学園生活改 愛と収容所と男女の物語

今作は『学園生活~ミウの物語~』のスピンオフである。
(正確には設定を若干変更して続編にした)

あらすじの続き

~あらすじの続き~

シリアスな展開が続くと色々疲れてしまうので、
すきを見てどこかで「コメディ」を入れようと思っている。
どうやったらコメディになるのか。困難であるのは承知している。

今作は私の自己満足のために書いた。
もはや『子供の落書き』のレベルである。

本来ならチラシの裏にでも書いておけばいいものを、
あえて投稿してしまった。
この時点で不快に思う人はページを閉じてほしい。

キーワードは『強制収容所』であるから、
極めて人を選ぶ落書きである。 


……さて。内容の変更点について。

前作『学園生活』は第16回以降で共産主義的要素が深まる。

夏休み明けに太盛は強制収容所行きになる。
ミウは彼を救うために右往左往し、
やがて冷酷なるボリシェビキの一員になってしまった。

ミウが生徒会中央委員会に入る決意をしたのは、
『第20回』でのナツキの巧みな話術のためだ。
中央委員になれば太盛に会える。彼に会いたい一心だった。

ミウは『第21回』で収容所の太盛と再会し、
囚人と看守の立場から太盛に嫌われ、
大きなショックを受けた。

そのため本編では頭痛を発し、学校を2週間休んだが、
今作ではそれがない。彼女は強いストレスから
性格が豹変し、鬼畜へと目覚めてしまった。
これが、あらすじに書いた変更点①である。

続いて②だが、今作では爆破事件を未然に防ぐことに
成功している。ミウが独自の捜査によってアナスタシアが
二重スパイであることを発見したのだ。

ミウの活躍により生徒会は滅びることなく、
無事に11月23日の革命記念日(総選挙)を迎える。
新会長にはナツキが選ばれた。

ナツキには副会長の指名権があるから、
自分の右腕であるミウを選んだ。

会長と副会長を選出したことから、組織委員会は
中央委員会で最高の権力を持つに至った。

この物語は何をするにしてもミウが
中心人物になるのだが、今回は群像劇として、
各キャラクターの心理を深く掘り下げる。

前作との差別化を図る意味もあり、
あえて一人称で書くことにした。

今作は一人称リレー方式(順不同)を採用した。
話数によって主要キャラが入れ替わり、
彼らの一人称で物語が描かれるのだ。

一人称の対象になるのは、次の五人の男女である。

高野ミウ
堀太盛  
橘エリカ
高倉ナツキ
斎藤マリエ

斎藤マリエ(一年)以外は全員高校二年生だ。

時系列は、前作『第23回』から開始する。
まずは前作から大きく変更されたミウの心理から見ていこう。

高野ミウ 生徒会副会長 

※ミウの視点

11月の革命記念日が終わり、ナツキ君が新たな会長に選ばれました。
ナツキ君は、会長就任と同時に組織委員会のトップの座を
私に譲りました。会長との兼任が難しいと判断したためです。
それも当然でしょうね。

私、高野ミウは副会長であり、
組織委員の長としての地位に着きました。

正確には副会長兼、組織委員長ね。
日本語は漢字が続くと読みにくいわ。
英語みたいに単語の間の空白が欲しいところです。

私の学園での地位は不動のものとなりました。
おかげでこの学園で私に逆らえる人はいません。

「ミウさまぁ……」「どうかお慈悲を…」

全裸で首輪をつけ、犬の真似をする女子二人。
体中にカッターでつけられた切り傷がある。

私はこの子たちを許すつもりは全くない。
だってこの子達は一年生の進学クラス。
爆破テロを計画してた子達だもの。

一年生の進学クラスの子たちは収容所送りにした。
私は暇さえあれば一年生の収容所を見回って、
こうして囚人を適当に呼び出して遊んでいるの。

爆破テロで私たちを殺そうとしていたなんて、
思い出すだけでも腹が立つな。

「あなたたち、外はいい天気ね?
 たまには外で遊んできなさい」

「え……」

驚いた顔をして廊下の外を見ている。
快晴だけど、11月下旬の空模様。
風は吹いているし、暖房の効いた屋内とは別世界でしょうね。

「ミウ様ぁ……」

私は校庭の一角に椅子を用意して、その子達を座らせた。
後ろ手に手錠。足は椅子のパイプにロープで
固定して足を閉じれないようにした。

この子たちは裸だから、いろんなところが丸見えの状態。

「さ、寒い……」「凍えてしまいますわ!!」

ますわ、って上品なしゃべり方。
あの憎き斎藤マリエを思い出すじゃない。
たとえ囚人の身に落ちても
育ちの良さは隠せないもんだね。
一年にもお嬢様ってやっぱりいるんだ。

「じゃ、私行くから。しばらくそのままでいなさい。
 夕方までには解放してあげるから」

「そ、そんな殺生な……」「お許しください、ミウ様ぁ……!!」

今朝の9時半ね。夕方まで何時間あるのかしら。
せめてトイレに行かせてくださいと
お嬢様キャラが文句を言っているわ。

バカじゃないの。囚人のくせに。

「トイレならその状態ですればいいじゃない。
 ちょうど裸なんだし」

あはは。絶望した顔してる。
こういう顔が見たくて学校に来てるんだよね。

私を副会長にしてくれたナツキ君には
ちゃんとバレンタインのチョコあげないとね。
もちろん義理だけど、手作りだよ。

「ごきげんよう」

「これはこれは、生徒会・副会長殿が
 わざわざお越しとは恐縮ですな」

私は校長室を訪れました。校長のハゲ面は少しも変わってない。
偉そうな態度も、先生たちから『あだ名』で公認会計士って
呼ばれていたことも。部屋の様子も全てが変わってない。

「話が長くなるようでしたら、
 お茶でもいかがですかな?」

「手短に言うね。
 これから収容所三号室の堀太盛君を解放する」

「彼を解放……ですか?」

「ナツキ会長には許可を取ってあるから」

校長は頭をぽりぽりとかいてる。
気持ち悪いけど、何か考えがある時の仕草ね。

「そういう問題ではありませんな。
 堀君の収容はアキラ君が決定したことですから、
 校長である私の所感ではありません」

「あなたが表向きは学園のトップでしょ?」

「トップと言うなら理事長殿ですが、あの方はご多忙なので
 確かに私が実質的なトップになりますな」

「うん。だからあなたに一応許可を取っておこうと思ってさ。
 あとで文句とか言われても腹立つし」

「本気で彼を解放するつもりですかな?」

「ん?」

「アキラ君の怒りに触れることになると、
 あなたの身の安全は保障できませんな。
 アキラ君の決定に逆らうものは反革命容疑だと
 校則にはっきりと書かれておりますが」

得意げに話す校長。知識自慢をしているみたい。

「同士・副会長殿はもう少し冷静に物事を考えるくせを
 身につけたほうがよさそうだ」

「ことを起こす前に、まず慎重にならねばなりません。
 一度会議でも開いてから収容所の解放を検討するべきでしょう。
 仮に中央委員が賛成しても、アキラ君の同意を
 得なければ難しいでしょうが」

校長は役員会議中もこんな態度でみんなをバカにしていた。
バカにしてるわけじゃなくて、本気で私に警告したかった
だけなのかもしれないけど、私は私に反対する奴が許せない。

「うるさい」

「ふむ……?」

「うるさいって言ってるんだよ。このはげ!!」

「ぐぬぅ」

奴のむなぐらをつかんで怒鳴り散らしてやった。

校長は鳩が豆鉄砲を食らったような顔で驚いている。
かつて私がこの部屋に来た時は、
私のお願いは聞いてもらえなかった。

あの時、私は本気で太盛君を救いたかったのに。
ただ愛する人を救いたいだけだったのに。

そんな私を鼻で笑った。

だから許せない。いっそ殺す。殺してやる。

「みんな。入って来なさい」

扉に向かって命じると、私のファンクラブの人達が入って来た。
彼らは武装して常に私の周りを警護させているの。

ファンクラブは一番少ない時で6人まで減ったけど、
今ここに20人はいるわ。
その人たちは心から私に忠誠を誓ってくれる。
身内(執行部)さえ油断できない昨今では、
能動的に私を守ってくれるファンの人達は貴重だよ。

「ごふぅ……この私に、こんな真似をしたらっ……がああっ」

校長はこん棒でめちゃくちゃに殴られ、椅子に縛り付けられた。
口をガムテープで固定されて、何も話せなくなってる。
悔しそうな顔で私を睨んでるけど、その顔すら私にはご褒美だよ。

私は部下(ファン)から金属バッドを受け取った。
そして、力の込め具合も分からないのにフルスイング。

「ごおおぅ」

校長の顔に当たりました。
少しして、鼻から、どっと血が出る。
ボタボタと、床に垂れる。

そんなに強くしたつもりはないのにね。
校長の目から涙がボロボロこぼれ落ちる。

「どうしたの。まだまだ終わらないよ?」

私はもっと悲鳴が聞きたくなったので、
あえてガムテープをはがした。
勢いよくはがすと、校長が痛みのあまり短く叫んだ。

歯ぐきから血が出てるみたい。

それ。もう一度顔面にフルスイングだ。
顔面……ホームラン!!

「ぶおっ」

鼻の骨が折れたね。変な方向に曲がってる。
歯が、何本か抜け落ちた。いい気味。
無抵抗の相手を痛めつけるのって良い気分。夢気分。

だって何回殴ってもいいんだよ?
相手が死ぬまで殴っていいんだよ?
私の気が済むまで痛めつけていいんだよ?

校長は人じゃない。私のおもちゃ。

そーれ。

「があああああああああっ!! あうふぅぅぅぅぅ!!
 ふぅぅう……ふぅぅぅ!!」

バッドを肩に振り下ろした。
一度だけじゃ物足りないから、
数を数えながら何度も繰り返した。
ゴキ、と何かが砕ける音がした。
校長の呼吸がヒューヒューと浅くなる。

続けて後頭部を軽くつついた。
びくっと、校長の体が痙攣するのが面白い。

「待て、これ以上は本当に死んでしまう……!!」

校長ったらおかしいんだから。
このくらいで人が死ぬわけないでしょ。

私が前に痛めつけた男子は、もっと楽しませてくれたよ。
女子はだいたい拷問の途中で気絶したり、狂ったりするけどね。
私を退屈させる奴はつまらないから、すぐ殺したくなる。

私は、しばらく校長先生で遊んでいた。

私の手にしたバッドは殴り続けた衝撃でへこみ、
飛び散った血や髪の毛がこびりついている。

このクズが何の反応も示さなくなったので、
私はすっかり興味を失った。

私の制服に着いた返り血を、部下に持って
こさせた濡れタオルでふかせた。
ああ、全然だめね。またクリーニング、じゃなくて
制服を新調しないと。校長の血と汗の匂いが取れない。

「制服の予備が多数ございます。直ちにご用意させていただきます」

よしよし。私の言うことを聞く子には
良い子良い子してあげよう。

「ミウ様……。ありがたき幸せ」

私に頭を撫でられて、本当に天にも昇りそうな顔をしている。
彼は飯島君。同じ学年で、かつて私のファンクラブの責任者だったらしいよ。
らしい、というのは、正直自分のファンクラブにあんまり興味ないから。

でも私に付き従って守ってくれるんだから、大切にしないとね。

「さあみんな。太盛君に会いににくよ」

「!?」

やっぱりね。みんなの顔が引きつった。
強制収容所三号室は、特別な犯罪者が収容されるところだから。
本来なら生徒会の役員でもない彼らが入れる場所じゃない。

アキラさんの許可なく入ったら、
彼らも反生徒会(反革命)容疑で逮捕されかねないもの。

「現会長のナツキ君には許可を取ってるから、
 みんな心配しないで」

私が優しく言ってもみんなの表情が硬い。
分かっていたけど、アキラさんの支配力は今になっても強いんだね。

「私は行きます。ミウ様をどこまでもお守りします」

飯島君だ。さっすが責任者。

「私も同様です」 「ミウ様に仕えるのが我が使命」
「忠誠こそ、わが名誉」 「私も同じ考えです」

他の人達も賛成してくれた。あとで飯島君をもっと
褒めてあげないとね。先導したのは彼だもの。

人間の大半は無能で軟弱ものだから、
組織を引っ張る人がいないと何もできないんだよ。
99%のクズと1%の有能がいるの。

私はそういう人を探したいと思うし、
自分自身がそうであることを望んでいる。

あっ、今のは英語の翻訳っぽかったかな?

「見回りの時間よ。そこをどきなさい」

「はっ!!」

収容所の前の警備兵はすぐに通してくれた。
アキラの権力が健在の割には素直だね。
良かった。彼がもし逆ったら、すぐに拷問してたよ。

部屋にいる三人は、机に座って勉強していたみたい。

茶髪で小柄の松本先輩。男子にしては小さいね。
小倉カナ。私と同じクラスで野球部のマネージャー。
ムカつくけど、こいつ美人だ。

そして…

「やあ太盛君」

「やあ」

私が片手をあげてフランクに挨拶すると、
太盛君が同じく片手をあげて返事をしてくれた。

うれしい。

『今回』は無視されなくてよかった。

「太盛君、表情暗いけど最近体は大丈夫? 
 食欲はある?」

太盛君は、何も答えてくれませんでした。

カナと松本は直立不動の状態なのに、
太盛君だけ椅子に座ったまま。
どうしたのかなー。

一緒にお昼食べて元気出そうか。
もうすぐお昼だよ。一緒に生徒会室で食べる?
それとも教室にする?

太盛君はまだ黙っています。

どうして黙ってるの?
私と話したくないの?

目を合わせてきちんと会話をしましょう。
君のこういう態度、正直ムカつくな。

相手が太盛君じゃなかったら、
メリケンサックで口元をぶん殴ってあげるのに。
そうしたら嫌でも叫ぶでしょ? 声を出すでしょ?
歯が折れて口から血をこぼすでしょ?

「太盛君。早く行こうよ。あっ、言い忘れてた。
 今日から太盛君は収容所から解放されるから」

「え」

彼がしゃべった。
たった一言だけど、それでもうれしい♪

「今日から太盛君は一般生徒に戻れるんだよ。
 私の襟(えり)のバッジを見て。私は生徒会副会長になったの。
 私の権限で太盛君は今日から自由になったんだよ?」

正確にはナツキ君の力なんだけどね。
太盛君の前でナツキ君の話はしたくない。

「お、おれが……かい……ほう……」

太盛君はうれしくなさそう。
カナと松本を何度も見てから、またうつむいてしまった。

何してるのかと思ったら、声を押し殺して泣き始めた。

なにしてるの。
これから自由になるのに泣く必要ないでしょ?

「ミウさん」

彼は私の名前に『さん』をつけました。
どうして急に距離を取ろうとするのかな。
おかしいよね。私は太盛君の彼女なのに。

「お願いします。どうかお願いします。
 僕だけでなく、センパイとカナも助けてあげてください」

土下座を始めちゃった。
私に対して土下座?
太盛君のその態度、前と全然違う。

彼女に向って土下座する人っている?
浮気がばれた時とか? あはは。
そういえばカナさんが浮気相手だったね。

あはは……。

なに? ……その冗談。カナを八つ裂きにしたいんですけど。

「太盛君。私はあなたを助けてあげるって言ったの。
 ちゃんと聞こえなかった? それとも
 私の声が小さかったかな。だとしたらごめんね」

やんわりと言ったつもりなのに、
太盛君の顔が引きつりました。

ガタガタと震え、もう私の顔すら見れなくなったみたい。

頭を両手でかかえ、床に這いつくばりました。
さっきの土下座のポーズに少し似ています。

「よしよし。君はこんなところで過ごして
 考え方が卑屈になったんだね。
 嘘じゃなくて本当に太盛君は自由になれるよ?」

私は飯島君にしてあげたように太盛君の頭を撫でました。
それでも太盛君の震えが止まることはありませんでした。

「私がずっとあなたのそばにいてあげる。
 他の人はどうでもいいでしょ?」

太盛君はカナに惚れている。だから私はカナを
ずっとここに閉じ込めるつもりなの。

太盛君は私だけを見ていればいいの。
太盛君は私の彼氏なんだから
そんなの口にするまでもない。当たり前のことでしょ?

私がナツキ君と付き合っていたのは仮だよ。
私には太盛君だけ。
余計な回り道をしたけど、
最後には愛する人の元へ戻ってくるの。

私は気が付いたら君のことが好きになっていて、
好きになるのに理由は特にないんだ。
高野ミウは神様が与えてくれた
運命に従って生きているんだよ。

「私のことはミウって呼ぼうか。
 私に様とかを付けたら、少しだけ怒るよ?」

太盛君の震えが大きくなりました。
雨の中ずぶ濡れになった子犬みたいな反応。

赤子を叱る程度の怒気を込めただけなのに。
ちょっとショック受けちゃった。
そんなに脅えたら逆に失礼だって思わないの?

「ミウだな……分かった。これからはミウって呼ぶ」

「そうそう。太盛君はお利口さんだね。
 他の馬鹿どもとは違うものね」

また私が彼の頭を撫でようと手を伸ばしたら、
反射的に彼の手で払いのけられてしまったの。

しまった…

と言いたそうな顔で太盛君が絶望してる。

うんうん。確かにすごく失礼だよね。
せっかく彼女が褒めてあげようとしたのに。

太盛君じゃなかったら拷問だよ?
太盛君だから許してあげるんだからね。

私は少しだけ彼を叱るために、大きく息を吸った。
太盛君も悪いと思ったのか、私が怒鳴るよりも前に
私を抱きしめてくれました。

「ごめんねっミウ。ごめんねっ」

なんか必死。

「俺には君しかいないのに。そんな当たり前のことすら
 忘れていたなんて、どうかしてたよ。本当にごめん。
 俺は君を困らせるつもりはない。
 こんな俺でよかったら、ずっとそばにいさせてほしい」

胸が熱くなった。女には大好きな人に言ってほしい言葉が
たくさんある。本当はその言葉をもっと早く聞きたかったな。
できれば11月23日の革命記念日の前に。

「それさ。口から出まかせじゃないよね?
 もし嘘だったら…」

「本当にミウを愛してる。心から愛してる。
 俺にはミウ以外の女性は考えられない。
 ミウがいなかったら俺は生きていけない」

「私のこと愛してるのね?」

「大好きだ!! できれば結婚したい!!」

そこまで言うなら良いか。
廊下まで響くほど大きな声で
言ってくれてありがとう。

「いいよ。許してあげる」

「本当に?」

「私は太盛君には嘘つかないよ」

私は彼の顔を引き寄せて、くちびるを奪いました。
太盛君の顔、好き。童顔だから中学生みたい。
子供っぽいところがたくさんあって、
でも時に頼りがいがあって男らしさもあって。

太盛君は母親似でお母さんも綺麗な人なんだろうな。

あはは。楽しかった。

私は太盛君と手をつないで収容所を出た。
私達がキスしてる時にカナはどんな顔してたのかな。

太盛君の元彼女。モトカノか。
思い出したらムカついてきた。
暇な時にあの女をおもちゃにしてあげよう。

堀太盛(せまる) 強制収容所、三号室の元囚人

※太盛の視点

俺が弱い人間なのは、自分が一番よく知っている。
収容所では毎日生徒会の奴らに拷問される恐怖と戦う日々。

俺は模範囚として過ごしているため、
幸いまだ拷問されたことはないが。

いや、『奴ら』なんて言い方をしたら何をされるか
分からない。きっと反革命罪とかスパイ容疑で
逮捕されるかもしれない。普段思っていることは
とっさに口に出てしまうものなのだ。

何より恐ろしいのが、あの人達たちが何を基準に生徒たちを
逮捕しているか分からないことだ。俺は拷問されるのが怖い。
こんな恐怖と戦う日々を送っていたら気がおかしくなる。

この三号室で俺と同じ日々を送っている松本先輩とカナ。
君たちだって同じだろ?

俺たちが毎日この収容所でロシア語や共産主義の
勉強に励んでいるのも、生徒会に皆さんにそうしなさいと
言われているからだ。

西側諸国の資本主義は間違っている。
日本の議会制民主主義は腐っている。

人間に善良さはない。大衆は愚図だ。
人の自由な意思で政治や経済を
動かしたら、必ず国家は衰退する。

『恐怖による支配』

こそが、強力な国家と国民を作る。

俺たちは高校生だが、政治レベルで
物事を考えるくせを身に付けた。
そうなるように訓練されたからだ。

「はぁはぁ……はぁはぁ……さすがにしんどいな……」

「頑張ろう。あと少しでゴールだ」

俺はカナと並んで陸上トラックを走っていた。

体力作りのための訓練だ。
生徒会の皆さん(執行部)は、俺たちが
なまけないように目を光らせている。

彼らは俺たちが走った距離をチェックしている。
手元にあるIPADに何かを入力している。
あとで本部にデータを送るのだろう。

「太盛。息があがってるよ? 頑張って」

カナが、俺の肩をたたいて励ましてくれる。
彼女の体力はすごい。
陸上部の長距離選手並みだ。

俺たちはもう6週も走っていて、俺は気力だけで
手足をなんとか動かしている状態だ。

生徒会の皆さんに『早く走れ』とは言われていない。
ただ、既定の時間内走り続けろと言われている。

実際に走った時間は分からないが、
たぶん20分以上走っていると思う。

「ふぅ……」

松本先輩は体力に自信がないようで、俺たちよりも
2周遅れで走っていた。限界まで疲れているのか、
ため息のようなものを吐き、
ふらふらとし、足が止まりそうになる。

ダメだ……。足を止めたら大変なことになるぞ先輩!!
執行部のみなさんに警棒で叩かれるぞ!!

俺の願いが通じたのか、先輩は走り続けていた。
非常にゆっくりと、上体は大きく左右に揺れながらも。

季節は11月の下旬。真夏と比べて走りやすい季節ではあるが、
走り終わった後、大汗をすぐにタオルでふかないと、
風邪をひいてしまう恐れがある。

「本日の体力作りは以上である。
 みんな良く走りきった。
 収容所に戻ってよろしい」

執行部の偉そうな人が言う。

背中の後ろで腕を組んでおり、
声は低く、教師より威厳がある。

生徒会の皆さんは、ありがたいことに俺たち
囚人にスポーツタオルを渡してくれる。
それで汗をぬぐうのだった。

スポーツタオルは良い。
汗の吸収率が普通のタオルと全然違う。

「風が冷たいね。早く教室で暖まろ?」

カナ。君といなければ、俺は自殺していたかもしれない。
辛い収容所生活でも君の笑顔だけは失いたくない。

俺はカナと手をつないでグランドを歩いていた。
収容所に行くまでのわずかな距離だからいいじゃないか。

カナは最初こそ驚いていたが、顔が赤くなっていく。

カナはうれしくなると大胆になり、
ぎゅっと手を握り返してくれる。

俺もうれしい。
冷え切った俺の心に暖かい感情が生まれていくよ。

「おい、おまえたち。こっちに来い」

露国人風の執行部員さんが声をかけて来た。
身長が俺より頭二つ分は大きく、威圧感がある。

まずい。囚人同士で恋愛しているのが
気にさわったのだろうか。
カナは顔が青ざめている。

「朝イチからマラソンをしたから
 昼までに腹が減るだろう?
 たまには甘いものでも食べなさい」

俺たちに差し出されたのは飴玉だった。

アメ……。どうして俺たちにあげようと思ったんだ?
ただの気まぐれか。深読みすると毒が入っている可能性も。

「これは善意だ。そう疑うなよ。二号室の馬鹿ども
 と違って貴様らは利口だ。だから
 おまえらに施しをしたくなったのだ」

確かに二号室は日常的に反乱が起きているらしいからな。
あっちの監視に比べたら俺たちは楽なんだろう。
そもそもこっちは三人しかいない。

「ありがとうございます。遠慮なくいただきます」

カナはその場で袋を開けてアメを口に入れた。
俺もカナにならった。
この味は……ミルキーはママの味だ。

普通においしかった。
走り疲れて糖分が不足していたのか、
こんなに美味しいアメは食べたことがなかった。

午前中の勉強が終わり、まもなくお昼を迎えようと
している時に事件は起きた。

生徒会副会長に就任した『ミウ』がこの収容所にやってきた。

「やあ太盛君」

「やあ」

俺は気さくに返事を返すしかなかった。
なぜミウがここに? それにバッジを見ると
生徒会副会長に就任したのは間違いないようだ。

俺たち囚人は、ミウがこの部屋を訪れることを事前に聞いてない。
心の準備もできないまま、学園で第二位の地位を
持つ支配者と向き合うことになってしまった。

ミウがこの収容所を訪れるのはこれで二度目だ。
いったい何が目的だ? 先輩やカナにも
緊張が走っているのが分かる。

「太盛君と話したいことがあるんだけど、
 お昼ご飯でも一緒に食べない?」

何の冗談だろう。俺は三号室の囚人だぞ。
最も罪の重い人が収容される場所にいるんだ。

この学園の神に等しい副会長様とご一緒に食事なんか
したら、他の生徒への示しがつかないだろう。

「ごめん。説明の順序が狂ったね。
 先にこっちを話しておけばよかった」

ミウは、俺を収容所から解放してくれると言った。
嘘や冗談を言っているようには見えない。

その作り笑顔をやめろ。
こう思ってしまうのは、
俺が疑い深い性格になったせいなのか?

ミウは俺と会うのがうれしくて
たまらなそうな顔をしていた。
……かもしれない。

まだ確信が持てない。

俺の目の前にいるこいつは、
生徒たちを理不尽な理由で監禁し、
拷問する組織のナンバー2だ。

高野ミウは悪魔の手先だ。

仮にだぞ?

俺が本当に解放されたとして、カナと先輩はどうなる?

あの二人がただですむわけがない。特にカナだ。
ミウは、俺が付き合っているカナに嫉妬していた。

あんなにしっかりして思いやりのある子が、
ミウに好きなように痛めつけられるのを想像しただけで
俺は涙が止まらなくなった。

「ミウさん。お願いします」

俺は気が付いたら土下座していて、
二人も解放してくれるよう懇願していた。

ミウは当然俺の条件を飲むわけがなかった。
なにより驚いたのが、呼び方を注意したことだ。

俺との地位の差からミウ様と呼ぶべきだったが、
元彼女だったこともあり、ミウさんと読んでしまったが、
なんと敬称は使うなと言う。

「次にミウさんって言ったら、少しだけ怒るよ?」

俺は恐怖でおかしくなりそうだった。
昔の戦争映画を見た記憶だが、英国人は控えめな表現を好むから、
A little に値するのは、「すごく」の場合があるという。

こう解釈するとミウは「激怒」すると考えることもできる。

俺は彼女の顔すら見ることができず、
ただ床に這いつくばってふるえていた。
ミウからしたら、さぞ滑稽なことだったろう。

しかし彼女から笑い声は聞こえてこない。
気まずいな。いつまでもこの状態を続けたら、
余計に彼女を怒らせることになるかもしれない。

「ミウだな。分かった。これからはミウって呼ぶよ」

「そうそう。太盛君はお利口さんだね。
 他の馬鹿どもとは違うものね」

明らかに他者を見下した発言に寒気がする。
やはりミウは冷酷なボリシェビキになっている。

ミウが何を思ったのか、俺に手を伸ばしてきた。
俺は恐怖で気が狂いそうだったこともあり、
自分の意思とは関係なく体が動いてしまった。

パン。

短い音。俺は愚かにも彼女の手をはじいてしまった。

ミウから表情が消えた。

まずい。殺される。

最悪俺が殺されるのはまだ良い。

連帯責任でカナと先輩が殺されるのは耐えられない。
地獄に行ってから後悔しても遅い。

ミウは、おそらく俺のことがまだ好きなのだろう。
その可能性にかけて、抱きたくもない女の体を抱いた。

ああ。この髪の匂いは確かに高野ミウだ。
瞬時に夏の思い出が頭に浮かんだ。

「俺には君しかいないのに。本当にごめん。
 俺は君を困らせるつもりはないんだ。
 こんな俺でよかったら、ずっとそばにいさせてほしい」

はっきり言って口から出まかせだった。
自分でもよくこんな棒読みのセリフが出てきたものだと思う。

これが通じなかったら、すぐ手足の自由を奪われて
電気椅子にでも座ることになるのだろう。

ミウは「いいよ。許す」と言った。
聞き間違えではなく、確かにそう言った。

情熱的な瞳で俺を見つめたかと思うと、
すぐにくちびるを重ねてきた。

なんて強引なキスだ。彼女は俺の顔を
手で押さえているから、抵抗はできなかった。

やめろよ。最低女。近くでカナが見てるんだぞ。

「せっかくだから私たちのクラスで食べようか?」

どうやらお昼ご飯の話題らしい。しかし、なぜ二年一組で?

俺は何か月も収容所にいたから、
自分が一組の生徒である実感がもてない。

革命記念日(生徒会選挙)が終わった後の学内は
いったいどうなっているのか。

まさに未知の世界へ旅立つ心境だ。

ミウは痛いくらいに俺の手を握って歩き出した。
ニコニコしていて、心から満足している様子だ。

俺はボリシェビキとして嘘を見破る訓練を受けたが、
俺から見ても彼女が演技をしているようには見えなかった。

あれが二年一組の教室か。
なつかしさのあまり涙さえ出て来る。

今振り返ると、俺は斎藤マリーに関わるように
なってから生徒会に目を付けられたみたいだ。

「諸君、静粛にしたまえ!! 
 同士・副会長殿がお見えである!!」

まだ4時間目の授業の最中だったようだ。
日本史の先生が教壇に立っている。

今声を上げたのは教師ではなく、マサヤだ。
あいつ、あんな顔だったか。ずいぶん険しいというか、
おっさんぽくなっている。政治家みたいな面だ。

「いきなり来ちゃってすみませんね。先生」
「はっはい!!」

ミウに声をかけられただけで、
中年男は腰が抜けそうなほど脅えている。
声も震えている。

「少し早めのお昼にしても良いですか? 
 今日は太盛君と一緒に食べたいんですよ」

「か、かかか、かしこまりました!! ふ、副会長殿!!」

教師は3秒で教卓の上を綺麗にし、廊下へ消え去った。
俺が教師と入れ替わりで教室に入ると、
クラス中が衝撃でひっくり返りそうになっている。。

そりゃそうだよな。卒業まで収容所にいると思われた男が
いきなり自分のクラスに復帰しているんだからな。
あっ。エリカがいる。あいつも口に手を当てて驚いてる。

「あれー? おかしいねこのクラス。
 太盛君の席がないんだけど」

ミウの言葉は、教室中をパニックにさせた。

まあ、俺自身はどうでもいいことだ。
収容所送りにされた俺のイスと机なんて
なくて当然だろう。

誰が片付けたのか知らないが、
なければ別のところで食べればいいだろう。

「わたしがただいま確保してきますわ!!」

あの子は井上さんか? 
ショートカットで少し可愛いけど内気で
目立たない子だったな。

「お待たせしました!! イスと机でございます!!」

全然待ってねえよ。戻ってくるの早すぎだろ。
どこから持ってきたのか知らないが、俺の目の前に
ドンと一人分の席が用意された。

「座ろうか? 私と向かい合わせで食べよ?」

「あ、ああ」

俺は、引きつった笑みでそう答えた。
実際に座ったが、教室中の視線が突き刺さる。

生徒会副会長、そして三号室の元囚人の俺。
互いの地位に天と地の差がある。

どうすればいい?
この状態で食事をするのは拷問に近いぞ。

「太盛君はお弁当持ってきてるんだよね?」
「ああ。一応な」
「どうする? 収容所まで取りに行く?
 それとも私のお弁当分けてあげようか?」

その問いに意味はあるのか?
俺が取りに行くと言ったら処罰されるんだろうが。

「ミウのお弁当。食べたいな」 
「いいよ」

女の子にしては大きめのお弁当箱だったが、
特に何の変哲もないメニューだ。

ミウのお母さんが作ったものだろうか。
冷食に頼らず、手作りで丁寧に作らている。

まさに家庭の味と言ったところだ。
おかずとご飯のバランスが良い。
野菜も彩を考えて入れてある。

「太盛君」

俺に当たり前のように食べさせてくれた。

箸は彼女の分しかないのだから、俺が手づかみで
食べでもしない限りはそうなるのか。

「おいしい?」 「うん」

何度もこのやり取りを繰り返しながら、
淡々と食事が進んでいく。

ミウはまったく手を付けてないじゃないか。
全体の9割は俺が食べてしまっているが、
彼女が望んだことだから仕方ない。

すでにお昼のチャイムは鳴っている。
おかしいのは、他のクラスメイトが食事を
始めないことだ。みな黙って俺たちの
やり取りを凝視しており、修羅場が続いてる。

「どうしたの? みんなもお昼ご飯食べていいんだよ?」

ミウにそう言われ、みんなが急いでお弁当箱を机の上に
並べ始めた。この学校は食堂派の人がほとんどいないから、
お弁当を家から持ち込む人が多い。

「あっ、そっか。私と太盛君が一緒にいるのが不思議なのか」

ミウは今になって俺が解放された事実を報告してないことに
気付いたのだろうか。なんで最初に言わなかったんだよ。

「同士・クラスメイトたちは気にしなくていいからね。
 下手にビビったり、じろじろ見たりするのは
 太盛君にも失礼だから、いつも通り普通に食事してね?」

この学園は表向き階級の差を廃しているから、
名前の前に同士をつけて呼ぶのが正しい言い方となっている。
例えば公的な場面では同士をつけるのだ。

じろじろ見るなと言われれば、その通りにするしかないのだろう。
みんな引きつった顔でお昼ご飯を食べている。

クラス内の緊張感はテストの最中の非ではなかった。
何て殺伐としたクラスだ。俺が収容所にいる間、
みんなこんな環境で過ごしていたのか?

「ご、ごちそうさまでした…」
「お粗末様でした」

正直腹は膨れていない。味も分からない。
昼休み前から食べ始めたので、まだまだ時間は残っている。
このあとミウがどんな予定を立てているのか気になった。
だが下手なことを聞いて彼女を怒らせるのが怖い。

「あのさー。ちょっとそこの女子」

なんだ? 急にミウがクラスメイトを指さしたぞ。

「ごめん、名前分からないんだけど、あなたさぁ。
 さっき太盛君のことをずっと見てたでしょ?
 うつむいてるフリして、こっそり太盛君のこと
 見てたのバレバレだよ。そんなことしたらダメじゃない」

ミウは小声で Come hereと言って、その女子を呼び寄せた。

女子は歯のかみ合わせが合わないほど震えている。

「私以外の女が太盛君を見てるのがまずムカつくよね?
 あなた、いったいなんのつもりだったの?
 普通にするようにって私は言ったよね?
 私の日本語の発音下手だった? 聞き取りにくかった?」

女子は答える代わりに大泣きし、
ミウの足元にすがり付いている。

いつまでそうしているつもりなのだろうか。

「ごめんさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
 ミウ様。ごめんなさい。ごめんなさい」

呪文のように謝罪の言葉を並べている。
本当に必死で謝っているのが伝わるよ。

「つまらない人だなぁ。
 謝るくらいだったら初めからしないでよ」

「ミウ様。申し訳ありません。
 ミウ様……ごめんなさい。ミウ様」

「あなたは機械なの? 
 同じセリフを繰り返して疲れない?
 そういう態度、私をなめてるよね?」

「と、とんでもありません!!」

女子は顔を上げてミウを見上げた。
女王様にひれ伏す下民のごとくだ。
同じ同級生なのにこの差はなんだ?

「私はミウ様のことを心から尊敬し、敬愛しております。
 堀太盛様のことも尊敬しております。私は御二人に
 ご迷惑をおかけするつもりは滅相もありません」

「だったら、なんでコソコソ見てたの。
 私ね、中学の時から周囲の視線を気にしながら
 生きて来たから、あなたみたいな陰で悪口を
 言ってそうな人はムカつくの」

「すみません、ミウ様。今後二度としないと
 誓いますのでどうかお許しください」

「口では何とでも言えるよね。このクラスは少し前まで
 太盛君の悪口言ってる人がたくさんいたね。
 あなたもそのうちの一人だった気がするんだけど?」

何の話をしてるのか、俺にはさっぱりだ。

俺が収容所行きになった間に 
噂話でもされていたんだろうな。

三号室の囚人ともなれば、
悪口の一つや二つ言われるのは当然の流れだろう。
俺自身は全く気にしちゃいないが、ミウはこだわるみたいだ。

「その通りでございます。
 確かに私も太盛様を悪く言っておりました……」

歯を食いしばりながら罪を認めていた。
なんで素直に認めてるんだよ。

適当に嘘でもついて誤魔化せばいいだろうに。

「あっそうなんだ。正直に言ってくれて助かるよ。
 尋問の手間とか省けるしさ。嘘ついても
 あとで当時の盗聴器の音声を再生すれば
 分かることだもの」

女子は何も答えられなくなっている。
気絶しそうなほどの恐怖と戦っているのだろう。
ミウが怖いのは俺も同じだから気持ちは分かるぞ。

「他のみんなもよく聞いてね? 太盛君は高野ミウの彼氏です。
 私の彼を侮辱することは、私を侮辱したのと同じ罪です。
 私を良く思っていない、ということは、反革命容疑者と
 なります。反革命容疑者は尋問が必要のため尋問室行きです」

とんでもない内容だ。
ミウが最後に「分かりましたね?」と言うと、
まずマサヤが拍手し始めた。

あいつは音頭を取るのがうまいな。
他の生徒も力強く手を叩き、教室内は
うるさいくらいの拍手で包まれた。

「みんな、喜べ。ミウ様がクラスの平和維持のために
 新しい規則を作ってくださったぞ!! 
 さあ、もっと盛大な拍手をして盛り上げるんだ!!」

マサヤの声量は隣のクラスまで響くほどだ。
まるでマイクを持って演説しているみたいだ。

「ミウ様!」「ミウ様!」「ミウ様!」「太盛様!」「太盛様!」

後半から俺の名前もコールされた。
このクラスの異常な熱狂はなんだ?

みんなミウが怖くて演技を強要されてるってのか?

これじゃ、普通のクラスまで収容所と変わらないじゃないか。
この学園はやっぱり狂っている。組織として狂っている。

ミウが両手を水平に広げて、静かにするようにと
ジェスチャーした。騒ぎはすぐに収まっていった。

「この女の処罰だけど」

ミウは、足元の女子を見下して言った。

「本当は副会長権限ですぐに有罪にしてもいいんだ。
 でも私は優しいから、有罪かどうかはクラス全員の
 多数決で決めてあげるよ。その方が公平でしょ?」

「さあ同士・クラスメイトたち。みなさんは
 彼女が有罪だと思いますか? それとも無罪ですか?
 有罪だと思う人は10秒以内に手を挙げてください」

まさに一瞬だった。2秒もかからずに全員が手を挙げた。
手は天に向けてしっかりと伸ばされており、
ミウに対する賛同の意思が伝わるのだった。

元女王だったエリカも手を挙げている。
あいつもすっかりおとなしくなったものだ。

有罪が確定した女子は、収容所二号室行きが決定した。

なんてことだ。

俺はあの女子に恨みは全くない。
クラスで話したこともほとんどなかった。

こんなことが許されていいのか。

俺は収容所の外の世界を知らない。
生徒会の皆さんはこうして
生徒たちを収容所送りにしていたのか。

「同士諸君。ミウ様を称えよ!!
 同士ミウ様が今日も学園の生徒を
 正しい方向に導いてくださったのだ!!

マサヤ……お前はそんなこと思ってもいないんだろうが!!

「同士ミウ様―!!」 「ミウ様万歳!!」 「副会長様、万歳!!」
「はらしょー!!」「she is our princess」「we love her」

英語で言ってる奴は、英国生まれのミウに気を使ってるのか。
しかも無駄に発音がうまいな。

おや? マサヤの制服のえりにクラス委員のバッチが……。
まさかあいつ、俺の後任でクラス委員になっていたのか。

「あぁ。あれのこと?」

ミウが目ざとく俺の視線の先を追っていた。

マサヤは、突然近寄ってくるミウに恐れをなし、
直立不動の姿勢になった。いわゆる気を付けの姿勢だ。

「はいはい。みんな静かにして―」

うるさかった教室は一瞬でお通夜会場になった。

「マサヤ君にお願いがあるんだけど」

「は、はいっ。なんでございましょうか」

俺の親友は、ガタガタ震えながらミウの言葉を待っている。
あれだけ雄弁だった男が、ろれつが回ってない。

「太盛君は今年の夏休み明け、罪なき罪によって
 収容所送りになったわけだけど、今は平和に
 クラスに復帰しました。ここまではいい?」

「はいっ」

「彼から一時的にはく奪された全ての名誉を復活させます。
 これは副会長からの正式な命令です。
 つまり太盛君は今この瞬間から、1組のクラスメイトであり、
 クラス委員であり、健全なる一人の生徒となりました」

いかにもボリシェビキが好みそうな言い方だ。
それだけですべてを察したのか、マサヤが自らの
バッジを外し、片膝をついてミウに献上した。

ミウはそれを受けると

「そこの人」

「はっ? 私のことでしょうか?」

近くにいる女子を指さした。
誰かと思ったらエリカじゃないか。

あいつの口調はなんだ? 
元女王でも今はミウに触れ伏す生徒の一人となってるのか。

「ごめん。エリカって名前だったね。忘れてたよ。
 これからあなたに名誉ある任務を与えます。
 太盛君のえりにクラス委員のバッジをつけてあげなさい」

実際にバッジを手渡されたエリカは、屈辱のあまり震えていた。
よく見たら、エリカの胸にバッジがないじゃないか。

エリカのバッジはどこへ行った? ん?
ミウの制服の胸にたくさんバッジがついてるな。
軍隊の偉い人みたいだ。

「太盛様……失礼いたします」

エリカが震える手で俺のエリにバッジを取り付ける。
そんなに難しいことじゃない。裏の安全ピンでとめるだけだ。

俺はエリカの方は気にせず、ミウの制服のバッジだけを見ていた。

『生徒会副会長』『組織委員長』『革命裁判所・裁判官』
『生徒会・中央委員会』『二年一組女子クラス委員』

うちの学校はこんなに役職があったのか。
会社か軍隊みたいな組織だな。 

「私のバッジが気になるの?」

ミウが笑顔で聞いてきた。笑顔の裏が怖い。

さすがにジロジロみすぎたか。
怒らせてないだろうか?

さっきの女子の件でも分かる通り、
ミウは人にジロジロ見られるのが大嫌いのようだ。
中学時代に女子にいじられたのが原因らしい。

俺の緊張が顔に出ていたのか、ミウはこう言った。

「太盛君になら見られても嫌じゃないよ?」

「あ、ありがとう」

思わず礼を言ってしまう。
もっと気の利いた答えを返せばよかったか。

エリカも俺のすぐ近くでこのやり取りを見守っている。
この1組全体の殺伐とした空気の中で
まともな受け答えなどできるわけがない。

「このバッジはね」

ミウが一つ一つのバッジに込められた意味を
教えてくれるが、生徒会の複雑な組織のことなど
口頭で聞いてすぐに理解できるわけがない。

とにかく俺はミウとクラス委員コンビなのは分かった。
エリカからどうやってバッジをはく奪したのかは聞かないよ。

「太盛君は収容所生活が長かったから、
 まだ学校の組織を知らないよね?
 あとで私がゆっくり教えてあげるから」

「うん。よろしく頼むよ」

この衆人環視の中、俺は頭を撫でられていた。
年上のお姉さんならともかく、
同級生の女子に頭を撫でられる人がいるだろうか?

なさけなさと恥ずかしさで叫びたくなるが、
そんなことしたら自殺行為だ。

ふと近くにいるエリカと一瞬だけ視線が合った。
なんともいえない表情だ。
どうにもならない心の葛藤と戦っているようだ。

エリカは一応俺の元彼女だったからな。
ただでさえ嫉妬深いあいつのことだ。

ミウと逆の地位だったら、ミウをすぐに
拷問してやりたいことだろうよ。

「ほらみんな。何黙ってるの?」

今度はミウの声に怒りがこもっている。

「男子のクラス委員が復帰したんだよ?
 盛大に拍手てあげないとダメでしょ?」

みんなが狂ったように手を叩き始めた。
圧倒されるほどの拍手の渦だ。

たった40人の生徒でここまで盛り上がれるものなのか?

「太盛様ぁぁぁ!!」「太盛様の復帰を祝おう!!」
 
「堀太盛様はクラス委員にふさわしい!!」「太盛様万歳!!」

様付けでよばれると、むずかゆいものだ。

俺は正直クラス委員なんてやりたくないが、
ミウの命令なら従うしかない。

ここにいる奴らと同じように、
ミウに服従することでしか
己の身を守ることはできないんだよ。

高倉ナツキ 生徒会長

※高倉ナツキの視点

11月の革命記念日から学園の態勢は大きく変わった。
僕は生徒から過半数の支持を得て生徒会長に就任した。

正直嬉しかった。僕はもともと権力欲のないタイプだと思っていたが、
体育館の壇上で全生徒が僕にひれ伏しているのを見ると、
高揚してしまう。あの時の気持ちは言葉では言い表せない。

もっとも、僕は生徒を拷問したり監禁する趣味はないがね。

その時の勢いで側近のミウを副会長に選んだのだが。
はっきり言って間違いだったと思っている。

ミウは怖い。あの日、僕と収容所三号室を訪問した時、
太盛君に「二度と話しかけて来るな」と言われてから
彼女は茫然自失となった。

しばらく人形のように変わり果て、言葉を失い、
それでも学校には来てくれた。
組織委員の仕事を文字通り事務的にこなしてくれた。

彼女は魂の抜け殻だったが、目つきだけは鋭く、血走っていた。
あの時のミウが何を考えていたのかは分からない。
ちょうどその時、ミウは陰で不穏な行動をしていたアナスタシアを
監視した結果、執行部員のカバンに例の設計図を入れているのを発見。

アナスタシアはスパイ容疑で逮捕、監禁、拷問され、
罪を自白したのちに廃人と化した。

ミウの功績は素晴らしかった。生徒会をつぶすための
爆弾テロ計画の全容が明らかになり、
一年生の進学コースの人間は
全員逮捕され、強制収容所に送られた。

大人数を収容するために、
学校の外の敷地に新しい収容所を作ったのだ。

僕は当時の会長のアキラさんから称賛された。
僕がミウをしっかり教育した成果だと。
正直僕は何もしていない。

ミウは自主的に共産主義者となった。

マルクスを中心とした書籍を読み漁り、
資本主義、民主主義の欠陥を理解し、
レーニン、毛沢東、ポルポト、カストロを研究し、
ボリシェビキ(ロシア語で多数派。革命当時の共産主義左派のこと)
として覚醒したのだった。

ミウは副会長に就任してから人が変わった。

「私はただ学園の平和だけを望んでいるの。
 もしあの時、爆破テロが実行されていたら、
 私だけじゃなくてナツキ君にも被害が及ぶよね? 
 だから取り締まりを強化しないと」

「何か考えがあるのかい?」

ミウは、副会長の権限を利用して次の案を出してきた。

『学園の校則』  

第18条  スパイ容疑者の取り締まりについて。
      学内に存在する、外部などの勢力と
      結託した反乱分子をスパイと定義する。

一項  学内にスパイと『思わしき人』がいたら、
    速やかに生徒会(広報諜報委員会)へ通報すること
    
二項  高野ミウ副会長は、独断でスパイ容疑者を
    摘発する権利を有する。
    教員や生徒会内も摘発する対象の範囲内である。

三項  定期的にクラスごとにクラス裁判を行い、
    クラス内にスパイ容疑者がいないか調べること。
    のちに生徒会によってスパイが発見された場合、
    クラス全員が連帯責任で収容所送りになる。


恐ろしい規則だ。二項により、
ミウが気に入らない人は全員逮捕されてしまうのだ。
アナスタシアの例から生徒会まで粛清対象か。

僕は当然この案に難色を示した。
 
「ナツキ君は私がひどい人だと思ってるでしょ?
 さっきも言ったけど、私が望んでいるのは
 みんなが平和に学園生活を送れるようにって、
 ただそれだけだよ」

ミウはどこで覚えたのか、僕の腕を両手で抱えてくる。
彼女の吐息が僕の顔にかかる距離だ。
 
「ねえナツキ君。お願い。私が爆破テロを防いだの
 忘れたの? 私がナツキ君たちの命を救ってあげたんだよ?
 少しくらい私のお願いを聞いてくれてもいいでしょ?」

僕の腕が彼女の胸の感触を味わっていた。
こうやってミウが胸を押し付けると、
僕は理性が飛びそうになってしまう。
ブラジャー越しでも柔らかい感触が伝わってきてしまう。

僕はバカだ。
ミウの提案に首を縦に振ってしまったのだから。

ミウはもう一つ規則(校則)を作った。


第19条 (改定) 革命裁判について

一項  スパイ容疑、並びに反乱分子として逮捕された生徒は、
    一週間以内に裁判所へ出頭せねばならない。
    ただし、尋問室で罪を自白した場合はその限りではない。

二項  裁判では、公平な手続きによって罪が確定する。
    裁判は生徒会主導によって実施される。
    弁護人、検察官、証人は生徒会の許可のもとに選出される。
    『生徒会長と副会長』は裁判官としての地位も兼ねる。

実は18条も19条もアキラ会長の時代から存在したが、
細かいところをミウが書き直している。

裁判や取り締まりにミウの権力が及ぶようにして、
彼女の独裁制を意図的に高めている。

「ハンコ押してくれてありがとね。ナツキ君♪」

ほっぺたにキスまでされてしまった。
以前のミウとは本当に別人だ。
フランスの娘みたいに明るくて積極的だ。

会長の判を押すと、直ちに法律として学内で施行される。
彼女が法を作り、執行部が手を下す。
ミウは自らの手を汚さなくても、
好きなように生徒をおもちゃにできる。

ミウ。これが君の望んでいた学園生活なのか……?

あれから一週間が経過した。季節は冬。
12月の第一週、少し早いクリスマスムードに
世間が浮ついているのが分かる。

「ナツキ君。聞いて。私のお兄様が逮捕されたの」

エリカが会長室に泣きついてきたのを今でも覚えている。
こんなに取り乱す彼女を見たのは初めてだったから
僕も同じように気がおかしくなった。

アキラ前会長がどうして……?
彼は第一線を引いたとはいえ、裏で生徒会を
牛耳ることのできる極めて強い独裁者だったはずだ。

まさかミウが?

「尋問はこっちでやっておくから、
 ナツキ君は心配しなくていいからね?」

ミウに笑顔でそう言われ、僕は何も言い返せなかった。
彼女の話によると、アキラ元会長は、
二重スパイだったアナスタシアの実の兄と言うことで
連帯責任(スパイ容疑)がかかり、逮捕状が出されたのだ。

「あなた、なんてことしたの……」

「怖い顔してどうしたのエリカ?」

「どうしたのじゃないわ。お兄様は今どこにいるの?」

「下だよ」

「した……?」

「うん。地下」

アキラさんは、地下の尋問室で監禁され、拷問されたらしい。
彼に罪を自白させるために、手の爪を全部はいでから
ペンチで歯をすべて引き抜いた。それだけで飽き足らず、
天井から逆さづりにして水槽の中に顔を突っ込ませた。

二時間にも及ぶ拷問をしたようだ。

罪人の自白がなければ粛清できない。
ミウは、逮捕できれ誰でも良かったのだ。
現行犯でなくとも、彼女が『気に入らない』と
思った人は全員あの場所へ送られるのだ。

『地下』へ

「あぁ……うわぁぁぁぁ。あなたは悪魔よ。
 この人でなし……。うぅぅぅぅ。ううっ」

エリカが床に座り込んで大泣きしていた。

「お姉ちゃんだけでなく、お兄様まで……うそでしょ……」

ミウは、そんなエリカの様子を黙って見つめていた。
しかし急に何かを思いついたように表情が険しくなった。

「その顔」

「え」

「あんたのその顔。気に入らない」

ミウはエリカの髪の毛をむしるように掴み、
限界まで引っ張り上げた。

「いやぁあぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁあぁぁあぁ。
 やめて。いたぃぃ! 髪が抜けちゃうわ!!」

「なら謝りなさいよ。今私を、化物を見るような目でみたでしょ。
 ああいうの、一番ムカつくの。だから謝って。ほら早く」

「ごめんなさい!! ミウ様ごめんなさい!! 
 もう二度と逆らわないから許してください!!」

ぱっ、と手を離すと、エリカが床に倒れてぐったりとした。
美しい顔が涙と鼻水で濡れている。

これだけの暴力を受けて相手を恨まないわけがない。
エリカが一瞬だけミウをにらもうと顔を上げようとしたが、
すぐに思いとどまったようだ。

「見苦しいところを見せちゃってごめんね、ナツキ君?」

「い、いや。別に」

僕の手はきっと震えていたことだろう。
ミウから発せられる負のオーラに圧倒された。

なぜ、彼女がこんなに冷酷な人間に。
あの橘エリカでさえ一瞬のうちに
屈服してしまうほどの力を持っているのだ。

権力が彼女の横暴を許している。

「ほらほら。エリカもナツキ会長に謝りなさいよ。
 汚い顔と汚い悲鳴を聞かせちゃってごめんなさいって。
 言うこと聞かないと、もっときつめのお仕置きしてあげるけど」

事務的で低い声。おまけに無表情で言うものだから、
エリカを恐怖の底まで追い詰めてしまった。

「う……ミ、ミウ様、どうかお慈悲を」

「許さないよ。許すわけないでしょ。
 それと命乞いとかやめて。笑っちゃうから。
 早くナツキ君に謝りなさい」

「両手の爪の間に針を刺してあげようか?
 最後まで正気を保てればいいけど。
 片方の手だけでみんな発狂しちゃうんだよね」

楽しそうに話すミウに、エリカはついに観念したようだ

「ナツキ君。ごめんなさい。本当にごめんなさい」

「いいよ。顔を上げてくれ」

「ナツキ様ぁ。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

「いいってば、僕は君に恨みはないよ。
 早く教室に帰りなさい。午後の授業があるんだろ?」

「えっ、で、でもミウ様が」

ミウの機嫌を伺うエリカ。以前とは全く立場が逆転してる。
それにしても、ミウ様……か。

「会長のお許しが出て良かったね。エリカ」

一転して笑顔になるミウ。
そうやって笑っていたら誰よりも美しいのに。

「Well… Go back to your class, right now.」
(すぐ自分のクラスに行けば?)

「は……」

急に英語で言われたら誰だってそうなるよな。
ミウが英語を話し始めるのはいつだって唐突だ。

外国育ちの僕でなければ即答できないよ。
もっともエリカの祖先も旧ソ連だけど。

「Damm!!! Hurry up !!! You basterd !!!!!」

この、のろま。早く行けよと言われたようだね。
腹の底から出した怒鳴り声だ。とても女性の声とは思えない。
さすが本場、英国育ち。耳に突き刺さるほどのすごい声量だね。

エリカはすごい速さで会長室を飛び出していった。

あとでエリカに僕から謝っておくか。
彼女だって兄と姉が粛清されて辛いだろうに。

生徒達の悩みや心の痛みを分かってあげるのが
本来の生徒会の役割ではなかったのか。

ミウ。無抵抗の生徒を力で従わせて良心が痛むことはないのか?

ミウを副会長に選んだのは僕だ。責任は僕にある。
なんとかしてミウの暴走を止めないといけない。
だが、会長の僕ですらミウを操作することはできないんだ。

最後に皮肉を込めて英語で言っておくか。

It’s impossible to handle her…

橘エリカ 元女子のクラス委員

~橘エリカの視点~

高野ミウ。あの女は絶対に許さない。
私の太盛君を奪っただけでは飽き足らず、
お兄様と姉さんまで粛清するなんて。

アキラ兄さんは過酷な拷問の末に死んだと
まで言われているそうだけど。あるいは廃人に
なり、ミウのおもちゃとして生かされてるとか。


どこまでが本当なのかは、悔しいけど分からない。
私たち一般生徒は収容所のことを
調べることは規則で禁止されているのだ。

「アナスタシア姉さん……」

私のスマホには姉さんとの楽しい思い出が
たくさん詰まっている。フォトフォルダには
こんなにたくさんの写真が保存されているのよ?

一緒に旅行に行ったり、美味しいものを食べに行ったり、
周りからも仲の良い姉妹だと評判だった。

この学園は、いつのまにか寮が増築されていた。
外見は野球部が使う寮と見分けがつかないけど、中身は収容所。
生徒会は、囚人が寝泊まりできるように新しい収容所を作った。
全部で六棟もある。

それが特別収容所。俗にいう、強制収容所七号室。
七号室と数字の根拠は知らないけど、
噂ではそう言われている。

いったいどれだけ多くの囚人が収容されてるのか
知らないけど、一年生の爆破テロ組は
おおむね収容されたみたい。

あの有名人の斎藤マリエも含まれているそうだけど……。

私の美術部の……元後輩。
だったのだけれど、私に隠れて私の太盛君を
奪おうとしていた泥棒猫。絶対に許されない罪よ。

困ったことに私の姉さんも七号室なのだと風のうわさで聞いた。
けれど本当に姉さんがいるのか怪しいものね。
粛清されたってことは、この世にいないと考えたほうが……。
すでに死体になっているのではないでしょうね。

表向きは寮生活をしていることになっているけど、
世間や親はまるで関心がないかのように、不干渉なのだから不思議。
姉さんは野球部などの運動部になったわけではないから、
寮生活なんて送っているはずないでしょう。

「エリカ様。まもなく時間です。
 全体朝礼の時間に遅れてしまいますわ」

友達にそう言われ、椅子から腰を上げる。
もうこんな時間!?

自分の席で物思いにふけっていたのがいけなかったのね。
朝礼が始まるまで、あと5分しかないじゃない。
私たちのいる棟から体育館までは、それなりの距離がある。

私と友達5人は、駆け足で階段を下る。
淑女らしさには欠けてしまうけど、
なりふり構っていられない事情がある。

この学校では、全校集会を開くには
いくつかの場所があって、
まず今回のように『体育館』他には『講堂』がある。
講堂は体育館より小規模だから、一学年分しか入らない。

もっとも体育館でも全校生徒を
収容できるほどの広さはないのだけど。

「貴様ら。遅刻ギリギリとはどういうことだ。
 ボリシェビキとしての自覚が足らないのではないか」

執行部員さんの目つきが鋭い。
私達は平謝りして、事なきを得た。
彼らに目をつけられたら『尋問室』に連れて
行かれる可能性があるから、血の気が引いた。

仮にだけど……
尋問室に連れて行かれたら、それこそ本当に最後。
罪を告白するまで拷問が続けられる。

何の罪なのか? 答えは簡単よ。
「私は資本主義国のスパイです」と自白するまでね。

私は姉さんから拷問の内容をこっそり教えてもらったことがある。
椅子に縛られた囚人に対し、よってたかって看守たちが殴打を食らわせる。
抜けた歯が飛び、アゴが砕け、顔の輪郭が変形する。
それでも殴るのをやめない。

看守も拳が痛むためか、警棒や木製のバッドを使って、好き放題に殴る。
とある男性の我慢強い囚人は、右の目玉が飛び出るまで
自白をせずに堪えたという。でもね、残酷なことを言うようだけど、
結局は時間の無駄なのよ……。

考えても見て頂戴。屈強な精神力で拷問に耐えても、
その次の日も拷問は続く。普通の人間なら殴られ続けたら死ぬのだけど、
生徒会の奴らは、死ぬ直前のレベルで拷問を止め、次の日に回す。

その夜の苦痛はすごい。もちろん手当なんてしてもらえないから、
出血やアザなど体中の激痛に耐えながら眠れぬ夜を過ごす。
自分はスパイじゃない。けれどスパイと認めなければ、また明日も、
その次の日も永遠に殴打は続く。これで心が折れない人っているのかしら?

……考えたら恐怖で頭の中が真っ白になってしまう。

だめだめ。マイナス思考はダメだと姉さんに何度も教えてもらったのだから。
希望だってあるはずよ。そう。私たちは生徒会に従順な子羊。
主イエスに代わって生徒会がこの世を正しい方向に導いている。

だから従おう。絶対的な権力者に膝を屈する。
これは今に始まったことじゃないのよ。
封建社会でも当たり前に行われていたことじゃない。
だからね。私たちは彼らの靴の底を
なめてまで生き延びないといけない。

権力者……高野みう……

奴のく、靴の底をですって? この私が……。
いいえ……!! 屈辱なんてないはずよ。
私には権力の後ろ盾はもうない。
なにもおかしいことなんて……

「報告によると遅刻者がいるそうですが、
 時間ですのでこれから全体朝礼を開始します」

壇上にいるのはナツキ会長。
ナツキ君……。思えがずいぶん遠い存在になってしまった。

見た目は以前の彼と何も変わらないけど、
今は絶対権力者の証であるバッジを身に着けている。
アキラお兄様から受け継がれた、生徒会長の地位。

「みなさんの前でこうしてお話しするのは、
 会長就任式依頼です。僕、高倉ナツキが
 会長に就任してから初めての全体朝礼となります」

それにしても体育館によくも三学年分入ったものね。
50クラス以上あって生徒総数は3000人以上いるのに。

よく見ると一年だけ人数が少ない。
進学クラスがまるごと収容所送りになったからか。
私たちの学年も2クラス分は粛清されたそうだけど。

それでも体育館は人で密集していて、すごく息苦しい。
みんなが緊張して会長の発言に耳を傾けていて、空気が重すぎる。

「まず、前回の革命記念日前に爆破テロ騒動があり、
 平和を望むみなさん一般生徒たちを不安に陥れた
 ことを謝罪します。ですが安心してください。
 爆破テロ犯たちは全員罪を認め、反省室に入っています」

反省室……? それは冗談で言っているのかしら?
強制収容所のことを生徒会は一貫して反省室と呼称する。

「一年生の一部生徒が犯人でした。進学コースの人達ですね。
 彼らは現在更生中の身ですから、しばらく通常授業には
 出られません。そのことについて皆さんが気にする
 必要はありません。また、詮索する必要もありません」

言い方を変えれば、下手に詮索すれば粛清するってことね。

「これから健全なるみなさんの学園生活をサポートするため、
 新しい学校規則、校則が作られることになりました。
 詳しくは発案者である同士・副会長からお話を聞きましょう」

副会長ってことは……あの女ね。

高野ミウは、壇上の一角に並べられたパイプイスに
腰かけている役員連中の一人だった。

高野ミウは席を立ち、壇上のマイクを手にした。

「まずは画面をご覧ください」

部下に命じてプロジェクターが起動させ、
奴の背後のモニターに巨大な文字が浮かび上がる。

革命裁判……? 会長と副会長が裁判官をかねる?

スパイ容疑について……。スパイと思わしき人は逮捕?
判断基準は、副会長のミウが決める?

なによそれ。奴の独断でスパイが決まってしまうの?
思わしき人って何よ?!? そんなの適当過ぎるでしょ。
この学園の生徒は、たとえ誰であっても副会長の気まぐれで
粛清されるかもしれないの?

信じられないわ。アキラ人さんの時代でもここまで
横暴ではなかったもの。きちんと取り調べして
過去に侵した罪を立証していた。裁判もやった。

それに学校の規則は、ナツキ君と校長の
許可がなければ変更できないはずじゃなかったの?

ナツキ君がミウの横暴を許可した……。
モテるくせに姉さんに付きまとわれて
困っていた優柔不断な彼……。

ボリシェビキなのに、お人よしが過ぎて姉さんから
聖人君子とまで呼ばれていた彼……。

「我が生徒会は、内部に不穏分子がいた場合は容赦なく
 取り調べします。前回の爆破テロ未遂は、私が内部スパイを
 発見できなければ大惨事になっていたことでしょう」

よく言うわよ。姉さんの計画が実行されていれば、
今ごろあんたが粛清されていたことでしょうに。

「私は、今この場ではっきりと前会長である橘アキラ氏を
 批判します。なぜなら彼が管理していた生徒会は、
 生徒を守るための組織としては不十分だったからです。
 彼に生徒会長の資格はなかった。凡俗。ただのクズです」

朝礼中は静粛にする決まりなのに、生徒たちが
ざわついてしまう。体育館の一角に集められている先生方も
互いの顔を見合わせ、小声で話し合っている。

兄さまの悪口を公然と言う女がいるんだから、当然の反応か。

「現在、アキラ氏は自らの意思で反省室に入り、
 更生中の身となりました。当分の間は反省を続けるそうです。
 彼にも彼なりに思うところがあるのでしょう」

そんなでっち上げを誰が信じるのかしら。
嘘つき女。ボリシェビキは口約束は絶対に守らない。
汚い嘘つきばかり。

「このように、我が生徒会は内部の人間すら
 疑わなければならない状態です。
 それほどスパイの脅威は恐ろしいのです。
 もちろん一般の生徒の中に紛れ込んでいる
 スパイに対しては、今後も容赦しません」

ナツキ君とは語尾の強さが違う。
やはり生徒会を陰で操っているのは、この女。
カンだけどね。ナツキ君は奴に操られているだけ。そう思いたい。

高野ミウめ……。どこまでも性根の腐った奴。
最初に殺さないといけないのはあいつじゃない。
私だけじゃなくてみんなそう思っているはずよ。

しかも例の法律は、ミウが粛清できるのは奴の気分次第。
その対象は生徒会の役員ですら例外じゃないと解釈できるんですけど?
まさに現代の暴君ネロ。

あんまり権力を振りかざすと逆効果だって気づかないのかしら。
そう遠くないうちに反ミウ派のメンバーができそう。
奴は、内乱が起きて真っ先に殺されるか、
自殺に追い込まれるタイプにしか思えない。

と、そんなことを考えていたら。
気のせいかしら。壇上のミウと目があった気がした。
不思議と笑っている気がしたけど。

いえ。やはり気のせいよ。
これだけ生徒がひしめき合ってる中で、
私の顔だと判断できるわけが……。

「生徒会・諜報広報委員部は、先月に引き続き、
 今月もスパイ容疑者のリストを作成しています。
 今ここに全校生徒がいますから、
 これから容疑者のクラスと氏名を読み上げていきます」

まさか、この場で逮捕者を出すつもり!?

「名前を呼ばれた人は、壇上まで上がってください」

ミウは終始事務的な声で逮捕者の名を読み上げるのだった。
逮捕されたのは女子が多い。ミウが罪状も言っていく。

どうやらSNSでのやり取りを裏でチェックされたみたい。
バカね。だから家に帰ってからも生徒会の話は
するなって言ったのに。もちろん家族との会話でも
生徒会の話をするのはNG。

特に収容所のことを世間に話すのは
絶対にやめたほうがいい。

「二年一組。橘エリカさん」

え……? 今私の名前が呼ばれた気が……。ま、まさか。

「罪状。スパイ容疑」

私がスパイ?

「二重スパイとして逮捕された橘アナスタシアの妹。
 橘アキラ史の妹。連帯責任が発生。取り調べの必要有り」

ふっと目の前が真っ暗になる。
指先が震え、足を踏み出すごとに体がふらつく。
たった5段の階段を上るのが、こんなにも辛いなんて。

確かに私はアナスタシアの実の妹。そしてアキラ兄さんの妹。
家族だからって理由だけで、連帯責任でスパイ容疑がかかるの? 

「事実確認をさせてください」

高野……ミウ様が品よく腕組をする。
射貫くような鋭い視線だ。壇上には容疑者たちが9人横並びする。
信じたくないけれど、私はそのうちの一人なのだ。

「エリカさんは、アナスタシアさんの爆破テロ計画に
 協力するスパイ行為を事件前に知っていたのではないですか?
 また、そのような話をお姉さんとされたことはありますか?」

私は確かに姉さんの計画を知っていたけど、
実務には関わっていない。

私は危険すぎるからと、姉さんを説得したこともあった。
でも姉さんは計画に乗り気で聞く耳持たず。

アキラ兄さんは怖くて苦手だったから、
そもそも家で話すこと自体、めったになかった。
だから計画について話したことはない。

私はその通りのことをミウ様に伝えた。

「あくまでしらを切りますか。
 それならこちらにも考えがります」

え?

「朝礼終了後に尋問室に来てください。
 もっと詳しく聞かないと真実が
 得られそうにありませんから」

ミウ様は、私の隣にいる男子にも事実確認をした。
彼は一年生。逮捕された進学クラスの女子と
付き合っていたみたい。それで連帯責任か。

「私は自らの罪を認めます。私は確かに
 スパイ行為をしてしまいました。副会長様。
 どのような罰でもお受けするつもりでございます」

芝居がかった口調。腹の内では目の前の女を
絞め殺したいと思っているんでしょうに。
彼みたいに自白すれば罪が軽くなるのかしら?

「へえ。君は、素直な子なんだ」

ミウが楽しそうに言う。

「気に入ったよ。それじゃあ六号室に行こっか」

「は……じ、自分はその……」

「いいじゃない。六号室。作ったばかりだから
 ぴかぴかの教室だよ? それに特別な部屋だから
 そんなに人数もいないよ。どうかなって」

「よ、よよよ。喜んで行かせていただきます」

「そうだよね。うれしいよね?
 うんうん。うれしいんだよね?
 ねえ。うれしいよね?」

「うれしいです!! もう、なんていうか、
 本当にすごくうれしいです!! ミウ様!!」

「あはは。あなた、本当に楽しい子だね。
 褒美に手荒な真似をしないよう部下に命じておくよ」

「あぁ、ああ…。ああ、ありがとうございます!!
 
「よしよし。素直な子は大好きだからね」

ミウは一年生の頭を撫でている。
この動作に何の意味があるかしら?
うちのクラスで太盛君にも同じことをしていたのを思い出す。

恐怖で固まってる男の頭をなでるのが趣味なのかしら。
ミウの見下ろす目は冷たい。
その瞳は明らかに人以下の下等生物を映している。

ミウは同じように他の容疑者たちに質問していった。
私以外の人は全員があっさりと罪を認めたのだった。
なによこれ。罪を認めれば減刑されるの?
私だけがバカみたいじゃない。

「以上で全体朝礼を終わります。生徒会役員と
 一部の教員だけはここに残ってください。
 その他の人は、解散です」

解散しろと言われたら、みんな出ていくしかないわね。
ぞろぞろと生徒達が出入り口に殺到していく。
混んでる割には意外なほどスムーズに人数が減っていく。

私以外の容疑者は手錠をされて収容所へ連行されたわ。
表向きは任意同行。だったらどうして手錠を?

私も手錠をされたわ。こんなに冷たくて硬いのね。

「エリカはこっちに来てね」

「はい?」

ミウが体育館の裏に私を連れて行こうとしている。
あの幕の裏には、まさか尋問室があるの?

い、いやよ。

誰が拷問されると分かっているのに行くものですか。
誰か……た、助けて。先生。ナツキ君。太盛君。

「おーい。頼む。待ってくれ!!」

その声は……。

「はぁはぁ……お願いだミウ。
 少しでいい。俺の話を聞いてくれ」

「太盛君は壇上まで上がってきたらダメだよ。
 役員以外は上がったらいけない決まりなの。
 そんなに息を切らせてどうしたの?
 あっ。もしかして生徒会役員になりたいの?」

「俺は……エリカは事件と無関係だと思う。
 アナスタシアのスパイ行為に関わってないよ」

ミウは、必死で私を守ろうとしてくれる優しい彼に対し、

「ふーん」

と言ったわ。ミウがマジギレする時は無表情になるのよね。
私は同じクラスだからよく知っている。

「太盛君。私ね。太盛君の言うことは
 何でも理解してあげたいと思ってるんだけど、
 今のはちょっと意味不明かな」

口元以外は全く笑ってないから余計に怖い。
すさまじい殺気に耐えられないのか、
太盛君は血の気が引くのを劣り越して
唇の色が紫っぽくなっている。

様子を見守っているナツキ君
ですら萎縮(いしゅく)して声をかけられない。

他の役員連中なんて初めからミウに
逆らうつもりがなくて距離を取っている。

「お、俺だってエリカの全てが好きなわけじゃない。
 でも同じクラスの仲間じゃないか。俺とは
 美術部員で楽しくやっていたこともあるし……
 その、なんていうか」

ミウにこれだけものを言えるのは太盛君だけでしょうね。

私は彼に嫌われてない。むしろ逆。守ってくれている。
彼はロシア人のように腕を大きく上げながら私の助命を懇願している。
それが素直にうれしい。
夏休みに別荘で彼をもてなしたのは無駄じゃなかったんだ。

太盛君の主張は永遠と続いた。
要約すると「エリカは悪くない」の一点張り。

そんな彼に対しミウは、

「あっそう。そうなんだ。へえ」

と切れながら相槌を打つ。

自分以外の女をかばおうとする彼がよほど
気に入らなかったようで

マイクを床に叩きつけた。
鈍い音がしてマイクが転がり、やがて止まる。

次に容疑者一覧の名簿を複数枚まとめ、
怪力でビリビリ破いている。荒れてる荒れてる。
男にモテないヒステリー女。

「あっれぇ? おっかしいなぁ。私の記憶違いかなぁ。
 太盛君はエリカのこと嫌いだったんだよね? 
 一緒にいると疲れるんじゃなかったのぉ?」

「確かにそう思った時期もあったかなって……。だけどさ。 
 じ、尋問するのは、ちょっとかわいそうじゃないか?」

「エリカにはスパイ容疑がかかっているんだよ?
 太盛君はさっきの規則の説明を聞いてなかったの?」

「理屈じゃないんだ。お願いします。
 俺からの一生のお願いだ。
 今回だけはエリカを救ってあげてください」

太盛君……。土下座してまで私を救おうと……。
こんなに心の優しい人を見たことがないわ。

副会長に逆らったら自分が拷問されるかもしれないのに。
彼はさらに、なんなら自分が代わりに罰を受けるとまで言った。

運命を感じる!!

こんな危機的な状況だけれど、
今この瞬間に私には彼しかいないって確信したわ。
神様は私にこの人と婚約しなさいって命じている!!
たとえ死にゆく運命だとしても!!

「太盛君。みんなの前だから土下座はやめなさい」

ナツキ会長が優しく言う。
そういうナツキ君も紳士じゃない。
この一言だけでミウとは人徳が違うのが分かってしまう。

ナツキ君が太盛君の肩をぽんぽんと叩くけど、
太盛君はずっと顔を床にこすりつけている。
どれだけ硬い意志なのよ。
うれしいけど、ナツキ会長がやめていいって言ってるのにね。

あっ。ミウがこっちをみ…

「いたっ!!」

この暴力女。急に私のすねを蹴ってきた。

「動くな。抵抗したりガードしたら拷問する」

なっ……。

「うっ」

お腹に膝がめり込んだ。
お腹を抱えてうずくまる私を、ミウは好きなように
蹴り続ける。私はサッカーボールじゃないのよ!!

私は家庭の事情でソ連式の訓練を受けているとはいえ、
不意打ちはやっぱり痛い。奴の動きを冷静に観察すると
完全に素人。反撃する機会はいくらでもあるのだけれど、
今は耐えるしかない。

「まあまあ。押さえて押さえて」

ナツキ君がミウを止めにかかるわ。
奴の狂暴な拳を彼が包み込むように握っている。

ミウは息が荒く、目を見開いている。
この女、よく見たら八重歯なのね。悪役にピッタリじゃない。

こっちだってにらみ返してやりたいけど我慢する。
私をかばってくれたのは太盛君なのに、
私に八つ当たりするなんて最低。

どうせ太盛君に嫌われたくないからでしょ。
残念でした。太盛君はあんたのことなんて眼中にないわよ。

起き上がろうとするとわき腹に鈍い痛みが。
にらみたくなるけど我慢。
本当にムカつく女だわ。高野ミウ。

「会長権限だ。今回のスパイ容疑は見逃してあげよう」

ナツキ君……。

「橘エリカさんはすぐに自分のクラスに戻りなさい。
 そこでうずくまっている堀太盛君も同様だ。
 もたもたするな。すぐに行動に移せ」

ナツキ君の瞳が、早く逃げろと言っている。
ありがとう。私は太盛君が出ていくのを見てから、
追いかけるようにして立ち去る。

役員たちは革命裁判についての会議が
あるらしくて、引き続き体育館を使用するそうだ。

なんで生徒会室じゃなくて体育館で話し合うのかしら。
これはあとで分かったことなんだけど、体育館を
革命裁判所として使うつもりらしい。

突っ込みどころ満載だけれど、
あいつらの考えは意味不明だから深く考えたら負けね。

私は速足で渡り廊下を歩いてる太盛君に追いついた。
気持ちを抑えきれなくて、後ろから彼に抱き着いてしまう。
私は彼の背中にぴったりとついて離れるつもりはなかった。

「エリカも分かってるとは思うが、今の状態が
 生徒会の皆さんにばれたら俺たちは極刑だ」

「それでもいい。私は心から太盛君のことを愛してるの。
 もう他の誰もいらない。
 太盛君と一緒に死ぬならそれでもいい」

今、他のクラスは一時間目の授業の最中。
渡り廊下は静寂に包まれている。

「そう言ってくれるだけで救われた気持ちになるよ。
 俺はあの収容所で心がすさんでしまった……。
 何もかも怖くて、誰も信じられなくて……」

「俺は元三号室の囚人だった。学園の犠牲者の一人だった。
 だからだろうか。これ以上の犠牲を出したくなかった。
 エリカ……。おまえが傷つけられるのを知ってて、
 黙って見ていることができなくなったんだ」

太盛君がしゃがみこんだ。
頭を抱えてそれきり動かない。
肩は小刻みに震え、泣いているのかと覗き込むと、
顔に生気がなくて瞳は虚空を見つめている。

どうやら現実に脅えているようだった。

「太盛君」

赤ちゃんに接するように彼の背中を抱き寄せた。
私を救おうとした結果、強大な権力への
反逆になってしまった。
あの短い時間で、どれだけの恐怖と戦ったのか。

太盛君は正義の人。
私はあなたに着いて行くと決めた。

「君たち」

と背中に声を掛けられ、血の気が引く。
どうやら先生のようだった。

「二人は二年生の生徒だろう? 
 授業はとっくに始まっているよ。
 早く自分の教室に行きなさい」

「はい。すみません。先生」

私は太盛君の手を取って早足でその場を去った。

見たことのない男性の先生だったから、
きっと一年生の担当なのね。私達がいる渡り廊下は、
一年生と二年生の棟の中間点。
ここを通り過ぎたすぐ先に、私達二年一組の教室がある。

学校が広すぎて体育館から自分のクラスに戻るだけでも
大移動のレベル。四階にクラスがある芸術コースの人達は
毎日足腰が鍛えられるでしょうね。

「エリカ。手をつないでくれてありがとう。
 ここから先は離れて歩こうか。
 クラスの奴らに見られたらまずい」

私はうなずいた。

太盛君。またあなたの隣に寄り添える日が来るのかしら。
明日の身も分からないこの学園での生活は刑務所と同じ。

でも神様は言ったわ。明日のことまで思い悩むことはないと。
私は粛清された兄さまと姉さまの分まで精いっぱい生きる。

太盛君と三学年に進級して、無事に卒業する、
それだけが、私の今の望み。

斎藤マリエ 強制収容所七号室の囚人

※斎藤マリエの視点

「班ごとに点呼を取れ」

私達は朝5時半が起床時間です。

寒い寒い。支給された防寒着がなければ凍えているよ。

寮を兼ねた七号室では、起床と同時に
外の校庭に整列させられ、点呼を取ります。

「いちっ」「にっ」「さんっ」「よんっ」「ごっ」「ろくっ」
「第三班。班員全員揃いました」

左から右へと、順番が呼ばれていきます。
私達は横一列に並んでいます。
もちろん班ごとにです。

まず「1番」の人が番号を言ったら、
顔を横に向ける。次の番号の人へね。
「2番」の人も同じようにして、
次の番号の人へ顔を向ける。

これを繰り返して、1から6までの数字を言っていくの。
テレビで警察とか消防隊がやってるのを見たことが
ある人いると思うけど、まさにそんな感じ。

「おい、第四班。一人足りないとはどういうことだ!?」

執行部員さんの激が飛んでいます。男性の方です。
昨夜のうちに脱走者が出たみたいですね。

ここにいるのは女子寮のメンバーですが、
執行部員さんには男子も含まれています。
基本的には生徒会から派遣されている人は女性中心ですが、
反逆された時に困るので男手が必要なのでしょう。

「逃げた痕跡がないか、部屋に戻って調べろ。
 何でもいいから証拠を探せ。さもないと
 奴を逃がした連帯責任で貴様らも二号室行きだ!!」

二号室……。そこは最も恐ろしい収容所として
知られている。すでに80人以上が粛清されたとして
有名な場所です。

第四班の人達は顔面蒼白になって部屋に戻って行きました。
逃げた痕跡を探すと言っても、
脱走者は絶対誰にも打ち明けずに逃げたに決まってるのに。

第四班は、私たちの班の隣の部屋で寝泊まりしてるから、
かなり気まずいな。私達にまで疑われたら困ります。

「その他の班は、食堂に集合。まもなく朝食の時間である」

食道は一か所にしかないの。わざわざ専用の棟を作ってくれて、
その場所で食材の仕入れ、調理、食事ができる、大食堂。
大学の食堂がこんな感じなのかしら。

私の所属は、強制収容所七号室、第二棟、第三班。
囚人番号、202番(番号の根拠は分かりません)

長いけど、今では空で言えるようになりました。
執行部員さんに質問された時に
これが言えないと拳が飛んでくるから必死なの。

ちなみに囚人番号とはなんでしょう?
正解は私たちのここでの名前です。

私たちは重犯罪者として収容されたので、
氏名が没収されました。
いわゆる人権剥奪(はくだつ)というわけです。

私は一年の7月から拷問を経験しているので、
特別不思議に思っていません。
生きていれば一回くらい人権が奪われる時くらいありますよね?
たぶん、よその高校でも収容所とか有るんでしょ?

……え? 私の感覚狂っていますか?

「みなさん。席に着きましたか? これより食事を始めます」

「出されたものは残さず食べましょう」

食事の号令を取るのは女性の方(執行部)たちです。

どこに残す要素があるのでしょうか。
大盛の白米と具がたっぷり入ったみそ汁、漬物だけの
食事は質素そのもの。でも食べ物があるだけましです。

私は中学の時に修学旅行で広島の原爆ドームに行きました。
あの人たちの悲惨さに比べたら、なんともありません。

隣の席の人との会話もなく、もくもくと食べるだけです。
最近ブラジャーが緩くなった気がする。
痩せたのかな。

「本日は快晴。素晴らしきスポーツ日和である。
 女子の囚人たちはバラックごとに校庭に集合」

久しぶりに日中の日差しを見たわ。
少し風が強まって肌を刺すけど、雲がなくて日差しは強い。

ここではカレンダーがないから日付が分からないけど、
この風の冷たさは12月の上旬くらいなのかな? 

……スマホを使えばいいって? 
スマホはとっくに没収されています。

固定電話やPCもないので、収容所では
外部と連絡する手段がありません。

「Aチーム。第一バラックから代表を選べ。
 Bチームは第二バラックから。
 本日はこの両チームでの試合とする」

競技は野球です。女子なのにソフトではなく野球。
いわゆる女子野球と呼ばれるスポーツです。
ただ女子だけでやる野球のことなんですけどね。

バラックと言うのは、棟のことです。
私は第二棟なので、第二バラック。
どうして生徒会の皆さんはバラックと呼ぶのかしら。

「きさまら、早く歩け。ダラダラしてる者は指導対象だ!!」

「ダバーイ。ダバーイ、ヤポンスキぃー」
(おら、急げよ日本人)

日本語と露語が飛ぶのは、収容所では日常です。

私たちより先にスポーツをやっていた男子達と
入れ替わりで女子がグラウンドに集合する。

あっ、男子の群れの中に昔同じクラスだった人がいる。
サッカー部のカッコいい人もいる。背が高いから目立つわ。
でも囚人の身だから覇気がなくて自殺しそうな顔してる。

実は彼のことも少し気になっていたけど、今私が
一番会いたいのは太盛先輩。先輩……。先輩の顔が
もう一度だけ見てみたい。会って話がしてみたい。
どんなくだらないことでもいいから。

「推薦と投票によってメンバーを決める」

打席順に、一番、二番、三番と名前が呼ばれていく。
収容所ではメンバーを決める時は、集団投票によって行われるの。
生徒会の皆さんは民主的な方法を好むから。

あらかじめ渡されていた紙に、メンバーになってほしい人を
書いておくの。それを代表(これも投票で決まる)が集計して、
適当に打順を組んでスタメンを作る。

「四番。囚人番号202。旧氏名は斎藤マリエ」

私か……。基本的に人気のある人か目立つ人が
四番に選ばれるからな。

私ってアイドルとか呼ばれることがあるけど、
今になって本当にそう思う。自分で言うと調子に乗ってると
思われるかな。自慢じゃないけど、男子の執行部員さんから
収容所の夕食に誘われたこともある。

旧氏名とは、すでに実名を名乗る権利が失われているからよ。

「試合開始前に、本日は恐れ多くも同士・生徒会副会長殿が
 お見えである。同士・ミウはご学友をお連れとのことだから、
 決して粗相のないように」

10人以上いる執行部員さんたちまで緊張している。
副会長ってことは、……あの人が来るのか。

私達のバラックには会長と副会長など生徒会の
中枢メンバーの肖像画が飾られているわ。

ミウは、用意されていた『お立ち台』に上がり、
班ごとに整列している私たちを見下ろしてる。
私達は全員ジャージ姿。
奴も私たちに合わせたのか、ジャージだ。

寒すぎだよ。
長くて無駄な話を聞かせるなら、
せめて防寒を着させて。

「Morning, everybody? it is windy but day.」

「well…let me show you why todays game is important.
we have to unite and organize by One party,
and one thought of communism of USSR.
sports game is best way to be a tough person
for all student here.」

あのクソ女。なんで英語の挨拶なんだよ。
こんな時でも帰国子女を気取るつもりなの。

「……失礼しました。とっさに英語が出てしまうのは
 私の悪い癖だと自覚しています」

だったら最初から日本語で話せ。くたばれクズ。

「一年生の皆さんには定期的にスポーツをして
 健康な体作りをしてもらっています。
 皆さんから悪の心が一日でも早く消え去ることを
 祈っています」

「そしていつかは健全なる一般生徒として、
 学業に復帰し、将来は社会の役に立つ、
 立派なボリシェビキとなってほしいのです」

なにがボリシェビキだ。ソ連風に解釈すると
強硬派の共産主義者のことじゃない。
政治思想は極左。ウラジーミル・レーニン率いる革命勢力。
国家を転覆させるための革命を是正とする殺人集団。

「本日の女子野球は私も観戦させていただきます。
 みなさん、手を抜くことなく精いっぱい汗を流してください。
 そして挨拶ですが、私の学友からもお言葉を
 いただきましょう。では堀太盛さん。どうぞ」

ほり……せまる……? まさか……?

緊張した面持ちで台へ上がるのは、
間違いなく太盛先輩だった。

ミウの大勢の護衛に囲まれていたから、
そこにいたのに気付かなかったよ。
ミウが移動する時は天皇陛下並みの護衛がついてるもの。

「あー。あー。マイク入ってますよね?」

本当なら笑うところだけど、私たちは囚人だから
下手なことをしたら指導対象になる。みんな静かにしていた。

指導とは、口頭でのお説教から軽い体罰程度のもの。
この学園での罰としては一番軽いものだね。

「一年生の皆さん。僕はミウの友達として
 紹介されました堀と言います。
 クラスは二年一組でミウと同じクラスです」

私は知ってるけどね。他の囚人たちが驚いてるのが分かる。
ミウを呼び捨てにできるのはたぶん太盛先輩くらいか。

「皆さんの苦労は分かりますよ。僕もつい最近まで
 反省室(強制収容所3号室)の人間でした。品行方正な
 生活を心掛けた結果、ミウの恩情によって解放され、
 今では元のクラスで元気に学生生活を送っています」

「反省室での生活は、今ではかけがえのない思い出に
 なっています。僕は、今までいかに西側諸国の思想に
 侵され、堕落した人生を送っていたかを気づかされました」

「一日でも早く立派なボリシェビキとなり、
 大人になったらマルクス・レーニン主義を
 世界に広めるべく、頑張っていこうと思っています」

「ボリシェビキに必要なのは、知力体力気力。
 そして絶対的理性による勝利です。
 人類を次のステップに導くために必要なものです」

私たちは収容所生活で飽きるほど社会主義の
勉強をさせられた。かつて米国につぐ大国のソビエトが
実現しかけた夢はたくさんあったの。

正式名称は 『ソビエト社会主義 共和国連邦』
20を超える共和国を有する、史上最大規模の
国土面積を誇る超大国だった。

ソ連は『資本家や特権階級』(ブルジョア)の存在を許さない。
労働者と農民のための国家。
軍隊は赤軍と呼ぶ。別名はソビエト労農赤軍。

民間企業の廃止。全ての企業の国営化。
ノルマ式労働。残業は基本的になし。

計画経済の導入。市場経済の廃止。
一国社会主義。共産党一党独裁。

司法権。立法権。行政権。
全ての公権力をソビエト(評議会)に集中。

差別、階級闘争の廃止。
そのため国家の最高権力者も議長や書記長と呼ばれる。

人種国籍の廃止。全ての人民はソビエトの人民となる。
ソビエトとは評議会の意味であり、
国名が宗教でも地名でもない史上最初の国家である。

都市部の国民は共同アパートへの入居可。
家賃がなく、医療などの社会保障費は無償。

農業の集団化。全ての土地は国の財産。
個人の大土地所有は不可。地主や富農の廃止。

国内の治安維持のために、反革命主義者を収容所へ。
秘密警察、国家保安部(KGB)が容疑者を摘発。

ユーラシアにまたがる広大な国土に無数の収容所が存在。
最盛期は強制収容所の囚人の労働が、『GDPの10%』に達する。
ソ連崩壊までに粛清された人口はおよそ『1億人』

国防では弾道ミサイルを中心とした
『戦略ロケット軍』を中心に陸海空軍を配備。

隣国の北朝鮮は、ソ連の戦略ロケット軍を
模倣(もほう)して、膨大なミサイル戦力を持ってるの。
あと世界第三位の保有量を誇る生物化学兵器が怖い。

最近はサイバーテロで韓国国内に
停電を起こそうと考えてるみたい。
どこまでも腐った国だよ。

「反資本主義。反帝国主義が我々のスローガン。
 国民を団結させ、内外からの脅威から守るためには
 多少の粛清も必要となりますが、必要悪だと思ってください。
 我々が最も憎んでいるのは、内部に潜むスパイです」

私たちがまさにスパイとして逮捕されたのだけど。
スパイというか爆破テロ未遂犯か。

それにしても太盛先輩は、ミウから渡された紙の内容を
口にしてるだけじゃない。専門的な単語を噛まずによくスラスラ
言えるわ。太盛先輩が無理やり読まされているのが見てわかる。

「みなさんはまだ若い。一度悪事に身を染めたとしても、
 更生する機会は十分に与えられているのです。
 生徒会の人々の寛大さには、本当に頭がさが…」

太盛先輩が私を見た……?
彼が途中で紙から目を離して囚人一同を見渡したからかな。

私は自分で言うのもあれだけど髪が亜麻色で
目立つから、太盛先輩がすぐに気づいてくれたのかも。

「頭がさがり……ます……よね。ほんとう……」

先輩……?

「だ。……だからこそ……ぼくたち……ぼくたち……
 ぼくたちは……。ぼくたちはぁ」

嗚咽が聞こえる。それに紙を持つ手が震えてる。
この衆人環視の中で泣くなんてどうしちゃったの。

執行部員さんたちと護衛さんたちが仰天してる。
少し面白い光景だけど、笑ったら殺される。

「ちょっと太盛君……?」

ミウが壇上に上がり、泣き崩れてしまった太盛君の
肩に手を触れている。太盛先輩はカメのように丸くなって
ただ震えていた。嗚咽がうるさくてこっちにまで聞こえるほど。

太盛先輩は、ミウに「みっともないからしっかりして」
と言われ、腕を持ち上げられて無理やり立たされた。

その際。彼は

小さな声で「マリー……」と言ったみたい。
聞こえたわけではないけど、唇の動きで察したの。
私は失語症になってから唇の動きに敏感になったから。

「マリー?」

ミウの顔から表情が失われた。

そして私を見て来た。
ミウは台から降りてまっすぐに私の方へ向かってきた。

うそ……? 来ないでよ。

私の近くにいた囚人たちは速やかに場所を開けた。
列の中でそこだけがぽっかりと空いた感じ。
モーセの十戒で海が割れた状態がこんな感じなのかな。

ミウは私の胸ぐらをつかみ、
低い声で「あんたのせいね」と言った。

私は恐怖のあまり何も答えられませんでした。
すごい力なのでジャージが伸びてしまいそう。
それに鬼のような顔してる。これが高校生の顔なの?

「こら。何か言ってみなさい」

何を言えっていうの? 苦しい。
胸元をそんなに力強くひっぱらないで。

「囚人番号202。太盛君はあんたのことを意識したせいで
 挨拶を読み間違えた。彼は今日の挨拶をするために
 一時間も練習したの。この責任をどう取るつもりなの?」

なんで私だけが悪いことになるの。
太盛先輩が私を気にせず話せばよかったでしょ。

もしこいつが副会長じゃなかったら、
今すぐ殺してやるのに。あっ。だめだ。
こんなことを考えてたら表情でばれる。

「はい。反抗的な顔したね。尋問決定」

尋問は、指導の一歩上。スパイ容疑者などに対する、
自白を強要するために拷問すること。実はもう一つあって、
ただ楽しみのために拷問することもある。

私の場合は後者か。
ああ……せっかく太盛先輩の顔が見れたのに。

今回は殺されるのかな。実は覚悟はできてるけど。

生きている間に太盛先輩に再開する夢はかなった。
会話はできなかったけど、天国で再開すればいいか。

「私は優しいから、最後に言いたいことがあったら
 何でも聞いてあげる。さあさあ。
 尋問室に行く前に遠慮なくどうぞ」

何を言えばいいのか分からない。
唯一言いたいことは
『今すぐ自殺して地獄に落ちろ』だけ。
本当にそれしか望んでない。

この女が死ねば学園はもう少し平和になる。
たぶん学園中の人があんたの死を願っている。

「なにもないようだね。
 それじゃあ手錠するから動かないでね?」

私は観念して目を閉じ、両手を差し出した。

仕方ないんだよ。これが運命なんだから。

10秒くらい待ったけど、まだ手錠の感触がない。
どうしたの?

