Bad Things

  1. prologue――ユカリ 〈1〉セカンド
  2. prologue――ユカリ〈2〉シグナル
  3. prologue――ユカリ〈3〉アウト
  4. prologue――ヒナキ〈1〉疑惑
  5. prologue――ヒナキ〈2〉残る苦味
  6. チカ 〈1〉未練
  7. チカ 〈2〉片思い
  8. extra――ミホ
  9. アイリ〈1〉巣立ち
  10. アイリ〈2〉帰巣
  11. ジュン〈1〉片翼
  12. ジュン〈2〉両翼
  13. サチ〈1〉一方通行
  14. サチ〈2〉交差点
  15. ハルヒ〈1〉ベンチタイム
  16. ハルヒ〈2〉一次発酵
  17. ハルヒ〈3〉成形
  18. リサ 〈1〉コバルトブルー
  19. リサ 〈2〉深海の青釉
  20. リサ 〈3〉テラコッタ
  21. extra――ミナト
  22. ユカリ 〈1〉冬の足音
  23. ユカリ 〈2〉初夏の流星
  24. ユカリ 〈3〉まだ見ぬ春
  25. ヒナキ 〈1〉種火
  26. ヒナキ 〈2〉朝日
  27. epilogue――ハルヒ

エブリスタに改訂版を掲載しています。

prologue――ユカリ 〈1〉セカンド

「投げろ! 一塁一塁!」
「――っしゃああ。ゲッツー」
 フェンスのこっち側でハイタッチをする親子、少し離れたところで野次を飛ばす若者、ギャラリーの合間から見えるプレイヤー達は、日曜の草野球にしてはずいぶん本気度が高いようだった。
「セカンドー! ナイスプレー!」
 聞こえてくる老若男女の歓声に、秋晴れの空をあおぐ。かすかに、朝のひやりとした空気が残っている。
 ギャラリーは観戦に夢中で、黄色く紅葉したケヤキの木の下のベンチは独り占めだった。ぼんやりと彼らの姿をながめながら、私は一人だけ昨日に置き去りにされたような気分に浸っていた。
霜谷(しもや)、野球好きなの?」
 すぐ近くで聞こえた声に驚いて目を開けた。上に向けたままの私の顔をのぞき込む影は、太陽を背にその光をさえぎる。ここちよい木漏れ日が、彼の輪郭をゆらゆらとなぞった。そのシルエットが動いて目があうと、彼はふいと視線をそらして隣に座った。そしてギャラリーの背中に目を向ける。私も彼と同じように、わいわいと慣れ親しんだ様子で盛り上がる人々を見つめた。
「好きか嫌いかで言えば、フツー」
「どっちかの応援?」
「ううん、通りかかっただけ。ここからだと見えないよ。高波(たかなみ)は観戦?」
 高波は「どうだろ」とどうでも良さそうにつぶやいた。
「観戦ってほどでもない。兄貴がどっちかのチームのセカンド守ってるはず。どっちか知らないけど」
「なにそれ。テキトーじゃん」
「いいんだよ。仕事行く途中に寄っただけだから。霜谷、暇ならうちの店にランチしに来いよ」
「どこ? あ、でもいいや。夜予定あるから帰って寝る」
 口にしたあと、自分の失言に気づいた。
「霜谷、やっぱり朝帰り?」
「さあ?」
 沈黙に目をそむけるように、私は再び目を閉じる。ぼんやりとした思考能力は睡眠不足のせいで、それは高波のいうとおり朝帰りのせいだった。
 一時間ほどまえ、立ち寄ったコンビニで偶然高波に出会った。私はホットコーヒーを買い、そのとき一緒だった連れは煙草を買った。高波は私に「また」と言い、私の連れには「失礼します」と会釈をして帰っていった。
 連れの車に置き忘れたコーヒーはまだ半分以上残っていたはずで、カフェインの効き目はあまりなく、ベンチに寝そべればすぐにでも寝てしまえそうだった。
「霜谷、朝コンビニ出たあとさ、……澄田(すみだ)さんの車に乗らなかった?」
 眠っていたカフェインが唐突に効果を発揮するように、脳に衝撃が走った。けれど、意地でも目は開けなかった。目は口ほどにものを言う。ならばこのまま閉じていたほうがいい。
「俺んち、あのコンビニのすぐ裏でさ、二階から駐車場見えるんだよね」
 ああ、そういえば高波は「マズイやつ」だって澄田さんが言ってた。私と澄田さんが二人でいるところを見られたら、マズイやつ。
 せっかく演じた初対面のフリは、どうやら意味がなかったようだ。

prologue――ユカリ〈2〉シグナル

 指と指のあいだに絡めた太くて節ばった指はガサガサに荒れていて、ところどころパクリと割れたあかぎれが痛々しかった。指先でそっと傷をなでると彼は私の手を引きよせ、フロントガラスの向こうに目をやったまま、白とベビーピンクのフレンチネイルに唇をつけた。
「オートマってこういうこと出来るからいいね」
 そう言いながら彼は指を解いてウインカーを出す。その左手はハンドルに添えられたまま戻ってこなかった。
 午前九時まえ。
 赤信号を見つめながら、私はひとりぼっちになった右手の行き先を探して髪をかきあげた。
 道路の向こうに見える、直売所と書かれた建物の奥には果樹園が広がっていた。黄色いコンテナを積んだ軽トラックが駐車場を出て、果樹園へとつづく細い坂道を上がっていく。ぼんやりと軽トラの後ろ姿を目で追っていると、くっと体が揺れた。
 青信号を左へ曲がり、さっきまで自分がいた場所を助手席の窓越しにちらりと見る。
 果樹園と道をはさんで向かいに広がるラブホテルの群れ。陽にさらされたその姿は、何かの間違いのようにひどく嘘くさくて、どこか現実感がなかった。そのまわりに広がるのどかな田園風景も、やはり現実感がない。数羽の鳥影がばさばさとあぜ道に降り立ち、ついと地面をついばんだ。
 日曜日の朝のバイパスは、市街へ向かう車も、郡部へ抜ける車も、どちらもまばらだった。太陽の光は山かげに隠れるぎりぎりの角度で車のなかに射し込み、まだ覚めきっていない目を薄っすらと閉じ、隣に座る彼を見た。
澄田(すみだ)さん、今日の仕事眠くならないですか?」
 トンネルに入り、くぐもった走行音が私たちの距離を少しだけ近づける。彼の匂いがしたけれど、それは自分のからだに染みついたものかもしれない。
「眠いけど、仕事はじめたら目が覚めるから平気。ユカリちゃんは今日休みだろ?」
「夜友達と会うから、澄田さんの店に食べに行こうかな」
 彼の返事は、すぐには返ってこなかった。横顔は何か思案しているようで、口元がぎゅっと閉じられていた。朝の光が徐々にトンネルに侵入し、開けた視界に広がるのは平坦な田舎の市街地。見慣れた景色を、すこし居心地わるく感じた。
「ごめんね。今日は予約が多いから、席が取れないよ。うちはまた今度にしたら? ユカリちゃんが来るならゆっくりもてなしたいし」
 車はバイパスをおりて、再び赤信号で停まった。向けられた笑顔に、小さな不安が広がった。「コンビニ寄って下さい」そう言ったのは、少しでも長く彼と一緒にいたかったからだ。今日こそはっきりさせよう。会う前にはいつもそう思うのに、どうしても切り出せないでいることがある。
 ホテルに着いたら、シャワーを浴びたら、触れる前に、その、あとに、ホテルを出る前に、車に乗ったら、――コンビニに着く前に。
 今日もまたそのことを口にできないまま、車はコンビニの駐車場へと乗り入れた。店の正面の駐車スペースは埋まっていて、彼は建物のすぐ横に車を停め、「行こうか」と先に車を降りた。その背にむかって、心のなかで問いかける。
 私はあなたの彼女ですか?
 声にならないまま何度も繰り返し問いかけて、想像のなかの彼の答えはいつも「NO」だった。それは女の勘だろうか。
 部屋に入れてもらえたのは一度だけ、会うのはいつも夜ばかりで、それは彼との休みが合わないから、そう分かっているのに、逢瀬を重ねるその別れぎわ、少しずつ不安が降り積もっていく。愛しさが増すごとに、苦しさが積み重なっていく。
 助手席のドアを閉め、駆け寄ろうとした私を「待って」と彼が片手で制した。視線はコンビニの中に向けられていて、彼の小さな小さな舌打ちが聞こえた。
「ちょっとマズイやつがいるから、ユカリちゃん時間差で入ってくれる? 俺のことは知らないふりして」
 不安が、膨張する。
 自動ドアがひらき、入店音が鳴り終わるまえに彼の姿は店のなかに消えた。私は店内から死角になる場所で、ほんのしばし立ち尽くす。
 彼の言葉の意味を考えていた。――私は、一緒にいるところを見られたらマズイ女?
 スマホを取り出しSNSをいくつか開き、画面をスクロールするけれど、なにも心に引っかかりはしない。私の意識は建物のなかの彼と「マズイやつ」に向けられている。
 スマホを鞄にしまい、ゆっくりとコンビニの正面に向かった。レジを終えた客が内側からドアを押し開け、入店音を聞きながら「すいません」と入れ替わりに店にはいる。雑誌コーナーに彼の後ろ姿が見えたけれど、顔を向けないよう、まっすぐホットドリンクのコーナーに向かった。
「あ! もしかして霜谷(しもや)じゃない?」
 ふいに背後から声をかけられ、それはもちろん彼の声ではなかったけれど、明らかに彼のいる方向から聞こえた。無視するにはあまりにも大きな声で、そろりと声のしたほうを振り返る。満面の笑みで片手を挙げる男の人は、彼のすぐ向かいに立っている、多分「マズイやつ」だった。
 澄田さんの目は驚いたように見開かれ、口元は微かにひきつっているように見えた。ふたりとも私に顔を向けていて、澄田さんの表情にその人は気づいていないらしく、私にとっては懐かしい、屈託ない笑みを浮かべていた。
「やっぱり、霜谷じゃん。すげー久しぶり。就職こっちでしたの?」
 その男の無駄に大きな声は相変わらずで、私は澄田さんとの約束を破って二人に近づいた。それはどうしようもないことだと、彼もきっと分かってくれる。
「久しぶり、高波(たかなみ)。高校卒業以来?」
「うわー、同窓会で会ったの忘れた? ひどいやつ」
「高波、同窓会来てたっけ」
「まあ、二次会の途中から」
 昔と変わらぬ軽口を叩きながら、視界の端で彼の表情を伺った。どちらでもいいから、何か切りだしてくれないと私はどうしていいか分からない。
「あ、澄田さん。これ、高校んときのクラスメイトです」
 高波のおざなりな紹介に、彼は「へえ」と私に笑顔を向ける。彼の、いかにも「はじめまして」というその表情に胸が痛んだ。
「霜谷、この人、えーっと何て紹介したらいいですか? 師匠?」
「別に俺は師匠じゃないだろ。店違うんだし」
「でも勉強させてもらってますよ。だから、えーっと、人生の師匠?」
 ばーか、と澄田さんは高波の頭を小突く。やめてくださいよ、と無邪気な笑顔を浮かべる高波は、飼い主にじゃれつく仔犬のようだった。過去と今とが強引に対面したような光景が、どうしようもなく居心地わるかった。
 ふと、高波が思い出したように私に向きなおった。
「わり、霜谷。俺レストランで働いてるんだけど、そこの同僚がこの人の彼女なんだ。で、店は違うけど先輩料理人であるこの澄田さんに俺も色々教わってんの」
 ふうん、と相槌をうった私の顔は強張っていなかっただろうか。高波は澄田さんの料理を色々と褒めちぎっていたようだけれど、私は「へえ」とか「そうなんだ」とか適当に返すのが精一杯だった。とりあえず涙が出ないように二人から少し目をそらして、陳列棚に並んだ商品を端っこから順番にながめていた。
 コンビニで洗濯用洗剤なんて買った事ないな。あ、あのシュシュ意外にかわいいかも。お泊り用スキンケアセットは……。
「あ、そうだ。今度一緒に澄田さんの店に食いに行こうぜ。高校のときのメンバーに声かけてさ。霜谷、番号変わってない?」
「え? ……あ、うん。前と同じ」
「じゃあ、連絡する」
 高波は私に「また」と言い、澄田さんには「失礼します」と会釈をして帰っていった。
 私はホットコーヒーを買い、先にコンビニを出て、周囲に高波がいないことを確認してから助手席のドアにもたれて澄田さんを待った。澄田さんは買ったばかりの煙草のフィルムをはがし、「先に乗ってて」とロックを解除してから店のまえでライターに火を灯す。
 その姿を少しのあいだ見つめ、大人しく助手席に乗りこんだ。コーヒーをすすり体がすこし温まると、思いのほか大きなため息がもれた。
 目の前には「アイドリングは近所の迷惑になります」というプレートが貼られている。壁の向こうにある民家の二階の窓から、ミッキーマウスの後ろ姿がのぞいていた。半分ほど開いたカーテンは黄緑色で、住人の頭がかすかに見え、すぐ奥に引っ込んだ。
 コンコンと窓が叩かれ、澄田さんがガラスの向こうからのぞきこんでいた。間をおかずドアが開き、彼はちらりと周囲に視線を泳がせたあと、私をシートに押しつけるようにして強引にキスをした。彼の唇がとらえたのは私の首筋だった。それは一瞬で、何事もなかったかのように彼はさっと身をひるがえし、ぐるりと回って運転席に乗り込んだ。
 黄緑色のカーテンがゆらりと動き、その陰に男性らしい人の姿が見えたけれど、それは再びすぐに消えた。ぼんやりと見つめるその窓も、正面の壁も遠ざかり、車は方向転換して国道に出た。
「ユカリちゃん、これからも会いたいとか、無理?」
「……彼女、いたんですね」
「うん。まあ、古女房みたいなもん」
 黙りこんだ私の脚に彼の左手が伸び、甘えるようにするりとなぞった。スカートの裾に入り込もうとするその手から逃れるように、私は窓際に体を寄せた。
「あの、車停めて下さい」
「ユカリちゃん……」
「停めてもらって、いいですか」
 澄田さんは諦めたように小さなため息をついて、道の先に見えた運動公園の駐車場に入った。そこには意外にもたくさんの車が停まっていて、どこかから歓声が聞こえた。
「やっぱり、会うのは無理かな?」
「……私は、二番目ってことですか?」
「いや、順番とかじゃなくて……」
「セフレ?」
「ユカリちゃん」
「彼女と会うんでしょ、今夜」
 視線を外した彼の横顔はどこか拗ねているようで、その大人げない表情に少しだけ気持ちが冷め、悲しみなのか怒りなのかも分からない胸のどんよりした重苦しさもほんのわずかだけ軽くなった。ほんの、わずかだけれど。
「もう会うのやめましょう。そのほうがいいから。私バスで帰りますね」
 無理やり笑顔をつくり、それが崩れないうちにドアを開けた。聞こえていた歓声に混じって、カーンという渇いた音が響き、歓声は一層おおきくなった。
「ユカリちゃん!」
 振り返らずに外に出て、ドアを閉める間際に「ごめん」とつぶやくような声が聞こえた。手を振って見送るなんてできるはずもなく、駆けだしたいけれど足元は10センチのピンヒール。コケたりしようものなら、そのまま泣き出してしまいそうだった。
 逃げるように駐車場に停められた車のあいだを抜け、芝生の広がる公園に足を踏み入れたとき、背後をエンジン音が通り過ぎた。その音に私は未練がましく振りかえり、運転席の彼がスマホを耳元から離すのがみえた。

prologue――ユカリ〈3〉アウト

「霜谷、澄田さんに彼女いるって分かってて会ってんの?」
 批判的な高波の口調が、ちょうどよく私を傷つける。悪いのは私。先のばしにしてきた私のせいだ。なにか言おうと口をひらくけれど、喉がふるえ、言葉を出すことをあきらめた。唇を噛んだけれど、まだ震えは止まらなかった。
 ひやりとした風が吹きぬけて、カサカサと落ち葉が擦れる音と、さわさわという木々のざわめきがあたりを満たし、すこしだけ心を静めてくれる。
「霜谷」
「……なに?」
「俺見なかったことにするから、澄田さんと会うのやめてくれない? 澄田さんが浮気してるなんて知ったら、ヒナキのやつ……」
 高波はそこではっと気づいたように口をつぐみ、バツが悪そうに「んっ」と咳ばらいをしたあと、「もう、結婚秒読みなんだよね、澄田さんと彼女」と、どことなく投げやりな口ぶりで言った。
「……ヒナキ、さん? 仲いいんだ高波」
 皮肉のように聞こえたのだろうか。どこにぶつけていいかも分からない澄田さんへの感情を、私は高波にぶつけるしかなかった。今さら彼女の名前なんて知りたくもなかった。
 高波はなんの前触れもなく立ち上がり、「べつに」と小さくこぼして、ギャラリーの貼りつく薄緑色のフェンスへと歩いていった。彼の右手が肩の上にあげられ、フェンスの向こうの男性がそれに応えるように手を振り返す。
「弟よー、来るの遅いんだよ。俺の華麗なプレーにみんな歓喜したっていうのに」
「ああ、ゲッツーとったって?」
「おっ! 見てた?」
「いや、見てない。兄貴じゃなくて、ショートのプレーが良かったんじゃねえの?」
「言ったな? ミホ、ちゃんと撮れてるよな」
 声をかけられた女性はママ友らしい何人かの女性との会話からはずれ、足元にまとわりつく幼子を抱きあげて高波たちに近づいた。高波の口元が「ども」というように動いたけれど、私の耳までは届かなかった。
「さっきの? わが夫ながらかっこよかったよー。今度見せてあげるから」
「いいですよ、別に。プロ野球も観ない俺には、兄貴の凄さなんて分からないから」
「やだぁ。プロ野球を観ないからこそ、しょぼい草野球のプレーもスゴく見えるのよ」
「おい、ミホ。その言い方はないだろ」
 幸せの光景は、悲しみに浸ろうとする自分を滑稽に思わせる。私が泣いてもあの人達はこうして笑っていて、そして澄田さんは彼女に電話をかける。私から連絡がなくても澄田さんは「ヒナキ」と会って、夜は彼女の服を脱がせる。
 高波に声をかけないまま、公園を出て国道沿いを歩いた。いつも車で通り過ぎる町並みを一人とぼとぼと歩くのは、ふと我に返るとあまりに惨めだった。それほど歩いたわけでもないのに、履きなれないハイヒールに足が痛みを訴えはじめる。
 わたしは、何か悪いことをしただろうか。
 考えようとすると瞼がジンと熱くなり、そのたびにギュッと目を閉じて思考をリセットする。バス停にたどり着いて時刻表を確認すると、次の便まで三十分以上あった。    
 座る場所もなく、歩道に標識が立っているだけのその場所で、私はすべてが面倒になり、ただぼんやりと立ち尽くした。
「霜谷、大丈夫か?」
 振り返ると、高波がいた。自転車にまたがったまま怪訝そうな顔で、背負っていたリュックをあさってポケットティッシュを差し出してくる。意味が分からず、でも言葉を出すのも億劫で、私は首をかしげて彼の意図を問いかけた。
「……悪かったよ。俺も言い方きつかった。とりあえず涙ふけよ」
 彼に言われて手のひらで頬をぬぐうと、しっとりと肌が濡れた。
「あ、泣いてたんだ。私……」
 言葉を漏らした瞬間、それを待っていたかのように涙が次から次へとあふれ出してきた。手の甲でそれを何度も何度も拭きながら、私は高波に背を向けて歩道を歩きだした。
 優しさなんてほしくない。
「おい、霜谷!」
 放っておいて。
「なあ、悪かったって」
 うるさい。
「霜谷!」
「うるさい!」
 チェーンのカラカラという音が後ろからついてくる。私が足を止めるとその音もやみ、歩きだすとまた聞こえてくる。そんなふうにして、ふたり黙り込んだまま歩道を歩きつづけた。
 正面から子どもが三人駆けて来て、ガードレールに体をよせてやり過ごしていると、ぐいと腕が引かれた。高波の顔は困惑しているようにもみえたし、少し怒っているのかもしれなかった。
「霜谷、後ろ乗れよ。駅までなら通り道だし」
「違反」
「そうだけど。……澄田さんは?」
「帰ったんじゃない? 彼女のとこに」
「お前、ほったらかして?」
「高波、そうして欲しかったんでしょ。ちょうど良かったじゃん。もう会わない」
「……別れたのか?」
 別れたのか?
 その言葉でどこか吹っ切れた気がした。情けなさが飽和状態になって、もういいやと、なんだか笑えてきた。
「なんとなく気づいてたんだけどね。私、彼女じゃなかったんだ」
「霜谷。澄田さんに彼女いるって知らなかったのかよ?」
 知らなかったほうがよかったのだろうか。もし知らないまま会いつづけていたら――その先を考え、すとんと肩の力が抜けた。知ってしまった以上、もう「その先」なんて意味がない。彼の笑みを素直にうけとめることはできそうになかった。
「私、二番目の女だったんだ。今日はじめて知った」
「……本当に、もう会わないのか?」
「……会わない」
「澄田さんは何て?」
 ユカリちゃん、これからも会うとか、無理?
 思い返しても、彼のあの言葉への返事は変わらなかった。誰かから奪ってまで、彼の隣にいようとは思わなかった。誰かがいるのに他の女と――私と会って、深い関係になった彼を、もう信用できないのだと思った。
「会わないって」
 そっか、と安堵のため息をついた高波の視線が、何かをとらえたようにピタリと止まった。そして、ちらりと私の顔をうかがう。高波の視線の先にあったもの、それはたぶん、虫に刺されただけの小さな斑。ちょっとのあいだ痒いかもしれないけれど、きっとすぐに消えてなくなる。
「あの人の店、もう行かないから。同級で集まるなら高波の店……も嫌だし、どっか別の店にして」
 ヒナキ。その人は今なにをしているのだろうか。恋人になんの疑いももたず、屈託ない笑顔で彼を迎えるのか、わずかなりとも猜疑心をかかえ、彼を観察しているのか。罪悪感がちくりと胸を刺した。 
 高波は「分かった」と口にして、「どっかいい店あったかな」と独りごとのような言葉で当たりさわりのない会話へと持っていった。
 二つ目のバス停が見え、コンビニ前の標識の横に、杖をついたおばあさんと高校生くらいの女の子が二人立っていた。そろそろバスが着く頃なのかもしれない。
「高波、遅刻するんじゃないの?」
「ちょっとギリかな。とばしたら間にあう」
「高波、ヒナキってひと、好きなの?」
 自転車が止まり、彼の顔は浮かべるべき表情を決めかねるように強張っていた。
「高波は、バカだね」
 パシンと彼の腕を叩き、私は「じゃあね」とコンビニへ向かった。後ろから、ファーンというバスの音が聞こえた。
「霜谷! バス!」
「いい。あと10分くらいで家に着くから歩く」
 手を振って店に入り、トイレを借りて店内に戻ると、雑誌コーナーに高波が立っていた。
「高波は、バカだね」
 開いていた漫画雑誌を棚にもどし、高波は口の端にゆがんだ笑みを浮かべる。
「霜谷も、バカだね」
「仕事は?」
「30分遅刻って電話した」
「ゆるい職場だね」
「知らねーからそんな風に言えるんだよ。まじ、気が重い」
「行けばいいのに」
「行くよ」
「じゃあね」
「おう」
 チェーンのカラカラという音が隣で鳴り続けている。秋晴れの空をばさばさと鳥影が通り過ぎ、ぴ~ひょろろと鳴き声が聞こえた。

〈prologue――ユカリ・了〉

Machine Gun Kelly, Camila Cabello 「Bad Things」を聴きながら

prologue――ヒナキ〈1〉疑惑

 手にした黒文字をピタリと止めて、母は思い出したように口を開いた。
「塩谷さんちの結衣ちゃん、このまえ結婚したのよ。ヒナキより下だったわよねぇ」
「うそ。結衣ちゃんが? 中学のころ以来会ってないよ。私が中三のときに中一だったから、……二歳下かな」
「今どきの子にしては早いわねえ」
 母はなんだか感心したようにため息をついてから、一時停止していた動作を再開し、紅葉を模した和菓子を切り分け一口ほおばる。
 高校卒業後、私は隣県の調理師専門学校に二年通い、そのままそっちで就職を決めた。結衣ちゃんは実家の近所に住んでいた女の子で、彼女に限らず、高校に入ってから地区の人達と顔を合わせる機会はほとんどなかった。こうしてたまに帰省してきても、ごく狭い範囲の隣人以外は道で会っても誰か分からない。
 和菓子の甘みのせいか、一日着ていた喪服から解放されたおかげか、テーブルをはさんで向かいに座る母は、薄めに立てた抹茶を口にふくんで「あぁ」と安堵の吐息をもらした。
 お茶といっても作法も何もあったものではなく、リビングにポットと茶筅、抹茶茶碗を持ってきて、お互い自分の好みで好き勝手に飲んでいる。母は茶杓に軽く一杯の抹茶に、柄杓にすれば一杯に届かないくらいのお湯。私は茶杓に一杯半の抹茶と、柄杓に半分くらいのお湯。ふくふくとした泡立ちとともに立ちのぼるふくよかな香りと湯気に、それだけで心がほどけていく。
「ヒナキもそろそろ結婚してもいい頃よ。私は二十六で結婚したんだから」
「お母さん、今の私の年で結婚したんだね」
 抹茶茶碗のぬくもりを両手に感じながら、隣県にいる彼氏に想いを馳せた。お土産のつもりで買ってきた和菓子はすでにお腹のなかで、口に残った苦味がザラリとした記憶を思い出させる。
『ヒナキは楽観的過ぎだよ。澄田さん、絶対怪しい』
 彼氏の部屋で女物のピアスを見つけた、という話を友人のチカにしたら、そんな風に言われた。彼はピアスをしていない。
『でも、妹が来てたって』
『それ、信じちゃうの? ちょろい女とか思われてるんじゃない?』
 彼には私より一つ年下の妹がいる。彼は私の三つ上だった。妹が来ていたなら紹介してくれてもよさそうなものなのに、彼女がいつ来ていつ帰ったのかも私は知らないし、彼は「ちょっと前」とあいまいに濁し、会話を終わらせるように「ビールとってくる」とソファから腰を浮かせた。
 ふと、不安になる。チカに喋ったこと意外にも気になることがあった。
 彼の部屋の灰皿に、吸い殻が二本。それは彼の吸っている銘柄で、それ自体はおかしくもないのだけれど、私はその部屋の灰皿がそんなにスッキリしたところを見たことがなかった。山盛りとまではいかないけれど、私が捨てなければ吸い殻はいつまでも積み上がっていくのではないかと思うような、そんな灰皿だった。
『スミ君、めずらしい。自分で捨てたんだね』
『ヒナキが旅行のあいだに火事になったりしたら嫌だろ』
『そうなったら私のマンションに来たらいいよ。ねえ、いっそ一緒に……』
 彼は「あ! そうだ」オーナーに言わなきゃいけないことがあったと独り言をこぼしながら、思い出したようにポケットからスマホを取り出して部屋から出て行った。その彼の背中を見つめ、小さな吐息がもれた。
 ……いっそ一緒に暮らそうよ。私が言いたいことは分かっているはずなのに、彼はのらりくらりとかわしてしまう。
 店は違っていても同じように飲食店で働いて、生活時間帯はほぼ同じだけれど、会える時間はそれほど多くなかった。定休日が違うから休みは重ならないし、勤務形態もランチとディナーのあいだに二時間半の休憩が入るから、出勤から退勤までの時間が長い。お互いの家を別宅のように行き来するくらいなら、一緒に住んだほうがいい、そう考えるのは私だけなのだろうか。それとも……。

「ヒナキ、明日も仕事休みなんでしょ? 今日泊っていくわよね」
 母はショッピングモールのチラシをながめていて、どうやら運転手を確保しようとしているようだった。
 親戚の法事を理由にせっかくとった週末二連休の、今日は一日目だ。サービス業に従事して、土日に休みをとるなんて初めてのことだった。時刻はすでに夜の八時ちかくで、私と母は叔父たちと飲んだくれる父を放って、先に家に帰ってきていた。
「泊まるつもりだったけど帰ろうかな。気疲れしちゃったから明日は一日ごろごろしたい」
「せっかく来たのに。もう帰っちゃうの?」
「日曜のお昼って車混むし、帰るなら夜のほうが運転ラクだから。明日はお父さんとデートしたら?」
 ごめんね、と母に言いながら、私の心はすでにスミ君のことで頭が一杯だった。
 チカのせいだ。「楽観的すぎ」チカがあんな風に言わなければ、私はこれまでと同じようにスミ君の言葉を鵜呑みにしていられたはずなのに。それは多分、防衛本能のようなものだった。盲目的に彼を信じていれば、私は傷つかないでいられる。
 会える時間はすくなくても、それなりに上手くいっていた、そう思うのは私の独りよがりだったのだろうか。ひとしずくの不安がこんなにも膨れ上がるなんて思いもしなかった。それまで気にも留めなかった彼の小さな仕草に、自分でも呆れるほどに疑いの目を向けてしまう。
 一緒に暮らそうよ。
 その言葉から彼が逃げるのは、私以外の誰かがいるから。考え過ぎとは思うけれど、いつからか、私のなかには顔も名前も知らない、スミ君の隣に立つ誰かが住みついて、こうして彼と離れているあいだにも、その誰かは――。

 ***

 午後十一時。
 曇天の空には星ひとつなく、単調な景色のつづく高速道路で、私は膨らみつづける猜疑心と戦っていた。ラジオから聞こえる下ネタトークに、ふっと強張りが溶ける。
 ふと、同僚のケイスケのことが頭に浮かんだ。二歳年下の彼は、普段からバカな話で職場をにぎやかしている。ときには料理長に怒られることもあるけれど、調理場で一番下っ端の彼はみんなから可愛がられていた。そんな彼のキャラクターはうちの店のなかだけではおさまらない。スミ君の働くレストランに何人かで訪れて以来、ケイスケはスミ君を先輩だの師匠だのと言ってじゃれついている。スミ君はまんざらでもなさそうで、仕事終わりに三人で飲みに行ったこともあった。
 トンネルを抜けて海沿いの国道に出ると、外灯の明かりで浮かびあがる見慣れた景色にほっと肩の力が抜けた。すでに日付は変わっていて、私は少し迷いながらも海岸沿いのコンビニに寄り、スミ君の好きなスモークチーズと缶ビール、それとホットの紅茶を買った。彼の家までなら、ここから十分ほどで着く。
『予定より早く帰ってきちゃった。今日、そっち行っていい?』
 仕事は終わっているはずなのに、送ったメールにスミ君からの返信はなかなか来ない。自宅に戻ってしまえば「無理して来なくていいよ」と言われるような気がして、なかなか車を出すことができなかった。
 シャワーでも浴びているのだろうか。そう考えて、頭に浮かんだ彼の、その隣には顔も知らない誰かが裸で立っている。コンビニの駐車場で、ペットボトルの紅茶は半分くらいになっていた。
 目のまえにある漆黒の海が、不安を悲しみに変える。
『クリーン・バンディット フィーチャリン ザラ・ラーソンでシンフォニー(※)。あなたは今、だれと聴いてますか?』
 DJの言葉のあと流れ出した音に、するりと涙が頬を伝った。悲しみに酔っているだけだと分かっているのに、自分に浸りたいだけだと分かっているのに。悲しみに身を沈め目を閉じると、車内に響く歌声が自分自身の叫びのように思えた。英語の歌詞でなにを歌っているのか、その意味は分からなくても、その悲痛な叫びは私のものだった。
 曲の終わりとともにメールの着信音が車内に響き、恐怖と緊張が全身を駆けめぐった。速まる心臓を落ち着けてメール画面を開く。そこにあった文字に、思わず深いため息がもれた。
『おつかれー。忙しくて今まかない食い終わった。明日の仕事終わりに新しく出来た居酒屋行こうって話してるんだけど、ヒナキは明日何時に帰ってくる?』
 年上へのメールとも思えないぞんざいな言葉遣いに、運転席でひとり苦笑する。また肩の力が抜けた。メールの差出人であるケイスケは、こうやってするりと相手の懐に入り込んでくる。それが、少し怖い。
『おつかれー。お昼には帰るけど、疲れてるからパスするかも。行けたら行く』
『もし来るなら澄田さんにも声かけてみて。帰り、気をつけて運転しろよ』
 ケイスケが会いたいのはスミ君かと思うと、不意に笑いが込み上げてきた。
「なにやってんだろうなぁ、私」
 ほんの数ヶ月前。あのピアスを見つけるまでは自分がこんなに弱いなんて思いもしなかった。
 つき合いはじめて三年近く。尊敬と憧れの対象だった澄田(すみだ)さんが恋人のスミ君になった当初は緊張でテンパり、けれどそれは共通の話題である料理が埋めてくれた。お互いの存在がなんとなく日常になったころ、私はようやく今の仕事にも慣れ、心にできた余裕に、私は余計に料理にのめり込んだ。
 スミ君に追いついて、同じ目線で料理の話をしたかった。それなのに、最近料理をしていても気づけばうわの空で作業をしている。
 スミ君は今仕込み中かな。
 あっちの店、忙しいかな。
 今、休憩かな。
 同じようなことを、出会った当初も思っていた。けれどその頃は持てあますような恋心しかなく、「彼女はいるのかな」なんて考えながらも、浮き立つ気持ちが心の大半を占めていた。
 誰かと、一緒にいるの?
 私の心は今そればかり考えている。浮き立ちもせず、これも恋なのだろうけれど、こんなに真逆の気持ちを「恋」という一つの言葉でくくってしまえるのが不思議なくらいだった。
 紅茶を飲み干してコンビニ前のゴミ箱に捨てた。雲間からいくつか星が瞬いているのが見える。車に戻ると、車内ではスマホのランプが点滅していた。
「もしもし」
『ヒナキ? ごめん連絡遅くなって。今日ちょっと用事があって実家の方に向かってるんだ。だから、悪いけど』
「ううん。急にごめんね。あ、そうだ。うちの店の人達が、明日の夜新しい居酒屋に行くから一緒に行かないかって。スミ君行く? そっちの店の人も誘ったらいいと思うけど」
『……どうせ高波(たかなみ)から連絡あったんだろ』
「うん。今日忙しかったって愚痴メール。スミ君、無理しなくてもいいと思うよ。実家行くならあまり寝れないでしょ?」
『うん。……でも顔くらい出すよ。ヒナキ行くんだろ?』
「どうしようかなって思ってたけど、スミ君行くなら行くことにする。連絡しとくね」
「よろしく」という声のあと、電話はあっさりと切れた。助手席の缶ビールはすっかりぬるくなり、結露のせいでレジ袋がペタリと貼りついている。私はケイスケの番号を呼び出し、電話をかけた。
『はいはーい。ワタクシ、タカナミケイスケでございます』
 妙に浮かれた声だった。けれど、それはケイスケの声ではない。酔っ払ったバージョンの料理長の声だ。店から歩いて五分のところに住んでいる彼は、時々まかないをつまみに晩酌を始める。その分の酒代はきっちり支払っているようだけれど。
樋引(ひびき)さん、ケイスケはそんな親父臭いだみ声じゃありません」
『ひどいなあ、ヒナキちゃん。ケイスケのうんこが長いから俺が代わりに出てやったのに』
「樋引さんも明日行くんですか? 飲み会」
『飲み会? 市場調査って言ってくれよ。結構評判いいらしいんだ、値段のわりに』
「行くんですね。私も行きます。あと澄田さんも行くって」
『あ、ほんと。旦那のほうの店のやつも何人か来るって?』
 樋引さんは私と話をするとき、スミ君のことを「旦那」と呼ぶ。以前はそれが気恥ずかしくも嬉しく感じていたのだけれど、最近妙な居心地の悪さを覚えるようになっていた。
「まだ分かりません。いつもみたいに、適当に合流すればいいんでしょ?」
 だな、と樋引さんの声が聞こえたその後ろで、ケイスケの「あー」という声がした。樋引さんの笑い声のあと、「ヒナキー?」という少し酔っ払ったようなケイスケの声が電話の向こうから聞こえてきた。
「なによ、酔っぱらい」
『酔ってないって。そっちこそ、親戚のオヤジとかに飲まされてんじゃないの?』
「車だから飲んでないよ。もう寝るところ」
『そっかぁ。法事とかって気疲れするからな。オツカレサマでした』
 おつかれ、と返して電話を切った。切ったあと、自分の電話の切り方がさっきのスミ君と同じくらいあっさりしていたことに気付いた。
 スミ君の私に対する気持ちは、私のケイスケへの気持ちと同じくらいあっさりしたものなのだろうか。以前はどうだっただろうと思い返してみるけれど、昔もそれほど変わらなかったように思う。つき合いはじめた頃も、馴れ合いはじめた頃も、そして今も、スミ君の電話はあっさりとしている。
 全部、――全部たんなる杞憂だったらいい。スミ君の気持ちは何も変わらず、私がただ勝手な思い込みで不安になっているだけ。
 車窓をながれる日常の風景が、安堵と孤独をつれてくる。スミ君は今、この街にいない。それが本当かどうかは分からないけれど。

prologue――ヒナキ〈2〉残る苦味

 翌朝、スミ君からの電話で目が覚めた。
 時計はすでに九時をまわっていて、けれど七時半にセットしたはずのアラームを止めた記憶はなかった。しっかり寝たせいか、少しだけ頭がスッキリしている。
『こっち帰ってきたとこなんだけど、やっぱり寝不足だから今日の夜無理かもしれない。とりあえず店のやつには声かけてみるけど、俺はパスしとくよ』
 スミ君の声にどこか投げやりな響きがこもっていた。勝手な思い込みなのかもしれないけれど、彼の言葉に対する疑念を消し去ることができない、そのこと自体が問題なのだと分かった。
「そっか。じゃあ私も行くのやめてスミ君ち行こうかな」
 試すように口にしながら、私は少しずつ心の準備をしている。自分の言葉で踏み出した先には、彼の姿はないのかもしれない。
『うち? 俺ソッコーで寝るよ』
「……行かない方がいい?」
『……いや、いいけど。ヒナキが飲み会行かないと高波が悲しむんじゃないの?』
「……なにそれ」
 ――なに? それ。思いもよらぬ彼の言葉に混乱し、溜め込んできた思いが口をついて溢れた。
「スミ君は、いいんだ。悲しんだりしないんだ。別に私がいなくても。ケイスケのとこに行けばいいと思ってるんだ」
『ヒナキ、そういうことじゃ……』
 電話の向こうから深い溜息が聞こえた。ため息つきたいのはこっちで、けれど口元が震えてうまく息を吐くことすらできなかった。
『ごめん。ちょっと疲れててさ』
 昨日のケイスケの電話が頭を過った。――法事とかって気疲れするからな。オツカレサマでした。
 心がカラカラだった。あの言葉をスミ君が昨日の夜にかけてくれたら、私はベッドに一人きりでも孤独ではなかったかもしれない。
 スミ君の素肌に触れたのはいつが最後だっただろう。同じベッドの上で、最初に彼の誘いを断ったのは私の方だった。――ごめん。ちょっと今日疲れてるから。
 あのとき、スミ君は「そっか、おつかれ」と私の頭をなでて目を閉じた。初めてメイン料理を担当させてもらえた日のことで、それは実力などではなく、そのときの客が私の知人だったというだけなのだけれど、それでも緊張と達成感と心地良い疲労感に包まれ、私は彼の隣で微睡む間もなく眠りについた。
 仕事のやりがいは徐々に増して、今思えばそれと反比例するように彼と交わることが減ったように思う。
 私のせいだろうか。私は何か間違っていたのだろうか。
「スミ君。誰か、……誰か好きな人、できた?」
『……え?』
 なに言ってんの、という言葉が聞こえてくるまでの間をとても長く感じたのは、相対性理論とかそういうやつのせいだろうか。
 天才のジョークに笑える余裕があるはずもなく、彼の言葉はもっと幸せなシチュエーションだったと、そんなどうでもいいことを考えながら私はそのまま電話を切った。彼からの電話もかかってこなかった。
 疑念が確信に変わりつつあったけれど、それはもちろん思い込みに過ぎないのかもしれない。彼のとなりに「誰か」がいてもいなくても、スミ君の心が以前より離れてしまったことは間違いないようだった。
 カーテンの隙間から差し込む光は、昨夜の漆黒の闇とはちがい、小さな諦めをもたらした。
 彼の心が先に離れたんだろうか。それとも、私だろうか。
 恋というよりもむしろ情に近いこの感情は心地よくもあるけれど、消え去った刺激を私は仕事に求め、もしかしたら彼は別の誰かに求めたのかもしれない。

***

 戸棚から薄っすらと青みがかった有田焼の抹茶茶碗を取り出し、手鍋でお湯を沸かして茶漉しで抹茶をふるった。お湯を茶碗に注ぎ、くるりと回してもう一度手鍋にもどす。布巾で水気を拭いた茶碗に抹茶を入れ、手鍋をすこしゆすって湯温を下げ、そこに注ぐ。
 ……シャッ、……シャッ、
 ……シャッ、シャッ、シャッ、
 ……シャシャシャ……
 きたない感情がするすると体から抜け落ちるような感覚があった。お茶を習ったわけでもなく、ただ見よう見まねでやっているにすぎない。見よう見まねでもそこにはたしかに温もりがあり、香りがあった。
 茶碗の内側を茶筅でなぞるように円を描き、中央ですっともちあげた。
 苦味をおいしいと思うようになったのは、いつ頃からだろう。胸のうちに霞をかけるようなぼんやりとした切なさは、ほんの少し麻薬のように思えた。
 切なさと裏返しの愛情。傷ついてからはっきりと意識する彼への恋慕なのか執着なのかも分からない気持ちに、やはり私も刺激を求めていたのかと思い知らされる。
 愛はお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめること。サン・テグジュペリの名言が、たんなる理想論のように思えてくる。
 スミ君の隣で、彼と同じものを見ていたかった。けれど、彼が求めていたのはそういうことではなかったのかもしれない。
 あなたのことを見つめ続けていたら、心はまだここにありましたか。
 心のなかで尋ねてみても、それは意味のないことだった。私は彼ばかりを見てはいられない。彼の隣にいるから、安心して羽ばたけると思っていた。そんな都合の良い解釈をして仕事にのめり込んでいた。切りひらく未来のなかで、ずっと彼の隣にいられると思っていた。
「ばかだなぁ」
 ズッと音を立て、最後の一滴まで飲み干すように抹茶茶碗とともに顎をあげる。すべて飲み下したはずの抹茶が、じわじわと茶溜まりに集まるのを見つめていた。
「スミ君、それでも好きだよ……」
 たとえ盲目的な恋愛だったとしても、積み重ねた日々が簡単に消えるはずもなかった。それでも、もう心は決まっていた。スマホを取り出してメール画面を開く。
『スミ君のこと好きだけど、しばらく距離を置きたい』
 送信ボタンを押したときは、まだほんの少しだけ期待していた。――ヒナキの勘違いだ。馬鹿なこと言うな。そんなメールが来ないかと、心の隅っこで思っていた。
『分かった。俺もゆっくり考えたいと思ってた』
 大丈夫だと思っていたのに、するすると涙がこぼれ出す。後悔が急速に広がり、全部なかったことにするようなメールを返したいと思うけれど、もう何を綴っていいのかも分からなかった。
「……会いたいよ、スミ君」
 どこにも行くなと言って、きつく抱きしめて欲しかった。隣にいるから大丈夫だと、耳元で囁いてほしかった。けれど、もう一度まっすぐ彼にそれを願うために、私はぐるぐると彷徨いつづけるこの泥沼から抜け出さないといけない。気持ちを、リセットしないといけない。
 ティッシュで涙を拭いて窓をあけると、秋風が火照ったまぶたを心地よくなでた。マンションの裏にある運動公園からは、かすかに歓声が聞こえてくる。
 カーンという乾いた打撃音が秋晴れの空に響いた。
 大きく伸びをして深呼吸をする。ひやりとした空気が、胸につかえた苦味を少しだけ拭い去っていった。

〈prologue――ヒナキ・了〉

(※)Symphony - Clean Bandit ft. Zara Larsson 2017

チカ 〈1〉未練

 アラームが鳴る五分前。
 いつもその時刻にぱちりと目が覚めるのだから、目覚まし時計なんて必要ないと思う。それでも寝る前にはアラームをオンにしてしまうその性格が、こうして目を覚まさせるのだろう。
 布団をはぐろうとして、肩先に冷えた空気を感じた。カーテンの隙間からはうっすらと朝の光が差しこんでいる。
 目覚まし時計の役割を奪うようにアラームをオフにして起きあがり、ジーンズとトレーナーを身につけて洗面所に向かった。
「チカぁ? 母さんたち先に行ってるから」
「はあい」
 オレンジジュースをコップに一杯とトーストを一枚かじり、欠伸をかみ殺しながら母屋を出た。長屋に向かう途中で庭のすみに置かれたプランターの葉に顔を近づけ、もうそろそろだろうかと、友人のヒナキが見せてくれた図鑑の写真を思い出した。
 キラキラとした氷の粒のようなものが葉の表面を覆っているその植物の名前は、アイスプラントという。レストランに勤めているヒナキの部屋には、分厚い料理本だけでなく野菜をはじめ食材の図鑑がずらりと並んでいた。
 ヒナキが法事で実家に帰ると言っていたのは、たしか昨日と今日のはずだった。実家がどんな造りなのかも知らないけれど、なんとなく和室の布団のなかで寝息を立てている彼女の姿を想像し、その布団のぬくもりを羨ましく思う。
 気を取りなおすように長靴の左右を叩きあわせて土を落とし、それに履き替えてから車を出した。

 刈り入れの終わった田んぼを眺めながら五分ほど走り、細い農道を山沿いに進むと、その先に軽トラックが停まっている。両親の姿はすでに畑のなかで、サツマイモの蔓が這う緑の一角で、ふたりは抜いたばかりの芋を手に何か話しているようだった。
 軽トラックのすぐ後ろに車をつけ、畦道のわきの雑草を踏みわけて、ぴょんと溝を飛び越えた。軍手をポケットに突っ込み、「チカ、ちょっと」と手招きする両親の元へと湿った土を踏みしめて歩く。左右の畝には真っ黒なマルチシートが貼られ、穴から伸びたエシャロットの葉は朝露をまとい、ちらちらと可愛らしい紫の花が咲いていた。
「チカ、今日『クニヲ』に行ったら、樋引(ひびき)君にこれ使うか聞いてみて。アヤムラサキ」
 父は引き抜いたばかりのサツマイモを掲げ、そのあと軍手でなでるようにして土を落とした。
『クニヲ』とは正式名称『レスプリ・クニヲ』というフランス料理の店だ。樋引さんはそこの料理長で、うちは数種類の野菜をその店に卸していた。
「紫芋?」
「ああ。甘くないけど、こういう色のついたの、料理映えしそうだろう」
 そうだね、とポケットからスマホを取りだして、その紫芋の写真を撮った。アップで数枚と、芋を手にした父の写真を数枚。父は慣れたもので、いつも通りの、どこか少年ぽい得意げな笑みを私に向けた。
 そのあとも作業中の両親と成長しつつある野菜の写真をスマホで撮り、一通り撮り終えたところで、私はようやく軍手をはめた。そんな風にして撮った写真をSNSに投稿するようになったのは、つい最近のことだった。
 フェイスブックに「三谷農園」のページを立ち上げたばかりで、記事はまだ数件しかアップしていない。少しずつ増えていく写真はアルバムのようで、それに「いいね」がつくのは小さなやりがいに繋がっていた。
 今日『レスプリ・クニヲ』に行くのは、うちの野菜が使われた料理を撮るため。ということになっているけれど、私としてはその料理を食べることが第一の目的になっていた。
 先方に写真を撮る旨を伝えてはあるけれど、扱いは普通のお客さんと同じできっちり代金は払うし、むしろその方が気を使わずにゆっくり食事を堪能できる。他のお客さんの迷惑にならないように、個室を予約してあった。
 なにが心配かといえば、一緒に撮影に向かうカメラマンだ。プロなんて頼む予算もなく、写真が趣味という従兄弟のタキ君が来ることになっていた。伯父夫婦はここから車で一時間ほどの市街地に住んでいて、タキ君は生まれてこの方その家から出たことがないらしく、今はその実家から地元の大学に通っている。
 タキ君とはこっちに引っ越してくるまでは年に一二度顔を合わせるか合わせないかくらいだったけれど、最近は少なくとも月に三回は会っている。今日のように一緒に出かけたりするわけではなく、彼は日曜の数時間、三谷農園にアルバイトに来ていた。
 うちの両親とともに畑に行くこともあるし、通販用の野菜を箱詰めしたりすることもある。アルバイトの時間もあいまいで、支払う給料もお小遣いを上乗せしたような、客観的にみても割りのいいバイトだった。
 たいして儲かっているわけでもないのに、と私はタキ君に思いつく限りの仕事を与える。彼はそれを嫌がるでもなく、仕事の合間にカメラを取り出しては、畑や空や山や、うちの両親、そして私にレンズを向けた。

 ほんの数年前まで、自分がこんな生活をするなんて思ってもみなかった。
 私が就職した年の夏、両親は田舎への移住を決めてさっさと引っ越してしまった。
「農業しようと思って」
 そのあまりに唐突な話に閉口したけれど、どうやら数年に渡って計画されたものだったようだ。この場所に決めたのは伯父夫婦が近くに住んでいるからで、移住に際しての補助も他の自治体より良かったらしい。
 驚いたのは、私の知らないうちに「農業塾」なるものに両親が何度か参加していたということだ。大学で家を出ていたとはいえ、私がまったくそれを知らなかったのは、両親が意図的にそれを話さなかったからだ。
「びっくりするかなと思って」
 茶目っ気たっぷりの顔でそう打ち明けた両親に、二人がいいならそれでいいかと思ったけれど、私はその二年後に会社に辞表を提出し、両親を追って田舎へとやって来ることになった。
「ゆとり世代はこれだから」などと母は冗談ぽく言いながらも温かく迎えてくれ、私は会社を辞めた本当の理由を話せないまま中古の日本家屋に住み着き、そして未だにその理由を話せないままでいる。たぶん一生話すことはないだろう。
 こっちに来てから運転免許をとり、空いた時間でアルバイトと両親の手伝いをした。いつの間にやら何箇所か販路を開拓していた両親はずるずると私を農業に引き込み、扱う品種を増やし、栽培面積を広げた。
 ヒナキと出会ったのは一年ほど前のことだ。
「うちの野菜を使ってくれたのは、この店が一番最初なんだ」
 まだ新しい土地に慣れておらず、どこまで行っても平坦な街並み、つねに視界にはいる山の稜線、それらはまだ私の脳にしっくりと馴染んではこなかった。ざわざわと落ち着かない気持ちのまま父に連れて行かれた『レスプリ・クニヲ』で、私は彼女に一目惚れした。
 裏口から入り、父の背中越しにのぞき込んだ厨房で、ヒナキは大きな鍋をひたすら木ベラでかき混ぜていた。
「ヒナキちゃん。もしかして、うちの娘と同い年じゃないかな。チカはこっち来たばかりだから仲良くしてやってよ」
 ヒナキは「そうなんですか」と父を見たあと、溌剌とした笑顔を私に向けた。連絡先を交換し、彼女は日をおかずメールを寄越した。彼女が興味を抱いていたのは私ではなく「三谷農園」の畑だ。けれど、ヒナキの前向きで真っすぐな眼差しは、もう私を逃してはくれなかった。駄目だと分かっているのに、彼女に惹かれていくのを止めることは出来なかった。
 会う度に彼女に触れたいと願う気持ちが膨らんで、報われないと分かっているのに、傷つくと分かっているのに、少しでも彼女に近づきたかった。それは、今も変わらない。けれど、私と彼女の間には大きなラインが引かれている。それを越えてしまったら、きっとヒナキを傷つけてしまう。
 傷つくのは私だけで十分だ。

 シャワーを浴びて脱衣所にバスタオル一枚でいるとき、チャイムが聞こえた。着替えの下に埋もれたスマホを探し出し、慌てて電話をかける。髪の毛から、ぽたりと雫がおちた。
「もしもし、タキ君? もしかして、もう着いちゃった?」
『うん。玄関開いてるけど入っていいの?』
「勝手にあがってて。今ちょっと出れないから」
 はーい、というのんびりした声のあと、かすかに玄関の引き戸が開く音がした。タキ君が間違って脱衣所に入らないよう電気をつける。
 時刻は午前十時、電気をつけてもそれほど明るさは変わることはなく、不必要に音を立てて自分が浴室にいることを主張する。急いで服を着て、タオルをかぶったまま居間をのぞきこんだ。タキ君は、まるで我が家のように寛いで、麦茶を片手にテレビをながめていた。その視線がふらりと私に向けられる。
「あ、なんかエロい」
「ばーか。悪いけど化粧してくるから待ってて」
 背を向けると、後ろから「チカ(ねえ)」と呼び止められた。
「なに?」
 答えた瞬間、カシャとシャッター音が響く。
「ちょっと、勘弁してよ」
 不機嫌を露わにしてもどこ吹く風で、実力行使で彼の手からカメラを奪おうと近づく私に、彼はもう一度シャッターを切った。
「タキ君! データ消して」
「やだよ。ほら、やっぱエロい」
 液晶モニターには濡髪の私が映っていた。
 振り向きざまに伏した目は、たしかに自分のものとは思えない表情をしている。恥ずかしくなり、私はそれ以上絡むのを諦めて「消してよ」と言い捨てて居間を出た。
 何を撮っているのか、その後もシャッター音が数回聞こえてきた。

