砂漠の蟻

みやこたまち

0.CUBE

 砂漠の直中に、強化ガラス六枚をスチール枠で固定して作られた立方体の部屋がある。中には黒づくめの服装の人間が横たわっている。頭巾のようなものまで被らせられ顔も黒い布に覆われている。立方体の前の演壇に白衣の男が登り、コツコツとガラスを叩きながらレクチャーの続きを始める。
「このように室内の酸素の減少、脱水症状、熱中症という状況が引き起こされたわけだな。無論、検体は無作為抽出された健全な身体を持つ平均的なものであり、この変動は個体の誤差範囲として一般化してもよろしい。」
「教授。砂漠という特殊性は、一般理論の追試としては不適当ではないでしょうか。」
 ガラスの立方体を囲む制服姿の大勢の若者の中の一人が、手を挙げて発言した。周囲の若者も、その言葉に頷いている。教授は、少し唇を突き出し、憮然とした態度で、学生たちをぐるりと見渡した。
「ふむ。君達も同じ意見かね。なるほど。ただ、ここで重要なのは、密閉環境における生体エネルギー(2110 タナベ論)の減衰の集合論などでは無いのだ。我々が普段生活する地下における数値は全て追認され人類は熱死よりもさらに短期間での死滅理論を、受け入れざるを得ない。が、地上でもそれが成り立つのか否かは重要な論点となるだろう。君達は今、この実験装置と同環境におるわけだな。にもかかわらず、検体との生理データの差は、如実に現れている。これは密室の中と外とによるものなのだ。内部に流れる時間と、その外に流れる時間とは、まるで異質のものに感じられるだろう。私が示したいのは、この時間と空間との密接な関係。まさにそのことなのだ。」
 学生の中からざわめきが起こる。その時、教授の腕時計のアラームが鳴る。このアラーム音がガラスの中に横たわる男にも届いた。薄れかけた意識は、体力の限界の辺りで探し物をしている。

「俺の詩に意味はあるか?」

 ワタナベノボル(仮)は詩人として生きる事に目的を失いつつあった。自分が何に寄って言葉を選び、誰に向かって、何を伝えたいのかが分からなくなっていたからだった。シュールレアリズム、ダダ、ミニマム、などと転身し、ダムタイプに積極的に取り組んだワタナベノボル(仮)は、最新詩集の出版を自ら差し止め、その違約金を支払ったばかりだった。当てどなく町を漂泊するワタナベノボル(仮)の目の前に、国立文楽会館がまさに開場の時を迎えようとしていた。「これは偶然だろうか?」ワタナベノボル(仮)は、その時、「自国の文化にもう一度触れているのもよかろう。」とごく自然に思うことが出来た。

 中程の席に座る。質素な身なりの老女と、セーラ服をきちんと身に付けた少年が、前の席に座っている。ワタナベノボル(仮)は、薄暗い場内に蠢く影と、昏倒するほどの香水の香りの中で、その二人の周囲には、青竹の林立する山を思わせる空気が張り詰めているんを感じた。気がつくと、幕開き三番舅が始まっている。

1.名人の頭

 若君が「いつもお前たちに監視されていて、私は息をつぐ暇も無い。婆や、少し外に出てみたいぞ。」と申されるので、私は、若君のお年頃ならば無理もないことと思い、丁度十四代目の、年に一度の興行が催されるという文楽の舞台へと、お連れいたしたのでした。何某流の文楽は、それは伝統と格式のあるもので、中でも名人何々某の名は一子相伝の秘中の秘とされております。若君の目にもきっとおもしろく写るに違いないと、私は思っておりました。
 きれいなお人形が沢山でてきて、まるで活きているように動くのを、若君は聡明な瞳をくるくると回しながらご覧になっていらっしゃいました。若君は、この舞台では人形が人間に成り代わって芝居をするのだという決まりごとを、きちんとご理解なさっていらっしゃいました。
「婆や。なぜあの人形は泣いたり笑ったりできるのだ?特別なしかけが施してあるのか?」とたいそう興味をひかれたご様子でご質問をなさいます。「あれは、ただの面でございます。人形の表情は、あの身振りや、照明の当て方で生み出されるのでございます。とはいえ、あの人形の頭の見事さと、名人の技があってこそ、生み出される美なのでございます。」「そうか。みているうちに、ますます生きているように見えてくるものだな。」

