした間隔で置かれている。飛行機
の前に掲示してある看板から飛行機の名前とエンジン性能など興味深く読み取って行く。

「紫電改。海軍戦闘機。沖縄戦で、アメリカ艦船に向けて、特攻で活躍」

「三菱九六式艦上戦闘機。海軍戦闘機。日本初の独自設計機」

「雷電。海軍局地戦闘機」とある。
この飛行機の名前は父親から何度も聞いたことがある。

「飛燕。陸軍戦闘機。日本の本土防衛に活躍」、この名前も父親から良く聞いた。

「月光。陸上偵察機。夜間戦闘機として活躍した」と案内板に書かれてある。

「三菱キ51九九式。陸軍偵察機。神風特攻隊で数多く使われた」

「彗星。海軍艦上爆撃機。ミッドウェーで最初に使用された」

「零戦。海軍艦上戦闘機。約一万五百機が製造され、神風特攻隊として優秀機の生涯
を終わった」

「三菱九六式陸上中型攻撃機。海軍。陸上基地攻撃隊の主力機であった」

「愛知零式水上偵察機。海軍。カタパルトを付けた水上偵察機である」

「隼。陸上戦闘機。マレー、ジャワ、スマトラ、レイテで活躍した」

「三菱四式重爆撃機。陸軍。硫黄島、マリアナ、沖縄で活躍した」

「呑龍。陸軍重爆撃機。初めて尾部銃座をもった機体である」

「銀河。海軍陸上爆撃機。夜間用に初めてレーダーを装備した機体である」

「疾風。陸軍戦闘機。急降下爆撃機、夜間戦闘機、迎撃機など幅広い用途で使用され、
約三千五百機が製造されて、最後の首都防衛の任務を果たした」

ここで私は幼い頃に目の前で燃やされていた飛行機はこの機体ではないかと直感した。
(機体のシルエットがよく似ている)。

あの飛行場で、父親と一緒に見た燃やされていた飛行機は、この疾風にちがいない。
あの時は子供ながらに背筋に寒さを感じた。
ヒューヒューと飛行機が泣いているような虎落笛に似た音がかすかに聞こえていた。

私は、両側に整然と並んだ傑作機の一群をみて、神崎さんに話しかけた・・・

「これだけの日本の航空技術力を目の当たりに観たら、アメリカは当然のこととして、
アメリカ本土の防衛の観点からも、戦後の日本における飛行機製造への取り組みを
禁止しますよね」と、私が感想を述べると、神崎さんが・・・

「しかし、この航空機にかかわっていた技術者が、今度は、自動車産業に移って行き、
その技術力が結集して、今度は、日本からの自動車輸出という形に発展してアメリカ
本土に上陸するというところまでは想像していなかったでしょうね」
と、感想を付け加えられた。

「たしかに産業の発展史として、最近の中国の急速な発展をみても産業が海から岸辺
に向かって起こり、陸へ、さらに内陸部へと発展していますね」と私も答える。

「日本も海を活躍の舞台とした造船が、やがて世界一となって、空の飛行機への発展
につながり、さらには、自動車に波及効果を広げていった」というのが、日本の産業の
発展史ですと神崎さんが話をつなげる。

私は、ここで自問した。

「日本が通常の産業発展モデルといわれている『海から陸へ』そして『陸から空へ』と
いう進化の過程ではなくて、第二次世界大戦という特殊な環境下にあって、 一気に
海から空に向かったというところが『技術力』において、 一大飛躍を成し遂げた要因
かも知れないですね」と声に出す。

「昭和初期の航空機の生産台数は、年間で400機程度だった。それが、昭和十九年
(一九四四年)には、年間二万四千機というピークを迎えたということ自体が、想像を
絶することですね」と投げかける。

「また、製造機数だけではなく、 昭和十七年(一九四二年)には、東大航空研究所が
長距離飛行機を完成させて、当時、飛行距離の世界記録を達成している」と 驚いた
様子を示す。

「また、新技術という面では終戦直前に『ネ20のジェットエンジン』を完成させて橘花
に搭載、初飛行にも成功している」と今回の監修データから再認識したばかりなので、
自然に声にすることができる。

そして、私は、さらに自問を続けることになる・・・

「日本の産業が造船で世界一になり、その技術力を生かして第二次世界大戦では飛行
機の製造数を飛躍的に高め、戦後は、その技術力が自動車産業に移植されて、自動車
産業発展の基盤を形成することになった」

「そこには、海から空へ、空から陸へと駆け抜けた『頭脳の存在』が鍵をにぎっていた」と、
ここで声を大にする。

「これらの史実を現代に生かす術はなんだろうか」と声にする・・・

「本来的に技術者魂は、それが戦時下であっても純粋な性格を成していることが多く、
国家間の平和的な関係維持や平和的な環境維持の中に、あってこそ、技術者たちの
ずば抜けた頭脳は生かしきれる」と・・・

一人で熱弁をふるう私に、口をはさむこともなく、神崎さんは一緒に歩を進める。

「今や日本の置かれた状況は、バブルがはじけて以来の後遺症的な閉塞感から完全に
は、メンタル面で脱しきれておらず、日中間の関係悪化の兆しなどは、見方によっては、
第二次世界大戦突入前の手探り状態に似てきているのではないか」

「現状において、日本の対外的な平和の均衡は、戦後の反省の重要項目として、一貫
して推進してきた『良好な日米関係の堅持』が唯一の救いになっている」と私の考えを
声にする。

「この戦前の閉塞感に似たところのある状況の中にあって、戦争への道ではなく平和を
希求する道を選び、どのようにして、バブル後における日本経済をより安定させて、それ
ぞれの企業復興をより確実なものにして行くか」

「現状の局面をより平和的に、難しい関係にある諸外国を含めて、信頼関係を取り戻し、
より連携を深めて、かつてのような窮余の中でのいちかばちかの決断ではなく、戦争に
よらない解決策としての第二、第三の道探し」

そして、技術立国日本として、最大の国家的財産ともいえる技術者たちの頭脳を・・・

「マーケティングの知恵者たちとの協働で、国家的に産業再創業を成し遂げ、継続的な
思考として第二次世界大戦の二の舞は避けたい」という感想がイエスタディー館を拝見
させていただいた私の素直な感想であることを神崎さんに声にして伝えた。

神崎さんは、この私の感想に対して・・・

「閣下も勉さまの感想を聞きたがっておりましたので、早速、お伝えすることにしましょう。
勉さまのそのような熱い思いを込めた感想を聞かれたら、きっと喜ばれることでしょう」

「それでは、戦後日本における現実の世界ではどのような躍進があったのだろうか?」
と、私は自問を繰り返す。

「既に戦後の産業の苦境の中にあって、その苦境をばねにして飛躍への道に転換させ
ていった異色の偉人として身近に知るところの人物としては、と、考えて、さらに自問を
繰り返す。

「戦後、海と空を経営力と技術力を駆使して、再構築した土光敏夫翁の存在は大きい」

「また、土光氏は経営力において重電・家電・情報技術の面にも新風を吹き込んで行き、
その経営力の総仕上げは国家事業の立て直しであった。国鉄の民営化に続けて電信・
電話の分野にまで民営化の新風を吹き込んでいった経営手腕は快挙といって良い」

「その好ましい影響は、今日において、郵政の民営化にも影響を及ぼした」

「陸の世界において大いなる夢を切り拓いた本田宗一郎翁にも熱血漢でありながらも、
清廉にして潔白な人間像から、日本を代表する類まれな経営力と技術力を感じる」

ここでの私自身の自問は・・・

「本田宗一郎翁の天才的な技術者魂とブラジルの希望の星アイルトン・セナとの出会
いは、まさに運命的なものであったといえる。天才的なドライバーとしての 技術力が
本田宗一郎の天才的な頭脳に点火して F1レースにおける世界一の座を獲得した」

「私は講演会の場で面前にて本田宗一郎翁のお姿を拝見したことがあるが講演会に
おいて伝わってきた、お人柄からも、多くの偉業は必然的なものと考える」

ここで、私はテロップでみた記事のことを思い出していた・・・

「中島飛行機でエンジン設計に従事していた中村良夫氏は、くろがねに入社。くろがね
が倒産した後は、本田技研に入社して、F1エンジンの開発に成功した」

「ここにも空から陸への技術移転が見られるが、本田翁の人間的な魅力を考えたとき
に中村氏の本田技研への入社も必然的であったような気がしてくる。同時に、テロップ
を見ながら考えたことを、回想しながら、私は、さらに自問を繰り返した」

「心理学において、ルビンが研究した有名な心理学実験に、ルビンの図と地の研究が
あるが、描かれた絵の外側を地として見ると、中央に盃が図として浮かび上がり絵の
内側を地として見ると、左右に二つの横顔が図として浮かんでくる」

「これは、ものを観るときに『どこを地』にして視点を当てるかで目方がまるっきり違って
くるということである」

私は、長い期間を航空分野で航空マンとして働いてきた。そして多くの航空人識者から、
航空機産業の空白期間の虚しさとして、航空機事業に携わることが出来なかった辛さと
焦燥感を聞かされてきたが、ルビンの図と地の関係を参考にすれば・・・

「航空分野の空白の期間を地としてみるとき、そこには、自動車分野が図として浮かび
上がってくる。このことは、戦前・戦中・戦後の産業史において、それぞれの独立的な
産業分野の中だけでの歴史を語るのではなく、海と空と陸とを関連付けた、立体的な
歴史観として解析していく必要がある」と強く感じた。

それにしてもイエスタディー館で目の当たりに見た飛行機群は圧巻であった。そして、
私の思いは航空分野の世界にあって異色の天才を挙げるならば、中島知久平翁と
確信するにいたった。

恐らく、これは幼い頃、父親から中島知久平翁の偉業を聞かされていたからかも知れ
ない。自問の沈黙を破って神崎さんに、その話をすると驚くべき答えが返ってきた。

私は、思わず耳を疑ったが・・・

「今から、お会いする閣下が『中島知久平』翁、その人である」と、いうのである。



017 終戦直前における「ネ20」ジェットエンジンの開発


私と神崎さんの乗ったエレベーターが最上階に止まる。

目の前に広がった空間は落ち着いた雰囲気で奥には大きな扉がある。神崎さんが手の
平を扉に向けると大きな扉は自動的に開いた。

「中島総裁、勉さまをご案内しました」と声をかける。

「閣下が中島知久平翁、その人であり、今度は、中島総裁という呼び方で神崎さんが
声をかけているが、ここには、公社のような組織でも存在するのであろうか?」
と私は自問する。

中島総裁と呼ばれる風格のりっぱな人物は、大きなテーブルに図面を広げて何か書き
込んでいたが、こちらに向かって立ち上がると、私と握手をしてから大きな図面が広げ
てあるソファーに腰掛けるよう、親切な手振りで、ソファーにご案内いただいた。

「あっ、これは超軽量ヘリコプター?」

「私たちも、経団連ビルで、航空関連業者の若手が集まる会合があって、何度か会合を
重ねているうちに、お互いにヘリコプターが趣味の仲間が多いことに気付いて非公式な
趣味のグループが誕生、現在は、休日になると集まっては、百機編成による飛行試験を
パソコンでシミュレーションすることを計画している」

「自分たちが趣味の分野で計画している超軽量ヘリコプターのシルエットによく似ている」

中島総裁は落ち着いた口調で・・・

「これは、今から、ご案内するエアーポートに準備した超軽量ヘリコプターの実験機
の図面です」

「ところで、イエスタディー館で飛んでみたい飛行機はありましたか?」

「父君の竹次郎さんは、あの疾風が、一番のお気に入りでしたよ」

私にとって、父親の竹次郎が中島翁の腹心の部下であり、腕利きのテストパイロット
であったという説明は、いまだに信じ難いことであった。父親からは、そのような話は、
今までに一度も聞いたことがなかった。

確かに動力ものが好きで、大型オートバイや自動車が部類に好きだったことは、幼い
頃から何度も聞かされてきた。事実、自動車などのエンジン好きはたいへんなもので
あった。自動車のボンネットを開けて夜遅くまでいじくりまわしている姿は中学生の頃
の記憶として強烈に頭の中に刻み込まれている。

それを考えると、父親が飛行機のエンジンに興味を持つことは必然的な成り行きとは
考えるが、そこまでの経緯がよく分かっていないので合点が行かなかった。

しかし、ここで、私が自問したのは・・・

「確かに、今にして思えば、戦後、自転車の後ろに私を乗せては、遠くの飛行場まで
出掛けて行って目の前で燃やされる飛行機を寂しそうに凝視していた姿は、子供な
がらに、いとおしさをこらえている様子として敏感に伝わってくるものがあった」ことは
事実である。

それは、一緒にいた当時の幼い私にも何か感じるものがあって、父親から伝わってく
るものがあったが、まさに「あの飛行機は父親が大好きだった疾風だった」のだとふと
我に返った私は・・・

「イエスタディー館の飛行機で飛ぶなんて、とんでもないことです」と答えると中島翁の
目が笑っていた。

中島翁は、目の前に広げている超軽量ヘリコプターの図面に話題を戻すと・・・

「このヘリコプターは操縦が簡単だから貴方も飛んで見ませんか」と云うのである。

「勉さんにとっては、父君が私たちと一緒に飛行機を飛ばしていたなどということは、
なかなか信じられないことでしょう」と好々爺風の優しそうな目で笑う。

中島知久平の名前は子供の頃から航空界における神様のような存在として、父親
から聞かされてきた。しかし、今までに一度として、父親が飛行試験にたずさわって
いたなどという話は聞いたことがなかった。

私が、中島知久平という名前をこれほどまでに鮮明に記憶しているというのも父親が
たまに飛行機の話をするときに、必ずといってよいほど中島翁の名前を出していたか
らであるが、それほどにつながりが強かったという話は聞いたことがなかった。

私が図面に目を落とすと、超軽量ヘリの外形部分に矢印が飛んでいてバイオチップス
という文字が目に入ってきた。

「バイオチップスですか」と、私が声に出すと・・・

「バイオチップスです」と、中島翁が即応された。

「このバイオチップスの働きによって、太陽の光を化学的に電気に変えるのです」
と云われる。

私たちが趣味の世界で計画している超軽量ヘリでは、太陽の光を宇宙基地で物理的に
大規模施設によって集めて電気に変える。そのため機体の開発から実験機完成までは
早いのだが、宇宙ステーションを含めた総合システム構築までは夢の領域となるために
完結の目途は建てていない。

私は咄嗟の判断で・・・

「この仕様で進めると大規模な発電用システムを必要としないので、実用化までの期間
は短くて済むのではないか?」と、推測して、

「この超軽量ヘリの実用化は、どれくらいの期間で、可能になりますか?」
と、おたずねすると、

「現在の計画では、三年先です」という答えが返ってくる。

「バイオチップスなどの新技術を導入しての条件下にあって、ずいぶん短期間での
実用化ですね」と、私が率直な感想を述べる。

「いや、それでも終戦直前に実機として開発。飛行試験まで一気に駆け抜けた日本初
のジェットエンジンネ20に比べたら実用化までに三年間は、まだまだ長いほうですよ」
といって、中島翁はテーブルの上に一冊の著書を置いた。

「海軍特殊攻撃機橘花『日本初のジェットエンジン・ネ20』技術検証」石澤和彦著
であった。

私も、既に、この著書には目を通している。

この著書の記述によれば・・・

◇ネ20ジェットエンジンは「一年未満の短期間」で初飛行に成功している。

◇その時間軸に沿った経過を追って行くと「その俊敏さ」が伺い知れる。

◎一九四四年七月にBMW003A縮小断面図を入手してから同年十月には、
「ネ20計画図」を作成

◎同年同月に、艦政本部の技術者を投入して、二ヶ月間で設計陣を強化

◎同年十二月末に「ネ20の設計作業」を開始

◎翌年一月中旬には「一部の部品の製作」を開始

◎三月中旬には「全部品」を完成

◎三月末には「組立を完了」してエンジン試験開始

◎四月には「試験本格化」を神奈川県秦野にて果たす

◎同月には「橘花への搭載」を決定

◎六月には「耐久試験」を完了

◎七月には「1式陸上攻撃機に懸架」して三沢で空中試験

◎同じく同月には「橘花を分解梱包」して木更津に発送

◎そして同月に「運転開始」木更津にて

◎七月末には「橘花に搭載」して地上滑走

◎八月には「十二分間の初飛行」に成功

◎そして「終戦」八月十五日

このように、日本初のジェットエンジンネ20は、ものすごい勢いで開発が進められて、
橘花に搭載され初飛行は八月七日に、高度にして六百メートルを十二分間飛んだ。

ネ20の開発を耐久試験の終了をもって完了とすれば、設計図作成の段階から開発
の完了までは「僅か八~九ヶ月間」であり、米国が英国のエンジン図面と現物および
その指導者を手中に入れながらエンジン完成までに約一年間を要していることからも、
いかに短期間で開発したかが分かる。

しかも次のような記事を読むとなおのこと当時の状況の凄さが良く理解できる・・・

「本来なら、BMW003Aエンジンの設計図は、詳細なものがもたらされるはずだった

「しかし、その図面を積み込んでいた潜水艦が撃沈された」

「幸いにも入手できたのは、途中で下船した巌谷中佐が、僅かに持参していたBMW
003Aの縮小された断面図と見聞録だけであった」

と、ここで、私と中島翁の考え方と見方が、完全に一致したのは・・・

「既に、同じような設計構想が、日本においても出来上がっていたのではないか」

「それが、仮に図面になっていなくても、技術者の頭脳の中で描かれていた」
という見方と考え方である。

これをまさに裏付ける記事を私は再認識して声に出して読み上げた・・・

「巌谷中佐が持ち帰った、たった、一枚の縮小図面で十分であった」
「これを見たとき、瞬時に、全部が理解できた」
「その原理は、日本の技術者が、研究を進めていたものと同じであった」

「ただ、違う点は、遠心圧縮機の代わりに、軸流圧縮機を用いている」
「しかも、回転は低く、タービンの設計を楽にしてある」
「燃焼器は、直流型で、伸び伸びとした設計になっている」

「日本の技術者は、この縮小図面を見ただけで、設計的に、うまいと思った」

まさに、この記事が、当時の状況を良く物語っており、既に、日本においても同様の
構想が良く練られていたことが分かる。

さらに、これを裏付ける記事としては・・・

「ネ20の設計作業では、技術者が二名、技術者補助が五名、図工が五名ほど居た」
「これに加えて、若い女性トレーサーが二十~三十名ほどプロジェクトに任命された」
「彼ら・彼女らは蔽内に住み込み昼夜を徹して設計に従事した」ということからも、その
技術リーダーの卓抜な方向付けは容易に想像できる。

同じ、著書には、終戦後の米軍からの報告記事として・・・

「終戦後、日本において何人かの航空技術者にインタビューをしたが、全体を通じてみ
ても『永野中佐』はジェットエンジン計画の分野で傑出した権威である。彼は大変聡明で
精力的で自信に満ちている」

「また、彼は要求された情報を提供することを嫌がる気配もなく、また、提供された情報
は、どれも信頼に足りるものである」と記述されている。

日本におけるジェットエンジンの創世記において、種子島時休大佐と永野治技術中佐
のお二人の、リーダーシップがあってこそ「短期間での開発成功」があったといっても、
けっして過言ではないだろう。 

偶然にも、中島翁と私は著書に掲載されている写真を見て、お互いの声が重なった。

写真は、一九六二年頃のもので、当時の石川島播磨重工の土光社長と永野治取締役が
写っている。この写真が物語っていることは・・・

「ネ20の基本にあるジェットエンジンの設計思想は、戦後の純国産ジェットエンジンJ3に
確実につながり、さらには、T4中等練習機に搭載された『F3エンジン』にも影響を与え、
さらには小型民間機用ジェットエンジンにも良き影響を及ぼして行った」

その道筋は明確に実像としてイメージ出来る・・・

「その波及効果を可能にしたのが天才技術者である永野治翁の頭脳であったと考える」

「このことは、戦後、航空機に関する事業が、全て禁止となっていた期間も、天才技術者
永野治翁の脳内においてジェットエンジンは進化を続けていたということではないか」

石川島播磨重工に在職中の永野取締役に、直接、お会いしたことのある私は、そのとき
の伝わって来る雰囲気から・・・

「大局においては、哲学的に全体を把握され、実際の場面での物事の処置に当たっては、
物理的に理にかなった極めて俊敏な行動をされる方」という印象を受けた。

天才技術者の永野治翁であれば、例え現物のジェットエンジンが目の前に存在しなくても、
脳内でジェットエンジンの性能解析が出来てしまう様な超能力に近いものをお持ちである
という思いがした。

ここで中島翁から面白い話が飛び出してきた・・・

「ネ20のジェットエンジンを開発した当時は、材料などにも恵まれず、設計仕様は極力低め
に抑えたものであった。例えばタービンの入口温度などは低く設定せざるをえなかった」

「そこに着目して、中島翁たちの設計チームは、材料などに恵まれた現在の環境で、当時の
制約条件を解除して、現状で活用できる特殊鋼などを設計に取り入れて、設計をやり直して
みたというのである」

「その設計には、二年間を要したという」

「機体も、零戦をベースにして、民間仕様向けに設計をやり直したのだという」

「しかも、この飛行機は飛行試験にも成功して、戦後の沖縄における慰霊の願いをこめて、
沖縄の上空を旋回した後、空からの献花を行った後に沖縄では観光の名所になっている
玉泉洞の奥にある地元でもあまり知られていない秘密の洞窟奥に奉納して永遠の鎮魂を
祈念した」というのである。

「玉泉洞といえば、沖縄の天然記念物として沖縄県の博物館担当施設になっている、あの
洞窟ですか?」と驚いた私はおたずねした。

「そうです。洞窟の中に岩窟王という名所があるが、そのさらに奥には地元でも知られてい
ない洞窟があり、そこに、機体とエンジンを一緒に安置しました」

「どうして飛行機の安置までに、そんなにも手間と時間のかかることを計画されたのですか」
とたずねると、

「沖縄といえば、第二次世界大戦において最も激戦地であったこと。それは、広島や長崎に
おける被爆とは、また違った意味で戦前から航空機に携わってきたものとして軍需に割いて
きた時間に匹敵するだけの手間と時間をかけることは無理としても、それに、見合うだけの
追悼をしなければ沖縄で戦渦に巻き込まれて他界した人たちに、申し訳がたたない」という
思いからだという。

「今や、それができるのは、私たちのような天界に住んでいる人間のみです」

「そこで、私たちは、天界に天空社という法人を設立しました」

「天界から、法人登録することはできないので、神崎君に、ほとんどの手続きをやってもらって
います」

「そして、天空社の総裁に、私が就任したということです」

「天空社にとっても、この沖縄での飛行機の奉納を機会に事態が好転しました」

「この玉泉洞の奥に、飛行機を奉納してから、新しい出会いがあったのです」

「たまたま、沖縄の現地で神崎君が、たいへんな情報を入手してきました」

「沖縄のベンチャー企業が、サトウキビをスライス状にカットして、バイオ加工し、
IC回路と結合することで太陽光を電気に転換する化学反応を発見したのです」

「まさにバイオとICそれにプラスチックの加工技術によるメタ(結合)理論の成果
ですね」

「沖縄には、サトウキビ畑が、無数に存在します」

「私たちは、これを航空技術と結合させることを考えました」

「その答えが、この超軽量ヘリコプターとしての具現化だったのです」

「それは、どんなきっかけで、そこに行き着いたのですか」

「いや、それがネ20のジェットエンジンにまつわる話で、昔、ネ20を飛ばすのに、
燃料がなくて松脂から燃料を精製したという話を聞き、この面からも、私たちは、
当時の苦労を研究する必要があるということになって、沖縄でも、それが可能か
否かの調査をはじめていたのです」

「そのときに、沖縄のベンチャー企業の名前が挙がりました」

「早速、たずねたところ、バイオチップスの存在を知ったのです」

「そこで、私たちは、沖縄での鎮魂だけにとどまらず、もっと積極的に沖縄の人たち
の未来に貢献できることをしよう」と天空社の人たちは考えたのだという。

「これは、実際に現世において戦後の日本復興に大いに貢献されて、後継者に道を
譲り、天界の人となった、土光敏夫さんや本田宗一郎さん、そして、永野治さんの、
お話を伺ってから、私たち天界の人間も大いに触発された結果なのです」

「最初のきっかけは天界での講演会でした。天界の学術院が計画したものです。
第一回目は、マズロー博士をお招きしての基調講演会でした」

「その時、実業界で活躍の著しかった方々の経営実践における、よもやま話も、順次、
輪番制でお聞きしたいということになりまして、その第一弾に選ばれたのが土光敏夫
本田宗一郎の両先生のご講演だったのです」

「最初の基調講演のマズロー博士のお話は、マズロー博士が、かねてから唱えていた
ところの、あの有名な欲求の五段階説に、晩年になってから、さらに一段階を加えた」
という、ご講演でした。