チカ 〈2〉片思い

 タキ君の車で――正確には伯母さん名義の翡翠色のコンパクトカーで『レスプリ・クニヲ』に向かった。
 乗り慣れない助手席のせいか、それとも少し敷居の高いフレンチ・レストランに向かっているせいか、今ではすっかり見慣れたはずの山並みが、いつもとは違った景色に見えた。
 空はくっきりとした秋晴れで、少しだけ開けた窓からはひやりと澄んだ空気が吹き込んでくる。山のところどころが、くすんだ色に紅葉していた。一度雨が降れば、冴えた色に染まるだろう。
 ハンドルを握るタキ君はいつも通りで、大学生のくせに、大学生だからなのか、それとも彼の性格なのか「楽しみだね」と穏やかな口調で言う。つねに上を向いている口角は、彼いわく生まれつきらしい。怒ってても伝わらないんだ、という不満げな言葉も、それほど嘆いているようには思えなかった。
 バイパスに乗る直前、タキ君は畑の真ん中に並び立つ、独特な建物の群れにちらりと目を向けた。
「見慣れると、違和感なくなるよね」
「……そうね」
 目に映るのはいくつかのラブホテルで、ひとつひとつを見れば何ということはない普通のホテルに見えなくもないのだけれど、その中に混じったメルヘンな外観の一棟が、その群れ全体の雰囲気を俗なものに変えていた。
 あまり触れたい話題ではなかった。
 頻繁に顔を合わせるようになってから、時おりタキ君の言動から好意のようなものを感じる。ラブホテルを前に下手なことを口走って、何かしら彼から決定的な言葉を聞くことになるのは避けたかった。彼を傷つけたくはないし、突き放す事もしたくない。
「タキ君、お腹ちゃんとすかせてきた?」
「いつも通り。昼になれば腹減るし。出されたものなら何でも食える」
「まだ成長期なの?」
「だといいけど。もう身長伸びないんだろうなあ」
 ラブホテル街と道をはさんで向かいにある「直売所」の看板の奥には、果樹園が広がっていた。信号待ちをしていると二台の車が看板の下に駐車し、そのうち一台から小さな子ども連れの夫婦が降りてくる。もう一台は若い女性の二人組みだった。
 バイパスに乗り、トンネルに入ると自然と会話が途切れた。
 気まずいわけでもなく、私はラジオから流れてくる洋楽に耳をかたむけていた。くぐもった走行音に重ねて、タキ君の鼻歌がかすかに聞こえてくる。トンネルを抜け、田舎特有の平坦な街並みを見下ろしながら「洋楽聴くの?」と彼に尋ねた。
「あれ、もしかして歌ってたのバレてた?」
「うん、バレてた。なんて曲?」
「知らない? ジャスティン・ビーバーの曲だよ。ラブ・ユアセルフ(※)。元カノに未練たらたらの歌」
 へえ、という相槌だけで、私は会話を打ち切るようにスマホを取り出した。元カノとか、恋人とか、恋愛にまつわる話はしたくなかった。自分が常識に沿ったことを話せるとは思えなかったし、かといって嘘をつくのも嫌だった。
「チカ姉、彼氏作らないの?」
「ええ? どうだろ。あ、タキ君、店の場所分かってるよね」
「知ってる。何回か叔父さんと一緒に納品に行ったから」
「うそ、いつ?」
「チカ姉がこっち来る前。知らない? 叔父さん足ひねって、叔母さんに運転禁止って言われたの。俺夏休みだったからしばらく運転手してたんだ。叔父さんは『大げさだ』って、ずっと文句言ってたけどね」
 まったく知らなかった。タキ君は私がいるから頻繁にうちに来るようになったのかと思っていたけれど、もしかしたら自意識過剰だったのかもしれない。そう思うと恥ずかしくもあり、その一方でほっと肩の力が抜けた。
「じゃあ、ヒナキのことも知ってるんだ」
「ヒナキさん? 知ってる。チカ姉仲いいんだ」
「たまに、ゴハン一緒に行くくらい」
 仲いいよ、と素直に口にできなかった。そもそも仲がいいと言うのはどの程度のことを言うのだろう。知り合ってからの長さ、会う頻度、打ち明けた悩みの数、……ボディタッチの回数。
 つい、溜息を漏らしていた。
「チカ姉、フレンチのコースに緊張してるんだろ」
 そうね、と肯定するとタキ君は拍子抜けしたように「あれ」とつぶやいて口元の笑みを深くした。
 タキ君のことはいい子だと思うし、一緒にいて気を遣わなくていいのは楽だ。彼のことを好きになれたらどんなに楽だろうと思う。世の中は思うようにはいかないけれど、それ以上に、自分の心は言うことを聞いてくれなかった。 

「茄子、玉ねぎ、ルッコラ、フェンネル、人参、里芋……。何か色々悪いね、チカちゃん」
「いえ、こっちこそ。たった二人で個室占領しちゃって、すいません。父からお詫びの品です。あとこれ、何か使えないかって」
 私の指さしたサツマイモを、樋引さんは手にとってながめ回した。それから鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。
「アヤムラサキっていう品種です。紫芋。甘みはほとんどないですけど、使えそうですか」
「うん。でも試してからね。スープ、アンティパスト、……ピュレ、デセール」
 樋引さんの視線は宙をさまよっていて、言葉はすでに私に向けられてはいないようだった。彼の頭のなかには、何らかの形をもった完成図がすでに描かれているのかもしれない。
「また、改めて注文するよ。火曜にはそっちに顔出すつもりだったし。ケイスケ、これしまっといて」
 樋引さんに呼ばれた「ケイスケ」君と一緒に、彼の隣にいたタキ君もこちらを振り返る。私より二つ年下のケイスケ君は、タキ君にとっては年の近いお兄さんのようなものなのだろう。
 野菜の入ったダンボールを抱えたケイスケ君は、タキ君を肘で小突き「まあ、頑張れ」と意味深な笑みを浮かべていた。タキ君は慌てたように「ケイスケさん」とひそめた声を出し、その様子を見た私は、タキ君の気持ちに関する自分の推測が自意識過剰というわけではないのかもしれない、と再び複雑な気持ちになった。
 裏口を出て正面の入り口のドアを開ける。まだ十一時半だというのに、すでに数組の客が入っているようだった。
 窓際のテーブルにアラサーくらいの女性五人組と、鉢植えのベンジャミンをはさんで五十代くらいの夫婦、衝立で仕切られた奥のスペースからも声が漏れ聞こえてくる。
「あ、チカさん。いらっしゃい。案内しますね」
 笑顔で出迎えてくれたのは、学生アルバイトのミナトちゃんだった。彼女は私の隣に立つタキ君に視線を向け、営業用スマイルで「いらっしゃいませ」と頭を下げた。
 彼女の表情をぎこちなく感じたのは私の気のせいなのかもしれないし、私が彼女にそうさせているのかもしれなかった。罪悪感とも後悔とも判断のつかない灰色の感情が、じわりと胸に広がる。
 案内されたのは六人掛けのテーブルが置かれた小部屋で、アイボリーの壁にクリムトの「接吻」がかかっていた。窓辺に置かれたサイドテーブルには銅製の花瓶にススキとリンドウ、それに吾亦紅(ワレモコウ)が活けられている。
 タキ君は担いでいたアディダスのスポーツバッグからカメラを取り出し、レンズを取りつけてファインダー越しにその花をのぞきこんだ。ふうん、と楽しそうに笑う。
「なんか楽しそうね」
 こちらに顔を向けたタキ君はいつもとは少し違い、どこか興奮しているようだった。
「チカ姉。今さら言うのもアレなんだけど、俺ブツ撮りってあんまりしたことないんだよね」
 語感は言い訳めいていたけれど、表情はやはり子どものように好奇心を剥き出しにしている。私は彼の隣に立ち、同じようにススキをながめた。
「で?」
「一応それ用にレンズは借りてきたし、料理写真の撮り方もレクチャーしてもらった。でも、上手く撮れるかどうか分かんないよ。チカ姉のことなら上手く撮れる自信あるんだけど」
 タキ君は「スキあり」と言って私にレンズを向ける。カメラを操作して撮った写真を確認したあと、「ブレた」と不満げに口を歪めた。
「料理上手く撮れなかったら、タキ君自腹で払ってね」
「ええ?」と肩をすくめたタキ君は、やはり楽しそうだった。レンズ買おうかなとひとり言のようにつぶやき、またファインダーをのぞき込む。その無邪気な姿に、ふっと笑みがもれた。
 その後、タキ君は部屋に入ってきたミナトちゃんに断って花瓶を中央のテーブルに移動し、白いテーブルクロスを借りて、撮影のために場所を移動したサイドテーブルにそれを掛けた。
「ライトも車に持ってきてたけど、自然光でいけそうな気がする。……多分だけど」
「いい天気だよね。今日」
 レースのカーテン越しに差し込む陽の光に目を細める。ふと、店に来る途中に車の中から見かけた、草野球チームらしい一団の姿を思い出した。試合の後なのか、前なのか、ユニフォームを着た数人の男性とその家族や友人らがコンビニから出て来たところだった。
「料理、お持ちしますか?」
 ノックのあと聞こえたミナトちゃんの声に振り返る。
「お願いします」
 思い切り目を細めて微笑んだのは、彼女の表情をまっすぐ目にするのが怖かったからだ。これからも『レスプリ・クニヲ』に出入りしなければならないのだから、彼女との距離はこれ以上近づきも離れもしないのが賢明だ。
『チカさんって、ヒナキさんのこと好きなんですか』
 誘われた飲み会も終盤に差しかかったころ、ミナトちゃんは驚いて何も言えない私にキスをした。それは二人きりのメイクルームでのことで、酔った勢いが半分、けれど残りの半分は本気のようだった。
『私、チカさんの近くにいたい』
 再び近づいて来た彼女の唇を受け入れたのは酔った勢いが半分と、残りは報われない恋に投げやりになっていたせいだろう。けれど、ミナトちゃんの手が包み込むように私の胸を掴んだとき、無意識に彼女の体を突き放していた。彼女はひどく切ない顔をして、「チカさんは、違うんですか?」と、どこか諦めたようにため息をついた。
『……ごめん。よく分からない』
『女同士は、無理?』
 何と言うべきか答えが見つからず、私は流されるままに身を任せた、元同僚の柔らかい肌を思い出していた。
 女性とそういうことをしたのはその元同僚が最初で最後だ。嫌悪感を感じないどころか快感を感じてしまった自分に驚愕した。そのあと、その同僚とどう接していいか分からないまま距離をおき、しばらくしてレズビアンだという噂が社内に流れているのを知ることになった。その同僚ではなく私のことだ。
 彼女がその噂を流したのかどうかは分からない。周囲の視線に耐えられなくなり、日々募っていく鬱々とした感情と、彼女とのあいだに作ってしまった距離とで、いつの間にか居場所を見失っていた。
 会社を去る直前、彼女は私に見せつけるように、別の同僚の腕に自分の腕を絡めた。そのとき感じたのは嫉妬なのか怒りなのか、私はすべて気の迷いだったと自分に言い聞かせ、荷物をまとめた。
 それなのに。
 ヒナキの肌に触れたいと思う。それはあの元同僚の肌を思い出し、あの快感を求めているだけなのだろうか。男性経験がないわけではなかったし、それで快感が得られないということもなかった。それ以上のものを女性との関係に感じてしまったのは、もしかしたら背徳感というスパイスのせいかもしれない。
 いくら考えても明確な答えなど出て来はしなかった。ただ、ヒナキに触れたいと思うと同時に、彼女の生き方や眼差し、私はそれを近くで見ていたいと思う。安易な行動で彼女との関係を壊したくなかった。

 カシャッと音がして「また?」とタキ君をにらむ。その顔にまたシャッターが切られる。彼が手にしているのはスマートフォンだった。
「待ち受け画面にしてもいい?」
「駄目に決まってるでしょ」
 伏し目がちにスマホ画面をながめるタキ君の前髪が茶色く陽光に透け、美しいと感じた。目に映るその様を形に残しておきたい衝動に駆られ、ポケットからスマホを取り出しカメラを起動する。それをタキ君に向けると、すでに私の意図に気づいていた彼の手が、容赦なくレンズを覆い隠した。
「だめー」
「タキ君、ずるい。自分ばっかり」
 頬を膨らませ、その状態でシャッターボタンを押した。画面は当然まっ黒だ。タキ君が勝ち誇ったように手を離すその隙に、私は彼の横顔をカメラにおさめた。
「俺の写真、待ち受けにしてくれるの?」
「しないよ」
 だよね、と笑ったあと、タキ君はじっと私の顔を見つめてきた。
「私の顔、何かついてる?」
「ううん。俺がどんな気持ちでチカ姉にカメラ向けてるか、ちょっとは分かってくれたかなって」
 言葉に詰まる間もなく後ろのドアからノックの音が聞こえ、スープ皿を窓際のサイドテーブルと中央のテーブルに一つずつ置いたミナトちゃんは、「失礼します」と笑顔で部屋を出ていった。タキ君は何事もなかったかのようにバッグからスケッチブックを取り出し、白紙のページを開く。
「チカ姉、ここらへんでこれ持ってて」
 タキ君が持っていたままの状態をキープするようにスケッチブックを固定したけれど、彼はカメラを構えてから「ううん」と眉をしかめる。
「もうちょい、こうかな」
 レフ板代わりのスケッチブックの角度を修正するのに、タキ君は私の手に触れた。それは意図的にそうしたのだろうけど、私はツッコむこともできないまま、余計なことを考えないように漂う南瓜スープの匂いに意識を集中した。そして腹の虫が鳴く。
「色気より、食い気」
 タキ君が私をちらりと見る。優しく、親しみのこもった眼差しに、私はまた彼の姿をスマホの中におさめておきたい衝動に駆られる。いろんな感情がぐちゃぐちゃに混ざりあい、けれど一番上に浮上してきたのは、ずいぶんと本能的な欲求だった。
「無駄口はいいから。空腹状態で私を放置するとどうなるか知ってるでしょ」
「うん。キレる」
「なら、働く!」
 はい、と殊勝な返事をし、タキ君は皿の角度やカーテンのかかり具合、カメラの何らかの設定を少しずつ変えながら十数枚の写真を撮った。
 中央のテーブルで向かい合ってスープ皿を空にしたころ、秋野菜ときのこのテリーヌが運ばれてくる。同じ要領で撮影し、料理が出されるたびにそれを繰り返した。
 ずいぶんゆっくりとしたペースで料理が運ばれてきたのは店側の配慮だろう。私たちはベストとは言えないまでも、ある程度あたたかい状態で料理を口にすることができた。
 デザートを運んで来たのは樋引さんで、彼はそれに三谷農園の野菜を使えなかったことを謝罪し、私は恐縮して「そんなことないです」と思い切り両手を振った。
「今日持ってきてくれた芋、あれがあったら作ってたんだけどね」
 時間をかけて撮影と食事をすませた私たちは、一番最後の客になっていたようだった。樋引さんとしばらく雑談をし、彼はタキ君の撮った写真を見て「うちにもデータもらえない?」と言った。どうやらそれはお世辞ではなく真面目な話だったらしい。
「店のブログにも載せたいし、今日のコースのだけじゃなくて、チカちゃんとか三谷さんの写ってる写真ももらえないかな。前に俺が撮った写真よりタキ君の撮ったやつの方が、みんないい顔してるし、野菜もおいしそうだ」
 タキ君は自分で判断をつけれないらしく「どうする?」と私に聞いた。
「タキ君がいいならいいよ」
「プライバシーとか、肖像権とかは?」
 ふと濡れ髪の写真の存在を思い出す。彼らはどうやらその写真も目にしていたようで、「ねえ」と、あいまいな笑みで顔を見合わせていた。
「変なの渡したら損害賠償請求するから」
「じゃあ、チカ姉に見てもらってオッケーが出たやつだけ渡します。それでいいよね、チカ姉」
 それなら、と了承し、樋引さんは会計の際に「写真のデータ代差し引いといたから」とずいぶん安くしてくれた。領収書をもらうのが恥ずかしくなるくらいに値引きしてあったけど、しっかり「三谷農園」で領収書を切ってもらった。
 帰り際、外に出たところでミナトちゃんに呼び止められた。営業スマイルは影をひそめ、その様子にタキ君は「先に行ってる」と一人で車に向かう。正直何を言われるのか不安で、私が彼女に向けた笑顔はひきつっていたはずだ。
「チカさん、そんな警戒しないで下さい」
 そう言ったミナトちゃんの顔に、私は大人げない自分を恥じた。
「ごめん、そんなつもりじゃないんだけど」
「違うんです。あの、もし彼とそういう関係ならそれでいいし、もし、……もし以前私が言ったことが合ってるなら、今日みんなで飲みに行くんですけど、一緒にどうかなって。店終わってからだから遅いけど、ヒナキさんも顔出すみたいだし」
 名前を聞けば会いたいと思う。ヒナキはまだ実家だろうか。それともこっちに向かっている頃だろうか。
「ありがと、ミナトちゃん。でも、明日も朝早いからやめとく」
「……ですよね」
「それに、スミ君も来るんでしょう? それは、見たくないから」
 うつむいていたミナトちゃんは弾かれたように顔をあげ、その目は驚きで見開かれていた。彼女は私が自分の気持ちを素直に認めるとは思っていなかったのだろう。「スミ君」はヒナキの彼氏。私の言葉は彼女の推測を肯定したようなものだった。
「ミナトちゃん、声かけてくれてありがとう。うれしかった」
 じゃあね、と手を振って背を向ける。ミナトちゃんは困ったような、というか「仕方ないなあ」とでも言いたそうな顔をしていた。

 助手席に乗り込むと、タキ君はスマホに入れてあったらしい、あの曲をカーステレオで聴いていた。私はシートベルトを締め、同じように歌声に聴き入る。
「ねえ、未練ってなくなると思う?」
「俺に聞くなよ」
 だよね、と溜息をついて窓の外をながめる。タキ君はゆっくりと車を発進させ、曲が終わってから口を開いた。
「未練って、片思いってことかな」
「……そうだね」
「でも、俺のは未練じゃないよね」
「……さあ」
「俺はもう少し片思いでいることにする。まだ、無理っぽいから」
「……そう」
 赤信号で車をとめた彼はスマホを操作し、車内には再びジャスティン・ビーバーの歌声が流れた。私はタキ君の鼻歌を聴きながら、ぎゅっと瞼を閉じて滲んだ涙を瞳になじませた。


〈チカ・了〉

(※)Justin Bieber 「Love Yourself」 2015
なお、「未練たらたらの歌」という歌詞の解釈は作中人物の捉え方としてお読み下さい。 

extra――ミホ

 夜中、ふとした物音で目が覚めた。
 三歳の娘と、その向こうでは夫が気持ち良さそうにイビキをかいている。私は豆電球の明かりを頼りに、サイドテーブルに投げ置かれたハンドタオルを手にとった。汗で湿った娘の額を拭うと、「ううん」と小さくぐずるように顔をしかめたけれど、すぐまた穏やかな寝息を立て始める。
 夫の枕をわずかに引くと、「ンがっ」と変な声を立ててイビキがおさまった。
 三十半ばを過ぎた体に、草野球はずいぶん堪えたのかもしれない。私は応援しかしていないにも関わらず、ベッドに入るとすぐ意識を失っていた。普段から運動習慣のない私は、同い年の夫のことをとやかく言える立場にない。
 そっとベッドを抜け出して廊下に出ると、一階の電気がついていた。かすかにシャワーの音が聞こえ、義母がこんな時間に入浴するはずもないから、どうやら義弟が帰ってきたのだろう。
 トイレを出て台所で水を飲んでいると、風呂上がりの義弟が顔を出した。
「あ、義姉(ねえ)さん。起こしちゃった?」
「おかえり、ケイ君。トイレ行きたくなっただけだから、気にしないで。ダイ君はイビキかいてるし、ユウもまったく起きる気配ない」
 ならよかった、とケイ君はビールを取り出し、さらに冷蔵庫の奥をのぞき込んでつまみを探しているようだった。
「ケイ君、今日飲み会って言ってなかったっけ。もしかして夕飯食べてない?」
「あー、飲み会行くつもりだったんですけど、ちょっと気が乗らなくて。コンビニで適当に買ってきたから大丈夫です」
 ケイ君は人懐こい性格のわりに、未だに他人行儀な言葉を使う。彼と暮らし始めたのは今年の春からで、それまでは親子三人マンションを借りて暮らしていた。
 夫であるダイ君の実家で同居すると決めたのは、昨年末に義父が仕事中の事故で亡くなったからだ。ケイ君は飲食店に勤めていて帰宅するのは深夜になるし、夜一人で家にいる義母を心配したダイ君が、同居は無理だろうかと遠慮がちに訊いてきた。
 ひと回りも年下の義弟と七十近い義母。不安の種は数えれば切りがなかったけれど、すっかり消沈してしまっている義母の姿を見ると、私の不安など取るに足りない問題のように思えた。
 少しずつ義母の顔に生気が戻ってきているのは私やダイ君の功績ではなく、まだ幼いユウのおかげだろう。義母の膝であどけなく笑う娘を見ながら、半ば諦めていた仕事復帰を考えたりもしている。
 義弟に関する心配といえば、最初に頭に思い浮かんだのは昼ドラ的展開だった。
 今思えば馬鹿な妄想をしたものだと恥ずかしくなるけれど、友人には冗談交じりにけしかけられることもある。万が一こっちがその気になったとして、ケイ君にすれば私など単なるオバサンでしかない。男の一回り年上と、女の一回り年上ではずいぶん意味合いが違うような気がするし、もしケイ君が私に欲情することがあるとすれば、それは「熟女好き」というカテゴリーに入るのだろう。それもちょっと癪だった。ダッシュそれ以前に、ケイ君と顔を合わせる機会がほとんどない。
 ケイ君は朝九時前後に起き出して、一人遅い朝食をとる。それが唯一顔を合わせる時間帯で、彼はバタバタと身支度をして仕事に出かけてしまう。帰ってくるのはみんなが寝静まったあとで、たまの休日も彼は若者らしくどこへ出かけ、帰ってくるのはやはり深夜だった。
「若者らしく」というのは都合のいい解釈かもしれない。私達が同居するようになって、ケイ君が少なからず居心地の悪さを感じているのは明らかだった。
 私たちが同居する前、仕事が休みの日にはケイ君が夕食を作っていたらしい。けれど、私はケイ君の料理を彼の店以外で口にしたことがない。もっとも、店で出された料理についても、どれをケイ君が作っていたのか分かってはいないのだけれど。
 ピーと電子レンジの音が鳴り、ケイ君はコンビニで買ったらしいおでんを取りだした。首にかけていたタオルをミトン代わりにするその様子に、そういう横着なところは兄弟そっくりだと思う。
 おでんの匂いが鼻をくすぐり、不意に空腹感を感じた。
「私もなんか食べよっかな」
 そう言って冷蔵庫を開けると、ケイ君は「こんな時間に?」と驚いたように言う。
「ねえ、たまには二人で晩酌しようよ。ビール半分ちょうだい」
 ケイ君は困惑しているようだったけれど、もう一度「ねえ」と言うと、戸棚からグラスを二つ取り出してビールを半分ずつ注いでくれた。私は何を食べるか迷い、半分残っていた竹輪を出して、袋を手に持ったままかじりついた。
「姉さんのそういう大雑把なところ、兄と似てますよね」
 ケイ君はテーブルの上のグラス同士をぶつけ、美味しそうにビールを飲んだ。
「飲み会、気乗りがしないって、何かケイ君っぽくないね。集まるの好きそうなのに」
「あー、うん。今日はちょっと、色々あって」
 悩める青少年といった様子の義弟に、ついオバサンは詮索したくなる。
「愚痴くらい、聞くよ。誰にも言わないから話してみたら。ダイ君にも話さない」
「そんな大した話しじゃないです。……ちょっと、尊敬してた人の残念なところを見たというか、失望したというか」
「仕事の話?」
「あ……、えっと。仕事は尊敬してるんです。それは今も同じで」
 ケイ君はグイッとグラスをあおり、冷蔵庫から二本目のビールを取りだす。立ったままプルタブを開けると缶に直接口をつけた。
「義姉さん、兄貴が浮気してるって知ったらどうします?」
 え、と目を丸くする私に「例えばの話です。兄貴はそんな器用じゃないから」と言って、ケイ君はいつもより緩んだ笑みを浮かべた。アルコールのせいなのか、それとも私との壁を少し薄くしてくれたのか。
「ダイ君が浮気、かあ」
 ぱっと思い描くことができず、段階を追って想像してみた。
 ダイ君の帰りが予定になく遅かった日。そういう日がないこともない。飲み会と言って早朝に帰ってきたこともある。
 まだこの家で同居をはじめるまえ、ユウを連れて実家に帰ったとき、ダイ君が一人でいたとは限らない。
 誰か、私の知らない女の人とと会っていたとして、その誰かがダイ君の腕に絡みついて――。
「無理ー。想像したくない、っていうか出来ないよー」
「あ、ごめんなさい。いいです、もう。すいません」
 ケイ君の差し出したティッシュを三枚立てつづけに引き出し、涙を拭って鼻をかんだ。ケイ君は口を湿らせるように一口ビールを飲み、静かに口を開いた。
「その尊敬してた人が、浮気をしてたみたいで。俺、その人の恋人も知ってるし、浮気相手も知り合いだったんです。二人とも傷ついてほしくないし、でも浮気相手だったコは、その人に彼女がいるって知らなかったらしくて」
 ため息は、彼の心そのままに深い。
「ケイ君、相談とかされたの?」
「いえ。たまたま一緒にいるところを見たんです。見なかった事にするつもりだったんだけど、結局俺が余計なこと言って、その浮気相手だった子泣かせちゃった。バス停の真ん前で。もうその人とは会わないって言ってた」
「……そっか。可哀想だね」
「それは、どっちがですか」
 問われた質問に、一瞬戸惑った。
「恋人、それとも浮気相手?」
 ケイ君はそれが一番の問題だというように私の顔をじっと見つめた。あまりにも真剣な眼差しに、私は「ううん」とあいまいに濁す。私の返事がないと悟ると、彼は再びうつむいて溜息をついた。
 「優しいね、ケイ君は」
 当たり障りのない私の言葉に、彼はゆらゆらと頭を振ってそれを否定した。
「違うんです。俺、……いや、何て言っていいか分からないや。とりあえず、優しいとかそういうんじゃない」
 なんとなく、ケイ君は二人の女性のうち、どちらかが好きなのだろうという気がした。それ以外に、彼がこれほど悩む理由があるだろうか。けれど、それはアラサーぎりぎりオバサンの昼ドラ的妄想のようにも思える。
 悩める青少年の横顔は若かりし日の切ない恋愛を思い出させてくれる。それに懐かしさを感じ、そして微笑ましく思えた。
 もちろん彼は真剣なのだろうし、それを馬鹿にするつもりはない。ただちょっと、羨ましいだけだ。
「また話したくなったら聞くよ。別に言いたくないことは言わなくていいから」
 私がそう言うと、ケイ君は素直に「はい」とうなずき、少しだけスッキリした笑顔をこちらに向けた。
「あ、そうだ。私ずっとお願いしたいことがあったんだ。なかなか言えなかったんだけど」
「なんですか?」
「おいしいハンバーグの作り方、教えて。ケイ君の都合がいいときでいいから一緒に作ろう」
 唐突なお願いにケイ君はきょとんとしていたけれど、しばらくしてクスクスと笑いはじめた。
「いいですよ。俺もまだペーペーだから、あまりアテにはしないで下さい。火曜、定休日だから、その日にしましょうか」
「本当? じゃあ、もうひとつお願い」
「なんですか」
「ダイ君はチーズ入りハンバーグが好きなんだ」
「ああ、そうですね。じゃあ、そうしましょう」
 顔を見合わせて、共犯者のようにニヤリと笑う。
 いつか環境が変わって、ケイ君がいなくなったり、もしくはずっと居たり。ユウはどんどん大きくなるし、もしかしたら家族がまだ増えるかもしれない。
 考えれば考えるほど未来への不安の種は増えていくばかりで、最終的に今一緒にいる相手と笑いあっていられればいいかという結論に、今、至った。
 ――ケイ君が、笑っていられますように。
 そう心のなかで願ってグラスの底に残っていたビールを飲み干し、「おやすみ」と声をかけて台所を出た。
 後ろから小さなため息が聞こえたけれど、それは先程よりも軽く、どこか吹っ切れたような雰囲気すら感じさせた。もちろんそれは、私の都合のいい解釈なのだけど。

〈extra――ミホ・了〉

アイリ〈1〉巣立ち

 パッヘルベルのカノンが聞こえる。その音は次第に大きくなり、心地よさが苛立ちに変わるまえにアラームを止めた。時刻は午前八時。
 ――あと十分。
 枕元にスマホを置いて布団を頭までかぶろうとしたとき、部屋の外からガタリと物音がした。まだまともに機能しない頭でぼんやりと音の正体を考える。ふと思い至ってがばっとベッドの上に起きあがった。
「お兄ちゃん?!」
 慌てて部屋のドアを開けると、以前より少し色白になった兄の顔があった。色白とはいっても普通の人よりは日焼けしている。昔の、私が一番好きだった頃の兄が、ちょっと色黒過ぎただけだ。
「おはよ、アイリ。久しぶり……ってほどでもないか」
「全然帰ってこないから死んでるよねって、ママが言ってた」
「ばぁか。便りのないのはいい便りって言葉、知らないのか」
「言ったのはママ。私はこの前お兄ちゃんのマンション行ったから。ちゃんと生きてるって知ってたよ」
「ならそう言ってやれよ」
 濡れた髪をタオルでがしがしと拭きながら、兄は穏やかな笑顔を浮かべる。けれど、その笑顔はなんだか少しいつもと違っていた。あいまいに会話を切り上げて階段を下りようとする兄を追い、勢いよく部屋のドアを閉めた。兄は足を止めて私を待っていた。
 ……トン、……トン、……トン。
 ……ツッ、トン、……ツッ、トン。
 兄の規則的な足音のあとに、私の足音が独特のリズムでつづく。
 左足首の関節が思うように動かないのは小学校にあがる前からのことで、交通事故の後遺症らしいけれど、私自身はその時のことを覚えていない。
「お兄ちゃん海行ってたの? ……っていうか、いつ帰ってきたの」
 兄は車で一時間半くらいのところにある、小さなフレンチ・レストランでシェフをしている。県外からもお客さんがひっきりなしに来るような、ちょっとばかり有名なお店らしい。調理師学校に通っていた頃その店でアルバイトをしていた兄は、卒業後、その店ではなく実家近くのホテルに就職した。
 兄が家を出て学校に通っている二年間、私はずいぶん寂しい思いをし、就職でこっちに帰ってきたときには涙を流して出迎えてしまった。ブラコンだという自覚はある。
 三年前に今の店に声をかけられて兄は再び家を出ていってしまったけれど、見送るとき私が泣かなかったのは、それまでの数年間で私の生活と性格が少し変わったからだ。
 実家からホテルに勤めはじめた頃、兄は新しく出来た友人に連れられて、朝早く海に行くようになった。私はほんの数回だけれど、海について行ったことがある。今はどうか分からないけれど、兄は波に乗るのがそこそこ上手かった。私は自らサーフィンをしようとは思わなかったけれど、波と戯れる人影をながめるのが好きで、ぼんやりと潮風の匂いをかいでいた。
 今ではすっかり朝が苦手な体質になってしまい、眺めるのはせいぜい海に沈みゆく夕日。それでも波音は私を過去へと誘い、その記憶が今を支えている。
 兄と過ごした朝の海は、灰色だったそれまでの学校生活をライトグレーくらいには引き上げてくれた。私の視界をクリアな空色にしてくれたのは兄ではない。兄と行った海で出会った、当時高校二年だった私のクラスメイトだ。
 彼の名前はアキラといった。地元でも人気のサーフスポットである東浜の近くに、アキラは住んでいた。
「朝四時くらいに向こうを出て、帰りに東浜に寄った。あ、アキラも来てたぞ。アイリ、昨日あいつと会ったんだろ?」
「うん。ご飯食べて別れたの十二時前だったのに、元気だね、あいつ。お兄ちゃんも寝てないでしょ」
「まあね。仕事終わって家着いたの十二時過ぎてた」
「無理して溺れ死んだりしないでよ。お兄ちゃんもアキラも、見てるだけの人間がどんな気持ちか分かってないんだから」
「アキラに言えよ。無性に波が恋しくなって久々に行ってみたけど、俺はダメダメだった。ボーっと浮かんでただけ。まぁ、ちょっとはスッキリしたけど」
 やはり兄は少し変だった。何というか、泣いてしまいそうに見えた。
 その理由を尋ねていいものかどうか悩んでいると、「あ!」と何か思い出したように兄が短く声を発した。リビングの扉を開けてテーブルに駆け寄り、そっと何かを指先でつまむ。それを私に掲げて見せた。
「これこれ。アイリがうちに落としていったピアス」
「あっ! 良かったぁ。なくしたと思ってマジ落ち込んでたんだ」
 フェイクパールと数種類の天然石をあしらったピアス。それは私がカルチャースクールで作ったもので、もう五年くらい愛用している。
 短大の時に友人の付き合いでついて行っただけのそのスクールが、今では教える側となり、生活費を稼ぐ糧となっている。自作のアクセサリーをネットで販売し、いくつかの雑貨屋さんに置いてもらい、月に数回カルチャースクールで講師をする。それだけで十分な収入を得られるわけでもなく、知人の紹介で週四回簡単な事務のアルバイトをしている。
 こんな生活を送ることが出来るのも実家住まいだから。もう少し単価の高い商品を作るなりして稼がないと、とは思うものの、それを買ってくれる年齢層を考えると、途端に自信がなくなってしまう。ネットではコーディネイトしやすくて可愛いプチプラアクセと謳っているから、それとの兼ね合いもあった。
「初心忘るべからず、だな」
 手にしたピアスの意味を知っている兄は、そう言って私の手のひらにそれをのせた。
 ――そうだ。自分が可愛いと思うもの。自分が身につけたいと思うデザイン。
「うん。ちょっと忘れかけてた。日常になっちゃうと大事なことってつい忘れるのよね」
 何か思うところがあったのかもしれない。そうだな、と兄が返事をするまでに少し間があった。
「俺、ちょっと昼まで寝るわ」
 兄は飲みかけのアクエリアスを冷蔵庫から取り出し、その扉を閉める直前、二度見するようにもう一度なかをのぞき込んだ。ついと手を伸ばした彼が取り出したのは、小さな缶だった。
「こんなの、誰か飲むの?」
「それ、幸子叔母さんのお土産。京都だって。八つ橋はすぐなくなったんだけど、うちじゃ抹茶なんて持て余しちゃうよね。結構いいやつらしいんだけど」
 茶筅とセットになった宇治抹茶は、封も開けられないまま、なぜか冷蔵庫に入れられていた。私を含め家族は食材に関して無頓着で、たまに帰省した兄が「これはチルド」「これは常温」「紙にくるんで野菜室」と色々仕分けるのだけれど、母がカップ麺を冷蔵庫に入れていたときは呆れ果て、そのままにして帰っていった。
 じっと缶を見つめる兄の姿に、ふと思い出すことがあった。
「お兄ちゃん、彼女が抹茶飲むって言ってなかった? ヒナキさんだっけ。会ってみたいなあ。それ、持って帰ってあげたら喜ぶんじゃない?」
 うん、という返事のあいまいな響きに、女の勘が働いた。今まで彼氏が一人もいなかったとはいえ、私ももう二十五歳だ。好きな人がいない訳じゃないし、その人が誰を好きなのか分かるくらいには女の勘が働いてしまう。いっそそんな勘なんて働かないほうが当たって砕けられるのに、と一歩踏み出せない自分に言い訳をしている。
 自分で商売をはじめ、多少なりとも積極性というものが身についてきたと思うのだけれど、恋愛に関しては小さい頃と同じく臆病なままで、片思い歴はすでに七年以上にもなっていた。その彼の恋愛相談を受けながら、恋人同士でも色々あるのだと知り、彼が独り身になっても現状維持しかできなかった。そんな私が兄の相談にのれるとも思わないけれど、聞かずにはいられない。
「お兄ちゃん、彼女と何かあった?」
 口にしたあと後悔した。今度こそ本当に兄の瞳から涙が流れてしまうのではないかと思った。
「お前に言われるなんて、俺もまだまだだな」
 目元は以前より優しくなったけれど、口元の笑みも、見つめ返してくる目の強さも、これがあの兄だろうかと疑ってしまうほどに弱々しい。「ちょっと冷却期間」とつぶやいたあと、兄は抹茶を冷蔵庫にしまって二階へ上がった。
 私は何も声をかけることができず、兄の背中にアキラの姿を重ねていた。
『なんか最近会っても喧嘩ばかりで、距離おきたいって言われた』
 アキラが自嘲気味に笑って私にそう愚痴ったのは、もう五年くらい前のことだろうか。結局距離をおいたまま、アキラが当時の彼女に連絡をすることはなかった。自然消滅でいいかと思って、と少し吹っ切れたように彼が口にしたとき、私は心のなかで万歳三唱していた。そのあと私とアキラとの距離が少し近くなって、もしかしたらと期待していた矢先のことだ。
「アイリは一人で生きていけるタイプだよな」
 アキラは悪びれもせず私に笑いかけ、そのとき一緒にいたもう一人の女の子に「◯◯さんは守ってあげたくなるタイプ」と緩んだ笑顔を向けた。アキラは小さな広告デザイン事務所で働いていて、そこが独自に出版しているフリーペーパーを担当していた。アクセサリーの販路を探していた私はアキラに相談し、連れて行かれた雑貨店での他愛ないやり取りだった。
 気にするほどのことでもないと分かっていたけれど、私は唐突に突き放されたように感じ、その場を笑顔でやりすごしたものの家に帰って泣いた。アキラは何度か雑貨屋の子と出かけたようだけれど、付き合うことはなかった。
 彼が今気になっているのは、最近入社したという二歳年下の女の子だ。俺がどうにかしてやらなきゃ、そんな話をする時の彼は、大抵恋愛モードに入っている。私にとっては顔も知らない女の子。
 つき合って別れるくらいなら、いっそアキラとの友情を死ぬまで貫いたほうがいいかもしれない、そんな事を本気で考えたりもした。
 以前、取引先の男性に告白されたことがある。アキラ以外の人とつき合ってみるべきだろうか。そう思ってはみたものの、そのタイミングでアキラが完全に誰かのものに、つまりは結婚したりしたらどうしよう、そんなことをぐずぐずと悩んで一歩踏み出すことができなかった。以来、一生独身でいるという選択肢も頭の片隅においている。
 前にも後ろにも動くことができず、私が望むのはただアキラとずっと関わっていたいということだけなのだ。友達以上になれなくても、完全に関係が切れてしまうよりよっぽどいい。

 朝食をすませ、物置を改造して作った作業場に向かった。ドアを開けると足の踏み場もないほどの散乱ぶりだ。
 日曜日の昨日は駅前のフリーマーケットに出店していた。取材でたまたま訪れていたアキラと飲みに行く約束をし、夕方に店じまいをして荷物を作業場に積み上げ、取って返すように居酒屋へと向かった。アキラと過ごした時間の代償が、目の前に散らばっている。
 ダンボールを廊下に出し、ディスプレイに使ったクロスやボード、その他の小物類をひとまとめにしていく。定期的に出店しているので、ある程度決まりきった作業となり、私は手を動かしながら兄の部屋のドアをちらりと見やった。
 兄は優しい。小学校の頃から私の左足は何度もからかいの対象になってきたけれど、それでも学校に行き続けた。兄と歩く登下校の道が好きだった。のんびりと石ころを蹴りながら寄り道をし、田んぼの畦に座って花を摘んだり、兄は虫を追いかけたりした。
 兄が中学にあがり、それを機に私はバスで通うことにした。通常であれば歩ける距離だった。そのことをまた学校でからかわれ、ひとりバスに乗らずに歩いて帰った。それを一週間ほど続けたある日の帰り道、兄の自転車が私の横に止まった。
「お兄ちゃん、今日は早いね」
「今日は特別。せっかくだからどっか行こうか、アイリ」
 普段だったら絶対に乗せてもらえない自転車の荷台に腰をかけ、兄の体に抱きついて、風の匂いを感じていた。歩いても、バスでも体感することのできない空気のうねりが、柔らかく頬をなでて過ぎ去っていった。
 兄が連れて行ってくれたのは小高い丘の上の公園で、広がる田園と小ぢんまりとした街並みの向こうに海が見えた。潮風を感じなくても、波音が聞こえなくても、ぼんやりと太陽の光をまとった小さな海原は、心のなかに居座る意地のようなものをスッとやわらげてくれた。
 その日の夜、兄が学校をサボったのだと知った。私がバスを使わず一人で帰っていると母から聞いた兄は、六時間目の授業が始まるまえに学校を出て、私を探した。母は困ったように眉をひそめ「タカヤ君の気持ちもわかるけど、授業サボるのはだめよ」と兄を諭したあと、隣にいた私と目線をあわせるようにしゃがみ込み「ねえ」と頭をなでた。
 翌日から私はバスで登下校するようにし、と同時に学校生活というものへの期待を一切持たないことに決めた。
 期待しなければ相手に何を求めることもない。からかいに対して反応の薄くなった私に関心をなくしたのか、私は教室の隅で静かな日々を送ることができた。静寂の外から聞こえる笑い声は膜でおおわれたように現実感がなく、それを聞きながら兄と歩いた日々を思い出し、学校が終わるのをじっと待ち続けた。
「ごめんな、アイリ」
 高校を卒業した兄が家を出る前の日、心配そうに見下ろしてくる彼に、私は嘘をついた。
「お兄ちゃん、シスコンもそろそろ卒業したら? 私、ブラコン疑惑でからかわれてるんだから」
 家のなかでは明るい女の子だった。学校へ行けば地味で大人しい子。ひっそりと日陰で過ごす私をからかってくるクラスメイトなどおらず、私はただ勉強をするために学校へ行き、苦痛を伴う数回の校内行事を乗り切れば平穏な日々と言えなくもなかった。
「アイリはもう、お兄ちゃんを卒業しちゃったかぁ」
 兄は寂しそうな顔で「だよな」とつぶやくように付け足した。小さい頃なら頭でもなでてくれたのかもしれないけれど、お互い思春期真っただ中の兄妹の距離は微妙で、彼の手が私に触れることはなかった。
 ダンボールを棚の一番上に置いたとき、自室からメールの着信音が聞こえた。なんとか床が見えるようになった作業場に満足し、凝った肩をぐるぐると回しながら部屋へと向かう。
『おっはー。タカヤさん帰って来てたな! 夜メシ行かない? アイリ連チャンになるけど』
『今寝てるからあとで聞いてみる。アキラ何時に終わるの?』
『九時くらい? 遅いか』
『私はいいけど、お兄ちゃんは分かんない。明日仕事のはずだし』
 連絡待ってる、という素っ気ない文言を確認し、私はふたたび作業場へ戻った。
 納品の仕分けをしているとき、兄が起き出してきた。「ふうん」と感心したように息を漏らし、作業場をぐるりとのぞきこむ。アキラから届いたメールの話をすると、「じゃあ軽く食って、そのまま帰るわ」と階段を降りていく。私は作業を一段落させて台所に行き、水を飲もうと冷蔵庫を開けたとき、抹茶の缶が姿を消しているのに気がついた。
「お兄ちゃん、茶筅もあげる」
 戸棚に置かれていた新品の茶筅を、リビングのソファで寛ぐ兄の目の前に差し出す。兄はバツが悪そうに視線をそらしたけれど、その表情とは裏腹に「サンキュ」と素直に受け取った。
 私は床にぺたりと腰を下ろし、ソファにもたれてテレビから流れるワイドショーに目を向けた。
「お兄ちゃん。向学のために聞いてもいい? 冷却期間の理由」
「言わない」
 にべもない返答に「ケチ」と兄を見上げると、彼は可笑しそうにふっと吹き出した。その笑顔に胸が締めつけられる。笑顔と一緒に漏れ出してくる悲しみが、空気を伝ってくるようだった。
「なんか、アイリと似てるとこあるわ。あいつ」
「彼女? お兄ちゃんやっぱシスコンなんでしょ」
ははっと、兄の口から渇いた声が零れた。
「そうかも。アイリが『シスコン卒業しろ』って言ったとき実はショックだった。俺がいなくても大丈夫なんだって。何ていうか、もう必要ないって言われた気分」
 おちゃらけたような口ぶりだったけれど、その兄の告白に、私はとても驚いていた。
「大丈夫」そう言いたかったのは事実だ。けれど、「必要ない」なんて思ったこともない。冷静に考えれば「大丈夫」と「必要ない」はコインの裏表のようなもので、受け取る側がそう感じてしまったら、それもまた真実なのかもしれない。
「必要ないなんて思ってなかったよ。お兄ちゃんが見ててくれてるって分かってたから、だから、ああ言ったの。甘えてばっかりで、重荷になるの嫌じゃん」
「甘えてくれたら、いいんだけどなあ」
「それ、私のこと? 彼女のこと?」
 兄は少し迷ったあと、ため息まじりに「両方」と口にした。
「アイリもそうなんだけど、守ってやらなきゃって思ってたものが手を離れていく感覚。二人とも前向きにどんどん進んで、俺だけ置いてかれてる気分になる。わるいな、愚痴って。俺は、自分が優位でいたいだけなのかもな」
「アイリは一人で行きていけるタイプだな」
 棒読みの私の台詞に、兄は訝しげな顔をした。
「アキラがね。昔そうやって言ったんだ」
 はぁ、と気の抜けた息を吐いた私の横で、思いがけず兄が吹き出した。
「失礼ね。笑わないでよ。ちょっとへこんだんだからね、あの時」
 いや、悪い、違うと言いながら兄は笑いを抑えようとしている。憂いの消えたその笑顔に、私は不平を口にしながらも安堵していた。
「その話、アキラから聞いたことあるわ。なんか、お前が誰かに告られて迷ってたって頃だろ?」
「……へ?」
 そうだっただろうか。思い返せばそうだったような気もするけれど、すでに記憶はあいまいだった。
「お前らも、なかなかまどろっこしいよ」
 兄はそう言って、思い出したようにまた笑いだした。無理に笑っているわけではないのだけれど、どこか空っぽに感じてしまうのは、ヒナキさんの話を聞いたからだろうか。
 アキラが兄に一体どんな話をしたのか詳しく聞き出そうとしたけれど、兄は頑なに口を割らなかった。諦めて頬をふくらませる私に、兄は「ちょっと待っとけ」と立ち上がって台所へ向かう。戸棚を開ける音と、薬缶にお湯を沸かす音が聞こえて、私はそっと台所をのぞき込んだ。
「あ、待っとけって言ったろ。俺もまともなことできないんだよ」
 テーブルの上には広口のスープカップ。その隣に茶筅と、封を切られた抹茶の缶があった。ティースプーンの柄のほうですくった抹茶を、兄は茶漉しで漉してからカップに入れる。別のカップに注いだお湯をそっとカップにうつし、茶筅でシャカシャカと泡を立てた。
「下手くそなのは素人でも分かるよ」
「素人が素人に文句言うな」
 兄のお点前で喫する初めての抹茶だった。「苦い」と眉をしかめる私に、兄は「やってみろ」と場所をあける。二人でああだこうだと言いながら、おままごとのような時間が過ぎていった。それは、あの懐かしい帰り道を思い出させ、兄の笑顔も少し和らいだように思えた。
 戸棚にあったクッキーをつまみ、兄はスープカップの抹茶をぐいっと飲み干す。取手を無視し、両手でそっと包み込むようにカップを持っていた。
「アイリは、アキラがいなくなったらどうする?」
 兄の口から出た質問は唐突で、私は考えを巡らせるまえに思考停止してしまった。じっと兄の顔を見返すと、彼は自嘲するように小さく口元を歪める。
「アキラに会ってから、お前、学校行くの楽しそうだった。こんなこと言ったらまたシスコンとか言われるんだろうけど、あの頃ちょっと悔しかったんだ。俺じゃあアイリの学校生活をどうもしてやれなかったから」
「それは、……年が離れてるから」
 そうだな、と兄は笑う。今言葉にしていることは、兄の中ではもう乗り越えていることのように思えた。
 兄の言うとおり、海でアキラに会ってから私の学校生活は変わっていった。
 兄と一緒に行った海での私は「明るい女の子」で、そこで兄を介して関わった人たちにとっても、私はきっとそう映っていた。そして、その中にはもちろんアキラもいた。
 学校でも変わらず話しかけてくるアキラに、私は「明るい女の子」と「地味で大人しい女子」のどちらでいればいいのか、どちらが本当の自分なのか分からなくなり、混乱したまま、いつのまにかアキラを交えた数人の友人が出来ていた。
 静寂を覆っていた膜がプツリと割れて、教室の笑い声が私の耳に現実を届けた。あの膜はいったい何だったんだろうと思うほどに、それは呆気ないものだった。
「アキラがいなくなったらどうする?」
 兄はもう一度聞いた。
 ――泣く。
 黙りこくった私をちらりと見て、兄は口を開く。
「アイリは今、ひとりで色んなことしてるだろ。自分の足でちゃんと前に進んでる。アキラも、俺みたいにちょっと寂しいのかもな。会ったばかりの頃にさ、アキラが『学校でのアイリは任せて下さい』なんて生意気なこと言うから一発殴ってやろうかと思った。あいつなりに何か使命感っていうか、アイリのこと守ってやろうと思ってたんだろうな」
 思い出したらムカついてきた、と兄が苦笑し、私は自分のいないところで交わされていた男同士のやりとりに困惑していた。アキラは、もしかして同情で私と一緒にいてくれたのだろうか。
「ヒナ鳥は、いつか大人になって羽ばたいていくっていうのに、男たちは女々しく過去にすがってる。飛び立った鳥に、俺たちは必要なのかな……」
 何だろう、このちっぽけなプライドは。絶対だった兄が天上から堕ちて人間になってしまったようで、それはどこかで分かっていたはずなのに、唐突に目の前がクリアになったようだった。そして、このどうしようもない兄は、やはり私の兄なのだ。
「馬鹿じゃない」
 私の言葉に兄はうなずいたように見えたけれど、私はそれを無視して何度も何度も馬鹿じゃない、と繰り返した。そのうち、ポロリと床に涙が落ちた。
「アキラがいなくなったら、泣く。必要とか、そういうんじゃないから。いなくなったら、なんて考えたくない。だから……」
 ――だからこうして、踏み出せずにいる。
 うつむいた私の頭を兄はくしゃくしゃと撫で、「ごめん」とつぶやいた。私は床に落ちた涙のシミを見つめながら、ここ七年のあいだで最大の決心を固めようとしていた。
「お兄ちゃんはさ、一緒にいなくても私のこと応援してくれてるんでしょ」
「見てるだけしかできないけどな」
 不意に、自分が海の上で波に揺られている気分になった。見返した浜辺には兄と、アキラがいてほしいと思う。
「見ててくれる人がいるから、前に進めるんだよ。何かあったら来てくれるでしょ。中学校サボったときみたいに」
 兄はうんうんと二三度うなずいたあと、少し意地悪く口元を歪め、「アキラがな」と笑った。
「お兄ちゃん、私がんばって前に踏み出すからさ。フラれたら慰めてよ。私も慰めてあげるから」
「そっか。まあ、大丈夫だと思うぞ。最悪、俺がお礼参りしといてやるよ。ボコボコに」
 納品分のダンボールを後部座席に積み込み、運転しようかという兄の申し出を断って、いつも通り一人で数件の取引先をまわった。
 通りすがりに海岸で車を停め、夕日をながめながらスマホにメッセージを書き込む。
『お兄ちゃんの車で行くから、帰り送ってよ』
 送信ボタンを押す指に、祈りを込めた。

アイリ〈2〉帰巣

「アイリのこと頼むよ」
 小洒落たカフェレストランの駐車場で発せられた兄の何気ない言葉に、アキラは「だってよ」とおどけるように言って私の顔をのぞき込んだ。
 これまでも繰り返されてきた大した意味もない言葉だけれど、このとき兄がその言葉に込めた気持ちはいつもよりも強いものだった。だからこそ、私はアキラの普段通りの態度に小さく傷ついていた。
 兄は別れ際に「じゃあな」と私の頭をなで、思春期をすっかり過ぎてしまった私もその手を心地よく受け入れる。少し、お酒を飲んでいたせいかもしれない。車を運転する兄もアキラもノンアルコールビールを飲んで、私一人だけ生ビールを注文した。そうしなければ決心が鈍りそうだった。
 酔った勢いで告白なんて褒められたものではないけれど、卑怯にも、私は保険をかけようとしたのだ。もし気まずくなった時のために、冗談で笑い飛ばすための保険を。
「アキラ、明日の朝は?」
「海? ベタ凪っぽいから寝る。じゃなくても週明けに連日だと体力もたない。一応俺も社会人だからね。仕事に支障があると困るし。美羽(みう)ちゃん、まだ一人だと危なっかしいしなあ」
「例の、新人の子?」
 気持ちが落ちそうになり、私はアキラから視線を外して車窓を流れる店の明かりに目を向けた。
「いつまでも新人のつもりでいてもらっても困るんだけどね」
「早く巣立って欲しい?」
「そりゃあね。俺にも俺の仕事があるわけだし」
 徐々に街の明かりがまばらになり、視線の先にはぼんやりとした山影が闇に浮かんでいる。
「……アキラ、空山(そらやま)に行こうか。ドライブ」
「今から? まあ、ちょっと遠回りするくらいだからいいけど」
 不思議そうに首をかしげながらも、アキラはウィンカーを出して左折レーンに乗った。車は街を外れ、外灯だけがぽつぽつと灯る田舎道へと入っていった。
「空山といえば、パラグライダーだよね。俺、やったことないけど」
「星もキレイなんだって。穴場のデートスポットらしいよ」
「へえ。じゃあ、ちょっとばかりデートするか」
 山道というほど鬱蒼とした道程でもなく、樹々のあいまに浮かび上がった街の光は、大きなマンボウの形をしていた。
 カーラジオから流れてくる甘い歌声に、ザザッとノイズがまじる。
「あ、今の曲好きなんだけどな」
 アキラは電波の入りのいい場所を目指すように、わずかにスピードをあげた。
「今の、なんて曲?」
 私の言葉に、不意にクリアな歌声が重なる。
「今、歌ってたろ」
「聴き取れないよ、洋楽なんて」
「Let Her Go(※)って曲。彼女がいなくなってから愛してるって気づいちゃったよー、寂しいよって歌」
 アキラもそんな思いをしたことがあるのだろうか。
 そう考えると胸が締め付けられた。アキラはハンドルから身を乗り出すようにして、暗闇の向こうに続く道の先を見つめている。
 ふと、流れる音楽に合わせて彼はワンフレーズ口ずさみ、それを否定するように首を振った。私はアキラが何と言ったのか聞き取れなかった。
 思いのほかスムーズに山頂にたどり着き、アキラは整備された駐車場の端に車を停めた。そこは思ったよりも明るく、私たちは車を降りて暗闇を求めて木々の茂るほうへと歩いた。暗ければ暗いほど空は綺麗に見える。
「あ、アイリ。こっち道がある」
 踏み固められた獣道に足を踏み入れたとき、アキラは当たり前のように私の左手をとった。
 ドキドキしているのは私だけなのかもしれない。繋がった手が嬉しくもあり、悲しくもあった。ぎゅっとアキラの手を握りしめると、暗がりで彼の口元が「ふっ」と笑ったようだった。
「アイリ、暗いの怖いんだ」
 アキラはからかうように言い、それまでより強く手を握り返してくる。
「違うよ。足元が不安なだけ」
「信頼しろよ。こけそうになったら、ちゃんと引き上げてやるから」
「抱きとめてやるとかじゃないんだ」
「そうして欲しいならそうするけど?」
 アキラの声はまだ笑っていて、私が軽口にこめた本音などまったく気づいてはいないようだった。このまま変われないのかもしれない、変わらないほうがいいのかもしれない、そんな弱音が少しずつ胸に広がり、握っていた手の力がふっと抜けた。
 私が手を離したら、彼は楽になれる。高校のときからずっと、同情で彼を縛っていただけだ。
「どうかした? アイリ」
 彼のシルエットが動き、その向こうに微かな明かりが見えた。
「――あ」
 踏み出した右足が何か丸い石のようなものを踏んだのが分かった。アキラの手にぎゅっと力がこもり、私はぐいっと引き上げられる。
「ほら、信頼していいだろ」
「……うん」
 心がぐらぐらと揺れていた。握られた手が心臓になったようでで、普段どんな風に話していたのかさえよく分からなくなっていた。
「あ、もうすぐそこじゃん」
 明かりを見つけたアキラは、私の左手を離した。
 ――置いていかれる。そう思った瞬間、彼の腕が私の背中にまわり、腰のあたりにぐっと大きな手が添えられた。
「行くぞ。もうこけんなよ」
 うん、と小さくうなずき、彼の腕に誘われるように足を進めた。うれしいのと恥ずかしいのと、アキラの妙に女慣れした様子が寂しくもあった。
 少し歩くと視界がひらけ、眼下には街の光、まっすぐ目の前に星があり、見上げてもやはり星々が瞬いていた。闇と光と、そのなかを澄んだ風が吹き抜けていく。アキラと触れあった部分だけがふわりと温かかった。彼もそう感じているのか、ほんの少し手に力をこめて私の体を引き寄せる。すぐ近くで彼の声がした。
「こっから飛ぶんだろうな。暗くてよく分かんないけど、すげぇな」
「……アキラもすごいよ。すごいなって思ってる。サーフィンしてるとこ、好きだよ」
 本音がするりと口からこぼれていた。ふたりでぽっかりとした星空に浮かんでいるようで、聞こえてくる虫の声も、遠くで響く列車の音、飛行機が過ぎ去っていく音も、すべてが特別だった。
「サーフィンしてるとこ、だけ?」
 アキラの言葉は相変わらず冗談まじりで、不意に現実に引き戻される。夢のなかで想いが伝わるほど甘くはない。先に進むには今がそのタイミングなのだと気持ちを奮い立たせるけれど、考えれば考えるほど言葉が出てこなかった。
 ――サーフィンだけじゃない。
 その言葉では足りず、けれどそのあとどう続ければいいのか分からない。だから、ありったけの勇気を集めて首を横に振った。それに対するアキラの言葉を、じっとうつむいたまま待ち、そのうち後悔がじわじわと胸を押し潰しはじめる。
 不意にアキラの腕の感触が消え、ひやりとした空気が背をなでた。アキラを求めれば、離れてしまうかもしれない。その覚悟はできていたつもりだったけれど、本当は覚悟などできていなかった。
 冗談だよ。サーフィンしてるとこ「は」、だよ。笑ってそんな風に言えばまだリセットできる。喋ろうとすると口の端が震え、声も出せず地面を見つめていると、唐突にがしっと頭をつかまれ、ぐらぐらと無造作に揺らされた。
「なーんか、高校の頃みたいだ」
 アキラの声はどこか嬉しそうだった。頭の揺れがおさまり、今度は兄と同じような手つきで撫でまわされる。
「アイリ、地味系女子だったもんな。話しかけてもボソッとなんか言う感じの。海でタカヤさんと話してるの見たときは衝撃だった。こいつこんな顔で笑うんだって。で、俺が見つけたんだーって自慢したくなった。それが失敗だった」
「……失敗?」
「アイリ、どんどん独り立ちしちゃうから。俺だけのにしときたかったなって」
 頭ごと体が引き寄せられ、私は背中全部でアキラのぬくもりを感じていた。
「そんなこと言わなかったじゃない。他の子のことばっかり」
「俺にもねー、色々あるの。男のプライドとかさ。どうでもいいことばっかだけど。いつからかアイリの背中を追ってるような気分になって、俺じゃあ無理かなって思ったり」
「アキラ。いなくならないよね。離れていったりしないよね」
「離れてくのはアイリのほうだ。俺は、いつもアイリの背中を見てる。今もほら、アイリの後ろ頭しか見えない。どこにも行ってほしくないのに」
 囁いたアキラの息が耳をくすぐる。振り返った私をアキラは企むような瞳でちらりと見て、ためらいなく唇を奪った。はじめてにしては長いキス。そんなことを考えながら、アキラとまっすぐ向き合って抱きしめあった。
「アキラ、手慣れてるよね」
「アイリは、まだまだだな。その方がいいけど」
「アキラ、私一人で生きていけるわけじゃないよ」
「うん。知ってる」
 そうやって言ったくせに、とアキラの胸を小突くと「ああ」と彼は苦笑した。
「お前が彼氏作ろうとしてたから、ちょっと洗脳しようかと思って」
「自分は彼女いたのに?」
「いないだろ。お前に彼氏出来ないように仕向けといて、俺は別の子と、とはさすがに思えなかったし。あの時に自覚したから、あれからお前の背中ばっか見てる。もうちょっと自信が持てたら、なんて先延ばしにして、結局一歩踏み出すのはアイリの方なんだよ。こんな男でいい?」
「いてくれるだけでいい。いてくれないと、自分がどこに立ってるのか分かんなくなる」
 そっか、とつぶやいたアキラの声は安心したようでもあり、少し淋しげでもあった。
「自由にやったらいいけど、俺がいるって忘れんなよ。そのままどっか飛んでっちゃいそうだからな、アイリは」
「アキラも、私が浜辺で見てるって忘れないで。ちゃんと帰ってきて」
「忘れないよ。囚われてばかりだ」
 帰り際、「タイタニックやっとく?」とアキラが笑いながら口にし、二人で暗闇と光を見つめて両手を広げた。その光景と、耳元で囁かれた愛の言葉のようなものを、私は一生忘れないと思う。
 ――もう手放さない。
 アキラの声とそのぬくもりで、私はもっと羽ばたいていけそうな気がした。帰る場所があるから。見てくれている人がいるから。

