光りあるところ

秋邑 茨

 
 <ええ~、次は神奈川県にお住いの中学二年生、
 !、 私? 
 <ラジオネーム、ヒカリンさんからのリクエストで、
 ・・・・・・・・・
 つまんない。ラジオなんて。
 どうして? なんでシカトするの?
 ――重いんだよねえ、真理愛(まりあ)って
 何がいけないの? 苗字が変わったから? 母子家庭だから? スマホじゃないから? カラオケに行くの、断ったから? 
 仕方ないじゃない、親の問題なんだから。おこづかい貰えないんだから。我がままでも、私の都合でもないんだよ。どうしてそういうこと考えてくれないの?
 ――もしかしたら、友だちだとか思ってたりして。ウチらのこと
 ――ジョーダンっしょ?
 ――マジ笑えないんだけど
 お父さんのほうがよかった。お父さんと居るほうがよかった。お父さんと、居たかった。
 お姉ちゃん。どうしてるの?
 ひとりって寂しい。
 死ぬほどつらいよ。
 ――だから重いんだって



 
     (1)


 お父さんには心配かけられない。お姉ちゃんはもっと。お母さんは無理。
「ふぅ」
 学校に行くのもつらいけど、何もしないのってけっこう疲れる。だけど、気分はフツウ。重すぎずはしないし、息苦しいほどのモヤモヤもない。
 そっか。期待するからいけないんだ。携帯忘れてきて、かえってよかったかも。
 ――おれの子だな。真理愛は。 
 私には、お父さんの血が流れてるんだ。大らかというか無頓着というか、細かいことは気にしないところがほんのちょっとだけ。もっと似てたらこんなに苦しまなくてすんだのに。ま、いいか。
 さて、どうしよう。重い荷物を降ろしたみたいに、気持ちが軽くなる。どこまででも歩けそう。 
 マンガ喫茶って、どんなだろう。
 ひとりカラオケって、できるのかな。
 ダーツゲーム? あれって面白そう。一人でもできるって言ってたし・・・・・・
「はあ」 何してるのかな、みんな。私だけかな。休んだの。
 図書館にしよ、っか。 
 ――ジジ臭さ
 行かないわよ。家にいるのと変わりなくなっちゃうもん。
 動物公園は?
 ――ノリが違うのよねえ。ハチョーが合わないっつうの?
 そうよ違うのよ。違ったっていいじゃない。 
 決めた、動物公園にしよ。人間であることを忘れられるかもしれないし。こんなことなら自転車でくればよかった。でも、時間を潰すにはちょうどいいんじゃない? 何時に帰ったって、どうせお母さんは無関心なんだし。どこで何をしてたってさ。


「かわいい」
 リビング二個分はあってウチの屋根くらいの高さはあるバードハウスには、いろんな小鳥がたくさん。 「おじゃましま~す」 
 白文鳥に桜文鳥に十姉妹。それから、名まえのわからないまん丸のからだの小鳥さんが地面をぴょんぴょん。チャボちゃんはひょこひょこ。楽しいね。
 中央に囲われたバードルームには、色とりどりのセキセイインコがピチクリピチクリ。何て言ってるの? 君たちの世界にはイジメなんてないんでしょ? いいわね。
「わあ」
 枝から枝へ忙しく飛び回ってる子もいれば、口ばしを背中に埋めて寄り添って寝てるカップルがあっちこっちに。瑠花(るか)お姉ちゃんも、あんな感じなんだろうなあ。
 歩いて来た甲斐があった。一時間もかけて。小さな小さな動物公園と言っても、ここには馬や牛やアライグマにうさぎ、孫悟空みたいなお猿さんだっている。嬉しそうに笑う人間も。
 やっぱり鳥がいい。鳥になりたい。私が鳥になったら、仲良くしてくれる? 
 ・・・・・・・・・ 
 仲良くしてね。 「あ」
「あら、」
「すみません」
 地面のエサをついばむ小鳥を見るのに夢中で、気づかなかった。おしりとおしりがごっつん子。
「わたしのほうこそ、ごめんなさいね」
 きれいな人。幾つくらいだろう。
 同性とは言っても、大人の女の人の年齢って見当がつかない。お母さんよりは若く見えるけど。
「よく来るの?」
「あ、はい。昔よく来ました。懐かしくなって」
 クスっ。
 笑い方もお(しと)やか。口許に手をあてる人なんて、テレビでしか見たことがない。
「私、何か・・・・・・」
「昔だなんて言うから、おかしくて」
 私にとって五、六年前は確実に昔。何がおかしいんだろう。歳を重ねると、五、六年なんて最近なんだろうか。
「ええっと、よく来るんですか」
 お姉さん。あなた。君。どう言い出せばいいのか分からない。
「おばさんって呼んでくれてもいいんだけど、一応独身だから、抵抗があるの。わたしは加藤芳美(よしみ)。近くの病院で働き始めたのがきっかけで、またくるようになったの。三年くらい前から」
 近くの病院というのは大学病院。十年くらい前に瑠花お姉ちゃんが入院していたという、全国的に名の知られた病院だ。 
「じゃ、加藤さんって・・・・・・」 女医さんかな。事務員さんとか。大人と話すのって、気を遣うし難しい。
「看護師をしてるの」
 看護師さんと言えば、キビキビハキハキしていてキツイ印象しかないけど、加藤さんのような看護師さんがいれば、きっと患者さんは癒されるだろう。それほど加藤さんは、何て言うんだろう、――穏やかな川に、ちょろちょろそそぐ、清んだ()き水。そんなことばが似合う人。
「近くて、気分転換にもなりますもんね」
「気分転換と言えば、そうかもしれないけど」
 いわゆる、ストレス発散のために訪れるのではないようだ。
「患者さんがお亡くなりになった日か、その翌日に来るのよ」
 死。暗く重いだけの言葉。年齢を重ねれば重ねるほど、慣れてしまうものなのだろうか。死というものに。それとも、看護師だから?
「どうして笑って言えるんですか」
 木の葉に隠れた小鳥を覗き込む、加藤さんの顔が嬉しそう。何で?
「ご臨終に立ち会うことの多い仕事だからと言っても、慣れないわ。死というものには。同僚のなかには 『ビジネス、ビジネス』 って、自分に言い聞かせて処置にあたる人もいれば、 『人形だと思えばなんともない』 なんて指導する人もいるけど、わたしは、
 ――だめよ。ケンカしたら。
 ごめんね。わたしは病気や病人にではなくて、人生の岐路(きろ)に立っている方、立たされていると言った方がいいのかもしれないけど、そんな方と関わり合いたくて看護師を志したの。迷ったり弱っている方に寄り添いたくて」
「病気になると、気持ちが萎えちゃいますもんね」
「そうね。そういう方と向き合うとき、何がいちばん大切か。わかる? わたしも最近気づいたことなんだけど」
 加藤さんが最近気づいたことを、十三年しか人生を経験してない私に分かるわけがない。
「自然体でいること。それしかないと思うの。だから笑ってたのよ」
 嬉しいときも悲しいときも自分らしく。余計なことは考えずに、目の前のものを素直に受け入れる。そういうことか。
「あなただって笑ってたわよ。小鳥を眺めながら。嬉しそうに」
「みんなそうだと思います。ここにくる人は」
 この子たちが歓迎してくれているのかは分からないし、居心地を悪くしているだけかなのもしれないけど、とにかくここに来ると、自然な生き方みたいなものを肌で感じられる。それに決められた環境で生きるための、ヒントをくれるような気も。
「よく来たなあ、それこそ大昔。学校をさぼって」
 ほんとうに? 私の目が膨らんでいたのか、加藤さんは大きく頷づいて、
「ひとりぼっちだったから。うふふ」 無邪気に笑った。
 出会ってまだたったの三、四分。人生の大先輩と、フツウに話しているのが不思議だ。
「あ、ごめんね」
 加藤さんは言って、ポーチを開けながら出口に向かう。
 いいな。何日鳴ってないだろう。携帯。
「欠員が出ちゃって戻らなくてはならないの。また会えるといいわね」
 加藤さんが慌てた様子で駆け出す。人が変わったみたいに。
 また会えるのかな。会いたいな。
 会いたいと思ってるのかな。


「あ。あ、あ」 
 テカ、テカテカ――携帯が青い光を放っている。誰? またお父さんかな。
 【ルカお姉ちゃん】 
 <話しがあるの来れる?> 短すぎ。
 お姉ちゃんらしくもない。肝心なことを書かないなんて。んもう、どこに行けばいいのよ。
 ――オカケニナッタデンワバンゴウハ、デンパガ、
 アパートにいないってことは、
 <大学病院受付なるべく速く、たいしたことないから心配しないであの人にはないしょ> 
 病院に?! 心配するよ、 <了解。三十分語、×、××~~~ 、> んもう、
 <了解。三十分後にロビーで >
 おなかの赤ちゃんに何かあったとか? まさか流産? だとしたら病院の人から連絡がくるはず。やっぱり大したことないのかな。
 いや、何かあったんだ。内緒なんだから。お母さんには。



     (2)


 淪落(りんらく)の道を辿るわたしの唯一の希望は、四日に一度の入浴である。自分が撒き散らす異臭に気づかぬようになったら終わり。フツウの生活に戻れないからだ。 
 25メートルプール1/2ほどの広さをほこる大浴場は、定年退職した高齢者たちの労をねぎらうために造られたとか。四十五歳の小僧のわたしは、彼らの倍の入浴料を払っているにもかかわらずいつも邪魔者。二度に一度は 「出てけ」 とばかりに熱湯シャワーを浴びせられ、(あか)の浮いた桶の湯を引っ掛けられる。
「そんなにイジメが楽しいか」 「年寄りらしく振舞え」 「やくざだったらやれないくせに」 「弱虫」 言葉を飲み込むのには理由がある。
 齢に抗い髪を染め、ガキの真似してシャツ出しルック。イケてるシニアを気どりたいのか老いたから子に従っているのかは知らないが、 <年寄りは赤ん坊に返る――> 彼らはやんちゃ盛り。何をしでかすか分からないからだ。
 ウィ~~~ ン、 イィ~ ~ ~ ン、イィ~ ~ ~ ン
 営業マンとして飛び回っていた頃は見るのも嫌だった携帯が震える。アパートを出てから初めての着信だ。
 <君の力が必要だ。戻ってきてくれ。> 復職を請う電話ならこう言ってやる。 「考えてやってもいい」
「ちっ」
 頭髪の乏しい太鼓腹オヤジを無視して、わたしはバッグの脇のポケットに手を伸ばす。
 【真理愛】
 下の娘だ。慌ててフリップを開く、
「父さんだっ」
 ツゥウ、ツゥウ、ツゥウ、ツゥ・・・・・・・・・
 脱衣所を出てリダイアルボタンを押す。 「困ります!」
 黄ばんだブリーフ一丁のわたしを受付係の女が咎める。構うもんか。 「急用なんだ!」
 忘れていなかったのだ、わたしのことを。消去していなかったのだ。記憶のなから。真理愛は。
 ――オカケニナッタデンワバンゴウハ、デンパノトドカナイトコロニアルカ、デンゲンガ・・・・・・
 どうする。
『どうしても一緒になると言うなら出て行け!』 十八だろうが高齢者だろうが、恋愛も結婚も自由なのに。思い切って打ち明けた瑠花の気持ちを理解しようともしなかったわたしに、電話をかける資格などない。そうか。
 そうだよ。かけ間違いだ。そそっかしいからな。真理愛は。
 よほどの事があったから掛けてきたに違いないのに、都合よく自分を納得させたわたしは、受付の女性に詫びを入れて脱衣所へ戻った。
 風呂に入る気になどなれなかった。一週間くらい風呂に入らなくたって何でもない。高熱がつづいたと思えば。
 ネガティブなのかポジティブなのかわからない理屈でふたたび自分を納得させたわたしは、着替えを済ませ、荷物を抱えて脱衣所を出た。
「もうお越しにならないで下さい」 なんだよいきなし。
 ネクタイ姿の男の手に載っているのは、黒と銀それぞれの色の硬貨が三枚づつ。うしろの客は澱んだ目でわたしをねめつけている。
「いい湯だったよ」
 唯一のわたし希望は、こうして失われた。


 どこに消えたのだ。ホームレスは。
 車上生活から数えて三ヶ月。外界生活者になって一週間。一度も彼らを見かけない。
 店内にゴミ箱を設置するコンビニが主流となった昨今、彼らはどこで食糧を調達し、どこで日中をやり過ごし、眠っているのだろう。ネットカフェ難民と呼ばれる人たちは、いったいどうやって金を工面しているんだ? 外界生活初心者のわたしには皆目見当がつかない。
 そもそもホームレスはいるのだろうか。社会保障制度が充実したこの時代に。
 屋根のある生活から外界生活に移行したわたしは実感していた。人がもっとも必要とするのは情報だ。 <郷にいては郷に従え> 同胞とは認めたくないが、わたしはホームレスとの出会いを痛切に願った。外界生活から脱却する手掛かりを見つけるために。
 それが期待できないと判断したわたしは、一年間生きるための目算をすることにした。
 
 ポケットラジオ + 12本入り電池×2パック = 2500円
 それに、生活費を一日100円×で試算すると、
  100円 × 365日 = 36500円
 そうだ、消費税も加えねば。
  ×1、08 = 合計39420円也
 
 財布のファスナーに忍ばせた一万円は絶対に使えない。カードローンの借入限度額の残高は確か・・・・・・
【44020円】
 すべてを借り入れて残高0円にしたろころで、カード会社にとっては同じなのだろうが、5000円だけ残す。借金を踏み倒すことへの贖罪(しょくざい)の意思表明として。もちろん仕事に就いて報酬が得られ次第返すつもりではいるが。
 次はなんだ? 
 そう、生活基盤となる場所のカクホだ。ちょっと待て。風呂はどうする。洗濯もしなけりゃいけない。排便には紙が必要。やはり一日100円では無理だ。どう考えても。
 ――お父さんって何も考えてないけど、創造力と発想力だけは(ゆたか)か。
 瑠花の言うとおり。わたしは奇抜な発想で会社に貢献してきたのだ。考えろ。
 ・・・・・・・・・
 キャッキャッキャッ、ウフフフ、ガヤガヤワイワイ、 「一匹わけてよ」 「やーだよ」 「いいじゃないかリョージくんは大漁なんだから」
 ちょっと静かにしてくれないかな。大事なことを考えてるところなんだから。
「ママと約束したんだ、アユ釣ってくるって。だから一匹くらい、」
 アユ釣りなど君たちにはまだ早い、
 ! 「それだ」
 サンキュー、チルドレン!



     (3)


「お姉ちゃん!」
 半年ぶりに会った瑠花お姉ちゃんは、ショートにした黒髪がキラキラしていて、肌ツヤもよく 「若いお母さん」 といった感じ。らしくないメールに気を揉んでいたことが、おかしく思えるほど元気そうだ。
「病院よ。静かにしないと」
 六歳年が離れてる姉妹というのは、二、三歳くらいの年の差の姉妹とでは、感覚が違うと思う。ただのお姉ちゃんというよりも、尊敬できるお姉さん。母親代理。そんな存在なのだ。
「話しってなあに? 心配しちゃった、電話繋がらないし」 メールもヘンだったし。 
「ここにいたから。地下のレストランで話そっか」
 受付ロビーは緩やかな坂を上り切った所にあって、レストランは同じ建物の坂下にある。中庭の和風庭園が落ち着いた雰囲気を演出していると地元では評判だ。
「少し太ったみたい」
 正面からはさほどでもないけど、後ろからだとウエストまわりの肉づきがよくなったように見える。
「もうひとりいるのよ。変わらないほうが変でしょ」 コホッ、ゴホンッ。
「風邪? 大丈夫?」
 心配して背中をなぜつつ、視線はついお腹に向く。 <妊娠四か月目でこの膨らみ。きっと大きな男の子よ!> 嬉しさで頬が緩む。苦しそうなのに。
「ウ、ウウッン。急に、涼しくなったでしょ。だから」
 声がかすれて聞こえるけど顔色は悪くない。季節の変わり目だから。お姉ちゃんの言うとおり。心配するほどでもなさそうだ。
「サンドイッチでも、食べよっか。ご馳走する」
「パフェがいい」
 二人で顔を見合わせて笑う。
 ――チョコレートパフェが食べたいってゴネてな。先生やお見舞いに来てくれた人にまで言うんだからまったく瑠花には・・・・・・
 よく聞かされたものだ。お姉ちゃんが交通事故で入院したときのエピソード。三歳だった私の記憶にはないのだけれど。

「お姉ちゃんは野菜ジュースとサンドイッチ。二人分の栄養摂らないといけないから」 
 ちょっと残念。でもお母さんになるんだからパフェはないか。 「慌ててたみたいだけど、話してなあに?」
「食べてからにしよっか」
 何度もよく噛んで食べるお姉ちゃんと、バードハウスの小鳥たちの姿が重なる。頭の毛がちょびちょび逆立ったヒナ鳥たちが口を大きく開けてエサをねだる。そんな姿と。
「少し、困ったことになっちゃって」
 野菜ジュースを置いてお姉ちゃんは言った。 「深刻というほどの事でもないんだけど」
 そうは言うけど、なんだかヘン。様子がおかしい。
「妊婦HIV検査っていう、検査を受けたんだけど、その結果が出たの。家族の人を呼んでほしいって言うから、それで真理愛に来てもらったわけ。ごめんね。急に呼び出したりして」
「私は大丈夫」
 たどたどしい言い方がお姉ちゃんらしくない。それはそれとしても、よほどの事がない限り家族を呼び出すことはないはず。やっぱり気になる。
「だけど、私でいいのかな」
 お母さんを呼びたくない気持ちもわからないではない。だけど、中二の私なんか役に立つのだろうか。
「ちゃんと話してあるから大丈夫よ」
 やっぱりお姉ちゃんの言うとおり。深刻な話じゃない。私で用が足りるのが、何よりの証拠だ。
「エイチ、アイ、ヴイ検査って」
「ヒト免疫不全ウイルスという、ウイルスに感染しているかを調べる検査のこと。その前に受けた感染の有り無しを調べる検査は、感染していなくても陽性を示すことも多いっていうから気にしてなかったんだけど・・・・・・」
 予め調べたのだろう。検査を受ける前から。
「ほんとうに陽性だったとか?」
「そう。今回も陽性」
 一次検査は、陰性か陽性かを 「ふるい」 に掛けるようなもので、かなりの確率で 『偽陽性』 の結果が出るらしい。その後受けた二次検査で、
「感染の可能性が有るって、言われたとか」
 さっきよりも穏やかな顔で、お姉ちゃんは首を振った。
「感染していますって言われたの。はっきりと」
 だけど、ウイルス感染と言ったって、唇にできるヘルペスだって結膜炎だって、インフルエンザだってウイルス感染。お姉ちゃんは妊婦なんだし家族を呼び出しても何の不思議は、
「まりちゃん」
 子供の頃の呼ばれかたで我に返る。そう。私は、家族を代表して話を聞きに来たのだ。泣いてなんかいられないのだ。
「感染というのはね、」