「これを欲求の六段階説という」

「具体的には、従来は五段階目が自己実現で、これを最高次としていましたが、さらに
加えて、最高次には『他己実現』を六段階目として位置づけたということです」

「これはマズロー博士も、晩年になってから気付いたもので、自愛的な考え方の上に、
愛他的なものがくると考えたのです」

「そして、自己実現と他己実現を含めて、高次の存在価値とした」
「そして、これらの欲求は持続され、より高められて行く性質があるとしたのです」
「そして、これらのことは最近の大学生のテキストには反映されています」

「問題は、多くの企業研修のテキストです」

「今でも、自己実現を最高次に位置づけているテキストが多いのです」
「そして、この話がたいへん盛り上がったのは午後の講演で土光さんと本田さんの
講話を聞いた天界人が、お二人ともに他己実現をまさに実践してきた経営者として
絶賛された」ということであった。

さらに、話題が盛り上がったのは、その後の懇談会において・・・

「最近、現世においては、他己実現に熱心な企業が著しく業績を伸ばしている」
「自己実現にばかり、目が向いている企業は軒並み業績が悪化している」
「他己実現に向けて、注力が著しい企業としては、その筆頭にトヨタが挙げられた」

「あのすっかり有名になったトヨタ生産システムをワールドワイドに公開して数多くの
企業の業績向上に寄与して、自らも、継続的に大発展している」

「一方で、自己実現にのみ走りすぎ、倫理観を失った企業や団体は惨憺たる状況に
陥っている」

「いわれてみれば、その通りである」と私は、その考え方に納得した。

天界人の世界でも大いに盛り上がった懇談の場での結論としては・・・

「日本政府の刊行資料からのヒントもあり、天界人から、現世への他己実現的な贈物
として、戦前・戦中・戦後の技術立国日本の産業史として、海から空へ、空から陸への
技術移転と発展史を、それぞれの実機を集めてモニュメント風に展示する」

「そして、これからの技術を担う人たちの参考にしていただこう」
「これによって、天界人も、他己実現における一翼を担って行こう」
「この具現化は、海と空と陸のそれぞれに公社を設けて本格的に推進しよう」
ということになったのだという。

「その空の公社が天空社で、総裁が中島知久平翁ということですか」
と私が、おたずねすると・・・

「その通りです。早速、取り掛かったのが、先程、見ていただいたイエスタディー館
です。これは過去の史実を忠実に再現しようという趣旨で進めています」

「ツモロー館は現代史ですが、飛行機は大物だけに、現物の入手をどうするかで苦戦
しています」

「フューチャー・エリアでは、実際に役立つ実機を未来に向けて創造して行きます」
「沖縄の玉泉洞の奥に、奉納した小型民間ビジネス機は、その手始めの作品です」
「現在、進めている超軽量ヘリこそが、天空社の主力商品です」

「天界人同士の申し合わせで空の分野を展開中の天空社はニュージーランドおよび
オーストラリア周辺において、着々と準備を進めています」

「船の分野はブラジル地域で準備を進めており、陸の分野は日本近郊で準備を進め
ています」

「先日の定例連絡会議では、大規模モニュメント全体の設置場所として、やはり沖縄
が最有力候補地として挙げられています」

「やはりという意味は、沖縄県全体の現況を見たときに、既に、地形的に、戦前・戦中
および戦後のイメージが、南から北に向かっているように見て取れるからです」

「この大規模モニュメントから、日本の皆さんに感じ取っていただきたいと考えている
ものは、完成品からのハードとしての素晴らしさやイメージだけではありません」

「日本の産業の歴史において、日本人の頭脳こそが、その史実を支え隆盛なものに
発展させてきたという事実を再認識していただきたいのです」

「日本における唯一の財産は、昔から、いわれているように頭脳です」
「これからの技術立国日本を支えて行くのは、あらゆる分野から成る頭脳であり、その
人的財産の育成が大切です」

「今の日本においては、まだまだ、バブル後の後遺症から抜け出せないでいる企業が、
中小企業を含めて、相当に規模の大きな企業にあっても、なかなか黒字化が果たせず、
倒産の危機にさらされています」

「このジレンマが続くと、あの第二次世界大戦前夜の状態に酷似した環境になってくる
恐れがあります」

「私たち天界人も、海と空と陸をつなぐ大規模モニュメントの製作や未来産業に向けた
具現化の必要性を痛感して、具体的に、超軽量ヘリなどの創作による協力が不可欠と
考えました」

日本が、再び、あの第二次世界大戦前夜と同じ決断の過ちを繰り返さないために・・・

「天界人にも出来ることがあるのではないか?」という議論が出てきて、みんなで真剣に
話し合いました。

「一方で、今の日本にとって、先行き、最も危険なことは、少子化です」

「過去に、戦争の大過によって、日本の人口が減少するという悲劇がありました」

「しかし、あの戦時においてすら多くの戦没者たちは国を守り子孫繁栄を願うがゆえに、
尊い命を犠牲にしたのです」

「しかし、現代の深刻さは日本人が自らの意思の必然性として生じさせている少子化で
あり、それは日本の国の自然消滅への道なのです」

「今日の家族構成において、核家族化という現象の進む中で、夫婦二人に子供が一人と
いう家庭を数多く見てきました。この視野の狭さが先行きの見通しを悪くしているのです」

「これを一世代前まで視野を広げて見て行きますと、今や、二組の祖父母に孫が一人と
いう時代になってきているのです」

「これは現代においては、学歴が江戸時代の士農工商に代わる身分制度として、頑なに
定着しつつあるという見方が、ひとつの視点として浮かび上がってきます」

「今や企業などで盛んに学歴重視の撤廃を呼びかけていますが世の中のお母さん方は、
その呼びかけには耳を貸そうとしません」
「ご自分の、ご亭主の二の舞はさせない」という悲痛な思いが一部では少子化を加速させ
ています。

教育社会学のテキストなどにも日本の世代間のケース研究として大学や大学院といった
高等教育の機会に恵まれなかった親が子供たちに夢を託すリレー競争として、再加熱化
という現象で捉えている。

「少なく生んで少数精鋭に育てて行く。この傾向が打ち破れない限り少子化は続きます」

この少子化と再過熱化現象は、既に、次世代にまで及んでいると私は受け止めた・・・

「お母さんの嘆きを毎日のように聞いて育ってきた娘たちが今度は自分の父親の二の舞
はさせない」と考えるからである。

ここで、私は和歌山周辺のツアーに参加したときのことを思い出した・・・

和歌山周辺に出掛けたときのツアーでは、一日目は、高野山の宿坊に宿泊した。
二日目は、ホテル浦島に泊まり海が見える洞窟内での温泉を楽しむという異色の
組み合わせの宿泊プランであった。

この一泊目の高野山の宿坊で高野豆腐をいただきながら、若い僧侶から面白い
講話をお聞きした・・・

「ここに集っておいでの皆さん方は、ご夫婦での参加が多いと聞いております」
「さて皆さんはご先祖さまのご供養ということでお墓参りに行かれると思いますが、
皆さんは、ご先祖さまの人数を数えたことがありますか?」

「恐らく皆さん方の想像を越えた凄い数になります」

「今回ご夫婦で参加の皆さんのご先祖を十代、昔にさかのぼりますと、その人数
は一〇二四人になります」

「したがって、ご先祖さまのご供養を熱心にするということは、約千人規模の応援団
によって皆さんへの後押しをしていただけるということです」

ここで、私は、この数字のもつ意味を少子化に当てはめて考えてみた・・・

「今のような、一人っ子の傾向が、これから先まで、それぞれのご家庭で、十代に
わたって続くと人口はやがて千分の一になってしまう」ということになる。

「もちろん、全部のご家庭で一人っ子という訳ではない」

現に、最近、知り合った友人は・・・

「奥さんのお腹に五人目の生命が宿っているので、しっかり働かなくては」
と気を引き締めていた。

しかし現状において日本国内の高学歴化は、ますます進む傾向にあり、これも少子化
による影響として大学への無競争での全入時代が予測されており、その結果としての
晩婚化による少子化への悪循環に歯止めがかからない状況が予想される。

現に、私の友人宅では、次男が調理師になりたいという希望を親に伝えて専門学校に
入学したいという意思表示をしたところ、とにかく大学だけは卒業しておきなさいという、
親の願望にいいまかされて大学卒業後にどうしても調理師になりたいという夢を叶える
ために、あらためて専門学校に通っている。

このケースにおいても親のエゴで子供にとっては晩婚化に追い込まれることは十分に
考えられ、短期間に余程の努力がなければ、生まれて来るお子さんが一人っ子になる
可能性は高いと考える。

少子化が引き起こす問題は、年金問題よりも先に、今まで日本が誇ってきたあらゆる
分野における優秀な人的財産としての頭脳が確実に減少して行くことであり、それは、
誰の目にも明らかなことである。

かつてのローマ帝国の例を引くまでもなく、日本国家という存在が内部から崩壊して
いく現象は、極端なまでの高学歴志向による晩婚化。それに伴う少子化現象という
連鎖の呪縛から解き放たれない限り、時間の流れに沿って、確実に優秀な頭脳が
激減して行くことを意味している。

一方ここで、もう少し視野を広げた友人から、この少子化傾向は高学歴志向だけが、
その要因ではないという反論を得て、私は生涯発達心理学のテキストをめくった。

女性の生活意識の志向性にスポットを当てた記事である・・・

「現代の女性のライフコースには多様なタイプがある」

その中から、昔ならば結婚して「子育て期に、相当する年齢層の女性」を対象にした
意識調査である。その結果からは・・・

◇自立社会派層
◇主婦エンジョイ層
◇良い嫁志向層
◇生活不満層
◇高級生活志向層

などの「多様な生き方」がみられ、この傾向をみても「少子化につながる傾向」は
見てとれる。

ここで、私は、中島翁の視線に、はっと気が付いて、中島翁に視線を向けると、
中島翁が静かな口調で話しはじめた・・・

「我々天界人にも出来ることとして、最初に考えた具現化は、戦火の激しかった沖縄
への慰霊にのみとどまらず、少子化対策も含めて、本格的な産業起こしを沖縄発で
企画して、優秀な頭脳の需要創りから実践して行こうと」

「そのための産業モデルとしての選択を、超軽量ヘリの工業拠点造りに絞り込む」

「先ずは南の島、沖縄から少子化に歯止めをかけ、新しい形態の技術立国日本を
再生して行こう」という構想が天界から湧き上がったのだという。

「昨今を通じて繰り返し話題になっている遷都よりも、地方から人口増加を推進して
日本の復興を実現させるモデル地区を創って行こう」という結論に達したのだという。

そのような経過を汲んでと、前置きをして、中島翁は・・・

「佐久間さんには、是非とも、そのモデル機である超軽量ヘリに試乗していただいて
感想をお聞きしたい」

「その感想も超軽量ヘリの操縦性のみではなく『企業人としての経験』なども生かして、
量産化して行く上での参考意見なども合わせて、お聞かせいただければ」
たいへんありがたいと考えています。

「クライストチャーチの大聖堂で、父君の竹次郎さんに、そっくりな勉さんをお見かけし
なければこんな出会いもなかった訳ですが、これも一期一会のご縁かと考えますので、
是非とも、ご搭乗を」と懇願されてしまった。

「超軽量ヘリの操縦は誰にでも簡単に操作できるように極めてシンプルな仕様に仕上
げてあります」という言葉に誘われて、実機が置いてある場所に行くことになった。



018 超軽量ヘリによる快適な飛行体験

フューチャー・エリアに出ると周囲は海に囲まれていた。

超軽量ヘリコプターの格納庫は、スケルトン調のモダンな設計で、内部状況が外から
も透けて見えるため、私は、すぐに気付いた。

「あの奥にある機体が超軽量ヘリですね」
「はい、そうです」

「隣に置いてある黒い物体はなんですか?」
「卵を平べったくつぶしたような形状をしていますね」

「さすがに、佐久間さんは目が早いですね。あれは、まだ試作中の超軽量ヘリです」
といいましても・・・

「従来のヘリコプターの設計概念からは飛び外れたコンセプトになっています」

「ただいま呼び名を募集しているところですが飛び方がカブトムシに似ているところ
から『ビートルズ』と呼ぶ天界人が多いようです」
「いずれの超軽量ヘリも操縦する際には、専用のヘッド・シミュレーターをかぶって、
操縦していただきます」

「これは、先程、テロップで学ばせていただきましたときのヘッド・シミュレーター
と同じ原理のものですか?」
「はい、原理的には近いものですが、使い勝手の機能が大分違っています」

「どこが、違うのですか?」
「この超軽量ヘリで使う場合は、これを頭からかぶって操縦桿を握っていただきます」
「そうしますと、例えば、右に旋回という思考をしますと操縦桿を少し右に倒すだけで、
後はシステム機器が適正な操縦をします」

「また、目的地が明確な場合は、行く先を脳内で意思決定していただければ自動操縦
で現地に向かうシステム設計になっています」

「ここで例えば、行く先は沖縄と意思決定しますと、脳内の意思決定がナビゲーターと
連動して自動操縦に切り替え、現地に向けて自動的に離陸・発進します」

「さらに、細部において住所が明確なら、それを脳内にイメージすることで、ナビが働き
現地には自動操縦で到着出来ます」

「したがって、超軽量ヘリのヘッド・シミュレーターの場合は、勉さんが操縦桿を握れば、
勉さんのための自動操縦に向けて必要な思考だけをピックアップしてくれるというのが、
このシステムの特徴です」

それに対して、先程のテロップ表示で大活躍したヘッド・シミュレーターの場合は・・・

「テロップ表示に連動した勉さんの思考だけを、より深い思考レベルでデジタル化する
という特徴をもっています」

「例えば、勉さんがテロップ表示による解説の中で、イギリスのエンジンの話題に触れ
たときに連想したことなどは、全て、脳内の働きとしてデジタル化します」

「実際に、勉さんは先程の反応として、イギリスという言葉に対して連想的に、ロンドン
からダービーへの移動の際に急行列車から見た、広大な芝生の景色のなかにあった
クロッカスの花を綺麗だな~と感動した記憶の描写に、思考が飛んだときには、その
ことも合わせてデジタル化しております」

「これは、脳内の働きを全て記録する、いわば大福帳のようなものです」

「しかし、そのままでは、ヘッド・シミュレーターをかぶった人の脳内の働きの、全てを
覗かれてしまうという、疑心暗鬼的な精神的負担をかけてしまいますので、現在では、
さらに研究が進んで、デジタル化されたデータのなかで、その人のアイデンティティ
(その人らしさ)に特有なものと推論される深層心理データは取り除いています」

「言い換えれば論理的な思考部分のみを抜き出すように改造されてきています」

「これによって、データを解析する側でも、余分な混乱や・解析負担を減らせるという
効果が期待出来ます」

中島翁の説明によれば、これは、カオス学と脳の科学的な研究および心理学のメタ
(結合)理論による成果なのだという。

二十一世紀に入ってからは、日本においてもカオス学と脳の科学の結合的な研究が
盛んになって、それを情報工学に応用する動きが出てきているが、心理学との結び
つきまでは、まだ、表面化していないという。

それを天界では、既に、具体的な研究テーマを設定して活動が動いているという。

「今回の自動操縦システムも、そのような・メタ(結合)研究の中から、脳の働きを
シンプル化して情況把握した上で、制御システムに連結させるという面において
これが天界人には適用可能であっても、同時に、勉さんたちにも不適合なく適用
できることを実証したいのです」

「ちなみに、神崎には、適用可能であることが確認されています」といいながら
中島翁は打ち出されたデータを見ながら余談ですがと前置きをされて・・・

「勉さんも、心理学教室で学ばれたこととは思いますが、一つの例を挙げますと、
フロイトが心の構造を自我・イド・超自我に分けて説明しています。また、ユング
は自我と自己という構造の他に、原型的なものとして、もう一人の自分よりなる
心的構造を想定しています」

「これらのことを考えただけでも天界人は、まだまだ引き続き研究が必要と考えて、
その発展分野を模索している段階にあります」

「したがって、ヘッド・シミュレーターの一般市場への普及は、もっとずっと先になる
と考えております」

「ところで勉さんの場合は心理学でいうところの影の存在が表面に出ていませんね」

「影が、本来の居場所である無意識な領域に落ち着いているということでしょうね」

「えっ、そんなことまで、分かってしまうのですか?」

「はい専門の心理学者がデータ分析しますとより深層心理の部分も分析できます」

「ちょっと怖いものがありますね」と、私からは、率直な感想を伝える。

「超軽量ヘリのヘッド・シミュレーターは、このようなプロセスを経て脳内の操縦に
関する思考だけを機能的に簡素化して把握しますので、勉さんは、ただ操縦桿を
握るだけで、機能的な信号に転換して、自動的にピックアップします」

私は、幾分、難しい話に頭が疲れたこともあり、ここで話題を変えることにした。

「実際に、沖縄の旅をすると、戦後は終わっていないという印象をもちますよね」

「そうです、私たち天界人も沖縄に新たな産業を立ち上げて二十一世紀の新都市構想
として産業に基盤においた活況が創れないかと考えたのも、同じような思いからです」

「安心して子供が産める、そして安心して育てていける、そのためには日本型モデルと
しての産業基盤の整備が必要です。沖縄は、南部は戦中の傷跡、中部の復興への道、
北部は未来への発展に向けての地区と大きくは三つの区域に分かれており、それぞれ
に歴史的なものを背負っている印象があります」

「二十一世紀における沖縄を考えた時に、新都市構想として、全体のバランスを考えた
産業の基盤造りが、今や、必須と考えています。その面からも超軽量ヘリの製造工場を
造る構想は素晴らしいことですね」

「ところで超軽量ヘリの量産となりますと、実機による飛行試験などで居住地区における
騒音問題などが起こりませんか?」と私が質問をすると・・・

「全く問題ありません。騒音については、シミュレーション技術によって問題を起こさない
ことが確認されています。デジタル・シミュレーション・ルームを、ご覧になりますか」

思いがけず、超軽量ヘリの飛行前に、天空社のシミュレーション・ルームを拝見できる
ことになった。

「飛行状態をあらゆる面から検証するために、シミュレーション用に、大型の電算機を
センターに置いて、端末にはパソコンを連結させ使い勝手をよくしている」のだという。

「こちらが、基本設計と構造解析を専門に行うシミュレーターです」
「こちらはコンポーネントの設計室でパソコン端末で概略の設計を済ませております」
「こちらは、環境アセスメントの面から解析を行うシミュレーターです」

「このシミュレーターでは、超軽量ヘリ一機での単独飛行から複数での飛行解析まで
満遍なく実施できます。理論的には五百機までの同時飛行が解析可能です」

「えっ、五百機のシミュレーションですか」と、私は、思わず耳を疑って聞き返した。

「五百機のシミュレーションの他に実機での飛行試験は、どうされているのですか?」
「現在では、実機での飛行試験は、ほとんどといってよいほど行う必要がありません」

「ただ操縦室の計器類と人間の五感との相性などは、感性を伴う分野なので、可能な
限り実機での検証を行っています。この自動操縦システムも、生身の人間感覚による
検証が必要な部分です」

「五百機のシミュレーションとは、いずれにしても、すごいことですね」と私は感動の声を
あげるばかりであった。

このシミュレーション技術が確かなもので、既に実用化されているものなら将来において、
私たちが計画することになるであろう砂漠または海上での飛行試験は不要になってくる。

それは自然環境保護の面からも、経済性の面からも好ましいことであるので技術的な面を
含めて、さらに、ご指導をお願いすることにした。

この超軽量ヘリ、五百機によるシミュレーションを可能にした理論は、カオス学の分岐構造
をモデルにして考え出したものだという。私は、今までに、カオス学について詳細な分野に
ついて学んだことがないので、ここで、少しお時間をいただいて、カオス学の入門知識から、
ご指導をあおぐことにした。

・・・・・・・・・・・・

◇カオス学におけるカオスという言葉は、日本語読みであって、欧米などにおいては、
「ケーオス」と発音する。

◇辞書などでは、カオスを説明する言葉として混沌や無秩序などの意味付けもあるが、
電子辞書などでは、初期状態のわずかな違いにより、その後に生成されるものが大きく
異なるような現象、と、して「本質的に掘り下げた説明をしている」ものもある。

☆本来、カオス学においては、この混沌のなかに無限の秩序構造を見出そうとする学問
であり、これを「決定論的カオス」と呼んでいる。

◇時間的・空間的スケールのなかに、このような秩序を明快に見出せるようになったのは、
ここ四半世紀のことで、これはコンピュータの高性能化による成果が寄与している。

◇このカオス学の中で「分岐構造」という考え方が天界でも脚光を浴びて研究が重ねられ、
超軽量ヘリ・五百機ものシミュレーションを可能にしたのだという。

・・・・・・・・・・・・・・・

シミュレーション・エリアで、この実演を見せていただき、その俊敏な解析手順に
私は思わず仰け反り・目を見張り・うなってしまった・・・

「このシミュレーション技術を習得できれば、将来的に必要になってくる砂漠や海上
での飛行試験は、まったく不要になってくる」

ここで、私は、より詳しいシミュレーション技術のご指導を中島翁にお願いして外に
出ると超軽量ヘリが並んでいるエリアに出た。

「ここでは、実際に人間が操縦する際の五感との対応および脳機能とシステムの連携
に対象を絞り込んでテストを進めています」と中島翁から説明がある。

私は、その隣の機体に目が飛んで・・・

「あの卵を押しつぶしたような機体がまったく新しいコンセプトによる超軽量ヘリ
ですか?」と問いかけ、続けざまに・・・

「たしかにカブトムシに良く似ていますね」と、私は、少し興奮気味の自分の声に
気付くと、それに、呼応するかのように、

「形状だけではなく、飛び方も、カブトムシのように飛び廻ります」
と中島翁の解説にも熱がこもる。

「したがって、従来のヘリコプターの特徴でもある回転翼がありません」
「やはりヘリコプターという従来からある分類よりも、ビートルズの呼称で、新しい
分野を設けたほうが良いのかも知れませんね」と私の顔を覗き込んでくる。

「カブトムシ式の飛び方ですと従来のヘリコプターよりも騒音レベルを低く出来ます」

「こちらの今からご搭乗いただく超軽量ヘリにおいても騒音レベルは低く抑えること
に成功しています」

「現在、沖縄での現地生産が可能か否かのフィージビリティスタディ(可能性調査)
を始めています」

「沖縄の現地における機密の生産準備室は玉泉洞の奥の洞窟内に建設済みです」

ここで、一瞬、中島翁の目が輝いた・・・

「さて、勉さん、実際に、超軽量ヘリコプターを操縦してみて下さい」
「私も同乗します」

私は、お言葉に甘えて、早速、超軽量ヘリコプターに乗り込むことにする。

「離陸がとてもスムーズですね。それに音も静かですし、この超軽量ヘリを飛ばして
日本の富士山の上空を旋回できたら、さぞかし気持ちが良いでしょうね」

「それはもう、マウントクックを遊覧飛行で眺めるのと同じで絶景と思いますよ」

「そういえば、日本においては、富士山は、世界遺産に匹敵する山岳美を誇りながら、
ゴミ問題などの障害があって、いまだに登録が難航していますね」
(その後、関係者の多大な尽力によって、富士山も世界遺産として認定されている)

「ここ、ニュージーランドにおいては、真っ先に、環境保護を考える国民性からいって、
そのような事態は、まったくといってよいほど、想像のつかないことです」

「最近の日本の国民性には、ごく一部のことでしょうが、自己実現や自己満足に走り
過ぎてしまって、他己実現の世界まで視野が広がらない傾向が出てきているのでは
ないでしょうか」

「例えば、最近の加熱した受験戦争も、かつて親たちが果たし得なかった自分たちの
夢の再加熱ということで、自分の子供たちに夢を託し過ぎている傾向がある」

「これは見方によっては、他己実現のようにも見えますが、子供たちへの他己実現を
考えてのことであれば、超一流大学への入学だけが選択の対象ではなく、子供たち
にとって、自分の意思で・自らが選べる・複数の選択肢が用意されていても良い」
と天界人たちは考えています。

「そのためには選択を間違ったと気付いた子供たちには敗者復活の道も用意しておく
ような、ここでも、線形の連続的な考え方のみではなく、非線形なカオス学的な考え方
があっても良いのです」と中島翁は熱弁をふるう。

・・・・・・・・・・・・・・・

私が操縦している超軽量ヘリの前方に急に視界が広がる・・・

「あっ、マウントクックですね。地上からの眺めとは、また違って素晴らしいですね」

「素晴らしい眺めでしょう」

「感動的な光景ですね。山頂が白銀に輝いて、まるで、お伽の世界にいるようです」

「それでは、この辺で旋回することにしましょうか」と中島翁から、私に声がかかる。

「勉さんの頭の中で、行く先をスケルトン・エアー・ポートと、イメージしてみて下さい」
と中島翁が云われるので、言葉には出さずに、頭の中だけでイメージする。

「はい、これで、自動操縦に切り換わりました」

中島翁も同乗されてのフライトは快適そのものであった。超軽量ヘリをスケルトン調
の格納庫に納めて、中島翁のオフィスに戻ると、神崎さんが待機していた。

「総裁、そろそろ、勉さまが、奥様のところに戻られる時間かと」

「それでは、佐久間さんには、残された時間が僅かなようですので」といって中島翁が
握手をしてくるので、私は恐縮して、深々と頭を下げ、お礼の言葉を述べておいとます
ることにした。