〈アイリ・了〉

(※)Passenger 「Let Her Go」2012

ジュン〈1〉片翼

 雲が切れ、眼下には四角く区画された緑と茶、それに立ち並ぶ建物の灰色がのっぺりと広がっていた。こちら側の窓からはもう海原は見えない。キラリと視界をかすめる日の光に薄く目を閉じた。
 焦点を間近に合わせ、窓ガラスに微かに映り込む自分の顔をながめる。世の中の人がみんな近眼ならいい。
 そうすれば、世界はもう少しくらい生きやすい。ぼんやりとした世界のほうが中身が見える。それとも僕の中身が曖昧だから、世界の居心地が良くないのだろうか。そんなことを考えながら顎のラインをなぞり、その指をするりと喉元まで下ろした。
 ――俺も、ジュンは髪おろしてる方が好き。
 そんなミツキの声が聞こえたような気がしたけれど、彼がいないのは分かりきったことだった。僕の隣には見ず知らずの他人が座っている。先ほどまで疲れ切った様子で(いびき)をかいていたスーツ姿の中年男性は、着陸をまえに襟元を整え、ネクタイを締めなおしていた。ちらりと目をやると、その男ははにかんだ笑みを浮かべて軽く頭を下げる。僕は彼の現実を壊さないように首元に巻いたマフラーを少し上げ、おろした髪の毛で顔と喉元のラインを覆い隠した。話しかけるつもりはないし、その必要もない。男は胸ポケットに入れていた眼鏡をかけ、手帳を確認して働く男の顔になった。
 機体はすでに地に降りていた。芝の緩やかな斜面に空港の愛称が書かれている。それは有名なアニメキャラクターの名前で、ぼんやりと文字をながめているうちに機体はゆっくりと移動していく。初めて降り立ったその空港は、思った以上に閑散としていた。
「とりあえず、うちに荷物置きに行こうか。ジュン、どこか寄りたい場所ある?」
 ハンドルを握るユカリは、大学時代の同期だった。卒業後もメールのやりとりをし、二度ほどうちに遊びに来たけれど、僕が彼女の元を訪ねるのは初めてだ。僕は未だに大学時代と同じマンションに住んでいて、ユカリはうちに来た二回とも大学の学食に行こうと誘ってきた。そして、大学生のふりをして大講義室のとある授業に忍び込み、小さなスリルを味わった。
「ドラッグストアって通り道にある? 足が疲れちゃったから夜湿布貼って寝たい」
 分かった、とユカリはウィンカーを出す。交差点を曲がると見慣れたドラッグストアの看板が見えた。
「ジュン、まだ持ってたんだね。そのパンプス」
「うん、なんとなくね。久しぶりに履いてみた」
 運転席の足元に目を向けると、つるりとしたツートーンのパンプスがブレーキを踏む。ピンクベージュとキャメルブラウン。控えめについた小さなリボンが、ユカリのさっぱりとした女らしさに合っていた。
「ユカリ、足のサイズ23.5だっけ? 27.5センチなんて滅多にないよ」
「ネットでも?」
「あるにはあるけど、僕の場合横幅も広めじゃないと入らないから。でも、もう買うこともないけどね」
 持っている女性用の靴は、今履いているこの一足だけだ。外に履いて出かけたのは今日が初めてで、僕がそれを履いている姿を見たことがあるのもユカリ一人だけ。この靴は身につけるために買ったものではなく、言うなれば御守のようなものだった。その御守を踏みつけにして、僕は昔の自分と決別しようとしている。
 車を降りて、並んで店内に向かった。ユカリは少しだけ顎を上げて僕の顔を見る。
「ジュン、どうしてパンプス履いてきたの? 何かあった? こっち来るっていうのも急だったし」
「ちょっとね。禊みたいなもの。別に靴以外は普通だよ」
 グレーの綿ジャケットにジーンズ。それとアーガイル柄のたっぷりとしたマフラー。ユカリは納得していないようで少しだけ唇を尖らせている。
「その格好似合ってるよ。靴以外は。無理して女の格好しなくていいのに」
 ポツリとつぶいたユカリの言葉は僕に向けられたものではなく、多分ここにはいないミツキに向けられた不平だ。ユカリが僕の味方なのは分かっているけれど、ミツキを否定されるのも、それはそれでスッキリしない感情を抱えることになる。
「今日のは、そういうのじゃないから」
「ジュンが好きで履いてるならいいけど、あとで話聞かせてよね」
「僕の願掛けみたいなものだよ。ちゃんと話すし、むしろ聞いてもらいに来たんだ」
 ユカリの頭をぽんと叩くと、彼女はくるりと表情を変えて嬉しそうに微笑んだ。
「ジュンが『僕』って言うの久しぶりに聞いた気がするね」
「そう? そうかも」
 女性の格好をするのにそれほど抵抗があるわけではない。社会的に排除される心配がなく、相手がそれを求めるのならスカートを履くくらいはできる。でもそれはコスプレのような感覚で、一人で出かけるときに女性用の服を着ようとは思わないし、下着は頼まれても無理だ。
 ただ、自分が恋愛対象として男性を求めているのか女性を求めているのか分からなくなることがある。ミツキは男性だったし、初めて付き合ったのは女性だった。どちらかといえば男性の肌に触れたい。男性とはすなわちミツキのことだ。彼以外の男性を好きになったことはないし、今後好きになるのかも分からない。
 体は今のままでいいと思っている。手術やホルモン投与してまでこの体を変えたいとは思わない。むしろ、この体が自分だという自覚がある。たぶんゲイだとは思う。けれど性の境界というのは曖昧すぎて、時々自分が何者なのか見失い、不安になる。
 ――ジュンはジュンだろ。
 彼の言葉は、まだ僕を救ってくれる。
「――あ、鳥」
 近道と云ってユカリが車を進めたのは住宅地で、古い日本家屋が立ち並ぶ集落を過ぎると、草の生い茂った斜面の手前に畑が見えた。ユカリはハンドルを切り、草むらの中に伸びる細い坂道を上る。
 不意に、目の前を白くて大きな鳥が横切った。
「ジュンには珍しいよね。こっちでも街なかじゃ見かけないし。(さぎ)だよ。白鷺」
 ふわりと風にのった白鷺は、民家の近くの落葉した木の枝に止まった。そして思い立ったようにまたどこかへ飛んでいく。
 車は土手沿いの道を走っていた。対岸の景色は平坦で、ビルらしいビルは見当たらない。川沿いの工場が煙突からもくもくと煙を吐き出していて、その色はぼんやりと空の色と同化し、雲に覆われた空をながめていると、ポツリと雨粒がフロントガラスに当たった。二つ、三つ、数える間もなくユカリはワイパーを動かしはじめた。
 スーツケースを車から下ろす僕の隣で、ユカリは傘をさしている。紺のローゲージニットを着ている彼女は、吹きつける雨と風にギュッと身を縮めた。
「これ、使いなよ」
 僕がマフラーを差し出すと、ありがとうと素直に受け取る。かわいいと思うけれど、僕が彼女に感じるのは少しの嫉妬と、それを表に出さないだけの友情。ユカリが性の対象になることはなかった。
 なぜなのかは分からないけれど、僕にとってはそれが普通なのだろう。高校のときに付き合った女の子はバスケ部に入っていて、彼女はどちらかといえば筋肉質なほうだった。僕たちは手をつないで、キスをして、それ以上の距離が縮まることはなく、卒業して暮らす場所が離れると次第に心も離れていった。そして、大学に入学した僕は、生まれて初めて男性に恋をした。

 ジーンズにダボッとしたサイズのパーカーを着ていた僕を、その人は最初女だと勘違いした。今とおなじ、寒さが少しずつ深まっていく季節に、僕の髪は顎の下あたりまで伸びていて、首に巻いたマフラーは喉仏を覆い隠していた。だからといって、僕を女だと思う人はなかなかいない。女だと思っても、175センチの大女に声をかけようと思わないだけかもしれないが。
 男性としてはそれほど高いわけではないが、女性であれば長身と言っていいだろう。それに、体の線は細いけれど喋れば確実に男だと分かる。
 ――待って、アサミ。
 僕はあのとき、その声を聞き流した。人通りもない深夜のことだ。近所のコンビニから出たところで、近づいた声がもう一度「アサミ」と懇願するような響きで聞こえ、僕は背後から腕を腕をつかまれ、そのまま抱きしめられたのだった。
 絡みついた腕の力は一瞬で消え、相手はぐいっと僕を引き離す。口を半開きにしてじっと僕の顔を凝視する、それがミツキだった。僕より数センチほど背の高い彼は、確認するようにくいと眼鏡を押し上げ、困惑を滲ませたままの顔で「すいません」と頭を下げた。
「彼女を追いかけてて、着てる服が似てたものだから。眼鏡もさっき壊されてしまって、度の合わない昔のものなので、あまり見えてなくて」
 気にしないで下さいと言うと、彼はまた驚いたように顔を上げ、それから視線を僕の胸辺りからさらに下に移動し、足元にたどり着いたところで「すいません」と同じように頭を下げた。
「すいません。女性なのかと思っていました。あまりに華奢なので。失礼しました」
「大丈夫です。たまに男にナンパされたりするんで、その時はほら、こんな声で返事するんです」
 言葉の終わりで意図的に低い声を出す。なんとなく、彼の気持ちを楽にしてあげたいと思って吐いた嘘だった。彼は「ははっ」とゆるく笑い、その瞬間、僕は彼に心を奪われてしまった。そう気づいたのは、そのあと何度も大学構内で彼を見つけてしまったからだ。
 意識しなければ埋もれてしまう人混みのなかで、彼の姿がするりと視界に入ってくる。そのたびに彼を目で追い、彼はこちらの視線に気づくと遠くから笑顔を返した。
 彼は一つ年上で、二年にあがったときゼミが一緒になった。「アサミ」とは別れたと知り、その頃には僕の髪はさらに伸びて、茶色く染めたストレートの髪の毛を後ろでひとつにくくっていた。
「ジュン、顎のラインが出ると男っぽい感じがする」
 彼がからかい混じりにそう言った次の週末、僕は顎より少し下くらいの長さに髪を切った。それは、ミツキに初めて会ったときと同じ髪型だった。
 たまたま二人きりになった大講義室の隅っこの席で、彼は僕の隣に座っていた。髪の合間に指を差し入れてきて、するりと指を抜く。ミツキはそんなことを二三度繰り返した。
「――この髪、アサミっぽい?」
 彼から視線をそらしたまま訊いた。
「まさか。今さら間違えないよ。綺麗な髪で羨ましいだけだ。俺のはほら、クセっ毛だから」
「その髪、柔らかそうだよね。そういう雰囲気好きだけど」
「俺も、ジュンは髪おろしてる方が好きだ」
 ミツキの口調があまりにも優しく甘美で、どうしようもなく胸が締めつけられた。それは顔にも出ていたのだろう。髪に触れていた彼の指が耳元から顎のラインをなで、骨ばった手の甲が頬をさする。
「ジュン、泣きそうな顔してる」
 チラと視線を向けるとミツキは困ったような顔で、触れていた手を離した。それでいい。これ以上近づいても、いつか何かの瞬間、弾かれたように距離が開いてしまうだろう。その方がいいのかもしれないけれど、彼と離れる可能性が少しでも小さい方を、僕は抗いがたく選んでしまうのだ。
「そりゃあ、男に触れられても嬉しくも何ともないよ。かわいい女の子ならともかく」
 強がって笑ってみても余計に心は苦しく、彼の言うとおり本当に泣いてしまいそうだった。ミツキから顔を背けるように体をひねり、少しだけ距離をおいた。
「俺は、ジュンなら……」
 彼は続ける言葉を見つけられないのか、小さな吐息が背中から聞こえた。その先を期待してしまいそうで、それを必死で抑えながら、期待はずれの後に突き落とされる穴が深くないことを願う。静まった講義室に二人の息遣いだけがあり、自分の鼓動までもが彼の耳に届いてるような気がした。
 ドアの向こうを駆け抜ける足音が、笑い声とともに遠ざかっていく。僕が「帰ろう」と腰を浮かせると、手首がぐいっと引かれた。痛みを感じるほどの強さで、彼はその手を離す気はないようだった。
 再び椅子に座ると大きな手のひらが僕の頬を覆い、すぐ目の前でミツキがこちらを見つめていた。
「俺、ジュンのこと好きかも。そういう意味で」
 バツが悪そうな顔で、彼は「引いた?」と口にした。状況に気持ちが追いつかず、じっと彼の顔を見つめ返した。
「ジュンは、……無理だよな」
 そう言ったミツキの口元には薄く笑みが浮かんでいたけれど、眉間の皺は苦しげだった。きっと、先程の自分も同じ顔をしていたのだろうと思った。
 目の前の彼のことが無性に愛しくなり、そっと彼に顔を近づけると、すぐに唇が触れる。奇跡。それ以外にありえない。触れあう唇と、僕の髪を優しくなで回すミツキの両手を感じながら、切ない予感が胸を満たしていった。

***

「ジュン、そろそろ行こうか。予約してないから早めに行かないと席なくなるかもしれない」
 ユカリはそう言いながらも、まだドレッサーの前でメイクを直していた。少しお高めのフレンチ・レストランということで、彼女は余所行きのワンピースに着替えている。僕はソファに深く身を沈めたままスマホをながめ、久しぶりにフェイスブックのアプリを開いた。
 お知らせの数は三桁を優に超えていて、それを放置したままタイムラインをスクロールする。ミツキの名前が目に入り手を止めたけれど、その記事の写真はどこかの店の定食だけが写っていて、彼の姿は見えない。
 ユカリが立ち上がり、僕はアプリを閉じた。けれど、彼女はクローゼットをあさりはじめ、まだ出かける気配はない。彼女のいなくなったドレッサーの前に座り、僕は髪を一つに束ねた。
「ユカリ、気は変わらないの?」
「今のところね。店の前で怖気づいたらごめん。でも会う可能性の方が低いから」
 これから向かうのは『レスプリ・クニヲ』という店で、ユカリにとっては少なからず因縁のある場所らしかった。場所というよりは、そこに勤めている一人の女性が問題なのだ。
 一ヶ月ほど前、ユカリはこんなメールを僕に送ってきた。
『いい感じだって言ってた澄田さん、私の勘違いだった。彼女がいた。もう会わないことにする。はぁぁ。私一人で盛り上がって恥ずかしー』
 文面が懸命に前を向こうとしてるように見えて、僕は昔見たことのあるユカリの泣き顔が頭に浮かんだ。それまでのメールからユカリとその「澄田さん」が深い関係なのは分かっていたし、それは有り体に言えば二股以外のなにものでもなかった。そして『レスプリ・クニヲ』には「澄田さん」の彼女がいる。
 僕はユカリがその店に行きたい気持ちが分かるような気もしたし、そのことにより、彼女が少なからず傷つくだろうということも分かっていた。
 ――思いっきり傷ついて、全部終わらせてしまいたい。
 以前の自分と照らし合わせて、僕はユカリもそんな心境なのだろうと思う。僕もミツキのマンションの前まで行った。彼と、アサミの姿を目に焼き付けるために。
「おまたせ、ジュン」
 ようやく準備の整ったユカリがオーディオの電源を切ろうとしたとき、聴き覚えのあるメロディーが流れた。この曲を聴いたのはいつだっただろうか。
「あ、ちょっと待って。この曲だけ聴いていい?」
 ユカリは少しだけ考えて、分かったとソファに座る。隣に腰を下ろすと、ユカリは僕の肩に頭をもたせかけた。
「ユカリ、僕のこと好きなの?」
 ユカリの頭が僕の体を振動させる。ちらりとお互いの顔をうかがい、クスクスと笑った。
「懐かしいね。あれは、ちょっと恥ずかしかったな、私」
 ユカリの頭が離れ、彼女の肩はまだ揺れ続けていた。
  ――ジュン。私のこと好きなの?
 隣に座っていたユカリが僕にそう聞いてきたのは、やはり二人きりの講義室だった。昼食をとったあと、誰もいない部屋を探して空き時間を潰し、他愛ない会話をしていた。ユカリは左手を僕の前にかざし、小指にはめられた指輪を幸せそうにながめた。
「もらったの。いいでしょ」
 僕はユカリの左手を引き寄せて、指輪のキラキラした小石をなでる。
「きれいだね。似合ってる」
 僕は思ったままのことを言っただけなのだが、ふと気付くとユカリは訝しげな瞳でこちらを見つめていた。
「……ジュン、私のこと好きなの?」
 彼女の言葉がまっすぐに届かず、僕は少し混乱して「え?」と首をかしげる。
「なんていうか、ジュン、スキンシップ多いなって思って。もし、そうなら……私『ごめん』って言わないといけない」
 僕はユカリの手を慌てて離し、違うと否定した。申し訳なさそうに「本当?」と聞いてくる彼女にどうやって理解してもらうか考えを巡らせ、僕はミツキとのことを打ち明けることにした。それは、これまでに築いてきたユカリとの信頼関係があったからと、どこかで誰かに聞いてもらいたいという衝動が胸のうちにあったからだ。一人で抱えるには、僕のミツキに対する気持ちは大きくなり過ぎていた。
「好きな人いるから」
 僕はすべてを言葉にすることができなかった。ユカリが僕とミツキとのことを知ることになったのは、きっと僕の気持ちが知らず知らずのうちに漏れ出していたからだ。
「ホント? よかった。その相手聞いてもいい? ……あ、待って。当ててみせるから」
 ユカリは口元に手をやってしばし考え、頭のなかで挙げている候補を数えるように指を一本ずつ折っていった。
「じゃあ、最初の候補ね。違うと思うけど、見てて一番『っぽい』やつ」
 そう前置きをして彼女が口にしたのは、驚くことにミツキの名前だった。僕のぽかんと呆けた顔に、彼女は少しだけ困惑して、けれど確信したようだった。
「そっかあ。そうなのかなっていうのと、まさかねっていうのが半々で、もしかしたら聞かないほうが良かったよね?」
「違う。誰かに聞いてほしかったから。でも内緒にしてほしい」
 分かった、とユカリはうなずき、小さく微笑んだ。
「安心した。私、不安だったんだ。ジュンがそういう風に私のこと思ってて、私がふっちゃったら友達でいられなくなるのかなって。私、めちゃくちゃイタい子だね」
「ユカリ、引かない? 自分でもまだよく分からないんだ。男を好きになるなんて初めてだし、男とキスしたりするのも初めて」
「うそ。もしかして付き合ってる?」
 その質問に、閉じ込めた不安がむくむくと顔を出しはじめる。
「それも分からない。好きだって言われたけど、キスして、ハグして、それ以上は怖くて無理。こんな話、ユカリにするべきじゃないのかもしれないけど。でも不安なんだ。何となく、ミツキは他の人とも会ってる気がする。女の子とね。たまに女ものの香水の匂いがするんだ」
 ジュン、とユカリは僕の名前だけを口にし、そして言葉が見つからないのか、次の言葉を待っているのか、そっと僕の背をさすった。
「それでもいいと思ってる。この顔、いや体格かな。ミツキの元カノに似てるみたいなんだ。きっと、ミツキはバイでもゲイでもない。卑怯だって自分でも思うけど、それでもミツキのそばにいたいから」
 ユカリの手がそっと僕の視界に入り、そこにはハンカチが握られていた。僕は自分がうつむいたまま涙を落としていることに気づき、気づいてしまうと嗚咽を止めることができなくなった。ユカリは僕の背中をさすり続けている。
「私ね、ジュンが私のこと好きなんじゃないかって思った理由がもう一つあって。ジュン、最近私と似たような服着てることがよくあったから、何人かに『二人はつきあってるのか』って聞かれたの。もちろん違うって答えたんだけど、意識してみるとやっぱり似てるなあって私も思った。ジュン、もしかして女っぽくしようとしてた?」
 僕は無言のままうなずき、「そっか」と呟いて頭をなでてくるユカリに、また涙が溢れた。
「ジュンは女っぽい格好がしたいの? 前はそんなことなかったよね。もしかして無理してない?」
「もう分かんない。でも、少しでも近くにいれるなら、そうしたい」
 ユカリの小さな溜息が聞こえて、僕は呆れられたのかと少し傷ついたけれど、彼女はそのあと「よしっ」と気合を入れてから僕の顔をぐいっと上に向けた。そしてがっくりと肩を落とす。
「あぁあ。せっかくメイクしてあげようと思ったのに。その顔じゃだめね」
 空気を変えるように明るい声でそう言ったユカリは、「また次回ね」と悪戯でも企むように口元に笑みを浮かべ、そしてその言葉をちゃんと実行してくれた。
 彼女の施してくれるメイクはナチュラルどころかほとんどしていないんじゃないかというレベルで、けれど肌にするりとした透明感が出て、口元には嫌らしくない程度の潤いが加わった。
 僕は何度か彼女の部屋に行ってメイクの仕方を教えてもらい、お下がりの化粧品をいくつかもらった。基礎化粧品はメンズのものも売られているから、僕はそれを使うようになった。
 ある日、約束した時間にユカリの部屋を訪ねると、インターホンから「少し待って」という鼻声が聞こえ、ドアをあけた彼女は目を真っ赤に腫らしていた。
「ジュン、フラれちゃったよう」
 僕の胸のなかで泣き続ける彼女に、「ゴメン」と謝り頭をなでる。
「やっぱり、こんな風にユカリのマンションに来るべきじゃなかった」
「……違う。あいつが頭カタいだけ。ジュンは悪くないよ。悪いのはわたし……」
 ユカリの彼氏が僕と彼女の関係を疑っていると聞いたのは、一ヶ月ほど前のことだった。部屋に来るのは止めようと言う僕に、ユカリは絶対ダメと言い張って譲らなかった。
「だって変なことしてるわけじゃないし、それに私ジュンとこうしてるの楽しいもん。なんか女子会っぽい」
 そんな風に笑うユカリに甘えてしまったのを、今さらのように後悔した。
「ユカリ。明日、彼氏にちゃんと説明してくるよ。相手がゲイだって分かれば多分納得してくれる。ここに来るのも、もう止めるから」
 ユカリは僕の胸元で頭を振っていたけれど、今度こそ甘えるわけにはいかなかった。
「今日もせっかく来たけど帰るね。もう、メイクも自分でできるから」
 何度か押し問答を繰り返し、僕が譲らないと分かったユカリは小さく頷いたあと「ちょっと待ってて」と部屋の奥に行き、ベージュのストールを手に戻ってきた。
「夜、冷えてくるって」
「借りちゃうと、また誤解されるよ」
「ジュンが風邪ひいたら誤解も解いてもらえないもん」
 僕はマフラーのようにぐるりと首にストールを巻き、マックで軽く夕食にしたあと、家に帰らずミツキのマンションに向かった。ユカリの泣き顔が頭から離れず、なぜか無性にミツキに会いたかった。
「ジュン、今日用事があるとか言ってなかった?」 
「うん。ミツキが浮気してないか確かめに来た」
 冗談ぽく言ってしまったから、ミツキも「ばぁか」と軽い口調で返してきて、僕にはやっぱり真実を知ることは無理なのだと悟った。疑惑のままでいい。知ってしまえば何らかの形を出さないといけない。それは、望んでいなかった。
 ミツキは読書していたらしく、テーブルの上にはマグカップと伏せられた文庫本があった。部屋に流れるかすかな歌声は、心地よく傷を癒やしてくれる。
「ミツキ。これ、なんて曲だっけ」
「Pair of Wings(※)。ジュン、前にも聞いたぞ」
「そうだったね」
 ストールを解き、肩にかけたままミツキの隣りに座る。ふわりとユカリの匂いがした。甘い、香水ではなくて、たぶん柔軟剤の香り。
「ジュン、いい匂い」
「ああ、これ……」
 言葉を続けようとしていた僕の唇は塞がれ、ミツキはいつもより長く優しくキスをしたあと、ソファに右膝をつき、そっと押し倒すように僕の肩を押した。彼はストールに顔を埋めるようにして僕の首元に口づけ、そして、はじめて服の下から僕の素肌に触れた。
「……ミツキ」
 身を委ねていたいという欲望と、全てが終わってしまうのではないかという不安がない混ぜになり、結局僕は何もできないまま、彼の手と、唇と、息遣いを聴いていた。
 ほんのわずかな、一瞬の幸せ。
 それを感じられただけで、ミツキと過ごしてきて良かった。だから、その後に訪れた悲しみを僕は受け入れたい。ミツキはやはり、男とすることはできなかった。それは、悲しみと諦めと、安堵を僕にもたらした。
 ミツキは普通に幸せになればいい。
 投げやりな感情ではなく、彼が僕のように苦しまずにいられるということが、胸にある憂いを少しだけ拭い去ってくれた。その夜を境に僕はミツキに会うのをやめ、その数カ月後にミツキが元カノとヨリを戻したという噂を聞いた。
 僕はまだ彼のことを好きだったし、けれど早く忘れたいとも思っていた。彼のマンションを訪れたのも、ただ傷つきたかっただけだ。近くのコンビニと本屋をハシゴして様子を伺い、二時間ほどそうした後に、身を寄せ合ってマンションのエントランスに入っていく二人の姿を見つけた。背が高くて、少しだけ肩幅が広い女の人。彼女にはちゃんと柔らかな体の膨らみがあって、どう見ても僕に似ているとは思えなかった。
 僕はユカリのマンションに向かい、目を真っ赤に腫らした僕の頭を、彼女はよしよしと撫でた。
「ジュンは、バカだね。独り者同士、どっぷり悲しみに浸ろう」
 ユカリと彼氏は結局元に戻らなかった。僕はあの翌日に泣き腫らした目で弁明したけれど、それがおかしな誤解を生んだのかもしれない。ユカリと僕が付き合っているという噂と、僕がゲイだという噂が流れ、それは相殺しあうようにいつのまにかなくなっていた。
 ミツキを避け、ユカリとは人前であまり話をしなくなり、彼女のマンションに来たのはあの日以来だった。
「ワイン開けよっか」
 ユカリは正月に実家からくすねてきたというシャンパンを開け、「乾杯」とグラスを鳴らした。タブレットを操作して動画サイトで「切ないラブソング」と検索し、それをBGMにして交互に二人の男に対する文句を愚痴り続けた。
「……Pair of Wings」
「何?」
「この曲」
 ユカリは表示されたタイトルとアーティスト名をスマホで検索し、「男たちは翼なんて持ってなかったんだよね」と嘆息する。そのあとも何か操作していたけれど、僕はただあの夜のことを思い出さないように、ぼんやりとタブレットの画面をながめ、ワインを喉に流し込んだ。
 流れていた曲が途切れ、ふと目を閉じていたことに気づいて瞼を開ける。どこかで聴いたことのある切ない歌声が耳に届いた。
 タブレットの画面では金髪の女性がバスタブに沈んでいた。言葉の意味は何となくしかわからないけれど、悲しみが流れ込んでくるような、それとは反対に自分の悲しみが体から流れ出していくような、不思議な感覚を味わっていた。

(※1)Justin Timberlake「Pair of Wings」2013  アルバム『20/20エクスペリエンス 2/2』に隠しトラックとして収録 

ジュン〈2〉両翼

 ユカリの隣でソファに浅く腰をかけ、オーディオから流れる歌声に耳を傾けていた。そのメロディーに少しだけ心が苦しくなる。悲しみは脳裏にミツキの姿を描き、けれどこの曲をミツキと聴いた記憶はなかった。
「これ、どこかで聴いた気がする」
 僕がそう言うと、ユカリは「うちだよ」と答えて膝に置いた小さなバッグを開ける。
「ジュンは半分寝てたかもしれない。失恋パーティーの日にね、聴いたんだ」
 ユカリはスマホを取り出して動画サイトにアクセスし、動きはじめた画面を僕に向ける。音が流れ出し、僕はそれをじっと見つめた。彼女はオーディオの電源をオフにして玄関に向かう。
「そろそろ本当に行かないと、座れなくなっちゃうよ」
「うん。分かった」
 立ち上がりつつ画面を見続け、金髪の女性がバスタブに沈んで、僕はあの時の胸の痛みと、アルコールと悲しみでぼんやりとした浮遊感を思い出した。
「ブリトニー・スピアーズの『Everytime』(※)。あの日にね、ジュンが言った『Pair of Wings』って曲検索してたらこれが出てきたんだ。気に入ったからダウンロードしたの。この二人って色々あったみたいだよ。ずいぶん昔の話だけどね」
「色々?」
「色々あるわよね。誰だって」
 そうだねと答えて、僕は普段から履きなれた革靴に足を入れる。マンションの前でユカリは「高波(たかなみ)」という同級生に電話をかけたけれど、通じないまま電話を切った。
「その高波って人、『レスプリ・クニヲ』で働いてるなら仕事中なんじゃない? いきなり行って驚かせてやるって、ユカリ言ってなかったっけ?」
「そう思ってたんだけど、予告したほうが高波にもスリルを味わってもらえるかなって。私と例の彼女がニアミスするっていうスリル。それに、高波は料理してるはずだから何も言わないと会えないかもしれないし」
 つまんないの、と言いながら歩き出したユカリに、店に電話したらと提案した。彼女は嬉しげにそれを実行し、席の予約をした。もちろん「高波君の友人ですが」と言い添えて。

霜谷(しもや)、お前急すぎるんだよ。キャンセル出てなかったら座れなかったんだぞ」
 歩いて十五分ほどで到着した『レスプリ・クニヲ』の個室でのことだ。フルコースとワインを堪能したあと、コーヒーを持って現われた高波という男は、呆れたように溜息をついた。霜谷というのはユカリの苗字で、彼のその呼び方が新鮮だった。
「私のせいじゃないもん。ジュンが急に来たから、ここに来るのも急に決めたの。高波だって、同級で集まろうとか言っておきながら全然音沙汰なかったくせに」
 ユカリの喋り方が少し子どもっぽくて、彼らの関係が高校の同級生だということを実感する。小さく笑った僕を見て、高波はすいませんというように頭を軽く下げた。
「まあ、でも霜谷が元気そうでよかったけど……」
 中途半端に言葉を止めた高波に、何よ、とユカリが詰め寄る。彼はちらりと僕の顔を見たあと、「お前、あれから……アノ人と会ってないよな」とユカリの耳元に少しだけ顔を近づけた。その仕草を詫びるように僕に目線を送りながら。「アノ人」はきっと「澄田さん」のことだろう。
 ユカリの顔は明らかに不機嫌になり、近くにあった高波の額をぐいっと手で押しやる。
「ムカつく。気分悪くなったから今日は高波のおごりね」
 しまったという顔をして頭をかく高波に、僕は助け舟を出すことにした。彼とユカリのやりとりは微笑ましくて、僕とは違った意味合いでユカリは彼を信頼しているように思えた。
「素直じゃないなあ、ユカリ。高波さんがいなかったらここ来てないくせに」
「ジュン、余計なこと言わない」
 高波は困惑したような顔で、ユカリが彼をからかいたがるのも、何となく分からないでもなかった。鬱憤を排出するように息を吐いたユカリは、ちらりと高波に視線を向ける。
「会ってないよ。連絡もしてない」
「そっか。そうだよな。こうやって二人で食事に来てるんだし」
 高波の勘違いには薄々気づいていたけれど、僕はどうするのがユカリにとっていいのか迷い、彼女の顔をうかがった。それは彼女の視界には入っていないようだった。
「言っとくけど、ジュンとはそういうのじゃないからね。親友だから」
 このとき過去の記憶が戻ったのは、ユカリの強情っ張りな言い方のせいだろう。
 ――違う。あいつが頭固いだけ。ジュンは悪くないよ。
 僕がユカリといることで彼女の幸せを台なしにしたくないし、その芽を摘みたくもない。当然、彼女の泣き顔なんてもう一生見たくない。泣くのなら胸を貸したいとは思うけれど、その機会がないならその方がいい。
「僕ゲイなんで、ユカリには欲情しません」
 笑顔でそう口にした僕に二人の視線が集まる。彼らが次の言葉を躊躇ううちに、僕は先に口を開いた。
「旅先だから言ってもいいかって思って。でも言いふらさないでくださいね。今どきネットでどこでも繋がってるから」
「ジュン……」
 ユカリが申し訳なさそうな顔をしている。そんな顔を何度も見てきた気がする。僕は彼女のことが大事だし、それはきっとこれからも変わらない。でもそれは、やはり恋ではなかった。
「そっか。霜谷に新しい男が出来たみたいだから祝いにおごってやろうと思ってたんだけど。残念だな。ま、頑張れ」
 ユカリが叩こうとする手を高波がするりとかわす。
「高波、ゲイの知り合いとかいる?」
「え?」
「なんか、反応が普通っていうか、ね、ジュン」
 ユカリが言っているのは、大学で僕の噂が流れた時のことだろう。表立って真偽を確かめてくる輩はおらず、微かに聞こえる話し声に敏感になったのは僕の被害妄想だったのかもしれないし、実際偏見の目を向けられていたのかもしれない。
「普通か? よく分からないけど知り合いに似たようなのはいる。ここの料理長。あの人はバイ、なのかな」
 高波の表情があまりにも自然で、少なからずカルチャーショックを受けた。僕は身近な人間の誰にも話していないし、秘密にしたまま抱えていればいいと思っていた。ユカリが知ってくれている、それだけを救いに。知り合うためのサイトがあることも知っていたけれど、そこに足を踏み入れるには僕は曖昧過ぎる気がしていた。
「それは、スタッフのみなさんが知っているんですか?」
「たぶん。……いや、どうかな。ホールのアルバイトとかは知らない子もいるかも。まあ、でも隠してるわけじゃないみたいですよ。むしろ公言して襲いにかかってきますから。飲み会のノリですけどね」
 ユカリが楽しそうに口角を上げ、ニヤニヤ笑っている。
「高波、襲われちゃったんだ」
「聞くな。まじ記憶から消去したい。男とキスとかありえん」
 高波はそこまで言ってハッと僕の顔を見る。僕は意識して軽い口調にし、気にしていないことを伝えた。
「僕だって男なら誰でもいいって訳じゃないですよ。好きでもない人とキスなんて無理です」
「じゃあ、私とは?」
 ユカリの顔は興味本位という雰囲気だったけれど、高波の表情が少しだけ強張ったのに気づいてしまった。それがどういう意味を持つのかは、よく分からない。僕は高波に好きな人がいるということをユカリから聞いていたし、それが例の「澄田さん」の彼女だということも知っていた。けれど人間の心は変わってしまうものだ。高波はまだその人のことを好きなのかもしれないし、そうではないかもしれない。
「ユカリとは、キスくらいならできるよ。あいさつ程度にね」
 そう言いながら、僕はふと思う。――簡単に心が変わってしまうのであれば、こんなに苦しまなくてすむのに。
 高波は店の外まで見送りに出て、ふとユカリの足元に目を向けた。昼間と同じベージュのパンプス。ヒールは三センチで、高さなんて無いも同然だった。
「霜谷、今日は背低いな。あの時は凶器になりそうなくらい高いヒール履いてたのに」
 高波の言葉に、ユカリは膝を屈めて自分の履いた靴を見る。
「無理するのやめたの。アノ人と釣り合うような大人になりたかっただけだから。しばらく封印」
 ふうん、とパンプスを眺めたままの高波に「ああいうの履いてほしい?」とユカリが聞いた。
「俺の趣味は関係ないだろ」
「今後の参考に」
「なに、霜谷。俺のこと好きなの?」
 高波の口ぶりは冗談だったけれど、思いのほか爆笑した僕とユカリに彼は呆気に取られていた。笑いはなかなかおさまらず、高波はただその波に紛れるように曖昧な笑みを浮かべ、ユカリの顔を見ていた。彼の眼差しには優しげな色が浮かび、僕はユカリの近くに彼がいることに安堵と少しの寂しさを感じていた。
 別れる間際、高波はユカリだけ手招きして一言二言話し、その会話は「高波って、ほんとバカ」というユカリの言葉で終了した。
 両手を振って見送る高波に、見えなくなるまで手を振り、ユカリと並んで帰り道を歩く。周りに店らしい店はほとんどなく、電気の消えた民家や事務所の立ちならぶ道の脇を、外灯の明かりをたよりに彼女のマンションに向かった。
 途中のコンビニでスパークリングワインのハーフボトルを買い、駅を素通りして大通りに出る。そこは僕の住む街に比べるとずいぶん明かりが少ないけれど、さっきまでの道よりは人の気配があった。道の向こう側に見えるドーナツショップは思いのほか賑わっている。小さな明かりに群がった人達は、みな一様に楽しげだった。
「週末って感じ。平日はもっと人がいないんだよ」
 僕と同じ明かりを眺めていたユカリは、どこか自慢げな口調でそう言った。
「ユカリ。さっき高波さんと何話してたの?」
 彼女が思わせぶりに「聞きたい?」と言うので、僕は素直に「聞きたい」と答える。
「私がジュンのこと好きなんじゃないかって。違うって言ってるのにね」
「たぶん、僕達以外には分からないんだよ。この関係が」
 だね、と頷いたあと、ユカリは何かを思い出したようにくすくすと笑った。
「高波ってバカなんだ。人の心配ばっかりしてるの。私が澄田さんに二股かけられたうえに、今度はジュンに不毛な片思いをしてるんじゃないかって」
「なんか、妬ける。高波さんにちょっと嫉妬した」
「ジュン、私のこと好きなの?」
 すでにネタになってしまった言葉を、ユカリは笑いながら口にした。
「好きだよ。でも、ミツキの方が死にそうなくらい好き」
 笑い声がぴたりと止み、隣の彼女は問いかけるような眼差しを向けてくる。
「ミツキから電話があったんだ。……会いたいって」
 ユカリが足を止め、僕は彼女を安心させるために微笑み、「帰ろう」と彼女の手を引いた。
 久しぶりに聞いたミツキの声は昔と変わらず、少し頼りなく揺らいだ声で、僕は過去の気持ちをリロードしたように彼を強く求めた。受け入れようとした悲しみも、忘れようとした恋慕も、「時間が解決してくれる」なんていうありきたりな言葉を否定するように、すっかり僕のなかに復活してしまった。
「ジュン、……今さらだけど、会いたい。どうしようもなく会いたいんだ」
 スマホを握りしめたまま、自分の部屋に一人きりなのをいいことに、僕は止めることなく涙を流した。
「ミツキ、(ぼく)は、アサミじゃないよ」
「分かってる。だから電話したんだ。アサミといても余計にお前のことを思い出す」
(ぼく)は、女じゃないよ」
「――ジュンはジュンだろ」
 言葉が継げなくて、僕はゆっくりと息を吐く。
「やり直したい。こんなに会いたいのに、あの一晩のことでジュンと終わりにしたくない。ジュンを傷つけるかもしれないって分かってるんだ。でも、もう一回チャンスが欲しい」
 ミツキの元に駆けて行きたかった。翼があれば飛んで行きたかった。
「少しだけ、考えてもいい?」
 そう言ったのは、終わりにしたくなかったからだ。ミツキとの会話で避けてきた『(ぼく)』という言い方を緊張とともに口にしながら、傷ついても彼と一緒に歩める人生を模索したかった。彼が以前とは違う僕の言葉遣いをどう感じたのか、それは僕が気にしすぎていただけなのか。ただ、まっすぐ自分のままでミツキと向き合わないと、またどこかで破綻するような予感があった。

 いつかの失恋パーティーと同じようにグラスを合わせ、僕らは「Pair of Wings」を聴いていた。床には27.5センチのパンプスがあって、それは先程立ち寄ったコンビニのレジ袋に突っ込まれている。
「捨てろって言うならそうするけど、禊ってそういうことだったんだ」
 ユカリは少しだけ袋から覗いたパンプスの先をピンと爪で弾く。そのあと、それをなかったことにするように指先でなでた。
「ユカリに、僕のなかの『女』を弔ってもらおうかと思って。女っていうより、『女のフリ』っていうほうが正しいかな。たぶん、多少なりと女の部分はあるんだ。ジュンっていう人間のほんのちょっとは女だと思う」
「それを言ったら私のなかにも『男』はあるよ。あんまり気にしすぎないほうがいいかもね。ジュンはジュン。私は私」
 ユカリはグラスに口をつけ、何か思い立ったように玄関へ向かった。それからアイボリーのハイヒールを手に戻ってくる。ヒールは十センチくらいあって、その靴が高波の言っていた「凶器」だと思い当たった。
「私も弔おうかな。ヒール高くしても人生経験は変わらないものね。大人になれる訳じゃない」
 人差し指と中指に引っかけたままの靴を、ユカリは名残惜しそうに眺めている。
「捨てるのはもったいないよ。それはユカリの理想なんだから、いつか似合うようになればいい」
 ユカリは「そっか」と一転明るい表情になり、愛おしむように靴を触った。紙に包んで箱にしまわれたハイヒールは、クローゼットの中でしばし眠りにつく。
「ジュン、彼に会いに行くの?」
「行くよ。その為にここまで来たんだ。もしかしたらまた同じことを繰り返すかもしれない。でも、傷ついてもいい。僕をこれだけ傷つけられる人がいるってことが、ある意味奇跡のような気がするんだ。ミツキ以外にそれは考えられない」
 ユカリは僕の名前を呼んで心配そうな顔をする。彼女の言いたいことも分かっていた。
「自分でも馬鹿だと思うんだ。ユカリや、他人から見たら『恋は盲目』ってやつなんだと思う。それでも、僕は前のときより少しは成長してるから。傷ついた分だけ、何か変わってる。そうじゃなければ、僕はユカリに会わずにすぐミツキのもとに走ってた」
 不意に柔らかなぬくもりが僕の体を包む。密着したユカリの体は僕とは全然違っていて、何故だかわからないけれど、そのことに少しほっとしていた。こちらを向いた彼女が不満げに口を尖らせる。
「ジュン、ここは例の台詞でしょ」
「ああ。……ユカリ、僕のこと好きなの?」
「好き。大好きだから、何かあったら絶対連絡しなさいよ。じゃないと後でどうなっても知らないから」
「どうするの?」
 ユカリは眉間に皺を寄せて考え込む。思いついた瞬間が手に取るように分かり、彼女の顔が一変した。「澄田さん」はユカリがこんな無邪気な顔をするのを知っているだろうか。高波は、きっと知っているはずだ。
「丸坊主にするからね!」
 ユカリは満面の笑みで、僕も笑いながら「それもいいかもしれない」と自分の坊主頭を想像する。そして、それを目にしたミツキの姿を想像する。彼はなんて言うだろか。いや、例えばミツキが丸坊主にしたとしたら、僕の彼に対する気持ちが変わったりするだろうか。分からないことは実際に確かめていくしかない。そのために、僕は再びミツキと向き合うのだ。
「今度は、ミツキと来る。って言い切れないけど、がんばってみるよ」
 スーツケースをユカリの車から下ろしながら、僕は隣の彼女に笑いかける。彼女はもう心配そうな顔も、申し訳なさそうな顔もしていない。結局ユカリは例の「彼女」には会わないままで、それは本人も気にしていないようだった。たぶん、高波のおかげなのだろう。
「僕、ユカリと高波さんって案外合ってると思う」
「ない。ないないない。しかもあっちは好きな人いるし」
「そう? でも楽しそうだったよ。ユカリも子どもっぽいとこあるよね」
 それは向こうのせい、とユカリは頬を膨らませる。その頬をぎゅっと両手でつぶして、彼女の左頬に軽くキスをした。身をかがめ、後ろでくくったひと束の髪が、僕の視界の端でゆらゆらと揺れる。
「色々ありがとうのキス。またね、ユカリ」
 彼女は「しょうがない子ね」と芝居がかった口調で言って、僕の頬をぎゅっとつぶした。
 窓の向こうには海原が広がっている。傾いた機体は世界の基軸を曖昧にし、僕はそれを心に刻んだ。
 ミツキと実際に相対したとき、その気持ちが以前と同じであるはずがなかった。期待と不安と、人間が持つすべての感情を抱いたまま、僕とミツキの距離は飛行機と同じ速度で近づいている。 

〈ジュン・了〉

(※)Britney Spears 「Everytime」2004

サチ〈1〉一方通行

 カンッという耳障りな金属音が聞こえ、受話器を手にしたままドアの向こうをのぞき見た。
 耳元からは華やいだ声が聞こえ続けている。娘がピアノのコンクールで賞を獲ったからその祝いなのだと、その母親は家族四人分の料理を予約した。希望通り個室も空いていて「ああよかった」とはしゃぎぶりが伝わっては来たけれど、そのテンションとの落差で目の前の光景が一層殺伐としたものに映った。
 通路にいたサービススタッフのミナトもその音を耳にしたのだろう。料理の皿を手にしたまま固まっていたけれど、はっと気付いたようにホールへと向かっていった。
 彼女がいなくなると、デシャップ台の奥にいる厨房スタッフの姿が目に入る。わずかな空気の流れにのってブールブランソースの濃厚な香りが漂ってくる。
 スタッフの姿がなくなると、デシャップ台の奥、厨房の様子が筒抜けに見えた。料理長である樋引(ひびき)は右手にスプーンを持っていて、その向かいで唯一の女性シェフであるヒナキが頭を下げていた。どうやらさっきの金属音は樋引のようだ。ヒナキがミスをしたか何かして、スプーンで作業台でも叩いたのだろう。
 ステンレスとステンレスの合わさる音というのは、どこか人を萎縮させる。ピリピリとした空気はヒナキだけでなく他のスタッフにまで伝播しているようだけれど、それがマイナスに作用しないのが樋引のすごいところだ。
 樋引は男性スタッフのミスにも同じようにカンと音をさせ、そのあとドスの効いた声で一言か二言短い言葉を口にする。そして、手を出す。手を出すといっても叩くわけでも殴るわけでもなく、思い切りお尻を掴むのだ。
 いつかセクハラで訴えられるのではないかと心配になるけれど、お尻をつかまれた男性スタッフの表情から察するに、叱責による緊張からの弛緩がほどよい塩梅でなされているようで、相当なテクニシャンだと、私は半ば呆れ気味にその様子をうかがっている。
 テクニシャンといっても性的な意味ではなく心理面での話だ。仕事時間外のコミュニケーションはずいぶん緩く、コックコートを脱いだ樋引はヘラヘラした気のいいオッサンへと変貌する。――嘘。「オッサン」とか思えたらその方が楽なのだけど。
 樋引がバイセクシャルということはスタッフのほとんどが知っている。だから何ということもなく、それはやはり樋引のキャラクターのせいだった。それすらある種のテクニックに見え、特に店のスタッフに対しては慎重に距離感を測っているように見えた。
 ――慎重?
 つい彼の笑顔に紛れて流してしまいそうになるけれど、いつぞやの飲み会ではキスしまくっていた。ターゲットにされたのはケイスケという若い男性スタッフで、思い出すだけでむかっ腹が立ってくる。
 何かといえばハラスメントが叫ばれるこのご時世、樋引の行動が慎重だとは決して言えない。だからこそきっちり冗談で済むような相手を選んでいる。それが癪だ。
 私がその相手になることは決してない。冗談でキスされるような、そんな砕けたキャラクターでもなければ、キスをしたくなるようなフェロモンむんむんの女でないことも自覚している。
 樋引が私に触れたのは一度だけ。業務上必要であれば物理的接触はするけれど、それにいちいちトキメクほど私は若くない。
 率直に言うと私はキス相手に指名してほしいし、性的対象として見て欲しいと前々から本人にアピールし続けている。けれど、やはりあいつは慎重で、その慎重さは私に対してだけ酷く強固なものに思えた。
 何度家に押しかけても、手を伸ばせば触れられるほどの距離で眠りについても、指一本触れてこようとはしない。家に上げてもらえるだけマシと言えばマシなのだが。
 そんな不毛な恋愛を続けているせいなのかも知れないが、ヒナキに対する樋引の態度は甘すぎて苛々する。
 ――それ客に出すつもりか、お前。
 男相手にはこの台詞で凄むが、ヒナキ相手だと肩を落として諭すように言う。溜息を添えて。そのどちらが堪えるかと言えば、同じくらいなのかもしれない。
 けれど、私にはヒナキが特別扱いされているように見えて仕方なかった。彼女は樋引より二十も年下で、娘でもおかしくないくらいの乳臭い子ども。分かってはいても、今まさに女としてはち切れんばかりに咲き誇ろうとする彼女の若さが妬ましい。
 私はとっくの昔に下り坂で、四捨五入したら四十。三十八歳の私と四十六歳の樋引。相手にされなければ、年齢差なんて考えても意味はない。

