簾越し

 最も満ち足りていた時期こそ、ありとあらゆる形の不幸のつづら折れに見舞われていたのだという事に気付いた。不幸を打ち砕く力は無かった。しかし、それをやり過ごすために抱き合った一体感こそが何にも換えがたい幸福だった。

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 海からの風には輝く白い粒子が混じり、煌く風紋を描いた。視界を遮る二次元の松林の鋭角な間隙を抉って、砂は渦を巻いて噴出している。二人は車を降りてしばし海を思った。女はサングラスに隠れた瞳を細め、額に腕をかざし、男は車のロックを確認した後、キーホルダーを光らせた。

「ここは穴場なんだ。プライベートビーチみたいなものさ。」

「へえ。すごいんだ。」

 暗褐色のペディキュアを、砂が隠し始めたとき、女は大きく伸びをした。そして、飲み物を買っている男を残して、半ば砂に覆われたアスファルト道路を横切った。中央車線の黄色だけが砂から浮き上がって、何処までも何処までも海と平行に伸びていた。

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 最近再び色を求む心地の現れたり。目、指先など、行過ぐる色の形良きものに向かいて、自在に伸び行く有様。近々、軽犯罪者と堕すか。無意識の色情に情状酌量の余地はありや?

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 つまり下らない。邪魔なものには「死ね」と毒づくだけである。すると麻痺のような眠気が、束の間私の脳髄を覆うが、結局眠りの気配だけがいつまでも残る。眠れない。漏れ出る蛍光灯の明かり。テレビの声。誰かの寝返る音。ボタンを操作するゴムとプラスチックの音。万遍も繰り返した「死ね」の呟きの末、漸く闇の静寂が実現する。すると、閉じた瞼一杯に広がる蛇口の映像。不規則な間合いを取りながら、落ちる滴の音。私は滴を恨み、滴を待っている。先回りして、滴の音を聞いている。うるさい。非常に気になる。滴の音を聞き続けて狂った男の話を思い出す。

 戸外の金木犀の影の一枚一枚の葉先と樹形全体とがバラバラに震えているのが、月明かりに見える。障子が開け放してあるのだ。しかし、その隙間には簾が下がっていることを思い出す。跳ね起きると、二階の屋根に鳥影がある。その嘴の切っ先を恐れて、私は再び布団を被る。そして汗をかいている。

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 またしても夏がやってくる。今年の夏は例年と違って、四打数一安打程度の割合で雨を降らせていくらしい。虹の句読点。入梅と梅雨明けとその後の盛夏とを、一日で体験したような妙な気持ちになる。川へ行きたくなる。ふと、簾越しの夕焼けに蛍を見た。縁側に出て西瓜をかじる浴衣の家族と蚊取り線香の香りとを、はっきりと感じた。無論、そんな体験は一度もないのである。

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 海へ行きませんか? 夏の海。波の音の聞こえる一室で一夜を過ごしませんか? そして、朝日の昇る前に砂浜を散歩したら、一番のバスで、別々の家に帰りませんか?

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 「追憶小説、私小説、そんなものはね、昭和初期で修了しているよ。いまさら書くべき何が残っているというんだい。」

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 今年の夏は部屋が広く感じるが、それはやはり心の持ちようなのかもしれない。昔購入した紙製の簾を、障子の間に引っ掛けておくと、そこを透過する光と空気とはもう、あの定冠詞つきの『夏』に変化していた。室内には、吊るしてもいない風鈴の音と、撒いてもいない打ち水のそよ風とが入ってくる気配がするし、簾の向こうには、垂直に夏を越えようという気概に満ちた朝顔があるような気になる。朝のラジオ体操、午前の教育テレビ、午後のプール、夕方の大樹の下、そして夜の花火。紙製簾のあちらがわは、まさに夏そのもので、私は一人、脛を丸出しにして胡座を書いて、半身を光に、半身を影に置きながら、夏を堪能している。その部屋を出て行くとはゆめゆめ考えるなかれ。そんなものは不規則なスリットの織り成したシネマトグラフに違いないのだから。

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 砂丘は絹のように滑らかで、大きなうねりを繰り返していた。道程を想像した女はサンダルを肩にかけ、ついでに帽子が飛ばないようにしっかりと押さえた。薄絹のスカートが砂丘に呼応するように波打つ。男は両手の利かない女のキャラバンを笑った。

 シャツの背に汗が染み、男は服を脱いだ。汗は髪の間からもしたたった。ベルトの上に溜まった汗を見て、今度は女が笑った。男は少し苛立っていた。やがて男の身体が細かな砂に覆われ始めた。女はもう笑わなかった。足裏の焼ける感覚は女にとって苦痛以外の何物でもなかった。