 病気を防ごうとする細胞に侵入たHIV <ヒト免疫不全ウイルス> が増殖し、徐々に免疫力を低下させてさまざまな病気に(かか)る可能性が高まること――

「でも、無症状のままの人もいるし、そうならないようにする治療もあるって言うから、その事じたいは余り心配はしていないんだけど・・・・・・」
 気の強いお姉ちゃんの、強がりでない 「本心」 が伝わる。
「気になるのはこの子。この子への感染を防ぐために来てもらったの。真理愛に」
 適切な治療を施せば、赤ちゃんがHIVに感染することはない。その治療の説明と承諾を得るために、私を呼んだのだと言う。
 気持ちはわかる。でも赤ちゃんと同じくらい自分のことを心配して欲しかった。お姉ちゃんが元気でいなければ、いちばん困るのは、生まれてくる赤ちゃんなんだから。
 ?
 私は肝心なことに気づいた。 
「そんなに重要話なら、豊さんを呼んだほうが、」
「彼とは別れたの。もともと他人だけど、もう赤の他人だから。あの人の話しはしないで」 お姉ちゃんは言った。
 もう終わったこと。そう言っているようだ。
 私は頷き、 「大したことないんだしね」 
 自分に言い聞かせた。
 お姉ちゃんは、笑みを浮かべるだけだった。


 <HIV感染後、二年から十年で免疫不全による様々な症状を発症すると言われていますが、発症しないケースもあります。>
 ショックを受けないように先生は話してくれたみたいだけど、発症が何を意味するのかは、お姉ちゃんの話で分かっていた。 「AIDS」 だ。
 でも、どうしてお姉ちゃんが・・・・・・
 重い病気を患ったり事故にあった人がそう思うように同じことばかりを考えていて、細かな治療方針など耳に入らなかった。
 そんな私とは裏腹に、お姉ちゃんは、細かなことまで繰り返し質問していた。学年トップクラスの学力を維持できたのは、飽くなき探求心と、納得するまで妥協をゆるさない、元来の性格のせいかもしれない。
 だけど今度ばかりは自分の為ではない。お腹の赤ちゃんのためだ。お姉ちゃんは必死なのだ。お腹のなかに宿る、我が子の命を救おうと。
「ちょうどお薬を飲み始めるのにいい時期で、タイミングよかった」
 <妊娠十四週から開始する抗HIV剤の服用で、胎児への感染の危険と奇形で生まれる確率を低くします。>
 ちゃんと薬を飲んでいれば感染はしない。健康な子どもが生まれる――お姉ちゃんはそう信じて疑わない。
「でも早産になるって言ってた」
 <産道感染を防ぐために、三十五週から三十六週で帝王切開で出産させます。>
「一週早まる程度だもん、早産のうちに入らないわ。でも何時間苦しんででもいいと思ってたから、ちょっと残念」
 ちょっとどころではなく、かなり残念そう。
「それより授乳できないのがね」
「もっと残念?」
「と言うより悔しい。おっぱいをあげながら、話すのが夢だったから。でも仕方ないよね。無事に育つためなんだからね」
 <AIDSを発症すれば、健康な人には無害な細菌にも感染し易くなります。病気への抵抗力が低下し、指標疾患とされる病気を罹るリスクが高まるのです。>
 お姉ちゃんなら平気。絶対大丈夫。だけど・・・・・・
「やっぱり、連絡した方がいいんじゃない? お父さんたちに」 気を遣って 『お父さん』
 味方が多ければ多いほど不安は薄らぐし、何より心強い。少なくても私は。
「無事に出産して、ふつうの生活ができる状態になったら考える」
 頑なところはお母さんゆずり。思うようにさせてあげよう。いちばん苦しんでいるのは他でもない、お姉ちゃんなのだから。
「それより、真理愛も受けときなさい。HIV検査」
「え!? 私が?」
「念のためよ」
 大事なことに気づいた。感染の原因。感染源だ。いったい誰からうつされたのだろう。お姉ちゃんは。
 <HIVは、輸血と性交渉、それに傷口から感染します。>
 豊さんが感染源だとしたら、お姉ちゃんは赤ちゃんと同じくらい豊さんのことを心配するはず。
 でもお姉ちゃんは逆のことを言った。 「赤の他人。あの人の話しはしないで」
 こんな困難を乗り越えるために愛し合ったんじゃないの?
  駆け落ちするほど愛し合っていたのに、どうしてあんなこと、言ったんだろう。
「緊張が解けたせいかお腹空いちゃった。カフェ、行こっか」
 お姉ちゃんの身になって考えること。 “犯人捜し” なんて、どうでもいいのかもしれない。
「今度はチョコレートパフェにしようかな」
 お姉ちゃんが嬉しそうだ。
「私も」
「また食べるの!?」
 やっぱり話さないと。お父さんには。



     (4)


 いいかもしれない。
 入浴ができて安心して眠れさえすらば良かったのだが、うまくいけば焼き魚がタダ。山に入れば雑草呼ばわりされるだけの野菜だって食い放題。洗濯だってできる。ススキを掻き分けて住居を構えることも。おまけに人間関係で煩うこともない。嬉しい限り。 「世のなか悪いことばかりじゃないな。あは。」
 わたしは独り言を言うタイプの人間ではなかったのだが、いまではすっかり癖になってしまった。
 <心の病気かもしれないわ。病院に行かないと。>
 前妻に聞かれでもしたら、精神疾患を疑われ騒ぎ出すところだろう。わたし自身、そこまでは思わないにしても、ブツブツ言いながら歩く人間を避けてきたのは事実。でも今は違う。ヘンでも何でもない。ふつうだ。楽しそうにさえ見える。
 なぜか。
 ブツブツは妄想(もうそう)でも幻覚でもせん妄の予兆でもなく、頭の中を駆け巡る独自の世界を、感性をフル活用してストーリー化しているに過ぎないから。言い換えれば、 (わたしも含めた) 彼らは詩人。か作家かシナリオライター。要するに手法が違うだけだ。原稿用紙に書き出すか、パソコンに打ち込むか、口頭で表現するか。やり方が違うだけ。わたしたちに言わせれば 「狂者か左巻きを見る目で見るな」。 目を向け心を傾けるものは他にあるだろ。構わないでくれ。
 ――そんなことより真理愛のことは? 気にならない?
「そんなことより?」
 ああ、君か。真理愛のことなら大丈夫。心配ないって。
 ――瑠花なら何か、
 070、ピ、ピ、ピピピ、
 ――ふふふ。初めっから素直に言えばいいじゃない。心配で仕方ないって。 
 黙っててくれ。
 この際(こだわ)ってなんかいられない。
 <オカケニナッタデンワバンゴウハ、ゲンザイツカワレテ、> = かけんじゃねえよ。もう関係ねえんだからよ!
 そんなに憎いか。父さんのことが。
 ――そんなこと思ってないわよ。うふふ。
 君だったわたしに負けないくらい嫌われているんだぞ。分からないのか。
 ・・・・・・・・・
 無言。
 笑いたければ笑えばいい。 「わたしは変わったのだ。」
 そう変わったのだ。幻聴を聞くようになったのは車上生活に入ってから。やっぱりおかしいのか。わたしは。
 ――確かに変わったわ。ホームレスに。
「うるさいよ」
「おい! うるさいとは何だ」 
 こっちの話ですよ、じいじ。道を歩けば高齢者に当たる。わたしは振り向きもせずに、足早に町を目指した。川原、いや楽園で暮らすのを避けるために。
 まあいい。外界暮らしのホームレス親父がしてやれることなど何もないのだから。心配すること以外に。
 ならば鳴らない携帯など不要。棄ててしまうか。いっそのこと。
 でも、アラームは何かと重宝する。電源を切るだけにしておこう。
 でも、そういう中途半端な未練が、
 ――なんで人をあてにするの? どうして戦おうとしないの。
 戦う気が失せたわけではない。戦えないだけだ。弱い立場に立たされた者は、手ぶらで戦場に立つのと同じなんだ。
 ――言い訳ばっかり。あなたには親の自覚がないの? 我が子を守るのが親のつとめでしょうよ。何に換えてでも。
 ホームレスが何ができる。何を守れる。
 ――バっカみたい。親になる資格のない人の子供を産んだ私がバカだったとも言えるけど。
「君はご立派。」 品行方正だからね。
 ――な~んにも考えない、ちゃらんぽらんな人よりいいと思うけど。
「変わってないのは君も同じじゃないか。」 
 身勝手な理想を描き人に押しつける。お互い子供を持つ資格なんてなかったんだ。
 <性格の不一致ってやつね。結婚する前に気づけばよかった。子供ができる前に。でも、真理愛が社会人になるまでは絶対にダメだからね。離婚なんて。> 
  冷や冷やさせられ、危なっかしかった瑠花がいちばん大人だったのだ。結局。
 ミャー。
「?。 何もないぞ」
 ミャーオ。
「なんだよ」
 ――他人の事より自分の事よ。
 君の言うとおりかもしれないな。今は。
 ボロ雑巾みたいな猫の強さを、わたしは見習わなければいけないのかもしれない。外界を生き抜き、もう一度社会に戻るためには。


「福祉事務所へ行ってみてはどうでしょう」
「税金も支払えないのに、税金で何とかしてもらうのはどうも気が引けてね」
「しかしこのままでは・・・・・・」
「このままでは?」
「屋外での生活は、体だけでなく精神も病んでしまうんです。一日でも早くフツウの生活に戻らないと」
 感じていたのだ。ハローワーク職員は。わたしがフツウでないと。
 でも大丈夫。心配ない。いまのわたしは五感から入るもの以外、受入れを拒否しているのだから。すなわち目で見るもの、耳で聞くもの、鼻に届くもの、それに、それだけか。それ以外のことは考えないようにしたのだから。
 若者にいじめられまいと媚びを売る年寄りやオヤジ臭く生きる小僧が幸福を分け合う世界に戻るのは気が引けるが、仕方ない。ここは素直に彼の忠告に従って、 
「何だよ」 目と鼻の先じゃないか。
 どうする。
 ――相変わらずねえ。優柔不断ぶりは。
「うるさ、」
 五感、いや、3/5感だけを働かせろ。余計なことは考えるな。 
「生活保護を、受けたいと思いまして」
「三階の生活支援課へどうぞ」
 今ならまだ間に合う。役所の世話になるほどわたしは落ちてはいない。引き返すか。
 ――ハローワークも役所だけど、
 そういう事を言ってるんじゃないんだよ。
 ――話だけでも聞いてみたら?
 ・・・・・・
 別に拘束されるわけでもあるまいし、時間はたんまりある。ここは素直に実花(みか)の言うことを聞いて、
 そうじゃない。やっぱりダメ。逃げ出すにはまだ早すぎる。
 ――逃げ出すって、なに言ってるのよ。やり直すんじゃなかったの?
 逃げ出したくせにって言いたいんだろ。わたしが言いたいのは、まだ限界じゃないと言うこと。やり尽くしていないということ。どうにかしようともがき苦しんで、どうにもならなくなったわけではないということ。
 ここで尻尾を巻いて逃げだしたら、この先何があっても逃げだしそうな気がするんだ。もう少しだけ、自分の力を当てにしてみるよ。
 ホームレスだった時代を懐かしむためにね。 「あんな日も、あんなことも有ったな」 なんて。子供たちの前で。
 ――バカみたい。だけど、わかる気はする。こういう経験って、そうそう出来るものじゃないもんね。
 バカは余計じゃないか? ま、あとひと月精いっぱいがんばってみる。苦しくて苦しくて、どうにもならなくなるまで。
 ――たった一か月?
 そうは言うがね。ひと月も有給休暇を使わせてくれる会社があるか? 夏休みは長かっただろ。一か月の旅行なんて行けるか? 長いよ。一か月は。
 ――初めから一か月って決めるところがね。男らしくないって言うか、弱腰って言うか。
 神社に通ってかしわ手を打った。寺に行って手も合わせた。教会の前で十字を切ってもみた。でもこの通り。何のご利益もなかった。だから一か月。
 ――決めたのに余計なことは言いたくないけど、
 無理して喋ることはないよ。
 ――寒いわよお。川になんて入れないわよきっと。もう冬なんだから。
 地球温暖化で亜熱帯地域みたいなものだからね。この国は。昔ほどではないさ。最低気温に達するのは午前四時と六時前後。この時間帯さえやり過ごせば・・・・・・・・「要は慣れさ。」
 ――イノシシとかサル、出るみたいよ。熊はわからないけど。
 なあに、彼らだって怖いんだから大丈夫。わたしに言わせれば人間の方が遙かに恐ろしいよ。
 ――別に心配してるわけじゃないけど、そこまで考えてるのかなあって、思っただけ。ごめんね、やる気を削ぐようなこと言って。
 めずらしいじゃないか。君が謝るなんて。
「ご用件は?」
「あ、いや。ボランティアについて話を聞きたくて」
「ここは生活支援課です。一階が窓口に‥‥‥」 
 元来た経路をわたしは引き返す。
「これでいいんだ」 よな。
 実花の幻影、生霊は応えなかった。



     (5)


「ごめんね。毎日毎日」
「聞き飽きた。毎日毎日」
 うふふふ――。
 <赤ちゃんの発育や治療への影響、ご自身の負担も考えてください。> ひとり暮らしでの通院治療など、初めから無理だったのだ。
「これ以上減らしようもないのに」
 入院に必要な不足分の荷物は、テレビ台と一体になった棚だけでは入り切りそうにない。
「貸してみて」
 本や毛糸を棚から出して、空のバッグに入れ始める。 「やってくれたのにごめんね」
 あっという間に、棚のなかに余裕ができる。
「先に持ってちゃったのね、整理整頓の素質」
「人のせいにしないの」
 母親代理みたいな存在のお姉ちゃんが、ほんとうの母親のように見えた。
「私がお姉さんだったら、どんな姉妹だったんだろ」
「お姉ちゃんが真理愛の妹? 考えられない」
「どうして? 楽しいじゃない。想像すると」
 引き出しの奥にしまった下着の上にタオルを掛ける。こういう事に気がつかないから?
「どうしてって、先に生まれた人はみんなそうよ。自分の子供が親だったらなんて考える親がいる? それと同じ」
「そうね、お父さんが息子だったらなんて考えられないもんね」
 コン、コン、コン、 「石井さん、お薬の時間ですよ」
 声のする方に振り返る。
「加藤さん!」 「あら」  
 奇跡的偶然。って言うより運命?
 動物公園で会った時の、深緑のセーターに紺色のスラックスを穿いた、寂し気な姿とはまったく違う印象。堂々として、凛としてる。
「石井さんのご家族だったのね」
「妹です」
 石井さん。一瞬妙な気持ちになる。お姉ちゃんが家を出て行ったのは両親が離婚する前。だからお姉ちゃんは、石井瑠花。母に引き取られた私は、松岡姓に変わっていたから。
「松岡、真理愛さんね」
 加藤さんは、私が連絡人になっていることを知っていた。
「知り合いだったの? 芳美さんと」 お姉ちゃんが目を丸くして言う。
 動物公園で知り合ったことを加藤さんは話して、
「緊急の呼出しの連絡が入って、名まえを聞き忘れてしまったの」
 名乗らなかった私をかばってくれた。
「よかったあ。加藤さんが担当で」
「安心だし、心づよいの。ほんとうに親身になってくださるのよ」
 入院して一週間も経っていないのに、すっかり加藤さんを信頼しているようだ。
「みんな同じですよ。看護師は」
 加藤さんは謙遜するけど、そんな事はない。
 健診に行ったお父さんは採血中に追加の検査 (胆のうポリープ?) の勧めを断ったばかりに、えぐるように皮膚から針を抜かれて一か月以上も傷跡が残るほど痛い目に合ったし、入院患者を殺害する看護師だっているのだから。
「帰りにナースステーションへ寄ってくださる? 看護方針の説明をしたいの」
 最後のくだりはお姉ちゃんに。他は私。緊張する。大事な話を聞くのはもちろんだけど、あらためてあの加藤さんと、恐らく二人で話すのは。 
「真理愛。お願いね」