神崎さんに案内されるままに、モード転換室という看板が掛けられた部屋に入る。

「お帰りの時は、こちらでモード転換しませんと、お帰りになれません」と、ここでも、
神崎さんに案内されるままに、リラックスルームのような、ゆったりとした雰囲気の
部屋の中央に据えられたシートに足を伸ばし、ゆったりと背もたれに身体を預ける
ようにする。

神崎さんが、少し離れたところで、大きなボタンを押す。



019 マウントクックにおける氷河の滑空

ソファーにゆったりと座ったままで「モード転換を完了しました」の表示が、目の前の
電子版に標示されると、上方部のハッチが開き、シャトルが降りて来て、ソファーが
丸ごと機内に取り込まれ肩口から安全ベルトが装着される。

やがて、シャトルは静かに前方のトンネル入り口に向けて進み始めた。

一瞬、私には「真っ暗なトンネル」の中に飛び込んで行く感覚が伝わってきて、その後
は物凄い速さで走り抜ける感覚が続き、東京ディーズニーランドの高い塔から急降下
する舟形の乗物のことを連想した。

やがて、走馬燈のように、いろいろなことが脳裏を駆け巡る・・・

「中島総裁と呼ばれる風格のりっぱな人物が大きなテーブルに図面を広げて何か書き
込んでいたが、こちらに向かって立ち上がると、私と握手をしてから大きな図面が広げ
てあるソファーに腰掛けるよう、親切な手振りで、ソファーにご案内いただいた」こと。

「あっ、これは超軽量ヘリコプター?」と、私が驚いたこと。

「私たちも、経団連ビルで、航空関連業者の若手が集まる会合があって、何度か会合を
重ねているうちに、お互いにヘリコプターが趣味の仲間が多いことに気付いて非公式な
趣味のグループが誕生、現在は、休日になると集まっては、百機編成による飛行試験を
パソコンでシミュレーションすることを計画している」こと。

「私たちは経団連ビルで定期的に集まって、一応は、プロジェクトの形態をとり役割分担
を概略決めて、今までにない画期的な新交通システム開発を主軸に超軽量ヘリコプター
計画を中心に据えて、それを具現化するために、三つの基本コンセプトを決めた」

◇一つ目は、エネルギー源は太陽光を利用、ヘリの動力源としてのエンジンは、従来の
 十分の一の重量に軽量化する。

◇二つ目は、機体が墜落しても人命が守れるように、超軽量剛性の特殊ボデーにする。
 また機体が墜落しても地上に接触する瞬間に機体の外壁が無数の風船状に膨張して、
 搭乗者を保護する特殊な構造にする。

◇三つ目は、機体をデジタル制御するためのパワー源はヘリの動力源と同様マイクロ波
 によって人工衛星から受信する。

この画期的な発電システムは、宇宙基地において、太陽エネルギーから電力に転換して、
それをマイクロ波で地上基地に送り、使用電力への整調を行い、再度、宇宙基地の電力
設備に戻して、地球の周囲八箇所に配備した宇宙ステーションに配電することで、地球の
周囲を回る人工衛星を経由して超軽量ヘリコプターに電力供給する。

この新交通システムが完成するとヘリコプター群は地球上の全域で人工衛星からパワー
源を受信できるようになる。しかも都市部では航空路として新幹線や私鉄電車の線路の
上空および主用幹線道路の上空を活用する。

超軽量ヘリコプターの航路は、何層かに分けて複数のヘリコプターが高度を分けて飛び
交うという構想である。

課題は、最近のヒートアイランド現象にみられる上空の水蒸気処理をどうするかにある。

この特殊なマイクロ波による電力送受の実験を実施する地上基地としては、石川さゆり
の演歌にも出てくる竜飛岬周辺を計画している。その際には施設の強風対策が必須に
なってくる。合わせて距離的には離れているものの三内丸山遺跡の文化遺産保護にも、
配慮が必要であると考えている。

「将来的な課題」として、当初は・・・

砂漠における百機編隊の飛行テストと並行させて計画していたのが、日本海溝に沿った
上空における飛行実験で、この場合は、福島県相馬市を発進基地とする計画で進めて
いた。この地方は雪が少ないために年間を通してテスト飛行が実施できることから砂漠
でのテストよりも有力視していた。

両者の飛行テストでは、共に、搭乗者の人命尊重の設計思想から計画を綿密に練り上げ、
納得行くまで妥協のない「実機検証」を繰り返し計画していた。

同時に、実機が実用化されたときの飛行地域への環境アセスメント面から、複合騒音に
よる影響調査を計画している。具体的には百機のヘリコプターを二群に分けて、相互に、
飛び交うテストを主要な飛行計画として練った。

単体ヘリによる飛行データは「バーチャル・シミュレーション」によって、データ上で確認
できることを把握しており、技術力もそのレベルまではキャッチアップされている。

複合での飛行実態の把握には、実機による飛行テストが繰り返し必要であると、当初は
考えていた。

将来に向けての超軽量ヘリコプターの複合での飛行テストの仕様設定は、私の担当で
あったこともあり、川越で陶器の製造販売をしている蔵屋丈太郎氏に砂漠での飛行実験
について相談したことがある。

蔵屋丈太郎氏は、義父の戦友であり、根っからのヘリコプター好きでリモコン機としては
かなり大型のヘリコプターを複数機所有しており、仲間と一緒に河川敷で曲技飛行など
を楽しんでいる。

しかも、陶芸に関する調査で、シルクロードをはじめ砂漠地帯には何度も出掛けている。

そのような稀有な人材であることから、現地のお話しをお聞きしてみたいと考えて、川越
のお宅にも、お訪ねしたことがある。

蔵屋丈太郎氏の説明によれば・・・

「砂漠といえば、誰しもが、最初に頭に思い浮かべるのがサハラ砂漠でしょう」

「地中海を挟んで、欧州諸国とアフリカ大陸はつながっており、多くの冒険家たちが
北欧からアフリカ最南端までの縦走を夢に描いて旅に出ました」

「モロッコからアルジェリア、リビア、エジプト、スエズを経てイラク、イラン、アフガニス
タンの横断などを考える勇者が出てきても不思議ではない地形をしている」

「映画で一躍有名になったアラビアのロレンスが活躍したのもこの砂漠地帯である」

「その地形の中心ともいえる位置にサハラ砂漠が存在する。最も、砂漠地帯の多い
地域だが、常に紛争の火種が尽きない複雑さがつきまとっている」と前置きをして、

蔵屋丈太郎氏は・・・

「この地域では、エジプトのギザで、陶器について多くのことを学んだ」という。

「このギザは、エジプト北部のカイロの砂漠上に密集する古代遺跡であり、有名な
三大ピラミッドがある。そして、特徴的には人面獣身の大スフィンクスがあることで
有名な場所である」

「そこから出土した遺品の中には、珍しい陶器類が美術品として多数保管されて
おり、陶器から当時の生活がよく分かり、陶器から当時の生活を知り得るという
視点を学んだ」のだという。

さらに、蔵屋丈太郎氏の言葉に熱が入ってくる・・・

「ちょっと待って」と、云って、書斎から地球儀をもって来る。

「次に行ったのがモンゴルのゴビ砂漠だがモンゴル高原北方にノイン・ウラがある」

「ここには山中に墳墓が約200基もあって武器・容器・衣類・装身具・鏡など、中国
からの移入品が多い」

「当時は、シルクロードを通じた交易も盛んで、バクトリア・パルティア・小アジア産の
毛織物なども保管されている」

「これらの品物からも、当時の東洋の生活様式がよく分かる」

「また東洋における生活文化において、陶器の文化的価値の位置付けの高さもよく
理解できた」という。

この調子で、地球儀をぐるぐると回しながら、ご自分の体験を通して行ったことのない
私にも分かりやすい解説をしていただき、親切な説明に頭が下がる思いであった。

次に、これも、地球儀の上に指差されたのが、南アメリカのブラジル高原であった。

「この地域ではマラジョー島を訪ねました」

「マラジョー島は、ブラジルのアマゾン河口にある島です」

「最初の文化は初期農耕・採集・狩猟文化で大量の土器を出土しています。この地域
では次いで定住農耕を確立し最後の文化では社会階層があったといわれています」

「この時代の生活の変遷に合わせて、土器も変わってきており、時間の流れや生活の
変化を、土器から感じとれた」という。

「いずれの地域においても、ご自分で体験した感想からはとても飛行テストなど考えら
れない地域である」と云われる。

「そして、最後に、飛行テストが出来る可能性があるかも知れない、と、いって示してくれ
たのがオーストラリアのグレート・ビクトリア砂漠であった」

「この地域ではエアーズ・ロックに興味を持っているが、まだ訪ねたことがないので詳しい
ことは分からない」と云う。

「聞くところによると、オーストラリア中央部にある小山のような岩の巨石で多数の洞穴が
あり、白人の渡来以前から、原住民が住んでいて、食料・住居・水に恵まれ、宗教儀式も
盛んであった」という。

「その生活のなかで、どのような土器や陶器が使われていたのか見たいが、まだ夢がか
なっていない」と云う。

「ただ、砂漠地帯は、一日を通して、温度の寒暖が激しく、そういった面での難点を心配
されていた」

それぞれに、どれをとっても貴重なアドバイスであり、私は、綿密にメモにして残した。

これらのメモをめくりながら、私は、かたわらの新聞記事に目を通した・・・

「日本からフィリピンに違法輸出され現地で激しい非難を浴びている大量のごみ問題。
医療廃棄物も含まれているという。しかも、廃棄物処理業者は捜索するも依然として
行方不明である」というのだ。

ここで、私は、考え込んでしまった・・・

「自分たちが、砂漠地帯において飛行テストを行うという考え方も根っこのところで自分
たちの都合だけを優先させていないか?」

「相手先の国のことや、そこに住んでいる人たちのことを考えていないのではないか?」

私は、二階の書庫の「住まいの環境学」のテキストのことを思い出した・・・

「住まいの環境学の頁をめくりながら、砂漠の緑化に努力している人たちの存在をあら
ためて認識した。テキストには、荒涼とした、それでいて起伏のある砂漠風景の写真が
載っている」

「その下にはイスラエルのベングリオン大学砂漠研究所の写真が載っている。今や砂漠
の緑化について、国家事業としての研究が活発に進められており、各国が協力体制を
とっている」

蔵屋丈太郎氏から、教えていただいた陶器類の話も、考えてみれば、それが例え荒涼と
した砂漠地帯であっても、そこには地球上の仲間が住んでいるということである。

また、その砂漠地帯を各国が協力して本気で住みやすい環境に変えて行こうと、緑化など
の研究が本格化している。事実、日本企業も積極的に緑化に協力している。その活躍する
姿は、テキストに添付されたビデオの中でも実像として紹介されている。

同時に「ヘリコプター好き」の蔵屋丈太郎氏からは・・・

日本政府がドクターヘリ活躍の実績を踏まえて、ドクターヘリをより積極的に全国展開する
考えもあることなどが参考情報として紹介され、超軽量ヘリコプターの計画も趣味の世界に
留めておかないで「積極的に事業化したらどうか?」と・・・

ご自分の感想を述べられていた。

私は、蔵屋丈太郎氏の熱弁をお聞きしていて、自分たちが進めている計画が地域レベルに
とどまらず、地球規模的にも展開可能であることを再認識した。

しかし、蔵屋丈太郎氏からの締め括りの言葉としては・・・

「勉さん、砂漠での超軽量ヘリコプターの飛行実験というけれど、今の世界情勢からいって
実現性は難しいと思うよ」

私は、この言葉を受けて「砂漠や海上における超軽量ヘリコプターの実機による実証テスト
よりも情報機器を駆使したシミュレーションのほうが適切かもしれない」と考え始めて・・・

手始めに、パソコンでの簡易プログラムに着手していたが、天空社の中島翁は・・・

既に、カオス学の「分岐構造」という考え方を応用して、スーパーコンピューターを駆動させ
超軽量ヘリ五百機ものシミュレーションを可能にしたのだという。

この大規模なスーパーコンピューターを駆使した実証となると国家事業レベルに相当する
だけのプロジェクトを立ち上げる必要がある。

一方で、天空社が進めているところの「沖縄を超軽量ヘリコプターの生産基地にして行く」
と云う構想については、これこそ国家事業として推進した時に「地域振興モデル」としても
世界に発信して行ける好循環としての創成ではないだろうか?

・・・と、加速感が続いている中で、突然、身体に重圧感がかかって、私は前のめりになり、
反動でまた後ろに反り返った。

状況がよく呑み込めない中でのシステム故障のようである。

このような状況の中にあっての行動は自分で即断するよりない。

私は、かつて雑誌を読んだときの記憶を脳内で手繰り寄せた・・・

「初期のロケット打ち上げのときに、ロケットの打ち上げまでは、本体の垂直を保って
おくための先端フックが、エンジン点火後、自動装置が働らかなくなってフックが外れ
ないという状態が勃発、研究員が、とっさの機転を働かせて、物干し竿を取りに行き、
その物干し竿でフックを外して、無事に、発射に成功したという話である」

「今回も、加速時に、シャトルから放出されたカプセル外周部が周囲の岩盤部を齧り
止まってしまったということも考えられる」

しかも、神崎さんとは連絡のとりようがない・・・

「私は、腹を括って、自分が乗っていると思われるカプセルを前後左右に全身を使って
ゆさぶりながら、進行方向とは逆の方向にカプセルに反動をつけても戻してみた」

「一度だけではなんの手応えもないため、これを何度となく必死で繰り返した」

突然、全身に加速感が加わり、私は意識を失った・・・

やがて混沌の中から目覚めたような気分で意識がもどると、私は懸命になって頭の中
を整理した。

「中島翁から学んだカオス学や航空宇宙の分野におけるシミュレーション・デザインが
実用化のレベルにあること」

また不思議なことに意識が戻る過程で、次のような二つの記憶が、フラッシュバックの
ように脳内に蘇った・・・

「一つ目は、広島の原爆記念館で見た悲惨な光景と、道路に焼き付いた人影」

「そして二つ目は、沖縄において、ひめゆりの塔の地下壕で見た若い従軍看護婦さん
たちの治療日記であった」

そして、かつて、父親が語っていた言葉が思い出された・・・

「世界の航空界の歴史において、欧米における航空エンジン用スーパーチャージャーの
登場が、もはや、日本には手の届かない戦争であることを強く認識させるに到り、それが、
終戦に行き着く決定的な要因となった」

「日本には、特殊合金の知識が欠如していて、スーパーチャージャーは作れなかった」

「これは幼い頃に何度となく父親から聞かされた話であったが、幼い私にはまだ航空技術
のことは、良く理解できなかったことであった」

今回、天空社の中島翁からも・・・

「欧米の航空界におけるスーパーチャージャーの登場が戦況を大きく変えた」

「航空機による戦闘の世界において、日本の戦闘機の活動領域より遥かに上空での飛行
を可能にした欧米の戦闘機が制空権を握り、最早、日本の戦闘機には、手も足も届かない
高高度で飛行する爆撃機には、日本側として打つ手がなかったこと」
などが、詳しく説明されて、私の理解力不足を助けていただいた。

そして、朦朧とする意識の中で・・・

「いつまでも・戦後という時代を・終わらせてはならない」

「それは平和の持続への強い願いであり・次の開戦の引き金を二度と引かない決心であり、
ましてや・今日の日本国内に蔓延した感のある閉塞感の状況にあっては・同じ過ちを二度
と繰り返さないためにも・戦後という時代を終わらせてはならない」
と、自分自身に言い聞かせた。

そして、夢心地のような意識の中で・・・

「佐久間さん・勉さん・聞こえますか?」と云う声が聞こえた。

「佐久間です」と答えると・・・

「神崎です、こちらに、帰還カプセルのトラブルの通報が入りました、大丈夫ですか?」
と聞いてくる。

「はい、大丈夫ではありません。カプセルが突然『停止』して動きません」と伝えると、

「どうやら異次元の世界に飛び込んでしまったようです」

「佐久間さんの認証コードは、私どもが、マウントクック村に入る時のトンネルの上空
から、アイコンタクトして登録を済ませてありますので安心して下さい」

「そういえば、トンネルの入り口で虹の頂上部を見た時に、光の筋が目に入った記憶
がありますが?」と問いかけると・・・

「そうです、その時に、佐久間さんの認証登録を済ませてあります」

「それでは、こちらで信号操作を行いますので、前方に向かって視線を送り、カプセル
内の電灯を点滅させて、脳内で『マウントクック村』とイメージして下さい」

やがて朦朧とした脱力感のなかで遠くから声が聞こえた・・・

「あなた外に出て散歩に出掛けますか?」
「よく寝ていたわね!」

「でも、さっきは、身体を大きく揺さぶって、隣にいた私のほうが驚いたわよ」
「夢でもみていたのかしら?」という家内の声が耳に飛び込んできた。

私は、我に返って、はっとした瞬間に手の平から紙片が落ちた・・・
「タイムアウト」と書かれている。

「まだ、頭の中が、だいぶ混乱している」

「人間は、時として誰でもが不思議な時空間に飛び込むことがある」というが家内の
態度や対応を見る限りにおいて、そこには、なんの不自然さも感じられない。

「私が、異次元の世界から戻って来た」などという気配は、周りからは、まったく感じ
取れないのである。

目の前の大きなガラス窓にはマウントクックの美しい風景が広がっている・・・

私と家内が一緒に外に出ると、弁護士さんのご夫婦とお友達のご夫婦たちが、
森の中を楽しそうに散策していた。

「森の中が、どこに、行っても綺麗ですね」
「空気が澄んでいて、とても、気持ちが良いです」という会話が自然に交わされる
中で、私は「異次元体験」のことは自分の胸の中にしまっておくことにした。

「こんなにも、ゆっくりとした時間を過ごせたのも、久しぶりのことですわ」
と皆さんの目が輝いている。

バスが置いてある広場に戻ると皆さんが集まり始めていた・・・

ミセスCIA親娘が、盛んに、マウントクック山頂付近の氷河への着陸体験の感想を、
飛行機に搭乗できなかった人たちのために説明していた。

「飛行機は、揺れも少なくて、氷河にはスムーズに着陸できたわ」
「思わず、みんなで、拍手したわよ」

「氷河に、自分の足で降り立ったときの感動は、素晴らしくて忘れることの出来ない
体験だったわ」と、盛んに、話をされているミセスCIAの目は輝いていた。

「そういえば、飛行機には車輪の内側に、ソリを二つ付けていましたね」
と私が口をはさむと、

「そうなのよ、そのソリを使って、上手に飛行機を滑らすのよね」
「名人クラスのパイロットだったわよ」

ミセスCIA親娘の搭乗体験の報告も終わり、まだバスの発車までには時間があるの
で考えていると・・・

「マウントクック村にある国立公園事務所をのぞきましょうよ」と、ミセスCIAが誘うので、
丁度、そこに居合わせたツアー客が、ぞろぞろとミセスCIA親娘に連なって公園事務所
に向かった。

「サザンアルプスの全容は、三千メートルを越す高峰が、二十七もある」
「氷河はというと、大小合わせて三百六十という規模」
と、私が声を出して読むと、今度は家内が・・・

「この一帯は、一億五千年前は、海底であった」と、声にアクセントを付けて読み上げる。

二人して、その地形の変わり様に、驚くばかりである。

その後の激しい造山活動が加わり、今日の姿になったというが、およそ想像もつかな
いことである。

国立公園内には、ホテルが建っているが、過去に数回も雪崩によって建物が破壊され、
その都度再建を繰り返しているため、ホテル代は通常よりも割高でありという。

公園内から正面に見えるマウントクックはサザンアルプスの最高峰であり、南島の屋根
といわれている。

その山岳美については、スイスのマッターホルンと、よく比較されるようである。

マウントクックの景色をすっかり堪能した私たちは、やがて、集合時間となり、バスに乗り
込んで、まもなく、今晩の宿泊地になっているクイーンズタウンに向かった。

途中で立ち寄った果物屋さんの前で、家内が、感動の声をあげた。
「あなた見てよ、店先がカラフルだわ」

「ニュージーランドの果物を、ここに、全部集めていますという光景よ」
といって振り返った。

「あなた、道路の向こう側を見て、ポプラ並木が、あんなにも続いて、それに光に映えて
綺麗だわ」というので振り返ると、皆さんも気付いたらしく感嘆の声が飛び交っていた。

「こんなにも、きれいなポプラ並木は、はじめてだね」

「まさに黄金色の輝きとは、このことだね」と、いう感想を口にすると、周りでも皆さん同じ
様に感動の声をあげていた。

皆さんそれぞれに旅の友に果物を買い込んでバスに乗り込むと、バスは一挙にスピード
を上げた。運転席のスピードメーターをのぞき込むと、針は、時速百三十キロ程度の位置
にあった。

飛行機のボーイング747の時速五百十キロには遠く及ばないものの対地速度感覚では、
いかにも、高速好きの運転手さんが、思いっきり、かっ飛ばして走っているという健在感
であった。

走るバスの中で、運転手さんから、話題が飛び出して・・・

「橋の上からダイビングを見せるアトラクションがあるというので、皆んなで、見物に行くこと
になった。その場所で、バスの運転手さんは、なんと四回もダイビングにチャレンジしており
感想としては、すこぶる気持ちが良かった」と云う。

ここでのダイビングは足を強力なゴムでしばり橋の上から飛び降りるという方法をとっている。

新婚のご主人が、チャレンジしてみたいというので、皆んなで応援に行ったが・・・

「予約していないと駄目ということで、ミセスCIAをはじめとして、好奇心いっぱいの仲間の
期待は外れた」

その様な経過を冷静に見ていた隣席のツアー仲間が・・・

「でも、若旦那さんは、予約していないと駄目といわれて、ちょっと、ほっとしているみたいね」
と冷やかしていたが、ことの真相は、どうやら、言葉の弾みで、若奥さんに強がりを見せたも
のの内心は、ヒヤヒヤものだったと旅程で親しくなった勢いを借りて暴露話を披露していた。

ニュージーランドの秋は「紅葉も黄葉」も共に、見事で、橋の下の景色は絶景そのものであった。

ここでミセスCIAから、紅葉についての豆知識が披露された・・・

「紅葉は、アントシアンが細胞の中に増すためです」
「一方、黄葉は、カロチノイドが葉の中に残るための作用です」
「いずれも、こうよう、と発音します」

「なんでも、良くご存知ね」と、ツアー仲間から声がかかる。

やがてバスがホテルに到着するとホテルの庭にも紅葉と黄葉が競うように景観を成していた。

夕食までに時間があるので、二人で散策に出かけると、目の前が開けた景色に変わる。

「澄んだ空気、それに、美しい山々が連なっているわ」
「ワカティプ湖は青い水色なのね。まるでお伽の世界のようね」
と家内が感動の言葉を連発している。

この澄み切った風景は、四季を通して美しく変わって行くため、一年中、観光客の途絶えること
がないのだという。

私と家内の二人で、ワカティプ湖の周囲を巡っていると、世界中を一人で歩き回っているという
日本のおじさん風の方に出会った(日本語で喋ってくれるので気軽な会話となる)。

「ここでの印象は、どこよりも空気が美味しくて、水もおいしい」ということであった。

ホテルに戻ると、丁度、夕食の時間であった。

夕食時に「翌日のミルフォードサウンドへの観光案内」がツアーの女性コンダクターから行われ、
それぞれのテーブルで会話が弾んだ。

やがて・・・

「明日も、楽しみだわね」と、いう言葉を交わして、それぞれの部屋に戻った。



020 ミルフォードサウンドの大滝とロブスター

翌日のミルフォードサウンドへのツアーは往復で六百キロ。なんと信号が一つもない
というドライブであった。

まさに「ノンストップ」でかっとびの高速運転なのである。
ニュージーランドでも日本と同じく車は左側通行。
日本と違うのは右折車が優先すること。

市街地に限ってのみ制限速度がある。

ミルフォードサウンドの港に着くと、それぞれにチケットが渡されて乗船した。
狭い渓谷を案内する船は一階が日本人、二階がイギリス人で満杯になった。

船が進んで行くと、両側は岸壁になっていて、たくさんの滝が目に入ってくる。
千メートルを越す絶壁は、人を寄せ付けないような厳しい表情を見せている。

船内からは岩山がライオンに見えたり象に見えたりと、しばらくの間、不思議な光景
が続いた。天候は、局地的に変化が激しく、晴れたかと思うと・雨や曇りに変わった。

そして、あっという間に晴れ間になる。
湾内は寒帯らしく、アザラシが岩の上で昼寝をしていた。

「滝また滝の圧巻だね」と、ひとしきり感動した私は大きな滝の下で合羽を着て船首
に立ち、家内が、私に、向けたカメラで記念写真に収まった。

その合羽姿に弁護士さんのご夫婦が気付いてカメラを向けてくる。

ミルフォードサウンドからの帰途は、バスの運転手さんの気遣いで、時間的な余裕を
稼ぎ出してくれた。そして、皆さんが寄りたいと願っていたロブスターを養殖している
漁場にバスを廻してくれた。