次に若君がご質問なさったのは、黒衣についてでございました。若君は、あのちらちらする影がどうも邪魔になって仕方がないとおっしゃられて、背景のきらびやかな襖絵や、あでやかな着物の柄が隠れてしまうのを、たいへん気になさっていらっしゃったのです。「あれは黒衣と申すもの。人形に息吹をふきこむため、命ある者がこの世界から姿を消す為の装束でございます。文楽を観覧なさる時、黒衣は見えない者、存在しないものとしてご覧にならなければならないのでございます。それには若君がもっと沢山の文楽をご覧になっていくうちに、自然と見えなくなっていくものなのでございます。今は、黒いちらつきをお気になさっていらっしゃいますが、人形に息吹を吹き込むため、現身を捨てた者どものの意思が、あのような形になるのでございます。あの者どもを排除する事は、息吹を消し去ることになるのでございます。ご聡明な若君のこと、ああした存在も、近いうちに気にならなくなるはずでございます。」
 若君は「分かった。」と頷かれましたが、やはりすぐに黒衣が見えなくなるわけはございません。それでも若君はじっと、芝居に興じていらっしゃったようでした。しばらくして、今度はとても嫌なものを見ていらしゃるかのように眉を潜められたのです。私は「どうなされました。若君。」とお尋ね申しました。「折角の美しい面の横に、いつも浮かんでいるあの老人の顔な。あれはいけないな。まるで若い妾にしつこく言い寄る品のない輩の顔をしておる。何故、あんな人形が必要なのだ。ほらほら。あんなに顔を近づけて。あの手はどこに触れておるのだ。文楽とはこのような品性に劣る見せ物なのか。」
 それは、主遣い、人間国宝第十四代何々某の事でした。私は、ここが肝心の所と、声を潜め、いっそう真剣にご説明申し上げました。
「ご聡明なる若君の彗眼には敬服いたします。あの老人の面こそまさしく、人形の頭を使う名人の面でございます。文楽の人形は都合三人の人間が一つとなりて、息吹を通わせるものでございます。その中でも頭と右手を使う一人が、もっとも重要とされているのでございます。あの老人は人間国宝第十四代何々某と申す名人でございます。文楽を見る者は、一つには生き物のように動く人形の芝居に感嘆し、もう一つには、そのように人形を使う名人の技巧にまた感嘆するのでございます。また仮に名人にもあの黒衣の姿をさせたならば、人形は人と化し、巷を徘徊いたすこととなりましょう。名人は人形へ息吹を吹き込むと共に、人形であるということを思い知らせなくてはならないのでございます。そして、左遣いと足遣いの二人の黒衣、今全霊を傾けて人形の足となり左手となっている黒子達を、芝居の後で、人形に預けた命を再び人間に返す為にも、名人は命のすべてを人形に与えてしまうわけにはいかぬのでございます。若君は、すでに文楽人形の生命を看破され、鑑賞されていらっしゃいます。あとは、そのように人形を使う名人の技量を楽しまれるようになられますれば、文楽の全てを堪能なさる事がお出来になるのでございます。」

「なるほど。文楽とは危うい物なのだな。」

「御意。」

 ワナナベノボルは、二人の会話を、始めは「うるさいな」と思い、次第におもしろくなり、最後には、「この会話こそが私がここで掴むべき物だったのだ。」と熱狂した。そうだ。「黒子」だ。とワタナベノボルは確信したのだ。自分が戦わねばならぬのは、この世界に暗躍する「黒子」なのだと。この熱いたぎりを言葉にすべく、ワタナベノボルは席を立った。こうして、彼はアナーキスト詩人へと転身していったのである。