 芳美さんはお姉ちゃんから家族の事情を聴いていたようで、 「その上で」 と前置きをしてから話し始めた。 
「ご家族それぞれに、ご事情があるのはわかるわ。でもね。病気というのは、患者さん本人だけの問題ではなくて、家族全員の問題なの。お父さんとお母さんを呼ぶように、瑠花さんを説得してくれる?」
 看護をする上でもっとも重要なのが患者を含めた家族とのコミュニケーション。コミュニケーションなくして入院治療は成り立たない――。
 芳美さんの言うことは理解できるし、私だって両親に話した方がいいと思ってる。でもお姉ちゃんが拒否している以上、私にはどうすることもできない。
「気持ちはわかるわ。でもこのままの状況では、ご家族一人一人の今後のプラスにはならない。治療や出産が順調にいっても。家族みんなで苦難に挑んだという、過程がいちばん大事なのよ」
 ここまで芳美さんが話してもお姉ちゃんは納得しなかったのだろうか。それならそれで、
「お姉ちゃんの、思うようにさせてあげてください」
 どうせバラバラなんだから。ウチの家族は。
「真理愛さん!」
 顔を上げられなかった。怖い顔の芳美さんを見たくなくて。 
「相談室には行かない家族には連絡しない。あなたたちだけで何とか出来る問題ではないの。分かるでしょ? 新しい命が生まれるのっ」
 ・・・・・・・・・
「わかったわ。ご家族のことは時間をかけて考えましょ。でもお父さんには絶対にご連絡しなければいけないわ」
 お父さん?
 そうか。豊さんのことを言っているのだ。
「豊さんの話はしないように言われてます。お姉ちゃんも連絡する気はないようです」
「そう言ってたわね」
 芳美さんは私の目を見据えたまま逸らそうとしない。ほんとうにあの、加藤さんだろうか。
「中学生の真理愛さんに伝えるのは酷だけど、瑠花さん本人からお願いされたことだから。話すわね。いい?」
「お姉ちゃんが芳美さんに?」
 芳美さんが一瞬だけ私から目を逸らす。そして、さっきより硬い表情で頷いた。
「お姉さんね。AIDSを発症していたの」
「え」
 ・・・・・・・・・お姉ちゃんが、エイズ。
「だからご家族のみなさんに、・・・・・・
「病気のお母さんから生まれた赤ちゃんにとって大切なのは、家族の支えと、・・・・・・
 芳美さんの話など耳に入らなかった。
「真理愛さん」
 芳美さんの腕のなかにいた。



     (6)


 奥日光でみやげ物屋を営む須磨さんからのお便りです。<カーテンを開けると、外は白銀の世界が広がっていました。初雪です。コハマギクの黄色い筒状花が、白い空に星のように輝いています・・・・・・
 この町の最低気温が十度を下回ったのは、確か十日ほど前。十一月も末になれば最低気温は二、三℃。氷点下になる日だってあるだろう。外界で生きる者にとって最大の敵。冬の到来だ。
 『ひと月だけ頑張ってみる』 実花の幻影、生霊にそう言い切ったわたしだったが、頑張るどころか、耐えるだけで精いっぱいの一か月だった気がする。
 もうひと月もすれば、雑草という名の生野菜の収穫にも事欠くであろう。実花の言うとおり、水浴、川風呂にも入れなくなる。布団もカイロも防寒着もないのにどうやって生きていける。
 もう限界か。
 いや限界だ。百歩譲ってホームレスならまだ聞こえはいい。浮浪者、ルンペン、こも、コジキと指を差されるのだけは避けようと思い立ったわたしは、一日分の食費を犠牲に、五本入り100円のヒゲソリ購入に踏み切りフツウを装った。のだが、
 ガラス窓に映るわたしの姿はフツウには程遠く、肩甲骨の下まで伸びた白髪交じりの長髪頭は、孤高のパンクロッカーという言いよりまるで落ち武者。肌は垢が堆積した黄土色。歯はそれよりやや薄ヤニ色。靴は草履と見紛うありさま。剥がれた靴底のパカパカ音が、バカバカと聞こえる始末。
 膝をかばって地べたに座ることにも (ふりをする時もある)、 病人を装ってベンチに寝転がることにも抵抗がなくなり、今ではフツウの自然な行為。見た目どころか、骨の髄まで染まっていくのだ。外界社会に足を踏み入れてしまうと。
 ――もういいんじゃない? 精いっぱいやったんだから。
 君か。君らしくないことを言わないでくれ。こういう時は慰めよりも叱咤。激励。そうしてきたじゃないか。
 ――やり直したら? 外界生活を懐かしむために。本気であなたを支えようとしてくれる人、絶対にいるから。
「いるもんか。」 わたしのことなど二の次三の次に決まってる。みんな自分のことばかりじゃないか。
 ――そりゃそうでしょ。
 ほーら認めた。下着は100均、靴下は税込四足380円の代物、普段着と仕事用のワイシャツはアウトレット。パパのはこれで十分。
 家族であって家族ではない、 「特殊な存在だもんな。おやじなんか。」
 ――そういう事じゃなくて、
「そういう事だろ。」
 まず自分。いつでも自分。何より自分。家族と言っても所詮血の繋がった他人。早く気づくべきだったよ。
 ――だからそうじゃなくて、
「そうじゃないならなんだっ!」 
 ・・・・・・・・・
 <何アレ。> <相手にすんなって。イカレてるんだから> <ゴミね。>
「ごめん。」
 自分のことだけを、考えるべきなのかもしれないな。今は。
 ――それでいいのよ。みんな、
 みんなそうなんだから。だろ?


 これで正式に生活保護受給者。
 収入や最低限の生活保障が受けられることで安堵する受給者も多いのだろうが、わたしは違った。まともに人と対話できたことが何よりも嬉しかった。
 何はともあれ、新たなスタートを切ることが出来たのだ。この恩は必ず返す。生活保護を脱却し、納税の義務を果たして。
 ――ほうら。私の言ったとおりでしょ。
「ん?」 
 決めたのはわたし自身だけどね。嬉しいことだけというわけでもなかったし。
 担当ケースワーカーは、人と対等に接することが信条と語っていたが、当面の生活資金だと言って机の上にわざわざ小銭をぶちまけて金を数える老齢職員には腹が立った。 「偉そうにすんな! (あんたの税金が含まれていることは否定しないが) 自分の金じゃないくせに!」 机をひっくり返して、建物の屋上から投身自殺してやろうかと本気で考えたほどハラワタが煮えくり返った。
 ――勘違いしてる人っているのよ。
 わたしは別に金にいい加減なわけでもなければ、社会生活に失敗したとも思っていない。ただ自分を誤魔化して生きなければならない世間のやり方に、合わせようとしなかっただけだ。だから外界に出てホームレスに、
 ――わかってるわよ元妻だもの。
 たった一人でもわかってくれたら十分。
 ――ケースワーカーの彼も。
 ああ、彼ね。江藤(えとう)くんとか言ったな。
 ――待ってたのよ。彼。
 ?
 生活支援課は歩合制なのかい。知らなかったよ。
 ――ふざけないで。あなたも感じたでしょ? 彼の本気。救いたいという気持ちを。五感じゃない部分で。
 んん、確かに誠意は感じた。
 ――いちばん大切なことよ。誠意って。
 彼には感謝してるよ。でもやめたんだ。期待するのは。裏切られるだけだから。 「ここか」
 ケースワーカー江藤氏に教えた貰った 「無料低額宿泊所」 というわけの分からぬ名前の施設は、福祉事務所から歩いて十分ほどのところにあった。ちなみに 「ここか」 は 「こんなとこかよ」 と言う意味。
 ニュースでちらっと見た、川崎だか横浜だかの何とかセンターとは大違い。建築基準法に違反していないか疑いたくなるほど老朽化した、モルタルづくりと見紛うコンクリートの壁が崩れかけてる。大丈夫かおい。
 腐朽(ふきゅう)したトタン造りの物置小屋が <嫌ならココに住む?> と言っているようで、何が住んでいても不思議のない雰囲気を醸し出している。おまけにこの臭い。 「外界生活の方がマシ」。 言葉が口から漏れる。――なら勝手にすれば。乾いた風に揺れる老木がそう言っている。
「どうする」 本気で悩んだ。
 ――住めば都よ。
 実花なりの慰め。
「外界だって住めば都だよ。」
 ――ならやめたら。確か彼、 「NPOが運営している施設がある」 って言ってたでしょ。
 <生活困窮者を支援するNPOが市内に三つあります。>
 そうだったな。言ってた言ってた。
 だが、 「ここじゃヤダ。他所を紹介してくれ」 なんて言えるはずもない。生保受給者の立場で。
 ――でも 「下見のつもりで行ってみてください」 って言ってたわ。
 確かに。でもほら、本心は、 「下見までして断わりっこねえよな」 なんて考えてるかも。
 ――まさか。あなた、そんな人だったの。
 ネットカフェだ。こういう時のためにわたしは、 “情報資金” を備蓄していたのだ。
 ――酒屋さんの横よ。
 開いた手帳に埋まった文字は、江藤くんの本気のほんの一部。裏切るわけにはいかない。
 

「他を当たってみます」
「やはり、気に入りませんでしたか」
 残念と言うより、 「あんなとこイヤですよね」。 そう聞こえた。
「ネット難民になります。ただし今日だけ」
「わかりました。ところで、どちらのネットカフェに?」
 ずいぶんあっさりしてるな。 「それはまだ」
「ならおススメのところがあります」
 ほんとうに役人か?
 


     (7)


 どうして来る気になったんだろう。
 一か月振りにきた教室は別世界のよう。新学期を迎えるときとも違う。何だろう。
 転校生って、こんな気持ちなのだろうか。
「い、し、い、さ~ん」 ビクッ、
 かまわないで。
「違うよ、カズミ。ま、つ、も、と、だってば」
「え~っ、また名前かわったの!? 確か前はまつむらだったんじゃね?」
「ちげぇよ、まつ、おか。また結婚したんだ、コイツのお母さま」
 どうして、どうしてそんな酷いこと言うの? どうしてみんな笑って見ていられるの?
「泣いてるぅ~なんでなんでえ? 祝福してあげてるのに。お母さまの三度目の結婚をさ。男好きなお母さまのご結婚をさ」
 もうイヤ。こんなとこ居たくない。こんな目に合うくらいならお姉ちゃんのそばにいる方がいい。 
 “ガタッ”
「待てよ」 「どこ行くんだよ」
「痛い!」
「友情だろ? 引き留めてやってんのに、なんだよその顔は」
「コイツの髪ベタベタ~、キモいんだけど」
「引っこ抜きゃいいじゃん」
 遠いところで聞こえる声。耳の中から聞こえる髪の毛が抜ける音。こんなところにいたら死んじゃう。殺される。
 ――おいお前ら。先生きたぞ。
「ふん。助かったと思うんじゃねえよな」
 クスクスクスクス、ふふふふふふふ、ハハハハハハハハハハハハハ、
「イヤ~ッ!」
「どうした松岡、どこへ行くんだ」
「お・ト・イ・レよ。先生」
「漏らしたんじゃね? 臭ってたじゃん、」 ハハハハハハ、ハハハハハハハハハハ・・・
 こんなとこ、二度と来るもんか。



 少しは、落ち着いた? エレベーターの中の鏡を覗き込む。
 泣き顔なんか、見せちゃだめ。お姉ちゃんの方がずっとずっと辛いんだから。がんばってるんだから。ね、真理愛。
「あら、」 芳美さんのハッとした顔。
 芳美さん・・・・・・
「これから休憩なの。カフェ、つき合ってくれない? ね。行きましょ」
 肩に添えてくれた手に顔をつけて、思い切り泣きたい。
「新館の六階にオープンしたらしいの。お洒落なカフェが。とても素敵な眺めなんですって。まだ行ったことないのよ」
 いつもとは違う慌てよう。気づいたのだ。私が泣いていたことに。芳美さんが気がつくくらいだ、お姉ちゃんだって気づくに違いない。
 もしかして、私じゃなくて、お姉ちゃんの為に誘ったの? 「そんな顔じゃ会わせられない」 と思って。余計な心配を掛けさせまいとして。

「何か、あった?」 訊かれるのって、嬉しいけど辛い。
 何かって、いろいろ。学校で酷いことを言われたこと。されたこと。何も知らないお母さんと毎日顔を合わせること。お姉ちゃんの病気の進行のこと。お腹のなかの赤ちゃんのこと。お父さんのこと。有り過ぎるよ。いろいろ。
「ごめんね。いろいろ、あるよね」
 芳美さんがうつむく。せっかくの眺めを見ずに、二人して顔を伏せてるなんておかしい。
 でもここは病院。悩みを抱えているのがあたりまえの場所。いいやどうでも。
「いろいろあったな、わたしも。真理愛さんの年頃には」
 慰めてくれたって何も解決しない。でも誰かが傍にいてくれるのは嬉しい。それでも黙っていてほしかった。慰められるわけ、ないんだから。
「わたしね・・・いじめられてたの。中学校の三年間。ずっと」
 学校に行かない選択肢はなかったのよ――。
 もしさっきのような事が三年間もつづいたら、絶対に耐えられない。死ぬこと以外に選択肢はない。私なら自殺している。お姉ちゃんを残してでも。
「何となく分かるでしょ。いじめられてたって。言われるもの、よくではないけど。たまあに」
 いつの間にかに顔を上げていた。
「今でもね、いじめられているかもしれないって思うときがあるわ。どうしたらそんな事を考えたり、感じたりしないですむのか、ずっと考えてきたような気がする。中学生のときから。三十年以上」
 所詮昔ばなし。そんなふうに振り返られること自体、詭弁(きべん)だ。
「私は今いじめられてるんです」
 思わず語気を強めた。それなのに芳美さんは嬉しそうな顔をする。
「やっと喋ってくれた」
 初めて口をきいたことに気づいた。でも、抗議したい気持ちは変わらない。私にとって大事なのはいじめを受けているという現実。三十年以上も前の話じゃない。気がするとかじゃない。
「どんなイジメを受けていたっていうんですかっ。私なんか、」 大勢の前でナジられて蹴飛ばされて髪を引っ張られて、教室を追われて・・・・・・
 涙が抑えられない。
「わたしの場合は、いまの言葉を使うと・・・・・・」
 シカトなら私だって耐えられる。残りの一年くらいなら。
「性暴力だった」
 えっ
 声も上げられなかった。中学生で性暴力。しかも三年間。涙がとまる。
「小さい頃から暗い子で、誰も遊んでくれなかった。思い出と言えば、好きな男の子のことを陰からひっそり見ていたことだけ」
 悲しそうな笑みを浮かべながらつづける。
「その子は団地の野球チームに入っていて、休日には学校のグランドまで見に行ったわ。五年生の終わりまで。彼が引っ越すまでずっと。
 そう、お引越しのときも行ったんだっけ。彼は、大きなトラックの助手席に乗って、かごのなかの小鳥に話しかけてたの。わたしはトラックを追い掛けた。姿が見えなくなるまで。ずっと」
 芳美さんの顔が懐かしそうな表情に変わった。
「あの頃が唯一の青春時代。彼のいない学校は行くのもつらくて、成績は下がる一方。中学の授業なんて、とてもついていけなかった」
 ウエイトレスに頭を下げる芳美さんを私は見据えた。きっと初めて人に話すのだ。私はぜんぶ、ぜんぶ聞かないといけないのだ。
「好きなのよね。お姉さん」
 目の前にチョコレートパフェがあった。同じものを頼んでくれていたようだ。
「自分を見つめられるようになったのは、女子高に入学から。二年生になる頃だったかな。
 公立校に入れない子が行くような学校で、二時間半もかけて通うの。中学時代にいい思いをしなかった子が多かったみたいで、ひとりでいても干渉されることもなくわたしの過去を知る子はいない。存在を隠していられたから、傷ついた心を癒すのにちょうどよかったのかもしれない」
 ――とけちゃうわよ、いただきましょ。 
 芳美さんは言って、スプーンでパフェをすくう。 
「男嫌いなのに看護師なんて、おかしいでしょ?」
 疑問に思ったことだ。芳子さんは、 「患者さんの人生の重要なときに関わりたくて看護師になった。弱っている人に寄り添いたかった」 そう話していた。
 でもそれは、性暴力を受けていたのを知らなかったから納得できたこと。仕事とは言え男性相手に平静を保てるとはとても思えない。(ケダモノ)と思って、いや悪魔と思って当然なのだ。男という生き物は。
「看護をしている時は男も女もないの。みんな同じ。根っこの部分はね」
 私だったらイジメた女に助けを求められても、絶対に助けない。
「暴力を振るった男でもですかっ」 声が尖る。
 抗議したい気持ちだ。
「ええ」
「うそ」
「ほんとうよ。実際に来院されたもの。相手は気づかなかったけど」
 私ならどんな形ででも復讐する。いやそれ以前に生きていられなかっただろう。それほど芳美さんは酷いことをされたのだ。
「ふつうでいられた。寧ろ、ふだんより落ち着いていられた気がする。 『あんなに元気だったのに』 って思うこともできたくらい」
 噓ではないと思う。と言うより、芳美さんは嘘をつけない人。だけど、どうしてそんなに寂しいそうにしてるの?
「でも好きだった子が来たら冷静でいられないかも。注射なんて何度も失敗したりして」
 芳美さんほど嬉しそうに笑う人を私は見たことがない。この笑顔に誘われるのだ。お姉ちゃんは。
「診察にくるといいですね」
 男の子への憧れを支えに生きてきた。そんな気がした。
「うんとは言えないわ。看護師としては」
「検診だったら?」
「それなら大歓迎」
「食べましょ」
 甘みを増したパフェの風味が口いっぱいに広がる。そっか。
 我がままでなく病院にいることを忘れられるからだ。お姉ちゃんがパフェをねだったのは。
「決して簡単に言うつもりはないし、上手に言えないけど・・・・・・苦難は必ず消えるの。ロウソクの火のように。がんばって乗り越えようとしなくても」
 苦難の火は、消えてなくなる。
「はい」
 信じよう。芳美さんのことばを。
「また、お話ししてもいいですか」
「また話し相手になってね」
「はい」
 幸せだった。 「いいことでもあった?」 なんて訊かれそう。お姉ちゃんに。



 ――ごめんね。検査、陽性だった。 
「だからって、決まったわけじゃないだろ」
 どうして言えなかった。
 ――お願い、豊も受けに行って。
 どうして言えなかったんだ。
 ひと言。 「そうだな」 って。
 俺もHIVに・・・・・・ 
 まともな職に就いて入籍して、結婚式をあげようと思ってたのに。
 死ぬのか、俺は。
 AIDSで。



     (8)


