失われた時間は二度と戻らない
脱獄犯の男が殺された
刑務所から脱獄した男がいた。
彼は終身刑だった。罪状は妻の殺人。
夫に対する性的魅力を失い、
別の男と浮気した妻をベッドで締め殺した。
だが、それだけで終わらなかった。
死後硬直した妻の遺体を細かく解体し、食べるに至った。
いわゆるカニバリズム。異常な性癖の持ち主であった。
「はぁぁ」
ため息なのかただの吐息か。
男は背中を丸め、やる気のなさそうな足取りで歩いていた。
7月の日差しは肌を焼くようである。
男は手当たり次第に民家に放火をして
最後は自殺をするつもりだった。
まずは火を起こせる道具を探さないといけない。
チャッカマン。ライター。ガソリン。オイル。
何でもいい。しゃばの世界で何不自由なく
生きている一般人たちを苦しめてやりたかった。
「ちょっとそこの人」
後ろから声を掛けられ、体が一瞬だけ硬直した。
油断のない目つきで男が振り返ると、
すぱっと刃物で首筋を切られてしまった。
血の勢いはすごい。首を押さえた手の平の間から
シャワーのように流れ出したが、すぐに止まった。
男は死んだ。すぐに近所の住民によって
通報され、事件として報道されたのだった。
彼が死んだのは、とある住宅地の路地裏だった。
男を殺したのは20代の若い女性だった。
脱獄藩を殺した彼女もまた、殺人犯として
警察に追われる身となってしまった。
ひとつの殺人が、また新たな殺人鬼を生んでしまったのだ。
もっともその女にとって人を殺めるのは、
これが最初ではないのだが。
事件後2週間が経過したが、女は今も捕まっていない。
「女の人でも殺しってするんですね」
「それはそうよ。人間なんだから」
ファミレスで相席する男女。男の方は若い。
今年で中学生3年生。細身で顔立ちが整っており、
少し早口で話すのが特徴だった。
髪は癖のついた長めの黒髪。
年頃でファッションを意識しているので
芸能人などの髪型を好んで真似していた。
「私が一番気になるのは脱獄犯を殺す動機ね。
普通に警察に通報すればムショ戻りさせられたのに」
「確かに。個人的にそいつに恨みがあったとも考えにくい」
女の方は29歳。モデル体型。
濃い茶髪のロングヘアーでおでこを出している。
腰の位置が高く、ヒールを好んで吐くので
実身長の163センチを超えて男性並みの身長になる。
彼女が何気なく歩くだけで目を引く。
店内の男たちが思わず振り返るほどである。
「フゥ君だったらどう思う?」
「女が脱獄犯を殺した動機ですか?
女性の心理は僕よりも
リンさんの方が詳しいと思いますけどね」
「私はフゥ君の意見が聞きたいんだけどなぁ」
そうですね、と言い、フゥは考えるしぐさをした。
リンは両手をあごの下で組み、楽しそうに待っている。
二人はこのように事件の推理ごっこをするのが好きだった。
(ほらほら。またあのカップルが話しこんでいるよ)
(いつ見てもすごい年の差カップルだよねー)
女性定員たちがフロアの奥でひそひそと話していた。
行きつけの店なので従業員から顔を覚えられていたのだ。
もっとも彼らはカップルではない。
また外人風の名前だが生粋の日本である。
フゥは学校で気になる女の子がいる。
彼女ではないが、それなりに仲が良かった。
リンは一応婚約者がいる。
彼女はもうすぐ適齢期を過ぎようとしていたため、
親は結婚を強く薦めるようになった。
「ただ単に快楽殺人だったと言うことでしょ。
その女にとって殺せれば誰でも良かった。
一般人を殺すよりは罪のある人間を
殺す方がまだましだと思ったんじゃないですか?」
「いい線いっているわね」
「いい線とは?」
「私は裏で調べたんだけど、その女は過去に
殺人事件を起こしているそうなのよ。
しかもバラバラ殺人。当時の同級生を相手にね」
「バラバラ殺人とか……脱獄犯と同じレベルじゃないですか。
てか知っていたなら早く教えてくださいよ」
「私はフゥ君の考え方が知りたかったからね」
言われるたびにフゥは不思議に思った。
彼は推理小説を読んだり、
サスペンス系の映画を見るのが趣味なのだが、
自分自身はごく普通の男子中学生だと思っている。
リンは友達がたくさんいるから、休日は
予定でいっぱいである。人材派遣会社の営業の
激務をこなす一方、少ない休日を生かして
旅行やショッピングなどに行き、人生を楽しんでいた。
それが最近では、わざわざフゥに会うために
時間を空けてくれる。フゥの方は、休みの日は
家で読書するか、書店や図書館通いをするなど
読書中毒に近い生活をしていた。
学校生活で真新しいことなど何もない。
常に新しいネタや刺激を求めていたので、
リンの誘いを断ったことは一度も無い。
無駄に忙しいだけで面白みのない日々を
送っているのはリンも同じだ。
日本は治安が良すぎるゆえに
ニュースのネタが世界一平凡でつまらない。
英国育ちのミウが幼い頃のカリンにそう教えてくれた
生まれ持った知的好奇心の強さが、両者の一番の共通点だった。
「女の名前は、ミカ。ネットで実名がさらされているのよね。
中学一年の時、家に遊びに来た同級生の女子を殺害。
風呂場で血を洗い、遺体を押入れに放置し、その後解体」
「ちょっと待ってください。押入れに放置した
段階で両親とか家族の人にばれませんか?」
「母子家庭だったのよ。お母さんは夜勤の仕事を
していて、日中は不在」
「日中はいなくても夜になったらばれません?」
「ちょっと複雑な家庭事情だったようで、お母さんは
彼氏の家に泊まり込むことが多かったそうなの。
彼氏は14歳も年下の男で、アパートで住んでいたそうよ」
「彼氏とすごい年の差ですね。いったいどうやって知り合ったんだ」
それは私達のこと?とリンが視線だけで突っ込んだ。
フゥはそうでもなかったが、リンにとっては
年の離れた弟……のような恋人気分だった。
彼女は同年代の男性よりも年下を好むタイプだった。
もっともフゥが相手となるとさすがに年が離れすぎているが。
「親が家に帰らないにしても、アパートの住人が
気づくと思いますけどね。だって人が
一人死んでいるんですよ? 血の匂いとかするでしょう」
「異臭に気づいた人はいたらしいけど、
ちょっと気になるくらいで
通報されるレベルではなかったそうよ。
犯人の女の子は死体を綺麗に風呂場で洗ったそうだから」
「まさか、血を全部流したとか?」
「んふふ。その通り」
さらっと言ってしまえるあたり、
リンもどこかピントの外れてしまっている人間なのだろうと
フゥは思った。もっともそんな女と
進んで会いたがる彼も同類なのだろう。
「人を簡単に殺せる理由が僕には分からないな。
そりゃあ人間だから相手がムカつくとか、
腹が立つとかはありますけどね」
「あいつらは心のブレーキが存在しないのよね。
別にムカついたから殺すってわけじゃなくて、ただ
なんとなくそこにいたから殺したいとか、解体して
内臓を調べてみたいから殺すとか。
そんな簡単な理由で十分なのよ」
「まるで見て来たかのように言いますね」
「私はちょっと特殊な家庭で育ったからね。
今だから言えるけど、私の母は普通の人じゃなかった」
「まさか……」
「違う違う。殺人鬼とかじゃなくて、ちょっと心のブレーキが
外れてる人だったの。子供には鬼のように厳しい人だったわ。
絶対に自分の考えに周りを従わせようとするし、逆らえないの。
父に対してはもっと怖くてね。父をずっと困らせていた」
リンは、遠い目をしてユーリ、ミウ、若い時の太盛の顔を
思い出していた。みんな一緒だった頃が一番楽しかった。
あの日々は決して忘れることはない。そして二度と戻ることはない。
空のグラスに残っていた氷が、解けている。
いったい何時間話し込んでいたのだろうとリンは思った
もうすぐ夕食時である。学生であるフゥに気を
使わないといけないのはリンの方である。
彼もその気持ちを察し、どちらともなく席を立つ。
ドリンクバーの会計を払うのは決まってリンだった。
女とか男とか関係なく、社会人のリンが
お金を出す。子供と大人の違いがあるから、
至極当然の発想だった。
それでもフゥはいつも恐縮していた。
「呼び出したのは私の方だから」
と言ってリンは笑う。
すらっとしていて、いつ見てもスタイルの良い美人。
いかにも快活な彼女が、かつてはフゥのような読書好きで
インドアな生活を送っていたというのが信じられない。
学生時代までのリンは、根暗で皮肉っぽくて
人を寄せ付けない性格をしていたという。
幼かった頃の自分を彼に重ねていたのかもしれない。
~リンの一人称~ 本名は堀カリン
私が小さい時からずっと
知りたかったのは人間の本性よ。
難しい話になるけど、人間の心の仕組みは
いまだに解明できていないじゃない? それはそうよね。
だって人の心が手に取るようにわかったら
神様みたいじゃない。
私はお父様の影響でクリスチャン。
でもお父様とは逆で性悪説を信じている。
人は、ささいな理由で狂ってしまうから。
人の罪は許されるとイエスはおっしゃった。
イエスの教えを聞いているくせに、南米や合衆国、
欧州などのキリスト教圏で犯罪が絶えないのはどうして?
人は悪の誘惑に弱い。一度は反省してもすぐに同じ
過ちを繰り返す。人類の歴史は過ちの歴史だった。
人はどうやったって神様に近づくことはできない。
それこそ法皇や聖職者でもなければね。
「はい。はい。おっしゃる通りです。入社したばかりで
慣れない仕事に不安があるのは誰でも同じです。
せめてあと二週間ほど様子を見れば、
ご自分の考えが変わる可能性もありますが」
ここは都内のビル。三階にあるオフィスが私の職場です。
私は今、デスクに座って派遣社員の悩み相談を受けています。
私の仕事は、正確には営業コーディネーターと言って、
派遣スタッフの苦情処理、メンタル面のケアも
仕事内容に含まれています。
今電話中の相手は、入社して三週間目の若い女の子。
職場の人間関係になじめなそうだから
辞めたいと言ってきた。こんなのいくらでもある事例だよ。
派遣先を紹介した時は、ぜひ務めたいと
言っていたくせに。すぐに手の平を返すんだから。
そんな簡単に辞められたらうちの会社の信用が
どんどん下がるから、こっちは言葉巧みに
続けるよう説得するしかないでしょ。
「分かりました。では今月末までの契約の流れに
させていただきますが、念のため来週中に
確認の電話を入れます。その時でもお気持ちが
変わらないようでしたら、退職ということにしましょう」
まったく。ワガママばっかりなんだから。
派遣先は事務職だから、どこも女の派閥が
うざいのは分かるけどね。
私なんて何度この仕事を辞めそうになったことか。
信じて送り出したスタッフに裏切られるのは日常茶飯事。
理不尽な理由で先方からは叱られ、さらに営業ノルマに追われる。
もともとひどかった人間不信がさらに悪化して
一時期精神科にまで通ったんだからね。
ちなみに私が今やってる営業も三社目。
つまりそれだけ派遣会社を渡り歩いているの。
なんで根暗少女だった私が営業なんてやってるんだろうね。
パパみたいに保険の営業でもやってればよかったのかな。
保険会社だけは絶対止めろとパパに止められたんだけど。
「お先にあがりまーす」
「おつかれっしたー」
退社したのは19時半。課長代理と営業の先輩だけが
まだ残っている。同僚は事務員を除けば男性ばかり。
チャラいのと地味なおっさんしか
いないので異性として意識できないレベル。
うちの事務所、ほんと終わってるわ。
私は小さい頃パパっこだったけど、
色々あって男性にあまり興味が持てなくなった。
学生時代は体目当てで近づいてくる男子が
何人かいて、そのせいで男性不信に近くなった。
男っていったい何なんだろうと、
10代の時はずっと悩んでいた。
でも年下のフゥと会う時はなぜか癒される。
年下なら襲われたりする危険性がないからかな。
それに私のことを年上として尊敬してくれる。
私は大人の余裕があるから、悩み多き年頃の男子の
相手をするとキュンとしちゃうときがあるの。
もしかして私、ショタコンなのかな?
そうそう。社会に出たばかりの頃は、取引先から
小娘扱いされることが多くてショックだったなぁ。
今はだんだんと営業職の貫禄がついてきたと思う。
「おかえりなさいませ。カリンお嬢様」
「うん。鈴原。この年になってもお嬢様って
言ってくれるのはあなた達だけだよ」
わざわざ玄関前で出迎えてくれなくてもいいのに。
初老になった鈴原は、完全な白髪になった。
いぶし銀な動作でお辞儀する姿は、昔から少しも変わってない。
「ごきげんよう。お姉さま」
「ごきげんよう……」
廊下ですれ違った妹のマリンが
金持ちっぽい挨拶をしてくる。
うちは実際に金持ちだけどさ、堅苦しすぎる。
今時ごきげんようとかお嬢様校でも使わないと思う。
「今日も夜遅くまでお疲れさまでした」
「慣れてるから、別に」
「今夜はお姉さまのお好きなワインを
後藤が取り寄せてくれたそうですよ。
ゆっくりお飲みになって」
「あっそうなの。でも明日が早いから
ゆっくり飲んでる時間がないのよ」
「ではお時間のある時にどうぞ」
マリンはロングスカートをなびかせながら
廊下の先へと歩き去った。実の妹ながら、
いちいち気取り過ぎなのがたまに鼻に触る。
こいつは昔から上流階級の作法を進んで覚えたし、
パパに好かれようと、おしとやかで
従順な女になろうと努力してきた。
くやしいけど美貌は私達三姉妹の中で
頭一つ抜けていると思う。
今28歳なのが信じられない。
童顔過ぎて20過ぎくらいに見える。
ものすごくおっとりしていて、女らしい顔立ち。
私と違って髪型はずっと変えてない。
癖のあるロングヘアーをハーフアップしている。
切り揃えられた前髪は、いかにもお嬢様って感じ。
そのせいか中学に行くようになってから学園中の
男子に好かれ、卒業までに7回は告白されて、
しかも全部断るという荒業を披露。
その高慢とも無礼ともとれる恋愛姿勢は
高校に進学してから少しだけ変わったらしい。
詳しいことは聞いてないから分からないけど。
「今日もお疲れさまでした。カリン様」
「私のことは構わないくていいのよ。後藤。
あなただって明日からまた早起きしないと
いけないのだから、もう休んでいて」
「そう言って頂けるのはありがたいのですが、
使用人と言う立場上、そうはいきませんな」
見慣れた広い食堂。私が食べ終わるまでの間、後藤は厨房で
明日の料理の仕込みをする。たまにこっちに顔を出しては
私のつまらない話を聞いてくれたりと、本当に優しい。
双子の姉のレナは、看護師の独身寮に入っているから、
後藤と会えなくて寂しいだろうな。後藤と仲良しだったから。
今夜のメニューはキャベツの中華スープ、豆腐ハンバーグと
サラダの盛り合わせ。ものすごく凝ったサラダなんだけど、
お肉類は入れないよう頼んでおいた。
平日はいつもこの時間に帰るから、油ものを食べると
体に悪いからね。炭水化物も取らないようにしている。
精神的に疲れた時は、ビールを空けることがある。
平日はワインよりもビールの方が飲みやすい。
私はお酒には強いからどっちも飲めるの。
会社の付き合いで飲み屋に連れて行かれる
ことが多いから、和食を好むようになってしまった。
洋食好きのマリンとは味の好みが逆になった。
そのせいでメニューを考える後藤を悩ませている。
「パパの様子はどう? 今日は主治医が来る日だったんでしょ」
「当分の間は様子見とのことでした。
薬が効いている間は精神的に安定するそうなので、
また同じお薬を置いていかれましたよ」
「飲み過ぎると依存症になって逆効果じゃない?」
「しかし飲まないでいると、あれが発動しますな」
「ああ……あれね」
あまり説明したくないのだけど、
パパは夫婦の関係がこじれてから廃人となってしまった。
「モンゴルへの逃避が全てのきっかけでしたな」
皿の片づけをしながら、後藤が遠い目をして言った。
そう。パパが30代の時に愛人のユーリを連れて
モンゴルへ逃げたの。マリンに続いてママも蒙古へ行った。
ユーリはママに捕まる前に毒を飲んで自殺。
パパは発狂し、愛人に続こうとするが失敗し、
ママに強制帰国させられた。もちろんマリンもね。
パパは大学卒業後、勤め続けていた保険会社を辞めた。
おじいさま。つまりご党首様に逃避の件を
ひどく叱られ、殴られ、本家の牢屋にしばらく監禁された。
おじいさまの剣幕は鬼のようだったという。
ママでさえおびえてしまうほどなのだから。
おじいさまお気に入りの使用人の一人だったユーリ。
彼女が死んだ責任をパパになすりつけたのだ。
ユーリも同意して旅立ったのだから、
パパだけのせいじゃないと思うけど。
それでもおじいさまがパパとママの離婚を
認めないのは謎だよ。どう考えても
離婚するべきだったと思うけど。
パパは3週間後に私達の家に戻された。
そして新しい職を探すのかと思ったら、
ベッドから起きてまた寝るだけの日々を繰り返すようになった。
起きている間は、ぼーっとし、食欲もなく
運動すらしない。次第に死ぬことばかり口にするようになった。
言い方が悪いけど、末期のがん患者がこんな感じなのかな。
パパは蒙古で失ったユーリの面影をいつまでも引きずっていた。
光彩を失った瞳は、蒙古の大平原だけを映しているようだった。
ママは太盛パパを正気に戻すために、あらゆることをした。
説教、暴力、精神医療。顔に冷たい水を
ぶっかけたこともあった。
でも、どんなことをしてもダメだった。
パパがユーリの名前を小声で言うとママは怒り狂った。
いい加減に現実を見なければ爪をはがすと言い、実際に
左手の爪は全てはがされてしまった。それでも
パパは正気には戻らなかった。
さすがに拷問中は怖さと痛さで絶叫していたけどね。
その状態が一年も続くと、ママの方がしびれを切らした。
実家に帰るのかと思ったら、お姉さんの(私にとってのおばさん)
アナスタシアの家に住んでいるという。
実家に帰りたくない事情でもあるのかな。
実家をついだお兄さんが相当怖い人らしいけど。
アナスタシアおばさんは、高校で生徒会長をやっていた
年下の男性と結婚したらしいよ。ナツキさんって名前で、
優しそうでイケメンのおじさんだった。
少しだけパパに雰囲気が似ている。
「ママから連絡はないの?」
「出て行ってからさっぱりですな。
すでに堀家に興味を失ったのでしょう」
実は離婚したいのはママも同じだったけど、
党首が認めないから仕方ない。法的には婚姻状態にあっても
別居してるから夫婦とは言えないよね。
私は食後すぐにパパの部屋を訪れた。
広い屋敷の中でパパの部屋は一階にある。
食道からはすぐだよ。
「あの、入っても大丈夫ですか」
「その声はカリンかい。もちろんだよ。入っておいで」
52を過ぎた私の父親。
若い時のはつらつとした様子はすっかり消え去った。
白髪交じりの髪の毛。一日中パジャマを着ている。
「今日も遅くまで大変だったねぇ」
「いえ。仕事は慣れていますから」
声に覇気がない。顔に生気がない。
まさに余命を宣告された老人並みだよ。
世間の50台の男性は家族のためにせっせと働いているのに、
パパはベッドで過ごす生活を10年以上続けているんだよ。
私は大学を卒業して自分でお金が稼げるようになったのに。
パパはいつになったら前を向いて歩けるの。
「カリンもそろそろ結婚の時期か」
ふとパパの瞳に知性が戻った。
「縁談の件だけど、先方さんはかなり乗り気だと
マリンから聞いているよ。
相手の人とデートはしているのかい?」
「あいにく私の仕事が忙しいので、なかなか
会う時間が作れないのが残念です」
パパ自身は結婚で致命的な失敗をしたけど、
せめて娘には幸せになってほしいと願っていた。
古風な考え方をする党首様も同じように考えていて、
実際に旧華族の男性との縁談を用意されてしまった。
私の婚約者を選ぶのは党首。太盛パパの関与はない。
というか関与する権利がないらしい。
パパは最近私の将来のことばかり気にするようになった。
呪われた堀家の敷地からから
一刻でも早く去れと言わんばかりに。
「正直に言いなさい。
カリンは結婚に乗り気じゃないんだろう?」
「そ、そんなこと」
「隠さなくていいんだよ。これでも一応父親だからね。
自分の娘ことはよく分かっているつもりだ」
「……怒らないで聞いてくれる?」
「ああ。心配しなくていいよ」
パパは薬が効いているから、きっと大丈夫。
「私は人に運命を決められるが嫌なのです。
おじいさまに面と向かって反対はできませんけど、
本当はまだ独りでいたい。本当に好きな相手を
自分で探すことができたら、その時は真剣に考えたいです」
「ふぅん。そうかい。
マリンと似たようなことを言うんだね」
パパはベッド横の椅子に腰かけているマリンを眺めた。
マリンは私の話には興味なさそうに新約聖書を読んでいた。
今夜はお父様の近くで聖書の読み聞かせをしていたのね。
だから私が入ってくると邪魔だったわけでしょ。
ラジカセみたいな小さなオーディオからは
小音量でミサ(讃美歌)が流れている。
あのオーディオ……8万もする高級品をマリンが
パパにプレゼントしたんだよ。
「お姉さまはそろそろお風呂のお時間ではなくて?」
「そうね。そろそろ失礼するわ」
マリンも私と同じく独身。
こいつこそ相手なんて腐るほどいるでしょうに。
おじいさまの持ちかけた縁談に興味すら示さず、
いつまでもパパと一緒にいたがる。
ファザコンのオリンピックがあったら
優勝できるんじゃないかな。
今日までママに見捨てられたパパを
ずっと介護(看病かな?)し続けている。その根性はすごい。
マリンは学習塾で週三回のアルバイトをして、
空いた時間はパパの介護に回している。
うちの家はおじいさまからの多額の援助金を頂いているから
マリンは定職に就く気が全くない。金持ちの余裕ってやつね。
父の介護を頑張っているのでおじいさまから特に気に入られている。
マリンは国立大の教育学部を卒業した。
ミウの教育のおかげで英語は外人並みにペラペラ。
テニスも得意。ピアノも相当な腕前。
ママが望んだ通りの淑女として成長した。
マリンならどこの会社でも勤まると思うのに、もったいない。
私は必死で残業しているのになんだか不公平。
マリンの介護は無駄だったわけではなくて、
廃人だったパパとも普通に会話できるレベルには回復した。
でもマリンの人生はこれで幸せなんだろうか?