2. 血統

 切り場間近で、席を立つ無粋な者がいることを、私は悲しく思いました。けれども、若君は、この芝居を誰よりもよくご覧になられていらっしゃるということが、私は嬉しかったのです。そして確かに、その若君の眼力は、私などよりもよほど確かに、あの芝居を見抜いていらっしゃったのです。幕引きの後、若君は人形が見たいとおっしゃり、楽屋にまで足を運ばれたのでございます。楽屋口はひどい混雑でした。娘を使った名人達が、楽屋こもったきり内側から鍵をかけてしまっているというのです。若君は、もう一度あの娘の頭を見たいとおっしゃいます。私は、仕方なく身分をあかし、なんとか取りついていただく事が出来たのでございますが・・・
 そこで、人間国宝何々某が、切りの半ばで息堪えていた事、それでも残った二人は見事に人形を遣っていたこと、それはすなわち、絶命した名人をも、生きているかのように遣っていたということなのだ、などという事を、聞かされたのでした。その黒衣の二人は、もはや自力では立ち上がる事が出来なかったそうです。そして、横たえられた人間国宝第十四代目名人の顔は、鬼一と言われた形相を一変させ、まるで蛇羅助のような品性の無い顔になってしまっていたのでした。その片端で、娘の頭は凛々しくも、匂い立つような色香を湛えていたのです。若君は、その姫の頭をじっとご覧になっていました。私は一門のどなたかから肩をたたかれ、耳打ちをされたのです。
「このことはどうぞ内密に願います。我々はまだ名人を失うわけには参りませんので。」
 私はこの時ほど、流派という閉鎖された世界にたちこめる血の匂いを感じたことはありませんでした。数百年に渡る歴史が私に重くのしかかってまいりました。その時です。若君がこちらをごらんになりました。そして一門の方に向かって仰いました。
「この老人の魂はこの人形が持っている。老人に頭を持たせるがいい。きっと立派に振舞うことだろう。なあ。婆や。この死に顔が不満ならば、面をこしらえておくがいい。その時はもっとましな顔を彫ってやることだな。娘もいやがっていたようだ。」
 若君は堂々とそう仰って部屋を出ていかれました。その後の騒動の中、辞去するのにはたいそう骨が折れました。和君はまっすぐな心根で、真相をお知りになったのだと思います。翌日からもこの公演は予定通りに進められ、千秋楽の頃には名人が若返ったようだなどとの評判も立ち、何某家一派はますます安泰だと誉めそやされました。

3.インターミッション

 それは、講義の終わりを告げるアラームだったが、学生達は、その場を動こうとしなかった。むしろ、一層、ガラスの中の男に注目しているようであった。砂漠の熱になぶられながら、じっと、ガラスの中の検体を凝視し続けていたのである。見入られたように?確かにそうだった。だがそこに静寂は無かった。ざわめきは一時も途切れる事はなく、隣をこずくものや、せわしなくポケットの中をまさぐる者などの様子は、まるで何かを待ち焦がれているかのような期待と、待たされている事へのじれったさに身悶えしているように見えた。教授はいらつき始めていた。
 男は自分をとりかこむ無数の黒子を、かすむ視界の中から見ていた。「こいつらと戦うのが、私の使命だったのだ。」との思いが一瞬、男の眼差しを鋭くさせた。

4.子供の情操に関するシンポジウム

 ワタナベノボル(仮)は新しい詩を書き上げたばかりの高揚した気持ちを静めるため、熱く濃いコーヒーをいれて、ソファーに座った。そして、新聞に目をとおしながら、テレビのスイッチをいれたところだった。画面には、クレヨンで描かれた無数の顔が大写しにされている。泣いたり、笑ったり、起ったりする女の顔が、一枚の画用紙にぎっしりと書かれているのだ。そこに朗読が被さる。

ママのお面はいいな。
 とてもきれいで、くるくるといろいろになって。
 ママは眠る前にお面をはずすから
 まあちゃんに借してってお願いしたけど
 駄目だって。大きくなったらねって言うの
 大きくなったらママみたいにいっぱいお面をつけて
 いっぱいおこったりわらったりないたりしたいな

 ワタナベノボル(仮)は、小学生の頃の国語の時間を思い出していた。思った事を素直に書けたの頃のこと。いやそうではない。子供には感受性においつくだけの語彙が無い。だから詩のように語り、書くのだろう。思ったことを素直に書けるのではない。子供の時、自分はいつも、何か言いたい無いような気がしていた。だから今の自分がいるのだ。そんな事を改めて思っていた。パネリストのディスカッションが始まった。

 