 なるほど。悪くない。
 初めて入ったネットカフェは、シャワーもトイレも個室もきれいで、リクライニングシートもなかなかの寝心地。おまけにドリンクは飲み放題だし、朝来ればトーストとポテトのモーニングがタダ。それで三時間1000円そこそこ。多少の稼ぎがあればここで難民認定を受けたい。そう思わせるほどの世界だ。
「さ」 きしむ背骨の音を聞きながら、ゆっくり背もたれを起こす。
 わたしの目的は情報収集。検索せねば。


生活困窮  支援  NPO 、 【Enter】、


 ↓↓↓▽↓↓↓▽↓↓▽▽↓↓ ずらりずらり。
 ふむ。まずは場所。ケースワーカー江藤氏との関りは断ちたくない。できれば同市内で。
【エンター】
 うむ。
 市内三区それぞれに滞在可能な施設を持っているのは二団体。一つは老人ホームの経営を母体とする、社会福祉法人系NPO。もう一つはと、宗教法人系 (お寺) か。
 どっちも生活困窮者から脱却した後の集客狙いか? つまり、老人ホームへの勧誘と、死後の始末の為の非営利活動。
 南区のみというのが気になるがもう一つ、エンター。
 住所は教会気付。キリスト教か。寺もそうだが、NPOの宗教活動はご法度のはずなのだが。
 ま、こちらとしては判断材料になるのだ。さりげない勧誘大いに結構。したいようにしてくれ。
  
    ▲▲教会 、 【Enter】、

 ふむむ。巨大な十字架に、金ぴかのパイプオルガン。ずいぶんご立派。
 実はわたしは教会とは無縁ではない。前妻実花がカトリック信者だったせいで、教会にも行かされたし、母教会で挙式をあげることを条件に結婚したようなもの。娘二人にキリスト教にちなんだ名前を付けたのはもちろん実花だ。であるからこそ、いい印象を持てない。
 わたしには100円パンツ。自分はテレビショッピングでお洒落とスキンケア。わたしには余りものを(なじ)めた(わきま)当。自分は 「接待の一環」 とか何とか言って毎食外食。結婚終期まで変わらなかったのは、嘘をつかなかったであろうことだけ。
 恐らく人は、 「それだけで十分幸せ」 と言うかもしれないが、 『神を愛することはできても隣人は愛せない』 それが信者に対するわたしの印象だ。
 さてどうする。どこにしよう。 
 ――きれな室内・万全な支援体制と自立支援プログラム・ベテランスタッフによる親身な相談・退所後のアフターフォローも・・・・・・
 どこも似たようなもの。いい事しか書かれていない。悪いことを書けないにしてもだ。隙を見せるくらいの方が信用されるんだぞ。
 老人ホーム。寺。教会?
 老人ホームは現実的であって現実的ではない。つまり、わたしが長生きをしたとしても老人ホームに入る金を貯めることは無理ということ。
 寺。悪くない。だがわたしは変形性膝関節症。正座ができず座禅は論外。父親の葬儀にきた浄土真宗のように物腰柔らかならよいのだが、この宗派は厳格ガチガチ。ザ・仏教という印象しかない。それにわたしの亡骸は無縁墓地に入る予定。除外だな。
 残りは、教会。でもなあ。
 ?? なーんだ。ここはプロテスタント系の教会じゃないか。上下関係がなく人を平等に扱い、隣人を愛してくれるかもしれない。少なくとも正座させられる心配は無いだろう。 「必ず決めますから。今日中に――」。 そう、江藤氏を裏切るわけにはいかない。
 連絡先を手帳にメモし終えたわたしは、コーヒーを啜って、背もたれをを倒した。
 最後の至福を味わうために。


 
「私たちこういう者」


      NPO法人すくい・たい   代表理事 藤山のぶ代

      NPO法人すくい・たい   理事 大門千代



 (うやうや)しくもない態度で渡された名刺をポケットに突っ込み、何となく口にした。
「キリスト信者なんですか? 職員のみなさん」
「中には若葉マークの信者や仮免信者の子もいるけど私たちは別。正真正銘の信者。安心なさい」
 威圧的というか、ふつうのおばさん。実花以上にクリスチャンに見えない。
「もしかしてあなた、入信希望者?」
 ふむ・・・・・・
 プロテスタントを名乗る団体の中には独自の教理に基づき布教活動を行う、新興宗教がありますので――そんな書き込みがネットにあったな。
 カトリックだろうがプロテスタントだろうが、元を辿ればすべてが新興宗教。気にすることもないか。
「キリスト信者になりたくて、ウチにきたのですかっ!」
 訊いてるのに返事がない。だから怒る。何だ偉そうに。
 ま、 実花も言ってたしな。ママ友との浮気を疑われて 「君はそれでもキリスト信者か」 って言い返したとき。 『――人はみんな罪人(つみびと)なのよ。クリスチャンだからと言って(きよ)いっていうわけではないの!』 って。こめかみに青筋を立てて。  
 そう、人は罪人。罪を犯す。でもわたしは、あんたがたみたいに見てくれで判断しないし、人間同士に上下関係が在るとも思っていないし、不満を解消するために隣人を傷つけたりはしない。
「喋れないんじゃない? この人」
 理事の方、大門千代が小馬鹿にしたように言う。
「いるのよこういう人。偉くもないくせに偉そうにする人って」
 代表藤山が偉そうに言った。
 優位を確保した者は奈落の底へ弱者を突き落とさなければ気がすまない――。こいつらの信仰は日本文化に忠実であることが大前提のようだ。
「もー1回だけ訊くわね。いい?」
 いいよ別に。 「はい」 どうぞ。
「あなたは、キリスト信者に、なりたくて、我が、すくい・たいに、救いを、求めたのですか。って訊いてるのよ! 何回言わせんのっ!」 
「キキ、キリスト信者の運営する団体なら安心かなと思っ、」
「聞・こ・え・な・い」
「はっきり喋りなさいよ」
 なんで腹を立てる。これしきのことで。
「キリスト信者の運営する団体なら安心かなと思って訊ねたまでです」
 一本調子になってしまった。
「言ったでしょっ。代表が安心なさいって。人の話し聞いてないの? ったくヤんなっちゃう」
「千代さん」
 代表藤山は言って、首を左右に振る。 「言っても無駄」 その意思表示であることは明白だ。誰がお前らの世話になんか、
 ――他に行くとこ、ある? 
 実花の生霊が囁く。
 ――どこも似たようなものって言ったじゃない。あなたの言うとおり。他に行ったって同じ。それに、
 江藤氏には連絡してしまった。裏切りたくない。彼のような、ふつうの人間を。
 ――そうよ。裏切っちゃだめ。江藤さんを。子供たちを。
 子供たち?
 そう、子供たちだ。吐く言葉、取る行動、描く思い。すべてを子供たちに見せられ、語れる大人こそがほんとうの親。親権は失ったとは言えわたしは瑠花と真理愛の父親だ。気づかせてくれてありが、
 ――やっと気づいた。
 照れくさいのかい。ありがとうって言われるのが。
「何ニヤニヤしてるの。気持ち悪い」
 はっきり聞こえた。
 気持ち悪いかわたしが。嬉しいときニコニコして何が悪い。
「受け入れるんですかっ」 こんなの。
 さっきからこいつらは名前を口にしない。江藤氏から聞いて知っている筈なのに。どこまで偉そうにするつもりだ。 
 <悪い人たちではありません。心配なさらずに訪問なさってください。>
 彼は 「いい人たちです」 とも 「安心して訪問しろ」 とも言わなかった。言えなかったのだ。わたしは江藤氏の心理をようやく理解した。
「他に行くところがないんです。どうかこちらで、受け入れてください。入所させてくださいっ」
 土下座していた。江藤氏の顔は潰せない。その一心で。
「そこまでしろって言ってないんだけど」
「空き部屋、あったっけ」
「嘘ですよね、シェルターの風紀を乱しかねません」
 いまどき風紀なんかを気にしてる奴がどこに居る。
「今月は厳しいのよ、コレが」
 コレ。人差指と親指で、お仏像の手の形。OKサインの変形をつくる。報酬のことだ。
「収穫が減ってるから」
 収穫?
 ホームレス狩りか!? どうりで見かけないはずだ。
「確かに。どうしてでしょう」
「さあ。どうしてかしら」
 乱獲のせいさ。それに偉そうにしてるお前らの世話になんかなりたくないからだ。外界にはな、愛が溢れているんだぞ。知らないだろ。
「許可しよっか」
「私反対です」
「大の大人の男に泣かれちゃっちゃ、仕方ないでしょうに」
 シェルターへの一時入所が決まった。



     (9)


「ヒト免疫不全ウイルスとHIV感染症、それに二十三ある指標疾患のうち一つが明らかに認められたときに、AIDSと診断されるの」
「カリニ肺炎ですね。私の場合」
「。そう」
 発疹や帯状疱疹(ほうしん)は、体質かと思うほど、何度も経験してきた。肺炎と言っても私の場合は空咳が出る程度。心の準備も覚悟もできないまま 「あなたはエイズ」 なんて言われても・・・・・・自覚症状に気づかなかった私のせい?
「こんなに早くエイズになるものなんですかっ」
 怒っているのでも責めているのでもないし、発症の悔しさでも無念さでもない。大事なことなのだ。
「人によって発症は、
「そんなことを訊いてるんじゃありません!」 
 信じてるのにどうして? 涙が溢れ出てくる。
「ごめんなさい」
「HIV感染後、二年から十年で、免疫不全による様々な病気を発病するって言われているの。でも発症しないケースもあって・・・・・・
 豊じゃない。豊が原因ではない。他に男は知らない。考えらるのは母子感染か血液感染。お父さんかあの人。どちらかが感染源ということになる。
 もし出産時に感染したとすれば、両親はもちろん真理愛が感染していてもおかしくない。毎年人間ドッグを受けて何種類もの腫瘍マーカーまで検査しなければ気がすまないあの人、母がキャリアだとすれば何らかの形でとっくに陽性結果が出ているはず。そんな母から生まれた真理愛の感染は考えられない。そもそも服薬療法による出産など確率していない時代だ。
 疑いようがない。原因は十年前の事故。お父さんからの輸血。感染源はお父さん。
「芳美さん」
 なあに? 芳美さんが首を傾げて答えてくれた。 「何でも話して」 私はそう受け取った。他に頼れる人はいない。
「二人いるの。感染が疑われる人が。エイズの疑いがある人が」
「ええ」
 わかって、いた?
「瑠花さんが入院したときから。病歴や家族歴を見て」
 芳美さんは理解していたのだ。豊に感染の危険があることはもちろん、お父さんからの輸血が感染源かもしれないということまで。だから芳美さんは家族に伝えることに拘った・・・・・・
「私の病気を知ったら二人は感染源を知ろうとします。つきとめようとします。豊はもう、そうしているかもしれません」
「あなたは無事に出産することだけを考えればいいの」
 自分のことをいちばんに心配しなさい。そう聞こえた。
「でも」
 感染を知ったら豊は・・・・・・取り返しのつかない結末が待っているような気がしてならない。
「待つことも大事よ。苦しいときほど」
 真理愛から聞いた、芳美さんの過去を思い出す。三年間地獄の日々を生き抜いた芳美さんの言葉は、誰のものより重い。
「いますべき事は何か。考えてみて」
 私はもうお母さん。頼りない母親のままではこの子が可哀そうだ。
「祈るしか、ないんですね」
 祈りは必ず叶えられる――。聞き覚えのある言葉が浮かんだ。
「一番大事なことよ」  
 芳美さんの目が慈愛に満ちていた。



「思い切って行ってみた。ほんとはずっとお姉ちゃんについていたいけど」
「コホッ、他の人と話すのって、大事なことよ。行って、よかった?」
 チラシみたいなパンフレットを返しながらお姉ちゃんは言った。話すのも苦しそうだ。
「大丈夫? 芳美さん呼ぼっか」
「大丈夫じゃない。でも呼ばなくていい」
 大丈夫じゃない――。二人で言い合ったことを思い出して、つい笑ってしまう。
「どんな子が、来てた?」
 不登校児が集うサークル 『くうくぅ』 には、小学生から高校生の男女十四人がいて、主催する大人たちはみなイジメを受けたことのある経験者だという。干渉することはなく、むしろ存在を消そうとしてるかのようで、守られているような感覚を覚えながら過ごした三時間だった。
「そう。みんな、何して、過ごしてるの?」
「いろいろ。本を読んでる子もいれば、勉強に夢中の子もいるし、ずっと目をつぶって音楽を聞いてる子もいた。お母さんに習ったのかな、小学生なのに編み物してるんだよ」
「小学生で? 習い、ウッウウン、習いたいな、その子に」 ゴホ、ゴホッホッ。
「大丈夫?」
 お姉ちゃんは赤い目を向け、首を縦に振る。 「つづけて。」
「明るくわいわいっていう感じではないけど、時間を大切にしようとしているように見えた。とにかく居心地がよくて行ってよかった」
 貴重な時間だった。人生に大切な時間を刻んでいる、そんなことを感じながら過ごした三時間だった。
「楽しめたのね。真理愛も」
「うん」
「・・・・・・そう」
「お姉ちゃん」
 咳が止まったと思ったら呼吸が変。荒いような、吸い方も吐き方も忘れたような。
「お姉、」
「クリスマスね」
「調子悪そう」
「飾ってある? クリスマス、ツリー。駅に」
 ・・・・・・
「とっくよ。十月に入る前にはもう、」
 お姉ちゃん? 
 顔が青い。そんなものじゃない。血の気の引いた、
 !
「お姉ちゃん!」
 枕元のナースコールのコードをつかんでボタンを押す。 「お姉ちゃんが大変! すぐに来て! 速くっ!」
 まりちゃん。
「すぐ来るから頑張って! 赤ちゃんもがんばってるんだよっ、お母さんが頑張らないでどうするのっ!」
 

 それからのことは、あまり覚えていない。
 確か、看護師さんが私を押しのけて、お姉ちゃんをストレッチャーに乗せて、それから、誰かに話し掛けられて・・・・・・それからたくさん歩いて、ここに座った。
「たったいま話しを聞いて、それで、」
 ? ああ、芳美さん。どうしたんですか。そんなに慌てて。
 そう言えば、いませんでしたね。さっき。
「大丈夫?」
 簡易ベッドみたいな長椅子に腰を下ろした芳美さんから、香りのない息が届いた。
「わかりません。だって、ずっと一人だったし、随分時間が経つはずなのに誰も何も言ってくれないんです」
「あなたよ。あなたのこと」
 ああ。
「大丈夫じゃない」
 久し振りに聞いたな、お姉ちゃんの大丈夫じゃない――。 「うふふ」
「真理愛さん・・・・・・」
「大丈夫じゃないけど、心配ありません。どこも悪くありませんから」
 芳美さんが来て安心したのだろう。お姉ちゃんと言い合ったことを話した。――大丈夫じゃない。
「面白そう、羨ましいな」
「一人っ子だったとか」
「ううん。お兄ちゃんがいたの。三歳年上の」
 いるではなくいた。
「男の兄弟がいて羨ましいです。いいなあ、お兄さん」
 どうしているんですか? 怖くて訊けない。
「中学校を卒業して、すぐ住込みで働き始めたの。板前さんになるって。でも、半年もしないで辞めちゃったみたい。それからは音信不通。って言うより失踪かな。もう二十七、八年も会っていないから、思い出すことも考えることもなかった」
 芳美さんが天井を見上げる。思い出そうとしているのかもしれない。お兄さんのことを。
「でも変わったの。兄妹っていいなあって。あなたたちと逢ってから」
 ありがとう?、 それほどでも。どう答えていいのか分からない。
「でも六歳は離れすぎです。今は抵抗なくお姉ちゃんって呼んでますけど、昔は 『お姉さま』。 すっごく威張ってたんだから」
「また昔。ふふふ」
「じゃあ最近まで」
「来たわ」
 芳美さんが言って立ち上がる。
「――加藤さんが担当だったわね」
 小気味よい靴音をたてながらやってくるのは、ドラマに出て来そうな女の先生。コートのように白衣をなびかせる姿に、つい背筋が伸びる。
「産婦人科の岡本です。丁度よかった、加藤さんがいてくれて。カンファレンスルームで話しましょうか」
 先生は立ち止まることなく言うと、二つ先のドアの前でカードリーダーを操作する。後ろから見え隠れする白い足は意外にも筋肉質だ。
 ロックが解除する音と同時にドアを押し、 「さ、どうぞ」
 入るように促す。ひとつひとつの動作が機敏で隙がない。
「加藤さんがいなくなってストレスが溜まる一方。部長に戻すように頼んだんだけど訊いてない?」
 言いながら手を上に向けて椅子に座るように促す。芳美さんは産婦人科でも、重要な存在だったようだ。
「いいえ何も」
「ウソ。ウチのドクターの総意だって脅したのよ」
「ほんとうに知りません」
 芳美さんは、相手よって態度を変えたりしない。あらためて思う。大人だと。
「他所の科でもほしいのは一緒。我がまま言うなってことか。でも諦めないわよ。真理愛さんだったわね」
 突然名前を呼ばれハッとする。
「ご両親には話さないでほしいって言ってるらしいけど、我がままを言うのはもうお仕舞い。なぜか分かる? 誰のためにもならないから」
 機敏な動きと同じように先生はハッキリと言った。
「でも・・・・・・何か言っていませんでしか。お姉ちゃん」
「言ってないわ。眠ってるから。妹だからと言ってお姉さんの言うことを聞かなければならないという法はないの。子供じゃないんだから。分かるわね」
「はい」
「私たち医者の仕事は一番良い方法で治療にあたること。最善を尽くすことだけしか考えていないの。ナースだってそう。患者さんはもちろん、ご家族も同じ気持ちでいなければ病気とは戦えない。あなたスポーツは? 何かしてる?」
 一方的な物言いに圧倒されるよう。 「いいえ」
「バレーボール見たことある? 体育の授業でやったでしょ」
「テレビで、見たことがあります。体育ではちょっとだけ」
 先生は頷いてつづけた。
「サッカーだと話がややこしくなるからバレーボール。バレーって六人でやるわね。一人でも欠けたら試合はできないし、六人揃っていても急場しのぎの即席チームではまともにスパイクも打てないしブロックもできない。優秀な選手を揃えたところで息が合っていなければ、そもそもチームじゃないの」
 コートに立たなけれれば戦えない。気持ちも形もバラバラな家族など家族ではない。断罪された気持ちだ。
「要するに覚悟を持ってほしいの。病気に立ち向かう覚悟と困難を乗り越える覚悟を。ご家族全員に」
 家族はバラバラでも、私たち姉妹は立派なチーム。覚悟ならとっくにできてる。
「あなたにその覚悟があるのは十分わかる。でもお姉さんと二人だけで抱えるには荷が重すぎる」
「でも」
「またでも」
 まっすぐ向けた視線を逸らして、先生が大きく息を吐く。 「本来ならご両親にお伝えするところなんだけど」
 芳美さんに向けた横顔が、困惑を物語っている。
「私が聞きます」
「お母さまだけでもお呼びしましょう。ね、真理愛さん」
 私は首を振った。もう何度も話し合ったことだ。
「わかった。根負けしたわけではないわよ。あなたに敬意を表して話すわ」
 さっきより力のある目が私に向けられた。
「お腹の子は流産したの。お姉さんは心配ないわ」