「この砂丘がここの特徴なんだ。向こうに着くまでにどんな女でも必ず落ちる。」

「そんなにバテバテでいきがっても無駄よ。」

 海はまだ見えない。

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 「こんなんで、アーッ(明るく困惑したような声)本当に生きている意味あるのかね。」

 一体、えらい人というのはどういう人なのでしょうね。世界に必要な人間? 世界を変える人間? つまり自分が葬られた時、どれだけの物を道連れに出来るかで、その人間の歴史的有名性というものが決定するのでしょう。つまりは、肉体の奥深くに埋め込んだ小型爆弾の威力というだけのことじゃないのかね。日本は火葬だからね。

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 ああ。猫がとろとろに伸びている。湯が出ないので水を被った。心臓の鼓動がやけに早く不規則になり、「死ぬか。」と思いながら石鹸を流した。弁当の肉の脂身のように筋肉が凝固している。だるかった。けれども私は凝固した肉体を繭として、変態しているような気になっていた。

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 夏が長くてもっと暑かった頃、ひまわりが、ずっと太くて、大きかった頃、空の一回りに入道雲が聳えていて、川岸の木陰がすっと黒かった頃、綿の帽子に日が透けて、服なんてほとんど着ないまま過ごしていた頃、川底がずっと遠かった頃、身の周りに魚や蝉が一杯いた頃、足元からバッタが飛び立つのが当たり前だった頃、どこまでも遠くへ行けるのだと、父親に飛びついていた頃、夜の校舎が本気で恐ろしかった頃、浴衣の同級生に照れた提灯の下、体育館一杯に敷き詰められた布団の匂い、カキ氷がどうしても上手に食べられなかった頃、カルキの匂いが運んでくるプール、ビート板を重ねて作った軍艦にしがみついた事、水泳帽からイライラと飛び出す坊主の髪の硬さや、プールサイドで溶けかかる水着、鐘の音、集まった瞬間からその日一日保証された楽しさとか、時折泊まりに来る友達と食べる夕食とか、朝もやの中の縄跳びとか、中州に取り残されたテントの中で聞いたトランジスタラジオの音楽、明け方のタバコとコーヒーがもたらした成長の度合いなど、過去の十年に及ぶ夏の記憶が凝縮され、さらに十五年ほど熟成された時に立ち現れた「夏」は、このように多様な経験をもたらした。つまり夏という季節が自分をここまでにしたのだと思えなくもないが、そうであって欲しいという夏への希望が、無節操に混入されていることもまた事実である。

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 「夏だからさ。」という言い訳と、「黄色い太陽」との主従関係について。

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 2人はすり鉢の底にいた。周囲を白砂の屹立に阻まれ、底に闇を秘めた入道雲が、さらにその上を取り巻いていた。中心部だけが濃紺の空を覗かせ、まるで白い碗を二つ重ねられたようだった。風は地表を吹き渡り、余分の砂が容赦なく降り注いだ。座り込んだ女の天秤のような両膝には、正確に均等な数の白砂が積もっていた。女は始めてサングラスを外し、何処にも逃れることの出来ない日向の輝きを顔に受けた。モブモブという音とともに、男が滑り落ちてくる。ズボンを膝までたくし上げ、四つんばいの関節を砂に埋めて、断末魔のらくだのように男が滑り落ちてくる。砂まみれの男の姿を眺めながら、女はコップ一杯のミネラルウォーターを欲していた。

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 「いいだろ、夏なんだから。」と懇願することの正当性について。

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 夏に夏のことを思い出すことと、冬に夏のことを思い出すこととでは、リアリティーが違う、という事実は、想像力の貧困によるものか否か。

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 「ほら。もうすぐだよ。風がしょっぱいし、波音だって聞こえてくるじゃないか。」

 髪を真っ白にしながら、男が言った。しかし、視界は開けなかった。先刻通り抜けた松の林も、海のかなたの水平線も、今では語り継がれた伝説になってしまった。照りつける太陽だけが本物だ。くるぶしを埋める足元の砂は、海からの風による風紋を幾重にも刻んでいる。それはレコードの溝のように複雑で、美しい風音の記録である。2人の歩みを証明するはずの足跡もこの音楽によって消されてしまった。一体、いつになれば水平線は現れるのだろうか。男は女を励ましながら、女を憎み始めていた。女は既に男に見切りをつけていた。水平線はすでに2人の間に存在していた。今、すり鉢上のあり地獄を、別離にむかって落ちていくだけの二人であった。

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 そう。そこには太陽があるだけだった。

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 風が凪いだ(完)

簾越し

簾越し

海へ行きませんか? 夏の海。波の音の聞こえる一室で一夜を過ごしませんか? そして、朝日の昇る前に砂浜を散歩したら、一番のバスで、別々の家に帰りませんか?

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更新日
登録日
2018-07-18

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