電話の中

1上野毛久乃(かみのげ ひさの)

 受話器をあてている左の耳がじんじんして、頭の側面にはりついているようだった。適当に流したリンスがベタベタしていた。何時間が過ぎたのか分からない。小さな声は途切れ途切れに続いている。

「だからね。始めはちゃんとしなきゃって思ってたの」
「ん」
「でも、なんだか疲れちゃって。側にいる人に頼らないと、やってられなかったの」
「ん」
「泣いてもいいんだよ。疲れたら人に頼っていいんだよ。甘えて、休んで、また新しい出会いを見つけに行けばいいんだよって」
「ずっと側にいるから。か」
「うん」
「で?」
「立ち直れたの。で、告白された」
「そうなるだろうね」
「でも、私その人の事、好きじゃないの。いい人だとは思うし、私が一番落ち込んでいたときに支えてくれた人なんだけど、好きじゃないの。どうすればいいんだろう」
「別れればいい」
「そんなひどいことできないよ。そんな都合のいいことなんて…」
「つきあえばいい」
「でも、好きでもないのに、自分の心を偽ってつきあうのは、相手に失礼だし傷つけると思うの」
「よく分かるよ」
「どうすればいいのかな?」

 受話器を耳から引き剥がして、右の耳にあててみる。だが、慣れていないせいか、どうもよく聞こえない。結局、左耳に、再び押し当てる。千切れるような痛みが走る。

「大丈夫? ごめんね。こんな時間に」
「かまわないよ」
「でも、明日仕事でしょ?」
「かまわないよ」
「でも悪いな。なんか」
「悪くないよ。いつでも連絡くれっていったのは僕の方なんだから。電話をくれたのは久しぶりだし」

 今時、コードレスでもないダイヤル式の固定電話機を使っている。ダイニングの床に体育座りをしていると、尻と膝とくるぶしとが静かに痺れて腐っていくようだ。受話器を持っている左手が震えはじめる。

「今日、誘われてたの」
「ふうん」
「今夜が最後だからって」
「ああ」
「でも、いきたくなかったの。ホテルまで予約してたの」
「いかなかったんだろ」
「まあ、今のところは…」
「何? もう三時だよ」
「のばしてるの」
「何? 断ったんじゃないの?」
「そんなことしたら悪いじゃない。借りがあるし」
「向こうもそう思ってるの?」
「そういうわけじゃ… ずっと支えてくれたんだもの。無理も聞いてくれたし。断れないでしょう?」
「そういうのも分かるけどね」
「だから、今電話してるから待っててって言って待っててもらってるの」
「え? この電話? じゃ、そこにいるんだ」
「外で待ってる」
「まだいるって、何で分かるの?」
「流しの前の窓にね」
「うん」
「窓に彼が吸ってる煙草の火が映るもの」
「大した奴だね」
「火がね、ゆっくりと、大きくなったり、小さくなったりするの。」
「ただ、やりたいだけだよ」
「えっ! いっがーい(意外)。室崎君でも、そんな事、言うんだあ。知らなかったなあ」」
「言うだけじゃないさ」
「意外とエロだったりして」
「一人暮らしが長いからね」
「何? カノジョいないの? 本当に?」
「今はいない。ちょっと待って」

 あと少しで指先が届く、というところにあった煙草にやっと手が届いたと思ったら、ふくらはぎがつった。痺れた足で爪先立ちになりそのまま電話機を巻き込んで倒れた。足首のところがぱっくりと口をあけてしまったかのような、鈍い、肉の痛み。だが、朝の三時に声をあげてのたうち回るのは、あまりにも滑稽に思えた。だから声は出さずに、煙草に火をつけ、体制を整える。
 椅子に座りなおして、右足首を調べる。千切れてはいない。ただ、青白いだけだ。

「もしもし。ごめん」
「誰かいるんじゃないの?」
「まさか。で、奴はまだいるの?」
「…外に? ううん。いないよ」
「って、あきらめて帰った?」
「うーん。そうじゃないけど…」
「痺れを切らした?」
「違う。飲んで寝てる」
「寝てる? 何だ。人が耳を離してる隙にそういうわけ」
「ふふふ」
「やっぱり断れなかったの」
「僕に弁解する事じゃないさ」
「じゃ、切るね」
「ああ。おやすみ」
「おやすみ」

2 囹朿(れいし)

 冷蔵庫を開けようとした時、ゴキブリの蠢く気配を感じた。だから止めた。代わりに、玄関の扉を開けると夜明けの消失点が手に届くかと思われる程、近くにあった。いきなり現れた新聞配達から直接受け取った朝刊で、手が真っ黒になった。汚いとは思わない。ただ、手が汚れただけだ。
室崎は、腰にまいたバスタオルがずり落ちそうになるのを慌てて抑えた。扉を閉め、ジャージを着て、財布と定期とをポケットに突っ込んで外へ出た。無防備に外気を吸い込んだためか、大きなくしゃみが出た。咄嗟に、腰のあたりを抑えている自分に気づいて、室崎は苦笑した。そのままコンビニにはいり、弁当と牛乳と雑誌を数冊買った。
「お弁当はあたためますか?」
「いいよ。そのままで」
 店員は隣のバイト仲間と会話をする合間に、室崎の相手をした。室崎はそのバイトのしまらない口許に怒りをおぼえたが、すぐに馬鹿馬鹿しくなった。
 足を引きずりながら、部屋に戻り、椅子に座ると尻に違和感があった。ポケットを探ると財布と定期が出てきた。なぜ、定期をもって出たのかと室崎はしばらく考え込んだ。そして、仕事のことを思い出した。
 電話の前に椅子をひきずっていき、弁当を膝にのせる。こぼれた汁で、ジャージに染みが出来た。