 
 妊娠十二週以降の胎児が死産したときには届け出が必要で・・・・・・
「真理愛さん」
 ただでさえショックを受けているあなたが、事務的手続きから胸が潰れるほどの痛手を負ったお姉さんを支えることまで、すべてをこなす事なんて無理なの。
「大丈夫?」
「はい」
 大丈夫じゃないなんて言えない。
「仮に無事出産していたとしても、マタニティブルーズ ――産後に起こり得る育児に対する不安から生じる抑うつ状態―― になった場合ご家族のフォローが絶対に不可欠で、これから治療をしていくうえでもご家族の存在が、」
「もういいです」
「真理愛さん」
「無理だったんですね。初めから」 一人で支えるなんて。庇護者の私には。
 実際に私は、目の前で涙に暮れるお姉ちゃんを慰めることもできない。
 <エイズとは無関係よ。> 先生の言葉に安堵するような妹なんて、頼れなくて当然だ。



     (10)


 嘘つきババア 
 <金曜13時。シェルター。いいわね。> 
 生活に困窮するような奴は平気で約束を破るいい加減な人間。威圧的な言い方にはそんな偏見が込められていた。
 どっちがいい加減だっ
 テレビ画面のデジタル表示は 【1:15――】 年明けの特番はどの局も似たようなもので、クソ面白くもないのに一斉笑い。湧き上がる怒りを(あお)ってるとしか思えない。 「クソッ」 どいつもこいつも。
 外廊下に出てたばこを咥える。二部屋先の男に気づいたのは、申し訳なさそうな挨拶が辛うじて耳に入ったから。 <――こんにちは。>
 堕落した者同士。おっさんとの間に漂う重暗い空気を吹き払うように煙を吐き出す。 「フゥー」 聞こえるように。
「わたし、この辺りのこと詳しくなくて」
 似た者同士じゃないか。或いは同じ穴の(むじな)。うさん臭え。空気読めよ。
「昨日きたばっかなもんで」 応えてた。
 瑠花と別れて以来、ネットカフェの店員以外と話していなかったせいかもしれないし、話しを聞いてくれそうな人間が現れたからかもしれない。
「わたしは11月の20日。ひと月半くらい前から」
 日にちだけ言えば分かるって。 「の」 は要らねえし。ちょっと面倒くさそうだけど、なぜか前から知り合いだったような気になる。
「変っすよね、ここの人間」
「すくい・たいの、人たちかい?」
「ええ」 他にいるかよ。
「昨日きたばかりなのに?」
「昨日も一昨日もねえ、変な奴はヘンだって言ってるんすよ」
 ヤベェ。
「すんません、会ったばかりなのに」
 キレたって何もいい事がないのはわかってる。でも気づくのはいつもキレたあと。どうしても抑えられない。
「謝ることはないさ。正直な気持ちを口にしただけなんだから」
 わたしは若者に理解があるのです――
 今どきオヤジかよ。おっさんも。
「確かにふつう、 (いや) 確かにヘンなところは有るね。相談員と名乗りながら、緊急時以外の電話は厳禁。相談は自分たちが訪れる、10時から一時間五十分の間のみ。しかも完全週休二日制」
「やっぱいろいろ有りますか」
 おっさんは空を見上げた。うす汚れた雲しかないのに。思いにふけるように。
「気づいていないんだ。一般人とかけ離れた生活をさせていることに。ま、入所者は彼らの対象、手段でしかないのだから、文句を言うなと言われればそれまでだけどね」
 先に来たからってわけではないんだろうが、おっさんはくだけた言い方をした。話したかったに違いない。
「手段っすか」
「そう。手段」
 営利でも非営利でも誰のために何をして報酬を得るか・・・・・・仕事の仕という字も事という字も、どっちも 『つかえる』 という意味があって誰の為にするかが・・・・・・
 説教は嫌いだから大筋しか理解できねえけど、おっさんの言うとおりかもしれない。
 自分が損しないかを見極めて、相手が谷底から這い上がれないことを確かめて、何某かのご利益が得られる保障を確信してから、初めて手を差し延べる。
 対象なんか何だっていいわけだ。いい人って見られて得して 「イイね!」 を貰えれば。
「言ってなかったかい? ここは他所のNPOとは違うって」
 おっさんも元ネットカフェ難民かホームレス。仕事も住む場所もない人間が飢えているのは食い物と会話だ。喋りたくて仕方ないっていうわけでもなさそうだけど、思ったことをつい口に出しちまう。俺と同じだ。
「言ってましたね。他はヒデエからウチに来いとか、ウチに来て正解だとか何とか」
「優越を口にするのって、恐ろしいことなんだけどね。良かれと思っての事でも」
「自信カジョーって言うんすよね。そういうの。勘違いヤローか」
「違いを主張することは区別するということ。差別や争いを生じさせかねない恐ろしさを秘めていると認識していれば、比べたりしないんだけどね」
 俺なんかより酷え目に合ったのかもしんねえ。このおっさん。
「何もいいこと、無さそうっすね。ここにいても」
「物的な面倒はよく見てくれる。いいところも有るさ」 
 いいところが無いわけじゃない。悪いことだけじゃない。そう言いてえんだ。たぶん。

「代表を待ってるの?」
 失望感が伝わったのだろう。おっさんが友だちみたいな口をきく。
「1時に待ってるように言われたんすけど、ご覧のとおりっす」
「もしかして福祉事務所に行くの? 保護費を受け取りに」
「ええ」
 おっさんの口の利き方など気にならなくなっていた。
「わたしは一人で行ったよ。わたしの支援に対する補助金だか助成金、平たく言えばすくい・たいの実入りが無くなるかもしれないけど、こっちにだって都合はある。相談員の付添いが必須というわけではないらしいし、子供扱いされる歳でも無いからね」
「って言うかゴミ扱いでしょ。福祉事務所はリサイクルセンターってとこかな」
「なるほど。君、なかなか面白いな」
 こんな人が相談員だったらいいのに。何となく、素直にそう思った。
「いっしょに行かないかい? 服うことなんてないよ。言われなかったかい? 権利は行使しろって」
 言われた。公園で保護されたとき。 「あんたらにも生活保護の世話にもなる気なんかねえ」 って(まく)し立てたら、冷静に 『――権利なんですよ。あなたの』 云々。
「でも子供じゃねえから」
「はははっ、こりゃ参った。失言だったね」
「俺、芝原。芝原豊っす」
 自分から名乗っていた。しかも笑いながら。



     (11)


「芳美さん」
 点滴スタンドを押してくるのは、瑠花さん。
「あら」
 流産の回復と同じくらいの速さで、AIDSも治ってくれたら――そんな途方もない事を考えてしまう。看護師失格だ。
「どう?」
 元気そうね、なんて言えない。元気に見えても。
「だいぶ楽になりました。大変ですね。お正月だっていうのに」
「進んで出てるの。お正月やお盆休みは」
 他人を気遣う余裕さえ出来てきたのだ。もう心配ないだろう。
 いや、病棟が閑散としているせい。患者さんが一時帰宅してるせいだ。 
「お雑煮食べたいなあ。初詣も行きたい。凧揚げはいいけど。そもそも場所がありませんものね」
 燥ぎすぎ。落ち着いてなどいない。感染が危惧される父親と芝原豊のことが気になってならなくて、気を紛らわそうとしているだけだ。
「デイルームにでも行ってみましょうか」
 こんな余裕をもって看護できたら、白衣の天使と呼ばれる日がまた来るかもしれない。
「でも看護師さん、少ないみたいだから」
「患者さんも少ないから、大丈夫よ」 
 正月とは言ってもデイルームは特別で、普段と変化のない風景が広がっていた。一時帰宅の許可の出ない患者と許可が下りても帰らない患者。帰れない患者。顔ぶれまでほとんど同じだ。
「ここの本ぜんーぶ、読破するのが目標なの」 点滴が抜けないように気をつけながら、両手を広げて言う瑠花さん。
 <絵本でも何でも、たくさん読み聞かせたいんです。この子に。> あの時とは状況が違う。どう応えればいいのだろう。長く看護師をつづけていても迷うことばかり。 
「豊さんと、お父さんのことなんだけど」
 本題に入る。 ――指示や約束事は的確にすること―― 新人の頃口酸っぱく言われた事も、二十年以上経てば身に着いていて当然。いまは指導する立場だ。
 はっきりと。でも傷つけないように。難しい。
「連絡を取ろうとしてみたの」
 (つぼみ)もない枝に、一気に花を咲かせたような笑顔。そんな顔しないで。
「でもね・・・・・・
 父親は携帯を解約したばかりか、アパートを引き払っていて居所不明。豊からは折り返しの連絡もなく、実家へ電話しても 「戻ってない」 「連絡が取れない」、 挙句の果てに 「縁を切った」 「そんな名前の子供はいないし知らない」。 支離滅裂な答えが返ってくるだけ。すべてが無駄足。徒労に終わった。
 行方不明者届の届け出は否、母親には訊いてくれるな。万策尽きた状況だ。
「ごめんなさい。勝手な真似をして」
「ううん。看護師としては放っておけないですもんね」
「看護師と、して?」
「だって」
 瑠花さんが嬉しそうに耳元に顔を寄せる。
「防ぎたいからでしょ。エイズの死者を。うふふ」
 どうしたの・・・・・・
 自暴自棄。いや。
 感染源ともいえる、父親に対する信頼と憎しみ。そして感染させた可能性のある、豊に対する罪悪感と愛。対極要素が混在し合うことで引き起される感情障害・・・・・・
「どうしたんです? 私何か、ヘンなこと言いました?」
 考えすぎ。思ったことを素直に口に出しただけ。誰にだってあること。
「瑠花さんの不安を取り除くことしか考えてなかった。お父さんと豊さんを救うことが瑠花さんのいちばんの願いだなんて、思ってもいなかった。看護師失格だわ」
「そうだったんですか」
 この感情の起伏。わざわざ言うことはなったのかもしれない。
 瑠花さんの心配は、父親と豊の精神的な弱さだ。とくに豊。瑠花さんの陽性結果を知っただけで翌日には部屋を出て行ったほどだ、自ら進んで検査を受けるとは思えない。
 あ。もし自分が陽性だと知ったら。豊は・・・・・・原因を追究しようとする?
 

 ――精神的に追い込まれた患者というのは、追い込んだ原因が何に在るか、誰にあるかを問う。そして自分の解釈で 「原因物質」 を特定すると解消法の検討に入る。
 確定した解消法を現実と認識して実行に移すか、非現実的と気づいてどまるか。それは幼少期から思春期にかけての生活環境で別れる――


 治療の効果が期待できない終末期患者の心理について。講義で教えるほどの事だろうかと思いながら、わたしは聞いた。
 要するに自暴自棄になった人間は、矛を収めるか矛先を誰かに向けるか予測困難。何をしでかすか分からないという話だ。
 父親はどうだろう。
 瑠花さんのAIDS発症を知った父親は原因を知ろうとする。そして原因に行き着いたとき。考えたくはないが、自分に矛先を向けかねない。
 豊はどうだ。
 瑠花さんに矛先を向けるだけでは収まらず父親を・・・・・・
「瑠花さん」
 もしかしたら瑠花さんは失望するかもしれない。でも間に合わせの希望を抱かせたところで満足するはずもない。
「このままでいいと思うの」
「このままって、このまま黙ってろって言うんですかっ」
「そうよ」
 相談室を活用すれば関連機関と連携し、すぐにでも検査を受けさせることができる――何度も言ってきたことだ。それを拒否してきた理由は芝原豊が父親を仇敵としかねないから。
 それぞれと生活していたのだ、二人が発症の経緯を共有せざるを得ない時が来ないとは言い切れない。もしその通りになれば、それは、感染源の特定を意味する。
 瑠花さんは初めからわかっていた。だから家族への連絡を拒んだのだ。頑ななまでに。
「ごめんなさいね。やっと気がついたわ。瑠花さんの気持ち」
 話してほしかった。でも話せなかった気持ちもわかる。 「二人を救いたい気持ちはわたしも同じよ。でもやっぱり・・・・・・」
「そうかもしれませんね。ううん、そうなんですよね。今のままなら心の傷だけですむんですから」 
 瑠花さんがカラーボックスのような書棚を覗き込む。 「まだ陽性って決まったわけでもないのに。精神衰弱になっちゃいそう」
「そうよ。決まったわけじゃないわ」
 四か月とは言え、瑠花さんは懸命に子供を育てた母親。瑠花さんの明るさは、お腹の子から譲り受けたもの。わたしはそう確信した。
「結局、祈るしかないんです。豊が自分から通院して、何かのきっかけで父が検査を受けるのを」
「そうね。わたしも祈るわ」
 祈りは必ず叶う。


      (12)


「ほうら。言ったとおりでしょ」
「早く来て正解ですね」
 扉の前にいるのは藤山のぶ代と大門千代。NPO法人すくい・たいの代表理事とナンバーツー。わたしに会うために、いや文句を言うためにわざわざ早く出勤したのだ。
「いつも留守にして、何をこそこそやってんのよ」
「救ってあげたのに感謝もしないで。 『ねえ~~』
 感謝はしている。この時期に外界で過ごしていたら死んでいたかもしれないのだから。それはそれとして、あんたたちが満足する感謝とは何だ。教えてくれ。 「行くところがあるんです」 
 反論せずに精いっぱい体を縮め、二人の脇をすり抜けようとした。氷のような二月の冷気に目と鼻の中が痛む。
「こんなに早くから毎朝毎朝、どこ行ってんのよ!」
「パチンコよ。どうせ」
 これだからあんたたちとは顔を合わせたくないのだ。すくい・たいに救われた生活困窮者の行くところはハローワークかパチンコ屋。すくい・たいの相談員たちは日本人の中でも特に、透視能力に秀でているようだ。
「不動産屋です。九時半に約束があるのでそこを通して、」
「どうしてそーなの!」
 大門の怒鳴り声が住宅街の道路を駆け抜ける。
「ウチのお抱え不動産で面倒見るって言ったでしょっ。忘れたの!?」
「言うとおりにしてればいいのよ! ったく」
 支配者――そんな言葉浮かぶ。前妻の実花だったら絞め殺していたかもしれない。もちろん実花はここまで酷くはない。
「ご面倒をお掛けするようで気が引けて」
「面倒を、掛けるぅ~う? 掛けてるじゃない。 『ねえ~~』
 クスクスクス。
 電話連絡は禁止。十時から十二時まではシェルターに缶詰。そんなルールに従っていたら物件探しも仕事探しもできやしない。叫びたいのはこっちの方だ。
「石井さん」
「おや」
「おはよう。優等生」
 芝原豊だ。まだ幼さの残る顔がみるみる険しくなる。
「手前え、バカにしてんのか!」
 言うのと同時に芝原くんは玄関扉に拳を打ちつけた。
「なにを言ってるの?」
「あなたは毎朝ちゃんと起きて、わたしたち相談員がくるのを待っていてくれるでしょ。だから優等生。馬鹿になんて、とんでもない」
 引きつった笑みで冷静に言う二人に、芝原くんはますます憤慨したようだ。
「バカかあんたらは。毎朝ちゃんと起きて職安やアパート探しに行く石井さんの方がよっぽど立派じゃねえか。それくれえの事もわかんねえで、何がすくい・たいだっ、何がNPO代表だ! 理事だ!」
「反抗?」
「残念だわ」
「そういう人だったのね。芝原くんって」
 さんが 「くん」 に。どこまで人を見下(みくだ)し馬鹿にする気だ。
「クリスチャンだか何だか知らないが、あんたがたは神様でも天使でもないんだぞ。勘違いするな」
 本音が漏れ出た。
「んまあ」
「神さまだなんて、」
 二人の前に芝原くんが立ちはだかる。 「行ってください、こんなバカどもに構わないで。さあ」
 芝原くんに助けられわたしはシェルターを後にした。ぜったいに決めてくる。転居先を。神から逃れるために。



     (13)


 不登校児サークル、 『くうくぅ』 での三時間は、欠かすことのできない時間になっていた。
 誰と話すわけではないけど、読書に没頭することも出来るし、考えたい事だけを冷静に考えられるのがいい。何もかも忘れて、 「無」 になる事だって出来る。空空。名前の由来のとおりに。
 それだけに気が重い。お姉ちゃんの傍にいたい気持ちは変わらない。だけど余りにも重い問題が蔓延(はびこ)る現実に戻ると、サークルで味わった幸福感より落胆が勝ってしまうから、(こた)える。
「そろそろだと思った」
「芳美さん」 
 隣りに並んだ芳美さんを見て、初めてバードハウスで会ったときの姿が浮かぶ。束ねた髪をおろしてすらっと伸びた足を隠す芳美さん。懐かしさを覚える。
「夜勤明けなの。会いるかなと思って」
 ショッピングモールと芳美さんは不釣り合い。やっぱり動物公園のほうが合うわ。そんな勝手なことを思っていると、
「ランチでもどう?」
 もっと想像できない姿が浮かんだ。 ――休憩室でおにぎりですませることがほとんどなの。
 私に気を遣っているのは明らかだ。
「おなかが鳴らないように必死だったんです。私もぺこぺこ」
 芳美さんも話があるに違いない。