「ミウッ!!」

太盛先輩の怒号の後、乾いた音が聞こえた。

まさか……?

ミウは自分の頬を押さえて呆然としてる。
太盛先輩はミウにビンタでもしたのだろうか。
状況的に考えてそれしか思い浮かばない。

あまりの事態に全員に緊張が走り、修羅場と化した。

これは『反逆罪』に該当すると思う。

最高に罪が重い。逆さずりにされて水を満載したバケツの中に
顔を突っ込む。電気椅子で死なない程度に13時間連続で
弱い電流を流される。それらの刑罰が課される。

護衛の人が太盛君を殴ろうとしたけど、ミウに止められた。
ミウは「彼に手を出したら反逆罪とします」とまで言った。
ここまで言われたら、護衛も執行部も何もできない。

「濡れタオルを持ってきてちょうだい。
 あざになるといけないから」

執行部の女子が大急ぎで水道まで行き、
ハンカチを濡らして戻って来た。

ミウはハンカチで頬を押さえながら言った。

「太盛君。今のは何のつもりだったの?
 私をぶつなんてひどいよ」

口調だけは軽いけど、怒りで目の焦点が会ってない。
プライドの高いこいつは人に殴られたら
永遠に根に持つだろうね。

「君のことを私の学友と紹介したばかりなのに。
 まるで普段から喧嘩ばかりしてるのかと
 勘違いされちゃうよ」

「そういうの、よくないよね? 
 私は太盛君の前で偉ぶる趣味はないけど、
 一応副会長なのは分かってほしいかな」

バカじゃないの。すでに十分威張ってるよ。

「さっきのは特別になかったことにしてあげるから、
 次からはこういうことがないように、目の前で
 宣誓してもらおうかな。それでチャラね」

「待ってくれ。その前に」

「ん?」

「俺の挨拶の読み間違えの件を訂正してくれ」

「は? 読み間違え?」 

「さ……さっき挨拶を読み間違えたのは、俺のせいだ。
 そ、そそ……そこにいる一年生は関係ない。
 俺のせいなんだから。おおお、俺が罰を受ける!!」

歯をガチガチ言わせながら必死にしゃべっている。

ミウは、チャラにすると言った。
副会長を暴行して無罪になるなんてまずありえない。
たとえ彼氏だったとしてもね。
先輩は生き延びる千載一遇のチャンスを逃した。

太盛先輩は宣誓しないどころか、口答えした。
抗命は、反逆罪と同じだよ。

私は生徒会をよく研究してるから、
規則には誰よりも詳しい自信がある。

太盛先輩。そんな怖い思いをしてまで
私をかばってくれるなんてうれしい。
それだけで死ぬ準備ができてしまう。

「同士・副会長殿。太盛先輩の挨拶を妨害したのは私です。
 私が彼をじろじろと見つめたため、
 先輩の集中力が削がれてしまったのです」

全員の視線が私に集中した。こんなこと言ったら当然だよね。
でもこう言わないと太盛先輩が処罰されちゃう。

「違う!! 悪いのはこの俺だ!! さあ執行部員。
 遠慮なく俺を尋問室へ連れて行けよ!!
 おら、どうした? ビビってんじゃねえ!!」

「いいえ。私は自分の意思で尋問室へ行きます。
 早く私の手に手錠をしてください」

「おい生徒会のクソ野郎ども!! 今俺は暴言を吐いたぞ!!
 反革命容疑で極刑確定だな!? 早く連行しろよ!!」

「副会長殿に反逆したのは私だけです。
 私だけを連行してください。お願います」

「一年生の女子までおまえらは手にかけるのか? 
 ああ!? 恥ずかしくねえのか!! 
 どいつもこいつもかかってこいよ!!」

「先輩は今気がおかしくなっているから、
 彼のしゃべってる内容は本心ではありません」

ミウは拳を握り震えてる。
ガチで切れてるようね。

自分の指を口元へ持っていき、
血が出るまで噛んでいる。

その様子を護衛たちはドン引きしながら見守っていた。
吠えまくる太盛先輩を止めたいだろうけど、
ミウから何もするなと言われてるからね。

「少し黙りなよ」

ミウが言う。

私は口を閉じたけど、太盛先輩はまださわいでいる。

「静かにして!!」

太盛先輩はついに沈黙した。

ミウはもっと怒鳴りたいだろうけど、
大衆の前ではしたないと思ったのか、冷静さを装っている。

「みなな。騒がせちゃってごめんね?
 これから太盛君と囚人202を指導します。
 一年の囚人は邪魔だからバラックに帰ってくれる?
 できれば今すぐに」

囚人たちは蜘蛛の子を散らすように一瞬でいなくなった。
うん。誰だってこんな修羅場にいたくないよね。

執行部員も全員戻され、残ったのはミウ。太盛先輩と私。
たった5人の護衛だけ。あれだけ人数がいたのがうそのよう。

『指導』は、尋問の一歩手前。主に口頭でのお説教。
たまに暴行されることもあるけど、拷問よりはまし。

12月で外は寒いけど日差しは結構強い。

結局試合は中止か。
立派なスコアボードがむなしく立っている。
4番はプレッシャーが大きいけど、
運動自体は楽しみにしてたのに。

木が風で揺れている。
ここまでくると強風ね。
お日様の位置からして正午が近いのかな。

「ここじゃ寒いか」

ジャージ姿のミウが言う。
私だって早く収容所へ帰りたいよ。
あそこは暖房があるもの。

「Come with us. will you?」

手でこっちに来いとジェスチャーして言った。
また英語。死んでよ腐れ英国女。
英国人がみんなこいつみたいだったら最悪だよね。

私たちはおとなしくミウに着いて行った。
護衛は私たちのさらに後ろから遅れてくる。

ミウが後ろを振り返る様子がないから、
少しだけ太盛さんに近づいて歩いた。
太盛さんは、一瞬だけこっちを見て優しく笑った。

うれしい!! 彼の笑顔が見れた!!

今すぐ手をつなぎたい。ハグしてほしい。

現実でやったら殺されるから、妄想だけして我慢。

生徒会の部屋がある棟はB棟。二学年の棟だ。
私は久しぶりに学校の校舎に戻って来た。
一時的とはいえ、うれしくないわけがない。

B棟の四階の一角に、副会長の私的な部屋があるという。
昔に音楽準備室として使われていた場所を
ミウ専用の部屋として改装したそうなの。

実務用の副会長室は別に用意されているけど、
こっちはプライベートルームとなっているみたい。

「Come in my room. two of you」

中に入れってことね。なんでこいつは英語話すの。

「2人とも座っていいよ。お茶は私が淹れてあげる」

指導と言っていた割にはお客様対応ね。
きっと本気で指導するつもりはないのね。
太盛先輩相手だから当然か。

遠慮なく高級リクライニングチェアに腰かけた太盛先輩。
私も近くに座る。たぶん怒られないよね?

この部屋は無駄にイスの数が多かった。
長椅子、ソファ、背あてのメッシュが特徴の事務用のイス。
キチガイ副会長はイスマニア?

私は悪いと思ったので事務用のイスに座った。
テーブルは大きいけど、一つしかない。
白を基調とした、フランス人が好みそうなお洒落なデザイン。

三人分の紅茶が用意された。

太盛先輩はすぐに飲み始めるけど、
私は囚人だから遠慮してしまう。

「Hey,prisoner. Why don’t you have it?」

そう言われたので飲むしかない。
私は猫舌なので口に含む程度にね。あつっ。

「私は太盛君に謝らないといけないね」

いきなりそんなことを言われ、太盛先輩は
ティーカップを持ったまま止まった。

「今日の太盛君はちょっと変だったもの。
 私がスピーチなんて頼んだのがいけなかったんだ。
 いくら囚人の前でも緊張しちゃうよね。
 私は短気だからつい怒鳴っちゃった」

「い、いや。俺もついカッとなって」

「ううん。悪いのは私だよ。でもね、太盛君。
 他の人への示しがあるから、大勢の人の前で
 生徒会の悪口を言うのはやめてほしいかなって」

「ごめん。あれはやり過ぎたと思ってる」

「頭下げなくていいよ。私と太盛君は恋人同士でしょ?
 これからも仲良くやっていきたいと思ってるからさ」

どうぞ。とミウがクッキーをすすめた。
太盛先輩は遠慮なく手を伸ばす。
先輩は甘いもの大好きだものね。
本当は私がクッキーを作ってあげたいくらいだよ。

「ねえ。太盛君にとってさ」

声のトーンが下がった。

「そこにいる囚人って結構大切な存在だったりする?」

囚人呼ばわりか。やっぱりこの女は私のことを
ゴミ程度にしか思ってないのね。
それでも自分のプライベート部屋に呼び寄せたのは
彼を接待するためか。

「さっきの茶番を見せられて、かなりイラついたんだけどね。
 太盛君がそこの奴に気があるとしか思えないんだよ。
 実際はどうなのかな。もし私の勘違いだったらごめんね?」

「ミ、ミウ」

「囚人の前だから指導と言ったけど、
 ゆっくり話がしたいと思ってここに来てもらったの。
 言い訳があるなら聞くけど。私はあなたのパートナーとして
 あなたの言い分は全部聞いてあげたいと思ってるの」

太盛先輩は、恐怖のあまり震え、声が出なくなっていた。
先輩が私のことを大事に思ってくれてるのは
痛いほど伝わったよ。

でもそれを言ったら拷問されるから怖いんだね。
私だって怖い。先輩が口を開けないなら、私が代わりに…

「あの」

「黙れ。お前には聞いてない」

終わった。私には発言権がない。

「太盛君はいつまで黙ってるつもり?
 思ったことを素直に言って欲しいの。なんでもいい。
 あなたの望みをなんでも叶えてあげたい」

「なんでもいいのですか?」

「そうだよ。あと敬語やめて。次やったら怒るよ?」

ミウが拳でテーブルを叩いた。うわ、ヒステリーだ。
敬語使われるとキレるとか意味不明。さすがキチガイ。
太盛さんは緊張して唾をのんだ。

「恥ずかしい話だけど、俺はマリーのことを自分の妹みたいに
 思ってる。一学年しか年が違わないけど、たまに娘みたいに
 思える時もある。この子の面倒を見てあげたくなるんだ。
 こういうのを親心っていうのか?
 その……マリーが収容されてると心が痛む」

ミウの表情がどんどん険しくなっていく。息が荒い。

「マリーが尋問されたりしたら、俺は耐えられない。
 俺はどんなことがあってもマリーに平和に生きてほしい」

「太盛君は、爆破テロ未遂事件を知ってるよね?」

「ああ。だがそれは一部の過激派が進学コースを
 先導したんだろ? 罪をかぶせるとしたらそいつらだ。
 マリーはおとなしい子だから流れに乗せられただけだよ」

ミウは机を強く叩いた。
一度だけでなく、何度も叩いた。

私は心臓が止まるほどの衝撃を受けた。
太盛先輩も同じだと思う。

ミウは壁際の小さな棚から、ファイルを取り出し、
何枚かの写真を出した。それには私が写っていた。

夏のイバラキ県でのキャンプだ。爆弾製造のための
大規模キャンプだった。ナコちゃんたちと
楽しくテロリストごっこの練習をしたんだ。

「これが何の写真か言わなくても分かるでしょ?
 そこの囚人は、これの中心人物だったと多くの人が
 証言しているわけだけど、この事実をどう思う?
 C-4爆弾とか、現実のテロでも使われてる兵器だよ」

「マリーだって……魔が差す時くらいあるだろ」

「魔が差すってレベルを超えてる気がするけどね。
 もしかして太盛君はそいつの肩を持ちたいの?
 だとしたら、ちょっと笑えないかなぁ」

「その言い方……」

「ん?」

「そいつって言うの、やめろよ。
 マリーはマリーだ。
 ミウだって俺と一緒にマリーのお見舞いに
 行ってたじゃないか。忘れたのか?」

「覚えてるよ? だからなに?
 昔は色々あったけど、今は忘れようよ。
 私たちは今を生きてるんでしょ?」

「頼むよ。マリーと呼んでくれ」

「生徒会副会長として明確に拒否します。
 囚人を生徒と同列に扱うことは規則違反です」

「囚人とかさ、そういうのやめにしてほしい。
 俺たちはみんな等しく神の子じゃないか。
 そうやって差別するのは悲しいことだよ」

ここまで口答えしても太盛先輩は
生かされているんだからすごい。

ミウは普通の女よりも嫉妬深いから、
すでに殺されてもおかしくないのに。

「うふふ。太盛君、怒ってるでしょ?
 ごめんね。太盛君と仲良くなりたいのに
 攻撃的な口調になっちゃって」

「ミウ。君は俺と一緒にいて楽しいか?」

「楽しいよ。どうして?」

「俺は嘘じゃなくて本当にミウのことが好きだった。
 どうして君はこんなにも変わってしまったんだ」

太盛先輩はまた涙を流しています。
変わったのは先輩も同じだよ。
涙もろくなったのね。

「この学園のせいなのか? 生徒会のせいか?
 それとも収容所が原因か? 
 何が君をそこまで変えてしまったんだ」

「ハンカチ貸してあげるわ。それで涙ふいて?」

太盛さんは、今度は黙ってしまった。

ミウの高そうなハンカチを握りしめ、
自分の涙を吹こうともせず、
一点を見つめて考え事をしてる。

「すっかり泣き虫になったのね。
 変わったのは太盛君だって同じだよ。
 これはこれで少し可愛いけど、今はそれよりも」

ミウがこっちを見てきた。

「おい」

「は、はい」

「あんたが太盛君を説得しなさいよ」

意味不明。何をどうやって説得しろと?
まず説得する目的を教えてよ。

「全部言わなきゃわからないの?
 太盛君は私の彼氏だから、私以外の
 女のことを気にする必要はないの」

さすが独占欲の固まり。クズ。

「だからあなたから太盛君に言いなさい。
 二度と私と関わらないでくださいと」

そこまで強制されるのか。
内心の自由もないのか。
私は心から太盛先輩に恋してるのに。

「……言いたくありません」

「は?」

「私は今までの収容所生活で
 生徒会の皆さんに逆らったことは一度もありません 
 一日でも早くまともな生徒になれるようにと
 努力を続けてきました」

「でも、愛してる人に嘘はつきたくありません。
 私は太盛先輩を愛しています。愛する人に
 どうして関わらないでくださいと言えるでしょうか」

ミウは、沈黙した。

私はまたしても学園の支配者に歯向かってしまったのだ。
今度こそ拷問されるのだろうか。

怖さより怒りの方が強い。
私はこの女が心から憎い。

殺すならモタモタせず早く殺せ。
死んだ後にあんたを呪い殺してやる。

「斎藤の言い分は分かりました。じゃあさ」

ミウが口を開く。

「太盛君の気持ちはどうなの?」

「え」

「太盛君はしゅうじ……斎藤のこと好き?」

太盛先輩は顔面蒼白になりながらも、
素直に自分の気持ちを伝えた。

「好きか嫌いで言えば好きだ。
 校則に恋愛禁止とは書いてないはずだ。
 人を好きになる自由は認められるはずだ」

ミウは何を思ったのか静かに席を立ち、
ロッカーから金属バッドを取り出した。
なんで金属バッドが……。

ミウは無言でバッドを窓ガラスに叩きつけた。
一度だけでは気が済まず、何度も振った
副会長部屋仕様の特殊強化ガラスなので簡単には壊れない。

ミウの力ではガラスにヒビを入れるのが限界だった。
高いガラスの修繕費、どのくらいかかるんだろう。
完全にキチガイだ。

ミウは血走った目で私を見て来た。
今度は私の頭に振り降ろすつもりか。

「下がってろ」

太盛先輩は、私の前に立ってくれた。
命を懸けてまで私を守ろうとしてくれるんだ。

私は感情を抑えきれず、彼の手を握ってしまった。
先輩の手、汗ばんでいて震えてる。

ミウが歯ぎしりした。バッドを振り下ろし、

「うわ……」

わたしたちではなく、テーブルに降ろした。
ティーカップやクッキー皿が粉々になる。
破片が床に散乱して危ない。

「私が斎藤を拷問したら太盛君は困るよね?」

「それは困るな」

「そっか。困るか」

「ああ。困るな」

「私は今すっごくイライラしておかしくなりそうなの。
 太盛君を困らせたくないけど、でも斎藤がいたら太盛君を
 惑わすでしょ。そう考えたら悶々(もんもん)としちゃって」

「マリーに触れるな。マリーに危害を加えるな。
 俺はマリーのことが心配なんだ」

「改めて確認しても良い?
 太盛君は私の彼氏なんだよね?」

「……そうだけど」

「これでも三号室のカナのことは大目に見たんだけどな。
 今回ばかりは太盛君のわがままを聞いて
 あげられそうにないよ。
 私はどうすればいいのか教えて?」

「はっきり言おう。もう限界だ。俺は自殺するからな」

先輩は隠し持っていたナイフを
取り出して自分の首に刺そうとした。

ミウは超人的な反射神経で太盛さんの手首を取った。
力が均衡している。刺そうとする太盛さんと
止めようとするミウ。互いの手が小刻みに震え続けている。

「バカな真似はやめてよ!!」

「なぜ止める? 大人しく死なせてくれよ。
 死ぬ権利は誰にでもあるはずだ」

「私は太盛君に死んでほしくない!!」

「死なせろよ!! こんな世界で生きるくらいなら
 生まれてこないほうが良かった!!」

この修羅場で私ができることはあるのか……。
私は追いつめられている太盛先輩がかわいそうで、
後ろからギュッと抱き着いてしまった。

「マリー?」

太盛先輩の手からナイフが落ちた。
銀色の刃が輝き、床に転がる。

「私も……先輩に死んでほしくない」

私は涙を流していた。

「はは……悪かったな。俺どうかしてた。
 俺が死んだらお前を一人にさせちまう」

太盛先輩の視界にもはや高野ミウは入っていない。
怒り狂った小姑(こじゅうと)は、ついに暴力に頼るのだ。

「わっ……」

私は突き飛ばされてしりもちをついた。
体がロッカーに当たって少しだけ背中を打った。

「人の彼になれなれしくしないでよ。
 あなたのこと本気で殺したくなっちゃった」

「お好きにどうぞ? そこに落ちてるナイフで
 私の胸でも刺してください。私がいなくなれば
 太盛先輩を惑わすこともなくて平和になるんでしょ?」

ミウがまた歯ぎしりしてにらんできた。
私も負けずににらみ返す。絶対に負けるか。

太盛先輩に対する思いだけは譲れない。
私は心まで生徒会に売るつもりはない。

「う……」

ミウは両手で私の首を絞めて来た。
恨みがこもってる分、すごい力だった。

驚いてたくさん息を吐き出したのが致命的だったかな。
私が短く声を発するたびに意識が遠のいていく。

急に楽なったかと思ったら、今度は太盛さんが
ミウを突き飛ばしていた。これで今日二度目の暴力。

「たとえミウでも俺のマリーに手を出すことは許さないからな!!」

すごい剣幕だ。彼はキレると結構怖い。

「マリーが何をしたって言うんだ!! マリーが爆破テロの
 中心人物だったとか、そんなの関係ない!! 俺にとって
 マリーは大切な存在だ!! マリーに手を出すな!!
 マリーにひどいことをするな!! 分かったか!!」

まさかのお説教。ありがとう先輩。
途中で止めてくれなかったら
本当に死んでいたかもしれない。

ミウ先輩は、ショックのあまり呆然としていた。
太盛先輩はまくし立てた疲れのため肩で息をしている。
私は床に座り込んで無言で様子を見守るだけ。

時間の流れがむなしい。

私達はなにもできることがない。

ミウは、何も答えず、部屋を出てしまった。
扉の前には護衛の人がいた。すぐにミウに近づく。

「ミウ様。指導は終わりましたか」

「ええ」

「このあとのスケジュールですが、
 夕方から会議が入っており…」

「うるさい!!」

「え?」

「うるさいって言ったんだよ。
 そういう話はあとにしなさい!!」

ヒステリーね。部下に奴あたりして最低。
扉は開けっぱなし。怒鳴られた部下の一人は唖然(あぜん)。

「あなたたちは何ぼーっとしてるの?
 早く後ろを着いてきなさい!!」

他の部下の人達は急いでミウを追いかけていく。

まあそれが仕事だよね。
イライラしてる女には関わりたくないけど、
護衛だから常にそばにいないとね。

パパが言ってた。銀行にいる中年女はみんな
ピリピリしてて人間的に問題がある人が多いって。
今のミウみたいな感じなんだろうね。

「来いよマリー」「先輩……」

私たちは誰もいなくなったのをいいことに
抱き合いました。

ああ。この暖かい感触。
夏休みの間は何度も味わえたのに、
こんなにも懐かしく思えるのね。

「私は先輩のことが好き」

「マリー。俺もだよ」

やった。両思いだ。危険なのは分かってる。
だってこの部屋に盗聴器が仕掛けられてもおかしくない。
でもさすがにないか。だってここはミウの私的な部屋だから。

私は言葉よりも行動に出たくなってしまい、
太盛先輩の唇を奪ってしまいました。
キスは一瞬だったけど、大胆過ぎるかな?

太盛先輩は急いで開けっ放しだった扉を閉めた。
今度は向こうから唇を重ねて来た。長いキスだった。

ついでに胸やお尻も触られたけど、
全然嫌じゃなかった。こんなところじゃ
そういうムードにならないけど。

「先輩。この学校を出よう」

「脱走するつもりか?」

「そう」

「それは無理だよ」

「無理かな?」

「ああ。無理だ」

「途中で捕まって殺される?」

「ただじゃ殺されないな。
 むごたらしく拷問されてから殺される」

「ま、分かってるけど」

「マリーは失語症が治ったのか?」

「収容所に入れられたショックで急に治った。
 私もよく分からないけど、前より話やすくなったかも」

「そうか」

先輩は一度キスした後、頭を撫でてくれた。

「良かったな。マリエ」

「うん」

私は先輩の胸の中に飛び込んだ。
勢い良すぎて先輩を倒してしまう。
私が上に乗った状態で顔が近くなる。

「せ、先輩……」

またキスしたくなっちゃった。
心臓の鼓動が早まる。先輩もそうなのだろうか。
私の鼓動、服越しでも伝わりますか?

「貴様ら、そこでなにをしておるか!!」

「ダー、ヤポンスキー!!」(日本人がいるぞ!!)

突然扉が開けられたかと思うと、執行部員さんたちが
入って来た。今日はロ系の人が多い。

今更の説明だけど、執行部とは生徒会の
手足となって動く人。実働部隊だね。

執行部の上部組織に『保安委員会』があるの。

中央委員会が『立法府』だとすると、
それに対する『行政府』が保安委員会。

主な仕事はスパイなどの摘発、逮捕、拷問、収容などです。
危険な仕事だけど、それなりの見返りがあるそうです。
どんな見返りなんだろう。

「Я не буду ладить!!」
「Поторопись и возвращайся!!」

執行部員の女性たちが扉の前に殺到してきた。
金切り声で叫んでくる。
何を言ってるんだろう。早く収容所に戻れ。
イチャイチャするなって言ってそう。

私は収容所生活をしてるから、
なんとなくロシア語が分かるの。

「イズヴィニーチェ!! コミッサール!!」
(申し訳ありません、委員殿)

私は敬礼しながら謝罪した。
私のロシア語が通じるのだろうか。

「Дифференц。
 Вы говорите по России?」
(ほう。貴様は露語を解するのか?)

「Я могу немного поговорить!!」
(少しだけですが!! 話せます!!)

「О, хорошо.
 Возвращайся в лагерь.」
(まあいい。とにかく収容所へ戻れ)

「ダー。コミッサール!!」(分かりました。委員殿)

私は特別に手錠なしで、収容所まで連行されることになった。
ロシア語が話せるとお得なこともあるんだね。
手錠がないとすごく歩きやすいよ。

部屋から出る際、太盛先輩とすれ違いざまに
小声で『大好き』と伝えた。

太盛先輩は、すごくはかなそうな顔をしていた。
今すぐにでも私に救いの手を差し伸べたい。
そんな気持ちが伝わって来た。

十分だよ。先輩。

またしばらく会えない生活が続くけど、さようなら。

私が7号室の囚人となったのも主の定めた運命。
だから諦められる。だから耐えられる。そして願う。

いつか平和な日々が戻ってくると。
先輩と陽射しの下、肩を並べて歩ける日が来ると。

~高倉ナツキの一人称~

まずい。ミウの横暴をこれ以上許したら生徒会の
威信にかかわる。ミウに7号室の見回りを頼んだのは
失敗だったか。7号室に太盛君と仲良しの女の子が
収容されていたのは知っていたが、
まさか野球を中断してまで指導を始めてしまうとは。

報告によると、B棟の私室で斎藤さんに暴力をふるったとか。
太盛君に至ってはあのミウに二度も暴力を振るっておきながら、
未だに何の処罰もなく生かされている。

とにかく恋愛関係のもめごとは重大な懸念事項だ。
関係ない生徒からしたら茶番に過ぎないだろう。
執行部員たちに口封じをしているとはいえ、
いずれ学内に噂として広まることだろう。

うちの学園の生徒は噂好きが多いのか、我々が
企画中の事案でさえ、瞬時に学内に広まる。

やはり内部にスパイがいるとしか思えない。

7号室の建設を決めたのはアキラ前会長だ。
本当は学内の敷地に鉄条網付きの収容所として
建築するはずだったものを、あえて校外の敷地にした。

その飛び地は本来野球部の寮と練習場があったが、
立ち退きを命じ、今は生徒会が所有している。

その七号室は我らの権力の象徴だ。
就任したばかりの副会長のミウが失態を演じるのはまずい。

僕は深いため息を吐いた。

「会長閣下。甘いものでも食べて
 頭を休ませてはいかがですか?」

「ナジェージダか。いつもすまないな」

この露国(ロシア)出身の長身の美人は、組織委員から
会長の副官(補佐)に役職を変えた。
もとはアキラさんの副官だったが、今は僕付きだ。

あだ名はナージャ。フルネームで
ナジェージダ・アリルーエワは、我々生徒会内部では
ミウ嫌いで有名だ。その気持ちは痛いほど分かるのだが、
ミウを生徒会に勧誘し、異常ともいえる厚遇をしたのは僕だ。

ナージャ。僕だってミウをのさばらせたのは
間違いだと自覚している。君は僕を恨まないのか?

「そんなことハないわ」

ナージャは僕の隣に椅子を持ってきて座る。
お皿には色とりどりの高級和菓子が乗せられている。
お店の贈答品コーナーで売ってそうな品だ。

「だって、あなたを、恨む理由がないもの」

ナージャは菓子の一つをつまみ、僕の口元に運ぶ。
とにかく糖分を取れと言うことか。

僕はおとなしく口を開けた。

「会長の仕事はつらいでしょ?
 会長の責務ハ、思っていたよりも重いでしょ?」

「それはそうだ。むしろアキラ前会長はよく
 やっていたと思うよ。こんな大規模の学園で
 共産主義の思想を広めるのは容易なことじゃない」

「良かった」

「ん?」

「あなた、アキラ君の苦労が分かってる。
 アの女とは違って」

ナージャの日本語はなまりが強いが、
僕は聞き慣れているからなんともない。

実は僕のロシア語の先生は彼女だった。

「僕が悩んでいたのはミウのことだ。
 正直、彼女の暴走をなんとか止められない
 ものかと毎日考えている」

「あの女ハ強い。護衛もたくさんいル。
 生徒たちの一番の恐怖の対象。
 先生も怖がっている」

「ナージャ。今更だが、すまないことをした」

「ナに?」

「君が組織委員から移動した理由は分かっている。
 僕がミウを甘やかしたのが原因だろう?
 すまない。それなのに僕の副官をやってくれている
 君に感謝している」

なんだ、そんなことか、と言いたげにナージャは少し笑った。

「ミウは嫌い。でもナツキは好き。
 私はレーニンと党のために忠誠を誓った。
 誇りある生徒会の一員。
 会長のナツキのやることは何でも手伝う」

やはり日本人の女子と違って主張が明確だ。
僕とぴったりとイスを寄せているのも
そのアピールなのだ。

僕はこの会長室でナージャといる時間が増えた。

机に積みあがった書類の束。
職員室から送られてきたものだ。
僕が一枚一枚に判を押さなければならないのだ。

それと学内に配布するプリントの作成。
もちろんPCで文章を作るのだが、
まだ原案すらできていない。

この学園で行われるすべての行事は生徒会が主導する。
さらに革命裁判やクラス裁判の規定を作るために
毎日頭を悩ませているが、ミウのことを
考えると全く手に着かない。

僕はミウと付き合っていたはずなのに、ミウは太盛君に
夢中で僕を利用することしか考えていない。
彼女の性格の変貌はいったい何が原因なんだ?
太盛君のためなら生徒のことなど、どうでもいいのか。

「一人で抱え込まないで。私も手伝えることは手伝う」

ナージャは席を立ち、僕の肩にそっと手を触れた。
彼女はいつもこうやって気を使ってくれる。
めんどくさい書類仕事を率先してやってくれたりと、
僕にとって代えの効かない人だ。

三年生だから、あと数か月で卒業してしまうのが残念だ。
選挙後は生徒会の役員は二年に交代しているが、
彼女だけはこの地位に残した。

いつまでも君にいてほしかった。

僕はナージャの手を握り、見つめあった。
お互いに良い雰囲気になった。
いっそキスでもしてしまうかと思う。

「失礼します」

ノックの後、こちらの許可もなく生徒が入って来た。
僕の知らない男子の生徒だ。
彼のバッジを見ると、広報諜報委員部の人なのが分かる

「私は相田(あいだ)トモハル委員です。
 会長に頼みごとがあって参上いたしました」

「そうか。相田委員。申してみよ」

「はっ。率直に言うと苦情であります」

「なに?」

ナージャも驚いていた。
まさか会長室に苦情を言いに来る人間がいるとは。

「つまるところ、私が申しあげたいのは、
 高野ミウ副会長の常軌を逸した行動についてです。
 彼女は私的な目的で囚人を逮捕、監禁、拷問している
 との報告が多数寄せられています」

しかもミウのとこか。君よりはるかに地位が上の相手だぞ。

「同士・副会長殿は恣意的(しいてき)に生徒の虐待しており、
 本来の生徒会の規則とはかけはなれています。
 我々諜報委員会で会議した結果、
 私が代表してここに意見を言いに来た次第です。
 これが我ら広報諜報委員部の総意であります」

今、生徒会で最も弱体化した組織が広報諜報委員部だ。
代表だったアナスタシアが粛清されたため、生徒会内で
信用が地に落ちた。その後、誰も委員の代表をやるものが
現れなかったため、一年生のトモハル君がわざわざ
僕のもとに苦情を言いに来たのか。

「会長も難しいお立場なのは承知しておりますが、
 せめてお耳にだけでも入れていただきたかったのです。
 お忙しい中、聞いてくださってありがとうございました。
 私はこれで失礼させていただきます」

難しい立場とは、僕とミウが付き合っていることか。
確かにカップル申請書は提出済みであり、
あの制度自体はアキラさんの時代から変わっていない。

それを分かっていながら僕に苦情を出すとは。
かなりの覚悟が必要だったろう。

このトモハルと言う男、目つき、言動、仕草といい、
完成されたボリシェビキの貫禄がある。

「君。ちょっと待ちなさい」

「はっ。なんでありましょう」

少しおびえたな。怒られるとでも思ったか?
むしろ逆だよ。

……思い出したぞ。この男は元1号室の囚人。
みずから立候補して執行部に入った。
たしか三号室のカナの後輩で、
野球部のエース候補だったか。

彼がなぜ諜報委員部に異動したのかは知らないが、
執行部でも色々あったのだろう。

……だが異動の理由が気になるな。
この男は目つきからして有能なのは伝わる。

そのことを聞いてみた。

「私が我慢ならないのは、ミウ殿主導により、
 例の爆破テロと無関係の生徒が多数逮捕されたことです。
 彼女の捜査の仕方は、自分には理解できません」

「また、一年生の女子が首輪をされ、
 廊下や校庭で虐待されているのを多数目撃しました」

なるほど。取り締まる側としては、あんな捜査とも
いえないやりかたは気に入らないか。まあ当然だ。
暗に校則 第18条(スパイ容疑者取り締まり)
を批判したいのだろう。

「君のことは気に入った。
 個人的にトモハルと呼ばせてもらう」

「はっ……? あ、ありがとうございます」

「今後はそういう苦情があったら遠慮なく
 会長室に来てよろしい。また、今回の件に
 ついては僕も前から懸念していた。
 のちに中央委員会で会議を開こうと思う」

「ありがとうございます!!
 会長はとても寛大な方であります!!」

「なに。僕も君と同じで罪のない生徒が
 虐待されているのは悲しいと思っている。
 もちろん悪事を働く者には容赦しないがね。
 その点については同意してくれるか?」

「もちろんであります!! マルクス・レーニン主義を
 否定し、軟弱な人生を送ろうとする者を是正するのは
 我ら生徒会の使命であります」

根本的なところで合意が得られたに等しい。
これは有力な同士がいたものだ。
やはりうちの生徒も捨てたものではない。

トモハルは今度こそ部屋を去ろうとした。
深くお辞儀をしたところで。

「あなた」

とナージャ。急に声をかけられてたのでトモハルは緊張した。

「今度から部屋に入る時はノックしてからにしなさいね?」

「はっ。申し訳ありません!!」

「いいのよ。怒ってるわけじゃないから」

ナージャはくすくすと笑っている。
元気のいい弟に接する気分なのだろう。

彼女も彼のことは気に入ってくれたようだ。
彼が心から尊敬していたという、
小倉カナという囚人のことも気になるな。

話に聞くと彼女はアキラさんに
殴りかかったということだが。

さっそく中央委員会で会議を開くとするか。
ナージャにその旨の通達を出してもらうように頼んだ。

中央委員会の会議は、学校の会議室で行われる。
本来なら職員会議で使われるものだが、我々が占拠している。
この学園の全ての施設の占有権は生徒会にある。

「もう時間なのだが、集まった人数はこれだけか?」

僕はあきれてしまった。

会議室の椅子が三席も空いている。
今日の会議に出席するのは、

『会長』
『副官』
『副会長』
『各委員会の代表四名』

各委員会の代表は下の通り

校長 (中央委員)
アナスタシア(広報諜報委員)
ミウ(組織委員)
イワノフ(保安委員)

まず『諜報』は、アナスタシアが粛清されて後任が不在。
『組織委員部』はミウが兼ねているが、なんとまだ来てない。
校長はミウに粛清されてしまったようだ……。

(委員会だが、書面上はソ連風に委員部と
 呼ばれるから、どちらの呼び方でも問題ない)

つまり今ここにいるのは、
僕、ナージャ、イワノフだけ……?

なんだこの状況は……?

「同士会長閣下。これで話し合いができますか?
 まさか校長まで欠席とは思いませんでした」

イワノフ。皮肉っぽい言い方をやめろ。

彼の言う通り校長がいないのは痛い。
うそだと信じたかったが、本当に粛清されたのか。

校長は会議の議長も兼ねていた。皮肉屋で嫌味が
多いが、このメンバーで唯一の大人として貴重な
存在だったのに。

諜報委員部は早く後任を選べと指示しているのに。
全く何をやってるんだ。

会議の招集は正式な命令として下される。
この会議に正当な理由もなく欠席した物は
直ちにスパイ容疑がかかる。

我々の結束を乱す者は重罪なのだ。

「いや。このままでいい。この際だから
 イワノフに聞いておきたい。
 君は副会長のことをどう思う?」

「質問の意図が分かりませんが」

「少し前に諜報委員の部下からミウの苦情が出た。
 彼女の横暴はお前もよく分かっているだろう。
 率直に意見を述べろ」

高校生離れした、軍人のごとき顔つきのイワノフは、
少し考えるしぐさをしてから

「粛清の頻度が多すぎるとは思いますが。
 私的な制裁が目立ちますな。
 一年の爆破テロ未遂犯に対しては特に」

「一年生の女子を裸で校庭に放置したというのは」

「確認しています。事実ですな」

「斎藤マリエに個人的な恨みで暴行したのも事実か?」

「間違いありませんな。七号室を管理している部下から
 正式な報告が上がっています。
 斎藤に事情を確認したところ、事実を認めました」

イワノフが言うのだから信用できる。
僕もボリシェビキの一人として事実に基づいて
話し合いをするために確認したのだ。

ミウめ。僕が多忙なのを知っていて、
僕の目の届かない場所で悪事を働いているのか。

黙って話を聞いていたナージャは、席を立って
お茶を淹れようとした。彼女が淹れてくれるのは
いつも日本茶だ。彼女の影響で
僕もすっかり日本茶が好きになってしまった。

「きゃ」

ナージャが悲鳴に近い声を上げた。なんだ?

「わぉっ、ぶつかりそうになっちゃった。
 ごめんごめん」

扉を開けてミウが入って来たところだった。
扉の近くにいたナージャがびっくりしている。

「ナツキ君。遅れてごめんね?」

「い、いや。まだ会議は始まったばかりだ」

本当なら叱るところなのだが、
彼女を前にすると僕でさえ遠慮してしまう。
彼女を生徒会に引き入れた元凶は僕なのだから。
(前作『ミウの物語』の後半を参照)

ミウはなぜか三人も護衛を連れてきている。
会議室内に部外者は立ち入り禁止だから、
普通は護衛は廊下に待機させておくべきだ。

そのことをミウに聞くと

「どこにスパイがいるか分からないから念のため」

と言う。確かに根拠はある。
以前の爆破テロはアナスタシアが内部スパイだった。
彼女がそういうなら何も言い返せない。

イワノフはわざとらしくミウから視線を逸らす。
ナージャはつま先さえミウの方を向こうとしない。

みんな、気持ちは分かるがやめてくれ。
空気が……重いんだ。

ミウがため息をついて着席し、
用意されたお茶を一口飲む。

「ナツキ君。今日の議題はなに?」

「……生徒の取り締まりについてだ。
 我々が正しい手続きに
 基づいて生徒を逮捕しているか考えよう」

「もっとはっきり言っていいのに」

ミウはしぶいデザインの湯呑をテーブルに置いた。

「The walls have ears. 有名な英語のことわざね。
 実は扉の前で中の話を聞いてたの。
 私のやり方が気に入らないんでしょ?」

ミウは僕ではなく、イワノフを見て言った。

「スパイ容疑の取り締まりは私の裁量に
 任されていると、そう校則化されています。
 あなたはナツキ会長の決定に対して不服なのかな?」

「く…」

やはりイワノフも面と向かってミウには言いづらいか。
ミウは副会長と組織委員部の長を兼ねている。
イワノフより上級者だ。

「それにあなたの部下が7号室で女子の囚人に
 セクハラしてる話を聞きましたけど? 
 ロシア系の男は女を口説くのがお好きなのね。
 それに顔の整った女ばかり好んでるじゃない。
 看守の部屋に女の囚人を呼んで特別扱いしてるって噂、
 本当なのか証明してあげましょうか」 

テーブルに写真が何枚か置かれた。
どうやって撮影したのか。看守と美人の囚人が
一緒に食事をしているじゃないか。
テーブルに調度品が置かれてることから、
看守の私室なのは明らかだ。

美人の囚人は引きつった笑みで写真に写っている。
囚人服なため色気にかけるためか、
化粧をしているように見える。
はたして食事だけで済んだのだろうか。

保安委員部の怠惰は目にあまる。とミウが言い捨てた。

「イワノフ委員。安易に人を批判する前に、まずは」
 自己批判をしないといけない。違いますか?」

「も、申し訳ありません」

「今この場で自己批判をしなさい」

「はっ」

イワノフは席を立ち、ミウを初め僕たち全員に謝罪し、
自己批判した。この自己批判とは、ボリシェビキが
自らの過ちを客観的に認めることである。

我々は理性と科学によって文明を発達させるという、
マルクス・レーニンの思想を守っているのだ。

ナージャが目を細めてミウを見ている。
おまえが人のことを言えるのか。そう言いたいのだろう。

ミウは彼女の視線が不快に感じたのか、
スーッと息を吐いてから両手を広げた。

「ウェル。ざっとぃずジぽいんと。 
 ふぉおーるすくーるこんすぃるめんばあヒア。
 みすありるーえわ。あいのう。
 わっとゆうしんくあぼうとみぃ。 
 私が遅れた理由はね」

全員に語り掛ける口調だ。
いつものように自然と英語が混じるが、それだけ
心に余裕がないのか。生徒会にとって重要なことだから
これからナジェージダの気になっていることを説明すると言っている。

「6号室で囚人たちが反乱を起こしていたから
 取り締まりを強化していたところなの」

「な……」「反乱ですと……」「シトー(なに)?」

一同に僕たちは驚いた。
最後に露語を話したのはナージャだ。

「まっ、無理もないよね。
 本当に15分も前に発生したんだから。
 別に大規模ではないから安心して。
 怪我したのは執行部員が5人だけ」

ミウの話によると、凶器を隠し持っていた囚人数名が、
とつぜん執行部員に襲い掛かったそうだ。

しかも襲われたのは女性の執行部員で
ロシア系だという。この学園は多すぎる囚人を
管理するのに必要な人間を確保するため、
国内外から転校生を募集していた。

その結果、ロシアから100名以上の生徒が参入した。
今のロシア連邦政府を嫌い、
旧ソ連の復興を望んでいる勢力だった。

欧州側ロシアの都市部で育った人達らしく、
ロシア語に田舎のなまりがなく、聞き取りやすい。

僕は六号室を詳しく知らない。
執務が忙しくて見回りに行く暇がないのだ。

ミウが率先して旧一年の進学コースの六クラス分の
教室をまるごと収容所に改装したらしいが。

B棟の一角だ。屋内にもかかわらず、
周囲の廊下には有刺鉄線が張られているらしい。

「怪我した子達は速やかに保健室で手当てさせてるよ。
 ちょっとひどい子は病院に送ったけど」

なんと出血多量らしい。
他にも打撲、骨折など物騒な話が続く。

「カッターで頸動脈を狙って攻撃されたからね。
 見回りに行った矢先で襲われたから
 執行部は鎮圧に手間取ったていたよ」

執行部員は囚人の死に物狂いの犯行に
ひるんだが、ミウの護衛隊がさっさと鎮圧したという。

「私の部下は暴徒鎮圧用の手投げ式の
 催眠ガス弾とか持っているの。
 私のことを本気で守ろうとしてる人達だから、
 信用できるよ」

イワノフを横目で見ながら言う。
案に執行部(保安委員部の下部組織)は
能力不足だと言っているのだ。

「報告を続けるね? 現在までに反乱に関わった生徒は
 15名まで判明してる。犯人たちに対する拷問を
 継続しています。芋づる式で次々に容疑者を
 特定して、反乱勢力を一掃するね」

「拷問はイワノフ君の部下を使役させてもらっているよ。
 ナツキ君やイワノフ君には事後報告に
 なったわけだけど。構わないよね?」
 
すばらしい手際の良さだ。
我々共産主義者は革命の遂行のために反乱分子の一刻も早い処分を
下さないといけない。情け容赦は無用。敵に情けをかける人間も
また国家を破壊する反乱分子とみなされる。

前回のアナスタシアの件といい、ミウは学内で反革命分子を
取り締まることに関して右に出る者がいないことを
またしても証明したのだ。

僕はミウを称賛した。
イワノフもナージャも口先では褒めるしかなかった。

急な事態なので会議などしている場合ではない。
収容所の反乱を許すわけにはいかない。
僕たちは拷問現場に行くことにした。

ここは地下の尋問室だ。

鉄とコンクリートで固められた異空間。
明かりは蛍光灯ではなく、天井からつるされたランプだ。
採掘現場並みに薄暗く、ホラー映画の一場面を見ているようだ。

「ぐぉぉぉ…いてえ」「あぁあぁ…やめてくれ」
「俺は知らねえ……知らねえよ」

六号室の反乱分子たちは天井からつるされていた。
ミウに聞いた通り、15人……。いや20人はいるぞ
両腕をばんざいした状態で、ロープで体重を支えている。

そのまま上方向に力が加わり続けると、肩関節が脱臼する。
現在でも肩の圧迫によって動脈が押さえつけられ、
呼吸が苦しく、視界がかすむだろう。

足が地面すれすれの高さを維持しており、
床に足がついたかと思えば、また宙に浮く。

フラフラと、つま先立ちで耐えていた。

僕たち四人の生徒会役員は、その地獄絵図をこの目で見た。
イワノフは慣れているだろう。ナージャは驚愕している。
僕はボリシェビキなのにふさわしくないと思われるだろうが、
無抵抗の人間を痛めつけるのは正直苦手だ。基本的に
血なまぐさいことはすべて部下に任せるつもりでいる。

ミウは無言で鞭を手にした。

「ほら。他に仲間がいたら早く教えなさい」

「ぎゃああああああああああああああああ」

ミウのムチは中東から仕入れた。いわゆる枝ムチだ。
葉を取り去ったカバの枝を数本束ねたもの
ムチの長さはミウの腕より少し長い程度。
先端が箒(ほうき)のように扇状に広がり、適度にしなる。

古来より体罰用に使われているため殺傷力は低いが、
その分痛めつける回数が増えるため、ミウが好んで使った。

男たちは上半身裸だから、ムチの勢いは肌をむく。

「ほらほら。特別に一人当たり20回ずつ叩こうか」

ミウはきっちりと20回数えていく。一人の男が終わると、
その隣の男へ。背中に無数のアザを作る。大きな赤いアザだ。

恥ずかしながらムチ打ちの現場をこんなに近くで見たことはない。
こんなにもはっきりとアザの形が分かるとは。
男は悲鳴を上げるにも疲れ、ぐったりと首を下げている。

またミウのムチが飛ぶ。嫌な音だ。できれば耳を塞ぎたいが
立場上そんなことをしたら、スパイ容疑がかかる恐れすらある。
ミウの口元が笑っているのが恐ろしかった。

「ねえ。あなた。どうして反乱を起こそうと思ったの?」

囚人が黙殺しようとするので、さらに7回ほどムチで叩いた。
赤いアザの上をさらに叩くものだから、血がにじんだ。
囚人は苦悶の表情でまだ痛みに耐える。
次に無視したら70回叩くと脅すと、ついに観念した。

「俺は何もしてないし。見てもいない。
 たまたま犯行現場の近くにいて……」

「そういう嘘。いらない。犯人はみんな嘘つくじゃない」

「嘘じゃねえよ!! 気がついたら男たちが
 執行部の奴らにカッターで切りかかってたんだ!!
 そもそも俺は何の狂気も持ってねえ!!
 収容所にカッターなんて持ち込めねえよ!!」

「どのみち近くにいた君も怪しいよね。
 疑わしい者は全員罰さないと」

ミウが執行部員に命じて
皿に盛られた塩を持ってきた。
それで傷口に塗り付けようというのだろう。

中世欧州の拷問でも実際に使われていた方法らしい。
その痛みはどんな屈強な男ですら耐えられないだろう。
まだ高校生の囚人たちにはあまりにも過酷すぎて直視できない。

「分かりました!! 俺は罪を認めます!!」

「あっそ。あなたが有罪なのはとっくに知ってるよ。
 問題は他に犯行に関わった人がいるかなの。
 疑わしい人の名前を教えてくれる?
 即答しなかったら塩ぬるからね」

「待ってください!! 今言いますから!!」

ミウは数人程度の名前では満足しない。「まだいるでしょ?」
と冷たく言われるので、思いついた名前を次々にしゃべってしまう。
彼以外の囚人も同様で、最終的には適当な生徒の名前を言う。

ミウは名前をしっかりとメモしていった。
品があり高そうなメモ帳だ。

ある程度の新しい容疑者のリストが出来上がると、
部下にメモの内容を直ちに電子化するように指示した。

ミウはようやく満足したようで
「協力してくれてありがとね」と言った。

まるで友達に対するような態度だ。
笑顔の裏に隠されている感情を思うとゾッとする。

彼女は僕の方を振り返っていった。

「ナツキ会長。彼らはしばらく地下で
 反省してもらいましょう」

「あ、ああ……」

「六号室のずさんな警備は証明されたので、
 執行部に代わって副会長の私が管理してもいいですか?」

「ま、任せる」

「そこの囚人を管理する権利も私にいただけます?」

「良いだろう……君がやるのが適切だ」

イワノフは特に反論しない。
六号室の管理をミウがすることは、
彼の組織の弱体化に他ならないのだが。
ナージャは小さく舌打ちした。

やはりミウのカリスマは圧倒的だった。
権力を私物化しているが、実績を残している。
太盛君関係での失態を誰にも責められなくなった。


~堀太盛~

六号室で小規模な反乱が起きたらしく、
学内でうわさが飛び交っている。

よくも生徒会執行部に表立って
反乱する輩がいたものだ。
まあ俺だって人のことは言えないよな。
今までに何度もミウに逆らったんだから。

奴らは地下に送れられたのに、俺は無罪。
ミウに束縛されながらも、結果的に命を救われているのだ。

生徒会は事後の処理に追われているようで、
ミウもクラスには顔を出さなくなった。
基本的に1組に彼女が来ない限り俺たちは平和だ。

もう一週間も会ってないから、
しばらくこのままの状況が続くと思っていた。
そんな時に限って悪い知らせはやってくるものだ。

「太盛君」

二時間目の休み時間だった。
ミウが教室の扉の前に立ち、俺を手招きした。

廊下は目立つからやめてほしかったのだが、
俺の腕を取り、捨てられた子犬のような目をして言った。

「この前はごめんね? 私ね、あれから考え直したの。
 斎藤マリエは太盛君の大切な友達だものね?
 エリカもそうだよね? 私、太盛君のお友達は
 大切にしようと思ってるの。だって君の友達でしょ?」

友達って言葉を何度繰り返したかな。
よほど強調したいのか。
彼女らを拷問しないことを誓った、
という認識でいいのか?

「Yes. i can say that is right.」

また英語……。付き合い始めの頃は
かわいく思ったもんだが、最高に耳障りだ。
しかも貴族風の気取った表現だ。

なら俺がクラスでエリカと話をしても怒らないのか?

「正直ムカつくけど、太盛君に
 怒られちゃうから我慢するよ」

と笑顔で言った。こいつは二重人格なのだろうか。
生徒を取り締まる時と全然違う。副会長モードと
俺の彼女とで使い分けをしているにしても、違和感がある。

「最近、反乱の鎮圧とか会議とかで忙しくてさ。
 なかなか会えなくてごめんね?」

ミウはよく謝るな。むしろ会えなくてせいせいしてた。
もっと鎮圧に手間取ってほしかったよ。

「これからはもっと会える時間を増やすからね。
 太盛君が三号室にいた時は全然会えなくてさみしかった。
 あの時があったから、今の私があるんだけどね」

そういえば、俺はミウが生徒会に
入った理由を知らなかった。
まあ興味もないのでどうでもいいや。

「斎藤に謝りたいと思ってるの。一緒に行こうか」

「今からか? 三時間目の授業始まるけど」

「そんなの休めばいいでしょ。
 私から先生に言っておくよ」

すると、たまたま先生が通りかかったので
ミウがそのことを伝えた。

「行ってらっしゃいませ。副会長殿。
 堀君は出席扱いにしておきますので」

「Well, I thank you. my lovely teacher.
 my boy semaru. Hi is a student,but not ordinary one.
our soviet member knows him as the promised man
to be in the party of Lenin. you understand it?」

「お、オウライト。まだむ」

ミウが身振り手振りを加えて話した。
首がカクカクした動作をするのは英国育ち特有か。
本国の英語は小鳥が歌ってるみたいに美しいな。

確かにアメリカの英語とは別言語に聞こえる。
そこにいるのは英語教師なんだが、
ミウの方が明らかに発音がきれいだ。

俺はミウと手をつないで歩いた。
手をつなぐの好きだな。

それよりエリカのことはスルーかよ。
一組にいたのに。
なんで先にマリーに謝りに行くんだよ。
エリカにも謝れよ。

「ここなら誰もいないから」

階段の踊り場に案内された。
ここは屋上の前じゃないか。

わざわざこんなところに連れて来るなんて。

「動かないでね?」

キスされた。
今さら子猫のように甘えられてもなぁ……。
ミウはつま先立ちになり、俺の首の後ろに手を回している。
唇を強く押し付けてきて、息継ぎできないから苦しい。
なんでこいつはこんなに発情してるんだ?

ミウはまだ唇を自由にしてくれない。
早くどいて欲しいので手を伸ばすのだが、
こいつの肩に触れたくなかったので行き場をなくす。
手が下がり、お尻に触れてしまう。

小ぶりだが、よく整ったヒップラインだった。
やわらかいスカート越しでも感触がよく伝わる。

髪の毛から甘い匂いがする。こうして体を密着
させると、こいつも女の子なんだなと感じる。

ミウはキスをやめたのだが、強く抱きついて離れない。
まるでコアラの親子のように、俺の背中に手を回している。

無言だし、俺の視点からはミウの頭頂部しか
見えないので、することがない。つーか、こいつは何が楽しいんだ。
俺の体にしがみつくと金でもらえるんだろうか?

イタズラしてやろうと思い、スカートを後ろからめくり
上げてみるが、何の反応もない。

さらにパンツの上から尻をなでてみる。
ここでは人目を気にする必要がないからか、
ミウは少しも嫌がらない。このままなで続けてもよかったのだが、
セクハラ(この場合は違うよな?)をしても俺の気持ちは
萎えるだけで、別の女の子が頭に浮かぶのだった。

(あぁ。これがマリーだったら……)

七号室に行けるなら早く連れて行ってくれよ。
あの子の顔を見ないと不安になる。

「大丈夫だよ。太盛君」

なにが?

「マリエさんなら、すぐそこにいるよ?」

ミウが指さした先は、屋上へと続く扉。
ミウは赤面し、乱されたスカートを正している。
そして俺の顔を見て「意外とエッチなんだね」と言った。
うるせえ。男なんてこんなもんだ。

屋上の扉は簡単に開く。施錠されてないのかよ。

天気は曇り。陰鬱な空模様だ。
雲の隙間からふと太陽が見えるが、またすぐに隠れてしまう。
なぜだか俺には、あの頼りない陽光が俺を救ってくれる気がした。

……風強いな。実は入学以来初めて屋上に来たのだ。
俺は女々しく自分の肩を抱きながら歩いた。
すぐ一人の女子が視界に入る。

「マリン!!」

やべ。間違えてマリンって呼んじまった。
マリンでも違和感ないから不思議だ。

マリーは屋上の手すり付近にいた。
敷いたハンカチの上で体育座り。
うつろな瞳で寒さに耐えている。
俺に気付くと顔を上げてこっちを見た。

「せん、ぱい……?」

うれしさ半分、うたがいが半分といったところか。
俺の隣にいるミウを見ると表情が険しくなる。

「ごめんねー。こんな寒いところで
 ずいぶんと待たせちゃったね」

「いえ」

ミウが涼しい顔で言うが、マリエは異常に殺気立っている。
確かにここは寒すぎるぞ。わざとか?
用があるなら7号室で待ってもらえばよかっただろ。

「7号室だと目立つじゃない。
 囚人だけでなく執行部員もたくさんいるんだから」

それが理由なのか?

「マリエさん。私はあなたと仲直りしたいと思っているの。
 あなたは太盛君の大切な友達だから、この前のことは
 なかったことにして、これからは仲良くしましょう?」

「仲良くしろと言われましても、私は7号室の囚人です。
 副会長殿とは別世界の人間ですから」

「そうじゃなくて、一人の人間としてあなたのことを
 尊重したいと思っているの。太盛君がどうしてもって
 言うから仕方なくね」

「一人の人間として尊重していただけるのはありがたいです。
 私は7号室の囚人なのですが」

「じゃあ出してあげようか?」

「え?」

「7号室から出してあげようか? あなたが
 囚人のままだと、たぶん太盛君が嫌がるだろうから。
 今回は特別に、ね。私の慈悲の心に感謝してね」

マリエは俺とミウを交互に見比べて長考した。

破格の条件だ。副会長の権限で収容所から解放されるのだ。
これだけの条件を出されて断るはずがないと思われたが。

「のう、せんきゅう」

その答えが理解できず、ミウは目を見開いた。

「仕方なくとか、太盛先輩のためとか、そういう理由で
 解放されるなら、収容所にいたほうがましです」

おいおい。うそだろ……。

「あなたは認めたくないだろうけど、私は太盛先輩の
 友達じゃなくて彼女です。私は太盛先輩と両思いです。
 この前太盛先輩と抱き合ってキスもしました。
 あなたが私室を出て行った後にね。太盛先輩に
 力強く抱かれて好きだって言ってもらいました」
 
あまりの衝撃にミウは石のように固まった。
自慢じゃないが俺もだ。
俺とミウは屋上に鎮座するトーテムポールとなってしまった。

「話はこれで終わりですか? 
 なら私は収容所に帰りますね」

マリーが去っていくのを俺たちは止めることができなかった。
しばらく呆然としていたミウだったが、
お昼休みのチャイムが鳴り、我に返った。

今正午なのか。こんなに時間が経っていたとは。
修羅場は時間の経過を早くするんだな。

「ミウ。お昼食べようか」

「そう……だね」

階段の踊り場に戻る。そのまま階段を降りたかったのが、
ミウは歩みを止め、振り返り俺をにらみつける。
なんて目をるするんだこいつは……。

恨みよりも哀しみが勝るのか、すぐ涙目になる。
さっきのマリエの話が本当か確かめたいんだろうな。

俺はさっきミウにセクハラしてもマリーのことを想っていた。
この時点で俺の気持ちは完全に決まってる。

「君は私が……生徒会に入った理由を知らないの?」

「理由か。なんだったかな」

ミウの目つきが鋭くなる。

「太盛君を収容所から救い出すためにいろいろと頑張ったら
 こうなったの。組織委員会に入ると収容所の健康管理の仕事が
 あるって聞いて、それで太盛君に会えると思ったの」

「君は俺のことをずっと好きでいてくれたのか。
 クラスの奴らは囚人のことをなんて興味もないし、
 全力で関わらないようにしていたじゃないか」

「他の人達はそんな感じだったけど、私は違うよ。
 クラス中を敵に回してスパイ容疑がかかりそうに
 なったけど、アキラさんに助けてもらったり、
 ナツキ君に生徒会へ推選されたりとか色々あった」

ミウは両手を大きく広げて話し続けた。

「ねえ太盛君。私は太盛君が困るようなことは
 何もしてないつもりだよ。アキラは粛清した。
 もうあなたを収容所送りにする人はいない。
 ねえねえ。私がやってることってそんなにおかしいかな?」

彼女は息が荒く、こぶしが白くなるまで握っている。

「太盛君は私の気持ちには答えてくれないんだね。
 私は君に愛を与えるだけで、私には何もくれないんだね」

俺はネクタイをしっかりと掴まれてしまう。
まさしく恫喝(どうかつ)されている状態だ。

「私が今まで頑張っていたのはなんだったの?
 全部無駄だったの? ねえ、どうなの?
 答えてよ。答えてよ!! 答えてよぉ太盛君!!」

ミウが今まで俺に対して声を荒げることはなかった。
たとえビンタした時でさえ、冷静さを保っていた。
人目がなければ、こいつは副会長でなく
一人の女の子になるということか。

「私は太盛君にとってどうでもいい存在なの?
 だとしたら私は何のために生きてるの?
 君があの女を選ぶって言ってるのはね、
 私に死ねって言ってるのと同じ意味なんだよ!!
 少しは私の気持ちを分かってよ!!」

下手に刺激したら拷問される可能性もゼロじゃない。
頭でいろいろと考えるが、こいつの怒りが収まるまで
黙って聞いてやるしかないのだろう。

prrrrrrrrrrrrr

やった。この無機質な着信はミウの仕事用の携帯の音だ。
仕事を理由に切り抜けてくれたら助かる…。

「うるさいな。こんな時に」

ミウは携帯を乱暴に投げ捨てた
俺の希望は一瞬で消えたのだ。

「早く答えて」

ここは屋上前の踊り場だが、
断崖絶壁に立たされているのに等しい状況だ。

「俺はミウのことも好きだ」

あいまいな回答。もちろんミウが求めていた答えじゃない。

「…も、って何?」

「みんな大切だと思っているってことだよ」

「私は太盛君の彼女なんだよね?」

「そうだな……」

「じゃあシュウジ……マリエは?」

「早くお昼ご飯を食べようか」

「は?」

「早く教室に戻らないと昼休み終わっちまうぞ」

俺は無理やりミウの手を取り、歩き出そうとした。

「ちゃんと質問に答えてよ!!」

耳鳴りがするほどの大音量だった。
手を振りほどかれてしまったが、俺はひるまない。

「ミウ。落ち着け。今日のお前はおかしいぞ」

いつもおかしいがな。

「太盛君があいまいなこと言うからだよ!!
 なんで私をこんなに悲しくさせるの!?
 結局斎藤のことが一番好きって言いたいんでしょ!?
 だったらそうだとはっきり言いなよ。いくじなし!!
 嘘つき!!いつもいつも嘘ばっかりついて私をだます!!
 私たち付き合っていたはずなのに、
 どうして他の女のところに行こうとするの!?」

「黙れよ!!」

「えっ…」

「黙れって言ったんだよ!! ガキじゃあるまいし、
 ごちゃごちゃうるせー!!
 おまえさっきから取り乱しすぎだぞ!!
 昼休みにあんまり騒ぐと他の生徒にも
 聞こえるかもしれないだろ!!」

「……なにそれ。逆切れのつもり?
 全部太盛君があいまいなのが悪いのに、
 なに偉そうに切れてるの!!」

「このまま話してても平行線でらちが明かないからだよ!!
 腹が減ったから昼飯食いたいんだけど!!
 正しく昼食をとらないのもボリシェビキでは
 校則違反になるんだろ!?ええ? どうなんだよ!!」

「関係ない!! そういう太盛君こそ、私の質問に答えずに
 逃げてるだけじゃない!! 太盛君が私のことを一番に
 好きって言ってくれるまで何時間でも問い詰めてやるから!! 
 いっそマリエもエリカも拷問して一生収容所に閉じ込めてやる!!」

「ミウ。悪い。……我慢の限界だ!!」

俺は手加減なしでミウの頬(ほほ)をひっぱたいた。
衝撃でミウが横にのけぞるほどに。
ミウは叩かれたショックで目に涙をためる。

「いつもいつも、最後は叩くんだね。
 そんなにぶつのが好きなら、好きなだけぶてば?
 あっ、太盛君はSだから女の子を痛めつけるのが趣味なの?」

「……つい頭に血が上った。謝るよ。
 俺は中3の時に荒れてたからな。
 その時の名残でつい手が出ちまうんだ」

こいつを叱ったり、諭したりできる立場にあるのは、
多分俺だけだ。こいつの暴走を許すとエリカやマリーが
本当に拷問されるかもしれないんだぞ。
俺の暴力には正当性があるんじゃないだろうか。

とはいえ、このままじゃまずい。ミウは痛みが治まると
再び怒りのボルテージが上昇したようで饒舌になる。

「斎藤のことはお姫扱いする癖に!!
 私のことばかり殴って!! こんなの理不尽すぎる!!
 なんで私ばっかり太盛君に殴られるの!?」

「なあミウ」

「あいかんとすたんと!! ゆう ひっとどみぃ めにぃたいむす!! 
 ようどんのう!!あいすぺんと さうざんどおぶたいむ 
 ふぉこみゅにすとめんばー あんどでぃすすくーる!! 
 あんどようどんとのう!! ざっとあいじゃすと 
 わんてっどとぅ ていくゆーあうと、ふろむぷりずん!!
 あいでぃど えぶりすぃんぐ あいかん!!」

英国英語キンキンして耳に刺さるんだよ。
しかも何言ってるか分からねえ。

俺がミウに近寄ると、面白いことにミウが肩を震わせた。
またぶたれると思ってるのか?

「今日の君はマリエと仲直りしようとしてくれた。
 それだけでも俺はうれしかったよ。マリエの態度は
 ちょっとあれだったかもしれないが、人間みんな
 考えていることは違うんだから、しょうがないよ」

そう言って抱きしめ、後ろ髪をなでてあげた。
ミウの怒りが収まったのか、にわかに深刻だった空気がわやらぐ。
「ごめん」とぎゅっと言い抱きしめていた。
やがてミウの方からも抱き返してくるようになる。

「太盛君の方から抱きしめてきたの、初めてじゃない?」

「そうかもな」

「初めから、そうしてくれればいいんだよ。
 私だけを見てほしかった」

「悪いのは生徒会だ。今年の夏休み明けから
 俺は収容所行きになり、それが原因で全てが狂ってしまった。
 あの事件がなければ俺はずっとミウと一緒にいられたと思う」

ミウは黙る。それはうそだと無言で告げているようだった。
確かにそうだな。俺はマリーの失語症の治療として
毎日彼女に家に遊びに行っていた。

どのみちマリエとミウが恋のライバルなことに変わりない。
今は互いの地位に天と地の差がついてしまっているだけだ。

階段の方から着信音が鳴る。
先ほどミウが投げ捨てた携帯だろう。
踊り場の階段から少し降りたところにあった。
俺は気を聞かせて取りに行ってやる。

ミウは携帯に送られたメールの文面を読んだ。

「このあと会議室に行かないといけないの。
 まだ話したいことあるけど、私行かなきゃ」

「そっか」

「また暇なときにお話ししようね?
 私たちに一番足らないのは話をする時間だと思うから」

ミウは俺のほっぺたにキスをしてから早足で去っていった。

俺は安心し、その場で腰を抜かしてしまう。
その場の勢いでミウを殴ったわけだが、常に反逆罪が
脳裏をちらつくので俺自身への負担もハンパじゃない。

今回はなんとか切り抜けられたようだが、
これが毎回続くのかと思うと転校したくなる。

勝手な理由で転校の手続きを取ろうとしたら
速やかに生徒会に察知され収容所送りになるがな。
すでに15人以上送られたからシャレにならん。


昼休みはまだ15分残ってる。
急いで食べないと五時間目の授業で腹が減ってしまう。

俺は量を食べないとダメなタイプなので
お弁当は大目に作ってもらってる。
家でも結構食べるけど、不思議と肥満になったことはない。
代謝が良いのだろうか? 運動部ではないのだが。

「太盛様。お待ちしておりました」

誰だ? 見た目はエリカに見えるが、口調が別人だ。
教室に入るなり、いきなりこの調子だから驚く。

「副会長殿にご用があったようなのでお昼ご飯を
 食べるのが遅れてしまったのですね」

「お、おう。そうだが、まさかエリカも
 食べてなかったのかい?」

「太盛様が来るのをお待ちしておりました」

「なんでだよ? 友達と先に食べればよかっただろ」

「いいえ。私は以前から太盛様と
 お昼をご一緒していたじゃないですか」

「いやいや。そりぁそうだけど、今俺とエリカが
 一緒に食べたら大問題だぞ。理由はあえて言わないが」

「それは問題ありませんわ」

なんと、ミウに確認を取っているらしい。
太盛の『友達の範囲』として、
太盛と普通に接することが許されると。

なんだそりゃ。男女で食事するって、
学内では激しく目立つぞ。
会話はオッケーでもイチャイチャしても
おkとまではミウは言ってないだろうに。

ミウはいつの間にそんな許可を出してたんだ。
だからミウはエリカをスルーして
マリエに謝りに行ってたのか?

どっちでもいいや。

「じゃあ久しぶりだし、一緒に食べるか」

「はい」

俺とエリカは一つの机をはさむ格好で食事をした。
そういえばエリカと話すのは久しぶりだな。

他の生徒はとっくに食べ終わっていて、雑談したり
廊下を歩いたりと好きに過ごしている。
俺のことは誰も気にせず、空気のように扱ってくれて助かるよ。

俺は時間がないということもあり、早食いしていた。
品がないのは承知している。

「うふふ。太盛君、お腹すいてたのね?」

「ん? そりゃそうだ。神経使うことが多いから
 腹が減ってしょうがないよ」

「今度は私が作ってきましょうか」

「うれしいけど、しばらくは遠慮させてもらうよ。
 最近六号室でも反乱が起きたばかりで
 学内は殺伐としているからね」

「あらそう? 残念」

「さっきから気になるんだが、
 どうして俺に様をつけて呼ぶんだ?
 しかも敬語じゃないか」

「太盛様は私の未来の旦那様になるからです」

「あん?」

「私、決めたの。あとでお父様に話をつけて
 太盛様と婚約するって」

飲んでいたコーヒー牛乳を吹き出してしまった。

「私には太盛様しかいないって思ったの。
 冗談を言ってるように見える?」

あまりにも端的な説明だが、強い意志が感じられる。
前からエリカから好かれているのは知っていたが、
今度という今度はガチというわけか。

『婚約』

ミウが聞いたら激怒して即監禁拷問されても文句は言えない。
俺はエリカの勇気ある行動を称賛したい気持ちにもなる。
まだ社会にも出てない身で、一人の女の子から
ここまで愛されているのは自分でもすごいとは思う。

なんでエリカもミウも俺に執着するんだ?
俺が女の立場になって考えてみる。
うん。俺は全く魅力がないと思う。

俺はまたトーテムポールの顔で固まっていた。
この学園の複雑な事情を考えたら
ポール(略した)になるのも無理はないだろう。

そのままの顔で昼休み終了のチャイムを向かえた。

「ふぇ……五時間目の授業をはじめますぅ。ひぃひぃ」

年寄りの現国の先生がやって来た。
杖を突かないと歩けないほどヨボヨボだ。
実年齢は82歳とか聞いたが、いつまで教師やってんだ。
早く引退しとけよ。

このじいさんは生徒達からもなめられている。
クラスの奴らは、隣の席の奴と雑談したり、
内職(宿題など)をしたりと好き放題やっている。

俺は一応クラス委員なので真面目に聞くがな。
前に成績トップの女子が言ってたよ。

爺さんの話は遅いから、自分で参考書を開いて
予習したほうが効率いいと。悲しいが、事実だろうな。

「で、あるからですね……。先ほどの例文で
 この文章に対する比喩表現として……」

じいさん。おせえよ。確かに日が暮れるわ。

収容所から出て普通の授業を受けると
かえって新鮮だな。ここではロシア語を聞くこともない。
時間割りを見ると英語はあってもロシア語会話の時間はない。
当たり前だよな。

普通は日本の高校でロシア語なんて縁がないだろうよ。

そういえば、このクラスでも色々なことが
あったんだろうな。クラスメイトの顔が懐かしいよ。
みんな俺に異常にビビってるがな。

クラスメイト……。クラスメイトといえば……

脳裏に一人の女子が浮かんだ。
長い黒髪のポニーテール。シュシュ。

明るくて活発で、前向きで、覚えが早くて、
俺が収容所での生活の仕方を教えてあげて。

共に運命共同体を誓い合った……。

俺はバカだ。なんであの子のことを忘れてたんだ。

このクラスには足りない人がいるじゃないか。
小倉カナ。収容所で俺と一緒の日々を過ごしていたあの子だよ。

『諦めちゃだめ。暗いトンネルの中にいても
 いつかゴールは見えるから。太盛も頑張ようよ』

俺の肩を優しく叩いてくれた。
あの時のマラソンの時間を思い出す。
カナはいつも俺の味方だった。

『太盛と一緒にいると辛いのを忘れられる。
 たぶん卒業するまで収容所生活なんだろうけど、
 あと一年ちょっとだから我慢しようか』

収容所で交わした何気ない会話が、
俺にとっての最高の思い出となっている。

そうだよ。俺は何を勘違いしていたんだ。

俺の本当に大切な人がまだ三号室にいるんだ。
それなのにこのクラスの奴らは、
のんきな顔で授業受けやがって。

「堀クぅン……? 急に席を立ってどぅーしましたかぁ」

爺さんの言葉は耳に入らない。

俺はクラス中を見渡してカナの席が
ないことを確認し許せなくなった。

「なんで小倉カナの席がないんだよ!!」

じいさんはびっくりして尻もちを着いた。
他の生徒は仰天している。
 
「おい!! みんな!! なに普通の顔して授業受けてるんだ!!
 カナの席はどうしたんだよ!! 片付けたのか!?
 誰がやった!? カナが永遠に収容所にいるとでも
 思ったのか!? カナに対して失礼だろうが!! おい!!」

俺はたまたまた近くにいた男子の胸ぐらをつかんだ。

「どうなんだよ!? 誰がカナの席を片付けた!?

「ぼ、ぼぼ、僕には分かりません!!」

「なんで知らねえんだこら!! 
 おまえは1組の生徒じゃないのか!!」

「そうですけどぉ……」

「なら早く答えろよ!! ぶっ飛ばされたいのか!!」

「ひぃ……堀太盛様。どうかお許しを」

そいつは俺の迫力に恐れをなして
頭をかかえて座りこんだ。
くそ。なら他の奴だ。

「おまえはどうなんだよ!!」

「ひぅ!」

適当な女子をつかまえて問い詰めたが、同じだった。
誰も知らないのか? なら全員問い詰めて……

「落ち着いてください太盛様」

エリカが俺の横に寄り添っている。

「小倉さんの席ならマサヤ君の指示で撤去しました」

「なんだと?」

エリカからそう言われ、俺はマサヤに駆け寄った。

「この野郎……マサヤぁぁぁああああ!!」

「うわああああああああ!!」

俺が怒鳴っただけで
マサヤは恐慌状態になり、腰を抜かした。

「おまえは……!! 男子の……クラス委員じゃなかったのか!!」

「そ、そうだよおぉおおお!! だからなんだぁああ!!」

「勝手にカナの席を撤去してんじゃねえ!!
 なぜ撤去する必要があった!?
 おまえもカナがずっとこのクラスに
 帰ってこないと思ったのか!?」

「お、俺はぁぁぁぁ!! 横田先生に
 指示されてやったんだぁぁああ!!
 俺の意思じゃねえええぇ!!」

こいつの口調は面白いな。おびえているくせに
半ギレ気味に言い返してくる。なんで語尾を伸ばすんだ?

横田は担任の若い女教師のことだよ。

「なら横田をあとで説教しないとな!?
 カナをバカにする奴は誰だろうと許せねえんだよ!!」

「す、好きにしろよおぉぉ!! だ、だがそんなこと
 言ってると生徒会のみなさんの逆鱗に触れるぞ!!
 俺は知らねえからな!! ふわああああああああ!!」

マサヤは何を思ったのか、扉を開けて走り去った。
すごい速さだった。あいつの前世は競走馬か?

俺は他のクラスメイトを見渡して言った。

「お前らに言っておくぞ!! カナの名誉を守れ!!
 カナがこのクラスの人だってことを忘れるな!!
 カナの席がないなんて、ありえないことだぞ!!
 なあ、分かったのかよおまえら!!」

シーン……。
まさにお通夜状態となった。
まあ俺は怒りに任せて怒鳴り散らしたからな。

クラス中から非難されてもおかしくない状態だが、
みんな俺と視線を合わせず、うつむいている。

確かに俺がミウの彼氏だと気まずいのだろう。
とはいえ、さすがに出しゃばり過ぎたか。

「私は太盛様を支持しますわ」

エリカが俺の腕を抱きしめながら言った。

「小倉さんはクラスメイトの一員よ。
 同じクラスの人を大切にするようにと朝礼でも
 言われているじゃない。それに反省室に入ったからって
 一生出られないわけじゃないわ。
 現に太盛様も今ここにいるのを忘れないでほしいわ」

そう言ってくれるか。
こんな俺の肩を持ってくれるのは君だけだよ。
俺の中でエリカの株が急上昇した。

「おい太盛。俺は戻って来たぞ」

誰かと思ったらマサヤか。
教室の扉の前で偉そうな顔をしてるのがカンに触る。

「太盛は現国の授業中に騒ぎ立て、授業妨害をした。
 これは学園では犯罪行為だぞ。しかも三号室の囚人の
 肩を持つとは、反革命的言動だ」

「なんだよ? 俺を生徒会に通報するつもりか?」

「それには及ばない。こちらに会長閣下がいらっしゃる。
 お前にも言い分があるのだろうから、
 ジャッジは閣下にお任せしようじゃないか」

なんということだ。あの生徒会長の高倉ナツキが
1組に入って来たぞ。副官のロシア女も一緒かよ。

おいおい。ミウが来るのは覚悟していたが、
まさかの会長かよ。まあミウが来たら
俺の主張を認めて終わりだろうからな。

マサヤの野郎。話をややこしくしやがって。


~橘エリカ~

わざわざ生徒会長を連れて来るなんてすごい執念ね。
そこまでして太盛君を言い負かしたいのかしら。

「生徒会長殿。こんな茶番に付き合わせてしまって
 申し訳ありません。マサヤのことは忘れて
 執務に戻ってはいただけませんか?」

「これも仕事だから気にしないでくれ太盛君。
 君が授業を妨害したのは事実。
 まず両者の言い分を聞いておこうと思う」

ナツキ君はあくまで調停役をするつもりなのね。
確かにクラス内のもめごとは、クラス内で処理するか、
それが困難な場合は生徒会の人間に頼るのがルールね。

ナツキ君は部下がたくさんいるでしょ。
会長を連れてくるのはやり過ぎだと思うけど。

「実は僕は二組でロシア語の指導を
 していたところだ。ちょうど君たちの
 大きな声が聞こえてきたら、心配はしていたよ」

ナツキ君は二年二組の生徒。なるほど。
だからマサヤが呼びに行ってすぐに来たのね。

ロシア語の指導は、生徒会が独自に組み込んだ授業。
英語の授業時間が半分削られてロシア語にするそうだけど。
ナツキ君は聡明だから教員の代わりもできる。

「さてと。マサヤ君からおおむねの事情は聞いているよ。
 話し合いの争点は、小倉カナの席がないことが
 彼女の名誉の侵害、侮辱につながるかどうかだね。
 またそのことが1組の生徒の総意で行われたか」

さすがナツキ君。頭脳明晰。一瞬で問題点を要約した。

「これより簡易クラス裁判を行う。
 裁判官はこの僕だ。これは規則に書かれて
 いることだから、君たちも異存はないね?」

太盛君とバカマサヤはうなずいた。
副官のナジェージダは大きなメモ帳を手にしている。
速筆ね。この裁判の議事録を作ろうとしている。
きりっとしていて、頭良さそうな女。

「原告と呼称したら分かりにくいか……。
 では訴えた側のマサヤ君。
 君の考えを主張しなさい」

「はっ。堀太盛は、小倉カナの席が撤去されたのは
 横田先生の指示であることは事実です。それなのに
 無実の生徒らを怒鳴るなどしてクラス中を混乱に陥れました」

太盛君が言い返そうとしてる。だめよ。
相手が主張してる時は黙って聞かないと。

私が彼の腕を強く抱くと、
太盛君の怒りが少し収まったみたい。

「小倉カナは生徒会の皆さんの合意のもと、
 反省室に送られ、更生中の身ですから人権など
 あるわけがありません。使われない席を
 撤去した横田先生の判断を私は支持します」

「ふむ。続けなさい」

「堀太盛君の言動には問題があります。
 クラスメイトを怒鳴ったり、殴ると脅したり、
 野蛮でナチスを連想させます。我々ボリシェビキは
 話し合いを好みますし、暴力は嫌います」

マサヤの声がどんどん大きくなっていく。
こいつのしゃべりはうまい。

たとえ中身がゼロでも演説家の才能があるから注目を集める。

「彼は同士・高野ミウの友達ということで
 調子に乗っているのもあるのでしょう。
 これは今回の事件と関係ありませんが、
 同士・橘エリカとも懇意(こんい)の関係にあるようです」

「堀太盛は浮気性なのかもしれません。
 彼の自由恋愛の姿勢は資本主義的な発想と考えられます。
 彼に対する共産主義教育が足りなかったのか、
 あるいは今後もしっかりと教育するべきでしょう」

「クラスのみんなにも聞いてほしい。我々は特権階級を
 作らないという基本的概念があるではないか。
 今の太盛はなんだ? 同士ミウの力を借りてクラスで
 大手を振っている!!」

「小倉カナがどうだとか、それを彼に語る資格があるのか!?
 囚人に関することは生徒会の所感だと規則で
 はっきり決まっているじゃないか!! さあ、
 勇気と知性あるクラスメイト諸君。俺に賛同してほしい」

いつまで1人でしゃべってるのよ。うざすぎ。
そんなに法廷で話すのが好きなら弁護士でも目指しなさいよ。

マサヤに拍手する人が多いこと。腹立つわね。
今のところクラスの6割がマサヤ派か。

「マサヤ君の主張は以上。次は被告側の太盛君がどうぞ。
 先ほどの意見を認めないなら、好きに反論してけっこう」

太盛君は不敵に笑った。

「では遠慮なく反論しますね。まず三号室の人間の
 人権ですが、同士・マサヤは前会長時代の悪しき風習を
 いまだに引き継いでいるようだ。ミウは朝礼でも
 前会長を明確に否定した」

「反省室にいる生徒は、更生中の身であり、
 一日でも早くクラスへの復帰を目指すものだ。
 これは現生徒会の規則に書かれている。
 しっかり読んでみるといい」

「生徒会総選挙の時期と前後するから、前会長時代の
 規則は今では無効だ。全体朝礼で多数の改正規則が
 発表されたじゃないか。忘れたとは言わせないぞ」

「七号室は重罪のため人権がはく奪されているが、
 三号室に関してはその限りではない。俺は経験者
 だから言えるが、三号室では氏名を名乗る権利があり、
 夕方には家に帰ることができた」

「よってカナはクラスに戻る可能性がある。
 そして人権もある。彼女に人権があることを
 会長殿は認めますか?」

ナツキ君は副官から資料を手渡されて言った。

「確かに三号室の人間には人権がある。
 三号室は将来有望なボリシェビキを教育している。
 規則によると人権がないのは
 六号室と七号室の人間となっている。」

「ありがとうございます。では彼女の席を
 撤去する必要が今はありませんよね?
 確かに横田先生が当時の状況で撤去を
 指示したのは妥当だったのかもしれませんが、
 今の生徒会はナツキ会長率いる新体制です」

「太盛君の主張を認める」

クラスがどよめいたわ。私もびっくりよ。
こんなにもあっさりと太盛君の主張が通るなんて。

「小倉カナは粛清されて精神病になったり
 病院送りになったわけではない。今も元気に
 反省室で勉強を続けている身だ。太盛君同様に
 いつでも戻れる可能性がある。彼女の席はあるべきだ」

マサヤは悔しそうな顔をしているわ。
絶対に太盛君を倒せる自信があったのでしょう。

「意義あり!!」

マサヤの挙手をナツキ君は認めたわ。

「小倉カナの席の件は認めざるを得ませんが、
 太盛の恫喝、暴力未遂での授業妨害を抗議します!!」

「このように言われているが、太盛君はどう思う?
 自分がクラスを混乱させた自覚はあるか?」

「もちろんありますよ会長。
 この件は反論しようがないな。
 頭でも下げれば許してもらえますかね」

太盛君。つらそうね……。

「クラスメイトだけじゃないぞ!!
 先生にも謝れ!! おまえが急に怒鳴るせいで
 しりもちをついたじゃないか!! 怪我してないだろうな!? 
 証人として先生に当時の状況を語ってもらうか」

なんて攻撃的な言い方。マサヤは相手を言い負かさないと
気が済まない性格なのね。彼がボリシェビキになる前は
もっと優しい性格だと思っていたのに。

もう我慢できない。

「あの……私が太盛様の弁護をしてもよろしいですか?」

ナツキ君は優しいから認めてくれた。
被告には弁護人が付くのは当たり前だけどね。

「太盛君は同士ミウの恩情によってクラスに
 復帰したばかりで混乱しているのもうなずけます。
 彼は小倉カナとは反省室仲間で特別な感情が
 あったのでしょう」

「堀太盛君が、罪なき罪によって三号室行きになったと、
 同士ミウからはっきりと説明されたではないですか。
 三号室での生活がどれだけ苦痛だったか。
 彼の心情を考えれば、少し攻撃的になるのも
 仕方ないことだと思うわ」

マサヤがいきり立って反論してきたわ。

「貴様は太盛が好きだから弁護するのだろうが!!
 橘エリカの言っていることは個人的な感情が混じっており、
 無効だ!! またミウ様のご学友になれなれしくして不快だ!!
 貴様が彼と食事をした件は報告させてもらうぞ!!」

私も負けないわ。

「報告するなら好きになさって。ミウ様は私を
 太盛君の友達として認めてくれた。書面があるわよ?
 太盛君と健全に関わるのなら問題ないはずよ」

「私を通報するですって? いいわよ。ただし、
 私もあなたが太盛君に謝罪を要求したことを報告するけど。
 見方によっては太盛君を侮辱したと考えられる。
 太盛君の侮辱は副会長殿の侮辱になるのを忘れたの?」

「く……くそぉおぉぉ……くぅぅぅぅぅぅ!!」

奴はテーブルを叩き、くやしそうに頭をかいているわ。

どっちも切り札がミウなのが悲しいけどね。
ここはミウのクラス。
奴の支配下だから私たちの自由なんてない。

「判決を下す。太盛君の主張を認める。
 小倉カナの席を速やかに用意すること。
 これに伴う罰則はなし。以上だ」

おとがめなし。綺麗に話し合いが終わったわね。
さすがナツキ君。敗訴した側を反革命扱いは
しないのね。やっぱりミウさえいなければ、
この学園はまともだったのかもしれないわ。

「エリカ。弁護してくれてありがとう」

彼に耳打ちされて、体が宙に
浮かぶほど気分が高揚した。

「私は太盛様にどこまでも着いてきますわ」

彼は照れ臭そうに笑う。
私があなたに難しいことを望んでいるわけじゃないの。
この先この学校でどんなことがあっても
貴方のそばを離れたくない。

貴方の心の大半をカナが占めていたとしても、
今はそれでいい。今は仕方ないと諦められるわ。
私はミウみたいにヒステリックにならないって決めた。

太盛君に好きない人がいても否定しない。
私もカナが解放される日を願うわ。

でもね。途中で他の女のところに行っても、
最後は私のもとに帰ってきてね?

その日は、それから何事もなく帰りのHRの時間になった。
担任の横田先生は生徒会から何か言われたのか、
何かにおびえるような態度を取っている。

先生は大学を出たばかりで、小柄でメガネをかけた美人教師。
私もあんな感じの知的な大人になってみたいものだわ。

「みなさん、テストが終わったら冬休み前になりますが、
 二年生だからと気を抜かないように。
 家でも家庭でも品行方正な生活を心掛けてください」

「はい。先生」

「え」

横田先生は固まったわ。だっていきなりミウが
扉を開けて入って来たのだから。あの女、ずいぶん
ご機嫌斜めね。思ってることがすぐ顔に出るのよ。
怒りのオーラを全身から発してるじゃない。

奴は生徒会幹部の特権で授業が免除されているから、
よほど暇な時以外は1組に来ないわ。
もしくは今みたいに、緊急事態以外はね。

「私も気を抜かないように気を付けます。
 勉強は学生の本文ですから。ねえ、先生?」

「は……はははは……はい。副会長様」

「先生。もしかしてこれで話を
 終わりにするつもりだったんですか?」

「え……だって、これ以上
 報告事項はないはずですけど」

「は?」

「はい? えっとぉ……私何か…お気に触ることを?」

「言いましたよね?」

「そ、そんなつもりは」

「みなまで言わないと分かりませんか?」

横田先生は気の毒なくらいおびえているわ。

ミウの後ろにひかえている護衛が
目を光らせている。あいつらの目つき、普通じゃないわ。
このキチ集団さえいなければ、あんな奴怖くないのに。
権力を悪用して先生を脅すなんて最低。

「あなたは太盛君の裁判のことを
 口にしてないでしょう!! 太盛君がマサヤに
 訴えられて余計な時間を使わされたのよ!!
 それを今すぐクラスで話し合いなさいよ!!」

「ひやぁあぁああ!!」

横田先生は腰を抜かしてしまったわ。
この展開、お昼にも似たようなのを
見たばかりだから笑えるわ。

「横田先生は、堀太盛君がクラスメイトに公然と
 侮辱されたのになんとも思わないんですか?
 どうですか? はっきり答えてくださいよ」

「わ、わわ、私は現場を見たわけではないので」

「現場を見てないとか、
 そういうこと聞いてるんじゃないですよ!!」

ミウのクソ野郎は教卓を蹴り飛ばしたわ。
無駄にでかい音を立てるのは暴走族と同じね。
完全にヒステリーじゃない。

女には野郎をつけるべきじゃないけど、
こんな奴、野郎で良いわ。

「太盛君が!! 私の太盛君が!! 
 あなたの担当しているクラスで
 裁判にかけられたんですよ!?
 担任として何か思うことはないですか?」

「裁判は無事に終わったと聞いてますが!!」

「何言ってるんですか? 
 そう思ってるのは先生だけですよ」

当事者の太盛君は、他の生徒と同じように
唖然(あぜん)としているわ。そして全員固まっている。
分かりやすく例えると、
お地蔵さんが40体ほど着席している感じかしら。

マサヤは机の上で頭を抱えてガタガタ震えている。
太盛君を敵に回したら奴がキレるって
ことくらい予想しておきなさいよ。

もうマサヤの収容所行きは待ったなしね。
この流れだと地下室行きさえ狙えるレベル。
男の子なんだから目標は大きい方がいいわね。

「すみません。同士ミウ様。すみませんっ。
 私は教師として不適切なHRをしてしまいましたっ」

「その調子であと100回くらい謝ってよ。
 もちろん太盛君にも謝ってね。
 太盛君を侮辱する奴はみんな指導対象だよ!!」

そう言って、ミウは竹刀で床をバシバシ叩いたわ。
昭和の学園ドラマに影響でもされたのかしら。
その竹刀、わざわざ護衛に持ってきてもらったのね。

そんな子供だましの脅しでも、生徒たちにとっては
深刻な事態よ。なにせあのクソ野郎に逆らったら
本当に収容所で拷問されるのだから。

横田先生は美しい顔が泣き顔で台無しになっているわ。
ミウにひざまずいて、ずっと謝罪の言葉を言い続けている。
あわれなものね。

「さーて。次はマサヤだね」

「だぁああぁぁ……」

ミウがマサヤの胸ぐらをつかんだわ。
身長差があるので床から持ち上がるほどじゃないけどね。
男子の胸ぐらをつかんで片手には竹刀って……。
どこの世界のヤンキーよ。

「ドウシぃ、マサヤぁ、クン。
 ヨぉくモぉ私の太盛君を簡易裁判にかけてくれましたネ?
 生徒会長のナツキ君まデ呼ぶナンテェ何考えてるノ? 
 彼は毎日忙しいんダよ。ワザワザ呼ぶほどのことだったの?」

「あ、あわわわわわ。あわあわ」

泡? 泡がどうかしたのかしら。
もうこいつは死んだも同然ね。

あとミウはどうしてカタコトなの。
マジギレして日本語の発音に影響出てるの?
あいつ日本人の顔してるけど中身は外人なのね。

ミウが胸から手を離すと、マサヤは
力が抜けたように床にへたり込んだ。

「マサヤに賛同したクラスメイトがいるらしいね? 
 それと拍手した人がいたとか。あのさー。
 よかったら手を挙げてもらっていいかな?
 嘘ついても後で拷問するから同じだよ。早く手を挙げて」

殺伐とした教室内で次々と手が挙がっていく。

女子のすすり泣く声が聞こえる。
泣いてるのは井上さんか。
あの子も楽しそうに拍手してたから収容所行きね。

どうしてこのクラスはすぐ修羅場になるのかしら。
最近修羅場が多すぎて自分でも慣れてきたわ。

「こんなに太盛君の反対勢力がいるんだ。
 困っちゃうねぇ。全員指導してあげないと
 いけないのかな? 私そんなに暇じゃないのに」

ミウは、床に転がっているマサヤを足蹴にしているわ。
マサヤは自分から床の上でイモムシみたいに丸まっているの。

イモムシって……。
何を考えてるのか知らないけど、爆笑したくなるわ。
シリアスな状態で体を張ったギャグをしないで。

「このクラスは反革命容疑者が多すぎるよ。
 いつから1組はこんな状態になったの?
 まったく……私は心から残念に思うよ!!」

竹刀で黒板を叩き始めたわ。音がうるさい。
バカと子供はでかい音を立てるのを好むわね。

「おいミウ」

さすがに太盛君が席を立ったわ。
そうよね。この女の横暴を許すわけにはいかないわ。
何か言ってあげて。

「ミウに同意するよ。このクラスはもうだめだな」

え……?

「クラスのみんなー。聞いてくれ。
 俺はこのクラスが大嫌いだ!! 
 今日の昼の茶番だが、俺は激しく憤慨した!!
 おまえら、みんな死ねよ!! 
 このクラスそのものが気に入らないんだよ!!」

太盛君……?