(プ-ッ)「あ、室崎です。昨日の夜、足を折って、救急にいきました。当直医が肛門科しかいなくて、松葉杖が今日の昼にならないと手配できないそうですので、今日は休みます。なんか、靱帯が伸びてるとかで、ちょっと時間かかりそうです。また連絡します」

 左の耳はやはり痛い。この痛みは小学校のころ、耳全体がしもやけにやられたときの痛みに似ていた。室崎は食べかけの弁当のご飯に左耳を押し当てた。左耳を包む、ねばねばとした柔らかさと、適度な冷たさは、何にもかえがたいほど気持ち良かった。しばらくそうしていると、電話が震えた。
室崎は弁当から顔を上げた。弁当は、ほんのすこしの距離だけ耳に付いて持ち上がり、その後、パタリと落ちた。室崎は、この瞬間に弁当の消費期限が終わったのだと思った。
 受話器をとる。左耳と受話器との間に違和感がある。声が裏返る。

「モシミシ。(咳払い)もしもし。室崎です」
「あ。元気ないね、やっぱり。足折ったんだって? 何してたの。大丈夫?」
「足? ああ。しばらく安静だそうです」
「それだけ? 骨折でしょ。松葉杖でしょ?」
「骨の問題じゃないそうです。もっとこう、精神的な問題で…」
「メンタリティーを持ち出すってのは、仮病学のセオリーから言っても、偽証の必要十分条件ね」
「メンタルな骨折なんです。つまり、比喩としての骨折。理解を求めてるんです」
「原因は?」
「電話です。いや、耳か。煙草か。まあそういったものの因果律で」
「電話、耳、煙草。ね。まあいいわ。休んでよし」
「ごっつあんです」
「お見舞いに行ってあげようか? お邪魔でなければ」
「邪魔だなんてとんでもない。それならアイスノンが欲しいんですけど」
「ふうん。寝てるあいだにそっと行って、心臓の上にくくり付けていってあげようか?」
「冷やす場所としては、まあ、神話的にいっても宗教的にいっても共同幻想的にいっても、間違いじゃないんですがね。現実的に冷やさなきゃならないのはもっとこう唯物的かつ、即物的なモノなんですよ」
「分かってるわよ。自分でしなさい。今日、クライアントに会うの。忙しいの」
「親身な言葉、ですね」
「それが仕事よ。いつからこられるの? 有給で賄ってあげるけど、毎日電話はいれるわよ。出なかったらアウト。いいわね」
「在宅勤務可でしたっけ。うちの会社は。合言葉は何ですか?」
「まあ。愛よ。愛。特別待遇だからね。貸し」
「勿体無いことで…」
「いいから。さっきのコピー、なかなか良かったわ。それじゃ。お大事に」

 耳の穴につまった一粒の冷え飯は、いったい、聞こえてくる言葉に作用するのか、それとも話す言葉に作用するのか。いずれにせよ、あと三日は家にいられると室崎は思った。

3 宮(みや)

「もしもし」
「はい。室崎ですが」
「あれ、いるんだ。仕事は?」
「もうどうでもいいんだよ。そんなこと」
「どうしたの? 辞めたの? たいへんなの?」
「分からない。辞めたいとは、いつも思っているんだけどね」
「うそ? 私のせい? ごめんね」

 耳が熱くむず痒い。ほんとうに霜焼けのようだ。受話器の押し付けすぎで、血行が悪くなっているのだろう。

「全然関係ない。三日ほど休暇をとったんだよ。まあ、なりゆきで」
「なりゆき? 室崎君らしくないな」
「エロでずぼらだからね」
「誰が? 私? 室崎君が? 前はそんな風じゃなかったのに」
「いつまでも学生じゃないさ」
「それはそう。私だって変わるもの。前より話しやすくなって、親近感が湧く感じ」
「うれしいね。親近感。近親相姦みたいで」
「それは、ちょっと引く。それより、今日、ちょっと、行ってもいいかな?」
「かまわないよ」
「何か買っていこうか?」
「アイスノンの小さいの」
「へ?」
「冗談だよ。気をつけて」
「うん。ありがと。ごめんね。昼過ぎには着けると思うから」
「了解」

 時計を見ると十時だった。平日の午前十時。町はサラリーマンを排出し終えて、一息ついていることだろう。室崎は、宮がこの部屋にやってくるのだと考え、それからは、ただぼんやりとしていた。
 はっ、と時計を見る。十時五分だった。

「掃除でもしようか」

 と室崎は考えた。途端に掃除なんてしたくないのだと気がついた。だが、一度掃除しようと考えてしまった室崎は、必ず掃除をせずにはいられなくなるのだという事を、半ば諦めとともに自覚していた。
 座らなくなったソファーや、ゴキブリが蠢く気配を閉じ込めた冷蔵庫、かつては本が満載だったカラーボックスなどを、ダストボックス周辺に運んだ。
 部屋に戻ると、部屋はまるで落ちつかず、窓からみえるダストボックスの周辺こそ、自分の部屋であるような錯覚がした。