「どう? サークルの方は」
 いつも相手を立てようとする芳美さん。きっと、本音で話したいのだ。
「そうですね・・・・・・
 なのに、どうして遠まわしに訊いたりするんですか? はっきりと、 「お母さんに流産とエイズのこと話した?」 って訊けばいいのに。
「いろいろあるわね。職場だっていろいろあるもの」
「無さすぎるほど何も無いんです。ただ、医学書? 最近あれにはまっちゃって」
「そう」
「お医者さんの言うことってほとんど理解できないから、知っとかなくちゃいけないと思って」
「ご家族のそういう姿勢って刺激になるのよ。奮い立つって言うのかな。よしやろうって、身が引き締まるの」
 いつでも気を遣ってくださる芳美さんは、私にとって唯一の慰め。せめてこうして、会っているときくらいは明るく在りたい。いろいろあるんだから。お互いに。
「病院も、いろいろあったりするんですか?」
「そうねえ・・・・・・Aランチでいいわね」
 表のショーケースで決めた和風ハンバーグを注文して、芳美さんはつづける。
「よく動いてくれる同僚といっしょだと気持ちが楽とか、明日の夜勤は仮眠のあとの動きが鈍い人といっしょだから気が重いとか。いろんな人がいるから仕方のないことなんだけど、患者さんの立場に立って考えられない人と同じ勤務の日は、一日憂鬱」
「芳美さんみたいな人ばかりだったらいいのに」
 病院に足を運ぶようになってから三か月。そんな看護師がいるようには見えない。でも芳美さんの気持ちはわかる。学校だって、サークルにだって、自分勝手な行動をとって周囲と協調できない人はいるのだから。
「あ」
「なあに?」
「いいえ何でも」 
 もしかしたら私も・・・・・・
 お姉ちゃんがAIDS患者であることを知られたら、フツウの人は罹らない病気だとかヘンな事をしたからだとか言われてもっと変な目で見られて、 「和を乱す人」 にされるかもしれない。
「真理愛さんも同じように見られてるわよ。あの子みたいな人ばかりだったら・・・・・・
 それならそれでいい。お姉ちゃんは何一つ悪いことはしていないのだから。愛したのは豊さんだけなんだから。
「どうか、した?」
 責任を追及する気はない。だけど感染の原因は、ほんとうに豊さんなのだろうか。
 もし豊さんが感染者だとしたらお姉ちゃんは、自分のことなど後回しにして引っ張ってでも病院に連れて行くに違いない。 「あの人の話しはしないで」 なんて言うこと自体が、あり得ないことなのだ。
「何ですか。感染の原因は。誰ですか」
 大きく見開かれた芳美さんの瞳が物語っていた。とうとう訊かれてしまった――。
「豊さんが原因だったら、お姉ちゃんは豊さんを放っておいたりしません。 『別れた』 なんて言うわけないんです。だらら豊さんが原因ではないんです」
 芳美さんに話すことじゃない。わかってる。でもお姉ちゃんが愛した人が誤解されたり偏った目で見られるのが悔しい。芳美さんがそんな人ではないと分かっていても。
「誰かを責めるつもりで言っているのではないんです。感染の原因がわかれば発症を防げることはできなくても、遅らせることはできるでしょ」 医学書で得た知識だ。
 サークルは私にとってAIDSとの戦いに備える場所。AIDSのことを知らなければお姉ちゃんを守ることができない。役に立てない。
「真理愛さんの言うとおりだと思う。でも話してはいけないって言うの。瑠花さん本人が。誰にも話さないでって」
 何より隠し事を嫌うお姉ちゃんらしくない。妹の私にまで隠す理由は、
 !
 原因を知ってるから!?
 お姉ちゃんは感染源の誰かをかばってる。お姉ちゃんが愛したのは豊さんだけ。考えられるのは、
 ・・・・・・・・・
 交通事故のときの、輸血?
 まさか。
「芳美さん」
 あれから十年。幼いお姉ちゃんに寄り添う、両親の姿が浮かぶ。
 ランチはすっかり冷めていた。私のせいで。



     (14)


 改札口を抜けた。さてどうしよう。都内でも江の島でも箱根でもどこにでも行ける。
 どこも同じか。異様な世界から抜け出せるのなら。
 <今は生保の方は喜ばれるんですよ。確実に福祉事務所から入金されますから。>
 カビだらけのゴキブリアパートに住むくらいなら外界の方がまし。わたしはふたたびホームレスになる決断をした。生活保護なんかどうだっていい。生活困窮何が悪い。今度こそ本気た。
 構内に流れる案内放送が箱根行きの電車の到着を告げた。三十年前の光景がよみがえる。急行電車に揺られながら三年間通った高校時代を。
 自由の身。だからどこへ行ったって構わない。それはそうなのだが、心のアルバムの大半を占める風景を懐郷したかった。
 だが小田原(おだわら)までは辿り着けない。新松田まで行き徒歩で富士の樹海を目指す――悪くない。財布を開いた瞬間、二つめの希望が絶たれた。伊勢原(いせはら)までが限界だ。
 この町を去れるのだ。それで十分じゃないか。 自分を納得させる。 「行っちまえよ。かばんの中にあるだろ。一万円札が」 これは結婚祝いを買うために残しておいた金。絶対に手をつけられない。
 ――瑠花の結婚祝い?
 ん? まあね。でも瑠花だけじゃない。真理愛の分のも。
 ――親バカ。中学生に結婚祝い買ってどうするのよ。
 いいじゃないか。我が子を愛してどこが悪い。
 ――ま、好きにすればいいわ。一応言っておくけど。樹海じゃ買えないわよ。結婚祝い。
 わたしは君とは違ってほら。振込用紙。通販さ。郵便局くらいどこにだってあるだろ?
 ――恐れ入ったわ。
 やっぱり伊勢原。富士だと思えばいっしょ。
 ――違うと思うけど。
 大山(おおやま)があるだろ、大山が。
 箱根ほど有名ではないのかもしれないが、 「身近な山と言えば?」 などという県民アンケートがあったとしたら、 「大山」 と即答する県民が大多数を占めるだろう。たぶん。
 それほど身近な存在であるが故に、わたしは四、五回しか登ったことがない。しかも中腹の阿夫利神社まで。ケーブルカーに乗って。だから麓から徒歩で山頂を目指すのは初めて。
 決めた。大山だ。

 <無理しない方がいいわよぉ――――なあに遭難することはないさぁ>

 軽口が災いしたのか、肝心なときに墓穴を掘る運命なのかは分からないが、伊勢原駅を降りて国道を横断した時にはすでに、軟骨のすり減った膝が歯ぎしりのような悲鳴をあげ始めた。ギシギシ。ギリッギリッ。
 もう郵便局を探す余裕は残っていない。実花がひと言、 「お願いだからやめて」 そう言ってくれたらすぐに止めていたのに。
 ――あら。私のせい?
 そんなこと言ってないだろ。
 ――ふん。
 <もう無理。引き返そうよ。> 歯ぎしりが嘆いている。
「あの山の頂まで頑張ってくれ」 膝コゾウを励まして見ないようにしていた前方に目だけを向けた。進行方向のなだらかな坂道が二手に分かれている。
 どうする。右足は右の道を選んだが、左足が地面を蹴ることを拒んだ。わたしは尻もちをつくように地面に崩れ落ちた。冷たさが全身を駆け抜け、わたしを立たせた。



     (15)


 北口のバスターミナルに十時。
 待ち合わせの十分前に着いたのは、彼を待たせたくはなかったからなのだが、
「やっぱり」 同じことを考えていたようだ。彼も。
「ずいぶん早いね」
 こちらに向けた艶のない顔が、コマ送りのように笑顔に変わる。
 お願いがあって――。抑揚のない電話の声は、ほんとうに彼なのか疑ったほど。ひと月前とはまるで違っていた。
「わざわざすんません、こっちです」
 <焦燥及び逃避傾向。思考障害 (二次妄想) の疑いアリ。精神科への通院を促すこと―― 『要するにあれだよ。自立支援制度で面倒見てもらえ。放っておけってこと。』> 自立支援相談員が聞いて呆れる。医者だって一度や二度話しただけで診断を下したりはしない。
「すんません。俺なんかの為に」 前を行く豊が言う。
 ――医者が家族を連れて来いって。頼める人間、他にいなくて。
 こういう時に支援するのが、すくい・たいの役目なんだよ。遠慮せずに彼らに・・・・・・とても言えなかった。連中を拒絶してる彼に。
「気にすることないさ」 休暇を取って来たんだから。
 <『マズイよ。緊急入院したってわけでもないのに付き添いだなんて。』>
 ケースワーカーは “人” を相手にする仕事。何が悪い。僕は放り出したりしないぞ。絶対に。
「それより疲れてるように見えるけど、大丈夫かい?」
 バスを待つ列の最後尾に並んでから訊いた。電話で話した時より声は明るい。だが、何だろう。生気を感じない。
「傍から見るほど楽じゃないっすよ。何もしねえのって」
 毎日ブラブラ遊んでるわけじゃねえんだ――低い声がそう言っているようだ。
 逃避傾向は、ホームレスやネット難民だった過去をもつ者には珍しいことではない。嫉妬、自己の過小評価、誇大妄想‥‥‥二次妄想にはあてはまるのはせいぜい被害妄想くらいだろうが、二か月に及ぶシェルター生活がプラスになっていないのは確か。明らかに疲弊し、苛立っている。
「聞いてます?」
「ごめん。ちょっと聞き取れなくて」
「何もしないのって傍目で見るほど楽じゃないって言ったんすよ」
 そのくらいの事で怒ってどうする。大人たちはそう言って自分の土俵に引っ張り込もうとするところだろうが、今の彼が尖るのは当然であり自然。
 何もしないのは疲れる。仕事をしている方が楽。無職の生保受給者からよく聞く言葉で、職員が嫌う言葉のひとつだが、僕には理解できる。目的もなく過ごす日々がどれほど辛いのかを。
「わかるよ」
 無言。怒気を含んだ嘲笑が地面に向けられる。わかりっこねえだろ。
「僕にはわかる」
 土色の顔が力なくこちらに向けられる。 「わかってたまるか」 と言いたいのだろうが、若さを失った淀んだ目には力が無く迫力に欠ける。
「自慢じゃないけど、僕は他の職員とは違うから。だからわかるんだ」
「どうなるんすかね」
 関心をよせてくれるかと思ったが別のことを口にする。それなら君の土俵に上がるだけだ。
「どうなるって?」
「石井さんの今後ですよ」
 石井睦夫の逃亡は予想外だった。
 <同じシェルターに入所する者同士、挨拶くらいはしてたみたいよ。> すくい・たいの相談員はそう言っていたが、二人はその程度の関係ではなかったようだ。
「何か言ってなかったかい? 君に」
「何かってなんすか」
「シェルターを出て行った理由とか」 概ねわかってるけど。
「言う人じゃありませんよ。そういう事」
 そう。言う人ではない。
 <何があったんだろうねえ。>
 <生活困窮者になった自分が赦せなかったんですよ。硬骨漢だから。>
 分かっているくせに何だ。失望して耐えられなくなったに決まってるじゃないか。
 市や県のアンバサダーを自称するすくい・たいは、実は自分たちが思っているほど、感謝されているわけでも尊ばれてるわけでもいない。その人望があれば、生活支援課に泣きついてくる入所者もいなければ逃亡者を出すこともなく、文句を捲し立てられて精神を病んでしまう職員が続出することも無いのだ。すくい・たいは本気で人を救いたいと思っている、
「聞いてます?」
「もし連絡が入ったら教えてくれないか。話がしたいんだ。支援課に連絡がくることはないだろうから」 職員のあんたに話すわけないだろ――目がそう言っている。
「自分で捜したらいいじゃないっすか」
 確かに。でも、 「ケースワーカーとしてではなくて、個人的に話したいんだ。話しというよりアドバイス。世間話かな。とにかく頼むよ」 どうせ説教だろ――。
 違う。
「実はね。僕はネットカフェ難民だったんだ。今の仕事に就く前。十日間だけだけど。だからと言うわけではないんだけど、とにかく放っておけないんだよ」
 無反応。と言うより無視。支援課の人間であれば精神障害を疑うところだろうが問題ない。ふつうの反応だ。
「ちなみに僕は、生活支援課の中で数少ない民間人。請負で見つけた仕事なんだ。この仕事は」
「ネット難民じゃなれないっしょ。地方公務員」
 話は聞いてくれていたようだ。 「そりゃそうだ」
「んで、どうっすか。いまの仕事」
 驚いた。確かに感情の起伏が激しいところはあるにはある。だけど人の心配をするくらいだ、異常でも何でもない。見た目とわずかな会話で精神疾患を疑う奴の方が異常なのだ。
「非正規のくせにっていう目で見られることも多くて、やりにくさを感じることも少なくないけど、結構合ってると思う。受給者の方が自立した時って本当に嬉しくてね、その度に教えられた気になる。仕事は誰の為に何をするかが一番大事だってことをね」
「どこかで聞いたな。その、誰の為に何するかが大事だとかいう話」
「覚えてることが大事なんだよ」
「このバスっす」
 空いていた最後尾の席に肩を並べた。
「すくい・たいの奴らに言ってやったんすよ。 『信者なら信者らしくしたらどうだ』 って。したら何て答えたと思います?」
「わからないなあ」
 何を言い返しても不思議はない。だから分からない。君が人が変わったように話し出したこともわからないが。
「『信者は義人じゃないから』 っすよ。オイオイって感じっしょ。知ってます? <義人はいない> とかいう聖書の言葉。元カノから聞いて知ってただけにメチャメチャ頭きて、 『オメエらみてえな奴に勧誘されたって誰もキリスト教なんか信じねえぞ』。 断罪っすよ」
 義人はいない。短い言葉に威力を感じる。それだけに、
「ガッカリだな。色んな意味で。確かに苦情はあるんだ。勧誘まがいのことは止めさせろって」
「失望させるだけっすよ、あれじゃ。キリスト教が正しいとしたって。俺らをゴミ箱から拾ったリサイクル品としか思ってねえし」
 彼らにも志はあるんだ――とても言えない。昔あったとしても。 「みんながみんなそうじゃ、」
「ったく石井さんの言うとおりだ」
 <神様でも天使でもないんだ。勘違いするな。>
「そんな事言ったのか。よほど腹が立ったんだろうな」
「自立したからって手放しで喜べるわけじゃねえしシェルターは刑務所。んならさっさとズラかって・・・・・・
 似てるなあ。石井さん。僕と。
「話し聞かないっすね。江藤さんって」



「僕でいいのかな。すくい・たいの方がやることなんだけど」
 距離が縮まった今なら何でも話せる気がする。
「あいつらに頼むくらいならガンの告知でも余命宣告でもすっぽかしますよ」
 本来であれば家族かすくい・たいがつき添うべきで、最も信頼する石井さんを頼れない今僕が選ばれた。運命。そんな言葉が浮かぶ。
「マジ申し訳ないっす」
「だから気にしなくていいって。嫌なら断ってるから」
 待合室だからというわけではないだろう。声も体も小さく感じるのは。
「バクバクしてきましたよ」
 笑みを浮かべてはいるが、震えが長いすから伝わってくる。
 どうして饒舌だったのか分かった。怖かったのだ。ずっと。
 芝原豊はネットカフェに行く金も底をつき駅の近くに公園にいるところを、すくい・たいの夜間パトロール部隊、サースデイ夜警団に保護された。その時の彼の印象は、 「犯罪者になる寸前。何をしでかすか分からない。 (だから保護するのをやめようと思った)」 と聞いている。すくい・たいはその印象を固定化させてしまった。だから芝原くんは苦しむ。いたいけなこの目をしっかり見て、本気で救いたいと思ってくれたら、反感を抱くことはなかったのかもしれない。
「言わないよな・・・・・」
「ん?」 揺れる心が伝わる。
「誰かを連れてこいなんて。ふつう・・・・・・言わないよ。ぜったい。 
 ひとり言みたいで聞き取れない。 「ごめん、何だい?」
「石井さん。どうしてるんでしょうね」
「ああ。彼なら大丈夫。前を向いてがんばってるさ。もともと彼は、」
 芝原くん。
 泣いていた。黄色い目を赤くして。



     (16)


 妊娠と流産。そしてAIDS。出産の知らせならまだしも、中学生の女の子が話せることじゃないわ・・・・・・
「お姉ちゃんが喜ぶことより、お姉ちゃんのためになることを考えてみたんです」
 涙を浮かべて頷いてくれた芳美さんを見て、決心することができた。
 HIVとかAIDS患者だからという偏見が、判断を狂わせていたのだ。

 すべてを話し終えたあと、母は思っていたような反応を示さなかった。
「んもう。早く言いなさいよ」
 どうして取りこんでくれないの? せっかく乾いたのにビショビショじゃない――洗濯物を取りこまなかった時と同じだった。
 反応に不満はあったけどやっぱり母親。翌日には会社に長期休暇を申し出て、こうして病院に来てしまうのだから。
「加藤芳美さん。お姉ちゃんを担当してくださってる看護師さんよ」
 芳美さんが一瞬戸惑った表情になる。母がくることは予め伝えたのに。
「お母さまも念のために検査を」
「結構です」
 それどころではないと言うより、必要ない。突き放す言い方だ。
「それよりどうなんですか。瑠花の状態は」
「少し戸惑っているようです。お母さまにご心配を掛けない形での療養を望んでいたいましたから」
 芳美さんの心づかいが伝わる。 「ご両親には知られたくないって。混乱してるわ。」 電話で言っていたのがお姉ちゃんの本心。 「真理愛さん一人では抱えられない問題だもの」 私への労いは(あわれ)みのあらわれ。
 お姉ちゃんのことを第一に思いながらも、母との間に立たなければならない芳美さんの労苦を、私は考えなかった。ただ要求するだけだった。
 だから考えた。精いっぱい。傷が深くならないように。
 <身寄りがないと思えば同じでしょ。血の繋がりなんて関係ない。絶対話しちゃ駄目よ。>
 裏切ったことになるのだろうか。お姉ちゃんを。
「会わないと言っても会います!」
 目の前の母が別人に見えた。