「生徒会の規則に連帯責任があっただろ?
 俺たち全員で責任を取ろうぜ」

「ちょ……何言って」

あのミウでさえ動揺している。
本当に何を言ってるのよ私の彼は。

「このクラスの人間は全員収容所行きになろう!!
 おまえらの腐った根性も収容所に行けば
 少しは治るだろう!! もちろん俺も行く。
 ミウ以外は全員収容所行き決定だ!!」

「はぁ……!?」

ミウがかなりの衝撃を受けていて、
間抜けな声を上げたわ。
奴のこんな顔を始めてみたわ。

「ミウ。副会長のお前に頼みがある」

「う、うん?」

「俺たち二年一君は自主的に収容所に入る。
 できたばかりの六号室は空きがあるだろ?
 一クラス分なら何とかなると思うが?」

「確かにあと70人分の空きがあるけど、
 そういう問題じゃない……」

「なんだ? ダメなのか?」

「君も入ることになるんでしょ?」

「そうだよ?」

何がおかしいのかと太盛君が首をかしげている。
太盛君は裁判のストレスで
色々と疲れてしまったのかしら。

「早く命令を出してくれ」

「ナニを言ってるの? 
 正気なの? 太盛君はダメだよ!!」

「なんで俺だけダメなんだ?
 みんな平等に収容所行きになろうぜ」

「六号室は私の管理下なの。警備は厳重で
 中の規則も相当厳しいよ? そんなところに
 自分から入るなんて、どうかしてるよ!!」

「うるせえ!! いいから命令出せよ!!」

「ひっ…」

「おまえと関わるようになってから、俺はとっくに
 どうかしてるよ!! 俺はな、このクラスに小倉カナが
 いないことが許せねえんだ!! クラスの奴らもカナが
 いないのを当たり前のように考えやがって!! くそおお!!」

太盛君は椅子を振り回し、窓ガラスを割ってしまった。
ガラスの破片が飛び散る。
窓際の生徒はいっせいに廊下側に避難してきて、
太盛君の雄姿をクラス全員で見守ることになった。

もうやめようよと、ミウが太盛君に
懇願(こんがん)する形になった。
殺人鬼のくせに、乙女の顔してるのに虫唾が走る。

「じゃあ、俺だけで良いよ!! 
 俺はこの通り暴れたぞ!!
 早く収容所送りにしてみろ!! 
 できれば三号室の方が良いな!!」

「三号室ってまさか」

「ああ。会いたい人がいるからな」

ミウの顔が乙女から小姑へと変わる。

「カナ、カナってバカみたい!! 
 昔の彼女のことなんか忘れなよ!!
 いつまであの女のことを引きずってるの?」

「なにぃ?」 ←太盛君がキレた。

彼の顔は、カムチャッカ半島に生息するアライグマのようでした。

「あの女は太盛君のことなんて忘れてるよ!!
 だって太盛君と会うこともできないし、
 話すこともできないんだもの!! あはははは。
 会えないんじゃどうしようもないね。残念だったね!?」

「俺とカナは死ぬ時まで一緒だと誓い合った仲だ。 
 良く知りもせず、勝手なこと言ってんじゃねえよ!!」

ドガアアン

彼の両手で突き飛ばされたミウ。
いくつもの机と椅子を巻き込み、尻もちをついた。

太盛君……。クラス中が見守る中、
副会長を暴行するとか勇者過ぎるでしょ。
このうわさが広がれば、太盛君はアレキサンダー大王並みの
英雄として学内で評判になりそうね。

護衛の奴らが今にも太盛君に襲い掛かりたくて
ウズウズしてるじゃない。ミウが許可を出せば
10秒後には腕の関節が外されるのは確実。

「いっ……たぁい…。どうしていつもこんなことするの?
 しかもクラスのみんなが見てる前で」

現在、全一組が泣いた、レベルの視聴率となっているわよ。
クラス中の羨望のまなざしを受けてさすがの太盛君も
ばつが悪かったのか。頭をかきながらミウに手を差し伸べる。

「ご、ごめん。またやっちまった」

「触らないで」

ミウは腰を抑えながら立ち上がり、制服の乱れを正した。

「もう許してあげない。私がこれだけ太盛君のこと大切に
 思ってるのに。私の優しさが伝わらないなら、
 いっそ収容所に行きなよ!!」

まずいことになったわ。この流れだと太盛君だけ
6号室に収容されるパターンよ。
一方で私は別のパターンを思いついたので口にしたわ。

「私も太盛様と一緒に6号室に行きます」

静かな1組ね。
さっきまで騒いでいたのがうそのよう。
『こいつは何を言ってるんだ?』といった空気が一瞬で広まる。

「おいエリカ?」

「私は本気よ」

1分くらい見つめあったかしら。
私の真剣なまなざしで冗談じゃないことは伝わったと思う。

「私は太盛様の身の回りのお世話をしなければなりませんから。
 太盛様のそばにふさわしいのは私ですわ。たとえ地獄の果て
 までも着いて行くと、今日お話しをした通りです」

「ほ、本当に来てくれるのか?」

「はい。喜んで」

太盛君が鉄人28号のように腕を振り上げて感動していた。
これで太盛君の心をがっちりつかんだけど、問題は奴ね。

ミウはこぶしを握り締めながらプルプル震えている。
みなさま。まもなくキチガイが発狂しまーす。

「……同士・クラスメイトに告げます。
 ただいまの時間を持ちまして」

ん? キチが何か言ってるわ。

「この二年一組は解散します!!」

……ということは?

「みなさんは明日から六号室で学園生活を送りましょう。
 これは全員参加です。拒否権はありません。
 拒否した場合は7号室に送ります。正式な命令は
 明日出しますから、今日は帰りなさい。以上です」

ミウは竹刀を乱暴に放り捨てて、部屋を出ていったわ。
ついにこうなってしまったのね。

まさかの『連帯責任』によるクラスまるごと強制収容所行き。
これほどの失態をした例は過去に存在しないでしょうね。
うちは進学コースのトップのクラスだったのに。
明日からは全校から失笑される落ちこぼれに進化した。

クラスメイトたちの嗚咽と悲鳴が聞こえてくる。
そのショックは計り知れないことでしょう。
私は太盛君と一緒ならどこでもいいのだけれど。

……はぁ。とはいえ、やっぱり憂鬱ね。
明日からどうなるのかしら。

強制収容所六号室

~堀太盛~

タイトルの通りだ。
担任の横田リエ先生も『クラスの関係者』なので
6号室に収容されることになった。

彼女は部屋の片隅で体育座り、何事かつぶやいている。
薬をやっている人の目つきだぞ。
精神的に危険な状態になったのだろう。
男子のファンが多かった美人だけに残念だ。

俺たちが収容されたのは、『旧一年五組』にあたる教室だ。
一年の進学コースは一組から五組まである。

その全てが収容所(六号室)として改装された。

六号室と聞くと一部屋しかないように思えるが、
なんとこの五つのクラスが全て六号室なのだ。
(最大収容人数200余名)

ちなみに俺のマリーは元二組だった←ここ重要★

今回収容された馬鹿どもの中で

『収容所経験』

があるのは俺だけだ。

これがあるかないかは、決定的な違いになる。
なぜなら、1組のアホどもは収容所の勝手を知らないため、
自分たちが即拷問され粛清されるものだと勘違いしている。

「ふうあわあああああああ!! 収容所なんて嫌だよおおお!!」

「もういやああああああああ!! こんな学校辞めたい!!」

などと騒ぎ立て、教室の中を走り回ったり、
どれだけ叩いても割れない超強化ガラスを叩くなど、
無意味な抵抗する男女の姿がみられる。

……バカが。

「貴様ら。さっきから何を騒いでおるのか。
 収容所内でみだりに騒ぐものは指導の対象だぞ!!」

ほらみろ。執行部の方々が警棒を片手に入って来たぞ。
奴らは泣きながら土下座し、許しを請うのだ。

初日だからと大目に見てもらったようだが、考えが甘いんだよ。

「貴様らはクラス単位でこの収容所へ移動してきた
 史上最強の大バカ者たちである。貴様らには
 脱走する権利も我々の命令に逆らう権利もないのだ!」

執行部の……女子?が声を張り上げている。
口調は完全に男だけど日本語になまりがある。
女性のロシア系の人は背が高いんだ。
手足が長く、声もでかくて威圧感がある。

「この収容所ではボリシェビキとしての
 知力体力気力を養うための訓練が行われる!!
 様々なプログラムが考えられているが、
 今日は初日なので比較的軽い訓練と罰を与える!!」

罰とは……収容されたこと自体が罪という意味だ。

「全員に50分間の正座を命じる!!」 

これは俺が三号室にいる時に毎日やってたよ。
なんで正座なのかは、いまだにわからん。

「一時間目の間はその姿勢を維持しろ!!
 途中で姿勢を崩したり、
 居眠りした物には体罰を与える!!」

俺は自分のイスを部屋の後ろに片付けて正座を始めた。
教室は40人もいるので手狭だが、どこでもいいから
空いてる場所に座ればいいんだよ。ただし床の上にな。

「よっこらしょ」

俺はじいさんくさい動作で腰を下ろした。

「太盛様。失礼しますわ」

するとエリカがすぐに真似をして俺の隣に座った。
密着してるが……執行部員さんはつっこまないのな。
ならいいや。なぜだかエリカがいると安心する。

他の奴らも同じように正座を始めた。
なんと40人近い人数が一斉に正座を始めたのだから
異常な光景だ。例えば掃除の時間に椅子と机を
片したあの状態でやってるわけだからな。

「エリカ。俺は慣れてるからいいけど。
 お前はつらくないのか?」

「私の母方の家の関係で日本の文化には
 慣れ親しんでいます。華道、茶道の経験がありますから、
 正座は朝飯前といったところです」

さすがエリカは強いな。

「俺は君の気持ちがうれしかった。俺と一緒に
 収容所に入ると言ってくれたこと、忘れないよ」

「そんなふうに思っていただけると、私もうれしいですわ。
 私はどこまでも太盛君に着いて行くから安心してください」

ここまでくると俺の奥さんだな。
彼女ポジションをスルーして
婚約を結ぼうとするほどの猛者だからな。

「たとえこの先どんな辛い目にあっても、
 二人で乗り切っていきましょう。
 私が微力ながら太盛様を支えますわ」

ムラムラしてきた。
無性にエリカを抱きたくなったが我慢だ。
そのカナが言ってたのと同じ文句に俺は弱いんだよ。

閑話休題。

実はこのクラスは定員割れしている。

まずカナはもはや説明不要だな。

他に生徒会を「北朝鮮」呼ばわりした田中。
ミウを倒すために「クラスを扇動」した柿原。
(※前作参照)

この男子二人はすでに2号室に送られている。
あの絶滅収容所に。その後、彼らがどうなったか。
確かなことは分からないが、
風のうわさで粛清されたと聞いている。

(今のはエリカから聞いた話だ)

そしてこの6号室は、つい最近反乱が起き(何組かは知らん)、
その反省から、保安委員会からミウの管理下へ変わった。

『6号室は高野ミウが管理している』

この事実は、1組の奴らを絶望させた。

「あは、あは…あはは……はぁー。楽しいなぁ」

こいつは将来を悲観して狂ってしまった男子だ。

今は正座で許されている。だが遅かれ早かれ自分たちは
拷問、制裁、粛清される対象。もはや人ではなく、生徒会の
ストレス解消のための『おもちゃ』と化すのは時間の問題。

「ちょっと誰かさぁ……手首切るものとか持ってないのぉ?
 それとも有毒なガスとかでもいいよぉ。早く死なせてよぉ……」

その女子は、正座の姿勢を崩すなと言われているのに、
室内をみだりにうろついている。両手を前に伸ばしながら
歩く姿は、精神病患者のそれである。

「きっさまぁ!!」

「ああああっ!!」

お尻を警棒で叩かれ、床に崩れ落ちた。
彼女に3人の執行部員さんが寄ってたかって
棒を振り下ろしている。

女子は泣きながら謝るが、許してもらえない。
頭を抱え、耳をふさぎ、苦痛の時間が
過ぎ去るのを待つのみだった。

「死なせてよ。早く死なせてよ」

別の女子は呪文のようにその言葉を繰り返す。
彼女は正座の姿勢こそ崩さなかったが、血の涙を流していた。

どうやったらそんな色の涙が流せるのか。
限界まで噛んだ唇からも血が垂れている。

……おまえらは分かってないんだよ。

収容所ってのは、基本的に生徒を構成させるための
施設であることに変わりはない。

生徒会の皆さんに逆らわなければ暴行なんてされないのに。
みんな被害妄想ばかりが先行して奇行に走り、
結果的に痛めつけられるという悪循環に陥っている。

俺とエリカを見てみろ。たまに雑談しながらだが、
きちんと正座しているから何も言われないじゃないか。
自慢じゃないが、俺は三号室では模範囚とまで呼ばれたんだ。

マラソンのあとに、執行部員さんから
ミルキーはママの味まで頂戴した俺をなめるなよ。

だが、こいつらを擁護するとしたら。
こいつらが学年トップのエリート集団ってことだな。
一組と二組は特別進学クラスだ。
成績が学年のトップの奴らを均等に配分してる。

一学年時に内申点を含めて優秀な成績を
修めた人が選抜されて特進に進級するんだよ。

卒業生たちは国立大を中心とした進学実績があるから、
こいつらもその一員ってわけだ。なのに二年の途中で
収容所送りになったんだからショックだろうよ。

他人事みたいに言ってるが、俺はすでに
三号室の経験があるので開き直っている。

「うわぁぁぁ。うわぁぁ。うわぁぁああああ。
 お父さん、親不孝な娘でごめんなさい」

さっきからうるせえな。
俺とエリカの後ろにいる女子がずっと
泣きごと言ってるんだよ。

振り返ってみてみると、
ハンカチで顔を押さえて泣いてやがる。
って、井上さんかよ。

大人しそうで可愛い顔してるけど、
マサヤ派の人間だった気がするな。
マサヤ派は死ねよ。同情の余地はないね。

「全部堀太盛のせいですぅ……私は悪くないんですぅ。
 堀太盛のクソ野郎がクラスを惑わしたのがいけないんですぅ」

「天にいる神様、お父さん、お母さん。みんな私の無実を
 信じてください。太盛は愚かにも罪を犯しました。
 ついでに小倉カナも地獄に落としてください」

この女、クリスチャンだったのか……。
しかもナチュラルに俺とカナの悪口を言ってんじゃねえ。

カナの悪口を言う奴は許せねえって言ったの忘れたのか?
可愛い顔してるくせに意外と毒舌なのが腹立つな。
ちょっとぶっとば…

「ダメよ」

エリカ、だがこいつはカナのことを……

「太盛君は模範囚だったんでしょ?
 クラスのザコの言うことなんて気にしないで」

エリカは俺をかばうためにザコ呼ばわりしたのだろうが、
井上マリカはかなりの優等生だ。
この女は常にクラスが学年でトップ5に入っている。

隣のクラスのナツキ会長殿と成績を争うほどだったらしい。
ナツキの聡明さはボリシェビキの中でも群を抜いているそうだ。
奴と互角なのだから、ただ者ではない。

なによりすごいのが、井上マリカは入学してから
一度もトップ5圏内を逃したことがないことだ。

これはすごいことだ。およそ二年近く学年の
成績トップを走り続けたのだから。
どんな人間でも油断や怠慢などに
よって成績の上下があるものだ。

だが、井上にはそれがない。

気になって答案用紙を見せてもらったことがあるのだが、
ほぼ全ての科目で90~95点近く取っている。
こいつに苦手な科目はないのか?
逆に満点は一つもないのが不自然だった。

これほど『安定感のある成績』を残せるコツは?
俺の問いに対し、井上マリカはこう答えた。

「私はテスト勉強したことがないから」

俺は、鈍器のような物で井上さんの頭をカチ割りたくなった。
なんとかその衝動を押さえ、さらに質問すると、

「勉強は予習が中心。半年先の内容まで勉強しているから、
 普段の授業は復習の代わりにしてる。テスト期間中も
 今までに教わった内容をさらっと見直して終わり」

そのようにほざくのだった。なるほど。彼女は予習を
重視することによって学園の授業速度を半年遅れにしているのだ。
授業で習うことなど、半年前に勉強したことなので
昔を懐かしむ思いで聞いているのだろう。

「コツは、理解すること。まず記憶する。国語とか英語は
 声に出して読むといいかもね。まず脳に記憶させる。
 分からない問題でも、そのあとに理解が追い付くことがある。
 記憶と理解の仕組みが分かれば、テストに強くなるよ」

そんな哲学があったのか。

勉強時間だけを増やしていた俺とは次元が違う。
本当に要領の良い人間とは、テスト勉強など不要なのだ。

おまけに井上は高校生になってから塾通いを止め、
自主学習に専念しているらしい。すげえな。

秀才を極めた井上お嬢さんは、
東大でも京大でも好きなところに進学しなさい。

そう言ってやりたいのだが。

「うわあああああああん!! 
 パパあぁぁあああ!!
 パぁああぁあパぁああああああ!!」

↑これが井上の現状だ。こいつ、ファザコンだったのか?
ちょっと可愛いところあるじゃねえか。
いずれにせよお前の将来は終わったようなものだ。

収容所を見渡すと、他の奴らも似たようなものだ。

泣き叫ばなくても無表情になって床を見つめたり、
俺をすごい顔でにらみ続ける男子など、
危なそうな奴らの集会場となっている。

「なんてうるさい教室だ。ここはいつから
 幼稚園児のたまり場になったのだ!? 
 六号室は日本の国会じゃないのだぞ!!」

なんか偉そうな人がやって来たぞ。
保安委員部のバッジをつけてるから、
執行部の上司の人だな。

「まず泣くのをやめろ!! 
 おい貴様、高校二年生にもなって
 メソメソ泣いて恥ずかしくないのか!!」

旧クラスメイトらを蹴飛ばしてカツを入れているのは、
イワノフという保安委員の代表だ。なんてゴツイ顔だよ。

あれのどこが高校生だ。しかもまたロシア野郎か。
うちの学校、無駄に留学生ばかり取ってんじゃねえ。

「貴様ら、正座の時間は終わりだ!!
 これから二時間目に入る前に私から説明することがある!!」

「同士・ミウはご多忙のため本日は職務に着けない。
 そのため私が代わりに貴様らを指導する!! 
 まずこの教室でのルールだが、貴様らが作れ!!」

なに?

「6号室は雑多な囚人を囲んでいる。教室ごとに複雑な
 人間関係等の事情があるため、貴様らの所感で
 ルールを作ってよろしい。これをクラス内条例と呼ぶ。
 クラス内で代表となる委員を5名選出し、そいつらが
 クラス内でスパイ容疑者等を取り締まる委員会を作れ!!」

なんだそれ? クラス内条例なんて初めて聞いたぞ。
だいたい、なんで俺たちが俺たちを
取り締まらないといけないんだ?

生徒を取り締まるのはあんたらの仕事だろ?

「この学園の囚人の数は増加する一方であり、
 また二号室と六号室は反乱の巣窟である!!
 貴様らの中から有望なボリシェビキを選出し、
 そいつによって教室内を管理させることにする!!」

要約すると、執行部の人手不足でーす。
クラスごとに自分らで取り締まりをしろー。
はいはい。

取り締まりの対象となるのは主に

『反革命容疑』『スパイ容疑』『武器の所持』『反乱の恐れ』
『反乱の扇動』『資本主義的思想』をしている者だ。

細かく書くともっとあるが、まずは生徒手帳に
書かれている内容に従えと言うことだ。
俺らの自由にルールが作れるわけではなく、
生徒会の規則を遵守しないといけないのか。

確かGHQに占領された日本が、マッカーサー元帥の
機嫌を伺いながら作った日本国憲法と同じだな。
今の憲法は旧帝国憲法の改正であり、
草案はマ元帥が作ったものらしいが。

「午前中の内に代表を民主的に選出するように!!
 午後には代表の氏名を我々に伝えること!! 以上だ!!」

ガラガラ。ピシャ。ウイーン

最後の電子音は、電子ロックされた音だ。
見た目は普通の引き戸なんだが、無駄に電子化されている。
これを無理にこじ開けても、廊下には
高圧電流の流れている有刺鉄線が張られている。

反対側の窓際には、超強化ガラスがある。
仮にこれを割ることに成功してベランダから降りても、
下にも鉄条網で囲まれた地雷原と思わしき陣地がある。

その中に落ちたら終わりだ。

「おまえら、委員殿の話を聞いたな?
 これから民主的な方法で代表を選ぼうじゃないか」

俺は教室の中央でみんなに語り掛けた。
だが俺が気に入らないらしく、
つっかかってくるのがいた。

「うるっせえんだよ。てめえが仕切るんじゃねえクソ野郎」

「あん? クラス委員が仕切って何が悪いんだ」

「おら。手帳だ。ここのページに書かれている校則を
 読んでみろよ。収容所に入ったら、元あった地位は
 全てはく奪されるんだ。つまり堀、てめえは
 ただの一般生徒。もちろん横田もだよな!!」

その口の悪い男子(刈り上げ)は、横田リエを指した。
先生はただ震えているだけで何も答えない。

「収容所で堀が威張る理由はねえ。
 そもそもてめえは前から気に入らなかったんだ。
 副会長殿や橘エリカと昼食べたりして
 調子に乗ってんじゃねえぞ!!」

ぐっ……。

この野郎、重いストレートを食らわしやがった。
助けが来るのかと思ったら、次々に男子達が
群がって俺を袋にしやがる。

「このリア充が!!」「女にモテるこいつは資本主義者だ!!」
「堀太盛のせいで俺たちは収容されたんだ!!」
「堀は小倉カナの手先だ。きっとスパイに違いない!!」
「俺の斎藤マリーちゃんとイチャついてんじゃえねぞ!!」
「小倉と別れてミウ様と付き合えばよかったんだよ!!」

俺は亀のように丸まって暴力に耐えるしかなかった。
わき腹、背中、首などに休むことなく打撃が加わり、
呼吸する暇がないほどだ。

「死ね、死ねえええええ!!」「こいつ最低!!」
「あんたのせいで私たちは拷問されるんだ!!」
「私達より先にあんたが地獄に落ちてよ!!」
「神に変わって呪い殺してやる!!」

なんと、女子達も俺を襲撃したのだった。
彼女らは掃除用具入れにあるホウキやモップなどで
武装しており、極めて危険な存在である。
おい、モップとかやめろ。マジで頭割れる。

いったい何人の生徒が俺をボッコにしてるのか。

「死ね死ねえええ!!」

井上。俺の頭をホウキで叩くのをやめないか。
おまえ、あとでボコるわ。

エリカはずっと何事か叫んでいるが、
暴徒どもには響かなかったようだ。

エリカの方にも女子の敵意が向かったようで、
女子の集団がエリカに襲撃するのだった。

「いやあああああ!! 太盛君、助けてえええええ!!」

エリカの周囲に女子の暴力の輪ができた。
掃除道具を振り下ろしたり、カラのバケツを投げる、
雑巾で髪の毛を吹くなど、好き放題やっている。

どうでもいいが、俺は自分がフルボッコにされているのに
どうやってエリカの状況を実況しているんだろうな。

これが強制収容所6号室か。
まさに阿鼻驚嘆の地獄にふさわしい。

てかこれアウトだろ。生徒会的に。

こんだけ騒ぎ続けたら、すぐに執行部を通り越して
保安委員の人が直接注意しに来るレベルだぞ。

そう思っていたら、案の定扉が開いた。

「Hi. I am here .how do you do everybody?」

流暢ない英語を話すのは一人しかいないのである。
我らがアイドル・高野ミウ同士である。
そいつは俺の彼女を名乗っているが、俺は認めない。

「ごふぅ」

ミウの拳をお腹に食らった男子である。

ミウは俺を袋にしているメンバーを一人、
また一人とはがしていき、ボディを食らわせていった。
良い動きだ、両足の開きとステップの踏み方が本格的だ。
ボクシングの経験があるのだろうか?

「がは」

また一人の男が片膝をついた。
ミウの拳は強力だ。
なぜならメリケンサックをつけているからだ 

「ガードしたら拷問するから」

「ひぃ」

男たちはお腹にメリケンサックを食らい、
一時的な呼吸困難と闘うのだった。

10人くらいの男がそうされた。
俺はこんなに多くの男子から恨みを買っていたのか。

「このクラスの人達は、クズだね」

ミウが吐き捨てるように言う。

「みんなお勉強はできるのに、どうして問題ばかり
 起こすの? 私がバカだから分からないのかな?
 どうなの。みんな。黙ってないで早く答えてよ
 愚かな私にも分かりやすく教えてくれる?」

ミウが後ろで腕を組んで、教室内を歩き回る。
ミウが近くに寄ると、
囚人たちはおびえて距離を取るのだった。

「ねえねえ井上さん。賢いあなたなら納得のいく説明を
 してもらっていいかな。エリカをボコってたけど、
 エリカが太盛君の友達なのを理解したうえで
 やってたんだよね?」

「ミ、ミウ様あああああああ!!
 ミウ様ぁあぁぁぁあぁぁぁぁぁぁ。
 ごめんなさあぁぁあぁああぁい!!」

胸ぐらをつかまれた井上だが、どうも様子がおかしい。
泣いて謝罪しながら半ギレしてる。どんな精神状態なんだよ。

「私だって…私だって!! 好きでこんなクラスに
 入ったわけじゃないですよ!! ミウ様は一般生徒
 だったころは私の友達だったじゃないですか!!
 昔の友達を奴隷のように扱うのは楽しいですかぁ!?」

「友達だったのは昔の話だね。ボリシェビキには
 過去の話は通用しないって覚えておいてね?」

「私たちが何をしたって言うんですか……!!
 私たちは2組と並んで特別進学クラスですよ。
 学年トップのクラスとして常に勉学に励み、
 正しく学園生活を送っていたのに!! 
 なんで私たちが六号室の囚人なんですか!!」

それは他の奴らの意見を代弁したのと同じだな。

「そういう問題じゃないんだよ」

「そういう問題ですよ!!」

井上が負けてないぞ。

「自分で言うのもあれですけど、私たちは
 将来立派な大人になる人ばかりですよ!!
 国のためになる仕事に就く人もたくさん
 いると思いますよ!! それなのに私たちを
 粛清して国のためになりますか!!」

「私は父の影響で法律の知識がありますよ!!
 私のお父さんが弁護士なんです!! 憲法は
 基本的人権と拷問の禁止を謳っていますよ。
 もちろん同士閣下も知ってますよね!?」

あいつの親父さんは弁護士だったのか。

「生徒が拷問されても警察は動いてくれないし、
 保護者が訴えても、上からの権力でもみ消される。
 私たちの人権が守られてないじゃないですか!!」

「栃木県の行政はどうなってるんですか!?
 この学校はどこの国の学校なんですか!?」

長いな。井上マリカの演説会場になってる。

「スパイがいる? 反革命主義者がいる!?
 どこに証拠があるんですか? 証拠調べの
 方法を具体的に示してくださいよ!!
 私たちは学生ですから政治的思想を持つ人自体が
 稀であり、普通は進学先のことを考えて生活してますよ!!
 資本主義者なんてバカバカしい!!」

「生徒会のやってることは恣意的(しいてき)な
 捜査であり、中世欧州とレベルが変わりません!!
 ミウ閣下が作った反革命容疑の取り締まりの校則が
 まさにそれですよ!! そういう思い付きでの取り締まりを
 なくすために日本の司法があるんですよ!!」

「この学園のどこに文明的な司法があるんですか?
 子供のお遊びに付き合わされて生徒が逮捕されるなんて
 かわいそうだと思いません?」

ミウは自分の髪を指でもてあそんでいた。
いかにもつまらなそうな態度だ。

「ふーん。その話、まだ続くの?」

「ええ。いくらでも言いますよ!! 確かボリシェビキは
 相手の主張を全部聞いてから判断するんですよね?
 次にミウ閣下の男性問題ですけど」

おいおい。それを言ったら拷問確定だぞ。

「堀太盛さんはあなたに気がないですよ!!
 ええ。もう全く。これっぽっちもあなたに
 気がありません。別の表現で言うと大っ嫌いなんですよ!!」

「あなたの大好きな英語で言いましょうか?
 He hates you. because he likes Erika and marie.
 It’s not you. never !! Our god says that semaru
 Will never be your one !! never !! hey, you understand it ?」

さすが井上ほどの秀才は英語も話せるのか。
発音はへたくそだけど言葉が途切れないのがすごいな。

「堀はね、根っからの悪者じゃない!! あいつは
 生徒会にいじめれてる人を助けたいと思ってる!!
 カナ、エリカ、あとマリーって子をミウ閣下が
 いじめるのは逆効果。彼に嫌われる原因を自分で
 作ってるんだから笑えるわよ!!」

「……私は今日の朝はマリーに謝りに行ってたんだけどね」

「あらそうですか。それでご多忙だったのですね。
 結果はいかがでしたか?」

「話も聞いてもらえなかったよ」

「あははっ!! それは残念でしたね!!」

井上マリカさんは手を叩いて爆笑している。

ここまでミウに食って掛かるとは。
もはや無謀を通り越して芸術の域にまで達している。
この偉大なるクラスメイトをマリカさんと呼ばせていただく。

「一組のみんなも良く聞いてね!?
 ミウ閣下がマリーに嫌われる。
 するとマリーを虐待したくなる。
 すると堀君に嫌われる。
 はい。悪循環のできあがり!!」

「こうして副会長殿は永遠に堀君に
 好かれることがないのでした!!
 そしてストレスを私たちのクラスにぶつけ、
 私たちを収容所送りにして満足してるのよ!!」

「私たちを収容所に送ったのは堀君だけどね!!
 堀君の暴走の原因もカナが収容所送りになって
 さみしかったからだよね!! まだ堀には弁護の
 余地はあるかな。でも副会長にはないよね!!」

「それと……うぷ」

ミウは真顔になり、マリカさんの口を手で塞いだ。
アイアンクローの手つきだ。

「そろそろ黙ろうか」

ミウは怒鳴りもせず、泣きもしない。
ただ、マリカさんの瞳だけを見つめていた。
絶対零度の冷たい視線で。

「井上マリカさん。
 死んだ後もあなたのこと忘れないから」

ミウは『地下室行き』を宣言した。

地下とは、拷問と粛清をするための施設である。
選挙後にアナスタシアと前会長が送られた場所だ。

そこに送られたら、仮に死なないとしても
二度と社会復帰ができない体にされる。

「先に拷問内容を説明しておくね?
 ベッドに縛り付けて微量の電流を死ぬまで
 断続的に流してあげる」

「寝たり気絶したら、眼に熱湯をかけてあげる。
 どれだけ痛いか想像できる? もちろん沸騰した
 お湯をたっぷり注いであげるからね。
 あなたのお口にもね」

「井上さん、少し髪伸びたんじゃない?
 地下に行ったら髪だけ火あぶりにして
 短くしてあげようか。火のそばに行くと
 熱くて苦しいけど頑張ってね?」

ああ、マリカさん……。
マリカさんは力なくその場に崩れ落ちた。

俺たちの正当なる代弁者であるマリカさんが
ついに粛清されてしまうのか。

「か~のじょは良い人~~!! 正義の人~~♪」

「everybody likes her. She is our hope♪」

「私たちはマリカさんの味方ですから!!
 マリカさんのことが大好きです!!」

「うおおおおっ!! マリカさぁぁあん!!」

なんだ? クラス中が騒ぎ始めたぞ。
口々にマリカさんを褒めちぎり、
即席の歌まで歌う奴までいるじゃないか。

「マリカさん、愛してます!!」
「マリカさん、負けないで!!」
「正義の人、マリカさん!!」
「俺もマリカさんのことが大好きです!!」

井上マリカさんと呼ぶのは俺だけじゃなく
クラスの総意だったのか。
これはすごい事態だぞ。

生徒会に強制されたわけではなく、
自主的にマリカさんを褒めたたえるクラス一同。

「マリカさ~~ん!! 君がこのクラスの代表になってくれよ!!」
「マリカ様!! マリッカさまぁあああ!! 素敵~~!!」
「マリカ様~~~~~~!!  私を抱いてください!!」

マリカさんの頬にキスしてる女子までいるぞ。
若干レズの疑いがあるが、スルーしよう。

ミウはこの予想外の騒動に激しく動揺していた。

マリカさんの演説の効果で
クラス全員がマリカ派になってしまったらしい。
マリカさんの影響力は絶大だな。

「ちょっとうるさいよー。はいみんな、静かにしてー」

険しい顔でミウが言ってもみんなは止まらない。
むしろ勢いはどんどん強くなっていく。

これが一組の連帯感の強さなのか?
マリカさんコールはライブ会場のごとく。
声援、応援歌となり、怒号となって収容所を揺らしている。

様子を見にイワノフが入って来たが、
驚いて固まっている。

「貴様ら、静かにせんか!!」

イワノフの言葉など一瞬でかき消された。
収容所のマリッカ・コールは止まらない。

クラスメイトの集団がマリッカさんを守るように
囲み、ミウとイワノフに対して猛抗議している。

「マリッカさんをいじめるなら、俺を最初にやれ!!」
「そうよそうよ!! 私も地下室に行くわ!!」
「みんな一緒に死ねば怖くねえよ!!」
「彼女を一人で死なせたりしないわ!!」
「死ぬときはクラス全員で死にましょう!!」

どうでもいいが、なんでマリッカさんになってるんだ?
俺も自然とマリッカさんと呼んでしまった。

戦場を思わせるほどの怒号。
革命的情熱とでも呼ぼうか。
これが俺たちのクラスの底力なのか。

「We love marika !! we love marika !! marika with us !!
 Our class wants marika !! marika goes with us !!」

今度は英語でラップ風に熱唱しているぞ。

全ては、井上マリカさんという一人の女性を
救いたいため。この世界で唯一存在する優良で
善良な女性を守ろうとするため。

その思いは、ついに生徒会長の元へと届くのだった。

「いったい何の騒ぎだ……?」

生徒会長・ボリシェビキの最高権力者。
高倉ナツキ殿である。
俺たちの騒動を見て仰天していた。

「おいイワノフ」 「はっ」

部下から報告を聞き、一瞬で事情を察したようだ。
さすが頭の回転が速いな。

「旧一組のみなさん。静粛にしなさい!! 静粛に!!」

ナツキの言葉も無視してみんなは騒ぎ続けていた。
仕方ないのでナツキは黒板にでかい文字を書いていった。

『君たちの訴えを認める』

その文字を見て、少しずつ騒ぎが収まっていった。

『井上マリカの処罰を保留にする。
井上をこのクラスの代表に選出すること。
他の代表は井上の推薦で選ぶこと。
今日の帰りまでに委員の代表を
我々に提出すること。以上』

ナツキは、ミウとイワノフを従えて去っていった。
マジか……。俺たちは生徒会の奴らに勝ったのか?

マリカさんの地下室行きを保留って……。
言い方をぼかしただけで取り消したのと同じだよな?
ってことは……。

「うわああああああああああああああ!! マリカさぁぁん!!」
「マリカさんが無事でよかったぁああああああああ!!」
「マリカさん大好きです!! 結婚してください!!」
「マリカさあああん!! マリカさあああん!! うわああああん!!」

結婚とかぬかしている野郎がいるが、今の流れなら
許されるだろう。男子女子がマリッカさんに群がり、
胴上げを始めた。マリカさんは涙を流しながら喜んでいる。

この感動の一瞬を、俺とエリカは寄り添いながら
見守っていた。エリカの美しい横顔を見ながら俺は聞いた。

「君もマリッカさんを支持するか?」
「もちろん。彼女は最高よ」

胴上げメンバーにはマサヤも含まれている。
これでクラス全員がマリッカさん派になった。

その後、マリカさんによって
クラスの代表が指名された。
代表計五名をここに書き出しておく。

『マリカ』
『俺』
『エリカ』
『マサヤ』
『横田リエ』

おい最後。先生が入ってるのか。

「先生は代表に入れないとさすがにね」

マリカ代表が説明した。
まあ担任だったし、確かにな。
ここでは教員として扱うと規則違反のため
横田さんと呼ばれることになるが。

「彼女はかなりの切れ者だよ」

切れ者……。そうか。
マリカさんが言うならよほどの賢者なのだろう。
顔だけが取り柄の先生だと思っていたがな。

他の俺、マサヤ、エリカは
クラス委員経験者なので選ばれたんだろうな。

それより俺を良く選んでくれたな。

「堀は悪い人じゃないと思うから」

マリッカさん……ありがとうございます。

「でもクラス単位での主要所送りを
 進言したのは少し根に持つけどね」

すみません。

とにもかくにも、クラスの代表名簿を作り、
生徒会に提出する流れとなった。

俺たちは、今日このあとの予定がないので、
三時前には帰宅していいことになった。

あれ? ルールを作るんじゃなかったの?

「このクラスの対応について生徒会中央員会で
 話し合われるそうだ。のちにどんな処分が下されても
 いいように覚悟をしておけ」

この執行部員さん、俺にアメ玉をくれた優しいロシア人だ。
みんなが解散し、収容所から廊下へと出ていく。

解散時間になると鉄条網の隙間が開き、
出られるようになる。分かりにくかったら、
鉄条網付きの自動ドアを想像すればいい。

たぶん他の学校にもこういうのあるだろ。

「なあ」

ロシア人の方は俺を引き留めた。
鉄条網の近くで立ち話をすることになった。

「堀。おまえも気の毒な男だな。間が悪い。
 せっかく三号室から出れたのにまた収容所行きとはな」

「はは。まあ慣れてるからいいですよ。
 ここは人が多いから寂しくないです」

「三号室の小倉は元気に過ごしているぞ。
 おまえがいなくてさみそうだったが」

「そうですか……あの子が病気とか
 してなければそれでいいです」

「機会があればお前らを会わせてやりたいだが、
 俺も上に逆らったら収容所行きの身だ。すまんな」

「いえいえ。お気持ちだけでうれしいです」

俺が頭を下げると、彼はますます気を良くした。

彼らは二号室を中心とした囚人の反乱に
かなり困っているらしく、逆に模範囚である
俺には良い感情を抱いているらしい。

「病気と言えば斎藤だな。斎藤マリーだよ。
 あの子はミウ閣下の再三の謝罪にも耳を傾けなかった。
 むしろおまえさんが6号室送りになったことを
 恨んでいて、より態度を硬化させているそうだ」

「そうですか……あの子の気持ちもわかるけど、
 そんな態度ばっかり取ってると後が怖いですね」

「ミウ閣下も困り果てているようだな。
 おそらくだが、おまえが7号室で直接面会して
 彼女を説得することになるかもしれぬ」

「また7号室ですか……。
 正直あそこは苦手なんですよね」

「実は俺もだ」

「え? そうなんですか?」

「俺は7号室の仕事はしたことがないが、友人の話では
 泊まり込みの仕事なので心身共にハードらしい。
 ミウ閣下の威信にかけて設置された収容所であり、
 元爆破テロ犯を収容してることもあって規則が厳しい」

「ここよりもですか?」

「うむ。つい先日だが、夜中に集団脱走を許してしまった。
 4メートルの塀と、鉄条網と有刺鉄線で囲まれているが、
 それでも脱走する」

「どうやってですか? 空でも飛ぶんですか?」

「穴だよ。収容所の床をぶちぬき、10日以上かけて
 穴を掘り続けた。掘った床は見えないように布を
 かぶせて偽装し、監視の目を欺いた」

「すごい根性ですね。知能犯でしょうか」

「知能犯だろうな。あの一年生どもは、
 ずいぶんと知恵が回る。12名の脱走が
 確認されたが、その後の行方は不明だ」

「それじゃお友達も苦労しますね。
 友達もロシア系の方なんですか?」

「そうだ。俺の友達はみんなロ系である。
 いや、少し日本人もいたかな。
 実はあまり日本の文化になじめなくてだな…」

立ち話は15分ほど続いた。

俺が玄関へ向かうと、彼が手を振ってくれる。
気が付いたら俺たちは友達のような関係になっていた。

彼の名前はスミルノフと言うらしい。
名前で呼んでいいと言うので遠慮なく呼ばせてもらおう。

囚人と看守の立場なのに利害関係なく、
雑談ができるのは貴重だった。

特に七号室のことを教えてくれるのは助かる。
三号室出身で得することもあるんだな。

マリッカ代表を中心とした
収容所クラスでの生活が始まった。

中央委員会の決定により、俺たちのクラスの名称が
収容所6号室所属、第5特別クラスとなった。

要は旧一年五組の場所にあり、
さらに特別ということなのだろう。

……何が特別なんだ?

「自治権が認められている点です」

井上マリカ代表が俺たちの前で発表した。
彼女は朝のHRをする権利があるのだ。

「私は代表として中央委員会に出頭を命じられ、
 会長殿から直接指示書を頂いてきました。
 私達特別クラスに以下のことを求めているようです」

・規則等は代表を中心とした会議で決めてよい。
・ただし、反ボリシェビキ的思想に陥らない範囲内で。
・全ての囚人に規則を遵守させること。

・反乱、脱走が起きないように各代表が管理すること
・上の事態が発生し場合、全ての代表が責任を負う
・その場合は代表の指示によって生徒を処罰すること

・具体的な方法は代表らが考えること。
・模範囚として過ごせば、元のクラスへ復帰の可能性がある

「みなさん。これはつまりですね」

マリッカさんが教卓に手を着き、続ける。

「私たちが自分たちを律するルールを作っていいということです。
 普通は生徒会の規則を一律全ての生徒に適用しますが、
 私たちのクラスだけは特別に自治が認められているんですよ」

少し難しかったので多くの生徒が首を傾げた。

「つまり、クラス内の反乱分子がいたら自分たちで
 決めたルールで処罰できるの。普通は執行部が来るでしょ?
 そうじゃなくて私たちがやるの。このクラスで執行部に
 値する者を作ればいいって意味だよ」

正直ぞっとした。クラスメイトを処罰する役なんて
誰もやりたくねーよ。

「もちろん私もそんなことしたくありません。
 私の意見を言うとですね、これは疑心暗鬼で
 クラス内の結束を乱そうとする策略なのでしょう」

ふむふむ。なるほど。

「私は代表ですが、私が代表にふさわしい人間だとは
 思っていません。これから他の代表を四人招集して
 ゆっくり話し合って規則を決めます。すぐに
 結論が出ることではないので、少しだけ時間をください」

その後、代表以外の生徒は授業を受けることになった。

体力づくりのマラソン、体操、マスゲーム(集団行動)。
座学ではロシア語会話、文法の勉強。

共産主義系の書籍の読書。その感想を永遠と
書かされたりと、三号室と変わらない。

本来の特進クラスの勉強内容とは
かけはなれているが、学習内容は生徒会からの
強制なので逆らうわけにいかない。

みんなは基本的に優等生の集まりなので
黙々と勉強に励むのだった。

「さてと。規則だけど、実際の法律を
 参考にしながら考えて行こうか」

マリッカさんが草案をまとめた書類をテーブルに置く。
彼女は夜も寝ないで法律を考えてくれたらしい。

俺たちは特別に会議室を解放してもらい、
そこに俺を含めた代表が集まって話しあっていた。

横田リエはやる気がなく、うわの空だ。
俺とエリカはマリッカさんの説明を夢中で聞いている。
やはり彼女は賢者であり、すごく説得力がある。

マサヤの野郎は、なぜか俺をにらんでいる。
なに見てんだよ。死ねよ。

「私たち代表五人は、ソ連を参考に『クラス会議』
 と名付けようか。他の生徒も全員話し合いに参加
 できるように民主的な組織にしよう」

マリッカさん主導で『法律』が作られていくのだった。

~法律ができるまで~

・法律の原案はクラス会議(俺ら)が提出する

・クラス全員参加の会議で、多数決を取り、
 過半数の支持を得た場合に法律化する。


~最高権力者の処遇~

・定期的に井上と他の代表に対する支持率の調査を行う。
 支持率が低い場合は不信任決議をしてよい。
 つまり代表を解任する権利を
 全てのクラスメイトが有する

・上の内容は、井上の独裁を否定するためのものである。
 井上以外の人が代表になった場合もこの法律を継続する

~生徒の取り締まり~

・今後考えられる全ての法律は、
 我ら第五特別クラスから反乱を防ぐためのものであり、
 生徒を恣意的に虐待するためではない

・反乱が起きた場合は、犯人に対しクラス裁判をする。
 弁護人と検察官を投票によって決定し、公平な
 裁判にして被告の意見をしっかりと聞くこと。
 裁判官は井上代表が兼ねる。

・反乱が起きそうな場合、恐れのある場合など、
 不確実な場合には逮捕はできない。
 
・第五クラスで執行部は基本的に作らないことにする。
 逮捕する側の人間を作ることがクラスの団結力を
 削ぎ、内乱を誘発させる恐れがある。

・生徒の逮捕が必要な場合は、クラス総出で
 取り締まることにするが、あくまで最終手段とする。

・我々が法律を作る目的は、反乱を未然に防ぎ、
 模範囚として過ごすことによって刑期を短縮し、
 一日でも早く元のクラスへの復帰を目指すものである

~クラスの心構え~

・クラスメイトに対して博愛の精神をもって接し、
 正義と自由の心をもって日々を送ること。
 人間の善意が世の中を良くすることを忘れないこと。

さすがだな、マリカさんは。

この草案を俺たちは満場一致で可決した。

その後、クラスの全体会議での話し合いが行われた。
全員の席にプリントのコピーが配られた。
今説明したのは一部だけなので、全体ではすごい量だ。

今までさんざん馬鹿にしたが、
うちのクラスは勉強のできる奴ばかりだ。

誰もが草案を熟読し、納得し、うなずいている。
この時点で反対者などいないのが分かる。

そもそも俺たち高校生だから
法律を作るなんて高度なことできねーよ。

マリッカさんの考えは俺も素晴らしいと思うよ。

心構えも素晴らしいが、マリッカさんは
自分が独裁者にならないように配慮している。

日本の議会制民主主義をパクったようだが、
融通の利かない生徒会のキチガイとは大違いだ。

さらに生徒の取り締まりも最大限控えて、
裁判でしっかりと言い分を聞くのも良い。
マリッカさんは民主的で合理的、
文明的で正義の心を持っているな。

「私は賛成します」「僕もです」「素晴らしい」「彼女は英雄だ」
「非の打ちどころがありません」「マリッカタン、まんせー」

変なこと言ってる奴もいるが、みんな賛成してるな。
マサヤが拍手したのにつられ、盛大な拍手に包まれる。
マサヤの野郎はこういう音頭取りが無駄にうまいな。

教室内のマリカさんを見つめる視線は暖かく、
誰もが新しいリーダーに期待を示していた。

ぜひ一言くださいとのことで、
マリッカさんが教卓の上に立つのだった。

「私をミウ殿に面と向かって正論を言った大英雄だと、
 そう言ってくれる人がたくさんいますが、
 私はたまたまムカついたのでまくし立てただけです。
 本当は私よりも代表にふさわしい人はたくさんいます」

いやいや。そんなご謙遜を。

「今回のクラス内法律は無事可決しましたが、
 生まれたばかりの法律ですので不備が多いかと思います。
 ですから、おかしなところがあれば、またクラス全体で
 話しあって修正していきましょう」

「法律にも書きましたが、私は偉くもなんともないので
 いつ解任してくれても構いません。私がもし増長して
 みんなに迷惑をかけるようでしたら、私本人、もしくは
 他の代表の人に遠慮なく苦情を出してください」

俺はたまらず拍手した。ミウと違い、謙虚なところが美徳だ。
他の奴らは席を立ち、拍手と声援を送るのだった。

「みんなで頑張っていこうぜ!!」「きゃああ。マリカ様素敵!!」
「君こそ俺たちの代表にふさわしいぜ!!」
「あんたを支持する人はたくさんいるからね!!」
「みんなでマリカさんを支えましょう!!」
「少なくとも俺は反乱なんて起こす気はねえから安心しろ!!」

最後に言った奴の言葉が、実は全てのクラスメイトの
意思を代弁していたのだった。

その後二週間近く経ったが、反乱も脱走も抵抗も
何も起きなかった。マリッカさんは脱走をかなり
警戒していたらしい。

仮に脱走が起きた場合は、外で執行部に捕まり、
このクラスへ戻される。その後、クラス裁判の流れだ。
マリッカさんは自分が裁判官を務めるから、
クラスメイトを裁かなければならない。

その罪の意識で押しつぶされそうだったとのこと。
何て良い人なんだ。

バカをしたら彼女に迷惑がかかる。
これが我々の共通認識であり、
マリッカさんの心配は杞憂に終わるのだった。

彼女はなぜか自分が代表にふさわしくないと
言っていたが、そんなこと思ってるのは
彼女一人だけだった。
俺たちは彼女以外の代表など望んでいない。

ちなみにもうすぐ年末なので
代表の支持率の調査をしてみたのだ。

マリカ…100% ←まあそうだろう。

マリカさんを除いて調査すると。

俺…   3%
エリカ… 5%
マサヤ… 72%
横田リエ…34%

……先生が低いな。

俺は元囚人で六号室行きの原因を作った張本人。
支持率は限りなくゼロに近い。

エリカは俺の恋人ポジが効いたか? 
しかも兄と姉が粛清済み。俺と同様最悪だ。

マサヤは口が達者で攻撃的すぎるが、
それでも支持されてるようだな。

横田リエは魂が抜けている。
会議中もぼけっとしていて、
何考えてるのか分からなかった。

美人だけじゃ支持されなかったか。
一応元担任なのにみんな冷たいな。

この調査の結果、マリカさんとマサヤ以外に代表の
適任者がいないことが分かった。
だが他に代表をやりたい人も現れない。

別にいなくても問題ないだろう。
俺たち代�人は一度もマリカさんに
意見したことがなかった。

別にマリカさんに遠慮したわけではなく、
彼女が間違ったことを一度も言わないから、
こっちも指摘することがない。

そのため、我々第五特別クラスは、
マリカさん独裁状態になってしまっている。

これが面白いことに、彼女の独裁を認めるべきとの
声が多数上がっているほどだ。
これはかつてソ連が目指した民主独裁制であった。

つまり民衆の支持のもとに独裁者が選出される。
マリッカさんが否定した独裁性が、むしろ
クラスメイトの支持によって確立するという、
奇妙な展開であった。

「私が偉くなってみんなを混乱させるわけにはいきません。
 私は家ではファザコンだし、泣き虫だし、
 運動も苦手。人前に出るような器じゃありません」

彼女がHRでそう言うが、拍手が鳴りやまない。

支持率100%とは、有権者の数が
たったの一クラス分にしてもギネス級の記録である。
まさに小説の世界であり、
普通どんな人間でも有頂天になるだろう。

それなのに。

相も変わらず謙虚さを捨てない彼女の姿勢が、
ますますクラスを感動させるのだった。

「お父様を大切にするのは良いことじゃないか」
「お父さんは弁護士らしいぞ。きっと素晴らしい方なのだろう」
「なるほど。マリッカさんは父上殿に似て聡明なのだな」

「女子なんだから泣き虫って別に気にする必要なくない?」
「私も嫌なことがあったらよく泣くよ」
「うんうん。こんな学校にいたら誰だって泣くわ」

「別に運動ができるからって偉いわけでもねーよな」
「つか俺ら、進学クラスだから運動苦手な奴ばっかじゃね?」
「俺なんてマラソン二周するだけで限界だわw」

マリッカさんは自虐をしてもこの有様なのである。
彼女を否定する奴は心がないとまで言われるほどだった。

井上マリカさんはクリスチャンにとっての
聖母マリア様並みの存在と言っても過言ではなかった。

そんなこんなで、ついに12月24日のクリスマス・イブを迎えた。
イブもクリスマスも平日なので当然のように出勤、
じゃなくて登校するのだ。

…最近。自分が会社勤めしてる気分になるのは気のせいか?

「ロシア語の格変化は複雑ですが、一度覚えてしまえば
 そんなに難しくはありません。文法が簡略された英語との
 違いを考えながら、しっかりと覚えてください」

ナツキ会長は、わざわざ収容所でもロシア語の教師を
してくれるのだ。彼も忙しいのだから、さすがに
全ての収容所を回ってるわけではないのだろうが。

俺たちは今、ロシア語の基礎文法を習っている。
文法は大変に重要だと会長は言う。

文法を学ばないと、聞くことはできても
話すときに絶対に困るそうだ。

みながシャープペンを素早く走らせ、板書していく。
我々はエリートクラスなので勉強はお手の物だ。

文系クラスで特に英語が得意な奴らの集まりなので、
ロシア語にも応用が利く。

「May I have a question sir ?」(質問してもいいですか?)

「Go ahead, boy」(どうぞ男子よ)

「In a sentence at page of 26, maybe… is there something
  wrong with japanese translation ?」
(26ページの分ですが、日本語訳に違和感があります)

「uhh… where? Show me where is it ?」
(分からんな。どこだ?)

「It’s here sir.」(ここです)

その男がナツキ会長の元へ直接教科書を持っていく。
しばらく二人で話し合ってるが、
俺はまったく蚊帳の外にいた。

なんで当然のように英語で質疑してんだこの二人は?
ナツキ会長はCBS(カイロ・ブリティッシュ・スクール)
の出身なので英語は友達のようなものらしい。

この眼鏡をかけた男子は当然のように
英語を話すから、すげえな。俺も少しは話せるが、
日常会話程度だ。授業内容を質問するとか無理だろ。

「Russian is not international language, sir.
 Our people of Japanese, we haven’t seen
 Any Russian people before. And we’ve ever
 listened a sound of Russian.」

「Well, I sse. I do see. That is the good point, I think.
 You are a man of intelligence. You know what
 is most important for learning language.」

「Do you mind? If I say you should translate Russian
to English. English is a language of Europe.
It will help us to Understand Russian language.」

さっきから何言ってんだこの二人は? 
早口だからよく分からんぞ。

ロシア人そのものと言語の音に慣れてないから
日本人には難しい? ロシア語は世界言語じゃない?
そんなこと言ってるみたいだな。

会長は良い指摘だと褒めているようだが。

「確かに日本語とは文法が違いすぎるから
 翻訳の過程でニュアンスが変わるな。
 では田村君の指摘により、英訳も書いていこう」

まじで? 黒板にはロシア語の英訳と日本語訳が
並ぶようになったぞ。三か国語で学べるのかよ。
それぞれの言語で全く別のニュアンスになるから不思議だ。

会長はさらにドイツ語の例も出し、
西洋言語に当然あるはずの格変化と男性女性名詞が
なぜか英語にはないことを力説し始めた。

「英語はゲルマン語派に属する言語なので
 ドイツ語とは兄弟言語に当たる。
 音も似ているだろう。母音が少なく、
語尾に子音が多用されるところが分かりやすいか」

こういうのを比較言語学っていうのか?
もはや大学の講義のレベルだ。
収容所六号室ってこんなに高度なのか?

生徒達は気になった箇所を進んで質問するし、
ナツキ会長の間違いもどんどん指摘する。

ナツキ会長はロシア語の教師だが、俺たちと同い年。
どんなに賢くても答えられないこともある。

クラスの奴らの学力が高すぎると先生も大変だ。

「私が代わりに教えてあげるわ」

エリカが席を立って説明を始めたりと、
なにかとナツキを手伝っていた。
エリカは祖父がソ連出身だからロシア語がペラペラだ。

彼女曰く、カフカース地方(グルジア)の訛りがあって
決して美しい発音ではないそうだが、そもそも
俺には標準ロシア語の発音が分からない。

「なーにがロシア語よ。だばーい、だばーい。
バッカじゃないの。あごーい」

俺の隣の席でほざいているのは、横田リエだ。
ダバイは急げと言う意味だが、ロシア語の初歩にしても
ほどがあり過ぎる。アゴーイは発射。軍事用語だ。

横田さんはすっかりふてくされてしまい、授業中も
頬杖をついてぼーっとしたり、昼寝をしたり、
たまに童謡を歌うなどフリーダムを謳歌している。

この人は収容されてからすっかり人が変わってしまった。

「なによ堀君?」

いや。こっちのセリフですよ。
ノートくらい取ったらどうですか?

「なんで教員の私がノートなんて取らなくちゃ
 いけないの? てかロシア語とかアホみたいな
 発音だし、学ぶ気にならないよね普通?」

そんなこと言ってるとマリッカさんが困りますよ。

「あの子、私には何も言ってこないじゃない」

たぶん元先生だから遠慮してるんですよ。

「ならちょうどいいわ。
 私はここで空気のように過ごすから。
 眠くなったら寝るから邪魔しないでね?」

会長にもにらまれてますけど、大丈夫ですか?

「大丈夫、このクラスは自治権があるから。
 マリカちゃんの機嫌だけ取っとけばいいのよ。
 ふぁー。また眠くなっちゃった。
 昨夜は二時までお酒飲んでたのよねー」

なんて適当な女性なんだ。
要するにやさぐれてしまったんですね。

先生は机に突っ伏してよだれを垂らしながら寝始めた。
どうしようもないので、とりあえず放置しておこう。

クリスマス・イブ 強制収容所七号室から三号室へ

~斎藤マリエ~

クリスマス・イブも収容所には関係がない。
24日の朝も生産体操をさせられた。

朝食前に収容所の庭にみんなで
並んで体操をするのが日課なのだ。

雨の日は大食堂を使ってやる。
テーブルの隙間を使うんだけど、
隣の人とぶつかりそうになるから大変。

この体操は、1960年代にソ連のオフィスや工場で
実施されていたそうよ。詳しくは知らないけどね。
ソ連政府は国民の健康維持、体力促進のために
体操を推奨していた。日本ではラジオ体操がこれにあたる。

関節を効果的に動かすから、長時間の作業をする際に
疲労回復の効果もあるらしいけど。強制されている
こっちはやる気がないし、精神的に疲れる。

その場駆け足(太ももは垂直に上げる)のあと
スクワットをしてからヨガみたいな床運動をする。

床運動の例をあげると

「ベリョスカ」「ボルカ」「コシカ」

床にうつ伏せになったり、仰向けになったりして
お腹や腰を動かす練習。筋トレの腹筋とかヨガと似てる。

他には、顔のたるみをほぐすマッサージをしたり、
腰に手を当て、その場で飛び、足をクロスさせて着地する。
両手をゆっくりと真上で交差させ、半円を描きながら戻す。
このように不思議な踊りをさせられる。

ソ連では子供も大人も関係なく、職場でも家庭でも
その辺の公園でも全ソ連国民に体操を推奨していた。

日本ではラジオ体操。
ソ連では一般的に「朝の体操」
職場では「生産体操」と呼ばれていたそう。

体操の前に「生産」をつける理由が分からないけど。
共産主義とか重工業に関係あるのかな。
前から思ってたけど、これよりラジオ体操を第二までやった方が
効率よさそうな気がするんだけど。ソ連の体操は足の筋肉ばかり
鍛えるから運動不足な人はすぐ筋肉痛になるよ。

「ふぅふぅ。きっついわ」

この人とかね。
私の隣にいる女子のことなんだけど、
この人はスクワットの最中にいつも息を切らしている。

黒髪のおかっぱ頭で黒縁の眼鏡をかけた人。
たまたま並び順が私の隣だから、一応顔見知りってことかな。

肥満体系だからこの程度の運動でも疲れるんだね。
収容所で質素な食事している割に痩せないんだから不思議。
ソ連の体操って5分くらいで終わるけど、飛び跳ねたりするから
春以降は汗くし、これだけでも十分運動してる気になる。

「もう慣れたでしょ?」

と私が言うと、

「そうじゃない。体操よりも、
 ここにいること自体が耐えられないの」

恨めしそうな顔でそう言った。

目が血走っていて精神的に
追い詰められているのが分かる。
気持ちは分かるけど、私たちは囚人だから仕方ないよ。

爆破テロが成功していたら生徒会の奴らを
逆に収容所送りにさせられたのに。

「全員、食堂に集合して朝食を取れ」

ふー、今日も終わった。
不思議と体操した後は気分が高揚するし身が軽い。
私たちは整然と動き出した。
そうしないと指導の対象になるかもしれないから。

今日の朝ご飯はデザートにバナナとヨーグルトが出た。
普段は江戸時代みたいに質素な食事が続くのだけど、
忘れたころに豪華なメニューが出てくるから
皆のテンションが余計に上がる。

食事の時間は20分と決められているけど、
まだ終了の号令がかからないのを不思議に思う。
他の子も同じことを考えたみたいで、
同じテーブルの女子たちが、視線だけで内緒話を始める。

私たちは下手なことを口にしたら反逆罪になるから、
アイコンタクトの技術だけは無駄に発達したと思う。

私は考えるだけ無駄だと割り切っている。
生徒会の奴らは人間の姿をした猟奇殺人気。
私たちには殺人鬼の考えなんて分かる必要がないからだ。

熱々のチャイ(茶。ミルク入り)をすすった。
このミルクティー、香りが良くてすごく美味しい。
なんとお替りしてもオーケーと言われたので
遠慮なくいただいたのだ。

気前良すぎだから今日で全員銃殺刑になるのかな? 
と笑えないジョークを言ってる女子がいた。

このあとの予定が発表された。

「本日はビデオ鑑賞である」

あっそう。ならこれから視聴覚室に移動するのね。
よくやるんだよねこれ。ソ連の戦争映画や
共産主義ドキュメンタリーをみせられるの。

ブイエイチ…なんとかっていう、ビデオテープの映像を
DVDに焼いた映像らしいよ。
いかにも古臭くて雨の降ったような白黒画面で、
常に画面が上下に揺れてるんだよね。
カメラを構えていた人が震えていたのかな?

視聴後に感想文を書かされる。視聴中は別の
ことを考えてやりすごしても、ある程度の
内容は覚えておかないと、あとで困ることになる。 
共産主義者は政治思想の教育には異常な執着をみせるから、
適当な感想を書いた人が実際に別室送りになったこともある。

ビデオをちゃんと見るようにと、
革命的機運を高めるために朝食を豪華にしたのか。

「斎藤は別室行きだ」

はい? 考えてるそばから私が別室……?

「なんて顔をしている。このたびは尋問が目的ではない。
 ミウ様が面談を希望しておられるのだ。
 その恰好のまま会議室まで来なさい」

また会議室か。会議室は中央の棟の二階部分にあるの。
入ってみると意外と広くてびっくりするよ。
で、入ってみると。

「あっ、マリエちゃん。おはよー」

気さくに挨拶してくるのは副会長のミウ。

名にあの嘘くさい笑み。
あの女、私に気に入られたくて媚(こび)を
売ってるのが見え見えなんだけど。

本当に……バッカじゃないの!?

太盛先輩に嫌われたくないからって
7号室の囚人の私に媚まで売る?
そんなことしたって私の気が変わるとでも?

「マリエちゃんも素直になろうよ。
 マリエちゃんだって私とずーっと
 喧嘩してる状態が続くのは嫌でしょ?」

「私は喧嘩してるつもりはありません。
 普通に話しているだけですけど」

「前はそんな話し方じゃなかったじゃない」

「お言葉ですが、副会長閣下も別人のように
 変わっているように感じられるのですが」

「そうなんだ? 自分だと自分自身の変化に
 気づけないもんだよね。お互いに」

そっちこそ喧嘩売ってない?
最後に含みを持たせているのが腹立つんですけど。
「ちょっと待ってて」ミウはそう言って席を立った。

私は会議室で一人ぼっちになった。
40人分の席がある。私以外は空席のみ。
こんな小さな部屋でも一人だとすごく広く感じる

「お待たせ」

奴が戻って来た。思ってたより早いな。

「これ、マリエちゃんの携帯でしょ。
 私がずっと預かっておいたの。返してあげるよ」

特徴的なストラップとスマホカバーだけで
私のだと分かってしまう。夏休みに太盛先輩と
家電量販店で買ったものだ。

「私は7号室の囚人なのに持っていいのですか」

「特別に許可してあげるよ。
 もちろん今日だけじゃなくて毎日持っていていいよ。
 ただし、脱走目的とかには使ったらダメよ?」

奴の目的はなに? なんで私にだけ? 

私に携帯を持たせたら
太盛先輩と連絡するに決まってるのに。
脱走目的じゃなくてもLINEやTwitterとか。
彼と電子上で会話する手段はたくさんある。

……あ、そっか。太盛先輩の連絡先は
消されてるに決まってるか。

「ちゃんと残ってるでしょ?」

私の意図を読み取ったのか、
ミウが得意げに言った。

これで太盛先輩と会話してもいいのですか?
あ、そうか。ミウの許可が下りないと使用できない決まりとか。

「なにしても自由だよ。太盛君もあなたと
 話したがっているみたいだから」

「ずいぶん気前がいいですね。
 疑ってしまってすみませんが、
 何か裏がありそうな気が……」

「ないよ」

あっさり言った。

「あなたに携帯を返したのは私の善意だよ」

生徒会の人間は囚人に施しをするときに
「善意」
と言うことが良くある。これはボリシェビキにとって
裏表なく、親切にするって意味なんだろうね。

「今すぐ先輩に電話をしてもいいですか?
 あなたにとっては不愉快なことかもしれませんが、
 私はずっと先輩と話せなくて…」

「いいよ」

全部言い終わる前に許可された。
なら本当に電話してみよう。

あっ、ボタン押した後に気付いたけど、
先輩は授業中に決まってるか。
時間の感覚がないけどね。今何時なんだろう。

「まさか、マリンか? 本人なんだよな?」

太盛先輩が出てくれた。たまに私のこと
マリンって呼び間違えることがあるけど、
不思議と嫌な感じはしない。

「太盛さん、私です。マリーです」

「マリー。君はどうして電話をかけられるんだ?
 囚人が携帯を持ったら違反だ」

「ミウ殿が許可してくれたのです」

「ミウが……?」

電話越しでも先輩の緊張が伝わってくるよ。

「ミウ殿が私と先輩が話をするのを許可してくれたのです」

「そうか、実は俺もだ」

え?

「俺も今は六号室の囚人なんだが、今日になって
 いきなり携帯の所持が許可された。
 もちろんクラスの奴らには内緒でな」

先輩は授業中に突然廊下に出るように
言われて、そこで携帯を手渡されたみたい。

「先輩も囚人になっていたんですね。
 風のうわさで聞きました」

「俺は今、高圧電流の流れる鉄条網の近くで
 マリーと会話をしている」

どんな状況なの? 
学校の廊下で高圧電流……?
6号室がどんな場所なのかは知らないけど、先輩の話では
私たち1学年が使っていた教室の並びにあるらしい。

「周りに警備の方もたくさんいる。はっきり言って
 ロマンのかけらもない状況だ。だが俺はうれしかった。
 おまえの声が聞けてうれしかったよ。マリエ」

「私もです」

感動のあまり携帯を持つ手が震える。

「私も太盛先輩と会いたくて、会いたくて。
 顔を見たくて話をしたくて……ずっとそう思っていました。
 今は電話だけですけど、早く会って話がしたいです」

「マリー。俺は君のことが好きだ」

「私も好きです。太盛先輩」

バン

突然机を叩く音が聞こえた。
ミウが軽く叩いたのだ。

やばい。先輩と恋人の会話をしたから
携帯を没収されるかもしれない。

奴は私にジェスチャーでスマホを
寄こせと言ってきた。エラそうな態度……。
逆らえないのでしぶしぶ渡す。

「太盛君。マリエと会話できて楽しかったでしょ。
 それで私に何か言うことないの?」

「はっ…?」

「私があなた達に電話することを許可したんだよ?
 収容所の人達が携帯で電話するなんて言語道断。
 携帯を所持したら反革命容疑。
 地下室行きのところを見逃しているのは誰なのかな?」

「それは……ありがとう」

「うんうん」

ミウは大げさにうなずいた。
口元がにやけている。

私にも太盛先輩の声が
聞こえるようにスピーカーフォンにしている。
(通話中の相手の声を外に聞こえるようにする機能)

「もっと言ってくれてもいいんだよ?」

「ありがとうミウ。心から感謝してる」

「うんうん。そうだよね」

どんだけ喜んでるの、このキチガイは。
イスに座ったまま足を前後に動かしている。

「俺は二度とマリーと話せないかと思っていた。
 あの子の声を聞けただけで思わず震えた。
 それほどうれしかった」

よかった。太盛先輩も私と同じ気持ちだったんだね。

「そんなにうれしかったの?」

「ああ。六号室に入ってからこんなに
 うれしいことはなかった。できれば
 今すぐ7号室に行ってマリエに……」

「その前に」

ミウの声のトーンが低くなった。

「私に謝ることがあるよね?」

「えっ」

「何も思い出せないの? 
 私の顔をひっぱたいたりしたでしょ。
 忘れたとは言わせないよ?」

「……すまなかった。
 あの時は俺もカッとなってつい」

「うん」

「ごめん。ミウ」

「本当に悪いと思ってるんだよね?」

「もちろんだよ。すみませんでした」

「うんうん」

ミウがまた足をぷらぷらさせた。
太盛先輩に台本通りのことを言わせるのが目的なのね。
太盛先輩はこんな奴を殴ったことなんて謝る必要ないのに。

「太盛君もこっちにおいでよ」

「7号室にか?」

「うん」

この流れで彼と会うのを許可された。

最初は私も半信半疑だったけど、
ミウは約束を守ってくれると確信できた。

私とミウは無言で時が過ぎるのを待った。
お互いに自分のスマホをいじっているだけで
顔すら見ない。こんな奴と同じ空間にいるだけで
会議室の空気がどんどん汚染されていくよ。

10分ほどして先輩が、
たった一人でこの会議室の扉を開けた。

「マリーか……。ついに会えたな」

太盛先輩が私に向けて駆けだそうとしたけど

「Hold it ライトゼア」

止まれとミウに言われた。
奴が英語を出すときは余裕がない時だ。

「ただで再開させるわけにはいかないよ」

「なに?」

「さっきも言ったけど、二人に会う許可をしたのは私だよ?
 生徒会でこんなに優しい人、他にいるのかな?」

生徒会で、むしろこの地上であんた以上の
性悪を探す方が難しいと思うけど。

「こんなにも慈悲の心にあふれ、
 寛大なる副会長の私の顔を、太盛君はぶったんだよねー?
 それも一度や二度じゃなかった気がするなぁ」

「す、すみませんでした」

太盛先輩がその場で頭を下げた。
ミウは電話中と同じように口元がにやけた。
この売女なんだけど、太盛先輩の前では女の顔してるよ。
声のトーンも声優みたいに高くして二重人格を疑うレベル。

「いいよいいよ。そんなにかしこまって謝らなくて。
 私に対して敬語は使わないって約束したじゃない」

「……君が謝るように言ったんじゃないか」

「そうだけど、謝る方法は他にもある気がするなぁ」

奴は右手を伸ばし、太盛君の手を握った。
一瞬だけ太盛先輩の体が震えた。

「屋上の前で私からキスしたの覚えてる?
 そのあと、太盛君から抱きしめてくれたよね。
 でもキスまではしてくれなかった」

「ああ……そんなこともあったような、なかったような」

ちょっと面白い。先輩が私に遠慮してるのか、
申し訳なさそうにこっちをチラ見してくる。

「太盛君からはしてくれないんだ?」

「えっと」

「キスだよキス。太盛君。
 今なら好きにしていいよ? さあ早く」

あのさぁ……
私と太盛先輩が両思いなのは今さっき証明されたはずなんだけど。
前世が売春婦であろうミウは負けず嫌いにもほどがある。
耳ついてないの? 

「ここにはマリーがいるんだぞ?」

「うん。そうだね」

あくまでキスをする気か。
こんなにも先輩が拒否してるのに。

「改めて確認してもいいかな。
 太盛君は私の彼氏なんだよね?」

太盛先輩は固まった。当然の反応だと思う。
権力で交際関係を強制されるなんてパワハラだよ。
それにキスを強要するなんて逆セクハラじゃん。

「どうして黙ってるの? 
 マリエがいるのは気にしないで。
 私は太盛君の本心が聞きたいの」

ミウは震える先輩の腕を自分の方に引き寄せて上目遣い。
あの女、化粧してるんだ。髪もヘアワックスを使ったのか、
自然な仕上がりでロングヘアをふんわりとさせている。
唇はリップでけばくならない程度につやが出ている。

殺してやりたいほど憎いけど、太盛さんの前で乙女の顔を
してることもあり、もはや女優と肩を並べるほどのルックスだ……。

こいつが太盛さんと寄り添うと、二人とも美形なせいで
ドラマのワンシーンにしか見えない。私にこれを見せるのが
目的なんだろうけど、その作戦は大成功だよ。
これで嫉妬しない方がおかしい。

お願いだから私の太盛先輩から離れてよ。
私があいつより一学年下なこともあるけど、
仮にお化粧をしてもあいつほど奇麗にはなれないと思う。
ミウの性格は悪女そのものだけど、美貌だけはうらやましかったりする。

「俺はさっきマリーに告白した!!」

すごい怒声。窓が割れたかと思った。

「そしてマリーも俺の告白に答えた!!
 俺が言いたいのは以上だ!!
 これ以上は説明する必要がない。
 察してくれ!!」

「ふーん。そう」

ミウは太盛君から離れて適当な席に腰を下ろし、
自分の髪を指でもてあそんだ。ため息をついてから
立ち上がったが、また着席する。
制服のポケットから折り畳み式の手鏡を取り出した。

黒い外観の高そうな鏡……。
素人目に見てもブランド品だと思う。
シャネルっぽいマークがちらっと見えた。

ムカつくな……。共産主義は平等をうたってるくせに
幹部のアンタだけブランド物を使って。
こいつだって、今はたまたま学園の幹部ってだけで
中身は高校生で未成年のクソガキのくせに。

「太盛君もさ」

パタンと鏡を折りたたみ、

「男の子だから、やっぱりブスな女の子より
 綺麗な子の方が好きになっちゃうよね」

「一応聞いておくが、誰がブスだって?」

「え? 私だけど」

耳を疑う。私の認識がおかしいのか?
ブスって醜女(しこめ)を指す言葉であってるよね?

「私っていかにも日本人らしい平坦な顔つきだし、
 よく見ると目も細いし、釣り目がちだし、
 女らしい顔じゃないよね」

どうやらミウが本気で言っているようなので、
私も太盛先輩同様に混乱した。噂は本当だったんだ……。

7号室の囚人仲間の間で噂になっていることなんだけど、
副会長殿は自分の容姿に自信がないため、美人の囚人には
特に厳しく拷問する癖があるってこと。

「背も低い方だし、足も長くないし、胸も平均以下。
 最近仕事の疲れで肌もあれてるし、睡眠不足で
 クマもできてる。こんなブスよりマリエの方がいいよね」

「……おまえさ、鏡で自分の顔見なかったの?」

「見たけど?」

「普段も見てるんだよね?」

「毎朝嫌でも鏡に映るよね? あっ、そういう意味か。
 自分の醜さを自覚しろってことね」

「いやそうじゃなくて……」

太盛先輩は良い意味で鏡を見ろって言ってるんだけど、
ミウには伝わらないのが滑稽すぎる。ミウのルックスで
ブスだったら世界中の女はみんなブスになっちゃうよ。

ミウは伏し目になり、指をいじっている。
長いまつ毛が瞳を隠し、少し朱色に染まった頬と
厚みのある唇がとても魅力的だった。

愁いを秘めた状態で美しさにますます磨きがかかり
もはや人形としか思えないほどだった。
たぶん私の方がブスだと思えるほどに。

「マリーが入院してる時も似たようなこと言ってたよな。
 ミウはさ、自分にファンクラブがあるのはなんでだと思う?」

「さあ? 私が英語が話せるから珍しかったんじゃないの?」

「んー、まあ、それもあると思うけど、俺たちは高校生だからな。
 男子が女子に惚れこむ一番の理由は、普通は外見だと思うよ」

ミウがまんざらでもない顔をした。

「でも太盛君から見たら私は魅力ないんでしょ?」

「性格とか地位は置いておくと……まあ顔は美人だよな。
 うちの学年じゃ、おそらくトップを狙えるんじゃないか?
 ミスコンとかあればさ」

「えっ」

ミウは座ったまま足を前後に動かしている。
いかにもうれしそう。

「ミウは、綺麗だよ」

「うっ……やめてよ。どうせ私の機嫌が取りたいんでしょ?」

「そんなんじゃない。ミウは綺麗だよ。君が生徒会に入る前にも
 言ったことがあるだろ? ミウはブスなんかじゃないよ。
 ぱっちりとした瞳や、長くてきれいな髪の毛がとっても素敵だよ」

うっ……やめてよ……。どうせ本心なんでしょ? 
太盛先輩はミウの肩に手を置きながら口説いていた。
胸の奥がムカムカする。けど奴の美貌だけは認めてあげる。
でもねぇ。いくら美人でも性格とか政治思想がキチガイじゃねえ。

「うそ。どうしよう。うれしい。
 太盛君に面と向かって褒められたのって初めてだよ」

「あはは」

「なんだよかった。太盛君に女として
 見られてないって、ずっと思ってた。
 すごく不安だったんだよ?」

「まあ間違ってないかな」

「え?」

「俺が褒めたのはお前の容姿だけだ。ぶっちゃけおまえの
 顔は俺の好みドストライクだ。おそらくほとんどの男子の
 あこがれの的だろう。むしろなにゆえ、おまえは自分が
 ブスなのだと勘違いしたのか、生徒会の七不思議に数えられるべきだ」

ミウが好みだったのね。想像以上にグサッときました。

「しかしながら俺の答えに変わりはない。
 俺は斎藤マリエを誰よりも好む」

妙な沈黙の後、ミウが口を開いた。

「斎藤の方が美人だから?」

「どっちも美人だよ。顔じゃなくて中身」

「中身? そっちの方が意味わかんないよ。
 私はこんなにも太盛君のために尽してあげてる。
 そっちの子は、自分からは何もしないのに太盛君に甘えて、
 愛されて、かまわれて、どうして太盛君に愛されるの?」

「わかりやすく言ってやるよ。マリエは俺を拷問したり
 する心配がないじゃないか。あと俺と同じで生徒会に
 振り回される被害者だ。マリエなんて今は囚人なんだぞ」

「前から思ってたんだけど、もしかして私が生徒会を
 辞めたら太盛君は付き合ってくれる?」

「たぶんな。でも無理なんだろう? 
 そこまでの地位に上り詰めちまったらな。
 そもそもミウは共産主義者じゃないか」

一番の違いはそこかもね。
私も太盛先輩も政治思想に興味がない。
普通の学生はそうだと思う。
でもミウは、本気で国家を転覆させるために活動を行っている
私たちから見ればキチガイ・テロリスト宗教集団って認識になる。

「権力って便利なんだよね。例えば君を動けないように
 拘束して、私好みに飼育して、私なしでは
 生きていけないようにすることもできるんだよ」

そう言われたら、もう先輩は言い返せなくなる。
ミウは卑怯だ。

「私が今まで君にしなかったのはね、私と太盛君は
 そんなことしなくても普通に分かり合えると信じてたからなの」

「俺はどうなろうとかまわない。もう諦めてるよ。
 だがマリエだけは救ってやってくれ。頼むよ。
 夏休みのこと忘れてないよな? 俺とミウで
 毎日マリエのお見舞いに行ってさ…」

「はいはい。ボリシェビキに昔話をされても困りますよ。
 私たちは過去を捨てた。過去なんて関係ない。邪魔なだけだから。
 結局太盛君は私を選ばなかった。現実はここだよ」

「おいミウ。お前何考えてるんだ」

「Now. it is time to do it.」

は……? ネイティブ英語やめろ。
急に言われても聞き取れないよ。

「今がその時だね」

日本語で言い直した。

「これから二人を別の収容所へ移動させます」

「な……」

「うふふふふ。太盛君、驚いているでしょ?
 マリエとは一緒にいさせてあげるから大丈夫だよ」

「どこへ移動になる? まさか二号室じゃないだろうな」

「三号室だよ」

太盛先輩は椅子から転げ落ちるほど驚いていた。
私もそうだけどね。
三号室って太盛先輩が以前収容されていた場所じゃん。

「現時刻を持ち、掘太盛君と斎藤マリエの
 移動を命じます。直ちに三号室へ移動しなさい。
 これは生徒会副会長としての正式な命令です」

私と太盛さんは、警備の人達に付き添われて
三号室のある棟へ向かった。

たしか、職員室がある場所だからA棟だったかな。
この流れなら拷問されたりはしないと思う。


~斎藤マリエ~

「収容所内の恋愛は自由である」

収容所の扉を閉めた執行部員の言葉が
いつまでも頭に残っていた。

三号室には私と太盛さんの他に三人の男女がいた。

まず一人目は、松本先輩という男性。

茶髪で不良っぽい外見だけど、中身は草食系なのか、
こちらが挨拶しても会釈(お辞儀)だけ返された。
いかにも無害そう。三年生だからもうすぐ卒業だね。

二人目は小倉カナ。

「太盛……どうして戻って来たのよ」
「へへ。俺だって好きで戻ってきたわけじゃないさ」

再開するなり抱擁してほほえみあっている。
私は激しく不愉快だったけど、事の成り行きに着いて行けず、
見守ることしかできなかった。

どうやら小倉先輩は太盛先輩と同じクラスで、
三号室では囚人仲間だったみたい。しかも彼女だったとか?
先輩……彼女いたんですか。しかも強制収容所で?

つっこみどころは満載だけど、まあいいや。

次に三人目の紹介を。

「あ? わたし? 横田リエっす。ちーっす」

このチャラい人は、なんと太盛先輩の元担任の先生だという。
最初は信じられなかったよ。化粧もしてないし、
髪の毛もボサボサ(ショートカット)

服も……私服? 一見するとジャージに見えるけど、
高級スポーツウェアみたい。
ジョギングする人が着るような感じの。

「あwwwwなにその顔? もしかして私が三号室行きに
 なった理由とか知りたいのwwww? 
 答えはwwww教えてあげないよwwwジャン♪」

なんですかそれ。お笑い芸人のネタですか?

「お笑い芸人wwwwそんなの知らないよwww
 私テレビ見ないしwww自分のネタに決まってるでしょwww
 見りゃわかるだろ普通www」

初対面の人をぶん殴りたくなったのは生まれて初めてです。
こんなアホっぽい女が太盛先輩たちの元担任?

二年一組って進学コースのトップじゃないんですか。

「だからその目やめろwwwうっざwww
 別に進学クラスとチャラさは関係ないからねwww
 頭良くてチャラい人とか世の中にいるっしょwww
 つーか進学コースとかwwwクソめんどくせーんだよwwww」

セリフに草生やしていると人間性を疑われますよ。
どうせ助言しても聞いてもらえないんでしょうけど。

とにかく私は三号室で暮らさないといけないんだ。
まずみんなの名前を覚えないと。
松本さんと小倉さんと横田さん。
一年生なのは私だけ。今みんなは諜報の時間でPCを…

「ちょっと~、斎藤さーんwww」

なんですか横田さん? 今考え事してるんですけど。

「教員だった私がここに収容されてる理由を聞いてよw」

さっき教えてくれないって……

「いやいやwwwちゃんと理由言わないと
 物語として進展しないでしょwww」

物語? 元先生は得意げに語ってくれた。

まず驚いたのが、二年一組の人がクラスごと6号室行きに
なったこと。クラスごと……。そんな事例もあるんだね。
たぶん学園始まって以来だとは思うけど。

「私さーwww裁判にかけられたんだけどwww
 ありえなくないwwww? 
 なんか~www 授業態度とかにぃwww
 問題あるとかぁww言われちゃってぇwwww」

6号室は、井上マリカという代表の元に一致団結し、
模範的な囚人生活を送っていた。その中で輪を乱す
大馬鹿がいたのだが、その馬鹿がなんと
横田リエだったとのこと。

「あいつら宗教集団なんだけどwwwマリカ様www
 マリカ様とか言ってwww私のことが不真面目で
 マリカ様に迷惑をかけてるって文句言うのよwww
 あのクソども、次会ったらボコボコにしてやるわwww」

不真面目って?

「ロシア語の授業とかだるいから、
 週〇少年ジャンプ読んでたのよ。
 そしたら隣の席の男子に注意されたわwww」

普通は注意するでしょう。

「そうかしらwww? あとソ連の歴史の授業は
 ビデオ見せられるのね? あの時はガム噛みながら
 IPODで両耳塞いでたらさすがに怒られたわwww」

怒られるってレベルじゃなくて
完全に喧嘩売ってますよね?

生徒会の人にばれたら
尋問室行きで拷問されてもおかしくありません。

「それがねwww大丈夫なのよwww」

マリカさんという人がかばってくれるから、だという。
その人は素晴らしく人間味にあふれる人で、
粗相を繰り返す先生をよくかばってくれた。

ロシア語教師の生徒会長殿も横田の奇行は
目にしていたが、優しいので見逃していた。

第五特別クラスは自治権が認められていたから、
内部粛清などは自分たちの裁量で行える。

横田さんはクラス中から非難の的になり、
まず代表の座から降ろされ、その後も第五特別クラスの
一員にふさわしくないとして、たびたび苦情が出された。

いっそ横田を切り離して生徒会へ突き出すべきだと。
ならば、まずはクラス裁判しかない。

でもマリカさんはすぐには裁こうとしなかった。
クラス裁判で有罪になった人は生徒会へ突き出す
約束になっている。

とはいったものの、マリカさんでも
クラス内部での反発の声は抑え切れなかった。

井上マリカ様を中心としたクラスの風紀を
罪としてついに裁判が開かれ、
たったの7分で有罪が決まった。

横田リエを弁護したいと思う人がついに
現れず、なんと弁護人なしでの裁判となったためだ。
これには裁判官のマリカさんもついに諦めてしまった。

「うちのクラスの子たちwwwwまじうざくないwwww?
 担任の先生を裁判にかけるとかwww
 ほんと終わってるわwww生徒としてwwww」

先生は今までのセリフを、
机の上に両足を伸ばした状態で言っていた。
両手は頭の後ろで組んで座っている。

不良系の男子がやりそうなポーズですよね。
とても23歳の女性がやることには見えません。

「はwwwww? 23とか意味不明だしwww
 私は永遠の16歳だからよろしくねwwww」

先生は小顔で美人だけど、さすがに10代とは違いますよ。
お肌とか、とっくに曲がり角でしょ。

「ちょwwww今ムカつくこと言われたんですけどww
 斎藤さんだっけ? ちょっと屋上来ようかwwww」

もうこの人の相手はよそう。

私は、大人しく席に座っている松本先輩には
目もくれず、カップル同然に一つのPCを
のぞき込んでいる先輩たちの方へ向かった。

「なんだ、マリー?」

なんだ、じゃありませんよ、太盛さん。
諜報活動だか知れないですけど、何その小倉さんって
人とイチャイチャしてるんですか。

「いや、久しぶりの諜報活動だからやり方
 忘れちゃったんだよ。今カナに教わってるから、
 あとでマリーにも教えてあげるからな」

問題はそこじゃありません。

先輩は私が怒ってる原因が分からないようなので
直接教えてあげることにしました。

「あの、小倉カナさんでしたよね?」

「あ、はい」

小倉さんは少し緊張してるのか、声が上ずっている。

「先輩に対して失礼だとは思いますけど、
 これだけは言わせてください。
 太盛は私の彼氏です」

小倉さんはインドネシアにあるブッダ像の
ように固まってしまった。

「え、なに?」

10秒ほど沈黙した後に、小倉さんが
なんとかしぼりだしたのは、それだけだった。

「太盛は今年の夏休みから私と付き合っていました」

何気なく先輩の名前を呼び捨てにしてるけど、
こっちのほうが私の彼氏だって伝わるよね?

「うそ……。太盛。あんた、彼女いないんじゃなかったの?
 橘嬢(エリカ)とは付き合ってないって言ってたじゃん」

「いや……その。いろいろあって……」

「嘘ついてたんだ。こんな可愛い彼女いたのに
 ごめんね? 収容所じゃ私しか女がいなかったもんね」

「ちょっと待ってくれよカナ。おい。ちょっと!!」

下の名前で呼ぶか。カナさんは部屋の隅まで机を持っていき、
PCを操作し始めた。いったい何を
調べてるのか知らないけど。どうでもいいや。

「カナ!!」 「話しかけないで!!」

部屋の隅で二人が犬も食わないような喧嘩をしている。
本当に仲が良かったんだろうな。
きっと喧嘩なんかしたことなかったんだよ。

太盛先輩は、収容所三号室であの女と一緒に過ごしていたのか。
毎日一緒に…。私は会いたくても会えなかったのに。

「太盛先輩は私のこと好きだと言ってくれました。
 そっちの女の人はもう赤の他人ですよね?」

私が先輩の隣でそう言うと、カナがすごい顔でにらんできた。
この人、ミウとは違う殺気を放っている。
直感で分かるけど、体育会系なのかな?

今にも拳が飛んできそうな雰囲気。
でも負けないよ。

「ああ、あんたのこと思い出した。一年のアイドルの
 斎藤マリエね。たしか太盛と同じ美術部の」

「よくご存じで。私は太盛先輩の家にも
 行ったことあります。私の家には夏休みの間
 毎日来てもらいました」

「は?」

今度は太盛先輩がにらまれた。

「太盛は嘘つきなんだね!! 私とは運命共同体で 
 卒業するまで一緒に過ごそうとか言ってたくせに!!」

「あの時は本当にそう思っていたんだよ!!」

「彼女連れて戻ってくるなんて
 なんのつもりなの? 嫌がらせ!?」

「そんなつもりはないよ!! 
 俺たちはミウの命令で
 仕方なくここに戻って来たんだ!!」

「仕方なく……?」

「い、いや。そういう意味じゃ」

「そんなにここにいるのが嫌なら、早く出て行ってよ!! 
 その子も連れてどこへでも行きなさいよ!!
 この嘘つき!!」

「カナ。気持ちは分かるけど、落ち着いて話を聞いてくれ。
 俺がここに来るまでの経緯を全部話すから」

「聞きたくない!!」

「カナ!!」

「今は一人にして!!」

松本先輩はこの修羅場を黙って見守っていたが、
そうじゃないのが一人いた。

「うはwwwwwまじうけるwwwwあんたら何
 昼ドラみたいなことやってんのwwww」
 しかもうちのクラスの子が争ってるのがうけるwww」

横田、静かにしてよ!!

「だって面白いじゃんwwwwリアルで昼ドラすんなよwww
 堀君が女たらしすぎてww笑いが止まらないwww
 ごめんwwwうちら教師陣は、堀君はエリカと付き合ってるの
 が公式見解だったんだけどwwwwなんで他の女に行ってるのwww」

黙れよ年増!!

「年増とか言われちゃったwwww私まだ23なのにwww
 大人の世界では若すぎるくらいよwwww
 つーか収容所で昼ドラとかwwwwマジ楽し~www
 斬新ネタ、あざーっすwwww」

しょうがないか。私は子供頃に空手を習っていたから、
ここで発動することにするか。

「ごふwwww」

私の正拳突きを食らった横田が、数メートル吹き飛んだ。
その衝撃によって気絶してしまった。
よかった。これでしばらく静かになるだろう。

騒ぎ続ける太盛さんとカナ。
賢者の顔で、PCで諜報活動
(全校生徒のSNSチェック)を続ける松本先輩。

久しぶりに空手技を発動した疲れで、肩で息をしている私。

そんな茶番を続けていると、収容所の扉が開くのだった。

「失礼します!!」

生徒会のバッジを付けた男子が入って来た。
若いね。一年生?

「収容所の同士諸君らよ!! 私は諜報広報委員会から
 派遣された相田トモハルと申します!!
 ここに来るのは事前に
 高野ミウ副会長閣下に許可を得ております」

声がでかい。この人も体育会系ね。

「今日から私が三号室の看守として、
 みなさんを管理させていただきます!!」

あなた、一年生でしょ?
確か野球部のエース候補で一年から
控えのメンバーに入っていた…。

「同士・斎藤のおっしゃるとおりであります!!」

なんで敬語使うの? 
それに私たちは同士じゃなくて囚人でしょ?

「敬語は必要であります!! なにせここの方々は
 ほとんどが上級生でありますから!!
 呼び名に同士を使うのは……!!」

信じられないことを聞いたわ。
私たちは将来有望なボリシェビキ候補として
期待されているから、何人かは生徒会へ
引き抜きたいとのこと。

三号室ってそういう場所なの?
生徒会の幹部育成組織みたいだね。

すぐ隣の二号室が絶滅収容所なのとは
えらい違いだね。

「この教室での過ごしかた、規則等については
 私が決めたいと思っております。
 もちろんみなさんが話し合って決めていただいても
 よろしいのですが、先ほどの茶番をしているようでは
 難しいでしょう!!」

おっしゃるとおり。てか茶番見てたの?

「監視カメラが教室の天井の四隅に設置してあります!!」

あっそ。それより、さすが元野球部。声でかいねー。

「すみませんっ」

なんで謝るの。私、囚人なんだけど。

「同士・斎藤は会長からも期待されているほどの
 お方ですから、私も敬意を払うつもりであります」

褒められちゃったよ。
私、この人なら嫌いになれない。

小倉カナは、老女のような腰つきで
トモハルに話しかけるのだった。

「と、ともはる……あんた……どうしちゃったのよ」

「同士・小倉よ。いえ、同じ部活でしたから
 親しみを込めて同士・カナと呼ばせていただきましょう。
 私が生徒会に入った理由を聞きたのでしょう?
 包み隠さず教えてあげましょう!!」

彼はその場で演説を始めた。

マルクス・レーニン主義の合理性と先進性だ。

「唯物弁証法」「階級闘争」

この二つの単語について説明を始めた。

「階級闘争」は生活の資を得ようとするところから「唯物的」「経済的」
 な運動である。その運動は社会制度を作り、どの社会も時がたつと
 それ自身の否定を生み出すという意味で「弁証法的」「政治的」なのである。
 エンゲルスはこのようなマルクスの哲学への貢献を、
「自然と歴史の唯物論的解釈に弁証法を引き入れた」ことであると明記した。
 ヘーゲルにとって思惟の範疇と考えられた「弁証法」を、
 物質的な過程に置き換えることについての困難は、
 マルクスによって気づかれなかったか無視された。

↑(・ω・) 私たち囚人はこんな顔で聞いていた。

私も7号室時代にそんなこと聞かされたけど、
理解できないよ。言い方が小難しすぎるでしょ。

「社会主義理論とは、経済であり、哲学であり
 人類史そのものですから、自分も理解するまで
 ずいぶんとかかりました」

ならそんな難しいのを口頭で語らないでよ。

「日本の資本主義は堕落しています!!」

なにがどう堕落してるの?