「――では来週の土曜。十八日の七時に四名様ですね。お待ちしております」
 受話器の向こうから聞こえてきた「よろしくお願いします」という声はそれまでと違い、丁寧で落ち着きのあるものだった。本来の母親の品の良さが垣間見え、どれだけ娘の快挙を喜んでいるのかもそこから伺えた。
 受話器を置き、記入した予約票を電話の脇に置かれたバインダーに挟む。甲殻類アレルギーがあるということなので、あとで樋引と相談しなければならない。
「エビ・カニの生は駄目で、加熱してあればカニは平気、と」
 備考欄に書き足し、再び厨房のなかに目を向けた。樋引の背中は見えるがヒナキの姿はそこにはなかった。
 彼の背中が、溜息をついたのか、わずかに上下した。
 この店での樋引の存在は大きい。『レスプリ・クニヲ』という名のこのフレンチ・レストランに「クニヲ」はもういない。いや、この店の中だけでなく、この世界にもう存在していない。
 如月(きさらぎ)州生(くにお)が十五年前に始めたこのレストランに、私は開店当初アルバイトとして採用された。年数を経て正規の従業員となり、サービスのチーフとなったのはソムリエの資格をとった翌年。もう七、八年くらい前のことだ。その頃はまだ州生も健在だった。
 州生が生きていた頃から『レスプリ・クニヲ』のオーナーは彼の妻の奈穂になっていた。そこらへんの事情は私には分からないし興味もないのだけれど、「妻がいなければ店はできなかった」と州生は事あるごとに口にしていた。
 州生が二十代の頃に自己破産したらしいという噂も耳に入ってはいたが、本人に確かめた事はない。そんな過去なんてどうでも良くなるくらいに、州生の料理は魅力的だった。その仕事姿は見ていて惚れ惚れした。
 もちろん恋などではない。崇拝していた、という言い方が一番しっくりくる。
 その味は地元の人々にも認められ、客数は年々増え、求められる料理もワンランク上のものになり、いつしか地元だけでなく県外からも客が足を運ぶ店になっていた。すべてが順調で、若い私はそれがいつまでも続くと錯覚していた。
 何か不幸なことが起きるときには二つのパターンがある。バッサリと斧を振り下ろされるか、じわじわと足元から迫る水で溺死するか。州生の場合はどうだっただろう。その両方かもしれない。
 州生が吐血して救急車で運ばれたのはその日最後の客が店を出た直後で、それは彼が厨房に立った最後の日となった。正確に言うと、その後一度車椅子で店を訪れているが、包丁を握ったのはあの日が最後だ。すでに全身に回っていた病魔に、宣告された半年という期限は持ちこたえたものの、その一ヶ月後に彼は息を引き取った。
 樋引が『レスプリ・クニヲ』に姿を現したのは州生が倒れてから一ヶ月ほどあとのことだ。
 秋から冬へと変わる季節で、もし彼が来ていなかったら年末の繁忙期を乗り切れたかどうか分からない。それまでも予約は一時ストップし、入店する客数も制限していた。スタッフの間には不安が広がりつつあったけれど、それでも店を辞めたりする者はいなかった。
 ほとんどが三年以上勤めているスタッフで、「守らなければ」という使命感もあった。それは私が感じていたことで他の人がどうだったかは知らないけれど、私の中には確実にそれがあった。その使命感に押しつぶされそうになっていたところに、「これが州生の店かあ」とへらへらした髭面の男が現れた。
 第一印象は必ずしも良くない。なぜなら彼は煙草を吸っていたから。
 煙草は味覚を狂わせる。かといって料理人で煙草を吸う人間が少ないとは言えないし、ソムリエでも喫煙者はいる。ただ州生は煙草を吸わなかった。『レスプリ・クニヲ』の店内も個室を除いて禁煙で、私のまわりで煙草を吸う人間は数えるほどだった。だからこそ余計に嫌悪を感じたのかもしれない。
「全国誌に採り上げられるほど有名なオーベルジュで料理長してた奴だから、信頼していいよ」
 見舞いに行った病室で州生は私に言ったけれど、その言葉はどうにも信用しきれなかった。だがそれも樋引の料理を口にするまでの話。
 結局「ギャップ萌え」というやつなのだろう。最初の印象が良くなかったからこそ、私は急速に樋引に惹かれてしまった。一番の古株、そのプレッシャーで弱っていたのかもしれない。
 とにかく、どんな理由で彼を好きになったかなんて考えるのも馬鹿馬鹿しいくらいに、私は樋引に夢中だった。それは今でも変わらない。変わらないとは思うけれど、それが純粋な恋慕の情なのか、ただ単に意地になっているだけなのか。そこら辺は頭が痛くなるから考えないようにしている。
 州生の料理は好きだ。けれどそれは料理に対する姿勢を含めて人間的にという意味合いが大きく、単純に料理だけを比較するならば樋引の料理から受けた衝撃の方が大きかった。
 州生の料理は艶やかでキラリとした印象を残す。一方、樋引の料理はじわじわと心を満たしていく。一口目のインパクトは大きくない。食べた客を驚かそうとか、そういった顕示欲のようなものが一切なく、そこにあるのは素材と素材のマリアージュ。
 煙草を挟んだあの指からその料理が生み出されるなんて信じられなかったけれど、実際そうだったのだからどうしようもない。それに、彼は思ったほど煙草を吸わなかった。彼が煙草を咥えるのは仕事終わりの店裏での一服。私が目にするのはそれだけだ。
 皿と向き合うときの真剣な眼差し、それとは全く反対のへらへらしたコミュニケーション。ついでに言えば、私は髭フェチであり、コックコートフェチだ。コックコートは白がマスト。
 彼の一挙手一投足が私の目を惹きつけて離さず、そして時おり見せる淋しげな表情にさらに心をつかまれた。かといって州生が病床に臥せっているときに浮かれた行動を起こす気にもなれず、州生が他界したらしたで、さらにその気も失せてしまった。
 私はスタッフの誰にも自分の気持ちを打ち明けるつもりはなかったし、今でもそれを知っているのは樋引本人だけだ。
 樋引は私の気持ちを知り、そして後ずさるように距離を広げた。彼の深い所に近づいたと喜んでいたのは、どうやら私だけのようだった。
 あれは、州生の四十九日が明けてすぐのことだった。
 空梅雨だというのにいつまで経っても梅雨明け宣言がされず、州生がいなくなった『レスプリ・クニヲ』は変わらず好調で、樋引は「なんだかなあ」と呟いて夜空に紫煙を吐き出した。
 他のスタッフはすでに帰っていて、私が残っていたのは樋引と二人きりになりたかったから。彼が店を出るのはいつも一番最後で、私は何かと理由をつけては彼と一緒に店を出るようになっていた。
「サチ、明日定休日だし家来るか?」
 そう言った樋引の顔はつるりとしていて、月の光が少しこけた頬に影を作る。州生が死んだ日、樋引はずっと生やしていた顎と口元の髭を剃った。それ以来彼の髭を目にしたことはない。
 その夜、樋引は酒を飲みながら涙を流し、私はそのとき彼がバイセクシャルだということを知った。過去、州生に気持ちを打ち明けていたということも。
 彼はどんな思いで『レスプリ・クニヲ』に来たのだろうか。普段のへらへらした雰囲気から、私は彼の何も知り得ていなかった。
「あっという間だったな。人間なんて呆気ない」
 悲しげに呟いた彼を抱きしめたのは酔っていたからじゃない。酔っていなくても私はきっとそうした。それくらい彼は傷だらけで、包み込んで彼の周りを飛び交う刃から守ってあげたかった。
 あとは、ふたりのあいだの空気があるべき方向へと流れていっただけだ。私は彼の唇に触れ、彼は私の服を脱がせた。それはとても自然な流れで、お互いそのぬくもりを欲していた。失敗だったのは、意図せず私の口をついて出たその言葉。
「――好き」
 彼の存在を体内で感じながら、高ぶった体がそう言わせた。樋引は本気にしたのかどうなのか、はぐらかすように口の端を歪めてふっと鼻で笑い、煙草に手を伸ばそうとし、そして止めた。
「こんな男はやめとけ。男と浮気したら嫌だろ」
 予防線を張っておくに越したことはない、そんな口ぶりだった。
 彼はその言葉と裏腹に私を抱きしめ、それまで以上に激しく私の体を求めたけれど、なぜだか彼自身が傷つこうとしているようにも思えた。そんな事を考えたのは後日のことで、そのときは陶酔した時間をふたり共有しているものと思い込み、彼の言葉よりも絡みつく肉体こそが彼の本心だと勘違いしていた。
 自身の蒙昧さを後悔しても、過去に戻ったとて自分にできることは何も変わりはしない。だから、不本意な事実も受け入れるしかないのだと、そう割り切ることができる。
 私の生き方は変わらない。その時その場所で次に踏み出す一歩、枝分かれした未来を天秤にかけ、選ぶのは後悔のない道。猪突猛進だと私自身は思っているけれど、傍目には案外そうは見えてないようだ。
 定休日明け、樋引がバイセクシャルだという話がスタッフあいだに広まっていた。それを広めたのは樋引本人で、彼がセクハラもどきのコミュニケーションを男性スタッフととるようになったのもこの時からだった。
「樋引さん、私にもキスして下さい」
 ある夜の、やはり二人きりで店を出た帰り道。樋引のマンションの下で彼の服の裾をつかんで、さっさと帰ろうとする彼の足を止めた。振り返った彼は溜息をつき、「他の男にしといた方がいい」と、まったく相手にする素振りはなかった。
「私、一人に慣れてるんです。だから待つのは平気。樋引さんがお爺ちゃんになって、誰も相手にしてくれなくなった頃に期待します」
 生まれてこの方恋人がいたことはないと伝えると、彼は「まじ?」と面白いくらいに目を丸くしていた。
 嘘は吐いていない。セックスする相手は何人かいたことがあったけれど、それは多分恋人ではなかった。何度か会ってそれきりだったり、相手に他の女の人がいたり。
「じゃあ、余計に俺じゃないほうがいい」
 頭でも撫でてくれようとしたのか右手を肩のあたりまで上げ、その無意識の動作に気づいた彼はその手を自分の頭に持っていった。
 おやすみ、と逃げようとする彼の背中に「重いですか」と問いかける。
「……ちょっとね」
「一杯だけ飲ませてくれたら帰ります」
 傷つけたくないくせに、傷つけることで距離を置こうとする。そんな樋引の言葉が悔しくて、私は強引に部屋に上がった。
 呆れ顔の彼は缶ビールを一本差し出すと、さっさと浴室に消えた。私が素っ裸になって強引に押しかけたらどうするのだろう。意外にリアルな暴挙が頭を掠めるけれど、先刻のやりとりがそれを思いとどまらせた。「先に出る」と素っ気なく言われて一人シャワーを浴びながら涙を流すなんてまっぴらだ。
 結局私にできたのはただの狸寝入りで、近づいてきた彼の足音が止まり、小さな溜息のあとふわりと布団を被せられた。
 目を瞑っていても電気が消えたのは分かる。薄く目を開けると彼はスマホを手に部屋から出ていくところで、しばらくして微かに話し声が聞こえてきた。
「……シンイチロウ」
 辛うじて耳に入ってきたのは親しげな口調で樋引の口からこぼれるその名前。抑えたような笑い声がドアの存在などお構いなしに空気を伝ってくる。
 相手が男だから安心ということもなく、自分がこの部屋の異物のような気がして布団を頭までかぶり、それでも耳だけは出していた。
 どれくらいそうしていたのか、不意に樋引の声が大きく聞こえて、どうやら部屋に戻ってきたようだった。
「――まあ、うまくやってるならいいよ。気が向いたらソウタと飯でも食いに来な」
 通話相手の声が聞こえたけれど、何を言っているのかは分からなかった。
 樋引は空気が漏れるような笑い方をしていて、そこに親しみはあるけれど、恋愛感情はないだろうと、私は希望を込めてそう判断した。
 盲目だとは思わない。それが私の真実。
 ギシと軋む音がし、ベッドに潜り込む気配があった。距離は一メートルも離れていないのに、そこには地の底まで続く深い溝があるようだった。
 私はその深い溝をのぞき込む為に、その後も何度か同じように彼の部屋に押しかけた。何も変わりはせず、溝は深まる一方で、けれど手を伸ばせばすぐそこに彼がいた。溝なんて飛び越えてしまえばすぐ抱き合える。
 寝息が聞こえはじめた頃にそっと体を起こし、その寝顔を見つめながらも触れることは出来ない。
 追いかけていたいだけなのかもしれない、そう思うこともある。

サチ〈2〉交差点

「ヒナキ、まかないの前にちょっといいか」
 樋引の声に、ヒナキは肩を縮めてその後ろをついていった。残されたスタッフは心配げに二人の後ろ姿を見送り、その中で一人、私だけが心配ではなく嫉妬を感じている。
「サチ、悪いけどお前も少しいいか?」
 事務室の前で立ち止まった樋引がこちらに向かって手招きした。
「お前とヒナキの飯持ってこっち来い。俺のはいいから」
 意図する所が分からず問いかけるような視線を送るけれど、彼は意に介さずさっさと事務室の扉を閉める。そして彼らは今あの部屋のなかに二人きりだ。
 仕事だと分かっていても胸がざわつくのは単なる条件反射のようなもので、それをやり過ごすことには慣れている。私は大皿に盛られたまかないを二枚の皿に適当にのせ、「じゃあ」と他のスタッフに声をかけてから後を追った。
「サチさん、水いります? あとフォーク」
 ケイスケの声で自分の手元に視線を落とすとそこにあるのは料理だけ。これでは手づかみで食べるしかない。
 閉めきられた事務室のドアをノックし皿だけ渡すと、ちらりと見えたヒナキは椅子に座ってうなだれていた。
 何となく気まずく、一旦ドアを閉めてケイスケを待った。デシャップ越しにフォークの刺さったグラスを差し出す彼は「サチさんってたまに抜けてますよね」と笑顔を向けてきたけれど、私が言葉を返すまえにその表情は奥に引っ込んでしまう。ケイスケの視線は樋引とヒナキのいる事務室に注がれていた。
「大丈夫でしょうか?」
 ケイスケが心配しているのはヒナキだ。ヒナキより二歳年下のケイスケは、三年前にこの店に来たときから彼女になついていた。それはケイスケの指導をヒナキが担当していたからで、どうもケイスケはヒナキに想いを寄せているようなのだけれど、その二人の関係が最近少しよそよそしい。ヒナキのミスも目につくし、それは彼女自身も自覚しているだろう。
 二人のあいだに何かがあったのかもしれないし、そうではないかもしれない。なぜなら、ヒナキには澄田(すみだ)という恋人がいる。
 澄田は『シェ・アオヤマ』という別の店のシェフだった。彼らが付き合い始めたのはケイスケがここに来てしばらく経った頃だと記憶している。澄田が隣県のホテルから『シェ・アオヤマ』に転職してきたのもその頃だ。
 元々その店と『レスプリ・クニヲ』には交流があって、仕事終わりに合流して飲みに行くこともあった。初めて顔を合わせたヒナキと澄田がどんな様子だったかなんて、私の記憶にはない。ただ、付き合いはじめた頃のヒナキは一生懸命で初々しかった。
 それが一年ほど経つと「おしどり夫婦」と周りから冷やかされるようになり、樋引などは澄田のことを「ヒナキの旦那」と呼んでいる。が、その呼び方は最近耳にしない。つまり、樋引も彼らの変化に気付いているということだ。
 最近、『シェ・アオヤマ』と合流して飲みに行っても澄田が顔を出さない。以前は必ずといっていいほど、ヒナキがいればその隣に澄田がいた。
 ヒナキのミスが増え、彼女とケイスケがよそよそしくなり、澄田が顔を見せなくなった。振り返ればそのすべてが同時期で、そこに関連性を見出すのは必然だろう。
「ケイスケ、何か心当たりある?」
 私の問いかけにケイスケの視線がうろつく。「さあ」ととぼける彼に、私はわざとらしく溜息をついてみせた。
「三角関係で仕事が手に付かないなんて最低ね」
 彼の「違う!」という思いのほか鋭い声と、刺すような視線に私が怯んだのはほんの一瞬。大きな声ではないし、私だけに向けられたその声は他の誰の耳にも入っていない。
「早く行ったほうがいいですよ」
 ケイスケは怒りを体内に押し込めるように不貞腐れた声を出し、私は何だか白けた気分で再びドアをノックした。
 ヒナキのまわりには味方ばっかりで、これで彼女が愛想やフェロモンを振りまくタイプなら私も心おきなく罵倒できるのだけれど、如何せん普段の彼女が努力家だということは誰の目にも明らかだった。休みの日に契約農家の畑を訪れるくらいには。そうは言ってもここ最近の彼女は目に余る。恋愛で仕事が手に付かないなんて、
 ――本当やってらんない。
 食事がヒナキと私の二人分ということは、樋引は私と彼女を事務所に残して立ち去るつもりだろう。何をさせようというのか分からないけれど、彼女を優しく諭すなんて気にはなれない。
「……入っていいですか?」
 ドア越しに「ああ」という樋引の声が聞こえる。樋引と二人きりのまかないなら大歓迎なのに。そんなことを考えながらドアをそっと押し開ける。ヒナキはちらりとこちらを見たけれど、先ほどと同じように、うなだれたままだった。

 事務机が一つと本棚が一つ。あるのはそれだけで、奥には倉庫の扉があり、樋引はその扉の前で折りたたみ椅子に座っていた。ヒナキは机に背を向けるようにくるりと回した椅子に腰を掛け、私は樋引と向かい合う場所で脇のスツールを引き寄せた。
 足を伸ばせばお互い触れ合うくらいに狭苦しい空間。場の雰囲気はずいぶん重い。
「ヒナキには話したけど、しばらくこいつには接客の方させようと思ってる。サチ、頼んでいいか?」
「――え……?」
 まったく予想外の話に、私は戸惑うばかりで返事をすることができなかった。樋引はひとつ溜息をつき、おもむろに口を開く。
「最近のヒナキは集中できてない。誰のために料理を作ってるのか、そんな当たり前のことが頭から抜け落ちてる。厄介払いという訳じゃない。ちゃんと自分が何やってんのかその目で見て来い」
 樋引の言葉は私ではなくヒナキに向けられたもので、私の中にはまた苛々が積もっていく。それを顔に出せないのは彼女より一回りも年上だから。
「すいません」というヒナキのか細い声が、余計に私の心をざらつかせた。
「ヒナはそれでいいの? 料理したくてここで働いてるんでしょ」
 声色というのはなかなか感情をごまかせるものではないらしい。私が苛立っているということはしっかりヒナキに伝わったようだった。すっかり萎縮し、彼女の口元は微かに動いたけれど、そこから言葉が出てこない。
 私はもう一度溜息をつき、視線を樋引に移す。彼はただじっと私を見返してきて、そこには頼み込むような素振りも、命令するような威圧もなかった。
「分かりました。ヒナは明日からこっちでいいです」
 私の言葉に、樋引はほっと息をついた。表情が緩み、それに愛しさと腹立たしさを覚える。
「サービスだからって気を抜かれても困るから。集中できない原因が分かってるなら自分で何とかしないと、どこ行っても何も変わらないわよ」
 吐き捨てるように言うと、「はい」という殊勝な声が帰ってきた。それを機に樋引が椅子から立ち上がる。この状況で二人置き去りにするというのは、樋引もなかなかのサディストだ。彼が何かを言う前に、私は先に腰を浮かせた。
「話が終わりなら、私達も向こうで食べます」
「いや。悪いけど、サチはヒナキの話聞いてやって。サチも言ったろ。集中できない原因をどうにかしろって。女同士で話してみてよ。俺じゃ話しづらいこともあるだろうし」
 頼むよ、と言われれば嫌とは言えなかった。
 樋引は一人部屋を出ていき、私は樋引の座っていた奥の椅子に移動した。「とりあえず食べようか」と机に置かれていたまかないの皿をヒナキに手渡す。彼女は素直にそれを受け取ったけれど手をつけようとせず、私がチキンの端切れを口に運ぶと、ようやく彼女はフォークを手に取った。
「……ヒナ、澄田さんと別れたの?」
 彼女を傷つけようという意図がまったくなかったと言えば嘘になる。直球の言葉に、ヒナキは驚きを隠すことなく私を凝視した。
「どうなの? ケイスケともぎくしゃくしてるみたいだし、三角関係でもこじらせた?」
 そこまで言うとヒナキの顔からは強張りが消え、代わりのように悲しみがそこを満たしていく。そして覇気なく頭を振った。
「ケイスケは、何も。私も感じてたんですけど、ケイスケがどうして私を避けるのかよく分かりません」
 彼女の口ぶりからしてそれは本当のようだった。こんな風に自信なさげに俯く姿に、男どもは守ってあげたいと思ったりするのだろうか。女である私はただもうどうでも良かった。
 悲しむのも浸るのも一人でやって欲しい。三十八年間独り身でいた私からすれば、彼女は甘えているとしか思えない。
「で、旦那とは?」
 ヒナキの表情に初めて怒りが浮かんだ。私の言葉は明らかに皮肉だったし、もちろん彼女を傷つけるつもりだった。
「旦那じゃありません」
「別れたんだ」
 ――別れてません。
 絞り出すように口にしたヒナキの目から涙があふれ頬を伝った。
 彼女の皿はほとんど手付かずのままで、その手からフォークが落ち、ピータイルの上で鈍い音を立てた。私はそのフォークを拾い、「涙拭きなさい」と箱ティッシュを渡して事務室から出た。
 扉を閉めると思わず深い溜息が漏れる。そのときガチャリと通路の奥の裏口が開き、顔を出した樋引が怪訝そうに私を見た。
「サチ、中は?」
 ぞんざいに顎で事務室を指す樋引の顔には批判の色が浮かんでいる。泣きたいのはこっちだ。とばっちりで子守をさせられ、そのうえ樋引からはこんな視線を向けられる。
「泣かせたけど、私のせいじゃないですから。フォーク洗いに来ただけです」
 何か叱責の言葉でも浴びせられるかと思っていたけれど、樋引は「まあ、お手柔らかに頼むわ」と私の肩を叩いてスタッフの中に紛れていった。
 触れられた肩の感触が胸に刺さる。どうしてこんな時だけ触れてくるのだろう。私ではなくヒナキを気遣って。彼の目は私のことなんて捉えてないのかもしれない。
 厨房に入るのをやめ、落ちたフォークをデシャップ台の上に置き、棚から新しいフォークを取り出して部屋に戻った。
 惨めさを苛立ちに変え、八つ当たりするようにドスンと椅子に腰を下ろす。差し出したフォークをヒナキは「すいません」と両手で受け取った。
「別れてないなら、何? 浮気でもされた?」
 私の口調もずいぶん雑になっていた。苛々を全部吐き出してしまいたかった。
「浮気……たぶん、されました」
 体中に燻っていた苛立ちが一瞬で真っ白に消え去った。
 ――まさか澄田が?
 浮気という言葉を先に口にしたのは私だけれど、そんな返答が返ってくるとは思っていなかった。けれど男なんてそんなものなのかもしれない。
「まさかあの人が」というのはよくあるパターンで、実際に私が関係をもった男性の中にもそういうタイプの人はいた。
 真面目だからこそ家庭のなかできっちりと役割を果たそうとする、見た目もごくごく平均的な人だった。私との関係はいっとき傷を舐め合うだけの消耗品で、彼は何事もなく家庭に戻り、いつしか連絡も途絶えた。寂しさは時とともに埋まる。
 訥々とこぼれ出すヒナキの言葉を、私はただ聞いていた。浮気相手になったことはあっても、特定の相手がいなかった私には浮気をされたという経験がない。そもそも私にまともな恋愛経験がないのを知っている樋引が、どうしてヒナキの相手をさせようとするのか。そんな事を考え、消えていた苛立ちが徐々に舞い戻ってくる。
 スミ君の――とヒナキは口にした。スミ君とは澄田のことだ。 
「スミ君の部屋に女物のピアスが落ちてて、聞いたら妹が来てたって言うんですけど、いつ来たのかもはっきり言わないし。そうしたら、少しずつ彼の行動が疑わしく思えてきて、……いつの間にか彼の気持ちが離れてたのにも全然気付かなくて」
「どうして澄田さんの気持ちが離れたって分かるの? 向こうが別れようとか言ってきた?」
「いえ。私が距離を置こうって言ったんです。もうどうしていいか分からなかったら。……本当は『いやだ』って言ってほしかった。でも、スミ君『俺もゆっくり考えたかった』って。私とのこと」
 ヒナキの代わりのように、私は思いっきり溜息をついた。
「結局疑惑は疑惑のままなんだ。それで、ヒナは何をぐずぐず悩んでるの?」
「一度ちゃんと話したいけど、私から距離置こうって言ったのに……」
 贅沢よねと私が言うと、ヒナキはその唐突な言葉を理解しかねたのか首を傾げた。
「自分からは何も知ろうとしないで、疑ってばかりで、怖くなって距離を置いて。で、やっぱり寂しいから話がしたい? じゃあそうすればいいじゃない。向こうが別れたいって言ってきた訳でもないし、向こうも同じように話したいと思ってるかもしれない。もしかしたら自然消滅を狙ってるのかもしれないけどね」
 最後の一言でヒナキが顔を背ける。
「ヒナは話がしたいんでしょう? ならそうするしかないじゃない。それが出来ないからってプライベートをぐずぐず店まで持ち込まないで」
 ヒナキが唇を噛みしめるのが目に入るけれど、ここで言葉を緩める気はなかった。いや、吐き出し続ける言葉はすでに自分の憂さ晴らしのようになっていて、色んな感情が渦巻く気持ち悪さをどうにかして発散したかった。
 女同士で話してみろなんて言ったのは樋引で、私がこの密室で何を話そうが、もうそれは彼の責任にしてしまえばいい。恋愛感情を押し殺して日々勤め上げてきたのに、ヒナキにそれを吐露させて私はダメなんて、そんなことは言わせない。
「ヒナはまだいいじゃない。話してみたら案外何事もなかったみたいに元に戻るかもしれない。私なんて見返りもないのにずーっと一方通行の片思いよ。五年も前から『無理だ』『やめろ』『他の男にしろ』それしか言われたことない。私だって諦めたかったわよ。その方が楽だし、一緒に働いてくのにはその方がいいし」
 そこまで言うと、ヒナキは私の独白が身近な話だと気付き、その顔に戸惑いの色が浮かぶ。私は少し笑いそうになった。
「あのクソ樋引、男のケツばっかり追っかけまわして私には指一本触れてこない。分かる? 分かんないわよね。ヒナみたいに男にチヤホヤされてる人間には分からない。甘えてばかりでいつも受け身。あなたが頑張ってきたことも知ってる。でも、一度駄目だったからって簡単に諦めるような人と私は一緒に働きたくない。仕事も、男も。簡単に尻尾巻いてどうするのよ。しかも澄田さんのことは駄目だっていう確信もないのに、怖がって目を背けてる。傷つかないでいようなんて虫が良すぎる。私が何度玉砕してると思ってるの」
 そこまで言うと息が切れて、私はグラスの水を一気飲みした。そして呆気にとられているヒナキを放って皿の料理を黙々と口に運んだ。それに倣うようにヒナキもまかないを食べはじめ、きれいに食べ終えたあと彼女はなぜか「ありがとうございます」と口にした。
「何の礼だか知らないけど、私はヒナを励ますつもりで言ったんじゃない。まわりがみんなあなたに優しいとか思わないで。礼を言う前に行動で示しなさい。言っとくけど、仕事のことよ。ヒナのプライベートな報告を聞くつもりはないから、そっちは自分でどうにかしなさい」
 分かりましたというヒナキの声は今日聞いた中で一番マシだっただろう。
 ケイスケにはあとで探りを入れたほうがいいかもしれない。彼とヒナキのギクシャクした関係には澄田の問題とは別の原因があるようだ。それか、ケイスケの一人相撲。澄田とヒナキの関係が悪化していると知って動揺でもしたのか。
 彼女を奪うチャンスかもしれないのに、どうやらケイスケは何の行動も起こしていない。起こしていないどころか意識しすぎて距離をとったのか。動くのも動かないのもあいつ自身が選んだことだ。
 ケイスケがヒナキを好きだという確証があるわけでもない。彼は彼なりに色々考えてヒナキと距離を置いているのだろう。チャンスを目の前にしながらそれを見送るというのは、私には不甲斐なく思える。けれど、私がどうこう言う事でもない。職場のコミュニケーションが問題なくとれていれば口出しするつもりもないし、皆が皆、私のように猪突猛進するわけではない。それくらいは分かっている。
「私、スミ君に会ってきます」
 ヒナキの顔にはまだ不安の色が浮かんでいたけれど、それは彼女が彼女自身の問題とぶつかって乗り越えることでしか解消されない。
 ――うまくいけばいい。
 そんな偽善者ぶった考えが頭に浮かんだけれど、それは苛立ちをすべて吐き出したからだろう。吐き出してみれば我ながらよく今まで我慢してきたものだと、口にした言葉に若干の後悔を覚えつつもいつも通りそうするしか出来ない自分を確認しただけだ。
「全部オープンにすることにするわ。私が樋引さん狙いだって知れば、男どもも簡単にキスさせたりしないでしょ」
 樋引が私を遠ざけるために自身がバイセクシャルであることをオープンにしたのなら、私はそれと同じやり方をさせてもらう。ヒナキは「本気ですか?」と目を丸くし、私はそれに「もちろん」と深く頷いた。
「サチさん、私もがんばります。勇気もらいました」
 ヒナキは深々と頭を下げ、二人分の皿とグラスを手に事務室を出ていった。入れ替わるように樋引が中を覗き込み、私は強引に彼の手を引いて厨房の中へ引きずっていく。
 まかないを終えて洗い場と食器棚のあたりに散らばっていたスタッフが何事かとこちらを振り返った。
「スタッフの皆さん! 私、サチは樋引料理長にアプローチ中ですので、彼に余計な誘惑やちょっかいは出さないようお願いします!」
 一瞬時が止まり、その後どよめきと拍手と笑いが起こった。
「……サチ、お前」
 ドヤ顔を樋引に向けると、彼は怒ることもなく脱力していた。なるようになれとでも言うように、私の手を振り払いもせず苦笑している。
 ああ、やっぱりこの人好きだ。
 じわじわと胸に広がる想いを噛み締めながら樋引の手を離し、スタッフに混じって戸締まりの確認をした。
 さり気なく近づいてきたケイスケが「本気ですか?」と私の顔を伺う。どうやら身近なゴシップネタを楽しんでいるようだった。
「本気じゃなければあんなこと出来ないでしょ? 私とケイスケの違いは多分そこね」
 ケイスケは「そうですね」と一転自嘲のような笑みを浮かべた。当てずっぽうのような私の推測は合っていたらしい。
 若いくせに当たって砕けなくてどうするんだと、やはりもどかしさと苛立ちを覚えるけれど、その後のことを考えれば躊躇するのも分からないでもない。正直私もこれから職場の中でどんな立ち居位置になるのか、考えてもどうしようもないからなるようになるだろう。
「諦めるんだ、ヒナのこと。今チャンスかもよ」
 小声で囁きかけると、ケイスケはおどけたような表情で頭を振った。
「色々考えたんですけど、ヒナキは澄田さんしか見てないから。それに俺、他に気になる奴ができちゃったんで」
「はあ?」という私の声に、近くにいた何人かが振り返る。何でもないと手を振って彼らの視線から逃れ、ふと見るとケイスケは私の反応にニヤニヤと笑みを浮かべていた。
「いいわね、簡単に諦められて。私もそう出来たら楽なんだけど」
「諦めたいんですか?」
「どうかな。すでに諦めることを諦めちゃったから。自分がそうしたくてしてるだけよ。今さら他の人を羨んでも仕方ないしね。これが私なんだもの」
 そう、これが私。
 妬みや僻みや、もっと汚い感情も、嫌というほどこの体のなかに渦巻いている。追いかける恋愛ばかりにのめり込むのも私。一人でいいと強がりながら寂しさに震えるのも私。まっすぐぶつかりながら、砕け散って泣きわめき、それをポーカーフェイスで隠し通すのも私。
 後悔なんかしない――それだけを道標に生きてきた。たとえ一人、道端で野垂れ死にすることになったとしても、それまではもがき続ける。いつも手を伸ばし続け、それは私をその先へと導いていく。

「帰るぞ」
 裏口のドアの脇にある電気を消すと、すぐ外で小さな明かりが灯る。それは樋引が咥える煙草の火。
 彼はひとつ大きく煙を吐くと「してやられた」と私の顔を見て笑った。隣同士並んで壁にもたれかかり、私は試しに彼の肩に頭をのせてみる。それは振り払われることも押し戻されることもなく、「馬鹿なヤツ」という小さな呟きだけが間近で聞こえた。
「好きなんです」
「聞き飽きた」
「樋引さんは好きな人がいないんですか? それともまだ州生さんが好きなんですか?」
「……州生のことは、多分一生好きなままじゃないかな」
 口をついて出てきそうな疑問が、一瞬喉元で押しとどめられる。躊躇いながら、私はまた玉砕することを覚悟で口を開いた。
「私のことは?」
「サチはまだ生きてるからなあ。一生好きかどうかなんて分からない」
「じゃあ、今は?」
 沈黙が続いて、私が返事を待っているあいだに彼は煙草を一本吸い終わってしまった。答える気はないのかもしれない。それでも今までよりマシ。他の男にしろと言われるよりよっぽどマシだ。
「サチは俺と似てる気がしてた」
 煙草の小さな火がなくなっただけで不意に闇が濃くなり、なぜか彼との距離が近づいたように思えた。
 空を見上げる樋引の隣で、その視線の先を追う。何の変哲もない、いつもと変わらぬ仕事終わりの夜空。それを特別に感じられるのは彼の肩に触れていられるから。
「俺はまともに誰かと向き合うのは苦手だ。だから適当に楽しくやって、好きなやつのことは心ん中で想ってればいい」
「料理に対する姿勢とはずいぶん違いますね」
「反動かな。料理はちゃんと手をかければ応えてくれる。人と人の関係はそういうわけにはいかない。だろ?」
 身に沁みてます、と言うと、自分で言わせておきながら彼はくすくすと笑った。
「サチも向き合うのが嫌だから俺を追いかけてるんじゃないの? 振り向かないから追いかけるだけでいい。向き合わなくていい」
 樋引の言ったことは何度も自身に問いかけてきた事だった。けれど、その答えが出ることはない。それが私の結論だった。
 考えても仕方ないのなら、いつも通り手を伸ばし続けていくしかない。手を伸ばさなければ決して掴むことはできないし、掴んだあとのことはまたその時考えればいい。掴んでもいいものと掴んではいけないもの、それくらいの分別はつくようになった。
 手を伸ばすのはいつも傷つく覚悟と引き換えで、なにを望んでいるのかは常に欲に塗れて判然としない。だから、やはり考えても仕方ないのだ。
「私バカなので実践しないと分からないんです。だから、試しに向き合ってみませんか?」
 本気? と問いかける樋引の顔がすぐ近くにあった。
「私はいつも本気ですよ。はぐらかしてるのは樋引さんです」
 そっか、という呟きとともに、彼は小さなわだかまりを闇へと吐き出したのかもしれない。
 理性、自制、責任、私を遠ざけるだけの理由はたぶんいくらでもあったのだろう。それ以前に彼はただ変わりたくなかっただけなんじゃないか、州生を忘れることを怖れていたのではないかと、今少し悲しげに寄った彼の眉間を見て思った。
「サチ、傷つけたらごめんな」
 自分ばかり傷つこうとして、そんな甘さの欠片もない言葉で彼は私の体を引き寄せる。
 へらへらと本心を隠しながら、本当は誰よりたくさん傷ついているくせに。その傷を拭い去ってあげたいと思うけれど、私に出来るのはその傷から意識を逸らすくらいのことだろう。樋引は私を見ていればいい。
 頬をなで、髪を梳くと、彼の唇が私のうえに落ちてきた。
「私の打たれ強さは、もう知ってますよね」
 ふと唇の離れた隙間に囁くと、そうだな、と彼の口元が笑う。私が掴もうとしていたものが何なのか、それは今この目に映るものだと悟った気になったのは、たぶん闇に陶酔した蒙昧な私の勘違いだ。

〈了〉

sweetbox「Life is Cool」を聴きながら

※改稿に際し、以前短編用に加筆した「Life is Cool」の内容を反映させました。
※名前の登場したシンイチロウ(慎一郎)とソウタ(爽太)は長編「Trace」に出ています。同作には6年前の、『レスプリ・クニヲ』に来る直前の樋引も登場しています。

ハルヒ〈1〉ベンチタイム

 ――ピピピピッ、ピピピピッ、……
「ハルヒちゃん、悪い! 山食出して」
「はいっ」
 叔父さんの声で条件反射のように体が動く。赤と白のギンガムチェックの暖簾をくぐり、ミトンをはめながらタイマーを止め、オーブンをあけた。内部の熱気が顔をつつみ、思わず目を細める。そうしないとコンタクトレンズが角膜に張りつくようで気持ち悪い。
 食パンの型を引き出し、二つずつまとめてつかみ、後ろにある台に置く。型をストンと落とし、そのまま寝かせてするりと抜くと、焼きたての食パンがパチパチと微かな音を立てた。その香りに酔っていたいけれど、急がないとせっかくきれいに焼きあがったパンがひしゃげてしまう。ひたすら落として抜くを繰り返し、十二本の山食が目の前にならんだ。
「叔父さん、これ売り場に出したらいいの?」
 ミキサーの前にしゃがみこむ叔父さんが、わずかに顔を上げてチラリと私を見た。その視線はすぐにミキサーのパン生地にもどる。
「六本は『豆蔵(まめくら)』の注文分だから、残りが店売り。ハルヒちゃん、それ出したら終わっていいよ。そろそろあいつも来るだろうから」
 叔父さんが「あいつ」と呼ぶのは叔母さんのことだ。私がアルバイトに入っているときは裏の母屋で家事をしていることが多い。私もその母屋で寝起きしている。大学入学時に引っ越してきて八ヶ月が経ち、ここでの暮らしも、パン屋の店員ぶりも板についてきた。と、自分では思っている。
「今日大学午後からだからもう少し大丈夫だよ。叔母さんが来たら『シェ・アオヤマ』にバゲット配達してくるね。八本で良かったっけ?」
「うん、八本。注文書確認しといて。悪いね、助かる」
 ミキサーの機械音がやみ、叔父が淡く黄味がかったパン生地を作業台に移していると、「遅くなってごめんねぇ」と、のんびりした声が倉庫の方から聞こえてきた。
 母屋へとつづく倉庫脇のドアから出てきた叔母さんは、ニットキャップをかぶりながら「お客さんは?」と私を見る。その視線がさらに移動し、壁にかけられたアナログ時計の上でとまった。時刻は午前九時四十分を過ぎたところで、通勤通学途中のお客さんはとっくに途切れていて、これから来るのは近所の常連さんくらいだ。
「もう落ち着いたから、私『シェ・アオヤマ』配達行ってくるね。『豆蔵』の分はまだ冷めてないけど、他の店のは棚に置いてるから」
 分かったと言いながら、叔母さんは二坪ほどの小さな売り場をくるりと見まわし、使い捨て手袋をはめた手で食パンを一つとってスライサーへと向かう。私は一度母屋に戻り、グレーのダッフルコートをはおって店内にもどった。と、ちょうどカランと音がしてお客さんが入ってくる。
「おはようございます」
 顔を出したのは、私が向かおうとしていた『シェ・アオヤマ』のシェフだった。優しげな笑顔が大人の余裕を感じさせるその人の名前は澄田さんという。
 私より十歳年上で、見た目はもう少し若く見える憧れのお兄さんだ。密かにファン第一号を自負している。彼にはヒナキさんという彼女がいて、以前は朝の早い時間に二人で来店することもあったのだけど、そいうえば澄田さんが来店するのも久しぶりだった。ヒナキさんの顔もずいぶん長いあいだ見ていない。
「澄田さん、なんか久しぶりですね。今日は朝ごはん、……じゃないですよね。もう仕事中ですか?」
「うん。ちょっと買い出しに出るところなんだけど」
 澄田さんはそう言いながら手に持っていた紙袋を私に差し出した。中をのぞくと小さな丸いココットが五つ入っていて、その表面は緑色。たぶん抹茶だろう。
「昨日休みだったから家で作ったんだ。抹茶のティラミス、よかったら食べて」
 スライスした食パンを袋詰めしていた叔母さんは、グイと私の肩を押しのけて袋の中をのぞき込んだ。
「ええ? 悪いわよこんな。お店の方には?」
「そっちにも人数分おいてきました。たいしたものじゃないんで、迷惑じゃなかったら」
 迷惑なんて、と言いながら叔母の顔は嬉しそうにニヤけている。こういうときは私の出番だ。
「すごーい。超うれしいです。ね、いただこうよ。澄田さんのティラミス食べたい。しかも抹茶だよ」
「そうねえ。ハルヒもこんなだし。ありがたくいただいていいかしら」
 儀礼的な押し問答は、叔父さんの「すまんね」という一言であっさり終了した。私の台詞も少しわざとらしかったけれど、嬉しい気持ちに偽りはない。
『シェ・アオヤマ』は地元だけでなく県外からもお客さんが訪れる有名なフレンチ・レストランで、そう簡単に敷居をまたげる場所ではなかった。そんな店が叔父さんの経営する小さなパン屋から仕入れている。姪として、それはとても鼻が高い。
 住宅地の奥まった場所にあるここ『タキタベーカリー』は、叔父叔母と、もう一人パン職人さんがいる。ゴマ塩頭の平井さん。うちの店は『シェ・アオヤマ』や『豆蔵』のような飲食店、それと地元の青果市や小売店への卸がほとんどで、店を開けているのは昼過ぎ頃までだ。
 今年還暦の平井さんは、朝の分のパンを焼き上げたあと卸先への配達に出かける。彼が配送するのは少し距離のある取引先だけで、ひと筋違いの通りにある『シェ・アオヤマ』には手が空いた誰かが納品に行っていた。
『豆蔵』は一キロほど離れた場所にあり、納品しなくても店まで取りに来てくれる。そんな店は少なくない。小規模店との取引が多いから注文数が二、三本なんていう店もあり、お互い人手不足なのを承知しているから持ちつ持たれつという感じで、余裕があればついでに配送したりもするし、無理を言って取りに来てもらったりすることもある。
「ハルヒちゃん、悪いけどアオヤマの注文分届けてもらっていいかな。俺は店に戻れるの遅くなりそうだから」
 申し訳なさそうに眉をハの字にする澄田さんは、なんだか色っぽい。次の恋は澄田さんみたいな大人の男性とできればいいのに、なんて思いつつ夏の失恋のしこりはまだ胸に残っている。
『豆蔵』に勤めるアノ人の顔を思い出しそうになって、考えるのを止めた。
『豆蔵』の彼がパンを取りに来るのは十時半から十一時のあいだくらいだ。大学のない日は鉢合わせないように様子を見ながら母屋に行ったり作業場に引っ込んだりしているけれど、平日の今日は心置きなく母屋に戻れる。なにせ大学へ行く準備をしなければならないのだから。今から『シェ・アオヤマ』に行っても、戻ってきた時にバッタリとはならないだろう。
 たとえ会ったとしても何が変わるわけでもなく、いつも通り「私」を演じるだけ。とはいえ、それはそれなりにしんどい。だから顔を合わせないのが一番なのだ。
「ハルヒ、よろこんでパンお届けいたします!」
 勢い込んで敬礼をすると澄田さんは妹でも見るような目つきで微笑み、叔母さんは呆れ顔で苦笑した。演技過剰と思われるのは心外だ。
「開店前の『シェ・アオヤマ』って好きなんです。シェフの人たちやホールの人の緊張感とか、何かはじまるって感じ。ドキドキするの。いい匂いもするし」
「ここもいい匂いだよ。ね、亜紀(あき)さん」
 澄田さんはそう言って叔母さんに同意を求める。
「そうねえ。この匂いはもう日常になってるからよく分からないけど、たまに友達に会うと『香ばしい匂い』って言われるわ」
 私もバイトあがりで学校に向かった日は「ハルヒの近くはお腹すく」と、くんくんと匂いを嗅がれることがある。もちろん女友達に。ナオ君は……、――ダメダメ。
 自分に意思に反して彼の方へと思考が流れていこうとする。失恋の傷なんてかまっていても仕方ないし、目の前のステキなお兄さんから幸せのおすそ分けをもらってテンションあげた方がよっぽどいい。
「澄田さん、最近ヒナキさん元気ですか? 顔見ないけど、やっぱり年末近くなると二人とも忙しいですよね」
 笑顔で話を振ってみたものの、一瞬で失敗したと分かった。「ああ」と言いよどむ澄田さんの顔が曇っている。
「なあに? 倦怠期?」
 さすが叔母さん、と心のうちで感心した。このずけずけとした物言いはなかなか真似できない。心配する風を装っているけれど、彼女のゴシップ好きは周囲の人間みなが知るところだった。
「倦怠期というか、ちょっとした喧嘩かなあ。向こうはもう愛想つかしちゃったのかもしれないけど、その抹茶のティラミス、実はヒナキにと思って作ったんです。何もなしで連絡するのも心もとなくて」
「そうなの? ちゃんとヒナキちゃんの分は置いてあるのよね。もう連絡した? 善は急げっていうでしょ。思ったらすぐ動かないと」
「ヒナキの分は家にあります。連絡は……まだしてないんですけど、今日あいつのほうは定休日だから、また後で」
 押しまくりの叔母さんに、澄田さんは若干引いているようにも見える。でもこうやって話してくるということは、やはり聞いてもらいたいのだ。懺悔みたいなものだろうか。
 ヒナキさんは、澄田さんとは別のフレンチ・レストランでシェフをしている。二人は連れ立ってうちの店を訪れ、仲良くパンを選んでいた。その姿を見ながら「いつか二人で店開くのかな」なんて思っていたのだけれど、ちょっと雲行きが怪しいようだ。
「澄田君。ちゃんとヒナキちゃんのこと繋ぎとめておかないと、彼女モテるのよ。男だけじゃなくて、ここに買いに来てくれてるお店のなかにも『ヒナキちゃんにうちの店に来てほしい』って言ってる人いるんだから。いつか一緒にするんでしょ? 二人のお店」
 叔母さんの発言が地雷を踏みはしないかヒヤヒヤした。「そんな話しましたっけ」と首をかしげる澄田さんに、叔母さんは「勘」と言い放った。
 大人の余裕が消え去った澄田さんの口元から、覇気のない溜息が漏れた。いくら大人に見えていても、大人には大人の悩みがあるのだろう。
「澄田君! シャンとしなさい!」
 叔母さんはバシンと澄田さんの腕を叩き、ふんっと鼻息を吐いた。思いのほか大きな声に私も澄田さんも言葉を失い、作業場で苦笑している叔父さんの姿が視界の端にあった。
「澄田君なら大丈夫。見てみなさい。あんな男でもこうやって店やってるの。あなたに出来ないわけないでしょう。それにほら、あんな男にもこんないい女が嫁に来てるのよ。澄田君みたいないい男がもったいない。シャキッとしないと宝の持ち腐れ。誠意を持って気持ちを伝えればヒナキちゃんだってイチコロよ!」
 よくそんな無責任な発言を堂々と口にできるものだ。けれど、叔母さんの言葉は一種の魔法のようで、いや、暗示とか洗脳に近いものかもしれないのだけれど、何となく大丈夫な気がしてくる。私が大学受験に来たときも同じように適当な理由を述べて「大丈夫!」と自信満々に言い切った。そのおかげかどうかは分からないが、私はこうして大学に通うことができている。
 叔母さんが「あんな男」と呼ぶ相手はスケッパーで黙々と生地を切り、秤に載せながら、やはり口元には苦笑いを浮かべていた。「あいつには敵わん」が叔父さんの口癖だった。
 澄田さんは愛想笑いのようにあいまいな笑顔を浮かべ、どうやら魔女の洗脳は十分でなかったらしい。私も何か言ってあげたいけれど、人生経験も恋愛経験も未熟な私が何を言えるだろう。
「がんばらないとなあ」なんて煮え切らない言葉をこぼす澄田さんを見て、叔母は何か使命感を感じたようだ。うーん、と眉を寄せて数秒後、「あ!」と手を叩いた。
「ご利益があるかもしれない」
 そんな事を言いながら、レジ下の棚をごそごそとあさって小さな籠を取り出し、そこには二十枚ほどのCDがぴっしりと収まっている。そのほとんどが著作権フリーの店舗用BGMなのだけれど、営業時間外に作業しながら聴くために、叔父さんは数枚だけアーティストのCDを置いている。
 U2にMR.BIG、レッド・ツェッペリン――名前は聞いたことがあるという程度で、私は営業時間外に店にいることがなかったから、今でも彼らがどんな曲を歌っているのか知らない。聴いてみたら「あ、知ってる」なんてこともあるかもしれない。
 叔母さんが「これこれ」と手に持ってヒラヒラと振ったのは、籠の一番端にあった茶色の封筒だった。
「あ、お前!」
 突然後ろから聞こえてきたのは叔父さんの声だった。今にも封筒を奪いそうな口ぶりだったけれど、成形途中のパン生地を放り出すわけにもいかず、「変なこと言うなよ」とだけ言って、逃げるように私達から視線をはずした。叔母さんはニヤけた笑みを浮かべ、その封筒から一枚のCDと、四つに折りたたまれた紙を取り出した。
「ブライアン・アダムスの『Back To You』(※)っていう曲。よかったら聴いてみて。こっちの紙に日本語訳が書いてあるから」
 CDジャケットをながめる澄田さんに、叔母さんは少しだけ顔を近づけ内緒話をする。
「あの人がね、私にくれたの。恋人だったとき一度別れたことがあって。店を始めるとか勝手に一人で決めちゃったから私も腹が立ってたのよね。結婚するものだと思ってたから。で、勝手にすればって連絡しなくなったんだけど、一ヶ月くらいしたらこれ持って頭下げに来たの。『結婚しよう。一緒に店をしてくれ』って」
 ご利益ありそうでしょ、と叔母さんは満足げな顔で言った。澄田さんは紙を広げてざっと日本語訳に目を通し、「ああ、まんま俺ですね」と自嘲じみた笑みを浮かべる。
「澄田君、本当に一回聴いてみて。もう、これがあるべき形なんだって思えるくらい、自然に前向きになれるから。そんな素敵なメロディーだから」
 澄田さんはネットで検索しますとか、ダウンロードしますとか、なかなか受け取ろうとしなかった。それはそうだろう。さっきの叔母さんの話を聞いてしまったら、簡単に借りて帰るなんてできない。そのCDは、いわば『タキタベーカリー』の原点だ。けれど、叔母さんは頑として譲らなかった。
「お願いだから持って帰って。それで、返しに来るときはヒナキちゃんと一緒よ」
 澄田さんは渋々受けとったものの、あまり自信はなさそうだった。これでヒナキさんと別れたりしたら一体どんな顔をしてこのCDを返しに来るのだろう。『Back to You』あなたの元に戻る。
 ――ナオ君にもそのCD渡してくれたら良かったのに。
 ふと浮かんだ自分の言葉に我ながら呆れ果てた。ほぼ吹っ切れているつもりなのに、やはりどこかで引っかかっているのだ。
「戻る」も何も、私とナオ君のあいだに関係らしい関係などなかった。浮かれていたのは私ひとり。

 半分だけ水平線の上に残った夕陽が、ゆるゆると海の向こうへと沈んでしまうまでのあいだ、私とナオ君は夏の終わりの匂いを微かに感じながら互いの唇を重ねた。彼とのキスはあれが最初で最後。彼と二人で出かけたのも、あのとき一回だけだった。
 ――やっぱりハルヒのところに帰るよ。
 ナオ君はそんな言葉を私に囁いたりはしない。五歳も年上の彼は、私みたいにお酒も飲めない子どものところに戻ってきてはくれない。あのキスはきっと私の妄想で、あれは幻の時間だった。
 雰囲気に流されただけのキスだと認めてしまったら、私はナオ君を嫌いになってしまう。それだけはどうしても出来なかった。だから、夏の終わりのあの数分間は夢の中にいたのだ。