やがて老いて朽ちていく父を支え続けることだけが、
あいつにとっての生きがいなんだろうか?
ママが出て行くと知った時、あいつは飛び上がって喜んでいた。
ミウの結婚相手が決まって退職した時は、
なぜか複雑そうな顔をしていた。
お祝いの言葉すら言おうとしない。
私とレナは泣きながらミウとの別れを惜しんで、
今でもたまに連絡を取り合っているのに。
実の妹でもマリンとだけは一生分かり合えないと思う。
はぁ。また明日から電話が鳴りっぱなしで
ストレスが溜まる日々が始まるのか。
~曽根風(ソネフゥ)の視点~
「おはよう」「あっ、おはよー」
僕には気になっている女の子がいる。
今年から同じクラスになった人。
名前は本村(もとむら)ミホさん。
肩にかかるショートカットに大きな髪留めをしている。
口数が少なく、女子の仲では目立たないグループに
属しているけど、男子からは結構注目されていた。
冒頭の会話のように挨拶をすれば必ず返してくれる。
いつも声が小さいが、声自体は高くて品が良い。
内気な性格でうつむいていることが多いから、
顔をはっきりと見れることは少ない。
「最近物騒なニュース多くね?」
「セクハラ報道のこと?」
「バカちげーよ。新潟県で小学生がロリコン野郎に殺されたことだよ
「それより脱獄犯が住宅地の裏でくたばってたのが衝撃的だろ」
HRが始まる前、男子達が集まる一角で殺人事件の話題が出た。
僕自身も興味津々だ。女子達にもその話題が伝染した。
その中でリーダー格のギャルが大きな声で話していた。
「うちのママが週刊文春読んでてさ」
「あんた雑誌を学校に持ってきてんのw」
「これ読んでよ。容疑者の女は学生時代に
バラバラ殺人をしていて、関東の児童厚生施設を
出てから社会で働いてたんだって」
「こわー」「殺人鬼が普通の顔して働いてたら困るよね」
「どこにも採用されないからコンビニとかで働いてるのかな?
「殺人鬼が接客なんかやるわけないじゃん」
「それより最近ロリコン多すぎて困るよね。教師とか」
あっ、本村さんが机に顔を伏せた。
寝たふりをしてるんだろうけど、
こういう話題が苦手なんだろうな。
本当は耳をふさぎたかったに違いない。
本村さんは人一倍気が弱いから、
人を殴ったことすらないんだろう。
家にいる時はどんな感じなんだろうか。
「ねえミホー」 「あ、はい!!」
ギャルに呼ばれてびくっとした。
「あんたも可愛いんだから、大人の男に
狙われないように気を付けなさいよ?」
「そんな……私は可愛くなんてないですよ」
すると同じグループの女子達が続けた。
「ミホには頼もしいお兄様がいるから平気だよね?」
「週三回はミホを迎えに来てくれるもんね。わざわざ校門まで」
「ラブラブすぎて吹くわー。お兄さんがカレシなんでしょ?」
「休みの日はラブホ通いしてるって本当?
奇形児が生まれるから避妊だけはしておきなさいよ」
どっ、と笑い声で教室が盛り上がるのだった。
もっとも男子達は冷ややかな視線で受け流している。
ギャルグループが意地悪く笑っているはいつものことだ。
僕は本村さんのお兄さんの話をされると胸が痛くなる。
ギャルの言っていることは実は笑い事じゃない。
彼女のお兄さんは、いわゆるシスコンらしく、
本村さんもブラコン。つまりマジで愛し合っている……?
嘘だと信じたかったが、休日に手を繋いで
買い物をしたり電車に乗っている彼らの姿を
同級生だけでなく先生まで目撃している。
兄はケイスケさんと言って、高校二年生のイケメンだ。
成績はかなり優秀だが、少しだけ口が悪いらしい。
いくら顔が良くても実の兄に恋心を抱くものなのか?
本村さんは顔を真っ赤にして、うつむいている。
彼女は下を向くことが多い。そのせいで長い前髪が
目元を隠し、ますます暗い印象を作ってしまう。
明るい顔をしていれば誰よりも可愛いのに。もったいない。
本村さんを馬鹿にしているギャルグループは
男子達を密かに敵に回してるのに気づいているのだろうか。
放課後だ。僕は帰宅部なのでやることがない。
HR終了後、まっすぐ家に帰ろうかと思ったが、
ふと悪い予感がした。
……なんだろう? 胸騒ぎがする。
実は小学生の頃からこういう特徴があった。
僕が何か変だなと思うと、ニュースで殺人事件が起きたりとか、
どこかの国で紛争が発生したりとかね。自分で言っていて
馬鹿らしくなるけど。とにかくそういうことがよくあった。
「ミホ。帰らないの?」「今日予定があるから、先帰って」
予定ってなんだろう? 本村さんも帰宅部のはず。
正確にはお兄さんと会うために部活をサボっているんだけど。
ちなみに手芸部だ。家庭的だね。
友達や他の生徒がいなくなるまで、彼女は自分の机から離れなかった。
妙にカバンを大切そうにしているのが気になる。
僕も最後まで残っていたが、彼女に悪いので
立ち去るふりをして廊下の隅で待機した。
すぐに本村さんは出て来た。そして渡り廊下を渡り、
上履きを履いたまま中庭へ出た。おいおい。
上履きが泥だらけになるじゃないか。
僕も気になったので後を付けた。
「本村さん。俺のこと覚えてる?
一年の時同じクラスだったんだけど……」
「相楽(さがら)君ですよね。もちろん覚えていますよ。
私は一度同じクラスになった人の名前は忘れませんから」
サガラって…、サッカー部のイケメンじゃないか。
下級生の女子からも人気のある男だ。
しかも文武両道で、見事にモテる男子の
特徴を兼ね揃えている。
まさか奴は、中庭に呼び出して本村さんに…
「一年の時からずっと君のことが気になってた。
俺達、あと半年もすれば卒業しちゃうだろ?
もしよければ、休み日一緒に出かけないか」
その文脈は告白したようなものだ。
本村さんは数秒間ためを作り、
両手でスカートをぎゅっと握りながら頭を下げた。
「ごめんなさい」
「あはは……そんな深刻そうな顔しないでよ。
別に付き合ってくれと言ってるわけじゃないんだ」
「ごめんなさい」
「本村さん……」
ナイスな判断だ。奴の甘いマスクの下は狂暴な獣だ。
ただ本村さんが欲しいだけなんだよ。体目当てだ。
奴は呆れたように溜息を吐いた。
悲壮感はまるでない。
初めから断られるのが分かっていた風だった。
「君は誰に告白されても断ってるそうだけど、
断るのはお兄さんがいるから?」
その質問は、してはいけなかったのだ。
~逮捕されたはずの女と町で会った~
~フゥの視点~
「どうしてそこで兄の名前を出しますか」
とげのある声だ。
本村さんのこんな声を聞くのは初めてだ。
「いや、だって君のお兄さんはわざわざ
学校の門まで帰りに迎えに来るほどじゃないか。
年の近い兄妹の割には仲良いなって」
「それの何がいけないんですか?」
「え?」
「私は、私が兄と一緒にいたいから一緒にいます。
相楽君は私達のことを否定するんですか?
そんなことを言う資格があるんですか?」
「そ、そんなつもりじゃなくて」
「じゃあ、なにが言いたいんですか?」
「うっ…」
相楽が本村さんの迫力に圧倒され、後ずさりをした。
普段女子にからかわれている本村さんとは
明らかに別人だ。告白された側だから、
立場的に強いのもあるんだろうが。
相楽は「今日のことは忘れてくれ」と言って、走り去った。
本村さんはしばらく立ち尽くしていたが、
急に声もなく泣き始めた。めそめそと子供のような顔で。
なぜだろう。僕は黙って立ち去ればいいのに、
一歩前に出る。建物の影からいきなり姿を現した僕。
本村さんは不快感を隠そうとしなかった。
「フー君。ずっと見てたの?」
「そうだよ」
はっきり言った。ある意味男らしいだろう。
ちなみに彼女に下の名前で呼んでもらえたのは、
いつだったか。僕が彼女に話しかけるようになったのは
今年の春から。つまり三年生になってからだ。
『あんまりしつこいとお兄ちゃんに言うよ?』
くぎを刺されたので、学校の外では
話しかけないようにしている。
僕は暇さえあれば彼女に話しかけるのが得意だった。
理科の実験、調理実習、体育祭の時など、
男女で一緒に参加するイベントでは
積極的に本村さんの近くに寄るようにした。
恋愛は話しかけないことには始まらないからね。
僕の熱烈な愛が彼女に伝わることはついになかったが、
友達程度には思ってくれているようだ。
「本村さん、あんな奴に言われたことなんて気にするなよ。
兄妹で仲良しなのは素晴らしいことじゃないか。
赤の他人がどうこう言うなんて失礼だよね」
僕はハンカチを渡したが、自分のがあるから
いらないと断られてしまう。
「そんなふうに言ってくれるのは、フゥ君だけだよ」
少しだけ、ほっとしたような顔をした。
本村さんは兄との関係を否定する奴に冷たいが、
僕のように認めてくれる人には優しいのだ。
「今日ギャル達にお兄ちゃんのこと馬鹿にされたでしょ?
本当は殴ってやりたいくらいムカついた」
「君でもそう思うことってあるんだ」
「それはそうでしょ。私だって人間だし。
家ではそれなりに怒ったりするよ?」
「なんだか意外だな。本村さんは学校だと
おとなしい人ってイメージしかなかったから」
「男子達は……特にそう思ってるみたい」
「モテる女は大変だね」
「私は全然モテてないよ」
謙遜だなぁ。学年一のイケメンからも
告白されたばっかりなのに。
すると本村さんのLineが鳴る。
彼女は顔色を変えて教室にカバンを取りに戻るのだった。
「ごめん。お兄ちゃんが迎えに来ちゃったから帰るね」
「おけ。また明日」
きっと今日も手を繋ぎながら新婚夫婦のような雰囲気で
下校するのだろう。ああ、お兄さんが羨ましい。
一日で良いから僕と変わってほしいよ。
※
相楽は次の日から学校に顔を出さなくなった。
学期末テストも終わり、もうすぐ夏休みが始まるのに、
このタイミングで学校に来ない理由はなんだ?
「ご家族の方に不幸があったようで…」
奴の担任の先生に訊いてみたが、明らかに
真実を隠しているようだった。
それから数日間相楽は休み続けた。
一週間が立ち、ついに夏休み直前になる。
その頃には、学校から奴が消えたことを
誰も気にしなくなっていた。
みんな休み目前の浮かれモードになっている。
僕も夏休みが楽しみで学校に通ってるようなものだ。
夏休みは学生だけの特権だよと、僕のお父さんが良く言っていた。
あいにく世間が浮かれていても、
斜めに構えるところが僕の特徴だ。
遊ぶことよりも相楽が消えた真相が知りたい。
本村さんがあんまりうれしそうじゃないのが
気になるな。体調でも悪いのか?
夏休みの大半をお兄さんと過ごすのだから天国だろうに。
いつか君のブラコンを治す薬が
開発される日をずっと待っているよ。
今日は半日授業。ついに三時間目の授業を終え、
あとは帰りのHRを待つのみとなった。
教室中でテンションが上がり、騒がしくなっている。
「そういえばさー」ギャルが言う。
「相楽君はどうなったの?
なんかミホに振られたのがショックで
引きこもってるって聞いたんだけどー」
無駄にでかい声だったので
クラス中が本村さんにみんなが注目した。
すぐにギャルたちのやっかみが入る。
「まじ? あのうわさ本当だったんだ」
「ミホすげー。相楽君から告られたの?」
「やっぱ相楽君よりお兄さんを取るのかw」
ミホさんはうつむいて黙る。
またこのパターンか。
お兄さんネタもそろそろ賞味期限切れなんだよ。
このネタの切れた芸人集団が。
僕は思わず立ち上がり、こう言った。
「おいブス達。黙れ」
この一言で喧嘩になってしまった。
爆笑する男子とは対照的に、激怒するギャル達。
「誰がブスだこら!!」
「てめー。ミホのストーカーのくせに態度でかいんだよ」
ぎゃあぎゃあ、うるさい奴らだ。
態度がでかいのはそっちだろうが。
どうせ将来はケバいファッションをして
キャバ嬢にでもなるんだろうが。
僕はその通りのことを口にし、さらにこう言った。
「馬鹿ども。黙れ」
ギャル達は僕につかみかからんばかりだが、
今度は本村さんを慕う男子達が僕の味方となってくれた。
本村さんをめぐって男女が対立し、醜い言い争いをする。
こうして教室はJRの車内並みの騒音となってしまい、
ようやくやってきた担任の先生によって中断させられた。
「みなさん。喧嘩してる場合ではありません。
これから皆さんに残念な知らせがあります。
これは作り話ではありませんから、
最後までよく聞いてください」
60代の弱々しい爺さん。こんなのでも僕らの担任なのだ。
定年退職せずにまだ教師をやっているらしい。
「五組の相楽君ですが、急なことで
ニュージーランドの学校へ転校となりました」
どんなにカンの鈍い奴でも、
それが嘘の知らせなのは分かると思う。
中三の夏に外国へ転校とか意味不明すぎて吹くよ。
少し前まで有名私立校を目指すとか本人がほざいていたのに。
相楽は、きっと事件に巻き込まれたのだ。
隠ぺいしようとする学校側の意図は分からないが、
僕の好奇心はMAX。なんとしても真実をつかんでやるぞ。
※
その日の午後。何人かの友達と一緒に相楽の家を見に行った。
住宅地の一角に会った奴の家は空き地になっていた。
いつのまに取り壊したのか。
僕は相楽だけが行方不明で他の家族は健在だと思っていたが、
家族丸ごといなくなっている。
確かに今の時点ではNZへ逃げたように見えるが。
「なあ、この辺りってさ」
福地という体重が90キロ近くあるデブが言う。
小学校時代からの友達だ。中学卒業後も腐れ縁になりそう。
「例の事件があった場所じゃないか?
ほら、あそこの水路見ろよ。
テレビで映っていた場所だと同じだ」
確かに。ここの住宅地の路地裏で例の脱獄犯が
女に殺された。相楽の家はたまたまこの住宅地にあったようだ。
「なんかこの辺り怖いよな。
夏なのにヒンヤリするっていうか。
殺人現場の近くってこんな感じなのかな。
引っ越した人も多いって話だし」
コーンだ。彼は吉谷(よしたに)が本名だが、
頭がトウモロコシのような形をしているので
あだ名がコーンなのである。
先生や女子からはコーン君やとんがり君と呼ばれていた。
こいつはビビりながら僕に訊いた。
「フゥはどう思う? 相楽は殺されたのか?」
「本当に死んでいたとしたら学校側は隠しきれないと思う。
警察の捜査が入ったらすぐにばれることだろ」
「じゃあ、どうしたんだよ?」
「僕が聞きたいよ」
今の状況じゃあ何とも言えないな。
ただ、いつまでもここにいないほうが良いのは確かだ。
犯人は現場に戻る習性があるらしい。
例の殺人鬼の女はまだ警察に捕まっていない。
住人たちが引っ越すのも当然か。
「お、おい。誰か近づいてくるぞ」
コーンが遠くの歩道を刺すと、福地もそっちを向いた。
「ま、まさか、例の女か……?」
こんな話をしている時だと
自然とそう思ってしまうことだろう。
だが、そんなわけがない。長身で優雅に歩くその女性は、
僕の良く知っている人物。堀カリンさんだ。
「Hallo kids. A beautiful weather. But the Sunshine is killing us.」
(ちーっす。良い天気だけど日差しが殺人的よね)
「いきなりネイティブっぽい英語やめてくださいよ。
聞き取れるわけないじゃないですか」
「あはは。ごめんごめん。始めて見る子達が
いたから緊張していたのよ」
「嘘ばっかり。本当は緊張なんてしてないでしょ。
とりあえず紹介しますね。福地とコーンです」
「コーン君って名前なの……?」
よほどそのあだ名がおかしかったのか、リンさんは
しばらく笑い続けた。初対面なのに失礼過ぎる。
もっともコーンと福地は、リンさんの美しさに
見惚れているようだったけどね。
リンさん本当に若いなぁ。30手前には見えないよ。
今日は私服でパンツルックだ。
ほっそりとした足のラインがよく目立つ。
「こんな時間に会うなんて珍しいですね。
今日は平日ですけど」
「半日だけ有休使ったのよ。今日は夕方から
おじいさまの家に行く予定なの」
「例の豪邸ですか」
「そうそう」
リンさんのおじいさんは世間で名の知られた大金持ちらしい。
大きな会社を経営していたけど、部下に引き継ぎを任せて
からは隠居生活を送っているという。
もともと変わり者で人間嫌いだったので、
一部の使用人以外とは会話すらしないらしい。
リンさんもおじいさんのことは苦手だと言っていた。
今日のリンさんは夕方まで暇なので、この現場周辺を
散策していたらしい。事件が好きなんですねぇ。
「それはあなた達も同じでしょ」
確かに。
「で、何かおかしなところは見つかった?」
「僕の同級生の男子が消えたこと以外は何も…」
「なにそれ。詳しく聞かせて」
僕が一部始終を説明した。途中で福地とコーンも
補足説明をしてくれた。コーンが説明を始めると、
リンさんは意味もなくまた笑っていた。
「このタイミングで転校とかありえないわ。
怪しすぎ。どう考えても事件よ」
「やっぱりそうですか」
リンさんは本村さんのお兄さんが怪しいと言っていた。
確かにケイスケさんは重度のシスコンらしいけど、
妹に一度振られた野郎にわざわざ危害を加えるだろうか?