「資本主義とはすなわち、資本家による生産手段の独占!!
 貧富の格差の拡大!! 無意味な競争と景気変動による
 雇用の不安定などを生みます!! 
 また、日本は社会保障制度も不十分であります!!」

ああ、社会保障って年金とか医療とかね。

「まず、日本の問題点は、金のない奴は死ね!! 
 これにつきます!!」

そうなの?

「自民党政府は金がないのは自己責任だと言います。
 確かに国民に財産の所有が許可されているから、お金を 
 どう使おうが個人の自由。貯めるのも無くすのも自由です」

「しかし、お金を持たない人は、老後など
 将来の生活に困り、飢え死にするかもしれません!!
 生活保護は在日朝鮮人を優先に支給され、たとえ70歳でも
 働ける見込みのある人にはまず支給されません!!」

「低賃金、高い税金、長く続くデフレによって貧困者の 
 割合は増える一方で、金融資産や生産手段のある富裕層は
 ますますもうける!! 若者には金を稼ぐ手段が限られ、
 その状態が未婚率に直結しています!!」

なるほど。確かに結婚する人は減ってるらしいね。

「労働者は低賃金で奴隷労働をさせられています!!
 日本はEUのように発展した地域と違い、
 国が企業の横暴を許しています!!」

残業時間は国会で審議されてるんじゃなかった?

「上限が月100時間とか、高プロ制度ですか?
 あんなの無駄です!! 喜ぶのは企業と経団連だけです!!」

残業時間規制には労働基準法の36協定があるが、
上限規制を守らないブラック企業は後を絶たない。

最近は少子化による影響で労働市場の
需給ギャップが発生。学生の売り手市場になり、
情勢は変わるかもしれないらしい。

なんか。そういう話聞くと将来働きたくなくなるよね。

「日本の資本主義の最大の問題は『労働時間』にあります!!
 ソ連では一日のノルマをこなせば帰れます!!
 職種にもよりますが、例えば工場なら
 普通の人なら8時間以内にノルマはこなせる量です!!」

「ところが、我が国はあらゆる職場で最少の人数で
 働かせられ、無意味な残業を強いられる!!」

過労死とかニュースでよく聞くものね。
先進文明が集まるEUには過労死って
概念がないそうだけど。

「確かに残業多くて困るわwww
 私も大学出る前はこんなに
 残業ばっかりだと思わなかったもんww」

横田リエも何か言ってる。いつ目が覚めたんだよ。
こいつは毎月30時間以上しているらしいけど、
過労死ラインほどじゃないと思う。

三学年を受け持つ進学クラスの先生は、
受験シーズンに月80時間くらい残業するらしいけど。

「収容所生活って残業なくて楽だわーwww
 私も学生と同じ時間に家に帰れるしwwww
 給料半分しか出ないけどねwww」

給料半減してたんですか。
先生一人暮らしでしたよね?
けっこうキツいと思うんですけど、
どうやって生活してるの?

「はwww? 私これでも
 副業やってるからwww楽勝っすwww」

どんな仕事なんだろ。怖くて聞く気にならない。

「説明を続けますが!!」

トモハル委員の説明を箇条書きするね。

日本の資本主義とは

・賃金奴隷制度(低賃金、長時間労働)
・自己責任型の破滅社会(社会保障は期待できない)

・『旧日本軍に変わって』企業が国民を使役し、虐待している。
 (政府が企業の力を制御できない)

・日本の企業とは何か? 
 利潤の追求のために人権を無視する組織である。
 人とは、家畜であり、ひとつの労働単位に過ぎない。

・公務員でさえ、例えば中学教員のブラック部活など、
 長時間労働が問題視されている。

・神風特別攻撃はなくなったが、過労死は存在。
 過労死とはすなわち、企業の命令で特攻したのと同義である。
 イスラム教徒が自爆テロで散るのと変わらない。

・15~24歳までの自殺率、世界トップが日本。
・6%存在すると言われる資本家階級が全てを支配している。

・金融資産の7割は老人が保有。

・若者が結婚しても夫婦共働きはほぼ必須。

①仮に夫の給料が足らずに妻がフルタイムで働くと
 →認可保育園には数の制限有り。
 保育費用は家系に大きな負担。待機児童問題が発生する黄金パターン。
②国が保育所を増やしてもブラック保育園が多く、
 そもそも保育士の離職が止まらない。
(保育士1人で5人以上の子供を担当、女同士のいじめなど)

・若者が貧しい一方、国会議員の給料は平均で『約3300万』
 航空機やJRの無償乗車などの
 議員手当を含めると『約4400万円』

・一度バブルがはじけた後のデフレが
 無限に続くのかとさえ思えるスーパーロング不景気タイム。

・2018年現在まで、年金の支給年齢を引き上げる一方であり、
 自民党は明らかに70歳まで国民に働かせようとしている。

・実質死ぬまで働けと言ってるのと変わらない。
・政府の負債の債務残高は深刻。(1080兆円以上)
・年金支払いは『債務の履行遅滞』が今後も続く。
(↑払わないとは言ってない)

(余談だが、『日本政府』が『債務不履行』になるのは、
 日本国が軍事攻撃によって壊滅した場合が考えられる。
 どれだけ政府が負債を抱えても年金を
 全く払えないというのは財政学的にはあり得ない。
 また、政府の借金を国民の借金と考えるのは誤りである)

「おいおい。日本ってそこまで悪い国だったの?
 賃金奴隷って言葉も初めて聞いたぞ。
 サラリーマンって奴隷だったのか?
 あと国会議員の給料高すぎないか?」

太盛先輩が呆れている。そうだよね。
賃金奴隷とか言われても私たちには実感がないな。
私の両親は銀行勤めで毎日夜遅くまで帰ってこないけど。

『賃金奴隷』はマルクスたちの作った用語らしいね。
 資本主義を批判するために。

どれだけ働いても裕福になれない人、
労働時間を企業に売ることでしか
お金を稼げない人達のこと、つまり私たちのことだね。

カナは太盛さんの隣に立って、腕組みをしている。

「東日本大震災の時、国会議員の給料を八割に削減しましたが、
 それを現在までに国民には内緒で十割(満額)に戻しているのです!!
 国民に重税を課しておきながら、許せません!!」

「私も政治のことは分からないけど、今の安倍政権が
 変わったら少しは良くなったりしないの?
 森友問題で奥さんが嘘ついて大変なことになってるんでしょ?」

そうらしいね。テレビでやってた。
安倍政権は森友問題で支持率が急降下してるらしいよ。
(2018年3月29日執筆)

「国家犯罪を犯した者は、
 旧ソ連なら強制収容所行きであります!!」

無理でしょ。ここは日本なんだから。
それにスパイかと思われる人とか政府批判を
した人も収容所行きになるでしょ。

「恐怖こそが国家を統制するのです!!
 日本人は徳川政権の崩壊、太平洋戦争の敗北の
 あと、手のひらを返したかのように国をがらりと
 変えた実績があります!!」

「国民は情勢に流されやすい特性を持つのでしょう。
 特に明治以降の全体主義的傾向は国民に広く浸透しました。
 社会主義革命が起きた時もすんなりと受け入れることでしょう」

はいはい。日本人は主体性のない人ばかりだからね。
それと明治維新の時は、西洋列強の侵略に
脅えて生まれ変わっただけでしょ。

「先ほども申し上げましたが、
 私は広報諜報院の所属であります。
 同士諸君らを勧誘するのも私の務め」

「どうですか同士諸君!!
 我々の考えに同意し、共に生徒会の同士と
 なってくれる人はいませんか!?」

私は動じない性格だからスルーだけど、
太盛さんとカナは深刻なレベルの衝撃を受けている。

特にカナは、オーストラリア北部に生息する
カンガルーの姿勢と顔で固まっている。

カナは変わり果てた後輩の姿に涙さえ流している。

「トモハル……どうしてそんな人になっちゃったの」

「強制収容所一号室の生活が私を変えたのです。
 私はあなたの知っている相田トモハルではありません」

「うぅ……ぐすっ」

カナが嗚咽してる……。そんなにショックなんだ。
太盛さんがカナの肩を優しく抱いてなぐさめている。
イチャイチャすんなよ、こら。

「革命なんか起こして何になるのよ。
 だいたい、貧乏人たちが国家を転覆させようとしたら、
 お金持ちの人達が怒るでしょ」

「既得権益者は強制収容所行きか国外追放します!!
 かつて同士レーニンがそうしたように!!
 彼らが保有している全ての資産を没収し、
 国民全員に均等に分配します!!」

「それは理想だけど、本当にそんなことしたら、
あとで遺族とかに復讐されない?」

「四親等内の者も全員殺すか、収容所行きにします。
 復讐防止のためには容赦しません」

四親等……。いとこ、自分の兄弟の孫まで含まれるのね。
やりすぎかもしれないけど、徹底してる。

ちょっと面白いかも。
この国には死んでほしい議員さんがたくさんいるね。

「ふむ。その表情から察するに、私の演説の
 効果は薄いようですね。まあいいです。
 私は諦めずに諸君らへの勧誘を続けます」

あっそ。用が済んだなら、
さっさと広報員のとこへ帰りなさい。

「え?」

えっ。

「私も今日からこの収容所で過ごしますよ?」

は……?

「私は看守であります。常駐型とでも言いますか、
 常に同士諸君らを監督指導するのが仕事です」

「うはwww毎日あんたにこの部屋で
 監視されるってことwwww? 
 深刻なレベルでうぜーwwww」

横田の話し方もうざい。
相手にすると疲れるから距離を置くか。

まさか生徒会の人が収容所に常駐することになるとは。
太盛先輩と一緒なのはうれしいけど、浮気相手のカナが
いたり、横田のアホがいたりで全然落ち着けない。


「収容所内での恋愛は自由であります」

うん。知ってるよ、トモハル委員。
前の話の冒頭でも同じセリフあったでしょ。

「メタネタを使う人は反ボリシェビキですよ!!」

あっそ。つまんないの。

「我らはボリシェビキとして、この収容所三号室に
 集まった身です。これから共に学園生活を
 送る身ですから、改めて自己紹介をしましょう」

トモハル委員の説明はすでにしてある。
他の人は嫌そうな顔してる。
まあ、今更自己紹介なんてめんどくさいよね。

これ、新学期とかでやるオリエンテーション的なノリ?
誰も始めないなら、私からするか?

「私は元一年二組、元7号室の囚人。名前は斉藤マリエです。
 囚人番号202。現在は人権があるので実名を
 名乗らせてもらいます」

「斎藤さんはお綺麗ですね。彼氏とかいるんですか?」

と私にいきなり聞いてきたのは、なんと松本先輩だった。
この人。普通に話しかけてくるのね。
最初は無口な人だと思ってたのに。

「いや、松本先輩から話しかけて来るなんて
 かなりめずらしいことだぞ。
 俺なんて一度しか話しかけられたことがない」

ちなみに先輩はなんて話しかけられたのですか?

「堀君はどこから来てるのって?」

それだけ?

「おう」

話をするときはいつも太盛さんの側から。
しかも1分以上会話が続いたことはないらしい。

私が太盛さんと話していると、
松本さんが不愉快そうな顔をした。
なに? その渋柿でも食べたような顔は。

「斎藤さん。俺の質問に答えてよ」

「あっ。すみません。別に無視するつもりじゃ」

「分かってるよ」

口元だけで笑った。なんなの、この人。

「僕は君のことが好きだ」

なに……?

「実はファンだった」

先輩は、裏で流通していた私の写真を
多数所持していた事実を明らかにした。

「斎藤マリーファンクラブは非公式だが、
 実は大半が三年生」

斎藤マリー好きにはロリコンが多いって女子が
噂してるのはもちろん知っているよ。たしか、
アキラ会長の前に会長だった人? 分かりにくくてごめんね。

つまり前作『学園物語』で最初に会長やってた人も
私のファンだったみたい。私ってロリキャラなの?
なんか学内ではそういうことになってるみたいだけど。

「君が収容所に入って来た時、衝撃を受けた。
 できればすぐに駆け寄って抱きしめたかった」

……正直、ドン引きしちゃいました。

ひとつ気になったことが。
その割には私があいさつした時、そっけない
態度取りましたよね?

「緊張してた」

そうなの……? この人、しゃべり方が独特。
数少ないのはガチみたいね。

「君は俺と付き合うべき」

「いきなりそんなこと言われても困りますよ」

「収容所内は恋愛自由」

「そうかもしれませんけど、
 私は付き合ってる人がいますから!!」

と言って太盛さんを見た。
太盛さんも私と同じように困り果てている。

どうもこの松本先輩は模範囚の中でもとりわけ
生真面目で冗談の一つも言わない性格。
太盛とカナがイチャついても華麗にスルーするほどの
精神力の持ち主。

すぐ近くに美人の小倉カナがいるのに、まるで興味なし。
もしかしたら、女に興味ないんじゃないのか。
影でそう思われていたみたい。

「それは気のせいだ」

「はい…?」

「君が堀君と付き合ってるとか。
 それは気のせいだ」

先輩の意図が全く分からない。深読みしないと……

「なるほど。松本先輩の言うとおりね」

カナが得意げな顔で何か言ってる。

「斎藤マリエ。あんたが太盛と付き合ってるって。
 それは気のせいだったのよ」

いやいや。あんたにまで言われるとガチでムカつきます。
真顔で言うのやめてもらっていいですか?

「小倉さんも分かってくれた。
 堀君と斎藤さんの関係は気のせいだ」

「うんうん」

二人はなに意気投合してるの?
カナに正拳突き食らわせたいんだけど。

「あの……松本先輩」

太盛さんが申し訳なさそうに言う。

「さすがにそのジョークは面白くないというか……。
 俺とマリエは本当にカップルでして……。
 せ、先輩がマリエのファンだったとは
 知らなくて、ですね……その……」

かなり遠慮がちに言ってるな。
太盛さんは松本先輩を尊敬してたのか。

「いいって」

「え、いいんですか?」

「うん。気のせいは誰にでもある」

「へ?」

「堀君は夢でも見てたんだ」

それは、私たちの関係が夢だったと
言いたいんですか?
どう考えても現実ですよ

太盛先輩もあせって事実を説明するが…

「そういうの。もういいから」

と言って松本先輩は聞いてくれない。
なにこの状況?

松本イツキさん。三年生。一見すると
普通の男子生徒だけど、実はかなりの変わり者?

「ゲラゲラwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」

横田は笑いすぎて苦しそうにしている。
この女はいつまで床を転げ回ってるんだ。
早くこの収容所から出て行ってよ。

「マリエ、好きだ」

今のは太盛さんじゃなくて松本さんから言われた。
こんなみんなが見てる前で愛の告白されても
なにも響きませんよ。

「良かったね斎藤? おめでとう。
 いつまでもお幸せに」

おめでとう、じゃないんだよ、この小倉が。
なんで私が松本さんと付き合う流れになってんだ。
これでも食らえ。

「おっそ。止まって見えるよ?」

私のワンパンは軽くかわされてしまった。
嘘でしょ。これでも小さい頃にかなり鍛えられてたのに。

「収容所生活・初日からカップル成立ですね!! 
 おめでとうございます!!」

トモハル委員が力強く拍手すると、カナも続いた。
松本さんは照れ臭そうに笑っている。

ちょっとあんたら、ふざけるのもその辺にしましょうよ。

「ということで、同士・堀太盛の彼女は
 カナさんに決まりました。これは正式決定です」

トモハル委員? 正気ですか?

私はさすがに我慢できないのでキレてしまった。

「いい加減にしてよ!! 勝手に話をすすめないで!!
 私と太盛先輩の関係をどうしてあなた達が
 勝手に解消しようとするの!? あなた達にそんな
 権利があるの!? 私たちの関係に口出ししないでよ!!」

「太盛は、私の彼氏です!! 私が失語症になった時とか、
 彼すっごく優しかったんだから!! 毎日病院に
 お見舞いに来てくれて、それで家にも遊びに来てくれて!!
 他にも……」

ガッシャアアアアアアン

急に花瓶が床に落ちて粉々になった。
収容所に花瓶なんてあったんだ。

「わざとではありません!!」

トモハル委員……。私の話の腰を折るのが目的でしょう?

「何のことでしょうか? 先ほどから同士・斎藤は
 妄想を語っておりますが、それは事実ではありません。
 なお、同士カナと太盛が収容所カップルなのは
 生徒会が公認しております」

収容所カップルってなに? その理屈だと
ミウが太盛に手を出すのも違反にならない?

「うるさいのであります!!」

怒られちゃった。

「この三号室の中において、太盛同士とカナは
 カップルなのです!! この関係を否定する者は、
 反ボリシェビキとみなします!!」

横暴すぎるよ!! 無理やり私と太盛の仲を
引き裂きたいだけじゃない!! しかも私と
松本さんをカップルにさせたがるのも不自然。
誰かに命令されてやってるようにしか思えないよ!!

「決してミウ閣下に命令されてませんよ?
 自分は誇り高きボリシェビキでありますから!!」

誰もミウの話なんてしてないのに。
なるほどね。そういうことか。

「あははは。なんか面白い展開になってきた。
 ごめんね、斎藤さん。私と太盛が
 生徒会公認の関係みたいだから諦めてね?」

「小倉さん……。どうせあなたなんて
 太盛にとってはどうでもいい相手なのよ」

「ん? なんか言った?」

「太盛は大好きな私に会えなくてさみしかったから、
 あなたに寄り道しただけ。小倉さんは本命でも
 なんでもない。ただの暇つぶしだよ」

「太盛がそう言ったの?」

「え」

「だから、太盛本人がそう言ったの?
 今のはあんたの考えたことじゃない。
 太盛本人の意思なら私も納得するけど。
 ねえ。どうなの太盛?」

「あぃー……?」

太盛さんは昇天する直前のブッダになった。
確かに答えにくいよね。本人が目の前にいるんだから。

「太盛さー。私の前で何度も誓ってくれたじゃん。
 死ぬ時までずっと一緒だって。俺にはカナ以外の
 女性は考えられない。もし生きてここの学園を卒業したら、
 お互いの両親に婚約の話をしようって」

「なにそれ? そんなことまで話してたの!?」

私は衝動的に机を蹴飛ばしてしまった。はしたないよね。

「婚約ぅwwwww m9(^Д^)プギャーwwwww
 学生の分際で婚約とかwwwどんだけラブラブだったのwww
 それじゃ生徒会公認にもなるわwwww」

ついでに横田も蹴とばした。たぶん怒られないよね?

「怒るわwwwwしかも痛いしwwww
 なに当然のように教師を蹴ってんのwwwww」

元気そうでよかった。お尻を思い切り蹴っただけだから
大したダメージじゃないでしょ。

「他にもあるよ? 私がここ生活で心が折れそうになった時とか。
 たとえば……そうだね。地獄の登山の時。上の命令で
 途中で落伍した囚人を虐待した時だったかな。
 あの時の私は罪の意識で耐えられなくて」

「でも太盛は言ってくれた。お前はひとりじゃない。
 俺がいるだろって。そして優しく抱きしめてキスしてくれた。
 あの時の太盛。男らしかったな。私はずっと心臓が
 バクバクいってた。だから私も彼に返したの。大好きって」

「ねえ太盛? あなたの気持ちは本当にうれしかったよ。
 だからこそ、今太盛に改めて聞きたいの。
 太盛は私のこと愛してくれてるんだよね?
 私は太盛の気持ちが嘘じゃないって信じてるから」

カナは図に乗って太盛先輩の手を
握りながら↑のセリフを言っていた。

まだ太盛が何も言ってないのにトモハルと
松本さんが拍手して祝福している。

「そ、そろそろ休憩時間だな。お昼食べないと」

太盛の言う通り、時計の針が12時直前を指している。

「同士よ。逃げるのは感心しません」

トモハルは隠し持っていた拳銃を構えた。
安全装置を外し、トリガーを引くだけの状態にした。
銃口を太盛先輩の顔に向けている。

「今すぐ同士カナの気持ちに答えてください。
 できれば自分があなたの頭を
 ぶち抜く前にお願いします」

トモハルは真顔だった。さすがにネタなんだろうけど、
彼は生徒会の諜報委員の人間なんだよね。
本気でやりかねないから困るよ。

「……カナを愛してる。どうだ。これで満足したか?」

トモハルはつまらなそうに鼻を鳴らした。

「気持ちが伝わりませんな。
 資本主義者は口先だけでは何とでも言いますが、
 実行力がない。まさに同士・太盛の今がそれです。
 きちんと行動して愛を証明していただきたい」

「行動か……。分かったよ」

太盛さんはカナを抱きしめて耳元でささやいた。

「小倉カナ。俺は君のことが好きだ」

「うん。私も」

カナも抱きしめ返している。ガチでうぜー。
今すぐ引き裂いてやりたい。

「うはぁぁwwwwwwwwwwwwいいね今のセリフwww
 小倉カナ。俺は君のことが好きだwwww
 どこの三流ドラマのセリフだよwwwwwうけるwwww」

スルーするね。

「では恋人の証としてキスでもしていただこいう。
 男らしく太盛殿からどうぞ」

「と、トモハル委員殿。この状況でキスですか……」

「恥ずかしがることはありません。ソビエトの男なら
 好きな女性のために三時間もかけて自作の詩を朗読したり、
 毎日違う花束を持って行って告白したりなど日常です」

「俺は日本人なのですが」

「国籍は確かにそうですね。ですが、この学園の中では
 全ての人が差別なくソビエト人民として扱われます。
 あなたは日系ソビエト人です。ですから日本人的な
 恋愛など忘れてください」

「そうかい……」

太盛先輩はやけくそになった。
小倉カナの肩を力強く抱き、くちびるを奪った。
うわ……。舌まで入れてる。

そこに二匹のオットセイがいるように互いの唇を求めあった。

太盛先輩が生徒会によって奪われてしまった。
私はこの暴挙を黙って見守るしかなかった。
この屈辱は決して忘れない。

「心配ない。君には俺がいる」

「え? すみません。うざいです。死んでください」

松本先輩は両手を床につき、声を上げて泣いた。

泣いていいなら私だって泣きたいよ。

本当にこの学校ってうざいし、ムカつくし、疲れる。
こんなにストレスの溜まる学校ってこの世にあるの?

鉄条網とかは探せば他の学校にもあるのかも
しれないけど、恋愛関係まで強要されるってどうなの?

私と太盛が両思いなのはみんなが知っていることなのに。
裏でミウが手を回してるようだから、次会ったら
拷問されるのを覚悟でボコボコにしてやる。

もう許さないぞ。ついでにカナもぶち殺してやる。
私はカナから太盛を奪い返すことを心に誓うのだった。

分岐点

This is a monolog of miu takano.

つい英語で説明しちゃってごめんね。
私は何をするにしても、とっさに英語が出る癖があるの。
でもわざとじゃないから不愉快にさせたらごめんなさい。

さてと。今は2018年の12月27日。
一般生徒はクリスマスの後に冬休みに入った。
太盛君たち囚人たちは一日遅れて明日からだよ。

(7号室は完全な収容所なので
 年末年始も帰宅させないけど)

これから私がしたいこと。それはね。

「ミ、ミウ? まず話をしようじゃないか。
 人は話せば分かりあえると思う」

太盛君はベッドの上で仰向けになっています。
私が部下に命じて拘束したの。動かないように
いくつものベルトで両手両足、首、胴体まで縛った。

彼が唯一動かせるのは口と目だけ。

「私は太盛君に手を上げるつもりはないから」

どの口がそれを言うのかと、太盛君の瞳に怒りが宿る。
だけどそれも一瞬のことで、
怒りよりも恐怖が勝って顔が引きつるのだった。

まったくもう……。そういう目つきが
気にいならないって何度言えばわかるのよ。

「私が許せないのは、そこの女だけだから」

カナは、太盛君と同じ格好でベッドで寝かされている。
太盛君と隣同士。仲良しさん。太盛君と違うのは、
その女の口がガムテープで塞がれていること。

「なあ、俺の質問に答えてくれ。
 ここはどこなんだ? 俺は目が覚めたらこんなとこに
 いたわけで、何が起きたのかさっぱり分からないんだが」

「地下だよ。太盛君。
 私は君に罰を与えるためにここに招待したの」

太盛君ったら、唇まで真っ青になった。
『地下』に過剰反応して血の気が引いたんだね。
わお……既視感。確か体育館の壇上で見せた時の顔だ。

実は太盛君のおびえた顔を見るのも大好きなんだけど、
秘密にしておかないとね。
そんなことが知られたらまた嫌われちゃうから。

私は左手をカナの首へ伸ばした。

カナは目を見開き、ガタガタと体を揺らし始めた。
もちろん無駄な抵抗。ベッドが軽く揺れただけで
ベルトからは逃げることができない。

「首を絞めてあげようか?」

カナは涙を流しながらも、気丈な態度を崩さない。
私をにらむのだ。親の仇を見るように。
ま……そうだよね。
自分の命が相手の片手に握られているなんて

悔しいし、哀しいよね。分かる分かる。
だからこそ。こんなにも楽しいんだよ。
私はね。あなたのそういう顔がもっと早くから見たかったの。

今までは太盛君に嫌われるといけないからと思って
遠慮してたけど、もうそんな気にならない。
好きなようにやってみようと思ったの。

私の手元には報告書がある。
諜報広報員のトモハルから渡された、
三号室での出来事が記載されている。

日記帳でも日報とでも呼べる内容ね。

『三号室での堀太盛は、小倉カナか斎藤マリエかを
 選ぶわけでもなく、あいまいな態度を取ることに
 よって両名の関係を悪化させた』

『さらに松本イツキが斎藤に対して熱烈な好意を抱いており、
 問題をさらに複雑にさせた。横田リエも元担任でありながら
 修羅場が加速するように仕向けるなど、止めるつもりが
 ないどころか、楽しんでいる』

『堀太盛が小倉カナを愛してると宣言したのは口先だけ。
 結局、彼の愛情は斎藤にだけ向けられるようになる。
 小倉と斎藤が言い争いをすると、常に斎藤の味方をする。
 小倉が斎藤に暴力を振るうと、体を張って止めさせる』

トモハルの派遣を決めたのは私。
太盛君が小倉と付き合うように仕向けさせた。

まず、マリエ。あのブスを太盛君から引き離すためにね。
私はマリエが憎い。爆破テロ犯のくせに。私たちを
まとめて殺そうとしたくせに。いつまでも太盛君に
付きまとうお邪魔虫。その執念の深さは折り紙付きだよ。

意外なのは、太盛君の小倉への愛着が強かったことかな。

そんなにバカ女どもと一緒にいたいのなら、
好きにさせてあげるよ。
浮気性の太盛君にはマリエだけじゃなくて小倉も
必要なんでしょ? そしたら修羅場になるのは確実。
少なくとも太盛君はマリエより小倉を選ぶはず。

その過程でマリエは決定的な敗北を感じるはずだった。

それなのに。

『俺はマリエが好きだ!! 誰が何と言おうとマリエが
 一番大切なんだ!! たとえ全員を敵に回そうと
 俺はマリエを選ぶぞ!! 恨むなら恨めよ!!』

トモハルがカナとの交際を強制させ、カップル申請書まで
書かせようとしたのに。太盛君は薄情にもカナとの交際を
否定し、マリエを選ぶという暴挙に出た。

私が一番気に入らないのはね。太盛君が斎藤を選ぶこと。
斉藤だけは許せない。私は嫉妬深い性格を自覚してる。
けど止められない。

斉藤は美しい。斎藤は綺麗。斎藤はかわいい。頭も良い。
小柄だし、人形みたいな顔してるし、年上の男性から愛される。
三年生の男子にファンが多い。どこからから噂で
聞いたけど、ナツキ君も一時期はファンだったとか。

収容所七号室で、ロシア人の看守からも評判になるほどの
美少女だった。私はマリエみたいに美人じゃない。
だから、余計に許せないの。

「もう小倉さんは太盛君には必要ない人だから、
 壊しちゃってもいいよね?」

「な……ちょっとまっ。俺たちの話も聞いてっ」

「ごめんね。今の質問は太盛君じゃなくて
 斎藤さんに聞いたの。ねえ。斎藤さん?」

斉藤マリエは私のそばに立っていた。
ごく普通の女子の制服姿。表情が死んでいる。

私の指示に従わなかったら
太盛君を拷問すると伝えてあるからね。

手荒な真似はしてないよ。地価の牢屋で一晩
過ごしてもらっただけだから。地価の雰囲気はすごい。
深夜でも各所で拷問は続けられているのだから。
マリエは一晩中、地下中に響き渡る声を聞いたはずだ。

暗闇。静寂。それをたまに破る、絶叫。
看守たちの狂ったような笑い声。怒号。
血と、汗と、鉄の匂い。

どこから聞こえてくるかなんて分からない。
いつになったらこの悪夢が覚めるのかも。

熱した鉄のゴテを背中に押し当てられた、肉の焼ける匂い。
メスで生きたまま腹を裂かれる。女が力の限り泣き叫ぶ。
爪をハンマーでつぶされ、上下の歯が唇の上から砕かれる。

『もう二度と逆らいません』
『許してください』
狂った囚人は、呂律の回らない舌で狂ったように繰り返す。

とても安眠できるわけがない。
囚人の生殺与奪の権利は生徒会に握られている。
誰だってこう思うはずだ。次は自分の番なのだと。

「小倉さんは、必要ない。そうだよね?」

「はい。副会長様」

「じゃあさ、あなたが処理しなさい」

「処理とは?」

「拷問して」

斉藤は顔には出さないが動揺したようで、
言葉に詰まった。

「その顔はなに? 気が進まないの?
 殺せとは言ってないじゃない。
 ただ、二度と学園生活が送れなくなるまで
 痛めつけてあげればいいの」

私が良いと言うまでね。
斉藤はみなまで聞く前に床に崩れ落ち、
顔を両手で覆って泣き始めた。

「いやです……。私は人の子です。
 無抵抗の人を痛めつけるなんて、
 そんなことできません……」

私には泣く理由が分からない。逆らえばあなたが
拷問されるってことくらい想像できないのかな。
自分の命と他人の命を天秤にかければ、
もうカナを虐待するしか選択肢はないはずだけど。

「カナのこと大嫌いだったんでしょ?
 一緒の収容所で過ごすようになって
 から憎かったんでしょ?」

「それとこれとは話が別です……。
 仮にも太盛の恋人だった人です。
 痛めつけたら太盛に一生恨まれます」

「おい」

私は斎藤のわき腹を蹴り飛ばした。
斉藤は面白いように転んだ。
こんなに体重が軽いんだ。
痛そうにお腹を押さえている。

「太盛って呼び捨てにするな。
 年上の人を呼び捨てにするな。
 あ…もしかして、それって彼女アピール?」

「す、すみませ…」

髪をわしづかみにすると、斎藤が悲鳴を上げる。
ひっぱると、ぶちぶちと毛根が抜ける音がして気持ちい。

「今までは我慢してたけど、
 これからは容赦しないよ?」

私が髪の毛をさらにむしるように掴み上げてみる。
よほど痛いんだね。
きつく閉じた目から涙がこぼれ落ちてる。
今度は叫ぶことなく口を真横に閉じ、耐えていた。

「その顔も気に入らない。あんたは顔が整ってるから、
 どうせ自分以外の女はブスだと思ってるんだろうね。
 私のことも心の中では
 ブサイクだって見下してるんでしょ?」

「は? そ、そんなこと一度も……」

聞きたくない。
私は護衛(部屋の警備を兼ねる)の一人に、
金属バッドを手渡してもらった。

この部屋は教室の半分くらいのスペース。
全面コンクリで固められた、冷たい地下室。
天井のわずかな照明で照らされた異世界。
この明かりが無機質すぎて余計に恐怖をあおる。

空調は完備。夏も冬も関係なく、
好き放題囚人を痛めつけられる。
どれだけ叫んでも絶対に外に音が漏れない。
つまり助けも来ない。

「そいつを拘束しなさい」

「はっ」

この室内には12人の護衛がいる。
私の直属の護衛と執行部員で半分ずつ。

垂直に立った丸太が用意された。
これは、軍隊では銃殺刑の時に使われるものだよ。

斉藤の手は後ろ手に、両足は閉じた状態で
足首にロープが巻かれた。丸太は、その辺の倒木で無加工。
丸太の表面にきつく縛られたものだから、
奴の白い肌に血がにじんでいる。

丸太は鎖で天井へとつながれていて、ふらふらと頼りない。
サンドバッグみたいなイメージ。

「金属バット・フルスイングの刑。校長先生を
 処罰する時に使ったもので私が名付けたの」

私は斎藤が恐怖をあおるために
金属バットを見せつけた。
バッドは私のお気に入り。今までに囚人を殴りすぎて
デコボコしてるけど、その分たくさんの人の血や汗を吸っている。

こんなに禍々(まがまが)しいバッドは珍しいと思う。

「今からあなたの顔の前で素振りの練習をしようかな。
 太盛君の影響で甲子園見るようになったから、
 私も少し野球に興味があってね」

「ひぃ」

あはは。斉藤の奥歯がガタガタと音を奏でてるよ♪
太ももから黄色い液体が垂れてるよ。汚いなぁ。この汚物。

「歯がつぶれて、目がつぶれて、ろっ骨が折れて、顔が変形して。
 やればやるほど楽しい楽しい運動なんだよ。
 痛いって叫んでも無駄だよ。私が満足するまで
 何度でも素振りしてあげるからね」

「高野ミウ様……。すみませんでした。
 すみませんでした。もう……二度と逆らいません。
 すみませんでした。二度と逆らいません。
 許してください。すみませんでした」

「は?」

私はバッドを床に放り投げた。

「何が逆らわないだよ。ねえ?」

私は斎藤のお腹を、握りしめた拳で突いた。
完全に不意打ち。斉藤は「うっー」と短く言い、首を上げ目を閉じた。
顔色が悪い。あはは。その顔なら私よりブスだね。

いっそ私より美人な女はみんな苦痛にゆがめてやりたい。

「その状態じゃ何しゃべっても頭に入らないだろうけど、
 聞いてちょうだい。あなたは私の太盛君を横からシャリシャリ
 出てきて奪おうとした卑怯者なんだよ。泥棒猫。
 橘エリカと同じレベルのクソ」

同じ位置を狙って腹パン。
「むぅ」と言い、小刻みに震える斎藤。
みぞおちに入ったようで、魚のように口をパクパクさせている。

「今まで私の言うことに何度反抗した?
 一回二回じゃないよね? 私があれだけ
 譲歩したのに、耳も貸そうとしないで」

わき腹を力いっぱい殴る。
まだ息ができないのか、声もなく震えるだけだ。

「私はね。私を否定する奴が許せないの。
 あんたは拷問だけじゃ足りないよ。
 何年もかけて苦しめ続けて、生まれてきたことを
 後悔させてやらないと気が済まない」

「神に祈るなんて無意味だよ。この世界はここだけ。
 私たちが生きている次元はここだけ。死んだあとは無に帰るだけ。
 現にあんたを助けてくれる人は誰もいない」

もう遠慮する必要はない。太盛君に嫌われてでも、
自分の憂さ晴らしをするって決めた。
今度こそ顔にフルスイングしようとバッドを拾う。
斎藤の顔を見て驚いた。
顔が急変しているのだ。飢えたライオンのような気迫さえ感じる。

「なら殺せよ!!」

なっ。

「あんたは人を痛めつけて、人が苦しんでる姿を
 見るのが好きなサディストなんだ!! だったら
 もう私は生きてなくていいよ!! 早く殺せよ!!
 私が死んだ後にあんたを呪い殺してやる!!」

「私のあんたへの恨みは死んだあとも消えないぞ!!
 人が死んだあとは魂が残る。永遠に!!
 天国も地獄もある!! 私たちはそう信じて生きてきたんだ!!
 たとえ人間が裁かなくても主が必ずあんたを地獄の底に突き落とす!!
 高野ミウ!! 罪人高野ミウ!! おまえは死ねええええええ!!」

つばが、私の髪にかかっちゃった。
うざいし汚いし、色々と殺したくなるね。

ちょっと待ってなさい。今怒りが頂点に達して
逆に冷静になっちゃった。目の前の女を拷問する方法を
色々と考えてるから。できるだけむごたらしく殺す方法を。

ああ分かったぁ。こいつ、永遠と拷問されるのを恐れて
逆に私を挑発してるんじゃないかな。

「ブスミウ!! ドブス!! おまえなんか美形の太盛さんと
 不釣り合いなんだよ!! 鏡見てみろよ田舎っぽいドブス!!
 ブース!! スタイル悪いし、女として魅力ゼロ!!」

うわー。顔のこと馬鹿にされちゃった。顔だけは取り柄のこいつに
言われると殺意が抑えきれなくなるなー。
いっそ焼却炉に生きたまま、ぶち込んでやりたくなっちゃうよ。

「ミウ」

太盛君の声だ。

「俺はミウと付き合いたい」

私は振り返って話を聞いた。

「この世界で一番の馬鹿は俺だって今気づいた。
 ミウは、俺のために生徒会で苦労していた。
 ミウが俺のことをどれだけ思っていてくれたか、
 全然考えなかった。だから俺は馬鹿だった」

「俺は斎藤のことも小倉のこともなんとも思ってない。
 俺が好きなのは高野ミウだけ。他の女のことは
 もう一生考えないことを誓う。ミウ。君のことが好きだ」

好きって言ってもらえると胸が熱くなるよ。
でもさ……。このタイミングで愛の告白をされても
なにも響かないんですけど?

「ミウ。愛してる」

だからさ……

「嘘じゃないんだよ。本当にミウのことが好きなんだ。
 今すぐ君を抱きしめたい。ミウ。お願いだから
 目の前ではっきり告白させてくれ。
 ミウのことが大好きなんだ」

逆に冷めちゃうよ。
斎藤を守るためにこんなにも必死なんだもん。

「せまるく…」

「俺の告白への返事は?」

「返事って……」

「早く返事をくれ。さもないと自殺するからな」

太盛君が舌を噛み始めた。なんてことを……!!

私はとっさの判断で、太盛君のわきをくすぐった。
そしたら太盛君が大笑いして噛むのをやめた。

あはは。太盛君の笑顔、久しぶりに見たな♪
最近シリアスなことばかり続いてたからね。

太盛君はいつになくカッコいい顔で言った。

「早く腕のベルトを解いてくれ」

「うん」

なんで許可しちゃったんだろう。
彼に言われると逆らえない自分がいる。

「ありがとうミウ。ついでに他のベルトも頼むよ」

つい了承してしまうと、もう彼は自由。
逃げ出すのかと思ったら、私を抱いてきた。

「もう君は俺のものだ。そして俺もミウのものだ。
 もう迷わないぞ。早くこっから出て遊びにでも行こうぜ」

「でも、まだ他の女たちが」

「そんな奴らはどうでもいいじゃないか」

太盛君は私の手を握って強引に地下室の扉へ歩き出した。
ちょっと……。これも太盛君の作戦なんだろうけど、
彼に手をつないでもらったうれしさで、何も言い返せない。

「太盛君。扉は指紋認証だから」

「じゃあ頼むよ」

副会長の私とナツキ会長以外に地下室へ自由に出入りできる人は
いない。イワノフとかは私たちが随行して入室できる。

エレベーターのB4が点灯している。
太盛君は初めて操作する割には、手慣れた動作で
閉じるボタンを押し、地上の一階へとエレベーターが上昇。
小さな動作音。ふわっと浮く感じがする。

重力のせい? 違う。
太盛君が私の両手を握って唇を奪ってきたからだ。

こんなに濃厚なキス、どこで覚えたの?
大人の人がするように舌を入れて来た。
私も真似しようとしたけど、うまくいかない。

あっ、もう一階に着いちゃった。

扉が開くと、生徒会の執行部員たちが待っていた。
私達のキスシーンを目撃した彼らは、気まずそうに
目をそらした。

太盛君は見られてることも気にしないのか、
まだキスを続けようとする。
苦しくて窒息死しちゃう。

エレベーターの扉が閉まりそうになるので、慌てて
執行部員がボタンを操作し、開けたままにする。

「あっ」

太盛君。だめだよ、こんなところで胸まで触っちゃ。
キスだけじゃ満足できなかったの?

私は狭いエレベーターの一角に追い詰められているの。
彼が私に壁ドンするみたいな姿勢になっている。

またキスされて息が苦しくなった。
そんなにむさぼるようにしたら乱暴だよ。

執行部員たちの方をチラ見すると、誰もいなくなってる。
まあこんなシーンを見せられてら気まずいよね?

「ミウ。好きだ」

じわりと、悦びの感情が体の内側からこみ上げてくる。
彼の低い声。好き。たとえ嘘の言葉だったとしても
体が反応しちゃう。惚れた弱みだね。

「お前が好きだ」

魔法のように。呪文のように。
言い続けてくれると、私は
この人以外何も考えられなくなる。

確信犯だとしたら、女たらしなんだね。

「君たちは……」

今度はナツキ君か。騒ぎを聞いて駆けつけたのね。
ぜえぜえと肩で息をしてる。
太盛君は、私の肩を強く抱きながらこう宣言した。

「会長殿。高野ミウはただ今の時刻を持ちまして、
 俺の彼女となりました」

ナツキ君は30秒ほど時間を置いてから、短く返事した。

「了解した。あとでカップル申請書を書いておこう。
 君たちを正式な恋人同士と認める。ただし、条件があるが」

「条件?」

「堀太盛君を副会長の補佐として任命する。
 君は今日から彼女の秘書官、もしくは副官として
 行動しなさい」

太盛君も頭の回転が速いので、すぐに会長の意図を察したみたい。

「かしこまりました。俺が常にミウと
 行動を共にすればよろしいのですね?」

「そうだ」

「お願いがあるのですが、囚人の管理や取り締まりに
 ついても関わらせていただければと思います」

「許可しよう。副会長の補佐としての範囲内ならね。
 囚人の管理についてはミウと話し合ってから
 慎重に決めればいい」

「ありがとうございます!!」

私だって馬鹿じゃないから太盛君の狙いは分かるよ。
あのバカ女二人を無罪にしたいのね。
本当に太盛君はお人よしなんだから。

だって。私があの2人を殺したいって気持ちが
少しも薄れてないことに気付いてないんだからさ。

「明日から冬休みだ」

会長が言う。

「そこで、ミウと太盛君は一緒に過ごすことを命じる。
 できればミウの家が理想だが、ミウはどうだ?」

「うちはパパが単身赴任だから部屋は開いてるよ?」

「彼が寝泊まりしても問題ないか?」

「全然。たぶんママも乗り気だよ。
 ずっと太盛君に会いたがっていたから」

「では、明日から1月3日まで太盛君は
 高野ミウの家で過ごすこと。
 生徒会会長として厳命する。分かったね?」

太盛君は少し引きつった顔をしたけど、
力強くうなずいた。立場上、絶対に逆らえないものね。

こうして彼は私の家で過ごすことになった。
ぶっちゃけ展開が早すぎて頭が着いて行かないんだけどね。

やった♪ めちゃくちゃな流れで彼と恋人関係に
戻れたから、波乱の予感がするのが悲しいけど。

早く太盛君を迎え入れる準備をするようにママに伝えなきゃ。
もし太盛君が脱走したり、外部と連絡を取ろうとしたら
また手足を縛ってお仕置きするってことも教えてあげよう。

冬休み ミウのマンションにて 12月27日

~あ ものろーぐ おぶ ほり せまる~

ミウに対抗して英語風に書いてみた。
笑いを取るためにひらがな表記にしたが、
俺は全然笑えない状況だ。
12月27日の夕方。ミウと一緒に下校した。

ああ……、この駅までの道のりはよく覚えている。

梅雨入り前の六月だった。記憶喪失のミウを心配した俺が、
一緒に歩いてあげたんだ。
あの時に連絡先(LINE)を交換したのを覚えてる。

「私も覚えてるよ。忘れるわけないじゃん。
 あの時はエリカが敵だったもんね」

ミウは、俺の腕を強く抱き、少しも離れようとしない。

真冬だから少しも暑苦しさはないが、道行く人の視線を集める。

ここは栃木県にある田舎町。
俺の家は校外だが、ミウの家は駅前なので
この地方では街中の部類に入る。

俺は生まれ育ったこの町が好きだ。山と川ばっかりで、
平らな道はほとんどないし、東京みたいに遊ぶところは
ほとんどないけど、故郷は良いものだ。

同級生の女子たちは、田舎が嫌で東京の学校に通いとか
言ってるけど、俺は全然そう思わない。
俺の感性がジジ臭いからかもしれないが。

踏切の先にある高級分譲マンションが、
ミウの家だった。

「あなたが太盛君ね。
 ミウから話は聞いているわよ」

玄関で出迎えてくれたのは、
ずいぶんと若作りなお母さんだった。
穏やかで優しそうな感じだ。

40代の後半だろうか。
年相応で体系はふくよかだ。
ショートで毛先にくせのある茶髪。
愛嬌のある笑顔で俺を迎えてくれた。

専業主婦と聞いているが、その辺のスーパーで見かける主婦とは
雰囲気が違う。マリエのお母さんみたいに知的な印象だ。

この人はどこか異国情緒あふれるというか、
娘と同じで日本人の外見だけど、何かが違う。
東アジア系の外人っぽい印象というか、
英語や北京語や広東語で話しかけても、さらっと
答えてくれそうな、エキゾチックな感じがする。

「顔が硬いわよ。初対面だから緊張するのも無理ないけど。
 自分の家だと思ってくつろいでちょうだい」

ママさんにそう言われたので、
俺は遠慮なくリビングのソファに腰かけた。
すぐに紅茶のティーカップが運ばれてきたので頭を下げる。

「太盛君は可愛い顔してるのねぇ。
 ナツキ君とはまた違う感じがするわ」

ナツキって会長のことか? 
あの人もこの家に来たことがあるのか。

会話中も互いに油断はない。
めったに会えない動物を観察している感覚だ。
向こうも俺のわずかな仕草から性格を
見抜くつもりなのだろう。心理学の応用ってやつだな。

この人の笑顔の裏には恐ろしく
冷静な知性が宿っているのだろう。
腹の探り合いをしているようで面白くない。

やべっ、今思い出した。
俺から挨拶しないといけないんだった。

「あの、今日から一週間くらいお世話になります。
 突然お邪魔しちゃってすみませんが、
 よろしくお願いします」

「あらあら。そんなの全然気にしなくていいのよ♪」

歌うように言うママさん。名前は高野カコというらしい。
皇室の方にも同名の方がいたな。
こんなこと書いてると、宮内庁に知られた際に
粛清されるのかもしれないが。

それはともかく、彼女を呼ぶ時はどう呼べばいいのだろか。

「お母さんでもいいのよ?」

それは無理がありますよ。

「あなたがミウと結婚したら、私が義理の母になるけど」

だいぶ先の話をされているようだ。
おそらく俺が死ぬまであり得ない話だと思います。

「太盛君には男らしく責任を持ってもらわないと困るわね」

「はい?」

「ミウとの交際を会長さんが認めてくれたんでしょ?
 今日付けでね。なら最後まで責任持ちなさい。
 いっそ結婚まで考えてほしいくらいね」

初対面でいきなり何を言ってるんだ? ちょっとおかしいぞ。

「け、結婚とかはちょっと。俺もまだ若いし、
 将来は大学とかも行きたいと思ってますので」

「大学に行くのは当然よね。ミウも同じ学校に進学するつもりよ。
 計画を立てて、それを実行する。それが規則。
 説明するまでもなく当たり前のことよ」

「え?」

「ボリシェビキは有言実行だって学校で教わらなかった?」

これはのちに知ったことなのだが、うちの学園が始動した
共産主義革命は、この栃木県北部の小さな市では、
およそ9割の市民に浸透し、なんと世帯丸ごと
共産主義者と化した家庭が多い。

どうやって革命を広めたのか知らないが、
カコさんもミウの影響で
ボリシェビキになってしまったのか。

「先に太盛君にはっきり言っておくわね?
 このマンションから脱走しようとしたら粛清します。
 ミウにした愛の告白が嘘だと分かった場合も粛清します」

彼女は迷いのない口調で言い、
生徒会の役員と同等のプレッシャーを俺に与えた。

何が粛清だ。冗談じゃない。ここは学園じゃないんだぞ。

……俺は、自ら猛獣のいる檻に飛び込んだってことか?
高野家で共産主義革命が起きていたなんて知らなかった。

「ママ。そんな言い方したらまた太盛君に嫌われちゃうよ」

「でも最初が肝心でしょ? 太盛君はまだ資本主義者の
 思想に毒されてるんだから、早く洗脳を解いてあげないといけない。
 これは共産主義者からの『慈愛に満ちたおせっかい』だと
 解釈してくれてけっこうよ」

この部屋(マンション)にある脱走防止用の設備を説明された。

扉や窓など、逃げ出せそうな場所に
張り巡らされた無数の赤外線センサー。
これに体のいずれかが反応すると、警報が鳴り、
緊急事態を知らせる。

部屋中の家電がネットにつながっている(IOT)。
緊急事態が起きたとコンピューターが判断した場合、
室内にガスが流れ、最悪全員死亡する事態となる。

一瞬で全身をマヒさせる強力な神経ガスである。
ガスの噴出口は天井裏に設置されてある。
有事の際はスライド式で天井部分が解放され、
内部からせり出した噴出口から、ガスが噴射する。

一度噴射されたら物理的に防ぎようがない。
窓などはすべて電子ロックされており、重火器でも
持ち出さなければ壊れないほど耐久性がある。

一応ガスマスクが用意されているが(2人分だけ)。
電話、ネット、携帯の使用禁止。
寝る時を除いて部屋に一人でいることも禁止。

天井や廊下などに付けられた監視カメラを
取り除くこともNG。「カメラに触れた」と
判断された場合も警報が鳴り、ガスが噴出する。

マンションの管理人も共産主義者。
他の全ての住人も共産主義者。
マンション内の挨拶はロシア語でするのがマナー。

俺がこのマンションで寝泊まりしていることは
住民らに周知されている。高野家主導で彼に対し
共産主義的教育を施すことは、すでにマンション管理人が
中心となる「住民会議」にて決定されている。

万が一堀太盛が廊下などで脱走中の場面を
目撃された場合、住民らによって速やかに身柄を拘束される。

仮に堀太盛が暴れる、さらに逃走を図るなどして抵抗した場合は、
一階に特別に用意された『檻』の中に監禁し、
反省させることになっている。

俺がこのマンションで住む目的は以下の三点とされている。

・ミウとの交際の継続
・彼自身がボリシェビキとして目覚めること
・その後、革命的思想を家族や友人などに広めること。


生徒会の都合で考えてやがる。
まず俺がミウとカップルになれば、ミウの
いらだちの原因が解消され、私的な制裁が減ることは確かだ。

さらに俺を生徒会に組み込めば、
ミウの執務がスムーズになると予想される。

俺は成績優秀でクラス委員の経験があるため、
生徒会から注目されていた。
そのため元三号室の住人だったのだ。

俺のような根がまじめな人間ほど共産主義者になりやすいそうだが、
別に自分がまじめだと思ったことは一度もないんだが。
中学の時から乱暴者で有名だったから、どんだけ陰口叩かれたことか。

俺は思うんだが、共産主義ってのは宗教そのものだな。
マルクス・レーニン教って呼んだ方がしっくりくるぞ。

「今回の宿泊の件ですが、俺の家族にはどう説明しましたか? 
 あいにく親父殿は、年末年始は仕事や関係筋との会合などで
 大忙しの身ですが、俺を心配してくれる大切な使用人のみなさんが
 待っていまして」

「美術部の冬季合宿と説明したわ。
 日程は12月27日から来年1月の3日まで」

「すみません。俺はジョークを聞きたいのではありません」

「太盛君……。私は冬季合宿だと言ったわ」

「だから、そういうのはいいです」

「冬季合宿よ」

「あの、すみません。ちょっとマジで言えの皆が
 心配すると思うんで、携帯がないなら電話機を
 借りてもいいですか?」

「ふぅ」

この人は盛大な溜息をついたぞ。
この会話の流れでも笑顔を維持するのはすごいけど、
きっと内心ではムカついてるんだろうな。

俺はここへ泊まりに来た立場だ。
喧嘩腰になってしまったのはさすがに失礼だったか。
(泊まるのは俺が望んだわけじゃないが)

「ベイクドチーズ、食べる?」

「え」

「食べる?」

「あ、はい。いただきます」

ママさんがキッチンへと歩いて行った。
どうやら冷蔵庫の中に手作りケーキが入っているようだ。
この手のケーキはかなり手間がかかるから、
うちの料理人の後藤さんはめったに作らなかったな。

今、何時なんだ?
まだ5時前……? 

学校を出たのが4時過ぎだったから、ここ着いたのが
4時半くらいだとして、そんなに経ってないんだな。

「ミウはどこだ……?」

俺は、ソファに腰かけて、斜め向かいに座ったママさんと
ずっと世間話をしていた。テレビ番組は資本主義の影響が
強いからとテレビは消されている。
日は沈んだのでカーテンも閉められている。

その間、ミウがどうしていたか気にしてなかった。

「部屋で寝てると思うわ」

意外だな。あいつにとって待ちわびたはずの俺が来た初日なのに。

「そんなに疲れてるんですか? 
 それとも体調不良ですか?」

「いつもこうよ。学校から帰ったら
 自分の部屋のベッドで
 横になってしばらく起きてこないわ」

「学校では元気そうでしたけど」

「それは人前だから気を張ってるだけ。
 あの子は運動部でもないし、体力のある方ではないわ。
 それに人前に出て何かをする性格でもなかった」

どうぞとママが言って俺にケーキをすすめた。
テーブルに置かれたシンプルなケーキ皿。
ベイクドチーズは、下地の部分が少し失敗したのか、
底の形が崩れている。チーズは良くできていて、食欲をそそる。

「お味はどうかしら?」

「クセになりそうな味ですね。
 俺はこういう味付けの方が好きです」

「うん。良かった。嘘じゃなさそうね」

俺がフォークを口に運ぶ間もカコさんは
油断なく俺を観察していた。
不愉快だな。俺は人の作ったものに
お世辞を言う趣味はないよ。

これでも自称食通なんだ。

「ミウがボリシェビキに目覚めた原因は君ね。堀太盛君」

「どういう意味でしょうか?」

「私はこの家にナツキ君を何度か来てもらって、
 いろいろと事情を聞かせてもらったわ。
 最初はミウが生徒を粛清する立場の組織に
 いるなんて冗談じゃないかしらと思ったけどね」

ママさんは、娘が生徒会の役員として
学園のために一生懸命働いていると思っていたそうだ。
当然だろう。普通の学校だったら……な。

「旦那もすごく喜んじゃって、同僚にも自慢したほどなの。
 あの時は生徒会の正体がボリシェビキ
 だったなんて知らなかったわ」

ミウが生徒会へ入ったのも、三号室にいる俺を解放したいがため。
俺と再開し、普通の彼氏彼女に戻りたかった。
それ自体ミウに罪はない。以上がママさんの主張だ。

俺だって異論はない。ミウはもともと純粋で
少し怒りっぽいところもあるけど、
普段は教室の隅でおとなしくしている女の子だった。
顔が綺麗だから男子からは大人気だったが、
物静かな雰囲気だからか、ナンパする奴はほとんどいなかったな。

俺が話すきっかけになったのは、ミウが記憶喪失になって
自分の家までの帰り道が分からず、困っていたからだ。
あの記憶喪失……最初はギャグの一種だと思っていたんだが。

「逆に質問させてください」

「なに?」

「カコさんはどうしてボリシェビキになったんですか?」

「さあ、どうしてかしらね」

ティーカップに注がれた紅茶に手を伸ばし、
気品に満ちた動作で口に運んだ。

「娘の仕事を理解したいと思って、私も生徒会の発行する
 ビラや新聞をよく読んでたの。娘の部屋を掃除すると
 マルクス・レーニンの書籍が山のように見つかる。
 暇な時間にそれを読んでいたら、気が付いたら目覚めていたわ」

「一つ聞きたいんですけど、ボリシェビキとして
 反対主義者を粛清、監禁したりすることに
 罪悪感はありますか?」

「ないわ」

なんて冷たい視線だ。これがこの人の本性か。

「必要ない人をこの世から消し去るのはね……
 それは必要ことだからよ」

俺は視線だけで続きの説明を要求した。

「人類の歴史が証明しているわ。全ての人間に人権を認めたのが
 フランス人権宣言だけど、結局人類は幸せになれなかった。
 資本主義が続けば人類はいずれ滅びるわ。弱肉強食で
 弱い者が永遠と虐げられるから国政戦争の火種にもなる」

「俺は今の日本がそこまで腐っているとは思えません」

「市場経済って言葉があるでしょう? 
 経済のグローバル化は自由市場を加速させた。
 これこそ資本主義の弱肉強食を端的に表しているわ」

「どういうことですか?」

「賃金。雇用。価格。機会。全て市場の原理によって動かされているの。
 市場にしろ、金融にしろ、世界経済での動きは
 一部のお金持ち(資本家)によって牛耳られていて、
 99%の人類はこれの犠牲になって、永遠に賃金奴隷として
 過ごさないといけないの」

「99%が貧乏だって言いたいんでしょうけど、
 さすがに多すぎませんか? 数字の根拠は?」

「あ、ごめんなさい。これは日本の例なのよ」

ママさんは高校生の俺にも理解できるように
簡単な言葉で説明してくれた。

※執筆時点、2017年の経済

バブル崩壊以降30年近く続いたデフレ。
自民党の政権奪回後、安倍政権下で行われた
アベノミクスの成果は、大企業の収益を増やした。

企業は人件費削減のために非正規雇用を増やし、
50代など脂の乗った世代を希望退職させている。
(50代の一社当たり数百人レベルの解雇は、東証一部上場の
各企業で現在でも継続中である。大変な問題となっている)

逆に新卒を積極的に採用しているため、売り手市場となっている。
このように世代の入れ替えを行うことで積極的な
投資を行っているように見えるが、売り手市場の原因は『人手不足』

『今ごろ企業で働き盛りのはずの30代40代を、不景気を理由に
 正規で採用しなかったため、特定の世代で空白化が発生。
 その穴埋めのための採用であり、【断じて】アベノミクスの効果ではない』

↑スガ官房長官が誇らしげに有効求人倍率を報道で発表するが、
実際は長時間労働のブラック企業か、低賃金奴隷労働の職場などが
採用を増やしているだけであり、全く労働者にとって良い環境ではない。

この国の労働人口(6000万)のおよそ4割が非正規。

企業は増収分を賃金には還元せず、内部留保を増やした。
その積み上げた資金を海外への投融資へ向け、
設けた分を株式の配当、株価の上昇、高額な
経営者報酬と言う形で還元している。

株式に関しては。日銀のETFの買い入れ(総額20兆)、
円安への誘導、マイナス金利の導入もあり、
政府主導で日経平均株価を引き上げている。

この国の中央銀行(日銀)は独立性が守られていない。
本来なら政府の意思とは関係なく金融政策を
行えるはずなのに、
財務省の言いなりと化している『謎の組織』である。
(黒田総裁は元官僚である)

日銀の大規模な金融緩和は、確かに銀行から企業へ
の融資を促進させる効果はあった。

一方で超低金利のために銀行は運用に苦しみ、やむを得ず
低い利回りしか期待できない公債を購入するに至った。
公債を買わされていると言い換えてもいい。

国民もいくら銀行預金を増やしてもお金は増えない。

とあるFPの計算では、普通預金で一万円の利息を稼ぐために
一億三千万円の預金残高が必要だと言う。
それほど深刻な低金利なのだ。

企業や富裕層(資本家)を唯一の主役とする資本主義。

金融資産を保有する金持ちはどこまでも設け、
貧乏人はどうやってもお金持ちにはなれず、
一生地を這うことになる。

NHK発表。子供の貧困世帯、五人に一人。
これは子供のいる世帯の総収入が、
およそ11万円以下の場合を指す。
(地域によって物価が異なるので一概に言えない)

生活保護者の数、2018年に164万世帯超え。
シングルマザーの比率が年々高まる。

2018年の衆議院予算委員会で提出された資料。
日銀調べによる、貯蓄ゼロ世帯の数。

20代      61% 
30代~50代   全て40%以上
60代      37%

(あくまで銀行預金の残高を調べたものだろうから、
 タンス預金などの例外は除外されているが、
 深刻な問題である)

この一方で、持てる者は億単位の資産を
平気で保有しているのである。

『格差がある』

などというレベルの話ではなくなった。
これが今の日本経済の現状なのである。

「社会で働いてる人って、もっとお金貯めてるのかと
 思ってました。貯金がない人は将来どうするんでしょうね」

「はっきり言って飢え死にするわね。60代以降も企業の
 奴隷となって働くしかないわ。
 年金の支給開始時期が遅れているのが現状。
 つい最近、政府与党案が発表されたけど、
 今後は67歳以降で満額支給にするそうよ」

「ひどいっすね……」

正直学生の俺に年金の話されても全くピンとこないけどな。
支給年齢の引き上げは、政府のせいじゃなくて
ただ単に国民の平均寿命が上がったからじゃないのか?

ママさんは語り口調は優しくて、先生よりも
分かりやすい感じなんだけど、内容そのものが難しい。

俺高校生だし、経済の勉強なんてしたことないから
真面目に考えたら知恵熱出ちまうよ。

「でも老人になったら生活保護とか受けられません?」

「無理ね」

なんでだ? 食べるのが難しくなった人を
食わすための制度なんじゃないの?

「そんなことしたら国の財政赤字が増えるでしょ。
 たとえば、市役所に生保を申請しに行っても、
 まだ丈夫で働ける人に関してはどんどん
 働きなさいと言われておしまいよ」

「審査とか、厳しいんですか?」

→数年前の大阪市役所の実例。
 
 ある寡婦(離婚した人のこと)が、
 三人の幼子がいるため、生保の申請に行ったところ、
 『離婚したのは自己責任』
 『母親本人は心身ともに健康であり、
  働く場所を探すことはできる』 として却下された。

「当たり前でしょ。行政だって馬鹿じゃないんだから、
 そう簡単に国税をばらまいたりしないわよ。
 国の財政支出の35パーくらいが社会保障費に
 使われてるわね。これに比べたら防衛費なんか甘いわ。
 だって6.8%しか使ってないもの」

国の財政……? 
この人、くわしいな。

「うちの国は数字だけは経済大国だから、
 一般会計で97兆くらいの予算があるんだけど、
(うち三割が国債を発行してまかなっている) 
 そのうちの三割強が社会保障費よ? 
 しかも今後はもっと増える。破滅的な額じゃない」

「なるほど。それ以上増やしたら、国が破たんしてしまいますね」

いつまで経済の話が続くんだろう。
ずっと聞いてると疲れるから、
早くこの話を終わらせてほしい。

「つまりママさんは日本の資本主義が嫌いだと」

俺は紅茶を飲み干した。
すっかり冷めちまって味が分からない。

「それと金持ちがいるのが許せないってことなんですね?
 気持ちは分かりますけど、おかしいじゃないですか。
 高野家は裕福なんでしょう? 
 旦那さんが高収入だと聞いてますけど」

「旦那の収入は、自慢じゃないけど今国会で提出された
 高度プロフェッショナル制度に該当するくらいの 
 金額はもらっているわ」

どんな制度なのか全く分からないので
スマホで調べてみた。
日本の労働者に6%しか存在しないと言われる、
年収が1075万を超える人……。

旦那さんは経済系のアナリスト? 
よく分からないけど、専門家ということか。

「ミウのお財布に外食チェーンの
 優待券がぎっしり入ってましたよ」

「ん? 株のことを言ってるのね。
 優待券はお小遣いであの子に与えているの。
 うちの旦那がそっち系の仕事をしているから、
 私も趣味で資産運用しているのよ」

かなりの額の投資をしてそうだな。
さすがに具体的な金額までは聞けないけど。

高野家がすごい金持ちなのは間違いない。
しかもここは一括購入の
分譲マンションでローンもないという。

「俺は、共産主義は貧乏人のひがみだと思っていました。
 カコさんがボリシェビキに目覚めた理由が分かりません」

「愚問ね。かつてウラジーミル・イリイチ・レーニンの父は
 学者だった。レーニンは中流階級の家庭で育ちながら、
 やがてソ連の初代最高権力者となった。彼の思想の根本は
 貧困世帯を救おうという、政治的な思想であり、慈愛なの」

共産主義は資本家階級、特権階級を絶対に許さない。
彼らを抹殺し、資産を没収し、全ての国民に
富を均等に分配する。

私有財産の否定。国民には財産の保有を許さない。
趣味の買い物、無駄遣い、衝動買いを制限する。
その代わり社会保障によって
国民の生活不安は完全に政府が保証する。

具体的には、住居費、医療費、入院費、介護費、
出産、育児、養育費、学費、全て国が負担するので、
そもそも国民が将来不安を感じて貯蓄をする意義がなくなる。

もっと噛み砕くと、すべての国民が
国(親)に扶養されるようなものである。
誰だって子供時代は親からお小遣いをもらうか、
自分でアルバイトをして好きな物を買ったはずである。

子供ゆえに自由はなかったと思うが、
不幸な家庭でない限りは、
生活の保障はされていたはずだ。

たとえばキューバは医療費、入院費、完全無償。
一部のアパートの家賃も無料。
イラクの旧フセイン政府、結婚した国民には
一時給付金100万と車が無償で提供。

『金がない奴は死ね』
『貧乏は自己責任』
『70歳を過ぎても働け』

日本政府のこういった本音とは真逆の世界である。

全ての企業が国営化されるので、利潤目的で
労働者が賃金奴隷になることもなくなるという。

そんな夢みたいなことが本当にできるのかねえ?
俺には童話みたいな話にしか聞こえないよ。

12月27日 夜

~ミウ・タカノの語り~

「もうこんな時間か」

私はベッドサイドにある目覚まし時計をそっと置いた。
最近六号室の反乱とか、太盛君の三号室のこととか、
斉藤マリエのことで頭を悩ませてた。

学校では副会長の顔をしないといけないから、
余計に気を張っている。家に帰るとその疲れがどっと
出て、こうしてベッドでお昼寝しちゃうの。

お昼寝にしては少し遅い時間だけど。
今の時刻は20時前だよ。

ダイニング兼リビングに行く。
うちはご飯を食べるスペースとゆったりくつろげる
スペースに分かれている。

私は冷蔵庫から冷たい水のボトルを出して、コップに注いだ。
一気に飲むと、冷たさのあまり頭が一瞬で冴えてしまう。
本当は暖かいお湯でも飲めばいいんだろうけど、ストレスが
溜まっている時は水が恋しくなる。私は血圧高いからね。

「よ、よう。良く寝れたか?」

リビング部のソファでくつろいでいる太盛君。
クッションを枕代わりにして、足をだらしなく伸ばしている。
はっきりって行儀は良くないけど、
本当に自分の家みたいに過ごしてくれるのがすこしうれしいよ。

「すっきりしたよ。色々な意味でね」

「そ、そうか」

太盛君はずっと読書をしていたみたい。
テレビつければいいのに。そんな気分にならなかったのかな?

「何を読んでるの?」

「ジューコフ元帥って人の回顧録だよ」

ママが私に読むように勧めてくれた本だね。

ゲオルギー・ジューコフは、
ソ連で一番優秀な司令官だったんだよ。

ドイツ軍と日本軍を撃破したことで
スターリンからソ連邦英雄として認められた人。

特に日本軍相手は、モンゴル国境で生起した
『ノモンハン紛争』において、日本軍の侵攻を
食い止めたことが高く評価された。

スターリンは、日本の軍部を異常に恐れていて、
例えばアメリカ海軍がベーリング海(太平洋の上の方)
を通過しての物資輸送を提案したら、
『日本を刺激したら困る』として断ったそうなの。

その功績によって、そのあとの
対ドイツ戦では最高の頭脳として扱われたの。
ドイツ戦と言うのは、第二次大戦の東欧州戦線のこと。
同じ時期に日本は地球の裏側で太平洋戦争をやっていた。

★文章の抜粋

率直にいって我々は、経験をつんだ権威ある共産党、社会主義国家制度、
それに短期間に国民生活の建直しを可能にし、ドイツ帝国主義の
軍事力の破壊のためにかかせない生産物の創造を可能にした
大きな資源と精神力とがなかったなら、
到底敵に打ちかつことはできなかったろう。

「すべてを戦線へ、すべてを勝利のために」というスローガンと
旗印の下に、社会主義的諸民族が固く結びあい、
労働者と農民が結合し、全勤労者、青年、
インテリの結集が行われ、我々の実力は倍加したのである。


ブレジネフ党書記(最高権力者)の演説より

ソ連国民が、大祖国戦争でたてた仕事の上の、
あるいは戦争の上での手柄は、いくらほめても過ぎることはない。

私は、ソ連の兵士にこの本を奉げる。
強力な敵に対する勝利は、彼らの血と汗がもたらしたものだ。
彼らは、死の危険に堂々と直面し、最高の英雄的行為を示した。

ソ連国民のファシスト・ドイツとの闘争における偉大なる勝利は、
ソ連国民が、ただ自分たちの社会主義国家だけを守ったのではない、
という点に特徴がある。 

彼らは、ヨーロッパ国民をファシズムから
守るという世界的な目的のために献身的に戦ったのである。

「ソ連の戦争目的は、社会主義革命を守ることだったようだな。
 なんか普通の国と戦争目的が違うみたいだが」

「社会主義は思想そのものを守らないといけないの。
 そのための闘争だよ。私達生徒会が反対主義者を
 粛清するのも、革命を防衛するため」

「球技で例えると、ものすごくディフェンス重視のチーム?」

「それまで間違ってないと思うよ。
 私達は極左勢力なんだから
 軍国主義と違って自分から攻めることはまずない。
 大祖国戦争だって、ドイツの方から侵攻してきたでしょ?」

(極左←きょくさ。と読む。もっとも左寄りの思想のこと)

「確かに。この戦争はドイツが明らかに悪いな。
 独ソ不可侵条約を無視して奇襲攻撃をかけてる」

ドイツ第三帝国の強さは圧倒的だった。
膨大な航空戦力で大栄帝国を陥落寸前まで追いつめた。

私の生まれ育ったロンドンは集中攻撃されたよ……。
私は燃え盛るロンドンの街並み、がれきの下から
発見された子供や老人を写真で知ってるんだから。
ナチスは絶対に許さない。

ソ連に対しては陸上兵力の8割(300万人以上)を
差し向け、2000万人ものソ連人を殺した。

最終的に米英ソの三か国が同盟し、数に物を言わせて
ドイツを包囲して何年もかけてようやく倒せた。
これが第二次大戦の欧州戦線のお話。

ナチスドイツの強さはナポレオンすら超えてると思うよ。
イギリスも長い歴史の中でもこんなに強い敵と
戦ったことは一度も無いよ……。

ちなみにイギリスは600年間一度も戦争に負けていません
今の王室が生まれて、北アイルランドを含む
グレートブリテン連合王国として
成立してから、敗北を知らない偉大な国なの。

すごいでしょ?
グレートを名乗れる国がイギリス以外にあるのかな?

「ドイツは悪い国だったんだな。近年はシリア難民の
 積極的受け入れとかで良い国のイメージが強いけど」

「良い時もあれば悪い時もあるってことだよ。
 ま、ドイツの場合は本質が悪なんだろうけど。
 この点では悔しいけどエリカに同意しちゃうな」

「そういえばあいつもドイツ嫌いだったな。
 まえ東京に行った時に、ドイツ系の白人に
 声かけられたけど無視したそうだ」

死ぬほど、どうでもいい話をありがとう。
実はエリカをここに連れてきて拷問したい
くらいに憎んでるんだけどね。

私からエリカの話の話題を出したわけだけど、
やっぱり私の前で他の女の話はしてほしくない。

「人と人の関係も同じこと」

「え?」

「人はね。例えば営利目的とか、お金や利権が絡むと平気で 
 人を裏切ったりだましたりするんだよ。
 だから私は絶対に人を信用したりしないの」

革命を守るため。祖国の国土を守るため。ソ連は戦った。
私達生徒会も全く同じことをしてるだけなのよ。
反対主義者と思わしき人を取り締まるのは必要なことなの。

人に自由を与えたら堕落する。
意思表明? 宣誓? 約束? そんなものは
一瞬で簡単に破られる。全く信用できない。

人とは、堕落した生き物。
太盛君だって旧約聖書は読んでるでしょ?
旧約聖書は何百ページもかけて人類の愚かさ、
劣等生が書かれているじゃない。

「あ、ありがとな。すっげえ勉強になったよ。
 話変わるけど、ミウも寝てたから夕飯はまだのはずだ。
 これから一緒に外食でもどうだろう」

「んー、ママがいないとお留守番が」

「あの人ならサロンに行くって6時過ぎに出て行ったな」

「集会に行ったんだね。
 たぶん9時過ぎまで帰ってこないよ」

ママが夜で歩くのは、マンションの住民会議か、
市議会の役員の会議のことだよ。ママは優秀な
ボリシェビキだから、市議会にまで顔を出せるの。
普通の主婦なら門前払いだけどね。

ママは(資本主義者が好む)資産運用にすっかり飽きてしまい、
暇さえあれば社会主義系の論文を書いて本部へ送っている。
本部は、栃木県の共産党の本拠地のこと。

あそこに所属できるのは、限られた人だけ。
マルクス・レーニン主義者で、将来国家転覆を狙う人だけ。
日本社会を恨み、日本の資本主義を恨み、憲法、法律を恨み、
この国そのものが気に入らない人の集まり。

私もそのうちの一人だけどね。

「私、料理作れないんだけど」

「俺もだよ。家じゃ後藤さんに作ってもらってるから
 すっかり甘えている」

「後藤さんの料理美味しいよね」

「は……?」

なんで私がコックの味を知ってるんだって視線だね。
いくら太盛君でも、ちょっとうざい。
前世の記憶があるとか言ってもどうせ信じないよね。
私の話を真剣に聞いてくれたのはエミさんだけだよ。

「敵国アメリカのサービスになっちゃうけど、
 ドミのピザでも頼もうか? 
 太盛君はピザ嫌いじゃないよね?」

「むしろ好きだけど、どっちかというと、
 食べに行きたい気分だな。この家に来る途中で
 イタリアンレストランを見かけたんだが」

さイゼのことを言ってるのかな?
一応ママが株主なんだけど。そういう言い方をするってことは、
太盛君はこの家から少しでも離れたい意図があるとしか思えないの。

私がそのことを口にしたら、焦ってるのが面白かった。

「ミウっ、そんなつもりはないんだよっ。ミウッ」

ぎゅっとされた。
なんかさ……。都合の悪いことがあると
私を抱き締めれば済むと思ってない?
確かに太盛君と密着できるとうれしいけど。

「不安にさせちゃってごめんね? 俺はただ、ミウと
 たまには外でデートしたいと思っただけなんだっ。
 ずっと一緒に君といたいと思ってる。嘘じゃないぞ?」

そっと頭を撫でてくれる。太盛君は女の扱いがうまいね。

サイゼって懐かしいな。この世界に飛ぶ前に……
多摩市に住んでた頃……。後藤さんと二人で食べに行った。
私が英語を話して注意されて、私は世間知らずで……。

後藤さんが、転職先がどうとか、ご党首様に解雇されるかも
しれないとか……マリン様が蒙古で行方不明……。
エリカ奥様と太盛様も……北朝鮮の強制収容所……。

ああ……いろんなことがあったな。
嫌なことばかり思い出しちゃったよ。

「私はね!! 君を救いたかっただけなんだよ!!」

「うわああっ」

太盛君が腰を抜かしたけど、もう止まれない。

「こんなこと言っても信じてもらえないだろうけど、
 私は前の世界にいる時から君のことがずっと心配で
 心が死んでしまいそうになりながらも、精一杯生きて来た!! 
 私は何も間違ったことはしてないんだよ!!」

「私は君のお父さんとか、能面の男とか、色々な人に
 運命を託された女なんだよ!! 私のすることは
 全ての運命の導きなの!! 君と私が
 付き合うことも運命なんだから当然でしょ!?」

「なのに途中で邪魔する女とかでてきて、本当に
 イライラした!! カナもエリカもマリエも、みんな
 殺してやりたいのをギリギリのところで我慢してるんだよ!?
 私の我慢強さを褒めてもらいたいくらいだよ!!
 ねえ、どう思うの太盛君!?」

「そ、そうだな。ミウの慈悲の心に感謝するよ」

「なのに太盛君は、私のこと何度もぶったりしたよね!?
 痛かったんだよあれ? ぶたれた日は家に
 帰ってから泣いたんだからね!!」
 
「ごめん……本当にごめん……」

太盛君が私の足にすがり付いて謝っている。
一般生徒みたいな反応だけど、今は突っ込む余裕がない。

「私をぶつなんてひどいじゃない!!
 彼女に手を上げるなんて太盛君、最低だよ!!」

「許してください……」

うなだれて震えている。
両手を前に出し、土下座に近い恰好をしている。
私に反抗した時とはまるで別人。

「うん。いいよ許す」

「へ?」

「その代わり、次ああいうことしたら、その時は
 本気で怒るからね!? その時はどんな目にあっても
 文句言わせないから!! 覚悟しておいてよ!!」

「はい……ミウ……さま」

「さま、はいらないんだよ!!」

「はいっ!! じゃなくてっ、わかった!!」

顔を上げた太盛君。よほど怖かったのか。
泣きはらした顔が真っ赤になっている。

こんなに怖がらせるつもりはなかったんだけどな。
前の世界の記憶が蘇ると、つい感情的になっちゃうんだよね。
少し罪悪感がある。

「お説教はもう終わりにしようか。
 太盛君は私の彼氏だからね」

私が頭を撫でてあげると、太盛君はすっかり良い子になりました。
聞き分けの良い子犬みたいだけど、こんな太盛君も私は好きだよ。

私はボリシェビキだから、『私を好きになってもらう』
ではなくて『私を好きにさせる』ことが目的だから。

私が電話すると、15分もせずにピザーラが届いた。
思っていたより早いね。

「ごちそうさまでした」

どちらともなく言い、食べ終わった箱をごみ袋に入れた。
注文したのはⅯサイズだった。
後藤さんのピザに比べたら味も量も物足りないよね。
太盛君が口にせずとも表情で分かるよ。

「太盛君。先にお風呂入ってきていいよ?」

うちのお風呂はタイマー式で決まった時間に沸くから、
今九時半だからとっくにできてる。

「分かった。俺は長湯するほうだけど、構わないか?」

「全然いいよ。ごゆっくりどうぞ」

お風呂に仕掛けた盗聴器から、
太盛君のすすり泣く声が聞こえて来た。
私はさりげなくテレビを見るふりをしながら、
太盛君の声に耳を傾けた。

『マリエ……マリエ……俺が一番大切に思ってるのは
 おまえだけだ……おまえにもう一度会いたい……。
 こんなクソみたいなマンションで死ぬのだけは嫌だ……』

私の彼はお湯につかりながら、とんでもないことを口にしていました。
私はこの怒りをどこにぶつければいいか分かりません。

いっそガスを解放して太盛君ごと殺してやりたいくらい。
もちろんマリエを拷問した後だけど。

太盛君が入浴後、ドライヤーで髪を乾かした。
彼はのんきな顔でリビングに顔を出した。
私は衝動的に彼の頬を叩いてしまった。

「正直に答えてほしいんだけど、
 お風呂で他の女の名前を口にしたでしょ?」

「う……うぅ……うー……」

「うーじゃ分からないよ。日本語か英語でよろしくね。
 私は太盛君にだけは暴力を振るわないって心に決めてたのに、
 私がどれだけ不愉快な思いをしたか伝わったかな?」

「盗聴器が仕掛けられていた……?」

当たり前でしょ。
マンション全体を盗聴できるようになってるんだよ。
反革命容疑者がいないか監視するためにね。

「で、どうなの? 女の名前を口にしたんだよね」

「確かにしました、じゃなくてした」

「斎藤のチビのことを言ったんだよね?」

「ああ」

「なんて言ってたか、自分で繰り返してみて」

「お、俺が、一番……大切に思ってるのはマリエだと……」

「それ、おかしいよね?」

私は目の前に座るように指示した。
太盛君は正座して私を見上げる格好になった。

「太盛君、今日の日中に誓ったはずだよね?
 私のことだけを愛してるって。
 もしかして私の聞き間違えだったのかな?」

「確かに言いました。間違いではありません」

「敬語やめてよ。で、どっちが本当の気持ちなの?
 私の前で言ったことと、お風呂場で言ったこと。
 もし私に嘘をついたとしたら、制裁しないといけないのかな?」

「……俺を拷問するつもりか」

「拷問って程じゃないけど、お仕置きは必要だよね。
 一緒に生活する初日からこれじゃ、
 先が思いやられちゃう」

ちょうどママが帰ってきた。
集会の後、ドラッグストアで買い物をしてきたみたい。
私が急いでママに事情を説明すると、
目元だけは冷静でニコニコしていた。

「はい太盛君。これをあげる」

「これは……」

「リポビタンDよ」

なんで栄養剤を……。
太盛君は完全に困惑している。

「早く飲みなさい」

「今は夜なのですが」

「私は飲みなさいと言ったの。
 普通のリポビタンよ。
 毒じゃないから安心しなさい」

太盛君は瓶のふたを開け、飲んだ。
すぐに空になった。

「飲んだら檻に入りなさい」

「はい……?」

太盛君はママに連れて行かれた。
たぶん一階にある檻に入れられたんだと思う。

檻とは、このマンション内に存在する収容所のこと。
住民の中で反革命容疑者が入れられている場所だよ。

エントランスは脱走防止用のトーチカ(重機関銃)が二か所。
壁際にそれぞれ設置されている。それと管理人室の隣に
大きなスペースがあって、そこに鉄製の檻が用意されている。

檻は、拘置所の牢屋をイメージしてくれれば分かりやすいよ。
もしくは、犬とかを入れるケージの巨大版。
鉄格子越しにちゃんと空気は入るし、エントランス自体が
空調完備だから、寒さで凍えることはないよ。

簡易トイレまで用意されている。
ただし、監視付きだからプライバシーは全くないけどね。

私は心配だから様子を見に行った。

「あなたたち、今日から新しい住民が入るから、
 仲良く過ごしなさいね?」

ママが言うと、収容者たちがおびえて
ママから一番離れた場所へと移動していく。

現在収容されているのは、このマンションに唯一存在する、
反革命容疑で逮捕された一家。本村(もとむら)さん
という苗字で、家族全員(四人)が収容された。

「お兄ちゃん。あの人、同じくらいの年なんじゃない?」

妹さんが、高校生のお兄さんに話しかけてる。
確か女の子はミホさんと言う。
お兄さんの方はケイスケ君。私と同い年だね。

両親は檻のすみの方でおとなしくしていて、
なんだか人生を諦めちゃってるみたい。
気の毒だね。もっとも彼らを通報したのは私のママなんだけど。

檻は広々としていて、10人以上が入れるようになってる。
今太盛君を入れて5人だから狭く感じることはないと思うよ。

全員首からプラカードを掲げていて、それには囚人番号と
『私は日本資本主義の手先です』と書かれている。

太盛君だけは『僕は日本のスパイです』と書かれている。
ママ、資本主義が抜けているよ。
太盛君は日本人なのに日本のスパイってどういう意味?

「ミウも遅くならないうちに部屋に戻りなさいね?」

ママはそう言って去っていった。

私は少しだけママに反対したかった。
だって、太盛君を閉じ込めたこの檻に
若い女の子が一人いるじゃない。

このミホちゃんって子、顔がかわいい。
まだ中学二年生でお兄ちゃん好きみたい。
太盛君はマリエのことでロリコンなのが
証明されてるから、手を出したりしないか心配だよ。

「ねえ太盛君。今の気持ちはどう?」

「……俺がどう答えれば君は満足するんだ?」

「少しで良いから、私の心の痛みを
 あなたに分かってほしかったの」

「逆に俺の心の痛みはどうなるんだ?」

「そんなの知らないよ」

時刻は10時の15分前。そろそろお風呂入らないとね。

「待てよ!! 待ってくれ!! まだ話があるんだ」

うん。それは分かるんだけど、
私がお風呂入ってからにしてよ。

「こんな物騒なエントランスの中で……
 檻の中で一人にしないでくれよ。
 一人にされたら不安で死にたくなるぞ!!」

「本村さんたちもいるから、さみしくないでしょ?」

「今始めて会ったばかりの他人じゃないか!!
 お願いだからまだそこにいてくれよ!!
 俺は放置されたりするのが一番苦手なんだ!!
 頼むよおおおお!!」

うふふ。逆切れしながら懇願する姿が可愛い★
私は太盛君をいたぶったりいじめる趣味はなかった
はずなんだけどな。面白いからしばらく放置しようかな。

「私も長湯だから、40分くらい待っててね♪」

「うそだろ……ミウ……ミウ。おまえこそ嘘つきだ。
 俺のこと好きなんだろ? 俺のこと好きなら
 檻の中に放置するじゃねえ。おいミウよおおおお!!」

私は笑い出しそうになるのをこらえながら、エレベーターへ走った。
高野家は4階にあるから、一度上の階へ登ってしまえば、
もう太盛君の声なんて聞こえないよね?

そう思ってたのに。

『うおおおおおおおおおおおおおお!!』

『だせよおおおおおおおおおおおおおおお!!
 ぶおおおおおおおおおおおおおおお!!』

彼の野獣のような低音が、マンション中に響き渡っているよ。
太盛君ったら人んちのマンションなのに元気いっぱいだね。
あんなに叫んでたらすぐノドが枯れると思う。

管理人殿が心配して様子を見に来たけど、
ママが説得して事なきを得たみたい。

危ない危ない。うちのマンションは荒っぽい人が多いから、
高野家がマークされたらあとで面倒だからね。

お風呂に入ってさっぱりした。
急いで髪を乾かしたから、少しだけ湿ってるけど、
今は彼がどんな顔してるのか楽しみで仕方ない。

私は急いでエレベーターの中に入り、1階のボタンを押した。
太盛君。早く私を楽しませてね?

~せまるくんの独白~

ミウ。おまえはなんて冷たい女なんだ。
俺をこんなところに放置しやがって。

あのお母さんも何考えてやがるんだ。

俺がそんなに悪いことしたのか?

ただ湯船につかりながらマリエとの思い出に
ひたっていただけじゃないか。
ミウも俺と一緒にマリエの失語症を心配して
毎日お見舞いに行ってたの忘れたのかよ。

どうしたらマリーに対してそこまで冷酷になれるんだ。

ちくしょう……。

「君。さっきから吠えているようだが……
 夜遅い時間に非常識だと思わないかね?」

本村家のお父さんに注意されてるんだが、
そんなの知ったことか!!
こちとら意味不明な理由で檻に入れられたんだぞ!!

「本当に静かにして頂戴。私たち家族だって
 好きで収容されたわけじゃないんだから」

この奥さん、気のせいかミウの母にそっくりだぞ?
しゃべりかたとか雰囲気とか、瓜二つすぎて吹くわ。

「あんたらも大人しく閉じ込められてないで
 抵抗とかしろよ!!」

「口ではなんとでも言えるのものだ。
 抵抗したら拷問されるのが目に見えている。
 君はボリシェビキの恐ろしさが分かってないのだ」

「よーく分かってるよ!! こちとら学園が
 生徒会によって支配されてるんだ!!
 高野ミウは生徒会副会長だぞ!!
 だからなんだってんだ!!」

俺が怒鳴り散らしてると、娘さんが俺を睨んできた。
美人の娘だが、怒ると怖そうだな。

「怒るのは分かりますけど、そんなことしたって
 どうにもなりませんよ。夜だから静かにして」

「……君は何でここに収容されたんだ?」

「連帯責任です」

「まさか家族全員が連帯責任で?」

「そうです。お父さんが職場の人に共産主義が
 間違ってるって話をしたらしくて、マンションに帰ってから
 逮捕されました。その後、私達も檻に入れられました」

まったくうちの学園と同じ流れすぎて泣きそうになる。

「そういうあんたは、なんでここに?」

男の子の方が俺に聞いてきた。
さっき年が俺と同じくらいとか言ってたのは、こいつか。

「俺が高野ミウ以外の女を愛してしまったからだ」

「ミウってのは、さっきいた女の人かい?
 なんでそんな理由で逮捕されてるんだ」

「俺が一番聞きたいよ!!」

俺は拳を鉄格子に放つが、痛いだけだ。
まじで骨が折れそうなくらい痛い。
しょせん人間の力じゃ鉄には勝てないな。

俺はまだ怒りが静まらない。

今何時だ? どうでもいい。
明日でもミウと話す機会があったら、
思いつく限りの文句を言ってやる。

そんなことを考えていたら、エントランスから
誰かが歩いてきた。女性だ。年は30代の半ばだろうか。

長髪にスーツ姿でハイヒール。
横田リエみたいにエリートっぽい雰囲気。いわゆる
キャリアウーマンだろうか。なんとなく独身っぽい。

その人は通り過ぎる際に俺たちに視線を寄こした。
新しい囚人である俺を見たのもほんの少しだけ。

すぐに興味をなくしてエレベーターを呼び出した。
俺は助けてくれるように叫びたかったが、

「すみません」「いいえ」

エレベーターから、入れ替わりでミウが出て来た。
あいつ、来やがったか!!

「おーい。せまるくーん。げんきー?」

「あい ふぃーる ばっど!!」

「あはははは。機嫌悪いのは知ってたけどね♪」

鉄格子の前で、ミウは勝ち誇った笑みを浮かべている。
本村家の人達は、ミウに背中を向けて黙っている。
逆らいたくないし、関わりたくもないのだろう。
確かにそれが一番懸命だ。だが俺は逃げたりしないぞ。

「嘘つきの太盛君にはお仕置きが必要だものね」

「今のお前は、昔のエリカと全く同じだ!!
 俺を束縛して無理やり振り向かせようとしても
 無駄だってことに気付けよ!! 井上マリカさんに
 説教されたこと忘れたのか!!」

「マリカ……? ああ、あの6号室の囚人のことね。
 そんな女もいたよねぇ。なつかしい」

「俺を今すぐ出してくれれば許してやる!!」

「出したらお仕置きにならないから駄目だよ」

「あークソ。学校の外でも収容されるとは
 思ってなかった。この畜生が!!
 人の自由を奪うのがそんなに楽しいのか!!」

「太盛君の怒ってる姿を見るのは少し楽しいかも。
 私をこんな気持ちにさせてくれるのは太盛君だけだよ」

「死ねよ!!」

「あはは。怒ってる怒ってる」

ミウは警棒を手にしている。何をする気だ?

「そこの人」

「え?」

なんだ? 本村家の娘さんを見たぞ。
娘さんは、鉄格子越しに警棒を受け取った。

「それで太盛君を殴ってくれるかな?」

「はい……?」

「聞こえなかった? 名前はミホさんであってるよね。
 本村ミホ。これは私からの命令です。
 太盛君を警棒で殴りなさい」

ミホさん。固まる。
ミホさんの兄貴や両親も茫然としているよ。

「セマルさんって人、ごめんなさい!!」

油断していたらこの女……!! 
遠慮なしに警棒を振りかぶりやがった。

ぐ……。肩に当たった。
一撃だけでこんなに痛いのかよ。

「一度じゃ足りないよ。もっと殴って」

「はい!!」

ミホは俺の胸を突いたり、滅茶苦茶に振り回すなどして
攻撃を続けた。俺は一方的になぶられるまま。
いっそ抵抗してもよかったが、
この子も鬼畜女の命令でやってるだけだからな。

それにこの子の家族が目の前にいるんだ。
俺に出来ることは何もない。

「この……くそやろう……」

俺は亀のように丸くなり、ミホは俺の背中を
永遠と叩き続けた。地味にいてえ。
服を脱いだらひどいあざになっていることだろう。

ミホさんが涙ぐみながら、何度も謝罪の言葉を口にする。
兄貴も申し訳なさそうな顔をしている。
母親は顔を両手で覆っており、父親がそれをなぐさめている。

「どう太盛君? これでもまだ
 私に口答えする気になるかな?」

「ああ。いくらでも言ってやるよ。
 俺は斎藤マリエのことが結婚したいくらい好きだ。
 この世で一番愛してる。そしておまえのことは
 反吐が出るくらい大嫌いだ」

さすがのミウも表情を失った。

マリエのことを口にするだけで、ぶち切れるほどなのに、
今までよくマリー相手に交渉をしていたものだよ。
それだけミウは俺に嫌われないように必死で
我慢をしていたってことか。

今はその我慢の限界に達し、ついに俺自身への
暴力を解禁したってわけだな。

「電気椅子に座ろうか?」

ミウは冗談を言わない。鉄格子の外へ電気椅子が用意された。
管理人室から持ち出したものらしいが、なんでこんな
恐ろしい物が管理人室にあるんだよ。

ついでに管理人も出て来た。予想はしていたが、
いかにも東欧系でのっぺりした顔の白人男性。
ロシア人にしか見えない。

「ひぃ ウィル シットダウン オンディス?」

「Yes. go ahead.」

ミウと英語で確認をし、管理人が俺を檻から出し、
イスに座らせた。手と足はベルトで固定。
あとは電極のスイッチを押すだけと言うわけか。

「太盛君は私の彼氏だから、本当はこんなこと
 したくない。だから最後にもう一度だけ
 確認させてほしいの」

ミウは、俺の後ろ側から耳元でささやく。

「君は私のこと、嫌いかな?」
「もちろんだ」
「今なら言い直してもいいんだよ?」
「嫌いだから嫌いと言ったんだ!!」

その次の瞬間、俺は意識が飛びそうになった。

体中を駆け巡る電流の焼けつくような痛みは
経験したことのないものだった。

中学時代から不良にバッドで殴られたりと
痛みへの抵抗はかなりあるほうだと思っていたが、

『痛みの次元が違う』

意識が飛び、視界が暗くなるが、すぐに続けて電流が
襲ってきて、文字通り目の前が白黒して、
どうやってもこの苦痛から逃げることができない。
あ、頭から煙が出るんじゃないかと思えるほどに、熱い……。

「今ので10秒だよ?」

たったの……10秒?
俺には10分くらいに感じられたぞ?