 「猫の気持ちがよく分かるよ」

 室崎は、廃棄物置場に置かれたソファーの上で寛いでいる姿を想像した。それは巨大な猫のようだった。

4 市頭原真名(いづはら まな)

「もしもし。田丸ともうしますが、室崎さんのお宅ですか?」
「はい」
「あの、玖目霸さんはご在宅でいらっしゃいますでしょうか?」
「いるんだけどさ。今はちょっと電話には出られないんだな」
「あの、何かお手がふさがっていらっしゃるのですか?」
「うん。荒縄でぐるぐるまきでね。樫のこんぼうで背中を叩かれているところだから」
「…あ、あの、一体何をなさっていらっしゃるのですか?」
「何? お姉さんは、人権擁護団体の人なの? それとも姉さんの友達の人なの?」
「友達です。あの、学生の時の」
「ブーッ。残念でした。お姉さんは学校行ってないんでした。で、何の営業? 化粧品? それとも結婚式場かな。話なら僕が伝えておくよ。何?」(キーッケンケン。ブオッゴザワヒィ-)
「な、何の音ですか今のは」
「いよいよ佳境に入ったところなんだ。本当は電話なんてしてちゃいけないんだ。先生の言いつけなんだけど、そういう古い慣習を打破していかなきゃ、新しいものは生まれないでしょ。あ、先生って親父のことね」
「はい。そのとおりです」
「何? 先生の事しってるの?」
「は?いえ。古い慣習を打破するというお話でしたので」
「チッチッチッ。今の文章の主題は『親父』でしょ。指導要綱的には」
「は。恐れ入ります。それでですね、私どものハネームーンベイビーマルチプランでは、すでに身ごもられた新婦さまを対象にいたしまして、あらゆるご相談をお受けしているのです。親族のみなさまには、出来たから結婚したんだ、と勘づかれたくないとか、こんな大きなお腹でも、打ち掛け、ウエディングドレスのかわいいのが着たいですとか、飛行機に乗るのは危ないんだけど、一生に一回のハネムーンだから絶対にジンバブエに行くんだとかいう様々なニーズにお答えいたしております。じつは、ハネームーン堕胎、なんてプランもマル秘で扱っているのです。逆にですね、バチカンで出産して洗礼割礼を施してもらえる格安プランもございますし、臨月バンジーなんて絶叫企画もご用意いたしております」
「ふーん。お姉さん確かに今臨月なんだ。だから親父が祓っているだけど」
「祓う? とおっしゃいますと?」
(タクミ。出るぞ。何をしてる。真言を唱えろ。私だけの力ではおさえきれん。こんな結界すぐに決壊するぞ…)
「あ、あのお取り込み中のようでしら、またの機会にご連絡いたしますが…」
「あ、お姉さん。名前なんていうの」
「い、市頭原真名です。あっ。で、でもそれが一体どうしたんですか」
(ナーゼナーゼオマエハヒトノシキュウニスクイハハタルモノニワザワイヲナスノダ・オマエハコノヨニマヨイデテハナラヌモノソウシガミツイテイテハカラダガバラバラニチギレルゾチギレレバミライエイゴウリンネモナカワズクチハテルコトモデキヌママムゲンナラクカラノガレルコトハデキナイノダゾ。コワクワナイワレハシンノナヲモツモノナリマナトトナエヨマナマナマナ)
「さあ、一緒に唱えるんです! マナと」
「一体何なんですか? いたずらですか?」
「何を言っているんだ。大変なときに電話をかけてきたのはそっちじゃないか。いいですか。電話回線には結界は通用しないんですよ。あなた、信じないなら姉に憑いていたものがそちらへ移動してしまいますよ。マナと唱えなさい。千回。マナと唱えなさい。万回。マナと唱えなさい。百万回。洞窟にこもって誰にも会わずに、マナと唱えなさい。千万回。マナと唱えなさい。マナと。マナマナマナマナ」
「止めて! それは、私の名前です」
「あっ」(イカン!)
(ドタンバタンブツンキンキン ヘァッ ゴオーーーーーー)
「もしもし。どうしたんですか。もしもし。一体なんなんですか。もしもし」
「あなたは今、マナが自分の名前だと言いましたね。霊に向かって名を名乗るというのは自分の全てをさらけ出して開け放して受け入れるという事なんですよ。もうどうしようもない。あなたもあなたの会社も、あなたの家族も、あなたの孫も、みんな…」
「あ、あなたは一体、誰なの、なの、なの、なの、なの…」
「俺は『個人演劇集団 隻眼のムカシトカゲ』 主演俳優 戸亜太良だ馬鹿野郎この野郎。かかってきた電話が本番公演の、電話演劇をゲリラ上演中なんだぞ馬鹿野郎」
「な、なんなんですか。なんなんですか。あなたは…」

 室崎は受話器を耳から離した。玖目霸は、結婚関係のアンケートを書く際に使う架空の姉だ。煙草が旨い。

5 上野毛久乃、囹朿

 キャッチホンが入る。室崎は保留にすることなく、電話を切り替えた。

「室崎君」
「やあ。今丁度、本番公演のアンコールが終わったところなんだよ」
「またいたずら電話なの?」
「そういう言い方は、各所に誤解を招くので…」
「どこが違うの?」
「ここは田舎で近所付き合いの無い一衛生都市兼、観光地だけどね。予期せぬ出会いというのは、間違い電話か、勧誘電話にしかないんだよ」
「友人の結婚式ってのも、候補に入るんじゃ――」