しかし言われてみれば、相楽が転校したって話を
聞いた時に本村さんだけは全く動揺してなかったな。
彼女が本当の事情を知っていたとしたら、納得できてしまう。
リンさんの携帯が鳴った。
この人の携帯は頻繁に鳴る。
今回は妹さんから用事を言いつけられたらしい。
一歳年下の妹さんがいるのは僕も聞いているけど、
リンさん並みの美人なんだろうか。見てみたい気もする。
「精神異常者って案外身近にいるものなのよ。
あなた達も事件に巻き込まれないように
気を付けなさい」
リンさんは手を振り、早足で去って行った。
「すげえ綺麗な人だったな」「ああ……」
コーン達はリンさんが
残していった香水の残り香をかいでいた。
僕たち中学生男子にとって妙齢の女性は憧れの対象なのだ。
僕らはその後、何もする気に
ならなかったのですぐに別れた。
僕は暑いので帰り際にコンビニに寄り
アイスを買うことにした。
行きつけのコンビニだ。
学校から家の帰り道にあるのだ。
定員の顔はだいたい覚えている。
たまに入れ替わりがあるけどね。
特に何もおかしなことなどない。
そう思っていたのだが。
「お、お客様。申し訳ありません!!」
なんだ?と思ってレジを見ると、若い男性定員が
慌てて小銭を拾っていた。釣銭の受け渡し時に
落としてしまったのだろうか。
あの店員は顔見知りだ。近所に住んでいるフリーターで、
もう何年も務めている。彼がミスをするなんて珍しい。
いや、正しくはミスをさせられたんだろう。
「急いでませんから、ゆっくりでいいですよ」
「は、はいっ」
僕は直観力がある。レジの前に立っている女性は普通じゃない。
ゆったりとしたカーディガンに七分丈のジーンズ姿。
細身のリンさんと対照的で少しふっくらしているけど、
デブと言うほどではない。
むしろあっちの方が女性らしい体型かもしれない。
僕の視線が気になったのだろう。
会計が終わったあと、女は僕を見た。
一瞬、時が止まったのかと思った。
買い物袋を手にした女は、ただ出入り口の近くで
固まっている僕の横を通り過ぎようとしただけなのに。
僕はその女から一歩も目を離すことができなかった。
なんて冷たい目つきだ。真っ黒な瞳は、感情らしいものを
何も映してない。きっと僕のことも邪魔な障害物だと
認識しているのだろう。
自動ドアが開き、入って来た別の客も女に
びびって道を空けるほど。
女が自動ドアを過ぎた。
外の風が吹き込み、ふわっと後髪が持ち上がった。
肩にかからない程度のショートヘア。
毛先の方を整髪剤か何かで固めている。
肌が白く、アイドルっぽい魅力的な顔をした女だった。
同じくらいに不気味で得体の知れない女だった。
雰囲気からして僕達と同じ世界で生きている人間じゃない。
そいつが事件と関わりがあるのは間違いないと確信し、
尾行をすることにした。
やがて日が沈み始めるが、女は黙々と歩みを進める。
描写するのがずいぶん遅れてしまったけど、
僕らが住んでいるのは東京都多摩市です。
西東京なので街中以外は山に囲まれた田舎だよ。
女は店の並ぶ駅前通りをずっと歩き、途中で花屋さんに寄って
花束を買った。なぜ花? 花が趣味なのだろうか。
会計をする時、花屋のおばさんも
やはり緊張して顔が引きつっていた。
女がその後立ち寄ったのは、墓地だった。
「またここに来たよ。○○ちゃん」
ちゃんと聞き取れなかったが、女の子の名前だったと思う。
花束をどさっと墓の前に落とし、女はしばらく立ち尽くしていた。
無言が怖い。つーっと涙が頬を伝うが、それをぬぐおうともせず、
いつまでもそうしていた。
むなしく時間が流れる。夕方でも日差しは十分に強い。
僕は肌にべったりとまとわりつく汗の感触に耐えながら、
物陰からあの女をずっと観察していた。
「いつまでそこにいるつもり?」
不快そうな声の音色。
女はこちらを見ていったわけではない。
まるで独り言のようにつぶやいただけだ。
「あなたに言ってるんだよ」
僕はもう逃げられなくなった。
逃げようと思えば逃げられたのに。
だが、足がすくんでしまっている。
「人のあとをつけるのがうまいねぇ。
若いけど中学生? それとも高校生かな?」
下手くそな作り笑いを浮かべるその女と目が合った瞬間、
僕は殺されると思った。尾行なんてしなければよかった。
「にゃあ」
な……? ふと振り返ると黒猫が歩いてきた。
この修羅場になぜ自分から寄って来たんだ。
僕はすぐにそのわけを知ることになった。
猫は普通じゃない。
毛が逆立ち、瞳孔が開いている。
トラともヒョウとも取れない恐ろしい雰囲気だ。
一体なんだこの動物は?
口からよだれを垂らして低い鳴き声を上げているが、
まるで血に飢えた獣そのもの。
僕は今までにこんな狂暴な猫を見たことがない。
猫は僕に飛びかかってきた。
僕はパニックを起こし、倒れながらも両手を
滅茶苦茶に振り回すが、猫の爪が僕のTシャツを引き裂き、
鋭い傷跡を付けるのだった。やば。血が……
「よっと」
女は片手で猫の首根っこをつかみ上げた。
猫はすぐに攻撃の対象を女に変更し、鳴き声をあげて威嚇した。
すぐに女の手から逃げ出すことに成功し、地面へ落下。
すごい跳躍力で女の首筋に襲い掛かった。
女は倒れることはなく、冷静に猫の動きを観察していた。
自分の服や腕が引っかかれているのに構わず、
猫の首をつかみ、絞め続けた。ゴキッ、と首の骨が
折れる音がすると、猫の手足がだらりとして動かなくなった。
命がけの勝負は女の勝ちだ。それにもかかわらず、
女は手ごろな大きさの石を拾い、猫の頭部へ振り下ろした。
ネチョ グチャ
耳をふさぎたくなる音を立てながら、猫の頭部だった部分が
陥没し、血が噴き出て地面を濡らした。脳みそと思われる部位も
一部飛び出てしまっている。
「手、洗わないと」
女は満足したのか、洗い場でじっくりと手を洗っていた。
服やジーンズに着いた返り血を全く気にしてないのが不自然だ。
黒くみずみずしい髪も一部が赤く染まっている。
その状態で町を歩いたら即警察に通報されると思う…。
女のことは怖いけど感謝の気持ちがないわけじゃない。
引っかかれた胸元はヒリヒリと痛むが、大怪我ではない。
僕一人ではあの猫を追い払うことはできなかった。
僕はしりもちをついた状態から立ち上がり、
せめて礼を言おうと思って女に近寄った。
「あの」
「止血はちゃんとしておきなさいよ? さよなら」
会話にすらならなかった。
この人の声は抑揚がない。ロボットみたいだ。
猫を殺すのにためらいがないこと、とどめに頭を
つぶしたこと。殺しそのものを楽しんでいる風だった。
少し前にインターネットでこんな記事を読んだことがある。
猟奇殺人の第一歩は動物のいじめ、虐待、虐殺から
エスカレートし、やがて殺戮の対象が人間へと変わる。
あの女は例の脱獄犯を殺した犯人だ。僕はそう確信したのだった。
視点~堀カリン~
【ようこそいらっしゃいましたカリン様。マリン様】
食堂のテーブルに置かれた、
予約席プレートに上の文章が書いてある。
時刻は5時前。テーブルにはナイフとフォーク、
テーブルナプキンが並んでいるだけで、
まだ料理は運ばれていない。
夕食の時刻は7時ちょうどと決まっているからね。
私達は夕食に送れないようにと早めに来ているの。
おじいさまは気まぐれな方で、
気が向いた時にこの小さな夕食会に招待してくれる。
ここはおじいさまの家。私とマリンはJRの路線を乗り継いで
新宿区の一等地へと足を運んだわ。だいたい毎月一回くらいは
おじいさまにお呼ばれして食事をするの。
今日は金曜日。会社が一番忙しい時なのに課長にお願いして
午後から阪急を頂いたわ。上司はかなり不満そうだったけど、
こっちだっておじいさまに誘われたら断れないのよ。
ひとつ開けて隣の席に座っているマリンは、ずっとスマホを
いじっているから私との会話がない。こいつは要がなければ
私に話しかけることは基本的にない。
レナに対しても同じ。三姉妹の中で一番の変わり者だから、
お父様と話すとき以外は不愛想。私は仕事で疲れているのもあって、
目をつぶって仮眠をとることにした。イスに座ったまま
寝るのは得意だから、もしかしたら本気で寝ちゃうかもしれないけど。
「お嬢様方、お飲み物でございます」
来た来た。能面をした不思議な男。仮面の裏の顔を
見たことがないけど、いったい何歳なんだろう?
能面は私が10歳の頃はギリギリ30代だと聞いていたけど、
今でも全然年を取っているように見えない。
物腰が柔らかくてとにかく紳士。
堅苦しい鈴原とは雰囲気が全然違う。
「どうもありがとう」
マリンの奴は彼の顔を見ずに言う。
能面には特にそっけない態度を取るのよね。
彼の方もどこかマリンに遠慮している気がする。
マリンはストローに口を付け、レモネードを
一気に飲み干してしまった。
本家(おじいさまのお兄様の家が本家。
ここは正確には分家だけど、私達はこう呼んでいる)
で出されたものなんだから、もっと味わって飲みなさいよ。
「まあ」
私の避難の視線など全く気にせずに、
マリンがスマホの画面から顔を上げる。
「速報によりますと、件の女殺人鬼の方が逮捕されたと」
「脱獄犯を殺した犯人のこと?」
「ええ。お姉さまはこういう話題がお好きでしょう?
女の顔写真がネットで公開されていますわ。
ぜひご覧になって」
買い換えたばかりのスマホを見させてもらうと、
殺人鬼とは思えないほどの美人でびっくりした。
砂浜で友達と遊んでいるシーンだ。友達いたのかよ。
しかも若い。高校生の時の写真? 今の写真はないの?
「色々な写真が出回っていますが、大半が偽物でしょう。
もうすぐテレビで報道されると思いますから、
その時を待つことにしましょう」
わあ。すごい気になる。7時のニュースが楽しみ。
こんな日におじいさまにお呼ばれしたのが残念。
この館はテレビがないんだっけ?
おじいさまがテレビ嫌いで有名な方なのよね。
だってこの館、15世紀か忘れたけど、大昔のイギリス貴族の館を
再現しているから、室内の明かりはろうそくが基本だよ。
私の家も豪華だけど、まず館の柱の作り方が全然違う。
こういうのはロマネスク様式っていうの?
天井が無駄に高いせいか、私達の声が良く通る。
キリスト教の聖人や天使が描かれた天井画はすごい迫力。
離れには場所に小さな礼拝所がある。
そこにある聖母様の像にはかなりお金を
かけたと聞いたことがある。
おじいさまはイエスより聖母マリアへの信仰が強いそうなの。
音楽室もあって、おじいさまに頼めば、
ヴィオラ・ダ・ガンバやチェンバロを触らせてもらえるけど、
あいにく私に音楽の才能はないよ。まず楽器に詳しくないし。
そもそもそんな楽器の名前を聞いたことがないよ。
マリンが中世に使われた楽器だと教えてくれた。
おじいさまは古いものがお好きだから、
私生活においては今風のデジタル家電には興味を示さない。
それでもエアコンは入れてくれるけどね。
仕事の第一線を退いてからは、俗世間から離れて
中世の貴族の暮らしを続けている。
そのせいか、考え方も大変に古いお方。
昔からよく言っていた。なんでも新しいものを好む米国人や
日本人の感性は残念だと。資本主義の悪徳だと。
英国人は逆に古く使い続けている物に
価値を見出すそうなのね。ミウからもよく聞かされていた。
英国ではリフォームを繰り返して
同じ館に120年以上住んでいる人がいたりする。
家具も修繕を繰り返して長年使い続ける。
物を大切にする人は世間から称賛されるみたい。
歴史や伝統を大切にするお国柄なのね。
「お嬢様方。ご党首様でございます」
能面が大きな二枚扉を開けると、車椅子に乗ったおじいさまが
入って来た。お年のせいか、すっかり弱ってしまって
自分の足で歩くのも疲れるほど見たい。
現役時代に仕事に精を出した人ほど老いが早いんだろうね。
80代の後半でも目つきは鷹のように鋭く、発する声は
私達に無駄なプレッシャーを与えるほど威圧感がある。
背丈は160センチ程度の小柄だけど、最盛期は
ルイ・ナポレオン将軍の再来とまで呼ばれていたそうだよ。
「おじいさま。ご無沙汰しております」
マリンが席を立ち、社交辞令を言った。私もすぐに続く。
いつ話しても緊張するな。おじいさまの方は
孫の私達を本当に可愛がってるうようだけど。
「君達に変わりがなさそうで安心した。
この席にレイナがいないのが残念だが」
私の双子の姉のレイナ(本名)は、三交代勤務のナースを
しているから、忙しくてめったに会えることはない。
メールを送っても返事が遅いからね。
子供の頃は喧嘩ばっかりしていたけど、離れて暮らしてみると
さみしいものだね。パパが昔言っていた言葉が今になって分かるよ。
「さ、食事を始めようじゃないか」
おじいさまに出されたのは白ワイン。
それと少量のお肉とサラダだけ。
80を過ぎてから食欲が減退したらしく。
お酒ばかり飲んでいて健康を害しているらしい。
主治医からはお酒を辞めるように言われているけど、
タバコは吸わないからこれくらいはと、おじいさまは譲らない。
「マリンには太盛のことで日々迷惑をかけていると思うが、
容態はどうだ?」
「先日お医者様に診てもらいましたが、年々体調が
良くなってきていますから、歩ける時は外を歩いたりして
筋肉を動かせば、次第に心も回復に向かうそうです」
「そうかそうか」
「今週末に公園を散歩したいとお父様は
おっしゃっていましたわ。ボランティアでもいいから、
何かしらの社会貢献がしてみたいとも」
「良いことだ。ここ数年で見違えるように回復してきたようだな。
マリンが世話をしてくれたおかげだ。改めて礼を言う」
嘘偽りのない感謝の気持ちなのだろう。
マリンは「私の力はたいしたことありませんわ」と
恐縮して手を左右に振ってしまうのだった。
「まったく私は愚かな息子を持ったものだ。
あいつは結婚して子供を持っても
人間的に成長することはなかった」
お父様の悪口を言うのはお決まり。
マリンはこの瞬間が大嫌いなのに
おじいさまは気づいていないのかな?
「さて」
今度は私の番だ。
おじいさまは私の結婚を一番気にしている。
きっと説教臭いことを言われるのは分かっている。
妹のマリンは放置なのに、私の結婚のことは口うるさいんだから。
「カリンは今後の人材派遣業界がどう推移すると思う?」
「えっと」
仕事関係とは思わなかった。
しかも即答できる質問じゃない。
~姉妹の絆、兄弟の絆~
「派遣労働法が解禁されて久しい。派遣従業員の数は
全労働人口のうちの約半数近くを占めるようになった」
こういう話をする時は厳しいお顔。
経営者としてのおじいさまのお顔をされているのね。
「少子高齢化とバブル崩壊後の経営難から
企業は積極的な人材への投資を怠った。
その結果の人材不足なわけであるが、
最近の新聞記事ではこう書いてあった」
製造業を中心に派遣社員の需要は20%近く増。
これだけ見れば期待ができるけど、実際は違う。
「業界の縮小は確実である。派遣業界のみならず、
銀行など多くの業界で吸収、合併、倒産の流れは止まらない」
もうすぐ法改正がされて、資本金(純資産)2500万以下の
派遣会社はつぶれてしまう。派遣労働法解禁後、
際限なく増え続けた派遣会社を政府が減らそうとしているのだ。
派遣会社は大手を中心に、うまく人材を確保して
利益を確保したところだけが生き残れる。
はっきりいって私の会社が生き残れる保証は全くない。
デフレが長く続きすぎた日本では企業の投資意欲の減退、
銀行が貸出先を見失ったこと、少子化による労働力不足などで
企業レベルで取り返しのつかないダメージを受けた。
そのため国民の経済レベルでの
景気回復はかなり先の話になるとおじいさまは言った。
「カリンが大学を出てから実に7年か。
おまえは院へ進むことを望まずに就職を望んだ。
三度の転職後も営業畑を歩み続けた。そろそろ
落ち着いても良い頃ではないのかと私は思うのだがね」
今回は遠回しに結婚を勧めて来た。
私はあんまり男性に興味ないしなぁ。
今の会社ストレスマッハだけど一応勤まっているんだよね。
それに結婚してから専業主婦になるのは嫌なの。
夫に食べさせてもらうのって考え方が古いと思う。
夫婦は対等な関係でなくちゃ。
そもそも自分が家事をやってる姿が想像できないよ。
氷が満載されたワインクーラーには、赤ワインと白ワインが
いくつも入っている。ろうそく、グラス、野菜スープのお皿。
私は何気なしにそれらを順に眺めてから、
赤ワインの入ったグラスを手に取り、ぐいっと喉に流し込んだ。
下品な飲み方になっちゃった。
「実は結婚に希望が持てないのです」
「ほう。太盛の影響かね?」
「それもありますけど、最近はシングルマザーが
多いじゃないですか。私はママに似て細かい性格だし、
独りでいるのも楽しいと思っているから、
結婚に向いてないのかなと思っています」
「それは相手次第だ。太盛の結婚相手を少し間違えていたのは
認めてやってもいい。だがカリンの場合はもっと慎重に
決めてあげようと思っているんだよ。老人、いや親心としてね。
人生にはパートナーが必要だ。人が独りでいるのは
良くないことだと聖書に書かれている」
「心配してくださるのはありがたいのですが、
おじいさまのご期待に沿えるかどうか不安で」
「なにも絶対に結婚相手と一生を共にしろとは言わない。
太盛の件では私にも反省すべきところはあった。
エリカ君との別居でも認めていれば、蒙古への逃亡は
防げたことだったと思っている」
昭和で凝り固まった頭ではいかん。
少し柔軟な発想をしなければ。とおじいさまは言った。
少しだけ丸くなったのかな。
「カリンが相手と会わないままでいると、仲人としての
私の立場がない。これ以上相手方に無礼な態度を
取り続けるもどうかと思う。一度だけで良い。
会ってやってはくれないか?」
そこまで言われたら断りにくいな。
ん? マリンがめずらしくこっちを見ている。
何よその目は? おじいさまの言うことを聞けって
言いたいのでしょうね。分かったわよ。
私が了承したことを伝えると、おじいさまは今日初めて
笑顔を見せてくれた。そんなにうれしそうな顔をしないでよ。
私の方は全く期待してないんだから。
あー。高いワインだとすぐ酔っちゃうのよね。
頭がふらふらする。廊下を一人で歩けないかも。
かといっておじいさまの目の前で寝るわけにも行かないし。
マリンがおじいさまに質問しているけど、金融のこと?
マリンがお呼ばれした時は難しいをしたがるのよね。
おじいさまも乗り気で、知的好奇心の強いマリンを気に入っている。
私は眠気と戦うのに必死だったので、さらっと聞き流すことにした。
「まったく……テレビでマスメディアはそう報じているのか。
政府の債務(借金)と国民の借金を同列に語るのは間違っておる。
ギリシャのような財政破綻などするものか」
「やはりそうなのですか。経済新聞でアナリストの方も
同じことを指摘しておりました」
「国債を発行するのは政府だ。それを主に日銀と民間など
金融機関が買い取る。日本国債は、ほぼ全てが円で
取引しているから、ギリシャのように外国債券市場の
影響を受けることがない。円で買われたものを円で返す。
それだけのことだ」
マリンが興味深そうに頷いている。
「もちろん債券なので償還時の利息はある。
国民に返済義務があるとしたら、利息分だけだろう。
政府の債務残高とは、当たり前だが債務は政府にあり、
債権を有しているのは金融機関だ」
「しかし、財政を支えているのは税金ですから、
どうしても国民の借金と考えてしまいがちなのですね」
「それは全く言葉遊びの次元である。これは財務相の人間の
受け売りだが、人のポケットから、金融機関、政府の
ポケットへとお金が移行していると考えると分かりやい。
そして金融商品の取引なので返済期間と利息が生じている。
お金は回るものなのだよマリン。不景気で銀行には貸し手がいない。
だから政府が借りる側に回っていると考えなさい」
「なるほど。銀行の保有している預金は借金と同等。
貸し手を探さないと利益を出せません。
政府は毎年大量の国債を発行し続けています」
「金利は20年近く下がり続けたが、悲観する必要はない。
国債市場で日本国債の評価が高いから下がるのだ。
金利はマスコミではなくマーケットが決めることであるから、
新聞などが危機感を煽るのは全く間違っておる」
マリンは頭が良いね。よくおじいさまの
話しに着いていけるよ。大学の講義を
聞いているみたいで余計に眠くなっちゃうよ。
「おじいさまのご意見をぜひ伺いたいのですが、
今の日本の経済はどうなっているのでしょうか。
大企業の収益ばかり増加して国民生活が豊かになりません」
これを一部の人は、資本主義の限界だと指摘していますが」
「これが限界なものか。景気の変動があるのが資本主義の基本。
昭和のバブル期を経たのだから停滞するのは当たり前だ。
停滞期の後はゆるやかな上昇期、回復期になる。
日本は国全体にデフレが浸透しているから、時間はかかるがね。
長く停滞期が続いたから限界と主張するなど、歴史を知らぬ証拠だ」
「良い時もあれば、悪い時もあると言うことですね」
「その通りだ。英国、オランダなど資本主義の大先輩は
何度もその流れを繰り返してきた。
そして国家制度は一度も滅んでいない」
生ハムを口に運び、さらにお酒が進むご党首様。
お年の割には結構の飲むね。
孫娘と話するのが本当に楽しみなんだ。
おじいさまは、洗練された資本主義、民主主義国家は
社会主義国家をはるかに超越すると主張した。
議会制民主主義のイギリスは特に良い例で、
600年間一度も戦争に負けなかったのは
地政学的な面よりも優れた政治制度と海軍力にあると言った。
おじいさまは歴史のある国が大好きで、
特にイギリスを褒めることが多い。
ミウがお気に入りなのはそういう理由なのね。
私は少しだけ眠気のピークが過ぎ去った。
「ねー。おじーちゃん。金融のことより北朝鮮の
方が心配じゃない? 最近ミサイル打ってこなくなったよね」
「カリン姉さまっ。口調を正しなさい」
「まあいいではないか。楽しいお酒の席だからな」
おじーちゃん、やさしー。
酔うと敬語使うの、めんどくさいじゃない。
おじいちゃんの家のワインは高級すぎるんだよ。
おじいちゃんは国連安保理の経済制裁とか、米朝首脳会談とか
難しい言葉で説明してくれるけど、今の私の頭には入らないよ。
「よく分からないけど、ミサイルたくさん打たれたら
日本は滅びちゃうのかな?」
「そう簡単に滅びるものか。2600年以上前に
初代天皇陛下が国を治めてから一度も滅びていない。
太平洋戦争で敗北した。空襲で焼け野原になり、
原爆まで落とされたが、それでも日本は復興し、発展した」
「おー。日本すごいじゃん。
天皇家ってそんなに歴史あったんだ」
私はマリンに冷たい目で見られながらも、
チーズなどのおつまみを食べていた。
「姉さま。今の国際情勢で日本が
攻撃されるわけがないでしょ」
「でもさぁ。本当に攻撃されたら怖いじゃん?