「太盛君ったら私のこと嫌いとか、そういう失礼なこと
 たくさん言ってくれたよね? あの時はショックだったなぁ。
 マリエのことは二度と口にしてほしくなかったな」

俺は、また電流を流される恐怖でそれどころではない。

「こういう道具もあるんだよ?」

電気棒だった。
厚手のゴム手袋をしたミウは、
俺の太ももにそれを当て、スイッチを押した。

「ぐああああ……」

足から全身へと電流が伝う。
俺は馬鹿みたいに首を上下させ、
うめき続けるしかなかった。

だめだ……。肉を引き裂き骨ごと焼き尽くされるように熱い。
神経が焼かれるような痛みだ……。
息を吐きだすが吸うことはできない。
目の前が真っ暗なのに意識だけが続く。

ジリジリジリ……ビリビリビリ……。
痛い熱い痛い熱い。

いつまで続くんだよこれ。

胃がムカムカして、唇からよだれがこぼれる。
やばい。今すぐもどしそうだ。

誰でもいい。助けてくれ。
母さん。マリエ。エリカ。助けてくれ。

「うふふふ。今のは20秒。電圧はさっきよりも弱いけど、
 じっくり長く責めたほうが辛く感じるでしょ?」

俺は呼吸を整えるのに必死で、ミウ言葉は頭に入らない。

「太盛君の低い叫び声、大好き。
 ほらほら。涙と鼻水を吹いてあげようか。
 だけど太盛君は賢いからここから解放される
 簡単な方法を知ってるはずだよね」

ミウは俺の頭をなでながら、
「それとも、もっとやってあげようか?」と言った。

俺はミウに屈服させられた。

ミウ檻を見るように言った。
俺は全身の筋肉が痙攣し、指先一本でさえ動かすことができない。
そこでミウは俺の椅子ごとそちらを向かせた。

本村家の家族は恐怖のあまり涙を流していた。
イスラム教徒が礼拝する時みたいな
姿勢で床に顔をこすりつけて泣いている。

「太盛君は私のことを愛してるんだよね。
 なら口にしてくれる?」

「あ、 ああ……あ、」

だめだ。ろれつが回らない。
口が開いた状態で膠着してしまい、閉じれないんだ。

「なあに? あ、のあとに何が言いたいのかな?
 日本語の母音が発音しにくいなら、
 英語でもロシア語でもいいよ?」

「あい」

「うん?」

「あい、しれ……ゆー」

「Wow. You leve me?」

「い……。えしゅ」

「You may say that hundred times」

同じことを百回言えだと? 
バカげてるが、逆らうわけにはいかない。

「あい……しれー……りゅ」

「Well done,boy. continue please?」

「すっき……らぁ。みゅーの……ころぉ。しゅきー」

こんな茶番をさせられてるが、電流に比べたら
文字通り百倍ましだ。

ミウは俺の膝の上にまたがり、頬にキスした。
重いんだよ……。無理な姿勢で固定されているから、
こいつの体重が太ももの先の方に掛かってしまうのだ。

そういえば、この女は日本語より英語のほうが
気持ちが伝わるんだったな。

こいつの影響で英語を話す奴は大嫌いになってしまったよ。
もし自由になったら二度と自分から英語を話すものか。
英語に関するすべて物を俺の視界から消してやる!!

「素直になってくれてよかった」

ミウが俺の手足の校則を解いてくれたまでは覚えている。
俺は安心したからか、急に眠気が襲ってきて、
その後のことは良く覚えていない。

12月28日 早朝

~せまるくん~

うぅ……。頭がガンガン痛む。体は石のように重い。

まどろみの中でも、昨夜の電気ショックの拷問の
記憶が鮮明によみがえる。
あんな体験、一生忘れられない。

ここは……どこだ?
檻の中なのか。まぶたが開いても視界が開けない。

「せーまるくん♪」

うわああああああああああああああああああ!!

「ちょっと、逃げないで!! 
 起きたばかりなのに急に動いたら危ないよ!!」

その注意をちゃんと聞けばよかったのだろう。
俺はベッドからずり落ちて床へダイブした形になった。
いてえ……。変な方向に腰を打ったのかもしれない。

「まだ寝てていいんだよ? ほら。時計を見て」

朝の5時半……? 確かに早朝だ。
真冬だからまだ日が昇ってないじゃないか。
なのにカーテンは開けられていて、
日の出を待っているようだ。

こんな時間になんで俺は目を覚ましたんだ?

「私の目覚ましが鳴っちゃったんだね。
 平日はいつもこの時間に起きてるから、ごめんね?」

どんだけ早起きなんだよ。
聞くと、ミウは生徒会副会長になってから、
早寝早起きを心掛けているという。

朝は6時前に朝の体操をする(ソ連)
その後は朝早く散歩したり、読書するなどしてから
優雅に登校しているらしい。
生徒を苦しめる悪魔のくせに、
無駄に規則正しい生活してるじゃねえか。

「キスの前に、歯を磨いておいで?」

俺は言われるがままに洗面台に移動。なぜか
用意されていた俺専用の歯ブラシを手に持つ。

眠いし、だるい。体には鈍い痛みが残る。
ジリジリジリ……と肉が焼かれる感触が脳裏に
よみがえり、吐きそうになり、洗面台に顔を向ける。
ゲホゲホ。胃液がわずかに出ただけで済んだ。

機械的に歯磨きを終えてから、ミウの部屋に戻る。
入って気づいたが、ミウの部屋だったのか。

「こっち向いて」

ミウが俺の顔を両手で持ち、自分の方に引き寄せた。
ねっとりした、甘い感触を舌が味わった。
軽く吐いたばっかりだが、俺の口は臭くないんだろうか。

「寝起きは誰だって口腔が細菌だらけなんだよ。
 だから朝起きたら必ず歯を磨いて。
 そして私とキスして。これは約束だよ?」

「ああ。分かったよミウ」

「うん。じゃあ、もう一回キスしようか?」

人間以外の何かとキスしてる気分だ。
腹が立つのでセクハラしてやろうと思い、胸を乱暴にもむ。
直にもんでいるので柔らかい。
ミウは過剰に反応するが、俺のアソコは元気にならない。
ああ、やっぱり俺はこいつを女として見れないんだ。

「んもう朝からエッチなんだから。
 冬休みなんだから、もう少し布団で横になろうよ」

されるがままに、俺はミウに続いてベッドで寝ることになった。
腕枕してほしいと言ったので、してあげた。ミウの頭は小顔で、
全然重さを感じない。こうして近くで見ていると、
本当に整った顔立ち。顔だけはな。

「私、太盛君のこと好き」

「俺もだ。俺もミウのこと好き」

「私の方が好きだよ」

「いやいや。俺の方が」

この茶番を5分くらい繰り返すと、ようやく満足してくれた。
俺は何気なしにミウの髪の毛を撫でた。夏はショートだったが、
あれからずいぶん伸びた。今では腰にかかるくらいの
ロングヘアーになった。ナチュラルで茶髪なんだよな。

顔は思いっきり日本人にしか見えないのに、
髪質は外人みたいだ。線が細くて癖がついている。
高いシャンプーを使っているのか、触り心地が良い。

「太盛君に髪の毛触られるの、好き。
 私の髪に触れていいのは、
 太盛君だけなんだからね?」

「おう」

俺がこいつの機嫌を取るのは、拷問が怖いだけだ。
もしできるなら、今すぐ風呂の底に頭を
突っ込ませて窒息死させてやりたい。
昨夜あれだけのことをされたんだ。

「私と初めて話をした時のこと、覚えてる?」

「俺が教室で君に話しかけたんだよな」

「そう。私はこの家までの帰り道が分からなかった」

「記憶喪失だったんだよな」

俺が少しだけ侮蔑を込めて言うと、ミウが表情を無くした。
俺の全身に鳥肌が立つ。軽い冗談でも本気で殺されかねないのだ。
もっと言葉を慎重に選ばないと。

「信じてないでしょ?」

「俺は君がぼけているだけだと思った。
 でも記憶喪失は本当なんだろうな。
 俺のこと様付けで読んだり、
 エリカのことを奥様って呼んだりさ」

「覚えてたんだね」

「そりゃあな。君が真剣に困ってるようだったから、
 俺は心配したんだよ。あの時から俺は
 君のことを大切に思っていたからだ」

すると、ミウが明らかにうれしそうな顔をした。
こいつはテンションの上がり下がりが激しい。
それにすぐに顔に出す癖がある。

内面を隠すのが上手なマリーやエリカとは違い、素直だ。
……そうだ。マリエの名前だけは死んでも
口に出さないように気を付けないと。

俺はベッドの上で小一時間ほど
命がけの雑談をしていた。
そろそろ朝ごはんの時間らしいので、
リビング兼ダイニングへと移動。

「おはよう。太盛君。昨日はよく眠れた?」

「はい。とっても」

と答えるしかないだろう。この中年太りのクソババアが。
俺は心の中でこいつの腹わたを包丁で裂いてやった。

ダイニングには、当たり前だが食事用の
大きなテーブルが置いてある。煮物、焼き魚、
豆、漬物、ノリなど、朝ごはんにしては品目が多く、
テーブルが手狭になってる。

夕飯でもないのにこんなに皿数使うのかよ。
しかも皿ごとに盛られた量は少ないじゃないか。

初めから大皿にまとめて盛ればいいものを、
いちいち小皿に分けるなんて無駄だと思う。
洗い物がめんどくさそうだ。

「太盛君は、飲み物は日本茶が良いかしら?」

「暖かい牛乳をもらえますか? カコさん」

ババアは、マグカップに注いだ牛乳をレンジに入れた。
俺を振り返って一言。

「その呼び方は良くないわ」

「はい?」

娘がしたのと同じように殺気を放ってる。
なんて目つきをしやがる。
肌全体にぴりぴりした感触がする。

「私のことはお母さんと呼びなさい」

義理のって意味だよな? 
音だけだとニュアンスまで伝わらない。クソが。
俺がミウの婚約者みたいな扱いされるだけで虫唾が走る。

俺はマグカップを手渡されて一言。

「ありがとう。お母さん」

「うふふ。どういたしまして」

クソ憎たらしい笑みだ。くたばれよ。

俺の隣にはミウが座り、その向かい側にバアさんが座る。
おっといけない。心の中で思ってることが
うっかり口に出てしまうかもしれない。
これは三号室時代から気を付けていたことだ。

心の中ではママさんと呼ぼう。

「太盛君の家はコックさんを雇っていたんでしょう?
 普通の家庭料理だからお口にあえばいいけど」

普通にうまい。特段に良いわけでもなく、
何も問題がない。健康に気を使った良いメニューだ。

「お世辞じゃなさそうね。良かったわ」

本当にうれしそうな顔で言う。
俺は料理に世辞を言わないと言っただろうが。
(実際に口にはしてないが)

「太盛君と朝ごはん、うれしいな♪」

俺の隣の女も喜んでやがる。
俺も喜んだ顔をしないといけないのが辛い。
演技するのってけっこう疲れるんだぞ?

適当に雑談を挟みながらの食事が終わった。
極度の緊張とストレスで味なんてわからなかったよ。

「用事があるから」と言ってママさんは外出した。
 何の用事だ? フォーマルな格好をしていたから
 どうせ共産主義系の集会なんだろうが。
 そういう施設が火事で燃えることを祈っているぜ。

「太盛君と2人っきりだぁ♪」

「あはは……」

乾いた笑い声。
ミウが洗い物を済ませている間、
俺はリビングのソファで横になった。
頭の下に置いたクッションが心地良い。

高いクッションなのか。
この感触だけは癖になりそうだ。

俺は特に何も考えることもなく、天井を見つめていた。
一番考えたいのはマリーのことなんだが。
感傷に浸ると、またミウに怒らせてしまう。

ミウはずいぶん時間をかけて洗い物をしている。
水道から水が出る音と、カチャカチャと
皿のこすれる音が聞こえてくる。

この家は食洗器がないのか。金持ちだから
ビルトインの食洗器があるのかと思ってたよ。

ミウがこちらを振り向いて言った。

「2人きりで過ごしていると、
 ちょっと同棲してる気分にならない?」

「そうだね」

「私たちは婚約してるんだよね?」

「そ、そうだね」

なんだそのふざけた事実は? 

「さっきから顔が引きつってるけど、
 太盛君は私といるのがうれしくなさそうだね」

洗い物が終わった。濡れた手を布巾で
ふいたミウが、俺の方に近づいてきた。
く、来るな……。俺は緊張のあまり反射的に体を起こした。

「昨夜は」

ミウは真顔だ。

「太盛君が反省してくれたから、気絶してる間に
 私の部屋のベッドに移動させてあげたの。
 別に後遺症とか残ってるわけじゃないんだから、
 きつめのお仕置きをしたってことで納得してくれるよね?」

俺は、何も答えられない。
それは口にできないという意味。
心は凄まじい葛藤と戦っていた。

後遺症と言うなら、すでに心に深い傷を負った。
今後の人生で一生忘れられない負の遺産となった。
電気拷問することが『お仕置き』の範囲に入るのか?

俺の常識では考えられない。
そんな考えを受け入れるわけにはいかない。

「愛を誓ってよ」
   
は? 

「いつも私の方からキスしてるよ。
 太盛君からはしてくれないの?
 地下室にいた時は必死だったじゃない。
 あの時みたいにしてよ」

「分かったよ」

両手を伸ばし、ミウの手を握った。
しっかりと手がつながれている状態で、顔を近づけた。
鼻がぶつからないように俺が少し顔を傾けて、
くちびるを奪った。

「そうだよ。それでいいの」

こんな形だけの行為に何の意味がある?
俺が一番恐れているのは、ミウがこれ以上のことを
望んでくることだ。ババ…ママさんが
いないこの状況なら、十分に考えられることだ。

「ソファに横になって」

俺は言う通りにした。
ミウは俺に覆いかぶさって甘えてきた。
また俺の顔を両手で持ってキスを迫る。

しつこい女だ。何回キスしたら気が済むんだ。
クソ……。こんな奴相手なのに、
顔だけは極上の美人だから
男の部分が反応してしまうのが悲しい。

なぜだろう。朝はちっとも反応しなかったのに。
食後で気分が落ち着いているからか。
あるいはキスを繰り返してる内に、
自然とこいつを異性と認識するようになったのか。

聖書に書いてある通り。
主はこうやって子孫を残す術を人類に与えたのだ。

俺は……バカだ。こんなことが口から出てしまうのだから。

「少しだけ触ってもいいか?」

「いいよ」

ミウは俺に体重を預けている。
俺の手が、ミウの頭から背中、お尻へとすべっていく。

やっぱりエリカよりはきゃしゃな体だ。
ミウの方が小柄だからな。
起伏は激しくない。ごく普通の日本人体型だと思う。

男の本性が暴走しそうになる。
こいつは、俺が求めれば絶対に拒否しないだろう。

俺は昨夜拷問されたばかりだが、今は俺の方が優位。
このソファの上では、こいつは俺の言いなりだ。
ここが狭いなら、部屋のベッドに移動してもいい。

ブラのホックを外し、上着の中に手を差し入れた。
直接触ると、小ぶりだが、
手の平に収まるサイズの胸だった。
俺は直接味わうために顔を近づけた。

「あらあら。二人とも朝から元気なのね」

なに!? 俺とミウは反射的に飛び追き、
急いで距離を取った。
ミウが慌ててブラをつけている。

ママさんは、それはもう楽しそうに、
グリム童話に出て来る魔女の
ような老獪な笑みを浮かべている。

「ママは気にしないから、あなた達の好きなように
 して構わないわ。将来夫婦になるんだからね。
 その方が太盛君的にも逃げられなくなるでしょうから」

ただし、避妊だけは絶対にしなさいと言って、
信じられないことにママさんは避妊具を俺たちに寄こしてきた。
おいおい……俺高校二年生なんだけど、こんなものを
間近で見るのは初めてだぞ。

ミウが猛烈に恥ずかしそうな顔をしている。
焼きリンゴみたいに真っ赤じゃねえか。
実の母に見られたんだから、気持ちは分かるけどな。

つーか、ババ…じゃなくてママさんはいつ帰って来たんだ?

「今朝の会議は中止になったのよ。無断欠席した党員が
 いたので、あとで粛清することで全会一致したわ。
 これから秘密警察が家宅捜査をするそうよ」

無断欠席……? 党員? 共産党員ってことか?

「もしかしたら脱走してるかもしれないから、
 街中で見かけたりしたらすぐ通報してちょうだいね」

そもそも街中に行く機会がねえよ。
ミウがこのマンションから
出してくれないだろ。脱走とかを警戒してさ。

「分かったよ。これから太盛君とお出かけしてもいい?」

「かまわないわよ。遠出するのかしら?
 今日は午前中から雨が降るそうだから傘を持ちなさい」

「その辺をぶらぶらするだけだよ」

「そう。でも傘は持ちなさいね?」

なんでそんなに傘にこだわるんだ?
あとでミウに聞いたら、最近のロンドンの若者は
傘を持つのが時代遅れだとして、雨の中濡れて歩くのが
流行しているらしい。バカじゃねえの。

「ママに見られたの、恥ずかしかったね?」

エレベーターの中でもこいつは手をつないでくる。
決して俺を放そうとしないのは、親愛の情ではなく、
俺の脱走を防止するのが一番の目的だろう。

エレベーターが一階を指し、扉が開く。
いたいた。エントランスの片隅には例の檻。
ここの先に入り口(玄関)があるので
嫌でも通らないといけないのだ。

「お兄ちゃん。太盛さんがいるよ」
「ほんとだ。生きてたのか」

妹さんが俺を指さしてくる。
兄貴は奇跡でも見るような感じで驚いてやがる。
なるほど。俺が電気ショックの拷問のあと、
さらにひどい仕打ちを受けて死んだと思ってたのか。

俺だってびっくりだよ。
命があるだけでもマシだと思うべきなんだな。

それにしてもあの妹、すげー可愛らしい。
ゆったりした顔で、輪郭が柔らかくて
唇がぷっくりしていて、愛嬌がある。
ああいう顔も好みかも。

「さっきから誰を見てるの?」

やばい。ミウの声に怒気がこもっている。

「顔の綺麗な女は全員死ねばいいんだよ。
 自分でも嫉妬深いのは分かってるんだけどさ、
 性格は簡単には治せないじゃない」

ミウは自分が不細工だから、美人な女が許せないらしい。
前も同じやり取りをしたな。

ナツキ会長だっておまえのこと好きだったんだろうが。
会長も女子からは評判の美少年だぞ。
名誉なことじゃねえか。

マリエもエリカもお前の美しさは認めていたぞ。
俺からすれば全員タイプの違う美人なんけどな。
俺が言葉を慎重に選びながら、そのことを伝えると。

「私が本当に綺麗だったら、
 太盛君が他の女に目移りしないはずだよ」

うん。なんていうか、どう返せばいいんだ?
俺が浮気性なのも理由のひとつかもしれないが、
そんなこと言ったらガチで殺される。

「私は斎藤マリエの美しさが羨ましかった。
 太盛君と並んで歩く姿がお似合いなんだもの。
 恋人のようでもあり、兄妹のようにも見えた。
 見方をさらに変えると、親子?」

親子だと? ちょっと無理があるぞ。
俺とマリエは一学年違うだけだ。

「私がずっと前に言ったこと、覚えてる?
 太盛君に娘がいたとしたら、あんな感じの
 可愛い顔した女の子なんだよ。
 太盛君にそっくりで、可愛い子」

記憶をたどると。6月か7月の蒸し暑い時期だったか。
俺の家に遊びに来た時にミウがそんなことを言っていたかな?
あの時のミウは変だった。
初対面のはずの後藤さんを知っていた。

「あなたはユーリを捨ててでも、マリンを選ぶんだよ」

ユーリ? 聞いたことのない女性の名前だ。
ミウの知り合いだろうか。だが既視感がある。

それとマリンは誰を指している?
俺は自分でも理由が分からないが、無意識で
マリエのことをマリンと呼んだことがある。

「妻よりも愛人よりも、最後は娘を選ぶ。
 それがあなたの本音なんだよ」

ミウは真顔で俺を見つめている。
この顔のミウは嘘をつかない。
それは経験で分かっている。

この不思議な感覚の正体は、いったいなんだ?
既視感なのか?

この高野ミウという女は何者なんだ?
俺の知らない何を知っているんだ?

こいつの話し方は、まるでこことは違う
『別の世界』が存在することを示唆しているかのようだ。

「目を合わせたらだめだ。目を合わせたら殺される」

檻の中では、本村家の人たちがおびえている。
兄と妹はよほど仲が良いのか寄り添いあっている。
あの兄妹、なんかおかしいぞ。
普通あの年齢だと仲悪くならないか?

気のせいかもしれないが、近親相関の匂いがするぞ。
檻に収容されたショックで
気が狂ったのだとしたら、まだ分かるが。

ミウは檻に近づいていった。すると本村ファミリーは、
ミウと反対側のスペースに移動し、可能な限り距離を取った。
といっても、檻の中なので動ける範囲が限られているが。

ミウが兄妹に問いかけた。

「君たちは休みの日にお出かけするんでしょ?
 例えばどういう所に行くことが多いの?」

妹は震え、兄も同様だが、なんとか声を絞り出す。

「と、とと、東京に行くことが多いです。
 俺たちは元埼玉県民だったので大宮に行くことも
 ありました。町中でショッピングとかご飯食べたりとか」

「へー。楽しそうだね? ご両親から聞いてるけど、
 毎週日曜は妹さんとお出かけしてたんでしょ?」

「部活とかがなければ、そうですね」

「2人とも、仲良しさんだね?」

「よ、良く言われますよ。あはは」

「ケイスケ君はミホちゃんと付き合ってるんでしょ?」

「は……」

誰だって固まるよな。血のつながった兄妹なんだろう?
顔が似てるし、まさか義理ってわけじゃないだろう。
三歳差らしいが、この年齢の兄妹が付き合っているとしたら
異常だよ。すぐ隣にご両親がいるのにこの質問はえぐい。

「付き合ってるんでしょ?」

念を押すキチガイ。
力でYESと言わせたいだけだろうが。

「お、俺たちは兄妹ですが」

「うん。それは分かるんだけどさ。現に寝る時に
 妹さんに腕枕してあげたり、食べた後に口についた
 汚れを妹さんがふいてあげたりとかさ、もうカップルだよね?」

「収容される前からこんな感じですので、
 別に違和感はないです。他の兄妹と
 同じことをしていると自分では思っています」

「他の兄妹は違うよ。思春期ど真ん中の年齢で
 イチャイチャするわけないでしょ。
 それよりケイスケ君は認めないつもりなのかな。
 私は二人が付き合ってると思うんだけど?」

語尾にとげがある。ミウは絶対に自分の主張を
押し通そうとしている。『事実』に仕立て上げようとしている。

ケイスケ君は俺を見て震えていた。
昨夜の電気拷問を思い出したのだろう。

「俺はミホと付き合っています。俺たちは恋人同士です」

「そうそう。初めからそう言えばよかったんだよ?」

ミウが満足そうに微笑み、
ミホさんに檻から出るように命じた。

彼女は訳が分からず、また極度の緊張と不安から
全身が震えている。

「さっきね」

気を付けの姿勢のミホに対し、
横に立ったミウが、彼女の耳へささやいた。

「私の太盛君があなたのこと興味深そうに見ていたの」

「え」

「あなたのこと、太盛君が見てたんだよ。
 つきさっきのことだよ?」

「うぐっ……」

ミウは両手で彼女の首を絞めていた。
俺にはどのくらい力を込めているのか分からない。
そっと? それとも殺すほど力を込めて?

やはり殺すつもりはなかったか。
すぐに首絞めを解放すると、ミホさんが軽くせき込んだ。

「ミホちゃん、綺麗だよね。 高校生になったら
 今以上に美人になるんだろうね。うらやましいな」

「ミウさんって……お綺麗じゃないですか。
 私よりもずっと美人だし綺麗ですよ」

「は?」

ミウの声に怒りが宿る。

「何それ? お世辞言ってるつもりなの?」

「そ、そんなつもりはありません!!」

「あなたが綺麗だから、太盛君はあなたのことを見てたんだよ。
 この事実をどう思うの? 私の彼氏があなたのことを
 じろじろ見てたらおかしいじゃない。そう思うよね?」

ミホさんは答えようがないので黙るしかなかった。
ミウは尋問するのが好きなんだな。
暴力だけでなく、言葉でも相手を追い詰める。

「ミホちゃんを拷問してもいい?」

「うぅ……それはいやです……」

ミホさんは足に力が入らなくなってしまい、
床にぺたんと座りこんだ。

「私は二度とミウ様の彼氏様を見ないと誓います」

「誓ってくれてもさ。私の彼氏があなたのことを
 見ちゃったらだめじゃない」

じゃあ、どうすればいいんだ?

「太盛君。ちょっとこの子を拷問してくれる?」

コンビニに買い物にでも行ってほしい、
みたいな軽いノリだ
俺はビニール傘を手渡された。
まさにコンビニで売ってそうな安い傘だ。

これでミホを殴れと言う。

「太盛君が自分で痛めつければ、
 この子への興味は失われるでしょ?」

檻の中で兄貴が発狂している。
ミホをやるなら俺をやれと繰り返し叫んでいる。

気持ちは分かる。
だが、問題はそこじゃねえ。
俺の良心だ。無抵抗な女子中学生を俺が殴るだと?
当たり前だが、俺はミホさんに何の恨みもない。
(昨日は警棒で殴られたがな)

むしろ同じ檻に収容された経験から、被害者同士だ。
それに家族の方々も、これから行われる野蛮な行為を
見ることになるんだぞ。

「早くして」

ミウヲ怒らせタら、マた電気イス。
そう思った俺から情け容赦の考えは消えた。

「許せよ!!」 「ああっ!!」

できるだけ傷が残らないように、
見た目だけは大振りで、実際に力は込めないで殴った。
縦に。斜めに。真横から、時に突いて。
ビニール傘が猛威を振るう。

ミホさんはダンゴムシのように丸まってしまう。
マサヤもこんなポーズしてたのを思い出した。
今は全然笑える状態じゃないが。

檻の中でケイスケ君が発狂している。
俺だって好きでこんなことしてるわけじゃねえ。
君もめったなことを口にするとミウに殺されるぞ。

「それ以上妹に手を出してみろ!!
 絶対にお前を殺してやるぞ!!」

いいから黙ってろ。

「いたっ……いたいっ……もう許してください」

ミホさんは頭を抱えて、顔だけは殴られないように
気を付けていた。俺だって顔は狙わないよ。
首から下しか殴ってない。

「手加減したでしょ? そんなんじゃ全然だめだよ」

ミウがそう言って、俺から傘を取り上げた。

ミウは風を切るほどの音を立て、ミホの頭へ振り下ろした。

「ぎゃあああ」

必死で頭部を守るミホの手へヒットする。
指が折れるんじゃないか? 傘がきしむほどの
力で何度も振り降ろしている。

よほどミホの顔が気に入らないのか。
顔をつぶすのが狙いのように、傘を繰り返し振り下ろす。
単調な攻撃だが、ミウの形相の恐ろしさに俺たちは恐怖した。

兄貴でさえ、文句を挟めない。

その攻撃は傘の骨組みが折れるまで続けられた。
ガードしたミホの腕から血が流れている。

「うわあああっ」

ミホは髪をむしるようにつかまれた。
痛いだろうなあれ。女子のいじめでも、
ああいうの実際にあるんだろうな。

「今後。二度と私の彼氏を誘惑しないと誓えるかな?」

「誓いますぅ!! 誓いますから許してください!!
 髪の毛が抜けちゃうよぉおぉぉ!!」

「ならもっと誓いなさい」

「私は誓います!! 二度と太盛様を誘惑しないと!!」

「あなたは魔女だよね。魔女は拷問されて当たり前。
 自分を魔女だと認めますか?」

「その通りです!! 私は魔女です!!」

裁判官と被告人のようなやり取りを繰り返し、
ようやくミホさんは解放された。全身を痛めつけられ、
髪の毛はボサボサ。顔は泣きはらして、色々とひどい。
ぼろ雑巾のようになってしまった。

ミホさんは再び檻の中に放り込まれ、鍵がかけられた。
この鍵は本来なら管理人の所有だが、
高野家にも特別に使用が許可されているらしい。

「そろそろ出かけようか? 傘は一つあれば十分だよね?」

ミウは俺の手を取り、エントランスを後にした。

マリン 能面の男と会う 

~ミウ~

真冬の雲が一面を覆っていて、憂鬱な気分にさせる。
ピンと張った空気が肌を突き刺すよう。

ボリシェビキの雰囲気に冬はぴったりだと思うんだ。
なんといってもソ連は極寒の国だから。私たちは
冬場はたまに雪が降る程度。あちらの国の人から
したら「秋」の気温だろうけど。

余談だけど、フィンランド人なら東京の冬は
半袖Tシャツ一枚で外出できるそうだよ。

街中は車の通りが激しく活気がある。
クリスマスは終わったから、次は年末気分。
そして正月の三が日だね。

日本の資本主義は馬鹿みたい。
クリスマスとかバレンタインとか。
イベントにはイデオロギー的要素が欠落し
商業(利潤)のために盛り上げているだけで中身がない。

この国の全ての産業は利潤目的。
誰も人の幸せなど祈ってない。全てはお金だよ。
公職についてる人はそうじゃないかもしれないけど。

日本人にとって人よりお金に価値があるんだ。
お金のためなら、人は平気で賃金奴隷になる。
企業は人を賃金奴隷にしてしまう。
奴隷であることをおかしいと思わない。

「少し降ってきたな」

太盛君が傘を広げ、私の肩を抱き寄せる。
分かってるじゃない太盛君。そうやって
さりげなく男らしいことをしてくれると
ポイント高いよ。

私達はバス停まで歩いた。
バス停には雨除けの屋根があるから、
ここまでくれば安心。太盛君は傘を丁寧に閉じた。
そして私の手を握るのを忘れない。

そうそう。そういう動作を私は求めていたんだよ。
教の太盛君はよく分かってるじゃない。

バスに乗り込むと、座席の半分が乗客で埋まった。
時間は朝の9時半。この時間ならピークは過ぎてるか。

「今日はどこまで行くんだ?」

私は「病院」と即答した。

太盛君は明らかに怪訝(けげん)な顔をした。
分かるよ。病院は今の私たちには無縁の場所だものね。

夏のことを思い出すよね。私と太盛が夫婦みたいに
毎日マリエのお見舞いに行った。
気が付いたらお見舞いしながらデートしてる感じになっていた。
看護師さんたちから、お似合いのカップルだって
噂になっていたみたいね。

「校長先生のお見舞いに行こうと思ってるの」

「なんで校長が病院に?」

「私が粛清(おしおき)したから」

唖然とする彼をよそに、私は窓の外の景色を見た。
雨脚が強まり、雨がガラス窓をやかましく叩く。

雨が強いってレベルを超えてるよね? これって嵐?
小さな子供連れの母子がいた。
カッパ姿の子供が、風でなびくフードを頑張って押さえ、
はしゃいでいた。母親は傘の根元が折れてしまい、慌てている。
子供は無邪気だなぁ。ママによると私も10年くらい前は
活発的な女の子だったらしいけど。

私はバッグの中にいれたポッキーを取り出した。
私は普段から頭を使って生きているから、
常に糖分が欲しくなる。

ダイエット? そんなの知らない。
頭脳労働をすれば太ることはないとナツキ君が
言っていた。最近少しお肉がついてきたけど、
体型よりもマリエみたいな綺麗な顔が欲しい。

ママは若いころから美人だって言われてたのに、
なんで娘の私はブサイクなんだろう。

「太盛君も食べる?」「おう。悪いな」

極細タイプのチョコポッキーだよ。
太盛君がビクビクしながら食べている。
私が怖いのかな。それとも
毒入りじゃないと説明したほうが良いのかな?

「理由を聞かないの?」

「なにの?」

「私が校長を粛清した理由だよ」

「聞いたらミウが怒ると思ったんだ」

「うふふ。そんなことで怒るわけないでしょ?
 校長を粛清したのは名誉ある使命だったの。
 むしろ誇りに思ってるんけどな。うふふふふ」

「あ……あははっ。そう、だったのか……」

「うん」

「じゃあ聞くけど、なんで粛清したんだ?」

「今年の夏休み明けだったかな。あのハゲは私が
 収容所行きになった太盛君を救うために直談判したのに
 鼻で笑ったの。だからその報いを受けてもらった」

金属バッドを顔面にフルスイング。前歯を全部へし折るまで。
拷問の説明を聞いた太盛君の顔がみるみる青ざめていく。

そんなに怖がらなくていいでしょ?
地下での拷問に比べたら遊びみたいなものなのに。
太盛君はまだ拷問慣れしてない証拠だね。

今後はもっと拷問の経験を増やして、
立派なボリシェビキになってもらうよ?
だって共産主義は、反対主義者の摘発、逮捕、拷問、粛清が基本。
そうしないと国家が存続できないんだから。

私たちの未来は国民の粛清にかかっているんだよ
一番の敵は国民。外部よりも中。共産主義の常識だよ。
それは喉が渇いたら水を飲むのと同じこと。

病院前のバス停で下車した。

さーて。ここに来るのは夏以来だ。

当たり前だけど、今私達は真冬の格好をしている。
太盛君の着ているコートなど冬物の服は、
全部彼の自宅から郵送してもらった。
下着などを含む衣類を全部ね。

だって名目上は『美術部の冬季合宿』なんだから。
世間的に彼は合宿所にいることになっている。
え? 文化部なのに合宿は珍しい?

ボリシェビキはそういう
『細かいこと』は問題にしません。

雨は今も降り続いている。
強風のため横殴りだよ。
傘が折れそうなので根本付近を持って工夫する。

それでも足元が濡れちゃうのは我慢するしかないね。
私の履いているブーツ、八万円もしたんだけどな。

せっかく未来の旦那様と一緒なのに、
まるで天が私の来訪を拒絶してるみたい。

「失礼ですが、面会カードはお持ちですか?」

「私は○○学園の生徒会・副会長です」

「同士・高野でございますか。ごゆっくりどうぞ」

受付でのやり取りはお決まりだよね。
学園の生徒会の幹部は特別扱い。
面会時間じゃなくても全ての患者に会うことができるよ。

この市で発生した共産主義革命は、私たちの学園から
始まったもの。私やナツキ君は学園の中枢の人間だから、
市の公共施設の90%は顔パスで利用できるよ。

校長の病室は二階の大部屋か。
金はあるはずなのに、どうして大部屋にしたのかな?

私は健康に気を使って階段で登ることにした。
太盛君も文句を言わずに続く。

階段でも、受付でも、廊下の曲がり角でも、軍服を
来た警備の人がいる。背が高いのがロシア系。
少し背が低いのが中国系。もっと低いのはモンゴルか日本系。

私たちは顔の形や肌の色が違っても『ソ連人』だよ。
この栃木県の小さな市は、
全世界から共産主義者が集まってくる。
新ソビエトを日本全国へ波及させるための同士たち。

「なあミウ。院内でも逮捕や粛清はするのか?」

「もちろんだよ。医者など病院関係者の3割はすでに
 逮捕しておいたよ。そのせいで医師・看護師不足が加速して
 廃院寸前にまでなった。今では看護助手を中心に
 外人を多く雇っているよ」

二階の廊下でロ系の看護師にすれ違ったので、
ロシア語で挨拶した。背が高くてウエストが細い……。
私はあんなに足が長くないから憧れる。

「飯塚昭」
「小池聡」
「林愛芯」
「校長」

あったあった。通路側の壁に入居者の名前一覧がある。
面白いことに校長名義で入院してるんですけど。
この人ってまさか本名が「校長」なの!?

私は大部屋の扉に手を伸ばす。

「き、君は!!」 

「ごきげんはいかが? 校長」

「なっ、なぜこの病室に!?
 なんあななななっ、何をしに来たんだね!! 
 私にとどめを刺しに来たのか?」

校長閣下の取り乱し方は尋常ではありません。
ぶちぶちと、腕についた点滴の管を自ら外します。
その反動で、ガシャンと大きな音を立てる。
頂点の点滴袋へとつながったキャスターを床に落としたのです。

「助けてくれええええええええ!!」

太った猫のように背中を丸めて廊下へ飛び出す。
お魚くわえた、どら猫♪
は何を思ったのか、ナースステーションに駆け込みました。

机でカルテを整理していた看護師さん。
棚の薬を手に取り、
患者の名前と薬の種類を確認していた看護師さん。
仕事を邪魔された二人が
大変に不快そうな顔で校長を迎えました。

「なんですか?」

「なんですかじゃないよ!! 大問題だよ、きみぃ!! 
 あの女が私にとどめを刺しに来たんだぞ!!」

「院内で騒がないでくださる?
 寝ている人もいますので」

「そんなこと言ってる場合じゃないんだよ!!
 早く警備の兵に頼んで私を護衛してくれたまえ!!」

「はいはい。今状況を確認しますから」

私は現場に追いつき、自ら看護師さんに事情を説明しました。
自分の学校での身分と、善意からお見舞いに来た旨。
ほら。私の手元に果物(皮が黒ずんだバナナ)があるでしょ?

「なるほど。事情は分かりました。お忙しい中、
 お見舞いに来られたことを感謝いたします。
 同士・高野」

敬礼された。私と太盛君は、校長の両脇を押さえながら、
大部屋に連れ戻した。囚われた宇宙人がまさにこれ。
ちょっと古い例えかもしれないけどね。

校長は離せとかほざいて暴れている。
騒いだら拷問すると耳元で伝えたら良い子になったよ。

「先ほどは見苦しい姿をお見せしてしまった。
 私は一切抵抗しません。
 ですから、どうか許していただきたい」

なんと頭を下げて来た。ベッドの上で土下座しちゃったよ。
今まで何人の人が私に土下座をしたことか。
こういうの、最高の愉悦だけど、
でも太盛君にされた時は心が痛んだな。

「私は校長先生に暴力を振るうために
 来たわけじゃないですよ」

笑顔で言うが、校長の顔は恐怖のため硬い。

すっかり病人服が似合ってるよ。

足の怪我は治っているけど、顔面には包帯が巻かれている。
鼻の骨が折れたのかな? ギブスみたいなのを付けているね。
折れた歯は入れ治したみたいで綺麗になってる。

「報告させてください」

「報告?」

「私の隣にいる人が堀太盛君です。
 私の彼氏です。今では収容所から解放されて、
 私の副官にまで昇格しました」

一体何の話をしてるのかと、校長が唖然としている。

「先生は、彼の顔を見るのは初めてですか?
 彼のことをもちろん知っていましたよね?」

「え……? あ、ああ。そうか。堀太盛君か。
 もちろん知っていたよ」

どう見ても太盛君のことを知らない人の反応だ。
太盛君の処分(収容所行き)を放置したくせに。
私のお願いを聞いてくれなかったくせに。

「本当に彼の顔を知ってました?」

「もちろんだよ!! うんうん。
 堀太盛君は有名人だからね!!」

「彼の所属している部活は?」

「は……」

「もう一度同じ質問をしましょうか?」

「……吹奏楽部だろう!!
 橘エリカ君と同じ部活だったはずだ!!」

「違います」

校長は頭が真っ白になったみたい。
アホなクイズに答えられず、アホ面。

確かにエリカといつも一緒だったから
彼が吹奏楽部だと連想するのは自然だけどね。

「ボリシェビキは嘘つきには容赦しません。
 校長先生は中央委員会の長でしたから、
 今さら説明しなくても、よくご存知ですよね?」

「待ちまたえ!! 一度噛み砕いて冷静になりたまえ!!
 ここは院内なんだよ!? しかも大部屋で
 他の患者もいるんだ。ここで手荒な真似をしたら
 みんなに迷惑がかかるんじゃないかね!?」

「みんな?」

私が部屋を見渡すと、定員の8人はほとんど
いなくなっていた。動けないほど重症な人は
覗いて、車いすなどに乗って廊下へ出て行ってみたい。

みんな空気を読んでくれて助かるよ。

「おいハゲ。騒がないようさっき
 ナースさんに注意されたの忘れたの?」

「ぐぬぬ……」

うふふ。悔しそうな顔してる。
でも私には絶対に逆らえないよね?

人の本性はこれだよ。怖い人には逆らえない。
地位の違い。立場の違い。暴力。これこれ。

人が一番怖がるのは『未知の恐怖』なんだよ。
これから殴られる。拷問される。かもしれない。
想像を絶する恐怖のために服従し、屈服する。

「アキラ前会長の言いなりになって、太盛君の
 解放をあなたは拒んだ。これは重罪です。
 明確な罪です。私が何を言いたいか分かりますか?」

「堀太盛君に土下座すればいいのだろう?」

「いいえ。靴の裏を舐めてくれる?」

校長の時間が止まりました。当然の反応だね。
生徒の靴の下を舐める先生なんていない。
まして彼は校長先生なんだから。

奴は屈辱に耐えきれず、顔が真っ赤になった。
震えながら私の顔を見て来た。私は無言で圧力を
加えていたら、奴がついに折れた。

「分かりました」

校長は床に座り、太盛君の靴を手に取りました。
口を開けて驚いている太盛君をよそに
舌を伸ばし、犬みたいに舐め始めました。

あはは。バカみたい。ざまーみろ。

「ほら。もう片方の靴も舐めなさい」

「ぐぬぬ」

校長の頭を足蹴にしてあげました。
校長はぶち切れ寸前で震えている。
ああ……最高の気分♪

「楽しいね? 太盛君」

「ああ。快感だ」

太盛君は全然うれしそうじゃないけど、私は楽しいよ。
大切そうに太盛君の足を手に取って、
ぺろぺろする校長先生。なんてみじめな姿。

最高すぎて、はしゃぎたくなっちゃう。
みっともないし院内だから大きな声は出さないけどね。

でも心の中では笑っておこう。
あはは。最高に面白いよ。
この快感をどう表現すればいいのかな?

「ママぁー。あれ、なにしてるのー?」

「サラちゃん、どこ行くの? こっち来なさい」

偶然廊下を歩いていた母娘。
扉が開けっぱなしだから、廊下からは丸見え。
娘の方がこちらを指さしてる。

「あのおじさん、おもしろーい」

「こらっ、他人様を指さしたら
 ダメだといつも言ってるでしょ」

幼稚園生くらいかな。
発育が遅いのか、まだまだ赤ちゃん言葉だ。
母親はきりっとした顔立ちの関東美人。
娘は目元が母親にそっくりで可愛い。

「わたしもお兄ちゃんのお靴ぺろぺろするぅー」

「なっ?」

太盛君がさすがに焦っている。
こんなシーンを見せたのは子供に悪影響だったようだね。
見せたくて見せたわけじゃないけど。

純粋無垢な子供はすぐに真似したがる。
それが例えどんな悪いことでもね。

カンボジアの同士・ポルポトが子供を中心に
共産主義兵士として洗脳したのもある意味合理的だね。

「可愛いお嬢さん。
 こういうのは君が真似したらダメなんだよ?」

「えー、なんでぇ」

太盛君は足元にしがみついたその子を、
抱っこしてあげました。
子供をあやす姿がさまになってる。

彼はまだ高校生のはずなのに、
不思議と父親の貫禄がある。
これは偶然? 違うよね。

私は別の世界での彼を知っているもの。
マリン様やカリン様たちが生まれてから、
ずっと溺愛していた彼の姿を。

妻のエリカよりも、ずっと大切だったものね。
何よりも末娘のマリンのことが!!

母親は何度も私たちに頭を下げ、去って行った。

校長へのお仕置きが済んだのでここに用はない。
私たちは手を繋ぎながら院内を歩き、外へ出た。
バス停で次のバスを待ちながら、私はこう言った。

「太盛君はロリコンだよね?」

「へ……?」

唐突な質問に彼が戸惑っているのが面白い。

「小さな女の子をあやしている時、
 顔がニヤニヤしてたよ?」

あはは。太盛君が青ざめている。図星だね?

前の世界でマリンを溺愛しすぎて恋人扱いしてたもんね。
奥さん時代のエリカもそのことでブチよく切れていた。

普通に考えれば旦那のロリコンが分かった時点で離婚確定だよね?
家庭ごとに経済的な事情とかはあるだろうけど、
そんな旦那と婚姻関係を続けるのは精神的に無理でしょ。

「俺はどちらかと言うと子供好きなんだよ。
 子供からもよく好かれる」

3秒で反論したくなるけど、
困ったことに一理あるんだよ。

彼の娘3人もパパっ子だった。
一番ひどいのがマリン。
こいつのファザコンは病的だった。

愛人と逃亡した父を追って単身で蒙古まで行くなんて
信じられない。そして最低の結末を迎えたわけだけど、
この世界では高校生として生まれ変わっている。

今は私の一番の敵。

「太盛君のロリコンを治さないといけないね。
 できれば冬休み期間中に」

「俺はロリコンじゃない……!!」

「は?」

「う……」

「どうしたら治るんだろうね?」

「そんなこと俺に聞かれても困るよ。
 逆に聞くけど、なんで俺がロリコンだと思うんだ?」

「君に信じてって方が無理だろうけど、
 君は別の世界でマリンって娘がいて、マリンのことを
 溺愛してたんだよ。妻のことなんて放置するくらいに」

重く、長い沈黙が訪れました。

太盛君は、今度は私を侮蔑するわけじゃなくて、
純粋に真実を知りたいって感じの顔をしました。

「正直に言うよ。俺はオカルトを信じるタイプだ。
 なにより学校や市で共産主義革命が起きていることが
 ある意味オカルトだと思う」

バス停ではわずかな乗客が乗り降りしている。
運転手が、真剣に話し合っている私たちを凝視する。
私たちに乗る意思がないことを悟ると、
排気ガスを吐きながら発進していく。

エンジンの音が遠ざかっていき、町の雑踏へと消えていった。
雨は止んでいるけど、一面に覆われた雲が太陽を隠している。

病院前の横断歩道を、杖を突いたおばあさんが歩く。
押しボタン信号が軽快な音楽を鳴らしている。
私は理由もなしに、そのおばあさんを目で追っていた。

太盛君は私の肩に自分の両手を置き、正面から見据えた。
彼のこんなに真剣な顔、初めて見た。少し怖い。

「君は予知能力があるか、もしくは異世界の記憶とかを
 持っているな? 根拠はある。まず、うちの後藤さんを
 知っている。それに料理の味まで知っているなんて普通じゃない。
 虚偽の発言と仮定してもまずありえないし、言う理由がない」

「うん」

「俺に将来娘ができたらって話をしたな。いかにも仮定のように
 話しているが、内容があまりにも具体的すぎる。娘が3人? 
 かわいがっていた娘の名前がマリンだと? ああ、俺もその名前は
 聞き覚えがある。いや、たぶんそうだとしか言えないんだが。
 俺も無意識でマリエのことをマリンと呼んだことがある」

「ええ。それは当然のことだと思います。
 なぜなら、あの子はマリンお嬢様の生まれ変わりなのですから」

もしかしたら、私の昔の口調に思うところがあったのかもしれない。
私の肩をつかむ彼の手に力がこもっている。
そして瞳には驚きと同時に恐れの感情も交じっている。

「頼む。君が知っている限りのことを教えてくれ。
 たとえどんな内容でも俺は絶対にバカにしないと誓うからさ」

私たちは、いったんバス停のベンチに座ることにした。
けれど横殴りの雨のせいで、びしょ濡れ。
仕方ないのでベンチわきで立ち話を続けた。
ここなら急に振り出しても屋根があるから平気。

私は先生が生徒に諭すような口調で真実を教えてあげた。

「モンゴル? エリカの束縛? ミウが堀家の使用人?」

太盛君は衝撃の事実に仰天しています。
まさか自分が未来にエリカと結婚するなんて
びっくりだよね。それに愛人までいたなんて。

「なるほど。合点がいったぞ。君が記憶喪失の時、
 俺の名前に様をつけた。エリカには奥様って言ったな。
 そう考えると納得がいくぞ。家までの帰り道が
 分からなかったのも、そういう理由か!!」

ついでにエミさんが私の話を信じてくれたことも説明した。

「エミまで信じてくれたなら、まず間違いないな」

エミさんが聡明なのは認めるけど、
元彼女だからって特別扱いなのは少しムカつく。

「能面の男の話も俺は信じるよ。
 エミが、背後霊が見えるって言ってるならガチだな」

「私が太盛君のために必死で
 頑張ってる理由が分かった?」

「ああ。君のこと全然分かってなかったんだな俺。
 ミウを見る目が確実に変わったよ。
 あとエリカとは距離を取らないといけないな。
 北朝鮮の収容所に行く未来なんて冗談じゃない」

よしよし。太盛君がさらに良い子になってくれたみたい。
拷問までしちゃったから、私に対する恨みは
永遠に消えないんだろうけど、今後の浮気防止にはなったと思う。

少なくとも恋敵のエリカをつぶせれば、それで満足。
あとは……マリエか。

「おっ。また降って来たぞ。今日は安定しない天気だな」

肌寒いためか、太盛君が私の肩を抱き寄せてくれた。
今回の動作は自然だった。うれしかった。
本当はいつだって彼にこうしてほしかった。

私が彼の肩に頭をのせて、まったりとしていた。
互い無言になってしまう。時刻表には次のバスは
23分も先と書いてある。

彼とくっついっていると暖かいけど、私はのどが弱いので
風邪ひかないか心配になってきた。マフラーをきつめに巻き直す。

目に見える範囲に水たまりがいくつかある。
降り落ちる雨が音を奏でる。自然の音は、人間の鳴らす楽器とは
違った意味で癒しの効果があるらしい。

雨を吸った地面からマイナスイオンが発するので、
雨天に散歩をすると気分転換になるらしい。

「足元にお気をつけて」

「ご丁寧にどうも」

「いえいえ。これも仕事ですので」

うっすらと、視界の先に移る人影が、
だんだんと大きくなってきたのは分かっていた。

横断歩道の先からこちらへ歩いてくる人影だ。
私は太盛君と一緒に、何気なくその人影を見ていた。
やがて人の正体が明らかになる。

うそ……。私はまたあの人に会えたの?

「ミウ様が高校生として学生生活を送っていることを
 ご党首様が知ったら、さぞお喜びになるでしょうな」

その能面は一生忘れられない。
すらっとして背が高くて、すきのない歩き方。

「もっともずいぶんと偏った思想を持った
 組織に身を置いているようですが」

歩く、じゃなくて滑る、と言ったほうが適切だと思う。
彼は気が付いたら私たちの前に立っていた。

「ご挨拶が遅れましたが、ミウ様は私のことを
 覚えてらっしゃると思います」

「忘れるわけないでしょ。
 あなたと会ったのは半年前だよ」

「それは良かった」

その人は、口元に手を当て笑いをこらえた。
少し女性的で品のある動作。
声優のように高くてよく通る声だ。

「では」

彼は自分の隣にいる人物の方へ、
ひっくり返した手のひらを向ける。

「こちらの方のことも、もちろんご存知ですね?」

「ええ」

そこにはマリン様がいた。
私は元使用人。主人の名前を忘れるわけがない。

「あれ? 似てるけど……違うよな。でも、あれ?
 顔つきとか髪の色とか……どうなってるんだ?」

太盛君はたぶんマリエと勘違いしているんだろうけど、
そこにいるのは、間違いなく堀マリン様だ。
あなたがエリカとの間に作った大切な娘。

「お父様。お若いのね」

その子が口を開いた。ああ……そうだよ。
この声。マリエより幼いけど声にすごみがある。
私はずっとマリン様が苦手だった。
年は9歳だったよね。

「君がマリンなのか……?
 マリン? 俺の……未来の娘……」

「はい」

太盛君は幽霊でも見るような感じで驚いている。
驚きたいのは私も同じだよ。

「お父様は、何も覚えてらっしゃらないのね?」

「え? 何の話をして…」

「いいわ。お父様が知らないのは当然のことだもの。
 そんなことよりも、まずはミウのことね。
 ミウ。今から私の質問に答えなさい」

「は、はい」

私は背筋を伸ばしてマリン様の方を向いた。
うそでしょ? 体が勝手に反応するなんて。

「おまえは太盛お父様を電気イスに座らせた。
 とんでもない悪事よ。許されないことだわ。
 どれだけ悔やんだとしても悔やみきれない。
 一生消えないほどの罪を犯したのよ」

マリン様の言葉は、私の胸に突き刺さるかのようだった。

「あなたはお父様にふさわしくない。
 今すぐお父様のそばから離れなさい」

言い切る語尾が強い。
奥様と同じで有無を言わさぬ迫力がある。

だから私はマリン様が苦手なの。
エリカ様にそっくりなところが。

「待ってください。
 ふさわしくないかを決めるのは太盛さまではないですか。
 太盛様も私と一緒にいたいと言っているのですよ」

「それは」

マリン様が私の前まで接近し、顔を見上げながら続けた。

「おまえが無理やり言わせたのでしょう?」

私は、生徒会の副会長の地位にまで上り詰めた。
数えきれないほどの生徒を粛正した。
なのにマリン様を本能から恐れている。

「高野ミウ。おまえの役割はもう終わった。
 そこの彼もお前に失望したと言っているわ」

能面の男がうなづいて言葉を続ける。

「ミウはご党首様から運命を託された身である。
 君にあの鏡を渡したのは私の独断だったが、
 ここまでひどい結果になると予想できなかった」

「端的に言おう。ミウがこの世界に来たのは
 誤りだった。そこで時間の流れをもう一度戻そうじゃないか。
 最初からやり直すのだよ。それは可能だ。君が望むならね」

さっきから一方的すぎない?
何を納得させようとしているの?

私は確かに異世界へワープしたけど、
リセットすることも可能ってことなの?
そんな簡単なこと?
テレビゲームと同じことなの?

「待って。ちょっと待ってよ。一方的にしゃべるのやめてよ。
 悪徳保険業者じゃないんだから、こっちからも
 質問させて。そうしないとフェアじゃないでしょ?」

「ふむ。ではどうぞ」

私は頭をフル回転させながら質問事項を考えた。

「どうしてあなた達が今のタイミングで現れたの?
 やり直しを迫るなら、もっと早く来れなかったの?」

「条件がありまして、太盛おぼっちゃまが
 別世界のことを認識する必要がありました」

「私が彼に詳しく話をしたのは確かに今日……。
 ごめんね。私は疑い深いの。
 今はあなたの説明だって簡単には信用しないから」

「ええ。信じるかどうかは個人の自由だから構いません」

「私にこの世界を捨てろと言うのね。
 それがマリン様とあなたの望みなのね?」

「ご理解が早いですな。そういうことです。
 どうもこの世界は共産主義が蔓延し、
 神の力が否定されている。誤った世界です」

「何がおかしいの? 共産主義を否定するのは勝手だけど、
 それって逆説的に資本主義が正しいと主張してない?
 共産主義は理性と科学によって地球人類の
 文明を発達させる素晴らしい思想だよ」

「政治や経済の次元の話ではないんだ。
 ボリシェビキは神の力を否定するようだね?」

「当たり前でしょ。非科学的よ」

「人は古来より神と共に生きてきた。
 神の否定は人類の否定と同義なのだ」

「ボリシェビズムより神様の方が人類のことを大切に
 思っているなら、どうして今日まで人類は資本家の奴隷に
 なり続けているのよ。神は空想。共産主義は現実!!
 神様の方が共産主義よりすごいんだって証明でもしてみなさいよ!!」

「なら逆に問わせてもらう。すでに神の奇跡はここにある。
 私とマリン様がここにいることを、
 君はどう解釈し、私に説明する?」

こいつの顔を見てるうちに思い出した……。
私は神の鏡の力を借りてこの世界へ……。

まず私自身がこの世界にワープしている。
マリン様と能面の男もここに来ている。

なによりおかしいのが『マリエ』がこの世界にいるのに、
『マリン様』が来ていることだ。
同一世界に同一人物が存在している?

「少し訂正が必要ですな」

なに?

「斎藤マリエと言う人物。すでにこの世におりません」

携帯を確認するように言われた。
連絡先から斎藤マリエの文字は消えている。

私は囚人を管理する側として、太盛君は友達として
あの女の名前を登録していたはずなのに。
私たちの携帯からすっかり消えている。

まるで、初めからそんな生徒はいなかったかのように。

「ここにはマリンお嬢様がいらっしゃいますから、
 この世界には必要ないと判断させていただきました」

彼の言葉に寒気さえ感じた。
この人、なんだか別人になったみたい。
前会ったときは、不気味な印象もあったけど、
紳士で思いやりのある人だと思っていた。

この人が言うことは真実だと思う。
本当に斉藤マリエは消されてしまったんだ。

私はうれしいけど、太盛君はショックで言葉を失っている。
すぐに怒りがこみ上げて来たのか、能面につかみかかった。

「マリーがこの世にいないって本当か? 
 おい、おまえ。適当なこと言ってると本気で怒るぞ!!」

能面は抵抗せず、ただ太盛君の文句を聞いている。
聞いているというより、受け流している。

「お父様。マリーは私です。マリンはマリーです」

「は……? き、君がマリーだって?
 冗談を言っているようには見えないが、
 簡単に納得できないよ」

「すぐに理解しなくていいのよ?
 ゆっくり分かってくださればいいの。
 お願いです。今はどうか怒りを鎮めてください」

太盛君に甘えるようにしがみついて、
可愛い上目遣いで訴えているマリン様。
子供っぽく愛らしい顔。表情。目つき。

その顔は、お父さんの前でしかしないよね。
私たち使用人は全員知っていることだよ。

「なぜだろう。君にそう言われると、
 怒ってることが馬鹿らしくなってしまった」

「よかった」

太盛君の手がマリンの頭を撫でていた。
次第に不思議に思ったのか、マリン様の
顔をべたべたと触り始めた。形や質感を確かめるように。

「お父様。くすぐったいですわ」

太盛君は、髪や肌の感触がマリエと全く同じことに
驚いている。あごの形や鼻の高さも同じ。声もね。

斎藤マリエは正確には消えてない。
そこにいる『堀マリン』として生まれ変わったんだよ。

太盛君は目をキラキラさせて、マリンの眼をじっと見つめていた。
まるで、幼い頃から憧れていたテレビのアイドルが
目の前にいるかのような。彼は一度だって私に
そんな目で見たことはなかった。目の前のマリンに心を
奪われてしまっている彼の様子が、痛いほど伝わってきたのだ。

~太盛~

ミウの脅え方は普通じゃなかった。

マリンを名乗る女の子は、自分が未来から来た
俺の娘だと主張している。
こんな体験が人生で二度とあるだろうか。

俺は高校生なのに小学生の女の子に一目ぼれしてしまった。
こんな感情を持つのは生まれて初めてだ。

薄い琥珀色の瞳を見ていると鼓動が高まるんだが、
反対に息が詰まり、指先が震えてしまう。
もう言葉では言い表せないほどの衝撃が、
俺の体を駆け巡っていた。

俺の娘だとしたら、たぶん母親の血を
強く引いたのか。俺はここまで美形じゃないよ。

俺とエリカの間に生まれた子……。
エリカが日本人とのハーフだから、
この子の四分の一はソ連系の血だ。

肩にかかるショートカットの髪、愛らしい瞳と
ふっくらした唇。見てるだけで癒される。
ずっとそばにいてほしいと思ってしまう。
俺にとってはな……。

ミウに対して別人のように冷たい顔をするのが気になるが。
特に口調がすごかった。偉ぶっているって次元じゃなくて、
生まれ持っての王族みたいなオーラを発していた。
ミウがおびえる姿が様になっているほどに。

俺の胸にマリンの顔を押し付けられている。
絶対に離れたくないと言わんばかりだ。
俺も嫌じゃないのでそのままにしてる。

ま、まずい。キスしたくなってしまう……。
やっぱり俺は最低のロリコンくそ野郎なのか……
せ、せめてオデコにでも。マリンの長い前髪を
かきわけて、さあキスしようかと思い、
ギリギリのところで留まる。

また豪雨に近くなる。バス停の屋根を容赦なしに雨が叩き始めた。
ふとジーショックの腕時計を見る。おかしい。
とっくにバスは来ているはずの時間だぞ。そう思っていると

バスが遠めに見えてきた。ようやく来たか。
しかしバスはこちらに興味がないかのように、
信号を右折して全く別の場所へ走り去ってしまった。
あれ? 病院行きのバスって、あのバスで間違いなかったはずだが……。

そんなことを考えていると、マリンの頭頂部から
甘い匂いがしてきて、また変な考えに支配されそうになってしまう。

刺すような視線を感じ、体が強張る。ミウだ。
拳が白くなるまで握り、瞳が闇の色に濁っていた。
絞り出すように声を出す。

「か、彼から離れてよ……」

「ん? なにかしら?」

マリンは俺の横に立ち、ミウを感情のこもらぬ表情で見つめた。
ぴんと糸を張ったように空気が張り詰めていく。

「私の彼とベタベタしないで。
 太盛君は……私の彼氏なのです」

「あらそう。まだそんな寝言を言っているのね」

「寝言ではありません!!」

この女は、キレるとすごい声量を出す。
俺だけじゃなくて能面の男までびくっとしたぞ。

「マリン様は私がこの世界でどれだけの苦難を
 乗り越えて今太盛君とこうしているのか知りませんよね?」

「そうね。知らないというより、知る必要がないわ。
 これっぽっちも興味ないもの」

「私が生徒会に入る前に、太盛君は私のことを
 何度も好きだと言ってくれました!!
 両思いだったんですよ!! 本物の彼氏彼女でした!!」

「あらそうなの。すごいわね」

マリンは腕時計を見ている。女性向けのGショックだ。
どうでもいいが、そんなに腕時計の耐久性に凝ってるのか?
あっ、俺の腕時計とかぶってたのか。今気づいたぞ。

「マリン様はとつぜんこの世界に現れて
 偉そうにふるまって、何様のつもりなんですか?
 今の太盛君は学生ですよ? もちろん独身です。
 彼がまだ誰を選ぶのか分からないじゃないですか」

「長い寝言ね。いつまで聞いていればいいのかしら」

「今の太盛君にとって、あなたはただの他人ですよ!!
 太盛君と血のつながりがないもの。なのにわざわざ
 私達の前に現れて、何をしに来たの?
 あなたがこの世界に来る必要はなかったのよ!!」

他人。それは、マリンにとって禁句だったのだろう。

「この私に対して、良くそこまで言うわね。
 ある意味あっぱれ。無謀で命知らず」

ますます感情を失った二つの瞳がミウを見つめてる。

マリンが一歩ずつミウに近づいていくと、
ミウが同じ数だけ後ずさりした。

「あ、あんたなんて怖くない。ただの生意気な小学生。
 クソガキ。重度のファザコンじゃない」

「怖くないのなら、足が震えているのはどうしてかしら?」

「それ以上近づかないで」

「先に喧嘩を売ったのは、そっちよね」

マリンがミウの足元をびしっと指した。

「そこに座りなさい」

ミウは、悔しさと恐怖の入り混じった複雑な
表情をしながら地べたに正座した。
まるっきり親に怒られる子供の図じゃないか。

雨のせいで地面はびしょ濡れ。ミウのコートとズボンが
汚れて酷いことになっている。そうまでして、
ミウが座り込む理由が俺には分からない。
どうして逆らわないんだ?

「おまえには時間をかけて説教をしないといけない。
 だけど、お父様の手前だから、今は勘弁してあげる」

マリンは能面を横目で見た。
能面はうなずくと、マリンも同じようにした。
何のアイコンタクトだ?

「お父様。こことは違う世界があるのですよ」

「えっと……」

「お父様はこの世界に永遠に住みたいと思いますか?
 この共産主義に支配された地獄で。これからも
 数えきれないほどの人が罪なき罪によって収容所に
 送られるこの世界で?」

「いきなり聞かれても、ちょっと……」

ミウが近くにいるんだ。真っ向から否定できない。
共産主義を否定すると反革命容疑がかかるんだぞ。

「ミウにおびえすぎて正常な判断力を失っているのですね。
 そんなにひどい拷問だったのね。私は彼から聞いただけだから、
 現場を見たわけではないのよ」

彼とは能面のことか。よく分からんが、俺の拷問シーンを
マリンに報告したってことか。あの外界から隔離された
マンションでの出来事を、奴はどうやって見てたんだよ?

「辛い過去を乗り切って未来へ進みましょう?
 お父様には私がいるわ。私さえいれば、お父様はもう安心よ」

「マ、マリン……」

「ミウが太盛お父様を傷つけることは今後二度とない。
 奴の支配は終わるの。そのためには、どうすればいいか分かる?
 お父様がこの世界を終わりにしたいと口にして。
 そうすれば、ガラス細工が砕け散るように世界が終わるわ」

親と子の関係が逆転しているんじゃないか。
まるっきり俺が親に諭されている子供の側なんだが。
やっぱりこの子は普通じゃない。

俺は人の気持ちに鈍感な野郎だが、
この子から堀太盛に対する深い愛を感じている。

この子は、たぶん俺がどんな過ちを犯しても否定しないのだろう。
俺がモンゴルへ逃避しても、愛人と一緒に逃げても、
最後の瞬間まで俺と一緒にいて、そして運命を共にしてくれる。

俺を地球の果てまで追いかけて愛してくれる存在。
俺を『許してくれる存在』
それは、俺が一番求めていた存在。

「その存在は、高野ミウではありません」

「俺の心の中を読んだのか?」

「いいえ。私は超能力者ではありませんわ。
 なんとなく、そう思ったのです」

お父様がそういう顔をしていたから。
冷静な口調でそう言った。

話し方に知性が宿っている。
外見以外の全てが、良い意味でも悪い意味でも異質だ。
令嬢として教育を受けたんだろうが、それとは無関係に
大人びていて、むしろ俺より大人なんじゃないのか。

「太盛君」

ミウだ。

「太盛君。聞いて」

今にも泣きだしそうな感じだ。
いつまでそこに座っているんだよ。
コンクリの上は冷えるから風邪ひくぞ。

「お願い。そいつの言うことを聞かないで。
 太盛君がこの世界を否定したら、
 全てが終わってしまう」

「お父様。ミウのざれ事に耳を貸さないで。
 こいつの正体はボリシェビズムの生んだ化物。
 人類すべてを奈落の底へ突き落とす悪魔ですよ」

「せ、太盛君……太盛君が嫌だって言うなら、
 生徒会を辞めてもいいよ? 
 普通の生徒になって学園生活を送ろうよ。
 それで卒業して一緒の大学に行こう?」

「どうせ嘘よ。また気に入らないことがあると怒りだして、
 お父様を檻に閉じ込めて拷問するのよ。
 高野ミウは、本来の世界では高校を中退して就職している。
 それが正しい世界の正しい選択肢だった」

「誓うよ。太盛君を傷つけたりしないって誓います。
 私はもう二度と太盛君が困るようなことはしません。
 私ね、太盛君の言うことなら何でも聞いてあげちゃうから」

「騙されてはいけません」

「太盛君。お願い。あのマンションなら安全だし
 邪魔は入らないよ。これからは私のこと
 好きにしていいから。私と一緒にいよう?」

「お父様。そいつは人ではありません。
 人の姿を借りた悪魔です」

何が悪魔で何が天使なのか俺には分からない。

まず、目の前で起きていることが正確に把握できてない。
俺の推測が正しければ、
ミウとマリンは未来の世界から現在へとワープして来たのか。
あっちの世界ではミウは何歳だったのか気になるところだが。

俺は口数の少ない能面の男に聞いた。

「あんたは何を望むんだ?」

「私ですか?」

能面の裏側が不敵に笑っているように見えた。

「先ほども説明させていただいたかと思いますが、
 いたってシンプル。マリン様と同じですな。
 おぼっちゃまにリセットボタンを押していただきたい。
 この世界が存在することは、ミウのためにもならない」

「俺がこの世界を終わりにしたいと言えばいいのか?
 世界よ。終われ。ほら今言ったぞ」

「心から強く念じていただきたいですね。
 目を閉じてから、強く言葉にしてください」

能面は、俺の目元に手を当てた。許可なく振れるなよ。
男の手なんて気持ち悪いだけだ。アイマスクの代わりか?

こんなことに意味があるのか知らんが、
言われた通りに強く念じてみよう。

「太盛君、だめだよおおおおおおおお!!」

「黙れ!! 黙りなさい悪魔が!!」

二人の怒声をシャットアウトし、
俺はただひたすらに念じた。
そして口に出した。

「こんな世界、終わってしまえ」

次の瞬間、俺の脳裏に浮かんだのは、見知らぬ海岸だった。

「今日も定期便は来なかったわね」

この女性は誰だ? 
若作りだが、年は30を超えているだろう。
目鼻立ちがはっきりしている。美人だ。

「10月も終わる頃になると風が冷たさを増してきたわね。
 ここでずっと海を眺めてるのもいいけど、風邪を引いちゃうわ。
 さあ屋敷に戻りましょう。子供たちもあなたに会いたがってるのですから」

俺の手を握り、女性が歩き始めた。
この人は歩幅まで俺に合わせて歩こうとする。
背丈はほとんど俺と変わらない。
それに足が長くてモデル体型。

なぜ和服を着ている?
和服だと歩きにくそうだ。

「太盛君。さっきから口数が減ったけど、何か考え事? 
 それとも私の知らないところで何かあったの?
 朝食の時は機嫌悪くなかったと思うけど」

「いや、別に機嫌が悪いわけじゃないよ。エリカ」

俺がその女性をエリカと呼んだ。
なぜだ。意識せずとも口から言葉が飛び出したんだ。

「もしかして具合悪かったとか? 熱でもあるかしら」

俺のおでこに手を当て、自分の体温と比べていた。
子供っぽい仕草だが、少し可愛くてクスッとしてしまう。

「なによ。本気で心配してるのに」

「君が可愛かったから」

「え?」

「……バカにしてるわけじゃないぞ?」

「うん。知ってる。今のはうれしかっただけ」

俺の方からエリカを褒めるのは何年振りかと
真剣な顔で言っていた。そんなに褒めてなかったのか?

結婚して何年も経てば、恋愛感情が消え去るのが普通だ。
まれに新婚気分が長続きするカップルもいるらしいがな。
結婚……? なんで俺は結婚という単語を思い浮かべた?

「君は何歳になっても綺麗だよ。エリカ。
 高校生の頃と変わらず綺麗なままだよ」

エリカがターンを踏み、そっぽを向いた。
照れ隠しなのだろう。

すまん。俺はなんとなく口にしただけだ。
学生時代に女の子に口説き文句を言うのが
趣味だった時期があったから、つい言っちゃうんだよな。

「俺は君のことが好きだ」

「太盛君……」

エリカはキュンとしたのか、その場で唇を奪ってきた。
豊満な胸を思いっきり俺に押し付けている。
おいおい。人気のない海岸だからって、大胆過ぎるぞ。

すぐそばにある森?の中から誰かが出てきたらどうするんだ。
というか、何だあれは。森林?
海岸から少し離れた内陸側は、永遠と森が続いているようだ。

その数キロ先の方に、監視塔と思われる建物がそびえ立っている。
きっとあの近くに屋敷があるのか。いやある。
あるに違いない。俺の記憶があると言っている。

「最近太盛君が私と距離を置いてる気がして、
 ずっと不安だったの。特にあの若いメイドが
 色気づいてきたじゃない?」

「メイド? どのメイド?」

「ミウ」

ミウが……メイド? 使用人? 

前に太盛様って……。 
奥様? 奥様ってこいつのこと? 
俺の妻でエリカ奥様……?

「あの女、許せないわ。掃除するふりをして太盛君の
 近くをうろうろして。太盛君に話かけて欲しいんでしょうね。
 大嫌いなマリンちゃんとも仲良くなろうとして必死よね」

「マリンちゃん?」

「え?」

「マリン……ちゃんは君の娘じゃないの?」

「何を言ってるの? マリンちゃんはジョウンさんのご息女よ」

キム・ジョウン朝鮮労働党委員長は、この島の住民の一人。
性別は女だけど、ジョウンにそっくりなのであだ名はジョウン。
マリンの実の母親。俺のもう一人の奥さん……?

「今日の太盛君は不思議なことを言うのね。
 本当に大丈夫? あいにく医者はいないけど、
 具合悪いなら鈴原に見てもらう?」

「心配するな!! ちょっと疲れてただけだよ」

エリカの肩をバシバシと叩くが、
誤魔化したことにはならないだろうな。
エリカは疑い深く、気になったことには探偵並みの
執着心を見せる。現に俺を偽物だと思ってるのか、
観察する目がいやらしいほどだ。

小枝を踏む音がした。
俺とエリカはその方を向いた。

うっそうと茂る森林の出口に、一人の女性が立っていた。
高校生くらいの小柄な人だった。ツインテールヘアで
頭にカチューシャ。メイド服を着ている。

エリカは一瞬で不機嫌になった。
口がへの字に曲がっている。
そんなにあの子のことが嫌いなんだろうか。

俺の前とは違う、低いトーンでエリカは言う。

「ミウ。何しに来たの?」

「予報ではもうすぐ雨が降り出すと……。
 それでお2人に傘のご用意をと思いまして」

「私はもう少し主人とここにいるわ。
 傘だけを置いて屋敷に戻りなさい」

「かしこまりました。奥様」

二人分の傘をエリカに手渡し、ミウはきびすを返した。
小さな後ろ姿から、やりきれない思いが伝わる。

さすがに鈍感な俺でも分かるよ。
君は俺に構って欲しかったんだろ?

「待てよ!!」

「ひっ」

俺はどんだけバカなんだ。
焦るあまり大声を出してしまった。

「ごめん。びっくりさせちゃったね。
 ミウにお礼を言いたかったんだ。
 わざわざここまで
 傘を持ってきてくれてありがとう」

ミウは大きく二度瞬きをしてから、
表情が緩む。にっこり笑ってから

「はい」と言った。

良い顔だ。
こっちの世界の君は、そんな顔で笑うんだ。

ミウは深く礼をした後、森の奥へと消えていった。
女性が一人で歩いたら危ないと思うぞ。
野生の獣とかいたらどうするんだ。
木が生い茂っていて足元も薄暗いだろう。

「森はジョウンさんの管理下だから平気よ。
 危なそうな獣は、彼女が食用を兼ねて飼ってるから」

そうなのか……?

「それより今のは、どういうつもりだったの?」

いたた。そんなに強く手を握るなよ。
万力じゃないんだから。

「私のこと好きって言ってくれた次の瞬間には
 メイドに色目使うの? 信じられない。
 太盛君は若い女を見るといつもそうなの?
 会社でもそうだったの? 早く答えて」

エリカの文句は洪水のごとく。よくもまあ、
そんなに早口でまくしたてられるものだ。

俺はエリカに冷たくされたミウが
かわいそうだと思っただけだ。

「嘘よ。あの子のこと、気に入ってるんでしょ?
 太盛君は若い女を見たらすぐ優しくするんだから。
 自分でも悪い癖だと思わない? 妻の見てる前で
 他の女にああいう言い方をする必要は全くないわ。
 それに使用人が傘を持ってくるのは仕事だから当然じゃない」

「ミウを使用人って言うな。あの子は俺たちの家族じゃないか」

「私にとっては、ただの使用人よ」

「落ち着けよエリカ」

「私は落ち着いてるわ。太盛君こそ落ち着いてよ」

「俺は冷静だが」

「なら私も冷静よ。
 それに喧嘩売って来たのは太盛君じゃない。
 私は早く納得のいく説明をしてほしいだけ」

めんどくさい女だ。俺は不祥事を
起こした政治家じゃないんだぞ。

「あなたは約束をすぐ破るのね」

「約束?」

「あなたのお父様と交わした約束よ。
 私とは夫婦円満で何があっても一緒になさいと
 言われたこと。忘れてないわよね?」

「仲は良いじゃないか」

「太盛君が他の女をやらしい目で見なければね!!」

エリカは傘を放り捨て、森の中へ消えてしまった。
俺を置いていくなんて、そんなに怒ってるのか。
たぶんミウに渡されたから気に入らないんだろうな。

放置された傘が、砂をかぶっている。
高級そうな傘なのに乱暴に扱うなよ。

潮風が頬を撫でる。ああ、この匂い。なつかしい。
地平線のかなたまで海原が広がり、海面をカモメたちが踊る。
内陸の栃木と違って、冬の風は体温を一瞬で奪いつくすほどだ。

こうして海を眺めていられるのも、今の時期が最後だ。
本格的な冬の到来までに、薪木を集めておかないと。
ほら。ここは夢の世界のはずなのに、こんなことを考えている。

記憶と言うより感覚。なるほど。
能面の男の言っていたことはこれのことか。

しばらくこの景色を見ていよう。

海辺に打ち捨てられた小さな木造船がある。
船というか、ボート? こんなボロ船じゃあ、
漁にさえ行けそうにない。

あ……。猫がいる。野良にしては太ってるな。
白地に黒い模様がいくつもついている。ぶち猫?
目元に大量のやみがついてるから病気してるのかもしれない。

「奥様は屋敷に帰ってからまた暴れるんでしょうね。
 いい年して少女みたいに純情なんだから、バカよね」

誰だ? 気が付いたら背後に女性が立っていた。
俺が振り返ると、ハグされた。
おいおい。びっくりするじゃないか。
ミウと同じようにメイド服を着ている。

小柄のミウと対照的に背が高い。エリカより長身だな。
肌の色素が薄く、切れ長の目が特徴の美人だ。

「逃げらるものなら、逃げてしまいたいわね。
 誰も私たちを知らない、見知らぬ大地へ」

その人は、水平線の先を見つめながら言った。
俺も習う。あの小さな島? 大地? まさかあれは。

「雨雲の下でも見えるものね。あれは朝鮮半島よ」

「ここは長崎県?」

「そうだけど?」

どうしてそんな当たり前のことを聞くのかと。
そう言いたそうだった。

「いっそ、本当に逃げちゃう?」

「なっ。何を言ってるんだ。
 君はこの島から出たいのか?」

「最初に逃げたいと言ったのは、あなたの方だったと
 思うけど。わざわざ私を夜中に呼び出して
 会談の隅で内緒話をしたじゃない」

「そうだっけ?」

本当に記憶がない。
というかこの世界の設定に頭がついていかない。

「太盛。大丈夫?」

「ごめん。実はあんまり大丈夫じゃないんだ」

「森で神隠しにでもあったの? 
私の顔を不思議そうに見てるけど、
 念のため私の名前を言ってもらっていい?」

「う……」

本当に思い出せない。いや、顔に見覚えがある他人程度にはな。
例えば通勤電車で毎日会う他人だよ。
顔は知っているけど、名前まで知らないだろ? 
俺にとってこの女性はそんな感じだ。

「記憶喪失じゃなければ、エリカに強制されたってことね。
 私と関わるなとか、赤の他人のふりをしろと」

「違う」

「ん?」

「俺は本当に君のことを知らない」

女性は冷めた目で俺を見つめていた。
静かな怒りさえ感じる。

「エリカじゃなければ、
 マリン様に言われてやってるの?」

「そうじゃないんだ。誰にも強制されてないよ」

「……何が目的なの? まさか私に別れ話
 でもしたいんじゃないでしょうね」

「別れる?」

「みんなに内緒で付き合いたいって言ったのは、
 太盛だよね。まさかそれまで否定するつもりなの?」

女性の瞳に涙が浮かんでいる。
おいおい。話がさっぱり分からないが、
とにかく俺はこの人を傷つけるつもりは全くない。
なのに俺が最低野郎みたいな流れになってる。

メイドと付き合う? 浮気? みんなに内緒?
愛人だよな? 愛人……

『あなたはユーリを捨ててでも、マリンを選ぶんだよ』

フラッシュバックしたのは、かつてのミウのセリフだ。

「ユーリ。君は俺がマリンを選ぶのかと思ったのか?」

「……私の名前、ちゃんと言えるじゃない」

「愛している人の名前を忘れるわけないだろ?」

「調子いいこと言って。実は本気で忘れてたんでしょ?」

図星なので黙るしかない。

ユーリは、太い丸太の上に腰かけた。
俺の隣に座る。この丸太、誰が切ったのか知らないけど、
イス代わりに置いてあるのか? 便利だな。
枝の部分は綺麗に切り落とされていて、
ヤスリでもかけてあるのか表面もつるつるだ。

「はぁ……。みんなのことを思うと憂鬱になっちゃうね。
 ミウも私がいなくなったら悲しむだろうな。
 怒り狂った奥様と屋敷で暮らすなんて
 私だったら発狂したいほどのストレスよ」

「モ、モンゴルに逃げるにしても飛行機の予約とか、
 荷造りとかあるから大変だよな」

「何言ってるの? 荷造りなら太盛が済ませてくれたじゃない。
 会社を有休使って休んでる間に、テントとかアウトドアグッズ
 まで揃えてくれたよね。太盛が借りたレンタル倉庫の中にね。
 あとは予約チケットを取るだけ。
 ダミーで国内の便も三件くらい取ろうね」

「お、おう」

会社? 有休? 島暮らしなのに会社?

「太盛は都内の会社に勤めてるじゃない」

意味が分からない。
俺が長崎から東京へ出張したという意味か?

「ここは西東京よ」

俺は目を疑った。
俺たちが座っているのは丸太ではなく、木製のベンチだった。
綺麗にニスが塗られていて、肌触りが良い。

風は確かに冷たいが、潮の香りはしない。
ここは背の高い木々に囲まれており、山奥の別荘を思わせる場所だ。

当たり前だが、山には斜面がある。
さっきの島は平たんで段差がなかった。

ここから少し歩いた先に、豪華な屋敷がある。
芝生と噴水。大理石の彫刻。
華美ではなく、自然と調和させている。
なぜわかる? 脳に直接映像が浮かぶんだ。

「モンゴルに行くと死ぬぞ」

「え?」

「ああ。確実に死ぬな。万に一つも生き残れない。
 俺たちは、最後は死ぬ。絶対に死ぬ。それでも行くか?」

「うん。だって死ぬのが目的なんでしょ?
 太盛はエリカの束縛から逃げて楽になりたいって……」

「エリカだって鬼じゃない。今は束縛が強いけど、
その内飽きる。今がたまたまそういう時期なんだよ」

「結婚してから10年たっても束縛し続けてるけど。
 どんだけロングタイム束縛なのよ。
 その執着心を別のことに生かすか、別の男と結婚した方が
 幸せになれる。これも太盛が言ってたことだよ」

「俺たちが逃げたらミウはどうなるんだ。
 あの子はエリカに解雇されちゃうぞ」

「私もミウのことは気の毒だけど、仕方ないよ。
 まだ若いし、顔もいいから働く場所はたくさんあると思う。
 私は全てを捨てる覚悟だけど、太盛は違うの?」
 
「でも残されたマリンが……」

「マリン?」

嫉妬したのか、目つきが鋭くなる。ミウと同じ反応だ。
ユーリもマリンを嫌っているな。
名前を出しただけでこの反応は、ちょっと異常だぞ。

「私は逃げる決心がついたのに。
 ひどいじゃない太盛。
 私よりお嬢を取るつもり?」

「どっちを取るとかじゃない。
 やっぱりこの話はなかったことにしないか?」

「……せっかく荷造りしたのに今更心変わりしたの?
 あんなに逃げたいって何度も言ってたのに。おかしいよ。
 しかもよりによってマリンお嬢の話をしてくるなんて」

「俺は……」

「ごめん。このまま話してると喧嘩になると思うから、
 私は先に戻ってるね。くれぐれも屋敷の中では
 普通にふるまってよ? じゃあ、またあとでね」

早口で言い、ユーリは去って行った。
風で肩を切る後ろ姿からは、
かなりの怒りを感じさせる。

思い出してきた。ユーリは学歴もあるし、
外国語も話せるんだったな。こんなに綺麗で聡明な人が、
どうして使用人をやっているのだろう。

ずっと話していたら、すっかり冷え込んだ。
特に足元が寒い。奥多摩は田舎だからな。
この時期は虫がいなくて快適だけど、
そろそろ本格的に寒さ対策をしないとな。

「パパー」

後ろから元気な声が聞こえた。
どの娘だ? マリンの声じゃないな。
俺には三人の娘がいるらしいからな。

マリン以外の娘のことは、
残念ながら思い出すことができない。

俺はベンチから立ち上がろうとすると、
激しい立ち眩みに襲われて気を失った。



12月29日 朝9時

~高野ミウ~

「2人とも、今日はまだ寝てるのね。
 休みは何時まで寝ていても構わないけど」

ママ……の声?
ここはどこ?

「ママは用事があってすぐ出かけるから、
 お留守番を頼むわね? お昼前には帰れると思うけど、 
 帰りが遅かったから適当なものを作って食べなさい」

扉を閉める音で、彼も目が覚めたみたい。

私は同じベッドに太盛君と一緒に寝ていた。
といっても、やらしい意味じゃないと思う。

二人ともパジャマを着て、
友達同士のように隣どうして寝ているだけ。
男の人がいるとベッドがすごく狭く感じる。

もしくは……太盛君とそういうことをしたのかな?
確証がない。だって昨夜の記憶が全くないんだもの。

確かに異世界へワープしたはずなのに、
またこの世界へ戻って来たの?

あの世界は、正確には私が覚えていない世界。
海岸のある場所……島? でメイドとして働いていた。
あんな場所で働いていた記憶はない。

「なんで俺、こっちの世界に戻ってるんだ?」

太盛君も同じこと考えているみたい。
スマホで日時を確認すると、12月29日。
つまりあれから一日経過している。

「ミウは、体は何ともないか?」
「うん。平気。太盛君は?」
「俺も大丈夫だ」

私たちは、ただ不思議に思っていた。
運命を操作している人の意図が分からない。
なぜ私たちをあっちの世界に行かせた後、
この世界に戻らせたの?

「扉に何かが挟まれてるぞ?」

太盛君が扉の下に置かれた手紙を持ってきた。
丁寧に封がしてある。
例えば結婚式の招待状がこんな感じなのかな。

『堀太盛は貴様の主人だ。貴様は使用人らしく振舞うべきだ』

私と太盛君は絶句した。
手紙は差出人不明。しかも肉筆だよ。
ボールペンで丁寧に書かれている。
たぶん男性の筆跡だと思う。

こんなことをするのは、能面の男しか考えられない。
彼はどこにいるの? 陰で私たちのことを監視してるの?

ママはさっきこの部屋の扉を開けたのに、
この手紙には気づかなかったの?

それとも実はママが書いた? ありえない。
だって私が元使用人のことはママには知りようがない。

仮に手紙を置いたとしても、
ママに気付かれずに行うのは不可能のはず。
このマンションはボリシェビキの支配下だから、
部外者が侵入できるわけがない。

それこそ神様でもなければ。

私たちを異世界へ飛ばしたのは彼の力だ。
いいえ。彼はあの『鏡』の力を借りて
神の力を行使したのだと思う。

どっちにしても、彼が私たちの生殺与奪の権利まで
握っている気がして、不愉快だし、怖くてたまらない。
手紙の内容に逆らったら、本気で殺されるかもしれないと思った。

「太盛様。今までのご無礼な振る舞いを、
 どうか許していただきたいのです」

「おい」

「だめですか?」

「そっちじゃなくて、呼び方。
 俺に様を付けるのはやめてくれよ」

「お手紙に書かれているとおりのことをしています」

「ここでは俺と君は同級生って設定じゃないか。
 様を付けるのは別の世界でしてくれ」

「そう言われましても……」

「敬語も使わなくていいって。一応恋人なんだからさ」

「私は太盛様の恋人を名乗れる資格はありません。
 私はただの使用人です」

「ミウ……」

太盛様は気の毒に思ったのか、
ぎゅっと抱きしめてくれました。
ああ、なんて優しい人なの。

手紙への恐怖と不安でおかしくなりそうな
私を気づかってくれる。私の髪の毛を撫でてくれました。

そうか。初めから太盛様に横柄な態度を取らなければ、
大切にしてもらえたんだ。今考えればボリシェビキに
なったのが間違ってたんだ。

太盛君はいじめっ子には強く反発するけど、
いじめられてる人に救いの手を差し伸べる人だ。

「いつも通りの口調で話してほしい。
 そうじゃないと俺の調子が狂う」

「ありがとうございます。
 ですが遠慮させていただきます」

「……手紙を書いたのは能面だと思う。
 あとで俺から直接言っておくよ」

「いいえ。今となっては手紙の内容は関係ありません。
 私はこの世界に飛ばされた理由を今理解しました。
 太盛様に付き従って生きるのが、本来の私の生き方なのです」

「それじゃ、本当に使用人みたいじゃないか」

「はい。使用人です」

「なんだよそれ。ふざけるなよ!!」

太盛様……。急に怒鳴るからびっくりした。

「俺は少なくともそういうのは望んでない。
 人間の上下の関係なんて本当はあるべきじゃないんだ。
 今の俺は、前の世界の記憶を少しだけ手に入れた。
 ミウは過去に使用人として働いていた。
 俺の家族の一員だ。家族が家族に敬語を使うなよな」

「お気持ちだけ受け取っておきます」

「なら命令すればいいのか?
 俺を主人扱いするのをやめてくれ」

「その命令は聞けません」

「本気で怒るぞ?」

「好きなようになさってください。
 私は一切抵抗をしません」

太盛様は乱暴に私の両肩をつかみ、
しばらく無言で見つめていました。

彼の目が訴えていました。
つまらない冗談はやめろと。
あいにく私は本気です。

私は自分の主人の自由を奪い、
拷問までしてしまいました。
重い罪を背負ってしまいました。
ついにその報いを受ける番が来たのです。

刑を執行しに来たのは、能面の男なのでしょう。

「俺はミウと同じクラスで楽しかった。
 夏休みもいろいろあって楽しかったよ。
 ミウはその思い出まで認めないつもりか?
 俺が君を一度でも使用人として扱ったことがあったか?」

「過去と今は別として考えています」

「しっかりしてくれよ。ボリシェビキだったころの
 君は、正直苦手だったけど、今の君も変だよ。
 まさか二重人格なんじゃないだろうな?」

「私は自分がこうしたいと
 思っているからやっているだけです」

太盛様は私を強く抱きしめ、キスをしました。
なんて強いキス。それに長い。
中途半端に呼吸が止まったので苦しいです。

求められることはうれしいけど、
今はそんな気分じゃない。

「分かったぞ。マリンだな?
 マリンがあんな言い方をするから
 ミウがおかしくなったんだ」

「マリン様は関係ありませんわ」

「いやいや。マリンに色々文句言ってたじゃないか。
 今ここにマリンはいないぞ。無理に使用人として
 振舞うのはやめてくれ。って言っても無駄なんだよな」

太盛様は手紙を破いて捨ててしまった。
いけません……。そんなことしたら叱られますよ。

「太盛様……。手紙を破いたらいけません」

「なんでだ? こんなのただの紙切れじゃないか」

太盛様は、お腹がすいたのでブランチを
食べようと言って、ドアノブに手を駆けました。

開けると、乾いた風が吹き荒れました。
その勢いでベッドサイドの
目覚まし時計が転げ落ちました。

「は……?」

太盛様が驚くのも無理はありません。
扉の先にモンゴルの草原地帯が広がっていたのです。

その日はまさに晴天。無限に続く青空の先には小高い山が見える。
文明社会で生きる人間を圧倒するほどの、広大で平坦な大地。
ものすごく目を凝らしてみると、コメ粒ほどの大きさの羊飼いの姿が見えた。
はたして何キロ先なのか見当もつかない。

太盛様はその場で膝をつきました。
驚愕のあまり感想さえ口にできないようです。

扉の外側と内側で、全く別の次元が存在している。
私だって叫びたいほど衝撃を受けてるけど、
ご主人様の前ではしたない真似はできません。

「ようやく来てくれましたか。さあ早く行きましょう」

マリン様が太盛様の手を引いて、あちら側に案内した。

「おまえも来なさい」

命令なら逆らえない。私も扉をくぐった。

「私とお父様は先を歩くわ。おまえは
 使用人らしく、後ろから馬を引いて着いてきなさい」

手綱を渡された。これを持って歩けばいいのね?
背の低くて足の短い蒙古の馬。つぶらな瞳。
人と違って言葉を発しないから感情が分からない。
馬の両サイドに日用品のコンテナを垂らしている。

荷物持ちか。こんなに乗せられて辛くないんだろうか。
馬は何も答えない。

マリン様は、太盛様と腕組みをしながら歩き始めた。
密着具合がすごい。彼に全体重を預け、足元がふらふらしてる。
人目を気にしない高校生のカップルのようにも見える。

マリンは、本気で太盛さまに惚れこんでいるのだ。
もうファザコンすら超えているだろう。
見てるこっちは、だんだんと気持ち悪くなってくる。
私にも父はいるけど、実の父に対して
あんな感情を抱くなんて考えられない。

私と馬もあとに続く。

太盛様は高校生。そして娘のマリン様は小学生。
時間軸が狂っている。17歳の父と9歳の娘。
太盛様が8歳の時に作った子じゃないと計算が合わない。

太盛様は、状況の変化に着いて行けず、
マリン様の言いなりになっている。
マリンの体重を支えるのが大変で、いかにも歩きにくそうだ。
左腕をがっしりと掴んでいるのは、
まさか彼が逃げ出さないようにするため……?