ツアーのバスは、制限速度なしで走行するので、腕に自信のある運転手さんの場合、
旅程に、相当の時間的余裕ができる。

ここは、海水と川の水が交じりあう場所のため、ロブスターを飼育しやすいのだという。
ここで、弁護士さんご夫婦がロブスターを買い込んだ。

その夜は、弁護士さんの友人のご夫婦が持ってきた外国でも使えるという電気コンロ
をホテルの部屋のコンセントにつなぎ、漁場で、買ってきたロブスターを茹であげて、
皆んなで、ご馳走になった。

この集まりは深夜まで続き、一同、満腹のお腹をかかえての談笑となり、私も家内も
よく笑い・よく食した。

翌朝は、昨夜の疲れもみせずに、クイーンズタウンの朝市に繰り出した。

朝市の会場は、まだ寒くて、芝生の上に、店を広げた女店主は、寒そうに店番をしな
がら、せっせと編み物をしていた。朝市の写真を撮ろうということになって私が家内に
カメラを向けると、いかにも寒そうであった。

まさに底冷えという寒さの朝であったが朝食が済む頃には気温も上がってきてミセス
CIA親娘のお薦めで、ジェットボートに乗りに行くことになった。

ジェットボートは水しぶきをあげて走り、岩や断崖の端が顔をかすめるようにして川を
さかのぼって行く。船に乗っている全員が悲鳴も出ない迫力であった。

その晩はジェットボートの迫力にすっかりお腹を空かせて私と家内は新婚組を誘って
日本食を食べに行った。私は「何故だかむしょうに・大根おろしが食べたくなった」こと
を今でも覚えている。

店の名前はニュージーランドの国旗にもなっているサザンクロス(南十字星)で・・・

私と家内は、寿司と天ぷらを気絶するほど食べた。食後は、家内の頬もほんのりと
紅潮していたので日本食への満足感は、まさに、同じ思いであったことを確認しあう
ように、お互いの顔を見合って、

「よかったね」
「おいしかったわ」
と、お互いの満足感を重ね合わせた。

店の外に出ると、店先には大漁旗が飾ってあり、ローマ字で MINAMI JYUJISEI 
と刺繍されていた。

「店に入るときには、まったく気が付かなかったね」
「だって、全員、日本食に向けて、まっしぐらでしたから」
と、新婚組のお二人も加わって大笑いした。

その晩は四人とも用心して、ニュージーランドで買い込んだばかりのセーターを着込
んで出かけたため寒さ対策は万全であった。

それでも外に出るとさすがに外気は冷えきっていて、私はコートの襟を立てた。この
寒い夜におけるファッション指導は出掛けのときの家内によるものであった。これが
きっかけで、皆んなが家内のファッション指南をあてにするようになっていた。

翌日は、クライストチャーチの空港に出て、そこから、オークランド空港に向けて飛ぶ
旅程になっている。

その際に、クライストチャーチに向かう途中で旅程の前半において、大人気であった
セーター類などの毛糸づくしの店に、再度、立ち寄ることが決まって、現地では女性
たちが買い物のフィーバーを繰り返した。

バスは、一気にクライストチャーチの空港に向かった。
そして、それぞれに、お土産の整理が始まった。

「あっ、パスポートがないわ!」と、弁護士さんの奥様が素っ頓狂な声をあげて車内
は騒然となった。

あのセーター屋さんに寄って、お土産を買った後で、洗面所に入り、その後でベンチ
に座ってバスの発車まで歓談していたというのである。さて「どこでパスポートをなく
してしまったのか?」そこに記憶をたどる。

「そうよ、あなた、あのベンチに座ったときにハンドバックをいじっていたわよ」
と、友人夫婦の奥様から指摘されて・・・

「そうだわ、あの時に、黒鳥がそばに寄って来て、気が荒そうだから恐いわ」
といって二人で逃げ出したわよね。

「そうよ、あの時に、ハンドバックの口が開いたままだったわよ」
ということになり、ほぼ、紛失した場所は特定できたようである。

現地のガイドさんが、これを聞いていて・・・

「私どもの知り合いが、この道路の先に住んでおりますから、そこから、連絡をとる
ことにしましょう」ということになった。

しばらく、道なりにバスを走らせて、バスは停車・・・

ガイドさんと運転手さんが道路脇の家の中に入って行った。ここから引き返した場合、
飛行機の出発時刻に間に合わないのだという。

やがて、運転手さんが、笑顔で戻ってきた。

「パスポートが見つかりました」という報告に、車内から、いっせいに拍手がわく。

今は、そのパスポートを、どうやって届けるかをガイドさんとセーター屋さんが相談
しているという。

やがて、ガイドさんも、笑顔で戻ってくる。

「店の知り合いの方の手で、空港まで、届けていただけることになりました」
というのである。

たまたま、運良く、クライストチャーチまで行く用事のあるお客様がお店の知り合い
の方で、偶然、お店に立ち寄っていたのだという。

今回のツアーにおいて、あの一人旅の銀行員の方が、珍しく発言・・・

「ニュージーランドでは、まだまだ、性善説が健在」といって感動の声をあげていた。

弁護士さんのご夫妻は、ご一緒に、頭を下げられて・・・

「皆さん、本当にありがとうございました」
といって深々と頭を下げられ、そして、奥様に向かって、

「おまえさん、あのパスポートには、現金も一緒にしまっておいたのだろう」
「それじゃ、パスポートが出てきたのは、まったくの拾い物だよ」
「パスポートと一緒に出てきた現金で、皆さんに、ご馳走しなきゃ」
ということになった。

ハプニングはあったものの、バスは、余裕をもって空港に到着した。
飛行機の出発までには時間があるので、トイレに入ると・・・

「あっ、あれが、キウイ・ハズバンドの光景か」
と自問した。

このトイレの隅には、ほどよい広さの場所があり、男性は背負っていた赤ちゃんを、
そこに寝かせると手際良くオムツを取り外して竹べらで赤ちゃんのウンチを取り除く
や、手早く、さっとオムツを取り換えた。

この良く働くニュージーランドの若旦那たちに、敬意を称して「キウイ・ハズバンド」と
いうのだという。

この呼称を知ったのは、最初に、クライストチャーチに着いて、カンタベリー博物館
に入りキウイバードの剥製を見て、そのときにキウイフルーツは形がキウイバード
に似ていることから、この名前がついたと聞いて面白いと思った。

このことをバスツアーに乗り込んできた地元のガイドさんに・・・

「面白い話ですね」
「キウイフルーツの方が、どちらかというと、先かと思っていました」
と感想を述べたところさらに面白い話を聞かせてくれたのであった。

「ニュージーランドでは、若い奥さま方に対して、優しい若旦那さまが多く、まめに
育児などを手伝うところの、若旦那さまたちを称して『キウイ・ハズバンド』というの
ですよ」と教えてくれたのであった。

実際に、キウイ・ハズバンドを目の当たりにして、現実に、存在するのだと妙に納得
した。しかし多くの場で、その状況に出くわすことは少なく、その存在は、ごく少人数
ではないかとも思った。




021 名門オールブラックスのホームグランド 

オークランド空港に着くと、暖かな陽気で、満開の薔薇に迎えられた。

南半球のニュージーランド北島に位置するオークランドは南半球換算で考えると、
日本の東京と対の位置に在り、昼間は、半袖でも過ごせる秋の陽射しであった。

南島のクイーンズタウンではセーターを着ていても、朝方の寒さがこたえたことが、
信じられないような温度差である。

ただオークランドでも朝夕は上着が必要であり、一日間での温度差は大きく、秋の
陽射しの落差の大きさをあらためて感じた。

太陽の陽射しがいっぱいの海沿いの景色は、特に素晴らしく、ここでは高級住宅が
海岸線に沿って建てられている。

オークランドでは、海沿いの高級住宅をおよそ七千万円から購入できるという。

やがて、海沿いからそれて、丘の上に登って行くと大きな公園に出た。
「あれが、ラグビー界の名門オールブラックスのホームグランドですよ」
という案内があった。

私は、丘の上から食い入るように眼下を見た。広大なグランドである。
「あのラグビーの試合の前のオールブラックス独特の民族の雄たけびのような
踊りが目に浮かんでくる」

・・・・・・・・・・・・・・・

オークランドの薔薇園の近くに建てられた郊外のホテルに泊まった翌朝は当日の行動
が終日を通して自由行動ということなので、朝食をご一緒したミセスCIA親娘と新婚組
と私と家内の六人で勢ぞろいして「オークランド観光」に、出掛けようということになって
早々と「具体的な行動計画」がまとまった。

「タクシーによる貸しきりの市内観光をしていただけるところを探しましょうよ」ということ
になり、善は急げとばかりに、ホテルで教えていただいたタクシー会社に電話をすると、
その電話のやりとりをしていただいた、ミセスCIAの娘さんが、日本語に通訳してくれて

「人数が六名なので、特別に、ランドクルーザー型のタクシーで、ホテルまで迎えに来て
くれるそうよ」
ということになり、しばらく待機していると、なんと、その車は、日本を代表するトヨタ製の
大型車であった。

全員が乗車してから、終日コースで、市内観光をしたいと希望を伝えると・・・

「私は、ここの地元出身なのでオークランドのワイン工場の経営者などとも幼友達です」

「他にも、知り合いが多いので、皆さんにとって、きっと喜んでいただける、楽しい一日に
なることでしょう」
といって、目のくりくりとした運転手さんから、皆を喜ばせる言葉が発せられた。

運転手さんは、元セスナ機による観光飛行のパイロットであったという。
とても陽気な方で楽しいドライブが予感された。

しばらくして、大きな橋を渡りながら・・・

「このオークランド・ハーバーブリッジは、拡幅工事を、日本の石川島が手がけたました」
「当時は、オークランドをあげての大掛かりな拡幅工事で、街中が大騒ぎでした」という。

やがて、ズー・ロジカルガーデンに到着。名前の頭にズーと付くので動物園である。

「ここでは、キウイバードに対面できます」という説明が運転手さんからあった。
このキウイバードとの対面は、ある意味で私にとっても家内にとっても感動的なもの
であった。それは、その後の私の生き方を変えた対面といってもよい。

鳥舎の入り口で日本版の説明を聞く・・・

「体長は三十センチくらいです。夜行性のために、特別な鳥舎に入っております」
「キウイバードは、ニュージーランドの国鳥に指定されています。キウイフルーツは、
形が、この鳥に似ていることから、キウイフルーツと名付けられました」
と、さらに、鳥舎の手前で詳しい説明が続く。

「ニュージーランドには、蛇が、一匹もおりません」
「したがって、キウイバードにとっては天敵のいない幸せな生活が続き、空中を飛ぶ
ことを忘れました」

「天敵がいないため、目もまた活発に動かす必要がなく、視力も衰えて行きました」

「このように食べては寝るの生活を繰り返していたために、くちばしのみが長く伸び、
ずんぐりむっくりな体形になっていったのです」

私たちは、概略の説明を聞いた後で、鳥舎の中の暗がりに目を凝らすと、私は、そこに
自分の姿を見ている思いがしてきたのである。

二年前に、東京の大手町に、新しいプロジェクトが発足して、私もメンバーとして参画。
自宅からの通勤は、片道で二時間近くかかり、その間は、電車で立ちっぱなしのため、
それまで一時間以内の通勤に慣れていた私にはこたえた。

週末には、必ず続けていたテニスもやめてしまった。

私は、週末の休日を家で過ごすことが多くなり、それにつれて家内や娘たちから、
「お父さん、あれ食べる、これ食べる」
と、差し入れがあり、食いしん坊の私は、これを片っ端から食べていた。

プロジェクトが一年間で終わってからも、この生活習慣が続いていた。

同僚たちは・・・

「幸せ太りですね」といって冷やかした。結果的には、体重が十キロも増えた。
スーツ類のズボンのウェストは寸法直しを二回も行った。
この時点では、まだ体重は、五キロ増えただけであった。

「ズボンの寸法直しは、これで、目一杯ですよ」と洋服屋さんに云われた。
それが、またしても、十キロ・増えたのである。
なんと、ワイシャツのボタンが弾け飛んだ。

ズボンのお尻の縫い目が朝の体操のときに裂けた。
スーツ類は、ほとんど、仕立て直す羽目に陥った。

「体重が十キロ増えると、ウェストが十センチ相当は伸びるのですよ」
「身長が五ミリ伸びたのには驚きました。かかとに肉が付くためなのですよ」
と周囲に珍説を披露することになった。

そして、ついに会社の定期健康診断で肝機能に障害が発見された。

お医者さんに相談したところ・・・

「急激な太り過ぎによって、肝臓が脂肪巻き状態になった可能性が高いですね」
と警告を受けた。

「ニュージーランドのキウイバードを見て、我がふり直せだよね」
と自問した私は、これをきっかけにして、日常の生活習慣を大転換することになるの
である。

日本に帰ってからのことであるが、飼い犬を買い求めてシェリーと命名。この出会い
が私の生活習慣を変えて、日々、欠かさずの散歩が効き体重を一挙に五キロ軽減
させ肝機能は回復。健康診断において「正常」復帰が確認されるにいたった。

ただそのときの速歩きに懲りたせいか、その後は、飼犬シェリーが、しばらくの間は、
私の顔を見ると散歩に行きたがらなくなった。

飼犬のシェリーにしてみれば、子犬のときには、まだ訳も分からずに私と一緒に嬉し
そうに歩いていたが、やがて家内との散歩によって、自分のペースで歩ける楽しさを
知ることになり「ノンストップの遠乗り」は、御免こうむりたいということになったのであ
ろうと考える。

ニュージーランドの動物園では、他にも、多くの鳥たちが飼育されていた。

動物園内には、図体が大きくて怖いような鳥も飼われていた。その鳥に似たモアは、
マオリ族が食い尽くして、絶滅してしまったというから凄い話である。

「あら、キリンの赤ちゃん」
と、その声につられて、丘の下を見下ろと、

「あら、親子のキリンが、ゆったりと歩き回っているわね」
「まさに、マイガーデンという雰囲気だね」
と若夫婦の会話が耳に入ってくる。

広大な敷地内を歩くキリンの親子は幸せそうである。
その隣の敷地では、ミーアキャットが穴掘りをしていた。

そのミーアキャットに若旦那が声をかけた。なんと歓迎のポーズをしてくれているで
はないか。新婚のお二人は大喜びであった。その後はまた大型タクシーに乗り込み
水族館へと向かった。

「大きな水槽の下を、人間が通り抜けられるようになっているのね」
「これは、トンネル構造になっていて、その通路は自走式になっているよ」
「わっすごい、鮫が頭の上をゆうゆうと泳いでいるわ」
と、それぞれに歓声をあげる。

展示場所には、鮫が口を開けた時の状態が、標本にして飾ってある。
鮫の歯は三角形になっていて、これで噛まれたら、ひとたまりもないことが良く理解
できた(あらためて鮫の怖さを知ることになる)。

次の見学コースはオークランド博物館。元セスナのパイロットらしく三階には「零戦」
が展示してあるという説明を加えて、私の方に顔を向けてきた。

私は、その目が、云おうとしている意味に気付き・・・

「本当ですか」
「ニュージーランドに零戦ですか」
「もちろん大いに興味があります」
と答えた。

零戦は、軍事品関係の展示コーナーに大きなエリアを確保してほぼ完全な状態で保存
されていた。私は、実戦に使われたことのある零戦を見たのは初めてのことである。

心の内で云うにいわれぬ「ショック・ウェーブ(衝撃波)」のようなものを感じていた。

同じ展示コーナーには戦闘機用のエンジンも展示されていた。

ここに、零戦が展示されているということは、われわれ日本人が戦後の経過とともに、
かつての自分たちの戦争体験を風化させて、戦争があったことさえも忘れたとしても、
地球の反対側では、この零戦が展示されている限り、日本にとっての戦後は永久に
続いているということである。

階段を下って一階に出ると、博物館の一階にはマオリ族の戦闘用カヌーが展示されて
いた。私は、なんの気なしに遠くの入り口付近に目をやると・・・

「蝶ネクタイの紳士のシルエットを見た思いがした」

逆光のために、顔がよく判別できなかったが、神崎さんのような気がする。
「こんにちは」と、心のなかでつぶやいて、軽く会釈を交わす。

「気のせいだろう」と、自分に言い聞かせる。

「世の中には少なくとも似たような人物が三人はいるものだ」
という友人の言葉を思い出していた。

「神崎さんと特定できないまま」
その人物は、伴の人と思われる二人を従えて、遠くを横切って行った。

・・・・・・・・・・・・・・・

館内の出口付近には、マオリ族の戦闘用カヌーが展示されていた。

その戦闘用カヌーは、芸術品ともいえる優れもので、その形状には、無駄をそぎ落と
した機能美が感じられた。この一階のマオリ族の展示場は地元の子供たちに人気が
あるという。ニュージーランドの小学生たちは盛んに写生をしていた。

ニュージーランドでは、小学校への入学は、五歳と日本よりも早い。   
小学校は五年間で中学校の二年間へと続く高校は五年間であり十七歳で修了する。
ニュージーランドの人たちの結婚は早いとガイドさんが紹介していた。

街中の店で働いている女性たちは活発で、空港で見たキウイ・ハズバンドとは対照的
な印象であった。しかし、ジェットボートを操縦していた男性やラグビー選手などを見て
いると、男の中の男という、男性像が強烈な存在感として感じ取れるので・・・

「ちょこっと観察で、ニュージーランドの人たちを語るのは難しい」
というのが正直な感想である。

博物館を出ると、皆んなの顔に、秋の陽射しが強く差し込んでいた。

オークランドでのタクシーツアーを終わり、博物館の前で、一同、揃っての記念撮影
は、セスナの元パイロットがシャッターを押した。

博物館の外観は、古典的で、この中に零戦が展示されていたことが、いまだに信じら
れない事実として、強く脳内に刻み込まれた。セスナ機の遊覧飛行やタクシーツアー
での長い経験を生かされての今回のガイドぶりには大感謝であった。

皆さん、それぞれに、
「今日は、終日、楽しい案内をしていただきまして、ありがとうございました」
と心から、お礼を述べた。

「私も、楽しみましたよ」といって、元セスナ機のパイロットは、
「ありがとうございます」といいながら、一人ひとりに、丁寧に、感慨深く握手された。



022 ニュージランドで鳥の眼と虫の眼を獲得 

今回のニュージーランド旅行もオークランドにおける夜がツアー最終日の夜でもあり、
新婚組のお祝いも兼ねて大いに盛りあがった。ホテル側からも、催しが用意されてい
て次々とゲームが行われた。

弁護士さんの奥様からはクライストチャーチでパスポートが無事に見付かったお礼に
といって、全員にケーキが配られた。

ゲームの中で一番の盛り上がりは家内が新婚の方に向けて企画したゲームで・・・

顎の下に、はさんだオレンジを、顎から・顎に・渡す場面で、最終ゴールの新婚組に、
オレンジが渡ったときに、危うくオレンジが落ちそうになって、若旦那が花嫁を抱きか
かえてオレンジを守りきった瞬間であった。

その晩は部屋に戻るとテーブルの上にフルーツバスケットがホテルからのプレゼント
として案内書きと一緒に届いていた。それぞれに風呂から出てベランダでくつろいで
いると、ワインとフルーツで、ベランダからの夜景を楽しむことで意見が一致した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

翌日の日本へのフライトは、天気も良く、視界も良好で、機内から窓の下をのぞくと、
海上を、ゆったりと走るタンカーが見えた。

「はるか上空からなのに、タンカーが大きく見えるわね」
といって、その船の大きさには、私も家内も素直に驚いた。

日本産業の歴史においてと、前置きをして、私は詩吟のように・・・

「母なる船から、そこに築かれた技術力が、基盤となって飛行機を育てあげ、さらに
自動車産業に技術力が移転して、国際的な競争力を確かなものにして行った」

「そして、その後は、船も飛行機も、巨大化して進化を遂げ輸送力の拡大に寄与して
行った。自動車の分野では市場を世界に拡大させて行き、第二次世界大戦前には、
想像すら出来なかったことが、現実の世界で飛躍的に発展して行った」
と唱えたので家内はあっけにとられた。

今回のニュージーランドへの旅で多くの年長の方々から、私と家内は大いなるパワー
をいただくことになり、お互いの共通の将来展望も明確に描けたと同時に、私は年長の
方々の元気路線にも同乗することが出来た。

「ニュージーランドの風景には、ボクらの幼い頃の原風景のようなものがあったよね」
と、私が家内に語りかけた言葉通りに、このニュージーランドへの旅において、二人に
とっての原風景に似た状態で、共に、幼子体験を含めてフラッシュバックできた感覚を
共有できたことは、今後の二人の生活や心の働きという面を考えるときに、とても良い
体験であったと考える。

そして、日本に向かう機内で、思いがけない会話が交わされることになる。

「あの元気な奥さんたちの好奇心や行動力に触れて感じたことは、自分たち向けにも
積極的な投資が、時には、必要ということね!」
という感想を聞かされ、帰国後、数日たってから・・・土曜日の朝に・・・

「あなた、これで思いっきり、自分でやりたいと思うことをやってみたら」
と、家計費からです、と、云って、現金で百万円を渡されたことが、私にとっては全ての
善循環の始まりであったような気がしている。

私は、熟慮の上で・・・

「これからは、自宅にも情報化の波は必ず押し寄せてくると考えてパソコンを購入した」

そして「社内における業務革新の旗振り役」の対象が、企業運営や企業経営の領域に
入ってきたことから・・・

「経営大学院と命名された商品名の教材を総量にして大きなダンボール箱で二箱ほど
購入、ビデオテープとカセットテープ教材を伴ったテキストを活用し、休日になると猛烈
な勢いで勉強を始めたのであった」

そして、私は、この猛勉強を経て「鳥の眼」と「虫の眼」という見方(視点)を身に付けた。

◇鳥の眼という見方(視点)からは、航空事業分野を国内主体の需要から、海外事業を
 視野に置いたところの「国際的な事業に転換させる」ための企業革新の推進役として
 活躍する道を切り拓いて行くことになる。

◇虫の眼という見方(視点)からは、新入社員として純国産ジェットエンジンの量産設計
 に携わったときに感じた、先人たちの天才的技術集団は・・・

 「何故、ここまで、バランスの取れたジェットエンジンを設計出来たのか?」

 と、いう設問について、異次元の世界を眼前にフォーカスすることで答えを得た。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

それにしても、あのニュージーランドの博物館で対面した・・・

あの零戦からの「ショック・ウェーブ(衝撃波)」は脳内に深く刻みこまれたままである。

私は日本において、けっして戦後という時代を終わらせてはならないと同時に「不戦」
の国であるという日本の理想はどこまでも貫く必要があることをあらためて認識した。

そして、この「不戦の誓い」は、個人にとっても重要であると考える。

そして、あらためて、地球の反対側のニュージーランドに展示された零戦が存在する
限り「戦後という時代に終わりはないのだ」ということを唱え続けて行く必要があること
を痛感した。


023 純国産ジェットエンジンのバランスのとれた設計の秘密

私は、新入社員として、設計陣の末席に「純国産ジェットエンジン」の量産設計を急ぐ
仲間の一員として加えていただき、量産設計のすべての図面の出図が完了した時に
大型の設計図版を配した末席で、一緒になって拍手の輪に融け込んでいた。

部品の設計図面に続いて、ジェットエンジンのそれぞれのコンポーネントの組立図の
設計図に着手して行くことになる。この組立図を作成する段階では、当然、単品図に
も目を通すことになるので、単品図としての再点検と組立て手順の再確認が、重要な
任務として重なってくる。

私には、並行して、ジェットエンジン全体の断面図とそれぞれの部品の材料配置図の
作成も任務として与えられ、それぞれの材料スペックの通読が「新人研修」を兼ねる
形で、私への指導員を命じられている主任から指示された。
(後に、この指導員は、本部長に就任)

私は、純国産ジェットエンジンの断面図を描いている時に「天才的な技術集団」が先人
として「何故これほどまでにバランスの取れたエンジンを短期間で設計できたのか?」
そこに大いなる興味をいだいた。

実際に量産設計の図面を描いていても、要所要所で、設計センスとしてのバランスの
良さは感じ取ってはいたがエンジン全体の断面図を描いていてセンス抜群・バランス
の良さの源には、興味が増すばかりであった。

本稿で、次のような、前述をしたことがある・・・

「何故、純国産ジェットエンジンが、これほどまでに、バランスの取れたエンジンとして
熟成したのか、その秘密は、二十年先の異次元体験を経て知ることになる」と。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここで「純国産ジェットエンジンの生い立ち」を辿ると・・・

◇最初に、純国産ジェットエンジンの開発に手を挙げたのは「石川島重工業」 「富士
 重工業」「富士精密工業」「新三菱重工業」の四社であった。

◇この四社に対して、当時の通商産業省は、共同出資で・・・
 「日本ジェットエンジン株式会社(NJE)」を設立するように指導した。
 
◇しかし、当時の欧米における先進的なジェットエンジン技術は圧倒的な優位にあり、
 ジェットエンジン開発には膨大な予算が必要なことから、ライセンス生産による技術
 導入および技術力の修得が有利とする考え方が根強かった。