 キャッチホンが入る。

「あ、キャッチが入った」 
 そう告げると、受話器越しに、久乃の緊張が伝わってきた。理由はよく分からないが、彼女のそういう姿はすぐに頭に浮かんだ。体は震え、表情が凍りついている。
「じゃ、保留にするから、待ちきれなかったら切っちゃって」
「う、うん。ううん」
「もし、そっちの関係者なら、いないっていっとくから」
「う、うん。ううん」
「(笑)それじゃ、どっちか分かんないよ(笑)」
 
 返事を待たずに、久乃を保留にする。

「もしもし?」
「あ、室崎君。ちゃんといたんだ」
「足折って、松葉杖が無いんです。どこへもいけませんよ。で、何ですか?」
「疑り深い所長のチェックが入ったの」
「僕一人いないからって、会社になんの問題があるっていうんです」
「子供だな。問題なんてあるはずないでしょ。ただ、従わない人間が嫌いなだけよ。何年勤めてるのよ」
「そうですね。確か天保八年からだから…」

 保留にしている久乃が気になった。だが、室崎にとってはこちらの電話の方が重要だった。そしてそういう判断基準自体が、室崎の気分を重くした。

「ふふん。誰かいるな? 完全看護なんだ。へえ」
「まさか。お願いしますよ。所長には上手に言っといて下さいね」
「どうしようかな… あれ。玉春藻って君の家の方でしょ?」
「それが何か?」
「テレビつけて。あ終わっちゃったか」
「何です?」
「火事よ。火事。結婚式場でね。二十組が式を挙げてて、千人近くいたそうだけど、全員絶望だって」
「どういう事件ですか。たかが火事で、千人も焼け死ぬって…」
「何か、退路を断つ、みたいな感じで、灯油か何かを撒いて? って、こっちが聞きたいわよ。近いんでしょそっちのほうが。音とか煙とか見えないの?」
「全く。静かなもんですよ」
「取材してきてくれるかな。現場写真と。病院にいったついでにさ」
「病院? 誰が?」
「あなたよ。松葉杖もらいにいくんでしょう。頼むわよ。会社の為にもなるし、あなたの骨折のリアリティーも増す上に、怪我をおして、ってことで君の点数もあがるのよ。誰も損しない事なんて、そうは無いんだから」
「私の努力で」
「努力? そんなの努力とはいわないわよ。通り道でしょ」
「囹朿さんも地理には疎いですね」
「うちよりも近い。だから、近い。何か問題ある? いい? じゃ、たのんだわよ。そうじゃないと愛が、憎しみに変わるわよ」
「そういうところが好きなんですが、たいした写真は撮れませんよ」
「なんでもいいのよ。いわばアリバイ」
「なるほど、任せてください。火事の原因についても、実は心当たりありますよ」
「何? はやくそれをいいなさいよ」
「多分、霊の仕業だと…」
「は? ああそう。写真。メールしてくれればいいから。で、あと一週間ぐらい休んじゃって」
「ごっつあんです」

 こうして、休暇がお墨付きで伸びた。一週間の休みとなると、いろいろと計画も立てられる。
 久乃につなぎなおすと、電話は切れていた。必要ならまたかけてくるだろうと、室崎は受話器を置いた。

6 宮

 コーヒーの湯気。テーブルの上に二つ。

「もう、いいの」

 ぼそりと宮が言う。足元には鞄がある。さほどおおきくはない鞄だが、目一杯膨らんでいる。それとは別に、ショルダーバックが一つと、背中には熊の形のリュックが、疲れ果てたようにぶらさがっている。室崎は曖昧に頷いてコーヒーを飲む。

「ごめんね。ちょっと避難というか」
「いいさ。丁度休暇中なんだ」
「迷惑はかけないから」
「いい心掛けだけど、遠慮はいらない。もてなしもできないんだ。冷蔵庫もソファーもカーテンも無い」
「うん。随分シンプルになったのね。生活感が無い。室崎君って昔から、そうだったな」
「自炊すると生活感が出てくるんだ。流しなんてきれいなもんさ。使わないと曇ってくるだろ。だから磨く。磨くと気持ちが落ちつく。でも床にワックスはかけない。住むには狭いけど、ワックスをかけるには広すぎる。家具が少ないようだけど、これで床を掃除しようとするとわりと面倒なんだよ」
「でも、片づいていて埃も無いじゃない。室崎くんらしい」
「まあ、楽にしていってよ。知らない仲じゃないんだし」
「その言い方(ニコニコ)」
「何? なにか見返りをくれるっての?」
「うーん。何がいい? まさか身体とか言わないよね」
「欲しい時には、いちいち了解なんてとらないよ、って誰かが言ってたな」
「そうなの? 室崎くんも?」
「さあね。今はそれほど切羽詰まっていないんだ実は」
「へえー」