私らも死ぬかもしれないし。そう考えたら
将来のことなんてどうでもよくなっちゃうよ」
「日本の自衛隊は君達が思っている以上に優秀だよ。
死ぬことなんて若いカリン達が気にすることではない。
前向きに行きなさい。人生は自分の考え方次第で
どうにでもなるのだ」
未来を知るためには歴史を知りなさい。
そして神に祈りをささげる時間を大切にしなさい。
おじいさまはそう何度も主張した。
マリンもだいぶ酔っていたみたいで、
うとうとし始めた。夕食はこれで終わりになった。
能面の男が、おじいさまの車椅子を引いていく。
おじいさまは本当に弱ってしまったのね。
今夜は泊まって行きなさいと言われたので甘えることにした。
どうせ明日は休みだしね。
私とマリンは客間を一部屋ずつ与えらえれた。
中世にタイムスリップしたような部屋だった。
壁には聖ペテロの絵画。天蓋付きのベッド。
テレビやパソコンはもちろんない。
まさに寝るだけの場所。無駄に高そうな壺とか小物が
置いてあるけど。あっ…ピアノのおもちゃかと
思ったら、ピアノ型のオルゴールなんだ。
可愛いから家に持って帰りたいくらい。
鳴らしてみたいけど、勝手に触ったら
怒られそうだから諦めよう。
私はふかふかのベッドに体を沈めたけど、
いつまでたっても眠気が襲ってこない。
おかしいな。食道にいる時はあんなに眠かったのに。
じっと天井を見つめていると、
コンコンとドアを優しくノックされた。
「カリン姉さま。まだ起きてる?」
まさかあいつの方から用があるなんて。
そんなに急な話なのかな?
私の方からドアを開けてあげた。
「緊張しているせいか、なかなか寝付けないのよ。
姉さまに話し相手になってほしいと思って」
「私もだいたい同じだよ。本家って無駄に
緊張するよね。お屋敷の重苦しい雰囲気のせいかな」
熱烈なファザコンだったマリンは、私やレナとは
あまり話をしたがらなかった。だから実の妹とはいえ、
夜に二人で話し込むなんてことはまずなかった。
振り子時計の無機質な音が、うるさいくらいに響いている。
私はこれ苦手なんだよなぁ。今は深夜の一時過ぎだ。
「姉さまは知っている?
私は高校時代に付き合った人がいたのよ」
「えっ。うそ。あんた恋人作るのは
興味ないって言ってたじゃん」
「私、ずっとファザコンだったでしょ?
逆にパパに心配されちゃって。
学生時代に恋愛経験のない人は
将来苦労することになるって」
「相手はどんな人だったの?」
「文科系でおとなしそうな感じの人だったわ。
たまたま同じ美術部の先輩で、たまに話を
する程度の仲だったんだけど、急に告白されたから
まあ、いいかなって。顔も悪くないし」
「どうせすぐ別れたんでしょ?」
「ばれた?」
「うん。あんたが年の近い男を好きになるわけないもの。
で、どれくらい続いたの?」
「2週間」
「短すぎでしょ」
「休みの日にデートしたんだけど、何が楽しいのか
分からなかったわ。向こうはすっごい緊張して
ガチガチだったけど、私は逆にしらけちゃった。
ときめきも何もなし。やっぱり私は恋愛に
向いてないって思った」
「たまたまその人が合わなかっただけじゃないの?」
「私も最初はそう思って、今度はもっとワイルドな感じの
人と付き合うことにしたのよ。私はいつも告白されることが
多いんだけど、私からデートに誘うってパターンで」
「積極的ね。で、その人ともダメだったんでしょ?」
「その通りなんだけど、デートって映画を見たり
美味しいものを食べたりするだけじゃない。
相手の好みに合わせるのもめんどくさいし。
待ち合わせもめんどくさい。こんなことをするなら
一人で時間を使ったほうが有意義だと思ったの」
「それさ、たぶん相手を一方的に傷つけただけで
終わったと思うよ。デートに誘った意味がないし、
相手を実験台に使っただけじゃない」
「私の方から別れましょうって言ったら、
くやしそうに泣いていたわ。それから
学校中に悪いうわさが広まってしまって、
卒業するまで居心地が悪くなったわ。
おかげで男子から声をかけられることは
なくなったけどね」
「なんだかミウに似てるような気が…」
「そうそう。あの時ミウの気持ちがすごく分かったわ。
さすがに中退する気はなかったけど。
……それにしても女子はうざかったわ。何様のつもりなの
あいつら。陰でこそこそ人の悪口ばかり言って」
マリンは気に入らない生徒をどんどん先生に通報しては
敵を増やし、一方で仲の良い女子で固まってマリン派閥を
作るなど、やりたい放題やっていたらしい。
かなり敵の多い学園生活を送っていたせいか、高校の
同窓会には一度も呼ばれてない。マリンの方も
行くつもりは全くないから構わないと言っているけど。
マリンは昔の愚痴をこぼして満足し、
話題が私の結婚のことになった。
「姉さんは子供欲しくないの?」
「欲しいとは思うよ。でも親に決められた相手と
ずっと一緒に過ごすのって考えられない。
パパがよく言ってたけど、夫婦なんて赤の他人じゃん。
あんただって私の気持ち分かるでしょ?」
「ええ。分かるわ。私も結婚願望ないもの」
「だったら偉そうに言わないでよ」
「私はファザコンだからいいのよ」
「なによそれ。てか自分でファザコンなことは認めるのね」
「私はお父様が完治するまでおそばを離れるつもりは
ないわ。でもカリン姉さんには幸せになってほしいの。
姉さんは器量が良いのに独りでいるのはもったいないわ」
普段話さないけど、妹のこいつなりに私のこと
心配してくれていたんだね。少し感動。
あとでレナにも教えてあげよう。
「携帯が鳴っているわよ」
「え、どっちの?」
「姉さまの携帯よ」
こんな深夜に誰だろう?
フゥ君からのメールだった。
中学生は夏休みだから夜更かしは余裕ってことね。
こっちの都合はスルーされているのが癪だけど。
【例の犯人、捕まりましたね】
女殺人犯の顔写真を付けてくれた。
そうらしいね。でも眠いからあとでね、と一言。
スタンプを送信しておいた。ちょっと冷たかったかな?
「相手は男性の方なの?」
「友達かな。年下だけど」
「何歳下の人なの?」
「15歳かな」
マリンが一瞬だけ固まった。
「なるほど。ショタコンだったから婚約者と
会うのを断り続けていたのね」
「違うって」
完全には否定できないけど。
「その男の子とどうやって知り合ったのよ?」
「○○書店でよく会うからさ。あの子が推理小説のコーナーで
一生懸命本を探しているのよね。何を探してるのって
定員みたいに話しかけたのがきっかけだったかな」
「その子も姉さんみたいに読書好きなのね」
「うん。英語の小説を原文で読むことにだわって
翻訳ながら読んでいるみたい。そんなところが
少し昔の自分に重なった。蒙古からパパが
帰って来てから私は人間不信になったでしょ?
それで引きこもることが多かったじゃない」
「そんな時期もあったわね。ずいぶん昔のことだけど」
「ええ、昔のことね」
モンゴルのことはマリンと話すと
喧嘩になるからやめておこう。
帰国後のマリンのヒステリーはすごかった。
パパがおかしくなったのは私もショックだったけどね。
マリンがママだけじゃなく、ミウや後藤にまで
八つ当たりしてのはドン引きだったよ。
「男の子はフゥ君と言うのね。フゥ君とはどんな話をするの?」
「小説や映画の話とか殺人事件のことね。
学校の悩み相談とかも受けるわ。
年相応の悩みを抱えている彼の顔、
可愛くてついつい話しこんじゃって……。
あっ今思い出した。そういえば例の女だよ」
「ああ、そうでしたね。
スマホで調べてみましょう」
妹と時間を忘れておしゃべりする日が来るとは思わなかった。
どれだけ時間が過ぎたのか知らないけど、気が付いたら
どちらともなく疲れて同じベッドで寝てしまった。
翌朝、お越しに来てくれた使用人の人が、
私達の仲の良さに少しだけ驚いていた。
~三人称視点~
疲れ果てた顔で帰宅した世帯主の本村ユキオ。
玄関を開けると、食卓からミホのすすり泣く声が
聞こえる。大切な娘の泣き顔を視界に入れるのは辛かった。
本当なら、娘をこんな目に合わせる奴をぶん殴ってやりたい。
だが、ミホを痛めつけているのは息子のケイスケだ。
「ミホ。ごめんね。ミホ。痛かったか?
次は絶対にこんなことしないから、ごめん」
ケイスケはミホを強く抱き締めながら決まり文句を口にする。
いわゆるDV。学校のみんなに知られないように
顔以外の目立たない場所を殴っていた。
学校ではカップルとか新婚夫婦とまで呼ばれているのに、
なぜこんなことを? それは父のユキオが一番問いたかった。
「ふん」
ユキオは子供たちの茶番に見て見ぬ振りをして、
サランラップをしてあるおかずをレンジで温めた。
本村家の夕飯はミホが作ってくれる。
ケイスケが暴力に目覚めたのをきっかけに
両親の仲も険悪になった。
息子と娘は極度のブラコン、シスコン。
世間の評判など全く気にかけず、買い物など
二人で手を繋いでするものだから、
周りの人から奇異の目で見られていた。
週末は同じベッドで寝る時もあった。一緒に
お風呂に入ろうとした時はマリエが怒鳴って止めた。
認めたくないが、二人は真剣に愛し合っているようだった。
育て方を間違えたせいだと、
夫婦はどちらかに責任を問い、日々喧嘩を繰り返した。
特に金曜は夜の決戦とまで呼ばれるほどの壮絶さだった。
「お兄ちゃん。いいよ。もういいの。顔を上げて。
私は気にしてないから大丈夫」
自分の足にすがり付いて泣き続ける兄を、ミホはただ許してしまう。
ケイスケが暴力を振るった理由は、ミホが夏休み前に
男子に告白されていたことを知ったからである。
その男子はもちろん相楽である。
ケイスケは独自の情報網を持っていて、
ミホの学校で起きたことをいちいち把握していた。
『おまえはなんで学校の男に告白されてんだよ!!』
ケイスケはミホがモテるのが気に入らなかった。
ミホに男のうわさが出るたびに荒れ、ミホに手を上げるのだった。
DVはささいなことで起こる。
例えば、ミホが学校で自分以外の男性に親切されたり、
店先で定員と長く話し込んでいると、血走った目で睨みつける。
そして家に帰ってから尋問し、
ミホの返答に関係なく暴力へと発展する。
「私はお兄ちゃんのものだから。
お兄ちゃんのそばから絶対にはなれないから安心して」
「お前はそう言ってくれるのか。
こんなバカな兄貴なのにな」
ケイスケは痛いくらいにミホを抱きしめ、くちびるを奪う。
ミホは人が良いので、ケイスケに泣いて謝られるとつい
許してしまう。
小さい頃からかっこよくてミホを守ってくれる存在だった兄を
ミホは覚えている。心が引き裂かれる一方で
兄は弱いから私がいないとダメなんだと思うようになった。
兄が自分以外の家族に暴力を振るうくらいなら、
いっそ自分が受け止めたほうが良いと思っている。
典型的なダメパターンである。
(お腹や肩にあざができて、またすぐぶたれるから
傷が治る暇がない。まだ顔はぶたれてないけど
時間の問題だよ。誰か相談できる人がいればいいけど)
一番の相談役である父は、薄情にも静観。
一度ケイスケと大喧嘩し、派手な殴り合いを
した後は不干渉を決め込んだ。
母のマリエは暴力を恐れて実家に帰ってしまった。
学校の友達に相談しようにも、女子達に知られたら
学校で居場所を失うのは確実。先生ならどうかと思うが、
自分たちの関係が近親相関だと疑われているのは知っている。
ならば。
(フゥ君ならどうかな)
兄にばれないようにこっそり彼と会えれば、あるいは。
彼はミホを本気で心配してくれる貴重な存在ではあった。
「ミホ。夏休みだから今夜も一緒に寝ような?」
キスはしたが、体の関係にはなっていない。
ミホは兄が逆上するのを恐れて断ることはできなかった。
今はたまたま悪い時期。いつかまた、優しかった頃の
兄に戻ることを信じていた。
次の日は雨だった。
ミホが八時過ぎに目覚めると、
枕元に兄の字で書置きがあった。
『野暮用があるから出かけてくる。
午後までには戻るから家にいてくれ』
(雨なのに用事があるのかな?)
朝食にトーストを焼いて食べた。
学生は夏休みでも社会人には平日なので
父はとっくに出て行った。
兄に束縛されない久しぶりの朝だったので
心がほっとした。家にいろと言われたけど、
そう言われたら逆に外出したくなるのが人間だ。
特に行きたい場所などなかったが、
外の空気を吸うために玄関に鍵をかけ、街へ出た。
学校の通学路の途中に住宅地がある。例の殺人現場である。
(ここで脱獄犯の人が殺された……)
ミホは知らなかったが、相楽の自宅跡地もここにある。
カーブを描く車道沿いの反対側に水路がある。
この水路の近くで事件があったのだ。
ミホもニュースで女殺人犯が逮捕されたことは知っている。
実名で写真も公開された。犯人は必ず現場に戻ると
聞いたことがあるが、もうその心配をする必要はない。
だが、こういう場所に来ると何か怨念とか心霊的な
気配を感じてしまい、背筋が冷たくなってしまう。
傘を持つ手に力が入る。
小雨が降り続く静かな朝だった。
水たまりがはねる音がした。
振り返ると、よく知った同級生の顔があった。
「やあ。こんなとこで会うなんて奇遇だね」
フゥ君である。ここに兄がいなくて良かったと
ミホは心から思った。ミホが出先で偶然とはいえ、
男の子と会ってると知ったら発狂しかねない。
「フゥ君は私がどこにいても現れるね」
「なぜなら、僕がそう望んだからさ」
知ったようなことを言う中学生である。
「君は事件に巻き込まれている。そして誰かに
相談したいと思っている。そうだろう?」
なぜ話してもないのに分かるのかとミホは思った。
彼の視線は、首筋の小さなあざに向けられていた。
本当に小さなあざだから、かなりの観察力が
ないと気づかないはずだ。
「今日は、お兄さんはどうしたの?」
「朝一人で出かけたの」
「めずらしいね。君を置いて行くなんて」
「うん」
「俺ならここにいるぞ?」
低い声がした。明らかにケイスケの声であることを
理解し、フゥが振り返ると同時に頭に鈍い痛みが走った。
ケイスケの手には大きな石が握られていた。
ハンドボールより少し小さいが、鋭利な部分があり、
危険である。後頭部から血を流して
起き上がれないフゥに、ケイスケはさらに石を振り上げる。
「お兄ちゃん、やめて!! それ以上やったら死んじゃうよ!!」
ミホは身長差があるのでケイスケの腕に
ぶら下がるようにして体重をかけた。
妹の本気の抵抗にさすがにケイスケも手を焼いた。
ケイスケは妹に手を出さないと誓ったばかりなので
ミホを力ずくでどかすことはできない。
口先だけで吠えるのだった。
「俺の怒りはこんなもんじゃ収まらねえぞこら!!
てめえ人の妹に手を出そうとしやがって!!」
ケイスケの目つきは異常者のそれだった。
ミホはなんとか兄をなだめるために、あえて別の話題を振った。
「お兄ちゃん。今日は出かけてるんじゃなかったの?」
「嘘に決まってんだろ。俺が見てない時に
ミホがどんなことしてるのか気になったから
追跡してたんだよ。そしたらおまえ、
学校の男と会う約束してたのか」
いつもの衝動でミホの頬にビンタが飛びそうになるが、
寸止めした。ギリギリのところで理性が勝ったのだ。
「あんたたち、そこで何してるの!!」
近所の主婦が駆けつけ。大騒ぎとなった。
特にフゥが血を流して倒れてるから、
すぐに救急車を呼ばれてしまうのだった。
フゥの傷は死ぬほどではなかったが、
二週間の検査入院が必要になった。
加害者のケイスケは未成年のために
罪に問われることはなく、男同士の喧嘩ということで
周囲を納得させた。その後、フゥの父親が本村家に
対して賠償を要求するに至るが、被害相当額を
全額ユキオが払うことを示談で済ませた。
すぐに同級生や学校側にうわさが広まり、
本村家のミホをめぐってフゥとケイスケが
血みどろの争いをしたことになってしまった。
実際はフゥが一方的に痛めつけられたのだが。
ユキオのショックは大きかった。
ついに家族だけでなく他所の子供にまで手を
あげてしまったケイスケ。
打ち所が悪ければフゥは死んでいたかもしれない。
もはや息子と勘当したいレベルであるが、
その暴力的な欲求の根源がどこにあるのか。
育て方とか家庭環境とか、
そういうレベルを超えている気がした。
本村家の食卓にて。
「なんだよ。夕飯の時間なのにご飯作ってないじゃないか」
「今日は夕方までお昼寝しちゃったから
作るのが面倒だったの」
「しかも冷蔵庫の中身もカラじゃねえか。
しょうがねえな。今夜は外食だ」
「また外食はちょっと……。
外食ばかりだとお金なくなっちゃうよ」
「うるせえな。俺が外食と言ったら外食だ。
どうせ安いとこで食べるんだから金は心配しなくていい」
「でもお父さんの食べる分が無いでしょ。
スーパーで出来合いの総菜を買ってこない?」
「おいミホ」
またこの目つきだと、ミホはおびえた。
「俺は。おまえと。二人で食べに行きたいんだ。
この家で食べるのは嫌なんだよ。
いるだけでストレスたまる。
なあ、俺と一緒に食べに行くのそんなに嫌か?」
荒れモードの時の兄に逆らうと拳が飛ぶ。
経験的に分かり切っていることだから、
ミホはおとなしく従った。
~悪霊・ジン~
~三人称~
「夜なんだから服は意識しなくていいよ。
さっさと出発するぞ」
兄は妹がおしゃれするのを嫌った。
服を選びに行く時は、できるだけ地味なデザインの
服を勧めるようにしていた。以前おばさんが着るような
色の服を選ばれた時は、さすがのミホも怒った。
「今日はどこに食べに行くの?」
「マック」
定員が若い男性だったので、ケイスケがミホを制して
自分でレジへ行った。二人分のセットを注文して
席に着くと、ミホが声を出さずに泣き始めた。
「おい」
「だって……こういうの、もう耐えられないの」
「俺がおかしいって言いたいのか」
「昔はすっごく優しくて、かっこよくて。
友達にも自慢できるお兄ちゃんだった」
「店先で泣くなよ。みんなに見られるだろうが」
テーブルの下でケイスケに足を踏まれるが、
ミホはさらに続けた。
「私はお兄ちゃんの奴隷でもないし、家政婦でもない。
お母さんが出て行ってから家事やるの大変なんだよ?
今は夏休みだからいいけど、
私の苦労がお兄ちゃんに分かる?」
「おまえはこれからも俺と一緒に暮らすんだから、
今のうちに家事は覚えておいたほうが良い」
「少しくらい料理とか手伝ってよ。
お兄ちゃんはテレビ見てるだけで
野菜すら切ってくれないじゃない」
ケイスケは答えず、マックシェイクを飲んでいる。
都合の悪いことは答えないのが彼の性格なのだ。
もっともミホの言うように、
もともとこんな性格ではなかったのだが。
「私、あとでフゥ君のお見舞いに行くから」
「あ?」
「だってお兄ちゃんが原因で入院してるんだよ?
当事者の私達が一度もお見舞いに行かないなんて
おかしいでしょ。またクラスで噂になっちゃうよ」
「世間の評判なんか気にするなよ。
世の中はクソばっかりだ」
「クソはお兄ちゃんの方でしょ!!
私は何て言われようと絶対にお見舞いに行くから!!」
「おい。俺に逆らうつもりか」
またあの目つきになった。
ミホはひるみそうになったが、勇気を出して続けた。
「ぶつなら気が済むまでぶっていいよ。
お兄ちゃんは弱いから。そうすることでしか
自分を抑えられないんでしょ?