◇そのような状況の中において「日本ジェットエンジン株式会社(NJE)」を設立したも
 のの当時の通産省としては、大蔵省に向けた純国産ジェットエンジン開発のための
 予算獲得のための説明については、難しい立場と状況に置かれていた。

◇しかし、そのような折に・・・

 防衛庁から「小型のジェットエンジンで・推力1トン程度のものを・搭載した練習機」を
 求めているという声が伝わってきた。しかも「機体・エンジン共に・国産」であることを
 条件としていることも判明して「NJEの出番」がおおいに期待された。

◇昭和三十年(一九五五年)五月には、日本初のジェット練習機 「Tー1」 に搭載す
 るための試作エンジン「XJ3」が防衛庁から具体的な要求として出されてきた。

 (同年十二月には、防衛庁内において、エンジンを試作することが決定した)。

◇そして、昭和三十一年(一九五六年)三月末に、防衛庁とNJEの間で、エンジン試作
 の契約が結ばれた。

◇エンジンの設計・開発は、最盛期には180名に及ぶ従業員を抱えて順調に進められ、
 試作エンジンが完成したが、試運転において「いたるところで故障や破損」が相次いで
 問題が山積する状態に陥った。

◇なんとか、初号機を防衛庁に納めたものの納入後も相変わらず問題が相次ぎ使い物
 にならない状態のまま二年半を費やすことになった。

◇エンジン開発に手間取っていることから、通産省の行政指導もあって「川崎航空機」も
 加わり五社体制となったが、事態の好転は望めず、昭和三十四年(一九五九年)初頭
 に「NJEの今後」について話し合いが持たれた。

◇防衛庁としては「開発が長引いたために開発費が暴騰」それに伴う量産台数の減少が
 見込まれ、さらに赤字額を増大させる恐れが出て来たために「NJE五社」による様々な
 話し合いが行われたものの解決の道筋は得られなかった。

◇解決の道筋が得られない中で、防衛庁としては・・・

 「NJEは寄り合い所帯であるため、結論が得られるまでのプロセスが曖昧になりやすく」
 「品質やコストの保証体制を明確にするためには『一社体制』に集約したい」とした。

◇防衛庁の方針に沿って、昭和三十四年(一九五九年)初頭に五社間で熱心な話し合い
が行われた。

 【結果】 
 「石川島重工業に製造権を譲渡する」
 (そして、これに、各社が協力すると云う結論に到った)
 
◇実質、他の四社にとっては・・・

 「金も・時間も・膨大にかかって」
 「結果、質の悪いエンジンきり・完成出来ず」に、
 「日本共同体としてのNJEの実力をお互いに思い知ることになった」が、

 「それでも、機体を得意とする企業にとっては、得意の機体事業に専念出来る」
 というメリットはあった。


【石川島重工業のジェットエンジン造りへのこだわり】

「火中の栗を拾う」と云う言葉があるが、純国産ジェットエンジンの開発という大命題
の中にあって「問題が山積して」解決の見通しがついていない故障や破損の相次ぐ
状況の中「純国産ジェットエンジンとしての完成を引き受けた」バックボーンには・・・

「当時の石川島重工業の土光社長の強い意思決定があった」と云える。

土光社長としては、その生い立ちからも、超精密加工を必要とする回転機械の設計
や製造を得意としており、回転機械の設計の延長上としてジェットエンジンの重要性
や将来性には、早くから着目していたので・・・

「純国産ジェットエンジンの完成を引き受けること」に時間はかからなかった。

☆土光社長の生い立ちからの経緯を辿ると「純国産ジェットエンジン」の完成を引き
受けることは「天命」であった印象すらある。

【入社後のスイスでの研修】

土光敏夫は、大正九年(一九二〇年)に東京石川島造船所(現在のIHI)に入社して
大正十一年(一九二二年)に、タービンの製造技術を学ぶためにスイスに留学した。

昭和十一年(一九三六年)に芝浦製作所(現在の東芝)との共同出資による石川島
芝浦タービンが設立されると技術術部長として出向し、昭和二十一年(一九四六年)
に社長に就任した(その頃の猛烈な働きぶりから「土光タービン」と呼ばれていた)。


【戦後の日本が置かれた状況】

当時、我が国が置かれていた状況は・・・

◇ポツダム宣言の受諾により、航空機の生産は全面的に禁止されて、昭和二十年
(一九四五年)十二月には、民間向けの航空機も「所有」「運用」「研究」などの活動
が一切禁じられた。

このような状況下において「鉄道技術研究所」は、まさに逆転の発想をして非航空用
のガスタービン研究を進めるには、好機と考え、戦時中に・航空技術に専念していた
技術者約20名を集めて「非航空用ガスタービンの研究」を始めることを決めた。

鉄道技術研究所では「予算を獲得して」非航空用ガスタービンの製作に取りかかり、
石川島芝浦タービン土光敏夫社長の好意にも助けられ工場の一隅を借りて実験場
を設けた。そして、実験の本格化に伴い実験場の面積は次々と広がって行った。

一方で、このプロジェクトに関連した試験設備や機材は、鉄道技術研究所から石川島
芝浦タービンに発注されることとなり、当時、仕事不足に悩んでいた土光社長や同社
にとっては、大いに救われることになった。

このガスタービンは昭和二十五年から二十六年にかけて、最終的な運転試験を完了
させ、やがて、運輸省の運輸技術研究所に引き継がれて行き、最後は、和歌山県の
興亜石油の精油所内のコンプレッサー駆動用として長年使用された。

敗戦の失意の中から立ち上がった若いエンジニアたちの熱意を大きな包容力で受け
とめた鉄道技術研究所の中原所長と土光社長の技術者魂が、このプロジェクトを支え
続け、結果、我が国のガスタービンの歴史に大きな足跡を残したと云える。

このプロジェクトが進行中の昭和二十五年六月二十四日に、経営危機を乗り越えるた
め、石川島重工業の本社への復帰を要請された土光社長は、社長に就任して再建に
取り組むことになる。

土光社長は、持ち前の経営力と技術力を駆使して、徹底した合理化を推し進め、経営
再建を成功させた。そして、造船力を世界一のレベルまで引き上げるための基盤整備
として昭和三十四年(一九六六年)に石川島ブラジル造船所を設立、さらに昭和三十五
年(一九六〇年)には播磨造船所と合併して、社名を「石川島播磨重工業」とした。


【土光社長の先進的な思考による経営方針】

やがて、一九七〇年代になると、ボストン・コンサルティング・グループから・・・

◇プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント(PPM)が提唱されて、米国のGE社において
採用されることになるが、当時の土光社長の思考によるところの「経営方針」は、これを
先取りして、既に、実践面に活かしている点では驚愕に値する事実と云える。

◇即ち「PPM」の考え方に当て嵌めて考えれば「金のなる木」としての造船業を稼ぎ頭
として事業の筆頭におき、世界中から造船の受注を集めて、利益を生み出す。

◇一方で、花形産業として将来を託せる可能性のある航空機用ジェットエンジン事業に
思い切った大型投資をして行く。しかし、ここでの課題は、自社におけるシェアの拡大と
維持が大命題となってくる。



【ジェットエンジン事業としてのシェアの拡大と維持】

これは、前述したことであるが、

◇純国産ジェットエンジンの完成に向けて、エンジンの故障や破損が相次ぐ状況の中で、
防衛庁の方針であるところの・・・

「NJEは、寄り合い所帯であるため、結論が得られるまでのプロセスが曖昧になりやすく」
「品質やコストの保証体制を明確にするためには『一社体制』に集約したい」とした考えに
沿って、五社間で話しあった結果、
 
 「石川島重工業に製造権を譲渡する」
 (そして、これに、各社が協力すると云う結論に到った)

このことから焦眉の問題や課題を解決すれば、他の四社は機体事業に専念する方向性を
打ち出しているので、土光社長としては、石川島重工業がジェットエンジン事業に特化して
取り組めば「シェアの維持・拡大の可能性は極めて高くなる」と見込むことになる。


【土光社長の自社におけるガスタービンへの取り組み】

一方で、土光社長も、石川島重工業の本社に戻り、戦後、鉄道技術研究所が成功させたと
ころのガスタービンの経緯を受けて、昭和二十五年(一九五〇年)には、内燃機関設計課を
設けて、翼列風洞と燃焼実験装置を完成させ、今井兼一郎を主軸にして人材を集め二軸型
ガスタービンの開発に着手した。

そして、昭和二十八年(一九五三年)には計画性能を達成して、鉄道技術研究所の成功に
次いで自社におけるガスタービン開発の意義を高めることになった。

やがて、この研究は、昭和三十年以降は主要テーマを小型ガスタービンの方向に向かわせ、
さらには「航空エンジンへの転用」と開発の方向性を収斂させて行くことになる。


【純国産ジェットエンジンの俊敏な完成と初飛行の成功】

純国産ジェットエンジンの開発を正式に引き継いだ石川島重工業は、試作エンジンXJ3の
徹底的な改善を図って、試験を積み重ね、昭和三十四年(一九五九年)7月に、YJ3-3を
完成させた。

そして、翌年の昭和三十五年(一九六〇年)には、機体「T1F2」の試作1号機に搭載して
五月十七日に初飛行に成功した。

かくして昭和三十六年(一九六一年)には防衛庁によって正式に採用され「J3-3」として
量産化への道が開かれた。

・・・・・・・・・・・・・・・

さて、この鮮やかな問題解決の裏には「どのような秘策」があったのか?

そこにも、土光社長による「適材適所」の秘策があった・・・

石川島重工業が航空機用ジェットエンジンの開発に向けて体制を確立・確固たる地位を
固めるためには・人材の適材適所が、急務という考えから、人材の結集は手早かった。

昭和二十七年(一九五二年)11月、石川島重工業は、戦時中に「ネ20」エンジン開発の
中心人物であった永野治を技術部長として迎えた。

また、耐熱合金の権威である 中村素、戦時中に石川島でネ20に取り組んだ森糾明を
はじめとして、今井兼一郎、 浜本一郎、荒木四朗、牧浦隆太郎、飯島孝、影山芳郎、
土光陽一郎、三瓶勝男、村田武之助、石田一男といった「優秀な創業メンバー」が顔を
揃えた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私は、次の様な記事を前述した。

「何故、純国産ジェットエンジンが、これほどまでにバランスの取れたエンジンとして
熟成したのか、その秘密は、二十年超の異次元体験を経て知ることになる」と。

そして、私の執筆する物語の多くに、この異次元体験の経緯が登場するが、ここでも
読み手にとって「一読にお付き合いいただけるのか?」「否か?」・・・

「私自身には確証がもてないことである」と。

かくして、多くの読者に、異次元の世界にまで、お付き合い戴くことになったが・・・

やはり、社史を辿っても・・・

「何故、純国産ジェットエンジンが、これほどまでにバランスの取れたエンジンとして
熟成したのか?」の答えは見いだせなかった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

しかしながら、異次元の世界において、中島翁からの言葉として・・・

「いや、それでも終戦直前に実機として開発。飛行試験まで一気に駆け抜けた日本初
のジェットエンジンネ20に比べたら実用化までに三年間は、まだまだ長いほうですよ」
といって、中島翁はテーブルの上に一冊の著書を置いた。

「海軍特殊攻撃機橘花『日本初のジェットエンジン・ネ20』技術検証」石澤和彦著
であった。

私も、既に、この著書には目を通している。

この著書の記述によれば・・・

◇ネ20ジェットエンジンは「一年未満の短期間」で初飛行に成功している。

◇その時間軸に沿った経過を追って行くと「その俊敏さ」が伺い知れる。

◎一九四四年七月にBMW003A縮小断面図を入手してから同年十月には、
「ネ20計画図」を作成

◎同年同月に、艦政本部の技術者を投入して、二ヶ月間で設計陣を強化

◎同年十二月末に「ネ20の設計作業」を開始

◎翌年一月中旬には「一部の部品の製作」を開始

◎三月中旬には「全部品」を完成

◎三月末には「組立を完了」してエンジン試験開始

◎四月には「試験本格化」を神奈川県秦野にて果たす

◎同月には「橘花への搭載」を決定

◎六月には「耐久試験」を完了

◎七月には「1式陸上攻撃機に懸架」して三沢で空中試験

◎同じく同月には「橘花を分解梱包」して木更津に発送

◎そして同月に「運転開始」木更津にて

◎七月末には「橘花に搭載」して地上滑走

◎八月には「十二分間の初飛行」に成功

◎そして「終戦」八月十五日

このように、日本初のジェットエンジンネ20は、ものすごい勢いで開発が進められて、
橘花に搭載され初飛行は八月七日に、高度にして六百メートルを十二分間飛んだ。

ネ20の開発を耐久試験の終了をもって完了とすれば、設計図作成の段階から開発
の完了までは「僅か八~九ヶ月間」であり、米国が英国のエンジン図面と現物および
その指導者を手中に入れながらエンジン完成までに約一年間を要していることからも、
いかに短期間で開発したかが分かる。

しかも次のような記事を読むとなおのこと当時の状況の凄さが良く理解できる・・・

「本来なら、BMW003Aエンジンの設計図は、詳細なものがもたらされるはずだった

「しかし、その図面を積み込んでいた潜水艦が撃沈された」

「幸いにも入手できたのは、途中で下船した巌谷中佐が、僅かに持参していたBMW
003Aの縮小された断面図と見聞録だけであった」

と、ここで、私と中島翁の考え方と見方が、完全に一致したのは・・・

「既に、同じような設計構想が、日本においても出来上がっていたのではないか」

「それが、仮に図面になっていなくても、技術者の頭脳の中で描かれていた」
という見方と考え方である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ジェットエンジン技術者としての永野治氏の俊敏な思考と行動力、このスピード感
こそが、天才としての資質であり「誰にでも・真似して・真似できるものではない」
あえて名を挙げれば、土光社長にも、この俊敏性は備わっている。

土光社長による俊敏な適材適所としての永野治氏の任用、それに応えた永野氏
の純国産ジェットエンジン完成に向けた俊敏な設計仕様の総仕上げ・・・

「これこそが、バランスの取れた純国産ジェットエンジン完成の鍵であった」と私は
納得ができた。

その後、土光社長は、プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント(PPM)による表現を借り
て記述すれば・・・

◇PPMの考え方における「金のなる木」としての造船業を稼ぎ頭として継続発展させる
ために石川島播磨重工業(現在のIHI)の初代 土光社長に 継ぐ 二代目に田口社長
三代目に真藤社長を適材適所として任用して「金のなる木」をさらに発展させた。

◇一方で、花形産業としての航空機用ジェットエンジン事業には 初代 永野本部長を、
二代目には、森本部長を、三代目には、今井本部長を適材適所として任用することで、

今日、五十年後に・・・

「航空機用のジェットエンジン分野が、全社的にも『屋台骨』」として経営の基盤を支える
ところまで行くであろう、と、云う洞察力を持っていたとすれば、その心眼たるや、歴史的
にも他の追随を許さない存在と云えるだろう」

純国産ジェットエンジンの試作から・量産化への道筋を切り拓いた「土光社長の采配」と
適材適所の心眼で人材を繰り出したことを認めるのは、顧客である防衛庁ばかりでなく、
航空業界における他社のトップも認めるところでありその光景のひとこまが今井兼一郎
によって披露されている。

これは、前述した・記事でもあるが「航空宇宙の30年の歩み」には、巻頭部分で歴代の
本部長の所感や思いなどが述べられており、三代目の事業本部長 今井兼一郎氏から
は「航空宇宙本部30年に際して」として次のような文面が掲載された。

昭和37年、田無工場の新総合事務所の開所式の当日、わが国の航空工業会をリード
した企業の社長を勤め、生え抜きの航空マンである方が・・・

「われわれも何度かジェットエンジンを手がけることを考えたが」どうしても充分なことが
できなかった。土光社長に「よくここまでおやりになった、と、伝えてほしい」と、心からの
言葉を残して去っていかれた・・・(中略)・・・

☆☆☆ 古き良き時代の航空マンの友情は「ボーダレス」なのである ☆☆☆




024 純国産ジェットエンジンの推力増強

初の国産中等ジェット練習機に搭載された純国産J3ジェットエンジンは訓練飛行に就航後
の推力増強型への改造によって、その命運は、飛躍的なビッグチャンスに恵まれた。

純国産J3ジェットエンジンを搭載した中等練習機は、就航当時から操縦性や離着陸特性に
優れていたが、その後、飛行訓練教官の声などを反映して推力を1200Kgから1400Kgに
増強してからは、操縦性の優位性のみでなく、燃費の良さでも既存の練習機を上回った。

しかしながら、後発の純国産J3ジェットエンジンを搭載した中等練習機は、その就航までに
手間取ったために機体総数で20機の納入にとどまった。
(先行エンジンの搭載分を含めて、中等T-1練習機シリーズは総勢60機で生産完了)

これは、1962年(昭和37年)から、最先端のF-104戦闘機の導入によって飛行訓練の
教育体系が変わり、それまでは高等練習機に位置付けられていたところのT-33練習機
が中等練習機に格下げとなったため、中等練習機の新規需要が激減したことによる。

中等ジェット練習機の飛行訓練上の位置付けは、レシプロ・エンジンを搭載した初等練習機
による訓練を修了したパイロットたちが、引き続きジェット機による中等飛行訓練を行うため
に用意されたもので、パイロットにとっては高等ジェット練習機につながる登竜門と云える。

したがって、飛行訓練プログラムを練り上げる飛行教官たちにとって、推力増強を果たした
J3ジェットエンジンを搭載した中等練習機は、離着陸性能や操縦性能をさらに向上させた
上で、燃費も格段に良いことから、生産が20機で完了することを惜しむ声が多かった。

その様な折に、対潜哨戒機として、日本の海域を守っていたP2V-7ネプチューン60機が、
当時、脅威を増しつつあった海外の潜水艦への対応能力を向上させるために更新の時期を
迎え、対潜機器の更新にとどまらず、エンジンについてもレシプロからターボプロップエンジン
への換装が計画された。

エンジン換装の具現化については・・・

◇運航維持のための常用エンジンとしては、ゼネラル・エレクトリックのT64ターボプロップが
換装エンジンとして採用され、エンジンの製造は石川島播磨重工業が担当した。

◇対潜哨戒機として緊急時の加速用の補助エンジンとしては、純国産J3ジェットエンジンの
推力増強型をベースに、塩害対策として耐食性を向上させたエンジンが採用された。

この両者のエンジンの組み合わせにより、巡航速度の運用にも幅が出て、タービンエンジン
のみの搭載になったことで運用面のみでなく整備性の良さも著しく向上した。また換装配備
された全機が無事故で無事に退役したことも、特筆に値することであると云える。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この幸運を呼び寄せた、純国産J3ジェットエンジンの推力増強の機運は、国産ジェット機と
して、訓練教官たちに試乗機として供されたときに(当時の推力は1200Kg)・・・

操縦性も素晴らしく、離着陸性能も素晴らしい、願わくば訓練生にとってはジェットエンジン
として、更なる推力増強が可能ならベストであるという感想が述べられた。
(イギリス製の先行エンジンは推力1815Kgであった)

これについては、石川島播磨重工業の技術者たちも、かねがね、同じような構想を抱いて
きており、防衛庁の技術研究所で総合運転試験を一緒になって進めておられた防衛庁の
技術者たちも同じ推力増強の思いを描いていた。

「脱皮しない蛇は死ぬ」というニーチェの名言があるが・・・

まさに、NJEという五社連合によってエンジン開発が進められ、残念ながらトラブルの連続
でジェットエンジンとしての完成が危ぶまれた時期に、防衛庁の強い要望もあり責任体制の
明確化のためにエンジン開発が一社に絞り込まれることとなり、石川島播磨重工業は当時、
土光社長の強い意志決定もあり純国産ジェットエンジンとしてまとめあげる任を引き受けた。

結果、土光社長による適材適所の人材配置も効を奏し、純国産ジェットエンジンとして飛行
試験にも成功、防衛庁との契約を得て、純国産ジェットエンジンとしての量産体制にも移行
した。

当時、工場では最先端のF104戦闘機に搭載されているJ79ジェットエンジンも生産ラインを
流れ始め、純国産J3ジェットエンジンの量産開始と並んで生産工場内は活況を呈していた。

このようなエンジン生産に向けて意気上がる中で、純国産J3ジェットエンジンの推力向上は、
顧客にとっても我が社にとっても、強い希望となって行った。

同時に、顧客からの推力向上への期待に、具体的に応えることは、ジェットエンジンメーカー
として必須の命題でもあった。

推力増強の方法としては・・・

◇ジェットエンジンの回転数を過回転させて出力を増強させる
◇エンジン圧縮機を大改造してエンジンに余裕を持たせて出力を増強させる

この二つの方法が考えられるが、過回転の方法には、設計上のムリがあり長時間での運用
を考慮すると、顧客に向けて、積極的にはお薦めではない。

エンジン圧縮機の大改造は新しいジェットエンジンを設計し直す規模の設計変更となるため、
既に、国産化したジェットエンジンを創り直すことになる。

しかし、ここで土光社長の中長期展望によって採用された次世代の天才たちは圧縮機翼列
を、より洗練された設計に改変する研究を進めていた。このより洗練された翼列設計をJ3に
応用することで、大幅な出力増強が望めるのではないかという道筋が示された。

これによって、J3ジェットエンジンの推力増強を決定づける圧縮機について明確な見通しが
立ち、極めて洗練されたジェットエンジンへの脱皮が約束された。

次の段取りとしては、空気量を大幅に増すことが可能になった圧縮機に見合うだけの燃料の
供給量増加と燃焼器内での混合ガスの燃焼状況の確認、そして、より高熱・高圧となる混合
ガスを受け入れることになるタービン構造部の問題点の把握と設計の見直しが必要になる。

これらの燃焼器やタービン構造部の問題点を把握するために、新しい圧縮機の完成を待って
いては、顧客の推力増強への期待に対して時間がかかり過ぎるので、燃焼器とタービン構造
部についても並行作業で設計の見直しを進める必要がある。

そこで、担当部長の今井兼一郎が考え出した手立ては、純国産J3ジェットエンジンとして完成
した現有エンジンを過回転させ、新しい翼列設計の圧縮機が吐き出す風量に見合った空気量
に合わせて,燃料の供給量をシミュレーション、その上で、燃焼温度やタービン構造部の混合
ガスの流出温度などを計測して構造体としての問題点と対策案を把握するという方法である。

新しい翼列を設計した天才たちの試算では、現有の国産ジェットエンジンの推力1200Kgに
対して1400~1600Kgを達成出来るとシミュレーション結果を割り出し、これをエンジンの
過回転によって近似的に達成、その時の高圧・高熱の実態を計測することにした。

設計陣としては圧縮機のコンポーネントについては、先行して布陣が敷かれていたので、全体
の構造の適正化と燃焼器およびタービン構造部の改造について、新たな布陣が組まれた。

私は純国産J3ジェットエンジンとしての量産設計が完了した後は、製造工場における量産体制
の支援を行っていたが、推力増強に向けた新たな布陣が組まれたことに伴い燃焼器とタービン
構造部の設計要員の一人として任用された。

そして、最初の仕事は、現有エンジンを過回転させて推力1400~1600Kgに持っていった時
の燃焼温度やタービン構造部の温度を計測するための「熱電対」の設計であった。

設計の際には、ジェットエンジンとして空気と燃料の混合比など混合ガスとしての最適化などの
シミュレーションに詳しい数学家の権威である設計女史からのアドバイスをいただいて燃焼器
やタービン部の高温部の温度計測をするための熱電対を設計、エンジン過回転の運転試験の
タイミングに合わせて緊急発注をかけた。

この緊急発注をかけた後で、予想外の小さな事件が発生する。
(しかし、この時の教訓は、後の業務遂行に際して貴重な教訓を得ることになる)



025 熱電対に電気が通っていないという不思議な事件

エンジンの過回転運転による推力増強時の温度計測に向けて、時間的な余裕がなかったので
この熱電対の取得に向けて、私が責任をもってはりつくことになったが小さな事件が起きた。

発注した熱電対が納期通りに入荷したという知らせが、我々の設計部門にも届いたので、私は
入荷を知らせてくれた受入検査部門に出掛けて現物確認したところ、受入検査は、設定された
手順通りに行う段取りになっているので熱電対としての完成度を事前に確認したいのであれば、
それまでの間に貸し出しは可能であることを確認した。

私としては、試運転までに時間的な余裕がないので、基本的な機能テストだけは事前に済ませ
ておきたいと考えて、最少限のテストのみを該当部門に依頼して、現物を試験場に持ち込んだ。

結果「とんでもないこと」が発見された・・・

熱電対として「通電していないこと」が判明した(電気が通っていないのである)。
通常では「ありえないこと」なので、再度、念入りにテストしたが通電していないことが確定した。
事態は緊急を要するので、購買部門に連絡をして、熱電対の内部を分解検査した。

なんと、驚くことに「内部は詰め物のみ」で、熱電対の構造物は内臓されておらず、熱電対の
露出部のみに形態を繕うための配線のみが施されていた。

購買部門を通して、熱電対の製造業者に、問い合わせたところ・・・

業者としては、新規参入して、懸命に努力したものの、熱電対の完成見込みが納期を過ぎて
しまう可能性が出て来たために、形だけの熱電対を先ずは納入しておいて受入検査の実施
までには若干の余裕もあると考えて、その間に現物を入れ換えることを考えていた、と、云う
のである。

実際の現物は、現在、最終段階にあり納期よりも、三日間は遅れるが、正しく機能するものを
納入出来る見通しであると云う(まさか事前に点検があることなど考えてもいなかった?)

