青梅線にて
終電手前、中野で青梅までの直通を逃した。慣れない酒を飲まされて、気持ちが悪い。立川駅でホームを移動して、青梅線を待つ。拝島で後ろ二両が切り離されるというので、ホームの前の方でぼんやりと待つ。
やりたいことの分からないまま、大学を辞めて、無試験で入れるデザイン学校に入学して、そこの製図講師に拾われた。成績が良かったわけではない。何か、就職率とかの、ノルマのようなものがあったのだろう。別段、好きな仕事でもなかったが、講師(今はボスと呼べと言われている)と、ベテランのデザイナーと僕だけという職場環境では、定時だから上がります、というわけにもいかず、結果アフター10の、立ち飲みなんかにも付き合う羽目になる。で、週に4度は終電ギリギリだ。朝は7時の電車に乗らなければならない。
青梅線は車両に10人程度。僕は真ん中の扉の脇に腰をおろして、習慣的に文庫本を開いた。読む気などない。ただ、電車に座っているときは、文庫本を持っていないと落ち着かないのだ。
中神で酒の匂いをさせたホームレス風の老人が乗ってきた。その男は閉まる扉にどこかをぶつけて、そのままゴロリと僕のすぐ前の床に額を打ち付けた。そんな酔っ払いを気遣う人はいない。僕も足元に転がったボサボサ白髪の老人に、靴が触れないようにそっと足をズラすくらいのことしかしなかった。
茶色い染みの滲んだ青いタオルを首に巻いて、埃まみの紺色のニッカボッカに、派手な黄色のハイソックス。腹巻はヨレヨレで紫色の便所サンダルみたいなものをつっかけている。上着は首の伸びたランニングに、かつて丹前だったものの切れ端を纏っている。
僕は、文庫本に目をやった。頭が痛かったので、文字を追うことはできなかったが、本でも見ていないと、その老人を見てしまいそうだったからだ。
老人は床に転がったまま、何かブツブツと呟いていた。
「…時雨蛤みやげにさんせ宮のおかめが……ヤレコリャよっしよし」
何か、歌でも歌うような調子だ。と、いつしか僕は老人を見ていて、老人も僕をニヤニヤと笑いがら見上げていた。
「博多帯締、筑前紋、田舎人とは思われぬ、歩行姿が、柳街ット。お前、学生か?」
僕は無視して本を読もうとした。
「お月さまが一寸出て、松の影。アラ、ドッコイショ」
男はそういって起き上がり、僕の隣にぴったりと座った。酒だけではない垢じみた匂いに、強烈な吐き気を催した。
「何読んでるんだ?」
「泉鏡花」
僕は何か、相手を馬鹿にしたいような、反抗したいような気持がして、そんな風に応えていた。老人は、片手で髪の毛をバリバリと掻き毟りながら、うれしそうに、
「やっぱりなぁ。昔は俺もよく読んだぞ。二進が一進、二一大作の五、五一三六七八九ッとくらぁな」
と数少ない黄ばんだ前歯と、ほとんど残っていないどす黒い歯茎をむき出して、イヒヒヒと笑った。
僕はなんだか、この老人が嫌ではなくなっていた。
「ひきあげ給のと約束し、一の利剣の抜持… じゃあな。おれは武蔵五日市だ」
老人が、黒くて固くて何かがこびりついた右手を差し出す。僕はその手としっかりと握手をする。
「我子は有らん、父大臣もおはすらむ……」
老人は拝島で降りた。足元がおぼつかなかった。僕は、右手を洗いたくて仕方がなかった。
河辺駅で降りたのは僕一人だった。駅前のロータリーの噴水池に右手を浸した。その時、ポケットから、文庫本が池に滑り落ちた。
『歌行燈・高野聖』泉鏡花 新潮文庫 という文字が、明るい月に照らされて、水輪にゆらめいていた。
引用 『歌行燈・荒野聖』泉鏡花 新潮文庫
青梅線にて