(※)Bryan Adams 「Back To You」1997 ユニバーサルインターナショナル

ハルヒ〈2〉一次発酵

「ハルヒちゃん、ナオ君まだ来てないよね」
 叔父さんは私の肩越しにガラス戸の向こうに目をやった。
 濃い緑の街路樹、向かいの屋根の上には深く青い空。八月も終わりに近いというのに、ジリジリと照りつける真夏の日差しが通りにおちる木の影をくっきりと描いていた。
「もうすぐ十一時になるのに。ねえ、叔父さん。サンドイッチ用のスライスしてあげたほうがよくない? 多分バタバタしてるんだろうから、とりあえず一本だけ。たまにモーニングが忙しくてサンドイッチ用のが足りなくなったとか、ナオ君が言ってるじゃない」
『豆蔵』がサンドイッチに使うのは、前日に納品した山食パンだ。当日の朝に焼いたパンだと柔らかすぎて中身の食材が勝ちすぎてしまう。本当にどうしようもないときは少し厚めにスライスして、それで何とかバランスをとっているらしい。一度それを食べたことがあるのだけれど、ふかふかしたパンのサンドイッチは、それはそれで味わい深い。けれど、やはりそれは『豆蔵』のサンドイッチとは違うのだ。
『豆蔵』のマスターは出勤途中に『タキタベーカリー』に寄る。まだ開店前だけれど、朝イチで焼いた山食を二本買って店へと向かう。それがその日のモーニングの食パンになる。けれど、足りなくなれば前日仕入れたサンドイッチ用の食パンを使うらしい。
 マスターが来客予測を外すことは滅多にないけれど、完璧な予測なんてきっとAIでも無理だ。その予測が外れた日、ナオ君は「死にそう」なんて言いながら、パンの並んだ番重をひったくるようにして帰っていく。
 大学生活初めての夏休み。私は午前中に『タキタベーカリー』でアルバイトをし、それ以外に特に決まった予定もなく、何度か一人で『豆蔵』に行った。
 パンを取りに来たナオ君の車に乗って一緒に連れて行ってもらい、十一時くらいからのんびり昼過ぎまで読書をして過ごす。注文するのは豆蔵特製の厚焼き玉子サンドとブレンド珈琲。
 カウンターに座ってマスターやナオ君や、他のスタッフの仕事ぶりをながめるのも楽しかった。何度か通っているうちに、仕事の流れみたいなものが何となく分かってきて、『豆蔵』でアルバイトしてみたい、なんて密かに考えたりもした。実際に働くことはないだろうけれど、そんな妄想をしていたからこそ、つい余計なお節介をしたくなるのだ。
「叔父さん『豆蔵』の分スライスしちゃうよ。二本くらいスライスしてもいいけど、勝手にそこまでして余らせたら悪いし」
 叔父さんは判断に困っているのか、うーんと呻るばかりだ。奥の流しで洗い物をしていた叔母さんが「もう」と呆れたように溜息をついた。
「二本切っちゃいなさい。切るのは朝イチで焼いた分ね。追加で買うかどうするか、ナオ君が来たときに聞いて。スライスしたのが要らないなら、その分は店売りにするから」
「店売りって、お前。『豆蔵』のサンドイッチ用は七枚切りだろう? そんなの普通の客は買わないんじゃないのか」
 いいのいいの、と叔母さんは手振りで私を促す。二本分の山食をスライスし終え、袋に詰めたところでカランとドアベルが鳴った。
 思った通りナオ君はあわてた様子で、私は彼が何か言う前に「サンドイッチ用のスライス二本あるけど」と笑顔を向けた。途端、彼の顔に安堵の色が浮かぶ。
「マジ? 助かる。それ追加でもらえるかな。もう朝からバタバタで死にそう」
 私は叔母さんとちらりと目を見合わせたあと、ナオ君に向かって「もちろん」とうなずいた。
「あー、もう。癒やされるわぁ。ハルヒちゃんの笑顔。これを糧にもうひと頑張りしてくる」
 私が店のドアを開けると、番重を抱えたナオ君は「じゃあね」と店の真ん前に停めた車にパンを積み込んだ。バックドアを勢い良く閉め、彼は手を振って車に乗り込む。
 外はうだるような暑さで、でも働いているナオ君の笑顔は生き生きとして爽やかだった。会ったばかりなのに、顔を合わせるだけでは物足りなくて、私はランチが落ち着いたくらいの時間を狙って『豆蔵』に向かった。
 たった一キロ、されど一キロ。麦わら帽子をかぶり、炎天下の道を歩いてナオ君の元にたどり着いたときには、バイト終わりに着替えた下着がびっしょりと汗で濡れていた。
「いらっしゃい、ハルヒちゃん。パン、ありがとね。助かったよ」
 ドアを開けた瞬間、カウンターの向こうにいるマスターが満面の笑みを向けてくる。余計なお節介じゃなくてよかったと安心し、口元が緩むのが自分で分かった。
 マスターとナオ君の目元の垂れ具合がそっくりなのは、二人が親子だからだ。マスターは叔父さんの高校の同級生らしく、クラスも一緒だったらしい。しかも、クラスは違うけれど叔母さんも同級生。だから、叔父さんが高校の頃やんちゃだったなんて話が聞けたりする。
 叔母さんと叔父さんは卒業式のあたりから付き合いはじめたらしく、二人の恋人時代のことはマスターはあまり知らないようだった。ただ、一度別れて復縁したらしいと教えてくれた。
『ハルヒちゃんの叔父さん、半ベソかきながら僕の家に押しかけてきたんだ。僕じゃなくて亜紀さん本人に泣きつけって追い返したけどね』
 マスターはその時「懐かしいなあ」なんて言いながら、小さく鼻歌を口ずさんでいた。
『あのCDの借りは、そろそろ返してもらわないとな』
 独り言のようなマスターの言葉が引っかかったけれど、ちょうど店に入ってきた客に気を取られ、すっかり頭から抜け落ちてしまったのだった。「こんにちはー」と愛想のよい笑みをマスターや他のスタッフに向けたその客は、どうやらナオ君の友達らしかった。女トモダチ、だと思う。以前会話のついでを装って探りを入れたとき、ナオ君は「彼女かあ。なかなかできないな」と、たいして興味もなさそうに言っていた。
 その女トモダチの姿が、今日も窓辺の席にあった。グラスにはすでに小さな氷が残っているだけで、彼女は私と入れ替わるように席を立った。
「ナオ、そろそろ帰るから。飲み会の件はまた連絡する」
 ナオ君に向けられた彼女の唇はつやつやとしていて、耳元のピアスも、華奢なミュールも、私とは全然違ってオトナだった。
「来週の月曜だろ。俺は店が終わってからになるから、行けたら行くってことで」
「いいよ全然。だいたい月曜に飲み会ってのがおかしいから」
 彼女が会計を済ませ「おじさん、またね」と手を振ると、マスターも「バイバイ、リサちゃん」と気安い言葉で彼女を見送った。ナオ君は彼女と一緒に外に出て、しばらく二人で話していた。私は目の端っこでその様子をうかがいながら、マスターが出してくれたアイスコーヒーをすすり、文庫本を開いた。
「気になる?」
 不意にかけられた言葉に顔を上げると、マスターがこちらを見てニヤリと笑った。見透かされたようで恥ずかしくなり、ストローを咥えたまま頭を振って文字に視線を落とした。くすくすと聞こえてくるマスターの含み笑いに、私は居心地が悪くなって再び顔を上げた。
「どうして笑ってるんですか?」
「いやぁ、ハルヒちゃん可愛いなぁって。なぁ、ナオミチ」
 振り返るとすぐ後ろにナオ君が立っていて、彼は呆れ顔で父親を一瞥する。こんなリップサービス過剰なところも父子そっくりで、口から生まれたというか、多分こういった商売にはすこぶる向いているように思う。
「自分の息子より若い女の子口説いてどうすんの。こんなエロオヤジ放っといたらいいからね、ハルヒちゃん」
 ね、と私の顔をのぞき込んだナオ君に「うん」とぎこちなく返事をすると、再びマスターの笑う声が聞こえてきた。ナオ君が私の髪をくしゃりとなで、その手はするりと離れる。心臓がバクバクうるさい。
 ちらりと視線をナオ君に向けると、彼はカウンターに入ってすぐの手洗いでその手を洗った。衛生上そうしているのだと分かってはいるものの、少し複雑な気分になる。溜息をつきかけたその時、ナオ君が「あ!」と声を上げてこっちを見た。
「ハルヒちゃん。『本の庭』連れてってあげようか。俺、四時あがりだし、本屋行こうと思ってたんだ。たしか行きたいって言ってたよね」
「行く! 行きたい!」
 即答した私の声は色んな意味で浮き立っていた。
『本の庭』は田舎の本屋にしては珍しく、近県からも人が来るほど有名な書店だ。品揃えが豊富なのだけれど、特に芸術関係の書籍が充実していて、画材も売られている。店内は開放的な造りで、カフェ併設の閲覧スペース、それに休日に限らず二つの多目的スペースで開催されるイベントやカルチャースクールも人気だ。けれど車で二十分程の郊外店舗で、アクセスは決して良くない。車を持っていない私はそこへ行く機会をみつけられず、ナオ君に以前そんな愚痴をこぼしたような気もする。
 そしてもう一つ私の心が弾んでいる理由。それはもちろんナオ君と二人で出かけられるということ。……ん?
「ね、ねえ。二人で行くの?」
 いやなの、と問われてブンブンと必死で首を横に振った。余計な期待をして「実は◯◯も来るんだけど」みたいな残念なオチがある場合に備えただけで、二人で出かけるのが嬉しくないわけはない。ナオ君の向こうを通り過ぎたマスターが、ニヤニヤとこちらに視線を向けた。――絶対気付いてる。気付いて楽しんでる。
 これが叔父さんと同い年の大人だろうかと思うけれど、オトナもある程度年をとれば人それぞれなのだろう。反対されないだけ良しとすることにした。
 大学一年生の私はまだ十八歳で、ようやく来月十九になる。一方のナオ君はすでに二十四歳。学年は五つしか違わないのに数字だけ見ると六歳も離れていて、しかも私は未成年。ナオ君の年齢をあまり意識しないでいられるのは、彼の気遣いと、それに服装のおかげだ。
 Tシャツにジーンズというラフな格好で、仕事中はその上に『豆蔵』と胸元に刺繍がされた茶色のエプロンをし、デニム地のキャップを被っている。マスターは同じエプロンをし、髪は後ろで一つに束ねていた。マスターと一緒に店をはじめた奥さん、つまりナオ君のお母さんは、二十年くらい前に亡くなったらしい。
 そわそわしながら手元の文庫に視線を落としていたけれど、文字はまったく頭に入ってこなかった。マスターはそんな些細なことすら目ざとく見つけてしまいそうで、私は店内のラックからローカル情報誌を持ってきてぼんやりページをめくった。
「あ、それ同級生が働いてる店」
 ページを繰ろうとしていた手を止めると、ナオ君が「これこれ」と言いながら前かがみに雑誌をのぞき込む。そこには『レスプリ・クニヲ』という高そうなフランス料理の店が載っていた。とても私なんかが行けそうな店じゃない。
「ナオ君、この店行ったことあるの」
 ないない、と首を振ったナオ君の顔はすぐ目の前にあって、彼はその距離をなんとも思っていないようだった。大人になると、この三十センチは当たり前になるのだろうか。それとも私が意識しすぎているだけだろうか。
 これまでに男の人と付きあったのは一度だけで、それも中学の卒業式から一ヶ月ほどだった。ショッピングモールに出かけたり、映画に行ったりしたけれど、手もつながないままで、高校が離れたらまったく会わなくなってしまった。
 田舎の中学から市内の高校に進学すると、まわりはみんなお洒落な女の子たちばかりで、なんとなく気後れして「私こんなだから」とイケてないのをキャラクターで誤魔化していた。いきなり化粧なんかして「色気づいた」なんて言われるのも癪だった。だから、大学が決まってからこっちに引っ越してくるまでのあいだに、自分をリセットするつもりでファッション誌を読みまくった。けれど、いざ入学してみれば地味女ばかり。ジーンズにトレーナーみたいな女子であふれていて、張り切ってお洒落しようものなら逆に浮いてしまいそうで、結局「イケてなくはない」という無難な服装で日々過ごしている。
 たぶん身近な友達のなかではお洒落な部類に入っている。けれど、いかにもイケてない子たちにはいつの間にか彼氏ができていて、彼氏もハッキリ言ってイケてないのだけれど、彼女たちとの恋バナについていけないことにコンプレックスを感じていた。
 みんなどんどん大人になっていって、「ハルヒも早く彼氏作りなよ」なんて、明らかに優越感に浸りたいだけの台詞に言い返すこともできない。だから私は『好きな人いるよ。社会人』と半ば勢いで口にしたのだった。
 その時はパッと頭に思い浮かんだナオ君のことを口にしただけで、それ以前に彼を意識したことなんてなかった。言葉は言霊というか、以来私はナオ君の顔を見るたびにドキドキしてしまう。
 恋に恋してるだけ。
 もしかしたらそうなのかもしれない。年上の彼と並んで歩く姿を想像して、もしかしたら服脱がされちゃうかもなんてバカなことを考え、考えれば考えるほどナオ君に会いたくなる。会えば会ったで「また」と手を振る彼に寂しさを覚え、二人で出かけたりしたこともないのに妄想はどんどん膨らんでいく。後期の授業がはじまるまでに少しでも近づいて、「一緒に花火に行ったの」なんて自慢したかったけれど、すでに花火の時期は終了してしまった。
 そして、今目の前にあるのはこの夏最大のチャンス。
「ナオ君、この店連れてって」
 絶対無理だと分かっているから、案外するっと口にできた。紹介されている秋のコースメニューは一人五千五百円。彼女ですらないのに、簡単に連れて行ってくれるはずがない。案の定「冗談だろ」と一笑に付された。が、神様は意外に身近にいたのだ。
「ナオミチ、『本の庭』行くなら少し足伸ばして『ピッツェリア岬』で食ってきたら?」
 マスターは「カンパしてやるから」と返事も聞かずカウンターの奥にある部屋に引っ込み、財布からたぶん五千円札を取り出してナオ君に渡した。
 思わぬ展開にただ成り行きを見守っていたのだけれど、ナオ君に「行く?」と問われてコクリとうなずいた。うなずいたら、緊張が体中を暴れはじめる。マスターは、どうしてこんな事をしてくれるのだろう。嬉しいけど、正直どうしていいか分からない。
 四時を過ぎて、ナオ君は「着替えてくる」と奥に引っ込んだ。その隙にマスターに小さな声で問いかけた。
「……いいんですか? ごちそうになって」
「もちろん」と鷹揚にうなずいたマスターの顔は優しく、そしてどこか遠くを見ているようだった。
「滝田んとこ子どもいないだろ。ハルヒちゃんが大学に入って一緒に暮らすってなったとき、すごく喜んでたんだ」
 滝田は『タキタベーカリー』のタキタ。マスターが話しているのは叔父さんと叔母さんのことだ。
「だからっていう訳じゃないけど、ハルヒちゃんにはここでの暮らしを楽しんで欲しいなって思って。何ていうか、俺にとっても娘みたいな気分」
 娘になってもいいよ、カウンター越しに顔を近づけたマスターはそう囁いた。その意味を数秒遅れで理解し、頬が熱くなる。顔はきっと真っ赤だ。ひとり興奮する私の耳に、ポツリとこぼれたマスターの声が届いた。
「そしたら、ハルヒちゃんはずっと滝田の近くにいることになるからさ」
 軽い口調のその言葉は、けれど、彼の本当の願いだったのだと思う。大人たちには大人たちの想いや過去がある。そんな気がした。

「なんかハルヒちゃん大人しい」と、信号待ちで車を止めたナオ君は、助手席に座る私の顔をのぞき込んだ。
「俺の運転緊張する? 大丈夫だよ。安全運転だから」
 うん、と頷いたけれど『本の庭』に着くまでずっと同じ調子でポツポツとしか言葉が出てこなかった。
「なんかハルヒちゃんテンション高すぎ」
 後ろからついてくるナオ君を振り返り、「早く」と手招きする。『本の庭』の駐車場には平日にも関わらず県外ナンバーが並び、出入りする人の姿も絶えなかった。
 入ってすぐの吹き抜け、まっすぐ正面には階段がある。柵越しに二階からこちらを見下ろす人がいて、その奥にはテーブルに座ってカップを傾ける人の姿が見える。エントランスの案内板には二階で開催されている写真展のポスターと、今開かれているらしい絵画教室のチラシが貼られていた。
 ナオ君と一緒にまわれば良かったとあとで後悔したのだけれど、そのときはただただ興奮して「先に行くね」と画集コーナーに陣取り、捲っては戻しを繰り返し、モディリアーニの画集を手に煩悶したけれど、結局何も購入しなかった。
 年頃の女の子には何かとお金がかかる。ネットで古本として安く売られてないか確認してから買おうと、泣く泣く書棚に戻した。
 画材コーナーも覗いてみようと奥へ向かいかけたところで腕を掴まれた。
「やっと見つけた」
 ナオ君は「はあ」と溜息をつく。はっと気付いてレジ近くの壁に掛けられた時計を見ると、ナオ君と別れてから一時間近くが経っていた。
「見つかってよかった。せっかくだから暗くならないうちに出よう。海沿いのドライブだから」
 ね、と微笑むナオ君に、距離が近づいたような錯覚をおこす。まるで恋人みたいで、つかまれた手をそのまま引かれて店から出た。
 助手席に座っても緊張はなく、隣にいるのを当たり前に許されたような、満たされた感覚と、その一方で彼の笑顔に胸が締めつけられる。
 私が恋してるのは、「恋に」じゃなくて「ナオ君に」なんだ。今さらのように、そんな確信が心のなかに芽生えた。隣にいたい。
 運転席側の窓の向こうには海が見えている。私はそれを眺めるふりをしながら、ずっとナオ君の横顔を見つめていた。ナオ君は「ちょっと寄り道」と海岸沿いの空き地に車を乗り入れる。
「俺、今年の夏は海来れなかったんだ。ハルヒちゃんは?」
「私は七月に一回海水浴に行ったよ」
「友達と?」
 うん、と答えると「男も?」と聞かれて驚いてナオ君の顔を見た。彼は私の言葉を待たずに車から降りて、隣に並ぶと手をとって歩きはじめる。
 期待が徐々に膨らんで、と同時に緊張で心臓が高鳴っていた。繋いだ手がじっとりと湿ってきて、恥ずかしさと、甘く切ない胸の痛みを抱えながら砂浜を歩いた。少し歩くと護岸工事のされたコンクリートの段があり、パシャパシャと穏やかな波が打ちつけていた。
「ギリギリだね。半分くらい沈んでる」
 視線の先には水平線の上にのぞく半円の太陽が残っていた。お尻の下のわずかな砂を気にするほど大層な服を着ているわけでもなく、ストンと座った私の隣に、ナオ君は腕が触れるほどの近さで腰を下ろす。
「男も一緒だったの?」
「え?」
「海水浴」
 頭を振ると、ナオ君は口元に笑みを浮かべて「パンの匂いがする」と私の髪に顔をうずめた。彼の手が私の頭を引き寄せ、「汗臭いよ」と言っても彼は離れなかった。
 どうしたらいいだろうと考えながら、もちろん私に何かできるはずもなく、彼の感触が不意に離れて「汗の匂いってさ」という声が耳元で聞こえる。その後に続く言葉は何だったのだろう。またあとで聞こう、そんな冷静なことを考えたのが不思議だった。
 触れた唇がかすかに動いて離れ、ナオ君は「太陽が見えなくなるまで」と口にしたあと、また唇を重ねた。
 唇同士が合わさり、離れかけては近づき、そんな時間は長かったような、短かったような、いつのまにか太陽の姿は水平線の下に消えていた。
 たぶん、夢でも見ていたのだと思う。恋に恋しすぎて、ナオ君に恋しすぎて、ひとりナオ君の隣で妄想していたのかもしれない。そんな風に考えてしまうくらい、そのあとのナオ君の態度はいつも通りだった。
 それでも私は浮かれていた。期待しないはずはなかったし、期待などしなくても「彼女」っぽい存在にはなれたと思っていた。けれど、それは予想外にあっさり打ち砕かれた。

 その翌週の月曜のことだった。私は例のごとく『豆蔵』で厚切り玉子サンドにかぶりついていて、ちょうどカウンターの向こう正面に立っていたナオ君の顔が「あ」と何かに気付いて笑顔になる。後ろから聞こえてきた声は、
「こんにちはー。ナオ、高波連れてきちゃった」
「ナオミチ、ひっさしぶりー」
 私はあからさまに振り返ることもできず、ただ女の人の声が「リサ」だということは分かっていた。ナオ君は私の視界から消え、カウンターから出て彼らの方へと歩いてゆく。そろりと視線を向けると、リサの隣には人懐こい笑みを浮かべる男の人がいた。「あちー」と言いながら手で顔を扇いでいる。リサの彼氏だろうか。そうならばいい。ナオ君が私に向ける笑顔はリサに笑いかけるときよりも優しくて、そしてリサに対する時のように対等ではなかった。
「妹」にキスなんてしないよね。
 そうは思うものの、好きだとも付き合おうとも言われてはいない。そんな言葉なんてなくても恋人にはなれる。「どっちからとかじゃなくて、何となく、気づいたらそんな感じ」なんていう風に友達は自分の馴れ初めを話していたけれど、私は不安でしょうがなかった。
「ハルヒちゃん、こいつらちょっとうるさいかもしれないけど隣座らせてやって」
 店内を見るとそれほど混み合っているわけではない。けれど四人掛けのテーブルに一人か二人で座っている人ばかりで、どうやらカウンター以外席はないようだった。
「ごめんね。隣いい? たまに来てるの見かけるけどナオの知り合いだったんだ」
 きれいに整えられた眉にすっきりとしたアイライン、口紅もいやらしくなく、目の前で気安い笑みを浮かべるリサはナオ君より二つか三つくらい年上に見えた。話し方がいかにも自分より目下の子どもに向けたような響きで、それは単に私がひねくれていたからかもしれないけれど、あまりいい気分ではなかった。
「『タキタベーカリー』の親戚の子で、今そこに住んでんの。店の手伝いもしてるから、うちもお世話になってるんだ」
 ナオ君は私のことをそんな風に紹介しながら、水の入ったグラスを二人の前においた。それから思い出したように「リサの後輩だわ」と付け加える。
「ハルヒちゃん、もしかして大学一緒? 私ナオと同級なんだけど、一浪してるから今年で院の一年目。経営のね」
「あ、私は人文の一年、です」
 リサは何が楽しいのか「本当?」とテンションの高いまま私に体を向け、
「若いねー。うらやましい。私なんてもうオバサンだよー」
と、絶対思ってもいないことをヘラヘラと口にした。ヘラヘラと、というのは私の主観だ。
「十八?」と問われたので素直にうなずいたけれど、来月で十九だと言う前に、高波と呼ばれた男性が口をはさんだ。
 「十八かあ。ナオミチ、可愛いからって未成年に手ぇ出すなよ。五つ下なんて犯罪だ」
 心臓がギュッと潰されたようだった。高波の口にしたのが冗談だということは分かっている。ノリで、そして絶対ありえないと思っているからこそ口にできるその言葉に、「ほんとほんと」と、リサは被せるように囃し立てる。堪らず唇を噛んでいた。
「分かってるよ、そんなの」
 それがナオ君の声だと認めたくなかった。
「ハルヒちゃんだって、俺みたいなオッサン相手にしたくないって」
 その言葉に「そんなことないよー」と軽く返せるくらいなら、私の隣にはとっくに誰か男の人がいたはずだ。けれど実際の私はそうじゃない。恋愛に慣れてもいないし、ナオ君の言葉を否定してみたところで、リサや高波に「やめときな」と言われるのが関の山だ。
 そのあともリサにからかい混じりの質問をされ、私は愛想笑いと適当な相槌でその場をやりすごした。それはとても長い時間で、ともすればこぼれそうになる涙に意識を向けないように必死でヘラヘラ笑っていた。ヘラヘラ。そう、本当に中身のない笑顔を浮かべて、代わりのように心の中は空っぽになっていった。
 リサと高波が「また夜ね」とナオ君に声をかけて店を出て行く。ナオ君が彼らを見送りに出ている間にそそくさと会計を済ませ、ちょうど店に戻ってきたナオ君に「私も帰る」と言ってドアを開けた。「あ……」という中途半端なナオ君の声が聞こえたけれど、気付かないふりをして店を出た。
「あ、帰るの?」
 正面から聞こえた声に顔を上げると、買い物袋を両手に持ったマスターは「ドア開けてくれる」と少し媚びるような眼差しを向けた。優しい笑顔に涙腺の我慢がきかなくなりそうだったけれど、いつも通りの自分を作って「どうぞ」と出てきたばかりのドアを開ける。
「ハルヒちゃん、何かあった?」
「いえ。外、暑いですね。溶けちゃいそう」
 マスターは安心したように「またね」と口にし、私は「ごちそうさまでした」と軽く頭を下げて背を向けた。カランという音と、バタンとドアの閉まる音。それを確認してから『タキタベーカリー』ではなく、次の角を曲がって県立博物館へと続く道を走った。
 汗が次から次へと流れ落ちて、服も、顔もぐしゃぐしゃになっていた。博物館には入らず、前庭の端で日陰に座り込み、そのまま膝を抱えて涙を流した。声を上げないように、出てくる汗と涙をじっとハンカチで押さえて、それがおさまるのを待っていた。 
 その日以来『豆蔵』には行っていない。「大学でレポート」というありきたりな理由と、懸命に作り上げた普通の私の笑顔に、ナオ君はそれ以上深く問いただすことはしなかった。
 彼にとってもその方が良かったのかもしれない。何となく雰囲気でキスしてしまった、たいして好きでもない女の子。そんな私がストーカーみたいに店に押しかけたら迷惑だ。
 私の心から甘く切ない恋心が消え、けれど気づいてしまっていた恋心が簡単に消え去ることもなく、苦しさだけが募っていった。
 ――ナオ君、どうしてキスしたの?
 その言葉の破壊力を考えるとどうしても口に出来なかった。口にしてしまったら私の恋は完全に終了。そうなれば顔を合わせるのも気まずくて、バイトもまともにできそうになかった。だから聞かない。自分の気持ちは心の中におさめて、報われない恋は自分で整理をつければいい。

ハルヒ〈3〉成形

『シェ・アオヤマ』への納品を終えて店に戻ったのは、十時をまわった頃だった。そのまま母屋の二階にある自室に戻り、服を着替えて化粧をなおす。
 聞き慣れた車のエンジン音がかすかに耳に入り、磨りガラスの窓をすこし開けてそっと外の様子をうかがった。店の前には白のワンボックスカーが停まっていて、ドアベルの音と、ナオ君の声が聞こえた。時計はちょうど十時半、今日の『豆蔵』はそれほど忙しくないようだ。
 ブゥンという音がし、ちらと窓の外をのぞくと『豆蔵』の車はなかった。
 会いたい――この胸にあるもやもやはきっとそういうことだ。こんな風に会おうと思えば会える場所にいなければ、もっと簡単に忘れることができた。いっそ誰でもいいから彼氏でも作って、そうすれば失恋の傷は癒えるだろうか。
 私のイケてない友人は夏のあいだに破局し、そして新しい彼氏ができていた。「付き合おうって言われたから付き合ってみることにした」そんな風に言った彼女の服は以前と違ってオーガニック系になっていた。
「ハッピーファームで彼氏と搾乳体験してきた」と彼女はそのときの事を思い出すように両手の指を順に握り込む。きっとイケてないのは私の方だ。
「ハルヒは理想固め過ぎなんだよ」
 たぶんそうなのだろう。理想というより、視線がナオ君以外の人に向かない。その姿を網膜に映さないようにしているのに、頭のなかに刻まれた彼の笑顔と、蘇る唇の感触は、私を囚えて離さない。
「一人暮らし、しよっかな」
 そうすればナオ君と顔を合わせることもないし、『タキタベーカリー』は私がいなくても特に問題があるわけではない。けれど、実際に一人で暮らすのは経済的に無理だった。どうしようもなくなったらアルバイトを他のところに変えてみよう、そう考えたら少しだけ気が楽になった。
 出かける前に何かお腹に入れておこうと階下へおりると、店への扉がガチャリと開いた。
「あ、階段の音がしたから降りてきたと思った」
 叔父さんはそう言いながら私と並んで台所に向かう。
「お店は?」
「もうほぼ売り切れちゃってるし、店番はあいつに任せた。平井さんが戻ってきたらもうひと働きかな」
 昨日のシチュー温めるけどいる、と聞かれ「うん」とうなずいて叔父さんの代わりに冷蔵庫の中から鍋を取り出し、火にかけた。
「座ってていいよ。私やるから」
 叔父さんは素直に椅子に座り、木べらを鍋に突っ込んだ私の気を引くように、「これ」と不器用な声をかけた。手にしているのは薄茶色の封筒で、その右下には『豆蔵』と見慣れたスタンプが押されている。
「ナオ君が、ハルヒちゃんに渡してって」
 そう、と口にしたきり動けないでいる私に「俺が開けようか?」と叔父さんが笑う。開ける気もないのに、私をからかっているのか、なにかを感じて気を遣っているのか。私は視線を逸らさないまま、木べらを持った手だけを動かした。
「たぶん、CDが入ってる。手触りがそんな感じだ」
「……いいよ、開けて」
 叔父さんは真顔になって私を見ると、「了解」と中身を滑らせるように取り出した。とてもあっさりとした動作だった。出てきたのはやはりCDで、四つ折りにされた紙切れがテーブルの上に落ちた。
「……おいおい」
 驚きの声をあげたのは叔父さんで、私はその反応を見てテーブルに近づき、彼の手にしたCDに絶句した。
「ハルヒ、ガス止めて。焦げる」
「はいっ」
 条件反射のようにバイトの時と同じ返事をし、コンロのつまみを回して火を止める。その作業で私はすべての肩の荷が下りた気分になり、叔父さんの向かいの椅子にストンと腰をおろした。
 Bryan Adams 「Back To You」
 転がったままの紙片を指先でつまんだ叔父さんは、「ほら」と私に差し出した。部屋で一人のときに開ければよかったと後悔していた。叔父さんは立ち上がってガスコンロの火をつけ、木べらで鍋を混ぜる。その距離に叔父さんの気遣いを感じる。
 Back To You――そんなことを言ってもらえる関係は、私とナオ君のあいだにはない。
 期待してもいいのだろうか。それとも、この小さな紙切れを開いてしまえばまた苦しみの底に落とされるのだろうか。ナオ君から逃れようとする心は、いつも彼の元に戻りたがっている。ナオ君は、あの夢のような夏の夕暮れを特別だと思ってくれているだろうか。あの距離に戻りたいと思ってくれているだろうか。
 そっと紙を広げた。そこにあるのは、『豆蔵』の伝票で見たことのあるナオ君の字。
『CDの意味はタキタのおじさんに聞いて。ハルヒに会えないから「レスプリ・クニヲ」に誘えない』
 言葉のあとに携帯電話の番号が書かれていた。
 いいんだろうか。まだ十九の私を、お酒も飲めない私をフランス料理のお店に連れて行こうなんて。
 ――ナオ君、あのときどうしてキスしたの?
 ――ナオ君、私のこと、すき?
 聞いたら、どんな返事をしてくれるのだろう。
「CDの意味、叔父さんに聞いてって。でも叔母さんに聞いたよ」
 私の声は少し震えていた。
 立ち上がって、叔父さんと叔母さんと、平田さんの三人分のスープ皿を食器棚から取り出す。私はスープカップを取り出し、温まったシチューをそこに入れた。叔父さんの隣で立ったまま口をつけると「こら」と怒られる。私は椅子をくるりと回し、コンロの前に立ったままの叔父さんと向き合うように腰をおろした。
「俺があいつにやったCDは、元々ナオ君の親父から貰ったもんなんだ」
 え、と目を見開く私に「内緒な」と叔父さんは共犯者の笑みを浮かべる。
「あいつも話したんだろうけど、俺がこの店を先走って決めて、ちょっと喧嘩してたんだ。喧嘩っていうか、もう無理かなって思ってた」
 叔父さんはその頃を思い出しているのか、ひとつ溜息をついた。叔母さんの話していた感じとは少し違っていた。
「私、叔母さんは叔父さんのこと待ってたと思うよ。そんな話し方だった」
「ああ。あいつのほうが一枚も二枚も上なんだ。俺が泣きついてくるって分かってて放っておいたんだろうな。でもあいつが思うより俺はもっと、何ていうか駄目でさ。なかなか」
 叔父さんのこういう自信なさそうなところは嫌いじゃない。駄目だ駄目だといいながら毎日ちゃんと働いているし、パン作りにはこだわりもある。そのこだわりを商売として成り立たせているのが口から生まれてきた叔母さんだ。
 二人はちゃんと役割分担ができていて、仕事ぶりはお互いを尊重していた。叔母さんも「あんな男」なんて言いながら、ときおり恥ずかしくなるくらいに少女のような目で叔父さんを見つめている。子どもがいないせいかもしれないけれど、二人のあいだにはまだ若い恋人のような雰囲気が見え隠れしていた。
「『豆蔵』のマスターは、叔父さんが叔母さんと別れて泣きついてきたって言ってたよ」
 私がそう言うと、叔父さんは「ははっ」と可笑しそうに笑った。
「俺が泣きついた、かあ。まあそうとも言える。でも泣いてたのは直人(なおと)も一緒だぞ」
 叔父さんは言い訳するように口にし、気付いたように「直人ってのはマスター」と言い足した。
「直人の奥さんが死んだんだ。ナオ君の母親」
「……え?」
「ナオ君はまだ幼稚園だったかなあ。交通事故でね。葬式では直人も気丈に振る舞ってたんだけど、どうも心配で店に顔見に行った。そうしたら準備中の札出したまま、カウンターで泣いてるんだよ。奥さんと店始めて一年くらいしか経ってなかったと思う。話しかけづらくて、隣に座ってたら、あいつがリモコン手に持ったまま何度も同じ曲かけてるんだ。それが、これ」
 せっかくだから、とリビングに向かう叔父さんの後をついて、手にスープカップを持ったまま立ち上がる。古びたCDラジカセから流れ出した音は、どこか懐かしい響きだった。郷愁と甘美を引き連れて、風のように心のなかを過ぎ去っていく。
「ブライアン・アダムス。直人の奥さんが好きだったんだって。たぶん奥さんの字なんだろうけど、日本語訳を書いた紙を見せてくれて、何ていうかな、こいつらにも色々あったんだろうなって思ったんだ。――支えてくれていたことに気づいたから、君の元に帰る。それを星に願い、戻る日はもうすぐ来る。直人はどんな気持ちで聴いてたんだろうな」
 この世にいない相手の元にどうやって戻れるだろう。会いたくても会えない。声を聞きたくても聞けない。アルバムのなかの姿と、彼女の好きだった音楽を聴いて、マスターはどこに戻ろうとしたのだろう。戻る必要はなかったのかもしれない。ふたりは同じ時を過ごしていたのだから。
「曲が切れたときに、直人が『亜紀さん元気か』って聞いてきたんだ。『喧嘩中』って言ったら『傷心の男に泣きついてくんな』って追い返された。そのときにCD押し付けられたんだ。戻る場所があるんだから戻れって。歌詞の書いてあった紙はあとで返したけどな」
 ソファに座っていた叔父さんはパンッと膝を叩いて立ち上がった。湿っぽい空気を吹っ切るような満面の笑みで、「だからな」と私の頭をなでる。
「そういうことだと思うぞ。いつのまにそんな事になってたのか知らんけど、男は馬鹿だから大目に見てやれ。ナオ君のほうが年上だっていっても、精神年齢じゃあどっちが上か分からんからな」
 ナオ君は、私の隣にいたいと思ってくれているのだろうか。本当にあの距離に戻りたいと思っているのだろうか。
「まだまだ人生これからだし、ぶつかることもあるだろうけど、ぶつかってみないと分からないこともある。ハルヒが嫌なら放っておけばいいし、そうじゃないなら連絡してあげなさい」
「……ナオ君も、マスターからCD貰ったのかな」
 私の言葉に叔父さんは「どうかな」と笑った。
「分からないことは本人に聞いたらいいんじゃないのか?」
 叔父さんはそう言い残して店に戻っていった。じきに三人が母屋にやってきて、軽く昼食にしたあと午後の作業に入る。いつの間にか日常になったその光景は、私がここにいることを許してくれる。けれど、場所を与えられるのを待っているだけでは、共に時を過ごすことはできない。
 コートをはおり、リュックを背負って店をのぞくと、ちょうど平田さんが帰ってきたところだった。「今から大学?」と目を細めるゴマ塩頭の彼は、本当のお祖父さんのような気がしてくる。ここにいる間だけの私の家族。叔父さんと叔母さんと平田さん。私はもっとこの土地が好きになれそうな気がした。
 ナオ君に、マスター。そしてナオ君のお母さん。ほんの少し触れた彼らの過去は、リップサービス過剰な豆蔵父子の普段の姿からはとても想像できなかった。私はもっとそこに近づきたい。『豆蔵』は私にとってすでに「戻りたい場所」だった。
「行ってきます!」
 張り切って声をかけると、作業場にいた三人はキョトンと動きを止めたあとくすくすと笑った。いってらっしゃいという三重奏を聞きながら、母屋の玄関を出る。大学方面のバスを待たず、私は白い息を吐きながら歩道を駆けた。
 驚くだろうか。それとも忙しくてそれどころじゃないだろうか。
 不安は胸の内にあり、そして「会いたい」という気持ちだけが私の足を前へと進めていた。もうすぐ、もうすぐ見えてくる。その景色は夏から秋を通り越して冬になっていた。
「こんにちは!」
「あれ? ハルヒちゃん久しぶり。いらっしゃい」
 マスターの声で振り向いたナオ君の目が、おかしいくらいに見開かれていた。

〈ハルヒ・了〉 

リサ 〈1〉コバルトブルー

 くすんだ染みの浮かぶ天井をながめながら目薬を差していると、すぐ後ろでガチャリとドアの開く音がした。つづいて能天気なナノカの声が聞こえる。
「リサ、おつかれちゃん」
 爽快な刺激を瞬きでなじませながら「おづがれー」と掠れた声で返事をした。耳元でカサカサと聞こえるのはレジ袋が揺れる音だろう。なにより漂ってくるこの香りは、
「肉まんっ。ナノカ、気が利くぅ」
 机の上のファイルを閉じてパソコンの上に一旦避難させ、キーボードをディスプレイの方へと押しやった。
 B4サイズほどのスペースが空くと、研究室の素っ気ない蛍光灯の明かりを反射したナノカの指先が、見慣れたコンビニの袋をその場所に置いた。
 私の目のまえに差し出されたナノカの爪は、「雪をイメージしたの」という言葉の通りヌードピンクと白のフレンチネイルに雪の結晶とパウダースノーのようなラメがキラキラと輝いている。ナノカは私が避けた青い表紙のファイルをその指でめくり、あからさまに嫌そうな顔で鼻の頭にシワをよせた。
「あんたは佐野(さの)先輩の下請け業者か。これって先輩が飯田(いいだ)先生から頼まれてたやつでしょ。リサ、いつもそんなんで自分の研究進んでるの?」
 取り出した肉まんに芥子をつけていると、ナノカはまた顔をしかめる。彼女曰く肉まんには酢醤油らしい。そして、彼女自身は最近お気に入りの四種類のチーズまんを手にし、隣の椅子に腰をおろした。かじられたチーズまんの中身が白い糸を引いた。ナノカはそれを口で追いかけ、飲み込んだあと、もう一度同じことを口にする。
「リサ、自分のデータ収集やってる?」
「ぼちぼちね」
 適当な返事にナノカは納得するはずもなく、ふんっと荒い鼻息を吐いた。
 私が調査しているのは『(ほむら)の土』という漫画に関連するいくつかの店だ。六年前から青年向け漫画雑誌で連載されている『焔の土』の舞台となったのは県東部にある二つの窯元と、県中部の物産館を併設した比較的大きな窯元だった。
 三年前からアニメ化もされ、窯元めぐりに加え、漫画に登場した喫茶店や、畑のど真ん中にある三体並んだお地蔵様を訪れるのがファンや若い女性のあいだでブームとなっている。いわゆる「聖地巡礼」だ。
 映画化も決まり来春には撮影に入るらしいが、ブームの初め頃は観光客とのトラブルもいくつかあった。観光向けに整えられた窯元ばかりではないし、それは他の場所でも同じだった。
 訪問前に要連絡との断りがあるにも関わらず無遠慮に窯元を訪れ、写真を撮り騒ぐだけ騒いで帰っていく。さして広くもない農道に路上駐車して農業用機械やトラックの通行を妨げる。何にせよ地元民にとっては寝耳に水の出来事で、すべてが後手に回ってしまった感があった。
 そんな中、最初にマナー遵守を呼びかけたのもやはりファンだった。
 ファンサイトやSNSから広がる「(うつわ)の心」という名を冠した活動は、日々の生活に目を向け穏やかに過ごそうというもので、それは聖地の住民の日常を乱す輩への強い批判となった。
 その活動はメディアでも採りあげられ、行政が遅まきながら重い腰を上げるきっかけとなった。最近になってようやく混乱もおさまり、ある程度の観光ルートにしたがった「聖地巡礼」が行われている。
 だが、窯元があるのは概してアクセスの悪い場所で、移動距離も長い。点在した聖地から聖地までファンは自家用車なりレンタカーなりで移動する。その点から点までを繋ぐ線上で、俗な言い方をすれば「金を落としてもらう」ための戦略というのが必要だが、それもまた行政は後手に回った。
 すでに地方誌だけでなく全国誌でも「焔の聖地」の特集が組まれ、漫画に登場した場所だけでなく、関連施設や駅近くのギャラリーなどが紹介され、そのおかげで少しずつ経済効果は広がりつつある。
 映画の公開はまだ先の話だが、『焔の土』はブームで終わらないだけの可能性を秘めている、と私は考えている。
 大半のファンは聖地を訪れるとともに、それぞれの窯元で器を購入する。生活に根ざした「用の美」を追求する民藝品としての器は、一度その人の生活の中に入り込んでしまえば一生涯のリピーターともなり得る。
 観光が終わった後も、ブームが去ったあとも、いくら離れた場所に住んでいようがネットショッピングで器は簡単に購入することができる。
 漫画という著作物と、商品である器。それを戦略的に結びつけることで双方に利益がもたらされることは容易に想像できる。が、実際どのような作品がヒットするかなんてヒットしてみないことには分からない。
 色々考えていると結局は自分がどんな研究をしようが無力なのではないかと思えてくるのだけれど、とりあえず現実を把握することが第一だろうと自分に言い聞かせ、窯元をはじめ数カ所でブーム前後の状況を聞き取りしている。
 そしてありがたいことに、その内ひとつが知り合いの営む『豆蔵』という喫茶店だった。
 知り合いというか、同級生の父親が店を経営していて、その息子である私の同級生もそこで働いている。その店は漫画に登場したわけではなく『Japan Life』という全国誌の聖地特集に小さく紹介されただけだ。
 調査協力を申し込んだ飲食店はいくつかあるが、引き受けてくれたのは同様に雑誌のみで採り上げられた店ばかり。漫画に登場した二件の店は多忙を理由に断られた。一方窯元やギャラリー、雑貨店は調査自体に興味があるのか、みな快く依頼を引き受けてくれた。
 けれど、いま目の前のディスプレイに映し出されているのは、地元飲料水メーカーのプロモーションツイートへの反応を示したグラフ。赤と緑のクリスマスカラーで示された月別の棒グラフがどうにも癪だった。
「リサ、あとどれくらいで終わる? 帰り何か食べて帰ろう」
 ナノカの誘いにスマホを開いて時刻を確認すると、いつの間にやら16:43。
「データ整理はあと十分くらいで終わるけど、『豆蔵』行くって言ってあるから今日はパス」
「あー、なら仕方ないか。あの店がもう少し遅くまで開いてたらそこで食べてもいいんだけどね」
『豆蔵』の閉店時刻は午後七時。閉店後に行くという約束なのだけれど、それまでにコーヒーで一息つきたかった。
 肉まんを食べ終えて底に付いていた紙を丸めレジ袋に入れる。その仕草を見ていたナノカが私の手をとった。
「すっかり女を捨てたわね、リサ」
 ナノカはそう言いながら透明なマニキュアしか塗られていない私の爪をなぞる。
「捨ててないよ。TPOをわきまえてるだけ」
 秋に入って初めて訪れた窯元は「山井窯」だった。
 快く調査に協力してくれた山井(やまい)吾郎(ごろう)さんは終始笑顔だったものの、唯一真顔でちらりと視線を向けたのが私の爪だった。ピンクとホワイトのシンプルなフレンチネイル。私としては許容範囲のつもりだったけれど、あまり心象が良くないのは伝わってきた。私の指先の白はいかにも作り物めいた人工的な白。彼の爪は白い部分がまったくないのではないかというくらいの深爪。そしてその手から器が形作られるのだ。
 私はその日以来爪を飾ることをやめた。
「TPO? 今日相手にするのは『豆蔵』でしょうが。何年の付き合いでTPOとか言ってんの」
 ナノカはそこで言葉を切り、きょろきょろと辺りをうかがう。それから私に顔を少し近づけて囁いた。
「リサ、飯田先生のことはもう吹っ切れた?」
 え、と言葉に詰まる。
「リサ、夏頃までは女子力高かったのにね。マニキュアやめたのも、あの頃じゃなかった?」
 ――あの頃。
 夏の終わり、秋の始まり。九月に入ったばかりだっただろうか。佐野先輩と飯田教授の噂が学内に流れた。飯田教授には県内の別の大学に奥さんがいるけれど、数年前から別居していた。なぜ私がそんなことを知っているかと言えば、彼の部屋に行ったことがあるからだ。そこには夫婦生活の名残があって、奥さんと仲睦まじかった頃に選んだと思われる揃いのマグカップで教授とならんでコーヒーを飲んだ。
 今年で五十一歳になる飯田教授と私の年齢差は二十七。父親でもおかしくないくらいだけれど、実際の私の父は来年還暦を迎える。教授の見た目は父と比べるのが申し訳ないくらい若かった。それはつまり「お盛ん」だったということなのかもしれない。けれど二股できるほど器用ではない彼は「この部屋で会うのは終わりにしよう」と連絡を断った。連絡を断ったと言っても大学に行けば顔を合わせる。が、そこに彼の部屋で向けられた親密な笑みはなかった。
 結局なんだったんだろう――ふと思い返すたびにそう思う。
 教授の部屋に行けなくなったことは寂しかった。けれど悲しくはなかった。しばらくのあいだ「先週のこの時間は彼の腕の中だった」などと思い出して寂しさを満喫していたけれど、心にできたその隙間は意外にも早く埋まっていった。それを埋めてくれたのは調査協力を引き受けてくれた人達で、その中でも『豆蔵』は特別だった。
 調査に関係なく以前から『豆蔵』には定期的に顔を出していたけれど、暇が出来れば一番にそこに向かうようになり、いつしかほっと安らぎを覚えるようになっていた。何より、『豆蔵』のマスターはいつでも笑顔で迎えてくれる。その息子であるナオは気分によりけりで、そして最近の彼は少々落ち込み気味だ。その原因は私にもあった。どうやら彼の恋路に私が余計な茶々を入れてしまったらしい。
 夏の終わり、秋の気配などあるはずもない八月の末。『豆蔵』のカウンターで一人サンドイッチにかぶりつく女の子がいた。それは何度か見かけたことのある子で、話を聞くと『豆蔵』にパンを卸している『タキタベーカリー』の親戚で、店舗併設の母屋に住んでいるということだった。
 大学一年生で、まだ十八歳だというその女の子は分かりやすくナオを意識していた。ナオが彼女に好意を抱いているのは伝わってきたけれど、それが恋愛なのか妹のようなものなのかは分からなかった。
 私がそのとき感じたのは嫉妬以外の何ものでもない。彼女はたしか「ハルヒ」という名前だった。ハルヒは十八歳、ナオは二十四歳。大した年齢差もないのにオドオドと会話をやり過ごす彼女の態度が気に食わなかった。明らかに私の存在を意識しているはずなのに、張り合おうとしないことに無性に腹が立った。
 ――私は、二十七歳も年が離れてるのに。
 そんなやり場のない怒りを隠しながら笑顔で放った言葉の数々。あれは単なる八つ当たりで、あの日以来ハルヒが店に来ないと溜息をついたナオに、ようやく二人が両思いだったのだと知った。
 恋人になりきれていなかった二人をからかい混じりの言葉でかき乱したのは私だ。いや、私ともう一人その場にいた「高波」という同級生も同罪だけれど、彼に悪気はなかった。悪気があったのは私だけ。芽吹きはじめた新しい恋が、目の前で華開かないように捻り潰したのだ。
 夏のあいだ、教授は私を部屋に呼ばなかった。恋人でもない私が「部屋に行きたい」などと言えるはずもなく、まして教授と教え子。合意の上の行為とはいえ、何かの拍子に問題にならないとも限らない。だから私から誘うことはなかった。
 単なる責任回避だったのかもしれない。けれど必要とされない苛立ちはじわじわと積り、それとともに私は鎧を纏うようにネイルやメイクに時間をかけるようになった。恋というよりも、意地だった。努力すれば認められる――そんなことはないのに。人間関係、とくに恋愛においては。
 私はそんな自分勝手な苛立ちを十八歳の女の子に向け、そして、私の知らないうちに教授の部屋にあったあのマグカップは佐野先輩の手に収まっていた。今にして思えば皮肉な話だが、あのペアになったマグカップは山井窯のものだ。教授と並んで手にしていた時はそんなこと気にも留めていなかった。
 私は山井窯の一件を理由に自身を飾ることを少しずつやめていった。もちろんそれは後付けの理由で、私は佐野先輩と飯田教授の噂を耳にして以来、それまでの自分のメイクやファッションに違和感を感じるようになっていた。自分がひどく間抜けな裸の王様のように思えたのだ。
 無理に大人ぶって何が手に入ったというのだろう。佐野先輩と張り合おうという気になどちらりともならず、そして、秋の深まりとともに徐々に埋められていく寂しさと、胸に去来することのない悲しみ。私はようやくあれが恋慕の情ではなかったのだと悟った。
 結局、あれはなんだったんだろう。
 未だにその答は出ていないし、答が出ても出なくてもどうでもよかった。今でも教授のことは嫌いではないし尊敬してもいる。そう思えること自体、やはり恋心の不在を証明している。
 チーズまんを食べ終えたナノカは「まだ傷心中?」と心配げに私の顔をのぞき込んだ。彼女の息からピザソースのような匂いがして、『豆蔵』のピザトーストが無性に食べたくなった。
「先生は先生。吹っ切るも何もないよ。呆気なさすぎて、もっと傷つきたかったくらい」
「よく言う。春頃は先生からの連絡に一喜一憂してたくせに」
「そうなのよね。私、もしかして薄情者なのかな」
 本気でそう思って悩んだりもした。もしかして私は一生まともに人を愛することができないんじゃないだろうか。恋い焦がれてるつもりで、いざとなったらあっさり身を引いてしまう、そんな無責任な人間なのではないだろうか。
「リサは今『豆蔵』に夢中だもんね。男じゃなく調査対象ってところが難だけど、打ち込めるものがあるから吹っ切れたんじゃないの?」
 ナノカに言われるとそんな気もしてくる。が、私にとっての『豆蔵』は「調査対象」という言葉では片付けられないくらい大きな存在になっている。マスターの――直人(なおと)おじさんの笑顔が頭に浮かび、居ても立ってもいられなくなった。
 さっさと終わらせて早く『豆蔵』に行こう。そしてコーヒーと、ピザトーストを注文しよう。
「飯田先生、奥さんと離婚成立したらしいよ。春に佐野先輩と入籍するんだって」
 ナノカは私の様子をじっとうかがっていたけれど、私の口からは「ふうん」という相槌しか出てこなかった。頭のなかにも「ふうん」しか浮かばず、それよりも『豆蔵』のことを考えていた。

リサ 〈2〉深海の青釉

『豆蔵』の駐車場に着いたのは午後六時になる少し前だった。
 日はすっかり暮れていて、吹きつける風はすっかり真冬のものだ。車から店までのたった数秒の距離で体温が奪われていく。肩を縮めながらドアを開けると「いらっしゃい」という耳慣れた声が聞こえた。 
「こんばんはー」
 カウンターの向こうに立つのは直人おじさんと、その隣にナオ。厨房の入り口からひょこりと顔を出したのはアルバイトのミキちゃんだ。そして、カウンターに座っていた男性がくるりとこちらを振り返った。
「リサじゃん」
 人懐こい笑みを浮かべたのは同級生の高波だった。私と二人でナオとハルヒちゃんをからかった共犯者だ。
 私は高波の隣に座り、コーヒーとピザトーストを注文した。「トマト多めにしとくね」という直人おじさんの笑顔につい頬がゆるむ。
「リサ、例の大学の研究?」
 高波はいつから来ていたのか、コーヒーカップの中身はあと二口ほどしか残っていなかった。
「うん。七時に来る約束だったんだけど、その前にコーヒーでひと息つきたかったんだ。高波は久しぶりだよね。最近仕事が休みの日でも顔出さなかったのに」
 高波は『レスプリ・クニヲ』というフレンチ・レストランのシェフをしている。
 実家暮らしの彼の父親は、昨年末に逝去した。それを機に実家に戻ってくることになった兄夫婦と春から同居をはじめ、以来家に居づらいのか、よく仕事が休みの日には『豆蔵』に顔を出していた。そして『豆蔵』の閉店後にナオや他のメンバーと連れ立って飲みに出かけ、私もそのメンバーの一人だった。けれど、ここしばらく『豆蔵』で高波の顔を見ることがなかった。
 何かあったのかと問うと、彼は照れくさそうに鼻の頭に皺をよせ、にやにやと口元を緩ませた。
「最近、姪っ子がかわいくて。まだ三歳なんだけど、俺の足に抱きついてきたりすんの」
「へえ、和解したんだ」
「和解って。別に喧嘩とかしてたわけじゃないけど、前よりは義姉(ねえ)さんと話すようになった。一緒に料理したりしてるんだ」
 どうやら、高波は『豆蔵』で寂しさを埋める必要がなくなったようだった。
「楽しそうだね。もしかして義姉さんのこと好きになったとか? 禁断の恋」
 ばあか、という高波も、その言葉を口にした私も、カウンターの向こうでそれを聞いていたナオも、みんな冗談だと分かっていた。なぜなら高波には片思いの相手がいる。報われることのない、恋人のいる年上の女の人への秘めた片思いだ。
 さっさと諦めればいいのに、なんて思いながら、高波は誰に相談することもないので放っていた。彼の気持ちを私達が知っているのは酒の席で強引に喋らせたからだ。
「あ、そうだ。俺、吹っ切ったから」
 義姉さんの話のついでというような、あまりにも軽い口調だったので一瞬意味を理解しかねた。私はナオと顔を見合わせ、そして彼も戸惑った顔をしている。
「チャンスはあったんだけど、たぶんチャンスじゃなかったんだろうな」
 高波は独り言のように誰に言うともなくつぶやき、「っていうことだから」と追求を拒むようにコーヒーに口をつける。
 私もナオも「そっか」と言ったきり言葉が出てこなかった。変な沈黙が流れそうになったとき、
「リサちゃん、おまたせ」
と直人おじさんがピザトーストを私の前に差し出した。
 私は労いのような気持ちを込めて、高波にそれを半分あげた。というより、肉まんのあとのピザトースト完食は無理があった。
 さっさと食べ終わった高波が、パンにかぶりつく私の隣でナオに声をかける。その声色は何だか楽しそうだった。
「ナオミチ、例の報告しろよ。リサだってモヤモヤしたままだろうから」
 私がモヤモヤ?
 一体何のことかとナオの顔を見ると、その横で直人おじさんが「あのね……」と口をはさんだ。ナオは「やめろ」と慌てて阻止し、じゃれあうような父子の姿に私はなぜかほっと胸があたたかくなる。
 ナオの母親は、彼が五歳のときに交通事故で死んだ。小学校から一緒だった私は、親から「ナオ君ちは大変なのよ」と聞かされ、けれど、直人おじさんはいつも笑顔だった。ナオは、たまに寂しそうだった。
 二人は直人おじさんの生家で暮らしていて、ナオのお祖父さんとお祖母さん、つまり直人おじさんの両親も健在だ。小さな頃にナオの顔に浮かんでいた寂しさは、もう私には見えない。見えないというより、彼が見せなくなったのかもしれない。
 腐れ縁のような仲ではあるけれど、どこか縮まらない距離が関係を長持ちさせているようにも思えた。
「あのさ……」とナオは口元をひくつかせた。クラス替えのあった始業式の日の自己紹介、それと同じ照れのようなものが顔に浮かんでいた。そのくせ喋り始めると嘘かホントか分からないような言葉でまわりを笑わせる。口から生まれた親子、それは私だけでなく『豆蔵』の常連に共通する認識だった。
「……ハルヒが、店に来た」
 口から生まれたはずのナオの言葉が、聞いたこともないくらいの短文で終了した。
「で?」
 私がその一言で続きを促すと、「彼女になりました」とニヤけた笑みを浮かべた。
「十八歳かあ」と高波が感嘆の溜息とともに漏らすと「十九」とナオは間髪入れずに訂正する。
「九月で十九になったの。だから五歳差」
 胸を張るナオに、「年なんかどうでもいいだろ」と言ったのは直人おじさんだった。そして「ね」と私に微笑む。胸がチクリと痛んだ。
 何度か調査と称して『豆蔵』の閉店後に話を聞き、ナオも同席することもあったけれど、だいたい直人おじさんと二人だった。
 奥の事務所で向かい合って、そのあいだにナオや他のスタッフが店の片付けをする。彼らが帰ってしまえば二人きりだった。そして、飯田教授のことをちらりとこぼしたことがあった。
 教授だなんて口にしていない。ただ、二十七歳離れた人と上手くいかなかった、話したのはそれだけだ。
 直人おじさんは「年のせいなの?」と聞いて、私が何も答えられずにいると、頭をなでて「大丈夫だよ」と笑った。何が大丈夫なのかは分からないけれど、「大丈夫なんだ」とお腹の深い場所にその言葉が落ちていった。
 多分その時からだ。『豆蔵』に来ることで、直人おじさんの顔を見ることで、ほっと安らぐようになった。けれど、その一方で二人きりになることに緊張するようになった。また頭をなでて欲しいと思い、でもそれは駄目だと心のどこかで分かっていた。
 直人おじさんはナオのお父さん。そして、私よりも二十五歳年上で、飯田教授よりも二歳年下。私の父より十歳も下だ。
 ――年のせいなの?
 年のせいならよかった。年のせいなら、胸の奥からちらりと顔を見せはじめたこの感情に蓋をすることもなかった。胸をトクトクと突く切なさに、辛うじて希望を持つこともできた。でも、年のせいじゃない。
 年なんかどうでもいいだろ。その直人おじさんの言葉が胸に刺さる。
 実際に年なんかどうでもよくて、私の目の前にはもっと高い壁がそびえ立っている。壁だと認識できないくらいに高いそれは、私がそこに背を向けることを、目を逸らすことを当然のように要求する。
 私ができるのは、その壁にもたれかかかることで視界から壁を消すことくらいだ。背中にその存在を感じるだけでいい。抱きしめてほしいなんて思わない。思っちゃいけない。
 あまり考えすぎると、目の前にあるその笑顔さえ直視できなくなりそうだった。
 返事を待っている直人おじさんに「年の功って言いますからね」と脈絡のない言葉を返してピザトーストをほおばった。彼は笑顔のまま「俺のことか」と独りごち、ナオと高波がケラケラと笑った。
 唐突に「あ」と高波が笑いを止めた。
「リサ。クリスマスディナー予約するならそろそろ限界だぞ。二十三日とイブはもう埋まってるし、辛うじて二十五日の月曜が空いてる。予約するかもって、前言ってただろ」
 言った記憶はあった。それは願望のような呟きで、まだ寂しさを飯田教授で埋めていた頃の、夏のはじめの妄想だった。どうしてそんな真夏にクリスマスの話をしたのだろうと考えて、年末に同窓会でもしたいなんていう話題になったことを思い出した。結局、同窓会もその時のノリだけの話で、具体的に集まる算段などしていない。
「天下の『レスプリ・クニヲ』に予約するなんて、ただの願望に決まってるじゃない。行く相手もいないし、ちょっと敷居が高い」
 実際にそこで働いている高波は私の言葉にピンと来ていないのか「そうか?」と首をひねった。人気のフレンチレストランだが、私達の年代にとっては少し背伸びしてようやく踏み込むことのできる店だ。
「でも、ナオミチは例の彼女と予約入れたぞ」
 平然と言い放った高波の言葉に、最初は高波を見返し、それからナオに目を向けた。ナオは「いいだろ、別に」と未だ歯切れが悪く、今日のナオは気持ち悪いが面白い。そして少し見直してしまった。
「あ、分かった。リサ、相手がいないなら直人おじさんは?」
 高波の声は不必要に大きい。会話の合間に厨房に引っ込んでいた直人おじさんが「何」と顔を出した。
「リサがクリスマスデートしませんかって」
 笑い混じりの高波の言葉で、私の心臓は急に速まった。そんな私に気づくはずもなく、直人おじさんは「いいよー」と軽く返してくる。冗談なのか本気なのか、余計に混乱する私に「ね」とまた笑みを向けた。
「息子と同い年の女を口説くなよ。エロ親父」
 ナオの何気ない言葉がずっしりと胸にのしかかった。
「年はどうでもいいだろ」
 直人おじさんは先程と同じ言葉を繰り返したけれど、気安い声と笑顔に距離をおかれた気がした。
「二十五日の」
 おじさんのその言葉に、ナオは何か納得したように「ああ」と声を漏らす。息子の了解は得たという様子で、おじさんは「リサちゃんもよかったら」と私を見た。
「二十五日の営業後に集まれるスタッフでクリスマスパーティーするんだけど、来れたら来て。ナオもいるし、ハルヒちゃんも呼ぶんだろ」
 話を向けられたナオは、父親ではなく私に向かって返事をした。
「あいつも来るし、『タキタベーカリー』の人も呼んでもいいかって聞かれたから、いいよって言っといた。畏まったもんじゃないから、リサも暇なら顔出したら」
 暇は失礼だろう、と直人おじさんが笑う。そして「おいでよ」と少し強い口調で言った。
 同情だろうか。恋が上手くいかなくて、一人寂しくクリスマスを過ごす私を可哀想に思ったのか、それとも息子と同い年の私を娘のように感じてくれているのか。どちらにしろ、嬉しくもあり切なくもあった。
「考えておきます」と無難に返しながら、私は何となく行かないような気がしていた。
 怖かったのだ。これ以上直人おじさんと一緒いにいたいと思ってしまうことが。きっちり閉めたはずの蓋から自分の汚いエゴがどろどろと溢れ出して、まわりの人たちを巻き込んでひどい醜態を晒してしまうことが怖くて仕方なかったのだ。
「そういえば、同窓会しようって言ってたのに全然計画してないよね」
 話題を変えたかったのもある。でも根っこにあったのはもっと別のことだった。世間に許される恋愛とはきっと若者同士のほほえましいじゃれあいで、私は幻想でもいいからそんな場所に身を投じてみようと思った。
 同級生と集まって、懐かしさに浮かれれば恋のひとつも芽生える。けれど冷静に考えれば同年代の男はナオや高波をはじめ学内にもあふれていて、そこに懐かしさが加わったからと言って今さら彼らが恋愛対象になるとも思えなかった。
 小学生の頃から好きになるのはいつも年上で、教育実習生にはじまり、塾講師、高校教師、そして大学教授。恋人のような関係になったのは塾講師で、私が高校二年のとき相手は二十六歳だった。
 飯田教授との関係は、恋人ではなかったのだと思う。そんな私が同窓会に顔を出し、そこにいる面子にときめく可能性はかなり低いけれど、無駄な抵抗でもなんでも、何かしなければという焦燥に駆られていた。
「ナオ。同窓会の計画たててよ。適当に声かけて集まろう。同級で会うメンバーっていつも同じだし、たまにはナオと高波以外の人とも飲みたい。ね、高波もいいでしょ」
 高波は何か言い淀むように「あー」と声を伸ばし、それから「うん」とうなずいた。その真意を問いただすと、少し意外な言葉が返ってきた。
「……霜谷(しもや)とも、同級で集まろうって話してたんだ」
「何それ、聞いてねえ」
 ナオが興味津々に目を輝かせる。自分がハルヒの事をつつかれた仕返しとばかりに「吐け」と口元を楽しげに歪めている。私もそれに便乗して「吐け吐け」と高波の腕を小突いた。
 霜谷というのは高校三年のときのクラスメイトで、けれど私はそれほど仲が良かったわけではない。というか、どう接していいか分からないまま曖昧に距離をおいていた。
「シモヤンって、小学校のとき何回かここ来たよなあ、リサ」
 ナオの言葉に私は「うん」と少し後ろ暗い思いを抱えながら返事をし、高波は「は?」とすっとんきょうな声をあげる。
「何、『シモヤン』って。お前ら霜谷とそんなに仲良かったっけ」
 高波の口調に嫉妬まじりの響きを感じ、私は彼の言う「吹っ切った」理由が何となくわかったけれど、ナオはまったく気づいていないのか「実はなあ」と得意気に話し出した。
「シモヤンって小学校一緒だったんだ。俺もリサも。シモヤンの弟が俺と同じ野球チーム入ってて、練習試合のあとうちの店で打ち上げしたとき、シモヤンもついて来てた。リサもな。でも、中学に入る前に田舎の婆ちゃんちに引っ越してった。高校はその田舎から二時間半かけて通ってたらしいぞ」 
「ナオミチもリサも、高校のとき霜谷と仲良かったか? シモヤンなんて呼んでたの聞いたことないけど」
 私の視線が一瞬ナオと交錯する。ナオも同じような想いを抱えているのかもしれない。
「思春期ってのはムズカシイ年頃なんだよ。シモヤンなんて気軽に声かけれるわけないだろ。それに、なんていうか、なぁ」
 なぁ、という最後の言葉は私に向けられていた。振られても何と説明していいか分からない。
「タイミング逃したって感じかなあ。中学三年間って変わる人は変わるじゃない。シモヤンの場合、少年が女の子になったって感じで、最初シモヤンだって気付かなかった。クラスも違ったし、声かけようかどうしようか迷ってるうちに、お互い気づいてるなっていうのだけが雰囲気で分かって、ホント、なんかタイミングなかったのよね」
 ふうんと考えを巡らせるように鼻から息を吐いた高波は、分からなくもないといった表情だった。
「ねえ、高波。シモヤンの載ってる小学校のアルバム見たい?」
 え、と動揺した高波の態度に、ナオもようやく私と同じ考えにたどり着いたようだった。
「アルバムは用意してやるから、高波とシモヤンが幹事な」
「は? 俺今年いっぱい超多忙なんだけど。クリスマスに忘年会。飲食店の繁忙期。分かるだろ」
 ナオが、「じゃあ俺がやるから、シモヤンの番号教えろ」と言うと、高波は不承不承という体で幹事を引き受けた。不貞腐れた口元はかすかにひくついていて、にやけそうになるのを懸命に堪えていたのだろう。
「年始あたりに初詣行ってから飲みに行くか」
 何気ない風を装っているけれど、高波のその声は明らかに弾んでいた。男たちばかりに春が訪れ、私だけが孤独な冬の嵐にさらされるのだろうか。いや、嵐すらもなく、ただ深く暗い海の底に沈むだけだ。
「リサちゃん、ちょっと早いけど始めようか。ナオミチ、あと任せるから」
 努めて意識しないようにしていた直人おじさんの声が、不意にクリアに聞こえた。私の名前を呼んだ、ただそれだけでドクンと心臓が跳ねた。
 支払いを済ませ、男二人に「じゃあね」と手を振った私の態度は自然だっただろうか。カウンターの奥に通された私の後ろで「俺も帰るわ」という高波の声が聞こえた。
 通路の脇の棚に置かれたCDデッキの液晶に光が波を描いている。その上に数枚のCDが無造作に置かれ、その一番上はジャスティン・ティンバーレイクだった。脳裏に山井窯のマグカップが浮かぶ。
 ――この曲が一番好きなんだ。
 飯田教授の書棚に置かれたCDの中には、私がよく聴く洋楽アーティストのものも何枚かあった。その中で彼が好んでかけたのがジャスティン・ティンバーレイクだった。彼が一番好きだと言ったその曲は、
「リサ」
 呼び止められて振り返ると、ナオがマグカップの二つのったトレーを私に差し出した。
「ブラックでいいよな」
 手渡されたトレーを見ていた。ナオは背を向けてカウンターから出ていく。
 後ろからガチャリと事務所のドアが開く音がし、ふと店内から流れてきた歌声に、CDデッキの液晶へと視線が流れた。矢印の交錯したシャッフル再生の表示、その隣には「Not A Bad Thing」(※)の文字、光の波が微かに滲んだ。
「リサちゃん、こっち」
 振り返ると、直人おじさんは一瞬だけ目を見開き、そのあと「おいで」と優しく微笑んだ。私は頬の真ん中あたりまで筋を引いた涙を手の甲で拭い、「はあい」と返事をして開けられたドアの中に入った。
 ドアを押さえていた直人おじさんの手が、通り過ぎざまに私の頭に一度だけ触れた。

