朝目が覚めたらあなたはグラスを洗うだろう
そしてわたしは独りで泣くのです。
「あなたには、守りたいものがありますか?」
いつもとは、まるで違う声だった。
気付いていた。
声が、少し震えていることにも。
気付いていないふりをすることが
わたしにできる精一杯だった。
「そんなもの、遠い昔に全てなくしたわ。」
ジントニックを飲み干して
カラリと氷を鳴らす。
泣くわけにはいかなかった。
そうなのだ。
帰る場所もあの人も手放したわたしに
守りたいものなど、最早なにもない。
傷つくのは、もうたくさんだ。
あの日からずっと、そうして生きてきた。
だから、
まだ、生きている。
でも、わたしが傷つかない代わりに
あなたが傷ついているのだと
本当は知っていた。ずっと前から。
あなたがわたしを「守ろう」としていることに
気付いた時にはもう
わたしはあなたの柔らかな心に優しさに
爪を立てていた。
無意識に。でも確実に。
「愛しているわ。」 決して嘘ではない。
心からの言葉で、
あなたを裏切り続けてきたのだ。
そして、そのことに気付かない程
あなたは愚かではなかった。
震えそうになる指に煙草を挟んだ。
身体を蝕む有害物質に
わたしの心は支えられている。
ゆっくりと煙を吐き出せば
寂しさが麻痺する感覚。涙は流れない。
「何かを大事にすることは諦めたの。」
わたしのことも、愛する人のことさえも。
言葉に ならなかった。
同じように煙草を咥えるあなた。
この歪な愛にも、
どうやら終わりがきたようだ。
当然の結末に少しも痛まない心を
叫びだしたくなる。
並んで燻らす煙草の香りが混じり合う。
氷はとっくに水になってしまっていた。
グラスの水滴を指でなぞる。
「守りたいものがあるとするならば、
それは、わたしの世界よ。
わたしだけの世界。わたしの、絶望。」
ふ、と笑い声。
知っていた。
そう呟く声は、もう震えてはいなかった。
「本当は知っていたんです。」
それでも、嘘でも
2人を守りたいと言って欲しかった。
「僕ではなく、僕達を。」
あぁ。今。今夜。
わたしはとうとう
あなたを引き裂いてしまったのだとわかった。
聞いたことのない乾いた声だったから。
どうにもならない言葉たちと
最後の紫煙を残して
あなたの部屋から抜け出した。
「さよなら。」も言えないわたしは、
どこまでもあなたに残酷だ。
「おやすみなさい。」と口付けた。
今日までの全てを言い訳にするように。
蒸し暑い、ぬるい夜が明けようとしている。
雨の気配。月は見えなかった。午前四時。
散らかりきったわたしの部屋に
絶望だけを連れ帰る。
愛も寂しさも乱雑に降り積もった
わたしだけの部屋。
ひとつずつ、失いながら生きている。
帰る場所も。あの人も。
そして、あなたのことも。
わたしが飲み干した、ジントニックのグラスを
あなたは、朝 目が覚めたら綺麗に洗うのだろう。
そんな、どうでもいいことを
ふと思って
わたしは、独りで泣くのです。
朝目が覚めたらあなたはグラスを洗うだろう