 コーヒーをすする。目が笑っている。口許は、マグカップに隠れている。少し冷めたコーヒーが、喉を落ちていくのが見えるようだ。そして胃の腑を真っ黒に染める。

「じつはそのコーヒーには薬を溶かしてある」
「え? だってこれ私がいれたんだよ」
「そうだったね。うっかりしていた。じゃ、眠くなるのは僕のほうか…」
「うん、そう。ゆっくり眠りなよ。私はちょっと買物にいってくるね」
「うん」

7 イリジウム

 夢を見ていた。見たこともない街で、左耳がどろどろに腐っていく夢だった。腐って開いた穴からゴキブリが入り込んで、頭蓋骨と脳の間、くも膜とか、脳膜とか、の隙間に入り込んでゴソゴソいっている。恐怖におののくでもなくただ、気持ちの悪い感触だけが残っている。枕もとにはコードをぴんぴんに伸ばした電話機。そして、しっかりと抱きしめていたのは受話器で、そこから女の声がしていた。

「寝てた?」
「あん? あ、ああ。眠ったみたいだ。悪かったね」
「いいの。私が寝られないだけ」
「今は何月何日の何時なんだろう」
「さあ。よくわからないの」
「君は誰だい?」
「そんなことは些細なことよ。わたしたちはこれから親密な時を過ごすのよ」

 女の声は、ときおりノイズがかぶって聞き取れなかった。

「試験監督にいって、採点にゲタはかせてもらわないとな」
「なに?」
「ヒアリングテープが聞き取りにくいといえば、採点が甘くなるんだよ」
「語学力のせいなんじゃないの?」
「ふん。耳の不自由な人が英検をうけて、ヒアリングにかんしても筆記で対応したっていうのが、英断みたいに取り上げられてる国になんて、未練はないよ」
「旅は好き?」
「旅ねえ。そういう旅情にふさわしい土地はもうこの国には無いのさ」
「海外よ。あたりまえじゃない」
「駄目さ。海外では旅情は味わえない」
「言い切るの?」
「だって、旅情っていうのは憧憬さ。郷愁なんだよ。違う国の風にふかれてカルチャーショックを貪るのは、現実からの一時的な逃避さ。ディズニーランドにいくのと変わらない」
「楽しければいいのよ」
「だったら、いくさ。タヒチでも、モルジブでも、フィージーでも」
「ストックホルムは?」
「それって北欧だっけ?」
「知らない。白夜とかオーロラもいいけど、寒そう」
「バイキングの末裔だって言って、つまり犯罪者の群れなんだ。八丈島の住人とかわりゃしない」
「ハチジョウ? 野蛮な国?」
「いや、エレガントでエロティクでエキサイティングな国さ。僕はそれを三つのエと呼んでいる」
「知的なつもりなのね」
「そうだね。ホームズというよりはマイクロフトなんだ。クイーン警視というよりもエラリーなんだ。電波悪いね」
「状態は悪くないはずよ。イリジウムだけど」
「聞いたことはある。探検家なのかい?」
「マッターホルンの第三ビバーク地点が雪崩にやられてね、今宙吊りなの。誰かと話してないと気が狂いそう」
「今月末に電話代の請求がきたら、間違いなく死んでおけばよかったと思うよ」
「……寒いなあ。こっちはいま明け方なんだけど、そっちは?」

 ノイズは吹雪の音だったのだろう。

「僕もいま起きたところなんだけど、そもそも眠りはじめたのがいつかが分からないからね」
「そんなの分かる人いないでしょ。眠った瞬間が何時だったかなんて」
「君はきっと覚えているよ」
「いいえ。生き延びるのよ。そのためにたくさん保険をかけているんだから」
「ああ、保険金殺人じゃないかと疑われるよ」
「そんなの平気よ。生き残ったのは私だけ。私はハーケンに一番近いところにいる。あとの人はみんな私の下に首だけでぶら下がってるわ。でも切り離していいものかどうか、迷うなんて私もまだまだ甘いわね」
「それで何で保険金が入るんだ? ぶら下がっている連中が、君を受取人にして生命保険をかけてくれたのか?」
「例えば、主人と泥棒、その妻と愛人って、映画あるでしょ?」
「コックと泥棒、じゃなかった?」
「主人はコックなのよ。でアルピニストでもあるってわけ。私としては、全てを白銀の彼方へ葬り去れるってわけ」
「例えば、この電話を録音してるっていったら、困る?」
「何。あんた警察の人。それとも盗聴マニア? でもいいわべつに。太陽があの銀の斜面から顔を覗かせる前に見つけられないなら、見つからない方がマシよ。凍傷になると鼻や耳が腐って落ちるんだから」
「電話しててもそうだよ。受話器を押しつけるから血行が悪くなる。その上受話器は冷たいから。とにかく、血の問題なんだよ。血は大丈夫?」
「知らない。ちゃんと飲んだことないもの」

 バラバラという機械音。ヘリコプターだろう。セントバーナードの吠える声も聞こえてくる。

「まぶしいな。辺り一面ダイヤモンドの輝きにつつまれるのってどういうのか分かる?」
「ひたすら恥ずかしいんじゃないの」
「違うわ。自分を失うのよ。恥ずかしいなんて微妙な感情は飛んじゃうの。そこではね、上も下も右も左も時間も空間も無いのよ。影も無い。そして自分も無いの。ありがと。暇つぶしができたわ」
「いいさ。たまには仕掛けられる側に回るのも乙なものさ」
「あ、最後にいい?」
「何?」
「コレクトコール受けてくれてありがとう。あと、よろしくね」
「何だって! 馬鹿野郎。連絡先教えろよ。保険金入るんだろ。その金ではらえよ電話代。おい。おい。おーい」