「ごめんね。ほんとうにごめんなさい」
 母は病室入るなり言った。
「あんたに謝られたって」
 あとの言葉がつづかないお姉ちゃん。私も同じ気持ち。何に対して謝っているのか分からない。
「お母さんが悪いの。あなたをこんな目に合わてしまったのはお母さん。お母さんのせい」
 もしかして、
「あんたが、原因?」 
 お母さんがお父さんに感染させた? お父さんではなくて。
「ぜんぶ話すわ。真理愛も聞いて」
「いや」
 過去のことなんてどうだっていい。
「今更何を話そうって言うのよ」 お姉ちゃんも同じ気持ちだ。
「聞きたくなくても聞くのっ」
 芳美さんが強い口調で諫めた。耳を塞いでいては駄目。見て見ぬ振りをする人生を歩んではいけない。そんな意思が伝わる。
「わたしとお父さんが、愛し合って結婚したのは事実」
 そりゃもうすごいモテようでな。マドンナって呼ばれてたんだぞ。母さんは――猛アタックの末実を結んだ恋愛談は、お父さんの数少ない自慢のひとつ。よく聞かされたものだ。
「でも初めて授かった赤ちゃん、あなたたちのお兄さんを流産してから、溝みたいなものができてしまったの。お父さんとの間に」
 しっかりと受け止めてね――。こんなに優しい顔の母は見たことが無い。
「お母さん以上にショックを受けたお父さんは、自分を責めていたんだと思う。もともと弱い人だから。お父さんの気持ちを理解できなかったお母さんが、」
「それが何だって言うの? どうしてあんたが謝んのよ」
 そっと席を外そうとする芳美さんを、お姉ちゃんが引きとめる。私たちにとって芳美さんは、欠かすことのできない存在。いっしょに受け止めてほしい気持ちは私も同じ。
「お父さんを支えられなかったから。結婚というのは、自制できない者同士がお互いに支え合って、高め合うためにするものなのよ」
「また聖書の受け売り。ウンザリ」
 お姉ちゃんも私もよく言われた。 「いい名前ね」、って。でも、シューキョーとかシンジャとかアーメンとか呼ばれてイジメのネタにされたのも事実。母との間に微妙な距離感を覚えながら、私たちは育った。そして、母だけにしかわからない信仰心が家族間に歪みを生み、崩壊に至らしめたのだ。
「落ち着いて。お願いだから」
 子供をたしなめるような言い方に、母の覚悟が伝わる。
「お姉ちゃん」
 お姉ちゃんは窓の外に顔を向けたままだ。
「芳美さん」
 芳美さんは直感で、或いは長い人生経験で、重大な告白であることを感じ取ったようだ。
「お母さんの支えをなくしたお父さんはね。他の女の人に、救いを求めたの」
 え。 
「愛人が、いた?」
お姉ちゃんの顔が、母の子の顔に戻った。
「子どもがいるの。その子がAIDSかもしれないと思うと気が気ではなくて」


「少し見直しちゃった」
 お姉ちゃんが穏やかに言う。母を連れ出してくれた、芳美さんのおかげだ。
「見直した?」
「お母さんのこと」
 久し振りだった。お姉ちゃんの口から、 「お母さん」 という言葉を聞いたのは。あら。
 おなかを撫でるのが癖になったみたい。愛おし気な目をして。
「愛人の子のことなんて心配しないし、出来ないわよ。ふつう」 
「ふつうじゃないもん。お母さんは」
 お姉ちゃんがにっこりする。 「子供ね」 っていうように。
「それに言えないわよ。 『お父さんを責めないでね』 なんて。ふつう」
 また、ふつう。
「だから見直した? 責めるのがふつうよ。責めてくれたほうが私は嬉しい」
 女のことはどうでもよかった。弱い者が傷つく構図みたいなものと、傷つける立場、強者側に立ったお父さんが私は赦せない。
「真理愛はどう? 気にならない?」
「何が?」
 それじゃ分からないし気になるも何も無い。私には混乱しかない。
「お兄さんのことよ」 ああ。 『兄』 のことが気になるらしい。
 私だって気になる。どんな人生を歩んだか。歩んでいるのか。
「憧れたなあ。お兄さん。ほしいと思ったこと、あるでしょ?」
「無いことは無いけど」 
 姉のいる私と兄姉のいないお姉ちゃんとでは、憧れの意味が違うと思う。
 私が抱く憧れは、 「お兄ちゃんがいたらいいなあ」。 絶対に叶わないとわかっている上での憧れ。
 お姉ちゃんの憧れは、 「妹のつぎはお兄ちゃん」。 一人っ子だったときの憧れと同じなんだと思う。
「会いたく、ない?」
「会いたいの?」
 首まで布団をあげて、恥ずかしそうに頷く。こっくり。 <うん>
「だって、お兄さんよ」
 夢が叶うのよ。そう言っているかのよう。お姉ちゃんのなかでは生きていて当然なのだ。お兄さんは。
 会わせてあげたい。二人に死を近づけたくない。 「信じていれば会えるわ。きっと」 ううん。絶対に。
 希望が死を遠ざける。私はそう信じる。これからずっと。
「何だかあれね。愛の、結晶なのかもしれないね。HIVって」
 HIVが 「愛の結晶!?」 考えられない。
 体内に宿るもの、だから愛おしいのだろうか。わからない。
 でもエイズを受け入れ、お父さんの罪を赦すことが出来たのはお姉ちゃんが、 『母親』 であったからに違いない。そうさせたのはお腹のなかのあの子。
 命の重さと尊さを教えてくれたあの子の一生、あの子の人生は、決して無駄ではなかったのだ。
「まだ早かったのかな。子供を産むの」
「どうしてそんなこと」
「お母さんみたいに考えられないもん。ちゃんとした大人から生まれたかったのよ。だから、」
「そんなこと言わないでっ。赤ちゃんが可哀そうだよ」
 ・・・・・・・・・
「幸せだったんだよ。お姉ちゃんのお腹の中にいられて。お母さんといっしょに過ごすことができて幸せだったの!」 
 泣かせるようなこと、言わせないで。
「そうだったらいいけど」
「そうなの絶対にそう。そうじゃなかったらがんばって生きようとしてない・・・・・・
 お姉ちゃん?
「お姉ちゃん!
 誰か! 誰か来てぇっ!」
 



     (17) 


 雨降山とはよく言ったものだ。山の1/3以上を隠す厚い雲の向こうに雪の存在を認めたわたしは、大山登頂を断念し、宮ケ瀬(みやがせ)湖を目指すことにした。ダムが完成する前に、家族で訪れたことを思い出したからだ。
 進むというより這うのと大差ない速度で、大山のたぶん、1/4もない標高にある湖に着いたわたしは、大山登頂の比ではない達成感を味わった。 「はああ~」
こんなになっちまって。
 車であれば10分で着くところを三十倍ほどの時間を費やしただけに、落胆は達成感の比ではない。
「いい加減にしてくれ」
 口から漏れる言葉はいつもの独話ではない。莫大な金と犠牲と破壊によって造られた観光地は模型にしか見えない。自然にお邪魔する憩いの場――以前の面影は消え命の息吹きが感じられない。
 ――嘆くことかしら。 
 ん? 悲しくないのか君は。
 ――どうしてよ。自然を壊して作ったから?
 かなり簡約すればそういうこと。
 ダムは必要。道路も整備しなければ。ならば観光客がくるようにしないと。収益も見込めますしね。雇用も確保できるぞ。ホクホクですな。
 うまくいけば。
 ――それで、どうして悲しいの。
 うまく言えないな。とにかくおかしいだろ。
 ――おかしいから悲しい。わからないわ。
「だからうまく言えないって言ってるじゃないか」
 ――成長した姿だと思えばいいじゃない。子供たちのように。
 そんなこと思えるわけ無いだろ。嘆けよ。申し訳なさそうに土産物屋があるだけだったのに残念だって。
 期待が失望に変わったと思ったら膝の痛みがぶり返してきた。伊勢原駅までの電車賃を払ったせいで瀟洒なカフェで休むこともできない。腹は悲鳴を上げる元気さえないからどうでもいいのだが、缶コーヒーくらいは流し込んでおくか。気分を変えるためにも。
 バス停に並ぶ客のように列をなす自販機は、信じられないことにどれも定価売り。スペシャルプライスでないコーヒーを買う勇気も金も持ち合わせていない。
 <一万円があるだろ。好きなだけ飲んで暖ったまれよ。>
 この金は使うわけにはいかない。
 無一文だと思え。外界でそうしたように。
 ――そうした、って戻ったんじゃなかったけ? 外界生活に。
 そうわたしは帰って来たのだ。聖なる外界に。よしっ歩こう。
 膝痛の悪化と引き換えにわたしは、寒さを凌ぐ道を選んだ。気分を紛らわすためにも。


 なんだこここは。
 落下防止用の馬鹿高いフェンスのおかげで、橋からの眺望が台無しだ。これでは虹も見えまい。そうか。
 ロードバイクに乗った男が声を掛けてきた理由が分かった。 <こんにちは。>
 投身だか入水だかは知らないが、自殺防止のためだ。このフェンスは。
 なぜか入浴施設の高齢者たちの姿が浮かぶ。 「おいでよ」 湖面から手招きしている。 「わたしは徒党を組む趣味はないんでね。あんた方のように」 
 無理やり前方の坂道に視線を向けると、悲鳴を上げていた膝が勝手にわたしを牽引し始めた。前へ前へ。強引に。
「プッ、ププッ」
「なんだよ」 通行の邪魔なんかしてないぞ。
 ――あれじゃない?
 あれ? 対向車線側のガードレールに立て掛けれた看板に目を向ける。

   【あなたを待ってる人がいる】

 ? どこかで聞いたような。
 ――ふ~むむ、旅だち ♪ 
 著作権侵害で訴えられるぞ。それに、 「おいでよ」 こっちに。
 誰も来なくなるぞ。
 お。
 ――あそこからは下り。という事は、 
 登頂したってことさ。ここが山だとすれば。でもこれからが試練の始まり。慎重に下らないと膝がぶっ壊れて足が上がらなくなる。 「ああっ!」
 ――ふふふ。また始まった。今度は何?
 大事なことに気づいた。わたしの目的は宮ケ瀬に行くこと (に変更した)。 その先のことまで考えてはいない。
 いや待て。初めの目的は富士の樹海に行くことだった。自分から死ぬ気はないが、あわよくば果てられたら。そんな希望を抱いて。
 恐らくこの坂を下れば中央自動車道沿いの国道に出るはず。西に行けば山梨。樹海に行くことは可能。だが膝がもたないしバスや電車に乗る金がない。運よくヒッチハイクで車を拾えたとしても行き先を告げれば同乗許可が出る可能性は限りなくゼロ。
 ――帰れば? 待っている人がいるんだから。
 居ないよ。誰も。
 はあぁ。
 ため息はやめてくれ。気が滅入るじゃないか。
 ――自分でしょ。人のせいにしないで。
「おい!」
 表示看板が中空に浮かんでいる。 


     <<――― XX市  ―――>>


 市町村合併。ここも市にのみ込まれたのか。二度とこないと誓ったのに。
 ――あなたが言ってるのは、15キロも、20キロも離れた町のことでしょ。さ、行きましょ。
 やだ。誰か救ってくれ。



     
「ダメ! そっちに行かないのっ!」
「ん?」
 子供を引きずる若い母親。
 早く来るの。早くっ!
 ――ブツブツ言ってるからよ。
「悪いことをしているわけでも迷惑を掛けてるわけでもないのに。変わったな、世の中」
 ――ブツブツ言う人も見掛けなかったし。
 感性をフル回転させて夢物語を創作する必要もなかったからね。昔は。自然にしてればふつうに夢を見られる時代だった。
 ――わざわざ合わせること無いんじゃない?
 <あなたとは違うんです。また社会のせいにして。立場を弁えなさいよ。こんなに親身になってるのにどうしてそうなのっ。権利を主張しないでどうすんのよ。> 権利は得するためにある。
 すくい、たい。か・・・・・・
 期待し過ぎていたのかもしれないな。わたしは。
 ――そうよ。期待することなんてないの。疲れるだけなんだから。
 ん? 期待しろって、言ってなかったか?
 ――それはあれよ。神さまに期待しなさいってこと。人間にではなく。
 すべてに期待しなさいとか何とか聞いたような覚えが、
 ――いいの。あなたの場合は。
 あ、そう。
 そうは言っても、黄色信号に怯えて、赤で止められ肩を落として、青になるのがもどかしくてイライラ。いちいち信号に従うやつはバカ。おかしなもんだよ、まったく。
 ――またこだわってる。フツーに。あなたらしく。あなたの今までの人生、無駄にしないで。
 オーケー、もう期待しないしこだわらない。樹海行きはやめだ。人生も。四十五年も生きれば十分さ。
 ・・・・・・・・・重い話題のときには現れないんだな。
 やり残したことは無かっただろうか。外界生活を始めた時点で何もかも捨てたのだ。何もあるわけ、
「あるよ」
 手帳に挟んだテレカ、テレホンカードを取り出した。 「おお」
 公衆電話。何という幸運。でも 『空』 じゃないだろうな。
 暖をとった街外れの電話ボックスは電話機本体がないおかげで居心地がよかったが、PHS携帯をやめた今は事情が違う。 「頼む」
 やった。テレカ使用可。赤ランプも点いてる。 「よし」
 最後の最後に運が恵ってきたたようだ。震える手で手帳を開いてダイヤルボタンを叩く。 「つながれ、つながってくれ」
 ツー、ツー、ツー、・・・・・・
「クソッ」
 ――もう一度よ。
「わかってる」
 トゥル、 「おう」
 ――つながった。
 トゥルル、トゥルル、 「頼む出てくれ」
 トゥルル、 トゥルル、
 ――出なさい真理愛。
 トゥルッ、 「□~<◇~<```><``>~>◇>□」
「真理愛か。お父、
「早く来てっ!」
「どうした」
「どうしたじゃない! お姉ちゃんが、お姉ちゃんが大変なの! 早くっ! 早く来てぇ!」



     (18)


 <――HIVの増殖。リンパ節腫大。それに発疹がみられ、現在CD4抗原が減少している状況からみると・・・・・・・>
「HIV感染症と診断されただけで、指標疾患の発症は診られないって、」
「いいっすよ、慰めてくれなくたって」
 顔色は冴えないとは言え、自覚症状はない。無症候キャリア期に入った表れだと医師は言うが、

 今後AIDS関連症候群期に移行し、日和見(ひよりみ)感染症の症状が顕著に発現するでしょう。
「それから、どうなるんすか」
 悪性リンパ腫などのAIDS指標疾患を患う、可能性があります。
「可能性って、患ったから何だっつうんだ。どうだってんだ、ハッキリ言えよ!」
 AIDS指標疾患が認められた場合、後天性免疫不全症候群。つまり、AIDSの確定診断が・・・・・・
 
「来てもらって、よかったです」
「いやあ」
 とっくに分かってた。そりゃ怖えっしょ。医者からエイズだなんて言われたらさ。誰だって。
「何て言ったらいいんだろう。力になれることは何だってする。だから、」
「別に落ち込んじゃいませんよ俺。昔はヤバい病気って言われてたけど、今は誰も騒いでないしほら、特効薬。じゃねえか。効果的な? 薬も開発されたとか言ってたし」
 やっぱり瑠花だ。他に女は知らねえし。疑いようがねえ。 
「これからの事なんだけど」
 これから?
 そうこれからだったんだ。俺と瑠花と生まれてくる子供の人生は。誰が瑠花にうつしやがったんだ。俺たちの人生を狂わせたヤツは誰だ。
「ゆっくり、考えさせて貰っていいっすか。ゆっくりもしていられないんだろうけど」
「それは、そうだね。焦ることはないんだから」
「焦ったところで先が見えてますからね。すぐそこに」
「芝原くん」
「心配しなくて大丈夫っす」
 <真理愛さんも大変ね。中学生なのにつきっきりで――
 ?
 マリア?
 <唯一の姉妹だもん。支えたいのよ、瑠花さんのことを――
 ルカ、瑠花がここにいるのかっ。
「おい! ちょっと待て!」 
「芝原くん」
 エレベーターの扉が閉まる。
「どうした、何かあったのか。おい!」
 クソッ。階段も駆け上れなくなっちまったか。
「どうした、何があったんだ」 上がらない足を必死に運ぶ姿が痛々しい。
「さっきの看護婦、エレベーターに乗った看護婦だ、つかまえてくれ!」
「さっきの、二人をかい」
「頼む!」
 


     (19)


「石井瑠花はどこだ! どこにいる!」
「そ、そんなこと、教えられません」
「俺は瑠花の、夫だ! 教えろっ、教えろぉ!」
 <ウチに来る前はネット難民。その前は女と同棲。どうせ捨てられたのよ。愛想つかされて。>
 本当にそうか? もしかして芝原くんは、DV加害者。いや考えられない。
「ご主人なら知っている筈です、お帰りください」
「警備の者を呼びますよっ」
 これだけの規模の病院でイシイルカ、名前を知っているのだ。担当患者に違いない。 「君は何の用があってそのルカさんに、」
「うるせえ! 俺だ瑠花っ、 出てこい瑠花!」
 入口のネームプレートさえ見ようともせずに病室の扉を開けて叫ぶ。 「出てこい瑠花っ」
「芝原くん!」
 誰か来て! そいつを捕まえろ! 警備員、いや警察だ警察を呼べ! 患者の安全を――病棟が悲鳴につつまれる。
「瑠花っ!」
 ! あれは瑠花の携帯で見た――

「真理愛さん入って! 早く!」
 芳美が病室に押し込む。

「おい!」
 豊が真理愛を認めるのと、芳美が叫ぶのは同時だった。
 


 一万円札が消えたら財布が軽くなった気がする。タクシー代の残りで買えるは、カップラーメンとおにぎり二個がせいぜい。瑠花の身に何が起きたのかは分からないが、これでは花束も買えない。
 そんな事よりあの真理愛の慌てよう。いったい何があったというんだ。
 チーン――
 ん?
「何かあっ、」
「降りるな!」
「娘に会いに来たんだ。通してくれ」
「ダメだ! エレベーターから降りるな!」
 それが見舞客に向かって言う言葉か。
「――いるのは分かってるんだ! ここを開けろ瑠花!
 ? 瑠花?