(※)Justin Timberlake 「Not A Bad Thing」2013  アルバム『20/20エクスペリエンス 2/2』に収録 

リサ 〈3〉テラコッタ

 コバルトブルーの珊瑚礁から底知れぬ深海の闇へ。畏怖の念さえ抱いてしまう青釉のグラデーションから、私は目をそらした。その青は私の手のなかに温もりとともにおさまっている。
 鼻をくすぐるのは『豆蔵』のコーヒーの香りで、ナオに渡されたマグカップさえ目に入れなければ大丈夫、そう自分に言い聞かせながら「よろしくお願いします」と直人おじさんに笑いかけた。けれど、向かいに座った彼の手にも同じ青のマグカップがあった。
 何度見ても美しい。手にすぽりとおさまる丸みも、わずかにのぞく素地の肌感も。ひとつひとつ表情の違う釉薬の流れは、私の持つカップも、直人おじさんが口をつけているそのカップも、教授の部屋にあるものとは別物だ。
 分かっている。分かっているのに、どうして今更そんなことを思い出してしまうのか、こんなにも悲しみが溢れ出しそうになっているのか、不思議で仕方なかった。私は、直人おじさんに惹かれていたわけではなかったのだろうか。知らず、教授への未練を引きずり続けているのだろうか。
 教授とのことで悲しみを感じたことなんてなかった。きっと、ナノカの言葉で少し感傷的になっただけだ。
 ――飯田先生、奥さんと離婚成立したらしいよ。春に佐野先輩と入籍するんだって。
 すればいい。私は飯田教授と結婚したかったわけじゃない。そんなことが頭に浮かぶずっと前の段階で彼との関係は止まっていた。そして、単なる教授と教え子に戻った。それだけだ。
「えっと、今日はとりあえず、店で扱ってる陶器の販売数の推移を教えてもらいたいんですけど。窯元ごとに、ブームの前と後でどれくらい変化があったのか。『豆蔵』で売ってるのって山井窯と白峰窯、あと……」
「リサちゃん」
 私の言葉を遮ったその声は、あまりにも優しかった。続くはずだった言葉がどこかへ消え去り、頭のなかに涙の水たまりができ、思考がゆらゆらとその場を漂って、その涙が心の溝に流れ込んだら、この青釉のように深く耽美な色を湛えるだろうか。
「リーサちゃん」
 直人おじさんはおどけた口調で私の名前を呼んだ。それに小さく笑みがこぼれる。「何かあった?」と聞かれ、私が首を振ると、彼は「嘘つきだなあ」と笑ってコーヒーを啜った。
「俺のせいだったらごめんね。年のこと、余計な話だったよね」
「年の功?」
 直人おじさんは「やっぱり俺?」と苦笑し、つられて私も笑う。
「リサちゃん、悲しい?」
「いえ、元気ですよ」
「悲しいよね」
「悲しくないです」
「そう? でも、悲しいんだよ。リサちゃん、泣きそうな顔して笑ってる」
 悲しいってどんな感覚だっただろう。何かが足りなくて、心に穴が空いて、そこは代わりのもので埋められて、私は寂しくない。
「教授が、結婚するんです。先輩と」
 口からこぼれた言葉と一緒に、目尻からは涙が流れ出していた。止めどなく頬を伝いつづける涙がハンカチを濡らし、涙の染みが広がった分だけ心が軽くなっていった。私はいつの間にこんな重苦しい感情を溜め込んでいたのだろう。
 悲しくないはずだった。元々本気で相手にしてもらえるような間柄ではなかったし、割り切った関係で傷ついたりするはずがなかった。連絡がなくなっても、部屋に呼んでもらえなくなっても、泣いたりなんかしなかったし、悲しくなんかなかった。
「悲しいの、我慢してた?」
 直人おじさんの手が、うつむいた私の頭をあやすようになでる。嗚咽で涙を絞り出すように、私はただ泣きつづけていた。
 悲しかった。でもそれを認めたくなかった。目をそらし続けていれば、私は満たされた女の子で、けれど、いつも羨ましかった。幸せそうに笑いあう恋人たちが、好きな相手に好きだと言える人達が。
「……ナオに謝らないと」
 ポロリとこぼれた独り言に、直人おじさんが「どうして?」と聞く。「内緒」と返すとそれ以上何も聞いてこなかった。
 十八歳のハルヒちゃんに向けた私の言葉は、全部妬みの産物だった。幸せの責任を負えないまま手を伸ばさなかったのは自分なのに、幸せに手を伸ばそうとする人に嫉妬して、壊れてしまえばいいと思っていた。
 手を伸ばした佐野先輩に嫉妬したくなくて、私は傷ついていないふりをした。全部、一人相撲だった。私の前には誰もいなくて、ひとり幻影と恋愛ごっこをして、現実に嫉妬していただけだ。
「直人おじさん……」
「何?」 
「悲しいときはどうしたらいい?」
 おじさんは少し考えてから「いっぱい泣いて、いっぱい寝る」と答えた。ドアの向こうから「お疲れー」というスタッフの声がいくつか聞こえて、彼はそれに反応するように立ち上がる。
「ナオミチに先帰れって言ってくる。見られたくないよね、泣き顔」
 直人おじさんは私が答える前に部屋から出ていった。かすかに聞こえる父子の会話に「ハルヒ」という単語がまじり、おじさんのからかうような笑い声が聞こえた。心臓のあたりにポッとあたたかいものが灯る。
「今度は、手を伸ばしてもいいかな」
 ナオは嫌な顔をするだろうか。けれど確信してしまった。からだの中に堰き止めていた悲しみがほとんど流れ出し、涙に埋もれた海底から姿をあらわしたのは紛れもない恋心だった。
「私、おじさんが好きなんだ」
 ぽつりとつぶやくと、その確信がさらに強まった。不意にガチャリと開いたドアの向こうで、直人おじさんは笑いながらカウンターの方に向かって話しかけている。ナオとの会話はまだ続いているようだった。
「気ぃつけて帰れよ」というおじさんの言葉のあとに、「息子の同級生に手ぇ出すなよ」という笑いまじりのナオの声がした。「ばあか」と続いたおじさんの言葉にはどんな真意が込められているのだろうか。こちらを向いたおじさんは、少しバツが悪そうに首をかしげてみせた。
「俺が泣かせたって思われそうだよね。ナオミチに半殺しにされる」
 彼はそう言って、机に広げていた書類を片付けはじめた。それは過去の販売記録で、トントンと机の上で整えてから「今日は終わろうか」と引き出しにしまった。
 久しぶりに泣いたせいか頭がぼんやりとしていて、聞き取りなんてできそうになかった。涙を流したのはいつぶりだろうと考え、どれだけ遡っても思い当たらなくて、ふと頭に浮かんだのは小学校の卒業式で見たシモヤンの泣き顔だった。頭を優しくなでられる感触に、すぐ目の前に立つ彼の顔を見上げる。
「リサちゃん、無理して笑わなくていいから、泣きたくなったら泣きなよ。俺は奥さんが死んだとき馬鹿みたいにずっと泣いてたんだ。店も閉めたままで。そしたら一人心配して来てくれた奴がいて、でもそいつ隣に座って何にも言わないの。仕方ないからこっちが話を振ったら、痴話喧嘩の泣き言なんか言ってくるから、しょうがねえなあって、そんな気になってさ。別に何してもらった訳でもないのに、ちょっと前向こうかなって思えたんだ。もうそん時には泣き疲れてたんだろうな」
 涙止まった? と聞かれてうなずくと、おじさんは「そう」と安心したように息を吐いた。
「おじさん、まだ悲しい? 寂しい?」
 私が問いかけると、彼は椅子を引いて隣に腰を下ろした。机に頬杖をつき、視線が天井あたりをさまよっている。彼が見ているのはきっと亡くなった奥さんで、その視線が私の顔へとゆっくり移動した。
「悲しみはもうとっくにどこかへ行ったし、寂しくはないよ。大切な人であることに変わりはないけどね」
 おじさんと奥さんのあいだに割り込むことなんて、一生かかってもできないのだろう。けれど、奥さんの反対側から彼に寄り添うことはできないだろうか。
 ナオの顔が何度も脳裏にチラついた。彼の寂しさは埋まったのだろうか。それともハルヒがこれから埋めていくのだろうか。ちらりとおじさんの様子をうかがうと、彼はまた奥さんの幻影を見つめているようだった。
「ナオは……」
 私が口にした言葉に、おじさんは「えっ」と驚いたようにこちらを向いた。私の姿を隣に認め、「ああ」と苦笑する。
「『ナオ』って、一瞬自分を呼ばれたのかと思うんだよね。奥さんが俺のことそうやって呼んでたから」
「ナオ」
 言い慣れたその名前に、違う気持ちを乗せて口にした。「からかうなよ」と笑う目尻の皺に愛しさを感じ、「帰ろうか」と立ち上がった彼の後を追って事務所を出た。
 店内にはカウンターのダウンライトだけが点いていて、わずかに漏れていた事務所の電気が消えると、目が慣れないせいかずいぶんと暗く感じた。前を歩く彼は「平気?」と足をとめて振り返る。「暗いけど足元見える?」という意味だったと思う。
「平気じゃないです」
 私の言葉はどんな風に聞こえただろう。私はその言葉に彼への気持ちを込めていたし、少しくらいは伝わったはずだ。その証拠に彼は私を正面から見つめ返してくる。
「泣き足りない?」
「泣き足りない」
 私は二歩足をすすめて彼の肩に顔を埋めた。
 伝わるだろうか。伝えてもいいだろうか。あなたのことを思うと切なくなる。今度は諦めたくないと、目をそらしたくないと、心が泣く。広い背中に腕をまわすと、彼の手が包み込むように頭をなでた。
 「ナオミチに怒られるから、内緒ね。おじさんは女の子抱きしめるなんて久しぶりで緊張する」
 冗談なのか本当のことなのか、耳元でくすくすと笑う吐息がくすぐったかった。
「久しぶりなんですか?」
「うん。小学校低学年のリサちゃんを抱き上げて以来かな」
「うそだ」
「嘘だと思う? これでも必死で働いてきて、遊んでる暇なんてなかったんだけどな」
「だって、いつも……」
 いつもお客さんと楽しそうに軽口を叩いていて、その中には沢山の女の人もいて、それで――朝早くから店に出て、途中休憩に出かけるけれど、こうやって最後まで店のなかにいて、家には八十近い両親がいて、ナオはようやく最近一人前になってきて、だから、
「――いつも、大変だった?」
 彼はその質問には答えず、そっと私の肩をつかんで体を離した。
「あんまりくっついてると、おじさんも一応男だからね」
「知ってます。私は、……小学生でもないし、娘でもないです」
「知ってるよ。年なんてどうでもいいなんて言ったけど、本当はそうでもないんだ。リサちゃんが俺より年の離れた相手とどうこうっていう話をしたときに、女の人なんだって気づいた。気づいたっていうか、それまでは無意識にそう思わないようにしてたのかもしれない。意識しちゃうと、色々困ることもあるからね」
 困るんですかと聞くと、困るよと即座に返ってくる。その反応に少し傷ついたけれど、あとに続いた言葉は予想外のものだった。
「今だって、キスしたいの我慢するのに大変なんだ」
 暗がりに少しずつ慣れてきた私は、困惑と照れを浮かべる彼の表情をじっと見つめていた。その視線に気づいた彼は、戸惑いつつも私を見返してくる。
「直人おじさん。好きになっても、いいですか?」
「それを俺に聞くの?」
「……ナオに聞くの?」
「自分で決めるんだよ。好きになるのに許可なんて必要ない。自分の気持ちには自分で責任を負わないとね」
 それは私にというより、彼自身に言い聞かせるような言葉だった。
「……好き」
 飯田教授には一度も言ったことのない言葉だった。もちろん教授からもそんな風に言われたことはなかった。思い返すとずいぶん恋とは遠い感情だったのかもしれない。けれど、私は飯田教授のことが好きだった。彼のスマートなところも、子どもっぽいところも、他人の気持ちに無頓着だったり、変に見栄っ張りだったりするところも、私はあの頃そのすべてを愛しく感じていた。
 好きと口にしていたら教授との関係は変わっていただろうか。もっと、つまり佐野先輩と教授のあいだに芽生えたような関係を築くことができたのだろうか。
「リサちゃん、こんなおじさんが好きなの?」
 好きなの、と口にすると、なぜか右目からするりと涙がこぼれた。心の端にこびりついていた最後の悲しみが、ようやく行き場を見つけたようにも思えた。
「困ったな」とつぶやく彼の声はあまり困ったようにも聞こえず、重ねられた唇はほんの二三秒で離れてしまったけれど、そのあとぎゅっと抱きしめられた。慰めらているのではなく求められているのだと分かるほどに、さっきとは腕に込められた強さが違っていた。
「二人で説得しよっか」
「ナオを?」
「うん」
 弱みは握ってるから脅せばイチコロだよ、なんて冗談のように口にする彼は父親の顔をしていて、けれど「ね」と私に向けられた笑顔は男の人だった。
 私と彼の目の前に横たわるのは壁なのか障害なのか、それともクリアすべき課題かゲームか。捉え方はきっと私次第で、少なくとも目の前の彼は「困った」と言いながらもどこか楽しそうだった。
「リサちゃん、ありがとね」
 店の駐車場で別れる前に彼が口にした言葉の意図が分からず、問いかけるように首をかしげる。
「この歳になって恋愛できると思ってなかったから、それだけでちょっと生きててよかったって思えた」
 大げさな言葉はいつものリップサービスのようにも思えたけれど、きっと彼の本心であり、照れ隠しなのだろう。でなければ、息子の同級生と恋愛なんて、そんな面倒なことに足を突っ込む必要はない。
 きっとこれから何事もなく順調に進むことなんてなくて、反対されたり、無言の批判に晒されたり、陰口を叩かれたりするのかもしれない。飯田教授と佐野先輩に向けられた学内の噂のように。けれど、彼の隣にいれば笑っていられそうな気がした。そんな気にさせてくれる人だから好きになった。好きと言えた。
「いっそ、クリスマスパーティーのサプライズで発表しませんか」
 私の突拍子のない提案に、彼は一瞬「え」とたじろぎながらも、思い直したように「ありかも」と笑った。
 楽しもう。年上の人を好きになってしまうと自覚した時から考えていた。私より彼が早くこの世からいなくなってしまう可能性の方がずっと大きい。だから一緒にいられる時間を楽しもう。彼の隣で笑って、彼の笑顔を近くで感じていよう。彼の奥さんのように、幸せな時間は唐突に途切れてしまうのかもしれない。だからこそ、自分の気持ちに素直でいよう。
「私も、ありがとうございます」
 私の言葉は彼の心に響いただろうか。きっと響いたのだろう。嬉しそうに微笑む彼の頬が月明かりに照らされて、触れたいと思うのと同時に彼の手が私の頬に触れた。互いの頬に触れたまま笑いあい、私はもっと彼の心に触れたいと願った。

〈リサ・了〉

extra――ミナト

 このクソ広い学内で、恋敵を目にしたのは初めてだった。
 構内の中央広場を囲う銀杏の木々はほとんど落葉して、彼は骨だけ残ったような寒々しい枝にスマホを向けていた。そいうえば、あいつはカメラが趣味だった。
 着信音でも鳴ったのか、彼は空に向けて構えていたスマホを慌てて耳元に当てる。と、ムカつくくらいに幸せそうな笑みを浮かべたのが遠目にも分かった。
「チカさんからかな……」
 彼の電話の相手を想い、小さく吐息が漏れた。
 私の片思いの相手は五つ年上の女の人で、そして恋敵は同い年のあの男だ。ニヤけたあいつを睨んでみるものの、本当の恋敵は彼ではなく「ヒナキ」さんで、ふと虚しくなってヤツから視線をそらした。
 ヒナキさんは、アルバイト先である『レスプリ・クニヲ』というフレンチ・レストランの女性シェフだ。チカさんは、同性であるヒナキさんのことが好きだった。それに気づいたのは、私がチカさんのことを目で追っていたからだ。
 仕事と称してチカさんがあの男と『レスプリ・クニヲ』を訪れたとき、彼女はひとつの恋を終わらせようとしているように見えた。と同時に、新しい恋の可能性をすぐそばに見つけたようにも思えた。
「ミーナトー」
 振り返ると、同じゼミのカノンという一つ下の女の子が手を振っていた。学年は同じ二年だ。
「サバサバとした」という形容がぴったりなカノンは年下からの人気が絶大で、一人でいるところを見かけるのは久しぶりだった。いつも誰かがくっついている。そして、傍から見れば今彼女にくっついているのは私ということになるのだろう。それは何だか癪だった。
「カノン、とりまきは?」
 私の皮肉に「なにそれ」と屈託ない笑顔を返してくる。自然な動作で絡められた腕を、私はあからさまに払い除けた。
「ミナト、つれない。くっついてた方が暖かいよ」
 たしかに今日は予報以上の冷え込みで、昼過ぎから急速に気温が下がっていた。コートの下にもう一枚着てくればよかったと後悔したけれど、あとはマンションに帰るだけで、走れば五分もかからない。
「もう帰るだけだし」
 じゃあね、と背を向けて歩きだすと、カノンは足早な私の歩調にあわせてついて来た。
「ねえ、ミナトがさっき見てた人って知り合い? 片思いとかそういうやつ?」
「違う」
「知り合いなら紹介してよ。ちょっとタイプかも」
 こいつのこういうところが嫌いだった。来るもの拒まず、自らあれやこれやと手当たり次第。それぞれがどれほど深い関係になってるのかは知らないけれど、広く浅いのか、広く深いのか分からない彼女の交友関係は目障りだった。 
「無理だよ。あの人には好きな人いるから」
「そうなの? でも好きな人ってことは、まだ恋人じゃないってことでしょ」
「さあね。でも家族ぐるみの付き合いみたいよ」
 嘘ではなかった。チカさんとあの男はいとこ同士で、彼はチカさんの家が営む三谷農園でアルバイトをしている。クリスマスには彼女の両親も含めた四人で『レスプリ・クニヲ』に予約を入れていた。両親公認の仲とかいうわけではなく、三谷農園が店に野菜を卸しているから、付き合いで予約しただけなのだろうが、そこまでカノンに教えてやる必要はない。
 カノンは「ざーんねーん」とそれほど落ち込んだ素振りもなく歌うように口にし、また私に腕を絡めた。ホント、癪に障る。
「ねえ、ミナト今日バイト休みでしょ。鍋しようよ、鍋。ミナトんちで」
「やだ」
 こいつの部屋は私と同じマンションの階違いだった。階違いで良かった。
 毎夜毎夜、バリエーション豊かな面子が入れ代わり立ち代わり彼女の部屋へと吸い込まれていくのを見るのは、どうにも気分が悪い。通りからマンションを見上げるとその光景が目に入り、聞こえてくる甲高い笑い声に胃がキュッと締めつけられる。
 どうしてこれほどまでに彼女の言動が腹立たしいのか、考えるのも苛々するから私はマンションを見上げないことにした。それなのに、こいつは正面を見据えてエントランスに入ろうとする私に三階の通路から声をかけてくる。すると、その周りにいた雑魚どもも手を振り、私は愛想笑いで手を振り返し、エレベーターに乗り込むとともに自己嫌悪に陥るのだ。
「神戸牛、すき焼きセット」
 魅惑的な言葉にカノンの顔を見返す。その口元がニヤリと笑った。
「誕生日祝いって、実家のお婆ちゃんが送ってくれたの。一緒に食べよ。ミナトんちで」
「なんで、うちなのよ」
 当然の事だがすき焼きを拒む気は毛頭なかった。肉、肉、お肉。
「誕生日の人を、もてなす人」
 カノンはそう言いながら、自分を指さし、私を指さした。
「カノン、いつが誕生日なの?」
「今日」
 まじ、と問いかける私に「マジマジー」とケラケラ笑う。普段あれほど取り巻きに囲まれながら、どうして誕生日に一人予定もなくうちに来るなどと言うのか。訝しむ私の腕をひいて、カノンは浮かれたステップで私の前を行く。

 ピン、……ポーンとチャイムが鳴った。
 部屋の中に鳴り響いたその音を吹きさらしの通路から聞き、鳴らした本人は人差し指を立てたまま私を見てニカッと笑った。
「カノン、それ鳴らす意味があるの? 住人はあなたの隣りにいるけど」
「だって、彼氏とかいたりしたらお知らせしといたほうがいいかと思って」
「いたら帰れって連絡してるよ」
 呆れながら鍵を開けてカノンを招き入れる。彼女がこの部屋に来るのは初めてだった。こんなに近くに住んで、毎日のように顔を合わせているにも関わらずだ。
 彼女の鼻歌を聞きながら、安易にも肉につられて我が領土に足を踏み込ませてしまったことに、若干の戸惑いを覚えた。困った。
 ――困った?
 ふと頭に浮かんだ自分の言葉に、しくりと胸が痛んだ。
「ミナト、これ着て接客してるの?」
 カーテンレールに引っ掛けたハンガーには『レスプリ・クニヲ』で使っている黒のサロンエプロンがかかっている。カノンはすっかり乾いたそれの裏表をめくって、物珍しそうに「へえ」と目を輝かせていた。単なるエプロンなのにと、つい笑いが漏れた。それを目に止めたのか、カノンも満面の笑みになり、私は慌てて笑みを引っ込めた。
「ミナト、本当に彼氏いないんだね。彼氏どころか、この部屋最近誰か来た?」
 ベッドの脇に投げ置かれた服を畳みながら、カノンが呆れ顔を向ける。たしかに誰も来ていない。
 学校へ行って、アルバイトのシフトを目一杯入れて。数少ない休みには部屋にこもって映画でも観るか、せいぜい近くの喫茶店で雑誌をめくる程度。いつからだろうと考えて、チカさんにフラれた飲み会のときからだと気づいた。
 酒がかなりまわっていたとはいえ、チカさんに強引にキスをしたことも覚えている。仕事場で顔を合わせても平気なふりをするのが精一杯で、彼女もそれまで通りに接しようとしてくれているのが伝わってきて、私は本当に馬鹿なことをしたと散々後悔した。やはりチカさんは大人で、私はそれに救われたのだ。それなのに。
 考える度に腹が立つ。チカさんがどんな想いでいるのかも知らず、ヒナキさんは自分のことばかりだ。調理場で一人奮闘しているヒナキさんを尊敬しているし、何度か彼女の恋人の「澄田さん」にも会ったことがある。澄田さんは『シェ・アオヤマ』という別の店のシェフで、店同士懇意にしているので、よく合流して飲みに行ったりしている。けれど、ある時から澄田さんがパタリと顔を見せなくなった。以来、ヒナキさんの様子もおかしい。

 ――ごめんね、ヒナキ。私が余計なこと言ったから。
 ――ううん。たぶん私のせいなんだ。ちょっと頭冷やしたいから距離おこうって、私からスミ君に言ったの。
 ――でも、ヒナキ好きなんでしょ。無理しないで会ってみたら?
 ――まだ一週間も経ってないのにダメだよ。
 ――会いたいんでしょ? スミ君のこと好きでしょ?

 店の裏口で話すチカさんとヒナキさんの会話をつい盗み聞きしてしまったのは、まだ秋の風が吹いている頃だった。
 ヒナキさんと澄田さんが別れたとして、チカさんにチャンスがあるとも思えない。それはチカさんにも分かっていただろう。けれど彼女が動揺しないはずはないし、未練が頭をもたげないとも限らない。私はチカさんの気持ちと自分の気持ちを重ね合わせて胸が張り裂けそうになった。「胸が張り裂けそう」とは、なんて適切な言葉なのだと思うくらいに心が痛かった。
「ミナト、女の前だからって、そこまで女子力下げる?」
 グレーのスウェットに着替えた私と、大学帰りの服装のままのカノン。若草色のニットアンサンブルに、たぶん彼女が履いているのは裏起毛になった「暖パン」なるものだ。カノンにも偉そうに女子力を語る権利はない。
「部屋で鍋すると匂いが服につくから、丸洗いオーケーな服じゃないと嫌なの」
「ふうん。じゃあ私にも何か貸して」
「やだ。着替えてくれば」
 カノンは「えー」と言いながらも部屋を出て、五分ほどで戻ってきた。着ていたコートは同じだったけれど、その下に着ていたのは私と同じユニクロのスウェット。
「揃えてみた」
「女子会には程遠いなあ、私ら」
 揃いの服のせいなのか、酒のせいなのか、誕生日なのに誰にも誘われなかったカノンに同情したのかもしれないけれど、彼女との二人鍋はそれなりに楽しかった。ああ、肉のせいかもしれない。うん、きっとそうだ。
 日付も変わるくらいの時間までダラダラと飲み続け、「お前の誕生日も終わるな」と嗤ったとき、私はほとんど瞼が落ちかかっていた。頬もポカポカと暖かい。
「ごめーん、ミナト。実は今日誕生日じゃないんだ」
 は?
「いいじゃん。肉食べさせてあげたんだし」
 まあ……。あ、いやいや、ちょっと待て。
「ミナト、いっつも素っ気ないんだもん。同じマンションなのに寂しいじゃん」
 イラッと来た。簡単に誰とでも近づいて、いつも周りに人がいて、どうしてそんな奴が寂しいなどと言うのだろう。「ちょっとタイプ」そんな言葉でよく知りもしない人間に声をかけようとするやつに私の気持ちが分かるはずなんてない。
 お前に分かるか? 晒してしまえばそこには溝が出来るんだ。お前みたいにちやほやされる人間だけじゃない。
 ふと、昨日のバイトでの出来事を思い出した。それは営業後にみんなでまかないを食べた後で、最近失敗続きのヒナキさんは料理長に部屋に呼ばれていた。ざまぁみろなんて思ってしまう自分が嫌だったけれど、彼女が呼び出された事務所のなかで何があったのか、その後どうやら一組のカップルが誕生しそうだった。
 ヒナキさんの呼ばれた部屋にはサービスチーフのサチさんも同席していた。彼女は一番の古株で、一匹狼のような雰囲気の彼女は、頼りがいのあるお姉さんといった存在だった。アルバイトを始めた頃、私は何度も叱責されながらも、彼女がかけてくれる言葉に発奮したものだ。
 サチさんには浮いた話もなく、一人で立つ女の生き様は私の心の支えになっていた。なぜなら、私の恋が実る可能性など限りなくゼロに近いのだから。それどころか恋することさえも怖くなっていた。だから、仕事に生きるサチさんの姿は私の未来の理想でもあった。
 それが、だ。事務所にいた三人のうち料理長だけが先に出てきて、そのあとヒナキさんとサチさんは事務所に残り、二人でまかないを食べているようだった。何を話しているのか気にならないはずはない。それは他のスタッフも同様らしく、とくに料理スタッフ最年少の(とはいえ私よりは年上なのだけれど)ケイスケさんは何度も事務所のドアに目を向けていた。
 彼がヒナキさんに想いを寄せているだろうということは、私を含め何人かのスタッフが気づいていた。けれど、それは不毛な恋愛だと分かっているから、誰も敢えてそこに触れはしなかった。報われない恋というのは、当たり前だが報われた恋の何倍も多い。勝手に仲間意識を持って、私は彼に同情していた。
 何だかおかしなことになったのは、スタッフ一同が食べ終わって皿を片付けはじめた頃のことだ。その時、ヒナキさんが先に事務所から出てきて、彼女にすれ違いざまに何か声をかけた料理長はそのまま事務所のドアをそっと開けた。顔を出したサチさんが料理長の手をつかみ、引きずるようにしてみんなの前で宣言した。
 ――スタッフの皆さん! 私、サチは樋引料理長にアプローチ中ですので、彼に余計な誘惑やちょっかいは出さないようお願いします!
 晴天の霹靂。困ったようにサチさんの隣に並んだ料理長の眼差しは予想外に優しく、いたずらっぽく彼に微笑み返したサチさんは見たこともない女の顔だった。けれど、今までどうやって誤魔化してきたのか、二人の距離は恋人ほどに近いものだった。
 やっぱり一人じゃないのかと、私は取り残された気分でため息を吐いた。気にしても仕方ないと分かっているのに、心に冷たい冬の風が吹き抜ける。どこにそんな空洞があるのかと思うくらいに私の心の中は空っぽだった。そして不毛な恋の同志だと思っていたケイスケさんも、実はそうではなかったのだと知った。
 ――ケイスケ。
 店の裏口へ向かう通路で、後ろから聞こえてきた声。後ろにいたのはヒナキさんとケイスケさんで、主役のサチさんと料理長は居残りで予約メニューの打ち合わせをしているようだった。

 ――ケイスケ、私、スミ君に連絡してみる。
 ――そっか。色々あるかも知れないけど、ヒナキは好きなんだろ、澄田さんが。
 ――何か、気づいてた?
 ――俺が? そうだな。気づいてたことと言えば、ヒナキは何があっても澄田さんとこに戻るんだろうなってことかな。きっと伝わるから、がんばれ。
 ――年下のくせに生意気。でも、ありがと。
 ――こっちこそ。声かけてくれてサンキュ。
 ――ケイスケ、最近私のこと避けてた?
 ――あのさ。俺、吹っ切ることにしたんだ。やっと気持ちの整理がついた。ヒナキのこと好きになれて良かった。でも、他に好きなやつ出来ちゃったんだよね。

 じゃあな、と駆け出したケイスケさんの足音が後ろから近づいてきて、追い抜きざまに「聞かなかったことにしろよ」と囁かれた。私はそっと後ろを振り返り、目が合うとヒナキさんが肩をすくめた。
「聞かなかっとことにしてくれる?」
 そう言ったヒナキさんに、何だこいつら、と私はどん底に突き落とされた。みんなどんどん先へ行く。過去を精算して、傷を引きずりながら前へと進んでいく。私はまだ地面に打ち付けられたままで、その釘を引っこ抜いてまで前に進む気力がない。

「ミナト、帰るの面倒だから泊まってっていい?」
「だめ」
「なんでよ。ケチ」
 酒のまわったカノンは頬を赤らめ、瞳はうるうると妖艶に潤んでいる。素面ならまだしも私自身かなり酔いがまわっているし、酔っぱらった私のしでかす事といえば自分の傷を抉ることくらいだ。
 カノン相手にまた何かやらかして気まずくなるのは嫌だった。バイト先でも自分の気持ちに蓋をし、学校でも同様に蓋をしなければならないなんて、私はもう部屋に引きこもるしかできなくなる。
 自分がおかしなことを考えてるという自覚が、ほんの刹那浮かんで消えた。蓋ってなんだろう。私が蓋をしたのは、……そう、チカさんへの気持ちだ。
「お願い、ミーナト」
 カーペットに寝転がったカノンが、私の腰に絡みついてくる。押し付けられる柔らかな感触に、本能がじわじわと私の下半身を侵食する。
 ムカつく。私の気も知らないで、期待ばかりさせて、みんないざとなったら背を向ける。だから、もういい。私はひとりで自分を慰めて、サチさんの姿に見た理想像を実現するんだ。料理長の手に堕ちてしまったサチさんの代わりに、私がそれを遂行するんだ。
「そろそろ帰ってよ。私はお風呂に入って寝る」
「じゃあ私も一緒に行く」
 立ち上がった私の体にカノンが後ろから抱きついて、彼女の両手が私の胸をぎゅっと掴んだ。もう、やだ。
「そういうノリ、まじムカつくから!」
 隣の部屋に聞こえるんじゃないかと、やけくそに放った自分の言葉を少し後悔した。離れると思ったカノンの腕は私に絡み付いたままで、それはまあ、その方が良かった気もする。多分私の目は涙で潤んでいたはずだから。
「ミナト、レズじゃなかったんだねー」
 は? と投げやりに返すと、カノンはそれまでとは違う静かなトーンで話し始めた。
「ゼミの人達のなかで噂があったんだ。ミナトはレズだって。そいつらの話し方が気持ち悪くて、なんかムカついたから『レズで何が悪い。私もレズビアンだ』って啖呵切ってやったら面白いくらいにみんな狼狽えてた。あれは動画にとっとけば良かった」
 は?
「カノンは、その、本当にそうなの?」
 口にしたあと言わなければ良かったと後悔した。期待が胸の中にせり上がってきて、興奮と動揺がないまぜになり、私は目の前にいるこの女の事をずっと性的対象として意識していたのだと気づかされたことが、やはり癪だった。
「私はレズじゃないよー。ほら、売り言葉に買い言葉っていうかさ。もともと私嘘つきじゃん」
 このときの私の感情をどう表現したらいいだろう。ハンバーグの種の如くグシャグシャに捏ねくり回され両手で打ち付けられ、最終的には床に投げつけられて踏み潰されたような気分だ。
 殺意を抱いてもおかしくはないだろう? けれど、犯罪を犯すという選択肢は欠片も浮かばなかった。なんでこんなやつの言葉に傷つかないといけないのか、私はいつでも不毛な恋愛しかできない。
「噂は本当だから、さっさと帰って。ここにいると襲うよ」
「襲うって、女同士って具体的にどういうことするの」
 どこまで私を馬鹿にするのだろう。挑発しているのか興味本位なのか、スウェットの上の彼女の手が私の両胸を揉みはじめる。厚いスウェット生地をもどかしく思う自分と葛藤しながら、私は彼女の腕を掴んでその手から逃れた。
「どうせ無理なんだから、放っておいてよ!」
 私は掴んだままの彼女の腕を引き、ベッドに投げていた彼女のコートと鞄を手に取って玄関に向かった。今さらのような謝罪の言葉が聞こえてきたけれど、私は耳を貸さなかった。無理矢理部屋から押し出し、間髪入れず鍵をかける。
「ミナトぉ」という情けない声のあとにチャイムが二回鳴った。静かになったのを確認し、鍋を片付けようと部屋に向かう途中でまたチャイムが鳴る。無視して片付けをしている途中でその音は三分おきくらいに聞こえてきた。そろそろ隣家から苦情がきそうだ。
 ドアを開けてやるとカノンは寒さに歯を鳴らしていた。さっさと自分の部屋に戻ればいいものをと呆れながら、見捨てられなかったのは彼女ではなく自分なんだということも分かっている。
「カノンはどうしたいの」
「だって、明日から私レズビアンだもん。学校ではそうなっちゃたし」
「自業自得」
 なぜ、私のためにそこまでしたのか。嬉しさとこそばゆさと、でも期待してはいけないというジレンマに胸がもやもやする。
「ミナトはいつも一人で立ってて、羨ましかったんだ。私は一人じゃ何にもできないから、ミナトみたいになれたらいいなって。でも無理。私はやっぱり一人は嫌」
 そんな風に思っていたのかと、なけなしの自尊心が回復した。私がサチさんに抱いていたのと同じような思いを、カノンは私に見ていたのだ。導き出した結論は真逆のものだけど。
「だからって、嘘ついて変な目で見られる必要ないのに」
「嘘か嘘じゃないかは、まだ分からないよ」
 は?
 カノンの行動はいつも訳が分からない。紡がれる言葉も、思わせ振りな言動も、それに翻弄されたくないから距離をおいてきたというのに。
「触りっことか、やってみたい」
 なんなんだ、こいつは。
「だって、ミナトの体触ってみたいとか思っちゃったんだもん。だから」
 広く浅いのか、いや、深いのか。彼女の探求心と好奇心はどこまで世界を侵食していくのだろう。私が呆然と見ている前で、彼女はグレーのスウェットを脱いでキャミソールになった。
「カノン、節操なさすぎじゃない? そうやって誰の前でも簡単に裸になるの?」
「やだ。そんなの好きな人の前だけに決まってる。ミナトのことも好きだよ」
「私のこと『も』? つまり、好きな人が他にもいるってこと?」
「うん。やっぱり、ミナトはそういうの嫌? でも愛情はみんな同じだよ」
 やばい。やばいやばい。
 どうやら私は私以上の曲者を好きになってしまったのかもしれない。カノンには私以外にも好きな人が、きっと彼氏と呼んで差し支えない人がいるのだろう。
「カノン、……彼氏いるの?」
「いるよ。バイト先の社員さん。向こうにも私以外の彼女いるし、お互いそれについては納得しあってる」
「……ごめん、理解不能」
「愛はひとつじゃなくていいじゃんってこと。ミナトがそういうの嫌ならこれ以上触らない」
 一度私から離れたカノンが「触っていい?」と聞いてくる。その手を、私は拒絶することができなかった。もしかして、私は今まで以上に悶々とし続けなければならない相手へと恋の舵をきってしまったのではないだろうか。
 カノンのまわりに(まと)わりつく雑魚どもに辟易していたのは、思い返せば嫉妬と呼べなくもない。「レズビアン」のカノンにあの雑魚たちはまた近づいてくるだろうか。それより何より、私は顔も知らないカノンの彼氏に嫉妬してしまう。
「ミナトも、私以外に誰かできたら教えてね。今度、私の彼氏紹介する」
 上擦った吐息の合間に、カノンはそんなことを耳元で囁いた。「そんなのできない」と返す私の声も語尾までくっきり音になることはなく、私はまた不毛に生き続けるのだと覚悟を決めた。その一方で、もしチカさんが今振り向いてくれたら彼女のことも愛せるかもしれない、なんて考えてもいた。
 もしかしたら、私の愛もひとつではないのかもしれない。ただ、探究心も好奇心もカノンほどに持ち合わせていない私は、ひたすらに傷つくことを怖れていただけだ。
 気怠い微睡みのなかで「ミナト、好き」と無邪気に笑いかけてくるカノンに、思考も朧なまま「わたしも」と返した。それはきっと嘘ではなく、それだけは今この瞬間の真実なのだ。
 とりあえず今はそれでよしとすることにして、私は彼女の体に腕を回して眠りについた。

〈extra――ミナト・了〉 

ユカリ 〈1〉冬の足音

 ほうっと溜息がもれた。テーブルの角をはさんで斜め横に腰を下ろした八角(やすみ)さんが、穏やか目つきでくすりと笑った。
「なあに、霜谷さん。おつかれモード?」
「おつかれだったのが、八角(やすみ)さんのコーヒーで飛んでいきました。はぁ、幸せ」
 八人くらいが優に座れる大きなテーブルに二人きりで、私と八角さんの目の前にはコーヒーカップとノートパソコン、それに数枚の資料があった。コーヒーを淹れてくれた八角(やすみ)さんは、このギャラリーのオーナーだ。
 閉廊後のギャラリーにあるのは真っ白い壁と、大きな木製のテーブル、凛とした緑と、落ち着いた茶色の布張りの椅子が交互に四つずつ並んでいる。通りに向かって一面ガラス張りで、外灯と建物の明かりにぼんやり照らされた街路樹はすっかり落葉し、寒そうに身をちぢめていた。
 立ち上る湯気に深いコーヒーの香りを堪能しながら、手の中のカップをするりと指でなでた。この温かみになごむ。
「八角さん、これ益子焼ですよね。この青磁釉の青、好きなんです。キュンとくる。あ、あれも好き。中井窯の染め分け。あの青と黒のツートーン。欲しいなぁ。誰か買ってくれないかな」
「あら。霜谷さん、誰かいい人がいると思ってたのに。違ったのね」
 八角さんの言葉にドキリとなる。五十半ばの彼女は、カップを手に背もたれに体をあずけ、そのふくよかな体をクスクスという笑い声で揺らした。
 以前、八角さんに思わせぶりな話し方をしたことあった。そのとき私には「いい人」がいたけれど、私自身が彼の「いい人」である自信がなくて、あいまいな関係のまま、闇にまぎれて逢瀬を繰り返していた。
 その後に判明した事実に私は傷ついたけれど、「やっぱり」と、どこか納得した気になった。彼との関係は陽の当たらない場所でしか存在できないものだった。
 私は彼にとって「二番目」――いや、二番目だったのかすら怪しい。何度目かで彼と体をかさねた翌朝、帰りのコンビニで思いもかけず現実を突きつけられた。
 ――同僚がこの人の彼女なんだ。
 たまたまコンビニに居合わせた高校の同級生の高波(たかなみ)は、隣の彼――澄田さんを指してそう言った。無邪気な、妙に明るい口ぶりで、私は高波と澄田さんが知り合いだということすら消化できず、けれど「終わらせなければ」という想いだけは確信をもって自分のなかに芽生えた。
 高波さえそこにいなければ、私と澄田さんの関係はまだ終わっていなかったのかもしれない。
 もしそうだとして、それで私は幸せになれたのかと問われれば、悲しいかな首を横に振るしかない。長いあいだ「私はあなたの彼女ですか」と聞くこともできず、顔を合わせていても不安がしくしくと胸を締めつけていた。
 満たされないから余計に彼を求めてしまう。その痛みは麻薬のようで、私は彼を求めていたのか、切なさを求めていたのか、それすらもはっきりしない。
 彼は今どうしているのだろう。恋人の「ヒナキ」と上手くやっているのだろうか。
 彼に恋人がいると知って、私は高波のまえで涙を流した。いや、違う。流れはじめた涙が高波のせいで止まらなくなった。彼が私を放っておいてくれないから。澄田さんの恋人である「ヒナキ」を好きなくせに、いい人ぶって彼女を守ろうとするから。
 私は高波みたいにいい人ぶりたかったわけじゃない。澄田さんと会わないと決めたのは私で、高波に言われたからではないし、ただ、彼が私と同じように傷ついてることに、ほんの少し救われた。
 傷ついてるくせに、報われないとわかってるくせに、「ヒナキ」の恋人に親愛と尊敬の眼差しを向ける高波がうらやましくて、だからあの時、私の涙はひと粒残さず流れ出してしまった。高波のなかにある「正しさ」のようなものが、会わないと決めた私の決断を肯定してくれているように思えた。
 いつでも私は強情っ張りで、自分の正義を曲げられない。恋人のいる澄田さんと会い続けるという選択肢は私にはなかった。泣いて縋って、彼のことを「ヒナキ」から奪うつもりで求め続けていたら、彼はきっと会ってくれていた。私が彼の「一番目」になる可能性もゼロではなかった。でも、無理だった。
 私は私のことを嫌いになりたくない。
 世の中の略奪愛が悪いとは思わない。けれど、私が何かを手にすることで誰かがどこかで泣いている、そんなことを考えてしまう。本当は泣いていないのかもしれないし、「ヒナキ」も澄田さんと別れたがっている可能性だってないとはいえない。
 これはもう思考の癖のようなもので、私が我慢してすむのであればそれで良かった。生きていればきっと知らぬ間に誰かを傷つけてしまう。お互い様だとは思うけれど、私が泣いて済むのであればその方がいい。偽善者だし、臆病だし、ただそれ以上にもっともっと好きになってから傷つくのが嫌なだけ。結局は利己主義なのだと思う。
 澄田さんのことを考えない日が少しずつ増えて、けれどたまに思い出せばこうやってちくりと胸が痛む。切ない想いを懐かしみながら、未練もほんの少しばかりは残っている。涙はもう、溜まる気配すらない。

「彼氏いないなら、ほら、この彼なんかオススメよ」
 ぼうっとしていた私の耳に八角さんの楽しげな声が届いた。開いたパソコン画面の右上を「これ」と八角さんの丸っこい人差し指がさし、そこにあったのは少し日焼けした意志の強そうな青年の顔だった。申し訳程度の小さな顔写真で、それよりも大きな画像で映し出されているのは黒釉のざらりとした艶を纏う丸皿。飴釉で描いてあるのか無造作なラインが印象的で、写真の彼そのもののように見えた。
「素敵でしょ」
 八角さんは画面に目を向けたままで、私はそれが器のことなのか男性のことなのか分からないまま「そうですね」と肯定した。
「八角さん。この人、今度の企画に参加されるんですか?」
「そうよ。彼が一番若手じゃないかな」
 A5サイズの分厚い手帳をめくった八角さんが「やっぱりそう」と一人納得したようにうなずく。
「まあ、今度開催するのは若い作陶家さんを集めたものだから、みんな若いんだけどね。本当、若いエネルギーって羨ましいわ」
 そういう八角さんが一番エネルギッシュだ。彼女を知る人はみな私の意見に賛同してくれるだろう。今回の企画も、元々は私の働いている文化財団が主催するもので、最初八角さんのギャラリーは会場の予定に入っていなかった。
『森の小人館』という文化財団が管理する資料館がある。ちなみに文化財団の事務局はその建物の中に入っていて、私は普段事務局の雑務をこなしているのだけれど、『森の小人館』の企画に駆り出されることもある。
 今回は地元の窯元を有名にするきっかけとなった『(ほむら)の土』という漫画の資料展示と、そこに登場する窯元の民藝品を展示販売する「『焔の土』をめぐる」という企画だ。
 『森の小人館』の館長であり財団の理事長を務める奥寺(おくでら)さんと、『ギャラリーやすみ』という年中休業のような名前のギャラリーのオーナーである八角さんは同年代で、『ギャラリーやすみ』と『森の小人館』が徒歩数分の距離にあることもあり、二人は普段から懇意にしているようだった。
「焔の企画、八角さんとこと同時開催になるから霜谷さん調整お願いしてもいい?」
 財団が管理する表通りのプランターに水やりをしているとき、奥寺さんからそう声をかけられたのはつい先日のことだ。
「霜谷さん、リベンジね」
『焔の土』の企画は今回で二度目だった。前回の企画と、そのあとの親睦会のことを思い出してお腹のあたりがじわりと重くなる。それに気づいているのか、――多分気づいているだろう奥寺さんは、変わらぬ笑顔で話しかけてくる。
「『次世代の焔の土』っていうコンセプトで、『ギャラリーやすみ』のほうに若い作陶家とかクリエイターの作品を展示するって八角さんが張り切ってるから、霜谷さんにもいい刺激になると思うよ。『使う人目線』でいいから、がんばって」
 わかりました、と笑顔で答えたものの、当時何度も耳にした言葉が脳裏に蘇る。そしてさらに不安が膨らんでいく。 
『すいません、もう少し分かる人呼んできてもらっていいですか』
 会期中、幾度となくその言葉を聞いた。事務局に異動になった今年の春、私は陶器についてまったくの素人で、何もできず右往左往していた。展示を見に来られた方たちは一様に穏やかな口ぶりで、けれど微かな苛立ちがその言葉に潜んでいた。
 当時の私はそれぞれの窯元の特徴と名前がやっと一致したというレベルで、土やら釉薬やらについて尋ねられても「申し訳ありません」と周囲を見回し、手の空いたスタッフに対応を引き継ぐくらいしかできなかった。
 私と同じ知識レベルのスタッフも多く、スタッフに助けを請われた奥寺さんが「どうもどうも」と一組の客と話をはじめると、わらわらとそこに人が群がりはじめ、小さなトークショーが随時開催されるといった状況だったし、実際最終日の夜には山井窯の山井さんと奥寺さん二人のトークショーもあった。
 私は指示されたとおりに器を出し、資料を配り、購入された器を包み、発送の手配をし、雑務だけは可もなく不可もなくという働きぶりで、身内で私の不勉強について文句をいう人は誰もいなかった。文句を言いたかったのは私自身だ。
 そんな何の取り柄もない事務員が『焔の土』関連の小さな親睦会に末席ながら顔を出させてもらえたのは、奥寺さんの「若い人に来てもらわないと」という鶴の一声らしい。そもそもその会の言い出しっぺは八角さんで、『焔の土』とは関わりのない若手クリエイターも何人かいて、彼らとベテラン職工の交流を促したいという意図があったようだ。
「何かしようよ」と若人を巻き込んで酒を酌み交わす先人たちに、クリエイターでも何でもない私は、その集まりのなかにいることが無性に恥ずかしかった。せめて知識さえあれば多少会話に加われると臍を噛んでいたとき、「霜谷さんが来てくれてよかったわあ」と私に話を振ったのは八角さんだった。
「作る人ばかり集まってても、買ってくれて使ってくれる人の意見がないと自己満足で終わっちゃうものね」
 その言葉に、「そうだなあ」と酒のせいか気のいい返事ばかりがその場に飛び交い、「使う人代表だな」という奥寺さんのダメ押しのような一言で、私に逃げ出すという選択肢はなくなった。
「若い人の感性とか、好みとか、知っといて損はないわな」
 誰だったか、その場にいた年配の方の声に「若いしか取り柄はありませんが、賞味期限切れにならないうちに頑張ります」と私も少し酔っ払っていたのか威勢のいいことを口にした。笑いが起こったことで私は少しだけ無力感を拭うことができたけれど、それはやはり「少しだけ」で、その夜を境に、劣等感と焦燥と、それに類似したパッとしない感情ばかりが渦巻くようになっていた。
 あの頃と比べると、半年の時を費やして私の心は少し軽くなっている。どろどろとした沼に足を取られそうになるけれど、私はそこから這い出そうとしたんだという、小さな達成感があった。それが今の私に前を向かせている。
 劣等感に塗れていた私を慰めてくれたのは、澄田さんだ。けれど、私は彼と共有していたものから抜け出さないと次に進めなかった。未来に向けて顔を上げることができなかった。そういうことなのだ。