 受話器からは無機質な電子音が、長く長く続くばかりだった。

 これはどこから聞こえてくる音なのだろうか。先ほどまでの女の声は、アルプスからだった。電話はその電話がある場所と、この部屋とを電気信号でつないぐ。では、このどこにもつながっていない状態で聞こえる音は、この部屋をどことつないでいるというのだろう。電話機の内部だろうか。このおびえた子犬のような形をした、無機質な電話機のい内部に広がる巨大な闇を、室崎は垣間見たような気がした。そして、室崎は塞ぐ術の無い耳を、無防備にもその虚空に差し出しているのだった。

「結局、この音は、俺の中から聞こえてくるものだったんだな」

 そう考えると、恐怖は去った。実は、恐怖が去ったと思った時に、室崎は自分が恐怖を感じていたのだということに気づいたのだった。
 宮はまだ戻らないようだ。

「引っ越そうかな」

 と、室崎は思い、それからいても立ってもいられなくなった。

8 宮

家に戻ると、テーブルの上で、てんぷらが湯気をたてていた。

「宮?」

 と声をかけるが返事がない。荷物を置いて、電話をかけてみた。

「宮?」
「あ、おかえり」
「いや、ただいま。今どこ?」
「駅にむかってる。喫茶じぇろにも の前」
「そうか。テンプラ作ってくれた?」
「うん、まあ。宅配食材の献立がテンプラだったから」
「宅配? ま、いいや。でも、一緒に食べたかったな。っていうか、玄関開いてた?」
「玄関が駄目なら窓を使えばいいじゃない?」
「そうだね。珍しく鍵なんて掛けて出かけちゃて。悪かったよ」
「あ、そういうの室崎君らしくないよ」
「知ってたくせに」
「っていうか、分かったっていうか」
「そうか。幻滅した?」
「そういう質問をされると、少しね」
「厳しいね」
「私も一緒にテンプラ食べたかったな。うまく揚がったんだ。温度設定できないコンロでテンプラ揚げたの始めてなんだ」
「ふっくらと上がっていて、衣も厚からず薄からずで」
「本当? よかった」
「本当さ。あ、じぇろにもだよね」
「そう。今通過した」
「もし時間があったら、その先の三叉路をちょっと寄り道して、写真とっておいてくれると助かるんだけど」
「時間。電車が何時にくるのかによるんだけど」
「え? 時間見てなかったの? 駄目だよ。ここは都心じゃないんだから。この時間の上りなら、各駅がもうすぐ来るけど、それは30分後にくる快速に抜かれるんだ。その快速は、一つ向こうの駅が始発だから、そちらへぶらぶら歩いていって、通りすがりに写真を二三枚とっていけば、丁度座っていけるはずだよ」
「ふぅん。で、どこでどんな写真を撮るの?」
「火事の現場なんだけどね」
「ああ。あの事件の…」
「なんだ。知ってたの?」
「夕刊にのってたよ。大きな写真入りで。原因不明の爆発だって」
「うち、夕刊とってたっけ?」
「でも、来たのよ。間違いなの?」
「何新聞?」
「知らない」
「どこに置いた?」
「もう無い」
「なんで無い?」
「油を吸わせたから」
「この、てんぷらかぁ」
「そう。あ、荷物少し置いていくけど、いいよね?」
「避難指示は解除になったの?」
「いいえ。指示は勧告に格上げされたの。それでもう少し荷物をとりに。いいでしょ?」
「そうか。じゃ、だんだん、生活感が溢れてくるね」
「ええ。一つのコップに入っている赤と青の歯磨き粉、なんていうあたりには、もう濃厚に漂ってきていたかな」
「君も変わろうと努力しているんだね」
「違うわ。私は変わらないように努力しているの」
「そうだね。君は昔から、何も変わっていない」

 室崎はそういって、電話を切ると、彼女のあげたテンプラをゆっくりと食べた。それから、流しに残された凄まじい料理の跡に正対して立つと、大きくため息をついて、それから、コーヒーを入れた。