お兄ちゃんは最低だよ。弱虫」
「……ちょっとこっちに来い」
まだ食事の途中だったが、ケイスケはミホを連れて店を出た。
人気のない路地裏に行くと、まずミホの顔を強くひっぱたいた。
「生意気なこと言ってんじゃねえよ。
妹のくせに、お前は何様のつもりだ」
また、平手が飛んでくる。
ミホは恐怖で抵抗できず、
ぶたれるたびに右へ左へと顔を振る。
ケイスケのひざがミホのお腹にめり込むと、
ミホがせき込みながら体を丸くするのだった。
ミホのせきが止まるまで待ってから、ケイスケは
涙ぐんだミホの顔を愛おしそうに見つめ、こう言った。
「ここなら誰もいないし、犯しちまうか。
中学卒業するまで待ってやろうと思っていたけどな」
嘘だと信じたかった。
だが兄は本気で妹を性の対象として意識していた。
ミホは路地から出て助けを呼ぼうかと思ったが、
すでにケイスケに左の手首を握らてしまった。
力で勝てない相手にミホが抗う術はないかと思われた。
ケイスケが強引にキスをし、苦しむミホの
短いスカートに手を伸ばしたところで、
急に動きが止まった。
(そこにいるのは誰?)
ケイスケから死角に当たる場所に、
見知らぬ人物が立っていた。背がすらりと高く、
髪型や体型からして女性のようだった。
路地裏の薄暗さでシルエットしか確認できない。
「あ……れ……?」
ケイスケは、右手の手首から先がなくなったことに気が付いた。
さっきまで自分の右手だったものは、地面に転がっている。
ぼたぼたと、腕から血がこぼれる。
女性の右手には鋭利な刃物が握られている。
路地に差し込む薄明りのもと、
コンバットナイフの先が赤く染まっているのをミホは見た。
大声で叫ぶケイスケと対照的にミホは静かだった。
あまりの事態の急変にミホはついていけなかった。
ケイスケは腕を失ったショックで地面にうずくまり、
発狂を続けている。
ミホは、女の人になんとなしに話しかけた。
「兄を……殺すのですか?」
女は答えなかったが、少しだけ笑みを浮かべたようだった。
ミホに少し近づいたので顔が見えるようになった。
ショートカット。毛先だけくせがついている。
おでこを出していて目鼻立ちは整っていた。
「あなたはどうしたい?」
「私は、兄に死んでほしくないです」
ミホは、目の前の女から感じるプレッシャーに震えた。
明らかに普通の人間ではない。
兄の荒れモードなど比較にならぬほどの
威圧感だった。女を怒らせたら
今すぐ刺し殺されると直感するほどに。
「Iya-ka-nasuta-in」
女は小声で呪文のような言葉を口にすると、
ケイスケの体に異変が起きた。
「うぅぅぅうぅぅぅうぅぅ、うあああぁぁあぁあああ、
うあああぁあぁぁぁああぁぁぁぁぁ。あああぁぁぁぁぁあああ」
この世のものとは思えぬほど低いうめき声である。
地面の上で手足をあらぬ方向に曲げ、不規則な動きを
続けていた。痛みのため苦しんでいるようだが、
それでも構わず不可解な動きを続けていた。
ゴキッとにぶい音がして、右の足が折れた。
足は90度おかしな方向に曲がっている。
首を天に向かって何度も伸ばし、背筋のような
動きを続けてなおもうめき続けた。
「うぐうぅぅぅうぅぅぅぅぅぅぉおおおおぉぉぉぉお」
限界まで体を振るわせた後、ついに息の根が止まった。
死後硬直の始まったケイスケの遺体を、
ミホは無表情で見つめていた。
兄は死んだのだ。
どうやって死んだのか。
人としての死に方ではなかったのは確かだ。。
小さい頃からの兄との思い出が走馬灯として
脳内を駆け巡り、大粒の涙がこぼれ落ちた。
ひざをつき、顔を両手で覆い、声を上げて泣いた。
「ふっ」
女はまた笑い声をあげ、宙に向かって指で
文字を書き始めた。ミホの知らない文字だった。
女が呪文を唱えると、ケイスケの周囲に
白い煙がもくもくと立ち込める。ケイスケの頭と
足の二か所から発生した煙は、瞬く間に周囲を覆い、
30秒もするとすぐに消え去った。
煙は、ケイスケの体を完璧にこの世から消してしまった。
「ひっ。や、やめて」
女が、恐怖で発狂寸前となっているミホの髪にそっと
なでると、ミホは耐え切れず失禁した。
次は自分が殺される番だと確信したが、
意外なことに女にそのつもりはなかった。
「あなたは家に帰ればいい」
ミホの意識はそこまで途切れ、次に目が覚めた時は
自宅のベッドの上だった。衣服はその時のままだった。
すぐに父の携帯に連絡し、事情を説明するのだった。
行方不明になったケイスケの捜索は
一ヵ月続けられたが、
ついに死体が見つかることはなかった。
~フゥの視点~
ここは病院の個室。分かってはいたけど、
本村さんが僕のお見舞いに来てくれることはなかった。
お見舞いとはいえ、僕とミホさんが会うのを
狂った兄貴が認めるわけがないからね。
奴の妹に対する異常な執着はいったいなんなんだ?
いきなり後ろから襲い掛かってくるなんて。
さすがの僕でも奴に殺意がわくよ。
検査は無事終わっているのですぐに退院できる。
この病院でのつまらない生活ともおさらばだ。
「フゥ君。朝の検温の時間よ」
朝一番に僕の部屋にやってくるのは堀レイナさん。
略してレナさんと呼ばれることが多い。
話を聞いてみたらなんとリンさんの双子の姉だと言う。
どおりで顔が似ているわけだ
姉妹そろって名前を略されているのが共通点。
僕のことは気に入ってくれたみたいで、
よく話しかけてくれる。
僕の読みかけの小説が目についたようだ
「フゥ君は本当に小説が好きなのね。
同じ本を読んでいて飽きないの?」
「読むたびに新しい発見がありますからね。
映画と同じ。少し間を置いてから見ると
別の視点から見えたりするでしょ」
「うふふ。カリンと言っていることが全く同じ。
なるほど。あいつに気に入られるわけだわ」
カリンさんの話をする時、レナさんはうれしそうだ。
双子姉妹は、子供時代は喧嘩ばかりだったそうだけど、
社会人になる頃から大の仲良しになったとのこと。
逆に妹のマリンさんは変わり者で苦手だったと教えられた。
そこまで言われると逆に気になっちゃうんだよね。
それにしてもこの人達は美人ばかりなのに
全員独身なのが信じられないよ。
消灯時間になり、部屋の明かりが消された。
僕は全く眠くない。
それでも無理して目を閉じると、
色々なことが思い浮かぶ。
今までお見舞いに来てくれたのは、学校の友達や先生、
家族。あとはリンさんか。リンさんは仕事が忙しいので
休みの日に来てくれた。
あのキチガイ兄貴……ほんとに死んでくれよ。
僕はあの日。本村さんの顔の傷を
見た時に一瞬で事情を察した。DVだと。
というか、前からそんな感じがした。
終業式の日に彼女が夏休みを喜んでなさそうなのが
なんとなく引っかかったし、兄が学校に
迎えに来る日にどこか脅えている気がした。
僕は事件に関することに敏感だ。
探偵でもないのに事件の匂いが分かる。
僕はふとトイレに行きたくなったので、
ベッドから起き上がった。
そして扉が開かないことに気づいた。
あれ? 外側からロックされているわけないよな?
病院側が患者を閉じ込めるわけがないし。
「うわっ」
僕は引き戸から手を放した。
扉にでっかい落書きがしてある。
大きな円の中に、模様が描かれている。
僕はこういうのに詳しくないけど、
アラベスクなのか?
後で怒られるのを承知の上で室内の照明をオンにする。
……どう見ても魔法陣だよな?
模様と一緒に黒字でアラビア文字?が描かれている。
扉が白だから、綺麗にコントラストになっている。
嘘だろ。いったい誰が何のためにこんなものを描いたんだ。
僕はもちろん違う。看護師さん達が書く理由もない。
そもそもこんなものを描く知識のある人がいるだろうか。
僕はすぐにナースコールを押すためにベッドに行こうとしたが
「うわあぁぁぁああああ!!」
窓際に見知らぬ女が立っていた。
こ、この女……あの時コンビニで見た女と全く同じ人物だ。
ババババ、バカな。この女は逮捕されたはずだ。
なぜなら『この女が例の殺人犯だった』ことが
顔写真から分かったからだ。
女は今ごろ刑務所で精神鑑定を受けているはずだ。
そいつが、なぜ僕の病室にいるんだ!!
まさか脱獄したのか!? バカな。そんなバカな……アリエナイ。
僕は恐怖のあまり気が違ってしまい、なんとしても
この部屋から出るために、扉に全力でタックルして
廊下へ出ようとした。
急いで扉の方を振り返ると、さらに絶望した。
女が、もう一人立っていた。
そうとしか表現できない。
扉側に女が一人いる。そして、反対の窓際にもいる。
つまり、どう解釈すればいい?
リンさんたちのように双子だったのか?
では警察に捕まっているのは姉か妹なのか?
そんなバカげた発想はすぐにかき消される。
なぜなら。女達は全く同じ存在だ。
顔の形も服装にも違いがない。
「んふふふふふ」
「んふふふふふふふ」
「んふふふふふふふふふ」
男性としか思えない低い声が二重奏。
三重奏と重なり、さらに恐怖をあおる。
僕は怖さに耐え切れず、奥歯がガチガチと音を鳴らし始めた。
なんだこれ。明らかに天井や壁からも女の笑い声が聞こえてくる。
こんな怪奇現象を味わったのは生まれて初めてだ。
小説でもなく映画でもなく、現実でこんなことが。
足元に何か違和感があると思ったら、
なんと床にも魔法陣が描かれている。
「ひひひひひひ。ひひひひひひひひひひひひ」
だ、だめだ……。僕の人生はここで終わりだ。
理由は分からないけど、僕はここで殺されるんだ。
いっそ楽な方法で殺してほしい。
妙に冷静な頭でそう考えていると、視界が
ぐるりと一回転し、気が付いたら寝ていたらしい。
翌朝六時に、別の看護師さんが検温にやってくる。
僕は取り乱し、すぐにこの病院から出してくれと主張した。
主治医の他、医師たちが集まり、半狂乱になった僕を
落ち着かせようと必死になった。
僕は必死で魔法陣や女の話をしたのだが、
誰も信じてくれず、精神科の方の先生の世話に
なる羽目になってしまった。僕だってあれが嘘だったらと
思うけど、あの光景が未だに脳裏に焼き付いて離れない。
あれは間違いなく現実だったんだよ。
くそ。心を落ち着かせるための注射まで打たれてしまい、
またベッドで眠りについた。
あれから女の姿を見ることはなく、数日が経過した。
本当ならとっくに退院できているはずなのに
僕は様子見として入院期間が延びてしまった。
「初めまして。私はマリンと申しますわ。
堀カリンの妹です」
芸能人が入って来たのかと思った。
この超絶美人が堀マリンさん。
超童顔なのでむしろ美少女?
「姉から話は伺っております。姉は仕事が繁忙で
時間が取れませんので、私が代理として来た次第です」
この話し方だけで、知性の高さが伝わる。
ピンクの夏物カーディガンに、フリフリのロングスカート。
清楚な髪型によく似合っている。
両手を膝の上に添え、背筋を伸ばして
イスに座るその姿から育ちの良さを感じさせた。
「ソネさんは」
「あの。僕のことはフゥと呼んでください。
その代わり、僕もマリンさんとお呼びしてもいいですか?」
マリンさんは一瞬だけ固まったが、すぐに微笑んでくれた。
「失礼だとは思ったけど、あなたがカリン姉さまに送った
長文メールに目を通させてもらったわ。かなり詳細に
怪奇現象のことが書かれていたわ。
報告分みたいに立派な文章だったわ。文才があるのね。
それで、魔法陣なのだけど、どんな形だったか覚えている?」
どうやら僕の話を信じてくれているようだ。
首から駆けている小ぶりなロザリオからして、
本物のキリスト教徒なのだろう。
だから普通の日本人と違って目に見えないモノの
存在を信じてくれるんだ。
「だいたいですけど、こんな感じですね」
魔法陣の中は文字、記号、図形らしきものが描かれていた。
僕は記憶力に自信があるので覚えている限りのことを
描いてみた。あいにく絵の才能はないから下手なんだけど。
マリンさんはスマホで検索した後、
バッグの中の書物を取り出して調べてくれた。
数分間、無言の時が流れた。
マリンさんは本から顔を上げ、
真剣な顔で問いかけた。
「女の顔は、みんな同じ? 声も同じだった?」
「はい。全く同じです。まるで分裂したかのように」
マリンさんは、つばを飲み込んだ。
そして意を決した顔で僕にこう言った。
「悪魔。もしくは悪霊かも」
え……?
「悪魔祓いの話は映画とかで聞いたことはあるでしょ?
悪魔は魂だけの存在だから人に憑りついて悪事を働く。
あなたが見たのは悪魔に憑りつかれた
人間だったのかもしれない」
マリンさんの言うことをまとめると、
魔法陣は黒魔術で悪魔召喚に使われるもの。
彼女が直接見たわけではないので
確かなことは言えないが、
ソロモン72柱の悪魔召喚の儀式に
使われたものに類似している。
ソロモン王は旧約聖書に登場する人物。
イスラエルの最盛期を築いた王。
地位や名声よりも知恵を求めたことにより
神に心から祝福された。
ソロモン王が魔術を用いて天使と悪魔を
従わせたという伝承は西洋のみならず、
イスラムの魔術にも伝わっている。
「その魔法陣は誰が描いたんですか?
まさか悪魔が自分で自分を呼ぶために描いたんですか?」
「……推測の域を出ないけど、
一人の悪魔が別の悪魔を呼び出すために
魔法陣を描いているのかも。悪魔は一人じゃない。
それぞれ階級も名前も違うし、相当な数がいるらしいから」
神は人を創造する前に、天使と悪魔を作っていたとされている。
彼らはこの世のどこかに存在するが我々の目には見えない。
こちらが無理やり呼び出すか、あるいは向こうから
会いに来る場合もある。
「マリンさん。僕はキリスト教徒ではありませんから、
儀式のこととか詳しいことは分かりません。
お願いします。教えてください。僕は死ぬんでしょうか?」
「それは……私には何とも言えないわ」
重苦しい沈黙。僕はいよいよ怖くなり、すすり泣いた。
本村さんの兄貴はどう考えても異常だった。
悪魔に憑りつかれていたのかもしれない。
なぜ僕の周りで怪奇現象ばかり起きるんだ。
理不尽すぎて世界を呪いたくなる。
僕はせめて退院して家に帰りたいと言ったが、
悪魔は家にも現れるから意味はないと教えられた。
むしろ病院関係者に囲まれているここのほうが
身を守るには安全だと。
「まだ気になることがあります。
僕の知ってる限りでは例の女は脱獄してません。
今も刑務所にいる。違いますか?」
「そうね。私も脱獄したとは聞いてないわ」
仮に脱走していたらマスコミが報道しないわけがない。
では、やはりあの女は複数存在するとしか考えられない。
この場合は分裂したと表現するのが正しいのか。
「ごめんなさい。家で用事があるから戻らないといけないの。
この件はあとで姉のレナにも伝えておくわ」
「もう行っちゃうんですか?
待ってくださいよ。まだ面会時間はたっぷりあります。
もう少しだけここにいてください」
「許してちょうだい。対策はこちらでも
考えておくから。私は家に病気の父がいるから
長居はできないのよ」
マリンさんは、バックの中から聖水と大きな十字架を
取り出して僕に渡した。他の人に見られないように
枕の下に隠しておきなさいと言われた。
僕はその通りにして、震えながら夜を待つことになった。
結局その日もなんともなく、朝を迎えた。
僕はここ最近寝付けないので、朝ごはんの後に
爆睡するようになった。
~~~堀マリンの視点~~
フゥ君が悪魔を見てからお父様の具合はすっかり良くなった。
あれからフゥ君の近くで怪奇現象は発生せず。
堀家の周囲も安全そのもの。不思議なくらい平和になった。
今日は一日中曇りだけど雨は降らないそうよ。
私はお父様と一緒に都内の美術展へ足を運んだわ。
お父様はもう車椅子なしで歩ける。
病み上がりだから近所の公園を散歩して
すぐ帰るつもりだったけど、
お父様の強い要望で美術館に行くことにした。
平日の割には混んでいるわね。
あっ、子供たちは夏休みだから当然か。
庭の彫刻広場には外国人のお客が散在。
みなカメラを片手に写真を撮りまくっている。
「あそこにいる人は東アジア系だ。
蒙古人を思い出さないか?」
「そうですわね。懐かしい思い出ですわ」
お父様は、あれだけ拒んでいた
蒙古時代の話を進んでするようになった。
これがお父様にとっての未来への第一歩。
過去に対する清算。頭の切り替えなの。
それは私も同じこと。
ここまでくるのに本当に長い月日が
かかってしまったけれど。
【聖母子の画家 代表作 大公の聖母 日本初公開】
入り口に大きな見出しがある。
ラファエロの絵画が生で観れるなんて貴重な機会だわ。
私が西洋美術に興味を持ったのはお父様の影響よ。
お父様は一つ一つの絵画の前で足を止め、
真剣に鑑賞していた。
聖人の名や物語のシーンを思い出しているのだろう
キリスト教で聖人を名乗れるのは、異教徒からの
過酷な拷問に耐えながらも最後の瞬間まで
信仰心を捨てなかった者たち。長崎にも聖人として
認められた人がいるわ(長崎二十六聖人)
私は、絵画よりもお父様が途中で具合が
悪くならないか心配だった。夏真っ盛りだから
誰だって体調管理が大変な時期だし、お父様は
以前無理して外出した時に立ち眩みを起こしたことがあった。
「誰かの犠牲がなければ、人は生きていけないんだ」
お父様の声は不思議な響きを持っていた。
近くにいた老夫婦が驚き、
お父様の顔をまじまじと見つめている。
この時代の画家は聖母子に強いこだわりがあり、
同じ主題を何作も描いている。私達はゆっくりと
フロアを一周し、出口に出た。
真夏の空が広がっていた。曇りの予報だったのは嘘で、
青空の下、太陽がさんさんと照り付ける。
私は外出時に折り畳みの傘を持つようにしている。
この美術館の隣は博物館となっている。
今回は恐竜博物館。子供の夏休みの定番だ。
「人が多いですから、足元にお気をつけて」
「うん。ありがとうね」
私は父の寄り添い、離れないようにした。
博物館は地下にある。
地下へのエスカレーターも、館内も混雑していて、
自由に身動きができない。
何で都内はこんなに人口が多いのよ。
私は背が低いのでつま先立ちをして、
ニコンのミラーレス一眼を構えた。
私はこのカメラのデザインが大好きなので
何年も使い続けている。
これの古いモデルをモンゴルで無くしたことがある。
せっかく大自然の写真が撮れたのに。
ミサイルが振ってくる前の虹の写真がお気に入りだった。
思い出は心の中にしまうしかないのね。
「俺を救ってくれたのは君だね。マリン」
お父様は、絵画から目を離さずに言った。
「今さら謝ってどうにかなるものじゃないが、
蒙古から帰還した俺は正気を失っていた。
どれだけ家族のみんなに迷惑をかけたことか。
不思議なことに正確には暴れていた時の記憶がすっかり
消えてしまっているんだがね」
お父様は一時期ひどい癇癪(かんしゃく)もちになってしまった。
あ世話をする私やミウに罵声を浴びせたり、
ドイツ語とも分からない言語で独り言を口にしたり。
とにかく異常だった。
私が突き飛ばされたのは一度や二度じゃない。
当時のミウは父を恐れて極力関わらないようにしていた。
何人かの精神科の先生に診てもらっても原因は不明。
時間と診察料の無駄だったことが後で明らかになった。
お父様の癇癪はエリカと離婚してから落ち着くようになった。
つまり一年近く続いたのね。ミウは21の時に実家の両親から
縁談の話を持ち掛けられ、退職することになった。寿ね。
最後の日、ミウは姉さまたちと別れを惜しんで泣いていた。
私もさみしいとは思っていたわ。
お父様は、何も感じず、何も話さなかった。
生きているのか死んでいるのかさえ分からなかった。
私達が日常的に話しかけても「ああ」「うん」としか
答えず、会話ができない。重度の精神障害なのかと
疑われても仕方ない状態だった。
後藤はパパが自殺するのを警戒して、
私が常にそばにいたほうがいいと提案してくれた。
私はフルタイムで働いていた事務の仕事を辞めて、
学習塾でアルバイトを始めた。
今でも父が癇癪を起す時はたまにある。
その時は安定剤を飲ませて眠ってもらっている。
でも所詮は対症療法。
どんな医者に診てもらっても、薬を飲んでも
病気自体が治ることはなかった。
私は密かに後藤と話し合い、医学以外の別の
可能性を考えるに至った。
「マリンは能面の男と会っていた時期があるそうだね」
それはお父様が知っているはずのない情報
驚いた私は足が止まってしまった。
館内に老人の団体客が入ってきて、
さらににぎやかになった。おそらく老人ホームの一行か。
車椅子を押して歩く職員さん達の声は明るい。
さすがプロ。いやいや。それどころじゃない。
「俺の中に憑りついていたものが、すっかり消えてしまった。
俺は病気ではなく、何かに憑りつかれていたんだろう。
そんな気がするんだよ。わりと本気でね」
お父様の声は、雑踏の中で消えてしまう。
老人の集団は、立ったままの私達を避けるように進んでいく。
一時的に人の波が去ったので、空間に余裕が生まれた。
この状態なら話しやすい。
「最初は悪魔を疑ったが、俺はモンゴルから
帰還した身だから、むしろ『ジン』を疑ったよ。
マリン。嘘偽りなく正直に答えてほしい。
ずばり俺に憑りつていた者の正体はなんだ?」
「私の知識では何とも言えませんが、能面は悪霊の一種だと。
ジンの可能性は私も考えましたが、専門家の方にでも
診てもらわないと正確なことは分かりませんわ」
ご党首様は、太盛パパに悪霊が憑りついたことに
感づいていながらも放置していた。党首様は信仰心の強い方。
事業で成功し、巨万の富を得ても
休日の礼拝は欠かさず、質素な生活を心掛けてきた。
人間は小さな存在であり、取るに足らない。
我々の運命を決めるのは神であると、
私達が小さい時から繰り返し言っていた。
そして、人の子として生まれたものが
神に近づくことは一生できないとも言っていた。
逆らうなどもってのほか。
おじいさまは人を恐れず神を恐れた。
残酷に聞こえるかもしれないけど、党首様は
自分の息子がすでに死んだものだと思っていた。
太盛の体は空の容器。悪魔が体を支配している。
すでに彼の魂などこの世には存在しない。
キリスト教では人は体と魂に分けられる。
死んだあとは魂だけの状態になる。
復活の日に私達は魂が再び肉体を取り戻すとされているの。
悪魔祓いをする方法もあったが、
太盛お父様がああなったのは運命である。
ユーリを殺した罰であると。
神の下した決定に逆らうことを
おじいさまは異常に恐れていた。
だから、お父様を一生堀家の屋敷から出さずに
生涯を終えてほしいと願っていた。
「奴の知恵で救われるとは心外だな。
マリンも奴の正体は知っているんだろう?」
「ええ。ユダヤ教徒をおじいさまが本家に使用人に
雇う理由が未だに分かりませんが」
「よほど親父殿に気に入られる理由があったんだろう。
親父殿とは正反対の信仰をしているくせに」
~21歳のミウ、13歳のマリン。はかない恋~
~堀マリンの一人称~
能面の男がタムルードを読んでいるのを
知ったのは何年前だったかしら。
ミウが結婚する前だったのは覚えているけど。
タムルードは、おそらくキリスト教徒が一番嫌う書物。
ちょっと説明するわね。
ユダヤ教の聖典はあくまでトーラー。
いわゆるモーセ五書、「創世記」、「出エジプト記」、「レビ記」、
「民数記」、「申命記」を始めとした旧約聖書。
紀元前4世紀に編纂された「バビロニア・タルムード」
他にも種類があるのだけど、
一般的にこちらがタムルードと呼ばれているわ。
聖典に対する解説書としてタムルードが存在している。
内容はイスラエル人の強力な選民思想が目立つ。
残念なことにユダヤ教徒には(旧約)聖書よりもタムルードを
聖典としている人がいるそうよ。ラビ(ユダヤの指導者)は
タムルードを新しい聖典とするよう民に勧めているそうなの。
お父様は、タムルードの教えをラビの迷い事だと言っていた。
私も最初に知った時はびっくりしたわ。
本家の書庫には日本語と英語訳のタムルードがあった。
身の毛がよだつ内容だ。
本文より引用。
・サンヒドリン106aイェスの母は売春婦だった。
〃彼女は大工と売春婦遊びをした総督の王女の子である〃。
シャパット104bの脚注#2
イエスの母マリヤは美容師で多くの男と交わった。
サンヒドリン106
イエスが若くして死んだことを満足げに書いている。
〃バラム(イエス)は何歳だったとお聞きか。彼は答えた、
はっきりはいたしませぬが、書き記された
所によれば、この血みどろの詐欺男は
彼の従者たちの半分も生きなかった33歳か34歳だったそうじゃ〃
サンヒドリン43aイエス(ナザレ人イエシュア)は
魔術を行ったので処刑された。
ギソテン57aイェスは熱い大便の中でゆでられている。
サンヒドリン43aイェスは死刑を執行された。
〃過ぎ越しの祭りの前夜、イェシュアは木に掛けられた。
彼は自分を防衛することができたはずではないか。
たぶらかす事ができなかったのだろうか
ロシュハシャナ17a タルムードを拒否するクリスチャンと
他のものは地獄に行き、永劫に懲らしめられる。
サンヒドリン90a新約聖書を読むものは
来るべき世において立場はない。
シャバット116a ユダヤ人はクリスチャンの本
(新約聖書)を撲滅しなければならない。
これだけでもはらわたが煮えたぎるほどムカつくけど、
他にもABQDAH ZARAHという項目では、異教徒の幼女や
実の母親との姦淫まで認めているわ。
強姦が認められる幼女は三歳以上。まさに狂気の沙汰ね。
ラビは、タルムードがモーゼの
律法書に対して絶対的優越性を有するとした。
例えるなら北朝鮮が正義の国と言っているようなものね。
私は心から能面の男を軽蔑した。
なぜこんな奴が本家勤務なのか理解に苦しむ。
困ったことにあの男は自分が
ユダヤ教徒であることを隠そうとしないのよ。
その日、本家の夕食会に招待されたのは、
私の他には双子の姉さま、ミウの四人だったと思う。
うろ覚えだけど後藤もいたかな?