 芳美と真理愛が必死にドアを押さえる。
「しっかり押さえて! 絶対に入れちゃダメ!」

「――やめろ! 何があったという、
「――うるせえ! 俺は被害者だどけっ!
 被害者?
「――開けろ瑠花!
 瑠花!?
「どけ!」 職員を突き飛ばし石井が走り出す。
 誰だっわたしの娘に。
 ――落ち着け!
 ――このまま死ぬわけにはいかねえだよっ!
 だったら何だ。お前みたいな凶暴なヤツに瑠花を、
「こんな状態の君を会わせるわけには、
「話しがあるだけだっ!
「貴様!わたしの娘に、」
 あっ、
「え?」
「石井さん」 豊を羽交い締めにしていた江藤の力が抜ける。
「芝原くん、きみ‥‥‥。江藤さんまで」
「もしかして、石井さんが瑠花の・・・・・・」
「君が瑠花の、(結婚) 相手だったのか」
 廊下を覗き見ていた者の目が病室に隠れる。
「いったん落ち着いて話しませんか。違う場所で」
 啞然とする二人に江藤は言った。
「娘の容態がよくないようなんだ。わたしは会うよ」
「俺も」
 これだけの騒ぎを起こした上にたった今大病を告げられたばかり、 「君は待っているんだ」 会わせるわけにはいかない。
「わたしが話す。芝原くんが来てくれたことも。少しだけ時間をくれないか」
 石井さんは、芝原くんの病気はもちろん瑠花の病気のことも知るまい。僕のことも。 「わかりました」
「でも俺、どうしても確かめたいことがあるんすよ」
「話が終わってからだ」 石井は言い放ちドアに顔を寄せる。
「父さんだ。開けてくれ。もう大丈夫だから」
 1、2、3、4、5、6、重いドアがゆっくりと滑る。
「お父さん!」
 娘に抱きつかれたのは、いつ以来だろう。
 そんな感慨に浸れたのは束の間だった。真理愛のからだを引き離して笑顔で声を掛ける。 「怖かったな」
 ホームレスに逆戻りして五日目。昨日お清めのつもりでシャワーを浴びたとはいえ、 <パパくちゃい。> 昔のトラウマが再現されるのだけは避けたかった。この期に及んで。
「瑠花」
 酸素マスクをあてがった瑠花の表情は穏やかにさえ見える。だが血の気の引いた黄色い顔が、真理愛の慌てようを物語っていた。
「瑠花は」
 看護師が言う。 「一過性の呼吸不全で、酸素吸入とお薬で、様子をみているところです」
 どこかで会ったような。瑠花の交通事故の時にいた看護師だろうか。 「何が原因でその、呼吸不全に」
 芳美が真理愛を見る。話していいの?
 真理愛が頷き、芳美は話し始める。
「瑠花さんはHIVに感染し徐々に免疫力が低下してゆき、カリニ肺炎という重い日和見感染・・・・・・
「――帰りなさい!
「――今さら母親ヅラしてんじゃねえよ
 扉の向こうで芝原と言い争うのはほかでもない、実花だ。
「娘を見捨てるような人に会わせるわけにはいきません!」
 瑠花の傍らに膝をついて真理愛は言った。 「お姉ちゃん。お母さんが守ってくれてるよ」
「何も知んねえくせに勝手なこと言ってんじゃねえよっ」
 扉に向かおうとする真理愛を石井が引き留める。 「待っていなさい、
「芝原くんっ!」
「あなたっ」 
 目を剥く実花に向かって頷き、
「時間をくれと言っただろ?」 豊を諭す。
「さあ来るんだ」 「誰にうつされた!」
 江藤を突き放して豊が叫ぶ。
 うつされた? 
「何の話だ」
 やっぱり。石井さんは自分がキャリアだということを知らない。 「石井さん入って。あとは僕が、」
「出てこい瑠花っ!」

 扉を蹴り上げる音。恐怖で声も上げられない。
 芳美さんが強張った顔を向け立ち上がる。 「大丈夫よ」

「相手は誰だ! 言えないのか!」
「いい加減にしないか!」
「誰でもないの!」
 扉を開けた芳美が言い切る。
「原因は血液製剤、誰のせいでもないの!」
 陽性結果、HIV、感染症告知――なんで俺まで、 「誰かもわからないほどの男とお前は」
 人の言葉も耳に入らないのか。どうかしてる。コイツは。
「ちがう! 私よ、私が瑠花にうつしたの!」 豊の動きが止まる。
 何を言っているんだ、 「実花!」 そんなデタラメを、
「このヤロー」
 矛先が実花に変わった。
「やめろ!」 壁に打ちつけられた江藤が叫ぶのと同時に、
「やめろ芝原!」 石井が腕を捩じ上げナイフを奪う。
 コイツが生きている限り瑠花も実花も一生狙われる俺が家族を守る。コイツを殺して俺も、
「死んでくれ芝原」 「ダメだ!」
 肉塊をえぐる感触。これでいい、
 ! おい、
 ・・・・・・・・・え、江藤くん
 腹部から湧き出す血が滾るマグマだ。
「ウォオーッ」
 けたたましい靴音が遠のき、石井の腕と固く握られたナイフから血が滴り落ちる。
 江藤の口が、力なく開く。 「やっと、会えましたね」
「どうして」
「喋らないで!」
 江藤の傍らに滑り込んだ芳美が腹にタオルをあてがう。
「ダメだ、やめろ」
 鮮血が顔面と上肢に飛び散り白衣を血色に染めていく。
「か、かんせん、する」
「喋っちゃだめ!」
「や、やめろ。ぼ、ぼくはエイズだ」
 芳美が一瞬動きを止め、
「関係ありません!」 いっそう腕に力をこめた。
「気に、しないで」
 血の気の引いた笑顔が、本心を伝えようとしているのがわかった。
「ぼくで、よかったんです」
「喋るな、頼むから喋らないでくれ」
「ずっと、会いたかった」
 江藤が懸命に腕を伸ばす。
「会えて、よかった」 母が愛したあなたと。
「わたしもだ。君に会えたことは人生の宝だ」
「頼み、ますね」 瑠花のことを。僕の、妹を。
 どいて!
「おとう、さん・・・・・・
 
 看護師に突き飛ばされた気がする。
 無理やり立たされて、手錠をつけられて、両腕を抱えられてそれから・・・・・・サイレンがうるさかったな。



     (20)


 国選弁護人は心神耗弱を理由に無罪を主張し、検察と裁判員は 「反省の態度が見られない」 と決めつけ無期懲役を求刑した。
 無気力な態度に腹が立つのは分からなくもないが、数回見ただけで人物像まで特定してしまうのだから呆れる。ワイドショーは更に酷いかった (らしい)。会った記憶のない元親友を引っ張り出して、三十年以上も前の絶対に事実でないエピソードを作り上げ、事件とは無関係の元家族まで糾弾する始末。無気力にならない方がおかしい。
 塀の中は快適とは言い難い。かと言って、居心地が悪いというわけではない。
 毎日屋根の下で暮らせるうえに食い物の心配はなく、風呂に入って湯船にだって浸かれる。刑務所特有の規律に愚痴をこぼすのは贅沢というもので、外界生活者からすれば、不満や不自由どこにある。訊きたいほどだ。
 あ痛っ、
 河川敷のトゲの木で何べんやったっけな。
 刑務作業は何よりの楽しみ。生き甲斐のようなもの。生まれ変わったら大工に。とまでは思わないが、外界生活に生かせる技術や知識が意外に詰まっていたりする。
「頼んまーす」
「大丈夫ですよ。じっちゃん」
 じっちゃんは刑務所一の古参にして高齢者。工具の使い方から木材の特徴まで、家具製作のノウハウだけでなく、何かと面倒をみてくれて気を遣ってくれる。
「遠慮するな。お前さんの悪い癖だぞ」
 刑が執行されてもされなくても、じっちゃんにとって刑務所は終の棲家。なのにどうしてフツウでいられのだろう。
「どうした」
「彼が指を」
 肩をぽんと叩いて、じっちゃんが離れていく。 「ありがとう。じっちゃん」 忘れないよ。
「見せてみろ」
 ここには心が溢れてる。贅沢だとまでは言えないが、幸せだと思うことは結構多い。
「木片が刺さっただけですから」 意外に深手のようで、手ぬぐいが赤黒く染まっていく。
「医務室に連れてけ」
 この程度のケガでもすぐに診て貰えるのだ。世間よりよほど温かくて人情深い。

 なるほど。
 噂には聞いていたが噂どおり。木造建築時代の学校の保健室。ノスタルジーに浸れそうなところだ。
「どうされました?」
「え」
 驚いた。必死に江藤くんを救おうとした、あの時の、あの看護師だ。
「どうしてあなたが」
「偶然です」
 偶然? 大学病院から刑務所の看護師になるのが偶然か?
 それにしても、どこかで会っている筈なのだが・・・・・・仕事関係なら絶対に忘れないし、そもそも看護師と会う機会は皆無。瑠花の交通事故の時だろうか。十年ほど前の。
 違うな。記憶にあるのは瑠花がチョコレートパフェをねだった事くらいで、印象に残る看護師がいた覚えはない。だとすれば学生時代だ。小中高どれかの同級生とか。近所に住んでいた子とか。
「以前、小田原に居たことは、」
「私語は禁止だ」 ちっ。いいじゃないか。
 何の反応もみせない。中学時代は嫌な思い出しかないからもっと前だ。
「傷の横にある、そこ。そこが痛むんです」
 ケガの話なら構わないだろ。
「随分古い傷ですね。どんな風に?」
「ジンジン。じくじく。かな」
「どんなケガで、いつ頃のことでしょう」
「野球をしているときに。ボールを追いかけてベンチに突っ込んだとき。小学校時代、  <町田に居たでしょう>」
「ビクッ」 あるいは 「ハッ」。 反応を隠すように看護師は首を振った。激しく。――ありません。
 ウソだ。
「ぼくは覚えてるよ」
「おい!」
 刑務作業は休ませた方がいいです。刑務官に告げた彼女の忠告を断わり、立ち上がって深々と頭を下げる。
「ありがとう。 <よっちゃん>」
 当時の呼び方を、わたしは初めて口にした。
「お大事に」 むーくん。
 彼女の口がそう動いた。

 これほどの幸福感を味わったのはたぶん、真理愛が生まれたとき以来だ。そして二度と味わうことはない。
「左手でよかったな」
 わたしは鉛筆を握った。消灯まで時間がない。大丈夫。すぐに済むから。
 
 加藤、何だっけ。ヨシコかヨシミか。
 思い出せない。



   加藤様

   刑務作業の報酬で、アメイジンググレイスのオルゴールを二つ買って、
   娘の瑠花と真理愛に渡してやってくれませんか。
   よっちゃん。あなたにはバレッタなんてどうでしょう。
   蝶ちょみたいな、リボンみたいな、薄い黄色のバレッタ。
   とても似合ってたから。

   よっちゃん。君はいつもどこかでぼくを見ていましたね。
   ぼくの後悔は、君にやさしくしてあげられなかったこと。それだけです。
   ごめんね。よっちゃん。
ありがとう。よっちゃん。


 最後の最後にウソを書くのは気が引けるが、名前を思い出せないことなんて書けるはずもない。
 折り目がずれないように気をつけながら便箋を折って封筒に入れる。
 よし、あとは真理愛に書いて、おっ、
 明かりが消えた。いいか、真理愛は。さんざん話せたのだから。
 布団の中にもぐり込んで、ズボンを脱ぎ、ロープをつくる。

     僕でよかったんです
     ずっと会いたかった。会えてよかった

 芝原くん。君はいつから知っていたんだい? わたしたちのことを。
 まあいい。すぐに分かるのだから。
 さ。瑠花、謝りに行くからね。
 涙が止まってから。
 すぐに。


     

     【――最終章】


    短かったけど、長い旅だったな。
    まりちゃん。
    お姉ちゃんはね、やさしい国に逝くのよ。
    いちばん素敵な人になるために。
    だからお願い。いつもの、嬉しそうな笑顔で送って。
    いつか、笑って話そうね。あんな日もあったね、なんて。
    ありがとう。お姉ちゃんの妹でいてくれて。お姉ちゃん幸せだった。
    ありがとう。まりちゃん。
    わたしの、まりちゃん。
    



 回復したと思ったのに。
 お姉ちゃんは気づいていただろうか。私の涙に。
「真理愛さん」
 ああ。
「会えると思っていました」 ここに来れば。
 春の光りがいっそう笑顔を輝かせ、瑠花お姉ちゃんより少し年上のお姉さんみたいに感じる。
「これ。お父さんに頼まれていたの」
「お父さんから?」
 小さな紙の袋。
「オルゴール。あなたにって」
 

    意外な人がいるんだよ。ここに。誰だと思う?
    瑠花を担当してくださっていた看護師の、


 <どうして泣いてるの? お姉ちゃん>
大切な人が、来てくれたからよ。
 <元気出して。みんな心配するよ。>
  ありがとう。ごめんね、元気になるために来たんだもんね。


    名前は加藤、確か、よしみ。  
    実は小学生の同級生だったんだ。加藤さんとは。


「ひとつ、持っていてください」
「でもわたしは、
 からだを横に向けて首もとを指さす――「これ。バレッタ。つけてほしいっていうから」
「お父さんが?」
「腰くらいまで伸ばして結ってたの。だから、覚えていたんだと思う。ちょっと恥ずかしいけど」
「とっても似合いますよ。でもそれはそれ」 
 小箱を胸に押しつける。
「いいの?」
「持っていてほしいんです」
 そうよね、お父さん。お姉ちゃん。
「わかった」


 <よかったね。まりあお姉ちゃん。>
  あら。いつの間に覚えてくれたの? お姉さんのお名前。
 <ぼくらのお姉ちゃんだもん。ずっと前から知ってるさ。>


「この子たち覚えくれてるかしら。わたしたちのこと」 
 芳美さんは言って指を高くかかげる。
「覚えてます。ぜったいに」
 枝にとまって首をかしげる子。チクチク何かを囀る子。木から木へ元気に飛ぶまわる子。羽繕いをしてた子までみんなこっちを見てる――ぼくたち、覚えてるよ。
「お父さんのことだけど」
「いいんです」 芳美さんが傍にいてくれたんです、幸せだったに決まってます。
「うん」
 気づいていたんですよ、芳美さん。鳥かごを抱えた男の子。引っ越しのトラックを追い掛ける女の子に。あなたのことに。
「わたしね。看護師、辞めたの」
「え」
 ほんとうはそんな気がしていた。お父さんが旅立って、少ししてから。
「見てみたくなったの。外の世界から」
 同じだ。お父さんと。
 日の光りや雨風、川の流れ、野の草木――外界に居るとね。在るものすべてに、守られているのがわかるんだ。感謝せずには、いられないんだな・・・・・・・・・
「お母さん、元気?」
「はい。今日もお墓参り。花壇のお花を摘んで、
 わあ」
 一羽。二羽。三羽。たくさんの小鳥が顔の上を飛び回る。
「来ませんか。芳美さんも」
「どこに?」
「迷ったり弱っている心に、寄り添えるところに」 くうくぅに。


    学校に行けとは言わんけどな。その、
    くうくぅにだけは行けよ。夢が見つかるまでは。


「ああ。いいかも。でも、勤まるかな。わたしに」
「大丈夫です。来てくれたらみんな喜びます。幸せです」 芳美さんだって。


 元気いっぱいな子に誘われて、眠っていた子もはしゃぎだす。
 <とまってみようか。お姉さんの指に。>
 <ちょっと怖いな。>
 <大丈夫よ。>
 そう大丈夫よ。心配しないで。


「三年くらいがんばっちゃおうかしら。 『まりちゃん』 がいることだし」
 がんばらなくても大丈夫ですよ――。言おうとしてやめた。来ればわかるんだから。
「とまってごらん」
 手を高くかざしてみた。芳美さんを真似して。
「この指とーまれ」
 からだをいっぱいに伸ばす芳美さん。女の子みたい。 
 

    女の子なのに野球好きでな、よく見に来てたよ。
    気になって気になって、いいとこ見せようとすればするほど、
    ヘマばっかりしちまって・・・・・・
    
 
「お父さんも」
「え、なあに?」
「お父さんも好きだったんですよ」
「知ってる。小鳥だけじゃなくて、猫も犬も。動物が大好きだったの」
 はあぁー、そうじゃなくて。あ・な・たを。
 そっくり。お父さんと芳美さんって。
 だから好きだったんだ、お父さん。芳美さんのこと。だから気になったのかもしれない。初めて会ったときから。芳美さんのことが。
 苦難は必ず消えるの。ロウソクの火のように――
 明けない夜も、やまない雨もない。太陽が癒してくれる日が必ずくる。ありがとう芳美さん。
 これでよかったのよね。お姉ちゃん。
 ぜんぶよかったのよね、お父さん。お兄さん。
「わあ見て見て、とまったわ」
「すごーい! よっちゃん」
 うふふふ。
「まりちゃんもやってごらん」
「うん」 太陽に向かって腕を伸ばす。
 怖がらないで、
「この指、とーまれ」
「わあ」
 ね。
 怖くなかったでしょ。


                                  了

光りあるところ

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