「そうそう。決起集会っていうわけじゃないけど、前の親睦会と同じようなメンバーで忘年会しようかって話になってるから、霜谷さんも来てね。場所はもう予約してあるのよ」
 八角さんは目の前に極上の一皿を思い浮かべているのか、うっとりと顔を緩めていた。私がどこですかと問うと、チャーミングな魔女のような目でこちらを見る。
「前回と同じで『シェ・アオヤマ』にしたの。もう、今から楽しみで仕方ないわあ」
「――シェ・アオヤマ、ですか」
 楽しみですね、と私の口から出た言葉が棒読みだったことに気づかないくらい、八角さんは浮かれていた。
 フレンチ・レストラン『シェ・アオヤマ』の料理の虜になったのは彼女だけではない。ほんの数ヶ月前なら私も八角さん同様、いやそれ以上に浮かれていた。けれど、今私の胸にあるのは重苦しい二つの感情だった。
 会いたくない。でも会ってみたい。――そう、会ってみたいだけだ。会いたいわけではない。その店に行けば、コックコートを着た澄田さんがいる。
 あの日から、私は変われたのだろうか。
 あの日、これからも会いたいという彼の言葉を振り切って連絡を断つと決めたのは私だった。高波に宣言した「もう会わない」という言葉を覆すつもりはないけれど、その言葉に縛られて、闇雲に彼を避けるのも何か違うように思えた。避けたいという気持ちはすなわち、囚われているということだ。
「今日、澄田君がここに来ててね、買い出しのついでに寄ったとか言ってたけど」
 八角さんは何かを思い出したように「あ」とつぶやいて立ち上がり、給湯室へと歩いて行った。突然飛び出したその名前に返事もできないまま、私は彼女の丸っこい背中を見つめていた。
「抹茶のティラミスもらったのよ。おすそ分けですって。彼女と喧嘩してたらしくて、仲直りの手土産を作ったんですって。何だか可愛らしい話よねえ。まだもう一個余ってるから、霜谷さん食べて。今食べれなかったら持って帰ってもいいわよ」
「澄田さん、元気そうでしたか? 久しくお会いしてないから」
 当たり障りのない言葉を探し、それでも一番聞きたかったことが口をついた。小さなココットを手に戻ってくる八角さんは「そうねえ」と少し考える。
「以前より少し痩せたかもしれない。彼女のこと色々悩んでたみたいだし、そのせいってことはないと思うけど。でも、何だかいい顔してたわよ。うちに寄る前に『タキタベーカリー』の奥さんに発破かけられたんですって。大丈夫だから誠意を尽くせって。それで吹っ切れたのかしら。あちこちのオバサンに根掘り葉掘り聞かれて、澄田君も大変ね」
 八角さんの穏やかな笑いに、私の乾いた笑い声が重なった。会いたくないという気持ちが膨らみはじめるけれど、完全に吹っ切るための「禊」が必要な気もした。
 八角さんは「タキタベーカリーに出張販売でもしてもらおうかしら」なんて楽しげに口にしている。彼女の近くにいると滞った物事が笑い声とともに前に推し進められていくようで、それは傍から見ているととても魅力的ではあるけれど、その波に乗るには覚悟が必要だった。
 出された抹茶ティラミスはぺろりと平らげた。苦くて、苦くて、後味は甘かった。潤う程度の涙がしっとりと瞳に馴染む。いつか、もっと穏やかな心で彼のことを思い返せるのだろうか。
「澄田さんのティラミスなんて貴重ですね。店でも食べられない」
 専属のパティシエがいる『シェ・アオヤマ』で、シェフである澄田さんがデザートを作ることはない。私も彼の作るデザートを食べるのは初めてで、それが「ヒナキ」のために作られたものだなんて、何という皮肉だろう。
 あれも、もしかしたら「ヒナキ」の為に作られたものだったのだろうかと、彼との記憶が頭を過ぎった。
「ワイン好きなら、これ持って帰る?」
 寝癖のついた髪をかき上げながら、彼は私にスモークされたチーズをいくつか包んでくれた。なんとなく思い立って作ったんだ、そう言って。
 彼の部屋に行ったのはあれが最初で、最後だった。 

 初夏が近づく頃、閉廊後の『ギャラリーやすみ』に『森の小人館』で開催されるイベントのチラシを置いてもらいに行くと、そこに澄田さんの姿があった。
 昼間にギャラリーを訪れていたらしい彼は、「忘れ物したんです」と女物の折りたたみ傘を手に私に笑いかけた。八角さんに紹介されるまでもなく、私はそれが『シェ・アオヤマ』の人だと分かっていたし、どうやら向こうも私の顔を覚えていてくれたようだった。

ユカリ 〈2〉初夏の流星

 起き抜けから雨音が聞こえていたその日、家を出る前は少し肌寒いなんて思っていたけれど、職場につく頃には有酸素運動のおかげなのか少し汗ばむくらいだった。
 通勤途中にいつも目を向ける『ギャラリーやすみ』、普段はその名前が書かれたシャッターが下りていて、ギャラリーの電気がついていることは滅多にない。けれど、その朝はめずらしく八角さんと顔をあわせた。
 彼女はちょうどシャッターの電動ボタンを押したところで、「おはよう」という口の動きは見えたけれど、声はガシャガシャという鈍い金属音に掻き消されて私の耳までは届かなかった。声を張り上げようとしたけれど、それでも聞こえないだろうから、私はさしていた傘を軽く上下させて挨拶代わりとした。そんなやり取りがなければ、私が澄田さんの車に乗ることもなかったかもしれない。
「あら、ちょうどよかったじゃない。霜谷さん、今日歩きだったでしょう。帰り、澄田君に送ってもらったら?」
 八角さんは面倒見がいい。そして人使いも荒い。
 頼み事をしたりされたりということについて他人との垣根がずいぶん低く、私が躊躇しがちなことをさらりと口にして、それに巻き込まれることに戸惑いを覚えることもあるけれど、彼女のそういうところは憧れでもあった。
 かといって、ただ店に行ったことがあるという程度の、知り合いともいえない私が、地元でも有名なフレンチ・レストランのシェフに「お願いします」と図々しく頭を下げるわけにもいかない。
 「そんな申し訳ないです」
 愛想笑いで澄田さんの反応をうかがいつつ、内心では送ってもらえないだろうかと虫のいいことを考えていた。
 私のマンションまで歩いて二十五分。普段は自転車通勤で、雨の日だけは歩いて職場に通っている。通勤通学で混みあう時間帯のバスは苦手だった。雨であればさらにぎゅうぎゅうで、湿気が充満して息苦しい。帰りは帰りで、本数の少ないバスを待つのが面倒だった。雨で靴が濡れるのはあまり気持ちのいいものではないけれど、通勤路の大部分にアーケードがあるのでそれほど苦にならない。
「車持ってないんですね。不便じゃないですか?」
 笑顔とともに向けられた澄田さんの言葉はもっともで、この田舎では車を持たない知り合いを探す方が難しい。けれど、マンションを借りて、駐車場代に車の維持費となると、経済的にはかなり厳しい。必要なときは実家の母の車を借りられるから特に困ることもないし、今のところ車を買う予定はなかった。
「便利なのに慣れないうちは、不便はそれほど不便じゃないんです。きっと」
 私がそう答えると、ははっと澄田さんの顔が緩んだ。そういう考え方好きだなと言われ、悪い気はしなかったし、彼の笑顔がすごく「いい人」に見えたから、私は「送ってくよ」と言う彼の言葉にすんなり甘えることができた。女物の忘れ物傘を取りに来た彼が、何かおかしなことをするとも思えなかった。ちらりと頭を過ぎったのは、その持ち主に見られたら困るんじゃないかということくらいだ。
「これ? 妹の傘。今日やってた『ギャラリーやすみ』のグループ展が見たいって、急に実家から押しかけてきたんだ。お兄ちゃんも休みだからちょうどいいしって、予定がなかったから良かったものの、ほんと、困ったやつだよ」
 昼過ぎにすっかり上がってしまった雨に、その妹さんは傘の存在を忘れて帰ってしまったようだった。車に乗り込みながら、彼の口からこぼれる「お兄ちゃん」といった風情の優しい声に、私は好感を抱いた。気持ちが浮き立ちはじめるのを感じながら、もうちょっとだけ一緒にいたいと思っていたとき、
「どこか食べに行きますか」
と向けられたおどけた眼差しに私は素直にうなずいていた。
 そのときの彼の笑顔は、たぶん妹さんに向けるのと同じもので、彼にとっての私はそのとき「女」ではなく「妹」のようなものだった。それは至極感覚的なもので、たぶん男女の関係が生まれるきっかけにもなり得るものだ。
 車高がそれほど高くないSUVの助手席には、CDが一枚無造作に転がっていた。背中を包み込むシートは座り心地がよくて、私は置かれていたCDを両手でもてあそびながら、自己紹介のような会話を続けていた。
 言葉の合間に無意識に開けていたそのCDケースの中身は空で、車内にはアウル・シティーの曲が流れている。知らない曲だけれど、ポップなメロディーがその時の私の気持ちにぴったりだった。
「霜谷さんは何か作ったりしてるの?」
 澄田さんがそう聞いて、『シェ・アオヤマ』での親睦会を思い返しているのだろうと、私は胸のなかがわずかにザラつくのを感じた。
 店の閉店ギリギリまで居座っていた『八角&奥寺と愉快な仲間たち』は、精算も終わって店を後にしようとする間際になって、店のスタッフを巻き込んで立ち話をはじめた。雑談と名刺交換が飛び交うなか、私はまた居場所をなくしてこっそりとトイレに行き、ゆっくり化粧を直した。
 小さく気合をいれてトイレから戻る途中、スタッフ用と書かれたドアから出てきた男の人にぶつかりそうになり、それが澄田さんだった。
「すいません」
「いえ、今日はありがとうございました」
 そんな会話とも呼べない言葉しか交わしていない。彼のなかでは、私も「若手クリエイター」という括りのなかに入っていたようだった。
「私はたんなる事務員です。雑用係。だから、何かを作れる人って尊敬します。この前の親睦会の人達もだし、澄田さんみたいに料理作れる人も」
「何か照れるね」
 フロントガラスの向こうを見つめたまま彼は笑っていたけれど、そこには少し迷いが見えた。空の半分は夜のぼんやりした暗がりが広がっていたし、薄暮のつくる影がそう感じさせたのかもしれない。
 カーステレオからは知った曲が流れ、私は同じ音楽を耳にしたことがあるという安直な親近感から、その影のことはすぐ意識からなくなってしまった。
「この曲知ってます」
「シューティング・スター?(※1)」
 タイトルは知らないと素直に打ち明けると、彼はまたくすくすと笑い、私はさっきと違ってその笑顔にほっと安らぎを感じた。
 流れ星のように駆け抜けるメロディー、窓の外には夏を予感させる黄昏の海、彼の隣にいたいと思ったのは、そんな偶然の演出のせいもあったのだろう。けれど、それを押しとどめる理由なんて私は持ち合わせておらず、彼にもないと、そのときは思っていた。
 少し離れた『ピッツェリア岬』という店まで海沿いの道をドライブし、日が長くなったとはいえ、店を出るころには当然のようにあたりは夜の闇に包まれていた。
 昼間の雨に洗われた空は空気がひときわ澄んでいて、波音とともにひやりとした空気が頬を包む。
 海の見えるその店の駐車場に車を停めたまま、彼に誘われるままに国道沿いの歩道を歩き、小さなバス停の建物の裏に腰を下ろした。正面には夜の海が広がっていて、目の前には砂浜がゆるやかに下っているけれど、彼がそこに足を踏み入れなかったのは私の靴を気遣ったからだ。
「海に来ると落ち着くんだ」
 そうつぶやいた彼の顔に、また影が浮かんだ。その理由を聞き出せるほど、私たちの距離は近くない。彼が口にできない何かをそれでも私は知りたくて、自分の弱さを吐露することが、彼との距離を縮める近道のように思えた。
「八角さんも、奥寺理事長も、とても優しいんです。怒ることなんてないし、でも二人の周りには私なんかより頑張ってる若い人が沢山いて。それなのに、私のことも気にかけてくれるんです。それに応えたいって思うけど、正直どうしていいか分からないし、クリエイターの人達にもコンプレックスみたいなのを感じてしまって、なかなか馴染めなくて。親睦会のときは頑張ろうって思ったんですけど、時間が経つごとに少しずつ不安になってきて。そんな自分がやっぱり駄目だなぁって、また落ち込んじゃうんです」
 隣からは「そっかぁ」という相槌だけが聞こえてきた。もう少し何か喋ろうかと口を開きかけたけど、これ以上話しているとどんどん落ち込んでいきそうで口を噤んだ。すると、膝においていた右手に彼の手がかぶさり、私は隣を振り向いたけれど、彼はまっすぐ海を見つめたままだった。
「甘えたらいいんじゃないかな。とくに八角さんなんか頼ってあげたら喜ぶよ。素直に『何を頑張ったらいいか分からないんです』って言ってみたら? その代わり、彼女は頼ってくるからね。ここぞとばかりに『あなたこれできるでしょう』って。ちょっと背伸びしないと出来ないこともあるけど、彼女のまわりのクリエイターって、それで引き上げられてるんだと思う。クリエイターじゃなくても、きっと同じだよ。奥寺さんも同じタイプだけど、あの人は忙しい人だから」
 言葉の終わりには澄田さんの顔がこちらに向いていて、「ね」と微笑んだ彼に素直にうなずいた。うちの店のオーナーが二人と懇意にしてるんだ、と彼が浮かべた表情は私と似ている気がした。秘めた劣等感と、無力感。とくとくと心臓が速まるのを感じながら、私は少しだけ突き放されたようにも感じていた。
「俺も何かしてあげられたらいいけど、料理しか出来ないから」
 離れかけた彼の手を掴んだのは私だった。このままだと彼にとって私は「店の客」と「知人」のあいだくらいの関わりにしかなれない。どうにか少しでも近くにいられないかと、そんな無意識の行動だった。
「あの、また話聞いてくれませんか。澄田さんの時間があるときでかまいません」
 彼はまた海に目を向けてしまって、考え込むような微かな唸り声が耳に届いた。恋にもならなかった想い。一時の胸の高鳴りは、この闇にすべて流してしまうほうが良さそうだった。
「すいません。図々しいお願いでした。またお店に食べに行くので、そのときはサービスして下さいね」
 冗談ぽく口にすると、彼は「そうだね、何サービスしようかな」と、やはり私の気持ちに触れないことを選んだようだった。「帰ろうか」と立ち上がった彼を見上げる。
「今だけ、甘えていいですか」
 私の心臓はまだいつもより速く鼓動を響かせていて、まわりの景色は妙に現実離れして見えた。じわじわとこみ上げる悲しみに、ほんの少しくらい浸っても許される気がした。
「飲んでもいいよ」と勧められるがままに口にしたグラス一杯の白ワインは、私の欲望をいつもより強く意識させる。すぐ後ろでは車の走行音が絶え間なく行き過ぎ、それと重なるように波の音が寄せて引いた。
 月明かりに照らされた雲の影が波間に映り込んで、星あかりは月の眩しさに霞んでいたけれど、見上げた彼の肩越しに一筋の光が走った。
 ――シューティング・スター。
 差し出した手を、彼が握り返す。それだけで良かった。彼の手のぬくもりがそれを現実だと教えてくれる。
 立ち上がり「ありがとうございます」と隣に並ぶ私に向けられた彼の眼差しは、「妹」に対するものなのか、それとも「女性」へのものか。曖昧なまま、繋いだ手をそのままに駐車場まで戻った。手を離す間際、きゅっと握ったのに気づいて欲しかった。私はまだ手を離したくない。このままどこかへ連れ去ってほしい。
 車に乗り込んで、離れてしまった手を寂しく思う私に、「うち、来る?」と躊躇いがちな言葉が耳をかすめた。
「……え?」
「ごめん。なんでもない。聞かなかったことにして」
「……もう、聞いちゃいました」
 そのとき流れていたのはピアノが奏でる少し切ないメロディーで、彼の顔を見て切なくなったのも、もしかしたらそのせいだ。彼もそうだったのかもしれないし、時おり彼の顔に浮かんでは消える影のようなものが、私の何かと同調した。
 穏やかさと憂いとが同居した彼の微笑みは、不思議な安心感を私にもたらしていた。未熟な私を赦し、包み込んでくれるような、そんなあたたかさだった。
「うち、来る?」
 同じ言葉を繰り返した彼の手は私の頬に触れ、その手を追いかけるように近づいた彼の顔に、私はシートから背を離して呼応する。どうして今まで彼のことを知らずにいたのだろう。
 これほど深いところで何かを共有する感覚を、私は今まで経験したことがなかった。胸に穴が空いたようで、彼と共鳴したものがそこを埋めてくれた。
 唇をあわせるごとに、逢瀬を重ねるごとに切なさは膨れ上がり、私は彼と共鳴する何かに縋っていた。でも、本当は分かっていた。
 ――私はあなたの彼女ですか?
 どうしてもその言葉が口にできなかったのは、私と彼のあいだにあるものが闇に紛れたものだから。
 寂しさを埋めて、切なさで互いを求め合い、私たちにあるのは未来ではなく、漂うだけの沼地のようなものだった。劣等感と焦燥と、無力感。そんな感情を交換しあって、お互いが、お互いだけを赦していた。
 きっと私は彼の何も慰めてはあげられなかった。向き合うべき現実はお互い別のところにあって、私は彼を、彼は私を投影した、ただの影だった。

 澄田さんとの恋に浮かれたのは一瞬で、流れ星のようにあっという間に過ぎ去って、彼との関係が続いているあいだ、私が何度も思い返したのは帰りの車の中で聞いた「Silhouette」(※2)という曲だった。それはどこか暗示のようで、やはり私たちのあいだにあったのは実態のない影のようなものだったのだ。それでも、好きだった。
 彼と会わないと決めてから、私は少し強くなった。そんな気がしている。それでもあのときは彼が必要だった。傷の舐めあいというほどの傷が私にあったとは思わない。ただ、彼は傷ついていたのかもしれない。私と会うときはいつも大人の仮面を被っていた。
「これからも会うとか無理?」
 二股がバレたというのに子どもっぽく拗ねた表情でそう言った彼に、私は少し冷めて、冷めた自分が妙にしっくりと肌に馴染んだ。
 彼は優しい大人で、私の言葉を赦してくれる役。私は未熟者で、彼に甘える役。お互いそれを演じることで、どこかバランスを保っていた。本当の私は違う。
 慣れない仕事に落ち込んでいた時期もあった。その寂しさや無力感は一時的なもので、その一時の隙間に成立してしまった関係だった。だから、終わらせて良かったのだ。そうでなければ私も彼も沼に沈んでいくだけ。もがいて、もがいて、いくら足を取られそうになってもそこから抜け出さないといけない。一緒に沼で慰めあっても、ただ泥に塗れ沈んでいくしかできない。そろそろ、お互い未来に目を向ける時期だったんだ。だから、
 ――だから、バイバイ。


(※1)Owl City 「Shooting Star」
(※2)Owl City 「Silhouette」
両作ともアルバム「The Midsummer Station」(2012/Universal Republic Records)に収録

ユカリ 〈3〉まだ見ぬ春

「そうそう、この前ね、大学生さんから研究の協力依頼が来たのよ」
 テーブルに置かれた紙から視線を唐突に上げた八角さんは、グッドニュースでしょという顔をしていた。そして、彼女にも一枚噛んでもらおうかな、なんてつぶやく。どうやら八角(やすみ)サイクロンの被害者が一人増えるらしい。
 手元の紙には「『焔の土』をめぐる」の合同チラシの素案が描かれている。八角さんはその隅っこに「片平」と書いてくるくると丸で囲った。きっとその大学生の名前だ。その文字に、私は小学校と高校で関わりのあった、ある同級生のことを思い出していた。
 久しく連絡をとっていないけれど、彼女は今どうしているのだろう。地元の大学に進んだことは知っている。けれど、それ以降のことはまったく耳に入ってこない。それもそのはずで、それは私が県外の大学に進学してからほとんど地元の人と連絡をとらなくなったせいだ。ふと、今度高波(たかなみ)に聞いてみようと思った。
 高校の時、私は「片平(かたひら)リサ」というその同級生と微妙な距離を保っていた。
 小学校の頃は「リサちゃん」と呼んでいたその子と、もう一人「ナオ君」という男の子と仲良くしていて、けれど私は引っ越しを機に別の中学校に行くことになった。高校に入って二人の姿が見えたとき、私は密かにガッツポーズを決めるほど嬉しかったのだけれど、私に気づかない彼らと、昔と変わらない二人の距離に、どこか気後れして話しかけることができなかった。しばらくして向こうも私のことに気づいたようではあったけれど、結局彼らとの距離が縮まることのないまま卒業を迎えた。
 あれもプライドのようなものなのだろうか。私には高校に入ってから知り合った何人かの仲の良い友達ができていたし、彼らもそうだった。ゆるやかにまとまったクラスのグループを飛び越えてまで二人と関わることもなく、けれど、そんな回想のなかに異色の人物が一人紛れ込んでくる。高波はどこのグループにいただろう。
 クラスのあちこちを飛び回り、飛び回らなくても彼の大きな地声は教室の端から端まで届いていた。「霜谷」と、いきなり呼び捨てにされたときは驚いたけれど、彼は誰に対してもそうで、そして誰からも呼び捨てにされていた。「高波」もしくは「ケイスケ」。私はもちろん下の名前で彼を呼ぶことなんてなく、「高波」は何年経っても「高波」のままだ。
 同級で集まろうなんて言っていたくらいだから、もしかしたら高波はリサちゃんとも連絡をとっているかもしれない。そう頭に浮かんで一人苦笑した。
「リサちゃん」と気負いなく呼んでいたのは小学生の頃だ。気恥ずかしさなのか、拒絶への怖れなのか、高校の時の私は「片平さん」と呼ぶことしかできなかった。向こうも「霜谷さん」だったし、むしろ小学生の頃みたいに「シモヤン」なんて呼ばれるよりはマシだと、あの頃の私は自分を納得させていた。一度くらい「ユカリン」なんて可愛いあだ名で呼ばれてみたかった。
 ほんの刹那に過去の記憶が怒涛のように押し寄せてくる。きっと、それは後悔しているからだ。私はあの頃、やはりリサちゃんに声をかけたかったのだ。
「その子ね、『焔の土』の経済波及効果? みたいなの研究してるらしくて。でも、経済の話より熱く民藝品について語っていったわよ。ブームで終わるはずありませんって。山井さんも彼女のこと気に入ってるみたいだし、機会があったら霜谷さんにも紹介するわね」
 うふふ、と企むような含み笑いが八角さんらしい。機会があったらなんて言っているけれど、その機会は八角さん自ら作り出すに違いない。そして私の口からは溜息がもれた。
「焔の研究する大学生さん、かぁ。私も負けてられませんね」
「そうよ。奥寺君だって霜谷さんのこと買ってるんだから、ちゃんと期待に応えてあげてね」
「……え?」
「前回の焔の企画の時、霜谷さん落ち込んでたでしょう? 人手がいるからって駆り出されてきただけなのに、他の人はもっと割り切ってるわよ。その場だけやり過ごせばいいってね。けど、あなたはそうじゃなかったから、だから親睦会に誘ったの。陶芸家だクリエイターだっていっても、彼らは作る人。彼らと使ってくれる人を結びつけていかないと、いいものがどんどん廃れていっちゃう。だから、そのためには割り切れないあたなみたいな人がいるの。奥寺君の目は間違ってなかったって思うわよ。だってほら、中井窯の染め分け、欲しいんでしょ」
 八角さんの口元が笑いを堪えるように優しく結ばれる。そして、「そういうことよ」と言って、コツコツとテーブルの上の紙をボールペンで叩く。
 ――あなたこれできるでしょ?
 そう言われた気がした。テーブルに視線を落とすと、青い付箋紙がペラペラとエアコンの風に揺られている。「山井サン トークショー確認」「白みねがま サイトURLのこと」「西田さん 工房撮影の件 日程」……。
 自分の書いた小さな文字をながめながら、自身に問いかけてみた。
 ――あなたにこれできる?
 ――できる。
 風になびく付箋紙は目印だ。ひとつひとつ剥がしていけば、私は前に進むことができる。雑談のような話をしながら私の進むべき場所にフラッグを立てたのは八角さんと、そして私自身だ。
 だから、大丈夫。紙に書かれた名前はみんな味方で、私は彼らと一緒に歩いている。私だって「八角&奥寺と愉快な仲間たち」の一員のはずだから。ふと「片平」という八角さんの文字が目に入った。彼女もきっと愉快な仲間に入るのだろう。年下だろうか。それならば私はもっとしっかりしないといけない。知識では負けるかもしれないけれど、私にも何かあると、そう信じてくれる人がいるのだから。
 がんばります――。そう言おうとして顔を上げた。口を開きかけた瞬間、テーブルの上においていたスマホが振動とともにパッヘルベルのカノンを奏ではじめる。
「どうぞ。そろそろ終わろっか」
 八角さんは鳴り続ける音源に手を差し向け、私はスマホの画面を確認した。喉元まで出かかっていた言葉は、どうやら目の前の彼女には伝える必要がなかったようだ。私がそんな顔をしていたせいかもしれないし、元々そんな言葉なんてなくても八角さんは私にはできると思っている。それは心地よいプレッシャーだった。
「いい人からの電話かしら?」
 八角さんはからかうように言ってテーブルを片付けはじめ、私は目に入ったスマホ画面の「高波」という文字に、どうしてか笑いそうになった。
「もしもーし」
『あー、霜谷? まだ仕事中?』
「仕事中だけど、もう終わろっかって話になったところ。高波は休み? 何かおごってよ」
 冗談のつもりが予想外に「いいよ」と返ってきて一瞬驚いたけれど「マックか吉牛な」と笑い声が続いた。同窓会の幹事がどうのと、何だか歯切れ悪い口調で話すものだから、とりあえず会おうかという話でまとまった。
 耳元にスマホをはさんだままだらだらと無駄話を続け、書類を鞄にしまい込んでから、「で、どこ行くの?」と問いかける。八角さんがカップを洗っている水音が聞こえてきた。
『俺ちょっと行ってみたい店があるんだ。「ピッツェリア岬」っていうピザ屋』
 高波の口調は、はじめからそこを第一候補に考えていたようなきっぱりとした言い方だった。行かないと言うつもりはない。ただ、黄昏の海が脳裏に浮かんだ。切なさはこうして何度でも何度でも波のように寄せて引いて、いつしか消えてなくなるといい。
「高波、車持ってるの? この前自転車だったじゃない」
『仕事のときはチャリ。駐車場借りるのとかもったいないし。でもさすがに車なしだと不便だから、一応持ってるよ』
 一応というのがどの程度の「一応」なのか気になるところだけれど、それはこのあと判明することだから、現物を見るまでお楽しみにとっておくことにした。
『迎えに行くよ。今どこ?』
「ギャラリーやすみ」
『了解。そこなら五分くらいで着くから、また電話する』
 はーい、と返事をしながら終話ボタンを押すと、いつの間にかすぐ近くに来ていた八角さんがクスクスと笑っている。その様子で自分の口元がにやけていることに気がついた。
「なあに。霜谷さん、いい人いるの?」
 これだ。このオバサントークに澄田さんも根掘り葉掘り尋問されたのだろう。その光景を想像して、少し「いい気味」なんて思ってしまった。
「いい人じゃないですよ。高校の同級生です。同窓会の幹事を私とその人がすることになったみたいで。同級生とはほとんど連絡とってないのに、どうして私になったのかな」
「霜谷さん人がいいから、やってくれそうって思われたんじゃない? やるんでしょ」
「彼一人でさせるのも悪いし、仕方ないから手伝ってあげます」
 私の本心を見透かしているのか、八角さんはずっと楽しそうに笑みを浮かべていた。たしかにちょっと気持ちが弾んでいる。それは高波とのバカ話の名残で、たぶんこの後『ピッツェリア岬』に向かう車中でも、ピザをかじっているときでもそうなのだ。
 きっと、高波は蒸し返したりしない。澄田さんと三人で顔を合わせたあの朝のコンビニのことも、歩きながら流した私の涙のことも。
 高波はまだ、「ヒナキ」が好きなのだろうか。
 高波の未練がどれくらいのものなのか分からないし、もしかしたらチャンスを伺ったりしているのかもしれない。同窓会の幹事なんて口実で、略奪愛の相談をされるのかもしれない。
 勝手に彷徨い続ける自分の思考に、ふと我に返り吹き出してしまった。八角さんは不思議そうに私を見ている。
 あの高波が略奪愛なんて、ありえない。
 高波が略奪するとすれば、彼がそこに「正しさ」を見出したときだ。「ヒナキ」を澄田さんから奪うことが「正」ならば、それはつまり澄田さんと「ヒナキ」が一緒にいることが「誤」。私は、高波がそんな結論を出すとは思えなかった。
 澄田さんに仔犬のようにじゃれついていた高波、あのときにあったのは親愛と尊敬の眼差しで、高波にとっては憧れの存在だったのだろう。それを私が汚してしまった。「ヒナキ」を裏切った澄田さんを、高波は自分の中でどう決着させたのか、ふと気になった。
 高校のころ特定のグループに属さず、ひらりひらりとクラスメイトの懐に飛び込んでいった高波。決して要領がいいわけではない。彼のなかには彼の正義があり、そして他人の正義も許していた。
 ひとはひと、じぶんはじぶん。きっとそういうことなのだ。それが高波という人物。だから、彼は澄田さんのことを嫌いになれない。嫌いになれない分、たぶん葛藤もしている。
 ――高波は、バカだね。
 心のなかで呟いた自分の言葉に、また笑ってしまった。
「霜谷さん、よっぽど楽しみなのねえ。その同級生に会うのが」
「そんなことないですよ。ピザ食べに行くんですけど、考えたら顔が緩んじゃった」
 ほんとかしら、と肩をすくめた八角さんが何か気づいたように外に目を向ける。窓ガラス越しに見える、歩道の向こうの電柱の脇で黒っぽい軽自動車がハザードランプを点滅させていた。
「彼氏、来たんじゃない?」
「彼氏じゃないです」
 口を尖らせながら、私は手元のスマホに目を向ける。どうやら八角さんの予想通りで、画面には明かりが灯り、その端末は手の中で振動し始める。
「私はもう少しすることがあるから。楽しんできて。お疲れさま」
 八角さんはそう言いながらも、車中にいる人物をちらりとでも見ようと窓に近づき、張りつくようにして様子をうかがった。また次に会ったときに尋問されるのだろう。
「八角さん、お先です」
 ドアを押し開けるその向こうで、高波の顔がかすかにギャラリーの明かりに照らされた。スマホを耳に当てたまま助手席側の窓からこちらに目を向けている。
「あら、私好みのイケメン」
 聞こえてきた中年女の声に、私は頭だけをギャラリーのなかに戻し、目が合うと、八角さんは「嘘よ」と笑った。

 市内でもよく見かける黒の軽自動車。たしかうちのマンションの駐車場にも二台同じ車が停まっていた。可もなく不可もなくといった座り心地の助手席に腰を落ち着けると、目の前にはプーさんのぬいぐるみが寝転んでいる。ふと、コンビニの駐車場で見上げた民家の窓を思い出した。黄緑色のカーテンと、ミッキーマウスの後ろ姿。
「高波、ディズニーファン?」
「は?」という高波の声から、どうやらそうではないことが伺える。私の視線の先を確認した高波は「ああ」と苦笑した。
「姪っ子乗せたときに、それがあると大人しいから」
 市街を抜け海沿いの国道に出ても、闇に埋もれた海の姿をはっきりと捉えることはできなかった。
 私はラジオしか聴くことのできないオンボロ中古車の助手席で、高波の声だけを聞いていた。それは彼の声が大きいから。高波はやはり澄田さんのことには触れず、そして、「ヒナキ」のことも口にしなかった。リサちゃんとナオ君の名前が出てきたのは驚いたけれど、「シモヤン」と呼ぶことは断固として許さなかった。
「ユカリンならいいよ」
「いや、ないだろ。ないないない。ユカリまでならまだしも、ユカリンって、お前意外にメルヘンだな」
 ケラケラと笑う高波の横顔に、私はふと問いかけてみたくなった。もう少し深く知りたい、そう思ったのかもしれない。
 言葉に出す前に頭を過るのは、穏やかさと憂いを帯びた澄田さんの笑顔。私は彼のことを知ろうとしていただろうか? 聞いてほしい、知ってほしい。そんなことばかりで胸の隙間を埋めあって、お互い何も知らないままだった。
「ねえ、高波」
 んあ、という間の抜けた声が返ってきた。こういうやつだから、私は躊躇うことなく問いかけることができる。
「高波はまだ、ヒナキさんが好きなの?」 
 しばしの沈黙のあいだに、ラジオから聴こえてきたのはクリスマスの話題だった。
『今年はイブが日曜日だから、サンタクロースはサザエさんを観てから出勤ですねー』
 そうですね、という愛想のいい女性の声に笑い声が重なる。
「霜谷は、もう吹っ切った?」
 その声は高波にしてはあまりにも小さな声で、それでも人並みくらいの大きさではあったけれど、私は一瞬意味を理解できず言葉に詰まった。
「俺は、吹っ切った」
 それは、いつもと同じ高波の声だった。妙にすっきりした顔をしていて、全然関係ないのに「何だかいい顔してたわよ」という八角さんの言葉を思い出した。それは澄田さんのことで、私は彼も高波と同じように笑っていればいいと、そんな風に願っていた。
 偽善? いや、たぶん――。
「私も、吹っ切った」
 そういうことだ。高波が「そっかあ」と楽しそうに笑うものだから、それに合わせて「そうだ」と叫んで笑った。
 私の胸は何かあったかいもので満たされていて、埋め合うとか、慰め合うとか、そういう感覚は高波とのあいだにはなかった。
 高波が降りた運転席側のドアから冷たい風が吹き込んで、そこから逃れるように外に出ると、当然冷たい海風が体に吹きつける。「さみー」と体を縮めて店の入り口まで駆けていった高波が、ドアを開けたままで私を先に店内に通した。
「レディーファースト」
 大人なんだか子どもなんだか、高波は寒い寒いと繰り返して私を後ろから押してくる。
 高校を卒業してから、少しくらいは変わっている。私も、高波も。その空白部分、思いもかけない行動や、意外に近い距離や、たまに覗かせる大人びた表情。私の思い描く「高波」の姿はもしかしたら間違っているのかもしれない。
「ねえ、高波。澄田さんのこと嫌いになった?」
「あー、どうかな。でも、あの人には負けたくないって思った」
 ピザを口にくわえたまま顔を上げると、高波は慌てて「そういうことじゃない」と首を振る。
「ヒナキのことじゃなくて、料理のこと。だから、俺にとっては良かったのかもな」
 追い越してやろうって思えたから、と言った彼の言葉にはやる気なんか微塵も感じられなくて、もごもごと独り言のようにつぶやいていた。照れ隠しなのかノンアルコールビールを煽った高波に、私はつい笑みがこぼれる。
「高波は、バカだね」
 霜谷も、バカだね――と予想通りの言葉が聞こえる。予定調和と新鮮な裏切り。私はまた、目の前の同級生のことを知りたいと思った。

〈ユカリ・了〉

ヒナキ 〈1〉種火

 フォン・ド・ヴォーと赤ワインの濃縮した芳香というのは、どうしてこうも食欲をそそるのだろう。隣に立って私の作業をながめていたサチさんは「空腹の限界」と絞り出すように言い、どこかへ歩いていった。
 私は肉塊の取り除かれた鍋にレードルを突っ込み、煮崩れた野菜とともに煮汁をすくい上げて隣の鍋にかけられたシノワ(漉し器)に移す。匂いに慣れた鼻はそろそろ麻痺していると思うのだけれど、手を動かすごとに漂う香りに、私はやはり厨房で働いていたいのだとしみじみ思う。
 定休日の今日、私は数日ぶりにコックコートを着た。昨日までの数日間、私が身につけていたのは白シャツに黒のサロンエプロンで、それはそれで気持ちを新たにするには必要な儀式だった。
 私は変われただろうか。
 ここ二ヶ月、ずっと変わろうとしてきた。変わらなければと思ってきた。真摯に料理に向き合うこととプライベートを天秤にかけ、前者を優先したのは私だ。
 自分一人で立てるようになろうと、自信をつけて真っ直ぐに彼の顔が見られるようになろうと、縋りたくなる気持ちを振り切るように仕事に向かってきたつもりだった。
 私は何か間違えてしまったのだろうか。心のなかで何度も彼に――スミ君に問いかけた。
  距離をおきたいと言ったのは私で、それを受け入れたのはスミ君だった。意を決して伝えたはずの自分の言葉が正しかったのかどうか、何度も考え煩悶し、気づいたのはその答えが出ても今更どうにもならないという事実だった。
 冷却期間という言葉とは裏腹に、ただ会いたいという気持ちが種火のようにポッと胸に灯り、じわじわと広がって、けれど、それに身を任せては同じことの繰り返しになるのではないかという危惧が私を押しとどめる。「おしどり夫婦」なんて冷やかされ、それに安心していた数ヶ月前の自分にほとほと嫌気がさしていた。
 消えない猜疑心は、未だにはっきりさせていないせいだ。スミ君が本当に浮気をしたのか、部屋の片隅に落ちていたピアスは妹のものなのか、もしかしたら私の被害妄想なのか。
 そうであればと願うけれど、彼が完全に疑惑を否定したとしても、私の中からすべての疑念がなくなるかといえば、きっとそうはならない。
 彼の考えていることが分からないから不安になる。不安になることで気づくのは、彼の隣にいたいと望む自分だった。そして自分の愚かさを思い知らされる。――愚か、なのだろうか。疑問ばかりがぐるぐると頭のなかを駆け巡っている。
 私は彼のことを尊敬していたし、後ろで見守っていくれてる穏やかな優しさも好きだった。私の背中には彼のぬくもりがあって、彼が私の肩越しに進むべき道を指し示している――そんな感覚があった。あれが単なる私の思い込みだったとは思えない。知らぬ間に、私は背後の彼を置き去りにして一人で駆け出してしまったのかもしれない。
 そして、ふと足を止めてようやく気づいた。振り返った先のスミ君は、私ではない別の場所に目を向けていた。それが人なのかモノなのか、私はただ自分の足の向く先だけを目指していて、彼のことを見ていなかった。そこにいるのだと安心しきっていた。そう信じる方が楽だったから。
 もしかしたら、彼は私と違うことを考えていたのかもしれない。いや、もしかしたらではなく、きっとそうだった。
 一度でも彼の視線の先を見ようとしただろうか。盲目的に彼は私と同じものを見ているのだと信じつづけ、本当の彼の想いを蔑ろにしてはいなかっただろうか。私は――、私はただ、もっと料理が上手くなりたい、お客様の心に響く一皿を作りたい。それを目指していた。もっともっと色々なものを見たいし、『レスプリ・クニヲ』以外の場所でも働いてみたかった。
 ポクンと間の抜けた音がして、頭の上に軽い衝撃があった。
「ヒナ、またぼうっとしてると厨房復帰が延びるわよ」
 サチさんの手の中にあるのは卸業者が持ってきた来年のカレンダーで、彼女はそれを両手でもてあそびながら再び私の作業に目を向けた。
「ぼーっとしてるわけじゃありません。集中してるんです」
 本当かしらとサチさんはもう一度私の頭をポクンと叩き、すぐ脇の作業台に置かれたバットに顔を近づけてクンクンと鼻を鳴らした。そこにあるのは糸で縛られた牛ほほ肉の塊で、今仕込んでいるのは、いわゆる牛肉の赤ワイン煮(ブフ・ブルギニョン)。十二月になるとやはり体の温まる煮込み料理を食べたくなるし、提供したくなる。
 私の勤める『レスプリ・クニヲ』には奇をてらった料理はなく、馴染みのある食材をベースにしたメニューがほとんどだった。ジビエを使うこともたまにはあるけれど、それは過去に有名オーベルジュで料理長を務めていたという樋引さんの経歴を知っている常連がリクエストしたときくらいで、「そういうのは『シェ・アオヤマ』に任せとけばいい」と、樋引さんのスタンスはずっと変わらないままだ。
『シェ・アオヤマ』というのはうちと同じフレンチ・レストランで、規模は小さいけれど遠方からも一年を通して客が訪れる有名な店だ。『レスプリ・クニヲ』も地元では有名で、けれど地元以外に目を向ける気はないようだった。
「以前はそうでもなかったんだけどね」とサチさんが言っていたことがある。「以前は」とは樋引さんが来る前ということだろう。私はその頃のことは知らないし、この店を立ち上げた「如月州生(きさらぎくにお)」という人のことも知らない。なぜならその人はもうこの世にいないから。私が会ったことがあるのは、州生の妻の奈穂さんだ。未亡人の彼女は、州生が生きていた頃から『レスプリ・クニヲ』のオーナーだったらしい。
 ――『レスプリ・クニヲ』は如月って人の二回目の店らしいよ。前の店で失敗して自己破産したんだって。
 そう教えてくれたのはスミ君だった。『シェ・アオヤマ』のシェフをしていて、私の恋人の澄田(すみだ)タカヤ。その彼とは、もう二ヶ月くらい会っていない。彼のことを考えて心臓が速まるのは恋心のせいではなく、自分がすべきことへのプレッシャーからだ。
 くたくたになった野菜だけがシノワに残り、寸胴鍋に溜まったチョコレート色の液体を再び火にかけた。厨房の中をうろついていたサチさんは私が何か新しい動きをするとふらふらと近づいてきて、何も珍しいことをしているわけでもないのにぼんやりながめている。どうやら手持ち無沙汰のようだ。
 営業中にはこんなに暇を持て余しているサチさんの姿を見ることはできない。忙しなく動いているわけではないけれど、視線は常に店全体をまんべんなく見据えていて、何かあればすかさずフォローに入る。
「サチさん暇そうですね。さっきは空腹の限界って言ってたのに、何か食べたんですか?」
「ううん。コーヒーで誤魔化した。ヒナも飲むなら淹れてあげようか。まだ樋引さん戻って来ないから、することないのよね」
 樋引さんは昨晩かかってきた電話でオーナーに呼び出されたらしく、二時間ほど前にここを出て、オーナーの営む化粧品店に向かった。店を出る前「あそこは匂いが苦手なんだよな」とブツブツ言い、私には二つ、三つの大雑把な指示を出していった。
 一人になった私は少しだけ気持ちが緩んでいて、久しぶりに包丁を握れる嬉しさから無意識に鼻歌を口ずさんでいた。誰も来ないと思っていたので、三十分ほど前にサチさんが現れたときはびっくりした。
 鼻歌なんか歌うんじゃなかったと後悔し、サチさんもサチさんで、私ではなく樋引さんがいるものと思っていたらしく「(のぞむ)?」なんてプライベートな声色で厨房をのぞき込むものだから、お互い照れ笑いのような、苦笑いのような曖昧な表情でお茶を濁すしかなかった。
 ちなみに「望」とは樋引料理長の下の名前だ。サチさんはまだアプローチ中だと言っていたのに、どうやら樋引料理長との距離は順調に縮まっているようだった。順調というより、ハイスピードで縮まっている。それは嬉しくも妬ましい。
 定休日の今日、元々私は休みの予定だった。昨夜、オーナーからの電話を切った樋引さんが「仕込みどうすっかな」とつぶやいたのをたまたま耳にした私は、自ら出勤することを申し出た。普段であれば「休みは休め」と言われるのだけれど、今回はどうやら私の気持ちを汲み取ってくれたようで、「じゃあ、頼むわ」と厨房に入ることを許された。
 初心に戻れとホール係を命じられて三日。私にとっては長い時間だった。長いけれど、必要な時間だった。厨房の外側で出されてくる皿を運び、ワインを注ぎ、お客様を迎え見送った。
 サービスに対してお客様からかけられる言葉と笑顔、テーブルに置かれた皿に目を輝かせる人たちとの距離。今までも見ていたはずの物事を、実は見過ごしていたのではないかと、やり取りする会話の中で感じた。
 ――これ、何ですか?
 ――どうやって食べたらおいしい?
 ――どのワインが合うかしら?
『レスプリ・クニヲ』の客は気取りのない田舎の人ばかりで、かしこまってフレンチというわけではなく、好奇心を隠すことなくスタッフに話しかけてくる。それはきっと樋引料理長が生み出す料理と、サチさんの気さくな接客が育んできた関係だった。
 スタッフの前で仕事人間のサチさんは、お客様の前に出ると常に穏やかな笑みをたたえている。「昔は看板娘だったのにね」なんて常連さんがからかいまじりに言うのを、サチさんは「今は娘がたくさんいるので彼女らに任せてます」とさらりと返した。
 彼女は樋引さんよりもずっと長くこの店にいる。開店当初から働いているのはサチさん一人で、前料理長の如月さんが亡くなった六年前を境にメンバーは徐々に入れ替わったらしい。私もその中の一人だった。
 私は今のこの『レスプリ・クニヲ』が好きだ。好きだけれど、サチさんのようにずっとここにいるつもりはない。前へ進んで、いつかは――そんな想いは常に胸にある。
 洗い物を終えて手を拭いたところで、ソースの匂いに混じって珈琲の香りが漂ってきた。
「どうぞ」
 サチさんから差し出されたカップを一旦作業台に置き、木べらで鍋底を数回ゆっくりとかき混ぜてから火加減を小さくした。コーヒーを一口だけ飲み、
「少しのあいだ見てて下さい」
とお願いしてダッシュで裏庭の花壇からローズマリーをひと枝切って戻る。サチさんは鍋の前に立ってゆっくりと木べらを動かしていた。
 手を止めたサチさんと交代し、液面にゆるゆるとした波を描き続ける。
「ねえ、ヒナ。澄田さんに連絡したの?」
 背中から聞こえてきたサチさんの言葉にドキリとしつつも、つい口元が緩んだ。ガチャリと音がして後ろを振り返ると、サチさんは折りたたみ椅子に座ろうとしている。
「サチさん、プライベートには口出さないって言ってませんでした?」
「言ったよ。言ったけど、あれは仕事人間サチの発言」
 妖怪人間みたいと返すと、彼女は似たようなものよと笑った。最近のサチさんを見ていると、隣に並んで立ってくれる存在があるだけでこうも違うものかと何度も思わされる。陳腐な言い方をすれば、丸くなった。
 取り立てて大きく何かが変わったわけではない。相変わらずきつい言葉も多いし、バックヤードでは必要以上に笑顔を浮かべることはない。ただ、小さな所作や会話の語尾に、余裕のような、以前よりもほんの少し多めの寛容さを感じる。
 一度であれば見逃してしまいそうな変化も、繰り返されれば「あれ?」と気付くものだ。
 鈍感な男たちもその微妙な変化に気付いたようだけれど、相手が古株サチさんと天下の樋引料理長ということもあり、表立ってからかうようなことはなかった。が、それも今のうちだけだろう。
 飲み会がある度にノリのいい数人の男性スタッフに絡んできたバイセクシャルの樋引さんが(「絡んで」という表現は少々大人しすぎるかもしれないが)、次の酒の席でどんな態度をとるのか。最年少シェフのケイスケは「やっと料理長のキスから逃れられる」と喜んでいた。
「サチさんは順調みたいですね。やっぱり言いたいことは言わないと伝わらないのかな」
 鍋の内側、液面から五ミリほど上の所にまっすぐラインが出来ている。煮詰まっていくソース。じっくりと過ぎていく時間のなかで、私とスミ君との関係は乳化せず分離してしまった。
「言いたいこと言ったからって伝わらなかったわよ。五年越しでようやく考えてみようかって思わせるところまでこぎつけた。言っても伝わらないのに、言わなかったら余計に伝わるはずない。ヒナは良い子過ぎるんじゃない? 男から見たら素直だし守ってあげたいって思うのかもしれないけど、私からしたらブリッ子してるように見える。だって、ヒナって結構ぐいぐい行きたいタイプでしょ。澄田さんはそういうの分かってくれてた?」
 まっすぐなサチさんの物言いが胸に刺さる。
 スミ君と出会った頃、私はまだ厨房の一番下っ端で、与えられる仕事をひたすら間違えないように必死でやっていた。自信なんて欠片もなかった。
『シェ・アオヤマ』との飲み会で初めて顔を合わせたスミ君は、適当に座ってという誰かの声に、空いていた私の隣に腰を下ろした。隣県のホテルに勤めていたけど声をかけられて戻ってきたという彼は、同じ調理師学校の出身だった。
 手、荒れちゃうよね、と彼が視線を向けたのはグラスを持つ私の指先で、私は恥ずかしくてぎゅっと拳を握ったけれど、彼は「ほら、俺も」と私以上に痛々しい指先を見せた。
 年上で、どうやら『シェ・アオヤマ』のオーナーシェフからの信頼も厚い澄田さんは、それまでの飲み会で気安く話してきた駆け出しの料理人たちとはどこか違い、落ち着いた大人の男性だった。私は彼が隣に座ったことにまず驚き、かけられた言葉の親しげな響きに警戒心を解いた。
 何回か酒の席で顔を合わせ、彼はタイミングを図るようにして私の横にやってきた。学校の頃の話や、前に勤めていたホテルの話、彼の地元の海のこと、それから私の一つ年下の妹がいるという話を、私は頷きながら聞いていた。私が話すことといえば仕事の失敗談やスタッフのこと、それに料理のことばかりだった。
 料理の話を彼から聞くのは楽しかった。いつの間にかまわりの人たちも会話に加わり、料理談義が始まる。ときおり他店を悪く言う人もいたけれど、澄田さんも樋引さんもそれには加わらず、「商売だから色々やり方があるんだろうよ」と流し、話を別の方へと振った。私はそんな二人を尊敬していたし、年のさほど離れていない澄田さんのことは自然に意識するようになっていた。
 彼に認められたい。彼と同じ視点に立って対等に料理の話がしたい。そんな気持ちでも恋になり得た。尊敬や憧れが恋心に変わることもある。いや、変わったのではなく、心のなかの別の場所に芽生えたようだった。
 彼を疑って、ひとつ分かったことがある。それは、私は彼を嫌いになっても、彼のことは尊敬したまま、憧れたままで、その気持ちが変わることはないということ。
 恋心と、仕事を通じた彼への敬慕は別物だった。それが、余計に自分の気持ちを混乱させている。
 彼は私のことをどんな風に見ているのだろう。恋人としての私と、同じ料理の世界に身をおく者としての私。
 私は尽きることのない料理への探究心をすべてスミ君にぶつけてきた。未来を――いつか店をしたいという夢を、彼にだけは打ち明けていた。だから、サチさんの質問には明確な答えが出ている。
 ――澄田さんはそういうの分かってくれた?
「分かってくれてたと思います。きっと誰よりも。私は、彼に一人前だって認めてほしくて頑張ってきたんです」
 ふうんと相槌をうったサチさんの顔はどこか不満げだった。期待していた答えと違ったのか、彼女にはそんな風に見えていなかったのか。
「ヒナ、澄田さんと喧嘩したことないでしょ」
 思わぬ質問に「え」と言葉が詰まった。サチさんは「今回のは別よ」と付け足し、さらに独り言のように「今回のも喧嘩とはいえないか」とつぶやいた。
 核心を突いた言葉だった。スミ君に疑惑を抱いてから私は何も彼に問い質していないし、自分の気持ちも言葉にしていない。そして、それを認めるのも悔しかった。
「喧嘩ってほどの喧嘩はして……」
 したことないでしょ、と言葉を被せられた。勝ち誇ったように決めつけられ、私はぎゅっと唇を噛む。
 いつもそうだ。悔しさを覚えるとすぐ涙があふれそうになり、それが余計に悔しくていつも口を噤むことしかできない。
 胸に滲み出てくる濁った感情の波を何とか落ち着けようと、まだ湯気の立つコーヒーに口をつけた。サチさんの視線がまっすぐ私に向けられているけれど、私はそれを見返すことができない。
 マグカップに視線を落としたまま黙り込んでいると、小さな溜息が聞こえ、「ヒナは」といくぶん穏やかな声が聞こえた。
「ヒナは澄田さんの前でもそうやって言いたいこと引っ込めちゃうんじゃない? 今、私が言ったことにイラッとしてたよね。自分では気づいてないのか知らないけど顔に出てる。怒るのは大人げないとか、言い返したら嫌われるとか、そういうこと考えるまえに吐き出したらいいのよ。格好悪くても、誰しもそういう部分は持ってるんだから」
「それは……サチさんだからできるんです」
「私は猪突猛進だから?」
 自らをあげつらうように、サチさんはくすくすと笑った。私は肯定も否定もできず、サバサバとした彼女の表情を妬ましく思う。そして、自分が口にした言葉を心のなかで反芻していた。
「サチさんだからできる」ではない。きっと、「私にはできない」そう自分で決めつけているだけだ。
「ヒナ、ちゃんと怒らなきゃだめよ。自分のなかに怒りを閉じ込めて納得したフリしてても何の解決にもならないし、何も伝わらない。浮気されたら怒るのがあたりまえ。それを無理やり自分のせいにして納得しようとしてみたって、また同じことになるわよ。怒りって思うほど簡単に消えないし、消えたと思っても心のどこかで燻ってる。それで何かの拍子に燃え上がっちゃったりするのよ」
「……でも、私の勘違いかもしれないし」
「ヒナの勘違いでもいいから、今まで我慢してたこと澄田さんに吐き出しなさい」
「我慢、してたこと?」
「そう。素直で一生懸命なヒナじゃなくて、もっとワガママで独占欲や上昇志向も強くて、嫉妬や怒りでどろどろに醜いヒナ。ヒナは私と似てる。寂しさを、がんばることで埋めようとしてる。まわりに認められたら嬉しいし、負けるのは嫌い。私がヒナと違うのは、誰にでも好かれたいと思っていないし、好かれるために自分を変える気はないってこと。自分の汚い部分も含めて、私はもう観念してるの。こういう風にしか生きられないってね。取り繕った自分を好きになってもらっても疲れるのは自分なのよ。そんな私でも関わりあってくれる人がいるっていうのは、本当、世の中捨てたもんじゃないっていうか、もの好きもいるなあって思うわ」
 サチさんはニコリと笑って立ち上がり、食器棚の脇からテッシュの箱をつかんで私に差し出した。
「こんな話で泣いちゃうなんて、ヒナ、よっぽど溜め込んでるのよ。どこにも泣きポイントなんてなかったのに。あと、私の言うとおりにしたら行き遅れるから、今言ったことは参考にしちゃだめよ」
 溜め込んでるつもりなんてなかった。でも、涙はじわじわと染み出してきて、少しずつ心が軽くなっていく。
 あの日、深夜のコンビニの駐車場で真っ暗な海を見つめながら、あれは悲しみに酔っていたのか、溜まっていたものを吐き出したかったのか。たぶん、泣きたかったんだ。
 鼻をかんで冷めかかったコーヒーをすすった。木べらから手を離した私の代わりに、サチさんは鍋をかき混ぜていた。煮詰まっていくソースに鼻をひくつかせ、「やっぱお腹空いた」とこぼす。
 休業日だからなのか、樋引さんという存在のせいなのか、彼女の仕草ひとつひとつが蠱惑的に映った。もしかしたら単なるやっかみなのかもしれない。
「サチさん、雰囲気変わりましたね」
「そう?」
 振り返って小首をかしげる姿に、やはり変わったのだと改めて思う。それも何か癪ねとサチさんが笑ったとき、ギィと裏口のドアが開く音が聞こえた。
「ようやく帰ってきた」
 頬をゆるめたサチさんから木べらをバトンタッチをする。私はぐるりと鍋の内側に沿うようにをひと混ぜし、鍋底にまっすぐ木べらを立ててソースがおよそ半量に煮詰まったことを確認し、火を止めた。すると、すでに厨房から出ていったと思っていたサチさんが私の顔をのぞき込んでいる。驚いて身を引いた私に、サチさんは「うん、よし」とうなずいた。
「何がよし、何ですか?」
「だって、この前も泣かせて、また今日も泣かせたのバレたら何か言われそうじゃない。料理長様はヒナの味方だし」
 おどけながらも拗ねたような表情を見せたサチさんに、私はつい笑ってしまった。
「サチさんだって、樋引さんにはよく思われたいんじゃないですか。取り繕わないなんて言っておきながら」
「だから、私の言うことなんて参考にしちゃだめだって言ったでしょ。自分のことは棚上げにしておかないと何も喋れなくなっちゃう。でも、言った時は本気でそう思ってるの」
 コンコンと壁を叩く音が聞こえ、二人同じタイミングで振り返った。厨房の入り口には髭面の樋引さんが居心地悪そうに立っている。
「俺はお邪魔か?」
 女ふたりの顔をうかがいつつ近づいてくる彼に、サチさんは「遅い」と憤慨した。
 二人はこのあと「如月州生」の墓参りに行くらしい。命日ではない。彼の誕生日が一昨日で、どうやら樋引さんは毎年それにあわせて墓参りをしてきたようだ。
 六月の命日にはオーナーと古株メンバー数人で墓参りに行くというのは知っていたけれど、樋引さんが一人でこうして年の暮れに墓参りをしているということはサチさんも知らなかったようだった。今日、サチさんは店に来てすぐその話を私にし、「ばかよね」と淋しげな笑みを浮かべた。たぶん樋引さんのことを言ったのだと思うけれど、それ以上深く聞けるような雰囲気ではなかった。
 ソースの仕上がりを確認した樋引さんは、二三度うなずいてから「おつかれ」と笑顔で言い、私はほっと胸をなで下ろした。
「あとは俺が戻ってから片しとくよ。それまでには冷めるだろうし」
 墓地に行って帰ってくるだけで寸胴鍋半分のソースは冷めないだろうけど、二人はどこかに食事に行くらしかった。サチさんの服装からしてそれなりの場所だろう。品のあるグレーのワンピースに、ファーをあしらったニットカーディガン。樋引さんはコートを着たままなので下にどんな格好をしているのか分からない。彼の姿で気になることといえば、
「樋引さん。どうして髭伸ばし始めたんですか?」 
 私の質問に「何となく」という樋引さんの声と、「私が髭フェチだから」というサチさんの言葉が重なった。バツの悪そうな樋引さんに、女同士で顔を見合わせて笑った。笑いがおさまった頃、サチさんがまっすぐに樋引さんの顔を見つめた。
「オーナーの話って、毎年恒例の?」
「ああ。例の話。まあ、こっちの答えも毎年恒例だけどな」
 話が見えずキョトンとする私に、樋引さんが躊躇いがちに言葉を付け足した。
「ここの店を『レスプリ・ノゾム』にしろって。つまり買い取れってハナシ。もちろん好意でそう言ってくれてるんだけどね。俺はまだこのままでいいかな」
 サチさんは無表情のままで、樋引さんの口元をじっと見ていた。
 名前はどうあれ、ここは実質『レスプリ・ノゾム』だった。私は「如月州生」の料理を知らないし、古株のスタッフで今も残っているのは当時若手だった人たちばかり。まともに『クニヲ』の料理を作れる人はいない。
 昔から贔屓にしてくれているお客様は「樋引さんの料理のファンだけど、以前の如月さんの料理も素敵だったわよ」と口にしていた。「素敵」と表現される料理とはどんなものだったのか。味わいたいと思っても、その皿を生み出した人間はもういない。
 樋引さんがここに来た当初は如月さんのレシピも多く用いていたらしいけれど、「樋引色」を押し出していくことを望んだのは、病床にあった如月本人だったそうだ。それに賛否があるのは致し方ない。そして如月さんが他界し、幾人かが店を出ていき、私を含む何人かが新しく入った。
「……店をしようと思うタイミングって何なんでしょうか」
 ふと頭に浮かんだことがそのまま口をついて出ていた。二人の視線が私に注がれ、うっかりもらした自分の言葉を後悔する。
「ヒナキ、店したいのか? ……」
 樋引さんは言葉の続きを飲み込むように口を閉じた。彼が躊躇った言葉の終わりをサチさんが引き継ぐ。
「旦那と?」
「サチ」という言葉に叱責のような響きがこもっていた。サチさんは樋引さんの顔を一瞥しただけで、また私に向き直った。
「そういうこともちゃんと話しなさいよ。私たちに話す必要なんてないから」
 サチさんの強気な口ぶりに樋引さんの表情が緩んだ。サチさんの気持ちはちゃんと私に伝わっている、そう確信したように。
「ありがとうございます、サチさん。でも、今の言葉は私のために言ったんじゃないんですよね」
「当たり前でしょ。プライベートなごたごたはさっさと解決してよね。仕事に支障が出るから」
 お互い様ですと返すと、サチさんは「ふん」と笑いまじりに息を吐いた。
 私はこの店が好きだ。サチさんも樋引さんも、ケイスケも他のスタッフも。彼らと一緒に作っていく幸福な食卓を、もっと色んな人に届けたい。
 一方で、新しい場所で違うものを吸収したいという思いもある。けれど、その前に私はここで学ぶべきことが山積みだった。自分の店なんてまだまだ先の話。
 スミ君は将来のことをどう考えていたのだろう。私の料理話に付き合いながら、彼は未来について口にしたことがあっただろうか。
 彼と再び向き合うことができるかどうかも分からないというのに、彼の隣にはすでに誰かが居座っているかもしれないというのに、私ばかりそんなことを考えている。
 連絡をくれない理由を考え、平然と日々を送っている彼を想像し、追いかけてこない彼に心のなかで苛立ちをぶつける。
 スミ君の電話はいつも素っ気なく切れて、電話をかけるのもメールするのも私からだった。私がスミ君の家に行くばかりで、うちに来るのは月一回もなかった。
 ――いいんだけどね。じゃないとスミ君の部屋の灰皿は山盛りになっちゃうし、キッチン以外の場所は散らかっちゃうし。でも本当は私、洗濯物たたむの嫌いなんだ。スミ君は取り込んだ服を籠に投げ入れたまま。それを「仕方ないな」ってたたみ始めるのは働きアリの習性みたいなもの。怠けるアリがいれば働かないアリも動き出す、そんなようなもの。私のクローゼットでは百均のカゴに下着が積み上がってる。私だって几帳面なわけじゃないんだよ。でも、床の上に無造作に雑誌を置くのは嫌い。何度片付けてもいつの間にか床に開きっぱなしの料理雑誌があって、私は小さく溜息をつきながらスミ君がながめていた料理の写真に目を向けるの。そのまま読みふけっていたら「ヒナキは本当に料理が好きだな」なんて笑うから、それで「まあいっか」って。
 一緒に暮らしたい。いつもその言葉から逃れるように、彼はスマホを手に部屋から出ていく。私の何が不満だったのか、それとも部屋に女の人を連れ込めなくなるからなのか、自由がなくなるから、束縛されるから。音声にならない私の疑問に、彼が答えてくれることはないのだ。
「……サチさん。私、色々ぶつけてきます」
 そう、とサチさんは満足気にうなずいた。樋引さんの穏やかな眼差しが背中を押してくれる。「女って強いな」とつぶやいた彼の言葉には実感がこもっていた。
 店裏で二人と別れ、振り返ると樋引さんの腕にサチさんが手を絡めていた。きっと彼らは同志であり、戦友であり、これからまた別の関係を紡いでいこうとしている。
 二人で共有してきたこれまでの時間のうえに、ひとつひとつ新たな記憶が積み重なって、それは多分「恋人」「夫婦」なんて言葉では足りない、二人にしか分からない関係になる。
 私とスミ君のあいだにあった、たくさんの記憶と気持ち、交換しあった温もりと、押し込めた感情。すべてが私のなかに降り積もっている。それは変わらない大事なもの。その上にまた新たな時間を重ねていけるのか、重ねていきたいと思えるのか。私一人で考えていてもどうしようもない。