これは「良くも」「悪くも」正直ベースを旨としている航空マンの常識からは逸脱している。

航空機用のジェットエンジンを取り扱う航空マンの常識は・・・

例えば、エンジンの組み立てをしていて、万が一にも、ピン一本をエンジン内部に落下させて
しまった場合は、仮に組み立てラインから外されることが分かっていても、正直ベースで報告
することの重要性が、生活習慣として心身に刻み込まれている。

その様な企業環境からは、異常事態が起きたと判断せざるを得ない。
また、良いことは報告が遅れても許されるが、悪いことは「即、報告」が徹底されている企業
風土にあって、ただちに上層部にも報告される事態となった。

これは、上層部に行くほど、同じ問題点について解決のための選択肢を豊富に準備出来る
ためであり、手立ての人脈も幅広くなるためである。

今回の熱電対の問題は、購買課の課長預かりとなり、熱電対の性能テスト完了までが特別
管理の対象となった。

なにしろ、この熱電対によって燃焼器やタービン構造部周辺の温度計測が行なわれ、構造体
や場合によっては、材料の選択にまで考察が及ぶことになるので、この熱電対は最も重要な
温度計測機器の位置付けにあると云える。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そして、その様なことがあった、翌々日、会社の永福寮からの出勤時のこと・・・

いつも通り、井の頭線の永福町駅で電車を待っていると、ホームに電車が滑り込んで来る瞬間
に合わせるようにして、いきなり同期のT君が私に体当たりをしてきた。私は、かろうじてホーム
の内側に身を引くことが出来、気を取り直して電車に乗り込んだ。

体当たりして来たT君は、そのまま、一両前の車両に駆け込んだ・・・

「悪ふざけなのか?」
「意図した行為なのか?」

判断はつかなかったが、こういうときに、咄嗟に反撃する思考に欠ける私はそのまま通常通りの
出勤をして、自分の設計机の席に座った。

しかし、T君とは、悪ふざけするほどの間柄ではなく、今までにあまり接触する機会もなかった。

~ そして、真相は意外な局面で、明らかになった ~



026 国産の中等ジェット練習機の存在感

熱帯夜も和らいできた感のある就寝時、夜間を通してクーラーの設定温度は二十八度が
最適と分かってからは、眠りに就くときには適温二十八度に設定してから就寝することが
すっかり習慣化した(そして就寝時間は午後十一時もすっかり定着)。

いつものように、睡眠に入る瞬間、目の前にキラキラ星の気配を感じた。
(背中に翼を背負った女神が微笑んでおり、アトキンス博士も一緒に並んで微笑んでいる)

女神「突然の質問ですが、純国産J3ジェットエンジンを搭載した国産の中等ジェット練習機
に、武器は装備しているのですか?」

小生「国産の中等ジェット練習機には武器は搭載していません」

女神「それは、初等訓練のレシプロ機から、中等ジェット機の操縦訓練への移行という位置
付けから来るものですか?」

小生「そうですね。空を自由に飛び回るための高度な飛行訓練のための、技能導入訓練と
いって良いでしょうね」

女神「そして、なによりも、戦後、航空関連の事業が全面的に禁止になっていた空白の
期間を乗り越えて、自前で、航空業界を復活させた意味合いは大きいですね」

小生「そして、これは、あまり知られていない話ですが、終戦前にわが国初のジェット機
である橘花の飛行試験を成功させたテストパイロットの高岡氏が、戦後も、中等ジェット
練習機で、初の試作一号機の飛行を成功させたことは記念に値しますね」

女神「その時のエンジンは純国産ジェットエンジンですか?」

小生「その時の試作一号機のエンジンは、英国のブリストル社製でした」

博士「国内五社の共同出資で設立した日本ジェットエンジン社(NJE)が開発していた
純国産ジェットエンジンがトラブル続きで開発が遅れたため、急遽、英国製のエンジン
が搭載されたということですね」

小生「戦後、この純国産ジェットエンジンの開発の遅れを挽回したのが、石川島播磨
重工業の土光社長でした」

小生「土光社長の采配によって、この純国産ジェットエンジン開発を成功させるために
適材適所に、人材が配置され、その中心人物として登場した永野氏は、戦前に橘花に
搭載したジェットエンジンの開発にも携わった人物でもあり、テストパイロットの高岡氏
と共に、戦前と戦後のジェットエンジンの架け橋的な存在感は際立っています」

博士「ところで、純国産ジェットエンジンの量産設計をしているときに、そのエンジンが
国産の中等ジェット練習機に搭載されると云う位置付けにあって、武器を造っている
という認識はありませんでしたか?」

小生「ごく狭い意味で考えれば、国産の中等ジェット練習機に武器を搭載する計画は
なく、飛行技術に熟練するための過程ですから、そのことからも、武器を造っていると
いう認識は持っていませんでした」

博士「それでは、武器を搭載可能な高等練習機 F104 に搭載するJ79エンジンに
ついても、製造工場内では、純国産J3エンジンと並んで製造ラインを流れていました
が、これについては武器と考えますか?」

小生「当時は、純国産のJ3ジェットエンジンに集中して取り組んでいましたので、J79
エンジンは私の視野の外でしたが、現時点で考えてみても日本国の憲法では『不戦』
を明確に意思表示していますし、武器になり得るものの輸出は禁止されていますので、
武器を造っているという認識は成り立たないと受け止めています」

女神「そういった意味では、日本国憲法の『不戦』の明確化は、最重要な重しになって
いうということね?」

小生「日本国憲法の存在感は、日本だけでなく、世界における日本国憲法という位置
付けにあると考えたほうが適切と考えます」

女神「その重要な意味付けは、どのような意識付けから来ていますか?」

博士「第二次世界大戦において、日本人のDNA(遺伝子)に秘められた狂気のような
ものを感じ取った人物としては、戦後の日本の復興に注力したアメリカのマッカーサー
元帥を挙げることが出来ますね」

小生「その通りです。マッカーサー元帥は、日本の吉田首相との日本国憲法の制定に
おいて、アドバイザー役として、第二次世界大戦の前半においてフィリッピンで日本軍
によって死の直前まで追い込まれた思いは決して忘れていなかったと推測出来ます」

女神「フィリッピン戦で、日本人のDNAに秘められた狂気を感じ取ったということね」

博士「その日本人のDNAに秘められた狂気について、現在、日本人・自身が自覚する
ことは考え難いですね」

小生「しかし、日本人のDNA(遺伝子)に秘められた狂気が、戦後70年超の今日に
おいて、露呈したのが、元日本維新の会の国会議員であるM氏による発言です」

博士「北方四島への訪問時のM氏の『戦争』発言ですね。仮に、酔っていたとしても、
M氏による思考の延長上の発言とすれば、これは、狂気の発言と云えますね」

小生「現在、昼ドラの『やすらぎの刻 道』倉本聰演出で、戦時中の状況を放映してい
ますがM氏の発言には当時の日本軍関係者の言動に通じるものを感じ取れますね」

女神「しかし、日本維新の会から、結果的に離脱したM氏が国会内で窮地に追いやら
れたとみていたが『NHKをぶっこわす』発言で注目を集めたN国の代表による想定外
の行動によって、M氏を抱き込み、同じ会派として活動を始めた」

小生「これは、予測不能な、狂気の増幅としかいいようがないですね」

小生「応用心理学の分野に『ハインリッヒの法則』という考え方がありますが、簡単な
説明をすれば、重い障害や事故が『1件』発生した時に、その背景には、軽い障害や
事故が『29件』あり、障害や事故には到っていないものの潜在的な要因は『300件』
存在すると云う法則です」

博士「たしかに、この法則を今回の『戦争』発言に適用して、M氏から具体的に戦争
発言があったということは、可能性として、300人程度の潜在的な同調者の存在が
あるかもしれないとするのは、乱暴な考え方かもしれませんが、否定は出来ない」

女神「問題は、戦争発言のM氏を抱き込んで会派を立ち上げたN国の代表は、その
行動が予測不能なだけに、その行動力は、カオス的で、目が離せませんね」

博士「現在、日本国の憲法は『不戦』を誓って明文化しており、その精神は世界中に
浸透しているために、M氏からの戦争発言については、直近で、安倍総理が慎重に
進めてきた日露交渉には直接的な影響は感じ取れたものの、世界の論調に影響を
与えるまでには到らなかったことは、不幸中の幸いでした」

女神「しかし、これは仮説として、日本国憲法に自衛隊の存在が明記されて世界が、
この改憲によって、日本の防衛戦略に、どのような変化がみられるのだろうか?」
と、関心を寄せているときに、再び、戦争必要論のようなぶっそうな発言が飛び出し
たときに、世界の眼は、どのような見方をしてくるかしらね?

小生「日本の国防については、まだ、これから議論を重ねて行く重要な課題がありま
すよね。具体的な表現をすれば、日本にとって重要なエネルギー資源である石油や
天然ガスなどは海洋ルートを経て入手しています」

小生「この天然資源を輸入する海洋ルートにおいて、海賊による襲撃などが危機的
な不安要素として重要問題になってきています」

博士「かつて、紛争地帯における戦時下において、米軍などの援護によって天然資源
を日本に運んでいた時代があります。この時代の米軍の若い兵士達のつぶやきとして
『何故、日本のために、米国の軍人が命がけで任務に就かなくてはならないのか?』
という声が耳に届いたことがあります」

小生「そして、今や、国同士の紛争よりも、国籍不明の海賊などによる襲撃が健在化
してきている」

女神「日本の国防という観点からは、海洋大国 日本として周辺の海域をレーダー網
で捕捉して、敵対的な存在が確認されれば、スクランブル発進して、警告を発して行く、
また、海洋域に海外の潜水艦などの存在が発見されたときには、対潜哨戒機によって
最も効果的な方法で、敵対的な存在の退避を促すなどの俊敏にして・的確な対応が、
確立されています」

博士「また、最近は中国軍との関係で、東シナ海や日本海においても、より効果的な
対応が可能となるように、艦上に配備した戦闘機なみの飛行機の配備による対応が
準備されています」

小生「たしかに、海洋大国としての日本の防衛については『不戦』の誓いの基で工夫
が重ねられて、スクランブル発進の頻繁な繰り返しはあるもののギリギリの防衛戦略
は機能していると云えます」

博士「だからといって、我が国の自衛隊の存在は、不戦を大前提とした防衛体制として
確立されているので、日本国の憲法の中に、その位置付けを明記して良いかとなると、
まだ・まだ、重要な課題が未解決なままです」

小生「天然資源などの海上輸送の安全確保を考えたときに、現状のような米軍などの
海外の軍隊による支援を受けている段階では、さらに自衛隊などのこれからの海外に
おける防衛の在り方を明確にしないと、大きな矛盾点を抱えたままで、日本国の憲法
に入れ込むことになるので、半煮え状態ということになりかねません」

博士「改憲の前に、海外警護の在り方を明確にするというプロセスのほうが、優先する
必要のある課題としては、真剣に考える必要があると云えますね」

小生「これだけ、世界が成熟してきている、今、いつまでも、海洋警備をアメリカに頼り
きっている状況は、米軍などから指摘されるまでもなく、日本自身が自国の問題として
最優先で考える時期に来ている」

女神「その場合も、紛争国への対応と、海賊などへの対応を考えた場合に、これを明確
に分けて考えて行く必要がある」

博士「紛争国への対応と言う事であれば、日米の合同軍ということになり、軍隊としての
位置付けになってくるので、日本国の憲法に明記されている『不戦の誓い』からは明らか
に逸脱して来る」

博士「この場合、日本国の憲法にある不戦の誓いから、平和的な活動支援の範囲までが
限界となってくる」

女神「ただし、海賊などへの対応ということになれば、国際的な海洋警察としての対応に
なって来るので、これは自衛隊の所管ではなく、国際的な海洋警察として重装備をした
新しい組織が必要になってくる」

小生「この場合は、海上保安庁との連携において、海洋のエネルギー資源の輸送ルートの
重要拠点を選んで配備することになる」

博士「日本国の憲法の『不戦』の誓約を考えると、海洋における海賊やテロなどへの対応は
新たな海洋警察を発足させて『自らの海洋ルートは自ら守る』という具現化こそが、改憲前の
準備活動として、バウンダリーの整備に、舵をきることになるんじゃないかな?」

小生「そのようなことを具現化する過程において、かつての日本人に秘められていた狂気の
DNA(遺伝子)の存在にも、慎重に留意して行く必要がありますね」
(国会議員のM氏の戦争発言を一時のものとして見過ごすことは危険である)

女神「それは、狂気の遺伝子の存在を絶滅することではなく、その狂気の存在は他にもある
という可能性を十分に承知して、お互いに、留意して行くということでしょうね」

博士「ところで、貴方が井の頭線の永福町の駅のホームで、いきなり体当たりされて危ない
思いをされたと云っていましたが、その経緯の追求とその後の対策は取られましたか?」



027 国際的な海洋警察の重要性

海洋におけるエネルギー資源などの輸送ルートについての安全確保という重すぎる課題が
続いた後で、アトキンス博士から、日常生活における過去の生活シーンの疑問点に話が振
られて、頭に乗っかった重しが少しは外された気分になった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(次の会話は過去の回想シーンからの抜粋)

博士「ところで、貴方が井の頭線の永福町の駅のホームで、いきなり体当たりされて危ない
思いをされたと云っていましたが、その経緯の追求とその後の対策は取られましたか?」

小生「私としては、その時には『なんなの?』という思いでしたが、偶然、その経緯が、耳に
届いてきました。とても、考えの及ばない経緯でした」

女神「ミステリアスな話なの?」

小生「私が、同期のT君の恋路を邪魔したと云うのが真相のようです」

博士「根っこにあったのは、コイバナ(恋愛話)ですか?」

小生「そうなんです」

小生「例のジェットエンジンの運転試験に必要不可欠な存在であった熱電対が無事に入荷
して、運転試験の責任者に手渡し、その足で、先日、お世話になった購買課長の処にお礼
の挨拶に伺った時に、同期のT君が購買課長に呼ばれて、彼が熱電対の担当だったことを
初めて知りました」

博士「そこで、話が一挙に、一つに結びついた」

小生「しかし、真相が伝わってきたのは、その後のスキーシーズンが到来してからでした」

女神「その辺の事情は『想像にお任せします』ということで、私たちにも『以下・省略』という
ことなのね」

小生「そこまで話しておいて、申し訳ありません。そこから先は、同期のT君の個人情報に
関することなので省略とさせていただきます」

小生「しかし、想像もしないことで、危ない目に遭うことがあるという日常の存在には、気を
つけようもありませんが、あり得ることをよくよく知りました」

女神「同期のT君の恋路の邪魔をしたということは、貴方も、その恋路に絡んでいるという
ことかしら?」

小生「私は、まったく絡んでいません」

博士「誤解を招かないためには、同期のT君とコイバナの関係先だけは話しておいたほう
が良いと思いますよ」

小生「そうですね。それは、同期のT君とその時に熱電対を受注した業者(社長と事務員)と
の関係先で生じた人間関係にまつわるものです。それ以上の話はスキー仲間からの又聞き
でもあり、特に、確証も取ってありませんので省略させていただきます」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(頭から外された重しが、また戻って来た感はあったが、それでも話に一区切りはついた)

女神「ところで、また重い話題に戻るけれど、最近、改憲論が与党にとって重要な懸案事項と
して再浮上してきており、野党との連携も踏まえて重要な局面に入ってきたわね」

博士「先日、貴方がテニス仲間に元自衛隊のパイロットの方がいらっしゃって、現役の頃の
『想い出話』を聞かせていただいたことがあるといってましたね」

小生「はい、まだ最近の話ですので、その時の手ぶりや身振りまでも鮮明に覚えています」

女神「自衛隊のパイロットという役柄から、我々、一般人には想像も出来ない苦労もおあり
なんでしょうね?」

小生「はじめて中等ジェット練習機のパイロットにお会いした時には白で統一された服装で、
イメージとしては、F1レーサーのアイルトン・セナのような颯爽とした姿勢の良さが、印象的
であったという記憶が鮮明です」

小生「次の機会にお会いしたパイロットは、純国産J3ジェットエンジンを対潜哨戒機P-2J
に搭載して、下総航空基地で、実際に飛行訓練を開始するときに、パイロット出身の司令官
に、ご挨拶して対潜哨戒機の操縦席なども拝見させていただいたのですが、元パイロットの
方の印象は、冷静沈着にして、ご親切な対応(見るからに大人物)という印象を受けました」

女神「存在そのものが輝いているという印象ですね」

小生「テニス仲間の元パイロットの方も、物静かな語り口で、いかにも頼りになる存在という
印象でしたね(左利きでボレーが得意でした)」

博士「テニスコートでランチタイムの時などに、現役の時代の苦労話もされていましたか?」

小生「海洋大国 日本 の海域を守ると云う意味では、スクランブル発進なども日常的な役割
として恒常化していたようですが、一日の役割を完遂して眠りに就くときには、実際的に今日も
生き延びたという実感はついてまわったようです」

博士「今日のような平和的な日本の日常においても、自衛隊のパイロットにとっては、不戦を
守り抜くために、戦闘状態に近い日々の連続があるということですね」

女神「その辺りの閾(いき)ともいえる領域に、日本国憲法の改憲について重要なヒントがある
と考えるのも、一つの考え方ね」

博士「閾(いき)とは、辞書によれば、刺激の強さを連続的に変化させたときの、生体に反応
を引き起こすか・引き起こさないかの限界(生理学・心理学的な用語)とある」

小生「広辞苑には、閾(いき)とは、①門戸の内外を区切るもの。しきい。  ②光や音などの
刺激の有無、同種刺激間の差異などが感知出来るか否かの境目、また、その境目にあたる
刺激の強さ(閾値)とありますね」

女神「自衛隊の現役パイロットは、海洋大国 日本 の海域において、まさに、閾(いき)ともい
える海域や空域の境目において『不戦』のための攻防をスクランブル発進によって守り切って
いるという実情を考えると、パイロットにかかる心身の負担は過酷なものと推測されますね」

博士「そのような状況の中で、読売新聞の朝刊(2019年8月21日)記事を拝見しますと・・・」

 政権の評価について、
 〇憲法に自衛隊の存在を明記する条文を追加すべきという問いに対して、現政権の働きぶり
 を10点満点で評価しており、

   賛成派は : 5.5点 と評価しており
   反対派は : 4.5点 と評価している

 この評価をどのように受け止めるかは、難しいが、賛成派も反対派も、現政権が充分かつ丁寧
 な取り組みをしているとは受け止めていないようである。

小生「日本国政府としては、改憲のための成案をまとめた上で、国民に賛否を取ろうとしているが、
成案を得る前に、国民の声を聴くプロセスを加える必要があるのではないか?」

女神「たしかに、元パイロットの経験から、『不戦』を貫くために自衛隊の存在があるという視点は
新鮮ですね」

博士「航空『閾』で、航空自衛隊の高等戦闘機仕様の飛行隊が守備を固めており、海『閾』に
おいては、海域レーダーや対潜哨戒機が現地の海域や海底『閾』の守備を固めている」

女神「また、太古のインカ帝国の滅亡の歴史を紐解くまでもなく、航空自衛隊が保有するとこ
ろの防衛機器は、最強の米軍仕様並のものを装備しておく必要がある」

博士「月並みな表現をすれば『強くなければ・優しくはなれない』ということになる」

女神「空域にスクランブル発進しても、航空性能が劣れば逃げ去られて、当方は『不戦』とい
う強い意志表示を伝えることも出来ない」

小生「今や、戦後70年超の経験から『不戦』のための自衛隊の在り方も、その輪郭が明確に
なりつつあるということです」

博士「戦後70年超の経験を踏まえて『不戦のための自衛隊法』を内外に向けて明確にして
行く時期に来ているという判断も出来ますね」

女神「不戦のための自衛隊法を内外に示し、その上で、世論の声や、世界の同盟国の声も
聴いた上で、日本の憲法の中に『自衛隊の存在を明記する条文』を追加するか否か考える
のも、賢明な判断かもしれませんね」

小生「我々も企業人として活動していた時代に、ものごとを進める段階で『目的と手段』という
考え方に留意して、企業活動を進めてきました」

博士「今回の防衛や自衛と云う立場に置き換えると、どのような構造になりますか?」

小生「防衛や自衛と云う観点から見た場合に、最上位にあるのは『不戦』という永遠のテーマ
です。これは最上位にある目的です。仮に、世界の国々も不戦を最上位においた政策を取る
場合には、手段は、協調や相互支援といった緩やかなものになってきます」

博士「しかし、実社会では、イデオロギーの違いや宗教観の違いなどから、他国の発言やその
存在を許せない、あるいは単に自国の維持や勢力拡大のために、他国に侵略すると云う事態
が続いています」

女神「しかも、最近は、国同士の諍いばかりでなく、イデオロギーなどの違いから、国の統治に
よって制御しきれないテロ集団の存在なども紛争の源になってきている」

小生「そのような一筋縄では制御出来ない世界の実情にあって、自国の防衛や自衛は不可欠
なものになってきている」

女神「ということは・・・最上位に『不戦』という目的(課題)を据えたときに、その手段として・・・
『不戦のための自衛隊法』のような手段の明確化が必要になってくる」
(それでも、カオス的に、法で縛り切れない曖昧さや矛盾点は包含されてくる)

博士「その場合、具体的に、日本の憲法の中に、最上位の『不戦』という目的と、そのための
手段の位置付けにある『自衛隊の存在』を併記することが果たして・・・適切なのか?否か?
は、十分に吟味する必要がある」

小生「ことを進めるプロセス(順序)として、先ずは『不戦』を明確に示した憲法の存在があり、
その存在感は世界の共通認識にまで定着している。そのことを踏まえて・・・

『不戦のための自衛隊法』の制定と、それに対する世論の支持や世界の同盟国からの支持
も必要ではないか?」

博士「その経過を踏まえて、日本の憲法のなかに、自衛隊の存在の明記をすることが適切
なのか、否かを考えてもいのではないか?」と云うことですね。

女神「たしかに、自衛隊の航空パイロットの閾(いき)における健闘ぶりを考えると、そこには
カオス(混沌)の存在も考えられ、いきなり憲法の中に、自衛隊の存在を明記するよりも先に
『不戦のための自衛隊法』の制定と熟成の期間を経ることが重要かも知れないわね」

博士「そして、現実問題として、閾(いき)において、諍いが生じてしまったときに、それが国の
意向を受けたものか、個人の独自のイデオロギーによるものかの判断は重要であり、昔の
ように、即、国家間の紛争に発展することを防ぐ意味合いからは、今後、国際的に活躍出来る
海洋警察などの創設は『不戦』を貫く意味付けからも不可欠な存在になってくると考えますね」



028 国際的な海洋警察のイメージアップ

何事も新しいことを考え出して、そのことを関係者に、ご理解していただくには・・・

それを具現化した時のイメージアップがたいせつである。
「国際的な海洋警察」の創設についても、それを実像として示せたときに、関係者にとって、その
是非を考えやすく・その対応も・より具体化出来ると考える。

読売新聞の朝刊(2019年9月3日)に、国際的な海洋警察の具現化についてヒントを得るため
の記事の紹介がある。

私は、この記事を抱えて、久々に横浜港に出掛けて、背中に翼を背負った女神とアトキンス博士
を訪ねてみた。

横浜港の周辺では、今や、盛んにカジノ問題が議論されており朝夕のテレビ画面を賑わしている。
かつて、私が執筆した「ゴールデンエイジの物語」のプロローグの中で、横浜港のクルージング船
に乗った時に、横浜港に外国の豪華客船が寄港できるように湾岸工事が進められていた。

その後、横浜港に豪華客船が停泊するようになったものの、豪華客船のセレブたちからは思った
ほどは横浜市内や周辺で外貨が消費されることは少なく「当てが外れた」という噂を耳にした。

「その様な状況を踏まえて『横浜にカジノを』という発想が生まれたのだろうか?」
など、と、勝手な想像をしてみたりして、赤煉瓦倉庫前で待っていると、背中に翼を背負った女神と
アトキンス博士が「お待たせしました」と明るい声で近づいてきた。

女神「私も、読売新聞の朝刊(2019年9月3日)の一面記事を拝見しました」

博士「貴方が構想として抱いたイメージを私も直感的に理解出来ましたよ」

小生「中東ホルムズ海峡などにおける、安全確保を狙いとして、海上自衛隊の護衛艦一隻を海洋
調査のために、P3C 2機と共に情報収集を主な任務として派遣することを準備するため、イラン
の大統領との会談を模索しているという記事を拝見しました」