眼鏡の女:これがこれを書いた少女です。家族の許可はとっていますので目伏せ無しでお見せできます。そうでなければ意味が無いのです。
司会:これは、なんと言うか、まったく無表情ですね。
派手なジャケットに帽子の男:写真撮られるんで緊張してるだけなんじゃないですか。
白衣の中年男:いえ。これが典型的な仮面症の特徴なのです。これまでのこうした症状との違いはですね、情緒面は正常なのです。喜怒哀楽はしっかりと感じることが出来るのです。ただ表情が全く動かないというんですか仮面を被っているかのように無表情のままなのです。
文化人的芸能人女性(子供有り):やぱり家庭でのスキンシップがたりないんちゃないてすか。共かせきててぃいさい時からちゃんとお父さんお母さんとのコミュニケーションがとれてないかだ、感情を表現する相手、いなかたからこんなかわいそな子供出来てしまう。
眼鏡女:ところが、そうではなかったんです。感情を表現する表情が作れないのは事実です。ですが、この子を初め、スキンシップの不足や虐待の事実は無いようなのです。
派手男:じゃ、肉体的なもんなわけ。筋肉の問題。固いもの食べないとかいわないでよ。まだ赤ん坊みたいなもんなんだから。親がお面でもつけて子育てしてるっての。ばい菌が心配でさ。年中マスクしてたりして。
眼鏡女:こちらの絵をごらんください。
 絵は先程と同じ、つまり母親を書いた顔だった。ただ目鼻立ちがはっきりしていない。そして鼻の横に大きな黒子があるようだった。
白衣:私どもは、やはり母親がこのような顔で子供に接していたのではないかと想像したのです。ですが、実際はそうではなかったのでした。
眼鏡女:これは、この子に、「お母さんがお面をとったところ見たことある?」と言って描いてもらったものです。これはお母さんが寝る前にお面を外したところなのですね。
文化芸能:この鼻の横の丸は? さきの絵にはなかたよ。
派手男:二人いるんじゃないの。意地悪なのと優しいのとさ。複雑な家庭環境なんだ。
司会:一体どういう事でしょうか?
眼鏡女:この丸は黒子だそうです。先程のお母さんは、お面をつけているから黒子が隠れているんですね。そして、こちらがお母さんの、素顔という事になります。
派手男:化粧落とした顔ってこと? 驚いたね。よく化けるね。女ってのは。これだからいつも騙されるんだな。
白衣:その通りです。この子達はみな母親が化粧をした顔をかくときは、表情豊かな顔を描くし、化粧を落とした時の顔は、のっぺらぼうみたいな顔を描くんです。じっさい、のっぺらぼうみたいなんです。これが化粧を落とした母親の写真です。無論許可はとってあります。
文化芸能:ても。化粧品には赤ちゃんに害なる成分ある。あかちゃんの世話するとき化粧必要ありませんね。お母さん忙しいたいへんてす。お化粧してる時間とるの大変。
司会:じゃ、この娘さんが欲しがっているお面っていうのは、化粧道具なんですか?
眼鏡女:化粧をすると初めて表情が出来るのです。女の子はお母さんが鏡の前でみるみるうちに顔を作っていくのが不思議でしかたがないのです。そして自分はまだそのお面が無いと思ってしまうのだと思います。仮面のような、という表現が果たして適切かどうか。むしろ、素顔のままでは表情が作れないのです。仮面を被らなければ、笑顔も泣き顔も作れない子供たち。

ワタナベノボル(仮)はテレビを消した。そして鏡を取り出して自分の顔をいろいろと動かしてみた。笑い顔は、父親に似ていた。ふてくされた顔は母親に似ていた。そして、得意気な顔は、編集者に似ていた。これはみんな仮面なのだとワタナベノボル(仮)は思った。そして、仮面を外して素顔になることを強要する今の時代、個性を強要する時代が隠している物こそ素顔の無表情さであり、個性の不在なのではなかと思った。いくつもの言葉が、頭の中に沸き上がってきた。その時の顔は一体誰の仮面なのか?ワタナベノボル(仮)はそれを確かめるのが怖かった。

5.ワタナベノボル(仮)

 教授と学生達はあきらかに焦れていた。互いが互いを牽制しあっているようであった。中の男はかすかに頭を擡げた。そして、怯えたように隅へと頭を突っ込もうともがいた。誰かが、奇声と共にガラス箱へ駆け寄った。と群集は一気にガラス箱へと群がった。ぺたぺたとガラスを叩く音は、やがて思い切り拳を打ち付ける地響きのような物へと変わった。頭をぶつけるもの、思い切り蹴飛ばすもの。中の男は、群集がみな同じ顔をしているのをみた。彼らはみな、笑っていたのである。
 念入りに作られたガラスの部屋は、男の生命を確実に奪っていったが、突如として暴徒と化した群集からは守ってくれていた。だが、それが何になるだろう。手も足も出せないまま、ここで衰弱死するのなら、自分は外に出て彼らの拳に打たれたいと思った。