夕食会はとっくに終わっていて、
深夜の一時過ぎだったと思う。
ベッドからこっそり抜け出して、
約束通り能面に書庫を案内してもらった。
夕食の時にダメもとでこっそり
頼んだら、能面は快諾してくれた。
「ご党首様には内緒にしておきます。
貸し切りですので、ごゆっくりどうぞ」
男は、扉の前に用意した椅子に座っていた。
リラックスしているのか足を組んでいる。
あいつがラフな格好をしているのを始めて見た。
執事服のネクタイを外し、Yシャツの胸元のボタンを
開放している。もしかして機嫌悪いのかな?
少しばつが悪い。あいつだって寝てる時間なのに
無理して書庫まで来てもらったわけだから。
「あの、鍵をお預かりして私達が出る時に
施錠しておきましょうか?」
「お気づかいは無用でございますよ。ミウ様。
ここの管理は私の仕事。ミウ様達は客人です」
口調はいつも通り冷静そのものだった。
なら遠慮することはないと、
私達は本を探すのに夢中になった。
古文書が多くて、原語で執筆された本ばかりだった。
ラテン語とギリシャ語はさすがの私でも読めない。
宗教、占星術、占い、タロット、天文学などマニアックな本が多い。
探せば日本語翻訳版もある。それにしても日本人の書いた書物が
ひとつもないのには驚いた。歴史書とか山ほどあるけど、
ドイツの歴史はドイツ語で書かれているし、大学の図書館よりも高度。
私は護衛としてミウを連れて来たのだけど、ミウもお父様が
悪魔に憑りつかれたと疑っていたから、真剣にそれ関係の
本を探していた。ここの書庫は本当にすごい。
アーチを描く階段、ギリシア風の柱、天井画。
ろうそくの明かりで演出された空間は、幻想的で温かみがある。
悪魔に関する書物はたくさんあって、私とミウは
手当たり次第に本に目を通していた。
そして偶然タムルードを見つけた。
ミウは英訳版をさらさらと速読し、
過激過ぎる内容にショックを受けていた。
「主を否定するなんてひどい……。何て罪深い考え方。
イスラエルに住んでる過激派の人達と同じじゃない」
「あまり大きな声で言うのはおやめなさい。
あの男に聞かれてしまうわ」
私達は書庫の奥にいたから、
出入口の前にいるユダヤ教徒の男には聞こえなかったと思う。
ミウはこういう時に声が大きくなる癖があるから、
一応くぎを刺したの。
コツコツコツ
能面の男の足音が、怖いくらいに響いた。
「お嬢様方。目的の本は見つけられましたか?」
彼は一点を見つめていた。
円卓テーブルの上に乗せられたタムルードの本だ。
「素晴らしい蔵書の数ではあるけど、
残念ながらピンとくるものはなかったわ」
「それは残念なことです。
マリン様達がお探しの本を教えていただければ、
お力になれるとは思うのですが」
それは言いにくかった。もちろん悪魔祓いの本を
探していることはおじいさまにも内緒。
おじいさまは太盛パパを隔離したがっているのだから当然。
悪魔と一言で言っても、宗教観により解釈は異なる。
ユダヤ教の過激派の人に相談するのはかなり気まずい。
私はカトリックでミウは英国国教会だから
キリスト教徒でも宗派が違うのだけどね。
特にミウは外見が日本人、中身が外人なのが
うちの屋敷でのプロフィールになっている。
能面の男も全然日本人らしさがない。
ちなみに外国人との会話でタブーとされているのは、
戦争、宗教、人種の三つ。これは海外に行く時の基本よ。
「About the devil , satan or something like that」
ミウが英語で答えちゃったわ。
なんで緊張すると英語が出るのかしら。
言った後にしまったと口をふさいでるけど遅いわよ。
「ほほう。なぜ悪魔に興味があるのですか?
悪魔祓いの本を何冊か取り出しているようですが」
もう隠しても仕方ない。私は本当のことを話した。
能面は興味深そうに耳を傾けてくれた。
すごく複雑で長い内容だったけど。
私の説明がうまかったのか、すんなりと内容を理解してくれた。
「その手のお話でしたらもっと早く相談していただければ
よかったものを。お嬢様方は『ジン』をご存知ですか?」
私とミウは顔を見合わせて、首を横に振った。
「長くなりますのでお席に座ってお聞きください」
ここからの話は本当に長かった。
結論から言うと、お父様を苦しめているのは、
キリスト教の悪魔とは少し違うかもしれないとのこと。
お父様は帰国した時にすでに憑りつかれていた可能性が高い。
私達が旅したのはモンゴル中部の大平原から西部の砂漠にかけて。
蒙古帝国ではかつてイスラム教を国教としていた。
イスラム圏では、古くから「ジン(精霊)」の存在が信じられて来た。
これはイスラム教が生まれる前から、アラブ圏で信じられて来た。
ジンには人々に災厄をもたらす恐ろしい悪霊もいたし、
逆に人間の味方の善霊もいた。
また、善と悪の両方の性質を持ったものもいた。
こうした存在は、そのままイスラム教にも取り込まれた。
「クルアーン」(コーラン)にも、多くのジンに関する記述があり、
ジンの存在はイスラム教の正式な
教義からも認められたと言っても良いであろう。
「我々は等しく経典の民。イスラム教徒も同様です。
いずれの宗教も世界の歴史が聖書の天地創造から始まっている」
旧約聖書(ユダヤ)の続きがキリスト教の新約聖書。
西洋文明社会はイエスが生まれた年度を西暦元年とした。
言うまでもなく日本でも西暦が使われているわね。
さらに7世後に続きの物語が生まれた。
それが、ムハンマドが神の言葉を授かったイスラム教。
アッラー(神)は、まず火から天使を創造した。
(その2000年後)さらに土からアダムを創造した。
神は全ての天使にアダムに仕えることを命じた。
しかし、イブリースという高慢な天使がそれを拒否した。
『火から作られた優れた私が、
なぜ土から作られた人間ごときに仕えなければならないのか?』
そのため、イブリースは神の怒りに触れ、呪われた。
イブリースは審判の日まで、人間を誘惑し悪の道に
進ませることを主張した。神は、これを許した。
真の信仰心を持つ者は悪魔に誘惑されても悪の道に進むことはない。
しかし、そうでない者は。審判の日にイブリースともども
ゲヘナ(地獄)に堕ちるであろう、と。
かくして、このイブリースが、邪悪なジン、
悪魔であるシャイターンの頭目になったという。
言って見れば、このイブリースこそが
イスラムにおけるルシファーである。
彼等は知性、体力ともに人間より勝り、不思議な魔力を有しているという。
そして、普段は目には見えないが、時おり様々な姿で出現することもある。
「千一夜物語」(アラビアンナイト)には、
こうしたジンが夥しく登場する。
【彼等は人間にも憑依する。邪悪なジンに憑依されると、
恐ろしい悪霊憑きとなるが、善良なジンに憑依されると、
芸術家や善良な魔術師、時には聖者にもなるとされた】
すなわち、邪悪なジンの力を借りて行う魔術が黒魔術であり、
善良なジンの力を借りて行うのが善良な魔術である。
ちなみに、ソロモン王が魔術を使って悪魔を従わせたという伝承は、
イスラムの魔術にも受け継がれ、しばしばソロモン王の名前が
ジンを従わせる力があると考えられた。
あるいは、邪悪なジンから身を守るための魔よけにも使われた。
「中学の時にソロモンの護符の待ち受けが
女子の間で流行ったことがあったの。
恋愛運と金運が上がるって有名で」
「ミウ様は護符をご存知でしたか」
「私は怖くてダウンロードできなかったけどね。
本気で魔の力が存在する気がしてさ」
「ネットに出回っているのは偽物ですのでご安心を。
本物の黒魔術とは高度な訓練が必要ですから。
素人が下手に手を出すのは無意味に等しい。
フランス料理のレシピを素人が作るようなものです」
この男は宗教学者みたいにくわしいけど、
いったいどこまで知っているんだろう。
私は気になったので質問した。
「あなたは黒魔術をやったことがあるの?
まるで経験者のような言い方をするわね」
「さあ、どうだったでしょうな。忘れてしまいました」
とぼけないでよ。
「エリカ様が堀家を去ったのも、
真相に気づいていたからなのかもしれません。
彼女もクリスチャンでありますから。
ご党首様も同じ結論に至っているようです」
「お願いだからうちに来てパパの様子を見てよ。
悪魔に詳しいあなたなら対処法が分かると思う」
「残念ですが、様子を見に行くのは不可能ですな。
静観するようにとご党首様の命令ですから。
私は使用人ですから、主人の命に従うのみです」
困ったな。こいつに頼まないと本当に悪魔祓いの
専門家を呼ぶことになっちゃう。
「お願い。太盛様がずっと働けない
状態だったらお嬢様たちも困っちゃうよ」
「私とて心を痛めてはおります。
知恵でよければお貸しいたしましょう」
私とミウは、悪魔や黒魔術の仕組みを教えてもらうことになった。
それによって悪魔が出現するタイミングや
対処する方法を学ぶことができた。
悪魔の行動を抑えるための護符の作り方もあるそうよ。
私はいっそエクソシストの依頼をしようかと思ったけど、
大事にする前に知識をつけるべきだと能面は言った。
悪魔祓いを失敗すれば太盛は高確率で死ぬことになる。
「専門的なことですから、
一日二日で覚えられるものではありません。
また日を改めて私に会いに来てください。
ご党首様には内密にしておくのご安心を」
その日から私とミウは、党首様の館へ
定期的に通うようになった。
能面と会う場所はもちろんこの大書庫。
おじいさまは休日であっても会社の会議、
パーティ、総会などに出席することが多く、
常に屋敷を空けている。
私達のいる屋敷の一角まで足を運ぶことはまずない。
当時の私は13歳。早生まれなので中学二年。
ミウは八つ年上で21だった。
おじいさまの家は新宿区の一等地にある。
ミウと肩を並べてJRの電車に揺られるのも慣れた。
私達の本家通いは、双子の姉さん達には秘密にしてある。
姉さん達は難しい年ごろということもあって、
家庭のことより学校の部活や友達関係に
頭を悩ましている時期だった。
私はもともとミウと接点はあまりなかったけど、
お父様を救うためという共通の目的が
あることもあり、話す機会が増えた。
並んで吊革につかまりながら、
窓の外のビル群をただ眺めていた。
車内はしつこいくらいに
広告が釣り下がっていてうざい。
「ミウが一緒に来てくれて心強いけど、
仕事の方は大丈夫?」
「サキさんがなんでもやってくれているので
助かってますよ。私は買い出しの名目で
出かけてますけど、特に怪しまれることもないですし」
ユーリを失った後、堀家は代わりのメイドを雇った。
サキさんは40代後半の女性。昔から使用人として
働いていた経験があるらしく、ユーリ以上に
無駄なく仕事をこなす人だった。
中の掃除だけでなく庭仕事も難なくこなす万能選手だった。
おかげで外担当のミウの負担が減った。
私とミウは月二回の頻度で党首様のお屋敷にお邪魔していた。
行くのはだいたい土曜日ね。日曜はピアノのレッスンが
入っているから。昔はユーリが自宅で教えてくれたのだけど。
「本日も暑い中、足を運んで頂いてありがとうございます。
まずはお茶でもいかがですか?」
能面は、表面上はどこまでも紳士だった。
おじいさまに頼られているだけあって、一流企業の
接待並みの待遇をしてくれる。
私達のために、わざわざ書庫にお茶用のテーブルとイスまで
用意してくれてた。頼めばどんな飲み物でも持って来てくれる。
アイスコーヒー、ココア、ジンジャエール、コカ・コーラ。
成人しているミウにはウイスキーやワインまで用意したことまであった。
この時は6月の梅雨の時期だった。
雨が続いて湿気がこもり、不愉快さが増す。
書庫内はエアコンで除湿されて、
寒すぎずに快適な温度を保ってくれていた
ストローに品よく口を付けていたミウが、ふと言った。
「能面さんのこと、私達は一度も名前で呼んだことない」
「そういえばそうね」
確かにね。ミウが訊かなかったら私が先に訊いていたわ
「能面さんの名前は何て言うの?
あと仮面の下の顔も見たことないけど」
きっと仮面の下は困った顔をしていたんだと思う。
裏表のないミウの問いに対し、少し間を置いてから彼は答えた。
「ご党首様からみだりに顔を明かすなと言われておりますので」
「私達は身内同士みたいなものじゃない。
ご党首様にばれるわけでもないんだから、
誰にも言わないから教えてよ」
ミウ。その調子よ。
「ふむ。どうしようかな」
身を乗り出して質問するミウに、ちょっと迷っている風だった。
常に冷静な彼にしてはめずらしく人間らしい態度だった。
「まあ綺麗な女性にさらすのなら悪くはないか」
その言葉に私は反応した。綺麗って……。
なぜか彼に言われるとドキッとしてしまう。
もちろんミウのことを言ったのは分かっているけど
二十歳を過ぎてからのミウの美しさは本当に憧れる。
女優のようにカールさせたセミロングヘアー。
小顔で顔のパーツが全て整っていて、人形みたい。
使用人じゃなくて芸能界に進むべきだったと思うわ。
小柄だけど痩せているし、女優に向いていそう。
もったいぶった動作で彼が仮面を外し、テーブルに置いた。
本当におもちゃの仮面って感じで全然すごみがない。
すごいのは彼の整った顔立ちだった。
「20代の人だったの?」
ミウが驚いている。確かに彼の顔立ちは若い。
太盛お父様より少しだけ年上だったと聞いていたけど、
お父様よりずっと若く見える。
「いえいえ。年は35を過ぎていますよ。
あまり老けない顔立ちだと人からは言われておりまして」
「へー。そうなんだ」
ミウは、はっきりと彼の顔に見とれていた。
声も良い。高くてよく通る。
テレビのアイドルがそのまま年を重ねたかのような美形。
長いまつ毛の下に知性を秘めた瞳が覗く。
輪郭も整っていて、西洋白人のスターみたい。
こんなカッコいい人だったなんて、良い意味でショック。
声自体も若いし、動作にもぜんぜんオジサン臭さがない。
言っちゃ悪いけど、廃人になって
老け込んだお父様とは対照的だった。
「私の苗字はハタノ(秦野)といいます」
「下の名前は?」とミウ。
「エリヤです。少し古風ですが」
メモ用紙に漢字を書いてくれた。
私はすぐに感づいたので質問した。
「聖書に登場する預言者の名前よね?」
「さすがはマリン様。よくご存じで。私の家系では代々
生まれる子に預言者の名前を付けているのです」
エリヤさんか。日本のクリスチャンには
普通に存在する名前なのよね。
「あの、これもずっと気になっていたんですけど」
ミウの好奇心はたまにすごい。
「エリヤさんは…」
「エリヤで結構です。あるいはハタノでも」
「じゃあ、エリヤはユダヤ教徒で、わりと…
キリスト教徒が気に入らない系の人なんでしょ?