「予報では夜遅くまで暴風になるそうですから、
 今夜はテントで一泊しましょうか」

「え、テント?」

「嫌なのですか? 今から町に引き返すと
 半日以上かかりますけど」

「あ、ああそうか。すまない。
 テントで泊まろうか」

そのまま歩き続けた。時間も分からない。
日の傾き加減を見ると、正午を過ぎたあたりなのかな?

私はコートを羽織ってないけど、寒くない。
部屋着のまま歩けるってことは、春とか秋?
あいにくモンゴルの気候なんて知らないよ。

私は馬君と一緒に歩いていた。この馬も私と同じか。
人にただ使用されるだけ。まさに家畜。
家畜に感情はない。私だって同じことだね。
夢とか願望とか、私には贅沢だったんだよ

「ミウはだいじょ……」

「お父様。あそこに鷹が飛んでいるわ」

彼が振り返り、私に話しかけようとすると
マリン様は進んで邪魔をした。
小姑みたいで腹が立つけど、こいつの性格は
小さい頃からずっとこうだから慣れてる。

マリン様は休む間もなく太盛様に声をかけ続け、
何かと彼の意識を私からそらそうとしている。

「マリン……。お話ししたいことが
 あるのは分かるけど、
 俺はミウのことを心配してるんだよ」

「どうしてですか? 見てないからわかりませんけど、
 元気に後ろを歩いているのでしょう?」

「いきなりモンゴルの世界へ飛んだら
 頭おかしくなりそうじゃないか?
 現に俺もパニック寸前で、今にも
 暴れだしてもおかしくない程のレベルなんだぞ」

「手紙を破いたから、そうなるんですよ。
 大切にしていただかないと困ります」

「なんだって? 
 あの手紙にはそんな効力があるのか?」

「あれは人が書いたものではありませんから。
 今後はそういう物の取り扱いは
 慎重になさった方がいいですよ」

緊張の糸が切れたのか、太盛様はその場へ
崩れ落ちて気絶してしまった。
歩いている最中に倒れる人を始めて見た。

マリン様が大慌てで介抱する。

「おまえも見てないで手伝いなさい!!」

「は、はいっ。マリン様」

倒れた時に腕とかひねってないかな?
まず枕代わりに私の膝の上に頭をのせて、
脈を確認すると、ちゃんと生きている。

呼吸もしてる。急に倒れる人って、
脳卒中とかで死亡する場合もあるから気を付けないとね。

「何のんきな顔をしているの?
 早くテントを設営してちょうだい。
 お父様を中で休ませるのよ」

「恐れ入りますが、テントの設営は
 やったことがないので分かりません」

「仕方ないわね。私がやり方を教えるから、
 よく見ておきなさいね」

モンゴルだからゲルなのかと思っていたら、
日本製の市販のテントだった。
ゲルみたいな大掛かりなテントをこの少人数で扱うわけないか。

まず地面にグランドシート、その上に
インナーシートを広げ、ペグを打っていく。

マリン様は手慣れている。動作に無駄がない。
私は初心者なので見よう見まねでやっても、
倍以上の時間がかかってしまう。
これはインディアン式のワンポール・テントというらしい。

一本の頑丈なポールをシートの中央で立てると、
地に寝そべっていたシート全体がぴんと張る。
とんがり帽子形のテントが完成した。

内部はすごく広い。
大人5人が寝転がっても余裕があるほど。
寝る時に馬は外に出したままになるけど、
風邪ひいたりしないのかな?

テントの中でラグと呼ばれるジュータンを敷いて、
マットと寝袋を用意した。
マットは5センチの厚みがあり、でクッション性が高い。

女二人で太盛様の体を持ち上げ、
マットの上に寝かせると、さすがに目が覚めたみたい。

「すまなかったね。気が付いたら目の前が
 真っ暗になって意識を失ってしまった」

「謝る必要はありませんわ。
 お父様の具合が良くなるまで、私はおそばを離れませんから。
 寝起きで喉が渇いたでしょう? 今お水を……」

私はマリン様に怒られるよりも早く、
馬に付けた荷物から水のボトルを降ろした。
お、重い……。水が16リットル満タンで入っている。

馬君はこんなに重いのを背負って歩いていたんだ。

ボトルには注ぎ口があって、それをひねると
蛇口と同じ要領で水が出て来る。
紙コップに水を注いで、マリン様に手渡した。

「ご苦労様」

初めてお褒めの言葉を頂けた。

「さあ、お父様」

「ああ。だがその前に」

太盛様は上体を起こして、顔だけ私の方を向いた。

「ありがとうなミウ。水のボトル重かっただろ?」

「いえ。これもお仕事ですから」

「今度から重い物は俺が持つからな」

「そんな……」

「遠慮するなよ。俺はこれでも一応男だしさ。
 少しは力あるぞ?」

彼は顔色が悪いのに、私を気づかって
無理に明るい顔をしている。
私がうれしさとおかしさから、
クスッと笑うと、太盛様も続いた。

マリン様が大げさに舌打ちをした。

変わってないな……。マリン様は嫉妬した時は
いつもこう。極度のファザコンで、
父に近寄る相手は許さない。
もちろん母のエリカも例外ではない。

娘なのに母が恋のライバルなんておかしいよ。
ユーリはこの子相手に教育係を何年もしてたんだ。
私だったら胃に穴が開いちゃうよ。

「お父様。その女は斉藤マリエだった時の私を
 収容所に送ったわ。顔を殴ったりもしました」

「そうだな」

「最低な女だと思いません?」

「最低だったかもしれない。だが、誰にだって過ちを
 犯すことはある。罪を認め、悔い改めればチャラだ。
 俺たちはクリスチャンだからな。
 ミウはちゃんと反省しているみたいだよ?」

太盛様にうながされたので、
私は肯定の意味を込めて首を縦に振りました。

「ミウの部屋に共産主義系の書物が山ほどありました」

「あんなもの、捨てちまえばいいんだよ」

「ミウは生徒会副会長です」

「それも辞めればいい」

「私はお父様を困らせたりしません」

「そうかもしれないけど、ミウに冷たくするのは
 どうかと思うよ。ミウは俺の家族だ。
 あっちの世界では同級生で俺の彼女だよ」

「あんな女がお父様の彼女なのですか。
 つい最近まで殺したいほど憎んでいたのではなくて?」

「確かにな」

「お父様は斎藤マリエを一番に愛していると言ったわ。
 一度だけじゃなくて何度も」

「ああ。そうだな」

「私を捨ててそいつを選ぶの?」

「捨てたりはしないよ。マリンも俺の大切な家族だ。
 俺は高校生だから、たとえ君が未来からやって来たに
 しても娘がいるっていう実感が持てないんだがね。
 ぶっちゃけ言わせてもらうと、俺は君が怖い」

「怖い? なぜ怖いのですか?」

「そのしゃべり方とか、妙に冷静なところとか、
 自分より年下の子に見えないんだよな」

「学校は飛び級で二学年先の内容を教わっていますけど」

「今小学何年生?」

「4年生です。来年の2月に10歳の誕生日を迎えます」

「てことは、まだ9歳?」

太盛様はそれ以上言葉を続けられませんでした。
きっと畏怖を感じているのでしょう。

実は双子姉妹のカリン様も早熟なのだけど、
マリン様はさらに先を行ってしまった。
互いに成績を競い合っていたのを覚えてる。

「俺のお願いを聞いてほしい。
 俺とミウを元の世界に戻してくれ」

「元の世界とは?」

「ミウと学園生活を送っていた世界だ。
 今すぐミウの部屋に戻してくれ」

マリン様は横目でにらみつけてきた。
今のは完全に太盛様のご意思でしょ。
なんでも私のせいにしないと気が済まないの?

「この、泥棒猫」

「……何か言いました?」

私は立ち上がった。

なぜか、すごく腹が立った。
元の世界に戻りたいのは太盛様の願い。
彼の望みをかなえてあげるのが私の仕事。

マリン様は太盛様のご意思を踏みにじって、
自分の好きなようにしたいだけじゃない。

「おまえがいなければ、お父様は!!」

「なんでも私のせいにするな!!」

マリン様は唖然としました。
まさか私に噛みつかれると思ってなかったのでしょう。

「その態度は何? 口答えするつもり?」

「泥棒猫はマリン様の方だと思いますよ。
 私と太盛君の間に入ってこないで!!」

「そっくりそのままお返しするわ。
 勝手に割り込んできたのは、あなたの方でしょうが!!」

「モンゴルに来てまで、あんたのワガママはもうたくさん!!
 自分の意見を言う前に、彼の話をちゃんと聞きなさいよ!! 
 あんた耳ついてないの!?
 太盛さんは、元の世界に戻りたいと言ってるんだよ!!」

「それは……お父様は言わされているだけで」

「どうみても彼の自由意志のように見えますけど?
 都合が悪いからって人のせいに
 するあんたの方が最低じゃない!!」

「へえ……強く出たわね」

マリン様は、コップに入った水を私の顔にぶちまけました。

上着がびしょ濡れになった……。
怒りを通り越して殺意がわく。
本気でムカついたのでグーで殴ってしまった。

マリン様は反撃されることを想定してなかったに
違いない。顔が大きくのけぞり、じんわりと
殴られた部分に痛みが走ったのか、涙ぐんでる。

「お父様、ミウが私に暴力を振るいました!!」

「二人ともやめろ。とにかくまず落ち着け。
 ミウも離れろ。距離を取れ」

太盛様がマリンを抱きかかえながら、無理やり
私から引きはがした。よかった。止めてくれなかったら、
今度は顔に蹴りが入っているところだったよ。

「ミウは最低!! 暴力女よ!!
 あんな女と一緒にいられませんわ!!」

「どっちも悪いんだよ。先に手を出したのは
 マリンだった気がするがな」

「お父様、早くあの女をテントから追い出して」

「それは無理な相談だ。モンゴルでは助け合わないと
 生きていけないだろう」

「でも嫌なの!! あんな奴といるなんて耐えられない!!」

「マリン!! いい加減にしないか!!」

太盛君も頭に血が上っているのか、
娘に手を上げそうなほどの権幕だった。

「ひっ……。どうして怒鳴るのですか。
 お父様は……私のためを思ってくださらないの?」

「おまえが言ってるのは、ただのわがままだ!!
 ミウと喧嘩するのはやめなさい!!」

よく観察すると、本気で怒ってる口調じゃなかった。
子供の駄々に頭を悩ませている親の心境なんだろうね。
彼は無意識のうちにマリンを娘だと認識しているに違いない。

でもマリンは深刻に受け取ったみたいで、
無言で涙を流している。泣いている姿だけは年相応だ。

クソガ……マリンの気持ちもわかる。
大好きな父が娘に声を張り上げるなんてめったに
ないものね。マリンが幼稚園の頃はすごくわがままだったから、
太盛様も奥様も厳しい口調で叱っていたけど。

「マリンは素直で良い子なんだろう?
 ならこれ以上パパを怒らせないでくれ」

自分とミウを元の世界へ戻すようにと
太盛様は諭すように言った。でもマリン様は認めない。
ずっと太盛様といたいだろうからだろうか。
きっとこの子が満足しない限りは、
私たちをこの世界から出してくれないのだろう。

「狂ってしまった世界は、やり直さないといけないの」

マリン様は道具入れの中から、
鞘(さや)に収められた短刀のようなものを取り出した。

「ホタクといいます。モンゴルの民族ナイフのことです。
 今では使われていませんが、昔の遊牧民はこれとお椀を
 携帯していました。鞘(さや)の中に短刀とお箸が入っています。
 取った獲物をその場で食べるための物です」

取っ手の部分の色とか材質とか、日本刀に近い。
よく目を凝らしてみると、うっすらと龍が描かれている。

「物騒だな。それを何に使うつもりだ?」

「私たちは使いません」

マリン様は、どうしてか私にホタクを手渡した。

「おまえ、私が憎いでしょう?
 殺したいほど憎いのでしょう?」

「殺したいほどでは……」

「いいえ。心の中では私を八つ裂きにしたいと
 思っているのよ。そうなのでしょう? 
 ならば遠慮なく私を刺してちょうだい。さあ早く」

この娘、やっぱり気が違っている。
自分が何を言ってるか分かってるの?

自分を憎んでる相手に凶器を渡して
何のメリットがあるんだろうか。

私を挑発するのが目的?
あんたのことなんて初めから大っ嫌いだから安心して。
ムカつく女。ムカつくガキ。
子供のくせにムカつく。偉そうにしてムカつく……

「I want you to get out of this gaddem tent.
and get out of my slight.
I never want to see you again.」

「I'll stay here. couse, I want to stay.」

くそ……。いくら私が使用人でも
こいつの偉そうな態度に腹が立つ。

「So what are you seeing for?
 no time to choice. do as you want to do.
 you can kill me with the knight.
 then. you can Go buck.」

「Buck to where?」

「Another would. it is you'r home.
it's what you want,is'nt it?」

こいつを殺せば、元の世界に戻れる?
私たちは気が付いたら英語を話していたみたいだけど、
かえってこっちのほうが意思疎通できて助かる。

「Well,I believe that our destiny
it depends on this knight.
now I'm not afraid of anything」

私はナイフを力強く握った。手が震えている。
ボリシェビキだから拷問慣れしてるけど、
太盛様のご息女のマリン様を刺すのは簡単なことじゃない。

……そうだ。太盛君はどう思ってるの?
太盛君。太盛君。太盛君……!!

「俺はミウの選択に任せる」

と言って、彼はテントの外に出てしまった。
なんで外に出たのか理解に苦しむ。
なんか馬の鳴き声がするし、まさか馬の世話をするため?

「早くして。考えている時間がもったいないわ」

「ですが、太盛様の意見を聞きませんと」

「お父様はあなたに任せると言ったでしょうが。
 ちゃんと聞こえなかったの? それとも頭が悪いの?」

いちいち癇に障る言い方。
中学時代に私に嫌がらせをした
同級生よりもっとムカつく。

……いっそ本当に殺してやろうか。

「うっ」

すぱっとナイフを振るった。
マリンの首筋に赤い線のような、細い染みができた。
それはやがて大きくなっていく。
ごほっと咳をして口から血がこぼれる。

頸動脈(けいどうみゃく)が切れたのかな?
傷口からシャワーみたいに血が噴き出て止まらない。
マリンは自分の首を両手で押さえるけど、
血の勢いは増す一方で、ラグに赤い染みを作っていく。

血の色、濃いね。黒みがかっていて、呪われているみたい。
いいえ。この娘は呪われているんだ。
この娘こそ悪魔の子じゃない。

「が……は……がはぁ……ぐぅお……」

ばたんと大きな音を立てて前のめりに倒れた。
震える指先を私の方に伸ばし、顔を上に向け、
口をパクパクさせている。

この状態なら反撃を受ける心配もないし、
私は顔だけをマリンに近づけた。マリンは血でドロドロに
濡れた手で私の顔をつかみ、耳元でこう言った。

「これで終わりじゃない………
 人の生は終わらない……
 変わる……だけ……」

意味不明だった。

こいつのせいで私の顔と服が血で汚れちゃった。
たぶん前髪にもついていると思う。
この鉄臭い匂いと生暖かさが気持ち悪い。
何より絶命寸前のマリンの断末魔が聞くに堪えない。

早く死ね。

「う」

心臓のあたりに刺してあげた。それを引っこ抜く。
血がどばっと出た。私の服に返り血が付く。

「ひゅーっ……」

マリンの声がおかしい。
口から空気の出る音だけがしている。
もう言葉を話すことができないんだね。
じゃあとどめ刺してあげる。

さっきと同じ動作をマリンが何の反応を示さなくなるまで
続けた。ふふ。刺すのって意外と簡単なんだね。
お嬢様らしい高級品のツーピースが血の色で染められていく。
それ、秋の新色なの? 

血の匂い♪
鉄臭さと内臓のぞっとする匂いが混じってる。
これがこいつが死んじゃうサインなんだと思うと、
うれしさのあまり吐き気なんて襲ってこない。

ナイフって人間の血と油と肉の感触で刃先がダメになるのが
難点だけど、一人殺すくらいわけないよ。
それにこのナイフ、普通のナイフより頑丈そうだし。

背中を刺してあげたけど反応がない。
あーあ。死んじゃったか。
この死体、どうしようかな。血にまみれた汚物だよ。
顔は見るに堪えない。血走った眼を見開いたまま絶命している。

「ごきげんよう」

誰? 太盛君の声じゃない。
テントの入り口から大人の女性が入って来た。

「まさか本当にやってしまうとは思わなかった。
 いくらマリン様が嫌いだからって殺しちゃだめじゃない。
 マリン様は冗談であなたにナイフをお渡ししたのよ」

「ユーリ……? あなた、ユーリでしょ?
 いつからそこにいたの? それにどうして私服なの?」

「どんな理不尽なことをされても主人たちには
 逆らわないようにと、私がいつも教えたでしょう。
 ほんとにあなたは根が子供なんだから」

「そんなことよりユーリ!! 私の質問に答えて!!」

「まずお説教よ。あなたの質問はそのあとに聞くわ」

「説教なんかよりこの世界をどうにかしてよ!!」

「人の話を最後まで聞きなさい。あなたの悪い癖よ」

「あなたが質問に答えてくれないからだよ!!」

「……一度外に出なさい」

私は、テントの外には当然のように
草原が広がっているのだと思っていた。

そこは見慣れた私の部屋だった。
白い壁。白い天井。ピンクのカーテン。
ベッドと勉強机。ぬいぐるみ。
本棚には少女漫画と共産主義の本が並ぶ。

ユーリも、血塗られたマリンの死体もそこにはない。
まるで悪夢から目が覚めたかのように。

汗で顔中に髪の毛が張り付いていて不快だった。

肌も髪も信じられないくらいにカサカサ。
モンゴルの乾いた風の感触が残っているのだ。
でもそれは感触であって、正確には形ではない。
形あるものは何も残されていない。

元の世界に戻れた。私に返り血はついてない。
ここにはホタクもない。太盛様は?

「ちゃんといるよ」

彼は気まずそうに床であぐらをかいていた。

「君がマリンを殺してくれたおかげで
 元の世界に戻ってこれた。礼を言うよ」

「なぜ礼を? ご息女が殺されたのに」

「あれはマリンじゃない。偽物だ」

「偽物?」

「根拠はないよ。なんとなくそう思ったんだ。
 君が殺したのはマリンの分身というか、
 一種の亡霊みたいなものだろう。
 実は俺さ、テントの外でユーリと少しだけ話をしたんだ。
 君がマリンを殺している間にね」

マリンは、この世界には存在しない。
だがいる。どこか別の次元に存在する。
そしていつか君を殺しに来る。

太盛様は怖いくらいに真剣な顔でそう言った。
私に対する遠慮は感じられない。
簡単には信じられない話だけど、否定する材料もない。

「別の世界での俺とユーリは、モンゴルで死ぬ運命だそうだ。
 もちろんエリカもな。だが俺たちは今この世界に存在する。
 あくまで一人の人間として。だがマリンだけは違う。
 俺との再会をただ願い、怨念が形となって
 様々な姿で現れようとする」

斉藤マリエとして、娘のマリンとして、
あるいはまったく別の存在として太盛の前に現れる。
ミウに対し強い殺意を抱いた状態で。

「じゃあマリン様は死んでないし、
 これからも現れるってことですか」

「そういうことだろう」

「それはユーリから聞いたんですよね?」

「そうだ」

「私もユーリと話がしたいです。
 話したいことが山ほどあるのに」

「誰とも会いたくないと」

「え?」

「最終的に俺と関わってろくなことがなかった。
 できれば別の世界でも再開したくない。
 これがユーリの本音だ。つまり俺は
 飽きられた。振られたってことだな」

かつての愛人もモンゴルでの悲劇を経てそう思い立ったのか。
太盛様を恨むのは分からなくもないけど、
せめて親友の私に相談くらいしてくれてもいいのに。


12月29日 正午 高野カコと食卓にて

~堀太盛~

「2人とも、まだパジャマ着ているの?
 お昼ご飯作ったから食べに来なさい」

俺とミウは順番で歯を磨いた。
最低限の身支度を
済ませてからダイニングに顔を出す。

今日のお昼はでっかいハンバーグか。
ハンバーグの上に目玉焼きが乗っている。
お子様ランチを思い出した。

クロワッサンもあるが、まさかこれも手作りなのか?
均一に焼き色がついていて、プロ並みの焼き具合だぞ。
素人目にしてもこれは出来過ぎている。

「太盛君は洋食の方が好きでしょ?
 ハンバーグは自作だけど、
 パンはお店で買ってきたのよ」

他にはミネストローネとイタリアン風のサラダだ。
シーザードレッシングがかかっている。

「こんなにお肉食べたら私太っちゃうじゃない」

「ミウは学生なんだから平気よ」

母と娘で普段からこんなやり取りをしていたんだろうか?
このハンバーグは良い。見てるだけで食欲をそそる。
ずいぶんと脂ぎっているが、不健康なものほど
食べたくなるものだ。

これにポテトと脂ぎったタマネギが並べば、
ドイツ人の家庭料理といったところだろう。

「ドイツのことは口にしないで頂戴。不愉快だわ」

なんでだよ。さらっと冗談交じりで言っただけなのに。
共産主義者(ソ連)のドイツ嫌いは深刻だな。

ママさんはテレビをつけた。
民法で正午のニュースが流れている。
芸能人や政治家のくだらない話題。主にスキャンダル。

ふむふむ。財務省の事務次官が女性記者にセクハラ発言を
繰り返していた……。まったく死んだほうが良いね。
エリートのくせに裏でやってることは底辺じゃねえか。

ミウは、小声で「変態おやじは死ねよ」と言っていた。
気持ちは分かるぜ。

ああいうお堅い仕事をしてる奴に
限ってセクハラをするんだよ。
教え子に手を出す教師とかな。
小学生相手にセクハラとか、頭おかしいだろ。

それを口に出すと、
ミウに侮蔑(ぶべつ)の目で見られた。

「なんだよ?」

「いや。君には自覚がないのかなって」

なんのことだか分からんが、まさか
俺をロリコンだと思ってるのか?

バカを言うな。別の次元の俺がどうだか知らんが、
今の俺は普通の高校二年生だ。何もおかしいことはない。

ママさんまでしらけた顔で俺を見るのはなぜだ?
くそ。飯がまずくなる。話題を変えよう。

「ミウは君、という二人称をよく使うよな。
 日本人にしては珍しい」

「あー、これはフランス人の友達の影響だね。
 ロンドンの時に同じクラスの男子でフランス人がいたの。
 ものすごい片言の英語を話す子で聞き取りにくいから、
 私の方がフランス語を勉強して話してあげたの」

「ミウはフランス語が話せるのか?」

「挨拶程度だよ。いちおう買い物はできるレベルだけど。
 で、フランス語は二人称を大切にする言語なの。
 親しい人には男女関係なく君と呼ぶ。フランス語
 だけじゃなくて、欧州大陸の他の言語でも同じ。
 ドイツ語とかスペイン語でも君って呼ぶの」

「へー。知らなかった」

はっきり言って俺にはどうでもいい知識ではあるが。
やはりミウは欧州の文化が入っているから、
雰囲気が日本人とは違うのかと納得。

テレビのゴミみたいな情報を
聞き流しているママさんが言った。

「あ、そうそう。
 逃げた家族なんだけど、捕まえたわよ」

「逃げた家族?」

「この前の会議に欠席した党員(住民)が2名いると言ったでしょ?
 あれ、30代の夫婦だったのね。国外逃亡を計画していた
 らしくて今朝、成田空港ヘ向かう電車で捕まえたわ」

「その2人は今どこにいるんですか?」

「檻に収容されているわ。
 興味があったら後で見に来なさい」

反革命容疑者の名前と顔写真の乗ったリストを渡された。
逮捕された人の名前は……。高木カズヒト。ミズホ。
ごく普通の夫婦にしか見えないが、夫婦ともに
年収600万を超える高給取りで、子供はいない。

個人情報満載だな。出身大学から実家の家族構成まで
書かれている。正直こんなもの手渡されても困る。

「今夜拷問の予定だから、ミウと太盛君も見に来なさい。
 仕事とか用事の入ってない人は
 強制参加のイベントにするから」

今朝の会議では、まさにその拷問の段取りについて
話し合っていたらしい。なんて恐ろしい会議だ。

テレビは国内の殺人事件の話題に移っていた。
20代の父親が、乳幼児を激しく揺さぶって
死亡させるという、日本ではよくあるニュースだ。
この手のニュースは定期的に流されるな。

「ほんと頭悪いわね」

ママさんは不機嫌そうに鼻を鳴らす。
俺も同意だよ。

幼児の死亡パターンも首を絞める、体重をかけて殺す
など数種類しかない。その後、死体を遺棄するか。
もしくは自宅で息をしてない幼子を見つけて
通報されるのもおなじみのパターン。

野球で打者が三振したらアウトになるくらい、
決まり切っていることなのだ。

現在までにこの流れが止まることもない。
若者の行動は機械みたいに決まったパターンを
繰り返していてニュースにも飽きる。

「最近の若い人は困ったものね。あなたたちも
 ああならないように気を付けなさいよ?
 ちょっと喧嘩したら性格の不一致とか
 ぬかして離婚するパターンも認めないわよ?」

「はは……」

俺だけじゃなくミウも苦笑いしている。
時間軸では、つい今朝ミウがマリンを
殺したばっかりだ。別の世界から来た俺の娘をな。

日本の報道ではモンゴル・ナイフで子供を
殺した例はさすがにないだろうな。

「ミウちゃん。今日は口数が少ないわね?」

「そんなことないよ。普通だよ」

「太盛君と距離を取って座っているし、
 さっきから太盛君を横目でチラチラ見てるわ。
 今朝何かあったの?」

おい。ババア。俺をにらむのをやめろ。
何もしてねえ。正確には『俺は』何もしてねえよ。

「ママ。太盛様は何もしてないよ」

おっ、良いタイミング。俺の心を読んだのか?

「せまる、さま?」

「あっ」

カコさんが明らかに不審に思っている。
俺だって今でも戸惑っているよ。
同い年の人を様付けとか普通じゃないよな。
そういえばエリカも俺のことを太盛様と呼んでいたな。

俺が無理やり呼ばせているとクラスの奴らに誤解されたら嫌だな。
たぶん悪い噂は山ほど立っているんだろうけど。

「私は自分の意思で太盛様とお呼びすることにしたの」

「ミウちゃん。変なものでも食べた?」

「違うよ。私は太盛様のこと尊敬しているの」

「そう。尊敬しているのね。それは分かったわ。
 昨日までは太盛君だったのに、
 今日から態度がころっと変わったのはどうして?」

「太盛様は、私のご主人様だからです」

ババアは変質者を見る目で俺を見た。

「あなた、私の目の届かないところでミウを調教した?」

「逆にどうやってするんですか?
 俺の方が立場が弱いことは、あなたもご存知ですよね?」

「……納得できないわ。私は分からないことは
 分かるまで追求しないと気が済まないの。
 太盛君をしばらく尋問させてもらってもいいかしら?」

このばあさんは、クローゼットの奥にある
拷問器具をごそごそと漁っている。
おいおい。何やってるんだ。
早くこの馬鹿を止めないと拷問されちまう!!

「太盛様に何をするつもりなの!!」

「きゃっ」

ミウがママさんを突き飛ばしたのだった。
転んだママさんは、驚愕して
すぐに起き上がれないでいた。

「ミウちゃんに突き飛ばされたのは反抗期の時以来ね。
 あの時のミウちゃんは学校から帰ってくるたびに
 イライラしてて、すぐ物にあたっ…」

「そんなこと、今はどうでもでしょ!!
 さっき太盛様に尋問するとか言ってたけど、
 そんなの私が許さないから!!」

「別に許さなくていいわ。もうそんな次元の話じゃないのよ。
 学園ボリシェビキ筆頭のミウを洗脳した『恐れ』がある。
 太盛君を住民会議へ連行して取り調べをする必要があるわ。
 その方が公平だしミウも納得できると思うから」

「どっちにしろ拷問するんでしょ!! だめだよ!!
 私は何があっても太盛様の味方だから、
 全力で阻止するよ!!」

「一度疑いをかけられた時点で手遅れね。
 太盛君に逮捕状を出すわ。
 ミウはボリシェビキの鉄の規則を忘れたの? 
 それに将来の旦那様は今のうちから
 正しいボリシェビキとして教育しておかないと」

「ボリシェビキ?」

「そう。ボリシェビキ」

ミウは息が荒い。目が泳いでいる。
明らかに動揺している。
俺には分かるぞ。

今の君は共産主義者でいることに耐えられないんだろう。
俺のことを主人扱いするってことは、使用人としての
高野ミウとしての君が戻ったということ。

君は、短期で怒りっぽいけど、根が優しくて
真面目な人間だ。明るくて前向きで、
ジョークを言うのが好きな、
ヨーロピアンな性格をしていた。

落ち込んでいる俺をはげましてくれたり、
双子の娘たちの教育係もしてくれたし、
遊び相手になってくれたりした。

「ミウも取り調べの対象にした方がよさそうね」

「は?」

「今ミウちゃんの目が泳いだでしょう?
 重要な話し合いをしている最中に目をそらしたり
 する人は、その時点で反革命容疑がかかるわ」

ママさんは住民会議へ電話をかけていた。
その携帯、日本では見ないタイプだな。
ノキア? 聞いたことがある。
欧州では超有名なフィンランドの一流メーカーらしい

「マ、ママ……? 私はママの娘だよ? 
 大事な一人娘だよ?」

「私は同士レーニンと党のために忠誠を誓った。
 疑わしい者は身内でも罰しろとレーニンはおっしゃった。
 私は、この国の未来のためにあなたを取り調べさせて
 もらうだけ。大丈夫。
 ミウちゃんが無罪になる可能性もゼロではないから」

まったく無意味な取り調べだ。
過酷な拷問の末に適当な容疑を自白させ、
檻の中に閉じ込めるつもりなんだろうが。

レーニンの死後、スターリンが政権を握ってから
ドイツとの開戦まで実行していた拷問はずっとそれだったらしい。

拷問された人は、苦しみから逃れるために
関係ない人の名前を自白してしまい、
その人に『スパイ容疑』がかかり、また拷問される。

その無限ループで、国民が殺されていく。
(最後は銃殺刑)

なんと、戦争開始前に赤軍将校の多数を粛清したほどの
キチガイ国家だ。1930年代から50年代までに
粛清した国民の総数は『70万人』だといわれている。

(太平洋戦争前に中国大陸に駐留していた、
 日本の関東軍の総数が70万だった)

その危険思想に侵された高野カコは、
ソ連人の末裔と言っても過言ではない。

ピンポーン。

鳴ってはならないチャイムが鳴った。
住民会議の奴らが来たんだろう。

「こんにちわー」

いやに明るい声だな。ごつい男が
来るのかと思っていたが、若い女の子だ。

「住民会議の命により、
 高野カコを逮捕しに来ましたよぉ☆」

待て待て。色々と間違ってないか?
逮捕される対象が高野カコ?

厳格なボリシェビキが
そんな間違いをするとは思えないが。

「あなた、このマンションの人間ではないわね。
 ふざけてるつもりなら、すぐに通報して……」

高野カコはそれ以上続ける前に、
首に重い一撃を食らい、その場に気絶した。
今の手刀、目に見えないほどの速さだった。

「このおばさんは邪魔だから
 玄関の外に出しておきます」

そこにいるのは斉藤マリエだった。
失語症になる前の、明るい性格だったころの斎藤だ。

「あぁ……うそだと言ってよ……」

ミウは床にぺたんと座り込んでしまった。

斉藤はそんなミウが面白いのか、
近くによって楽しそうに話しかけるのだった。

「ミウ先輩、ひどい顔してますよ。
 私がアポなしで遊びに来たから、
 びっくりして腰抜かしたんですか?」

「い、いやぁ。それ以上近寄らないで」

「あれれー? どうして距離を取るんですかぁ。
 さみしいじゃないですか、ミウせんぱーい」

ミウは震えながら後ずさりをしている。
恐怖のため立ち上がることも出来ないので、
ハイハイして逃げていた。

マリーはニコニコしながら追いかける。
追いかけっこをしている心境なのか、
悪びれた様子は全くない。

「来ないでよおおおお!! 
 お願いだから来ないでええ!!」

「私、こんなに嫌われてたんですか。
 ちょっとショックです」

今度は俺の方を向いたぞ。
マリーは笑顔を全く崩さない。

「まあいいや。それじゃあ太盛先輩。
 私に何か言うことはありませんか?
 私はミウ先輩が住民会議に
 逮捕されるのを阻止しました」

この子の笑顔の裏には、暗い感情が混じっているのだろう。
外見は斉藤マリエでも、中身はマリンだ。
今回は失語症前のマリエの姿で現れたのか。
はっきり言って趣味が悪い。

俺はこの当時のマリエに恋心を抱いていなかった。
ミウはまだ友達だった。あの6月から7月にかけての
熱い季節。肌にまとわりつく汗。じめじめした空気。
三人で歩いた田園風景、ローカル線。俺の家までの道のり。

嫌でも思い出してしまう。

むしろ思い出させようとするのがマリンの狙いなのか。
だが、なぜ今更? マリンの真意が読めない。
 
マリンはミウに殺意を持っているとユーリに教えられた。
明確な殺意だ。
ここで俺が受け答えを間違えれば、ミウが殺される。

「ありがとうな。マリーは優しいし、
 気が利くから、いてくれると助かるよ」

「やっぱりそうですよね☆ えへへー。
 太盛先輩に褒められちゃいましたぁ。
 もっと褒めてくれるとうれしいです」

「よ、よしよし。こっちにおいで?」

恐怖心を表に出さないように細心の注意を払う。
マリエの肩を抱き、こっちに引き寄せた。
ハンドボールくらいの小顔を俺の胸に当てて、
後ろ髪を撫でてあげる。

まるっきり子供をあやすような動作だが、
たぶんマリーはこういうのを望んでいるんだと思う。
見た目は高校生でも中身は俺の娘だ。

「先輩とずっとこうしていたいです」

やはりそうか。

「俺もだよ。マリー。君とこうしていると、
 なんだかなつかしい感じがするよ」

「そうですね。でも先輩には最近お会いしましたよね?」

「……収容所三号室のことかな?」

「学校じゃないですよ。学校でしたら、
 地下の拷問室が一番記憶に残ってますけど。
 あのまま本当に拷問されるのかと思って、怖かったですぅ」

まずい話題になっているぞ。
俺はマリーを抱く力を強くして、甘い言葉をささやいて
うやむやにしようと思ったが、ダメだった。

「もっと他の場所でお会いしたじゃないですか」

「えっと、会議室かな? 携帯を返してもらった時の」

「違いますよ」

「じゃあどこだい?」

「外国に決まってるじゃないですか」

マリーは、顔だけがミウの方を向き、
怒りが込められた低い声でこう言った。

「ミウさんはモンゴルで私を刺し殺しました。
 忘れたとは言わせませんよ?」

この一言は決定的だった。
この少女の正体は堀マリン。俺の将来の娘。
ユーリの言っていたことは真実だった。

「私、結構根に持つタイプなんですよねー。
 やられたことは百倍にして返さないと
 気が済まないんですけど」

「ひっ……ごめんっ……なさい……マリン様……」

「マリンって誰のことですか?
 私は斉藤マリエですけど?」

「すみません。マリエ様……」

「そんな、思ってもないのに様、 
 なんてつけなくていいですよ。
 ミウ先輩が文字通り殺したいほど私を
 憎んでいたのはよく分かりました」

マリーが大きく目を見開いてミウを見つめた。
するとミウの動作が止まった。
ドアノブに手をかけて、玄関から逃げようとしていたが、
そのままの態勢で動かない。正しくは動けないんだろう。

「どうやって苦しめてあげようかな♪」

マリーは包丁や果物ナイフを探している。
まずい。ここまで事態が悪化してしまうとは。

ミウは生まれてきたことを後悔するほど
拷問されてから殺されるに違いない。

「お、俺の大好きなマリーはそんなことしないよな?」

「いけませんか? 復讐する権利はあると思いますけど」

「ミウも反省してると思うし、勘弁してやってくれないか?」

「あはは。さすがにそれはちょっと無理かなと」

「マリー。俺からの一生のお願いだ」

「だから無理ですって」

マリーの目が、今度は俺の動きを封じてしまった。
なんだこれ? 手と足が棒みたいに硬直した。
しゃべることもできない。

一応呼吸はできるが、自由に動くのは目だけだ。
指先一本に至るも神経が通ってないかのように
動かなくなってしまった。

「先輩のおびえている顔も貴重ですね。
 写メとってもいいですか?」

俺は、何も言い返せない。

「口は動かせるでしょ?」

……あ? 確かに動くぞ。

「先輩は私のすることにいちいち反対しなくていいです。
 私は、普段は明るいけど、切れたら性格変わっちゃうんで
 気を付けてもらっていいですか?」

「すまなかった」

「うふふ。分かってくれて良かったぁ」

マリーは、ミウの手を後ろ手に縛り上げた。
こういう道具は、リビングのクローゼットの中に入っている。

クローゼットは母と娘の部屋にもあるので、
この部屋の分は余計らしい。
本来は物置として使っていた部分を、
拷問道具入れにしたそうだ。

「お顔洗いましょうね。ミウ先輩?」

ミウは、洗面所まで連れて行かれた。
俺は体が動かないが、視線だけ洗面所の方へ向いた。

壁が死角になっていて、洗面所の様子が分からない。
水道の勢いよく流れる音。ミウの小さな悲鳴。
マリエの鼻歌。小鳥のように歌う。

「いきますよー」

「んーーーーー!!」

ぶくぶくと、泡の吹く音が聞こえる。
まさか、マリーは水責めをしているのか?

「太盛先輩も見に来てください」

バカな……。俺の足が勝手に動き始めた。
ロボットみたいにカクカクした動作だ。

洗面所まで移動させられると、
なんと水を入れた洗面器に
ミウが顔を突っ込んでいるところを目撃した。

後ろ手に縛られた手が、ぴくぴくと震えている。
マリエは、ミウの後頭部をしっかりつかんで
抵抗できないようにしていた・。

やめろ。そのままじゃ死んじまうぞ!!

「ぷはっ!!」

ミウが解放された。

「げほっげほっ。げほげほげほっ。げほげほっ」

「また行きますよ?」

「~~~~~!!?」

休んだ時間は10秒もなかった。

咳をしている最中のミウはまた洗面器の中に
顔を突っ込まれ、その中でさらに咳をしていまい、
貴重な酸素が泡となって噴き出て行くのだった。

ミウの手の震えが大きくなった。

ミウはもともと動きを封じられているのに、
さらに両手を縛りあげる必要が
あったのだろうか。縄が手首に食い込むほど
きつく縛り付けてある。

「自由に動けるようにしてありますよ。
 だから手が震えてるんでしょ?」

なに……? どおりで手首から血がにじんでるわけだ。
手の部分だけでもミウが抵抗してたわけか。

マリエは残酷なことに、ミウの長い髪をむしるようにして
つかんでいた。今になって気づいたが、
ミウの両足にも手錠がかけられている。
あの状態ではどうやっても逃げられないな。

「ぷはぁ!!」

またミウの顔を上げさせた。

「はぁーはぁーはぁー……」

急いで呼吸をするミウ。
今のうちに少しでも酸素を吸っておかないと。
そう思ったのだろう。

だがマリエは鬼畜だった。

「う」

ミウのお腹に肘鉄を食らわせた。
せっかく呼吸できたのに、みぞおちに
入ったせいで酸素が逃げてしまった。

「この状態でまたどうぞ」

「ぅ!! ぅー!! むー!!」

洗面器の中から、ミウのむなしい声が漏れている。
必死で出した声なんだろう。

今回は本気で殺すつもりだったのか、
たっぷり30秒もかけてやりやがった。

最後の方は、ミウはぐったりして、
何の反応もしなくなっていたぞ。

「はぁーはぁー!! げほっ。はぁーっ」

「あはは。あははは。面白い顔してる。
 生きるのに必死なんですね?」

人が苦しんでる姿を見てなぜ笑えるんだ。
俺はマリンに殺意さえ抱いた。

「なぜ笑えるって、この女に限っては
 今まで自分がやってきたことの報いです。
 この女は私以上の鬼畜だったのを忘れたんですか?」

バカな。……口に出した覚えはないぞ?
なんで俺の心の中が読まれているんだ?

「人知を超えた力ってやつです。
 私はいろいろな力が使えますから。
 それより太盛先輩に殺意を抱かれたのはショックだなぁ」

「君はミウを殺すのか?」

「そのつもりです。そのあとに太盛先輩も
 殺してあげましょうか?」

俺まで殺す? その発想はなかった。
俺を手に入れるのが目的なんじゃないのか?

「簡単なことですよ。ミウを殺したら
 先輩は私を憎むでしょう? 
 だったら初めからみんな死ねばいいかなと。
 もちろん最後に私も死にますよ」

「それがきかっけでこの世界は終わって、
別の世界が始まる?」

「理解が早いですね」

「俺の推測だが、君はこっちの世界では斎藤マリエとして
 存在している。マリンになれるのは、モンゴルとか
 あっちの世界だけなんだろう?」

「ご名答です。ですが、あくまで現段階ではですね。
 人生にルールはありません。決めつけていると、
 あとで痛い目を見るかもしれませんよ?」

「どんなことでも起こる世界なのは、
 俺もよく分かっているつもりだよ。
 君が今こうしてここにいることも含めてな」

この会話で少しは時間稼ぎになったと思う。
ミウが少しでも楽になればいいのだが。

「いいえ。もう死んでますよ」

「え…?」

ミウは洗面所の床に倒れて事切れていた。

顔色はまさに死人。目を見開き、口も大きく開けている。
ふり乱した髪が、その無残な顔を覆い隠しているのだった。

高野ミウが死んだ……?
バカな。洗面器から解放された
時点では生きていたじゃないか。

「先輩に質問です。私はどうやってミウを
 殺害したのでしょうか? 正解は、
 天井裏に隠された毒ガスを、彼女の口の中に
 集中的に散布するという裏技でしたぁ☆」

こいつは何を言ってるんだ?
裏技とかぬかしてるが、まさに人知を超えた技だ。
要は何でもありなんだろう。
神様の力でも借りているのかよ。

殺害方法なんか、どうでもよくなった。
ミウが死んだ。この事実が一番大切だ。

「くたばれ」

「え?」

「くたばれって言ったんだ。このクズ。
 よくも俺のミウを殺しやがったな?」

俺は目を細め、出来るだけの殺気をマリエに放った。
俺じゃ迫力が足りないかもしれないが、
マリエは目をつまらなそうにそらした。

「はぁ……」

なぜ溜息?

「太盛先輩も殺していいですか?」

「やるならやってみろ。俺は抵抗しない。
 別の世界に飛ばされても必ずミウと結ばれる」

「あっそうですか。よいしょっ」

マリーはミウの亡骸の上に腰かけた。
座り心地が悪い椅子だね、と言っている。
腐れ女が。死者を冒涜するんじゃねえ。

「ひとつ聞きたいんですけど、太盛先輩は
 ミウに電気椅子で拷問されました。
 そんな鬼畜女を彼女にしたいって
 普通思いませんよね?」

「恨まないと言えばうそになる。
 だが人は過ちを犯す生き物だ。
 悔い改める機会はたくさんある。
 現にミウは俺に謝ってくれたぞ。
 俺たちは辛い過去を乗り越えないといけないんだ」

まだ聖書なんて信じてるんですかと、
奴は鼻で俺を笑った。マジでムカつくな。

俺からしたら、信仰心のない奴は
犯罪者予備軍と同じだよ。
言い返してやりたいけど、我慢しよう

「そこまでミウに執着するなんてドン引きです。
 前はユーリ。今度はミウ。
 先輩はメイド好きなんですか?」

「……ユーリにはモンゴルで会ったときに
 振られたよ」

「今朝のことですね。何て言われたんですか?」

「あんた以上に、あんたの周りにいる女が
 邪魔してくるのがうざい。生まれ変わっても
 あんたの隣にはいたくない。ミウとお幸せに」

「ショックですか?」

「そうでもないよ。
 俺みたいな馬鹿じゃ振られて当然だろう。
 未来の俺も今の俺以上にバカだってことだ」

果てしないほどのむなしさが襲ってきた。
ユーリに振られてショックじゃない、わけがない。
本気で愛した女性だったんだぞ。

国外逃亡するのがどれだけ勇気のいることだったか。
まあ娘のマリンも追いかけて来たから怖さは知っているか。

とにかく。こいつと話すことなど何もない。

俺は、赤外線センサーの張り巡らされている
このマンションの設備を生かすことにした。

さっきマリエがカコを玄関の外に出した時は
作動しなかったが、神通力でも
使ったからセーフだったのだろう。

俺は窓に殺到し、無理やりカギを開けて
自然の風を入れようとした。

やかましいサイレンの音が鳴る。

天井の一部が解放され、毒ガスが散布される。

「ぐ」

目が……痛い。
焼きつくように痛い。
実際に焼けているんじゃないのか?

目をこすると痛みが増すので、
行く当てもなくさまよい、床に転がった。

からし、を思わせる匂いがする。
鼻にツーンとくる香りだ。

「がはっ……ごほごほ。げほげほっ」

「お父様。ガスマスクが二人分ありますから、 
 お使いになって」

もう遅いよ。おそらく致死量のガスを
吸い込んでしまっている。苦しくて息を
吐き出すと、さらに多くのガスが肺に入ってくる。
この悪循環で俺は力なく床に倒れるのだった。

痛い。受け身が取れなかったので右腕を
ひねってしまったが、それより
呼吸ができないことが怖い。
俺はもう二度と新鮮な空気を吸えないのか。
目も激痛のため開かない。

光を奪われた状態で俺は野垂れ死ぬのか。
自分で選んだ自殺方法だが、こんなに
みじめな死に方だとは思わなかった。

毒ガスを開発した奴に文句のひとつでも
言いたくなる。だめだ……。手足の先が
痙攣しているのが分かる。意識が遠のいていく。
水が飲みたいよ。水が。母さん…。

「私はもっとお父様とお話がしたかっただけなのに」

そいつがマリエなのかマリンなのか分からない。
口調からするとマリンなのだろう。

「次は今とは違う出会い方をしましょうか。
 望みさえすれば叶う世界なのですよ」

俺を膝枕し、優しく頭を撫でてくれた。
俺が覚えているのはそこまでだった。

不可解な現象

~高野ミウ~

時刻は5時半ちょうど……。
私の体内時計は正確だ。
目覚まし時計が鳴る前にスイッチを押した。

部屋に光を入れるためカーテンを開ける。
どうやら予報は当たったようだ。
天気は氷点下。みぞれが降っているけど、
積もる雪にはならないとのこと。

今日が冬休みでよかった。こんな日に登校なんてダルすぎる。
私は汗っかきだから夏の方が苦手だけど、冬も冬で何もする気が起きない。
この地方は北関東の平野部に近いからか、雪がめったに降らない。
群馬の山沿いでは毎年積雪があるらしいけどね。

どのくらい寒いのか確認するために窓を空けてみる。

「さむっ。もう少し寝させてくれよ」

太盛君が私の隣で寝がえりを打ちながら言いました。
彼の目覚まし代わりになっちゃったか。
疲れてるのに起こしちゃってごめんね。

「疲れてる……?」

その言葉が引っかかったのだろう。
太盛君は布団をはいで跳ね起き、
手品師のような手つきで自分の顔や体を触り始めた。
生きているのが不思議でしょうがないって感じだね。

うん。私も目が覚めた時はそう思っていた。
でもね。マリンに殺される時に、絶望と苦しみの中で
心の中ではこう思っていた。

どうせまた明日が始まる。
何事もなかったかのように
私たちの日々は続いていく。

これだけの超常現象を見せられたら
神の存在を認めるしかない。

ボリシェビキでは神への信仰はタブーだったけど、
(ソ連は無宗教国家)それはもう過去のこと。

死後も人の魂は消えないと聖書には書かれている。
肉体だけが滅びて精神だけは残り続ける、という意味。
聖書だけではなく、ユダヤやイスラムも信じている神様は同じ。
地球人口の過半数は経典の民で占められている。

私と太盛君はどうしてここにいるの?
この肉体は本物なの?
生きていた時と全く同じ感触がするけど。

目を閉じ、胸に手を当てると、
確かに心臓が動いている。
血液は体中を循環している。
これは間違いないと思う。

だから生きているとしか思えない。
実はすでに死んでいて、あの世で生活しているのかな。

「ここはどこなんだ? 本当にミウの部屋なのか?」

彼が私と全く同じ疑問を持っていることを
多少滑稽に思うけど、うれしさの方が強い。

この世界は狂っている。私達は狂った世界に身を置いている。
私達が混乱してしまったら、ますます世界に飲み込まれる。

こんな時こそ冷静に物事を観察するしかない。
私はボリシェビキとして生徒会で教育を受けた。
物事を客観的に処理するように訓練された。

人の世は理不尽の繰り返し。
人は支配者と被支配者に分類される。
マルクスは人類史を階級闘争の歴史とした。
支配者は資本家。被支配者は労働者(賃金奴隷)

学園での私は支配する側だった。なのに今は逆。
何者かによって運命を左右されてしまっている。

掘マリン。数々の超常現象を引き起こす娘。
私はかつてこの女に使用人として仕えていた。

恐れたら負けだ。どんな事にも理由がある。
そしてその理由をしっかりと把握し、分析し、処理する。
理性と科学によって未来を導く。
私はそのために学校で勉強を続けて来た。

でもこの事態は、どうやっても処理できそうにない。

私は確かにマリン様に殺された。
死んだ時の痛みさえ、まだ鮮明に覚えている。

手鏡で見る私の顔は、健康そのもので、
特に何の以上も見られない。

何もなかった

としか思えない。

「おはよう。ミウちゃん」

マリン様が、私の部屋の扉を開けた。
早朝から上機嫌なのか、
くすくすと笑いながら私と太盛君を見ている。

「太盛君も起きているの?
 ミウちゃんの真似して早起きなのかしら」

「私が起こしちゃいました。
 外でみぞれが降ってたから、
 窓開けちゃって」

「そうなのね。二人とも起きているなら
 ちょうど良かったわ。もうすぐ朝ご飯が
 できるから、着替えてから来なさい」

そう言い残して出ていった。さっきの会話の間、
太盛君は、石のように固まっていた。
エプロン姿で主婦として振舞うマリン様をみて圧倒されていた。

私も激しく疑問に思うよ。私のママはどこへ消えたの?
なぜマリン様がこのマンションに当然のようにいるの?

まさかとは思うけど、あの姿で高野カコだと言い張るつもり?
いくらなんでも若すぎない?

マリン様は、マリン様として表れている。
斉藤マリエじゃない。
小学4年生、9歳としてのマリン様。
身長は当然低い。

どっちにしても、
奴が私の母の振りをしているのが許せない。
殺意さえ感じる。

「太盛……君だと?」

そこもポイントだよね。お父様じゃないの?
マリエだったころは太盛先輩とか太盛さんだった。
呼び捨てにしている時もあった。

奴は母親の振りをしている。
何が狙いなのか、さっぱり分からない。

「午後からは雪に変わる地域もあるそうよ。
 寒い一日になりそうね。用がないなら
 外出はしないほうが良いわよ」

キッチンに立ち、炊事をしているマリン様。
まな板の上の包丁が規則的な音を立てている。

家庭料理をいつ覚えたの。
お屋敷時代は勉強とピアノばかりで
家事なんてしなかったくせに。

鍋の上でお味噌をといている。
だけどその後ろ姿は全く様にならない。
奴は同年代の子より小柄だ。
踏み台の上に乗って炊事をしている。

なんで子供がキッチンに……。
違和感しかない。不愉快。
こんなの高野家の日常じゃない。

「お皿運ぶの、手伝いますよ」

「ありがとうね。助かるわ太盛君」

太盛君が気を利かせて、豚の生姜焼きとレタス、トマトが
盛られた皿をダイニングのテーブルへ運んでいく。

肉の盛り方がすごい。いつもの倍もあるよ。
しかも朝から肉。私をどんだけ太らせるつもりなの。
冬休み中なんだから白米も少なめでいいよ。

お味噌汁は豆腐とわかめだった。
これも具だくさんで、豆腐がすごい入っている。

デザートに、フルーツポンチ?
フルーツミックスの缶詰が空けてあるから、
ヨーグルトと混ぜて作ったんだね。

これも一人当たりの量が多すぎる。
ファミレスと比べると二倍以上はある。

確かにうちのママも朝ごはんは気合入れて作っていたけど、
作ってるメニューは違う。当然だ。赤の他人が作っているのだから。

今、朝の時6時17分。
マリン様は何時から起きて朝ご飯の支度をしていたんだろう。
学校がない日なんだからゆっくり作ればいいのに。

「鍋の油汚れをキッチンペーパーで拭いておきますね」

「太盛君は席に座っていていいのよ?」

「いえ。そういうわけにはいきません。
 朝早くから作ってもらっていますので」

マリン様は、率先して手伝う彼を
微笑ましく見つめながらも、
少し顔を険しくしてこう言った

「太盛君。さっきから気になったんだけど」

「はい」

「敬語はいらないわ。だって私たちはもう家族なのよ。
 家族には敬語は使うべきじゃないって
 太盛君が言ってたわよね?」

「分かったよ」

太盛君は、さらっと答えた。
えー。何か疑問とか浮かばなかったの?

奴が高野カコの代わりを演じていることが、
すでに異常じゃない。
このまま普通に生活を送るつもりなんだろうか。
私はこんな得体のしれない奴と朝ご飯を食べたくない。

「いただきましょう」

奴が仕切る。席順も前と同じだ。四人掛けのテーブル。
私と太盛君が隣。奴は太盛君の向かい側。

これが家族のつもりなの?

偽物で、嘘っぱちで、何一つ納得のいく
説明もされてないのに……!!

「市販の焼き肉のたれで味付けしてあるのかな。 
 焼き加減もいいし食が進むね」

「うふ。お口にあってよかったわ」

マリンは楽しそうに、太盛君は無表情で食べている。
太盛君が奴に気を使っているのがバレバレだよ。
奴もそれが分かって話しているんだろうけど

「俺は、あなたのことをどう呼べばいいのかな?」

「ママでも、マリンでも、マリエでも
 好きに呼べばいいと思うわ」

「俺はあなたにとってどういう存在なのかな。
 俺の立ち位置は子供ってことになるのか?」

「義理の息子でもあり、赤の他人でもあるわ。
 時によっては私の一個上の先輩でもあり、
 実の父親でもある」

「それじゃ、よく分からないじゃないか」

「そうね」

朝からなにこの茶番。突っ込む人がいなくて
永遠とボケが続く漫才を見ているようだ。

太盛君はご飯と焼き肉をどんどん平らげてしまう。
猫舌だから熱々の味噌汁を慎重に飲み干してから、
いったん箸を置いた。

「君に質問したら怒られるかと思って、
 最初は聞かないつもりだったんだけど」

「あらそんなことを気にしていたの?
 どんなことでも怒らないから安心しなさい」

太盛君は深呼吸してから、端的に質問した。
その質問はまさに核心をついていた。

「高野カコはどこへ消えた?」

「少しの間、退場してもらったわ。
 あなた達と生活するのに少し邪魔だったから」

「殺したのか?」

「いいえ。退場よ。この部屋から退場という意味で
 ちゃんと生きているわよ。あの人は管理人の部屋で
 過ごしてもらっている。もちろん管理人さんには
 許可をもらっているわ。嘘じゃないわよ?」

「疑ってはいないよ。次の質問だが、君のしゃべり方に
 違和感がある。君は俺の娘のマリンだろう? 
 その姿で母親の振りをするのは無理があるぞ。
 俺はすごく抵抗がある」

「あなたはどうしてほしいの?」

「君がどんな姿で現れようと、俺は君の父親だ。
 だから君がミウの母親みたいに話すのは好きじゃない」

「私だってそうしたいけど、そうしたら
 またミウちゃんが怒るんじゃないの?」

「ミウと殺し合いになるのが嫌で、高野カコのふりを?」

「実はそうなのよ。私だって殺されるのは嫌だもの」

太盛君は、黙ってはしを口に運んだ。
マリンも空気を読んだのか、無言で食事が進んでいく。

なんて空気の重さ。太盛君がイライラオーラを
発していて、こっちまでストレスマッハだよ。
胃の奥がキリキリと痛んで食欲が出ない。

寝起きだから余計にね。
太盛君はお肉を残さず食べたんだからすごい。

「俺は大食いだし、こういう時こそ栄養をどんどん
 取らないと頭が回らなくなっちゃうからな」

彼は自嘲気味に笑う。
せめて会話する時は私の顔を見てよ

「ふぅ。お腹いっぱいになった。マリンちゃん。
 お茶をもらえるかな?」

「はい。ただいま」

奴は席を立ち、急須にポットのお湯を入れた。
美味しいお茶を淹れる時は、一定時間急須の中で
蒸らしてからするんだって。

ママは茶葉にこだわっていた。
英国暮らしが長かったから、茶にこだわりがあるそうだよ。
帰国してからは紅茶よりも日本茶が好きになった。

マリンもそれを受け継いで、いちいち手間のかかる
淹れ方をしている。不愉快だからママの真似をしないで。

「ミウはお茶のお分かりはいる?」

「けっこうです」

私は突き放すように言った。

「すみませんが、食欲がないのでおかずを
 残しますね。ご飯の盛り方も少し多かったです」

「あらそう。気を利かせたつもりだったんだけどね」

「最終的に私を殺すのが目的なら、
 食べ物に毒でも入れたらどうですか?」

「何の話?」

マリンは涼しい顔で太盛君の湯呑にお茶をそそいだ。
真っ白な湯気が立つのが、妙に幻想的だ。
茶は深みがあって良い色をしている。

マリン様は作法ができているから、
いちいち動作に品がある。悪く言えば気取っている。
男に媚を売って女に嫌われるタイプって感じ。

「とぼけたって無駄です。あなたの正体が
 殺人鬼なのは知ってますから」

「だから、何の話をしているの?」

「はっきり言えって言ってるんだよ!!
 ここは私の家なんだけど!!」

「食事中に唾を飛ばさないで頂戴。
 マナーが悪いわよ。ミウちゃん」

普通の性格だったら極上の美少女ってのは、
使用人の間の定番の陰口だよ。

「ミウ」

「なに? 太盛君」

「今はその話はいい」

遠回しに私に黙れと言ってきた。

どうして? 腹の探り合いをしても時間がもったいない。
どうせ最後はまた喧嘩して殺し合いになるに決まってる。
だったら初めから白黒つけたほうがいいのに。

「ところで」

太盛君は涼しい顔で言った。

「ミウは俺を君付けで呼ぶようになったな」

「あっ、すみませ…」

「かまわないよ。こっちのほうがよっぽど落ち着く。
 君は一度殺された影響で記憶がリセットされたんだな」

言われるまで全く気付かなかった。
そうだ。昨日の私は太盛様と呼んでいたのに。
忘れっぽい自分が恥ずかしくなってきた。

「ごめん。自分の部屋に戻ってるね」

「まっ…」

太盛君の静止の声も聞かず、ダイニングをあとにした。
太盛君といると恥ずかしさに耐えられない。
それにマリンにイラついてまた殺したくなっちゃう。

あの二人が親子のふりだとしても、普通に言葉を
交わしているだけで嫉妬してしまう。
朝食の間、私が何度キッチンの包丁を手に取ろうとしたことか。

激情にかられたら、まず引け。
いったん落ち着いてから冷静に作戦を考えろ。
ナツキ君からよく言われた言葉。短気は私の欠点だ。

ここで怒ったりしたら、また奴の思うつぼになるのは確実だ。

ベッドで横になる。特に何もすることがない。
レースのカーテンをわずかに開き、
窓の外を除くと、みぞれだったのが曇りに変わっていた。

窓越しでも空気が冷たく、張り詰めているのが分かる。
本当に冬休みでよかった。

今日はあの日でお腹がゴロゴロするから、
余計にやる気が起きない。一日中ベッドで寝てようかな。
でもこういう日は血行が悪くなっているから、
軽く体を動かした方がいいらしいけど。

「ミウ。いるのか? 俺だ。太盛だけど」

不機嫌な私に気を使っているのか、
扉を遠慮がちにノックしている。
私が鍵かけているから開かないんだよね。

「なに?」

「心配だから様子を見に来たんだ。
 君の気持ちは痛いほどよく分かる。
 そんな時こそ俺に相談してくれよ。
 一人で抱え込むと悪循環に…」

「ごめんね。今は一人にしてほしいの」

私は愚かにも彼の言葉を途中でさえぎった。
ごめんね。あなたに恨みはないけど、
今は心に余裕がないのよ。

太盛君は少し間を置いてから、
分かったと言って引き返していった。

太盛君の声がどこかさみそうだった。
本当にごめん。
ダイニングにいるとマリンの顔を見ることになる。
奴が視界に入るだけで自分を抑えきれなくなる。

私がこの部屋にこもればマリンの相手をするのは
必然的に太盛君。面倒な役を押し付けちゃって悪いとは思うけど。

目を閉じたが、起きたばかりでは眠気は襲ってこない。
何気なくスマホを手に取る。

ラインでナツキ君に愚痴でも送りたくなる。
困った時はどんな時でも相談に乗ると、
彼は優しく言ってくれた。

でも送る気にならなかった。

今私の身の回りで起きていることは、
ボリシェビキが最も嫌う超常現象の一種。
神様の力が働いているとしか思えない。

橘エリカ……。なんで奴の名前が私のラインに?
勝手にエリカの名前を登録したのは誰?
あんな奴、存在自体を消してしまいたいのに。

昔の私だったら、気に入らない奴には容赦しないよ。
私はボリシェビキ。共産主義左派。
レーニンの思想を受け継ぐもの。

他にも知っている名前がある。
エミ? そういえば私の友達だった人だ。

だった、と言うのは、彼女が反共産主義者だから、
思想的には私の敵ってことになるの。

夏休み以降は連絡を取ってない。
向こうが心配して何度かメールが
送られてきたけど、スルーしている。

冷たい女だと思われてるだろうけど、正直言って
太盛君の元彼女というポジションも気に入らない。

過去を振り返る。
私は、数え切れないほどの人を逮捕して処罰した。

『ミウ様、ほ、本当にやるつもりですか!? お慈悲を下さい!!』
『熱い!! 熱いよぉおおお!! 助けておかあさあああん!!』
『あぁ……俺の内臓があぁ、お腹からはみ出ちゃったぁ……あぁあぁ!!』
『ぐあああああああああああぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ』
『なんでもします!! ミウ様!! なんでもしますから私だけはぁ!!』

瞳を閉じれば、彼らの叫びが聞こえてくる。
私は容赦することは一度もなかった。自分で決めた拷問は
最後までやり通す鉄の意志を持っていた。

執行部の奴らには拷問中に気分が悪くなって吐いたり、
良心の呵責に耐えきれず、任務を放棄して逆に
自分が反革命容疑者になってしまう人もいた。

囚人が拷問されると分かった時の、あの恐怖にひきつった顔。
拷問が進んでいくと恐怖に頭が支配されつつも、まったく
抵抗できないことへの恨みで悔しそうな顔をする。
あの悔しそうな顔が最高に好きだった。

私は自尊心が強いタイプなんだと思う。
人に認められて、恐れられて、服従されて満足する。
SかMかでいうと、ドSなんだろうね。

気が付いたら寝ていた。

窓の外を開けると、かなり暗くなっている。
半日以上寝るなんてめずらしい。
おかげでうそのように頭がすっきりしている。

不安やイライラもある程度は睡眠で解消できるんだから、
本当に睡眠って大事だよね。
うつ病も不眠から始まるって聞いたことがある。

喉がカラカラ。暖かい紅茶でも淹れようかな。
朝ごはんをしっかり食べなかったからお腹すいた。
チョコの買い置きまだあったかなと思いながら、
ダイニングに足を延ばした。

「ミウが起きてきたらどうするつもりなの?」

「大丈夫。まだ寝てるだろ」

はは……。もう笑うしかない。

声が聞こえて来たのがお風呂場だったので
まさかと思って扉を開けたら、二人が普通にいた。

太盛君はマリンの両の手首を持ち上げて握り、
少し強引に唇を近づけていた。
抵抗を封じられている割には、
うれしそうな顔で彼の求めに応じているマリン。

人の家のお風呂で何やってるの……?
なんで二人とも楽しそうにしているの?

こんなの気持ち悪いし、見たくもない。
この世界の二人は高校生と小学生。
いろいろと間違っている。太盛君から誘ったの?
そこに至るまでの過程を説明してほしい。

てゆーか、私に気付きなさいよ!!
どんだけ二人の世界に入ってるのよ!!

「ミウ」

太盛君が私の名を呼んだ。

「さっきから怖い顔してるけど、大丈夫か?
 俺はたまには娘と一緒にお風呂に入ろうと思っただけだ」

カコじゃなくて娘なんだね……。
マリンの奴も太盛君を父親扱いしているようだ。
母親の演技は終わりにしたのか。

「そ、そうなんだ。へぇー。さすがロリコンさんは考えることが
 普通の人とは違うね。私だったら、小学4年生の娘を
 お風呂でレイプする旦那がいたら離婚するけどな」

「前の世界では、マリンは俺とよくお風呂に入ってたそうだ。
 娘が小学六年生くらいまでだったら、
 そんなにおかしくないだろ?」

「その年だと普通は一緒に入らないよ!!」

「う……」

太盛君がひるんだ。

私はカッとなるとすごい声量になっちゃうんだよね。
怒鳴るとすぐのどが枯れるんだ。

「私とお父様がどうしようと、親子のことですから。
 赤の他人が口出ししないでくれる?」

「あんた、人の彼になんてことしてくれたの……。
 あんたの方から誘ったんでしょ」

「主人に対してあんた? ずいぶんと口の悪いメイドね」

「黙れ!! あんたに私の気持ちが分かる!?
 自分の彼が小学生好きのペドだったなんて
 死にそうなほどショックなんだよ!?」

「そんなに死にたいのなら死になさいよ」

「ええ。死ぬわ。ただしあなたを殺してからだけどね」

「そこの女はこのように言っていますけど、
 お父様はどう思いますか?」

そこで太盛君に振るのか。

「とりあえず話し合いで解決するべきだろ。
 ミウが寝てる間にマリンと話し合ったんだけど、
 マリンは素直で良い娘だよ。
 ミウはちょっと怒り過ぎなんじゃないのかな?」

「……まさか太盛君、洗脳された?」

「俺はマリンとよく話し合っただけだ。
 マリンは俺と離れ離れになってさみしかったんだよ。
 俺たちはモンゴルで紆余曲折の末に死んだからな。
 何事も話し合いが大切だとは、良く言ったm…」

「そんなに話し合いがしたいなら、早くお風呂から出てよ!!
 汚らわしい!!」

そんなに怒ることか? 太盛君が小声で文句を言いながら
体をふき始めた。私は何気なく彼の裸を見てしまっているけど、
今はどうでも良かった。彼もマリンも、私が扉の前に
立っているのに、裸でいることに全く抵抗がないのがすごい。

「マリン。体ふいてあげるからな」

「はい。お父様」

バスタオルで髪や背中を拭いてあげている。
そういうの……やめてよ。

前の世界では親子かもしれないけど、
こっちの世界の太盛君の年齢だと
ただのロリペド野郎にしか見えない。

太盛君がエリカに付きまとわれても
最後まで付き合おうとしなかったのは、
好みのタイプが小学生だったからなの?

「早く髪を乾かさないと風邪を引いてしまいますわ」

「そうだね。こっちおいで」

太盛君が洗面台に立ち、
ドライヤーの風をマリンの髪に当てた。
手慣れている動作だ。マリンのセミロングの髪が
暖風を受けて揺れている。

マリンが一瞬だけ、勝ち誇った顔でこっちを見た。
くそ。また殺意が。

「お父様の髪も乾かしてあげますわ」
「自分でできるけど」
「遠慮ならさらず。しゃがんでください」

太盛君がその通りにし、マリンが膝立ちして
ドライヤーを操作した。身長差があるからね。
洗面台の鏡が、無表情で立っている私を映していた。

「のど乾いたな」「牛乳でも温めますか?」
「寝る前に飲むと太るらしいけど」
「たまにはいいではないですか」

何気ない会話がムカつく。これって私が嫉妬深いせいなの?

「あっ、牛乳切れてるじゃないか」
「あとで買いに行きましょう」
「紅茶でも飲むか?」
「そうですね。でもこの家は日本茶が豊富ですよ」
「なら日本茶にするか」

棚から茶葉を取り出すマリン。
なんか絵になっててムカつく。

存在がムカつく。太盛君の隣にいるのがムカつく。
だめだ。今にも爆発しそう。

「私の前でイチャイチャするの禁止だから!!」

太盛君はびっくりして湯呑を床に落としそうになった。
マリンが慌てて彼の湯呑をテーブルに置いた。

「急に怒鳴られると心臓止まるぞ」

「太盛君が悪いんだよ!! 私は太盛君の彼女なのに、
 すぐそうやって他の女と仲良くして、
 私を不安にさせて、疑い深くさせて!!
 こんなことして楽しい!?」

「娘とのスキンシップは良いことだと思うよ」

「なにがスキンシップ? 
 お風呂でキスまでしてたくせに!!
 このロリコン!!」

マリンが、彼の腕を取って私をにらんでいる。
そうやって彼女みたいな面をするのが腹立つ。

「マリンも嫌がってないんだから、良いじゃないか。
 君もマリンが俺の娘だってことは知ってるんだろ?」

「でも私は嫌なの!! そういうの見るとムカムカするの!!」

「気持ちは分からなくもないけど、束縛するのは
 やめてくれよ。これじゃエリカと変わらないじゃないか」

「エリカ?」

「エリカも俺とマリンが一緒の部屋にいるだけで
 怒鳴って来たな。レナといる時もそうだ。
 おかげで常に監視されて、心が休まる暇がない。
 同僚からは帰宅難民と呼ばれてな。家に帰るより
 会社で残業したほうがマシなくらいだ」

「太盛君、そこまで記憶が戻ってるの?」

「マリンと話して、いろいろと教えてもらったんだよ。
 ミウがこの世界に来た目的もよく分かった。
 だけどミウが共産主義者になったことは
 ショックだったな」

「口には気を付けてね。
 このマンションで共産主義を
 否定すると反革命容疑がかかるから」

「そうかな?」

太盛君は天井の監視カメラ(盗聴器付き)を
見上げ、中指を突き立てながら、
『ハロー。コミュニスト。ファッキュー』と言った。

コミュニストは英語で共産主義者のこと。

「ほらな。警報が鳴らないぞ」

「あれ?」

確かに鳴らない。普段なら住民会議の誰かが
監視役をしているから、すぐに警報が鳴って
男性達が取り締まりにくるはずなのに。

太盛君は涼しい顔で話を続けた。

「ミウ。俺たちは神様の起こす奇跡をこの目で見ている。
 俺と君がこの世界に存在することがすでに奇跡だ。
 君はそれでもボリシェビキでいるつもりか?
 この世の全ての神を否定するのか?」

「学校では……私は生徒会副会長。
 組織委員の責任者でもある。短い冬休みが終わったら、
 また学校生活が始まる。今さら簡単にはやめられないよ」

「( ´_ゝ`)フーン」

太盛君はお茶を一口飲んだ。
「あち…」猫舌なので、
もう少し冷ましてからじゃないと飲めない。

「なんで今顔文字使ったの?」

「文章で表現するより分かりやすいと思ったからだ」

「太盛君は私よりもマリンの方が大切なんだね」

「そうかもしれないな。正直君といると疲れるよ」

私は震えるほどのショックを受けた。
なんでこんなに意見がころころ変わるの?
マリンとモンゴルへ飛んだ時は、
私のことかばってくれたじゃない!!

「俺は資本主義者だから、
 ボリシェビキの女性とは
 考えが根本的に合わないと思うよ」

「じゃあ私がボリシェビキをやめれば
 好きになってくれるの?」

太盛君は、少し考えてから、
「それはどうかな」と言った。

「俺はミウのことが心から嫌いなわけじゃない。
 優しくて素直で顔も美人だし、俺の好みだ。
 だが、どこかエリカと似たところがあるよな。
 根が自分勝手なんだよ。俺を好きなように
 檻の中に閉じ込めようとしたがる」

「井上マリカさんが言ってたことが的を射てる。
 男は終われたら逃げたくなる生き物だ。束縛は逆効果だよ。
 モンゴルにいる時も、学園生活を送っている時も、
 俺は常に束縛されっぱなしだった」

「俺は疲れたんだよ。精神的にも肉体的にもな。
 そろそろ自由にさせてくれ。俺はマリンといると
 心が落ち着くことに気付いた。今日の午後は
 マリンと過ごせて楽しかったよ」

胃が締め付けられて痛くなる。ここ数日で色々な
世界を旅した私達だけど、太盛君が最後に出した
結論がそれってこと。最後は娘を取るのか。

「冬休みはまだある。3人一緒にここで過ごそう」

「子供を連れて出て行っても構わないけど?」

「生徒会長殿と約束したじゃないか。
 冬休み期間中はミウの家で過ごすと」

「これは明らかに例外だよ。別世界から
 太盛君の娘がやってくるなんて」

「予想外のことは常に起きるものだ。
 ボリシェビキではそう教わっているんだろ?」

話し合いはその後も続いたが、
太盛君は言葉巧みに私を丸め込んでしまった。
私は、激しい不満と殺意を抱きながらの
3人での生活を認めざるを得なかった。

蒙古を旅したユーリと全く同じ展開じゃない。
今になってユーリの苦難が痛いほどよく分かるよ。

~堀太盛~

さてさて。やるべきことはたくさんある。
まずミウを説得することなんだが。

これが一番難しい。なぜなら、俺とマリンの関係を
認めてくれるはずがないからだ。ミウは俺を
ロリコンだと繰り返し主張し、傷つけてくる。

俺とマリンは仲良し。それだけのことだ。
こんなに素直で可愛い娘がいたら、
どんな父親だって子煩悩になると思う。

「食洗器に入りきらないお皿は自分で洗いましょう」

「おう」

俺とマリンは夕ご飯の片づけをしていた。
ミウはここにはいない。
食べ終わったらさっさと自室にこもってしまった。
食事中は終始無言で空気が重く、テレビのCMの
音がバカみたいに賑やかだったのを覚えている。

さて。俺は今夜どこで寝ればいいんだろう?
カコさんの部屋が空いてるなら、
マリンと一緒に寝させてもらうか。

夫婦の寝室だと言っていたから、
それなりのスペースはあるんだろう。

「お風呂も入ったから、
 あとは歯磨きして寝るだけだね」

「ええ。そうですわね」

「マリンは、夜は早く寝たいほうかな?」

「私は夜更かしが好きで朝が苦手でしたけど、
 蒙古に行ってから生活リズムを朝方に治しました」

「ふふ。そうだな。マリンが朝早起きして
 隣の村までアルバイトしに行ってたよな。
 なつかしい」

「毎日が新鮮で、すごく印象に残っています。
 お父様と一緒の旅。怖かいこともあったけど、
楽しこともたくさんありました」

「そう言ってくれるのかい。マリン」

君は文句を言える立場なのに。家族を捨てて逃げた俺は
ただのクズ野郎。責められたら否定しようがない。
なのにこの子は俺に気を使ってくれる。

「これからは、たくさんおしゃべりしようか。
 あの時に味わったさみしさを忘れられるようにさ」

「はい。お父様」

マリンが俺に体をぴったり寄せて来た。
俺のお腹のあたりに当たるマリンの小さな頭。
かつて何回この髪を撫でたことか。

思わずきゃしゃな肩を強く抱き、ベッドまで
連れ去ってしまいたくなる。俺ってやっぱり
小さい子が好きなのかな? 犯罪者?

「愛しているなら、当然の欲求ですわ」

この子はこうやって俺の思考を読んでくる。

「私はパパになら何をされても嫌じゃありません」

パパと呼ぶのは、マリンが幼稚園の頃だったか。
俺はしゃがみ、マリンの顔の高さに合わせて、
ゆっくりと顔を近づけた。

この世界では8歳差。イチャイチャしてるのが
世間的に知られたら、確実に俺が逮捕される。
だから、俺たちは親子のような兄妹としておこう。

ま、誰にも見せるわけじゃないから、
こんなこと考える必要ないんだけどな。

「変態の自覚があるんだったら、
 もっと真剣に考えるべきだと思うけど」

ミウ……? いつからそこに立っていたのか。
汚物を見るような目で俺を見てくるぞ。

「気になったから見に来ちゃったんだ。
 やっぱり太盛君は危険な存在だよ。
 一時的とはいえ、同居している人が犯罪者に
 なっていくのを黙って見てられないよ」

「おい。その犯罪者っていいk…」

「早くこっち来て」

ミウは俺の腕をひっぱり、自分の部屋まで
連れて行こうとする。
俺は必死で抵抗するが、すごい力だ。
骨が折れるくらい強くつかまれている。

「ミウ。お父様が嫌がってるじゃない」

「だからなんですか? 私の彼氏のことは
 あなたには関係ありませんよね?」

「私は血がつながっているのだけど」

「でもここは私の家ですから。
 太盛君は私の部屋で寝ると決まってますから。
 マリン様は母の部屋を使ってくださいね?
 それではおやすみなさい。ごきげんよう」

ミウは部屋のカギをしっかりと締めた。
なんだよこの展開。もっとマリンと一緒にいたかったのに。

ミウは、ふてくされている俺を壁際まで追い詰め
逃げられないようにした。説教でもするつもりなんだろう。

「その前に。ちょっと困った話を聞いてくれ」

「なに?」

「今の俺は君への恋愛感情がないんだ。
 ここ数日で異世界を行き来しただろ。そして
 ミウのことをもう一度よく考えてみたら、
 やっぱり俺とは合わない人だと思ったんだ」

「別れたいってこと?」

「ああ。この冬休みが終わったら、
 君とは友達になろうと思っている。
 もちろん生徒会の仕事は引き受けたからには
 やるしかない。あくまでそれだけの関係だな」

Q. 生徒会の仕事とはなにか?
A. 俺がミウの秘書的なポジションに選ばれたことだ。

会長閣下に命じられた以上は従う。
あと斉藤マリエは学園的には
消滅したことになっているのか?

7号室の囚人は冬休み中も寮生活を継続するらしいから、
マリエは脱走中として処理されてるんだろうか。

マリンは特殊能力(神の力?)によって
マリエとして再び学園に戻ることもできるのか。
戻るメリットが何もないと思うがね。

「そんなの……一方的すぎするよ」

ミウの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
今までに見たことのない表情だった。

ボリシェビキでも、生徒会副会長でもない。
使用人だった時の彼女でもない。
全く一人の女の子としての高野ミウがそこにいた。

「私は別れたくない」

憎しみさえこもった瞳で俺を見ていた。

「お願いだよ太盛君。私を悲しませるようなこと
 言わないで。太盛君が私のこと嫌いなら、
 嫌いなところを全部直していくから。ね?」

「ミウ……。俺はな。君のことが嫌いとか、
 そういう意味で言ったわけじゃないんだよ。
 ただ、彼氏彼女にはなれないって意味で…」

「私にとっては、同じだよ」

ミウの嗚咽がむなしく響く。
あふれ出る涙があごを伝って落ちていく。

「今後はマリーが太盛君の彼女になるんだ。
 あの女は学校が始まったらマリーに戻るんでしょ。
 うう……そんなの嫌だよ……我慢できない」

「今の君にこんなこと言うのは酷かもしれないが、
 電気イスで俺を拷問したよな? いくら人が
 過ちを犯しやすいとはいえ、あれは決定的だったよ。
 俺を平気で処罰するところがエリカと似てると思う」

「私は最初のころは太盛君に手を出さなかったよ?
 むしろ太盛君が私をビンタしたよね?
 みんなの見てる前で何度も。すごく痛かったんだから」

「あれは……確かに俺が悪かったよ」

「エリカやエミさんにも手を挙げたの?」

「俺の覚えている限りはないはずだよ」

「私だけは殴るんだね」

「あ……えっと」

「私がどうでもいい存在だから?」

「……君のわがままが許せなかったんだ。
 君は思いつきで物事を決めようとするだろ。
 ああいうのでカッとなってしまうんだと思う。
 自分でも悪い癖だとは…」

「そこじゃないよ問題は。昔の彼女は殴らないのに、
 私だけ殴られるってのが納得できない。不愉快」

「謝ってるじゃないか」

「じゃあマリーと別れて」

「なんでそうなるんだよ」

「そうしないと私がこの世界に来た意味がないじゃない。
 私は能面の男に運命を託されてきたんだよ。
 夏休みまでは私の彼氏は太盛君だったのに」

「心変わりは誰にもあるものだ。
 さっきも言ったが、今の俺はミウに恋愛感情はない。
 君は学園では拷問狂として名前が知れている。
 モンゴルでもマリンをホタクで殺した。
 すまないが、俺の結論は変わらないよ」

「私だってマリンに殺されたけど!?」

「あれは復讐だよ。一度殺されたから恨みくらいあるだろ」

「いつもそうだ……。
 マリンお嬢のことだけ特別扱いして……!!」

ミウの声と表情は、危険なレベルで凶悪になった。
マリンに対する思いは、もはや殺意しかないのだろう。

皮肉にもエリカとマリンが蒙古で殺し合った時と
同じ展開になろうとしていた。

彼女をなだめたところで、マリンが反発して
新しい修羅場のきっかけになるだろう。
そもそもミウをなだめる方法なんてあるのか?

「太盛君は最低だよ。この女たらし。
 女の気持ちをもてあそんで楽しい?」

俺はもてあそべるほど女にモテた経験がないと思うけどな。
でもこの状況で言い返すわけにはいかない。
なんと言われようが、黙って認めたふりをするしかない。

今までに俺が熱烈にアプローチしたのはユーリだけだよ。
エリカとは親が強く望んだ縁談。エミとはなんとなく。
思春期に無駄に神社通いしてたからその流れで。

「思わせぶりな態度とって、いざ付き合い始めたら
 すぐ他の女のところに行って!! 
 百歩譲ってまだエリカなら分かるけどさ!! 
 なんで最後に選ぶのは自分の娘なの!?」

恋愛対象に選んだのは斎藤マリエだよ。
マリンはマリエだけど、マリエじゃない。
あれ? 自分でも何言ってるのかよく分からない。

マリンに対しては、親から娘への愛情だよ。
パパっ子は目に入れても痛くないほど可愛いものだ。

娘三人は俺のことすごく慕ってくれるけど、
たぶんどこの家も娘もあんな感じなんだろう。

「俺が付き合いたいと思ったのは斎藤の方だよ」

「どっちも同じ人物なんだから、 
 マリンを選んだのと同じだよ!!」

なんだその理屈は。

「ロリコン!! 変態性癖!! ユーリからも
 ロリコンだって言われてたんでしょ!!」

ロリコンって言われると胸がすごく痛くなるのはなぜだ?
ユーリからは言われてなかったと思うが、
エリカからモンゴルにいた時に言われた。

「私は高校生だから、初めから恋愛対象外
 だったんだね!! だったら初めからそう言ってよ。
 小さい女の子が好きなんでしょ? あっ、だから
 同じ部活のマリーに夢中だったんだ。
 学園中のロリコン男子が奴のファンだものね」

「そろそろ落ち着けよ」

「落ち着いてなんていられないよ!!
 太盛君が全部悪いんだよ!! 太盛君が!!」

めんどくせー。

別れ話をしても別れてくれなさそうなパターンだ。

エミみたいなさっぱりしたタイプとは違うな。
別にエミと別れ話をしたことはないけどな
エミとは自然消滅だったわけだが、
今思えば悪いことをしたな。

ドンドン

俺たちの会話を邪魔するように扉がノックされた。

ドンドン

マリンか?

ドンドン

力強い叩き方なのが気になるぞ。
ミウが騒いでるのが心配になって
マリンが来たのだろうか。

「マリン……様かな?」

「それにしては音が強すぎないか?
 ドアがきしむほどの音だぞ。
 鈍器か何かで叩いてるのかもしれない」

「なんだか怖いね」

「ここで待ってろ。俺が出るよ」

嫌な予感がする。
俺はドア越しに声を張り上げることにした。

「おい、あんまり叩くと壊れちまうだろうが。
 マリンがやってるのか?」

「違う。おれだ」

な……? 男の声だと?
しかも聞いたことのある声だ。

「早く開けてくれ。お前たちに用があって来たんだ」

「だ、誰だ? せめて名前を」

「時間がない。早くしろ」

俺はミウにアイコンタクトしてから、ドアを開けた。

「よう。太盛。元気そうだな? ミウ副会長殿も」

まさかのマサヤか。偽物じゃなさそうだ。
1組の元男子のクラス委員。
さらに俺の元親友であり、現在も熱烈なボリシェビキだ。
クラス裁判で俺を起訴したのは忘れないぞ。

正直友情なんてきれいさっぱり消えた。
できれば二度と会いたくないが、
いったいどういう経緯でミウの部屋に訪れた? 
そもそもマンションのエントランスにどうやって入った?

「俺は泥棒じゃないんだ。不法侵入なんかしてないよ 
 管理人さんには事前に話を通してある。
 今日は君たち2人に伝えたいことがあってだな」

「伝えたいこと……だと?」

「ああ。すごく、すごく大切なことだ。
 ある人から伝言を頼まれていてね。
 今日の俺はメッセンジャーの役をもらったところだ。
 まあ座れよ」

初めからミウはカーペットに座り込んでいる。
俺は少し離れてベッドの上に座った。

マサヤは、俺とミウのちょうど間の床に腰を下ろした。
そして、何気なく背負っていたリュックを降ろした。
あぐらをかき、うつむき、
何度か頭をかいてから話し始めた。

「二年一組の女子クラス委員の名前を憶えているか?」

「は?」

質問の意図が分からん。
だが奴が真剣な顔で見て来るから答えないと。

「……エリカだっけ?」

「ごめん、私もよく覚えてない」

ミウは副会長なのに覚えてないのか。

ミウが女子のクラス委員の
バッジをつけていたような気がするけど。

「正解はミウ殿だよ」

「あっ、そうだったんだね」

マサヤは呆れていた。俺も同じだよ。
自分の役職を忘れるなんてどういうことだ?
ミウは学校のことはどうでも良くなっているのか?

「もう一つ質問がある。今度は答えられると思うが」

「なんだ? またくだらないことか?」

マサヤは少し溜めを作ってから、短く言った。

「ウルトラマン」

はい……?

「ウルトラマンが地球に呼び出されてから、
 地球にいられる時間は何分だ?
 つまり怪獣を倒すまでにかかる時間と
 言い換えてもいい」

女子のクラス委員の次はウルトラマン?
話しの繋がりが全くないうえに、
なぞなぞレベルのアホな質問だ。

「3分」ミウが答えた。

マサヤが「正解」と言って手を叩き、リュックの中に
手をつっこんだ。褒美にスナック菓子でもくれるのか?

「これに何秒と表示されている?」

正方形のプラスチックの筐体。
大きさは、プレステ4の半分くらい
色の異なる、三本の導線が露出している。
導線の先に、長方形の小さな液晶パネル。

そこには、残り3秒と表示されている。

「おまえ達が3秒後に吹き飛ぶってことだよ」

俺は反射的にミウをかばうために覆いかぶさるが、
強烈な閃光と共に爆発が発生し、
部屋全体を吹き飛ばすのだった。

俺の父は厳しい教育者だった。
母は対照的に子煩悩で優しかった。

父は一人っ子の俺に対し、どこまでもつらく当たった。
母が34歳の時に俺はようやく生まれた。
高齢出産だったため、俺のことを宝石のように
大事にして育ててくれた。

俺は幼稚園の頃から父に対し敬語を使うようになった。
家のしきたりとか、規則についての小言を聞いて育った。

もっとも父は仕事が忙しくて帰ってこない日が多い。
父親と言うより、たまに
帰ってくる怖い先生みたいな感じだった。

俺にとって気が許せる相手は母親だった。
使用人の人達は、どこかよそよそしく、俺に失礼がないよう
気を使って仕事をしているのが子供心にも分かった。

彼らが俺を怒らせでもしたら、母に厳しく叱られるそうだ。
それは、母の行き過ぎた愛情だったのかもしれない。

母が父との壮絶な喧嘩の末に家を出て行くと言った時、
やりきれない気持ちになった。まさか母が本気で
頭に来ていて、本当に出て行ってしまうとは。
きかっけは俺の受験のことだ。

父の薦める学校か。それとも母の望んだ学校に行くか。
ただそれだけ。俺はどっちもでいいんだ。
唯我独尊の父に対し、内向的な母が珍しく
反対したこともあって、喧嘩はエスカレートした。

それから喧嘩の内容は多岐にわたるようになり、
俺が生まれる前の出来事にまでさかのぼり、
相手を批判できる内容があれば何でも批判していた。

俺の進学先がそこまで大事になるのか。
幼い俺には理解できなかったが、
きっと本人たちにとっては何よりも大切なことなんだろう。

連日深夜まで言い争いは続いた。

いよいよ離婚の危機にあると悟った。
予感は当たり、別居状態となる。母は実家に帰ったのだ。
いつまでもこの状態が続くと、同居してないことになるから、
法的に離婚することが可能になる。

父に認めてもらうため張り切っていた勉強すら、
放棄したくなった。休み時間に友達と話しても笑えなくなった。
料理の味もほとんどしなくなってきた。

俺が中学2年の時だ。
あの思春期のど真ん中の時に、エミという少女に会った。

『ちょっと。そこのあなた』

『もしかして、俺のこと?』

『いっつもそこの石段にいる。
 座ってぼーっとしてるよね』

『うっせえな。あんたには関係ねえだろ』

『さすが中学生の男子。トゲトゲしいねぇ。
 私は嫌味を言ってるつもりはないんだよ。
 この暑い中、長い石段を登ってよくこの神社に来るなって思ってね。
 お守りも買わないくせにさ。君、名前は何て言うの?』

この人が同じ学校なのは知っていた。俺より年上なことも。
でも自分から名乗るなんて、なんか恥ずかしかった。
俺の下の名前って当て字だし、口にしても変だ。

だが、そんな思いとは裏腹にこの上級生の眼が
あまりにも澄んでいたから、口から名前が出てしまった。

『ほり……』

『下の名前は?』

『せまる。漢字は当て字だけど』

『ふともり、って書くんでしょ?」

『……知ってたのか!?』

『太盛君は学校で有名人だからね。
 君が知らないだけだよ』

『だったらなんで名前聞いたんだよ』
 
『なんとなくね♪ その時の気分かな』

『ふっ。なんだよそれ』

その日はエミさんと呼ぶことにした。
それ以降は呼び捨てだ。彼女は呼び捨てにされても
文句を言わないので、互いに下の名前で呼び合った。

エミは、上級生の不良から目を
付けられている荒れくれ者の
俺を心配していたらしい。

当時の俺は異常なほど切れやすく、
ささいなことで人を怒鳴り、殴った。
もちろん女子は殴ってないぞ?