 運転席に乗り込んでエンジンをかけると、ラジオからピアノの音が流れてきた。
 柔らかな音色にしばし聞き入っていると、そこに男性のハミングが加わる。ピアノ曲ではなく、どうやら洋楽ヒップホップらしいその曲に妙に心を惹かれ、スマホをスピーカーにかざして曲名を検索した。
『Sam Ock / Every Moment(※)』
 ダウンロードしようとした時、手の中のスマホが振動した。躊躇わず電話を受けることができたのは、まだ車内に流れ続けていたその歌のおかげかもしれない。

(※)Sam Ock 「Every Moment」2013

ヒナキ 〈2〉朝日

 お湯の沸く音が部屋の中を満たしている。コンロの火を止めたあと、ダウンロードした「Every Moment」の再生ボタンを押した。
 何度も何度も繰り返し聴くのなら一曲リピートに設定すればいい。けれど、もう一度聞いたらお風呂に入ろう、もう一度聴いたらドライヤーをかけよう、もう一度聴いたら――そんな風にして、今、お湯を沸かし終えた。
 曲の切れ間に漂う沈黙。いつの間にか訪れている静寂に気づくのは、思考の合間のふとした瞬間だった。いつ曲が終わったのかも分からないまま、私は再生ボタンを押す。そして、数時間前に聞いたスミ君の声を思い出していた。
『ヒナキ、久しぶり。いま平気?』
「……うん。仕事終わったところ」
 仕事だったのか、と問う電話越しの声に懐かしさを感じた。
「働きすぎ」「たまには息抜き」諭すように繰り返し言われてきた言葉の数々が、記憶の(ひだ)から一斉に浮上してくる。
 心の底で燻っていたのは怒りだけではなく、共に過ごした時間のなかの、ありとあらゆる感情だった。それが彼の声でぐちゃぐちゃに混じりあい、私の内部をかき乱す。怒り、悲しみ、猜疑心、許容、温もり、愛しさ、寂しさ……。
 苦い。その言葉がぽんと頭に浮かんだ
 思い出は甘く切ないわけではなく、執着のような愛しさと、ざらりとした苦い後味があった。苦味をおいしいと思うようになったのは、いつの頃からだろう。
『話がしたいんだ。今夜会えないかな』
 うん、と返事をするまでに二度深呼吸をした。「よかった」という彼の声に、私はこの電話が待ち望んでいたものだと、ぼんやりと考える。きっと彼はやり直したいと言ってくれる。
 嬉しいはずなのに、私は戸惑っていた。
 このまま何事もなかったように「私も会いたかった」とは口にはできない。彼を求める心は膨らんで、今にもすべてを許してしまいそうで、その思いがうっかり溢れ出さないように下唇をぎゅっと噛んでいた。
『ヒナキ、うち来れる? それとも俺がそっち行こうか』
 以前の私なら迷うことなく「そっちに行く」と答えていた。それ以前に「そっち行こうか」なんて聞かれたことがあっただろうか。スミ君が今そう聞いてくることに、なぜだか胸が締めつけられた。
「うち来てもらっていい?」
『そっか。分かった。一度マンション戻るから十二時くらいになるけど平気?』
「うん」
 泊まるとか、お風呂はどうするとか、食べるもの、お酒……。頭をかすめる雑事はすべて端に追いやって、ただ彼を振り回したかった。
『じゃあ、また夜に』
 聞こえてくるスミ君の声は出会った頃のように優しい。目の前の未知の何かを傷つけないように、真綿にくるむように柔らかく、そしてこちらの機嫌を伺うような、自信ない声音をしていた。
「うん」
 私はそれだけ口にして、今まで彼がそうしてきたように素っ気なく電話を切った。怒りをどうやって表に出していいか分からない私は、不貞腐れた態度をとるのが精一杯だった。
 ――どうして。
 その言葉に怒りを込めようとすると、悲しみがそれを凌駕して涙があふれ出す。相手の気分を害してしまいかねない言葉を、まっすぐに口にするサチさんが羨ましかった。彼女はきっと拒絶や無理解を怖れていない。怖れていたとしても、きっと仕方のないことだと割りきっている。
 寂しさを埋めるためにがんばって、認められると嬉しくて、その裏返しが私は怖い。一生懸命進んだ先にあるのは受容と賞賛なのだと信じていないと怖くて前に進めない。この道であってるのか、おかしな方向へ迷い込んでいないか。こんなにがんばっているのに、気付づけばスミ君は違う方向を見ていた。彼がよそ見してるあいだにも私は山頂を目指して突き進み、この景色も、歩んできた道の険しさも、何も共有してくれていなかった。
 分かってほしかった。
 一緒にいたかった、隣で並んで前を向いていたかった、同じ部屋から「いってきます」と出かけて、「おかえり」と彼を迎えたかった、迎えられたかった。昨日も、今日も、明日も、今この瞬間、積み重なっていく時間のなかで、近くにその存在を感じていたかった。
 満たされない気持ちは自分の内側で氾濫し、行き場を失ったエネルギーは怒りの種火として燻っている。こうやって電話をかけてきてくれたのに、優しい声で話しかけてくれるのに、それが余計に種火を不完全燃焼させる。
 がんばってるね、大変だね、それだけ言ってくれたら私は前を向いていられた。けれど、私ががんばればがんばるほど、背中に感じるぬくもりが薄まっていく。相手を見ていなかったのは、スミ君だけじゃなくて私も同じで、先へ先へと前ばかり見ていた私もそろそろ観念しないといけない。きっと私はこういう風にしか生きられない。けれど諦めきれない。
 描いた夢の先に、私の隣にはスミ君がいた。いつか彼とともに最高の食卓をお客様に届けたいと、おとぎ話のような夢を見てしまった。

 ほんの二言三言の短い電話を切ったあと、途中やめになっていたダウンロードをすませ、車を出した。本屋に寄って『料理通信』の最新号を買い、駅のあたりをふらふらとウインドーショッピングし、ドーナツショップで九時前まで時間を潰した。
 時間の流れは異常にゆっくりとしていて、私が過去に想いを馳せれば馳せるほど、時の経つのを押しとどめているようにも思えた。
 日はとうに暮れ、入ったときは学生で一杯だったドーナツショップの店内には、いつのまにか私とOL風の女性が数人取り残されていた。窓際のカンターで買ったばかりの雑誌をながめ、前の通りを行き交う人をながめ、けれど私の目には何も映ってはいなかった。
 ふとケイスケにメールしようかと考え、スマホを手にとって止めた。今さらケイスケにどんな文章を送ろうというのか。
 ――スミ君と会うことになった。
 ケイスケはきっとこう返してくる。
 ――がんばれ。
 ケイスケはいつもそうだった。
「がんばれ」「お疲れ」「気をつけて運転しろよ」
 年下のくせに気遣うようなことばかり口にして、でも口調はいつも冗談まじりの生意気な後輩キャラ。彼の気持ちにまったく気づいていないわけではなかった。ケイスケが私に好意を寄せているということ、それを私は気のせいだと自分に言いわけして、都合よく彼の言葉に甘えてきた。近づきそうになる距離をうまく誤魔化しながら、スミ君の埋めてくれない心の溝をケイスケの言葉で、明るさで補ってきた。
 スミ君との会話にも幾度となく登場したケイスケ。三人で出かけたこともあったし、スミ君の部屋で飲んだこともある。店のスタッフと同じように、私は「ケイスケ」と下の名前で呼び、スミ君はなぜか頑なに「高波(たかなみ)」と苗字で呼びつづけていた。
 じゃれつくように「師匠」だの「先輩」だのと絡みつくケイスケと、笑顔で彼に接していたスミ君の間には口にしないまでもはっきりとした上下関係があって、私は密かにそれを羨ましく思っていた。
「高波」はきっとスミ君に一人の料理人として認められている。下から突き上げるプレッシャーでスミ君に焦りをもたらすのは、きっと私ではなくケイスケだ。
 ちくりと胸が痛んだ。
『どうせ高波(たかなみ)から連絡あったんだろ』
『ヒナキが飲み会行かないと高波が悲しむんじゃないの?』
 スミ君に嫉妬のこもった台詞を吐かせたのは、私なのか、ケイスケなのか。料理人としてなのか、私の恋人としてなのか。
 嫉妬してほしい。そんな気持ちが私になかったとは言えない。けれど、拗ねたようなスミ君の言葉で私が満たされることはなかった。
 スミ君の中にも、私と同じように怒りがあったのかもしれない。仕事と料理ばかりで、「疲れた」と体に絡みつく彼の手を放って眠りについたのは私だ。強引に体を求めることもなく、「お疲れだね」と頭をなでてくれていた彼が、いつの間にか私の隣で背を向けて寝るようになった。スミ君はどんな二ヶ月を過ごして、どんな気持ちで私に電話してきたのだろう。
 抹茶茶碗にお湯を注ぎ、捨てた。ほどよく暖められた椀のぬくもりが手に心地いい。
 時刻はすでに十一時半をまわっている。こんな時間に抹茶を飲んだら眠れなくなりそうだったけれど、今の私にはそれが必要だった。
 抹茶の入った缶の蓋を開け、茶杓を手にしたとき、まだ曲は流れていた。静寂のなかで茶筅の奏でる音を聞きたくて、あと数十秒で終わるその歌声に暫し耳をかたむける。ふと、唐突な振動音と着信音がその歌声をかき消した。
『あと20分くらいで着く』
 スミ君からのメールは電話のように優しくはなく、以前と同じ素っ気ない文面だった。
 彼が私の家に来るときは近くのスポーツ公園に車を停め、そこから五分少々の時間をかけて歩いて来る。いま、彼は自分のマンションに着いた頃だろうか。
 ぼんやりとメール画面をながめているうちに、鍋から立ち昇っていた湯気は消え、抹茶を立てる気も削がれて小さく溜息をついた。曲もすっかり終わっていて、もう再生する気分でもなく気晴らしにテレビをつける。
 部屋の中に響くタレントの笑い声は、いつにもまして現実感がなかった。それでも音が必要だった。燻る感情を逆なでしない、ただの雑音を欲していた。その雑音のなかから、妙にクリアに秒針の音だけが聞こえてくる。
 今さら、自分がスミ君の家に行けばよかったと後悔した。待つだけの私は、ただ待つことしかできない。彼が家に帰るのよりも先にマンションに行き、部屋のなかを物色してもよかったし、彼を焦らすようにゆっくりと部屋を訪れ、待つ側のもどかしさを味あわせてもよかった。
 玄関と洗面所と、ワンルームの部屋のなかを行ったり来たりしながら、チェストの上に積まれた料理本の陰の、シルバーの球体に目がとまった。
 球体のてっぺんにくっついたテントウ虫もやはりシルバーで、それをスライドさせればスミ君専用の灰皿になる。その中身は今は空っぽだ。小さなキッチンの換気扇の下で「禁煙した方がいいよな」なんて言いながら紫煙をくゆらせていた彼の姿が蘇り、ちょっとした賭けのような思いつきが頭に浮かんだ。彼を試したいだけの、戯れのようなものだった。
 灰皿に手をかけたときチャイムが鳴った。一瞬体が強張り、その呪縛を解くように顔を上に向ける。灰皿はチェストの抽斗にしまった。
  合鍵を持っているはずの彼は、私がドアを押し開けるまで外でおとなしく待っていた。師走の寒空の下を駆けてきたのか彼の頬は紅く、少しあがった息は白く煙っている。彼の背後でドアが閉まり、二人きりになった空間を埋めるように、彼ははにかんだ笑顔を私に向けた。
「久しぶり」
 走って体がほぐれているのか、それとも平静を装っているのか、彼の表情は以前と変わらなかった。私ばかり緊張しているのかと思うと無性にやり切れなかった。
「これ、昨日作ったから手土産」
 スミ君は手に持っていたアパレルショップの小さな紙袋を差し出し、受け取ったそれは、思ったよりズシリと重量感があった。中にはサランラップで包まれた真っ赤なハート型の陶器がおさまっている。蓋がしてあるので中身までは見えないけれど、彼はこれを取りに自分のマンションに戻ったのだろう。
 もし私がスミ君の部屋に行っていれば、このハートの陶器――私が欲しがっていたル・クルーゼのラムカンは、そのまま私の目の前に出されていたのかもしれない。巻かれたラップは彼にしては乱雑で、急いでマンションに戻り、紙袋を探し、シワのよったラップに目をつぶってうちへと車を走らせるスミ君の姿を想像した。想像できてしまう自分が悔しかった。もっと鈍感になれれば、いくらでも彼を罵れるし冷たい態度も平気でとれる。
 苛立ちとか悲しみとか嬉しさとか、そんなくっきりとした言葉で括れるような感情を見つけられないまま、私はどんな態度で彼に接するのが正解なのか分からず、また「うん」とだけ口にした。
 今日久しぶりに彼の声を聞いて、彼との時間を思い出し、心の中では数え切れないほどの質問と感情をぶつけていた。それをそのまま現実に表出させても、私の気持ちそぐわない。かといって「会えて嬉しい」なんて単純に思えるはずもない。けれど、彼の姿を触れられるほど間近に感じ、心の一部が欲望のまま暴走しそうになっている。だから、すべての感情を押し込めて「うん」とうなずくしかなかった。サチさんには「理解不能」なんて言われそうだ。
「とりあえず上がって」
 部屋へ行こうと背を向けた私を「待って」とスミ君の声が呼び止めた。振り返った先で彼は頭を下げていて、「ごめん」と言う必死な声が、私の心の堤防の一部を決壊させた。手に持った紙袋が異常に重かった。
「……ごめんって、何?」
 怒りよりも動揺が滲み、情けなく声が震えた。彼の「ごめん」の先が何なのか、犯した罪の告白か、未来――つまり別離への謝罪なのか。
 何も聞きたくなかった。すべてなかったことにして、笑いあった記憶だけを寄せ集めて、温めあえたら良かった。それももう無理で、あとはぶつかりあって乗り越えるか、互いに背を向けて重ねた時間を過去にしてしまうか、それしかないようだった。
「ごめん。俺、ヒナキ以外の人と会ってた」
「……だよ、ね。あの日も会ってたんでしょ。私が実家に帰ってた日」
 うん、というスミ君の声をかき消すように、つけっぱなしのテレビから笑い声が弾けた。笑われているのは私だろうか。
 言いたいことはあるはずなのに、汚い罵倒の言葉は胸のなかに渦巻いているのに、素直ないい子ブリっ子を続けてきた私の口はその言葉を無意識に堰き止めて、代わりに出てきたのは相変わらず涙だけだった。
 スミ君の顔は涙でぼやけて、涙も鼻水も、何もかも一緒くたにして手の甲で拭った。それでも彼の顔はおぼろげにしか見えず、その口元が動くのが辛うじて分かった。
「もう会ってない。あの日から、その人にも会ってない。俺は……ヒナキに会いたかったんだ。ずっと。会わなくなる前から、ずっと」
「何言ってるのか分かんない。一緒に住もうって何度も言おうとしてたのに、言わせてくれなかったのはスミ君じゃないッ……」
 叫ぶように掠れた自分の声に堪えられなくなり、その場にしゃがみ込んで膝を抱えた。うつむいて鼻をすすると、ゴソゴソと靴を脱ぐ音がし、すぐ隣に彼の気配を感じる。
「俺は、ヒナキが思ってるほど大人でもないし、余裕なんかない」
 すぐ近くで聞こえる彼の声には息遣いがまじり、その距離が懐かしく、彼の手が私の頭をなでれば、あっさりと以前と同じ関係に戻れるような気がした。けれど彼の口から紡がれるのは甘い囁きではなかった。
「嫉妬してたんだ。迷いなくどんどん進んでいくヒナキに。それと、高波に。俺よりあいつのほうがヒナキの近くにいるような気がした。必死で余裕ぶってたけど、俺は高波みたいにヒナキを笑わせてやれない。お前のこと独占したいけど、足枷にはなりたくなかった。思ってた以上に自分の中身が子どもなんだって思い知ったよ。でも、それをそのままヒナキにぶつけたら幻滅されるような気がして。……だから、ごめん。俺、バカなことした」
 彼の手が髪に触れたけれど、それは恐る恐るというような躊躇いがちの手つきで、私が二三度首を横に振るとすぐ手は離れる。
「その人、部屋に入れたの?」
「一回だけ」 
「ピアスは?」 
「あれは、……あれは本当に妹のピアス。返しといたよ。あいつにとって大事なものだったんだ、あれ」
 スミ君の口調に穏やかさが戻り、「兄」らしい声色は彼と出会った頃のことを思い出させる。彼は根っからの「お兄ちゃん」なのだ。
「妹も同じなんだ。ヒナキみたいにどんどん自分で道を切り開いていく。だから、不安になる。何の役にも立てないことが。ヒナキにとっても、あいつにとっても、俺は必要ないんじゃないかって」
 子どもだろ、という自嘲のような、微かな笑い声が聞こえた。
「妹に同じこと話したら、バカじゃないって言われた。見守ってくれてるんでしょって。見守ってるだけってのは怖いな」
「私のこと見守ってくれてたんじゃないの? 目、そらさないでよ」
「ヒナキこそ、俺がいること忘れてなかった?」
 図星のような気がして、刹那止まった涙は次の瞬間に嗚咽とともにあふれ出していた。躊躇なく引き寄せられ、懐かしいスミ君の匂いに包まれる。その中には厨房で働く人特有の油臭さがまじっていた。それが余計に苦しく、許すとか許さないとかよりも、ただ心が彼の存在を求めていた。
「ヒナキ、結婚しよう」
 耳元で聞こえた言葉に驚いて顔をあげた。スミ君もスミ君で、自分の口から出た言葉に目を丸くしている。「あれ」と私の目を見て、照れたように苦笑いを浮かべた。
「ちょっと飛ばしすぎた。とりあえず、やり直すところから始めてくれない? 今のはフライング」
 私の顔はどんどん不細工になっていく。いつまでたっても涙は止まらないし、拭っても追いつかないほど鼻水は出てくるし、瞼はじんじんと熱いままで、このままだと明日の朝はお岩さんになりそうだった。
 ぐしゃぐしゃの顔に何度も触れる彼の唇が、そのままの私を許してくれている。許すのは私のはずなのに、本当は私が許されたかったのだ。自分の気持ちもまともに言葉にできず、おもちゃ売り場で駄々をこねる子どものように泣き続け、それはどうしようもなく私そのものだった。
 いたわるような彼の手つきに、以前にはない強引さを感じた。時間を重ねた記憶の上に、新たに晒け出したのは互いの幼さで、私の首筋に印をつけた彼のことが可愛く思えた。

 ……シャッ、……シャッ、
 ……シャッ、シャッ、シャッ、
 ……シャシャシャ……
「三十点」
 私の下した評価にスミ君が笑う。彼の立てた薄茶を向かい合って飲みながら、ハートの容器に入った抹茶のティラミスを二人でつついた。
「こっちは百点」
「光栄です。うちのパティシエには五十五点って言われた」
 苦味が引き立てる甘みと、かすかに香るのはラム酒。それは私好みの味で、『シェ・アオヤマ』の満点にはならないようだった。
 スミ君は、『タキタベーカリー』の亜紀さんからブライアン・アダムスの曰く付きCDを押し付けられたことや、『ギャラリーやすみ』で根掘り葉掘り詮索されたこと、それに樋引さんとサチさんが今夜『シェ・アオヤマ』に来店したことをぽつぽつと話してくれた。サチさん達がその事を話さなかったのは、私とスミ君の状態を気遣ってのことだろう。
 私はケイスケと交わしたやりとりをスミ君に伝えた。「好きになれてよかった」という彼の告白は伏せたまま、「誰か好きな人にアプローチ中らしいよ」と私が言うと、スミ君は「ヒナキじゃないよな」と確認したあとに安堵の表情を浮かべた。
「――『オーベルジュ海月(みつき)』で人を探してるんだって」
 穏やかな会話の合間にスミ君がするりと口にした言葉に、私は弾かれたように彼に顔を向けた。
「ヒナキも知ってるだろ? 樋引さんに戻って来てほしいって話だったらしいけど断ったんだって。代わりに誰かってことになって、うちに話を持ってきたみたい。ヒナキ、行きたかった?」
『オーベルジュ海月』は樋引さんが『レスプリ・クニヲ』に来るまで料理長を務めていた有名なホテルだ。働きたいと思っても、なかなか入り込める余地なんてない。
「私はまだ今の店で覚えることがたくさんあるから」
 樋引さんは、もしかしたらうちの店の何人かには声をかけたのかも知れない。もしそうだとしても、私にはまだその場所に行くだけの実力がない。
「スミ君は?」
「……考えてみてもいいんじゃないかって、オーナーが」
 そっかとつぶやいた私の声は沈んでいた。いろいろな意味で、彼に「いい話じゃない」とは言えなかった。私とスミ君の実力の差を思い知らされ、そして彼がその話にのれば離ればなれになってしまう。けれど、やり直したいと言ってくれたスミ君に、私のためにその話を断るという決断はしてほしくなかった。
「急ぐ話じゃないし、俺の他にも何人かに話が振られてる。だから、ヒナキ。一緒にこれからどうするか考えていこう。それで、俺はいつかヒナキと一緒に店がしたい」
 初めてスミ君が私に示してくれた明確な意思だった。おとぎ話だった夢に少しずつ輪郭がついて、私はただうなずくだけでよかった。同じ道の先を見つめることができる。それがきっとこれからの私を支えてくれる。後ろで見守るのではなく、私の隣にいてくれるスミ君。二人で自由に羽ばたきたいと願うのは贅沢だろうか。

 彼の隣で目覚め、カーテンの隙間からは青空がかすかに見えていた。寝ぼけ眼の彼はソファに投げていたコートから煙草を取り出し、きょろきょろと辺りを見回した。
「スミ君、禁煙してくれたら結婚してもいいよ」
「分かった」
 冗談のような軽いやり取りは何の約束にも保証にもならない。彼は手に持っていた煙草をコートのポケットではなくゴミ箱に捨てた。本当に、本気で口にしたのかもしれない。
「ヒナキ、遅くなるから早く出よう。タキタベーカリー行くんだろ」
「うん」
 朝の空気は残っていた眠気を一瞬で奪い去り、どちらともなく身を寄せた。風の音にまじって始まりの雑音が耳に届く。車のエンジン音、電車の音、小学生くらいの子どもの、甲高い声。こんなにクリアな現実はいつぶりだろう。
「行こうか」
 並んで踏み出したその先で、ビルの合間から朝日が顔をのぞかせた。

〈ヒナキ・了〉

epilogue――ハルヒ

 聖夜――といっても今年のクリスマスは月曜で、車窓を行き過ぎる街のイルミネーションはまだキラキラと輝いているものの、乗り込んだバスのなかで聞こえてくる会話はすでに暮れの慌ただしさを漂わせていた。
 外はすっかり日も落ちて、ちらちらとまばらに舞う雪が立ち並ぶ店の明かりに白く浮かびあがっている。目の前を流れる幻想的な風景に見とれているうちに、窓の外にはいつの間にか馴染みの風景があった。
「すいません! 降ります!」
 ぎゅっと体を避けてくれる親切な人たちと、顔をしかめる不機嫌な人たちのあいだを縫うようにしてバスから降りた。先に降りた数人の乗客はみんな目の前のコンビニに吸い込まれていく。いつもなら私もたいした用事のないままにコンビニに立ち寄り、散財してから帰途につくのだけれど、そんな余裕はなかった。
 寒さに追われるように、傘もささずコンビニ脇の路地を住宅地へと入る。三つ目の角を曲がる直前、民家の中にひときわ明るい洋館のような建物がちらりと見えた。
 フレンチ・レストラン『シェ・アオヤマ』は場所柄まわりの家に気を遣っているのか、門のあたりに白一色のイルミネーションが控えめに飾られているだけだ。その両隣の家はカラフルな電飾でベランダを彩っている。その明かりは『シェ・アオヤマ』の窓からちょうど見える位置にあり、きっと隣の店の客に見せてあげたいという好意の演出だろう。その店のオーナー夫妻は隣接する母屋に住んでいるのだけれど、彼らと近隣住民の関係は良好のようだった。
 その点に関しては、私がお世話になっている『タキタベーカリー』も負けてはいない。負けてはいないどころか、うちの店ではほぼ毎日のように近所のおばちゃん達の井戸端会議が開かれている。その相手をするのはもちろん私の叔母の亜紀さんで、彼女の持つ豊富なゴシップネタは主にそこで仕入れられる。仕入れて、そして拡散する。
 私と喫茶店『豆蔵』の息子が付き合っているという噂は、当人二人の思いが通じ合った翌日には『タキタベーカリー』常連さんほぼ全員の知るところとなった。そして、その常連さん達の半数以上が『豆蔵』の客でもある。
 恋人となったナオ君からかかってきた初めての電話は、「頼むから亜紀さんを黙らせて」というものだった。
 どうやら来る客来る客に次々と冷やかされたようで、私が五歳も年下の未成年だということがそれに拍車をかけたらしい。
「最後には開き直ることにした。うらやましいだろって。そしたら今度は矛先が親父に移ってさ、再婚しろだの何だの言われてて大変そうだったよ」
 俺は助かったけど、とナオ君は電話の向こうで笑っていた。私はマスターの顔を思い浮かべ、そしてナオ君に聞きたかったことを口にした。それは両思いになれた嬉しさですっかり頭から抜け落ちていた疑問だった。
「ねえ、ナオ君。あのCDってナオ君が買ったの? それともマスター?」
 あれは、という淀んだ声の響きから、続く言葉が予測できた。
 ナオ君の話によると、マスターの方から例のCDにまつわる滝田夫妻(つまりタキタベーカリーの叔父さんと叔母さん)の話をしはじめたらしく、けれど、そこには私が叔父さんから聞いたマスターと奥さんの話は含まれていなかった。
 マスターは買い直したらしいそのCDを封も切らず長いあいだしまっていたようで、私は何だか切ない気持ちになった。奥さんが好きだったというブライアン・アダムスの『Back To You』、そのCDとともに、マスターは奥さんへのどんな気持ちを封印してしまったのだろう。
 私はナオ君にその話をした。あのCDは、ナオ君のお母さんが好きだった曲なのだから。
「ナオ君はあの曲聴いた? 封切ってなかったけど」
「うん。ネットで検索した。……そっか。あの歌、母さんが好きだったんだ」
 どんな感慨が込められているのか、深い溜息のような息遣いがはっきりと聞こえてきた。
「それにしても、親父がそんな風に店で泣いてたなんてちょっと驚きだよ。俺の前では今も昔も変わらずヘラヘラ調子のいい親父。このネタで何か奢ってもらうかな」
 その言葉とは裏腹に、ナオ君がマスターを尊敬の念を持って見つめていることは、日々の仕事ぶりから周囲の誰もが知っている。そして、この父子が二人して素直じゃないことも。 
「マスターかっこいいから、彼女とかいても良さそうなのにね」
 冗談まじりに私が言うと、ナオ君はさも不満げに「ええ?」と否定した。
「あいつのどこが格好いいの? たんなる長髪オヤジじゃん。女と出かけたなんて気配すらないよ。まあ、そんな暇もないだろうし、彼女とかいたら逆に尊敬する。よく今まで隠してたなって」
 ナオ君にとってマスターは親であり家族で、私にとっては親世代の大人。マスターは「恋愛」という浮いた言葉とはほど遠い場所にいる人だった。
 親は恋愛しないなんていう考えはどこからやってくるのだろう。私の両親は健在だけれど、恋なんて遥か昔の話だ。お世話になっている疑似家族と言ってもいい叔父と叔母は、子どもがいないからか、ふとした瞬間に恋人のような雰囲気を漂わせる。
 普段より少し近い距離、視線を交わす時間、叔父さんの照れたような表情。
 それは自分の両親から感じなかった恋のカケラだ。そんな様子を見るのはどうにも気恥ずかしく、そういう時はこそこそとその場を立ち去ることにしている。もしかしたら私がいない所ではもっとラブラブなのかもしれないけれど、やはり二人の関係のほとんどは「家族」とか「情」とかいった泥臭く野暮ったい言葉のほうがしっくりと馴染む。
 結婚したら恋愛から卒業するのだろうか。ときおりアルバムを引っ張る出すようにして懐かしみ、パタンと閉じて現実へと戻る。
 タキタベーカリーの井戸端で噂話に花を咲かせるかつての乙女たち。なかには離婚した人も、旦那さんと死別した人もいる。彼女たちはもう恋愛しないのだろうか。
「ナオ君。私、五十歳になってもナオ君のこと好きでいたいな」
 電話の向こうからは「へ?」と間の抜けた声が聞こえた。つい口からこぼれた言葉だったけれど、プロポーズみたいで恥ずかしくなり「何でもない」とあわてて誤魔化した。「そういえばね」と思いついてもいない次の話題を探しながら口を開くと、「俺も」と強い口調の声が耳に飛び込む。遅れて理解が追いついた頃には、「そういえば」とナオ君は違う話をはじめていた。
 ドキドキしながら、勝手に口元が緩んでいく。気をつけていないと「えへへ」と笑ってしまいそうだった。
 
◇ 

 大学に着て行ったセーターとジーンズを脱ぎ捨て、白のモヘアニットとワインレッドのプリーツスカートに着替えた。
 タンスの上に置いていた小さな長方形の箱をそっと開け、華奢なチェーンに手をかける。それは、昨日ナオ君にもらったネックレスだ。サファイア、アメジスト、インカローズ――だろうか。本物かどうかも分からない小さな石が可愛らしく連なっていて、箱には『eye_Re(アイリ)』と印字されていた。
 聞いたこともないブランドだったけれど、ナオ君の話によるとハンドメイド雑貨を売っているネットサイトで見つけたらしく、どうやらその工房はすぐ隣の県にあるらしい。プレゼントの値段を知るのは気が引けたけれど、私はあまりにもそのネックレスが気に入り、ついネットで検索してしまった。
 ホームページが簡単にヒットし、購入しようとすると他の販売サイトへ移動する仕組みらしく、私の手元にあるネックレスはすでに「sold out」となっていて運良く(?)値段も分からなかった。
 一人で制作しているらしいその工房では、ナオ君のくれた『eye_Re』シリーズの他に『i_sea(アイ・シー)』という名前でプチプラアクセも売っていて、それは私でも手軽に買えそうな価格だった。しかも、年始からは『ギャラリーやすみ』のショップで販売を始めるらしい。
 年中休業みたいな名前の『ギャラリーやすみ』は、『豆蔵』の常連である八角(やすみ)さんが経営している。私もこの街で暮らすようになってから何度か訪れていた。早くも年始の楽しみができて、私はついパソコンの前で一人ガッツポーズを決めた。
 胸元に光る青と淡い紫、そしてローズピンクの小さな石。鏡の前で首を左右に振ってみる。
 このネックレスを手渡されたのはフレンチ・レストラン『レスプリ・クニヲ』のテーブルだった。店に着いて車を降りたときから彼は隠すことなく小さな紙袋を手に持っていて、「あとのお楽しみ」と楽しそうに笑っていた。
 八時の予約に少し遅れて入り口のドアを開けようとすると、ちょうど帰りの客と出くわした。中年夫婦と娘と息子といった様子の四人組のあとに続いて顔をのぞかせたお店のスタッフに、私は思わず大きな声を出してしまった。
「あ、ヒナキさん!」
 コックコートを着た彼女も私と同じ様に目を丸くして、それから隣に立つナオ君に目を向ける。
「あ、『豆蔵』さん……」
 ナオ君は急に店用の顔になり、どうやらヒナキさんも『豆蔵』に訪れたことがあるようだった。四人家族と私たち二人とヒナキさんのあいだで曖昧に視線が交錯し、中年夫婦が「ごちそうさま」と歩きはじめると、あとの二人も「また」と手を振って後を追った。
 その二人の距離感は姉弟というには近く、交わしあう表情はどちらかと言えば恋人同士に見えた。けれど「チカ姉」と呼びかける声が聞こえたから、やはり姉弟なのかもしれない。
 ヒナキさんはその背中に「ありがとうございました」と普通のお客さんに向けるより親しみのこもった雰囲気で声をかけ、それから改めて私たちに向き直った。ナオ君がタイミングを見計らったように「高波の紹介で」と話を切り出した。
「伺ってます。でも、まさかハルヒちゃんに会えると思ってなかった」
 説明を求めるようなナオ君の視線に、私はちらりとヒナキさんの顔を確かめる。彼女はその視線の意味を分かっていないようだった。
「ヒナキさんはタキタベーカリーのお客さんで、例の『Back To You』の彼女。ね、ヒナキさん」
 驚いたように目を見合わせる二人に、私はテンションが上がった。この出会いが何だかクリスマスの奇跡のように思えた。
 ナオ君にあのCDをもらったその足で『豆蔵』に向かった私は、その日にあったもう一つの『Back To You』の話、つまり叔母さんが澄田さんに『Back To You』を押し付けたという話をし、カウンターの中で話を聞いていたマスターと三人で「うまくいくといいね」なんて言いあった。
 澄田さんの自信なさそうな様子から私は少し心配だったのだけれど、それは杞憂だった。まさかまさかの、翌日の朝にヒナキさんと二人で店を訪れるという早業で、叔父さんと叔母さんのときのように「結婚して一緒に店を」という物語のような結末は得られなかったようだけれど、「また来ます」と以前と同じようにフィッセル二本を買って帰った二人の後ろ姿は、前よりずっと恋人らしかった。
 大人の男性だと思っていた澄田さんは、どこがどう具体的に変わったのかは分からないけれど、少し少年っぽくなった。私はまたそれにファン1号として胸をときめかせたけれど、それはナオ君には内緒のハナシだ。
 ヒナキさんはピーンと張っていた糸を少し緩めたような、「お姉さん」が「お姉ちゃん」になったような、どこか抜けた感じがした。私はそれに親しみをおぼえて、色々話したいのに、彼らが来るのはいつも通勤通学の客で混み合う時間帯で、私が知っているのは二人が元のサヤに収まったということだけ。
 以前、確かにヒナキさんの勤めるレストランの名前を聞いていたはずなのに、おおよそ自分が行く機会のない高級フレンチだと高をくくって右から左へ聞き流してしまっていた。それがこんなプチサプライズになるとは。
 私が『Back To You』のアナザーストーリーである私とナオ君バージョンの話をしているあいだ、ナオ君は不貞腐れたようにそっぽを向いていて、ヒナキさんは「スミ君に話さなきゃ」と目を輝かせた。まっ白なコックコートに身を包んだ彼女は一人前の料理人に見えたけれど、その笑顔を引き立てる純白の衣装は天使の衣のようだ。
「ヒナキさん、本当にシェフなんですね」
 まだまだだけどね、と言いながらヒナキさんはドアを押し開けて私たちを店内に招き入れた。お肉の焼けるいい匂いがしてくる。「腹減った」という情緒の欠片もないナオ君の言葉にふっと肩の力が抜けた。どうやら無意識に緊張していたようだった。ナイフとフォークは外側から、と頭のなかで復習する。
「あまりかしこまらなくていいからね。うち、希望があればお箸も出してるから」
 ヒナキさんの言葉で一気に脱力してしまった。それはどうやら隣の彼も同じのようだ。
「本当ですか。なら、俺そうしてもらおう。実はちょっと緊張してたんですよね。こういう場所って初めてで」
 どうやらこれまでに付き合った彼女とは来てないようだ。それだけでちょっと顔がにやける。恋人同士で来る以外にこういう店に来る機会といえば、さっきの四人組のような家族連れや、女子会くらいだろうか。
「クリスマスだと恋人同士が多いんですか? さっきの人達は家族っぽかったけど」
「そうね、だいたいそんな感じかな。さっきの人たちはうちの店に野菜を卸してくれてる『三谷農園』のご夫婦と娘さん。と、その従兄弟」
「従兄弟ですか。たしかにちょっと珍しいなと思ったんです。あの年頃の男の人が家族とクリスマスって。仲良さそうな姉弟だなって思ったけど、そっか従兄弟かぁ」
 妙に納得してうんうんと頷いていると、ヒナキさんは他のお客さんに分からないようにクスッと笑った。
「やっぱり仲良さそうに見えた? 私もそう思ったんだ。あの二人、最近お互いに意識しちゃってるみたいだから」
「え?」
「従兄弟とは結婚できるのよね。まだ付き合ってもないんだけど」
 従兄弟同士。その関係は彼らに何を及ぼすのだろう。何もないはずはない。きっと、恋があるところには何らかの障害物が存在してる。恋じゃなくても、幸せを求める先には試練のような大なり小なりの攻略すべきものが次々に登場して、それがきっと人生のストーリーを彩るんだ――なんて話をクリスマスディナーのテーブルでしたら、ナオ君から勇者の称号を与えられた。
 店内のクリスマスムードに浮かされていたのか、脈絡のない思いつきの会話が楽しくて仕方なかった。
「じゃあ、勇者の証」
 せっかくの初プレゼントなのだから、もう少しロマンチックな台詞で渡して欲しかった。――あ、違った。初めてのプレゼントは『Back To You』だ。
 私はその箱を開けたけれど、手に取ったネックレスを首につけることはなかった。私の首元にはふわふわのファーがついていて、どうしてこんな服を着てきたのかと悔やんだけれど、それはその日のために叔母さんと叔父さんがプレゼントしてくれたワンピースだった。
 ナオ君にはまだネックレスをつけたところを見せていない。そして、私からのプレゼントもまだナオ君に渡していない。大きな荷物を持ってレストランに行くのも躊躇われ、ナオ君にはあらかじめパーティーの日に渡すと言ってあった。色々悩んだけれど、男の人にプレゼントするなんて初めてで、友人には「定番過ぎ」と笑われながらセーターを買った。これでも奮発してカシミアなんだからね!

 階下から名前を呼ばれ、時計を確認して「すぐ行く」と返事をした。あわてて部屋を出ようとし、うっかり大事なプレゼントを置いていきそうになる。タンスの上の紙袋を手にとると青いリボンがちらりと見えた。それは、私の胸元にある石と同じくらいの深い青。
 ナオ君が喜んでくれるといいな。そんな願いを込め、紙袋を両手に抱いて階段を下りた。
「ハルヒ、ちょっとこれ持ってくれる?」
 いつもより少し濃いめの化粧をした叔母さんが台所から顔を出し、私の胸元に目を留めて、いいネタを見つけたとばかりにニヤニヤと笑った。
「ナオ君もなかなかいいセンスしてるじゃない。似合ってるわよそれ」
「でしょ。モデルがいいからね」
 私がポーズを決めると、叔母さんはケラケラと笑った。約十ヶ月近くになる彼女との近しいやりとりで、私の会話力はすこぶる鍛えられた。というよりも、自分がどんどんオバサン化しているようで不安になる。
「それより、これこれ。ナオ君は何も持って来なくていいって言ってたけど、さすがにそういうわけにいかないわよね。これで足りると思う?」
 渡された袋の中身を確認すると、そこにはA3サイズくらいのタッパーが二段に重ねて入れられていた。透けて見える中身はバゲットと食パンのサンドイッチだ。「余ったら正月まで食べようね」なんて言っていたシュトーレンもタッパーの上に二つのっかっている。ここ最近のコーヒータイムといえばいつもそれで、柚子ピールの入った『タキタベーカリー』特製のシュトーレンは私の大好物だった。
「出るぞー」
 玄関から叔父さんの声が聞こえ、エンジン音とともに排気ガスの匂いが微かに漂ってきた。こたつの上でチカチカと点滅していた小さな卓上ツリーの電源を切り、三人で『タキタベーカリー』と店の名前の書かれた軽のワンボックスカーに乗り込む。
 パン職人の平田さんも誘ったけれど、彼は家族でクリスマスをするらしかった。孫のクリスマスプレゼントに何を買おうかと相談されて、私は「奥さんにも買ったらどうですか」と答えた。今さらなあ、と言葉を濁していたけれど、叔母さん情報によればどうやら何か買ったらしい。どんなふうにそれを渡すのか想像して、あったかい気持ちになった。
 五分ほどで『豆蔵』に到着した。駐車場はほぼいっぱいで、どうやらスタッフも全員集合しているようだった。知った車が何台かあり、大学の先輩であるリサさんの車もある。車から降りて正面の入り口に向かおうとしたところで背後から声をかけられた。
「メリークリスマス」
「こんばんは。おじさん、おばさん、ご無沙汰しててすいません」
 振り返ると裏口のところにマスターとリサさんが立っていた。いつの間にか雪はやんでいて、空には星が瞬いている。とはいえ冬場に外に出るには二人の格好は明らかに薄着で、他の人の目を盗んでちょっと抜けて出してきた、そんな雰囲気だった。
「リサちゃん、久しぶりね。ずいぶんお姉さんになっちゃったみたい」
 叔父さんと叔母さんは、どうやらリサさんのことを昔から知っているようだった。ナオ君と同い年で小学校から一緒なのだから、知っていて当然かもしれない。
「タキタベーカリーのパンは、いつも『豆蔵』でいただいてますよ、ね」
 ね、という語尾と、リサさんがマスターをのぞき込んだ表情にドキリとした。あの、叔父さんと叔母さんの滅多にない恋人モードと同じ気恥ずかしさを感じ、そっと目をそらす。まさかね、と思った私の隣でゴシップレーダーが容赦なく反応した。
「リサちゃん、そんなオジサンを誘惑しちゃダメよ。本気になったらどうするの」
 あほかお前、という叔父さんの笑い声が聞こえて、私はその声のした方を振り返った。マスターが口を開いたのはその時で、マスターの言葉の衝撃よりも、私は叔父さんの表情の変化の凄まじさに笑ってしまいそうになった。
「オジサン本気になったから、一応、これ、彼女……でいいよな」
「うん!」
 うかがうようなマスターの言葉と、弾けるような返事。私はようやく話の流れに追いついて、追いついた瞬間混乱した。
「はあ?!」
 一同の視線が、唐突なその声の主に集まった。店の正面側から歩いてきたのはナオ君で、やはり彼も薄着だった。ストライプの綿シャツにカーディガン。寒そうに肩を縮めて腕を組み、そして父親の顔をじっと見つめていた。その表情は怒っているわけではなく、ただ戸惑っている。
「何それ。二人してドッキリの打ち合わせ?」
「サプライズのつもりだったけど、失敗しちゃった」
 楽しそうに笑うリサさんの隣で、マスターは苦笑いをしている。
「サプライズはなしにしようって、今リサちゃんにお願いしてたところ。やっぱりナオミチに許可もらうのが先かと思って。滝田にはどうせ話すつもりだったから言っちゃったけど」
 一歩づつゆっくりと近づいてきたナオ君は私の隣で足を止め、でも視線はマスターに向けたままだった。私は自分の巻いていたマフラーを外して彼の首にかける。「サンキュ」と小さく微笑んだ彼はいつも通りの優しい眼差しだった。ほんの少しのあいだ沈黙が流れ、次に口を開いたのは、
「やっだぁ、じゃあここにいるメンバー全員が親戚になるかもしれないのね」
 突拍子もない発言をしたのは、言うまでもなく亜紀叔母さんだった。彼女以外みんなぽかんとしている。
「だって、私たちの姪のハルヒとナオ君が結婚したらウチと親戚でしょ。で、リサちゃんと直人君が結婚したら、ほらほら、繋がっちゃった」
 なぞなぞの答を見つけたように無邪気に喜ぶ叔母さんに、ナオ君はどうやら胸の内にあるもやもやを一旦しまい込んだようだった。
「亜紀さんには敵わないなあ」
 その口調がまるで滝田の叔父さんのようで、私は叔母さんと顔を見合わせて笑った。ナオ君がマフラーを外し、私にかけなおそうとして一瞬手を止める。私の首元を見た彼の口元が、ふわりと緩んだ。
「とりあえず風邪ひかないうちに入ろう。リサ、さっきシモヤン来たぞ」
「うそ、早く言ってよ。やばい緊張する。会うの何年ぶりだっけ」
 あわてて裏口から入って行ったリサさんの姿に、ナオ君はクスクスと笑いながら「シモヤンって学校のときの同級。小学校の頃うちの店にもよく来てたんだ」と教えてくれた。高波さんが最近気になってるお相手だということも。
 世の中にはいっぱい恋があふれているんだと思い、「ほうっ」と溜息が出た。こんなにたくさんの恋が飛び交っているのは、今日がクリスマスだからだろうか。
 叔母さんの笑い声がずいぶん遠くから聞こえ、気付くと駐車場にはナオ君と二人きりになっていた。パーティーに合流してしまえば二人きりになれるチャンスもなくなるかもしれないと思い、私は歩き出したナオ君の腕をつかんだ。
「何?」
「これ、プレゼント。何の変哲もないセーターだけど」
 自分の平凡さを言い訳するように、つい拗ねた言い方になってしまった。彼は私のそんな気持ちを払拭するように「まじ?!」と大袈裟に喜んでその場で紙袋から包みを取り出す。青いリボンが、薄闇のなかで風に揺れた。
「開けていい?」
「いいよ」
 彼は寒空の下で着ていたカーディガンを脱ぎ、タグが付いたままの、濃紺のセーターを頭からかぶった。その色は夜の暗がりの中でより深い色味を帯び、私はその色に吸い込まれそうになった。
「ハルヒ、ありがとう」
 ぎゅっと抱きしめられて、「うん」とうなずいた後に初めて呼び捨てにされたことに気づく。寒さから逃れるようにお互いできるだけ密着して、唇を重ねた。
 近くに叔父さんと叔母さんがいると思うとドキドキして、それでもこのまま離れたくなかった。けれど甘い時間はなかなか長くは続かせてもらえない。ガチャリと音がして、「ナオミチ」というマスターの声と、ギィという古びたサッシの軋みが聞こえる。あわてて体を離したけれど、すでに遅かったようだ。
「あー、風邪ひかないうちに入れよ。それと、ナオミチ。見なかったことにするから貸しイチな」
 マスターはさっさと店のなかに引っ込み、ナオ君は悔しそうに顔をしかめていた。その表情が妙に息子っぽくて、つい笑ってしまった。
「ナオ君、貸しイチだって。マスターは今のをネタに『認めてくれ』って言うのかな」
「かも」
「マスターに彼女がいたら尊敬するって言ってたのに。実際そうだとやっぱり嫌? しかも相手はリサさんだし……」
 続けようとした言葉を唇で塞がれた。私が口をはさむことではないのかもしれないし、きっと急いで答を出せるようなことでもないのかもしれない。そもそも答が出たとして、その答とマスターやリサさんの気持ちが違っていたら、一体どうなるのだろう。
 そっと顔を離したナオ君は、思いのほか柔らかな表情をしていた。
「頭ではもう答は出てるんだ。あいつらがそうしたいならそうすればいいと思ってる。ただ、ちょっと気持ちがついていってないだけ。でもきっと大丈夫。俺には勇者サマがついてるから」
 だろ、と笑ったナオ君に「うん!」と勢いよく返事をした。つないだ手は二人とも冷え切っていて、小走りに店の入り口へと向かった。
 窓の向こうにはたくさんの笑顔があって、見慣れたツリーがキラキラと輝いている。そのドアから漏れ聞こえてきたのはクリスマスソングではなく、私も知ってるレゲエの神様の歌声だった。
「この中にいるのは、きっと敵じゃなくて味方だよ」
 ドアを引き開ける前にそう口にした。それは不意に思いついた言葉だった。ナオ君は唐突に私を抱きしめ、耳元で小さく囁く。その言葉は私にはまだ早いような気がしたけれど、「好き」よりは私の今の気持ちにも近いのかもしれない。
 窓ガラスから丸見えの私たちの姿に店内のメンバーも気づいたようで、歌に混じって冷やかすような声が聞こえてきた。
「貸しが増えちゃったよ」
「増やしてやったの」
 二人そろって足を踏み入れた暖かい店内。弾けるクラッカーと「メリークリスマス」の声に埋もれながら、私は今年一番の幸せを感じていた。
 ――メリークリスマス!

〈epilogue――ハルヒ・了〉

Bad Things

Bad Things

2つの恋のまわりに散らばる、いくつかの恋を描いた恋愛短編オムニバス。

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