私達とこうして一緒にいるのが嫌じゃないのかって」
よくそこまではっきりと訊けるものだわ。
「そのようなことを気にするとは。
私はおふたりと一緒にいて楽しいですよ。
嫌だと思ったことは一度もありませんが」
彼はニコニコと笑っていた。私達の前でも
平気で足を組むようになった。長身の彼が
すると下品にならず、よく似合っている。
「もっと聞きたいことがあるんだけど……いいのかな」
「なんでもどうぞ? 僕は素直なお嬢さんは嫌いではないよ」
ミウに対して敬語を使わなくなってきた。
親しみを覚えてくれているのね。
「ご党首様は敬虔なクリスチャンなのに、あなたは
どうして雇われたのかな? その、言い方が悪いけど
ご党首様にとって異教徒じゃない?」
「ああ、そんなことですか」
彼のほほえみ。始めて見たけど素敵だった。
「一番の理由は縁故ですな。私のひいおじいさんの代から
ご党首様の家系と縁がありまして。それはもう古い
関係になりますよ。まだこの日本が明治維新を迎える、
そのさらに前の時代にさかのぼりますね」
ちょっと難しくてよく分からない話だったけど、
彼の家が持っていた不思議な力が、おじいさまの
事業の成功を手助けしたとのこと。
社会で成功するには何が必要か。
能力、環境、人脈、時代の流れ。
様々な要素はあるけど、何よりも大切なのが運。
この運をうまく引き寄せたのがおじいさまだと言う。
かのナポレオン将軍も自らが運の良い男だから
皇帝の座に上り詰めたと語っていた。
そんな話、全然知らなかった。
太盛お父様からも聞いたことがない。
「堀家もかつてはユダヤ教徒だったのですが、
半世紀ほど前にカトリックに改宗されました」
「え。そうだったの? 初めて聞いたわ」
「やはりご党首様はお孫さんのマリン様にも
伝えていませんでしたか。ところでお二方は
ユダヤにあまり親しみがないようですな」
「えっと…」
遠回しに私達がタムルードを読んでいた時の
事を蒸し返しているのかな。
そんなこと聞かれたら気まずいよ。
「私はクリスチャンを否定しませんよ。もちろん
殺意も持っていません。この国は憲法が信仰の自由を
認めていますから、何を信じようと各人の自由」
そうだったのね!! 安心した。
一番心配していたのはそれなのよ。
「そもそも本当にタムルードの教え通りに生きていたら、
本家の使用人を職場に選びません。可愛いお嬢様方と
こうしてお茶できる時間が私にとっては何よりも貴重なのです」
か、可愛いって言ってくれた……。
ミウも顔が真っ赤になってる。
仮面を外してからの彼は本当に素敵な人。
私とミウより10も年が離れているんだろうけど、
こんな男性めったに出会えない。
エリヤの不思議な魅力の正体はいったい何?
その日から、私は彼のことばかり考えるようになった。
お父様のことも心配だったけど、
中学生の私に彼は魅力的すぎた。
もともと年上の男性が好みだったこともあるけど。
ミウも彼に夢中になっている。
電車の中、二人で彼の話をするのが楽しみだった。
私達には不思議な共通点があって、
どちらも学校の男子には全然興味がなかった。
ミウは女子にいじめられてそれどころじゃなかった。
私は、周りの生徒全員が幼稚に見えたから初めから論外。
恋をするなら洗練された大人の男性に限るわ!!
「もう。ミウったらファッション雑誌ばっかり
読んで、全然魔術の研究をしないじゃない。
しかも家から持ち込んだものでしょ、それ」
「お嬢様こそさっきから手鏡で前髪ばかり
気にしているじゃないですか。
ぶっちゃけ私、研究より彼に会うほうが
楽しくなってるんですよねー」
「ふふ。それは私も同じなのだけどね」
最近あなたと妙に気が合うわね。
主人と使用人の関係を超えて友達になれそう。
それにしても……。
本末転倒とはまさにこれのことね。
私達は考えられる限りの
オシャレをしてから本家に顔を出すようになった。
ミウが化粧を変え、私が髪型を変えると彼は、
「今日も綺麗だ。すごく似合っているよ」
さらっと褒めてくれる。
真剣な顔で言ってくれるから嘘っぽくない
うれしい。でもその言葉を、いつしか
私にだけ言って欲しいと思うようになった。
夏休みになり、彼とお出かけしたくて誘ったことがあった。
でも彼は丁寧に断ってしまうの。いつもそうよ。
私が子供だから相手にされないのかと落胆した。
年上で超美人のミウが誘っても同じ結果だった。
ミウでもダメなのね。まさか女に興味がない?
その容姿でまだ独身なのも不思議でしょうがない。
「25歳の時に結婚を約束した女性がいたのですが、
事故で失いました。それ以来、
恋愛とは無縁の人生を送っております」
そんな悲しい過去があったのね。どんな事故だったかは
さすがに聞けないわ。彼がこんなに悲しそうな顔を
するのを見たことがないもの。
「野に咲く花のように可憐で、素直で明るい人でした」
ミウをじっと見つめてから、こう続けた。
「君によく似ていたよ」
ミウは目を大きく開けて驚いていた。
彼の瞳はミウでなく過去の女性を映していたのだろうけど、
ミウは意味もなく喜んでいるようだった。
「わ、私でよければ代わりになれませんか?」
「ありがとうね。気持ちだけ、頂いておくよ」
すぱっと女の気持ちを振ってしまうのも彼らしい。
彼の振り方はナイフのように鋭いとミウは称していた。
彼は好きにさせるだけさせておいて、褒美は与えない。
おかげでミウに嫉妬せずにすんだ。
それより気に入らないことがあったの。
彼がミウにだけ素で話すこと。
私には敬語。そういう配慮はいらないのに。
「主人と使用人の関係ですから、
敬語は当然でございます」
デジャブ。蒙古時代のユーリと全く同じことを言っている。
ミウは本気で彼に恋していたから、彼に気に入られようと
努力を続けた。美人なのになぜか恋愛経験がなかったこともあり、
時に滑稽(こっけい)でもあった。
「あの、高いところにある本が取れないんですよ」
「いいですよ。はい」
彼は長身だから背伸びすれば本棚の高い場所へ届く。
もっともミウが用意されている踏み台を
使えばいいのだけどね。
「今日はクッキーを焼いてきたの。
出来は悪いけど、よかったらどうですか……?」
「君が作ってくれたものなら、
ありがたくいただくよ」
こんなにミウに好かれても彼の笑顔の裏は硬い。
普通の神経をした男だったら、ミウほどの美人に
尽くされたらコロッと落ちると思うけど。
さすがの鉄仮面の彼も、一途なミウに対して
思うことがあったのか、デートの約束をしてくれた。
私は悔しくて仕方なかったけど、母のような
嫉妬深い女にはなりたくないから我慢。
使用人の暇な時間はだいたい平日に取れることが多い。
ミウは彼と平日のデートを繰り返すようになった。
ミウはさらに綺麗になった。
私は自分でも可愛い自覚のある方だけど、
ミウにだけは絶対勝てないと思い知らされた。
デートのために服を選ぶ彼女の生き生きとした顔。
20代の艶っぽい肌。
神から与えられた、愛らしく美しい目鼻立ち。
同性でも見とれる美しさとはこのことか。
私は子供なのが悔しかった。
せめて私も高校生だったら彼に女として
意識してもらえたかもしれないのに。
私がどれだけオシャレしようと頑張っても
中学生では限界がある。せいぜいドラマの子役レベル。
お父様がかつて愛人として選んだユーリの
美貌すらミウは超越してしまった。
それから時が過ぎ、夏が終わり、秋の初めになった。
残暑は消え去り、朝夕だけでなく日中も冷たい風が吹く頃。
ミウの恋はついに終わってしまった。
「初めから無理な恋だって分かってはいましたよ。
でも女は一度くらい夢を見てみたいじゃないですか」
デート中の彼のエスコートは完璧だった。
怖いくらいに女性の求めるものを知り尽くしていて、
雰囲気のあるレストラン、夜景のスポット、
有名な管弦楽団のコンサートホールなど、
日によって行き先を変え、ミウを飽きさせることがなかった。
なんとなく私もそんな気はしていたのだけど、
彼はミウを愛してはいなかった。
ミウの方は望んでいたけど、大人の関係には発展しなかったし、
手慣れたホストのようにミウをもてなすことに終始していた。
ミウの真剣さとは裏腹に彼の心は凍てついていた。
もちろん結婚の話ができる感じではなかったらしい。
「恨まないでくれよ。魅力的な君には
必ず素敵な男性が見つかるだろう。
どうか僕以外の男性を見つけてくれ」
付き合い始めてちょうど三ヵ月のところで、
彼から別れ話をされてしまったのだ。
年頃のミウが結婚を意識するのを許さなかったのだ。
エリヤは党首様と同等かそれ以上に信仰心が強い。
きっと彼は信仰ゆえに異教徒のミウを避けたのだ。
ミウはいっそ自分が改宗しようかとさえ
思ったそうだけど、実家の両親に猛反対されてしまった。
ミウは三か月間の夢を見せられただけ。
終わってみれば、たったそれだけだった。
残酷だったとは思う。
「悲しかったですけど、
すぐ忘れられますから、ダイジョブです」
傷心中のミウにかけてあげる言葉が見つからない。
仕事中に涙は見せなかったけど、
きっと一人の時は泣いていたのだろう。
私はその後も一人で本家通いを続け、悪魔の研究を続けた。
エリヤは親切に手ほどきをしてくれた。
~マリンの魂はどこへ消えたのか~
「マリン様はお綺麗になりましたね」
やめてよ。ミウのことを振ったばかりでしょ。
「成長期ですから、日々大人に近づいているのが
分かります。いつ見ても目鼻立ちが
お父上にそっくりで美しい」
真剣な顔で言ってくるから……少し意識してしまうわ。
「私にもし娘がいたら、
マリン様の年になっていたのだろうか」
なぁんだ。やっぱり女を見る目じゃない。
私のことは子供扱いか。
「どうして婚約者の人は亡くなったの?」
「事故ですよ」
「どんな事故?」
「より具体的に言うと怪死ですな。
とある夜、精神錯乱を起こし、同居していた
家族全員を包丁で殺傷した後、自らも命を落としました」
大事件じゃない。時期を考えると私が生まれる前後だったのね。
「死人に口なし。警察の捜査。医学的見地からも
何の原因も分かりませんでした。報道機関は
重度の精神病か薬物の使用を報じましたが、
全く的外れと言わざるを得ません」
彼はひとりで話し続けた。
「信仰心のない者は常にそうです。目に見えるモノの存在しか
信じようとしない。科学と医学だけで事件はすべて解決
できると信じている。誤った前提のもとに動いているのだ。
仮定を知るべきなのに、最初から答えを決めつけようとする。
だから道を誤るのです。私は、はっきりと理解しておりました。
彼女が死んだのは霊の仕業だったと。間違いなく悪霊の類でしょうな。
彼女は薬物をやったこともなければ精神病でもなかった。
当時の私は若く、オカルトに夢中でした。自分自身が熱心な
ユダヤ教徒で、愚かにも選民思想を心の中では持っていました。
いたずらの気持ちで悪魔召喚の儀式を自宅で繰り返しました。
理由は分かりません。ただ悪魔を見てたかったのです。
ですが、どうやっても悪魔など召喚できない。夜に人々が
寝静まった後、深夜二時から四時の間に魔法陣を描き、
誘い出す呪文を口にしても私の前に現れない。気配はしますがね。
私の好奇心は留まるところを知らなかった。ある意味私は
誰よりも素直だったのです。ミウのようにね。
私はヘブライ語を読めますから、実家に代々保管されていた
書物に手を出すようになります。そこには秘匿とされていた
召喚の儀式の方法が書いてありました
非常に難解な文字で書かれていたので辞書は必須でした。
ひと月かけて内容を吟味してから始めました。
結果的に召喚は成功したのだと思います。
黒い影のようなものは見えましたが
すぐに窓ガラスを割って外へ飛び出していきました。
私はあれが悪魔だったという保証がありませんでした。
悪魔は賢く、スキを見せたらこちらを殺しにかかると
伝えれています。幸い私には何の被害もなかったが、
私の婚約者に憑りつき、怪事件へと発展してしまった」
自分は大馬鹿だった。だが、どれだけ後悔しても
失われた時間は永遠に戻らないのです」
それは、母のエリカもよく言っていた。
堀家が滅茶苦茶になった原因となったモンゴルへの逃避。
父の幼稚な逃避行が家庭を崩壊させてしまった。
時間の針が逆戻りすることはない。
人間は決められた運命に逆らうことはできない。
私もおじいさまの影響で運命論者なの。
「マリン。君は僕の話を聞いてもまだ
研究を続けようとするのか?」
初めて、素の話し方をしてくれた。
彼はさらに悪魔研究の恐ろしさを教えてくれた。
欲は身を滅ぼす。深入りすれば後戻りできない。
研究し、新しい知識を得ると謎のようなものが
たびたび降りかかるようになる。精神的に
ネガティブになり、自殺ばかり考えるようになる。
言葉には魔力がある。理論を突き詰めればそれが
分かるようになる。いずれ悪の誘惑に逆らえなくなり、
狂ったように書物を読み漁る。あとは地獄へ落ちるだけだ。
彼は直接悪魔の顔を見たり、会話をすることは
できなかったけど、寝ている時に頭を叩かれたり、
金縛りにあったという。
「三時になるのが怖かった」
三時は、イエス・キリストが十字架の上で死んだ時刻。
(イエスの場合は日中の三時)
悪魔の好む時間。
悪魔は夜の三時付近に現れる。
ターゲットと決めた人間の周囲で怪奇現象を引き起こす。
彼の婚約者が狂ったのも、ちょうどこの時間だった。
「マリンには道を誤ってほしくない。
君は太盛様のご息女だが、私は赤ん坊だった頃の
君を抱かせてもらったこともある」
私の体は、彼の腕の中に納まっていた。
暖かい。お父様とは違う感触。
これは夢ではないのね?
父以外の男性に抱き締められたのは初めてだったから、
心臓が飛び出そうなくらいドキドキした。
「本当はマリンとミウに魔術を知ってほしくなかった。
私はこの広い屋敷で単調な日々を送るのが寂しかったのだ。
君たちが書庫に興味があると言った時はうれしかった」
まさか魔術の研究が目的だとは知らなかったそうだけど。
つまり人恋しかったのね。だからお茶出しを
して、おしゃべりをたくさんしてくれたのね。
ミウの失恋後に私が本格的に研究に没頭し始めたから、
彼が警告を鳴らしてくれたのだ。
「ここで会うのは今日で最後にしよう。
マリン。君は僕と約束してくれるね。
二度と悪魔について研究をしないと」
「うん。約束する。でもお願いがあるの」
「お願い?」
私は背伸びして彼の唇にキスした。
彼はギュッと私の体を抱きめ、キスを返してくれた。
唇と唇が触れるだけ。優しいキスね。
きっと彼的には社交辞令の延長なんだろうな。
それでも私には十分刺激的だった。
残念だけど私達は、恋仲になるには年が離れすぎている。
それに彼が私を異性として意識してないのは知っている。
「さようなら」
私は手を振って彼と別れた。
お父様の件は、仮にプロの祈祷師を呼んだとしても
悪魔と命がけの争いになる。悪魔祓いが済んだとしても
誰かの犠牲がなければ成り立たないほど壮絶なものになる。
悲しいけど、ご党首様の言う通り
事態を静観するのが一番なのかもしれない
~堀カリンの一人称~
月末の派遣業界は忙しい。
理由は単純で、勤怠の締め日だからだよ。
朝早くから取引先の会社周りをして、
膨大な数の従業員の勤怠を管理しないといけない。
派遣スタッフは入れ替わりが激しいから、
給料計算が大変。いつも経理が悲鳴を上げているよ。
いつもの繁忙が終わり、翌月になった。
世間は八月のお盆シーズンを向かえる時期になった。
昔は盆玉といって、お盆版のお年玉がもらえたのに。
今の私はとっくにあげる側。
だけどレナにもマリンにも子供がいないのでラッキー。
「おはようございます。カリン様。
太盛様とマリン様はお出かけしたようです」
「あっそうなの。いつごろ帰って来るの?」
「夕方までには戻ると」
つまり半日は不在なわけね。
今日は日曜日。私は仕事疲れで朝11時に起きたのに、
鈴原はおはようと言ってくれる。
…この時間は、こんにちわ、じゃないのかな?
どうでもいいけど。
「あ、レナ。帰ってたの?」
「よっ。久しぶり」
長い髪を後ろでまとめているのは、私の妹のレナ。
いつの間に黒髪にしたの。私と同じ色だと
双子で見分けがつかなくなるから?
「別に意味はないけど、その時の気分かな。
黒くすると雰囲気変わるでしょ? それより聞いてよ。
溜まっていた有休を久しぶりに消化させてもらったの。
なんと八月のお盆が終わるまでずっと休みなのよ!!」
「ええっ!!」
慢性的な人手不足の病院で長期休暇が取れるとは。
ほぼ2週間近く休みってこと?
まるで今月辞める人みたいじゃない。まさか……。
「辞めるわけないでしょ。上に無理行ってなんとかしたのよ。
派遣の子達(短期)は数か月で辞めてさっさと海外旅行とか
行くのに、私だけなんで休みがないのって
半ギレ気味に上司に迫ったら成功した」
「どんな奇跡よそれ。小説のネタだったら面白そうね」
「そうそう。小説といえばフゥ君ね。
あの子のことでカリンと話があるんだけど」
「私も姉さんと話したかったと思ってたのよ。
フゥ君の友達の…本村ミホさんの周りで
怪奇現象が起きたのは知っているわね?」
「もちろん。私はフゥ君から直に聞いているからね。
カリンがこの部屋に来ているのはまさに
怪奇現象の理由が知りたいからだね?」
説明が遅れたけど、私達は偶然にも妹のマリンの部屋の
前で遭遇し、立ち話をしていたのだ。
マリンは普段は几帳面に部屋に施錠し、
掃除は使用人に頼まず自分でやっていた。
私はどうやって中に入ろうかと思っていたら、
なんと姉さんがマスターキーを持っていた。
どこから持ってきたのと訊くと、使用人室から
拝借したとのこと。つまり執事長の鈴原からね。
「マリンなら何か知っているはずよ」
姉さんに続いて私も部屋に入っていく。
私はまめに携帯チェックをする性格ではない。
仕事がひと段落してからLINEを開くと、
フゥ君が体験した怪奇現象、そして友達の
ミホさんが体験した現象が語られていた。
彼は当時の状況を
自らの口で説明した音声データで送ってくれた。
『ミホが兄を連れないで僕のお見舞いに来た瞬間に
何かあるとは思いました。ミホは僕の姿を見るなり
顔を両手で覆い、大きな声で鳴き始めました』
『兄の怪死を僕のせいにして泣きわめき、さんざん
暴言を吐いた後、実際に暴行までしてきました。
女の子の力なので痛くはなかったですけど』
『ミホは自宅で起こる現象について説明しました。
怖くて夜寝ることができない。深夜は死の時間。
ガタガタとベッドが揺れ始め、地の底を這う
低い笑い声が聞こえてくる。窓の外には
黒い髪の女の顔が映っている。天井にも顔がある』
『ミホは極度の睡眠不足で頬がこけていました。
目がうつろで、焦点が合っていません。
ご飯を二日前から食べていないそうです。
すぐにでも点滴を打つべきだと思ったんですけど、
その状態でもミホは語り続けました』
パパは発狂して家を飛び出し、行方不明になりました。
家にいるのは私だけ。ママに電話しても繋がらない。
どうしたらいいの?
どうしたらいいの?
私の家には 何かが 【いる】
人ではない 何かが
死が近い 死が身近にある 死ぬ
殺される いつか殺される
また今夜も あの女が にたにたと笑う
フゥ君の語り口調も雰囲気が伝わってかなり怖い。
思わず腕中に鳥肌が立った。
私が中学生だったら余裕で気絶しているレベル。
フゥ君はナースコールを押して、看護師や医師に
ミホさんを診てもらうと思ったけれど、ミホさんは
大人たちの制止を振り切り、走って逃げた。
その時の力は成人男性並みだったという。
体格の良いドクターが吹き飛ばされたほどなのだから。
「この引き出しが怪しいけど、鍵がかかってるのね」
レナねえが大きな本棚の下部分にある引き出しをいじっていた。
確かに厳重に施錠されていて、何かが隠されている感じがする。
残念ね。マリンがそう簡単に秘密をばらすわけないか。
ところで私達はなぜマリンが怪しいと思ったのでしょう?