俺がターゲットにしたのは生意気な野郎どもだ。
荒れていた俺は、ふざけて
からかってくる奴らを平気で殴っていた。

殴り返されると、相手がまいったと言うまで
喧嘩を止めなかった。相手も必死で俺に抵抗した。
そんなことを繰り返していると、体に痛みが蓄積する。

体にあざができた時はお風呂に入ってしっかり温まる。
痛みが取れない時は湿布を張る。
それでもダメな時は病院にお世話になる。

足首のねんざはしたことがあるけど、
幸い骨が折れるようなことなかった。

前歯が折れて歯医者に行く時が一番つらかった。
歯並びが悪かったから、歯を入れ替えて
ちょうど良かったと思うことにした。

そのせいで体育の授業を見学することもあったわけだが、
学校では相当な問題児となってしまった。
先生からは生徒指導と称し、放課後に一時間も説教された。
母が学校に呼ばれたのは中二の夏だった。

そして、そのことが父を激怒させ、家で大問題になった。

母や使用人のみんなは俺を弁護してくれた。
なぜなら俺は家では優等生。何も問題がなかったからだ。

なぜか。親父殿がきびしいからだ。家では暴れたくても
暴れられない。だから、そのうっぷんを学校で暴れることで
晴らしていたのだ。俺は最高の馬鹿だった。

人より成績が優れている。これが俺の誇りだった。
父親はたとえクラスで一番の成績をとっても
俺を認めない。塾でも一番上のクラスで授業を
受けていたのに。何をしても俺を認めず、見下していた。

『おまえは堀家の長男としての器ではない』

悔しくてたまらなかった。
母の慰めの言葉さえ、俺の耳には届かなかった。

母は週三回くらい東京に通っていた。
何の仕事なのかよく分からないが、
父の仕事の手伝いだと言っていた。

俺が小学生のころまでは、地元で学習塾の手伝いを
していたが、俺が中学に上がる頃に転職したようだ。
母と父の関係が悪化したのは、たぶんこのころからだ。

『今日は食べたくない気分なんで、いらないっす』
『お口に合わないメニューでしたか。申し訳ありません』

料理係の人は後藤さんと言った。
毎日ではないが、母が仕事で忙しい時に
堀家に来て夕飯を作ってくれる人だ。

その後、母と別居してからは、
専属料理人となって朝昼晩とご飯を作ってくれている。

俺は後藤さんのご飯が嫌いなわけじゃなかった。
むしろその辺のレストランより数段美味しかった。
あの時は世の中のすべてに反抗したい年頃だったのだ。

俺はバカだった。特に受験で忙しかったころは心が荒れ、
後藤さんが作ってくれた料理を食べずに、
マックやコンビニで食べたりしていた。

一度や二度じゃなく、何度もやった。
小遣いは母さんがたくさんくれたから、
好きなものは何でも食べられた。

不思議と両親には怒られなかった。
後藤さんは、俺の行いを父に内緒にしてくれたのだ。
そのことが、のちに何よりも俺を反省させることになった。

『誰だって荒れてる時期はあるから、
 自分を責めすぎるのはよくないよ。
 そいう時期を過ぎて人は大人になっていくんだよ』

残暑厳しい季節だった。俺は境内の中、
つまりエミの自宅に入って麦茶を飲んでいた。
エミは暑がりの俺に気を使って
エアコンをガンガンに効かせてくれた。

冷や汗をかいているコップ。神社の階段を上った後の
俺と同じだ。関東内陸の夏は殺人的な湿度だ。
ぶわっと汗が吹き出すと、一瞬で背中がびしょ濡れになる。

エミは、俺の飲み干した麦茶のコップを
手に取り、お代わりを継いでくれた。
コップをテーブルに置くと、カランと、
大きな氷が重なって音を立てた。

『エミにも俺みたいな時期があったのか?』

『私は……中一の時だったかな。夕飯に母が
 作ってくれた揚げ物を生ごみの袋に捨てちゃったの。
 私も年ごろでさ、カロリーが高い食事ばっかり
 出されてたから腹が立っちゃってね』

『後悔してるか?』

『それはもう。昔の自分をぶん殴ってやりたいくらい。
 あれから料理を覚えて、コロッケ一つ作ってみてから
 お母さんの苦労が分かったなぁ。それにお母さんは成長期の
 私に気を使って栄養のあるものばかり作っていたのに』

それから、なんとなくお互い黙り込んでしまう。
別に気まずい雰囲気ではなく、自然な流れだ。

エミの部屋は、中学生にしては漫画本が少なく、
お堅い感じの本が多かった。古い神社の娘だから
歴史系が好きなのか、日本史や世界史の本が並んでいる。

俺が世界史に興味を持ったのは、エミの影響だ。
エミは常に端的に説明するから、分かりやすい。
3つも4つも年上の女性と話している気がした。

『夏が終わったら本格的な受験シーズンだな』

『そうね』

『あと半年したらエミは高校生になるんだな』

『ずいぶん先の話してるわね』

『そうでもないよ。俺にとってはすぐだよ』

『私と離れ離れになりたくなーい。
 あー俺もエミと同じ学年だったらなぁ……
 って思ってたりする?』

『……今のは神道の力で俺の心を読んだ?』

『あんたの顔にそう書いてあるだけよ。
 そんな便利な力が本当にあったら欲しいものだわ』

と言ってエミは笑った。エミは硬い話が得意で
相談役としてぴったりだが、冗談を言うのも
好きな女の子だった。だからエミと話していて
飽きることはなかった。

この人は、決して美人なわけではないのだが、
人を引き付ける魅力があると思った。
少なくとも俺はこの人に憧れていた。

『中学の間だけでもいいから、俺と付き合ってくれないか』

『ん。いいよ』

あっさりと許可してくれるとは思わなかった。

あとで聞いた話だが、エミにとって俺は
出来の悪い弟みたいな存在だったらしい。
彼女の兄は8歳も年上で、上京後に結婚したという。
今でもエミと不仲なようだ。

『あんな奴、知らない。死ねばいいんだ』

兄の話をすると、普段冷静な彼女が怒りを露わにする。
エミは聡明で気が長いタイプだ。ミウみたいな短気とは全然違う。
そんな彼女が怒るのだから、深刻なレベルで仲が悪いんだろう。

兄が嫌いな理由はなんだろう?

一度だけそれを聞いたことがあるんだが、
兄は父を相手に殴り合いをするなど、
家で暴力を振るうタイプの人だったそうだ。
いわゆるDVってわけか。

『暴力を振るう奴は大嫌い』

『ごめん。俺もそのうちの一人なんだが』

『あんたは家じゃなくて学校じゃん。
 それにあんたの場合はお父さんが
 厳しすぎるから、しょうがないよ』

俺はずっと不思議に思っていた。
エミは俺がバカをやっても許してくれる。
不良にフルボッコにされ、顔や体に傷を負っても
『バカだねぇ』と言って笑うのだった。

俺は、母親がいないさみしさをエミと会うことで
埋めようとしていたのだ。
あの人は、家族以外で初めて俺を認めてくれる人だった。

英語の先生には悪いことをした。20代の女性教諭だった。
俺は先生の教え方にいちいちケチをつけ、授業を中断させた。
ここはこういう説明のほうが良いと、先生が嫌がっているのに
飽きずに指摘していた。

先生方から嫌われ、目を付けられ、うとまれた。
教師から三年になっても暴れるようだったら推薦は不可能だと言われた。
俺は2年の時、3か月おきに生徒指導室に呼ばれていたから当然だ。
女性の先生は俺から距離を取った。クラスの女子も同じだ。

勉強ができることなんて、何の取り柄にもならなかった。
学生の本文は勉強だと言うが、あれは嘘だ。

『堀君は学校を勘違いしているよ。
 学校では授業を学ぶ姿勢も大切だが、
 他者との協調性を学ぶための場所でもある。
 君に足りないのは、ずばり協調性だ。
 人への配慮、思いやりの心だ』

学年で一番偉い先生に言われたことだ。
児童厚生施設で配られている、道徳の本を
手渡された時は、くやしくて手が震えるほどだった。

俺は他の奴を見下して、侮蔑の言葉を吐いたり
してたから、クラスで友達と呼べる奴はいなかった。
人と比較するのが大好きで、人より少しでも
優れた面があると、優越感を感じた。

それは劣等感の裏返し。弱い人間がすることなんだよと
エミに言われた時は、はっとした。
俺は親父殿に見下される悔しさを、クラスでぶつけていたのだ。

中学三年に進級し、母が家から去った。
もう両親の深夜まで続く喧嘩を耳にすることはない。
それをきっかけに俺は変わった。

俺は自分から率先してクラス委員になった。
他に誰も手を上げる奴がいないから、俺が選ばれただけだ。
みんな面倒な役を任されたくないだろうからな。
俺が立候補の挙手をした時、男子のグループは鼻で笑っていたが。

担任の先生はおだやかな先生で、俺の努力を認めてくれた。
それがうれしくて、俺は真面目になり、受験に専念した。

それと同時に高校生になったエミとは疎遠になってしまった。
今考えれば、俺がエミと話す時は、
決まって悩み事を相談する時だった。

受験で忙しいのもあって、SNSのやり取りが減った。
それがいけなかった。エミは気を使って俺と
距離を開けてしまうのだった。
俺は彼女が嫌いになったわけじゃないのに。

俺は学校では嘘のように優等生になり、
家庭でもご飯を残すことはなくなった。

父に逆らうことなく、父の薦める学校に入学した。
かなりのお坊ちゃま、お嬢様校だったが、
学費はすんなり出してくれるからありがたいことだ。

あの時点でこんなクソみたいな学園だったと知っていれば、
母の薦める方か、もしくはエミと同じ学校に行っていたよ。
あの人は、もう俺のことなんて忘れて
新しい恋人でも見つけたんだろうか。

『そこの方、失礼ですが』

『はい?』

『講堂までの道が分からなくて。
 よろしければ道案内をしていただきたいの』

『いいですよ。僕でよければね』

橘エリカと名乗るお嬢様と初めて言葉を交わしたのは、
高校一年生の春だったか。さすが高校には
こんなに綺麗な女の子がいるのかと思ったよ。

間違いなく、運命の出会いだった。
エリカと出会っていなければ、
運命の歯車が狂うことなどなかったのだろう。

入院生活 看護師は堀レイナ

12月31日 朝 病院にて

~堀太盛~

「お坊ちゃま。目が覚めたようですな」

俺は見覚えのある病室にいた。

この個室は、かつて斎藤マリエが
入院していた場所と同じ作りだ。
間違いなく、あの総合病院だろう。

病人服の中には大量の包帯が巻いてある。
点滴のチューブが腕から延びて、キャスターに続いている。
点滴の袋には、俺の名前と日付が書かれている。

「言葉を話すことはできますか?」

「なんとかな。動かすことができるのは口だけだ。
 体を少しひねっただけで激痛が走るぞ」

「左様ですか。命があるだけでも幸いなことです」

俺と会話をしているのは、
ハクシキジョウの能面をした男だ。

俺はこの男を知っている。親父の実家で執事をしていた男だ。
親父が生まれ育った家。つまり堀家の本家に当たる場所だ。
親父殿は次男。本家を継いだのは兄貴だ。

能面の男とは親戚同士の会合で毎年会っていたが、
社交辞令以上の会話をしたことがないのだ。
どんな知り合いと聞かれたら、顔見知り程度としかいえない。

「あの爆破はなんだったんだ?」

「はて。爆破とは?」

「とぼけるなよ。ミウも重傷を負っているんだろうが」

「あいにく私は太盛お坊ちゃま達が入院されていると
 の報告しか受けておりませんので。どういう経緯で
 お怪我をされたかは存じておりません」

「その言い方だとミウも入院しているんだな?」

「はい。ここから少し離れた部屋にいますよ」

「そうか」

「はい」

いろいろなことがありすぎて、
寝起きの頭では処理しきれなくなってきた。
俺は記憶を整理するために黙る。男も黙り込んだ。
こいつは空気を読むのに長けている。

俺から質問するとなんでも答えてくれる一方で
俺が話しかけない限りは自分から話題を振らない。

つねに聞き手に回るのは、仕事柄よりも
こいつの慎重な性格からきているんだろう。

上流階級が集まるパーティでも
特に女性陣からの評判が良いらしい。
俺は油断なく目を細め、男に言う。

「あんたは……ただの人間じゃねえだろ」

「自分では普通の人間だと思っておりますが」

「あんたが前に言ったよな? 
 俺が念じることで世界を終わりにすることができると」

「ええ。確かに言いました」

「実際に別の世界に飛んだはずが、
 また元の世界に戻ってるじゃないか。
 俺はなぜ今もこの次元にいる?
 ちゃんと納得できるまで説明してくれ」

「私にもよく分かりませんので」

「なんだと?」

「いえいえ。ふざけているわけではありません。
 例の鏡の力の暴走でしょうか。
 我々は生きていながら、時空をさまよい、死後に復活し、
 生まれ変わり、帰るべき場所を失っています。
 生物としての死さえ迎えることができない。
 もはや呪いとしか思えない状況になっています」

「鏡だと……。親父殿が神社に隠していたというあれか?」

「左様です」

「親父が触れることさえ許さなかったあれを、
 あんたが持ち出したのか」

「ええ。ミウ様に運命を託すためにお渡ししました」

俺は事の経緯を詳しく聞いた。
なるほど。こいつとミウが蒙古で死んだ俺のことを哀れんだと。
そして俺とエリカの結婚が諸悪の根源だとして
それを阻止しようとするために鏡の力が必要だったと。

「ですが、ミウ様が共産主義者になったことを懸念していました。
 私は遠く離れた場所からお二人の様子を見守っておりましたが、
 いよいよこの世界にも見切りをつけるべきだと判断しました」

彼もミウと同じように鏡にまじないをしたが、
失敗し、結果的に鏡が暴走してしまった。

鏡は転生、再生、転位などの力を無限に行使するようになった。
鏡には神の意思が宿っている。神が一番気に入ったのは、
なんと斎藤マリエだった。

「太盛様がエリカ様と結婚される次元では、
 あの学園は普通の学校でした。
 断じて共産主義革命は起きていません。
 この次元はおかしなことがたくさん起きています」

斉藤マリエとして転生したマリンは、過去の記憶をすべて
取り戻し、自由に姿を変える能力まで有してしまった。

「マリンお嬢様はイレギュラーな存在です。
 現在は神の力の一部を借りることができるそうです。
 死んだ人を生き返らせることも出来るでしょう」

「まったくすごい力だよ。神道の神様はユダヤが起源らしいな」
「私はその節は信じておりませんが、神の力は誠に偉大でございます」

ムスリムを思わせる口調。
この男の信仰心の強さが伝わってくる。

こいつは仏教徒ではなく神道の方か。
俺は、何を信じたら良いのか分からない。

俺の人生のゴールはどこにあるんだ?
無事にこの学園を卒業するのが目的だが、
昨日副会長のミウを振ったばかりだ。
いや、昨日で正しいのか。あれから何日たった?

棚に置いてある卓上サイズの電子時計には、
12/31と表示されている。
窓の外を見る。病院の駐車場が一望できた。

澄み渡るような青空の元、天頂近くまで昇っている。
びゅうびゅうと、風が音を奏でて
落ち葉を道端に散らしていた。

「太盛様はミウのことは考えなくてよろしい。
 あの子と関わらないほうが賢明です」

「もちろん別れるつもりだったけどな。
 学校が始まったら嫌でも会うことになるんだぞ」

「無視して結構。一言も話す必要はありません」

「簡単に言うなよ。無視してはい終わり、
 だったら俺はこんなに苦労してねえ。
 だいいち、ミウを刺激したら俺が収容所行きになる」

「そのような心配は無用ですな。
 マリンお嬢様が太盛様をサポートしてくださいます。
 何をするにしてもマリン様が太盛様を
 お守りしてくださいますよ」

「そっか。それなら安心だな」

「はい」

腹が立ってきたのでこれで会話は終わりにする。

何が安心だ。生保レディの方がもっとましな勧誘をするぞ。
ミウと血みどろの殺し合いをしたマリンだぞ。
どう解釈したらあの娘が俺の安心につながるんだ?

人が重傷で苦しんでるのに、ぺちゃくちゃと
勝手なことばかり言いやがってよぉ!!
俺の体が自由に動けるんだったら、
腹のあたりに一発食らわせてやりたい。

扉が控えめに開けられた。
看護師さんでも来たのかと思っていたら
懐かしい顔がそこに会った。

「こんにちは。太盛君様のお見舞いに来ました」

橘エリカ。コートに身を包んでいた彼女は、
それを上品に脱いで、ベッドの片隅にある、
かごの中に入れた。

包帯だらけの情けない俺の姿を見ると、涙ぐんでしまった。

「ひどいお怪我……。ここまですることなかったのに」

「あのマンションから抜け出すには、これくらいの
 荒療治は必要だったと思ってますが」

「彼に怪我させちゃったらダメじゃない!!」

「病院ではお静かに」

「ふん。あなたのせいなのにまるで他人事のように!!
 あなたがいると不愉快だわ。
 私は彼と2人で話したいから、出て行って」

「承知いたしました」

うやうやしく礼をし、滑るような歩みで消えていった。
品性と不気味さの両方を兼ね揃えた、風変わりな男だ。
俺の生涯であんな男を二人と見ることがあるだろうか。

「太盛様。落ち着いて聞いてくださいね?」
 あの爆破を仕込んだのは能面なのです」

奴が、ミウの家から俺を引きはがす目的で
マサヤに爆破テロを依頼したそうだ。
爆弾は、1年の進学クラスが設計図を
作っていたのを参考にしたとのこと。

校内で超有名な、爆破テロ未遂事件のことだな。

エリカは、能面から頼まれて、会長経由で
その設計図を入手した。生徒会が保管している
一級資料を手に入れるなんてすごいな。
よくナツキ会長が手渡したものだ。

それにしても能面の野郎、俺の前で堂々と
嘘をつきやがった!! 爆弾の元凶は奴じゃないか!!
冷静に考えると、嘘をつくには理由があるはずだ。
奴が嘘をつく理由は……考えるだけ無駄だ。

他に気になることは、
マサヤが爆破テロを任された理由だ。
本人が同意したとは思えないが。

「マサヤは死んだのか?」

「意識不明の重体で入院しています。
 ここの隣の部屋よ」

この世界に終わりがないことを憂いていたのは、
能面も同じだった。時期を見てミウのマンションで
爆破テロを実施し、俺とミウの共同生活を文字通り
破壊したくなったとのこと。なんだそれ。

第一、 爆破なんてしたら死ぬだろうが。
俺が生きていることが奇跡としか言いようがない。
やってることがめちゃくちゃだぞ、あの野郎!!

「マサヤの弱みに付け込んで、無理やり爆破テロを
 させました。言い方を変えると強迫…ですが。
 使ったのはC-4コンポジションという、世界的に 
 有名な爆弾で……」

そんな専門的な説明をされても分からないし興味ない。
エリカは気持ちよさそうに話しているので
俺は聞いてるフリを続けていた。
エリカが話し疲れた頃を見計らい、質問した。

「ミウは?」

「それは……」

エリカは自分の指先に視線を落とした。

「生きてるんだろ?」

「ええ。一応」

「一応っていうのは?」

「体の状態は太盛様と同様です。全治一か月程度の怪我だから、
 すぐ退院できると思います。問題は心です。太盛様に
 振られたのがショックで、人が変わってしまって」

「それは性格が変わったという意味か?」

「間違ってはいません」

エリカは、何かを隠している。
俺は彼女の手を握り、何を聞いても驚かないから
話してくれと頼んだ。

手を握っただけでエリカの頬が赤く染まる。

「太盛様をミウに会わせるわけにはいきませんわ」

「もともと進んで会いたいとは思ってないから安心てくれ」

エリカは、俺の手をやさしく握った。
その手をずっと離したくないという強い思いが伝わってくる。

別の世界で結婚相手だったと知ってからは、
エリカに対する考え方が100%変わったよ。
エリカと結婚して子供まで作っていたなんて、
今でもおとぎ話にしか思えないよ。

「俺たちってさ」

「はい」

「いや、エリカは俺みたいな男と結婚したいと思うか?
 あ、こんなこと言われても困るよな。唐突な質問でごめんな」

「いいえ。全然唐突じゃありませんわ」

エリカは真顔になり、続けた。

「太盛様と私は確かに結婚していましたから」

その口ぶりからして、すでに過去の記憶を手に
しているのは間違いなさそうだ。

「双子の娘の名前を言えるか?」

「レナとカリンです」

やはりな。
エリカも俺と同じく、高校生の時点で
未来の可能性の一部を知ってしまっている。

予知能力者に正確な未来を占ってもらったのに
近い状態だ。戸惑っていないはずがない。
俺と会話するのさえ気まずくなってもおかしくない。

「未来がどうであろうと、私の意思は変わりません。
 私は太盛様と婚約し、結婚します」

「俺みたいなクズと結婚して君が本当に幸せに
 なれるんだろうか? 君ならもっと違う相手、
 もっと立派な男性を選べるだろう」

「私は未来の可能性を知ったことを好意的に解釈しています。
 私達は、二度とあのような過ちを犯さないように
 すればいいだけです。簡単なことでしょ?」

俺はすぐに言葉を返せなかった。

君が蒙古の奥地にまで追いかけて来た時、
あまりの執着心の強さにゾッとしたよ。

普通の離婚手続きができれば済む話だった。
互いに生活資金の心配はしなくてよかったから、
綺麗に話がまとまるはずだった。
なのに親父殿と君が認めなかった。

その結果がどんな悲劇を生んだか。

ユーリが死んだ。
俺たち家族は蒙古陸軍に捕まった。
中国経由で北朝鮮に売られ、強制収容所へ送られた。

あの負の歴史を正すことが
簡単なことだと思っているのか?

「あなたを束縛しなければいいんでしょ?」

携帯のチェックとか、会社の飲み会の参加を禁止するとか、
会話中にエリカ以外の女性の名前を出すのを禁止とか、
娘とお風呂に入ったり、買い物に行くのを禁止とか。

いろいろ禁止事項があったよな。
家庭では一種の法律と化していた。

「私は妻としてあなたの力になりたいだけ。
 今後はあなたの邪魔になることはしないと誓うわ。
 娘たちと好きなだけ遊んであげて。
 飲み会に行きたいなら好きなように行って。
 残業とかで会社の帰りが遅くなっても詮索しないわ」

そう思ってるのは今だけだろうと、言ってしまいたかった。

エリカはいつになく真摯な態度をしている。
椅子に腰かける姿さえ優雅である。
両手を品よく重ねて膝の上に置き、
背筋を伸ばしている。

気持ちは分かる。

学園の話だが、朝礼の時にエリカにスパイ容疑が
かかったことがあった。エリカの他にも6人ほどの
男女の容疑者の名前が呼びあげられた。

スパイ容疑者は尋問室で拷問(尋問)された後、
収容所行きになるのが恒例だ。
俺は壇上に上がり、会長と副会長に土下座して
エリカを救ってあげた。

あれ以来エリカは俺を様付けで呼ぶようになった。
見ての通りすごく慕ってくれている。

少なくとも。現時点ではあれがエリカの本心なのだろう。
エリカの俺に対する好意は本物だ。
本当に旦那を支えてくれるような女性だったら、
俺だって喜んで婚約したいくらいなんだよ。

エリカの顔は結婚してからも飽きてはいなかったよ。
ぶっちゃけ会社の女の子達より綺麗だった。
君が30過ぎてからもそれは変わらなかったよ。

令嬢らしく上品な言葉遣いや仕草も、
最初の頃はときめいたものだ。

「俺は君のことが嫌いだったら、
 結婚なんてしてなかったよ」

「私は今でも太盛様への気持ちは変わっていません。
 婚約の件ですが、私のお父様へ話してもいいかしら?」

俺は少しだけ考える時間が欲しいので、
保留にする旨を伝えようと思った。

するとタイミングよく扉が開く音がした。
今度こそ看護師さんか主治医でも来たのか。
俺はエリカと共に扉を注視した。

「こんにちは。あっ、ごめんなさい。
 お話し中でしたか?」

斉藤マリエだ。
マリンではなくマリエの姿だ。
何か意図があるのか?

「ついさっきミウさんの病室にお見舞いに
 行ってきたところなんですよ。
 そしたら見てくださいよ。これ。
 手のひらを引っかかれました。うえーん」

わざとらしいぶりっこ。
女子高生の姿でやるとあざとすぎる。

手のひらは確かにひっかいた跡がついていた。
かなりの力でやられたな。痛そうだ。

「マリエの首にも何か跡があるが……」

「これですか? ミウさんに首を絞められました」

思わずゾッとした。おそらくマリエの方から
挑発したのだろうが、ミウの攻撃性の高さは異常だ。

「いえいえ。私は何もしてませんよ?
 お見舞いに果物を持っていったんですけど、
 私の話なんて全然聞いてくれなくて首を絞めてきました。
 すごい形相でしたね。鬼ですよ鬼」

「ミウの精神状態はだいぶやばそうだな」

「太盛先輩に振られたのがそれだけ
 ショックだったんじゃないですか?」

エリカは居場所がなさそうに視線を泳がせている。
あの子が娘だと知ってからは気まずいだろうな。
しかも夏休みにマリエを拷問までした。

二人の仲は修復不可能なレベルだ。
学校では美術部の先輩後輩で仲良しだったのに、
ここまで関係が悪化するなんてまさに芸術的だよ。

「ところでエリカ先輩」

「な、なによ」

「先ほど太盛先輩と楽しそうな話をされていたようですね。
 婚約とか考えてるんですか。頭大丈夫ですか?」

「あなたに口出しされることではなくてよ」

「いいえ。口出ししますよ。なにせ私は太盛様とは
 深い関係にありますからね。しかもエリカ先輩は
 一度太盛さんに捨てられてますよね?
 自覚あります? エリカ先輩は太盛先輩に嫌われ…」

「過ちは、何度でも悔い改めることができるの!!」

「聖書の引用か何かですか? バカらしい」

「これは太盛君と私が決めることなのよ!!
 あなたに口出しされるのは不愉快だわ」

「だから、関係者だって言ってるじゃないですか。
 これでもかつて娘でもありましたから」

「何が目的で私と太盛君の仲を邪魔するの?
 ミウは振られたわ。それだけじゃ足りないの?」

「全然足りませんね。
 エリカ先輩も彼を諦めてくれないと」

「あなたは彼の娘でしょうが!!
 娘が父親を母から奪おうとするなんて
 普通じゃないわ!! あなたは異常よ!!」

「私は斎藤マリエとしてこの世界に存在できます。
 どういう意味かお分かりですか? 
 私は、太盛さんの一つ年下の女子です。
 付き合うことも結婚することも可能です」

「その理屈が通るなら、あなたは妖怪の一種よ。
 人間じゃないわ。あなたがこれ以上どれだけ屁理屈を
 並べようと、最後に決めるのは太盛君よ」

「それはそうかもしれませんけど、少なくともこの世界の
 太盛先輩は、マリエのことを一番に愛してると、
 三号室にいる時からおっしゃってますね。
 生徒会の議事録に発言記録が残っていますけど」

確かに俺はそう言っていた。
実際に小倉カナよりもマリエを愛していた。
もちろんミウよりも。

自分の発言に責任を持てと言われたら、
マリエと付き合うことになる。
結婚はまだまだ先の話になるが、とりあえず
エリカの件は断らないといけない。

だが、マリン。君は人ではなく妖怪だ。
エリカの方がずっとまともに見える。

君に言ったら怒るだろうけど、モンゴルにいた時も
君が来てから話が混乱したのは事実だ。

ユーリはファザコンをこじらせている君のことを
本気でうとましく思っていたぞ。この世界では
高校生の姿で現れて、俺とミウの関係を壊した。
結果的には、という意味だが。

俺自身、なぜかマリエには惹かれてしまう。
娘だと知ってからも好きになってしまう。
異性として見てしまう。なぜなんだろう。

妻のエリカよりも、愛人のユーリよりも、
この世界で出会ったミウよりも、
全てにおいてマリンが優先されるのか。

これは世界の運命の法則に等しい。

俺を一番に縛り付けてしまうのは、実は堀マリンなのだ。

「先輩が私を選んでくれたら、この世界の
 ループから抜け出せるかもしれませんね」

それは確かに魅力的な提案に思えた。

俺には罪悪感がある。ミウを振ってしまった。
ボリシェビキになったミウを受け入れなかったのだ。

ミウが狂った遠因が俺にあるのだろうか。
俺が生徒会に逮捕されなければ、
ミウが生徒会に入ることはなかった。

当時の生徒会長のアキラに目を付けられたのがきっかけだ。
今思い出したけど、アキラはエリカの兄じゃないか。

俺はかつて妻がいた身でもあるのに、
心から女性を愛したことがあるのか自信がない。

猛烈な恋心と言うか、バカげた逃避行まで
考えてしまったのはユーリが相手だからだ。

エミのことも好きだった。憧れていた。
年上のお姉さんで心の癒しだった。
いつまでも彼女に甘えていたかった。

「エミに会いたい」

俺は小声でとんでもないことを口にしてしまった。
今言うべきじゃないのは痛いほど分かっている。
エリカとマリエが同時に殺気を放ち、部屋の空気が重くなった。

エリカはエミを知らないだろう。
悔しそうな顔をしている。さっきはしつこくしないと
言ったくせに、尋問したくてうずうずしている。

マリエは笑顔を崩さずにこう言った。

「エミって誰? 新しい彼女の名前ですか?」

違うと否定したかった。だが、マリエから感じる
プレッシャーにおびえてしまい、何も返せない。

「ミウに飽きたから新しい彼女作ってたんですか?
 ねえ先輩。黙ってないでちゃんと答えてくださいよ。
 エミって人は誰ですか?」

「ちゅ、中学の時に付き合っていた人だよ。
 今は別れているけど」

「へー。そんな人いたんですか。知りませんでした」

目元が全く笑っておらず、なおも殺気を放っている。
警察に尋問されるとこんな気持ちになるんだろうか。
エリカは拳を強く握っており、瞳の奥が燃え盛っている。

「別れたはずなのに、なんで今エミに会いたいって
 言ったんです? もしかしてまだ未練があるとか?」

全くその通りだから困る。
困ったことがあったら何でもエミに聞いてもらった。
たとえ解決しなくても、聞いてもらうだけで楽になった。
あの人は俺にとって頼りになるお姉ちゃんだったんだよ。

「携帯借りますね」

「あっ」

ベッドサイドに置いてあった俺のスマホは
一瞬でマリエに奪われてしまった。
マリエは何を思ったのか、LINEで
エミにメールを送っているようだった。

「何してる?」

「メッセージを送っておきました。
 俺のことは忘れてくれ。
 二度とメールをしてくるなと」

「面白い冗談だ」

「冗談に見えます? どうぞ見てください」

俺は、昔色々お世話になったエミに
こんな無礼なことをしたマリエを怒鳴り散らしたかった。
エリカがよくやったと言いたそうな顔で見てるのが悲しい。

「先輩。怒ってますね」

「俺が笑ってるように見えるのか」

「先輩が悪いんじゃないですか」

「なに?」

「すぐ他の女に目移りするから」

「目移りって言えるのか。
 ちょっと名前を出しただけじゃないか」

「先輩が他の女のことを考えてると
 胸がムカムカして我慢できなくなるんです。
 エリカ先輩もこの気持ち、分かりますよね?」

エリカは少し考えてから、
ゆっくりと首を縦に振った。

「前から思っていたんですけど、先輩って
 女たらしですよね。一人の女をとりこにするくせに、
 釣った魚には餌を与えないみたいな態度を取って
 人を傷つけるんですから」

「俺からすれば、君のやってることは束縛だよ。
 奥さんだった頃のエリカと同じことをしている」

「太盛先輩はなぜか束縛したくなるんですよね。
 女を意地にさせる何かがあるんです。ちょっと
 放置しておくとすぐ他の女を見つけちゃうんだから」

「マリン。君はパパを困らせないんじゃなかったのか?」

「パパこそ私を困らせているじゃないですか。
 ユーリを選んで私達を置いて行ったくせに」

「それは……昔の話だろ」

「でも現実に存在したことですよ」

「エリカの束縛がなければ逃げなかったよ」

「ママだけのせいにはできませんよ。
 たぶん他の人が奥さんでも束縛したかも」

「どういう意味だ?」

「パパは女を狂わせているんですよ。
 モンゴルでユーリが死ぬ原因を作ったのもパパ。
 パパが間接的にあの人を殺したようなもの。
 あの逃避は不幸の連鎖を作り出した。ユーリは
 生まれ変わってもパパと関わりたくないと言ってますけど」

一言も言い返せないから、胸が痛む。
マリンにだけは否定してほしくなかったことなのに。

「ユーリは今でもパパの前に現れないですよね?
 つまりそういうことなんですよ。察しましょう」

ユーリに対する未練は一生消えることがない。
俺はあの子に何度謝っても謝り切れないほどの
罪を犯してしまった。俺がおとなしく
日本で暮らしていれば、あんなことには……。

「マリン。もうよしなさい。
 モンゴルのことは家族みんなが反省すべきこと。
 太盛様だけのせいにしないで」

「ママの管理が足りなかったのも原因の一つです」

「管理?」

「太盛パパを逃げられないように檻の中にでも
 閉じ込めておけばよかったんだ」

マリンはにこにこと笑っているが、
冗談で言っている風ではなかった。

「ママ。特別に妥協してあげる。
 私と共同でパパを管理しようよ」

「何を言ってるのよ」

「だから、パパの自由を奪おうって言ってるんだよ。
 二人でやれば今度はうまくいくよ」

「そんな提案に私が乗ると思ったの?
 私は野蛮なことはしないわ。
 さっき太盛君に誓ったばかりよ」

「うふふ。本当は束縛したくてしょうがないくせに。
 さっきエミの名前を出された時、どう思いました?
 心がぐちゃぐちゃにかき乱されるような気持に
 なりませんでした? エミがこの世から消えてしまえば
 いいと思いませんでしたか?」

「……太盛君に嫌われたら意味ないわ」

「長い目で見れば、そのうちパパも察してくれますよ。
 逃げても無駄だってことにね。
 さあ、太盛お父様。今は太盛先輩とお呼びしたほうが
 いいのかな。パパにはもう自由はいらないよね?」

「ちょ……なにを」

負傷して体の自由がきかない俺の手に、拘束用の
バンドを付けてきた。暴れる患者を押さえるための道具だ。
見た目はオモチャみたいだが、マジでシャレにならない。

「足もだね」

足首にもバンドが巻かれてしまった。
俺の両手両足は、バンドのテンションがかかる位置までは
動かせるが、自力でベッドからは抜け出せない。

嘘だといってくれ。あんなにも愛していた娘に
こんなことされる日が来るとは。

「お父様と今後も仲良くしたいですから、
 けじめをつけるための儀式だと思ってください。
 怖いですか? ごめんなさい。こっちだって必死なんです。
 こんなマリンでもお父様は愛してくれますよね?」

「拘束を解いてくれたら答えるよ」

「今答えてください」

「答えない。答えたくない」

「答えてください」

「いやだ」

マリエは、病室にある棚の扉を開け、
ビニールの袋を取りだした。
スーパーとかコンビニでもらえるやつだ。

ふーっと中で息を吹き、目いっぱいふくまらせる。
間髪入れずに俺の頭にかぶせてきた。

「あ……」

俺は反射的に息を大量に吐いた。
これが悪循環の始まりだった。
袋の中で二酸化炭素の濃度が高まり、
脳に送られる酸素が不足する。

呼吸をすればするほど苦しく、
窒息するのを速めてしまう。
苦しいなんてもんじゃない。

しかも水蒸気で袋の中は湿めってしまい視界がゼロだ。

たった一瞬のことだが、死が目前まで迫っているのを感じた。
苦しさから逃れるために顔をバカみたいに左右に振ってい。

マリンが俺の首元でビニールをしっかりと閉めている。
俺は抵抗することはできない。俺は娘の機嫌次第で
窒息死させられてしまうのだ。赤ん坊のころのお前の
世話をあれだけした俺のことをこんなに簡単に……!!

「マリン!!」

エリカが袋を外してくれた。

「はーっ。はーっ」

あと少しで意識を失うとこだった。
あと少し長かったら、急激な酸欠により脳に
後遺症が残るかもしれなかった。

「おまえは自分のお父様になんてことをしたの!!」

エリカの怒りは収まらず、マリンにイスを投げつけた。
面会用に用意されたパイプイスだ。

「この馬鹿娘!!」

マリンは髪を根元からひっぱられても、
感情のない人形の顔をしている。

エリカの往復ビンタがマリンを襲い、
顔が右へ左へと激しく揺れる。
その間も冷たい瞳が、ただ俺を見つめていた。

全身に鳥肌が立つほどの不気味さがある。
マリンが普通の人間ではないことを確信させた。

「ママ……ごめん」

「私に謝ることではないわ!!
 謝るなら太盛様に謝りなさい!!」

「パパは許してくれるよね? 悪気はないんだよ。
 ほんの出来心だったの」

俺だってマリンを叩きたいくらいだ。
たぶん怪我してなければエリカほどじゃなくても
体罰はしていたと思う。
それだけのことをこの娘はやった。

「太盛パパ。ごめんなさい」

その声に謝罪の気持ちなど全く含まれていない。
国語の文章を朗読したのと同じだ。

お前には親を殺そうとした罪悪感がないのか?
俺は激情に耐えきれず、娘から視線をそらした。

大好きだったマリンが、俺を許しくれる存在
だったあの子が、どうして……
俺は何を信じればいいのか分からない。

「斎藤マリエの私は、夏休み前にエリカママに拷問された。
 ミウにも地下室で拷問されそうになった。
 収容所7号室に送られた。3号室にも行かされた」

淡々と何を話しているのかと思えば。
学校でひどい目にあったのが原因で
気が狂ってしまったと言いたいのか。

「ボードゲームで例えると、スゴロクと同じ
 日付が変わると。何かが起きる。変化が起きる」

何を言われても、考える余裕がない。
考えようとすると気が狂いそうになる。

視界の右隅に黒い点が現れたかと思うと、
それがやがて大きな丸になり、
痛みとなって俺の脳内を襲った。

ぐるんぐるんと、視界が左に回転を始めた。
嘔吐物が喉の下からからこみあげてくる。
だ、だめだ。我慢できない。ベッドの上で吐いちまう。

誰か……。エリカ!! 洗面器を持ってきてくれ。
マリンが俺を殺そうとした袋がそこにあるだろ。
袋でかまわん!! うっ……もう……。
俺は手のひらでで口元を抑えた。

嘔吐する直前のこと、まるで走馬灯を見ているかのように、
意識が急激に失われていくのだった。


『どうしましたか? 顔色が優れないようですが』

『私は蒙古を死に場所に選んだことを
 後悔したことは一度もありませんわ』

深い記憶の中に眠っていたはずの、
ユーリの声が聞こえた気がした。


~高野ミウ~

私は個室で入院生活を送ることになった。
急な入院だったから、必要な荷物なんて何も持ってきてない。

日付を確認するためのカレンダーすらない。
お金を払えばテレビ視聴用のカードが手に入る。
個室のテレビはカードがないと視聴できない。
私は家でも資本主義に毒されたテレビ番組は
見ないから関係ないけど。

どうしてママはお見舞いに来てくれないの?
それが一番の不満だった。

あの日、私は救急車で運ばれて応急処置を受けた。
太盛君がかばってくれたから、大事には至らなかったけど、
爆発物の破片が足に刺さり、車椅子生活をするはめになった。

本当は自宅療養が理想だけど、爆破されて
しまったから帰る場所がないのが現状。

ベッドで安静にしていると楽だけど、
ベッドから車椅子に移動する時が一番大変。

そういう時はナースコールを押すのだ。
看護助手さんが入ってきて、私を丁寧に
車椅子に乗せてくれる。

私、最近太ったから重いかもしれないね。
ごめんなさいね。40代くらいの女性の方。
この人、体格の良いベラルーシ人なんだよね。

2階のロビー(テレビとソファある場所)まで
車椅子を押してもらった。
私はそこで待ち合わせがあったのだ。

「ミウ。久しぶりだね。
 急な連絡を受けて心配したぞ」

私のパパだ。普段は都内で単身赴任をしている人。
全身スーツ姿でばっちり決めている。
前会った時は眼鏡なのに今日はコンタクトにしたのかな。

「完治するまで時間がかかるそうだ。
 かわいそうに……。学校の方には連絡しておいたからな。
  怪我の様子を見て登校するように言われたが、
  最低でも1か月は休学するよう頼んでおいたよ」

名前は高野ナルヒト。年はたぶん40代後半かな?
父親の年齢なんて興味ないから正確には知らない。
短めの黒髪をワックスでガチガチに固めている。
いかにもエリートって感じで、歩くときは
肩で風を切りながら歩く感じ。

お父さんとはあんまり関りがなくて、
言っちゃ悪いけど、他人に近い感覚なの。
私が小さい頃から1年に数回しか会えない人だったから。

仕事が忙しいのは分かるんだけど、幼稚園のお遊戯会とか、
小学校の運動会とか、他の保護者はみんな来てたのに。
私のパパだけどんな行事にも一度も
顔を出してくれなかったのは子供心にショックだった。

高野家は両親が離婚している。

女子からそんな噂を流された時は、
やりきれない思いになったよ。
そう思われても仕方ないほど、
パパとの関係は希薄だった。

十分な生活資金を家に送ってくれる人。
結婚前にお金を貯めこんでいたこの人の
おかげで分譲マンションを一括購入できた。

住宅ローンは家計の最大支出。それがないから
うちのお金はどんどん溜まるとママは言っていた。
経済アナリストの夫の影響でママも株式投資に
熱中し、さらに資産を増やしてくれている。

中学3年の時、思い切ってママに資産総額を聞いたことがあった。
子供の私には想像もできないくらいの額でびっくりした。

「カコに何度も電話をかけているんだが、
 全然つながらないんだ。一体どうなってるんだ?」

「さあ。どうなったんだろうね。マンションを
 爆破されたのがショックで自殺でもしたんじゃない?」

「ミウ……?」

私の冷たい言い方に驚いている。
パパと面と向かって話すのって、
私が中学を辞めたいと言った15歳の時が最後だものね。
普段は電話で話すことが多かった。しかも夜遅くに。

パパには愛人が何人もいたんでしょ?
お盆や年末年始まで仕事を理由に帰ってこなかったのは、
遊び相手の女の人がいたから。

ママが電話越しに友達に相談してるのをこっそり聞いたよ。
しかも相手が外国の女だって聞いているよ。

ママは夫の浮気を知っていながらも放置していた。
専業主婦としての弱い立場もあり、
何不自由ない生活を提供していたのはパパだったから、
見逃すしかなかったんだろうね。

表向きは夫婦円満。裏では色々と終わっていた。
ママはあなたに会いたくなくて実家に帰ったのかも。
もしくはマリンにすでに殺されているのかもしれない。

もう……どっちでもいい。

「ごめん。色々あって疲れてるから
 変なこと言っちゃった」

「……いや。ミウが無事ならそれでいいんだよ。
 入院生活で必要なものがあったら遠慮なくパパに言ってくれ。
 傷の治りが遅いようなら、もっと設備の良い病院に
 移動することも出来るからね」

「ここでいいよ。今のところ不自由してないから。
 パソコンと着替えを持ってきてほしいかな。
 あっ、部屋が吹き飛んだから着替えは
 買ってきてもらおうかな。下着とか」

「分かった。下着はパパが買いに行くのはあれだから、
 通販で頼んでおこう。下の売店でも色々売っているから、
 買えるものは揃えておくよ」

「うん。持ってきてほしいものを今からメールで送るから」

パパのラインに、洗面用具やパジャマなど、
入院に必要なものを書いて送った。
パジャマは病院の指定で前開きになっているやつ。
たぶん売店で売ってると思う。

パパはどんな魔法を使ったのか、
夕方には必要な物が病室にそろうのだった。
衣類はわざわざナースさんたちが運んできてくれた。

着替えは十分な代えがある。今のところ完璧。
入院生活でオシャレは求めてないからほぼ完璧。

寝苦しいからノーブラでいたかったけど、
院内には男性もいるから
ブラキャミを頼んだらちゃんと買ってくれた。

スタンドミラー、ブラシ、乳液、化粧水まで
買ってくれたんだ。頼んでないのに気が利くね。
娘が年頃だってことをちゃんと意識してくれてるんだ。

テレビを見るためのロングコードのイヤホン。
スマホの急速充電器。新品のノートパソコン。
あっ、ヘアゴムもある。最近髪を伸ばしていたから助かるよ。

「ありがと(^^♪)」メールでそう送っておいた。

その頃、パパは爆破されたマンションに見切りをつけ、
新しい住居を探していた。どこへ住みたいんだろう?
気になったのでLINEで聞いてみると。

「家族3人ならやっぱり一軒家のほうが落ち着くと思うから」

と言って、手ごろな中古物件を探してるそうだよ。
そこには長く住む気はないらしくて、私の大学進学と共に
家族全員で都内に引っ越す計画を立てるみたい。

ママは田舎暮らしを好んでいたから、たぶん怒るだろうな。
私も日本の東京ってあんまり興味がない。
アジア諸国の都市部って、
なんとなく楽しそうなイメージがないの。

訪日外国人が好むような神社仏閣巡りをしているほうが私は好きだな。
中学の修学旅行で言った京都にはまた行ってみようと思う。

「術後の経過を見てリハビリテーションが始まります。
 リハビリは日によって時間帯が異なりますが、
 その都度担当の者がお部屋へ来ますよ」

「リハビリはどんなことをするんですか?」

「筋力低下やを防ぐための運動療法です。
 松葉杖が付けるようになったら、歩く練習をしましょう。
 それまでは椅子の上で足をふらふらさせるだけでもいいですよ」

はきはきと話すのは、レイナさんだった。
マリエが入院した時にお世話してくれた30代の美人の看護師。

私はモールで会った時にレストランでお話をした。
この人が太盛君の娘のレナ様の生まれ変わりだ。
あの時に本人は認めなかったけどね。

「ふふ」

「どうしました、高野さん?」

「まさかレナ様にお世話になる日が来るとはね。
 立場が逆になったと思いません?」

「そうかもしれませんね。ミウ」

はっとした様子で、彼女はすぐに目をそらす。
強い西日が差し込む窓を見てから、
勢いよく遮光カーテンを閉めたのだった。

彼女は、問い正したい私の気持ちを理解しないのか、
点滴用の袋がちょうど空になったことを確認し、
私の腕に刺していた点滴針を抜いた。

「ご自分で食事がとれるようなら、
 今日で点滴は終わりですね。
 夕飯の時刻が6時ちょうどなので、
 その時間になったらまた来ますよ」

早口で言い終え、去ろうとした彼女の背中へ一言。

「待って」

「なんでしょうか?」

「あなた、私のことミウって言った」

「これでも仕事ですので、入院患者さんのお名前は
 フルネームで覚えていますよ」

「でも呼び捨てにした」

「……馴れ馴れしかったですよね。
 次からは気を付けます」

「そういう意味で言ったんじゃないの」

レナは深呼吸するように息を吐き、ようやく素の顔になった。

「うん。私はバカじゃないから分わかっていたけど」

「いつから知っていたの?」

「ほんの数日前。前から強烈な既視感はあった。
 ある日、ふと朝目が覚めたら、
 自分の前世が何だったのか思い出した」

「だったら、初めから道化を演じないでよ。
 私と普通に話せばよかったでしょ」

「知らないふりをした方がお互いのためかなって思ったの。
 この病院にはマリンがいるじゃない。
 あいつ、生まれ変わってもパパにべったりで変な奴。
 私はやっぱり苦手かな。できれば関わりたくない」

「私は殺したいほど憎んでいるよ。
 あいつは死ねばいいと思う」

「ミウ……?」

レナ様に後ずさりされたのは、さすがに悲しかった。
私はたぶん副会長の時の顔をしていたんだと思う。
こんなんだから太盛君に女らしくないって思われちゃうんだね。

「あなたは私の知っているミウと年齢も外見も
 変わってない。けど、なんか威圧感があるというか、
 大人の偉い人のような貫禄がある」

「学校で……。色々あったから」

「そ、そう。ごめんね。あなたともう少し
 話していたけど、他の患者さんのところも
 回らないといけないのよ」

逃げるように立ち去ってしまった。

個室って、快適だけどむなしいんだね。
夕飯の時間まで小一時間あるけど、
パソコンもスマホもやる気にならない。

ベッドに寝て、ぼーっとしていた。
包帯が巻かれた自分の痛々しい足を見て、
泣きそうになる。負傷したのは左足だった。
深く刺さった破片を取り出した傷跡は大きい。

床ずれを防ぐためにひざ下にクッションが敷いてある。
寝返りすら打てないのが辛い。でもクッションはちゃんと
しないと、筋肉が固まって関節が曲がらなくなる恐れがあるんだって。

入院してみて、健康な体のありがたみが分かる。
改めて人間の体って動かさないとダメになるように
できているんだね。ケガが完治したら最初に
生産体操(ソ連のラジオ体操)をしてみよう。
ダイエットにもなるし一石二鳥だね♪

余談だけど体操をすると、体中の筋肉を合理的に
動かすことで血行が促進され、運動神経が驚くほど高まるよ。
体操はプログラム通りの速さで動く必要があるから、
高齢者には脳トレにもなる。

運動と体操の違いは、運動は相手選手よりも素早く力強く
動くことを目的にするけど、体操はその真逆。
集団と動きを合わせないといけない。つまり早すぎても遅すぎてもダメ。

さっきも説明したけど「プログラム通り」行うことが重要。
日本、ソ連、ドイツなど強力な軍事国家では
国民体操を積極的に採用した例がある。

ソ連の工場労働者の間では、朝の11時と就業の
一時間前(4時前後)に生産体操を実施したところ、
ケガをする人の数が激減し、
作業の集中力が向上したことでミスも減った。

(正確には激しい体操と整理体操に分かれる)

日本のラジオ体操は第一と第二がある。
前会議中にナツキ君と保安委員部のイワノフが
真剣に話し合っていたけど、日本の体操は、
体操の古典であるデンマーク式を参考にしたもので、
あらゆる視点で検証したところ、
きわめて合理的に作られていることが明らかになった。

うちの学校はソ連の文化が推奨されるため、
全校生徒に(教師も)生産体操が実際されているけど、
ナツキ君はギリギリまでラジオ体操にするべきか悩んでいた。

……ふぅ。普段はこんなに考え事をする時間もなかった。
こう思うと、ケガをするのも悪くないね。
日頃の健康について考えるきっかけになったと思えば。

ベッドのわきの棚に、
パパが置いていった小説がある。
本の横にヘッドホンとイヤホンもある。

ヘッドホンが気になった。
小型だけど高級そうなヘッドホン。
使い古した赤い色のウォークマンもある。
逆にヘッドホンの方は新品っぽい。

音響機器は専門外だったけど、
気になったのでスマホで調べてみた。

ヘッドホンには小さな文字で型番が書いてあるんだよね。
型番で検索すると、bowers&wilkinsという
メーカーの製品で、昨年の冬に発売したモデルだった。

英国のメーカーだったのね。
創業者のジョン・バウワーさんが
第二次大戦で王立通信軍団に加わり、欧州戦線に参戦。
現地でレジスタンスと共にドイツ軍相手に戦っていた。

その後、国防軍にいたロイ・ウィルキンスと出会い、
互いの名前を取って社名とすることにした。
バウワーは戦後に通信技術を大学で学び、
クラシック音楽を高音質で聴くためのスピーカーを開発。
既存のスピーカーを大きく改善することに成功した。

同社の製品は、スタジオレベルの音響を家庭で
再現することを目的にしている。

メーカーのページにはそう書かれている。
昔はスピーカーメインのメーカーだったけど、
最近ヘッドホン市場にも参入したそうだよ。

アマゾンで調べてみると、ヘッドホンの価格が…10万。
パパは高級志向の人なんだね。
庶民生活が好きなママとは正反対だ。

このウォークマンも7万……。
うーん、男の人って機械にこだわるってママが言っていたなぁ。
私なんて音が鳴れば何でもいいって感じなんだけど。

せっかくだから適当な曲を聴いてみようか。
自分のじゃないから操作の仕方が分からない。
ウォークマンの曲名表示がドイツ語……

W.A.Mozart. Klavierkonzerte. No. 20 KV 466
分かった。クラシックだ。
これはモーツァルトの曲なんだね。

ピアノ協奏曲だった。冒頭からオケの大合奏が始まり、
私を圧倒した。高いヘッドホンってこんなに
音が深く、広大に響くんだ。

ピアノ独奏も綺麗。
耳元で鳴ってるのに、ホール全体に響いてる感じがする。
コンサート会場の中心から、少し離れた席で聴いてるみたい。

こんな小さなヘッドホンで
こんな音が出せるなんて不思議。

さすがオーディオ大国の英国製品。
私もロンドン時代はオペラ劇場とか連れて行ってもらったなぁ。
オペラはドイツ語とイタリア語の歌ばっかりだから、
詳しい内容は歌詞カードを見ながら理解するの。

イタリア語は母音のリズムが美しくて、ギターを演奏しているかのよう。
英語に慣れ親しんでいると、母音の多い言語は憧れる。
フランス語も最高だ。スペイン語の滑らかで低い音もかっこいい。

それに比べてドイツ語の醜さといったら。私がボリシェビキで
ドイツが嫌いなのもあるけど、あの威圧的で吐き捨てるような音が下品。
特に私は女性の話すドイツ語の音が好きになれない。
あとアメリカの英語も田舎臭くて最低。

ピアノ協奏曲の最初の楽章が終わるまでずっと聴いていた。
17分もあるんだけど、音と音の繋がりが
美しくて長く感じなかった。眠くもならなかった。
一番の理由は、音を聞く以外にすることがないからだと思う。

ヘッドホンを外す。もう5時半か。
夕飯まであと30分もある。学校にいる時は常に時間に追われて、
こんな贅沢な時間を使えることはなかった。

何気なく小説を手に取ると、英語で書かれた推理小説だった。
根拠はないけど、この作家も英国人なんだろうな。

パパは日本生まれの日本育ちだから、英語の勉強の一環として
小説を読んでいたのかも。パパは言っちゃ悪いけど発音がへたくそで、
子音だけの音にいちいち謎の母音をつけて発音するから、
パパの英語は語尾が全部消えて聞こえる。こっちは聞き取るのが大変。

幼い頃の私がそれを指摘したからか、パパは二度と私の前で
英語を話さなくなってしまった。発音のこと気にしていたのね。
海外勤務の仕事柄、仕方なく覚えていたのかもしれない。

ふと父が恋しくなった。

お父さん。私が、一番父親が恋しかったのは、
小学校に上がったばかりの時だった。
小学校二年生の時、周りの友達がお父さんと旅行にったり、
好きなものを買ってもらった話をする時、
私だけ話についていけなかった。
一番そばにいて欲しい時にあなたはいてくれなかった。

周りの人は私の父がエリートでうらやましいと言った。
私はそんなことで自尊心を得られるタイプじゃない。
欲しかったのは愛情だったのよ。

棚の扉を開けると、ファイスタオルの下に、
クリアファイルに入れられた書類の束がある。
これも英語で書かれている。

『Japanese Rates & Bonds』

日本の長期金利の変動(10年国債の利率)
が書かれているみたい。
これは読めない。だって専門的なことが書いてあるんだもの……。
たとえ日本語で書かれていても読めないよ。
だって勉強してないことは何語で書かれていても読めないよ。

別の紙には同じ内容が日本語で書かれている。

中央銀行(日銀)が定めている物価目標の達成率と
イールドカーブ(利回り曲線)のメモ。
専門家のパパの視点で
短期、中期、長期の金利の変動を分析してある。

変動曲線が図で書かれているけど、意味わかんない。
ボリシェビキになって最近経済学の勉強を始めた
私のレベルでは全然理解できないよ。

とりあえず、文章だけ読んでみよう。
米国債と日本国債は……連動性を失っている?
中国中央銀行とFRBの利上げ発表後も、
EUと日本は金融緩和と解かず、静観の構え。

日本の長期金利の利上げ時期は当分先となる。予想困難。
イールドカーブコントロールの維持、
日銀のETF買い入れが継続する限りは債券の利回りは上昇せず、
現在の株高を維持できる見込みが高い。

なにこれ……?

前にママがこんなこと言っていた。
新聞を読んで、日銀のマイナス金利が、自分たちのが預けている
普通預金の金利に適用されると勘違いした老人達が、
このままじゃ損すると思い、
自宅用の金庫を買い漁ってタンス預金を始めたと言っていた。

その影響で金庫の製造関連の銘柄の株価が、
一時急急騰したそうだよ。
日本人の金融オンチは今に始まったことじゃないと、
ママは残念そうな顔で言っていた。

『読書することが賢い人への第一歩なのよ。
 ミウちゃんも本を読む時間を作りなさい』

だから私に経済学や共産主義の本を
お金に糸目をつけずに買ってくれたんだ。

クラスメイトの井上マリカは読書が好きすぎて
活字中毒だって聞いたことがある。

パパの文章を頑張って要約すると、
日本が好景気になるのは、まだまだ先みたい。

物価は電気ガスなどのインフラを中心に
底上げされているのが現状だけど、
まだまだ足りないし、自民党が計画中の増税も
デフレを促進させるだけで、企業、国民レベルで深刻な悪影響。

ふーん。やっぱ増税はしないほうが良いんだ。
自分のパパの書いてることだから納得しちゃうな。

今後も少子高齢化の流れは止まらない。
スウェーデンやフランスのように
少なくとも90年代から対策を練る必要があったのを
今さら初めても間に合わない。

増税を初めとした、どのような財政政策を
しても社会保障費の捻出は不十分であり、
完全自己責任型の無保険制度の導入を検討するべきである。

財政って政府のお金のやりくりのことだ。
私も大学に行くようになったら
財政が理解できるようになるのかな。

他に株の入門書が置いてあるよ。
思い出した。前にママがパパ宛てにメールを送ったんだ。
私が経済学に興味があるってことを。

『金投資入門』

バリバリの経営学の分析的なものが来るのかと思ったら、
貴金属のことだった。低金利が続き、アベノミクスによる株のバブルが
いつはじけるかも分からない昨今では、現金を金に変えて持つと
将来得するらしい。金って言われても……。株よりは安全そうだけど。

私は共産主義者。本当は投資の話なんて毛嫌いするべき
なんだけど、父のお節介が今は少しだけ心地よい。

パパはこういう仕事をしているから、
大きな視点で世の中を見てるんだね。
女にだらしない人ってイメージだったけど、
頭が良いところは尊敬しちゃうな。

「失礼します。夕飯をお持ちしましたよ」

背の小さい女の子が明るい声で扉を開けた。
明らかに看護師さんじゃないのに、ナース服を着ている。
レナ様じゃなくて、マリン……!!

「なんであんたが来るのよ!!」

「せっかくご飯を持ってきたのに、その態度は何?」

マリンは廊下で食器が乗せられたカートを止めた。
私用のメニューが盛られたトレイを手に持ち、
中に入って来た。

「ちょっと。何でマリンが看護師さんの真似をしてるの?
 私に毒でも盛るつもりなの」

「栄養士さんが考えてくださったメニューに罰が当たるわよ?
 私はレナに頼まれたから持ってきただけよ」

「うそ。レナ様が頼むって、つまり……」

「記憶が戻ってからは普通に会話してるわ。
 レナはあんたと違って喧嘩腰じゃないから助かるのよね」

「あんたの神経を疑うわ。今日の昼に私と
 大喧嘩したくせに、どの顔してこの部屋に入って来れるの」

私は、斎藤マリエの姿でニヤニヤしながら
見舞いに来たこいつに殺意がわき、首まで絞めてしまったのだ。
私は負傷中だから、やり返されたら殺される覚悟はしてたけど、
マリンが何もせずに去って行ったのが不思議だった。

「それにその恰好。ナースにしては不自然すぎると思わないの」

「そんなの百も承知の上よ。マリエの姿だとお父様が
 嫌がるようだから、この姿にしているの」

「日本の法律で小学生の就労は禁止されているよ」

「そうも言ってられないのよ」

マリンは医療現場の人手不足を得意げに語り始めた。

もはや五人に一人が高齢者の日本。さらに栃木県北部の
ような田舎ではさらに老人の比率が高く、
私達のように救急搬送される人から、
病気、手術での入院など、患者数が増え続けている。

確かに普通に生活していても
救急車のサイレンは毎日聞くよね。老人天国日本。
若者の自殺率も先進国の中でトップだ。

三交代、二交代制で対応する医師、看護師らは
過労を極めていて、医療ミスが減らないのが現状。
医師の自殺率が意外と高いのは、あまり世間では知られていない。

内科医など激務のポジションでは、
平日の勤務はひどい。
ひと段落ついてお昼ご飯を食べられるのは、
昼の3時以降である。
それすら15分も時間が取れないほど。

私のように入院患者がいる病棟では、
患者のお風呂や排せつの補助が必要なのだが。
肝心の看護師さんの数が足らない。

看護師資格がないが、患者の身の回りの
お世話を担当してくれる看護助手を何人雇えるかが、
病棟の繁忙を左右する。

彼女らにとって重要なのは、一人当たり何人の患者を受け持つか
患者の質にもよる。手間のかかる患者もいれば、そうでない人もいる。
そしてシフト。大きな病院だと三交代が基本。
夜勤明けが特に体にこたえる。

レナ様のように入院患者担当のナースには
一人でも多くの看護助手、
もしくは看護師そのものが欲しい。

「私は今日から看護助手になったの。
 お手伝いだけど、よろしく」

「何をバカなことを。人を洗面器で
 水責めにした女が入院患者の世話? 
 笑わせるわ」

「なんとでも言いなさいな。
 お父様が入院してる間はここで働くつもりよ」

「あっそ。好きにすれば。人の姿をしたクズ」

「クズと言うほうがクズでしてよ」

「夕飯入らないから。食欲ない」

「そう言わず食べなさいな。
 きちんと栄養を取らないと傷の治りが遅くなるわよ」

「出てって。お願い。出てって」

「困った子ね。病院でワガママを言うものじゃないわ」

「出てってよ!! あんたの顔見たくないの!!
 出てけ!! 出てけ!! 早く出てけ!!」

マリンは目を閉じている。
自分を感情押し殺しているようだった。

「私だってあんたの顔なんて見たくもないわ。
 だけど仕事だから我慢することにしているの。
 私があんたの世話をするなんてこの世界だけの特権よ。
 光栄に思いなさい」

「そんなにイヤイヤ世話するんだったらやめれば!!
 あんたじゃなくて他の人を連れてきてよ!!」

「みんな忙しくて手が回らないのよ。
 急に入院したあんたが病院に
 迷惑をかけているのを自覚しなさい」

食べ終わったら取りに来るから。
そう言ってマリンは部屋を後にした。

あの言い方はなんなの?
私だって好きで入院してるわけじゃないのに。
いちいち私に喧嘩売ってきて、本気で腹が立つ。

子供のくせに何が看護助手だ。
大人の世界は遊びじゃないんだぞ。

あいつは何もかもふざけてる。
この世界に首を突っ込んで。
私と太盛君の間に入ってきて邪魔して。

こんなもの……誰が食べるか。

「いたっ」

食器トレイごとぶん投げようとしたけど、
投げる瞬間に力んだため、左足に激痛が走った。

トレイが手の平から落ちてしまう。

無残に散った夕ご飯。
汁物がこぼれて布団とシーツに派手な染みが
できてしまい、肉じゃがなど
おかずの一部が床に落ちてしまった。

むなしくなった。罪悪感に襲われた。

入院費はパパが払ってくれている。
作ってくれた人にもだけど、パパにも申し訳ない。

「あーあー。これはひどいな。今ナースさんを
 呼んでくるから、少し待ってくれ」

そのパパがちょうどやって来たのだった。
こんな時間に病院に来れるんだ。
面会時間は過ぎてるはずなのに。

パパは、部屋にやって来た怒り心頭のマリンと、
年配のナースさんに何度も頭を下げた。

パパが悪いわけじゃないのに。
本当に申し訳ない気持ちになる。

私だってマリンのクソ女が食事を
持ってこなければ普通に食べてたんだけどね。

「下の売店で適当なもの買ってくるよ。
 パンで良いか?」

「うん」

パパは何をするのも早い。10分もしないうちに
パンと飲み物を買って戻って来た。
この病院は夜まで営業しているコンビニが
入っているから、必要なものはたいてい揃う。

「パパはミウの付き添いだから、
 何時に病室に入っても大丈夫なんだよ」

「そうなんだ。その……迷惑かけちゃって……ごめん!!」

パパは笑って許してくれた。
今思うと、私はこの人に叱られたことなかったかもしれない。

「ヘッドホン、聴いたよ。音がすごかった」

「お? そうか。時間がなくてたまたま置いていった
 ものなんだが。気に入ったなら、そのまま使ってくれていいよ」

「うん。そうする」

「ミウに渡したかったのは投資の入門書の方だ。
 今のところ投資には興味ないかな?」

「正気あんまり……。でもプレゼント
 してくれたなら大切にもらっておくよ」

「おお。そうか」

パパは照れ臭そうに笑った。
顔は40代とは思えないほど若作りで美形。
しかも高収入だから、確かによその女を
口説くだけの甲斐性はありそう。

私はママからお父さん似だって良く言われていた。
私的にはママ似の方が理想だったけど。

パパはおにぎりを買ったみたいで、
私と一緒に食べていた。私がさみしくないように
一緒にいてくれているのかな。

冷静に考えると、親が離婚してるわけでもないのに、
父と一緒に食べることが
一年で数えるほどしかないって異常だよね。

「ちょっと真面目な話をさせてくれ」

食べ終わった後、パパが言った。
真剣になると雰囲気が別人だ。

「単刀直入に言おう。ママは実家に帰ってしまった」

「え……」

「俺は不動産屋を探しながら、カコと連絡を取り続けた。
 で、夕方になって電話に出たんだが、とつぜん
 別居しようと言われてしまった。理由は教えてくれなかった」

私はすぐには信じられないし、理解も出来なかった。
よくしゃべるパパの口元だけを見つめていた。

「爆破されたマンションの部屋を見に行ったが、
 マルクス系の書物が散乱していた。マルクスは
 共産主義と言って危険思想を世界に広めていた人なんだ。
 あの本はマリエのものか? それともミウのか?」

私は少し迷ってから、両方と答えた。
パパは目を丸くしたけど、すぐに話を続けた。

「最近な。ネット証券でマリエの株の売り買いが
 されてないのが気がかりではあった。かと思えば、
 12月に入ってから一斉に売り注文を出して
 現金化を急いでいた。不自然だとは思っていた」

「パパは反共産主義者?」

「共産主義を許してしまったら、
 日本の産業を根本から崩壊させてしまう。
 金融市場は政府に管理されるだろう。
 パパは真っ先に仕事を失ってしまうよ」

「共産主義は嫌いなのね?」

「好きか嫌いで答えるなら、当然嫌いだ。
 そんなこと改めて聞かなくても分かっているだろう」

パパは昭和の時代に日本共産党が国内で多くの批判を
浴びていることを説明してくれた。
私はボリシェビキ教育を受けているから全部知ってるんだけど。

「栃木県のこの市に帰って来て驚いたよ。
 市議会が革マル派のメンバーで占められているなんてね。
 あのマンションの住人も共産主義者の集まりじゃないか」

「久しぶりに帰ってきて、良くそこまで知っているね」

「パパは情報収集が得意なんだよ。で、ミウの通っている
 学校も調べたよ。生徒会のメンバーは全員ボリシェビキ。
 学校の教育方針は、共産主義を是正として、
 将来国家転覆を狙うスパイ、工作員を養成する」

私は気まずくなって視線をそらした。

「ミウが生徒会の副会長に就任したと
 聞いた時、パパはうれしくってね。
 会社の後輩にまで自慢してしまったよ。
 それが悪の組織だと知った時は残念だった」

「パパ。私はね」

「言いたいことは分かるよ。自分が良かれと思って
 やったことなんだろう? 世の中のためになると
 思ってボリシェビキになったんだ」

こんな資料もあると言って、パパは書類の束を見せて来た。
Aサイズでファイリングされた、報告書だった。

校長先生の書いたもので、大半が私の悪事を暴露したものだった。
校長はこれを病院の責任者(院長)に提出した。
入院中も身の安全が保障されない可能性を説明し、
常に警備兵を付けてもらうことを提案したらしい。

校長は私を異常に恐れていた。
前に私は太盛君の件で彼を叱ったけど、
あれ以上のことをするつもりはないのに。

「パパの気持ちも分かるけど、
 共産主義の悪口は言わないほうが良いよ。
 この病室にも盗聴器が付いているの」

「いや。大切なことだから最後まで言わせてくれ。
 ミウは今までにたくさんの生徒を取り締まったね。
 拷問までしたという話だが、罪の意識はないのか?」

「……全くないわけじゃない。
 でも党のために必要なことだから」

「パパが小さい頃にあげたポケット聖書を
 家で破り捨てたそうだね。これはカコから聞いたことだ。
 パパはね、君にまっすぐ育ってほしかったから
 イエスの教えを学んでほしかったのに」

そこまで話したところで警報が鳴ってしまった。

『共産主義の否定』『聖母マリア』
『主イエス・キリスト』の名前をあげる。
『学園の生徒会の否定』
パパの言っていることの全てがNGワード。

「飛んで火にいる夏の虫とはこのことですな。
 もっとも今は冬ですが」

両手を後ろで組んだ男が入って来た。
この人、挨拶したことがある。この病院の院長じゃん!!

「そこでお嬢さんと話されている御仁。
 Yシャツにセーター姿のあなただ。
 実に興味深いお話をしていたと、
 諜報部から報告を受け参上した次第です」

「これはこれは。院長自らお出ましとは恐縮です。
 お暇なわけではないのでしょうに」

「うむ。多忙です。多忙の極みです。
 それでもスパイを取り締まることも仕事のうちでして」

「私からすれば、共産主義者の方こそ取り締まるべきだと思いますな。
 貴様らのようなソ連の残党がまだ勢力を保っている現状を見るに、
 戦後の米国で行われた赤狩りは正しかったのでしょう!!」

「この院内で、よくそこまで言えたものです。
 詳しい話は別室でじっくりお聞きましょう」

院長は後ろにひかえていた部下に指示し、
私のパパを連行しようとした。

「ちょっと待ってください!!」

また特大の声が出てしまった。
私は焦ると音量の調整ができなくなる。

護衛の人達まで私を見て固まってしまうほどだった。

「その人は私の実の父です。同士・院長殿。
 その人を逮捕することは許しません」

委員長は、個室の壁に貼ってある私の名前を
確認すると焦り始めた。彼の立場で急な入院患者の
名前まで把握しているわけがない。
まさか私が学園の生徒会副会長だとは思わなかったはず。

「大変失礼しました!! 副会長殿」

他の部下たちも横一列に並び、一斉に頭を下げる。
そしてすごい速さで走り去っていた。

こんなにあっさりと引いてくれるとは。
院内は走ったらダメとか言ってたくせに。


~堀太盛~

ん? 今何時だ? 夕飯の時間は6時だと
聞いてたけど、とっくに過ぎてんじゃねえか。
今は夜8時過ぎだ。あと一時間で消灯時間になっちまうぞ。

俺は背中に裂傷を負った。
ミウを爆発からかばった際に破片を浴びたようだ。

麻酔が切れるとジンジンと痛む。
喧嘩で殴られて歯が折れたり、
すり切れた皮膚から血が出るのとは痛みの種類が違う。

爆弾とは、漫画などの影響で
火炎で人を殺傷すると勘違いする人が多いだろう。
実際は破片を爆発時の風圧により四散させ、人を傷つけるのだ。

裂傷部分は、縫合してもらった。
縫った部分が腫れぼったくなり、熱い感触が残る。
皮膚の表面は三日程度で菌が入らない程度に癒合する。
よって術後三日後に入浴が許される。
抜糸は七日後を予定とのこと。目が覚めたら自分の体が
縫われているなんてな。ゾッとするぜ。

真冬でよかった。
夏に入浴できなかったらストレスがマッハだ。
すでに背中の痛みのせいで大変なストレスだが。

エリカたちと話してる時は気が紛れていたのに、
あいつら帰ってしまったのか?
病室で一人にされるとこんなに悲しい気持ちになるんだな。
彼らにその気はなくても、見捨てられた気分になる。

目を閉じると、爆破テロされた時の
記憶が鮮明によみがえり、怒りがこみ上げる。

マサヤの野郎は……奴もこの病院にいるそうだが。
俺の隣の部屋だったか? 今すぐ殺してやろうかな。

冗談じゃなくてガチで殺してやってもいい。
そのくらい恨んでる。

アポなしでミウの部屋にやって来たかと思えば
いきなり爆弾を爆発させるとか何考えてるんだ。

爆破テロを計画したのが能面なのは分かっているが、
実行犯のマサヤをどうしても恨んでしまう。
もともとあいつにはクラス裁判の恨みがあるからな。

背中が痛い。うねりたくなる。裂傷は傷口が荒くて
治りが遅いので術後も痛みはしばらく続く。
この痛みによるストレスを誰かにぶつけたい。
マサヤを殺したい。

高野ミウ……。
あの子もこの病院のどこかに入院しているのか。
どの程度の傷なんだ? 俺が守ってあげたから
そんなに重症ではないと思うんだが。

あんな至近距離で爆破されたんだから、
普通に考えれば俺達2人は死んでいる。
俺はミウが生きているという保証が欲しい。
この目で見るまでは信じられないんだ。

「堀さん。起きましたか」

「ああ、レイナさん。ってゆうかレナだよな?
 久しぶりに会ったね。夏以来だ」

「……お父様、記憶があるの?」

「ああ。俺は間違いなく君の父親だった人だよ。
 お互いの年齢差を考えると全く実感がないけどな」

俺はいきなり入って来たナースがレナだと一目で見抜いた。
理屈じゃないんだ。記憶を取り戻してからは
何でもすぐ理解できるようになった。

レナは何を思ったのか、廊下へ走っていった。
ナースステーションに主治医でも呼びに行ったのか?
なんとマリンを連れて戻って来た。

「愚かにもお父様に暴行を加えたことを、
 マリンは心から反省しております」

頭を深く下げるのだった。気になるのはそのカチューシャだ。
(現場ではナースキャップって呼ぶのか?)
ワンピースの白衣姿なのは、コスプレでもしてるのか。 
子供がそんな恰好をしたら現場のナースさん達に失礼だろうが。

レナを初め他の看護師さんはツーピースの白衣でパンツルック。
キャップも感染症予防で廃止されているが、マリンは被っている。
目立ちたがり屋かよ。面白半分だとしたら説教が必要だな。

マリンの隣にレナもいる。娘二人と再会できたのは嬉しいが、
気絶する前にマリンにされたことは許せることじゃない。
術後は誰だって気が荒くなるんだぞ。
患者に対してお見舞いに来た家族があんなことするなんて……。

「レナは事情を知らないだろう?
 このマリンは、つい数時間前に俺を殺そうとしたんだ。
 スーパーの買い物袋があるだろ? 
 あんな感じの奴で俺の頭を…」

「全部聞いてます」

「え?」

「マリンはね、他に相談できる人がいないから
 私に何でも話してくるんですよ。罪滅ぼしのために
 ここで看護師のお手伝いがしたいと言ってきて、
 余っていた小さいサイズのナース服を貸してあげたの。
 ずっと仕舞われていた昭和の時代の服なんだけど」

「ふーん。病院側に許可は取ってるのか?」

「はい。いちおう」

納得できねえ。どうやったら許可が出るんだ。 
子供が働くのは法律違反のはずだろ。
まさかマリエの姿で就労を申し込んだのか?
それにしても高校生だからアウトだ。
こういう現場は18歳以上じゃないとダメなんじゃないのか?

「あ、あの。お父様が怒るのも分かるけどさ。
 マリンもいろいろ必死だったんだよ。
 マリンは自他との認めるほどのファザコンじゃん? 
 パパと再開できてうれしかったのに、
 別の女の話されて悔しかったんだよ」

「弁護するってことは、レナはマリンの味方のようだな」

「味方って……そういうわけじゃないけど」

「あれは謝って済む問題じゃないんだぞ!!
 いくら実の娘でも、やって良いことと
 悪いことがあるだろうが!!」

声を荒げてしまい、我ながら大人げないと思う。
レナが悪いわけじゃないのに。俺は大馬鹿だ。

くそ……。なんでこんなにイライラするんだ。

「お父様、急に動いたら危ないです」

レナが、松葉杖に手を伸ばす俺を制した。
いいからどきなさい。俺はミウの様子を見に行くんだ。

うっ……背中の痛みに体がのけぞった状態で硬直してしまう。
無理に動いたら傷口が開くだろか。
未知の傷への恐怖でひたいに脂汗がにじむ。
歯を食いしばって焼け付く痛みにぐっと耐えると、
痛みのピークが過ぎていく。

また動こうとすると、激痛がよみがえり、思わずあえぐ。
こんなに痛いなんて……
今まで不良に殴られたのなんて遊びみたいなもんだぞ。

マリンがタオルで俺の顔をふいてくれるが、
俺はこいつを視界に入れたくない。
マリンが焦りながら問いかけた。

「お父様はどうしてミウの病室へ行きたいのですか」

「なんとなくだ。悪いか?」

「分かりました、行くのは分かりましたから、
 車椅子に乗りましょう。その状態で歩くのは危険ですわ」

「ああ」

「さあ。お手をこちらに」

「おまえはいい」

「え?」

「レナ。パパを車椅子に乗せてくれ」

「は、はい。ただいま」

レナは緊張しながら俺の体に触れた。
男性の患者なんて腐るほど相手にしただろうに。
やはり元父親の体だから意識しているのか。

まさしく老人介護と同じ要領で車椅子に移動させる。
痛みに耐えて呼吸を荒くすると、
ふわっと、レナの優しい匂いを吸い込んだ。
髪の香りだろうか。女の匂いは心を落ち着かせるから不思議だ。

生まれ変わり……か。
病院にいた美人の看護師さんが、実は自分の娘が生まれ
変わった存在だったなんて今でも信じられない。

親だった頃の俺は、強制収容所で死んだ。
俺の記憶に残るレナは、10歳の無邪気な娘だった。
明るく多弁で後藤さんと気が合った。

大人になったレナの顔は、あの頃のエリカによく似ている。
目鼻立ちがはっきりして、特に鼻筋が綺麗だ。
容姿の美しさは文句なし。
この顔で独身なんて男たちは何やってるんだ?
もっとも簡単に結婚されても、
かつての父親としては複雑なんだが……。

そういえば、斎藤マリエは斎藤家の娘として生を
受けたわけだが、レナはどこの家で生まれたんだろう。

「ミウの病室はどこだ?」

「ここから一番離れた廊下の突き当たりです」

「じゃあそこまで頼む」

レナは俺の言うことに逆らわず、車椅子を押してくれた。
さっきは怒鳴ってしまって悪かったな。
君じゃなくてマリンに腹が立っていたんだ。

そのことを言うと、

「そんなの気にしてたら仕事にならないよ。
 理不尽に怒鳴る患者なんてたーくさんいるよ。
 むしろパパに怒鳴られたことがなかったから新鮮だったかな」

「そのレナが俺より大人になってるなんてな。
 おかしくて笑っちまうよ」

「本当にね。私は高校生時代のパパが見れて不思議な気分。
 実は学生時代のパパの写真がママのアルバムにあってね、
 カリンと二人で内緒で見たことがあったんだ。
 私はパパがいてくれるだけでうれしいよ」

足音が一つ多いのが気になったので振り返ると、
マリンが後ろを歩いていた。なんで着いてくるんだ。

俺はしばらくお前と話したくない。
いくら愛娘でもやってはいけないことの一線を越えてしまった。
マリンが心から憎いわけではないが、少し考える時間をくれ。

俺が何度も振りかえったのでレナが少し笑った。

「あいつも悪いとは思ってるんだよ」

「それは分かるけどさ」

「マリンのことは気にしなくていいから。
 ここがミウの病室だよ」

レナがノックもせずに引き戸を開けてくれた。
俺は車椅子ごと病室へ入る。

ミウはベッドで横になりながら、
小説と思わしき文庫本を読んでいた。
俺に気付くと、食い入るように見つめてきた。

「よう。ミウの怪我の具合はどうだ?」

「えっと。足が破片で痛んだ」

「俺は背中だよ。お互い裂傷か」

「太盛君、生きてたんだね。
 死んでたらどうしようかと思った」

「俺も同じことを考えていたよ。
 エリカからは君の無事を聞いていたけど、
 実際にこの目で見ないと安心できなかった」

「……私のこと心配してくれてたの?」

「俺は君の家の居候だったからな。
 これでも命がけで君を爆発から守ったつもりだよ」

「ありがとね。太盛君、男らしかった」

「体がとっさに動いたんだよ。
 今でもマサヤへの殺意はすさまじいぞ?」

「あ、それ私も。今すぐミンチにしてやりたい」

「やっぱあいつ、ムカつくよな?」

「うんうん。あいつこそ即死すればよかったのに」

俺たちは、どちらともなく笑い合った。
事故の後に会うと、不思議と打ち解けるものだ。
俺がミウに別れ話をした時の悲惨さがここにはない。

誰かが廊下を走り去る音がした。マリンか?
まあ誰でもいい。

レナが俺の耳元に口を近づけ、
色っぽい声で言った。

「そろそろ消灯時間ですから、
 お部屋に戻りましょう?」

レナが指さした卓上時計に視線を移すと、
確かに九時前になってる。
時間が過ぎるのが早すぎて吹くぞ。

「あと少しだけ、だめか?」

「規則ですから、すみません。
 きちんと睡眠をとらないと傷の治りも遅くなるし…」

「いや、悪いのは俺だ。無理なこと言って悪かった。
 じゃあ。そろそろ帰ろうか。
 ミウとあんまり話せなかったけど」

ミウは、去って行く俺に手を振ってくれた。
俺も手を振り返した。この感覚は、
初めて話をした6月の頃を思い出させた。

自分自身、ミウを心配する理由が分からない。
入院してくれたなら、そのまま
距離を取って他人に戻ればいいだけなのに。

自分から接近したきっかけは、マリンに殺されそうに
なったからなのか。確かに今の心情では
ミウよりマリンを恨んでしまう。

愛娘を恨むこと自体不思議でしょうがないが、
これが自分の感情だから仕方ない。

「パパ。夜はベッドでおとなしくしててね」

俺は再びベッドに寝かされた。
レナに介護してもらうと、むずかゆい気持ちに
なるけど、やっぱりうれしい。

娘に世話になるのは、俺が老人になった時だと思っていた。
おまえが幼稚園の頃にパパとお風呂に入りたくて
マリンと争っていたのをよく覚えているよ。

「ありがとうなレナ。できるなら
 ずっとそばにいてほしいくらいだが、
 レナは夜勤だから忙しいよな」

「年末はそうでもないよ。むしろ楽な方かな。
 お正月までに退院を希望する人は多くてね、
 容態の安定してる人は年末年始だけ
 自宅に帰る人もいるんだよ」

「へぇ。年末の病院はそんもんなのか。
 夜勤の仕事はどんなことをするんだ?」

大まかに仕事内容を説明してもらった。

消灯時間までに患者さん達の寝る支度を整える。
日中と継続するのが、いわゆる介助業務。
食事、入浴の補助、オムツ交換も看護師の仕事なのだ。
(風呂は一人30分以内と決められているそうだ)

消灯後は3時間おきに病室の見回り。
深夜にナースコールを押された時はすぐに
駆けつけないといけないから気が抜けない。

ここは総合病院。市で一番大きな病院だ。
この二階のフロアだけでもどれだけ病室があるのか。
この人達の面倒をみるんだから
改めて大変な仕事だなと感心させられる。

緊急外来があると通常業務とは別に
そちらの対応に追われるため、地獄の忙しさらしい。
俺とミウも救急車で運ばれ、迷惑をかけてしまった身である。
(マサヤは治療する必要なかったと思う。病室の無駄だ)

看護師の仕事は過酷なので患者だけでなく自分自身のケアも
しないといけないそうだ。確かにな。お世話する側が
世話される側より病んでしまったら本末転倒だ。

朝4時前には、患者さんが飲む薬のチェックや点滴の準備がある。
薬の分量、飲むタイミングは患者によって異なるのだ。
誤った注射薬を投与して死亡した患者の例もあるそうだ。
勤務中に一番眠くなる時間帯だが、ミスは医療事故につながる。

自分のミスが人の命に係わるのかよ……。
看護師さんの給料が高いのは当然だな。

朝の6時には
起床した患者さんの体温、血圧、脈拍を図る。

「パパは夕方にお昼寝したから、まだ眠くないよね。
 ちょっと待っててね」

消灯時間になり、レナはナースステーションへ行った。
まもなくして見回りと称して戻ってきて、
ベッドの横のイスに腰かけた。

廊下は薄明かりで、歩きやすくしてある。
入院患者のためにトイレの電気は
消さないので怖い雰囲気は全くない。

夜の病院は、静寂に包まれていた。
過ごし慣れた強制収容所三号室とはまた違う静けさだ。
一応患者の身であるから、看護師さん達から監視されている
のは仕方ない。だが、スパイとして疑われることはない。
(資本主義的会話をしなければな)

「レナ。仕事はつらくないか」

「20代の時より体力が落ちてきたけど、
 まだまだ若いから平気だよ。
 結婚して家庭があるわけでもないし」

「今まで結婚は考えなかったのか?」

「こんな職場じゃ相手が見つからなかったよ。
 合コンとか出会い系とかやってる同僚もいるけど、
 ああいうのは資本主義的な発想。
 私には俗人たちの考えが理解できないんだよね」

「そ、そうなのか」

娘が独身でいる理由が分かってしまった。この院で
勤めていることから、なんとなく想像はしていたが。
スパイ容疑がかかるから口にはしないが、心から残念に思った。

「今日のシフトは明日の朝までの勤務なのか?」

「夜勤の一歩手前で準夜勤のシフト。
 午後4時半から次の日の深夜1時までの勤務」

この病院の三交代のシフトは
深夜勤が0:30~8:00 日勤が8:00から17:30
となっている。レナのシフトでは明日が深夜勤で、
その次の日が休日となっている。

「明日は夜勤へと変わる前に
 インターバルが23時間以上あるから、実質休みと同じ。
 時間はあるから、たまには外でお金使いたいけど」

「明日の日中に遊びに出かけたら
 夜の勤務中に眠くなるんじゃないか?」

「そうなんだよねぇ。だから家でおとなしくしてるの。 
 出かけるとしたら買い物くらいかな。
 この仕事してると外出する回数が減るんだよ。
 そのせいで余計に出会いがなくなるの」

「カリンはどうしてるんだ?」

「さあ。私はこの世界では会ったことがないんだ。
 たぶんカリンも私と同じように別の家で生まれ
 育っているんじゃないの。
 もしかしたら一生会わないのかもしれないね」

パパの時みたいに運命の導きでもなければね、と言った。
運命か……。俺は運命論者だ。この世界で起きることは
だいたいが初めから決められたことだと思っている。
俺たちはちっぽけな人間。大河を泳ぐ魚に過ぎない。
大きな流れに逆らうことはできないのだ。

レナは俺の話し相手になってくれるが、
ナースステーションにいなくていいのか。
俺のせいで職場の先輩とかに怒られたら申し訳ない。

「患者さんの悩み相談とか、愚痴を聞いてあげるのも
 仕事の一つだから気にしないで。それにパパは特別だよ」

レナは声が大きくてさっぱりした性格をしていた。
文科系のマリンやカリンと違い、
体を動かすのが好きな体育会系だ。
マリンに負けないくらいのパパっ子だったな。

「今頃テレビで紅白がやってるんだろうね。
 今年も今日で終わりだよ」

「レナも気の毒だな。おおみそかの日まで勤務とは」

「シフト勤務だから慣れてるよ。
 年を追うごとにむなしさが増すけど。
 パパは今年どんな一年だったの?」

「俺は……激動の一年だったよ。
 ミウと関わるようになってからいろいろあった」

「今年の7月にパパとミウが
 斉藤マリエのお見舞いによく来てたよね。
 パパ達は目立つから院内で有名人だったんだよ」

「えっ、そうなのか」

「同僚達から、あのかわいい子達また来るのかなって
 噂話されてたよ。パパは高校生の時から人気者だったんだね」

「ま、人気があったとしても良いことばかりじゃないさ」

カツカツカツと、廊下の前を看護師さんが歩いて行く。
俺たちは彼女が通り過ぎるまで黙ることにした。

「俺の声。大きかったかな?」

「大丈夫。まだ他の患者も起きてるから」

「そうなのか?」

「若い人で九時ぴったりに寝れる人は少ないよ。
 だからお昼寝はできるだけしないほうが得だよ。
 夜眠るのに最適なのは、日中に少しでも体を動かして
 筋肉を刺激することよ。歩くのが辛かったら、
 ベッドの上で足首だけでも動かしてみて」

「なるほど。レナの説明は端的で分かりやすいな」

「少し寝つきが悪いからって不眠症だと考え始めると、
 鬱になりやすいから気を付けて。安眠をサポートするのも 
 私たち看護師の仕事だから、どうしても眠れない時は
 何でも相談してね」

「ありがとな。できるだけレナ達の迷惑に
 ならないように気を付けるから」

「そんな……私たちの心配はしなくていいのよ。
 私はパパのお世話するのは全然嫌じゃないんだから」

娘の立派に成長した姿を見て目頭が熱くなる。
俺の記憶のレナは、しょっちゅうマリンと
つかみ合いの喧嘩をしていたのにな。

それから小一時間ほど話してからレナは
「そろそろ戻らないと」残念そうな顔で言い、
俺の顔をやさしく抱き、頬にキスをしてくれた。

「じゃあ、またね」「……ああ」娘じゃなかったら
異性として意識していたところだった。頬に触れると
リップの感触が残っている。

ああ、病室に残されるとレナが恋しくなる。
他の患者のとこへ行かないでほしいと思うほどに。
寂しさに耐えきれなくなり、ナースコールを押したところで
他の看護師さんが来るかもしれない。

そういえば、ここで勤務する条件はボリシェビキであることだとか。
レナの根底にあるものも、ミウと同じというわけか。
俺にどれだけ優しくしてくれたところで、レナも反革命容疑者を
抹殺しようとする鉄の意志を持っているのか。

今年最後の日に、娘のレナと出会えたのは、
どんな意味があったんだろうか。

俺はこのまま死ぬまでボリシェビキに運命を左右されるのか。
本当に明日から新年になるのか。世界が崩壊するんじゃないか。
俺は今年の夏から生徒会に関って全てが狂ってしまった。
何も変わるわけがない。
いっそ明日なんか来なければいいと思いながら瞼を閉じた。


~高倉ナツキ~

人生とは常に予期せぬことが起きるものだ。
高野ミウの身の回りで起きていることは
まったく波乱万丈の一言に尽きる。

ミウが入院しているのは総合病院だ。
年始でも面会時間が13時以降なのは変わらない。

「面会カードはお持ちですか?」

僕は生徒会役員の証を提示し、受付を顔パスした。
年末年始は出入口が限られていて、
しかも家族でも面会札がない人は入れない決まりだが、関係ない。

「カコ、おまえはどういうつもりなんだ!!」

二階のロビーで怒鳴り声をあげている男性がいる。
40代くらいの人だろうか。電話口で奥さんと思われる人に
文句を言っている。年始から非常識な男だ。

「娘が入院しているのに一度も顔を出さないつもりか!!
 俺に内緒でお義母さん達と調停離婚の手続きを
 進めているそうだが、私に何の断りもなく一方的にだね……!!」

近くに来た看護師さんが、声をかけようか迷っている。
綺麗な人だ。年は20代後半だろうか。

「勝手なことを次から次へと……
 君の都合よりもミウのことを考えなさい!!
 あの子はまだ学生なんだぞ!!
 どんな時でも子供優先だと言ってたのは嘘だったのか!!」

なに……? 今この男がミウと言ったぞ。
聞き間違えじゃないとしたら、ミウの親族。
話の流れからして実の父親か?

僕は高野ミウの見舞いに来た旨を美人の看護師に伝え、
また男の正体についてもそれとなく聞いた。

「そうよ。あそこで荒れてるのがミウのお父さん。
 他の患者さんに迷惑だから注意しなきゃいけないんだけど、
 マジギレしてるから話しかけにくくてさ。
 はぁ……朝からめんどくさ」

ミウの家庭はそこまで深刻な状況だったのか。
ずいぶんフランクな感じの看護師さんだな。
この看護師がミウを呼び捨てにしているのが気になる。

「あなたは高野ミウと親しそうですね。
 もしかしてミウの身内の方ですか?」

「身内か……。身内といえば身内ね。
 説明するとすごーく長く複雑な話になるのよ」

遠い目をしてそう言った。
どうやら深い事情があるようだ。
僕は女性のプライベートについて詮索はしない。

ミウの病室に入る。

「あけましておめでとう」

「ナツキ君……。うん、おめでとう」

新年早々僕が来るとは思ってなかった、
と言いたそうな顔だな。ミウは思ってることが
顔に出やすいから分かりやすいよ。

「お見舞いに来てくれたのは素直にうれしい。
 個室って快適だけど、ずっと一人だから人恋しく
 なっちゃって。家族や友達と初詣に行かなくていいの?」

「ボリシェビキに宗教は禁止だ。
 それに僕は友達と呼べる人はいないよ。
 生徒会長でもあるし、こんな性格だからね」

ミウは明らかにやつれてしまっている。
長くなった前髪を、ななめに分けている。
後ろ髪はひとつにまとめて、左の肩に垂らしている。

けだるそうな感じに色気すらあるが、
副会長時代の威厳はそこにはない。
夏の終わりはセミロングくらいの長さだったのに、
ずいぶんと伸びたものだ。まさに病人といった風の
容姿になってしまっているのが残念だ。

「マサヤは反逆者に指定しておいた。
 生徒会に忠実だったはずの彼が、何者かに
 買収され、爆破テロを実施するとは予想外だった」

「誰が?」

「なんだ?」

「誰が買収したの。マサヤ君を」

「それは……。分からない。生徒会が総力を
 挙げて捜査しているが、足がつかめない」

不思議とミウは犯人に心当たりがあって
聞いている風だったが、問い詰めるのは良そう。
傷心中の彼女を刺激したくない。

「君と太盛君の共同生活を提案したのは僕だ。
 すまないことをした。軽率な判断だった」

「私のためを思ってやってくれたんだよね?
 なら謝らなくていいよ。ナツキ君はどんな時でも
 私の味方だったじゃない。私はナツキ君に感謝してるよ」

「ミウ……」

ミウは嘘を言わないから、
言葉を額面通りに受け止めていい。
だからこそうれしい。

「謝るのは私の方だね。マンションが爆破された時の
 混乱で本村家の人達を逃がしちゃったよ。
 ボリシェビキの弱さを世間に知らせる結果になった」

「それは……。君が謝ることじゃないよ。
 あの爆破は仕方なかった。
 誰にも防げることじゃなかった。
 責任があるとしたら、マンションの警備の方にだろう」

ミウが何も返してこなかったので沈黙が訪れた。
新年の病棟は静まり返っている。
僕の他に見舞いに来た人はいないだろうか。

遠くから聞こえてくるのは、あの男のうるさい声だ。

「パパの電話うるさい……。迷惑かけてごめんね」

「全然そんなことはないよ。ご家庭の事情なら仕方ないさ」

「久しぶりにパパが帰って来たと思ったら、
 今度は離婚話だよ……。ショックで頭がおかしくなりそう」

「離婚は、まだ決まってないんだろ?」

「うん。でも本当に離婚しちゃいそう。
 ママが本気で離婚したがってるみたいなの。
 お父さんが私を引き取る形で話が進んでいる」

感情の糸が切れたのか、ミウが泣き始めた。
大量の包帯が巻かれ、太ってしまった左足が痛々しい。
破片による裂傷の痛みとは、僕には想像もできない。

破片によって引き裂かれた傷跡は深く、
痛みが引いた後も一生残るかもしれないのだ。
体にも心にも。

僕の両親は離婚するほどの喧嘩はしたことがないと思う。
だから、ミウの気持ちを分かってあげられないのがくやしい。
どんな慰めの言葉を投げかけても彼女には届かないだろう。

ミウの母は熱烈なボリシェビキとして覚醒し、
市議会にまで顔を出すレベルの猛者と聞いていた。
その人が学園で副会長の地位の娘を
捨てて家を出ていくなんて、尋常ではない。

「傷が完治するまで休学してくれ。
 生徒会のことは僕に任せて、学園のことは
 しばらく忘れたほうが良い」

「私が一時的に抜けると、たくさんの人に迷惑かけるね。
 中央委員とか幹部はもともと人手不足なのに」

「幹部クラスの人事はあとで検討する。
 今のところナージャを中央委員部の代表に
 昇格させる予定だ。
 組織委員部の代表は臨時の者を起用する」

仕事(生徒会)のことは忘れろ。
気になるのは仕方ないことだが、
心に負担がかかると入院が長引くぞ。

「俺に触るんじゃねえ!!」

廊下から男の怒声が響いた。
ミウの父上より声が若い。

「お前の力はいらない。俺は自分の力で歩ける」

「でも無理するとリハビリに影響しますわ」

「腕は無事だから松葉杖はつける。
 どうだ? ゆっくりだけど歩けるだろ。
 俺はお前に世話されるつもりはないんだ」

男の方の声は聞いたことがある。
近くにいるようなので、廊下へ顔を出すことにした。

「……その言い方はあんまりですわ。
 マリンはお父様のお力になりたいと思って
 看護のお仕事を覚えていますのに」

「用があるなら、レナか他のナースさんを呼ぶよ。
 おまえは俺のことは良いから、
 他の患者の面倒でもみてろ」

お父様のバカ。短くそう言い捨てて、マリンという名の少女は
走り去っていた。ずいぶん小柄な看護師がいたものだ。
背丈は小学生程度。顔も子供にしか見えなかった。

小人症なんだろうか? 
しかもあれはミウの想い人の太盛君じゃないか。……想い人か。
マリンちゃんが彼をお父様と呼んでいるのが激しく疑問だ。

現役高校生の太盛君に娘がいる?
しかも娘は看護師として働いていて、
外見は幼く、小学生にしか見えない。

小学生の女の子にお父様と
呼ばせる特殊なプレイをしているとしか思えない。
正月から奇妙なものを見てしまった。

「ねえパパ……。今の言い方はマリンに厳しすぎるよ」

「自分でも感情的になりすぎてる自覚はある」

「パパはまだ松葉杖で歩けるレベルじゃないでしょ。
 パパの回復が遅くなると私ら看護師の負担が増えるの……。
 大人しく車椅子に乗ってくれないかな」

「すまん。バカなことをしてしまった。
 君たちに迷惑かけるつもりはないんだ」

なんだ……? レイナさんはどう見ても大人の女性だ。
レイナさんまで太盛君をパパと呼ぶとはどういうことだ?