9 上野毛 久乃

 流し台を磨き上げたところで、電話が鳴った。なんだか打ち合わせをしたみたいなタイミングだった。
「もしもし。室崎です」
「あ、私、です」
「です。じゃないよ。らしくもない」
「そっか」
「あ、さっきの電話、会社からだったよ。写真撮って来いって。結婚式場の火事の、なるべくものすごい写真が御所望なんだ」
「火事? 火事の写真が欲しいの?」
「まあね。で、夕べの男はどうだった?」
「その言い方」
「なるほど。そういう意味での回答を期待してもいいのか?」
「いわないし、いえないし…」
「また、悩んでるね」
「起きない…」
「へ?」
「起きないんだ。あれから。」
「なるほど。彼も夜更かしは苦手だったってことだねって、違うかっ!ハハハ」
「気持ちが高ぶって寝られないっていうから…」
「さんざんお預けを喰らったわけだからね」
「え。嫌だ。やめて。それで、それならって、眠くなるお薬を混ぜて、お酒に」
「優しさだよね。眠れなくてつらそうだったんだろ」
「そう。それに私、眠かったから」
「午前3時過ぎなんだ。草木も眠る丑三つ時、だっけ」
「知らないけど。分量かな、お酒といっしょじゃ駄目だって、薬剤師さんも言っていたんだけど」
「つまりさ、眠らせるだけ、なんて程度の量じゃなかったってことだろ」
「事故なの」
「まだ、事故かどうかも分からないさ。救急車とかは?」
「でも、簡単に呼ぶのは、迷惑ですって。駅前でティッシュ配ってたから」
「うん。優しさだよね。じゃ、男はまだそこで寝てるんだ」
「そこ、っていうか、お昼の少し前までは。私、外にいるの。休みっていっても、暇じゃないんだ私も」
「自分の時間を有意義に使うというのは良いことだよ。スタバでキャラメルマキアートを頼んで、手帳に色鉛筆でスケッチしてるとか?」
「やだ。何で分かるの?」
「長いつきあいだからね。でも、本当?」
「まさか。私、あんまり甘いものは好きじゃないから」
「うん。で、気になるんだ」
「まぁねぇ。帰ってまだ寝てられると、ちょっと。私、彼にそこまでの借りはないかなって」
「部屋の鍵を、郵便受けの底に貼り付けておいたりしてあったら、小人達がなんとかしてくれるかもよ」
「なんで、分かるの?」
「長い付き合いだからね。でも本当に?」
「扉の隣のガス給湯器のホースの裏っかわに貼り付けてあるのよ。一応カムフラージュとして鼠なんかの死んだのを置いてあるんだけど」
「そりゃ、用心深いことで」
「これから晩御飯をお友達と食べるんだ。ビアガーデンのオープン日みたいだから」
「そりゃいい。人生の楽しみの一つだね。うん。それじゃ」

 電話を切り、こまごまとしたものを買物袋から取り出して、ダイニングに並べていると、全てがどうでもよくなってきた。受話器をあげて110番にかけた。非常に機械的で冷静な対応だった。こちらも、悪戯電話だと思われないように、機械的で冷静な対応をした。
「ええ。立ち会うべきなんでしょうけども、足を折ってましたね。松葉杖をもらいにいくところだったんです。電話なので詳しいことはなんとも。あ、本人の携帯番号は――です。気が動転してるみたいで、自分が何してるか分かってないようでしたよ。じゃ。あとはよろしく」
 受話器を置いた室崎は、

「頼られた男として望まれた行為ではなかったかもしれないが、市民としての義務は果たした」

 と、つぶやいた。それは、とても情けない声のように響いた。だが、それ以上踏み込む義理は無いと思った。貸し借りでいえば、そこまでの借りはないのだから、と。
 本当に問題なのは、国家権力に対して、「骨折した」と告げたことだった。嘘はよくないな、と室崎は受話器を取った。

10 崎坂美咲(さきさかみさき)

「もしもし。昨日足を折った室崎ですが」
「え?ちょっとお待ちください。どなた様ですか?」
「え? あ、そうか。救急だったんですよ。何だか肛門科のお医者様しかいらっしゃらなくて、一応軟膏を塗ってくださったんですが、複雑骨折、腱の断烈だもんですから、外科が開いたら来なさいといわれれてて、その時松葉杖もいただく予定だったんです」
「何先生でしたか?」
「さあ。名前なんて些細なことですよ、救急患者にとっては。違いますか? もし、そういう先生がいないとか、私が昨夜そちらへ窺っていないとかいう寝ぼけた事を言いだしたら、分かってますね。あなた、崎坂美咲さんでしょ。知ってますよ。いろいろと。患者が嘘をつく必要はこれっぽっちもないんです。でも医者はよく嘘をつきますね。なぜでしょうね」
「しょ、少々お待ちください」
「おい。歩けないからって軽くみるなよ。念じ殺すことだってできるんだぞ。あの結婚式場の火事だって、俺が念波で燃やしたんだからな。通話記録を調べれば分かることだ。もっとも、世の中には、表に出ると困ることは山ほどあるんだがね」
「ああ。ひどい。私はただ…」
「ただ? つまりは、それなんだな。杖は手に入るのか入らないのか。どっちなんだ。ボイラー室で悶え死んだ数千のラットに誓って答えろ」
「は、はい。ご用意いたします。ですからどうかあのことは…」
「この会話は録音されている。わかっているな。しかも転送されている。さらにダビングされて配信された上で消去されている。君はもう私から逃れることはできない。いいね。これからいうことを良く聞け。昨夜、俺は足を折った。右足だ。複雑骨折だ。だが満足な手当てはしてもらえなかった。何故だ?」
「夕べは当直がいなかったんです。シフトの監理ミスでした。唯一いたのは肛門科の沼繁先生だけでしたが、その、テキーラを片時も話さなかったので…」
「それだけじゃないね」
「え、ええ。私も…」
「私も、なんだい」
「私もテキーラをいただいて、うかれていたので、それで…」
「うん。処方を間違えたんだったね」
「いえ。そんなことは…」
「無いというのかね。おかしいな。そもそも私は薬を貰ってないんだよ。包帯すら巻いてもらえなかった。石膏ギプスもね。どういうことだね。骨は肉組織をつらぬいて、というよりも断裂した肉組織をえぐりとるように、まるでフェンシングをするかのように交わっていたんだ。なぜだかわかるかね」
「あ、あ、あ、 、 、 」
「それはね。実は、僕は病院へ行っていないからさ!」
「!」
 受話器から甲高い爆音が飛び出して、室崎の鼓膜を貫いた。左目がチカチカした。受話器を耳からはずして、首を大きく左右に伸ばして、大きく深呼吸をした。