博士「これは、アメリカの海洋安全保障構想とは、別の『日本独自の派遣案』のようですね」

小生「私が想定している国際的な『海洋警察』の具体的なイメージは、先ずは国際的な活躍を主眼に
おいた海洋警察を創設、その新組織に、今回、日本政府が派遣を考えている海上自衛隊の護衛艦
一隻とP3C哨戒機2機相当を新組織に移管して、国際的な海洋警察としての活動を始める」
(これは即戦力としてイメージ出来る形態といえる)

博士「外形の形態は同じでも、海上自衛隊とは、まったく・別の組織体ということですね」

小生「そうです。諸外国との折衝においても、日本の防衛や自衛のための組織体ではなく、洋上
における日本の船舶や民間人などを海賊などの襲撃から守るための組織です」
(もちろん予防保全的に周辺の海域の状況を把握することも重要な任務となる)

女神「最初の活躍舞台は、中東の海域や海峡地域ですか?」

博士「日本のタンカーが実際に襲撃されたのは中東の海域ですから、その周辺で真っ先に対処
する必要があるという考え方ですね」

女神「そして、次の重点地域は、2020年の東京オリパラの海洋周辺と云うことになるかしら?」

博士「世界各国に向けて、国際的な海洋警察の存在を示して行くには、2020年の東京オリパラ
は格好のデビューの舞台になるかも知れませんね」

女神「中長期的には、日本海や東シナ海に向けて、竹島や尖閣諸島および北朝鮮に向けての対応
も重要任務になってくると云うことかしら?」

博士「現在、中国や韓国そして北朝鮮との間では、極めて難しく・微妙な問題が山積しており、外交
面からの折衝が重要な局面に入ってきていて、極東全域が、カオス的な状況に入り込んできている
ことを考えると、ここで、敢えて新たな変化を創り出す必要もないと考えます」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

小生「ここで、一つ、仮に、国際的な海洋警察を極東地域に投入した時のことをシミュレーションして
みることにしましょう・・・・・・」
(結論として、極東地域に国際的な海洋警察を、即、投入することには熟慮が必要ということになる)

例えば・・・

小生「竹島の問題については、我が国の領土に、韓国の一部の人たちが、海賊行為的に竹島を
不法占拠しているという捉え方で、海洋警察が出向いて、竹島からの退去要請または不法占拠
への対応などをすることも一つの考え方ですが、事態が・ますます・複雑化する可能性も考えら
れます」

女神「その場合に、韓国側から『問答無用』とばかりに、彼らが所有する武器によって攻撃される
可能性も想定されますね」

博士「それをさせないためには、自衛隊の陸海空によるバックアップが必要ですが、日本の憲法
では『不戦』を誓約していますので、人為的な被害を生じさせないために、無人機などを活用した
警告などの工夫も必要になってきますが、これも撃ち落とされたりすることを考えると、事態をより
複雑化させる要因になりますね」

小生「また、これを予告なしに実行した時に、不戦を誓約している日本にとっては、韓国との間で
一触即発の事態に陥る可能性も考えられるため、やはり外交面からの折衝が先でしょうね」

博士「しかし、一方で、中長期的には、この手立てをしっかりと踏んでおかないと、竹島の韓国に
よる実効支配が、既定路線になってしまうので、放置しておくことも出来ないでしょうね」

小生「韓国にとっては、国内政治が行き詰まると、ショーウインドウ的に韓国のトップや政治家が、
竹島に、上陸することで、日本への敵対心を煽って、国内世論を結束させるということを繰り返して
いるが、これもいつまでも黙認していれば、韓国による実効支配の実績として積み上げて行くこと
になるので、日本政府としても、その扱いは極めて難しくなってきていますね」

女神「尖閣諸島の問題については、中国などに、上陸の口実を与えない様に留意を重ねながら、
自衛隊や米軍との連携を重ね、有事において初動的な対応に遅れが出ないようシミュレーション
訓練を重ねておくことが、重要であり、ここで、国際的な海洋警察の出番はないでしょうね」

博士「ただし、中国に向けては、それが個々人による海賊的な行為なのか?  国家的な誘導が
あっての行動なのか? 分かりにくいので、その都度、現有の組織による警告と確認の繰り返し
は必要不可欠ですね」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

女神「国際的な海洋警察という発想からは、新たな局面もさまざま想定出来るが、当面は日本に
とって最重要な海外からのエネルギー資源の輸入に際して、海洋ルートにおける安全の確保が
最優先課題ですね」

小生「そして、国際的な舞台で活躍する海洋警察の実像が、イメージとして、可視化されつつある
今日においては、日本の憲法で誓約している『不戦』をより確かなものとして、海洋警察の活動を
盤石なものにして行くためには、安倍総裁の四選も、視野に入れて行く必要が出てきますね」



029 今「視えている景色」に違いはあるか

翌朝の目覚め前に、突然、脳内に雷のような衝撃が走った。

「地球儀を俯瞰するような感覚で世界各国との外交交渉を長年にわたって重ねて来たところ
の安倍総理と、我々、一人ひとりの国民との間で、今、安倍総理が論点の一つとして重要視
している憲法改正について、お互いに視えている景色に違いがあるのではないだろうか?」

「日本の憲法で誓約している『不戦』について、海洋大国『日本』の現状から判断して、その
課題や問題・その問題への対応策などを考えた場合、それを、三段論法を用いて整理した
ときに、比較的・分かりやすく整理して、絵(ドラフト)にすることは出来る(後述する)」

しかし、安倍総理が国家的な課題として取り組んでいる「国連への常任理事国候補」として
手を挙げていることを考えた時に、各国との外交交渉の過程において、アメリカ大統領との
個別会談を含めて「中長期的に視えている景色」があるのではないだろうか?

より具体的な話題として挙げれば・・・

◯国連の常任理事国になった時に、世界の警察的な存在としてリーダーシップをとっている
米国と共に、軍事行動において、日本からも派兵して軍事共同作戦に参加するのか?

◯その際に、日本の憲法で誓約している「不戦」との整合性をどのように考えて行くのか?
海洋大国「日本」として、抑止力に注力した「不戦」の姿勢は貫いたまま、世界の警察的な
軍事力行使への参戦には、次元を越えた戦力を特別なものとして組織化するのか?

◯あるいは、常任理事国の立場からも、世界に向けて「不戦」を呼びかけ、日本としては、
憲法を尊重する立場から、平和的な活動にのみ組織的な派遣をして行くのか?

要は、国連への常任理事国としての役割を世界各国から推挙されたときの軍事作戦への
参加・不参加の姿が、安倍総理やトランプ大統領には視えていて、我々、国民一人ひとり
には、その中長期の展望が視えていないという違いがあるのだろうか?

いずれにせよ、中長期的に、国連に向けて「日本の常任理事国入り」が各国から推挙され
たときに、日本の憲法で誓約している「不戦」への取り組みについて、パラダイム・シフトを
必要とする大波が、ショックウェーブのように押し寄せて来ることは間違いない・・・

日本が、今、国連における常任理事国入りを目指している以上、現在、話題になっている
日本の憲法改正論議を越えたバウンダリーになることは、間違いないと云える。

このような中長期の見通しの中にあって、安倍総裁の三選の残された期間内で、これらの
課題の明確化は考え難く、安倍総理が、世界各国から収集した叡智を暗黙知をも含めて
生かしきるためには「安倍総裁」の四選は必須ではなかろうか?

そして、憲法改正については、政府の成案について、国民が賛否の意思表示をするだけ
ではなくて、日本が常任理事国入りを推挙されたときの憲法の在り方など、未来を背負う
ことになる学生の意見なども、取りいれて思考を重ねる必要があると考える。

ましてや、現在でも、少子高齢化が問題点として挙げられ、焦眉の難題となりつつある今、
中長期の視野において、国連軍に、精鋭を送り出すことがはたして可能であろうか?

世界ラグビーを観戦していて感じることは、国連軍に送り込む精鋭は、インターナショナル
な混成の人材による編成と成って行くのだろうか?


030 日本国憲法の裏書にあるコンテクスト

かつて、私も「世界の中の日本」と題した林敏彦・高橋和夫(放送大学教授)の著書に
学び、その文中で「日本の憲法と法文化」を熟読したことを思い出した。

「日本の憲法と法文化」では、筆頭に、次の様な事項を書き連ねている・・・

◯領域と人民を統合する主権の構造が明確になって、初めて、そこは近代的な意味で
の「国家」として、国際法上も認知されることになる。ここで主権の構造というのは、誰の
どのような行為が「国家」の行為になるのか、を、規定する約束事の意味である。

◯そして、目に見えない主権という国家の本質的要素、を、目に見えるようにするため
の仕組みが憲法である。

◯言い換えれば、国家の組織・作用に関する基本法、あるいは、国を国として成り立た
せる基本的な約束が憲法なのである。

そして、日本国憲法の際立った約束事として「不戦」を明文化しており、この約束は世界
の人々に安心感を与えており、その約束事を通じて、世界中から信頼感を得ている。

この「不戦の約束事」が、どのような経過を経て明文化されていったのか、この著書では
時系列を追って、裏話も含めて、紹介している。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

それでは「日本国憲法の制定過程」を振り返ってみよう。

◯連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーは、1945年10月4日に、近衛文麿
元首相と会談し、憲法の改正について、示唆を与えた。

◯マッカーサーは、また10月11日に、新任の幣原喜重郎首相との会談において、
憲法の自由主義化について触れた。

◯これを受けて、政府内に、憲法問題調査委員会(いわゆる松本委員会)が10月
25日に設置された。

◯政府の松本委員会は、1945年12月8日に、帝国議会における憲法改正の
基本方針を明らかにした。松本委員長自身の修正を入れてまとめられたところ
の「憲法改正要綱」は、翌年2月8日に、GHQに提出された。

◯松本試案にも政府にも、自主憲法制定の意欲は、非常に強かった。
しかしながら、松本試案は2月1日に毎日新聞にスクープされ、あまりに保守的、
現状維持的なものに過ぎないとの批判を浴びた。

◯これをきっかけにして、ホイットニーGHQ民生局長は、GHQによる憲法草案の
起草をマッカーサーに進言した。

◯マッカーサーは、2月3日に「天皇は世襲制の国家元首」「戦争放棄」「封建制度
の廃止」を、内容とする憲法改正の必須条件(マッカーサー三原則)をホイットニー
にしめした。

◯翌日から、2月13日までの間、GHQ民生局では「密室の9日間」と、呼ばれる
濃密な憲法草案の作成作業が続けられた。

◯外務大臣官邸において、2月13日に、ホイットニーから、松本国務大臣および
吉田茂外務大臣らに対して、GHQは、松本試案を拒否することが伝えられ、代わ
りに、GHQ草案が日本側に手渡された。

◯日本政府は、22日の閣議において、GHQ草案に沿う憲法改正の方針を決め、
日本政府案の作成に2月27日に着手して、3月2日にできあがった試案はGHQ
に3月2日に届けられ、GHQ民生局と日本政府佐藤辰雄法制局員との間で徹夜
の協議の後、5日午後、すべての作業が終了した。

◯この確定案は、憲法改正草案要綱として、3月6日に発表されたがこれに対して
マッカーサーは極東委員会の手続きを無視する形で直ちに支持声明を発し、草案
は、4月17日「憲法改正草案」として、日本政府から公表された。

◯その後、衆議院総選挙の実施、帝国議会での小委員会議論を経て、修正された
「帝国憲法改正案」は10月6日に、衆議院本会議で可決され、翌日、貴族院本会議
で可決された。

◯そして、天皇の裁可を経て、11月3日に、帝国憲法改正案は「日本国憲法」とし
て交付された。

◯この憲法が、日本国憲法として施行されたのは、1947年5月3日のことである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一方、憲法草案の過程で、特にフォーカスしたいのは「第9条の成り立ち」である。

◯日本国憲法の平和主義の原則は、日本国憲法に特異な考え方ではなく、その
基本的な形は、既にパリ不戦条約に見られており、20世紀前半のスペイン憲法
やフィリピン憲法に生かされていた。

◯パリ不戦条約は1928年8月27日に、アメリカ・フランス・ドイツ・イギリス・日本
イタリア・ベルギー・チェコソロバキアによって、パリで「戦争放棄に関する条約」と
して署名されている。

◯マッカーサーは、フィリピン憲法の制定にもかかわっており平和主義が20世紀
後半の世界の潮流であることを熟知していた。

◯当初、マッカーサーは日本の改憲に向けた三原則として「国権の発動たる戦争
は廃止する」「日本は紛争解決の手段としての戦争」 さらに「自己の安全を保持
するための手段としての戦争」をも放棄するとして、その手元に記していた。

これは、太平洋戦争の前半、フィリピンにおいて日本軍に死の直前まで追い込まれ、
日本人のDNA(遺伝子)に秘められた狂気を感じ取ったマッカーサーにとって、当然
の帰結かもしれないと推測する(これは私見として追記)。

◯しかし 「国家が自衛権を保持すること」は、当時としても、外交上の常識であり、
ケーディスが率いるGHQ内政局も、国会において、吉田首相が第9条をいかなる
名義における交戦権も放棄する意味であると説明していたにもかかわらず、自衛
のための戦争まで、放棄する必要はないと考えていた。

ケーディスは、ルーズベルト大統領のニューディール政策にも参画しており、当時の
ホイットニー局長の下で、GHQ民生局長を務め、憲法のGHQ草案起草の中心人物
であった(象徴天皇や平和主義など戦後日本の民主化に大きな役割を果たした)。

◯そのような背景の下、憲法草案が衆議院の審議で若干修正され、第9条第2項の
冒頭に「前項の目的を達するため」が挿入された草案(芦田修正と呼ばれている)が
GHQに示されたとき、GHQは、それを何の抵抗もなく受け入れた。

◯この字句は、侵略戦争のみの放棄(自衛のための戦争は放棄しない)と読める
修正で、敢えて、その点を明確にしないことで、日本国憲法は確定された。

これについて、GHQ内部では、日本に自衛権を否定すれば、日本は独立後に、
その点を問題として、全面的な憲法改正に動く可能性があることを、警戒したと
言われている。

まさに、これはコミュニケーション論における「コンテクスト」であり、ある発言が成さ
れたときに、その前後に、それぞれ何を思い・何を考え・何を行ったかという文脈的
な共通認識であり、当事者同士にとっては、極めて重要な要素になってくる。
(コンテクストは、高次になるほど、意味の多くが暗示的で表現も間接的になる)

したがって「自衛のための戦争は放棄しない」と読める修正は、まさにコンテクスト
的に、日本国憲法に裏書されたものであり、当事者以外には見えないことである。

◯しかし、当初から意図的にあいまいな表現に止められた条文の形式的解釈論争
は不毛であり、自衛隊の違憲訴訟や自衛隊の海外派遣などの問題も含めて、現在
に到るまで、繰り返し、政治的議論を巻き起こしている。

重要なことは、国民として、国に、どのような形の国際貢献をさせたいかを議論する
ことが問われてきており、それこそが、主権在民の原則に他ならないと云える。

そのためには、国際社会が日本に求めている行為は、何かを明確に知り、それが
日本国憲法の枠内で、実行可能かを考えることが、重要である、と・・・

テキスト「世界の中の日本」では、結んでいる。

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私としては、ここまでの論理に沿って、脳内の整理をして、ここで、一段落と考えて、
二階の書斎から外を眺めていると、外では諸鳥が囀り、遥か上空を飛ぶ飛行機の
音が聞こえて来た。

最近、外気温は、お彼岸を過ぎても、まだ・まだ暑く、昔の人が言っていた・・・
「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉も通用しなくなってきた。
しかしながら、外から入って来る窓の風は、心持涼しいので助かる思いである。

そんな折、遠くから、背中に翼を背負った女神とアトキンス博士が飛んで来る姿が
確認された(今日は超軽量ヘリに乗っての来訪のようである)。

女神「日本国憲法についての成り立ちを随分熱心に研究されているわね?」

小生「安倍総理から、日本国憲法の改正について、熱心な呼びかけが行なわれて
おり、主権在民という考え方に立った時に 『国民投票において賛成か・反対か』を、
問われ、それについて答えるだけが国民としての在り方ではないと考えています」

博士「たしかに、日本国憲法の第9条については、戦後の吉田首相の時代に不戦
を前面に打ち出しながらも、当時の憲法制定時のコンテクストとしては憲法の裏書
的に、自衛隊の存在を認めていたので、これを憲法の表書きとして目に見えるよう
にしようという考え方は、理に適ってはいますが戦後70年超の歴史観としての重み
を考えると、その当時からの長年の宿題を、今、済ませましたと云うのでは、それだ
けで良いのか? という感覚は確かに残りますね」

女神「ここで、戦後70年超の経過を辿ってみた時に、第1番目の論点は、第9条に
自衛隊の存在を明記するか・否か・という点に絞られて来るわね」

小生「そして、第二番目の論点は、日本の平和主義の顔としての憲法上の『不戦』
の誓いを最重要課題(目的)とした場合の手段として 『不戦のための自衛隊法』を
制定、その時に、第9条に、敢えて自衛隊の存在を明記するか・否かが論点として
重要な審議項目になってくる」

博士「考えてみれば、世界が紛争の発生や経済不安などで揺れた時に安定通貨と
して『円』が買われる要因としては、日本は憲法で『不戦』の誓いをしており、戦乱に
巻き込まれる不安が少ないという暗黙知が影響力をもっているためとも思われる」

小生「そして、第三番目の論点は、不戦のための自衛隊法を制定する段階におい
て、さらに、一歩踏み込んで、日本国土の強靭化の一環として、今、自衛隊が国民
から最も信頼が寄せられている『自然災害などに向けた復旧支援』などを自衛隊法
の第二の柱に据えたら良いのではないか、と、いう 審議項目である」

女神「それに関連して、第四番目の論点としては、自衛隊法の第三の柱として海外
で戦禍等により壊滅状態に陥った国に対して、平和を希求できる状態に到った時に
国連の要請などがあれば、国土の復旧を支援する、と、いう 審議項目である」

博士「これは超長期の見通しにおいても極めて重要な論点になってくると考えます」

小生「確かに、遠い将来の見通しにおいて日本が国連における常任理事国に推挙
された時に、国連からの要請に対して、最も協力出来る分野であり、現在でも同様
の趣旨で海外における支援活動が行われています」

博士「したがって、第五番目の論点は、遠い将来においても、日本は綺麗ごとでは
なく実質的に平和主義を貫く国として『戦禍からの復旧に主力を注ぐ国』として世界
各国から諒承を取る手立て、を、審議項目にする必要があると考える」

小生「背に腹を変えられぬ日本の実情(本音)としても、技術立国日本として、海外
のあらゆる国から資源を輸入する立場からも、たとえ、それが、国連の総意による
連合軍としての攻撃であっても、参戦は難しいという状況は、日本対イラン、そして
米国他対イランの構図からも一考に値すると云える」

博士「そのような戦闘状況の構図の中にあって、各地域における戦後の復旧作業な
どは必ず必要であり、その面からの協力は惜しまないと云う姿勢はやがて世界中の
同盟国からも理解が得られるものと考える」

女神「当然、世界の自然災害による復旧にも国連の要請があれば駆けつけると云う
体制は、自衛隊法の制定や見直しの中で必須事項になってくるわね」

女神「先日、貴方が、これらの経過を三段論法で絵(ドラフト)に出来ると云ってまし
たが簡単に説明出来ますか?」

小生「三段論法といっても、一般的な意味での三段論法ではなくて、日本国憲法に
おける自衛隊の在り方を段階的に掘り下げて行って、思考を深めようという意味合
いです」

博士「興味がありますね。具体的なお話を聞いてみたいですね」

女神「次に、訪問の機会があったときに、是非お聞きしたいわ」

小生「その時に、国連憲章における『個別的自衛権』や『集団的自衛権』への取り組
み方、そして、日本にとって重要なエネルギー資源のシーレーンなどにおける、安全
確保についても、論点を明らかにして行きたいと考えています」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

読売新聞の朝刊(2019年10月5日)の記事を読むと、第200臨時国会が召集され
た4日についての記述として、首相所信表明の記事の中で、与野党に向けて改憲に
ついて論議を促すメッセージが我々国民にも届いたが・・・

我々、一人・ひとりの国民からも改憲に向けた考え方を届ける必要があると考えた。
そこで私としても本稿に記述したような内容を発信して、安倍首相に、一つの論点と
しての提言をお伝えして行こうと考えている。

(今回のものを第一弾とするなら、来週には第二弾の発信を出来るよう準備を進める
ことにしよう)

安倍首相殿
日本国憲法の改憲論議において、私も国民の一人として、日本国憲法の成り立ちや
第9条の制定の経緯などに根底から学び、未来に向けた視点からも、思考を加えて、
論点を整理してみました(論議の一端として、ご一考いただければ、幸甚です)。
                                   一生涯学生作家 万田竜人


031 防衛環境省というビジョン展開

新聞記事に目を通していると・・・

「千葉台風の検証へ初会合」という小見出しで、政府として年内に報告書をまとめる
主旨の記事が掲載されていた。

読売新聞の2019年10月3日の夕刊によれば・・・

政府は3日午前、千葉県で大規模停電を引き起こした台風15号をめぐり、東京電力
や国、地方自治体などの初動対応の問題点を調べる検証チーム (座長 杉田和博
官房副長官)の初会合を首相官邸で開いた。
(年内に報告を取りまとめるとしている)。

検証チームは総務・厚生労働・防衛・内閣府など関係省庁の局長らが委員を務める。
初会合には菅官房長官が出席し「教訓を踏まえ、防災・減災対策の一層の改善につ
なげる」と述べた。

論点として、長期停電や通信障害についての復旧作業の適切さや、国や地方自治体
の初動対応を挙げた。

この記事を観ていて感じたことは、未来に向けて、菅官房長官の鋭敏な触角が何かを
捉えたものと受け止めた(これはエポックメーキングにつながるかもしれない)。

今、この時期に自然災害の激甚化に向けて、初動対応の問題点を調べる検証チーム
を起動させることは、極めて有意義なことと考える。

最近の台風の猛威は、我々の想像を越えてきており、我々が棲んでいる地域でも近郊
の彩の森入間公園では毎年のように大きな木々がなぎ倒されており、今回の千葉県に
おける暴風雨の予測を越えた被害の大きさも、身近な問題として想像出来る。

東京首都圏の一角を成す千葉県の地域性から、想像出来ることは、2020年東京五輪
の開催時期に、同じ規模の大型台風が予想されたときに、当然のこととして・・・

◯日本の気象庁は、世界各地の予測も視野に入れて、日本の立場から台風を予測する

◯東京首都圏の各知事と国の首脳は、当然、初動対応に向けた対策を練る

◯首都圏の防災機関は、自衛隊などとも連携をとり、万全の体制を取る

などのことは容易に想像出来る。

今回の千葉台風は、これらの台風の予測から、初動対応までの一貫した対応の重要性
を示唆する点が多々あったが、これは、首都圏に限ったことではない。

千葉台風は、日本における台風被害の規模の大きさにパラダイム・シフトが起きている
ことを、我々に的確に伝えてきている。

千葉県には地域の特性として、人が大勢住んでいる都市部や人気のない過疎の山間部
そして海岸地域など構成は多様で、今回起きている送電線の復旧問題などは日本全国
に共通した問題点を露呈させたと云って良い。

今回は、東京首都圏ということもあって復旧に期間を要したとはいえ、地方の山間部など
に比べたら、復旧までの期間は速いと云う見方も出来る。これが地方の山間部の山奥の
送電線が遮断された場合を想定したら、これほどまでに早い復旧が出来たであろうか?