……意味不明だ。マリンちゃんだけでなく、レイナさんまで
太盛君を慕っている。兄妹?にしても似ていない。

太盛君は、立ち尽くして考え事をしている僕には
気付かなかったようで、レイナさんに車椅子を
押されて廊下の先へ消えていった。

僕はミウの病室に戻り、そのことを詳細に伝えた。

「太盛君は、ちょっと色々ある人だから」

そんな言い方をされたら余計に気になるじゃないか。
彼にはいったいどんな秘密があるんだ?

くっ。こんな時に無駄な好奇心がわいてしまうが、
ミウを問い詰めて嫌われるようなことはしたくない。

「ミウの気持ちは変わってないか?
 今でも彼のことが好きか?」

「うん」

頬を染めてうなずく。嘘偽りない彼女の本心なんだろう。
僕はどれだけミウに尽くしても報われない。
哀れなピエロだ。

同性として彼に嫉妬する。太盛君にばかり
美女が集中するのはなぜなんだ。
ミウは実質学園トップの美人だが、
レイナさんとマリンちゃんも十分に綺麗な顔立ちだった。

性格に難があるが、エリカもかなりの美女だ。
僕は自分で言うのもあれだが、学園では
一年生の時から女子から人気があった。

こっちら話しかけなくても、向こうから
アプローチされることは多々あった。
粛清されたアナスタシアがそうだ。
副官のナージャは今でも僕のことを慕ってくれている。

そんな僕でもミウだけは自分のものにできなかった。

くやしさと、やりきれなさで叫びたくなる。

僕はお大事に、と言ってからミウと別れた。
笑顔で手を振ってくれる彼女が神々しく思えた。
何度見てもミウは僕の好みだ。
たとえ病人服を着ていてもそれは変わらないよ。

僕はうなだれながら廊下を歩き、階段へと向かった。
もちろんエレベーターもあるが、
僕は健常者なので階段を選んだ。

フロアの中央を通過しないと階段までたどり着けない。
中央には当然ナースステーションがある。

そこへ差し掛かると、

「うぅ……ぐすっ……」

また変なものを見た。
泣きじゃくっているのはマリンちゃんだった。
さっき太盛君に冷たくされたのがショックで泣いているんだろう。

「ちょっと、君」

「あなたは?」

「高野ミウの知り合いだよ。
 堀太盛君の知り合いでもある。
 これから彼のお見舞いに行こうと思うんだけど、
 病室まで案内してもらえないか?」

どうしようか迷っていたが、うなずいてくれた。

自分でも分からないのは、わざわざ彼女に
案内してもらったことだ。他の看護師さんに
聞けばよかったのに、傷心中の彼女を
太盛君の病室に行かせるのは酷なことだと分かっている。

だが。

話しかけずにはいられなかった。
たとえナースでも彼女が年下なのは確信している。
だから敬語は使わずに話しかけた。

「おい。マリン、何しに来た?」

マリンが先頭で入ると、太盛君が低い声で威嚇した。
僕が知っている彼からは想像もつかないほど怖い。

「お見舞いに来た方がいまして」

「誰だよ?」

僕はマリンちゃんに続いて個室に入った。

「あなたは、生徒会長殿……?」

「お久しぶり。今回の事件は気の毒なことだった」

彼とは親しい関係だったわけじゃない。

社交辞令を交えながらの緊張感のある会話をしてから、
僕は帰ることにした。彼も僕に気を使って話していたが、
それでも機嫌の悪さがひしひしと伝わって来た。
口元だけは笑いながらも、目つきは野犬のように鋭かった。

爆弾テロに巻き込まれて大怪我をしたのだから当然だと思うが。

会話の内容は、ミウに話したのとだいたい同じ内容だ。
とにかく今は傷の治療を最優先させることだ。
気になったのは、会話中に太盛君の怒りの視線が、
僕の背後にいるマリンちゃんに向けられていたことだ。

-------------------------

~堀太盛の視点~

俺はマリンが許せない。
なぜだろう。一度ビニールを頭にかぶせられて
窒息死寸前にされたからか。ミウにだって電気椅子拷問を
された経験はある。どこかの世界でエリカに屋敷の地下監禁
された記憶もうっすらだが存在する。

だが、マリンに対する恨みが特別に強い。

「お父様。会長様とお話し中にずっと私の方を見てましたね」

「さあなんでだろうな。俺はずっと部屋の中にいる
 おまえが不愉快だったからかもしれん」

マリンはびくっと肩を一瞬だけ震わせた。

「レナにはそんなこと言わないのに」

「あ?」

「お父様はレナには優しいのに、
 どうして私には冷たくするのですか」

「お前が俺を殺そうとしたからだ」

「本当に悪いとは思っていますわ。
 ですから何度も謝ったではないですか」

「そんなんじゃ、足りないんだよ!!」

俺は水のペットボトルをぶん投げた。
マリンに当たりはしなかったが、あぜんとしている。

「今思うとお前が俺の娘だって証拠もありはしないんだ!!
 リリンか何かが化けてるんじゃねえのか!!
 ミウが言うように妖怪なのかもしれない!!
 献身的に尽くしてくれるレナと、性格がコロコロ変わって
 正体が分からないお前とじゃ、区別するのも当然なんだよっ…」

※リリンとは
(ユダヤ教における悪魔の一種。ヘブライ語リリスの複数形)

くっ……背中の痛みのせいで、それ以上続けられない。
俺は人並みに喧嘩ができるほど健康ではないのだ。
口を結び、痛みが治まるまで耐えた。

マリンが声を押し殺して泣いている。
俺はそんな姿を見たくなくて、
壁の一点だけをただ見つめていた。

「堀さん。どうされました?」

若い男性のドクターが様子を見に来てしまった。
たまたま近くを通りかかったから心配したのだという。

マリンが何でもありませんと答え、ドクターを連れて
部屋を出て行ってしまった。医師もあわてたことだろう。
二人の足音が遠ざかっていくと、また静寂の世界に戻る。

その日の夜六時。マリンが俺に夕飯を持ってくるのだった。
あいつはどこのシフトに入っているんだ?
俺の記憶が定かなら朝イチから働いている気がするぞ。

泣きはらしたせいか、目が充血してる。
わが娘ながら綺麗な顔が台無しだ。
無理に笑顔を作りながら言う。

「私は少しでもお父様のお力になりたいので
 少しだけ勤務時間を長くしてもらっていますの」

「そうかい。君はモンゴルにいた時から働き者だったもんな」

「うふふ。お父様。覚えてらっしゃるのね」

廊下にはキャスター付きの台が置いてある。
台に乗せられた食器を看護師さんが持ち、
部屋の中に運ぶのだ。

向こうも仕事だから時間で動いているだろう。
早く食べないとナースさんたちに迷惑をかける。
それは分かっているんだが、マリンが持ってくる
食事が喉を通りそうにないのが困った。

「あ、髪に糸くずが付いていますわ」

「え、そうなのか」

「はい。今取りますね」

一日中ベッド生活をしているからか。
俺の前髪についていたそれを、マリンがさらっと取ってくれる。
かつて俺を殺そうとした狂気は全く感じられない。

俺を殺そうとした。そうだ。これが問題なんだ。
マサヤは確実に殺す。能面が間接的に関わっているなら、
あいつも殺す。俺の命を狙おうと思った者は、みんな殺す。
自分に向けられた狂気がやがて他の人へ向かう。

「あっ……?」

マリンが、ひっぱたかれた頬を手で押さえた。

「お、お父様?」

「痛いかマリン?」

「え……ええ」

「俺の心はもっと痛いんだぞ?
 なあ。娘に殺されそうになった俺の気持ちが分かるか?」 

俺の記憶の限りはではこの子に手を挙げたことはない。
何をするにしても可愛すぎて、この子が生まれてから
妻のエリカを完全に女として認識しなくなってしまった。
愛する娘が悪さをしたところで、
手を上げるという発想にすら至らない。

マリンはショックのあまりか、うつむき、鼻をすすり始めた。

「ぶたれるのは嫌だろう?
 だったら俺の体に気安く触るなよ」

「お父様の……体に振れなければ看護業務ができませんわ」

「それでも触るな。というか俺の世話をするなと
 言っただろ。俺の担当看護師はレナでいい」

「レナは三交代のシフトですから、いつでも
 お父様のそばにいられるわけではありませんわ」

「おまえこそ疲れてるだろうから、家に帰って寝たらどうだ?」

「午後に仮眠室で2時間ほど睡眠をとりましたわ。
 今日は夜遅くまで働くつもりです」

「ああそうかよ!! 強情だな。なら勝手にしろ」

俺はそっぽを向いた。

窓の外の景色でも見れたらよかったのだが、
あいにくカーテンは締まっている。夕日もとっくに沈んでいる。
外には、漆黒の闇が広がっているのだろう。

月が出ていれば星空が見えたかもしれない。
星空か。エリカの別荘で見た夏の天の川の
美しさをよく覚えている。

人には癒しが必要なんだよ。
特に男が女に求める要素の一つがそれだ。
かつてのエリカにそれは存在しなかった。
ミウも同じだ。ユーリとエミにはそれがあった。

マリンはまた鼻水をすすった。
ハンカチを目元に当てた。
そんなこの子の姿を見た今でも俺の気持ちは変わらなかった。

「マリンはお父様に……嫌われたくありません」

「いつまでそこにいるつもりだ?
 他の患者のところを回れよ」

「お父様がいつまでもそんな調子ですと
 お仕事をする気になりません」

「なら家に帰れ」

「私には帰る家がありませんわ」

「この世界では斎藤家の娘だろう?」

「前世を知ってからは斎藤家の一員という自覚が
 持てません。私が帰るべき場所はお父様のお隣だけです」

マリンはご飯の乗ったスプーンを俺の口元へ運んでくる。

俺は窓の方を見続けて、マリンをやりすごそうとしたが、
しつこい。一分くらいずっとその姿勢を維持し続けたので
こっちが根負けしてしまう。

「お味はいかが?」

「イライラしてるんだ。味なんてわからないよ」

食事中は扉を開放しているから、廊下側から丸見え。
早足で通りかかったナースがこっちを見て、クスクスと笑っていた。
勘違いするなよ。君が思っているほど微笑ましいシーンじゃないよ。

「お父様がご機嫌を治すまで、マリンは諦めませんわ」

「普通これだけ冷たくされたら距離を取ろうとか思わないのか?」

「いいえ。私はお父様のことを愛していますから」

おかずをゆっくりと咀嚼してから、
俺は侮蔑の視線をこの子にあげた。

「最近の小学生は愛なんて言葉を簡単に使うんだな」

「いけませんか?」

「学校でカッコいい男の子は見つからなかったのか」

「同じ年代の子は子供っぽくて興味ありません」

「……普通の親子として過ごそうよ」

「はい?」

「エリカがよく言っていたよな。
 俺とマリンは距離が近すぎるって。
 普通の娘は父にご飯を食べさせたりしないだろう」

「今のお父様は病人ですから」

「屋敷時代は一緒にお風呂に入るのが日課だった。
 マリンが小学4年になっても変わらなかった。
 俺は少女趣味の犯罪者だとエリカに口汚く罵倒されてな。
 俺が望んだんじゃなくて、マリンが求めたことなのに」

「親子が仲良しなのは良いことではないですか。
 赤の他人に口出しされても否定せず、はいそうですか。
 と聞き流してしまえばいいのです。あのババアは、
 どうせ人の話なんて聞きつもりがないのですから」

……既視感。蒙古にいた時のマリンは、
母親のエリカをはっきりと他人扱いしていた。
親子の縁を切っても構わないという意思表示なのだろう。

「分かった。もうこれ以上聞くのはやめる。
 ご飯も綺麗に食べたから、あとはベッドで休ませてくれ」

「痛み止めの薬はお飲みになりますか?」

「そうだな。飲んでおくか」

背中のガーゼのべったりとした感触が気持ち悪い。
これも縫った肌がくっつくまでの辛抱だ。
できるだけ傷口のことは忘れたいのだが、
この痛みから逃れるすべはない。

病院生活で最も恐ろしいのは、この無機質な空間で
過ごすことで心を病んでしまうことだ。
心だけは平穏でいたい。

こんな時は異性が恋しくなる。
俺を癒してくれる女性がそばにいてほしい。

学園生活ではカナがいてくれたから
心が狂わずにすんだ。ああ、カナは今頃
家で新年を迎えているんだろうか。

エミは参拝客を迎えるので大忙しなんだろうな。
新年は神社が一番儲かる時期だからな。

マリンが廊下へ消えてから、まぶたが重くなり、
深い眠りについた。寝ている間、誰かが俺の手を
やさしく握っているような、そんな気がした。

病院で迎えた新年 運命の終わり

1月1日 眠れない夜

~堀太盛~

俺を心配してくれるレナやエリカのためにも
一日でも早く回復しなければと思う。
親父殿を始めとした堀家のメンツは、
情報規制されているためか、この病院には
一度も来ていないし、連絡すら取れない。

今、何時なんだ?

夕飯後にすぐに寝たから、時間の感覚がない。
締められたドアからは、廊下の明るさが漏れている。

部屋の中は消灯している。看護師さんが気を利かせて
暗くしてくれたのか。いや、マリンかもしれないな。

電気をつけないと壁掛け時計すら見えない。
ベッドサイドの携帯を手探りで探す。
Lineの着信が来ていた。

見知らぬ人からと表示されているが、
どうみてもエミからだ。そうか。エミのデータは
マリンによって削除されていたんだな。

『入院したって聞いたけど、まだ生きてる?』

うれしさと懐かしさで涙がでる。
何日か前だったか忘れたが、エミと絶交する旨のメールを
マリンが送っていたはずだった。エミはあんな
不自然なメールなど気にしてないみたいで助かった。

時刻は八時半。良かった。
まだ消灯まで時間があるじゃないか。
髪の毛は少し洗わないだけでフケでカピカピになっちまう。
入浴許可が出るのが待ち遠しいぜ。

寝汗を書いたのか、服が湿っている。
喉がカラカラだ。トイレにも行きたい。
それでもエミと話したくて仕方なかった。

俺はエミのLINEを登録してから、電話した。

「太盛だよね?」

スリーコールで出てくれた。うれしい。
つい声が大きくなってしまう。

「エミ。久しぶりだ。あの時送ったメールだけど」

「あはは。みなまで言わなくてもだいたい分かるよ。
 どうせあんたのことが好きな女の子にイタズラでも
 されたんでしょ」

エミは去年の夏休み中にミウに恋バナ(恋愛相談)を
されて、俺を取り巻く恋愛関係はほぼ把握しているらしい。
さすがエミ。賢い女。

あのメールは突発だったのにも関わらず、
こっちが説明するまでもなく事情を
把握できるのはすごいと思う。

「消灯まで時間がないから、早口になっちゃうけど
 聞いてくれ」

「うん」

俺のつたない説明に相槌を打ちながら真剣に聞いてくれた。
やっぱり学校の先生に話すよりもエミに話すほうが
よほど安心する。話すだけでこんなにも楽になれる。

相談相手がいることは大切なことだ。
人の縁は大事にしたほうが良いと言うのはこのことだ。

「なるほどねー」

口調は軽いが、話す内容は真剣そのものだ。

「ツッコミどころが多すぎてどこからツッコメばいいのやら。
 とりあえず感想としては、あんたは巻き込まれ方の
 主人公ってとこかな。これがドラマとかの物語だとしたら
 あんたが主人公でヒロインがミウね」

「確かにそうかもな。誰かに運命を
 操作されている気がしてならないんだよ」

「運命ねぇ」

エミが意味深なため息をついた。

「第三者の意思があるとしたら、あんたの死すべき運命を
 正常な方向に戻したいと願っている。違うかしら」

「俺が共産主義者になればいいのか?」

「なんでそうなるのよ。共産主義は能面の人が
 全面的に否定しているんでしょ」

「そういえばそうだったな」

「能面とマリンが重要な鍵を握っているわね。
 能面はあんたにミウと付き合うなと言った。
 関わるなとまで言った。なら答えは決まっているでしょ」

「ミウを振ってしまえば、問題は解決するのかな。
 能面は俺とマリンをくっつけようとしてるようにもみえる」

「それで付き合おうにも相手が
 自分の未来の娘じゃ無理ってことね。
 たとえ斎藤マリエの姿をしていたとしてもさ」

「エリカとの関係はどうすればいいと思う?」

「当然距離を取るべき。そもそもミウがこの世界に
 来た目的を考えてみなさい。飛ばされたのはエリカとの
 婚約を防ぐためなんでしょ。世界の意思があんたと
 エリカが結びつくのを否定しているんじゃないの?」

「エミは俺とユーリのことも知っているよな?
 あれも世界が認めない関係だったというわけか」

「そうねえ……。最終的に強制収容所送りにまでなったんだから、
 そう思うしかないでしょ。もー、なんなのよ。太盛の周りの
 女ってどうしてこう、めんどくさいのばっかなんだろうね。
 あんた、もう女と付き合うのやめた方がいいよ。
 多分向いてないから」

俺たちは笑った。明るい話題じゃないのに
こんなに楽しい気分にさせてくれるのは
この人だけなんだと思う。

「俺は」

「うん?」

「俺は今でもエミのことが好きだ」

唐突な告白だったためか。
電話口でエミが黙ってしまった。

嫌な沈黙ではない。驚いているのだろう。

「気持ちはうれしいよ。でもあんたの周りがなぁ」

「エミは俺にはもう興味ないか?」

「ないわけなけじゃ……ない。
 今年の夏に再開できた時、実は舞い上がっていた。
 あんたが彼女連れだったのはショックだったけど」

「エミは付き合ってる人はいる?」

「いないよ。私は普通の男には興味ないし」

遠回しに俺が普通じゃないと言いたげだな。
あえて指摘しないけど。

「失礼しますね。堀さん。そろそろ消灯時間ですよ」

主任看護師っていうのか。責任感の強そうな
30代くらいの女性が俺にそう告げたのだった。
見た目がキリッとしていて、他の看護師さんとは
雰囲気からして違う。

レナから聞いているよ。
この人は看護師のとりまとめだけでなく、
看護師長との調整業務も行う中間管理職の人だ。

俺がバカをやるとレナに迷惑がかかるから、
大人しく言うことに従おう。俺はまた連絡するからと
言って電話を切った。

あ……。血の気が引いた。今俺がエミと電話してたこと、
内容的にこの病院ではアウトなんじゃないのか……?
この病院では資本主義的な会話をした人は逮捕されると
レナが教えてくれた。だが不思議なことに誰にも
聞かれてなかったのか、逮捕されることはなかった。

消灯時間になる。見回りに来た看護師さんが
部屋の明かりを消し、また隣の部屋を巡回していく。

こういうのって、保育園とかのお泊りの時間みたいだ。
本当に病院での日々は非日常だと思う。
昔の俺も、こうやって一人でいる時間を貴重だと…

「おほん。夜分遅く失礼させてもらうよ」

急に真横に人の気配がすると思ったら、何者かがそこにいた。

「病室の名前を確認したが、君は堀太盛君で間違いないな?」

「そうですけど、暗くて顔がよく見えません。
 あなたはドクターじゃないんですよね?」

「私の名前は高野ナルヒトだ。ミウの実の父親だ」

バカな……。今は消灯中で面会時間はとっくに終わってるぞ。
夜は不審者の侵入に備えて警備兵まで立たせている。
この警備の厳しい共産主義的院内にどうやって潜入したんだ。
そもそも、こんな夜遅くに俺に何の用がある?

俺はベッドから飛び起き、背中の激痛のために
あえいだ。背中が焼ける……!! 
これは……傷口が開いたかもしれない。
もうすぐ縫った部分がくっつくところだったのに。

「言っておくが、私はナースコールを押さないぞ」

なに?

「ナースさんを呼んだりもしない。
 むしろ逆だ。君の苦しむ顔をもっと見ていたい」

ミウの親父はそう言って、俺の右手を取った。
何をするつもりだ?

「今から私は君に尋問する。答えなければ小指をへし折る」

何を言って……。

「君は半年前から私の娘と交際してたようだが、
 収容所三号室のカナという名前の女と浮気をしていたね。
 この事実を認めるか?」

「……みとめるよ」

「……それなのに君は斎藤マリエがや橘エリカと浮気している。
 君がそんな調子だとミウの気持ちはどうなるんだ?
 ミウは君との再会を願ってボリシェビキにまで手を染めた。
 だが君はミウを捨てて他の女を選ぶのか。罪悪感はないか?」

「ないわけじゃないです」

「あやふやだな。イエスかノーで答えろ」

「イエス」

「あると言う意味だな?」

「そうです」

この男はなんで俺の恋愛遍歴を把握しているんだ?
まさかミウから実の父にべらべら話したとは考えにくいが。

「私は金融業界で長年勤めている。
 情報収集は得意なのだよ」

俺の指をへし折ろうとしているこの男は金融の専門家だった。
スイスのチューリッヒ銀行で外国為替貴金属ディーラーを経て、
ロンドン証券取引所でも貴金属を担当し、現在はフリーで
事務所を持ち、公演会や著書の執筆で金を稼いでいるそうだ。

こんな野郎の経歴なんて、今の俺に聞かされても困る。
こいつがエリートだろうが親バカだろうが、
一目見た時から気に入らないんだよ!!

「私は鬼ではない。ボリシェビキのように疑い深いわけでもない。
 冷静に時間をかけて問題を処理したいと思っている。
 だが娘のことになると我を忘れ、熱くなってしまうのは
 昔からの悪い癖だと自覚している」

「ベッドの下に盗聴器が…」

「解除した」

即答されてしまったのだろう。迷いのない口調だった。
ちなみにこの病院では反革命容疑者を取り締まるため、
すべての病室に監視カメラと盗聴器が仕掛けられているのだ。
それをどうやって解除したのかはあえて聞かないよ。

「君のせいで私のミウは道を踏み外してしまったのだ!!」

ゴキッ

鈍い音がしたと同時に、
俺の右手の小指が明後日の方向に曲がってしまった。

「むぐ…

指を折られた次の瞬間には
俺の口に丸めたハンカチがつっこまれた。
叫び声すらあげさせてくれないのか。

「君に裏切られたミウ、かわいそうにな。
 ああ……こんなことになるなら、私がもっと
 ミウのそばにいてあげればよかったのだ」

それより早く指を元通りにしないと。
本当にこれは俺の指なのか?
脳天にまで激痛が走るのはこれで何度目か。

「君が全ての元凶だよ。私の妻は離婚の調停を
 進めようとしている。これの意味が分かるかね?」

ミウの影響で奥さんまで共産主義者になった。。
その元をたどれば、堀太盛の収容所送りにたどり着く。

俺が元生徒会長のアキラに目を付けられたのは夏休みの後。
スーパーのカスミで元同級生と喧嘩したのが決定打となった。
そして収容所行き。全ての元凶は俺自身。

確かに言っていることは筋が通っている。
それに俺はミウと彼氏彼女だったことも事実。
それから話がごちゃごちゃして今に至るのだ。

「今から口のハンカチを外すが、騒いだりしたら
 今度は別の指を折る。分かったね?」

「う……ごほごほっ……」

「君はついさっきエミという女性に電話で告白していた。
 これも事実だね?」

だからなんだよ。
エミは俺のあこがれの女性なんだ。
エミが好きで何が悪いんだ。

俺の反抗的な目つきが気に入らなかったのか、
俺の顔に拳を突き立てて来た。

鼻が折れてないだろうか。
俺の病衣に鼻血が垂れてくる。

鼻を強打した時って自然と涙が出るんだよな。
悲しいわけでもないのに。

「堀君がエミさんを選ぶのは間違っている」

「ミウさんと俺が交際すれば満足するんですか」

「あの子が強く望んでいる以上、
 君がミウと付き合うべきなのは当然だ。
 私は親として、あの子の願いを
 最大限叶えてあげたいと思っている」

「あなたが娘さんの幸せを願うのは当然だと思います。
 ですが、俺の意思はどうなりますか。
 俺にだって自由に恋愛する権利が…」

「もう黙りたまえ!!」

父親は立ち上がり、自分の座っていたパイプイスを持ち、
俺の頭に振り下ろそうとする構えを取った。

俺にはケガ人だ。避ける術がない。
脳が激しく揺れ、視界が暗転する。
後頭部に直撃したようだ。
少しでも避けようと首を振ったが、無駄だった。

後ろからバッドで殴られた時がこんな感じだったな。
目の前の景色が二重に見えるぞ。
ドクドクと、暖かい血が髪の毛へ伝ってくる。あったけー。

「堀君。いっそ君を殺してしまってもいいのだよ。
 ミウが入院したと聞いて
 出張先からこの栃木県までわざわざ帰って来たのだ」

「あの子が足に大怪我を負って病室のベッドにいる
 姿を見た時、親がどんな気持ちになるか分かるかい?
 今になって後悔しているよ。仕事第一主義で
 大切な娘と疎遠になっていた私自信にな!!」

俺は意識を保つだけで精一杯だった。
ミウの親父がまた椅子を振り上げているようだ。

頭頂部をえぐられるような痛みが走る。
髪の毛が何本かもっていかれたかもな。

また椅子を振り上げ、俺の頭に振り下ろす。
機械的な動作で、迷いがないことから
本気で殺すつもりなのかもしれない。

こんなに痛めつけられるのは中学の時
不良グループにフルボッコにされて以来だ。
不思議と恐怖も怒りも感じない。ただ痛いだけだ。

冷静に考えれば俺には当然の罪なのかもしれない。
この親父がここまで狂ってしまうほどミウを傷つけてしまったのだ。
俺はミウを何度もキチガイ呼ばわりしたかもしれないが、
彼女を狂わせてしまったのは俺が原因じゃないか。

俺は、この親父が言うように色々な女に
目移りしすぎていたのかもしれない。

ミウ。すまなかったな。
俺は自分にとって都合の良い女に
そばにいてほしかっただけなんだ。
身の回りにいた女を利用していただけの卑怯者だ。

できるなら、君の目の前で謝りたい。
人を好きになること、人に好かれることが、
こんなにも重いことだったなんて考えたことなかった。


「ぐああああっ」

今のは俺の声じゃない。
ミウの親父が吹き飛んだのだ。

監視カメラの映像が操作されている(録画済みの
同じ映像を映していた)ことに気付いたドクターと
看護師が駆けつけ、ミウの父親を囲んで殴打している。

なんて狂暴な人達なんだ。
警棒で散々懲らしめてやり、最後は親父さんは自分の足で
歩けなくなったので、院長たちに引きずられていった。

「堀さん。すぐに治療室へ行きましょうね」

ドクターだ。大急ぎで対応してくれるのはありがたい。
俺のベッドごと廊下へ運び出してくれた。
こういう時は病院にいてよかったと思うよ。

安心感からすぐに寝るのかと思ったら、
不思議と意識がはっきりしていた。

殺されるかもしれない状況だったから
まだ緊張しているんだろう。

俺はともかく、ミウの親父がどうなるか心配だ。
反革命容疑で拷問されたら、ミウは悲しむんじゃないのか。

へへ……。親父殿は俺の見舞いにも来てくれないのに、
ミウの父親は逮捕覚悟で俺に復讐しに来るとはね。
熱いガッツを持った父親は大切にした方がいいぜ。



~ミウの視点~

1月2日

朝目覚めてレナ様からとんでもない報告を受けた。
私のお父さんが病院の地下に監禁されている?
罪状は入院患者の太盛君に暴行したから?

まるで漫画みたいな話。

レナ様が新年から冗談を言うわけないと思うから
疑い深いボリシェビキの私でも認めるしかない。

お父さん。どうしてそんなことしたの。
復讐のつもりだったんだろうけど、
そんなことしたって私が喜ぶわけないじゃない!!

「太盛君に会わせてよ!!」

「今は絶対安静の状態です。薬で寝ていますから、
 あと半日は目を覚ましませんよ」

レナ様は優しくそう言った。
太盛君は小指の複雑骨折と頭部の打撲。
それと背中の傷も少し開いたみたい。
出血多量のため、ベッドシーツが真っ赤に染まった……。

ひどすぎる……。どんな生き地獄を味わってたの。

彼にどんな言葉をかけてあげたらいいのか。
パパがやったことだから、
娘の私も確実に嫌われてると考えた方がいい。

ひどいよ……パパの馬鹿……。
許してくれなくてもいい。せめて彼に謝らせて。

私は足を怪我してる……。
レナ様に頼んでも朝の忙しい時間に車椅子を
押してくれないだろうし、どうすれば太盛君と話せるの? 
なんでもいいから彼のそばにいさせて!!

あっ、携帯があるのを忘れてた。
ダメもとで彼にメールでも送って謝っておこうか。

返事はくれないだろうけど、一ミリでもこちらの
気持ちが伝わればそれでいい。

『私の父があなたにしたことは許されることでは
 ないことは分かっています。それでも私の
 謝罪の気持ちが少しでもあなたに伝わればと思い、
 この文章を……』

最後まで書いたら、思ってたよりくどい文章になっちゃった。
完全な長文。エリカ奥様みたいなしつこい女だと
思われるかな。でもせっかく書いた文章を
削除するのはもったいないから、送っちゃえ。

『謝るのは俺の方だ』

……うそ。すぐに返事が来た。

『俺は君に出会った時から君に迷惑をかけ続けていた。
 俺は本当にミウの気持ちなんて知らずに
 好き勝手に生きていた罰が当たったんだ。
 こんなこと言っても信じてもらえないだろうが、
 俺は君のお父さんを恨んでいない。もちろん君のことも』

いつもの太盛君の調子じゃない。
はかなくて、今にも消えてしまいそうな感じがする。
パパに暴行されたことでおかしくなってるんだ。
いつもの太盛君なら私に食って掛かるのに。

私は必死で謝り続けたけど、向こうも謝ってくる。
しばらくメールで謝罪の応酬をしていると、
ふとおかしくなってきた。

私達はなんでこんなことをしているんだろう。
普通に愛し愛されるはずのカップルだったはずなのに。

『医者と看護師さんが入って来た。またあとでな』

検査の時間なのかな? 名残惜しいけど、仕方ない。
私は自分のスマホを大切に持ちながら、ため息をついた。

こんなに彼の声が聞きたいと思ったことはない。
次は直接会って話を。

「残念だが、その考えは捨てたほうがよさそうだ」

え……?

「やはり君は太盛お坊ちゃんと関わるべき人間ではない。
 今回の事件でそう確信できたよ」

能面の男……? いつから私の病室にいたの?
上下ともに黒のジャージ姿。
男性離れした高い声のトーンと合わせて浮世離れしすぎている。
院内でこいつに会うとちょっと怖い。

「言ってることがおかしいでしょ。私と太盛君を
 くっつけさせようとしたのはあなただよね?」

確かにそうですが。と言って能面は大きく頷いた。
今になってこいつの気取った話し方が癇に障る。

「今回は奥様も、私に賛同してくださっているようだ」

「そうね。今回だけは、珍しくあなたと意見があったわ」

エリカもいる……? うそ。本当に言われるまで
そこにいるのに気づかなかった。
それにエリカは着物姿だ。

私はこいつの格好をよく覚えている。
奥様時代は着物を好んで着ていた。

他者を見下ろす目つきは、まさにエリカ奥様そのもの。
自分が世界中の女と言う種の頂点に君臨しているという、
有無を言わさぬ圧迫感を加えてくる。

「ミウは太盛君を不幸にするわ。彼から離れなさい」

「あんたにだけは……言われたくない!!」

「あなたは馬鹿だから何も分かっていないのね。
 太盛君は、本来は私のものなのよ。世界の運命はそう定めている。
 あなたは運よく神の鏡の力を借りてチャンスを得た。
 愚かにもそのチャンスを無駄にして、
 自分自身を不幸にした。彼も不幸にした」

「太盛君はお屋敷時代からよく言ってたわ。
 エリカといるのが苦痛でしょうがないって!!
 だからユーリとモンゴルへ逃げたんでしょ!!」

「忘れたの? あなたには他にも相手がいるじゃない」

「は?」

「ナツキ君はあなたにぞっこんよ?
 あんないい男に好かれるなんてやるじゃない。
 それにあなた、11月の選挙の時はナツキ君と
 付き合っていたんでしょ?」

「今は……太盛君一筋だから」

「だめよ。そんなの認めないわ」

この声の低さ。この威圧感。
高みから庶民を見下ろす、典型的な金持ちの嫌な奴。

今私の目の前にいるのは、高校生の橘エリカじゃなくて
奥様時代のエリカなんだ。

「ミウ」

能面が一歩前に出て、私の頬に手を触れた。
女の子の顔に気安く触れないで。
こいつに触られると何が起こるか
分からないから身構えてしまう。

「君に手荒な真似をするつもりはない。
 私と奥様は意思表示をした。
 それに対する君の返答はノーか。
 その考えに間違いはないな?」

「太盛君を諦めろって言われて、
 はいそうですかって言えるわけないでしょ」

私はこいつの目をまっすぐ見つめながら言った。
自分では分からないけど、血走った目つきをしていたと思う。
能面はやっと私の頬から手を放してくれた。
達観したような、何とも言えない声で返事をする。

「ふむ」

顎に手を当て、考えるしぐさをする能面。
エリカは目を閉じていた。
エリカから何を話すわけでもなく、
進行は能面に任せているようだった。

私は進んでその進行を妨害したくなった。

「私のパパは逮捕されたって聞いたけど、院内で粛清されるの?
 私も質問に答えたんだから、そっちも答えて」

能面は驚き、エリカと顔を見合わせた。
エリカがふいに笑い出しそうになり、こらえた。

「君のお母様と同じように退場してもらった」

「退場? この世界から消したってこと?」

「そうだ。この世界からはな」

実の親が殺されたのと同じような状況。
なのにすんなり受け入れられるのが自分でも不思議。
あくまでこの次元からいなくなっただけのこと。
深く考えたら負けだ。

「次は君の番だ」

わお。盛大なる意味不明。
さっき手荒な真似をしないと言ったのと矛盾してない?

「そして私は責任を取って死ぬ」

は?

「ご党首様の許可を得ずに鏡を持ち出したのは私だ。
 ミウに運命を託した結果がこのざまだ。鏡は意志を持ち、
 暴走し、君に奥多摩やモンゴルの景色さえ見させるに
 至った。そしてマリン様は人の力を超えた存在となてしまった」

色々と考えた結果、この無限ループの発端となった
我々がいなくなれば物語が終わると奴は言った。

でも矛盾してると思う。私はマリンに拷問されて一度死んだけど
生き返っている。マリンの奴も殺したのに生き返った。

「なに。神の力が宿っているのは鏡だけではないのだ」

彼はしゃがみ、床に置いてあったカバンを開けた。
通勤で使うカバンみたいなデザイン。
その中からとんでもないものを取り出した。

「消えたユダヤの十士族の内のどれかが所有してたと
 われている刀だよ。西洋風に言うとソードになるのか。
 (サヤ)は別の国に保管されているらしいが、
 ソードはここにある」

小太刀? 蒙古でクソマリンが渡してきたホタク?
にそっくりだ。でも刀の輝きとか雰囲気が全然違う。
神の名を冠してる割には聖なる感じじゃなくて
恐るべきオーラを放っている。まがまがしい。

変な表現だけど、物なんだけど物じゃない。
これを形作った人の強い意志が宿っている。

「今からこれで君の胸を刺す。抵抗しないでくれよ?」

馬鹿じゃないの。だから手荒な真似はしないって言ってたのと……。

「矛盾はしない。これは再生を意味するものだ。
 君の意識はまた別の次元へ飛ぶ。メイドをやっていた
 頃の高野ミウに戻り給え。その方が君のためだ」

この世界での私を殺すのね。
あれに刺されたら、鏡の再生の力さえ無効化するんだ。

それはね。
私の生きざまを否定されるのと同じ。

この世界での私は鬼畜だった。どうしようもない女だった。
それでもその時その瞬間の私が良いと思ったことを
進んで行った結果。ボリシェビキになったのも後悔はしてない。

私は権力を手に入れた。生徒会副会長。組織委員長。
クラス委員長。裁判官。全校生徒は私にひれ伏す。教員さえも。
私にはまだまだ生徒会での仕事が残っている。

私は否定されるのを嫌う。誰だってそうだと思う。
太盛君にだったら、少しくらい叱られてもいいかなって思うけどね。

その私の可能性を、この男は消そうとしている。
勝手な話。私をこの世界へ飛ばしたのはあなたじゃない。

親衛隊がここにいたら、すぐにこの男を殺してやりたい。
エリカも八つ裂きにしてやる。
太盛君を蒙古逃亡の末殺した元凶のくせに。
偉そうな顔して許せない。

「人の子は運命には逆らえないわ」

「奥様の言う通りだ。さあ、ミウ。
 痛くはないから目を閉じなさい」

ちくしょう……。ちくしょう……!!
私の、私の全てを否定しようとするこいつらが許せない。

足の怪我さえなければ、抵抗できたのに。

いやだ。この世界にいたい。まだ消えたくない。

どうしたらこいつらを排除できるの? 殺せるの?
教えて。神様。教えてください。神様。太盛君。エミでもいい
いっそマリンでもいい。誰か、この病室に入ってきて。誰か……。

ああ……最後の瞬間に神に祈るなんて……。
私はやっぱりクリスチャンだったんだ……。

元の世界へ

~三人称視点~

「綺麗なスーツ姿ね。どこから見ても美人さんよ。
 ミウならきっと受かるから、自信を持って行きなさいね」

「うん。緊張してヤバいけど頑張ってくる。どうせダメもとだし」

16歳の高野ミウは高校を一学年の秋に中退し、
社会人デビューすることになった。

今日まさに就職面接日を迎えた。母のカコは、夫のナルヒトと
激論の末に退学を許可し、学園側とは3回に及ぶ面談の末に
正式に決定した。姉妹校にはニュージーランドとシンガポールの
学校もあるにはあったが、学生生活を送ること自体をミウが拒んだ結果だ。

ハローワークなどの就労斡旋機関を使ったわけではない。
ネットでたまたま見たメイドの募集を見かけた。
親元を離れ、住み込みで働ける。高給で、しかも英語などの
外国語が話せると優先して採用される。

ミウは日本人だが、ロンドン育ちなので英語が第一言語のようなものだ。

「駅までタクシーを用意したから、
 パパも途中まで一緒に行くよ」

「ありがと」

玄関から先はナルヒトが付き添うことになった。
平日のど真ん中にわざわざ有休を取った。
彼も妻と同等かそれ以上に娘のことを可愛がっていた。

面接会場は都心だったから、本当は会場のビルまで
パパが着いて行きたかったが、さすがにミウが拒否し、駅で別れた。
少学生じゃないんだからと、ミウは控えめに笑った。

彼女は高校を中退したことで親に負い目がある。

一方で両親は、日本の学校の人間関係になじめなかった
娘に同情し、最後は娘の意思にすべてを任せるという発想に至った。

平成の不況が続く昨今。高校中退者の将来は暗い。
満足できる結婚相手とはおそらく巡り合えない。

あまりにも大胆な決断だったと言えるが、
それでも尚ミウが過度の苦痛を感じてまで学校に行く必要はない。
両親は最終的にそう判断した。

ミウが中退した経緯は、過去作品で何度も述べたので省略する。

(ほう……)

堀家の当主は、ミウを見た瞬間に採用しようと決意した。
面接を受けに来たのは全部で五名。
風変わりな仕事なので受験する人は少ない。

20代が中心で外見が美しく、
何かしらの取り柄のある女性ばかりだった。
そして民間企業や公務員として働きたくないという
特殊な事情や信念を持っている。

用意された椅子に横一列に座る集団面接となっていた。

年はミウが一番若かった。一番年上の受験者で40代もいた。

面接終了後、五人は廊下で待たされた。
数分ほどして、若い男が現れた。

「みなさん。本日は面接にお越しいただき、
 まことにありがとうございました」

能面を外した状態の、例の美青年がそう言った。
面接会場のためにきりっとしたスーツ姿であり、
柔和な笑みを浮かべている。

洗練された立ち振る舞いから育ちの良さを感じさせる。
初対面の女性をはっとさせるほどの品性である。

「高野ミウさんだけ残っていただきたい。
 他の方はのちほど結果をお伝えします」

一人の20代の女性がすっと席を立ち、
大急ぎでその場を去って行った。怒っているようだった。
他の女性は肩を落とし、お辞儀をしてから帰っていった。

ミウは初めての面接だから、この時点で自分が
受かったとは夢にも思っていなかった。

「We should say thanks to god
 for great opportunity to meet you.
 Your English remains me something…」

党首はこの素晴らしい出会いを神に感謝すると言った。
面接のときの堅苦しい雰囲気ではなかった。
能面にお茶を運ばせ、テーブルを挟んでの雑談をした。

党首がしたことと言えば、ひたすらミウを褒めちぎることだけだった。
まず最初に採用の旨を伝え、他に受けている会社などが
ないことを確認した。ミウは首を縦に振る。

「英国暮らしが長かったなら日本の学校になじめなかったのも
 無理はないことだ。君はわざわざ地球の反対側の
 文明国に足を運んだわけだからな。給料のことも
 心配しなくていい。君のご両親を安心させるだけの額を用意する」

党首自信が風変わりな男なこともあり、同じ雰囲気を持つ人間を
感覚で探し当てたのだ。まさに類は友を呼ぶである。

書面で雇用契約書をざっと見せられたが、つい最近まで
学生だったミウにはさっぱり内容が分からない。
とにかく奥多摩の豪邸に住み込みで働くことは分かっている。
給料については多いのか少ないのか分からない。

党首の神々しさというか圧迫感の前に
ミウは臆することなく、笑顔でてきぱきと答えた。
たまに英語で話してくるので、こちらも英語で答える。

フランス語で聞かれた時は素直に分かりませんと答えると、
党首は声を出して笑い、能面に茶のお代わりを持ってこさせるのだった。

家に帰ってから、ミウはまず母親に書面を見せた。
父はあのあとすぐに仕事へ行ったから、メールで知らせた。

「住居費がただで、こんなにもらえる企業ってまずないわよ。
 大手企業並みの福利厚生じゃない」

旦那のナルヒトが経済の専門家で高給取り。
その妻から見ても満足できる金額だった。
おそらく中卒の女が受け取れる金額としては破格。

ミウは学校中退の落ちこぼれから、
一気に大卒の新卒すら超える
高給取りへと変貌しようとしていた。

具体的な内容としては、住み込みに必要なあらゆる費用は無償。
企業労働ではないので社会保険には入れないが、
額面通りの給料をもらえて、差し引かれるものが何もない。
食費、電気ガス水道など、もちろんただ。

住むのに必要な家具さえ無償で提供される。
さすがに税金だけは自分で払う必要があるが。
ここで働いていれば、まず飢えとは無関係の生活が送れる。


ミウが働き始めてから半年が経った。

両親にとって心配だったことは、
ミウがホームシックにならないかだった。

嫌になって辞めたりしないだろうか
人間関係で苦労してないだろうか。

「ミウがいつ帰って来てもいいように」

ママが高野家の財政から、本来ミウが大学に行くのに
必要だった資金から、結婚資金まで用意してあった。
購入済みの分譲マンションで生活している高野家。

旦那の稼ぎも安定しており、夫婦ともに資産運用が趣味。
別にミウが働かず家にいてもお金に困らない家庭環境だった。

だから、ミウがたとえ一生独身だったとしても大丈夫なように、
この時点で相続税を意識した資産の分割までしていた。
もっとも娘自身にそのことは伏せてあるが。

「私は元気に暮らしているよ。こっちの人間関係も
 色々あるけど、仲間がいるから頑張れるよ」

うれしいことに
ミウから悲惨な頼りは一切なかった。

先輩メイドのユーリや料理係の後藤さんなど、
彼女を支えてくれる優しい人たちに恵まれた。
主人夫婦の間に生まれた娘達とも仲良くやっているらしい。
英語の先生をしてあげていると聞いて、微笑ましくなった。

「お前は本当に世間知らずなんだなぁ」

後藤さんが笑う。主人らと時間をずらして
使用人達で食卓を囲んだのは良い思い出だ。

元帝国ホテルのシェフの作る一流料理が
食べられるのが一番の楽しみだった。

「日本人ならきっちりと仕事をこなしなさい。
 遊ぶのはそのあとよ。自分自身にけじめを付けなさい」

先輩のユーリはストイックな女性だったが、
仕事以外では優しく、友達になった。
ユーリの複雑な過去を打ち明けられた時は心から同情し、
またその秘密を墓場まで持っていこうと考えた。

「ミウは学校の思い出を全然話してくれないんだもん。
 ユーリも同じ。まっいいわ。私は大人だから、
 本人たちが話したくないことはあえて聞かないのよ」

ませたことを言うのはカリンだ。今のセリフは
太盛から受け売り。この子も他の娘ほどでないにしても
パパっ子。太盛が人の過去を詮索しない優しさを持つ
男だったから、娘たちも自然とそうなった
 
ミウは三人娘の中でカリンと特に仲が良かった。

一見すると平和な家庭にもみえたが、主人夫婦の不仲が
事件の引き金となった。離婚を強く望む太盛と拒むエリカ。
両者の力は反発し、エリカを奇行に走らせた。

エリカは出産後に仕事を辞め、家庭で夫を支える立場となった。
娘たちが小学校に上がってからは
地域のボランティア活動に精を出すようになる。

娘たちの教育はユーリに任せっきりだった。
テストの成績はもちろん、学期末の通知表の成績に
すら関心を示さなくなった。
子を持つ母としては考えれないことである。

自分の子供よりも他の子供が気になるのか、
あるいは社会での承認欲求を得たいたためか、
30代になってから全国の児童福祉移設を
回るようになり、生活支援員の手伝いをした。

相手にしたのは知的障害の子供達である。
過酷な職場であることは承知の上で顔を出すエリカ。
不思議と愚痴をこぼすこともなく、
超人的な精神力と慈愛の心でボランティアを続けた。

福祉施設で作ったパンや農作物を
家に持ち帰ることもあった。

やがてボランティアの域を超えてしまい、
施設の臨時職員に昇格し、給料まで手にするようになった。

全国の障害のある子供たちの世話をするのが
彼女の生きがいとなっていた。
そんな生活を二年も続けると、有名な施設をおおむね周り、
様々な自治体に名前が知れていった。

「エリカはさみしさを
 何かで埋めようとしているんだよ」

「そうなのでしょうか?」

日曜の朝6時過ぎに起きた太盛が、
眠い目こすりながら食卓に顔を出した。
ユーリが用意してくれた紅茶に口を付けながら言った。

「今回はどこまで行ってるんだ?
 俺は昨日まで仕事だったから知らないけど、
 遠くまで行ってるんだろ?」

「福岡県の施設まで行ったそうです。
 お土産を買って帰るのは来週の火曜だと」

「そんな遠くまで行ったのか。
 しかも俺に何の連絡もなしにか」

吐き捨てるように言う太盛。
妻の奇行にはあきれ果てていた。

太盛はエリカを愛してなどいなかった。
結婚生活は束縛の連続であったことは過去作品で何度も述べた。

(どこに行っても人間関係は複雑だな)

ミウは涼しい顔で日々の業務をこなした。
広すぎる屋敷の中の掃除は主にユーリが。
庭などの外の管理をミウが受け持った。

花壇、噴水、芝生を中心とした、屋敷はフランス王室の庭園を
模倣した作りだった。運動ができるようにテニスコートがある。
夏場はプール掃除もミウの仕事だった。
庭の木の剪定は、さすがに素人がやると
滅茶苦茶になってしまうので業者さんに頼むことにした。

バラなど花の手入れが苦手だった。
重い肥料が何袋もトラックで輸送されてくる。
その後一輪車に積んで花壇まで運ばないといけない。

ミウは今までの生活で重量物など持ったことなかった。
重いものは、体に押し当てるようにして揺らさないように持つと
楽になるとユーリに教わり、感心したものだ。

当初は泥汚れが嫌いだったが、植物の世話をして
成長を見守ることに癒しを感じるようになった。
人恋しい時は早朝に花に英語で話しかけることもある。

後藤が花言葉のうんちくを教えてくれると、ますます楽しくなった。
季節ごとに様々な花が目を開き、子供たちも喜んでくれる。
ミウは外仕事をする時は黒いジャージを着るのがお決まりだった。

季節は九月。気象庁は残暑と定義するが、
どう考えても真夏の延長である。残暑でなく酷暑が続く。
奥多摩の屋敷は山に囲まれているから。粋分マシだが、
蚊や虫の多さにはまいってしまう。
虫よけスプレーと日焼け止めクリームは欠かせない。

ミウは早朝の水やりを終えて、首に巻いたタオルで汗をぬぐった。
早朝でも強烈な日差しが肌を焼くようだった。
下はジャージ、上はロングTシャツを着ており、
肌の露出させないように気を使っていた。

「ユーリ。今日の日中は外仕事がないから、
 屋敷の中を手伝おうか?」

「こっちは間に合ってるから大丈夫よ。
 それよりカリン様達が出かけたいそうだから
 一緒に行ってあげて。帰りに買い物をお願いして
 いいかしら。今買い物のメモを渡すから」

娘たちが買い物に行く時などは付き添い、
母親代わりとなる。最近は小学の女子児童の遺体が
線路で置き去りにされた事件があり、日本中を震撼させた。

孫娘達が外出する時は必ず付き添うようにと
党首から言われているほどだった。

(それにしても)

とミウがいぶかしむのは当然だった。
外の仕事は天気仕事だ。当然雨の日は暇である。

花や庭木の剪定、消毒は月ごとの決まったタイミングで
済ませば、その後は暇になる。
これから寒くなるのでプール掃除も必要ないし、
霜が降りる時期になれば草が生えることもない。
その分やっかいな落ち葉掃きがやってくるのだが。

「私は掃除が趣味なようなものだから」

最近のユーリはミウに仕事を任せなくなっていた。
屋敷中の掃除だけは雨の日でもおかまいなしに発生する。
広大な敷地内を清掃するのはかなりの手間である。

アーチを描く階段が全部で三か所もあり、
廊下の広大さはあきれるほどだ。一番手を入れなければ
ならないのは玄関先や主人たちの部屋である。

細かい性格のエリカを納得させるための清掃には
かなり気を使う。完璧主義のユーリは絶対に文句など言わせるもの
かと仕事に燃え、てきぱきと仕事を進めている。

「せめて大浴場だけでも私が洗うよ」

「いいから。あなたはお嬢様たちの相手をしてあげなさい」

明らかに気を使われている。
まさか自分がいずれ首になるから
ユーリが中の仕事を全部担当するつもりなのでは。

ミウはそこまで勘ぐってしまうが、
さすがにあり得ない話だと思った。

ミウがカリンかレナを探しに広い廊下を歩いていると、
父親に甘えているマリンの姿が目にとまった。

「お父様はお仕事で疲れていますよね。ですが、
 少しだけマリンのためにお時間をいただけませんか。
 ピアノを聴いてほしいのです。今週から新しい曲を練習していて、
 やっと弾けるようになってきたの。ね、少しでいいから」

「いいよ。午前中の間だけならね」

「やったぁ」

マリンは太盛の袖を引き、
早く自分の部屋に行こうと誘うのだった。

太盛が勤めている生命保険会社は残業続きで帰宅が遅い。
繁忙時期は5時半に起きて、帰ってくるのは23時の場合もある。
従業員の離職率の高さによる人手不足から発生する残業地獄であった。
太盛はこの仕事を203高地のようだと自重した。
生身でロシヤ軍の堡塁陣地に突撃しては倒される日本兵のごとしだ。

「こんなに将来性のないところに、
 どうして俺は入社したんだろうな……」

そもそも少子化で人口が減少し、さらに若者の独身世帯が
増えているのに生保など需要がない。

さって行った若者たちは幸いだと思った。
彼自身もまた彼らの後を追うため、
転職サイトに登録してみた。
だが登録しただけで行動をするだけの時間がない。

彼は営業部の部長のお気に入りだったから、簡単には
退職の話を切り出せないという事情もあった。

日々の生活の忙しさから資格の勉強などする暇もなく、
まさか一生会社の奴隷になるのかと恐怖を感じる。

エリカは福祉施設周りのボランティアを行っている。
旦那に構ってもらえないさみしさから、社会的弱者の人々に
貢献することで自己実現をしようと考えたのだ。

エリカは夫と距離を取るようになった。
あれだけしつこかったのに急に熱が冷めたのか。
あるいは次なる暴走への準備期間なのか。

最近は屋敷で夫婦の会話する姿はない。
娘はレナとカリンの双子と一歳年下のマリン。
使用人は後藤とユーリの二人だけ。総監督者として
鈴原がいたが、彼は本家の勤務なのでこちらに
顔は出すことは少ない。あくまで名目上の監督者だった。

そのメンバーにミウが加わった。

20代のユーリ、40代の後藤よりは小学生の娘たちに年が近い。
ミウに知る由はなかったが、ミウは党首のお気に入りであり、
ミウの存在が孫娘たちに良い影響を及ぼすと信じていた。

夫婦の不仲は党首の耳に入っていたが、離婚の許可は
生涯出すつもりはなかった。党首が頑固な男である以上に、
安易な離婚が子供たちに与える影響を考慮していた。

夕飯の時間になった。
この家では夜7時に食べる決まりがあった。
その規則を作ったエリカは九州に出張しているため不在。

「太盛様とマリン様を呼びに行ってくれないか?」

厨房にいる後藤にそう言われ、ミウが二階へと足を運んだ。
廊下の一番奥の部屋がマリンの部屋であり、一階の
食道からは一番距離があるのでめんどうだ。

「あの、お食事のお時間になりましたが」

ドアを小さくノックすると、扉越しにマリンが答えた。

「今お父様が疲れて寝ちゃっているのよ。
 私は、のちほどお父様と一緒に食べることにするわ。
 後藤たちにそう伝えておいてくれるかしら」

太盛が仕事でくたくたになりながらも、愛娘の
ピアノの練習に付き合ってあげていたのは感心させられる。
彼は休みの日でも六時には起きる人間だから、
たいてい昼寝はする。そうしないと体がもたないのだ。

マリンはそれを分かっていて父を自分の部屋に招待し、
意図的に夕飯の時間をずらしたのだろうから策士である。
ミウはそのことを食道にいる双子に伝えた。

「またかよ。マリンの奴、ばっかじゃないの」

「休みの日まであいつに付き合わされてパパかわいそう。
 疲れてるんだから一人にしてあげればいいのに」

度が過ぎたファザコンで父を独り占めしたがるマリンを
二人は嫌った。マリンは成績が抜群に優れていて、
生意気で口も達者だったから、父に溺愛され、
それが余計に鼻についた。

三人の娘は美形の父母からそれぞれに
美しさを受け継いでおり、みな優劣が付けられないほど
美しかったが、太盛が一番に愛したのはマリンだった。

「ユーリ。お皿は自分で運ぶからいいって。
 わざわざ運んでもらうと悪いじゃん」

「これが私の仕事ですから。
 レナ様は座っていてください」

レナは上下関係を嫌った。屋敷に住み込みで働いている
ユーリ達を赤の他人だとは思っておらず、家族だと思っていた。
カリンも同様である。

双子が使用人に優しいのは、屋敷で勤め始めた頃の
ミウにとってありがたいことであり、心の支えでもあった。

「ママがいないから、
 たまにはみんなで座って食べてみない?」

カリンがそう提案すると、レナも賛同した。
後藤やユーリは使用人だから遠慮しなければ
ならないのだが、お嬢様たちの気遣いを
ありがたく受け取ることにした。

レナは話し好きで学校でもムードメーカー的な存在だった。
話しの輪の中心はだいたい彼女だった。

「うちの食堂めっちゃ堅苦しくない?
 この明治時代の朝ドラみたいな雰囲気うける。
 テレビつけたいよねテレビ」

「その気持ちは分かりますよ。奥様が
 許可してくれれば私もここでテレビを観たいものですが。
 個人的には日大の会見内容が気になりますな」

後藤が微笑みながら言う。
後藤とレナは話し好きなので気が合った。

ユーリは寡黙な女性で、
基本的にはお嬢たちから話しかけられない限りは
自分から話すことはない。
使用人だから遠慮してるのかとミウは思った。

「ああ、あのラグビー部のタックルの話ね。
 うちの担任があのこと朝からすっごい話題にしてた。
 あれを聞いたら誰も日大に入らなくなるって怒ってた」

「当然でしょうな。今や日本中があの報道に夢中になっております。
 ついに学長が公式に謝罪したそうですよ」

「学長って偉いの?」

「それはもう。日本体育大学のトップですよ。
 付属高を含めれば14万人の生徒がいますからね……。
 会社組織で例えますと、かなり大きな会社の社長に値しますね」

「へー。あんなじいさんがそんなに偉い人なんだ。
 例の監督も白髪のクソ野郎なのに、
 部員の人たちを奴隷にみたいに扱ってサイテーだね」

「はは。いかにも昭和チックな時代遅れのじいさんですな。
 まあどこも同じなのですが。大人の世界で威張り散らしてるのは、
 だいたいああいう感じの人なのですよ」

「暴力とかサイテー。あんなことしたって、いつか
 自分に返ってくるってパパが言っていたよ」

「まったくですな」

するとカリンが鶏肉を咀嚼してから、どうでもよさそうにつぶやいた。

「剣に頼るものは、いずれ剣の力によって倒される」

「さすがカリン様ですな。よく勉強してらっしゃる」

後藤はいつになく気分が良くなり、
大胆にもワイングラスまで持ってきてしまった。
ミウがあきれて指摘するが、日曜だし、
まあいいではないかと後藤が笑う。

カリンは、普段以上に無口なユーリに対し思うことがあったが、
あえてそのことを口にせず、別のことを話題にした。

「ママがいないと楽でいいよね。お食事中にどんなことを
 話しても怒られないんだもの。そういえば今日パパは
 ずっとマリンの部屋にいたの?」

「そのようですね。昼食も私がマリン様の部屋に運びましたから」

ユーリが淡々と答える。

彼女のフォークを口に運ぶ動作が、どこかぎこちない。
ミウが不思議そうに観察していると、
カリンも同じような目つきをしていた。

後藤とレナは話に夢中でユーリのことなど眼中にない。
レナは面白がって後藤のおつまみのカマンベールに
手を付けるが、本場のチーズの味の強烈さに顔をしかめた。

「まじで腐ったチーズの味がする!!」

「この腐った感じが、赤ワインにはぴったりなのですな。
 レナ様も大人になれば良さが分かりますよ」

「ねえねえ。今日は特別な日ってことにして、
 一口で良いからワイン飲ませてよ」

「それはいけませんよ。お酒は20歳になってからです」

「けちー」

ミウは小さく笑ったが、ユーリは鉄仮面のような表情を
崩そうとしない。明らかに元気がない。だが機嫌は悪くなかったはずだ。
体調不良にしても仕事はいつも通りこなしていたから不自然である。

ミウは気になったことは聞かないと気が済まないので
口にしてしまった。

「ユーリは私達に隠し事をしているよね?」

ユーリの肩が大きく震えた。

ミウは、なぜ問い詰めるような言い方をしたのか
自分でも理解できなかった。そもそもどうして
隠し事をしていると思ったのか。

そしてそれがユーリの表情からして、
核心をついているようだった。

ユーリはテーブルを囲う全員から奇異の目で見られ、
さらに表情が硬くなった。右手に持ったフォークがかすかに震えている。

黙ってやり過ごすわけにもいかないので、
絞り出した声で「どうしてそう思うの?」とミウに問うた

「九月になってから様子がおかしかった。
 夜、太盛様と階段の踊り場で相談事をしていることが
 何度かあった。大陸の気候とか、モンゴル行きのチケットとか
 そういうことを言っていたような気がする」

それはユーリと太盛が計画していた、蒙古逃亡計画が
すでにミウに知られていることを意味していた。

ユーリはさらに狼狽し、「バ、バカなこと言うのねあなたは」と言う。
目が泳いでいる。図星を突かれているのは誰の目にも明らかだった。

「証拠ならあるよ?」

ミウは体が勝手に動いた。

そうとしか思ないほど、自然と太盛の部屋に行き、
作業机の引き出しの奥にしまっていた手帳を持ってきた。
それには会社に退職願を出すと同時に有休を2週間分とり、
その中で成田空港から飛び立つまでの準備などが
詳細に書かれている。

エリカたち家族の目をごまかすための国内のツアー旅行に
仮登録していることまで書かれており、決定的であった。

「ユ―リ。おまえはなぜ……」

後藤の言葉はそこで止まった。使用人仲間として
何年も時間を共にしてきた娘的な存在でもあった。
彼女が全てを裏切って主人と会いの逃避行を
計画していたなど、許せるはずがない。

双子姉妹もその手帳に目を通してあぜんとした。
全員の時の流れが止まってしまった。
もはや食事などできる状況ではない。

「ごめんなさい……」

そう言ってユーリはさめざめと泣いた。

この状況で自由に動けるのはミウだけだった。
ミウはまた体が勝手に動き、手帳を持ったまま
マリンの部屋に駆け込んだ。

「ちょっと。ノックもなしに入ってくるなんて何のつもり?」

マリンは読みかけのファッション雑誌をミウに
投げてしまいそうな勢いだった。
昼過ぎからずっと寝ていた太盛も何事かとベッドから身を起こす。

ミウは手帳のページを開いたままマリンへ差し出した。

「なによ……この内容はぁ……!!」

呆然とした。愛する父が、これだけ自分を一心に
愛してくれるはずの父が、蒙古へ逃げようとしていた。

マリンを襲ったのは、失望。絶望。怒り。嫉妬。
どす黒い感情が渦を巻き、
もはや制御できないレベルにまでなっていた。

まず父の顔を問い詰めてやりたかったが
それ以上に許せないのは、涼しい顔で
使用人として働いているくせに、裏では
父の愛人となっていたユーリの存在だった。

「そこをどきなさい!!」

ミウを押しのけ、食堂へと駆けた。
そしてすごい勢いでユーリを問い詰め、まくし立てた。

マリンは思いつく限りの言葉を吐き、ユーリを傷つけた。

「あなたがお父様をだまして逃亡しようとしたのね?
 そうなのでしょ? そうなのだと言いなさいよ!!
 この泥棒猫が!!」

「ふふ。ばれてしまっては仕方ありませんね。
 言っておきますが、この計画は彼も同意してくれました。
 何より彼の方から私を誘ってきたのですよ」

ユーリの対応は誠実さに欠けていた。
実は前からファザコンのマリンのことを良く思って
なかったこともあり、つい言い返してしまう。

マリンはさらに激昂し、皿やコップを床に叩きつけるまでになった。
ユーリは静かな声で言い返すのが対照的だった。
食堂は信じられないほどの修羅場となってしまう。

「開き直るなんて最低!! この最低女!!
 あんたなんて死ねばいいのよ!!
 お父様にどれだけ迷惑をかければ気が済むのよ!!」

「きっとですね。太盛様にとってお嬢様はそんなに大切な
 存在じゃなかったのですよ。別れる前に最後くらいは
 ピアノを聴いてあげたくなったんじゃないですか?」

「私はお父様に一番に愛されているわ!!」

「愛されているなら、なんで太盛はあなたを捨てて
 私と逃げようと思ったのよ。ほら。これに
 言い返してみなさいよ。できるならね」

「く……」

歯を食いしばるマリン。
ユーリは太盛が望んだのは自分だけだと主張していた。

マリンはテーブルのナイフを持ち、ユーリの首を
刺してしまうかと思ったが、さすがに後藤に止められてしまう。

「後藤。なぜかばうの? あなたはこの女のしたことを
 理解しているんでしょうね?」

「計画は確かに存在しましたが、未然に防げました。
 人間誰でも過ちを犯すものです。
 今回くらいは見逃してあげても」

「ダメよ!! この女だけは許すわけにはいかないわ!!
 どんな言い訳をしても絶対に許さないわ!!
 あとでお母さまにも報告して地下送りにしてあげないと!!」

屋敷の地下には牢屋が用意されていた。
何のために用意されたのかは党首に聞かなければ分からない。

とにかく粗相をした家族の誰かをそこに
収容していいことになっていた。
もちろん使用人も収容される。

ミウは地下のことは雇用契約書には記載されてないと信じていたが、
裏面に小さい文字で書かれていると、後藤に教えてもらったことがあった。

マリンが後藤とミウに許可を取ったうえでエリカの
携帯に電話をかけた。繋がらなかった。
向こうでまだ仕事をしているのか。
それとも遊びほうけているのか。知る由はない。

ユーリが粗相をしたので地下送りにしたことを
報告だけはしておいた。ユーリの地下送りには、
マリン以外の全員が反対したのだが、

「お母さまがここにいたら、
 間違いなく牢屋に送ったと思うけど?」

と言われてしまい、黙るしかなかった。
エリカの意に反することをしたら、
誰が牢屋送りになるか分からないのだ。

この屋敷の住人にとって一番恐ろしいのは
奥様の機嫌を損ねることなのである。

エリカは実家から連れて来た護衛を常に5人以上は
付けているから、福岡にいても身の安全は保障されている。
外国で特殊部隊などの勤務経験のある者を含み、
総勢で15名に及ぶ。屋敷周りの警備も彼らが交代で行っている。

彼女の周りに護衛を付けるのは、ソ連系の父親の
親心であり、猜疑心の強さを表す者でもある。

エリカを怒らせたら彼らに捕まり、地下送りにされるのだ。
アスリートか軍人並みの体力と戦闘力がなければ
彼らの追跡から逃れることはできない。

エリカはこれらの護衛を娘には付けず、自分用とした。
娘らが休日などに外出する時は、ミウかユーリが同行した。

「お父様のことをマリンは信じていますわ。
 お父様は愚かなユーリにそそのかされて
 蒙古に逃亡する計画を立てたのですよね?
 さあさあ、そうだとおっしゃってください」

ユーリを地下の牢獄に送ってから食堂に一同が集まり、
マリンを筆頭に太盛への尋問が始まっていた。

太盛は首は直角に曲がり、質問をただ聞き流していた。
全力でユーリのせいにしてほしいマリンの気持ちとは
裏腹に、太盛は口を開こうとしない。

マリン以外の全員が、
太盛の態度から真意を悟ってしまうが、
マリンは意地でも認めたくなかった。

彼女の太盛への執着の強さは成長とともに高まり、
もはやエリカさえ超えていると姉たちから噂されていた。

「私は難しいことを言っているわけではありませんわ。
 お母さまが戻ってくる前にお父様の身の潔白を
 証明していただきませんと、お父様まで牢屋に
 送られてしまいますわ。ですから……早く答えてください」

だんだんと涙声になっていく。
マリンはついに怒声まで発して太盛の首を縦に
振らせようとする。それでも太盛の意志は固く、
肩を壊れるくらいに揺さぶられても動じない。

レナは実の父が家族を捨てる計画を立てていたことに、
深い衝撃を受けた。父を憎むのと同じくらい、父が恋しくもあった。

母が家族を見捨てようとしていることはまだいい。
だが、なぜ父親の太盛まで。自分たちのことを目の中に入れても
痛くないと言っていた父の言葉がうすっぺらいものに感じられ、
自分が捨てられた子犬と同じくらいみじめな存在に思えてくるのだった。

本当はマリンのように泣いてしまえば楽になるのだが、
自分はお姉さんだからと言い聞かせ、こらえていた。

カリンは父を軽蔑していた。
彼女は大人向けの恋愛小説を読むのが趣味だったので、
大人の男の浮気癖の悪さは治らないことを知っていた。

父が自分たち娘よりも、愛人を選ぶほど薄情な人間だと
認識すると、父ではなく赤の他人にすら思えてくる。
一番哀れなのは、そんな父にまだすがろうとする妹のマリンだった。
ファザコンがオリンピックの種目だとしたら、おそらく
妹は三回は金メダルが取れると確信できるほどに。


「すまない」

太盛のセリフはこれだけだった。
決してユーリを非難しようとしない。
自分も同罪だと言い張りたいのだろう。

マリンはそれが気に入らなかった。
絶対に受け入れられなかった。

まるで太盛が、自分からユーリを
誘ったかのような態度を取るからである。

実際そうだったのだが、娘たちの手前、
はっきりと口に出すことはためらわれた。

太盛がふと顔を上げ、ミウを見た。
たまたま視線が合っただけかとミウは思ったが、
にらむような目で見つめてくるではないか。

「ミウ。君に聞きたいことがある」

「はい。太盛様。なんでしょうか?」

「俺の手帳によく気付いたな」

「え……手帳、でございますか」

言いよどむミウを逃がすつもりはなく、
太盛は視線を鋭くした。

「俺の部屋の掃除はユーリの担当だ。
 ユーリも君に勘繰られないように屋敷の
 掃除は全部自分でやっていたはずだ。
 俺が納得できないのは、君は手帳の存在に気づいたことだ。
 なぜだ? ユーリが教えたとも思えないし不自然だ」

ミウ自身が一番聞きたいことでもあった。
なぜあの時、自分の体は勝手に動いて
手帳を取りに行ったのか。

神様のイタズラか。
神様がミウにこうしてほしいと願った結果なのか。

その時であった。ミウの脳に洪水のように以前の記憶が
流れ込んできた。今まですっかり忘れていた、
別世界で学園生活を送っていたこと。能面の男に
運命を託され、最悪の結末を迎えたこと。

そして太盛が蒙古に行って死んでしまうことまで
全てが蘇ってしまい、あふれ出る感情を制御できなくなった。

「太盛君は蒙古に逃げても最後は収容所送りにされて死ぬんだよ。
 君は呪われているから、どこの世界でも最後はバッドエンド」

一同が驚愕した。ミウの豹変ぶりにである。まず口調がおかしい。
敬語を使わないうえ、主人に君付けをしていることを
マリンはとがめたが、ミウは無視して話を続けた。

「私がこの世界に来た理由が何となくわかったよ。
 君のモンゴルへの逃避を止めたくて。そのために
 来たんだね。太盛君。モンゴルへ逃げて何がしたかったの?
 逃げてどうにかなると思ってたの?
 ご党首様も本気で心配されて、億単位のお金まで
 北朝鮮の外務省に払っていたんだよ」

まるで昔からの友人に対する話し方であり、
さらに話の内容も含めて一同を極限まで混乱させた。

太盛はこういう現象に対しカンの働く男だった。
ミウが仮に壮大な作り話を始めたにしても、その内容は具体的であり、
口調に迷いがない。ペテン師特有の顔もしていない。
それにこの修羅場で嘘をつく理由が見当たらない。

それこそ魔法のようなものになってしまうが、もしかして
ミウが未来で起きた現象を口にしているのではないかと
本気で思い始めた。あの手帳を発見されたのが良い証拠だ。

ユーリは秘密主義で口が堅いので、手帳の隠し場所を
教えるのはありえない。動機が全くない。
現に彼女自身が牢屋送りにまでなっている。

「それと、もう一つアドバイスしてあげる。
 エリカと別れたほうが良いよ」

ついに奥様のことまで呼び捨てにするとは、
無謀を通り越して暴挙として映った。
これには後藤がたまらずに声を荒げるのだった。

「おまえはさっきから何を言っているんだ!!
 お前が言った奥様との件は、
 ご党首様のご意思に反することになるんだぞ」

「うん。分かっているけどさ。でもエリカといると
 太盛君はダメになるんだよ。あとマリンも太盛君と距離が近すぎ。
 いくら親子でもおかしいよ。少し距離を取ったほうが良いと思う」

「なんですって!!」

マリンは呼び捨てにされたこともあり、ヒステリックになって
怒鳴り散らした。彼女は母同様にプライドの固まりであり、
使用人に偉そうにされるのが我慢ならなかった。

荒れ狂う妹の迫力にレナとカリンは驚き、
口が挟めないほどだった。

「太盛君の周りの女たちが彼をダメにするんだよ。
 彼は一人にしてあげたほうが良い。
 そうしないと全部悪い方向に進んでしまう」

「まるで未来のことを知っているような口ぶりね。
 預言者でも気取ってるつもりなの?
 その知ったかぶりを今すぐやめなさい」

「変わってないなぁ。マリンはいつだって
 太盛君にべったりで、彼を疲れさせるだけ。
 エリカが小さくなったのと変わらないよ」

「おまえ、私に対してよくそこまで言えるわね!!」

マリンはミウの頬を二度、三度と叩くが、
ミウは何もなかったかのように話を続けた。

「勘違いしているマリンに教えてあげる。
 あなたのお父さんは一人の人間なの。
 あなたの父親かもしれないけど、あなたのものじゃない。
 太盛君には誰にも縛られずに自由に生きてほしい」

「さっきから、その太盛君って言い方はなんのつもりなの!?
 お父様の恋人にもでもなったつもり? 
 まさかユーリだけじゃなくてあなたまで
 浮気相手だったのではないでしょうね!?」

「私なんかじゃ太盛君には選んでもらえないよ。
 子供だし怒りっぽいし、ユーリみたいに美人じゃないしね」

マリンはショックで固まっている太盛の肩を
つかみながら言った。

「お父様。この女の話し方は普通じゃありませんわ。
 薬でもやって幻覚を見ているのかもしれません。
 こいつを今すぐ首にして屋敷から出て行ってもらいましょう!!」

「ミウ……高野ミウ……。ミウ。高野……ミウ……。
 生徒会の副会長……組織委員長……父親の名前はナルヒト……。
 全校生徒が……ひれ伏す……生徒会の支配者……」

「え……?」

さすがのマリンも言葉を続けられなかった。
太盛はうつろな目で独り言を続けており、
マリンとの会話が成り立ちそうになかった。

それに生徒会の件などは屋敷の誰もが知らない情報である。

後藤も太盛が誰の話をしているのか理解できなかった。
ミウは高校を中退したと聞いているから、
ミウが生徒会に入っていたとは考えられなかった。

マリンは父までおかしくなってしまったのかと思い、
すぐにでも医者に診てもらうかと思った。
すると太盛が急に笑い出し、真顔になったかと思うと、
穏やかに笑みを浮かべる。父の奇行に鳥肌が立った。

「俺もようやく思い出したよ。昔のことを。
 そうか。俺はまたミウに出会えたのか」

「太盛様まで何を……」

後藤も太盛の頭を本気で心配して、彼の肩を強く
揺さぶるが、太盛は余裕の態度を崩そうとしない。

彼は後藤やマリンを全く無視し、ミウだけを見つめていた。
彼の視界にはミウ以外の人間が映ってないかのようだった。

「うれしいよミウ。俺はまた君に会えたんだ」

「そうだね。まさかこんな形で
 出会えるなんて思わなかった」

「たとえどんな形でもうれしい。俺はうれしいよ。
 君に会えてこんなにも、こんなにもうれしいんだ」

「私もうれしい。君に負けないくらいにうれしいよ。
 あっ、そうだ。私のパパが迷惑をかけたことを謝らないと。
 病院でずっと太盛君に謝らなきゃって思ってたの」

「昔のことは、もういいじゃないか。
 俺は君に愛されて本当に幸せだった。ただそれだけを伝えたい。
 なあミウ、俺は君のことが好きすぎてたまらないんだ」

「太盛君……」

「大好きだ」

「私も大好き」

謎のメロドラマを始めた二人に、ついに一同が脅え始める。
ユーリが牢獄送りにされたショックで気が違ってしまったのか。
しかし、どうも二人は以前から知りあっているとしか
思えない語り口調である。

太盛はミウへの好意を隠そうとしないが、
ではユーリと逃亡計画を立てた理由は何か。
ユーリとの関係は遊びで、本命がミウだったのか。

年が15近く離れている二人が以前から
知りあっていたとは考えにくい。
それにミウがこの屋敷に来たのはつい半年前である。

ミウが太盛君と呼ぶのも不自然である。
年の近い恋人同士の話し方だが、
太盛はそれを自然と受け入れて笑いあっている。

人の脳は、疑問が浮かべば解決しようと考える。
今回の事例では皮肉なことに、考えれば考えるほど
新たな矛盾が見つかってしまい、混乱を加速させる。

理解の限界を超えた事態を前にすると、
人は思考回路が止まってしまうものだ。
レナ、カリン、後藤はそうだった。

マリンは最後の希望をかけて父の頬に平手を放った。
ぱあん、と乾いた音がむなしく響く。
衝撃を与えれば正気を取り戻すと願ったが、
それでも太盛は涼しい顔をしていた。

マリンは、今度は自分の顔が横を
向いていることに気付いた。

「私の太盛君に何をするのよ」

これも信じたくなかった。半年前に新しく入って来た
使用人であるミウにビンタされたなどと。
頬にはじんわりと痛みが残っている。

それに許せないことを言った。私の太盛君。
これは、すでに太盛を彼氏扱いしているのと同義である。

エリカだったら直ちに極刑に処すところであろう。
解雇だけでは生ぬるい。地下で拷問の必要がある。
今のマリンも同じ気持ちだった。

「おい、マリンやめろ。俺のミウに手を出したら怒るぞ」

振り上げた手は、太盛の言葉によって行き場を失った。

俺のミウ……。彼らが恋仲にあるのは間違いなさそうだ。

ユーリとの件だけでも心が引き裂かれるほど痛かったのに、
今度はミウとの浮気が発覚した。完全に意味不明である。
浮気相手が実は二人いたのだとマリンは解釈することにした。

レナ、カリンはまだ思考が止まっている。
後藤は密かに太盛と関係を持っていたと思われるミウに対し、
同僚だからこその怒りを抱いた。ユーリにも同じだ。

仲間として可愛がってきたつもりなのに、こんな感じで
手の平を返されてしまうとは。これで屋敷での平穏な生活は
終わった。この事実が党首に知られたら全てが終わる。

「どうやら潮時のようですな」

後藤が真剣な顔で口を開いた。

「私は明日にでも辞表を出させていただきます。
 もちろん太盛様も同意してくださいますね?
 どうやら私は堀家にふさわしい人間ではないようですので」

遠回りに堀家とは関わりたくないと言っている。

レナとカリンは、これで全てが終わるのだと察した。
優しく明るく、ジョークを大切にする欧州人のような
彼が、こんなにも冷たい態度を取ることは今までになかった。

「ミウ。お前には心から失望した。おまえと口を交わすのは
 これで最後にさせてもらうが、これだけは言わせてくれ。
 天にいる神は、正直に生きる人間を好まれる。
 おまえはいつか自分の行いを悔いる日が来るだろう」

ミウは彼の呪いの言葉を聞いても顔色一つ変えなかった。
反省の色が全く見えない。後藤はさらに嫌味を
言ってやろうかとさえ思ったほどだ。

ミウはにっこりと笑い、一言こう言った。

「後藤さんとはまた別の世界で会えるよ」

この世の全てを知っているような余裕ぶりである。
後藤は鼻息を荒くし、ミウの目前まで近づいたが、
太盛がにらみを利かせているので手を出すことはなかった。
後藤は無言で食堂から去った。

彼は私物を整理して屋敷から出ていく準備を始めていた。
彼の気持ちは硬い。レナとカリンには止める勇気はない。
その資格もない。

食道備え付けの、大きな振り子時計が、時を刻んでいく。
言い争いをしていたら夜の10時過ぎになっていた。

カリンは荒々しく席を立ち、扉へ駆けて行った。
マリンは、肩を震わせながら嗚咽していた。

「なぜですかお父様。なぜですか。
 なぜ私達を裏切るのですか。
 マリンはそんなに悪い子だったのですか」

父の足元にしがみつき、許しをこう姿は哀れである。
太盛はそれでも娘の相手をしない。
視線さえ向けてくれない冷酷さだ。

「マリンに、何か至らないところがあったのですね?
 マリンの気に入らないことがあるなら、素直に言って
 くだされば、すぐに直してみせますわ。あっ、そうだわ。
 お父様はミウのような女性が好みなのね?」

マリンは笑ったり泣いたりを忙しく繰り返していたが、
太盛が相手をしないので壁を相手に話しているようなものだった。

「ちょとぉおお!! 私と目を合わせなさいよぉぉぉ!!
 お父さん!! お父さんってば!! 私が見えてるんでしょ!!
 うわああああああああああああああああああああああぁあああああぁx!!」

マリンはついに発狂したが、太盛は怒声すら右から左へと流す。
彼は病院でマリンに窒息死寸前まで追いつめられたことを
未だに引きずっており、愛情が深い憎しみへと変貌していたのだ。

だが、さすがにうるさく感じたのか、太盛は体に
しがみついてくるマリンを突き飛ばしてやった。
マリンは床の上で丸くなり、大泣きした。

レナは子供達の中で一番冷静だった。
なぜなら、彼女にも以前の世界の記憶が蘇っていたからだ。
病院の一室で、大みそかの暗い夜を過ごした父との思い出が、
昨日のことのように蘇ってしまう。

(この世界はどうしてこんなにも残酷にできているの。
 私達はいくつもの世界を飛び回っている。
 決して終わることのないらせんの渦の中に閉じ込められているんだ。
 この世界に価値なんてない。終わらせようと思えば、すぐに終わるんだ。
 そして何事もなかったかのように、また新しい一日が始まる)

レナは、自分の隣のイスに謎の書置きがあるのを発見した。
それには達筆な細筆でこう書かれていた。

『運命を切り開くのは自分自身です。
選択肢はレナ様にあずけることにしましょう。
気が向いたならそれをお使いなさい。
銃弾は2発入っております』

手紙の横には拳銃が置かれていた。
レナには長野県の孤島での生活を覚えていたから、
安全装置の外し方、照準の付け方、引き金の弾き方を知っていた。

太盛とミウは見つめあうだけで、言葉を発してない。
気持ち悪いくらいにニヤニヤとしていて満足そうだ。
両人はアイコンタクトだけで何もかも理解してしまうのだろうか。
マリンは子犬のように床で震え続けている。

誰も拳銃には気づいてないようだ。

レナはまずミウを狙って引き金を引いた。

ミウが椅子から転げ落ちた。
側頭部から銃弾が貫通したから即死だった。
ミウの頭部から床へ血がじわりと広がっていく。

「マリンは何か言い残したことはある?」

「れ……」

マリンの言葉など待たず、引き金を引いた。
心臓のあたりを狙ったはずが、お腹を貫通した。

これでは即死できない。

マリンの場合はお腹から背中へ駆けて焼けるような痛みが走る。
痛みよりも熱さの方が強いだろう。
貫通した穴には永久空洞ができ、そこからの出血多量によって
じわじわと脳が酸素不足になり、気を失う。

気を失うまでの間が、マリンがこの世で
生存できる最後の時間であった。

マリンはうつ伏せに倒れた。出血の止まらぬ腹を押さえ、
たまに咳をし、血走った目でレナを睨むのだった。

「れいなぁ……かならず……しんだあとに……呪ってやる……」

レナはマリンには関心を示さず、愛するパパを見るのだった。

「パパはマリンが嫌いだった。だから打ったの」

「よくわかるじゃなっ……ああ、君は……あの時のレナか」

「マリン達ほどじゃないけど、私もパパのこと大好き。
 今回は大人じゃなくて、ちゃんと娘として
 再開できたからラッキーかな」

太盛はレナの手にしている拳銃を見てから言った。

「お願いがあるんだ」

「なぁに?」

「次は俺の頭を撃ってくれないか?」

「撃つにしても弾がないよ」

「弾が切れたのか」

「うん」

太盛はゆっくりと席を立ち、
ミウの亡骸を抱き、声をあげて泣いた。
先ほどまでの冷静な彼とは別人のようであった。

「ああ、神様、なぜ俺からミウを奪うのですか。
 ミウはあんなにも俺を愛してくれたのに、
 俺はミウの愛に報いることができませんでした。
 俺には自分の罪を償う機会すら与えられないのですか」

太盛の信仰心の強さは屋敷でも有名だった。
一方でレナには信仰心などかけらもなく、聖書は誰かが描いた
長編小説としか考えてなかった。現に今生きている謎の輪廻転生は、
聖書の世界観とは一致しない。

マリンは息絶えていた。レナはせめてもの情けとして、
妹の目をそっと手で閉じてあげた。
その上にテーブルナプキンをかぶせて死に顔を隠す。

太盛は一通り泣きわめいた後、調理場へ走った。
ちょうど後藤は食材などの整理をしていたが、
太盛が来ても関心すら示さなかった。

すでに赤の他人だと思っているのか。
銃声は彼の耳にも入っていたのに、妙に冷静だ。

「何してるのパパ!!」

追いかけて来たレナが、太盛の手から包丁をはたいて落とした。
プロの料理人が使う包丁の切れ味なら簡単に
手首を切れると彼は思ったのだ。

太盛は何を思ったか、自分の娘の首を強く締め始めた。
大の男の手で締めるものだから、たまらず意識が遠のくレナ。
レナは宙に浮かび、足が床の上で揺れる。

これだけの力を込められているのだから、
きっと一分も立たずに自分は
世界から退場するのだとレナは思った。

近くには後藤がいるのに、
彼は食材の片づけを平気な顔で続けていた。

いよいよレナが息絶えようとした時、
太盛の脳内に移った光景は、幼稚園を卒業する時に
レナが持ってきた、父の似顔絵の絵だった。

クレヨンで、でっかっく描かれた自分の顔。
顔の下にお父さん、ありがとうと書かれている。
くったくなく笑う娘からそれを手渡された時、
太盛は一生の宝物にしようと誓った。

『年末の病院は自宅に帰りたがる患者が多いから、
 そんなに忙しくないの。今夜はできるだけ
 パパのそばにいてあげるね』

立派な大人として成長した娘の姿を彼は知っている。
過酷な医療の最前線で働く娘を、
親として心配すると同時に誇らしく思ったものだ。

太盛はレナの首から手を放し、その場に崩れ落ちた。
レナは酸素を求めて激しくせき込んでいた。

やがて落ち着いたレナが周囲を見渡すと、
後藤はいなくなっていた。
使用人部屋で荷物でもまとめているのだろうか。

「パパと、レナ……。そこでなにしてるの?」

後藤と入れ替わるように、カリンがここへやって来た。

話は少しさかのぼる。
カリンは牢屋へ走り、ユーリを尋問しようとしたのだが、
なんとユーリの姿が消えていた。

物理的に逃げることが不可能のはずの廊下から
彼女がどうやって逃げたのかは知らない。
仮に神隠しと言われたら、妙に納得してしまうほどに。

きっとユーリという名の女性は初めからこの世には
存在しなかったのかもしれない。
家族全員で幻を見続けていたのかもしれない。

カリンはまず食堂でマリンの亡骸を見て
力なく床に崩れた。ずっと嫌っていた妹のはずなのに、
不思議と目頭が燃えるように熱くなり、涙が止まらなくなる。
誰が妹を殺したのか。犯人に対する憎悪が燃える。
この小さな妹との思い出が走馬灯のように浮かび、やはり涙が出る。

しばらくそうしていた。

五分経ったか。いや、一時間以上は
経過したのかもしれない。
カリンは厨房から人の気配がしたので様子を見に行った。
そして話の舞台が厨房へと変わるのだ。

「なにを……しているの?」

太盛は、カリンを全く無視していた。

太盛はレナを胸の中に抱きしめ、髪をかき分けて
おでこにキスをした。次に頬にキスをした。
さらに髪を撫で、背中をポンポンと叩いた。
それで謝罪の証とした。

「俺は……消える」

太盛は力なくそう言い、玄関に向かった。
カリンはその場で立ち尽くすが、レナはあとを追いかける。

「私も行くよ」

「俺はレナを殺そうとした」

「あれはただの事故。そうでしょ? 
 私は他の女と違って根に持ったりしないから安心して。
 それにミウを撃ったのは他の誰でもない。私」

「しかし……」

「私はパパに着いていくって決めたよ。
 私はパパが好き。パパと離れたくない」

「こんな俺でも……パパと呼んでくれるのか。
 なら俺はレナを選ぶよ。
 頼む。俺に着いて来てくれ」

「うん。その代わり絶対に離れないよ。
 たとえ地の果てまでもパパにお供しちゃうからね」

レナは少し待っててと言い、二階に駆けていく。
小さな旅行鞄に、二人分の替えの衣服を集めてきたのだ。
お金に困らないようにキャッシュカードの束も持ってきた。

太盛は、レナが自分用のカード置き場を知っていた理由など
聞く気にすらならなかった。二人はしっかりと手をつなぎ、
大きな玄関の二枚扉を開くのだった。

鈴虫が存在を主張するように元気に鳴いていた。
美しく手入れが行き届いた芝生と噴水を
横目に見ながら、正門へと向かった。
この門を超えたら、屋敷の外の世界へ出る。

不思議と警備は配置されていなかった。
この時間帯に不要な外出は禁止されているはずなのだが。

代わりに能面の男が立っていた。
何気ない動作で面を外し、絶世の美青年の顔が露わになる。
含みを持たせた声のトーンで問いかけた。

「太盛様。行かれるのですか」

「ああ」

「お気をつけて行ってらっしゃいませ」

太盛はレナの手を引きながら、正門をくぐった。
だが、ふと足を止めて振り返った。

「おい貴様。なぜ止めない?」

「はて? なんのことやら」

「貴様は俺を止めないのかと訊いたんだ」

「止める理由が私にありましょうか?
 太盛様はレナ様を新しいパートナーとして選んだのです。
 最高の選択をしたと私は思っておりますが。
 これこそが運命の導きだと、そう考えるべきなのでしょう」

太盛はそれ以上何も聞かなかった。
最後に、拳銃を使っていたレナの呪われた手を
綺麗に洗えば良かったと思ったが、もう遅い。

深夜の闇の中に、多摩市の山の風景の中に、親子の姿が消えていく。
今夜どこへ泊るつもりなのか。行き先があるのか。
それは誰にも分からない。

ギぃ、と音を上げて正門が閉じられた。
能面は正門の外側にいて、自慢の面を壊れるくらいに
強く握っていた。彼もまた、堀家の敷地をあとにするのだ。

「これを吸うのは何年振りだろうか」

ふところから煙草を一本取り出し、ライターで火をつける。
ふぅと息を吐き、闇へ煙を放つと、
玄関先からカリンの悲鳴のような叫びが聞こえる。
能面は特に関心を示さず、立ち去ることにした。
彼は決して後ろを振り向くことはなかった。

                学園生活・改  終わり

学園生活改 愛と収容所と男女の物語

学園生活改 愛と収容所と男女の物語

今作は『学園生活~ミウの物語~』のスピンオフである。 (正確には設定を若干変更して続編にした) 前作から下記の二点を変更した。 ①ミウの性格 ②11月の収容所爆破事件 言うまでもないが、前作『学園生活』がつまらないと 思った人には読む価値のない作品である。 時間を無駄にしないよう、このページを閉じてほしい。 ずばり今作のジャンルは『強制収容所系ラブコメ』である。 登場人物たちは1920年代のソビエト連邦を モデルにした恐怖政治の中で学園生活を送る。 生徒会に粛清、制裁、監禁、拷問されないよう 細心の注意を払いつつ、頑張って恋愛し、 意中の相手と結ばれることを目指す物語である。 長くなるので説明の続きは本編で書く。

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-06-10

Copyrighted
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  1. あらすじの続き
  2. 高野ミウ 生徒会副会長 
  3. 堀太盛(せまる) 強制収容所、三号室の元囚人
  4. 高倉ナツキ 生徒会長
  5. 橘エリカ 元女子のクラス委員
  6. 斎藤マリエ 強制収容所七号室の囚人
  7. 7
  8. 強制収容所六号室
  9. クリスマス・イブ 強制収容所七号室から三号室へ
  10. 分岐点
  11. 冬休み ミウのマンションにて 12月27日
  12. マリン 能面の男と会う 
  13. 不可解な現象
  14. 入院生活 看護師は堀レイナ
  15. 病院で迎えた新年 運命の終わり
  16. 元の世界へ