「『個人演劇集団 アキレスの踵 不定期公演 「ぷりーず ギプス ミー」』本番中だ馬鹿野郎この野郎。これから骨折するから治療にうかがおうと思っていたのだ、参ったか馬鹿や、あ、キャッチホンが入ったようなので失礼する。そっちへ行ったとき、意地悪しないでくれたまえ。あ、それから、お腹の子によろしく。きっと帝王切開だろう。ははは」

 (砺波さん。大丈夫ですか。一体どうしたんです。砺波さん)

11 宮

「もしもし」
「やあ。ナイスタイミングだよ。これから病院に行こうと思ってんだ」
「何? 事故にでもあったの? 大丈夫?」」
「事故か。いや、違うな。ちょっとした言葉のあやでね」
「分かんないけど。嘘ってこと」
「本当と嘘の二つだけなら、世の中もっとシンプルなんだろうけどさ」
「本当のことを嘘で隠そうとするから、悲しいことがおこるのよ」
「宮はかわらないね」
「本当に、へんよ。本当に大丈夫なの?」
「ああ。それより荷物の手配は済んだ? あ、写真撮れた?」
「全然近づけなかったよ。すごい火事だったんだね。一応、撮ってみたけど野次馬とかばっかり」
「いいさ。ありがとう」
「郵送すればいい?」
「郵送って。荷物をもってこっちにくるんじゃなかったっけ」
「あ。それは、解除になりました」
「そっか。」
「そう。なんだか、ごめんなさい」 
「じゃ、こっちにある分をそっちに送らないといけないんだな」
「私は自分に正直にいきたかっただけなの」
「うん。それが一番大切なことさ」
「素直なのが、一番いいんでしょ?」
「完全に同意するよ」
「だから、そうすることに決めたの」
「じゃ、荷物は手配するから」
「ごめんなさい。どうすればいいか分からなかったし、こわかったし」
「君たちは君たちのすることをした。こっちはこっちで始末するさ。ただ、あとは君の問題だよ」
「本当に、ごめんなさい」
「全くね。あやまるなら、一つ貸しを返してくれる?」
「何? 身体とかいわないよね?」
「写真をメールで送ってもらいたい アドレスは――」
「うん。すぐ送っとく。いろいろありがとう」
「はい。ありがとうね」

 室崎は、受話器をおいた。とうとう腐った左耳が受話器にはりついたまま千切れてしまった。

 メールを一通見たいだけなのに、セキュリティーがどうとか、アップデートがなんやらとか、なかなか立ち上がらないPCを前に、室崎は苛苛していた。

「写真の転送が済んだら真っ先にこいつを梱包してやろう」

 届いたメールを見ると、写真は3枚添付されていた。人だかりの向こうに、かろうじて黒こげの城のような建物が写っていた。なるべく見栄えよくしてやろうと、色調や明度をいじってみた。すると、野次馬の中に、久乃の姿をみつけた。
 室崎は、それまでの変更を破棄し、元のままの画像を会社へ送った。その作業を待っていたかのように、電話が鳴った。
 室崎は、うめき声をあげながら、電話に近づき、壁から電話線を引き抜いた。そして電話機をつかむとコードでぐるぐる巻きにした。
 その後は、室内のものを片っ端からまとめ、ゴミ袋にいれ、梱包をし続けた。宮が置いていった鞄や荷物も、油染みた新聞紙と共に、ゴミ袋へ放り込んだ。

 外は薄暗くなっていた。夕焼けすらなかった。ダストボックス近くの街灯は切れていて、その周辺は一層暗く沈んでいた。
 ひとしきりの作業が終わり、部屋はほとんど空になった。コンビニで飲み物を買って、ダストボックス脇の、「ルールを守ろう」という張り紙を貼られたソファーに、体を横たえた。
 静かだった。時折電話のベルが聞こえたが、それは幻聴だと分かっていた。

12 黒猫

 翌朝、囹朿のもとに、2通のメールと4枚の写真が届いていた。3枚は火事の現場写真。そして1枚は煤けたソファーに横たわる黒い大きな猫の写真だった。
 囹朿は、室崎に電話をかけた。だが、呼び出し音が続くばかりだった。

 「愛は冷め、憎しみに変わる」

 囹朿はそうつぶやいて、メールをゴミ箱へ捨て、すぐにゴミ箱を空にする、を実行した。
 
おわり

電話の中

電話の中

愛が憎しみに変わるまでの、いくつかは親密で、いくつかは戯言で、いくつかは死活問題であった電話での交流。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-07-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1上野毛久乃(かみのげ ひさの)
  2. 2 囹朿(れいし)
  3. 3 宮(みや)
  4. 4 市頭原真名(いづはら まな)
  5. 5 上野毛久乃、囹朿
  6. 6 宮
  7. 7 イリジウム
  8. 8 宮
  9. 9 上野毛 久乃
  10. 10 崎坂美咲(さきさかみさき)
  11. 11 宮
  12. 12 黒猫