 アナーキスト詩人へ転身したワタナベノボル(仮)は若者から絶大な支持を得ていた。バンドの作詞もてがけ、彼らの主張はまたたくまに日本中に広がった。だが、ワタナベノボル(仮)は不満だった。彼らの熱狂はライブハウスでだけ爆発して、コンサートが終わると、ふつうの子供たちに戻ってしまうのだった。そして、学校への不満や、両親へのささやかな反抗で憂さを晴らしているのだ。ワタナベノボル(仮)は、叫んでいた。
 君達の不満はこの国への不満なのだ。だが、今の君達の反抗は、その国に寄りかかって甘えているだけなのだ。気付いていくれ。君達は目隠しされている。君達は囲い込まれている。山羊のように。君達の行く先にはえんえんと続く柵が張り巡らされている。本当の柵が張り巡らされている。だが誰も、そこまで行こうとしない。君達はその柵を簡単に飛び越えることが出来る。言葉では決して越えられない。理屈では決して壊れない柵でも、君達は飛び越える事が出来る。山羊の君達。下を見るな。目を上げるんだ。本当の柵は目の前にある。(ワタナベノボル(仮)作詞集より「山羊の詩」 抜粋)

 詩集「テロル」を上梓したワタナベノボル(仮)は、町中を徘徊していた。自分の声は確かに届いた。だがそれは届いただけだったということを、ワタナベノボル(仮)は嫌というほど感じ取っていた。秋風がワタナベノボル(仮)を空虚にした。自分が先頭に立って行動しなければ、この国は駄目になる。主張は、悲痛な決心となってワタナベノボル(仮)の胸に積もっていった。酒でも飲もう。そう思った瞬間だった。ふと人波の途切れた裏道の角から、暗闇が、ワナタベノボル(仮)を殴りつけた。

 学生達は、ポケットから虫眼鏡を取り出して、砂漠の太陽光をワタナベノボル(仮)の身体に集めることに熱中しはじめていた。逃れる術の無いまま、ワタナベノボル(仮)は自分を殺そうとする群集を見た。彼らはみな、無邪気な残酷さで笑っていた。そして、もっといい場所を確保するために小競り合いをしていた。白衣の男は、ガラスの上面に陣取って、這い上ってくる黒い服の若者達を蹴散らしながら、必死で、虫眼鏡を操っていた。ワタナベノボル(仮)は、ガラスを覆う黒服の中に、憔悴しきった男の顔を見た。その半透明の男の顔は、群集の全ての胸に写っていた
「人はこれだけの力を秘めている。それを引き出し、統率する力が必要だったのだ。ワタナベノボル(仮)。俺の死に意味はあるか?」
 体を焼く無数の焦点。群集も教授も、よろよろと這いつくばるワタナベノボル(仮)を焼くのに忙しい。嬉々として、一つの命を奪うのに、忙しい。
「俺の詩に、意味はあったか・・・?」
 そこに、突如として詩が現れる。ワタナベノボル(仮)に、このガラスの密室よりも、焼かれている肌よりも、激しい熱が体内から湧き上がる。
「同じだ。同じなら外がいい。でも同じなのだ。中でもいい。それも同じだ。同じなら・・・」
 ガラスに激しくぶつかりながら、一瞬おののく黒い群集の中に自分の顔が写るのを見たワタナベノボルは、それが彼らとまったく同じように笑みを立てていることを知る。一人の学生服の男が、袋叩きに会い始める。ワタナベノボルがガラスに突進したとき、最初に逃げた男だ。殴る、蹴る群集はみな笑っている。ワタナベノボル(仮)も同じように笑っている。(終)

砂漠の蟻

砂漠の蟻

詩人ワタナベノボル(仮)が生涯最後の詩を着想するまでのこと

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-10-26

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  1. 0.CUBE
  2. 1.名人の頭
  3. 2. 血統
  4. 3.インターミッション
  5. 4.子供の情操に関するシンポジウム
  6. 5.ワタナベノボル(仮)