私と姉さんが、お父様の具合が急に良くなったことを
元使用人にして友達のミウに伝えた時のこと。
『えええっ!! マリン様はついに黒魔術で
悪魔を撃退することに成功したんですね!!』
かまをかけたわけでもないのに、ボロを出したミウ。
素直な性格は結婚後も変わってないようで安心した。
私はすかさず母親譲りの質問攻めをして
全ての真相を吐かせたのだった。
悪魔の正体は、おそらく悪霊の『ジン』
人の姿を借りて現れ、何人もの人に分裂し、
特定の人の周囲に現れる。
最初はお父様に憑りついた。そのあとフゥ君の前に現れた。
次はミホさんのお兄さんを殺した。その次はミホさんの自宅へ。
私とレナ姉さんが一番気がかりなのは、
マリンが現状を放置していること。
マリンもフゥ君と連絡先を交換しているから、
本村家の現状を知らされているはず。
今回だけでなく、フゥ君の前に悪霊が現れた時も
何もしなかった。聖水と十字架を置いて行く以外にはね。
そして今日あいつはお父様と都内にショッピングに行ったという。
どんだけ身勝手なの。自分の黒魔術で
お父様の体から悪霊を取り払ったんでしょうが。
どんな魔術なのか知らないけど、ミウが言うには
人を呪い殺せるほど強い魔術で、使い方を誤れば
自分や身内の命が簡単に失われるほどだという。
魔術を使いこなせるようになるまで、
少なくとも7年以上の修行が必要。
マリンは現在までに何らかの方法で
魔術を会得したと考えられる。
マリン……。家族のみんなに内緒で
怪しい研究を続けていたのか。
根暗な奴だとは思っていたけど、ここまでとは。
マリンの部屋は小ぎれいになっていている。
ピアノ、楽譜、天蓋付きのベッド、本棚、
高そうなカメラ。怪しい研究をしていた痕跡は見られない。
「そこにいるのはお姉さま達かしら?」
びっくりして心臓が止まるかと思った。
マリンが戻って来ていた。
お父様とお出かけした割には戻ってくるの早かったね。
それにお出かけ用の服じゃなくて部屋着……。
パパも帰って来てるの?
「いいえ。パパはまだお外にいるわ」
「ん? あんただけ先に帰って来たってこと?」
「まあそんなところよ」
私は不思議に思っていたが、姉さんはもっと深刻に受け止めていた。
レナ姉さんはこの時点でマリンがマリンじゃないことを
見抜いていたのだろう。顔が引きつっている。
姉さんは幼いころから霊感があるから、こういう状況に
敏感に反応する。私にアイコンタクトして
危機的状況にあることを知らせてくれた。
マリンは薄ら笑いを浮かべている。
瞳の奥には何の感情もこもっていない。
確かに普段のマリンはこういう笑い方をしない。
「姉さま達。ひとつゲームをしませんか?
かくれんぼです。幼い頃によくやりましたよね?
私が10数え終える前におふたりは逃げてくださいな」
意図が読めず、固まっている私達に構わず
マリンはゆっくりと数字を読み始めた。
「いーち、にーい」
マリンの表情は変わらない。
逃げないと、どうなるの?
心臓の鼓動が早まる。
私達は不安で逆に足が固まってしまい、
その場から全く動けなかった。
「あら。どうして逃げないのかしら。
姉さん達が小さい頃は
妹の私を可愛がってくれたじゃない。
つい最近のことだったのに忘れちゃったの?」
「あんたは……マリンじゃないでしょ」
姉さんが低い声で言った。
「どうしてそう思うの?
私はどこからどう見ても堀マリンよ」
「違うわ。あんたは偽物。私の家族じゃない」
「姉さん。ひどいわ」
「黙れ」
「黙れ、なんて。失礼なことを言うのね」
締められていたドアが勢いよく開いた。
そこへ吸い込まれるように、
姉さんが宙へ浮いて廊下へと吹き飛んだ。
それは一瞬のうちに凄まじい強風が吹いて
人間を飛ばしてしまったかのように。
「カリン姉さんはどう思うのかしら。
私はあなたの妹のマリンでしょ?」
「バカなこと言わないでよ。
今の不思議な力で確信できた。
あんたが悪霊だってね」
う……。急に頭がふらふらして立っていられなくなった。
なんとか両手を床についたけど、そのまま前のめりに倒れてしまった。
なにこの感覚? 寒気がして手足の先が震えている。
力が入らない。吐き気がこみ上げてきて、この場で嘔吐しそうになる。
「顔を上げてよ姉さん。私の名前は堀マリンよ」
会話なんてできる状況じゃないのは、見れば分かるくせに。
私の家に悪霊がやってくるのは想定できなかったわけじゃない。
でもレナ姉さんが休暇を取ったタイミングで現れるとは。
「うっ……」
私は我慢の限界を超え、ついにもどしてしまった。
床にびちゃびちゃと汚い音を立てて汚い汚物がまき散らされる。
ああ、朝ごはん食べてなくて良かったと、どうでもいいことを考えた。
私は死ぬほどつらいけど、レナねえのことも気になる。
まさか死んでないよね?
「う、ひどい匂い……」
レナ姉さんは、這いつくばって部屋に戻って来た。
腰を強く打ったのか、まともに歩くことができないみたい。
「姉さん達は私を否定した。ひどいじゃない。
こんなに悲しいと思ったことはないわ。
現実を見ようとしない姉さん達には
お仕置きが必要かしらね」
本棚が開き、中から大量の本が飛び出して宙に浮かんだ。
中には辞書くらいの厚みのある本もある。六法全書?
本の大群が私の頭上に集まって来た。
ゆらゆらと糸で吊るされたように揺れている。
勢いよく私の頭に落ちてきたら、本気で死ぬかもしれない。
「本当はね。私は姉さん達に危害を加えたくないの。
だから早く私のことを認めてほしい。
私が正真正銘の堀マリンだと」
その言い方は、言外に自分が偽物だと認めているようなもの。
悪魔はそんなに頭が良くないのか。
それとも深い意味があるのか。
レナ姉さんは、床の上で痛みに耐えていた。
あれだけ激しく吹き飛んだから体中を打ってしまったのか。
ああ、私達にはもう対抗する手段がないのか。
急にピアノが歌い始めた。
悪霊も含めて全員がそちらを見た。
旋律を聴いてすぐに思い出したのは、
シューマンのピアノ曲集。クライスレリアーナ。
ユーリがマリンの練習のためによく弾いてあげた曲だ。
「左様。ユーリ嬢を懐かしんで弾いた次第であります」
は……? いつからピアノの前に座っていたの。
そこにいたのは能面の男。
中年男性になっても独特の品性は変わっていない。
それとさりげなく私の心の中を読んでいるよね?
やっぱりこいつは普通の人間じゃない。不気味。
「あなた、何を勝手に」
「まずはこちらの話を聞いてもらうか」
悪霊相手に落ち着き払った態度をしている能面。
まるで悪霊と向き合うのが初めてではないかのように。
「マリンの横暴には困ったものです。
私と交わした約束をこんな形で破られるとは。
マリンにとって口約束など
紙切れよりも薄っぺらいものなのだろうか」
マリンを呼び捨て? それに約束って何のこと?
鍵盤がうねる。
能面は自らの心境を演奏で表現しているのか、
ベートーベンのピアノソナタ14番(月光)
の第3楽章を弾き始めた。
ふたを全開にしたピアノから躍動感あふれる旋律が
流れ始める。私とレナはまったく口が挟めずに、
能面の演奏に圧倒されてしまった。
演奏技巧は素晴らしいけど、攻撃的に過ぎる音だった。
能面が表現したかったのはどんな世界なの。
こんなに荒っぽく弾くなんてピアノがかわいそう。
男性にしても強すぎる鍵盤の叩き方。
ユーリは……こんな演奏スタイルじゃなかったよ。
能面は、ピアノイスからゆっくりと立ち上がり
仮面を外して私達の顔を交互に見てきた。
この男……こんな顔だったの?
親戚の前でも顔を隠すくらいだから
どんなブサイクかと思っていたら意外と整っている。
むしろ美形だと思う。
「私はユーリの霊を知った」
え?
「人の思念は、思いが深くなるほど残るものだ。
あの子の想いは叶うことがなく、行き場を失った魂は
永遠に蒙古の大地をさまよい続ける。
あの子の魂がこの日本に帰ることはない。
だが私は数日前の夜、確かにあの子の霊を見た」
「ゆ、幽霊を見たってこと?」姉さんが恐る恐る訊いた。
「そのようなものです。お嬢様たちもすぐに
ご覧になれますよ。さあ、ユーリ。
久しぶりにお嬢様たちの前に
顔を出してごらんなさい」
能面が手を強く二度叩くと、扉が開いて女性が入って来た。
すきなくメイド服を着こなしたのは、間違いなくユーリだった。
仕事中は常にまとめていた長い髪を下ろしている。
27歳で人生を終えたユーリ。
今は私達の方がお姉さんになってしまったね……。
姉さんがぽろぽろと涙を流している。
私も同じだよ。たとえどんな形でも死んだ人と
再開できると自然と涙が止まらなくなる。
私は夢の中でユーリを見たことは何度もあった。
けどこうして、実在しているとしか思えないユーリを
見たのは初めてだ。だけど、この人は間違いなく死んでいるはずだ。
ユーリは笑いもせず泣きもしなかった。
言葉を発することもなかった。
両手をスカートの前で組んで、じっと私達を見つめている。
なぜかマリンの姿をした悪霊が、くやしそうに唇を噛んでいる
そんなマリンに勝ち誇るように能面が語り始めた。
「ユーリはピアノに思い入れのある女性だった。
この部屋でよくマリンにピアノを教えていた」
ユーリがピアノの方へまっすぐ歩いて行くと、
悪霊はなんと場所を譲った。能面も場所を譲った。
ユーリはピアノイスに腰かけたが、
鍵盤には触れずに譜面をじっとしていた。
「思い入れのある物が、霊を呼び起こすことがあるのだ。
ユーリの場合はそれがピアノだった。マリンの部屋。
そしてこの屋敷。彼女が終生働き続けようと願った堀家の屋敷だ」
能面も泣いていたけど、涙をぬぐおうとはしなかった。
彼がユーリの肩にそっと手を触れようとすると、
すっと彼の手が空を切ったのだった。
ユーリはやはり反応を示さない。
私はこの時になって、扉の魔法陣のようなものが
描かれているのに気が付いた。真っ黒な字で
不思議な文字と記号が円の中央に描かれている。
能面は小さな聖書のような書物を手にし、
私達の知らない言葉で語り始めた。
マリンもその言語で応じた。
一体何語で話しているの?ギリシャ語?ヘブライ語?
外国語は英語以外分からないからさっぱり。
やがてマリンが激昂し声を張り上げる。
能面は冷静に言葉を続けていた。会話というより、
お互いがただ自分の意見を言い合っているようだった。
ユーリが、すっとピアノイス立ち上がった。
そして少しだけ険しい顔をしてマリンを見つめた。
霊となった彼女が初めて現した意思表示だ。
ユーリは言葉を発したわけでも、マリンに
触れたわけでもないのに、マリンに変化が見られた。
「ううぅぅぅぅぅぅうううううううぅぅぅぅぅぅぅ」
中年の男性並みの低い声でうねりはじめたのだ。
限界まで開いた口から歯をむき出しにし、瞳孔が開いている。
それは私達の妹ではない確かな証拠だった。
私とレナを血走った目でにらみつけてきた。
あまりの恐ろしさに心臓が止まりそうになる。
「Η Μαρία είναι μια πόρνη I María eínai mia pórni」
何て言ってるかさっぱり分からないけど、たぶん呪いの言葉だと思う。
その次の瞬間だった。能面がマリンへ飛び掛かり、首を絞め始めた。
「うおぉぉぉぉおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおぉぉぉぉぉぉぉ」
マリンはまた低い声でうねり始めた。ゴロゴロとマウントを
変えるたびに二人は床を転がり、主導権争いを繰り返した。
体格では能面が有利。いくら悪魔が乗り移っているとはいえ、
マリンは女の体。高身長の男性の能面に勝てるわけない。
「うっ」
マリンは近くに転がっていた辞書を手に取り、
能面の頭を殴った。ひるんだ能面に三度も
同じ攻撃を繰り返すと、ついに能面は動かなくなった。
死んだの……? 出血量がすごいけど。
彼はうつ伏せに倒れたままの状態。
よく見ると指先だけは動いている。
「待ちなさい!!」
レナ姉さんが懸命に声を張った。
「彼を殺すつもりなら私が相手になるわ。
最初に私を殺しなさい!!」
虚勢を張ったって勝てないのは姉さんだって
分かってる。姉さんは床に倒れて動けない。
私達に出来るのは、ただの時間稼ぎだ。
「女よ。そう焦らせるな。まずはこいつの息の根を止めるのが先だ。
その次は貴様らだ。暗く、冷たく、光の入らぬ世界へと案内してやろう。
貴様らの魂は私が預かることにする」
このままじゃ殺される。フゥ君が味わった感覚が今理解できた。
理屈でなく本気で殺されるって思ってしまう。
私とレナ姉さんは恐怖に耐え切れず、足の先まで震えてしまった。
「レイナ。カリン。おそれるな」
能面が苦しそうな声で言うと、急に悪魔の動きが止まった。
悪魔は能面にとどめを刺すために首へ手をかけようとしたのだが、
その手を何物かが押さえているのだ。
なんとユーリが止めていた。ユーリは、確かに悪魔に触れている。
「うぅぅぅぅぅぅうぅうぅぅぅぅああぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁぁ」
焼け付くような痛みが走ると、悪魔はもだえ苦しんだ。
肉の焦げる匂いがしたかと思うと、握られた部分がちぎれて床へ落ちた。
右の手首の部分だ。どれだけの熱さだったのかは
知らないけど、少し煙が出ている。
能面は辛そうだったけど、ふらふらと立ち上がり、
体重を込めてマリン押し倒して、首を絞めた。
悪魔は先ほどのユーリの攻撃のため戦意を失ったのか、
今度はマリンの声で語り始めた。
「ハタノ……さん。苦しいよ。やめて? お願い。やめて」
呼吸する余裕すらないはずなのに普通に話せるのが不気味だった。
能面が攻撃を止める気がないのを知ると、今度は私達に話し始めた。
「姉さん達。お願いだからマリンを助けてよ。
私はこのままじゃ死んじゃうよ?
死んじゃってもいいの?」
もちろん私達には何も答えなかった。
妹と全く同じ声で私達を騙そうとするこいつが許せない。
「レイナおねえちゃん。カリンおねえちゃん」
「おねえ…ちゃん。おねえちゃん」
「おねえ……ちゃん」
マリンの瞳から光が失われた。
力なく首を横に向けた状態で息絶えたのだ。
ああ、ついにやった。能面は悪霊に憑りつかれたマリンを
殺したのだ。能面は頭の出血がひどくて上着を汚すほどだった。
自由に動ける私が手当てしようかと言ったら、拒否された。
「私はマリンの遺体を外へ運び出さなければならない。
君たちはこれに一切触れるな。
そしてマリンと同じ過ちを犯さないと誓いなさい
太盛お坊ちゃまにはくれぐれもユーリのことは黙っておけ。
君達が僕との約束を守ってくれることを祈っている」
気が付いたらユーリは消えていた。
能面はふらふらしながらも、
マリンの足を引きずって廊下へと消えた。
部屋に残されたのは彼らの血の跡。
散らばった辞書などの書物。
私の嘔吐物の匂いが今になって鼻を刺激した。
マリンのちぎれた手首も能面は回収してくれたようだ。
ユーリが座っていたピアノイスには書置きが残されていた。
内容からして能面が書いたものだ。
『私は再び禁断の儀に手を出してしまった。
すでに運命は決した。近いうちに死ぬだろう。
それはマリンも同じことだ。マリンは自らの愚かさゆえに死んだ
私は、マリンに魔術を教えた責任を取って死ぬ』
数日後、その通りになった。
能面は朝起きた時に死亡しているのを発見された。
寝ている間に何らかの理由で肺と心臓が押しつぶされ、
壮絶な死に顔だったという
「マリンが死んだ……?」
パパは最愛の娘の死を受け入れられず、
嘆き悲しみ、発狂したりする日々が続いた。
マリン恋しさのあまり、マリンの
使われなくベッドの上でわんわん泣く日々が続いた。
そして夜になるとそこで寝た。
弾けもしないのにピアノの鍵盤を不器用に
叩く姿は哀れだった。故人であるマリンの衣服を
処分しましょうかと使用人のサキさんが提案すると、
パパは顔を真っ赤にして怒るのだった。
パパの社会復帰は
まだまだ先のことになりそうだ。
当たり前だけど、ママが出て行った時の反応とは
全然違う。この人は本当に妻に対する愛はなかったのだ。
能面によってマリンは殺された。
当時の私はあのマリンが、悪魔によって
生み出された分身なのかと思ったけど、
残酷なことにマリン本人だったようだ。
でもマリンに憑りついていた悪霊がその後
どうなったのかは誰にも分からない。
少なくとも私達の身の回りで悪魔による怪奇現象が
発生することはなくなった。
マリンの命が散ったのと同時に、
悪魔そのものが消え去ったかのように。
本村家は、発狂していた父が無事に家に帰り、
家出中だった母も、ようやく気を取り直して帰って来た。
ケイスケだけは行方不明のままだった。
フゥ君は無事に退院できた。頭の打撲は
ほぼ完治している上に、悪魔を見たことに関する
精神錯乱も一時的なものと診断された。
意外なことにおじいさまは、
今回の事件にこれといった反応を示さなかった。
能面とマリンの葬儀は身内だけでひっそりと行われた。
表向きは病死になっている。
人の子にして天使や悪魔が所有する力を使った結果がこれだ。
自らの命と引き換えに人を救う。あまりにも重い代償だ。
娘に先立たれたパパの精神状態は
どんどん危険な状態になっていった。
レナ姉さんの肩をつかみながら
マリンと呼んだことがあった。
休暇中のレナ姉さんが献身的にパパを介護していたのだが、
その様子があの子に重なったのだろう。
パパのマリンに対する愛情はどこまでも深かった。
時間が癒してくれると信じるしかない…。
私はもちろんパパにユーリの霊が現れたことを話してない。
一生秘密にしないといけないの。
それが能面との約束だったから。
「マリンさんほど聡明な女性ならば」
今回の葬儀に参加したフゥ君が言う。
「黒魔術の恐ろしさを知らなかったわけがありません。
それを知っていてもお父上を救いたかった。
娘が自らの命と引き換えに親を救う。
残された親の気持ちを考えると複雑です」
「ね。人の考えなんてわからないものでしょ。
本当の気持ちってのはさ。
結局本人達にしか分からないもの」
生返事をしながら、私は丘の上の二つの十字架を見ていた。
堀マリン。秦野エリヤ。この二人の墓は先祖とは
別の場所に葬られることとなった。事情が特殊過ぎるからだ。
マリン……。あんたは遠い所へ消えてしまったのね。
死ぬのが分かっていてもパパを救いたかった。
それがあんたの信念なら私は否定しないよ。
「はぁ……なんでみんな悲しそうな顔をしているんだ?
一体誰の葬式をしているんだろうな」
太盛パパは浮いていた。一人だけ的外れなことを言っているからだ。
おじいさまは拳を強く握り、怖い顔をして車いすに座っている。
昔のように息子に説教する気にはならないようだ。
鈴原と後藤はハンカチを何度も目元に当てている。
「あの十字架に刻まれた名前を見てみろよ。
Marineだってさ。きっとMarie(マリー)の書き間違えだろう。
まるで俺のマリンが死んだみたいな流れじゃないか。
なあ。ミウ?」
「……そうでございますね」
急遽呼び出されたミウは、旦那さんも一緒に来ていた。
小柄で線が細くてエリートっぽい雰囲気の人だ。
小学生の子供二人は家に置いてきたみたい。
ミウは再び狂ってしまったお父様に深いショックを受けていた。
パパの中ではマリンが一時的に海外旅行で家を空けているという
結論に至った。もはや墓を見ても信じようとしない。
「マリンも年頃だからそろそろ親離れをして
結婚を考えないといけないな。マリンは立派な娘だ。
相応しい相手を見つけてあげないといけないな。
ミウもそう思うよな?」
「はい。太盛様」
「結婚式には必ず呼ぶからな。ぜひ来てくれよ?」
「もちろんでございます」
「今度ミウの子供たちにマリンのピアノを聴かせてあげよう」
「きっと喜びますわ……」
パパの前でマリンが死んだ話をすると発狂する。
ミウはそれを知っているから、ただ頷くしかないのだ。
喪に服したミウの顔、やっぱり似合わない。
ミウはいつでも笑っていてほしかった。
私も人のことは言えないけど。
家族を失ったショックで食欲すら失せた。
とても仕事などする気にならず、
私も姉さんと同じように長期休暇を取らざるを得なかった。
私とレナ姉さんはマリンのことを思い出しては泣き、
ついに涙さえ枯れ果ててしまいそうだった。
誰かの肩を借りられるのなら、思いっきり泣き叫びたい。
「あっ」
ミウが、近くの木影を見て驚きの声を発した。
「ゆー」
それ以上続けられなかった。
私とレナもすぐにそっちの方向を見た。
メイド服を着た若い女性が、
静かに去って行くところだった。
その女性は振り返ることはなく、
私達の視界の外へ消えてしまった。
その人は、書置きを残していった。
達筆な字でこう書かれていた。
『悲しいのなら、気が済むまで泣きなさい。
そうしたら前を向いて歩きなさい。
あなた達は決して迷わないようにね』
私が読んだあと、すぐレナとミウに渡してあげた。
私達は肩を抱き合い、丸い輪になって一緒に涙を流した。
私とレナもすごかったけど、ミウが一番泣いていたと思う。
ユーリさん。さようなら。
私は正しい道を歩みます。
そして必ず素敵な男性を見つけて幸せになります。
『失われた時間は二度と戻らない』 終わり
失われた時間は二度と戻らない