今回、千葉県における台風被害で問題になったのは人間の住んでいない山間部におけ
る鉄塔の倒壊などの発見遅れであったが、ここに、これからの日本の大型台風に対する
台風の予想から初動対応までの「パラダイム・シフトの必要性」が示唆されている。

最近の国連総会でも、温暖化への警告が盛んに行われていたが、米国や中国と云った
超大国が積極的な対策を取ろうとしていないことが、現実問題として大きな存在感を示し
ており、それが改善される見通しは、現状ではほど遠いという状況にある。

しかし、現在、日本が置かれた状況は・・・

「暑さ寒さは彼岸まで」という名言が死語になるほどの温暖化を迎えており、年々台風も
超大型化してきており千葉県を襲った台風の猛威は、もはや、パラダイム・シフト化して、
現在の日本の風水害対策における初動対応を機能不全にしている。

要するに、この機能不全の状況から脱するには、大型台風などへの抜本策として次の様
な科学的な仕組み(システム)が必要であると考える。

◯先ず、台風予測において、気象庁の予報官は、首相官邸の危機管理室とホットライン
をつないで、地域の防災機関や自衛隊などに、的確な台風情報が伝わるように仕組み
として構築しておく

◯台風上陸後は安倍首相が最近になって披露した航空宇宙域の自衛隊による鳥瞰図
的な空域からの現地把握により、人間の住んでいない過疎地域を含めて、早期に被害
状況を解析する

◯各地域の防災機関や自衛隊は、国の危機管理室や地域の首長と連絡をとりながら
災害地域に出動する(いわば、トップダウン的な初動対応を必要としている)

そのためには、トップダウン的な設計的デザインとして、省庁の機関も防衛省と環境省を
合体させた「防衛環境省」のようなハイブリット的なビジョン展開が必要である。

◯防衛省も「不戦のための自衛隊法」の制定を想定した時に抑止力の維持管理が重要
であり、空域や海域においては閾といわれるギリギリの状況において戦闘を回避させる
過酷な状況に直面している。

◯しかし、陸域においては、実質的な活動として大規模な地震や大型台風などの被災
地に向けての支援活動が大きな要素になってきており、これらの自然災害については
抑止力はなく、発生した被害への俊敏な行動が最も重要な任務になってくる。

◯したがって、現状で自衛隊は、外敵からの戦闘行為に対する防衛対応よりも実質的
に大規模地震や自然災害の猛威に対する俊敏な行動こそが主力任務になりつつある
と云える(したがって、陸上自衛隊の費用を防衛費に計上することには、疑問がある)

◯一方で、環境省についても、温暖化に向けた対策案の検討など、温暖化の抑止など
に向けた計画面での活動に主力が置かれているが、これらの対策の不徹底さが温暖化
を招いており、温暖化による台風被害などが尋常でない猛威になりつつある

◯したがって、環境省においても、被災現場での対応に一翼を担うように組織化しないと、
温暖化抑制などへの本気度が高まらないと推測する

このようなことを考えると、防衛省も環境省も「抑止に向けた機関」に留まることなく、実際
に起きてしまっている大災害に正面から立ち向かうことが出来るような組織体制に向けて
パラダイム・シフトしないと日本の国土強靭化対策は、本物にならないと考える。

環境省も若手の大臣を迎え、政府としても、大いに活躍出来る舞台を構築して、日本の
未来を多くの若手議員に託したいものである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

前回と同様に、背中に翼を背負った女神とアトキンス博士が、超軽量ヘリコプターに
乗って、我が家を訪問された。

女神「先日、お伺いした時に、貴方との間で宿題となった、貴方流の三段論法を聞かせて
もらいに、再度、お訪ねしてみました」

博士「三段論法といっても、一般的な意味での三段論法ではなくて、日本国憲法における
自衛隊の在り方を三つの層に掘り下げて行って、思考を深めようという意味合いです、と
云われていましたが、今日は、時間に余裕がありますので、ゆっくりと聞かせて下さい」

小生「それでは、最初に、概略の展開を紹介させていただきます」

◯一つ目の層は、日本国憲法では「不戦」を誓約しており、これは日本が世界に約束して
いる顔のようなものです(平和主義を主軸においた笑顔の層です)
この層に、自衛隊の存在を記述するか? 否か? が論点になっています

◯二つ目の層は、自衛隊の明確な性格付けと位置付けです。ここ、70年間超「抑止力」に
重点をおいたきた組織で、今「不戦のための自衛隊法」の制定が必要になってきています

一方で、国民からの自衛隊に向けた期待感は、地震や台風時の災害復旧への支援であり
国土強靭化計画と合わせて、その期待感は増すばかりです
(これについての、より詳しい内容は、前述した通りです)

◯三つ目の層は、国連憲章とのからみで、平和主義を貫く日本独自の考え方が重要であり、
遠い将来において、日本が、国連の常任理事国に推挙されたときに、極めて重要な論点に
なってくる部分であり、多くの論点を抱えているので、追って詳しく記述して行きます

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここからは、詳細な話題に、移行して行く・・・

小生「先ずは、一つ目の層と二つ目の層に、フォーカスして、お話しさせていただきます」

小生「一つ目の層として、日本国憲法における『不戦』の誓約を大前提に置いた場合に、
二つ目の層である『不戦のための自衛隊法』の制定について重要性を前述しましたが、
その際に、現状において大活躍している自衛隊の活動の実態をより前面に押し出して
行こうとする考え方です」

博士「どういうことですか?」

小生「今、日本の現状において温暖化などの気象変動によるものと推測される自然災害
が激甚化しており、最近では、千葉県一帯が想像を絶する被害に遭遇しています」
(この災害に向けた、自衛隊のより具体的な対応の実態は、前述した通り)

女神「千葉県知事がマスコミに叩かれていましたね」

小生「全国で思いがけない場所が風水害などによる今までにない被害に遭遇しており、
各地域のトップに責任を求めても、異常気象の影響などで、災害の規模が、今までの
経験では予測できない規模に膨らんでおり、日本全体が各都道府県の首長に対策を
委ねる方式では、もはや・対応しきれない状況になってきています」

博士「そのような状況の中で、今や自衛隊の存在は欠かせない存在であり、国民目線
からも、最も頼りになる存在として認知されてきていますよね」

女神「貴方が、前述したような『防衛環境省のビジョン展開』が、今、すぐにも必要という
状況になってきているのかしらね?」

博士「防衛省と環境省が一体となったハイブリットな機能的組織体ということですね?」

小生「防衛省は『不戦』の誓約を『抑止力』という面から、海洋大国『日本』の空域や海域
の閾の領域で、空域におけるスクランブル発進や、海洋における船上からの警告などに
よって、防衛の任に当たっています」

博士「一方で、陸上において、暴風雨や地震そして大津波などの自然界による猛威には、
抑止力をもって抗することはことは、極めて困難なことであり、最近の温暖化によると思わ
れる災害の激甚化などには、陸上において抵抗の術がありません」

小生「そこで考えをまとめたものが前述の千葉台風をパラダイム・シフトへの気付きとして
位置付けした構想です」

博士「二つ目の層で、分析した自衛隊の存在は、今や、不戦のための抑止力というだけの
存在を越えて、国土強靭化および地震や台風などの災害からの復旧には、必要不可欠な
存在であり、かつての違憲問題などは、遠い過去の問題提起という論点ですね」

小生「しかしながら日本国憲法と国連憲章との関係については具体的に『個別的自衛権』
や『集団的自衛権』という面から、中国や北朝鮮そして韓国やロシアといった国々とは極東
における微妙な関係を抱えており、次の機会に時間をかけて意見交換をしたいですね」

博士「確かに尖閣諸島の課題などについては、中国が軍事大国化への道を着々と進めて
おり、日米で集団的自衛権を目に見える形にして行かないと、中国への『抑止力』という面
で隙をつかれかねない面もあり、熟慮が必要になってきていますね」

女神「次回には時間をかけて意見交換しましょう」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、この「第2弾の論点」についても、政府首脳に向けて発信して行こう。

安倍首相・菅官房長官殿

超大型台風19号の襲来を目前にして、先日(3日)、政府は千葉県で大規模停電を引き
起こした台風15号をめぐり、初動対応の問題点を調べる検証チームの初会合を開いた
ことが、報じられていましたが、的確な判断であったと推察します。

さて日本国憲法の改憲について、国民の一人として、第2弾の論点を整理してみました。
国政における議論の端に加えていただければ幸いです。


032 戦車よりもブルトーザ

国連の舞台で小泉環境大臣が発言した”Sexy”というワードが注目を集めている
が、”Sexy”という言葉には・・・

「今風の」・・・という意味がある。

これに関連した話として、1990年に日本生産性本部が主宰する大型豪華客船を
借りきっての研修会に講師として乗船したことがある。

当時、味の素株式会社の歌田取締役名誉会長が「生産性の船」の団長として指揮
をとられ、530名の研修生が空路と航路を合わせて13日間の旅をした。

私は、当時、日本IE協会が主催する「IE実践研究会」において津村豊治先生(芝浦
工業大学教授)の指導の下で、異業種交流会に積極的に参加していた。

その実践研究会の縁で、津村教授の推薦もあって、生産性の船に日本IE協会から
派遣する特別講師として私が選ばれて、日本IE協会の責任者が我が社を訪問され、
我が社の上層部を説得、私が講師として乗船する運びとなった。

該当の生産性の船(2号船)は、往路は成田空港からシンガポールに飛び、帰路は
シンガポールから航路で香港を経ての旅路として計画されていた。

そして「その出来事」はシンガポールにおける六月初旬の研修の夜のデパートでの
買い物の最中に起きた。

その日、シンガポールでの研修では、将来・シンガポールの政治を担う若手との意見
交流の場なども設けられ、その席上で、これからの船内研修で役立つ文房具の存在
に気付き、夕食後にデパートに出掛けたのであった。

同僚と二人、お互いに身分表示を兼ねて胸に「生産性の船」の名札を付けてデパート
の文房具コーナーに向かったのであるが・・・

文房具コーナーで、研修に役立つと思われるカードの在庫をたずねると、店内ケース
に在庫が確認されて購入することが出来た。

レジで精算を済ませていると、先程の女性店員もそばに来て、その「生産性の船」の
名札は、とても「恥ずかしい標示」なので外した方が良いとアドバイスをいただいた。

現地の常識では、生産性という漢字は「子供作りのための行為」をさすため、さらに
生産性の船という表現になると、もっと恥ずかしいのだという。

このことを日本生産性本部は承知しているのだろうか?

シンガポールに、研修船が入港すると、船体には大きく「生産性の船」と横書きされ
た横断幕が張られているが誰しもが当たり前の光景として受け止めている。

その遥か大昔の光景を記憶の隅から引き出したときに感じたことは・・・

言葉というものも、コミュニケーション論でいうところの「コンテクスト」でありそれぞれ
の環境や背景があって、当事者の人間関係や現地の風土における独特の文脈など
から生まれて来る「言葉」であって、言葉だけで、その文脈にあるものは探れない。

そのように考えると・・・

国連の舞台で小泉環境大臣が発言した”Sexy”という言葉(ワード)についても世界
各国とのコミュニケーションにおいて、背景にあるコンテクストを明らかにして行く必要
があると考える。

ご本人が、特に説明の必要がないと、お考えであれば、私は国民の一人として・・・

耳目を集めた”Sexy”という言葉(ワード)は、これからの話題の展開において聞き手
の掴みには成功しているので・・・

「これからの環境問題への取り組みには、若者を取り込んで、今風に(”Sexy”)、
展開して行くことが必要である」として、日本からも「温暖化に向けた抑制」行為を
多面的に展開して行く時期が到来したと考える必要がある。

自然科学における一部の有識者は・・・

「地球温暖化と台風の大型化や激甚化の関係は、科学的に証明出来ていない」と
発言しているが、それは人知による解明が、その叡智に届いていないだけの話で
あって、ようやく証明出来た時には、海洋大国「日本」の島しょの多くが、海面下に
没しているということにならないか? という危惧がある。

直近でも、台風19号による被害は甚大であり、一部の有識者の浮世離れした説
に付き合っている余裕はないと考える。

「日本も、若者を取り込んで、今風に」国連で、温暖化による危機的状況を訴えて
行くには、ここでも、チーム「日本」の組織化が必要ではないか?

この課題(問題)は、環境問題だけでなく、日本国憲法の下、平和主義の課題に
ついても・・・

「日本の若者を取り込んで、今風に」国連における発信を活発化して行く必要が
あるのではないだろうか?

それを気付かせてくれたのが、小泉環境大臣だとすれば、彼の国連デビューは
成功であったと云える。

私は、具体的に、長期的な視野で・・・

「国際舞台での自衛隊は、戦車よりもブルトーザー」というキャッチフレーズを若者
から、今風に、声高に叫んでいただきたいと考えているが、その背景にあるところ
のビジョンについては、次回、語りたいと考えている。

そして、今、日本国民の一人として、真剣に考える必要のある緊急の課題は・・・

2020年東京五輪のマラソンにおける競技開催地を札幌に変更すると云う IOC
からの緊急発言である。

今夏の異常な暑さの経験から、日本の温暖化には、明らかにパラダイム・シフトが
起きている。その対策に向けて記憶は遠ざかったが「サマータイム制」の導入が
提案され日本の多くのシステムデザイナーが、飛行機などの発着システムなどの
予期せぬトラブルに考えが及び、その他の分野でも多くの予期せぬシステム障害
が予見されて、案としては見送られた。

今回の札幌におけるマラソン開催を想定した時の問題は、テロなどによる攻撃に
対して警備上の問題が予見され、サマータイム制の導入よりも深刻な問題を抱え
る可能性が考えられる。

また東京首都圏の警備体制の一部を札幌に移した場合には、当然、東京の警備
は一部が手薄になるので、テロにとって、東京湾周辺も狙い易くなってくる。

オリンピックのような大舞台の裏側は、目に見えないテロとの戦いの舞台であるこ
とを IOC も・よくよくご存知と推測するので今回の札幌でのマラソン開催案には
大いなる疑問が生じてくる。

東京のマラソン開催に暑さ対策としてパラダイム・シフトを望むのであれば・・・

「準備を着々と整えている東京の会場で、午前3時にスタート、閉会式の朝には、
マラソン出場選手も笑顔で顔を揃えることが出来る」プランも一案として IOCに
ご審議いただいたらどうだろうか?


033 五輪マラソン夜明け前スタートは地球温暖化への警告メッセージ

世界陸上におけるドーハの教訓を生かすなら・・・

2020年東京五輪のマラソンや競歩のスタート時間を午前3時にすれば競技参加者
への熱暑による過酷な体力消耗を避けることが出来る。

ドーハにおいて、競技時間を夜間に設定した試みは素晴らしい発想であるが、昼から
の延長となる夜間は、暑さが余熱としてまだ残ることが確認された。

この教訓を生かして・・・

2020年東京五輪では、午前3時からのスタートを提案することが望ましいと考える。
私も、夏季の飼い犬との散歩は、5時半頃の日の出前にしているが、この時間設定
の場合は、飼い犬にとっても私にとっても快適な散歩が出来る。

要するに、2020年東京五輪も、日の出前の午前5時半頃には、マラソンや競歩の
ゴールを完了させていれば万全の暑さ対策になる。

午前3時スタートとすれば、既に太陽も沈み、夜間を経て余熱もさまされ、酷暑の時
でも気温が下がってくる時間帯である。

このことを、2020年東京五輪の気象チームが、過去の気象データから事実として
証明の上で、IOCに提示すれば聴く耳は持ち合わせているのではないだろうか?

これによって、札幌まで行かなくても、マラソンのスタートを午前3時に変更すれば
無駄な費用は使わなくて済む。同時にテロ対策などの面からも東京首都圏に集中
して取り組むことが出来る。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

合わせて、2020年東京五輪におけるマラソンや競歩のスタートを午前3時に変更
することで、かつての京都における「温暖化抑制」に向けた警告が、ここまで、現実
問題として深刻な事態に陥っていることを世界中に知らせる機会となる。

これを札幌のマラソン会場に移して・・・

◯2020年五輪運営としては、事なきを得て
 (しかし当日になって「札幌も暑かった!」というリスクは残る)

◯結果、組織委員会としては、莫大な無駄銭をはたくことになり

まわり・まわって「国民に費用負担が強いられる」としたら、何の意味があろうか?


034  五輪札幌マラソンは空手形かという疑念

背中に翼を背負った女神とアトキンス博士が、今日は、珍しく「空飛ぶ自転車」に
乗って我が家を訪問された。

女神「先日、オリンピアの神々から、面白い話を仕入れて来たわよ」

博士「私も、その話をお聞きして、思わず納得でしたよ」

小生「その話、私にも教えて下さい」

女神「世界陸上のドーハにおけるマラソン競技で棄権する選手の続出。最悪の場合に
は死傷者が出たかもしれないという恐怖感に襲われたのは、IOC バッハ会長の側近
または参謀であった可能性が高いとみられている」

博士「そこで、側近筋が考えたことは、もしも東京五輪のマラソン競技において死傷者
が出るようなことが起きた場合に、IOCやバッハ会長に、その責任の追及が及ぶかも
しれないと考えた」

女神「その通りです。そこで側近筋は IOCバッハ会長を守るために『選手ファースト』
を掲げ『選手を危険な状態から救うため』という旗印の下、危険な東京五輪を避けて、
札幌五輪の道を選択した」

小生「IOC バッハ会長の性格からみて、バッハ会長自身が、その様な思考を持つとは
考え難いことですね」

博士「今回の唐突な決定からも、その考えの浅い決定プロセスは東京五輪の用意周到
な準備状況を熟知していない側近筋の差し金でしょうね」

小生「今回、来日したコーツ氏のポーカーフェースも、手持ちのカードに決定的な切り札
を持ち合わせていないだけに、苦しそうな表情が伺えましたね」

博士「元々の IOC の筋書きを辿れば、10月の三連休の前に日本側の森会長が
ジャックルしやすいようにボールを仕掛けて、このボールを、即日、小池知事にパス
すれば、小池都知事がバッハ会長と、即、真意を確認するための国際電話で、意思
疎通すれば、この段階で、バッハ会長から小池都知事に責任の転嫁(言い方を上品
に換えれば権限の委譲)が図れていれば、小池都知事は東京マラソンの時間前倒し
策でトライに成功した」

女神「それが、こともあろうに、ラクビーを知り尽くした筈の森会長が、IOCの振りを真
に受けて、見当違いな、札幌方面にパスしてしまった」

博士「札幌マラソンは、かつて、代替え案として、一時、俎上にのったこともある経緯
から、札幌側では森会長からの話と言うこともありこのパスを真に受けてしまった」

小生「この状況を解決して行くには、前回の五輪会場の閉会式で、マリオに扮すると
云う美味しい役を頂戴した『安倍首相がひと肌脱いで』  IOC バッハ会長の顔を
たてる一案を工夫して、説得力に優れた二階幹事長に、交渉役を担っていただいて
今月30日の決定会議前に『小池都知事に任せてもらいたい』と、言い切るより他に
手はないでしょうね」

女神「オリンピアの神々も、そのような筋書きになることを、期待していたわよ」

警 告 (このファンタジックな会話は事実に基づいたものではありません)



035 東京五輪・レガシ-・マラソンというビジョン

2020年東京五輪におけるマラソン会場が、 突然の IOC からの通告通り、
札幌開催で再確認され「札幌会場における実施」に決まった。

これは、2020年五輪マラソンが、東京から・札幌に変更になったと云うよりも、

◯東京におけるマラソンと競歩の開催は中止(見方を換えれば保留)となり
◯札幌におけるマラソンと競歩の開催が新規に追加された

と、受け止めておく必要がある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

その様な発想の転換(パラダイム・シフト)をすることで・・・

これからの展開が、まったく変わって来ると、背中に翼を背負った女神と一緒
に同行されたアトキンス博士が力説する。

女神「2020年東京五輪のマラソン会場の変更騒ぎで、一番、助かったのは
世界陸連の幹部たちでしょうね(今回の震源地)」

博士「この騒ぎを仕掛けていなければ、ドーハの悲劇で、その原因などを追究
されたのは、世界陸連の幹部たちであり IOCが この騒ぎを仕掛けてくれた
ので、世界陸連の幹部たちは、大助かりだったでしょうね?」

小生「しかし、今回の IOCの決定に対して、小池都知事は『合意なき決定』と
いう意思表示をしているので、次の様な展開が可能になった」

◯2020年の東京五輪は守る
(これ以上の混乱は避けて、全体の東京五輪としての準備の進捗を図る)

◯東京マラソンは生かす
(札幌がギブアップした時には、いつでも・東京マラソンとしてバックアップ)

◯その後、東京マラソンは「レガシー・マラソン」として2021年(または22年)
の「秋の善き季節」を選んで、世界中から、マラソン選手に集まっていただき、
当初の準備計画通りのマラソン大会を挙行する。
(金・銀・銅メダルも、レガシーと刻印して、表彰式も盛大に挙行)



036 新国立競技場に帰ってくるマラソンランナーの雄姿が観られない

2020年東京五輪におけるマラソンと競歩の開催において、東京首都圏の安全性
に優れた優位性は、日本政府からも無視されてしまった。
(これは平和ボケによる安全軽視と考えられる現象である)

しかし、短期間での性急なマラソン会場の変更は、札幌のマラソン会場において、
出場選手たちが世界のテロ組織に狙われる危機や危険性に気付いていない。

現在、日本国憲法の改憲論議が盛んに行われようとしているが・・・

海洋大国「日本」として、外敵からの抑止力に注力しているが、テロ組織に対しては
自衛隊などの抑止力だけでは、出場選手を防御出来ない。警察組織による事前の
情報収集や水際作戦による防御態勢も必要になってくる。

今回のマラソンや競歩の会場変更は、IOCによる強引な変更であるため、テロ事件
が発生した場合は、IOCに責任が問われることになるが、日本の警察組織としても
万全の手立ては必要になってくる。

そのような事情を熟考した時に、IOCは責任をとる覚悟があるのだろうか?

もちろん、世界の三愚人によって、首都東京圏が愚弄されたことは、最も許せない
ことであるが、同時に、IOCと連座して「テロ事件」などが発生した時に責任を負う
覚悟が出来ているのだろうか?

ここで、世界の三愚人とは・・・

★一人目の愚人は、世界陸連のドーハの悲劇を覆い隠すために、世界陸連の会長
の片棒を担いだ「コーツ氏」であり、その愚行は許せない。

世界陸連の会長はコーツ氏とは同胞的な存在であり、ドーハの悲劇の非難から世界
の眼を逸らせるために、東京マラソンの暑さの中での競技の挙行にスポットを当てさ
せて、ドーハの悲劇の責任追及の矛先を逸らせた。

コーツ氏であれば、同胞的な存在として、この愚行を止めさせることも出来た。それも
含めて片棒を担いだ愚行は許せない。

★二人目の愚人は、日本側の森会長と云える。森会長には多くの選択肢があった。

 ◎コーツ氏からの申し出に対して、ドーハで起きた悲劇の原因解明と、東京マラソン
  で講じている酷暑対策との比較検証において「何が足りていないか?」の検証

 ◎コーツ氏からの申し出に対して、東京五輪の準備関係者との具体的な対応策に
  ついての検証と、対策の立案、およびコーツ氏へのフィードバック

 ◆さて、通常は想定できない選択肢であるが、コーツ氏からの申し出にせよ自身に
  よる起案にせよ、札幌にコンタクトする前に、東京への事前の通告と、了解を得る
  行為は、日本人として「武士道の基本」である

★三人目の愚人は、札幌市長と云える。通常、日本国内には都市間で紳士協定的な
信頼関係があって災害発生時などは、お互いに支援し合うという暗黙の文化がある。

それを考えたら札幌マラソンの案が持ち込まれたときに、東京五輪マラソンとして長い
時間をかけて万全の準備をしてきた都知事に「こういう話が来ているが?」と声をかけ
ることが、後世において「東京の寝首を掻いた」と云われないための保身術である。

結果的には、札幌マラソンに決定して、北海道知事と札幌市長の二人で、東京首都圏
の関係者やマラソン選手の寝首を掻くことになったが・・・

これからの札幌マラソンの準備に関わる関係者にとっては、通常業務をこなしながらの
五輪準備を雪原の中で、ごく短期間に進める必要があり、過酷な負荷の中で体調など
に不調を来したり、最悪の場合には過労死すら想定される。

そして、最も危険なことは、前述の通り・・・

群れから離れた集団が、脅威に晒される例は多く、札幌マラソンに出場した選手たちが
世界のテロ組織から標的にされるリスクは否定出来ない。


037 新国立競技場 2020年の桜を観て走る会

間もなく新国立競技場が完成する。新国立競技場の木の香り豊かな会場において万来
の拍手がこだまする競技場で、マラソン選手がゴール、歓声と拍手が最高潮に達した時
には「どのような音響が生じるのだろうか?」と、想像するだけでも、楽しい。

新国立競技場の設計者や建築関係者にとっては、その歓声と拍手が、どのようにこだま
するかは、新国立競技場の完成イメージの一つの要素として充分に想像出来ていたもの
と想定することが出来る。

しかし、2020年東京五輪のマラソンと競歩は、競技会場が札幌に移され、この万来の
拍手によるこだまは「幻の存在」となってしまった。

しかしながら「ピンチはチャンス」でもある・・・

桜の咲く 2020年の春に 東京マラソンの競技関係者やマラソン競技への出場選手の
ご理解とご協力をいただき新国立競技場を発着点とする「五輪コース」を沿道の商店など
の関係者や東京首都圏の支援関係者のご協力などをいただいて 「桜を観て走る会」を
挙行したら如何だろうか?

これを実現出来れば、2020年東京五輪の露払いともなり、なにしろ、新国立競技場に
おいて、マラソンランナーがゴールする瞬間の歓声と拍手がこだまする音響効果を耳に
残すことが出来る。

また、当日の夜は、2020年復興五輪のテーマにものっとってチャリティーコンサートなど
を仕掛けて復興五輪へのメッセージ性も込めて呼びかければ、多くのアーティストの共感
と共演も得られるのではないだろうか?

基調講演を仕掛けるのであれば、タイトルは「地球温暖化の抑制」が妥当と考える。

(続 く)

【連載】生涯青春ラケットとジェットの物語 Ⅰ

【連載】生涯青春ラケットとジェットの物語 Ⅰ

【プロローグ】武蔵野の大地を溢れんばかりの陽光が照らして、いっせいに薔薇の花を咲かせ始めた頃に、私は、地元のテニス同好会の発足会に招かれて参加させていただいた。

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